2010年08月02日
三宅理一著『秋葉原は今』
2007年度のデータによると、秋葉原の三つの駅、すなわちJR秋葉原と地下鉄日比谷線の秋葉原、それにつくばエクスプレスの秋葉原ターミナル駅で、一日ほぼ40万人の乗降客があるという。これだけの人間が、改札口を通って秋葉原の地に足を踏み入れている。年間1億4000万人を超す勘定だ。10年前、つまり秋葉原の再開発が始まる前の1998年では12万程度であったので、再開発を経て一気に三倍の人間が秋葉原に集まるようになったという。この本によると、「秋葉原は統計上では、年間掴みで3000万人程度の人が訪れ、外国人は100万人を超える規模と予想される。世界の観光者数と比較すると、訪問者数ではパリのポンピドー・センター、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する」そうだ。(ローマのサン・ピエトロ大聖堂を訪れる人がそんなものなのかな、と思うが、とりあえずそのことを信用しておく)
さてこの本はほぼ秋葉原の再開発が終わった現在、その再開発がもたらした意味を考察できる時がきたので、その過程における問題点を、秋葉原の街が成り立っていった歴史を通して考えている。それが面白かった。多分それは個人的理由によるものだろうけど、そのことは後で書く。まずは秋葉原の歴史がかなり詳しく書かれていて、知っていることもあれば、へぇ~と思えることもあったので、その当たりをまとめておきたい。
東京に鉄道が走るようになったのは、新橋・横浜間で、1872年(明治5年)ことである。そして山手線が秋葉原に達するのは半世紀以上後の大正の終わりを迎えた1925年(大正14年)だった。半世紀も時間がかかった理由は、この地域が経済的に未発達で、政策的に重要でなかったからではなく、江戸時代から古く密集した町並みが鉄道建設を疎外したからであった。
1890年(明治23年)に現在の秋葉原の位置に貨物駅が建設され、鉄道そのものはその時点で上野からここまで伸びる。ここは神田川が流れていて、この場所が水運の結節点として好都合と判断されたからだ。
現在の秋葉原から「水運」というイメージを思い浮かべにくいが、現在のヨドバシカメラの敷地がそのまま昔の船溜まりに対応しており、川からそこまで堀割となって水路が引き込まれていた。東北地方から輸送されてきた貨物をここで船に積み替えて、都内各地、あるいは東京湾まで運んだのである。神田川沿いのこのあたりの河岸は神田佐久間河岸と名付けられ、材木商や薪炭商が多く店を構えていたという。(これはNHKの「ブラタモリ」でもやっていた。その時はホンと驚いた)
さて秋葉原という地名は「あきば」と「はら」と出来ている。本来「あきばはら」であるところを「あきはばら」と読む。この界隈には江戸時代から「秋葉神社」があり、当初はそこから名前を取って「あきばはら」あるいは「あきばっぱら」と言っていたのが、いつの間にかこんにちのようになった。
秋葉原の読み方が変わった点についても諸説あるが、一般に流布しているのは、地方から来た鉄道官僚が「あきば」の読み方を知らずに、秋葉原の貨物駅を「あきはばら」と名付けたことが原因だといういう説である。永井荷風の『断腸亭日乗』にそのことが記載されているので、それが根拠となっているという。
では秋葉原の代名詞となっている「電気街」はいつ成立したのであろうか?
「電気街」の前身は大正時代に遡る。ラジオ時代の到来がこの街を変えたといっていい。NHKのラジオ放送が始まるのが1925年(大正14年)、マチュア無線が許可されるのが、1927年(昭和2年)当時のラジオは真空管や低周波トランスなどの部品を組み合わせてできた簡単な装置であった。そのため回路図がわかれば誰でも作ることが出来、工学系の知識欲旺盛な人間がこぞってラジオ製作に手を染め始めた。その部品を手に入れるためには工場から卸商を経て小売店での店頭販売という流通経路の整備が必要であり、新たに「電気材料卸商」なる卸業者が登場することとなる。これらの卸商は一般消費者を対象としたわけではなかったが、ラジオブームに乗って、卸商だけでなく部品の小売りも行っていた。秋葉原電気街の最古参としてあげられるのが、関東大震災の直後に創業した「山際電気商会」(1923年創業 現ヤマギワ株式会社)と「富久商会」(1923年創業)である。山際電気商会は震災で焼け野原になった秋葉原に創業者山際弘文は新潟から上京し、故郷から妹を呼び寄せ、バラック商店を構えスタートを切った。
この二社に続くのが、秋葉原の廣瀬無線(1925年創業)、浅草の志村無線(1930年創業)、隅田川の向こうでは谷口商店(1930年創業 現ラオックス)が店を構えた。
大正末から昭和の初めにかけて広まったラジオ熱も日中戦争が始まり、戦時統制経済が強化され、材料の調達も困難になり、さらに店主が出征し店の維持さえ出来なくなった。そこへ1945年(昭和20年)の東京大空襲で秋葉原を含めた下町が焼け野原になった。
が、終戦にともなって統制が解除され、日々の情報を得るためにラジオの需要が一気に増す。ラジオはわずかな部品で出来るからであった。秋葉原は交通の便がよく、戦争でインフラがズタズタになりながらも、国鉄山手線、総武線、地下鉄、都電はいかなる状況になろうともきちんと動いていたし、秋葉原はそれらの交通機関が重なり合い交通結節点を形成していたことが大きく作用していた。そこにバラックの商店街が並び、闇市を形成していた。ラジオが飛ぶように売れた。秋葉原に次々電気店が開業していく。
古参の二店(山際電気商会、富久商会)に対して、志村無線、谷口商店、ミナミ無線、鳥居産業(1925年新宿で創業)などはもとの店舗から秋葉原に店を移す。さらに新興電気材料商も続々と参入していく。石丸電気(1945年)は戦前に山際電気商会で店員を勤めていた石丸鶴雄が、山際の店舗再開に先立って秋葉原の地に創業した。同様に角田無線(1946年創業)、サトームセン(1946年創業)、ロケット(1946年創業)九十九電機(1947年創業)、中浦電気(1947年創業)などが店を構えたのもこの頃である。朝日無線電機(1948年谷口商店から家電部門を分離して設立、後のラオックス)、新徳電気(1948年創業)愛三電機(1949年創業)も後を追う。後発組としては、小野電業(1951年創業、後のオノデン)第一家庭電器(1958年創業)などがある。変わり種は、鹿野無線で税務調査が入ったことで電気商を早々見限って1949年(昭和24年)に精肉業「万世」に転身した。それが大当たりして飲食店が珍しいこの地域で大型レストランチェーン店を構えているのは周知の通りである。
戦後忘れてはならないのは、露店商の存在である。秋葉原方面の場合、電気部品を扱った露店商が集中したことだ。戦後の復員した通信兵が秋葉原のパーツ屋の始まりで、当時としては最先端の通信技術を身を挺して覚えた陸軍時代の経験がジャンク屋やパーツ屋と呼ばれる中古の店に結実した。
ところがGHQは1949年(昭和24年)8月に都内の露店を一掃することを掲げて「露店営業整備計画」(露店整理令)を発布し、翌年3月までに街頭からのすべての露店を立ち退かせようとするのである。これに公然と立ち向かった人物が後に山本無線を始める山本長蔵で、交渉の末、国鉄ガード下や都の土地の獲得に成功する。それが「ラジオガァデン」、「ラジオセンター」、「ラジオデパート」高架下に全ての露店商が収まった。これらは今もある。この後電波会館ができ、更に電波会館と同じ年に秋葉原デパートがオープンする。
さて秋葉原にはこうした電気店の他にも有名な企業が存在する。(あるいは「存在した」)たとえば日本通運の本社もここに置かれていた。
秋葉原は貨物駅から発展し、すでに大正末の時点で貨物取扱量が都内では隅田川駅に次いで二番目だった。ば日本通運は国策会社として1937年(昭和12年)に発足している。電気街の真ん中に日通本社という構図は若干奇妙に思えるが、これも時代を追って考えると日通の方がはるかに古い歴史を有しており、物流拠点の周りに雨後の筍のように電気店や量販店が出現し、周囲を取り巻いていったということである。
1975年(昭和50年)まで貨物駅が存続して、駅に隣接して青果市場が設けられていたのが、それがなくなれば日通本社がここに位置する意味がなくなり、結果として秋葉原再開発が進行中2003年(平成15年)に本社は汐留に移転し、最終的に住友不動産によってビルの建て替えが行われた。
凸版印刷は、秋葉原に本社を構える代表的企業である。台東区側にある市村座の隣の敷地に大蔵省印刷局出身の技術者四名が印刷会社を旗揚げし、当時の最先端技術である銅凸版法を用いたので、この社名になった。その後本社は道路を挟んで向こう側の神田和泉町に移し、現在は印刷工場は秋葉原から東京の板橋をはじめ全国各地に展開。秋葉原は純粋にオフィスのみを残している。
同じ神田和泉町にはYKK吉田工業の本社が建っている。世界のファスナーを50%近くを供給するYKKは、創業者吉田忠雄は富山県出身で、1934年(昭和9年)にファスナーを扱うサンエス商会を設立し、後に社名を吉田工業に改める。YKKの創業地は東日本橋で、戦後になって日本橋馬喰町、浅草雷門と本社を移し、1963年(昭和38年)になって現在の地に移ってきた。
金物系でいえば、我が国の使い捨て剃刀や包丁でトップ座にある貝印も岩本町三丁目に本社を構えている。1908年(明治41年)に遠藤斉治朗が創業し、その後、遠藤刃物製作所として会社組織となる。1949年(昭和24年)のまだ戦後の混乱が続き、秋葉原一帯は焼け野原にバラックが建っている状態の時、東京に進出し、販売会社三和商会の名で岩本町に店を構え、売上を順調に伸ばし、1982年(昭和57年)に貝印の社名に変更した。
龍角散はその名からも連想できるように漢方薬の系譜を引き、もともとは江戸時代中期に秋田佐竹藩の御殿医を務めた藤井家に伝わる藩薬がその元となっている。藤井家では藩の進取の気風を継いで積極的に蘭学を学び、漢方に西洋の生薬取り入れこの藩薬を改良した。幕末藩医藤井正亭治の代になって、喘息の持病をもつ藩主佐竹義堯の治療のためこの薬を改良し、龍角散と命名した。
明治の廃藩置県のよって藩がなくなったため、藩薬であった龍角散は藤井家に下賜され、藤井正亭治は神田豊島町で薬種商を始めた。現在の東神田二丁目で、以後今日まで同じ敷地を守っている。1871年(明治4年)のことで、これをもって龍角散の創業年とする。
もう一度秋葉原の電気街の盛衰をつづってみる。秋葉原の電気店の主力は電気材料卸商であったが、実態として看板とは異なって卸、小売りの兼業であった。秋葉原の秘密はそこにある。つまり小売店に対しては当然、問屋の役割を果たす一方、直接店頭に買いに来た客に対しては、小売りも行った。本来小売店が計上しなければならない利益をそぎ落として、卸値で小売販売ができることが秋葉原電気店の優位な点であり、それが価格の大幅な引き下げを可能にしたのである。
朝鮮戦争を過ぎたあたりで、日本の景気は大きく上向きに転じ、日本のライフスタイルを大きく変えていく。電気洗濯機、テレビ、冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされ、それらを安く提供できたのが秋葉原であった。それが「秋葉原は安い」と評判を呼び、日本中から人々がさらに秋葉原に集まった。
秋葉原に登場したビジネス・モデルは、家電製品をメーカーから大量に仕入れ、大量に売りさばく量販モデルであり、仕入価格を低くした分、販売数を大きくすることで利益が取れる。つまり薄利多売の商法である。今ではヤマダ電機やヨドバシカメラなどで当たり前のように用いられているこのモデルは、本来、秋葉原が発祥である。これは我が国が行ってきた販売代理店を通した系列化の方向と真っ向から対立する。しかし家電ブームが起きた1950年代半ばの時点では、メーカー側の販売態勢も未整備のため、マーケットは秋葉原に頼らざるを得なかった。その後メーカーは必死に系列化を進め、秋葉原の電気店もそれを受けいれた。しかしオイルショック後安定成長期に入って、秋葉原のマーケットしての容量はさらに拡大して、電気店側もメーカーの系列化に甘んずることなく、野心的なビジネスに打って出てくる。大型店の展開である。特に積極的だったのが、サトームセン、ラオックス、石丸電気あたりである。しかし店を大型化するといっても隣りに土地がない。だから多少距離はあっても秋葉原内であれば十分ということで、パッチワーク状に土地を入手し、二号店、三号店を出していく。これだと当時あった大店舗法に触れない。この結果1979年(昭和54年)で秋葉原全体の売り上げは年1,300億円に達している。この後パソコン・ブームが到来する。
我が国のパソコン普及率を追ってみると、時間をかけて「徐々に」変化を遂げたというようなゆっくりした流れではなく、突如としてブームが起こったといった方がよい。パソコンの利用は1980年代後半を通しておおむね10%前後で推移していたが、1995年(平成7年)を過ぎた頃から一気に上昇し、2002年(平成14年)には70%台に達する。つまり、この7年間でかなりの家庭がパソコンをもつようになったということで、その分、売り上げが相当なものであったことは容易に推測できる。実際、電子情報技術産業協会の統計を調べてみると、この7年間の我が国のコンピュータの出荷数は総計で6,000万台に上り、そのかなりの部分が秋葉原で売られたと考えられている。
秋葉原はパソコンで沸き返った。家電の華といわれたオーディオ関係が過当競争の段階に入り、これ以上の収益性が見込めないところに、付加価値があり将来性の高いコンピュータが登場したのである。しかしパソコンはオーディオと比べて進化の速度が速く、ビジネスとして持続させるには、メーカーから出荷台数の調整、さまざまな部品やアタッチメントの手配、専門的知識に精通した店員の配置などきちんと対応しなければならない。そこで最初に名乗りを上げたのが九十九電機で、次いでラオックスであった。更に部品系の商社からスタートしたT-ZONEである。亜細亜電子工業がトヨムラと組んで、中央通りにオープンした。ソフマップは元はビデオレンタル業から始まり、中古デジタル機器の取引、販売を通して新しい分野で伸びていく。
もっとも華やかだったのがラオックスで、「コンピュータに関してないものはない」大型店舗「ザ・コンピュータ館」1990年(平成2年)にオープンさせた。その狙いは当たり、全国からパソコン好きの人間が殺到した。1995年(平成7年)を過ぎた頃から秋葉原では、ラオックス、九十九電機、T-ZONE、ソフマップがパソコン四天王と呼ばれた。しかし10年後にはそのうち三つが実質的に消滅するとは誰が予想しただろうか。
以上秋葉原の繁栄を見ていくと、大量消費社会を背景として、国内で圧倒的シェアを誇るマーケットが確立したという事実がわかる戦後復興期に実質的に誕生した電機と電子の街が、半世紀の間にラジオ、家電、オーディオ、パソコンと商品を進化させ、品揃え、量、価格のいずれを取っても劣らない世界でも有数のマーケットに成長したのである。「出せば売れる」という状況が続き、少なくともつい最近の2000年(平成12年)までは右肩あがりの繁栄を謳歌してきた。「秋葉原に敵なし」とでもいうべき状態が半世紀にわたって続いてきたのである。
しかし、その奢りが仇となったことは否めない。秋葉原であるということが無言の足枷となり、そこから全国に打って出ようとする企業が意外と少なかったのである。ラオックスやヤマギワ、九十九電機などは全国に店舗展開しているが、駅前のビルの一画に店舗を構えるといった程度で、ヨドバシカメラやヤマダ電機のスケールにはとても及ばなかった。言い換えれば、流通は地域性の中に囲い込まれ、秋葉原にあぐらをかいた状態が続いたのである。そこに再開発の話が浮上してきたのである。これからは再開発がどのように進んでいったのか。そしてその再開発が最初から問題を含んでいたものであり、その結果、再開発を望んだ電気街が日本の経済的動向もあるが、逆に自らの首を絞める結果となったことが書かれている。これがまた面白い。
秋葉原には廃止された貨物駅と移転した青果市場跡地があった。再開発を始めるには、ある程度土地があってのことで、何よりも種地が必要で、これらがその種地となった。
貨物駅は先に書いた通りである。青果市場は以外と知られていないかもしれない。青果市場は江戸時代から神田多町に存続し、下町一円の青果の取引をしていた。震災後復旧にもかかわらず、老朽化と不衛生な環境のため、1928年(昭和3年)に秋葉原駅の西横に、貨物駅の高架化に伴って敷地の余裕が出来、それを利用して、中央卸売売場神田分場が1.5ヘクタールに及ぶ市場が生まれた。業界筋では「ヤッチャバ」と呼ばれたが、築地市場ほど知られていない。その後1990年(平成2年)に大田市場に移るまで60年以上営業していた。秋葉原の大々的な再開発は、この青果市場の移転によって動き出した。
駅東(貨物駅跡地)と駅西(青果市場跡地)を合わせると面積は8.8ヘクタールとなる。これは電気街とほぼ同じ面積であり、秋葉原にこれだけの用地が確保されれば、ここ一帯にそれまでにない都市空間を生み出すことが可能で、秋葉原のイメージは根底から変わると予想された。
しかし土地所有者が違うことが後に大きな問題となる。貨物駅跡地は鉄道建設公団国鉄清算事業本部の持ち物であり、青果市場跡地は東京都である。
JRは秋葉原に対しては、利用者の多さと立地のよさから将来的に駅ビル構想を温めているものの、鉄道事業という性格上、広く鉄道用地の外側にまで関心を示していない。何よりも、民営化の過程で国鉄時代の膨大な赤字を解消することが義務付けられ、日本鉄道建設公団を介して貨物駅の土地などをなるべく高い価格で売却することが求められている。だから、再開発の成果を地域に還元することは二の次である。
他方、青果市場跡地を所有する東京都は地方公共団体であるので、当然ながら公共性が大きな足枷となる。企業誘致が可能な高度の情報施設を作って採算性の高い空間となすことをめざすにせよ、地域の還元は真っ先に考えないとならない。その意味で、秋葉原再開発は、たまたまJRと東京都の土地を駅を挟んで一体となったものの、水と油くらい異なる二つの巨大組織の関心が当初から違う方向に向いているという矛盾を含んでいた。
再開発にあたり、様々な分野の人々の間で侃々諤々と行われるのだが、この間の話を読んでいると、どうも机の上のプランがそのまま、再開発に移される感じだ。現実の秋葉原とかけ離れた感じが歪めない。お偉い学者が建前を掲げても、それが地に着いたもののなるとは、普通考えにくい。
だいたいITを金科玉条とし、関連企業の誘致、情報発信基地といったことを言えば、さも秋葉原らしいという発想が貧困であろう。考えてみれば、ITを駆使した産業や企業がわざわざ地べたの高い場所にこだわる必要はないだろう。ネットで双方がつながっていれば、場所にこだわる必要がないはずだ。どこでも情報のやりとりが出来るからである。だったらた再開発された秋葉原のビルの中にいる必要はなく、もっと家賃の安い場所でもかまわないはずだ。たとえそれがどんな僻地であってもかまわないはずだ。このあたりがIT=秋葉原という単純な発想しかできない人間が秋葉原の再開発のプランを立てても、浮いてしまうのは当たり前である。特に東京都など行政側が立てるプランはその程度である。だからど~んと大きな箱物を建てるしか能がないのである。そしてそれが出来る企業など、ゼネコンなどに限られてきてしまう。そしてますます秋葉原の地とかけ離れたものとなっていく。地域との共生など、そんなのどっかに行ってしまうのは当たり前である。
ところで秋葉原タワーという話があったらしい。今東京スカイツリーが話題になっていて先日高さが400メートルを超えたという。まだ建設途中なのにこれだけの話題性がある。その巨大電波塔を秋葉原の敷地に建てようという話があったらしい。この本を読んでいるとそのプランの記述は曖昧なのだが、どうもそれはニュースソースの曖昧さから来ているようだ。でも地元にとって天から降ってわいた話でも、この話に沸き立った。再開発協議会を構成する電気街のメンバーは電波塔の誘致を緊急決議した。実際そのタワーの模型さえ作られている。その背景には秋葉原のイメージを根本から変えたいという地元の強い願いがあったのだ。
というのも2000年(平成2年)を過ぎた頃から電気店の売上が急激に落ち込んでくる。バブルの崩壊の影響がこの頃から現れ、同時にパソコンの売り上げもピークを越え、過当競争の結果、量販店の業績がみるみる落ちていく時期であった。しかも街頭の風景として、それまで裏側に隠れていたオタクと呼ばれる集団が大手を振って街を歩き回り、それを見越した怪しげな風俗店が開店するようになった。今でこそ、秋葉原電気街で普通にフィギュアやアニメを扱うようになってきたが、それが顕在化し始めた2000年代初めの時点では、秋葉原の「負」の兆候として捉える人が多かった。風俗店に関する警察情報も芳しくない。このように商店街振興会、町会とも秋葉原の歌舞伎町化を本当に心配し始めた。
そこに駅横に巨大なタワー建設の話が飛び込んでくる。タワーで科学技術のシンボルとして普通の人たちに発信出来る街に出来る。「タワーのあるような開放的な場所にはオタクは近寄らない」はずだと思え、タワー建設の話期待を寄せたのである。
ところが長いこと時間をかけて再開発事業を進めてきた東京都側にすれば、そんな思いつきで動かれちゃ困るわけである。計画自体変更せざるを得なくなる。結局地元の熱い希望は却下された。このあたりから行政と再開発協議会との間で意見の食い違いが目立つようになっていく。
そこへ東口の貨物駅跡地に膨大な資金調達が可能な企業として、さらに秋葉原の好立地とブランドを求めてヨドバシカメラがやってくる。つくばエクスプレス開通に眼をつけた。
ヨドバシカメラは2001年(平成13年)10月に駅前0.5ヘクタールに及ぶ土地を購入した。この店舗が出来れば電気街最大手ラオックスの2.5倍、電気街の総売上より大きくなることが予想された。
電気街の商売は、仕入値を少しでも下げて価格を落とし、販売数で勝負するのが基本である。ヨドバシカメラは、その規模の大きさを利用して、さらに低価格の商品を提供することが可能で、電気街の量販店にとって間違いなく大変な脅威となる。ヨドバシカメラの開店で、それまで電気街に流れていた客層が東口に流れることが大いに予想され、再開発が電気街にとって裏目に出るのではないかという懸念がささやかれるようになる。地元(電気街)は総意としてヨドバシカメラの進出に反対の意思表示をしたが、ヨドバシカメラ側はそんなの関係ないとばかり、工事を進めた。そもそも秋葉原は市場原理に基づいて多くの企業が熾烈な競争してきた土地柄で、今更新たな量販店が出来たから地元がダメになるという理屈が通らない。ヨドバシカメラは2005年(平成17年)9月16日オープンする。
ちょうどその頃から電気街はパソコンの売り上げが一気に落ち込み、それに変わるヒット商品が出てこないところへ、東口にヨドバシカメラが出現したことで、地元の不安は現実となり、秋葉原へ来る人は増えるにもかかわらず、電気街の売上はみるみる減っていった。そしてあの秋葉原通り魔事件が起こっている。このため歩行者天国さえ中止となる。多分電気街の人通りは激減したに違いない。 量販店はそれまでの拡大戦略が仇となり、資金調達に汲汲としていた。今が手一杯の状態となり再開発、あるいはその後のデザインなどどうするかではなくなっていく。その兆候は1990年代から現れていた。
シントク電気が1993年(平成5年)の夏が冷夏のためエアコン商戦で完全に失敗し、ついに65億円の負債を抱えて倒産。
廣瀬無線電機グループのヒロセ無線も、同年廃業し家電業界から完全撤退。
ロケットは1991年(平成3年)をピークに経営状態が悪化、2000年(平成12年)に民事再生手続を行い、店舗を整理し2005年(平成17年)のは中央通り面した本店を閉鎖。まもなく家電量販から完全撤退。
第一家庭電器もバブル期が終わってた頃から業績悪化に苦しみ、首都圏を中心に200店近い店舗を擁した買う大戦略が裏目に出て、資金ショートを起こす。そしてついに2002年(平成14年)に倒産。
ラオックスも例外ではなく、バブル期には松波無線、神田無線、ナカウラ、庄子デンキといった量販店を次々と買収し拡大したが、パソコンの売り上げが一気に落ちたことで業績が悪化し、2004年(平成16年)には投資ファンドMKSパートナーズの傘下には入り、代表取締役の座を投資ファンドに譲り、「ザ・コンピュータ館」も閉鎖を余儀なくされる。2008年(平成20年)に別の投資ファンドに身売りする。投資ファンド間でたらい回しにされた挙げ句に、創業者の谷口家は経営から完全に身を引く。2009年(平成21年)6月に中国の量販店蘇寧電器に買収された。「ラオックス」は間違いなく秋葉原を示す日本ブランドである。それをラベリングして中国の顧客に発信するというのが大きな目的であった。
石丸電気もヨドバシカメラの出現で一番打撃を受けるという不安は的中し、2006年(平成18年)4月についに白旗を揚げ、ヤマダ電機に次いで業界第二位の家電量販店エディオンとの業務提携を発表し、翌年には創業者一族の株をすべてエディオンに売り渡した。
サトームセンも2005年(平成17年)に入って、ヤマダ電機の子会社マツヤデンキと業務提携を始め、佐藤一族は経営から身を引くこととなる。その直後今度はマツヤデンキが投資ファンドの傘下に入るが、2007年(平成19年)になってヤマダ電機がこの投資ファンドを傘下に収める。サトームセンはヤマダ電機の子会社となったが、翌年には完全に事業停止。
九十九電機も2008年(平成20年)に民事再生手続きの申し立て行う。負債総額110億円であった。2009年(平成21年)ヤマダ電機に事業譲渡を行う。ツクモの名前は残るものの、創業家完全に消えた。
ヤマギワ、オノデンは堅実路線貫き何とかやってきたが、ヤマギワはこの8月29日に、ヤマギワリビナ本館を閉店することを明らかにしている。秋には別地域でショールームのオープンも予定で、将来的には本社機能なども、同オープン予定のショールーム近くに移転することを視野に入れているという。ヤマギワリビナ本館の建物の今後については現在検討中。
角田無線、愛三電機のように自身の領分を守って量販せず、得意とする分野の販売に徹して、この時代の荒波を乗り切っている。
秋葉原駅前の再開発に引き続いて、旧ヤマギワ本店の跡地にソフマップ秋葉原本館(2007年)のビルが建ち、さらに旧日通本社ビル跡地に住友秋葉原ビル(2009年)が完成する。
ということで秋葉原の再開発は電気街の衰退を招いたことになる。再開発は西口エリアに展開する電気街や商店街の面々が力を入れて取り組んでいたのが、皮肉な結果となったわけである。著者は最後に「都市計画が不在であるといわれている東京の、もっとも官とは相容れない秋葉原という土地柄で、役所の香りがプンプンとする「再開発」を云々するのはいかにも場違いな印象だが、東京都の肝煎りでともかくその事業が始まった。生き馬の目を抜くという言葉がぴったりの秋葉原の風土を相手として、まったく別の角度から大上段に構えて都市づくりを行うというのだから、やはりどう見ても不自然である。秋葉原に店を構える商店主も、そこに集まる電子マニアたちも、そして誰よりも萌えの商品に群がるオタクたちも、目の前で始まった再開発の何たるかを意識しないまま、いつのまにか現実の動きが加速され、最後には超高層が並ぶもうひとつの街ができあがったのである」と言っている。まさにその通りじゃないかなと思える。違う次元で再開発が行われ、それに希望を託し、結果振り回された電気街は衰退をしただけであった。
私は大学卒業後29年間秋葉原の東口にある会社に勤めてきた。その間6年ほど他の地域にある支店にいたが、ほぼ秋葉原の変化を見てきている。本屋の店員として昭和通りから中央通りに出て、先にあげた有名電気店、サトームセン、ヤマギワや日本通運の本社、YKK、凸版印刷などに配達にも行った。御用聞きと同じだから、裏から担当部署に行くのだけれど、そこは薄暗く、荷物がいっぱいで通るのも大変な曲がりくねった通路を何冊も本を抱え歩いたものだ。裏方なんてそんなものかもしれないけれど、こうして秋葉原の歴史を改めて知ってみると、そうした混沌さはもともと秋葉原が持っていたものじゃないかと思えてくる。
ヤッチャバはほとんどなくなっていたけれど、まだ一部残っていた。ヤッチャバから、あるいは家電の梱包ダンボールがたくさん出た。それを生活の糧にしている人も多くいた。集めたダンボールをリヤカーにいっぱいにして、平気で歩行者専用を歩く男がいっぱいいた。時にはそのまま店の前でダンボールいっぱいのリヤカーを止めて寝てしまうやつもたくさんいた。(今もいるけれどだいぶ少なくなった)何度もそんなやつと言い合いをしたし、警察を呼んだ。
パソコンがブームになった頃ちょうど仕事が変わり、自分でもパソコンを必要とした。だから何度もラオックス、九十九電機、T-ZONE、ソフマップなど行って、パソコンを見てきた。当時は今と違って、パソコンの値段はべらぼうに高かった時代ある。手が出なかったから、ため息しか出なかった。新モデルが出れば興味津々であった。
それに当時のパソコンはいろいろ手を加えることが出来たので、ちょっと改造したりして、そのためのパーツを買ってきたりした。考えてみれば今言われるオタクみたいなところがあった。この本の著者がまえがきで書いているけれど「細々とした部品への愛着が、気がついたらフィギュアへの偏愛になっていた」と言って、フィギュア文化が登場したのも秋葉原にはそれなりの必然性があったというのはよく分かる。
そうなのだ。部品への愛着がラジオになり、家電になり、オーディオになり、パソコンとなっていった。そしてパソコンから生まれたバーチャルなものが、フィギュアとなり、美少女やメイドとなっていった。それが秋葉原の個性であった。元々は表だったものじゃない。そうした一種の裏文化的なものがある街そのものが秋葉原であった。そうした必然性を忌み嫌ったところに電気街の間違いがあり、秋葉原が持っていた個性を見失ったのである。
そこに官主導の再開発に期待をかけすぎて、気がつけば経済動向が大き変わっていて、自分たちの足元が崩れていった。後は資本力のある量販店が電気街の秋葉原というブランドを求め、土地をさがしているところへ、一等地を売りたいと地主が出てくれば、もう太刀打ち出来るわけがない。
もうここに来る多くの人は、そうしたモダンなビルに入っているきらびやかで清潔なお店であって、中央通りまで行く人々ではない。そこやその裏通りに行くのは少数となっていく。完全に棲み分けされつつあり、もともとあった電気街は廃れる一方であろう。学者じゃなくても、素人の私が見ても、歩いている人種が違うことがはっきりとわかる。
個人的に言えば私は昔ながらバタ臭く、汚い秋葉原が好きだったので、いつも再開発で出来た高層ビルが異様なものとして写る。多分昔から秋葉原を知っている人は余計なんじゃないだろうかと思う。
しかし再開発というのは恐ろしいものだと思う。そして再開発のコンセプトはなんだかんだ言っても、その土地を持っている企業や団体の意思によって決まってしまうもので、その周辺にたまたまいた人々の意見など、最終的には無視されるものなんだと思い知るのである。
評価
★★★★
書誌
書名:秋葉原は今
著者:三宅 理一
ISBN:9784875861928
出版社:芸術新聞社 (2010/06/30 出版)
版型:334p / 19cm / B6判
販売価:2,730円(税込)
- by kmoto
- at 16:14
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