2011年01月20日

森まゆみ著『読書休日』

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 また森さんの古い書評を読む。
 しかし世の中にはホンと知らない本がたくさんあるんだな、と思う。小さな志のある出版社で、いい本、面白そうな本がたくさん出ているのだ。でも私たちが手にする本はそのほとんどが大手出版社の出版物なのだ。何故そうなるかと言えば、それら出版社は資本力にものを言わせて広告を出し、書店の棚の一等地に自分のところ出した本を置かせるからだ。書店にしても、売れるものを主流に店頭に並べるから、そこからもれた本は読者の目にはふれないことなる。結局読者が本を選ぶ前に、店頭に並ぶ出版物はセレクトされちゃっているのだ。
 考えてみるとこれだけたくさんの情報が手に入りやすくなって時代に、名の知れない本がたくさんあって、それがどういう本なのかわからないのだから、不思議な世界だ。

 こういう時、例えば新聞の書評など力を発揮してくれ、埋もれている新刊を掘り出してくれるならありがたいのだが、どうも最近の新聞書評はちっとも面白くない。そもそもそこに紹介されている本を読みたいという気持ちにちっともならないのだ。このことはこの本でも森さんは書かれている。
 実は森さん毎日新聞の書評欄で、コラムを5年、書評委員を2年半、常連執筆者1年、計9年やっておられたという。ここの掲載されている文章の初出はその書評だったのかもしれない。とにかくその関係で“書評”について書かれている文章が興味深かった。
 まずここで「昔は『朝日』の書評に出ると千部は動くといわれたけどね」という話を書いている。これは私も聞いたことがあり、実際本屋で勤めていた頃、よく朝日の書評の切り抜きもって本を探している人を見かけた。日経もいたかな?今はどうなんだろう?書評自体面白くないから、こういう人は少なくなったんじゃないかと思ったりする。とにかく朝日の書評をきちんと読んでおくことは、書店員として必要なことであった。

 「新聞の書評が面白くない、という声をしばしば聞く。つい先頃まで書評を書いていた私自身も、感じないことではなかった。これを読んでみようという気になる本が一冊もないことすらある。なぜなんだろう」

 と書いて、まずは自らの経験から書く側から書評が面白くない点を考える。
 一つには文章量が少なすぎるということをあげる。要するに紙面の問題だ。紙面に制限がある以上一冊の本の書評を書く場合だいたいが、その概要で終わってしまうらしい。
 二つ目に日本の新聞の書評には批判がない、いいことばかり書いているという点を上げる。ただこれにはやむを得ないところがあるという。森さんは新聞で批判をばっさりやってしまうと、「切り捨て御免になってしまう」、と書く。要するにこれだけ巨大なメディアで批判された本の著者には反論の方法がないから、それを考えるとそう簡単に本の批判ができない、というのである。しかしよく考えてみれば、批判というか問題のある著作は最初から書評のリストにあがってこないのだろう。
 三つ目に書評委員は大学教授に多く任されてきたことをあげる。結局書評が「権威あるもの」とするためには、大学教授、著名人を採用するに限るということなのだろう。でもこれもよく考えてみると、どうして書評が「権威あるもの」でなければならないのか、よくわからない。要はその本が面白いかどうかであって、面白いならどこが面白いか、それを読者に感じさせられるかどうかだけではないかと思うのだ。読者は面白い本を読みたいのである。
 内容の知的裏付けとして大学教授、著名人の意見を求めるのは必要だろうけど、それをここでやることで、書評を「権威あるもの」とするのはどうなんだろう?知りたいのは「その本面白いの?面白くないの?」だ。決して権威じゃない。大学教授、著名人で連なる書評委員が持っている専門知識、専門用語を求めている訳じゃない。むしろそうしたものを噛み砕いて書ける人、教えられる人として大学教授、著名人を起用したのだろうと思いたいが、結局出来ずにいて、逆に一種の売名行為に似た、自分の知識をひけらかすことしかできない人選に問題があるのではないか、と思う。そして新聞側もそれが「権威あるもの」として勘違いしているから、書評が面白くなくなっているのだ。

 以上が新聞の書評が面白くない理由を森さんの意見を参考にして考えてみた。私が森さんのエッセイが好きなのは、そこに表れる森さんの意識が「生活を手放さないで生き抜く」がすべての面で感じられるからだ。だからこの本で紹介された本もそうした視点で語られるし、そもそも「谷根千」がそういう発想で創刊された。私が新聞の書評で読みたいという気持ちにさせてくれる本とは、そうした自分の生活に身近にあるものか、あるい自分の好きな分野の本だ。(ただしわかりやすく説明して欲しい)


評価
★★


書誌
書名:読書休日
著者:森 まゆみ
ISBN:9784794961594
出版社:晶文社 (1994/03/05 出版)
版型:281,4p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年01月14日

吉村昭著『白い航跡』〈上〉〈下〉

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 この本は、明治時代海軍内で流行していた脚気の本格的にこの解決に取り組み、東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛という人物の生涯をつづった本である。

 高木兼寛は薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に嘉永2年(1849)9月15日に生まれ、藤四郎と名付けられた。父喜介は大工で、百姓北袈裟一の娘である園を妻にした。腕の良い喜介は、棟梁として豪農の家を建てるなど仕事に追われる身であったので収入には恵まれていた。
 藤四郎は幼い頃より読み書きを覚えたい、とせがむ子で、園は藤四郎が尋常な子供ではないと考え、喜介に相談する。喜介は園の言葉を受け入れ、穆佐にある中村敬助の塾に通わせる。
 そのうち藤四郎は医者になりたいと師の中村敬助に自分の気持ちを伝える。それを聞いた中村はどうせ医者になるならこれからは漢方医より蘭方医なるべきだと考え、藤四郎を薩摩藩蘭方医の石神良策に師事させる。
 その後医者となった藤四郎は慶応3年(1867)の年末に突然藩から医者として従軍することを命ぜられ、あわただしく鹿児島を出立した。そのおり藤四郎を兼寛と名を改め、先祖の姓と伝えられる高木を名乗り、鳥羽・伏見の戦いに参加した。
 ただ戊辰戦争に従軍して、医者として自分の能力の限界を悟らされる。医者でありながら戦傷者の手当もまったく出来ないのだ。それは医者ではないと思うのであった。
 ところがこうした中でも傷ついた兵に適切な治療をし、時には手術も施す人物がいた。関寛斎と佐藤進である。関と佐藤は佐倉順天堂の双璧と謳われた人物であった。兼寛は関や佐藤の治療を見て、自分はまだまだと思うのであった。
 さらに英人ウィリアム・ウィリスという医師の存在も知る。ウィリスは1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年、箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、公使パークス下で医官として働いた。横浜で彰義隊討伐作戦や会津討伐作戦での負傷兵などを治療していた。
 兼寛は重傷の負傷者らを横浜の病院に送っていた経緯もあって、東京に戻ったおり、横浜の病院を訪ねる。病院の頭取はあの石神であった。兼寛は石神がここで手術をしているのか、と尋ねると、石神はここで手術をしているのはイギリス人のウィリアム・ウィリスという医師でその医療技術の高さに驚いていると兼寛に言う。
 鹿児島に帰ってからも、兼寛は関のような負傷者から弾丸を除去し、手足を的確に切断手術して命を救う医者になりたいと思うようになる。師の中村敬助に新しい西洋医術を学びたいことを相談する。中村はそれなら鹿児島に出て開成所入学を進める。
 開成所とは薩摩藩が洋式軍制拡充のために、海・陸諸学科と英・蘭学の教授機関として創立された機関であった。開成所での授業は最初はオランダ語であったが、次第に英語が重視されるようになった。これは時の流れからいって当然の流れであった。ペリーの来航によって日本は開国し、アメリカ、イギリス公使が駐在し、さらに薩英戦争後、薩摩とイギリスとの関係が友好が進みとなおさらであった。
 兼寛はオランダ語の時代は去り、西欧の学術を吸収するためには、これからは英語を身につけないとならぬことを身をもって知るようになる。その上開国によって、オランダ一国のみから導入されていた医学知識は、欧米各国からふんだんに入ってくる知識の前にはたちまち色あせたものとなっていた。オランダ医学は過去のものとなっていることを感じた。そのことを敏感に察した順天堂創設者佐藤泰然は、積極的に西欧の医学知識の吸収につとめ、その門から関寛斎、佐藤進らが輩出していた。
 兼寛は、奥羽戦争に従軍したことを幸せに思うようになった。平潟で関寛斎の治療ぶりを眼にし、ウィリスの医術を感嘆する師の石神の言葉を耳にしたことによって、新しい医学の時代が到来しているのを知ったのだ。
 この時期政府は、やがて総合医科大学を創設し、それに病院を附属させる構想をいだいていたが、その長にウィリスを任命しようと考えていた。ウィリスは高潔な人格者で、新政府要人たちの中には彼の治療を受けた者も多く、戊辰戦争で献身的な治療につとめて多くの負傷者の生命を救った功績は偉大で、それぬ報いるために彼を最高の地位につかせるのが当然だ、という意見が大勢を占めていた。
 新政府内では最も強い発言力を持っていたのは旧薩摩藩出身者であり、彼らによってすべてが動かされていた。しかもイギリスと薩摩藩は親密な関係にあり、今後の日本の医学の主流をイギリス医学にする意向は彼らの意向を反映したものであった。
 このような中、新政府の医学取調御用掛の旧佐賀藩医師相良知安は激しい反対をした。相良は今まで日本では西洋医学といえばオランダ医学であったが、そのオランダ医学はドイツ医学の系統をふんだものであり、さらに日本が今求めているのは基礎医学であり、その分野でドイツ医学は世界最高峰に位置しているので、ドイツ医学を取り入れるべきだと主張するのである。ウィリスを長にしてイギリス医学を日本医学に取り入れる手続きに不備があり、そこを相良はついた。結局ドイツ医学採用となる。こうなると今度はウィリスの処遇が問題となってしまう。大久保利通などはウィリスを鹿児島に招くこととした。
 鹿児島で医学院が開設され、ウィリスが講師となるという噂を聞いた兼寛は、ウィリスを案内してきた石神にウィリスに教えを乞えるように頼み込む。それ以後兼寛はウィリスにイギリス医学の教えを聞いた。
 そのうち石神が新政府の要請で東京に行き、次に兼寛も石神の要請で、海軍に入る。兼寛は教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校に留学する。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得した。
 留学中に母の死を知る。父は兼寛が東京にいる時にすでに死亡していて、このときも父を看取れなかった。兼寛が医学の道に進みたいという希望を受け入れてた両親たち。そのため家業を継がず、親を振り切りるように故郷を離れたことを思い出すと、親孝行も出来なかったことに兼寛は涙に暮れるのであった。さらに長女の死亡の知らせも受け取り、義父の死に接していた。
 明治13年(1880年)に兼寛は帰国した。上巻はここで終わる。

 留学を終えて帰国し海軍病院長に就任した兼寛は、病院内に、留学前にもまして脚気の患者が多くなっているのに呆然とする。維新以来、政府は、海軍の近代化を目指しその充実に努めてきた。ところが乗組員に脚気の患者が多くなってくると、戦闘どころの話でなくって来る。政府もこの状況を問題視し、脚気の原因を追求してきたが、その原因がわからずにいた。兼寛は調査を始めると、そこには驚くべき数字が見られた。
 明治11年、海軍の総兵員数は4,528名中、脚気患者は1,485名で、それは総員の32.79%に当たる。死亡者は32名。明治12年、総兵員数5,081名中、脚気患者1,978名。明治13年、総兵員数4,956名中、脚気患者1,725名。明治14年、総兵員数4,641名中、脚気患者1,163名。11年から14年までの4年間で死亡者は146名に達していた。さらに彼はさかのぼって明治10年罹病状態を調査すると愕然とする。海軍の総兵員数1,552名中、年間で脚気におかされた者は延6,344名となり、それは同じ者が1年で4回以上も脚気にかかっていることを示すのであった。
 さらに幕末勝海舟らがアメリカに渡った咸臨丸以来、アメリカ訪問が軍艦「筑波」で行われた。その7ヶ月の航海で乗組員146名中47名が脚気となった。ただこの航海でわかったことがある。「筑波」がサンフランシスコやシドニーに碇泊している時は脚気患者は出なかったのである。そこで兼寛はそれは乗組員が洋食を口にしたからではないか、と考え、脚気と食事の関係を疑い始める。
 海軍病院に脚気で入院しているのは士官ではなく水兵が多いことに注目する。当時海軍では食事代を現金で渡していた。水兵たちは米だけを買い込み、余ったお金で副食でも買えばいいのだが、その分を貯蓄に回している者が多数であった。水兵には貧しい家の出が多かったので、故郷に節約したお金を送金していた者もいた。兼寛は脚気が食事と関係があることを確信する。
 そんな中、日清戦争前に「京城事件」起こる。中国が軍艦を派遣したことで、日本も軍艦を派遣する。そこで怖ろしいことが起こっていた。日本の五隻の軍艦内で多数の脚気患者が発生していたのである。もしこのとき清国と戦闘が起こっていれば、乗組員大半が脚気に罹病していては戦力として力がない。全滅する可能性が大きかったのである。
 兼寛は西欧で脚気はほとんど見られないので、食事を洋食にすべきだ、と軍部に提言する。それは兼寛の実験でも証明されていた。白米ではなくパン食にしろと言うのである。しかし予算の関係でそれは難しい。
 兼寛は海軍幹部だけではなく、政府の要職にある人物たちに自説を述べる。時には天皇にさえ、脚気は洋食で防げることを訴えた。結局パンがダメなら、パンが麦であるので、白米に麦食を混ぜることにする。これによって海軍では脚気患者激減した。そして兼寛は明治18年(1885)に自説を『大日本私立衛生会雑誌』に発表する。
 しかし兼寛の脚気の食物原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。
 ここに森鴎外が登場する。鴎外は兼寛の説に真っ向から反論する。鴎外はドイツ留学中コッホのような偉大な細菌学者に師事したため、脚気は細菌によるものだと主張する。鴎外はドイツ医学の信奉者であっただけに、兼寛の脚気食物原因説は学問的裏付けのない単なる思いつきだと決めつけたのである。鴎外には最新のドイツ医学を身につけてきたという自負がある。そのためイギリス医学を軽視する傾向があった。
 兼寛も自説が学問的な理論に乏しいことは自覚していた。しかし臨床医学を重んじるイギリス医学を身につけた兼寛とって、それはさしたる重要な問題ではなかった。兼寛も様々な統計を取り、あれこれ模索し実験した結果、麦混合の飯を主食とするのが最も好ましいという結論に達したいたからである。
 しかし鴎外の兼寛批判はしつこかった。もうこの時は日本医学界はドイツ医学を取り入れていたので、イギリス医学の兼寛の説は東京大学医学部出身の者から次々に批判され、黙殺された。
 しかし日清戦争では海軍では脚気患者が皆無に近かったのに、陸軍では四千名近い死者を出していたし、日露戦争に至っては、陸軍の傷病者352,700余名の内、脚気患者が実に211,600余名に達していた。そして傷病者の内死亡したのは37,000余名であったが、脚気で死んだ者は27,800余名だった。これは陸軍が兼寛の説を否定して、白米こそ優秀な兵食だと、そのまま白米を主食としていたからであった。さすがの鴎外もこの数字を知ったとき、その顔から血の色がひいた。世論も陸軍の白米至上主義を批判し始めた。
 そして大正14年4月の臨時脚気病調査会は最終報告会を開き、その席で脚気の原因はビタミンB欠乏によるものだと結論を下した。これによって陸軍医総監森林太郎をはじめ主流となったいた細菌原因説は完全に崩れ去ったのである。

 以上が兼寛が軍部に蔓延していた脚気に取り組んだ経緯である。一方兼寛は医学教育、看護教育にも力を注ぐ。兼寛は留学中西欧諸国では貧しい病人に対する無料の医療行為が行われていることに強い感銘を受けていた。また看護婦が病院内できびきび病人の世話をしていることにも感銘を受けていた。しかも看護婦たちは、医学の知識も持っており、彼女たちが医師にとってなくてはならぬ協力者であり、そのため尊重されていることも知った。
 帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵らと共に、臨床第一のイギリス医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。その後成医会講習所は明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。
 さらに明治15年(1882年)には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立する。院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。
 看護婦の養成では、陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立した。
 成医学校、有志共立東京病院(後に東京慈恵医院と改称)、有志共立東京病院看護婦教育所は後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

 私は高木兼寛という人物の存在は、吉村さんの『日本医家伝』で知ったのだが、まず明治の日本軍内にこれほど脚気が蔓延していたのは驚いた。日清・日露戦争で勝利によって新しい軍事力の華々しさばかり教わってきた。このように内部が脚気によってこんな深刻な状態になっているとは、教えてもらっていなかった。日本の軍が脚気によって崩壊しかねない状態だったことは、ホンと驚きであった。
 そして高木兼寛が東京慈恵会医科大学の創立者であっんだと感慨深かった。というのも私が大学時代新橋の本屋でアルバイトしていたとき、東京慈恵会医科大学附属病院の看護婦さんのところへ本を配達したことがあって、今はどうなのか知らないが、当時古めかしく、複雑な病院内を探し回った覚えがあるからだ。だから高木兼寛という人物が身近に感じたのである。
 あともう一つ気にかかることがある。明治天皇の崩御が高木兼寛を悄然させ、廃人みたいなってしまうことである。以前から私は乃木希典の殉死が今ひとつしっくり来ない部分があって、どうして天皇が死んだから、自分たちもその後を追わなければならないのか、正直なところ、感覚としてよくわからずいた。でも高木兼寛が明治天皇の死に接し、廃人みたいになり、その後人が変わったように各地に講演に出かけるのを読むと、天皇の死が支え棒を失ったかのようだったのかもしれない。
 高木兼寛とって、日本医学界で黙殺されても、明治天皇だけは高木兼寛の説に耳を傾けてくれていた。明治天皇だけは純粋に自分の功績を認め医学者として兼寛を高く評価してくれていた、と思っていた。それは学界で黙殺されていたから余計であり、一人の理解者がいた、それも日本の最高権力者が理解してくれていた。それがあったからこそ、反論や侮蔑に耐えられたのであった。その天皇が亡くなったことは、自分がまったく孤独になったと感じるのであろう。そして乃木の自殺を知って、自分以外にも明治天皇の死に大きな衝撃を受けた者がいたことを知った。乃木の気持ちが十分理解出来るのであった。
 明治という国家が明治天皇を中心に、修羅場をくぐり抜け、多くの死者を出し、数々の困難を乗り切ってきた。共に作り上げてきた自負があったからこそ、天皇の死は大きな衝撃であったのだろう。乃木も高木も明治天皇は心の支えだったことをちょっと感じた。


評価
★★★


書誌
書名:白い航跡〈上〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765411
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)


書誌
書名:白い航跡〈下〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765428
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:316p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)

2011年01月10日

東野圭吾著『赤い指』

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 さてこの本で加賀恭一郎シリーズは、最新刊の『新参者』を以前に読んでいるから、これで全部読んだことになる。そしてこの『赤い指』は先日テレビで正月スペシャルとして単独で放映された。「新参者」が人気があったからだろう。。私は俳優の阿部寛さんは加賀恭一郎役にぴったりだと思っている。だからまた放映されたのはちょっと嬉しかった。

 さてテレビで先に見てしまったので、話の内容はもうわかってしまっているので、あとは原作と比べてみることを楽しんだ。読んでみてほぼ原作忠実にドラマ化されていた。ただ黒木メイサ演じる記者、青山亜美も原作にはないキャラクターで、『新参者』では新聞社を辞めてタウン誌の編集者になっていた。別にこの女、原作通りいなくてもいいと思うのだけれど、まぁ華を添える意味でいると思えばいいのかもしれない。ただ前作『新参者』のとき加賀からもらっている安っぽいボールペンがどういうものなのか、話としてちゃんとつながっている。ドラマは「新参者」より2年前に起こった事件として始まっていた。

 で、話はまず加賀恭一郎の父、隆正ががんで入院しているところから始まる。松宮脩平は母と自分を援助してくれた叔父を見舞うところから始まる。隆正はもうガンが進行していて助からない状態であったが、恭一郎は父親がそういう状況なのに一向に見舞いに来ない。この話は松宮脩平と加賀恭一郎の関係と恭一郎の家族関係も明らかにされていく。

 そんな中事件が発生する。
 前原昭夫は家に帰りたくないために、残業をしているとき、妻から急いで帰ってきて欲しい、という電話をもらう。慌てて家に帰ると死んでいる女の子が庭にいることを伝えられる。殺したのは一人息子の直己であった。
 昭夫の家庭はほとんど崩壊寸前であった。妻八重子は直己を溺愛していたが、その直己はいじめから引きこもりとなり、家では暴力的になっていた。また昭夫の母も同居していたが八重子は以前から昭夫の母を疎ましく思っていたので、その母親は認知症になってから、さらにその関係は悪化した。こんな家庭であるから昭夫は家に帰りたくなく、しなくてもいい残業をしていたのであった。
 昭夫は八重子から女の子を殺したのは直己であることを聞いて、最初警察に電話しようとするが、八重子がそれを拒む。昭夫は今まで家庭を顧みないことをなじられ、それを認めざるを得なくなる。八重子に「捨てて来て」と言われ、結局偽装工作をする。
 女の子の死体を庭に置いておくわけにもいかない。どこかに移動する必要性がある。そこで女の子の死体を段ボールに詰め込んで近くの公園のトイレに遺棄する。女の子が公園で変質者に殺されたように見せかける。そして女の子は朝早く発見され、加賀たちの捜査が始まる。
 女の子の死体には芝がついていた。昭夫の庭のものである。昭夫も死体を遺棄する時、その芝に気がつき、出来るだけ取り除いたのだが、気持ちがそこから早く逃げ出したいという状態だったので、完全に取り切れなかったのだ。
 加賀たちは公園の近くにある芝が植えられている家々を当たる。さらに前日雨でトイレの前がぬかるんでおり、そこに足で何かを消した跡が残っていた。加賀はそれが自転車のタイヤ痕であることを見抜く。
 犯人は二人以上だと加賀は考えた。それは女の子履いていた靴のひもの結び方が異なるので、これは違う人間が片足ずつ靴を履かせひもを結んだのではないかと考える。さらに本当はもっと遠くの人影の少ない場所に女の子の死体を遺棄したかったのだが、車でもあればそれも出来ただろうが、それが出来なかったのではないか。つまり車を持っていない家庭の人間が、死体の始末に困って、慌てて自転車に積んでここに遺棄したと考える。前原昭夫は車を持っていない。死体を運ぶのにちょうどいい自転車があった。しかも庭には芝が植えられている。
 ここから加賀は昭夫を揺さぶりかける。もともと昭夫は警察をだましきれるとは思ってもいなかったが、息子の直己を守るためには嘘を通し続けなければならない。しかし何度も加賀の訪問を受け、もうこれ以上今までの嘘はつけないと考え、女の子を殺したのは認知症の自分の母親だと加賀たちに伝える。
 加賀はその嘘も見抜いていた。昭夫に母親が厳しい拘置所に入ること。母親に手錠をかけるなどしようとする。母親を連行するとき杖を持たせたが、その杖には昭夫が子供の頃作った母親のための手彫りのネームプレートを見て、もうこれ以上嘘はつけなくなり、涙ながら告白する。女の子を殺したのは自分の息子直己だと。
 加賀は昭夫が本当のことをまだ知っていないと言う。昭夫の母親の指が妻の口紅でを真っ赤に染まってした。それは女の子が殺される前からそのままの状態であった。もし母親が殺害したなら、女の子首に口紅跡が残っていなければならないが、その跡がない。母親は息子の昭夫夫婦が直己の犯行を偽装することを聞いていた。昭夫も認知症の母親の前で何を言っても理解できないと思っていたのだ。しかし母親は直己が女の子を殺したこと、息子夫婦がそれを偽装したこと、それが理解できた。そう、母親は認知症を装っていたのであった。そして自分は犯人ではないと加賀たちにわからせるために、指に口紅をつけていたのだ。
 ただこれよく考えてみると、いつ指に口紅をつけたかである。もし母親が自分の犯行じゃないと主張するためにそうしたというなら、女の子が殺される前でなければならない。直己が女の子を殺すことがわかっていたのか、という疑問が出てくる。これがどうしても気にかかるが、きっとちゃんと書かれていたのだろう。私が読み込みが足らないのかもしれない。
 犯人が直己であることがわかり、直己を連行しようした時、「なんでだよ。警察には行かなくていいっていったじゃねえか」、「てめいらのせいだろう。てめいらのせいだからな」と喚いている。加賀は直己の襟首つかんで直己を床に振り落とす。「松宮刑事、この馬鹿餓鬼を連行してくれ」と。

 加賀隆正の死が近づいてきた。事件が解決し松宮脩平は慌てて病院に駆けつける。しかし恭一郎は来ない。しかし窓の外を見ると恭一郎が病室を見上げている姿を見つける。脩平は慌てて恭一郎呼びに行こうと思ったが隆正の息はまさに途絶えようとしていた。その後外にいる恭一郎のところへ行く。加賀は「脩平君が病院を出てきたということは・・・・・すべて終わったっていうことかな」言い、脩平が頷くと病室に入った。恭一郎が父親を見舞いに来なかったのは、父親の言いつけを守っていたからであった。隆正の妻は家出をしており、一人淋しく死んだ。妻をそうして死なせてしまった自分もそうでなければならないと恭一郎に言っていたのであった。
 ベッドの上では将棋盤があり、対戦相手は看護士の金森登紀子だと脩平は思っていたが、登紀子は隆正の打った手をメールで恭一郎に知らせ、次の手を登紀子に教え、将棋を打っていたのであった。登紀子は隆正の対戦相手が恭一郎だと知っていたはずだと言った。隆正は桂馬を握っており、恭一郎はそれを将棋盤の上に置き、「見事に詰みだ。親父の勝ちだよ。よかったな」と言って話は終わる。これはテレビでも原作でもかっこいいなぁと感じた。

 これで加賀恭一郎シリーズを全部読み終えたことになるのだが、テレビドラマ終了後、このシリーズの新刊が3月に『麒麟の翼』というのが出るという予告があった。今度はどんな加賀恭一郎を見せてくれるのだろう。
 なお、このシリーズの感想等々では、ほとんど内容を暴露しちゃっている。本当は最初に「ネタバレ注意」とでも書くのが常識なのだろが、面倒になっちゃって一切書かなかった。その点はお詫びしないといけない。でも、話の内容を知っていても、このシリーズは楽しめると思う。


評価
★★★


書誌
書名:赤い指
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062764445
出版社:講談社 (2009/08/12 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2011年01月07日

東野圭吾著『嘘をもうひとつだけ』

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 今回は加賀恭一郎を主人公とする短編集である。「嘘をもうひとつだけ」、「冷たい灼熱」、「第二の希望」、「狂った計算」、「友の助言」の5編である。
 私は東野さんの本を読んでいる方なのか、どうかわからないが、こうしたシリーズもので、同じ主人公とする短編集はガリレオしか読んでいない。だからそれと比べるしかないのだが、少なくともガリレオよりはこちらの短編集の方が面白かったと思う。だいたいガリレオの短編は枚数の制限があるからか、どうもトリックが非現実的で、今ひとつ納得できない部分があった。たぶん以前同じことを書いているはずだ。

 「嘘をもうひとつだけ」は、バレエ団の事務員、早川弘子が自宅のマンションから転落死した事件を加賀恭一郎が、それが事故でなく殺人であることを証明する。犯人は同じマンションに住む元バレリーナの寺西美千代であった。弘子は美千代を脅していた。
 問題は女の非力で弘子を突き落とすことが出来るかどうかである。弘子は独立してバレエ教室を開くため、自らも踊れるようにバルコニーでバレーレッスンをしていた。バルコニーの手すりを利用して練習していたのだ。ただその手すりは普通の稽古場より高めにあった。だから弘子はプランターを伏せてそれを台にしていた。
 練習の最後には片足を手すりに乗せてストレッチをする。つまり弘子は不安定な状態でバルコニーにいたことになり、美千代でも簡単に突き落とすことが出来た。美千代は犯行後そのプランターを元に戻した。当然そこには美千代がしていた手袋の痕跡があっていい。ところが美千代は弘子の引っ越しを手伝った時にそのプランターに触れたと主張する。
 しかし加賀が調べたところそのプランターは弘子の死の直前に買われたものとわかり、引っ越し時にはなかったことが判明する。美千代嘘がばれた。

 「冷たい灼熱」では、田沼洋次家に強盗が入り、妻の美枝子が殺されていた。部屋は荒らされていた。しかも一人息子の裕太がいない。誘拐されたかもしれなかった。
 しかし加賀は部屋の荒らされ方が不自然であること、洋次の言動にも不自然さを感じていた。結局美枝子がたぶんパチンコに通っており、裕太を車に置き去りにしていた。そして裕太は熱中症で車内で死亡した。美枝子その事実の発覚を恐れ、裕太をブレーカーの落ちた部屋で寝かせてしまったことで死亡したと洋次に嘘をついた。洋次は美枝子がパチンコに夢中になっていることを知っていたので、それが嘘であることを知っていた。そして美枝子を殺害した。息子の裕太は洋次が隠したのであった。

 「第二の希望」でも部屋を荒らされていた上に大男がベッドで首を絞められて死んでいた。男はこの部屋の楠木真智子の愛人であった。真智子は離婚しており、娘の理砂と二人で暮らしていた。理砂はオリンピックを目指すほどに器械体操に打ち込んでいた。いや母子でオリンピックを目指していた。
 ここでも加賀は現状に不審を持ち、男を殺したのはこの母子であろうと踏んでいた。結局娘の理砂が部屋にあったひもを使って殺したのであった。

 「狂った計算」は建築士が行方不明になり、建築士と不倫関係にある坂上奈央子に疑惑の目が注がれる。奈央子には横暴な夫がいて、それに耐えきれず、毎月家のメンテナンスにくる建築士の中瀬と関係を持つようになる。そして奈央子の夫を二人して殺そうと計画する。
 奈央子が実家の静岡に帰るとき、まず中瀬が薬で眠り込んだ夫を殺し、その後中瀬が夫に変装して奈央子を駅に送っていく姿を友人に目撃させる。つまり奈央子が駅に着くまでは夫は生きていたと偽装する予定であった。ところが夫は奈央子の不倫に気がついており、中瀬が逆に殺されてしまう。実際に奈央子を駅まで送ったのは実の夫であった。
 そこにトラックが突っ込んできて、夫の遺体は顔の判別が出来ないほどになっていた。そのため加賀はそれが夫ではなく中瀬ではないかと疑うほどであった。この事故はまさしく奈央子にとって“狂った計算”であった。

 「友の助言」は加賀の友人が居眠り運転で事故を起こした。友人は事故の前に加賀に会う予定であった。そしてその友人は決して居眠り運転をする男ではないことを加賀は知っていた。そこで加賀は友人が睡眠薬を飲まされたのではないかと疑い始める。さらに友人が加賀に面会を求めたのも睡眠薬を盛った妻に関する相談だとわかってくる。友人は加賀に助言を求めようと車に乗っていた時事故を起こしたのであった。

 いずれも短編という少ない枚数のため、犯人はすぐわかってしまうのだが、それはそれとして何故犯行が行われたのか、その動機は、その殺害方法は、と追求する加賀の捜査はここでも鋭く描かれる。そのため短編にある消化不良はなかった。


評価
★★★


書誌
書名:嘘をもうひとつだけ
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062736695
出版社:講談社 (2003/02/15 出版)講談社文庫
版型:269p / 15cm / A6判
販売価:519円(税込)

東野圭吾著『私が彼を殺した』

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 殺人事件は次のように起こった。脚本家で作家でもある穂高誠が、詩人の神林美和子との結婚式当日に毒殺された。穂高誠と神林美和子の関係者として、穂高のマネージャー駿河直之、女性編集者の雪笹香織、そして美和子の兄、神林貴弘の3人が登場する。問題はこの3人は穂高にそれぞれ殺意を持っていたことであった。
 マネージャーの駿河は以前勤めていた会社で横領事件を起こし、穂高に穴をあけたお金を出してもらった上で、穂高企画のマネージャーとなった。ところが結局穂高にいいように使われ、いつも穂高の尻ぬぐいさせられていた。さらに穂高は駿河が好意を寄せていた浪岡準子を自分の女にした上で、挙げ句の果てに堕胎させて捨てた。駿河にとってそれは当然許せないことだった。
 雪笹香織は神林美和子を発掘し、美和子の著作にすべて関わっていた。穂高と引き合わせたのは香織であったが、穂高との結婚で美和子との仕事上の関係が失われること恐れた。さらに香織は以前穂高と関係を持っていた上に、結局捨てられたのであった。香織にも穂高を殺す動機があったのだ。
 神林貴弘にも穂高を殺害する動機があった。それは美和子と近親相姦の関係となっており、今度の結婚で美和子を失ってしまう。だから美和子を奪った穂高を許せなかった。

 穂高の結婚式の前に、駿河が好意を寄せていた浪岡準子が、自分を捨てて美和子と結婚する穂高を恨んで服毒自殺を図った。穂高の死因も同じ薬によるものであった。つまり浪岡準子は自らが勤める動物病院から盗んだ毒で自殺を図り、その薬が鼻炎の持病を持つ穂高がいつも飲む薬にすり替えられていたのであった。誰が浪岡準子の毒入りカプセルを盗んだのか。そして誰が穂高の薬とすり替えたが焦点となってくる。
 まずは3人がどうやって毒入りカプセルを入手したかをである。その経路は明らかにされている。まず駿河である。穂高は浪岡準子が穂高の庭で服毒自殺したままにしておくのはまずいと思い、駿河と一緒に死体を彼女のマンションに運び出した。このとき準子の部屋にあったテーブルの上にあった鼻炎の薬の瓶と、毒を仕込むの失敗した思われる分解したカプセルが一錠あった。駿河は準子の部屋を出る時その瓶からカプセルを盗んだ。
 穂高と駿河が浪岡準子の死体を運ぶ光景を目撃している人物がいた。雪笹香織であった。香織もその瓶から1錠カプセルを盗んでいる。
 さて、話が長くなるので単純に薬の行方だけを考えたい。元々この鼻炎の薬の瓶は12錠入りであった。うち1錠が分解されたカプセルとしてある。そして浪岡準子が1錠飲んで服毒自殺図った。残り10錠である。さらに雪笹香織が1錠盗んでいる。ここで9錠となる。加賀はカプセルが6錠部屋に残っていたと言う。ということは、3錠合わない。駿河はカプセルを1錠盗んだといっている。残り2錠はどこへ行ったのか。
 ここで穂高の結婚式前に新しい鼻炎薬を開け、ピルケースにそれを入れようとしたとき、そのケースに薬が2錠入っていた。美和子が薬を飲むのは良くないというアドバイスを受け、穂高はカプセルを捨てていた。これが残りの2錠であった。そしてカプセルをゴミ箱に捨てる穂高を見ていた人物がいる。それは神林貴弘であった。貴弘はそれを拾い、効果を確かめるために猫に1錠飲ませる。残り1錠が貴弘の手元にあった。
 ところが神林貴弘に脅迫状とカプセルが1錠送られていた。脅迫状には妹の美和子との関係をばらされたくなかったら、穂高の薬をすり替えろというものであった。この時点で神林貴弘はカプセルを2錠持っていることとなる。
 しかし加賀は準子の部屋にあったカプセルは6錠といっていたが、瓶の中身を言っていたわけではない。あくまでも“部屋に”である。要するに分解されたカプセルを含めて6錠といっているのである。ということは、瓶の中身は5錠しかなかったことになる。12錠入りのうち、5錠が残っており、後の7錠がどこに行ったかを再度考証してみる。1錠は解体されて残され、2錠は浪岡準子が先に穂高のピルケースに仕込んだ。そして1錠を浪岡準子が飲んで服毒自殺を図る。残り3錠となる。しかし雪笹香織と駿河直之は1錠ずつしか盗んでいないという。ということは1錠が行方不明となるわけだ。
 ここで問題となるのが、ピルケースである。加賀はこのピルケースに関係者以外の身元不明指紋が残っていたことがわかっている。ここで加賀は「犯人はあなたです」と言ってこの話は終わる。
 そうこの小説は前の『どちらかが彼女を殺した』と同じである、“読者に挑戦”というスタイルをとっている。つまり話の中で犯人を明らかにせず、読者に考えさせるのである。
 ピルケースに残っていた身元不明の指紋は穂高の前妻のものであった。そして穂高は美和子と結婚するにあたり、前妻の持ち物をすべて使いっぱの駿河の部屋に移していた。従ってその荷物の中にペアのピルケースがあり、それを取り出すことが出来たのは駿河だけであった。そこに行方不明の毒入りカプセルを1錠仕込んだのであった。従って穂高を殺した犯人は駿河となる。

 以上であるが、どうもすっきりしない。“読者に挑戦”といっても、最後にピルケースが前妻のものだと明らかにするので、フェアーじゃない。本当に駿河以外の雪笹香織と神林貴弘に可能性はなかったのか?美和子の証言を信用すれば神林貴弘にはピルケースに近づくチャンスはなかったというが、それ以前に出来なくもない。なぜなら彼は毒入りカプセルを2錠持っていたのだから。そして雪笹香織も1錠しか盗んでいないということを信用して話は進むが、彼女がもう1錠盗むことも可能であったはずだ。ただそれは薬の数だけの話で、動かしがたい事実がピルケースに残っていた指紋ということであれば、正直なところこんなに詳しく薬の数にこだわって各必要もないのだけれど・・・・。
 

評価
★★


書誌
書名:私が彼を殺した
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062733854
出版社:講談社 (2002/03/15 出版) 講談社文庫
版型:431p / 15cm / A6判
販売価:729円(税込)

2011年01月05日

東野圭吾著『悪意』

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 昨年の流れで、東野圭吾さんの加賀恭一郎シリーズを読んでいる。本当は違う本を読もうと思っていたのだ、どうも正月はだらだらしているためか、精神的緊張感も希薄になっているのだろう。この手のミステリーしか今のところ受け付けない。

 あっ、挨拶を忘れていました。改めて、

 新年あけましておめでとうございます。

 本年もどうぞよろしくお願いします。

 さて今回の話である。作家日高邦彦が殺害された。彼の幼友達である童話作家の野々口修が、電話で話があるからと日高から呼び出されるが、どうも家の様子がおかしい。そのため日高の妻日高理恵を呼び出し、中に入る。そこには鈍器に殴られた後、電器コードで首を絞められた日高邦彦の死体があった。加賀はその捜査に当たる。野々口は加賀刑事なる前教師であったが、野々口は同じ中学校の教師であった。
 野々口は自分が作家であることから、この貴重な体験を克明に記録していく。この本は野々口の手記と加賀の捜査の記録が交互に書かれるスタイルを取る。そして簡単に日高邦彦を殺害した犯人が野々口であることがわかってしまう。
 逮捕された野々口は犯行を簡単に認めるが、その動機がわからない。日高を殺すにあったってのトリックは加賀によって簡単に見破られ、その後の犯行隠蔽工作も野々口が書いた手記に齟齬あるため、問題点を明らかにされ、野々口の犯行は確定しはじめる。しかしどうしても動機がはっきりしないのだ。野々口も殺害は認めても動機を語らない。
 そのうち野々口の仕事部屋から、日高の作品と類似する原稿が見つかる。野々口は日高のゴーストライターではなかったのか、という疑惑が浮かぶ。しかも日高の交通事故で亡くなった前妻初美と不倫していたことも判明する。野々口が日高を殺したのは、自分の作品を元にして日高が自分の作品として発表し文学賞を受賞したことに対する復讐と、前妻初美との不倫をネタに邦彦から自らがゴーストライターを強いられてしまったことで、発作的殺人と思われていく。
 野々口が書いた手記にはとにかく日高の性格が残虐で、自らをおとしめる人間としか書かれていない。それはその手記の最初に日高が家に入り込む猫に毒だんごを作って殺したと手記に書く。そうすることで日高が残虐なんだという先入観を読む者に与える。
 ただ加賀は何かがしっくり来ない。野々口の書いた手記から、野々口自らが捜査の方向をそのように持って行ったきらいがある。もっと深い殺害動機が野々口にはあるのではないか。それを探っていく。
 加賀は捜査を野々口と日高の中学時代まで捜査を広げていく。日高が本格的作家デビューとなった花火師の人生を描いた『燃えない炎』という作品もやはり、それは日高が子供の頃近所にいた花火師をモデルにしている。しかしそれは野々口が書いたものとされる。ということは花火師の仕事場に遊びに来ていた子供は当然日高でなく野々口でなければならいが、その花火師の証言で野々口でないことがわかる。
 さらに野々口は中学時代いじめにあっていたが、いつの間にか野々口はいじめる側に回っていたことがわかってくる。そのいじめのリーダー格に脅かされるのが怖くて、金を貢いだり、腰巾着になっていたのであった。一方日高は少年時代すばらしい少年であり、いじめにあった野々口を助けたりしたりしており、野々口にあっては日高は恩人でもあったことがわかってくる。
 
 日高の小説で、ある版画家の生涯を描いた『禁猟地』というのがある。この版画家のモデルが野々口が中学時代いじめにあっていたそのリーダー格藤尾正哉であった。そこには藤尾が少女を暴行したことが書かれており、遺族から名誉毀損で、『禁猟地』の書き換えを求められて、裁判となっていた。その少女を腕を押さえつけていたのが、野々口であり、その証拠の写真を日高が入手していた。裁判が長引けば、その写真が公にされかねない。これが日高殺害の動機であったが、どうせなら日高を殺害するなら、日高の人間性を貶める方法を考えた。日高殺害の嘘の動機が公表された時、日高の人間性が地に落ちる形を取りつつ、世間の同情が野々口に集まるようにしたかったのであった。そうした悪意が日高殺害を推し進めたのであった。要するに野々口にとって、日高の殺害より、日高を貶めるという動機が先にあったのであったのであった。
 結局日高の作品は野々口が書いたものではなく、野々口が自分がゴーストライターのように見せかけただけであり、日高の前妻初美も事故ではなく、自殺であったのだ。
 野々口の手記には加賀が近づいてくる足音がいつも聞こえてきたと書かれている。加賀はいつもこの手法で、じわりじわり真実に近づき、犯人に恐怖に貶める。これがこのシリーズの魅力であるが、今回は十分発揮されているように思えた。幾重にも仕掛けられた罠と心理トリックの駆け引きは読み応えがあった。


評価
★★★


書誌
書名:悪意
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062730174
出版社:講談社 (2001/01 出版)講談社文庫
版型:365p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)