2010年03月11日

阿刀田高著『やさしいダンテ「神曲」』

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 また阿刀田さんの古典解説エッセイを読む。今回はダンテの『神曲』である。これも一般常識として名前は知っているけれど、その内容はどんなものなのか、知らずに今まで来ている。かといって、私がこれを読めるかというと、多分、いや絶対に読み切れないだろう。ということで今まで私が知っている『神曲』以上に、もう少し箔をつけるために読んでみたわけだ。

 さてその『神曲』は“地獄篇”“煉獄篇”“天国篇”の三部構成となっている。そこへダンテが順番に迷い込むところからこの話は始まる。冒頭で、「人生のなかばに達し、ふと気がつくと、私は、まともな道を外れて、暗い森の中に迷い込んでいた」となっているのだ。ダンテが森に迷い込んだ日時もはっきりしている。1300年4月8日の夕刻に地獄に入った。その後煉獄、天国をめぐって翌9日の夕刻にこの世に戻っている。
 どうしてダンテが地獄から煉獄へ、そして天国へと向かうことになったのかは後ではっきりする。とりあえず、ダンテは地獄に入った。しかし一人ではない。案内役がいる。ウェルギリウスである。ウェルギリウスという名前はどこかで聞いた。そうあの「アイエネアス」を書いた人である。どうして案内役がウェルギリウスなのかよく分からないが、知っている名前が出て来るとなんかうれしい。そうか、ウェルギリウスはこの『神曲』でも登場するのか、といった感じである。
 地獄では生前の行いによって、様々な苦しみを与えられているダンテ以前の歴史上の有名人や貴族、聖職者、教皇などが登場する。まぁ生きているときに、悪行や暴利を貪っていた人物たちである。彼らはなんでダンテがここにいるのか不思議がるが、ウェルギリウスは「この男は死者ではない。罰を受けに来たわけでもない。見聞を深めるため、地獄の谷をめぐっている。私はその案内役」だと言って、彼らの疑問を解く。
 ここで苦しんでいる人物たちは阿刀田さんによると「往時のイタリア人の知識と教養で死者を断罪し、死者の中にはユダやマホメットのようなビックネームもあるが、多くは(ダンテの知る)イタリア史に限られたネームであり、さらにある部分はダンテが心血を注いだグェルフィ党の立場から見ている、という特徴が明らかだ」という。とにかく歴史上の多くの人物たちがここで苦しみを与えられている。読んでいて、「あんたもそうなの?」と思っちゃう。
 そしてダンテは煉獄へと向かう。煉獄とは死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である。
 煉獄山の山頂でダンテはウェルギリウスと別れる。なぜならウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため天国の案内者にはなれないからだ。そしてこの後ダンテが昔一目惚れした、ベアトリーチェと出会う。ベアトリーチェとダンテは家柄が違うため一緒になれなかった。ベアトリーチェは他の男と結婚したが、24歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しんだという。ベアトリーチェはここでダンテと次のような会話をする。

 「なぜあなたはここへ登って来たのですか」

 「この人は」

 「神の偉大な恩寵を受け、たくさんの可能性に恵まれていました。でも、よい土壌は逆にわるい種をもはびこらせます。一層わるくなることもあるのです。私は、いっとき、この人に目を向け、この人を導きました。ところが私が去ると、この人は私を忘れ、正道を失い、邪道へと迷い込んだのです。呼び戻すために私は神の霊感を願いましたが、無駄でした。もはやこの人には、地獄を見せ、煉獄を示し、神の真実をまのあたりにさせるほかにないと考えたのです。ウェルギリウスに涙ながら願ったのです。この人が前非を悔いることもなく忘却の川を味わうならば、神の恵みは破られたことになるでしょう」

 「向こう岸にいるあなた。さあ、答えなさい。懺悔しなさい。あなたの胸に宿るつらい記憶はまだ水に流されたわけではありませんよ」

 「はい」

 「あなたが進むべき善の道を私が指し示したのに、私が死んでしまうと、道なかばであなたはよそごとに走ってしまいましたね。あなたの道を遮るどんな濠があったのですか」

 「はい。その通りです。あなたの顔が隠れてしまうと、私はさまざまな快楽に誘われ、道を踏み外してしまいました」

 「耳が痛いなら・・・・もし一人前の男なら、顔をあげて、こちらを見なさい。もっと、もっと、厳しく後悔しなさい」


 結局こういうことなのね、といった感じであった。ダンテ自ら道を踏み外しそうになっているのを、昔一目惚れしたベアトリーチェに諭され、懺悔するということなのである。それを長々と道をたどって、もし懺悔でもしなければ、このように地獄で苦しむことになると言っているわけであろう。
 解説本を読んで分かったふりをするのもおかしな話だが、まあこういう話だということで、それだけでも知っただけ、ちょっと知識が増えた。


評価
★★


書誌
書名:やさしいダンテ「神曲」
著者:阿刀田 高
ISBN:9784048839860
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2008/01/31 出版)
版型:295p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年02月14日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 この本は以前文庫本で読んだ。たまたま単行本を手に入れたので、また読み返している。きっかけは先日テレビで放映されていたブラッド・ピット主演の「トロイ」を見たからである。しかしどうしてこうも違うのだろうか?前に読んだ阿刀田さんの本は怖ろしいほど面白くなく、陳腐だったけど、今回は面白くて、一気に読んでしまった。
 この本を読んでいると、映画の場面、たとえばブラビが扮するアキレウスとトロイの第一王子ヘクトルとの一騎打ちなど、本でその場面が描かれると、すぐあぁ、ここだなと思い出す。


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 一方で改めて読み返していると、阿刀田さんがその著作で教えてくれたギリシア神話のことを思い出す。今までは単独で話の内容を理解していたが、今回はうまく話がつながって、先に読んだ以上にその分面白かったかもしれない。
 たとえばトロイの第二王子であるパリスである。この本を読んでいて、あれ?パリスって聞いたことがあるぞと思い、とりあえずそのまま読んでいたら、羊飼いをやっていた頃、ゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテがその中で誰が一番美しいか争っていたとき、このパリスが判定したと書いてあって、あぁ、このことかと思い出す。俗に言う「パリスの審判」である。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎて、人口を減らすには戦争が一番と考えた。折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、そこに争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。さらにそこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。これを争ったのが先に書いたヘラとアテネとアフロディテである。そこに巻き込まれたのがパリスであった。
 そのパリスである。この男トロイに帰った後、父である王プリモアスの命を受けスパルタへアイネイアスと共に赴く。そこにはスパルタの王メネラオスの王妃ヘレネがいた。このヘレネは絶世の美女であり、パリスは一目でその虜となる。アイネイアスもそうであった。一方ヘレネは夫メネラオスに嫌気がさしていたところに、美男で勇者の誉れ高いパリスが現れたものだから、パリスに心奪われる。そしてパリスはヘレネを奪ってスパルタを後にする。
 当然メネラオスは怒る。厄介なのはメネラオスはミケーネの王アガメムノンの弟であった。アガメムノンのはギリシアの盟主を自ら任じていたし、トロイの繁栄を羨んでいたので、これはヘレネを奪い返すための戦争をすべし、ということで戦いが始まった。これがトロイ戦争である。
 ところでそのヘレネであるが、ゼウスの病気とも言える女好きから始まった。スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれたのである。

 さらにヘクトルと戦ったアキレウスの出生も覚えていたので、それも書いておく。アキレウスは先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせたのである。だからアキレウスは強い。みんながアガメムノンの横暴さに怖じけついて、渋々従うのに、アキレウスはオデッセイウスに誘われとりあえず戦争に参加したけれど、最初は物見遊山であった。しかしパトロクロスがヘクトルに殺されたことを知って、戦いに出る。そしてヘクトルとの一騎打ちが最初にいた場面である。

 こういう背景を知っていると、俄然この話は面白くなる。ただでさえ、話のテンポがあって楽しいのに、登場人物の出生を知っていれば、楽しみが倍増する。
 この本の主人公はアイネイアスであるが、その父アンキセウスで、アイエネイアスはアンキセウスとアプロディーテーの間の息子である。そして彼もトロイでは勇者の誉れ高い若者であり、トロイ戦争ではギリシア軍と戦ったが、最後は落城するトロイを父と共に後にする。アンキセウスは昔の戦いで足を悪くしており、トロイを脱出するとき、アイエネイアスはアンキセウスを負ぶってトロイを後にする。この場面を描いた絵を見てシュリーマンはトロイの発掘を目指したのである。
 さてそのアイエネイアスであるが、トロイを出た後、トロイ再興を目指して地中海をまずは東に行き、次に西に向かう。そして何度も遭難しながらイタリアに到着する。そう、アイエネイアスはローマ建国の祖の祖なのである。イタリアのラティウムの王女ラウィニアと結婚し、子のユルースを得るが、そのユルースの末裔がオオカミに育まれた双子の兄弟ロムルスとレムスであり、そして兄弟が争って勝ったロムルスがローマ建国の祖となるのである。
 ところでアイエネイアスがイタリアを目指し、地中海を航海しているとき、嵐に遭い、北アフリカのカルタゴの漂着する。このときカルタゴはまだ女王ディドの時代であった。
 ディドは父の弟のシュカイオスと結ばれて、巫女として神に仕えていた。その父の死後、遺言で彼女と兄のピュグマリオンが共同で国を治める様にといわれていたが、ピュグマリオンは王位の独占と叔父の財産目当てに遺言に違えてシュカイオスを暗殺し、ディドの命をも狙った。
 そこで彼女は全てを捨てて心ある家臣たちとともにフェニキアの都市国家テュロスから航海に出た。そして北アフリカのチュニジアの地に辿り着いく。そこがカルタゴである。だからディドはギリシア・ローマ神話の中で、カルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王となっている。
 そしてアイエネイアスはカルタゴに漂着し、ディドに手厚くもてなされるし、恋も生まれた。しかしアイエネイアスにはトロイ復興という目的があるので、ここを後にする。
 私が面白いと思ったのは、ディドがカルタゴ建国した女王であり、アイエネイアスはローマ建国の祖である。この二人が一時は恋仲となったのに、後の歴史はこの二つの国が地中海の覇権を巡って争うのである。

 さて最後にトロイの木馬である。我々が知っているトロイの木馬はギリシア軍が作り、それをトロイの人々が城の中に入れてしまい、夜、そこに忍び込んだギリシア軍が出て来てくる。攻めあぐんできた城の門を中から開け、そこからギリシア軍がなだれ込むことによって、トロイが炎上し、崩壊するという話である。映画「トロイ」もそういう話になっている
 しかしこの本では、なかなかトロイを攻めきれないギリシアが、大きな木馬を神への捧げ物として作り、城の外で燃やすのである。つまり木馬は城の中には入らないのである。そしてその後大きな地震が来て、城壁を崩す。そこからギリシア軍がなだれ込んで、トロイを滅ぼす話になっている。
 阿刀田さんは考古学的、歴史的考証に注意を払ったとあとがきに書いてある。つまりシュリーマン等によって発掘されたトロイの遺跡は少なくとも九層からなっているらしく、その第七層がトロイ戦争があった頃の層だと推定されている。そしてトロイがもっとも栄えたのがその一つ前の第六層の都市時代だったらしい。その頃大きな地震があって堅牢を誇っていた城塞が崩れ落ちた。そこに第七層の都市が慌てて作られ、そのやわな城壁がギリシア軍に破られたというのが実情らしい。それを阿刀田さんは踏襲しているのである。でもやっぱり木馬はトロイの人が引き込んでしまい、そこに隠れていたギリシア軍が出てくる方がいいなぁ。
 とにかく再読してこんなに堪能しただけでも、読み返した甲斐があった。


評価
★★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062072205
出版社:講談社 (1994/11/30 出版)
版型:565p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年02月09日

阿刀田高著『Vの悲劇』

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 古い阿刀田さんの推理小説を読む。この本は講談社創業八十周年記念推理特別書下ろしで、当時日本で活躍する推理作家を集めて、シリーズにしている。帯によると、阿刀田さんが本格推理に挑戦されたようだが、はっきり言って面白くなかった。
 というか、この本を読んでいて今まで阿刀田さんの作品にムラがある理由がわかった。私は阿刀田さんのエッセイや歴史小説の大ファンなのだが、現代物や恋愛小説を読むと、どうしてこうも面白くないのだろうかと思っていた。どこか無理みたいなものを感じてしまっていた。それがこの本を読んでやっとわかった。
 この本の主人公は庄野安津子という30代の主婦で、不倫相手に会いに行った先のコテージの箪笥の中から愛人の男の死体を発見してしてしまうところから始まる。不倫相手は安津子の友人の夫であった。
 当然不倫相手の死体から、証拠を残さずその場を去らなければならないし、警察の捜査が自身に及ばないように、あれこれアリバイを作り上げる。一方で、何で相手の男が殺されたのか、その理由を知りたくなる。安津子がそのコテージついたとき、覚えのある香水の香りがかすかにする。男は安津子が来る前に他の女と会っていたことを確信するが、そこから安津子の両親の過去、特に父親の過去が段々事件に関係していることがわかってくる。
 まぁ、ストーリーとしては平凡単純なのだが、それよりも主人公が女性なのに、関係者と会って事件を考えるとき、あるいはあれこれ推理するとき使われる言葉が、妙に馴染まないのだ。無理に女言葉を使っているという感じが拭えなかった。ただ感じたり、考えたりするときに、女性でもここまで女言葉を使うだろうか、と思ったのである。いくら主人公が女性だからといっても、もっと断定的な言い方をしてもちっともおかしくないような気がしたし、その方が自分の言葉としてしっくりくるような気がしたのである。
 これは明らかに男性作家が女性の描いたという、無理がそうさせているような気がした。そして私が阿刀田さん作品で、違和感を覚える作品は、そのほとんどが女性が主人公になっている場合じゃないか、と思ったのである。
 それを発見したとき、この人は女性を描くことはうまくないのだな、と思ったのである。女性らしい機微を自然に表現できない人ではないかと思った。その不自然さが妙にひっかかってしまうのだ。そのため読後どこかざらざらした感じが残ってしまう。トリックもアイデアが先走っていて、人間関係も陳腐で、話の展開も強引であったため、これはきっと失敗作だと感じた。
 

評価
★★


書誌
書名:Vの悲劇
著者:阿刀田 高
ISBN:9784061939837
出版社:講談社 (1989/06/28 出版)
版型:294p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年02月02日

有本紀明著『スペイン・聖と俗』

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 個人的なことを書けば、私は大学時代ヨーロッパ中世史に興味を持っていた。その関係で、778年シャルルマーニュのスペイン遠征から始まるレコンキスタ(Reconquista)というキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動に興味を持っていたし、さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼なども一時興味があっていくつか調べたことがあった。
 さらに大航海時代を走った国、その後の南米などへの植民地政策を進め、スペイン・ハプスブルク帝国による「太陽の沈まない国」とまで言われたこの国の面白さは今でも興味がある。もっと言えば、ゴヤやベラスケスといった宮廷画家のしたたかさなど私が知っているだけでも、今でも興味が尽きないところがある。かなり昔読んだ五木寛之さん『戒厳令の夜』などあれも三人のパブロフなど、あれも面白い作品だっただけに、連想して思い出す。
 この本は司馬遼太郎さんの『街道を行く』の中で紹介されていた本で、その中でなかなか興味深い本だと司馬さんが書かれていて、それで買った。
 読んでみて面白いなと思ったことはスペイン人が持つ民族性がその歴史から生まれたことがうまく書かれていて、なるほどと思った次第だ。イベリア半島にあるこの国は古来様々な民族がこの地を通ってきて、中には定着し、追い出されいった。ユダヤ人、ギリシア人、カルタゴ人、ローマ人、ゲルマン人、イスラム教徒等である。中でも、キリスト教徒とイスラム教徒の闘争は、最後にキリスト教徒の勝利で終わったことにより、この国がカトリックの守護国を任じ、伝統的主義の立場を取るようになって行く。ガチガチのカトリックであるこの国ならではの凄まじい異端審問の嵐が吹き荒れたのもそうした歴史的背景があったからだ。

 「スペインが成立の時点からさまざまの要素の混合であることは前に見た通りである。特にユダヤ人、モーロ人とキリスト教徒の葛藤はスペインの歴史に、またスペイン人自身の肉体的・心理的特質に消すことのできない刻印を押している。キリストとマホメットの宗教戦争でスペインが条件づけられたように、ここから正統と異端という根本的二率背反が生まれた」

 言ってみれば血の純潔をカトリックという立場で主張するとこういう歴史になっていったと言っていい。血の清浄を求めるがために、社会が歪んでいった。スペインが「太陽の沈まない国」から没落して、その他のヨーロッパ諸国が近代化の道に進んでいるのに、遅れを取った理由もここにある。
 そしてスペイン人がスペイン人であることのアイデンティテーを求める余り、その民族性にも固定化が生まれていく。この本の「スペイン人罪」という章は、スペイン人が持っている気質を語っていて面白いのだが、そこにはスペイン人の自己中心的で、傲慢であり、特殊な超越主義で、私は私であることを徹底的に主張しつづける姿が例を挙げて書かれている。そのため外国文化に対する無関心でさえある。一方でというか、だからというべきかその妬みと嫉妬の激しさも指摘している。

 「妬み、不服従、それに不和はスペイン人の烙印である。だからその産物である分離指向という癌、救世主的狂気、てんかん性政治的反動、またその社会的構造の停滞ということも容易に理解できよう」というカミロ・ホセ・セラという人の言葉をここで著者は挙げている。
 ベラスケスが描く王一族の肖像画を見ていると、本来ならその華麗さを前面に感じていいはずのもが、どこかそこに描かれる人物たちのグロテスクさを先に感じてしまうのも、あるいはゴヤのように最高地位の宮廷画家であって、一方であのような風刺画や版画を描くのが、何となく理解できそうな感じがしてくる。ピカソやダリの自己主張の強さ、あるいはあくの強さもスペインでしか生まれなかったのではないかとさえ思えてくる。あるいは日本史で登場するイエズス会にしても、あの融通に気かなさはこのあたりに求められそうな気もしてしまう。
 ただこの本が書かれたのが今から約30年ほど前だから、今はだいぶ変わってはいるのだろうけど、でもテロの話は度々耳にするから、どこかはこの当時と変わっていない部分があるのかもしれない。余裕があるならもう少しスペインについて知りたいところである。


評価
★★


書誌
書名:スペイン・聖と俗
著者:有本 紀明
ISBN:9784140014301
出版社:日本放送出版協会 (1983/01 出版)NHKブックス
版型:248, / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年01月28日

池澤夏樹著『異国の客』

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 もう一冊買った池澤さん本を読む。池澤さんの文章が自分には合わないなと思いつつ、前回読んだ。しかし読み切ったら、今度は慣れたものだから、文章の内容がスムースに入ってくるようになった。
 今回池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住して、この地から見える世界情勢に言及する部分は政治的意見が強く現れている。日本から離れて自らの国の政治やマスコミの姿勢を批判する。あるいはアメリカのブッシュ政権の姿勢、特に9.11以降の軍事的姿勢に強く反応している。それはそれで正論なのだろうけど、私は池澤さんがこんなに強く政治的意見を強く主張する人とは思っていなかったので、少々驚いてこの本を読んだ。そしてそうした政治的意見より、もっと違う部分を期待していただけに少々興醒めな感じが否めなかった。
 私が期待していたのは、池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住されて、どうヨーロッパを自らに中で消化していったかを知りたかったのだ。フォンテーヌブローの地域性やヨーロッパの歴史、更にヨーロッパの人々の心性にどう感じたかを、その方に興味があったのだ。
 もちろんそこで暮らしているわけだから、ヨーロッパの人々の心性に触れないわけにもいかないし、ヨーロッパで直に感じることも当然ある。そっちの方が私には興味があるのでそれを書き出してみる。
 たとえば食材について。様々な地方特産の食材があるのだが、「ワインやチーズについて言えば、製造そのものに時間がかかる。本来の品質を維持するのが作る立場の人たちの面目であって、客の方も新製品というだけで飛びつきはしない。全体として現在を構成する要素の中で過去が占める部分の比率が高くなる。過去という重い荷を負っているから急カーブは曲がれない。その必要はないと人々は思っているらしい」
 頑なにその製品を作り続け、製品の品質にこだわる姿勢がそこにあり、消費者もそれを求める。新しもの好きで、安ければ、農薬が入っていても買ってしまう日本人には頭が痛い。
 街の景観維持にしても、「なりゆきとか、はびこり放題とか、そういう緩い部分、放任された部分がない。そして住民の総意に個々人の好みが反映される余地は少ない。
 つまり、全体と個人の発言権において、全体がずっと強いということだ。ある意味では言葉の本来の意味において『社会』主義である。社会そのものが主役。フランス革命で『自由、平等、友愛』を謳った国おいて、実は『自由』は勝手放題を意味するわけでなかった。むしろ自由と規制がせめぎあう前線がはっきりと見える。規制によって自由が際だつと言っていい」と池澤さんは言う。まぁこれも日本ではよく言われていることで、歴史的価値がある建物であっても、生活しづらいとなれば、簡単に壊してしまうお国柄とは違う。街の景観など一切お構いなく、勝手に自分好みの家を建ててしまう国には、結局理解できないことなのだと思う。たとえそれが頭の中にあって、一様の理解をしていても、個人を主張して憚らない。それが自由だと勘違いしているのである。

 さてこれ以外に私が興味深かった記述は三点ある。一つはローマ法王ヨハネ・パウロ二世の死に接し、ヨーロッパの人々が悲しみにくれる姿を見て池澤さんが感じたことである。池澤さんは次のように言う。

 「法王はおそらく、遠い神と心弱い信徒をつなぐ仲介者の一人なのだろう。神は絶対であるから、いかなる意味でも具体的でないから、日々個人の心からは遠くなる。『創世記』に言うように神は『言葉』である。つまり言葉で定義されるものであって、実体ではない。旧約の神は厳格な妬みの神であった。素朴な人々が父と慕おうにも手がかりが少ない。だからキリスト教では、まずキリストが神と人を仲立ちし、それでも届かないところは聖母マリアが取りなし、それでも残る隙間を多くの聖者たちが埋める。そして、法王をはじめ司教も司祭たちも、この神との遠い距離を仲立ちするものとしてある。
 人は生きた人を愛することはできるけれど、抽象を愛するのはむずかしい。神に顔を与えるために、尊厳を損なうことなく相貌を与えるために、村の教会の神父に始まって天に到る長い連鎖がある。そして法王はこの連鎖の人間界側の最終的な束ね、いわば砂時計のようなくびれのような存在、ではないのか?不信心者の憶測ではそう見える」

 この記述はうまいなと思った。キリスト教の本質が理解しがたい我々みたいな者は、キリスト教がどうしてこれほどの信者を獲得することができたのか、いや信者の心を捉えたのかその構造をうまく言い表していると思ったのである。

 もう一点が、須賀敦子さんのシャルトルへ巡礼の旅についての記述である。須賀さんが長いこと歩いてやっと大聖堂の針の先のような尖塔が見えたときの感動を語っている部分がある。私はミラノの大聖堂の記述に以前触れたことがあるが、とにかく長いこと歩いてきて地平線から教会の塔の先が見えたときの感動は、言い表せないほどの感動を呼ぶらしい。私はその感動を多分中世の旅人も味わったことだろうとも書いた。池澤さんも車であったけれど、その感動を味わったことが書かれたいた。

 「フランス国土は全体としてとても平らだ。ごくわずかな起伏を越えて広大な畑の真ん中をまっすぐ伸びる道を車で走っていると、次の集落の印として最初に目に入るのが、たいていの場合、教会の塔である。水平という原理が優越する空間でもっとも垂直的なものが教会なのだ。ぼくがシャルトルに行った時も、東側から近づいてまず地平線に見えたのが二つの塔だった。車を運転していたから拍手はしなかったけれど、(須賀さんたちはそれが見えたときいっせいに拍手が起こったと書いている)しかしそうしたいくらいの感動はあったと思う」

 と書いている。こういう描写を読んでいると、私も同じような場面にいたいなと思う。
 最後の一点が、ラ・トゥールである。まさかここでラ・トゥールが出てくるとは思わなかった。(これだから本を読むのは楽しい)池澤さんがロレーヌ地方を旅していて、市内の美術館に入った。「一枚の絵が目に入った。近世から近代の絵を並べた一角で、それだけが際だっていた。他の絵が照明によってようやく見えているのに、その一枚だけは自分で光を放っているかのようだ。二人の人物が描かれているだけの単純な構図に、見る者を引き込んで放さない力がある。ぼくはしばらくの間、そこを動けなかった」と書いている。
 池澤さんが見た絵は「妻に嘲笑されるヨブ」であった。私はラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」に魅せられた。ちょうど上野でそれが展示されていたので、すぐ見に行ったのである。ここでは子供であるイエスが持つローソクの火がその絵を際だたせ、そこから外に向かって、見る者に光を放つような衝撃があった。そしてこの「妻に嘲笑されるヨブ」も確かローソクが効果的な魅力を醸し出していたはずだと思った。実はラ・トゥールに興味を持ったとき、彼の他の絵もネットで調べていた。改めてその絵を見てみると、ここでもローソクの炎がこの絵を際だたせているのを知る。


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 池澤さんはその魅力を次のように言う。

 「まずは精緻なリアリズム。蝋燭一本の光で描くという技法が見る者の視線をひたすら細部に向け、そこからこの二人の実在感がひしひしと伝わる」

 「ラ・トゥールではこの二人の人生の一瞬を切り取っている。まるで写真のようだ。絵の中に会話がある。言っている言葉が聞き取れるかのようだ。宗教画一般が真理を求めるために超時間になろうとするのに対して、この絵は永遠を放棄した上で、代わりに一瞬をきっちり捕らえようとしている」

 思わずラ・トゥールの魅力にとらわれた人がここにもいたといった感じで、うれしかった。


評価
★★


書誌
書名:異国の客
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784087464689
出版社:集英社 (2009/08/25 出版)集英社文庫
版型:243p / 15cm / A6判
販売価:550円(税込)

2010年01月25日

池澤夏樹著『明るい旅情』

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 風邪が治ったかなと思っていたら、ここのところの寒暖の差が激しい気候に身体がついて行けず、またぶり返してしまった。何故か年明け早々体調があまり良くなく、そのためか読んでいる本が最後まで読み切れずに、投げ出してしまうパターンがここのところ多く、この本もそんな感じになっていた。どこか自分の感覚と合わない。これもダメだなと思っていた。
 この休みはとりあえず休養が必要ということで、ひたすら横になっていた。録画しておいたテレビを見たりしていたのだが、私は長時間テレビを見ることが出来ない人なので、しばらくしたらテレビを切ってしまう。しかし次に何することもないので、読むのを諦めていたこの本を再び読み始める。「まぁいいや。読めるところまで読んでみよう」と思ったのである。
 読んでいるうちに、池澤さんの硬質な文章が頭になじんできて、何とか読める。いやむしろこうしてごろごろしているときに、海外の話は、ちょっとそこへ行った気分になれるので、かえっていいかもしれないと思い始めたのである。
 私が池澤さんのこの紀行文をうまく受け入れられない理由は、この硬質な文章にある。くだらない笑いを誘う比喩など一切ない、ありのままの感想をストレートに書かれるものだから、読む方はいつも緊張を強いられ、長いこと読んでいられないのである。まして今の私にはきつい。それが今の私には向かない理由であった。しかしさっきも言ったように、半ば諦め、半ば我慢していると、その几帳面なほど真面目な文章に“もっともだよな”と思えてくるから不思議であった。

 「どうも人間はものごとの運びをすべて自分たちの意思の表れ、理知的な選択の結果と見る傾向がある。ことがすべて決着した後で、なぜその道を選んだのかと問われたとしよう。問う人の顔には、整然たる回答が返ってきて当然という期待の表情が浮かんでいる。しかし、実際の話、たいていのことはなりゆきというか、多くの力が時をおいて作用し、それら複数の効果の最終的な成果として実現するのではないだろうか。理知の力を信じるのはいいけれども、世の中を動かしているのは人知の制御を超えた無数の力の共同作業である。結婚などという最も人間的な、誤謬に満ちた愛すべき行為を例にして思い浮かべてみれば理解しやすいかもしれない。百人の候補について数百の項目を計測、数値化し、それを統計学を用いて厳密に比較検討した上で相手を選ぶ者はいない。なりゆきというのは美しい言葉だ」

 「誰にとっても現在は楽園ではない。現在には苦い要素がいろいろ混じっている。それでも子供時代のような質のよい過去から苦い要素を時間の作用で洗い流すことはできるし、精神が元気であれば最初から苦い要素を入れない未来を描くこともできる」
 
 「うわついたところが一つもない。完成されている。しかし、若い身でこの国にいたとしたら自分などたまらないだろうとも考える。東京の軽薄もやりきれないが、ロンドンの重厚も決して居心地のいいものではない。英語の言い回しに『バターを口に入れても溶けないような顔をして・・・・』というのがあるが、道行くみながそういう顔をしている。漱石がノイローゼになった理由がよくわかる」

 「ここ何十年かの間にこの国(日本)では社会の重心をずっと若い層にシフトしてしまった。街に出れば若い人々ばかりがあふれているし、商品もすべて若い購買層に向けて開発され、それを買いにゆくと対応に出る店員はみな二十代。社会そのものがかわいいニコニコ顔をしている。それは結構なのだが、実際のサービスは大雑把でいい加減、誰もが無責任、しかもみんなそれが普通だと思っている。若いというのは困ったものだ」

 ロンドンの街のことを書き記したのは、漱石の記述があったからだが、他の3つの文章は私ももっともだと思ったので書いた。いささか几帳面さ鼻につかなくもないが、でも几帳面であるが故に、逆に説得力があると感じた。

 本当ならもう少しまともな感想を書くべきなのだろうが、私はこの著者の生真面目さから、正論を言っている部分が好きになったので、あえてそれだけを書き残した。早く風邪を治さなきゃ・・・。


評価
★★


書誌
書名:明るい旅情
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784101318189
出版社:新潮社 (2001/06/01 出版)新潮文庫
版型:246p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2010年01月22日

池澤夏樹著『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

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 興味は尽きない部分はあるのだけれど、信仰という問題はどう扱っていいのかわからない。ましてキリスト教徒として信仰を持たない人間としては、キリスト教徒や聖書を単に学問や雑学の部分でしか扱えない。そのため、知識として頭に残るものはあっても、それがどう信仰と係わってくるのか、その関連がまったくといって理解できない。
 私にはキリスト教が及ぼした人類への多大な影響は歴史や知識だけで推しはかれない部分が多すぎる。まして個人の心性の問題から発生して、それが民族の生活モラル、政治システム、文化、文明まで幅広く及ぶこととなると、どこから取り扱えばいいのか、皆目見当がつかない。そのためこの本の信仰に係わる問題は、私にははっきり言って難しすぎた。
 で、聖書のそのもの実態はどうであったか、その内容は別として、聖書がたどってきただろう歴史は多少理解できたので、そのことを書きたい。あともう一点、気候が及ぼす影響というのは面白かったのでそれも書いてみる。

 単純に思っていたことなのだが、いわゆる聖書というのはそれ自体そのものの確実な原典があって、それが訳され現代に残っていると思っていた。確かに歴史ではいろいろな教会議が催されたことは知っているが、そこで聖書に残すべきかどうか、取捨選択が行われ、それが現代に残ったものだと教えられれば、なるほどそうだったなと思い出す。
 しかしそれ以前聖書の原点とは何だったのだろうという疑問をこの本のように提示されると、果たしてそれは何だったのだろうかと思う。どういう訳であれ、とりあえず文字として表されているその原点は、いまからおよそ二千五百年前、古代のイスラエル諸部族の間で語りつがれてきた物語やリスト(テクストといっていいだろう)を広く集めて編集して、一巻のスクロール(巻物)に書き写したものであったという。つまり各部族で言い伝えられた来たことを、ただ単に巻物に書き写していったものが、その始まりであったというわけだ。従ってその時点で消えてしまった物語もあっただろうし、書き写されなかった物語もあったはずだ。
 ただそうして言い伝えられた物語が文字に介されることで、その物語を語りついている人だけのものであったものが、その個人の人格を離れ、空間的にも、そして時代もを超えることとなる。つまり保存だできるようになったのだ。
 最初はそうしてまとめられていった物語は、時間の流れや、おのおの物語の関連性など、お構いなしに、単に言い伝えられて来たことを、まとめただけであった。 
 そもそもこの本によると、古代ヘブライ語には過去形というものがないらしく、動詞の形を見て過去と未来の区別することができないらしい。だから文章の状況で判断していく。
 過去形がないということは時間の遠近法がないということで、そこにはすべての時代が何の脈絡もなく、一巻の巻物に収められていることとなる。こういうのって、昔話や言い伝えなどによくあるパターンで、いつが新しい時間なのかわからないことがある。おそらく聖書の原点もこれと同じであったのだろう。
 ところが聖書がギリシア、ローマに伝わるとそうはいかなくなる。言葉のシステムが古代ヘブライ語と違う。ギリシア語には時制があるため、それまで直線的にあった物語は、時間の軸によって整理された。時制があるということは、過去、現代、未来という思考方法になり、物語をクロノロジカルにしていく。整合性を求められることとなる。本当は時制に関係なく、言い伝えられていたことだったのに、ギリシア語に訳されたとたん、そうせざるを得なかったのだ。これは聖書の性質さえ変えてしまう出来事であった。
 違う側面からも聖書が最初に持っていた性質を変える出来事があった。
 本来語り手の言うがままに一巻の巻物につづられた物語は、語り手が録音テープみたいに朗読していったようなもので、聞く方はそれを耳と脳と体で吸収していく性質のものであった。この時点ではまだ神聖さが充分感じられたことだろう。
 ところが、そうして文字化された物語は、巻物からコデックス(冊子本)へまとめられ、つまり本となるわけだ。そうなるとページやインデックスがつく。時にはタイトルがついたりする。それまで語り手が話し始めたら終わるまで待つしかなかったものが、いつでも途切れていい状態を可能する。
 またそれまでは音読していたものが、本となった時点から黙読できるようになる。黙読がすることが常態化すれば、物語が本来持っていた神聖性が薄れていく一方となる。朗読によるリズムがもたらす一種の恍惚感さえ失われる。
 さらにページごとチャプターごとに収められ、中身の細分化が進み、必要とする人間が必要な箇所を都合よく引用することが可能になる。物語性はどんどん薄らいでくる。さらに細分化が進めば進んだらで、今度は俯瞰できなくなってしまう。これが聖書の変質といっていいとが書かれていた。
 なるほど昔から言葉で語りつがれた物語は、耳で聞き、脳が感じ、体で覚える性質のものであったんだなと思ったし、それが訳がついて、形を変えることによって、変質していく過程の言及は面白かった。おそらくそれは聖書に限らず、たとえばホメロスの作品だってそうかもしれない。

 さてもう一点なるほど思ったことがある。先ほどの古代ヘブライ語には過去形がないということにも多少関連するかもしれない。どういうことかと言えば、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が生まれた地帯の気候の問題である。気候が砂漠地帯で生まれたこれらの宗教の性格の決定づけている点があるのだ。
 たとえば、我々のようなモンスーン地帯に住んでいれば、一年が同じサイクルで考えられる。雨期があり、乾期がある。暑くなれば、寒くもなる。そこにはサイクルがあって、次が予想できる。だから歴史の記述もそうした法則性の下でまとめられる。編年という思考方法が生まれる。
 ところが、砂漠で暮らす遊牧民の間では、気候がそうした思考方法を許さない。気候の周期性というものがないから、その思考方法も同じ平面で相互の関係性を欠いた形になる。私にはそれが古代ヘブライ語に過去形がない理由に思えてならなかった。おそらく最初の聖書に書かれた物語はそうした性質のものが色濃かったに違いない。多分コーランも似た点があるのではないかと思う。

 気候で思い出したことがある。昔読んだ遠藤周作さん本である。この本は紀行文で、遠藤さんが若い頃この地域を旅したことも書かれていた。多分そこに書かれていたと思うのだが、こうした気候の厳しさをを肌で感じ、キリスト教が父性的な厳しさがあるのはこの気候の厳しさによるのではないかと書かれていたと思う。(この本自分の本棚にいくら探しても見つからず、もう一度読んでみたいと思い、古本屋で探していたのだが、先日それを見つけて手に入れた。近々読んでみようと思っている)
 気候と聖書の関連は、和辻哲郎の『風土』を通して、この本で語られているが、なるほどあの本からなら、そう言えそうだなと思った。まさか和辻哲郎の『風土』を持ってくるとは以外だったので、ちょっと懐かしかった。


評価
★★★


書誌
書名:ぼくたちが聖書について知りたかったこと
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784093878470
出版社:小学館 (2009/11/02 出版)
版型:284p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年12月15日

石原千秋著『漱石と三人の読者』

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 夏目漱石はお札にもなったくらいの“国民的作家”になっている。しかし漱石の生前に売れた部数は作家活動十二年間の全作品をあわせて十万部程度だったらしい。
 これでは生前、売れっ子作家とは言い難いが、でも漱石の死後ものすごい勢いで売れていく。それに一役を買ったのが、中学では『坊っちゃん』、高校では『こころ』が夏休みの課題図書となって、所謂そういった学校空間で漱石を半ば強制的に読まされたことで、漱石を“国民的作家”に仕立てていったと著者は分析している。これはなかなか面白い。なるほどと思う。
 では何故漱石のそれらの作品が学校での課題図書として取り上げられるのであろうか?それは漱石の小説に“道徳教育”を求める背景があるからだ。漱石のそれらの作品を課題図書として選定する側に、漱石の作品を読ませるのは、それを読むことで“エゴイズムはいけません”と教えたいのである。友人を裏切って、自分も友人も好きであった女性を、先手を打って奪い取ってしまうことはいけませんとか、友人に譲りその妻となった女性を今度は奪い取るとか、そういった自分勝手なエゴイズムはダメですよと教えたいわけである。
 でもちょっと不思議である。小説にそうした効能?がいったいあるのだろうか。実はあるのである。漱石は「文学は矢張り一種の勧善懲悪であります」と言っており、それは「道徳上の好悪」も勧善懲悪と言っているのである。つまり「文学」は「道徳」の問題にも触れるべきという姿勢を漱石は持っていた。当然そういう考えは漱石の小説にも反映されている。そこに目をつけたのは課題図書を選定する人たちであった。そうして課題図書となった漱石の作品は、少なくとも一度くらいは学校で触れたことのある作品となって、誰しも漱石を知ることとなっていくのである。これは漱石を“国民的作家”として押し上げていた背景であったのだ。
 さらに漱石が読まれる背景を『彼岸過迄』にある「彼岸過迄に就いて」からも読み取ることが出来るというのだ。

 「東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上っている。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、・・・・・(略)・・・・自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている」

 当時漱石が対象とした読者は「教育ある且尋常なる士人」である中流市民のみから成る狭く一様で閉ざされた社会にいる“中流階級”であった。その“中流階級”は漱石の時代少数派だったのが、現在はその“中流階級”が底上げされ拡大したことによって漱石を読む人が増えたというのだ。
 まさか『彼岸過迄』にあるまえがきみたいなものがそんなに意味を持つものとは正直思わなかったけれど、なるほどそういう考え方もあったのか、と思い知らされる。

 この本はこのような例みたいに、漱石の作品に隠されている文化記号を、その作品をテクストして読み解こうとしたものである。それを読み解くことで、漱石が行ったのではないかと思われる実験を読んでみようというものである。漱石の作品にはそうした実験が隠れていて、それを読み解くことで、別な側面で夏目漱石が読めるという試みである。仮説である。
 そう考えたのは著者の石原さんである。その仮説はあるいは著者の思い込みかもしれない。私から言わせれば、「それは深読みのし過ぎじゃないの」と思えなくもないが、ただ一種の推理小説風に読むと、この本は面白い。こういう本の読み方もあるんだな、と思ったわけだ。

 著者に言わせると「書き手にとっての読者とは、顔のないのっぺりとした存在のとして読者、何となく顔の見える存在の読者、具体的な何人かの『あの人』がいる」という。この本の書名に三人の読者と言っているのはこの点にある。そして漱石の作品にも「このような三層に分節化され、それが構造化されて小説に組み込まれていた」というのである。では漱石のとってこの三人の読者を意識して、どう作品が書かれたのであろうか。
 最初に書いた通り、漱石は売れっ子作家と言えるほど作家ではなかった。もともと純粋に作家としてその人生を歩んだ人じゃない。漱石は熊本の第五高等学校教授、第一高等学校嘱託、東京帝国大学講師だったのである。その漱石が明治四十年に朝日新聞社の専属作家となったのである。朝日新聞が漱石を招聘したのは、新聞の目玉にしたかったという魂胆があったからだ。
 朝日新聞社の専属作家となった漱石は朝日新聞を読む読者を意識しなければならなくなる。それが三人の読者のうち、「顔のないのっぺりとした存在のとして読者」となるわけだ。それでは「具体的な何人かの『あの人』」である読者とは誰のことをいうのであろうか。それが漱石の弟子たちであった。
 漱石は先に言った通り、文壇から出てきた人間じゃない。そうしたつながりを持っていなかった。だから弟子たちを持つことで、自分の作品を弟子たちに「どうだ!」と見せつけたかったのである。それでなくても漱石の弟子たちは師匠の漱石の作品を批判することで、逆にその存在をアピールしたかったところがあるので、その批判に対して、「お前たちにはこんな作品は書けんだろう」と言いたかったのであるという。
 そして朝日新聞を読む読者、弟子たち以外の漱石を読む一般読者を「何となく顔の見える存在の読者」として意識したのである。漱石の作品にはそうした三人の立場である読者を意識して作品を重層的に書かれているというのである。

 具体的な例がこの本では示されている。使用した作品は『三四郎』である。その『三四郎』で、三四郎がはじめて美禰子と出会う場面である。
 私もそうだったが、この場面を「三四郎と美禰子が一目惚れする場面と読んだろう。そして、美禰子が先に誘惑したのだと思っただろう。その結果『三四郎』を三四郎が美禰子に翻弄されながらその恋心を育てて行く、三四郎と美禰子の淡い恋の物語と読んだ」。そう読み取った読者は「何となく顔の見える存在の読者」である。
 ところが、三四郎が美禰子と出会う場面の近くには野々宮いた。その野々宮のいた位置と美禰子のいた位置は東大構内をよく知っている読者でないとわからないところがある。それをよく知っている人なら「この場面では直接には三四郎を挑発しているが、美禰子が本当に挑発しているのは、それを後ろで見ているはずの野々宮だったということである。ではなぜ美禰子はそんなことをしたのかと言えば、それが重松の言う結婚問題で『煮え切らない野々宮への<挑発>』だったからである」と読めるらしい。これが「具体的な何人かの『あの人』」たちに向けた手法であったというのだ。
 そして「顔のないのっぺりとした存在のとして読者」、すなわち朝日新聞の読者には、庶民には高嶺の花の東大構内はこうですよと「東京遊学案内」の役割を果たしているというのだ。
 いずれの立場でこの『三四郎』を読んでも、その感想を聞いて漱石はニヤリと出来るわけだ。

 要するにどうのようにでも立場によってさまざまに読み取ることが出来るということである。たとえばその後の作品だって、美禰子のような“誘う女”の物語ととればとれるだろうし、一方“遺産相続”ともとれるというのは、なるほどと思った。それをある程度漱石は計算していたことを著者は言いたいのであろう。そのことは漱石以前に一世を風靡していた、小説には構成など不要だ。事実を切り取るが如く描写すればいいという自然主義文学=写実的文学に対する漱石の批判であり、実験だったと著者は言いたかったのだろう。
 まぁこれだって著者の仮説だろうし、こんなに深読みしなければ小説を楽しめないのも、文学者というのは悲しい商売だなと思った。何となくダン・ブラウンのラングトンがダ・ヴィンチ絵の奥底を語るようだな、とそんな感想を持った。少々小難しいかったけれど、わかれば、それなり面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:漱石と三人の読者
著者:石原 千秋
ISBN:9784061497436
出版社:講談社 (2004/10/20 出版)講談社現代新書
版型:252p / 18cm
販売価:777円(税込)

2009年12月08日

阿刀田高著『街のアラベスク』

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 私は阿刀田高さんの本を読むようになってそれほど月日は経っていない。一度おもしろいと思って、それ以来昔の本をせっせと集めて読んでいるのだが、やはり私は阿刀田さんの歴史ものや古典の解説書の方が、現代短編よりおもしろい、と今のところ思っている。もちろん現代物もはあまりまだ手をつけていないので、これから先どうなるかわからないが、どうもこの手の物語はどこかもの足りなさを感じてしまうのである。どうしてもこの話はこのアイデアがあったから書かれたんだなと思ってしまい、純粋に話を楽しめないでいる。今回もそうであった。残念だけど、どこかあざといところを感じてしまったのである。

 今回は東京の“街”がメインになっている短編連作集である。そしてこれらの話に共通するのは、主人公がかつて住んでいた、あるいはそこで昔の恋愛関係があった場所を、ふと今ぽっかりと時間が空いて、どううっちゃっていいのかわからない、半ば中途半端な時間が出来てしまったとき、思い出すところから、だいたい始まる。
 この感覚よく分かる。特に私も五十近くなってから、その傾向がよく出て来る。私の場合恋愛とか昔住んでいた場所ではなく、どちらかと言えば一時関係していた場所といっていいかもしれない。あそこは今どうなっているんだろう、とか、もう変わちゃって、あの建物はないだろうな、とかいった感じである。もちろんそれぞれの場所は私に何らかの関係があった場所ではある。

 「もしかしたら、だれしもがそんな場所を一つか二つ、持っているのではあるまいか。子どものころに、青春時代に、あるいはサラリーマンになりたてのころにサムシングのあった場所。今の生活と関わっているわけではないから、たまに思い出して、
-いつか行ってみるかな-
 でも実際にはほとんど足を運ぶことがない。人生のあちこちに飛び地みたいに点在して、孤立して、そのままになっている場所と時間。近かったり遠かったり。そこで費やした時間も短かったり、それなりに長い歳月であったりして・・・・」

 そう、こんな感じである。かつて何らかの関係があった街は、その関係が現在続いていないこと、つまりすべて過去形になっている分、時間がある程度美化しているところがある。たとえその街で苦しかったこと、悲しかったことが多くあっても、それが終わってしまっているなら、時が「そんなこともあったなあ」と他人事のように思えるようにさせてくれる。あるいは単に思い出だけでなく、妙に輝かせちゃったりしちゃう。

 「ううん。これでいいの。馬鹿な話、聞いてほしかったの。昔はいろいろあったなあ、って。馬鹿なことでも、若いころは、一つ一つ輝いていたわ。あんた、言ってたわね。トイレの百ワットだって」

 「なんだ、それ」

 「無駄に輝いているだけだって」

 そしてそれがある程度歳を行ってくると、そういうことを思い出すことが楽しくなってくる。

 「二年後には五十歳になる。五十歳を超えて、女にも恋のチャンスはあるだろうけれど、実感として詩子には薄い。これからのことより、これまでのことを考えるほうが楽しい」

 まあそれだけ若くなくなったという証明なんだろうけど、それはそれで老後の楽しみの一つと考えていいのではないかと思う。

 この短編集に出て来る街で、新宿十二社というところがある。ここには温泉がある。昔大手町の売店の本屋で働いていた頃、売店仲間でここで忘年会をやったことがある。
 今では温泉の掘削技術が発達しているから、東京の至るところに○○温泉と名をうっているけれど、当時は新宿のど真ん中で温泉なかあるのかと思ったもんだ。真っ黒いお湯が印象に残っている。今みたいスパなんてシャラ臭い名前じゃなくて、「新宿十二社天然温泉」というのもいい。いかにもヘルスセンターみたいなところであった。あの頃は若かったこともあって、飲めないお酒を飲んで、寝込んでしまったようで、気がついたら横で寝かされていた。今はどうなっているんだろうか。当時と変わっているのか、いないのか、ちょっと知りたいところである。


評価
★★


書誌
書名:街のアラベスク
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343257
出版社:新潮社 (2007/12/20 出版)
版型:331p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年10月30日

小沢信男著『東京骨灰紀行』

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 一風変わった東京散歩である。歴史散歩、文学散歩とも言えそうだけど、巷にあるよくある歴史散歩でもないし、文学散歩でもない。東京に地下に埋まった骨、それも無数の骨が埋まった地帯を歩いているのだ。以前有名人のお墓を訪ね歩いた本があったような気がするけれど、ここでは無数の骨が埋まっている、あるいは埋まっていた場所を訪ねている。無数の骨という以上無名の人々たちが半ば打ち捨てられた場所と言っていい。
 そんな場所が東京にはいくつかある。たとえば両国、日本橋、千住、谷中などである。両国は明暦の大火、いわゆる振袖火事の犠牲になった人々を供養した回向院とあの関東大震災で多大な犠牲者を出した被服廠跡地、またその人たちと東京大空襲の被害にあった人たちを供養する東京都慰霊堂がある。
 日本橋は小伝馬町牢屋敷でばんばん首を斬られて処刑された場所。かの吉田松陰もここで処刑された。また吉原の遊郭も最初ここにあった。
 千住では明暦の大火のあと日本橋にあった吉原の遊郭が引っ越してきた。ここで春を売っていた遊女達が心身を病んで自殺や変死すると、総墓という大きな穴に投げ込まれた。その数二百余年でざっと二万五千体という。変死体は裸にされ菰に巻かれ投げ捨てられた。
 ここには江戸時代に火葬場もあり、とりわけ流行り病であるコレラ、赤痢、チフスで数多くの死亡者がここで焼かれた。さらに小塚原の処刑場もあり、回向院では「観臓記念碑」がある。すなわちかの杉田玄白・前野良沢、中川淳庵たちがここで処刑された青茶婆という五十歳ほどの女性の腑分けを見て、解体新書を訳そうと思った場所なのだ。とにかくこの地はものすごい数の人骨が埋まっており、あのつくばエクスプレスが地下を通る時の工事では、人骨の山だったというくらいなのだ。
 谷中ではまず上野の彰義隊がある。官軍に敗れた旧幕府側の犠牲者が打ち捨てられたままであった。また谷中といえば墓地ということになるだろうが、ここにはたくさんの歴史上の有名無名の人物達が葬られている。さらに「千人塚」というものがあって、大学病院で解剖された人々を慰霊碑がある。往年の古老が語っていることがすごい。曰く「あの辺を投げ込みっていって、大学病院などの研究材料で解剖した身元不明者や罪人を土葬で葬ったところです。土がやわらかく栄養もきいているのか、ふかふかで春はつくしんぼがいっぱい。いっちゃいけないといわれると怖いものみたさでいくと、白骨なんかころがっていて、むしろや樽棺で運んでこられた遺体をカラスがつついたりしてほどけたのなんかぞっとするほど怖かったです」と。
 ちょっと前までは遊女、罪人、行き倒れの身元不明者、賊軍の兵などの死体は、ゴミを捨てるが如く、打ち捨てられていたことを思い知る。

 この本では両国を最初と最後に取り上げているのだが、最後の被服廠跡地は私も行ったので興味があった。横網町公園の中に慰霊のためにある東京都慰霊堂も見てきた。ただ私はこの公園がその跡地なのかなと思うほど狭い気がして、公園の片隅にある東京都復興記念館の受付のおばちゃんに確認したくらいなのだ。
 この本によると被服廠跡は六万七千平方メートルだったそうで、横網町公園は二万平方メートル弱。大正12年の惨劇の三角地の、北側三分の一ほどを公園にしたとのこと。実際は横網町公園とその横にあるNTTドコモのビルと第一ホテル両国、日大一高墨田区立両国中学校があるところが被服廠跡地なんだそうだ。ちょっと前に行った両国を思い出しながら、なるほどと、思った。著者はこれらの高層ビル群は死屍累々を礎石としてそびえたっているのですねと言っているが、私も公園内の敷地のベンチでここで亡くなっていった人たちの数やその阿鼻叫喚とした状況を想像するに、ただただ呆然としていたのを思い出した。
 東京都慰霊堂には関東大震災の犠牲者五万八千体、戦災十万五千体の骨が弔われている。


評価
★★★


書誌
書名:東京骨灰紀行
著者:小沢 信男
ISBN:9784480857927
出版社:筑摩書房 (2009/09/10 出版)
版型:251p / 19cm / B6判
販売価:2,310円(税込)

2009年10月01日

阿刀田高著『おとこ坂 おんな坂』

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 どうしても読んでいて気になってしまうのは、ひとつひとつの物語のモチーフや使われる言葉など、多分阿刀田さん思いついたアイデア帳から取られたんじゃないかなということである。
 阿刀田さんはよく自分の創作現場を“小説工房”といっているが、普段ちょっと思いついたアイデアや気になったフレーズなどをノートに記して、小説を書くときに、使えそうなものがあればそれを使って書くと言っておられる。それが私の中に記憶としてあったものだから、ここにある短編は「多分これがアイデア帳にあって、使われたんだな」と思えたのである。
 どうしてそんなことを感じるようになったかというと、たぶん今まで阿刀田さんの多くのエッセイや紀行文などを読んでいるからかもしれない。それぞれこれじゃないかなと感じられたものはあったが、一部例をあげれば次のようである。

 「独りぼっち」
 傾斜がきつい男坂、なだらかでトロトロ登れる女坂

 「鯉づくし」
 鯉づくしの最後は、恋

 「ルビコンという酒場」
 私、本当にルビコンを渡ったの(シーザーがポンペイスを倒すために国禁をおかし、軍と共にルビコン川を渡った故事にちなんでいる)
 
 やきもちというのは、まん中に大きな餅を一つ置き周囲に小さな餅を五、六ケ置いておく。火であぶると小さな餅が先に焼け、膨らんでやぶけて手を伸ばし、一つがまん中の餅にくっつき、負けじともう一つがまん中の餅にくっつく。それでやきもち言うのだとか

 「黄色い子びん」
 ビーチコーミング(beach-coming)とは海岸を櫛ですくように、熊手で漂流物を集めること

 これらのアイデアやフレーズを使ってこれらの短編は書かれたと私は思っている。しかし読む側の私がそちらの方が気になってしまっているから、本当の意味でそれぞれの物語が楽しめなかった。つまりこれらのアイデアやフレーズが創作側に最優先にあって、それが勝ってしまっている気がしたのである。あまりにもそれらが目立ってしまうものだから、それだけが際立ってしまっていて、話全体の統一感が損なわれている。それらはさりげない使い方をすればちょっとしたスパイスになって、話にしまりが出てくると思うのだが、そうではなく、たとえればスパイスの利きすぎた辛いカレーを食べている感じだ。
 そうしたアイデアやフレーズを嫌が上でも使わなければならないのと、物語の展開場所を日本各地を舞台にした短編小説でなければならないというのもあって、どこか全体に無理な感じが漂う。

 阿刀田さんの文章によく「つきづきしい」という言葉が出てくる。あまり聞き慣れない言葉なんでどんな意味か気になっていた。パソコンに組み込まれている広辞苑ではこれに該当する言葉が変換できない。で、三省堂の大辞林で調べてみると、漢字で「付き付きしい」と書く。意味は①ふさわしい、似つかわしい、好ましい②いかにももっともらしい、という意味だ。
 ここにある短編にも二度ほどこの言葉が出てきたと思うが、私には話の内容が「つきづきしくない」気がする。どうもそれぞれの舞台が仰々しい。それに大体が酒場で話が展開するやり方はちょっと安易すぎはしないかなと思う。なぜならお酒が入ればどうしても人間感傷的になりがちだから、そこで話を作れば、悲しい話にもなる。思い出話にもなる。ある意味阿刀田さんらしくない。

 強いていいフレーズだなと感じたものを書き出してみる。

 「人生はいろいろですよ。どんなに執念を燃やしても、できないことがある。願ったことの、すぐ隣くらいのことができたら満足すべきでしょう。事実、満足できます。そこで充分に自分を燃焼させられればいい」

 人生少し余して生きるのはよいのかもしれない。きっとそうだ。余して生きれば逆によいものを発揮できる。
 

評価
★★


書誌
書名:おとこ坂 おんな坂
著者:阿刀田 高
ISBN:9784620107035
出版社:毎日新聞社 (2006/07/15 出版)
版型:357p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2009年08月27日

阿刀田高著『新約聖書を知っていますか』

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 今度は新約聖書である。阿刀田さんは「旧約聖書のほうはイスラエル建国史と読める部分もあるから、まだしもやりようがあるけれど、新約聖書は徹頭徹尾信仰と結びついている」と言っているように、この本を読んで、新約聖書は信仰をどう考えるかに尽きるような気がする。しかも私みたいに信仰を持たない人間にとって、新約聖書の言葉は基本的に理解しにくい部分がどうしても残ってしまう。

 ここにミケランジェロの「ピエタ」がある。


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 この本を読んで知ったのだが、ミケランジェロの「ピエタ」は四作あるそうだ。その中で一番有名なのがバチカンにあるこの「ピエタ」である。後の三作をネットで調べてみると、これがミケランジェロの作品?と思えるほど、見栄えが悪い。中には作成中といったものさえある。
 阿刀田さんは、処刑されたイエスを抱きかかえるマリアの姿に美しさと神々しさを感じているが、確かにこれが人が彫った彫刻なのかと思えるほど、この作品の完成度は言葉が出ないほどだ。
 この「ピエタ」から阿刀田さんはイエスが十字架に懸かり、復活する意味を次のように説明する。

 神が実在し、自分が神の子であることを証明する方法として、(それだけが目的ではなかったろうが)病人を癒したり、超自然的な技を演じて見せたりしたが、それだけではまだ迫力が足りない。伝聞であったり偶然と思われたりして、説得力を欠く。そんなイエスが、ある日、忽然と得た啓示が“十字架に懸かり、三日後に復活する”であった。預言書にもそんなことが記してある。それを実現することが神の子の証明であり、それによっていっさいのロジックが生きて意味を持つ。先に私が“復活はイエスとその信奉者にとって、このうえなく大切なことであった。信教の存亡にかかわる重大事であった”と書いたのは、このことである。イエスは絶対に復活しなければいけなかったのである。

 とにかくここに書かれるイエスが行う奇跡は私みたいに信仰を持たない人間にとって、ただ“胡散臭い”だけであって、これがどうして信仰に結びつくのかわからない。
 阿刀田さんも私同様信仰を持たない人と言っているので、イエスが行う奇跡、復活を推理小説家としてそのトリックとして説明する。私も阿刀田さんのこの説明の方が受け入れやすかった。
 例えばマリアの処女受胎にしたって、昔、ナザレという町にマリアという名の娘がいて、ヨセフと婚約していたが、よんどころない事情により、他の男と交わり身籠もってしまった。それを知ったヨセフはいったん婚約を解消しようと思ったが、マリアの人柄の良さや愛情の深さを感じ、さらに生まれてくる子供には何ら罪はないと考え、二人は結ばれ、そしてイエスが生まれた。
 イエスが手を触れれば、病気が治るというのも、その人が心因性の病気の人であった可能性が高い。湖の上を歩いたというのも、単に湖の浅瀬を歩いただけなのに水上を歩いたと宣伝されたか、あるいは湖の浅瀬を歩いていただけでも見る方向によって水上を歩いたようにだって見えるだろう。結婚式の酒が上等な酒に変わったのも、単にイエスのスピーチがすばらしかったから、それを聞いた出席者が大きな喜びを感じただけであって、酒が上等なものに変わった訳じゃなくて、気分がそう感じさせただけのことだ。
 イエスの復活だって、復活したイエスがその姿をあらわすのは弟子の前だから、口裏を合わすのは簡単だったろう。マグダラのマリアだって言い含めていたのだろう。
 イエスの墓には遺体がなかった。復活のためには遺体があっちゃまずいからだ。イエスのシンパがイエスが生前言っていた復活を画策し、それを実行しただけのことだ。遺体を他に移したのだ。だから復活は墓より遠く離れた場所のガリラヤである方がいいに決まっている。
 たぶんそういうことなんだろう。

 しかしイエスの奇蹟、復活がこのように説明がつくとしても、イエスを信じる人にとってはそれは意味をなさないのだろう。聖書に書かれたことを、そのまま信じることが意味をなすからだ。大切なことは「信じること」なのだ。それを「そんなことありえんだろう!」と言っちゃおしまいなのである。
 阿刀田さんが言うように、「大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが実存していたことのほうである。事実に近い奇蹟もあったろうが、まるっきり作り話もあっただろう。だが、いずれにせよ、奇蹟のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こういう伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい」。
 そしてイエスが人を信じさせるテクニックに優れていたことに尽きるんじゃないかと思ったりする。阿刀田さんは「イエスの言葉は、たとえ話であったり、質問に対する断片的な返答であったり、戒めであったりして、まっ正面から教義の中核を語っているものは思いのほか少ない」と言っている。このことはイエスの性格である皮肉屋で韜晦趣味的傾向から由来するにしても、何から何まで、至れり尽くせり説明はしない。適当なところで止めている、と言えないだろうか。意味深長な言葉を残されれば、後は自分で考えるしかない。そこがポイントなのだ。考える人が置かれている環境によっては、あるいは性格によっては、イエスは神の子ともなるだろうし、ペテン師にもなるような気がする。
 そうしてイエスの教えを最初に広めたオルガナイザー的存在のパウロがいたからこそ、キリスト教は広まっていった。それはローマという時代背景も大きな意味を持つ。キリストの教えにすがりつかなきゃ生きていけない民衆が多数いたからである。信じるしかない状況に置かれた人間が数多くいればいるだけ、その宗教は広まっていくはずだ。

 私は何度も言うように信仰を持たない人間である。だから信仰という問題にこれ以上は何も言えない。そしてたとえそれが一種のペテン的記述であっても、それを信じることで、生きる意味を見出し、思想、文学、哲学、美術、音楽等、いわゆるヨーロッパ文化が生まれているなら、それはペテンでも何でもなくなると思っている。実際偉大さも、尊敬も感じている。信仰がなければそんな文化など生まれるわけがない。


評価
★★★


書誌
書名:新約聖書を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343165
出版社:新潮社 (1993/11/15 出版)
版型:265p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本あり

2009年08月25日

阿刀田高著『旧約聖書を知っていますか』

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 この本以前から気になっており、読んでみたいのだけれど、一方で手に負えない感じがしてしまい、手には取るのだけれど、また本棚に戻してしまうことが続いた。要するに昔から聖書について、どこから手をつけていいのかわからないところがあって、その気持が読むことに尻込みさせるのである。
 大学時代西洋史学を専攻しておきながら、根本的なところで聖書に手をつけずにきてしまった負い目みたいなところが自分にはあるのだ。聖書も読まずに何が西洋史学だと言われそうなのが嫌だったのである。で、ここで気を新たにこの本を読むことにした。それでこの本かよとも言われそうだが・・・。だってお恥ずかしい次第だが、この本を読むまで預言者を予言者と同じだとずっと思っていたのだ。ちなみに聖書の世界では預言者と書き、決して予言者とは書かないそうで、予言者は易者のように未来に起きることを予め言う者であって、預言者とは神の言葉を預かって言う者なんだそうだ。

 まずこの阿刀田さんのこの本を読んで知ったことを時系列的にまとめると次のようになるようだ。
 旧約聖書は天地創造から始まり、アダムとエバを作る。(エバはアダムのあばら骨を取って作られた)そして有名な禁断の実を食べてしまい、楽園を追放される。
 楽園を追放されたアダムとエバはカインとアベルを生む。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となるが、ところがカインはアベルを殺してしまい、神の怒りを買い、エデンの東をさまよう人となる。アベルは殺され、カインもどこかへ行ってしまったので、アダムとエバはまた子供を作り、その系図が続いてノアに至る。
 ノアの時代になると、どいつもこいつも悪事を企み、神をないがしろにする。神は失敗したと思い、世界をもう一度作り直そうとするが、ノアの一族は神を敬うことを忘れなかったので、神はノアに大きな箱船作らせ、洪水に備えさせる。そして洪水が去った後、ノアの一族、連れてきた家畜を外に出させた。神はノアの子孫の繁栄を約束し、この流れからアブラハムに至る。
 ノアの時代には地上の人間は同じ言葉を話していたが、人々は神に近づこうとして天まで届く塔を建てようとした。神はこのまま放っておけば人間は何をしでかすかわからないから、それまで話していた言葉を通じないようにした。当然共同作業の塔作りはできなくなり、作りかけのまま人々は四散する。こうして世界にはさまざまな言語が生まれたという。塔はバベルの塔と呼ばれたが、バベルとは“乱れる”という意味である。
 さてアブラハムの子がイサクで、イサクの子がヤコブ、ヤコブの子がヨセフと続く。そしてその四代あとに生まれたのがモーセである。
 モーセは“出エジプト”で有名だけど、なんでイスラエル人がエジプトいて、そこから脱出しなければならなかったのかとかねがね不思議に思っていた。この本によると、ヤコブは子沢山で、その中にヨセフがいた。こいつが兄の気持ちも察せずに、兄たちが自分にひれ伏す夢を見たことを伝え、それが生意気だと喧嘩になり、穴に突き落とされる。それを通りかかった隊商が見つけ、隊商たちの手でヨセフはエジプトに売り飛ばされたのだった。
 ところがヨセフはその得意な才能を発揮し、エジプト王に重用され、その一族はナイルの地で住みつく。そのうちイスラエル人は力を蓄え始め、あなどりがたい勢力となっていく。それがエジプトの反感を買い、迫害にあう。その生き残りがモーセであり、彼は仲間を救いだし、エジプトを出て、カナンに行けという神の声を聞く。その脱出行が映画の“十戒”の有名な場面となるわけだ。エジプトを出て三ヶ月後、モーセはシナイ山麓で神の言葉を聞く。それが十戒である。それを石版に刻み、それを納めた箱が聖なる箱として以後鄭重に扱われる。関係ないかもしれないが、これがインディージョーンズの『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』なんだろう。
 さて、イスラエル人はシナイ山麓でヤコブの子孫を祖先にして十二の部族に分かれて生活し、その後モーセの後を継いだのがヨシュアであり、ヨシュアはカナンの地を征服する。
 その後十二の部族は王を一人立てまとまろうとし、預言者サムエルに神の声を聞き、ベニヤミン族のサウルを選び王とする。しかしサウルは奢り、予言者サムエルはサウルを王にしたことを後悔し、再度神の声を聞く。神はベツレヘムにいるエッサイの息子に王となるべき者がいる言い、それがダビデであった。ダビデは末っ子ということもあって、弱そうであったが、ある時ペリシテ人との戦いで豪傑ゴリアトと誰もが戦いを尻込みしているところに「なにびびってんの?僕がやっつけてやる」と言い、石を紐に結びつけ、それをゴリアトに投げつける。それが額に命中し、ゴリアトは崩れ落ちる。すかさずダビデは剣を抜き、首を斬り落とす。この石を投げる前の姿があのミケランジェロのダビデ像である。右肩に石を持っているでしょう。



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 私は知らなかったがヴェロキオのダビデ像は足元にゴリアトの首が転がっているやつがある。



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 次にダビデ王の時代となる。ダビデは家臣のウリヤの妻パト・シェバの美しさに目を奪われ、彼女をものにするが、子供が出来てしまった。当然このことでダビデは神の怒りを買い、骨肉の争いが起こり、その罪を償わされる。ダビデはなんとか悔い改め、正式にパト・シェバを妻にし、また男の子を産む(先の子は神に怒りで死んでしまっていた)。それが英雄ソロモンである。
 ソロモンは新進的な王であったらしく、イスラエルの神にこだわらず、他の民族の神の存在を認めた。また神殿や宮殿に多くの国費を費やし、奢侈に流れ、民衆の信頼も神の信頼も失い、以後イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分かれるが、北王国は紀元前722年にアッシリアに攻められ滅亡。南王国も紀元前586年新バビロニアのネブカドネザル王に攻められ滅亡する。この時多くのイスラエル人がバビロンに連行される。所謂“バビロン捕囚”である。イスラエル人が再びカナンの地に戻るのはペルシア王キュロスが君臨した紀元前538年からである。ヘロデ大王の紀元前40年イスラエル人の王国が再建されるが、これも分裂後紀元70年に第二神殿が炎上し、以後イスラエル人は拠り所となる国を失う。彼らが再び国を持つのは1948年イスラエル建国を待たなければならず、その間約二千年の長きにわたり世界の各地で流浪することとなる。
 
 以上が旧約聖書をもとにしたイスラエルの歴史というところだ。この後阿刀田さんによれば、聖書の記述は複雑になるらしい。私が興味のある記述は、イザヤの書である。これは所謂預言の書というもので、バビロンの捕囚以後苦しい現実を前にして、ダビデの血筋から救世主が現れると言っているのである。それがイエス・キリストであり、そこから新約聖書が始まるので、旧約と新約の接点がここにあるのだと阿刀田さんは言っている。しかしユダヤ教では救世主の到来を預言しておきながら未だ現れていない。イエスを救世主として認めていないらしい。

 しかし思うのだけれど、イスラエル人の信仰は厳しい。いや、神が自分以外の神を信じることを認めない。だから少しでもそれに背くと、罰が与えられる。ひたすら罰が恐ろしいから、一心に自分たちの神を信じる。その神を信じていれば自分たちだけは救われるということにもなる。そうした背景があるから“選民思想”は強くなり、イスラエル人の団結がいっそう強固になる。
 ところがこうした融通の利かない民族は、多民族とうまくやっていけないのではないのかとも思ってしまう。他の民族からすれば、ひたすら自分たちの信じる神だけを信じ、自分たちだけが選ばれ、救われるといい続けられれば、やりにくて仕方がないだろう。協調性がないと思われても仕方がないような気がする。ユダヤ人の迫害が歴史上何度も起こっているのは、経済的理由によるものが大きかったと言われるけど、一方でこうした選民思想の塊である民族とうまくやれない関係が、そうした迫害のターゲットになっていった気がする。そしてそうした迫害が起これば起こるほど、ユダヤ人はさらに自分たちの団結を強める結果となり、それが他民族の憎しみをまた買うことになる、悪循環を生んだのではないかと思った。民族、その歴史は尊敬するけれど、偉大な民族は大変だね。

 最後に阿刀田さんの言葉が気に入った。この本を書くに至った理由を次のように言う。

 読書は楽しいことであり、大切なことでもあるけれど、人生にはほかにも楽しいことがたくさんあるし、大切なことはさらに多い。古典なんか読まなくたって、りっぱに生きていける。そういう人生もいくらでもある。
 そういう考えに立ったとき、古典は原点をしっかり読むのがよいにきまっているのだが、現実問題としてそうそう読めるものではないし、不充分ながらも知っておけば、ほかのことを考えるときに役に立つ。軽いダイジェストのようなものがもう少しあってよいのではあるまいか。私の、このエッセイは、そういう目的で綴ったものである。
 もう一度くり返して言うが、原典を読むのが一番よいのである。
 だが、旧約聖書について言えば、簡単に読めるものではない。研究者でもない限り、全巻をきちんと読むことは不可能である。断言してよい。普通のサラリーマンが信仰もないのに、電車の中で旧約聖書を読んでいたら、
 -狂ったのと、ちがうか-
 と私はそう思いたい。理想は理想として、この古典について読めないのが普通である。

 こういう風に書いてくれるとうれしくなる。人によって読める本と読めない本があって当然なのだと言ってくれるわけだから、私が聖書を手にしなかったことも、ある程度許されそうな気がする。
 一方だからといってそれでいいかというとそうも行かない部分がある。こうして本を読むこと、あるいは絵画など鑑賞する場合、ある程度聖書の知識があった方が、その奥行きを知ることができる。そういう意味で阿刀田さんのこのシリーズは非常に助かるのである。


評価
★★★


書誌
書名:旧約聖書を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343158
出版社:新潮社 (1991/05/25 出版)
版型:290p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本あり

2009年06月26日

阿刀田高著『朱い旅』

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 主人公の“私”は、妻の房子からモリエールの「アンフィトリオン」という芝居のキップをもらい、それを見にいく。“私”はアンフィトリオンという題名の本を昔父親の本棚で見たことがあった。アンフィトリオン、それはギリシア神話であった。アンフィトリオンはテーベの武将で、その妻はアルクメーヌであった。新婚まもない二人は相思相愛の仲なのだが、オリンポスの大神ジュピテル(ゼウス)はアルクメーヌを見初め、わざわざ戦争を起こして、アンフィトリオンを戦場に追いやり、その間に自らアンフィトリオンの姿に変えてアルクメーヌの寝室に忍び込む。そして交わる。その子がエルキュール(ヘラクレス)であった。
 モリエールの劇はこのアンフィトリオン伝説を基に当時のフランス宮廷風俗を諷ししたものであった。しかしこのアンフィトリオン伝説はいろいろな劇作家がそれを基にして劇を作っていた。ローマ時代にはプラウトス等が諸神賛歌として表現したし、17世紀にはこのモリエールやロトール等の手によって宮廷風俗の風刺として、そして二十世紀に入りジロドゥーが「アンフィトリオン38」として実存主義の表現として演じられた。
 問題はこのジロドゥーが「アンフィトリオン38」である。この作品が“私”の両親の秘密と出生の秘密とからみ合って物語は進む。“私”は国立中央図書館で司書として働いていたが、両親はいずれも亡くなっていた。
 あるとき“私”は図書館連盟の親睦会でギリシア旅行へ行くこととなった。そこで“私”の父親の友人だという田辺という人物に声をかけら、結婚前の父親と母親が一緒に写っている鎌倉での集合写真を渡される。その写真を眺めているうちに自分に似た顔の男に目がとまる。
 翌日田辺に男の名前を聞くと不二草薫という経済学部の助教授だと知らされる。しかし不二草は自殺していた。不二草は萩の人であった。そして“私”の母親も萩の生まれであった。さらに母親の遺品から古い本を取り出してみると、そこには“不二草薫”という名前が書かれていた。
 以来“私”は不二草薫と両親の過去を調べ、両親の秘密と自分の出生を推理し始める。
 “私”の母親は上京して、二十歳の時に大学の経済学部の事務員として勤務した。そこに将来を嘱望された不二草がいた。やがて二人は同郷のよしみで近づき、関係が生まれた。しかし不二草は人間的に歪みのある人物で、“私”の母親はこのままでいいのか不安に駆られる。そんな時大学の図書館に勤務する父親と知りあう。次第に二人はお互い好意を持ち始め、愛を育んでいく。父親はこのままではまずいと思い、自分たちの関係を不二草に話そうとする。母親はそんなことをする必要はない。自分は不二草の持ち物でもないし、妻でもない。自分に意志で行動すると言い、大学を辞め、父親の元へ走る。それを知った不二草は自尊心を傷つけられ、もともと精神的に問題があったこともあり、奇行を示すようになり、自殺する。
 父親と母親が同棲を始めた頃、父親が交通事故に遭い、子供を得られない身体となったのに、母親に子供が宿ったことを知る。果たしてその子は自分たちの子供であろうかと疑いを持ち始める。しかし父親は決然と「私たちが信じれば、(その子は)私たちの子だ」と言い、“私”が生まれた。そう推理したのである。
 まさしくこれは漱石の『それから』と『門』の世界である。
 そして“私”の父親が修士論文として、アントフィトリオンをテーマにして書いていたことを知り、その論文を手に入れる。“私”はそれを読んで、ジロドゥーの「アンフィトリオン」にふれている章に至って、「入れ込んでいる」と感じ始る。
 ジロドゥーの「アンフィトリオン」ではジュピテルがアルクメーヌにエルキュールは自分の子で、神の子だと言うのだが、アルクメーヌはそれを認めない。エルキュールは自分の子で、神ではなく人間の子だと言い切るのである。ジュピテルが神としての能力を披露しても、「それが何なの?」と徹底的に否定的である。自分がアンフィトリオンとの間の子で、人間の子だと言えば、そうなのだと言い切るのである。そこには事実はどうであれ、生まれてくる子供が何であるか、その決定は神ではなく、アルクメーヌにかかっている。わが子の誕生はアルクメーヌとアントフィトリオン、つまり人間の夫婦の認識にすべて委ねられる。ここには明らかに実存主義の影響が読み取れる。
 19世紀までは混沌とした世界であっても神が調和の道を用意してくれるというよな思想が一般的であったが、20世紀になると“神が死んだ時代”であり、あるいは“神の否定”がそのまま“人間賛歌”と変わっていく。神であるジュピテルが何と言おうと、人間であるアルクメーヌとアントフィトリオンがまず自分たちがあって、そして自分たちの意志ですべてを決めていく、そういう姿勢が何より大切なのだとジロドゥーの「アンフィトリオン」では言っているのである。
 それを感じた“私”の父親の論文は、当然自分たちの境遇とクロスするところがあるから、必然的に入れ込むしかなく、“私”がそう感じても少しも不思議ではない。そして両親が“私”を自分たちの子だと決意したのだから、“私”は両親の子なのだと思うようになる。

 この作品はギリシア神話を基にした劇の中に隠されている思想と、漱石の作品かと思わせる物語がうまくミックスして、なかなか面白い作品であった。


評価
★★★


書誌
書名:朱い旅
著者:阿刀田 高
ISBN:9784877280468
出版社:幻冬舎 (1995/04/26 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,528円(税込)

2009年06月12日

阿刀田高著『日曜日の読書』

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 この本昔新潮文庫で出ていた。今は目録を見るとないようなので、品切れ重版未定の状態なんだろう。で、私は親本をたまたまブックオフで見つけた。富士通経営研修所という聞いたことのない出版社から出ている。どうしてこんな出版社から阿刀田さんの本が出ているんだろうと思いつつ、はしがきを読んでみると、どうやらこのエッセイは講演集であり、もともと富士通の研修で行われた講演を一冊の本にしたようだ。
 どういうことかと言えば、当時富士通では四十五歳以上の社員は通称“四十五歳研修”を必ず受けなければならないらしく、それは元会長の命令らしい。趣旨は富士通の社員はコンピューター関連では優秀であるが、教養に欠けるところがある。だからもう少し文学、絵画、演劇、音楽、宗教等教養を深める必要があるということでこの研修が必修となったらしい。そして文学を担当したのが阿刀田さんである。
 ここでは堅苦しい文学講義をされたわけではなく、あくまでも教養という範囲内の話がされている。要は本をどう読めばいいのかということで、テキストにされたのが以下の作品である。

芥川龍之介 『羅生門』、『藪の中』
柴田翔 『中国人の恋人』
遠藤周作 『深い河』
阿刀田高 『新約聖書を知っていますか』
松本清張 『ゼロの焦点』
吉本ばなな 『キッチン』
大江健三郎 『飼育』
安部公房 『砂の女』
井上靖 『楼蘭』

 このうち『羅生門』、『藪の中』、『深い河』、『ゼロの焦点』、『砂の女』、『楼蘭』は読んだことがある。中でも『深い河』の阿刀田さんの解説では、「この小説には、遠藤周作自身が感じたであろうこと、すなわち、遠藤周作のように幼い頃からキリスト教の中にあった人であってもなおヨーロッパ人が考えているキリスト教に入ってゆくのはむつかしい部分があるという現実が非常に巧みに書かれていると思いました」という部分は私もそう感じたのであった。大津という神父を目指す人間が苦悶しつつ、日本人にとってキリスト教とは何かを問い続けた姿を見ると、まさしく阿刀田さんが感じた通りだ。
 あと井上靖さんの『楼蘭』も“あっ、そうか!”と思った。そこには「普通の小説では、事実を先に置いて、このような事実がありました。これはこういう事情だったでしょう、というふうなスタイルが多いのですが、この小説は全く逆の作り方で、不確かな王妃様の死の事情を先に置いて、最後にヘディンの発見という事実を示して、前の王妃の物語に現実性を持たせています」とある。確かにそうだ。そしてもう一つ井上さん作品で『敦煌』も同じスタイルだったんじゃなかったかなと思った次第だ。

 ここで面白いと思ったことを書く。大江健三郎さんの作品は難解だと阿刀田さんは言う。読みにくいとも言う。でもサラリーマンの読書として、大江さんの作品を難解だと言って途中で投げ出したってかまわないと言ってくれる。要は自分に合わない本なら、止めちゃたって、一向にかまわない。だって学者や学生の研究のために読書をしている訳じゃないのだからと言うのだ。読書を楽しみなさいというところだろう。私もこの意見には大賛成だ。ただ難解だといって一向にページが進まないのは悔しい部分はあるけれど。
 もう一つ面白いと思ったことはワープロに対する阿刀田さんの意見である。この本は阿刀田さんの作品紹介が最初にあって、その後質疑応答がある。この質疑応答は講義の内容に限定せず、文学に対する、あるいは小説家に対する富士通の社員の疑問点を受け付けている。
 そこで阿刀田さんが小説を書くに当たり何を使って書かれているかという質問がある。阿刀田さんは鉛筆で書かれていると言うが、昨今ワープロで文章を書かれる作家も数多くいることにふれ、ワープロを使うことで問題点を指摘する。曰く、「たとえば、ある言葉を求めると、頻度の高い言葉がいくつか並んで画面に出てくる。その中から選択するようになっている。頻度の高い言葉というのは、過去の統計から見て割り出されたもの」である。でも創作というのは「創造的な言語の使い方」が必要であって、それが欠けてしまうのではないか。
 曰く、「文学の研究の分野から言ってワープロ時代になると、生の原稿を基にして、作家の思考プロセスを判読する方法がなくなってしまう」。つまり生原稿の書き直し、書き加えは、どういう経緯でそういう文章になったかを読み取れるというのだ。
 さらに、ワープロで作品を書いているからか、最近の新人さんの小説は長いという。また主人公の名前が以前なら手で書くため字画が少ない名前だったのだが、ここのところ手間のかかる、例えば“麗子”なんて使うと言う。これは笑った。さもありなんと思った。手書きだったら絶対に“麗子”という名前は使わないだろう。やはりこれはワープロがなせるワザだろう。
 最近読めない漢字の読み方の本が売れているらしいが、そこに書かれている漢字って普段使うものなのだろうか思う。特にテレビの雑学クイズ番組でやっている小難しい漢字をどう読むかなど、それが読めたからっていったいどうなるというのだろうかと思う。そんな漢字普段使わないでしょ。大方の人が読めないなら使わない方がいい。読めなきゃ意味が通じないはずだ。だったらひらがなで十分だ。ひらがな文章も結構美しいものである。文章は伝達手段であり、漢字はその文章を構成するひとつの記号である。もちろん漢字は表意文字だから、漢字そのものに深い意味が込められることも理解しているけれど、それが読めなきゃ意味がない。
 最近はブログなどの普及によって一億総文章家的なところがあるけれど、そこに書かれるいかにもワープロが変換してくれましたという漢字がずらりと並ぶ文章を見ると腹が立ってくる。難しい漢字を書けばそれが格調のある文章だと勘違いしている。そう思うことがよくある。


評価
★★


書誌
書名:日曜日の読書
著者:阿刀田 高
ISBN:9784938711436
出版社:富士通経営研修所 (1996/01/25 出版)
版型:286p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2009年05月27日

阿刀田高著『リスボアを見た女』

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 この小説は『怪談』、『海の挽歌』と同じスタイルをとる小説で、主人公が昔知った、あるいは学んだ歴史について、後に調べてみようとするやつである。
 野々村二郎は小学校の時、夏休みの登校日に行われた「鉄砲伝来」というテーマに友人に誘われ出席する。話をした教師は、1543年に種子島においてポルトガル人から鉄砲が伝わり、それを模倣して日本人が自らの手で鉄砲を作ろうとするのだが、鉄の筒を作ることはできても、片方を閉じることができない。どうしてそれを閉じたらいいのか、教えてもらうために職人は自分の娘を泣く泣くポルトガル人にやって教えてもらったということを思い出し、時々古銃に関して調べていた。そうしていつの間にか四十代になった野々村は有給休暇の消化のため、種子島へ旅に出る。
 とにかく鉄砲に興味のある野々村は当時の領主であった種子島時堯がポルトガル人から譲り受けたと言われる火縄銃とそれを元に刀鍛冶八板金兵衛清定に作らせたという火縄銃が展示してある鉄砲館へ向かう。しかしここで鉄砲伝来にはいくつかぼやけた部分があることを知る。ちなみにWikipediaで調べてみると次のようにある。

 『鉄炮記』によれば、種子島への鉄砲伝来は天文12年8月25日 (旧暦)(ユリウス暦1543年9月23日)の出来事で、大隅国(鹿児島県)種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人(「牟良叔舎」、「喜利志多佗孟太」)が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。

 しかしその伝来は1543年と言われているが、1542年という説もあるらしく、しかもここに展示されている火縄銃はその時種子島時堯がポルトガル人から譲り受けた銃ではないという。時堯が譲り受けた銃は西南戦争の時焼失してしまったという。ではここにある銃はどこからきたものなのか。実は「五峰」と名乗る明の儒生と筆談した西村織部も鉄砲を一挺入手していたらしく、西村家の子孫が西南戦争で種子島家の銃が焼失してしまったものだから、それを種子島家に献上したのがこの銃だと言われるらしい。
 そして伝わった銃から刀鍛冶の八板金兵衛が模倣して作る時、その製造上わからないところを教えてもらうために自分の娘をポルトガル人に与えたという謎の女は誰か?八板家の家系図によれば、“若狭”という娘がポルトガル人船長に与えられたとある。
 話は土地の人からいろいろ聞いていくうちに、鉄砲の技術と引き替えにポルトガル人に渡された女性は“はな”という名前の女でポルトガル人の間には“アンナ”と呼ばれていたとなっていく。
 ところで日本人で初めてヨーロッパの土を踏んだとされる天正少年使節団は1584年にリスボンに到着しているが、出航は1582年である。となると鉄砲の技術のためにポルトガル人に渡された“若狭”もしく“はな”の方が、鉄砲伝来が1543年であるとすれば、約40年ほど早くヨーロッパの土を踏んでいておかしくないことになる。

 もともと野々村は自分の興味から歴史の現場に立ってみたいということで、ここ種子島に来た。しかし実際現場に来て、知っている事実と違う話がごろごろしている。それはあくまでも伝承の世界かも知れない。だからこの話は幻想的になっていくのだが、いろいろ考えていくと私たちが直線的に知っている歴史というのは、一つの方向からすべて説明できないものじゃないかと思わせてくれる。
 ものごとの始まりを記録に残ったもので決定してしまうと、そうじゃないんじゃないかという部分がどうしても出てくる。たとえば鉄砲伝来を1543年と1542年の説があるというより、種子島には1542年に最初にポルトガル人が漂流してきて、その後翌年の1543年に意図的に日本を目指して来たとした方が何となくすっきりする。
 また伝わった鉄砲が二挺といわれているが、実際二挺とも西南戦争で焼失してしまい、もう一挺あったことで、それをもって二挺のうちの一挺とするより、実際何挺も日本に伝わっていた可能性がある。そうであればこそ、その後日本に鉄砲が普及する速度があまりにも速いのも説明できる。直線的に種子島に初めて鉄砲が伝わり、ここから日本全国に普及していったと言い切れないのかも知れない。日本は回りが海である。どっからでも外国からものが入ってきておかしくないはずだ。たまたま記録が種子島にあって、その後の記録もあるものだから、ここが初めとなっただけかも知れない。その伝わった銃もポルトガル製といわれているけれど、マラッカあたりで作られたものではないかとも言われている。
 そして日本人が初めてヨーロッパの土地を踏んだのは天正少年使節団とされているが、もしかしたら鉄砲の技術と引き替えにポルトガル人に渡された“若狭”もしくは“はな”だっておかしくはない。ただ記録に残らなかっただけかも知れないのだ。
 野々村が蒐集した話はすべて伝承である。これを歴史としてしまったら、歴史が成り立たなくなってしまう。だからこうした幻想小説で語られる。それがこうした小説を成り立たせ、お話として面白くさせてくれる。話としては若干雑さを感じないでもないが(先の『怪談』、『海の挽歌』の方が歴史と話がうまく渾然となっていた)、読んでいて「こういうことも言えるぞ」、「こんなのもあり」と主人公が推理するのが面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:リスボアを見た女
著者:阿刀田 高
ISBN:9784560045626
出版社:白水社 (1992/09/10 出版)
版型:235p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2009年05月21日

池波正太郎著『江戸切絵図散歩』

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 実は池波正太郎さんの本は初めて読む。歴史小説は好きなのだけれど、時代小説は受け付けない部分が私にはあって、よく人から池波正太郎さんは面白いよといわれるのだが、そのまま今日まで読まずに来てしまった。どうしても時代小説は年寄りが読むもんだというイメージが払拭できないところがある。オレはまだそこまで老けこんでないぞという意識がどこかにあるのかも知れない。しかし池波さんは名エッセイシストと聞いていたから、それでは読んでみようとこの本を手にした。
 池波さんは小説を書く場合、江戸時代の町の雰囲気をイメージするため、切絵図を頼りにして背景を作り上げているという。そんな切絵図を眺め、そこに描かれている地形と現在とを比較して、今現在どうなっているか、切絵図を頼りに町を歩き回る。池波さんによると「東京は台地が多く、つまり凹凸の多い地形で、いたるところに坂道がある。したがって、景観は変わっても、道筋はあまり変わっていなかった。もっとも現代は坂道も台地も恐るべき機械力で押し崩してしまうようになったが、それでも意外に地形は変わっていないのだ」という。つまり池波さんがこの本を書くまでは、まだ開発という暴力にさらされていない部分が多く残っていて、切絵図にある面影が偲ばれたのだ。おそらく今はだいぶ変わっちゃっているんだろうなと思う。
 それでも昔あった川や橋が消えてしまったりしているところ多く、昔の町名もどんどん消えてなくなっていることを池波さんは嘆いておられる。

 「橋や川ばかりではなく、むかしの町名も消えてしまった。戦後の町名改変の流行は、昭和十年代までは辛うじて残っていた町名を、ほとんど抹殺してしまったのだ。
 東京のみではなく、地方でも町名改変が流行して、私のように時代小説を書いている者は、まことに困った。何となれば、町名や村名は、いずれも、その土地の歴史をもっているからだ」

 今まで歴史に息づいた、あるいは由緒ある歴史から名付いた名前を平気で変えてしまうのは、確かに如何なものかと思う。今は市町村合併などといって町や市が経済的理由で一緒になってしまい、おかしな名前を平気で付けてしまうご時世だから余計である。そこにあった名前そのものが歴史であり、過去の生きてきた人々の遺産でもあるはずなのだから、それを単に経済的理由で壊せるものなのだろうか。今まで連綿と続いてきたのは、変化を折り込んできて生き残ってきたものだろうから、どうしてそれが現在できないのだろうか。なんでもスクラップアンドビルド的発想なら、ことは簡単だ。しかしその発想そのものが貧相なことを知るべきじゃないだろうかと思う。歴史の面影が残る町並み、歴史を感じさせる建物が残る町に、新しいものを作れないのだろうか?変化は昔もあったはずだ。それでもその町は残ってきたのだ。

 私は元々大した行動範囲を持っている方じゃないので、基本会社のある神田界隈にしか興味がわかなかった。この本の最初にある「上野下谷外神田辺切絵図」を眺めてみると、確かに道筋は現在とほぼ同じで、この道が昭和通りだなとか、こっちが清洲橋通りだなと追うことができる。大きな通りはよほどのことがないと変えられないのだろう。こうして現在と江戸時代の切絵図に描かれている地図が比較できると面白い。
 へぇ~と思ったことは、今須田町に「万惣」という昔からあるフルーツパーラーがある。池波さんのこの本によると、昔からこの界隈には果物屋が多かったらしい。だから青物問屋も多かったという。今秋葉原の再開発地区は元はやっちゃ場があったところであるが、青果市場がここにあったのもそのためだろうという。


評価
★★


書誌
書名:江戸切絵図散歩
著者:池波 正太郎
ISBN:9784101156682
出版社:新潮社 (1993/12/20 出版)新潮文庫
版型:204p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2009年04月29日

阿刀田高著『獅子王アレクサンドロス』

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 獅子王アレキサンドロスとはもちろんアレキサンダー大王のことである。アレキサンダーの生涯を描いたこの長編はどこか、しゃのかかった感じが全体にあって、アレキサンダーそのものに人間臭さが感じられなかった。おそらく阿刀田さんは神と人間の境を曖昧にしたホメロスの作品を意識されて、それをアレキサンダーにも適用したんじゃないかと思われた。だからどこか神話みたいな感じがする。

 「現代人には少々奇異に思われるかもしれないが、古代にあって文明が進化するにつれ神と人間との融和が繁くなったのである。いや、一般化は不適当かもしれないが、少なくとも辺境のマケドニア人よりは、より進んだギリシア本土の住民のほうが、神と人間との融和を身近に感じていた。神が人間と交わって子を儲けたことなどギリシア人にはさほど珍しくない。ギリシア神話には、その手のエピソードが溢れていたし、哲人プラトンも神と処女の結合から生まれたと信じられていた。神の子であるということは、ギリシア人にとっては、“この世で際立って優れている”くらいの意味合いでしかなかったし、王であれ、預言者であれ、偉大な人物は霊感を吹き込まれていると自他ともに認めていた」

 だから「アレキサンダーが神の御子です」と周りのものから言われ、自分自身も「ゼウス・アモンの子」であることを信じることに何ら違和感がないのである。まだ現実と神話の世界がはっきりと分かれた世界じゃない。
 物語はそうしたスタンスで描かれるのだが、これはどこか話に不合理な部分や突飛なことが起これば、神の思し召しとなってしまう。それで済んでしまうところがこの話の弱みではないかと思われる。つまりどろどろした人間世界で起こる、因果関係を詳しく説明しないでも済んでしまうのである。もっと言えば詳しい時代考証を並べる必要性がなくなるのである。
 これがこの話、強いてはアレキサンダーの人間描写に“非人間的”にさせてしまうのだろう。もちろんあれだけの大遠征を古代においてした人物である。どこか神がかり的なところがないとできるものじゃないだろうとは思うけれど、この物語全体が神話を読んでいる感じがしてしまった。

 素朴な疑問として、アレキサンダーがなぜあれほどの大遠征を東方で行ったのか。それがよくわからなかった。それをする意味が知りたかった。
 本来、国を脅かす外敵から自らを守るために、その外敵を排除するために戦いをするのはわかる。アレキサンダーの場合それなダレイオス三世の率いるペルシアであり、マケドニア、ギリシアをペルシャから脅威から守るために、ダレイオス三世を討つというのはわかる。あのイッソスの戦いでダレイオス三世を打ち損じたから、彼を追いかけてペルシア奥地に入り込むのもわかる。


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 けれどそのダレイオス三世がペルシアの重鎮ベッソスに殺害されれば、今度はそれを討ち行く当たりからおかしくなってくる。まぁペルシアの完全制覇を考えればそこまではわからないことではない。けれどそうしてどんどんペルシアの奥地へ入り込んで、インダス川流域まで行く理由がよくわからない。
 師であるアリストテレスが「善なるものを求め続けること、真なるものを探し続けること。神の子ならば、おのずと見えてくるものがある」言った言葉を胸に抱きながら、先へ先へ進む。遠征がアレキサンダーの“真”の追求であるなら、彼の東方遠征はアレキサンダー個人の心的理由だけであったことになる。
 しかしアレキサンダーについていった兵士はたまったもんじゃない。まったく未知な世界に駆り出され、いつマケドニアに帰れるかわからない、あるいはここで死んでしまうかもしれないのだから、そういつまでもアレキサンダー個人の心的理由につきあえないだろう。事実インダス川流域まで来たアレキサンダーは兵士たちからこの遠征の意味に疑問を突きつけられ、引き返すこととなるのだ。
 さらに征服した土地はもともとそこを支配していた者にアレキサンダーへの忠誠を引き換えに委ねてしまう。ここでは「軽い支配」と言っているが、国が大きくなればなるほど、その支配力はどんどん及ばなくなるものだ。たとえマケドニアの軍人を置いておいたとしても、所詮数が限られているだろう。あくまでもアレキサンダーというカリスマがその支配力である。近くにアレキサンダーがいれば甲斐甲斐しくするかもしれないが、一端その土地をアレキサンダーが離れてしまえば、元の状態に戻るだけだろう。
 ギリシアが国家としてまとまっていたのはたとえばアテネを中心にギリシアの都市国家が盟友として小さくまとまっていたからであって、アレキサンダーは自らの帝国にそうした国家システムを流用したとも思われるけれど、ここはギリシアではない。民族も考えも違う。だからどうも私にはアレキサンダーが一時的に台風みたいに東方に来て、えらそうな顔をして、忠誠を誓えと言っただけであって、国家としてまとまっていたのではないように思えて仕方がなかった。このあたりの曖昧さとアレキサンダーの人物像の曖昧さがいつまでも残った。


評価
★★★


書誌
書名:獅子王アレクサンドロス
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062088527
出版社:講談社 (1997/10/18 出版)
版型:570p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2009年04月27日

阿刀田高著『ジョ-クなしでは生きられない』

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 艶笑小咄集である。開高健さんもこの手のものを書いている。たぶんそこでか、あるいは他のエッセイでか、バーなどでこういう小咄を用意しておくと女性にもてると書いてあったのを思い出す。まぁ、少々エッチで、ユーモアとエスプリが利いている話ができればそんなこともあるかもしれないが、私に言わせれば、わざわざそんな話を用意する方が下心ある感じがしてしまう。さらに言えば、こんな小咄で今の女性が喜ぶとは思えないので、昔の話である気もする。
 阿刀田さんはこの本を作るに当たり、この手の話を集めるのに苦労されたかもしれないけれど、逆に楽しんでいた気配もうかがえる。しかし読む方は、くすりと笑えるけれど、ただそれだけで、とりたて面白いというものでもない。読んでそれでおしまいといった感じだ。
 これで私の感想は終わっちゃうのだけれど、それじゃあまりにも寂しいので、いくつか面白いと思ったものを書き出してみる。まずはあっちの方面からいくつか・・・・。

 「ねえ。ママ。ボク、弟や妹がほしいな」「パパにお願いしてごらんなさい」「でも赤ちゃんはママが作るんだろ」「パパが手伝ってくれなきゃ作れないわ」「じゃあパパにお願いするよ。今度の誕生日までに作ってくださいって・・・・」「そんなに早くは無理よ。一年くらいはかかるのよ」「じゃあ、よそのおじさんにも手伝ってもらおうよ」

 初月給をもらってニコニコしている社員に上役がいった。「お母さんにおみやげを買って帰れよ」「はい。そうします。父が早く死んで女手ひとつで育ててくれたんですから」「それは大変だったろうなあ」「しかし、何を買ったらいいのか迷ってしまって・・・・」「お母さんの一番好きなものがあるだろう?」「はあ。しかし・・・・若い男はどこで売っているんでしょう?」

 “広い”女にはレモン汁を使えばよい、とドクトルに教えられたニュマ氏がレモンをしこたま買い込んで帰る途中、夜の女が近づいて来た。「よし、まずこの女で試してやれ」こう思ったニュマ氏は女のアパートへ行って、「レモンをしぼって入れると、とても長続きするんだぞ」一つしぼり、二つしぼり、三つしぼり・・・・いっこうに狭くなる様子がないので五つ、六つとしぼってそそぎこめば、女はイライラしてつぶやいた。「ねえ、あんた。あんたはここに生牡蠣を食べに来たの?」

 アメリカ人は、単細胞人間。自分が世界一だと信じているから、ライバルが現れると猛然とくやしがる。
アメリカのコンドーム会社にソ連政府から注文が来た。「ソ連民衆の産児制限および性病予防のためコンドーム一万ダース送られたし。ただしサイズは十インチ」コンドーム会社は早速荷物の発送に取りかかったが、外箱に次のスタンプを押すことを忘れなかった。「十インチ、ただしSサイズ」

 初夜があける頃、新郎が不満そうに言った。「キミ、まだ昔の恋人が忘れられないんだな」「あら、どうして?」「さっき、キミがトイレに立ったとき、ボクはチャンと見たんだぞ。キミはベッドの柱に恋人の名前を書いて、ため息ついていたじゃないか」「恋人の名前?」「そうだ。正一君っていうんだろう、その人は」「あら、いやだ。正一は名前じゃないわ。回数のことよ」初夜から六回戦となると花嫁が溜息をつくのも無理はない。

 動物たちは、おおむね後向位でセックスをおこなう。このスタイルでは、雌は四つ足をしっかり踏ん張って、止まっていてくれなくては挿入がむつかしい。前へ前へと逃げて行ったのでは、うしろからはとても結合ができない。このため動物たちには強姦はありえないのだという。強姦は正常位とともに始まった、と言えるかもしれない。

 アメリカに行くと、ピーター・メーターという大人のオモチャがあるそうだ。ピーターは男性シンボルの愛称で、一見したところピーター・メーターはただの物差しだが、長さに応じて楽しい解説ついている。
 一インチ ただの蛇口。女に生まれるべきだった。二インチ 九十五パーセントは想像力でいこう。三インチ いくらかましだがまだ不足。四インチ いちゃつくのが精いっぱい。 五インチ ご家庭用サイズ。六インチ 秘書嬢を喜ばすことができる。七インチ 古い家庭道徳を破壊するおおそれあり。八インチ 大きい女か、小さな牛に。九インチ 酒場の話題によし。十インチ 見世物にのみよし。

 これはある葬儀屋。偶然知りあった女と町のホテルに泊まって情熱的な一夜を過ごした。翌朝、別れぎわに女が未練がましく、「あなたって上手ねえ。それに大きくて、とてもいい形ね」と口をきわめて男の持ち物をほめたたえた。男は恐縮し、うやうやしく一礼してから、「すっかり萎れておりますが、もう一度遺骸とご対面になりますか」

 女子寮の一室。マギイのお腹にM字型のあざがついているのを見つけて、サリイが尋ねた。「それ、な-に?」「ああ、ボーイフレンドとキッスをしたのよ。彼のバックルの痕がついちゃったのね」「わかった。Mの字だから・・・・ミネソタ大学の男の子ね?」「ううん。ワシントン大学なの」
 ワシントン大学ならWの字になるはず。男は頭をどちらに向けてキッスをしていたのだろうか?

 まぁこんなもんである。別にこの手の話は嫌いじゃないけれど、私は次の小咄の方が笑った。

 ある日のこと、一人のロシア青年が「フルシチョフは馬鹿だ。フルシチョフは馬鹿だ」と、叫んで赤の広場を走り抜けた。その男はたちまち捕らえられ二十三年の禁固刑に処せられた。三年は党書記侮辱罪に対してであり、二十年は国家機密漏洩罪に対してであった。


評価
★★


書誌
書名:ジョ-クなしでは生きられない
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343028
出版社:新潮社 (1980/08 出版)
版型:217p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2009年04月10日

遠藤周作著『深い河』

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 あるインドツアーに参加する男女の物語である。そこに参加する者は、妻を癌でなくした夫。神父になろうとする男をからかい、男女の関係を結んだが、その男の存在が気にかかり、フランスへ、そしてインドへ彼を訪ねる女。童話作家。戦争中ビルマのジャングルで九死に一生を得て生き残った男などが参加していた。
 それぞれ訳ありでインドへ旅をするのだが、やはりここは神父になるための修行をしている大津と、学生時代、からかいでその大津と男と女の関係を結んだ美津子の話が一番気にかかった。
 美津子が女学生時代女王様気取りで、神父になろうとしていたうだつの上がらない大津をそそのかすのだが、いつまでもその大津が気にかかる。
 美津子は結婚し新婚旅行でフランスに行くのだが、その時大津が同じフランスにいることを知り、その大津を訪ねる。大津はここで神父になるために勉強していたのだ。しかし大津はここで語られる“神”について素直に受け入れられないでいた。
 美津子と会った大津は自分の心境を語る。神についても語る。その話にあまりにも神が出てくるものだから美津子は「ねえ、その神という言葉やめてくれない。いらいらするし実感がないの。わたしには実体がないんですもの。大学時代から外人神父たちの使うあの神という言葉に縁遠かったの」イライラ感あらわにする。それに対して大津は「神という言葉が気障で嫌なら玉ねぎとよんでいい」と言い、その玉ねぎについての違和感を語り始める。「三年間、ここに住んで、ぼくはここの国の考え方に疲れました。彼等が手でこね、彼等の心に合うように作った考え方が・・・・東洋人のぼくには重いのです。溶けこめないんです。それで・・・・毎日、困っています」と言うのであった。
 大津はヨーロッパ式のキリスト教だけが絶対だと思えずにいた。たまたま大津の母親がキリスト教徒だったから、生まれてからそのまま自分もキリスト教徒になったが、それが違う宗教であればその宗教の神を信じていたはずだと考えていた。神学校では大津がキリスト教徒になったことが神の恵みであり、神の愛だと思わないかと指導司祭に言われるが、大津は「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者に神はおられると思います」と言う。
 当然こうした考え方は異端視されるし、汎神論的だと批判される。しかし日本でキリスト教徒になった大津にとってみれば、ヨーロッパ式のキリスト教のみが絶対であるという考え方は受け入れがたかった。大津は悩み苦しみ、そしてここガンジス河のほとりで死を迎えるためにガンジスを訪れるアウトカーストと呼ばれる貧民たちをガンジスに運ぶ仕事をしながら、修行をしていた。そこに美津子が再び訪れたのである。
 大津はここで「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」と言うのであった。
 美津子も美津子で、生と死が隣り合わせになっているこの河で、ガンジス河が「ヒンズー教徒のためだけでなく、すべての人のための深い河という気がしました」と思うようになっていく。河辺では死体が焼かれ、その灰が河に流され、一方で信仰のためガンジス河の水を口に含み、合掌している風景を見ると、「その一人一人に人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背中に背負って生きている。ガンジスの河なかで彼等は浄化せねばならぬ何かを持っている」と思い、ガンジス河はそれらをすべて浄化してくれる河なのだと思うようになっていく。

 私は自分の信じている神のみがすべてだという妥協のない考えが、おそらく過去から現在までの宗教間の対立を生んできた最大の原因だろうと思っている。その対立が仲間の連帯感を生んできた。神の愛などで生まれた連帯感よりは、非妥協的な態度がその仲間意識を高めたものじゃないかと思えるのだ。
 美津子がここガンジスで感じた「人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能になる。どの国もどの宗教もながい間、そうやって持続してきた」と言わしめるのもそんなことを思えば納得できる。
 私はむしろ大津のように様々な宗教に神という顔を持ったものがあるというのが自然のような気がする。唯一絶対なんて言うから非寛容になるのであって、イエスも神なら、アラーも神であるし、仏陀も神だ。そして山や森が神ならそれも神なのだと思う。人には人の崇める神があっていいのであるなら、他の人も同様であって、それぞれの神を信仰すればいい。私は大津がヨーロッパでヨーロッパ式のキリスト教のみを信仰の対象に強要される苦しみは、歴史上自分たちがそれまで信仰してきた神とは別の神を強要されて信仰せざるを得なかった人びとの苦しみと同じように見えた。
 私は大津の言う言葉「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者に神はおられると思います」はいい言葉だと思った。


評価
★★


書誌
書名:深い河(ディープ・リバー)
著者:遠藤 周作
ISBN:9784062063425
出版社:講談社 (1993/06/08 出版)
版型:347p / 19cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2009年04月02日

阿刀田高著『私の聖書ものがたり』

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 高校時代読んだ遠藤周作さんのエッセイに、いわゆる中東で生まれた宗教は、その自然環境の厳しさからか、教えに厳しさがあるというようなことが書かれていた。つまり仏教のような母的ではなく、父的な厳しさがそこにはあるようなことが書いてあった。
 今回阿刀田さんのこの本を読んでいて、旧約聖書に書かれている“神”の性格があまりにも厳しいものだと感じたので、そんなことを思い出した。たとえばモーセの十戒には次のように書かれている。

1.私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。
2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
3.あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間、働いてあなたの全ての業をせよ。
あなたもあなたの息子、娘、僕、婢、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人々もそうである。
あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを忘れてはならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである。
5.あなたの父と母とを敬え。これはあなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。
6.あなたは殺してはならない。
7.あなたは姦淫してはならない。
8.あなたは盗んではならない。
9.あなたは隣人について偽証してはならない。
10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない

 このうち1番と2番目を阿刀田さん流にくだけた感じで書くと次のようになる。

1.私はあなたなちの神、唯一にして、全能の神である。あなたちは、私以外のどんなものも神としてはならない。
2.偶像を作って神としてはならない。私は嫉妬深い神であるから、私を憎む者には子孫にまで罪を問い、私を愛し私の戒めを守る者には末代まで恵みを与えよう。

 この本は多分手塚治虫さんの『旧約聖書物語』の一部を使い、阿刀田さんが聖書の中の物語をわかりやすく書き直したものである。私はクリスチャンじゃないので、聖書を読んだことがない。一度読んでみたいとは思うけれど、たぶん挫折するだろうという思いがあるので、読まずにいる。なぜ挫折すると思うのかというと、私は信仰というものに懐疑的なところがあって、基本、人が信仰に入るのはその弱さのためじゃないかと思うところがある。もちろんそれはそれで何ら問題はないのだけれど、私には信仰に入るということが、どこか現実逃避をじゃないかと感じるから、そんな神の存在を書いたものついて行けなくなる気がするのである。
 訳のわからない、あるいは道理的でない現実をありのままに受け入れればいいものを、わざわざそれは神がなされたことみたいに解釈するのがよくわからないのである。わからないから信仰や宗教に関することで余計なことを言わない方が無難だ。だからこれ以上言うこともない。
 ただ、この聖書の世界での神はあまりにも厳しすぎる。“そんなのしょうがないじゃん”と思うことも、許してくれない。そういう妥協のなさについて行けない。神の立場に立てば、俺の言うことを聞け!そうすれば恵みを与えようというのはわからないわけじゃないけれど、人間の立場に立てば、“そんなこと言われても・・・”と言いたくなる現状があるように思えるのだ。私なら現実肯定派なので、はっきりと“それは無理!”と言ってしまうような気がする。
 絶対的な神の存在があることで、人というものの弱さや未熟さを言い表すのは結構だけれど、だから罰が当たったと言われちゃうと素直に受け入れられない。
 そもそも神という存在は、神をそのものを相対化して、人とは何かを考える時に便利である。人というものがあり、一方で神という存在があれば、比較しやすい。そこから人間の弱さ、未熟さ、あるいは無知など簡単に抽出できそうである。だって一方が絶対的なんだからね。だからものすごく不謹慎な言い方かもしれないけれど、神は人を考えるときのいいツールみたいなところがあるんじゃないかと思うのだ。そして理解不能のものをすべて神のなせる技と言ってしまえば、すべて解決できちゃいそうなのでいやなのである。
 まぁ、無神論者の戯れ言して考えてもらっていい。ただこうして物語として聖書を読めるなら、面白い。
 

評価
★★


書誌
書名:私の聖書ものがたり
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087813210
出版社:集英社 (2004/11/30 出版)
版型:317p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年02月24日

大崎梢著『サイン会はいかが?』

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 大崎さんの本はこれで三冊目となる。前作二冊を読んで、“こんなもんか”と思っていたので、もう新作が出ても読むまいと思っていたのだが、ついつい新作が目に入ってしまうと、買ってしまった。やっぱり本屋さんを舞台にしたミステリーというのにどうしても惹かれてしまうのだ。本屋さんに関する本にはどうしても読んでみたくなるのだ。言ってみればそれは宿痾みたいなものかもしれない。それに今度こそおもしろいかもしれないという期待もある。
 で、どうだったか?ダメでした。結果やめておけばよかったと思った。どうしてなのだろうかと考えた。あくまでも個人的な感想なのだが、全体的にインパクトが弱い。なんか仲間内で推理して、問題を解決したというイメージがいつもつきまとう。確かに探偵役の多恵ちゃんが言うように「本屋限定」のミステリー解明だから、限られた舞台の話であるけれど、それにしてもいつも仲間内でわいわいがやがややっている感じがしてしまうのだ。
 だからこの本の著者の読者はほとんどが書店業務に携わっているか、あるいは携わったことがある人ではないかと思ってしまう。なぜならそこにある舞台描写に「うんうんそうだよね」という共感できるし、さらにミステリーとなっていれば、その業界の人にとってはおもしろいのではないだろうか?でも結局それだけなのだ。部外者が読んだらきっとちっともおもしろくないと言われるのがオチではないだろうか。そんな気がする。もう少し重みが欲しい。
 結局本屋さんを舞台にしてしまうと、こんなものしか書けないのかなと思ってしまう。でも本にまつわるミステリーにはおもしろいものもたくさんある。本にはどこかしら個人的な思い入れがあるから、どろどろした部分がある。だからおもしろいミステリーが生まれる。その本を扱う本屋さんなのだから、もう少しまともなもミステリーがあってもいいような気がする。でもこの著者が成風堂書店という舞台や本屋さんの日常にこだわっていると、こんなものしかできないのではないかと思ったりする。


評価
★★


書誌
書名:サイン会はいかが?―成風堂書店事件メモ
著者:大崎 梢
ISBN:9784488017392
出版社:東京創元社 (2007/04/25 出版)ミステリ・フロンティア
版型:263p / 19cm / B6判
販売価:1,575円 (税込)

2009年02月23日

阿刀田高著『日本語を書く作法・読む作法』

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 昨年は阿刀田さんの作品に魅せられ、いくつか続けてその作品を読んできた。またさらに読んでみたいと思い、阿刀田さんの本を集め始めたら、いつの間にか単行本が棚一段占めるようになった。今年もそれら集めた作品を読んでみたいと思っている。
 で、その棚を眺めていて手に取ったのがこの本である。この本は書名からして、いわゆる日本語を書いたり、読んだするに当たり、阿刀田さん流に“こうすればいい”といったハウツー本かなと思っていた。実はそれを期待していた。阿刀田工房でどのように文章が綴られ、読まれているのか、そっちの方が興味があった。
 しかし読んでみるとただのエッセイ集であった。それも今まで新聞や雑誌に書かれたものが一冊の本になるボリュームになったから、それを集めて本にしたものであった。
 そのためか、これといって心に残るものはなかった。ただ阿刀田さんは文章を書くのはあまり好きじゃないというのは意外であった。昔からそうだったという。しかしだからこそ文章を短く書くという。それがよかったというのだ。
 どういうことかと言えば、人に読んでもらう文章はわかりやすくするために、センテンスが短い方がいいからだ。だらだらと思いに任せて書いていくと、やたら接続詞が多くなっていき、文章が長くなる。そうなるといったい何が言いたいのかわからなくなる。それはよくわかる。なぜなら私が書く文章がそうだからだ。自分でもよくわかっている。
 私はこうしてブログなどやっているからおわかりになるかもしれないが、文章を書くことが多分好きな部類に入るだろう。自分で思いのまま書いているものだから、誤字脱字は多いし、接続詞、形容詞がやたら多い。気持の方が先に立っているものだから、文章に書くとそうなってしまう。自分でもまずいなとは思っているが、まず書いてしまうことが先だと思っているから、どうしてもそうなってしまう。だから出来上がった文章を推敲する時は、まず接続詞を省くことから始めて文章を細切れにすることから始める。特に最近はそれを注意しているつもりなので、一時よりはマシになっているんじゃないかと思っているのだが・・・。
 阿刀田さんは自分が自分が怠惰なせいで文章が短くなっていると言っているが、それがわかりやすくテンポのある文章になっているのだろう。下手な横好きは結構だけれど、やはりその点は気をつけないといけないなと自戒する。
 阿刀田さんの言うようにあるいは書くことが嫌いな人の方がすばらしいく、わかりやすい文章が書けるのかなと思ったりすると、ちょっと悔しい気持もする。文章を書くことが好きでも、読みやすい文章が書けないものかなと考えてしまう。まぁ、できるだけ気をつけて書くしかないかとも思っている。


評価
★★


書誌
書名:日本語を書く作法・読む作法
著者:阿刀田 高
ISBN:9784788707733
出版社:時事通信出版局 時事通信社〔発売〕 (2008/01/05 出版)
版型:221p / 19cm / B6判
販売価:1,680 円(税込)

2009年02月06日

小川糸著『食堂かたつむり』

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 アルバイトを終えて部屋に帰ると生活用品一式がなくなっていた。同棲していたインド人の恋人もいなかった。一瞬部屋を間違えたのかとさえ思った。その瞬間、倫子は声が出せなくなってしまった。かろうじて残っていたのは祖母の形見でもあったぬか床だけであった。
 深夜バスを使い、故郷へ戻る。母親との関係がうまくいっていない実家へ帰った。故郷は「どれもが、懐かしくてくすぐったくなるような、けれど手のひらで今すぐ握りつぶししてしまいたくなるような景色だった」。母親は倫子が家に戻ることを渋々承諾してくれたが、働かなければならない。しかし倫子は料理を作ること以外できない。それしかない、と思う。何もかも失ったけれど、祖母から教わったレシピが自分の舌に残っているし、様々な飲食店で働いてきた経験が自分にはある。ここで「食堂かたつむり」をやろうと決める。
 但し、この食堂は一日一組だけ。メニューはなく、前日お客と面接やFAX、メールでやりとりをして、お客が何を食べたいのか。あるいは家族構成や将来の夢、予算などを細かく聞いて、当日のメニューを決めるというもの。そしてここは見渡せば、海、山、川、畑と食材の宝庫だ。だからなるべく土地のものを使って料理するのが基本方針。
 そうして一日一組のお客を迎えるうちに、倫子の作る料理で幸福感につつまれたお客は、「食堂かたつむりの料理を食べると恋や願い事が叶う」と感じるようになる。それが噂となっていう村や近くの町に暮らす人達に伝わっていった。

 まぁ、多くの自然が残る里山みたいなところには自然の食材がいっぱいあるだろうし、それを使った美味しい料理を食べれば、幸福感につつまれるであろう。お客を限定して、お客の希望に沿って料理を作るとなれば、お客の人生模様もそこにはあるだろう。それを感じる倫子自身、自分の家族関係、特に母親との関係にも、何らかの影響を与えるに違いないことは想像できる。特に母親が末期ガンとわかり、母親が死んだ後残した手紙を読んで、なんで母親と仲直りができなかったのだろうと後悔するのも、ありふれたパターンだ。
 倫子が「私は思うのだけれど、女系家族の気質というのは、必ず隔世遺伝するのではないだろうか?
 つまり、おかんは貞淑すぎる実の母親に反発してそれとは正反対な波瀾万丈な生き方選択し、その母に育てられた私は、そうなるまいと反発し、また、それとは正反対の地道な生き方を選択する。永遠のオセロゲームをしているようなもので、母親が白に塗り替えたところを、娘は必死に黒に塗り替え、それをまた、孫は白に塗り替えようと努力する」と考えるのも、それが普通じゃないかななんて思ってしまった。
 要するに、この本を私が若いときに読んでいれば(もちろん作品としてないのだが)、ある程度感動もしたのかもしれないけれど、50のオジサンがこんなことで感動してられないので、こんなもんでしょとか言いようがない。ただ所々になる言葉の響きには女性らしい優しさがあって、いいなとは思った。たとえばこんな感じ。

 「本当に大切なことは、自分の胸の中に、ぎゅっと、鍵をかけてきっちりしまっておこう。誰にも盗まれないように。空気に触れて、色褪せてしまわないように。風雨にさらされ、形が壊れてしまわないように」


評価
★★


書誌
書名:食堂かたつむり
著者:小川 糸
ISBN:9784591100639
出版社:ポプラ社 (2008/01/15 出版)
版型:234p / 19cm / B6判
販売価:1,365円 (税込)

2009年01月30日

阿刀田高著『アラビアンナイトを楽しむために』

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 世の中にはいわゆる古典、あるいは名著と呼ばれる本の書名、その著者などの名前は知っているけれど、実際読んだことがないというのが多いんじゃないかと思う。それを読んでみようと思えば、膨大な労力、根気、時間を要することになることがわかっているから、いくら古典、名著であっても、思わず伸ばした手を引っ込めてしまう。つまり読めないということだ。
 阿刀田さんはそうした古典、名著と呼ばれるそうした作品を阿刀田流にアレンジして“この本はこういう本ですよ”と内容を教えてくれる。この本を読めば、少なくとも書名や著者名だけでなく、少々内容も知ることができるわけである。いわば古典読本というところであろうか。阿刀田さんの本にはこういう本がいくつもあって、それを読めば現物を読まなくても、何となくそういう本かと知ることができるので、横着者にはもってこいである。
 この本もその一冊である。物語は、ササン朝ペルシャの時代で、シャーリャルという大王がいて、弟にサマルカンドの王、シャー・ザマンがいた。この兄弟がいないとき、それぞれの妃は黒人奴隷を連れ込んで、淫靡な遊びに耽っていたことを知る。このことからシャーリャル王は女性不信に陥り、「この大地の上に一人として貞淑な女などいやしない。女はこの世に生かしておく必要のない生き物なのだ」と宣言し、妻、妾をはじめ後宮女奴隷をことごとく殺してしまった。この後、シャーリャル王は夜ごと処女を求めて夜伽をさせた後、朝が来ると殺すようになった。このため町には処女がいなくなる。
 この時大臣の娘シャーラザットは自ら立候補してシャーリャル王の夜伽となる。シャーラザットは妹のドゥニャザットと共に王の寝床に赴き枕元で物語を語る。その話が余りにもおもしろいものだから、シャーリャル王はシャーラザットを殺すことが出来ず、とうとう物語は千と一夜続いた。そのうち王は自分のむごい仕打ちを後悔し、シャーラザットを王妃として迎え、この間三人の男の子を産んだ。
 笑っちゃたのは、千夜一夜で三人の子どもを産むことが可能かどうか、阿刀田さんは計算するのである。それによると、懐妊期間を十月十日とすれば、三人の子どもを産むのに九百三十日かかる。ということは1001-930=71日だから、子供を産んで次に妊娠するまでに平均三十日しかなかったことになる。もちろん不可能じゃないだろうけど、母体はぼろぼろじゃん、というのだ。「外国の遠い昔の空想譚ながら、母体保護の立場からおおいにご同情申し上げたい」と阿刀田さんはいう。シャーラザットの妹もシャーリャル王の弟の妃となってそれこそめでたしめでたしということになっている。
 阿刀田さんはその『千夜一夜物語』の中から気のおもむくまま十二話をこの本で紹介している。まぁ内容はそれほどおもしろいとは思えなかった。そもそも空想の世界が現実の世界と交錯していて、“こんなことあり得ない”と思っちゃうとおもしろくも何ともない。物語の結末から、訓話めいたことを導き出すことも可能かもしれないが、それを言いたいために無理な話を作っているとも言えなくもない。もともと教訓などを導き出す話が好きじゃないので余計である。まぁ、この本を読んで実際の『千夜一夜物語』を読んでみようという気にはならなかった。

 この阿刀田さんの本にもイスラムの一夫多妻制について触れられている。それが認められて来た理由が書かれていて、こちらの方がわかりやすかったので、それを書き残したい。

 「たとえば回教徒の世界では、四人まで妻を持つことが許されている。これはアラブ人の好色さを表わすように受け取られているが、そればかりではあるまい。激しい抗争を繰り返して来た砂漠の民族には親族よりほか信頼できるものがない。多くの子孫を得ることは繁栄の道であった。しかも二人の妻では仲たがいしやすく、三人でも二対一の形になって争う。四人の妻の場合にほどよいバランスがとれる、という智恵に由来するものだという」


評価
★★


書誌
書名:アラビアンナイトを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255088
出版社:新潮社 (1986/12/20 出版)新潮文庫
版型:297p / 15cm / A6判
販売価:499 円(税込)

2008年12月20日

井原万見子著『すごい本屋!』

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 すごい本屋とは井原さんのイハラ・ハートショプのことである。お店のあるところは和歌山県。お店までJR和歌山駅から在来線で六〇分。御坊駅というところで降りて、路線バスで川原河めで五〇分。そこからコミュニティバスに乗り換えて二〇分の平橋で下車とある。つまり和歌山駅から二時間以上かかる山奥である。この本の最初に多分お店のある村の全景の写真だろう。それがあるが、まわりを山に囲まれている。川の流れる水の音、山桜、山藤、ホタル、秋の月、神社のイチョウが黄色くなる。冬には雪。イノシシ、鹿にも出くわすらしい。
 とにかく自然が豊かなところとは想像がつくが、いったいどこにあるんだろうと思ってしまう。Google Earthで調べてみて、「えっ~、こんなところで本屋さんなんてやっていけるの?」と思ってしまった。

 この本によると、イハラ・ハートショプの前身は井原さんの伯父さんが二十二年前にはじめた本屋さんである。その時はここには図書館もなければ、本屋も車で一時間近くかけていかなければならなかったという。村の人たちは伯父さんが大阪で本屋を開業したことを聞いて、この村にも本屋さんがあればいいなあという要望に応えてできたお店だそうだ。そしてその後を井原さんが継いだ。名前のイハラ・ハートショプとは井原さんの兄弟が自動車修理工場のイハラ・ボディーショップを開いてるので、ボディーがあるから今度はハートということで決まったそうだ。
 イハラ・ハートショプは現在集落に残るたった一つの小売店になってしまっているので、村人の要望を聞いて本だけでなくお菓子や日用雑貨、味噌や醤油なども置いている不思議な本屋さんである。アイスクリームもパンも、タバコもお線香も置いている。
 本の荷物が届くのは午後一時頃。新刊配本は受けていないという。要は注文品だけということなのだろう。お客さんもその点は心得ていて、きちんと入荷を待ってくれるという。だから「この書籍の入っている箱を開ける瞬間は、とてもわくわくします。茶色いダンボール箱の横に、青い文字で顔をデザインしたトーハンマークがついているだけのシンプルな箱なのですが、私にはリボンのついたプレゼント箱のように見えます。そして開いてみて、お客さんが楽しみに待ってくれている本が入っていると、小躍りしてしまうのです」と井原さんは書く。
 店に置いてあるのは絵本各種。「文藝春秋」や「現代農業」などここでの売れ筋の雑誌。文庫、コミックもあるという。久しぶりに「現代農業」という雑誌名を聞いた。もちろん農文協の農業書も置いてあるという。思わず、「へぇ~、農文協の本とはなるほどね」と思った次第だ。農文協という出版社は農業書はもちろん、食に関する本、児童書など、意外とおもしろい本をだしている。昔、どぶろくの作り方の本をよく売ったものだ。

 とにかく山奥にある小さな本屋さんである。本の流通も都会の本屋さんみたいなわけにはいかない。流行のものや話題の本などそう簡単に手に入るわけじゃないだろう。しかしだからこそ、はやりすたりの激しい本など追いかけずに、お客さんの要望に応えられる本を置く。この店は競合店の心配もなく、顔見知りのお客さんとゆっくり対応したりして、懐かしい書店だと井原さん自身言われる。人はイハラ・ハートショプは周回遅れの最前線の本屋さんと称したらしいが、周回遅れでも、何事にも乗り遅れまいとして走りまくってきた都会の書店がどんどん潰れていく中、この和歌山の山奥で存在価値がある本屋さんが元気に頑張っておられるというのがうれしくなってしまう。
 特に子供の本には井原さんは力を入れておられる。なぜ子どもの本に力を入れるのか、この本では詳しく書かれていないが、井原さんの同級生が子供を残してわずか二年半の闘病生活後亡くなられた。その同級生は自分が子供のそばにいて何も助言できないことで、一冊の絵本に子どもたちの成長を見守って欲しいと願いを託していったことが、絵本に取り組むきっかっけとなられたようだ。
 だから村の子供たちにもっともっと本とふれあってほしいという気持になり、児童書の見本を持って、小学校に出かけ、先生ではなく子供たちに本を選ばせる。ここではあくまでも子供が主役だ。子供が自ら絵本を選び、座り込んで夢中で読む姿が描かれるけど、そこには強制された読書では見られない光景がある。ホント強制された読書はつまらない。子供が本嫌いになるのはそうした強制された読書や感想文なんか書かされるからだと井原さんは言っておられるけど、まさしくその通りだと思う。
 そうした絵本の魅力を村の子供たちにさらに伝えたくて井原さんは絵本の原画を出版社から借りて展示したり、絵本作家を山奥に招いて朗読会やサイン会などを行い、子供たちと本のふれあいの輪を広げていく。絵本の原画を見る子供たちや作家のサイン会に参加する子供たちの目がきらきら輝いているのが見えそうな気がする。
 そうした絵本の原画を借りに行くため、あるいは作家さんにこの山奥に来てもらうために、井原さんは水曜日の定休日を利用して火曜日の夜に夜行バスに乗り、東京にある絵本の出版社に協力を得るため訪ねるのである。井原さんは「田舎で暮らしていますと、あきらめなければならないことが多すぎて・・・・。それでも、本と本屋に関わっていることで、著者に会い、絵本原画を見る機会が作ることができるんだと、知りました」という。あるいは「業界が厳しいと言われるようになった時代じゃなくても、当店は最初から厳しい環境にありました。ただ黙って待っているわけにはいかないなと動いていたら、イベントを開催できました」とも言っている。そうしたイベントを通して井原さんは「子どものころの体験が、大きくなってからの自分の進む道に影響するのだな」と思うのである
 ここを訪れた作家さんは「そうか、本はラーメンやパンや醤油と同じ日用品なのだ!」と店の品揃えを見て納得するのを読んで、本は特別なものではなく、そうした日用品の一部であることに案外意味があるのではないかと思えてくる。
 都会のようにたくさんの本が氾濫していると、あまりにも情報がありすぎて、その子にとって本当に必要な一冊が見つからないのではないかと思ったりする。本との出会いも一期一会であって、それは都会であってもイハラ・ハートショプのような山奥にある本屋さんでも関係ない。どこで自分が読みたい本に出会えるか。あるいはそれを提供してもらえるかにかかっているのではないかと思う。そういう意味では井原さんは村の子供たちに本の出会いを提供しているわけだから、それだけでもすばらしいことだと思うのだ。
 何でもかんでも流行を追いかけることで疲れはて、本当に自分は何を求めていたのかさえ忘れてしまう現代にあって、いいものに出会わせることに力を注いでおられる井原さんに敬意を表してしまう。
 井原さんののそうした行為と、子供たちの輝く目が見えるいい本であった。またこの本を読んでいて絵本の持つ魅力もあらためて考えさせられた。


イハラ・ハートショプ
http://www5.ocn.ne.jp/~i-heart/


評価
★★★★


書誌
書名:すごい本屋!
著者:井原 万見子
ISBN:9784022504050
出版社:朝日新聞出版 (2008/12/30 出版)
版型:220p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2008年12月10日

奥野宣之著『読書は1冊のノ-トにまとめなさい』

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 この本は三省堂の本店で購入した。レシートには「法律経済」と書いてある。へぇ~、この本はいわゆるビジネス書の範疇に入る本なんだと思った。まぁ、この手の分類分けは誰がやっているのか知らないが、いい加減なものだからあまり当てにできない。
 しかし予想通りというか、私にとってつまらない本であった。そもそもこうした効率的な本の読み方の勧めや速読の勧めなど、はなから馬鹿にしているのである。
 じゃあ何でこの本を読んだんだといわれそうだけど、読んだ本のことを一冊のノートに書き込むことはちょっと興味があったからだ。この本の帯には「なぜ、読んだのに覚えていないのか」とある。答えは簡単だ。その本がおもしろくないからだ。それなのにせっかく読んだ本なのだから、自分の血や肉にしないともったいない、効率が悪いというのである。そうかなあと思うのだけれど。
 とにかくそういうことだから、読んだ本について何でもいいから一冊のノートに分類せず書き込みなさいというのだ。著者の言う「インストール・リーディング」とは読んだ本を自分のものとして落とし込み、咀嚼して確実に自分のものすることを言うらしく、そのために本を探す、買う、活用するという流れを作り上げることを勧める。そのツールとなるのが一冊のノートということだ。
 
 結局本を何のために読むのかということが問題になってくるのではないかと思う。たとえばビジネスに生かすとか趣味のために、あるいは教養を高めるためとさまざまな理由が浮かびそうだけれど、少なくともこれらの理由全て私には関係のないことである。そもそもそういう理由のために本を読んでいないのだ。本を読むことが好きだから、あるいは本を楽しみたいから、読んでいるだけだ。だから本を読むための効率性など最初から頭にない。本を読むこと自体、効率が悪いとさえ思っている。だってそうでしょう。このインターネットをはじめ、いろいろな情報が簡単に、しかも短時間で手に入る時代である。そんな時代に、ページをめくって、時間をかけて本を読むなんて効率が悪いに決まっている。
 でも、だからこそいいんじゃないのと言いたいところがある。むしろそういう時代だからこそ、じっくりと腰を据えて本を読む価値があるように思えるのだ。
 読んだ本の内容を忘れたっていいじゃないの。人間歳をとれば物忘れもする。どうしても気になるなら、その本を取りだして読めばいい。それだけのことじゃん。本の内容を忘れたからといって、何か支障をきたすんですかと言いたくなる。
 何でも最近は効率、短時間でというのがビジネスだけじゃなくて、私生活でも求められている傾向がある。だからこんな本がもてはやされるのだろうし、情報に多大な価値を置いちゃっているものだから、読んだ本を自分にインストールしないともったいないなんていうのだろう。大体情報過多になっているところに、これでもかとさらに情報を詰め込んでどうなるというのだ。むしろそういうことから解放される本の読み方をしたらどうだと言いたくなる。本を読む動機は「何か面白そう」、それだけでいいと思う。
 笑っちゃうのは、著者の勧めるノートに書き込む情報が、何冊もなってしまったらどうするのだろうと思っていたら、それはパソコンで検索しやすいようにしなさいというのである。おいおい、結局パソコンかよと思ってしまった。
 この本で唯一役に立ったのは「探書リスト」というEXCELで作成された表で、これは便利だと思い、購入したい本をここに書き込んで、たたんで持ち歩くことにした。それだけの本であった。やっぱり読まなきゃよかったと後悔する本であった。


評価


書誌
書名:読書は1冊のノ-トにまとめなさい ― 100円ノ-トで確実に頭に落とすインスト-ル・リ-ディング
著者:奥野宣之
ISBN:9784901491846
出版社:ナナコ-ポレ-トコミュニケ-ション (2008/12 出版)
版型:211p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2008年10月21日

阿刀田高著『花のデカメロン』

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 この本はボッカチオの『デカメロン』の入門書というか、解説書である。もちろんそこいらにあるその手の類の本ではない。例によって阿刀田流のスパイスをきかてある。
 『デカメロン』自体14世紀の作品だから素朴だけど、荒削りであり、時には話のつじつまがおかしい部分もあるらしく、それを20世紀(この本が出たときはまだ21世紀にはなっていない)の現代風に直せばこのようにした方がいいと、阿刀田流にアレンジしたものも添えられている。
 ご存じの通り、『デカメロン』は当時ヨーロッパで大流行したペストを逃れて、上流階級の七人女性と三人の男性が別荘で14日間過ごすかたわら、毎日みんなでお話をしましょうということで、その語られた話をまとめたものである。もちろんボッカチオの創作だが。こういう舞台装置を作って物語をはじめるのを“枠物語”というらしく、あの『千夜一夜物語』もタイプとしてこれに属する。
 で、当時の上流階級というのは腐敗しきっており、しかもペストでいつ自分たちが死ぬかもしれないという状況であったから、生きている間に享楽を満喫しようという風潮であった。
 だから毎度毎度不倫の話ばかりだ。どうしても人間は腐敗するとそっちの方面であれこれうごめくのである。上流階級の貴婦人を恋いこがれる輩がなんとかしてものにしたくて、あれこれ策を弄して近づくとか、あるいは貴婦人自体が若い男に恋いこがれ、なんとか近づきたいとする話ばかりである。おそらく原作だときっと読み切ることの出来ないだろう話を阿刀田さんは今風におもしろおかしく語ってくれる。だから読んでいてくすっと笑える。その点こういう解説書はいい。『デカメロン』には、こんな話があるんだよという雑学的知識が残る。
 ところでこの本の初出は女性雑誌「JJ」だとある。へぇ~、「JJ」を読むというか見る女性がこの阿刀田さんの作品を読むかなと正直思った。「JJ」の読者にはこの作品のユーモアやエスプリはちょっと高尚過ぎないかなんて思ったのだ。だって「JJ」の読者って、3月まで制服を着ていた女子高生が、4月になって短大に入り、制服から私服になり、着ていく服にあれこれ悩み、この雑誌で紹介されるファッションをそのまま着こなす女性をターゲットにした雑誌でしょ?どう考えても無理があるような人でも、“かわいい”ということでこの雑誌を地のままでいっちゃう女性たちである。そんな女性がこの阿刀田さんの作品を読むとは思えない。
 せめてスーツでシャツのボタン二つ外して颯爽と歩くOLさんたちが、この作品を読んでくすっと笑うのがいいと思うのだけれどなぁ。雑誌でいえば「MORE」を二つ折りにして脇に挟んで歩く世代の女性がいい。でも「主婦の友」じゃまずいよな。(もっともこの雑誌も休刊になっちゃったけど)やめよう!これ以上書くと私の品性が疑われちゃう。


評価
★★


書誌
書名:花のデカメロン
著者:阿刀田 高
ISBN:9784334712358
出版社:光文社 (1990/11/20 出版) 光文社文庫
版型:267p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2008年10月15日

阿刀田高著『続ものがたり風土記』

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 続いて続編を読む。この本は前回日本各地にある昔話、伝説、民話、物語などストーリーを訪ねる旅だと書いたが、それだけでなく、明治・大正・昭和の名作で、それら作家たちの生誕地や活躍の場所がそこにあれば、作品を含めてここで紹介している。この本自体文芸雑誌「小説すばる」が初出誌だからだろう。
 それが結構面白い。作品のあらすじや、小説の舞台となった背景など詳しく語られ、思わず読みたくなるのである。私は本を探す場合、こうした本の中で紹介された本を読むことが多く、今回も何作か気になる作品があった。で、それをリストアップすると、正編も含め以下の通り。

1.松本清張著『万葉翡翠』角川文庫

2.松本清張著『秀頼走路』(所有済み)

3.南条範夫著『灯台鬼』(ゲット)

4.長尾宇迦著『幽霊記-小説・佐々木喜善』文藝春秋

5.安部公房著『榎本武揚』中公文庫

6.吉村昭著『熊嵐』新潮文庫

 ただ、ここに記されて本はなかなか手に入らないようだ。新刊書店で探すとなると難しいかもしれない。手始めはブックオフで探してみようかと思っている。(南条範夫著『灯台鬼』は近所のブックオフでさっそく見つけた)

 阿刀田さんはこの本の最後に、「小説にはストーリーとモチーフがある。モチーフとは、作家が読者に伝えたいメッセージの核心にあたるもの、読者の側から言えば『この小説、何が言いたいの?』と問うときのその“何か”に相当するものだ。
 ストリーがボディーであるとすれば、モチーフは小説のマインドだ。体と心である。
 風土はこのどちらとも関わっている。風土を見て、思い立つストーリーがある。風土に接してモチーフを獲得するケースもある。ある風土を舞台にしなければ成立しえないストーリーもあるし、風土と密接に結びついたモチーフもある。それぞれの関係は、あるときは深く、あるときは淡く、すこぶる複雑だ。作者の立場と、読む人の立場とで見えてくるものが異なったりもする。
 私の<ものがたり風土記>(正続)は風土とストーリー、風土とモチーフ、それぞれの関わりを、現実の旅の中で捜してみよう、という試みであった」と書く。
 確かに小説を読む場合、その作品が書かれた背景を知れば、さらに作品は面白くなるだろうし、その舞台に行けるならもっと小説を面白く読めるかもしれないなとも思う。しかしそんな読書はかなりむずかしいだろう。だからこの本のような小説の舞台を教えてくれる本はある意味貴重かもしれないと思った。


評価
★★


書誌
書名:続 ものがたり風土記
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087745214
出版社:集英社 (2001/06/30 出版)
版型:337p / 19cm / B6判
販売価:1,890円 (税込)

2008年10月10日

阿刀田高著『ものがたり風土記』

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 また阿刀田さんの本に戻る。この本は紀行文である。阿刀田さんは次のようにこの旅の目的をいう。

「昔話、伝説、民話、物語、小ばなし、小説、言い方はいろいろあるにせよ、これらを支えている大切な要素にストーリーがある。稚拙なもの、巧みなもの、単純なもの、複雑なもの、レベルは多様だが、ずいぶんと古い時代から人間はストーリーを珍重して来た。事実から変形したもの、想像が生んだもの、だれかが語り始め、だれかが伝え、だれかが添削をして今日に残っているものが無数にある。名もない語り部が、愛すべき小説家(ストーリーテラー)が実在していあたはずだ」

 その物語、あるいは昔話、伝説、民話などを日本各地を探し歩き、それらのゆかりの地で物語の由来を探るのである。それは必ずしも事実だけが大切なわけではない。フィクションにはそれを創った理由、創った人の願望が潜んでいるから、それを探るのである。それがたとえ作り話であっても、百年たてば、りっぱな伝承的真実になっているものがたくさん日本にはあるから、それを訪ね歩く。
 従って名もなき語り部や有名な作家の作品、あるいは世界中に散らばる作品のも同様なものがあるとして紹介していく。それが結構面白く、紹介された作品を思わず読んでみたくなってくる。
 阿刀田さんは松本清張さんの作品に造詣が深く、いくつかここでも紹介しているのだが、今ちょうど夜な夜な清張さんの短編を読んでいるので、思わず、どれどれと作品集から該当の作品を探してしまう。
 さて、伝説といえば私は高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』が懐かしかった。ここでは死んでほしくないヒーローたちはいろいろな形で生き続ける例としてあげている。実際はどう考えてもあり得ないのだけれど、物語だと面白く語れる例として話している。
 高木さんのこの本はいつ読んだであろうか?多分高校時代だと思うが、結構面白く読んだ記憶があり、未だにばかばかしいけど面白かったという記憶がある。
 話は名探偵で検事である神津恭介が怪我か病気か忘れたけれど、とにかく現場に復帰できない状態で、病室で暇を持てあましている。その暇つぶしに、源義経が衣川で憤死しないで、海を渡って中国に逃れ、ジンギスカンになったという話を確かめてみようという話である。いわゆる義経伝説を神津の部下かなんかが探してきて、それを追っていくと、義経が中国に渡り、ジンギスカンになっていくのだ。

閑話休題
 ちなみにこの本確かカッパノベルスで読んだ記憶があるが、もちろん手元にはない。もう一度読んでみたいななんて思ったけれど、手に入らないだろうなと思ったら、何と、角川書店を追い出された角川春樹さんが作った出版社でハルキ文庫で読めるらしい。

 こういう話は松本清張さんにもあり、義経ではないけれど、豊臣秀頼が大阪城で死なずに生き延びたという話らしい。(さっそく読みたくなり短編集で調べてみる)

 考えてみたら、いわゆる物語はたとえ史実であっても、それが語られると同時に、語る者、あるいは話を作った者の主観が入ってくるし、わからない部分は推測し、勝手に都合良く話の整合性を整えるところがある。いや整合性を整えなくてもいい。はちゃめちゃでもいいのである。要は聞く者、読む者が面白ければそれでいいのだ。だから人類は洞窟の中で暮らしていた当時から、火をくべながら物語を語り、聞いてきたのであろうと想像する。もちろん言葉や文字なんてなかったから、手振りや、絵など描いて、それを伝えてきたのではないか。そのうち言葉が出来、文字が生まれるまで、人々は物語を代々語り伝えてきたのである。そして柳田国男みたいにそれらを採取して文字に表す。
 ただこうした物語は確かにその地に根付いたものであるである場合もあるが、得てして世界中に似たような物語があること教えてくれる。私はそれは人類共通の思考回路から生まれたものかもしれないなんて思ったりするのだが・・・。でもそういう類似性は面白い。改めて世の中にはいろいろな物語あるんだなあと思ったし、それを読んでみたいなという気持にさせられた。


評価
★★


書誌
書名:ものがたり風土記
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087744545
出版社:集英社 (2000/02/29 出版)
版型:342p / 19cm / B6判
販売価:1,890 円(税込)

2008年10月03日

池谷伊佐夫著『東京古書店グラフィティ』

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 池谷さんの本を入手したのでまた読んでみる。読んでみるというより古本屋さんの店内のイラストや書き込みにある店の蔵書を目をこらして見ているといった方がいいかもしれない。それが楽しいのである。今回は都内のおもだった古本屋さんがここに登場している。池谷さんがこうして古本屋さんのイラストの本を描くのは、新刊書店が品揃えに個性感がないため、面白味がないという理由だ。だから必然的にターゲットは古本屋さんになってしまうという。(もちろん池谷さん自身が古本好きというのが一番の理由だろうが)
 例外的に個性的な新刊書店を最後に紹介している。銀座のイエナと書肆アクセスがなどである。ただ二軒とも今はない。個性的であるが故に潰れちゃったのかもしれないなんて思う。
 都内でもこれだけ面白そうな古本屋さんがあることを改めて知らされるのだが、如何せんお店の場所がまちまちで、しかも私の生活範囲から結構離れている。たとえば神保町のように一カ所にいくつもの古本屋さんがあれば、たとえ一つのお店に入って本がなくても、違うお店に入って本を探すことが出来るから、行ってもいいかなと思う。
 だけれど、スポットであるお店にわざわざ訪ねて行って、何も収穫がなかったら身も蓋もないなと考えちゃうのだ。確かに古本屋さん巡りは楽しいしだろうし、お店の棚を眺めるのも面白そうと思うけど、欲しい本を探しに出かけて何もなかったと考えると「ちょっとなぁ」と二の足を踏んでしまう。
 まして、ネットで探せば簡単に在庫の検索ができる時代である。その便利さを享受してしまっているので余計である。だから面白そうなお店だなということで、ただそれだけで足を運ぶことはないと思う。だから仮に何かの用で近くまで行ったときに寄ってみたいと思うのだ。

 池谷さんは中学生の頃江戸川乱歩に沈溺したらしい。それで近隣の町の古本屋さんを巡り乱歩の本を探したという。その数も相当量になったらしいが、全作品が集まった頃、江戸川乱歩の全集が刊行された。思わず「冗談じゃない。これまでの苦労はどうしてくれるのだ」と地団駄を踏んだという。「だろうな」と思う。全集というのはその名の通り、その作家の全作品が、それこそ絶版本であってもそこに収録されちゃうわけだから、昔の作品を読みたいと思って、苦労して古本を集める意味を失なわせる。しかも全集は統一された装丁できれいに並ぶわけだから、腹も立つ。
 けれど池谷さんは「負け惜しみでいうのではないが、発売当時の単行本は、値段、装丁、造本、はては活字にいたるまでその時代が表れており、ストレートに作品の世界へ入っていくことができる」という。これは私もそう思う。
 何度も書いたけど、私は開高さんの昔の単行本が欲しくて、古本屋巡りをはじめた。それはたとえば文庫でも読めるし、全集でも読める。だけど発売当時の単行本そのものの味わいはそこにはない。集めてみると、発売当時の単行本はいいのである。文庫で読んだ作品の親本である単行本がこれだったのかと、手に取り感慨深くなってしまうのである。池谷さんの言う通り、本にその時代のすべてが表現されているような気がしてしまうのである。好きな作家の作品だから、いろいろな意味でいとおしいのである。
 こうした私の行動を文庫にあるのだから内容は同じじゃないと馬鹿にする。「いやいや違うのだ」と言ってもなかなか理解してくれない。
 私が親本である単行本にこだわる理由は“発売当時の本”に価値があると思っているからである。といっても初版本にはこだわってはいない。少なくても“発売当時の本”の雰囲気を残している単行本であればいいと思っているだけだ。その雰囲気を味わいたいだけなのだ。だから私はビブリオマニアではない。
 先に読んだ『チャリング・クロス街84番地』のヘレ-ン・ハンフが17世紀の頃の本を探し求めたのも、これだったんじゃないかなと思っている。
 最近は阿刀田さんに凝っちゃっているところがあるが、その阿刀田さんの本だって出来れば発売当時の単行本が欲しいと思っているので、文庫では簡単に探せるけど、あえて単行本にこだわっているのも、そんな理由からだ。
 だからといって、文庫が悪いなんて全く思っていない。文庫も好きである。だけど時代の雰囲気を感じたければやっぱり単行本だと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:東京古書店グラフィティ
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784487754731
出版社:東京書籍 (1996/11/07 出版)
版型:163p / 21cm / A5判
販売価:1,528 円(税込)

2008年09月12日

池谷伊佐夫著『古本蟲がゆく』

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 ここのところ明治という時代にかかりっきりになっているので、ちょっと一休みである。
 この本は、先日書泉さんに行ったとき見かけ、気になってしまった本である。私は古本に関する本が好きで、どうしても読みたくなってしまう。著者はイラストレーターで古本好きという人。全国の古本屋さん、古本市を訪ね、最後におまけみたいな感じで、イギリスの古本屋街のチャリング・クロスにある古本屋さんのお店の模様が描かれる。
 池谷さんはそれぞれの古本屋さんでお店のスケッチをして、それを元にイラストとしてこの本に掲載する。もちろんスケッチが終われば、古本あさりをする。
 このイラストは今時のパソコンで描くものでないだけに、手書きのあたたかさがあっていい感じだ。しかも丁寧に描かれている。おそらく一枚描くのにかなりの時間を要するだろう。これだけ詳細に描くのだから、その元になるスケッチも同様に細部まで見逃さず描かれるのだろうと思う。この本のカバーや、最後のページにスケッチブックに描いたお店の絵があるのを見ても、細かく描かれているのがわかる。
 以前読んだ北尾トロさんの全国古本屋さん巡りの時もそうだったけれど、地方の古本屋さんを訪ねてみたいといつも思う。今回も池谷さんの古本屋さん巡りを「いいなぁ!」と思いつつ読んだ。いつもブックオフじゃ、なんだかさびしい。きっと地方の古本屋さんには、お宝があるんだろうなと思うのだ。
 もう自分の本棚に本が収納できないくらい本があふれているのに、まだ面白い本があるんじゃないのかなんて思う。ネットの古本屋さんやアマゾンで古本を簡単に買うことができる時代だけれど、やっぱり古本屋さんの店頭で本を眺めたい。そして買ったお宝をじっくりと味わいたい。
 池谷さんはきっとイラストを描きながら、むふふなんて楽しんでいるんだろうな。お宝を探し得た喜びをかみしめているんだろうなと思う。その紹介されているお宝本を見ると、世の中には本当にたくさんのジャンルの本があり、無名の、というより私の知らない著者が数多くいて、知らない出版社から本が出されているんだなと感じた。その奥行きの広さは、まさに無限大という感じだ。
 この本の最後の方に「古本蟲の生態」というイラストがある。あなたは古本蟲に変身していませんかとその生態いや傾向をいっているのだが、それを見るとちょっと笑ってしまった。確かにそういう傾向あるよなと自分の姿を思いやる。たとえば「床の上に本を積み始めるとどんどん増殖する」とか、「いつか役立つだろうと置いてある本は“期限切れの薬”」とか「老後にでも読もうと、本を買い集めているうちに、死ぬまでに読み切れないほどの本がたまってしまった」など、こんな状態になっている人は古本蟲に毒されているという。確かに!
 最後に笑ったのが、「本の価値を値段より(自分の本棚の)スペースで判断するようになる」大笑いした。イラストには古本屋の本棚に立って本を持って考えているが人物が「買えるけどムリして置く本じゃないナ」と思うところが描かれている。
 ところで池谷さんは「持っていたい本と、読みたい本は違う。読みたい本は文庫か図書館、クラフトマンシップの感じられる本は、持っていることに意味がある。本は単なるテキストではなく、物としての側面もあり、美しいもの、ユニークなものに惹かれる私は、当然本にも同様の念を抱いている」と書いている。
 思わずうまいなと感じたのは、「持っていたい本」という文句である。私も池谷さんの意見に賛成で、本には読む本と持っていたい本があると思っている。もちろん持っていたい本を読んでも一向に構わないのだけれど、読まなくても、本を手にし、ページをパラパラめくりながら眺めているだけで楽しくなる本もある。それは装丁のユニークさや、挿絵や図柄、イラスト、写真の美しささがそうさせるのだと思いたいが、そんな本を私は数多く持っている。あるいは話の内容のユニークさが際立っているものもある。
 私はこのブログで、読んできた本のことをああでもない、こうでもないと書きつづっているが、それ以外に持っているだけで楽しくなる本がここに紹介出来ないかといつも考えてきた。しかしこれは本当に私の主観によるものなので、それをやることに意味がないじゃないかとも言われそうだと躊躇してしまう部分もある。あるいは変な自慢話に取られるんじゃないかと思う部分もある。だからなかなか実行に移せないでいるのだが、よく考えてみれば、読んだ本のことを書いていること自体、自分勝手で好きにやっているわけだから、それはそれでいいのかななんて思うようになってきた。ちょっと実験的にやってみて、どんな感じか試してみようなんてこの池谷さんのイラスト見て思った次第である。


評価
★★★


書誌
書名:古本蟲がゆく ―神保町からチャリング・クロス街まで
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784163704906
出版社:文藝春秋 (2008/08 出版)
版型:269p 22cm(A5)
販売価:2,299円 (税込)

2008年07月27日

阿刀田高著『私のギリシャ神話』

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 ギリシア神話の仕上げとしてこの本を読む。今回もこの本を読んで知ったギリシア神話の知識を残したいので、自分備忘録として書くことにする。そしてヨーロッパ絵画や彫刻にギリシア神話をテーマにした作品がたくさんあるようで、この本を元にして、ネットで転がっているその絵や彫刻探して、一緒にしてみた。そうすれば関連づけて忘れないんじゃないかなと思ったのである。

 ギリシア神話といえばやっぱりゼウスであろう。ゼウスの生い立ちは以前にも書いたけれど、重複するがやはり書いておく。
 

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   アニバール・カラッチ「ユノ(ヘラ)とジュピター(ゼウス)」

 ゼウスの父クロノスは姉であるレイアを妻にしていたが、「おまえの子はおまえを滅ぼす」という予言を受けたので、自分の子であるヘスティア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを飲み込んでしまう。レイアは今度生まれた子を山の妖精に預けた。それがゼウスである。ゼウスは無事に成長し、父親に吐剤を飲まし、彼らを助け出す。その結果ゼウスが地上を含む天界、ポセイドンは海を、ハデスが冥界を統治することになった。ゼウスは姉のヘラを妻にし、ヘラとの間に軍神アレス、鍛冶の神ヘパイトスが生まれる。またゼウスが激しい頭痛で苦しんで「頼む。頭をかち割ってくれ」といったとき、頭を割ったのはヘパイトスの斧であった。そこから生まれたのが知恵と勝利の女神で、ギリシア最大の都市アテネの守護神であるアテネである。
 ゼウスの姉ヘスティアは竈の女神。またゼウスの祖父ウラノスの精子から生まれたのがアフロディテであり、これは美の女神。アフロディテはヘパイトスと交わってエロスを生んだ。エロス、英語名でキューピッドで、この坊やが放つ矢で胸を射抜かれると恋心に歯止めがきかなくなる。


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   ボティチェリ「ビーナスの誕生」

 ハデスの妻はペルセポで、母は豊作の女神デメテルで、ゼウスの計らいを得て、ハデスが略奪してきた。デメテルは一人娘を奪われた悲しみのあまり、自分の仕事をおざなりにしてしまい、お陰で地上の大地の作物は枯れ果て飢饉が起こり始める。こうなるとゼウスも困惑し、ハデスにかけあいに行き、一年の三分の二は里帰りしてよくなり、三分の一は冥界で過ごすことになった。ペルセポが戻って来たときは母のデメテルは歓喜に浸り、去った後は悲しみに沈む。地上に作物の実る季節と、実のならい季節がこのためである。


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   ジャン・ロレンツオ・ベルニーニ「ペルセポネの略奪」


 ゼウスのアバンチュールをつづる。
 ゼウスは「いい女、いないかな」と物色していたとき、レトという美女を口説き落とす。レトは懐妊したがヘラの怒りを買い、何人もレトのために子どもを生む土地を与えてはならないとお触れを出した。レトは困り、それを憐れんだポセイドンがレトをエーゲ海の浮島ディロスに誘った。ここは浮島なので“土地”はない。だからヘラの命令に背かない。レトはここで、狩猟と豊饒の女神アルテミスと芸術と医術の神アポロン産み落とす。
 そのアポロンのエピソードとしてはダプネとの恋がある。
 ある時アポロンはエロスに出会い、エロスの弓をからかった。エロスは二本の矢を放った。金の矢はアポロンの胸に、鉛の矢はダプネの胸に刺さる。金の矢で射られると恋の虜となる。逆に鉛の矢で射られると相手が嫌いになる。アポロンはダプネに激しい恋情を抱くが、ダプネ逃げ出す。ダプネは父親に「たとえどんな姿に変えても、いつまでも清らかな体でいたい」という願いを聞いた。ダプネの腕は指先から枝に変わり葉に変わり、一本木に化した。ダプネは月桂樹になった。アポロンは三日三晩泣き続け、月桂樹の枝を切って、輪を作って頭に飾った。これがオリンピックの勝者の頭を飾る月桂樹の由来である。


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   ジャン・ロレンツオ・ベルニーニ「アポロ と ダフネ」

 さらにゼウスは女神マイアと交わってヘルメスが生まれる。ヘルメスはゼウスの秘書的存在であり、商業の神であり、泥棒の守護神。
 ゼウスのアバンチュールはさらに続き、フェニキアの王女エウロペに魅せられ、ゼウスは美しい雄牛に姿を変えてエウロペに近づき、クレタ島まで連れ込んで交わる。生まれた子がクレタのミノス王である。ちなみにエウロペは“ヨーロッパ”の語源。


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   ティツィアーノ「エウロペの略奪」

 そのミノス王ついては、王位継承のときポセイドンに「私を王位につけてくれたら、立派な雄牛を生け贄に捧げよう」と約束する。しかし自分が王位についてしまうと立派な雄牛あげるのが惜しくなり、惨めな牛を捧げた。当然ポセイドンは怒り、ミノス王の王妃パシパエの心狂わせ、立派な雄牛に恋情を抱くようにしてしまう。王妃は雄牛と交わり、頭が牛、体が人間の男の半人半牛の子を産む。すなわちミノタウロスである。ミノス王は建築家のダイダロスに複雑な迷路を持つ迷宮ラビュリントスを造らせ、ミノタウロスを閉じこめる。ミノタウロスはここで成長し人間を餌とする。
 折しもクレタとアテネの間で戦争があり、アテネが負け、講和の条件として、毎年ミノタウロスの餌として七人の青年と七人娘差し出すことになった。アテネもこのままではたまらない。アテネの王子テセウスは自らを人身御供に加えてくれるよう頼み込む。クレタに送り込まれたテセウスはその日のうちにミノス王の王女アリアドネの心つかむ。アリアドネはダイダロスに迷宮の出方を教わるが、ダイダロスはその設計図を焼いてしまったので、わからない。けれど、糸玉の一端を出入口に結んでおいてそれをたぐっていけばいいと教わる。
 何とかミノタウロスを退治して、テセウスはアリアドネとクレタ島から逃げる。ミノス王はアリアドネが手助けしたことを怒ったが、アリアドネに知恵を与えたとして、ダイダロスとその息子イカロスを迷宮に閉じこめた。この迷宮から脱出するには鳥のように空を飛ぶのがいいと、二台の飛行機を造って脱出したが、イカロスはダイダロスの注意も聞かず、どんどん高く上っていき、太陽に近づいてしまう。そのため接着剤として使っていた蝋が溶けてしまい、イカロスは墜落死する。ダイダロスの方は何とかシチリアに逃れたという。
 次にゼウスはアルゴス王の一人娘ダナエに近づく。ダナエは「王の子孫が王を滅ぼします」という神託により、男が近づかないように閉じこめられていた。ある日黄金の雨に化けたゼウスが近づき、「なんてきれいな雨」とダナエが窓を開け、さっさと交わる。生まれた子がギリシア神話屈指の英雄ペルセウスである。
 さらにさらに、スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれる。彼女の存在はトロイア戦争の原因ともなる。


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   ルーベンス『パリスの審判』

 その他、ヘラクレスとプロメテウスやパンドラのことも書いておく。
 ゼウスとレダの子であるペルセウスの息子に、エレクトリュオンがいて、そのエレクトリュオンの娘アルクメネがいた。アルクメネはアムビトリュオンと婚約をしていたがゼウスはそのアムビトリュオンに化けて、閨房に入る。それで生まれたのがあのヘラクレスである。

 プロメテウスとパンドラのことは以下の通り。
 ゼウスが人間界より火を隠すが、プロメテウスは再び神々の元から火を盗んで人間たちに与え、その利用方法教える。当然ゼウスはプロメテウスを怒る。ところがプロメテウスは「いいんですか、私はあなたの秘密を知っているんですから」と逆に脅しにかかる。するとゼウスは泥を練ってパンドラを造りプロメテウスのところへ放つ。彼女は神々からすべての贈り物を委ねられた。パンドラの“パン”はすべて、“ドラ”は贈り物という意味だそうだ。
 パンドラがプロメテウスを訪ねてきたときは留守にしており、弟のエビメテウスという弟がいた。エビメテウスはパンドラが気に入り妻とする。エビメテウスはパンドラが預かってきた贈り物である壺が気にかかる。パンドラが開けてみる?と言うと、疾病、戦争、貧困、嫉妬、飢餓、涜神、残虐、好色といったありとあらゆる悪が黒い煙となって飛び散った。慌てたパンドラは蓋を急いで閉めたが、時既に遅く、壺の中に一つだけ残っていた。それは“希望”であった。このため人間たちはどんな悪に苛まれても、希望だけは持てるようになっている。


評価
★★★


書誌
書名:私のギリシャ神話
著者:阿刀田 高
ISBN:9784140804902 (4140804904)
出版社:日本放送出版協会 (2000-01-25出版)
版型:253p 19cm(B6)
販売価:入手不可。集英社文庫であり

2008年07月24日

阿刀田高著『ギリシア神話を知っていますか』

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 続いて阿刀田さんのギリシア神話の本を読む。読んでいてギリシア神話の奥深さをひしひしと感じた。この本によるとギリシア神話は大きく分類すると次のようになるらしい。

1.オリンポスの神々の伝説
2.アルゴー丸遠征隊の伝説
3.英雄ヘラクレスの伝説
4.テーバイの伝説
5.トロイア戦争の伝説
 
 私がある程度親しみやすかったのは、やはり「トロイア戦争の伝説」であろう。だってそれまでその関係の阿刀田さんの本を読んできたのだから当然である。だからこの本でも「トロイア戦争の伝説」に出てきた神々の記述があれば、あああれだなと話の流れが読めて楽しかった。
 しかしトロイア戦争以外に出てくるギリシアの神々もたくさんいるわけで、話の内容は知らなくても名前や固有名詞は私たちの日常中でよく使われる言葉としてある。そのためそんな名前が出てくると、その由来はここから来ていたのかと納得する。阿刀田さんも「私はギリシア神話と聖書の二つを古典として持っているヨーロッパ文明の、奥行きの深さ、バラエティの華麗さを思わずにいられない。自国の文化を過小評価するつもりは私にはいささかもないけれど、民族の古典の中に寓意に富んだ人物、事件、思考を持っているという点では、やはり、彼の国の文化の中に一日の長を見ないわけにはいかない。私がギリシア神話に興味を抱く理由もそこにあるのだろう」と言う。確かに古典が、例えば言葉の由来や、絵画などのテーマとして使われているのも、それだけ普遍的な人間性がその古典の中にあるからだろう。だからそれを自分たちの文化として大切にしているような気がする。そんなことを考えると、一体日本はどうなっているんだと思わざるを得ない。自国の文化をあまりにも粗末に扱ってはいないだろうか?
 ただ残念なことはここにはたくさんの神様が出てくるものだから、なかなか頭の中に残らないことだ。だからこの後も阿刀田さんの書いたギリシア神話の本を読もうと思っている。

 さて、私は大神ゼウスの女好きが気にかかる。手当たり次第、美しい女性がいれば自分のものにしてしまい、子供を孕ませる。阿刀田さんによれば、「ギリシア神話の常識に従えば、神々の不貞は許されるべきものであり、その寵愛を受けることは、むしろ名誉に値することでもあった」らしいから、いい気なもんである。それでいてゼウスは妻であるヘラの眼をいつも気にしていて、浮気をしているところが面白い。ヘラがゼウスの浮気を怒るものだから、隠れて子供を産ませてしまったりするのである。このあたりはきわめて人間的で、キリスト教みたいに、神様がセックスして子供を作ったなんて言ってはまずいのというので、処女懐胎なんて言ってきたけれど、そんな不自然なことは一切言わないのがいい。
 ゼウスが浮気をして、自分の子供をたくさん作るにはそれなりの理由がある。それはギリシア神話そのものが、それ以前にあった土地土地の民話の神様を融合してできあがったものだから、神様がたくさん必要であったのだ。ゼウスを中心にしてまとめるには、どうしてもゼウス自ら子供を作って、それを以前にあった神様として振り分けた感じだそうだ。なるほどね。
 ところで、もう少しギリシア神話に詳しくなれば、絵などを見る目も変わるかななんて思っている。だってヨーロッパの絵画にはギリシア神話をテーマにした絵がかなりあるからだ。それを今まで、ただ美しい、きれいだということだけを基準に鑑賞していたけれど、そこに描かれたテーマを知ればもっと楽しめそうな気がするのである。


評価
★★★


書誌
書名:ギリシア神話を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255040 (4101255040)
出版社:新潮社 1984/06出版 新潮文庫
版型:241p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)

2008年07月22日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 休み前になると、この本を読もうと決めるのだが、どういう訳か、きちんと読めない。むしろ平日の時間がない方がきちんと本を読む。休みだと時間があるものだから、だらだら過ごして、気がついたら一日が終わっていたというパターンが多いのだ。結局緊張感の欠如がそうさせるのであろう。
 しかし今回は違った。三連休である。しかも連日真夏日が続いている。これは家にいて本を読む方がいいに決まっている。で、手にした本がこの本で、厚さといい、ちょうど三連休に読むにはもってこいの本だ。
 というわけでさっそく読み始める。面白い。やめられなくなってしまう。久しぶりに休みに本を読んだという充実感を味あわせてもらった。
 実はこの本以前にも手にしたのだが、なかなか先に進まない。そのため、他に読みたい本もあったものだから、後回しにしてしまった経緯がある。しかし今回は違った。話がよくわかるのである。先に読んだ『ホメロスを楽しむために』を読んでいたものだから、知識がちゃんとあるからだ。読んでいて、“ああ、ここはあそこのあった話だな”と察しがつくのがいい。
 話はアイネイアスを主人公にしたトロイア戦争とトロイア崩壊後、西に向かい、イタリアでローマ建国の素地を開くまでの話である。これだけでもトロイア、ギリシア、そしてローマと雄大な話である。そしてたくさんの英雄が活躍する。読んでいてワクワクしてくる。
 あとがきで阿刀田さんは、日本人が外国の歴史的ヒーローを小説化するのは珍しい。しかし今日日本は欧米化しているのだから、歴史小説も「何も宮本武蔵ばかりでなくてもよかろうに」とこの本は書かれたという。しかしこの本は「現代の日本人アイネイアスの物語」だとも言い切る。だからというわけじゃないけれど、トロイア、ギリシア、ローマの英雄譚であっても、確かに英雄たちの行動は迫力があって非日本人的ではあるけれど、その思考回路はきわめて日本人的である。だからストレートに英雄たちの気持が伝わってくる。例えば、アイネイアスがヘレネがトロイア崩壊後、メネラオスのもとに戻った(トロイア戦争がヘレネの略奪から始まり、トロイアが破れ、ヘレネが元の鞘に戻った)と聞いたとき、「あの戦争は何だったのか」と思うところは英雄らしくない。むしろ日本人がよく持つ感情のような気がする。もちろんそれもいいんだけどね。
 それでも日本の歴史小説は理屈や道理が通っていないと、受け入れがたい部分があるけれど、この話は「世間では、事実ではないけれど、皆で事実と認め合っていることがある」として、それでいいではないかとしているところが話を面白くしているような気がする。少なくとも私はそれを堪能した。だってお話だもの。
 そしてここでは人間のモラルが法や慣習より優先された社会が描かれる。
「古代社会では、信頼と報復が人間のモラルを強く規制していた。知己であることはの意味は重い。その分だけ裏切りは、最も忌むべき悪として憎まれ、報復も厳しい。普遍的な法制が存在しない以上、人間同士の結び付きは信頼するか否かに懸かっていた。アイネイアスたちが、ディロス島で歓迎された理由は(アイネイアスが差し出した金銀の効能とは別に)黒耳のルドンが浜長のアニウスと懇意であったからであり、更にまたアニウスの肝煎りでキドニアへ行くことは、同じ意味合いで安全を期待できる事情であった。『俺の知り合いだ。よろしく頼む』という言伝てには想像以上の価値があったのである」と西に向かう航海で各地の知り合いが、アイネイアスの安全を保障する。それは単に信頼できる知り合いだから当然である。ただそれだけなのだ。だからこそ裏切りは信義に反する訳だからそれは死を持って償わなければならない。この話に登場する英雄たちはすべてこの単純な、信用できるか否かの人間関係でつながっている。小賢しい屁理屈などまったくない。それがなんか心地よかった。

 しかしトロイの木馬は我々が知っているようにトロイアの城内に引き込んで欲しかったなぁと思う。ここでは、木馬(トロイアでは馬がトロイア人のシンボルだから)を生贄して燃やせと言う神託で、そのようにしている。結果地震が起きて、城砦の一部が崩れ、そこからギリシア人がなだれ込むという話になっている。これはトロイの木馬の伝説が、今考えればおかしいという理由だかららしいが、お話なのだから、やっぱり燃やすのではなく、ギリシア人が忍び込んだみ木馬をトロイア人自ら城内に引き込んで、その扉をヘレネが開ける方が面白いような気がするのだが、どうであろう?
 でも、知っているたくさんの英雄たちが活躍し、戦い、そして死んでいく。生き残った者はアイエネアスを中心にトロイアの再興を求め、イタリアに向かい、それがローマ建国の先駆けとなる話は雄大で、本当に面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062636582 (4062636581)
出版社:講談社 (1997-12-15出版) 講談社文庫
版型:697p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年07月17日

阿刀田高著『ホメロスを楽しむために』

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 ここのところ、シャンポリオンからシュリーマンと古代史に興味を持っちゃって、自分でもどうなっちゃっているんだと感じている。シュリーマンとくれば、ホメロスということになるので、ではホメロスはどんな人物で、どんな作品を残したんだと知りたくなった。かといって、『イリアス』や『オデュッセイア』はきっと読めないだろうなぁと思ったので、阿刀田さんのこの本を手にした訳だ。 とにかくやさしく解説してくれて、しかも面白い。
 基本的にこの『イリアス』や『オデュッセイア』がどういう話なのか私は知らなかったので、この本から知ったことを書く。まずは『イリアス』からである。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎていて、「これはまずいぞ」と思うところから始まる。ゼウスは人口を減らすにはどうすればいいかと考え、戦争を起こせば、人が多く死ぬからこれがいいと考える。周囲を見渡すと、折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。そこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。特にゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテが激しく争う。そこでこの三人(神)は誰がこの中で一番美しいか、トロイアの王家の第2子として生まれたパリスに決めてもらおうとする。もちろん誘惑付きでである。自分を選んでくれたら、ヘラは「世界の王者にしてあげよう」と言い、アテネは「すべての戦の勝利者にしてあげよう」と言う。アフロディテは「世界一の美女をあげよう」言って、判断を自分の方へと誘い込む。結局パリスはアフロディテを選んだ。この時点でトロイはアフロディテを味方にし、ヘラとアテネを敵に回すこととなった。
 パリスはこの時不吉なことは起こると言って、山の中に捨てられちゃって、羊飼いをやっていたが、何とか復帰した。父プリモアスの命を受け、スパルタへ赴く。そこには世界一の美女で名高い王妃ヘレネがいた。ヘレネは大神ゼウスと白鳥を愛でる王妃レダとの間に生まれた子であったが、とにかく求婚の申し出が多い。そこでヘレナの養い親は花婿の決定はヘレナに委ねるからそれに従って欲しいと言う。それに不服な奴は今回の花婿候補者が一致して制裁を加えると決める。そんなときパリスはアフロディテの計らいもあって、たちまちヘレネを見そめ、彼女を国外へ連れ出してしまった。スパルタの王メネラオスは当然これに怒った。メネラオスの兄は当時ギリシアきっての実力者であったミケイナ王アガメムノンであった。ここにアガメムノンを総大将にしてギリシアの王侯貴族や勇者がトロイに向けて船を出し、トロイア戦争の火ぶたが切られたのであった。
 
 ふむふむ、なるほどね。
 
 ところでトロイア戦争といえば、アキレウスの存在が気になる。アキレウスは何者かというと、先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせた経緯がある。

閑話休題
 ここで知ったオリンポスに住むギリシアの神々のことを備忘録として書いておきたい。まずは大神ゼウス。ゼウスの家系は父がクロノス。クロノスの父がウラノスで、代々息子が父親を斃して自分が支配者となった。そのためゼウスの父親クロノスは我が子に斃されるのを恐れて、妻レアが生む子どもたちを次々と飲み込んでしまったが、ゼウスだけはその難を逃れた。ゼウスは父親に薬酒を飲ませ、父親の体内に飲み込まれた兄弟姉妹を助け出す。助け出された兄弟姉妹たちは男神ポセイドンとハデス、女神はヘラ、デメテル、ヘスティアである。兄弟たちはクロノスを亡ぼし、ゼウス(ローマ神話ではユピテル。英語でジュピター)が天と地の支配者となり、ポセイドン(ローマ神話ではネプトゥヌス。英語でネプチュン)が海を、ハデス(ローマ神話ではプルトン。英語でプルート)冥界を支配することとなった。
 ゼウスは姉のヘラと結婚し、アレスとヘパイトスが生まれ、またゼウス頭の中からアテネが誕生する。さらに浮気者のゼウスはレトという女神を愛し、アポロンとアルテミスの双子が生まれた。さらにさらにゼウスはマイナという女神と交わってヘルメスが生まれる。そしてゼウスの祖父ウラノスの精液から生まれたのがアフロディテである。要するに男神は1.ゼウス、2.ポセイドン、3.アレス、4.ヘパイトス、5.アポロン、6.ヘルメス、女神は7.ヘラ、8.デメテル、9.ヘスティア、10.アテネ、11.アルテミス、12.アフロディテの十二神である。どうしてか知らないが、ハデスは通常この十二神に含まれないらしい。ハデスが冥界の支配者だからだろうか?

 話を元に戻して、アキレウスといえば“アキレス腱”という弱点が有名だけれど、それは次の理由でアキレス腱が弱点となった。母親のテティスはアキレウスを不死身にしようと思い、その効能がある冥府の川に幼いアキレウスをくるぶしを握って浸けた。当然くるぶしは霊験あらたかな霊水が触れないわけだ。ここが弱点となり、“アキレス腱”となった。
 そのアキレウスである。テティスを仕方なしに諦めたゼウスとポセイドンは二人はうまくやっているかなあと気にかける。この心理を阿刀田さんは「下世話な話をするならば、あなたの知りあいに、とてもすてきな娘がいた。しかし、あなたはしかるべき事情があって、彼女を妻にすることができない。そこで、知りあいのよい青年を彼女に紹介する。二人は結婚し、
ー幸福にやっているかなー
 とあなたは気にかけるようになる。一種の代償行為かな。彼女に子どもが生まれれば、わけもなくその子がかわいかったりする」と説明する。あははは!これはうまい言い方だ!とにかくアキレウスは神々の寵愛を受けていたわけだ。
 この本によると、アキレウスも最初アガメムノンと一緒にギリシア側で戦っていたようだ、トロイの近くにアポロンの神殿があり、ギリシア軍はこの町を攻め、戦利品として神官の娘を奪い取った。娘はアガメムノンの所有物となった。神官は娘を返して欲しいというアガメムノンに願い出たが、拒否されたので、アポロン祈ってギリシア軍を懲らしめて欲しい頼み込む。アポロンを敵に回すとまずいので、アキレウスが中心になって娘を返すことになったが、アガメムノンは自分だけ戦利品がないのはなにごとじゃと言うことで、アキレウスが戦利品として得た女ブリセイスを横取りしてしまう。アキレウスはブリセイスを妻のように可愛がっていたので怒り出す。アキレウスは、“もう俺は戦わない”と戦線離脱をしてしまう。
 もっともアガメムノンとアキレウスの不和はそれ以前にさかのぼって原因があるらしい。トロイを討とうとギリシア軍が立ち上がって船を出したとき、逆風で船が出陣できない。それは女神アルテミスの怒りのためであった。アガメムノンがアルテミスに不敬を犯したのである。アガメムノンはどうすれば女神の怒りが解けると占い師に尋ねると、アガメムノンの長女イピゲネイアを人身御供として捧げなさいと言われる。イピゲネイアはアキレウスの花嫁にするからと言われ故郷から呼び出されたのだ。アキレウスは自分がだしに使われたことで激怒した。これがアガメムノンとアキレウスの不和の最初の原因らしい。とにかく勇者アキレウスがいないギリシア側は戦況が悪化してくる。
 トロイヤ王プリアモスの長子ヘクトル。これがめちゃめちゃ強い。ばったばったとギリシア軍を斃していく。瀕死の重傷を負っても、アポロンの加護を受けて復活するし、そもそも大神ゼウスもちょこっとトロイヤの側についているものだから、ますますギリシア側は不利な状況になっていく。そこでアガメムノンは重臣たちを集めて作戦会議を開く。そこで重臣たちはアキレウスに贈り物をして、何とか気分を宥め、戦場に戻ってきてもらおうとする。アキレスのもとに大アイアスとオデュッセウスが使者として向かう。が、気分を損ねたアキレウスはなかなか戦場に戻ろうとはしない。そもそもアキレウスの運命は、トロイヤを攻めれば不朽の名誉を得るが、自分の命を失う。戦わず故郷に帰れば長生きできるとテティスから予言されていたのだ。
 しかし友人のパトロクスが討たれ、アキレウスは自分の命がなくなるのも顧みず、戦場に復帰する。そしてヘクトルとの一騎打ちに勝ち、パトロクスの仇を討つ。
 この後ヘクトルの亡骸を巡ってすったもんだあるのだが、トロイヤ王プリアモスがアキレウスに泣きついて何とかヘクトルの遺体を返してもらい、葬儀が行われた。ここで『イリアス』は終わる。

 あれ?

 トロイの木馬の話はどうなっているんだ?

 『イリアス』には以後何も書かれていないそうだ。実はホメロス以外の詩人がトロイヤ戦争やその周辺のことを唱っていて、そこにトロイの木馬の話があるらしい。その前にアキレウスの死について書いておく。アキレウスはアマゾネスの女王ペンテシレイアを殺し、エチオピアの王メムノンを斃し、周章狼狽するトロイヤ勢を追って城内に攻め込む。トロイヤの敗北が決定的と思われた時、アポロンが現れて、パリスの矢でアキレウスの踵を射抜き、その後胸を射され、アキレウスは死ぬ。アキレウスの死後アキレウスの武具を誰に与えるかでオデュッセウスと大アイアスとが争いになり、結局オデュッセウスに渡るが、それよりもアキレウスがいなくなったギリシア軍は戦果あげられず、もうやめようかという話になりつつあった。“これはまずい”ということで、アテネ女神がオデュッセウスに木馬の建造を吹き込み、木馬に隠れてトロイヤ城内に入ることを勧める。ギリシア軍は撤退を装い、トロイヤ側は木馬を城内に引き込んでしまった。木馬の中にはオデュッセウスらが忍び込んでいて、あの駆け落ちをしたヘレネの合図で木馬の蓋が開けられ、以後はご存じの通りである。
 なぜヘレネがオデュッセウスに協力したのか、この後の『オデュッセイア』に書かれている。これが笑っちゃうのだ。父オデュッセウスを探すために息子のテレマコスがスパルタを訪れた時、ヘレネに会う。その時ヘレネは次のように言う。

 「あのとき、私、ひどく後悔しておりましたのよ。女神アフロディテのせいで、心を迷わされ、故郷を捨て、非のうちどころない夫を忘れ、かわいい娘まで残してトロイアまで行ってしまったことが、くやしくてくやしくてたまらなかったわ。だから、オデュッセウスに協力してあげましたの」と。

 これに対して阿刀田さんの言い方が最高である。

「おい、おい、ヘレネの、この言い分をテレマコスがどう聞いたかともかく、われ等、後世の読者は釈然としないぞ。少なくとも私は、
 ーあんた、それを本気で言うの。絶世の美女ともなると、すごいもんだねー
 と考えてしまう」

 「『私も被害者なの。だから裏切ってやったわ』と言われたら、どうにもやりきれない。そもそもトロイア戦争はヘレネの出奔から始まったことではないか」と。

 まさしくその通りだ。ギリシアの神様もわがままで、勝手放題のことをやっているけれど、王や王妃もやりたい放題。言いたい放題だね。だから面白いといえば面白いのだけれど・・・。

 さて、トロイア戦争のことでこんなに長くなっちゃった。『オデュッセイア』のことが書けなくなった。『オデュッセイア』は十年かかったトロイア戦争後オデュッセウスが故郷に帰るまでの話である。
 故郷のイタキ島には妻のペレロペイアがいるが、オデュッセウスがなかなか帰ってこないので、もう死んでしまったのではないということで、ペレロペイアに言い寄る狼藉者がたくさんいた。オデュッセウスの館で好き勝手なことをし始める。女中に手を出したりもする。
 一方オデュッセウスは怪獣たちと戦ったり、冥府に行ったりして、やっとの思いで帰ってくれば、そんな状態であった。オデュッセウスは彼らを成敗してめでたしめでたしというところか・・・。

 長くなったついでというわけじゃないけれど、ちょっと思うところがある。それは歴史って“振り子”のようだなと思ったのである。どういうことかといえば、この本に書かれているギリシアの神様たちはきわめて人間くさいと感じたのだ。確かに阿刀田さんの解説がそう思わせるところがあるかもしれないが、それにしてもここに登場する神様たちは、時に人間と区別がつきにくい。ということは人間的と言ってもいいんじゃないかと思う。ギリシア彫刻や絵画などをがそれを如実に表しているような気がする。
 だから、ギリシア・ローマ時代が人間性を謳歌するように、振り子がそちらに大きく振れれば、その反動で、今度は中世のようにキリスト教にがちがちに縛られ、神を絶対的存在として崇め、人間の生活自体もストイックになっていく。そしてそっちの方向に振り子が大きく振れれば、今度は元に戻って、人間性の復活としてルネサンスや宗教改革が起こってくる。そんな流れを歴史に感じてしまった。案外人間の歴史というのは、その程度のものでしかなく、回り回って、振って振られて、今はトロイア戦争時代のように、大神ゼウスが人間が増えすぎて困ったなと思って、地球環境を悪くしたりして人類を減らしているんじゃないかなんて思ったりした。


評価
★★★★★


書誌
書名:ホメロスを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255248 (4101255245)
出版社:新潮社 (2000-11-01出版) 新潮文庫
版型:368p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2008年07月15日

阿刀田高著『陽気なイエスタデイ』

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 なんだか知らないけれど、阿刀田さんのエッセイを読んでいると、気持が和らぐというか、ささくれだった気分が、おさまるような気がしてくる。でもさすがにこれだけエッセイを読み続けていると、目立って新しいことはない。以前読んだエッセイにも書かれていたことがここにも何度も登場する。そろそろ阿刀田さんのエッセイは卒業していいのかもしれないが、まだ数冊残っているので、これを読んでから、小説に入ろうかと考えている。
 で、目新しいことはここにはないのだけれど、蔵書のことについて書かれていたことが気になったので、そのことを書く。
 私は今自分の持っている本の整理をやっている。というより、雑本の処分といった方がいいかもしれない。先日も読んだ古い文庫本を中心に、もう絶対に読まないだろうなという本をブックオフに売り飛ばした。というより処分してもらったといった方がいいかもしれない。
 話は急に変わっちゃうのだけれど、先日朝日新聞に「図書館が本の処分場になっている」という記事が一面に載っていた。どういうことかというと、公立図書館が財政難のため貸し出し希望が多いベストセラー本も多数は購入できないので、市民から寄贈を募っているという。ところがそこに持ち込まれるのが、どうしようもない本ばかりで、廃棄するしかないものばかりだという。どうしてこういうことになるかというと「本を寄贈する人は本が好き。捨てることに罪悪感があるから、読まない本を図書館に持ってくる」とみる。中には亡くなった旦那さんの蔵書200冊以上の寄贈の申し出たがあったが、「専門的な教育本などが多く、図書館向きでなかった」ということで、引き取ったのは50冊だけだったというのもある。
 確か持っている本には愛着がどういう形であれあるから、むやみやたらに捨てられない。だったら図書館に寄贈して、誰かに読んでもらえれば有り難いなと思うのだろう。だけど図書館側が求めているのはベストセラー本で、それ以外はいらないという姿勢だから寄贈する本がたとえ貴重な本でも、捨てるしかない。こういう図書館の姿勢もどうかと思うけれど、市民が望んでいるのだから仕方がない。“公立で無料の貸本屋さん”化している所以であろう。
 ということで、私はブックオフで処分してもらう。だから引き取り金額などどうでもいい。そもそも私が自分の持っている本の整理を始めたのは、本の収納場所がなくなってきたことが大きいのだが、それよりも、私が死んだらこの本の処分をどうするかという問題を突きつけられたからだ。突きつけたのはかみさんである。確かにそうだと思う。ここにある本は私という所有者がいるから価値があるわけで、その人間がいなければ、ほとんど意味をなさない。そういう本しか置いていないからだ。阿刀田さんは父親から「おれが死んだら、この本が役立つぞ」といわれたけれど、父親の死後これらの本は役には立たなかった。古本屋に売っても居酒屋でちょっと飲む程度しかなかった。それなら父親が本に支払った金額を生命保険に回してくれた方がまだマシだった言い切る。「蔵書というものは、それを入手して保持した人の性格や趣味と深く関わっている」から、たとえ家人でも無用の長物になりかねない。それなら棚に入り切らなくなった本がある以上、今棚に収まっている本の中で、無用の本は少しでも自ら処分したほうがいいと思ったのだ。さすがに全部捨てることはできないけれど、自分が死んで本が処分されることを想定した場合、どう考えても一銭のお金にもならない本は、今の内に処分した方がいいと思ったのだ。多分私の本はかみさんか息子が処分することになるのだろうけど、その時「けっ!こんなつまらん本ばかり残しやがって」なんてあまり言われたくない。そんなことを考えながら本の整理を今やっている。それでも残った本はそれほど価値を生む本とは限らないから、結局無駄かもしれないがとも思うが・・・。それはそれで仕方がない。実際そんな本ばかり読んでいるんだからね。諦めてもらうしかないだろう。
 昔、読書家や作家、あるいはその道の学者さんなどの本棚や書斎を紹介した本があったが、それを見たとき“いいな!”と思ったものだ。こんなに本意囲まれ、それこそリクライニングチェアなどに座って本を読める環境がうらやましかった。またそこに写っている本にも箱入りの豪華全集などがあって、いつか自分もそんな本棚や書斎を持ちたいものだと思っていた。
 でも最近は、阿刀田さんがここで言うように、「おれはこんなたくさんの本に囲まれ、これを資料にしているんだ」という文筆家が陥りがちな儀式的、自己暗示的な蒐書は極力避けたいから、せっせと本を処分しているという姿勢が本当は正しい姿じゃないかと思うようになってきている。文筆家でなくても本を読む人の本棚には自己主張や自己満足がはびこり、あまりかっこいいもんじゃないななんて思うようになってきている。
 


評価
★★


書誌
書名:陽気なイエスタデイ
著者:阿刀田 高
ISBN:9784167278229 (4167278227)
出版社:文芸春秋 (2004-03-10出版) 文春文庫
版型:252p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年07月08日

阿刀田高著『殺し文句の研究』

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 例によって、書名がこの本全体を意味しない。さまざまな雑感集である。
 阿刀田さんは自分の小説のアイデアや書き方を“工房”と称して、その手の内をよくエッセイで披露してくれる。今回「作家の企業秘密」で、阿刀田さんの文章作法が書かれている。
 そこには阿刀田さんは子供の頃から作文は苦手であったことが書かれており、その阿刀田さんがどうやって文章能力を磨いたのか?そこにはこれといって努力をしたわけではないことが書かれている。ただ、本を読むことはよく読んでいた。そこで自分の体験から「たとえほとんどペンをとることがなくてもよい文章を読み続けてさえいれば、書く能力はそれなりにつちかわれるのではあるまいか」という。
 こんな文章を書いてみたいなと思う作家を見つけ、その人の文章をよく読むこと。ときには作品の数ページを書き写してもよい。息使いや句読点の打ちかたまで、おもいのほか得ることが多いという。そして今でも自分の文章が荒れているなと思ったときは、自分の好きな作家の文章を読んで軌道修正をしているという。
 なるほどそうすれば私も少しはマシな文章が書けるのかななんて思った。しかしこうしてパソコンで文章を手軽に打っていると(パソコン自身お節介なほど親切なので)、いつまでたってもうまい文章は書けないかもしれないなんて思うところもある。やっぱり文章が少しでもうまくなりたいなら、手書きで書いてみるのがいいのかな、なんて思うのである。(一時やっていたんだけど、面倒になってやめちゃった)

 「殺し文句の研究」の中でも面白いものがあった。アメリカの海軍当局の兵士募集に「ニューヨーク市民になるより、アメリカ海軍に属するほうが安全です」という求人広告。この文句は「統計というものの恐ろしさを説明する材料としてよく引きあいに出されるものだ」そうだ。ニューヨーク市民の死亡率より海軍の死亡率が低いから安全だというのは論理は面白い。どう考えても海軍の死亡率のほうが高そうだし、その分危険であることは間違いないのだろうが、どうしてニューヨークより海軍の死亡率の方が低くなるか?それはニューヨーク市民の死亡率は幼児から老人まですべて含めて計算してあるところによる。もし正しく比較するなら、海軍が占めている屈強の若者たちの年齢で比較しなければ話にならないはずだ。
 これと似たような統計の話が最近ある。コンビニの深夜営業自粛の話である。二酸化炭素排出規制のため、コンビニの深夜営業自粛せよとうムードが高まっている。これに対して、日本フランチャイズチェーン協会は、深夜帯も冷蔵庫などは稼働せざるを得ず、CO2削減効果は照明・空調など4%程度と低いからあまり意味がないと反論する。(これ不思議なのだけれど、最初この数字が出たときは、CO2は0.0009%くらいしか削減されないと言っていたはずなのに、いつの間にか4%になっているのはどういうことなのだろうか?)
 いずれにせよ、この4%にどれだけの意味があるのか疑問なところがある。もしこの数字をもっともっと低くしたければ、例えば分母を世界中の二酸化炭素排出量をもってくれば、更に低くすることができる。つまり作為的にどうでもなる数字ではないだろうか。
 そもそもコンビニが深夜に訪れる奴は、意味もなく遅くまで煌々と電気をつけて起きていて、腹が減ったからコンビニで何か買おうかなんて思う奴だろう。それだけでもCO2を盛んに出していることになるし、まして車で出かければそれ以上の無駄なCO2を排出することになる。つまりコンビニが自身排出するCO2だけが問題なのではなく、深夜活動する人間がそこを訪れる際のCO2排出も当然考慮しなければなるまい。それを考えたら、4%以上の数字が出てくるに違いないと思う。
 更に防犯面でも女性の駆け込みなどが年間約1万3000件あり、社会のインフラにコンビニがなっているとさえ言う。これだって、深夜まで遊び回っているから、そういう危険な状況に追い込まれるわけで、コンビニを含め、深夜営業している業種すべてがそれを止めれば、遊びたくたって、遊ぶ場所がなければ家にいるしかないだろう。そして早く寝ればいい。
 コンビニだけがやり玉にあがっているのは“魔女狩り”だという主張は、確かにそうかもしれないけれど、むしろコンビニ業界が率先して、深夜営業自粛をすべきリーダーシップを取って欲しいと思うのだ。“魔女狩り”だとしか言えない方が情けない。
 もちろん24時間テレビなんていうのもやめるべきだ。だいたい付きっきりで24時間テレビを見ている視聴者がいるか、と思うのだ。「愛は地球を救う」なんていったって、地球環境をおかしくしちゃったら、愛もへったくれもないじゃないか!テレビでは地球温暖化、環境破壊など声高に言っているのに・・・。言っていることとやっていることが矛盾している。

 こんな、本とは直接関係ないことを書いたのは、この本読んでいるうちに何か読んだことがある本だなぁと感じたからである。よくよく調べてみると、本の末尾に、『夜の紙風船』と『雨降りお月さん』を合わせて、再編集したものだとわかった。腹が立ったから、最近おかしいなと思うことを書いちゃった。できればこういうのもやめて欲しいな。


評価
★★


書誌
書名:殺し文句の研究
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255286 (4101255288)
出版社:新潮社 (2005-01-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)

2008年07月03日

阿刀田高著『短編小説より愛をこめて』

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 また阿刀田さんのエッセイが読みたくなり、何でもよかったのだが、たまたま先月の新刊で発売されたこの文庫を手に取る。今年は阿刀田さんの本をできるだけ読んでやろうと意気込んでいるので、まずは私の読書方法であるエッセイ集をせっせと読んでいる。この文庫の最後に阿刀田さんの文庫目録が掲載されているのだが、エッセイ集も結構あるので楽しみである。ただ、例えばこの新潮文庫でも今書店で入手できるのは限られてしまっている。古いやつはリストから外れている。ということは品切れか絶版になっているのだろう。仕方がないので、せっせとブックオフに通い、集めている。
 この本は三部構成になっていて、一番目が書名にもなっている短編小説についての阿刀田さんの考察であり、二番目が阿刀田さんが得意とする“ギリシア神話”について書かれ、最後が、阿刀田さんの日々起こっている日常について書かれた雑感となっている。
 短編小説について阿刀田さんは自ら「短編狂」と言い、たくさんの短篇書かれてきたので、「短編小説と心中してもいいかなって思っているんですよ」とも言う。
 「長編の場合は、ときどき自分の好みに合わないものにめぐりあうことがあって、それでも、
ー今になんとかー
と読み進み、読み終えて、
ーまいったなあ。時間のむだだったー
 腹立たしく思うことが、けっこうまれではない。その点、短篇は礼儀正しい文学であり、長くはお邪魔しない。二、三時間くらいのことならトンデモナイしろものでも、
ーまあ、いいか。世の中には、こんなことを考えて書くやつもいるんだなー
と許容することができる」と言う。確かにそうかもしれない。ただ個人的には短編小説は物足りなさを感じてしまい、やはり長編を読み終えると、ああ、読んだなあ!とまず読み終えた充実感があるように思える。逆に言えば、それだけ私はいい短篇に巡り会えていないのかもしれない。好きな短篇はいくつか頭には浮かぶけれど、数えてみるとわずかだ。
 この章には短編小説のことだけでなく、小説を書くにあっての注意点や、読書は面白ければそれだけでいいという主張は、今まで読んできた阿刀田さんエッセイで何度もふれられている。ここでも面白いことが書かれている。
「日本人は生真面目だから、なにをやるにも“ためになる”“役に立つ”など大義名分を求めたがる。ただ“楽しいから”だけでは気が引ける。趣味のゴルフにしてからが、“健康によろしい”“商談に役立つ”なにか理屈がほしいのである。ノホホンとただひたすら楽しいだけでは我慢ができないのだ」これも確かにその通りだ。不健康で不摂生をしている私は、よく“健康オタク”のかみさんから、あれだけ本を読んでいて、健康や身体に関する本を読まないんだからとよく言われるのだ。冗談じゃない。何が悲しくて健康本を読まねばならないのだと思っている。読んだってちっとも楽しくないじゃないか。私は自分が楽しめるから、本を読んでいるのだ。それだけである。
 さて、ギリシア神話について書かれたものは、そのエピソードが面白い。大学時代、呉茂一さんの『ギリシア神話』を手にしたことがあったが、だんだんわからなくなってしまい投げ出した覚えがある。その人間関係(いや神様関係?)が複雑なので、頭の中ごっちゃになってしまった。今も読んでみたい思うけれど、多分ダメだろうなとも思う。阿刀田さんの著作にはいくつかギリシア神話に関して本がある。今度これらを読んでみようかなと思う。とりあえず、この本に書かれていたエピソード自分で書き出して、なるほどと感心している。
 最後の雑感については、肩を張らず書かれている。これといって感心したり、為になるとかそういったたぐいの話ではないけれど、読んでいて、ほんの少し感心したり、うなずいたりする楽しみを味あわせてくれる。やはりうまい文章だから、さらりと語られる事柄は、味わいがある。こういうのは好きだなぁ~。


評価
★★★


書誌
書名:短編小説より愛をこめて
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255316 (4101255318)
出版社:新潮社 2008/07出版 新潮文庫
版型:245p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)

2008年06月30日

レスリー・アドキンズ/ロイ・アドキンズ著『ロゼッタストーン解読』

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 中島敦に『文字渦』という短篇小説がある。古代アッシリアのアシュル・バニ・アパル大王の頃、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという妙な噂がニネヴェの宮廷で飛び交う。大王はナブ・アヘ・エリバ老博士に調査をさせる。彼は図書館にある書物から文字の霊について説を見いだそうとするが、文字を見つめているうちに、妙なことが起こり始める。「一つの文字を長く見詰めている中で、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としてしか見えなくなって来る。単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る」のであった。「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味を有たせるのは、何か?ここ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた」のである。つまり単なる線の交錯が文字として、音と意味を持たせるのは文字の霊だと思い至るのである。以来老博士は文字の霊に取り憑かれる。
 ある若い歴史家が、「歴史とは何ぞや?」と老博士に尋ねる。老博士は「歴史とは、昔在った事柄で、且つ粘土板(当時文字は粘土板に書かれた)に誌されたものである」と答える。更に若い歴史家はそこに書かれなかったものはどうなのだと聞く。老博士は「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」と答える。

 中島敦の短篇をいきなり引っ張り出したのは、この本を読んで思い出したからである。この本の原書名は『THE KEYS OF EGYPT』という。まさしくヒエログリフ解読がエジプト古代史の“鍵”で、ジャン・フラソワ・シャンポリオンがヒエログリフを解読したことによって、古代エジプト学が明らかになった。この本はシャンポリオンがどのようにヒエログリフを解読していったか、その経過をつづったものである。
 ヒエログリフの解読に役立ったものが「ロゼッタストーン」である。これはナポレオンのエジプト遠征時、ロゼッタの北西数キロのところで、ドプールという兵士が片面に碑文のある暗緑色の石版を発見した。この石版を調べると、三つの異なった文字が記されている碑文であることがわかった。一つがヒエログリフで、後はデモティク文字、ギリシア文字であった。



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 私が高校時代の世界史で習ったことは、この「ロゼッタストーン」の発見で、簡単にヒエログリフが解読できたように習った。多分ギリシア文字を追っていけば、ヒエログリフがどれに該当するかわかるからだろうと思うのだが、この本を読むとそう簡単な話ではないようである。シャンポリオンをはじめ、イギリスの学者が競って、ヒエログリフの解読に挑んだが、なかなか読めずにいた。
 しかもシャンポリオンが生きた時代はフランス革命の動乱の後、ナポレオンが帝位につき、その後失脚し、ルイ王朝が復活しためまぐるしく歴史が変わる時代であって、シャンポリオンもその政治体制に翻弄される様子が描かれる。つまりヒエログリフの解読に精を出していればいいものを、何故かシャンポリオンは政治に関わっていく。またヒエログリフ解読はシャンポリオンだけでなく、さまざまな学者(特にイギリスのトーマス・ヤング)が挑み、我こそが正しいと主張するだけでなく、相手を非難中傷する世界でもあった。このあたりは何時の時代でも醜い争いがあるようで、シャンポリオンの時代も例外ではないようだ。
 さてシャンポリオンはどのようにヒエログリフを解読したのだろうか?このあたりは私の頭ではよく理解できなかったが、まずは表音の確定から始まったようである。
 シャンポリオンは「ロゼッタストーン」から、カルトゥーシュ(楕円形の枠)から「プトレマイオス」という固有名詞を得る。

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 さらにウィリアム・ジョン・バンクスという古物研究者が女神イシスを祀ったフィラエ島にあった倒れたオリベスクを持ち帰り、そこにヒエログリフの碑文があり、そのテキストをシャンポリオンは入手する。そこには「クレオパトラ」の名が書かれただろうヒエログリフを見いだす。

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 そして、この二つのヒエログリフを比較することで、「P」、「O」、「L」、「I」に該当するヒエログリフを発見するのである。



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 以後それをきっかけとして、シャンポリオンはヒエログリフには表意文字と、表音文字の二種類があることを突き止める。やっかいだったのは、ヒエログリフが音の持たない意味だけの文字(「決定詞」という)の存在であった。これは他のグループのヒエログリフの意味を明確化する機能だけを持ったヒエログリフらしい。
 ということで(これ以上は私には説明できないので、先に進む)シャンポリオンはヒエログリフの原理を見いだす。それを見いだしたとき、シャンポリオンは兄ジャック・ジョセフのところへ息絶え絶えに興奮しながら行って、「わかったよ!」と叫んだが、何がわかったのか説明する前に、死んだように床に倒れた。伝説によると卒倒したシャンポリオンはまる五日間、一種の昏睡状態でベッドに横たわっていたという。

 ヒエログリフがわからない人にとっては単なる線(この場合絵かな?)の集まりでしかなかった。しかし文字の霊(それが意味をなす原理原則)がわかることによって、意味をなす。その霊を解読したのがシャンポリオンだったのではないだろうか?
 その意味がわかると、歴史がひもとかれる。そしてひもとかれた古代エジプトでは、文字がいかに大切なものであったかがわかった。
 この本によると、古代エジプトでは書記をもっとも重要な人間(ファラオが書記であった)と見なし、書記は同時代の人々だけでなく、後世の人々のためにも書かれてていたのだ。解読された『死せる著者への賛辞』には、「人間は滅び、死骸は塵となり、人びとは土地からさるが、一人の語る者の口に彼をよみがえらせるのは一冊の本である。建てられた家よりも、西方の礼拝堂よりも遙かに偉大なるものは[パピルス]巻物である」と書かれていたという。そうして残された巻物は、今、古代エジプトをよみがえらせたのだと思うと文字はすごいなと思う。


評価
★★★


書誌
書名:ロゼッタストーン解読
著者:レスリー・アドキンズ/ロイ・アドキンズ/木原 武一訳
ISBN:9784102168318 (4102168311)
出版社:新潮社 (2008-06-01出版) 新潮文庫
版型:471p 15cm(A6)
販売価:780円(税込) (本体価:743円)

2008年06月23日

角田光代・岡崎武志著『古本道場』

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 この本単行本の時も気になっていた本であった。それが今回ポプラ社が文庫本を創刊することになり、第二弾としてこの本がラインアップされた。早速購入する。ポプラ社が文庫を創刊することに関しては、少々期待している。ポプラ社はいい本を資産としてもっているのだから、今風のネットで話題になっているものなど文庫化するより、もっているいい本をどどんどん文庫化して欲しいなと思う。

 さて、この本は師匠役の岡崎武志さんが弟子として作家の角田光代さんに場所を指定して、特色のある古本屋さんで指令の通り本を探させる。そして角田さんが古本屋さんで感じた疑問の答えや購入してきた本の解説を岡崎さんがしてくれるというもの。
 訪ねる古本屋さんは最初は神保町で、次に代官山・渋谷、さらに東京駅、銀座、早稲田、青山・田園調布、西荻窪、鎌倉、そして再び神保町に戻る。
 私はまずはビジネス街の東京駅地下街に古本屋さんがあること自体驚いた。それと地べたの高い銀座にも古本屋さんがあることも。 そういう町で古本屋巡りするにあたり、岡崎さんは「最短距離を、迷わず行きつくことが要求されるのはビジネスの世界。古本屋巡りは元来、資本主義の原理とも経済効率とも無縁だからな。見知った町を迷宮に変えてしまう。これこそが古本の力なり」といい、お店を探すのに迷うことも古本屋巡りの醍醐味の一つであると教える。
 角田さんの古本に寄せる文章もいい。まずは古本屋さんの百円均一の棚について書かれたものから。「百円棚は、やっぱり『用無し』本が圧倒的に多いのだ。とうに文庫になった単行本とかさ。時代に置いていかれた本というか、あるいは時代には切実に求められていたのだが、それ故に、時代が変わるとまったく用無しになってしまうもの。百円棚にあるのはそういうものだ」と書く。だから百円均一の棚にある本は「時代の置きみやげ」、「だれかの成長の軌跡」だというのはうまい言い方だな感じた。
 あるいは店内にある本から「そうなのだ、店内を歩いていると、だれかの生活に触れているような錯覚を抱く。この膨大な本をそれぞれ所有していた人たちの、本を読むという、ゆたかな時間の切れ端が、そこここにちりばめられているみたいだ」と表現する。
 あるいは古本屋さんの店内を「高田馬場に向かいながら、今日一日見せていただいたお店の前を通りすぎる。どこも戸を開け放ち、現実と微妙にずれた静寂の時間が、その向こうに広がっている」と表現する。

 そうなのだ。古本屋さんを巡って歩くときいつも感じるのは、せわしい日常を忘れさせてくれ、ふと立ち止まって、昔読んだ本のことを思い出させてくれるし、あるいは好きな作家の知らなかった本を教えてくれることだ。だから、読んだ本でも、もう一度読んでみようかなと思ったり、古い単行本そのものに、新しい発見をして、驚いたりする。それが楽しいのだ。
 また角田さんが書かれているように、ここにある本は以前の持ち主の切れ端でもあるし、あるいは時代の証言者でもある。だから新刊とは違う付加価値を、好むと好まざるに関わらず、もっている。それを探るのも楽しい。それを感じるだけで、自分の豊かな時間を過ごせるような気がするのである。私は何年か古本屋巡りをするに当たり、そうした雰囲気を味わってきた。それがたまらなく幸せ気分であった。だから角田さんがこのように言うのがうなずけちゃうのだ。

 角田さんが早稲田の古本屋さんで、「なんだなんだ、この感じ・・・。しかしなんだかわからない。奇妙な胸騒ぎを抑えつつ棚に目を這わせると、あああっ!すごいものを見つけてしまった」と開高健さんのサイン本を見つける。値段が2,500円だったという。これを読んだとき、えっ!いいなぁ!と素直にうらやましく思った。こういうこともあるんですね。師匠の岡崎さんも「やられたな」と嫉妬したくらいだ。岡崎さんも開高さんのサイン本はもっていないらしい。もちろん私もだが・・・。
 その開高さんの古い本、たとえば芥川賞受賞作品の『裸の王様』は“文藝春秋新社”から出版されている。私はこの“文藝春秋新社”って何だろうとかねがね思っていた。
 たとえば現在“河出書房新社”という出版社がある。この出版社は河出書房が倒産して、再度立ち上げたので“河出書房新社”と名乗って、現在に至っている。ところが文藝春秋は現在“文藝春秋新社”ではなくて、“文藝春秋”である。どういう経緯があるのだろうか?角田さんもこのことを疑問に思っていて、それを岡崎さんが答えてくれている。それを読んで長年の疑問が解けたので、書き置いておこうと思う。
 『文藝春秋』は当初菊池寛が私費を投じて創刊した雑誌であった。社名は“文藝春秋社”である。ところが戦後出版および用紙割り当ての実権を握っていたのはGHQで、雑誌が出せなくなってしまった。昭和二十一年、四,五月合併号の発行をもって文藝春秋社は解散する。しかし佐々木茂索を社長に、雑誌『文藝春秋』を引き継いで発行される。その際社名を“文藝春秋新社”とした。この社名は昭和四十一年四月号から社名変更として“文藝春秋”になるまで続いた。だから昭和二十一年から約二十年間に刊行された出版物に“文藝春秋新社”発行と書かれている。ということらしい。なるほどね。

 こうして古本屋さんの本を読んでいると、まだ行っていない古本屋さん、特に中央線沿線に興味が行く。時間があれば行きたいものだ。


評価
★★★


書誌
書名:古本道場
著者:角田 光代・岡崎 武志
ISBN:9784591103494 (4591103498)
出版社:ポプラ社 (2008-06-05出版) ポプラ文庫
版型:279p 15cm(A6)
販売価:588円(税込) (本体価:560円)

2008年05月28日

泉嗣彦著『医師がすすめるウオーキング』

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 五街道という万歩計を買ってもう11日たった。今東海道をバーチャルで歩いているのだが、11日でやっと保土ヶ谷までたどり着いた。距離にして約35キロ歩いたことになり、歩数を累計すると110、000歩弱となる。目標数字、一日平均一万歩は何とかクリアーしている。私は早朝ウオーキングをしている。つまり朝、いつも使う駅より一つ先に駅まで歩いている。そのお陰で一日一万歩歩けることになるのだ。たとえば天気は悪くて、朝歩けない日にはだいたい半分の五千歩が通常私が一日歩く歩数だから、早朝ウオーキングのお陰で目標数字に達している。
 もともと本屋で働いていた頃は、仕入にチャリを使って、動き回っていたから、体重も軽かったし、その分身体の切れもあった。ところがこうして事務仕事をするようになって、毎日パソコンの前で仕事をするようになると、食べるだけで、エネルギーの消費が少ないから、どんどん太る一方になった。詳しいことはよく知らないが、健康診断の数値も悪くなっていった。仕方がないとはいえ、やはり気になるし、何よりも身体の切れが悪いことは自覚できるので、これはなんとかせにゃならんわいと思い、唯一自分ができることといえば歩くことしかないため、歩くことを始めた。もうかれこれはじめて二年以上なる。お陰で一時六十八キロあった体重は現在六十一キロを割るまでになってきて、身体の切れはいい。おそらく健康診断の数値も改善していると思う。
 もともと無理はしていないので、天気の悪い日や暑い日、寒い日は歩かないし、もちろん体調の悪い日も歩かない。気分次第で気ままに歩いているから、今は歩かなきゃという義務感や、あるいは健康のためとか、大義名分で歩いていない。歩きたいから歩くというようになっている。歩いてうちに、いろいろなことを考えたり、普段意識しない街路樹や植え込みの花などに気がいったりして、結構楽しんでいる。いい気分転換なのである。
 そんなものだから、この本が気になった。著者はもともと消化器の専門医であったそうで、それが人間ドッグの仕事に関わるようになってから、いわゆる「生活習慣病」と向き合わざるを得なくなった。「生活習慣病」とは、不適切な生活習慣を長年続けることが、病気の発症・進行に関与する、いくつかの疾患の総称で、これは医師や薬で治す病気ではなく、具合が悪くなった人自身が、自分で生活習慣を改めることが最も重要となる。しかし今まで続けてきた生活習慣を改めるというのはそう簡単なものではなく、著者もそのことは痛感されていた。
 人間ドッグを受けた人に何か運動をしていると言った人で、その運動の中身を聞いてみると、ウオーキングと答える人が多く、また運動しない人でもやってみたい運動はないかと聞くとウオーキングと言う人が過半数を占めるという。だいたい人間ドッグを受ける人は中高年が多いからこういう結果になるのだろうと著者もいっているが、それだけウオーキングが中高年にとって手軽な運動ということになる。実際問題私もそうなのである。要は身体を動かすということに重点を置けばいいのだから、それを考えるとウオーキングはずぼらな私でもすぐ思い浮かぶのだ。
 しかし人間ドッグの検査値をすべて改善するためにはウオーキングを一日一万歩を目安にして行い、できればそれ以外にも週一回のジョギング、水泳、サイクリングなどの有酸素運動をすればいいという。そんなの何も運動しなかった人には無理な話である。「非日常の行為はなかなか実践できない」ものである。そこで今より少しだけ多く歩いてみましょうと提案する。一日千歩、およそ十分多く歩きましょうと検査値の数値が悪い人に提案することとなった。これが著者のいう「ライフスタイルウオーキング」というものである。これはわざわざ運動の時間を取るのではなく、生活すべての行動に含まれる「歩く行為」を増やしなさいということである。そのため以下の点に注意する。

1.日常生活の中で、意識して活動的に身体を動かし、歩く
2.家事や仕事をしながら、室内でもより多く歩く
3.移動するときは機敏に動く
4.なるべくエレベーター、エスカレーターに乗らず階段を使う
5.近い距離なら、バスや車、電車に乗らず、せっせと歩く
6.ある程度連続して歩くときは、活発に。前を歩いている人がいるなら、その人を追い越すように心がけて、さっさと歩く
7.強度、時間、距離、頻度より歩数をどれだけ増やせたかを重視する

 そして天候や体調や仕事の都合で一日千歩歩けなくても、一週間で七千歩歩けばいいのだから、歩けるときに不足分を補えばいいと非常にやさしいのである。
 更にそれを習慣化するために、記録をつけるとよいといっている。実は私は万歩計を買ってから、パソコンで記録しているのである。というのも私が買った万歩計は、五街道を歩くというのを基本としているので、歩いた総歩数と総距離はカウントするが、一日どれだけ歩いたかは記録しないちょっとかたておちな代物なので、仕方なしにエクセルを使い、当日の総歩数、総距離から前日の総歩数、総距離を差し引いて、一日の記録を出している。そして備考欄を作り、たとえば「品川に到着」とか書いておく。更にエクセルはすぐグラフにできるので、一週間単位でグラフに残している。
 確かに記録を残すと、おお、やっとここまできたかとか。何とか一日平均一万歩クリアしているなとかわかり、励みにもなる。案外こういう暗い作業は、持続するという点においては必要なのかもしれないなと思う。
 とにかく歩くことで、生活習慣病の予防、改善は間違いなく進むらしく(ただし、そのメカニズムは解明されていないらしい)、まずは歩きなさいということらしい。そしてこうした日常での歩数確保を目指す「ライフスタイルウオーキング」を実行すれば、それが「日常のウオーキング化」という習慣化することで、生活意識も変わっていきますよと言っている。自分はどうなのかちょっと考えてしまうところはあるけれど、ただ身体の切れは重くないので、いい感じだ。だから毎日歩いている。


評価
★★★


書誌
書名:医師がすすめるウオーキング
著者:泉 嗣彦
ISBN:9784087202878 (4087202879)
出版社:集英社 (2005-04-20出版) 集英社新書
版型:190p 18cm
販売価:693円(税込) (本体価:660円)

2008年05月06日

阿刀田高著『小説工房12カ月』

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 最近仕入れた阿刀田さんのエッセイを読む。この本は前半が新潟日報に掲載された文章で、子供の頃過ごした長岡市のことを中心に阿刀田さんの思い出が書かれている。
 後半が“小説工房”と称して、小説がどのように書かれているか、たとえば松本清張さんや向田邦子さんの作品を例にとって、自分の小説のアイデアをどのように見つけだし、それを生かして作品を作り上げていくかが書かれている。
 以前読んだエッセイにも日常の中で見え隠れする、小説に使えそうなアイデアが浮かぶとメモをとって、それを後でノートに清書したアイデア帳みたいなものを作られていると書かれていた。阿刀田さんの小説はアイデアが命なので、そこから取り出して小説を書かれているという。そのアイデア帳がもう十三冊にもなっているという。どんなものなのかちょっと見てみたい気がした。
 小説家が自分の作品がどのように生まれたか、あるいはどのように作品を作り上げているか、その手の内を明かすのは珍しいだけに、興味深かった。
 ミステリーにしても、小説にしても、だいたい書くべきことはほとんど書き尽くされているから、後は視点を変えて、同じものであってもちょっと違う側面が見えることがあるので、それを生かして使っているという。確かにこれだけ様々な作品が氾濫していると、もう書くべきことがなくなっちゃうだろうなとは想像がつく。だから新たな作品を生み出すことはかなり大変だろうなとは思うけれど、そんな中で、視点を変えれば同じことでも違う側面が見えてきて、ちょっと新しい作品が生まれるというのは面白い。
 阿刀田さんは特に文章修行をしたわけではないという。むしろ作文のたぐいは嫌いだったという。それでもこうして作家として一流の文章が書けるようになったのは「読書」のお陰だという。本を読んでいて、「この文章いいな」と感じたら、それを覚えたという。だからいい文章を書くには読書は必須で、憧れる文章を書き出してみることを勧めている。
 私の文章は悪文だと自分でも自覚しているが、こうして文章を書くにあたり、読んだ本の一部をノートに書き出してみると、その作家の文章の癖がわかることがある。そうすると自分の文章のひどいところがはっきりすることがある。たとえばこのようにワープロで文章を書いていると普段使わない漢字も簡単に変換してくれるものだから、それをそのまま採用してしまう。だけどそれが不自然であることを知った。
 司馬遼太郎さん文章を一時ノートに書き出したことがある。そうしてみると、司馬さんはむやみに漢字を使っていないことがわかった。それが自然に見えた。だからひらがなで充分なんだなと思った。ひらがなを馬鹿にしちゃいそうだけど、そんなことはない。だから私もむやみに漢字に変換させないことに最近はしている。不自然な漢字、普段使わない漢字が文章にちりばめられていると、読んでいる方は結構疲れることも最近わかった。
 また阿刀田さんも指摘しているけれど、ワープロで書かれた文章は長くなりがちだという。そうかもしれない。自分でもやたら文章が長いなと思うことがたびたびある。書きたいことが山ほどあるものだから、なんでもいいから続けて書いてしまうのだ。ワープロはそうした欲求を満たしてくれるけれど、やはり文章は綴る短い方がいい。そして長いものなら、ちゃんと一息いれるところあるべきだと最近は思っている。一気に書き上げてしまうのは、書く方はいいかもしれないけれど、読む方はつらい。そのうち何を言いたいのかわからなくなることもある。だから私もその点は気をつけてはいるのだけれど、どうであろうか?阿刀田さんが「まったくの話、明治以降<あるいは、その以前から>今日に到るまで、日本の知識人のあいだには、ありたいていに言えば“むつかしい文章を書くことが偉い人”という風潮があった。ことさらむつかしく書くことがりっぱと、なぜか信じられていた。私はかつて、一般の読者を対象にしている雑誌に、ひどく難解な文章が掲載されているのを知り、ゆっくり読み解いて、
-簡単に言えば、こうでしょ-
 と、かなり入念な考察を実験的におこなったことがある。
 みなさんは、ぜひとも悪しき風潮から遠ざかっていただきたい。よい文章を書こうと考えるなら、わかりやすく、平易な文章、べつな角度から言えば、相手の立場に立って親切な文章を意図することをお勧めしたい」といのは、まったくその通りなんだろうと思うのだ。
 私が本を読んで、こうして文章を書いているうちに、少しでもいい文章が書けるようになればいいのだがと思う。
 最後に、身辺雑記として「本とのつきあい」で阿刀田さんが小説家として、あと何年やれるかなと考えてあと十五年足らずと予測する。そしたらその十五年のあいだで絶対に手にいれないと思える本がたくさん出てきたという。決心してそういう本はどんどん処分することにしたと書かれていた。
 それを読んで、今自分が本棚の整理をしている中で思っていることと同じだと思った。もうこれは今後読まないだろうなと思える本。あるいは読んだけど、まず絶対に読み返さないだろうなという本は処分してもいいかもしれないと思いながら、今本棚の整理をしている。このあたりの気持ちはいずれもうひとつのブログで書きたいと思っている。


評価
★★★
 

書誌
書名:小説工房12カ月
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087746921 (4087746925)
出版社:集英社 (2004-04-30出版)
版型:337p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年05月02日

井上ひさし著『ボローニャ紀行』

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 続いてイタリアについて書かれた本を読む。私がボローニャについて知っていることは、この本の最初にあるボローニャ大学の歴史についてである。昔ヨーロッパの大学がどのようにして生まれたのか興味があって調べたことがあるからである。再確認のため、この本に書かれているボローニャ大学の由来を書いてみる。
 ボローニャは大きな街道が交差するため、物資の集散が盛んで商業が栄えた土地であった。商取引が盛んになると、それまで使っていたゲルマン法では役に立たなくなってくる。というのはゲルマン法は慣習法であり、道徳や習俗が法と一緒になっている。しかも成文化されていない。これでは約束ごとや契約には役に立たない。そこで目をつけられたのがローマ法である。ローマ法は道徳や習俗といった社会規範と法切り離されている。公法と私法きっちり分けてある。しかも成文法であるから(文字に書かれているから)当てになる。商業にローマ法が適用される。当然商業が盛んなこのボローニャにおいてローマ法を研究する学問的欲求が興ってくる。これがボローニャ大学が生まれる最大の理由であった。
 ここでは懐かしい人物の言葉が引用されている。ルドルフ・フォン・イェーリングである。彼は近代法学者の第一人者であるが、“ローマは三度世界を統一した”とその著書で書かれている。三度とは、まずは武力で、次にキリスト教で、そしてローマ法で世界を統一したというのである。この言葉は大学時代何かの本で読んだのか、講義で聞いたのか忘れたが、言葉自体は思い出せる。
 当時の大学は校舎があるわけでなく、学生は街の広場や教会、あるいは教授の家に通って勉強していた。そのうち学生が組合を作って、学者を招いて講義をさせるようになり、それが1088年でボローニャ大学創立年となる。つまり当時の大学は学生が管理運営をしていて、教授の人選、給与、授業内容は学生が決めた。だから聴講生の少ない教授からは罰金を取ったし、最悪首にもした。ちなみにラテン語のUniversitasは自治的な組合のことで、これがUniversityの語源である。
 ボローニャ大学の卒業生は、カンタベリー大司教、ダンテ、ペトラルカ、エラスムス、コペルニクスがいる。あの『薔薇の名前』を書いたウンベル・エーコーはここの哲学科の教授であった。
 さてボローニャのことである。なぜ井上さんはボローニャに興味を持たれたのか。こうして本まで書かれたのか。それは井上さんが子供の頃、洗礼を受けた時の神父さんが聖ドメニコ教会の人であったことも関係しているかもしれないが(ボローニャにあるサン・ドメニコ教会は聖ドメニコ教会の発祥の地)、それよりも、ボローニャが戦後たどってきた歴史から、国家ではなく地方の存在価値をしっかりと見定めようとすることがこの本を書かせた理由ではないか。いわゆる「ボローニャ方式」によって、地域が活性化する方法があるんじゃないのかというのがこの本で言いたかったことなんじゃないかと思うのだ。
 ボローニャはレジスタント都市である。ナチスドイツやファシスト軍を市民の力で追い出した歴史がある。ただし、その歴史は悲惨な歴史でもあるが、市民や職人達は戦った。彼らの多くは共産党員や社会主義者であった。
 戦後このことが、右派キリスト教民主党が中央政権を握っていたために、政敵であるボローニャにはマーシャルプランからの資金提供がなされなかった。それだけでなく、露骨に嫌がらせをされた。ボローニャは生き延びるために自分たちで何とかしなければならなかった。ボローニャは自分たちが誇る精密機械の販路を海外に求めた。海外の顧客が何を求めているのか詳しく調べ、そのニーズに合わせたサービスを提供し続けた。やがてこうした努力がボローニャを中央政権と五分に争えるまで成長させた。そしてそのことが「自分たちがいま生きている場所を大事にしよう。この場所さえしっかりしていれば、人はなんとかしあわせに生きていくことができる」という熱い思いとなる。「過去と現在は一本の糸のようにつながっている。現在を懸命に生きて未来を拓くには、過去を学ぶべきだ」というボローニャ精神が生まれ、そこにある歴史的建造物を壊さず利用する。それは外観はそのままにして、内部は必要に応じて変えてしまう。そうして路線バスの車庫はホームレスの更正施設に、貴族の館は保健所や保育所や劇場に変え、女子修道院はヨーロッパ一の女性図書館に、王立タバコ工場は映像貯蔵センターに、証券取引所は図書館に、家畜市場は老人クラブやコンサートホールなどの複合施設に変えていく。こうした資金提供は企業に求める。企業は得た利益を地域に還元するという精神があるため、地域活性化のために作られたさまざまな組合に投資していくのである。井上さんは「ボローニャの人たちは、自分が得たものを街に返すことで、街そのものなっていくのだ、と。相手が国となるとあまりにも大きすぎて愛するのはたしかにむずかしい。しかし、自分が住むところなら、何とかなるかもしれない。となると、自分が現在、住んでいるところをまず愛するに足る場所にしなければ話にならないのではないか・・・」と考えるようになる。多分これが一番井上さんが言いたかったことなのだろうと思う。
 国家というシステムが動脈硬化を起こしている現在、自分たちが住んでいる街をいかに住みやすくしていくか。あるいは元気にしていくことが、人らしい生き方ができる環境を作っていくかになるんじゃないかといっているようである。
 先に読んだ宮本映子さんの本でも感じたことなのだけれど、イタリアの人たちは日常の楽しみや人生の目的をまず、自分たちの住んでいる街で見いだし、そのために協力していく。そういう精神ってものすごくうらやましいなと思うのだ。

 ところでネットでボローニャ大学や聖ドメニコ教会のことをネットで調べていたら、「イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!」というサイトを見つける。これがすばらしくきれいな写真を掲載されていて、思わず見惚れてしまった。どなたが作られているか知らないけれど、連休にゆっくりと見させてもらおうと思っている。URLは下記の通り。


http://italiashio.exblog.jp/


ボローニャ大学や聖ドメニコ教会は次のURLにあります。

http://italiashio.exblog.jp/5383444//


評価
★★★


書誌
書名:ボローニャ紀行
著者:井上 ひさし
ISBN:9784163690902 (4163690905)
出版社:文藝春秋 (2008-03-01出版)
版型:222p 18×12cm
販売価:1,249円(税込) (本体価:1,190円)

2008年04月17日

阿刀田高著『食卓はいつもミステリー』

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 阿刀田さんの文庫本はブックオフで105円で買えるので、うれしい。そして値段以上に楽しめるものだから余計にうれしい。
 今回は食べ物に関するエッセイ集だ。先のエッセイと違い寄せ集めでないので、まとまった感じあって非常によろしい。
 この本を読んでいて思うことは、いわゆる戦中や戦後の貧困時代を体験した人は、食に関してこだわりを持っているように思える。たぶんあの時代日々の食事に困っていたから、その中を生き抜いてきただけのことがあって、今の飽食の時代になっても、食べ物に関しては、どうしても一品一品味わいつくし、ああでもない、こうでもないと、言いたくなるのではないか。
 たとえば開高健さんの自伝エッセイを読んでも、戦後の窮乏時代の記述を読むと、ホント目を覆いたくなる。五木寛之さんのエッセイにも、早稲田在学中、自分の血を売って、お金を得ることが書かれていたはずだ。阿刀田さんのこのエッセイにもさらりと書かれているけれど、やはりこの時代苦労したことが書かれている。
 そしてそのときの苦労が今にも及んでいて、阿刀田さんは「若い人たちも私たちの世代も、現在は同じ食糧事情の中で生きているはずなのに、(食べ物や飲み物)の重みを現実の価値以上に高く考えてしまうところがある」という。それは開高さんにしても五木さんのエッセイにも同様に書かれていたと思う。だからという訳じゃないが、食べ物に関しての記述は、結構くどい。
 ただ、阿刀田さんが面白いことをこの本で言っている。それは人の脳は味を覚えることが不得手のようで、たとえば昨日食べたふぐを、食べたという事実を記憶するのはやさしいが、それがどんな味であったかを思い出そうとすると、とたんにぼやけてしまうというのは、何となくわかるような気がする。
 そこで阿刀田さんは、私たちが味に関して持っている語彙が少ないということ思い至る。せいぜい“甘い”、“辛い”、“塩辛い”、“酸っぱい”、“苦い”、“いがらい”、ぐらいだ。たぶんこのように味に関して語彙が少ないのは、私たちの脳の構造に由来するのだろうという。だから食べ物を表現するのはかなりむずかしいことになる。しかし職業作家としては「言葉に尽くせないほどうまい!」と言ってしまっては失格だ。それは開高さんが言っていた。作家である以上、どんなことをしても言葉でその味を言い表さないといけない。近頃のテレビグルメレポーターみたいにただ「うまい!」としか言わないのとは訳が違うのだ。
 語彙が少ない以上、食べ物や味に関しての記述だけではなく、それらにまつわる経験や思い出、あるいは小説のアイデア、本の紹介などで、うまい具合にこの本では添えられていて、楽しかった。特に阿刀田さんが食べ物や経験から得た小説のアイデアの話は興味深く、そのアイデア生かして話を書かれたのを読んでみたくなった。そしてこのエッセイ集のいいところはそうした阿刀田さん小説や他の作家の小説など最後にきちんと発売元などが記述されていて、非常に親切だ。いくつかここで紹介された小説をメモしておいた。

 面白かったのは、生きた伊勢エビを頂き、それを阿刀田さん夫婦が調理する場面。その伊勢エビがあまりにも元気なので、阿刀田さん宅にある鍋じゃゆでるときに飛び出しかねない。で、どうしたかというと、伊勢エビを風呂場に持って行き、お湯をひねってなぶり殺しに近い感じでゆでた。その課程があまりにも残酷なため、食欲がなくなってしまう。
 そこで阿刀田さんは「料理というものは、どの道残酷なものである。手際よくやらなければ、生き物を味よく食べるのはむつかしい。できれば、一番残酷なところは、だれか他の人にやってもらいたい」と悟る。確かに料理というのは残酷なものだ。食べるという行為は生き物を殺して食べることに他ならない。
 「屋台の味」で屋台のラーメンの話がある。阿刀田さんは「路端に屋台のラーメン屋を見ると、ちょっと立ち寄ってみたくなる」というのは気持としてよくわかる。特にお酒を飲んだ後になぜ屋台のラーメン屋を食べたくなるのだろうか?昔午前様で始発電車待つ間、駅のそばにあったラーメンが美味しかった。でも、しらふならきっとそれほどでもないんだろうなと思う。三十を過ぎた頃から、夜を徹して酒を飲むなんてことは体力的に出来なくなって、それ以来屋台のラーメンを食べていない。
 そういえば今私が家に帰るとき、屋台を引いて、商売に出かける人によく出会う。これから商売に出かけるのだから、もう少し気合が感じられていいと思うのだけれど、どうもけだるい感じが全体に漂う。何となく“仕方がない、仕事でもするか”という感じである。
 そして朝、私が新聞を取りに玄関を出ると、そのおやじが屋台を引いて帰っていく姿も見かける。その感じは、出勤時?よりけだるそうでいかにも一日の仕事に疲れたという疲労感一杯に見える。重そうな足取りで屋台を前屈みになって引いている。(実際重いんだろうな)思わず朝から“お疲れ様”と言いたくなる。生きることの大変さを感じてしまうのだ。(どうでもいいか。こんな話)
 トーストの話も美味しそうだった。これもそうだけど、喫茶店でトーストを最近食べなくなった。そもそも喫茶店が少なくなってきたことと、今の生活が喫茶店のトーストを必要としていないんだから仕方がない。
 やはりこれも大学時代の話だけど、アルバイト先で、いつもコーヒーを飲んでいた亜露磨という名の小さな喫茶店のトーストセットが美味しかった。マスターもママも優しい人で、いろんな相談にのってもらった。バイトをやめたとき、一度手紙を書いたことがあった。何を書いたのか忘れちゃったけれど、返事をもらった。確かそこにはお店をやめるということが書かれていたように思う。
 食べ物に関して私ももとよりうまい表現などできはしないけれど、それにまつわる思い出はそれぞれあり、阿刀田さんがいろいろ思い出すように、私も忘れていたことをいくつか思い出させてくれた。
 胃の調子が悪くなって、あまり量を食べられなくなり、更に油ものがやばい状態になって久しいけれど、その分太らなくて済んでいる。ただ最近美味しいと思って食べているものが少なくなった。最後に書いてあったジョークを書き出す。

 おいしく食べられるのは、まちがいなく幸福なことだが、困ったことに食べれば太る。肥満は健康の大敵らしい。ドクトルの言うところでは、
「今、あなたが摂取しているエネルギーの半分で、生活は維持できますな」
「残りはなんに使われるのでしょうか?」
「医者が生活を維持するためです」

 アメリカンジョークだそうだけど、メタボリックをやかましく言われる今、なんか笑えないジョークだと思いませんか?


評価
★★★


書誌
書名:食卓はいつもミステリー
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255125 (4101255121)
出版社:新潮社 (1989-12-20出版) 新潮文庫
版型:243p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年04月09日

阿刀田高著『好奇心紀行』

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 この本に収録されているコラム、エッセイの初出が最後にまとめてあるのだが、それを見てみると、いかにも雑誌などに書かれた文章を寄せ集めてこの本を出したという感じである。その関係で、大まかにまとめてはあるものの、やはり統一感がない感じがする。
 大まかにまとめられているのは、いわゆる雑文と旅に関するエッセイである。雑文の方は阿刀田さんの作品について書かれたものは興味がわき、ちょっと読んでみたいなという気持になった。
 旅に関しては、阿刀田さんは世界各地に旅をされているので、興味深い。特にギリシアやトルコなど小アジアの古代の遺跡のある旅の記述は、読んでいて自分も行ってみたいなと思う。
 トルコの旅でタイル細工がみごとなモスクの宮殿やモスクを訪ねているのだけれど、それを見て、「りっぱなお風呂屋さんみたいだなあ」と思ったというのは笑ってしまった。
 でも阿刀田さんの感想は、最初きわめて庶民的で、現実的でわかりやすいし、なるほどと思ってしまう。たとえば、吟醸酒について書かれている文章。阿刀田さんは吟醸酒についての知識は「とにかくいいお酒なのだろう」という程度のものであるとまず前置きで書いておき、実際に灘に行って吟醸酒を飲みに行く旅に出る。灘の酒がいいのは、いい水がでるからで、実際その水を飲んでみる。感想は「わからんなあ。うまいような気もするけど、世の中には気のせいということもある」である。
 先のモスクのタイルにしても、灘の水にしても、偉そうにわかったようには、絶対に言わないところがいい。得てしてこういうときはひとつ、ぶってしまうものだけど、そんなことは一切しない。自分に素直に感じたままに言う。だから読む方は親近感もわくし、リアルに感じることが出来るような気がする。
 中にはへぇ~と思えるものもある。たとえば、アレキサンドリアにあった世界最古の図書館について書かれた文章。この図書館の蔵書は七十万冊もあったといわれており、クレオパトラも自慢していたらしい。ところが小アジアのペルガモンに新しい図書館ができ、アレキサンドリアの図書館を凌駕しそうな勢いであった。当然クレオパトラは面白くない。恋人のアントニウスに「ねぇ、ペルガモンの図書館が、すごいんですって。このまんまじゃアレキサンドリアが負けちゃうわ」と訴えたという。(このフレーズはいかにもクレオパトラが言ったよな感じがするので、非常にわかりやすい)訴えられたアントニウスはそれじゃまずいから、ペルガモンの蔵書を全部アレキサンドリアに移そうと約束する。またそれとは別に、クレオパトラに言い寄られて、ペルガモンの図書館の本もパピルスを使って書かれていたから、パピルスをペルガモンに輸出しなきゃ、ペルガモンは困り、アレキサンドリアを凌ぐことは出来まいと言ったという。
 困ったペルガモンはパピルスの代わりに羊皮紙を作り出す。このお陰で、人類の記録がよく残されることなったという。パピルスだと数百年の時間を超えて記録は残らなかったからだ。故に阿刀田さんはクレオパトラのおねだりがなかったら、世界の歴史は変わっていただろうというオチになっている。

 この本で残念なのは、一枚の風景写真や人物写真をあげて、それに関する阿刀田さんのコラムを書かれている「一枚のフォークロア」と「アジアの風」である。如何せんモノクロ写真なので、民族衣装の鮮やかな色について書かれていてもピントこない。そのことに関しては断りの文章があるのだけれど、やっぱりカラーじゃないとよくわからない。まして文庫の載せてある写真はひどい代物なのでどうしようもない。


評価
★★★


書誌
書名:好奇心紀行
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062636216 (4062636212)
出版社:講談社 (1997-10-15出版) 講談社文庫
版型:269p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年04月02日

大沢在昌著『魔物』下

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 シベリアの町、ケジュマにあるロシア正教会に以前飾られていたイコンがあった。イコンに描かれていたのは聖人カシアンであった。通常イコンに描かれるのは、イエスやマリア、あるいは聖人であった。カシアンは聖人に列せられながらも、イエスに仕えていたのを自ら裏切ったということで地獄に追いやられた。ただ四年に一度、二月二十九日にカシアンはイコンから抜け出して、心に強い憎しみを秘める人間に取り憑き、その者の欲望を満たす力を与える魔物だと信じられているという。イコンはその伝説ゆえ、長きにわたって封じられていたのだ。
 そしてそれを知った司祭は、二月二十九日がくる前に、海の底へそのイコンを沈めてもらおうと、友人でった麻薬の運び屋に頼んだのだが、その友人は違う運び屋に殺され、カシアンはその運び屋に取り憑き、日本に来た。
 北海道の麻薬取締官大塚は、ロシアと地元やくざとの麻薬取引があるという情報得る。万全の態勢で大塚たちは臨んだが、ブツは押収したものの、麻薬の運び屋であるロシア人を取り逃がしてしまう。ロシア人は、銃撃による重傷を負いながらも、あり得ない力で警官数名を素手で殺害し、町へ消えてしまった。
 そしてカシアンはそのロシア人から日本のやくざに乗り移り、今度はそのやくざが自らの恨みを晴らすために、自分の組の幹部を襲う。そして大塚が憎み続けた、飯田に乗り移る。
 これ以上書いてしまうと、ネタバレになるので、書けないが、ただ上巻を読んでいて、たぶんカシアンは飯田に取り憑くだろうなと予想できちゃった。できれば、そうでないことを期待したのだが、やはり話は安易な方向へ展開する。

 私は上巻のときにも書いたけれど、伝説という非現実的なものを持ち込んじゃうと、リアル感に欠けてしまうので、そんなことはあり得ないと読んでいて頭の中に残ってしまい、素直にこの話を楽しめなかった。実際の話、エンターテイメントとして楽しめばいいのだろうが、それが出来ずに読み終えることとなってしまった。作り話として楽しむことが出来ない自分が、融通が利かないというか、頭が固いというのか、とにかく現実的じゃなくてもこの話を楽しめばいいじゃん思うのだけれど、それが出来なかった。
 でも、どうであれ、カシアンをまたイコンに封じ込めようとする、大塚たちの活躍は、ハラハラドキドキしながら読んだ。また大塚たちとやくざの幹部のやりとりは迫力があったし、かっこよくもあったので、何とかこの話を陳腐にせずに済んだんじゃなかろうかと思う。まぁそのため下巻は盛り返した感じだ。


評価
★★★


書誌
書名:魔物〈下〉
著者:大沢 在昌
ISBN:9784048737685 (4048737686)
出版社:角川書店 (2007-11-30出版)
版型:326p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2008年04月01日

大沢在昌著『魔物』上

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 昨年読もうと思って買っておいたのだが、他に読みたい本が出てきてしまったので、読むのが遅れてしまった。詳しいことは下巻を読み終わって書きたいけれど、面白い。面白いのだけれど、イコンにまつわる伝説が現代によみがえるというのには、少々リアル感に欠ける。
 麻薬取締捜査官と暴力団とのドンパチは、ハラハラさせ、どうなるんだろう、とページをどんどんめくる羽目になるのだが、せっかくこの場面で盛り上がっても、ロシアの麻薬の運び屋が一枚のイコンにまつわる魔物に取り憑かれて、あり得ない力を発揮したり、銃で撃たれても血も出ないというのは、ちょっとまずいよな~。まぁ小説だから、何でもありということだけど、どうしても読む方は納得できない部分が出てしまう。こうした非現実的なものを持ち込んじゃうと、せっかく話が盛り上がっても、それが気にかかり、興ざめしちゃうのだ。もしかしたら、このことが、この小説の最大の弱点となるんじゃないかと、今、下巻を読んでいて危惧するところである。
 下巻はこの部分をどうやってフォローするのか楽しみだ。ただエンターテイメントとしては面白いことは面白い。


評価
★★


書誌
書名:魔物〈上〉
著者:大沢 在昌
ISBN:9784048737678 (4048737678)
出版社:角川書店 (2007-11-30出版)
版型:361p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2008年03月21日

阿刀田高著『怪談』

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 ちょっと阿刀田さんの作品は休憩しようと思ったのだが、どうも気にかかるので読むのを再開する。それにしてもかなりのボリュームのある本だ。最初読み切れるかなという不安があったが、結構ページが進んだ。ページが進んだといってもちょっとイライラしながら読んだという感じだ。詳しいことはおいおい書く。
 物語は、警備員のアルバイトをしながらボランティアで小説の朗読をやっている朝倉恒一は、NHKでラフカディオ・ハーンの怪談を読んでいた。そんなときスタジオにハーンの勉強をしているという日枝田洋子が訪ねてくる。
 雑司ヶ谷にあるハーンのお墓で再会し、以後お互いがハーンに興味を覚えていることを知り、ハーンゆかりの地を二人で訪ねていく。
 まずは東京にあるハーンのゆかりの地から、次に焼津、明治村のある犬山、出雲、そしてハーンが日本に来る前に愛した土地であるカリブ海のマルチニークと二人で訪ね歩く。最初は“散歩学”と称して、次に日帰り旅行の“小さな旅”、そして本格的な旅と二人は続けていく。
 旅が本格的になっていくと、恒一は洋子に対して気持が好意から恋愛感情へと変わっていく。しかし洋子にはどこか不思議な部分があって、恒一にははかりきれない。そのため思うような行動がとれない。それが妙に焦れったくて、読んでいておいおいしっかりしろよと思いつつ、いつ恒一は洋子に対して自分の気持ちを伝え、成就させるのかと、“次こそは”と半ば期待しつつ、ページをめくることとなった。それがイライラして読んでということなのだ。
 一方ハーンゆかりの地を歩くためには当然下調べが必要になってくるのだが、それがハーンの詳しい解説となっている。私はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲のことをあまり知らなかったので、結構面白く読ませてもらった感じである。そして私もハーンに興味を持ってしまった。
 私が知っている小泉八雲は日本の怪談を集めた人という程度の知識しかないのだが、それはハーンがアイルランド人のチャールズ・ブッシュ・ハーンを父とし、母がローザ・アントニア・カシマチがギリシア人であることに関係があるんじゃないかということで興味を持ってしまった。なぜならハーンの父親はケルト神話のアイルランド人、母親はギリシア神話の土地の人である。親二人がそういう土地の人だったから、ギリシアで生まれたハーンはそういう昔の話が遠い記憶として無意識のうちにあったのではないかと思えてきたのである。それは“血の記憶”として見たこともないし、行ったこともないのにハーンのどこかに記憶として伝承されたものであり、それが日本の昔話を身近に感じさせ、共感を覚え、のめり込んでいったのではないかと思えたのだ。
 そして恒一にも洋子にもそうした“血の記憶”というべきものを深く感じる部分があって、それがハーンに結びついたのだろう。更に言わせてもらえば、もしかしたらだれでも昔から受け継いできたものが、無意識のうちに物語や記憶としてあって、何かその人に作用するものがあるんじゃないかなんて思ったりした。それが“血の記憶”というもので、科学や常識では説明できない。あるいは昔話や伝承というものはそういう“血の記憶”で成り立っているのかもしれないと思ったのだ。それをハーンの生い立ちや功績、あるいは恒一や洋子の行動に感じたのである。


評価
★★★


書誌
書名:怪談
著者:阿刀田 高
ISBN:9784344400894 (4344400895)
出版社:幻冬舎 (2001-04-25出版) 幻冬舎文庫
版型:765p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月16日

梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』

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 前作『ウェブ進化論』がインターネット世界がどのように進化し、社会を変えつつあるか、大まかな展望をみていたのに対し、今回はじゃあインターネットで変質した社会をどうやって生きていくべきか、「その時代に生まれる新しい生き方の可能性」を模索したのがこの本である。まぁ今度は実践編というところなのだろう。
 インターネットは私たちの「時間」と「距離」と「無限」についての概念を揺さぶる。つまりインターネットは私たちに「距離」の制約を感じさせない。情報が瞬時に伝わるため「時間」の感覚さえ感じさせない。不特定多数が参加するため、情報が「無限」でしかもコストがゼロだ。だからインターネットを利用すれば、どこにいようとも、ある分野を極めたいという志さえあれば、効率よく、スピーディーに吸収できる。そのためネットに「住むように生きる」ことができるようになってきて、まるで別世界に住んでいるかのように、「もうひとつの地球」に住み、暮らすことが可能になる。
 そしてそうした世界に住んでいる人たちは、リアル社会において、もうひとつの生き方を提唱するのだ。つまり既存の社会は年寄りが威張り、支配し、自分たちが思うようなレールを引いて、若い人たちをその上に強引に乗せ、強要する。しかし世の中には「大組織適応性にすぐれた人たち」ばかりでできているものではない。日本の教育システムにあまりあわず、大組織適応性がなくても、社会性に富み、創造的で質の高い仕事ができる若者もたくさん日本にいる。そういう若者たちが「好き」でやってきたことをどんどんやっていき、さらに創造的で独創的なものを生み出し、違った価値観を生み出す。
 たとえば“働く”ということ一つとっても、リナックスを例にとり、情報が共有され、公開され、個人でそこに参加できる。その個人の成果、貢献度だけが評価され、他者から注目され、賞賛される。今までは“働く”というは労働に対して、金銭に換算されたものをいってきたが、評価され、注目され、賞賛された個人ははそのことが満足感となり、無償で“働く”という価値観を生み出すという。
 確かにインターネットは、それまでのわれわれの常識を打ち破りつつある。そのためわれわれがそれまで持ってきた価値判断や常識では計りがたい状況を生み出している。ネットの社会は「もうひとつの地球」を作り、そこに「住むように生きる」ことができるようになりつつあるのかもしれない。だからわざわざ既存の社会を「リアル社会」と別けるのだろう。
 しかし私はこの本を読んでいてどこか違和感があった。著者は今ネットが変えつつある、個人の意識を最大限に評価し、賞賛するのだが、それは著者自ら言っているように“オプティミズム”以上のものがありはしないだろうかと思うのだ。
 元々ネット社会を強調するために、既存の社会を「リアル社会」と言い放つこと自体、私は好きになれない。既存の社会を「リアル社会」というなら、ネットの社会はバーチャルな社会ということになる。「リアル社会」がなければ、著者が言う「もうひとつの地球」は成り立たないはずだ。なぜならネットの社会で「住むように生きる」人たちは仙人じゃないのだから、かすみを食って生きていけるものじゃないだろう。「リアル社会」に必ずどこかで依存して、たとえば広告収入などに、生きているはずだ。つまり「リアル社会」に許容力があるからネットでの価値観を認めるんじゃないのかと思うのだ。あるいは「リアル社会」が行き詰まっているから、ネットが生み出す価値観を受け入れているんじゃないかと思うのだ。そこにある何らかの可能性を「リアル社会」が求め、組み入れたいという意識がネットを支えているようにおもえるのだがどうだろうか。そもそも人が生きること自体、リアルなんだから、「もうひとつの地球」に生きるなんておかしな話だ。
 といっても私はネットの可能性は否定しないし、ネットが生み出す技術や価値観、あるいは機会均等性は評価するつもりだ。しかしそれでさえ、「リアル社会」に足をしっかりついていての話であって、より良い「リアル社会」のためであることがネットの存在感だと思っている。
 さらに何でもかんでも年寄りが支配する、ある意味生き方を強制する社会だから、それからドロップアウトした人たちは能力が劣るとは思っていない。が、社会というものは、自分勝手にやっていては成り立たないものである以上、人それぞれ得意分野で社会に参加すべきであるべきであって、その得意分野がネットの世界ならそれで社会に参加すればいい。それだけのことじゃないかと思うのだ。わざわざ「リアル社会」とは別に「もうひとつの地球」を意識して作り上げ、そこに暮らす必要性はない。この本はどこかネットのすべての面で変化や可能性を肯定し、それがベストと言っているように思えてならなかったのだ。あくまでも「リアル社会」で生きるための一つの生き方にネットがあると言うべきだったんじゃないのかと思う。ネットの可能性を強調しすぎる傾向があり、ネットも「リアル社会」があるから成り立っていることをきちんと言うべきだったんじゃないのかと思うのだ。


評価
★★


書誌
書名:ウェブ時代をゆく―いかに働き、いかに学ぶか
著者:梅田 望夫
ISBN:9784480063878 (4480063870)
出版社:筑摩書房 (2007-11-10出版) ちくま新書
版型:244p 18cm
販売価:777円(税込) (本体価:740円)

2008年03月13日

阿刀田高著『ことばの博物館』

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 これで今まで手に入れた阿刀田さんのエッセイ集はすべて読んだことになる。で、こんなに立て続けに読まなきゃよかったと後悔している。だんだん面白くなくなってきてしまったのだ。そりゃそうだよな。好きな食べ物も毎日食べていたら飽きるのと同じである。それに話の内容が重複するのが気になって仕方がなかった。あれ?この話前の本で読んだぞといった感じである。
 
 この本は書名の通り、世間一般に使われていることば、特に故事成語の意味を阿刀田流に解説してくれている。しかし故事成語ばかり並べている訳じゃない。それだと故事成語辞典になっちゃうから、今風のことばも加えている。まぁ先に読んだ『左巻きの時計』ほど下半身にこだわっていない感じの本と思えばいいかもしれない。
 でも読んでいて、「へぇ~」と思うことや、「確かに!」と感心してしまう部分があった。
 まずは問題です。最後の肝腎なところで手落ちがあることを中国の故事で何といいますか?
答えは「画竜点睛」といいます。で、これを何と読みます。ガリュウテンセイと読んだら間違いです。正しくは「ガリョウテンセイ」と読みます。リュウではなくリョウなのです。坂本龍馬もサカモトリョウマと読むでしょう。それです。私もリュウと読んでいました。そして点睛のセイですが、晴ではないことも知りました。意味は瞳のことだそうです。ですよね。意味から考えれば、晴ではおかしい。
 最近テレビで日本語に関するクイズ番組が流行っている。これを見ていると、自分では正しいと思っていても結構間違った読み方や意味で覚えていることが多い。これもいい例かもしれない。
 また「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉がある。よく中学や高校の体育の先生が言いそうな言葉なのだが、これは有名な誤訳だという。確か中学時代読んだ五木寛之さんのエッセイにも同じことが書いてあったのを思い出す。これだと身体が丈夫な人しか健全な精神はもてないことになるじゃないかと疑問を呈していて、それが誤訳であることを教えてくれた。
 阿刀田さんも同じ疑問を持っている。この言葉の出典となったのは、古代ローマ風刺詩人ユベナリスという人の詩の一節で、そこには「賢者が神に願うものは、健全な身体に宿った健全な精神であって、この二つさえあれば、それだけで満足すべきものだ」と言っているそうだ。どこをどう押しても健全な身体に自動的に健全な精神が宿るなんていっていないのだ。
 「日本は人格者が多いのか、偽善者多いのか、外国の名言を日本語に訳すとき道徳教育のたしになるように訳すのが大好き」だからこういうことになるのだと阿刀田さんは言っている。そうかもしれない。人格者や偽善者の都合のいいように訳された名言なるものはある意味迷惑な話である。案外こんなことは多くあるようで、この本ではその間違いを指摘してくれている。

 感心したこともいくつかある。面白かったのは、世界の国々の人々の特徴を言い表す言葉。たとえば「フランス人が作曲し、ドイツ人が演奏し、イタリア人が歌い、イギリス人が聞き、アメリカ人が金を払う」とか、「フランス語で恋を語り、ドイツ語で神を説き、英語で演説し、ロシア語で馬を叱る」とか、「ある夜、女性ばかりのキャンプに暴漢が押し入った。日本の娘は処女を失ってメソメソ泣きくずれた。イギリスの娘は風聞をおそれて、けっして秘密を漏らすまいとみんなにもちかけた。ドイツの娘は犯人をつかまえて断固制裁を加えるべきだと主張し、フランスの娘は・・・・べつに気にもかけなかった」というもの。それぞれのお国柄や民族性をうまいこと言い表している。
 また「蛍の光、窓の雪」とい歌があるが、もともとはスコットランド民謡にそんな歌詞をつけたもの。むかし中国の晋の国に孫康という男がいた。幼いときから勉学の志が強かったが、家が貧乏で油が買えない、それで雪明かりをたよりにして本を読んで勉強していた。さらに同じ晋の国に車胤という男がいて、この人物も勉強が好きであったが、やはり貧乏で油が買えなかった。そこで蛍を捕まえて絹の袋に入れて書を読んだ。二人ともこうして苦学して役人となる。
 ここから阿刀田さんの皮肉が始まる。この二人は刻苦勉励して宇宙の深遠な心理を突き詰めたというならともかく、結局たかが官僚的立身出世主義の権化でしかないという。それよりこの二人は雪のない季節や蛍のいない季節はどうして勉強したんだ?とそっちの方が気にかかるという。雪や蛍のいない季節の方が遙かに長いじゃないかと皮肉るのである。確かにそうだ。こういうスタンスは好きだな。


評価
★★


書誌
書名:ことばの博物館
著者:阿刀田 高
ISBN:9784167278106 (4167278103)
出版社:文芸春秋 (1989-06-10出版) 文春文庫
版型:234p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月09日

阿刀田高著『雨降りお月さん』

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 さすがにこれだけ阿刀田さんのエッセイを読んでくると、鼻につき始めてきた。そろそろ一休みしていい頃かもしれない。でも後一冊エッセイが残っているので、これを読んで一休みする予定だ。
 今回のエッセイは先の本とは違い、それまでの感じに戻っている。個人的にはこの方が好きである。

 「お金儲け考」というエッセイで、阿刀田さんのところに「お金を儲けさせてあげましょう」という電話があるという話なのだが、要するに投資の話を持ちかける勧誘の電話のことだ。そんな電話には「お金儲けには興味がないので」と応えるという。もちろん世の中には金儲け興味のない人などいるわけがないし、阿刀田さん自身もお金は好きだと言っている。
 だけど、お金を増やすやり方が自分が持っているポリシーとあわないから、そう答えることにしているというのだ。阿刀田さんは言う。「お金儲けというものは、自分で頭を働かせるか、体を動かすか、なにかしら労力を支払って、はじめて可能のことである。私はかたくなにそう信じている」と。
 こういう考え方をする人は個人的に好きなのだ。確かに投資という手段でお金を増やす方法は否定はしないけれど、他人にお金だけを預けて、自分はそれ以外何もしないというやり方が私も気に入らないところがある。もちろんそれなりにリスクも負っているんだと言われそうだけれど、やはり自分が得るお金は自分の汗が伴わないとまずいんじゃないかと個人的に思う。何を青臭いことを言っているんだと言われても、そう思うのだから、仕方がない。
 ちょっと前に投資ファンドの代表が「金儲けは悪いことですか」とインタビューしているマスコミに逆に問いかけていたのを思い出すが、あの人がたたかれたのは、あからさまにそれを言ってしまったことだと思っている。正当な手段、あるいは合法的な金儲けが悪い訳がない。ただ世の中の大半が自分で汗をかいて、人生をすり減らして、金銭を得ている以上、あの人のやり方はどこか受け入れがたい部分がある。そう思う。あの代表の言い方は、どこか苦労してお金を得たきたことを否定するところを感じてしまうのだ。
 お金に対する考え方の相違だからどうしようもないけれど、私も汗とお金は結びついているものと思っているから、阿刀田さんの考えにいたく同調するのである。
 それと多少関係あるかもしれないが、「酔いをめぐって」で、「このごろのカレンダーは、日曜日から一週間が始まっている。あれは気に入らない。初めに休んで、それから働く。そういう思想」が阿刀田さんは嫌いだという。私もそうだ。やはり一週間は月曜日から始まり、土曜日まで働き(最近は週休二日だから金曜日まで働き)、そして休むというのが個人的にしっくりくる。カレンダーのデザイン上そうせざるを得ないのかよくわからないけれど、やっぱり一週間は月曜から始まって欲しい。まずは働き、そのご褒美というか、お疲れさんという意味で土日の休みが意味をなすと考えるのが普通じゃないかと思うのだ。休みから始まって、それから働けというのはどうも納得できない。
 最近のカレンダーの表記には、先の投資の話とどこか似ているように思えてならないのは私だけであろうか?おそらく大半の人たちが働くことでお金を得て、そして休むというのが、普通なのではないかと思うのだ。
 阿刀田さんがそうして小市民的な視線を持っておられるところに、共感を覚えるし、だからこそ作品を読んでみたいと思うのではないかと考える。

 最後にここのところ阿刀田さんのエッセイを立て続けに読んでいるのだけれど、どの文庫にも最後に阿刀田さんの作品目録が内容ごとに細かく表記されている。最初はこれは便利だなと思っていて、出版社の親切からこうした文献目録を載せてくれていると思っていた。ところがそうじゃないらしい。
 阿刀田さんは様々なジャンルの作品を書かれている。だから読者が阿刀田さんのミステリーを期待して読んでいたのが、いつまでも殺人が起こらないという不満が出てくる。そうならないように一計を案じ、各社で発行する文庫本すべてに分類目録つけることにしたらしい。多彩な才能を持っているとこういう問題が出てくるんだと思った次第だ。


評価
★★


書誌
書名:雨降りお月さん
著者:阿刀田 高
ISBN:9784122016422 (4122016428)
出版社:中央公論社 (1989-09-10出版) 中公文庫
版型:241p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月07日

阿刀田高著『左巻きの時計』

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 更に続いて阿刀田さんのエッセイを読む。この本は夕刊フジに掲載されたエッセイというかコラムを一冊の本にしたものらしい。まぁ夕刊フジというくらいだから、おじさまの好きな下ネタ、男と女、セックスの話が全体にちりばめた感じになっており、今まで読んできたエッセイとちょっと趣が異なった感じであった。内容が落ちた感じになっている。
 たとえば、「五パーセントの科学」というエッセイでは、白雪姫の継母の「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは、だれ」というあの文句から、鏡というものは五パーセント実像よりよく映す傾向があるのではないかと阿刀田さんは考える。というのは鏡を見るときは、無意識のうちに自分でよい顔を作ってみているはずだからというのだ。だから実像は鏡を見ているときより、五パーセントぐらい下がっているはずだという。
 そしてここから話が波及し、男性の“いちもつ”の話になる。通常自分自身の“もの”を見るときは、真上から真下へ視線を送って眺めている。自分の“もの”を横から見ることは不可能だ。従ってこういう見方をすれば、当然実際の長さより短く見える。
 ところが他人様の“もの”はトイレや銭湯などで、横から垣間見るわけだから、実際の長さに近いものになる。だから人様の方が・・・・となるわけだ。
 そこで阿刀田さんは「顔は五パーセント引き、ペニスは五パーセント増しがよろしいのである」という結論を出す。

 ということで、この本全体がこんな感じである。なるほどね、とくすくす笑えるのである。お酒の席でここで披露される話をすれば、案外おもしろいかもしれない。


評価
★★


書誌
書名:左巻きの時計
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255071 (4101255075)
出版社:新潮社 (1986-05-25出版) 新潮文庫
版型:329p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月05日

阿刀田高著『まじめ半分』

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 続いて阿刀田さんのエッセイを読む。
 これまで読んだ文庫本の巻末に阿刀田さん著作リストが載っていたので、その中からエッセイを抜き出し、紙に書いて、探しにブックオフへ行く。うちの近くのブックオフには阿刀田さんの文庫本が結構あると思っていたのだが、エッセイ集と限定すると、それほど手に入らなかった。これは今後探す必要性が出てきたので、古本屋さん巡りをするときが楽しみである。
 さて、この本の題名はうまく名付けたと思い感心してしまった。まさにこのエッセイはまじめな部分半分、後の半分はジョークや笑いを誘う文章でうまく締めくられている。だから、確かにそうだ!と阿刀田さんが言わんとすることに感心したり、あるいはほほ~と阿刀田さんの博識なところを感心する。そして例のごとくちゃかした感じで笑わせてくれるところもちゃんとある。

 先に“笑いの半分”から。「女房と本棚」というエッセイ。
 人の本棚を眺めていると、その人が本当に興味を持っているのは何なのか、思考傾向や趣味嗜好まで大方見当がつくという話なのだが、確かにそれは言えているかもしれないと思ったのだ。
 たとえば竹村健一の本があれば、「ああ、なるほど。このあいだ核エネルギー問題について、いっぱしのことを言っていたけど、この本の受け売りだな。ちょっと軽薄だぞ」とか、小林秀雄の“本居宣長”なんかあれば、「へえ、驚いた。知的好奇心があるのは本当らしいが、新聞の批評なんかに踊らされて、こんな高価な本を買うところもあるんだな。インテリ性みえっぱり」と推察できるというのだ。確かに。私は他人の本棚なんか覗いたことがないので、こういう経験はしたことがないけれど、もし見る機会があれば、同じようにあれこれ推察しちゃうだろうなと思う。
 そして新婚まもない友人宅で謝国権(うわ!久しぶりにこの人の名前を聞いた!)の“性生活の知恵”が二冊もあったのを見かけて、阿刀田さんは次のように推察する。
「一冊は亭主が買ったもの。一冊は奥さんが買って実家から持ってきたもの。二人とも事前に一応研究したんだな。ご夫婦ともに文献でものごとをよく調査研究してから実行に移すタイプらしい。それにしても本棚の中にこの手の本をおいておくところを見ると、セックスについてはかなり開放的な考え方を持っているほうだろう。このぶんなら二人でいろいろ研究しているにちがいない」と。
 これはちょっと眉につばをつけて読まないといけないなとは思うけど、思わず大笑いしてしまった。
 そしてさらにこの夫婦には後日談があり、更に笑えるのである。
 それから一年半たった四月にこの夫婦に子供が出来た。その知らせを聞いた阿刀田さんは「うん、なるほど」と得心するのである。というのも、赤ちゃんを産むのに一番いいのは四月である。季候もよくなるし、充分成長してから幼稚園や小学校に入れることが出来るからだ。“性生活の知恵”をそれぞれ持参して研究する夫婦だから当然計画出産だろうというのだ。

 あまりバカなことに大笑いしていると、私の人格が疑われそうなので、“まじめ半分”のこともちゃんと書いておかないとね。まずは「コンプレックス」というエッセイから。
 コンプレックスといえば劣等感の意味だと思っていた。要するに自分が他人よりおとっているという感情のことだ。しかしこれでは正解というわけではないらしい。本来の意味は「深層心理が抱く願望のこと、つまり自分では意識できないけれど心のどこかに、ある欲望が抑圧された状態で鬱積していて、それがいつか噴き出すチャンスを狙っている-そんな心理傾向を指して言う」ことらしい。だから劣等感もコンプレックスの一種と考えた方がいいのかもしれない。鬱積して噴き出すと劣等感に陥るというところか?
 ここで阿刀田さんが得意とするギリシア神話が出てきたのでギリシア神話の話を。
 エディプスというギリシア神話の英雄が父を殺して母と結婚したことから、男性は成長期において、自分では意識しないけれど、父親をライバル視して憎み、恐れ、母親を最初の異性として愛する心理傾向をギリシア神話の英雄のこの名前を借りてフロイトがエディプス・コンプレックスと名付けたという。

 ついでにギリシア神話の「パンドラの箱」についても。
 プロメテウスが神々の国から火を盗んで人間に与えたのを怒ったゼウスは、人間たちを懲らしめるために贈ったのがパンドラという女性だった。パンドラはゼウスから邪悪な贈り物を持参の箱の中に隠し持っていた。ゼウスからこの箱を絶対に開けてはならぬと言われていたが、気になり開けてしまう。すると怪しい煙が立ち上り、病気、戦争、悪意、嫉妬など、ありとあらゆるこの世の悪が飛び出した。人類の不幸はこのときから始まったとギリシア神話はしているのである。パンドラはあわてて箱のふたを閉めたが、時既に遅く、諸悪の根源はすべて飛び散ってしまったが、かろうじて箱の底に残ったものがあった。それが“希望”であった。人間がもろもろの悪にさいなまれながらも、希望だけを一縷の救いと持ち続けられるのも、このせいなのだ。さすがギリシア神話はよくできている。

 ということで、アホな笑いを楽しみながら、ちょっと物知りになれたのがこの本でった。


評価
★★★


書誌
書名:まじめ半分
著者:阿刀田 高
ISBN:9784041576021 (4041576024)
出版社:角川書店 角川文庫
版型:242p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月01日

阿刀田高著『三角のあたま』

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 阿刀田さんのエッセイも三冊目。そして偶然なのだが、この本がその三冊の中で一番古い本であった。親本は1990年に出版されているから、今から18年前になる。しかし内容はそれほど古さを感じさせない。確かに当時の世相に関した記述には、それ相応の風化がみられるけど、基本的に世相や事件などにこだわった記述をしていないので、全体として古びた感じがしないですんでいるというところだろうか。
 このことは阿刀田さんも心得ていて、「雑誌というものは、そのときそのときの時流を反映して作られているものだから、一年もたってしまえば、かならず古くなる。そこで、その雑誌に連載するエッセイはどうあるべきか、書き手にとってはないがしろにできない問題である。(略)執筆者が時事問題に精通した評論家のような人ならば、そのときのトピックスを大切にするだろう。一方小説家などは、あまり時流にはとらわれず、いつでも通用するようなテーマを扱うことが多いだろう。私も、どちらかと言えば後者のほうであった」という。
 そうだよな。「一番新しいものが、一番古くなる」のだから、この手のエッセイの難しさは、いかに話の内容を風化させないか、それにつきるんじゃないかとも思う。ということは、内容に新しさだけを求めすぎてしまうと、もう時間がたってしまえば、意味をなさない。
 その点小説家は、評論家と違い、“人の生きざま”を文字でつづることが職業であるから、たとえ時事問題に言及しても、それは本質ではなく、そこに映し出される人々にスポットを当てている。だから内容が風化しないのだ。

 今回続けて三冊阿刀田さんのエッセイを読んだわけだが、いずれも、阿刀田さんの小説の舞台裏が書かれていて、なるほどこうしてあれらの小説は書かれてきたんだとちょっと興味深かった。
 このエッセイでは小説の登場人物の名前がどのようにつけられているかを知った。阿刀田さんは基本的に「そのときの思いつき、苦しまぎれ」で名付けられているようで、それほど深い考えで登場人物の名前をつけているわけではないらしい。
 その際、同窓会名簿が役に立つという。つまりここから登場人物の名前を探すわけだ。思わずなるほどねと感心した。ただ名前をつければそれでいいというものでもないらしい。特殊な名前、あるいは実際の人物が特定されてしまうような名前は避けるという。たとえば車寅次郎はどう考えてもサラリーマンの名前に適さない。まぁ車寅次郎なんて名前は映画以外あり得ないけれど、たとえば車を外して寅次郎だけだって、フーテンの寅さんをイメージしてしまうだろうから、命名としてはちょっと難しいのはよくわかる。
 われわれ読者は小説の登場人物の名前を、ただその人物を物語の上で特定するだけに、記憶に残すが、命名する側にとっては、それなりの苦労があるようだ。

 これで先日買ってきた阿刀田さんのエッセイをすべて読んじゃったのだけれど、まだ読みたいなという気分になっている。今日は休みなのでまたブックオフであさってこようかななんて思っている。幸い私の近所にあるブックオフには結構阿刀田さんの文庫本があるので、いくつか探せそうである。


評価
★★★


書誌
書名:三角のあたま
著者:阿刀田 高
ISBN:9784041576151 (4041576156)
出版社:角川書店(1994/01出版)角川文庫
版型:292p 15cm(A6)
販売価:どうやらこれも新刊書店では入手不可のようです。

2008年02月28日

阿刀田高著『犬も歩けば』

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 続いて阿刀田さんエッセイを読む。相変わらずいいテンポで話をしてくれている。このエッセイでは阿刀田さんがどうしてギリシアに関心を持たれたのか、その経緯が書かれている。
 阿刀田さんは大学時代フランス文学を専攻していた関係で、ギリシア神話と縁が深かった。しかしそれ以前に父親の本棚の奥に『世界裸体美術全集』があって、阿刀田さんが中学生の頃、密かにページを開いて見ていたという。裸体画は主にギリシア・ローマ神話にちなんだものだった。その後全国屈指の高校に入学される。社会科の先生がギリシアの民主主義を中心に一年間古代史ばかりの授業をする変わり者の先生がいた。阿刀田さん自身は古代ギリシアのことは詳しくなかったが、周りはみんなよく知っているようで、あわててホメロスの『イリアス』を読んだという。高校生には難解の本であったが、『世界裸体美術全集』を断片的に読んでいたから、「なるほど。これはあの絵のことだな」と見当がつき、『イリアス』を読み終えることが出来たという。
 つまり阿刀田さんのギリシアの関心は、子供の頃隠れて見ていた『世界裸体美術全集』に由来するらしい。思わず、「へぇ~、そうなんだ」とちょっと面白かった。でも案外ことのきっかけなんて、こんなもんじゃないかなんて思ったりする。阿刀田さんも「思いがけないものが、役に立ってくれる、それが人生というものなのだろう」と感慨深げに言っている。
 この後しばらくギリシア神話やギリシアの旅のことが触れられており、あの大作『新トロイア物語』生まれた経緯が語られていて、これは絶対に読まないといけないなと思った次第だ。

 この本の書名の一部になっている「犬もあるけば棒に当たる」というエッセイが気にかかった。ところでこのことわざの意味はどういう意味かご存じですか?
 阿刀田さんは若い人にこのことわざの意味を尋ね、その人は「外に出て行くと、棒に当たるから、家にいよう、って、そいうことじゃないんですか」と答える。私もほぼそういう意味だと思っていた。つまり警戒心の強い犬(中にはバカ犬もいるけど)だってぼーっとしていれば、棒に当たる災難にあうということだと思っていた。
 ところが阿刀田さんが理解していたのはそうではなく、「たとえ才能がなくても何かやっているうちに、思いがけない幸運にあう」ということらしい。この場合、“棒”はよいものを暗示している。だから阿刀田さんはその若い人がとんちんかんな答えを出したとを、「若い人が故事来歴にうといのは、今に始まったことではないし、私もまた一つ前の世代の人に同じようなことをさんざん言われて育った記憶があるから、深く拘泥しないけれど」とちょっと鼻白んでいる。まぁ普通に読めばそう解釈できないこともないかと思っていたらしい。
 ところが不安になって辞書を調べてみると、この若い人が言ったことがこのことわざの意味として書かれており、愕然とするのである。私からすれば阿刀田さんが知っていた意味の方が、へぇ~そういう意味もあるのかと、ちょっと驚きであった。
 実際調べてみると、広辞苑では「物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ」とある。岩波ことわざ辞典では「(1)何かをやっていれば意外な幸運に出会うこと。(2)何か行動すると災難に遭遇すること」とあるのである。
 確かに阿刀田さんが言うように、「犬が歩いて棒に当たる、たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに解釈がちがうのだろうか」思ってしまう。国語上、解釈は限られているだろうけれど、場合によってはこのように、聞く人の心構えによって、聞こえてくるものがまるでちがうこともあり得る一例なのだろう。でもこれは面白かった。今の若い人を鼻白んで、“おいおい”と思いつつも、ちょっと待てよと一端立ち止まって、“おや?”と驚きを披露するあたり、やっぱりプロは違う。


評価
★★★

  
書誌
書名:犬も歩けば
著者:阿刀田 高
ISBN:9784877288549 (4877288546)
出版社:幻冬舎 (2000-04-25出版) 幻冬舎文庫
版型:229p 15cm(A6)
販売価:どうやら新刊書店では入手不可のようです。

2008年02月26日

阿刀田高著『夜の風見鶏』

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 ブックオフで一冊105円の文庫を三冊買った。すべて阿刀田高さんのエッセイ集である。
 私は新たに読もうとする作家がある場合、その人のエッセイ集を一番最初に読むことが多い。そして何冊か読んでその作家のイメージを自分なりに作り上げてから、本体の小説に取りかかる。そのためその人のエッセイが気に入ると、小説の方も好きになれる。
 最近阿刀田さんのエッセイが気に入っている。だから阿刀田さん小説もこれから読んでいきたいと思っているが、きっと気に入るんじゃないかななんて思っている。

 このエッセイは朝日新聞の日曜日の紙面(平成七年の六月から十ヶ月間)に掲載されたいたそうで、それを一冊にまとめたのがこの『夜の風見鶏』である。新聞に掲載されたエッセイだから、時事にまったく触れないことは出来ないようで、多少なりとも本文で触れている。しかしそれは大声で主張するのではなく、さりげなく触れられている。それこそちょっと“流している”といった感じで、読んでいて心地よい。ただ多少物足りなさも感じないわけでもない。
 そんな中、二編のエッセイが気になった。
 まずは「死刑廃止論の行方」である。このエッセイが収録された頃は、オウム事件の裁判の真っ最中だったので、先進国では死刑廃止が常識的と言われていても、日本では逆にその声を聞かなくなったというのだ。阿刀田さんは日本の大衆の意識は死刑廃止から遠ざかっているに違いないという。それは松本智津夫被告の侵した犯罪は極刑でなければ許せないというコンセンサスが国民的世論となっているからである。
 そして全く関係のない人々が訳もわからないまま殺されていく事件が頻発している現在も、そのとき以上に凶悪犯罪には死刑で臨むべきだという世論になっているのではないかと思う。それは人を殺したら自らの命で償うべきであって、そうすることで犯罪抑止力にもなるからと考えるからだ。
 そういう風潮の時、死刑廃止論を言いにくい。そんなとき死刑廃止論を持ち出せば、馬鹿じゃないのと言われるのがおちだ。しかしそれでいいのだろうかと阿刀田さんは言うのだ。ただ世論がそういう風潮だからそうであるべきという考え方は、ある意味日本国民が全員で間違いに進んでいるかもしれない。だから死刑廃止論者は人間的論理に反すると大上段にその論を展開するのではなく、なぜ松本智津夫被告を死刑に処してはいけないのか、その疑問に答えるべきだと阿刀田さんは言うのだ。それを多くの人に説いて欲しいという。少なくとも一般論で死刑廃止論を展開しても、個々の犯罪に対して強い憎しみがある以上、今の日本では死刑廃止論は進まないだろう。
 その上いつも裁判で思うことは、被告が人を殺めたことが動かしがたい事実なのに、それをないことにしてしまうこと。あるいはやむを得ないと殺人を肯定せざる得ない状況であったことを主張することで死刑を回避する論理の展開がどうしても納得できない。
 本来なら罪を認め、死刑が相当だとした上で、だけれども・・・という弁護士の話を聞きたいと私も思う。少なくと聞く耳は持っておきたいとは思う。ただしそれは裁判で小賢しい弁護を聞くことじゃない。それは当然人々の胸に響くものでなければならない。
 ただこれも私が事件の当事者でないからそう言えるのであって、関係者ならそんなことは多分言えないだろう。それを充分認識した上で、なぜ松本智津夫被告が死刑ではまずいのか。あるいは光市の母子殺人事件の少年が死刑じゃまずいのか。事実に反するといってつまらぬ証拠を次から次へと並び立てて死刑を回避しようとすよりも、死刑廃止論者を自認するなら、松本智津夫被告や少年が死刑じゃまずいのだと納得できる説明をして欲しいと思う。それを聞きたいと私も思った。

若干本筋からそれた。

 もう一つが「読書は楽しいぞ」というエッセイだ。これは今まで読んだ阿刀田さんの読書に関する意見と基本的には変わらないが、補足の意味で、確かにそうだと思ったので書くことにした。阿刀田さんと知り合いの文芸評論家が成人の何十パーセントが一ヶ月に一冊も本を読まないことに亡国の兆しだと嘆く。それに対して阿刀田さんはそれが直ちに亡国の兆しにつながるか疑問を呈す。本を読まなくても元気のいい国はあるし、大衆文化の様相も昔と今では大きく変わっているから、そんなことは一概に言えないという姿勢である。ただ本を読まない傾向は強まっているというだけである。
 あるいは読書は知識を広め、人格高揚に役立つ、というのは嘘ではないけれど、結果としてそうなると考えておいた方がいいというスタンスである。逆にそういうことをあまり口うるさくいうものだから、読書は勉強になってしまい、つまらないものになってしまうのだという。「知識なんかどうでもいい。人格なんか気にしない。とにかく『楽しんだぶんだけ得、得』と、これがよい」という。
 私は阿刀田さんの本に対するこういう考え方が好きである。どうも読書家といわれる人間は偉そうにぶりたくなところがあって、たかが本を読むことに、何でも大きくものを考えてしまうところがあるように思えてならない。私は本を読むことがそんなに偉いことなのかといつも思うので、阿刀田さんの意見に大賛成である。たかが読書じゃないかといつも思っている。
 阿刀田さんは、読書は習慣であって、本を読む習慣をつけたいと思うならば、身に合った本を読めばいいといい、自分が五十点の人間なのに八十点の本を読んでも長続きしない。むしろすぐ投げ出してしまい、読書そのものが嫌いになる。時にはポルノでもいい。人が何と言おうと好きなものを読めば、そのうち読書習慣なんて身についちゃうと言うのだ。まさしくそ