2012年01月30日

日垣隆著『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』

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 この本は書名通り、電子書籍と紙の本について書かれたものと、著者の日々の思考作業を様々な事例を元に書かれている。後半は私にとって、それほど興味は湧かなかったけれど、電子書籍と本に関する意見は面白かった。
 ここで著者は「2010年は電子書籍元年」と言われ、これからはこうしたデバイスが主流になり、紙の本が駆逐されるような風潮、それって、本当にそうなの?と疑問を呈する。
 そして電子書籍やipad関連の本がよく売れていることあげ、「微笑ましいのは、『紙の時代は終わる!』という趣旨を強調しすぎるこれらの読み物が、ほぼ例外なく「紙の本」で売られていることだ」と笑い飛ばす。
 確かに電子書籍、電子書籍と騒いで取り上げているのは紙の本や雑誌だ。そして電子書籍のコンテンツはそれ専用のオリジナルではなく、本として出版されたものをわざわざデジタル化して売り出していることに、意味があるのか、と言うのである。
 著者は仕事柄、多くのデバイスを使い、電子書籍に接してきて、次のように言う。


 私は電子書籍を読むデバイスを10種類以上買って実際に読んできました。あんなもの使って、長い本を最初から最後まで読まないでしょ?というのが率直な感想です。iPhoneやキンドルで『カラマーゾフの兄弟』を最初から最後まで読むのは、拷問以外の何ものでもありません。


 さらに、


 『源氏物語』をiPhoneで読んでいる人がいたら「なにかの罰ゲームですか?」と訊いてしまいそう。


 とまで言う。
 アマゾンで出しているキンドルは目に優しい設計らしいが、それでも普段パソコンで仕事をしていて、なおかつデバイスで本を読んでいたら、日本人の視力はますます悪くなることは間違いない、とも言い切る。
 要するに本としてのメディアが存在するのに、それをわざわざ電子書籍用のデバイスで読んでも、ただ目を悪くするだけだと実際に使ってみた感想を言うのである。
 キンドルやiPadを“黒船”みたいに扱う日本の出版業、あるいは「これからは電子書籍だよ」という一辺倒なニュースを垂れ流すマスコミに、ちょっとおかしいんじゃないの、言うのである。著者は一部ITバブル評論家が言うように電子書籍は急激には進行しない。その理由を著者特有の皮肉を交えて言う。その言い分を聞いてみよう。


 まず1日は24時間しかない。8時間寝て、10時間働き、通勤に2時間。食事や飲み会、おしゃべりが3時間だとすれば、合計23時間。残りは1時間しかない。メディアは、たった1~2時間の細切れの時間を争奪しているだけだ。メディアはそうした可処分時間の奪い合いしているだけで、本やテレビ、新聞は所詮ニッチ産業ではないか、と言うのである。
 Wikipediaによると、ニッチ( Niche )とは直訳すれば「隙間」や「くぼみ」の事であり、もともとは生物学で生態的地位を表す用語である。ニッチ市場(にっちしじょう)とは市場全体の一部を構成する特定のニーズ(需要)を持つ規模の小さい市場のこと、と書かれている。要するに隙間市場ですね。元々その程度の市場である。そこに既存のメディアが競い合っているだけで、それがキンドルやiPadに取って代わるといっても、その程度の話なのである。
 さらに本をきちんと自分で選んで読める人は、日本に総勢で(各分野で多く見積もって)20万人くらいしかいないのではないか。電子書籍とそのデバイスの普及は、せいぜい本のヘビーユーザーたちに行き渡ればそれでおしまい、という市場規模であることは忘れないほうがいい。と言う。
 しかもそうしたヘビーユーザーたちが好む本は、おおむね頁数が多い。文学書、歴史書、専門書、学術書、古典・・・・すべて電子より紙の方が読みやすい。もともと本としてあるのだから、わざわざ電子書籍を読む必要性がどこにあるというのか?わずかな可処分時間の為に読みづらい本を読むよりも、そのものを手にした方がいいに決まっている。しかも高い金を投資しなければならないのだから、ユーザーが大規模にすぐ増えるとは思えないと言うのである。
 著者は「先走りも結構だけれども、習慣的な楽しさや、年齢や好奇心による違いも、決して小さく見積もってはいけません」とも言っている。たとえばこういうツールに早めに手を出すかどうかは、50歳が境目だそうで、それ以降の年齢になれば、既存の本や雑誌で充分だ、と言いそうである。私もそうだ。
 「優れた機能」だけで、人は商品を選ぶものではない。案外、「慣れ」のほうが重要だったりする。その「慣れ」を充分凌ぐ、新しいデバイスなりグッズなりスペック搭載品が出たら乗り換える可能性はあるだろうけれど、何度も言うように電子書籍のコンテンツは現在紙で同じものが存在するのである。紙の本をただデジタルにしたところで、その代償として目が悪くなるくらいだ。だから「紙の本ではできなかったこと」を電子書籍はメインにしていくべきだと改めて思う、と言うのである。それであれば電子書籍は新しい、そして広大なフロンティアであることは疑いない。今のところそうなっていないのだから、騒ぎ立てる程のことじゃない。
 著者はまえがきで、


 デジタル化は避けられない。それどころか、便利さに満ち溢れている。
 しかし同時に、習慣や伝統にも優れたものが無数にある。
 我々は、その両方の継承者でありたい。そう思いませんか-。


 まさしくその通りだ。むしろその二つの選択肢があることを素直に喜ぶべきで、“いいとこ取り”出来る。そもそも一つにしてしまう理由もなく、それぞれが読者を獲得出来ればいい。私は電子書籍の継承者にはなれないけれど、それが出来る世代の人は優れた既存のメディアを尊重しつつ、新しいメディアも使えばいいのではないか。むしろ新しいメディアしか使えないと、それに頼るしかなくなってしまう。

 話はちょっと横道にそれるけど、先日久しぶりにタクシーに乗った。行く先を告げたら、運転手がカーナビでいいですか?と聞く。最初何のこと言っているのか分からなかったけど、カーナビの指示で目的地へ行くと言うことらしい。それがあるとないとではどう違うのかよく分からなかったので、いいですよと言うしかなかった。
 そもそもこの運ちゃん道を知らないのだろう。いや知らなくてもいいのかもしれない。だってカーナビがあるからね。でも何でこんな道通るんだろうな?と乗っていて不思議には感じていた。まぁこの運ちゃんにとってカーナビの指示は絶対なのだろうし、私が不安を感じても、このまま乗っていれば目的地に着くんだろう、と思っていた。しかし最後の詰めで道に迷う。結局車を止めて、歩いている人を捕まえて道を聞いていた。
 帰りもタクシーを捕まえて帰ったのだが、乗ったタクシーの運転手は年配の方で、こっちが目的地を言った途端、メーターを下ろし、発進する。カーナビはついていたが、使わない。これだよね。道を知っているからカーナビを使わなくてもいいのだ。

 電子書籍の波で書店が生き残れるか、どうかは、著者は「書物に関する知識が豊富な書店員が『本のコンシェルジュ』化することが、リアル書店の最大の強みとなるはずだ」と書いている。そう書いた上で、「でもこれって、書店員の原点でもありますよね」とも言っている。
 書店も最近は人件費の安いパートやアルバイトに仕事を任せ、後は客に検索機で在庫を確認させることしか出来ない書店が増えてきた。それで出来ちゃうのだ。先のタクシーの運ちゃんと同じだ。道なんか知らなくてもいい。カーナビが教えてくれるからだ。必要なデバイスを使いこなせれば簡単にプロになれちゃう時代なのだ。経験とか教育とか、スキルアップとかいうものは時間がかかるし、人件費の高騰を招くだけなので、経費的に省かれた。プロが軽くなったか、いなくなる所以だ。せめてリアル書店ではコンシェルジュでも何でもいい。とにかく本のプロがいることに、生き残り道があるような気がする。
 生き残りといえば、音楽CDは凋落の一途だけれども、CDブックは静かなブームなのだそうだ。落語や有名経営者の講演会など聞かれる方が多いらしい。そうそう、音楽CDは何で74分なのか、知りました。CDソニーとフィリップス社が共同で開発・商品化したもので、顧問格のカラヤンがデジタル音源を絶賛し、彼が指揮する「第九」が収まる時間から、74分が決まった、そうだ。


評価
★★★


書誌
書名:電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。
著者:日垣 隆
ISBN:9784062169639
出版社:講談社 (2011/04 出版)
版型:262p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2012年01月26日

鹿島茂著『神田村通信』

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 筑摩書房の宣伝雑誌「ちくま」に今、鹿島さんの「神田神保町書肆街考」が連載されていて、私はこれを楽しみに読んでいる。私は神保町の歴史にはかなりの興味を持っていて、今まで何冊かその関係の本を読んできたが、未だにしっくりと来ない部分があったが、この連載は神保町の成り立ちがわかりやすく書かれている。
 だいたい町の歴史というのは地形もそうだし、住んでいた人間や町に関わった人間も大きく変わっているので、なかなか理解しにくい。ところが鹿島さんの文章はわかりやすく、丁寧に書かれているので、その変遷がよくわかる。たぶんそれは鹿島さんの文章力にもよるのかな、と思われる。で、鹿島さんの本を読んでみようと思った訳である。
 
 鹿島さんは最初、神保町に事務所を持ち、次にここで暮らすようになった。この本はここで生活する鹿島さんの日々における雑感集とでもいうべき本だ。もちろん神保町に限らず、専門のフランス文学のことや、食や興味のあることが書かれている。こういうエッセイは読んでいて楽しい。
 序章の「神田神保町ノスタルジア」に次のような文章がある。

 駿河台から坂を降りていくと、低く垂れ込めた空の下、戦前のものと思われる灰色の木造三階建ての古書店の群れが靖国通りの南側にビッシリと建ち並んでいた。
 大きなビルといえば、三省堂だけ。建て替える以前の古い鉄骨モルタルで、外壁はたしか薄い緑色だったと記憶する。店内に入ると、独特の匂いがした。これはおそらく当時のインクの匂いで、大量の新刊を扱う大型書店ではたいていこの匂いがしたのである。
 では、肝心の古書店はというと、こちらは黴と埃の匂いに圧倒された。今では神保町の古書店もだいぶ小ぎれいになったが、この時代には、それこそ古色蒼然という形容詞がふさわしい雰囲気だった。紙質のよくない昭和二十年代の古書が中心だったせいかもしれない。黴と埃、それに古紙のすえたような匂い、これがどの店でも支配的だった。

 この話は昭和四十年代の頃の話である。私もかろうじて、建て替える前の三省堂本店を知っている。私が初めて神保町に行ったのは、高校に入った頃であった。やっぱり駿河台の坂をずんずん下って行った。この先行けば、本の町が広がっているんだ、と思った。そして鹿島さんが書かれている三省堂も入った。インクの匂いまでは気がつかなかったが、ただ木製の背の高い本棚がたくさん並び、その本の量に圧倒された記憶がある。地元にあった本屋さんとまったく違う、その偉容さ驚いた。以来、毎月こづかいをもらうたびに、ここへ行った。
 古本屋さんは大学時代から通い始めた。高校生ではまだ古本屋に入るという考えはなかった。しかしここで探している本が次々と見つかると、もうその魅力に取り付かれっぱなしであった。
 私は大学も近所だったし、仕事場も近くだったこともあり、この時から現在までつきあっていることになる。実を言うと昨日も、天気が良かったものだから、ぶらりと神保町界隈を歩いてきた。別に探している本はないのだが、三省堂にしても、書泉にしても、東京堂にしても、店に入り、本を眺め、手に取るだけで、いい気持ちになる。古本屋さんにも当然入る。ここでもこれといって捜し物があるわけでもないのだが、棚に入っている、知っている本や、文庫本しか知らないけれど、その親本はこういう装丁の本だったんだな、知るだけでも楽しい。一回りして、靖国通りの奥にあるコーヒーチェーンに入り、持ってきた本を読み出す。
 ここも節電のため、店内の照明を落としているので、日の光が入る窓際に座り、小一時間ほど、本を読んだ。ここのところ節電で、照明を落としていることが多いけれど、いくらそれがやむを得ないにしても、視力が落ちているおじさんには、電車の中で本を読むことが少々キツイ。
 そうそうちょうど鹿島さんのこの本を読んだばかりだったので、思わず裏通りのビルに目がいってしまった。ちょっとくたびれたビルなど見ると、鹿島さんこんなビルの一画に事務所を構えているのだろうか、と思ったりした。こんなところで個人事務所を持てるなんてうらやましい限りだ。私は事務所を持つ理由などまったくないし、これからもないだろうから余計である。ここにいればいつでも本に触れられ、散歩や気分転換に歩き回れることが楽しいに決まっている。でも鹿島さんだけでなく、間違いなく本の冊数が急激に増えるだろうな、とも思う。
 昔はここに来るのには国鉄お茶の水駅からここまで歩いてくるしかなかった。今は交通の便がホンと良くなり、簡単にここに来られる。ということはここに住んでいれば、簡単にどこでも行けるということだ。だから再開発され、大きなマンションが建ったのだろう。
 面白かったのは、鹿島さんがここで暮らすために南向きの部屋を避けたということである。通常日当たりなど考えて、部屋は南向きを求めるが、神保町に関しては北向きがいいという。何故かというと、神保町は夏が耐え難いからだそうだ。神保町はかつて「大池」と呼ばれていたことからも明らかなように、周りを高台に囲まれる谷間になっている。そのため夏になると猛烈な暑気が低地に溜まるらしい。おまけに車道も舗道もアスファルトになっているから(過激派学生が舗石を剥がして暴れたため)、太陽の照り返しが猛烈だからという。しかも最近は高層ビルが皇居側に建ち並んでいるので、海からの風も吹いてこないし、冷房のため室外機の熱風もそれに加わる。だからここでは北側がいいのだ。
 もちろん冬は寒いが、夏の暑さより我慢できる。もとより暖房設備が充実しているから寒さにも問題ない。さらに最初から北側を希望しているから、建設中のマンションの抽選に当たりやすいという特典もつくから面白い。
 そういえば「神田神保町書肆街考」にも神保町の地形のことが書いてあった。だから“なるほど!”と思ってしまった。

 最後に、「神田神保町にあるべき書店形態」が面白かったので、それを書いてみたい。それは鹿島さんの新しいタイプの書店形態の提案である。鹿島さんは神保町にデパート方式ではなく、パルコ式の集合的新刊書店を望んでいるのである。パルコといえば専門店であるが、書店もそうあるべきで、大型書店のように何でもありますよ、といったデパート方式より、こちらの方がよろしいのではないかという。長くなるが引用してみる。

 なぜなら、私が夢想するパルコ方式の集合書店では、本を選び、仕入れ、棚に並べてディスプレイーするのは、それぞれ、深い専門的な知識を有するプロの読書人であり、選書にもディスプレイーにも各人の哲学と美学が発揮されるに違いないからだ。つまり、それぞれの専門店の店主が独自性を発揮して店づくりをすることができるというわけである。
 いいかえれば、書店経営がそのまま自己表現になり得る可能性があるということだ。経営はもちろん独立採算制だから、店主の責任において、この本は絶対におもしろいから小出版社の本でも断固置く、あるいはこれは売れ筋だが内容空疎だから並べないというような我がまま許される。
 そして、このように選別と排除のシステムを独自に働かせて選書とディスプレイーを行うことは、ある種のコレクションに通じる。そして、コレクションである以上、そこには個性が生まれる。いや、個性というよりも、私の用語を使って「ドーダ!」といったほうが正確だ。「ドーダ、オレ(わたし)の選んだ本はスゴイだろ。マイッタカ!」という、自己愛に発する「認められたい」願望である。
 この「ドーダ」が重要なのである。つまり書店主の「ドーダ」が感じられる棚揃えの専門店なら、その「ドーダ」自体が売り物になるというわけだ。

 もちろん「ドーダ」が個性として、売り物になることはよくわかるが、これを行き過ぎてしまうと、まったく売れない書店になってしまうから、そこはバランスが必要になることも、著者は後で付け加えている。神保町では古本屋さんはこの方式である。だから新刊書店もそうあっていいのではないか、というのである。
 大書店が闊歩する業界になりつつあるので、中小書店が生き残るには、この方法しかないかもしれないが、こと神保町では新刊書店は別にこの方式でなくてもいいような気がする。ここは三省堂を中心に大型書店で、新刊の情報を得て、それを手に出来るところであって欲しい気がするからである。個性派専門店もいいけれど、それなら別に神保町である必要はない。そんな気がする。
 むしろ大型書店と古本屋さんが共存している町で、世界に類のないほど本の在庫が、新刊と古本がここにある、というのは魅力なのではないか、と思うのである。

評価
★★★


書誌
書名:神田村通信
著者:鹿島 茂
ISBN:9784860292188
出版社:清流出版 (2007/12/25 出版)
版型:270p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2012年01月23日

面白アイテム2点

 新潮文庫のYonda?ClubでZipper付きブックカバーがもらえることを知って、昨年応募してみた。応募したことを忘れていた頃、それが届く。「ネオプレン製で軽くて使いやすい。ジッパー付きで本も傷まないスグレもの」とネットに書いてあった。私は黒を申し込んだ。なかなかしゃれている。確かに面白いといえば面白いし、しゃれているといえばしゃれているけれど、わざわざ文庫をジッパー付きのカバーに収めるのはどうなのか、と思わなくもない。どこか気障な感じがしてしまう。今回は試しに付けてみたまでである。


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 もう一つ面白アイテム。これはブックオフにあった。私は司馬遼太郎さんのものを一つもらってきたが、そこには池波正太郎さん、藤沢周平さんの三つがあった。このように折りたたみ式になっている。


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 中を開くとこのようになる。


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 作家目録として司馬さんの場合300冊このリストに載っていて、これを全作品制覇しようということらしい。ということで私の記憶にある読んだと思われる本にチェックを入れてみたのだけれど、まだまだ未読の作品があるもんである。中には蔵書として持っているが、まだ読んでいない本もある。なので、これから先もう少しチェックの数は増えそうだ。
 ただこれ全部ブックオフで揃うのかな、と疑問も残る。読んでいないから読んでみようと、ブックオフに行っても手に入らない可能性の高い本もある。まぁその時は新刊書店で買えばいいだけのことなのだが・・・。
 でもこういうのは面白い。この三人だけでなく、他の作家さんもやってもらいたいな。チェックリストというのは案外役に立つものだから。

2012年01月20日

大沢在昌著『鮫島の貌』

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 新宿鮫の鮫島が登場する短編集である。私が読んできた新宿鮫はすべて長編であり、一つの事件を追う鮫島の姿が事件の成り行きと描かれるものであった。だからすべてが一つの犯罪に集約されてしまう。もちろんそれはそれでエンターテイメントとして堪能してきた。
 しかしこうした短編はそれ以外の日常の鮫島を描いていて、「ああ、短編というのはこういう効果もあるんだな」と思った。時には鮫島の出生地や父親の仕事を知ることも出来る。上司の桃井さんも登場して、例によってかっこいい。同じ警官で“腐ったリンゴ”と称される大森とのやりとりは迫力がある。ちょうど鮫島が桃井の部下として赴任してきた頃の話だ。


 私はコートの前を開いた。腰に吊している拳銃をよく見えるようにした。

 「そんなもの、なんでもってんだよ」
 「ここのところ物騒でね」
 「一発でも撃ったら、あんた終わりだ。トバされる」
 「忘れたのか。私は“死体”(マンジュウ)だ。先にことに興味などない」

 「忘れてやる」
 「ただし、あの若いのに何かあったら、お前と藤野組にまっ先にいく。わかったか」
 大森は瞬きをした。目をそらし、吐きだした。
 「俺はあんたを見くびってました」
 「けっこうだ。いくら見くびろうと、馬鹿にしようと、かまわんよ」


 桃井は周りから無能で反応の鈍い人間として見られているが(だから“マンジュウ”と呼ばれている)、実際は部下思いで、迫力があるのだ。その桃井さんも殺されちゃったしなあ。残念だ。

 鮫島の生まれは「水仙」に書かれている。中国国家安全部の女“安”が鮫島に近づき、会話する場面である。


 「鮫島さんはどこの生まれですか」
 「生まれたのは静岡ですが、父親の仕事の都合で、あちこちで育ちました。主に関東圏ですが」
 「お父さんは仕事は何をしていましたか」
 「新聞記者でした」

 こんなプライベートは、長編では出てこなかった。

 「幼馴染み」では“遊び”があって楽しかった。晶が浅草に初詣に行きたいと鮫島を誘い、鑑識の藪がこのあたりの生まれなので、誘って美味しいお店を紹介してもうらおうとする。藪はうまい佃煮屋があることを鮫島ら言うが、言った後後悔する。そこは藪の幼馴染みの両津勘吉の実家である佃煮屋だったからだ。藪は両津に頭が子どもの頃から頭が上がらない。
 で、その佃煮屋で両津と会ってしまう。この両津さん、「こち亀」の両津さんと同じキャラクターをしているのだ。これは作者が遊んでいるな、と思わせる。でも面白かった。こういうのもありかな、と思った次第だ。

 ところで最近テレビで「ガールズバー」と称するバーがあるのをよく見る。こんなスタイルのバーが何故普及してきたのか、その背景が書かれているところがあって、興味深かった。
 風営法によると、ホステスや客の隣席で接待するスナックやクラブは午前一時までに閉店しなければならない。それに違反すると営業停止をくらう。そこで女性バーテンダーを置いてガールズバーとして営業を始めた。ここは「深夜酒類提供飲食店営業」として届け出た場合は終夜営業が可能であるのだ。中身はホステスなのだが、カウンターを隔てて接客するということで風営法に引っかからないらしい。

 とにかく違う角度で新宿鮫を楽しませてくれる一冊であった。


評価
★★★


書誌
書名:鮫島の貌―新宿鮫短編集
著者:大沢 在昌
ISBN:9784334927998
出版社:光文社 (2012/01/20 出版)
版型:281p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2012年01月03日

向井透史著『早稲田古本屋日録』

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 私は本を読む時はいつも付箋を本の表紙の裏につけておき、気になる文章や言葉などあったところに貼り付けていく読み方をしている。それはたとえば本文にマーカーなど使ってもいいし、あるいは書き込みをしてもいいのだけれど、本を汚してしまうことが嫌なのでそうしている。そして読み終えたら、その本に付箋だらけになっていることが多い。
 しかしこの本はそうした付箋がほとんど付かなかった。それはこの本にそうした箇所がなかったということではなく、付箋などつけずに本の内容を素直に感じ取るのがいいのかな、と読み始めてそう思ったからである。詩的で素直な文章は読んでいて心地よかったのである。
 年の暮れから読み始め、元旦に読み終えたのだが、最初の「大雪の夜」が本の内容のように雪はないが、ちょうど暮れの時期のことが書かれていて、どこか雰囲気が同化出来る部分があってよかったのである。この文章は著者が19歳の時に書かれたと後で知ったが、なかなか大したものである。


 「すごい雪だ。明日は営業できるかな」
 こんなことを考えているのは、年の終わりも近づく頃。大雪の日である。
 とても静かな一日であった。なにせ店のドアが開く音がまたったくしないのだから。聞こえるのは、私の打つパソコンの音だけ。外を見れば、百円均一のワゴンには雪が山盛りに積もっている。たまに通る、車の振動が積もった雪を崩していく。
 こんな状況になってくると、それほど広くない店の中は、まるでかまくらの中のようではないか。先ほどから、外の雪のひとひらひとひらを目で追うというような、無駄なことに時間を使っている。

 「いしやーきいもー」

 五十代半ばと思われるおじさんは、車から降りるなり店に入ってきた。壊れてしまった眼鏡の縁が、セロテープで固定してある。肩の雪を払いつつ「どうだい、売れているかい?」

 「見ての通りですよ」

 「そうだろうな。ここいらへんで開いているのはあんたの所だけだ。人なんかいやしないよ。寒くたって外に人が出てこないんじゃ俺も商売にならないよ」

 「兄さん、一つ買ってくれよ。おまけするから」

 営業か。ちょうど腹もへっているし、買うことにした。石焼いもの押し売り、というのもおかしくて気に入った。

 「わるいね」というと、すばやく大きな焼きいもを持ってきた。小さめのものを、ひとつ付けてくれた。これがおまけというわけだ。
 おじさんは、お金を受けとると店内をゆっくりながめた。数分してから突然おじさんは口を開いた。

 「俺って本を読むように見える?」

 「お客さんで、あまりいないタイプ」

 「見えないよな」

 「俺、昔はずいぶん本を読んだんぜ。古本屋にもよく行ったもん。自宅の近所にはさ、なじみの店もあったの。まあ事情があってこの仕事をやるようになってからはあまり読まなくなったけどさ。まぁ、読む気力なくなっちゃうんだよな、仕事の後って」

 「何時までやるんだい」

 「もう終わりです」

 「ちょっと待ってな」とおじさんは一昔前のでっかい魔法瓶と、小学生が使うようなプラスチックのコップを持って戻ってきた。
 「まあ飲めよ」
 コップから湯気が上がる。店内に、甘い紅茶の香りがひろがった。
 「いい香りですね」
 「本の香りも悪くないよな。なんちゃってな」
 「うまいこといいますね」
 おじさんは耳まで真っ赤になると、紅茶を一気に飲みほした。


 古本屋さんはいい感じの文章を書く人が多いような気がする。文章もうまいし。向井さんの本は初めて読むが、私もこういう文章が書ければいいなと思ってしまう。
 早稲田でも年に一回青空古本祭があるとは聞いていたが、向井さんは早稲田の古本屋さんで、その祭の目録作成に関わっているらしい。お祭りは9月にあるのだが、その用意は春から始めていることを知った。1年に1回の大きな催し物のため、それくらいの時間をかけなければならないらしい。もちろん日々の営業もあるわけだから、夜遅くまでパソコンを打ち、目録を作り、原稿を書く。だから店番中居眠りもしてしまうし、買い取り先でも居眠りしてしまい、気がつくとタオルケットを掛けられて、慌ててしまったことが書かれている。古本屋さんも大変だ。
 新年早々いい本からスタート出来た。


評価
★★★


書誌
書名:早稲田古本屋日録
著者:向井 透史
ISBN:9784842100661
出版社:右文書院 (2006/02/28 出版)
版型:199p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)