2008年10月21日

阿刀田高著『花のデカメロン』

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 この本はボッカチオの『デカメロン』の入門書というか、解説書である。もちろんそこいらにあるその手の類の本ではない。例によって阿刀田流のスパイスをきかてある。
 『デカメロン』自体14世紀の作品だから素朴だけど、荒削りであり、時には話のつじつまがおかしい部分もあるらしく、それを20世紀(この本が出たときはまだ21世紀にはなっていない)の現代風に直せばこのようにした方がいいと、阿刀田流にアレンジしたものも添えられている。
 ご存じの通り、『デカメロン』は当時ヨーロッパで大流行したペストを逃れて、上流階級の七人女性と三人の男性が別荘で14日間過ごすかたわら、毎日みんなでお話をしましょうということで、その語られた話をまとめたものである。もちろんボッカチオの創作だが。こういう舞台装置を作って物語をはじめるのを“枠物語”というらしく、あの『千夜一夜物語』もタイプとしてこれに属する。
 で、当時の上流階級というのは腐敗しきっており、しかもペストでいつ自分たちが死ぬかもしれないという状況であったから、生きている間に享楽を満喫しようという風潮であった。
 だから毎度毎度不倫の話ばかりだ。どうしても人間は腐敗するとそっちの方面であれこれうごめくのである。上流階級の貴婦人を恋いこがれる輩がなんとかしてものにしたくて、あれこれ策を弄して近づくとか、あるいは貴婦人自体が若い男に恋いこがれ、なんとか近づきたいとする話ばかりである。おそらく原作だときっと読み切ることの出来ないだろう話を阿刀田さんは今風におもしろおかしく語ってくれる。だから読んでいてくすっと笑える。その点こういう解説書はいい。『デカメロン』には、こんな話があるんだよという雑学的知識が残る。
 ところでこの本の初出は女性雑誌「JJ」だとある。へぇ~、「JJ」を読むというか見る女性がこの阿刀田さんの作品を読むかなと正直思った。「JJ」の読者にはこの作品のユーモアやエスプリはちょっと高尚過ぎないかなんて思ったのだ。だって「JJ」の読者って、3月まで制服を着ていた女子高生が、4月になって短大に入り、制服から私服になり、着ていく服にあれこれ悩み、この雑誌で紹介されるファッションをそのまま着こなす女性をターゲットにした雑誌でしょ?どう考えても無理があるような人でも、“かわいい”ということでこの雑誌を地のままでいっちゃう女性たちである。そんな女性がこの阿刀田さんの作品を読むとは思えない。
 せめてスーツでシャツのボタン二つ外して颯爽と歩くOLさんたちが、この作品を読んでくすっと笑うのがいいと思うのだけれどなぁ。雑誌でいえば「MORE」を二つ折りにして脇に挟んで歩く世代の女性がいい。でも「主婦の友」じゃまずいよな。(もっともこの雑誌も休刊になっちゃったけど)やめよう!これ以上書くと私の品性が疑われちゃう。


評価
★★


書誌
書名:花のデカメロン
著者:阿刀田 高
ISBN:9784334712358
出版社:光文社 (1990/11/20 出版) 光文社文庫
版型:267p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2008年10月15日

阿刀田高著『続ものがたり風土記』

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 続いて続編を読む。この本は前回日本各地にある昔話、伝説、民話、物語などストーリーを訪ねる旅だと書いたが、それだけでなく、明治・大正・昭和の名作で、それら作家たちの生誕地や活躍の場所がそこにあれば、作品を含めてここで紹介している。この本自体文芸雑誌「小説すばる」が初出誌だからだろう。
 それが結構面白い。作品のあらすじや、小説の舞台となった背景など詳しく語られ、思わず読みたくなるのである。私は本を探す場合、こうした本の中で紹介された本を読むことが多く、今回も何作か気になる作品があった。で、それをリストアップすると、正編も含め以下の通り。

1.松本清張著『万葉翡翠』角川文庫

2.松本清張著『秀頼走路』(所有済み)

3.南条範夫著『灯台鬼』(ゲット)

4.長尾宇迦著『幽霊記-小説・佐々木喜善』文藝春秋

5.安部公房著『榎本武揚』中公文庫

6.吉村昭著『熊嵐』新潮文庫

 ただ、ここに記されて本はなかなか手に入らないようだ。新刊書店で探すとなると難しいかもしれない。手始めはブックオフで探してみようかと思っている。(南条範夫著『灯台鬼』は近所のブックオフでさっそく見つけた)

 阿刀田さんはこの本の最後に、「小説にはストーリーとモチーフがある。モチーフとは、作家が読者に伝えたいメッセージの核心にあたるもの、読者の側から言えば『この小説、何が言いたいの?』と問うときのその“何か”に相当するものだ。
 ストリーがボディーであるとすれば、モチーフは小説のマインドだ。体と心である。
 風土はこのどちらとも関わっている。風土を見て、思い立つストーリーがある。風土に接してモチーフを獲得するケースもある。ある風土を舞台にしなければ成立しえないストーリーもあるし、風土と密接に結びついたモチーフもある。それぞれの関係は、あるときは深く、あるときは淡く、すこぶる複雑だ。作者の立場と、読む人の立場とで見えてくるものが異なったりもする。
 私の<ものがたり風土記>(正続)は風土とストーリー、風土とモチーフ、それぞれの関わりを、現実の旅の中で捜してみよう、という試みであった」と書く。
 確かに小説を読む場合、その作品が書かれた背景を知れば、さらに作品は面白くなるだろうし、その舞台に行けるならもっと小説を面白く読めるかもしれないなとも思う。しかしそんな読書はかなりむずかしいだろう。だからこの本のような小説の舞台を教えてくれる本はある意味貴重かもしれないと思った。


評価
★★


書誌
書名:続 ものがたり風土記
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087745214
出版社:集英社 (2001/06/30 出版)
版型:337p / 19cm / B6判
販売価:1,890円 (税込)

2008年10月10日

阿刀田高著『ものがたり風土記』

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 また阿刀田さんの本に戻る。この本は紀行文である。阿刀田さんは次のようにこの旅の目的をいう。

「昔話、伝説、民話、物語、小ばなし、小説、言い方はいろいろあるにせよ、これらを支えている大切な要素にストーリーがある。稚拙なもの、巧みなもの、単純なもの、複雑なもの、レベルは多様だが、ずいぶんと古い時代から人間はストーリーを珍重して来た。事実から変形したもの、想像が生んだもの、だれかが語り始め、だれかが伝え、だれかが添削をして今日に残っているものが無数にある。名もない語り部が、愛すべき小説家(ストーリーテラー)が実在していあたはずだ」

 その物語、あるいは昔話、伝説、民話などを日本各地を探し歩き、それらのゆかりの地で物語の由来を探るのである。それは必ずしも事実だけが大切なわけではない。フィクションにはそれを創った理由、創った人の願望が潜んでいるから、それを探るのである。それがたとえ作り話であっても、百年たてば、りっぱな伝承的真実になっているものがたくさん日本にはあるから、それを訪ね歩く。
 従って名もなき語り部や有名な作家の作品、あるいは世界中に散らばる作品のも同様なものがあるとして紹介していく。それが結構面白く、紹介された作品を思わず読んでみたくなってくる。
 阿刀田さんは松本清張さんの作品に造詣が深く、いくつかここでも紹介しているのだが、今ちょうど夜な夜な清張さんの短編を読んでいるので、思わず、どれどれと作品集から該当の作品を探してしまう。
 さて、伝説といえば私は高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』が懐かしかった。ここでは死んでほしくないヒーローたちはいろいろな形で生き続ける例としてあげている。実際はどう考えてもあり得ないのだけれど、物語だと面白く語れる例として話している。
 高木さんのこの本はいつ読んだであろうか?多分高校時代だと思うが、結構面白く読んだ記憶があり、未だにばかばかしいけど面白かったという記憶がある。
 話は名探偵で検事である神津恭介が怪我か病気か忘れたけれど、とにかく現場に復帰できない状態で、病室で暇を持てあましている。その暇つぶしに、源義経が衣川で憤死しないで、海を渡って中国に逃れ、ジンギスカンになったという話を確かめてみようという話である。いわゆる義経伝説を神津の部下かなんかが探してきて、それを追っていくと、義経が中国に渡り、ジンギスカンになっていくのだ。

閑話休題
 ちなみにこの本確かカッパノベルスで読んだ記憶があるが、もちろん手元にはない。もう一度読んでみたいななんて思ったけれど、手に入らないだろうなと思ったら、何と、角川書店を追い出された角川春樹さんが作った出版社でハルキ文庫で読めるらしい。

 こういう話は松本清張さんにもあり、義経ではないけれど、豊臣秀頼が大阪城で死なずに生き延びたという話らしい。(さっそく読みたくなり短編集で調べてみる)

 考えてみたら、いわゆる物語はたとえ史実であっても、それが語られると同時に、語る者、あるいは話を作った者の主観が入ってくるし、わからない部分は推測し、勝手に都合良く話の整合性を整えるところがある。いや整合性を整えなくてもいい。はちゃめちゃでもいいのである。要は聞く者、読む者が面白ければそれでいいのだ。だから人類は洞窟の中で暮らしていた当時から、火をくべながら物語を語り、聞いてきたのであろうと想像する。もちろん言葉や文字なんてなかったから、手振りや、絵など描いて、それを伝えてきたのではないか。そのうち言葉が出来、文字が生まれるまで、人々は物語を代々語り伝えてきたのである。そして柳田国男みたいにそれらを採取して文字に表す。
 ただこうした物語は確かにその地に根付いたものであるである場合もあるが、得てして世界中に似たような物語があること教えてくれる。私はそれは人類共通の思考回路から生まれたものかもしれないなんて思ったりするのだが・・・。でもそういう類似性は面白い。改めて世の中にはいろいろな物語あるんだなあと思ったし、それを読んでみたいなという気持にさせられた。


評価
★★


書誌
書名:ものがたり風土記
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087744545
出版社:集英社 (2000/02/29 出版)
版型:342p / 19cm / B6判
販売価:1,890 円(税込)

2008年10月03日

池谷伊佐夫著『東京古書店グラフィティ』

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 池谷さんの本を入手したのでまた読んでみる。読んでみるというより古本屋さんの店内のイラストや書き込みにある店の蔵書を目をこらして見ているといった方がいいかもしれない。それが楽しいのである。今回は都内のおもだった古本屋さんがここに登場している。池谷さんがこうして古本屋さんのイラストの本を描くのは、新刊書店が品揃えに個性感がないため、面白味がないという理由だ。だから必然的にターゲットは古本屋さんになってしまうという。(もちろん池谷さん自身が古本好きというのが一番の理由だろうが)
 例外的に個性的な新刊書店を最後に紹介している。銀座のイエナと書肆アクセスがなどである。ただ二軒とも今はない。個性的であるが故に潰れちゃったのかもしれないなんて思う。
 都内でもこれだけ面白そうな古本屋さんがあることを改めて知らされるのだが、如何せんお店の場所がまちまちで、しかも私の生活範囲から結構離れている。たとえば神保町のように一カ所にいくつもの古本屋さんがあれば、たとえ一つのお店に入って本がなくても、違うお店に入って本を探すことが出来るから、行ってもいいかなと思う。
 だけれど、スポットであるお店にわざわざ訪ねて行って、何も収穫がなかったら身も蓋もないなと考えちゃうのだ。確かに古本屋さん巡りは楽しいしだろうし、お店の棚を眺めるのも面白そうと思うけど、欲しい本を探しに出かけて何もなかったと考えると「ちょっとなぁ」と二の足を踏んでしまう。
 まして、ネットで探せば簡単に在庫の検索ができる時代である。その便利さを享受してしまっているので余計である。だから面白そうなお店だなということで、ただそれだけで足を運ぶことはないと思う。だから仮に何かの用で近くまで行ったときに寄ってみたいと思うのだ。

 池谷さんは中学生の頃江戸川乱歩に沈溺したらしい。それで近隣の町の古本屋さんを巡り乱歩の本を探したという。その数も相当量になったらしいが、全作品が集まった頃、江戸川乱歩の全集が刊行された。思わず「冗談じゃない。これまでの苦労はどうしてくれるのだ」と地団駄を踏んだという。「だろうな」と思う。全集というのはその名の通り、その作家の全作品が、それこそ絶版本であってもそこに収録されちゃうわけだから、昔の作品を読みたいと思って、苦労して古本を集める意味を失なわせる。しかも全集は統一された装丁できれいに並ぶわけだから、腹も立つ。
 けれど池谷さんは「負け惜しみでいうのではないが、発売当時の単行本は、値段、装丁、造本、はては活字にいたるまでその時代が表れており、ストレートに作品の世界へ入っていくことができる」という。これは私もそう思う。
 何度も書いたけど、私は開高さんの昔の単行本が欲しくて、古本屋巡りをはじめた。それはたとえば文庫でも読めるし、全集でも読める。だけど発売当時の単行本そのものの味わいはそこにはない。集めてみると、発売当時の単行本はいいのである。文庫で読んだ作品の親本である単行本がこれだったのかと、手に取り感慨深くなってしまうのである。池谷さんの言う通り、本にその時代のすべてが表現されているような気がしてしまうのである。好きな作家の作品だから、いろいろな意味でいとおしいのである。
 こうした私の行動を文庫にあるのだから内容は同じじゃないと馬鹿にする。「いやいや違うのだ」と言ってもなかなか理解してくれない。
 私が親本である単行本にこだわる理由は“発売当時の本”に価値があると思っているからである。といっても初版本にはこだわってはいない。少なくても“発売当時の本”の雰囲気を残している単行本であればいいと思っているだけだ。その雰囲気を味わいたいだけなのだ。だから私はビブリオマニアではない。
 先に読んだ『チャリング・クロス街84番地』のヘレ-ン・ハンフが17世紀の頃の本を探し求めたのも、これだったんじゃないかなと思っている。
 最近は阿刀田さんに凝っちゃっているところがあるが、その阿刀田さんの本だって出来れば発売当時の単行本が欲しいと思っているので、文庫では簡単に探せるけど、あえて単行本にこだわっているのも、そんな理由からだ。
 だからといって、文庫が悪いなんて全く思っていない。文庫も好きである。だけど時代の雰囲気を感じたければやっぱり単行本だと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:東京古書店グラフィティ
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784487754731
出版社:東京書籍 (1996/11/07 出版)
版型:163p / 21cm / A5判
販売価:1,528 円(税込)

2008年09月12日

池谷伊佐夫著『古本蟲がゆく』

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 ここのところ明治という時代にかかりっきりになっているので、ちょっと一休みである。
 この本は、先日書泉さんに行ったとき見かけ、気になってしまった本である。私は古本に関する本が好きで、どうしても読みたくなってしまう。著者はイラストレーターで古本好きという人。全国の古本屋さん、古本市を訪ね、最後におまけみたいな感じで、イギリスの古本屋街のチャリング・クロスにある古本屋さんのお店の模様が描かれる。
 池谷さんはそれぞれの古本屋さんでお店のスケッチをして、それを元にイラストとしてこの本に掲載する。もちろんスケッチが終われば、古本あさりをする。
 このイラストは今時のパソコンで描くものでないだけに、手書きのあたたかさがあっていい感じだ。しかも丁寧に描かれている。おそらく一枚描くのにかなりの時間を要するだろう。これだけ詳細に描くのだから、その元になるスケッチも同様に細部まで見逃さず描かれるのだろうと思う。この本のカバーや、最後のページにスケッチブックに描いたお店の絵があるのを見ても、細かく描かれているのがわかる。
 以前読んだ北尾トロさんの全国古本屋さん巡りの時もそうだったけれど、地方の古本屋さんを訪ねてみたいといつも思う。今回も池谷さんの古本屋さん巡りを「いいなぁ!」と思いつつ読んだ。いつもブックオフじゃ、なんだかさびしい。きっと地方の古本屋さんには、お宝があるんだろうなと思うのだ。
 もう自分の本棚に本が収納できないくらい本があふれているのに、まだ面白い本があるんじゃないのかなんて思う。ネットの古本屋さんやアマゾンで古本を簡単に買うことができる時代だけれど、やっぱり古本屋さんの店頭で本を眺めたい。そして買ったお宝をじっくりと味わいたい。
 池谷さんはきっとイラストを描きながら、むふふなんて楽しんでいるんだろうな。お宝を探し得た喜びをかみしめているんだろうなと思う。その紹介されているお宝本を見ると、世の中には本当にたくさんのジャンルの本があり、無名の、というより私の知らない著者が数多くいて、知らない出版社から本が出されているんだなと感じた。その奥行きの広さは、まさに無限大という感じだ。
 この本の最後の方に「古本蟲の生態」というイラストがある。あなたは古本蟲に変身していませんかとその生態いや傾向をいっているのだが、それを見るとちょっと笑ってしまった。確かにそういう傾向あるよなと自分の姿を思いやる。たとえば「床の上に本を積み始めるとどんどん増殖する」とか、「いつか役立つだろうと置いてある本は“期限切れの薬”」とか「老後にでも読もうと、本を買い集めているうちに、死ぬまでに読み切れないほどの本がたまってしまった」など、こんな状態になっている人は古本蟲に毒されているという。確かに!
 最後に笑ったのが、「本の価値を値段より(自分の本棚の)スペースで判断するようになる」大笑いした。イラストには古本屋の本棚に立って本を持って考えているが人物が「買えるけどムリして置く本じゃないナ」と思うところが描かれている。
 ところで池谷さんは「持っていたい本と、読みたい本は違う。読みたい本は文庫か図書館、クラフトマンシップの感じられる本は、持っていることに意味がある。本は単なるテキストではなく、物としての側面もあり、美しいもの、ユニークなものに惹かれる私は、当然本にも同様の念を抱いている」と書いている。
 思わずうまいなと感じたのは、「持っていたい本」という文句である。私も池谷さんの意見に賛成で、本には読む本と持っていたい本があると思っている。もちろん持っていたい本を読んでも一向に構わないのだけれど、読まなくても、本を手にし、ページをパラパラめくりながら眺めているだけで楽しくなる本もある。それは装丁のユニークさや、挿絵や図柄、イラスト、写真の美しささがそうさせるのだと思いたいが、そんな本を私は数多く持っている。あるいは話の内容のユニークさが際立っているものもある。
 私はこのブログで、読んできた本のことをああでもない、こうでもないと書きつづっているが、それ以外に持っているだけで楽しくなる本がここに紹介出来ないかといつも考えてきた。しかしこれは本当に私の主観によるものなので、それをやることに意味がないじゃないかとも言われそうだと躊躇してしまう部分もある。あるいは変な自慢話に取られるんじゃないかと思う部分もある。だからなかなか実行に移せないでいるのだが、よく考えてみれば、読んだ本のことを書いていること自体、自分勝手で好きにやっているわけだから、それはそれでいいのかななんて思うようになってきた。ちょっと実験的にやってみて、どんな感じか試してみようなんてこの池谷さんのイラスト見て思った次第である。


評価
★★★


書誌
書名:古本蟲がゆく ―神保町からチャリング・クロス街まで
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784163704906
出版社:文藝春秋 (2008/08 出版)
版型:269p 22cm(A5)
販売価:2,299円 (税込)

2008年07月27日

阿刀田高著『私のギリシャ神話』

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 ギリシア神話の仕上げとしてこの本を読む。今回もこの本を読んで知ったギリシア神話の知識を残したいので、自分備忘録として書くことにする。そしてヨーロッパ絵画や彫刻にギリシア神話をテーマにした作品がたくさんあるようで、この本を元にして、ネットで転がっているその絵や彫刻探して、一緒にしてみた。そうすれば関連づけて忘れないんじゃないかなと思ったのである。

 ギリシア神話といえばやっぱりゼウスであろう。ゼウスの生い立ちは以前にも書いたけれど、重複するがやはり書いておく。
 

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   アニバール・カラッチ「ユノ(ヘラ)とジュピター(ゼウス)」

 ゼウスの父クロノスは姉であるレイアを妻にしていたが、「おまえの子はおまえを滅ぼす」という予言を受けたので、自分の子であるヘスティア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを飲み込んでしまう。レイアは今度生まれた子を山の妖精に預けた。それがゼウスである。ゼウスは無事に成長し、父親に吐剤を飲まし、彼らを助け出す。その結果ゼウスが地上を含む天界、ポセイドンは海を、ハデスが冥界を統治することになった。ゼウスは姉のヘラを妻にし、ヘラとの間に軍神アレス、鍛冶の神ヘパイトスが生まれる。またゼウスが激しい頭痛で苦しんで「頼む。頭をかち割ってくれ」といったとき、頭を割ったのはヘパイトスの斧であった。そこから生まれたのが知恵と勝利の女神で、ギリシア最大の都市アテネの守護神であるアテネである。
 ゼウスの姉ヘスティアは竈の女神。またゼウスの祖父ウラノスの精子から生まれたのがアフロディテであり、これは美の女神。アフロディテはヘパイトスと交わってエロスを生んだ。エロス、英語名でキューピッドで、この坊やが放つ矢で胸を射抜かれると恋心に歯止めがきかなくなる。


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   ボティチェリ「ビーナスの誕生」

 ハデスの妻はペルセポで、母は豊作の女神デメテルで、ゼウスの計らいを得て、ハデスが略奪してきた。デメテルは一人娘を奪われた悲しみのあまり、自分の仕事をおざなりにしてしまい、お陰で地上の大地の作物は枯れ果て飢饉が起こり始める。こうなるとゼウスも困惑し、ハデスにかけあいに行き、一年の三分の二は里帰りしてよくなり、三分の一は冥界で過ごすことになった。ペルセポが戻って来たときは母のデメテルは歓喜に浸り、去った後は悲しみに沈む。地上に作物の実る季節と、実のならい季節がこのためである。


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   ジャン・ロレンツオ・ベルニーニ「ペルセポネの略奪」


 ゼウスのアバンチュールをつづる。
 ゼウスは「いい女、いないかな」と物色していたとき、レトという美女を口説き落とす。レトは懐妊したがヘラの怒りを買い、何人もレトのために子どもを生む土地を与えてはならないとお触れを出した。レトは困り、それを憐れんだポセイドンがレトをエーゲ海の浮島ディロスに誘った。ここは浮島なので“土地”はない。だからヘラの命令に背かない。レトはここで、狩猟と豊饒の女神アルテミスと芸術と医術の神アポロン産み落とす。
 そのアポロンのエピソードとしてはダプネとの恋がある。
 ある時アポロンはエロスに出会い、エロスの弓をからかった。エロスは二本の矢を放った。金の矢はアポロンの胸に、鉛の矢はダプネの胸に刺さる。金の矢で射られると恋の虜となる。逆に鉛の矢で射られると相手が嫌いになる。アポロンはダプネに激しい恋情を抱くが、ダプネ逃げ出す。ダプネは父親に「たとえどんな姿に変えても、いつまでも清らかな体でいたい」という願いを聞いた。ダプネの腕は指先から枝に変わり葉に変わり、一本木に化した。ダプネは月桂樹になった。アポロンは三日三晩泣き続け、月桂樹の枝を切って、輪を作って頭に飾った。これがオリンピックの勝者の頭を飾る月桂樹の由来である。


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   ジャン・ロレンツオ・ベルニーニ「アポロ と ダフネ」

 さらにゼウスは女神マイアと交わってヘルメスが生まれる。ヘルメスはゼウスの秘書的存在であり、商業の神であり、泥棒の守護神。
 ゼウスのアバンチュールはさらに続き、フェニキアの王女エウロペに魅せられ、ゼウスは美しい雄牛に姿を変えてエウロペに近づき、クレタ島まで連れ込んで交わる。生まれた子がクレタのミノス王である。ちなみにエウロペは“ヨーロッパ”の語源。


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   ティツィアーノ「エウロペの略奪」

 そのミノス王ついては、王位継承のときポセイドンに「私を王位につけてくれたら、立派な雄牛を生け贄に捧げよう」と約束する。しかし自分が王位についてしまうと立派な雄牛あげるのが惜しくなり、惨めな牛を捧げた。当然ポセイドンは怒り、ミノス王の王妃パシパエの心狂わせ、立派な雄牛に恋情を抱くようにしてしまう。王妃は雄牛と交わり、頭が牛、体が人間の男の半人半牛の子を産む。すなわちミノタウロスである。ミノス王は建築家のダイダロスに複雑な迷路を持つ迷宮ラビュリントスを造らせ、ミノタウロスを閉じこめる。ミノタウロスはここで成長し人間を餌とする。
 折しもクレタとアテネの間で戦争があり、アテネが負け、講和の条件として、毎年ミノタウロスの餌として七人の青年と七人娘差し出すことになった。アテネもこのままではたまらない。アテネの王子テセウスは自らを人身御供に加えてくれるよう頼み込む。クレタに送り込まれたテセウスはその日のうちにミノス王の王女アリアドネの心つかむ。アリアドネはダイダロスに迷宮の出方を教わるが、ダイダロスはその設計図を焼いてしまったので、わからない。けれど、糸玉の一端を出入口に結んでおいてそれをたぐっていけばいいと教わる。
 何とかミノタウロスを退治して、テセウスはアリアドネとクレタ島から逃げる。ミノス王はアリアドネが手助けしたことを怒ったが、アリアドネに知恵を与えたとして、ダイダロスとその息子イカロスを迷宮に閉じこめた。この迷宮から脱出するには鳥のように空を飛ぶのがいいと、二台の飛行機を造って脱出したが、イカロスはダイダロスの注意も聞かず、どんどん高く上っていき、太陽に近づいてしまう。そのため接着剤として使っていた蝋が溶けてしまい、イカロスは墜落死する。ダイダロスの方は何とかシチリアに逃れたという。
 次にゼウスはアルゴス王の一人娘ダナエに近づく。ダナエは「王の子孫が王を滅ぼします」という神託により、男が近づかないように閉じこめられていた。ある日黄金の雨に化けたゼウスが近づき、「なんてきれいな雨」とダナエが窓を開け、さっさと交わる。生まれた子がギリシア神話屈指の英雄ペルセウスである。
 さらにさらに、スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれる。彼女の存在はトロイア戦争の原因ともなる。


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   ルーベンス『パリスの審判』

 その他、ヘラクレスとプロメテウスやパンドラのことも書いておく。
 ゼウスとレダの子であるペルセウスの息子に、エレクトリュオンがいて、そのエレクトリュオンの娘アルクメネがいた。アルクメネはアムビトリュオンと婚約をしていたがゼウスはそのアムビトリュオンに化けて、閨房に入る。それで生まれたのがあのヘラクレスである。

 プロメテウスとパンドラのことは以下の通り。
 ゼウスが人間界より火を隠すが、プロメテウスは再び神々の元から火を盗んで人間たちに与え、その利用方法教える。当然ゼウスはプロメテウスを怒る。ところがプロメテウスは「いいんですか、私はあなたの秘密を知っているんですから」と逆に脅しにかかる。するとゼウスは泥を練ってパンドラを造りプロメテウスのところへ放つ。彼女は神々からすべての贈り物を委ねられた。パンドラの“パン”はすべて、“ドラ”は贈り物という意味だそうだ。
 パンドラがプロメテウスを訪ねてきたときは留守にしており、弟のエビメテウスという弟がいた。エビメテウスはパンドラが気に入り妻とする。エビメテウスはパンドラが預かってきた贈り物である壺が気にかかる。パンドラが開けてみる?と言うと、疾病、戦争、貧困、嫉妬、飢餓、涜神、残虐、好色といったありとあらゆる悪が黒い煙となって飛び散った。慌てたパンドラは蓋を急いで閉めたが、時既に遅く、壺の中に一つだけ残っていた。それは“希望”であった。このため人間たちはどんな悪に苛まれても、希望だけは持てるようになっている。


評価
★★★


書誌
書名:私のギリシャ神話
著者:阿刀田 高
ISBN:9784140804902 (4140804904)
出版社:日本放送出版協会 (2000-01-25出版)
版型:253p 19cm(B6)
販売価:入手不可。集英社文庫であり

2008年07月24日

阿刀田高著『ギリシア神話を知っていますか』

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 続いて阿刀田さんのギリシア神話の本を読む。読んでいてギリシア神話の奥深さをひしひしと感じた。この本によるとギリシア神話は大きく分類すると次のようになるらしい。

1.オリンポスの神々の伝説
2.アルゴー丸遠征隊の伝説
3.英雄ヘラクレスの伝説
4.テーバイの伝説
5.トロイア戦争の伝説
 
 私がある程度親しみやすかったのは、やはり「トロイア戦争の伝説」であろう。だってそれまでその関係の阿刀田さんの本を読んできたのだから当然である。だからこの本でも「トロイア戦争の伝説」に出てきた神々の記述があれば、あああれだなと話の流れが読めて楽しかった。
 しかしトロイア戦争以外に出てくるギリシアの神々もたくさんいるわけで、話の内容は知らなくても名前や固有名詞は私たちの日常中でよく使われる言葉としてある。そのためそんな名前が出てくると、その由来はここから来ていたのかと納得する。阿刀田さんも「私はギリシア神話と聖書の二つを古典として持っているヨーロッパ文明の、奥行きの深さ、バラエティの華麗さを思わずにいられない。自国の文化を過小評価するつもりは私にはいささかもないけれど、民族の古典の中に寓意に富んだ人物、事件、思考を持っているという点では、やはり、彼の国の文化の中に一日の長を見ないわけにはいかない。私がギリシア神話に興味を抱く理由もそこにあるのだろう」と言う。確かに古典が、例えば言葉の由来や、絵画などのテーマとして使われているのも、それだけ普遍的な人間性がその古典の中にあるからだろう。だからそれを自分たちの文化として大切にしているような気がする。そんなことを考えると、一体日本はどうなっているんだと思わざるを得ない。自国の文化をあまりにも粗末に扱ってはいないだろうか?
 ただ残念なことはここにはたくさんの神様が出てくるものだから、なかなか頭の中に残らないことだ。だからこの後も阿刀田さんの書いたギリシア神話の本を読もうと思っている。

 さて、私は大神ゼウスの女好きが気にかかる。手当たり次第、美しい女性がいれば自分のものにしてしまい、子供を孕ませる。阿刀田さんによれば、「ギリシア神話の常識に従えば、神々の不貞は許されるべきものであり、その寵愛を受けることは、むしろ名誉に値することでもあった」らしいから、いい気なもんである。それでいてゼウスは妻であるヘラの眼をいつも気にしていて、浮気をしているところが面白い。ヘラがゼウスの浮気を怒るものだから、隠れて子供を産ませてしまったりするのである。このあたりはきわめて人間的で、キリスト教みたいに、神様がセックスして子供を作ったなんて言ってはまずいのというので、処女懐胎なんて言ってきたけれど、そんな不自然なことは一切言わないのがいい。
 ゼウスが浮気をして、自分の子供をたくさん作るにはそれなりの理由がある。それはギリシア神話そのものが、それ以前にあった土地土地の民話の神様を融合してできあがったものだから、神様がたくさん必要であったのだ。ゼウスを中心にしてまとめるには、どうしてもゼウス自ら子供を作って、それを以前にあった神様として振り分けた感じだそうだ。なるほどね。
 ところで、もう少しギリシア神話に詳しくなれば、絵などを見る目も変わるかななんて思っている。だってヨーロッパの絵画にはギリシア神話をテーマにした絵がかなりあるからだ。それを今まで、ただ美しい、きれいだということだけを基準に鑑賞していたけれど、そこに描かれたテーマを知ればもっと楽しめそうな気がするのである。


評価
★★★


書誌
書名:ギリシア神話を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255040 (4101255040)
出版社:新潮社 1984/06出版 新潮文庫
版型:241p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)

2008年07月22日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 休み前になると、この本を読もうと決めるのだが、どういう訳か、きちんと読めない。むしろ平日の時間がない方がきちんと本を読む。休みだと時間があるものだから、だらだら過ごして、気がついたら一日が終わっていたというパターンが多いのだ。結局緊張感の欠如がそうさせるのであろう。
 しかし今回は違った。三連休である。しかも連日真夏日が続いている。これは家にいて本を読む方がいいに決まっている。で、手にした本がこの本で、厚さといい、ちょうど三連休に読むにはもってこいの本だ。
 というわけでさっそく読み始める。面白い。やめられなくなってしまう。久しぶりに休みに本を読んだという充実感を味あわせてもらった。
 実はこの本以前にも手にしたのだが、なかなか先に進まない。そのため、他に読みたい本もあったものだから、後回しにしてしまった経緯がある。しかし今回は違った。話がよくわかるのである。先に読んだ『ホメロスを楽しむために』を読んでいたものだから、知識がちゃんとあるからだ。読んでいて、“ああ、ここはあそこのあった話だな”と察しがつくのがいい。
 話はアイネイアスを主人公にしたトロイア戦争とトロイア崩壊後、西に向かい、イタリアでローマ建国の素地を開くまでの話である。これだけでもトロイア、ギリシア、そしてローマと雄大な話である。そしてたくさんの英雄が活躍する。読んでいてワクワクしてくる。
 あとがきで阿刀田さんは、日本人が外国の歴史的ヒーローを小説化するのは珍しい。しかし今日日本は欧米化しているのだから、歴史小説も「何も宮本武蔵ばかりでなくてもよかろうに」とこの本は書かれたという。しかしこの本は「現代の日本人アイネイアスの物語」だとも言い切る。だからというわけじゃないけれど、トロイア、ギリシア、ローマの英雄譚であっても、確かに英雄たちの行動は迫力があって非日本人的ではあるけれど、その思考回路はきわめて日本人的である。だからストレートに英雄たちの気持が伝わってくる。例えば、アイネイアスがヘレネがトロイア崩壊後、メネラオスのもとに戻った(トロイア戦争がヘレネの略奪から始まり、トロイアが破れ、ヘレネが元の鞘に戻った)と聞いたとき、「あの戦争は何だったのか」と思うところは英雄らしくない。むしろ日本人がよく持つ感情のような気がする。もちろんそれもいいんだけどね。
 それでも日本の歴史小説は理屈や道理が通っていないと、受け入れがたい部分があるけれど、この話は「世間では、事実ではないけれど、皆で事実と認め合っていることがある」として、それでいいではないかとしているところが話を面白くしているような気がする。少なくとも私はそれを堪能した。だってお話だもの。
 そしてここでは人間のモラルが法や慣習より優先された社会が描かれる。
「古代社会では、信頼と報復が人間のモラルを強く規制していた。知己であることはの意味は重い。その分だけ裏切りは、最も忌むべき悪として憎まれ、報復も厳しい。普遍的な法制が存在しない以上、人間同士の結び付きは信頼するか否かに懸かっていた。アイネイアスたちが、ディロス島で歓迎された理由は(アイネイアスが差し出した金銀の効能とは別に)黒耳のルドンが浜長のアニウスと懇意であったからであり、更にまたアニウスの肝煎りでキドニアへ行くことは、同じ意味合いで安全を期待できる事情であった。『俺の知り合いだ。よろしく頼む』という言伝てには想像以上の価値があったのである」と西に向かう航海で各地の知り合いが、アイネイアスの安全を保障する。それは単に信頼できる知り合いだから当然である。ただそれだけなのだ。だからこそ裏切りは信義に反する訳だからそれは死を持って償わなければならない。この話に登場する英雄たちはすべてこの単純な、信用できるか否かの人間関係でつながっている。小賢しい屁理屈などまったくない。それがなんか心地よかった。

 しかしトロイの木馬は我々が知っているようにトロイアの城内に引き込んで欲しかったなぁと思う。ここでは、木馬(トロイアでは馬がトロイア人のシンボルだから)を生贄して燃やせと言う神託で、そのようにしている。結果地震が起きて、城砦の一部が崩れ、そこからギリシア人がなだれ込むという話になっている。これはトロイの木馬の伝説が、今考えればおかしいという理由だかららしいが、お話なのだから、やっぱり燃やすのではなく、ギリシア人が忍び込んだみ木馬をトロイア人自ら城内に引き込んで、その扉をヘレネが開ける方が面白いような気がするのだが、どうであろう?
 でも、知っているたくさんの英雄たちが活躍し、戦い、そして死んでいく。生き残った者はアイエネアスを中心にトロイアの再興を求め、イタリアに向かい、それがローマ建国の先駆けとなる話は雄大で、本当に面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062636582 (4062636581)
出版社:講談社 (1997-12-15出版) 講談社文庫
版型:697p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年07月17日

阿刀田高著『ホメロスを楽しむために』

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 ここのところ、シャンポリオンからシュリーマンと古代史に興味を持っちゃって、自分でもどうなっちゃっているんだと感じている。シュリーマンとくれば、ホメロスということになるので、ではホメロスはどんな人物で、どんな作品を残したんだと知りたくなった。かといって、『イリアス』や『オデュッセイア』はきっと読めないだろうなぁと思ったので、阿刀田さんのこの本を手にした訳だ。 とにかくやさしく解説してくれて、しかも面白い。
 基本的にこの『イリアス』や『オデュッセイア』がどういう話なのか私は知らなかったので、この本から知ったことを書く。まずは『イリアス』からである。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎていて、「これはまずいぞ」と思うところから始まる。ゼウスは人口を減らすにはどうすればいいかと考え、戦争を起こせば、人が多く死ぬからこれがいいと考える。周囲を見渡すと、折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。そこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。特にゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテが激しく争う。そこでこの三人(神)は誰がこの中で一番美しいか、トロイアの王家の第2子として生まれたパリスに決めてもらおうとする。もちろん誘惑付きでである。自分を選んでくれたら、ヘラは「世界の王者にしてあげよう」と言い、アテネは「すべての戦の勝利者にしてあげよう」と言う。アフロディテは「世界一の美女をあげよう」言って、判断を自分の方へと誘い込む。結局パリスはアフロディテを選んだ。この時点でトロイはアフロディテを味方にし、ヘラとアテネを敵に回すこととなった。
 パリスはこの時不吉なことは起こると言って、山の中に捨てられちゃって、羊飼いをやっていたが、何とか復帰した。父プリモアスの命を受け、スパルタへ赴く。そこには世界一の美女で名高い王妃ヘレネがいた。ヘレネは大神ゼウスと白鳥を愛でる王妃レダとの間に生まれた子であったが、とにかく求婚の申し出が多い。そこでヘレナの養い親は花婿の決定はヘレナに委ねるからそれに従って欲しいと言う。それに不服な奴は今回の花婿候補者が一致して制裁を加えると決める。そんなときパリスはアフロディテの計らいもあって、たちまちヘレネを見そめ、彼女を国外へ連れ出してしまった。スパルタの王メネラオスは当然これに怒った。メネラオスの兄は当時ギリシアきっての実力者であったミケイナ王アガメムノンであった。ここにアガメムノンを総大将にしてギリシアの王侯貴族や勇者がトロイに向けて船を出し、トロイア戦争の火ぶたが切られたのであった。
 
 ふむふむ、なるほどね。
 
 ところでトロイア戦争といえば、アキレウスの存在が気になる。アキレウスは何者かというと、先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせた経緯がある。

閑話休題
 ここで知ったオリンポスに住むギリシアの神々のことを備忘録として書いておきたい。まずは大神ゼウス。ゼウスの家系は父がクロノス。クロノスの父がウラノスで、代々息子が父親を斃して自分が支配者となった。そのためゼウスの父親クロノスは我が子に斃されるのを恐れて、妻レアが生む子どもたちを次々と飲み込んでしまったが、ゼウスだけはその難を逃れた。ゼウスは父親に薬酒を飲ませ、父親の体内に飲み込まれた兄弟姉妹を助け出す。助け出された兄弟姉妹たちは男神ポセイドンとハデス、女神はヘラ、デメテル、ヘスティアである。兄弟たちはクロノスを亡ぼし、ゼウス(ローマ神話ではユピテル。英語でジュピター)が天と地の支配者となり、ポセイドン(ローマ神話ではネプトゥヌス。英語でネプチュン)が海を、ハデス(ローマ神話ではプルトン。英語でプルート)冥界を支配することとなった。
 ゼウスは姉のヘラと結婚し、アレスとヘパイトスが生まれ、またゼウス頭の中からアテネが誕生する。さらに浮気者のゼウスはレトという女神を愛し、アポロンとアルテミスの双子が生まれた。さらにさらにゼウスはマイナという女神と交わってヘルメスが生まれる。そしてゼウスの祖父ウラノスの精液から生まれたのがアフロディテである。要するに男神は1.ゼウス、2.ポセイドン、3.アレス、4.ヘパイトス、5.アポロン、6.ヘルメス、女神は7.ヘラ、8.デメテル、9.ヘスティア、10.アテネ、11.アルテミス、12.アフロディテの十二神である。どうしてか知らないが、ハデスは通常この十二神に含まれないらしい。ハデスが冥界の支配者だからだろうか?

 話を元に戻して、アキレウスといえば“アキレス腱”という弱点が有名だけれど、それは次の理由でアキレス腱が弱点となった。母親のテティスはアキレウスを不死身にしようと思い、その効能がある冥府の川に幼いアキレウスをくるぶしを握って浸けた。当然くるぶしは霊験あらたかな霊水が触れないわけだ。ここが弱点となり、“アキレス腱”となった。
 そのアキレウスである。テティスを仕方なしに諦めたゼウスとポセイドンは二人はうまくやっているかなあと気にかける。この心理を阿刀田さんは「下世話な話をするならば、あなたの知りあいに、とてもすてきな娘がいた。しかし、あなたはしかるべき事情があって、彼女を妻にすることができない。そこで、知りあいのよい青年を彼女に紹介する。二人は結婚し、
ー幸福にやっているかなー
 とあなたは気にかけるようになる。一種の代償行為かな。彼女に子どもが生まれれば、わけもなくその子がかわいかったりする」と説明する。あははは!これはうまい言い方だ!とにかくアキレウスは神々の寵愛を受けていたわけだ。
 この本によると、アキレウスも最初アガメムノンと一緒にギリシア側で戦っていたようだ、トロイの近くにアポロンの神殿があり、ギリシア軍はこの町を攻め、戦利品として神官の娘を奪い取った。娘はアガメムノンの所有物となった。神官は娘を返して欲しいというアガメムノンに願い出たが、拒否されたので、アポロン祈ってギリシア軍を懲らしめて欲しい頼み込む。アポロンを敵に回すとまずいので、アキレウスが中心になって娘を返すことになったが、アガメムノンは自分だけ戦利品がないのはなにごとじゃと言うことで、アキレウスが戦利品として得た女ブリセイスを横取りしてしまう。アキレウスはブリセイスを妻のように可愛がっていたので怒り出す。アキレウスは、“もう俺は戦わない”と戦線離脱をしてしまう。
 もっともアガメムノンとアキレウスの不和はそれ以前にさかのぼって原因があるらしい。トロイを討とうとギリシア軍が立ち上がって船を出したとき、逆風で船が出陣できない。それは女神アルテミスの怒りのためであった。アガメムノンがアルテミスに不敬を犯したのである。アガメムノンはどうすれば女神の怒りが解けると占い師に尋ねると、アガメムノンの長女イピゲネイアを人身御供として捧げなさいと言われる。イピゲネイアはアキレウスの花嫁にするからと言われ故郷から呼び出されたのだ。アキレウスは自分がだしに使われたことで激怒した。これがアガメムノンとアキレウスの不和の最初の原因らしい。とにかく勇者アキレウスがいないギリシア側は戦況が悪化してくる。
 トロイヤ王プリアモスの長子ヘクトル。これがめちゃめちゃ強い。ばったばったとギリシア軍を斃していく。瀕死の重傷を負っても、アポロンの加護を受けて復活するし、そもそも大神ゼウスもちょこっとトロイヤの側についているものだから、ますますギリシア側は不利な状況になっていく。そこでアガメムノンは重臣たちを集めて作戦会議を開く。そこで重臣たちはアキレウスに贈り物をして、何とか気分を宥め、戦場に戻ってきてもらおうとする。アキレスのもとに大アイアスとオデュッセウスが使者として向かう。が、気分を損ねたアキレウスはなかなか戦場に戻ろうとはしない。そもそもアキレウスの運命は、トロイヤを攻めれば不朽の名誉を得るが、自分の命を失う。戦わず故郷に帰れば長生きできるとテティスから予言されていたのだ。
 しかし友人のパトロクスが討たれ、アキレウスは自分の命がなくなるのも顧みず、戦場に復帰する。そしてヘクトルとの一騎打ちに勝ち、パトロクスの仇を討つ。
 この後ヘクトルの亡骸を巡ってすったもんだあるのだが、トロイヤ王プリアモスがアキレウスに泣きついて何とかヘクトルの遺体を返してもらい、葬儀が行われた。ここで『イリアス』は終わる。

 あれ?

 トロイの木馬の話はどうなっているんだ?

 『イリアス』には以後何も書かれていないそうだ。実はホメロス以外の詩人がトロイヤ戦争やその周辺のことを唱っていて、そこにトロイの木馬の話があるらしい。その前にアキレウスの死について書いておく。アキレウスはアマゾネスの女王ペンテシレイアを殺し、エチオピアの王メムノンを斃し、周章狼狽するトロイヤ勢を追って城内に攻め込む。トロイヤの敗北が決定的と思われた時、アポロンが現れて、パリスの矢でアキレウスの踵を射抜き、その後胸を射され、アキレウスは死ぬ。アキレウスの死後アキレウスの武具を誰に与えるかでオデュッセウスと大アイアスとが争いになり、結局オデュッセウスに渡るが、それよりもアキレウスがいなくなったギリシア軍は戦果あげられず、もうやめようかという話になりつつあった。“これはまずい”ということで、アテネ女神がオデュッセウスに木馬の建造を吹き込み、木馬に隠れてトロイヤ城内に入ることを勧める。ギリシア軍は撤退を装い、トロイヤ側は木馬を城内に引き込んでしまった。木馬の中にはオデュッセウスらが忍び込んでいて、あの駆け落ちをしたヘレネの合図で木馬の蓋が開けられ、以後はご存じの通りである。
 なぜヘレネがオデュッセウスに協力したのか、この後の『オデュッセイア』に書かれている。これが笑っちゃうのだ。父オデュッセウスを探すために息子のテレマコスがスパルタを訪れた時、ヘレネに会う。その時ヘレネは次のように言う。

 「あのとき、私、ひどく後悔しておりましたのよ。女神アフロディテのせいで、心を迷わされ、故郷を捨て、非のうちどころない夫を忘れ、かわいい娘まで残してトロイアまで行ってしまったことが、くやしくてくやしくてたまらなかったわ。だから、オデュッセウスに協力してあげましたの」と。

 これに対して阿刀田さんの言い方が最高である。

「おい、おい、ヘレネの、この言い分をテレマコスがどう聞いたかともかく、われ等、後世の読者は釈然としないぞ。少なくとも私は、
 ーあんた、それを本気で言うの。絶世の美女ともなると、すごいもんだねー
 と考えてしまう」

 「『私も被害者なの。だから裏切ってやったわ』と言われたら、どうにもやりきれない。そもそもトロイア戦争はヘレネの出奔から始まったことではないか」と。

 まさしくその通りだ。ギリシアの神様もわがままで、勝手放題のことをやっているけれど、王や王妃もやりたい放題。言いたい放題だね。だから面白いといえば面白いのだけれど・・・。

 さて、トロイア戦争のことでこんなに長くなっちゃった。『オデュッセイア』のことが書けなくなった。『オデュッセイア』は十年かかったトロイア戦争後オデュッセウスが故郷に帰るまでの話である。
 故郷のイタキ島には妻のペレロペイアがいるが、オデュッセウスがなかなか帰ってこないので、もう死んでしまったのではないということで、ペレロペイアに言い寄る狼藉者がたくさんいた。オデュッセウスの館で好き勝手なことをし始める。女中に手を出したりもする。
 一方オデュッセウスは怪獣たちと戦ったり、冥府に行ったりして、やっとの思いで帰ってくれば、そんな状態であった。オデュッセウスは彼らを成敗してめでたしめでたしというところか・・・。

 長くなったついでというわけじゃないけれど、ちょっと思うところがある。それは歴史って“振り子”のようだなと思ったのである。どういうことかといえば、この本に書かれているギリシアの神様たちはきわめて人間くさいと感じたのだ。確かに阿刀田さんの解説がそう思わせるところがあるかもしれないが、それにしてもここに登場する神様たちは、時に人間と区別がつきにくい。ということは人間的と言ってもいいんじゃないかと思う。ギリシア彫刻や絵画などをがそれを如実に表しているような気がする。
 だから、ギリシア・ローマ時代が人間性を謳歌するように、振り子がそちらに大きく振れれば、その反動で、今度は中世のようにキリスト教にがちがちに縛られ、神を絶対的存在として崇め、人間の生活自体もストイックになっていく。そしてそっちの方向に振り子が大きく振れれば、今度は元に戻って、人間性の復活としてルネサンスや宗教改革が起こってくる。そんな流れを歴史に感じてしまった。案外人間の歴史というのは、その程度のものでしかなく、回り回って、振って振られて、今はトロイア戦争時代のように、大神ゼウスが人間が増えすぎて困ったなと思って、地球環境を悪くしたりして人類を減らしているんじゃないかなんて思ったりした。


評価
★★★★★


書誌
書名:ホメロスを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255248 (4101255245)
出版社:新潮社 (2000-11-01出版) 新潮文庫
版型:368p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2008年07月15日

阿刀田高著『陽気なイエスタデイ』

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 なんだか知らないけれど、阿刀田さんのエッセイを読んでいると、気持が和らぐというか、ささくれだった気分が、おさまるような気がしてくる。でもさすがにこれだけエッセイを読み続けていると、目立って新しいことはない。以前読んだエッセイにも書かれていたことがここにも何度も登場する。そろそろ阿刀田さんのエッセイは卒業していいのかもしれないが、まだ数冊残っているので、これを読んでから、小説に入ろうかと考えている。
 で、目新しいことはここにはないのだけれど、蔵書のことについて書かれていたことが気になったので、そのことを書く。
 私は今自分の持っている本の整理をやっている。というより、雑本の処分といった方がいいかもしれない。先日も読んだ古い文庫本を中心に、もう絶対に読まないだろうなという本をブックオフに売り飛ばした。というより処分してもらったといった方がいいかもしれない。
 話は急に変わっちゃうのだけれど、先日朝日新聞に「図書館が本の処分場になっている」という記事が一面に載っていた。どういうことかというと、公立図書館が財政難のため貸し出し希望が多いベストセラー本も多数は購入できないので、市民から寄贈を募っているという。ところがそこに持ち込まれるのが、どうしようもない本ばかりで、廃棄するしかないものばかりだという。どうしてこういうことになるかというと「本を寄贈する人は本が好き。捨てることに罪悪感があるから、読まない本を図書館に持ってくる」とみる。中には亡くなった旦那さんの蔵書200冊以上の寄贈の申し出たがあったが、「専門的な教育本などが多く、図書館向きでなかった」ということで、引き取ったのは50冊だけだったというのもある。
 確か持っている本には愛着がどういう形であれあるから、むやみやたらに捨てられない。だったら図書館に寄贈して、誰かに読んでもらえれば有り難いなと思うのだろう。だけど図書館側が求めているのはベストセラー本で、それ以外はいらないという姿勢だから寄贈する本がたとえ貴重な本でも、捨てるしかない。こういう図書館の姿勢もどうかと思うけれど、市民が望んでいるのだから仕方がない。“公立で無料の貸本屋さん”化している所以であろう。
 ということで、私はブックオフで処分してもらう。だから引き取り金額などどうでもいい。そもそも私が自分の持っている本の整理を始めたのは、本の収納場所がなくなってきたことが大きいのだが、それよりも、私が死んだらこの本の処分をどうするかという問題を突きつけられたからだ。突きつけたのはかみさんである。確かにそうだと思う。ここにある本は私という所有者がいるから価値があるわけで、その人間がいなければ、ほとんど意味をなさない。そういう本しか置いていないからだ。阿刀田さんは父親から「おれが死んだら、この本が役立つぞ」といわれたけれど、父親の死後これらの本は役には立たなかった。古本屋に売っても居酒屋でちょっと飲む程度しかなかった。それなら父親が本に支払った金額を生命保険に回してくれた方がまだマシだった言い切る。「蔵書というものは、それを入手して保持した人の性格や趣味と深く関わっている」から、たとえ家人でも無用の長物になりかねない。それなら棚に入り切らなくなった本がある以上、今棚に収まっている本の中で、無用の本は少しでも自ら処分したほうがいいと思ったのだ。さすがに全部捨てることはできないけれど、自分が死んで本が処分されることを想定した場合、どう考えても一銭のお金にもならない本は、今の内に処分した方がいいと思ったのだ。多分私の本はかみさんか息子が処分することになるのだろうけど、その時「けっ!こんなつまらん本ばかり残しやがって」なんてあまり言われたくない。そんなことを考えながら本の整理を今やっている。それでも残った本はそれほど価値を生む本とは限らないから、結局無駄かもしれないがとも思うが・・・。それはそれで仕方がない。実際そんな本ばかり読んでいるんだからね。諦めてもらうしかないだろう。
 昔、読書家や作家、あるいはその道の学者さんなどの本棚や書斎を紹介した本があったが、それを見たとき“いいな!”と思ったものだ。こんなに本意囲まれ、それこそリクライニングチェアなどに座って本を読める環境がうらやましかった。またそこに写っている本にも箱入りの豪華全集などがあって、いつか自分もそんな本棚や書斎を持ちたいものだと思っていた。
 でも最近は、阿刀田さんがここで言うように、「おれはこんなたくさんの本に囲まれ、これを資料にしているんだ」という文筆家が陥りがちな儀式的、自己暗示的な蒐書は極力避けたいから、せっせと本を処分しているという姿勢が本当は正しい姿じゃないかと思うようになってきている。文筆家でなくても本を読む人の本棚には自己主張や自己満足がはびこり、あまりかっこいいもんじゃないななんて思うようになってきている。
 


評価
★★


書誌
書名:陽気なイエスタデイ
著者:阿刀田 高
ISBN:9784167278229 (4167278227)
出版社:文芸春秋 (2004-03-10出版) 文春文庫
版型:252p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年07月08日

阿刀田高著『殺し文句の研究』

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 例によって、書名がこの本全体を意味しない。さまざまな雑感集である。
 阿刀田さんは自分の小説のアイデアや書き方を“工房”と称して、その手の内をよくエッセイで披露してくれる。今回「作家の企業秘密」で、阿刀田さんの文章作法が書かれている。
 そこには阿刀田さんは子供の頃から作文は苦手であったことが書かれており、その阿刀田さんがどうやって文章能力を磨いたのか?そこにはこれといって努力をしたわけではないことが書かれている。ただ、本を読むことはよく読んでいた。そこで自分の体験から「たとえほとんどペンをとることがなくてもよい文章を読み続けてさえいれば、書く能力はそれなりにつちかわれるのではあるまいか」という。
 こんな文章を書いてみたいなと思う作家を見つけ、その人の文章をよく読むこと。ときには作品の数ページを書き写してもよい。息使いや句読点の打ちかたまで、おもいのほか得ることが多いという。そして今でも自分の文章が荒れているなと思ったときは、自分の好きな作家の文章を読んで軌道修正をしているという。
 なるほどそうすれば私も少しはマシな文章が書けるのかななんて思った。しかしこうしてパソコンで文章を手軽に打っていると(パソコン自身お節介なほど親切なので)、いつまでたってもうまい文章は書けないかもしれないなんて思うところもある。やっぱり文章が少しでもうまくなりたいなら、手書きで書いてみるのがいいのかな、なんて思うのである。(一時やっていたんだけど、面倒になってやめちゃった)

 「殺し文句の研究」の中でも面白いものがあった。アメリカの海軍当局の兵士募集に「ニューヨーク市民になるより、アメリカ海軍に属するほうが安全です」という求人広告。この文句は「統計というものの恐ろしさを説明する材料としてよく引きあいに出されるものだ」そうだ。ニューヨーク市民の死亡率より海軍の死亡率が低いから安全だというのは論理は面白い。どう考えても海軍の死亡率のほうが高そうだし、その分危険であることは間違いないのだろうが、どうしてニューヨークより海軍の死亡率の方が低くなるか?それはニューヨーク市民の死亡率は幼児から老人まですべて含めて計算してあるところによる。もし正しく比較するなら、海軍が占めている屈強の若者たちの年齢で比較しなければ話にならないはずだ。
 これと似たような統計の話が最近ある。コンビニの深夜営業自粛の話である。二酸化炭素排出規制のため、コンビニの深夜営業自粛せよとうムードが高まっている。これに対して、日本フランチャイズチェーン協会は、深夜帯も冷蔵庫などは稼働せざるを得ず、CO2削減効果は照明・空調など4%程度と低いからあまり意味がないと反論する。(これ不思議なのだけれど、最初この数字が出たときは、CO2は0.0009%くらいしか削減されないと言っていたはずなのに、いつの間にか4%になっているのはどういうことなのだろうか?)
 いずれにせよ、この4%にどれだけの意味があるのか疑問なところがある。もしこの数字をもっともっと低くしたければ、例えば分母を世界中の二酸化炭素排出量をもってくれば、更に低くすることができる。つまり作為的にどうでもなる数字ではないだろうか。
 そもそもコンビニが深夜に訪れる奴は、意味もなく遅くまで煌々と電気をつけて起きていて、腹が減ったからコンビニで何か買おうかなんて思う奴だろう。それだけでもCO2を盛んに出していることになるし、まして車で出かければそれ以上の無駄なCO2を排出することになる。つまりコンビニが自身排出するCO2だけが問題なのではなく、深夜活動する人間がそこを訪れる際のCO2排出も当然考慮しなければなるまい。それを考えたら、4%以上の数字が出てくるに違いないと思う。
 更に防犯面でも女性の駆け込みなどが年間約1万3000件あり、社会のインフラにコンビニがなっているとさえ言う。これだって、深夜まで遊び回っているから、そういう危険な状況に追い込まれるわけで、コンビニを含め、深夜営業している業種すべてがそれを止めれば、遊びたくたって、遊ぶ場所がなければ家にいるしかないだろう。そして早く寝ればいい。
 コンビニだけがやり玉にあがっているのは“魔女狩り”だという主張は、確かにそうかもしれないけれど、むしろコンビニ業界が率先して、深夜営業自粛をすべきリーダーシップを取って欲しいと思うのだ。“魔女狩り”だとしか言えない方が情けない。
 もちろん24時間テレビなんていうのもやめるべきだ。だいたい付きっきりで24時間テレビを見ている視聴者がいるか、と思うのだ。「愛は地球を救う」なんていったって、地球環境をおかしくしちゃったら、愛もへったくれもないじゃないか!テレビでは地球温暖化、環境破壊など声高に言っているのに・・・。言っていることとやっていることが矛盾している。

 こんな、本とは直接関係ないことを書いたのは、この本読んでいるうちに何か読んだことがある本だなぁと感じたからである。よくよく調べてみると、本の末尾に、『夜の紙風船』と『雨降りお月さん』を合わせて、再編集したものだとわかった。腹が立ったから、最近おかしいなと思うことを書いちゃった。できればこういうのもやめて欲しいな。


評価
★★


書誌
書名:殺し文句の研究
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255286 (4101255288)
出版社:新潮社 (2005-01-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)

2008年07月03日

阿刀田高著『短編小説より愛をこめて』

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 また阿刀田さんのエッセイが読みたくなり、何でもよかったのだが、たまたま先月の新刊で発売されたこの文庫を手に取る。今年は阿刀田さんの本をできるだけ読んでやろうと意気込んでいるので、まずは私の読書方法であるエッセイ集をせっせと読んでいる。この文庫の最後に阿刀田さんの文庫目録が掲載されているのだが、エッセイ集も結構あるので楽しみである。ただ、例えばこの新潮文庫でも今書店で入手できるのは限られてしまっている。古いやつはリストから外れている。ということは品切れか絶版になっているのだろう。仕方がないので、せっせとブックオフに通い、集めている。
 この本は三部構成になっていて、一番目が書名にもなっている短編小説についての阿刀田さんの考察であり、二番目が阿刀田さんが得意とする“ギリシア神話”について書かれ、最後が、阿刀田さんの日々起こっている日常について書かれた雑感となっている。
 短編小説について阿刀田さんは自ら「短編狂」と言い、たくさんの短篇書かれてきたので、「短編小説と心中してもいいかなって思っているんですよ」とも言う。
 「長編の場合は、ときどき自分の好みに合わないものにめぐりあうことがあって、それでも、
ー今になんとかー
と読み進み、読み終えて、
ーまいったなあ。時間のむだだったー
 腹立たしく思うことが、けっこうまれではない。その点、短篇は礼儀正しい文学であり、長くはお邪魔しない。二、三時間くらいのことならトンデモナイしろものでも、
ーまあ、いいか。世の中には、こんなことを考えて書くやつもいるんだなー
と許容することができる」と言う。確かにそうかもしれない。ただ個人的には短編小説は物足りなさを感じてしまい、やはり長編を読み終えると、ああ、読んだなあ!とまず読み終えた充実感があるように思える。逆に言えば、それだけ私はいい短篇に巡り会えていないのかもしれない。好きな短篇はいくつか頭には浮かぶけれど、数えてみるとわずかだ。
 この章には短編小説のことだけでなく、小説を書くにあっての注意点や、読書は面白ければそれだけでいいという主張は、今まで読んできた阿刀田さんエッセイで何度もふれられている。ここでも面白いことが書かれている。
「日本人は生真面目だから、なにをやるにも“ためになる”“役に立つ”など大義名分を求めたがる。ただ“楽しいから”だけでは気が引ける。趣味のゴルフにしてからが、“健康によろしい”“商談に役立つ”なにか理屈がほしいのである。ノホホンとただひたすら楽しいだけでは我慢ができないのだ」これも確かにその通りだ。不健康で不摂生をしている私は、よく“健康オタク”のかみさんから、あれだけ本を読んでいて、健康や身体に関する本を読まないんだからとよく言われるのだ。冗談じゃない。何が悲しくて健康本を読まねばならないのだと思っている。読んだってちっとも楽しくないじゃないか。私は自分が楽しめるから、本を読んでいるのだ。それだけである。
 さて、ギリシア神話について書かれたものは、そのエピソードが面白い。大学時代、呉茂一さんの『ギリシア神話』を手にしたことがあったが、だんだんわからなくなってしまい投げ出した覚えがある。その人間関係(いや神様関係?)が複雑なので、頭の中ごっちゃになってしまった。今も読んでみたい思うけれど、多分ダメだろうなとも思う。阿刀田さんの著作にはいくつかギリシア神話に関して本がある。今度これらを読んでみようかなと思う。とりあえず、この本に書かれていたエピソード自分で書き出して、なるほどと感心している。
 最後の雑感については、肩を張らず書かれている。これといって感心したり、為になるとかそういったたぐいの話ではないけれど、読んでいて、ほんの少し感心したり、うなずいたりする楽しみを味あわせてくれる。やはりうまい文章だから、さらりと語られる事柄は、味わいがある。こういうのは好きだなぁ~。


評価
★★★


書誌
書名:短編小説より愛をこめて
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255316 (4101255318)
出版社:新潮社 2008/07出版 新潮文庫
版型:245p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)

2008年06月30日

レスリー・アドキンズ/ロイ・アドキンズ著『ロゼッタストーン解読』

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 中島敦に『文字渦』という短篇小説がある。古代アッシリアのアシュル・バニ・アパル大王の頃、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという妙な噂がニネヴェの宮廷で飛び交う。大王はナブ・アヘ・エリバ老博士に調査をさせる。彼は図書館にある書物から文字の霊について説を見いだそうとするが、文字を見つめているうちに、妙なことが起こり始める。「一つの文字を長く見詰めている中で、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としてしか見えなくなって来る。単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る」のであった。「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味を有たせるのは、何か?ここ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた」のである。つまり単なる線の交錯が文字として、音と意味を持たせるのは文字の霊だと思い至るのである。以来老博士は文字の霊に取り憑かれる。
 ある若い歴史家が、「歴史とは何ぞや?」と老博士に尋ねる。老博士は「歴史とは、昔在った事柄で、且つ粘土板(当時文字は粘土板に書かれた)に誌されたものである」と答える。更に若い歴史家はそこに書かれなかったものはどうなのだと聞く。老博士は「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」と答える。

 中島敦の短篇をいきなり引っ張り出したのは、この本を読んで思い出したからである。この本の原書名は『THE KEYS OF EGYPT』という。まさしくヒエログリフ解読がエジプト古代史の“鍵”で、ジャン・フラソワ・シャンポリオンがヒエログリフを解読したことによって、古代エジプト学が明らかになった。この本はシャンポリオンがどのようにヒエログリフを解読していったか、その経過をつづったものである。
 ヒエログリフの解読に役立ったものが「ロゼッタストーン」である。これはナポレオンのエジプト遠征時、ロゼッタの北西数キロのところで、ドプールという兵士が片面に碑文のある暗緑色の石版を発見した。この石版を調べると、三つの異なった文字が記されている碑文であることがわかった。一つがヒエログリフで、後はデモティク文字、ギリシア文字であった。



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 私が高校時代の世界史で習ったことは、この「ロゼッタストーン」の発見で、簡単にヒエログリフが解読できたように習った。多分ギリシア文字を追っていけば、ヒエログリフがどれに該当するかわかるからだろうと思うのだが、この本を読むとそう簡単な話ではないようである。シャンポリオンをはじめ、イギリスの学者が競って、ヒエログリフの解読に挑んだが、なかなか読めずにいた。
 しかもシャンポリオンが生きた時代はフランス革命の動乱の後、ナポレオンが帝位につき、その後失脚し、ルイ王朝が復活しためまぐるしく歴史が変わる時代であって、シャンポリオンもその政治体制に翻弄される様子が描かれる。つまりヒエログリフの解読に精を出していればいいものを、何故かシャンポリオンは政治に関わっていく。またヒエログリフ解読はシャンポリオンだけでなく、さまざまな学者(特にイギリスのトーマス・ヤング)が挑み、我こそが正しいと主張するだけでなく、相手を非難中傷する世界でもあった。このあたりは何時の時代でも醜い争いがあるようで、シャンポリオンの時代も例外ではないようだ。
 さてシャンポリオンはどのようにヒエログリフを解読したのだろうか?このあたりは私の頭ではよく理解できなかったが、まずは表音の確定から始まったようである。
 シャンポリオンは「ロゼッ