2011年12月31日

石橋毅史著『「本屋」は死なない』

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 この本は厳しい出版業界で「意思ある本屋」であり続けようとする書店員・書店主を訪ね、本当の意味で“本を手渡す職業”として誇りを持ちたいと日々奮闘する彼らをルポしたものである。しかし一方で今現在出版業界が置かれている厳しさは彼らの存在をある意味否定する。その狭間で彼らは自分たちがやっている本屋の存在意義を必死に求める。あるいは今の出版業界の流れに逆らえず、挫折し、そこから足を洗うことを選択するが、完全に諦めきれないジレンマを書きつづる。
 しかし読み終えてみて、著者はいったいどうしてこの本を書きたかったのだろう、と思った。今現在置かれている出版業界に疑問を感じ、自らその流れに反して、「本」を手渡す役割を担いたいと欲する人びとの根源な存在意義を探し求め、それらの人を訪ね、その考えを聞き、本に関わる人々姿をルポして、こういう書店員がいるんですよ。あるいは小さいけれど、個性的な書店があるのですよ、と言って、どこに意味があるのだろうか?

 まずは「本」を手渡す役割を担いたいと欲する人びとの根源な存在意義を、わざわざ見出さねばならぬほどの出版界の現状とはどういうものなのだろうか?この本から知ったことを書いてみる。その上で私の個人的な意見を書きたい。

 出版科学研究所の調査によれば、取次が一年間に流通させる新刊書籍のタイトル数は1982年に3万点を超え、1995年に6万点を超えた。いまは7万点から8万点に達している。その間、取次は本の保管・流通させるための倉庫を次つぎと増設し、新刊の洪水状態に対応してきた。しかし倉庫を拡張して取扱量を増やせば、その管理費用などあらゆるコストも増大する。
 はじめから無駄とわかっているなら、売れないと思う本は受け取りを拒否すればよい。それが企業として当然の対応ではないかと思えるが、広範に本を取り扱うことを使命としてきた取次は、それを実行できなかった。一タイトルあたりの仕入れ冊数は減らしてきたが、内心では「売れない」と思っている本でも、取引のある出版社の新刊は原則としてすべて受け入れてきた。
 日本の取次は、一私企業でありながら、企業としての損得だけで本を扱うのではなく、国内の出版文化を支える役割を担ってきたのである。商品であり文化財でもある「本」が抱える矛盾そのものだ。取次がこの矛盾を引き受けてきたことは、日本の出版が世界に例を見ないほど安定的に発展した原因のひとつである。
 しかし何でもかんでも取次が受け入れていけば、ますます出版業界はおかしくなっていく。そこで取次はPOSシステムを書店に繋げることで各店の売れ行きや在庫数を把握する。こうすることで無駄を省き、効率化を進めていけるからだ。これを本気で進めていかないと、出版流通はほんとうに破綻してしまうという切迫感が取次にはある。
 しかしこうして導入されたシステムは、志のある書店員の仕事をやりにくくする。自分の棚を演出し、徐々に売上が伸びてくると、今度はそのデータがPOSシステムによって吸い上げられていく。それが共有データとなり取次を通して他の取引店に流される。
 その結果TUSUTAYAなどのナショナルチェーンなどによって、よその地域で大々的に展開されていく。そうやってあっという間に広がることで、土台のしっかりした強いジャンルに成長する前に消費尽くされていく。当然このことは演出を仕掛けた書店員にとってこのことは面白くない。モチベーションを失ってしまうことにもつながる。
 またこうして吸い上げられたデータをもとにして出版社に本の企画を提案し、その商品については取次が責任を持ってはじめから大量仕入れを行い、書店に配本することも増えている。
 つまり流通業者である取次が商品政策まで手を出し始めることで、全国に一律的な本の陳列、販売を加速しつつあるのである。このことによって本の世界は自由度を失い、つまらないものとなっていく。出版流通全体がもはや自分が思うような書店員として仕事をさせてくれない次元に向かっているのである。
 本当に本を愛し、それを読者に手渡したいと思っている書店員が、他の人が目をつけていないものに可能性を見出す地力とセンスでそれを演出するのだが、それが全国的に広がり“書店発ベストセラー”となった途端、その本は多くの書店が“売らされる”本に変わる。「本」の多様性を証明する発掘が、次にはそれを否定する行為となっていくのである。
 それを実感した書店員は現状に疑問を感じ、そこからはみ出していく。それがこの本で著者が関わった人々なのである。大書店を辞めて、次の自分の行き先を探せない人や、何とか自己資金で自分の考えるような書店を小さいながら開店する人である。

 ここからは私の個人的な意見である。このように現状の書店に疑問を感じ、自らが求める姿である“書店”を開く人たちの話を聞いていると、どこか自己満足に過ぎないように感じてしまうのである。私はこうした書店というのは、必然的にマニアックになってしまうのではないか、と思う。もちろんそうした本屋さんを歓迎する人たちもいることはわかるけれど、あまりにも書店主の個性が前面に出すぎてしまう可能性があるような気がしてしまうのである。どこか自己主張が強すぎて、鬱陶しい。
 著者は書店員の本に対する心を伝えることの少ないTUSUTAYAなどのナショナルチェーンや大型書店ばかりの現状はよくないと言うが、そのどこが良くないのだろうか?
 確かにあまりにも多い出版物の中で、読みたい本が埋もれてしまっているかもしれないけれど、その中から自分の読みたい本を探し出す方が、選択肢がたくさんあり、自由度もあり、いいではないかと思う。むしろ店主の強烈な個性で選ばれた本ばかりのお店の方が怖い。そもそも本屋の良い、悪いという基準とは何なのだろうか?
 著者の言うように、著者が書き、出版社がつくり、流通業者が輸送した本を、ただ置くだけ、並べるだけ本屋がどうして悪いのだろうか?私からすればたとえそうであっても、その在庫数の多さはなんと言っても魅力的だ。そこから選ぶことができるというだけでうれしくなってくる。むしろ「この本を読め!」など、お節介なPOPがある方が胡散臭い。まして小さな店で店主の思いが詰まった本ばかりだと息苦しくなってしまう。
 ちょっと前に私は北海道の書店主が「この本を読め!」といったパンフレットみたいなものを作って、へぇ~と感心したことがあるのだけれど、しかしよくよく考えて見ると、どうしてこのように命令口調になるのだろうか、と思う。私からすれば規模の小さな本屋さんが、何とか既存の本で売上を伸ばそうとしているのではないかと思える。つまりこれらの書店は新刊書籍の入荷が思うようにならない現状と、そういうお節介が、人に「そうかこの本を読まなければならないのか」と思わせることで、その本を読んでいない自分を恥ずかしがらせ、慌てさせ、そのことで本を買わせるに過ぎないのではないか、と思ってしまうのである。
 また出版不況は「若い人が本を読まなくなったから」だと言われている。一方で文科省がまとめた読書調査によると、小学生の図書館貸出冊数が大幅に増えたというデータもある。これはいわゆる「朝どく」の実施校の増加の時期と一致する。図書館の貸出冊数が増えているという調査結果から、今の若い人は本を読んでいるという結論を導き出している。
 しかし著者はそう単純なものではないだろうと言う。ネットやゲームやテレビといった子供にとって面白く刺激の強いものがこれだけ溢れている時代に、何かしらの大人の働きかけがなければ、昔より子供が本を読むようなるむしろ不自然だ。少なくとも子どもたちに本を読むような働きかけを「出版業界」は大いに関わっているはずだ。ということは、「若者が本を読まなくなったせいで本が売れなくなったと嘆く人」と「子どもの本の貸出冊数の増加に寄与している人」は同一の可能性があると言う。
 その通りだろう。売れ筋の本が入荷しない中小書店が生き残る手段として、お節介をする。間違いなく本が売れなくなっているにも関わらず、いや子どもは本を読んでいるという結果を誘導する。
 私の住んでいる近所に「あなたの読む本はこれですよ」という情報を提供することで有名になった本屋さんがあるが、これだっておかしな話である。読者が何を読んでもかまわないのに、読みたいという気持ちにさせる本を提供できない現実を、お節介でカバーしているだけである。
 そこには読者が自由に本を選ぶことをさせない、「うちにある本だけでいいんですよ」、といった考えが見え隠れする。あるいは本は読まれているという虚構を作り上げることで、かろうじて自分を保とうとする書店主の姿が見える。その自己保身の最大のより所が「再販制」である。著者も再販制の意義をそれらしく言う。


 新刊書籍における再販制も、小売価格が事実上変動しないことによって「本」の内容部分を価格的価値から切り離し、金銭による交換をある種通過儀礼とする面をもっていたはずだ。新刊であろうと古書であろうと、職業や事業として「本」に関わる者は売上げと利益をとらなければいけない。だが、本来的には金額として価値をつけられないものにいろんな体裁や付属的な価値を与えて収益につなげるのが「本」商売なのだ。


 しかしこれもよく考えてみると、おかしな話である。どうして本だけが本以外に付加価値があるのだ。何でもそうだと思うのだけれど、モノにはそれを作った人、使う人にモノ以上の付加価値が存在するのではないか?特に思い入れのあるモノにはすべてにいえることではないだろうか。本だけ特別じゃないだろう。この考えは出版業界でよく聞くことだけれど、本だけを特別扱いするのは如何なものか、と思う。これは再販制を維持したい人たちの詭弁である。本における付加価値の存在だけで再販制が必要だということにはならない。
 ぶっちゃけた話、読みたい本が安い方が私は有難いし、ポイントが付く方がうれしい。少なくとも本における付加価値を付けるのはそれを読む人であることを忘れている。それを提供する側が付けるものじゃないと思う。

 話がすぎた。私は「本」を誰かに手渡す役割を担いたいという気持ちは、ものすごく尊いと思う。そういう気持ちで新たに本屋さんを開くことは素晴らしいことだとも思う。けれどどうもそういう気持ちが強くなる傾向が、この人たちにはある。思い入れがあればあるほどそうならざるを得ないことはわからない訳じゃないが・・・。
 少なくともこの本の著者が言うような、そういう人たちがやっている本屋さんがあるだけでも、本屋の未来は捨てたものじゃないというような発想にはついて行けない。どうも最近はそういう本屋さんの分が悪くなってきているものだから(確かに経営は厳しいだろう)、やたらそういう本屋さんのみを擁護する傾向がありはしないか。判官贔屓していないか。そこだけに本屋のあるべき姿が見いだせるような言い方はおかしくないか。
 結局その本屋さんにどういう本があるかである。自分の趣味や興味のある本が置いてあれば、いい本屋さんだという人もいるだろうし、新刊が必ず手に入る書店がいいという人もいるだろう。話題になっている本がたくさん置いてあればいいという人もいるだろうし、私みたいにいろんな本がたくさんある本屋がいいという人もいるだろう。あるいは本は読みたいけれど、本屋が近くにないとか、行く時間がないとかいう人はネット書店を使うだろう。読者が置かれている状況で多様化した本屋の姿があっていいと思うのだ。自分の思い入れだけで、これがいい本屋さんだとか、志のある書店員だという著者の言い方が気に入らないのである。“顔の見えない書店”でも人によっては、あるいは私みたいなへそ曲がりには、有難い本屋なのである。この本の著者が酒の席で、“顔の見えない書店”が多くなっていることで出版社の営業部長に食ってかかっているとき、その人は「俺たちはそういう店(ナショナルチェーンや大型書店)のおかげで食えている」のも現実であり、そのお陰で本が多く出版され、また読者に幅広い選択肢を与えてくれているのである。
 本を提供する側の思い入れと読む側の思い入れと一致するとは限らない。本の良し悪し、あるいは面白いか、そうではないかはまったく個人的なものであって、普遍的なものがある訳じゃない。だって読む人一人一人違うし、考え方、感じ方が違うからだ。まして読む人が置かれている状況によっても同じ本でも感じ方が違うのだから、命令的に本を提供するなんてとんでもない話だと思っている。はっきり言って度の過ぎた本の提供の仕方には僻僻してしまう。書店主の個性が強烈に反映した本屋があることだけで“本屋は死なない”など言うのは単に彼らを擁護しているだけである。


評価
★★


書誌
書名:「本屋」は死なない
著者:石橋 毅史
ISBN:9784103313519
出版社:新潮社 (2011/10 出版)
版型:269p / 20cm / B6判
販売価:1,785円(税込)


 今年はこれで最後となります。今年はいろいろなことがありました。3月11日の東日本大震災や津波、原発事故と、我々の意識をいやが上にも変えざるを得ないことが起こりました。私も気持ちの上でとことん打ちのめされ、これからどうすればいいのだろうか、と悩みました。その結果手につかないことも多くあり、このブログも半年ほど休みました。それでも私は本を読むことが生き甲斐であり、その中から何かを考えることしかできない人なので、こうして拙い文章を綴ることにしました。私の文章を読んで、意見を同じくする人も多少おられるかもしれませんし、あるいは“こいつ何を言っているんだ”と思われた方もいらっしゃるかもしれません。でもこれが私の本の接し方であり、このスタンスでしか本に接することが出来ません。そして来年も同じように本を読んでいくこと、これだけは間違いありません。それでもお付き合いくださるのであれば、有難いです。一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

2011年12月30日

北尾トロ著『駅長さん!これ以上先には行けないんすか』

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 トロさんの本を読む。トロさんの本はいわゆる“企画”が勝負なんだな、と思う。人がやらないことで、でもどこか気になると言えば気になることを企画に取り上げ、それに自ら参加し、このように本にしていく。今回もそうだ。


 線路は続かないよ、どこまでも。
 時刻表をつぶさに見れば、終着駅がどこにもつながらない鉄道があちこちに発見できるはずだ。
 諸般の事情でそれ以上先へ延びることは許されず、レール止めによって行く手を阻まれた鉄道路線。錆の浮いた鉄の断面を悔しげに見せながら、オノレの置かれた立場や情況を悲しみとともに受け入れ、延々とつながってきたレールの最終地点を受け持つ最後の一本の姿をしっかりと見届ける。見届けずにおくものか。その精神で、どんどん鉄道旅をしたいのである。


 これが今回のコンセプトだ。要するにどこにもつながらない路線の終着駅の先はどうなっているのか?はたまたどうしてここで行き止まりなのか、その理由を悲しげに探る旅である。まぁ本当はその先に延びる計画はあったのだが、大体が経営的理由で線路はここで終わってしまったというのが多い。その路線がかろうじて生活路線として生き延びていて、そこを旅している。
 しかしこうした路線を旅するのは時間を贅沢に使う。そこまでに行くのが大変だし、行ったはいいが、接続がないため、帰って戻ってくるしかない。しかも電車はものすごい間隔でしか走っていないから、時間を要するわけだ。このあたりは普段我々が使う路線がきちんと接続されているものという意識を、そうじゃないんだよ、と教えてくれる。


 便利な電車たちは行って戻ってまた行って、ひたすら沿線を往復する。で、終点に着いたら別の便利な路線にバトンタッチして乗客をどこまでも連れて行く。路線が変わるだけで、便利な電車たちはネットワークを作っている。
 一方、行き止まり鉄道は各線ごと独立路線。かろうじて片側だけネットワークに参加しているけれど、小さな拠点の住民たちと運命共同体のように生きていて、重心は終着駅側にある。この路線があるから終着駅の町がある。この町があるから路線の役目がある。存在理由がはっきりしているのだ。


 だからこうした行き止まり路線に乗っていると、「いかにも物足りない気分である。便利さと快適さを追求して忙しく暮らす人々の足となる路線と、中央へとつながるパイプとして継続を第一に運行されるいきどまり鉄道が別の乗り物に思えてしまうのだ」とトロさんは書いている。
 でも逆に行き止まったおかげで古い文化の匂いが残って、人々の生活もその鉄道と密着していると感じることができる。それが各行き止まり路線の記述を読んで思ったことであった。生活感が直に感じられていい。美味しいコーヒーをうたっている喫茶店に入ったはいいが、そのこだわりのサイフォンコーヒーのまずさに呆れたり、期待していなかった駅前の中華食堂のラーメンが期待以上の美味しさであったり、B級グルメを目指すカレー蕎麦が、カレーの味に負けてしまって、蕎麦であることに意味がないことに呆れたり、駅前に本屋が続けて二軒もあることに感動したりする。
 本屋さんが駅前に二件もあることに感動した理由がふるっている。ちょっと書き出してみる。


 「小さな構えとはいえ、複数の書店がやっていけるということはだ・・・・」
 そのココロは、一定の住民が暮らし、地元の書店で本を買うということだ。本を入手するだけならロードサイドにある古本屋で用は足りるしネットもある。持ち家で営業するにせよ、一軒だけも存続するのが大変なご時世に二軒も健在なのは、住民が意識的に地元で調達しているとしか思えない。
 もうひとつ、地元に根を下ろした書店は教科書販売という武器を持つ。つまり、子どもがある程度いると考えられる。子どもが少なければ高齢化は進む一方で暗くなる。でも、ここは違う。おそらくそれが鯨ヶ丘の活性化を下支えしているのではないか。


 なるほどその地域に書店がいくつあるかが、その地域のバロメーターになるんだ、と思った。なかなか面白い。子どもが本屋でコロコロコミック(まだあるのかな?)を買い求めて走る姿が眼に浮かぶ。
 とにかくこうした行き止まり路線の旅は、一方で現代の旅の姿を浮き彫りにする。特にスピード化だ。トロさんは次のように言う。

 東北新幹線が青森まで開通。めでたいことだ。札幌から鹿児島まで新幹線だけで移動できる日も近いというではないか。すごいことだ。でも何がすごいのか、よくよく考えてみると、時間短縮くらいしか思いつかない。リニアモーターカーのすごさも、突き詰めると速さだ。
 でも、速さが求められるのは急いでいる人がいるからで、そんなに急いでいないのであれば値打ちは半減する。それでも人はスピードに憧れるものであるから、速さは善、速さは最新ということになってしまう。いつの時代も「のんびり行こうよ」がキャッチフレーズになり得るのは、それが少数意見だからだろう。


 でもいつもいつもスピード化を求められている社会が果たしてどこまで幸せな社会なんだろうと思う。急げば急ぐほど、それは余裕のなさを物語っているんじゃないか、とも思う。ここにも価値観の見直しがあってもいいような気がする。


評価
★★★


書誌
書名:駅長さん!これ以上先には行けないんすか
著者:北尾 トロ
ISBN:9784309020303
出版社:河出書房新社 (2011/03/30 出版)
版型:236p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2011年12月21日

森田功著『やぶ医者の一言』

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 今まで手に入る文春文庫を読んできた。今回は集英社文庫である。『やぶ医者の一言』というように、今回は短い文章の中で、最後に森田さんの一言が加えられていて、それが森田さんらしい。前回がちょっとと思っていただけに、これは楽しく読めた。森田さんの診療に見える患者さんを通して、町医者とは、病気とは、医療とは、何なんだろうと思われるあたりは、森田さんらしくて良かった。いくつか書き出してみよう。ほとんどの文章で森田さんが最後に呟く一言である。


 町医者は喘息ばかりとは言ってられず、交通整理のお巡りさんのような役割を果たさなければならない。


 医者には後悔がつきものと思いなおすが、通夜の席は被告席と変わりない。私は箸を握り、盃をもったままうつむいて、時を過ぎるのを待った。


 医療を含めて、西欧文明というものを、根底から見なおす時にきているのではなかろうか。


 花粉症は、排ガスに枯らされた杉の木が、適を討っているように思えてならない。


 親戚の人たちの意見は二分したらしかった。死にかけた者を助けた、というのと、助かる者も見分けのつかないやぶ医者、というのだった。


 心配代行業も町医者の仕事らしい。


 薬を計る手は、毒物を計るように慎重であらねばならないと自戒する。


 祖父の、一見でたらめな育児に、誤りはなかったようだ。子育ては百の議論より心であると思う。


 余計な病名ばかり心配するより、つまらない症状でも正しく伝えることが、診察を受ける際には大切であろう。
 ものを言わない動物相手の獣医さんは、さぞかし診断が難しかろうと思うが、逆に犬や猫を連れた飼い主は、病人以上に口やかましいものらしい。


 広く浅い知識で、何の相談にも乗らなければならない町医者は、大病院の専門医がしみじみとうらやましい。


 と、いろんな患者の言うこと、症状を診なくてはならない町医者は、愚痴もこのようにこぼしたくなるだろう。地域に密着している分そこにいる人たちの目に絶えずさらされていなければならない分、その精神的苦痛は大変だろうと思われる。町医者は“心配代行業”というのもそうであろうし、患者さんの通夜に出席すれば、その席が“被告席と変わりない”と感じるのも、大変だなと思うのである。

 森田功さんの本はこの本を含め続けて5冊読んできた。しかしこれで森田さんの本は最後にしようと思っている。私たちはかかりつけのお医者さんをたぶん持っているだろうし、ちょっと調子が悪ければ、すぐかかれるお医者さんを持っているはずだ。そのお医者さんの苦労をちょっと知ることが出来たので、何でも思うようにいかなかったら「やぶ医者め!」と思うのはちょっと控えようかな、と思うようになった。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者の一言
著者:森田 功
ISBN:9784087483659
出版社:集英社 (1995/07/25 出版)集英社文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月15日

森田功著『やぶ医者のねがい』

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 この本は今まで読んできた3冊とは多少感じが違っている。それまでの本は、自らの診療所に来る患者さんや、著者の近所に住む人たちを通して、病気を語り、医療を語り、人を語っていた。
 ところがこの本はそうしたスタイルを維持してはいるものの、そこから導き出される著者の意見は、大きな課題を、社会の問題、医療の問題、死の問題をとして、多少上から語っているきらいがある。例によっていくつか書き出してみよう。


 抗生剤は進歩したが、病気は薬だけ治るものではなく、基本は体力、いわゆる自然治癒力に頼るところが大きい。病気と戦うのは体であり、薬は応援団のようなものでしかない。


 でも、日々の診療活動の中で、ちょっとどうなんだろう、と思われる大きな問題、例えば学校の健康診断で、確かに児童の健康や病気の可能性がある児童をとにかく病院にかからせる体質は、別問題もあるんだと指摘する。それが次のものである。


 後日、医師会か何かのときに、副会長の取り巻きのような耳鼻科医は、「学校検診のおかげでしばらく助かりますよ」とささやいているのを耳にした。「治療のすすめ」には、儀式の他の意味もあるようだ。


 これは別に学校の集団検診に限らず、どこでも行われている健診でも同じだろう。検査の結果次第で、多少疑いがあれば、すぐ病院に行って詳しく検査してもらえ、という通知は、その地区の病院を儲からせているだろうな、と推測出来る。検診の結果異常の可能性があると書かれれば、誰だって心配し、病院に行かざるを得ない。それはそれで本当に問題があった場合、早期発見などに役立つわけだから、意味はある。それは否定しない。けれどここの副会長の取り巻きのような耳鼻科医が言うことも事実なんだろうと思われる。実際問題、再検査の結果大したことがなければ、検査費用をふんだくられて、いったい何なんだ、と言いたくなる。でも、健診が裏側の面から見ると、医者の食い扶持を稼がせているとしても、こればかりは仕方がない。もし再検査して本当にその病気のであった場合、逆に良かったということにもなる。ただあからさまに医者側にこのようにささやかれていると聞くと、腹も立ってくるだけである。
 また学者言ったことが行政の認可や許可を受けて、当たり前の治療法であっても後になって、それは間違いであったというのはこれもよく聞く。著者はこれに関して次のように言う。


 何事かが起こるたびに、学者は安易な対策を口にし、行政の責任者は太鼓判を押すが、誤りが明白になったあとで、学者や行政が責任をとったという話を聞いたためしがない。


 ただこれだって確かにそうだけれど、その当時はそれが一番の治療方法であって、他に治療方法や薬が見つからなかったのだから、ある意味仕方がない。科学の進歩が絶えず過去の治療方法を検証していくから、そういうことになる。たぶんこういうことはいつの時代にもあることだろう。そのたびに責任の所在を求められれば、学者はやって行けまい。医者にしてもそうであろう。その時最善の治療法であったものが、後に間違いであったと否定され、責任を取らされるなら、たぶん医者なんてやっていけないんじゃないかと思う。
 ただ一番困るのが患者である。そしてそのことによって患者が医者を責め、その診療科の医者のなり手を少なくしてしまい、結局患者が自分で自分の首を絞めることになってしまうのである。今小児科や産婦人科が少ないのもこんなところにあるんじゃないだろうか。
 問題を提起するのはいいけれど、むしろ言い放しの方が、無責任のような気がする。このあたりが今までの森田さんらしくない。
 次の文章も皮肉だけで済まないところが感じられた。マッサージ師がマッサージをしていて触診で病変を発見した。それは大病院で大げさな検査をしても見つからなかったことであった。それをこのように書く。


 面目を失墜したのはX病院であった。現代の技術の水を尽くした精密検査で見逃した病変が、マッサージ師の手先で発見されたのである。何の元手もかからない触診が、何億円もの検査設備を凌駕してしまった。


 これまでもこのような文章は書かれてきた。その時はそれまでの森田さんの書かれる文章から、町医者の限界を肯定した上で言われていたし、自らもひがみやねたみだと言ってきていた。だからこのように言われても、確かにそういうこともあるよね。何でも大病院が、あるいは設備の整った病院の方が安心とは言い切れないかもしれない。でも患者とすれば、徹底的に調べてくれる病院を選択するに違いない。それは仕方のないことだと思う。決して町医者を馬鹿にしているわけじゃないのだ。それを設備の整った病院を選択することが一概にベストの選択とは言い切れないというような言い方は如何なものかと感じてしまった。その点が気になった。森田さんらしくない。町医者のねたみだけとは感じられなかった。
 で、それはどうしてなんだろうかと考えてみた。今回森田さんの体調の悪さがやたら出てくる。元々ぜんそく持ちで、アレルギー体質で、それに苦しみながら患者さんを診てこられてきた。時には患者さんの方から「お大事に」と言われる始末である。
 でも今回はそれが悪化し、老齢という問題もはらみ、自らの進退を考えなければならないところに来ておられる。要するに診療の存続、自らの死の問題をどうしても見つめざる得ないところまで来ていたのである。だから笑って済ませられないところが数多く出てきてしまったのだろう。そう思う。特に後半は死に関しての記述が多いのもそのことを物語っている。


 男の平均寿命が八十歳の近づいた今、それまでに死ぬのは不届きだと言わんばかりの風潮があるが、人それぞれ寿命がある。誰もが平均寿命までと、天寿まで管理されることはあるまい。


 いまさら言うまでもないが、一日生きれば、それだけ多くの他の生命を奪うことなる。生命は相互に依存する、というのは、人間の勝手な思い上がりである。人は他の生命を収奪することでしか生存でいない。


 すべて仕方がないのかもしれない。でもちょっと残念だな。それまでの森田さんの文章にあるユーモアとシニカルさが気に入っていたので余計である。もっとも勝手なことを言っているのは私なのだが・・・。
 森田さんは大腸癌で亡くなられている。遺言により通夜、葬儀は行われず、遺体は献体されたという。


評価
★★


書誌
書名:やぶ医者のねがい
著者:森田 功
ISBN:9784167393052
出版社:文芸春秋 (1998/10/10 出版)文春文庫
版型:254p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月13日

森田功著『やぶ医者のなみだ』

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 ここでも町医者として開業医の苦労が書かれている。いくつか書き出してみる。


 もののはずみのふとした勘違いが、人の生命にかかわる。とくに開業医は、あらゆる事故の責めを自分一人で負わなければならない。いつ世間の非難を浴びて夜逃げという事態にならないか、いや、投獄されるようなことになりはしないか、毎日が薄氷を踏む思いである。


 二十年あまり前に私が開業したころは、往診を頼まれるとすぐ引き受けた。来院されると困る麻疹など、伝染病の多かったせいもあるが、実のところ開業資金を返すために、一軒の患家でも増やし、少しでも稼ぐ必要に迫られてのことだった。
 借金に追われなければ働かないのかと、われながら浅ましい気もするが、保険の往診点数が上がるにつれ、たのまれる件数が落ちたのも事実である。初め往診料は整髪料の半分でしかなかったが、現在は二倍近くなっている。
 実際当時と比べると医療設備が整い、検査は格段の進歩をとげた。歩けないほどの病気であれば、手当てをしながら検査をするために、入院が常識となった。そのせいもあって往診は減った。


 毎夜のように私は紹介状を書いている。紹介というよりは依頼である。あちこちの病院に、検査や治療を頼む。病院のお世話にならなければ、今では町医者の設備や技術だけではどうにもやっていけない。
 ひと昔前の町医者には、聴診器と血圧計があるばかりで、レントゲン装置さえなかった。


 機械は置いただけでは役に立たない。診断に活かすためには、それ相応の学習をしなければならない。設備投資もさることながら、勉強して機械を使いこなすまでの苦労が、町医者の片手間にはこたえる。


 こうして書かれれば、確かにそうだろうな、と思う。病気だって、ちょっとしたことでもすぐ病気にしちゃうものだから、たぶん一昔前より増えているんじゃないかと推察する。その治療方法も日進月歩だろうから、その勉強も大変だろう。診察するに当たって最新の機器を使っていないと、患者からそっぽを向かれかねない。薬の種類だって、ものすごい量に増えているに違いない。
 森田さんは次のように書いている。


 診断について、問診や視診、打聴診から病名を予測し、それに従って検査を進めるのは時代遅れだという意見がある。ひととおり検査して、検査結果に異常があったところだけを考えればよい、というのである。
 この意見に従うと町医者の存在理由がなくなる。中規模の病院も、ますます大病院化を志向しなければならない。
 医療を受ける側にも、この傾向を促進する責任があるのではないか。病院のよしあしを設備の有無で判定し、「CTがないのは病院ではない」ような言いかたがされる。


 確かに患者である我々も、町医者を信用できないとすぐ専門医と最新の医療機器がある大病院を志向する。その結果必要以上の検査をされ、検査でふらふらになってしまうのだから、この点はちょっと考えないといけないような気がする。少しでも健康で長生きしたいのは誰でも同じだろうけど、歳を取れば身体に異常が出てくるだろうし、そして人はいつか間違いなく死ぬのである。それを医療技術の進歩で多少時間を遅らせたとしても、その結果苦しい検査を受けなければならないし、死ぬことさえ、身体中にチューブが巻きつけられ、そう簡単に死なせてくれない。ぎりぎりまで心臓は動かされるのである。それが日本の最高の医療なのである。
 この本の解説は立川昭二さんが書かれているが、そこには次のように書かれている。


 それには、かならずしも最新の機器をそなえた最高の医療である必要はない。それはその病人にとって最善の医療であればいい。
 「最高」の医療と「最善」の医療とはちがう。
 最高の医療がかならずしも最善の医療ではない。そして最善の医療のほうが最高の医療よりむつかしい。そして私たちは、どちらを望むかといえば最善の医療のほうを望んでいるのである。森田さんは、このむつかしい、そして私たちがいちばん望んでいる最善の医療をやってくれる「お医者さん」なのである。


 その最善の医療を施してくれるお医者さんが永いこと往診していた八十六歳の女性を自宅で見送る場面を描いた「泣き虫」という文章がある。


 駆けつけてみると、下顎で空気を集めて飲みこむような、ゆっくりとした臨終の呼吸であった。もはや見せかけの注射をする暇さえなかった。
 すまさんの手を握った子息が「ほら、ぬくもりが消えてゆく」と、嫁や孫に呼びかけた。私は蒲団に裾に座り、膝頭を両手でつかんでうつむいた。
 「おばあちゃん」「お母さん」と口ぐちに呼びかける声を聞いていると、涙が手の甲に滴った。泣き声をこらえようとして、のどの奥で鶏の鳴くような音がした。これほどつらい仕事が世の中にまたとあるのだろうか。毎度まいど涙をこぼしながら、誰か代わってもらえないものかと思いつめる。


 こういう文章を読むと、人の病気や死に付き添ってくれるお医者さんというのが有難いな、と思う。けれど、こういうのもなかなか難しい世の中になりつつあるんだろうなとも思う。世の中あらゆるところで、効率やスピードを要求するのだから、人の病気や死も、右から左へと次から次へと処理されても、ある意味当然のような気がする。効率やスピード、利便性を競争すればするほど、そのほころびが人間の尊厳を軽くしていく。そこに利益という考えが加われば加わるほど、ますます人間の尊厳が軽視される傾向になるのはやむを得ない。
 設備のある程度整った病院付近で、胃を取られた人が多いと書かれ、そこは無胃村と呼ばれているらしい、と書かれると、笑ってばかりいられない。ちょっと考えてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者のなみだ
著者:森田 功
ISBN:9784167393045
出版社:文芸春秋 (1997/08/10 出版)文春文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月05日

森田功著『やぶ医者のほんね』

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 初七日の前後、道で姿を見かけた夫人が用のないはずの路地へ曲がっていったが、うなだれたまま目礼も返してくれなかった。
 非力な医療を恨むことが、多少でも夫人の悲しみの軽減に役立つならばと、私は自分に言い聞かせたが、甲斐のない町医者の働きがわれながら哀れであった。


 この文章は森田さんが診ていた心疾患の患者さんが、甲斐なく亡くなってから、その夫人と道でばったり出会った時のことを書いたものである。夫人からすれば、もう少ししっかり診てくれれば、という気持ちの表れなんだろうと思う。もう少し町医者がしっかりしてくれれば、死ななくて済んだかもしれないという気持ちは、病気で失った人を思う余り、そう思いたいのはよくわかる。
 私の父親が母親を亡くした時、かかりつけの医者がもう少ししっかりしてくれれば、もっと早く癌を見つけることが出来たんじゃないのかと恨みがましく言っていたことがあるのを思い出す。何のために毎月通っていたんだ、とも言っていた。でもそれって、今にして思えば、父親の悲しみをその医者にぶつけていただけのことじゃないかと思う。そうすることで、悲しみのやり場をそこへ持っていったのだろう。だからそれは身内に言う愚痴だったし、この夫人も自分の悲しみを森田さんに見せただけであろう。
 ただそれがわかるから森田さんは、「夫人の悲しみの軽減に役立つならば」、と夫人の態度に耐えたのだ。仕方がないと。でもこれって苦しいだろうな、と思う。しかし町医者の限界というのがあるだろう。なんでも大病院だったら助かるかもしれないという患者の思いに対して、森田さんが町医者としての自分の気持ちを隠さないところはいい。


 「二カ所の大学で手術しなければと診たてた病気が、放っておいたら治るとは、どうなっているのだ」
 受話器の中で村上が罵るのを聞きながら、私はいく分は痛快な気分を味わっている。雲の上の存在のような医学部教授に向けた悪態は、胸がすく。

 医学部教授の誤りに対して、鬼の首でも取ったようにはしゃぐのは、町医者の劣等感の裏返しなのであろう。


 いずれにせよ、どう転んでも町医者は、その限界をいつも感じつつ診察をしなければならないものなんだ、わかった。町医者は個人で開業している以上、リアルに生死を突きつけられ、場合によっては、直に訴えられかねない危機さえいつも抱えているのである。


 自分の半生は刑務所の塀の上を歩いてきたようなものだという政治家がいたが、罪人にならないまでも、どちらに転んでも不思議のなかった場面が、私の半生にも幾度かあった。


 それでも森田さんは次のように書く。


 狭い塀の上を、落ちたのか落ちなかったのか、とにかく現在の町医者にたどり着いて今日まで来てしまった。学問上の業績からは遠く、地位名誉には何の縁もない、だが私はこのまま、この地で生涯を過ごしたいと念願している。


 ところで私は毎日胃腸の薬を服用しているので、森田さんの薬に関する記述は気になった。森田さんは薬に関して次のように言う。


 薬は心理的な効能もあり、飲んだり注射しただけで効いたような気がする場合が多い。


 これ、よくわかる。

 結局いつもの薬を飲むことが、特別その薬が命に関わるもの以外、案外その効能よりも、森田さんの言うように「心理的な効能」も馬鹿に出来ないように思う。飲んでいれば安心、というのがあるじゃないですか。
 次の森田さんの患者の薬に関する会話が面白い。


 「また同じ薬か」

 「同じ薬が続けられるほどいいんだよ」

 「一度飲んだだけで、がばっと治ってしまうような薬はないものかね」

 「今のところはまだないが、そのうちできるだろうから、現状維持に努めるのがいちばんだね」

 「気の長い話だな」

 「一病息災とも言うし、腹を立ててはいけない持病というのは身のためじゃないか」


 森田さんは“一病息災”という四字熟語を持ち出して、そのための薬は「長い将来を考えれば、薬は増量しないことにこしたことはない。少しばかりの薬を続けるのは、本人が病気を意識し管理してゆこうという自覚を持たせる意味もある」のだと書いている。なるほど!そうかもしれないと思った次第だ。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者のほんね
著者:森田 功
ISBN:9784167393038
出版社:文芸春秋 (1996/03/10 出版)文春文庫
版型:249p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月01日

森田功著『やぶ医者の言い分』

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 私が森田功という人物を知ったのは、吉村昭さんの随筆からであった。この人の詳しい経歴は知らないが、吉村さんの文章を読むと、順天堂大学医学部の病理解剖を長いことされていて、その後三鷹台で診療所開き、町医者とその後の人生を過ごされた。吉村さんは森田さんをかかりつけとしていたという。広島で原爆被ばく経験を持っておられる。
 とにかくその文章を読んで、森田さんがエッセイシストでもあり、いくつかの著作もあると聞いて、読んでみたくなり手にした本が5冊である。『やぶ医者』シリーズといっていいのかも知れない。(いずれも今は新刊書店で手に入らないので、ブックオフとアマゾンのマーケットプレイスで購入した)

 私は自分が胃腸の調子がおかしくなるまで、医者というものにかかったことがほとんどなかった。だから町医者についてそれほど考えたことがなかった。かかりつけのお医者さんというのに、長いこと縁がなかったといっていい。けれどこうして歳をとって、胃腸の調子が芳しくなって、まずは近所の診療所やクリニックなどへ通った。苦しい胃カメラや大腸の内視鏡検査を我慢して受けてきた。病名は十二指腸潰瘍だとか、逆流正食道炎とか、内視鏡検査で、胃と十二指腸の間に、昔あった潰瘍が小さなこぶみたいになっていて、通りが悪くなっているとか、いろいろ言われた。いずれも胃腸科とうたっているところであったが、長いこと通っても一向に改善する雰囲気はなかった。
 病名が変わるたびに、あるいは病院を変わるたびに、薬が変わり、数も増えていったりする。そして今通っている胃と腸の内視鏡専門医のクリニックに落ち着いている。
 こうして、何度か病院を変えてみて、わかったことがある。診断というのはある意味ドクターの主観であるのではないか、ということである。特に内科ほそうじゃないかと思う。もちろん診断を下すには、それなりの知識と経験の裏付けがあってのことだとわかっている。でも、はっきりとした病巣が目に見える形であればともかくとして、私みたいななんだかよくわからない症状は診断が付きにくいのであろう。
 それでもはっきりした病名をつけなければ、保険請求もできないし、治療方法も決まらないし、薬も決まらないはずだ。そこで診断を下すに際して、かなり悩まれるだろうことは推測できる。ただその診断が大きく間違っていなければいいが、誤診まではいかなくても、治療方法や薬の選択に違うチョイスがあったのではないかと悩まないのだろうか、と常々思っていたところ、森田さんが町医者の心境をこう書かれている。


 どんな仕事をしていても運不運というものはついて回るが、町医者を開業してから二十年余り、ふしぎと私は幸運に恵まれてきた。
 なんとか今までは持ちこたえてきたものの、いつ運に見放されるかわからないという不安はたえず心の底にある。
 深夜目がさめて救急車の音を聞くと、もしや自分の診た患者ではと不吉な想像を巡らさずにはいられない。町医者をしていればいつでも、二、三人は気がかりな患者がいる。


 自分が診断した患者が、診断通りあれば、それでいいけれど、はたしてそれで間違いはなかったのか絶えず不安に駆られることがいくたびか書かれている。だろうな、と思う。いろんな患者を安心させたり、注意をしたりしているけれど、


 ひとの心配を肩代わりするのが医者の仕事かも知れないが、氏が安心して帰ったぶんだけ私は気が重くなった。やはり血液検査ぐらいすぐすべきであった。胃の透視も二、三日のうちに約束しておけば良かった。ひと月で三キロも痩せるのはただごとではない。考えれば考えるほど不安は大きくなってくる。


 こういう不安に絶えず悩まされるという医者は、自信がないなら話にならないが、そうじゃなくて、人の身体のことである。何が起こるかわからない。また一つの症状で判断を迫られる訳だから、“これだ!”という確実なことが言えることなど少ないのではないか。それに吐露する分この先生は良心的だと思うべきなのだろう。まして町医者である、いつも患者の顔が見える立場の人だから、余計に慎重になるはずだし、その責任の重さが不安を残すのだろう。

 また次の文章は素直な気持ちとして嬉しい気分がよく出ていて、私は気に入っている。


 病状が回復に向かったと聞くのは町医者にとって何よりも嬉しい。お陰さまでと付け加える人がたまにいるとなおさらだ。病気が治るのは医者のせいよりも、むしろ体に備わった自然治癒力に負うところが大きいから、感謝されても面映ゆいだけなのだが、それでも心が弾む。

 と書かれる。医者である自分の診断や治療方法が病気を治したと思うのではなく、病気が治るのはあくまでも自らの“自然治癒力に負うところが大きい”と書かれたことは、私もそうじゃないかと思っているところがあるので、やっぱりと思うのである。


 最後に薬の飲み方で気になったことを書く。森田さんのところに来る患者が、薬が効かないと言う。で、カルテを調べてみるともう薬がないことがわかるが、その患者はまだ薬は残っていると言うのである。毎食後飲む薬みたいだが、その患者は朝食べないので1日2回しか服用していないというのである。確かに朝食を食べない以上、食後30分後というわけにはいかないだろう。ちゃんと決まった時間に決まった量の薬を飲まないと効果が出ないと思われるが、この場合どうすればいいんだろう?特に若い人は朝食を抜く人が多いだろうから、この人達はどうしているんだろう?
 もっとこうした若い人は、薬など決まった時間に飲まなくても、若い分自らの自然治癒力で治せるのかもしれない。逆に慢性疾患の人はそれこそ自分の身体に気をつかうから、朝食を食べないことが少ないに違いない。むしろ薬を飲むために、食べられない朝食でも無理して食べるかもしれない。
 ところで私は今、漢方を毎食30分前に飲んでいるが、漢方は毎食30分前に飲むものが多いと聞いたことがある。なぜ漢方は毎食30分前何だろう、と思っていたら、その答えが書かれていて、納得した。


 昔よく用いられた漢方薬には、食前三十分と指示されたものが多い。草根木皮や獣の骨などを成分とする生薬は、調理された食品に比べると消化吸収が悪い。薬の吸収をよくするために、食前の三十分ほど前にとされたのだろう。

 ということらしい。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者の言い分
著者:森田 功
ISBN:9784167393021
出版社:文芸春秋 (1994/06/10 出版)文春文庫
版型:237p / 15cm / A6判
販売価:入手不可