2011年03月30日

ちょっと休憩します。

 “あっ、地震だ”と思って、いつものように楽観していたところ、予想外の揺れに驚く。“これはやばい”と初めて思った。2011年3月11日、国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録する地震で、後で「東日本大震災」と名付けられた。地震と津波で多くの被災者を出し、死亡者は今の時点で1万人を超えた。福島原発は爆発を起こし、放射性物質を今だ出し続けている。

 原発が暴走し、それを止めようと電力会社の社員が頑張っているのに、この国の首相は「逃げたら、つぶれる」と脅かし、消防が原発を冷やそうと、身の危険も顧みず放水を続けているのに、「言うことを聞かなければ処分する」と恫喝する大臣まで出てくる。統制が脅かしや恫喝でしか出来ない内閣であることを改めて知らされる。
 パフォーマンス大好きな党が与党となっているもんだから、その党首である首相が地震の翌日、行っても何も出来もしないのに、ヘリコプターで視察に行き、非難され、以降身動きが出来なくなる。そう言えば最近首相はテレビに映らなくなった。

 それでもパフォーマンス大好き癖は治まらないようで、この地震で既存の堤防が意味をなさないほどの津波におそわれ、原発が壊れ、電力不足となり、節電が訴えられ、節電啓発担当相という大臣職まで作られる。が、この大臣、もとマルチタレント。口先だけは達者だから、役人をその口先で翻弄し、東京の防災用の堤防を無駄だ、といって切り捨てた人物。どのツラさげて節電を訴えるのか?

 その大臣にみんなが節電しているのに、東京ドームでのナイターはけしからんと言われ、すごすごと帰るコミッショナー。聞くところによるとこのコミッショナー、巨人の言いなりの人だとか。巨人はドームでの収入がまったくなくなってしまうことを恐れ、何とかゲームを強行しようとしたが、撃沈する。

 以来テレビはこの震災で特番続き。多くの被災者を出したため、CMも自粛され、意味のない同じCMが流れ続ける。それが繰り返されるから、気がつけばそのCMで頭は洗脳され、「こだまでしょうか、」という金子みすゞの詩が自然と口に出る。別に知らなくてもいいことなのだけれど、CMがあまりにもくり返されるものだから、あの女優が子宮頸がんを発症したのは38歳だったと覚えてしまう。おそらく日本で子宮頸がんで一番有名になった女優であろう。

 本屋ではこれだけ金子みすゞの詩が有名になったからか、店頭で平積みにされる。商魂たくましい。

 電力不足となり、さすがに「オール電化」のCMが流れなくなる。

 電力不足を補うために計画停電が実施され、いつ自分のところが実施されるのか恐々とする。節電が訴えられ、電車が間引いて運転され、都心の交通機関は毎朝超満員状態となる。駅構内が照明が落とされ、薄暗い。車内の蛍光灯も一部取り外されていた。駅から出たら、外がこんなに明るいんだ、と感じる。逆言えばそれだけ地下鉄駅構内は必要以上に照明が灯されていたということか?

 お店の入り口にある看板やネオンに照明がつかず、街全体も暗闇の中におかれた感じだ。その中で個室ビデオのネオンが煌々と光り、妙な違和感を与えている。みんな節電しているのにここだけは例外なのか?しかし誰も文句を言わない。

 自分のところがいつ計画停電の対象地域になるか、恐々とする。そのため、懐中電灯が必需品となり、普段使わない単一電池が手に入らなくなる。大型家電店が開店して人々が真っ先に行くのが電池売り場。店員が「お一人様一パックでお願いします」と言っているにもかかわらず、手には二パック持っている奴がいる。アマゾンのマーケットプレイスでは単一電池四本入りが5,980円で売り出されている。
 マイケル・サンデル教授は、その著作の最初に、アメリカのハリケーン・チャーリーで困っている人に対して、法外な値段で物を供給する業者について考えている。一つにそれに人間の欲深さに驚きを感じる人を紹介し、一方で市場でつく価格は暴利でも何でもない。それは自由な社会でサービスが提供される仕組みだから、暴利でも強欲でもない。むしろそんなに儲かるなら、どんどんそのサービスを提供する業者が増え、その分復興を早めるのだという、経済評論家の主張を提示したのを思い出す。

 地震が起こって、原発が暴走し、放射能物質をまき散らし、ついに水にもその被害が及ぶ。テレビを見ていたら、突然乳幼児は水道水を摂取しないようにというニュースが流れる。とたんに自販機のミネラルウォーターには全部“品切”れの赤ランプがともる。どこも水は品切れとなる。
 山本七平がユダヤ人になりすまし、イザヤ・ベンダサンとして本を書いた。そこには日本人は空気と水はただ、と思っていると書いていたはずだが、それを思い出す。日本で初めて水はただじゃないことを実感させられたのではないか?摂取制限は乳幼児だけなのに、いい大人が自分たちが飲むミネラルウォーターを買い集める。おかげで乳幼児が飲む水がなくなる。スーパーでは母子手帳を持っているお母さんにミネラルウォーター売ることとなる。

 テレビでは乳幼児に水道水の摂取制限を報道する一方、その道の専門家を出演させ、「今、水道水を飲んでも問題ない」と言わせる。一体誰の言うことを信じればいいのだ?

 多くの義援金募集が行われるが、その義援金送金でシステムがダウンしてしまったメガバンク。

 そうそう、地震のあったあの日、危うく「帰宅難民」になりかけたが、2時間半かけて歩いて、やっと自宅にたどり着いた。JRは地震の後、すぐすべての電車の運休を決め、それ以外の交通機関は何とかして復旧に努めていた。復旧はかなり遅くまでかかったようだけれど、それでも電車を動かした。この差は一体どこにあるんだろう?

 あげればまだまだありそうだ。

 でも確実に言えることがある。それは今まで当たり前と感じていたものが、当たり前でなくなったことである。そのことは今までの社会のシステムや人の考え方に大きな変化を生んでいくだろう。むしろ今までの社会やそれを動かすシステムがあまりにも脆弱であり、かろうじて動いていたに過ぎなかったのではないか、と思えてくる。あることが前提で動いていたそれらのものは、その前提が崩れたとき、何も機能しなくなる。その砂の楼閣の上で必要以上の快適さ、快適さを通り越して快楽を求めていたように思えて仕方がない。そこまで無理をしなくても、競争しなくても生きていけたのに、いつの間にか生きていけなくなってしまった。
 本当は目に見える形で、手で実感できる社会であるべきものを、何がどうなっているかわからないけれど、とにかく求めるものが手に入る社会に慣れてしまったことによる、弱さを露呈しただけのことのように思えて仕方がない。人のつながりを無視し、安心や安全をお金で換算する社会がまっとうなものとは思えない。また人間が何でも統制できると思う発想が、もともとおかしなものであって、人の手が及ばないもの、たとえば自然など、があることを知るべきだったのである。人が及んではいけない神の領域というのがあっていいはずで、地震や津波や原発を甘く見ていたきらいがある。そんなことをひしひしと感じてしまうのである。

 とにかく社会が大きな変化をせざるを得ないだろうという予感が私にはある。私の生活にしても、思考においても、これは大きなショックである。どうすればいいんだろう、とここのところ思う。正直なところ今は虚無感でいっぱいである。いろいろなことを毎日考える。考えるけど答えなど出ない。だから余計に虚しくなる。それでなくても今年になって、何故かわからないけれど、自分の中で思うように、あるいは今までのような生き方ができなくなってしまっていたのだ。
 本を読むことが唯一の趣味であり、生き甲斐であったのが、それができなくなってしまっている。思うように本が読めない。やる気が起こらない。確かに個人的にいろいろなことが起こっているので、それに振り回されていたところがある。

 ちょっと疲れちゃった。

 このブログにしても、最初は楽しんでやっていた。本を読むことと、それについて書くことが何の違和感もなかったから、このブログが更新できた。でも今はどこかそれが義務感と変わり、ブログを更新しなければいけないという脅迫観に変わっているところがある。そのために本を読んでいるように思えてならない。
 そんなところこの地震が起こった。ブログは自宅サーバーで動かしている。幸い自宅は計画停電の地域にまだ指定されていないが、いつか計画停電の地域に入るかもしれない。あるいは計画停電で真っ暗な中で生活を強いられている人たちのことを考えると、大した電力消費ではないが、それでもサーバーを動かしていることに、どこか罪悪感を感じる。
 ちょうどいい機会だ。自分の中でこのブログの存在が負担になり、本来の自分が本を読みたいという姿勢が変わっていってしまったことも疑問に感じ始めたこともあるから、止める方がいいのかな、と考え始めた。でも、私に本を取り上げたら、何も残らない。まったく本が読めない、というわけでもない。以前より読めなくなった、ということだけである。あれこれ考えた末、ちょっと休むことにしました。
 また元気になり、本を読んで、書きたいな、と思ったら書き込みたい。あるいはもっとゆっくりと本を読んで、ゆっくりと書き込みができればいいな、とも思っている。更新はしばらくできないかもしれなけれど、いずれカムバックしたい。

2011年03月06日

吉村昭著『再婚』

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 今回も吉村昭さんの現代小説だ。今回は「老眼鏡」、「男の家出」、「再婚」、「貸金庫」、「湖のみえる風景」、「青い絵」、「月夜の炎」、「夜の饗宴」の8篇だ。

 前回、人間長生きしていれば、酸いも甘いも味わってきているから、人生の先輩として、様々な場面で配慮や対処が出来るもんだ、と書いた。しかし今回は長生きした分、恥かしい部分も多く持ってしまうことを知らされる。それをきちんと処理しないで自分の人生が終わってしまった場合、それが妙に生々しく残ってしまうものだな、と思った。
 たとえば「貸金庫」では、愛人の裸を写真に撮って、それを貸金庫に入れたまま死んでしまった男がいる。残された弟は、その若い愛人からその写真を返して欲しいと言われるのだが、言われた方はあの兄貴がそんな写真を撮っていたんだ、と思うだろう。これってちょっと嫌だな。
 愛人の裸の写真じゃなくても、人にはあまり他人には知られたくないものが、大なり小なりあるだろうし、死んでまでも、あれこれ言われたくないものではないだろうか。
 ただ厄介なのは、長く生きていればいるほど、そうした恥ずかしいものを多く抱えて生きているような気がする。だから下手にぽっくり死んでしまった場合、そうしたものを処理できない。もちろん自分が死んでしまえば、その後のことは何もわからないのだから、どうでもいいとも言えるかもしれない。でも私はやっぱり死ぬ時は、きちんと自分の人生を清算して死にたいものだ、と思う。
 一方長いこと生きていると、自分の行動にいつのまにか惨めたらっしい、所作が身についてしまうことがある。これも自分では気がつかない分、他人から、言われなくても、“ちょっと嫌だな”と思われるのは、あまりいいものではない。それが「再婚」に描かれている。
 男が昔会社で働いて部下と再婚を前提に会って、食事をし、会計をしようとした時、女がテーブルにあった爪楊枝を数本取ってバックに入れた所作を見てしまった。それが目に焼き付き、男はその女との再婚しようとは思わなくなった、というものである。確かに女にしてみればいつもやっていたことに違いない。まして爪楊枝である。そしていつの間にか身についてしまった行動が、こういう時にも出てしまっただけのことであろう。女にしてみれば爪楊枝だから、という気持ちだったろうが、逆に爪楊枝だからこそ、と思える。難しいものである。

 「夜の饗宴」は以外に面白かった。これは小さなネオン装飾制作業者の話である。そこに大手製菓業者から、代理店を通さず、直接大きな電飾看板の制作の依頼があった。それは今まであった駅前の敵対業者の電飾看板を隠してしまおうというものでった。そのため秘密を要する。それが代理店を通さない理由でもあった。主人公のいる業者は一攫千金を狙って、その大手製菓業者の依頼を受けて、大きなネオン塔を作りあげる。
 そこに台風が来て、ネオン塔が倒れてしまう。耐久性は計算していたが、鉄骨を組み上げる下請け業者の溶接が不十分で、強度不足となり倒れたのであった。
 それは鉄骨を組み上げる業者に広告代理店が入れ知恵をして、させたものであった。代理店は主人公のいる業者が自分たちを通さずに、大手製菓業者の依頼を引き受けたための嫌がらせであった。
 結局主人公たちはネオン塔の再建を強いられるが、その資金がない。社長は愛人と自殺し、男は夜逃げする。たぶんネオン看板を依頼した製菓業者の担当者も飛ばされたものと思われる。
 夜逃げした男は、大阪でミシン販売のセールスマンとなるが、駅で見上げたネオン広告塔は、倒れてしまったあのネオン塔と同じデザインであった。デザインはあの塔をデザインした人物であろう。ネオンデザインは有名デザイナーでなければ、一度デザイナーがデザインすると、その手を離れてしまうものらしい。当然あの倒れた塔のデザインもデザイナーから離れたものであったが、その塔が倒れ、塔の制作した自分たちも追われた。再起することが出来なかったが、デザインは復活した。主人公は、勝者は村瀬(デザイナー)だったと思うのであった。


評価
★★★


書誌
書名:再婚
著者:吉村 昭
ISBN:9784048728522
出版社:角川書店 (1995/03/20 出版)
版型:243p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年03月04日

東野圭吾著『麒麟の翼』

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 正月に放映された加賀恭一郎シリーズを見て知ったのこの新刊を楽しみに待っていた。今読み終えてかなり満足している。このシリーズは最初から読んでいるが、『新参者』から作品の厚みが増したと思っているので、今回も読み応えがあった。
 今回の事件現場は日本橋である。日本橋の欄干に胸にナイフが刺さった男がもたれかかっていた。発見したのは交番の巡査であった。事件が発生して緊急配備されたが、そこに一人の不審な男が見つけだされたが、男は大通りを飛び出し、トラックにはねられ、意識不明の重体になった。男は殺された男の鞄や財布を持っていた。犯人はトラックはねられた男なのか?そして日本橋の欄干にもたれかかるように死んでいた男は、何故ここに来て殺されたのか?加賀らの捜査が始まる。
 殺された男は『カネセキ金属』製造本部長青柳武明で、江戸橋にある地下道でナイフで刺され、自力で日本橋まで移動し、橋にある西洋のドラゴンそっくりな麒麟像に祈りを捧げるように背中を丸めて死んでいた。
 トラックにはねられた男は、持っていた免許証から八島冬樹と判明する。八島は中原香織と同棲していた。二人とも身寄りがなく、田舎から二人してヒッチハイクで日本橋まで来て、以来東京で慎ましく暮らしていた。八島は派遣社員でカネセキ金属で働いていたが、契約期間前に会社を解雇されていた。八島はカネセキ金属で事故にあい、首を痛めた。一方カネセキ金属は“労災隠し”のため、八島の労働事故を隠すために、契約期間前に解雇したのであった。警察は八島がそれを恨んで、製造ラインの責任者である青柳を恨み、刺したのではないか、という結論に達しようとしていた。しかし八島は意識不明の重体であり、その真相が聞けずにいた。同棲してた中原香織は冬樹がそんなことをするわけがない、と八島の犯行を否定する。香織は妊娠していた。そして八島は死亡する。
 加賀らは、青柳が普段の行動範囲外である日本橋にどうして来たのだろう、その理由を探り始める。調べているうちに、青柳は日本橋の七福神巡りをしていたことが分かった。特に水天宮には折り紙の折り鶴を賽銭箱においていた。何故水天宮なのであろうか?普通水天宮と言えば安産祈願に訪れる人でいっぱいなのだが、ここは水難除けの神様でもあった。
 青柳の一人息子悠人は友達から「キリンノツバサ」というブログの存在を知らされる。サイトをのぞいてみると、そこにあった写真に驚く。そこには3年前中学のプールで起こった事故で、おぼれたリレーの仲間である吉永友之の姿があった。吉永はそのとき救出されたが、以来意識が戻らずにいた。ブログのタイトルは「キリンノツバサ-いつか羽ばたく日を夢見て」とあり、意識の戻らない息子のことを思い、母親が立ち上げていたブログであった。
 吉永は生きていた。3年前水泳のリレー競技で敗退した悠人らチームは、その責任を吉永に帰した。ただでさえ悠人らは吉永をよく思っていなかったので、試合後、学校のプールに忍び込み、“特訓”と称して、吉永にいじめを行い、吉永はおぼれてしまったのだ。 悠人はそのブログを見て、今の自分に何が出来るか、探り、母親が書いた記事に、息子の事故のあと水難除けによく水天宮に通ったことを目にする。そして今軽井沢にいる吉永母親に水天宮の写真を送る。以来ブログ内で吉永の母親と悠人とやりとりが始まる。悠人は贖罪の意味で千羽鶴作り、水天宮の賽銭箱において、その写真を母親に送った。
 ある日そんな悠人と吉永の母親とのパソコンでのやりとりを、父親である武明が見てしまう。悠人はそれ以来吉永の母親とのやりとりを止めたが、父親の武明がそれを知らないうちに引き継いでいた。武明は3年前に起こった事故に疑いを持ち始め、調べているいるうちに殺害されたのであった。犯人は悠人がいた競泳チームの一人で、友人であった杉野達也であった。八島冬樹は青柳武明を偶然見つけた、武明が倒れていたとき、魔が差して(生活にも困っていたので)、武明の鞄や財布を奪ってしまったのであった。そして不審者として警察に追われるうちに、トラックはねられ、死亡したのであった。
 3年前の事故を隠さなければこんなことが起こらなかった。事故として処理しようとしたのは顧問の糸川であった。糸川は子供たちを傷つけたくなかったと釈明するが、それを聞いた加賀は糸川の襟首を掴んで言う。

 「ふざけるな。何が傷つけたくないんだ。あんたは何が悪いかわかっていない。なぜ杉野は青柳さんを刺した後、自首しなかったと思う?それはあんたが間違ったことを教えたからだ。過ちを犯しても、ごまかせば何とかなる-三年前、あんたはあの三人にそう教えたんだ。だから杉野は同じことを繰り返した。同じ過ちを繰り返したんだ。青柳さんは、あんたに間違った教育を施された息子に、正しいことを教えようとしたんだ。それがわからないなら、教師なんか辞めろ。あんたに人を教育する資格なんてない」

 それを言って加賀は汚らわしいものを捨てるように手を離した。刑事をやる前に加賀は一時教師をやっていたことがある。それだけにこの言葉は重く感じる。
 冬樹を信じていた香織は、おなかに子供を抱え国に帰る。そのとき香織は加賀に、

 「今日はどうもありがとうございました。それから、冬樹君の疑いを晴らしてくれたこと、一生忘れません」

 「そんなことは忘れてもいい」加賀はいった。「忘れちゃいけないのは、その子のために何があっても負けないと決心したことだ」
 なかなか格好いい。この作品もまたテレビ化するかな、と思った。もちろん加賀恭一郎の役は今までのように阿部ちゃんで・・・。楽しみである。

 最後にこの本の最後にこんなことが書かれていた。

 「著者は本書の自炊代行業者によるデジタル化を認めてはおりません」

 奥付にも同様のことが書かれており、代行業者等の第三者依頼してスキャンやデジタル化することはたとえ個人や家庭内の利用でも著作権法違反です、と書かれている。

 そうなんだ。

 奥付の文章はともかく最後にある「自炊代行業者」というのはちょっといただけない。「自炊」とは2ちゃんねるが由来の隠語じゃなかったかな?でもこうしてはっきりとそれを認めないぞ、というのは本を大切にする人と、著作権を守る著者の姿勢がはっきりしていていい。


評価
★★★★


書誌
書名:麒麟の翼
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062168069
出版社:講談社 (2011/03/03 出版)
版型:325p / 18cm
販売価:1,680円(税込)

2011年03月02日

吉村昭著『法師蝉』

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 吉村昭さんの現代小説を読む。ここには「海猫」、「チロリアンハット」、「手鏡」、「幻」、「或る町の出来事」、「秋の旅」、「果実の女」、「法師蝉」、「銀狐」の9篇の短篇が収められている。いずれもこの本の帯にあるように人生の後半を迎えた男と女が主人公である。
 長いこと人間をやってくると、人には様々な体験や経験が蓄積されているんだな、と思う。若い時経験したことが、幾ばくかの歳になって、酸いも甘いも、一緒になってよみがえってくる。それが長ければ長いほど、今では経験できないことを通り過ぎてきたんだな、とを思う。時代がそういう時代だったからこそ、あり得た話がたくさん出てくる。
 面白いもので、それはやっぱり歳を重ねないと、一つの話にならない。それがどういう訳か“哀愁”を帯びてしまうから、話になるのかもしれない。もちろん読む側もそれなりの歳がいっていないと、共感が生まれない。追体験というのは、やっぱり同年代であることが必要なのかな、とも思う。

 さて、この9篇のうち気に入ったものは「手鏡」と「幻」の2篇だ。「手鏡」の中に次のような文章がある。

 自分が病臥していたことを考えると、見舞客来てくれるのは嬉しいと思う反面、苦痛でもあった。肥後に対してそうであったように、元気であるかのようによそい、それが体に好ましくない影響をあたえた。そのような経験があるので、重病である人への見舞いはひかえ、花を買って病室の近くまで行きながら通路を引返し、看護婦詰所で渡してくれるよう頼んで帰ったこともある。

 ここにある「自分が病臥していた」というのは、吉村さんが若い頃結核にかかり、寝たきりの状態であった経験を書いている。吉村さんの現代小説でも随筆でも、「人への思いやり」が随所に見られる。それがちっとも気障に感じないのは、そうした配慮が自らの経験を濾過してきたからだろうと思っている。
 人は自分が経験したことから、それが心地よかったり、苦々しく感じたことがあれば、いつの間にか、そうしてみたり、あるいはそうした行動を控えたりすることが出来る。歳をとったことを、半ばうんざりしているところが私にはあるが、こういうのを読むと、悪いことばかりじゃないな、と思えてくる。
 もちろんそうした配慮が、歳をとっても出来る人と、出来ない人もいるだろうが、長いこと生きてきている分、経験してきたことの数の多さは、若い人には負けないはずだ。後は性格の問題かな、と思う。

 「幻」には、「年末に、父が焼け残った医科大学付属病院で死んだ。脳溢血とされていたが、実際は癌で、すでに末期症状であったのである。遺体をおさめる棺がなく、長兄が造船所から運んできた板でつくり、さらに遺体を焼く燃料も必要だというので、かなりの量の薪を用意し、それを棺とともにリヤカーにのせて火葬場に運んだ」とある。この話も吉村さんの随筆に書かれており、実際自ら体験したことをここに書かれていると思われる。時は終戦直後の話である。棺もなかったし、火葬する燃料がなかったのである。他の話に、火葬の薪を得るために、戦火で焼けた電柱を掘り出せ、という話もここにはある。地表に出ている電柱は燃えてしまっていても、地中に埋まっている部分は残っているので、それを掘り出して、遺体を焼く燃料にしろ、というのである。地中に埋まっている電柱は2メートルも地下に埋まっているので、大の男が二人がかり掘り出す労力がいるという。
 このときは何もかも物資が不足していた。餓死者も多く見かけたと書いてある。それは「戦時中は、戦局の悪化にともなって配給食料の質が加速度的に低下し、主食も米の代わりに薯類や雑穀が配給されるようになっていたが、それでも強力な統制で一応、名目だけの量は維持されていた。が、戦争の終結と同時に、辛うじて保たれていた流通秩序が一挙にくずれ、配給制度は維持されていたものの、農家は供出をしぶって農作物を横流しし、そのため遅配が習慣化していた」だから終戦後餓死者が増えたのである。
 戦争というのは実際行われている間も、戦火を逃げ回らなければならないけど、敗戦後もその後でさらに苦しまなければならなかったことを思い知る。
 「幻」はそうした何もかも不足していた時に、昭和通りに祭の練り歩きを見たことがあり、それが神田祭じゃないのか、と後で調べてみる話である。実際は神田明神でそうした祭は当時行われていないことを知らされ、それは幻だったのではないかと仲間に言われるのだが、主人公は確かにそれを見たという話である。話として実際著者が見たのかどうかわからないが、その祭のきらびやかさと、一緒に歩いている痩せ細った馬が、逆に当時物資が不足していたことを強調することになっている。


評価
★★


書誌
書名:法師蝉
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242239
出版社:新潮社 (1993/07/10 出版)
版型:195p / 19cm / B6判
販売価:入手不可