2010年10月30日
司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈4〉
また司馬さんのエッセイを読むこととした。
今回この巻を読んでいて感じたことは「国家」を我々がどう感じているか、である。司馬さんはここに収録されているエッセイの中で何度か言っているのだが、今ほど「国家」が軽く感じられることはない、と言うのである。そしてこの国家とは何かを語るとき、前置きとして「いいわるいは別にして」とか言って、今国家という意識が日本国民に薄れている現状と、重苦しく「国家」というものが庶民にのしかかっていた時の、どう違うのかを論じている。司馬さんは次のよう言う。
「現在、日本に国家があるか、というとちょっと疑問がある。すくなくともわれわれの意識の中では、国家というものはあるのかないのかわからないような、たいへん軽い存在になってしまった。何か悪いことをして警察にでもひっぱられてゆく以外は、国家の重みを一生感じないで過ごしそうで、実に頼りない」
確かにそうだ。けれどこれはつい最近の日本の歴史を見ても、国家という意識が薄い方がいいに決まっている。ただ「良い悪いは別として、国家というのは充分に国民を興奮させるものだった」とも言っている。
たとえば普段国歌の「君が代」さえ強制的に歌わせるのはどうかという教師がいて、それ歌えばさも戦前の体制に戻るような言いぐさで、それを拒否し、生徒もそう思うようになる。けれどサッカーのワールドカップに日本代表が出場すればみんなで「君が代」を斉唱する。歌うことで国家という意識をその時だけ共有し興奮していくのである。司馬さんは競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるものと言っているが、まさしくこれがその例としてみることができそうだ。
今中国で日本バッシングが盛んに行われているけれど、あれだけ若者が興奮するのは、様々な背景が考えられるだろうけど、日本という敵を設定し、その意識を共有し、そこに戦う姿勢を見出されるからではないだろうか。もともと中国人は中国人で日本を昔から諸蛮、つまり衛星国の一つに数えていたのだから、彼らからすれば見下しても当然なのかもしれない。日本もわずかな期間だったが、そうした国家意識を高揚させた時期があったことを思えば、納得できなくもない。
ただ司馬さんは「考えてみると、日本の長い歴史の中で近代ヨーロッパでいう国家を実際に日本人がもったのは、明治のはじめから太平洋戦争が終わるまでの、せいぜい八十年間に過ぎなかった。
明治までの日本人の意識というには、たとえば薩摩藩士は薩摩藩のことしか考えない。その思考は藩どまりであった。百姓はもっとひどい。彼らは隣村との喧嘩なら生命がけでやるが、藩という大きさでは何も考えていない。
要するに日本人は一つの国土に住みながら、国という意識はなかった。せいぜい藩なら藩まで、村なら村までしかない。極めてローカル主義であった。それが日本の地金である」という。
それを明治政府は村の一人一人、藩の一藩士に国家という意識を植え付けようとした。愛国心を百姓や商人に起こさせようとした。国として一つの意識にまとまらないと当時の列強に侵略されてしまうという危機意識がそうさせた。しかし一端国家という意識を植え付けられた国民は歯止めがきかなくなっていく。それが太平洋戦争が終わるまで続いた。
戦後それは悪夢だったと考え改め、平和の名の下に国づくりが進められ、国家という意識が次第に薄れていく。けれど司馬さんは「それは日本古来のものに戻ったにすぎない」と言い切る。だから「現代日本のナショナリズムは『村意識』のナショナリズムで、一地方、一企業間にとどまった強烈な帰属意識で、それがなかなか日本全体に拡がっていかない」と言う。
中国では一漁船の船長が拘束されれば、国家をあげてそれに対抗措置をとるが、日本の一企業のサラリーマンが拘束されても、青い顔するのはその企業の関係者だけで、国家もうろたえ、国民は“ばばを引いた”としか思わない。その程度のナショナリズムしか持ち合わせていない。
何度も言うように危機や競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるもので、ヨーロッパのような地続きで、いつ隣国が攻めてくるかわからない状況なら民族的にまとまれる。しかし島国である日本では、国家だとか民族とかいうものの実感がきわめて生まれにくい。ヨーロッパで生まれた近代国家というものを単にうわべだけ輸入したって、根本的なところで違うのだから、根付く訳がない。基本は自分だけが安穏として暮らせればいいという発想しかないし、他人を思いやる発想がないのだから、自分さえよければそれでいいとしか考えられない。その範囲が多少広げられるのは個人が所属する共同体までであろう。
別の視点から見てみよう。江戸幕府が三百年続いたことの功罪を考えてみたい。司馬さんによると、「徳川幕府の作った社会は、人間をいかに反乱させずに安穏に暮らせるか、この目的で組織された社会」であった。
たとえば関ヶ原、大坂の陣を経て徳川体制が安定すれば、普通機能的に考えて、兵隊は解雇し、帰農させるか商売をやらせる。ところが徳川家康は徳川体制の安定のためには現状維持が一番望ましいということで、兵隊は戦時体制のままおいた。そのため仕事のない侍がゴロゴロする。つまり仕事のためではなく、人を養うだけのために組織されたのが幕藩体制だった。これが三百年続いた。それがその後の日本人の組織感覚にあたえた影響は大きい。それが現代日本の終身雇用という独自の雇用体制が尊ばれるのもこの点から考えてもいい。雇ってやるからきちんと働けという発想は、食べさせてやるから謀反をおこすな、というのと同じである。
どうして徳川家康は変革を恐れたのか。そこには幕府が独裁政治でなかったことにある。(司馬さんはもともと日本は独裁に向かない国と言い切っている)徳川幕府は他の藩という存在の上にただ乗っていただけで、一種の盟主に近い存在だったからである。だから場合によっては「江戸を襲われるかもしれぬという点では、その草創期から病的な神経を持っている」っていた。そのための懐柔政策である。そして「江戸体制の創始者は、人間を猛獣の一種として見る明快な人間眼と定義をもっていた。かれらの体制づくりは簡単で、猛獣を重秩序でしばりあげることによってのみその猛気を矯めることができると信じ、そのとおりやってのけ、みごとに成功した」のである。それが三百年も続いたのである。三百年ちかく教育されつづけた日本人は徳川幕府とおなじ心情になっていったのである。
もともとヨーロッパのようなパブリックな意識がない。われわれには「自分の」というのしかないのである。そこに現状維持というのが一番という徳川幕府の心情が浸透すれば、それは平和ではあろうが、自分本位の平和でしかなく、文化にしても元禄文化みたいな庶民あげて平和ぼけした文化しか産まない。
もともと日本人はローカル主義が地金で、そこに変革を望まない江戸幕府が三百年も続き、のうのう暮らして来た。他者を思いやることより自分が大事、自分が所属する共同体だけが大事という発想しか持てなくなってしまった。
そこにヨーロッパ流の近代国家という思想やシステム持ってきても、都合いいところだけつまみ食いし、基本は変わっていない。そこに明治政府から昭和の軍閥の専制期は国家の高揚を掲げて戦争しても、それが個人にどのように利益が反映するのか、その程度しか考え到らない。個人に利益が享受できれば、それを肯定し、思ったようにいかなければ激高し、その時だけ「国家」を意識する程度なのだ。悲しい国家意識である。
さて、最後に個人的に興味深かったことを羅列で抜き出しておく。
江藤(新平)が天性の検事であるところは、その論理能力が他人の悪を追求するときにすさまじいほどに冴えわたることでもわかるが、しかしかれが明治の建設にのこした業績はそういうものだけではない。明治初期の政府機構を法制化するについてはほとんど江藤の手でおこなわれたのではないかとおもわれるほどよく働いている。さらには旧民法の基礎をつくった。そういう世界のみに江藤は自分の活動を限定すればよかったが、しかしかれの魅力と不幸は、革命期をへた者として野気がありすぎることであった。
たとえば薩長の問題である。他の佐賀人は長いものにまかれろという気持が大なり小なりあった。副島(種臣)のようなひとまでこの気分が多少あり、それが副島をして天寿を全うさせた。大木(喬任)は協調主義であり、大隈(重信)はもっと次元のちがった場所で薩長を操縦しようとし、ときに妥協し、ときにおどしをきかせ、ときに恩を売ったりした。大隈の手腕は、それがやってのけられるだけに政治屋の素質がふくまれていたが、江藤にはそれができなかった。江藤は「長人は狡猾だから、口車には乗らない。その点薩人はおろかだからこれと手をにぎって、まず長州をたおし、ついで薩摩をたおす」といっていたが、そういうだいそれた政治の芸ができるほど、江藤は大狸ではない。であるのにかれはそれをしようとし、おりから西郷隆盛を中心としておこってきた征韓論にとびついてそのグループに入ったが、政治的飛躍の時期をあやまり、ついに佐賀の不平士族にかつがれ、いわゆる佐賀の乱をおこして刑死する。政治家としてはいかにも筋が通りすぎるほどに通ったみごとな一生というほかにない。
近藤勇というひとは上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流からはずれると、ただの下凡になってしまう型のひとだった。
京のの活躍期の近藤をもってその人物の目方を量ることはむずかしいが、この時期の近藤の行跡を計算に入れると、やはり二流の人物にすぎなかったようである。
明治に英国から貴賓がきたとき、その時国歌の奏楽が必要になり、接待役の薩摩藩士原田宗助上司の川村純義に相談する。川村は「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか」と一喝する。そこで原田は同役の旧幕臣の乙骨太郎乙に相談し、乙骨は徳川家の大奥の元旦儀式の歌であった「君が代」を教え、それを採用する。司馬さんは「君が代」起源説の通説では大山巌などが関わったとされているのは、「君が代」が徳川家の要素を消すためではないかと言っている。
この五稜郭という要塞ほど愚劣なものはないだろう。
当時の箱館奉行竹内保徳が監督し、武田斐三郎というあやしげな西洋兵術通という者が設計したもので、実際は西洋式でも日本式でもなく一種ハッタリ設計で、戦闘という実理をかいもく知らない者が役所仕事でつくったものにすぎない。諸事そのように実体の威力のない形式主義が徳川時代悪というものだが、この五稜郭こそよい見本だろう。
旧幕府軍がここにこもったが、函館湾に進入した官軍の砲弾が三キロの射程をとんでことごとく城内に落ち、兵の闘志を奪い、五稜郭はあっけなく落ちた。
われわれは五稜郭を見学するとき、当時の攻防を回顧して感傷にふけるよりも、むしろこのインチキくさい自称要塞というものを通して、当時の幕府や幕府役人というものがどういうものであったかを思うべきだろう。
私は、いわゆる明治的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思惑より明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色にしておもくるしい装飾にほどこしたのが山県有朋だったとおもっている。
評価
★★★★
書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈4〉エッセイ1968.9~1970.2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467042
出版社:新潮社 (2002/01/15 出版)
版型:379p / 19cm / B6判
販売価:入手不可
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- by kmoto
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