2012年02月03日

ウォルタ-・アイザックソン著『スティ-ブ・ジョブズ』〈1〉〈2〉

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 ジョアン・シーブルはイスラム教徒のティーチングアシスタントのアブドゥルファクター・ジョン・ジャンダーリと付き合い、23歳のとき妊娠する。ジョアンの父親の反対があって、二人の結婚は難しく、生まれた子を養子縁組に出す。その子は機械に情熱を傾ける高校中退のポール・ラインホルド・ジョブスと母親アルメニア移民の娘クララの息子となった。彼の名はスティーブン・ポール・ジョブスである。
この本はスティ-ブ・ジョブズ公式自伝である。ジョブスはつい最近亡くなったこともあって、この本は発売前に話題となり、発売当時ベストセラーランキング上位に入っていた。
 私はウィンドウズユーザーなので、マックに関してはまったくの素人である。その素人である私もアップルの製品にはかなり関心がある。なんと言ってもそのデザインのかっこよさと、製品がいつも世界の関心を引くものばかりを作ってきたことは、どうしてそれが可能であったのか、興味が尽きない。
 特にアップルが新製品を発表するときのジョブスはプレゼンテーションの帝王と呼ばれ、「ジョブスのプレゼンテーションにはドーパミンを放出させる力がある」とまで人々に言わせた。
ジョブスの製品ショーは緻密に組み立てられていて、ステージに上がったジョブスは、ジーンズにイッセイミヤケの黒のハイネック姿で水のボトルを持ち、ゆったりと歩く。会場はミサを助ける侍祭があふれており、企業の製品発表というより宗教的な伝道集会といった雰囲気だ、と著者は書いている。もちろんその演出を完成させるために、ジョブスは何度も思い悩み修正して完璧なものとしていた。
 アップルの創始者であり、経営者であり、プレゼンターであるスティ-ブ・ジョブズがどういう人物であったのか、そのカリスマ性に興味が尽きない。その人の自伝であるこの本が面白くない訳がない。

 ジョブスとアップルの歴史も興味深い。ジョブスの学生時代の素行から大学入学、中退。ビデオゲーム会社入社。インド放浪。アップル創業。AppleⅡの大ヒット。アップルⅡは、その後16年間、さまざまなモデルが総計600万台も販売される。パーソナルコンピュータという産業を興した立て役者と言っても過言ではない。
 そしてアップルから追放され、NeXTを立ち上げる。さらにピクサーでの大成功後、再びアップルに復帰。業績が落ち込んでいたアップルを再建し、2000年にアップルのCEOに就任。iTunesとiPodによって音楽事業に参入し、さらにiPhoneで携帯電話事業にも乗り込んでいく。そしてタブレットのiPadの衝撃発表となる。その間自ら膵臓癌におかされ、痛みと闘いながら、アップルで立て続けにイノベーションを開拓していく。そして2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により死去する。
 ざっくりスティーブ・ジョブスの生涯を書けばこういうことになるのだが、その場面その場面、ジョブスが置かれていた状況がスリリングで、いかにもジョブスらしい方法で対処していくあたりは、面白くて仕方がなかった。
結局ジョブスの性格、考え方がそのままアップルに反映されていたことになるのだが、ときにはそうした独断専行の立ち居振舞いは反発を買い、追放劇となる。しかしアップルはもともとジョブスなしにはアップルであり得ない会社であったため、必然カムバックとなる運命であったのかもしれない。
 この本を読んでいてたえず感じたことは、製品に対するジョブスの思い入れであり、製品だけでなくパッケージのデザインまでこだわる姿勢である。その製品も外観だけでなく、中身も美しさを求めた。
 後にジョブスがガンでほとんど意識がない状態でも、その強烈な性格はおさまらず、たとえば呼吸器科の医師がマスクをジョブスにつけようとすれば、こんなデザインのものは身につけないとつぶやき「デザインの違うマスクを5種類もってこい、そうしたら気に入ったデザインのものを選ぶから」と言うし、指に付ける酸素モニターも不格好で複雑すぎるときらい、もっとシンプルにデザインする方法を提案していたという。
 そして製品にとことんこだわったことで、その他人がそれに手を加えることを嫌った。


 「そんなことをしたら、みんな、勝手なことをしてぐちゃぐちゃにしてしまう」


 と言って、マックがユーザーに改造されるのを嫌い開けられないよう特殊なネジした。ipadをカバーするケースでさえ、ユーザーが独自に付けることを嫌った。せっかくこだわって作ったものにちんけなケースをかけるなんてとんでもない、ということなのである。
 ではなぜジョブスは製品の中身から外観、そしてそれを梱包するパッケージまでこだわったのだろうか?それは養子先の父親の影響による。ここでスティーブは父親から機械や車について手ほどきを受ける。もの作りに対する父親の姿勢に感銘を受けるのである。


 「おやじはデザインの感覚が鋭いと思ったね」


 「きちんとするのが大好きな人だった。見えない部品にさえ、ちゃんと気を配っていたんだ」


 かつてジョブスは父親から、優れた工芸品は見えないところも美しく仕上がっているものだと教えられた。これをジョブスがどれほど突きつめようとしたかは、プリント基板の例を見るとよくわかる。チップなど部品が取り付けられたプリント基板はマッキントッシュの奥深くに配列され、消費者の目には触れない。そのプリント基板でさえジョブスは、美しさを基準に評価した。

 重要なのはどれだけ正しく機能することであって、PCボードなど見る人などいないじゃないかと新人のエンジニアは反論する。
それでもジョブスは「できるかぎり美しくあってほしい。箱のなかに入っていても、だ。優れた家具職人は、誰も見ないからとキャビネットの背面を粗悪な板で作ったりはしない」と言うのである。
 隠れた部分にも美を追究するという父親の教えにつながるものを、ジョブスはマイク・マークラから学んだ。パッケージやプレゼンテーションも美しくなければならないのだ。   
確かに人は表紙で書籍を評価する。だからマッキントッシュの箱やパッケージはフルカラーとし、少しでも見栄えがよくなるようにさまざまな工夫をした。
 さらにスティーブの実家のあたりは、ジョセフ・アイクラーというディベロッパーの建売住宅だったこともその後のジョブスに多大な影響を与える。


 「アイクラーはすごい。彼の家はおしゃれで安く、よくできている。こぎれいなデザインとシンプルなセンスを低所得の人々にもたらした。優れた機能があれこれと用意されていたのもいい。床暖房とか、ね。そこにカーペット敷くと、ほかほかと暖かく、子どもにとって最高の床になるんだ」子どものころ、アイクラー・ホームズはすごいと思ったからこそ、のちに、くっきりとしたデザインを持つ量販品に情熱を燃やすようになったと、スティーブはアイクラーのクリーンなエレガンスをたたえる。


 「すばらしいデザインとシンプルな機能を高価ではない製品で実現できたらいいなと思ってきた。それこそ、アップルがスタートしたときのビジョンだ。それこそ、初代マックで実現しようとしたことだ。iPodで実現したことなんだ」


 アイクラー・ホームで育った子どもはたくさんいるが、ジョブスは、それがどういう家でなぜクールなのか知る珍しいタイプだった。大衆向けのすっきりとシンプルな現代建築という考え方が好きだったのだ。
父親から、さまざまな車のスタイルがどう違うのか、細かな説明を聞くのも好きだった。だから、アップルを創業した最初から、カラフルながらシンプルなロゴやアップルⅡの優美なケースなど、優れた工業デザインが会社にとっても製品にとっても差別化の鍵をにぎると信じていた。


 「我々がデザインの主眼に据えていますのは、“直感的に物事がわかるようにする”です」


 さらに、


 「洗練を突き詰めると簡潔になる」


 これは宗教的ストイックさを感じさせるが、実際ジョブスは禅に多大な影響を受けている。


 「スティーブは禅と深くかかわり、大きな影響を受けています。ぎりぎりまでそぎ落としてミニマリスト的な美を追究するのも、厳しく絞り込んでゆく集中力も、皆、禅から来るものなのです」


 とにかくアップルで作られる製品にはすべてにこだわった。著者は最後で次のようにジョブスとアップルとの関係をまとめているが、まさにその通りだ、と読んでいて痛感してしまう。


 スティーブ・ジョブスの性格はその製品に反映されている。1984年初代マッキントッシュからiPadにいたるまで、ハードウェアとソフトウェアをエンドツーエンドで統合するのがアップル哲学の中核であるように、ジョブスも、その個性、情熱、完璧主義、悪鬼性、願望、芸術性、中傷、強迫的コントロールといった要素すべて、ビジネスに対するアプローチにも、そこから生まれる革新的な製品にもしっかりと織り込まれている。
 ジョブスの個性と製品をひとつにまとめる“統一場理論”は、もっとも目立つ彼の特質、すなわち激しさが起点となる。


 まさにその通りなのだろう。ジョブス=アップルなのだ。だからアップルの製品にはジョブスのすべてが表現されている。しかし会社は個人でやっているわけじゃない。多くの人がその製品に関わっているはずだ。その中でジョブスが自分の主張を強く主張すれば、ある意味、会社内での独断専行の立ち居振舞いとなろう。ジョブスの言動にとげがあるのは完璧主義者だからという面もあれば、スケジュールと予算にしたがって製品を出せるように現実的な妥協(賢明な妥協のこともある)をする人間が許せないからであった。
 カリスマ的な物言い、不屈の意志、目的のためならどのような事実でもねじ曲げる熱意が、それが人びとの言う「現実歪曲フィールド」であった。ジョブスはこの「自己実現型の歪曲」で、不可能だと認識しないから、不可能を可能にしてしまうのである。可能かもしれないと思わせるところがすごいのである。


 ジョブスが極端な言動に走るには、他人の感情を思いはかる能力がないからだろうか。そんなことはない。むしろ逆だと言える。ジョブスは感情というものがよくわかっている。他人の心を読むのも、他人の精神的な強さ・弱さ、自信のなさを把握するのもおそろしいほど上手である。不意をつき、狙いすました一撃をバシンと感情にお見舞いして揺さぶりをかけることもできる。本当にわかり、説きふせたり喜ばせたり、あるいはまた、脅かしたりすることも名人級に上手なのだ。

 
 しかしジョブスのような性格は付き合いにくそうだ。ジョブスの言っていることを実行に移せば、他に見ない製品となってしまうからどこか宗教的なカリスマ性を帯びてしまうのかもしれない。
このようにジョブスはなんでも自分がコントロールしないと気がすまない性格だが、同時に、先行きが不透明だと思うと、優柔不断となり、前に進めなくなってしまうという。
 完璧を求めるあまり、中途半端なもので妥協したり、可能なものでがまんしたりが上手にできない。複雑なものへの対処も好まない。製品についてもデザインについても、自宅の家具についてもそうだ。
この性格は、やる気や姿勢にもはっきりと表れる。これは正しいと確信したジョブスは誰にも止められない。しかし少しでも疑いがあると消極的になり、自分にとって必ずしも都合のよくないことを考えずにすまそうとするらしい。こうなる背景には、人間はヒーローかまぬけ、製品は驚異かゴミなど、なんでも白黒に二分したがる彼の性格からだと周りの人間は見ていた。


 「すばらしい才能に恵まれた人の多くがそうだと思うのですが、あの人も、すべての面で非凡なわけではありません。たとえば、他人の身になって考えるといった社会的スキルは持ち合わせていません。でも、人類に新たな力を与える、人類を前に進める、人類に適切なツールを提供するということを、あの人は心の底から大事にしています」


 さて、すべてをエンドツーエンドででコントロールしたいというジョブスの欲求はビル・ゲイツが率いるマイクロソフトとは基本的にスタンスが両極端である。一方がクローズドであり、一方がライセンス制をひくことでオープンをとる。最終的にはマイクロソフトが市場を席巻することになるのだが、アップルもこのままではいられない。
 その中でパーソナルコンピュータはデジタル革命の中心であったが、ジョブスとウォズニアックがアップルを創設して25年には、その役目を終わろうとしていると考える人が出てきた。
 このような時代にジョブスは、アップルを変革し、同時にテクノロジー業界全体さえも変革しようとする壮大な構想を打ち出す。パーソナルコンピュータは脇役になどならない、音楽プレイヤーから、ビデオレコーダー、カメラに至る、さまざまな機器をコンピュータにつないで同期する。そうなれば、音楽も写真も動画も情報も、ジョブスがいう「デジタルライフスタイル」のあらゆる側面をコンピュータで管理できる。このことはハードウェアからソフトウェア、コンテンツ、マーケティングにいたるまで、製品のありとあらゆる側面を一体化するアップルのような企業には有利である。そのような形なら、モバイル機器のコンテンツをシームレスにコンピュータで管理できるからだ。
パーソナルコンピュータを「デジタルハブ」として、音楽プレイヤー、ビデオレコーダー、電話、タブレットなど、いわゆるライフスタイル機器につなぐ。シンプルに使えるエンドツーエンドの製品を作るというアップルの強みと相性もいい。こうして、ハイエンドのニッチを狙ったコンピュータ会社は、世界トップの価値をもつテクノロジー企業へと変貌していく。
 最初はiPodから始まる。もちろんここでもジョブスの今までの発想が遺憾なく発揮されている。なるべく多くの機能をiPodではなくコンピュータのiTunes側で行うことで、iPodをよりシンプルし、使い易くする。そのシンプル極地がiPodにオン・オフのスイッチを付けなかったことである。また同期をコンピュータからiPodへは曲が送れるが、iPodからコンピュータに転送出来ないようする。そうすることで違法コピーをできなくさせるというものであった。(ただこれは曲データを他の記憶媒体に落とし込み、他のパソコンへコピーすれば可能だろう)
 iPodは、最初マック専用であった。だからiPodの爆発的人気でマックも予想以上に売れた。しかしアップル幹部は、アップルはマック事業だけでなく、音楽プレイヤー事業にも乗り出すべきという意見が多くなり、そうなるとiPodがマック専用ではまずい。ウィンドウズでも使えるようにしなければならない。当然ジョブスは反対した。しかしそのジョブスも幹部の意見に折れた。
ウィンドウズ用のiTunesソフトウェアも大人気となる。ジョブスはウィンドウズ用のiTunesソフトが人気になっていることについて訪ねられると、「地獄の業火に焼かれている人に冷たい氷水をあげている気分だよ」と言っている。
 iPodは大人気商品となった。けれど心配もあった。携帯電話である。もし携帯に音楽プレイヤーが搭載されれば、携帯は誰でも持っているのでiPodは不要になる。デジタルカメラの市場がカメラ付き携帯電話の普及で食い荒らされたのと同じ運命をたどりかねない。そうなる前に自分たちでやって作り上げたのがiPhoneであった。もちろんその設計もiPod同様侃々諤々と議論され、アップルの基本姿勢であるシンプルでありデザイン性に優れているものが求められた。
 実はそのころアップルでは、プロジェクトがもうひとつ進められていた。タブレットコンピュータの開発が秘密裏に行われていたのだ。2005年、ふたつの話が交わり、タブレットのアイデアが電話プロジェクトに伝えられる。つまり、iPadが先にあり、それをもとにiPhoneが生まれたらしい。
 そのタブレットコンピュータである。ジョブスは、本当はスタイラスペンなしで使えるタブレットコンピュータをいつか世の中に示したいと考えていた。当時スタイラスペンや普通のペンを使って入力するタブレットコンピュータはいくつか発売されていたが、いずれも大したことがなかったから、ここに市場が見出せた。その結果はご存じの通りである。 
iPadとアップルストアでは、出版から報道、テレビ、映画にいたるあらゆるメディアに変革をもたらす結果となった。ちょっと前までは著名人のiPodに何が入っているかが話題になったが、今度はiPadに何が入っているか話題となるのである。

 時代はものすごいスピードで変化している。コンテンツのハブがデスクトップコンピュータではなくなり、「クラウド」に移る。つまり、自分のコンテンツは、自分が信頼する会社の管理するサーバーに保管し、どこにいてもどういう機器を使っていても、必要なときにさっと呼び出せるようになる。このビジョンを実現したのが、iCloudであった。ただジョブスの病状は悪化する一方で、実質ここまで関わることなく、その生涯を終えたことになる。

 ジョブスとビル・ゲイツとの関係に触れたい。特にGUIに関してのやりとりは面白い。
 マイクロソフトは、DOSと呼ばれるオペレーティングシステムを開発し、IBMのコンピュータやIBM互換機にライセンスしていたが、「C:¥>・・・・」というようなつっけんどなプロンプトにユーザーが対処しなければならない従来型のコマンドラインインターフェースであった。だからジョブスはマッキントッシュのようなグラフィカルなアプローチの仕方をマイクロソフトがまねするのではないかと心配していた。いわゆるGUIである。
これはもともとゼロックスPARCで開発されたものをアップルがコピーして使ったものである。最初はジョブスとの話し合いで、このシステムを使わないとゲイツと約束していたが、1983年11月にウィンドウズやアイコンを持ち、マウスが使えるGUIのオペレーティングシステムをマイクロソフトが発表する。当然ジョブスは激高する。

 「おまえのしているのは盗みだ!信頼したというのに、それをいいことにちょろまかすのか!」

 これに対してゲイツは、

 「なんと言うか、スティーブ、この件にはいろいろな見方があると思います。我々の近所にゼロックスというお金持ちが住んでいて、そこのテレビを盗もうと私が忍び込んだらあなたが盗んだあとだった-むしろそういう話なのではないでしょうか」


 と反論する。これは伝説的な一言だという。結局マイクロソフトはウィンドウズ1.0の開発にかかるが、出来上がったのは粗悪品であった。当然ジョブスは落胆するが、その不完全なコピーを作ったマイクロソフトが最終的にオペレーティングシステムの戦いを制してしまった。それでもジョブスは言う。


 「マイクロソフトが抱えている問題はただひとつ、美的感覚がないことだ。足りないんじゃない。ないんだ。オリジナルなアイデアは生みださないし、製品に文化の香りがしない・・・・僕が悲しいのはマイクロソフトが成功したからじゃない。成功したのはいいと思う。基本的に彼らが努力した成果なのだから。悲しいのは、彼らが三流の製品ばかり作ることだ」


 ジョブスと違い、ゲイツはコンピュータプログラムを習得しており、考え方は現実的で規則を重んじる。分析能力も高い。ジョブスはもっと直感的で夢見がちだが、技術を使えるようにする、デザインを魅力的にする、インターフェースを使いやすくするなどの面にするどい勘が働く。完璧を求める情熱があり、そのせいで他人に対してとても厳しく、カリスマ性と広範囲・無差別な激しさで人を動かす。
ゲイツはもっと整然としている。きっちりとスケジュールが組まれた会議で製品レビューをおこない、緻密なスキルで問題の核心に斬り込む。


 「どちらも、『頭は自分のほうがいい』と思っていましたが、美的感覚やスタイルを中心にスティーブがビルを若干、下に扱うことが多かったと思います。逆にビルは、プログラミングができないことからスティーブを格下に見ていました」


 ジョブスはビル・ゲイツと会社としてマイクロソフトと今後を次のように語っているが、これがなかなか興味深い。


 ビルは自分を“製品タイプ”の人間に見せたかったけど、本当のところはそんなタイプじゃなかった。彼はビジネスマンなんだ。彼にとっては、すごい製品を作るよりビジネスで勝つほうが大事だった。世界一の金持ちになったし、それが目的だったのなら達成できたわけだ。僕はそういう目的を持ったことはないし、それに、なんだかんだ言ってもビルもどうだったんだろうと思う。すごい会社を作った点は評価しているし、彼と仕事をするのは楽しかったよ。頭がよくて、ユーモアのセンスも意外にあるしね。でも、マイクロソフトのDNAに人間性やリベラルアーツはあったためしがない。マックを見ても、それを上手にコピーできなかった。本質がわからなかったんだ。
 IBMやマイクロソフトのような会社が下り坂に入ったのはなぜか、僕なりに思う理由がある。いい仕事をした会社がイノベーションを生みだし、ある分野で独占かそれに近い状態になると、製品の質の重要性が下がってしまう。そのかわり重く用いられるようになるのが、“すごい営業”だ。売り上げメーターの針を動かせるのが製品のエンジニアやデザイナーではなく、営業になるからだ。その結果、営業畑の人が会社を動かすようになる。IBMのジョン・エーカーズは頭が良くて口がうまい一流の営業マンだけど、製品についてはなにも知らない。同じことがゼロックスにも起きた。
 営業畑の人間が会社を動かすようになると製品畑の人間は重視されなくなり、その多くは嫌になってしまう。スカリーが来たときアップルもそうなってしまったし-これは僕の責任だった-バルマーがトップになったときマイクロソフトもそうなった。幸いなことにアップルは立ち直れたけど、マイクロソフトはバルマーが経営しているかぎり変わらないだろう。


 最後にジョブスが自分の自伝を著者に書いてもらう動機みたいなものが書かれている。


 「ではなぜ協力を?」

 「僕のことを子どもたちに知ってほしかったんだ。父親らしいことをあまりしてやれなかったけど、どうしてそうだったのかも知ってほしいし、そのあいだ、僕がなにをしていたのかも知っておいてほしい。そう思ったんだ。もうひとつ。病気になったとき、気づいたんだ。僕が死ねば、僕についていろいろな人がいろいろなことを書くはずだけど、ちゃんと知っている人がいないって。間違いばかりになるって。だから、僕の言葉を誰かにちゃんと聞いてほしいと思ったんだ」

 「君の本には僕が気に入らないことがたくさん書かれるはずだ」

 私(著者)はうなずく。

 「それは良かった。それなら社内で作った社長礼讃本みたいになる心配はないな。かっかするのは嫌だから、当分、読むのはやめておくよ。読むのは1年後くらいかな-そのころまだ生きていたらね」


 ジョブスは最後まで自分の生き様にこだわった。ある意味最後に自分の人生をきちんとデザインして終えたかったような感じだ。でも最後のセリフはちょっと笑えた。


 「一から十まで自分たちでやる会社にウォズと僕がしたから、僕らはほかの人たちとの協力が不得意になってしまった。アップルのDNAに協力という要素がもう少したくさんあったら、きっとすごいことになっていたと思うよ」

 そのためジョブスは生きることに忙しくなってしまった。でもそれで良かったのだろう。ジョブスはボブ・ディランの「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」と言う言葉で、自分の人生を肯定しているように思えた。


評価
★★★★★


書誌
書名:スティ-ブ・ジョブズ 〈1〉
著者:ウォルタ-・アイザックソン/井口耕二【訳】
ISBN:9784062171267
出版社:講談社 (2011/10 出版)
版型:445p / 20cm / B6判
販売価:1,995円(税込)


書誌
書名:スティーブ・ジョブズ〈2〉
著者:ウォルタ-・アイザックソン/井口耕二【訳】
ISBN:9784062171274
出版社:講談社 (2011/11/01 出版)
版型:430p / 19cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2012年01月30日

日垣隆著『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』

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 この本は書名通り、電子書籍と紙の本について書かれたものと、著者の日々の思考作業を様々な事例を元に書かれている。後半は私にとって、それほど興味は湧かなかったけれど、電子書籍と本に関する意見は面白かった。
 ここで著者は「2010年は電子書籍元年」と言われ、これからはこうしたデバイスが主流になり、紙の本が駆逐されるような風潮、それって、本当にそうなの?と疑問を呈する。
 そして電子書籍やipad関連の本がよく売れていることあげ、「微笑ましいのは、『紙の時代は終わる!』という趣旨を強調しすぎるこれらの読み物が、ほぼ例外なく「紙の本」で売られていることだ」と笑い飛ばす。
 確かに電子書籍、電子書籍と騒いで取り上げているのは紙の本や雑誌だ。そして電子書籍のコンテンツはそれ専用のオリジナルではなく、本として出版されたものをわざわざデジタル化して売り出していることに、意味があるのか、と言うのである。
 著者は仕事柄、多くのデバイスを使い、電子書籍に接してきて、次のように言う。


 私は電子書籍を読むデバイスを10種類以上買って実際に読んできました。あんなもの使って、長い本を最初から最後まで読まないでしょ?というのが率直な感想です。iPhoneやキンドルで『カラマーゾフの兄弟』を最初から最後まで読むのは、拷問以外の何ものでもありません。


 さらに、


 『源氏物語』をiPhoneで読んでいる人がいたら「なにかの罰ゲームですか?」と訊いてしまいそう。


 とまで言う。
 アマゾンで出しているキンドルは目に優しい設計らしいが、それでも普段パソコンで仕事をしていて、なおかつデバイスで本を読んでいたら、日本人の視力はますます悪くなることは間違いない、とも言い切る。
 要するに本としてのメディアが存在するのに、それをわざわざ電子書籍用のデバイスで読んでも、ただ目を悪くするだけだと実際に使ってみた感想を言うのである。
 キンドルやiPadを“黒船”みたいに扱う日本の出版業、あるいは「これからは電子書籍だよ」という一辺倒なニュースを垂れ流すマスコミに、ちょっとおかしいんじゃないの、言うのである。著者は一部ITバブル評論家が言うように電子書籍は急激には進行しない。その理由を著者特有の皮肉を交えて言う。その言い分を聞いてみよう。


 まず1日は24時間しかない。8時間寝て、10時間働き、通勤に2時間。食事や飲み会、おしゃべりが3時間だとすれば、合計23時間。残りは1時間しかない。メディアは、たった1~2時間の細切れの時間を争奪しているだけだ。メディアはそうした可処分時間の奪い合いしているだけで、本やテレビ、新聞は所詮ニッチ産業ではないか、と言うのである。
 Wikipediaによると、ニッチ( Niche )とは直訳すれば「隙間」や「くぼみ」の事であり、もともとは生物学で生態的地位を表す用語である。ニッチ市場(にっちしじょう)とは市場全体の一部を構成する特定のニーズ(需要)を持つ規模の小さい市場のこと、と書かれている。要するに隙間市場ですね。元々その程度の市場である。そこに既存のメディアが競い合っているだけで、それがキンドルやiPadに取って代わるといっても、その程度の話なのである。
 さらに本をきちんと自分で選んで読める人は、日本に総勢で(各分野で多く見積もって)20万人くらいしかいないのではないか。電子書籍とそのデバイスの普及は、せいぜい本のヘビーユーザーたちに行き渡ればそれでおしまい、という市場規模であることは忘れないほうがいい。と言う。
 しかもそうしたヘビーユーザーたちが好む本は、おおむね頁数が多い。文学書、歴史書、専門書、学術書、古典・・・・すべて電子より紙の方が読みやすい。もともと本としてあるのだから、わざわざ電子書籍を読む必要性がどこにあるというのか?わずかな可処分時間の為に読みづらい本を読むよりも、そのものを手にした方がいいに決まっている。しかも高い金を投資しなければならないのだから、ユーザーが大規模にすぐ増えるとは思えないと言うのである。
 著者は「先走りも結構だけれども、習慣的な楽しさや、年齢や好奇心による違いも、決して小さく見積もってはいけません」とも言っている。たとえばこういうツールに早めに手を出すかどうかは、50歳が境目だそうで、それ以降の年齢になれば、既存の本や雑誌で充分だ、と言いそうである。私もそうだ。
 「優れた機能」だけで、人は商品を選ぶものではない。案外、「慣れ」のほうが重要だったりする。その「慣れ」を充分凌ぐ、新しいデバイスなりグッズなりスペック搭載品が出たら乗り換える可能性はあるだろうけれど、何度も言うように電子書籍のコンテンツは現在紙で同じものが存在するのである。紙の本をただデジタルにしたところで、その代償として目が悪くなるくらいだ。だから「紙の本ではできなかったこと」を電子書籍はメインにしていくべきだと改めて思う、と言うのである。それであれば電子書籍は新しい、そして広大なフロンティアであることは疑いない。今のところそうなっていないのだから、騒ぎ立てる程のことじゃない。
 著者はまえがきで、


 デジタル化は避けられない。それどころか、便利さに満ち溢れている。
 しかし同時に、習慣や伝統にも優れたものが無数にある。
 我々は、その両方の継承者でありたい。そう思いませんか-。


 まさしくその通りだ。むしろその二つの選択肢があることを素直に喜ぶべきで、“いいとこ取り”出来る。そもそも一つにしてしまう理由もなく、それぞれが読者を獲得出来ればいい。私は電子書籍の継承者にはなれないけれど、それが出来る世代の人は優れた既存のメディアを尊重しつつ、新しいメディアも使えばいいのではないか。むしろ新しいメディアしか使えないと、それに頼るしかなくなってしまう。

 話はちょっと横道にそれるけど、先日久しぶりにタクシーに乗った。行く先を告げたら、運転手がカーナビでいいですか?と聞く。最初何のこと言っているのか分からなかったけど、カーナビの指示で目的地へ行くと言うことらしい。それがあるとないとではどう違うのかよく分からなかったので、いいですよと言うしかなかった。
 そもそもこの運ちゃん道を知らないのだろう。いや知らなくてもいいのかもしれない。だってカーナビがあるからね。でも何でこんな道通るんだろうな?と乗っていて不思議には感じていた。まぁこの運ちゃんにとってカーナビの指示は絶対なのだろうし、私が不安を感じても、このまま乗っていれば目的地に着くんだろう、と思っていた。しかし最後の詰めで道に迷う。結局車を止めて、歩いている人を捕まえて道を聞いていた。
 帰りもタクシーを捕まえて帰ったのだが、乗ったタクシーの運転手は年配の方で、こっちが目的地を言った途端、メーターを下ろし、発進する。カーナビはついていたが、使わない。これだよね。道を知っているからカーナビを使わなくてもいいのだ。

 電子書籍の波で書店が生き残れるか、どうかは、著者は「書物に関する知識が豊富な書店員が『本のコンシェルジュ』化することが、リアル書店の最大の強みとなるはずだ」と書いている。そう書いた上で、「でもこれって、書店員の原点でもありますよね」とも言っている。
 書店も最近は人件費の安いパートやアルバイトに仕事を任せ、後は客に検索機で在庫を確認させることしか出来ない書店が増えてきた。それで出来ちゃうのだ。先のタクシーの運ちゃんと同じだ。道なんか知らなくてもいい。カーナビが教えてくれるからだ。必要なデバイスを使いこなせれば簡単にプロになれちゃう時代なのだ。経験とか教育とか、スキルアップとかいうものは時間がかかるし、人件費の高騰を招くだけなので、経費的に省かれた。プロが軽くなったか、いなくなる所以だ。せめてリアル書店ではコンシェルジュでも何でもいい。とにかく本のプロがいることに、生き残り道があるような気がする。
 生き残りといえば、音楽CDは凋落の一途だけれども、CDブックは静かなブームなのだそうだ。落語や有名経営者の講演会など聞かれる方が多いらしい。そうそう、音楽CDは何で74分なのか、知りました。CDソニーとフィリップス社が共同で開発・商品化したもので、顧問格のカラヤンがデジタル音源を絶賛し、彼が指揮する「第九」が収まる時間から、74分が決まった、そうだ。


評価
★★★


書誌
書名:電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。
著者:日垣 隆
ISBN:9784062169639
出版社:講談社 (2011/04 出版)
版型:262p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2012年01月26日

鹿島茂著『神田村通信』

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 筑摩書房の宣伝雑誌「ちくま」に今、鹿島さんの「神田神保町書肆街考」が連載されていて、私はこれを楽しみに読んでいる。私は神保町の歴史にはかなりの興味を持っていて、今まで何冊かその関係の本を読んできたが、未だにしっくりと来ない部分があったが、この連載は神保町の成り立ちがわかりやすく書かれている。
 だいたい町の歴史というのは地形もそうだし、住んでいた人間や町に関わった人間も大きく変わっているので、なかなか理解しにくい。ところが鹿島さんの文章はわかりやすく、丁寧に書かれているので、その変遷がよくわかる。たぶんそれは鹿島さんの文章力にもよるのかな、と思われる。で、鹿島さんの本を読んでみようと思った訳である。
 
 鹿島さんは最初、神保町に事務所を持ち、次にここで暮らすようになった。この本はここで生活する鹿島さんの日々における雑感集とでもいうべき本だ。もちろん神保町に限らず、専門のフランス文学のことや、食や興味のあることが書かれている。こういうエッセイは読んでいて楽しい。
 序章の「神田神保町ノスタルジア」に次のような文章がある。

 駿河台から坂を降りていくと、低く垂れ込めた空の下、戦前のものと思われる灰色の木造三階建ての古書店の群れが靖国通りの南側にビッシリと建ち並んでいた。
 大きなビルといえば、三省堂だけ。建て替える以前の古い鉄骨モルタルで、外壁はたしか薄い緑色だったと記憶する。店内に入ると、独特の匂いがした。これはおそらく当時のインクの匂いで、大量の新刊を扱う大型書店ではたいていこの匂いがしたのである。
 では、肝心の古書店はというと、こちらは黴と埃の匂いに圧倒された。今では神保町の古書店もだいぶ小ぎれいになったが、この時代には、それこそ古色蒼然という形容詞がふさわしい雰囲気だった。紙質のよくない昭和二十年代の古書が中心だったせいかもしれない。黴と埃、それに古紙のすえたような匂い、これがどの店でも支配的だった。

 この話は昭和四十年代の頃の話である。私もかろうじて、建て替える前の三省堂本店を知っている。私が初めて神保町に行ったのは、高校に入った頃であった。やっぱり駿河台の坂をずんずん下って行った。この先行けば、本の町が広がっているんだ、と思った。そして鹿島さんが書かれている三省堂も入った。インクの匂いまでは気がつかなかったが、ただ木製の背の高い本棚がたくさん並び、その本の量に圧倒された記憶がある。地元にあった本屋さんとまったく違う、その偉容さ驚いた。以来、毎月こづかいをもらうたびに、ここへ行った。
 古本屋さんは大学時代から通い始めた。高校生ではまだ古本屋に入るという考えはなかった。しかしここで探している本が次々と見つかると、もうその魅力に取り付かれっぱなしであった。
 私は大学も近所だったし、仕事場も近くだったこともあり、この時から現在までつきあっていることになる。実を言うと昨日も、天気が良かったものだから、ぶらりと神保町界隈を歩いてきた。別に探している本はないのだが、三省堂にしても、書泉にしても、東京堂にしても、店に入り、本を眺め、手に取るだけで、いい気持ちになる。古本屋さんにも当然入る。ここでもこれといって捜し物があるわけでもないのだが、棚に入っている、知っている本や、文庫本しか知らないけれど、その親本はこういう装丁の本だったんだな、知るだけでも楽しい。一回りして、靖国通りの奥にあるコーヒーチェーンに入り、持ってきた本を読み出す。
 ここも節電のため、店内の照明を落としているので、日の光が入る窓際に座り、小一時間ほど、本を読んだ。ここのところ節電で、照明を落としていることが多いけれど、いくらそれがやむを得ないにしても、視力が落ちているおじさんには、電車の中で本を読むことが少々キツイ。
 そうそうちょうど鹿島さんのこの本を読んだばかりだったので、思わず裏通りのビルに目がいってしまった。ちょっとくたびれたビルなど見ると、鹿島さんこんなビルの一画に事務所を構えているのだろうか、と思ったりした。こんなところで個人事務所を持てるなんてうらやましい限りだ。私は事務所を持つ理由などまったくないし、これからもないだろうから余計である。ここにいればいつでも本に触れられ、散歩や気分転換に歩き回れることが楽しいに決まっている。でも鹿島さんだけでなく、間違いなく本の冊数が急激に増えるだろうな、とも思う。
 昔はここに来るのには国鉄お茶の水駅からここまで歩いてくるしかなかった。今は交通の便がホンと良くなり、簡単にここに来られる。ということはここに住んでいれば、簡単にどこでも行けるということだ。だから再開発され、大きなマンションが建ったのだろう。
 面白かったのは、鹿島さんがここで暮らすために南向きの部屋を避けたということである。通常日当たりなど考えて、部屋は南向きを求めるが、神保町に関しては北向きがいいという。何故かというと、神保町は夏が耐え難いからだそうだ。神保町はかつて「大池」と呼ばれていたことからも明らかなように、周りを高台に囲まれる谷間になっている。そのため夏になると猛烈な暑気が低地に溜まるらしい。おまけに車道も舗道もアスファルトになっているから(過激派学生が舗石を剥がして暴れたため)、太陽の照り返しが猛烈だからという。しかも最近は高層ビルが皇居側に建ち並んでいるので、海からの風も吹いてこないし、冷房のため室外機の熱風もそれに加わる。だからここでは北側がいいのだ。
 もちろん冬は寒いが、夏の暑さより我慢できる。もとより暖房設備が充実しているから寒さにも問題ない。さらに最初から北側を希望しているから、建設中のマンションの抽選に当たりやすいという特典もつくから面白い。
 そういえば「神田神保町書肆街考」にも神保町の地形のことが書いてあった。だから“なるほど!”と思ってしまった。

 最後に、「神田神保町にあるべき書店形態」が面白かったので、それを書いてみたい。それは鹿島さんの新しいタイプの書店形態の提案である。鹿島さんは神保町にデパート方式ではなく、パルコ式の集合的新刊書店を望んでいるのである。パルコといえば専門店であるが、書店もそうあるべきで、大型書店のように何でもありますよ、といったデパート方式より、こちらの方がよろしいのではないかという。長くなるが引用してみる。

 なぜなら、私が夢想するパルコ方式の集合書店では、本を選び、仕入れ、棚に並べてディスプレイーするのは、それぞれ、深い専門的な知識を有するプロの読書人であり、選書にもディスプレイーにも各人の哲学と美学が発揮されるに違いないからだ。つまり、それぞれの専門店の店主が独自性を発揮して店づくりをすることができるというわけである。
 いいかえれば、書店経営がそのまま自己表現になり得る可能性があるということだ。経営はもちろん独立採算制だから、店主の責任において、この本は絶対におもしろいから小出版社の本でも断固置く、あるいはこれは売れ筋だが内容空疎だから並べないというような我がまま許される。
 そして、このように選別と排除のシステムを独自に働かせて選書とディスプレイーを行うことは、ある種のコレクションに通じる。そして、コレクションである以上、そこには個性が生まれる。いや、個性というよりも、私の用語を使って「ドーダ!」といったほうが正確だ。「ドーダ、オレ(わたし)の選んだ本はスゴイだろ。マイッタカ!」という、自己愛に発する「認められたい」願望である。
 この「ドーダ」が重要なのである。つまり書店主の「ドーダ」が感じられる棚揃えの専門店なら、その「ドーダ」自体が売り物になるというわけだ。

 もちろん「ドーダ」が個性として、売り物になることはよくわかるが、これを行き過ぎてしまうと、まったく売れない書店になってしまうから、そこはバランスが必要になることも、著者は後で付け加えている。神保町では古本屋さんはこの方式である。だから新刊書店もそうあっていいのではないか、というのである。
 大書店が闊歩する業界になりつつあるので、中小書店が生き残るには、この方法しかないかもしれないが、こと神保町では新刊書店は別にこの方式でなくてもいいような気がする。ここは三省堂を中心に大型書店で、新刊の情報を得て、それを手に出来るところであって欲しい気がするからである。個性派専門店もいいけれど、それなら別に神保町である必要はない。そんな気がする。
 むしろ大型書店と古本屋さんが共存している町で、世界に類のないほど本の在庫が、新刊と古本がここにある、というのは魅力なのではないか、と思うのである。

評価
★★★


書誌
書名:神田村通信
著者:鹿島 茂
ISBN:9784860292188
出版社:清流出版 (2007/12/25 出版)
版型:270p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2012年01月20日

大沢在昌著『鮫島の貌』

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 新宿鮫の鮫島が登場する短編集である。私が読んできた新宿鮫はすべて長編であり、一つの事件を追う鮫島の姿が事件の成り行きと描かれるものであった。だからすべてが一つの犯罪に集約されてしまう。もちろんそれはそれでエンターテイメントとして堪能してきた。
 しかしこうした短編はそれ以外の日常の鮫島を描いていて、「ああ、短編というのはこういう効果もあるんだな」と思った。時には鮫島の出生地や父親の仕事を知ることも出来る。上司の桃井さんも登場して、例によってかっこいい。同じ警官で“腐ったリンゴ”と称される大森とのやりとりは迫力がある。ちょうど鮫島が桃井の部下として赴任してきた頃の話だ。


 私はコートの前を開いた。腰に吊している拳銃をよく見えるようにした。

 「そんなもの、なんでもってんだよ」
 「ここのところ物騒でね」
 「一発でも撃ったら、あんた終わりだ。トバされる」
 「忘れたのか。私は“死体”(マンジュウ)だ。先にことに興味などない」

 「忘れてやる」
 「ただし、あの若いのに何かあったら、お前と藤野組にまっ先にいく。わかったか」
 大森は瞬きをした。目をそらし、吐きだした。
 「俺はあんたを見くびってました」
 「けっこうだ。いくら見くびろうと、馬鹿にしようと、かまわんよ」


 桃井は周りから無能で反応の鈍い人間として見られているが(だから“マンジュウ”と呼ばれている)、実際は部下思いで、迫力があるのだ。その桃井さんも殺されちゃったしなあ。残念だ。

 鮫島の生まれは「水仙」に書かれている。中国国家安全部の女“安”が鮫島に近づき、会話する場面である。


 「鮫島さんはどこの生まれですか」
 「生まれたのは静岡ですが、父親の仕事の都合で、あちこちで育ちました。主に関東圏ですが」
 「お父さんは仕事は何をしていましたか」
 「新聞記者でした」

 こんなプライベートは、長編では出てこなかった。

 「幼馴染み」では“遊び”があって楽しかった。晶が浅草に初詣に行きたいと鮫島を誘い、鑑識の藪がこのあたりの生まれなので、誘って美味しいお店を紹介してもうらおうとする。藪はうまい佃煮屋があることを鮫島ら言うが、言った後後悔する。そこは藪の幼馴染みの両津勘吉の実家である佃煮屋だったからだ。藪は両津に頭が子どもの頃から頭が上がらない。
 で、その佃煮屋で両津と会ってしまう。この両津さん、「こち亀」の両津さんと同じキャラクターをしているのだ。これは作者が遊んでいるな、と思わせる。でも面白かった。こういうのもありかな、と思った次第だ。

 ところで最近テレビで「ガールズバー」と称するバーがあるのをよく見る。こんなスタイルのバーが何故普及してきたのか、その背景が書かれているところがあって、興味深かった。
 風営法によると、ホステスや客の隣席で接待するスナックやクラブは午前一時までに閉店しなければならない。それに違反すると営業停止をくらう。そこで女性バーテンダーを置いてガールズバーとして営業を始めた。ここは「深夜酒類提供飲食店営業」として届け出た場合は終夜営業が可能であるのだ。中身はホステスなのだが、カウンターを隔てて接客するということで風営法に引っかからないらしい。

 とにかく違う角度で新宿鮫を楽しませてくれる一冊であった。


評価
★★★


書誌
書名:鮫島の貌―新宿鮫短編集
著者:大沢 在昌
ISBN:9784334927998
出版社:光文社 (2012/01/20 出版)
版型:281p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2012年01月03日

向井透史著『早稲田古本屋日録』

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 私は本を読む時はいつも付箋を本の表紙の裏につけておき、気になる文章や言葉などあったところに貼り付けていく読み方をしている。それはたとえば本文にマーカーなど使ってもいいし、あるいは書き込みをしてもいいのだけれど、本を汚してしまうことが嫌なのでそうしている。そして読み終えたら、その本に付箋だらけになっていることが多い。
 しかしこの本はそうした付箋がほとんど付かなかった。それはこの本にそうした箇所がなかったということではなく、付箋などつけずに本の内容を素直に感じ取るのがいいのかな、と読み始めてそう思ったからである。詩的で素直な文章は読んでいて心地よかったのである。
 年の暮れから読み始め、元旦に読み終えたのだが、最初の「大雪の夜」が本の内容のように雪はないが、ちょうど暮れの時期のことが書かれていて、どこか雰囲気が同化出来る部分があってよかったのである。この文章は著者が19歳の時に書かれたと後で知ったが、なかなか大したものである。


 「すごい雪だ。明日は営業できるかな」
 こんなことを考えているのは、年の終わりも近づく頃。大雪の日である。
 とても静かな一日であった。なにせ店のドアが開く音がまたったくしないのだから。聞こえるのは、私の打つパソコンの音だけ。外を見れば、百円均一のワゴンには雪が山盛りに積もっている。たまに通る、車の振動が積もった雪を崩していく。
 こんな状況になってくると、それほど広くない店の中は、まるでかまくらの中のようではないか。先ほどから、外の雪のひとひらひとひらを目で追うというような、無駄なことに時間を使っている。

 「いしやーきいもー」

 五十代半ばと思われるおじさんは、車から降りるなり店に入ってきた。壊れてしまった眼鏡の縁が、セロテープで固定してある。肩の雪を払いつつ「どうだい、売れているかい?」

 「見ての通りですよ」

 「そうだろうな。ここいらへんで開いているのはあんたの所だけだ。人なんかいやしないよ。寒くたって外に人が出てこないんじゃ俺も商売にならないよ」

 「兄さん、一つ買ってくれよ。おまけするから」

 営業か。ちょうど腹もへっているし、買うことにした。石焼いもの押し売り、というのもおかしくて気に入った。

 「わるいね」というと、すばやく大きな焼きいもを持ってきた。小さめのものを、ひとつ付けてくれた。これがおまけというわけだ。
 おじさんは、お金を受けとると店内をゆっくりながめた。数分してから突然おじさんは口を開いた。

 「俺って本を読むように見える?」

 「お客さんで、あまりいないタイプ」

 「見えないよな」

 「俺、昔はずいぶん本を読んだんぜ。古本屋にもよく行ったもん。自宅の近所にはさ、なじみの店もあったの。まあ事情があってこの仕事をやるようになってからはあまり読まなくなったけどさ。まぁ、読む気力なくなっちゃうんだよな、仕事の後って」

 「何時までやるんだい」

 「もう終わりです」

 「ちょっと待ってな」とおじさんは一昔前のでっかい魔法瓶と、小学生が使うようなプラスチックのコップを持って戻ってきた。
 「まあ飲めよ」
 コップから湯気が上がる。店内に、甘い紅茶の香りがひろがった。
 「いい香りですね」
 「本の香りも悪くないよな。なんちゃってな」
 「うまいこといいますね」
 おじさんは耳まで真っ赤になると、紅茶を一気に飲みほした。


 古本屋さんはいい感じの文章を書く人が多いような気がする。文章もうまいし。向井さんの本は初めて読むが、私もこういう文章が書ければいいなと思ってしまう。
 早稲田でも年に一回青空古本祭があるとは聞いていたが、向井さんは早稲田の古本屋さんで、その祭の目録作成に関わっているらしい。お祭りは9月にあるのだが、その用意は春から始めていることを知った。1年に1回の大きな催し物のため、それくらいの時間をかけなければならないらしい。もちろん日々の営業もあるわけだから、夜遅くまでパソコンを打ち、目録を作り、原稿を書く。だから店番中居眠りもしてしまうし、買い取り先でも居眠りしてしまい、気がつくとタオルケットを掛けられて、慌ててしまったことが書かれている。古本屋さんも大変だ。
 新年早々いい本からスタート出来た。


評価
★★★


書誌
書名:早稲田古本屋日録
著者:向井 透史
ISBN:9784842100661
出版社:右文書院 (2006/02/28 出版)
版型:199p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年12月31日

石橋毅史著『「本屋」は死なない』

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 この本は厳しい出版業界で「意思ある本屋」であり続けようとする書店員・書店主を訪ね、本当の意味で“本を手渡す職業”として誇りを持ちたいと日々奮闘する彼らをルポしたものである。しかし一方で今現在出版業界が置かれている厳しさは彼らの存在をある意味否定する。その狭間で彼らは自分たちがやっている本屋の存在意義を必死に求める。あるいは今の出版業界の流れに逆らえず、挫折し、そこから足を洗うことを選択するが、完全に諦めきれないジレンマを書きつづる。
 しかし読み終えてみて、著者はいったいどうしてこの本を書きたかったのだろう、と思った。今現在置かれている出版業界に疑問を感じ、自らその流れに反して、「本」を手渡す役割を担いたいと欲する人びとの根源な存在意義を探し求め、それらの人を訪ね、その考えを聞き、本に関わる人々姿をルポして、こういう書店員がいるんですよ。あるいは小さいけれど、個性的な書店があるのですよ、と言って、どこに意味があるのだろうか?

 まずは「本」を手渡す役割を担いたいと欲する人びとの根源な存在意義を、わざわざ見出さねばならぬほどの出版界の現状とはどういうものなのだろうか?この本から知ったことを書いてみる。その上で私の個人的な意見を書きたい。

 出版科学研究所の調査によれば、取次が一年間に流通させる新刊書籍のタイトル数は1982年に3万点を超え、1995年に6万点を超えた。いまは7万点から8万点に達している。その間、取次は本の保管・流通させるための倉庫を次つぎと増設し、新刊の洪水状態に対応してきた。しかし倉庫を拡張して取扱量を増やせば、その管理費用などあらゆるコストも増大する。
 はじめから無駄とわかっているなら、売れないと思う本は受け取りを拒否すればよい。それが企業として当然の対応ではないかと思えるが、広範に本を取り扱うことを使命としてきた取次は、それを実行できなかった。一タイトルあたりの仕入れ冊数は減らしてきたが、内心では「売れない」と思っている本でも、取引のある出版社の新刊は原則としてすべて受け入れてきた。
 日本の取次は、一私企業でありながら、企業としての損得だけで本を扱うのではなく、国内の出版文化を支える役割を担ってきたのである。商品であり文化財でもある「本」が抱える矛盾そのものだ。取次がこの矛盾を引き受けてきたことは、日本の出版が世界に例を見ないほど安定的に発展した原因のひとつである。
 しかし何でもかんでも取次が受け入れていけば、ますます出版業界はおかしくなっていく。そこで取次はPOSシステムを書店に繋げることで各店の売れ行きや在庫数を把握する。こうすることで無駄を省き、効率化を進めていけるからだ。これを本気で進めていかないと、出版流通はほんとうに破綻してしまうという切迫感が取次にはある。
 しかしこうして導入されたシステムは、志のある書店員の仕事をやりにくくする。自分の棚を演出し、徐々に売上が伸びてくると、今度はそのデータがPOSシステムによって吸い上げられていく。それが共有データとなり取次を通して他の取引店に流される。
 その結果TUSUTAYAなどのナショナルチェーンなどによって、よその地域で大々的に展開されていく。そうやってあっという間に広がることで、土台のしっかりした強いジャンルに成長する前に消費尽くされていく。当然このことは演出を仕掛けた書店員にとってこのことは面白くない。モチベーションを失ってしまうことにもつながる。
 またこうして吸い上げられたデータをもとにして出版社に本の企画を提案し、その商品については取次が責任を持ってはじめから大量仕入れを行い、書店に配本することも増えている。
 つまり流通業者である取次が商品政策まで手を出し始めることで、全国に一律的な本の陳列、販売を加速しつつあるのである。このことによって本の世界は自由度を失い、つまらないものとなっていく。出版流通全体がもはや自分が思うような書店員として仕事をさせてくれない次元に向かっているのである。
 本当に本を愛し、それを読者に手渡したいと思っている書店員が、他の人が目をつけていないものに可能性を見出す地力とセンスでそれを演出するのだが、それが全国的に広がり“書店発ベストセラー”となった途端、その本は多くの書店が“売らされる”本に変わる。「本」の多様性を証明する発掘が、次にはそれを否定する行為となっていくのである。
 それを実感した書店員は現状に疑問を感じ、そこからはみ出していく。それがこの本で著者が関わった人々なのである。大書店を辞めて、次の自分の行き先を探せない人や、何とか自己資金で自分の考えるような書店を小さいながら開店する人である。

 ここからは私の個人的な意見である。このように現状の書店に疑問を感じ、自らが求める姿である“書店”を開く人たちの話を聞いていると、どこか自己満足に過ぎないように感じてしまうのである。私はこうした書店というのは、必然的にマニアックになってしまうのではないか、と思う。もちろんそうした本屋さんを歓迎する人たちもいることはわかるけれど、あまりにも書店主の個性が前面に出すぎてしまう可能性があるような気がしてしまうのである。どこか自己主張が強すぎて、鬱陶しい。
 著者は書店員の本に対する心を伝えることの少ないTUSUTAYAなどのナショナルチェーンや大型書店ばかりの現状はよくないと言うが、そのどこが良くないのだろうか?
 確かにあまりにも多い出版物の中で、読みたい本が埋もれてしまっているかもしれないけれど、その中から自分の読みたい本を探し出す方が、選択肢がたくさんあり、自由度もあり、いいではないかと思う。むしろ店主の強烈な個性で選ばれた本ばかりのお店の方が怖い。そもそも本屋の良い、悪いという基準とは何なのだろうか?
 著者の言うように、著者が書き、出版社がつくり、流通業者が輸送した本を、ただ置くだけ、並べるだけ本屋がどうして悪いのだろうか?私からすればたとえそうであっても、その在庫数の多さはなんと言っても魅力的だ。そこから選ぶことができるというだけでうれしくなってくる。むしろ「この本を読め!」など、お節介なPOPがある方が胡散臭い。まして小さな店で店主の思いが詰まった本ばかりだと息苦しくなってしまう。
 ちょっと前に私は北海道の書店主が「この本を読め!」といったパンフレットみたいなものを作って、へぇ~と感心したことがあるのだけれど、しかしよくよく考えて見ると、どうしてこのように命令口調になるのだろうか、と思う。私からすれば規模の小さな本屋さんが、何とか既存の本で売上を伸ばそうとしているのではないかと思える。つまりこれらの書店は新刊書籍の入荷が思うようにならない現状と、そういうお節介が、人に「そうかこの本を読まなければならないのか」と思わせることで、その本を読んでいない自分を恥ずかしがらせ、慌てさせ、そのことで本を買わせるに過ぎないのではないか、と思ってしまうのである。
 また出版不況は「若い人が本を読まなくなったから」だと言われている。一方で文科省がまとめた読書調査によると、小学生の図書館貸出冊数が大幅に増えたというデータもある。これはいわゆる「朝どく」の実施校の増加の時期と一致する。図書館の貸出冊数が増えているという調査結果から、今の若い人は本を読んでいるという結論を導き出している。
 しかし著者はそう単純なものではないだろうと言う。ネットやゲームやテレビといった子供にとって面白く刺激の強いものがこれだけ溢れている時代に、何かしらの大人の働きかけがなければ、昔より子供が本を読むようなるむしろ不自然だ。少なくとも子どもたちに本を読むような働きかけを「出版業界」は大いに関わっているはずだ。ということは、「若者が本を読まなくなったせいで本が売れなくなったと嘆く人」と「子どもの本の貸出冊数の増加に寄与している人」は同一の可能性があると言う。
 その通りだろう。売れ筋の本が入荷しない中小書店が生き残る手段として、お節介をする。間違いなく本が売れなくなっているにも関わらず、いや子どもは本を読んでいるという結果を誘導する。
 私の住んでいる近所に「あなたの読む本はこれですよ」という情報を提供することで有名になった本屋さんがあるが、これだっておかしな話である。読者が何を読んでもかまわないのに、読みたいという気持ちにさせる本を提供できない現実を、お節介でカバーしているだけである。
 そこには読者が自由に本を選ぶことをさせない、「うちにある本だけでいいんですよ」、といった考えが見え隠れする。あるいは本は読まれているという虚構を作り上げることで、かろうじて自分を保とうとする書店主の姿が見える。その自己保身の最大のより所が「再販制」である。著者も再販制の意義をそれらしく言う。


 新刊書籍における再販制も、小売価格が事実上変動しないことによって「本」の内容部分を価格的価値から切り離し、金銭による交換をある種通過儀礼とする面をもっていたはずだ。新刊であろうと古書であろうと、職業や事業として「本」に関わる者は売上げと利益をとらなければいけない。だが、本来的には金額として価値をつけられないものにいろんな体裁や付属的な価値を与えて収益につなげるのが「本」商売なのだ。


 しかしこれもよく考えてみると、おかしな話である。どうして本だけが本以外に付加価値があるのだ。何でもそうだと思うのだけれど、モノにはそれを作った人、使う人にモノ以上の付加価値が存在するのではないか?特に思い入れのあるモノにはすべてにいえることではないだろうか。本だけ特別じゃないだろう。この考えは出版業界でよく聞くことだけれど、本だけを特別扱いするのは如何なものか、と思う。これは再販制を維持したい人たちの詭弁である。本における付加価値の存在だけで再販制が必要だということにはならない。
 ぶっちゃけた話、読みたい本が安い方が私は有難いし、ポイントが付く方がうれしい。少なくとも本における付加価値を付けるのはそれを読む人であることを忘れている。それを提供する側が付けるものじゃないと思う。

 話がすぎた。私は「本」を誰かに手渡す役割を担いたいという気持ちは、ものすごく尊いと思う。そういう気持ちで新たに本屋さんを開くことは素晴らしいことだとも思う。けれどどうもそういう気持ちが強くなる傾向が、この人たちにはある。思い入れがあればあるほどそうならざるを得ないことはわからない訳じゃないが・・・。
 少なくともこの本の著者が言うような、そういう人たちがやっている本屋さんがあるだけでも、本屋の未来は捨てたものじゃないというような発想にはついて行けない。どうも最近はそういう本屋さんの分が悪くなってきているものだから(確かに経営は厳しいだろう)、やたらそういう本屋さんのみを擁護する傾向がありはしないか。判官贔屓していないか。そこだけに本屋のあるべき姿が見いだせるような言い方はおかしくないか。
 結局その本屋さんにどういう本があるかである。自分の趣味や興味のある本が置いてあれば、いい本屋さんだという人もいるだろうし、新刊が必ず手に入る書店がいいという人もいるだろう。話題になっている本がたくさん置いてあればいいという人もいるだろうし、私みたいにいろんな本がたくさんある本屋がいいという人もいるだろう。あるいは本は読みたいけれど、本屋が近くにないとか、行く時間がないとかいう人はネット書店を使うだろう。読者が置かれている状況で多様化した本屋の姿があっていいと思うのだ。自分の思い入れだけで、これがいい本屋さんだとか、志のある書店員だという著者の言い方が気に入らないのである。“顔の見えない書店”でも人によっては、あるいは私みたいなへそ曲がりには、有難い本屋なのである。この本の著者が酒の席で、“顔の見えない書店”が多くなっていることで出版社の営業部長に食ってかかっているとき、その人は「俺たちはそういう店(ナショナルチェーンや大型書店)のおかげで食えている」のも現実であり、そのお陰で本が多く出版され、また読者に幅広い選択肢を与えてくれているのである。
 本を提供する側の思い入れと読む側の思い入れと一致するとは限らない。本の良し悪し、あるいは面白いか、そうではないかはまったく個人的なものであって、普遍的なものがある訳じゃない。だって読む人一人一人違うし、考え方、感じ方が違うからだ。まして読む人が置かれている状況によっても同じ本でも感じ方が違うのだから、命令的に本を提供するなんてとんでもない話だと思っている。はっきり言って度の過ぎた本の提供の仕方には僻僻してしまう。書店主の個性が強烈に反映した本屋があることだけで“本屋は死なない”など言うのは単に彼らを擁護しているだけである。


評価
★★


書誌
書名:「本屋」は死なない
著者:石橋 毅史
ISBN:9784103313519
出版社:新潮社 (2011/10 出版)
版型:269p / 20cm / B6判
販売価:1,785円(税込)


 今年はこれで最後となります。今年はいろいろなことがありました。3月11日の東日本大震災や津波、原発事故と、我々の意識をいやが上にも変えざるを得ないことが起こりました。私も気持ちの上でとことん打ちのめされ、これからどうすればいいのだろうか、と悩みました。その結果手につかないことも多くあり、このブログも半年ほど休みました。それでも私は本を読むことが生き甲斐であり、その中から何かを考えることしかできない人なので、こうして拙い文章を綴ることにしました。私の文章を読んで、意見を同じくする人も多少おられるかもしれませんし、あるいは“こいつ何を言っているんだ”と思われた方もいらっしゃるかもしれません。でもこれが私の本の接し方であり、このスタンスでしか本に接することが出来ません。そして来年も同じように本を読んでいくこと、これだけは間違いありません。それでもお付き合いくださるのであれば、有難いです。一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

2011年12月30日

北尾トロ著『駅長さん!これ以上先には行けないんすか』

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 トロさんの本を読む。トロさんの本はいわゆる“企画”が勝負なんだな、と思う。人がやらないことで、でもどこか気になると言えば気になることを企画に取り上げ、それに自ら参加し、このように本にしていく。今回もそうだ。


 線路は続かないよ、どこまでも。
 時刻表をつぶさに見れば、終着駅がどこにもつながらない鉄道があちこちに発見できるはずだ。
 諸般の事情でそれ以上先へ延びることは許されず、レール止めによって行く手を阻まれた鉄道路線。錆の浮いた鉄の断面を悔しげに見せながら、オノレの置かれた立場や情況を悲しみとともに受け入れ、延々とつながってきたレールの最終地点を受け持つ最後の一本の姿をしっかりと見届ける。見届けずにおくものか。その精神で、どんどん鉄道旅をしたいのである。


 これが今回のコンセプトだ。要するにどこにもつながらない路線の終着駅の先はどうなっているのか?はたまたどうしてここで行き止まりなのか、その理由を悲しげに探る旅である。まぁ本当はその先に延びる計画はあったのだが、大体が経営的理由で線路はここで終わってしまったというのが多い。その路線がかろうじて生活路線として生き延びていて、そこを旅している。
 しかしこうした路線を旅するのは時間を贅沢に使う。そこまでに行くのが大変だし、行ったはいいが、接続がないため、帰って戻ってくるしかない。しかも電車はものすごい間隔でしか走っていないから、時間を要するわけだ。このあたりは普段我々が使う路線がきちんと接続されているものという意識を、そうじゃないんだよ、と教えてくれる。


 便利な電車たちは行って戻ってまた行って、ひたすら沿線を往復する。で、終点に着いたら別の便利な路線にバトンタッチして乗客をどこまでも連れて行く。路線が変わるだけで、便利な電車たちはネットワークを作っている。
 一方、行き止まり鉄道は各線ごと独立路線。かろうじて片側だけネットワークに参加しているけれど、小さな拠点の住民たちと運命共同体のように生きていて、重心は終着駅側にある。この路線があるから終着駅の町がある。この町があるから路線の役目がある。存在理由がはっきりしているのだ。


 だからこうした行き止まり路線に乗っていると、「いかにも物足りない気分である。便利さと快適さを追求して忙しく暮らす人々の足となる路線と、中央へとつながるパイプとして継続を第一に運行されるいきどまり鉄道が別の乗り物に思えてしまうのだ」とトロさんは書いている。
 でも逆に行き止まったおかげで古い文化の匂いが残って、人々の生活もその鉄道と密着していると感じることができる。それが各行き止まり路線の記述を読んで思ったことであった。生活感が直に感じられていい。美味しいコーヒーをうたっている喫茶店に入ったはいいが、そのこだわりのサイフォンコーヒーのまずさに呆れたり、期待していなかった駅前の中華食堂のラーメンが期待以上の美味しさであったり、B級グルメを目指すカレー蕎麦が、カレーの味に負けてしまって、蕎麦であることに意味がないことに呆れたり、駅前に本屋が続けて二軒もあることに感動したりする。
 本屋さんが駅前に二件もあることに感動した理由がふるっている。ちょっと書き出してみる。


 「小さな構えとはいえ、複数の書店がやっていけるということはだ・・・・」
 そのココロは、一定の住民が暮らし、地元の書店で本を買うということだ。本を入手するだけならロードサイドにある古本屋で用は足りるしネットもある。持ち家で営業するにせよ、一軒だけも存続するのが大変なご時世に二軒も健在なのは、住民が意識的に地元で調達しているとしか思えない。
 もうひとつ、地元に根を下ろした書店は教科書販売という武器を持つ。つまり、子どもがある程度いると考えられる。子どもが少なければ高齢化は進む一方で暗くなる。でも、ここは違う。おそらくそれが鯨ヶ丘の活性化を下支えしているのではないか。


 なるほどその地域に書店がいくつあるかが、その地域のバロメーターになるんだ、と思った。なかなか面白い。子どもが本屋でコロコロコミック(まだあるのかな?)を買い求めて走る姿が眼に浮かぶ。
 とにかくこうした行き止まり路線の旅は、一方で現代の旅の姿を浮き彫りにする。特にスピード化だ。トロさんは次のように言う。

 東北新幹線が青森まで開通。めでたいことだ。札幌から鹿児島まで新幹線だけで移動できる日も近いというではないか。すごいことだ。でも何がすごいのか、よくよく考えてみると、時間短縮くらいしか思いつかない。リニアモーターカーのすごさも、突き詰めると速さだ。
 でも、速さが求められるのは急いでいる人がいるからで、そんなに急いでいないのであれば値打ちは半減する。それでも人はスピードに憧れるものであるから、速さは善、速さは最新ということになってしまう。いつの時代も「のんびり行こうよ」がキャッチフレーズになり得るのは、それが少数意見だからだろう。


 でもいつもいつもスピード化を求められている社会が果たしてどこまで幸せな社会なんだろうと思う。急げば急ぐほど、それは余裕のなさを物語っているんじゃないか、とも思う。ここにも価値観の見直しがあってもいいような気がする。


評価
★★★


書誌
書名:駅長さん!これ以上先には行けないんすか
著者:北尾 トロ
ISBN:9784309020303
出版社:河出書房新社 (2011/03/30 出版)
版型:236p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2011年12月21日

森田功著『やぶ医者の一言』

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 今まで手に入る文春文庫を読んできた。今回は集英社文庫である。『やぶ医者の一言』というように、今回は短い文章の中で、最後に森田さんの一言が加えられていて、それが森田さんらしい。前回がちょっとと思っていただけに、これは楽しく読めた。森田さんの診療に見える患者さんを通して、町医者とは、病気とは、医療とは、何なんだろうと思われるあたりは、森田さんらしくて良かった。いくつか書き出してみよう。ほとんどの文章で森田さんが最後に呟く一言である。


 町医者は喘息ばかりとは言ってられず、交通整理のお巡りさんのような役割を果たさなければならない。


 医者には後悔がつきものと思いなおすが、通夜の席は被告席と変わりない。私は箸を握り、盃をもったままうつむいて、時を過ぎるのを待った。


 医療を含めて、西欧文明というものを、根底から見なおす時にきているのではなかろうか。


 花粉症は、排ガスに枯らされた杉の木が、適を討っているように思えてならない。


 親戚の人たちの意見は二分したらしかった。死にかけた者を助けた、というのと、助かる者も見分けのつかないやぶ医者、というのだった。


 心配代行業も町医者の仕事らしい。


 薬を計る手は、毒物を計るように慎重であらねばならないと自戒する。


 祖父の、一見でたらめな育児に、誤りはなかったようだ。子育ては百の議論より心であると思う。


 余計な病名ばかり心配するより、つまらない症状でも正しく伝えることが、診察を受ける際には大切であろう。
 ものを言わない動物相手の獣医さんは、さぞかし診断が難しかろうと思うが、逆に犬や猫を連れた飼い主は、病人以上に口やかましいものらしい。


 広く浅い知識で、何の相談にも乗らなければならない町医者は、大病院の専門医がしみじみとうらやましい。


 と、いろんな患者の言うこと、症状を診なくてはならない町医者は、愚痴もこのようにこぼしたくなるだろう。地域に密着している分そこにいる人たちの目に絶えずさらされていなければならない分、その精神的苦痛は大変だろうと思われる。町医者は“心配代行業”というのもそうであろうし、患者さんの通夜に出席すれば、その席が“被告席と変わりない”と感じるのも、大変だなと思うのである。

 森田功さんの本はこの本を含め続けて5冊読んできた。しかしこれで森田さんの本は最後にしようと思っている。私たちはかかりつけのお医者さんをたぶん持っているだろうし、ちょっと調子が悪ければ、すぐかかれるお医者さんを持っているはずだ。そのお医者さんの苦労をちょっと知ることが出来たので、何でも思うようにいかなかったら「やぶ医者め!」と思うのはちょっと控えようかな、と思うようになった。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者の一言
著者:森田 功
ISBN:9784087483659
出版社:集英社 (1995/07/25 出版)集英社文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月15日

森田功著『やぶ医者のねがい』

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 この本は今まで読んできた3冊とは多少感じが違っている。それまでの本は、自らの診療所に来る患者さんや、著者の近所に住む人たちを通して、病気を語り、医療を語り、人を語っていた。
 ところがこの本はそうしたスタイルを維持してはいるものの、そこから導き出される著者の意見は、大きな課題を、社会の問題、医療の問題、死の問題をとして、多少上から語っているきらいがある。例によっていくつか書き出してみよう。


 抗生剤は進歩したが、病気は薬だけ治るものではなく、基本は体力、いわゆる自然治癒力に頼るところが大きい。病気と戦うのは体であり、薬は応援団のようなものでしかない。


 でも、日々の診療活動の中で、ちょっとどうなんだろう、と思われる大きな問題、例えば学校の健康診断で、確かに児童の健康や病気の可能性がある児童をとにかく病院にかからせる体質は、別問題もあるんだと指摘する。それが次のものである。


 後日、医師会か何かのときに、副会長の取り巻きのような耳鼻科医は、「学校検診のおかげでしばらく助かりますよ」とささやいているのを耳にした。「治療のすすめ」には、儀式の他の意味もあるようだ。


 これは別に学校の集団検診に限らず、どこでも行われている健診でも同じだろう。検査の結果次第で、多少疑いがあれば、すぐ病院に行って詳しく検査してもらえ、という通知は、その地区の病院を儲からせているだろうな、と推測出来る。検診の結果異常の可能性があると書かれれば、誰だって心配し、病院に行かざるを得ない。それはそれで本当に問題があった場合、早期発見などに役立つわけだから、意味はある。それは否定しない。けれどここの副会長の取り巻きのような耳鼻科医が言うことも事実なんだろうと思われる。実際問題、再検査の結果大したことがなければ、検査費用をふんだくられて、いったい何なんだ、と言いたくなる。でも、健診が裏側の面から見ると、医者の食い扶持を稼がせているとしても、こればかりは仕方がない。もし再検査して本当にその病気のであった場合、逆に良かったということにもなる。ただあからさまに医者側にこのようにささやかれていると聞くと、腹も立ってくるだけである。
 また学者言ったことが行政の認可や許可を受けて、当たり前の治療法であっても後になって、それは間違いであったというのはこれもよく聞く。著者はこれに関して次のように言う。


 何事かが起こるたびに、学者は安易な対策を口にし、行政の責任者は太鼓判を押すが、誤りが明白になったあとで、学者や行政が責任をとったという話を聞いたためしがない。


 ただこれだって確かにそうだけれど、その当時はそれが一番の治療方法であって、他に治療方法や薬が見つからなかったのだから、ある意味仕方がない。科学の進歩が絶えず過去の治療方法を検証していくから、そういうことになる。たぶんこういうことはいつの時代にもあることだろう。そのたびに責任の所在を求められれば、学者はやって行けまい。医者にしてもそうであろう。その時最善の治療法であったものが、後に間違いであったと否定され、責任を取らされるなら、たぶん医者なんてやっていけないんじゃないかと思う。
 ただ一番困るのが患者である。そしてそのことによって患者が医者を責め、その診療科の医者のなり手を少なくしてしまい、結局患者が自分で自分の首を絞めることになってしまうのである。今小児科や産婦人科が少ないのもこんなところにあるんじゃないだろうか。
 問題を提起するのはいいけれど、むしろ言い放しの方が、無責任のような気がする。このあたりが今までの森田さんらしくない。
 次の文章も皮肉だけで済まないところが感じられた。マッサージ師がマッサージをしていて触診で病変を発見した。それは大病院で大げさな検査をしても見つからなかったことであった。それをこのように書く。


 面目を失墜したのはX病院であった。現代の技術の水を尽くした精密検査で見逃した病変が、マッサージ師の手先で発見されたのである。何の元手もかからない触診が、何億円もの検査設備を凌駕してしまった。


 これまでもこのような文章は書かれてきた。その時はそれまでの森田さんの書かれる文章から、町医者の限界を肯定した上で言われていたし、自らもひがみやねたみだと言ってきていた。だからこのように言われても、確かにそういうこともあるよね。何でも大病院が、あるいは設備の整った病院の方が安心とは言い切れないかもしれない。でも患者とすれば、徹底的に調べてくれる病院を選択するに違いない。それは仕方のないことだと思う。決して町医者を馬鹿にしているわけじゃないのだ。それを設備の整った病院を選択することが一概にベストの選択とは言い切れないというような言い方は如何なものかと感じてしまった。その点が気になった。森田さんらしくない。町医者のねたみだけとは感じられなかった。
 で、それはどうしてなんだろうかと考えてみた。今回森田さんの体調の悪さがやたら出てくる。元々ぜんそく持ちで、アレルギー体質で、それに苦しみながら患者さんを診てこられてきた。時には患者さんの方から「お大事に」と言われる始末である。
 でも今回はそれが悪化し、老齢という問題もはらみ、自らの進退を考えなければならないところに来ておられる。要するに診療の存続、自らの死の問題をどうしても見つめざる得ないところまで来ていたのである。だから笑って済ませられないところが数多く出てきてしまったのだろう。そう思う。特に後半は死に関しての記述が多いのもそのことを物語っている。


 男の平均寿命が八十歳の近づいた今、それまでに死ぬのは不届きだと言わんばかりの風潮があるが、人それぞれ寿命がある。誰もが平均寿命までと、天寿まで管理されることはあるまい。


 いまさら言うまでもないが、一日生きれば、それだけ多くの他の生命を奪うことなる。生命は相互に依存する、というのは、人間の勝手な思い上がりである。人は他の生命を収奪することでしか生存でいない。


 すべて仕方がないのかもしれない。でもちょっと残念だな。それまでの森田さんの文章にあるユーモアとシニカルさが気に入っていたので余計である。もっとも勝手なことを言っているのは私なのだが・・・。
 森田さんは大腸癌で亡くなられている。遺言により通夜、葬儀は行われず、遺体は献体されたという。


評価
★★


書誌
書名:やぶ医者のねがい
著者:森田 功
ISBN:9784167393052
出版社:文芸春秋 (1998/10/10 出版)文春文庫
版型:254p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月13日

森田功著『やぶ医者のなみだ』

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 ここでも町医者として開業医の苦労が書かれている。いくつか書き出してみる。


 もののはずみのふとした勘違いが、人の生命にかかわる。とくに開業医は、あらゆる事故の責めを自分一人で負わなければならない。いつ世間の非難を浴びて夜逃げという事態にならないか、いや、投獄されるようなことになりはしないか、毎日が薄氷を踏む思いである。


 二十年あまり前に私が開業したころは、往診を頼まれるとすぐ引き受けた。来院されると困る麻疹など、伝染病の多かったせいもあるが、実のところ開業資金を返すために、一軒の患家でも増やし、少しでも稼ぐ必要に迫られてのことだった。
 借金に追われなければ働かないのかと、われながら浅ましい気もするが、保険の往診点数が上がるにつれ、たのまれる件数が落ちたのも事実である。初め往診料は整髪料の半分でしかなかったが、現在は二倍近くなっている。
 実際当時と比べると医療設備が整い、検査は格段の進歩をとげた。歩けないほどの病気であれば、手当てをしながら検査をするために、入院が常識となった。そのせいもあって往診は減った。


 毎夜のように私は紹介状を書いている。紹介というよりは依頼である。あちこちの病院に、検査や治療を頼む。病院のお世話にならなければ、今では町医者の設備や技術だけではどうにもやっていけない。
 ひと昔前の町医者には、聴診器と血圧計があるばかりで、レントゲン装置さえなかった。


 機械は置いただけでは役に立たない。診断に活かすためには、それ相応の学習をしなければならない。設備投資もさることながら、勉強して機械を使いこなすまでの苦労が、町医者の片手間にはこたえる。


 こうして書かれれば、確かにそうだろうな、と思う。病気だって、ちょっとしたことでもすぐ病気にしちゃうものだから、たぶん一昔前より増えているんじゃないかと推察する。その治療方法も日進月歩だろうから、その勉強も大変だろう。診察するに当たって最新の機器を使っていないと、患者からそっぽを向かれかねない。薬の種類だって、ものすごい量に増えているに違いない。
 森田さんは次のように書いている。


 診断について、問診や視診、打聴診から病名を予測し、それに従って検査を進めるのは時代遅れだという意見がある。ひととおり検査して、検査結果に異常があったところだけを考えればよい、というのである。
 この意見に従うと町医者の存在理由がなくなる。中規模の病院も、ますます大病院化を志向しなければならない。
 医療を受ける側にも、この傾向を促進する責任があるのではないか。病院のよしあしを設備の有無で判定し、「CTがないのは病院ではない」ような言いかたがされる。


 確かに患者である我々も、町医者を信用できないとすぐ専門医と最新の医療機器がある大病院を志向する。その結果必要以上の検査をされ、検査でふらふらになってしまうのだから、この点はちょっと考えないといけないような気がする。少しでも健康で長生きしたいのは誰でも同じだろうけど、歳を取れば身体に異常が出てくるだろうし、そして人はいつか間違いなく死ぬのである。それを医療技術の進歩で多少時間を遅らせたとしても、その結果苦しい検査を受けなければならないし、死ぬことさえ、身体中にチューブが巻きつけられ、そう簡単に死なせてくれない。ぎりぎりまで心臓は動かされるのである。それが日本の最高の医療なのである。
 この本の解説は立川昭二さんが書かれているが、そこには次のように書かれている。


 それには、かならずしも最新の機器をそなえた最高の医療である必要はない。それはその病人にとって最善の医療であればいい。
 「最高」の医療と「最善」の医療とはちがう。
 最高の医療がかならずしも最善の医療ではない。そして最善の医療のほうが最高の医療よりむつかしい。そして私たちは、どちらを望むかといえば最善の医療のほうを望んでいるのである。森田さんは、このむつかしい、そして私たちがいちばん望んでいる最善の医療をやってくれる「お医者さん」なのである。


 その最善の医療を施してくれるお医者さんが永いこと往診していた八十六歳の女性を自宅で見送る場面を描いた「泣き虫」という文章がある。


 駆けつけてみると、下顎で空気を集めて飲みこむような、ゆっくりとした臨終の呼吸であった。もはや見せかけの注射をする暇さえなかった。
 すまさんの手を握った子息が「ほら、ぬくもりが消えてゆく」と、嫁や孫に呼びかけた。私は蒲団に裾に座り、膝頭を両手でつかんでうつむいた。
 「おばあちゃん」「お母さん」と口ぐちに呼びかける声を聞いていると、涙が手の甲に滴った。泣き声をこらえようとして、のどの奥で鶏の鳴くような音がした。これほどつらい仕事が世の中にまたとあるのだろうか。毎度まいど涙をこぼしながら、誰か代わってもらえないものかと思いつめる。


 こういう文章を読むと、人の病気や死に付き添ってくれるお医者さんというのが有難いな、と思う。けれど、こういうのもなかなか難しい世の中になりつつあるんだろうなとも思う。世の中あらゆるところで、効率やスピードを要求するのだから、人の病気や死も、右から左へと次から次へと処理されても、ある意味当然のような気がする。効率やスピード、利便性を競争すればするほど、そのほころびが人間の尊厳を軽くしていく。そこに利益という考えが加われば加わるほど、ますます人間の尊厳が軽視される傾向になるのはやむを得ない。
 設備のある程度整った病院付近で、胃を取られた人が多いと書かれ、そこは無胃村と呼ばれているらしい、と書かれると、笑ってばかりいられない。ちょっと考えてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者のなみだ
著者:森田 功
ISBN:9784167393045
出版社:文芸春秋 (1997/08/10 出版)文春文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月05日

森田功著『やぶ医者のほんね』

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 初七日の前後、道で姿を見かけた夫人が用のないはずの路地へ曲がっていったが、うなだれたまま目礼も返してくれなかった。
 非力な医療を恨むことが、多少でも夫人の悲しみの軽減に役立つならばと、私は自分に言い聞かせたが、甲斐のない町医者の働きがわれながら哀れであった。


 この文章は森田さんが診ていた心疾患の患者さんが、甲斐なく亡くなってから、その夫人と道でばったり出会った時のことを書いたものである。夫人からすれば、もう少ししっかり診てくれれば、という気持ちの表れなんだろうと思う。もう少し町医者がしっかりしてくれれば、死ななくて済んだかもしれないという気持ちは、病気で失った人を思う余り、そう思いたいのはよくわかる。
 私の父親が母親を亡くした時、かかりつけの医者がもう少ししっかりしてくれれば、もっと早く癌を見つけることが出来たんじゃないのかと恨みがましく言っていたことがあるのを思い出す。何のために毎月通っていたんだ、とも言っていた。でもそれって、今にして思えば、父親の悲しみをその医者にぶつけていただけのことじゃないかと思う。そうすることで、悲しみのやり場をそこへ持っていったのだろう。だからそれは身内に言う愚痴だったし、この夫人も自分の悲しみを森田さんに見せただけであろう。
 ただそれがわかるから森田さんは、「夫人の悲しみの軽減に役立つならば」、と夫人の態度に耐えたのだ。仕方がないと。でもこれって苦しいだろうな、と思う。しかし町医者の限界というのがあるだろう。なんでも大病院だったら助かるかもしれないという患者の思いに対して、森田さんが町医者としての自分の気持ちを隠さないところはいい。


 「二カ所の大学で手術しなければと診たてた病気が、放っておいたら治るとは、どうなっているのだ」
 受話器の中で村上が罵るのを聞きながら、私はいく分は痛快な気分を味わっている。雲の上の存在のような医学部教授に向けた悪態は、胸がすく。

 医学部教授の誤りに対して、鬼の首でも取ったようにはしゃぐのは、町医者の劣等感の裏返しなのであろう。


 いずれにせよ、どう転んでも町医者は、その限界をいつも感じつつ診察をしなければならないものなんだ、わかった。町医者は個人で開業している以上、リアルに生死を突きつけられ、場合によっては、直に訴えられかねない危機さえいつも抱えているのである。


 自分の半生は刑務所の塀の上を歩いてきたようなものだという政治家がいたが、罪人にならないまでも、どちらに転んでも不思議のなかった場面が、私の半生にも幾度かあった。


 それでも森田さんは次のように書く。


 狭い塀の上を、落ちたのか落ちなかったのか、とにかく現在の町医者にたどり着いて今日まで来てしまった。学問上の業績からは遠く、地位名誉には何の縁もない、だが私はこのまま、この地で生涯を過ごしたいと念願している。


 ところで私は毎日胃腸の薬を服用しているので、森田さんの薬に関する記述は気になった。森田さんは薬に関して次のように言う。


 薬は心理的な効能もあり、飲んだり注射しただけで効いたような気がする場合が多い。


 これ、よくわかる。

 結局いつもの薬を飲むことが、特別その薬が命に関わるもの以外、案外その効能よりも、森田さんの言うように「心理的な効能」も馬鹿に出来ないように思う。飲んでいれば安心、というのがあるじゃないですか。
 次の森田さんの患者の薬に関する会話が面白い。


 「また同じ薬か」

 「同じ薬が続けられるほどいいんだよ」

 「一度飲んだだけで、がばっと治ってしまうような薬はないものかね」

 「今のところはまだないが、そのうちできるだろうから、現状維持に努めるのがいちばんだね」

 「気の長い話だな」

 「一病息災とも言うし、腹を立ててはいけない持病というのは身のためじゃないか」


 森田さんは“一病息災”という四字熟語を持ち出して、そのための薬は「長い将来を考えれば、薬は増量しないことにこしたことはない。少しばかりの薬を続けるのは、本人が病気を意識し管理してゆこうという自覚を持たせる意味もある」のだと書いている。なるほど!そうかもしれないと思った次第だ。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者のほんね
著者:森田 功
ISBN:9784167393038
出版社:文芸春秋 (1996/03/10 出版)文春文庫
版型:249p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月01日

森田功著『やぶ医者の言い分』

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 私が森田功という人物を知ったのは、吉村昭さんの随筆からであった。この人の詳しい経歴は知らないが、吉村さんの文章を読むと、順天堂大学医学部の病理解剖を長いことされていて、その後三鷹台で診療所開き、町医者とその後の人生を過ごされた。吉村さんは森田さんをかかりつけとしていたという。広島で原爆被ばく経験を持っておられる。
 とにかくその文章を読んで、森田さんがエッセイシストでもあり、いくつかの著作もあると聞いて、読んでみたくなり手にした本が5冊である。『やぶ医者』シリーズといっていいのかも知れない。(いずれも今は新刊書店で手に入らないので、ブックオフとアマゾンのマーケットプレイスで購入した)

 私は自分が胃腸の調子がおかしくなるまで、医者というものにかかったことがほとんどなかった。だから町医者についてそれほど考えたことがなかった。かかりつけのお医者さんというのに、長いこと縁がなかったといっていい。けれどこうして歳をとって、胃腸の調子が芳しくなって、まずは近所の診療所やクリニックなどへ通った。苦しい胃カメラや大腸の内視鏡検査を我慢して受けてきた。病名は十二指腸潰瘍だとか、逆流正食道炎とか、内視鏡検査で、胃と十二指腸の間に、昔あった潰瘍が小さなこぶみたいになっていて、通りが悪くなっているとか、いろいろ言われた。いずれも胃腸科とうたっているところであったが、長いこと通っても一向に改善する雰囲気はなかった。
 病名が変わるたびに、あるいは病院を変わるたびに、薬が変わり、数も増えていったりする。そして今通っている胃と腸の内視鏡専門医のクリニックに落ち着いている。
 こうして、何度か病院を変えてみて、わかったことがある。診断というのはある意味ドクターの主観であるのではないか、ということである。特に内科ほそうじゃないかと思う。もちろん診断を下すには、それなりの知識と経験の裏付けがあってのことだとわかっている。でも、はっきりとした病巣が目に見える形であればともかくとして、私みたいななんだかよくわからない症状は診断が付きにくいのであろう。
 それでもはっきりした病名をつけなければ、保険請求もできないし、治療方法も決まらないし、薬も決まらないはずだ。そこで診断を下すに際して、かなり悩まれるだろうことは推測できる。ただその診断が大きく間違っていなければいいが、誤診まではいかなくても、治療方法や薬の選択に違うチョイスがあったのではないかと悩まないのだろうか、と常々思っていたところ、森田さんが町医者の心境をこう書かれている。


 どんな仕事をしていても運不運というものはついて回るが、町医者を開業してから二十年余り、ふしぎと私は幸運に恵まれてきた。
 なんとか今までは持ちこたえてきたものの、いつ運に見放されるかわからないという不安はたえず心の底にある。
 深夜目がさめて救急車の音を聞くと、もしや自分の診た患者ではと不吉な想像を巡らさずにはいられない。町医者をしていればいつでも、二、三人は気がかりな患者がいる。


 自分が診断した患者が、診断通りあれば、それでいいけれど、はたしてそれで間違いはなかったのか絶えず不安に駆られることがいくたびか書かれている。だろうな、と思う。いろんな患者を安心させたり、注意をしたりしているけれど、


 ひとの心配を肩代わりするのが医者の仕事かも知れないが、氏が安心して帰ったぶんだけ私は気が重くなった。やはり血液検査ぐらいすぐすべきであった。胃の透視も二、三日のうちに約束しておけば良かった。ひと月で三キロも痩せるのはただごとではない。考えれば考えるほど不安は大きくなってくる。


 こういう不安に絶えず悩まされるという医者は、自信がないなら話にならないが、そうじゃなくて、人の身体のことである。何が起こるかわからない。また一つの症状で判断を迫られる訳だから、“これだ!”という確実なことが言えることなど少ないのではないか。それに吐露する分この先生は良心的だと思うべきなのだろう。まして町医者である、いつも患者の顔が見える立場の人だから、余計に慎重になるはずだし、その責任の重さが不安を残すのだろう。

 また次の文章は素直な気持ちとして嬉しい気分がよく出ていて、私は気に入っている。


 病状が回復に向かったと聞くのは町医者にとって何よりも嬉しい。お陰さまでと付け加える人がたまにいるとなおさらだ。病気が治るのは医者のせいよりも、むしろ体に備わった自然治癒力に負うところが大きいから、感謝されても面映ゆいだけなのだが、それでも心が弾む。

 と書かれる。医者である自分の診断や治療方法が病気を治したと思うのではなく、病気が治るのはあくまでも自らの“自然治癒力に負うところが大きい”と書かれたことは、私もそうじゃないかと思っているところがあるので、やっぱりと思うのである。


 最後に薬の飲み方で気になったことを書く。森田さんのところに来る患者が、薬が効かないと言う。で、カルテを調べてみるともう薬がないことがわかるが、その患者はまだ薬は残っていると言うのである。毎食後飲む薬みたいだが、その患者は朝食べないので1日2回しか服用していないというのである。確かに朝食を食べない以上、食後30分後というわけにはいかないだろう。ちゃんと決まった時間に決まった量の薬を飲まないと効果が出ないと思われるが、この場合どうすればいいんだろう?特に若い人は朝食を抜く人が多いだろうから、この人達はどうしているんだろう?
 もっとこうした若い人は、薬など決まった時間に飲まなくても、若い分自らの自然治癒力で治せるのかもしれない。逆に慢性疾患の人はそれこそ自分の身体に気をつかうから、朝食を食べないことが少ないに違いない。むしろ薬を飲むために、食べられない朝食でも無理して食べるかもしれない。
 ところで私は今、漢方を毎食30分前に飲んでいるが、漢方は毎食30分前に飲むものが多いと聞いたことがある。なぜ漢方は毎食30分前何だろう、と思っていたら、その答えが書かれていて、納得した。


 昔よく用いられた漢方薬には、食前三十分と指示されたものが多い。草根木皮や獣の骨などを成分とする生薬は、調理された食品に比べると消化吸収が悪い。薬の吸収をよくするために、食前の三十分ほど前にとされたのだろう。

 ということらしい。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者の言い分
著者:森田 功
ISBN:9784167393021
出版社:文芸春秋 (1994/06/10 出版)文春文庫
版型:237p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年11月22日

吉村昭著『魚影の群れ』

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 本の内容の話に入る前にこの本のことを書きたい。実はこの本ちょっと探していた。本は初版が1983年だから、今から28年前に出版されている。しかしもう28年も経ってしまうと、よほどコンスタントに売れていないと、品切れ重版未定、あるいは絶版になって、お決まりの“手に入らない”状態になっている。まして文庫本となると、古本で探すのも大変だ。アマゾンのマーケットプレイスで探せば簡単に出てくるけれど、本の値段はそれほどでもなくても、送料を考えると、それほど安くない。結局携帯にメモを残し、古本屋を歩いている時や、ブックオフへ行ったときに目についたとき買うことにした。
 こういう時携帯は便利だ。さすが“携帯”である。いつも持って歩く以上、そこにメモとして残しておけば、自分の探している本は何だったか、あるいは見かけたときすぐ確認ができる。重複して買うこともない。
 で、この本も神田の古本屋さんを歩いていた時、ワゴンの中で見つけた。間違いないか携帯を開き、「うん、これだ」確認する。3冊まで100円のワゴンにあった。こういう時欲しい本が3冊あれば、お得なのだろうけど、大体にしてそんなことはない。今回もこの1冊だけだったので、100円を出して購入する。多少傷んではいるが、問題はない。

 さてこの本は吉村昭さんの「動物小説」のジャンルに入る1冊である。これまでこのジャンルの小説は何冊か読んできているが、やはり自然相手の話は、厳しい。またその中で生きている人々も当然厳しい。我々のようにのほほんと暮らしている人間が予想する話の展開にはならない。気持ちとしてはハッピーエンドで終わって欲しい部分があるのだが、すべてにおいて無惨な結果で終わる。そんな甘っちょろいもんじゃないよ、教えてくれる。そうであることで、自然を相手にして暮らしている人々の暮らしの厳しさを伝えていく。
 この文庫は、「海の鼠」、「蝸牛」、「鵜」、「魚影の群れ」の4編が収録されている。
 「海の鼠」は島に「鼠が湧きました」、「磯も足元の路上も鼠で充満している。鼠を踏みしゃぐ」というほどの大量の鼠が島を襲った。もともとこの島は漁と、急な段々畑で農業をする、貧しい島であった。しかも台風も毎年襲ってくる。それでも島の人々はそうした自然の厳しさの中で堪え忍んで生きてきた。それが彼等の習性であった。
 そんな中、大量の鼠が島を襲い、わずかな農作物を食い荒らしていく。それでも鼠に食い荒らされることが、分かっていても、島の人々は生きるために、農作物を植えていく。
 人間にとって島は厳しい自然であるが、鼠にとってはいい環境であり、どんどん増え、太っていく。郡事務所の久保はさまざまな対策を講じるが、一向に効果がない。猛毒性の薬剤はある程度の効果を生むが、それだけでおさまらず他の動物をも殺してしまうし、自然環境を破壊してしまう。
 結局なすすべもなく、7年後、鼠が減って行く。島民は鼠が島を襲う前までは、自然が襲う様々なことに堪え忍んで生きたが、鼠が及ぼす被害には諦めだけで済まなくなり、畑を耕さなくなったり、漁を放棄した人々が減っていく。島を離れていく。そうしたことで鼠の食糧不足が生じた。これが鼠のいなくなった理由であった。鼠が去ったあと久保は次のように、無力感に襲われる。


 島に発生した鼠の数が減少したのは、駆除方法が成果をおさめたわけではない。鼠の食糧が乏しくなった島を放棄しただけにすぎないのだ。
 人間の力は、遂に鼠の群れになんの影響もあたえなかった。むしろ久保たちの行為は島の鳥類を絶滅させ、多くの鼬、猫、犬を殺してしまっただけだった。そして、その間鼠は、村人たちの食糧をむさぼり食い交尾し妊娠し無数の仔をまき散らしていった。
 かれは、鼠課長という言葉を耳にするたびに、物悲しい無力感におそわれた。そして鼠すら見捨てた島にしがみついて生きつづける村の者たちの生活を思い起こした。かれらは強靱な人間なのか、それとも土地を離れることのできぬ無器用な人たちなのか、かれにはいずれともわからなかった。

 この話は実際にあった話だそうだ。

 「蝸牛」はそれほど面白くなかった。
 
 「鵜」は鵜飼いの父と娘の話である。松次郎は自分の家庭よりも鵜飼い中心の人間だった。松次郎には一人娘千代子がいて、千代子の子供の頃は鵜に興味を示し「川の匂いがする」と言って敬愛心を感じていた。しかし千代子が歳を経て、一人歩きするようになると鵜飼いに見向きもしなくなる。松次郎は千代子に婿養子をとらせ、鵜飼いを継がせようと考えていて、松次郎の元で働く時雄を候補と考えていた。
 けれど千代子は男と不倫の末、家を出て行き、頼りにしていた時雄も事情で松次郎も元もとを去っていく。松次郎は自分が飼育している老獪な鵜に半ば八つ当たりして、えさなど与えないでいたが、逆にその鵜に顔を突かれてしまう。鵜にしてみれば、えさをもらえるかどうかが、すべてであり、もともと鵜飼いの鵜は完全に飼い慣らせないらしい。だから鵜は生きるためにそうしただけであり、逃げ出しただけなのだ。そう考えると人間というのは、生きものの自分の感情を移入してしまうけれど、結局それは思い込みであって、何ら関係ない。生きるためには生きるための手段、野生の本能があれば、その中で生きていくだけのことなのだろう。

 「魚影の群れ」は確か映画にもなったはずだ。青森のマグロ漁師房次郎は逃げた女房が置いていった娘登喜子と暮らしていた。登喜子には恋人俊一がいた。俊一は房次郎について、マグロ漁師になるつもりでおり、登喜子に頼んで房次郎の舟に乗せてもらう。しかし房次郎はずっと一人でマグロを追ってきた。そして俊一にはマグロ漁師とは異質な部分を感じており、どうしても俊一を受け入れることが出来なかった。
 あるとき房次郎の舟にマグロがかかったが、一緒に乗っていた俊一の額に釣り糸が巻き付いてしまい、皮膚を破り肉に食い入ってしまった。房次郎は一時糸を切って、俊一を助けようとするが、マグロ漁師たるもの、マグロがかかったらどんなことがあっても糸を切ってはならない。マグロを追いつつけなければならない、という教えを優先した。それでなくても房次郎は俊一にはいい感じを持っていない。
 何とか俊一は命を取り留めたが、登喜子は俊一と去っていった。二人とも房次郎に反感をいだいていた。
 俊一と登喜子は和歌山でマグロ漁の修得に努めているという噂が房次郎に入る。そして二人は戻ってきた。戻って来たとき俊一の容貌は漁師の顔つきとなっていた。俊一は房次郎と漁で争うこととなった。房次郎は大物のマグロを釣り上げていたが、俊一はなかなか成果が上がらなかった。
 その俊一の乗った船が戻って来ない。遭難した。1ヶ月後漂流している船が発見され、船中に白骨化した遺体が横たわっていた。俊一であった。船には釣り糸がついていて、引き上げると長さ三メートルを越すマグロの骨がついていた。一見して三百キロ近い大物であった。


 かれは、ようやく事情を理解することができた。俊一の鉤にマグロがかかって、かれはマグロを追った。漁獲に恵まれないかれは、その大物をのがすまいと釣糸をにぎりつづけた。しかし、未熟なかれはマグロの疲れを誘うこともできず、マグロとともに海上遠く進んだ。
 深い疲労と飢えが、かれを襲った。が、房次郎が傷ついた俊一を無視してマグロを追いつづけたと同じように、かれも釣糸をはなそうとしなかった。
 房次郎は、俊一のその行為は自分に対する憎しみによるものだということを知っていた。が、魚骨を見つめているかれの眼には、ただ物悲しい光が浮かんでいるだけであった。
 俊一に死が訪れ、マグロも死んだ。俊一の体は陽光と潮風にさらされて白骨があらわになり、マグロの体もむらがる魚に食い荒らされて骨だけになってしまったのだろう。
 房次郎は、海に眼を向けた。洋上を白骨化した俊一をのせた船が、魚骨をひいて漂い流れる光景が思い描かれた。
 かれは、吏員に深く頭をさげて礼を言うと町の家並みの方へ歩いて行った。

 
 私は房次郎の生き様に感動を覚える。長いこと一人でマグロだけを追ってきた。根っからの漁師である。そんな房次郎が俊一を受け入れたくても受け入れることが出来ずにいた。無器用なのである。結局意地の張り合いとなり、俊一は死に、房次郎はただ事実を受け入れるしかないのである。それしかできないのであった。

 物語はすべて物悲しく終わっていく。


評価
★★★


書誌
書名:魚影の群れ
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117157
出版社:新潮社 (1983/07 出版) 新潮文庫
版型:300p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2011年11月16日

三上延著『ビブリア古書堂の事件手帖』〈2〉

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 栞子さんのシリーズ第2巻が出たので、早速買ってみた。前回は漱石全集に絡んだ大輔の祖母の話を縦糸にして話が進んだが、今回は栞子の家族、特に母親の秘密がこの巻の縦糸となって、横糸を古本に関わる人間模様を栞子が謎を解いていく。
 とにかくこの栞子は謎の多い女性で、好意を寄せている大輔にとっては、知りたいこと部分が多い。それでなくても大輔が昔付き合っていた女性と再会するにあたり、自分はこの女性に関して何も知らなかったし、その分相談相手にもなれなかったこと改めて思い知り、悔やんでいたので、栞子とは、そうありたくないという気持ちが強く働くのであった。

 さて、今回も古本に関わる人間関係の解明である。古本は四冊。坂口三千代『クラクラ日記』、アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』、福田定一『名言随筆 サラリーマン』、足塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』である。うち本編が坂口三千代『クラクラ日記』を除く三冊である。
 まずアントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』。女子高生の小菅奈緒がビブリア古書堂にいる大輔を訪ねてくる。彼女は前回窃盗事件を起こしていて、その関係で大輔たちと知り合いになっているのだが、その奈緒が大輔に妹の結衣の書いた感想文を持って、相談に来る。その感想文は大人びた、一種の危うさを持ったものであったので、奈緒は心配していたのである。読んでみると確かに女子高校生が書くような感想文ではない。そこで大輔は本のことなら栞子に相談するに限ると、その感想文を栞子に読んでもらう。そして栞子は結衣が「この本を読んでいない!」と言うのであった。
 この本は奈緒がネット書店で結衣の代わりに購入したものであったが、この『時計じかけのオレンジ』には二種類あって、旧版はアントニイ・バージェスが書いた最終章が削除された形で出版されていた。そして新版は完全版として削除された最終章を載せて出版され、旧版は絶版となっている。その最終章はあるなしでは、話の内容が変わってしまうものであり、感想文は明らかに旧版の本の感想文であった。
 それはまずネット書店で購入したものであるから、絶対に絶版になった旧版のものであり得ない。またその文庫にはスリップが付けたままになっていた。
 これはちょっと説明がいる。通常書店で本を買うとこのスリップは書店員によって抜かれる。このスリップが在庫管理にも、注文書にも使われるからだ。けれどアマゾンなどで本を買うと、そのまま付けた形で送られてくる。スリップを付けたままだと本文が読みづらいから、普通それを外すはずだ。それが付いたままになっているということは、結衣はこの本を読んでいないということになる。そして何よりもその感想文は栞子が高校時代に書いたものだったのである。それで結衣のウソがばれる。

 福田定一『名言随筆 サラリーマン』は、著者が福田定一となっていたことで、だいたい話が読めた。福田定一とは司馬遼太郎の本名なのである。私はそれを知っていた。そしてこの本は司馬さんが隠したい本だったらしく、今では稀覯本となっている。
 そんなことを知っていたので、たぶん古本の中にこの本が混じっており、それに栞子が気がつかず、話が展開し、最後にすべてが判明するのだろう、と思ったら、ほぼその通りとなった。
 話は大輔が学生時代付き合っていた高坂晶穂と久しぶりに再会し、亡くなった父親の蔵書を処分したいと大輔に依頼するところから始まる。栞子と大輔は晶穂の実家に赴き、本の査定を始める、そこにあるのは時代小説とビジネス書が中心であった。晶穂の父親は県内でレストランチェーンを経営していたが、若い頃は職を転々として苦労していた。
 晶穂の父親の本は時代小説で多少値が付くものがあったが、ビジネス書などは役立たず値が付けられなかった。しかし栞子はその本の中に何か気にかかるものがあった。何か忘れていることがあるのだ、と思うのだがそれが思い出せずにいた。結局値の付かない本を処分がてら新古書店に晶穂が持ち込むことになるのだが、栞子たちが引き上げるとき、引っかかることを栞子が思い出し、慌てて晶穂を追いかける。そして値の付かない本の中に福田定一の本を見つけるのである。しかも本には「福田定一」と署名してある。こうなるとこの本は大変価値のある本となる。
 父親はこの貴重な本を晶穂に直接手渡したかったのであった。晶穂の父親は一時期画廊の受付の仕事に就いていたことがあった。一方司馬遼太郎は産経新聞の文化部に勤めていたので、その頃晶穂の父親と知り合った可能性がある。晶穂の父親は一介のサラリーマンから大作家となった同郷の司馬遼太郎の著書は、仕事で苦労した父親にとって「お守り」だった。その「お守り」を晶穂に渡したかったのだと栞子は推理するのである。

 足塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』では、ビブリア古書堂に本を売りに来た男が、栞子が本の査定をしている間に、持ち込んだ本をそのままにして消え去っていく。古本を買い取るにあたり「買取表」に住所や氏名を記入するのだが、この男は住所を途中にして、氏名や電話番号は記入していなかった。しかし栞子は持ち込まれた本の状態から、その男の住んでいる家の状態を推理し、男を捜し出す。
 男は亡くなった父親と一緒に藤子不二雄の漫画をコレクションしていた。店に来たときに足塚不二雄の『UTOPIA 最後の世界大戦』をいくらで買い取ってくれるか訊ねていた。足塚不二雄とは藤子不二雄の若い頃のペンネームであった。足塚とは大先輩の手塚治虫にあやかって付けたという。そしてこの本は著者にとって最初の単行本で、現存するのは十冊ほどだと言われていた。1980年に初めて古書店に現れるまでマニアに間でも幻の一冊と言われていた。それを知っていた栞子はどうしても男を訪ねなければならなかった。
 男の父親は小学生の頃、この漫画を愛読していたので、どうしてもその本を見てみたいと思い、店を訪ねるが、本は万引きされた後であった。父親は恋い焦がれていた本と再開出来なかったことがショックで、しばらくの間酒浸りとなった。
 ところが父親がビブリア古書堂に本を売りに行った時に、棚にこの本が並んでいた。値段は二千円だった。父親は店員に代金を払い、持ち込んだ本をそのままにして逃げるように店を出た。その店員は栞子と同じように男の父親の家を探し出し、訪ねてきた。店員は栞子の母親であった。栞子の母親は預かった本を届ける目的でここを訪ねたのではなく、その本を買って突然飛び出したものだから、この本は貴重な古書であることに気がついた。二千円の値札の本じゃないと気がついたから、母親が教えを乞いに来たと男は言った。 しかし事実は違うと栞子は推理した。この漫画は男の父親が持ち込んだ段ボール箱に紛れ込んでいた。それを手にした母親はすべてを理解した。すなわち初めてこの漫画本が古書店に並んだとき、万引きにあって、父親はそれを見ることができなかったと言っていたが、実は万引きしたのは父親であったのではないか。だから男の父親は慌てて逃げ出すように店を出たのである。それを察した栞子の母親は、父親を訪ね、一計を案ずるのである。つまりこの盗まれた漫画を犯人から安く買取り、それを売ってしまったということにすれば、法的に罪は問われなくなる。架空の万引き犯をでっち上げ、その本を男の父親が安く買ったとすれば、父親も万引き犯となくなるわけだ。だからこの漫画にビブリア古書堂の値札がいまだ付いているのである。その代わり栞子の母親は父親が持っていた他の貴重な漫画本を安く譲り受けるのである。
 栞子は自分の母親について次のように言う。


 「わたしの母がどういう人間か、これで分かったでしょう?古書に詳しい、頭の切れる、得体の知れない人です。・・・・十年前に姿を消したきり、連絡もありません」


 その母親が残していった本が一冊ある。坂口三千代『クラクラ日記』である。母親は自分の気持ちを本に託すのが好きだった。『クラクラ日記』を見た後母親が何をしたかわかったという。


 「他に好きな人ができたんだと思います。『クラクラ日記』には、著者が幼い娘を家に残して、(坂口)安吾のもとへ走る記述があるんです」


 栞子はこの『クラクラ日記』を何冊も持っていた。栞子は母親が残していったこの本を古本市場に売りに出した。けれどあとになってこの本の中に直接自分宛のメッセージがあったのではないかと思い始め、その本を探し出すために古本市場でこの本が出品されると買い求めた。だから同じ本を何冊も持つことになってしまったのである。大輔はそう推理した。

 栞子さんの本は人気があり、どうやらシリーズ化されるようで、まだ続巻が出るようである。結構気に入っているので楽しみだ。そうそう秋葉原のヨドバシカメラにある有隣堂では、『ビブリア古書堂の事件手帖』の1巻と2巻が平積みにされていて、その横に栞子さんが推理した本、例えば今回の『クラクラ日記』や前巻の漱石の『それから』や太宰治の『晩年』の文庫本が一緒に並べられていた。この本を読んで、これらの作品を読もうという人のため配慮と売上アップを狙った作戦なのだろうが、なかなかやるものである。


評価
★★★


書誌
書名:ビブリア古書堂の事件手帖〈2〉栞子さんと謎めく日常
著者:三上 延
ISBN:9784048708241
出版社:アスキー・メディアワークス 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2011/10/25 出版)メディアワークス文庫
版型:261p / 15cm / A6判
販売価:556円(税込)

2011年11月14日

藤原正彦著『日本人の誇り』

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 この本は最終章の「日本をとり戻すために」に歴史的記述にかなりのページを割いている。「日本をとり戻すために」とは、日本という国の誇りがどうしてこうも国民に失われてしまったのか、その経緯を書かざるを得ないという思いがここにはある。
 たとえば、日本政府の対中外交の弱腰を次のように批判する。

 とりわけ中国にはやられ放題です。尖閣諸島など、歴史的にも国際法的にも日本領であることは明白なのに、領海侵犯したばかりか海上保安庁の巡視艇に体当たりまでしてきた中国漁船の船長を、中国の恫喝に屈し釈放してしまいました。体当たりしてきた段階で中国漁船を撃沈してもよかったほどのものですが、日本政府首脳は目を泳がせたまま「私はビデオを見ていません」「釈放は検察の判断でされました」など平気で言い、中国に断固たる抗議もせず「領土問題は存在しません」と蚊が泣くような声で繰り返すばかりです。 すばらしい学習をした中国はこれからも東シナ海でやりたい放題の乱暴狼藉を働き、こちらが逮捕などの行動に出るや謝罪と賠償を世界中に聞こえるようにがなり立て、それでもダメならありとあらゆる報復措置をとるでしょう。台湾の李登輝さんが言うように中国とは「美人を見たら自分の妻だと主張する国」なのです。(別の章では「利益のためなら何でも主張するという中国の慣習」とか、政府への不満を外国への憎しみにすりかえるというのは中国が現在もっともよくとる手法」とも言っている)

 あるいは、

 それならまだ分かるのですが理解し難いのは、祖国への誇りを育むと軍国主義につながりかねない、戦前の愛国教育と同じではないのか、など心配したり、近隣諸国条項を考慮したりすることです。
 近隣諸国条項とは1982年(昭和57年)に起きた不思議な事件により生まれたものです。その年、新聞やテレビが、「歴史教科書の検定において文部省が『大陸侵略』という言葉を『大陸進出』に書き改めさせた」と報道し、文部省と政府を攻撃しました。すぐさま中国政府は不快感を表明しました。
(略)
 ところが不可解なことにその後になって、当時の宮沢喜一官房長官が「今後の教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」という談話を発表したのです。そしてこれは教科書検定基準として定められました。世界のどこにもない奇妙な、と言いますか奇想天外な基準です。
 これがきっかけでその後、何かあるたびに日本は中国や韓国や北朝鮮に「歴史認識」を問われることになりました。この三国は「歴史認識」が黄門様の印籠でありこれを口にしさえすれば直ちに日本が謝罪し、外交上優位に立てることをこの時学習したのです。そもそも、国家が謝罪するなどということは、私の知る限り日本だけです。主権国家というものは、戦争で降伏し賠償金を払っても、謝罪という心情表明はしないものです。それは自国の立場を弱くし、自国への誇りを傷つけるからです。そしてなにより、もはや弁護できない私たち父祖を否定し冒涜することになるからです。
 第二次大戦やそれ以前の歴史を外交に持ち出す国は私に知る限りこの三国以外、世界中のどこにもありません。(略)日本が謝罪と譲歩で応える世界唯一の国だからです。1990年以降ほとんど毎年、政府が謝罪し続けています。それより関係は改善するどころかむしろ悪化しています。
 近隣諸国条項とは平たく言うと「中国、韓国、北朝鮮を刺激しかねない叙述はいけない」という政治的なものです。子供の学ぶ歴史教科書において、歴史的客観性より「事を荒立てない」を優先する滑稽な代物なのです。

 ではどうしてこうなってしまったのか?それを著者は歴史から説明する。まずは幕末から明治維新から紐解き始める。

 日本はこの大きな世界史の流れに、幕末になって突然、心ならずも放りこまれてしまいました。
その当時、アジアの国々は諦念からでしょうか、激しい抵抗もほとんど示さず、片っ端からヨーロッパ勢力により蹂躙されてしまいました。強力な武器を手に高圧的に迫る白人を前に従順な羊のようでした。
 その中にあって唯一、独自の、人類の宝石とも言うべき文明を生んできた日本は、その気高い自負ゆえに、ぼんやり眺めているばかりの他のアジア諸国とは異なり、命をかけて独立自尊を守ることを決意しました。日本のような後進の小国にとって、実に大それた望みでした。幕末から明治維新の日本人が、満腔にこの決意を固めたと同時に、その後の流れは決まってしまったのです。

 日本は南下政策をとったロシアをひどく恐れた。そのために「清国に朝貢しつつ無気力のまま暗闇の底で蠢いている朝鮮」叩き起こして開国させ、明治維新のような改革をさせねばならない。同時にヨーロッパ列強の食いものとなり果てて恥じることのない「性根のすわっていない兄貴分の中国に正気を取り戻させ」、日中朝で協力しヨーロッパ列強、特にロシアの侵略に備えなければならない、と考えた。西郷隆盛の征韓論の思想的根拠はここにあった。
 考えて見れば日本防衛のために、朝鮮や中国にとって迷惑な話でもあるけれど、自国防衛のためにはあまりにも日本は小さすぎた。だから協力してヨーロッパ列強に対処しようとしたわけだ。問題はそうしたアジア主義が朝鮮や中国に理解が得られず、一人歩きしてしまったところであろう。その結果日本は日清戦争、日露戦争と進んでいくこととなる。そして勝利し、奢ってくると、もともとフライング気味のアジア主義が変質してくる。日露戦争前後から日本を盟主とする大アジア主義となり、昭和になって大東亜共栄圏となっていく。結局日本は帝国主義列強の仲間入りをしてしまった。
 世界恐慌から列強ブロック経済化により、日本は窮地に追い込まれ、ついにアメリカとの戦争へと突入していく。
 敗戦で、日本はGHQの支配下に置かれるが、その時GHQは「罪意識扶植計画」を日本人に実行していく。

 「罪意識扶植計画」は、日本の歴史を否定することで日本人の魂の空洞化をも企図したものでした。ぽっかりと空いたその空地に罪意識を詰めこもうとしたのです。そのためまず、日本対アメリカの総力戦であった戦争を、邪悪な軍国主義者と罪のない国民との対立にすり替えました。三百万の国民が殺戮され、日本中の都市が廃墟とされ、現在の窮乏生活がもたらされたのは、軍人や軍国主義者が悪かったのであり米軍の責任ではない。なかんずく、世界史に永遠に残る戦争犯罪、すなわち二発の原爆投下による二十万市民の無差別大量虐殺を、アメリカは日本の軍国主義者の責任に転嫁することで、自らは免罪符を得ようとしたのです。

 「罪意識扶植計画」に協力的でない人間は公職追放されたり、圧力を加えられたりする。そのため最初は生存のため仕方なく罪意識扶植計画に協力していたのが、次第にそれに疑いをはさまない姿勢こそが戦争への懺悔、良心と思いこむようになり、洗脳されていった。疑いをはさむ人は軍国主義者とか右翼というレッテルが貼られることになった。
 このようにGHQが種をまき、日教組が大きく育てた「国家自己崩壊システム」は、今もなお機能しているため、自らの国家としての意識が主張出来ない。単に国を思う気持ちが、増幅されて、戦前の軍国主義だという話になってしまうのである。そしてそれを恐れる余り、中国など言いたい放題、やりたい放題やられるのだ、というわけだ。それくらいあの戦争の罪意識を日本人に植え付けてしまったのである。
 著者はそこまで強く罪意識を持たなくてもいいし、ある意味あの戦争は列強からのアジアの開放を促し、帝国主義に終止符を打った部分もあるという。
 今や敗戦で押しつけられた欧米の思想である個人主義や経済至上主義はイデオロギー的に破綻しかねている部分があり、これの対処療法では何ら効果を生まないところまで来ている。だからこそ、かつて日本が持っていた個の尊重より、みんなを思う心から、その延長で国家を思う心の復活に期待を寄せるのである。今こそ日本人として誇りで国作りをすべきだと著者は主張する。
 タカ派的な愛国心鼓舞は、行きすぎると問題があるが、国民が自分の国を誇りに持てないというのは、確かに異常だ。ヨーロッパで生まれた個人主義が、日本を、強いては世界をおかしくしている以上、国としてのオリジナリティーを回復し、その中で世界の国々と折り合いをつけていくべきである。今の日本のような他の国に卑屈になりながら、抜け道を探し、生き抜こうとする方法をとっていると、いつまでも日本人の誇りなど持てない。そんな気がする。


評価
★★★


書誌
書名:日本人の誇り
著者:藤原 正彦
ISBN:9784166608041
出版社:文藝春秋 (2011/04/20 出版)文春新書
版型:249p / 18cm
販売価:819円(税込)

2011年11月03日

新田次郎著『強力伝 孤島』

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 私は新田次郎さんの本は今まで『武田信玄』、『武田勝頼』の歴史小説しか読んでいない。で、今回は新田さんの山岳小説であるこの本を読んでみた。「強力伝」、「八甲田山」、「凍傷」、「おとし穴」、「山犬物語」、「孤島」の6篇の短編が収められている。「強力伝」、「凍傷」は実在の人物を扱ったものである。「八甲田山」はたぶん後に「八甲田山死の彷徨」に書き換えられた作品ではないか、と思われる。
 「凍傷」は富士山山頂設立のために、予算を確保する必要があった。そのためには真冬でも富士山に登頂できることを証明する必要があった。その証明のため、真冬の富士山登頂や、山頂での気象観測、そして下山と、その過酷さの中で、主人公の技師の意地が描かれる。
 強力が凍傷になったとき、その技師が独自の凍傷の荒治療をしてくれる。その強力は、「こんなに苦労してまで気象観測を続けなければならない佐藤の行動を、単に学問のためというよりも、富士山を取りまく一群の信仰家達の業のような執着を持っているのではないかと思った。佐藤は富士行者の一人に見えてならなかった」と感じるのである。その感慨に技師の妄執が語られている。
 「おとし穴」、「山犬物語」は山犬(たぶんオオカミだろう)を扱った小説で、「おとし穴」は文字通りおとし穴に酔っぱらって落ちてしまい、その穴に山犬が先に落ちていて、落ちた男が山犬に襲われないように、穴の中で格闘する話である。
 「山犬物語」は山犬によって愛娘を失った主人公が、復讐のために山犬を殺す。しかし山犬の子犬を育てた妻も、主人公もやがて狂犬病のため死んでいく話である。

 個人的にはやっぱり「強力伝」が良かった。この作品は新田次郎さんの直木賞受賞作品である。この作品の主人公は新田さんが富士山頂観測所に勤務していたとき、当時炊事係をしていた小宮山正がモデルとなっているという。主人公の小宮正作は自分のことが新聞に書かれることが何よりも尊いものと感じていて、その記事を宝物のように持ち歩いて歩く強力であった。
 小宮はあるとき新聞に自分の名前が出るというので新聞社の誘いに乗って、50貫(187キロ)もある花崗岩の風景指示盤を背負って白馬山頂に登ることとなった。
 それを何とか止めようと石田は小宮のもとを訪ねる。石田は富士山山頂観測所の交代員として勤務していた頃、夜中に変なうめき声を聞いたことがある。
 
 「中央ホールに寝ていた荷上げの強力のうちで誰かが酷い夢にでもうなされているらしい。堤電灯を向けると、それが小宮であった。額に脂汗をぎらぎら光らせて、歯を喰いしばって身もだえしている様子は、毒でも飲んだかと思う程凄惨な感じがした。じっと立ってそこに寝ている他の強力の顔を見ても、どの顔も安らかな眠りではなく、互いに身体を反転しては楽になろうとしている様子は、何かから抜けだそうする動物のあがきのように心を寒くするものだった。日中の度を過ぎた労働が彼等の肉体を夜になって責めたてているに違いない」

 しかし小宮は石田の忠告を聞かずに花崗岩の風景指示盤を背負って歩き出した。187キロの石を標高2,932メートルの白馬岳の頂上に背負って運ぶのである。力自慢は結構だけれど、このことは当然身体にかなりの負担をかける。実際主人公のモデルとなった小宮山正はその時の無茶が原因で2年後には箱根で亡くなられたという。
 作品ではその石の重みが、小宮の背中、足腰にものすごい負担をかける感じが行間からにじみ出てくる。しかも足下は雪である。身体から悲鳴のような音が聞こえそうである。しかも休憩も取らないし、風呂も入らない。それは「小宮は今迄の経験から、重い荷とか苦しい道を続ける場合、呼吸の入れ方が最も重要であることを知っていた。大きな呼吸、つまり休憩時間を長く取ることはかえって身体をなますことになり、一気呵成にやっつけて後で充分休養を取るやり方が小宮の今迄の仕方であった。だから彼は風呂に入って筋肉をもむことより、睡眠と食事に重きを置いた。異常に緊張した筋肉に特別の休養を与えると、かえってそこが痛みだすこともよく承知していた」からであった。

 何かで高山に荷物を歩いて運ぶ人の話を聞いたことがある。その人達を“強力”という人たちだったのだ。実際に白馬山頂に50貫(187キロ)の花崗岩の風景指示盤があるらしい。ネット調べて見るとその写真があったので、ちょっと拝借した。


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 写真で見てみるとその石に太さ、大きさに驚いてしまう。これを人が運んだとは、思うだけでぞっとする。背負って運んだのである。運んだ人の身体をおかしくしても当然と思えた。
 いくら新聞に自分のことが載ることがうれしくても、そうまでしなければならないのは何故なんだろう?自分が新聞に載れるのは力自慢しかないから、「そうしたんだ」と言われれば、それまでだけれど、これをすれば自分の身体をこわすことくらいわかっていたはずである。それでも50貫もある石を運んだのである。天秤にかけるには、あまりにもバランスがとれない。無茶をわかっていてもそれをする。生物学的にただ「生きる」だけでは人間は生きていけないものであるらしい。ある意味人間の業を感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:強力伝 孤島(改版)
著者:
ISBN:9784101122021
出版社:新潮社 (1983/07 出版)
版型:281p / 16cm / 文庫判
販売価:459円(税込)

2011年10月29日

小路幸也著『オブ・ラ・ディオブ・ラ・ダ』

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 毎年出るのかどうか知らないが、楽しみにしているシリーズの新刊が出るのはうれしい。その新刊を書店の平台に見つけたときは、やっぱり本は書店で買うべきだよな、とつくづく思う。新刊の情報はネットでも取れるのだけれど、すべてを網羅出来る訳じゃない。しかも本として見てみないとよくわからないものも多いので、どうしても書店にほぼ毎日足を運ぶこととなる。それが楽しいし、今日はなかったか、と寂しい感じになることもある。

 で、この本である。シリーズ第6弾である。例によってさちさんの堀田家家族構成の説明から始まる。シリーズも進むうちに家族も多くなり、その関係も複雑になるので、見開きにある「登場人物相関図」がないと誰だかわからなくなる。これだけ多くの人たちが堀田家を中心にがやがやわいわいやっていくわけだから、話は面白くなって当たり前だ。小難しい小説と違って、微笑ましく読めるのがいい。
 今回もドタバタホームドラマを展開してくれる。東京バンドワゴンの店を使って映画撮影が行われることになり、その時帳場の机に古本を積み上げて、古本屋さんの風景を演出しようとした場面がある。それを見て勘一が怒ってしまうのである。
 勘一が怒った理由が次のようなのだ。もちろんサチさんが説明してくれる。


 これは、しょうがないですね。古本を乱雑に積み上げたのは、いわゆるステレオタイプな古本屋のイメージを出そうとしたのでしょう。けれども、我が家ではそんなことはしません。積み上げた古本はただ本を傷めるだけで何の得にもなりません。古本はただでさえ年月を経て痛んでいるのです。それをできるだけきれいな状態に戻して、我が子のように慈しんで、それを求める人に丁寧に手渡しするのが<東京バンドワゴン>なのです。


 これを読んで確かに古本は古本と呼ばれれば呼ばれるほど、年月が経っているわけでその分経年劣化をどこかに起こしている。そのことを、身を持って感じている人であれば、積み上げることは出来ない。なるほど、と思った。
 また<本棚の飾り>という言葉を教えてもらった。これは金持ちが見栄で書斎や応接間に飾る全集とか特装本のことを言う。
 それで思い出したことがある。たぶん以前どこかで書いたかと思うけれど、私が学生時代本屋でアルバイトしていた頃、筑摩書房などの高額な個人全集を、会社に配達したことがある。購入者はそこの社長さんである。領収書を会社の受付か経理の人に渡したとき、その人がぼそりと「社長の書棚を飾る本だね」と言ったのをよく覚えている。この人は社長さんが実際この全集を読まないことを知っているのであった。この社長さんは数種類の全集を予約していたし、言われれば確かに見栄えのする本ばかり買っていた。

 サチさんと勘一の言葉がいい。まずはサチさんから。堀田家のドタバタが終わって、毎度話を締めくくる時に出てきた言葉。


 人は弱いですから、いろいろ間違いを起こしますよ。それは誰にでも、大なり小なりあることです。
 でも、それに囚われていては、生きている甲斐がなくなってしまいます。大きな過ちでも、小さな過ちでも、それを償うためにしなければならないことは同じですね。
 しっかりと自分の足で歩いて行くことですよ。周りの人に支えられても、それが恥ずかしくても、自分が情けなくても、歩いていかなきゃならないんです。
 人間は、動物ですからね。そして動くから動物というんでしょう。だから歩かなきゃ、動かなきゃ駄目です。止まってはいけません。
 そしていけばきっといつか、傷は癒えるものです。

 勘一の言葉いい。


 人ってやつはね、失ったもんをいつまでも抱えてちゃあ荷物になって歩けなくなっちまう。忘れなきゃならねぇんだ。自分の中できちっりケリをつけて、そこに置いていかなきゃならねぇ。そいつが喪の仕事さ。


 甘っちょろい言葉だけど、こういうのに弱いのである。もともとホームドラマである。これでいいのだ。
 連続ドラマだろうから、このシリーズはまだまだ続くことを願う。私の楽しみとして、このシリーズを読んでいきたい。


評価
★★★★


書誌
書名:オブ・ラ・ディオブ・ラ・ダ ― 東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087754001
出版社:集英社 (2011/04 出版)
版型:302p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年10月25日

大沢在昌著『絆回廊』

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 新宿鮫を読むのは久しぶりだ。このシリーズは最初からずっとつきあってきているが、もうシリーズ10巻目のなったんだ。本の帯によると、五年ぶりの最新刊とある。新刊が出るたび毎度毎度ハラハラ、ドキドキしながら、スピーディな展開に、時間を忘れてきた。今回もそうであった。やっぱり長いこと読み続けているシリーズ物はいいものだ、と思う。土曜日の夜から読み始め、日曜日テレビを見るのも忘れ、読み続けた。

 話は長いこと刑務所から出てきた大男が、ベテランの薬売りに、「チャカは手に入るか」とたずねるところから始まる。男は警官を殺すために、銃が必要だと言う。男は自分の妻と息子を切り離したのは、その警官であって、その警官を殺すだけを考えて長い刑務所生活を耐えてきた。
 それを聞いた鮫島は、男の正体を探し、警官殺し防ごうとする。男は一体誰なのか?そして男のターゲットである警官とは誰なのか?
 男は今は解散した須藤会に貸しがあるとも言っていた。鮫島は須藤会の元組長の家を訪ねたが、詳しい情報を得ることができなかった。しかしその組長はその後撲殺されて、埋められていた。
 鮫島の捜査が進むなか、中国残留孤児の二世、三世で構成される「金石」というグループが浮かんでくる。須藤会の元組長を撲殺したのは「金石」ではないかと鮫島は思い始める。
 解散した須藤会の後、違う会に移り、今は若頭補佐に成り上がっている吉田という男に、その大男は銃の手配を依頼する。しかし吉田は銃の手配を「金石」に振った。そして大男と「金石」メンバーが言い争いになり、メンバーの一人が殺された。
 
 その「金石」に薬を流していた中国側の男に陸永昌という男が来日する。この男こそ、刑務所から出てきた男の息子であった。永昌は「金石」を捜査している鮫島を殺してくれと依頼を受け、ヒットマンを手配する。

 一方、鮫島の恋人、人気ロックバンド「フーズ・ハニイ」のリードボーカル晶から、バンドメンバーに薬をやっている奴がいて警察が内偵に入っていることを聞かされる。もちろん晶は薬をやっていないことを鮫島は分かっていたが、晶がいるバンドメンバーが薬をやっていたことになると鮫島の立場も危ういことになっていく。だが鮫島は晶との関係が途切れてしまうなら、警官を止めてもいいと思っていた。

 そんな中、男が殺したいという警官が鮫島の上司桃井であることが判明し、鮫島は晶の関係で警官を止めるわけにはいかなくなってしまう。恋人の晶を取るか、唯一鮫島が心を許せる桃井を取るか、板挟みになるが、晶はマスコミに鮫島との関係はとっくに終わっていて、今は関係ないと言い、鮫島との関係を終える。

 大男の身元引受人となってくれた、ゲイバーのママの店に陸永昌が訪れ、ママは陸永昌が大男の息子であること確信し、その男を呼び出す。鮫島と桃井は、その店に男が現れるものと、その店に入った。桃井と大男が、大男と息子がここで鉢合わせることとなる。鮫島と桃井は大男を逮捕しようとする。しかしゲイバーのママは大男を逃がそうとして、男から預かったマカロフを発砲し、玉は桃井に当たり、桃井は死んでしまう。あの桃井さんが殺されてしまった。この後鮫島はどうなるんだろう、と心配してしまう。まして晶との関係もなくなってしまったから、余計である。
 それでも鮫島は「金石」の逮捕に向かうのである。

 鮫島と晶との関係。大男と陸永昌との関係。大男とゲイバーのママとの関係。鮫島と桃井の関係。それぞれの絆が事件に複雑に絡み合い物語は一気に進んでいった。なかなか読み応えがあった。事件の展開のスピーディーさも今回堪能した。
 次作が気になるとともに、楽しみだが、また5年後なのか・・・と思うと、ちょっと長いなと思ってしまう。


評価
★★★★


書誌
書名:絆回廊 ― 新宿鮫10
著者:大沢 在昌
ISBN:9784334927585
出版社:光文社 (2011/06 出版)
版型:433p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2011年10月18日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈7〉

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 また司馬さんの本を取り出す。このシリーズは全14巻だったと思うが、とにかくそれだけある。そしてやっと半分読み終えたことになる。とにかく気の向いた時に読んでいるものだから、一向に終わらない。いずれ気合いを入れて読んでみようとは思っているのだが・・・。

 司馬さんはこの本の中で身辺雑記を書けない人と自分を位置づけている。確かに司馬さんの随筆は、個人的な生活感が薄い。いつも論文調になってしまっているといえば言えるかもしれない。だけれど、それが司馬さんの文章の魅力だと思っているし、それを期待している。でもそうは言っても今回は珍しく司馬さんの交友録みたいなものがあって、司馬さんとそれらの人たちの関わり方が面白かった。
 それでもやっぱり司馬さんの文章の楽しみは、歴史に関する認識である。そしてこの本を読んでいて、どうしても“震災”と関連して考えてしまう。それが正しい本の読み方なのか、どうかわからないが、でもこの“震災”後のどう歩んでいけばいいのか、みんなが不安を抱えている中で、本来なら政治が率先して行かなければならないのに、それが出来ていないことにものすごく苛立ちを感じてしまう。まして被災者の人々にとっては余計にそうであろう。
 とにかく政治がどうしようもない。もともと野党しかやったことのない政党が、与党となって、日本の政治を動かしているものだから、やることなすことちぐはぐである。ちょっと前まで政治主導と言って格好いいスローガンをぶち上げたけれど、専門の官僚を無視して、行政の素人である彼らに一体何が出来るというのか、考えればわかることである。結局震災ですべてが露呈し、自らの無能ぶりをさらけ出しただけであった。つまり彼らは以前から“健全な野党じゃなかった”ということである。

 司馬さんは日本に健全な野党が成立しえなかった理由を「竜馬像の変遷」で述べている。
 われわれはいま、坂本竜馬という人物像を思い浮かべることが出来るが、実は1907年(明治40年)ごろまでは竜馬に触れることはタブーだった。もちろん明治の統一国家をつくるために果たした彼の功績は大きい。しかし明治国家が薩長のものであり、明治国家の目的は富国強兵であった。それ以外の思想の持ち主である坂本竜馬を含む人物たちは、歴史のなかの困りものにすぎなかった。
 特に西南戦争(1877)である。司馬さんは次のように言う。
 
 「西南戦争というのは、西郷の人望と、薩摩の土俗的な士族の軍事的な強さが中核になっている反政府運動ですが、自由民権の芽も濃厚に混じっていますから、いまで言う野党連合だった。近代の日本に、ついに健康的な野党が成立しなかったのは、それがこのとき、完全に軍事的に制圧されたからだとも言えるでしょう。このとき、坂本竜馬および竜馬的人物というものもまた、国権的祭壇におさまらなくなってしまった」

 こうした明治国家が昭和の終戦まで基本的に続いていたため、日本には健全な野党が育つ余地がなかった。そして戦後も連合国から押しつけられた国家であったために、未だに健全な野党が育たないで来たのである。
 その野党であった政党が政権与党となって、実際政治をやってみると「これはなんか違うぞ?」と戸惑ったまま、この震災にあった。だからどうしていいのかわからないのである。あるのは野党時代に培った“怒鳴り倒すこと”である。それを震災直後にやった“脅し”になっただけのことである。
 もっともその政党に政治をやらせてみたら、と与党にしたのは国民である。国民は何かが変わると思ったのだ。けれど何も出来ないことに、失望しただけであった。そんなことを考えながら、司馬さんの意見を読んでみた。
 
 さて、それ以外に司馬さんの意見で面白かったことを書き並べてみる。
 「歴史と風土」で現在の土佐と薩摩の風土を比べている。特に薩摩に来てみて「これが薩摩隼人の国か、それほどじゃない」と司馬さんは感じ、それがどうしてなのだろう?と考える。
 まず薩摩的なものというのは戦国の末期、島津家が意識的に訓練してつくりあげたもので、江戸時代もずっと訓練のし続けだった、考える。その薩摩的なエネルギーが西南戦争で尽きてしまったことにより、薩摩的なものが失われていったと思うのである。
 一方土佐はそうじゃない。歴史をひもといてみると、百姓の方がむしろ土佐人であって、藩をつくっていた山内侍は進駐軍に過ぎなかったから、今高知の町へいってみても、これはいかにも幕末ごろに出てきそうな人間だとか、長曽我部の足軽というのはおそらくこんなやつだったろうという雰囲気を猛烈にもった人が歩いている、というのである。そんなものなのだろうか?

 「“旅順”と日本の近代の愚かさ」では次のように書いている。

 「これらの作品(『坂の上の雲』)をかくときに、昭和十年代の陸軍大学校の教授内容をしらべ、それを経たひとにあたってきいてみたが、旅順攻撃の失敗についての解剖がほどよくしかおこなわれていないことに驚いたことがある。むしろ失敗とみとめず、成功とするようなふんいきがあり、そのふんいきのなかから、日露戦争後の軍部の体質ができあがって行ったのではないかとさえ思えた。この体質の軍部が昭和十年前後に日本を支配したとき、日本そのものを賭け物にして“旅順”へたたきこんだというのもむりがないような気もするのである」

 この戦争後生まれた土壌に関しては、以前にもどこかで書いたような気がするので、引用だけでとどめておく。次に司馬さんの著作で徳川家康のことを書いた小説『覇王の家』のあとがきがここに掲載されている。そこの次のように書かれている。

 「かれ(徳川家康)がその基礎を堅牢に築いて二百七十年つづかせた江戸時代というのは、むろん功罪半ばする。文化文政時代という特異な文化や、教養の普及という点で代表されるように功も大きかったかもしれないが、天文年間から慶長年間にかけての日本人にくらべ、同民族と思えぬほどに民族的矮小化され、奇形化されたという点では、罪のほうに入るかもしれない。室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本をとざし、さらにキリスト教を禁圧するにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった。
 その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ている。その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い」

 私は井上清さんが鎖国の功罪に関して、日本独自の文化を生んだことは事実であっても、それ以上に弊害の方が強いと断罪をしていることを知っているが、個人的には司馬さんの考え方の方がすっきりするような気がする。
 あと歴史上の中国とその周辺国に関する考察で、周辺民族というのは、文化さえ持てばよかった。(中国)文明という光源があれば、周辺にあっては文明を興す機能性を持ちえないか、あるいは持つ必要がなかった。つまり文化という村落内に通用するだけの秩序意識を背負っている身軽な立場であるため、時勢の必要に応じて他の文明を仕入れることが容易であるということである。明治以後、日本が欧米での普遍性をもっていた技術文明を人文科学ともに仕入れたということが、その好例といえるかもしれない、と書く。
 一方その胴元の中国など、文明を興したということは民族の偉大さではあるが、同時に、自己が興した文明を他のものと交換することができにくく、自己の文明によって自家中毒になるまでそれを持ちつづけざるをえず、ときに民族的衰弱を来すという深刻さがある、と書いているのは面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467073
出版社:新潮社 (2002/04/15 出版)
版型:379p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2011年10月11日

三上延著『ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち』

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 この本は大分以前からお茶の水の丸善に平積みになっていて、気になっていた。でも出版社を見るとメディアワークスとなっている。要するにこの出版社、日本のサブカルチャー系出版社でゲームメーカーである株式会社アスキー・メディアワークスが、IT系出版社のアスキー(新社)を吸収合併して出来た出版社であり、現在角川グループホールディングス傘下の企業である。
 まぁどこの出版社でも読みたい本なら一向にかまわないのだが、今回は気になってはいても、内容がサブカルチャー的だと困るな、と思い、尻込みしていた。著者もネットで調べてみると「三上延(みかみ えん、1971年)は神奈川県出身のライトノベル作家。作風は全般的にホラー風味」とある。
 カバーの表紙もそれっぽいでしょう。でも気になって、ついに買ってしまった。私は古本に関するミステリーが好きでたまらないので、我慢できなくなってしまったわけだ。
 しかし内容はサブカルチャーではない、しっかりした内容の古本に関するミステリーとなっていて、予想以上の出来であった。

 話の内容は、主人公の五浦大輔が高校生のとき北鎌倉のビブリア古書堂で篠川栞子の姿に気をとめたころの話がプロローグとして始めている。
 
 大輔の祖母が亡くなり、その遺品に漱石全集があり、そこに次のようなサインがあった。

「夏目漱石
   田中嘉雄様へ」

 これを漱石のサインと勘違いした母親は一緒にはさまっていたビブリア古書堂の値札からここでこのサインを鑑定してもらい、高価なものであれば大事に取っておこうというのであった。全集は昭和31年判で、どう考えても漱石がこのときまで生きていたとは考えられないから、このサインは偽物に違いないと疑いつつ、大輔はビブリア古書堂に全集を持って行き、鑑定してもらうことになった。 ところがビブリア古書堂には彼女がいない。けがをして入院していると聞き、わざわざ病院まで訪ね、このサインの真相を聞くことになる。そこで篠川栞子はこのサインの真相を推理することになる。
 彼女が推理したサインの秘密は次の通りである。
 これは夏目漱石が田中嘉雄さんに献呈したように装っているが、実は田中嘉雄さんが大輔の祖母にプレゼントしたものではないか、と言うのである。なぜなら本を献呈する場合、本をあげる人の名前を中央に書いて、その後に著者の名前を書くのが普通であるが、これが逆になっている。ということは、大輔の祖母が田中嘉雄さんからこの全集の「それから」の巻のみプレゼントされたもので、それを隠すために、漱石の名前を書き加えたものだろう、というのであった。
 『それから』の主人公の名前は大介である。大輔の名前は祖母が付けたという。大輔は子どもの頃、祖母の部屋に入って祖母の本棚から読めそうな本を物色しているところを祖母に見つかり殴られた。そのとき祖母は「もう一度同じことをやったら、うちの子じゃなくなるからね」と言った。以来大輔は本が好きだけど、このことがトラウマになって本が読めなくなってしまった。しかしこの本は大輔の母の出生の秘密を解き開くことになっていく。

 大輔は栞子がきれいな若い女性であり、初対面の人や、本以外のことを話すことがうまくできない彼女が、本のこととなると途端に饒舌になるのに興味が引かれた。一方栞子は大輔が就活中であることを聞き、自分が今、足をけがして入院しているので、ビブリア古書堂で働いてくれないかと頼み込む。大輔はそれを当然引き受ける。ここから大輔と篠川栞子のコンビが古本の謎を解いていく。

 大輔は店番をし、持ち込まれる古本があれば、一時それを預かり、栞子に査定してもらうのと同時に、自分が本が読めないので、その本の内容を栞子に聞くことで、だんだん栞子に引かれていく。そして最終章の太宰治の『晩年』の話となる。

 大輔は栞子が階段を突き落とされたことでけがをしたことを知り、それが太宰治の『晩年』の初版本に原因があることを聞かされる。この『晩年』はビブリア古書堂で代々受け継がれてきたこの書店のコレクター品であった。
 そのとき大庭葉蔵と名乗る男がそれをゆずってくれないかと強く申し出てくるが、栞子はこの本は自分の所のコレクター本なので売ることが出来ないと言うと、暴力でそれを奪おうとして、栞子は突き落とされてしまったのである。
 そこで栞子はその男がどういう人間なのか突き止めようとし、罠をはる。大輔は協力を求められた。

 店にはせどりで貴重本を持ち込む志田という男がいるが、その仲間で二カ月前に知り合った“男爵”と呼ばれる笠原という男と一緒に店に来た。店にはあの『晩年』が並べられていた。しかし彼らはそれが復刻版の偽物と見破る。本物は栞子が病室に置いてあると大輔は彼らに言ってしまうのである。
 あとで二カ月前といえば栞子が突き落とされた頃だと大輔は気がつく。もしかしたら笠原が大庭ではないかと疑う。
 一方大庭は栞子のいる病院向かい、屋上で『晩年』を抱えた栞子栞子を追い詰めている。大輔は「たかが本のためにそこまでするかよ」と大庭に迫るが、栞子は『晩年』に火をつけ、屋上から投げ捨てた。大庭は捕まる。
 大輔らは大庭の本名が田中敏雄だと知る。もしかしたらこの男の祖父は田中嘉雄ではないかと聞くと、そうだという。祖母の恋人であり、大輔の母の本当の父親であった。田中嘉雄は古本のコレクターであり、あの『晩年』も祖父のコレクターだったと聞かされた。そして田中から栞子が火をつけた本は本物じゃないだろうとも聞かされる。本当に本が好きだったらそんなことなどできないというのである。
 それを栞子に問うと、栞子は大輔が本を読む人じゃないから、大好きな本を手元に置きたいという気持ちがわからないかもしれないと、大輔を最後で信用できなくなり、そうした芝居をしたというのであった。大輔は裏切られた気持ちになり、店を辞めた。
 大輔はまた就活活動に入るが、栞子の妹から電話があり栞子があれ以来本を読まなくなってしまい、退院しても心配だから、一度見舞ってくれないかと頼まれる。
 大輔はどうしようか迷ったが、就活の帰りに病院によると栞子がベンチで待っていた。栞子は『晩年』を大輔に預けるというのである。この本を預けることが、すなわち自分が大輔を信用するという気持ちだと言う。仲直りのつもりであった。

 この本は古本に関する小粒なミステリーだが、それでもなかなか面白かった。大輔が言ったように「たかが本のため」だから、古本に関してミステリーはそうそう大がかりになることは少ない。けれどコレクターの少々歪んだ心性が、一歩間違えれば事件を生むパターンは、それなりに面白い。


評価
★★★


書誌
書名:ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち
著者:三上 延
ISBN:9784048704694
出版社:アスキー・メディアワークス 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2011/03/25 出版)メディアワークス文庫
版型:307p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2011年10月05日

佐野眞一著『津波と原発』

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 どうもこの本は読んでいて、とりあえず急いでルポを書いた、という感がぬぐえなかった。とにかく震災と原発の現場に急いで行って、被災者や原発で苦しんでいる人たちの話を聞き、後は著者がそれまでノンフィクションとして書き上げてきたものから、関係ある箇所を引っ張り出し、何とか本にまとめた。そんな感じが強く残った。こういうのはある意味“鮮度”が命のところがあるので、私みたいな馬鹿者が飛びつくのだ。
 しばらく佐野さんの本を読んでいなかったので、忘れていたのだが、そうだ、この人いつも自分が書いてきたノンフィクションを引っ張り出してきて、新しい話を強引に作り上げる人だったのだ。それが鼻持ちならずにいたのに、ついつい忘れていた。
 この本は福島に何故原発がこんなにできたのか?それを政治家の名声と政治的背景、さらに原発があるこの地が福島県のチベットと呼ばれたほど寂れて、不毛の土地であったことなど絡めて書かれている。ただとにかく急いで書いたもののようで、少々わかりにくい。ただ歴史的背景はある程度理解できたので、それを書いてみる。
 まずは天明の飢饉から話を始める。この天明の飢饉で、相馬中村藩は盛時の半分まで人口が減った。そのため人手不足による農地の荒廃がさらに進み、藩は北陸などから労働力を求めた。要するに移民を受け入れたのである。移住者は加賀、越中、越後、能登、因幡まで及んだという。ただ彼らは乞食同然であり、新しい土地に来ても、差別に苦しみ、さらに自然気候に苦しんできた。今回の原発事故でここを立ち退かざるを得ない人々の祖先は、そういう移民が多いという。
 そういう土地であることが原発誘致に適した土地であったということになる。原発誘致が一挙に町や村を裕福にする一発逆転策であったからだ。
 福島第一原発ができる前は、ここは長者原という陸軍の飛行機練習場だった。それが米軍の襲撃を受け、飛行場は全滅した。終戦後あの西武の堤康二郞がこの飛行場跡地の払い下げを受けた。そして塩田事業を始めたが、やがて事業も行き詰まり、また荒れ地になった。そして東電が原子力発電所の予定地として、ここでボーリング調査をしていることを聞いた堤康二郞は3万円で手に入れたこの土地を3億円で東電に売ったという。
 国は戦後復興から高度成長期を迎えるこの国の電力確保を目指していた。しかし世界で唯一原爆の被爆国である日本に、原発を導入することは、国民の感情から難しいところがあった。
 ここに正力松太郎が“原子力の父”として、政治家の名声を得ようと政治的力を発揮して、しかも自らの読売新聞をキャンペーンとして使い、国策として原発がこれからは必要だと画策していく。そのうち電力確保のためには原発の必要性がだんだん認識されるようになる。このあたりの過程は結構いろいろな人の思わくが絡んでいてわかりにくい。
 ただそれを作る場所は東京から遠いこと、人口密集地から離れていること条件となっていた。東電がここを調査していたのは、そういう条件をクリアする土地であったからだ。そしてここがチベットと呼ばれるほど不毛の土地であったことから、県も積極的に原発を受け入れていったのであった。原発を積極的に受け入れきたのが福島県知事であった木村守江(1976年土地開発に絡む収賄罪容疑で逮捕された)と東電の社長木川田一隆が東電福島第一原発を誕生させ「浜通り」を“原発銀座”と変えた立役者となった。貧しい土地が原発をやすやすと受け入れていったのである。そしていったん原発を受け入れてしまうと、それから抜け出せないものとなる。

 双葉町の歴史を、財政の面からちょっと振り返ってみよう。福島第一原発ができたとき、双葉町は潤沢な電源三法交付金によって、全国でもトップクラスの豊かな自治体となった。
 だが、経済浮揚のカンフル剤だと思っていた電源三法交付金が、覚醒剤にかわるのは、あっという間だった。
 電源三法交付金は発電所の工事開始から運転開始の五年後まで正規に支払われるが、六年目以降は大きく減額する。新たに電源三法交付金を支給してもらおうとすれば、原発を新規に建設しなければならない。
 この双葉町のように原発は地元を全国でトップクラスの自治体とする。それによって場違いな箱物がどんどん建てられる。いたん生活が豊かになると、今度はその質を落とすことができなくなっていく。そして新たな原発建設で、それを維持しようとしてきたのだ。これが著者のいう「覚醒剤」なのである。これは敦賀でもそうだったと、以前の本で読んだ。
 自治体が原発で豊になり得たのは「原発は安全だという前提で成り立っているからね、福島県そのものが」という地元の意見が、原発を受け入れてきた住民の意識であった。それで豊になるんだったらいいじゃん、ということなのである。
 しかしこの震災と津波で原発は安全じゃないとわかると、根本的にその前提が崩れてしまった。電源三法交付金で自治体が豊かになっても、住民の人々は結局東電と国に騙されたことになってしまった訳である。その怒り、絶望感は推して知るべしだろう。
 町が村がそれで豊かになったのだから、そのくらいの被害はある程度しょうがないじゃないのとは絶対に言えない。その豊かさ以上大きな負担を今回強いることになってしまったのだからだ。
 そしてここが肝心なことなのだが、そうした危険性を東電や国はどこまで住民に説明してきたのか?もしかしたら多少危険性はあるけど、徹底的に管理すれば安全だからと言って、それを作らせてね。その代わりお金をあげるからというようなことであったのではないか?


 今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言説を無力化させた。それだけでない。そうした言葉を弄して世の中を煽ったり誑かしたりしてきた連中の本性を暴露させた。


 今回の震災や津波は人間が作ったもので完全な「安全」というのはないことを教えてくれた。もちろんある程度のリスクは何事においてもつきものだ。だけどそのリスクは人の生命や生活を奪う可能性があるものなら、単にリスクと呼べる代物じゃないだろう。それを隠すために、お金で釣ったのだ。
 逆もある。いつ来るかわからない大災害のために費用がかかりすぎると言って堤防をやめちゃおうと言った馬鹿な大臣がいたが、震災後この大臣の影が薄くなった。この大臣スーパーコンピュータ開発でもいちゃもんをつけたが、そのスーパーコンピュータが世界一になったところでますます存在感がなくなった。インタビューでも言い訳がましいことを言っていた。日本の政治家はリスクを隠すためにお金をばらまき、リスクを回避するためのものにはお金を出さない。変なところで帳尻を合わせている。


 「原発というのは要するに、運転しているときが、つまり動いているときが一番安全なんです。逆にいえば、止めた後が大変なんです。」


 動いているときが一番安全。この言葉は原発の恐ろしさを最も正確に言い当てている。原発の稼働開始は、コンビニに終始明かりを灯させ、自動販売機を常夜灯のようにさせた。原発は無限成長という絶対にあり得ない神話をつくりだしたのである。結果的にいえば、その神話にほとんどの日本人は踊らされたことになる。


 このことを日本人はやっと自覚し始めたのである。これからは「絶対にあり得ない神話」をまだ追い続けるか、それともまったく違うシステムを作っていこうとするのか、継続か転換か、それが問われている。

 ここのところ3月11日に起こった東日本大震災と津波、そして原発事故に関連する本や雑誌について書いてきた。実を言うとこれらの本は震災後発売されてからすぐ読んでいる。だからこれらの本や雑誌について、下書きみたいなものを書いたのは、その直後である。そのため表現上、時間表現がおかしな部分がある。でもそれをあえて直さなかったのは、その方がいいと思ったからだ。
 今のところこれ以上震災関係の本や雑誌を読む予定はない。もう少しこの震災に関するあらゆることが検証され、それについて書かれた本が出たら、また読みたいと思う。


評価
★★


書誌
書名:津波と原発
著者:佐野 眞一
ISBN:9784062170383
出版社:講談社 (2011/06/18 出版)
版型:254p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年10月03日

堀江邦夫著『原発労働記』

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 この文庫本はこの震災による原発事故で、27年ぶりに緊急復刊された。もちろん今も予断を許さない状況下にある福島第一原発にも著者は加筆している。
 この本は原発労働者として著者自ら美浜原発、福島第一原発、敦賀原発で働き、“被ばく”の恐怖にさらされながら、過酷な労働に従事する人々を描く潜入ルポである。

 今回の震災で原発が安全でないことを日本のみならず、世界が実感した訳だが、この原発を維持するため働いている人々が、絶えず放射能の危険に曝されて仕事をしているからこそ、原発は維持されていたことを知る。
 最も近代技術や科学技術で支えられている原子力発電が、まるで前近代的な下請け制度支えられていたことは、皮肉としか言いようがない。とりわけ電力会社の社員より、“原発ジプシー”と呼ばれる下請け労働者の被曝量が高いことは、原発は電力会社の社員で維持されていたのではないことを証明する。
 “原発ジプシー”とは、手配師などが集めた日本各地の原発を渡り歩いている人々を言うが、彼等がいるからこそ、原発が維持できていた。彼等が電力社員のやらない危険で過酷な職場環境で仕事をしているから、原発がかろうじて動いていると言っていい。おそらく今必死に原発の暴走を止めようとしている人々で、実際に原発内部に入り込んでいる人々もこうした人たちではないか、と推測する。
 労災法などをかじっていると、下請け会社が親会社に気を使って、言うに言えない環境で仕事をさせられていて、一端事故などあると、労災を適用しない方法で、内部処理してしまうことをよく聞く。だからこうしたことは、どこの業界でも存在するのだろう。


 三時のとき、西野さんとトイレへ行く。ドアを二つ抜けると、左手にガラス張りの部屋-原発の“頭脳”部分にあたる中央制御室だ。明るい照明の下、たぶん電力会社の社員であろう、カラフルなワイシャツ姿の男たちが、コーヒー・カップを片手に計器と向かいあっている。その部屋とガラス一枚隔てた廊下を、薄汚れたボロ布を顔に巻き、ホコリだらけの作業着を身にまとった私たちが歩きまわる。なんと対照的だ。


 あるいは著者が原発内で転落して肋骨を骨折しても安全責任者は治療費の件で次のように言う。


 「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故があったことがバレてしまうんですよ。・・・ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。・・・だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」


 労災隠しである。労災扱いじゃないと嫌だと言えば、事故が公になり、マスコミが騒ぎ、東電に迷惑をかけ、その果てに会社に仕事が回ってこなくなり、行き着くところはあんたに仕事がなくなる、と暗にほのめかしているわけだ。

 そうまで電力会社に気を使いながら、原発内で危険な仕事を請け負っている。一方電力会社は“協力会社”として彼等に危険な仕事させている。
 下請け会社も高線エリアで仕事をしている従業員のアラーム・メーターが“パンク”すると、若いボーシンは「この分じゃあ、週300(ミリレム)の規定に引っかかっちゃうなあ」とボヤくが、彼が心配しているのは、労働者に一週間300ミリレムもの「被ばく」させてしまうことの心配ではなく、むしろ規定線量オーバーにより、別の労働者の確保しなければならない、という心配をする、状況下なのである。
 下請け労働者も、本当なら完全防護をしなければならないところを、不完全な、あるいは壊れているマスクなどを使いながら仕事をしている。また完全防護をして仕事をすれば、ちょっと動いただけで息苦しくなる。アラームは絶えずパンクし、必死でそこから脱出していく。

 「きのうの疲れがまだ残っていた。起き抜けに出た尿は、まっ赤だった。全身がだるい。仕事を休む」

 「だいぶ体調は回復してきた。しかし大事をとって、今日も休む。
 もし私が“本物”の貧しい下請け労働者だったら、生活は完全に破綻するだろう。なんら保障もなく、『体ひとつ』で生きていくことが、いかに苦しく、難しいかを身をもって痛感する」


 著者が原子炉内部に定期検査のために電源を確保するため、ケーブル引く作業に従事している時など(だいたい定期検査をするための電源が原子炉近くにはないのだ。これでどこが近代技術を駆使したものと言えるのだろうかと著者は言っている)、薄暗い中で、アラームが鳴りっぱなしであり、被曝量も他のところとは一桁違ってくる。それだけを読んでも、怖くなってくる。
 ここでは下請け会社で働く人たちと、正規社員との職場環境の格差は、どこにでもある格差ですまない。その格差が「つねに『死の影』がつきまとっているのだ」
 この本を読むと、原発で働く下請け会社の労働者の過酷な職場環境と危険性が単に労働問題だけでなく、原発そのものが危険なものであるというのを、我々に突きつけているのである。原発が最新テクノロジーで管理されているから、危険性はないのだ、というのは電力会社や国の嘘だったことを知らされる。そして奇しくもそれが今回の震災や津波であからさまになっただけのことである。
 いま我々は限りあるエネルギーと言いながら、一方で無尽蔵の如く電気を消費してきた。必要以上の快適さを求めるために、電気を使い続けた。原発が危険であっても、そのためにはその存在を認めざるを得なかった。我々は薄々感づいていたものを、突きつけられたのである。
 この本を読んで原発は怖いものだと改めて知らされたし、この震災で未だ先の見えない原発事故を、まるで人ごとのように淡々と説明する東電の社員を見ていると、原発は手を出しちゃいけないものだったのではないか、と思ってしまう。快適な生活の追求が原発のある地域に人が住めない場所に変えてしまったものなのだ。だったら我々は今までのライフスタイルをどう変えていけばいいのか、大きな課題を目の前に突きつけられてしまっている。


評価
★★★


書誌
書名:原発労働記
著者:堀江 邦夫
ISBN:9784062770002
出版社:講談社 (2011/05/13 出版)講談社文庫
版型:364p / 15cm / A6判
販売価:680円(税込)

2011年09月26日

細川布久子著『わたしの開高健』

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 <はじめに>

 この本の感想は一度掲載しました。ところが最後の部分で間違いがあり、いったん掲載を削除して、過ちの部分を最後に修正し、再度掲載しました。


 ここに一冊の古い雑誌がある。面白半分昭和53年11月臨時増刊号「これぞ、開高健。」である。もう33年前の雑誌だ。雑誌のため中のページは赤茶けてしまっているが、この編集人がこの本の著者細川布久子さんだ。


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 だいたい雑誌『面白半分』というのを知っているだろうか?当時『話の特集』と並ぶ1970年代のサブカルチャー雑誌の一つであった。で、この臨時増刊号の「これぞ、開高健。」は1978年の時点で開高健の特集を組んだ雑誌はこれだけだったという。雑誌『面白半分』に関してはWikipediaによると次のように書かれている。


 雑誌『面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長に吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊(1972年1月号)した。編集長は人気作家が半年毎に交代していた。
 吉行淳之介が朝日新聞に掲載したエッセイの「『日本軽薄派」という雑誌を作ってみたい」という一文を見た佐藤が、吉行の協力を取り付けて、「面白くてタメにならない雑誌」として刊行。編集長は吉行の後、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一が交代で務めた。
 野坂編集長時代に永井荷風作と言われる春本「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発された。(四畳半襖の下張事件)
 大日本肥満者連盟(大ピ連)結成でも話題となった。
 1980年まで刊行されたが、9月~11月号が休刊となり、12月号「臨終号」が最後となった。

 私はこの著者が面白半分に勤め、開高健さんの担当となり、以来開高さんの私設秘書役まで勤めた女性であったことを知ったのだが、まさかこの古い雑誌に関わった担当者とは、驚き、それで自分の本棚から引っ張り出し、編集人に著者の名前があることを確認したのであった。

 さて、ここで取り上げたいのは開高健さんの女性関係である。著者は開高さんの私設秘書役まで務めていた人だから、開高さんの女性関係に関わるざるを得なかったことを告白している。また女性ならではの嗅覚で敏感に開高さん女性関係を感じ取っていた。
 まずは開高さんの『輝ける闇』のヒロイン素娥の写真を一緒にベトナムに行った秋元啓一さんから見せてもらっているところから、次の“闇”シリーズの『夏の闇』で書いてしまった女性に言及する。これは菊谷匡さんの『開高健のいる風景』に詳しい。なのでこの本から書き出してみよう。


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 (『夏の闇』を)読み終わってしばらくしてから開高さんに会って、
 「あの女性、いったい誰です?」
 「何でや?」
 「ぞっこん惚れてるんでしょ?」
 「余計なお世話や」
 「まさか、佐々木千世じゃないでしょうね」
 すると開高さんは顔色を変えて、言った。
 「どうして君が知っとるんや」
 「あの作品を読めば、独立排除的に明々白々じゃないですか。開高さんは彼女が“諸外国を放浪して旅行記を一冊書いた”と書いているし、彼女とおぼしき女性の旅行記の袖に開高さんは“すいせんのことば”を書いているわけでしょ。ぴったり符合する」
 「・・・・・」

 その本の口絵写真で見ると、彼女はわたしが学生時代に学内でときどき見かけた女性だった。露文の学生だったと思う。色の白いほっそりとした人だったが、もし同じ女性だったら『夏の闇』では豊に変貌している。読むかぎりでは、開高さんにとって何物にも代えがたい女性のようだった。ついでながら、“独立排除的に”というのは、作中の女が口癖のように使う言葉である。
 開高さんの沈黙は、彼女がわたしの指摘する女性であることを物語っていた。それはいいが、この女性の存在を書いたことが開高宅で悶着を引き起こし、開高さんの晩年を苦しめることになった・・・・。


 開高さんの妻は詩人の牧羊子さんである。牧さんとは同人誌時代に知り合い、開高さんとの関係で妊娠し、結婚を迫られ、以来夫婦となって苦労してきた。開高健弱冠22歳であった。開高さんがサントリーに入社できたのも、牧さんがその前にサントリーの研究室に勤めており、その後釜で開高さんがサントリーに入社できた。
 開高さんは菊谷さんに「あのとき、おれの人生、決まっちゃったようなもんだデ。二十二で、お先真っ暗や」と言っている。

 この女性に関しては、2007年1月に読んだ滝田誠一郎さんの『長靴を履いた開高健』にも登場する。以下書き出して見る。


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 小説家として転機となったのは「女」との出会い。10年ぶりの再会。パリでの出来事だ。68年5月、フランスでは学生運動の盛り上がりが全国的なゼネストに発展し、当時ド・ゴール政権にとっての最大の危機、内乱寸前とまでいわれた。いわゆる5月革命だ。
 6月、『文藝春秋』の特派員として小説家は5月革命を視察するためパリに赴く。そのパリで、小説家は「女」と10年ぶりの再会を果たすのである。そしてほぼ一夏、小説家が滞在していたパリの学生町の旅館にこもり、「女」が客員研究員として勤務していたドイツのとある大学の職員用アパートに潜むようにして、「美食と好色は両立しない」などうそぶきなから食べるのもそっちのけで全裸の生活に没入するのである。
 この出会い、このエロチックな出来事が、3年後ひとつの文学作品の昇華する。71年10月、雑誌『新潮』に発表された『夏の闇』がそれである。翌72年3月に新潮社から発売された単行本の函に、小説家が次のような言葉を記している。
《これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを“第二の処女作”とする気持ちで、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変わった。 著者》


 滝田さんはここから、先に書いた菊谷さんと開高さんの会話を取り上げる。


 菊谷さんと佐々木千世さんは早稲田大学の同級生だというから、小説家とは5歳違いだ。
 「彼女はたしか露文(ロシア文学科)の学生で、実際話をしたことはないけれど、見た感じはいい女でした。少しすさんだ感じがするんだけれど」
 大学卒業後、佐々木千世さんはロシア文学研究家という肩書きで翻訳の仕事などをするようになる。小説家との出会い、お互い惹かれあうになるにはこのころだ。
 別にふたりの仲をあれこれ詮索しようというわけではない。あえて佐々木千世さんの名前を出したのは、彼女が小説家とルアーフィッシングの出会いに大きく関わっているからだ。
 小説家はぶらりと立ち寄ったバド・ゴーデスベルグの釣具屋の主にルアーフィッシングの手ほどきを受けるわけだが、そもそも小説家がバド・ゴーデスベルグなる町をぶらぶらしていたのはそこに佐々木千世さんが住んでいたからに他ならない。小説家と釣具屋の主の間に入って通訳したのも彼女だ。列車や宿の手配をしたのも彼女である。
 もちろん佐々木千世さんもジムス湖に行っている。一緒にボートに乗っていた。69年に発売された『私の釣魚大全』(文藝春秋)にボート上でワインをラッパ飲みしている小説家と、釣り上げたカワマスをうれしそうに差しだしている写真が掲載されているが、これを撮影したのも佐々木千世さんだと考えられる。


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 ここから細川さんのこの本から書き出してみる。ちょっと長くなるが・・・。


 けれども菊谷さんから伺うことができたのは、『夏の闇』によって開高さんの恋愛を知るに及んだ牧さんの激怒ぶりだけだった。
 私が彼女の名前や経歴を知ったのは、サン・アドの矢口純氏からだった。ただ『これぞ、開高健。』の作業中か、『面白半分』の連載原稿を頂いていた頃か、サン・アドで働くようになってからか、正確な時期はすっかり忘れている。
 矢口さんによると、『婦人画報』の編集長をされていた頃、開高さんから新進のライターとして彼女を紹介され、仕事上の相談にのってやってほしいと頼まれたそうである。その頃には彼女はソ連留学を終え、その体験記を出版しており、その本に推薦の辞を書いたのは開高さんで、開高家にも出入りしていたはずだ、ということだった。
 そうだとしたら、菊谷さんの表現を借りれば「怒り狂った」という牧さんのリアクションは当然すぎるほど当然である。ただでさえ夫の浮気は妻にとって悲しく腹立たしい。それが単なる火遊びではなく濃密な恋愛だった。そのうえ相手の女性は見知らぬ人でなく面識のある人間だったとわかった時の妻の驚愕。悲痛。嫉妬。苦悩。憤怒。絶望。牧さんがうけた傷の深さは何をもってしても消すことができなかったのではないだろうか。たとえ『夏の闇』以後「内面に寄りかかって書こう」と決めた開高さんの作家の業を、おなじ、ものを書く人間の立場から理解できたとしても。
 菊谷さんは、このことによって開高さんは不幸になったと書かれている。しかし牧さんも同じように不幸になったのだ。それぞれ不幸を抱えたまま夫婦であり続けたために、夫婦間の確執は最後まで続いた。お互いに決して癒されない傷に針を突き刺された気分に襲われながら生きざるをえなかった。
 開高さんにとって牧さんは大きな呪縛だった。ある編集者には「娘がいなければ離婚していた」と述懐したこともあったという。世間一般の男たちのように独身時代を謳歌することもなく、モラトリアムの季節もなく、予期せぬ妊娠で結婚を余儀なくされて以後、釣りも旅も恋愛も、書けないという苦境からの逃亡だけでなく、失われた自由を求めての行動、家庭からの脱出だったに違いない。
 一方、牧さんには七歳年下の開高さんの成功と栄光において、自分こそがこの天才を発見し育てたのだという深い自負があったのではないか。また、牧さんとって開高さんは唯一無二の男だった。開高さんを愛しすぎた。開高さんは「関西のオンナの深情けはえらいもんやデ」とお手上げ気味につぶやくことはあったけれど、牧さんの情けはあまりにも重すぎた。見方を変えれば、牧さんは「可愛い女」なのである。ただ、開高さんをコントロールしようと束縛しようとしすぎたのではないか。たえまなく、愛という名のもとで。
 その牧さんを『夏の闇』は完膚なきまでに打ちのめした。嘆きは深く内にこもり牧さんを浸食していった。時は傷を治癒せず毒をうみだしていった。そして、意識するしないにかかわらず、じわじわ開高さんに復讐していったのではないか。そこから逃げることができなかったところに開高さんの不幸があった。私にはそう思えてならない。
 茅ヶ崎の新居がついに「隠れ家」にならなかったのも、牧さんは開高さんが独りで自由を満喫することを許せなかったせいではないか。開高さんに癌を宣告したいきさつについては、病院食を無視した牧さん手製のスープを開高さんが強く拒否したことで、発作的に口走ったためだと聞いている。「可愛さあまって憎さ百倍」というけれども、長い間くすぶり続けた開高さんに対する恨みつらみが爆発してしまったといえなくない。
 そうだとしても、牧さんは残酷すぎた。病で身動きできなくなった開高さんは、やっと自分の許に帰ってきた、誰にも邪魔されず自分だけが独占できる夫になったのである。その歓びの想いはさもありなんと思われる。けれども親友の谷沢先生や向井さんの面会を一切禁止し、一部の人間を除き、菊谷さんをはじめ親しい友人編集者の見舞い客をすべて遮断するという仕打ちは理解できない。それほどまでに開高さんを所有したかったのだろうか。それほどまでに開高さんを許すことができなかったのだろうか。報復だったのか。愛のかたちだったのか。癌を宣告された開高さんは、以後、牧さんに口をきかなかったという。開高さんの胸に去来していたのは誰だったのだろう。貝のように閉じてしまった開高さんを牧さんはどんな想いで看取っていたのだろう。どちらも、哀しく、痛ましい。
 開高さんが食道癌であること宣告してしまった牧さんの経緯は菊谷さんの本にある。牧さんは開高さんの追悼特集で次のように書いている。
 「開高の性格をよく知っているので、いつ彼に、病気のことを知らせるかは大変悩みました。それまで、病院では病気のことはしゃべるな、と言われていたのですが、彼に病気のことを告げると、彼はちゃんと冷静に話を聞いてくれました。・・・・」
 しかし菊谷さんは違うと書いている。
 羊子夫人が漢方のスープを飲ませようとしたところ、開高さんが遮って、
 「オレの体は先生に預けてあるんだ。余計なことはせんといてくれ」
 と言ったとか。そうしたら、夫人が、
 「あんた、病院にだまされてるんや。これ飲まな、ガン治りゃせんデ!」
 と怒鳴った、一瞬、部屋中の空気が凍った。開高さんが、静かに言った-と聞く。
 「出てけ・・・・」
 それから開高さんは、ほとんど口をきかなくなったそうだ。生きる気力が日に日に失せていくような思えた。そして十二月九日を迎えるに至ったのである。
 悲しい話だ。わたしには、羊子夫人を責めることはできない。ご主人を救うべく奔命していたのだ。が、開高さんは衝撃を受けた。自分でもガンであること、もはや死を免れないことがわかっていたかも知れない。にもせよ、夫人の口からこういう形で宣告されるとは、ガンを知る以上に心に響いたろう。そのとき、夫婦それぞれの胸に去来した感情の乱れを思うと、あれからかれこれ十三年もたつ今日でも、いたたまれなくなる。


 開高さんはいくつかの自伝的小説書いているが、一回の関係で牧さんが妊娠してしまい、結婚せざるを得なかったし、子どもが生まれ牧さんがおむつを縫っている姿を見て、いたたまれなくなって逃げ出してしまったことも書かれている。以来夫婦関係、家庭に縛られることとなるわけだが、一方で若い頃の過ち?から、以後自由な恋愛ができなくなってしまった中での、一人の女性との関係が生まれる。そのことを小説で書いてしまったことで、夫婦間にひびが入り、以来傷が深まってしまったことを、ここに知る。自由を求める男と、その男を占有することのみ生き甲斐とする女が生んだ関係は小説以上に悲しい。
 またこうした自分の秘めた関係をあからさまに小説として発表しなければならなかったことは、いったいどういうことなんだろう?、と思う。開高さんが小説を書くことに行き詰まったこともあろう。でも、もしかしたら、自由な恋愛が出来なかったことで、あるときそれがかない、そのことで今までの自分とは違う自分を見出した。だからその関係を書いた作品を“第二の処女作”としたのではないか?
 そして牧さんの重い愛の関係にいささか辟易していた自分を開放出来たことの喜びがあったのではないか、と思ったりする。それを書くことで、牧さんとの夫婦関係が冷めても、その時の開放感、喜びが優ってしまう自分を抑えきれなかったのかもしれない。

 佐々木千世さんは交通事故で亡くなっている。


 さてここからが過ちを修正した部分である。

 それは私がこの文章を書くにあたって、ネットでいろいろ調べていて知った情報を掲載した。そのサイトに開高さんにはもう一人親密な関係の女性がいたらしいことが書かれており、女性の名前は高恵美子さんという。そして開高さんが亡くなられてから発売された「ザ・開高健 巨匠への鎮魂唄」(毎日新聞刊)に彼女が寄せた追悼文があるということ知った。


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 この情報では、高恵美子さんが寄稿した追悼文に、恋文ともとれる私信も含まれていて、その部分の削除をするという編集側と、泣きながら抗議する高さんとの間で、電話で二時間半ほどのやりとりがあったことが書かれていた。さらに彼女と開高さんの娘、道子のバイオリン教師をしていた文筆家志望の知的な美人とも書かれていた。
 そして彼女は開高さんが死んで1年後の命日の日、飛び込み自殺をして命を絶った。その時の年齢が38か39歳位で、後追い自殺なのかもしれない、と書いてあった。

 しかしその後高恵美子さんのご友人から、この情報は正確ではないというコメントを頂いた。そのコメントを読んでみると、私が使ったネットの情報は、かなりいい加減であることがわかった。確かにネット上にごまんとある情報の中には胡散臭いものもたくさんあることは事実だが、その真偽など確かめようもないところがある。
 しかし頂いたコメントを読ませて頂いて、これはまずいことをやってしまったな、と思った。
 最初に掲載したのは、この本を読んで知ったことと、それ以前に読んだ開高さんの女性関係を記した本を元にして書いた。本の内容の真偽を疑ってしまうと、もうこれは話にならないのだけれど、ただこれらの本を書いた人は、その名前や開高さんとの関係がはっきりとわかっている。つまりニュースソースがしっかりしているわけだが、その後書いた高恵美子さんに関する情報は、ネット上にある匿名の情報で、その点、不確かなものであった。
 もし高恵美子さんのことをネットで見つけなければ、書く予定などなかった。本来は書く必要性は最初からなかったのに、たまたまその情報を見つけてしまったがために、書いてしまった。
 そして書いてしまった以上、またその情報がいい加減なものであるということを知った以上、ここはきちんと訂正しておかないといけない。何故なら、いい加減な情報で文章を書いてしまうことは高恵美子という女性を侮辱してしまっている可能性が充分あるからだ。
 さらに頂いたコメントには、高恵美子さんを友人として救ってあげられなかったとして、その人は自分を責めるかのような文章を書かれている。私はこの人にも不愉快な思いをさせてしまったと思ったのである。
 だから私は高恵美子さんのご友人に、頂いたコメントを使わせてもらって自分の文章を修正したいというメールを出した。そのためいったん掲載したこの本の文章を削除し、改めてこのように再掲載したのである。以下ネットの情報がいい加減である点を記した。

 ネット情報では開高さんの追悼集の出版で、高恵美子さんが開高さんの恋人かのようなことが、編集部とのやりとりで書かれているが、確かに開高さんは彼女に思いを寄せていたようであるが、高恵美子さんご友人は彼女と接していて、彼女には恋人的な気持ちがあったとは思えない、と言われている。
 そして高恵美子さんは開高さんの死後(1989年12月9日死去)1年たった命日に、後を追い、飛び込み自殺をしたかのように書かれているが、彼女は自殺ではあるが、飛び込み自殺ではないということ。高恵美子さんは躁鬱病を発症し、その闘病生活の中で思い通りにならない状況下で、悲観して発作的に自殺したものだったということ。その日は、開高さんの死後ちょうど1年たった命日ではなく、1991年の1月28日で、享年49才であった。

 これらのことから、高恵美子さんが開高さんのもう一人の女性関係を持っていた人とは考えにくいことになる。高恵美子さんご友人から頂いたメールには、ネットに高恵美子の間違った情報がそのまま放置され、それが増幅されていくのは、友人として忍びない。さらに開高健という作家ことが取り上げられる度に、面白半分に彼女の名前が取り上げられるのはいたたまれない、とも書かれている。 ネットでは高恵美子さんと開高さんとの関係を取り上げているサイトがいくつかある。これはまったくの推測だけれど、どれもニュースソースは一つではないかと思われる。とすれば、まさしく間違った情報が増幅したことになる。私もある意味その増幅に手を貸したことになってしまった。
 もし高恵美子さんのご友人からコメントを頂かなければ、私はいつまでも気づかないまま間違った情報を垂れ流す手助けをし続けるところであった。
 ここで高恵美子さんと開高さん関係や高恵美子さんの死の真相を正したとしても、私のこのブログがどれだけそれに貢献できるか、いやネット上にある数え切れないほどのブログに埋もれてしまい、まったく意味をなさい可能性の方が強いと思われる。(少しでも役に立っては欲しいとは思うけれども)ただ私のブログだけであっても、正しいことを記載しておくのは意味がある。そしてこれ以上私が間違った情報を垂れ流す手助けをしなく済む。だから正しい情報くれたこのご友人に感謝しなければならない。またネットの情報を使う時はもっと神経を使うべきであることを改めて学ばせて頂いた。ここにお礼を申しあげます。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの開高健
著者:細川 布久子
ISBN:9784420310536
出版社:創美社 集英社〔発売〕 (2011/05/31 出版)
版型:228p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2011年09月24日

文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」

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 今年の3月11日、午後2時46分、後に東日本大震災と名付けられた、日本における観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した大地震が東北地方を直撃した。この作文集は、その地震、その後を襲った津波を体験した子ども達のものである。保育園児から高校生まで、80人の作文集である。このとき子ども達は何を体験し、その後どうしたか。子どもの目で地震、津波の恐怖を語る。
 大人の体験談はよく聞くが、子ども達が自分たちの言葉で書いた文章は、子どもだけが語り得る臨場感が直接感じられる。恐怖をそのままストレートに語る。大人が語るのとき、ためらってしまうことでさえ、子どもだから見たまま、感じたままを語ってくれる。子どもがよく使う濁音ばかりの擬音語が、子どもながら地震や津波の凄まじさを伝えてくれる。
 親からすれば出来れば子ども達にこうした悲惨な光景を思い出せたくないはずだし、地震や津波がトラウマみたいになるのを恐れるだろう。事実こうして地震や津波のことを作文に書いてくれと子ども達に頼んだ時、親は動揺したという。もちろん子ども達も一瞬戸惑った子もいたという。けれどだんだん手を上げる子ども達が出てきて、こうした作文集になったらしい。


 でも、つなみの色は黒っぽくつなみでした。くさかったです。


 「津波が来るぞ」
 言ってきました。僕は半信半疑で南にある田畑に目をやると、茶色い水がゴォーと音をたてて、こっちに向かっているのです。


 窓から外を見ると、辺り一面が茶色く濁っていて、とても不気味でした。さっきまで乗っていた車が家の後ろまで流されてしまいました。


 一時間くらいたって、まどから見た物は、津波から泳いでひっしににげている人が見えました。でもけっきょくは、おぼれてしまいました。そしてまた、たてつづけに見た物は、車から出られなくて、たすけをもとめているひとが見えました。


 1千年から8百年の間におきる東日本大震災。ぼくたちはうんがわるかったんだなあと思いました。


 何日ぶりに友達に会うと抱き合い、「大丈夫だった?家族は無事か?」と合言葉のように、必ずそんな言葉を交わします。


 余震が続いているけれどだいぶ落ちついた今、閖上に帰ってみるともう町がなくなっていて涙があふれてきます。大好きだった海が嫌いに変わった瞬間でした。わたしの大好きな海が、大好きな町と、大切な人達をうばっていくようなものに変わってしまったのがショックです。


 最後になりましたが、僕は人間の汚い心を見てしまうことがあります。避難所に来た物資を被害を受けていない大人たちが持ち去ってしまったり。みなさんは、この愚民たちの愚かな行動をどう思いますか。


 子ども達は冷静であった。事実をそのまま受け入れ、見たまま、感じたままを書いた。震災直後の悲惨な生活を綴ることを忘れないが、それでも少しずつ状況が良くなって行くことを書き、避難所で友達と一緒に遊べることを素直に喜ぶ。友達が転校していってしまうことをを悲しむ。
 そして復興に当たり、いろいろな人達の力を借りて、自分たちの生活環境が少しずつ良くなりつつあることを自覚し、その人達に感謝の念を忘れないで、その気持ちを文章の最後に書き添える。正直これが子ども達が書いた文章なのだろうか、とさえ感じさせる。少なくとも私が同じ年齢の頃にこんな文章など書けなかったはずだ。みんな文章がうまいのに驚いてしまう。
 塩野七生さんがイタリアの週刊誌で見たという写真の一枚がこの作文集の最初に子ども達の写真が掲載されている。


 気仙沼で見たという少年で、十歳かそれより少し上と思われる年齢だが、こちらは避難所でもらったのか、だぶだぶのグリーンのジャンパーにピンクの長靴という出で立ち。両手に持つのは大きなプラスティックの酒用のボトルだが、酒ではなく水が入っている。避難所に飲料水を運ぶ途中でもあるのか。少年は口をきつく結び、伏目で歩いているのも、足許に散乱する瓦礫に注意してのことだろう。


 確かにこの写真はすごくいい写真だ。少年の面構えがいい。また子ども達の笑顔の写真も最高である。こんな状況下でも、大人を和ましてくれる子どもの笑顔を、この写真で見ることが出来る。たぶん仮設に作られたブランコだろう。それを勢いよくこいでいる子ども達の笑顔を見ていると、この子らを悲しませては本当にいけないな、と思う。
 最後にたぶん中学生だろうか?女の子が赤い毛糸の手袋した手を合わせて祈っている姿がある。この女の子は本当に祈っているんだ、と感じることが出来る。これもいい写真だ。
 またこの作文集の最後には子ども達が描いた絵がギャラリーとしてある。そこにある絵のうち、津波を青いクレヨンでかたまりみたいに塗りつぶして表しているものがある。その塗りつぶされた青の中には車が描かれている。それは津波に巻き込まれたことを示しているのだろう。たぶんその光景を目撃したに違いない。似たような絵が2~3枚ある。絵自体拙い分、逆にそのかきなぐった青いかたまりが、怒りに満ちているように思えた。


評価
★★★


書誌
内容紹介:
東日本大震災による津波に直面した子供たちが、地震の瞬間や、津波を目の当たりにした時荷何を感じたのか。家族や親友を失った悲しみ、避難所の暮らし、そして今、何を支えにしているのかを綴ってくれた文集です。半分以上は直筆文章を原稿用紙のまま掲載します(それぞれ写真と解説文つき)。
●3・11地震の瞬間、津波の恐怖 
●家族・親友を失って
●避難所のくらし 
●これからのこと
〔カラーグラビア16ページ〕 被災地での子供たちの写真と絵画作品集
目次

・はじめに 「子どもの眼」が伝えるもの 森健

●宮城県名取市、仙台市若林区、東松島市
「つなみは黒くてくさかった」(仙台市若林区 小2)
「地鳴りが『ゴォー』」(名取市 小5)
「ままのくるまが、ながされた」(名取市 幼稚園)
「大親友の分まで生きよう」(名取市 小5)
「大好きだった海が嫌いになった」(名取市 中3)
「ままのかおがみえたらないちゃいました」(名取市 保育園)
「画用紙1枚で寝ました」(名取市 小4)
「今まで見た中で一番キレイな星空」(名取市 高3)
「NVER GIVE UP!」(名取市 高2)
「世界中の人に恩返ししたい」(名取市 中3)>
●石巻市、女川町
「たくさんの死体を見た」(石巻市 小6)
「『助けて』『苦しい』とゆう声」(石巻市 小学生)
「おとうさんにまけないせんしゅになりたい」(石巻市 小2)
「屋根の上に車」(石巻市 小6)
「くうきがきたない」(石巻市 小1)
「お母さんにだきついた」(石巻市 小3)
「食パン4分の1」(石巻市 小6)
「だるさ・吐き気・変な感覚」(石巻市 小6)
「自衛隊のシャワー」(石巻市 小5)
「私ひとりでも県外で頑張る」(石巻市 中3)
「人間は強い」(石巻市 中3)
「頑張るぞ俺達家族!」(石巻市 高1)
●南三陸町
「何も無くなってしまったやぁ」(南三陸町 中1)
「おにぎり一個十分かけて食べた」(南三陸町 小6)
「つよくてやさしい人になりたい」(南三陸町 小学生)
●気仙沼市
「わたしのたからばこは、どこにいったかな?」(気仙沼市 小1)
「赤く燃え上がる炎と黒煙」(気仙沼市 中2)
「川の水がぎゃく流」(気仙沼市 小4)
「ペットボトルの湯たんぽ」(気仙沼市 中3)
「唯一残ったのは、命」(気仙沼市 中2)
「つなみってよくばりだな」(気仙沼市 小1)
●釜石市、大槌町
「お母さんをかならず見つける」(大槌町 小5)
「白い煙のような波」(釜石市 中1)
「今は何がほしいのかわからない」(釜石市 小4)
「夢だったらいいなー」(釜石市 小3)
「バイバイ。おばあちゃん」(大槌町 中2)

・おわりに 笑顔の先には明日がある 森健

●グラビア16ページ
「被災地のこどもたち」(文・塩野七生)+「こども絵画ギャラ

書名:文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」 2011年 8月号 [雑誌]
著者:
ASIN:B0053VL8O8
出版社:文藝春秋; 不定版 (2011/6/28)
版型:160p /25.6 x 18.2 x 0.8 cm
販売価:800円(税込)

2011年09月18日

サンデー毎日緊急増刊『東日本大震災』

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 いい加減に涼しくなってもいいのに、9月半ばだというのにいまだに暑いのはいったいどうなっているんだろう?
 そもそもこの夏、感覚的に暑いと感じたのは、あの地震の影響による電力不足より、節電が全国的に訴えられ、冷房の温度がどこでも高めに設定されたことによる。
 それにしてもあの地震もそうだけれど、今回の台風による甚大な被害を見ると、いったい今年はどうなっているのだろう、と思ってしまう。今年もあと残り3分の1ほどあるが、これ以上何事もなく終わって欲しいと祈ってしまう。

 この雑誌は震災発生直後に緊急出版されたもので、その時見て、書き込んだものだ。なので、時間的にちょっとずれているが、そのまま書き残した。以下その文章である。


 これはすごい。特に津波が襲ってくる写真がおそろしくなってくる。こんなものが来たのである。町や村が一気に押し流されるのも当然だ。そしてその凄まじい爪痕も生々しい。本当にこれから復興出来るのだろうかと思わせるほど、その風景はひどすぎる。まさに「牙をむく」というのはこのことかと思われる。
 今も連日この地震のニュースが流れ続けるが、日がたつにつれ、その被害が大きくなり、死者や行方不明者が増える一方である。

 2011年3月11日(金)14時46分宮城県・牡鹿半島の東南東約130キロの海底を震源とするマグニチュード9.0、宮城県栗原市では震度7を記録した。その地震のエネルギーは阪神淡路大震災の約1000倍という。震源地があまりにも陸地に近かったため地震は津波を引き起こし、その高さ10メートルから20メートル級となった。後に陸地をさかのぼって到達した津波の高さ(遡上高)が37.9メートルまで達したという。
 地震に関しては今も、ほとんど毎日といっていいほど余震と思われる大きな地震が起こっている。今朝も通勤途中の電車の中で、乗客の携帯が一斉に緊急地震情報を鳴り、一瞬構えると同時に、電車が止まった。その瞬間だけ、奇妙な静寂が流れる。みんな3月11日の地震がよみがえるのだ。それくらいあの地震は恐ろしかった。おそらく地震がこれほど怖いものだと初めて実感したといっていい。
 それまで地震があっても、高をくくっていて、 “地震だな”と感じるだけで、手を休めることさえしなかった。しかしあの地震は違った。いや、最初はいつもと同じように地震を感じていた。いずれおさまるだろう、といった程度で。でも、揺れはだんだん強くなり、いつまでたってもおさまる気配がない。その揺れに恐怖さえ感じ、身体に緊張感が走る。棚のファイルは次々と落ち、棚自体も動き、コピー機も動いていた。しばらくは呆然とした、といっていいかもしれない。

 しかしこれだけでは済まなかった。帰れないのである。帰宅困難者となったのである。下手をすれば帰宅難民になったかもしれない。交通機関が全部動いていないのである。電車がダメならバスを考えるが、考えることは誰も一緒だから、ものすごい混みようだろうし、それよりも渋滞で動かないだろう。
どっちにしたって、まともに帰れる訳がないので、しばらく会社のとどまり、テレビのニュースを見続ける。
 あれこれ考えても、結局歩いて帰るしかないだろと、覚悟を決めて、自宅まで歩くことにした。おおよその見当で、2時間半ぐらいで家に着くだろう。
 まずは靖国通りに出る。駅前は人であふれかえっている。中には明らかに緊急用のナップザックとわかるものを背負って歩き、ヘルメットをかぶっている人もいた。会社で持たされたのだろう。
 予想通り車は渋滞し少しも動かない。人は歩道に、同じ方向へ歩いて行く。私もその中に加わった。靖国通りを逆に千葉方面に歩く人は多くいた。この流れにいれば方向は間違いない。
 よりによってあのとき風が冷たい日であった。身体の方は歩いているうちに、暑くなってきて、汗がにじんでくるのだが、それが風で身体が冷えて寒くなる。暑いのと、寒いのを交互に感じて歩いていた。
 とにかくまっすぐ歩いて行けばいい。浅草橋を過ぎ、隅田川を渡り、両国、錦糸町まではおよそ1時間。難なく歩けた。しかし錦糸町を過ぎた頃には、足が重くなり、張り始めた。トイレにも行きたくなる。
 コンビニをのぞいてみると、トイレの前で人が並んでいる。これはダメだな、と思い、通りの奥に入って、公園を探す。公園にはトイレがあるからだ。
 こういう時男は簡単だ。問題なく用を足し、また通りに戻り、せっせと歩き始める。
 そうそう、この時からコンビニの棚にものがなくなった。様子見の人は腹ごしらえのために、買い出しをし、歩いている人も同様に腹ごしらえのパンや水を一斉に買い求めた。私は途中自販機で水を買っていたので、それを飲みながら歩き続けた。相変わらず車は渋滞でちっとも動いていない。バスは走っているのは見かけたが、完全に渋滞に巻き込まれていた。歩く方が早い。
 やっと小松川橋まで来て、渡り始める。橋の上はさらに風が冷たい。この橋を歩いて渡ったことなど一回もない。いつもバスか車である。だからこの橋がこんなに長いとは、と実感した。歩いても、歩いても川向こうにつかない感じだ。こんなの一人で歩いていたら、とてもじゃないが平常心で歩けないな、と思いながら歩いていた。
 この橋を渡れば、私はこの通りから離れられる。しかし千葉の人々はさらに先を歩かなければならないのだから、大変だ。
 結局自宅に着いたのは10時頃、7時半に出たので、予定通りであった。
 歩いている途中自宅に何度か携帯で家に電話をしたが、もちろんつながらない。しかし全くつながらない訳でもなく、何回かかけているうちにつながる場合もある。こういう時携帯はやはり便利だな、と思う。出来るなら携帯会社も端末ばかりに力を入れずに、こういう緊急時でも回線が確保できるようにしてもらいたいものだ。
 電話がつながらないから、メールをしたのだが、かみさんの携帯にそのメールが届いたのは、私が帰ってきてからであった。もう本人が帰ってきているのに、とかみさんは笑いながら自分の携帯を見せた。帰ってから食事をし、親族に確認の電話を入れ、みんな無事であることに安心する。
 しばらくすると、いつも使っている都営地下鉄がわずかながら復旧したとニュースで流れる。一方でJRは地震があって早々とこの日の運行は全線休止すると、発表していた。つまりJRは地震のあと、利用者のためには何もしなかった。都営地下鉄が時間はかかったものの復旧できて、どうしてJRは出来ないのか、不思議であった。道を歩いている時、JRの駅前では、電車が動いているかどうか、その姿を確認している人の姿を多く見かけた。JRはこういう人たちの気持ちをどう考えているのだろう?石原東京都知事は「JR東日本の体質、私は許さない」と怒っていたが、まったくその通りだ。

 と、まぁ、3月11日の経験したことを書いた。この雑誌の最後の写真には隅田川を渡る人々の写真が掲載されている。この写真の橋かどうか、わからないけれど、私もあの時この川を渡った一人だったので、あえてその時のこと思い出して書いてみた。
 昔まだ春闘が元気な頃、交通機関がすべてストライキに入り、動かなかったことがあった。高校の時は、125CCの友達のバイクに乗って、葛西橋を渡り、大学時代にアルバイトをしていた頃は、配達用の業務用の自転車で家に帰り、翌日それに乗って自宅から新橋までこいだ。
 そして50の半ばで、歩いて自宅に帰ることとなった。まさかこの歳になってこんなことを経験するとは思わなかった。


内容紹介
東日本大震災/津波襲来/市街地炎上/爪痕/東松島市双葉町沖/ドキュメント・東京電力福島第1原発事故/岩手県/宮城県/福島県/青森県・北海道/日本各地の被害 ほか


評価
出来ない


書誌
書名:サンデー毎日緊急増刊『東日本大震災』 [雑誌]
著者:
ISBN:
出版社:毎日新聞
版型:28 x 20.4 x 0.8 cm (2011/3/24)
販売価:500円(税込)

2011年09月01日

難波 利三 藤本 義一 柳原 良平 岡田 圭二 來田 仁成他著『大阪で生まれた開高健』

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 私は大学時代に、開高健ファンになり、その著作を読みあさった。また本として開高さんの単行本を集めることに、夢中となり、古本屋を駆け巡ることとなった。今でも自宅にはたくさんの著作が棚を占めている。
 ところがある本をきっかけに、開高さんがちょっと嫌いになり、以来ほとんど開高さんの本を読まなくなってしまった。
 そこには開高さんの釣りに関することが書かれていた。曰く、開高さんの釣りは特別待遇で、普通一般の人が入れない場所で、 “開高健”ということで特別に入れ、そこで一人で釣りをし、それをエッセイとして書いている、と書かれていたのであった。
 私は開高さんのエッセイもそうだけれど、釣りに関するエッセイも好きであった。ただ晩年の釣魚紀行はあまりにも大がかりで、ちょっと芝居がかっている感じがしていただけに、こう言われると確かにそうかもしれない、と思い始めたのである。もちろん、夢やロマンスでこれをとらえればいいのだろうけど、あまりにも仰々しくなっていくと、ちょっとついて行けないな、と潜在的に思っていたのではないかと思う。だからそれをあからさまに指摘されると、今度はそれが気にかかり、それだけで収まらず、すべての点で鼻持ちならなくなってしまったのである。

 ということで、久々に開高さんに関する本を読んでみた。この本は開高さんの生誕80年記念ということで、開高さんの人物評、作品評なのだが、どちらかといえば開高さん作家になる以前に重点が置かれている。興味深い写真も多く用いられている。開高さんの実家の写真や壽屋(現サントリー)の入社時の手書きの履歴書が特に興味深かった。
 本の中では、坪松博之さん「開高健と佐治敬三 トリスをめぐる二人の冒険」の文章が面白かった。


 工作に熱中するこどもがいた。そして、この「言葉の工作」作業こそ、開高の作品づくりのひとつの特徴を示しているように思われる。それは開高作品にしばしば登場する凝縮された「鮮烈の一言半句」である。
 開高は混沌とした世の中を豊かな語彙を駆使してなんとか表現しようとする。そこには妥協はない。細かいディテールをあらゆる名詞、形容詞を駆使して描き、極端な対句を用いて物事の裏と表、あらゆる虚実を提示する。さまざまな言葉があふれ出す。読み手が疲労感を覚えるほどの手厚いアプローチである。
 そして、その言葉の到達点に凝縮された一言半句が登場する。物事の原理をひとことで貫いてしまう。読者に、ある真実を的確に伝える。鮮やかな決まり手である。もちろん、その一言半句を構成するひとつひとつの言葉は吟味され、並べられている。決して他の言葉に言い換えることができない。揺るぎない洗練がそこにある。

 その開高さんの一言半句の追求は、サントリー時代の広告を担当するにあたり、コピーライターとして修練を積んだことで生まれたものであろう。開高さんはエッセイでよく文学作品でいつも「鮮烈な一言半句」、「光った一行」を求めていたことを書いている。それがあるだけでたとえ作品がランク落ちたものであっても、それがあるだけで開高さんは評価していた。新人作家にもそれを求めた。作品の中で著者が言いたいことを一言で表現でき、しかも読み手に鮮烈に伝わる一言、それを求めた。
 しかしこれはかなり難しいことだ。そう簡単に出来るものでもないし、あるいは意識が過剰になると、逆に嫌みとなりかねない。もちろん読者にそれがどう伝わるか、その計算もされなければならない。

 しかし、小説においては、意味が凝縮された一文が加わることで作品に奥行きを与えるという大きな効果も生みだすが、一歩間違えると言葉だけが空回りし、作品全体を台無しにする危険もある。うまく消化しないと途端に説教くさくなる。一言半句の使い方は極めて難しい。もちろん言葉として独自性、スケールの大きさ、あるいは意味の深さ、鮮烈さが必要ではあるが、生まれでたものをそのまま示すだけでなく、読み手にどう解釈されるか、その言葉の効き目を冷静に把握する繊細なバランス感覚が要求される。洗練が求められる。どんなに輝きを放つ一文でも一人よがりの存在では決して効果は発揮されない。

 実は、開高が文章表現に対して課したものは「何を、どう書くか」にはとどまらない。さらに、その言葉はどう伝わるか、どう届くか、どう残るか、そこまで確実に意識が及んでいたように思われる。あるいは、それを意識したものではなく、自然に開高の心の中に内在していた才能といえるかもしれない。しかし、その意識、あるいは無意識を経て、物事の真実が初めて言葉として明確に、そして生き生きと読者の眼前に示されるのである。
 作品の中には二人の開高がいるように思われる。表現し難い物事に挑み漢文調の言葉を駆使し、時には対句的表現を用いて完全なる表現を求める。いわば「何をどう書くか」という開高と、最後の一文にみられるような平易な言葉遣いと洗練にこだわる、「どう伝わるか」という開高である。ひとつの頂きを目指してあらゆる言葉を駆使してのぼりつめようとする開高と、表現の裾野を目指して注意深く、一歩一歩下山しようとする開高である。
 言葉の鮮烈さ、輝きから一人目の開高がクローズアップされることが多いが、実は二人目に開高が居なければ開高文学は成立しない。そして、この表現アプローチこそコピーライターとして開高がトリスウイスキーの広告制作の中で修得していったものではないだろうか。


 この文章は極めて開高さんの作品の根底を言い表していると思う。ものすごく的確に表現されている。思わずうなずいてしまった。もしかしたら今まで読んできた開高健の文学評論の中で、もっと開高文学の本質をついている気がする。

 また開高さんの作品を読んでみてもいいかな、と思った次第である。


評価
★★★


書誌
書名:大阪で生まれた開高健
著者:難波 利三 藤本 義一 柳原 良平 岡田 圭二 來田 仁成【ほか著】
ISBN:9784924713987
出版社:たる出版 (2011/03/03 出版)
版型:312p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年03月06日

吉村昭著『再婚』

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 今回も吉村昭さんの現代小説だ。今回は「老眼鏡」、「男の家出」、「再婚」、「貸金庫」、「湖のみえる風景」、「青い絵」、「月夜の炎」、「夜の饗宴」の8篇だ。

 前回、人間長生きしていれば、酸いも甘いも味わってきているから、人生の先輩として、様々な場面で配慮や対処が出来るもんだ、と書いた。しかし今回は長生きした分、恥かしい部分も多く持ってしまうことを知らされる。それをきちんと処理しないで自分の人生が終わってしまった場合、それが妙に生々しく残ってしまうものだな、と思った。
 たとえば「貸金庫」では、愛人の裸を写真に撮って、それを貸金庫に入れたまま死んでしまった男がいる。残された弟は、その若い愛人からその写真を返して欲しいと言われるのだが、言われた方はあの兄貴がそんな写真を撮っていたんだ、と思うだろう。これってちょっと嫌だな。
 愛人の裸の写真じゃなくても、人にはあまり他人には知られたくないものが、大なり小なりあるだろうし、死んでまでも、あれこれ言われたくないものではないだろうか。
 ただ厄介なのは、長く生きていればいるほど、そうした恥ずかしいものを多く抱えて生きているような気がする。だから下手にぽっくり死んでしまった場合、そうしたものを処理できない。もちろん自分が死んでしまえば、その後のことは何もわからないのだから、どうでもいいとも言えるかもしれない。でも私はやっぱり死ぬ時は、きちんと自分の人生を清算して死にたいものだ、と思う。
 一方長いこと生きていると、自分の行動にいつのまにか惨めたらっしい、所作が身についてしまうことがある。これも自分では気がつかない分、他人から、言われなくても、“ちょっと嫌だな”と思われるのは、あまりいいものではない。それが「再婚」に描かれている。
 男が昔会社で働いて部下と再婚を前提に会って、食事をし、会計をしようとした時、女がテーブルにあった爪楊枝を数本取ってバックに入れた所作を見てしまった。それが目に焼き付き、男はその女との再婚しようとは思わなくなった、というものである。確かに女にしてみればいつもやっていたことに違いない。まして爪楊枝である。そしていつの間にか身についてしまった行動が、こういう時にも出てしまっただけのことであろう。女にしてみれば爪楊枝だから、という気持ちだったろうが、逆に爪楊枝だからこそ、と思える。難しいものである。

 「夜の饗宴」は以外に面白かった。これは小さなネオン装飾制作業者の話である。そこに大手製菓業者から、代理店を通さず、直接大きな電飾看板の制作の依頼があった。それは今まであった駅前の敵対業者の電飾看板を隠してしまおうというものでった。そのため秘密を要する。それが代理店を通さない理由でもあった。主人公のいる業者は一攫千金を狙って、その大手製菓業者の依頼を受けて、大きなネオン塔を作りあげる。
 そこに台風が来て、ネオン塔が倒れてしまう。耐久性は計算していたが、鉄骨を組み上げる下請け業者の溶接が不十分で、強度不足となり倒れたのであった。
 それは鉄骨を組み上げる業者に広告代理店が入れ知恵をして、させたものであった。代理店は主人公のいる業者が自分たちを通さずに、大手製菓業者の依頼を引き受けたための嫌がらせであった。
 結局主人公たちはネオン塔の再建を強いられるが、その資金がない。社長は愛人と自殺し、男は夜逃げする。たぶんネオン看板を依頼した製菓業者の担当者も飛ばされたものと思われる。
 夜逃げした男は、大阪でミシン販売のセールスマンとなるが、駅で見上げたネオン広告塔は、倒れてしまったあのネオン塔と同じデザインであった。デザインはあの塔をデザインした人物であろう。ネオンデザインは有名デザイナーでなければ、一度デザイナーがデザインすると、その手を離れてしまうものらしい。当然あの倒れた塔のデザインもデザイナーから離れたものであったが、その塔が倒れ、塔の制作した自分たちも追われた。再起することが出来なかったが、デザインは復活した。主人公は、勝者は村瀬(デザイナー)だったと思うのであった。


評価
★★★


書誌
書名:再婚
著者:吉村 昭
ISBN:9784048728522
出版社:角川書店 (1995/03/20 出版)
版型:243p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年03月04日

東野圭吾著『麒麟の翼』

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 正月に放映された加賀恭一郎シリーズを見て知ったのこの新刊を楽しみに待っていた。今読み終えてかなり満足している。このシリーズは最初から読んでいるが、『新参者』から作品の厚みが増したと思っているので、今回も読み応えがあった。
 今回の事件現場は日本橋である。日本橋の欄干に胸にナイフが刺さった男がもたれかかっていた。発見したのは交番の巡査であった。事件が発生して緊急配備されたが、そこに一人の不審な男が見つけだされたが、男は大通りを飛び出し、トラックにはねられ、意識不明の重体になった。男は殺された男の鞄や財布を持っていた。犯人はトラックはねられた男なのか?そして日本橋の欄干にもたれかかるように死んでいた男は、何故ここに来て殺されたのか?加賀らの捜査が始まる。
 殺された男は『カネセキ金属』製造本部長青柳武明で、江戸橋にある地下道でナイフで刺され、自力で日本橋まで移動し、橋にある西洋のドラゴンそっくりな麒麟像に祈りを捧げるように背中を丸めて死んでいた。
 トラックにはねられた男は、持っていた免許証から八島冬樹と判明する。八島は中原香織と同棲していた。二人とも身寄りがなく、田舎から二人してヒッチハイクで日本橋まで来て、以来東京で慎ましく暮らしていた。八島は派遣社員でカネセキ金属で働いていたが、契約期間前に会社を解雇されていた。八島はカネセキ金属で事故にあい、首を痛めた。一方カネセキ金属は“労災隠し”のため、八島の労働事故を隠すために、契約期間前に解雇したのであった。警察は八島がそれを恨んで、製造ラインの責任者である青柳を恨み、刺したのではないか、という結論に達しようとしていた。しかし八島は意識不明の重体であり、その真相が聞けずにいた。同棲してた中原香織は冬樹がそんなことをするわけがない、と八島の犯行を否定する。香織は妊娠していた。そして八島は死亡する。
 加賀らは、青柳が普段の行動範囲外である日本橋にどうして来たのだろう、その理由を探り始める。調べているうちに、青柳は日本橋の七福神巡りをしていたことが分かった。特に水天宮には折り紙の折り鶴を賽銭箱においていた。何故水天宮なのであろうか?普通水天宮と言えば安産祈願に訪れる人でいっぱいなのだが、ここは水難除けの神様でもあった。
 青柳の一人息子悠人は友達から「キリンノツバサ」というブログの存在を知らされる。サイトをのぞいてみると、そこにあった写真に驚く。そこには3年前中学のプールで起こった事故で、おぼれたリレーの仲間である吉永友之の姿があった。吉永はそのとき救出されたが、以来意識が戻らずにいた。ブログのタイトルは「キリンノツバサ-いつか羽ばたく日を夢見て」とあり、意識の戻らない息子のことを思い、母親が立ち上げていたブログであった。
 吉永は生きていた。3年前水泳のリレー競技で敗退した悠人らチームは、その責任を吉永に帰した。ただでさえ悠人らは吉永をよく思っていなかったので、試合後、学校のプールに忍び込み、“特訓”と称して、吉永にいじめを行い、吉永はおぼれてしまったのだ。 悠人はそのブログを見て、今の自分に何が出来るか、探り、母親が書いた記事に、息子の事故のあと水難除けによく水天宮に通ったことを目にする。そして今軽井沢にいる吉永母親に水天宮の写真を送る。以来ブログ内で吉永の母親と悠人とやりとりが始まる。悠人は贖罪の意味で千羽鶴作り、水天宮の賽銭箱において、その写真を母親に送った。
 ある日そんな悠人と吉永の母親とのパソコンでのやりとりを、父親である武明が見てしまう。悠人はそれ以来吉永の母親とのやりとりを止めたが、父親の武明がそれを知らないうちに引き継いでいた。武明は3年前に起こった事故に疑いを持ち始め、調べているいるうちに殺害されたのであった。犯人は悠人がいた競泳チームの一人で、友人であった杉野達也であった。八島冬樹は青柳武明を偶然見つけた、武明が倒れていたとき、魔が差して(生活にも困っていたので)、武明の鞄や財布を奪ってしまったのであった。そして不審者として警察に追われるうちに、トラックはねられ、死亡したのであった。
 3年前の事故を隠さなければこんなことが起こらなかった。事故として処理しようとしたのは顧問の糸川であった。糸川は子供たちを傷つけたくなかったと釈明するが、それを聞いた加賀は糸川の襟首を掴んで言う。

 「ふざけるな。何が傷つけたくないんだ。あんたは何が悪いかわかっていない。なぜ杉野は青柳さんを刺した後、自首しなかったと思う?それはあんたが間違ったことを教えたからだ。過ちを犯しても、ごまかせば何とかなる-三年前、あんたはあの三人にそう教えたんだ。だから杉野は同じことを繰り返した。同じ過ちを繰り返したんだ。青柳さんは、あんたに間違った教育を施された息子に、正しいことを教えようとしたんだ。それがわからないなら、教師なんか辞めろ。あんたに人を教育する資格なんてない」

 それを言って加賀は汚らわしいものを捨てるように手を離した。刑事をやる前に加賀は一時教師をやっていたことがある。それだけにこの言葉は重く感じる。
 冬樹を信じていた香織は、おなかに子供を抱え国に帰る。そのとき香織は加賀に、

 「今日はどうもありがとうございました。それから、冬樹君の疑いを晴らしてくれたこと、一生忘れません」

 「そんなことは忘れてもいい」加賀はいった。「忘れちゃいけないのは、その子のために何があっても負けないと決心したことだ」
 なかなか格好いい。この作品もまたテレビ化するかな、と思った。もちろん加賀恭一郎の役は今までのように阿部ちゃんで・・・。楽しみである。

 最後にこの本の最後にこんなことが書かれていた。

 「著者は本書の自炊代行業者によるデジタル化を認めてはおりません」

 奥付にも同様のことが書かれており、代行業者等の第三者依頼してスキャンやデジタル化することはたとえ個人や家庭内の利用でも著作権法違反です、と書かれている。

 そうなんだ。

 奥付の文章はともかく最後にある「自炊代行業者」というのはちょっといただけない。「自炊」とは2ちゃんねるが由来の隠語じゃなかったかな?でもこうしてはっきりとそれを認めないぞ、というのは本を大切にする人と、著作権を守る著者の姿勢がはっきりしていていい。


評価
★★★★


書誌
書名:麒麟の翼
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062168069
出版社:講談社 (2011/03/03 出版)
版型:325p / 18cm
販売価:1,680円(税込)

2011年03月02日

吉村昭著『法師蝉』

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 吉村昭さんの現代小説を読む。ここには「海猫」、「チロリアンハット」、「手鏡」、「幻」、「或る町の出来事」、「秋の旅」、「果実の女」、「法師蝉」、「銀狐」の9篇の短篇が収められている。いずれもこの本の帯にあるように人生の後半を迎えた男と女が主人公である。
 長いこと人間をやってくると、人には様々な体験や経験が蓄積されているんだな、と思う。若い時経験したことが、幾ばくかの歳になって、酸いも甘いも、一緒になってよみがえってくる。それが長ければ長いほど、今では経験できないことを通り過ぎてきたんだな、とを思う。時代がそういう時代だったからこそ、あり得た話がたくさん出てくる。
 面白いもので、それはやっぱり歳を重ねないと、一つの話にならない。それがどういう訳か“哀愁”を帯びてしまうから、話になるのかもしれない。もちろん読む側もそれなりの歳がいっていないと、共感が生まれない。追体験というのは、やっぱり同年代であることが必要なのかな、とも思う。

 さて、この9篇のうち気に入ったものは「手鏡」と「幻」の2篇だ。「手鏡」の中に次のような文章がある。

 自分が病臥していたことを考えると、見舞客来てくれるのは嬉しいと思う反面、苦痛でもあった。肥後に対してそうであったように、元気であるかのようによそい、それが体に好ましくない影響をあたえた。そのような経験があるので、重病である人への見舞いはひかえ、花を買って病室の近くまで行きながら通路を引返し、看護婦詰所で渡してくれるよう頼んで帰ったこともある。

 ここにある「自分が病臥していた」というのは、吉村さんが若い頃結核にかかり、寝たきりの状態であった経験を書いている。吉村さんの現代小説でも随筆でも、「人への思いやり」が随所に見られる。それがちっとも気障に感じないのは、そうした配慮が自らの経験を濾過してきたからだろうと思っている。
 人は自分が経験したことから、それが心地よかったり、苦々しく感じたことがあれば、いつの間にか、そうしてみたり、あるいはそうした行動を控えたりすることが出来る。歳をとったことを、半ばうんざりしているところが私にはあるが、こういうのを読むと、悪いことばかりじゃないな、と思えてくる。
 もちろんそうした配慮が、歳をとっても出来る人と、出来ない人もいるだろうが、長いこと生きてきている分、経験してきたことの数の多さは、若い人には負けないはずだ。後は性格の問題かな、と思う。

 「幻」には、「年末に、父が焼け残った医科大学付属病院で死んだ。脳溢血とされていたが、実際は癌で、すでに末期症状であったのである。遺体をおさめる棺がなく、長兄が造船所から運んできた板でつくり、さらに遺体を焼く燃料も必要だというので、かなりの量の薪を用意し、それを棺とともにリヤカーにのせて火葬場に運んだ」とある。この話も吉村さんの随筆に書かれており、実際自ら体験したことをここに書かれていると思われる。時は終戦直後の話である。棺もなかったし、火葬する燃料がなかったのである。他の話に、火葬の薪を得るために、戦火で焼けた電柱を掘り出せ、という話もここにはある。地表に出ている電柱は燃えてしまっていても、地中に埋まっている部分は残っているので、それを掘り出して、遺体を焼く燃料にしろ、というのである。地中に埋まっている電柱は2メートルも地下に埋まっているので、大の男が二人がかり掘り出す労力がいるという。
 このときは何もかも物資が不足していた。餓死者も多く見かけたと書いてある。それは「戦時中は、戦局の悪化にともなって配給食料の質が加速度的に低下し、主食も米の代わりに薯類や雑穀が配給されるようになっていたが、それでも強力な統制で一応、名目だけの量は維持されていた。が、戦争の終結と同時に、辛うじて保たれていた流通秩序が一挙にくずれ、配給制度は維持されていたものの、農家は供出をしぶって農作物を横流しし、そのため遅配が習慣化していた」だから終戦後餓死者が増えたのである。
 戦争というのは実際行われている間も、戦火を逃げ回らなければならないけど、敗戦後もその後でさらに苦しまなければならなかったことを思い知る。
 「幻」はそうした何もかも不足していた時に、昭和通りに祭の練り歩きを見たことがあり、それが神田祭じゃないのか、と後で調べてみる話である。実際は神田明神でそうした祭は当時行われていないことを知らされ、それは幻だったのではないかと仲間に言われるのだが、主人公は確かにそれを見たという話である。話として実際著者が見たのかどうかわからないが、その祭のきらびやかさと、一緒に歩いている痩せ細った馬が、逆に当時物資が不足していたことを強調することになっている。


評価
★★


書誌
書名:法師蝉
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242239
出版社:新潮社 (1993/07/10 出版)
版型:195p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年02月21日

横田増生著『潜入ルポ アマゾン・ドット・コム』

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 この本は単行本が出た頃読んでいる。それの文庫化だ。今回文庫化に当たり、単行本を第一部として収録し、第二部を「その後のアマゾン・ドット・コム」として大幅加筆している。私は本来単行本の文庫化なら絶対に買わない本であったが、その加筆された第二部が気になり、購入し読んでみた。

 で、第一部は以前に感想を書いているので書き加えることはないかな、と思っていたが、以前の文章を読んでいると、肝心なことがうまく書かれていないような気がしたので、その部分だけ書き加えてみる。
 著者がアマゾンの物流センターに潜入したのは、アマゾンの秘密主義から、詳しい情報が流れてこないからであった。アマゾンの情報統制はかなり厳しいものであるらしい。しかし著者はアマゾンのような「通販企業」にとっては、物流が中核業務となるので、必然秘密主義になっていくと書く。なぜなら顧客と直接対面する店舗を持たない通販企業にとって、物流こそがその接点となる。どの物流業者と組んで、どんなサービスを提供するかは、通販企業の成否をわけるほど重要な戦略だからである。「物流業務で同業他社との差別化を図ろうとする企業の常として、物流現場を公開することは滅多にない。物流先進企業にとって、物流センターは企業機密のぎっしり詰まった場所であり、その業務内容を知られることは企業のノウハウや経営内容を暴露するに等しい」からである。
 そして物流部門は、商品開発や営業部門と比べると地味で野暮ったく、薄暗い倉庫で肉体労働をしているイメージであるが、業績好調な企業ほど、物流の重要性を認識し、また大切にしている。企業活動の背骨にあたる物流を軸に業務を組み立てていけば、無駄をなくした経営が可能なのである。
 その物流部門のコストパフォーマンスを実行するに当たり多くのアルバイトが使われていた。「そこには、アマゾン社員を頂点にいただく、“カースト制”があった。トップのアマゾン社員の次には、センター運営を請け負う日本通運の社員がきて、その下にはアルバイト。さらに最下層には、入ったばかりのアルバイト見習いが控えるといった四階層から成り立っていた」のである。そのアルバイターが強いられる実態を著者は自らの体験ととも明らかにする。
 コストパフォーマンスのためにはアルバイトを雇う側であるアマゾンや日通は人が長続きしないことを、露ほども気にしていない。ここではアルバイトとは、募集広告を打ちさえすれば、いくらでもやってくる、“使い捨ての人材”としか見ていない。だから毎週のようにアルバイト雇い入れる。
 どんなに働いても、時給900円以上(後に850円に下がる)は上がらな。交通費はなし。2ヶ月の期間雇用で、それの更新で、社会保険料の負担を逃れるシステムである。当然働く側はモチベーションなど生まれるはずもなく、雇用主や仕事内容さえ無関心となる。コスト削減のため仕事がなければ就業時間の一方的な切り上げもあるが、それでもそれを仕方がないといって簡単に諦めてしまうのである。
 著者は潜入時からその後もアマゾンを利用し、注文するごとにアマゾンの便利さを実感し、いつの間にか私はアマゾンにはまってしまった自分を見出す。けれど「同時に不思議な後ろめたさをぬぐうことができなかった。この便利さの裏側で、400人のアルバイトたちが私の注文した本を探して右往左往する姿を知っているからだ」と書く。
 著者は独自に入手した2004年のアマゾンの内部資料から、次のように書く。

 「アマゾンを利用する人の75%以上の世帯収入は、500万円を超えており、アマゾンの利用者の大多数は会社員だった。一方アルバイトの年収は200万円そこそこ。これでは、最新のパソコンを買うこともままならないし、さらにアルバイトという身分では、クレジットカードを持つことも難しい。 
 つまり、センターを這いずり回るようにして本を探す人と、自宅のパソコンから本を注文する人とは違う人たちなのだ。アマゾンの安くて迅速なサービスを享受する人と、それを可能にするために労働力を提供している人たちとは、ある意味別の階層に属している」
 アマゾンのアルバイト待遇を実感して、著者は「<ワンクリック>の向こう側では、その要求に応えるために、たしかに誰かが働いている。ネット社会の便利さを享受することが、IT企業の舞台裏で働く人々の自尊心を損なうことと無関係ではなく、ひいてはわれわれの生活基盤である社会全体を不安定にしていくのかもしれない。われわれは、ときに立ちとまり、そのことを今一度思い返してみる必要があるのではないか」とも書く。

 アマゾンで働くアルバイターは、待遇でも仕事内容でも人間性や社会性、そして“希望”さえ奪われながら働いている。そういう境遇に陥ったのが自業自得といえるかもしれないが、でもここ20年、そういう境遇に好きで陥った訳ではない人を多く生んできたのではないか、と思うことがある。“失われた20年”を取り戻すため、アメリカ的経営手法をどんどん取り入れていった結果、あぶれた労働力を生み、労働環境悪化させていく。それでも生きていくために働かざるを得ない以上、そうして悪化した労働条件を受け入れて、何とか働いていく。働く側に人間性の喪失が生まれても当然だ。日本の社会がおかしくなっていっても不思議じゃない。人と人の関係が労働環境に見られるような希薄さを反映している。そんな気がする。
 こんなことを言ってもしょうがないのだろうが、私もアマゾンの利用者である。この本を再度読んで、注文を簡単にワンクリックできなくなってしまった。

 さて気になる第二部である。第一部の最後にアマゾンとブックオフとの“黒い関係”を著者は疑って終えているので、それをまず追求する。著者は最初アマゾンがブックオフと取引関係が存在することで、ブックオフから中古本が新刊として流れているのではないか、と疑っている。しかしそうではなく、流れは逆でアマゾンからブックオフに本が流れていたのではないか、と考え始める。
 それは“返品枠”という商慣習が絡んでいる。通常取次が本を卸すとき78掛けであるが、それをさらに引き下げれば当然利益率が上がる。そうして卸値を下げたとき、取次は交換条件として、返品を受け入れに条件をつける。これが“返品枠”である。これ以上返品出来ませんよ、というやつだ。アマゾンはこれを利用して卸値を下げる。けれど売れ残る場合がある。そこで売れ残った本を返品して正味を上げさせたくないため、売れ残った本を損を覚悟でブックオフに売りさばいたのではないか、と思い始めるのである。もちろんアマゾンもブックオフもこれに関してはノーコメントである。
 でもこれを鬼の首を取ったように非難できるかどうか、よくわからない。少なくとも出版業界の“鬼っ子”であるブックオフの利用は読者だけでなく、出版業界でも噂が絶えないし、少なくと買い取った本や、自分の所で出した残った本を売りさばくことは、読者が本を売るのと同じと言えば言えなくもない。少なくとも書店の親父が、ブックオフ安く本を買ってきて、それを定価で返品する方が悪質である。(一時そういうことが行われている可能性があると言われていたが、今でもあるのだろうか?)

 最後にマーケットプレイスの問題である。アマゾンは新刊を掲載している横で中古品として出品者から売りに出している同じ本を掲載している。これがマーケットプレイスである。これは簡単に出品できるらしい。自分のアカウントでサインインして、「マーケットプレイスに出品する」をクリックして、本のコンディションを選び、値段をつけるだけで、すぐネット古書店を開業出来るらしい。後は注文があれば、アマゾンからメールがあり、それを受けて本を出荷すればいいだけである。送料は出品者持ちである。問題はアマゾンへの手数料である。その構造は以下の通り。

1.売値の15%の手数料

2.古本を1冊売るごとに<カテゴリー成約料>80円

3.さらに1冊ごとに<基本成約料>100円

 つまり出品者は、古本の売値と購入者が払う送料340円の内、実際にかかった送料の差額がまるまる手に入る訳ではない。まず本の売値の15%がアマゾンに持って行かれる。その上無条件で180円がアマゾンから徴収されるのである。
 マーケットプレイスの売値を見ていると、売値1円というのが結構ある。これだとどうなるかと言えば、購入者が支払う金額は送料込めて341円となり、そのうちアマゾンの取り分が180円となり、出品者は残りの161円を受けとる。けれどここから本の送料を捻出しなければならない。ヤマト運輸のメール便で発送できれば80円か160円で発送できる。もし160円かかったとしても、とんとんとなるが、メール便には「厚さ2センチ」という制約があるらしい。となると本の梱包材を含めてしまうとこれに引っかかり、メール便が使えず、郵便で送ることになり、手元に残る160円以上かかり、持ち出しとなる。要するにネット古書店なんていってアマゾンで出品しても、利益など出ない仕組みなのである。
 じゃあ、古本の売値から利益を出そうとしても、マーケットプレイスを見ればわかる通り、これも値下げの競争である。絶えず出品があり、売値をどんどん下げていく。出品者はいつもその売値の動向見ていなければならない。それが面倒なものだから、それを自動的に更新してくれるソフトもあるらしく、そのソフトのサービスを提供している会社もあるというから驚きである。
 月に100万円を売り上げている強者もいるらしいが、これだって古本の仕入にあっちこっちにあるブックオフに車で回るガソリン代、本の送料や梱包材、それに伴う手間を考えれば、副業としてやっていけるものじゃないようだ。
 それに反してアマゾンは自分ところで新刊を売るより、マーケットプレイスで売れた手数料の方が計算すると儲かることがわかってくる。何より自分の所で在庫を持たなくていいし、倉庫からピッキングするための人件費もかからないし、送料もかからない。まるまる純利益といっていい。下手をすれば、新刊を売るより倍儲かる可能性があるのである。
 今はマーケットプレイスから本を買う場合送料が340円から250円に下がったので、アマゾンはカテゴリー成約料を80円から60円に下げた。(売値の15%の手数料と基本成約料100円はそのまま)こうなるとますます出品者の手取りが少なくなる。たとえば売値1円の本では、購入者送料のときは161円手元に残った。けれど送料250円だと、アマゾンの取り分が160円となっても、残るのは90円だけである。ここから本を購入者から捻出することは絶対に無理で、さらに出品者に負担をかけることなる。古本でもうけを出す場合は、その本の仕入値にすべて関わってくるが、1円じゃあどうしようもない。何にしてもアマゾンが儲かる仕組みは変わらないのである。


評価
★★★


書誌
書名:潜入ルポ アマゾン・ドット・コム
著者:
ISBN:9784022616845
出版社:朝日新聞出版 (2010/12/30 出版)朝日文庫
版型:437p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2011年02月18日

高橋秀実著『からくり民主主義』

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 この本は先に読んだ村上さん本で知った。村上さんがこの本の解説を書かれていて、それが先の本に収録されていた。それを読んでなんか面白そうと思い、手に取った。

 確かに面白かった。

 「結局本当のところはどうなのよ」というところ追求したかったのだろうが、この本は取材すればするほど、わからなくなっていく。そしてもしかしたら様々な反対運動は、結局自分たちの現在の生活、あるいはこれから先を保証させる担保じゃないかと疑いたくなっていく。こうなると本当にみんなが平和や安全や自然環境保護など望んでいるんだろうと思ってしまう。それを壊す人間たちに、心から反対しているのだろうか、と思いたくなる事例がいくつも紹介されている。
 あるいは市民運動が本当に世を憂いて行われていたとしても、いつの間にか本来の意味を失ってしまっている現実を知らされると、ますます迷走していく感じだ。

 たとえば諫早湾干拓問題については最近民主党のバカ政権は諫早湾の堤防を開けると決めたみたいだが、ここでは有明湾の漁民と長崎の農民との対立が問題となっている。ニュースにもなっている。けれどニュースになればマスコミの取材で宿泊客が増え、旅館は商売繁盛なのである。
 特に漁民の「宝の海を返せ!」という主張が干拓事業が環境破壊に写って、大きく取り上げられている。中でも有明海の海苔の不作が問題となっているらしいが、著者が調べてみると佐賀県、福岡県、熊本県の漁協によってはばらつきがあり、中には堤防締め切り後、以前より海苔の出来がいいところもある。干拓事業と海苔の不作の因果関係は説明できないらしく。海苔の出来不出来は徹底した管理と腕で、粘りと頑張りであると言い切る一部の漁民もいる。しかしそれはタブーである。それを言うと他は腕がなかったせいだと言われるので、それ以上のことは言ってはいけないらしい。しかも海苔の養殖には不作はつきものらしく、今回はその被害が大きかったのでその原因を干拓事業に持って行っただけのことらしい。
 通常天災による被害の場合、融資の適用を受けるのだが、今回はこのようにばらつきがあるため融資が適用されなかった。そこへ持ってきて海苔漁民は莫大な設備投資を堤防着工前後にしていた。設備投資の主な理由はコンビニのおにぎりである。その需要が増して、単価の安い海苔を求められ、漁民は大量養殖を余儀なくされた。狭い場所に海苔網を張れば、病気にもなる。しかもコンビニ業者は品質管理が厳しいので、異物の混入は許されないから異物除去の機械も購入しなければならない。もちろん返品も多くなっていた。大量養殖は場所の確保も必要になり、その前払い賃料も馬鹿にならないらしい。
 こういう状況下で、海苔が不作になれば、その怒りを干拓事業に持って行くしかなくなっているのらしい。長崎側の農民にすれば「有明海の潮の流れは反時計回りです。つまり熊本、福岡、佐賀の海に捨てられた汚染物質が、潮の流れに乗って諫早湾に辿り着いていたんです。ノリ養殖の酸処理剤、工場排水、PCB・・・・すべてわれわれの所にずっと流れ込んで、奇形魚まで見つかっていたくらいですよ。潮受け堤防ができる前に、すでに干潟は死んでいたんです」となるらしい。

 あるいは今国会でもめている沖縄米軍基地問題の取材だと、本音はどうなんだろう、と思えてくる。この本を読んでいくと、沖縄の基地問題はけしからんと怒っているわけにはいかなくなっていく。
 たとえば今問題となっている普天間基地。この基地は世界で一番危険基地と言われている。基地が市街地にあるからだ。けれどこの本によると、市街地が出来たのは基地が建設された後であるらしく、要するに基地の「地の利」を生かし、「計画的に」次々と建物が建ち、多くの人が移り住んできたから、こういう状況になったという。
 こんなことはまったく知らなかったし、報道もされていないと思う。だから私はまったく逆にもともとあった市街地に隣接して後で作られたものだと思っていた。
 さらに普天間基地には2000人の軍用地主がおり、年間47億円借地料を受けとっている。返還はかなりショックだったらしく、地主のアンケートでは70%が「返還を希望しない」と答え、47%「借地料が切れると生活が困窮する」とも答えている。地主の6割が60歳以上であり、返還され厄介事を抱え込むより、借地料暮らしが楽と考えているわけだ。著者は「土地を奪われたという『犠牲』は、今はすっかり特権なのだった」と書いている。

 「反対する人を非難してはいかん。反対は政府を刺激するから、いい方向へ物事がいく。言ってみれば、ソバと七味唐辛子の関係なんだな。ソバに七味唐辛子を入れると、おいしくソバが食べられる。反対分子が頑張れば、それだけ得るものは大きいんだ。でも、七味唐辛子の中にソバを入れて食べる人はいないでしょ。食えたもんじゃない。本当は誰もそんなことは望んでいない」

 地主の代表は毎年予算内示期間に防衛省施設局を訪れ、借地料の陳情を続ける。“反対”のおかげで要求額は満額通り。年間821億円(2000年沖縄県借地料総額)、年約4%の上昇を維持している。もちろんこれは税金である。だから沖縄県知事が日本中に基地被害や事故を訴えれば訴えるほど、いい宣伝となり、彼らにとっていい功績となっていくのだ。
 また基地がある土地を返還されても実際問題困るらしい。実は沖縄の土地所有の公図は沖縄戦ですべて焼失している。その上フェンスで囲まれてしまったので、どこの誰の土地であるかはっきりしないそうだ。戦後自己申告によって面積を加算していくとフェンスを越えて海まではみ出してしまったらしい。いない人間が土地を持っていたと主張したためである。
 もしこれが返還されると、“わからない”現実が出てくる。電気や水道などのインフラをどう通すのか?境界線がはっきりしないため、間違いなく所有権で問題が生じるらしい。さらにアメリカ軍が実弾演習でミサイルや銃弾がバンバン打ち込まれていて、中にはかなりの不発弾が残っている。それを返されたって、今更どうしようもない。
 普天間の移設先が辺野古は自然の海といわれ、ジュゴンが生息する海と報道されているいるが、地元ではジュゴンを見た人はいないらしく、ただしらけるだけだそうだ。辺野古の海を地元の人は次のように言う。

 「汚い海ですよ。ここは採石場から流れる赤土や生活排水が垂れ流しですからね。いまさら、突然、“海は宝”と騒がれてもねえ・・・」

 同じことが若狭湾の原発銀座のもある。若狭湾にはわずか直線50キロメートルの海岸沿いに15基の原子炉が並んでいる。ここまで原発が増えてしまうと、今更「危険だ」と言われても今ひとつピンとこなくなる。辺鄙な町に道路や橋が欲しければ、原発を作れば早いと大手ゼネコンの熊谷組に持ちかけられ、それを受けいていく。もうこのときにはすでに原発があったから、ある以上これを誘致しても同じだ、という論理である。もちろん反対運動もある。そのために工事が中断することもある。けれど工事が中断すれば、換算電力から支払われる漁協への補償費は2億8000万から4億3000万と跳ね上がっている。こうなれば当然それにあやかろうとして慌てて漁業権を主張する輩も出てくる。反対派は住民に次にように言われる。

 「反対運動があれば関電はようけ出しますから、みんなあんたのおけげだ」と。

 「反対運動は大切ですわ」

 「原発誘致は全員賛成ではあかんのですわ。大体、賛成55、反対45くらいがちょうどええんですわ」

 「全部賛成は困ります。原発ベッタリになってはいけませんわ。これくらいのバランスだと、安全管理もしっかりやってもらえるから、ちょうどいいんですわ。運動が盛り上がって反対が50を超えたときは、しばらく冷却期間をおくんです。そうするとやっぱり原発に頼らざるをえないという気になる。そして反対熱が冷めたあたりにすっと始める。それが理想です」

 「若狭は20年以上、どこかしらで原発を建設していました。ずーっとバブルだったんです。それが二年前、もんじゅの建設が終わって、何もなくなり、さあ、ポスト原発は何を、と考えたところ、やっぱり原発しかないんですね。もうそういう体質になってしまっている。あれ(原発)がくればまた夢が、と地元では思ってしまうんです。確かにこんな金をもってきてくれる企業は他にはありませんから」

 原発が出来ると、町には巨額な交付金が入る。過疎地域の指定を受けていた町の財政は、原発によって一気にふくれあがるのである。沖縄の時もそうであったが、ここでも「反対の賛成」なのである。
 以上が反対の裏側の一面である。これをどうこう言うことは私には出来ないけれど、ただテレビニュースに流される反対運動にはいかにも住民が困っているという側面だけを放映していくが、こういう側面もあって不思議じゃない。いやあるんじゃないかと思っていても、一切そんな報道はない。弱者が困っているというのが視聴率がとれる。個人のそうした感情を正義に転換する際、『世間』なるものが現れてきて、それが世論となるのだから面白いものだ。今民主党に再度抱きつかれている社民党は普天間基地の移転を強く主張していて、沖縄の味方を演じているけれど、もしそうなったらその後をどう考えているのか、聞きたくなってくる。特にこんな話を読んでしまうと余計にそう思う。

 最後の笑ってしまったことを二つ書く。一つは「小さな親切」運動である。これは小さな親切が荒廃した日本の社会を救うというものである。この運動を推進している本部があるらしく、何をやっているかというと、世間で親切行為を見かけた人が、この本部に推薦して、表彰するのである。バッジをくれるらしい。あるいはそうした美談を公開する。要はあのときの親切をありがとう、と言うのである。あるいは他人が施した親切を見て、我がふりを直し、反省するのである。
 群馬県にある明和高校は生徒全員がこの「小さな親切」運動の会員で、全校をあげて電車やバスの席ゆずりに励んでいるという。この高校では成績で競い合うのではなく、卒業まで何回席をゆずれたかを競い合っているらしい。笑っちゃうのは、数多く席をゆずるこつは、「まず自分が座ること」だそうだ。確かにゆずる側が座っていなければゆずりようがない。こういう人はまず自分が電車やバスに乗ったら、目を皿のようにして空席を探すんだろうな。そして少しでも隙間があれば飛ぶようにそこへ行くんだろう。
 この運動を批判する気持ちはない。けれどそれを競い合うようなると、どこかがおかしくなっていく。親切をすることが目的となってしまうと、席をゆずる前にまず座ることことがコツだと平気で口に出せるようになってしまう。
 あるいは善行を感動の美談にまで持ちあげるためには、「親切しそうにない人」(たとえばやくざ風おっさん、ダンプの運転手、茶髪の若者)が善行をして自分はしなかったと反省することである。それは明らかに偏見であるけれど、その方が深く心にしみるわけである。
 もう一つが岐阜県の白川郷ある。ここは世界遺産となっている。今や「日本を代表する農村文化遺産」なのだ。そしてそれを求めて観光客が押し寄せる。

 「うわっ、田舎のにおい」

 「昔に戻ったみたい」

 「日本だね」

 そういう郷愁が観光客を集める。しかし実際ここで暮らしている人々にとって迷惑きわまりないものでもある。地元の人が忙しく仕事をしているのに、バカな観光客はいちいち話しかけてくる。むやみに歓声をあげる。町内には「話しかけないで下さい」という貼り紙まであるそうだ。観光シーズンになると道は渋滞し、そのため町民は外出を控えるし、急病人が出ても救急車も呼べない状況に陥る。
 町人は「本音を言えば、今でも合掌をおろしたいんです(壊すの意)」と言う。なぜなら、「こんな不衛生な建物はありませんよ。風が吹けば天井から茅のカスやゴミが降ってくるし、雪下ろしだって大変。この家の形も蚕を育てるためのもんで、今となっては必要ないし、二階も使えないんです。子供部屋もつくれない。誰だって住みたいなんて思わないですよ」と。保存のための規制も厳しい。金もかかる。簡単に修復さえできない。何しろ世界遺産である。家の周りはみんなのものなのだ。
 では何で保存するのだろう、と著者は疑問を呈する。

 「不公平があってはいけないので、一律が原則。おれが我慢しているのだから、おまえも我慢しろということなんです」

 という答えが返ってくる。勝手にやると村八分になる。町を規制しているのは実は町民自身なのである。

 結局そうなってしまった以上、反対は今の生活の保全の役目をしていることがあるんだということと、それを取り払ってしまうと生活が成り立たない現実もあることを知りべきなのだろう。すべてが「国民感情」とか「国民の声」ということで済まされないのだ。


評価
★★★★


書誌
書名:からくり民主主義
著者:高橋 秀実
ISBN:9784101335544
出版社:新潮社 (2009/12/01 出版)新潮文庫
版型:354p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2011年02月14日

村上春樹著『村上春樹 雑文集』

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 この本は村上さんの前書きによると、編集者との打ち合わせの時に「雑文集」と呼んでいたものを、そのまま名付けたという。内容が村上さんが作家としてデビューして30年余りあちこちに書いた、エッセイ、本の序文・解説、質問、挨拶、短いフィクションが掲載されているので、まさに雑文集なのだから、そのままでいいということになったという。
 確かにいろいろな文章がある。その中で私が一番興味を引いたのがオウム真理教についての村上さんの意見である。今更オウム真理教を取り上げるのも、どうなのかな、と思わないわけではないが、考え方が面白かったのでそれを書いてみる。
 村上さんには地下鉄サリン事件の被害にあった人々を取材したノンフィクションがある。そしてその後村上さんの作品には、オウム真理教だけでなく、新興宗教が形を変えて登場するくらい、オウム真理教は様々な影響を与えたに違いない形跡が見られる。それをどうしてなのかをここで問う訳じゃないが、オウム真理教信者の特徴を通して、人間の“危うさ”をうまくついているように思えたのである。

 彼らの多くは、「本当の自分とは何か」という出口の見えない思考トラックに深くはまりこむことによって、現実世界とのフィジカルな接触を少しずつ失っていったのではないか、と村上さんは仮定する。
 確かに今我々がいる世界には様々な情報があり、多様な選択肢に満ちている。そのため逆に何を選んでいいかわからなくなり、あれこれ取り込んでいるうちに自家中毒を起こしている。しかも現実を動かしているスピードが余りにも早く、先行する世代の積み上げられた経験がサンプルとして役立たなくなってしまっている場合が多い。
 そこにいくつかのわかりやすいセットメニューを用意してくれる強力な外部者が現れる。わかりやすいということは、選択肢を限ってしまうことであり、あれこれ悩ませないことである。それを提供したのが麻原彰晃である。そして相対性は避けられ、絶対性がそれにとって変わるのである。
 一端“迷える羊”を取り込んでしまえば、後は彼らを外部から遮断すればそれでいい。元々フィクションとノンフィクションの区別をうまくできない彼らである。ことは簡単に行われた。村上さんオウム真理教の信者にインタビューしたとき、彼らに共通の質問をしたという。

 「あなたは思春期に小説を読みましたか?」

 答えはほとんどノーであったという。そこから村上さんは次のように言う。長くなるが引用する。

 彼らはほとんど小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった。人によっては哲学や宗教に深い興味を持っており、そのような種類の本を熱心に読んでいた。アニメーションにのめり込んでいるのも多かった。言い換えれば、彼らの心には主に形而上的思考と視覚的虚構とのあいだを行ったり来たりしていたということになるかもしれない。(形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆)
 彼らは物語というものの成り立ち方を十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語」と判断できる。しかしオウム真理教に惹かれた人々はには、その大事な一線をうまく炙り出すことができなかったようだ。つまりフィクションが本来的に発揮する作用に対する免疫性を身につけていなかったと言っていいかもしれない。

 だからこそ麻原彰晃のフィクションが致命的なバグーそれはおそらく彼の魂に潜在的に含まれていたものじゃないかと想像するのだがーに汚染されたとき、彼らもまたそのバグに汚染されてしまうことになった。一人の人間の悪夢と妄想が多くの人々を同時的に同質的に包含してしまったのだ。そして彼らは麻原の妄想、あるいはその物語が発揮するブラック・マジックの命じるままに(あるいは示唆するままに)、サリンの袋を抱えて「エスタブリッシュメント」に対する虚しく見当違いな攻撃を敢行した。ひとつの大きなシステムからドロップアウトした彼らを受けとめてくれたはずの柔らかなネットは、実は危険きわまりない蜘蛛の巣だったのだ。

 しかしよく考えてみると元々「宗教」と名の付くものはオウム真理教と同じ道程を取ったと言ってもいいかもしれないのではないかと思うこともある。少なくと一つの宗教に帰依するきっかけになるのは、人々の不安や心配、絶望などのベイシックなものがまずあり、そこに宗教という名の、あるいは救いという名のフィクションが現れたときであろうと推察する。村上さんも「誤解を恐れずにいえば、あらゆる宗教は基本的成り立ちにおいて物語であり、フィクションである」と言っている。
 問題はそのフィクションにバグがないことであろう。たとえあっても、そのバグを修正できるシステムなり、個人的浄化作用を持っている限り、それは宗教として普遍性を持ち得てくるということなのだろう。普遍性を持てば「文化」も生まれてくることは歴史が教えてくれている。オウム真理教には麻原彰晃にも信者にもバグ修正機能、浄化作用を持ち得なかった。

 村上さんは地下鉄サリン事件を通して、被害者と加害者の取材をしているが、「しかし両者のどちらのヒストリーが僕の心にしみたかというと、圧倒的に『普通の人々』によって語られたものの方だった。なぜならそのような人々が語るヒストリーには、現実にしっかり根ざしたものではなくては獲得し得ない深みがあったし、奥行きがあったし、それは小説家としての僕の意識に確実にコミットしてくる種類のものであったからだ」と書いている。これを読んで妙に安心してしまった。そしてこの延長上にエルサレム賞の受賞時にイスラエルで挨拶した村上さん言葉があるように思えた。

 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

 卵には現実にしっかり根ざしたものではなくては獲得し得ない深みと奥行きがあるからだ。システムという硬い大きな壁がむやみやたらにそれを壊していいというものではない。


評価
★★★


書誌
書名:村上春樹 雑文集
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534273
出版社:新潮社 (2011/01/30 出版)
版型:435p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2011年02月10日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈6〉

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 ここのところ本が読めない精神状態が続いていて、この本もやっとの思いで読んだ。だらだら読んでいたのでうまく感想が書けるかどうか不安なところがあるが、とりあえず書いてみる。
 気になったところは二カ所あった。一つは司馬さんが太平洋戦争時に戦車部隊に配属され、当時乗っていた戦車から太平洋戦争を考えたことである。もう一つはゴッホについての文章である。まずは戦車のことから書いてみる。
 司馬さんは兵隊に取られて満州にあった陸軍戦車学校へ送られた。この時乗っていた戦車は、「もし戦争に参加しないとすれば、皮肉ではなく同時代の世界で最優秀の機械」であったが、最大の欠陥は「戦争ができないことであった」。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もない代物であった。どういうことかと言えば、戦車のボディである鋼板薄すぎ、敵の砲弾はほとんど貫いてくる。しかも積んでいる大砲は砲身が短く敵に対する貫徹力がまったくなかったのである。要するにおもちゃの戦車であった。
 この戦車満州事変では活躍したが、当時はそれで何とかなったが、ノモンハンで大恥をかいた。陸軍の技術本部ももっと長大な砲を積み、もっと強い防御力を持たなければ戦車に値しないと参謀本部に持って行ったのだが、参謀本部は「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。砲の力がよわいというが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか」と馬鹿げたことを言うのであった。

 「ところが陸軍は戦車というものを所有した当初からこの論理的兵器に対して論理的戦術をもたず、論理的思考方法ももたなかった。信じられないようなことだが、陸軍にあっては『戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力もおなじである』とされ、このふしぎな仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問をいだかなかった。現場の部隊でも同様であり、この子供でもわかる単純なことに疑問をいだくことは、暗黙の禁忌であった。戦車技術の教本も実際の運用も、そうしたフィクションの上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかしな国家であった」

 これは歩兵においても同じ論理を展開する。「師団と名をつけた以上どの国の師団もみな同じである。なぜならそれは師団であるからである」と。司馬さんはこうしたフィクションのもとで戦争が遂行されたという。彼らが守るべき国家よりこのフィクションを命がけで守った。そのためにその本体の曖昧さを覆い隠すために、誇大な漢語フレーズ、たとえば無敵皇軍とか、神州不滅とか言い続け、自らも自己暗示にかけてしまう。そのフィクションを守るために我々は何百万という生霊を犠牲にすることなったのである。
 どうしてだろうか?司馬さんは日露戦争ころまでは、そういうフィクションはなかったという。問題は日露戦以後からである。

 「日本は維新後、西洋が四百年かかった経験をわずか半世紀で濃縮してやってしまった。日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的いえば日露戦争の勘定書というべきものがやってきた」

 つまり日本人が世界史上もっとも滑稽な夜郎自大の民族になるのはこの日露戦争の勝利によるものだと言うのである。日露戦争でかろうじて勝ったことを認識せず、冷静さを失い、勝利に酔い、自らの国力を過大評価する馬鹿馬鹿しい自国観を築き上げてしまった。その後日本をのぞく世界の軍事力は飛躍的に進歩する。日本は日露戦争の勝利の美酒に酔いことで、世界の状況を見ず、以後軍事力はそのままの状態であった。軍部は日本の精神論で太平洋戦争をおこない、そのつけを払ったのである。司馬さんは「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である面が多い」というのはこのことなのである。

 「日露戦争の勝利はある意味日本人を子供にもどした。その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい」

 こうした“失敗の本質”は、日本が太平洋戦争の敗北から嫌が上でも自らの歴史を検証せざるを得なくなって、初めて知ることとなったから言えるわけで、それ以前では政治家、軍部、そして国民もそうした熟成度に達していなかったのだから、どうしようもない。ただ脆弱な戦車に乗っていた司馬さんは身をもって、これはおかしい、と感じられたということなのだ。


 ゴッホの司馬さん文章のことを書く。この文章の初出はゴッホ画集によるものらしい。昔何かのCMで、ゴッホは1890年7月27日、37歳でピストル自殺をした。かれが画家になるべく決意したのが27歳であったから、画家としての活動期間はわずか10年にすぎなかった。写楽は僅か10ヶ月の間に150枚の作品を残して忽然と姿を消した。西鶴は一昼夜に2万3500句を詠んだ。いずれも短期間で狂おしいほど作品を発表していることを驚きとしてあげていた。
 そのゴッホは昔から興味がある。そしてこのゴッホの人物像を司馬さんが紹介している文章は興味深かった。司馬さんは「美術史の中の多くの天才たちのなかには生まれついて絵筆を持っていたという内外の条件にめぐまれたひともいたが、なかには「これ以外に自分のやることがない。仕方なく絵のなかにいるのだ」というぎりぎりの放下のなかで画家である自分を見出したひともいる。ゴッホはその中でももっとも痛烈な存在である」と書いている。ゴッホは自分が「絵を描いて生きてゆくしか仕方がない」と思った人であり、そこには人間の社会に入れてもらうことにことごとく失敗し、生皮を剥がされてゆくような痛みと絶望の思いがあった。やることなすことうまくいかない。ゴッホとしては父がプロテスタントの牧師であったため、牧師になるべきだったかもしれないし、そうした奉仕の仕事を求めた。しかしそれが具体的に何であるのかゴッホにもよくわからなかった。ゴッホ自身も社会に疎外されている存在として、いたたまれないほど生きものとしてさびしかったから、下層民の中に入って彼らのことを聞いたりした。
 ゴッホの初期の絵に「ジャガイモを食べる人々」という暗い絵がある。


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 アルルの時代のゴッホしか知らなければ、これがゴッホの絵かと思えるほど、その絵に漂う雰囲気は暗く寂しい。そんな中にゴッホはいたときもある。が、そこでも彼の存在は否定された。今流に言えば彼の言動は“重かった”のである。
 ゴッホの場合は外側から与えられつづけた否定であったために奈落へ落ちた。落ちる寸前にかれは奈落の暗さのなかで自分の絵の才能にしがみついた。それが彼の絵の基本といっていいかもしれない。逆に言えば自らの人生を反映するかのような暗さ故、色彩への欲求が弾け出るような表現場所を求めた。それが南仏のアルルに移ったとき開花した。司馬さんはここで次のように言う。
 
 「この場合、南仏の光線はかれの中にうずいていた創造衝動のために触媒になったのではなく、逆であったかもしれない。かれの天才のほうが触媒になり、アルルの光線のなかであたかも自然現象のようにアルル時代の絵が生まれたといっていい」

 私はゴッホ絵を見るたびに、どんなに色彩鮮やかに描かれた絵であろうと、そこに暗さをいつも感じていたので、司馬さんのこの文章を読んだとき、それがこれだったんだな、と思ったのである。そういう意味で、司馬さんのゴッホに関するこの文章は“目から鱗が落ちる”感じであった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈6〉エッセイ1972.4~1973.2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467066
出版社:新潮社 (2002/03/15 出版)
版型:378p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年01月20日

森まゆみ著『読書休日』

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 また森さんの古い書評を読む。
 しかし世の中にはホンと知らない本がたくさんあるんだな、と思う。小さな志のある出版社で、いい本、面白そうな本がたくさん出ているのだ。でも私たちが手にする本はそのほとんどが大手出版社の出版物なのだ。何故そうなるかと言えば、それら出版社は資本力にものを言わせて広告を出し、書店の棚の一等地に自分のところ出した本を置かせるからだ。書店にしても、売れるものを主流に店頭に並べるから、そこからもれた本は読者の目にはふれないことなる。結局読者が本を選ぶ前に、店頭に並ぶ出版物はセレクトされちゃっているのだ。
 考えてみるとこれだけたくさんの情報が手に入りやすくなって時代に、名の知れない本がたくさんあって、それがどういう本なのかわからないのだから、不思議な世界だ。

 こういう時、例えば新聞の書評など力を発揮してくれ、埋もれている新刊を掘り出してくれるならありがたいのだが、どうも最近の新聞書評はちっとも面白くない。そもそもそこに紹介されている本を読みたいという気持ちにちっともならないのだ。このことはこの本でも森さんは書かれている。
 実は森さん毎日新聞の書評欄で、コラムを5年、書評委員を2年半、常連執筆者1年、計9年やっておられたという。ここの掲載されている文章の初出はその書評だったのかもしれない。とにかくその関係で“書評”について書かれている文章が興味深かった。
 まずここで「昔は『朝日』の書評に出ると千部は動くといわれたけどね」という話を書いている。これは私も聞いたことがあり、実際本屋で勤めていた頃、よく朝日の書評の切り抜きもって本を探している人を見かけた。日経もいたかな?今はどうなんだろう?書評自体面白くないから、こういう人は少なくなったんじゃないかと思ったりする。とにかく朝日の書評をきちんと読んでおくことは、書店員として必要なことであった。

 「新聞の書評が面白くない、という声をしばしば聞く。つい先頃まで書評を書いていた私自身も、感じないことではなかった。これを読んでみようという気になる本が一冊もないことすらある。なぜなんだろう」

 と書いて、まずは自らの経験から書く側から書評が面白くない点を考える。
 一つには文章量が少なすぎるということをあげる。要するに紙面の問題だ。紙面に制限がある以上一冊の本の書評を書く場合だいたいが、その概要で終わってしまうらしい。
 二つ目に日本の新聞の書評には批判がない、いいことばかり書いているという点を上げる。ただこれにはやむを得ないところがあるという。森さんは新聞で批判をばっさりやってしまうと、「切り捨て御免になってしまう」、と書く。要するにこれだけ巨大なメディアで批判された本の著者には反論の方法がないから、それを考えるとそう簡単に本の批判ができない、というのである。しかしよく考えてみれば、批判というか問題のある著作は最初から書評のリストにあがってこないのだろう。
 三つ目に書評委員は大学教授に多く任されてきたことをあげる。結局書評が「権威あるもの」とするためには、大学教授、著名人を採用するに限るということなのだろう。でもこれもよく考えてみると、どうして書評が「権威あるもの」でなければならないのか、よくわからない。要はその本が面白いかどうかであって、面白いならどこが面白いか、それを読者に感じさせられるかどうかだけではないかと思うのだ。読者は面白い本を読みたいのである。
 内容の知的裏付けとして大学教授、著名人の意見を求めるのは必要だろうけど、それをここでやることで、書評を「権威あるもの」とするのはどうなんだろう?知りたいのは「その本面白いの?面白くないの?」だ。決して権威じゃない。大学教授、著名人で連なる書評委員が持っている専門知識、専門用語を求めている訳じゃない。むしろそうしたものを噛み砕いて書ける人、教えられる人として大学教授、著名人を起用したのだろうと思いたいが、結局出来ずにいて、逆に一種の売名行為に似た、自分の知識をひけらかすことしかできない人選に問題があるのではないか、と思う。そして新聞側もそれが「権威あるもの」として勘違いしているから、書評が面白くなくなっているのだ。

 以上が新聞の書評が面白くない理由を森さんの意見を参考にして考えてみた。私が森さんのエッセイが好きなのは、そこに表れる森さんの意識が「生活を手放さないで生き抜く」がすべての面で感じられるからだ。だからこの本で紹介された本もそうした視点で語られるし、そもそも「谷根千」がそういう発想で創刊された。私が新聞の書評で読みたいという気持ちにさせてくれる本とは、そうした自分の生活に身近にあるものか、あるい自分の好きな分野の本だ。(ただしわかりやすく説明して欲しい)


評価
★★


書誌
書名:読書休日
著者:森 まゆみ
ISBN:9784794961594
出版社:晶文社 (1994/03/05 出版)
版型:281,4p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年01月14日

吉村昭著『白い航跡』〈上〉〈下〉

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 この本は、明治時代海軍内で流行していた脚気の本格的にこの解決に取り組み、東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛という人物の生涯をつづった本である。

 高木兼寛は薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に嘉永2年(1849)9月15日に生まれ、藤四郎と名付けられた。父喜介は大工で、百姓北袈裟一の娘である園を妻にした。腕の良い喜介は、棟梁として豪農の家を建てるなど仕事に追われる身であったので収入には恵まれていた。
 藤四郎は幼い頃より読み書きを覚えたい、とせがむ子で、園は藤四郎が尋常な子供ではないと考え、喜介に相談する。喜介は園の言葉を受け入れ、穆佐にある中村敬助の塾に通わせる。
 そのうち藤四郎は医者になりたいと師の中村敬助に自分の気持ちを伝える。それを聞いた中村はどうせ医者になるならこれからは漢方医より蘭方医なるべきだと考え、藤四郎を薩摩藩蘭方医の石神良策に師事させる。
 その後医者となった藤四郎は慶応3年(1867)の年末に突然藩から医者として従軍することを命ぜられ、あわただしく鹿児島を出立した。そのおり藤四郎を兼寛と名を改め、先祖の姓と伝えられる高木を名乗り、鳥羽・伏見の戦いに参加した。
 ただ戊辰戦争に従軍して、医者として自分の能力の限界を悟らされる。医者でありながら戦傷者の手当もまったく出来ないのだ。それは医者ではないと思うのであった。
 ところがこうした中でも傷ついた兵に適切な治療をし、時には手術も施す人物がいた。関寛斎と佐藤進である。関と佐藤は佐倉順天堂の双璧と謳われた人物であった。兼寛は関や佐藤の治療を見て、自分はまだまだと思うのであった。
 さらに英人ウィリアム・ウィリスという医師の存在も知る。ウィリスは1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年、箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、公使パークス下で医官として働いた。横浜で彰義隊討伐作戦や会津討伐作戦での負傷兵などを治療していた。
 兼寛は重傷の負傷者らを横浜の病院に送っていた経緯もあって、東京に戻ったおり、横浜の病院を訪ねる。病院の頭取はあの石神であった。兼寛は石神がここで手術をしているのか、と尋ねると、石神はここで手術をしているのはイギリス人のウィリアム・ウィリスという医師でその医療技術の高さに驚いていると兼寛に言う。
 鹿児島に帰ってからも、兼寛は関のような負傷者から弾丸を除去し、手足を的確に切断手術して命を救う医者になりたいと思うようになる。師の中村敬助に新しい西洋医術を学びたいことを相談する。中村はそれなら鹿児島に出て開成所入学を進める。
 開成所とは薩摩藩が洋式軍制拡充のために、海・陸諸学科と英・蘭学の教授機関として創立された機関であった。開成所での授業は最初はオランダ語であったが、次第に英語が重視されるようになった。これは時の流れからいって当然の流れであった。ペリーの来航によって日本は開国し、アメリカ、イギリス公使が駐在し、さらに薩英戦争後、薩摩とイギリスとの関係が友好が進みとなおさらであった。
 兼寛はオランダ語の時代は去り、西欧の学術を吸収するためには、これからは英語を身につけないとならぬことを身をもって知るようになる。その上開国によって、オランダ一国のみから導入されていた医学知識は、欧米各国からふんだんに入ってくる知識の前にはたちまち色あせたものとなっていた。オランダ医学は過去のものとなっていることを感じた。そのことを敏感に察した順天堂創設者佐藤泰然は、積極的に西欧の医学知識の吸収につとめ、その門から関寛斎、佐藤進らが輩出していた。
 兼寛は、奥羽戦争に従軍したことを幸せに思うようになった。平潟で関寛斎の治療ぶりを眼にし、ウィリスの医術を感嘆する師の石神の言葉を耳にしたことによって、新しい医学の時代が到来しているのを知ったのだ。
 この時期政府は、やがて総合医科大学を創設し、それに病院を附属させる構想をいだいていたが、その長にウィリスを任命しようと考えていた。ウィリスは高潔な人格者で、新政府要人たちの中には彼の治療を受けた者も多く、戊辰戦争で献身的な治療につとめて多くの負傷者の生命を救った功績は偉大で、それぬ報いるために彼を最高の地位につかせるのが当然だ、という意見が大勢を占めていた。
 新政府内では最も強い発言力を持っていたのは旧薩摩藩出身者であり、彼らによってすべてが動かされていた。しかもイギリスと薩摩藩は親密な関係にあり、今後の日本の医学の主流をイギリス医学にする意向は彼らの意向を反映したものであった。
 このような中、新政府の医学取調御用掛の旧佐賀藩医師相良知安は激しい反対をした。相良は今まで日本では西洋医学といえばオランダ医学であったが、そのオランダ医学はドイツ医学の系統をふんだものであり、さらに日本が今求めているのは基礎医学であり、その分野でドイツ医学は世界最高峰に位置しているので、ドイツ医学を取り入れるべきだと主張するのである。ウィリスを長にしてイギリス医学を日本医学に取り入れる手続きに不備があり、そこを相良はついた。結局ドイツ医学採用となる。こうなると今度はウィリスの処遇が問題となってしまう。大久保利通などはウィリスを鹿児島に招くこととした。
 鹿児島で医学院が開設され、ウィリスが講師となるという噂を聞いた兼寛は、ウィリスを案内してきた石神にウィリスに教えを乞えるように頼み込む。それ以後兼寛はウィリスにイギリス医学の教えを聞いた。
 そのうち石神が新政府の要請で東京に行き、次に兼寛も石神の要請で、海軍に入る。兼寛は教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校に留学する。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得した。
 留学中に母の死を知る。父は兼寛が東京にいる時にすでに死亡していて、このときも父を看取れなかった。兼寛が医学の道に進みたいという希望を受け入れてた両親たち。そのため家業を継がず、親を振り切りるように故郷を離れたことを思い出すと、親孝行も出来なかったことに兼寛は涙に暮れるのであった。さらに長女の死亡の知らせも受け取り、義父の死に接していた。
 明治13年(1880年)に兼寛は帰国した。上巻はここで終わる。

 留学を終えて帰国し海軍病院長に就任した兼寛は、病院内に、留学前にもまして脚気の患者が多くなっているのに呆然とする。維新以来、政府は、海軍の近代化を目指しその充実に努めてきた。ところが乗組員に脚気の患者が多くなってくると、戦闘どころの話でなくって来る。政府もこの状況を問題視し、脚気の原因を追求してきたが、その原因がわからずにいた。兼寛は調査を始めると、そこには驚くべき数字が見られた。
 明治11年、海軍の総兵員数は4,528名中、脚気患者は1,485名で、それは総員の32.79%に当たる。死亡者は32名。明治12年、総兵員数5,081名中、脚気患者1,978名。明治13年、総兵員数4,956名中、脚気患者1,725名。明治14年、総兵員数4,641名中、脚気患者1,163名。11年から14年までの4年間で死亡者は146名に達していた。さらに彼はさかのぼって明治10年罹病状態を調査すると愕然とする。海軍の総兵員数1,552名中、年間で脚気におかされた者は延6,344名となり、それは同じ者が1年で4回以上も脚気にかかっていることを示すのであった。
 さらに幕末勝海舟らがアメリカに渡った咸臨丸以来、アメリカ訪問が軍艦「筑波」で行われた。その7ヶ月の航海で乗組員146名中47名が脚気となった。ただこの航海でわかったことがある。「筑波」がサンフランシスコやシドニーに碇泊している時は脚気患者は出なかったのである。そこで兼寛はそれは乗組員が洋食を口にしたからではないか、と考え、脚気と食事の関係を疑い始める。
 海軍病院に脚気で入院しているのは士官ではなく水兵が多いことに注目する。当時海軍では食事代を現金で渡していた。水兵たちは米だけを買い込み、余ったお金で副食でも買えばいいのだが、その分を貯蓄に回している者が多数であった。水兵には貧しい家の出が多かったので、故郷に節約したお金を送金していた者もいた。兼寛は脚気が食事と関係があることを確信する。
 そんな中、日清戦争前に「京城事件」起こる。中国が軍艦を派遣したことで、日本も軍艦を派遣する。そこで怖ろしいことが起こっていた。日本の五隻の軍艦内で多数の脚気患者が発生していたのである。もしこのとき清国と戦闘が起こっていれば、乗組員大半が脚気に罹病していては戦力として力がない。全滅する可能性が大きかったのである。
 兼寛は西欧で脚気はほとんど見られないので、食事を洋食にすべきだ、と軍部に提言する。それは兼寛の実験でも証明されていた。白米ではなくパン食にしろと言うのである。しかし予算の関係でそれは難しい。
 兼寛は海軍幹部だけではなく、政府の要職にある人物たちに自説を述べる。時には天皇にさえ、脚気は洋食で防げることを訴えた。結局パンがダメなら、パンが麦であるので、白米に麦食を混ぜることにする。これによって海軍では脚気患者激減した。そして兼寛は明治18年(1885)に自説を『大日本私立衛生会雑誌』に発表する。
 しかし兼寛の脚気の食物原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。
 ここに森鴎外が登場する。鴎外は兼寛の説に真っ向から反論する。鴎外はドイツ留学中コッホのような偉大な細菌学者に師事したため、脚気は細菌によるものだと主張する。鴎外はドイツ医学の信奉者であっただけに、兼寛の脚気食物原因説は学問的裏付けのない単なる思いつきだと決めつけたのである。鴎外には最新のドイツ医学を身につけてきたという自負がある。そのためイギリス医学を軽視する傾向があった。
 兼寛も自説が学問的な理論に乏しいことは自覚していた。しかし臨床医学を重んじるイギリス医学を身につけた兼寛とって、それはさしたる重要な問題ではなかった。兼寛も様々な統計を取り、あれこれ模索し実験した結果、麦混合の飯を主食とするのが最も好ましいという結論に達したいたからである。
 しかし鴎外の兼寛批判はしつこかった。もうこの時は日本医学界はドイツ医学を取り入れていたので、イギリス医学の兼寛の説は東京大学医学部出身の者から次々に批判され、黙殺された。
 しかし日清戦争では海軍では脚気患者が皆無に近かったのに、陸軍では四千名近い死者を出していたし、日露戦争に至っては、陸軍の傷病者352,700余名の内、脚気患者が実に211,600余名に達していた。そして傷病者の内死亡したのは37,000余名であったが、脚気で死んだ者は27,800余名だった。これは陸軍が兼寛の説を否定して、白米こそ優秀な兵食だと、そのまま白米を主食としていたからであった。さすがの鴎外もこの数字を知ったとき、その顔から血の色がひいた。世論も陸軍の白米至上主義を批判し始めた。
 そして大正14年4月の臨時脚気病調査会は最終報告会を開き、その席で脚気の原因はビタミンB欠乏によるものだと結論を下した。これによって陸軍医総監森林太郎をはじめ主流となったいた細菌原因説は完全に崩れ去ったのである。

 以上が兼寛が軍部に蔓延していた脚気に取り組んだ経緯である。一方兼寛は医学教育、看護教育にも力を注ぐ。兼寛は留学中西欧諸国では貧しい病人に対する無料の医療行為が行われていることに強い感銘を受けていた。また看護婦が病院内できびきび病人の世話をしていることにも感銘を受けていた。しかも看護婦たちは、医学の知識も持っており、彼女たちが医師にとってなくてはならぬ協力者であり、そのため尊重されていることも知った。
 帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵らと共に、臨床第一のイギリス医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。その後成医会講習所は明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。
 さらに明治15年(1882年)には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立する。院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。
 看護婦の養成では、陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立した。
 成医学校、有志共立東京病院(後に東京慈恵医院と改称)、有志共立東京病院看護婦教育所は後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

 私は高木兼寛という人物の存在は、吉村さんの『日本医家伝』で知ったのだが、まず明治の日本軍内にこれほど脚気が蔓延していたのは驚いた。日清・日露戦争で勝利によって新しい軍事力の華々しさばかり教わってきた。このように内部が脚気によってこんな深刻な状態になっているとは、教えてもらっていなかった。日本の軍が脚気によって崩壊しかねない状態だったことは、ホンと驚きであった。
 そして高木兼寛が東京慈恵会医科大学の創立者であっんだと感慨深かった。というのも私が大学時代新橋の本屋でアルバイトしていたとき、東京慈恵会医科大学附属病院の看護婦さんのところへ本を配達したことがあって、今はどうなのか知らないが、当時古めかしく、複雑な病院内を探し回った覚えがあるからだ。だから高木兼寛という人物が身近に感じたのである。
 あともう一つ気にかかることがある。明治天皇の崩御が高木兼寛を悄然させ、廃人みたいなってしまうことである。以前から私は乃木希典の殉死が今ひとつしっくり来ない部分があって、どうして天皇が死んだから、自分たちもその後を追わなければならないのか、正直なところ、感覚としてよくわからずいた。でも高木兼寛が明治天皇の死に接し、廃人みたいになり、その後人が変わったように各地に講演に出かけるのを読むと、天皇の死が支え棒を失ったかのようだったのかもしれない。
 高木兼寛とって、日本医学界で黙殺されても、明治天皇だけは高木兼寛の説に耳を傾けてくれていた。明治天皇だけは純粋に自分の功績を認め医学者として兼寛を高く評価してくれていた、と思っていた。それは学界で黙殺されていたから余計であり、一人の理解者がいた、それも日本の最高権力者が理解してくれていた。それがあったからこそ、反論や侮蔑に耐えられたのであった。その天皇が亡くなったことは、自分がまったく孤独になったと感じるのであろう。そして乃木の自殺を知って、自分以外にも明治天皇の死に大きな衝撃を受けた者がいたことを知った。乃木の気持ちが十分理解出来るのであった。
 明治という国家が明治天皇を中心に、修羅場をくぐり抜け、多くの死者を出し、数々の困難を乗り切ってきた。共に作り上げてきた自負があったからこそ、天皇の死は大きな衝撃であったのだろう。乃木も高木も明治天皇は心の支えだったことをちょっと感じた。


評価
★★★


書誌
書名:白い航跡〈上〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765411
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)


書誌
書名:白い航跡〈下〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765428
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:316p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)

2011年01月10日

東野圭吾著『赤い指』

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 さてこの本で加賀恭一郎シリーズは、最新刊の『新参者』を以前に読んでいるから、これで全部読んだことになる。そしてこの『赤い指』は先日テレビで正月スペシャルとして単独で放映された。「新参者」が人気があったからだろう。。私は俳優の阿部寛さんは加賀恭一郎役にぴったりだと思っている。だからまた放映されたのはちょっと嬉しかった。

 さてテレビで先に見てしまったので、話の内容はもうわかってしまっているので、あとは原作と比べてみることを楽しんだ。読んでみてほぼ原作忠実にドラマ化されていた。ただ黒木メイサ演じる記者、青山亜美も原作にはないキャラクターで、『新参者』では新聞社を辞めてタウン誌の編集者になっていた。別にこの女、原作通りいなくてもいいと思うのだけれど、まぁ華を添える意味でいると思えばいいのかもしれない。ただ前作『新参者』のとき加賀からもらっている安っぽいボールペンがどういうものなのか、話としてちゃんとつながっている。ドラマは「新参者」より2年前に起こった事件として始まっていた。

 で、話はまず加賀恭一郎の父、隆正ががんで入院しているところから始まる。松宮脩平は母と自分を援助してくれた叔父を見舞うところから始まる。隆正はもうガンが進行していて助からない状態であったが、恭一郎は父親がそういう状況なのに一向に見舞いに来ない。この話は松宮脩平と加賀恭一郎の関係と恭一郎の家族関係も明らかにされていく。

 そんな中事件が発生する。
 前原昭夫は家に帰りたくないために、残業をしているとき、妻から急いで帰ってきて欲しい、という電話をもらう。慌てて家に帰ると死んでいる女の子が庭にいることを伝えられる。殺したのは一人息子の直己であった。
 昭夫の家庭はほとんど崩壊寸前であった。妻八重子は直己を溺愛していたが、その直己はいじめから引きこもりとなり、家では暴力的になっていた。また昭夫の母も同居していたが八重子は以前から昭夫の母を疎ましく思っていたので、その母親は認知症になってから、さらにその関係は悪化した。こんな家庭であるから昭夫は家に帰りたくなく、しなくてもいい残業をしていたのであった。
 昭夫は八重子から女の子を殺したのは直己であることを聞いて、最初警察に電話しようとするが、八重子がそれを拒む。昭夫は今まで家庭を顧みないことをなじられ、それを認めざるを得なくなる。八重子に「捨てて来て」と言われ、結局偽装工作をする。
 女の子の死体を庭に置いておくわけにもいかない。どこかに移動する必要性がある。そこで女の子の死体を段ボールに詰め込んで近くの公園のトイレに遺棄する。女の子が公園で変質者に殺されたように見せかける。そして女の子は朝早く発見され、加賀たちの捜査が始まる。
 女の子の死体には芝がついていた。昭夫の庭のものである。昭夫も死体を遺棄する時、その芝に気がつき、出来るだけ取り除いたのだが、気持ちがそこから早く逃げ出したいという状態だったので、完全に取り切れなかったのだ。
 加賀たちは公園の近くにある芝が植えられている家々を当たる。さらに前日雨でトイレの前がぬかるんでおり、そこに足で何かを消した跡が残っていた。加賀はそれが自転車のタイヤ痕であることを見抜く。
 犯人は二人以上だと加賀は考えた。それは女の子履いていた靴のひもの結び方が異なるので、これは違う人間が片足ずつ靴を履かせひもを結んだのではないかと考える。さらに本当はもっと遠くの人影の少ない場所に女の子の死体を遺棄したかったのだが、車でもあればそれも出来ただろうが、それが出来なかったのではないか。つまり車を持っていない家庭の人間が、死体の始末に困って、慌てて自転車に積んでここに遺棄したと考える。前原昭夫は車を持っていない。死体を運ぶのにちょうどいい自転車があった。しかも庭には芝が植えられている。
 ここから加賀は昭夫を揺さぶりかける。もともと昭夫は警察をだましきれるとは思ってもいなかったが、息子の直己を守るためには嘘を通し続けなければならない。しかし何度も加賀の訪問を受け、もうこれ以上今までの嘘はつけないと考え、女の子を殺したのは認知症の自分の母親だと加賀たちに伝える。
 加賀はその嘘も見抜いていた。昭夫に母親が厳しい拘置所に入ること。母親に手錠をかけるなどしようとする。母親を連行するとき杖を持たせたが、その杖には昭夫が子供の頃作った母親のための手彫りのネームプレートを見て、もうこれ以上嘘はつけなくなり、涙ながら告白する。女の子を殺したのは自分の息子直己だと。
 加賀は昭夫が本当のことをまだ知っていないと言う。昭夫の母親の指が妻の口紅でを真っ赤に染まってした。それは女の子が殺される前からそのままの状態であった。もし母親が殺害したなら、女の子首に口紅跡が残っていなければならないが、その跡がない。母親は息子の昭夫夫婦が直己の犯行を偽装することを聞いていた。昭夫も認知症の母親の前で何を言っても理解できないと思っていたのだ。しかし母親は直己が女の子を殺したこと、息子夫婦がそれを偽装したこと、それが理解できた。そう、母親は認知症を装っていたのであった。そして自分は犯人ではないと加賀たちにわからせるために、指に口紅をつけていたのだ。
 ただこれよく考えてみると、いつ指に口紅をつけたかである。もし母親が自分の犯行じゃないと主張するためにそうしたというなら、女の子が殺される前でなければならない。直己が女の子を殺すことがわかっていたのか、という疑問が出てくる。これがどうしても気にかかるが、きっとちゃんと書かれていたのだろう。私が読み込みが足らないのかもしれない。
 犯人が直己であることがわかり、直己を連行しようした時、「なんでだよ。警察には行かなくていいっていったじゃねえか」、「てめいらのせいだろう。てめいらのせいだからな」と喚いている。加賀は直己の襟首つかんで直己を床に振り落とす。「松宮刑事、この馬鹿餓鬼を連行してくれ」と。

 加賀隆正の死が近づいてきた。事件が解決し松宮脩平は慌てて病院に駆けつける。しかし恭一郎は来ない。しかし窓の外を見ると恭一郎が病室を見上げている姿を見つける。脩平は慌てて恭一郎呼びに行こうと思ったが隆正の息はまさに途絶えようとしていた。その後外にいる恭一郎のところへ行く。加賀は「脩平君が病院を出てきたということは・・・・・すべて終わったっていうことかな」言い、脩平が頷くと病室に入った。恭一郎が父親を見舞いに来なかったのは、父親の言いつけを守っていたからであった。隆正の妻は家出をしており、一人淋しく死んだ。妻をそうして死なせてしまった自分もそうでなければならないと恭一郎に言っていたのであった。
 ベッドの上では将棋盤があり、対戦相手は看護士の金森登紀子だと脩平は思っていたが、登紀子は隆正の打った手をメールで恭一郎に知らせ、次の手を登紀子に教え、将棋を打っていたのであった。登紀子は隆正の対戦相手が恭一郎だと知っていたはずだと言った。隆正は桂馬を握っており、恭一郎はそれを将棋盤の上に置き、「見事に詰みだ。親父の勝ちだよ。よかったな」と言って話は終わる。これはテレビでも原作でもかっこいいなぁと感じた。

 これで加賀恭一郎シリーズを全部読み終えたことになるのだが、テレビドラマ終了後、このシリーズの新刊が3月に『麒麟の翼』というのが出るという予告があった。今度はどんな加賀恭一郎を見せてくれるのだろう。
 なお、このシリーズの感想等々では、ほとんど内容を暴露しちゃっている。本当は最初に「ネタバレ注意」とでも書くのが常識なのだろが、面倒になっちゃって一切書かなかった。その点はお詫びしないといけない。でも、話の内容を知っていても、このシリーズは楽しめると思う。


評価
★★★


書誌
書名:赤い指
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062764445
出版社:講談社 (2009/08/12 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2011年01月07日

東野圭吾著『嘘をもうひとつだけ』

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 今回は加賀恭一郎を主人公とする短編集である。「嘘をもうひとつだけ」、「冷たい灼熱」、「第二の希望」、「狂った計算」、「友の助言」の5編である。
 私は東野さんの本を読んでいる方なのか、どうかわからないが、こうしたシリーズもので、同じ主人公とする短編集はガリレオしか読んでいない。だからそれと比べるしかないのだが、少なくともガリレオよりはこちらの短編集の方が面白かったと思う。だいたいガリレオの短編は枚数の制限があるからか、どうもトリックが非現実的で、今ひとつ納得できない部分があった。たぶん以前同じことを書いているはずだ。

 「嘘をもうひとつだけ」は、バレエ団の事務員、早川弘子が自宅のマンションから転落死した事件を加賀恭一郎が、それが事故でなく殺人であることを証明する。犯人は同じマンションに住む元バレリーナの寺西美千代であった。弘子は美千代を脅していた。
 問題は女の非力で弘子を突き落とすことが出来るかどうかである。弘子は独立してバレエ教室を開くため、自らも踊れるようにバルコニーでバレーレッスンをしていた。バルコニーの手すりを利用して練習していたのだ。ただその手すりは普通の稽古場より高めにあった。だから弘子はプランターを伏せてそれを台にしていた。
 練習の最後には片足を手すりに乗せてストレッチをする。つまり弘子は不安定な状態でバルコニーにいたことになり、美千代でも簡単に突き落とすことが出来た。美千代は犯行後そのプランターを元に戻した。当然そこには美千代がしていた手袋の痕跡があっていい。ところが美千代は弘子の引っ越しを手伝った時にそのプランターに触れたと主張する。
 しかし加賀が調べたところそのプランターは弘子の死の直前に買われたものとわかり、引っ越し時にはなかったことが判明する。美千代嘘がばれた。

 「冷たい灼熱」では、田沼洋次家に強盗が入り、妻の美枝子が殺されていた。部屋は荒らされていた。しかも一人息子の裕太がいない。誘拐されたかもしれなかった。
 しかし加賀は部屋の荒らされ方が不自然であること、洋次の言動にも不自然さを感じていた。結局美枝子がたぶんパチンコに通っており、裕太を車に置き去りにしていた。そして裕太は熱中症で車内で死亡した。美枝子その事実の発覚を恐れ、裕太をブレーカーの落ちた部屋で寝かせてしまったことで死亡したと洋次に嘘をついた。洋次は美枝子がパチンコに夢中になっていることを知っていたので、それが嘘であることを知っていた。そして美枝子を殺害した。息子の裕太は洋次が隠したのであった。

 「第二の希望」でも部屋を荒らされていた上に大男がベッドで首を絞められて死んでいた。男はこの部屋の楠木真智子の愛人であった。真智子は離婚しており、娘の理砂と二人で暮らしていた。理砂はオリンピックを目指すほどに器械体操に打ち込んでいた。いや母子でオリンピックを目指していた。
 ここでも加賀は現状に不審を持ち、男を殺したのはこの母子であろうと踏んでいた。結局娘の理砂が部屋にあったひもを使って殺したのであった。

 「狂った計算」は建築士が行方不明になり、建築士と不倫関係にある坂上奈央子に疑惑の目が注がれる。奈央子には横暴な夫がいて、それに耐えきれず、毎月家のメンテナンスにくる建築士の中瀬と関係を持つようになる。そして奈央子の夫を二人して殺そうと計画する。
 奈央子が実家の静岡に帰るとき、まず中瀬が薬で眠り込んだ夫を殺し、その後中瀬が夫に変装して奈央子を駅に送っていく姿を友人に目撃させる。つまり奈央子が駅に着くまでは夫は生きていたと偽装する予定であった。ところが夫は奈央子の不倫に気がついており、中瀬が逆に殺されてしまう。実際に奈央子を駅まで送ったのは実の夫であった。
 そこにトラックが突っ込んできて、夫の遺体は顔の判別が出来ないほどになっていた。そのため加賀はそれが夫ではなく中瀬ではないかと疑うほどであった。この事故はまさしく奈央子にとって“狂った計算”であった。

 「友の助言」は加賀の友人が居眠り運転で事故を起こした。友人は事故の前に加賀に会う予定であった。そしてその友人は決して居眠り運転をする男ではないことを加賀は知っていた。そこで加賀は友人が睡眠薬を飲まされたのではないかと疑い始める。さらに友人が加賀に面会を求めたのも睡眠薬を盛った妻に関する相談だとわかってくる。友人は加賀に助言を求めようと車に乗っていた時事故を起こしたのであった。

 いずれも短編という少ない枚数のため、犯人はすぐわかってしまうのだが、それはそれとして何故犯行が行われたのか、その動機は、その殺害方法は、と追求する加賀の捜査はここでも鋭く描かれる。そのため短編にある消化不良はなかった。


評価
★★★


書誌
書名:嘘をもうひとつだけ
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062736695
出版社:講談社 (2003/02/15 出版)講談社文庫
版型:269p / 15cm / A6判
販売価:519円(税込)

東野圭吾著『私が彼を殺した』

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 殺人事件は次のように起こった。脚本家で作家でもある穂高誠が、詩人の神林美和子との結婚式当日に毒殺された。穂高誠と神林美和子の関係者として、穂高のマネージャー駿河直之、女性編集者の雪笹香織、そして美和子の兄、神林貴弘の3人が登場する。問題はこの3人は穂高にそれぞれ殺意を持っていたことであった。
 マネージャーの駿河は以前勤めていた会社で横領事件を起こし、穂高に穴をあけたお金を出してもらった上で、穂高企画のマネージャーとなった。ところが結局穂高にいいように使われ、いつも穂高の尻ぬぐいさせられていた。さらに穂高は駿河が好意を寄せていた浪岡準子を自分の女にした上で、挙げ句の果てに堕胎させて捨てた。駿河にとってそれは当然許せないことだった。
 雪笹香織は神林美和子を発掘し、美和子の著作にすべて関わっていた。穂高と引き合わせたのは香織であったが、穂高との結婚で美和子との仕事上の関係が失われること恐れた。さらに香織は以前穂高と関係を持っていた上に、結局捨てられたのであった。香織にも穂高を殺す動機があったのだ。
 神林貴弘にも穂高を殺害する動機があった。それは美和子と近親相姦の関係となっており、今度の結婚で美和子を失ってしまう。だから美和子を奪った穂高を許せなかった。

 穂高の結婚式の前に、駿河が好意を寄せていた浪岡準子が、自分を捨てて美和子と結婚する穂高を恨んで服毒自殺を図った。穂高の死因も同じ薬によるものであった。つまり浪岡準子は自らが勤める動物病院から盗んだ毒で自殺を図り、その薬が鼻炎の持病を持つ穂高がいつも飲む薬にすり替えられていたのであった。誰が浪岡準子の毒入りカプセルを盗んだのか。そして誰が穂高の薬とすり替えたが焦点となってくる。
 まずは3人がどうやって毒入りカプセルを入手したかをである。その経路は明らかにされている。まず駿河である。穂高は浪岡準子が穂高の庭で服毒自殺したままにしておくのはまずいと思い、駿河と一緒に死体を彼女のマンションに運び出した。このとき準子の部屋にあったテーブルの上にあった鼻炎の薬の瓶と、毒を仕込むの失敗した思われる分解したカプセルが一錠あった。駿河は準子の部屋を出る時その瓶からカプセルを盗んだ。
 穂高と駿河が浪岡準子の死体を運ぶ光景を目撃している人物がいた。雪笹香織であった。香織もその瓶から1錠カプセルを盗んでいる。
 さて、話が長くなるので単純に薬の行方だけを考えたい。元々この鼻炎の薬の瓶は12錠入りであった。うち1錠が分解されたカプセルとしてある。そして浪岡準子が1錠飲んで服毒自殺図った。残り10錠である。さらに雪笹香織が1錠盗んでいる。ここで9錠となる。加賀はカプセルが6錠部屋に残っていたと言う。ということは、3錠合わない。駿河はカプセルを1錠盗んだといっている。残り2錠はどこへ行ったのか。
 ここで穂高の結婚式前に新しい鼻炎薬を開け、ピルケースにそれを入れようとしたとき、そのケースに薬が2錠入っていた。美和子が薬を飲むのは良くないというアドバイスを受け、穂高はカプセルを捨てていた。これが残りの2錠であった。そしてカプセルをゴミ箱に捨てる穂高を見ていた人物がいる。それは神林貴弘であった。貴弘はそれを拾い、効果を確かめるために猫に1錠飲ませる。残り1錠が貴弘の手元にあった。
 ところが神林貴弘に脅迫状とカプセルが1錠送られていた。脅迫状には妹の美和子との関係をばらされたくなかったら、穂高の薬をすり替えろというものであった。この時点で神林貴弘はカプセルを2錠持っていることとなる。
 しかし加賀は準子の部屋にあったカプセルは6錠といっていたが、瓶の中身を言っていたわけではない。あくまでも“部屋に”である。要するに分解されたカプセルを含めて6錠といっているのである。ということは、瓶の中身は5錠しかなかったことになる。12錠入りのうち、5錠が残っており、後の7錠がどこに行ったかを再度考証してみる。1錠は解体されて残され、2錠は浪岡準子が先に穂高のピルケースに仕込んだ。そして1錠を浪岡準子が飲んで服毒自殺を図る。残り3錠となる。しかし雪笹香織と駿河直之は1錠ずつしか盗んでいないという。ということは1錠が行方不明となるわけだ。
 ここで問題となるのが、ピルケースである。加賀はこのピルケースに関係者以外の身元不明指紋が残っていたことがわかっている。ここで加賀は「犯人はあなたです」と言ってこの話は終わる。
 そうこの小説は前の『どちらかが彼女を殺した』と同じである、“読者に挑戦”というスタイルをとっている。つまり話の中で犯人を明らかにせず、読者に考えさせるのである。
 ピルケースに残っていた身元不明の指紋は穂高の前妻のものであった。そして穂高は美和子と結婚するにあたり、前妻の持ち物をすべて使いっぱの駿河の部屋に移していた。従ってその荷物の中にペアのピルケースがあり、それを取り出すことが出来たのは駿河だけであった。そこに行方不明の毒入りカプセルを1錠仕込んだのであった。従って穂高を殺した犯人は駿河となる。

 以上であるが、どうもすっきりしない。“読者に挑戦”といっても、最後にピルケースが前妻のものだと明らかにするので、フェアーじゃない。本当に駿河以外の雪笹香織と神林貴弘に可能性はなかったのか?美和子の証言を信用すれば神林貴弘にはピルケースに近づくチャンスはなかったというが、それ以前に出来なくもない。なぜなら彼は毒入りカプセルを2錠持っていたのだから。そして雪笹香織も1錠しか盗んでいないということを信用して話は進むが、彼女がもう1錠盗むことも可能であったはずだ。ただそれは薬の数だけの話で、動かしがたい事実がピルケースに残っていた指紋ということであれば、正直なところこんなに詳しく薬の数にこだわって各必要もないのだけれど・・・・。
 

評価
★★


書誌
書名:私が彼を殺した
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062733854
出版社:講談社 (2002/03/15 出版) 講談社文庫
版型:431p / 15cm / A6判
販売価:729円(税込)

2011年01月05日

東野圭吾著『悪意』

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 昨年の流れで、東野圭吾さんの加賀恭一郎シリーズを読んでいる。本当は違う本を読もうと思っていたのだ、どうも正月はだらだらしているためか、精神的緊張感も希薄になっているのだろう。この手のミステリーしか今のところ受け付けない。

 あっ、挨拶を忘れていました。改めて、

 新年あけましておめでとうございます。

 本年もどうぞよろしくお願いします。

 さて今回の話である。作家日高邦彦が殺害された。彼の幼友達である童話作家の野々口修が、電話で話があるからと日高から呼び出されるが、どうも家の様子がおかしい。そのため日高の妻日高理恵を呼び出し、中に入る。そこには鈍器に殴られた後、電器コードで首を絞められた日高邦彦の死体があった。加賀はその捜査に当たる。野々口は加賀刑事なる前教師であったが、野々口は同じ中学校の教師であった。
 野々口は自分が作家であることから、この貴重な体験を克明に記録していく。この本は野々口の手記と加賀の捜査の記録が交互に書かれるスタイルを取る。そして簡単に日高邦彦を殺害した犯人が野々口であることがわかってしまう。
 逮捕された野々口は犯行を簡単に認めるが、その動機がわからない。日高を殺すにあったってのトリックは加賀によって簡単に見破られ、その後の犯行隠蔽工作も野々口が書いた手記に齟齬あるため、問題点を明らかにされ、野々口の犯行は確定しはじめる。しかしどうしても動機がはっきりしないのだ。野々口も殺害は認めても動機を語らない。
 そのうち野々口の仕事部屋から、日高の作品と類似する原稿が見つかる。野々口は日高のゴーストライターではなかったのか、という疑惑が浮かぶ。しかも日高の交通事故で亡くなった前妻初美と不倫していたことも判明する。野々口が日高を殺したのは、自分の作品を元にして日高が自分の作品として発表し文学賞を受賞したことに対する復讐と、前妻初美との不倫をネタに邦彦から自らがゴーストライターを強いられてしまったことで、発作的殺人と思われていく。
 野々口が書いた手記にはとにかく日高の性格が残虐で、自らをおとしめる人間としか書かれていない。それはその手記の最初に日高が家に入り込む猫に毒だんごを作って殺したと手記に書く。そうすることで日高が残虐なんだという先入観を読む者に与える。
 ただ加賀は何かがしっくり来ない。野々口の書いた手記から、野々口自らが捜査の方向をそのように持って行ったきらいがある。もっと深い殺害動機が野々口にはあるのではないか。それを探っていく。
 加賀は捜査を野々口と日高の中学時代まで捜査を広げていく。日高が本格的作家デビューとなった花火師の人生を描いた『燃えない炎』という作品もやはり、それは日高が子供の頃近所にいた花火師をモデルにしている。しかしそれは野々口が書いたものとされる。ということは花火師の仕事場に遊びに来ていた子供は当然日高でなく野々口でなければならいが、その花火師の証言で野々口でないことがわかる。
 さらに野々口は中学時代いじめにあっていたが、いつの間にか野々口はいじめる側に回っていたことがわかってくる。そのいじめのリーダー格に脅かされるのが怖くて、金を貢いだり、腰巾着になっていたのであった。一方日高は少年時代すばらしい少年であり、いじめにあった野々口を助けたりしたりしており、野々口にあっては日高は恩人でもあったことがわかってくる。
 
 日高の小説で、ある版画家の生涯を描いた『禁猟地』というのがある。この版画家のモデルが野々口が中学時代いじめにあっていたそのリーダー格藤尾正哉であった。そこには藤尾が少女を暴行したことが書かれており、遺族から名誉毀損で、『禁猟地』の書き換えを求められて、裁判となっていた。その少女を腕を押さえつけていたのが、野々口であり、その証拠の写真を日高が入手していた。裁判が長引けば、その写真が公にされかねない。これが日高殺害の動機であったが、どうせなら日高を殺害するなら、日高の人間性を貶める方法を考えた。日高殺害の嘘の動機が公表された時、日高の人間性が地に落ちる形を取りつつ、世間の同情が野々口に集まるようにしたかったのであった。そうした悪意が日高殺害を推し進めたのであった。要するに野々口にとって、日高の殺害より、日高を貶めるという動機が先にあったのであったのであった。
 結局日高の作品は野々口が書いたものではなく、野々口が自分がゴーストライターのように見せかけただけであり、日高の前妻初美も事故ではなく、自殺であったのだ。
 野々口の手記には加賀が近づいてくる足音がいつも聞こえてきたと書かれている。加賀はいつもこの手法で、じわりじわり真実に近づき、犯人に恐怖に貶める。これがこのシリーズの魅力であるが、今回は十分発揮されているように思えた。幾重にも仕掛けられた罠と心理トリックの駆け引きは読み応えがあった。


評価
★★★


書誌
書名:悪意
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062730174
出版社:講談社 (2001/01 出版)講談社文庫
版型:365p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2010年12月30日

東野圭吾著『どちらかが彼女を殺した』

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 まず事件のあらましを書いてみる。東京でOL生活をする和泉園子から愛知県に住む兄康正に電話がある。康正は園子の様子が変なので詳しく聞いてみると、園子は信じていた相手に裏切られた。信じられるのは結局兄だけだという。傷心した園子は実家に帰ると言った。康正は園子の帰りを待っていたが、帰って来ない。電話を入れてみても電話に出ない。不安を感じた康正は園子の部屋まで慌てて行くが、そこには感電自殺をしたと思われる園子の死体があった。
 康正は愛知県の交通課の警官で、自らの仕事が自己の痕跡や状況から事故を推理する人間であったため、園子の部屋を見回して、園子は自殺ではなく、殺されたのだと確信する。ただ康正はそのまま警察に園子が死んでいること連絡しない。園子を殺した犯人を自ら捜し出し復讐しようとする。そのため地元の警察に連絡する前に、園子の部屋にあった証拠を隠してしまう。一通り証拠を確保した上で加賀恭一郎のいる警察に連絡する。
 ここから康正と加賀の犯人捜しが始まる。ただ加賀は康正が隠し持っている証拠となるものが何であるのか、事件の謎と一緒に解かなければならないハンデがあった。
 今までこのシリーズを読んできて、加賀恭一郎はいつも脇に置かれた感じで描かれる。むしろ犯人や事件関係者のその後の行動を描くことで、逆にしっぽをつかむ設定が多い。今回も康正の行動を監視しながら、自らが残ったものから事件の真相に迫っていく。

 園子が自らの身体に貼り付けた、電源コードはキッチンで包丁を使って皮膜を削っていた。その際にその皮膜は、包丁に右側についていたことを確認し犯人は右利きであることを知る。また飲んだ睡眠薬袋の破り方が右利きの人間が破るやり方であった。園子は左利きである。加賀はこの時点で園子は自殺でないことを確信する。
 では犯人は誰か。容疑者は二人あがってくる。一人は園子の親友であった弓場佳世子で、もう一人は佃潤一であった。園子は潤一を自らの恋人として親友の佳世子に紹介したが、潤一は園子から佳世子に鞍替えしてしまう。園子が信じていた相手に裏切られた、というのはこのことであった。
 康正はいろいろ調べているうちにこの二人のいずれかが犯人であることを確信するが、特定はできない。加賀も同様であった。事件は最初潤一が園子に睡眠薬を飲ませ、自殺に見せかけて殺そうとしたが、そこに昔アダルトビデオに出演していたことを知った園子に脅された(裏切られたことの腹いせに)佳世子が来て鉢合わせになる。二人は一端園子を殺さず部屋をである。そのあと二人のうち一人がまた園子の部屋に入り、自殺を装って殺すのである。
 この本は最後まで犯人を特定していないで終わっている。要するに読んでいる人間が考えろ、ということらしい。証拠となる物件、状況はとことん明らかにしているから、後は読者が考えればいいということになっている。なかなか面白い。得意のネットで調べてみると、犯人は佳世子だ、いや潤一だと意見が分かれているが、私は潤一だと思う。
 問題は佳世子の利き手が右か左かである。この文庫には袋とじがあって、犯人捜しの手がかりを教えてくれるが、そこでも、また本文でも佳世子の利き手が曖昧だ。佳世子が右利きだと犯人の可能性があるが、それはわからない。ちなみに佳世子が園子の葬儀の時署名した時は右手で書いていたと書かれてはいる。ただこの場合園子と同じように普段の生活では矯正された右利きであったが、ふとしたことから本来の左利きに戻ることもあり得る。
 この小説は最初ノベルズ版で発表されたもので、そこには佳世子が左手で睡眠薬の袋を破った書いてあるそうだ。しかし文庫版ではその一文は削除されていて、佳世子の利き手がわかりにくくしているので、余計に犯人の特定が難しくなっているという。確かにそうだ。もしこの文章が残されていたら、簡単に犯人が潤一だと特定できてしまう。
 でも佳世子の利き手がわからなくても、園子の身体に貼り付けた電源コードを固定した絆創膏が、佳世子の身長では届かないところに置いてあった救急箱にあったこと。
 さらに康正が園子の復讐のために佳世子と潤一を呼び、動けないようにしてから、園子と同じように電源コードを身体に貼り付けるた。最後になって加賀に説得された康正はヤケになってスイッチに指をかけた。そのとき「犯人は絶叫し、犯人でないほうも悲鳴をあげた」と書いてある。これを読んだとき私は絶叫するのは男の方で、悲鳴は普通女が上げるものだと思ったので、この時点で犯人は潤一だろうと思ったのである。

 犯人を明らかにせず読む側に考えさせるものは、さっきも言ったように面白い。それこそ本当に犯人捜しをするかのように、読み終えても、もう一度必要な箇所を読み直し、あれこれ考えさせてくれる。こういう解答なきミステリーも“楽しみ”としていい。


評価
★★★


書誌
書名:どちらかが彼女を殺した
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062645751
出版社:講談社 (1999/05/15 出版)講談社文庫
版型:355p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年12月29日

横田順弥著『古書狩り』

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 著者はSF作家でもあり、小説を書くかたわら、資料集めなどで古書も詳しい。だから古書に関する本も何冊か出されているはずだ。そのためこの本もかなり期待して読んだのだけれど、はっきり言って肩すかしを食らった感じであった。
 古本を集めるマニアックな人たちの姿を描くのはいいのだけれど、そこにSF的要素を加えちゃうと、おいおいそこまでいっちゃ話がおかしくならないか、と思ってしまった。たとえば紙魚という紙を食べる小さな虫が古本にいることがある。「本の虫」という短編では、和本についた紙魚を大切な本をダメにしてしまうと、それを見かけると憎みようにつぶす人物が、ついに自分も巨大な紙魚になってしまうという話。カフカの『変身』グレゴリー・ザムザ風の話だ。あるいはパラレルワールドから来た人物があちらの世界で買った古本がこちらの世界では稀覯本となっていたので、それを売って生活の糧にする話もある。さらに宇宙船が故障して、また旅立つためのエネルギーを人間の精神エネルギーを求める美人の姿をした女宇宙人が、偶然稀覯本を安く買い求めて興奮して、精神エネルギーをバンバン発していた男に近づく話などである。
 確かに古本を求める人々は通常の人から見れば異常なところがあるから、それを発展させれば、こういうのも有りかな、とは思うが、でもやっぱりそれは、私の求めている世界ではない。
 古本の世界のマニアックで病的な姿を描くことは、もうそれだけで別世界の話になっている訳だから、それを現実にこういう人たちがいるんですよ、と知らしめして、はじめて関心が引けるんじゃないかと思うのだ。それをSF的要素でまとめてしまうと、もうそれだけでますます非現実的になってしまう気がする。もともと著者はSF作家だから仕方がないのだろうけど、せっかく古本の世界が持ち得る異常さ描くなら、それは排除すべきじゃないかと思う。もしこの発想を使えば稀覯本の存在すべてをそこから簡単に求められてしまう。
 古本を強く求める人たちは、その本の貴重さからそれを求めるわけで、そのため様々なドラマを生む。時には考えられない奇行をする。その世界が異常であるから話は面白いし、呆れるのである。本当にこいつら馬鹿じゃないかと思わせるから、私は好きなのである。そして現実的には古本を巡って殺人事件など起こったとは思えないけれど、でもそれが高じれば殺人事件になってもおかしくないと思わせるからこういう話は読めるのである。私が紀田順一郎さん古書を巡る推理小説を読むのも、ジョン・ダニングの推理小説を読むのが好きなのもこういう理由による。決して古本のSF的世界を求めた訳じゃないのだ。そういう意味で、この本は期待はずれであった。
 それは私がSFを好まない所に起因するから、このように批判してしまうのかもしれないが、もしかしたらこういうジャンルの好きな人にとっては、変わっていて面白いのかな、とは思うが、やっぱり私には受け入れられない。残念であった。

 この本は散歩の途中でブックオフで求めた。出版社はあの一太郎のジャストシステムだろう。最初は、へぇ~、ジャストシステムでもこうした文芸書を出しているんだと思った。もっとジャストシステムは自社のソフトのマニュアルを自ら出版しているから、別にこの手の本を出版することは簡単であろう。
 とにかく期待はずれだったので、またブックオフに戻そうかと思っている。


評価
★★

書誌
書名:古書狩り
著者:横田 順弥
ISBN:9784883094363
出版社:(徳島)ジャストシステム (1997/03/31 出版)
版型:285p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年12月28日

本多孝好著『at Home』

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 この本は、「at Home」、「日曜日のヤドカリ」、「リバイバル」、「共犯者」の4編を集めた短編集である。しかしそれぞれには共通していることがある。それは壊れた家族がそれぞれ再生を目指すことである。時にはまったく別々の家族の一人が集まり、新たな家族を作る。あるいは主人公が離婚し、新しい妻を求め、家族再構築する。そこで妻の前の夫と問題が起こったり、または別れた夫婦が、あることがきっかけに再生を予感させるものもある。あるいは父親が急に失踪したが、その父親と息子が会って、妹の家庭で起こる幼児虐待から甥っ子を救うことなど、ちょっと変わった家族愛を描いている。

 実は最初の「at Home」のシチュエーションに戸惑ってしまった。最初に息子の僕と母親の会話がものすごく不自然であったのだ。だから“なんだ、この話は?”と違和感を感じながら読み続けると、家族がそれぞれまったくの他人であり、父親役が出来る男が父親をやり、母親の年齢の女が母親をやる。そして息子である僕と、妹と弟がそれぞれ集まって、疑似家族を作っていたのだ。
 僕の本当の両親は自分たちの仕事のことで頭がいっぱいで、仕事に没頭し、息子のことに一切関心を持たなかった。僕の話を聞いてくれと言った時、その時時間がないからと後にしてくれと言う。その約束の時間にも両親は帰ってこなかった。そんな両親を僕は殺そうと思い、包丁を振り上げる。殺すつもりでいたが、「殺さないでくれ」という悲鳴が行為を止めた。彼らは「殺さないでくれ」と悲鳴を上げる。それはお前は親である私を殺すなというのでもないし、まして息子が殺人者になることを止めている訳でもなかった。それは「小さな頃から必死に努力し、苦労してここまで実現してきた俺という自己を抹殺するな。お前にそんな権利はないだろう?」とそう言っていた。それが僕にはわかり、醒めた。僕は包丁を置き、家を出た。そのとき偶然泥棒に入った父さんと出会い、一緒に逃げた。
 妹の明日香は実の母親がずっと前に家を出て行ってしまい、父親も不在がちであった。妹がいたため明日香はその妹の親の役を務めたが、もともと心臓に疾患があったため、ある朝目が覚めると妹は死んでいた。
 母さんと出会ったのは、早朝のホームで、自らも夫の暴力に疲れ果て家を出ていたときであった。そのとき母さんは自分と同じ目でホームから線路を見ている少女に気がついた。少女は自分以上に疲れ果てているように見え、母さんは死んでる場合じゃないと思う。同じ死ぬならせめてこの少女を生かしてから死んでやろうと思う。
 弟の隆史は空き巣に入った父さんがその家の柱に縛り付けられていた一人の小学生を連れてきたのであった。
 こうして4人が疑似家族新しく作り始めた。本当の血のつながった家族ではないから、変な会話が出来る。母さんは男をだまし、金を巻き上げるのが仕事であったが、その付きっていた男と金を巻き上げて別れる時期を模索していたとき、

 「ま、いいの。二週間でけりつけるから」

 「できるの?」と明日香が聞いた。

 「どうせ、そろそろ一発やらせてあげなきゃってとこだったし、まあ、いいタイミングだわ」

 「そういうこと、中学生の娘の前で言う?」と明日香が声を上げ、「あら、中学三年なら、色々とご存じでしょうに」と母さんは笑った。

 そう言った母さんの「テク」はすごいのだろう。少なくと今日まで同じ手でやってこられたことを思えば・・。しかしあんまり想像したくないが、と僕は思うのであった。
 その母さんが男に逆にゆすられた。監禁され、身代金一千万を要求される。母さんは明日香を身元のばれない私立の高校にやるためのお金を稼いでいたのであった。
 僕は印刷屋で