2010年11月29日

酒井順子著『金閣寺の燃やし方』

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 三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいて、不可解な部分が私にはあった。それは主人公の溝口が生きるために金閣寺を焼いたとされていることである。あれほど死に対して陶酔的な美を感じていただろう三島が、この作品に関しては、主人公に“生きる”ことを選択させ、そのための手段として金閣寺に火をつけさせるのが、不思議であったのだ。普通なら溝口は金閣寺が火に包まれる中で、死んでいってもおかしくなかったのではないか。少なくとも事実として林養賢は金閣に火をつけた後、服毒自殺を図ろうとして失敗しているのである。
 自衛隊の駐屯地で檄を飛ばし、割腹自殺をやってのける三島である。なら溝口は死んでいいはずである。そう感じたのである。その答えがこの著者によって明かされている。そのことは後で書く。

 この本は、書名はかなり過激なものだが、内容は金閣寺放火事件という事実を三島由紀夫と水上勉がどう小説として書いたか、それを比較しているものである。三島と水上が同じ事件をどのように小説としたか、その違いを問うことで、三島と水上の取り組み方の違いを明らかにしていておもしろい。
 実際には三島の『金閣寺』は純粋な小説としてとらえることが出来るが、水上の『金閣炎上』は小説のスタイルをとってはいるが、どちらかと言えばノンフィクションに近い。著者も「全く違う個性を持つ二人が、なみなみならぬ思いで金閣寺放火事件に注目したのは、一体何故なのか。金閣寺を通して二人の作家を見る私の試みは、ここから始まりました」と書いている。
 では二人の作家が金閣寺放火事件をテーマにした小説を書くに当たり、そのスタンスの違いは何なのか、それを書いてみたい。まず最初に三島由紀夫の『金閣寺』が発表され、それを読んで水上勉がちょっと違うんじゃないのと感じ、『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』を書いたという経緯をしっかり把握しておかなければならない。つまり先に三島の作品が先にあり、その上で水上の作品があるということが重要なのだ。その上で著者は次のように書く。

 水上勉は、三島の「金閣寺」を読んでいたことでしょう。「金閣寺」が出版された時、水上勉は三十七歳。四十歳が見えてきたものの、社会の中枢にいるわけでもなく、未来の希望があるわけでもない。水上はその状態で「金閣寺」を読んだのでした。私生活も仕事もうまくいかない水上が、お坊ちゃま育ちのエリートで、文壇の寵児でもある年下の三島由紀夫が書いた「金閣寺」を読んだ時、一体どう思ったのか。
 結果的に言うならば、水上の「五番町夕霧楼」と「金閣炎上」は、三島の「金閣寺」に対するアンサー、ということになるのだ思います。金閣寺が燃えた時水上が感じた、「林養賢は自分だ」という感覚と、三島「金閣寺」において描かれた小僧の像は、全く違うものだった。その落差があまりに大きいものであったからこそ、水上は金閣寺にまつわる二つに作品を書いたのではないでしょうか。

 これは読み比べてみると明らかにわかることなのだが、三島の『金閣寺』は主人公が金閣を燃やすその動機が美への嫉妬につきる。両者を比較するため、まず三島由紀夫のスタンスを著者の考えから見てみよう。

 三島由紀夫は、林養賢の生い立ちや性質に対する共感は抱かなくても、「美への嫉妬」ただその一点において、養賢という人物の中に入っていくことができると思ったのです。

 三島は、自ら思想地図を説くのに最も適当な狂言回しとして、林養賢をピックアップしました。三島は、金閣寺放火事件という出来事のガワを借りて、底に自らの思想を充填したのであり、だからこそ「金閣寺」は、小説なのです。

 燃える前の金閣寺を特に美しいと思っていたわけではなく、上空から見たような観念上の美の物語として「金閣寺」を書いた。

 だから実際の犯人である林養賢などどうでもいい。林の行動や供述で小説として使えそうな部分だけを拝借して、『金閣寺』を書いたといっていい。三島は他のところで、「あれはね、現実には詰ンない動機らしいんですよ。見物人が来る、若いやつがきれいな恰好してね、アベックで見物に来たりする、それがシャクにさわる、自分は冷飯食わされてて、みじめな恰好しているしね、自分の青春は台なしになってしまう」と語り、その後も養賢のことを、「ああいうやつ」とか「キチガイ」といった呼び方しているのである。

 一方水上勉は林養賢の生い立ちから、その境遇、家族関係、金閣寺での徒弟生活などを克明に追うことに重点を置き、彼の人生の不遇さをその動機と見ている。いわば林養賢に寄り添ってその物語を書いている。それは林養賢が水上と似たような境遇であったことに由来する。
 彼が養賢と同じ若狭の貧しい家に生まれ、小さい頃から口べらしのために京都の寺に修行に出され、臨済宗相国寺派の寺において小僧としての生活を送っていた。寺の徒弟として生活することが、いかにつらく厳しいことかを、身体を知っている。還俗後も仕事を転々とし、四十歳過ぎてからやっと作家として一本立ちしたのが水上勉であった。作家として一本立ちした後も、生まれた土地と深いつながりを、人間としての存在証明としていた。
 一方養賢はそのつながりを断たれていた。水上は同郷であるし、若い頃養賢とも出遭っているということも伴って、養賢に、深く同情した。だから水上は「情」をもって裏から養賢へと歩みよっていったというのである。

 水上は、実在の人物である林養賢の隣に、自分が降りていきました。林養賢が立っていたのは、日本の、仏教界の「下」であり「底」であり「裏」。そんなじめじめした地帯にこよなく親しみを抱く水上は、養賢の脇に立って事件を追体験したのであり、だからこそ「金閣炎上」はノンフィクション(であると私は認識しております)なのです。

 と著者は言うのである。

 だから、水上は「三島の華麗なテクニックによって、林養賢という放火犯が、美に復讐する抽象的な犯罪者・溝口という存在に変わったのを見たことが、水上にとって執筆の一つのきっかけになったことは、間違いない」と著者が言うのはよくわかる。水上は三島「金閣寺」に対する違和感を強く覚えたのである。著者は次のように言う。

 水上勉が三島「金閣寺」に不足していると思ったものは、そして自分でなければ書くことはできないと思ったものは、京都の寺の生活の底に澱んだ、暗い部分であると同時に、そんな「どろどろしたもの」に幼い頃から心身を浸さざる得ない、貧しい少年達の気持ちでした。

 そして金閣寺を見ても、「どんな人がどんな苦労をしてこれを作ったのか」と思い、下から金閣を支えていた庶民の労苦に美を見る、水上。

 水上がエッセイで「ここで三島由紀夫さんの名作を持ち出すのもどうかと思うが、『金閣の美への反感』といったものは確かに林君にもあろう。そのことについては林君は似たようなことをいっている。然し、それらのことは、すべてことばにすぎない。美しいものを焼いても死ななくてもよい場合もある。むしろ、ここは死にたい気持ちが先にあって、金閣がいわばまきぞえだったのではないかという気がするのである」と言っているのをあげている。

 さらに著者は養賢と似た境遇の水上と三島の境遇をさらに比較する。三島を「作家という職業ににたどりつくまで、日の当たる表の道を歩いてきた」あるいは、「学習院から東大、そして大蔵省へ。三島が歩んだのは、まさに陽のあたる道。それは、東京という“表日本”の中でも、最も燦々と光が降り注ぐ道」を歩いてきたと言い、「三島は常に中央の人」であったという。
 一方水上を「裏街道をはいつくばるように進んできた」人生と言い、「裏日本の作家」と言い、水上を「端っこの人であった」と言うのである。要するに三島と水上をいちいち正反対だった言うのである。養賢を表から近付いたのが三島であり、情をもって、裏から養賢を理解しようとしたのが水上であったのだ。その正反対のスタンスの作家がすれ違ったのが金閣寺であった。同じ事件をテーマにしても、扱う作家がその境遇や考方の違いでこうも違った小説になるのはおもしろい。

 さて最後に三島の『金閣寺』で溝口を殺さなかった理由を著者は、実録にとらわれた」からだけではなく、この頃三島は人生の転換期いたからだという。すなわちお坊ちゃま育ちのエリートでうらなり時代から、心身のバランスが最も高いレベルで調和して、今までの分を取り返すが如く肉体改造をする意欲に満ちた三島は「生きる」気持ちに方向が向いていたことによるのではないか、と考察している。当時の三島はそうだったんだと知った次第。しかし著者も言っているが、その三島の肉体改造の行くつく先が「死」であったことは、結果として物語の中では死を望まなくても、自らの人生で死を望む羽目になるには、皮肉と言えば皮肉と言えまいか、そんなことを思った。


評価
★★★★


書誌
書名:金閣寺の燃やし方
著者:酒井 順子
ISBN:9784062166195
出版社:講談社 (2010/10/28 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月25日

三島由紀夫著『金閣寺』

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 どうしてこの単行本があるのかよく覚えていないが、たぶん古本屋さんで買ったのだろう。本の帯を見ると「復刊'83」と書いてあるから、この本は何らかの事情で復刊された本なのだろう。奥付を見ると初版は1956年の10月30日となっている。この本はその復刊かもしれない。私の持っているこの本は1983年8月20日、三十六刷である。

 さて、この本を再度読み直したのは、先の水上勉さんの『金閣炎上』を読んだからである。高校時代に読んだ三島由紀夫の『金閣寺』がどんな内容だったか思い出したかったから、手に取った。

 ここでは主人公の溝口が金閣寺の美に対する感覚というか、意識が自らの中で抜き差しならぬ存在となっていく過程が描かれ、それが破滅へと向かわせる。父から「金閣ほど美しいものは此世にない」と教え込まれた溝口は、どうあっても金閣は美しくなければならなかった。まだ見ぬ金閣にいよいよ接する時が近づくにつれ、そこですべては、金閣そのものの美しさよりも、金閣の美を想像しうる私の心の能力に賭けられた。
 しかし最初は「私はいろいろに角度を変え、あるいは首を傾けて眺めた。何の感動も起こらなかった。それは古い黒ずんだ小っぽけな三階建にすぎなかった。頂きの鳳凰も、鴉がとまっているようにしか見えなかった。美しいどころか、不調和な落着かない感じを受けた。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた」のである。とにかく最初はこの程度しか金閣を感じていない。
 溝口が金閣寺に来て最初の頃は、金閣寺に向かって問うている。

 「金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ」と私は箒の手を休めて、心に呟くことがあった。「今すぐでなくてもいいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきりと見えそうでいて、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ」と。

 しかし一方で、

 私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその「壁の少ない、吹きぬきの建築」は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい夜を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間というもの、このふしぎな船はそしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに任せ、夜がくると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出帆したのである。
 私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。父は田舎の素朴な僧侶で、語彙も乏しく、ただ「金閣ほど美しいものは此世にない」と私に教えた。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。美がたしかにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎外されたものなのだ。

 と思うのである。

 そこに戦争の影が忍び寄り、京都が空襲でやられるという噂が立つ。「それでも金閣という半ば永遠の存在と、空襲の災禍とは、私の中でそれぞれ無縁のものでしかなかった。金剛不壊の金閣と、あの科学的な火とは、お互いその異質なことをよく知っていて、会えばするりと身をかわすような気がしていた。・・・・しかし、やがて金閣は、空襲の火に焼き滅ぼされるかもしれぬ。このまま行けば、金閣が灰になることは確実なのだ」

 金閣が空襲で焼けることを想像したとき、溝口は「私を焼き亡ぼす火は金閣をも亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように、私の肉のなか、私の組織になかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした」のである。

 しかし金閣は焼けなかった。焼けなかったことで金閣は今までと同じ時間の海を渡って行くこととなる。このとき、「私の心象からも、否、現実世界からも超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅個な美を示したことはなかった!あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどに輝いたことはなかった」、「金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである」
 溝口は空襲で焼けなかった金閣をそれ以前と何も変わらない不変さを感じるのであった。そのとき、「金閣と私の関係は絶たれたんだ」、あるいは「これで私と金閣と同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりもっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝らぬ事態・・・」と感じるのであった。さらに溝口は、「美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものを、滅亡の白茶けた光りの下の露呈してしまうのである」と考えていくようになる。
 溝口は金閣に向かって、呪詛に近い調子で荒々しく叫ぶ。

 「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつか必ずお前をわがものにしてやるぞ」と。

 金閣が永遠に存在することで、そのことが美として輝き始める。その姿に溝口は圧倒されるのである。かつてそうであったように、そしてこれからもそうであり続けることが、金閣の美であった。短く、愚かな人間の一生とは決定的に違う。だから金閣の美を意識した人間はただただ恐れおののくだけなのであった。決して自分のものにならないものであった。その美が自分の中で一緒になれない絶対性を帯びている。
 しかしよく考えてみると、永遠であり続けたその美は、それだけしかない。次がないのである。これが「金閣の生は厳密な意味で一回性しか持っていない」という意味である。
 一方で人間は違う。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖する。人間は滅びやすいが故に、却って永生の幻が浮かぶのだ。
 金閣を作ったのも人間であるなら、それを消滅できるのも人間である。どうして人はそこに気がつかないのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間が作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。だから、

 「金閣を焼かなければならぬ」

 のであった。

 永遠の美という妄想にとりつかれた人間の苦悩がここで描かれている。金閣の美にとりつかれ、破滅へと向かうしかない人生は、私は怖かった。


評価
★★★★


書誌
書名:金閣寺
著者:三島 由紀夫
ISBN:
出版社:新潮社 (1956/10 出版)
版型:263p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年11月23日

半藤一利著『歴史探偵 昭和史をゆく』

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 私はこのブログを更新する場合、書誌を紀伊國屋書店BookWebから参考にさせてもらっている.そのためほとんど毎日このサイトを見ている。で、いつものように閲覧していたら、この本のことが眼に入る。よくわからないが、この本は紀伊國屋書店限定で復刊されているらしい。アマゾンで検索して見ると古本しか手に入らない。ということはこの本はここで購入するか、古本で買うか、どちらかになる。
 私は基本的にネットで本を買う場合、アマゾンで買うことにしている。理由は簡単である。送料が無料だからである。
 しかしこうして毎日このサイトを閲覧させてもらっているだけで、会員にもなっていなければ、本を一度も買ったことがないのも心苦しい。こうして欲しい本があるなら、別にどこで買ってもいいので、急遽会員になった。ただこの本だけだと、送料が取られる。
 実はこれが嫌なのである。送料を無料にするために、無理して1,500円以上買い物をしなければならない。欲しい本があって、それが1,500円以上になれば何ら問題はないが、そうでないときは、あれこれ考えて探すこととなる。こういう時候補として出てくる本は、一度は読んでみたいとは思うけれど、まだ買うほどじゃないなという本である。無理して買う本じゃない、ということだ。それを買わざるを得ないのは少々しゃくなのである。その点アマゾンはそんなことは無用なので、気兼ねなしに買えるからいい。
 今回はもう一冊吉村昭さんの新刊があったので、紀伊國屋書店BookWebで本を買った。

 さてこの本は半藤さん自ら歴史探偵と称して暗い昭和の戦争史の裏側を探っている。これがなかなか興味深く、いろいろ教えてもらった感じである。特に太平洋戦争の始まりと、その終わり方が興味に引いた。まずは開始の方から。
 昭和16年12月7日、日本はアメリカに宣戦布告なしに奇襲攻撃を開始した。いわゆる真珠湾攻撃である。しかしこれは宣戦布告をしなかった訳ではない。当時の東郷外相は野村大使宛対米覚書を発電した。その内容は「7日貴地時刻午後1時を期し米側に 貴大使より直接御手交ありたし」と指令したものであった。ところがワシントン大使館でタイプに手間取り野村大使がハル長官に渡したのは午後2時20分になってしまった(本当は真珠湾攻撃開始30分前の予定だった)。この結果、真珠湾攻撃は無通告攻撃となってしまったのである。
 山本五十六は開戦通告にはかなりこだわっていた。山本五十六は政務参謀藤井茂中佐を呼び、「藤井君、たびたび言うようだが、外務省はアメリカに対する開戦の通告はぬかりなくやってくれているだろうな。戦うかぎりは正々堂々戦わねばならぬからな」と尋ねているくらいなのだ。ただ政府・統帥部は、無通告開戦のほうに意志が傾いていたことも事実である。
 国際法上において、開戦通告の問題は20世紀の初めになって、世界各国の間で取り決められた法規がある。すなわち1907年の調印されたハーグ第三条約において、「開戦ニ関スル条約」第一条として、「締結国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、その相互間に戦争を開始すべからざることを承認す」である。日本も条約を批准していたので、当然この法規に拘束される。
 ただ日本は無通告開戦に対して理論武装を用意していた。すなわち国際法にいう自衛権・自己保存権には、たとえ条約無視の事実があっても、自衛権は一切の条約規定に勝るべきものであるから、自衛権・自己保存権のために戦争をおっ始めた場合、無通告開戦でも、ハーグ条約に違反していないと主張するのである。
 日本が主張する自衛権・自己保存権とは、ABCD包囲陣が日本の切迫せる形勢を示すものであって、それは日本から見れば、国家存続の重大利害の関わり、切迫した危険を有することは明白だというのである。そのための戦争であれば、ハーグ第三条約の規定を無視しても問題ないと考えていたのであった。
 ただこれは戦後、連合国側から追求された時の言い訳ともとれる。しかし日本はアメリカに対して決して無通告開戦をしたわけじゃない。政府の不手際から結果としてそうなってしまったということのようだ。

 次に終戦時に起こった問題を書く。昭和20年8月14日午後11時(日本時間)に日本政府はポツダム宣言の受託の通告を発した。これで日本は戦争を止めることで、すぐ戦争が終わるものと考えていたところがある。しかし通告は日本の降伏の意思表示に過ぎなかったのだ。国際法上の正式の「降伏」を完成するには、降伏条件の正式調印をまたなければんらないことを、日本の指導層はきちんとわきまえていなかった。この時点ではまだ戦争が続いていたことになる。
 だから満州に侵入したソ連軍参謀アントノフ中将は、8月16日の布告のなかで、堂々と言明している。天皇が14日に行った通告は「単に日本降伏に関する一般的なステートメント」にすぎず、日本軍の降伏が正式に実行されていない以上は、「極東におけるソ連軍の攻撃態勢はいぜん継続しなければならない」と。
 マッカーサーも8月16日には命令第一号として、「連合国の降伏条件を受諾せるにより、連合軍最高司令官は、ここに日本軍による戦闘の即時停止を命ず」と日本政府と大本営に発した。それでもソ連軍は侵攻をやめなかった。
 なぜか、理由は簡単である。8月15日以後に日本政府と軍部とがしばしば使った「降伏」という言葉は、すべて降伏文書調印(9月2日)以後を示していた。マッカーサーが連合軍最高司令官として最高指揮権を持つのはそれ以後となる。それまではアメリカとソ連の間ではマッカーサーが最高司令長官に任命されるという了解にとどまる。だからアメリカもソ連の侵攻を止められなかったのである。アメリカも日本の政軍指導層も国際法に対する無知さを露呈したことを示すこととなった。
 このあたりの不手際は、開戦時にも同様なことを起こしているし、終戦においても、適切な処置がとれない当時に政治上層部に大いに問題があった。少なくと国際法をきちんと守り、それに熟知していれば、宣戦布告にしてもあんな不手際は許されないことぐらいわかるだろうし、終戦においても、単に日本が戦いをやめたから、即、降伏調印と同じ効力を持つものではないことぐらい知り得たのではないか。それが今の北方領土の問題を引き起こしているのである。外交の難しさも、熟知する人間が当時の政治上層部に数多くいれば、もう少し歴史は変わっていたかもしれない。
 もっと言えば、日本の国力を熟知していれば、そもそもこんな無謀な戦争など出来やしない。それ以前に行ってきた戦争だって、首の皮一枚で何とか勝利したものである。それをすばらしい勝利と国民に知らしめたことが問題である。本当は危なかったんだよ、と多くの国民知らせるべきものであった。知らされなかったとはいえ、それを知らせなくてもいいと日本政府が判断したことは、国民がまだ政治に本当の意味で参加していないことを示すことになる。
 政府の言うことを言われるまま受け入れ、政府が戦争に勝った、と言えば国民は大喜びだったのである。戦争をするときだって、国民一致団結して望まなければ勝利は望めない、と言われればそれに渋々従うしかなかった。その程度の政治意識のレベルであった。ある意味指導者側はやりやすいといえばやりやすい。
 しかしだからといって、個人レベルで損得は勘定できる。苦しい思いをした分、その見返りが当然あるものと思うのだ。それが思ったほどなければ、不満となって爆発する。そのため国民にいつも美味しいにんじんを目の前にぶら下げていないと、国民の理解を得られないことになって、最後は戦争に行かざるを得ない。これが昭和の姿だったのではないか。なまじ日露戦争や日中戦争に勝ったという馬鹿なプロパガンダが国民の損得勘定に火をつけてしまったのではないか、と思う。見返りを求めた国民と、その見返りをあげるためにいい顔をしたい軍の指導部が戦争を起こしたといっていい。
 その中で山本五十六は、日本国民が熱狂し熱情にかられ動揺しやすい国民であり、日本人の集団主義にたいする恐れを抱きつづけた。集団は欲求不満が起こると、かならず大なり小なり攻撃的な行動をともなうことになるからである。
 また越後長岡藩の末裔であった山本は、敗亡の民がなめなければならぬ辛酸が、身にしみてわかっていた。それだけに負けるのが必死の戦争の回避に、最後まで努力したことが、著者のひいき目で記されているが、軍にも状況がきちんと把握できる人物もいたことは記憶しておくべきであろう。
 最後にこの本で知り得たことを書いておく。もしかしたら以前読んだ本で似たような記述をしたような記憶があるが、知っておいていいものだから重複しても書き残しておく。それは靖国神社とは何か、である。
 靖国神社の原型は、幕末の尊皇攘夷のために横死した志士たちの招魂場にある。文久2年(1862年)に早くも民間有志によって慰霊祭が営まれ、慶応年間から明治にかけて各地で招魂祭が行われ、それがつぎつぎに招魂社となっていった。そして明治2年(1869年)、明治天皇の「深き叡慮に似て」各地の招魂社をまとめて、東京招魂社が創建されることとなる。はじめは鳥羽伏見の戦い以来の戦死者三千五百八十八人が祀られた。それから毎年のように合祀者がふえ、これが靖国神社となったのは明治12年6月、社格を別格官弊社に列せられた。合祀者の最初の人は久留米藩家老、稲次稲葉正訓となっているらしい。
 問題となるA級戦犯7名は昭和20年11月12日に判決を受け、41日後の12月23日午前零時から同35分までの間に、巣鴨拘置所内の絞首台で処刑された。GHQは死体はは火葬に付すが「灰は取り捨てる」と発表。棺には氏名や標識もなく、No.1から7までの記号が大きく書かれていた。午前11時、粉末にされた遺骨は七つの黒塗りの箱に収められ、ジープに積まれると風のように火葬場から持ち去られ、その後これらがどう始末されたか、確たる発表も手記もない。
 火葬場長飛田美善以下五名の日本人はMPが立ち去った後、集骨台の上に残された灰をかき集め、一つにまとめた。もちろん誰の骨かはわからない。それが愛知県幡豆郡三ヶ根山頂に建てられた「殉国七士墓」の下に祀られている。


評価
★★★


書誌
書名:歴史探偵 昭和史をゆく
著者:半藤 一利
ISBN:9784569568294
出版社:PHP研究所 (1995/12/15 出版)PHP文庫
版型:366p / 15cm / A6判
販売価:649円(税込)

2010年11月18日

吉村昭著『味を訪ねて』

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 やっぱり好きな作家さんの随筆を読むのはいいが、今回は美味しそうというのとうらやましいという気持ちが複雑に絡み合って、微妙な気分でこの本を読んだ。

 今回も様々な機会に発表された随筆を集めたものである。しかもその初出紙誌/単行本一覧を見てみると、ちょっと古いものばかりである。個人的には短い随筆は好きではある。今回は食に関しての随筆を集められている。ただこの本は食通、グルメの本とは多少違う意識で吉村さんは書かれているようである。一応吉村さんはよくある食通を気取っていないことをことわって、食に関して自らの持論を次のように言われる。

 食通と言われている人は、美味な物を食べるためには金に糸目をつけぬという。私も、そのような人を数人知っている。食べる顔つきは真剣そのもので、ひと味ひと味たしかめているような食べ方をする。
 食物に対する知識はきわめて豊富で、自分で包丁も巧みに使う。味覚が常人とは異なって研ぎすまされているのだろう。

(略)
 
 そのような人とくらべると、私は、食通になることはあり得ないことに気づく。食物についての知識は無にひとしく包丁も使えない。第一、うまい食物を口にできた時、私は、ただ嬉しくて笑うだけなのだ。
 ただし、それがいかにうまい物でも値段が高ければ喜んでいられない。私の場合、食物には金に糸目をつけるのである。
 私にとって、うまいとは、安いわりに・・・・という条件が必要になる。

 もちろんここに紹介される食べ物は確かに産地に行けるだけの条件が必要になる。作家という職業のため取材旅行ができるから、こうしたご当地のうまいものを食べられる。だからこんな随筆が書ける。それだけでも十分「役得」だ。吉村さんは次のように書く。

 仕事の関係で、月に少なくとも二回は旅に出る。そんなことをくり返しているうちに、全国の都道府県すべてに足をふみ入れることとなった。
 好きな町は多いが、私の場合は、第一に人情がこまやかなこと、食べ物がおいしいこと、町独自の歴史のあることなどの条件をそなえている町である。

 これは誰だってそう思うだろう。旅をする醍醐味はそこにあるんじゃないのかと思う。

 吉村さんもここで「食物の随筆は、そんなうまいものがあるなら、食べてみよう、と思うところに面白みがあるので、自己陶酔だけの随筆は、かえってはた迷惑で、いら立つだけである」と書いている。あるいは「ほとんど行く機会もないような地の食物について書かれたものは、どうしようもない。ああそうですか、という以外にない」とも書いておられるが、私たちは吉村さんが書かれたここの文章にも同じことを感じている。いや感じてしまう。やっかみがあって、「あなたもそうですよ」と言いたくなってしまう。
 それくらいここに書かれた文章は美味しそうだった。

 私は咀嚼しながら嬉しくなって笑い出した。なんといううまさだ、と思った。

 これを読んだらそう思っても仕方がないでしょうと言いたくなる。いくら吉村さんが「味の旅という言葉がある。たしかに旅をすると、その地特有の食物に出遭う。しかし遠い地へ旅する必要はなく、東京にも近くの地で、他の地では味わえぬものがある」と書いてあっても、慰めとしか感じられない。
 せめて救われるのは、食通、グルメと称して、やたら高い物ばかり食べているやつより、吉村さんが「安いわりにうまい」ということを持論を持っておられるところだけであろう。それだって、産地に行けば、新鮮で安いに決まっているじゃんと突っ込みたくもなるが・・・。
 結局食に関する本はひがみを持ちつつ読むしかないところがどうしても出てきてしまうのかな、と思った。ということで、食べてみたいけれど食べられないジレンマを感じつつ、この本を読み終えた。

 最後に日本酒を飲む人が減っているという話。

 日本酒の需要が減っていると言われているが、なにも飲む者の趣向が変わったわけではない。遠い昔から得も言われぬ味わいをもつ酒として愛されてきた日本酒が、ほろびるはずがないではないか。
 それが減少傾向にあるというのは、ひとえに酒づくりをしている人の怠慢にある。戦後、私たちは、長い間、なんの工夫もこらさぬ日本酒を、押しつけられるようにがまんして飲んできた。年をへても、酒づくりをしている人は、売れることに甘えて、少しも自製の酒を検討することなく酒を市場に出してきた。
 葡萄酒、ウイスキー、焼酎など、戦後とは全く別種の飲み物と思えるほどうまくなったのに、日本酒だけはあぐらをかいたように味の進歩がない。飲む側にしてみれば忍耐の限界をすぎ、愛想をつかしたのである。

 これを読んで、同じことを開高健さんも言っておられたのを思い出した。開高さんも日本酒の衰退を同じように清酒業者の怠慢と嘆いておられた。もっとそれはだいぶ以前の話だ。最近は以前より日本酒の愛飲者も増えているのではないか、と思われる。


評価
★★★


書誌
書名:味を訪ねて
著者:吉村 昭
ISBN:9784309020099
出版社:河出書房新社 (2010/10/30 出版)
版型:176p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月10日

岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

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 今話題の本を読んでみた。長いタイトルなので、最近は『もしドラ』と言われているらしい。とにかく興味本位で読んだだけである。とにかく読んでみようと思い、いつものように本にきちんとカバーをつけ直した。電車の中で初めて、ページを開いたら、この絵が出てきて慌てた。いいおっさんが萌え系の本を読んでいるなんて思われちゃまずい。これはやめて欲しいな。


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 しかし後でじっくり見てみると、萌え系の女子高生がドラッカーの『マネジメント』を広げて読んでいる姿は、ミスマッチで面白い。

 さて、本である。結局この本は高校野球のマネージャーが野球部員と一緒に甲子園を目指すというありきたりの物語である。ただその辺にごろごろしているこの手の話と違うのは、やる気のない選手をやる気にさせるために、ドラッカーの『マネジメント』を教科書にして、主人公の川島みなみがそこに書いてあることを拠り所にしているところにある。これがこの本をベストセラーにした最大の理由であろう。
 通常ドラッカーの『マネジメント』なんて読まない。もちろん私も読んだことがない。けれど経営書としてドラッカーの『マネジメント』は名著だとは知っている。だから興味はある。どんなことが書かれているのだろうかといった感じで。でも実際その本を手に取れば、普通の人ならとてもじゃないが手に負えないことを知っている。そうして避けてきたこの本が女子高生のマネージャーを通して解説されるわけだから、そりゃあ、そこそこのビジネスマンはこの本を手に取るわなあ。しかもそこに書かれていることを実践したら、ダメ野球部が甲子園に行けちゃうストーリーだから、余計に興味がわくわけだ。悪い言い方をすれば、これはドラッカーの『マネジメント』の番宣的の役目をしているわけだ。

 話は、川島みなみ(なんで高校野球に出て来る女の子は“みなみ”なんだろう。そして“みなみ”のほうがしっくりくるのが不思議だ)父親の影響で子供の頃野球少女だった。運動神経もよかったから、地域の少年野球チームに所属し、中心選手として活躍していた。自分でもプロ野球の選手になりたいとさえ思っていた。けれどやはり女性というハンデが、その夢を砕く。そうしてあれほど好きだった野球が嫌いになってしまった。
 落ち込んでいたみなみを支えてくれたのが友人の夕紀であった。みなみは自分を助けてくれた夕紀を大切な友人と思うようになる。その夕紀は都立程久保高校野球部のマネージャーをやっていたが、病気のため入院することになり、その留守をみなみがマネージャーとなって守ろうとする。そして野球部のマネージャーをやる以上、甲子園へ行こうという目標を掲げる。
 その前にマネージャーって何だろうと思う。広辞苑でマネージャーを調べてみて、みなみはマネージャーというのは「管理や経営をする人-つまりマネージメントする人」と理解する。それでマネージャーやマネージメントについて書かれている本を見つけようとし、本屋で世界で一番読まれている本として、ドラッカーの『マネジメント』を紹介されるのである。
 この本は野球とは無関係の、企業とは何かを書いた本であり、組織運営のノウハウすなわちマネジメントの重要性を説いた本であった。みなみは最初自分が求めていた本の内容と余りにもかけ離れていることにうんざりするが、この本が世界で一番読まれている本なのだから、何か得るところがきっとあるだろうと読み進める。
 まずはそこでマネージャーの資質に書かれているところにショックを受ける。そこには人を管理する能力には根本的な資質として、“真摯さ”が必要と書かれている。真摯=まじめで、ひたむきなさまである。
 みなみは本を読む進め、そこに書いてある“組織”の定義づけを考えるようになる。さらに企業の目的は“顧客”であると書かれているのを読む。顧客を満足させることこそ、企業の目的であるというのだ。所謂「CS(顧客満足度)」の追求が企業が存在する最大の理由だというのだ。
 では野球部が企業なら、野球部にとって“顧客を満足させること”とは何だろう、と考える。思案の末、それは“感動”だと思うようになる。野球部にとって顧客は野球部員を含むすべての関係者であり、その関係者に感動を与えることがその目的だと考えたのである。
 さらにみなみは本を読み進め、企業の基本的機能はマーケティングとイノベーションだと知る。マーケティングは顧客が何を買いたいかこれを問えと言っている。みなみも顧客の一人であり、そのみなみが求めているものは、甲子園へ行く感動であった。そう、みなみはもうマーケティングをしていたのである。
 そこでみなみは入院している夕紀の力を借りて、野球部員の意識調査を依頼する。野球部員に夕紀の見舞いをさせて、夕紀が野球部員の意識調査をして、今現在の野球部の問題点を探るのである。
 そうしてみなみはドラッカーの『マネジメント』から「働く人たちに成果をあげさせ」、それが「働きがい」に変わって行くことを学ぶ。「働きがい」は仕事そのものに責任を持たせるところから生まれることを知る。
 みなみはマネジメントの組織化を進めるにあたり、監督が重要人物になること悟る。監督が持っている専門知識を部員たちに広めることがマネジメント基本だと考える。ただ専門家は専門用語使いがちで、専門用語を使わないとコミュニケーションが出来ないものだとドラッカーは言っており、みなみは専門家である監督のアウトプットの知識を、マネージャーがインプット出来るようにして、その専門知識を部員に広げるようしようと考える。それをもう一人のマネージャーである文乃にやらせる。文乃に監督の知識を咀嚼させ、それを部員たちに伝える役を与えたのである。
 こうしてみなみは野球部において様々な改革を進め、野球部員の意識を高め、甲子園に行くにはどのような練習をすればいいのか、仲間と考え、仲間との関係の再構築をやっていく。すなわちこれがドラッカー言うイノベーションである。
 甲子園の予選大会が始まった。監督が試合の方針を決め、その方向で、練習の効果をフルに使って、試合に勝ちすすで行く。あとは小難しい理論の展開ではなく、お決まりの感動のクライマックスへ進んでいく。決勝戦サヨナラ逆転で、都立程久保高校野球部は甲子園のキップを手に入れるのである。展開は想像がついたが、気がつくと夢中で読んでいたから、少々情けなくもあった。その直前には夕紀が病気で死んでしまう悲しみの場面も入れて、なかなかの構成である。
 この本はやっぱり企画の勝利だろうと思う。どう考えても女子高生のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んで、それを使って野球部を改革していくなんて、考えつかない。そして涙のクライマックスをきちんと入れておけば、これは飛びつく。そう思った。でもその分新鮮で面白かった。読んでいてみなみたちが“AKB48”にいる女の子の姿と重なったのだが、著者が秋元康さんを師事していて、しかも彼女たちのプロデュースに関わったことがあることをあとがきで知った。なるほどね。まぁいいか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
著者:岩崎 夏海
ISBN:9784478012031
出版社:ダイヤモンド社 (2009/12/03 出版)
版型:272p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月09日

川上健一著『yes』

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 川上さんの本を読んでいるといつも思うのだが、読んでいて「木っ端恥ずかしい」のである。よくこんなことが書けるな、と思うのである。こんなべとべとした家族などあるわけがない、と思う。また昔読んだ青春小説にしても、確かに自分にもそんなときがあったかもしれないけれど、出来れば余り触れて欲しくないと感じがある。こうして堂々と書かれちゃうと、ちょっとやめてくれよ、言いたくなっちゃうのである。気恥ずかしくなるのである。

 でも読んでしまうのは何故なんだろう?

 いろいろ考えたけれど、よく分からない。ただ若い頃の思い出というのは、どこか郷愁を誘う部分があるし、ちょっと恥ずかしいけれど、自分もそうだったかも、と思って苦笑いしてしまうところはある。この本にしてもちょっとした家族のあり方を描いているため、こういう家族だったらいいなと思わせるから、ついつい読んでしまうのではないか、と分析する。
 ただやっぱり、こんなに家族のあり方はないよなと思う。せいぜい似たようなところがあるかもしれないといった程度で読み進めた。
 話自体はページにして3ページのショート・ストーリーで構成されている。いくつもの家族、夫婦が描かれる。本の帯に書いてあるように「心がほっこり温まる67のショート・ストーリー」でいかにもPHPが出しそうな本である。
 こんなに「ありがとう」、「愛している」、「好きだ」と言われちゃうと、おいおいやめてくれよと言いたくなる。ただ一方で五〇半ばのおっさんでも、そう言われたら悪い気はしないかもしれないと思うから不思議だ。まあ、そんなことこの歳になると、そうそう言われることもないから余計なのだろう。また言われても逆にどうしていいか困ってしまうが・・・。でも、もしかしたらそう言われることをどこかで望んでいるのかもしれない、ととんでもないことを思う。
 要するに、日々の忙しさ、刺々しさで気持ちが像皮症みたいになっているものだから、こういうのに触れるととたんにヨレヨレになってしまうのだ。そういう自分を自覚すると、慌てて否定したくなる。いかん、いかんとね。こんなことに流されちゃまずいと必死に姿勢を立てなそうとする。こんな本を読んでほっこりしている場合じゃないのだ。
 でもでも読んじゃうんだ。結局どこかでそれを求めているのだろうか?
 特に男親は娘がやばい。息子は同性だから、そんなもんだと思えるし、自分がそうであったから、そんなもんだと思えるのだけれど、娘は予想外の言動をとる。これが慌ててしまう。この本の話も男親が娘の行動にどぎまぎしてしまうところがいくつも書かれているので、ここまでべとべとしていないまでも、自分も似たような経験をここのところいくつかしているのでわかる。やめて欲しいところもあるのだけれど、やめないで欲しいという部分もあって、そこの所は男親は複雑なのだ。

 俺は何を言いたいのだろう?
 
 もうやめよう!

 こんなこといつまでも書いても仕方がない。
 恥ずかしいけれど、次の文章にはちょっとぐっときちゃった。

 「幸せって、誰かが何かをしてくれた時より、自分がしたことで誰かが喜んでくれる時の方が、断然強く感じるんだ」

 そうかもしれない。でも私は死んでもこんなことは言えないな・・・。


評価
★★


書誌
書名:yes―お父さんにラブソング
著者:川上 健一
ISBN:9784569708911
出版社:PHP研究所 (2009/12/25 出版)
版型:231p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年11月08日

水上勉著『金閣炎上』

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 「私は昨夜午前何時頃か判りませんが深夜に書類と布団や蚊帳などを以て行つて金閣の北側の板戸を外し屋内にはいり私が持つて行つた書籍や蚊帳等を西側の外を開けて中に入れマッチで点火して金閣を焼いたのであります。金閣が燃へるのを見ましたが放火した原因については無意味にやりました。其後私も死ぬつもりで前に買ふてあつたカルモチン百錠を大文字山の山中で飲んだのでありますが今は苦しいですから寝かせ呉れ何もかも申します。私が放火した犯人に相違ありません。私の主観では悪い事をしたとは思ひません」

 これは昭和25年(1950年)7月2日の未明金閣寺に放火し、金閣寺、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失させた、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林養賢の第一回供述調書である。
 第三回供述調書では、
一、私が金閣を焼いた事は、私の行ひを見ると見にくい(醜い)ので美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持ちは表現しにくいのであります。

一、私の現在の心境は金閣を焼いたことに対する責は負ふ覚悟で居ります。現在でも悪いことをしたといふ考へは余り起きません。

一、私達お互いの生活は苦しいけれども、金閣寺に毎日何百人かの人がぞろぞろ遊びに来る事に付けても或程度の嫉妬を感じて居りました。

一、私は寺の中で狂人扱いされている様な主観的考を持つたこともありました。私はつまらぬ人間だといふ事は感じ乍らも亦英雄だといふ人よりは偉い自分だといふことも時々考へが起こるのであります。
(以下略)

 たぶんこの第三回供述調書にある、養賢の金閣寺の美に対する嫉妬の供述は、三島由紀夫の『金閣寺』の重要なモチーフになっているのではないかと思われる。もっとも私が三島由紀夫の『金閣寺』を読んだのは高校の初めの頃だったので、内容の詳しいことは忘れているので、確かなことは言えない。もう一度読み返すつもりではいる。
 著者の水上勉さんは養賢と縁も深かく、在所も近かったので、何故彼が金閣寺に放火したのか、そのことをつきつめ、考えて、20年越しでこの作品となったという。

 養賢は1929年(昭和4年)舞鶴近くの日本海側に突き出た岬にある漁村・成生(現・舞鶴市)で生まれた。父親、道源は26歳で臨済宗東福寺派の正徳寺の住職となった。寺は村の人だけが檀信徒で、経済的には恵まれていなかった。そして道源は結核のためほとんどが寝込んでいた。母親の志満子は他所から嫁いできた。志満子は夫が病弱のため、道源を看病しながら、一人畑を耕していた。 道源は死の直前、金閣寺の村上慈海師に手紙を書き、養賢を金閣寺に入れてくれと頼み、養賢が中学二年の秋死亡した。
 養賢は中学途中で金閣に入り、志満子一人、正徳寺に残った。
 その養賢が何故金閣寺を放火したのか、それがこの本の最大のテーマである。ざっとその理由を書き出してみると、そこいらに見出せそうだと水上さんは言っている。

1.養賢は吃音であった。

2.母親志満子の養賢に対する過剰な期待。

3.当時の金閣寺が有していた複雑な事情

 1に関しては、どもりの人は人とのつきあい方がうまく出来ないところはあるというのは、ある程度肯ける。そのため自分の吃音を気にする余り、内にこもる性格を生むことを考えられる。
 2に関しては、夫である道源が死亡したら、妻である志満子は寺を出なければならない。それが禅宗の寺の嫁の掟であった。しかし正徳寺のある村は寒村で、新しい住職がなかなか見つからないので、そのまま志満子は残った。檀家である村民は志満子の食い扶持を負担しなければならなかったので、その不満があった。
 養賢が金閣寺を放火した後志満子にも取り調べがあったが、そこでは次のように書かれている。

 母の性格は、我儘、癇がつよく、派手好き、勝気、所謂頭痛持ちで、親族も持て余し、林も母は父の性質と反対であったと述べている。また母は村から高慢、多弁、片意地だとして好まれず、後年金閣放火事件の際も『あれの子なら放火くらいしかねないだろう』との悪評があった程である。かかる状態で母にとって経済上の苦労、村の冷遇、僻地の不便な生活、夫の病臥などは耐えがたいものがあり、田舎の生活を嫌い、町で商売でもして気楽にくらしたい、としばしば云った。そして林の将来に望みをかけ、極めて厳格かつ大切に育てると共に、我儘をさせる点があった。母は元来丈夫ではなかったが、父の病勢とは逆に次第に頑健となり肥えてきた。父母の間柄は勿論正確なことは不詳だが、性格の甚だしい相違、父の病臥、生活上の問題などよりして、必ずしも常に充分調和していたとは云えなかった。

 母は村民としばしば悶着をおこし、かつ真偽不明だが素行上に不評があった。さらに母は村民に「養賢が将来金閣寺の住職になる、私はあの子が一人前になるまで会わない」と云っていた。

 「素行上に不評」とは志満子が得体の知れない男を寺に連れ込んでいたという噂である。真偽は確かめられなかったが、女一人生きていくためには、そういうこともあったかもしれない。
 先に書いたように、禅宗の寺の嫁は和尚が死んだら、収入のない寺では、性具として生きたに等しい妻は、次期住職に、着の身着のまま放逐される。林養賢の父が死亡後、正徳寺に残った母志満子が、針のむしろに似た部落の半数の白い眼をうけ、退寺を要求されつづける事情は確かにかなりつらかったであろう。
 養賢が無断で金閣寺から帰って来た時、志満子と口論となるところがある。その時志満子は、「うらが、お父さんの死んでからの寺に、どんな思いでくらしとるか、お前にかてわかっとるやろ。うらは、この世に、お前しか身内がおらん。お前が、中学を出て、僧堂へいってりっぱに修行すまして、金閣さんの住職になってくれる夢があるからこそ、こんないやなとこに辛抱できるねんや。うらがどんな目にあうとるか、お前にはわからん。半左衛門さんや、一瀬さんの、冷たい目ェを見とると死にとうなることがある」と言っていた。
 志満子にとって養賢が金閣寺の住職になることが、唯一の生きるすべだったのである。その分養賢に過剰な期待がかかることとなった。
 このことは志満子の養賢に対しての過度の期待が、養賢の放火で裏切られたとき、投身自殺をしてしまうところに見出せる。
 犯行後養賢に会うため、志満子は当時仮寓していた京都府大江山麓の尾藤部落から、実弟の勝之助に伴われ、西陣署へ面会に行くが、養賢に面会を拒否され、7月3日、失望のあげく帰村する途次、山陰線保津峡駅をすぎた汽車が断崖にさしかかったころ、車輛の連結点から、川に投身したことで死体は岩石にあたって、頭と顔をくだいた即死だった。子の罪を身をもってつぐないたい、と彼女はもらしていたという。
 当時志満子の置かれていた境遇が養賢が将来金閣寺の住職になるということだけが、生きている目的でしかなかったというのも悲しいし、逆にそれが養賢に無言の重圧としてのしかかっていたことも察せられる。
 3に関しては、水上さんは次のように書いている。

 金閣寺という禅寺が、禅僧の信奉する「百丈清規」通り清貧に甘んじ、一所不住で一切所有欲を断ち、自己見性をきわめようとする徒弟道場でありながら、「清規生活」とは逆の、戦後焼け残った宝物を見物に供する観光寺院(金閣寺はそもそもが足利将軍の建てた別荘だった。禅寺ではなかったが)として出発し、拝金主義的環境をつくっているのである。しかもその事業を差配する福司、執事らは在俗人であり、住職はこれらに寺内管理をもまかせて、彼らは、堂々と修行場である庫裡に出入りし、いちいち徒弟の日常生活に口だししていた事実。さらに、その金閣が、戦争、敗戦、占領下の混乱期に、生まれ変わろうとする国の事情とはうらはらに伝統的な権力をもちつづける相国寺一派の財源を受けもったと同時に、住職慈海師が、戦時は中国派遣慰問僧、戦後は本山宗務総長、禅門学院長などの要職を兼務、その間に、南京亡命政府の主席陳公博一行を東山商店一行などと、寺内小僧らをもあざむくよび名で寺内にかくまい、象徴ともいえる金閣舎利殿の鏡湖池に棲む鯉を食膳に供した事実、先住伊藤敬宗師のこれも世間にかくれて妻帯生活、さらに紀伊の別荘経営、これに抵抗して、妻は持たず、ひたすら伽藍経営に懸命になった慈海師の、ふたつの立場をとらえ、従業員らが、先住派、現住職派に分かれてゆく、複雑な人間関係に、自然と組み込まれてゆかざるを得なかった小僧らの日常を考えると、金閣寺での生活が、愉快であったり、楽しかったとはいえまい。

 慈海師にしても、収入の多い金閣を支配しながらも、徒弟教育には禅僧として下地をつくる建前を述べ、実生活はこれと矛盾する拝金主義ともいえる吝嗇家で、食糧、酒、タバコの不自由な時にさえ、自分だけは晩酌を欠かさず、徒弟に給仕させた。それでいてついでにその場で説教するのだから、当然師匠の生き方に絶望しても当然である。
 放火で金閣寺が焼失した後、住職の村上慈海師は新聞記者の面接を拒否していた。ただ7月3日の午後に当時産経新聞京都支局員だった福田定一とだけ隠寮で会見した。福田は後の司馬遼太郎である。
 慈海師が記者会見を拒否していたにもかかわらず、司馬さんに会ったのは、司馬さんが当時社会部記者でなく、宗教担当で以前に慈海師に会っていたことがあって、慈海師がそのことを覚えていてくれ、特別な処置に出てくれたのだろうと司馬さんは言っている。おそらく新聞記者の中で一番先に慈海師に会ったのは自分だったと思うとも言っている。
 司馬さんが小僧に案内され寺に入ったとき、庫裡の板間の壁に掛けてあった黒板に「また焼いたるぞ」と何とも言えぬ字で走り書きしてあったという。それを見た時異常な気分になり、金閣寺には、もう一つ暗いところが口をあけていたような気がしたという。
 司馬さんが感じた金閣寺のもう一つの暗いところとはこれであろう。養賢に、僧侶となる情熱が失せる原因をつきつめてゆけば、やはり金閣寺内での僧侶生活のありようが、望みをうすめていたといえるかもしれない。実際慈海師は弟子に恵まれず、出て行く弟子が多かったことも、弟子が愛想つかしたからであった。水上さんは養賢に金閣放火を決意させたものはこれだったのではないか、と思われている。
 養賢は極度の精神障害と結核が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院したが1956年(昭和31年)3月7日に病死した。水上さんは養賢と母親の志満子の墓を探したが、なかなか見つからなかったことを書いている。父が眠る正徳寺にもないし、勿論金閣寺は除籍されているので、ここにもない。墓は養賢が中学に通った道源の実家の舞鶴市安岡の共同墓地にあった。

評価
★★★


書誌
書名:金閣炎上
著者:水上 勉
ISBN:9784103211136
出版社:新潮社 (1979/07 出版)
版型:313p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年11月05日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈5〉

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 続いて司馬さんの5巻目を読む。まずはへぇ~と思ったことを書く。

 維新前に日本人名前にはナノリというものがあったそうだ。漢字で書くと「名告」、「名乗」と書く。広辞苑のよると、「公家及び武家の男子が、元服後に通称以外に加えた実名。通称籐吉郎に対して秀吉と名乗る類」らしい。坂本直柔(なおなり)は、坂本でだいたい想像がつくが、そう、坂本竜馬の名乗り名である。
 明治になって一人の人間がいくつも名前を持っているのは悪い習慣だということで、一つにせよという太政官令がでた。そこで桂小五郎は、それまで木戸貫治といったり、準一郞と名乗っていたが、それを木戸孝允とした。
 江藤新平は名乗り名として胤雄というのがあったが、自分は「新平」でいいとそれ名で登録した。まわりの者は新平では中間の名のようで、位階のついた大官らしくないといったらしいが、江藤は、なら新平(にいひら)とでも呼んでくれと吐き捨てるように言ったという。江藤らしい。
 西郷隆盛の場合が面白い。西郷ははじめ通称として吉兵衛といい、後に吉之助と改めた。維新後名前を届けなければならない時に、西郷は東京にいなかった。同藩の吉井友実が代理として届けた。その時、「ハテ、西郷の名乗りはどうじゃったか」、「たしか隆の字がつく」、「隆盛じゃった」と思い出しそれを届けた。西郷が東京に戻ってきて、代理で名前を届けてくれたことを礼を言ったが、その後で吉井に「おいは、隆永じゃど」とこぼしたという。もし西郷が東京にいれば西郷隆盛という名は日本史上残らなかったことになる。
 西郷の弟、西郷従道もふるっている。役人が名乗りをどうしましょうと訪ねた時、従道はやはり西郷隆盛同様、隆の字がつく。隆道である。で、「リュウドウじゃ」と言ったのだが、それが薩摩訛りであるために「ジュウドウ」と聞こえたらしい。それで隆道が従道となってしまったという。司馬さんは「この兄弟はそのユーモラスなふんいきで共通している」と言っているのは、確かにそうだ。

 さてこの巻を読んで考えたことがある。儒教的専制国家の問題点とでも言おうか、その悪影響に触れた司馬さんの文章に、今の日本と中国あるいは韓国や北朝鮮の横たわるぎくしゃくした関係が、そこから発しているような気がしたのである。
 それを書く前に断っておきたいことがある。私はこのブログで自分の政治的意見を出来るだけ言わないようにしている。個人的にはあれこれ言いたい部分もあるのだが、それをここであれこれ言うべきものじゃないと考えているからだ。基本的に政治色の強い発言はどこか偏った匂いを感じてしまうからである。その意見はそれを言っている人間が属している社会から意見を言っているわけで、そこは、公平じゃないと考えるからだ。もちろん個人的に何をどう思うと自由なことだし、さっき言ったように私にもそんな意見はある。けれど、それを個人の段階で言うならともかく、こうして不特定多数の人が見る可能性のあるブログに披露することは、どうなんだろう、と思うのだ。たとえ個人的意見と断っても、ここで公開した時点でもうそれは個人的意見ではなくなる可能性があるからだ。私はそこまで自分の意見に責任は持てない。だったら言わない方がいいに決まっている。そういう考えなのだ。(それでも言ってしまうこともたまにはあるが)
 で、そのことを断った上で、今回は私の個人の政治的意見ではない。あくまでも“そう感じる”ということで話を進めたい。以下司馬さんの言っていることから考えたい。

 儒教的専制国家は、中国が卸し元である。漢時代にこの体制がうまれ、宋におよんで大完成し、清朝までつづき、清朝が消滅してもなおその基本的な政治習風は蒋介石中国におよんでなおなお臭気が抜けなかったほど、その体制的体質というのはしぶといものであった。
 儒教というのは生活習慣まで至るもので、そうしないと儒教は完結しない。長幼の序とか、親類とのつきあい方、親類の範囲、結婚の仕方、葬式の出し方、こういうものが儒教であって、「子曰ク」だけが儒教ではない。儒教というのは社会体制そのものであり、生活規範であり、極端にいえば人間を飼い慣らす原理であり、システムである。
 ただ世界中のたいていの民族は絶対的原理を一つ持っていて、その絶対的原理で人間をつくり変えてしまう。そうでなければ人間は猛獣で手に負えない動物だと思っているらしい。中国では儒教でもって人間を飼い慣らしているし、ヨーロッパはキリスト教でそうしている。回教圏もむろんそのことが強烈におこなわれてきた。

 そして儒教体制が確立してからの中国では新しい技術を開発していくという競争がなくなって、古い時代の中国でいろいろなものが発明されたというのは既に伝説的な話になってしまった。
 司馬さんはこうして競争の原理のない儒教的な中国体制というのは人間が考えた政権永続の最良の方法である、と言っているし、これまで二千年間、儒教という原理で社会的存在として人間の猛獣性、つまり無用の競争の毒牙を抜いてきたとも言っている。
 だから競争の原理を内部にもたない当時の中国・朝鮮式体制(これについてはこの後触れる)にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。
 私はここに今の北朝鮮の姿を見るのである。つまりあの一党独裁で、一人の指導者がどうしていつまでも政治的権力有しているのか不思議でしょうがなかった。民衆は日々の食糧に窮しているにもかかわらず、政治批判や反体制が起こらないのは、一つには(あくまでも一つにはである)こうした反体制を持たない(あるいは持たせない)儒教的体質をいまだに残しているからではないのかと思ったのである。
 朝鮮は高麗朝でもそうであったが、李氏朝鮮でも儒教的専制国家の模範生的な国家であった。昔から朝鮮は中国をもって宗主国としていた。これはよくいわれているような属国ではない。属国というのはヨーロッパ的な考え方で、アジアでは中国が中心だと中国人は考えていた。アジアだけでなく全世界の中心だと考えていた。ただそれは地理的に可視範囲がヨーロッパまで及んでいないから、そのあたり一帯、つまり天が覆い地が続くかぎり自分たちの皇帝がその地上の皇帝であると思っていたのである。だから中国人は自分たちの体制が及んでいない所を蛮地とみる。野蛮人はしょうがないと思っている。
 このため朝鮮も、属国ということではなく、中国のそばにある小さな国だし、垣根の国、衛星国だから、長幼の序の礼儀として、蛮国ではなく蕃国として自分を位置づけていた。ただし蛮国、野蛮人ではないということで、一所懸命その中国体制、つまり仁義礼智信を原理としている儒教体制を取り入れて、それそのもので国家体制を作って「東方礼儀の国」と中国人にいってもらい、それをもって自分たちは文明国としてきたのである。こうして「アジア的専制国家」群が生まれたいった。これが中国や朝鮮にあって二十世紀初めまで続き、結局アジア的停滞という弾力性のない民族社会をつくっていったのである。

 ヨーロッパに産業革命が起こり、それがインドをへて帝国主義の形をとり、中国に接近し、その力をもって侵入してくるようになると、中国はこれに対抗できず、踏みにじられるしかなかった。中国人の国家観がヘンテコだったから、ヨーロッパ人たちに、ここは取り得な大地であるという観念を持たせた。ヨーロッパ列強のアジア進出はこうして生まれたのである。
 悲惨な歴史を踏んで、これではまずいと自覚し始め、本当に新しい中国をつくるためには、それまであった中国的なあらゆるものを吹きとばす原理を持ち込まないとダメなんじゃないかと考えた。
 司馬さんが言う「体制としての儒教は悪いものですよ」を蹴っ飛ばすには、別の強烈な原理を持ってこなければならない。しかも短期間で新しい原理でやらなきゃならない。そこでマルクスの原理がいいというので、そのシステムでやってみると悪習がサーッ消えたので、毛沢東もホー・チミンもそれを仕入れてやってきたのだろうと言うのである。それが中国におけるコミュニズムの出現である。中国人民は集団発狂したような勢いでそれを繰り返しやってきた。列強に対抗してきた。それが新しい中国の歴史であった。列強が好き勝手に中国に進出し、ここは取り得な大地であるという観念を持たせないために、新中国になって国境意識が前代未聞なほど厳格になってきたのである。
 私はここでも今の中国が尖閣列島に強い関心を持つのも、こうした歴史的背景があるため、自らの国境意識を厳格にせざるを得なかった所に由来するのではないか、と思ったのである。しかもそこは天然ガスを有するから余計であろう。
 反日デモにしたって、過去の歴史から学んだことであって、それに対抗してきた集団発狂したような勢いが、団結心を生んでいるんじゃないか、と思ったりしたのである。

 では東アジアの一員である日本はどうなのであろう。日本も8世紀のはじめその統治システムの模範を最初中国に求めた。それを推進したのは藤原氏であった(大化の改新)。日本がこの制度導入した理由は、藤原氏が他の土着勢力をつぶし、天皇の帝権を絶対的なものにするためであった。
 しかし藤原氏は権力の機能を分けあった。実際の政権は藤原氏が握ったため、律令制度の基本である帝権の絶対化を藤原氏自身曖昧にしてしまったのである。日本は律令時代といえども、儒教とそれにともなう官僚制度とを、滑稽なほど粗雑さでとり入れただけであった。そういう意味では日本は8世紀初頭にそれをまねたが、早々から落第生であった。
 さらに平安末期になると関東で武家集団が結束し、律令制の一大批判勢力となっていく。この後後醍醐天皇が中国の皇帝のような専制制を確立しようとしたが、結局足利尊氏に倒され、再び日本は二重構造となっていく。
 時代は更に戦国時代から、徳川幕府に進むが、徳川幕府でさえ、明快に二極化している。徳川幕府の権力内容は、譜代と准譜代(外様大名であるが、半与党的存在の大名で、関ヶ原以後家康についた豊臣側の大名のこと)である与党と、たとえば薩摩、長州などの外様の野党の存在を肯定していた。
 何故なら家康は「日本の歴史においてさまざまな政権がさまざまなテストをうけてきたあとに成立しあたために、『どういう権力が日本的現実になかでより自然であるか』ということを知りぬいていた」からだと司馬さんは指摘する。要するに日本の歴史を見ると、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけていて、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することができなかったのである。
 日本史をひもといてみれば、日本はどう考えても競争の原理ででき上がっている。あちこちに極がたくさんある。豪族間の競争とか、細かいところまで行けば、農民は農民で昔から競争している。こんな狭い国で競争の原理で競ってきた。それが外に押し出されたとき、倭寇になり、秀吉の朝鮮出兵になり、日中事変となり、破れかぶれとなると太平洋戦争となる。日本の競争原理がそのままナマで外に出た形である。国内の競争原理のエネルギーのまま、その形で行ったわけである。
 日本は専制国家を生まない体質であり、いつもある競争という意識が、国家システムとして二重構造のシステムが絶えず存在させてきた。明治維新だって、偉かったからではなく、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、あるいは機能とかが、作動していって、徳川幕府の反体制であった薩長があったから明治維新が成立し、その後もうまくいったのである。

 以上が司馬さんの言葉をかなり参考にさせてもらい、今でも歴史の残像がどこかで尾を引いているのではないかと感じた部分を書いた。
 司馬さんは「歴史は百年ではじめて成立する」、「歴史は百年たつとひからびて丁度いい。どうしてもなまがわきでは、歴史にはならない」というところから、このような大局的な考えが出来るんだなと思った次第である。


評価
★★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈5〉エッセイ1970.2~1972.4
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467059
出版社:新潮社 (2002/02/15 出版)
版型:389p / 19cm / B6判
販売価:入手不可