2011年09月26日

細川布久子著『わたしの開高健』

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 <はじめに>

 この本の感想は一度掲載しました。ところが最後の部分で間違いがあり、いったん掲載を削除して、過ちの部分を最後に修正し、再度掲載しました。


 ここに一冊の古い雑誌がある。面白半分昭和53年11月臨時増刊号「これぞ、開高健。」である。もう33年前の雑誌だ。雑誌のため中のページは赤茶けてしまっているが、この編集人がこの本の著者細川布久子さんだ。


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 だいたい雑誌『面白半分』というのを知っているだろうか?当時『話の特集』と並ぶ1970年代のサブカルチャー雑誌の一つであった。で、この臨時増刊号の「これぞ、開高健。」は1978年の時点で開高健の特集を組んだ雑誌はこれだけだったという。雑誌『面白半分』に関してはWikipediaによると次のように書かれている。


 雑誌『面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長に吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊(1972年1月号)した。編集長は人気作家が半年毎に交代していた。
 吉行淳之介が朝日新聞に掲載したエッセイの「『日本軽薄派」という雑誌を作ってみたい」という一文を見た佐藤が、吉行の協力を取り付けて、「面白くてタメにならない雑誌」として刊行。編集長は吉行の後、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一が交代で務めた。
 野坂編集長時代に永井荷風作と言われる春本「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発された。(四畳半襖の下張事件)
 大日本肥満者連盟(大ピ連)結成でも話題となった。
 1980年まで刊行されたが、9月~11月号が休刊となり、12月号「臨終号」が最後となった。

 私はこの著者が面白半分に勤め、開高健さんの担当となり、以来開高さんの私設秘書役まで勤めた女性であったことを知ったのだが、まさかこの古い雑誌に関わった担当者とは、驚き、それで自分の本棚から引っ張り出し、編集人に著者の名前があることを確認したのであった。

 さて、ここで取り上げたいのは開高健さんの女性関係である。著者は開高さんの私設秘書役まで務めていた人だから、開高さんの女性関係に関わるざるを得なかったことを告白している。また女性ならではの嗅覚で敏感に開高さん女性関係を感じ取っていた。
 まずは開高さんの『輝ける闇』のヒロイン素娥の写真を一緒にベトナムに行った秋元啓一さんから見せてもらっているところから、次の“闇”シリーズの『夏の闇』で書いてしまった女性に言及する。これは菊谷匡さんの『開高健のいる風景』に詳しい。なのでこの本から書き出してみよう。


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 (『夏の闇』を)読み終わってしばらくしてから開高さんに会って、
 「あの女性、いったい誰です?」
 「何でや?」
 「ぞっこん惚れてるんでしょ?」
 「余計なお世話や」
 「まさか、佐々木千世じゃないでしょうね」
 すると開高さんは顔色を変えて、言った。
 「どうして君が知っとるんや」
 「あの作品を読めば、独立排除的に明々白々じゃないですか。開高さんは彼女が“諸外国を放浪して旅行記を一冊書いた”と書いているし、彼女とおぼしき女性の旅行記の袖に開高さんは“すいせんのことば”を書いているわけでしょ。ぴったり符合する」
 「・・・・・」

 その本の口絵写真で見ると、彼女はわたしが学生時代に学内でときどき見かけた女性だった。露文の学生だったと思う。色の白いほっそりとした人だったが、もし同じ女性だったら『夏の闇』では豊に変貌している。読むかぎりでは、開高さんにとって何物にも代えがたい女性のようだった。ついでながら、“独立排除的に”というのは、作中の女が口癖のように使う言葉である。
 開高さんの沈黙は、彼女がわたしの指摘する女性であることを物語っていた。それはいいが、この女性の存在を書いたことが開高宅で悶着を引き起こし、開高さんの晩年を苦しめることになった・・・・。


 開高さんの妻は詩人の牧羊子さんである。牧さんとは同人誌時代に知り合い、開高さんとの関係で妊娠し、結婚を迫られ、以来夫婦となって苦労してきた。開高健弱冠22歳であった。開高さんがサントリーに入社できたのも、牧さんがその前にサントリーの研究室に勤めており、その後釜で開高さんがサントリーに入社できた。
 開高さんは菊谷さんに「あのとき、おれの人生、決まっちゃったようなもんだデ。二十二で、お先真っ暗や」と言っている。

 この女性に関しては、2007年1月に読んだ滝田誠一郎さんの『長靴を履いた開高健』にも登場する。以下書き出して見る。


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 小説家として転機となったのは「女」との出会い。10年ぶりの再会。パリでの出来事だ。68年5月、フランスでは学生運動の盛り上がりが全国的なゼネストに発展し、当時ド・ゴール政権にとっての最大の危機、内乱寸前とまでいわれた。いわゆる5月革命だ。
 6月、『文藝春秋』の特派員として小説家は5月革命を視察するためパリに赴く。そのパリで、小説家は「女」と10年ぶりの再会を果たすのである。そしてほぼ一夏、小説家が滞在していたパリの学生町の旅館にこもり、「女」が客員研究員として勤務していたドイツのとある大学の職員用アパートに潜むようにして、「美食と好色は両立しない」などうそぶきなから食べるのもそっちのけで全裸の生活に没入するのである。
 この出会い、このエロチックな出来事が、3年後ひとつの文学作品の昇華する。71年10月、雑誌『新潮』に発表された『夏の闇』がそれである。翌72年3月に新潮社から発売された単行本の函に、小説家が次のような言葉を記している。
《これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを“第二の処女作”とする気持ちで、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変わった。 著者》


 滝田さんはここから、先に書いた菊谷さんと開高さんの会話を取り上げる。


 菊谷さんと佐々木千世さんは早稲田大学の同級生だというから、小説家とは5歳違いだ。
 「彼女はたしか露文(ロシア文学科)の学生で、実際話をしたことはないけれど、見た感じはいい女でした。少しすさんだ感じがするんだけれど」
 大学卒業後、佐々木千世さんはロシア文学研究家という肩書きで翻訳の仕事などをするようになる。小説家との出会い、お互い惹かれあうになるにはこのころだ。
 別にふたりの仲をあれこれ詮索しようというわけではない。あえて佐々木千世さんの名前を出したのは、彼女が小説家とルアーフィッシングの出会いに大きく関わっているからだ。
 小説家はぶらりと立ち寄ったバド・ゴーデスベルグの釣具屋の主にルアーフィッシングの手ほどきを受けるわけだが、そもそも小説家がバド・ゴーデスベルグなる町をぶらぶらしていたのはそこに佐々木千世さんが住んでいたからに他ならない。小説家と釣具屋の主の間に入って通訳したのも彼女だ。列車や宿の手配をしたのも彼女である。
 もちろん佐々木千世さんもジムス湖に行っている。一緒にボートに乗っていた。69年に発売された『私の釣魚大全』(文藝春秋)にボート上でワインをラッパ飲みしている小説家と、釣り上げたカワマスをうれしそうに差しだしている写真が掲載されているが、これを撮影したのも佐々木千世さんだと考えられる。


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 ここから細川さんのこの本から書き出してみる。ちょっと長くなるが・・・。


 けれども菊谷さんから伺うことができたのは、『夏の闇』によって開高さんの恋愛を知るに及んだ牧さんの激怒ぶりだけだった。
 私が彼女の名前や経歴を知ったのは、サン・アドの矢口純氏からだった。ただ『これぞ、開高健。』の作業中か、『面白半分』の連載原稿を頂いていた頃か、サン・アドで働くようになってからか、正確な時期はすっかり忘れている。
 矢口さんによると、『婦人画報』の編集長をされていた頃、開高さんから新進のライターとして彼女を紹介され、仕事上の相談にのってやってほしいと頼まれたそうである。その頃には彼女はソ連留学を終え、その体験記を出版しており、その本に推薦の辞を書いたのは開高さんで、開高家にも出入りしていたはずだ、ということだった。
 そうだとしたら、菊谷さんの表現を借りれば「怒り狂った」という牧さんのリアクションは当然すぎるほど当然である。ただでさえ夫の浮気は妻にとって悲しく腹立たしい。それが単なる火遊びではなく濃密な恋愛だった。そのうえ相手の女性は見知らぬ人でなく面識のある人間だったとわかった時の妻の驚愕。悲痛。嫉妬。苦悩。憤怒。絶望。牧さんがうけた傷の深さは何をもってしても消すことができなかったのではないだろうか。たとえ『夏の闇』以後「内面に寄りかかって書こう」と決めた開高さんの作家の業を、おなじ、ものを書く人間の立場から理解できたとしても。
 菊谷さんは、このことによって開高さんは不幸になったと書かれている。しかし牧さんも同じように不幸になったのだ。それぞれ不幸を抱えたまま夫婦であり続けたために、夫婦間の確執は最後まで続いた。お互いに決して癒されない傷に針を突き刺された気分に襲われながら生きざるをえなかった。
 開高さんにとって牧さんは大きな呪縛だった。ある編集者には「娘がいなければ離婚していた」と述懐したこともあったという。世間一般の男たちのように独身時代を謳歌することもなく、モラトリアムの季節もなく、予期せぬ妊娠で結婚を余儀なくされて以後、釣りも旅も恋愛も、書けないという苦境からの逃亡だけでなく、失われた自由を求めての行動、家庭からの脱出だったに違いない。
 一方、牧さんには七歳年下の開高さんの成功と栄光において、自分こそがこの天才を発見し育てたのだという深い自負があったのではないか。また、牧さんとって開高さんは唯一無二の男だった。開高さんを愛しすぎた。開高さんは「関西のオンナの深情けはえらいもんやデ」とお手上げ気味につぶやくことはあったけれど、牧さんの情けはあまりにも重すぎた。見方を変えれば、牧さんは「可愛い女」なのである。ただ、開高さんをコントロールしようと束縛しようとしすぎたのではないか。たえまなく、愛という名のもとで。
 その牧さんを『夏の闇』は完膚なきまでに打ちのめした。嘆きは深く内にこもり牧さんを浸食していった。時は傷を治癒せず毒をうみだしていった。そして、意識するしないにかかわらず、じわじわ開高さんに復讐していったのではないか。そこから逃げることができなかったところに開高さんの不幸があった。私にはそう思えてならない。
 茅ヶ崎の新居がついに「隠れ家」にならなかったのも、牧さんは開高さんが独りで自由を満喫することを許せなかったせいではないか。開高さんに癌を宣告したいきさつについては、病院食を無視した牧さん手製のスープを開高さんが強く拒否したことで、発作的に口走ったためだと聞いている。「可愛さあまって憎さ百倍」というけれども、長い間くすぶり続けた開高さんに対する恨みつらみが爆発してしまったといえなくない。
 そうだとしても、牧さんは残酷すぎた。病で身動きできなくなった開高さんは、やっと自分の許に帰ってきた、誰にも邪魔されず自分だけが独占できる夫になったのである。その歓びの想いはさもありなんと思われる。けれども親友の谷沢先生や向井さんの面会を一切禁止し、一部の人間を除き、菊谷さんをはじめ親しい友人編集者の見舞い客をすべて遮断するという仕打ちは理解できない。それほどまでに開高さんを所有したかったのだろうか。それほどまでに開高さんを許すことができなかったのだろうか。報復だったのか。愛のかたちだったのか。癌を宣告された開高さんは、以後、牧さんに口をきかなかったという。開高さんの胸に去来していたのは誰だったのだろう。貝のように閉じてしまった開高さんを牧さんはどんな想いで看取っていたのだろう。どちらも、哀しく、痛ましい。
 開高さんが食道癌であること宣告してしまった牧さんの経緯は菊谷さんの本にある。牧さんは開高さんの追悼特集で次のように書いている。
 「開高の性格をよく知っているので、いつ彼に、病気のことを知らせるかは大変悩みました。それまで、病院では病気のことはしゃべるな、と言われていたのですが、彼に病気のことを告げると、彼はちゃんと冷静に話を聞いてくれました。・・・・」
 しかし菊谷さんは違うと書いている。
 羊子夫人が漢方のスープを飲ませようとしたところ、開高さんが遮って、
 「オレの体は先生に預けてあるんだ。余計なことはせんといてくれ」
 と言ったとか。そうしたら、夫人が、
 「あんた、病院にだまされてるんや。これ飲まな、ガン治りゃせんデ!」
 と怒鳴った、一瞬、部屋中の空気が凍った。開高さんが、静かに言った-と聞く。
 「出てけ・・・・」
 それから開高さんは、ほとんど口をきかなくなったそうだ。生きる気力が日に日に失せていくような思えた。そして十二月九日を迎えるに至ったのである。
 悲しい話だ。わたしには、羊子夫人を責めることはできない。ご主人を救うべく奔命していたのだ。が、開高さんは衝撃を受けた。自分でもガンであること、もはや死を免れないことがわかっていたかも知れない。にもせよ、夫人の口からこういう形で宣告されるとは、ガンを知る以上に心に響いたろう。そのとき、夫婦それぞれの胸に去来した感情の乱れを思うと、あれからかれこれ十三年もたつ今日でも、いたたまれなくなる。


 開高さんはいくつかの自伝的小説書いているが、一回の関係で牧さんが妊娠してしまい、結婚せざるを得なかったし、子どもが生まれ牧さんがおむつを縫っている姿を見て、いたたまれなくなって逃げ出してしまったことも書かれている。以来夫婦関係、家庭に縛られることとなるわけだが、一方で若い頃の過ち?から、以後自由な恋愛ができなくなってしまった中での、一人の女性との関係が生まれる。そのことを小説で書いてしまったことで、夫婦間にひびが入り、以来傷が深まってしまったことを、ここに知る。自由を求める男と、その男を占有することのみ生き甲斐とする女が生んだ関係は小説以上に悲しい。
 またこうした自分の秘めた関係をあからさまに小説として発表しなければならなかったことは、いったいどういうことなんだろう?、と思う。開高さんが小説を書くことに行き詰まったこともあろう。でも、もしかしたら、自由な恋愛が出来なかったことで、あるときそれがかない、そのことで今までの自分とは違う自分を見出した。だからその関係を書いた作品を“第二の処女作”としたのではないか?
 そして牧さんの重い愛の関係にいささか辟易していた自分を開放出来たことの喜びがあったのではないか、と思ったりする。それを書くことで、牧さんとの夫婦関係が冷めても、その時の開放感、喜びが優ってしまう自分を抑えきれなかったのかもしれない。

 佐々木千世さんは交通事故で亡くなっている。


 さてここからが過ちを修正した部分である。

 それは私がこの文章を書くにあたって、ネットでいろいろ調べていて知った情報を掲載した。そのサイトに開高さんにはもう一人親密な関係の女性がいたらしいことが書かれており、女性の名前は高恵美子さんという。そして開高さんが亡くなられてから発売された「ザ・開高健 巨匠への鎮魂唄」(毎日新聞刊)に彼女が寄せた追悼文があるということ知った。


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 この情報では、高恵美子さんが寄稿した追悼文に、恋文ともとれる私信も含まれていて、その部分の削除をするという編集側と、泣きながら抗議する高さんとの間で、電話で二時間半ほどのやりとりがあったことが書かれていた。さらに彼女と開高さんの娘、道子のバイオリン教師をしていた文筆家志望の知的な美人とも書かれていた。
 そして彼女は開高さんが死んで1年後の命日の日、飛び込み自殺をして命を絶った。その時の年齢が38か39歳位で、後追い自殺なのかもしれない、と書いてあった。

 しかしその後高恵美子さんのご友人から、この情報は正確ではないというコメントを頂いた。そのコメントを読んでみると、私が使ったネットの情報は、かなりいい加減であることがわかった。確かにネット上にごまんとある情報の中には胡散臭いものもたくさんあることは事実だが、その真偽など確かめようもないところがある。
 しかし頂いたコメントを読ませて頂いて、これはまずいことをやってしまったな、と思った。
 最初に掲載したのは、この本を読んで知ったことと、それ以前に読んだ開高さんの女性関係を記した本を元にして書いた。本の内容の真偽を疑ってしまうと、もうこれは話にならないのだけれど、ただこれらの本を書いた人は、その名前や開高さんとの関係がはっきりとわかっている。つまりニュースソースがしっかりしているわけだが、その後書いた高恵美子さんに関する情報は、ネット上にある匿名の情報で、その点、不確かなものであった。
 もし高恵美子さんのことをネットで見つけなければ、書く予定などなかった。本来は書く必要性は最初からなかったのに、たまたまその情報を見つけてしまったがために、書いてしまった。
 そして書いてしまった以上、またその情報がいい加減なものであるということを知った以上、ここはきちんと訂正しておかないといけない。何故なら、いい加減な情報で文章を書いてしまうことは高恵美子という女性を侮辱してしまっている可能性が充分あるからだ。
 さらに頂いたコメントには、高恵美子さんを友人として救ってあげられなかったとして、その人は自分を責めるかのような文章を書かれている。私はこの人にも不愉快な思いをさせてしまったと思ったのである。
 だから私は高恵美子さんのご友人に、頂いたコメントを使わせてもらって自分の文章を修正したいというメールを出した。そのためいったん掲載したこの本の文章を削除し、改めてこのように再掲載したのである。以下ネットの情報がいい加減である点を記した。

 ネット情報では開高さんの追悼集の出版で、高恵美子さんが開高さんの恋人かのようなことが、編集部とのやりとりで書かれているが、確かに開高さんは彼女に思いを寄せていたようであるが、高恵美子さんご友人は彼女と接していて、彼女には恋人的な気持ちがあったとは思えない、と言われている。
 そして高恵美子さんは開高さんの死後(1989年12月9日死去)1年たった命日に、後を追い、飛び込み自殺をしたかのように書かれているが、彼女は自殺ではあるが、飛び込み自殺ではないということ。高恵美子さんは躁鬱病を発症し、その闘病生活の中で思い通りにならない状況下で、悲観して発作的に自殺したものだったということ。その日は、開高さんの死後ちょうど1年たった命日ではなく、1991年の1月28日で、享年49才であった。

 これらのことから、高恵美子さんが開高さんのもう一人の女性関係を持っていた人とは考えにくいことになる。高恵美子さんご友人から頂いたメールには、ネットに高恵美子の間違った情報がそのまま放置され、それが増幅されていくのは、友人として忍びない。さらに開高健という作家ことが取り上げられる度に、面白半分に彼女の名前が取り上げられるのはいたたまれない、とも書かれている。 ネットでは高恵美子さんと開高さんとの関係を取り上げているサイトがいくつかある。これはまったくの推測だけれど、どれもニュースソースは一つではないかと思われる。とすれば、まさしく間違った情報が増幅したことになる。私もある意味その増幅に手を貸したことになってしまった。
 もし高恵美子さんのご友人からコメントを頂かなければ、私はいつまでも気づかないまま間違った情報を垂れ流す手助けをし続けるところであった。
 ここで高恵美子さんと開高さん関係や高恵美子さんの死の真相を正したとしても、私のこのブログがどれだけそれに貢献できるか、いやネット上にある数え切れないほどのブログに埋もれてしまい、まったく意味をなさい可能性の方が強いと思われる。(少しでも役に立っては欲しいとは思うけれども)ただ私のブログだけであっても、正しいことを記載しておくのは意味がある。そしてこれ以上私が間違った情報を垂れ流す手助けをしなく済む。だから正しい情報くれたこのご友人に感謝しなければならない。またネットの情報を使う時はもっと神経を使うべきであることを改めて学ばせて頂いた。ここにお礼を申しあげます。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの開高健
著者:細川 布久子
ISBN:9784420310536
出版社:創美社 集英社〔発売〕 (2011/05/31 出版)
版型:228p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2011年09月24日

文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」

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 今年の3月11日、午後2時46分、後に東日本大震災と名付けられた、日本における観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した大地震が東北地方を直撃した。この作文集は、その地震、その後を襲った津波を体験した子ども達のものである。保育園児から高校生まで、80人の作文集である。このとき子ども達は何を体験し、その後どうしたか。子どもの目で地震、津波の恐怖を語る。
 大人の体験談はよく聞くが、子ども達が自分たちの言葉で書いた文章は、子どもだけが語り得る臨場感が直接感じられる。恐怖をそのままストレートに語る。大人が語るのとき、ためらってしまうことでさえ、子どもだから見たまま、感じたままを語ってくれる。子どもがよく使う濁音ばかりの擬音語が、子どもながら地震や津波の凄まじさを伝えてくれる。
 親からすれば出来れば子ども達にこうした悲惨な光景を思い出せたくないはずだし、地震や津波がトラウマみたいになるのを恐れるだろう。事実こうして地震や津波のことを作文に書いてくれと子ども達に頼んだ時、親は動揺したという。もちろん子ども達も一瞬戸惑った子もいたという。けれどだんだん手を上げる子ども達が出てきて、こうした作文集になったらしい。


 でも、つなみの色は黒っぽくつなみでした。くさかったです。


 「津波が来るぞ」
 言ってきました。僕は半信半疑で南にある田畑に目をやると、茶色い水がゴォーと音をたてて、こっちに向かっているのです。


 窓から外を見ると、辺り一面が茶色く濁っていて、とても不気味でした。さっきまで乗っていた車が家の後ろまで流されてしまいました。


 一時間くらいたって、まどから見た物は、津波から泳いでひっしににげている人が見えました。でもけっきょくは、おぼれてしまいました。そしてまた、たてつづけに見た物は、車から出られなくて、たすけをもとめているひとが見えました。


 1千年から8百年の間におきる東日本大震災。ぼくたちはうんがわるかったんだなあと思いました。


 何日ぶりに友達に会うと抱き合い、「大丈夫だった?家族は無事か?」と合言葉のように、必ずそんな言葉を交わします。


 余震が続いているけれどだいぶ落ちついた今、閖上に帰ってみるともう町がなくなっていて涙があふれてきます。大好きだった海が嫌いに変わった瞬間でした。わたしの大好きな海が、大好きな町と、大切な人達をうばっていくようなものに変わってしまったのがショックです。


 最後になりましたが、僕は人間の汚い心を見てしまうことがあります。避難所に来た物資を被害を受けていない大人たちが持ち去ってしまったり。みなさんは、この愚民たちの愚かな行動をどう思いますか。


 子ども達は冷静であった。事実をそのまま受け入れ、見たまま、感じたままを書いた。震災直後の悲惨な生活を綴ることを忘れないが、それでも少しずつ状況が良くなって行くことを書き、避難所で友達と一緒に遊べることを素直に喜ぶ。友達が転校していってしまうことをを悲しむ。
 そして復興に当たり、いろいろな人達の力を借りて、自分たちの生活環境が少しずつ良くなりつつあることを自覚し、その人達に感謝の念を忘れないで、その気持ちを文章の最後に書き添える。正直これが子ども達が書いた文章なのだろうか、とさえ感じさせる。少なくとも私が同じ年齢の頃にこんな文章など書けなかったはずだ。みんな文章がうまいのに驚いてしまう。
 塩野七生さんがイタリアの週刊誌で見たという写真の一枚がこの作文集の最初に子ども達の写真が掲載されている。


 気仙沼で見たという少年で、十歳かそれより少し上と思われる年齢だが、こちらは避難所でもらったのか、だぶだぶのグリーンのジャンパーにピンクの長靴という出で立ち。両手に持つのは大きなプラスティックの酒用のボトルだが、酒ではなく水が入っている。避難所に飲料水を運ぶ途中でもあるのか。少年は口をきつく結び、伏目で歩いているのも、足許に散乱する瓦礫に注意してのことだろう。


 確かにこの写真はすごくいい写真だ。少年の面構えがいい。また子ども達の笑顔の写真も最高である。こんな状況下でも、大人を和ましてくれる子どもの笑顔を、この写真で見ることが出来る。たぶん仮設に作られたブランコだろう。それを勢いよくこいでいる子ども達の笑顔を見ていると、この子らを悲しませては本当にいけないな、と思う。
 最後にたぶん中学生だろうか?女の子が赤い毛糸の手袋した手を合わせて祈っている姿がある。この女の子は本当に祈っているんだ、と感じることが出来る。これもいい写真だ。
 またこの作文集の最後には子ども達が描いた絵がギャラリーとしてある。そこにある絵のうち、津波を青いクレヨンでかたまりみたいに塗りつぶして表しているものがある。その塗りつぶされた青の中には車が描かれている。それは津波に巻き込まれたことを示しているのだろう。たぶんその光景を目撃したに違いない。似たような絵が2~3枚ある。絵自体拙い分、逆にそのかきなぐった青いかたまりが、怒りに満ちているように思えた。


評価
★★★


書誌
内容紹介:
東日本大震災による津波に直面した子供たちが、地震の瞬間や、津波を目の当たりにした時荷何を感じたのか。家族や親友を失った悲しみ、避難所の暮らし、そして今、何を支えにしているのかを綴ってくれた文集です。半分以上は直筆文章を原稿用紙のまま掲載します(それぞれ写真と解説文つき)。
●3・11地震の瞬間、津波の恐怖 
●家族・親友を失って
●避難所のくらし 
●これからのこと
〔カラーグラビア16ページ〕 被災地での子供たちの写真と絵画作品集
目次

・はじめに 「子どもの眼」が伝えるもの 森健

●宮城県名取市、仙台市若林区、東松島市
「つなみは黒くてくさかった」(仙台市若林区 小2)
「地鳴りが『ゴォー』」(名取市 小5)
「ままのくるまが、ながされた」(名取市 幼稚園)
「大親友の分まで生きよう」(名取市 小5)
「大好きだった海が嫌いになった」(名取市 中3)
「ままのかおがみえたらないちゃいました」(名取市 保育園)
「画用紙1枚で寝ました」(名取市 小4)
「今まで見た中で一番キレイな星空」(名取市 高3)
「NVER GIVE UP!」(名取市 高2)
「世界中の人に恩返ししたい」(名取市 中3)>
●石巻市、女川町
「たくさんの死体を見た」(石巻市 小6)
「『助けて』『苦しい』とゆう声」(石巻市 小学生)
「おとうさんにまけないせんしゅになりたい」(石巻市 小2)
「屋根の上に車」(石巻市 小6)
「くうきがきたない」(石巻市 小1)
「お母さんにだきついた」(石巻市 小3)
「食パン4分の1」(石巻市 小6)
「だるさ・吐き気・変な感覚」(石巻市 小6)
「自衛隊のシャワー」(石巻市 小5)
「私ひとりでも県外で頑張る」(石巻市 中3)
「人間は強い」(石巻市 中3)
「頑張るぞ俺達家族!」(石巻市 高1)
●南三陸町
「何も無くなってしまったやぁ」(南三陸町 中1)
「おにぎり一個十分かけて食べた」(南三陸町 小6)
「つよくてやさしい人になりたい」(南三陸町 小学生)
●気仙沼市
「わたしのたからばこは、どこにいったかな?」(気仙沼市 小1)
「赤く燃え上がる炎と黒煙」(気仙沼市 中2)
「川の水がぎゃく流」(気仙沼市 小4)
「ペットボトルの湯たんぽ」(気仙沼市 中3)
「唯一残ったのは、命」(気仙沼市 中2)
「つなみってよくばりだな」(気仙沼市 小1)
●釜石市、大槌町
「お母さんをかならず見つける」(大槌町 小5)
「白い煙のような波」(釜石市 中1)
「今は何がほしいのかわからない」(釜石市 小4)
「夢だったらいいなー」(釜石市 小3)
「バイバイ。おばあちゃん」(大槌町 中2)

・おわりに 笑顔の先には明日がある 森健

●グラビア16ページ
「被災地のこどもたち」(文・塩野七生)+「こども絵画ギャラ

書名:文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」 2011年 8月号 [雑誌]
著者:
ASIN:B0053VL8O8
出版社:文藝春秋; 不定版 (2011/6/28)
版型:160p /25.6 x 18.2 x 0.8 cm
販売価:800円(税込)

2011年09月18日

サンデー毎日緊急増刊『東日本大震災』

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 いい加減に涼しくなってもいいのに、9月半ばだというのにいまだに暑いのはいったいどうなっているんだろう?
 そもそもこの夏、感覚的に暑いと感じたのは、あの地震の影響による電力不足より、節電が全国的に訴えられ、冷房の温度がどこでも高めに設定されたことによる。
 それにしてもあの地震もそうだけれど、今回の台風による甚大な被害を見ると、いったい今年はどうなっているのだろう、と思ってしまう。今年もあと残り3分の1ほどあるが、これ以上何事もなく終わって欲しいと祈ってしまう。

 この雑誌は震災発生直後に緊急出版されたもので、その時見て、書き込んだものだ。なので、時間的にちょっとずれているが、そのまま書き残した。以下その文章である。


 これはすごい。特に津波が襲ってくる写真がおそろしくなってくる。こんなものが来たのである。町や村が一気に押し流されるのも当然だ。そしてその凄まじい爪痕も生々しい。本当にこれから復興出来るのだろうかと思わせるほど、その風景はひどすぎる。まさに「牙をむく」というのはこのことかと思われる。
 今も連日この地震のニュースが流れ続けるが、日がたつにつれ、その被害が大きくなり、死者や行方不明者が増える一方である。

 2011年3月11日(金)14時46分宮城県・牡鹿半島の東南東約130キロの海底を震源とするマグニチュード9.0、宮城県栗原市では震度7を記録した。その地震のエネルギーは阪神淡路大震災の約1000倍という。震源地があまりにも陸地に近かったため地震は津波を引き起こし、その高さ10メートルから20メートル級となった。後に陸地をさかのぼって到達した津波の高さ(遡上高)が37.9メートルまで達したという。
 地震に関しては今も、ほとんど毎日といっていいほど余震と思われる大きな地震が起こっている。今朝も通勤途中の電車の中で、乗客の携帯が一斉に緊急地震情報を鳴り、一瞬構えると同時に、電車が止まった。その瞬間だけ、奇妙な静寂が流れる。みんな3月11日の地震がよみがえるのだ。それくらいあの地震は恐ろしかった。おそらく地震がこれほど怖いものだと初めて実感したといっていい。
 それまで地震があっても、高をくくっていて、 “地震だな”と感じるだけで、手を休めることさえしなかった。しかしあの地震は違った。いや、最初はいつもと同じように地震を感じていた。いずれおさまるだろう、といった程度で。でも、揺れはだんだん強くなり、いつまでたってもおさまる気配がない。その揺れに恐怖さえ感じ、身体に緊張感が走る。棚のファイルは次々と落ち、棚自体も動き、コピー機も動いていた。しばらくは呆然とした、といっていいかもしれない。

 しかしこれだけでは済まなかった。帰れないのである。帰宅困難者となったのである。下手をすれば帰宅難民になったかもしれない。交通機関が全部動いていないのである。電車がダメならバスを考えるが、考えることは誰も一緒だから、ものすごい混みようだろうし、それよりも渋滞で動かないだろう。
どっちにしたって、まともに帰れる訳がないので、しばらく会社のとどまり、テレビのニュースを見続ける。
 あれこれ考えても、結局歩いて帰るしかないだろと、覚悟を決めて、自宅まで歩くことにした。おおよその見当で、2時間半ぐらいで家に着くだろう。
 まずは靖国通りに出る。駅前は人であふれかえっている。中には明らかに緊急用のナップザックとわかるものを背負って歩き、ヘルメットをかぶっている人もいた。会社で持たされたのだろう。
 予想通り車は渋滞し少しも動かない。人は歩道に、同じ方向へ歩いて行く。私もその中に加わった。靖国通りを逆に千葉方面に歩く人は多くいた。この流れにいれば方向は間違いない。
 よりによってあのとき風が冷たい日であった。身体の方は歩いているうちに、暑くなってきて、汗がにじんでくるのだが、それが風で身体が冷えて寒くなる。暑いのと、寒いのを交互に感じて歩いていた。
 とにかくまっすぐ歩いて行けばいい。浅草橋を過ぎ、隅田川を渡り、両国、錦糸町まではおよそ1時間。難なく歩けた。しかし錦糸町を過ぎた頃には、足が重くなり、張り始めた。トイレにも行きたくなる。
 コンビニをのぞいてみると、トイレの前で人が並んでいる。これはダメだな、と思い、通りの奥に入って、公園を探す。公園にはトイレがあるからだ。
 こういう時男は簡単だ。問題なく用を足し、また通りに戻り、せっせと歩き始める。
 そうそう、この時からコンビニの棚にものがなくなった。様子見の人は腹ごしらえのために、買い出しをし、歩いている人も同様に腹ごしらえのパンや水を一斉に買い求めた。私は途中自販機で水を買っていたので、それを飲みながら歩き続けた。相変わらず車は渋滞でちっとも動いていない。バスは走っているのは見かけたが、完全に渋滞に巻き込まれていた。歩く方が早い。
 やっと小松川橋まで来て、渡り始める。橋の上はさらに風が冷たい。この橋を歩いて渡ったことなど一回もない。いつもバスか車である。だからこの橋がこんなに長いとは、と実感した。歩いても、歩いても川向こうにつかない感じだ。こんなの一人で歩いていたら、とてもじゃないが平常心で歩けないな、と思いながら歩いていた。
 この橋を渡れば、私はこの通りから離れられる。しかし千葉の人々はさらに先を歩かなければならないのだから、大変だ。
 結局自宅に着いたのは10時頃、7時半に出たので、予定通りであった。
 歩いている途中自宅に何度か携帯で家に電話をしたが、もちろんつながらない。しかし全くつながらない訳でもなく、何回かかけているうちにつながる場合もある。こういう時携帯はやはり便利だな、と思う。出来るなら携帯会社も端末ばかりに力を入れずに、こういう緊急時でも回線が確保できるようにしてもらいたいものだ。
 電話がつながらないから、メールをしたのだが、かみさんの携帯にそのメールが届いたのは、私が帰ってきてからであった。もう本人が帰ってきているのに、とかみさんは笑いながら自分の携帯を見せた。帰ってから食事をし、親族に確認の電話を入れ、みんな無事であることに安心する。
 しばらくすると、いつも使っている都営地下鉄がわずかながら復旧したとニュースで流れる。一方でJRは地震があって早々とこの日の運行は全線休止すると、発表していた。つまりJRは地震のあと、利用者のためには何もしなかった。都営地下鉄が時間はかかったものの復旧できて、どうしてJRは出来ないのか、不思議であった。道を歩いている時、JRの駅前では、電車が動いているかどうか、その姿を確認している人の姿を多く見かけた。JRはこういう人たちの気持ちをどう考えているのだろう?石原東京都知事は「JR東日本の体質、私は許さない」と怒っていたが、まったくその通りだ。

 と、まぁ、3月11日の経験したことを書いた。この雑誌の最後の写真には隅田川を渡る人々の写真が掲載されている。この写真の橋かどうか、わからないけれど、私もあの時この川を渡った一人だったので、あえてその時のこと思い出して書いてみた。
 昔まだ春闘が元気な頃、交通機関がすべてストライキに入り、動かなかったことがあった。高校の時は、125CCの友達のバイクに乗って、葛西橋を渡り、大学時代にアルバイトをしていた頃は、配達用の業務用の自転車で家に帰り、翌日それに乗って自宅から新橋までこいだ。
 そして50の半ばで、歩いて自宅に帰ることとなった。まさかこの歳になってこんなことを経験するとは思わなかった。


内容紹介
東日本大震災/津波襲来/市街地炎上/爪痕/東松島市双葉町沖/ドキュメント・東京電力福島第1原発事故/岩手県/宮城県/福島県/青森県・北海道/日本各地の被害 ほか


評価
出来ない


書誌
書名:サンデー毎日緊急増刊『東日本大震災』 [雑誌]
著者:
ISBN:
出版社:毎日新聞
版型:28 x 20.4 x 0.8 cm (2011/3/24)
販売価:500円(税込)

2011年09月01日

難波 利三 藤本 義一 柳原 良平 岡田 圭二 來田 仁成他著『大阪で生まれた開高健』

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 私は大学時代に、開高健ファンになり、その著作を読みあさった。また本として開高さんの単行本を集めることに、夢中となり、古本屋を駆け巡ることとなった。今でも自宅にはたくさんの著作が棚を占めている。
 ところがある本をきっかけに、開高さんがちょっと嫌いになり、以来ほとんど開高さんの本を読まなくなってしまった。
 そこには開高さんの釣りに関することが書かれていた。曰く、開高さんの釣りは特別待遇で、普通一般の人が入れない場所で、 “開高健”ということで特別に入れ、そこで一人で釣りをし、それをエッセイとして書いている、と書かれていたのであった。
 私は開高さんのエッセイもそうだけれど、釣りに関するエッセイも好きであった。ただ晩年の釣魚紀行はあまりにも大がかりで、ちょっと芝居がかっている感じがしていただけに、こう言われると確かにそうかもしれない、と思い始めたのである。もちろん、夢やロマンスでこれをとらえればいいのだろうけど、あまりにも仰々しくなっていくと、ちょっとついて行けないな、と潜在的に思っていたのではないかと思う。だからそれをあからさまに指摘されると、今度はそれが気にかかり、それだけで収まらず、すべての点で鼻持ちならなくなってしまったのである。

 ということで、久々に開高さんに関する本を読んでみた。この本は開高さんの生誕80年記念ということで、開高さんの人物評、作品評なのだが、どちらかといえば開高さん作家になる以前に重点が置かれている。興味深い写真も多く用いられている。開高さんの実家の写真や壽屋(現サントリー)の入社時の手書きの履歴書が特に興味深かった。
 本の中では、坪松博之さん「開高健と佐治敬三 トリスをめぐる二人の冒険」の文章が面白かった。


 工作に熱中するこどもがいた。そして、この「言葉の工作」作業こそ、開高の作品づくりのひとつの特徴を示しているように思われる。それは開高作品にしばしば登場する凝縮された「鮮烈の一言半句」である。
 開高は混沌とした世の中を豊かな語彙を駆使してなんとか表現しようとする。そこには妥協はない。細かいディテールをあらゆる名詞、形容詞を駆使して描き、極端な対句を用いて物事の裏と表、あらゆる虚実を提示する。さまざまな言葉があふれ出す。読み手が疲労感を覚えるほどの手厚いアプローチである。
 そして、その言葉の到達点に凝縮された一言半句が登場する。物事の原理をひとことで貫いてしまう。読者に、ある真実を的確に伝える。鮮やかな決まり手である。もちろん、その一言半句を構成するひとつひとつの言葉は吟味され、並べられている。決して他の言葉に言い換えることができない。揺るぎない洗練がそこにある。

 その開高さんの一言半句の追求は、サントリー時代の広告を担当するにあたり、コピーライターとして修練を積んだことで生まれたものであろう。開高さんはエッセイでよく文学作品でいつも「鮮烈な一言半句」、「光った一行」を求めていたことを書いている。それがあるだけでたとえ作品がランク落ちたものであっても、それがあるだけで開高さんは評価していた。新人作家にもそれを求めた。作品の中で著者が言いたいことを一言で表現でき、しかも読み手に鮮烈に伝わる一言、それを求めた。
 しかしこれはかなり難しいことだ。そう簡単に出来るものでもないし、あるいは意識が過剰になると、逆に嫌みとなりかねない。もちろん読者にそれがどう伝わるか、その計算もされなければならない。

 しかし、小説においては、意味が凝縮された一文が加わることで作品に奥行きを与えるという大きな効果も生みだすが、一歩間違えると言葉だけが空回りし、作品全体を台無しにする危険もある。うまく消化しないと途端に説教くさくなる。一言半句の使い方は極めて難しい。もちろん言葉として独自性、スケールの大きさ、あるいは意味の深さ、鮮烈さが必要ではあるが、生まれでたものをそのまま示すだけでなく、読み手にどう解釈されるか、その言葉の効き目を冷静に把握する繊細なバランス感覚が要求される。洗練が求められる。どんなに輝きを放つ一文でも一人よがりの存在では決して効果は発揮されない。

 実は、開高が文章表現に対して課したものは「何を、どう書くか」にはとどまらない。さらに、その言葉はどう伝わるか、どう届くか、どう残るか、そこまで確実に意識が及んでいたように思われる。あるいは、それを意識したものではなく、自然に開高の心の中に内在していた才能といえるかもしれない。しかし、その意識、あるいは無意識を経て、物事の真実が初めて言葉として明確に、そして生き生きと読者の眼前に示されるのである。
 作品の中には二人の開高がいるように思われる。表現し難い物事に挑み漢文調の言葉を駆使し、時には対句的表現を用いて完全なる表現を求める。いわば「何をどう書くか」という開高と、最後の一文にみられるような平易な言葉遣いと洗練にこだわる、「どう伝わるか」という開高である。ひとつの頂きを目指してあらゆる言葉を駆使してのぼりつめようとする開高と、表現の裾野を目指して注意深く、一歩一歩下山しようとする開高である。
 言葉の鮮烈さ、輝きから一人目の開高がクローズアップされることが多いが、実は二人目に開高が居なければ開高文学は成立しない。そして、この表現アプローチこそコピーライターとして開高がトリスウイスキーの広告制作の中で修得していったものではないだろうか。


 この文章は極めて開高さんの作品の根底を言い表していると思う。ものすごく的確に表現されている。思わずうなずいてしまった。もしかしたら今まで読んできた開高健の文学評論の中で、もっと開高文学の本質をついている気がする。

 また開高さんの作品を読んでみてもいいかな、と思った次第である。


評価
★★★


書誌
書名:大阪で生まれた開高健
著者:難波 利三 藤本 義一 柳原 良平 岡田 圭二 來田 仁成【ほか著】
ISBN:9784924713987
出版社:たる出版 (2011/03/03 出版)
版型:312p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)