2009年12月18日

川上健一著『BETWEEN―ノーマネーand能天気』

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 この本は『ビットウィン』の文庫版。まだこのブログをやり始めた頃に読んだ。すごく気に入った。いいエッセイだと思っていたし、たぶんまた読み返す本だろうなと思っていた。
 珍しい黄緑を基調とした装丁も気にっている。装丁、中にあるイラストは南伸坊さんである。文庫本はやはり黄緑を基調としているが、イワナではなく川上さん本人ようだ。これもなかなかいい。私は本の装丁も大事だと思っているので、この本は装丁も内容もお気に入りなのだ。


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 この本の感想や面白かったところ、ホロッときたところなどは以前書いてある通りで、今回も同じように笑ったり、涙ぐんだりしてしてしまった。

 川上さんは二十七歳で小説家という肩書きを持ったが、自分では小説家だとは思っておらず、他に本当にやりたいことがあるはずだといつも思っていた。その本当にやりたいことはいったいなんなんだろうと悶々として酒に走り、飲み過ぎとストレスで肝臓を壊してしまい、無気力になってしまった。
 そうなったらなったで、健康になるまで仕事はせず、気長に構えて本当に自分のやりたいことを探そうと決める。医者の薦めもあって八ヶ岳南麓の高原に引っ越した。そこに奥さんがやってくる。奥さんがやってきて、独身時代には考えられなかった三度の野菜中心食事が取れるようになり食生活が改善し、早寝早起きという規則正しい生活、加えて気候の良さ、仕事をしない、好きな釣りとテニス、野菜作り、庭造り、野山歩き、たき火大会とくれば、ストレスなど皆無となり、都会にいた頃あれだけ通院し、あれだけ薬を飲み、あれだけ静養してもよくならなかった肝臓の数値が正常値に下がり、正常で健康そのものなった。
 その間十年間川上さんのいう「慢性的手元不如意」の状態になったが、超貧乏を愛娘と三人過ごす。お金がない分、なんでも自分たちで作らなければならなかった。家中手作りのもので溢れていた。家具も川上さんの日曜大工で作った。食べるために野菜を作り、食べるために釣りをした。そのうち自分で食べるものを自分で作る楽しみを覚えた。家族と一緒にいる時間が大切なものだと知った。村の人たちの優しさに触れ、川上さんは再生する。人としてうれしさや悲しさ、楽しさなど素直に感じられるようになる。テレビなど見ていても感極まって涙をボロボロこぼしたり、ストーリーに感動するようになる。
 そうなると物語のすばらしさを感じられるようになり、時には批評めいたことも感じたりして、自分は物語が好きだったんだとわかり始める。自分の本当にやりたかったことは物語を紡ぐことであると知るのである。そして十年ぶりに小説を書き始めるのである。
 この本を読んでいて、川上さんが超貧乏生活を余儀なくされたことが良かったんだと思った。そしてそれを理解してくれる家族の存在。楽しい仲間の存在が、川上さんにまた小説を書こうと思わせるのだと思った。そして何よりも自然の中での生活がそれを手助けしたんだと思う。
 薬は確かに一時的に数値を下げるかもしれないが、荒んだ心はきっと回復しないだろう。まして都会という不自然な世界で生きていけば、また小説を書こうなんて思わなかったに違いない。
 人の気持ちを荒んでささくれたったものにしてしまうのも、人間関係だけれど、人が人として心を回復させるのは、信頼できる家族、仲間という人間関係であるのだと思った。それを大自然が後押ししているんじゃないかなと思った。
 やっぱり自然は恐ろしいものだけど(ここでもおかしく書かれているけれど、怖い側面があることを教えてくれる)、一方で人を心身ともに育むものなんだなと感じた。

 ところでこの本の書名となっているビトウィンとはなんであろうか。読んでいると、ビトウィンとは絶対的両極端の間に自分がいて、その間をあっちこっち揺れ動くことを言っているようだ。そうした生活をしている人を川上さんはビトウィン人と呼び、自分がそうだからそうしたビトウィン人に親しみを覚えると言うのだ。

 「こうこうこうだからこうだッ、とかこれこれこうだからこっちがいいに決まっているッ、と物事を理路整然とやっつけてきっぱりと断定する人間に遭遇すると、本当かね?とつい首をひねってしまい、ついでに毛嫌いしてしまう癖が私にはある。
 己が優柔不断ということもあるけれど、両極端の間に我が身を置いて、あれこれ迷ったり、悩んだりしているビトウィン人の方に、人間的な親しみを覚えてしまうのだ」

 前回読んだときはまだ自分の評価を★の数で表すことをしていなかったし、ブログオープンのために、それまで読んできた本を一気に紹介したので、この本はその中に埋もれてしまった感じがする。もちろん私の中ではいい本だったという記憶が残ってはいるが、改めて読み返してよかったなと思った。


評価
★★★★★ 


書誌
書名:BETWEEN―ノーマネーand能天気
著者:川上 健一
ISBN:9784087463217
出版社:集英社 (2008/07/25 出版)集英社文庫
版型:212p / 15cm / A6判
販売価:499円(税込)

2009年11月20日

夏目漱石著『こころ』

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 実はこうして漱石を読んできたのはこの『こころ』を読みたくて、他の作品を読んできた。私はこの物語が大好きで、もう何度読んだろうか?そのたびに泣きたくなるのも毎度のことだった。
 ただ今回はどうだろうかと思った。これまで読んできた漱石の前期三部作、後期三部作の登場人物にかなりの不満を感じていたので、今までのように手放しで感動出来るかどうか不安であった。いずれもただ単に相手の気持ちと自分の気持ちとの間で苦悶するだけで、その先一向に光が見えないまま、終わってしまう話にいささか鼻についていたからだ。しかも彼等は生活に余裕があって、生きることに汗水流さないで済む分、普通生きることに必死の人なら、一銭でもお金を稼いでいるところを、ただ邪推や妄想の日々で終わるのである。どこか自分たちは特別なんだという臭いがプンプンしてしまうのである。それが鼻持ちならなかった。
 そう感じていたから、この『こころ』もそういう話の一つになってしまうのではないかと思ったのだ。それはとにかく好きな物語だったから、出来ればそうであって欲しくなかったのである。
 結論から言うと、今回何度目かわからないが、この物語を読んで、一番感動が少なかった。
 こうなると昔読んで感動した本を改めて読み直すというのは、時にその当時の感動に疑問を呈することもあるから、考えものだ。昔感動したからといって、読み直して同じ感動が味わえるかというと、そうでもないことが多いのかもしれない。

 さて、『こころ』である。解説によると、この『こころ』はいくつかの短編を書き継ぎ、それを合わせて総題として『こころ』とする予定で、漱石は最初にこの本のメインとなる「先生と遺書」を書いたのだそうだ。ところが片がつかなくなって、その前に「先生と私」を書き、そこで私と先生の出会いを明らかにし、次に「両親と私」で自分の父親と先生を比べることで、先生の姿をより明らかにしようとする。
 私は父が危篤と聞いて、大学卒業後すぐ国元へ帰るのだが、父親は私が大学を卒業したことを素直に喜ぶ。その姿とたかが大学を卒業したくらいでといった冷ややかな態度の先生と比較し、その冷めた態度の先生の方が、余計に偉く見えたりする。そんな私のところに先生から膨大な量の手紙が来る。それが「先生と遺書」となって結びつくことになる。そこで先生の過去が明らかにされ、自殺へと結びつく経緯を知ることとなる。だからこの「先生と遺書」が物語のメインとなるわけだ。
 まず「先生と私」で、先生との出会いを描く。「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮といよりも、その方が私に取って自然だからである」といって始まる。
 私は何度も先生のお宅に出入りし、先生が定職にも就かず、半ば隠遁生活している姿に疑問を感じつつ、先生ともあろう人がどうしてこんな生活をしているのか、聞きたくても聞けないまま、どこかに暗い影を感じつつ、先生の話しぶりから、先生を知ろうとする。 そんな中私は「人間を愛し得る人、愛さずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事が出来ない人、-これが先生であった」と先生の人物評をする。
 先生は私にすべてを語らなかったが、ぽつりぽつり含みのある言葉を私に投げかける。

 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」

 先生は自分たち夫婦を本来なら幸福な人間であるはずなのに、それをそうだとは言い切らなかった。ここに夫婦の間に何か暗い影を感じさせる。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです」

 「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」

 、と言ったりする。

 この新潮文庫に収録されている江藤淳さんの「漱石の文学」で、江藤さんがうまいことを言っている。こうした漱石の物語の運び方を「いわば告白しないことによって、告白し、虚構や象徴によってのみ自己の秘密を語るという、漱石独特の手法」だというのである。まさにこの物語はそうした手法を取りつつ、前作同様手紙ですべてを明らかにする方法をここでもとっているのである。

 そして「先生と遺書」ですべてが明らかになる。先生が最初から悪人なんていない。それが急に変わるのはお金のためだと言うのは、先生が両親を失って、自分を養育してくれたと恩を感じていた叔父が、先生の遺産を使い込んでしまったからだ。自分はだまされていたことを知ったから、そう言ったのであった。
 辛うじて残った遺産を処分して先生は東京に出て来る。そして母娘がいる家に下宿することとなる。最初は赤の他人である先生と母と娘はぎこちないところがあったが、その内打ち解けるようになって行き、先生もこの親子と暮らしているうちに、人間不信になっていた自分の気持ちが人間らしさを取り戻していくのを感じてくる。
 そこへ友人のKを連れてきて、一緒に住むことになった。Kは真宗の坊さんの子であったが、医者の家に養子に出された。養家ではKを医者にするために、東京に出した。ところがKはまったく医者になるつもりがなく、養家をだましながら大学で違う勉強をしつづけていた。結局Kは養家をだまし続けることが出来ず、真実を明らかにしたことで、養家の怒りを買い、仕送りが断たれたのであった。先生はKの後見人を自認していたため、Kを自分が下宿していた家に一緒に住むことにしたのである。先生は自分がこの親子の御陰で荒んでいた自分の気持を和らげてくれたことから、それをKにも望んだのである。
 ところが先生はKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかくなっていく。特に御嬢さんと仲良くなって、一緒にいるところを見ると、嫉妬した。
 ある時Kから御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた。その時先生は「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです」とこの遺書で告白するのであった。先生はなんとかしなければならないと焦り、Kが学問で精進していることをよく知っている先生はKに向かって「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言って女にうつつを抜かすKを非難する。
 その一方で、先生は自分の気持ちをKよりも早くこの親子に告白をしなければならないと思い、Kの気持を知っていながら、Kを出し抜いてこの母親に娘を嫁にくれと伝えるのであった。先生はKに勝った。しかしKをだまし、出し抜いたことに後悔する。

 「私はその刹那に、彼の前に手を突いて、謝りたくなったのです」

 そして先生と御嬢さんとの結婚話を聞いたあと、Kは自殺した。先生は取り返しのつかないことになったことを自覚する。

 「要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした」

 「おれは策略で勝っても人間として負けたのだ」

 「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」

 Kの葬式のあと御嬢さんは先生の妻となったが、先生後ろにはいつもKの姿があった。自分が軽蔑していた叔父と自分がKにしたことが同じであることに苦しみ続けた。毎月命日にはKの墓参りを欠かさなかったが、その内先生は“自己処罰”を思うようになる。ただ自分が死んだら妻はどうなると考えると、なかなか行動には移せなかった。だから先生は「私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです」というのである。
 あるいはKとのいきさつを話せば、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないと思う一方、自分の罪で妻の心を汚してしまうことに忍びなかったのであった。

 「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変苦痛だったのだと解釈してください」

 そんな時明治天皇が崩御した。先生は「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」と書く。先生は自分が生きた明治が天皇崩御で終わったことで、その間自分が人間形成をし、叔父を軽蔑し、そして自分も叔父と同じであったと自覚するに至った時代にけじめがついたと思ったのである。あるいは乃木大将の殉死が後押ししたのかもしれない。先生はその後妻を残し、自殺するのである。“自己処罰”のために。

 ところで夏目漱石は江戸幕末の慶応3年に生まれ、大正5年に死亡した。漱石の50年近い生涯はまさしく明治という時代そのものであった。漱石は明治精神をそのまま生きてきた。だから明治天皇の崩御はかなりの影響を残したはずだ。それをこの先生に託したと言っていいのかなと思ったりする。


 今回同じ『こころ』でも新潮文庫版と集英社文庫版の写真を掲載した。読んだ方は新潮文庫であったが、集英社文庫は解説を読んで、それを参考にさせてもらった。


評価
★★★


書誌
書名:こころ (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010137
出版社:新潮社 (2004/03/15 出版)新潮文庫
版型:378p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込)


書誌
書名:こころ
著者:夏目 漱石
ISBN:9784087520095
出版社:集英社 (1991/02/25 出版)集英社文庫
版型:340p / 15cm / A6判
販売価:320円(税込)

夏目漱石著『こころ』

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 実はこうして漱石を読んできたのはこの『こころ』を読みたくて、他の作品を読んできた。私はこの物語が大好きで、もう何度読んだろうか?そのたびに泣きたくなるのも毎度のことだった。
 ただ今回はどうだろうかと思った。これまで読んできた漱石の前期三部作、後期三部作の登場人物にかなりの不満を感じていたので、今までのように手放しで感動出来るかどうか不安であった。いずれもただ単に相手の気持ちと自分の気持ちとの間で苦悶するだけで、その先一向に光が見えないまま、終わってしまう話にいささか鼻についていたからだ。しかも彼等は生活に余裕があって、生きることに汗水流さないで済む分、普通生きることに必死の人なら、一銭でもお金を稼いでいるところを、ただ邪推や妄想の日々で終わるのである。どこか自分たちは特別なんだという臭いがプンプンしてしまうのである。それが鼻持ちならなかった。
 そう感じていたから、この『こころ』もそういう話の一つになってしまうのではないかと思ったのだ。それはとにかく好きな物語だったから、出来ればそうであって欲しくなかったのである。
 結論から言うと、今回何度目かわからないが、この物語を読んで、一番感動が少なかった。
 こうなると昔読んで感動した本を改めて読み直すというのは、時にその当時の感動に疑問を呈することもあるから、考えものだ。昔感動したからといって、読み直して同じ感動が味わえるかというと、そうでもないことが多いのかもしれない。

 さて、『こころ』である。解説によると、この『こころ』はいくつかの短編を書き継ぎ、それを合わせて総題として『こころ』とする予定で、漱石は最初にこの本のメインとなる「先生と遺書」を書いたのだそうだ。ところが片がつかなくなって、その前に「先生と私」を書き、そこで私と先生の出会いを明らかにし、次に「両親と私」で自分の父親と先生を比べることで、先生の姿をより明らかにしようとする。
 私は父が危篤と聞いて、大学卒業後すぐ国元へ帰るのだが、父親は私が大学を卒業したことを素直に喜ぶ。その姿とたかが大学を卒業したくらいでといった冷ややかな態度の先生と比較し、その冷めた態度の先生の方が、余計に偉く見えたりする。そんな私のところに先生から膨大な量の手紙が来る。それが「先生と遺書」となって結びつくことになる。そこで先生の過去が明らかにされ、自殺へと結びつく経緯を知ることとなる。だからこの「先生と遺書」が物語のメインとなるわけだ。
 まず「先生と私」で、先生との出会いを描く。「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮といよりも、その方が私に取って自然だからである」といって始まる。
 私は何度も先生のお宅に出入りし、先生が定職にも就かず、半ば隠遁生活している姿に疑問を感じつつ、先生ともあろう人がどうしてこんな生活をしているのか、聞きたくても聞けないまま、どこかに暗い影を感じつつ、先生の話しぶりから、先生を知ろうとする。 そんな中私は「人間を愛し得る人、愛さずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事が出来ない人、-これが先生であった」と先生の人物評をする。
 先生は私にすべてを語らなかったが、ぽつりぽつり含みのある言葉を私に投げかける。

 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」

 先生は自分たち夫婦を本来なら幸福な人間であるはずなのに、それをそうだとは言い切らなかった。ここに夫婦の間に何か暗い影を感じさせる。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです」

 「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」

 、と言ったりする。

 この新潮文庫に収録されている江藤淳さんの「漱石の文学」で、江藤さんがうまいことを言っている。こうした漱石の物語の運び方を「いわば告白しないことによって、告白し、虚構や象徴によってのみ自己の秘密を語るという、漱石独特の手法」だというのである。まさにこの物語はそうした手法を取りつつ、前作同様手紙ですべてを明らかにする方法をここでもとっているのである。

 そして「先生と遺書」ですべてが明らかになる。先生が最初から悪人なんていない。それが急に変わるのはお金のためだと言うのは、先生が両親を失って、自分を養育してくれたと恩を感じていた叔父が、先生の遺産を使い込んでしまったからだ。自分はだまされていたことを知ったから、そう言ったのであった。
 辛うじて残った遺産を処分して先生は東京に出て来る。そして母娘がいる家に下宿することとなる。最初は赤の他人である先生と母と娘はぎこちないところがあったが、その内打ち解けるようになって行き、先生もこの親子と暮らしているうちに、人間不信になっていた自分の気持ちが人間らしさを取り戻していくのを感じてくる。
 そこへ友人のKを連れてきて、一緒に住むことになった。Kは真宗の坊さんの子であったが、医者の家に養子に出された。養家ではKを医者にするために、東京に出した。ところがKはまったく医者になるつもりがなく、養家をだましながら大学で違う勉強をしつづけていた。結局Kは養家をだまし続けることが出来ず、真実を明らかにしたことで、養家の怒りを買い、仕送りが断たれたのであった。先生はKの後見人を自認していたため、Kを自分が下宿していた家に一緒に住むことにしたのである。先生は自分がこの親子の御陰で荒んでいた自分の気持を和らげてくれたことから、それをKにも望んだのである。
 ところが先生はKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかくなっていく。特に御嬢さんと仲良くなって、一緒にいるところを見ると、嫉妬した。
 ある時Kから御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた。その時先生は「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです」とこの遺書で告白するのであった。先生はなんとかしなければならないと焦り、Kが学問で精進していることをよく知っている先生はKに向かって「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言って女にうつつを抜かすKを非難する。
 その一方で、先生は自分の気持ちをKよりも早くこの親子に告白をしなければならないと思い、Kの気持を知っていながら、Kを出し抜いてこの母親に娘を嫁にくれと伝えるのであった。先生はKに勝った。しかしKをだまし、出し抜いたことに後悔する。

 「私はその刹那に、彼の前に手を突いて、謝りたくなったのです」

 そして先生と御嬢さんとの結婚話を聞いたあと、Kは自殺した。先生は取り返しのつかないことになったことを自覚する。

 「要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした」

 「おれは策略で勝っても人間として負けたのだ」

 「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」

 Kの葬式のあと御嬢さんは先生の妻となったが、先生後ろにはいつもKの姿があった。自分が軽蔑していた叔父と自分がKにしたことが同じであることに苦しみ続けた。毎月命日にはKの墓参りを欠かさなかったが、その内先生は“自己処罰”を思うようになる。ただ自分が死んだら妻はどうなると考えると、なかなか行動には移せなかった。だから先生は「私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです」というのである。
 あるいはKとのいきさつを話せば、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないと思う一方、自分の罪で妻の心を汚してしまうことに忍びなかったのであった。

 「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変苦痛だったのだと解釈してください」

 そんな時明治天皇が崩御した。先生は「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」と書く。先生は自分が生きた明治が天皇崩御で終わったことで、その間自分が人間形成をし、叔父を軽蔑し、そして自分も叔父と同じであったと自覚するに至った時代にけじめがついたと思ったのである。あるいは乃木大将の殉死が後押ししたのかもしれない。先生はその後妻を残し、自殺するのである。“自己処罰”のために。

 ところで夏目漱石は江戸幕末の慶応3年に生まれ、大正5年に死亡した。漱石の50年近い生涯はまさしく明治という時代そのものであった。漱石は明治精神をそのまま生きてきた。だから明治天皇の崩御はかなりの影響を残したはずだ。それをこの先生に託したと言っていいのかなと思ったりする。


 今回同じ『こころ』でも新潮文庫版と集英社文庫版の写真を掲載した。読んだ方は新潮文庫であったが、集英社文庫は解説を読んで、それを参考にさせてもらった。


評価
★★★


書誌
書名:こころ (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010137
出版社:新潮社 (2004/03/15 出版)新潮文庫
版型:378p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込)


書誌
書名:こころ
著者:夏目 漱石
ISBN:9784087520095
出版社:集英社 (1991/02/25 出版)集英社文庫
版型:340p / 15cm / A6判
販売価:320円(税込)

2009年11月18日

夏目漱石著『行人』

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 続いて漱石を読む。今回も「高等遊民」の長野一郎が自分の妻の直を信じられず、直の気持が弟の二郎に向いているんじゃないかと疑うところから、この物語は始まる。そのため二郎に自分の妻と一晩泊まって、妻の気持ちを確かめてくれという、とんでもないことを頼む。頼まれる二郎もどうかと思うのだけれど、まずは一郎の猜疑心にはいささか呆れる。
 とにかく二郎は気難しい兄の言うことには逆らえないので、結果として一晩直と夜を一緒に過ごすことになり、その夜のことを兄の一郎に報告する。この時になって二郎は自分が兄から疑われていることと、自分がいくら兄の頼みごととはいえ、嫂の気持ちを確かめるなど馬鹿なことをしたことに後悔するのだが、私からすれば、「あんたもどうかしているよ」と言いたくもなる。
 それにしても漱石が人物設定する「高等遊民」という輩は、まったくどうかしているとしか言いようがない。行動することより、頭の中であれこれ考え過ぎることから、つまらん邪推が生まれ、本来なら考えなくてもいいことが自分の頭の中で広がっていき、今度はそれで身動きがとれなくなるのだから、どうしようもない。
 確かに人はあらゆることで考え過ぎることがある。ただどうでもいいことを深く思い至るところはあるにしても、これほどじゃないだろう。誰にだって“不信”はある。そのためにさまざまなことに猜疑心を抱き、さらに気持が荒んでいく。しかし一郎の直に対する疑念は異常であるとしか思えない。自分以外本当のところはわからないのが当たり前なのだが、それをわかりたいと思うところに、一郎の破綻があるのだ。
 一郎が何故妻の直の気持を疑うようになっていったのか、その原因はこの物語ではつまびらかにされていないが、ただ直の日常の態度からそう察するのだろう。でもその直がそうした態度に出ているのは、結局一郎がそうさせたところがある。一郎と一緒に暮らしているうちに身につけた処世である。それを二郎は次のように言う。

 あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々しいものでもあった。
 或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕跡さえ認められない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代わりに微笑した。泣き伏す代わりに寡黙に端然と座った。恰もその座っている席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、殆ど彼女の自然に近い或物であった。

 二郎は直がそうなったのも一郎のせいだと見抜いているのに、直にもう少し兄に対してやさしくなれという。でも直は「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜の所為だって」と言うだけなのである。
 
 こうして一郎の懐疑心が、家族からの孤立を生み、それとともに一郎の神経の病的変調ともいえる状態が生まれる。家族もそれを心配し、気晴らしに旅でも出たらどうかということで、一郎の友人であるHと一緒に旅に出させる。
 物語はここからHによる一郎の精神状態の記述となる。私から言わせればわざわざ一郎の精神状態をここで明らかにする必要性を感じないのだけれど(多分そうだろうなと思えるから)、まぁ、Hの言う一郎姿を書くと次のようになる。

 兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥っています。兄さんは甲でも乙でも構わないという鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方かでなくては承知出来ないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合なりが、ぴたりと兄さんの思う坪に嵌らなければ肯がわないのです。兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこう思った針金の様に際どい線の上を渡って生活の歩を進めて行きます。その代わり相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで来て呉れなければ我慢しないのです。然しこれが兄さんの我儘から来ると思うのは間違いです。

 けれども、是非、善悪、美醜の区別に於いて、自分の今日まで養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。寧ろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんは能く呑み込めているのです。

 そうなのだ。一郎の今までしてきた知的生活、すなわち学問的の追求姿勢をそのまま実生活に移せば、唯単に猜疑心しか生まないのだ。このような現実乖離した生活感では、そうした姿勢がそれほど意味をなさないばかりか、時には邪魔にさえなることも一郎はわかってはいる。その証拠に「平生読み破った書物上の知識を残らず点検した揚句、ああああ画に描いた餅はやはり腹の足しにならなかったと嘆息したと云います」とHは書くのである。
 一郎はわかってはいるのだ。だけどそれが出来ずに苦しんでいる。まるで智恵だけが独立したかのように、一人歩きしている自分をわかっているのである。
 それでも自分がこれまでやってきたことは、絶対だと思うところには救いはない。だからHが一郎が宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうかと思うけれど、一郎はそれを否定する。一郎は自らやってきた生活と、実生活の乖離に苦しんでいるだけのことで、決して宗教家になるための修行をしている訳じゃないからだ。一郎はあくまでも実生活でも自らの幸福を求めてやまない人間でもあるのだ。
 結局この物語も行き着くところまで行き着いて、物語が終わる訳じゃなく、“寸止め小説”として、こうしたジレンマに苛まれたまま終わる。それ以降どうなっていくのか、読む側に考えさせるということなのかもしれないが、結局このまま悩み続け、これ以上の解決策は見出せないのではないかという予感だけが残る。後は一郎が狂ってしまうかであろう。
 漱石が描く精神の高貴さを追求する人が、実生活でのギャップに悩み続ける姿は、それだけを見れば尊い感じがしてしまう。けれど、どっぷり俗世間のしがらみに縛られている今の自分がこの物語を読むと、そういう知的生活、学問的探求と同じような姿勢では生きていくのは難しいだろうと思うのだ。むしろちっとも尊いと思えなかった。頭でっかちの戯れ言聞いている感じでもあった。


評価
★★★


書誌
書名:行人 (〔平成5年〕改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010120
出版社:新潮社 (1996/10 出版)新潮文庫
版型:417p / 16cm / 文庫判
販売価:539円(税込)

2009年11月13日

夏目漱石著『彼岸過迄』

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 また漱石に戻る。この『彼岸過迄』というタイトルは、漱石が序文でことわっているように、彼岸過ぎまでに書き上げる予定だから、そういうタイトルを付けただけだという。だから物語の内容とは何ら関係ない。最初、田川敬太郎の就職活動を須永の叔父に依頼するところから始まるので、この物語は敬太郎の話かと思われるが、実は彼の友人である須永と従妹の千代子の物語である。敬太郎はあくまでも須永の心持ちを観察し、聞いた話を語るだけの役割である。解説によるとこの手法は『猫』と同じ手法で、それが成功したものだから、今回もその手法を使っているのだという。猫が主人を観察することでその物語は成り立ったが、今回は敬太郎に猫の役目をさせ、須永を観察することで、須永の物語となる。

 この本も高校時代読んでいる。ただ当時はなんて言うのかな、世俗とは関係のない精神の尊さというか、そんなものに感動したのだけれど、今回は少々鼻持ちならないところを感じてしまう。
 当時私は普通の高校生だから、親抱えで、生活することに何ら心配のない時であった。だから生きることが今みたいにお金と直接結びつかずにいた。そのため人間の精神のあり方、あるいは葛藤だけが、ストレートに感動を呼んだのだろうと思える。しかし今は違う。敬太郎にしても、須永にしても、叔父の松本にしても、世間離れした生き方出来る人間の戯れ事のように思えてしまったのである。
 前期三部作にも「高等遊民」という言葉が出て来る。これは漱石の造語で、意味は大学を出ても職に就こうとはせず、職業のために心を汚し、あくせくしない、余裕ある時間を持つ人に対していう言葉だ。漱石はそうした恵まれた環境に育ち、何の心配もなく高等教育を受け、卒業しても、慌てて仕事を探さなくてもすむ人間の恋愛関係だけを取り上げる。だから気持だけであって、そこには生活するために“生きる”という姿が欠けている人達ばかりの話に感じてしまう。幸い『門』だけは生活の臭いがする分、救われるが、後は、余裕のある人間の物語にしか感じられないのである。
 やたら高慢で、うぬぼれの強さが至るところで見られる。自分は高等教育を受けてきて、人とは違うんだという視線で相手を見ているところがいたるところにある。そしてそうした教育を受けることだけがそれまでの人生だったから、生活する能力はないのだと平気で言えるのである。だからそれまであれこれ考えていたのに、話が現実的になると、尻込みしてしまうのだ。

 須永の母親は千代子を子供の頃から、須永の嫁に欲しいと言っていた。それは須永が自分の息子でなかったからだ。自分の生んだ息子じゃないからこそ、血縁関係を考えて、千代子を嫁に迎えたかったのであった。須永は母親のそうした意志のもとで、千代子と過ごしてきた。子供の頃からの幼なじみだったからこそ、自分が千代子を愛しているのかどうか判断できなかったし、自分が受けてきた高等教育や甘ちゃんで育ってきた自分を省みて次のように思う。

 僕は常に考えている。「純粋な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕は屹度その光の為に射竦められるに極まっている。それと同程度或いはより以上のの輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。

 千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年の行かない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指す事の出来る権力か財力をつかまなくっては男子ではないと考えている。単純な彼女は、たとい僕の所へ嫁に来ても、矢張そう云う働き振を僕から要求し、又要求さえすれば僕に出来るものとのみ思い詰めている。

 そんな煮え切らない須永に対して、千代子の縁談話が出てくると、今度は相手に嫉妬するのである。けれどその相手と競争して千代子を奪い取ろうと考えない。

 僕は断言する。若しその恋と同じ度合の激烈な競争を敢えてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄ててしまう積でいる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれ程切ない競争をしなければ吾有に出来にくい程、何方へ動いても好い女なら、それ程切ない競争に価しない女だとしか認められないのである。

 競争して勝った側の男につく女なら、そんな尻の軽い女なら、価値のある女には思えないと考えるのである。これって、どうよ、と言いたくなる。こういう自分勝手な考え方しかできないのが“高等遊民”なら、こいつら馬鹿かと言いたくなってくる。逆を言えば、これほど自分の都合よく物事を考えられるのはある意味うらやましい。さすが“高等遊民”である。ホンと頭でっかちとはこのことである。人間が生きるということは、もっとドロドロしているはずだと思うのだけれどね。
 しかしまったくの馬鹿じゃないようだ。須永は自分のこういう生き方が出来たのも、余裕がそうしてくれたことを、尊敬する叔父である松本の姿を見て思うのである。

 叔父は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥している。それを外に出さないのは、財産の御陰、年齢の御陰、学問と見識と修養の御陰である。

 あるいは今まで生きてきた姿がどこかおかしかったかも知れないと、小間使の作を見て思うのだった。ただその見方も、傲慢そのものなのだが、おかしいと思うだけでも多少救われるかもしれない。

 固より好い器量の女でも何でもなかった。けれど僕の前に出て畏こまる事より外に何も知っていない彼女の姿が、僕には如何に慎ましやかに如何に控目に、如何に女として憐れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分では既に生意気過ぎると思い定めた様子で、大人しく坐っていたのである。

 自分の腹は何故こう執濃い油絵の様に複雑なのだろうと呆れたからである。白状すると僕は高等教育受けた証拠として、今日まで自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところが何時かその働きに疲れていた。何の因果でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと情なかった。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。

 これが明治の知的階級の一般的な考えであったのだろうか。もっと自分の気持ちに素直になれば生きやすいんじゃないかと思うのだが・・・。知識がそれを邪魔するというなら、そんな知識など捨て去ればいいじゃんと思うのだけれど、そうしたらそれまで生きてきた証がなくなっちゃうから、そうもいかないのだろうか?
 それともそもそもそんな考え方さえ生まれないのかもしれない。高等教育は人間らしさや素直さをどこか否定してしまうところがあるのかもしれない。彼等の行動は頭の中で考えた行動しか出来ないところがあるし、そうであることが当たり前のような危うさがある。人間なんてそう簡単に割り切れるもんじゃないと思うのだけれど・・・。だから悶々とするでしょうが。まして人の気持ちなんて、どうなるかわかるものでもないはずだ。どうも私は生活感抜きで、物事を考えられない人間で、精神の高貴さだけを受け入れられない俗っぽいところがあるようだ。


評価
★★★


書誌
書名:彼岸過迄 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010113
出版社:新潮社 (1983/09 出版)新潮文庫
版型:328p / 16cm / 文庫判
販売価:459円(税込)

2009年11月05日

田山花袋著『東京震災記』

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 小沢信男さんの『東京骨灰紀行』の中にこの本の記述が引用されていた。それを読んだときこの本をあったはずだよなと思い、本棚を探し回ってみたら、確かにあった。この本も読んだという記憶はあるのだが、これもほとんど内容を覚えていない。ただこの本は持っていることは確信があった。
 というのも社会思想社が潰れたとき、当時お店にあった文庫を倒産に当たりすべて返品する時、面白そうな本を抜いて、買ったという記憶があるからだ。家の本棚には当期買った教養文庫が数冊ある。今ではきっと社会思想社の教養文庫といっても忘れられちゃっているんだろうなと思う。結構いい本を文庫本として出版していたんだけど、アドベンチャーゲームブックみたいなおかしな本を出すから潰れちゃったんじゃないかと思う。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』を出版した出版社だといえば多少思い出してくれる人もいるかもしれない。今では古本屋の均一本の中にこの現代教養文庫をよく見かける。

 さて、この本はあの田山花袋が関東大震災後自ら歩き、又は人から聞いたことをそのまま記したものであり、元は大正13年博文館から発行された『東京震災記』を全文収録したものである。
 とにかく、この地震はその大きさももちろんだけれど、やっぱり火災の恐ろしさをひしひしと感じる。ネットでもその惨劇状況を見ることが出来るので、見てもらいたい。

http://research.kahaku.go.jp/
rikou/namazu/03kanto/03kanto.html

 それを突切ってそのまま九段の坂の上へと行った。私はとにかくそこで地震以来焼けた区域の概念をつくることが出来た。私は一面焼野原で、目の及ぶ限り殆ど灰燼になっていないところのないのを見た。ニコライ堂の半ば焼け落ちているのも、駿河台から神保町にかけて処々に建物の残骸の聳えているのも、神田明神の焼けたあとの台地のガランとしているのも、何も彼もその火災のいかに烈しかったを語り尽くして余りあるのを見た。それはそこからでは、宮城の丘陵にかくれて、南の方面は見えていなかったけれども、京橋から銀座、東京駅あたりは見えなかったけれども、概して一面その惨害のほどを知ることが出来た。『全く廃墟だ!都会の廃墟だ!』私は思わずこう口に出して言った。

 焼野原になってしまっては、何処も彼処もすべて同じであった。賑かな通りも何もなかった。大きなデパアトメントストアも何もなかった。唯、ところところに、焼残った鉄筋の残骸が無気味に立っているだけで、その向こうは、東京湾の蒼波にまでずっとひろく続いているのであった。
 それはそう大して風の吹く日でもなかったけれど、それでも焼ぼこりがすさまじくあたりに漲って、ともすれば、眼も明いていられないような濛々とした光景となった。あまつさえ、街上には電信や電車の線が縦横に焼け落ちているので、注意しないと、すぐそれに引かかりそうになった。

 『被服廠にも行って見たかね?』
 『あそこはあそこで、えらいことだがね。とてもお話にも何もならないがね。大川の岸もひどかったんだよ。厩橋から両国橋の河岸は、死屍で満たされていたと言っても好いからね。何しろ、あの川の岸まで命カラガラ逃げて来ても、川があるのでどうすることも出来なかったんだからね。運良くそこらに繋いであった舟の上に逃げても、その舟までも焼かれてしまったんだからね。あれを見ると、実際、どうすることも出来なかったのがよくわかるよ』

 『まァ、あんなものわざわざ見て行かなくっても好いだろうに・・・・』ふとこういう女の声が私のすぐ向こうでしたので、ひょいと私は顔を上げて見た。私はびっくりした。そこには黒焦げになった人間の頭ろが、まるで炭団でも積み重ねたかのように際限なく重なり合っているではないか。『あ、これだな!これが被服廠だな!』突差の間にも私はこう思った。

 とにかく当時の記録として、実際に震災を経験し、その惨状を眼のあたりした人達の言葉は生々しい。そこには写真では感じられないものがあるように思える。どうしようもない状況下で、ただただ逃げる。しかしその後の惨状を見れば半ば諦めの境地というか、そうなるべくしてそうなっただけのことだと、思うしかないのは、ある意味むなしい。

 それは人間は大切だ。それは言うも待たないことである。しかし、自然というものの大きな眼から見れば、人間も亦一つの生きたものである。火が来れば焼け、水が来れば溺れるのは、それはきまり切ったことである。それに対して自然は全く無関心である。従って被服廠跡の悲惨な光景も、自然に取っては何でもないのである。唯、焼けるものがあったから焼けただけのことである。

 何もかも壊れ、火災に遭い焼け果てたところに、地震でびくともしないものもあった。そこから田山花袋は世界に冠たる都市、東京の復興を思い巡る。

 私は丸の内ビルデングから東京駅の方へと行った。そこには依然としてもとの東京駅であった。びくともしなかった。壁すら一つ落ちていないようだった。私は一種の勇ましさを感ぜずにはいられなかった。《矢張本当に力を入れたものか、どうかということは、こういう非常の時にわかるんだ。本ものはびくともしないんだ。》こう私は口に出して言った。私はじっとして立ってそれを眺めた。
 私はつづいてこのあたりが、大東京の中心になる時代のことを頭に浮べた。この大破壊の結果として、今度こそは本当にこのあたりが立派なものになって行くのであろう。一方は日本橋に、一方は京橋に、更に他の一方は銀座へと接続して行くようになるだろう。その時こそ、始めて、外国の都会と比べて決して恥ずかしくないような都会の中心が出来るだろう。それこそ全く純粋な東京-江戸趣味などの少しも雑っていない純粋な東京が蜃気楼のようになって此処にあらわれて来るだろう。そうすれば、この大破壊も決して徒為ではなかったと言えるだろう。

しかし・・・、

 震災当時は東京の復興ということがかなり力強く言説され、その具合では、まるで違った東京-ロンドン、パリ、ベルリンなどをも凌駕するに足りるような大きな立派な東京があらわれて来そうに思われたが、現に、新聞にそのおりおりに載せられた図面などで見ては、こういう風に出来上れば、一国の首部として東京も立派なものだなど思われたが、次第にそうした計画は小さくなって、今では復興ということより復旧ということに重きを置かれるようになったので、以前の東京とはそう大して違わない東京が出来上って来そうになって来た。これは残念なことだった。

 思わず、「だろうな」と思った。日本人は大きな花火を上げるのは得意なのだけれど、いざ実行に移す段階で、利害関係などがからみ合い、当初の計画が尻つぼみになるは、昔も今も変わらない。おまけに、出歯亀根性丸出しの国民性がむくむくと頭をもたげて、あの悲惨な被服廠が観光地になっちゃところは、情けないものだ。話のネタとして行ってみないといけないということになってしまうのだ。田山花袋は次のように書いている。

 あの時から二十日乃至一ヶ月経った頃には、被服廠から、厩橋、吾妻橋の川に添ったあたり、サッポロビイルの横、枕橋附近、すべてあのトタン板を上に蔽って、ブスブスと死屍を焼く煙があたりに漲って、何とも形容の出来ない悪臭がそこを通る人に鼻を蔽わせたが、四十九日経った頃には、それがすっかり骨となって、被服廠では大きな礼拝堂が出来、花を売る人達が集り、一種東京の新名所というような形になった。一度は行って見なければ話の種にならないと言って、後には誰も彼も出かけた。初めはお前達が焼跡になんか行ったらそれこそどんな眼に逢わされるか知れないと言われた女子供まで出かけた。お詣りに行くとか、お線香を上げに行くとか言うのは、表面の理由で、皆なそれを見物に出かけたのであった。

 この年、いつもなら釣れない時期でも、ボラがいつまでも釣れたという。

 『どうも、矢張、その故じゃないでしょうかね?今年は餌が海の中に沢山あるので、それでいつまでも残っているのではないでしょうかね?』

 逃げ遅れ、川で溺死した人々の遺体がボラの餌となり、その数があまりにも多いものだから、ボラも本来深いところにもぐるどころじゃなくなるというのは、結構恐ろしい。それを思うと誰しも大漁を素直に喜べなかったという。


評価
★★★


書誌
書名:東京震災記
著者:田山 花袋
ISBN:9784390113960
出版社:社会思想社 (1991/08/30 出版)現代教養文庫
版型:288p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年10月23日

本多孝好著『真夜中の五分前』〈side‐A〉〈side‐B〉

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 続いて本多さんの本を読む。実はこの本単行本で以前読んでいる。この本を読んだのは、まだ岩本町に当社の本屋があったときであった。お店の手伝いをしていて、この本が結構売れていたので、どんなものなのか興味を持って読んだのだ。その時は今風の若者を描いた物語なんだなというくらいしか思わなかった。今回本多さんの書かれる本に引かれるようになって、改めて読み直してみた。そして変な表現だけど、ちょと淡々とした悲しみに酔いしれてしまった。妙に自分の気持ちに素直になれない僕がいとおしくなってしまった。倦怠感の中で失った悲しみを引きずるといった流れが、物語自体どうってこともないのに、“こういうのって、あるよなぁ”と思わせる。

 主人公の僕は大学時代、秋月水穂と付き合っていた。水穂は僕の部屋にある目覚まし時計を五分遅らせた。

 「普通、目覚まし時計って、進ませるんじゃないか?起きて、時間を見たときにちょっと慌てられるように」

 「時計は全部、五分遅らせることにしているの」

 「だって、人より、ちょっと得した気にならない?あら、あなたもう十時なの?私はまだ九時五十五分よって」

 「いい考えだ」「三十分遅らせよう。それなら時間通りに着く」

 「三十分は駄目よ」「三十分遅らせたら、世界に追いつけなくなるわよ。五分くらいがちょうどいいの」

 僕は水穂を交通事故で失った。水穂が亡くなったことはショックであったが、何故かそれがそのとき、それが悲しと感じられなかったし、もちろん泣けなかった。
 それでも僕は社会人となる。ある時近所の公営プールでかすみと知りあう。僕はそれまで付き合っていた原祥子と別れたばかりであった。原祥子は僕に「そう。狂ってるのよ。あなたの部屋にある目覚まし時計と同じ。ほんの五分くらいだけどね。ちょっとだけ、でもきっちりと狂っている。二人でいるときは気づかない。五分先にある本当の時間より心地いいくらい。でも私は、五分先の世界の住人で、五分遅れたあなたの世界では暮らせない」といって離れていった。
 かすみは僕に妹の結婚祝いのプレゼント見つくろってくれと頼んでくる。妹のあかりと双子であり、同じ遺伝子を持つものだから、お互い何を考え、どのように行動するか、すべてわかってしまう。それがしゃくなものだから、あかりには想像のつかないプレゼント僕に選ばせ、驚かそうとしたのであった。
 実はかすみはその妹の旦那となる男に恋をしていたのであった。その思いを断ち切るためにかすみは僕とつきあい始める。僕も普段クールにしているが、どこかで水穂のことを引きずっていた。その証拠に今でも部屋にある目覚まし時計は五分遅れたままだ。
 僕のいる会社は社内抗争みたいなものがあり、上司の小金井さんが取締役に就くという人事の噂が流れる。普段はバリバリのやり手の女上司である小金井さんが以後、ぼーっと過ごす姿を見かけるようになる。詳しく聞いてみると、十年間も自分を目の敵にしている同僚に恋しているというのであった。一方かすみは同じ遺伝子を持った妹の恋人に恋している三年間を過ごしてきた。僕のまわりに来る女性は、いったい何なんだと眩暈を通り越してげっぷが出そうだった。ここで〈side‐A〉がいったん終わる。

 〈side‐B〉では、僕は今までいた会社を去る。小金井さんも同じ会社を辞めていた。テレビでスペインで電車事故があったというニュースが流れる。スペインにはかすみと妹のあかりがちょうど旅をしていた。まさかと思ったが、かすみは事故に巻き込まれ死に、あかりは旦那の元へ帰っていた。しかしあかりの旦那である尾崎さんは帰ってきたのはあかりではなく、かすみではないかと疑い始める。それを僕のところへ相談を持ちかけられたとき、かすみが生きている。そして好きだった妹の夫の元で暮らしている、と思った。顔やスタイルの見分けの付かないほど似ていて、同じ遺伝子を持っているためか、考え方や感じ方も同じ。そして二人は仲のいい姉妹だったから、何でもお互いのこと話し合ってきた。だからかすみがあかねとすり替わっても、出来ない話ではない。
 あかねなのか。それともかすみなのか。尾崎さんは疑心暗鬼にとらわれ、あかねの元を去って行く。あかねも自分が事故のためか自分があかねなのか、それともかすみなのかわからない状態になっていた。

 ある時元上司の小金井さんと偶然会う。小金井さんは僕がプロデュースした店に行ったことを伝え、もし自分がまだ上司なら合格点を出しただろうけど、個人的には二度と行きたくない店だと言い、「君、少し休みなさい」とも言われる。僕はある意味“壁”にぶつかっていた。だから小金井さんの提案を受け入れ、三日間休みことにする。土日をはさんで五日間休むのだが、これといって何する訳でもない。ふと学生時代水穂と一緒に行った喫茶店へ行きたくなり、そこでマスターと水穂のことを話した。そして感じたのである。
 秋月水穂。それは確かにいたはずの人にもかかわらず、確かにそこで僕の前に座っていた人にかかわらず、ひどく現実感のない存在になっていた。今という地点から連続する時間を遡っても、その人には辿り着かないように思えた。

 水穂の法事に行けなかったことを思い出し、すぐ水穂の墓参りする。そして僕は初めて泣いた。水穂を失ったこと。かすみを失ったことで。二人を愛していたことを。初め二人をそれぞれ失った時は、確かにショックであったけれど、それは涙を流すほどの悲しみとはならなかった。しかし、この時初めて二人を失ったことに涙を流したのであった。二人を失った直後はそのことのショックが大きくて、茫然自失とでもいうのか、何をしていいのかわからない状態だった。
 その後立ち直るべく、忙しい中に自分を放り込んで、その喪失感から逃れて生きていくと、本当の自分を見失うことになるのかもしれない。人はちゃんと手続きを経て、泣くときは泣き、笑うときは笑うという作業をしないと、真っ当になれないのかもしれない。逆にその手続きを後に回せば、その分揺り返しがさらに大きくなり、かなりきつくなる。そんなことを感じると、ぐっと来てしまった。
 その後僕は遅れた五分間を水穂とかすみために使うことにするのである。

 僕は枕もとの目覚まし時計に目をやった。十一時五十五分。だったら世界はもう明日を迎えているのだろう。世界から取り残された五分が静かに僕を包んでいた。再び体を横たえ、僕は目を閉じた。完全に閉ざされた闇の中で、かすみのことを思い、水穂のことを思った。一日のたった二百八十八分の一くらい、そんな風に使っても許されるだろう。

 僕は今でも最後の五分間だけ、かすみのことを思う。水穂のことを思う。そのとき、そこにいた自分のことを思う。その時間は、僕の胸に静けさと穏やかさを運んでくれる。一日の二百八十八分の一だけ、僕はその静けさと穏やかさの中でじっと身をひそめ、自分の中から湧き上がってくるものにそっと身をゆだねる。僕はこれからも色いろなものを失っていくだろう。けれど、僕はそれらを一日の小さなかけらの中に集め続けるだろう。小さなかけらはやがて結晶となって、僕を形作ってくれるだろう。そんな気がしている。そして残りの二百八十七は、今の僕のために使い、今の僕が愛する人のために使っている。

 失ったことの悲しみを忘れたがために、それをわざと遅らせた五分を使って、それを思い出すという考え方がものすごくすてきに思えた。


評価
★★★


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐A〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322513
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:227p / 15cm / A6判
販売価:420円(税込)


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐B〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322520
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:89p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込

2009年10月14日

夏目漱石著『門』

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 さて、漱石の前期三部作の最後となった。前回の『それから』では、友人関係と親子関係を失い、社会的制裁を受けてまでも代助が友人平岡からその妻である三千代を奪うところで終わった。
 そして今度は主人公を変えて、代助が宗助となり、三千代が御米となって、半ば世間から隠れた夫婦生活からこの物語は始まる。つまり野中宗助は安井の妻であった御米を奪った。そして二人は夫婦となったが、その瞬間から「彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。学校から無論棄てられた」のであった。
 「宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。一所になってから今日まで六年程の長い月日をまだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試は猶なかった。二人は呉服屋で反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つ所の極めて少ない人間であった。彼等は、日常の必需品を供給する以上の意味に於いて、社会の存在を殆ど認めていなかった。彼等に取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼等にはまた充分であった。彼等は山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた」のであった。
 人の女房を奪った男と、夫を裏切った女は、世間の目から隠れてひっそりと暮らすしかなかった。彼らの負い目がそうさせた。だから「二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影は殆ど射さない様に見えた。彼等は余り多く過去を語らなかった」

「その内には又きっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」

「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」

 その上に御米の三度の流産でさえ、特に御米は自分たちが犯した罪のせいだと考えるようになった。

 彼女は三度の胎児を失った時、夫からその折りの模様を聞いて、如何にも自分が残酷な母であるかの如く感じた。自分が手を下した覚えがないにせよ、考え様によっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇と明海の途中に待ち受けて、これを絞殺したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己を見なさない訳には行かなかった。そうして思わざる徳義上の呵責を人知れず受けた。

 御米は子供がなかなか授からない不安から易者に占ってもらえば、「貴方には子供は出来ません」、「貴方は人に対して済まない事をした覚えがある。その罪が祟っているから、子供は決して育たない」と言われるのである。

 『それから』にしてもこの『門』にしても、こうも厄介な人間関係を求め、そのためそれまであったすべてを失うことになっても、好きな女性といっしょになるというのが、どうもよく分からない。それは私の中に面倒なことを避ける性質や打算的な考えから、そう思うのかもしれないが、ここまでして三角関係にならなきゃならない強い求めが、そうあるのだろうかと思うのだ。まぁそれだけ純粋と言ってしまえばそうなのだろうけど、その純粋な気持ちを維持すればするほど、その後はただ不幸になるということのような気がするのである。
 幸せというのは精神的つながりだけで求められるものなのかとさえ思う。関係が成ったときは、所謂成就感で一杯にも成るかもしれないが、結局それに払う代償はその後永遠に続くことになる。いつも不安に怯え、後ろめたさを持ちながら生きていくことが、どこが幸せなのかと思うのだ。その不安や後ろめたさは、二人の関係を解消したって、多分一生当の本人たちに残るであろうから、結局一度そういう関係になってしまったら、その後は、この本の解説にあるように「この日常には、希望もないが絶望もない。激しいものは何もない。彼らには過去がある。時間がそれを癒やすこともないが、かといってそれが劇的におそいかかってくるわけでもない。結局なしくずしのまま老いていくような予感がこの作品にはある」のである。
 そう、一時は激しく燃え上がり、求めあったとしても、その過程に問題があれば、いや世間が認めなければ、如何に自分たちの気持ちが純粋であっても、その後にはそれに対する負い目を背負いながら生きていくしかないのである。ラブストーリーだけでは生きてはいけない。結果そのまま老いていき、死ぬしかないのである。
 やりきれないのは、そうした負い目から救いを求め、もがくことなのだ。宗助が御米の元夫である安井の影に怯え、禅寺に入っても、何も得られなかったように「自分は門を開けて貰いに来た。けれど門番は扉の向側にいて、敲いても遂に顔さえ出してくれなかった」し、「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」のであった。


評価
★★★


書誌
書名:門 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010069
出版社:新潮社 (2002/11 出版)新潮文庫
版型:311p / 16cm / 文庫判
販売価:380円(税込)

2009年10月11日

夏目漱石著『それから』

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 長井代助と平岡は中学時代から友人であった。特に学校を卒業してから兄弟のように親しくしていた。その後平岡は三千代と結婚し、勤めていた銀行の地方勤務となった。しばらくの間代助宛に平岡から便りがあったが、そのうち間隔をおくようになり、最後は来なくなる。そして平岡は銀行を辞めて、夫婦で東京に戻ってくる。。
 当然平岡は生活のために仕事を探しまわる。仕事が決まるまで、三千代は代助にお金を工面してもらうこともあったが、平岡は新聞記者の職につく。しかし平岡は家に帰るのも遅くなり、三千代にかまうことさえしなくなる。いやもう東京に戻るって来るまでに、平岡と三千代の関係は冷め切っていた。

 代助は椅子に腰を掛けたまま、新しく二度の世帯を東京に持つ、夫婦の未来を考えた。平岡は三年前新橋で分かれた時とは、もう大分変わっている。彼の経歴は処世の梯子段を一二段で踏み外したと同じ事である。まだ高い所へ上っていなかっただけが、幸いと云えば云う様なものの、世間の眼に映ずる程、身体に打撲を受けていないのみで、その精神状態には既に狂いが出来ている。始めて逢った時、代助はすぐにそう思った。

 もともと代助は行動するに当たり哲学的に物事を考えて行動するタイプであったが、こと三千代に関しては感情的にならざるを得ず、落ち着いていられない。平岡夫婦の関係、三千代の健康状態が、精神状態が不安で仕方がなくなってくる。無頓着でいられなくなる。しかし代助は最初は穏便な方法で平岡と対峙する。

「不断は今頃もう家に帰っているんだろう。この間僕が訪ねた時は大分遅かった様だが」

「まあ帰ったり、帰らなかったりだ。職業がこう云う不規則な性質だから、仕方がないさ」

「三千代さんは淋しいだろう」

「なに大丈夫だ。彼奴も大分変ったからね」

「そんな事が、あろう筈がない。いくら、変ったって、そりゃ唯年を取っただけの変化だ。なるべく帰って三千代さんに安慰を与えて遣れ」

「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金も要る。従って家の経済も旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなるだけじゃないか」

「家庭か。家庭もあまり下さったものじゃない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」

この言葉を聞いたとき、代助は平岡が悪くなった。あからさまに自分の腹の中を云うと、そんなに家庭が嫌なら、嫌でよし、その代わり細君を獲っちまうぞと判然知らせかった。

 しかし代助には本心が言えなかった。その分なんのために平岡に会ったのかさえ、このときの会談が偽善と思うようになる。もっと本音で平岡と対したかった。「もし思い切って、三千代を引合に出して、自分の考え通りを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと強い事が云えた。もっと平岡を動揺る事が出来た。もっと彼の肺腑に入る事が出来た。に違いない。その代わり遣り損なえば、三千代に迷惑がかかって来る。平岡と喧嘩になる。かもしれない。
 代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を取って、平岡に接していた事を腑甲斐なく思った」のであった。

 代助がなまじ自分自身を知識人たるべきであるべきであるという生きざまが、結局そのような曖昧な態度を取らざるを得なかったのだ。だから「代助は昔の人が、頭脳の不明瞭な所から、実は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の為と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、その結果遂に相手を、自分の思う通りに動かし得たのを羨ましく思った」にであった。
 しかし「彼は自分と三千代との関係を、直線的にに自然の命ずる通り発展させるか、又は全然その反対に出でて、何も知らぬ昔に返るか。何方かにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた」。
 でも三千代との関係を得ることは自らを社会的危険に陥れることでもあった。いくら三千代が同意しても、友人の妻を奪うことの道義的責任が伴う。社会的制裁を受けることになる。もちろん平岡との友人関係は消滅する。
 さらに代助は生活の糧も失うことにもなる。何故なら代助は父親の援助で生活をしてきた。だから定職も付かずに思索家として過ごせた。ところが父親の事業による政略結婚の話が代助に持ち上がっていた。それを断って三千代を選べば、父を裏切ることとなり、必然的に生活の糧を失うこととなる。代助は考えあぐねた末、それでも三千代に自分の思いを伝えることを決意する。「今日は始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言う。

 「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」

 「僕はそれを貴方に承知して貰いたいのです。承知して下さい」

 「余りだわ」という声が手帛の中で聞こえた。

 「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」

 「僕が悪い。堪忍して下さい」

 「残酷だわ」と云った。

 「いや僕は貴方に何処までも復讐して貰いたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、貴方を呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されている一部分としか思いやしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はそう生まれて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、それで沢山なんです。これ程嬉しい事はないと思っているんです」
 
 「仕様がない。覚悟を極めましょう」

 次に代助は平岡と対峙する。しかし平岡はなかなか代助と会おうとはしない。三千代の病気が悪化し、看病をしていたという。代助は三千代に対する自分の気持ちを正直に伝え、三千代も自分と同じであることを伝える。平岡は今三千代の症状が良くないので、回復したら三千代を渡すから、それまでは三千代に会わないでくれと言い、代助も同意する。
 ところが代助は三千代の病気の状態が良いのか悪いのかわからない。もし悪いのであればと思うと、いてもたってもいられない。そのうち代助は三千代の症状がかなり悪く、平岡は代助に三千代を会わせるときは、遺体となった三千代を会わせるのじゃないかと思うようになり、恐怖に戦く。
 そんなところに代助の兄が平岡の書いた代助の父宛の手紙を持ってきた。そこには代助が自分の妻を奪っていった顛末が書かれており、それを読んだ父親は、さらに激怒し、勘当同然を言い渡す。代助の恋はかなり高い代償を払わされて、この物語は終わる。

 この物語も明治の知識人が自らのプライドがなかなか素直な自分を受けいれることを許さないところがミソで、もう少し最初から素直な気持ちで代助が三千代に接していれば、こんなことにならなかった。自分の三千代へ恋心と平岡との友情を天秤にかけて、友情の方に傾いてしまう。いや無理にでも傾けさせたところから、代助の悲劇は始まったのだ。
 本来人が持っている恋心をストレートに表現することを明治の知識人はそれこそ下等な人間、無教養な人間のすることだと考えたのかもしれない。多くの知識は理性として、そうした人間の感情をコントロールするもので、それが出来て知識人だと考えたのかもしれない。もちろんあからさまに、そうした感情を、言えることが人間的かといえば、そうじゃないだろうけど、でも感情と知識はまったく別物だと考えたい。あれこれ考えすぎるものだから、結果まどろっこしくてかなわない。頭でかっちもいいところで、読んでいてもうちょっと自分に忠実で、素直な気持ちで接すればいいのにと思っちゃう。まぁそれだけ明治の知識人は、哲学的であったのかもしれないし、その分格調は高かったということなのだろう。でなければこんなことは考えまい。

第一、日本程借金を拵えて、貧乏震いしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そり外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方向に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何処を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。

 これは漱石の有名な明治批評と何かで読んだことがある。このように当時の風潮を代助は批判しているのだが、言っていることはまさに自分のことじゃないかと思えてくるのである。そしてある程度代助はこれらが自分に当てはまると考えてはいるものの、それでもどこか違うと言っているかにとれる。それが三千代との関係を複雑にしたのに。


評価
★★★


書誌
書名:それから (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010052
出版社:新潮社 (1992/05 出版)新潮文庫
版型:302p / 16cm / 文庫判
販売価:420円(税込)

2009年10月06日

夏目漱石著『三四郎』

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 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の第一巻のあとがきに次のような言葉がある。

 このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家達の物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほど楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

 ある意味この『三四郎』の主人公である小川三四郎にも同様な夢が見られる。ただしきわめて俗っぽい夢なのだが・・・。

 三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂明治十五年以前の香がする。凡てが平穏である代わりに凡てが寝坊気でいる。尤も帰るに世話はいらない。戻ろうとすれば、すぐ戻れる。ただいざとならない以上戻る気がしない。云わば立退場の様なものである。三四郎は脱ぎ捨てた過去を、この立退場の中に封じ込めた。
 第二世界のうちには、苔の生えた煉瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向こうの人の顔がよく分からない程に広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手擦れ、指の垢、で黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積った塵がある。この塵は二三十年かかって漸く積もった貴い塵である。静かな月日に打ち勝つ程の静かな塵である。
 第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしている。あるものは空を見て歩いている。あるものは俯向いて歩いている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を通天に呼吸して憚らない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅(この世。現世。娑婆(しやば)。 ▽煩悩(ぼんのう)に悩まされることを、火事になった家にたとえる)を逃れるから幸いである。
 第三の世界は燦として春の如く盪いている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つ三鞭(シャンパン)の盃がある。そうして凡ての上の冠として美しい女性がある。

 つまり第一の世界は熊本時代の三四郎であり、第二の世界は広田先生や野々宮がいる世界である。浮世離れしてひたすら学究肌の人たちが住む世界のことをいうのであろう。そして第三の世界は三四郎にとってもっとも心のから望んでいる世界で、そこに入り込むためにわざわざ熊本から出てきたのだ。だから自分がこの世界の主人公であるべき資格を有していると思っている。そしてそこに一緒にいる女性が美禰子でなければならない。
 この物語はそういう世界での話である。しかしいわゆる立身出世の話ではなく、むしろ第三の世界に入ることを望んではいるけれど、三四郎にはまだそうした資格がないことに悩むわけである。特に美禰子の気をなんとか引きたいと思っていても、「自分と野々宮を比較してみると大分段が違う。自分は田舎から出て大学へ這入ったばかりである。学問という学問もなければ、見識と云う見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である」と田舎から出てきたばかりの自分を卑下してしまう。だから美禰子から馬鹿にされている様でもあると思ってしまう。三四郎は美禰子との格の差を感じてしまうわけである。それは与次郎の言うことに何も言えない三四郎の姿からも読み取れる。与次郎は次のように言う。

 「馬鹿だなあ、あんな女を思って。思ったって仕方がないよ。第一、君と同年位じゃないか。同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ」

 「何故と云うに。二十前後の同じ年の男女を並べてみろ。女の方が万事上手だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね。尤も自分が世界で一番偉いと思っている女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らす外に方法がないんだから。よく金持ちの娘うあ何かにそんなのがあるじゃないか。望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃ不可ない。そう云う点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」

 美禰子にはそれほど気位があるわけじゃないだろうと思いたい。むしろまわりにいる男どもがそういう目で彼女を見てしまうところが彼女の不幸なのかもしれないと思う。ただたとえ美禰子が三四郎に気持を寄せているにせよ、女性特有の“からかい”の部分があるような気がする。それは彼女の性格なのかもしれないし、あるいは気になる男の気を引こうとしてのいたずら心からかもしれない。 いずれにしてもこの時代の男女関係は、惚れたはれただけで成り立つものじゃなかった。特に三四郎のような成り上がり的な考えを持つ人間にとってはそうなんだろう。まして田舎者というコンプレックスの塊のような三四郎にとっては美禰子に恋心を持ったのが早すぎたのだ。もう少し三四郎が出世して成功者でもなっていれば、こんな負い目など持たなくてすんだのかもしれない。ただ思うに三四郎みたいな考えの持ち主になると、そうなればなったで、今度はきっと人を見下すようになるのではないかと思ったりする。
 そんなことを予感させるものだから、この物語を単に人を愛するというだけでなく、俗物的な立場がものをいう世界の恋愛物語と受け取ってしまう。ここに描かれる世界は恋愛成就と出世が結びついている感じがしてしまい、それがどこかやりきれないのである。
 たまたまこの物語では三四郎が置かれている立場が、これからという立場であって、その時に美禰子に恋心を持ってしまったから、どうにも出来ないだけのことである。美禰子も三四郎に恋心を寄せるにしても、結局二人に間には何もないからといって、それが淡い恋心を描いた青春小説とは読めないのである。
 私はこの物語をこれで三度読んだことになるが、漱石の作品の中では嫌いな小説だ。私は物語に精神的な崇高さをどこか求めているのかもしれない。いい歳こいてまだまだ私は青臭い。いかんなと思った次第である。


評価
★★


書誌
書名:三四郎 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010045
出版社:新潮社 (1992/05 出版)新潮文庫
版型:298p / 16cm / 文庫判
販売価:340円(税込)

2009年09月21日

村上春樹著『ノルウェイの森』〈上〉〈下〉

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 書泉にこの本のポスターが貼ってあった。なんで今頃この本のポスターが貼られているのだろうとふと思う。確かに村上さんに最新刊が大きな話題になっているから、それも関係あるのかなと思ったが、よく見ると『ノルウェイの森』がその発行部数が1,000万部突破したことが書かれている。なるほどこれかと思った。
 そのポスターを見たからじゃないのだけれど、もう一度村上さんの作品を読み直してもいいかなと思っていたので、手始めにこの本を手にしたわけだ。私の持っている本は1988年8月17日の第20刷のものなのだが、久しぶりに手に取ってみると、古本の風格を帯びている。もうこれを読んで21年たったのかと、月日の流れが速いことを感じてしまう。
 この頃私はわずか10坪ほどの店の店長だった。私が持っている本は発売されて1年たった時の本なのだが、この時でもまだこの本は売れていて、仕入をしてもすぐ売れてしまい、仕入をするのに苦労していた。わずか10坪の本屋など問屋はまともに対応してくれないものだから、この本の配本なんかなかった。だからせっせと現金をもって神田村で仕入をしていた。ちょうどこの頃コミックの『東京ラブストーリー』もテレビドラマの影響もあって、それも売れていて、一緒に仕入をし、並べて売っていたはずだ。
 私は村上さんのこの本がどうしてこう長く売れ続けるのか知りたかったから、自分でも買って読んだ。ただ、今になるとそれほど本の内容が記憶にない。だから読み返すにはちょうどいいかもしれない。
 それで話はちょっと話は横道にそれるのだけれど、私の持っているこの本は上巻が赤、下巻が緑の一色で装丁され、帯が金色である。今の版もそうなのかどうか知らないが、これはクリスマスプレゼントにもってこいの装丁だ。実際当時クリスマスの時期にプレゼントにどうぞ!というのが講談社当たりから言われていたような気がする。(しかし恋人にあげて、盛り上がる本じゃないような気がするが・・・)
 ところで今回この本を再読するに当たり、そのままスキャンしたのだが、この金の帯が真っ黒になってしまうのである。そうか金色はうまくスキャンできないんだと知った。仕方がないので、私の趣旨から反するのだが、帯を取っスキャンする。

 さて、ワタナベが高校二年時の友人でキズキという仲のいい友人がいて、直子はキズキの幼友達であり、恋人であった。三人でうまく付き合っていくには一見バランスが悪そうなのだけれど、不思議なもので結局三人でいる方がうまくいく。こういうのってこの時期よくあるパターンだ。
 そして十七歳の五月の夜にキズキは自殺した。そして残されたワタナベと直子は人生の歪みに直面していく。とりあえずワタナベはその歪みを客観的に捉えながら生きていくが、直子はキズキの自殺の前に、姉の自殺を経験しているため、ワタナベより深刻な精神的に不安定に陥る。ワタナベは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と思うようになり、死というものが自分の人生に既に含まれてしまっているものだから、キズキの死を努力して忘れようとしても忘れ去れるものじゃないという境地になる。十七歳の時からそう考えなきゃならなくなったことは、これはかなりきつい。そこから自分の人生で失ってきた、あるいはこれから失っていくであろう多くのものを考え、そして後戻りできない事実に直面するとなると、嫌が上でも自分の人生に歪みが生じてくる。特に感受性の高いこの時期に友人の死は、間違いなく残された人に歪みを植え付けていくか、自覚させるだろう。そしてそうした歪みって、かなり怖い。それを感じるだけで、うまくうっちゃれればそれでいいのだが、もろ直面してしまうと、ただただ怖ろしいものではないだろうか。この小説はそうした歪みにどう対処していけるのか、ワタナベと直子の物語である。

 昔、たぶん中学生の頃だったと思うが、私はいつも感じていたことがあった。それは頭の中に一本の道みたいなものがあり、いつも自分はちゃんとこの道の上を歩いているだろうかと確認するのである。なんて言えばいいのか、よくわからないけど、それは私が進むべき清く正しい人生行路みたいなものだったような気がする。ときにちょっとした挫折(といっても大したことじゃなく、ほとんど失敗みたいなものだった)をすると、その道から外れた位置に自分はいると感じ、怖ろしくなったのである。何とか軌道修正してその道に戻らなければと焦った。そして今思うのだけれど、その道を外れていると感じたことはしょっちゅうで、些細なことでいつも不安に駆られていたような気がする。
 何でこんなくだらないことを書くかといえば、この本にある歪みって、たぶん私が当時感じていた不安や不安定感ともしかしたら似ているような気がしたのである。つまり私の頭の中にあった一本の道から自分がそれることは自分が歪んでいく過程だったような気がするのだ。
 私の場合、こんなくだらない感覚なのだが、おそらく誰しも若い頃にはどういう形であれ自分の歪みみたいなものに不安を感じ、恐れたことがあるんじゃないかと思ったりする。だからこの小説は若い人にとって“通過儀礼”のような一冊となって支持されているのではないかと思うのだ。
 そして長いこと人生を過ごしてきてオヤジとなった自分が今この本を読んで、むしろそうした時代が自分にも確かにあって、懐かしく思える。けれど一方でそういうピュアな気持ちがいつまでも続く方がおかしいのであって、そんなこといつまであり得るわけがないじゃないと半ばバカにするようになったことをどう考えればいいのか。喜ぶべきなのか、悲しむべきことなのか。そういうのが人生だと、どこからか聞こえそうだけど、少なくとも私はそんな風にぶりたくない。むしろこの悲しい物語を通して、かつて自分が自覚していたであろう歪みに対する不安を懐かしむのである。
 もしこの小説が今の若者の通過儀礼となっているなら、その若者はこの物語をどう感じるのか知りたくもある。またもし私の若い頃にこの本が出版されていて、読んだらどうだったろうかと思ってみたりする。直子みたいに不安に駆られるのか。あるいはワタナベのようにそうした歪みに彼なりの抵抗に共感するのか。考えてみるが、よくわからない。あるいはここにある性的描写に興奮するだけかもしれない。
 とにかく今の私はかつては共感できる部分があったかもしれないが、今となってはすれっからしのオジサンになってしまっているためどうしたって青臭く感じてしまうところはある。だからどこか懐かしい感覚でこの物語を再読する。しかしそれでも結構いけていた。

 直子が入所した療養所のルームメイトであるレイコさんの言葉がまず心に残る。

 「十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたをすると、年をとってから辛いのよ」

 これって何となくわかる。やっぱり自分もそういう時期に妙な歪みかたをしたんじゃないかと思う。だからまだ諦めのつかないときは、もがいてきたような気がする。詳しく自分の歪みをここで書いても仕方がないことだから、これ以上は書かないけれど、確かにそういうことがあり、もがき苦しんできた。
 そしてたぶんそれは悲しんでいいことなのかもしれないけれど、諦めが歳と共に勝ち、歪みが当たり前となっている。かといってリセットして昔のようにもがき苦しむことを望むかと言えば、“もういい”と断るだろう。この歳になってももがき苦しむのはごめんだ。歪んでしまったものはもうしょうがない。
 直子もレイコさんと似たようなことを言っているのが印象的だった。

 「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきているのよ」

 直子の手紙も考えさせられる。

 「ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けいれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方にくせがあるように、感じ方や考え方や物の見方にもくせはあるし、それをなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです」

 「私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません」

 「ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たち『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています」

 私はふと思うことがある。その歪みって、誰に対して、あるいは何に対して、歪んでいるということになるのだろうか。何かの対象となるものがあって、それに順応できないところが歪みというのであろうか。
 しかしよく考えてみると、人それぞれ人生に受ける衝撃の強度は違うはずで、その対応もまちまちであろう。またどういう形であれ、その衝撃から立ち直れる人もいれば、いつまでもそれを引きずる人もいる。そうなのだ。決して人は画一的に見られるものじゃない。そういうさまざまなタイプの人が集まって、いわゆる社会というものを形成しているわけである。だったら本来そういったことを認めていいはずのものが、いつの間にか、いつまでも引きずっている人間を隔離していく。それこそ“病気”として称して。そしてそのレッテルを貼られた人は自家中毒を起こし、自らを歪んでいると思い始め、それが高じて精神をおかしくしていく。
 自分のことを人に言いたくても、さまざまな事情でうまく表現できないことを悩む人がいる。そしてうまく言えない人を病気にしてしまう人がいるのである。だから人はそれこそ一所懸命、埋もれそうになりながらも、自分を表現していくのである。
 でも世の中にはワタナベのように自ら苦しんできた過去から歪みを自覚しながら、「みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてイライラするんだ」と言える優しい人がいる。たとえその優しさが特定の個人対しての優しさであっても、そう言ってくれる人がいるだけでも、本来救われる。
 それに対して直子は「誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです」と書いている。ただ直子の人生の衝撃(姉の自殺、キズキの自殺)は、直子の性格を考えると、それに耐えうる以上のものであった。そして直子の自殺は、直子を助けようとして自らが強くなろうとしているワタナベに、追い打ちをかけることとなる。今度はワタナベが助けてもらう番となる。レイコさんや緑にである。それが読んでいてわかるものだから、この物語は救いがある。そういう意味でこの小説は読み直してよかったなと思った。ただワタナベ君ちょっとかっこよすぎるんじゃないのと思わないでもなかった。

 ところでこの小説を読み返してみて、なんだか一部どこかで読んだことがあるような気がしたのだ。確かにこれで二度目だから、当然そう感じてもおかしくないのだが、どこかに似たような村上さんの小説があったような気がしたのである。(最初読んだときはそんなことは思わなかったのだが)で、あとがきに短篇の『蛍』を肉付けしてこの小説が生まれと書かれていて、思わず“やっぱり”と思った。さっそく、手持ちの短編集を取り出して、読んでみた。そうかこの短篇がベースになっているんだと思いつつ、次はこの短編集を読み始める。


評価
★★★★


書誌
書名:ノルウェイの森〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035156
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:267p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)


書誌
書名:ノルウェイの森〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035163
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:260p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年09月09日

フレデリク・フォ-サイス著『オデッサ・ファイル』

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 何で今頃こんな古い本を引っ張り出すのだと言われそうだけれど、引っ張り出して読む理由が出てきたからだ。実は本棚を整理していたら、探していた切り抜きが見つかったからだ。それは二枚ある

「ユダヤ人強制収容所長ロシュマン パラグアイの病院で死ぬ」

 【ブエノスアイレス十一日=鈴木(俊)特派員】パラグアイの首都アスンシオンから伝えられたところによると、十一日付のアスンシオンの新聞「ABCカラー」は、第二次世界大戦中ナチスのユダヤ人強制収容所長として約四万人のユダヤ人を殺害したかどで追われているエドワルド・ロシュマン元ナチ親衛隊(六三)が十日、アスンシオンの施療病院で死亡したと報じた。ロシュマンは先月四日、アルゼンチンで逮捕されたと一部外電で報じられたが、これは誤報で、その後、西独政府の引き渡し要請を受けて、アルゼンチン司法当局からロシュマンに対する逮捕命令が出されていた。
 ABCカラー紙によると、ロシュマンとみられる人物は十日朝、医療費を支払えない患者を収容するアスンシオンの施療病院で心筋梗塞のために死亡した。この人物は七月二十日ごろ、パラグアイに入国、同二十六日からフェデリコ・ベルナルド・ウェゲネルの名で同病院に入院していたという。この名前はロシュマンが先にアルゼンチンに入国した際使用していた偽名として、アルゼンチン当局が確認しているが、同紙によると、この患者は同じ名前の運転免許証を持っていた。また同紙が病院で遺体を調べたところ、両足の指が合わせて五本欠けているなど、身体的特徴もロシュマンのそれと一致するという。
 ロシュマンはナチ占領下のリガ(現ソ連ラトビア共和国)のユダヤ人強制収容所長をつとめ、一九四一年から四三年までにユダヤ人約四万人を殺害したとされるナチス親衛隊将校。ベストセラーとなったフォーサイスの「オデッサ・ファイル」にも登場することでも有名。 昭和52年(1977年)8月12日 読売新聞夕刊
 

「ナチのロシュマン既に死亡」 パラグアイ

   【ブエノスアイレス十九日=UPI共同】国際刑事警察機構(ICPO)は、十九日、今月十日、パラグアイの病院で心臓発作のため死亡した男が、第二次世界大戦中にラトビア共和国のリガで行われたユダヤ人大量虐殺の責任者エドアルト・ロシュマン元ナチ親衛隊(SS)大尉だったことを確認した。同機構によると、死亡した男の指紋は、ロシュマンがアルゼンチンでの亡命中に使っていた変名のフェデリコ・ベグナーのものと一致することが判明した。 昭和52年(1977年)8月20日 読売新聞夕刊
 

 この本を読むのはこれで三度目となる。フォーサイスの著作はほとんど読んでいるが、私はこの『オデッサ・ファイル』が一番のできだと思っていた。しかし今回また読み直してみると、そうでもないのかなと感じてしまった。確かにストーリーテラーの本領発揮で、ぐいぐい引き込まれて、ページが進む。フィクションとノンフィクションの境目が見分けが付かないほどリアルで、臨場感たっぷりなのだが、どうも最後がいただけない。実は私はこれまでこの最後の場面が気に入っていたのだが、今回はやけに鼻につく。説教くさく感じてしまった。


閑話休題
 実はこの本、私が初めて本屋さんで注文して取り寄せた本であった。いきさつは、最初フォーサイスの代表作『ジャッカルの日』を銀座の映画館で見て、すぐ原作を買い求め、その後フォーサイスの本を読みたいと思った。そして当時錦糸町の駅ビルにあった栄松堂書店で探し求めたのだが、この本だけが棚になかった。店員に在庫を聞いたのだが、在庫切れだと言われ、そのまま店員のペースに巻き込まれて注文することになってしまったのだ。私は本を注文して取り寄せられることを当時全く知らなかったのだ(まだ私は書店員ではなかった)
 たぶん一週間が過ぎた頃だったと思うが、その書店からはがきが届く。本が入荷したという通知である。当時ははがきで入荷を知らせていたのである。それを持ってカウンターに来てくれというものであった。
 それから約22年たった現在は、ネットで注文してネットで入荷の知らせが届く。先日セブンアンドアイで雑誌のバックナンバーを注文した。ご存じかもしれないが、だいぶ以前に私はセブンアンドアイでひどい目にあい、以来絶対にここでは本は買わないと誓ったのだが、ついにその誓いを破ってしまった。というのも、雑誌一冊690円をアマゾンで買えば送料が発生するし、今のところ他に抱き合わせで買う本もなかったので、ちょっとここでは買えないなと考える。じゃあ書店で注文するかと考えてみたものの、なんか手続きが面倒に感じた。それに書店に雑誌を注文すると、時間が書籍より時間がかかると自分たちの時の経験から思っているので、それはちょっと困る。すぐ読みたかったのである。(もちろん今は私が書店員の頃より改善されているだろうから、雑誌でも入荷時間は短縮されていると思いたい)
 でやむにやまれずセブンアンドアイで雑誌を注文せざるを得なくなったわけである。そこには入荷には当日から2日と書かれている。これに釣られたわけである。ネットから細かい入力をして、雑誌を受けとる店を指定する。そして“お客様控”をプリントアウトすればバーコードの付いた控えが出てくる。
 そして入荷のメール届き、指定の店に行って、印刷した控えを見せる。店ではその控えにあるバーコードをレジで読み込み会計をする。確かに注文して2日で手元に届いた。
 注文の仕方、入荷の通知、そしてレジでのやりとり、すべて22年前と大きな違いがある。それをわずか22年でこうも変わるのかと考えるか、22年も経っているんだから、進歩して当たり前と考えるか、それぞれ違うだろうけど、私の場合“こうも変わるのか”と思う方である。だからその違いを感心して書くのである。
 さてそんな思い入れのある本をまた読みたくなり手にとって読んだ。例えば本棚の整理をしてたりすると、昔読んだ本は気にかかる。読んでみようかなと思い、読み始めるのだが、今回のように昔えらく感動した本だったのに、読み直してみると“そうでもないな”と思うことがある。
 これが問題なのだ。読み直したいと思うのは、その本が面白かった、あるいは感動したという記憶があるからだと思う。けれど読み返してみてそれほどでもないと思うと、いったい俺はこの本にどうして感動したんだろうと思うのだ。何か昔の思い出が壊される感じがする。もちろん最初に読んだ頃と今とではあらゆる面で違うわけだし、それなりに歳をとってきたせいで、ひねてきているから仕方がないのだろうけど、どこか寂しい感じがする。思い出は思い出として残っていた方がいいような気がするのである。
 そんなことがあるものだから、今昔読んで面白かった本を読み直したいと思う本が数冊あるのだが、さて読み直していいのかどうか、考えあぐんでいる。

 さて、本の話である。話は1963年11月22日ケネディ大統領暗殺のニュースから始まる。そしてこの日一人のユダヤ人が自殺した。ケネディの暗殺ニュースを聞いた後、ペーター・ミラーは偶然にそのユダヤ人自殺現場に遭遇する。そしてそのユダヤ人の日記を手にし、そこに記された文章からある重大な事実を見つける。
 自殺したユダヤ人の名前はサロモン・タウバーといい、リガのユダヤ人強制収容所にいた。サロモン・タウバーはそこで多くのユダヤ人である同胞が虐殺されるのを目撃したし、自分の妻も自らの手で毒ガス車に押し込んだ。そうするしかなかったのである。タウバーは自分が生き残るためには、ユダヤ人でありながら、ここに連れ込まれたユダヤ人を監視するカポとなり、辛うじて生き残った。
 しかし終戦後ある意味ユダヤ人を裏切った自分をタウバーは許せなかったので、ひっそりと暮らしていた。そんな時リガのユダヤ人強制収容所長であったエドワルド・ロシュマンを町で見かけたのである。
 ロッシュマンは、終戦二度も捕まるのだが、何とか逃げ出し、復興した西ドイツで事業に成功し、それなりの立場の人間となっていた。ロッシュマンを手助けしたのはオデッサ(Organization Der Ehemaligen SS-Angehorigenの略。「元SS隊員の組織」という意味)であった。終戦間際ナチス第三帝国は崩壊が近いと知ると、それまで略奪してきた潤沢な資金でSSの高級幹部を守る組織を作っていた。それがオデッサであった。オデッサは最初ナチスの殺人鬼たちの逃亡を手助けしたが、その後彼らを連合軍の占領下にあるドイツに戻し、新しいドイツ連邦の各社会層に再定着させ、社会的にも政治的にも力を持つようさせた。ロッシュマンもその一人であった。彼らは相変わらずドイツ民族の優秀性を説き、ユダヤ人を抹殺しなければならないという考えを捨てていなかった。
 当時西ドイツはアメリカのケネディの意向で武器をイスラエルに輸出していたが、当然政治的に力をつけた元ナチスの高級幹部にとっては面白くなく、さまざまな妨害をしていた。またエジプトは当時イスラエルと対立しており、オデッサの幹部はエジプトに武器に必要な科学技術を裏で提供していた。そんな時ケネディが暗殺されたのである。
 一方ペーター・ミラーはロッシュマンをどうしても探し出さなければならないと思い、戦後ナチ狩りをしているさまざまな機関に接触し、ロッシュマンの行方を探す。そしてイスラエルの諜報機関と接触し、元ナチスに化けてオデッサと接触を図る。しかしオデッサもミラーの動向を知り、ミラーを抹殺しようとする。このあたりが物語を白熱させる。
 物語の題名である「オデッサ・ファイル」とは元ナチスを逃亡させるために身分を偽るために偽造パスポートを作った印刷屋が、自分の身の保全のために残した記録である。それをミラーは手に入れ、ロッシュマンの居場所にたどり着く。
 ロッシュマンと対面したミラーは、ドイツ人であるミラーがナチ狩りをしていることが誤りであり、ここでもドイツ民族の優秀性を説き、ドイツが戦後復興したのもそうしたドイツ民族の優秀性からだという詭弁を語る。
 ミラーはサロモン・タウバーの日記に一部をロッシュマンに読ませる。そこにはロッシュマンが迫ってきたソ連から逃げだそうとしたとき、一陸軍大尉がロッシュマンの言うことを聞かず、雪の埠頭で射殺した情景が書かれていた。その一陸軍大尉がミラーの父親であった。ミラーがロッシュマンを追う理由がここにあった。

 この本は昭和49年(1974年)に日本が訳が出版されている。何が言いたいかと言うと、最初にあげた新聞の切り抜きが1977年のものだから、それ以前にフォーサイスはロッシュマンのの動向をよく知っていたことになる。例えばロッシュマンがリガからの逃亡で雪の中を逃げた。その時足の指が凍傷になり、切断していることもきちんと書いているし、ミラーやナチ狩りをする専門機関から逃亡するために、南アメリカに逃亡したことも書かれているし、その偽名もフェデリコ・ベグナーだったことも書いてある。そしてこの新聞の切り抜きにはそれが全部書いてある。私はフォーサイスの取材力に圧倒されるのである。そして取材した事実をうまく組み合わせ、この迫真の物語を作ったのだと思っている。


評価
★★★


書誌
書名:オデッサ・ファイル
著者:フレデリク・フォ-サイス 篠原慎訳
ISBN:9784047910331
出版社:角川書店 (1981/02 出版)
版型:374p / 20cm / B6判
販売価:入手不可。文庫有り

2009年08月31日

吉村昭著『七十五度目の長崎行き』

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 先日大学の友人と飲んだとき、どうしてそんな話になったのか忘れてしまったが、ワープロが文章を書けなくさせているかどうかの話になった。要するにワープロのお陰で、辞書は引かなくなるし、文章もいかにもワープロで書きましたという無個性の文章しか書けなくしているというのである。かたくるしい文章で、普段絶対に使わない漢字がやたら並んでいる。それは誰でもワープロで簡単に文章が美しく書けるようにと、ワープロ自身が余計なお節介だと言えるほどの機能があって、それを使えばそれなりの文章が書けてしまうからだというのが、三人のうち一人の意見であった。そして私ともう一人がそうじゃないという意見である。(こいつと意見が合うのは珍しいのだが)
 確かにワープロはお節介の押し売りのような機能がたくさんあって、自分で文章を考えなくても、アシスト機能が満載されているので、ある程度の文章は書けてしまう。また辞書も引かずにすむ。でも、最終的に自分の書いた文章を確定し、enterキーを押すのは当の本人である。これでいいと押すわけで、その決定権は文章を書いた人物にある。ということは、たとえワープロにアシストされた文章でもそれで良ければそれが当の本人の文章となる。それが悪文かどうかはワープロの機能のせいではなく、書いた本人の資質が大きな影響が大きな作用すると思う。だから基本的にワープロがいい文章を書かせないとは絶対に言い切れないはずだ。
 ではワープロ任せの文章ではなく、あくまでもワープロを文章を書く道具として使い、読んでいて心地よいいい文章が少しでも書けるかどうかは、その人がいかにいい文章にふれあっているかどうかにかかっていると考える。つまりある程度文章を書く人は、他の人の文章にどれだけ多く接しているかにかかっている。そこで読んでいていい文章だなと感じれば、あるいは自分もこうした文章が書きたいなと思えばその人の文章のまねをすればいい。そういうことなのだ。すべてはいかにいい本を読んでいるかにかかっている。そこですばらしく簡潔でやさしいく、しかも内容を的確に表現している文章をに出会えれば、いかに自分の書く文章が悪文かわかるはずだ。
 何度も言うが、決してワープロが汚い文章を書かせるのではなく、書いた本人がいい文章にふれあっていないから、どうしようもない文章が出来上がるのだ。そういう意味では読書というのは大切なことになる。
 実際私もやっとそのことがわかり始め、本を読むことの大切さのひとつを感じている。ましてつたないながらもこうして文章を書いている以上、やっぱり少しでもいい文章でありたいと思うようになっている。だからひところよりは、ワープロで選択できる難しい漢字は使わないようにしているし(だって普段絶対に使わない漢字を、たまたまワープロが簡単に選び出してくれただけのことで、それがなければそのためにわざわざ辞書を引かないでしょう。ひらがなで十分ならそれでいいはずだ)アシスト機能できる限り外しているし、できなければ基本的に無視している。

 さて、そういう意味では私にとって吉村昭さんや阿刀田高さん、司馬遼太郎さんのエッセイは最高の教材なのである。私は小説の中でなかなかいい表現だなと感じることができない人なので、日常の生活の中から生まれるエッセイの方が、より身近に感じられ、あっ、そうか!こんな風に書けばいいんだと思うことが多くある。だからエッセイが好きで、特に最近はこの三人が先生となっている。少しでも自分が書きたいことを、この三人作家さんたちみたい表現できればいいなと思っている。
 そして今回も吉村昭さんの紀行文を読んでいる。この紀行文は吉村さんの最期の紀行文集となるらしい。というかもう新しい旅の文章はすべて出版されてしまっているので、それでももれてしまった、ミニコミ誌や機関誌などに掲載された吉村さんの短い旅に関する文章をかき集めたもののようだ。まぁ、その過程はどうでもいい。要は吉村さんが書かれた文章を味わえればいいのだ。それだけである。
 吉村さんの旅の目的はほとんど小説のための取材旅行である。その旅の途中で見た風景のすばらしさ、地元の人とのふれあい、地酒と美味しい料理の話である。そこは開高健さんとは違う。開高さんは言葉にできなほど美しい風景とか美味しい料理だとは、小説家であれば絶対に言ってはいけないという主義の人である。だから言葉を尽くして何とか表現しようとする。そのため時には饒舌過ぎるほどの表現になってしまう。ところが吉村さんにはそんな気負いはない。地元の小料理屋に入って、美味しいお酒と料理を単に“美味しい”と書くだけである。もちろんその素材の新鮮さなどは書いているが、それ以上の表現はしない。旅に関する全体の感想も最期に“いい旅であった”と書くだけである。
 でも読んでいる方もそう感じるのである。そこには個々の細かい表現にこだわるのではなく、全体からそう感じさせるテクニックがここにはあるような気がする。後は読む方で自由に想像すればいい。きっとすばらしい風景なんだろうなとか、これは美味しいんだろうなと思わせるのだ。
 文章表現というのは言葉だけで表現するのと、文章全体から感じ取られる方法があるんだなと改めて思う。そういう意味からすれば、文章というのは奥深いもんだ。
 書かれているものから何か読み取ってやろうとがつがつするのも結構だけれど、そうではなく、全体の雰囲気から“いいなぁ”と感じるのも、それこそいいと思う。私は吉村さんの随筆はそうして楽しんでいるし、今回も同様に楽しんでいた。
 またこの紀行文は先に書いたように、そのほとんどが吉村さんの小説のための取材旅行である。だからここに書かれる文章を読んでいると、その小説を読んでみたくなる。
 それにしても吉村さんがよく行かれる北海道や長崎は死ぬまでには絶対に行きたいと思う。長崎は特に行ってみたくなった。もし長崎に行ったら国に帰った昔の友人に会いたなとも思った。会えるだろうか?


評価
★★★


書誌
書名:七十五度目の長崎行き
著者:吉村 昭
ISBN:9784309019277
出版社:河出書房新社 (2009/08/30 出版)
版型:229p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年07月29日

村上春樹著『遠い太鼓』

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 この本は買ってからすぐ読んだはずである。しかしこれといって記憶に残っているものがなく、自分の本棚を見ていて、村上さんがギリシア、イタリアに滞在されていた頃のことが書かれていたんだと思い再度手に取った。
 村上さんは1986年から1989年の3年間に、ギリシア、イタリアで過ごす。この時村上さんは『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』の長編を書くためにここに来ている。つまり観光ではなく、あくまでも小説の執筆のためこの地に来ていたのである。だから私が期待する紀行文とは少々趣を異にする。もともと村上さんは自ら「だいたい僕は遺跡というものに興味がないのだ」と言っているので、そうした観光を期待していると裏切られる。
 例えばアテネ。村上さんはアテネを次のように書く。

 アテネといえば人口三百万を数えるギリシャ随一の都会(これは実にギリシャの総人口の三分の一近くに相当する)ではあるけれど、観光客が通常動きまわるエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない。たいていの歴史的遺物は歩いて行ける距離にあるし、ごく控えめに言っても三日あれば目ぼしいものは全部見て回ることができる。この街は大昔ポリスのまわりに、まるで磁石に鉄屑がくっつくように近郊住宅が付着して、そのまま無定見にぼわぼわと発展したような都市だから、観光客にとって興味ある場所ははっきりと中心部に限られているのである。だって近郊住宅地部分なんか見にいったってしかたがないから(たとえばあなたが東京に来た外人観光客だとして、ひばりヶ丘だとか多摩プラーザだとか西国分寺だとかわざわざ観光に行きますか?)普通の人はアクロポリスに登って、プラーカでレッツィーナを飲んでムサカを食べて、町をぶらぶら歩いて、土産物屋をのぞいて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカビスト山からアテネの夜景を見て、その後時間と興味のある人は国立考古学博物館を見物して、それでおしまいである。

 と素っ気ない。

 ただイタリアの“いい加減さ”が面白く書かれる。特にローマでの生活事情は日本とはかなり異なるため、読んでいてやはり呆れてしまう。村上さんの友人が「なにしろローマって二千年がかりで腐敗しつづけているような都市だからね、腐敗にも年季がはいっているんだ」というくらいだから、並大抵のことじゃないみたいだ。
 ローマの駐車事情もかなりひどいようだ。路上駐車は当たり前。少しでもスペースがあればなんとかしてそのスペース車を入れる。もちろんぶつけたってまったく気にしない。そもそもバンパーなんていうものはぶつけるためにあるもんだと考えている。二重駐車なんていうのも日常茶飯事みたいだ。
 つまり駐車場がローマにはないのだ。「どうして存在しないかというと、まずだいいちに街そのものが狭いからである。狭い上に、建築物の規制が厳しいから、現代的な駐車用のビルなんて建てることができない。街中の建物はほとんどが歴史的建築物みたいなもので、言うまでもないことだが、歴史的建築物にはもともとガレージなんてついていない。
 それから地下を掘り下げて駐車場を作ろうとしても、これがなかなか作れない。少し地面を掘るとすぐ何かの遺跡が出てくるからである」らしい。

 なるほど!

 また泥棒にも頻繁にあう。観光ガイドブックには「注意しなさい」と書かれているけれど、それは「世界の何処でも同様である」、「常識を働かせればいいのです」くらいのアドバイスではすまない町みたいだ。「ここではどれだけ注意しても、どれだけ常識を働かせても、それを越えた災難がちゃんとふりかかってくるのだ」という。「私は断固『冗談言っちゃいけない』と思う」と言い切る。タクシーだって料金をかなりぼるみたいだ。
 私はイタリアにはあこがれるけれど、今もこんな状況だと勘弁して欲しいなと思う。そういえば以前読んだ井上ひさしさんのイタリア紀行文にも、空港に着いたとたん旅行バッグを盗まれたことが書いてあったから、状況はそう変わっていないのかもしれない。
 泥棒やスリなどに注意しながら暮らす生活は疲れるし健全じゃないと言う村上さんの言葉はまさにその通りだと思うので、なんとかならないのかなと思う。もっともこれがすべてではあるまい。真っ当なイタリア人だっているはずだし、この本ではそういう人たちのこともちゃんと書かれている。
 そうした人たちを通して、村上さんがいたイタリア人とギリシア人との比較論が面白かった。

 僕の見聞したかぎりではギリシャ人というのは比較的混乱しやすいタイプの人種である。なんとかうまく物事をこなそうという意志はあるのだけれど、すこし事態が込みってくると収拾がつかなくなって混乱し、ある場合には怒り始める。またある場合には落ち込んでしまう。こういう点ではイタリア人と正反対である。イタリア人は始めから物事をうまく処理しようという意志が希薄なので、それがうまくいかなくても殆ど混乱しない。

 へぇ~そうなんだ!

 この本を再度読み直して感じたことはこの程度なので、結局昔読んでそのままにしてあると記憶に残らなくてもしかたがなかったかなと思った次第だ。


評価
★★


書誌
書名:遠い太鼓
著者:村上 春樹
ISBN:9784062033633
出版社:講談社 (1990/06/25 出版)
版型:497p / 21cm / A5判
販売価:1,890円(税込)

2009年07月14日

吉村昭著『関東大震災』

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 関東大震災の焼失図を見ると、東京市の大半が焦土をしめす朱色がべったりと塗りつけられている。が、その中に浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が焼失をまぬがれていたことがわかるが、殊に和泉町、佐久間町の地域が、広大な朱色の焼失地域の中で焼け残り地区を示す白地のままであるのがひどく奇異なものに映る。
 この一区画の焼け残りは、関東大震災の奇蹟とさえ言われた。

 和泉町、佐久間町の見事な焼け残りは、好条件に恵まれていたが、住民たちの努力によるものであった
 環境条件として、町の東北隅に内務省衛生試験所、三井慈善病院があって、それらが耐火構造建物であったので防火に有利であったことも幸いした。また北側には道路をへだてて三ツ輪研究所、郵便局、市村座劇場の煉瓦造りの建物が一列に並び、それらは後に焼けたが防火壁の役目を果たした。
 さらに南側は神田川で、対岸に煉瓦造りの建物が並び、その向う側には広い道路が走っていたので、火流を防ぐことも比較的容易であった。
 それに水道は杜絶したが、神田川と秋葉原貨物駅構内から神田川に通じるドッグがあって、水利に恵まれていたことも幸運だった。 しかし、住民たちが、四囲を完全に火に包まれた中で町内にとどまり、火と戦ったことは大きな賭であった。もし防火に失敗すれば、町内には炎がさかまき、全員焼死することが確実だった。
 最初に火が起ったのは和泉町三ツ輪研究所で、隣接の内務省衛生試験所等にも移ったが、水道の水が断たれていなかったので、住民たちはバケツ注水でこれを消しとめた。
 午後三時頃になると、本石町方面から火が迫り、神田川をへだてた地域と東龍閑町、豊島町一帯を西から東に焼きはらった。丁度佐久間町二、三、四丁目は、その大火災の風下にあたっていて、重大な危機におちいった。
 住民たちは、神田川の水を汲み上げ、極力消火につとめた。そのうちに民家に飛火して炎をふきはじめたが、住民は一致してこれを消しとめた。
 また他の一隊は、神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき、道路の南側で火流を阻止することに成功した。
 日が没し、町の周囲には大火災が乱れ合った。
 午後十一時頃、神田明神方面から猛火が津波のように轟々と音を立てて迫ってきた。その火炎は遂に佐久間町一丁目の一部を焼き、秋葉原駅構内をなめつくして和泉町の袂まで燃えてきた。
 そのままでは平河町が焼きつくされてしまうので、住民たちは死力をつくしてバケツの水を浴びせかけ、ようやく九月二日午前零時頃消しとめることができた。
 さらに朝五時頃、浅草左右衛門町、向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に及んだので、それに面した家屋を破壊し、西側に火が移るのを防止した。
 二十時間にわたる火との戦いで、住民たちの疲労は濃かった。足腰も立たずに座り込む者が多かったが、その日の午後三時頃、最大の火炎が浅草方面から和泉町目がけて襲ってきた。
 住民たちは、声をはげまし合い和泉町方面に集まった。少数の外神田警察署員をふくむ数百名の住民たちに、老人、婦人も加わり、あくまでも町を死守しようとかたい決意のもと大火炎の迫るのを待ちかまえた。
 その時、町内の帝国嘲筒(そくとう)株式会社にガソリン消防ポンプが一台あることが判明した。それは、同社が八月二十九日に完成し目黒消防署に納入予定のポンプであった。
 住民たちは、同社重役の快諾を得てポンプを借受け、まず火の迫る以前に同町の西側に注水した。
 やがて、火炎がすさまじい勢いでのしかかってきた。
 住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。
 火との戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食いとめることに成功した。その結果、千六百余戸の家々が東京市の焦土の中で焼け残ったのである。この奇蹟的ともいえる和泉町、佐久間町の焼け残りは、すべて住民の努力によるもので、消防署は防火活動に全く従事していない。

 長い引用をした。この大火災は関東大震災によるものである。

 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分四十四秒、東京市内に設置されていた中央気象台と本郷の東大地震学教室の地震計が突然生き物のように動き始めた。
 振動は、押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから十五、六秒後には想像を絶した激烈さまでたかまった。
 その瞬間、戦慄すべき現象が起った。中央気象台は明治九年以来地震観測をおこなっていたが、観測室におかれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊してしまった。
 地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動が始まった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに震動が激化すると同時に破損してしまっていた。

 地震発生時が午前十一時五十八分四十四秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭では竈、七輪等に火をおこして昼食の支度をし、町の飲食を業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。そこに大地震である。今よく言われる“グラッときたら火を消す”という余裕などなかった。倒壊した家では、圧死からのがれるだけで精一杯で、竈や七輪におこっていた火の上に木材や家財がのしかかり、たちまち火災が起った。
 その上、この日は風向が南又は南東で、風速は低気圧の影響を受け十メートルから十五メートルとかなり激しい日であったため、さらに火災が広がった。
 そしてこの本を改めて読んで知ったことなのだけれど、火災を引き起こした最大の原因が学校、試験所、研究所、工場、医院、薬局等にあった薬品類であった。それらが地震で棚等から落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校(三カ所)、富士見町の日本歯科医専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市ヶ谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部、同医学部薬学教室(四カ所)、同医学部外来患者診察室、麹町区の麹町高等小学校、芝区の慈恵会医科大学、小石川区の専修高等女学校、日本女子大学からそれぞれ出火した。

 震災で引き起こされた火災は東京中を焼きつくすのだが、奇跡的に焼け残った地域が私の会社のある神田和泉町であった。私は以前からこのことに興味を持っていて、何度か調べたこともある。だからここに長い引用を引いたのだ。ここが焼け残ったのは、確かに環境条件がよかった部分もあるけれど、ここに住まれる住民たちの努力があったからで、私の会社の先代の社長が書いた震災による消火活動の手記を読んだとき、初めてそのことを知ったのであった。


 【和泉町防火奮闘記】神田和泉町(故)持田光太郎
 関東大震災の翌日、大正12年9月2日午後3時ごろ、浅草方面からの猛火が和泉町に迫った。町と道路一つ隔てた凸版印刷は焼け落ち、市村座も燃え始めている。水道は断水し、井戸水はあったがバケツ以外に消火器具はなく、町内の青年たちは猛煙の空を仰ぐばかりだった。
 このとき、「そうだ。ポンプがある!」と父喜太郎(当時51歳)が叫び、近くの帝国ポンプ会社が目黒消防署に納入することになっていたガソリンポンプ車を、下水道局和泉町ポンプ場に、みんなで運んだ。そこの浄水プールを水源に、それぞれ100メートル近いホース2本を延ばし、筒先は佐々木高太郎さん(当時40歳)と私(当時26歳)が握った。
 「市村座の火を消せ!」、「町を守れ!」などの声が飛ぶなか、私は市村座前の道路を阻止線とするしかないと考えた。佐々木さんは六尺ふんどし、私は紺色の水兵服(軍艦「長門」の元乗組員だった。)を着て、駆け巡り、放水を続けた。やっと町への延焼を食い止めたのは、5時間後か、8時間後だったか、よくおぼえていない。
 ポンプ車といってもガソリンがなければ動かない。父は自転車で、自動車修理工場や自転車店をかけ回り、ガソリンを集めてきた。当時、東京市全体にポンプ自動車38台、水管自動車17台、手引水管車28台しかなく、神田地区には一台の余力もなかった。事実、「神田地区消防隊従事なし。」の記録がある。
 いま振り返ってみると、家族をみんな上野に避難させ、大人たちが心おきなく協力して活躍できたこと、町内から二か所出火したがすぐ消し止めたこと、南に神田川、北に広い庭のある三井慈善病院が自然の防壁になったこと、火勢のいくつかが旨く一角を避けたこと、しかしなんといってもあのポンプ車の威力がすごかったと思います。そして、あの時の父の存在も忘れられません。(『目でみる千代田区の歴史』 東京都千代田区教育委員会)


 さて、この震災で焼死者が一番多くあったのが本所区横網町にあった被服廠跡であった。ここは陸軍省被服廠の建物があった場所で、被服廠移転にともなって大正十一年三月逓信省と東京市に払い下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予定になっていた。
 二万四百三十坪余の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署員も同地に避難民を誘導した。そのため被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起って、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。
 これはすごい数字である。わずかな地域で東京の半分以上の死者をここで出してしまったのである。吉村さんは「関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい」と言い切る。
 さらに避難者が持ち出した家財は東京にかかる橋を焼きつくすことにもなった。この当時東京にあった橋は「総数六百七十五で、地震によって墜落又は破損したものはわずか十八にすぎなかったが、火災によって三百四十の橋が被害を受けた」のだ。橋の上で家財に引火した火から逃れるために、人々は川に飛び込み、溺死者を多く生んだ。その数は「東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千百七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七.四倍弱にも達している」という。

 江戸には大体百年おきに大地震が起こっている。関東大震災と同規模の大地震であった安政二年の大地震でも、大火が起こっていて、火災が起こった箇所は六十六カ所で、関東大震災の八十四カ所と著しい差はない。しかしの焼失面積は、関東大震災の方が十九倍というすさまじさであった。
 しかも江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は秀れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していたし、家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。
 江戸時代に防火のため火除原と称された広場や広い道路(広小路)が作られていたのに、それが無駄な場所と考えられ、いつの間にか民家で埋められてしまい、防火思想が江戸時代より後退していたのである。これを見るだけでも明治という時代が何もかも慌てて造られ、後々のことも考えずに、体面だけ形だけでも繕った時代であったことを知らされる。
 寺田寅彦は関東大震災の大災害は、歴史的に考えれば前例が繰り返されたにすぎず、それは人間の愚かしさから発していると述べている。過去の人間が経験したことを軽視したことが災害を大きくした原因であり、火災に対する処置などは、むしろ江戸時代より後退していると嘆いた。
 さらのこの後起こる朝鮮人襲来の流言も、それを冷静に考えれば全く信ずるに足りないものであることぐらいわかるはずで、日本人が科学的な判断をもたぬために起こった不祥事であったと非難する。
 震災にかこつけて朝鮮人が襲来してくる。あるいは井戸に毒を投げ込んだという風説は、震災というパニック状態で起こったものであろうが、そうした風説が人々に信じられた背景がそこにはあった。
 明治三十七年二月に締結した日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意志を完全に無視したものであることを、日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、を十分に知っていた。また統監府の過酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れこんできた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気がついていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。その鬱積した憤りをこの大震災に当たり、朝鮮人が日本人にたたきつける公算があると思えたのだ。
 朝鮮人襲来説は、横浜市内で発生し、それが強風にあおられた野火のように東京府から地方の市町村へすさまじい速度でひろがった。それは、政府、軍部、警察関係者にも信じこまれて各種の通信等によって裏づけられたため、庶民はその流言を事実と思いこみ、朝鮮人をはじめ日本人、中国人の虐殺事件をひき起した。
 その後、政府は朝鮮人に関する風説が全く根拠のないものであることを確認して、流言を打ち消すことにつとめ、殺害事件の発生を防止することに努力した。
 しかし、大災害後の混乱で理性を失った庶民は、官憲の注意にも耳をかさず凶行をつづけていったのである。
 責任の根源は、政府、軍部、警察関係者にあったが、同時に騒擾を好む一部の日本人の残虐性が悲惨な事件を続発させたのである。
 犯罪も多発した。震災で人々は家屋や職を失い、生活するために盗みを行った。焼け跡に行って、金目のものを掘り出したり、食糧や金目のものを持っている人を脅したり、あるいはそれらが高く売れるため、私利私欲に走り値段を高額に引き上げたりした。人心はすさみ、賭博、売春も行われた。
 これは阪神淡路大震災の時も似たようなことが起こっている。生きるためにはやむを得ないといってしまえば、その言葉がどこか正統性を帯びているように思えるけど、多分これは日本人特有の“自分だけがよければいいのだ”という身勝手さと、日頃えせヒューマニズムで理論武装している人が本性を現せばこういうことになるのだ。当時も今も何ら変わっちゃいないことを改めて思う。


評価
★★★


書誌
書名:関東大震災 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169411
出版社:文芸春秋 (2004/08/10 出版)文春文庫
版型:347p / 15cm / A6判
販売価:570円(税込)

2009年05月26日

小路幸也著『東京バンドワゴン』

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 結局ブックオフに売り飛ばしてしまったこの本を再度購入するはめになった。最初にこの本を読んだきっかけは、何かで本屋さんを舞台にした小説の紹介を読んで、いくつか続いて読んだ中にこの本があった。まとめて本屋さんを舞台にした小説を読んだものだから、いいものも悪いものも一緒になってしまったのだろう。だいたいこの手の本の紹介は手前味噌が多く、業界関係者がこぞって自分の職場が舞台になっているというだけで、“いいよ”となってしまうところがある。実際この時何冊か読んだはずだが、それほどよかったというものはなかったと思う。
 この本にしても、再度読み直してみても単独で読んだら大したことはない。ただこれがシリーズになって何冊が話が続いていると、いつの間にかその話に毒されちゃって、面白いじゃないかと思うようになってしまった。そのほのぼのとした大家族が繰り出す話が、その人間関係を伴って、話を面白くしてくれる。しかも肩の凝らない人間関係の話だから、読んでいて心地よい。それがわかったからこのシリーズは自分の本棚に収めておこうと思ったし、きっと続編も出版されるだろうから、それも楽しみにできる。
 ただ売り飛ばした第一弾が自分の本棚にないのはどうにもまずい。泣く泣く買い求め、再度読んで本棚に収めた。これでシリーズ全巻揃ったので、安心である?
 さて、再度このシリーズ第一弾を読み終えて、以後ホームドラマ的話の展開になるこのシリーズなのだが、まだこの巻は多少ミステリー的要素がちょっとしたスパイスとして利いていて、面白かった。潰れた旅館にある大量の蔵書の整理を頼まれ、値付けに行くのだが、翌日その本が全部消えていて、整理を頼んだ人物もいなかった話も、大した話に展開しなかったけれど、どたばたホームドラマの中でスパイスとなってよかったと思う。
 とにかくもう売った本を再度買い求めるなんてバカなことはやめて、自分の目利きをしっかりしたいなと思う。とにかく増え続ける本の整理が一番最初にあるものだから、読んでつまらなければすぐ売っちゃえと考えちゃうけれど、少々考えなければならない。


評価
★★★


書誌
書名:東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087753615
出版社:集英社 (2006/04/30 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年02月20日

沢木耕太郎著『ミッドナイト・エクスプレス』

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 沢木さんの『深夜特急』第一便から三便までは単行本が発売されたとき、それぞれ読んでいる。今回それを再読してみようと思ったのは、ここのところ紀行文にはまってしまっている関係で取り出してみたのだ。
 この本は単行本三冊を一冊にまとめてあるので、結構なボリュームだ。なんだかちっともページが進まない感じがしてしまったが、気がついたら4日で読み切っていた。
 私は勘違いをしていて、沢木さんがユーラシア大陸を最初からバスを使ってロンドンまで旅をしたものだと思っていた。ところが沢木さんのこの旅の最初の趣旨はインドのデリーからロンドンまで乗り合いバスを使って旅をすることであって、デリーまで直接飛行機を使って行くこともできたが、途中降りることもできることを知って、まずは香港、マカオ、マレー半島、シンガポールに寄って、そしてデリーに向かい、そこからロンドンまで乗り合いバスを使って旅をした。
 ただ香港、マカオの記述が、特にカジノでのやりとりがおもしろかったので、そっちにばかりに記憶に残っていて、本当はここは“おまけ”みたいものだったのだと改めて知った次第である。

 私は観光旅行しかしたことがないので、こうした“放浪”の旅にはあこがれてしまうところがある。しかしこうした長い旅には、いわゆる人の一生みたいなところがあるんだなと感じた。
 どういうことかと言えば、旅の最初のころには、沢木さんが出会うものすべてにワクワクしいた。時には自分の子供の頃を思い出したり、相違点を見出したりして、新鮮であったのがよくわかる。

 「カルカッタの子供たちのボロから突き出したしなやかな手足を見るたびに、ただ体を動かしていればよかった時代の幸せさを思い出さないわけにはいかなかった。(略)
 路上で遊んでいる子供たちを見ていると、少年時代の自分を思い出す。しかし彼らがかつての私たちと違っていたのは、なにかしら仕事を持っていたことだ。彼らは、働く合い間に、時間をかすめとるようにして遊んでいた」

 旅をする前の自分の生活環境とまったく違うものと接すると、それがいかにも自分を縛っていたものではないかと思うようになり、訪れた土地の人の生活方法に従ううちに「またひとつ自由になれた」と感じるのである。一方で自分の旅の仕方も反省する。

 「もちろん、『金がない』と言うだけなら、私は自分が卑しいとは感じなかっただろう。私がその台詞を使う時、どこかでその相手の親切を期待するところがあったような気がするのだ。ほんの少しであっても、金のない旅人が土地の人の親切を受けるのは当然だという思いを抱いていなかったかどうか。私には『いや』と言い切れる自信がなかった。『金がない』という台詞を使わない時にも、相手の親切を期待する気持が態度に滲み出ていたのではないだろうか。(略)もしそうだったとすれば、それは手を出さないというだけの物乞いにすぎないのではないか・・・・」

 しかし旅を続けるうちに、自分の旅の姿がある意味無責任なものではないかと思うようになってくる。そう感じたとき沢木さんの胸には虚無感が生まれてくる。それを同じような旅をするヒッピーの体から発する臭いから次のように言う。

 「ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、長く旅をしていることからくる無責任さから生じます。彼はただ通過するだけの人です。今日この国いても明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。どの国にも、人々にも、まったく責任を負わないで日を送ることができてしまいます。しかし、もちろんそれは旅の恥は掻き捨てといった類の無責任さとは違います。その無責任さの裏側には深い虚無の穴が空いているのです。深い虚無、それは場合によっては自分自身も無関心にさせてしまうほどの虚無です」

 そのうち、訪ねた土地の人の親切が煩わしくなっていく。

 「私たちのような金を持たない旅人にとって、親切がわずらわしくなるというのは、かなり危険な兆候だった。なぜなら、私たちは行く先々で人の親切を『食って』生きているといってもよいくらいだったからだ。『食う』という意味は二重である。ひとつは、文字通り人から親切によって与えられる食物や情報が、旅をしていくために、だから異国で生きていくための必須だということ。もうひとつは、人々の親切が旅の目的そのものになっているということ。つまり私たちのようなその日ぐらしの旅人には、いつの間にか名所旧跡などどうでもよくなっている。体力や気力や金力はそこまで廻らなくなっていることもあるが、重要なことは一食にありつくこと、一晩過ごせるところを見つけること、でしかなくなってしまうのだ。しかし、そうであっても、いやそうだからこそ、人が大事だと思うようになる。旅にとって大事なのは、名所でも旧跡でもなく、その土地で出会う人なのだ、と。そしてまさにその人と人の関わりの最も甘美な表出の仕方が親切という行為にはずなのだ。
 ヒッピーとは、人から親切を貰って生きていく物乞いなのかもしれない。少なくとも、人の親切そのものが旅の全目的にまでなってしまう。それが、人から示される親切が面倒に感じてしまうとすれば、かなりの重症といえるかもしれなかった」

 いつの間にか沢木さんは自分の旅に新鮮さを感じられなくなっていくのがわかる。このころから沢木さんの旅は幼年期、少年期が終わっていたのだ。
 この本には「深夜特急ノート」が付録みたいな形で収録されている。そこに「しだいに好奇心が摩耗し、全身が蝕まれていくような気がする」という書き込みがある。長旅はいつの間にか初期の新鮮さや好奇心を失わせていくようだ。それを沢木さんは次のように言い表している。

 「旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことにでも心震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。歳をとってくるとしきりに昔のことが思い出されるという。私もまたギリシャを旅しながらしきりに過ぎてきた土地のことが思い出されてならなかった。ことあるごとに甦ってくる。それはまた、どのような経験をしても、これは以前にどこかで経験したことがあると感じてしまうということでもあった」

 この旅での成果は「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれない」というタイで暮らす日本人男性の言葉じゃないかと思った。そして長旅は、非日常が日常化してしまう部分があり、旅が終わった後、旅をする以前の日常に戻れないのではないかという不安を残す。

 「私にはひとつの恐れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その恐れとは、言葉にすれば、自分はいま旅をという長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜け切ることができないのではないか、というものだった。数カ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終わったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果たしてうまく折り合うことができるのかどうか、自信がなかった。旅の日々の、ペルシャの秋の空のように透明で空虚な生活に比べれば、その向こうにあるものがはるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか」
 
 これはかなり怖いところではないだろうか?


 ところで最近私はイスタンブールにあこがれていることは書いたが、沢木さんも当然ここを訪れている。ここにたどり着いたとき次のように書かれる。

 「いま私はアジアからヨーロッパへ向かっている。春の初めにアジアの端の島国から出発した私は、秋の終わりにヨーロッパのとば口に差しかかろうとしている。この船でこのボスポラス海峡を渡り切れば、東ローマ帝国の都であったかつてのコンスタンチノープルに到着するのだ。
 しかし、その重層的な歴史が塗り込められているはずの街は、夜の深い闇に覆われて何も見えない。対岸は、丘にでもなっているのだろうか、ところどころに点々と灯が見えるだけだ。その灯はいかにも心細げで、かえって丘の暗さを浮き出させるばかりのように思えた。
 <あれがヨーロッパなのか・・・・>」

 「ヨーロッパからアジアに向かう者も、アジアからヨーロッパに向かう者も、陸路をとる限り必ずこのイスタンブールを通過することになる。つまりイスタンブールはユーラシアを旅する者にとっての交差点になるというわけなのだ」

 またトルコの人々の親切さをこれまで何度も読んできたが、沢木さんも「だが、居心地のよいもっと大きな理由は、イスタンブールの人々の、というより、トルコの人々の親切が挙げられるだろう」と言われている。

 最後に沢木さんがミケランジェロの「ピエタ」を見られたときの感想が印象的であったので、それを書きたい。


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 「私は、これがミケランジェロ二十五歳の時の作品であるということに衝撃を受けた。自分とほとんど同じ年頃の若者がこのようなものを作り上げたということは信じがたかった。この世で一番美しい女性を造形したのが、今の私とほとんど同じ年頃の十五世紀人だったというのだ。
<こんなものがこの世に存在していいのだろうか・・・・>
 私は胸の裡で呟いた。この世の中に天才などというものがいるとは信じたくないが、この『ピエタ』を作った人物にだけはその呼称許さざるをえない、と思った。『ピエタ』は、天才が自分の才能を開花させていく過程での一作品という以上の意味を持っている。恐らくは、それが天才の出発点であり、到達点であり、同時にすべてでもあるという作品なのだ。しかし、二十代の半ばにこのような作品を作ってしまったミケランジェロは、それ以降の長い人生の中で、果たしてこれ以上のものを生み出すことができたのだろうか」

 沢木さんはこの「ピエタ」を見てしまってからはミケランジェロの他の作品、たとえばバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画やダビデ像はつまらないものに見えたという。
 ただそのダビデ像の前にはミケランジェロの未完の作品である大理石の塊があった。その大理石の塊には男のレリーフのようなものが浮き出ており、男の体にはミケランジェロがふるったノミのあとがくっきりと残っていた。それを沢木さんはが見て「ミケランジェロの振るうノミのひとふりひとふりが、男に肉体を与え、生命を吹き込んでいったのだ。その時、ミケランジェロは神に近い存在となる。大理石の男にとってはミケランジェロこそが神である、といってもよい。
 それにしても、創るということがなんと凄まじいことか」と感想を述べる。これを読んでいると、実際に本物を見ていなくても、真の作品を作り上げるという行為の神聖さを感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:ミッドナイト・エクスプレス 沢木耕太郎ノンフィクション〈8〉
著者:沢木 耕太郎
ISBN:9784163649207
出版社:文芸春秋 (2004/09/30 出版)
版型:734p / 19cm / B6判
販売価:3,465円 (税込)

2009年01月15日

アガサ・クリスティー著『オリエント急行の殺人』

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 続いてクリスティーの作品を読む。この作品は読んでいる。(多分高校生の頃だろうと思う)おぼろげながら内容が頭に残っているからだ。しかし詳しいことは忘れてしまっているので、結構おもしろく読ませてもらった。

ねたばれ注意

 話は、ポアロが乗ったオリエント急行が大雪のため立ち往生しているとき、列車の個室で刺殺された男が見つかる。男は12カ所も刺されており、その傷口は軽いものもあれば、致命傷になるほどの深い傷もあり、しかも刺した利き手が右利きのもあれば、左利きのものもある。犯人は単独犯かそれとも複数犯か?大雪で動けなくなったオリエント急行は外部とまったく連絡が取れなくなっている。 ポアロはオリエント急行を運行する会社の重役から捜査の依頼を受ける。まずは被害者の身元がはっきりする。アメリカで三歳の女の子を誘拐し身代金を要求して、二〇万ドルという莫大な金を手にしたが、女の子は死体で発見された。当時母親は妊娠していたがこの事件のショックで早産し、お腹の子は死児で、母親も死んでしまった。夫は絶望のあまりピストル自殺をした。まったく関係のなかった子守の小娘が疑われたが、それを苦にして飛び降り自殺してしまう。被害者はその誘拐犯の首謀者であった。
 ポアロはの寝台車の乗客から事件当時の話を聞き、「真っ赤なキモノを着ている者」を見たとか、「女のような声をした、小柄な、色の浅黒い男」を見たと言う証言を得る。乗客の証言を聞いていると、みんなが疑わしい部分がある。誰が嘘をついているのか?しかしポアロたちには乗客の証言を確かめるための手段がない。なぜなら列車は大雪のため止まっており、外部と連絡が取れないからだ。だからポアロは事件を推理するしかないのである。 そして推理した結果、犯人たちは乗客の一人を除いて、車掌も含めて全員でしかあり得ないという結論に至る。動機は、この列車の車両に乗っていた乗客全員があの幼児誘拐事件の関係者だったのだ。そのためこの殺人事件は綿密に計画されたものであり、唯一の例外は大雪で列車が止まってしまうということだったのだ。

 む~んん、こんな大がかりな殺人事件ってありか?と思ったが、事件の真相がわかったとき、やはりそれしかあり得ないし、その真相は被害者の刺し傷の数が物語っていることを気がつくべきであった。そういう意味では一本取られてしまった。エンターテイメントとしておもしろかった。これはクリスティーのファンになってしまいそうだ。


評価
★★★


書誌
書名:オリエント急行の殺人
著者:アガサ・クリスティー 中村 能三【訳】
ISBN:9784151300080
出版社:早川書房 (2003/10/15 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:429p / 16cm
販売価:777円 (税込)

2008年12月12日

吉村昭著『光る壁画』

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 この本は多分昔読んだはずだ。でも、もう一度読みたくなって文庫本を購入する。今は私も毎年一回はお世話になっている胃カメラの開発物語である。初めて読んだときは、まだ胃カメラのお世話になっていなかったから、それほど身近なものとして感じられなかったが、今は「どれどれどのようにして胃カメラ誕生したのか?」、と興味があった。
 開発は戦後まもなくオリオンカメラ(モデルはオリンパスカメラ)の曽根菊男(モデルとなった人は深海正治)のところに東大医学部附属病院分院の副手宇野達郎という外科医が胃カメラの製作を依頼するところから始まる。
 それまで胃の中を見るには、レントゲン写真を撮る方法と、胃鏡という方法、それと胃内撮影(これは実用化されていないし、失敗していた)の三つの方法があった。
 恐ろしいのはこの胃鏡という方法である。なんと口から金属の管を胃の中まで差し込んで、上から見る方法なのである。しかし金属管を飲み込むことが出来る人たちがいるのである。大道芸人の呑刀師という人たちである、よくあるでしょう、剣を口に入れて奥まで呑み込む芸をする人たちである。その人に直径十三ミリの金属管を呑み込んでもらい、管の中に光を送って胃の中を覗いたのが最初であったという。その後この胃鏡は多少改良されて、一般の患者に使われたが、食道を破ってしまう事故などが起こり、結局使用が避けられていた。
 依頼された曽根は、まずは胃の中まで入る管を、金属管ではなく、患者の苦痛の少ない素材で作り、次に胃に入った管にカメラを付けて、胃の内部を撮影する方法を、試行錯誤しながら開発していくのである。
 今みたいにファイバースコープなどない時代である。管の先に直接カメラ、六ミリフィルムを入れるマガジン、光源となる豆電球を付けるのである。人間の咽頭の広さは平均十四ミリだそうで、管はそれ以下でなくてはならない。当然管にも厚みがあるし、しかもその中に光源である豆電球と、カメラを装置しなければならないのである。
 まずは管の素材を探し、次に管の中に入るカメラ。当然レンズも極小のもとなる。電球ももちろん小さい物でなければならない。電球は小さくなればその光量も少なくなる。それを明るくすれば、今度は中のフィラメントがすぐ焼き入れてしまい、耐久性がなくなる。
 驚くのは戦後間もないこの時期に、胃カメラに付ける小さなレンズを磨いて作る人や、極小の豆電球、しかも光量があって耐久性のあるものを作れる職人がいたことである。
 おもしろいのはこの胃カメラに使う素材を当時巷にあった素材から探し、あるいは応用して、試作器を作り上げていくことである。たとえば、マガジンに入った六ミリのフィルムを一コマずつ引っ張り出す糸(シャッターの役目をするもの)に三味線の弦を応用する。またレンズが固定焦点なものだから、カメラと胃壁に一定の距離が必要となる。しかしこの胃カメラは一端胃の中に入れてしまうと、管の先端がどこにあるのかわからなかった。そのため透明なコンドームをカメラのついた先端に付けて、ふくらまし、そのことでカメラと胃壁の距離を一定にするのである。物資の少ない時代だから余計にそうしたさまざまなものを応用していく。まさしく“手作り”の胃カメラであった。
 しかし根本的な問題があった。先に言ったように、胃カメラが胃のどの部分あって、どこを撮しているのかわからないということなのである。今みたいにモニターがあって、それを見ながら操作出来ないのである。試作器を使って犬の胃を撮影しているとき、実験室の電球が切れた。その時、犬の腹がうっすらと光るのである。そうなのだ。胃カメラの豆電球が内部で光っているのである。まさしく“光る壁画”であった。偶然が胃カメラの操作方法を教えてくれたのであった。
 こうして試作器の胃カメラを犬を使って実験し、ある程度成果が出た時点で、今度は人に使うようになる。しかし何せすべてが初めてのことである。胃カメラを入れても奥まで入っていなかったりして、うまく胃の内部が写らない。それでも病院内の外科医が自ら実験台となって、胃カメラを呑むのである。こうして日本で世界最初の胃カメラが誕生したのである。
 この小説のおもしろさは胃カメラ製作に当たっての試行錯誤していく過程が描かれていることと、彼らがいた時代風景がうまく描かれているところである。その時代背景がよくわかり、いかにも戦後だなと思った

 主人公の曽根は箱根の旅館の息子でもあった。奥さんに旅館経営を任せて、自らは実験の合間に帰る単身赴任であった。この本を読んで知ったのだけれど、戦後の箱根の旅館に宿泊する人たちは、宿泊の条件として一食一合のお米を持参して、それを旅館の女中さんが計って受け取っていたという。戦後の食糧難がよくわかる。また曽根たちが東大病院に実験に行くときは、胃カメラをリュックサックに入れて背負って行くところなど、よく戦後日本を映した映画などに見られる風景である。
 またこの本では堅苦しい実験の模様だけでなく、曽根と妻の京子との人間関係も、感情も生々しく描かれていて好感をもった。いい小説であった。
 いずれにしても、この人たちのお陰で、私の胃の健康も維持されているとことがあるわけだから、感謝しなければならない。でも来年春にはまた胃の検査があることを思うと、やっぱり憂鬱だなぁ~。


評価
★★★★


書誌
書名:光る壁画
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117171
出版社:新潮社 (1984/11 出版) 新潮文庫
版型:313p / 15cm / 文庫判
販売価:499 円(税込)

2008年11月20日

栃折久美子著『モロッコ革の本』

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 この本はB6版のソフトカバーの本だ。いつも使っているブックカバーじゃ大きいので、新刊書店で買ったときにつけてもらったカバーを取ってあるので、適当に見つくろって、カバーをかける。しかしうまくかけられなくなってきている自分を思い愕然とする。
 私はカバーをかける場合、昔やっていたように、きちんと本のサイズにはさみを入れて折り込み、カバーがずれないようにテープで織り込み部分をとめる。その折り込みがきれいに出来なくなっている。それが出来ないと、きれいに本とカバーが合わなくなってしまい、折り込んだ部分が浮き上がったりしてしまうので、見てくれが悪い。
 どうでもいいことと思われるかもしれないが、そこは私のこだわりでもあるし、昔書店員時代きれいにカバーをかけてお客様に渡すものだ教え込まれてきたから、どうしてもこだわってしまう。
 初めて書店でアルバイトをはじめたとき、まずはこのカバーがけを教わった。教えてくれる先輩のようにきれいにカバーがなかなかかけられないでいた。だから家に帰って、新聞のチラシを使って、カバーがけの練習を何度もしたものだ。
 話はこの本と関係なく進みそうだけど、カバーがけの話のついでに、爪のことも書く。
 つい最近まで私は自分の爪を切るとき、絶対に深爪はしないようにしていた。変な言い方かもしれないけれど、多少爪を残して切った。なぜなら深爪をしてしまうと、本にカバーをかけるとき、きちんと折り込みのすじがつけられないのと、紙で指先を切ってしまうからだ。しかし、最近は多分普通の人が爪を切るように、切るようになった。爪切りにこだわる必要性がなくなったからだ。
 カバーがきれいにかけられなくなったのも、毎日カバーがけをしていた昔とは違うし、最近は市販のブックカバーをさっとかけてしまうから、要はカバーがけが鈍ってしまったのだろう。

 本棚の整理をしていたら懐かしいこの本が出てきた。何となく読みたくなり手にする。この本は大学時代友人に“いい本だよ”と勧められて読んだ。確かに読んでみて“いい本”だったと当時は思った。
 しかし今読み返してみると、それほどでもないかと思っている。
 あのときこの本が“いい本”だと感じたのは、著者が女性一人でブリュッセルでルリユール(製本)を学びに行き、言葉の不自由さの中で、何か生きることの手がかりを模索している姿が、当時自分たちがこれからどう生きていけばいいのか考えあぐね、不安の中にいたことが、この本をして“いい本”と感じたのではないかと思うのだ。たまたまここに書かれた著者の立場と自分たちがいた立場が妙に一致していたのだ。
 でも、あれから三十年近く経ってしまった現在、生きることの手がかりなどさがす前に、とにかく生きなきゃならないとしてここまで来てしまったから、今更生きることの手がかりを模索している姿を読んでも、感動もわかないのは当たり前のような気がする。多分昔読んだ本で感動した本を読み返したなら、こんなことは頻繁に起こるに違いない。
 いい本がいい本じゃなくなっていくというのは、一抹の寂しさがある。それこそ本のカバーがうまくかけられない寂しさと、私の中で一致する。
 正直読み返さなきゃよかったかもしれないと思った。昔よかった本は自分の記憶の中で“いい本”として残っていればそれでいいのかもしれない。

 栃折さんが何故、ブリュッセルでルリユールを学びに来たかというと、まず、栃折さんが話せる外国語がフランス語しかなかったこと。そのルリユールはドイツ流、イギリス流、フランス流といくつかの流れがあるうち、フランスのルリユールはとりわけ繊細で、文学書の装幀を主にして深められてきたことに心が引かれていたこと。そしてベルギーがその流れをついで、古い伝統工芸の技術がよく保存されていることで、ブリュッセルでルリユールを学ぼうとしたと書かれている。
 「ここに来る前は、製本家になるつもりは少しもありませんでした。ブック・デザインの仕事をもう少し正確にできるようになりたいと思い、洋本というものの正統的な先祖に会いに来たつもりだったのです」と初期の動機をそう語る。


 「これは昨夜ケースを仕上げたところなんだ」
 本のケースを、大きすぎず、かといって振っても出てこないなどということがないようにつくることが、どんなにむずかしいか。一点制作のルリユールよりはるかに許容範囲の広い量産本の場合でも、ちょうどいい大きさのケースはめったに見られないほどだ。これまでしてきたブック・デザインの仕事を通して、このことは身をもって知っている。
 先生がケースの背を下にして机の上に立て、口元に本を持って行って手を放すと、本は何秒かかかって静かに入ってゆき、最後にことりと音を立ててケースの中に収まった。それを手に持つと、斜めに傾けるだけで本が出て来る。その仕事の厳密さ、精度に私は驚嘆した

 先生ののものはそれとはちがって、表紙には何の装飾もなかった。特有の美しいしぼのあるモロッコ革の生地そのままのシンプルなものだったが、それだけに技術そのものが生きる。ごまかしがきかない。
 それは、動きのよい人間の手以外のものがつくれる筈のないものでありながら、そこにつくり手がいたことを忘れさせてしまうほど、自然なものに見えた。たとえば一個の果物、一輪の花のように、何でもなくただ一冊の本であった


 このように精巧にしかもさりげなく装幀された本やケースを見たとき、栃折さんは居間の肘掛け椅子の上に膝を抱えて座り、何もする気になれなくなった。


 知らなかったんだ。私は。自分がこの街へ何をしに来たのかということ。なぜ私が今ここにいるかということを。


 甘い気持でブリュッセルまできて、本物を見せられたときに衝撃はきっと堪えただろうなと思う。その衝撃を感じたとき栃折さんは何をすべきか悟ったのだろう。だから「ここにくるために今まで生きてきたような気がする。長いことかかったけれど、遠廻りをしたとは思わない」と感じられたのではないだろうか。
 最近何でもまがいものばかり見せられているから、本物の良さがわからなくなっている気がする。それで済んじゃっているところが恐ろしいと思ってしまう。もちろん知らなければ知らないでもいいのかもしれないけれど、やっぱり本物の良さ、伝統に基づいた作品などは、現代の人々が作り上げるものとは、きっとどこかつがうはずだと思いたい。そんなもにを目で見て、感じ、その技術を習得していけるのは、ある意味うらやましい。


評価
★★★


書誌
書名:モロッコ革の本
著者:栃折 久美子
ISBN:
出版社:筑摩書房 (1981/04 出版)
版型:206p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2008年10月02日

ヘレ-ン・ハンフ著『チャリング・クロス街84番地』

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 昔開高健さんの古い本を探すために、神田や早稲田の古本屋さんを回ったが、それでも手に入るものは限られていた。「日本古書通信」に全国の古本屋さんが自分のところ在庫を広告として載せていているので、その中から開高さん未入手の本を探し、はがきで注文した。確か2冊ほどこの方法で手に入れたと思う。中には抽選というやつもあって、外れたのだろう。その本は入手できなかった。
 今ではネットで簡単に日本全国の古本屋さんにアクセスできるので、こんな面倒なことなどすることもなく、在庫の確認も注文も数度のクリックで簡単にできてしまう。後は数日待てば、本と請求書が送られてきて、後は郵便振替で送金すればいいし、アマゾンならそのままカード決済だから、本を受け取るだけでいい。ここには古本を売る人とそれを買う人の顔が一切見えない。
 たとえば昔やったはがきでの注文でも、注文する本の書名などを書くのは当たり前だし、最後には「よろしくお願いします」の一言ぐらいは書き添えるだろう。それだけでも何か見えてくるものがあると思いたいが、ネットの場合それが一切ない。確かにつまらんしがらみがないから、その方が楽といえば楽であるが、どこか寂しさがつきまとう。特に古本という手垢のついた本にかかわるものだから、ちょっとは人との関係が欲しいといえば欲しい気もするのである。

 なんでこんなことを書いたかといえば、この本を読んだからである。私の持っているこの本は昭和59年発売の初版本である。当時からもう24年経ってしまっている。本もほどよく日焼けして、赤茶けている。多分買ってすぐ読んだと思うけど、内容は覚えていない。先日読んだ池谷伊佐夫さんの本にこの本のことがちょこっと書かれていて、気になったものだから読み返すことにしたのだ。
 この本は、ヘレ-ン・ハンフが『サンデー・レビュー』で絶版本を専門に扱っているイギリスのチャリング・クロス街84番地にあるマークス社の広告を見て、手紙に添え欲しい本のリストと一緒に送ったことから始まる。時は1949年10月5日である。ハンフの担当となったのはマークス社のフランク・ドエルであった。ドエルはハンフの注文した本を探し出し、アメリカにいるハンフの元へ本を送る。
 ヘレ-ン・ハンフは自ら貧乏作家で、古本好きと称しているが、生計はテレビの台本を書くことで立てている。古本好きもこの本を読んでいる限り、主にイギリスの古典作家に興味があって、それらの作家たちの本をドエルに注文している。
 しかし注文した本がすぐハンフの元に届くとは限らない。結構やっかいな作家たちの本を注文しているので、ドエルはそれらの本を探し出すのに苦労している。そのためなかなかハンフの元に本が届かない。ハンフは注文した本はどうなっているの?とキャンキャン吠えるし、本を探さないで、店でぼーっとしてるんじゃないのと毒づく。
 しかしそれは悪意があるわけじゃない。私もハンフの気持はよくわかる。古本好きのとって自分が探している本がなかなか見つからないというのは、結構イライラするものなのだ。まぁその分目当ての本が見つかり、手元でその本をさわり、ページをめくり、読んでみると、うれしさはひとしおなのだが・・・。ハンフも届いた本を見て驚き、感激し、ページにペーパーナイフを入れて読み、また感動するのである。
 この本を読んでいると、当時イギリスでは食料の販売統制がおこなわれていたようである。多分戦争終了後だからだろう。ハンフはドエルに肉やハム、卵(乾燥卵というのもあるらしいが、どんなやつなのだろうか?)や缶詰などをクリスマスや復活祭などのプレゼントして送っている。それはマークス社のドエルたちが苦労してハンフが注文した本を探していることのお礼であった。
 送られてきたプレゼントはマークス社の従業員やドエルの家族に渡り、そのためハンフとの手紙のやりとりが、マークス社の従業員、ドエルの奥さんや子供たちと広がっていく。あるいはプレゼントのお返しとして、ドエルがハンフに送ったテーブルクロスは近所の老婆の手編みで、それをハンフはえらく気に入り、その老婆との手紙のやりとりもある。もちろんハンフから送られた食料品はその老婆にもお裾分けされている。
 ここではハンフとドエル関係が店とお客という商売関係で終わるのではなく、古本を介して人としての関係に変わっていくのが、心地いい。それはドエルがハンフを一番最初に“マダム”と呼び、次に“ハンフ様”に変わり、さらに敬称を省いて“ヘーレン”になっていくのでもわかる。それだけ手紙や本、そしてプレゼントやりとりがお互いを親密化していったのである。いつの日か、ハンフがイギリスに行って、チャリング・クロスにあるマークス社を訪れたいという気持にもなり、ドエルや彼の家族もそしてマークス社の社員もハンフがイギリスに来てくれることを望むようになる。
 しかしハンフのイギリス訪問はなかなか実現せず、1969年1月8日付けのマークス社の秘書からの手紙で、ドエルが死亡したことを知らされる。読む側としては、それまでハンフとドエルの手紙のやりとりが書かれていたのに、いきなり秘書からの手紙でドエルの死亡を知ることになったので、正直驚いてしまった。
 訳者である江藤淳さんは解説で次のように書かれている。

「二十年の歳月にわたってつづけられたこのほのぼのとした交友に終止符を打つのは、フランク・ドエルの突然の死である。私たちが、フランクの死を告げる手紙を見て愕然とし、もう二十年も経ってしまったのか、と思い、人はやはり死んでしまうのだな、と思わざるを得ない。この切断は鮮烈であり、ひとことのコメントも添えられていないためにかえって粛然と襟を正させられる。つまり死が、この往復書簡集に作品の輪郭をあたえたのだということができる」

 たしかにハンフとドエルの往復書簡は読む側にとって、怒ったり、謝ったり、喜んでみたり、感謝してみたりして、素直な人間性とやさしさをそこに感じさせてくれた。だからそれがドエルの死によって終わってしまう残念さを余計に感じるのである。
 ハンフは最後にイギリスに行く友人宛に「イギリスのことは長い年月夢に見てきました。ただ、かの地の町のたたずまいを見るためだけに、よくイギリス映画を見にいきました。何年か前、私の知り合いのある男性が、イギリス旅行をする人は、見ようという目的のものが必ず見られる、って言ったのを覚えています。で、私ならイギリス文学のイギリスが見たいわって言ったら、彼、うなずいて、あるともって言っていたわ。
 あるかもしれないし、ないかもわからない。今私がすわっている敷物のまわりをながめると、一つだけ確実なことが言えます。イギリス文学はここにあるのです。
 ここにある私の古書を全部お世話してくださったありがたいお方は、数カ月前に亡くなってしまいました。その古書店の店主だったマークスさんももうこの世にはいらっしゃいません。でもマークス社は依然として残っています。もしチャリング・クロス街84番地の前をお通りになるようなことがあったら、私からよろしくって言ってくださいね。そうしてくだされば、大いに感謝いたします」と書いている。
 ここでハンフが注文したは、古さもあるけどきっとすばらしい装丁の本なのだろうなと思ってしまった。ウォルトンの『釣魚大全』や『ピープス氏の日記』(私のは岩波新書なのだけれど)などは、私も持っている本とは違い、まるで他の本のような感じがしてしまった。だってハンフがあれほど待ち望んだ本なのだから。
 いい本であった。


評価
★★★★★


書誌
書名:チャリング・クロス街84番地 ― 書物を愛する人のための本
著者:ヘレ-ン・ハンフ 江藤淳訳
ISBN:9784122011632
出版社:中央公論新社 (1984/10 出版) 中公文庫
版型:233p / 16cm / 文庫判
販売価:680円(税込)

2008年09月04日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 3

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 革命には膨大なエネルギーを必要とする。そのエネルギーとは、人、血、金、欲、武力、そして革命の裏付けとなる思想などであろう。そして革命が成ったとき、その余ったエネルギーを今度どうやって放出するかが問題となってくる。
 いわゆる消耗戦で、ぎりぎりのところで革命が成れば、そのエネルギーはほぼゼロとなるから、次の段階に比較的進みやすい。ところがそのエネルギーを使い果たすことなく、ほぼ温存してしまった場合、有り余ったエネルギーをどこかに放出しないと、今度は新しい政府の命取りとなる。まして結果が望んだこととはだいぶ違うとなれば余計である。西郷が持ち出した征韓論はそのエネルギー放出の一策でもあった。
 そもそも薩長の革命は、徳川幕府を倒すだけが目的ではない。幕藩体制も打ち壊し、中央集権国家を樹立して、初めて革命は完成する。その完成のためには廃藩置県がどうしても必要であった。
 廃藩置県の主役的役割を果たしたのは長州派であったが、これを実行に移すには薩摩を動かすしかなく、西郷を承知させなければならなかった。西郷にこの話を持っていったのが山県有朋であったが、西郷は廃藩置県をあっさりと承諾した。この時点で西郷は廃藩置県の承認者であった。司馬さんは「西郷はむしろ(廃藩置県に)積極的であった。かれは新政府樹立後、台閣に立つ者たちが優柔不断で、内乱終熄後何事もなしていない現状に優憤していたほどであった。あるいは維新をやった以上、歴史は藩否定にまで進展することを自覚し、自分の蒔いた種をそのようにして刈らねばならないとおもったのかもしれない」と書く。
 廃藩置県を実現するためには東京政府は兵力を持たねばならない。これよりさき政府は薩長土三藩から御親兵(のち近衛と改称)約一万人を東京にあつめていた。この兵力をもって、大改革をしようとする。薩摩軍は(島津久光をだまして)西郷みずからひきいて東上した。彼らにフランス風の軍服を着せ、階級を与え、近衛軍人にすることで、一挙に廃藩置県をやった。
 廃藩置県を明治政府がやるに当たり、その風当たりの強さが予想できたので、会議は紛糾したが、西郷は廃藩置県に反対するなら「この上は、もし各藩で異議がおこりましたならば、拙者がこの兵をひきいて打ち潰します」と言い切るのである。
 一方で廃藩置県は藩と士族階級の没落を意味し、兵を出した島津久光や薩摩系近衛軍人や士族階級の裏切りになる。それをわかった上で西郷は廃藩置県に賛成したのである。当然その恨みは西郷に向かっていいはずなのに、久光は別として、薩摩系近衛軍人は西郷を恨まない。大久保をを恨むのである。このあたりは不思議と言えば不思議である。
 西郷も薩摩士族の特権を奪ったのである。だから西郷自身「衆恨は私一身にあつまるでしょう」と言ったという。西郷は廃藩置県による士族の不満を一身でなだめ、抑えることに苦心しぬいた。「西郷はこの分のあわぬ作業のために内心傷だらけになってしまったにちがいない」と司馬さんも言う。
 その上、岩倉や大久保は廃藩置県に安堵して、政府ぐるみといったほどの大陣容で外遊してしまったのである。西郷は留守をさせられ、留守中の最大の問題は不平士族の反乱をおさえることであったが、西郷にとってこれほど苦しい仕事はなかった。こうした西郷の苦しみに薩摩系近衛軍人や士族階級は情義を感じたからであろうか、彼らの憤りは西郷には向かなかった。
 一方で彼らの功績がなければ、廃藩置県も出来なかったし、岩倉や大久保たちが大きな顔して為政者ぶっていられないはずであった。ところが、長い外遊から帰ってきた連中は、西郷のその苦しみを理解してやらなかった。特に大久保が理解すべきであったが、大久保は情緒感覚に天性欠けるところがあったため、それに対して冷然としている。だから不満は政府及び大久保に向かってしまった。西郷も配下の近衛軍人と同様憤りを覚えたであろう。
 その西郷が、近衛軍人や士族たちの憤りを他にむけるために征韓論をもち出した。西郷としてはこれ以外に、これ以上おさえつづける自信がなかったのである。その征韓論を大久保が蹴った。その理由は今日本が極東において武力紛争など起こせるほどの国力がないからであった。
 司馬さんは面白いことを書かれている。
「この明治初年の征韓派・非征韓派のあらそいは、ごく簡単な図式として考えることもできなくない。
 明治四年に出発した岩倉大使以下の洋行組が非征韓論者であり、日本に残留した西郷隆盛以下が征韓論をとなえたということである。海外に出れば一目瞭然に世界になかの日本というものが把握できるはずであり、いまの時期に極東で武力紛争をおこすことがどういう意味をなすかということがわかるはずであった」と。そして西郷は去った。しかし不満のエネルギーは蓄積する一方であった。それをなんとかしようと、大久保利通と西郷従道(西郷隆盛の弟)らによって台湾出兵が行われる。
 ことの発端は、明治四年十月那覇港を出港した宮古島船、八重山島船あわせて二隻が暴風のため漂流した。そのうち宮古島船が台湾の南端に打ち上げられ、高砂族に襲撃され五十四人が虐殺された。「報復のため、出兵すべきだ」という意見が出始める。しかし日本はこれをどう処理していいかわからなかった。ここに厦門の米国総領事のリ・ゼントルという南北戦争あがりの山師的人物がけしかける。台湾を取れというのである。西郷従道は台湾を日本領にすることは考えていなかったが、征伐することを考ええる。それも国内の不満分子を連れて、そのエネルギーを台湾に向けさせようとしたのである。「要するに、汽船いっぱいに壮士(薩摩系近衛軍人や士族階級の不満分子)を乗せて台湾の高砂族をなぐりつけにゆくだけのことを、従道は考えていたのである」。
 これは基本的に西郷隆盛が主張する征韓論の主旨と何ら変わらない。従道は征韓論に反対であったが、征台論は国内に沸騰する征韓気分を鎮めるためのものであった。行く先が違うだけのことであった。
 しかし大久保はこの話に乗った。乗ったどころの話じゃない。率先して征台に乗り出す。西郷従道は台湾に出兵する。そしてそこそこの戦いで征台は終わるのだが、大久保は中国清に自ら赴いて、管理不足だと喧嘩を売る。挙げ句の果て賠償金五十万ドルを分捕ってしまうのである。この巻はここで話が終わる。

 それにしてもこの話は西郷隆盛と大久保利通の衝突がメインとなっている。そのためこの二人の人物が魅力的な人物として描かれ、他の人物は馬鹿、あるいは二流の人物に感じさせられる。
 西郷や大久保以外、あるいはそうなのかもしれない。
 たとえば江藤新平がある。江藤は西郷が去った後、自らも東京を去る。その後佐賀の乱を起こす。維新政府を倒そうと考えるのだが、江藤自身立ち上がれば、西郷も立ち上がると勝手に思ってしまう。
 しかし機が熟していない。西郷はそのことがわかっていたが、江藤はわからなかった。だから江藤は西郷に「私が言うようになさらんと、あてが違いますぞ」と怒鳴られるのである。
 今立てば、大久保の思うつぼで、明治政府の兵力を強力にするだけのことであった。大久保は征台の前に、自ら佐賀に出向き、乱を鎮圧する。そして江藤をみせしめにするため、政府に逆らえばこうなるんだぞとさらし首にするのである。いわば西郷たちら不平分子に対するみせしめになっただけであった。
 


書誌
書名:翔ぶが如く 3
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617305
出版社:文藝春秋 1985/08 出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年08月31日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 2

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 明治という新国家に内蔵している問題を司馬さんは次のようなものだったと言う。
「歴史的にいえば明治政府ほどつらい政権ない。どの時代の革命政権も前時代より租税を安くするところから施政を出発させるのが普通であるのに、旧幕府よりもはるかに民衆の財政負担を重くせざるをえなかった。その最大の理由は明治革命の主目的が近代国家になるためのものであったからだ。やってみたものの、近代国家というのはべらぼうに金がかかるものだった」

「それらの無理は、百姓たちにしわよせされた。このため各地で一揆がしきりにおこった。軍費を負担させられるだけでなく、旧幕府もそれをしなかった徴兵の義務を百姓に課したのである」

 しかも始めたばかりであったから、体制が整っていない。その上幕末から大して時間が経っていないものだから、意識として未だ江戸時代をを引きずっているといっていい。そこに征韓論の是非の根拠がある。つまり大久保側からすれば、国としての体制も整っていないし、金もない状態で征韓論を認めれば、戦争に行きつくことは必死である以上、そんなことができるわけがないと主張する。大久保は国家を数量計算で見ようとする実際面から離れず、西郷の主張するところと次元を異にしていた。
 一方で「西郷の立論は現実への把握がとぼしく、多分に実際面において堅牢でなかったが、しかし西郷の哲学的論理からすればそれこそ実際的であり、なぜなら日本民族はこれによってこそ苦難を経て草木とともに一新するだろう、維新の意義はそこある、極端にいえば日本民族の半ばが戦火に倒れるともアジアの一新に役立てばそれでよい」といわゆる精神論で征韓論を主張する。
 要は征韓論の是非は現実面でいくか、精神面でいくか、それによってスタンス決まってしまうのであった。しかし「廟議は、討論において結局大久保が優位に立った。金がないからだめだ。という、財政面から押しつづけてゆけば、いかにすぐれた政策案でも無力にならざるをえない」のである。
 が、征韓論は一度勅許が条件付きで降りている。西郷にすれば、これ以上何をする必要があるかというのが心情であった。だから西郷は以前のような行動はしない。その点、前に私は不思議だと書いた。そうした態度を西郷が取ったのは「『公明正大の正論が堂々とまかり通る政府であるはず』というのが、西郷の多分に願望をこめた政府観で、そういう政府をつくるためにおびただしい流血のすえに成立した政府なのである。その政府を作った西郷としては、太政官政府を幕府のように見たくはなく、まして幕府を倒したときのやり方をこの政府に対して試みようとは思わなかった」からだと司馬さんは説明する。なるほど。自分が作った新政府は、誠意を持って主張すれば意見の通る政府であって欲しいし、そうでなければならないはずだとする西郷のなら、これ以上余計なことはする必要はなかったのだろう。


閑話休題
 この巻は征韓論を通して西郷と大久保の意見の戦いを描くことメインにしているが、同時に西郷、大久保の人物像にも当然ふれる。司馬さんはまず大久保について次のように言う。
 「かれは日本国の政綱を攪るにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷といえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。にべもなかった」と。だからこそ「やがて大久保は、彼が予感したように、殺されるべき人物であった。大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった」という。
 一方西郷は「本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。(略)げんにかれは幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をも集団をもまた世の中をもうごかした。西郷が放射するその雲間のきらめきのようなものを、ひとびとは政治的人間の徒類のなかでほとんどありうべからざるものとして感じた。西郷においてひとびとがなにか神聖なものを感じていたのは、そういうことであろう」と人々が西郷に引きつけられる理由の一つを説明する。さらに、「西郷は単なる仁者ではなく、その精神をつねに無私な覇気で緊張させている男であり、その無私ということが、西郷が衆を動かしうるところの大きな秘密であった。人間は本来無私ではありえず、ありえぬように作られているが、しかし西郷は無私である以外に人を動かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常な姿にひきすえることはできないと信じている男だった」。西郷の人望は西郷の無私によって動かされたものによるのだろう。
 ところで西郷たち革命家には革命家が持つ特別な精神体質があるように思えると司馬さんはいう。曰く「革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。西郷、大久保、木戸などは、旧幕府が一見盤石な重みをもっていたときに志をおこし、奔走し、法網と偵吏と刀槍のなかをくぐりぬけるという血みどろの前歴もっている。同時代でかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者いたが、しかしそれらのひとびとが日常の常識的世界の安らかさのなかで過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治以後である。交わりつつも、ついに交わりきれないものがあるのは、この連中を動かしてきた志ーある種の肉腫ーのようなものが邪魔をするのかもしれない。さらに西郷のように、その肉腫の疼きで行動してきた過去のさまざまな過程において、結果として旧主の島津久光を裏切るかたちになったり、あるいは生死を共にした多くの下僚(桐野ら)とのあいだに理屈を越えた恩愛の情が生じてしまっている」という。(その点「板垣退助や副島種臣にはその前歴が革命家ではなく、単に藩勢力の代表者として入閣していたに過ぎないので、そういう過去から持ち越してきた厄介な荷物はなかった」と彼らとは人間が違うんだよといっている)
 伊藤博文に関しても、「この時期の伊藤には軽快な政治処理能力はあるにしても、西郷や木戸が持ち、むしろそれによって苦しんでいる哲学は持たなかった。志士仁人の時代は過ぎ、すでに処理家の時代がきている。新国家に山積している解決困難な諸問題や諸事務を解決するにさしあたっては哲学は不要であり、処理家の手腕を必要とした。伊藤が、西郷退治の黒子として活躍しているのは、処理家が登場しようとしている新時代を象徴しているといっていい」と伊藤の台頭を説明する。西郷自身「自分はもはや世の進運に役立たぬ旧物」と感じていたが、そんな中征韓論は西郷にとって最後の情熱を傾けられるものであったし、存在感が示せるものであった。しかしそれは明治政府にとって命取りになるので、何とか阻止せねばならないことでもあった。西郷は「旧幕府より明治政権を小さく見ていたが、旧幕府がすでに歴史的生命をうしなっていたのに対し、明治政権は弱小ではあったが、誕生してまだ若々しくある。若いというのは、この誕生したばかりの権力を懸命に守ろうとする情熱が権力内部に横溢していた」ことを軽く見ていたのだろう。それが西郷の敗北につながったわけだ。

 さて、廟議は翌日に持ち越されたが、西郷、大久保とも一歩も引かず、三条が「万策尽きました」と西郷の征韓論に決定したのであった。
 どの後大久保は紋服を着用して三条に自ら辞表を手渡した。三条は封書の中身を見て絶句する。とりあえず詳しい話を聞きたいと、大久保を中に招き入れようとするが、大久保は「いいえ、ここで失礼します」、「これにて」と背をひるがえした。大久保にとって、自分が西郷と対決するにあたり、参議となり、しかも信用おけない三条や岩倉が反征韓論の立場に豹説しないという念書まで書いたのに、それを裏切った。だから大久保にとってこの態度は当然であった。
 ところが三条がこのあと倒れてしまう。伊藤は三条が偶然にしろ倒れたことをいいチャンスとして利用する。三条の代理をしたのは岩倉具視であった。岩倉に太政大臣職を代理すべき旨の勅命が下る。
 そんな岩倉の元へ副島種臣、江藤新平、板垣退助らは西郷を誘い、訪れる。廟議で決定した征韓論を早く上奏しろというのである。岩倉は「あすにも上奏いたす」と四人に言うが、それは岩倉自身に説を上奏するということであった。つまり岩倉も征韓論が愚論と考えているが、とりあえずそれを実施するには日本海軍、陸軍の整備が整うまで猶予するというものであった。これに対して江藤新平は岩倉は三条の代理なのだから、三条が決めたことを実行すべしと迫る。そうでなければ三条へ不忠実であり、廟議を侮辱するものだと言い切る。
 ところが岩倉も腹を据えている。岩倉は三条より代理を頼まれたわけではない。もしそうなら江藤の言うとおりであろう。しかし自分は天皇より代理を命じられた。代理という名称はついているけれど、岩倉は三条から独立した存在であって、政治の最高責任者が変わったのだから、自分の考えを天皇に上奏できると主張するのである。
 このとき別室ではこのやりとりを聞いている人物がいる。桐野利秋である。西郷がこのとき連れてきた。岩倉への脅しである。桐野は幕末中村半次郎といい、「人切り半次郎」と恐れられるほど、多くの人を切ってきた人物である。こんな人物が別部屋で岩倉と西郷らの話を聞きながら、刀の柄をかちゃかちゃやっているのだからたまったもんじゃない。しかし岩倉は耐えた。そして話が尽きた頃、一座をにらみまわし、「わしのこの両目の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思ってもそうはさせんぞ」岩倉の生涯の中でもっとも凄味のある一言を吐く。これで勝負は決まった。四人の参議は席を立つ。そのとき西郷は「右大臣、よく踏ん張り申したな」と言ったという。まさしくその通りであり、たぶん西郷の性格柄、このときの岩倉に感動したのだろう。「もうなにも申さぬ。勝手になされ」と辞した。岩倉はちゃらちゃらした公家ではなかった。幕末動乱の中を生き抜いてきた人物であった。だからこそこの言葉には凄味がある。
 このあと西郷は東京をひきはらうべく行動する。ただ一人暇乞いに行く。幼なじみであり、維新ではともに戦い、征韓論では政敵となった大久保利通である。このとき大久保のもとには伊藤博文がいたが、伊藤が席を外そうとすると西郷はかまわないという。西郷は大久保に次のように言う。
「一蔵(大久保)どん、おいはくにへ帰っど」
「辞表を送っておき申した」
「今後の国事(あとのことは)、よろしゅう頼んみやげ申す」
これに対して大久保は、怒気をみせ、「それは吉之助どん、おい(俺)の知った事か。いっでんこいじゃ(いつでもこうじゃ)。いまはちゅう大事なときにおまんさぁ、逃げなさる。後始末はおい(俺)せなならん。もう、知った事か」と言い放つ。西郷は「仕様がない」とつぶやいて立ち上がった。
 この日が両者の永遠の別れとなる。私はこの場面思わず絶句してしまう。妙に二人のこの会話に感動してしまった。

 この二人には征韓論に関しては妥協点が見いだせなかった。相反するだけである。結果として大久保が勝ち、大久保は自分が描く国家建設に邁進する。日本が近代国家となるためには、まだ国内に国民意識がない。だから制度もそうだけど、国民の意識も近代的なものに変えていかなければならない。その面倒を国が見るようにするのである。言ってみれば国民は馬鹿だから、国や政治家、役人が教え、面倒見てやるということである。確かに維新直後ではそうする必要があったかもしれない。けれど大久保が倒れた後、その意志を歪曲して継いだ山県有朋がおかしくしてしまい、その意識は現代になっても残っている。日本が今でも政治家、役人がやり放題の国家なのはこのためである。彼らの国民を小馬鹿にした態度も未だ持ち続けているのも、明治以来のものではないかと思う。
 もし西郷の征韓論が通っていたら(この時点で現実にはあり得ないのだが)、西郷がもっていた精神のあり方が日本人に植え付けられていたかもしれない。そうすれば、今の日本人はもっともっと自分たちに自信を持ち得たかもしれないし、もっと謙虚であり得たかもしれない、と思ったりする。


書誌
書名:翔ぶが如く 2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617206 (4163617205)
出版社:文藝春秋 1985/08出版
版型:354p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)

2008年08月29日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 1

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 西郷隆盛のことを知りたいと思った。それでこの本を読みはじめる。実はこの本を手に入れてから三巻までは読んでいる。ところが明治政府の台湾出兵あたりから面白くなくなってしまい、頓挫してしまった。今回は気合を入れて読んでみようと思っている。
 さて、この巻で気になる問題は征韓論と、明治維新を成し遂げ、新国家を建設した志士たちがどういう人物たちであったかである。
 まずは征韓論である。征韓論がわき上がる背景にはいくつかの理由がある。征韓論は「日本の幸福」と「韓国の幸福」ももたすものだと考えられていた。
 日本は明治維新をやって富国強兵をめざした欧化政策をとった。それを朝鮮に向かって「貴国もそうせよ」と迫ったのである。それは革命の輸出であった。「『韓国の幸福』とは韓国の国家組織も社会制度も世界から見れば老化しており、このままだと、ロシアの南下によって併呑されてしまう。そうなる前に韓国を開国させ、世界性をもたせ、ともに列強の侵略ふせぐことであった」。そのためには「朝鮮の政府を伐って朝鮮人民の目を醒ませ、この人民に維新政府をつくらせてそれと同盟するよりほかない」という考えに至るのである。
 最初朝鮮側に対して、「日本側はあくまでも鄭重な折衝法をとった。しかもいささかの野心もなく、友好と親切から出た働きかけであった。しかし朝鮮にとっては余計なお節介であった。朝鮮国の支配者にすれば、開国すれば国内体制がくずれるのである。どの国の支配階級が、自分の支配体制の崩壊を賭けてまでして他国の変な親切をうけいれるであろう。
 折衝は明治初年から足かけ六年つづいた。朝鮮側は毎度峻拒し、毎度罵倒した。結局は日本の壮士気分を激発させる結果をみた」。
 日本のこの気分は秀吉の無知の段階から少しも出ていない。朝鮮人が「倭奴(ウエノム)」と呪いの言葉を持って日本人を見るようになったのは豊臣秀吉の朝鮮討入の「壬辰倭乱」以後であったが、加害者である日本側はその後朝鮮とその民族を知ろうとする努力怠っていた。
 その上「日本における外交問題は、他の国におけるそれとはよほどちがった概念と性質をもっているといえるかもしれない。外交が技術であるよりも国民的情念の表現、もしくは情念によるヒステリー発作というにちかい性質をもっているのではないかとさえ思える」と司馬さんが言うように、特に「革命早々の日本国家の運営者たちは、むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きかった」から、征韓論は日本における重要な課題となっていったのである。その急先鋒が西郷隆盛であった。
 西郷は征韓論が「日本の幸福」をもたらすと考えていた。そもそも倒幕運動や明治維新はあまりにも短時間で達成してしまったため、薩摩軍人たちはふりあげたコブシのやりばもなくて鬱屈していたし、旧幕府側の士族階級もこの後行われる政策、「たとえば諸大名の版籍奉還があって、のち諸大名および士族階級が土地人民の支配権をうしなうという廃藩置県がおこなわれた。これらに並行して徴兵制度が布かれ、士族階級の最後の名誉であった武の特権までうばわれ、庶民に転落した」事実は当然不満の種となった。
 変な言い方であるが、もう少し倒幕運動や明治維新に時間がかかっておれば、多くの志士や士族階級たる武士に犠牲が出ていただろう。そうなれば、彼らの存在そのもの数がぐっと減ってしまい、維新後起こる彼らの不平不満など少数意見になっていたかもしれない。もちろん会津などには多大な犠牲が出たけれど、総じてあっけなく明治維新がなってしまったことが、後で大きな問題を抱えることなったわけである。
 西郷隆盛はそうした不満や悲鳴をある程度仕方がないと理性では思うのだが、一方でそれを見るに忍びなかった。それは司馬さんが言うように「西郷は『旧階級と旧階級の精神』というものを率いて幕府を倒した。ところがそれによって出来あがった新国家が自分を生んだ『旧階級と旧階級の精神』を圧殺した」ことの煩悶でもあった。
 確かに革命にはある程度の犠牲はやむを得ないところがあることは事実であるが、その犠牲を単に仕方がないことだとは西郷は受けいられなかったのである。不満や悲鳴の声を西郷は聞いてしまったのであった。「西郷は革命の成功者でありながら、革命が当然ひきおこすおびただしい惨禍のほうを一身でひきうけよう」とし、「巨大な感情量をもって幕府を倒した西郷は、革命の成功で無用になったその超人的感情量を、維新によって没落した士族階級への憐憫にむけたのである」と司馬さんは言う。
 そんな西郷の自己矛盾(革命には犠牲がつきものというのと、それを放っておけないという気持)と、志士たちの高揚した気分のはけ口と全国二百万人以上といわれる没落士族を救う解決策が征韓論であった。西郷はそれに飛びついた。
 さらに言えば、明治新政府の誕生と、廃藩置県は薩摩藩の島津久光に対しての裏切りでもあった。事実久光自身、西郷や大久保を裏切り者と罵っていた。特に西郷は久光の罵倒に自分の身の置き場所がなく、絶えずそれを探していた。つまり西郷自身自分が死ぬことを望んでいた。自分が遣韓大使として朝鮮に渡れば、必ず殺される。それはそれでいいと思っていた。いやそうあって欲しいと願っていたところがある。西郷が朝鮮で殺されれば、日本の重鎮が殺害されたのだから、朝鮮出兵の大義名分も整うことにもなると考えていた。
 ここで面白いと思うのは、西郷は明治革命政府で陸軍大将、近衛提督で明治の陸軍を掌握していた。やろうと思えば、これらの軍事力をもっ自分の主張する征韓論を簡単に押し通すことが出来たのに、ただ自分を遣韓大使に任命してくれと閣議でひたすら哀願泣訴するのである。幕末あれほど根回し、策を弄し、力にものを言わせた人物がただ嘆願するのである。この豹変ぶりはどうしてなのだろうかと思うくらいである。
 この巻では岩倉具視が参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通らを伴って欧米諸国を巡っている間(いわゆる岩倉使節団のこと)、その留守を預かっていた三条実美に西郷が迫り、困り果てた三条は西郷を遣韓大使として派遣する旨を了解し、天皇の勅旨を得るまでで終わる。但しこれには岩倉らが帰国するまで待って、再度討議するという条件がついていた。西郷はそれでも天皇の許可が下りたのだから、自分は遣韓大使として派遣されるだろうと思っていた。

 ところで明治維新で活躍した人物たちを司馬さんはどう書いているだろうか。例によってわざと話を逸脱したり、あるいは休んで登場人物たちについて語る手法でこの小説は書かれているが、それが面白いのでいくつか書きたい。
 まずは西郷隆盛である。司馬さんは西郷を「幕末の西郷には維新後の国家設計の青写真などなかった。せいぜいうちに王道楽土をつくり、外は列強のあなどりを防ぐ、というだけの輪郭の不明瞭なものであった。倒幕についての政略ではあれだけ緻密で雄大な構想と着実で地道な実行形態をとりつづけたこの人物が、新国家設計については一見まるで手ばなしの無能な姿を見せる」と言い、「西郷は政治は才略より人格であるという考えをとった」と語る。
 一方大久保利通については「大久保は、官僚専制思想家である。日本の町人百姓はまだ、欧米の人民ではない。未熟なること犬猫同然である。
 と大久保は考えていた。犬猫を欧米なみの『人民』に向上させるまでに三十年かかる。憲法も自由も権利もそれからのことだ、それまでは有司(官吏)専制という指導主義でゆかざるをえず、内務省は犬猫的な日本を欧米なみの日本たらしめるための強力な権力機構たるべきである、というのが大久保の思想であった」と言う。
 木戸孝允は「つねに大困りの憂鬱屋であったが、包容力もあった。木戸は意見の人であったが、しかしその意見に長者の風があったことは、これは一つの根から出ているとみていい」と評する。
 三条実美に関しては、「その実歴からどういう抱負も器量も能力もひき出せない。ただ誠実であった。この誠実さは富家の婿養子に適いていたが、しかし一国の太政大臣としては悲劇的なほど無能であった」と手厳しい。
 山県有朋や伊藤博文に関しては、司馬さんは結構厳しい評価を下しているように思える。司馬さんはまず、「(幕末)その奔走家としては西郷や大久保のほかに長州の木戸孝允、土佐の坂本龍馬などがいて、幕府をたおした。倒したあと、かれらのうごきがにわかに鈍くなり、代わってうごきが活発になるのはかれらの後輩たちで、そのうち頭をあげてくるのはみな議論下手だがしかし実務の才の横溢した連中であった。とくに長州人が多い。伊藤博文と山県有朋がその双璧であろう」と言う。半ば皮肉混じりで「革命期に最後まで生き残るのは、この種の実務的な出世主義者であるかもしれない」と自分の思いを語る。
 特に山県に関しては「日本の三権分立の政体をやがて破壊するにいたる『軍人勅諭』を山県憲法発布に先立って明治十五年実現している。(これは)軍隊をもって天皇の私兵であるかのごとき印象をあたえしめている。(略)昭和期に入ってこの勅諭が政治化した軍人をして軍閥をつくらしめ、三権のほかの『統帥権』があると主張せしめ、やがて統帥権は内閣をも議会をも超越するものであるとして国家そのものを破壊せしめるもとをつくった」と言い、さらに「国権主義は山県がまず種をまき、大久保がそれを苗にした。やがて西郷・大久保・木戸の死後、権力を得た山県がおもう存分ふるまってそれを鬱然たる大樹に仕上げてしまったのだが、この国権主義というのは、国民を国家という鋼鉄のたがで締めあげ、締めあげることによって近代国家を速成でつくりあげようとする思想で、結局はこれが日本国家をつくり、太平洋戦争の敗北によって敵国から打ちくだかれるまでつづく」と言い切る。
 これは多分司馬さんが常々言っている「あの馬鹿な戦争(太平洋戦争)を起こしたのは誰なんだろう?」と自分が体験した戦争経験を振り返ると、多分ここに突き当たるのではないかと思う。その思いが山県に批判的なるのではないだろうか。司馬さんが描いてきた幕末の志士たちには、志があって、熱い情熱があり、更に「滅びの美学」を持ち合わせた人物たちであった。決して伊藤博文や山県有朋などの実務家など描きたくもなかったのではないかといつも思う。


書誌
書名:翔ぶが如く 1
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617107 (4163617108)
出版社:文藝春秋 1984/02出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)

2008年08月21日

司馬遼太郎著『殉死』

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 歴史というのは非情なもので、ある程度時間が経って、その後の変化などを加味して時代考証をしたとき、例えば指揮官が有能な人物であったか、あるいは無能であったか、はっきりとしてしまう部分がある。そういう意味では乃木希典という人物は指揮官としては無能な人物であったようである。ただ明治天皇が崩御した後、追って殉死したという一点のみで、乃木という人物を過大評価してしまったところがあるようである。
 司馬さんはこの本で乃木希典という人物がどういう人物であったかをこの本で語る。従ってこの本は小説とは違う。これは推測なのだが、長編『坂の上の雲』で集められた資料から、乃木希典のことが独立して、この人物評伝となったのではないだろうか?
 乃木希典はわずか六カ月しか洋式軍事教育を受けていない。ただこの時代他の者もこの程度の軍事教育しか受けていないから、乃木だけがひどいというわけではないらしい。しかし乃木の筋目がものをいった。つまり乃木は長州人であったことが大きく、しかも乃木は吉田松陰の師匠玉木文之進と濃い縁続で、乃木が十六歳の時玉木文之進の内弟子となったため、松陰の相弟子でもあった。この筋目は明治という時代のとって抜群の筋目であった。つまり乃木の出世は自分の出自が明治新政府でものをいったからなったものであった。決して能力や才能で出世した人物ではなかった。そのため司馬さんは「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかった」と断言する。ただ「詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」と皮肉混じりで付け加える。
 「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人物として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できる」タイプで、「自己美の完成のために絶えずそこに意識を集中してきた。かれは軍事技術者よりも自己美求道者であった」。「乃木はもともと死のなかに唯一華やぎを求める思想家であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる低の行者であった」から、「自分の軍事能力に(あるいは不運に)絶望するとき、つねに自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救いだし、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射的におこるようであった」。
 こんな軍人らしくない人物を指揮官にし、日露戦争の旅順攻撃を任せたのである。もともとこの戦争では旅順は陸軍の目標にはなっていなかったらしい。ただ海軍の要請で、旅順を攻撃目標にした。陸軍が旅順に停泊している軍艦をたたいてくれれば、海軍はやがてやってくるバルチック艦隊だけと戦えばいいからである。乃木は旅順に到着し、一日かせいぜい三日もあれば陥落できると大本営に連絡したが、完全要塞化している旅順は落とせなかった。何と陥落に百五十余日もかかり、六万人死者を出したのであった。しかも児玉源太郎力がなければ、攻略さえ難しかった。これを無能と言わなければ何と言えばいいのかと言いたくなる。
 そして自分の能力なさを自殺することで自らを救おうとし、銃弾がばんばん飛んでくる前線に何度も立とうとするのであった。そのたびに部下が止めにかかる始末であった。
 乃木希典とはその程度の人物だった。こんな人物を指揮官として頭に置き、戦ったのである。部下や兵士たちはたまったもんじゃない。
 ただそう思うのは現代の私たちである。乃木に従った部下や兵士たちは「封建の世が去ってまだ遠くなく、しかも封建の世に躾られた節度と、権威への服従心と、つねになにごとかを仰ぐ心をもち、つねに崇敬すべき対象をもち、もしその崇敬すべき心がわずかでも自分において薄らげば天地がくずれるのではないかという畏怖心をあわせもっていた」人々であった。だから乃木に従ったのである。そういう意味ではたとえ乃木が無能であっても関係なく、もともと「動機が美であれば結果はさほど重視しなくてもよい」という倫理観で人間関係が成立していたのである。
 そして乃木もそうした倫理観を明治天皇にもっていた。だから天皇が崩御すれば、殉死するしかなかったのだろう。乃木が天皇を崇敬すればするほど、天皇は心地よかったに違いない。明治天皇は乃木の無能さをたぶん知っていたのであろう。しかし乃木が持つ倫理観は天皇にとってみれば「ういやつ」という気持ちにさせたに違いない。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などは能力の提供者として明治天皇に仕えたが、乃木希典は誠実の提供者として仕えただけであったと司馬さんは言い切る。
 そして殉死は先にキーンさんが言ったように、乃木をして天皇や皇室への忠義者とさせた。これは昭和の軍閥には有り難い存在であった。能力もないのに自分が作り上げた「美」に酔いしれるだけでもたちが悪いのに、殉死までも忠義の体現者と崇められるのだから、余計にたちが悪い。


評価
★★


書誌
書名:殉死
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163006208 (4163006206)
出版社:文藝春秋 1981/08出版
版型:206p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年07月06日

ハインリッヒ・シュリーマン著『古代への情熱』

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 この本は高校生の時に読んだ。とにかく子供の頃思い描いたことを一生かけて成し遂げていくシュリーマンの意志の強さと、そのために努力を惜しまない姿勢に、高校生なりに、感動していた。こんな人もいたんだというところである。
 あれから三十年以上の年月が経って、改めて読み返してみた。昔と同じ感想しかもてなきゃ、それだけ進歩していないことになるので、しゃくなところもあるけれど、やっぱり“すごいな”の一言に尽きる。
 この本の副題には「シュリーマン自伝」とついているが、シュリーマン自身が自分のことを書いたのは、「少年時代と、商人としての人生行路」だけで、後の部分は適当にシュリーマンが書き残して文章をはさんで、その後のシュリーマンの活動を描いている。最初の部分と、その後の文章が読んでいて、視点がが違うな、明らかに第三者が語っているなと感じたのは、こうした理由からである。この本の原題を直訳すると「死までを補完した自叙伝」となるらしいから、なるほどとうなずける。
 さて、ハインリッヒ・シュリーマンは1822年にプロイセン王国のメックレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ生まれ、父親はこの町のプロテスタントの牧師であった。シュリーマンはこの町に伝わるさまざまな伝承話に子供の頃から興味を持っていて、言い伝えで途方もない財宝が隠されているという話を聞いて、何で掘り出そうとしないのだと父親に尋ねていた。子供の頃からそんな傾向を持ち合わせていたようである。
 八歳の時ゲオルク・ルートヴィヒ・イェラーの『子どものための世界史』という本をプレゼントにもらい、そこにアイネイアースが父アンキーセースを背負い、アスカニオスの手を引いてトロイを脱出する挿絵を見て、トロイの遺跡の存在を確信する。以来シュリーマンはトロイのことを考え続け、いつかトロイを発掘するという夢を持ち続ける。
 しかし個人で遺跡を発掘するには莫大な資金を必要とする。シュリーマンはギムナジウムを退学して商人の徒弟になる。その後、オランダの貿易商社に入社した。以後クリミア戦争もあって、巨万の富を得た。
 その間トロイを発掘するための勉強は欠かさず、特に自ら考えた音読による文章を丸暗記し、多国語を理解する。覚えた言葉は、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語だという。
 そうしてトロイの発掘の資金が貯まると、さっさと事業をたたみ、トロイの発掘にかかることになる。ペロポネス半島のヒッサリクの丘にトロイがあるだろうと推測する。それは「彼にとってホメロスに関する言葉は福音書であり、彼は堅くそれを信仰していたから、『イリアス』の詩句にぼんやりと示される地形は、自由に創作する詩人の空想の産物にすぎないのではないかという学者たちの疑念など、てんから問題にしなかった」からである。ホメロスの記述がすべてであり、その合致しそうな地形があれば、それがトロイがあった場所であると信じて疑わなかった。そしてどんどんヒッサリクの丘を掘り進める。この本を読んでいると、この丘にはトロイだけでなく、その後ギリシア、ローマ時代にも町が作られていたようだ。シュリーマンはトロイの遺跡を発掘するのが究極の目的であったから、そうした遺跡を破壊してその下にあるだろうトロイ遺跡を発掘していく。しかしそのシュリーマンの発掘の仕方は現在批判されているようだ。
 1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見した。また1876年にミケーネでアガメムノンの黄金のマスクを発見した。


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 シュリーマンはトロイ遺跡を発見し、(実際はシュリーマンがトロイの遺跡だとしたのは、それ以前のものだったらしいが)古代ギリシア以前にエーゲ海に文明が発達していたことを証明することとなった。
 ドイツ人のルードルフ・フィルヒョーは「正しい前提から出発したか、それとも誤った前提から出発したかということは、今日では無意味な問いである。成功によって彼が正しいと判定されただけではなく、彼の調査の方法も正しかったことが実証されたのだ。いや恣意的であったかもしれないし、しかしこの心情の欠点、これを欠点と言ってよければだが、この中にまた彼の成功の秘密もひそんでいたのである。たしかな、いや熱狂的な信念につらぬかれたこの人を除いて、一体だれが、長年にわたるああいう大事業を企て、資材からああも莫大な資金を投じ、果てしなく積み重なっているように見える廃墟の層を掘りぬいて、はるか下に横たわる原地盤に達したであろうか。もし空想力にスコップが動かされなかったら、焼けた町は今日なお地中深く埋もれているであろう」というのは、まさしくその通りである。
 それにしても先のシャンポリオンにしてもこのシュリーマンにしても何かにとりつかれないと、それもとことんとりつかれ、発見に到る。凡人にはただただ呆れるばかりなのだが、いってみれば狂気のなせるワザかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:古代への情熱―シュリーマン自伝
著者:ハインリッヒ・シュリーマン/関 楠生 訳
ISBN:9784102079010 (4102079017)
出版社:新潮社 (2004-09-05出版) 新潮文庫
版型:181p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)

2008年06月20日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』下

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 どうも感激がわかない。出版された当時はきっとワクワク、ハラハラしながら読んだに違いなのに、今回読み直してみると、それほどでもない。

 1990年8月にイラクがクエートに武力侵攻し、国連の度重なる撤退勧告を無視したため、翌1月17日にアメリカを中心とする多国籍軍によるイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )が始まった。この本はいわゆる“湾岸戦争”を舞台にした話である。
 もともとイスラエルの情報機関モサドが抱えていた内部通報者で、イラクの幹部である“ジェリコ”から、湾岸戦争でイラクが何を考え、どんな兵器をもっているかという情報を今度はイギリス、アメリカの情報機関が彼から得ようとする。その情報の直接の受け渡しするのがマイク・マーティンである。マイクは最初クエートに入った経緯は先に書いた通りで、その後バクダッドに潜入する。ジェリコは多国籍軍に貴重な情報をもたらしてくれるが、その情報の中にフセインが核兵器を所有して、発射準備をしているという情報が入った。それがフセインのとっておきの兵器“神の拳”であった。
 詳しいことはわからないが、核兵器を自国で作る場合、濃縮ウランを作る必要性があり、それには時間がかかる。多国籍軍は計算からイランが核兵器を持てるわけがないと推定していたが、それが可能であるとわかると、空爆後、歩兵を投入すれば、甚大な被害が及ぶ。マーチンらは核弾頭を積んだロケット基地の正確な位置を知らせるため、一度バクダッドを脱出した後、再度イランに入る。

 この本は今読むと、明らかに失敗作であろう。というのもイランはその後大量破壊兵器である核兵器も生物兵器も所有していないことが明らかになったからだ。
 ここにフォーサイスの現代の紛争地域を舞台にした小説そのものが、ただ単に情報戦のすごさや兵器のすごさを描くだけになってしまっている不満がある。確かに当時としてはタイムリーで、新鮮味もあっただろうが、結局こうして時間が経って読み返してみると、古びたエンターテイメントとしてしか楽しめない。正直な話、読み返すに耐えないものになってしまっている。風化してしまっているように思えてならないのだ。
 最初からフォーサイスの作品はこんな危ない要素を含んだ作品ばかりだったのだろうか?違うと思う。少なくとも初期の三部作はそうではなかった。少なくとも歴史というものに濾過された事実を駆使して、描かれた作品は今でも読み応えがあると思うのだ。歴然たる事実の重みとでもいうものが、ものを言うものだから、読んでいても読み応えがある。
 今の時代を描くエンターテイメントを要求されると、こういう結果にならざるを得ないのかもしれない。トム・クランシーが兵器のすごさばかりを描くことで、一時話題になって、もてはやされたけれど、いつか結局それだけじゃないかということで、飽きられしまった。それとも一過性のものとして、命をかけるプロの仕事を楽しめばいいのだろうか?なんかフォーサイスもトム・クランシーと同じ道を歩みつつあるんじゃないのかなと心配してしまう。


評価
★★


書誌
書名:神の拳〈下〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912205 (4047912204)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:425p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2008年06月16日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』上

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 急遽忘れてしまったフォーサイスのこの本を読むことにした。まぁ、14年前に読んだ本を、主人公を忘れたということで、慌てて読む必要もないとは思うのだけれど、気になるので読むことにしたわけだ。
 今回も詳しいことは下巻を読んでから書きたいと思うのだけれど、一つだけ書きたい。
 主人公のマイク・マーティンには学者である弟がいる。名前はテリー・マーティンという。テリーは中東の学者で、アメリカやイギリスの情報機関のオブザーバー的存在で、中東で何かあると、それらの情報機関から意見を求められる。先に読んだ『アフガンの男』でも、アフガンでアルカイダが9.11以降の大規模なテロが行われる可能性が出てきて、アフガニスタンでの情報が欲しいということで、情報機関の人間を忍び込ませたいが、適当な人間がいないかと意見を求められ、兄のマイク・マーティンがいると言ってしまう。
 マーティン兄弟の母方の祖父はインドのダージリンにお茶の栽培のため入植したイギリス人であった。この祖父インド人の娘と恋に落ち結婚してしまった。当時イギリス人はインドの植民地支配者だったので、インドの娘と結婚することは驚天動地の騒ぎとなった。
 祖父テレンス・グランガーとインド人の娘の間に、一人娘のスーザンが生まれた。スーザンはイラク石油会社の経理をしていたナイジュエル・マーチンと結婚しバクダッドで暮らし、二人の男の子をもうけた。それがマイクとテリーである。マイクは母方の遺伝子を受け継いで、髪と眼は黒く、肌はオリーブ色で、当時のイギリス人コミュニティーの悪童から“アラブ人そっくりだ”と冷やかされた。
 マーティンはパブリックスクールを卒業した後、パラシュート部隊入隊し、その後厳しい訓練の後、SAS(空軍特殊任務連隊)に配属される。バクダッドで子供時代を過ごした関係で容姿もそうであるが、アラブ人並みにアラビア語がしゃべれた。
 だからテリー・マーティンはアフガンに潜入する人物として兄のマイク・マーティンが適材と言ったのだ。しかし危険きわまりない地域でスパイ活動するわけだから、見つかれば命はない。自分の兄を推薦したことをテリーはひどく後悔し涙する。
 ところがテリーのおしゃべりはこれが初めてではなく、実はこの本でも同じことをしているのだ。いやこの本が最初であった。イラクがクエートに侵攻したとき、クエートの情勢を知るために、スパイとして適している人物として、兄のマーチンを推薦しているのだ。そしてひどく後悔する。
 こんな危険なところに自分の一言で兄を派遣させてしまったことを後悔したら、普通二度と同じことはしないんじゃないのかなぁと思うのだが、どうだろう?それをいくらそそのかされたとはいえ、また自分の兄の名前を出しちゃうなんて、一体テリー・マーティンという人物はどういう神経をしているのか、正直呆れかえるばかりであった。
 それともマイク・マーティンを再び『アフガンの男』で使うためには、フォーサイスとしては同じ手を使うしかなかったのだろうか?それにしてもちょっと安易すぎないか?と思った次第だ。


書誌
書名:神の拳〈上〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912199 (4047912190)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:414p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2007年12月27日

高見順著『死の淵より』

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 どこのマンションのコマーシャルか知らないが、本棚に囲まれた部屋を、女の子が歩き回り、一冊本を取り出す場面がある。本棚にあるの本はいかにも古そうな本で、しかも洋書みたいな感じだ。そのコマーシャルが流れると、食い入るように見てしまう。とにかく古い本が好きだ。時間を経た本には、それだけで価値がありそうな感じがしてしまう。ふと自分の本棚を見ると、思わずまだまだだななんて思ってしまう。

 さて、ここのところスランプに落ち込んでいる。毎年何回か、あまり本を読みたくないな、なんていう気分になる時があるのだが、それはそう長く続くことはない。だいたい一週間程度本を読まなければ、すぐ本が読みたくなり、元の生活が復活する。しかし今回は重傷だ。本が読めない状態が長く続いている。
 そんなもんだから、ここのところ更新ができないでいる。しかもやっとのことで一冊の本を読んでも、今度はそれについて書くことができない。どう書いたらいいかわからなくなり、完全にパニックに陥ってしまう始末。
 だからというわけじゃないのだが、本棚の整理でもすれば、読みたい本が出てくるかもしれないと思い、棚を眺めつつ、棚に収まっていない本を収納する。
 そんなことをやっていたら、この詩集を見つけた。本の画像を見てもらえば分かる通り、かなり保存状態が悪い。箱が日焼けしてしまっている。この本は古本屋で100円均一のワゴンに収まっていたのを買った。本の状態から考えれば当然である。ただ、箱入りのため、箱は傷んでいるが中身の本は結構きれいだ。
 実はこの高見さんの詩集は高校時代に読んでいる。当時あった文庫本で読んだ(普通の講談社文庫であった。今は講談社文芸文庫にある)
 この詩集を知ったのは岩波新書の時実利彦さんの『人間であること』に高見さんのこの詩集が紹介されていて、気になって続けて読んだと思う。ただ親本である単行本のこの本は読んだかどうか覚えていないので、読んでみることにした。長い話にはついて行けないけれど、詩集なら何とか読めるかもしれないと思ったのである。

 この詩集は高見さんが食道ガンに冒され、入院し手術したときの前後に書かれたものである。ガンと闘いながら、自分に近づきつつある“死”におびえ、あるいは開き直り、諦める。その気持ちを詩に託している。まずは「死者の爪」という詩からこの本は始まる。以下気にかかる詩や、気にかかる語句がある詩を抜き出してみる。

<死者の爪>

つめたい煉瓦の上に
蔦がのびる
夜の底に
時間が重くつもり
死者の爪がのびる


<ぼくの笛>

烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる


<帰る旅>

(略)

この旅は
自然に帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器のような副葬品を

(略)


<泣きわめけ>

泣け 泣きわめけ
大声でわめくがいい
うずくまって小さくなって泣かないで
膿盆の血だらけのガーゼよ
そして私の心よ


<魂よ>

魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分かった
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう

(略)

魂よ
おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ
口さきばかりの魂をひとつひっとらえて
行為だけの世界に連れて来たい
そして魂をガンにして苦しめてやりたい
そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うのだろう


<望まない>

たえず何かを
望んでばかりいた私だが
もう何も望まない
望むのが私の生きがいだった
このごろは若い時分とちがって
望めないものを望むのはやめて
望めそうなものを望んでいた
だが今はその望みもすてた
もう何も望まない
すなわち死も望まない


<過去の空間>

手ですくった砂が
痩せ細った指のすきまから洩れるように
時間がざらざらと私からこぼれる
残りすくない大事な時間が

(略)


<巡礼>

人工食道が私の胸の上を
地下鉄が地上を走るみたいに
あるいは都会の快適な高速道路のように
人工的な乾いた光りを放ちながら
のどから胃に架橋されている
夜はこれをはずして寝る
そうなると水を飲んでももはや胃へは行かない
だから時には胃袋に睡眠薬を直接入れる
口のほかに腹にもうひとつ口があるのだ
シュールリアリズムのごとくだがこれが私の現実である

(略)


 この詩集には“赤”という言葉が何回か出てくる。“血だらけのガーゼ”、“赤いザクロの実”、“赤インク”、“カエデの赤い芽”、“車輪が赤く錆びて行く”等々。
 “赤”は病気であり、あるいは苦しみながら生きている証拠なのではないかと思った。特に本自体が古さのため薄く黄ばんでいるので、“赤”という文字が余計に際だって感じられた。

2007年10月23日

司馬遼太郎著『街道をゆく 夜話』

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 今年の5月以来司馬さんの本を読む。この文庫は今月の新刊で、広告には文庫オリジナル、『街道をゆく』の入門書と書かれていたので、私としては読まないわけにはいかなかった。
 文庫オリジナルといっても司馬さんはもう亡くなられているので、新たな文章などあるわけがなく、生前、雑誌などに書かれたものをかき集めたものである。主に司馬さんの紀行文が集められているため、『街道をゆく』の入門書といっているのだろう。

 さて、この文庫の文章にあった言葉が気になる。それは「一隅を照す。これ則ち国宝なり」というものである。これは最澄がいった言葉と聞いている。私が初めてこの言葉を聞いたのは、中学校の修学旅行で根本中堂の関係者が修学旅行の団体客に説明するガイドからだった。
 そのときはこの言葉がどんな意味なのか聞き漏らしたのだが、どういう訳か「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉がただフレーズとして心に残っていた。その後何度か本などでこの言葉を目にしたので、今はもちろん言葉の意味は知っている。
 今回司馬さんの文庫本を読んでまたこの言葉を目にしたので、ちょっと詳しく調べてみようと思った。
 正確には、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という。最澄の「天台法華宗年分学生式」の冒頭に出てくる言葉だという。最澄の師、唐の湛の著「止観輔行伝弘決」にある話を踏まえているという。昔魏王が「私の国には直径一寸の玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」と言ったところ、斉王が「私の国にはそんな玉はない。しかし、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」と答えたという。これをふまえて、 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人一人がそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるという意味なんだそうだ。これに感銘した東洋思想家の安岡正篤は「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。別に偉い人になる必要はないではないか、社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」との見解を述べているという。
 まぁ例によってネットで調べてみるとそういうことになる。

 なんでこの「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉を持ち出したかというと、この本にはそういう人物が書かれているからである。
 歴史上有名な人物はたくさんいる。それぞれの功績によって名を残したわけだが、でもそういうたくさんの有名人に隠れてしまい、光が当たらない人物もいたということを言いたかったのだ。そしてそれが目立たないのは、やってきた仕事が地味であったり、報われなかったことももちろんだけれど、それだけでなく、その人物が奥ゆかしい部分がそうしているのではないかと思ったのだ。
 たとえば秋月悌次郎という人物がいる。秋月はいってみれば幕末、会津藩の外交官であった。幕末、会津藩はやりたくもない京都守護職を引き受けた。当時京都は薩長の志士がたくさん集まっており、治安が悪化していた。その京都の治安を守るのが京都守護職であった。京都の治安を安定したものにするために、新撰組と一緒に薩長の志士を斬った。そのため戊辰戦争で会津藩は恨みを買い、あの凄惨な会津戦争となり、その後も新政府にいじめられてきた。
 京都守護職を会津藩が引き受けたとき、秋月悌次郎が抜擢された。その理由がふるっている。秋月が機略縦横の才があることではなく、むしろ無さすぎることがその理由だろうと司馬さんは言う。ただ江戸である昌平黌に長いこと在籍したため、寄宿舎の舎長になり、全国各藩から来る者と顔見知りになり、知人を多く持っていた。こうした経歴が秋月を抜擢した理由だっただろうと司馬さんは推測されている。
 当時京都では薩長の志士がたむろしていたと書いたが、最初は長州藩が京都で幅をきかせていた。それが面白くなかった薩摩藩は敵である国家警察の会津藩と手を組んだ。「薩会同盟」である。この同盟を結ぶために薩摩の高崎佐太郎が秋月悌次郎のもとへ訪ねてくる。以後同盟はなり、長州藩は一時京都から追い出される。しかしご存じの通り、坂本龍馬の斡旋で今度は薩摩と長州が手を結び、倒幕運動となり、会津は朝敵とされ、凄惨な目に遭う。
 維新後秋月はその人望により東京に呼ばれ、仕官したが、旧会津藩がひどい目に遭っているのに自分だけが官を得るのは忍びないとやがて辞する。その後熊本で漢文の先生をする。秋月は小泉八雲から「神様のような人」と称されるが、「ある日、秋月は教壇にたって、いつものように本をひろげることもせず、よほど時間が経ってから、じつは昨夜、文久三年以来三十年ぶりに友人が訪ねてきて、そのため終夜、痛飲してしまった、といった。秋月が詫びているのは、要するに下調べができなかったために今日は授業を勘弁してもらいたい、ということで、かれはていねいに一礼すると教室を出て行った」。
 このとき訪ねてきた友人というのが高崎佐太郎であったという。司馬さんは秋月が痛飲したのは「薩会同盟」の当時を語り合ったためだろうという。しかし「薩会同盟」は結局薩摩藩にだまされたのと同じなのだが、「秋月は高崎を前にしてそういう恨みもいわず、ひたすら当時を懐かしみ、翌日の授業もできないほど飲んでしまった」という記述を読んで涙が出そうになってしまったのである。
 こういう話のたぐいはおそらく歴史というものの中にかなりの数が埋もれているのだろう。秋月悌次郎は人物として面白みはないかもしれないが(事実司馬さんは秋月を小説として書けないといっている)、人物であった。薩摩の高崎佐太郎にしたって、薩摩藩からすれば二流の人物だ。その高崎に藩の一大交渉を任せたのは、もし何かあった場合、高崎に詰め腹を切らせればいいということで人選されたようだ。しかし二人は当時すべき仕事をしたのである。そういう意味で二人は会津藩にしても薩摩藩にしてもなくてはならぬ人物だったのだろうと思う。ただ結果が悲惨であったということだ。それだけに晩年のこの再会は悲しい。
 私はこの文章を読んだだけでこの本に満足した。


評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく 夜話
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022644190 (4022644192)
出版社:朝日新聞社 (2007-10-30出版) 朝日文庫
版型:381p 15cm(A6)
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

2007年08月18日

E・キュ-ブラ-・ロス著『死ぬ瞬間』

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 古い本を引っ張り出す。E・キュ-ブラ-・ロスの『死ぬ瞬間』である。この本は聞くところによるとホスピスのバイブルだという。かなり昔に読んだ山崎章郎さんの『病院で死ぬということ 』にもたびたびキュ-ブラ-・ロスのこの本のことが出ていたと思う。

 この本はシカゴ大学の「死と死ぬことに関するセミナー」で、講師は死にゆく患者である。そうした患者に自分が迎えなければならない死、病院の医療体制を語ってもらっている。しかしこのセミナーは最初病院側の医療スタッフから大きな反発にあう。末期患者に自分の死を語らせるなんて冗談じゃないというところだろう。ましてここの病院では「もはや助けることできない人々に貴重な時間をかけることはムダであり、まったくのナンセンス」という意識があっただけに余計であった。
 しかし患者は違った。患者は「死そのものは問題でなく、死にゆくことが、それに伴う絶望感と無援感と隔離感のゆえに怖ろしいのである」。むしろ積極的にコミュニケートすることで、自分を解放していくのである。さらにかれらのコミュニケーションが他の人々にとって重要で有意義かもしれないと思えることで、生きているうちにだれかの役に立てるという意識を生む。
 医療側も患者の生の声がフィードバックされるようになって、このセミナーの重要性を自覚し始め、患者の対応が変わっていく。

 ここでの死とは突然死を想定していない。死までの時間がある程度ある、たとえばガンのような病気で死を迎えざるを得ない患者を対象とする。
 著者は「患者を非人間的、植物的に生きるのではなく、人間的に生きるように助けることによって、かれらを助けて死なせてやることができる」という考えから、末期の患者に接する。
 そしてそうした患者は悲劇的なニュース(自分が死ぬということ)をつきつけられてから、自分の死を受容するまでの間にいくつかの段階があることをこの本で教えてくれる。以下その段階の解説である。


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1.否認
 「否認は予期しない衝撃的なニュースを聞かされるときの緩衝装置として働くのである。否認によって、患者は崩れようとするみずからを取りまとめ、やがて別の、よりゆるやかな自己防衛法を動員することができる」。たとえば自分がガンだと宣告されたとき、「そんはずはない」と否認するのは一時的な自己防衛なのである。

2.怒り
 「否認という第一段階がもはや維持できなくなると怒り、憤り、羨望、恨みなどの諸感情がこれにとって代わる。論理を追って、次の問いは”なぜ私を ”」となる。つまり「なぜ私なんだ」、「どうして私がガンにおかされねばならないんだ」という自分勝手に怒り、憤るのである。

3.取り引き
 「もしわれわれが第一段階で悲しい事実に直面することができず、第二段階で人々と神に対して憤りをぶつけたとすれば、つぎには人々ないし神に対してなにかの申し出をし、なんらかの約束を結ぶことを思いつくだろう。取り引きである。神となんらかの取り引きができれば、もしかすると、この悲しい不可避の出来事をもうすこし先に延ばせるかもしれない」と考えることである。
 つまり今苦しい治療に耐えれば、延命願望や痛みや肉体的不快感のない日々を手に入れることができるという願望を多少なりとも叶えることができるかもしれないという、自分の気持ちの中で取り引きするのである。

4.抑鬱
 「末期患者がもはや自分の病気を否認できなくなり、二度三度の手術あるいは入院加療を受けなければならなくなり、さらに症候がいくつか現れはじめ、あるいは衰弱が加わってくると、かれはもはや病気を微笑で片づけているわけにもいかなくなる。
 かれの感情喪失、泰然自若、あるいは憤怒などは、ほどなく、大きなものを失くしたという喪失感に取って代わられ」抑鬱状態になる。

5.受容
 「もし患者に十分な時間があり(突然の、予期しない死ではなくて)そして前にのべたいくつかの段階を通るのに若干の助けが得られれば、かれの”運命 ”について抑鬱もなく、怒りも覚えないある段階に達する。生きている人、健康な人に対する羨望、自分の最後にそれほど早く直面しないでもいい人に対する怒りなどは吐きつくすことができた。かれは自分をとりまく多くの意味深い人々や場所などを、もうすぐすべて失わなければならないという、その嘆きも悲しみも仕終え、かれはいまある程度静かな期待をもって、近づく自分の終焉を見詰めることができる」すなわち受容である。
 面白いと思ったのは以下の記述である。
「一生を苦労とはげしい労働のうちに過ごしてきた人、子どもたちを育てあげた人、自分のなしとげた仕事に満足している人々のほうが、平安と威厳とをもって死を受容することがより容易であったようである。 これに対して、一生を野心的に周囲環境を支配してきた人、物質的な財を蓄積してきた人、社交的なつきあいは非常な多数にのぼりながらも、生の終わりにあたって助けとなるような有意義な人間関係の少ない人などは、死の受容が容易ではないようであった」

 「これらの段階は入れ替わることはできず、必ず隣りあい、ときには重なりあっている」という。

 以上が自分が助からないと分かったときから取る人間の態度だというのだ。もちろんたぶん累計的にそういうパターンだというのだろう。でももし自分が末期のガンでもなったら、何となくこういう行動パターンを取るような気がするけれど、きっと死の受容まで悩み続けるのだろうなと思う。そう思うと、同じ死ぬならぽっくりと死んでしまいたいなぁ。もちろんそのあとの葬式など不要だ。

 さてこの本は、いわゆる「死ぬ瞬間」を待っている患者だけでなく、その家族、親族も、ほぼ同様な行動パターン、思考パターンを取ることを言っている。ただ残される側はその死で終わらない。著者は「家族の要求(ニーズ)は、病気の発端から変化を始め、多くの面で変化を続け、それらは死のあとも長く尾をひいていく。それゆえに、家族メンバーはそのエネルギーを支出を経済的に行ない、エネルギーがもっとも要求されるときに当たって折れるほど張り切らないようにすべきである」と介護する家族の配慮も忘れない。
 しかし家族や親族ができる限りの治療を望むことや、少しでも長生きして欲しいと思う気持ちは、末期患者に取ってみれば時には苦痛のなにものでもなくなってしまうこともあるという。患者の方は現実を直視ししようと努力しているのに、家族や親族の方が厳しい現実をなかなか受け入れられない。このギャップに患者の方が悩むという。時には自分の死の受容を困難にさせるという。
 こうして言われると、双方の気持ちはよくわかる。わかるけど困難な状況に陥った時、愛する家族を簡単に失うことができないという気持ちが、逆に患者を苦しめているなんて、なかなか理解しにくいと思う。
 著者は言う。「わたしたちのめざすゴールは、つねに患者とその家族とを助けて、ともども危機を正視し、この終焉という現実の受容を、同時的に達成させるということでなければならない」と。


評価
★★★


書誌
書名:死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話
著者:E・キュ-ブラ-・ロス/川口正吉訳
ISBN:9784643920529
出版社:読売新聞社
版型:315p 19cm
販売価:1,528円(税込) (本体価:1,456円) 絶版

2007年08月01日

池田清彦著『他人と深く関わらずに生きるには』

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 安部首相が参議院選の大敗北で、責任問題が浮上しているけれど、元々私はこの人あまり信用していない。というよりダメだなと思っていた。首相就任時、国の赤字を減らすために、まずは自分の給料を2割か3割か忘れたけれど、とにかくカットすると言った。まずは隗より始めよということらしい。でも、これはどう考えてもおかしい。日本の赤字が首相の給料返上分でどれだけ少なくなるというのか。
 それよりも、「私はこれだけの仕事をするつもりだから、これだけの給料をくれ」といった方がやる気を感じるし、それだけ意気込みがあれば、たとえ高額な給料をもらったとしても、返上するより、国の赤字をそれ以上に減らせるだろう。逆に返上したんだから、これだけの仕事しかしないと言っているようなもんではないか。その結果馬鹿な閣僚をまわりに集めてしまい、墓穴を掘ることとなったのではないか。
 こんなことを書いたのは、池田さんのこの本にある「ボランティアはしない方がカッコいい」という文章を読んだからだ。私はボランティアという行為にどこか胡散臭さを感じる部分がある。困っている人を無償で助ける行為は一見すばらしい行為のように見えるけれど、果たしてそれがすべてであろうか?つまりボランティアをする側の気持ちの問題を言いたいのだ。そこには本当に代償を求めない行為だけでボランティアができるのだろうか?そしてそれが本当に素晴らしい行為なのだろうかと思うのだ。そもそも何の代償を求めない行為というのが存在するものなのだろうか?たとえばボランティアの本家とでも言っていいキリスト教世界では、貧民を救済するのは、救済する側に自己の魂救済が前提にあるから、そうするのだ。ちゃんと代償を求めている。
 以前助けてもらったから、今度は自分たちが助けてあげる番だといって新潟に向かった人たちがいるが、それは以前助けてもらったから、今度はその恩返しをする番だという気持ちであるから、出向いて行かれたのだろうと思う。借りがあるから返す。あるいは助けてもらって助かったという感謝の気持ちがあるから、そうするなら、それは素晴らしいことだと思う。でもその時点でもう純粋な無償行為じゃない。先に有償の行為を受けているから、それを払っているということである。
 問題はただ単に、困っている人がいるからボランティアに出かけようとする一種の行楽的な気分で出かける人のことを胡散臭いと思うのだ。あるいはいやがる仲間を引き込んで、そんなことを言ってていいのかなんて一席ぶる偽善家が嫌なのだ。そこには自己の優位性と自己満足が見え隠れする。そんな輩が多いんじゃないかとどこか疑っているのだ。あるいはそれを期待する奴。当たり前と思う奴が多いんじゃないかと思っちゃうのだ。
 いやそんなことは絶対にないという声が聞こえてきそうだし、げすな奴だと思われても仕方がないが、むしろ金銭の授受があった方がものすごく自然だと思う。ビジネスであれば当然責任が伴ってくるから、行為そのものが真剣になるし、助けを求める方も、その代償を払うのだから、その関係だけで済む。自衛隊が救援に向かったりするけれど、彼らだってそれが仕事だからそうするまでのことだろう。そしてそれでいいのだと思う。
 働くという行為は働いた分代償を得るから、働けるし、その分責任も伴う。代償を払う側も代償を払う分当然の権利として自己主張ができるのだ。安部さんはある意味我々が言いたいことを自分の給料を減らしたことで封じてしまっているのではないかと思うのだ。池田さんが言うように「本当に他人に喜んでもらいたいと思っている人は、お金をもらって働こう」と言うのは本当に正しいと思う。

 とまぁ、この本で言っておられることはまとものことで、もっともだとは思うのだが、だからといって今の日本の社会システムはおかしいと断罪するところで、池田さんの考えは論理破綻してしまっているように思える。あるいは、無理と承知の上で言っておられるからか、半ばやけくそ気味になってしまっている。つまり論理上正当性を帯びていても、それが現実的ではないのだ。
 たとえば、自動車の影がまったく見えないのに、赤信号でじっと待っている人を見て、池田さんは「交通ルール原理教の鑑である」という。こういう人を見ると国家に魂を抜かれちゃったんじゃないかと思い、気の毒になるというのである。
 赤信号で止まるというのは本能ではないから、そのまま突っ込んでくる奴もいる。そして大事故となる。それは一方が他方の判断を信用し、国家の決めたルールさえ守っていれば安全だと信じ込んでいるからで、自分自身の経験と判断を失ってしまっているかそうなるのだというのである。イヌやネコだって車が来なければ赤信号で横断歩道を渡るじゃないか。それが自然だというのである。
 更に飲酒運転やスピード違反で捕まえるのもおかしいという。これは一種の予防拘束であり、悪法だ言う。少々酒を飲んでも事故を起こさない人もいるし、状況によってはスピードを出しても安全なところもあるではないかというのである。要はケースバイケースでいいではないか。その方が自然的だというのである。
 ここまでくると毒舌である。根本的に考え方がおかしい。生物学のドグマに犯されてしまっているから、こういう考えが生まれるのではないか。専門馬鹿と言っていいかもしれない。そもそも法律や習慣、あるいは慣習というのは不自然なものなのだ。生物学的本能をそのままにしておけば、社会が成り立たないから、わざわざ縛りを設けている。不自由にさせているのだ。それが社会である。このことをを知るべきだ。自分一人が事故を起こして死ぬならそれでもいいが、事故は絶対に他者に迷惑をかけるか、命を奪う。
 あるいは、「国家は道具である」と定義する。しかし現行の国家は一部の人々だけに都合のよい道具になっているから、それをみんなに開放すべきだというのである。国家は人々の自由と平等を守るために、必要最小限のことだけをすればよく、それ以上は必要ないし、それ以上するのは罪悪だというのである。 もともと役所は国民はバカだと思っているので、ああせい、こうせいとお節介を焼く。国民がそれ相応に賢くなれば、自己決定、事故責任で行動できるはずだと言い切る。
 国家を人々の使い勝手のよい道具にするには、国民のために必要最小限のことだけすればよく、小さな政府で、できる限り民営化し、補助金の全廃、役所の許認可権の撤廃、どんな商売をするにも資格のいらない社会を目指せば、国家はみんなにいい道具となりうるというのである。
 そしてここから毒舌となる。だから医者も国家免許制にする必要もない。教育も同様で、だれがどんな学校を作ってもかまわないし、どんな先生を雇ってもかまわない。自由参入、自由競争の中に入れてしまえば、賢くなった国民が主体になって判断されるから、自然ヤブ医者は淘汰されるし、しょうもない学校は潰れていく。
 完全個人主義に徹底すべきと池田さんは言う。だから社会保険料など払う必要もない。医療費は全額自己負担が当たり前。もちろん自分の老後のために計画してお金を作るのが当たり前だから、国民皆年金制度などといって国が口を出すのは余計なお世話だ。そもそも若い人から集めたお金を老人に注ぎ込むこと自体おかしいというのである。国の医療制度、年金制度が破綻するのがはっきりしているのだから、破綻する前にどうやって止めるかを考えるべきという。
 そうすれば社会保険庁解体なんてこざかしいことなど考えなくても、なくてもいいわけだし、厚労省だって文科省だって不要になるという。
 う~ん、確かにそうかもしれない。その方がいいかもしれないなんて思ったりする。ただそれは徹底した個人主義に徹することができるならばの話である。私には確かに国のお節介もうっとうしい部分があるし、かといって今必要なことをしてくれているかといえばそうとも言い切れない部分を感じているので、だったらこの方がいいかもしれない。
 けれど、もしこうなったら、まず国としてのまとまりが完全に崩壊する。自己決定、自己責任というのは、余りにも幅がありすぎて、曖昧だ。ある人にとってみれば、それは自己責任で決めたことだからといって行動しても、それが他者にとって迷惑、命取りにさえなりかねない。この論理はアーナキズムになってしまう。自分のことを真剣に考えるように他者にも同様に考えられるかと思うのだ。それほど人間は賢くなれるのかと思うのだ。だからこそ、法律や慣習法など決めて、それに従っているんじゃないかなんて思う。そうしないとやりたい放題やって、最後は滅びることになる。それを分かっているから、わざわざまどろっこしいもの作ることによって、自分たちを守っているんじゃないかなんて思うのだが、どうだろう。ここにはそれでも我慢しなければならないことがあるという意識が抜けている。


評価
★★


書誌
書名:他人と深く関わらずに生きるには
著者:池田 清彦
ISBN:9784101035222 (4101035229)
出版社:新潮社 (2006-05-01出版) 新潮文庫
版型:191p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)


池田清彦著『正しく生きるとはどういうことか』

書誌
書名:正しく生きるとはどういうことか
著者:池田 清彦
ISBN:9784101035239 (4101035237)
出版社:新潮社 (2007-06-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)

2007年05月23日

弓削達著『ローマはなぜ滅んだか』

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 この本、本棚の整理をしていたら、目についた。一度は読んでいるようである。調べてみると、確かに一度は読んでいる。どうもこの本は、岩波文庫版の『ローマ帝国衰亡史』の復刊後に出版されたようで、この復刻版が人気があって品切れを起こしたことも書かれている。しかし私の中にこの本の印象が全くない。だからもう一度読んでみようと思ったわけである
 読んでみて、私の中でそれほど印象が残らないのも何となくわかった。とにかく読みにくいのである。
 通常新書という媒体を使う以上、だいたいは読みやすく書かれる。しかしこの本はかなり比喩が多くて、その分抽象的で、わかりづらい。だから何となく読んで、そのままにしておいたのだろう。

 著者は序章で、なぜローマだけその滅亡を問うのかという。生者必滅の人の世にあって、ローマのみその訳を問うのはどうしてなのだろうかというのだ。言われてみれば確かにそうだ。
 しかしローマ滅亡の理由を問うには問う理由があるはずだ。その理由を著者は次のようにいう。「すなわち、ローマは、世界史上まれに見る長年月の間に空前絶後の大帝国を建設し、かつそれを、これまた比類のない長い年月の間維持発展させることができた、という事実が一つ。
 そしてまた、ローマを中心に帝国各地に放射し、辺境から人間や物資をローマに運んだローマの公道のように、これ以前の先進文明を吸収し、それを次代の諸世界へとそれぞれ伝えていったというもう一つの事実」をあげる。この二つの事実が「ローマは一日で成らず」、「すべての道はローマに通ず」のことわざが象徴的に言い表しているという。
 それではそうした大帝国を維持できたシステムとはどんなものであったのだろうか?以後「ローマ帝国の繁栄とは何か」、「道路の整備」、「ローマ帝国の経済構造」、「経済大国ローマの実態」「爛熟した文明の経済的基礎」とローマ帝国を経済的見地からその実態を解明する。その上で、その繁栄した帝国の文化が実は腐敗と退廃をもたらしたことを「悪徳・不正・浪費・奢侈・美食」、「性解放・女性解放・知性と教養と文化」で知らしめる。
 そしてやっと「ローマ帝国の衰退とは何か」、「第三世界(周辺)への評価の岐れ道」、「ローマはなぜ滅んだか」となる。
 確かに後半の3章のためにはローマの経済、文化の実態を知っておかなければ、その滅亡の過程がわかりづらい部分はあるにしても、正直退屈であった。
 で、やっぱりローマ帝国の滅亡理由が気になる。面白いと思った記述は次の通りである。
「共同体国家すなわちポリス(ローマのこと)まで発達した先進的共同体は、自己への同化力を周囲に拡散する磁力の中心のようなものであり、それにふれた発展度のより低い共同体はいわばその磁場の中におかれ、その質において磁力の中心へと吸い寄せられる、という運動方向を示している。
 また言いかえれば、ポリスは、周辺の共同体を自己へとまき込んでゆく渦巻の中心である。地中海沿岸地方及びそれをとりまく諸地方は、共同体国家すなわちポリスという磁場の中心とそれがつくる磁場、或いは渦巻の中心、そういう中心が多数に散在し、それぞれの中心にそれをとりまくペリフェリー(周辺)の共同体が吸い寄せられ、或いはまき込まれてゆく、そういう諸中心と、それをとりまく諸ペリフェリーによって構成されている」
 これがローマ帝国のシステムである。ローマから地中海沿岸地方とその領域を拡大した帝国は、これらを磁場の中心とし、さらに内陸へと広がっていった。
 ローマは恒常的に戦争状態であり、属州からの戦利金(品)と賠償金が国家収入のかなりの部分占めていたし、属州の人々は奴隷として扱われた。そしてその「支配の果実」はローマに集まり、一部の貴族に独占された。それを可能にしたのが「すべての道はローマに通ず」といわれる交通網である。まさしくローマは「磁力の中心」であった。
 属州の支配方法は、ローマ人と非ローマ人の二つの部分に分けた。そのローマ人の範疇は「ローマ人の枠を狭量に閉鎖することなく、賢明にも新しい成員を選び出してその枠を補う。だから、各地の砦を自分で守る必要はない、各地のもっとも権勢と実力をもつ人びとが、補われたローマ人として、自分たちの母市ローマをローマ人のために守ってくれる」のである。
 このことはローマがローマであるためには、地中海沿岸地方以外の「蛮族世界」が不可欠であったことを如実に語っている。そこからの実入りがなければローマは成り立たなかったのである。
 磁場の中心がローマを含む地中海沿岸地方であったときはローマは安泰であった。しかしそうでなくなったとき、ローマは滅びざるを得なかったのである。磁場の中心が「蛮族世界」に移ったのである。(この本はなぜ磁場の中心が「蛮族世界」に移ったのか具体的に言及していない)ただ「蛮族世界」の人々(ゲルマン民族)が「支配の果実」を求めてローマに集まったことでローマは滅んだ。
 ゲルマン民族がなぜローマを目指して移動してきたのか、かねがね不思議に思っていたのだが、それまであった磁場の中心がローマであり、そこにローマの「支配の果実」があったから、彼らはそれを求めてやってきたのである。そしてその果実はかなり毒を持っていて、それに毒されたゲルマン民族は、本来持っていた自分たちの特性を失い、結局ローマ同様滅びざるを得なかった。唯一ローマと距離を置いたフランク族が次の時代を担ったのである。


評価
★★


書誌
書名:ローマはなぜ滅んだか
著者:弓削 達
ISBN:9784061489684 (4061489682)
出版社:講談社 (1989-10-20出版) 講談社現代新書〈968〉
版型:241p 18cm
販売価:777円(税込) (本体価:740円)

2007年05月15日

志水辰夫著『行きずりの街』

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 この本はこの本についている帯に惹かれて買った。そこには16年前の「このミステリーがすごい」の第一位の本だと書かれている。正直な話何で今頃本屋の目立つところに並んでいるのが少々不思議でもあったあった。お茶の水の丸善のPOPには16年後大ブレイクと書いてあった。私みたいにこのPOPを見て、買わされた客が多くいるのだろう。(それにしてもこの店のPOPに書かれている文句は結構触手が動いてしまうほど、うまい)

 さて16年前の「このミステリーがすごい」の第一位の本だというが、それほど色あせていない。だから結構話に引き込まれてしまう。
 郷里の塾の教え子であった広瀬ゆかりの伯母が祖母の病状が思わしくないので、今のうちにゆかりに会わせたいのでゆかりを探してほしいと波多野に頼み込むことから物語は始まる。
 ゆかりは孤児で、祖母の手で育てられていた。波多野の実家にも遊びに来た。高校卒業後、東京へ出て行ったが、波多野はゆかりの東京行きには彼女の性格を考えれば賛成できなかったが、本音のところでゆかりとこれ以上関わりたくもなかった。しかし東京でゆかりの消息がとれないと聞き、自分がゆかりを放り出してしまったのではないかという罪悪感に駆られ、東京に出て、ゆかりを探し始める。
 波多野は郷里に戻る前、都内の私立の名門学園の教師をしていた。しかし教え子の雅子と恋愛関係になり、雅子が卒業後結婚をする。それが高校でのスキャンダルとして扱われ、波多野はその高校を去った。そして雅子と別れて郷里へ戻ってきていた。
 ゆかりを捜しているうちに、ゆかりが角田という男に囲われていたことがわかる。この角田という男は波多野が去った後学園の経理部長をしていた男であった。ゆかりの行方を調べているうちに波多野は自分の追放劇が学園の陰謀であったことを知る。また、別れた雅子と再会する。
 ここから波多野は自分が追放された真相と学園の陰謀の究明が、ゆかりの行方を探るうちにあばかれていく。
 こんなに都合よく昔のことが関連するわけがないだろうと思いつつも、読んでいるうちに引き込まれていった。それに一介の高校教師がこんなにかっこいいわけないだろうとも思ったが、まぁ話としては面白かった。それに別れた雅子との会話ももの悲しく、その後の人生の哀愁がうまく描かれている。
 この本が本当に16年たってブレイクしているなら、それはミステリー的要素だけでなく、ハードボイルドの面も持っていて、しかも恋愛小説的要素を持っているからだろうか?過去の清算と再出発が最後に成就することもプラス要因かもしれない。
 ところでこの本のカバーのデザインがいい。


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 波多野が学園の教師をやっていた頃、雅子と夜隠れて会っている感じがよく出ている。あるいは探し当てたゆかりかもしれない。それほど雅子とゆかりがだぶる。


評価
★★★


書誌
書名:行きずりの街
著者:志水 辰夫
ISBN:9784101345116 (4101345112)
出版社:新潮社 (1994-01-25出版) 新潮文庫
版型:356p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2007年04月04日

司馬遼太郎著『街道をゆく』37巻

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 まずはどうでもいい話から始める。このシリーズが始まって以来、挿絵は須田剋太さんが受け持っていた。ところが前々回の時、亡くなられ、前回はピンチヒッターで桑野博利さんが受け持っていたが、今回から安野光雅さんが挿絵を描くようになっている。多分このまま最終巻まで安野さんの挿絵がこのシリーズを飾るはずだ。
 ところで、この巻の安野さん挿絵を見ていると、なんだか駅弁の飾りにある絵みたいな感じがしてしまい、個人的にどうもいただけない。確かにこの本の挿絵はモノクロなので、安野さんの描く線では細い感じがしてしまう。安野さんの絵はどうしても色が必要だと思う。そう考えると、須田さんの絵はモノクロの挿絵でも力強さが感じられ、存在感があった。まぁ好みの問題だから、どうでもいいことかもしれないが・・・。

 さて、今回は、「本郷界隈」である。実はこの界隈特に湯島天神界隈も書店員時代、自転車で走り回っていた。坂が多くて、しかも長い坂なので、ヒイヒイいいながら自転車を立ちこぎして走った。司馬さんと一緒にこの界隈を歩かれている編集部員の人が学生時代バイトで自転車で配達していたことがあって、「上り坂はできるだけ避け、横へ横へ、斜めへ斜めへ道をとるんです」とその頃の頃のことを言っているのがおかしかった。確かにそうなのである。まともに縦に坂を登ってばかりいると、ものすごい大変なのだ。

 明治新政府にとって、大学、特に医学部の設立は至上命題であった。それまでは和泉橋通りにあった医学所をそのまま使っていたが、和泉橋あたりは低湿地帯にあったので、いずれどこかに移転せざるを得なかった。
 その移転先の第一候補が上野であった。寛永寺や不忍池あたりをつぶして大きな病院を建てるつもりであった。しかしオランダのボードインが上野の森をつぶすことに反対した。西洋では森がなければ、わざわざ森を作るくらいなのに、こんなみごとな都市森林をつぶすなんてとんでもないという理由からであった。で、急遽本郷台にあった旧加賀藩邸を使用することになったのであるという。ここに東京大学の前身が生まれることとなったのである。
 ネットで東京大学医学部の歴史を調べてみると以下のようにあるので、記しておく。

安政5年(1858)
5月 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立された。
11月 種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続した。

安政6年(1859)
9月 種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転した。

万延元年(1860)
10月 幕府直轄の種痘所となった。

文久元年(1861)
10月 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となった。

文久3年(1863)
2月 西洋医学所は、医学所と改称された。

明治元年(1868)
7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所を含めて、大病院と称すことになった。

明治2年(1869)
2月 大病院は、医学校兼病院と改称された。
12月 医学校兼病院は、大学東校と改称された。

明治4年(1871)
7月 文部省が設置され、大学東校は、東校と改称された。

明治5年(1872)
8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。

明治7年(1874)
5月 第一大学区医学校は、東京医学校と改称された。

明治9年(1876)
11月 東京医学校は、本郷に移転した。

明治10年(1877)
4月 東京医学校は、東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なった。

明治19年(1886)
3月 東京大学が帝国大学となり、東京大学医学部は、帝国大学医科大学となった。大学院が設置された。

明治30年(1897)
6月 帝国大学は、東京帝国大学となった。


閑話休題
 私は秋葉原の和泉町で仕事をしていることは以前書いた。その関係で和泉町に東京大学の前身があることを知って、興味を持っていた。これを見るとその歴史がよく分かる。神田御玉ケ池もよくテレビの時代劇に出てくるけど、その御玉ケ池はどうやら今の岩本町2丁目あたりにあったというから、今の仕事場に近い。 森鴎外の作品で『雁』に、神田和泉町にあった寄宿舎で、小間使いをしていた末造という人物が、小銭を貯めて、いつのまにか学生相手の金貸しなり、大学が本郷に移る頃には一人前の高利貸となったことが書かれているらしい。何かちょっと読んでみたくなった。

 今回司馬さんはこの界隈を文学散歩として歩いている訳じゃないといっているが、結果としてそういう感じになってしまっている。というか、そうならざるを得ないのではないかと思う。それほど明治以降この界隈には多くの文人が暮らしていた。週刊「街道をゆく」にどれほど有名な文人がこの界隈にいたか、マップとして載っている。

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 これを見ても、この界隈で暮らしていた漱石や鴎外、一葉などの作品から当時のこの界隈を思い知る方が現実的だ。いや彼らの作品から当時を思い描きながら歩かれているといっていい。

 ところで、弥生式土器というのがあるが、どうして弥生式というのだろうとかねがね不思議に思っていた。というのも、弥生式土器の前の縄文式土器は土器に縄の文様があるから、そう名づけられた聞いていたからで、今回この本郷界隈の弥生町というところから出土したからだと分かった。明治17年3月に3人の学生が発見したという。その発見に寄与したのは、ここ本郷台に大学が置かれ、多くの研究者が集まっていたから、ここにあった貝塚に目がいったのではないかと司馬さんは言っている。
 とにかく東京は明治政府がヨーロッパでも評判になるくらいの俸給で雇った外国人教師が集中した。そのため明治の東京は、あらゆる分野で欧化の魁をなした。つまり東京は欧米の文明を受容する装置に一手に担い、同時にそれを地方に配る配電装置の役割をした。前回の神田や本郷界隈はその中心であったのである。明治の有名人がこの界隈にあるのもうなずける。
 だから東京は当時きらびやかであったろう。それを司馬さんは漱石の『三四郎』から語る。「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である」と司馬さんはいうのである。
 一方で江戸の風情も語る。面白いと思ったのは、「どうも江戸期日本では神聖場所と遊び場所がセットになっていたらしく、岡場所は、神社の門前に多かった。市谷八幡前、麹町の平河天神前、神田明神前、それにこの根津門前まどである」という司馬さんの記述である。
 どうしてこういう場所に岡場所が栄えるのか、分からないわけでもない。多分門前にたくさんの人が行き交えば、こんな商売も生まれるし栄える。あるいは神さまと性が一体の部分もあるかもしれない。
 もともと「江戸は独り者が多かった。商家の奉公人や職方の見習いなど流入人口が多く、いわば女ひでりの街だった。このため遊里がさかえた」と司馬さんはいう。江戸は「女ひでりの街」だったという語り口は面白い。


『街道をゆく』37巻の「本郷界隈」は週刊「街道をゆく」の12巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈37〉/本郷界隈
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022565549 (4022565543)
出版社:朝日新聞社 (1992-12-01出版)
版型:374p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年03月19日

司馬遼太郎著『街道をゆく』33巻

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 今回は、「奥州白河・会津のみち」と「赤坂散歩」の2編である。
 まずは「奥州白河・会津のみち」だが、会津のことを書く前に、私が興味を持ったのことを先に書く。山下りんのことである。

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彼女は常陸国(茨城県)笠間の生まれで、明治初期にロシアに留学し、イコンを描くことを学んだ女性画家であった。だいたいこの時期にギリシア正教会の宗教画であるイコンを描く画家が日本でしかも女性でいたこと自体が驚きであった。
 司馬さんはこの度の途中で、白河基督正教会聖堂という小さな教会を見つけ、ここに山下りんのイコンが50点ばかりあることを知り、彼女について書かれる。司馬さんもこの時期に山下りんという女流画家がいたことに驚かれ、「幕末・明治は、とても女流西洋画の画家を育てるような社会ではなく、それだけに彼女は天才である以上に奇蹟のようなかがやきをもっている」と書かれる。
 確かに週刊「街道をゆく」の3巻にある彼女の作品を見ていると、これが明治の初めの日本の女性の作品とは思えなかった。



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 山下りんは、絵の修行のため17歳で上京する。
「りんの例をみるにつけても、芸術上のーとくに音楽・絵画という純粋芸術の場合ー才能とは病名のことではないかと思ったりする。とりわけ大いなる才能が宿る場合、宿主の魂を高貴にする一方で、宿主をたえずつき動かして尋常ならざる人生を送らせてしまう」と司馬さんが書くように、りんの人生はこれ以後波乱の人生を歩むことになる。
 お茶の水にあるニコライ堂建てた神父ニコライはりんをロシアへ留学させた。りんは最初ルネサンス以後の西洋画を学ぶつもりであった。イコンそのものを「オバケ画」として激しく罵っているのである。
 私が知っているイコンは、確かにりんのいうように「オバケ画」というのも分かるような気がする。それぐらい拙い感じを受けてしまう。しかし何故当時のイコンが「オバケ画」なのかを司馬さんはうまく説明する。
「ごく一般的には、絵というものは、文章とは別趣の情報をひとにつたえるものである。宗教画の場合、描き手の個性が自由に展開されれば、受けとめ手である信者は、絵の中の個性の部分まで聖性としてうけとってしまうかもしれず、”危険な”ものになってしまう」だから、「聖性のみを表現するために、描き手を法則でしばり、無個性を強いたのであろう」という。多分これが正しいような気がする。「無個性を強いられた絵」だから、りんは「オバケ画」として受け取ったに違いない。
 私が見る限り、りんの作品は人間性が豊であり、その中にも神聖さを伴う。これを留学先のロシアの修道院でやれば異端として放り出されたであろうと司馬さんはいう。その上で、それを日本で許したニコライ神父はよほど大きな人物だった付け加える。
 それにしてもりんの作品をじっと見ていると、本当にこれが明治の初めの女性が描いた作品かと思うほど、ほれぼれしてしまう。

 さて、会津である。司馬さんは「なにから書きはじめていいのかわからないほど、この藩についての思いが、私の中で濃い」とか、「幕末・維新の会津藩について、つよい同情がある」と書くぐらい、会津藩について、あるいは会津についてこの紀行で触れないわけにはいかなかっただろうと想像する。

「会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(1835~93)を起用して”京都守護職”にしたことである」
 容保は体調が悪く、しかも京都守護職は自分には不向きと再三断ったが、幕府も執拗で、その命を受けざるを得なくなる。その時、容保は「わが家祖(保科正之)の遺訓に、宗家(徳川将軍家)と存亡をともにすべしとある。もはや遺訓に従って、火中に入るしかないと決心した」として、幕命を受け入れたという。

 ここで「もし」という話をしたい。もちろん歴史に「もし」なんてないのだけど、司馬さんが考える「もし」は面白い。
「もし、徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防御線として、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである」という。
 西郷隆盛が官軍を率いて東進していた頃、勝海舟は幕府の保有する軍艦で官軍の後方にまわり、攻撃をすれば、官軍はどうなっていただろうといったという。また西郷もそのことを怖れていたともいう。当時最大の軍艦保有者は徳川幕府であった。華々しく見える官軍など、当時大した兵力ではなかった。やろうと思えば出来たかもしれない。
 けれど、慶喜は舞台から自ら降りてしまった。その後を任された勝もそうしなかった。そのことは「維新の最大の功労者は慶喜だった」と司馬さんがいうのも納得しちゃう。
 しかし慶喜が舞台から降りた以上、新政府軍を一身に引き受けざるを得なくなったのが会津藩であった。
 明治維新が革命である以上、会津藩は革命の標的(当時でいう”朝敵”)にされ、会津攻めが革命の総仕上げとなってしまった。そうしなければ革命が成就しなかったからである。結局慶喜が舞台から降りたため、血祭りにされたといっていい。しかもこの戊辰戦争後でも、その激しさは続く。
「明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれているが、実質七千石程度で、そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。あたらしい藩主容大(移住のときは生後一年四カ月)自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草木根皮を食べた」という。
 これを司馬さんは「権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の集団をこのようにいじめ、しかも勝者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい」と断罪する。

 このシリーズを読んでいて、何度か明治維新という革命にふれられているけれど、当時の新政府は何も持っていなかったし、しばらくの間何も出来なかった。明治維新がなったときでさえ、徳川幕府が作った様々なシステムをそのまま使い続けていたことを知るし、幕府が行った行政を逆に否定することで、民政がおかしくなったことも書かれている。
 西郷にしても大久保にしても徳川の後どうするかという先のビジョンはなかったといっていいのかもしれない。とりあえず幕府を倒して、その後考えましょうというスタンスであった。そう考えると、明治を興した彼らを英雄視するのもいいが、果たしてそれだけでいいのだろうかと思ってしまう。二百年続いた徳川幕府の置き土産があったから、明治はなんとかやれた部分があることを知るべきではないかと思う。

 長くなった。「赤坂散歩」にふれなければならない。このシリーズは「○○紀行」、「○○のみち」、「○○散歩」と表題を書き分けている。最初はそれほど気にしてはいなかったが、「○○紀行」、「○○のみち」と書かれたものは、結構詳しく記述している。それこそ1冊の本としてまとめているくらいだ。しかし「○○散歩」となると、ちょっと休憩といった感じで、司馬さんの小説によく出てくる「閑話休題」みたいなところがある。けれど、その「閑話休題」が面白いのは言うまでもないだろう。
 この「赤坂散歩」から司馬さんの東京に関する紀行が始まるので、まずは散歩からはじめてという気分なのかもしれない。もちろんここの内容は興味深かったが、また長くなるのでやめておく。


『街道をゆく』33巻の「奥州白河・会津のみち」は週刊「街道をゆく」の3巻、「赤坂散歩」は29巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈33〉/奥州白河・会津のみち;赤坂散歩
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555533 (402255553X)
出版社:朝日新聞社 (1989-11-30出版)
版型:384p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年03月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』32巻

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 今回は、「阿波紀行」と「紀ノ川流域」である。
 まずはこの紀行で不満なところを書きたい。地図が不親切なのである。特に今回は地図そのものが細かく非常に見づらい。だいたい今までも司馬さん一行が今どこのあたり通っているのか、ページを戻りつつ、見てみるのだが、よく分からないことが多かった。特に今回は余計に分からない。で、仕方がないので週刊「街道をゆく」を広げて、絶えず記述と場所を照らし合わせている次第だ。この『街道をゆく』は新装版も出ているのだが、新装版はどうなっているのだろうか?
 もともとどちらかといえば、失われた日本を訪ね、人里離れた地域を歩いているので、地図がしっかりしていないと分からない。しかも私の場合、日本地図に詳しくないので、余計である。

 さて、まずは「阿波紀行」である。司馬さんたちは徳島へ行くのに、大阪府の南端深日港から、フェリーで淡路島の洲本に渡り、淡路島からは大鳴門橋を渡って徳島に入っている。
 阿波徳島が日本で名をとどろかせるのは、阿波踊りと藍の栽培だ。ジャパンブルーといわれる藍染めの紺は、ここ徳島に豊臣時代に入ってきた蜂須賀氏は奨励し栽培と製造したらしい。もちろん現在は化学染料が入ってきて、藍染めは廃れる一方で、ここでもかつて盛時の頃の藍染め屋を訪ねている。その後高校野球で有名な池田高校がある四国奥地まで足を向けている。

 「紀ノ川流域」では、そのほとんどが根来寺の記述である。根来寺は盛時の室町時代に、院98、僧坊2700、寺領70万石、僧兵数万となり、紀伊・和泉・河内に一大勢力を誇ったのだが、秀吉の根来寺焼き討ち以後、廃れる。司馬さんが訪れたときも、経済的に厳しかったらしく、「官長さんの関尚道師も懸命の護持者のひとりで、自坊葉東京都江戸川の平井聖天ながら、はるかにこの総本山に来ておられる」と書かれていた。ん、平井聖天?どこかで聞いたことがあるぞと思い、自分の記憶をたどっていくと、分かった。私の子供たちが通っていた幼稚園が確か、平井聖天が経営していた?幼稚園だった。思わず、へぇ~、そうだったのか!そういえば園長先生の名前が関なんとかといっていたはずだ。妙なところで関係を見出した。
 しかし紀州の根来寺と関係あるのだろうか。真言宗には宗祖の空海の教えをそのまま引き継ぐ、高野山などの正統派として、「古義真言宗」と根来寺の開祖覚鑁がとなえる「新義真言宗」があるらしい。
 覚鑁は空海のはるか後の僧で、空海の『菩提心論』の中で「菩提心とはとりもなおさず密教浄土のことだ」と説いた。覚鑁はそれを発展させ「密厳浄土」ということを盛んにとなえた。この本によると、真言密教の本尊は宇宙そのもので、その宇宙の名を真言密教では大日如来と呼ぶ。修行者はそれに合一すれば即身成仏を遂げることが出来るというのが宗義であった。ところがこうして即身成仏を遂げるには厳しい修行をしなければならないので、誰でも成仏出来るというものではない。ところが平安中期頃から西方浄土信仰(そこにいる阿弥陀如来が一切の人間を救ってくれるという教え)が盛んになった。司馬さんによれば、この他力救済思想は釈迦にとってみれば、「飛び上がるほど非釈迦的思想」(つまりとんでもないということで)なのだが、その思想がどんどん広まっていく。覚鑁はこうした思想的状況下で、真言密教の主尊である大日如来が、不動の光明ではなく、救済するときは阿弥陀如来にかわり、厳格な修行をしなくてもそのまま密教浄土に生まれるという考えをとった。その覚鑁の教えを引き継ぐのが「新義真言宗」であった。
 しかし覚鑁は高野山の座主になっても、当然正統派から猛反発にあい、追われるように山を下り、根来に入り、教学復興の拠点として現在の位置に根来寺を開いた。
 以後根来寺は、繁栄し、僧兵を持ち、寺自体も一大城郭となった。貿易も行い、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。
 ここで徳川家康の存在がクローズアップされる。家康は秀吉との戦(小牧・長久手の戦い)で戦力的に非力な家康は、秀吉勢力圏を後方から脅かす反秀吉勢力と同盟を組む。その同盟者の一つが紀州雑賀党と呼ばれる紀ノ川下流の地侍連合と根来衆であった。ところが家康は秀吉と手打ちをしてしまい、秀吉傘下に入ってしまった。当然秀吉にとってみれば、根来はけしからんということになってしまい、秀吉に攻められ、多くのお堂や経文、宝物を焼かれてしまった。この時の火縄銃の弾痕が今でもはっきり残っているらしい。
 家康にとってみれば、根来衆に負い目が残った。家康の時代になって、その負い目から大いに保護をする。江戸やその付近に「新義真言宗」の寺が多いのもこうした理由による。その寺が平井聖天、成田不動尊、川崎大師などである。

 本を読んでいて、こうした身近なことが書かれていると、ついつい詳しく書きたくなるが、根来寺と平井聖天の関係はこうして生まれたわけだ。


『街道をゆく』32巻の「阿波紀行」は週刊「街道をゆく」の41巻、「紀ノ川流域」は4巻に収録されている。

書誌
書名:街道をゆく〈32〉/阿波紀行・紀ノ川流域
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555526 (4022555521)
出版社:朝日新聞社 (1989-06-20出版)
版型:305p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年03月10日

司馬遼太郎著『街道をゆく』31巻

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 今回もアイルランド紀行である。司馬さん一行は直接アイルランドに入るのではなく、まずはイギリスに入っている。前回はそのほとんどがイギリス、及びイギリスとアイルランドの関係の記述がしめ、やっとアイルランドに入ったところで終わった。今回はそのアイルランドの西、大西洋に面するゴールウェイという町をダブリンからめざす。
 前回書き忘れたことがある。司馬さんは三つの美的倫理感情が日本史の流れの中であったのではないかという。それは『源氏物語』であらわされた「もののあわれ」、もう一つは『平家物語』における板東武者たちの「名こそ惜しけれ」だという。これに「明治の悲しみ」を加えている。
 この「明治の悲しみ」とは幕末から明治維新に欧米に派遣された留学生が異質の大文明にうちひしがれた気持ちをいっている。たとえばロンドンで英語の勉強してこいといって、ここに来た夏目漱石の例を出す。漱石はここへ来て、精神の病を発症したかのような状態になった。それくらいヨーロッパ文明にたたきのめされた。岩波版『漱石全集』の九巻に「文學論」が収録されているが、ここの序文の中に「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快なの二年なり。余は英國紳士の間にあつて狼群に伍する一匹むく犬の如く、あはれなる生活を營みたり。倫敦の人口は五百萬と聞く。五百萬粒の油のなかに、一滴の水となつて辛うじて露命繋げるは余が當時の状態なりといふ事を断言して憚らず」と書いているのを見ても分かる。
 昔、この全集の一巻に収録されている『倫敦塔』を読んだことがあるが、内容は忘れてしまったけれど、その暗さに憂鬱になったことだけはよく覚えている。その暗さはたぶん漱石の当時の感情から来るものなのではないかなんて思ったりする。それくらい当時の日本とヨーロッパ文明に歴然とした差があった。
 そのイギリスの華やかな文明に陰にアイルランドにおける搾取があったこと今回知った。ただでさえ自然が厳しい、不毛の地である。アラン島の記述は、どうしてこんな土地で暮らさざるを得ないのか、人間の尊厳さえ感じてしまう。
 農夫が畑を耕すのに鍬を振るうのだが、「カチンカチンと音を出して畑を耕していた」のである。それはほとんど土がなく岩ばかりの土地なので、岩と金属がぶつかる音である。その土でさえ、風が運んできた砂埃を集め、あるいは岩盤を砕いて作った砂利を集め、それに海藻を混ぜて作ったものであった。
 毛糸編みのアラン編みというのがあるらしいが、もとをただせば、アラン島の漁師の家々によって違った模様編みをすることで、家族が北の海で水死したとき誰だかわかるようにということで編まれた手法だそうだ。それくらい海も厳しい。司馬さんはいう。
「住みがたいほどの酷薄な土地に住んでいればこそ、人間の心は超越者に対して感じやすくなるのではないか。さらにいえば、神の恩恵を感ずることなしにこんな島に住めもしないし、げんにアラン島のひとびとは信心ぶかいのである」と。
 漱石がうちのめされたイギリスはこんな土地の人を搾取し、虐待してきた。ただ自分たちと違うカトリック信徒というだけで・・・。だからこそここに描かれるアイルランドの人々の反英感情はすさまじい。あるいはそういう感情を持つことが自分たちの存在感にもつながっていった。
 アイルランドが信心深いカトリックの国であること、文学の国であることは、そういう厳しい自然環境とケルト的要素がいまだ多く残っていること、そしてイギリスの支配が生んだものだろう。今回の紀行は今までの『街道をゆく』とは異質のものだと前回書いた。けれど私のとって一番思い入れの深いものとなった。
 今回の紀行を読んで、J・Mシングの『アラン島 』という本があることを知った。この本はこの島の苛酷な自然の中で独自の文化を育み、たくましく生きる島人たちの暮らしぶりを誠実に記録した紀行文学の傑作らしく、ちょっと読んでみたくなった。


『街道をゆく』31巻の「愛蘭土紀行Ⅱ」は週刊「街道をゆく」の51巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈31〉/愛蘭土紀行〈2〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555519 (4022555513)
出版社:朝日新聞社 (1988-06-20出版)
版型:326p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年03月08日

司馬遼太郎著『街道をゆく』30巻

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 今回と次回は「愛蘭土紀行」である。どうしてアイルランドなのか?これまでこのシリーズで度々海外へ出て行かれているけれど、訪れたすべての地域は何らかの形で日本の歴史に関連する地域であった。しかし、今回のアイルランドはほとんど日本の歴史と関係を持っていない地域である。週刊「街道をゆく」の巻頭に松本健一さんの解説に司馬さんには辺境を好むところがあると、済州島のところで書かれていた。多分これが司馬さんがアイルランドを訪れたいという気持ちだったのではないかと思う。
 辺境には、いつの時代から取り残されて、そのまま時間が止まってしまったところがある。だから昔の雰囲気を感じたければ、いわゆる辺境を訪ねれば、それを感じることが出来る。今回もそうした気分がアイルランド訪問となったのではないかと思われる。
 さらに今回は今までとちょっと趣が違うのは、歴史紀行というよりは、文学紀行といっていいほど、アイルランド文学の特色がどうして生まれたのかを考えられている。
 司馬さんは「アイルランドは三百数十万という人口の国ながら、才能-とくに文学においては-とほうもない大国である」という。『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、オスカー・ワイルド、W・B・イェイツ、J・Mシング、『ユリシーズ』のジェームズ・ジョイス、サミュエル・ベケット、また日本で有名な小泉八雲もいる。この1世紀だけでも、イェイツ、ベケット、バーナード・ショー、シェイマス・ヒーニーと、4人のノーベル文学賞受賞者を出しているのである。こうした詩人、作家、演劇家を出す風土とはいったいどういうものなのか?なぜ世界の冠たる詩人、作家、演劇家が輩出できたのか?それをこの紀行で考えられている。

 その答えの一つとして、アイルランドに残るケルト的霊性があげられる。
 古代、ヨーロッパの中部や西部にはケルト(Celt)人が先住民として暮らしていた。彼らは鉄器時代には参加したが、広域国家を形成しなかった。家族あるいは部族単位で散居していたため外的に弱く、また歴史に強力な足跡を残さなかった。
 アイルランドは「シーザー(カエサル)も来なかった島」ともいわれ、ローマ世界の拡大者であるカエサルはイギリスまでは来たけれども、アイルランドまでその旺盛な征服欲は刺激されなかった。ヨーロッパ人にとって、ギリシア・ローマ文明は輝ける祖と考えられていて、アイルランドはそのギリシア・ローマ文明の及ばない地域として差別された感じで見られていた。
 ローマやその後のゲルマン人に負けたケルト人は混血しフランス人の原型を作ったし、他にはイギリス本土のグレート・ブリテン島にも残った。スコットランド人、ウェールズ人たちがそうである。また当然アイルランドにも残った。
 そこへ聖パトリック(385~461?)がアイルランドにやってきて、キリスト教の布教を始めた。彼は絶対神とその厳格な教義を押しつけることなく、土着のドルウド神々を大きく認めて、アイルランドの人々のキリスト教受容を容易にした。そのためアイルランドでは土着の神々が、妖精として生き残った。このため司馬さんは「この島にローマ文明が来ず、代わりにやってきたローマ・カトリックも、ここでは教義を包んだ風呂敷の結びをゆるやかにしたため、幻想を生むことができる山河になった」という。詩人のW・B・イェイツも、ジョナサン・スウィフト、あるいは小泉八雲の怪談や奇談にも、文学的風土として、アイルランドに残ったケルト的霊性に求められるのではないかと司馬さんは考えられているようである。

 もう一つの要因としてあげられるのは、反英感情と中世のようなカトリシズム、あるいはプロテスタント嫌いではないかという。
 アイルランドは聖パトリック以来カトリック教徒がそのほとんどとなったが、 そこへ産業革命を経た英国国教会(注1)のイギリスに支配され、徹底的に搾り取られる。もともと貧しい土地柄である。その上オリバー・クロムウェルの大虐殺のような宗教弾圧にもあう。司馬さんはいう。
「従って、ベイコンやラムのような人生の味を語る随筆文学がおこるはずもない。(そんな余裕などないのだ)
 アイルランドにあるのは、空気だけだったといっていい。
 あるのは、一枚の舌、それに激情。あるいは屈折した心。(反英感情)その屈折からくる華麗な言語表現だけであった」と。

 こうしてみると、ノーベル文学賞受賞者がこれほど多く出るのも何となくうなずけそうである。さらにもっといえば、ビートルズのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スターもアイルランド系である。
 一方産業革命を興したイギリスは、18世紀の世界史の中で、中心を担ったため、芸術などやっているひまなどなかったのである。

(注1)
 英国国教会は、もともとは、あのヘンリー8世が離婚劇から始まった。ヘンリー8世は王妃キャサリン(ヘンリー7世の妻でもあった)と離婚して、侍女アン・ブリンと結婚したかったのである。しかしローマ教皇庁は当然反対した。そのためヘンリー8世は離婚に反対するローマ教皇庁の指図は受けないと言い切って、独立し、国家教団を作ったのである。

 最後に司馬さんが、プロテスタントがどうして生まれて、それが何故商工業者に支持されるようになったのか、マックス・ウェーバーの理論を分かりやすく説明されている。それは先の阿部謹也さんがいう「個人」誕生にもつながるように思えたので、長くなるが書き残しておきたい。

「十六世紀、カトリックからプロテスタント(新教)が分離する。
 このあたらしい宗教運動とその教義は、産業や商品経済の盛行と不離なものだった。
 大ざっぱにいえば、当時(十六、七世紀)のヨーロッパ庶民にとってカトリック教徒であるということは、のんきなものだった。なにしろ教会が教会が神の卸し元になってくれていたのである。
 信徒たちは、神については教会にまかせきりで、それを頼りきったまま、口をあけたまま無知文盲でいることさえ可能だった。極端にいえば、自律的でなくとも、教会に行って罪を告解してさえいれば、あとは神父がよろしく神に対して処理してくれもした。
 ところが、十六、七世紀、もしくはそれ以前から、商品生産と流通がさかんになるにつれて、とくに都市のひとびとの頭の働きが忙しくなった。農村から出てきた者たちが、商人になったり、工房の親方、もしくは船の船長や会計係になったりすると、それ以前、農村の中で、教会と慣習にくるまれてのんきに過ごした日々がうそのように思われた。
 いわばべつの動物になったように、個人が矢おもてに立たされた。個人としての責任や義務だけで生きてゆかざるをえなくなったのである。
 もうひとつ言えば、自分のなやみを、教会に十把ひとからげに背負ってもらうようにいかなくなった。ともかくあたらしい社会は、個々の自律を要求した。たとえば銀行の書記たちが、たとえ一人でも自律的でなくなれば銀行業務という機械運動はストップせざるをえない。
『いっさいはこの銀行という建物が処理してくださいます』
 などと書記がそういって草っ原で昼寝をしてしまえば、世の中そのものも動かなくなってしまうのである。
 信仰の面でも、おなじだった。
『神さまのことはすべて教会だのみです』
 などと、商工業地帯のひとびとはいわなくなった。
 商取引は、あくまでも個人が個人に対しておこなう。神との取引も同様で、ローマ教会という中間業者を外して、神に対し自分自身がじかに取引せざるをえなくなった。それが、新教(プロテスタンティズム)というものだった。
 自然、新教は徹底的に自律を要求した。
 もはや神と自分のあいだには変電装置や避雷針がなくなった。神は雷のようにつねに垂直に個人の上にあり、罪や背教の行為については、神は轟々と落雷するようにじかに個人の上に落ちるのである。このため、新教の初期から十九世紀ごろまでのプロテスタントの信徒の典型は、凛乎として敬虔なものであった。
 この精神が、同時期に勃興してきたビジネス文明にも、よく適った。というよりも、初期ビジネス時代を動かした精神と、プロテスタントとは不離なものであった」

 こうしてプロテスタントがもたらした意味を司馬さんは定義するけれども、一方でカトリックもきちんと評価することを忘れない。
「カトリックは世界史上、偉大としか言いようのない宗教である。
 日本仏教とくらべてみるといい。日本仏教は十三世紀、鎌倉時代に大きな仕立てなおし(浄土真宗と禅などの成立)があったきりで、その教義はいかなる思想ともとも対決せず、むしろ退化してのんべんだらりとこんにちにいたっている様子であるのに対し、カトリックは時代ごとに手ごわい思想と血みどろに格闘し、そのつど手なおしをし、あるいは他の要素容れてきて、教義の繊維質が比類ないほどに強靱になっている」と。

『街道をゆく』30巻の「愛蘭土紀行Ⅰ」は週刊「街道をゆく」の53巻と52巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈30〉/愛蘭土紀行〈1〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555502 (4022555505)
出版社:朝日新聞社 (1988-06-20出版)
版型:324p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年03月07日

司馬遼太郎著『街道をゆく』29巻

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 今回は「秋田県散歩」と「飛騨紀行」である。正直な話、この両紀行、個人的に興味がわかない。要するにあまり関心がないのである。別にこの両地方を軽く見ているわけではないけれど、今の生活から遠く離れていること、自分の関心のある事柄がたまたまないという理由からそういっているだけである。こう見ると日本も広いものだ。いや、私自身が狭い中で生活しているということかもしれない。

 この両地方の特色を司馬さんはお酒にたとえているのが面白い。たとえば「秋田県散歩」では、東北地方を、「透きとおった怜悧さ。不合理なものへの嫌悪。独創性。精神の明るさ。独立心。名利のなさ。もしくは我執からの解放といった感じ」で、「人間の蒸留酒」が生まれているという。
 また「飛騨紀行」では、「山国で、高冷で、生産性がひくかったればこそ、文化が沈殿し、いい酒のように熟成された」と言うのである。
 そうした東北の「人間の蒸留酒」の典型として、陸羯南(明治の言論人)、原敬(平民宰相と呼ばれた)、高橋是清(財政家、蔵相)、狩野亨吉(明治期の非専門的な大知識人、京都帝大文科大学長)内藤湖南(明治の新聞論説筆者)らをあげているが、これに海軍の米内光政、井上成美も加えていい。彼らは薩長の閥をつくって、それによって保身をはかるということが一切なかった。あるいは狩野亨吉に見出された安藤昌益(1703?~62)もその典型だという。
 また飛騨地方が「いい酒が熟成された」地方だとして、無名の宮大工の仕事ぶりをあげる。
 きっとそれぞれの地方の風土がこうした人間を作り出したのだろうし、それを言いたくて司馬さんは名前をあげたのだろう。ただこうして名をあげられれば、なるほどと思えれば、私も日本史の知識がそれなりにあることになるのだろうが、悲しいことにそれがない。だからふ~んそうなんだとしか思えない。まったくお寒いかぎりである。もちょっと勉強しないといけませんね。

 むしろ関心があったのはタブノキであった。これは以前何かに書いたと思うが今回も書きたい。司馬さんは、秋田の象潟にある寺、蚶満寺に司馬さんの戦友だった人が住職がいるのでそこを訪ねる。(この友人と司馬さんの会話がいい。余計なことは一切語らず、短い言葉で会話される。昨今やたら修飾語が多い会話がはびこる中、こういうのって、なんかいいなぁと思うのだ)
 このお寺の境内の一隅大きな樹がそびえていた司馬さんは最初樟だろうかと思い、尋ねてみると、タブの木で、クスノキに似ているから犬樟ともいうと教えられる。後で司馬さんが調べてみると、タブノキはクスノキ科ではあるが、樟のような芳香がない。そのかわり樹皮に渋があって、八丈島では樹皮のタンニンを使って褐色の染め物に使っていると分かる。
 私の住んでいるところにもこのタブノキがたくさんある。それもかなりの大木になっていて、区の保護樹になっている。実は私の家の前にも大きなタブノキがあり、たくさんの落ち葉を落としてくれるし、実もたくさんなる。そのため我が家の玄関先はしょっちゅう掃除しないとならない。またこの実が小鳥たちのいいえさになって、実のなる頃はうるさいくらいなのだ。(今はウグイスの止まり木になっているようで、今朝も「ホ~ホケキョ」と鳴いていた)
 休日に散歩をよくするのだが、その道すがらにも大きなタブノキがある。


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 そこに立て札があり、そこにはこの家が昔このタブノキの樹皮を使って抹香を作っていたと書かれている。樟ほど強烈な匂いは発しないにせよ、タブノキがクスノキ科に属するというのだから抹香ぐらい出来るのだろう。(後でネットで調べてみるとそうではなく、どうやらタブノキの樹皮はお線香の接着剤あるいは凝固剤として使われたようである)
http://elekitel.jp/elekitel/nature/2004/nt_28_tabu.htm


『街道をゆく』29巻の「秋田県散歩」は週刊「街道をゆく」の48巻に、「飛騨紀行」は46巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈29〉秋田・飛騨紀行
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555496 (4022555491)
出版社:朝日新聞社 (1987-09-30出版)
版型:402p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年03月02日

司馬遼太郎著『街道をゆく』28巻

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 また司馬さんの『街道をゆく』に戻る。今回は全編韓国済州島の旅である。司馬さんは韓国の友人や知人と一緒に済州島の各地を訪ねる。

 今回はこの内容からそれる。ただまったく関係ないわけでもない。

 私がかねがね疑問に思うことがある。それはどうしてあんなに韓国や朝鮮の人々がいつも感情的に怒っているのだろうかということである。私には韓国の友人がいないのでよく分からないが、テレビに映る韓国や朝鮮の人々がいつも感情的に怒っているように思える。なんであんなに激高するんだろうとさえ思ってしまう。もしかしたらそれが民族的特徴なのだろうかと思う次第だ。論理的に、あるいは行動に他を認めない鋭さを感じてしまうのだ。
 たとえば日本の戦争責任や靖国問題など怒りたくなる理由は分からないわけではない。確かに日本はこれらの人々を蹂躙してきた。それは動かし難い事実である。だけどそのことをいまだに、こと何かある度、非難し続けるその理由が、被害者としての言うべき権利があることは認めるにしても、それを言い続けることが果たしてプラスになるのだろうかと思えるほど過激な部分を感じてしまう。
 もちろんこのことは非難されることも承知の上で言っている。しかし彼らが激高して日本を非難すればするほど、我々は引いてしまうところがある。正直な話、いつまで言い続けるのだという思いさえしてしまう。司馬さんも次のように言っている。
「私自身は、韓国・朝鮮が固有の気品ある文化を連続させてきたという点で、世界でも数すくない民族だと思ってきたし、この民族への尊敬心をうしなったことがない。
 だから、自国が近代史の中で三十六年間やったこと(日韓併合のこと)を、一市民である私が一身に背負っていちいち韓国・朝鮮人に頭をさげて歩くなどはかなわない。そういうことなら、この国の土を踏んだり、あるいはこの民族のひとびとつきあったりするなどしない。そのへんが、私は図々しくできているのである」
 司馬さん自身も日本が過去にやってきたことの後ろめたさを充分感じているものの、本音の部分では「かなわない」と言っている。言ってしまったことで自分自身を「図々しくできている」といってなんとか言葉をやわらげるほど気を使っている。

 今回この巻で、韓国や朝鮮の人々の中にあるこうした気質の源泉の一つが、朱子学にあるのではないかと思えるくらい、司馬さんはしつこいくらい朱子学に言及される。司馬さんは「私は朱子学の不毛な理屈っぽさがきらいだから、このことにやや私情が混入しているかもしれない」と断った上で、李氏朝鮮500年間朝鮮の知識人の歴史に朱子学はマイナス要素を与え続けたという。
 李氏朝鮮は1392年に興り、1910年に終わった。その間朱子学を官学とし、他の思想を許さなかった。その思想的弾圧は凄惨なもので、朱子学以外の思想をもつ人に対して容赦なく弾圧し続けた。
 日本ではこの500年の間、室町の貿易時代があり、応仁の乱があり、戦国時代があり、織豊の天下統一があり、江戸時代があり、明治維新があり、日露戦争があったが、朝鮮はどっぷりと朱子学のつかったまま、文化的停滞をしたままであり、近代化の準備が遅れた。その弱点を日本は衝いたのである。

 司馬さんの説明によると、朱子学は極度にイデオロギー学で、正義大系であり、正邪分別論の大系でもあったとする。その得意とするところが、大義名分論で、何が正で、何が邪かということを論議することにあった。
 こうした大義名分論を始めると、カミソリのような薄刃を研ぎに研いで、自傷症のように自らも傷つけ、他も傷つけたりする。これが年代を経れば経るほど、正の幅が鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は邪なってしまう。
 これが今の韓国や朝鮮の人々のそれこそDNAに刷り込まれてしまい、彼らの気質となって残ってしまったのではないか、と私はこの本を読んで思ったのである。彼らの理屈っぽさはここに由来しそうだし、その議論の鋭さは、朱子学が求める鋭さと似ているような気がするのである。

 今回に限らず、このシリーズで何度か朝鮮における朱子学の悪影響を指摘してきた司馬さんがこの巻ではこれほどまでくどく朱子学を非難するのかよく分からないが、ただこうした歴史背景が韓国や朝鮮の人々に何らかの影響を与えたことは事実だろう。私はただ彼らの激しさ、鋭さがこのあたりからも由来するのではないか、とふと推察したのである。
 
『街道をゆく』28巻の「耽羅紀行」は週刊「街道をゆく」の44巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈28〉/耽羅紀行(たんらきこう)
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555489 (4022555483)
出版社:朝日新聞社 (1986-11-30出版)
版型:398p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2006年12月27日

司馬遼太郎著『街道をゆく』27巻

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 実はこの巻はちょっと前に読み終えていたのだが、自宅のパソコンの都合で感想が書けずにいた。読了から時間がたってしまったので、ちょっと忘れてしまっている部分がある。そのためうまく書けるかちょっと心配だ。

 今回は、「因幡・伯耆のみち」と「檮原街道(脱藩のみち)」である。まずは「因幡・伯耆のみち」からだが、ここは「鳥取県の旧分国は東半分(鳥取市が中心)は因幡国とよばれ、西半分(米子市が中心)は伯耆国とよばれていた。そのうち因幡国は、主として千代川一川の流域より成りたっている」。そんな中、司馬さんはまず、因幡の国守として赴任した大伴家持がいただろう国府町を訪ねる。私は大伴家持が万葉集の編集者というくらいしか知らないので、ふ~ん、そうなんだ。大伴家持はこの地に左遷の形で、赴任してきたんだと知った次第だ。
 それよりも司馬さんの梨に関する記述の方が興味があった。実は私の叔母が鳥取に嫁いでいて、子供の頃よく二十世紀梨を箱で送ってきてくれた。当時梨といえば長十郎が主流だったので、この二十世紀梨はご馳走であった。そのため私も二十世紀梨は鳥取県が発祥だとずっと思っていた。
 ところが、この梨は千葉県で発見されたようである。司馬さんの記述を以下引用する。

「二十世紀梨の原木は、いまの千葉県松戸市大橋(当時・東葛飾郡八柱村大字大橋)の石井佐平方の塵捨場で発見されたのである。
 これを石井佐平の本家である松戸斯くの覚之助がみつけて自分が経営している果樹園にうえると、りっぱにみのった。いままでの褐色の梨とはちがい、緑がかっていたため、近所のひとはアホナシとよんだという」

 このことを大野さんに聞いたら彼もよく知っていた。塵捨場で発見されたということだが、この梨の原木は捨ててあったということなのだろうか?それともそこに自生していたということなのだろうか?とにかくこの二十世紀梨が鳥取へいったのである。

 もう一つ面白かったのは、出雲国風土記の国引き伝説である。この伝説を詳しくネットで調べてみると以下の通りである。

 八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコ))は、小さく狭い出雲国を何とか立派な国にしようと考え、海を隔てた新羅国に誰も使っていない余った岬があることに気づき、何とかあの岬を出雲国に引っ張ってくることはできないものかと考えた。そこで命は、幅の広い大きな鋤を取り出し、「えいっ」とばかりに岬を切り離し、岬に「三身の綱(みつみのつな)」という太く丈夫な綱をかけ、「国よ来~い、国よ来~い。」と叫びながら、やっとの思いで岬を引き寄せることが出来た。しかし、まだまだ出雲国は小さな国なので、もっと大きな国を造らねばと思ったらしい。「国よ来~い、国よ来~い。」と言いながら、命はそれは一生懸命あちらこちらの国々から余った土地を引き寄せては小さな出雲国を立派な大きな国に作りあげたという。
 この時、新羅国から引いた岬が現在の大社町「日ノ御埼」に、越の国から引いた岬が「美保御碕」になり、国引きに使った三身の綱が「弓が浜」となり、綱を結んだ杭の跡が「大山」となったと言われている。

 この大山という山、地図で見るとなんか平野にぽつんとあるような感じがするのだが、どうなのだろうか?いかにも国引きの杭になるよう感じである。司馬さんの記述にも、「大山は、海上からの目標でもあった。古代から幕末までの日本の航海術は「山見」といわれる方法だった。陸の景色(山々の姿)を見ながら船の位置を知って航海する沿海航行だったのである。明治以前の船乗りにとって、『山』というものの第一は、岬のことだった。岬以上の存在が、特異な形態をした独立峰だった。大山もそうだった」とある。
 それにしても大山(だいせん)とは変わった呼び方である。これにも司馬さんは言及している。
 「(大山は)本来、単に『御山』とよばれていたのであろう。接頭語として御は大(おほ)からきたといわれているから、上代の土地のひとびとは『大山(おやま)』という気分をこめてそうよんでいたかとおもわれる。
 ここに神仏習合の修験の徒がこもるようになり、『大山(おやま)』を呉音で『大山(だいせん)』と音ずるようになった。さらに山に大山寺(だいせんじ)ができてから、寺の名が普及し、ついには山の名も『大山(だいせん)』とよばれるようになったにちがいない」と。


 さてもう一つの「檮原街道(脱藩のみち)」である。わざわざ脱藩のみちと司馬さんいうのには訳がある。檮原(ゆすはら)街道とはかつて、土佐(高知県)か四国山地を伊予(愛媛県)へと脱け、その先の京・大坂へ、あるいは長州へと向かう道であった。つまり坂本竜馬たちがここを脱けて、幕末の志士として活躍するための第一歩だったのである。
 彼らが何故ここに土佐を脱藩し、京や大坂へ向かったのか?それを説明するのに土佐の複雑な事情説明しなければならない。
 今NHKの大河ドラマでやっている「功名が辻」の山内一豊だが、家康が、関ヶ原の戦いの前に自分に従うか、三成に従うか、秀吉恩顧の大名に聞いた。このとき、真っ先に「内府(家康)に従い申す」といったのが一豊であった。このことで、戦後一豊は家康から土佐一国もらうことになった。
 ところが土佐には地生えの大名がいた。長曾我部氏である。長曾我部盛親は無策のまま三成側についたため、家康から土佐一国を取り上げられてしまう。 盛親の先代元親は、四国全土を征服したのだが、この大規模な作戦をするためには兵が足らなかった。そのため屈強な農民を農民のまま武士にした。これを「一領具足」という。このためたいていの家の一族のたれかが一領具足になったため、どの土佐人も長曾我部侍であるという意識を持つようになった。これは司馬さんはフランス革命の国民軍の性格に近いという。このことが後々、土佐人の平等意識の萌芽となり、あの自由民権運動がここ土佐から始まることになる土壌が生まれた。
 従って主がいなくなっても、長曾我部侍が多く残ってしまった。山内家はこうした侍たちを召し抱えず、上方で家来を召し抱えてしまい、長曾我部侍は元の農民に戻らざるを得なくなってしまった。当然彼らの上には山内侍が君臨することになり、土佐人は支配者に対して慢性的に不満を持つようになった。こうした不満のガス抜きをするために、彼らを郷士としたが、基本的な解決策にはならなかった。
 郷士である彼らは、「もとは、おなじぞ」という平等意識を持ち続けたし、侍であることで書物を読み、武術を身につけ、政治や天下に関心を深めるようになっていった。
 こうした土壌があったからこそ、天下を憂いた坂本竜馬らは土佐を脱藩し、幕末の志士となっていったのである。あるいは自由民権運動の板垣退助を生んだのである。
 土佐を脱藩するためには檮原街道のを通っていったのであった。「檮原は、すでにふれたように伊予との国境いにあり、いくつかの関所がある。その関所番はみな檮原の郷士だったが、かれらの多くはすでに吉村虎太郎らと気脈を通じていて、関所破りをする脱藩者たちを見ても、みぬふりをした。「お町」の郷士だった坂本竜馬も檮原をへて脱藩しているのである。檮原には、そういう風がある」と司馬さんはいう。「檮原には、そういう風がある」というのは、関所番も脱藩者も「もとは、おなじぞ」という意識である。だからここからみんな出ていったのである。
 長州や薩摩の時もそうだけど、関ヶ原後、家康の支配体制の不満が、幕末になって爆発した感がある。


 『街道をゆく』27巻の「因幡・伯耆のみち」は週刊「街道をゆく」の49巻に、「檮原街道(脱藩のみち)」は1巻に収録されている。

2006年12月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』26巻

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 また『街道をゆく』に戻る。なんだかここに戻るとホッとする。
 ところで前回あまり興味のない中国東南部福建省紀行だったので、味気ない感想を書いた。こう書くしかなかったのである。でも、何かこのシリーズの読み方がちょっと間違っているのじゃないかと思い始めた。というのも、とにかく司馬さんが書かれている歴史的なことを少しでも多く読み取ろうと思い、そのことに集中した読み方をしてきた。しかし本当はもっと気楽に読んでいいんじゃないかと思い始めたのだ。何故なら私は歴史家でもないのだし、評論家でもないだからである。もっとこのシリーズを楽しんで読むべきではないかと思い始めたのである。
 で、今回こだわった読み方はやめて、もっと自由に、司馬さんと旅でもしている気分でこの本を読んでみた。今回は、「嵯峨散歩」、「仙台・石巻」である。
 まずは「嵯峨散歩」から・・・。ここでも秦氏(はたうじ)が出てくる。司馬さんは「嵯峨野を歩いて古代の秦氏を考えないということは、ローマの遺跡を歩いてローマ人たちを考えないのと同じくらい鈍感なことかもしれない」という。秦氏は以前読んだ巻(どの巻か忘れたが)にも出てきた。秦氏とは「日本書紀」によると、5世紀初頭応神十四年に「弓月君(ゆづきのきみと読む。彼は秦の始皇帝の子孫だと称していた)、百済より来帰り」とあり、朝鮮半島の百二十県の人々を率いて日本にやって来て、京都市(山城国)や滋賀県(近江)などに農業土木をほどこし、広大な田園を開いた。
 私は彼らが移住した地域が、あの広隆寺のある太秦あたりであると思っていた。(事実そうなのだが)その彼らがどうしてここで出てくるのか正直不思議であったが、地図を調べてみると、この渡月橋がある嵐山は太秦と近いことを知り、なるほどこのあたりにも秦氏の影響下にあったことが分かった次第だ。
 その秦氏の村に秦大津父(はたのおおつち)という人がいて、欽明天皇は彼を大蔵省(おおくらのつかさ)にする。つまり今の財務省の大臣にしたのであった。つまりこのことは秦氏が大和朝廷が援助を求めるほどの力を持っていたことを示す。さらに時代を経て秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子に力を貸し、聖徳太子の政治資金をまかなったふしがある。事実彼は太子のために太秦に広隆寺を建立している。
 平安京の遷都も秦氏が開いた田園の上に都が建てられたわけで、司馬さんは、桓武天皇が「秦サン、ヨロシク頼ムヨ」といって秦氏に財政面で面倒をみてもらったのではないかと推察している。しかし秦氏は積極的に政治に参加することなく、影で支える姿勢を貫き、その後秦氏の存在が顕れなくなる。なんか不思議な存在であり、その分興味がひかれる。

 嵯峨は王朝文化の別宅的要素が残っている土地で、司馬さんはそんな風景を楽しんでおられるのがよく分かった。しかしここにある人工なものは、あくまでも自然をメインにして、さりげなく配置されている。つまりそれら人工なものをさりげなく置くことで、逆に自然を効果的に演出できるようなスタイルをとっている。あくまでも主役は自然なのである。このことを司馬さんは強調することで、現代の自然破壊を伴う国土開発を批判している。
 大久保利通が政争に疲れ、嵐山に遊びに来たとき、以前来たときより林野が荒れていることを知る。徳川幕府がお金を出して嵐山の保全につとめていたことを知らされるのである。幕府が瓦解してそのお金が途絶えるととたんに山が荒れ始めたのである。このことに大久保は驚き土地の古老に聞くと「山水というものは自然にそこにあるだけで美しいというものではないのです。人間の手が入りつづけて美観を保っているのです」と言われるのである。ここの自然はそうして人の手を借りて維持され、美観を保ってきたのである。と同時に、大久保は政治の何たるかを教えられる思いだったという。新しいものがすべていいとは限らないし、旧制度が効率的でなく、手間やお金がかかるものであっても、そうすることに価値を見いだせるものがあるわけだ。それが文化(文明じゃないよ)というものではないかとこの話を読んで思った。

 「仙台・石巻」で面白いと思ったことは、「桃山様式」のことである。「桃山様式」は豊臣秀吉の好みで興った。秀吉の好みということだから、多分きらびやかなものなのだろう。司馬さんも、「綺羅があり華やいでいながら、下品ではない」といっている。しかし秀吉の後をついだ徳川家康には当然好まれず、時の流れが秀吉の好みを否定する家康の時代に迎合し、この様式は日本史上わずか十数年で滅び、絵画では多少その余波が残ったが、建築では残らなかった。ただ仙台周辺ではこの「桃山様式」が多く残っている。伊達政宗が移植したのである。大崎八幡宮、塩釜神社、松島の瑞巌寺などがそうである。だから司馬さんは「桃山風の建築に接したければ仙台にゆけといいたいほどである」という。
 こういうことって結構ある。つまり中央では新しい政権などが生まれると、前時代のものが否定されるか、あるいは性格を変えてしまい、まったく違うものになってしまう。ところが辺境では、中央の変化が及ばないか、新しい波がかなり時間をおいて及んでくるため、そのままの形で残っていくのである。仙台に「桃山様式」が残っているのもそういう理由だろう。
 秀吉の好みと政宗の性格から想像して、多分きんきらきんな感じなのかなぁと想像していたが、週刊「街道をゆく」にある大崎八幡宮の写真を見てみると、なんかしっくりとした、落ち着いた感じを受ける。確かに下品ではない。
 もう一つ面白かったのは松島で芭蕉が歌ったといわれる「松島や ああ松島や 松島や」という句についての司馬さんの記述である。これは前回読んだ時も笑っちゃったことであった。司馬さんは芭蕉が「ノンキなトウサンのような句を作るだろうか」という。確かに松島の美しさに感動したに違いないにしても天下の松尾芭蕉である。こんないい加減な俳句を作るわけがないというのである。だから松島にあるこの句を載せた看板に、「松島の観光にたずさわるひとたちには、もうすこし芭蕉に対して粛然たる気持ちをもってほしいものである」と情けなさを込めていう。


 『街道をゆく』26巻の「嵯峨散歩」は週刊「街道をゆく」の14巻に、「仙台・石巻」は32巻に収録されている。

2006年11月21日

司馬遼太郎著『街道をゆく』25巻

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 実を言うと、この本を読んでいる途中で読みたい本が出てきて、そっちの方が気になって仕方がなかった。ほとんどこの本を読み終えていたので、これを読んでから、気になっている本を読もうとした。そうしたのだが、どうもそっちの方を早く読みたいと思い、気もそぞろにこの本を読んでしまった。
 しかも正直いってあまり興味もないところの紀行文なので余計であった。今回は「中国・びん(ATOKにはもんがまえに虫と書く漢字がないのだ)のみち」である。今の中国東南部福建省あたりである。この地方は中華文明からすれば辺境に当たるため、民俗学、文化人類学という学問から見ると、宝庫の地である。
 一方もう少し南に行けば、泉州があり、マルコ・ポーロが世界最大級の海港だと『東方見聞録』に記述する港町である。シルクロードの時代が終わり、海上の道で栄えた港であった。ここから南宋時代、中国の舟が日本の堺まで来ていたのである。
 ただだからといって、司馬さんの興味が私に伝わるかどうかは別問題で、たとえこの地域に残っている文化が日本がかつて持っていただろうと思われる文化の源流もしくは類似点あると言われても、あるいはそこの舟が日本まで来て、何らかの影響を日本に与えたとしても、私個人が興味がないので「へぇ~、そうなの?」としか思えない部分が今回多かった。要はピントこないのである。つまり今回は自分の琴線に触れるところが少なかったということである。今回の紀行はどこか学術調査的要素が強かったために、そう感じたのかもしれない。また、うわのそらで読んでしまったところがあるので、これ以上コメント出来ない。(なんだか不謹慎な本の読み方をしてしまった感じもしないではないが、シリーズものを読んでいると、まぁこういうこともありますよね)


 『街道をゆく』25巻の「中国・びんのみち」は週刊「街道をゆく」の39巻に収録されている。

2006年11月15日

司馬遼太郎著『街道をゆく』24巻

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 今回は「近江散歩」と「奈良散歩」である。何故散歩なのかよく分からないが、近江はこのシリーズの一番最初に旅されている。で、今回は近江(琵琶湖)の東側を歩かれている。

 近江は「近江門徒」の土壌で「近江商人」発祥の地でもある。面白いと思ったのは、日本語に「させて頂きます」という言い回しがある。たとえば「帰らせて頂きます」とか、「あすとりに来させて頂きます」、「お陰様で元気に暮らさせて頂いております」とかいった言い回しである。この語法は浄土真宗の教義から出たものらしく、浄土真宗においては、すべては阿弥陀如来(他力)によって生かして頂いているという考え方から生まれている。つまりこの言い方は阿弥陀如来という絶対他力を想定しないと成立しないのである。だからそれによって「お陰様」でという概念が生まれるし、「させて頂く」となるのである。この語法が近江商人が京や江戸に進出したことによって残ったのだという。

 この地域は織田信長が生まれた美濃に近い関係で信長の記述と、関ヶ原があるので徳川家康の記述多い。昔読んだ司馬さんの『国盗り物語』、『新史太閤記』、『関ヶ原』、あるいは山岡荘八さんの『徳川家康』などを思い出し、懐かしくもあった。
 それにしても、信長以前の浅井長政や朝倉義景は既存の地位にあぐらをかいて信長を馬鹿にすること甚だしく、新興勢力を甘くみていた部分や時代が変わりつつあることが認識できていなかったことがよく分かる。長政の家臣は信長が恐ろしい勢力になることを見抜いていた者もいたが、その家臣の意見を聞かなかった。
 長政の妻はご存じの通り、信長の妹お市の方であるが、お市の方は3人の娘を生んだ。まず茶々が淀殿になり、豊臣秀頼を生み、於初が京極高次の妻になり、於江は徳川秀忠の妻となり、三代将軍家光を生む。司馬さんは「そのことを思うと、北近江の山城閨室を共にした若い長政とお市という夫婦は、血液をもって日本史に参加したことになる」という。まさしくその通りである。
 それはそうと、恥ずかしながら私は安土城が琵琶湖のほとりにあったことを初めて知った。それまで私は安土城は信長の生まれた土地の美濃にあるものとずっと思っていたのだ。でも、よく考えてみれば、美濃より近江の方が立地条件がいいのは当然だ。

 「奈良散歩」に話を移そう。たとえば京都と奈良のどちらかに行けるとなったら、やっぱり京都の方に魅力を感じるのではないだろうか?司馬さんは言う。「(奈良は)おそらく首都が山城の平安京にひっこして以来の南都のさびしさというものが、沈殿して伝承しているとしか思えない。東大寺や興福寺は中世のヨーロッパでいえば大学であったが、しかし京においては層のあつい知的集団が形成されたのに対して、奈良は時とともに田舎になった。(略)
 首都が東京に移った明治後は、京都がさびれた以上に奈良はさびれた。東大寺や興福寺は寺領をうしない、その門前町としての奈良は江戸期以上に零落した」と。たぶんこれが奈良に対する我々の感情ではないかと思える。
 東大寺は華厳思想に心酔する聖武天皇によって建立された寺であるが、それが今でも、そんな状態であっても、すぐれた建造物を千数百年にわたって守り抜いてきたこの町の精神はものすごいものではないかと思える。
 司馬さんはここで「奈良が大いなるまちであるには、草木から建造物にいたるまで、それらが保たれているということである。世界じゅうの国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集して保存されているところはない。奇跡といえるのではないか」とさえいうのである。
 奈良の都市設計は中国の長安の強い影響を受けている。ところが今の中国では当時の長安の面影はほとんど残っていない。奈良がこの後さびれていき、そのままの状態で残らざるを得なくなったことが、かえって当時のままで現在まで残ったことになった。だから司馬さんは「奈良はある意味では、長安の都が冷凍保存された存在ともいえる」という。
 しかしただ置き捨てられたことが、当時のままの奈良を残したとは言い切れない。たとえば、東大寺の修二会(お水取り)が連綿と千数百年も繰り返し行われてきたのは、伝統いうしんがあったからで、それが「文化」なのだというのである。
 「文明」と「文化」を司馬さんは次のように言う。「人間のくらしには『文明』と『文化』がかさなりあっている。『文明』は普遍的で便利でかつ合理的なものだが、つねにそれに裏打ちされている『文化』は、どの国あるいは集団でも不合理なものであり、逆にいえば不合理でなければ『文化』でありえないのではないか。それに堪えて、不断にくりかえすというところに、他とちがった光が出てくるともいえる」と。だから「この場合、文化の定義は、仮に『その集団を特色づける歴史的神聖慣習』としておきたい」と言い直して、奈良における「伝統というしん」に敬意を表するのである。
 ここまでいわれるとちょっと奈良という地域を見直したくなってしまう。


 『街道をゆく』24巻の「近江散歩」は週刊「街道をゆく」の2巻に、「奈良散歩」は週刊「街道をゆく」の16巻に収録されている。

2006年10月28日

アンリ・ピレンヌ著『ヨーロッパ世界の誕生』

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 前回司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を読んでいて、ヨーロッパ世界にイスラムの影響がかなり残っていることを知った。
 このイスラムの影響を知って、アンリ・ピレンヌのことを思い出したので、ピレンヌの本を取り出してみた。この本、大学時代卒論で資料として使ったのだが、あくまでも必要な箇所を抜き出して使っただけであった。そのため全部を読んだ訳じゃなかった。で、作品