2010年09月21日

東野圭吾著『新参者』

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 実はこの本以前から読みたいと思っていたのだが、一方でもうテレビドラマで見てしまったし、いいかなという気持ちもあり、どうしようか迷っていた。結局のところ読むことにしたのだが、読んでよかった。
 テレビ化となると原作と大きく話を変えてしまうことが結構多いが、今回は見たドラマはわりと原作に忠実であったなと思った。またこうして読んでみると役者も適役だったなと感じた。だからか実際この小説を読んでいて、この話はあの場面だなとか、この人物はあの役者がやっていたんだなとこの話とうまく結びついて違和感がなかった。むしろ話を補足してくれる感じがあったし、それはそれで楽しかった。
 テレビを見ていたとき、話の度に出演者ががらりと変わるものだから、三井峯子の殺人事件とどうつながっていくんだろうかと思っていた。原作がそうだったから、あのようなドラマになったのだ知った。たとえば第一章「煎餅屋の娘」、第二章「料亭の小僧」、第三章「瀬戸物屋の嫁」、第四章「時計屋の犬」、第五章「洋菓子屋の店員」第六章「翻訳家の友」、第七章「掃除屋の社長」、第八章「民芸品屋の客」、第九章「日本橋の刑事」とそれぞれ中心となる出てくる人物が違う。

 これらの章には一見事件とは無関係な人物たちが登場してくる。けれど捜査をしていくうちに、三井峯子と何らかの関係を間接、直接、生前持っていた人物であった。そしてこれらの人物たちの中には三井峯子の事件とは別なところで、それぞれの生活があり、その中で問題を抱え悩んでいる人物もいた。
 たまたま三井峯子の捜査で捜査の対象となってしまったことで、事件とは別なところで抱えていた問題が明らかになってしまう。捜査をしているうちにそれが“誤解”から生じていること明らかになる。その“誤解”を解いて、救いの手を差し出すのが、日本橋署に新たに赴任してきた加賀恭一郎である。彼はこの街では“新参者”である。

 「加賀さん、事件の捜査をしていたんじゃなかったんですか」
 
 「捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です」

 こんなことあり得ないと言ってしまえば簡単なことだ。事実としてそうであろう。でもお話だから、これはこれでなかなかいい。こうして町に住む人々の生活を一見関係なさそうに見せかけ、事件の核心へと進んでいくあたりは、ドラマでもそうだが、小説もワクワクしていく。舞台が人形町というのもいいのかもしれない。老舗のお店が並ぶ商店街で働く人々を登場させることで、さらに人情味を醸し出させるのだ。ちょっと行ってみたくもなる。

 東野さんの小説は面白いのとそうでないものとがわりとはっきりしていて、その差が激しいように思える。だから面白ければ(当たり前だが)、とことん面白いし、そうでなければとことんつまらなくなってしまう。そのため面白いかどうかは読んでみないとわからない。まぁ、それだから次も読んでみようと思うのだ。これが出る作品すべてがつまらなくなったらおしまいだ。きっと次も何か東野さん作品を読むだろう。


評価
★★★★


書誌
書名:新参者
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062157711
出版社:講談社 (2009/09/18 出版)
版型:348p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年09月14日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈5〉

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 これで山口瞳さんの対談集は最後となる。こつこつと読んでいると、どこかいとおしくなってくるのが不思議だ。最初はもう一つ面白くないな、と読んでいたのが、ここまで来ると読んでいて気分が落ち着くのである。妙なものだ。
 さて、今回の対談相手は村松友視、田中真理、野坂昭如、丸谷才一、生江義男、古山高麗雄、木山捷平、矢口純・柳原良平、高橋義孝、パラオ・徳Q・スバル・都鳥・臥煙、吉行淳之介諸氏である。
 「『東京』もう一つの貌」で、村松友視さんは東京に残った昔ながら風景を次のように言っていたのは興味深い。

村松 そうでしょうね。でも逆に言いますと、変化がそれだけ激しいことが、変化の洗礼を受けないで生き残っている所のカルチャーショックを味わう上でものすごく効果的な役割を果たしている気がする。

 確かにそうだ。ものすごい勢いで変化している東京の中で、変化に取り残された町を歩けば、変わらないということが、逆に変わったということを鮮明にする。うまいことを言うものだと感心してしまう。その上で山口さんは東京という町を次のように言う。

山口 僕は、東京という町は、子供が砂場で遊んでいて、ここに川をつくって、ここに橋を架けて、トンネルをつくってお山をつくって、そういう所だと考えている。

 東京の中で行われる都市計画は子供の砂場の中で行われていることに例える言い方はわかりやすい。

 山口瞳さんは芥川賞を取って忙しくなった開高健さんの後釜に寿屋(現サントリー)に入社し、当時開高さんがやっていた広告雑誌「洋酒天国」の編集に携わる。この「洋酒天国」は当時トリス・バーに置かれていた。今で言うフリー・ペーパーである。ただしここでしか手に入らない。
 サントリーが出しているとはいえ、この「洋酒天国」は単純な広告雑誌ではなく、酒に関するあらゆること、更にそこから波及して森羅万象に渡って蘊蓄を披露した小雑誌であった。もちろん“あっちの方面”にも力を注ぎ、開高さん自ら晩年、“夜の岩波文庫”と称しているくらいだ。
 トリス・バーは当時一大ブームを呈した。この本の「ウイスキーあ・ら・かると」では、なぜウィスキーブームが起こったのかが書かれていて、トリス・ブームの下地は太平洋戦争にあったというのだ。その説明は面白い。

山口 戦争中、兵隊が広大な中国に散らばっており、日本酒じゃ瓶が大きいので輸送に難点がある。ウィスキーだと、その点は解決されるし、すごく効くし、うまいことがわかった。戦後、復員兵がその味をもって全国に散った。下地ができていたわけです。

山口 軍隊生活から農村出の若者が、ウィスキーの味を知った。それが、トリスの出回る頃、いいおっさんになっていた。収入も徐々に増えてきたし、実にラッキー。トリス・ブームといっても、決していきなりのものじゃない。下地があったんです。

 なるほどそういうことだったのか、と知る。日本酒からウィスキーに嗜好が変わった背景がそんなところにあったとは思わなかった。

 更に高橋義孝さんとの対談「礼儀作法とは己を虚しゅうすること」で高橋さんが人と話しているうちに、どこの大学を出ましたか、と話し始めることを、嫌なことだと言っているのが面白かった。そこで高橋さんは「わたしは東大出とか慶応出とかいいますけれど、学校って出るところじゃないと思うんです。そこにいて勉強するところで、それを日本じゃすぐ何大学出ということいいますね」と批判めいている。確かに一流大学に入るにはそれなりの学力がなければ入学など出来ない。それはよく分かる。けれど本来大学は勉強するところであるはずだと高橋さんは言っている訳だ。これがいつの対談なのかよく分からないが、その人が一流大学を出たということだけで、その人と接し方が変わってしまうのは今でもその姿勢は変わらない。学力より、大学の名前が優先される社会が日本にはある。

 さてこれで山口瞳さんの対談集全5巻を読み終えた。最初に書いた通り、最終巻になって、どこか山口さんの語り口がいい感じになって来てしまった。山口さんの日常におけるなにげないこだわりが、それがささいなことであっても、人と接する上で案外必要なことがあるのではないかと思えるようになって来た。対談の中で山口さんが語る一言一言にそれがちりばめられていたような気がする。ちょっとした気配りが潤滑剤となって人間関係をうまくいかせること知ったような気がするのである。
 次は山口さん名作と言われた『世相講談』を読んでみようか、と思っている。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈5〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010171
出版社:論創社 (2009/12/30 出版)
版型:325p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年09月08日

森まゆみ著・平嶋彰彦 撮影『旧浅草區 まちの記憶』

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 私は“浅草”という文字があると、どうしても自分の子供の頃によく連れて行かれた花やしきと浅草寺界隈が結びついてしまう。自分が子供の頃といえば昭和30年代後半である。戦争が終わって十年そこそこしかたっていない頃である。まだそうした雰囲気があっちこっちに残っていたような気がする。浅草寺の境内入り口には傷痍軍人が軍服姿でアコーデオンなど弾いて、物乞いをしていた。それが妙に怖くて、何であんな人たちがここにいるんだろう、と子供心に思ったものである。
 浅草六区の歓楽街もまだ健在で、多くの映画館があり、そこには艶めかしいポスターがいくつも貼ってあったし、ストリップもいくつかあって、そこに出演している女優のモノクロ写真が看板に出ていた。全体として雑然とし、いかがわしい雰囲気が古めかしい写真みたいに私の記憶に残っている。
 いろいろ調べてみると、そうした雰囲気を残していたのも、私が子供の頃までのようで、かろうじて私は子供ながら感じられたようである。
 親が遊園地へ連れて行くと言えば、花やしきであった。初詣も浅草寺専門である。昔は実家の近くから上野公園行きのトロリーバスが通っていた。小学校の一年か二年生の遠足はそのトロリーバスを貸し切って上野公園へ行った。それがなくなり都バスになって、ちょうど浅草寺の裏にバス停があり、そこから浅草寺に向かったものであった。
 だから仲見世通りに行くのは、浅草寺へお詣りしてからか、花やしきの帰りについでに寄るといった感じであった。多分当時あった歓楽街を通ったのも、その関係なんじゃないかと思われる。
 森さんの著作をいくつか読んでいると、上野とか浅草とかそれほど距離があるものではないのだなと知る。まして森さんの専門である谷根千も、行ったことはないが、近くなのである。
 そうそう、義父が亡くなって、仏壇を買わないとならなくなった時、葬儀屋に紹介された仏壇屋の店に車で案内された。その通りはいくつか仏壇屋があって、通りの先を見れば、あのコックのオブジェが見えた。合羽橋の道具街である。その時、そうかここは合羽橋に近いんだと知った。そして合羽橋は浅草にも近い。
 どうも地図が描けないのである。個々に浅草界隈を歩いているのだが、それが一つにならない。今でも我が家は初詣と言えば浅草寺へお詣りに行く。今は都営地下鉄を使って、上がったりの降りたりする薄暗い駅から浅草寺に行く。行くたびに古臭い、レトロな感じを味わう。
 いずれにせよ、私が“浅草”に妙に反応するのは、そうした背景があるからだろう。そして決して嫌いじゃない。この本を手にとった理由もその当たりにある。どこか私が記憶している浅草を感じたかったのかもしれない。
 そのため、本の感想は?、と聞かれれば、これといってない。ただ森さんの話を読み、平嶋の撮られた写真をながめながらページをめくった。こういうのも時にはいい。“へぇ~、そうなんだ”と思いながら読んだ。
 たとえば「冷やかし」という言葉がある。意味は買う気もないのに店でそれらしく振る舞い、適当に店員に商品のことなど聞いて、結局買わずに出て行ってしまう客を言う。その語源がここにあった新吉原(現在の浅草・千束)に近い、隅田川で紙を漉いていた職人たちの行動から来ているという。吉原の土手下(山谷堀)に紙漉き工場があったのだ。
 紙を漉いて仕上げるまでに、紙をしばらく水にひたして冷やしておく工程があり、これを「ひやかす」といった。この間職人は暇だったから、近くの吉原をのぞいていたという。職人たちは遊女を買うほど金はないから、ただ見て回るだけだった。ここから「冷やかし」という言葉が生まれたという話も面白かった。
 誰それがこのあたりに住んでいて、お墓もこの近くのお寺にあるとか、こういうお墓巡りを“掃苔”というらしいが、当時の歴史を思い忍ぶには案外面白いのかもしれない。確か著名人のお墓巡りの本を持っていたはずだな、と思った。
 本に掲載されている建物など、いかにも歴史を感じさせるものだけれど、これももう2年前のことだ。果たして今これらの建物はどれだけ残っているのか。またお店などももうなくなってしまっているものもあるだろうし、人々も変わっていることだろう。雰囲気だってかなり様変わりしていることだろう、と思う。そうしないと生きていけないところが日本にはあって、とにかくスクラップアンドビルドの繰り返しだから、残るのはお墓だけなのかもしれない。それだって、今後どうなるかわからないのだから、せめてこうした文章と写真が記録として残る価値はあるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:旧浅草區 まちの記憶
著者:森 まゆみ【文】 平嶋 彰彦【撮影】
ISBN:9784582834116
出版社:平凡社 (2008/09/27 出版)
版型:140p / 21cm / A5判
販売価:1,680円(税込)

2010年09月06日

市川真人著『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』

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 村上春樹さんは今ではノーベル文学賞候補として、毎年話題になる小説家で、国内では谷崎純一賞や読売文学賞、海外ではフランツ・カフカ賞やエルサレム賞を受賞し、日本だけでなく世界でも評価の高い小説家である。その村上さんが日本において、芥川賞を取っていない。これほど世界的評価が高く、人気のある村上さんがなぜ芥川賞を受賞出来なかったのか、それを知りたくてこの本を手にした。しかしこの本は適当に最初の部分でその理由を抽象的に答えてしまい、あとは著者による日本文学論なんだと知らされる。書名は『芥川賞はなぜ村上春樹に~』となっているのは、私みたいな人間にこの本を買わせるためのものであって、むしろ内容は副題の擬態するニッポンの小説の方に重点が置かれている。それを言いたいが故に、あえて気をそそるような書名を付けて、だまして読ませるといったものであった。
 読んでいてこれは大学での講義みたいなものじゃないかと思えてくる。変な与太ばかりとばし、やたら読む側に笑いを提供し、媚を売るやり方はまさにそれである。講義としては笑いがあって、“面白い”講義をする人のようであるが、得てしてこういう人の講義は後に何も残らないものである。ちなみに著者の経歴を見てみると、「早稲田大学文化構想学部ほか兼任講師」と訳のわからない学部の訳のわからない立場の人で、この手の評論家ぽい人は世の中にたくさんいる。まして誰でも専門家のように意見を言うのが流行っているご時世である。その関係の本も腐るほどあるくらいだから、せめて腐る前に読んでもらうために、このような書名を付けたといっていいような気がする。
 私はこういう文学的詮索は何でも言えるところがあると思っている。こういう文学論の好きな人にとっては、一つの試論として面白いのだろうが、小説なんてどう読んだっていいじゃないかと思っている。批評家や専門家が言うような読み方もあるだろうけれど、一方で読んだ人が感じたままであっていい、と私はいつも思っている。恐ろしいのはそうした批評家や専門家言う通り自分は感じなかったとことが“おかしいのかな”と思わせることである。評論にはこうしたお節介なところがあって、むしろ強引に学問にしてしまうことから、純粋に小説を楽しめなくさせてしまうのだ。確か開高健さんだったと思うが、音楽は音を楽しむと書くのに、なぜ文学を文楽としなかったのかと言っているが、私は諸手を挙げてこの意見に賛成の人なのだ。
 ということでこの本は、著者の近現代の日本文学論なのだが、それでは詐欺みたいになっちゃうから、村上さんが芥川賞を受賞しなかった理由を申し訳ない程度書いてある。

 「芥川賞が村上春樹に与えられなかったのは、一義的には、村上春樹の携えるアメリカとの距離感が彼ら(選考委員)に受け入れがたかったからである」

 何が言いたいかわかりますか?要するに村上さんがあまりにも作品にアメリカなるものを取り込みすぎ、アメリカに近すぎ、むしろそれと同じになってしまっているというのである。これは純日本的選考委員には受け入れがたいものなのだ。日本には私小説の世界がある。その上で、一歩引いた感じでアメリカを客観的に見るならともかく、一緒になっちゃまずいでしょう。単なる物まねでしょうとしか写らなかった。だから芥川賞を受賞出来なかったというのだ。
 これはなるほど、と思える。なのでこの点を強く押し進めていって欲しかったのだが、これはあくまでもおまけなので、これ以上は追求しない。むしろここから、かろうじて村上さんとの関係を維持しながら、著者独自の日本文学論を展開していくのである。

 しかしよく考えてみると、この私小説という日本文学界の潮流は、日本で単独で生まれたものじゃない。元を正せば明治以降に輸入された当時の欧米の文学界の潮流から端を発している。当時の小説家は輸入された西欧文学は個人の内面をどう表現しているかを、解釈し生まれたものである。だから村上さんの小説が私小説の日本らしくないという理由で芥川賞に該当する作品でないと断定するのはおかしな話である。
 むしろ当時の欧米の文学界の潮流をとことんゆがんで解釈し、登場人物の心の内面をいかに忠実に表現するかに心を奪われた結果、物語の面白味をどこかにやってしまったのである。そうして出来上がったものは、個人の告白論か懺悔と大差がないのである。
 一方村上春樹さんは著者がいう“作家の根っこの部分”を描くことを、物語の中で表現してきている。それを当時見抜けなかった文壇の目は節穴としか言いようがない。表現の技巧性などに重点を置き、物語の面白さを訳のわからないものと断罪するしか能がなかったのである。それはむしろもともと欧米の小説が持っていた物語性で、村上さんはそうした物語性の中で“作家の根っこの部分”を表現してきた。だから村上さんの小説が欧米でも評価されるのである。単にそれだけである。それを仰々しくペリーの来航から始め、それ以降日本が欧米に対して持ってきた劣等感から、インフラ、新聞、教育まで話を展開する必要などどこにもない。史実としてそれはその通りなのだろうけど、要は当時の芥川賞選考委員に見る目がなかっただけのことなのである。もちろん漱石の『坊っちゃん』のヒロインは誰なのかとか、太宰治の『走れメロス』どうして走ったのかなど、どこにそれが必要なのかよく分からない。単にこれを言いたいから、強引に著者が作品から見つけ出したことを結びつけたとしか思えないのだ。

 私は勝手に思っているのだけれど、村上さんはそうした日本の文壇を揶揄しているのだ。『1Q84』で主人公の天吾くんに編集者の小松が「でかいことをやろう」とふかえりが書いた小説を書き直し、芥川賞を狙おうよと誘うけれど、それは村上さんにとって芥川賞はその程度の金稼ぎの手段としか映っていないことの証明だと思う。だいたいこの物語はここから始めること自体意味深だ。
 芥川賞はその受賞は一大イベントとなっている。確かに受賞作は素晴らしいものなのだろうけど、だからといってそれをすぐ読みたいと思うかといえば、そうは思わない。せいぜいニュースネタだけにとどまるだけだ。むしろ受賞作が本となって売れるという計算高い部分がどうしても見え隠れしてしまう。
 昔本屋で働いていた頃、お客で芥川賞や直木賞の受賞作品が本になった初版本を買い集めている人がいた。これなど明らかに受賞作を読もうというより、芥川賞や直木賞受賞作の初版本という価値だけで、その本が後で古本屋に高く売れるからだ。それこそその受賞作家が大化けし、流行作家にでもなれば、更にその付加価値は上がる。その程度なのだ。
 もちろん新人作家にとっては芥川賞は今でも作家への登竜門なのだろう。太宰治のように、選考委員に泣きついて手紙を書き、芥川賞をもらえば生きて行けそうというのもいたが、そこはぶっちゃけた話、作家として食っていけるかどうかだけのスタートラインについたことではないか。
 芥川賞は石原慎太郎の受賞から「世間で話題になった(読んだことはないが、障子を破るやつが話題になったと聞く)石原というヤツがとった賞」で話題となり、村上龍の受賞作(これは読んだ)が更に話題を生み、マスコミの中で大きなニュースとなると思われたのだ。ただ読む側にとってはその作品にせよ、これからの作品でも、面白いかどうか、その一点に限る。

 ということで、この本は何を書きたいのかはっきりしない。いや、書きたいことは著者の日本文学論だったのだろうけど、ウケを狙って、芥川賞を受賞しなかった村上さんを引っ張り出したが故に、逆にそれに縛られることとなり、焦点がぼやけ、訳のわからないものになってしまったのではないか、と思った。


評価


書誌
書名:芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか―擬態するニッポンの小説
著者:市川 真人
ISBN:9784344981744
出版社:幻冬舎 (2010/07/25 出版)幻冬舎新書
版型:310p / 18cm
販売価:924円(税込)

2010年09月04日

ジョン・ダニング著『愛書家の死』

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 やっと夏バテから解放されつつある。本も読めるようになってきたので、ジョン・ダンニングの新刊を読む。
 話は、元警官で退職後古書店を営むクリフにウィルスという人物が本の鑑定を依頼したところから始まる。ウィルスは多くの馬を抱えていた馬主である、ハロルド・レイ・ガイガーの右腕だった。ガイガーは死に、相続問題の関係で、20年前に死んだガイガーの妻妻キャンデスの集めた蔵書を鑑定してくれというものであった。蔵書は児童書である。もともと児童書は子供に与えるものであるから、本の保存状態が悪い上に、初版本など残っていることが少ない。その為それらの本が傷みもなく残っていると、とてつもない金額となる。キャンデスの本棚にはそうした貴重な本ばかりであった。ただクリフが調べてみると、一部抜き取られ、ばれないように再版本などに入れ替えられているものがあった。つまり何者かに蔵書の一部が盗まれていたのだ。ウィルスは盗まれた本の行方も突き止めてほしいとも依頼される。
 盗まれた本はどこへ行ったのか。調べてみると盗まれた本が市場に出回った形跡はなく、誰かが蔵書として抱えているのではないかという話になっていく。クリフは競馬界に潜入し、誰が本を盗んだのかを探り始める。そのうち、キャンデスはピーナッツアレルギーで死んだのではなく、それを使って殺されたことがわかってくる。そんな時ガイガーのぐうたら息子のキャメロンが射殺される。そしてクリフも何者かに襲われる。
 本を盗んだのは誰なのか。その前にキャンデスを殺したのは誰なのか。そしてキャメロンを射殺し、クリフを襲ったのは誰なのか。話は右往左往していく。
 もともとクリフにはしっかりした捜査方針があるタイプでなく、どちらかと言えば行き当たりばったりのところがある。その為話もそれと同じように、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりする。その分犯人の姿が見えにくくなり、後半まで犯人像が読む側に浮かんでこない。幸い文章が読みやすいので、何とかついて行けるのだが、よく考えてみると、主人公の性格を使って、いいように翻弄しているところがある。こういうのはどうであろうか?ちょっとずるくないかとも思わなくもない。
 この本ではクリフが警官を辞めて、古書店店主になって活躍するのだが、古本の収集家には、その本が貴重であればあるほど、その本にこだわりを持つ。その為、殺人を犯してまでも、その本を自分の物にしたいという欲求が強くなる。当然殺人事件となれば事件となるわけだから、警官時代同様、クリフは古書店店主になっても危険に身を置くこととなる。そうしているうちに、クリフは警官が好きであることを自覚し始め、警官に戻ろうと決意する。
 ということはこの後このシリーズはどんな形で進むのか、ちょっと興味がある。この後のこのシリーズは書き進めているらしいので、楽しみだ。


評価
★★★


書誌
書名:愛書家の死
著者:ジョン・ダニング 横山啓明【訳】
ISBN:9784151704109
出版社:早川書房 (2010/08 出版)ハヤカワ・ミステリ文庫
版型:607p / 16cm / 文庫判
販売価:1,050円(税込)