2011年10月29日

小路幸也著『オブ・ラ・ディオブ・ラ・ダ』

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 毎年出るのかどうか知らないが、楽しみにしているシリーズの新刊が出るのはうれしい。その新刊を書店の平台に見つけたときは、やっぱり本は書店で買うべきだよな、とつくづく思う。新刊の情報はネットでも取れるのだけれど、すべてを網羅出来る訳じゃない。しかも本として見てみないとよくわからないものも多いので、どうしても書店にほぼ毎日足を運ぶこととなる。それが楽しいし、今日はなかったか、と寂しい感じになることもある。

 で、この本である。シリーズ第6弾である。例によってさちさんの堀田家家族構成の説明から始まる。シリーズも進むうちに家族も多くなり、その関係も複雑になるので、見開きにある「登場人物相関図」がないと誰だかわからなくなる。これだけ多くの人たちが堀田家を中心にがやがやわいわいやっていくわけだから、話は面白くなって当たり前だ。小難しい小説と違って、微笑ましく読めるのがいい。
 今回もドタバタホームドラマを展開してくれる。東京バンドワゴンの店を使って映画撮影が行われることになり、その時帳場の机に古本を積み上げて、古本屋さんの風景を演出しようとした場面がある。それを見て勘一が怒ってしまうのである。
 勘一が怒った理由が次のようなのだ。もちろんサチさんが説明してくれる。


 これは、しょうがないですね。古本を乱雑に積み上げたのは、いわゆるステレオタイプな古本屋のイメージを出そうとしたのでしょう。けれども、我が家ではそんなことはしません。積み上げた古本はただ本を傷めるだけで何の得にもなりません。古本はただでさえ年月を経て痛んでいるのです。それをできるだけきれいな状態に戻して、我が子のように慈しんで、それを求める人に丁寧に手渡しするのが<東京バンドワゴン>なのです。


 これを読んで確かに古本は古本と呼ばれれば呼ばれるほど、年月が経っているわけでその分経年劣化をどこかに起こしている。そのことを、身を持って感じている人であれば、積み上げることは出来ない。なるほど、と思った。
 また<本棚の飾り>という言葉を教えてもらった。これは金持ちが見栄で書斎や応接間に飾る全集とか特装本のことを言う。
 それで思い出したことがある。たぶん以前どこかで書いたかと思うけれど、私が学生時代本屋でアルバイトしていた頃、筑摩書房などの高額な個人全集を、会社に配達したことがある。購入者はそこの社長さんである。領収書を会社の受付か経理の人に渡したとき、その人がぼそりと「社長の書棚を飾る本だね」と言ったのをよく覚えている。この人は社長さんが実際この全集を読まないことを知っているのであった。この社長さんは数種類の全集を予約していたし、言われれば確かに見栄えのする本ばかり買っていた。

 サチさんと勘一の言葉がいい。まずはサチさんから。堀田家のドタバタが終わって、毎度話を締めくくる時に出てきた言葉。


 人は弱いですから、いろいろ間違いを起こしますよ。それは誰にでも、大なり小なりあることです。
 でも、それに囚われていては、生きている甲斐がなくなってしまいます。大きな過ちでも、小さな過ちでも、それを償うためにしなければならないことは同じですね。
 しっかりと自分の足で歩いて行くことですよ。周りの人に支えられても、それが恥ずかしくても、自分が情けなくても、歩いていかなきゃならないんです。
 人間は、動物ですからね。そして動くから動物というんでしょう。だから歩かなきゃ、動かなきゃ駄目です。止まってはいけません。
 そしていけばきっといつか、傷は癒えるものです。

 勘一の言葉いい。


 人ってやつはね、失ったもんをいつまでも抱えてちゃあ荷物になって歩けなくなっちまう。忘れなきゃならねぇんだ。自分の中できちっりケリをつけて、そこに置いていかなきゃならねぇ。そいつが喪の仕事さ。


 甘っちょろい言葉だけど、こういうのに弱いのである。もともとホームドラマである。これでいいのだ。
 連続ドラマだろうから、このシリーズはまだまだ続くことを願う。私の楽しみとして、このシリーズを読んでいきたい。


評価
★★★★


書誌
書名:オブ・ラ・ディオブ・ラ・ダ ― 東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087754001
出版社:集英社 (2011/04 出版)
版型:302p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年10月18日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈7〉

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 また司馬さんの本を取り出す。このシリーズは全14巻だったと思うが、とにかくそれだけある。そしてやっと半分読み終えたことになる。とにかく気の向いた時に読んでいるものだから、一向に終わらない。いずれ気合いを入れて読んでみようとは思っているのだが・・・。

 司馬さんはこの本の中で身辺雑記を書けない人と自分を位置づけている。確かに司馬さんの随筆は、個人的な生活感が薄い。いつも論文調になってしまっているといえば言えるかもしれない。だけれど、それが司馬さんの文章の魅力だと思っているし、それを期待している。でもそうは言っても今回は珍しく司馬さんの交友録みたいなものがあって、司馬さんとそれらの人たちの関わり方が面白かった。
 それでもやっぱり司馬さんの文章の楽しみは、歴史に関する認識である。そしてこの本を読んでいて、どうしても“震災”と関連して考えてしまう。それが正しい本の読み方なのか、どうかわからないが、でもこの“震災”後のどう歩んでいけばいいのか、みんなが不安を抱えている中で、本来なら政治が率先して行かなければならないのに、それが出来ていないことにものすごく苛立ちを感じてしまう。まして被災者の人々にとっては余計にそうであろう。
 とにかく政治がどうしようもない。もともと野党しかやったことのない政党が、与党となって、日本の政治を動かしているものだから、やることなすことちぐはぐである。ちょっと前まで政治主導と言って格好いいスローガンをぶち上げたけれど、専門の官僚を無視して、行政の素人である彼らに一体何が出来るというのか、考えればわかることである。結局震災ですべてが露呈し、自らの無能ぶりをさらけ出しただけであった。つまり彼らは以前から“健全な野党じゃなかった”ということである。

 司馬さんは日本に健全な野党が成立しえなかった理由を「竜馬像の変遷」で述べている。
 われわれはいま、坂本竜馬という人物像を思い浮かべることが出来るが、実は1907年(明治40年)ごろまでは竜馬に触れることはタブーだった。もちろん明治の統一国家をつくるために果たした彼の功績は大きい。しかし明治国家が薩長のものであり、明治国家の目的は富国強兵であった。それ以外の思想の持ち主である坂本竜馬を含む人物たちは、歴史のなかの困りものにすぎなかった。
 特に西南戦争(1877)である。司馬さんは次のように言う。
 
 「西南戦争というのは、西郷の人望と、薩摩の土俗的な士族の軍事的な強さが中核になっている反政府運動ですが、自由民権の芽も濃厚に混じっていますから、いまで言う野党連合だった。近代の日本に、ついに健康的な野党が成立しなかったのは、それがこのとき、完全に軍事的に制圧されたからだとも言えるでしょう。このとき、坂本竜馬および竜馬的人物というものもまた、国権的祭壇におさまらなくなってしまった」

 こうした明治国家が昭和の終戦まで基本的に続いていたため、日本には健全な野党が育つ余地がなかった。そして戦後も連合国から押しつけられた国家であったために、未だに健全な野党が育たないで来たのである。
 その野党であった政党が政権与党となって、実際政治をやってみると「これはなんか違うぞ?」と戸惑ったまま、この震災にあった。だからどうしていいのかわからないのである。あるのは野党時代に培った“怒鳴り倒すこと”である。それを震災直後にやった“脅し”になっただけのことである。
 もっともその政党に政治をやらせてみたら、と与党にしたのは国民である。国民は何かが変わると思ったのだ。けれど何も出来ないことに、失望しただけであった。そんなことを考えながら、司馬さんの意見を読んでみた。
 
 さて、それ以外に司馬さんの意見で面白かったことを書き並べてみる。
 「歴史と風土」で現在の土佐と薩摩の風土を比べている。特に薩摩に来てみて「これが薩摩隼人の国か、それほどじゃない」と司馬さんは感じ、それがどうしてなのだろう?と考える。
 まず薩摩的なものというのは戦国の末期、島津家が意識的に訓練してつくりあげたもので、江戸時代もずっと訓練のし続けだった、考える。その薩摩的なエネルギーが西南戦争で尽きてしまったことにより、薩摩的なものが失われていったと思うのである。
 一方土佐はそうじゃない。歴史をひもといてみると、百姓の方がむしろ土佐人であって、藩をつくっていた山内侍は進駐軍に過ぎなかったから、今高知の町へいってみても、これはいかにも幕末ごろに出てきそうな人間だとか、長曽我部の足軽というのはおそらくこんなやつだったろうという雰囲気を猛烈にもった人が歩いている、というのである。そんなものなのだろうか?

 「“旅順”と日本の近代の愚かさ」では次のように書いている。

 「これらの作品(『坂の上の雲』)をかくときに、昭和十年代の陸軍大学校の教授内容をしらべ、それを経たひとにあたってきいてみたが、旅順攻撃の失敗についての解剖がほどよくしかおこなわれていないことに驚いたことがある。むしろ失敗とみとめず、成功とするようなふんいきがあり、そのふんいきのなかから、日露戦争後の軍部の体質ができあがって行ったのではないかとさえ思えた。この体質の軍部が昭和十年前後に日本を支配したとき、日本そのものを賭け物にして“旅順”へたたきこんだというのもむりがないような気もするのである」

 この戦争後生まれた土壌に関しては、以前にもどこかで書いたような気がするので、引用だけでとどめておく。次に司馬さんの著作で徳川家康のことを書いた小説『覇王の家』のあとがきがここに掲載されている。そこの次のように書かれている。

 「かれ(徳川家康)がその基礎を堅牢に築いて二百七十年つづかせた江戸時代というのは、むろん功罪半ばする。文化文政時代という特異な文化や、教養の普及という点で代表されるように功も大きかったかもしれないが、天文年間から慶長年間にかけての日本人にくらべ、同民族と思えぬほどに民族的矮小化され、奇形化されたという点では、罪のほうに入るかもしれない。室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本をとざし、さらにキリスト教を禁圧するにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった。
 その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ている。その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い」

 私は井上清さんが鎖国の功罪に関して、日本独自の文化を生んだことは事実であっても、それ以上に弊害の方が強いと断罪をしていることを知っているが、個人的には司馬さんの考え方の方がすっきりするような気がする。
 あと歴史上の中国とその周辺国に関する考察で、周辺民族というのは、文化さえ持てばよかった。(中国)文明という光源があれば、周辺にあっては文明を興す機能性を持ちえないか、あるいは持つ必要がなかった。つまり文化という村落内に通用するだけの秩序意識を背負っている身軽な立場であるため、時勢の必要に応じて他の文明を仕入れることが容易であるということである。明治以後、日本が欧米での普遍性をもっていた技術文明を人文科学ともに仕入れたということが、その好例といえるかもしれない、と書く。
 一方その胴元の中国など、文明を興したということは民族の偉大さではあるが、同時に、自己が興した文明を他のものと交換することができにくく、自己の文明によって自家中毒になるまでそれを持ちつづけざるをえず、ときに民族的衰弱を来すという深刻さがある、と書いているのは面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467073
出版社:新潮社 (2002/04/15 出版)
版型:379p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2011年10月05日

佐野眞一著『津波と原発』

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 どうもこの本は読んでいて、とりあえず急いでルポを書いた、という感がぬぐえなかった。とにかく震災と原発の現場に急いで行って、被災者や原発で苦しんでいる人たちの話を聞き、後は著者がそれまでノンフィクションとして書き上げてきたものから、関係ある箇所を引っ張り出し、何とか本にまとめた。そんな感じが強く残った。こういうのはある意味“鮮度”が命のところがあるので、私みたいな馬鹿者が飛びつくのだ。
 しばらく佐野さんの本を読んでいなかったので、忘れていたのだが、そうだ、この人いつも自分が書いてきたノンフィクションを引っ張り出してきて、新しい話を強引に作り上げる人だったのだ。それが鼻持ちならずにいたのに、ついつい忘れていた。
 この本は福島に何故原発がこんなにできたのか?それを政治家の名声と政治的背景、さらに原発があるこの地が福島県のチベットと呼ばれたほど寂れて、不毛の土地であったことなど絡めて書かれている。ただとにかく急いで書いたもののようで、少々わかりにくい。ただ歴史的背景はある程度理解できたので、それを書いてみる。
 まずは天明の飢饉から話を始める。この天明の飢饉で、相馬中村藩は盛時の半分まで人口が減った。そのため人手不足による農地の荒廃がさらに進み、藩は北陸などから労働力を求めた。要するに移民を受け入れたのである。移住者は加賀、越中、越後、能登、因幡まで及んだという。ただ彼らは乞食同然であり、新しい土地に来ても、差別に苦しみ、さらに自然気候に苦しんできた。今回の原発事故でここを立ち退かざるを得ない人々の祖先は、そういう移民が多いという。
 そういう土地であることが原発誘致に適した土地であったということになる。原発誘致が一挙に町や村を裕福にする一発逆転策であったからだ。
 福島第一原発ができる前は、ここは長者原という陸軍の飛行機練習場だった。それが米軍の襲撃を受け、飛行場は全滅した。終戦後あの西武の堤康二郞がこの飛行場跡地の払い下げを受けた。そして塩田事業を始めたが、やがて事業も行き詰まり、また荒れ地になった。そして東電が原子力発電所の予定地として、ここでボーリング調査をしていることを聞いた堤康二郞は3万円で手に入れたこの土地を3億円で東電に売ったという。
 国は戦後復興から高度成長期を迎えるこの国の電力確保を目指していた。しかし世界で唯一原爆の被爆国である日本に、原発を導入することは、国民の感情から難しいところがあった。
 ここに正力松太郎が“原子力の父”として、政治家の名声を得ようと政治的力を発揮して、しかも自らの読売新聞をキャンペーンとして使い、国策として原発がこれからは必要だと画策していく。そのうち電力確保のためには原発の必要性がだんだん認識されるようになる。このあたりの過程は結構いろいろな人の思わくが絡んでいてわかりにくい。
 ただそれを作る場所は東京から遠いこと、人口密集地から離れていること条件となっていた。東電がここを調査していたのは、そういう条件をクリアする土地であったからだ。そしてここがチベットと呼ばれるほど不毛の土地であったことから、県も積極的に原発を受け入れていったのであった。原発を積極的に受け入れきたのが福島県知事であった木村守江(1976年土地開発に絡む収賄罪容疑で逮捕された)と東電の社長木川田一隆が東電福島第一原発を誕生させ「浜通り」を“原発銀座”と変えた立役者となった。貧しい土地が原発をやすやすと受け入れていったのである。そしていったん原発を受け入れてしまうと、それから抜け出せないものとなる。

 双葉町の歴史を、財政の面からちょっと振り返ってみよう。福島第一原発ができたとき、双葉町は潤沢な電源三法交付金によって、全国でもトップクラスの豊かな自治体となった。
 だが、経済浮揚のカンフル剤だと思っていた電源三法交付金が、覚醒剤にかわるのは、あっという間だった。
 電源三法交付金は発電所の工事開始から運転開始の五年後まで正規に支払われるが、六年目以降は大きく減額する。新たに電源三法交付金を支給してもらおうとすれば、原発を新規に建設しなければならない。
 この双葉町のように原発は地元を全国でトップクラスの自治体とする。それによって場違いな箱物がどんどん建てられる。いたん生活が豊かになると、今度はその質を落とすことができなくなっていく。そして新たな原発建設で、それを維持しようとしてきたのだ。これが著者のいう「覚醒剤」なのである。これは敦賀でもそうだったと、以前の本で読んだ。
 自治体が原発で豊になり得たのは「原発は安全だという前提で成り立っているからね、福島県そのものが」という地元の意見が、原発を受け入れてきた住民の意識であった。それで豊になるんだったらいいじゃん、ということなのである。
 しかしこの震災と津波で原発は安全じゃないとわかると、根本的にその前提が崩れてしまった。電源三法交付金で自治体が豊かになっても、住民の人々は結局東電と国に騙されたことになってしまった訳である。その怒り、絶望感は推して知るべしだろう。
 町が村がそれで豊かになったのだから、そのくらいの被害はある程度しょうがないじゃないのとは絶対に言えない。その豊かさ以上大きな負担を今回強いることになってしまったのだからだ。
 そしてここが肝心なことなのだが、そうした危険性を東電や国はどこまで住民に説明してきたのか?もしかしたら多少危険性はあるけど、徹底的に管理すれば安全だからと言って、それを作らせてね。その代わりお金をあげるからというようなことであったのではないか?


 今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言説を無力化させた。それだけでない。そうした言葉を弄して世の中を煽ったり誑かしたりしてきた連中の本性を暴露させた。


 今回の震災や津波は人間が作ったもので完全な「安全」というのはないことを教えてくれた。もちろんある程度のリスクは何事においてもつきものだ。だけどそのリスクは人の生命や生活を奪う可能性があるものなら、単にリスクと呼べる代物じゃないだろう。それを隠すために、お金で釣ったのだ。
 逆もある。いつ来るかわからない大災害のために費用がかかりすぎると言って堤防をやめちゃおうと言った馬鹿な大臣がいたが、震災後この大臣の影が薄くなった。この大臣スーパーコンピュータ開発でもいちゃもんをつけたが、そのスーパーコンピュータが世界一になったところでますます存在感がなくなった。インタビューでも言い訳がましいことを言っていた。日本の政治家はリスクを隠すためにお金をばらまき、リスクを回避するためのものにはお金を出さない。変なところで帳尻を合わせている。


 「原発というのは要するに、運転しているときが、つまり動いているときが一番安全なんです。逆にいえば、止めた後が大変なんです。」


 動いているときが一番安全。この言葉は原発の恐ろしさを最も正確に言い当てている。原発の稼働開始は、コンビニに終始明かりを灯させ、自動販売機を常夜灯のようにさせた。原発は無限成長という絶対にあり得ない神話をつくりだしたのである。結果的にいえば、その神話にほとんどの日本人は踊らされたことになる。


 このことを日本人はやっと自覚し始めたのである。これからは「絶対にあり得ない神話」をまだ追い続けるか、それともまったく違うシステムを作っていこうとするのか、継続か転換か、それが問われている。

 ここのところ3月11日に起こった東日本大震災と津波、そして原発事故に関連する本や雑誌について書いてきた。実を言うとこれらの本は震災後発売されてからすぐ読んでいる。だからこれらの本や雑誌について、下書きみたいなものを書いたのは、その直後である。そのため表現上、時間表現がおかしな部分がある。でもそれをあえて直さなかったのは、その方がいいと思ったからだ。
 今のところこれ以上震災関係の本や雑誌を読む予定はない。もう少しこの震災に関するあらゆることが検証され、それについて書かれた本が出たら、また読みたいと思う。


評価
★★


書誌
書名:津波と原発
著者:佐野 眞一
ISBN:9784062170383
出版社:講談社 (2011/06/18 出版)
版型:254p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年09月18日

サンデー毎日緊急増刊『東日本大震災』

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 いい加減に涼しくなってもいいのに、9月半ばだというのにいまだに暑いのはいったいどうなっているんだろう?
 そもそもこの夏、感覚的に暑いと感じたのは、あの地震の影響による電力不足より、節電が全国的に訴えられ、冷房の温度がどこでも高めに設定されたことによる。
 それにしてもあの地震もそうだけれど、今回の台風による甚大な被害を見ると、いったい今年はどうなっているのだろう、と思ってしまう。今年もあと残り3分の1ほどあるが、これ以上何事もなく終わって欲しいと祈ってしまう。

 この雑誌は震災発生直後に緊急出版されたもので、その時見て、書き込んだものだ。なので、時間的にちょっとずれているが、そのまま書き残した。以下その文章である。


 これはすごい。特に津波が襲ってくる写真がおそろしくなってくる。こんなものが来たのである。町や村が一気に押し流されるのも当然だ。そしてその凄まじい爪痕も生々しい。本当にこれから復興出来るのだろうかと思わせるほど、その風景はひどすぎる。まさに「牙をむく」というのはこのことかと思われる。
 今も連日この地震のニュースが流れ続けるが、日がたつにつれ、その被害が大きくなり、死者や行方不明者が増える一方である。

 2011年3月11日(金)14時46分宮城県・牡鹿半島の東南東約130キロの海底を震源とするマグニチュード9.0、宮城県栗原市では震度7を記録した。その地震のエネルギーは阪神淡路大震災の約1000倍という。震源地があまりにも陸地に近かったため地震は津波を引き起こし、その高さ10メートルから20メートル級となった。後に陸地をさかのぼって到達した津波の高さ(遡上高)が37.9メートルまで達したという。
 地震に関しては今も、ほとんど毎日といっていいほど余震と思われる大きな地震が起こっている。今朝も通勤途中の電車の中で、乗客の携帯が一斉に緊急地震情報を鳴り、一瞬構えると同時に、電車が止まった。その瞬間だけ、奇妙な静寂が流れる。みんな3月11日の地震がよみがえるのだ。それくらいあの地震は恐ろしかった。おそらく地震がこれほど怖いものだと初めて実感したといっていい。
 それまで地震があっても、高をくくっていて、 “地震だな”と感じるだけで、手を休めることさえしなかった。しかしあの地震は違った。いや、最初はいつもと同じように地震を感じていた。いずれおさまるだろう、といった程度で。でも、揺れはだんだん強くなり、いつまでたってもおさまる気配がない。その揺れに恐怖さえ感じ、身体に緊張感が走る。棚のファイルは次々と落ち、棚自体も動き、コピー機も動いていた。しばらくは呆然とした、といっていいかもしれない。

 しかしこれだけでは済まなかった。帰れないのである。帰宅困難者となったのである。下手をすれば帰宅難民になったかもしれない。交通機関が全部動いていないのである。電車がダメならバスを考えるが、考えることは誰も一緒だから、ものすごい混みようだろうし、それよりも渋滞で動かないだろう。
どっちにしたって、まともに帰れる訳がないので、しばらく会社のとどまり、テレビのニュースを見続ける。
 あれこれ考えても、結局歩いて帰るしかないだろと、覚悟を決めて、自宅まで歩くことにした。おおよその見当で、2時間半ぐらいで家に着くだろう。
 まずは靖国通りに出る。駅前は人であふれかえっている。中には明らかに緊急用のナップザックとわかるものを背負って歩き、ヘルメットをかぶっている人もいた。会社で持たされたのだろう。
 予想通り車は渋滞し少しも動かない。人は歩道に、同じ方向へ歩いて行く。私もその中に加わった。靖国通りを逆に千葉方面に歩く人は多くいた。この流れにいれば方向は間違いない。
 よりによってあのとき風が冷たい日であった。身体の方は歩いているうちに、暑くなってきて、汗がにじんでくるのだが、それが風で身体が冷えて寒くなる。暑いのと、寒いのを交互に感じて歩いていた。
 とにかくまっすぐ歩いて行けばいい。浅草橋を過ぎ、隅田川を渡り、両国、錦糸町まではおよそ1時間。難なく歩けた。しかし錦糸町を過ぎた頃には、足が重くなり、張り始めた。トイレにも行きたくなる。
 コンビニをのぞいてみると、トイレの前で人が並んでいる。これはダメだな、と思い、通りの奥に入って、公園を探す。公園にはトイレがあるからだ。
 こういう時男は簡単だ。問題なく用を足し、また通りに戻り、せっせと歩き始める。
 そうそう、この時からコンビニの棚にものがなくなった。様子見の人は腹ごしらえのために、買い出しをし、歩いている人も同様に腹ごしらえのパンや水を一斉に買い求めた。私は途中自販機で水を買っていたので、それを飲みながら歩き続けた。相変わらず車は渋滞でちっとも動いていない。バスは走っているのは見かけたが、完全に渋滞に巻き込まれていた。歩く方が早い。
 やっと小松川橋まで来て、渡り始める。橋の上はさらに風が冷たい。この橋を歩いて渡ったことなど一回もない。いつもバスか車である。だからこの橋がこんなに長いとは、と実感した。歩いても、歩いても川向こうにつかない感じだ。こんなの一人で歩いていたら、とてもじゃないが平常心で歩けないな、と思いながら歩いていた。
 この橋を渡れば、私はこの通りから離れられる。しかし千葉の人々はさらに先を歩かなければならないのだから、大変だ。
 結局自宅に着いたのは10時頃、7時半に出たので、予定通りであった。
 歩いている途中自宅に何度か携帯で家に電話をしたが、もちろんつながらない。しかし全くつながらない訳でもなく、何回かかけているうちにつながる場合もある。こういう時携帯はやはり便利だな、と思う。出来るなら携帯会社も端末ばかりに力を入れずに、こういう緊急時でも回線が確保できるようにしてもらいたいものだ。
 電話がつながらないから、メールをしたのだが、かみさんの携帯にそのメールが届いたのは、私が帰ってきてからであった。もう本人が帰ってきているのに、とかみさんは笑いながら自分の携帯を見せた。帰ってから食事をし、親族に確認の電話を入れ、みんな無事であることに安心する。
 しばらくすると、いつも使っている都営地下鉄がわずかながら復旧したとニュースで流れる。一方でJRは地震があって早々とこの日の運行は全線休止すると、発表していた。つまりJRは地震のあと、利用者のためには何もしなかった。都営地下鉄が時間はかかったものの復旧できて、どうしてJRは出来ないのか、不思議であった。道を歩いている時、JRの駅前では、電車が動いているかどうか、その姿を確認している人の姿を多く見かけた。JRはこういう人たちの気持ちをどう考えているのだろう?石原東京都知事は「JR東日本の体質、私は許さない」と怒っていたが、まったくその通りだ。

 と、まぁ、3月11日の経験したことを書いた。この雑誌の最後の写真には隅田川を渡る人々の写真が掲載されている。この写真の橋かどうか、わからないけれど、私もあの時この川を渡った一人だったので、あえてその時のこと思い出して書いてみた。
 昔まだ春闘が元気な頃、交通機関がすべてストライキに入り、動かなかったことがあった。高校の時は、125CCの友達のバイクに乗って、葛西橋を渡り、大学時代にアルバイトをしていた頃は、配達用の業務用の自転車で家に帰り、翌日それに乗って自宅から新橋までこいだ。
 そして50の半ばで、歩いて自宅に帰ることとなった。まさかこの歳になってこんなことを経験するとは思わなかった。


内容紹介
東日本大震災/津波襲来/市街地炎上/爪痕/東松島市双葉町沖/ドキュメント・東京電力福島第1原発事故/岩手県/宮城県/福島県/青森県・北海道/日本各地の被害 ほか


評価
出来ない


書誌
書名:サンデー毎日緊急増刊『東日本大震災』 [雑誌]
著者:
ISBN:
出版社:毎日新聞
版型:28 x 20.4 x 0.8 cm (2011/3/24)
販売価:500円(税込)

2011年02月10日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈6〉

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 ここのところ本が読めない精神状態が続いていて、この本もやっとの思いで読んだ。だらだら読んでいたのでうまく感想が書けるかどうか不安なところがあるが、とりあえず書いてみる。
 気になったところは二カ所あった。一つは司馬さんが太平洋戦争時に戦車部隊に配属され、当時乗っていた戦車から太平洋戦争を考えたことである。もう一つはゴッホについての文章である。まずは戦車のことから書いてみる。
 司馬さんは兵隊に取られて満州にあった陸軍戦車学校へ送られた。この時乗っていた戦車は、「もし戦争に参加しないとすれば、皮肉ではなく同時代の世界で最優秀の機械」であったが、最大の欠陥は「戦争ができないことであった」。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もない代物であった。どういうことかと言えば、戦車のボディである鋼板薄すぎ、敵の砲弾はほとんど貫いてくる。しかも積んでいる大砲は砲身が短く敵に対する貫徹力がまったくなかったのである。要するにおもちゃの戦車であった。
 この戦車満州事変では活躍したが、当時はそれで何とかなったが、ノモンハンで大恥をかいた。陸軍の技術本部ももっと長大な砲を積み、もっと強い防御力を持たなければ戦車に値しないと参謀本部に持って行ったのだが、参謀本部は「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。砲の力がよわいというが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか」と馬鹿げたことを言うのであった。

 「ところが陸軍は戦車というものを所有した当初からこの論理的兵器に対して論理的戦術をもたず、論理的思考方法ももたなかった。信じられないようなことだが、陸軍にあっては『戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力もおなじである』とされ、このふしぎな仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問をいだかなかった。現場の部隊でも同様であり、この子供でもわかる単純なことに疑問をいだくことは、暗黙の禁忌であった。戦車技術の教本も実際の運用も、そうしたフィクションの上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかしな国家であった」

 これは歩兵においても同じ論理を展開する。「師団と名をつけた以上どの国の師団もみな同じである。なぜならそれは師団であるからである」と。司馬さんはこうしたフィクションのもとで戦争が遂行されたという。彼らが守るべき国家よりこのフィクションを命がけで守った。そのためにその本体の曖昧さを覆い隠すために、誇大な漢語フレーズ、たとえば無敵皇軍とか、神州不滅とか言い続け、自らも自己暗示にかけてしまう。そのフィクションを守るために我々は何百万という生霊を犠牲にすることなったのである。
 どうしてだろうか?司馬さんは日露戦争ころまでは、そういうフィクションはなかったという。問題は日露戦以後からである。

 「日本は維新後、西洋が四百年かかった経験をわずか半世紀で濃縮してやってしまった。日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的いえば日露戦争の勘定書というべきものがやってきた」

 つまり日本人が世界史上もっとも滑稽な夜郎自大の民族になるのはこの日露戦争の勝利によるものだと言うのである。日露戦争でかろうじて勝ったことを認識せず、冷静さを失い、勝利に酔い、自らの国力を過大評価する馬鹿馬鹿しい自国観を築き上げてしまった。その後日本をのぞく世界の軍事力は飛躍的に進歩する。日本は日露戦争の勝利の美酒に酔いことで、世界の状況を見ず、以後軍事力はそのままの状態であった。軍部は日本の精神論で太平洋戦争をおこない、そのつけを払ったのである。司馬さんは「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である面が多い」というのはこのことなのである。

 「日露戦争の勝利はある意味日本人を子供にもどした。その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい」

 こうした“失敗の本質”は、日本が太平洋戦争の敗北から嫌が上でも自らの歴史を検証せざるを得なくなって、初めて知ることとなったから言えるわけで、それ以前では政治家、軍部、そして国民もそうした熟成度に達していなかったのだから、どうしようもない。ただ脆弱な戦車に乗っていた司馬さんは身をもって、これはおかしい、と感じられたということなのだ。


 ゴッホの司馬さん文章のことを書く。この文章の初出はゴッホ画集によるものらしい。昔何かのCMで、ゴッホは1890年7月27日、37歳でピストル自殺をした。かれが画家になるべく決意したのが27歳であったから、画家としての活動期間はわずか10年にすぎなかった。写楽は僅か10ヶ月の間に150枚の作品を残して忽然と姿を消した。西鶴は一昼夜に2万3500句を詠んだ。いずれも短期間で狂おしいほど作品を発表していることを驚きとしてあげていた。
 そのゴッホは昔から興味がある。そしてこのゴッホの人物像を司馬さんが紹介している文章は興味深かった。司馬さんは「美術史の中の多くの天才たちのなかには生まれついて絵筆を持っていたという内外の条件にめぐまれたひともいたが、なかには「これ以外に自分のやることがない。仕方なく絵のなかにいるのだ」というぎりぎりの放下のなかで画家である自分を見出したひともいる。ゴッホはその中でももっとも痛烈な存在である」と書いている。ゴッホは自分が「絵を描いて生きてゆくしか仕方がない」と思った人であり、そこには人間の社会に入れてもらうことにことごとく失敗し、生皮を剥がされてゆくような痛みと絶望の思いがあった。やることなすことうまくいかない。ゴッホとしては父がプロテスタントの牧師であったため、牧師になるべきだったかもしれないし、そうした奉仕の仕事を求めた。しかしそれが具体的に何であるのかゴッホにもよくわからなかった。ゴッホ自身も社会に疎外されている存在として、いたたまれないほど生きものとしてさびしかったから、下層民の中に入って彼らのことを聞いたりした。
 ゴッホの初期の絵に「ジャガイモを食べる人々」という暗い絵がある。


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 アルルの時代のゴッホしか知らなければ、これがゴッホの絵かと思えるほど、その絵に漂う雰囲気は暗く寂しい。そんな中にゴッホはいたときもある。が、そこでも彼の存在は否定された。今流に言えば彼の言動は“重かった”のである。
 ゴッホの場合は外側から与えられつづけた否定であったために奈落へ落ちた。落ちる寸前にかれは奈落の暗さのなかで自分の絵の才能にしがみついた。それが彼の絵の基本といっていいかもしれない。逆に言えば自らの人生を反映するかのような暗さ故、色彩への欲求が弾け出るような表現場所を求めた。それが南仏のアルルに移ったとき開花した。司馬さんはここで次のように言う。
 
 「この場合、南仏の光線はかれの中にうずいていた創造衝動のために触媒になったのではなく、逆であったかもしれない。かれの天才のほうが触媒になり、アルルの光線のなかであたかも自然現象のようにアルル時代の絵が生まれたといっていい」

 私はゴッホ絵を見るたびに、どんなに色彩鮮やかに描かれた絵であろうと、そこに暗さをいつも感じていたので、司馬さんのこの文章を読んだとき、それがこれだったんだな、と思ったのである。そういう意味で、司馬さんのゴッホに関するこの文章は“目から鱗が落ちる”感じであった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈6〉エッセイ1972.4~1973.2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467066
出版社:新潮社 (2002/03/15 出版)
版型:378p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年11月29日

酒井順子著『金閣寺の燃やし方』

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 三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいて、不可解な部分が私にはあった。それは主人公の溝口が生きるために金閣寺を焼いたとされていることである。あれほど死に対して陶酔的な美を感じていただろう三島が、この作品に関しては、主人公に“生きる”ことを選択させ、そのための手段として金閣寺に火をつけさせるのが、不思議であったのだ。普通なら溝口は金閣寺が火に包まれる中で、死んでいってもおかしくなかったのではないか。少なくとも事実として林養賢は金閣に火をつけた後、服毒自殺を図ろうとして失敗しているのである。
 自衛隊の駐屯地で檄を飛ばし、割腹自殺をやってのける三島である。なら溝口は死んでいいはずである。そう感じたのである。その答えがこの著者によって明かされている。そのことは後で書く。

 この本は、書名はかなり過激なものだが、内容は金閣寺放火事件という事実を三島由紀夫と水上勉がどう小説として書いたか、それを比較しているものである。三島と水上が同じ事件をどのように小説としたか、その違いを問うことで、三島と水上の取り組み方の違いを明らかにしていておもしろい。
 実際には三島の『金閣寺』は純粋な小説としてとらえることが出来るが、水上の『金閣炎上』は小説のスタイルをとってはいるが、どちらかと言えばノンフィクションに近い。著者も「全く違う個性を持つ二人が、なみなみならぬ思いで金閣寺放火事件に注目したのは、一体何故なのか。金閣寺を通して二人の作家を見る私の試みは、ここから始まりました」と書いている。
 では二人の作家が金閣寺放火事件をテーマにした小説を書くに当たり、そのスタンスの違いは何なのか、それを書いてみたい。まず最初に三島由紀夫の『金閣寺』が発表され、それを読んで水上勉がちょっと違うんじゃないのと感じ、『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』を書いたという経緯をしっかり把握しておかなければならない。つまり先に三島の作品が先にあり、その上で水上の作品があるということが重要なのだ。その上で著者は次のように書く。

 水上勉は、三島の「金閣寺」を読んでいたことでしょう。「金閣寺」が出版された時、水上勉は三十七歳。四十歳が見えてきたものの、社会の中枢にいるわけでもなく、未来の希望があるわけでもない。水上はその状態で「金閣寺」を読んだのでした。私生活も仕事もうまくいかない水上が、お坊ちゃま育ちのエリートで、文壇の寵児でもある年下の三島由紀夫が書いた「金閣寺」を読んだ時、一体どう思ったのか。
 結果的に言うならば、水上の「五番町夕霧楼」と「金閣炎上」は、三島の「金閣寺」に対するアンサー、ということになるのだ思います。金閣寺が燃えた時水上が感じた、「林養賢は自分だ」という感覚と、三島「金閣寺」において描かれた小僧の像は、全く違うものだった。その落差があまりに大きいものであったからこそ、水上は金閣寺にまつわる二つに作品を書いたのではないでしょうか。

 これは読み比べてみると明らかにわかることなのだが、三島の『金閣寺』は主人公が金閣を燃やすその動機が美への嫉妬につきる。両者を比較するため、まず三島由紀夫のスタンスを著者の考えから見てみよう。

 三島由紀夫は、林養賢の生い立ちや性質に対する共感は抱かなくても、「美への嫉妬」ただその一点において、養賢という人物の中に入っていくことができると思ったのです。

 三島は、自ら思想地図を説くのに最も適当な狂言回しとして、林養賢をピックアップしました。三島は、金閣寺放火事件という出来事のガワを借りて、底に自らの思想を充填したのであり、だからこそ「金閣寺」は、小説なのです。

 燃える前の金閣寺を特に美しいと思っていたわけではなく、上空から見たような観念上の美の物語として「金閣寺」を書いた。

 だから実際の犯人である林養賢などどうでもいい。林の行動や供述で小説として使えそうな部分だけを拝借して、『金閣寺』を書いたといっていい。三島は他のところで、「あれはね、現実には詰ンない動機らしいんですよ。見物人が来る、若いやつがきれいな恰好してね、アベックで見物に来たりする、それがシャクにさわる、自分は冷飯食わされてて、みじめな恰好しているしね、自分の青春は台なしになってしまう」と語り、その後も養賢のことを、「ああいうやつ」とか「キチガイ」といった呼び方しているのである。

 一方水上勉は林養賢の生い立ちから、その境遇、家族関係、金閣寺での徒弟生活などを克明に追うことに重点を置き、彼の人生の不遇さをその動機と見ている。いわば林養賢に寄り添ってその物語を書いている。それは林養賢が水上と似たような境遇であったことに由来する。
 彼が養賢と同じ若狭の貧しい家に生まれ、小さい頃から口べらしのために京都の寺に修行に出され、臨済宗相国寺派の寺において小僧としての生活を送っていた。寺の徒弟として生活することが、いかにつらく厳しいことかを、身体を知っている。還俗後も仕事を転々とし、四十歳過ぎてからやっと作家として一本立ちしたのが水上勉であった。作家として一本立ちした後も、生まれた土地と深いつながりを、人間としての存在証明としていた。
 一方養賢はそのつながりを断たれていた。水上は同郷であるし、若い頃養賢とも出遭っているということも伴って、養賢に、深く同情した。だから水上は「情」をもって裏から養賢へと歩みよっていったというのである。

 水上は、実在の人物である林養賢の隣に、自分が降りていきました。林養賢が立っていたのは、日本の、仏教界の「下」であり「底」であり「裏」。そんなじめじめした地帯にこよなく親しみを抱く水上は、養賢の脇に立って事件を追体験したのであり、だからこそ「金閣炎上」はノンフィクション(であると私は認識しております)なのです。

 と著者は言うのである。

 だから、水上は「三島の華麗なテクニックによって、林養賢という放火犯が、美に復讐する抽象的な犯罪者・溝口という存在に変わったのを見たことが、水上にとって執筆の一つのきっかけになったことは、間違いない」と著者が言うのはよくわかる。水上は三島「金閣寺」に対する違和感を強く覚えたのである。著者は次のように言う。

 水上勉が三島「金閣寺」に不足していると思ったものは、そして自分でなければ書くことはできないと思ったものは、京都の寺の生活の底に澱んだ、暗い部分であると同時に、そんな「どろどろしたもの」に幼い頃から心身を浸さざる得ない、貧しい少年達の気持ちでした。

 そして金閣寺を見ても、「どんな人がどんな苦労をしてこれを作ったのか」と思い、下から金閣を支えていた庶民の労苦に美を見る、水上。

 水上がエッセイで「ここで三島由紀夫さんの名作を持ち出すのもどうかと思うが、『金閣の美への反感』といったものは確かに林君にもあろう。そのことについては林君は似たようなことをいっている。然し、それらのことは、すべてことばにすぎない。美しいものを焼いても死ななくてもよい場合もある。むしろ、ここは死にたい気持ちが先にあって、金閣がいわばまきぞえだったのではないかという気がするのである」と言っているのをあげている。

 さらに著者は養賢と似た境遇の水上と三島の境遇をさらに比較する。三島を「作家という職業ににたどりつくまで、日の当たる表の道を歩いてきた」あるいは、「学習院から東大、そして大蔵省へ。三島が歩んだのは、まさに陽のあたる道。それは、東京という“表日本”の中でも、最も燦々と光が降り注ぐ道」を歩いてきたと言い、「三島は常に中央の人」であったという。
 一方水上を「裏街道をはいつくばるように進んできた」人生と言い、「裏日本の作家」と言い、水上を「端っこの人であった」と言うのである。要するに三島と水上をいちいち正反対だった言うのである。養賢を表から近付いたのが三島であり、情をもって、裏から養賢を理解しようとしたのが水上であったのだ。その正反対のスタンスの作家がすれ違ったのが金閣寺であった。同じ事件をテーマにしても、扱う作家がその境遇や考方の違いでこうも違った小説になるのはおもしろい。

 さて最後に三島の『金閣寺』で溝口を殺さなかった理由を著者は、実録にとらわれた」からだけではなく、この頃三島は人生の転換期いたからだという。すなわちお坊ちゃま育ちのエリートでうらなり時代から、心身のバランスが最も高いレベルで調和して、今までの分を取り返すが如く肉体改造をする意欲に満ちた三島は「生きる」気持ちに方向が向いていたことによるのではないか、と考察している。当時の三島はそうだったんだと知った次第。しかし著者も言っているが、その三島の肉体改造の行くつく先が「死」であったことは、結果として物語の中では死を望まなくても、自らの人生で死を望む羽目になるには、皮肉と言えば皮肉と言えまいか、そんなことを思った。


評価
★★★★


書誌
書名:金閣寺の燃やし方
著者:酒井 順子
ISBN:9784062166195
出版社:講談社 (2010/10/28 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月05日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈5〉

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 続いて司馬さんの5巻目を読む。まずはへぇ~と思ったことを書く。

 維新前に日本人名前にはナノリというものがあったそうだ。漢字で書くと「名告」、「名乗」と書く。広辞苑のよると、「公家及び武家の男子が、元服後に通称以外に加えた実名。通称籐吉郎に対して秀吉と名乗る類」らしい。坂本直柔(なおなり)は、坂本でだいたい想像がつくが、そう、坂本竜馬の名乗り名である。
 明治になって一人の人間がいくつも名前を持っているのは悪い習慣だということで、一つにせよという太政官令がでた。そこで桂小五郎は、それまで木戸貫治といったり、準一郞と名乗っていたが、それを木戸孝允とした。
 江藤新平は名乗り名として胤雄というのがあったが、自分は「新平」でいいとそれ名で登録した。まわりの者は新平では中間の名のようで、位階のついた大官らしくないといったらしいが、江藤は、なら新平(にいひら)とでも呼んでくれと吐き捨てるように言ったという。江藤らしい。
 西郷隆盛の場合が面白い。西郷ははじめ通称として吉兵衛といい、後に吉之助と改めた。維新後名前を届けなければならない時に、西郷は東京にいなかった。同藩の吉井友実が代理として届けた。その時、「ハテ、西郷の名乗りはどうじゃったか」、「たしか隆の字がつく」、「隆盛じゃった」と思い出しそれを届けた。西郷が東京に戻ってきて、代理で名前を届けてくれたことを礼を言ったが、その後で吉井に「おいは、隆永じゃど」とこぼしたという。もし西郷が東京にいれば西郷隆盛という名は日本史上残らなかったことになる。
 西郷の弟、西郷従道もふるっている。役人が名乗りをどうしましょうと訪ねた時、従道はやはり西郷隆盛同様、隆の字がつく。隆道である。で、「リュウドウじゃ」と言ったのだが、それが薩摩訛りであるために「ジュウドウ」と聞こえたらしい。それで隆道が従道となってしまったという。司馬さんは「この兄弟はそのユーモラスなふんいきで共通している」と言っているのは、確かにそうだ。

 さてこの巻を読んで考えたことがある。儒教的専制国家の問題点とでも言おうか、その悪影響に触れた司馬さんの文章に、今の日本と中国あるいは韓国や北朝鮮の横たわるぎくしゃくした関係が、そこから発しているような気がしたのである。
 それを書く前に断っておきたいことがある。私はこのブログで自分の政治的意見を出来るだけ言わないようにしている。個人的にはあれこれ言いたい部分もあるのだが、それをここであれこれ言うべきものじゃないと考えているからだ。基本的に政治色の強い発言はどこか偏った匂いを感じてしまうからである。その意見はそれを言っている人間が属している社会から意見を言っているわけで、そこは、公平じゃないと考えるからだ。もちろん個人的に何をどう思うと自由なことだし、さっき言ったように私にもそんな意見はある。けれど、それを個人の段階で言うならともかく、こうして不特定多数の人が見る可能性のあるブログに披露することは、どうなんだろう、と思うのだ。たとえ個人的意見と断っても、ここで公開した時点でもうそれは個人的意見ではなくなる可能性があるからだ。私はそこまで自分の意見に責任は持てない。だったら言わない方がいいに決まっている。そういう考えなのだ。(それでも言ってしまうこともたまにはあるが)
 で、そのことを断った上で、今回は私の個人の政治的意見ではない。あくまでも“そう感じる”ということで話を進めたい。以下司馬さんの言っていることから考えたい。

 儒教的専制国家は、中国が卸し元である。漢時代にこの体制がうまれ、宋におよんで大完成し、清朝までつづき、清朝が消滅してもなおその基本的な政治習風は蒋介石中国におよんでなおなお臭気が抜けなかったほど、その体制的体質というのはしぶといものであった。
 儒教というのは生活習慣まで至るもので、そうしないと儒教は完結しない。長幼の序とか、親類とのつきあい方、親類の範囲、結婚の仕方、葬式の出し方、こういうものが儒教であって、「子曰ク」だけが儒教ではない。儒教というのは社会体制そのものであり、生活規範であり、極端にいえば人間を飼い慣らす原理であり、システムである。
 ただ世界中のたいていの民族は絶対的原理を一つ持っていて、その絶対的原理で人間をつくり変えてしまう。そうでなければ人間は猛獣で手に負えない動物だと思っているらしい。中国では儒教でもって人間を飼い慣らしているし、ヨーロッパはキリスト教でそうしている。回教圏もむろんそのことが強烈におこなわれてきた。

 そして儒教体制が確立してからの中国では新しい技術を開発していくという競争がなくなって、古い時代の中国でいろいろなものが発明されたというのは既に伝説的な話になってしまった。
 司馬さんはこうして競争の原理のない儒教的な中国体制というのは人間が考えた政権永続の最良の方法である、と言っているし、これまで二千年間、儒教という原理で社会的存在として人間の猛獣性、つまり無用の競争の毒牙を抜いてきたとも言っている。
 だから競争の原理を内部にもたない当時の中国・朝鮮式体制(これについてはこの後触れる)にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。
 私はここに今の北朝鮮の姿を見るのである。つまりあの一党独裁で、一人の指導者がどうしていつまでも政治的権力有しているのか不思議でしょうがなかった。民衆は日々の食糧に窮しているにもかかわらず、政治批判や反体制が起こらないのは、一つには(あくまでも一つにはである)こうした反体制を持たない(あるいは持たせない)儒教的体質をいまだに残しているからではないのかと思ったのである。
 朝鮮は高麗朝でもそうであったが、李氏朝鮮でも儒教的専制国家の模範生的な国家であった。昔から朝鮮は中国をもって宗主国としていた。これはよくいわれているような属国ではない。属国というのはヨーロッパ的な考え方で、アジアでは中国が中心だと中国人は考えていた。アジアだけでなく全世界の中心だと考えていた。ただそれは地理的に可視範囲がヨーロッパまで及んでいないから、そのあたり一帯、つまり天が覆い地が続くかぎり自分たちの皇帝がその地上の皇帝であると思っていたのである。だから中国人は自分たちの体制が及んでいない所を蛮地とみる。野蛮人はしょうがないと思っている。
 このため朝鮮も、属国ということではなく、中国のそばにある小さな国だし、垣根の国、衛星国だから、長幼の序の礼儀として、蛮国ではなく蕃国として自分を位置づけていた。ただし蛮国、野蛮人ではないということで、一所懸命その中国体制、つまり仁義礼智信を原理としている儒教体制を取り入れて、それそのもので国家体制を作って「東方礼儀の国」と中国人にいってもらい、それをもって自分たちは文明国としてきたのである。こうして「アジア的専制国家」群が生まれたいった。これが中国や朝鮮にあって二十世紀初めまで続き、結局アジア的停滞という弾力性のない民族社会をつくっていったのである。

 ヨーロッパに産業革命が起こり、それがインドをへて帝国主義の形をとり、中国に接近し、その力をもって侵入してくるようになると、中国はこれに対抗できず、踏みにじられるしかなかった。中国人の国家観がヘンテコだったから、ヨーロッパ人たちに、ここは取り得な大地であるという観念を持たせた。ヨーロッパ列強のアジア進出はこうして生まれたのである。
 悲惨な歴史を踏んで、これではまずいと自覚し始め、本当に新しい中国をつくるためには、それまであった中国的なあらゆるものを吹きとばす原理を持ち込まないとダメなんじゃないかと考えた。
 司馬さんが言う「体制としての儒教は悪いものですよ」を蹴っ飛ばすには、別の強烈な原理を持ってこなければならない。しかも短期間で新しい原理でやらなきゃならない。そこでマルクスの原理がいいというので、そのシステムでやってみると悪習がサーッ消えたので、毛沢東もホー・チミンもそれを仕入れてやってきたのだろうと言うのである。それが中国におけるコミュニズムの出現である。中国人民は集団発狂したような勢いでそれを繰り返しやってきた。列強に対抗してきた。それが新しい中国の歴史であった。列強が好き勝手に中国に進出し、ここは取り得な大地であるという観念を持たせないために、新中国になって国境意識が前代未聞なほど厳格になってきたのである。
 私はここでも今の中国が尖閣列島に強い関心を持つのも、こうした歴史的背景があるため、自らの国境意識を厳格にせざるを得なかった所に由来するのではないか、と思ったのである。しかもそこは天然ガスを有するから余計であろう。
 反日デモにしたって、過去の歴史から学んだことであって、それに対抗してきた集団発狂したような勢いが、団結心を生んでいるんじゃないか、と思ったりしたのである。

 では東アジアの一員である日本はどうなのであろう。日本も8世紀のはじめその統治システムの模範を最初中国に求めた。それを推進したのは藤原氏であった(大化の改新)。日本がこの制度導入した理由は、藤原氏が他の土着勢力をつぶし、天皇の帝権を絶対的なものにするためであった。
 しかし藤原氏は権力の機能を分けあった。実際の政権は藤原氏が握ったため、律令制度の基本である帝権の絶対化を藤原氏自身曖昧にしてしまったのである。日本は律令時代といえども、儒教とそれにともなう官僚制度とを、滑稽なほど粗雑さでとり入れただけであった。そういう意味では日本は8世紀初頭にそれをまねたが、早々から落第生であった。
 さらに平安末期になると関東で武家集団が結束し、律令制の一大批判勢力となっていく。この後後醍醐天皇が中国の皇帝のような専制制を確立しようとしたが、結局足利尊氏に倒され、再び日本は二重構造となっていく。
 時代は更に戦国時代から、徳川幕府に進むが、徳川幕府でさえ、明快に二極化している。徳川幕府の権力内容は、譜代と准譜代(外様大名であるが、半与党的存在の大名で、関ヶ原以後家康についた豊臣側の大名のこと)である与党と、たとえば薩摩、長州などの外様の野党の存在を肯定していた。
 何故なら家康は「日本の歴史においてさまざまな政権がさまざまなテストをうけてきたあとに成立しあたために、『どういう権力が日本的現実になかでより自然であるか』ということを知りぬいていた」からだと司馬さんは指摘する。要するに日本の歴史を見ると、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけていて、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することができなかったのである。
 日本史をひもといてみれば、日本はどう考えても競争の原理ででき上がっている。あちこちに極がたくさんある。豪族間の競争とか、細かいところまで行けば、農民は農民で昔から競争している。こんな狭い国で競争の原理で競ってきた。それが外に押し出されたとき、倭寇になり、秀吉の朝鮮出兵になり、日中事変となり、破れかぶれとなると太平洋戦争となる。日本の競争原理がそのままナマで外に出た形である。国内の競争原理のエネルギーのまま、その形で行ったわけである。
 日本は専制国家を生まない体質であり、いつもある競争という意識が、国家システムとして二重構造のシステムが絶えず存在させてきた。明治維新だって、偉かったからではなく、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、あるいは機能とかが、作動していって、徳川幕府の反体制であった薩長があったから明治維新が成立し、その後もうまくいったのである。

 以上が司馬さんの言葉をかなり参考にさせてもらい、今でも歴史の残像がどこかで尾を引いているのではないかと感じた部分を書いた。
 司馬さんは「歴史は百年ではじめて成立する」、「歴史は百年たつとひからびて丁度いい。どうしてもなまがわきでは、歴史にはならない」というところから、このような大局的な考えが出来るんだなと思った次第である。


評価
★★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈5〉エッセイ1970.2~1972.4
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467059
出版社:新潮社 (2002/02/15 出版)
版型:389p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年10月30日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈4〉

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 また司馬さんのエッセイを読むこととした。
 今回この巻を読んでいて感じたことは「国家」を我々がどう感じているか、である。司馬さんはここに収録されているエッセイの中で何度か言っているのだが、今ほど「国家」が軽く感じられることはない、と言うのである。そしてこの国家とは何かを語るとき、前置きとして「いいわるいは別にして」とか言って、今国家という意識が日本国民に薄れている現状と、重苦しく「国家」というものが庶民にのしかかっていた時の、どう違うのかを論じている。司馬さんは次のよう言う。

 「現在、日本に国家があるか、というとちょっと疑問がある。すくなくともわれわれの意識の中では、国家というものはあるのかないのかわからないような、たいへん軽い存在になってしまった。何か悪いことをして警察にでもひっぱられてゆく以外は、国家の重みを一生感じないで過ごしそうで、実に頼りない」

 確かにそうだ。けれどこれはつい最近の日本の歴史を見ても、国家という意識が薄い方がいいに決まっている。ただ「良い悪いは別として、国家というのは充分に国民を興奮させるものだった」とも言っている。
 たとえば普段国歌の「君が代」さえ強制的に歌わせるのはどうかという教師がいて、それ歌えばさも戦前の体制に戻るような言いぐさで、それを拒否し、生徒もそう思うようになる。けれどサッカーのワールドカップに日本代表が出場すればみんなで「君が代」を斉唱する。歌うことで国家という意識をその時だけ共有し興奮していくのである。司馬さんは競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるものと言っているが、まさしくこれがその例としてみることができそうだ。
 今中国で日本バッシングが盛んに行われているけれど、あれだけ若者が興奮するのは、様々な背景が考えられるだろうけど、日本という敵を設定し、その意識を共有し、そこに戦う姿勢を見出されるからではないだろうか。もともと中国人は中国人で日本を昔から諸蛮、つまり衛星国の一つに数えていたのだから、彼らからすれば見下しても当然なのかもしれない。日本もわずかな期間だったが、そうした国家意識を高揚させた時期があったことを思えば、納得できなくもない。
 ただ司馬さんは「考えてみると、日本の長い歴史の中で近代ヨーロッパでいう国家を実際に日本人がもったのは、明治のはじめから太平洋戦争が終わるまでの、せいぜい八十年間に過ぎなかった。
 明治までの日本人の意識というには、たとえば薩摩藩士は薩摩藩のことしか考えない。その思考は藩どまりであった。百姓はもっとひどい。彼らは隣村との喧嘩なら生命がけでやるが、藩という大きさでは何も考えていない。
 要するに日本人は一つの国土に住みながら、国という意識はなかった。せいぜい藩なら藩まで、村なら村までしかない。極めてローカル主義であった。それが日本の地金である」という。
 それを明治政府は村の一人一人、藩の一藩士に国家という意識を植え付けようとした。愛国心を百姓や商人に起こさせようとした。国として一つの意識にまとまらないと当時の列強に侵略されてしまうという危機意識がそうさせた。しかし一端国家という意識を植え付けられた国民は歯止めがきかなくなっていく。それが太平洋戦争が終わるまで続いた。
 戦後それは悪夢だったと考え改め、平和の名の下に国づくりが進められ、国家という意識が次第に薄れていく。けれど司馬さんは「それは日本古来のものに戻ったにすぎない」と言い切る。だから「現代日本のナショナリズムは『村意識』のナショナリズムで、一地方、一企業間にとどまった強烈な帰属意識で、それがなかなか日本全体に拡がっていかない」と言う。
 中国では一漁船の船長が拘束されれば、国家をあげてそれに対抗措置をとるが、日本の一企業のサラリーマンが拘束されても、青い顔するのはその企業の関係者だけで、国家もうろたえ、国民は“ばばを引いた”としか思わない。その程度のナショナリズムしか持ち合わせていない。
 何度も言うように危機や競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるもので、ヨーロッパのような地続きで、いつ隣国が攻めてくるかわからない状況なら民族的にまとまれる。しかし島国である日本では、国家だとか民族とかいうものの実感がきわめて生まれにくい。ヨーロッパで生まれた近代国家というものを単にうわべだけ輸入したって、根本的なところで違うのだから、根付く訳がない。基本は自分だけが安穏として暮らせればいいという発想しかないし、他人を思いやる発想がないのだから、自分さえよければそれでいいとしか考えられない。その範囲が多少広げられるのは個人が所属する共同体までであろう。

 別の視点から見てみよう。江戸幕府が三百年続いたことの功罪を考えてみたい。司馬さんによると、「徳川幕府の作った社会は、人間をいかに反乱させずに安穏に暮らせるか、この目的で組織された社会」であった。
 たとえば関ヶ原、大坂の陣を経て徳川体制が安定すれば、普通機能的に考えて、兵隊は解雇し、帰農させるか商売をやらせる。ところが徳川家康は徳川体制の安定のためには現状維持が一番望ましいということで、兵隊は戦時体制のままおいた。そのため仕事のない侍がゴロゴロする。つまり仕事のためではなく、人を養うだけのために組織されたのが幕藩体制だった。これが三百年続いた。それがその後の日本人の組織感覚にあたえた影響は大きい。それが現代日本の終身雇用という独自の雇用体制が尊ばれるのもこの点から考えてもいい。雇ってやるからきちんと働けという発想は、食べさせてやるから謀反をおこすな、というのと同じである。
 どうして徳川家康は変革を恐れたのか。そこには幕府が独裁政治でなかったことにある。(司馬さんはもともと日本は独裁に向かない国と言い切っている)徳川幕府は他の藩という存在の上にただ乗っていただけで、一種の盟主に近い存在だったからである。だから場合によっては「江戸を襲われるかもしれぬという点では、その草創期から病的な神経を持っている」っていた。そのための懐柔政策である。そして「江戸体制の創始者は、人間を猛獣の一種として見る明快な人間眼と定義をもっていた。かれらの体制づくりは簡単で、猛獣を重秩序でしばりあげることによってのみその猛気を矯めることができると信じ、そのとおりやってのけ、みごとに成功した」のである。それが三百年も続いたのである。三百年ちかく教育されつづけた日本人は徳川幕府とおなじ心情になっていったのである。
 もともとヨーロッパのようなパブリックな意識がない。われわれには「自分の」というのしかないのである。そこに現状維持というのが一番という徳川幕府の心情が浸透すれば、それは平和ではあろうが、自分本位の平和でしかなく、文化にしても元禄文化みたいな庶民あげて平和ぼけした文化しか産まない。
 もともと日本人はローカル主義が地金で、そこに変革を望まない江戸幕府が三百年も続き、のうのう暮らして来た。他者を思いやることより自分が大事、自分が所属する共同体だけが大事という発想しか持てなくなってしまった。
 そこにヨーロッパ流の近代国家という思想やシステム持ってきても、都合いいところだけつまみ食いし、基本は変わっていない。そこに明治政府から昭和の軍閥の専制期は国家の高揚を掲げて戦争しても、それが個人にどのように利益が反映するのか、その程度しか考え到らない。個人に利益が享受できれば、それを肯定し、思ったようにいかなければ激高し、その時だけ「国家」を意識する程度なのだ。悲しい国家意識である。

 さて、最後に個人的に興味深かったことを羅列で抜き出しておく。

 江藤(新平)が天性の検事であるところは、その論理能力が他人の悪を追求するときにすさまじいほどに冴えわたることでもわかるが、しかしかれが明治の建設にのこした業績はそういうものだけではない。明治初期の政府機構を法制化するについてはほとんど江藤の手でおこなわれたのではないかとおもわれるほどよく働いている。さらには旧民法の基礎をつくった。そういう世界のみに江藤は自分の活動を限定すればよかったが、しかしかれの魅力と不幸は、革命期をへた者として野気がありすぎることであった。
 たとえば薩長の問題である。他の佐賀人は長いものにまかれろという気持が大なり小なりあった。副島(種臣)のようなひとまでこの気分が多少あり、それが副島をして天寿を全うさせた。大木(喬任)は協調主義であり、大隈(重信)はもっと次元のちがった場所で薩長を操縦しようとし、ときに妥協し、ときにおどしをきかせ、ときに恩を売ったりした。大隈の手腕は、それがやってのけられるだけに政治屋の素質がふくまれていたが、江藤にはそれができなかった。江藤は「長人は狡猾だから、口車には乗らない。その点薩人はおろかだからこれと手をにぎって、まず長州をたおし、ついで薩摩をたおす」といっていたが、そういうだいそれた政治の芸ができるほど、江藤は大狸ではない。であるのにかれはそれをしようとし、おりから西郷隆盛を中心としておこってきた征韓論にとびついてそのグループに入ったが、政治的飛躍の時期をあやまり、ついに佐賀の不平士族にかつがれ、いわゆる佐賀の乱をおこして刑死する。政治家としてはいかにも筋が通りすぎるほどに通ったみごとな一生というほかにない。


 近藤勇というひとは上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流からはずれると、ただの下凡になってしまう型のひとだった。
 京のの活躍期の近藤をもってその人物の目方を量ることはむずかしいが、この時期の近藤の行跡を計算に入れると、やはり二流の人物にすぎなかったようである。

 明治に英国から貴賓がきたとき、その時国歌の奏楽が必要になり、接待役の薩摩藩士原田宗助上司の川村純義に相談する。川村は「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか」と一喝する。そこで原田は同役の旧幕臣の乙骨太郎乙に相談し、乙骨は徳川家の大奥の元旦儀式の歌であった「君が代」を教え、それを採用する。司馬さんは「君が代」起源説の通説では大山巌などが関わったとされているのは、「君が代」が徳川家の要素を消すためではないかと言っている。

 この五稜郭という要塞ほど愚劣なものはないだろう。
当時の箱館奉行竹内保徳が監督し、武田斐三郎というあやしげな西洋兵術通という者が設計したもので、実際は西洋式でも日本式でもなく一種ハッタリ設計で、戦闘という実理をかいもく知らない者が役所仕事でつくったものにすぎない。諸事そのように実体の威力のない形式主義が徳川時代悪というものだが、この五稜郭こそよい見本だろう。
 旧幕府軍がここにこもったが、函館湾に進入した官軍の砲弾が三キロの射程をとんでことごとく城内に落ち、兵の闘志を奪い、五稜郭はあっけなく落ちた。
 われわれは五稜郭を見学するとき、当時の攻防を回顧して感傷にふけるよりも、むしろこのインチキくさい自称要塞というものを通して、当時の幕府や幕府役人というものがどういうものであったかを思うべきだろう。

 私は、いわゆる明治的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思惑より明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色にしておもくるしい装飾にほどこしたのが山県有朋だったとおもっている。


評価
★★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈4〉エッセイ1968.9~1970.2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467042
出版社:新潮社 (2002/01/15 出版)
版型:379p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年08月04日

柴田光滋著『編集者の仕事』

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 私が思っていた編集者の仕事とはどんなものだろうと、自分で思い浮かべてみた。それは出版の企画から作家の選定、原稿の依頼、その原稿を本にしていく程度しか思い浮かばない。大方はそれで間違いはないのだろうけど、この本を読むまで編集者は本に、それこそ印刷された文字一文字一文字、余白まで、ここまでこだわるのかと正直びっくりした。

 「たしかに内容は第一です。しかし、だからと言って形はただあればいいというものではないでしょう。読者はともかく、もし書籍の編集が形を軽視するとすれば、それは仕事の半ば放棄しているに等しい。書籍の編集とは、言わば一次元である原稿を獲得し、その内容にふさわしい本という三次元のモノに仕上げて読者に届ける作業だからです。
 タイトルは内容を示せばそれでいいものなのか。書名著者名がわかるだけでジャケットや表紙は要件を満たしているのか。本文の体裁は読めさえすればそれでかまわないものなのか。本文紙は白っぽければ何でも同じものなのか。・・・・」

 と著者は書いている。本の内容に見合う本を本という形まで作り上げるのが編集者の仕事だというのである。もちろん校正には校正する人、印刷は印刷業者、装丁は装丁者と、それぞれ専門の担当者がいるのだろうが、原稿が一冊の本になるまでの過程にいるこれらの人々を仲介し、自分たちが思い描く原稿の内容と出来上がった本が一致しているかどうか。あるいは読者が読みやすい文字サイズか、配列か、とか、紙質や紙の色までこだわるのだと知った。そして予算にあった装丁であるかどうか。だからといって貧相でないかどうか。帯の内容はちゃんと読者の目を捕らえるかどうか。それこそとことん原稿から本になるまで、あらゆるところに目を光らせるのだ。 こうして編集者が一冊の本になるまで、細部にこだわったものは、もう一つの作品にまでなっている。だからいい本は、その存在だけで実在感があるのだと思い至る。
 そう、内容もそうだけれど、一冊の本をものとして見れば、時には芸術作品的な要素させ感じさせる。私はこれまで何度か言ってきたけれど、本は内容だけに限らず、その本を持っているだけで豊かな気持になれる時があるのも、そういう理由からなんだなと思ったのである。
 特に本文が読者に読みやすいかどうかのこだわりは、へぇ~、ここまで考えているのかとさえ驚いた。たとえばこの本は新潮新書だけれど、読者はサラリーマン多い。そしてそのサラリーマンは電車の中で本を読むことが多い。その際一行の文字数を40文字にすると、片手で吊革に掴まっているから、もう一方の手でこの新書の地(下の方)を指で支えて読む事になる。その時40文字だと親指が本文にかかって読みにくい。だから余白のバランスを考えて一文字減らし、39文字にしたという。本当なら一文字でも多く入れ、コストを抑えたいところであろうが、読者の利便性を考えてあえてそうするのである。とにかく読者が本を読んでいて、本文に集中出来る心地よさを提供してくれている。そして多分そのことは読んでる側は意識しない。そのくらい配慮されているのだ。

閑話休題
 
 先日三宅理一さんの『秋葉原は今』を読んだ。この本は内容はかなり面白い。私は興味深く読ませてもらったのだが、いくつか気になる点があった。明らかにワープロの変換ミスによる誤字がいくつか見つかるのである。私の読み方はかなり荒い方なので、普通の人が気がつくであろう誤字などわからない方なのだが、そんな私でもいくつかそうした誤字を見つけた。読んでいて、あれ?何かおかしいなと、そのおかしな点が何なのか、考えてしまう。その分先に進めない。読むリズムが崩れる。そしてやっとそれが変換ミスによる誤字だと気がつくのである。
 また英字のフォントがそれだけ変わっているのである。これは見た目にも違和感を感じ、何でだろうと思っているうちに、やだなとさえ感じた。些細なことかもしれないが、気になり始めると、結構後を引くものだ。こういうことがないように心配りするのが、編集者の仕事の善し悪しになるのだろう。

 印刷で思い出すことがある。
 学生時代アルバイトをしていた頃に、共産党系の業界新聞を印刷しているところへ、ここで活字をひろっている職人さんが注文した本を配達していたことがあった。その職人さんはインクで汚れた制服とやはりインクで汚れた軍手姿だった。私が頼まれていた本を手渡すと、その軍手をを外して、ズボンのポケットにある財布からお金を取り出した。軍手を外しても手は結構インクで黒かった。職人さんはうれしそうにいつも本を受け取るのが印象的だった。インクの匂いが漂い、薄暗い感じのところだったという記憶があるが、机には組まれた活字の版でいっぱいであった。
 今の会社で本屋をやっていた頃、大手町で小さな本屋にいたことがある。店では文房具、印鑑、印刷も扱っていた。印刷はただの窓口で、名刺や挨拶状、年賀はがきなど印刷の注文があると、その原稿を持って、神田村にあった小さな印刷屋さんに持って行く。
 その印刷屋さんは細長い間口に一台の輪転機を置いてある程度の印刷屋さんである。しかし壁全体が活字の棚であった。ここから活字をひろって、版を作っていたのである。いわゆる活版印刷であった。私は出来上がりを待っている間に、何度もその金属活字の精巧さをながめたものであった。この組み合わせで、名刺になり、はがきになるのである。その過程を見てきたものだから、こうした手間のかかる印刷には、どこか暖かみを感じてしまう。何と言っても一文字一文字の金属活字がいい。
 かなり古い本などのページを指でなぞってみると、文字が僅かに、多分インクの分浮き上がっているのを感じることができるものがある。あれなど間違いなく印刷されたものなんだなと思える。

 さて、この本を読んでいてへぇ~、そうなんだと思ったことを書く。

 スピンという紐のしおりである。これを付けないと一冊当たり定価十円は低く抑えられるという。

 本のサイズの話では、単行本で多いのがB6判と四六判。しかしその見分けがしにくい。B6判は128×182ミリ、四六判は127×188ミリとされている。ただ四六判は出版社によって微妙にサイズが異なるらしい。何故四六判と呼ぶかというと、江戸時代の代表的なサイズ美濃判を八倍にしたものを「大八ツ判」と呼び、これを32面取り、つまり32頁分取ると、四寸二分×六寸二分の紙がとれたとろから四六判と呼ばれたそうだ。明治以降イギリスの判型に近いこともあり、出版物にはよく使われてきた。今でも単行本の代表的なサイズである。
 紙のサイズはA判とB判があるが、A判はもともとドイツの規格でA全(A1)に始まり、その半分がA2、そのまた半分がA3となり、それが我々がよく使うA4となり、更にその半分のA5が処方せんサイズである。
 一方B判は江戸時代の美濃紙に由来する日本独自のもので、B全(B1)に始まり、B4,B5となっていく。面白いのはA全が841×1189ミリm、すなわちほぼ1㎡であるのに対して、B全は1030×1456ミリでほぼ1.5㎡、つまりA全の1.5倍になる。縦と横の比率が1対ルート2(1.414)になり、半分に切っていてもその比率は変わらない。

 書籍の本文紙は大雑把に言えば白であるが、実際は真っ白くない。ほぼ真っ白な紙と言えば、コピー用紙が身近であるが、光の反射が強いので、長時間読んだり書いたりするのには向いていない。原稿用紙にイエロー系が多いのも何より目が疲れないからである。

 以前に最近函入りの本が少なくなったと書いたが、それには理由があるという。一つは定価を抑えるためであり、もう一つは長期保存の必要のない本には無用だからという。定価を抑えるという理由はわかるが、長期保存の必要ない本には無用だからというのは、どういうことなんだろう。今流通している本のほとんどが函入りじゃないところを見ると、それらの本は長期保存の必要ない本ばかりということなのか。あるいは本は今や長期保存するものじゃないということなのだろうか。

 日本の近代出版史から見れば、昭和という時代は文学全集の時代とすら言える。その果たした歴史的役割は、1.出版社、印刷所や製本所、取次や書店を含む出版界全体の経済的基盤を作ったこと。2.印刷や製本といった技術面が一新され、紙の大量調達や本の大量輸送が可能になったこと。3.出版と新聞広告との間に密接な関係が生まれたこと。4.文学の大衆化が始まったこと。があげられ、全国の家庭に小説が広く普及するのはここからである。
 全集を企画し発売するにあたり、「巻立て」に苦労するという。「巻立て」とは全集の時代区分、全何巻とし、そこにどの作家や作品を割り振るか、基礎設計をいう。これは言わば人事と同じで、波風が立ちやすい。一巻に複数の作家を収める場合、「あの作家とは一緒になりたくない」と言われたり、文壇の人間関係にも慎重に配慮しなければならないという。
 また配本順(発売順)も難しい。配本順は売れそうな順、要するに人気の順番で決まる。どんな全集でも部数は次第に落ちてくるので、当然ながら印税に関わって来るので、作家にとって早い配本の方が望ましい。実際したたかな老作家は収録を認めるに当たり、配本は十番以内にしろと条件を出したという。いるんだね、こういうの・・・。
 そうそう、昔小学館から出した「昭和文学全集」に村上春樹さんのが収録されなかったので、業界では話題になった。今から思えばあれはやはり片手落ちだったと思う。これだけでもこの全集の価値は落ちてしまいそうだ。よく古本屋さんの均一本コーナーにこの全集の端本を見かけるが、それもそんことが関係しているんだろうか?
 いずれにせよ、たかが一冊の本でも、そこには様々な配慮がなされていることを知っただけでも、この本を読んだ価値があったし、そこには普段意識ないことが多くあるんだな、と言うことを知った。一冊の本を手にするとき、今までと違う目で本を見るようになる。まずは読む前にしみじみ本の状態を眺めてしまう気がする。

評価
★★★


書誌
書名:編集者の仕事―本の魂は細部に宿る
著者:柴田 光滋
ISBN:9784106103711
出版社:新潮社 (2010/06/20 出版)新潮新書
版型:206p / 18cm
販売価:735円(税込)

2010年07月11日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第4巻〉

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 著者がこの本を書きおえて二年目の一九九五年、阪神地方を襲った大地震がそれにつづく暗い時代のいやな予兆ででもあったかのように、日本人は、じぶんたちの国が、世界のなかで確実に精神の後進国であることを真剣に考えずにいられなくなった。いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答えは、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答えをみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
 人が生きるのは、答えをみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。

 この文章はある本に関して須賀さんが感じたことを書かれた文章である。こういう書評を書かれると、さすがだなと思ってしまうし、しっかりと読まれていることを感じてしまう。またこうしたすばらしい文章で書かれていれば、本を書いた方も、書いた甲斐があるように思える。
 今回の巻は1991年から1997年に発表された書評がほとんどである。そしてそのほとんどが私の知らない作家さん本であり、まさしく世の中にはまだまだ知らない人が多くの本を書かれており、様々な内容の本が書かれているんだな、と思わせる。私がここに紹介された本を書いた人をほとんど知らない、ということは、まさしく本の世界はとりとめもなく奥深いものなんだと思わせる。
 ここにあるたくさんの本を、ここまで自分のものとし、意見が言えるのがうらやましくも思えるのである。そこには須賀さんの人生経験や読書経験から縦横無尽に語られ、そこに須賀さんが持っていられる知識がいいスパイスを添えているのが、内容はわからなくても、感覚的に感じることができる。最初にあげた文章と似たような文章があるが、それも書き出してみる。

 明治維新このかた百三十年ちかくを、私たちは、なにかにつけて不本意に生きてきた。日常生活の面でも、思想や哲学の分野でも、西洋と東洋の谷間に墜落したまま、あっちでもない、こっちでもないと道に迷いながら、息をきらせ、青い顔をして歩いてきたように思える。

 たぶん須賀さんは若い頃から西洋文化に憧れ、それを吸収し、イタリアへ渡り、そこで反体制派の仲間と一緒になり、その一人の男性と結婚し、夫となったその男性と死別し、日本に帰って来たところで、自分の半生を振り返えるが故に、そう感じられるのだろう。大勢に流され、自分を見失い、気がついたらヘトヘトに疲れている顔が自分のまわりであちこち見受けられるところに、何か感じるものが出てきてしまうのだろう。

 大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかっていなかった、と私があきれると、しげちゃんはふと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてきた。

 個人的なことを言えば、ここのところ妙に自分の人生に疲れを感じているものだから、こういう文章に触れると、ほんとそうだよな、と思うのだ。結局何だったのだ、と手元にほとんど何も残っておらず、むなしさのみを感じる日々が続くものだから、妙にこれらの文章は身にこたえる。

 もともと須賀さんの文章は“硬質”なので、女性の繊細さの中に、男性的な言い回しが、おや?と思わせるところがあって、私はそれが好きで須賀さんの本を読んでいる。ほとんど内容を理解できなくても、中にちょっと立ち止まってしまう言葉があるものだから、それが気にっている。たとえば須賀さんが小学生の頃買ってもらっていた雑誌について書かれた文章は、妙に今となると納得してしまう。

 このように「小学○年生」は毎月、なんの苦労もしないで手に入ったのだが、私も妹も、「おまけ」のやたらついてくるその雑誌がとりわけ好きだったわけじゃない。その雑誌には、どこか、教壇で間のぬけた冗談を口にしてとくいになる先生につきあっているみたいなところ、勉強すきにならせようとする「陰謀」もたいなものが底にひそませてあるのを、私たちは嗅ぎつけて、こころのどこかで軽蔑していた。

 また本のカバーについて書かれた文章は深くうなずいちゃう。

 表紙(正式には、表紙カヴァーと言うのだろうが)は、私にとって本の大切な一部だ。カヴァーで記憶していた書物が、図書館の棚では無残にそれをはぎとられて並んでいるのに出会うと、管理や効率ということのいやな暴力を感じてしまう。反対に、文庫本やペーパーバック版で、きにいったあたらしい表紙に代わっているのを店頭で見つけると、たとえ旧知の作品ですでに所有しているものでも、ふらふらと買ってしまうことがある。

 そうなんだよとホンと思う。本の内容だけでなくその装丁にも深くこだわれるほどの人だと、私はうれしくて仕方がない。自分も須賀さんと同じことをしているものだから、同じ内容の本を二冊も買うのは自分だけじゃなかったんだと、ちょっと安心もしたし、それ以上に須賀敦子という人が好きになれる。
 何度も書くように、私は須賀さんが書かれる文章の内容はほとんど理解できていないと思う。けれどその根底に流れるやさしやが好きだし、人として本当の姿はどういうものかをさりげなく知らせてくれる文章が好きなので、続けては読めないけれど間隔をおいて触れておきたいなと思っている。というのも自分の心がささくれたったままだと、どうにもやりきれないので、時には「そうそう」と言ってくれる文章に触れておきたいのだ。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第4巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420547
出版社:河出書房新社 (2007/01/20 出版)河出文庫
版型:612p / 15cm / A6判
販売価:1,050円(税込)

2010年06月28日

司馬遼太郎著『峠』〈前編〉〈後編〉

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 こうして人の一生を読んでいると、どうしてもこの人の“死に様”がどうなるんだろう、と思ってしまう。人物がどのように死んでいったのか。すべてが完結して、終えることもあるだろうし、志半ばでその死を迎えなければならなかった場合もあるだろう。結局その死に際がどうであったのかを語れば、その人の一生がどうであったかがわかるのかもしれないな、と思ったりする。
 その男とは河井継之助である。


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 継之助は官軍によって奪い取られた長岡城を奪還したとき、左膝に流れ弾を受け重傷を負う。それが悪化し、松本良順の診察を受けたが、破傷風により死去した。その死に際に自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけてた。この男は自分の人生を不満足のまま、死を迎えざるを得なかったのだ。

 継之助が生きた時代は、幕末から維新前の時代であった。徳川幕府はもう末期的症状を呈し、開国、攘夷の波にもまれ、対応のすべが無く、朝廷を擁する薩摩、長州にどんどん追いやれる。そん中継之助は家督を継ぐ身でありながら、三十前後まで書生の境涯であり続け、諸国の学者を歴訪する求道旅行をしていた。継之助は「ひとを訪ねることは、人を食いにゆくことだ」という意識でそれら学者に接していき、自分が進むべき道を模索していく。
 継之助は幕府は、欧米の列強に翻弄され、かれらの言いなりなり、平身低頭し、その弱体を暴露したと見ていた。いちいちおびえすぎる。おびえるから奴等はおどしにかかるのである。おどしの利かぬ相手なら、連中も別な態度で出るだろう、と考えていた。そんな幕府なら“倒せばいい”とも考えていた。実際継之助は「おれが、西国の外様藩にうまれておればきっとそうする」と思っていた。実際幕府への忠誠心などもともとない薩摩や長州は、朝廷を擁し倒幕に進んでいく。
 しかし継之助はたとえ倒されても仕方のない幕府であっても、突き進んで「そういう思想は持てぬ」のであった。何故なら継之助がいる長岡藩牧野家は、いわゆる三河以来、家康の創業をたすけてきた家であった。河井継之助は、その臣であったからだ。たとえ幕府がふがいない姿をさらけ出してもそれを見棄てるわけにはいかないのであった。

 (それは断固としてできない)

 というのが、継之助が自分自身をしばりつけている重要な拘束であった。士たる者が自分で自分をしばりあげているこの拘束こそ、かれ自身を一個の漢たらしめてゆくもっとも大事な条件であると継之助はおもっている。その拘束のなかで人間は懸命に可能性を見出し、見出すために周囲と血みどろになってたたかわねばならない、とおもっている。

 これが継之助の生き方であった。ところで武士というのは美的慣習の信奉者である。「継之助はときにこういうこまかいしつけに疑問をもつことがある。これらの習慣は遠い戦国のころの武士ならば必要であろうが、三世紀ちかく無事泰平をつづけてきた時代の武士には必要はあるまい。
 が、ちかごろではこれはやはり必要だと自分の身についたしつけを是認するようになっている。なるほど具体的にはさほど必要はない。しかしこういう常住の緊張が、武士というものの精神の骨格をつくりあげ、その立振舞をうつくしくさせ、いざの場合、いつでも即座にうつくしく死ねる覚悟をつかせてゆくのであろう。武士はうつくしくあれというのが、武士という精神像をつくりあげている基本であった」と思う。

 継之助のとって武士である自分がこの激動の時代どう進んでいけばいいのか、これらが基本であった。諸国の学者を訪ね歩いて得た処世であった。
 それは継之助が福沢諭吉とのやりとりに如実に表れている。福沢諭吉が

「そのとおりでさ。国家というのは文明を保護すればいいのですからなね。それだけのものであり、それ以上のものではない」

 だから討幕の佐幕もない。福沢の眼中、徳川も薩長もない。そういう国家をつくる政権であればよいのだ、と言えば、継之助は

 「そういう議論に、できるだけ興味を持たぬように自分をいましめています」

 と言い返す。更にそれに付け加えて、

  「左様、この一天下をどうするかという議論は、他の志士にまかせたい。私には越後長岡藩の家老であることのほうが重く、それが河井継之助のすべてなのです。それ以上にこの地上に河井は存在せぬ」

 と自分の立場と福沢諭吉の立場の相違を言う。福沢は思想家であり、継之助は政治家なのである。司馬さんは「福沢は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてももっとも大事なものとしている。」とここでは書いているが、まさにその通りであった。長岡藩をどうしていくか、それが継之助のすべてであった。おそらく長岡藩の存続には福沢の言うことを実施していくのは将来の課題であろうが、その前にこの時代に自らの藩の存続を現実的に図らなければならないのであった。
 それは長岡藩の一藩独立主義であった。官軍にも非官軍にも属さない中立の長岡藩の立場を貫く必要性を自覚していく。その中立をまもるためには、この小藩にすれば過重なほどに新鋭武器を買い入れ、藩軍を洋式化し、封建組織あらためつつあった。中立はたとえ情勢上不可能であろうとも、日本国でただ一つの例外を、継之助はその全能力をかたむけてつくりあげるつもりであった。だから「継之助にすれば、たとえば会津藩がそうであるようにかれの長岡藩じたい列藩のあいだを説いてまわってそういう抵抗同盟(奥羽北越同盟)を発起しようとはおもわない。しかし他の藩がみな結束して薩長に抵抗するというならばよろこんで参加し、戦陣にあってはもっとも勇敢に戦おうとは思っていたもっていた」。
 しかしこの継之助の考えは官軍側には通用しなかった。官軍はどうしても朝敵の会津藩を討たなければならなかった。その恨みが強かったからである。そのためには長岡藩には他の藩のように外交で調停していくやり方を一際せず、「兵を出せ。貴藩は地理的に隣接地にあるから、会津討ち入りの先鋒となれ」と命令口調であった。
 継之助が談判に当たったのが、土佐出身の軍監岩村精一郎(高俊)であった。この男どうしようもない男であった。岩村は身分もいやしく、いわゆる志士歴もあるかなきかの程度であったが、坂本竜馬の門人(実際には坂本とは生前会ってはいない)という不可思議な経歴がものを言い(このあたりが、乱世であろう)、奇跡的に抜擢をうけただけの人物であった。ちなみにこの男先に読んだ『歳月』にも出てくる。佐賀県権令として佐賀藩士島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやった人物であった。従って人物評価は無能の評価をされた人物である。
 もし岩村が継之助の希望である山県有朋か黒田清隆との会談を取り次いでいたら、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなく、北越戦争における新政府軍のみじめな敗戦もなかっただろうし、もしかしたら北越戦争そのものを避けられた可能性もあったといわれている。

 談判は決裂した。継之助は次のように思う。

 「要は敵を泥沼におとしこんでしまうことである」

 戦争は単に戦争であってはならない。官軍を勝敗のない泥沼にたたきこみ、新政府の信用を失墜させる。
この大変動期にあたり、人間たる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるであろう。

 -それが日本男子か。

 人間とはなにか、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげくに、相手を虫けらのように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。

 司馬さんは継之助が立った理由を次のようにいう。

 戦国時代の戦争には明快な目的があった。領土であった。勝てば領土がふえる。が、このたびの奥羽北越同盟軍が新政府に対して抗戦したこの戦争には、領土拡張の要素がない。
 いわば思想の戦いであった。謀略によって政権を奪取した薩長に対し、奥羽北越はそれを非とし、旧政権に対する節義を天下にあきらかにしようという、それだけが抗戦の目的なのである。

 (こういう奇妙な戦いは、古来あったためしがない)

 しかし継之助は官軍の力に負けた。時運は今や継之助にはなかった。

 負けた

 やりすぎた


 「あわれなのは、百姓どもだ」

 継之助はゆらい、百姓の生活を安堵させて国を富ませる学問をしたが、それが逆に、城をうしない、国を破り、百姓を死なせる運命に立たした。

 「おれの本意ではない」

 「ゆるしてくれ」

 「おれが家老になったのは、こういうつもりではなかった」

 最後に司馬さんは次のように言う。

 もし長岡藩が無能で意気地なしの家老しかもたなかったならば、この敗北もありえなかった。なぜならば敗北する前に降伏し、官軍のしっぽについて会津攻撃にむかい、大勢とともに可もなく不可もなく進んでいたであろう。
 が、長岡藩家老は、不幸にも河井継之助なのである。師の山田方谷にさえ「あの男には長岡藩は小さすぎる」と評された男であり、大藩の家老か、いっそ日本国の宰相にでもなってようやく柄が適うかといわれた男であった。
 長岡という小藩うまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を産んだことは不幸であった。継之助は長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした。
 芝居といえば、これを芝居にたとえれば、天下の運命をさだめるこの檜舞台に、子供を千両役者として主役に出したようなものであった。官軍と反官軍のあいだに立って調停役をつとめ、風雲を長岡藩によってとりしずめ、徳川家も救済し、会津藩をも救いだそうとしたところに継之助のむりがあった。無理が無理をよび、ついにこの戦争となった。

 私は久しぶりに司馬さんの歴史小説で感動していた。いや、河井継之助という人物に感動した。河井継之助は武士という存在の意味を形而上学的に追求した人物であった。特に幕末から維新において、なくなってしまったその規範を最後まで持ち続けた人物であった。岩村のような能力も気力もないのに志士と呼ばれ、いい気になっている人物や官軍の力になびくだけしかない他の藩の人物と比べれば、どれだけ人間として尊いかと思わせたのであった。
 結果として長岡藩を滅亡に導き、民や百姓を苦しめたことは事実であったが、やはりそれは司馬さんの言う通り、小さな長岡藩が河井継之助という人物を持ってしまった不幸であったかもしれないし、継之助にしてもその気力、能力からすれば長岡藩は小さすぎた。双方が歴史的不幸を背負ってしまったのがこの北越戦争だったのかもしれない。

 最後に会津藩が長岡藩を奥羽北越同盟軍に参加させるためにとった作戦は、あまりにも汚いなと思った。もし会津藩があのような汚い手段に出なければ、岩村は継之助と談判に応じたかもしれないし、更に山県や黒田との会談もなったかもしれない。会津藩といえば、幕末悲劇の藩を演じ、官軍に一矢を報いるため凄惨な戦いが行われ、その最後が美談として語り伝えられているが、まさか継之助を巻き込むために、あんな汚い策を弄したとは、思いもよらなかった。


評価
★★★★


書誌

書名:峠 〈前編〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784103097112
出版社:新潮社 (1985/04 出版)
版型:370p / B6判
販売価:入手不可

書誌
書名:峠 〈後編〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784103097129
出版社:新潮社 (1986/11 出版)
版型:346p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年06月21日

司馬遼太郎著『歳月』

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 私の知っている江藤新平という人物は西郷隆盛の征韓論を支持したが、最後は大久保利通らに破れた。江藤は西郷とともに中央から去り、佐賀に帰り新政府に不満な士族等に担ぎ上げられ、佐賀の乱を起こす。その発想はまずは自分たちが立ち上がれば、薩摩や土佐も立ち上がり、第二維新を起こせるというものであった。それはあくまでも他人の行動をいいように解釈し、期待したものであって、もし西郷や後藤らが一緒に立ち上がらなければ、単に佐賀での乱にしか過ぎなくなる危ういものであり、実際そうなった。江藤は佐賀で新政府軍に破れ、同士を見棄てて、鹿児島に入り、西郷にその説を説くが、西郷に一喝され、その後土佐に渡り、一緒に再起しようと説いても、見棄てられ、最後は大久保らに捕まる。
 大久保にとって江藤の蜂起は新政府にとってこれからを考えれば許し難いものであった。断固とした処理をしなければ、以後政権の存続に関わってくる。そのため大久保は全権を持って、参議であった江藤に梟首(さらし首)を申しつける。江藤も死罪は免れないだろうと腹をくくっていたが、まさか元参議の自分がさらし首になるとは考えていなかった。それだけ大久保は江藤の行動を許せなかった。しかもそのさらし首の写真さえ撮っていて、それは今でも残っている。

 江藤は佐賀藩出身である。その佐賀藩であるが、「葉隠」に代表される保守的な風土の藩であった。そんな中、幕末藩主鍋島閑叟は藩の洋式化を図り、幕府から長崎の警備を命じられていたことを利用し、藩軍を洋式体制し、そればかりではなく製鉄所や工作工場などを作って、小型軍艦でさえ国産で建造できる域まで達せさせた。その軍事的実力は長州の桂などに、「佐賀を抱き入れれば天下の事は成る」と言わせたものであった。しかし鍋島閑叟は藩内事情を極秘にした。藩士が他藩と交わることを禁じた。佐賀の“二重鎖国”といわれるのこれであった。時勢が騒然としていても、その体制を維持した。
 しかし鳥羽伏見の戦いで薩長側が勝利に終わって以降は、佐賀藩は新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。
 明治維新は薩長土肥の志士でなった。この順番が大きい。この順番は維新が成るに当たって、その犠牲者の多い順を意味し、順番が後になればなるほど、維新の功労が少ないことを意味した。薩長の多くの犠牲の後、のこのこと土肥が出てきたと思われていた。要するに佐賀は“出遅れ”てしまったのであった。維新政府の要人は薩長に独占された形になった。これが江藤新平には堪えられなかった。江藤の性格から許せなかった。「佐賀勢力は時制に数歩遅れたために薩人の後塵を拝し、薩人がひらいた切通し道の地ならしをするしか働く場所がなさそうであった」。だから江藤は「いつかは」と思うのである。
 江藤新平の経歴を司馬さんは次のように総括する。

 信じられないほどのことであるが、江藤の人生の異様さは維新になってはじめてひろい世間に出てきたことである。それまでは家のなかで莨の葉をきざんだり、火薬づくりの内職をしたりしているか、それとも藩命によって蟄居させられているか、どちらかであった。二十六七のころ一時藩の小役人の職にありついたことがあったが、ほどなく京へ脱走し、帰藩し、蟄居ぐらしに入った。世間を知らないのにひとしい。維新が成立し、かぞえで三十五になってからにわかに人臭い世の中のおどり出、わずか五年目に司法卿になった。稀代のことであろう。
 この時代、太政官の大官の座についた者はほとんどは幕末の志士あがりであったが、それですら江藤新平のような例はない。かれらはそれぞれ藩の中でしかるべき職務歴を経験しており、人の世の錯綜のなかで人のむずかしさを体験してきたが、江藤はそうではなかった。

 しかも江藤の志士活動は、脱走し京都に滞在わずかな日数でしかなかった。ざっとひと月であった。これだけの日数が、のちの参議江藤新平の生涯における唯一の志士活動であったのだ。
 同じ佐賀藩出身の大隈重信は江藤の性格を次のように評した。

 「江藤には非常の才略がある。とくに非常の雄弁をもち、非常の討論家であった」

 「しかし江藤は群集心理というもののを知らなかった。ひょっとすると物事の筋の正しさを追うあまり、人間というものの何たるかを見忘れるところがあったかもしれない」

 江藤はあまりにも自分に自信を持ちすぎていて、自らの無用の論争癖、衒学癖から、買わなくてもいい恨みを買うことが多かった。 江藤は後から来た。しかし権力を欲した。ただそれを必ずつかんでみせると思いは権力の全てを求めたわけじゃない。一部でいいと考える。「その一部というのは、法律であった。この場合、法制というべきか。いまからできあがる新国家の制度と法律をこに江藤新平の一手でつくりあげたい、とこの男ははげしくおもっている」そして司法卿となった。
 そこに征韓論が起こる。これは江藤にとってみれば、薩長分裂させ、彼の持論である薩長両閥を打倒して彼のいう第二維新をまねきよせることができると考えるようになる。「江藤の心象のなかでの征韓論はすでに敵は朝鮮ではなく、その本音である藩閥退治のほうにいよいよかたむきつつ」あったのであった。これが江藤新平が征韓論を支持した理由であった。
 歴史は征韓論を唱えた参議が下野させる。特に西郷隆盛の鹿児島帰還は、その人望、軍を掌握している力は新政府のとって大きな不安となる。江藤はそれを利用しようとする。しかも維新では佐賀は乗り遅れたが、今度は佐賀が率先して、第二維新を起こそうと考えるようになる。
 一方残った大久保利通は江藤という男が「自分と酷似した体質であるために大久保はその胚のうちを腑分け図を見るように見ることができた」。つまり江藤は「日本を危険きわまりない賭けに投ずることによって、薩長政権をつきくずそうとしている」と見抜いていた。「この男だけは、奸人である」と考えていた。大久保にとって江藤は征韓論から日本を追いこむことによって自らの政権を崩壊させ、そのあとの果実を得ようとしているとしか思えなかったのである。だから大久保は江藤を憎悪という感情ぬきにしては見られなくなっていたのであった。
 大久保の江藤に対する憎悪は江藤が捕らえられ、その刑の重さ、梟首(さらし首)という刑の言い渡しに表れている。ここで断固とした姿勢を示さなければ、新政府は崩壊するのであった。そういう意味で江藤の蜂起は、新政府にとって自らの政権強化にはもってこいであっただろうし、いいように利用した。江藤より大久保の方が何枚も上であった。
 
 こうして江藤新平の生涯を知ってみると、確かに薩摩や長州の後塵を拝したとはいえ、わずか数年で新政府軍の参議まで上りつめたのだから“きれ者”であったろう。しかしその野望はあまりにも自分勝手であり、大隈重信が言うように、「人間というものの何たるかを見忘れるところがあった」ように思える。はっきり言って江藤は無謀であった。深く物事を考えるタイプではなく、ただ自分に酔いしれるだけであったのではないかと思うようになった。
 私はこの本を読み終える頃になって、どうして司馬さんが江藤新平を描いたのだろうと疑問に思うようになった。私には江藤新平という人物は司馬さんが好む漢(おとこ)にはどうしても思えなかったのである。だから読んでいて不思議になって仕方がなかった。


評価
★★★


書誌
書名:歳月
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784061310391
出版社:講談社 (1983/03 出版)講談社文庫
版型:729p / 15cm / 文庫判
販売価:979円(税込)

2010年05月17日

佐々木譲著『笑う警官』

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 先にマイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-のマルティンベックシリーズを読んだ。その中にこれと同じ書名がある。あって当たり前なのだ。何故ならこの本はこのマルティンベックシリーズを意識して、わざわざ単行本から改題しているのである。単行本は『うたう警官』である。この“うたう”というのが分かりづらいということで、改題したという。
 この“うたう”とは、警察内部の秘密を公表することを言う。内部秘密と言うからには、公にしてしまうとまずい内容のことであり、それが公になれば、世間の非難を浴びることとなる。

 話は、札幌市内のマンションの一室で女性の他殺死体が発見される。被害者の身元は道警本部の防犯総務課婦警であった。最初は所轄刑事たちが捜査にあたったが、すぐ道警本部が直接捜査をするということになり、事件を“さらわれた”形となる。死体があったマンションは警察が借り上げていた秘密のアジトであった。事件は異例の形で進み、犯人はその婦警と付き合いがあった、銃器対策課の津久井巡査部長だと断定された。津久井は覚醒剤中毒者で拳銃を持っている危険人物として、射殺命令が下された。

 道警には郡司問題が公となっていた。それは道警の郡司警部が数多くの拳銃を不法所持し、覚醒剤の密売にも手を染めていたというものであった。郡司は拳銃摘発数では日本一生活安全部のやり手捜査員であった。
 しかし郡司警部が覚醒剤の密売をしていた本当の理由は、拳銃摘発の協力者に渡す謝礼経費の不足を補うものであったのだ。本来捜査員に渡るべき経費や報償金が、幹部のポケットマネーや裏金としてプールされていて、実際捜査員に渡っていなかった。そのため郡司はめ覚醒剤の密売でその不足分を工面していたのである。刑事が覚醒剤の密売に手を染めていたことは警察にとってかなりの不祥事であるが、もう一つ警察内部で裏金がプールされ、幹部たちでいいように使われているということが公になることは何としても避けたかった。
 射殺命令が下った津久井はその郡司と一緒に仕事をしていて、道警幹部の裏金問題を直接知る者として、排除される形で射殺命令が出たのである。しかも津久井はそのことを議会で証言する、つまり“うたう”人間として証人として喚問されていた。

 その津久井と以前危険なおとり捜査を一緒にしたことがある佐伯宏一は津久井のことをよく知っており、津久井がその婦警殺害の犯人ではないと確信し、密かに仲間を募って、津久井の無実を晴らそうと非合法の捜査を始める。津久井が議会で証言するのは事件の翌日で、道警幹部は津久井をどんなことをしても射殺して、口をふさごうとするだろう。それまでに真犯人を挙げないとならない。
 道警内部でも自浄作用があって、津久井の証言で道警内部の腐敗がなくなればと思う人間も、現場にはいて、徐々に婦警殺害の真犯人捜しに協力する刑事が出てくる。

 婦警が殺害されたマンションには、双眼鏡、暗視装置、盗聴器、手錠、縄、革ベルト、婦警の制服があったが、アジトとして使われていたとすれば、おかしくないものであったし、婦警がここを逢い引き場所として使っていたことが判明していたので、制服があってもおかしくない。
 しかしこれはノーマルな性癖以外に使われてもおかしくないものでもあった。婦警と津久井の関係はほとんど冷めていたが、完全に終わらせてはいなかった。それよりも他に男がいた可能性があり、その男との関係を隠すために、まだ津久井と関係があるように装っていた可能性がある。その異常な性癖を持つ男が犯人であった。犯人は道警の幹部でキャリアであった。

 この本は先に書いた通り、マルティン・ベックシリーズと同じ題名の本であることを知ったので、どんな本だろうと思ったのが読むきっかけであった。あとがきで書いてあることをネットで先に知り、更に興味をそそられ読んだ。それほど期待はしていなかったが、以外と面白かった。津久井の無実を晴らそうとする佐伯の捜査の仕方にちょっとリアリティーが欠けなくもないが、時間をうっちゃるにはちょうどいい話であった。


評価
★★★


書誌
書名:笑う警官
著者:佐々木 譲
ISBN:9784758432863
出版社:角川春樹事務所 (2007/05/18 出版)ハルキ文庫
版型:448p / 15cm / A6判
販売価:720円(税込)

2010年05月05日

イアン・サンソム著『蔵書まるごと消失事件』

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 この本先に読んだ滝田務雄さんの『田舎の刑事の趣味とお仕事』と一緒に買った本である。個人的にこうした書名が付くと触手が伸びてしまうことは以前にも書いたような気がするが、今回もそれ以上の理由はない。なんか面白そう!と思ったのである。が、どうもテレビのドタバタ番組を見ている感じがしてしまい、書いている側が楽しんで書いているのは分かるのだが、読むこちらはちっとも楽しめずいた。有名な著作の本、特に最近話題になった本が出てくるのだけれど、なんか強引に結びつけた感じがしてしまい、わざわざここで持ち出すまでもないような気がしてしまった。むしろ、何とか気を引こうとして、そうした話題性のある本を引っ張り出しているような気さえしてしまった。どこかうざったいのである。
 そんな気持ちで読んでいたから、この本を読んでいる途中に、気になった本がいくつか出版され、あるいは別の本を読みたくなり、そっちに浮気した。そんな関係で、この本自体は大分以前に読み始めたのだが、やっと今日読み終えた。まぁ、正味読んでいる時間はそれほどでもないのだが、単に一冊読み終えるのには時間がかかったことにはなる。
 要するにだらだら読んでいたわけで、その程度の本と思ってもらっていい。この本の解説者が友人や知人に「この本面白いわよ」と勧めたいと書いてあったが、そうかな?と思ったわけである。
 というわけでどうやら続編が出そうだけど、この本も先の本同様、“これで打ち切り!”とする。
 さて、一応読んだ以上その内容など書いておかないとならない。こんな本でも読んだよ、という備忘録として意味もあるので。

 主人公のイスラエル・アームストロング青年はあこがれの図書館司書の仕事に就くべく、ロンドンから北アイルランドの田舎町タムドラムに来た。しかし勤めるべき図書館には図書館閉鎖のお知らせの張り紙があった。そして町が用意した彼の代わりの仕事が移動図書館の司書であった。ところが移動図書館の車に積むべき図書館の本、一万五千冊の本が消え失せていたのである。イスラエルはその本の行方を捜すことが、まずここでの重要任務となる。
 本はどこへ行ったのか?それとも誰かが本を盗んだのか?イスラエルは移動図書館の車を運転していたテッドやイスラエルの前の司書、あるいは町が図書館運営をしたくないから、役所が関わっているのか、拙い、そして単純な理由から犯人らしき人物を疑うが、すべてあざ笑われる結果となる。そして最後に町の古物商が図書館の本を盗み売り飛ばしたのではないかと、その古物商の倉庫に忍び込むが、盗品は見つかるが、肝心に図書館の本は見つからなかった。
 結局図書館の本を盗んだのは町の住人たちであった。彼らは町が図書館を閉鎖することは、住人たちの図書館を取り上げることだと考えていたのである。だから本まで取り上げられてはかなわないと思い、その蔵書を盗み、住民みんなで密かに別の図書館として管理していたのであった。
 これ、だいたい見えていた。多分そうじゃないかと読み進めるうちに感じていたので、やっぱりと思った次第。


評価
★★


書誌
書名:蔵書まるごと消失事件―移動図書館貸出記録〈1〉
著者:イアン・サンソム 玉木 亨【訳】
ISBN:9784488297022
出版社:東京創元社 (2010/02/26 出版)創元推理文庫
版型:461p / 15cm / A6判
販売価:1,260円(税込)

2010年04月25日

小路幸也著『オ-ル・マイ・ラビング』

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 このシリーズもこれで5巻目となる。


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 4巻を読んだのがこれも1年ほど前だったと思う。そんなものだから、やはり人物関係を忘れている。それでなくてもこの話、登場人物が多いので、“この人誰だったけ?”と立ち止まってしまうのだ。たぶんこのシリーズを読む人は私と似たようにこれで苦労しているんじゃないかと思える。だからか巻頭に「登場人物相関図」というのがある。これまで登場してきた人物たちがきちんとまとめられているので、これを見て話のつじつまを合わす。結局今までの4作でこの人物相関図がどんどんふくれあがったものだから、話がややこしくなってしまっている。けれどそれがこのシリーズの面白さだから仕方がない。いつものようにドタバタ感があって、古本に関するささやかなミステリー的要素も多少折り込んでいく。
 でもやっぱり、人情の厚さに癒されるのがこの本のいいところだ。世の中こう簡単に話がまとまらんでしょう、とは思うけれど、それは下町の人情厚い老舗の古本屋さんでの話である。これはこれでいいんだと思いつつ、結構楽しんで読ませてもらった。
 結局この話に癒されるのは、今核家族化している中で、こうした大家族と、家族の一人一人の人間関係が、みんなで共有できているところにあるんじゃないかと思われる。得てして秘密にしてしまうことが、みんなが分かっていて、悩み、笑い、泣き、最後は我南人の強引さで丸め込まれて、Happy Endで終わってくれる。だから読む方も安心出来るのである。ホンと、昔あったテレビドラマである。
 こういう昔あった茶の間のテレビドラマに癒されるということは、逆にいえば、今がどこかぎすぎすしていて、疑心暗鬼になっている人間関係に疲れちゃったいるからかな、と思う。
 話の内容には奥行きなどない。難しいこともない。深く深く考え込むこともない。むしろこんなのあり?といった気持ちになる。けれどこの話をひたすら読みたいと思う気持ちがあるということだけで、本を読むという行為がそこから何かを学び取るといった、がむしゃらな気持ちで読まなくてもいい本があるということを教えてくれる。それがこの本の存在価値だと思う。難しいことや、複雑な人間感情を考えるだけが、本を読んだということではない。娯楽として本を読んでいいことを改めて思った。
 今回“伝説のロッカー”の我南人が甲状腺ガンになって歌えなくなるという心配があったが、幸い手術がうまくいき、ガンも良性だったようで、復帰できないことはなかった。ただ我南人は声を張り上げてシャウトすることに心配を感じていた。それを孫の研人が、子供ながら粋な計らいで、自らの小学校卒業式に我南人に「オール・マイ・ラビング」を歌わせる。どうやらこれで我南人もいつもの我南人でいられるようで安心である。
 このシリーズはまだネットでは連載されているようなので、続巻がまた1年後に発売されるかもしれない。楽しみに待っていよう。


評価
★★★


書誌
書名:オ-ル・マイ・ラビング ― 東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087713503
出版社集英社 (2010/04 出版):
版型:301p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年04月12日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『テロリスト』

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 ついにこのシリーズ最終巻となった。最後は、今までこのシリーズで出て来た人物たちが総登場となる。テロリスト対策で全員がかり出されるといった感じだ。ただ話は単にテロ対策の話だけでなく、他の事件がいくつかあって、最後はテロ対策と話がクロスしていく。
 まず銀行強盗の容疑で、18歳の未婚の母、レベッカ・リンドの裁判で、マルティンベックが弁護側の証人として出廷する。弁護士のブラクセンによって、彼女が誤解によって銀行強盗にされてしまった経緯を説明される。
 ことのきっかけは、彼女の夫に会いに行くため渡米する費用を銀行に借りに行ったことから始まる。その時いつも携帯している園芸用ナイフを脅しだと行員が勘違いしてまったことで、彼女が銀行強盗にされてしまったと事件の真相が明かされる。
 もともとリンドはスウェーデンの社会体制に批判的だったし、社会システムにうとい生活をしていたので、行員が彼女を銀行強盗と勘違いし、彼女の持っていた大きなバックにお金を詰め込んだので、彼女は銀行でお金を借りることは簡単なことだとしか感じなかったのである。
 一方スウェーデン警視庁幹部は、秋にスウェーデンを訪問する米国上院議員の扱いに頭を痛めていた。そのため要人警護体制の視察のためグンヴァルト・ラーソンを某国に派遣した。結局ここの大統領は国際テロ組織ULAGに暗殺され、ラーソンもその爆破現場で事件に巻き込まれるが、そのテロ集団のテロのやり方を学習し、今度ウェーデンに訪問する米国上院議員のテロ対策に応用する。
 マルティン・ベックはその上院議員の警備対策本部の責任者にされる。が、ベックは目下別の殺人事件の捜査に関わっていた。映画の監督であったヴァルター・ペトルスが愛人宅で撲殺されたのであった。ペトルスが自らは有名な映画監督だと自称していたが、制作された物は有名になりたい少女などたぶらかして出演させるポルノ映画であった。当然いかがわしい部分がいくつか出てくるが、結局その映画に出演した女優の一人が、ペトルスの自宅の庭師で運転手であった男の娘だと判明する。男はヴァルター・ペトルスが一人娘を薬漬けにして、ポルノ映画に出演させたことを恨み、ペトルスを撲殺したのであった。
 事件が解決したことで、ベックは今度米国上院議員に対するテロ対策に本格的に乗り出す。国際テロ組織ULAGの要人暗殺方法が主にパレードをしている要人の通り道に爆弾を仕掛ける方法であった。テロリストは現場にいる必要がない。なぜならそこを通るのをテレビやラジオで確認することが出来るからで、その時離れたところで遠隔操作をして爆弾を爆発させればいいのだ。そのことをベックはラーソンから聞いて、トリックを仕掛ける。パレードの放送を15分ほど遅らせるのである。テレビやラジオで確認してテロリストが爆弾を爆発させたときは、もう上院議員はその場所を通過していたのである。
 ところが上院議員がスウェーデンの前王の墓所に来たとき、一人の少女が上院議員と一緒にいたスウェーデンの首相に銃を発射する。首相は即死であった。少女の名前はレベッカ・リンドであった。
 レベッカ・リンドは銀行強盗の容疑で裁判にかけられた後、住んでいたところを追い出され、子供と一緒に友人の家を点々としていたが、こんなことになる社会を作った張本人がスウェーデンの首相だと思い、彼を殺害すれば、もう少し社会がよくなるのではないかと思いはじめる。
 もともとレベッカ・リンドがアメリカに渡りたかったのは、自分の夫が脱走兵であり、アメリカに帰って刑に服していたからであり、その夫が自殺したことで自暴自棄となってしまっていたのであった。

 ということで、このシリーズを全巻読み終えた。私はこのシリーズを昔読んで面白かったという思いがあって、今回面白い本としてこのシリーズを紹介したくて再度読み始めた。しかし今は失敗であったと思っている。というのも当時夢中になって読んだ本でも、時間がたって読み返してもまた面白いとは限らないことを改め知らされたからであった。つまり読む側が、それ以降いろいろな本を読んで、変わってしまい、すれてしまったものだから、様々なところで疑問を感じることが多くなったのである。だから「これはどうかな?」と思っちゃうのである。鼻につくことが多くなってしまったのである。そのギャップが大きいものだから、こんなはずじゃなかったと感じて、このシリーズを読んでいた。
 たとえばこの本は1年に1作として10年間書かれたのだが、その間スウェーデン社会の変遷が悪い方へ傾くことを嘆くことに多くを費やしている。そのためどうしても政治色が強くなってしまう。今回それを強く感じた。昔はそんなことはある意味どうでもよく、むしろ話に展開を純粋に楽しんでいたような気がする。しかし今回はそれが妙に鬱陶しく、それがためにこの本は推理小説より社会派小説なのかと思えてしまうのであった。その点が残念で仕方がなかった。
 やっぱり昔読んで面白かった本はそのままにして置く方がいいのかも知れない。今読み返してしまうと、いろいろあらが見えてしまい、それが気になってしまう。面白い本だった、あるいは感動した本だったという思い出が無残に壊れていくのは結構寂しいものである。昔面白かったと思った本がまた読めるという期待があっただけに、この結果が残念であった。いくら読み返しても色あせない話というのは少ないのかも知れない。そんなことを思った。


評価
★★★


書誌
書名:テロリスト
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910904
出版社:角川書店 (1979/02 出版) 海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:398p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月07日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『警官殺し』

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 ついにこれでこのシリーズ9作目となった。
 話の内容は、独り暮らしをしていた女、シグブリート・モードが行方不明になった。失踪したのか、殺されたのか状況は分からなかったが、狭い町である。この町で彼女の行方を捜していた駐在所長のヘルゴット・オーライはシグブリート・モードは殺されたものとにらんでいた。そしてシグブリート・モードの近所に住んでいたのがあのロゼアンナを殺した犯人、フォルケ・ベンクトソンであった。彼は出所後ここで暮らしていた。当然彼はシグブリート・モードが行方不明に関わりがあるものと見られ、捜査に協力したマルティン・ベックとコルベリは、上層部の意向で彼を逮捕し、尋問を始めるが、確たる証拠が出てこない。シグブリート・モードと一緒にいたところを目撃されているが、その後が分からない。確かに彼は今でも女性に対して潔癖症であり、男を誘惑する女を敵と見なしているところは昔と変わらない。
 そして近所の森をハイキングしていたものが、シグブリート・モードの手が地面から出ているところを発見する。彼女は絞め殺され埋められていたのであった。土の中にはボロきれも発見され、ニッケルの削りくずがついていたことが後で判明する。フォルケ・ベンクトソンは疑われ続けるが、相手をするベックやコルベリは今ひとつ確信が持てずにいた。
 ベックとコルベリは、シグブリート・モードの家を捜索し、そこでラブレターらしきものを見つける。そのラブレターには「クラーク」という署名が入っていた。どうやらシグブリート・モードはクラークと付き合っていたようであった。

 そん中マルメ警察管区内で無灯火の不審車両を停止させたパトカー警官が射殺されるという事件が発生した。警官を撃った犯人の一人はその場で射殺されたが、一人はその車で逃走した。逃走したキャスパーは他の車を盗み乗り換え、捜査網を突破した。その車を盗まれた男がシグブリート・モードを絞殺したクラーク・エヴァート・スンドストレームであった。それを見つけたのはコルベリであった。実はコルベリはそれまでシグブリート・モード殺しの捜査をベックと捜査をしていたのだが、警官の射殺事件が起こった時点でこちらの捜査にかり出されたのであった。
 この時コルベリはもう刑事の仕事に見切りをつけていた。本来市民の生活を守るための仕事であった警察が、逆に人を抑圧する機関にに変質してしまったことを感じており、そのことに深く恥じるようになってしまったのだ。こんな状態ではもう警察は勤められないと判断し、退職願を提出した。

 この話はそれまで捜査が行き詰まってしまっても、まったく別のところで偶然の出来事や発見がその事件の糸を結びつけるところがある。たまたま偶然が起こったことで話がつながるのだ。正直これってあり?と思わなくもない。もっともこの傾向はこのシリーズの特色となっているところがあるけれど、どこか不自然な気がする。もしこれらが起こらなければ事件は完全に手詰まりとなってしまう。まぁ、世の中ってそういうもんだよ、と言ってしまえばそれまでだが・・・。
 それとこの物語は昔の事件の犯人や場所を登場させるところに特色がある。たとえばシグブリート・モード殺しの犯人ではないかとして、ロゼアンナを殺した犯人、フォルケ・ベンクトソン出したり、『蒸発した男』の犯人も刑期を終えて、名前を変え、新聞記者として再度登場させたりする。「マルティン・ベックは、奇妙な運命のめぐり合わせにつくづく感じ入っていた-過去に扱った二つの難事件の犯人たちと自分たち二人が、突然、それも忘れた頃になって、アンダスレーヴのような辺鄙な村で再び顔を合わせようとは」と書いているが、そういう意味では懐かしくもあるのだが、ただそれを持って話を読ませる手法は少々疑問を感じてしまう。
 もともとこのシリーズは1年に1作書かれてきたので、このシリーズで9年目になるわけで、その間の8年間の重みを感じさせようとしているのであろうか? 今回懐かしさもあってこのシリーズを読み始めたのだが、いろいろ考えることがあった。そのことは後1冊読んで、このシリーズが完結するので、そこで思っていることを書こうと思う。そうそう、サボイホテルのバーも登場したっけ!

 あと『唾棄すべき男』で私はいつもドジを踏むパトロール警官で、グンヴァルト・ラーソンが「またお前等か!」と呆れる警官二人が射殺される、と書いたが、射殺されたのは一人だけで、もう一人は膝を打ち抜かれたことを知ったので、訂正しておく。生き残った彼は新しパートナーとまたパトロール警官をやるが、やっぱりドジを踏み、グンヴァルト・ラーソンに怒鳴りつけられる。


評価
★★★


書誌
書名:警官殺し
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910843
出版社:角川書店 (1978/04 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:363p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月06日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『密室』

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 前作で私はマルティン・ベックのとった行動が、ベックらしくないと書いて終えた。今回はベックが撃たれた傷の治療後、復帰するところから始まるが、やはりベックは撃たれたときのことが夢に出てきて何度かうなされる場面がある。その後ベックはあの時の行動を次のように考える。

 1971年4月のあの運命の日の出来事については、ベック自身、十分に分析する時間があった。その結果、自分の行動は誤っていた、道徳的にも技術的にも誤っていた、という結論に早くから達していた。その見解は、自分が認めるより早く、自分の同僚たちも抱くに至っていたということも知っている。彼は愚かな振舞いをしたからこそ射たれたのだ。

 やっぱりマルティン・ベックはあの時の行動を誤っていたと後悔していたんだと思った次第だ。そうでなくちゃまずい。

 さて今回の話は、そのベックが撃たれて、療養した後、現場に戻るところから始まる。ちょうどその頃、ストックホルムの銀行に女性と思われる拳銃を持った強盗が入り、1人を射殺し現金を奪い逃走する事件が発生した。
 当時ストックホルムでは銀行強盗が多発していて、ベックの同僚のコルベリやグンヴァルト・ラーソンらは、対策本部にかり出されていた。コルベリはベックの復帰の手始めとして、リハビリも兼ねて、密室の中で死亡したスヴェードという老人の事件をやってみろと言って、そのファイルを渡す。ベックはその老人のことを調べ始める。老人は死から二ヶ月経って発見され、しかも完全な密室で死んでいたものだから、警察は孤独な老人の自殺として片づけられようとしていた。しかしスヴェードは銃で撃たれて死んでいた。ベックはスヴェードが自殺であった可能性があったはずがない。銃器なしで自分を撃つことがそう簡単なことであるはずがないと思うのであった。しかも部屋には銃器と呼べるものが一挺もなかったのだ。これは殺人事件であると確信する。

 一方銀行強盗の対策本部では、容疑者として、マルムストレーム、モーレンの二人組みの仕業でないかと疑う。そして彼らに食べ物など物資を調達する人物としてモーリッソンという人物がいた。この男たまたま親切心で横断歩道で目の悪い老人を助けていたとき、横断補導員に泥棒と勘違いされる。結局誤解であったことで解放されるのだが、たまたまそこに麻薬警察犬が彼の持っていた食品に何かを嗅ぎつける。食品の中に麻薬が隠されていたのであった。
 窮地に陥ったモーリッソンはマルムストレームとモーレンに居場所と、次に襲う銀行のなどをしゃべることで、自らの罪から逃れようとする。捜査本部を指揮していたブルドーザー・オルソンは歓びモーリッソンの条件を呑むが、アパートにはマルムストレームとモーレン居ず、ストックホルムでは銀行強盗が起こらず、マルムで起こった。
 モーリッソンは釈放されるが、その後をコルベリやグンヴァルト・ラーソンは彼を尾行する。モーリッソンの隠れ家を見つけ、地下室であの銀行強盗で使われた銃と、そのとき女性が着ていたのと同じ服、カツラを発見する。このため銀行強盗をし、一人を射殺した犯人はモーリッソンだとされた。
 実はこの銀行強盗はモーリッソンと当時付き合っていた女の仕業であった。女はモーリッソンのアパートに一人で入り、そこで銃を発見したのであった。女はそれまでの生活苦から脱出するためには銀行強盗をするしかないとして、その行動を起こしたのだ。その時一人を撃ってしまったため、銃を元の場所に戻し、着ていた服、カツラもモーリッソンのいる部屋の地下室に置いて行ったのであった。

 マルティン・ベックの方は、スヴェードが外から射殺され、彼が倒れるときその反動で扉が閉まってしまい、完全密室となったことを知り、銃が発砲された場所を綿密に調べると、そこの薬莢があった。その薬莢はモーリッソンのところから発見された銃から発射されたものであることが鑑識から判明する。スヴェードはどうしようもない男であって、吝嗇家であった。個人で当座預金を持ち、定期的に振込があった。モーリッソンはスヴェードから脅され、金をむしり取られていたのであった。そしてモーリッソンはスヴェードの脅しに我慢できずに、最後に彼を殺したのであった。
 ベックはモーリッソンを尋問し、彼はスヴェード殺しの犯人だと自供するが、一方で銀行強盗は濡れ衣だと主張する。しかし聞き入れられず起訴される。
 裁判ではモーリッソンは銀行強盗で無期懲役となるが、スヴェード殺しは不問とされた。実はモーリッソンは銀行強盗は冤罪であり、スヴェード殺しの犯人だったのである。
 スヴェード殺しは不問とされたことで、それまであったベックの昇進の話が、まだは復帰が完全じゃないということになって、話は先送りとなった。ベック自身は現場に居たかったので、これはこれでよかったのだが・・・。

 この話はシリーズの中で『笑う警官』を凌ぐ傑作と訳者は言っているが、私にはどうも話が中途半端のような気がした。確かに話はそれぞれ込み入っていて、面白かったけれど、最後は消化不良の感が拭えなかった。


評価
★★★


書誌
書名:密室
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910676
出版社:角川書店 (1981/06 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:361p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月02日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『唾棄すべき男』

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 入院中の男が何者かに騎兵銃の銃剣で刺殺された。男は主任警部スティーグ・ニーマンであった。その刺殺死体は残虐そのものであった。
 マルティン・ベックはニーマンがどんな人物か調べ始めた。ニーマンに関してはベックの同僚コルベリが詳しかった。

 「きみの話を聞いていると、まるでスティーグ・ニーマンに関する生き字引みたいだ」

 「ああ、やつに関することなら、おれはあんたたちが知らないことも多少知っているとも。しかし、その話は後でいい。それよりまず、やつは最低の種類の警官、権威を笠にきた、無頼漢も同然の男だったことをはっきりさせとこうじゃないか。やつは警察全体の面よごしだよ。おれは同時代、同じ都市で、あんなやつと同じ釜のメシを食ったことを恥ずかしと思っているくらいなんだ」

 「“セレフからきた唾棄すべき男”、おれたちはやつをそう呼んでいたんだ」
 
 ベック等はニーマンの過去の捜査状況を調べていくと、ニーマンは自らの権力を笠に、民間人に対して、とんでもない行為に及んでいて、そのため法務省の護民官宛にニーマンに関する訴状が幾通も出てきた。その中に何通も訴状を出している巡査、オーケ・エリクソンがいた。
 ベックは同僚のフレドリック・メランデルを呼び出す。彼は伝説的な記憶の持ち主で、任意の特定の人間ないし主題について、自分が過去に聞いたり見たり読んだりした重要なデータを自在に選り分け、しかも淀みのない明瞭な語り口で説明出来る刑事であった。そのメランデルが言うエリクソンは次のようであった。
 彼の妻は糖尿病を患っており、いつもインシュリン注射器を持ち歩いていた。が、たまたま自分の子供を迎えに行くときその注射器を忘れてしまい、歩くことも出来ない状態になっていた。その時ニーマンがいた署の部下が彼女を麻薬で朦朧となっているか、泥酔していると勘違いし、警察に連れ込み、ニーマンは彼女を泥酔者用の独房にぶち込んでおけと命じた。そして彼女は独房で死亡した。
 以来エリクソンは人が変わり、ニーマンをはじめ誰彼構わず訴状を送るようになり、妻を殺したのは警察全体だと思うようになる。その後エリクソンは免職処分を受けた。エリクソンは射撃の名手であった。
 彼には一人娘がいたが、児童福祉局がその娘を彼から引き離した。エリクソンと一緒にいると娘の福祉上好ましくないという言う理由で。児童福祉局がそういう決定を下すに当たり、エリクソンの警察時代の上司に事情を聞き、それが決定的になった。何を隠そう児童福祉局の答申書に答えたのがニーマンであった。
 そして銃声が起こった。今まで何度かこのシリーズに出てきて、いつもドジを踏むパトロール警官で、グンヴァルト・ラーソンが「またお前等か!」と呆れる警官二人が射殺される。さらに警官が撃たれる。エリクソンは屋上から、警官を的にしてライフルで撃つ。 マルティン・ベックはニーマン刺殺事件を捜査しているうちに胸騒ぎを覚えていた。

 何か突拍子もないことが起きそうな気がしてならない。どんな犠牲を払ってでも阻止しなければならない突発事故が-

 とにかくベックたちはエリクソンのいる屋上に近づけない。しかしマルティン・ベックは自らが志願してエリクソンのいる屋上に上がり、撃たれてしまう。幸い弾はベックの身体を貫通し、出血のそれほどでなかったが、動けなくなる。ベックは自らの意識が遠のくなかで次のように思う。

 あの瞬間までベックは、自分はこの男を理解していると思っていた。この悲劇の責任の一半は自分にある、従って自分には彼に助けの手を差しのべる義務がある、と思っていた。けれども屋上の男は、もはやいかなる助けの手も届かない領域に入っていたのだ。この二十四時間のある時点で、彼は狂気の棲む世界、復讐と暴力と憎悪以外何物も存在しない世界に、決定的な一歩を踏み出してしまったのに相違ない。

 ベックを救助したのはコルベリとグンヴァルト・ラーソンであり、エリクソンは逮捕される。ただどうしてマルティン・ベックが一人でエリクソンに立ち向かわなければならなかったのか、しかも最終的にコルベリやラーソンが踏み込めたのだから、わざわざ一人で行く理由がないように思える。確かにベックはエリクソンがこうした事件を起こしたのはニーマンがいた警察であり、自分のその組織の中にいるのだから、責任の一端は自分にもあると思うのは分からないわけではないが、だからといってベックが一人でエリクソンと対峙するのは、これまでのマルティン・ベックらしくないように思えた。


評価
★★★


書誌
書名:唾棄すべき男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910591
出版社:角川書店 (1980/09 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:247p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年03月31日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『サボイ・ホテルの殺人』

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 またマルティン・ベックシリーズに戻る。第6作目である。スウェーデンの実業家のヴィクトール・パルムグレンが系列会社の重役たちの前でスピーチをしている最中、近づいて来た男にピストルで頭部を撃たれた。そして犯人は窓から逃亡した。
 パルムグレン傘下の企業は手広く事業をしていたが、アフリカなどに武器を輸出していたと黒い噂もあった。が、とにかくパルムグレンはスウェーデンの経済界の大物であった。
 その彼が殺害されたのである。警察上層部は嫌が上でも事件を重要視せざるを得なかった。彼の殺害が政治的背景があるようにも思えたからである。そこでマルティン・ベックがマルメのサボイホテルへ派遣される。
 事件は彼の事業内容による国際的トラブルか、それとも彼の部下たちの反逆による暗殺か、いくつかの糸はあるのだが、すべて途中で切れてしまい、捜査は行き詰まっていく。
 そうしているうちにマルティン・ベックはそもそもこの事件は政治的背景とか、ビジネストラブルとか、そういう厄介なところで起こった事件ではなく、もっと単純なところで起こった事件ではないかと思い始める。
 事件直後、犯人に良く似た男が、マルメからコペンハーゲンに向かう船の甲板で、黒い箱を持って佇んでいたという情報が入るが、その男が何者か特定することが出来ずにいた。犯人が使ったと思われる銃もいくつか特定されつつあったが、これもはっきりしない。
 そんな中コペンハーゲンから送ってきた事件リストの中に、浜辺を散歩している家族の息子が砂浜に打ち寄せられた黒い箱をみつけ、中身がサボイホテルの殺人事件で使われた銃のリストの中にあった銃が入っていた。その銃は射撃練習場で使われるもので、判読しづらいが名前も入っていた。
 浜辺で見つかった銃の持ち主、スヴェンソンは、以前パルムグレン傘下の工場で働いていたが、工場が閉鎖され、解雇されていた。さらに住んでいたパルムグレン所有のアパートも策略のよって追い出されてしまっていた。マルティン・ベックは事件の動機を次のように推理する。

 「その場合、スヴェンソンは相当長期間にわたって、踏んだり蹴ったりの目にあったという事実を想起する必要があると思う。これはただ単に自分の運が悪いのではなく、ある特定の人物、ないしは集団から不当にあしらわれた結果なんだと思いはじめたとき、彼の憎悪は偏執的な敵意にまで昂まったと見ていい。言ってみれば、一つまた一つ身ぐるみ剥がれていって、最後に丸裸にされてしまったようなものなんだから」

「そしてその集団の代表がパルムグレンだったというわけか」とマルティン・ベックと一緒に捜査しているのペール・モーソンが言う。

 犯人のスヴェンソンは逮捕後、「あいつを殺してやりたいと思ったことは、あの前にもあったと思います。といって、あらかじめ計画を練っていたわけじゃありません。ところが、あそこにああやって立っている彼の姿を見、自分がリボルバーを持っていることに気づいたとき、いまならあいつを射ち殺すことなど造作もないじゃないか、という考えがパッとひらめいたんです」と言うのであった。 事件は政治的背景やビジネストラブルではなく、一人の男の恨みから起こったもので、ベックが思った通り、単純な動機であった。
 この話で妻との仲が冷え切っていたマルティン・ベックは、別居生活を一人で始めたことが書かれている。別居生活が彼を元気にし、また射殺された昔の部下の恋人とのラヴシーンもあり、ガチガチの刑事ではないことを我々は知って、どこかホッとする。こういうのも人間味があっていい。


評価
★★★


書誌
書名:サボイ・ホテルの殺人
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910409
出版社:角川書店 (1980/09 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:304p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年03月24日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『消えた消防車』

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 私が持っているこのシリーズはこの話で文庫本は終わる。後の5冊は単行本となる。(もちろんこの5冊の単行本も後に文庫になっている)まぁ、これは何の意味もないことなのだが、とりあえずこのシリーズの半分は読み終えたことになる。

 さて話の内容は、まず事件が二つある。一つはストックホルムのアパートで、ピストルで自殺したカールソンという男がいて、カールソンの筆跡で、「マルティン・ベック」と書いたメモが残されていた。ところがマルティン・ベックはカールソンと一切面識がなかった。
 そしてグンヴァルト・ラーソンは依頼されて(詳しい経緯は知らされておらず、ただ助っ人として)ある男のことを若い部下に見張らせていた。その夜は寒い夜で、見張っている警官が凍えそうになっていたので、一時ラーソンは代わってやった。その時男のいるアパートに火花が見え、爆発炎上した。ラーソンが炎が燃えさかる中、アパートにいる人間を捨て身で救助する。
 一方ラーソンに代わってもらった警官は自分が見張っていたアパートが火事になっていることを知って、慌てて消防署に連絡するが、消防署ではその通報をすでに受けているから、もうすぐ現場に着くはずだといわれる。しかし彼が現場のアパートに戻って見ると消防車は来ていない。
 グンヴァルト・ラーソンらが見張っていたのは自動車窃盗の疑いで逮捕され、証拠不十分で釈放されたマルムという男であった。そして火事はマルムの部屋から出火し、彼は焼け跡から死体で発見された。しかし検死の結果、マルムが火事になる前に既に一酸化炭素中毒で死亡していたこが分かる。マルムはガス自殺を図っており、火事はそのガスに引火して起こったものであると最初見なされた。 しかしさらに詳しく調べてみると、自殺したマルムが横たわったマットレスの中に超小型の自動発火装置が仕掛けられていた。つまり誰かがマルムを殺そうと計った同じ晩に、マルム自身自殺していたことになり、火事はその延長で起こったのであった。これで事故が事件となった。
 警察はマルムと自動車窃盗の仲間であったオーロフソンという男を探し始めるが、一向にオーロフソンの行方がつかめないでいた。オーロフソンの消息は火事から遡ること1ヶ月の間ぷっつり途絶えているのでった。
 そしてマルメの港に沈んでいる車が発見され、その中にオーロフソンの死体があった。検死の結果オーロフソンはマルムが死んだ日にはすでに殺されていたことが分かり、マルム殺しはオーロフソンでないことになった。誰がマルムとオーロフソンを殺したのか?
 捜査を続けているうちに事件の全貌が見えてくる。マルムとオーロフソン、そして「マルティン・ベック」と書いたメモを残して自殺した男、カールソンたちは自分たちが属する自動車窃盗組織が美味しいところを持っていってしまうので、組織から自立しようと考えた。が、逆にその組織に殺されたという構図が見えてくるのであった。
 そしてオーロフソンとマルム(先に自殺していたが)を殺した組織の男が再びスットクホルムに入国するとパリから連絡が入る。その時たまたまマルティン・ベックは休暇中であったので、コルベリと若い部下のスカッケが空港に向かった。ところがスカッケが不用意に動いてしまい、コルベリはその男にナイフで刺され、スカッケは銃でその男を射殺する。

 これで物語は終わってしまい、何か中途半端な終わり方であった。せっかく凝ったストーリーをこしらえたのに、この終わり方はもったいない感じでった。残念である。


評価
★★


書誌
書名:消えた消防車
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520030
出版社:角川書店 (1993/11 出版)角川文庫
版型:425p / 15cm / 文庫判
販売価:693円(税込)

2010年03月19日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『笑う警官』

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 今回も今まで持っている文庫本とは別に買った文庫本を読んだ。初版本ではなく、再版本である。ここでは初版が昭和47年(1972年)7月20日となっているので、ここにあげた書誌とまた異なっている。ちなみに私がそれまでに持っていた本はこれである。

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 とにかくこの本は1970年アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀長編作品賞の受賞作品ともなっているくらい、スケールが大きく、しかも単に話が大がかりになっているだけでなく、地道な捜査をきめ細かに描写していて、なるほどこれならこの賞を受賞してもおかしくないと思える。

 さてこの話の内容である。ストックホルムでベトナム反戦デモで騒がしかった雨の夜、路線バスが道路から外れて停止していた。中を覗くと瀕死の人間が一人いたが、運転手を含め乗客8人が機関銃らしきもので打ち殺されていた。そしてその殺されれた乗客の中にマルティン・ベックの部下であるオーケ・ステントルムがいた。この事件では目撃者もおらず、しかも被害者のほぼ全員が死亡しているため誰がどのような理由で狙われたのかも分からず、捜査は被害者各々の背景を調べるところから始まった。地方からも応援を頼み捜査を続けるうちに被害者の中の何人かは裏に後ろ暗い事情を抱えていることが判明したが、その中に1人だけ身元不明の被害者がいた。
 一方マルティン・ベックはこの事件の捜査を始めるに当たり、何故非番だったステントルムがこのバスに乗っていたのか疑問を持ち始める。しかもステントルムは銃をいつも持ち歩いていたという。
 ベックの同僚コルベリはステントルムの恋人オーサー・トーレルの元に行き、ステントルムの近況を聞いた。そこでステントルムが休暇を取っていて、『バルコニ-の男』での公園での連続殺人事件に加われず、しかも休暇が終わった時点で事件が解決していたことにクサっていたと聞く。ステントルムは若いだけに野心家であった。

 事件がそれほどない時期に過去の迷宮事件を調べてみろと上司から言われ、ステントルムは“テレサ事件”を追っていた。この事件はテレサという色情狂の女が娼婦に身を落とし、殺されてしまった事件で、関係者は数多くいるのだが、決定的な証拠がなく迷宮入りとなっていた事件であった。
 コルベリはステントルムが追っていたこの事件を調べ始める。テレサと関係を持った男は様々な階級の男たちがいたが、中には身を崩しアル中になって収容されている者もいた。
 以前ステントルムからもいろいろ聞かれていたその男はかなり車に詳しかった。男とステントルムとの雑談の中で、テレサ殺害時に目撃された車が、正面から見ると他の車と見間違うほどよく似ていることを聞かされ、ステントルムがそれに異常に興味を持ったことを聞かされる。
 一方身元不明の被害者の身元が割れる。ところでベックの同僚で記憶力に優れた、メランデルという刑事がいるが、その身元不明の男の名前が“テレサ事件”の調書の中に名前があったはずだと言い出すが、“テレサ事件”を再調査していたコルベリはその調書を隅々まで読んでいて、その名前がなかったはずだと言う。結局調書は1ページ抜けていた。その抜けた調書にはその男の名前があったのだ。しかもその男が乗っていた車が事件当時目撃された車と見間違えしてもおかしくない車に乗っていたのであった。ステントルムはこの男を追っていたのである。
 この男を調べているうちに一枚のレシートが見つかり、裏には頭文字と見られるB・Fという文字があった。コルベリが作ったテレサの関係者リストにB・Fの頭文字がつく名前の男は3人いた。さらに意識不明の重体になっていた男が死ぬ間際に、犯人が自分が勤めていた会社の監督の男とよく似ているといって死んでいったことが分かり、B・Fの頭文字がつく男3人のうち監督に似ている男を見つける。そしてその男は身元不明の男が勤めていた会社の経営者であり、今は実業家であった。実業家はステントルムが男を尾行していることに恐怖を持ち、その男とステントルムの抹殺を計ったのであった。

 「よし、これでどうやらきまりだな」

 といって犯人の男のであるその実業家の元へ向かう。

 事件が解決し、グンヴァルト・ラーソンは次のように言う。

 「こんなことは、誰にも話したことはないんだが、おれはこんどの捜査で洗いだした連中には、そんそこ同情を感じているんだ。どいつもこいつも、てめいで生まれてこなけりゃよかったと後悔しているようなクズばかりだが、といって連中の人生の賽の目が、ままならぬ方向にころんだからたって、そいつは連中の責任じゃあない。許せないのは、そういう連中を虫けらのようにひねりつぶす、フォルスベリみたいな手合いだ。あの豚野郎ときたら、考えることはてめえの金、てめえの家庭、てめえの会社ばかりだ。たまたま他人よりちょっと裕福だというだけで、好きなように他人をあやつれると思っていやがる。ああいう手合いはフォルスベリだけじゃない。実は何千ているんだ。そいつらはポルトガルの娼婦をしめ殺すようなヘマはやらないだけの話だ。だから、そうおいそれとおれたちの網にもかからない。出てくるのはそいつらの犠牲者だけという寸法さ。フォルスベリの野郎は例外なんだ」

 という言葉が肯ける。ところでステントルムが隠した、“テレサ事件”の調書の1ページはステントルムの机の上に隠れてあった。そこにはこの大量殺人事件犯人の名前が疑問符付きであった。それを聞いたマルティン・ベックは低く笑った。それをもっと早く見つけていればというところなのだろう。


評価
★★★★


書誌
書名:笑う警官
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520023
出版社:角川書店 (1985/11 出版)角川文庫
版型:433p / 15cm / 文庫判
販売価:740円(税込)

2010年03月16日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『バルコニ-の男』

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 まずは本そのものの話から。このシリーズは日本ではこの『バルコニ-の男』から発売された。理由はどうしてなのか分からないことは書いた。察するにこの本からこのシリーズを面白くするグンヴァルト・ラーソンが出てくるからじゃないかと推察するが、あくまでも私がそう思っているだけのことだ。
 で、今回読んだ本は今までのカバーとは趣を異にする。そう、今回このシリーズが発売された最初の本、すなわち初版本を手に入れており、それを読んでみたのだ。
 初版は昭和46年(1971年)8月10日となっている。ということはここにあげた書誌とは異なる。この書誌は紀伊国屋書店Book Webを参考にしているが、そこには1993年(平成5年)となっている。昭和46年と平成5年とではちょっと隔たりがありすぎる。別に紀伊国屋書店Book Webの書誌をいい加減だといちゃもんをつけるわけではないが、私は初版の実物を今手にしているのだから、正しくは1971年だろう。私が持っているもう1冊本の方を見ると、これも初版が昭和46年8月10日となっていて、昭和59年(1984年)4月30日十六版発行となっている。


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 今回は今から39年前の文庫本を読んでいるのだけれど、これが下手に扱うとページがとれてしまいそうである。この時の角川文庫はスピンがついていたことを知るが、そのスピンが寸足らずになっている。先っぽが切れてしまっている。経年劣化もここにも現れている。またカバーの背表紙も紙質が劣化し、折り込みの部分が割れたようになっている。いったいこの文庫は後何年で崩壊するのだろうか、と思った。

 さて本の内容である。マルティン・ベックはロゼアンナ事件で一緒になったアールベリーの要請でモータラへ行く途中、署による。そこには連続辻強盗を捜査しているグンヴァルト・ラーソンが、一向に見えない犯人にイラついていた。そこに電話が鳴る。自分の部屋から見える先にあるバルコニーに不審な男が立っていると言うのだ。電話をかけてきた女性はその男の風体を言うが、男は自分の部屋のバルコニー立っているだけのことで、グンヴァルト・ラーソンはだからどうしろと言うのだと怒り、電話は切れた。
 そん中、ストックホルム市内の公園で8歳の少女が暴行され殺されているのが発見された。犯行時刻と推定される日には、同じ公園にある売店の店主が頻繁に発生している辻強盗に襲われるという事件も起きていた。数日後またしても少女の死体が発見され事件は連続殺人となっていった。
 可能性としてグンヴァルト・ラーソンが捜査している辻強盗の犯人が少女を殺害した人物を目撃している可能性が出てきた。マルティン・ベックはとにかくその辻強盗の犯人を探すことを最優先にした。なぜなら少女を殺害した犯人の手がかりは一向に出てこないからである。
 そしてタレコミで辻強盗の犯人が捕まった。犯人は犯行を実行する前に綿密に狙う相手を物色していたので、公園にいたときもそこにいた人物を一人一人あげていく。そして辻強盗の証言から連続少女殺人犯の似顔絵を作成することができた。ただその辻強盗の犯人が言った連続少女殺人犯の風体にマルティン・ベックは何か引っかかる物を感じていた。
 懸命の捜査にもかかわらず、少女を殺した犯人が何物でその行方も一向につかめないまま時間ばかりが過ぎていく。市民は自警団を自主的に作り、過剰に反応する事態に陥り、マルティン・ベックの同僚レンナルト・コルベリがそんな自警団に襲われる。
 マルティン・ベックは捜査に当たり何かが気にかかっていたが、それが何なのか分からないでいた。

 「不意に、彼は身を硬ばらせた。身内を熱いものが走り抜ける。思わず息がつまった。辻強盗の逮捕以来気になっていたこと、頭にこびりついて離れなかったこと、グンヴァルト・ラーソンと分かちがたく結びついていたこと、それがいったい何であったか、突然頭にひらめいたのである。
 人相だった。
 ルンドゲレン(辻強盗の名)が述べた人相をグンヴァルト・ラーソンがまとめた要約は、一言一句、ラーソンが二週間前受話器に向かって言っていたことの反復といってもいいではないか」

 マルティン・ベックは慌ててグンヴァルト・ラーソンが迷惑電話として扱った女性との会話を思い出させる。確かに連続少女殺人犯の人相とグンヴァルト・ラーソンが聞いたバルコニーに立っていた男の人相が似ているが、今のところ関連性が見出せない。単に偶然ということだってある。刑事の勘にしか過ぎない。ただ捜査が八方ふさがりの状態である以上、その男を調べても別に損することはない。このあたりのマルティン・ベックの刑事の勘は圧巻である。そしてその勘は当たり、事件は一気に解決に向かう。

 このシリーズを面白いものにしている要因は、地道な捜査と登場する刑事たちの決断力と推理力であろう。その熟練した推理力と捜査の仕方がリアルで、なるほどと思わせるのである。そしてそれだけだと単に捜査を時系列で追うだけになってしまうが、そこに登場するマルティン・ベックら刑事たちの個性のぶつかり合いを加えることで物語を面白いものとしていく。
 この話の運び方も最初に迷惑電話と見せかけて、それが重要な証言であることを後で分からせるし、辻強盗と連続少女殺人事件をうまく組み合わせて、物語を面白くさせる。思わず“さすが”と唸ってしまう。
 また刑事たちの人間性を訴えるため、彼らの私生活の描写も忘れず書き込んで、それが読む側に登場人物をより身近に感じさせるのである。


評価
★★★★


書誌
書名:バルコニ-の男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520016
出版社:角川書店 (1993/11 出版) 角川文庫
版型:340p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月15日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『蒸発した男』

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 マルティンベック・シリーズ第二弾。今回はスウェーデンが舞台ではなくハンガリーである。
 マルティンベックはせっかくの夏休みに上司のハンマルから呼び出しがかかる。外務省から依頼があって、スウェーデンの週刊誌の記者がブタペストで行方不明になっているというのである。わざわざ外務省が警察に依頼する理由はその記者アルフ・マトソンの行方不明が国際問題に発展する事態を避けたいからという。
 このあたりは少々古い話で歴史的な問題を含んでいる。第二次世界大戦が終わった後、著名なスウェーデン人が行方不明となった。当時スウェーデンではハンガリーの共産主義者の殺されたとか、ソ連の諜報機関に拉致されたとか、様々な噂が乱れ飛んだという。どうやら国際的諜報戦の匂いがするこの事件は、この本が書かれた頃でも、スウェーデンの作家や映画人の想像力を刺激していたという。実際ドキュメント映画が作成されようとして、その脚本をマイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻が書いたらしい。結局映画は放映されなかったらしいが、マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻がその時の取材を生かしてこの小説が書かれた。
 さて行方不明となったアルフ・マトソンを探し、マルティン・ベックがハンガリーに飛ぶのであるが、アルフ・マトソンはブタペストに着いて泊まったホテルから翌日違うホテルに移った後すぐ姿を消した。しかも荷物、パスポートを残して。
 マルティン・ベックは方々探し回るが、依然として行方がしれない。ただアルフ・マトソンが交際していたと思われる女性が判明するが、その女性もアルフ・マトソンを知らないといわれてしまう。そしてマルティン・ベックはある暑い晩散歩に出たときに何者かに襲われた。幸いマルティン・ベックは九死に一生を得て助かったが、襲った犯人を調べると、アルフ・マトソンはハンガリーで麻薬を仕入れに来ていたことが分かる。
 結局アルフ・マトソンはハンガリーには行っていなかった。スウェーデンで仲間に殺されていたのであった。アルフ・マトソンがハンガリーに麻薬を仕入れに行くのを知っていた犯人は、彼に扮してハンガリーに渡り、密かに帰っていたのであった。
 
 マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻が先に言ったように著名なスウェーデン人の行方不明事件を取材していた。だからこの小説でもそうした諜報事件として、話を展開できたのかもしれないが、そういう風にはしなかった。
 あとがきにおもしろことが書かれている。フレデリック・フォーサイスをどう思うか聞かれ、自分たちと作風が違うと言うのである。そう、この話をそういう国際的な諜報事件として扱うのではなく、(もちろんそれらしく匂わせておくのだが)、あくまでもスウェーデンでの痴話喧嘩の行き着く先にある殺人事件として物語をまとめるのである。普通の人間がフィアンセを侮辱され、かっとなって殺したという話にするのである。ハンガリーでの行方不明や麻薬の売人はあくまでも話のスパイスである。

 しかしやっぱり昔読んだ本の内容はほとんど忘れてしまうものだ。全体としてこのシリーズは面白かったという記憶が残っているが、個々の話の内容などほとんど記憶にない。だから読んでいて思い出すこともあるけれど、新たに推理小説を読んでいる感じになって再読したという感じではない。続いて次を読んでみようと思う。


評価
★★★


書誌
書名:蒸発した男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520054
出版社:角川書店 (1977/05 出版)角川文庫
版型:324p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月13日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『ロゼアンナ』

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 私が持っている「マルティン・ベックシリーズ」は二代目である。というのも最初このシリーズを読んで、その面白さを堪能した後、もう読み返すことはないだろうと思い、古本屋さんに売ってしまったのだ。ところがいつかふと思い出し、また読んでみたいなと思い始めた。こうなると是が非でも読みたくなり、またこのシリーズを買い求めたのだ。だから今手元にある文庫本5冊、単行本5冊は二代目になるのだ。そして同じ本なのだが、初版本と表紙違いの本を2冊古本屋さんで見かけたのでそれを買い求めている。
 今回このシリーズを読み直すと、これで三度目となる。今回は新たに買い求めた初版本と表紙違いの本を2冊と、それ以外に持っている二代目の本を読むこととする。

 さてこの「マルティン・ベックシリーズ」はマイ・シュ-ヴァルと妻のペ-ル・ヴァ-ル-の共作で、スウェーデンの名作警察小説である。よくエド・マクベインの「87 分署シリーズ」と比較される。もしマイ・シュ-ヴァルが死亡していなければ、もっとシリーズは続いたものと思われる。
 結局夫のペール・ヴァールーが1975年、まだ48歳の若さでこの世を去ったため、シリーズは10作となった。私はあくまでも個人的に思うのだが、結局10作にこのシリーズがとどまったことが、かえってこのシリーズをいいものとしたんじゃないかと思っている。「87 分署シリーズ」のようにだらだら続いちゃうと、どこか間延びした感じになってしまうのではないかと思うのだ。作品は以下の通り。

 『ロゼアンナ』(1965)
 『蒸発した男』(1966)
 『バルコニーの男』(1967)
 『笑う警官』(1968)
 『消えた消防車』(1969)
 『サボイ・ホテルの殺人』(1970)
 『唾棄すべき男』(1971)
 『密室』(1972)
 『警官殺し』(1974)
 『テロリスト』(1975)

 日本ではどういうわけか、第一作の『ロゼアンナ』から出版されず、『バルコニーの男』から出版され、『笑う警官』が第二作として出版されてる。
 そして普通親本として単行本があっていいのだが、これもどういうわけか『ロゼアンナ』から『消えた消防車』は文庫本しか見つからない。もしかしたらこのシリーズはここまでは文庫本オリジナルなのかもしれない。主人公はマルティン・ベック警視である。
 このシリーズが面白いのは、登場人物のキャラクターが警察という職場でも、ごく普通の冗談や会話をするところにある。だからかもしれないが、シリーズ全体で登場人物が楽しいし、警察というきな臭い職場であっても、普通に笑えるのである。そういうことだから人物たちを愛せるのである。私はマルティン・ベックの同僚のレンナルト・コルベリと、ここでは出てこないが、グンヴァルト・ラーソンが大好きである。
 さて『ロゼアンナ』の内容である。遊覧船が行き交うところで、浚渫船が女性の死体を引き上げた。司法解剖の結果、性的暴行を受けた後に絞殺されたことは判明したが被害者の身元は不明のまま捜査は行き詰まり、本庁の応援を仰いだ。ストックホルムからマルティン・ベックとその部下たちが集まり、捜査を続けるが、これといって手がかりがないまま、またしても捜査は行き詰まる。
 そん中アメリカから失踪者の照会があり、殺された女性がロゼアンナ・マッグロウであることが判明する。ロゼアンナの名前は遊覧船の名簿にもあり、どうやら、殺された後遊覧船から投げ落とされたと分かってくるが、それではいったい誰がロゼアンナを殺害したのか皆目判明しない。
 マルティン・ベックは遊覧船にロゼアンナが乗っていたことで、その他の乗客が観光目的で写真やビデオを撮っていたはずだと考える。その船に乗っていて、写真やビデオを取っていた乗客からそれらを取り寄せ、ロゼアンナに近づく人間を捜していく。そうしているうちに一人の不審者が浮かび上がったが、しかし事情聴取をしても、しらを通され、決め手に欠けた。
 そこでマルティン・ベックはその疑わしい人物に婦警を使っておとり捜査をし、罠をかけるのである。男はその罠にはまり、事件は解決する。
 あらすじをこう書いてしまうと、“なんだ”と思ってしまうが、捜査が行き詰まり、次の捜査方法を悩んで考えつき、さらにその先も同様にマルティン・ベックがどう捜査を進めていけばいいのか、苦しみながら考えるあたりは臨場感が感じれるのである。しかも特別変わった手法を取っているわけではなく、オーソドックスな捜査方法だ。だから犯人逮捕までの間がリアルに感じられた。


評価
★★★★


書誌
書名:ロゼアンナ
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:
出版社:角川書店 (1993/11 出版)角川文庫
版型:375p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2009年10月28日

篠田謙一著『日本人になった祖先たち』

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 この本を読んでみたいと思ったのは日経の9月6日の「SCIENCE」の記事を読んだからである。その記事は宮城県の前知事浅野史郎さんが成人T細胞白血病という聞き慣れない病気で入院したことから始まる。この病気母子間で感染する「成人T細胞白血病ウィルス(HTL-V1)」が原因らしい。この病気は九州南部、沖縄、そして東北地方の三陸海岸や北海道に多く発症者が出るという。つまり感染者の分布に地域的な偏りがあるというわけだ。
 HTL-V1はアフリカでは今も多くの感染者が見つかっていることから、アフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年前以上に日本に到達したことを示しているという。つまり縄文人はアフリカからの来たことを示している一例ということなのだろう。
 ところが日本には紀元前5世紀から紀元後3世紀に朝鮮半島から弥生人が渡来し、縄文人を日本の南北に追いやったために、この地方にHTL-V1の発症者が多く出るということらしい。
 おもしろいもので、このHTL-V1はアンデス山脈の先住民からも日本人と同じタイプのHTL-V1を持つ人が多くいるという。つまりアフリカから生まれた現生人類の子孫は南アメリカまで旅を続けたことになる。
 一方弥生人も渡来してきたときに、病原体を持ち込んでいる。それが結核である。結核菌に感染すると脊椎カリエスになることがある。(正岡子規が冒された病気だ)つまり骨に結核の証拠が残るわけだ。ところが縄文時代の人骨を調べてみると一つもその病気の痕跡が見つからず、逆に弥生時代の人骨を調べると、その痕跡が見つかるという。このことから結核菌は弥生人持ち込んだものだろうと推測されるらしい。それは「今の新型インフルエンザと同じように大きな被害を受けただろう」とその記事は結んでいるが、インフルエンザと結核を一緒にしていいのかなと素人ながら思うが、まあいい。私はアフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年以上前に日本に到達したことに多大な興味を覚えたのだ。それでそんなことを書いた、素人の私でもわかりそうな本を探していたら、この本を見つけたわけだ。ただやっぱり素人だから、いくらやさしく解説されていても難しい。

 ところでものすごく驚いたことがある。私たちが世界史で学んだ頃の人類の進化とは、アフリカで生まれた人類の祖先であるアウストラロピテクスから、原人と呼ばれるピテカントプロスエレクトウスやシナントロプスペキネンシスと進化し、ネアンデルタール人に至り、そしてもっとも今の人類に近いクロマニヨン人となって進化してきたと教わってきた。(しかし今でもよくこんな学術名を覚えているなあ。それだけ受験勉強した証拠?)絵で描けばこんな感じだ。多分教科書にもこんな感じで載っていた気がする。


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 ところがこれは違うらしい。この本によると私たちが教わってきた人類の進化は「多地域進化説」と呼ばれるもので、それは100万年以上前にアフリカを旅立った原人が各地で独自の進化進めてそれぞれの地域の新人に移行したという説である。しかし最近の科学はその説を否定し、現生人類はすべて20万~10万年前にアフリカで生まれ、7万年~6万年ほど前にアフリカを出て全世界広がったというのである。従ってこの説に従えば、北京原人やジャワ原人、あるいはネアンデルタール人といった各地の先行人類はすべて絶滅したことになる。
 200万年前以降にアフリカで生まれた人類はアフリカを旅立ち、旧大陸の各地に先行人類が分布したのだが、これらの先行人類はすべて絶滅し、再びアフリカで生まれた私たちの直接の祖先が世界を席巻したことになるのだ。要するにヒトが各地で段階的に進化して、今に至っているのではなく、アフリカで誕生した新人が世界に広がっただけのことらしい。これを「新人ホモサピエンスのアフリカ起源説」といいい、今ではこれは常識となっている。
 アフリカってすごい。高等類人猿からヒトへの第一歩を踏み出したのもアフリカなら、私たちの直接の祖先が生まれたのもアフリカなのだ。でも、何でアフリカなんだ。これに関しては未だ説明が出来ないらしい。

 これにを知ったとき、私たちが詰め込まされてきた知識って何だったんだ!と思ちゃったね。この説が常識となるのには、DNAを解析する分子生物学が1970代から爆発的に発展したことからわかったことらしい。推定される新人の移動経路がこの本に載っているけれど、これを見るとその旅路はものすごいことだなと思う。ものすごい時間と距離を改めて感じるのである。今みたいに飛行機で一気に飛べる訳じゃないんだよ。一歩一歩、歩いて世界を席巻したんだからすごい。こうして移動する訳って何だろうと思うのだが、それに関してはこの本には何も記述がない。だからこれは勝手な素人の想像だけれど、生きるために狩りをするうちに、餌を見つけるため移動していった結果、ここまで来ちゃったということなのかなと思う。

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 著者は「私たちは学校で新大陸を発見したのはコロンブスだと教わります。しかし、それはヨーロッパ人から見た発見であって、彼らは新しい大陸を発見した最初の人類だったわけではありません。実際には、人類の最初の旅がすでに終わっていたことを確認しただけだったのです」と書いているが、まさしくその通りだなと思う。ヨーロッパ中心の歴史書の記述と人類学が教えるものと大きく違うことを教えてくれる。
 さらに彼らの進出はポリネシアの島々まで行って完結するけれど、その先には南米大陸がある。中にはそこから南米に渡った新人がいたかもしれない。そうなると北から北米へ渡り、南米に至った同じ自分たちの子孫と出会い、再会した可能性がある。ここでも著者は「ミトコンドリアDNAの拡散の歴史から見れば、非常に劇的なものだった」と言っているが、もしそれが本当にあったとしたら、すごいことだ感じいっちゃう。

 それにしてもこの分子生物学ていうのはすごい。こんなことがわかってくるのだから。
 私たちはその歴史の変遷(あるいは文化の伝搬など)を知るには、残された遺跡や考古学的資料など、ぽつんぽつんと発見される事実を、その変化を目に見える範囲内で、同じものや似たものをつなぎ合わせて、たぶんこんな感じでつながっていったんじゃないかと想像することで、歴史を語ってきたような気がする。特に文書として記録がない時代はそうであろう。
 ところが科学は動かしがたい事実をそこに突きつける。それまであった歴史の常識さえ覆してしまうのだ。もしかしたら科学というのは、歴史を本当の意味で書けるんじゃないかと思ってしまう。もう歴史学は文系のものではなく、理系の範疇に組み入れられるものに変わってしまうのではないかと思ったりする。

 ではこのアフリカで誕生した新人がどのように世界に広がっていったのか、それを裏づける証拠となるものは何なのかというと、ミトコンドリアDNAからわかるという。たとえば私を作っている遺伝子は両親の卵と精子の結合から生まれている。そして両親はさらにその親の卵と精子の結合から生まれている。ということは私を作っている遺伝子はそれまでバラバラに集団の中にあった遺伝子から偶然組み合わされて出来たことになる。つまり数百年前には今の私を作っている遺伝子は影も形もなかったことになる。そしてその逆も言えるわけだ。この私において結実した遺伝子の組み合わせは、たとえ子孫を残しても世代を経るごとに散逸し、数世代すればまた元のようにバラバラとなる。これだと遺伝子からその祖先を探ることが不可能となる。
 ところが親の持つDNAがそのまま子孫に伝わるものがある。それがミトコンドリアDNAである。ミトコンドリアDNAは母系に伝わる。つまり常に娘が生まれて子孫を残していけば、母系の系列は絶えないのから、子孫のミトコンドリアDNAは先住者のものと同じとなる。一方父系にはY染色体のDNAが継承される。(この本は基本的にミトコンドリアDNAで人類の歴史を語っている)
 一時、天皇の皇位継承権で愛子様が女帝になるという話があり、それを認めようかどうか問題になった。そのとき反対意見としてそれまで男子に皇位継承権を与えてきたから、Y染色体が代々継承されてきた。しかしここで愛子様が天皇になるとそのY染色体が断絶するということがあったが、それがこれなんですね。著者もDNAを血統とか家系と結びつけて捉える考え方があり、場合によっては特定の家系を特殊なものであると考える際の生物学的なバックボーンと利用されることもあると、暗に当時騒がしていた皇位継承権の問題を批判しているような気がした。
 そもそもY染色体の「最大の機能は言うまでもなく男性を作る作用なのですが、その部分は非常に小さく1000塩基対程度しかありません。Y染色体の大部分は意味のないDNA配列で埋められていて、実情はそれほど威張れるものでもないようなのです。ことさら男子の系統を大切にする風潮は、DNAから見れば何か滑稽な感じすらします」と著者は言っている。

 さてそのミトコンドリアDNAである。詳しいことはよく分からなかったけれど、ミトコンドリアDNAは一つの細胞の中に多数のコピーを持っているので、核のDNAより人骨などに壊れないで残っている可能性が大きい。その上PCR法でそれを簡単に増幅できるらしく、解析にはもってこいなんだそうだ。しかもその構造の中で、「D-ループ」という狭い領域に異変が集中しているので、そこを解析すればいいという利点があるらしい。
 その解析の結果、ミトコンドリアDNAの多様性は大きく四つのグループに分けられる。それぞれA~Dの記号をつけられ、これを専門用語で「ハプログループ」と呼ぶ。このハプログループがさらに細かく分岐していく過程を見ていくと、アフリカで生まれた新人がどのように移動していったかが、わかるというので、結果さっきあげた分布図となっていく。(かなり端折っちゃたけれど、正直あまりにも細かくてよく分からなかった)
 日本人の祖先もこの分布図に示される人類の移動経路で考えなければならない。ただ書名の割には日本人の祖先はどこから来たのか、結論を明確にしていない。
 日本人の成立に関しては、形質人類学の立場から、旧石器時代につながる東南アジア系の縄文人が居住していた日本列島に東北アジア系の弥生人が流入して徐々に混血して現在に至っているという二重構造論が唱えられていることを、DNAの解析からある程度これを認めて終わっている。著者は「現代日本人が在来系の縄文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという、混血説(二重構造論)を強く支持しています」と書いている。ここでは結論しているんじゃない。あくまでも「支持している」と書いているだけだ。それを断定できるほど、ことは簡単じゃないらしい。

 ところで、著者は「日本人の祖先集団の成立に際しては、大陸の広い地域の人々が関与したために、私たちの持つDNAは、東アジアの広い地域の人々に共有されています」と書いている。これは日本という国家だけを考えるのではなく、アジアの広い地域の人々と共有するDNAがあるのだから、そのDNAを共有する民族同士もっと仲良くなっていい。隣接した国同士ほど、いがみ合いを持っているというのも普遍的な現象としてあるけれど、それを超越する共有のDNAがあるのだから、このことを認識すれば、お互いを信じることが出来るんじゃないかと言っている。それはアジアだけでなく世界でも通用するのではないかとも言っている。
 でも、こうした結論はちょっと陳腐過ぎるような気がする。たとえ生物学的共有物をお互いの国の人々が持っていても、だから仲良くなりましょうとはいかないのが現実で、こんなことを言っても「だから?」と言われそうな気がする。生物学的なことと実際の人間が持つ考え、宗教思想、あるいは政治思想とはまったく別問題だからだ。それに人が自分を認識するのは、他人と比べていかに自分は優れているか(劣っているか)、違うのかで、そう思うわけで、異なる他者がどうしても必要なところがある。悲しいけれどそれが事実だ。そういう比較は、仲良くなりましょうという考えから、明らかなに相反する。だからこの本の結論としては、せっかく面白く、ワクワクさせてくれたのにちょっともったいないなと思ったわけだ。
 この本の最後には、科学や技術の発達は、これまでにないヒトの移動を可能にする。経済のグローバル化はボーダレス社会を築き始めている。そのことはそれまで人類が長いことかけて蓄積してきた地域に固有のDNAの組織が解消する可能性がある示唆している。だろうな、と思った。このことはそれまで固有であったものがそうでなくなることを示している。さらに国の、社会の、民族の、あるいは特定の家系の固有性を示すバックボーンとして成り立たなくさせることにもなる。当然遺伝子の分野でも大きな変化を起こすのだろう。でも一方でなんとかしてその固有性にこだわるということも出てきそうだ。だからDNAの共有だけでは世界平和は生まれないのではないかとも思う。

 この本を読み始めたのは、日本人はどこから来たのか。それを知りたくて読んだのだけれど、予想に反して人類の歴史を知ることになってしまった。専門的な分子生物学の記述は難しかったが、けれど面白かった。新しい事実を知って驚いたし、日本人の祖先がアフリカから歩いて、代々来たというだけで、壮大なロマンを感じた。


評価
★★★


書誌
書名:日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
著者:篠田 謙一
ISBN:9784140910788
出版社:日本放送出版協会 (2007/02/25 出版)NHKブックス
版型:219p / 19cm / B6判
販売価:966円(税込)

2009年08月12日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈3〉

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 読みかけていたこの本を読み終える。読んで面白いなと思ったことを書いてみる。
 それは司馬さんが小説を書く場合、どんなとき、どんな人物を小説として書いてみようと思うのか?ということである。その素材を見つける時はどんなときなんだろうと興味がある。その見つけ方というか、司馬さんの興味のあり方を次のように書かれる。

 某という人物その人生というものは、その某の人生が完結したあと、時間がたてばたつほど、私にとって好材料になるのようである。時間が経たねば、俯瞰ができない。俯瞰、上から見下ろす。そういう角度が、私という作家には適している。たとえばビルの屋上から群衆を見おろし、その群衆のなかからその某の動き、運命、真理、表情を見おろしてゆく。この俯瞰法(つまり歴小説を書く視角)で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運命とその環境、そしてその最期、さらに某の存在と行動がおよぼしたあとあとへの影響、というものを知ることができる。たとえば織田信長を書く場合、どのように粗雑な態度の筆者でも、信長自身が知らなかったたった一つのことだけは知っている。それは本能寺でかれが自分の部将に殺される、という運命である。

 従って、「私は同時代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。理由は、最初にいったように「現代」では人生が完結していないからである」という。
 その上で、なおプラスアルファが必要だともいう。その人物が時代の変革期にいることである。その条件を満たしたとき、「自然、書くことが歴史小説になる」というのだ。
 そういう姿勢のだから、違う文章では「私は小説家であって、おなじく人間に興味をもつ教育者や政治家とちがう。だから『おまえはどんな人間像を期待するか』と問われても、答えようがないのである。そう在るような人間を書いているのであって、そうあるべき人間を書いているのではない」と言いきる。なるほどなと思った。

 そうして見つかった素材を小説にしていくとき、次のように注意していると言う。

 それぞれの創作家によって意見はちがうとおもうが、私の場合は、小説家には歴史を曲げる権利はないとおもっている。歴史は国民の共有財産であり、いかに小説であってもそれを勝手に変形していいものではないであろう。だから、私の能力のあたうかぎりにおいて正確を期したい。

 となれば当然多くの資料に当たらなければならないだろう。何かで読んだけれど、司馬さんが『坂の上の雲』を執筆されたとき、司馬さんが資料を集めたため、日露戦争関係の資料が神田の古本屋街でなくなったというくらい、正確を期するために多くの資料を読んで歴史小説を書かれている。これは大変なことだろうなと思うのだが、どうやらそうでもないようである。

 その正確を期すために先人の書いたものを読んだり、史料にあたったりするのだが、この段階のおもしろさというのは、私にとっていかなる娯楽にも代えがたいものである。
 かといって歴史家でないというのは、その段階を科学的精神と方法でやり、それを完結させるというのがその分野のしごとであり、小説家の場合は、その段階は単に創作的刺激をもとめるための予備運動にすぎない、ということである。いいかえれば、作家にとって資料というのは想像の刺激剤にすぎない。小説のたねではなく、あくまでも刺激剤なのである。

 ところがそうして資料あさりをしているとみごとすぎる歴史書に出くわしてしまった場合、ひどく困るという。それがあまりにも完全であるため、しかも文学的感動さえ与えてくれる歴史書を読んでしまうと、刺激剤どころではなく、想像の余地さえなくなってしまうものもあるという。
 このことは先日読んだ吉村昭さんの随筆にも似たようなことが書かれていた。吉村さんも歴史小説を書く場合、資料として例えば人物の伝記などを参考にする。その参考にした伝記が類い希な名著であり、史実すべてがその著作の中に詰め込まれていて、たとえ精力的に歩き回ったとしても、これ以上何も出てこず、これ以上手も足も出ない名著に出会ってしまうと、この素材を放棄するしかないと思うというのだ。
 私は大学で史学部を出ているけれども、そうした感動的な資料に出会ったことがなかったので、そういう歴史書とはどんなものなんだろうなと思う。もっとも大学では仕方がないからやってきただけだから、そんな本に出会えるわけがないだろうけど・・・。

 ところで、今度の30日には衆議院議員選挙がある。最近各政党では世襲議員の制限をやかましくいっている。いわゆる二世議員というやつだ。彼らは親の地盤を引きついでいるから、大した素質がなくてもその地盤を使って国会議員になれるから、よくないというのだ。
 だけどどうなんだろうなと思う。二世議員が親の地盤を引きついで議員になるのと、まったく政治に疎い素人が、ただ興味があるというだけで国会議員になるとどちらが素質的にいいのだろうかと思うのだ。もちろん機会均等ということは大切である。けれどその二世議員が子供のときから国会議員である親を見てきている。あるいはたくさんの政治関係者の中で育ってきているはずである。となればその二世議員が育ってきた生活環境は、どこまでも政治がつきまとう環境ではないのかと思うのだ。代々政治家を輩出してきた家では、そういう伝統だってあるだろう。そう考えたとき、ずぶの素人と二世議員のどちらが次の政治家として力を発揮できるのだろうかと思うのだ。何はさておき人脈がものをいうに決まっている。
 何でこんなことを言うかといえば、司馬さんが「日本というのは徹底した大衆社会というべきであろう」と言い、日本がヨーロッパの貴族階級のような支配階級が長つづきしなかったが、ただ徳川時代は例外である。武士の支配階級が三百年も続き、その精神美を作り上げた。明治もある意味それを引きついだが、終戦後それらすべて滅びた。以後大衆一枚きり社会となったと説明する。
 このことはそれまで持っていた重厚な伝統や美意識など関係なく、あるものはいかにも薄っぺらで、インスタントになったという意味を言っているからである。
 司馬さんはそうした貴族階級や支配階級の存在を肯定しているわけではないが、ただそうした階級の人々には重厚な伝統や美意識が骨の髄までしみこんでいるはずで、それ随順しようが、たとえ反逆しようがその社会(世界)にはそれに対応できる実容量あったはずだ。歴史とか伝統というのはそういうものであると言うのである。
 そうなのだ。二世議員のいる環境には「政治」という実容量があるわけだから、単に親の地盤を引き継ぐだけで政治家になるのはけしからんと言い切っていいのかどうかと思うことがある。もちろんどうどようもないボンクラもいるだろうけど、地盤も環境も政治とかけ離れた世界に住んでいた人間がある日突然政治家になっても、いったい何ができるというのか。二世議員の家にはそれまでのしがらみがあるだろうけど、大衆社会一辺倒になった今、そういうしがらみがない分、ある意味自由であるが、内容は薄っぺらいだけである。だからそれが政治家になれば恥知らずとなり、選挙民は単に政治家にたかるだけの存在となるだけなのではないだろうかという司馬さんの意見にはうなずいちゃう部分がある。

 えっ、東国原知事がいるではないかと言う声が聞こえそうだけど、あれは政治家じゃない。宮崎県知事を利用して国会議員になるという野望が見え見えだ。どこまで宮崎県のためにと思って行動しているか疑問がある。今回それが露呈したではないか。どう考えたって政治家の器じゃない。単に大衆社会の落とし子、あるいはあだ花だとしか思えないのである。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈3〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467035
出版社:新潮社 (2001/12/15 出版)
版型:397p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫ならあり

2009年07月31日

ジャック・ジョーンズ著『ジョン・レノンを殺した男』〈上〉〈下〉

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 この本は映画『チャプター27』の原案本である。訳者のあとがきによると、映画の方はこの本の上巻前半部分を使い、ジョン・レノン殺害にいたる3日間のマーク・デイヴィッド・チャップマンの行動に焦点を絞ったものだという。

 1980年12月8日、ニューヨーク・マンハッタン、ダコタハウスの前で、ジョン・レノンが5発の銃弾を浴びて殺害された。


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 犯人は世界一のジョン・レノンファンを自称するマーク・デイヴィッド・チャップマンであった。犯行の瞬間、彼が手にしていたのは、一丁の拳銃と『ライ麦畑でつかまえて』だった。


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 この本を読みたいと思ったのは、何故マーク・デイヴィッド・チャップマンはジョン・レノンを殺害しなければならなかったのか。それが知りたかった。確かにチャップマンが自分の心の中の“闇”を語る部分は興味深かったが、しかし読んでいるうちにだんだん吐き気を催すほどの怒りが私の中に生まれてくるのであった。
 それは自分が好きであったビートルズのメンバーであったジョン・レノンを殺したというファン意識からではなく、チャップマンが単に“ちやほやして欲しい”だけであって、そこには自己中心的で、被害妄想の塊であり、逃避癖がある人間でしかないことの怒りであった。彼は自分のすることにいつでも“正統性”を求めるだけの人間でしかなく、自己の中にある矛盾から自家中毒を起こしているだけの人間でもあった。そしてターゲットにされたのがチャップマンが子供の頃に憧れたビートルズであり、ジョン・レノンだったのである。
 チャップマンはビートルズというものが単なるミュージシャンであることをやめて、何百万ドルという規模の金を動かす一大事業になりはじめ、愛と平和をめぐる無垢の歌を自分たち個人の富と権力を求める堕落した強大な事業のために利用したと思い込んでいた。 それを偽善と考えたのである。チャップマンはそうした偽善がさまざまな問題の根源であり、さらに深刻なことにそうした偽善こそが自らの苦痛の原因にもなっているとチャップマンは考えていたのであった。
 チャップマンの友人が「マークがジョン・レノンの『イマジン』をあれは共産主義者の歌だと言っていたのをぼくは覚えています」と証言しているし、「そして、ビートルズがキリストより人気があるというあのレノンの発言には、彼は本当に頭に来てましたね」とも言っている。
 実際チャップマンが「天国もない宗教もない世界を想像してみろ」というレノンのメッセージが神への冒涜だとして『イマジン』を罰する抗議運動に参加していたし、彼はときには週に何度も宗派の祈祷集会やデモ行進に参加して、自らレノンの歌『イマジン』の預言めいた歌詞をつけて「ジョン・レノンが死んだと想ってごらん」と替え歌にして歌っていた。
 まぁこういうギャップに対して腹を立てるほど純粋だったと言えば言えそうだけど、そういうのっていつでも、どこでもある。現実は理想とは違うのだ。そのくらい分かれよと言いたくなる。

 しかし私がこのチャップマンに吐き気を催すほど怒るのは、そういうことじゃない。自分のやったことの正統性を主張するところが腹ただしいのだ。例えば何故ジョン・レノンを殺害に至ったのか、その説明を次のように言う。

 チャップマンは「自分が二十五歳の大人の男だが、いまだに子供の感受性を持っている」と言う。もっと彼の言うことを詳しく書くと、次のようになる。

 マーク・デイヴィッド・チャップマンは当時25歳という大人とホールデン・コールフィールド(サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)と同じ16歳の子供の内面を持っていたと言う。そしてジョン・レノンを殺したのはレノンが自分のヒーローであったその子供であるというのである。

 子供は自分の新しいおもちゃで遊びます。ところが、ある日、その新しいおもちゃを片づけようとして箱を開けると、もう何年も昔に遊んだおもちゃが出てきました。かつては自分のヒーローでしたが、いまはその面影もありません。子供はそれを見せかけの大人、偽りの大人に見せました。彼は言いました。「見てくれ!ぼくのおもちゃだったのに何だ、このザマは!」そして彼は癇癪を破裂させるのです。
 そして大人はなすべきことを知ったのです。大人には銃の知識がありました。飛行機の乗り方も知っています。お金を手に入れる方法も知っています。そうやって大人と子供はある種共謀をしたのです。自分のアイドルに対する子供の苛立ちと憤り。それは変わり果てたおもちゃに対するものでした。

「ダメだ!ダメだ!ダメだ!ダメだ。ぼくはヤツを殺したいんだ。ヤツをブッ殺してやりたいんだ。ヤツはぼくのものだ!ぼくはヤツの命が欲しいんだ!」

 ぼくは彼の背中に狙いを定めました。引き金を五回引きました。するともう頭の中は堰を切ったような状態になってしまいました。
 さらに「ぼくは自分がとてつもなくつまらない人間だという気がしていました。ですから、出かけていってその惨たらしい行為をすることで世の中がぼくを何者かにしてくれるのだというのは、ぼくにとっては、ひじょうに魅力的なことだったのです」と言うのである。
 つまり彼はジョン・レノンを殺害することで、人に相手にされない人間から、ジョン・レノンを殺した人間としてまた生まれ変わったとしてひとかどの人間(somebody)になれたことに満足するのである。
 というのも彼は絶えず人から自分の存在を認めて欲しいという願望が強かった。人にとって自分は意味ある存在であることいつも求めた。そこに自己満足を見出していた。
 実際彼はハイスクールを卒業した1973年からコヴェナント・カレッジに入学する1976年までの間、チャップマンはYMCAの国際的な特使として中東を旅し、歴代のふたりのアメリカ大統領と握手を交わしている。彼はまたジョージアでの恵まれない子供たち相手の仕事やヴェトナム戦争による難民のための仕事を評価される栄誉に浴している。レバノンのベイルートでは自分のいるすぐ近くの街路で勃発した内乱のさなかから生き還ってきた。それがチャップマンの栄光の時代でもあった。
 そういう体験をなまじしているものだから、いったんそうしたところから落ちてしまうと、こういう人間は弱い。何せ他人を通してしか自己を見出せないのだから。彼はその後精神的に病み、自らを次のように言うのだ。

 「ぼくは自分のいろんな問題から逃げて、自分を孤立させるという大きな過ちを犯してしまいました。
 自分を世界から切り離してしまうと、自分独自の世界を作り出さなきゃならなくなります。ぼくがやったのは、それだったんです。ぼくは自分の世界を編み出したのです。自分自身の中に引きこもり、もはや生きていく理由すらなくなってしまいました。ぼくはどんどん外の世界を遮断して、閉じこもり、パラノイアになっていきました。ますます敏感になり、傷つきやすくなっていきました。人間嫌いになりはじめ、みんなを軽蔑するようになりました」

 その時彼がやったことはけちくさい脅迫電話や、自分の妻に暴力を振ることだけだった。他人には何もできない人間であった。所詮その程度の人間なのである。後はそういう気持がどんどん鬱積しさえすれば、大きな力となり、あと何かの力が後押ししてくれれば大事件となる。彼の場合はジョン・レノン殺害であった。

 さらに腹立たしいのは、ジョン・レノン殺害に自ら怯えるに当たり、今度は自分が愛読してきたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の普及を自分の裁判で主張することで、罪悪感に対処していくのである。この本はいい本だから是非皆さん読んでくださいねとひたすら言うことが自分の使命と思い、自分が感じる怖れや罪悪感とすり替えていくのである。自らを「ライ麦畑の補導員」と称するのである。
 ちなみに『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドは、今でいう“おちこぼれ”で、学校の寮を飛び出し実家に帰るまでニューヨークを3日間ぶらぶらする話なのだが、自らの夢を「自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい」と語り、それがこの作品の主題ともなっている。チャップマンはホールデン・コールフィールドが語る夢の人を「ライ麦畑の補導員」と言っているのだ。

 こうしてこの男は自分を美化し、問題をすり替えて行く生き方しかできなかった。そういう人間だったのである。またそういう人間に限って被害妄想が激しいときているからたちが悪い。そして彼らを精神病者に仕立てていく輩がいるのである。精神鑑定家ってやつだ。何でも加害者の生い立ちや育ってきた家庭環境などに原因を求めるのだ。そしていつの間にか責任をどこかに吹っ飛ばしてしまうのだ。
 この本の下巻はそういう話でいっぱいである。チャップマンの育った家庭環境や生い立ちからジョン・レノンの殺害に結びつく何かを捜そうとするのは結構だけれど、私から言わせれば「だから?」と言いたくなる。むしろジョン・レノンのファンから出されたチャップマンへの手紙に「娑婆に出てきたら殺すぞ」という意見の方が、私としては自然のように思えるのだ。

 チャップマンは20年から終身刑の判決を受けていて、現在も釈放されていない。2008年8月12日、5度目の仮釈放申請を却下されている。ニューヨーク州当局の声明文によると、仮釈放は「公共の安全と福祉に与える影響を懸念して」認められなかったと言っている。


評価
★★


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈上〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055134
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:332p / 15cm / A6判
販売価:749円(税込)


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈下〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055141
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:370p / 15cm / A6判
販売価:800円(税込)

2009年06月23日

東海林さだお著『トンカツの丸かじり』

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 日曜日に東海林さん本を読もうと決めたのだが、先週は村上春樹さんの本に夢中になってしまい、とてもじゃないが途中でやめることができずに、そのまま読み続けてしまった。そして今週はテレビの映画とドラマに夢中になり、本を読むどころじゃなかった。ということで月曜日までこの本を持ち越してしまった。そしてそうこうしているうちに、このシリーズ30巻目が出ちゃって、こりゃあやばいなと思い始めている。しっかり予定通り読まないと、下手したら今年中で読み終わらないかもしれない。
 というわけで、慌てて読み始める。

 が、つまらない。

 というか、もう三冊目で食傷気味になってきてしまった。毎度毎度同じパターンで繰りかえされる食に関するエッセイは飽きるものだとわかり始めた。正直なところこんなはずじゃなかった。これはまずい。いつもの読書の箸置きみたいな感じで読むならいいのかもしれないが、ノルマとして読んでやろうと目論む本じゃないのではないかと思い始めた。これは“日曜日の読書”を考え直さないといけないかもしれない。
 というわけで、この本を読んでいて「もう、いいや」と思ったのが正直な感想だ。次はちょっと時間をおいてから読もうと思っている。


評価
★★


書誌
書名:トンカツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022560759
出版社:朝日新聞社 (1989/11/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月08日

東海林さだお著『キャベツの丸かじり』

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 また休みになったので、東海林さだおさんのシリーズ本第二弾を読む。やっぱり昔懐かしいものが気にかかる。「追憶の『ワタナベのジュースの素』」である。ありましたよね。「ワタナベジュースの素」というやつ。文字通りジュースの素が粉末状態になって袋に入ったやつ。オレンジジュースなんか飲んだ記憶がある。しかし今にして思うと、あの粉末には本当にオレンジが入っていたんだろうか?サッカリンたっぷりで、なんか化学物質いっぱいで、、最後に粉っぽい感じが記憶に残っている。でも私が子供の頃は今でいう清涼飲料水といえばワタナベジュースの素が代表格だった。思わず“懐かしい~”と言ってしまう。
 ここにも書いてあったが「プラッシー」というのもありました。どういう訳か米屋がダースでケースで持ってきた。なんで米屋だったのだろうか?あれは果肉が浮いていたはずだ。
 米屋といえば、正月ののし餅も米屋が配達してくれて、暮れ押し迫った頃、まだ柔らかい餅を母親が立てて、すーっと切っていったのを思い出す。いったいいつの頃から餅は袋に一口サイズに切って入るようになったんだろうか?思うに、お米を米屋ではなく、スーパーで買うようになった頃から、お餅もそうした袋入りに切り替わったのかもしれない。
 配達されたばかりののし餅(確か木の箱に入っていなかったかな?)を新聞紙の上に置いて、すーっと切っていく感じが面白そうに見えて、自分のもやらして欲しいと騒いだような気がする。やってみるとまっすぐ切れず、斜めに包丁が入ってしまい、変形した餅がいくつもできた。餅を切りやすくするために、濡らしたふきんが横に置いてあり、一度切ると包丁の刃をそのふきんで拭いて、多少湿らせて、再度切り込みを入れていく。あれはあれでちょっとした風物詩だった気がする。
 「懐かしののり弁」では今ホカ弁で売っているようなのり弁ではなく、弁当のご飯の上に醤油につけたのりがのっていて、しかもその下にも同じようにある。つまりのりが二段になっているのである。あの一番上にのっかっているのりが、弁当箱を開いたときにふたにひっついてしまい、醤油がしみたご飯だけになってしまうこともよくあった。それを元に戻したりしてね・・・。ふたを開ければぷ~んと醤油のにおいが漂っていいもんであった。しかしいつも早弁で食べてしまったから、昼は昼で、外でパンを買いに行ったりした。
 その弁当箱を包んでいたのは私の場合新聞紙であった。角の方で醤油がしみ出てしまい、破れてしまう。みんなはちゃんと弁当箱を包むやつで弁当箱を包んであった。私は自分のが新聞紙で包んであるのが、何か貧乏くさくて嫌で仕方がなかった。(実際貧乏だった)母親に弁当を包むナプキンみたいなやつで包んでくれと何度か頼んだけれど、がんとして母親は新聞紙で弁当を包み通した。
 だけど今思えばあの弁当はおいしかったなぁ。今その味を再現しろといってもなかなか難しいんじゃないかなんて思う。
 先月の31日は母親の祥月命日だったのをすっかり忘れてしまい、かみさんに怒られたのだけれど、こうした東海林さんの文章を読んで、ふと母親の姿を思い出した。


評価
★★


書誌
書名:キャベツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022559548
出版社:朝日新聞社 (1989/01/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月03日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第3巻〉

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 須賀敦子さんの文庫本全集三巻目を手に取る。須賀さんの本を読むにはそれなりに覚悟が私には必要で、じっくり読むぞという意識を持って読まないと挫折してしまう感じがする。要するにそれだけ私には須賀さんの書かれる文章が難解なのである。イタリアを中心にしたヨーロッパの作家たちの作品をここでは紹介してくれるのだが、大体において私の知らない作家たちであり、作品である。だからそうした作品を須賀さん自身、“思考の旅”として、様々な考えなり、感想をここで綴られると同時に、実際にゆかりの地を旅され、その“思考の旅”に肉付けしていく手法をここではとられる。
 読む側の私は、ふ~ん、こんな作家がいるんだと思いつつ、なんとかここに書かれている文章を自分なりに理解していくうちに、読んでみたいなと思うのだ。ただ一方できっと最後まで読むことはできないんじゃないかとも思う。それほどここに書かれる作品は奥が深そうである。
 たとえばマグリット・ユルスナールという女性作家の『ハドリアヌス帝の回想』など読んでみたいと思うのだけれど、多分かなり手こずりそうとも思える。
 例のよって読んでいて気になった文章を引っ張り出す。すると偶然かどうかわからないが、“信仰”を書かれたものがひっかかった。

 ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』で「神々はもはや無く、キリストはいまだ出ず、人間がひとりで立っていたまたとない時間」、『黒の過程』では「正統な学問がめざした<神という解答がすべての究極に待ちうけている>道を拒否すること」

 「マーティン・ルターのプロテスタンティズムは、それまで共同体のようなものであった祈りを個のものにしようとした人たちの、劇的で苦悩にみちた選択だった。(略)共同体によって唱和されることがなくなったとき、祈りは、特定のリズムも韻も、その他の形式も必要としなくなるから、韻文を捨てて、散文が主流を占めるようになる。散文は論理を離れるわけにはいかないから、人々はそのことに疲れはてて、祈りの代用品とし、呪文を捜すことがあるのかもしれない」

 どうしてこれらの文章が気になったかというと、多分キリスト教がなかった時代は、例えば阿刀田さんのギリシア神話の概説書を読んでいると、きわめて人間的だなと感じるところにある。キリスト教の信仰はあれもダメ、これもダメ、と人間の生活規範を縛り続けたんじゃないかなと思うことがあったからだ。
 史実として中世においてがんじがらめにヨーロッパ人の生活全般に普及したとき、今度はそこからの解放が行われる。すなわちルネサンス、宗教改革である。
 ところが、いったん縛られてしまった生活規範は共同体の主要な構成要素となっていたから、そこからの解放は、「個であることの心細さ」を生む。また個の存在を主張したとき、ここにあるように、共同体で唱和されていた祈りである韻文から、散文が主流になり、“文学”が生まれる。散文は論理的であることが求められるから、“科学”も生まれていく。そんなことを思ったのだ。

 あと気になった文章を書き出してみる。


 「人も物も、<生身>であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別の生命への移行をなしとげてあたらしい<物体>に変身したもの、それが廃墟かもしれない」

 「でも、もう、ちょっと指をはさんだり、ページを繰ったりされることのなくなった本たちは、とっくに死んでいるのが、私には痛いほどわかった。本は、それを蒐めた人間のいのちの長さだけ、生きるのだから」

 「日常に背をむけてしかもその日常を背おいながら文学に入る瞬間の、あのうしろめたさやはにかみのようなもの」

 「日はしずかに暮れていった。庭の木立の最後の蝉が鳴きやむころ、だれかが明かりをともすと、家に夜が来た」


 「ここに、じっとしていれば、じっと待っていれば、いいんだ」

 「日本語の『笑い』には、どこやら人間性を放棄したところでの、ちょっとよっぱらいの笑いのような、知性の領域をわざとはずしたところがあるのかもしれない」

 須賀さんの書かれる文章を徹底的に理解するのは私には難しいので、こうして書かれた言葉の余韻を楽しんでいる。ここから何か自分の中で生まれるのを楽しみにして・・・・。


評価
★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第3巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420530
出版社:河出書房新社 (2007/11/20 出版)河出文庫
版型:639p / 15cm / A6判
販売価:1,155円(税込)

2009年05月26日

小路幸也著『東京バンドワゴン』

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 結局ブックオフに売り飛ばしてしまったこの本を再度購入するはめになった。最初にこの本を読んだきっかけは、何かで本屋さんを舞台にした小説の紹介を読んで、いくつか続いて読んだ中にこの本があった。まとめて本屋さんを舞台にした小説を読んだものだから、いいものも悪いものも一緒になってしまったのだろう。だいたいこの手の本の紹介は手前味噌が多く、業界関係者がこぞって自分の職場が舞台になっているというだけで、“いいよ”となってしまうところがある。実際この時何冊か読んだはずだが、それほどよかったというものはなかったと思う。
 この本にしても、再度読み直してみても単独で読んだら大したことはない。ただこれがシリーズになって何冊が話が続いていると、いつの間にかその話に毒されちゃって、面白いじゃないかと思うようになってしまった。そのほのぼのとした大家族が繰り出す話が、その人間関係を伴って、話を面白くしてくれる。しかも肩の凝らない人間関係の話だから、読んでいて心地よい。それがわかったからこのシリーズは自分の本棚に収めておこうと思ったし、きっと続編も出版されるだろうから、それも楽しみにできる。
 ただ売り飛ばした第一弾が自分の本棚にないのはどうにもまずい。泣く泣く買い求め、再度読んで本棚に収めた。これでシリーズ全巻揃ったので、安心である?
 さて、再度このシリーズ第一弾を読み終えて、以後ホームドラマ的話の展開になるこのシリーズなのだが、まだこの巻は多少ミステリー的要素がちょっとしたスパイスとして利いていて、面白かった。潰れた旅館にある大量の蔵書の整理を頼まれ、値付けに行くのだが、翌日その本が全部消えていて、整理を頼んだ人物もいなかった話も、大した話に展開しなかったけれど、どたばたホームドラマの中でスパイスとなってよかったと思う。
 とにかくもう売った本を再度買い求めるなんてバカなことはやめて、自分の目利きをしっかりしたいなと思う。とにかく増え続ける本の整理が一番最初にあるものだから、読んでつまらなければすぐ売っちゃえと考えちゃうけれど、少々考えなければならない。


評価
★★★


書誌
書名:東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087753615
出版社:集英社 (2006/04/30 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年05月20日

小路幸也著『マイ・ブルー・ヘブン』

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 東京バンドワゴンの最新刊を読み終える。この本は今までのシリーズとは違い、現在の三代目の勘一と亡くなられて幽霊になって登場しているサチさんとの出会いを中心に、堀田家の歴史なども明かされて、どちらかと言えばストーリーの内容より面白い。お話の世界とはいえ、へぇ~そうなんだ!と感心しちゃった。“東京バンドワゴン”という古本屋さんはそこいらにある街中のしがない古本屋さんとは違うこと知らされる。
 話は終戦直後のアメリカによる占領時代である。子爵五条辻家にGHQが乗り込んでくる。慌てた当主政孝は長女の咲智子に秘密の文書が入った小さな木箱を渡し、静岡の伯母さん家へ逃れろというところから始まる。
 なんとか咲智子はGHQから逃れ、上野の駅に向かうがそこでGHQの関係者に捕まってしまう。それを助けたのが、キングス・イングリッシュを流暢にしゃべる勘一であった。

 えっ、勘一さんがキングス・イングリッシュをしゃべれるの?

 とにかくそこから咲智子を助け出し、勘一の実家である“東京バンドワゴン”という古本屋に連れてくる。ここで咲智子と勘一のお父さん、つまり“東京バンドワゴン”の二代目草平は自己紹介をする。なんと勘一のお父さんはケンブリッジ大学を卒業したらしく、その関係で勘一にキングス・イングリッシュを教え込んだという。
 そして草平の父親、つまり“東京バンドワゴン”創業者である達吉は、三宮達吉といい、明治の頃、財閥の娘さんと結婚し、鉄道事業で一時代を築いた政財界大物であった。三宮達吉はある日突然引退し、三宮とも縁を切り、堀田の性に戻り、古本屋をこの地で始めたという。そのため“東京バンドワゴン”には達吉の関係ですばらしい蔵書が蔵にたくさん在庫している。草平はケンブリッジにいた頃、二年下の五条辻政孝と友人であった。勘一はその頃医学生だった。

 えっ、勘一さん医学生だったの?!

 とにかく機密文書を持っている咲智子には危険が迫ってくるから、ここは咲智子を勘一の嫁として迎えたことにして、名前を堀田サチと変えることとなった。

 何かすごいことになってきた。

 “東京バンドワゴン”の創業者達吉は明治に鉄道事業で一時代を築いた政財界大物。そしてその息子二代目の草平はケンブリッジ大学を出ていて、さらに三代目となる勘一がキングス・イングリッシュをしゃべる、医学生。そしてあのサチさんが子爵の娘さんである。今までこのシリーズを楽しんで読んできた者にとっては、このシチュエーションは驚きである。それだけで話の展開より面白くなっちゃう。
 一応話の内容にも触れておかないといけない。この頃“東京バンドワゴン”には今と同じように多様な人が集まるのは同じであるが、時代が時代だけに、終戦直後の時代を反映する人々が集まってくる。戦災孤児のかずみさん。後に女医になる人。混血の若き貿易商高崎ジョー、日本陸軍の情報部の軍人であった和泉十郎、ジャズシンガーのマリアさん。
 草平と勘一、そして“東京バンドワゴン”に集まった彼らは、サチさんの親を助けるために活動するのである。そしてなんとかサチさんの両親を助け出す。勘一はサチさんを守るために偽装結婚をしたのだけれど、焼けぼっくりに火がついて、サチさんと結婚し、この“東京バンドワゴン”で暮らすことになるのである。
 勘一とサチさんの一人息子の我南人の名前の由来もここで明かされる。名付け親は勘一で、南の国住みたかったからだという。我南人がミュージシャンになった影響は、ジョーやマリアや十郎さんの影響だということになっている。

 すごいぞ、“東京バンドワゴン”と思った本であった。


評価
★★★


書誌
書名:マイ・ブルー・ヘブン―東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087712902
出版社:集英社 (2009/04/30 出版)
版型:305p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年05月18日

小路幸也著『スタンド・バイ・ミー』

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 第三弾を読み終える。今回も案外いけた。実を言うと今ちょっと後悔している。というのはこのシリーズは我が家の本棚に置いておこうと決めたのだが、第一弾は読後それほどでもないなということでブックオフに売り飛ばしちゃったのだ。ということはこのままだと第一弾がないことになる。これはちょっとまずいなと思い、なんとかしないといけなくなる。

 さて、今回もこの大家族に様々な問題が起こる。しかし問題といってもそれほど大したことではないのだが、主に人間関係のこじれから生じるものが多い。もともとこの家族、訳ありの人間関係から一つの絆で結ばれた家族なので、最初から問題を抱えていると言っていい・本人たちはそれほど気にせず、わきあいあいと過ごしているのだけれど、他人様からすれば面白いネタを提供してくれる。そこを突っつく輩がいて、それが時には問題となる。しかしこの家族のそんなことより、みんなと楽しく暮らしていることで、いつの間にかそういう問題は些細なことになってしまう。
 さらにご近所さんも、古本好きの人の様々な問題をこの家族に持ち込んでくる。当主の勘一は<文化文明に関する些事諸問題なら、如何なる事でも万事解決>という壁に貼ってある家訓を示し、「なぁに、ご覧の通り、我が家はあれこれ変なことを抱え込むのが家業みたいなもんでね。どうぞ、かまわんですよ」と何でも相談に乗る。
 これがこの話を面白くしてくれる。問題もすべてハッピーエンドで終わるのも、昔のホームドラマの鉄則で、それだから読んでいて安心できるのだ。
 またサチさんのナレーションもいい。様々な問題が解決した後、サチさんの存在を感じることができる紺さんがいつも仏壇の前に座り、サチさんと問題が解決してよかったねといった感じで会話するのもいい。この本の最後にも「わたしもいつかまた皆にさようなら言うときが来るのでしょうけれど、それまではもう少し、ここに居させてもらいましょうか」と次作につながる言葉は、それが出版されることを楽しみにさせてくれる。


評価
★★★


書誌
書名:スタンド・バイ・ミー
著者:小路 幸也
ISBN:9784087712292
出版社:集英社 (2008/04/30 出版)
版型:301p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年05月15日

小路幸也著『シー・ラブズ・ユー』

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 前作を読んだのは三年前ぐらいっだっただろうか?この本がシリーズになるなって思わなかったが、もう四作も出版されている。今回は第二作目で、次の三作も続いて読もうかと思っている。
 前作はなんとなくいいなぁという程度の感想だったと思うが、今回は“ちょっといいじゃん”という感じである。案外私はこういうホームドラマ的小説は好きかも、なんて思ったのだ。読んでいてほのぼのとしてくる。特にここのところ堅苦しい本や、読んでいても面白くない本が続いたので、何か気持がリフレッシュできた感じだ。
 大きな感動はないけれど、これはこれでいいと思った。まさしく昔あったテレビドラマの世界がここにある。近所づきあいの多様さ、大家族と、とにかく人が多いものだから、そこには様々なドラマがあって、事件がある。そしてそうした多くの人々が集まる家族にはやっぱり昔から連綿と続いてきた生活がほとんど変化せずに息づいているのがいい。時にはそれが古臭い部分があるけれど、かえって人々を集まらせるサムシングがあるんじゃないだろうか。
 舞台は下町の三代続いた<東京バンドワゴン>という屋号の古本屋。そしてその店の隣にあるカフェは若い家族がやっている。その古本屋の三代目堀田勘一がひいおじいちゃんで昔どこでもいた頑固で情にもろい、わがままなオヤジ。いかにも下町の古本屋のオヤジといった感じで、いい味を出している。そしてその息子我南人。“永遠のロックシンガー”と言われる61歳で現役ロックシンガーが自由に振る舞っているのもいい。そしてその我南人の長女藍子さんと息子の紺。紺の奥さんである亜美さんと藍子さんが隣のカフェをきりもりしている。さらに我南人と大女優と呼ばれる池沢百合枝の間で生まれた青。青の奥さんのすずみさんが勘一の古本屋を手伝っている。藍子には中学生なったばかりの一人娘花陽。紺と亜美さんには小学生の研人と生まれたばかりのかんながいる。そして青とすずみさんにはかんなと同じ日に生まれた鈴花がいる。藍子さんはイギリス人画家マードックさんという旦那さんいる。さらに猫と犬が数匹いて、これらの人や犬猫が一つ屋根の下でがやがや毎日を過ごす。そこに常連客、勘一の幼なじみ、あるいは我南人の仕事の関係者、いつも行く小料理居酒屋の<はる>の若女将などが訪ねてきて、まぁとにかくやかましい。
 そうしたやかましい家族のナレーション役をするのが、亡くなった勘一の奥さんサチさんで、あの世に行かずにこの家族の周りにいるという設定になっている。
 もうこれだけ聞けば、昔あったテレビドラマだと思うでしょう!今みたいに洗練されたドラマじゃないことがわかると思う。そういうのを私は子供の頃見てきたから、懐かしくもあるのだ。だからこの本を読んでいて心が和む。三作目も楽しみだし、四作目はまだ買っていないけれど、今日仕事が終わったら書泉さんに買いに行こうと思っている。最近“書泉ブッタワー”で本を買っていないしね・・・?


評価
★★★


書誌
書名:シー・ラブズ・ユー―東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087753776
出版社:集英社 (2007/05/30 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年02月20日

沢木耕太郎著『ミッドナイト・エクスプレス』

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 沢木さんの『深夜特急』第一便から三便までは単行本が発売されたとき、それぞれ読んでいる。今回それを再読してみようと思ったのは、ここのところ紀行文にはまってしまっている関係で取り出してみたのだ。
 この本は単行本三冊を一冊にまとめてあるので、結構なボリュームだ。なんだかちっともページが進まない感じがしてしまったが、気がついたら4日で読み切っていた。
 私は勘違いをしていて、沢木さんがユーラシア大陸を最初からバスを使ってロンドンまで旅をしたものだと思っていた。ところが沢木さんのこの旅の最初の趣旨はインドのデリーからロンドンまで乗り合いバスを使って旅をすることであって、デリーまで直接飛行機を使って行くこともできたが、途中降りることもできることを知って、まずは香港、マカオ、マレー半島、シンガポールに寄って、そしてデリーに向かい、そこからロンドンまで乗り合いバスを使って旅をした。
 ただ香港、マカオの記述が、特にカジノでのやりとりがおもしろかったので、そっちにばかりに記憶に残っていて、本当はここは“おまけ”みたいものだったのだと改めて知った次第である。

 私は観光旅行しかしたことがないので、こうした“放浪”の旅にはあこがれてしまうところがある。しかしこうした長い旅には、いわゆる人の一生みたいなところがあるんだなと感じた。
 どういうことかと言えば、旅の最初のころには、沢木さんが出会うものすべてにワクワクしいた。時には自分の子供の頃を思い出したり、相違点を見出したりして、新鮮であったのがよくわかる。

 「カルカッタの子供たちのボロから突き出したしなやかな手足を見るたびに、ただ体を動かしていればよかった時代の幸せさを思い出さないわけにはいかなかった。(略)
 路上で遊んでいる子供たちを見ていると、少年時代の自分を思い出す。しかし彼らがかつての私たちと違っていたのは、なにかしら仕事を持っていたことだ。彼らは、働く合い間に、時間をかすめとるようにして遊んでいた」

 旅をする前の自分の生活環境とまったく違うものと接すると、それがいかにも自分を縛っていたものではないかと思うようになり、訪れた土地の人の生活方法に従ううちに「またひとつ自由になれた」と感じるのである。一方で自分の旅の仕方も反省する。

 「もちろん、『金がない』と言うだけなら、私は自分が卑しいとは感じなかっただろう。私がその台詞を使う時、どこかでその相手の親切を期待するところがあったような気がするのだ。ほんの少しであっても、金のない旅人が土地の人の親切を受けるのは当然だという思いを抱いていなかったかどうか。私には『いや』と言い切れる自信がなかった。『金がない』という台詞を使わない時にも、相手の親切を期待する気持が態度に滲み出ていたのではないだろうか。(略)もしそうだったとすれば、それは手を出さないというだけの物乞いにすぎないのではないか・・・・」

 しかし旅を続けるうちに、自分の旅の姿がある意味無責任なものではないかと思うようになってくる。そう感じたとき沢木さんの胸には虚無感が生まれてくる。それを同じような旅をするヒッピーの体から発する臭いから次のように言う。

 「ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、長く旅をしていることからくる無責任さから生じます。彼はただ通過するだけの人です。今日この国いても明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。どの国にも、人々にも、まったく責任を負わないで日を送ることができてしまいます。しかし、もちろんそれは旅の恥は掻き捨てといった類の無責任さとは違います。その無責任さの裏側には深い虚無の穴が空いているのです。深い虚無、それは場合によっては自分自身も無関心にさせてしまうほどの虚無です」

 そのうち、訪ねた土地の人の親切が煩わしくなっていく。

 「私たちのような金を持たない旅人にとって、親切がわずらわしくなるというのは、かなり危険な兆候だった。なぜなら、私たちは行く先々で人の親切を『食って』生きているといってもよいくらいだったからだ。『食う』という意味は二重である。ひとつは、文字通り人から親切によって与えられる食物や情報が、旅をしていくために、だから異国で生きていくための必須だということ。もうひとつは、人々の親切が旅の目的そのものになっているということ。つまり私たちのようなその日ぐらしの旅人には、いつの間にか名所旧跡などどうでもよくなっている。体力や気力や金力はそこまで廻らなくなっていることもあるが、重要なことは一食にありつくこと、一晩過ごせるところを見つけること、でしかなくなってしまうのだ。しかし、そうであっても、いやそうだからこそ、人が大事だと思うようになる。旅にとって大事なのは、名所でも旧跡でもなく、その土地で出会う人なのだ、と。そしてまさにその人と人の関わりの最も甘美な表出の仕方が親切という行為にはずなのだ。
 ヒッピーとは、人から親切を貰って生きていく物乞いなのかもしれない。少なくとも、人の親切そのものが旅の全目的にまでなってしまう。それが、人から示される親切が面倒に感じてしまうとすれば、かなりの重症といえるかもしれなかった」

 いつの間にか沢木さんは自分の旅に新鮮さを感じられなくなっていくのがわかる。このころから沢木さんの旅は幼年期、少年期が終わっていたのだ。
 この本には「深夜特急ノート」が付録みたいな形で収録されている。そこに「しだいに好奇心が摩耗し、全身が蝕まれていくような気がする」という書き込みがある。長旅はいつの間にか初期の新鮮さや好奇心を失わせていくようだ。それを沢木さんは次のように言い表している。

 「旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことにでも心震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。歳をとってくるとしきりに昔のことが思い出されるという。私もまたギリシャを旅しながらしきりに過ぎてきた土地のことが思い出されてならなかった。ことあるごとに甦ってくる。それはまた、どのような経験をしても、これは以前にどこかで経験したことがあると感じてしまうということでもあった」

 この旅での成果は「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれない」というタイで暮らす日本人男性の言葉じゃないかと思った。そして長旅は、非日常が日常化してしまう部分があり、旅が終わった後、旅をする以前の日常に戻れないのではないかという不安を残す。

 「私にはひとつの恐れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その恐れとは、言葉にすれば、自分はいま旅をという長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜け切ることができないのではないか、というものだった。数カ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終わったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果たしてうまく折り合うことができるのかどうか、自信がなかった。旅の日々の、ペルシャの秋の空のように透明で空虚な生活に比べれば、その向こうにあるものがはるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか」
 
 これはかなり怖いところではないだろうか?


 ところで最近私はイスタンブールにあこがれていることは書いたが、沢木さんも当然ここを訪れている。ここにたどり着いたとき次のように書かれる。

 「いま私はアジアからヨーロッパへ向かっている。春の初めにアジアの端の島国から出発した私は、秋の終わりにヨーロッパのとば口に差しかかろうとしている。この船でこのボスポラス海峡を渡り切れば、東ローマ帝国の都であったかつてのコンスタンチノープルに到着するのだ。
 しかし、その重層的な歴史が塗り込められているはずの街は、夜の深い闇に覆われて何も見えない。対岸は、丘にでもなっているのだろうか、ところどころに点々と灯が見えるだけだ。その灯はいかにも心細げで、かえって丘の暗さを浮き出させるばかりのように思えた。
 <あれがヨーロッパなのか・・・・>」

 「ヨーロッパからアジアに向かう者も、アジアからヨーロッパに向かう者も、陸路をとる限り必ずこのイスタンブールを通過することになる。つまりイスタンブールはユーラシアを旅する者にとっての交差点になるというわけなのだ」

 またトルコの人々の親切さをこれまで何度も読んできたが、沢木さんも「だが、居心地のよいもっと大きな理由は、イスタンブールの人々の、というより、トルコの人々の親切が挙げられるだろう」と言われている。

 最後に沢木さんがミケランジェロの「ピエタ」を見られたときの感想が印象的であったので、それを書きたい。


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 「私は、これがミケランジェロ二十五歳の時の作品であるということに衝撃を受けた。自分とほとんど同じ年頃の若者がこのようなものを作り上げたということは信じがたかった。この世で一番美しい女性を造形したのが、今の私とほとんど同じ年頃の十五世紀人だったというのだ。
<こんなものがこの世に存在していいのだろうか・・・・>
 私は胸の裡で呟いた。この世の中に天才などというものがいるとは信じたくないが、この『ピエタ』を作った人物にだけはその呼称許さざるをえない、と思った。『ピエタ』は、天才が自分の才能を開花させていく過程での一作品という以上の意味を持っている。恐らくは、それが天才の出発点であり、到達点であり、同時にすべてでもあるという作品なのだ。しかし、二十代の半ばにこのような作品を作ってしまったミケランジェロは、それ以降の長い人生の中で、果たしてこれ以上のものを生み出すことができたのだろうか」

 沢木さんはこの「ピエタ」を見てしまってからはミケランジェロの他の作品、たとえばバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画やダビデ像はつまらないものに見えたという。
 ただそのダビデ像の前にはミケランジェロの未完の作品である大理石の塊があった。その大理石の塊には男のレリーフのようなものが浮き出ており、男の体にはミケランジェロがふるったノミのあとがくっきりと残っていた。それを沢木さんはが見て「ミケランジェロの振るうノミのひとふりひとふりが、男に肉体を与え、生命を吹き込んでいったのだ。その時、ミケランジェロは神に近い存在となる。大理石の男にとってはミケランジェロこそが神である、といってもよい。
 それにしても、創るということがなんと凄まじいことか」と感想を述べる。これを読んでいると、実際に本物を見ていなくても、真の作品を作り上げるという行為の神聖さを感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:ミッドナイト・エクスプレス 沢木耕太郎ノンフィクション〈8〉
著者:沢木 耕太郎
ISBN:9784163649207
出版社:文芸春秋 (2004/09/30 出版)
版型:734p / 19cm / B6判
販売価:3,465円 (税込)

2009年02月07日

渋沢幸子著『イスタンブールから船に乗って』

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 やっと渋沢さん二冊目の文庫本を手に入れ、早速読み始める。ところでこの本の奥付を見てみると、初版が平成11年9月となっている。ということは初版からわずか10年足らずで、本は品切重版未定になるんだ。本の寿命って短いもんだなと思った。しかもそれは初版からの話だから、もし重版でもしていたら、さらに短いことになる。

 さて、今回渋沢さんは、黒海をトルコ側沿岸に沿って東へ東へと向かい、グルジア国境まで船、バス、汽車を使って旅をされる。いったいここはどんなところなのかよく知らないので、ただただ、書かれていることに感心する。そうなのだ。ここトルコは東からも、西からも文明が衝突し、興亡の激しい土地なのだ。だからさまざまな民族がここに集まっていることを知る。
 東に向かうほど何度かヒッタイトという古代の国の名前が出てくる。ヒッタイトとって何だっけ?とふと思う。だいぶ前に覚えた古代帝国の名だ。今回はネットに頼らず、ひたすら思い出してみようとする。そうだ!人類の歴史の中で、初めて鉄器を使用した民族だ!そうかヒッタイトもトルコにあったんだ!ほんとトルコという国は、いろいろな民族が国を興し、滅んでいった。歴史の渦みたいなところである。渋沢さんが訪れる遺跡は朽ち果て、ほとんど廃墟化していて、修復保存が進んでいないようである。でもそれはそれで悠久の時間を感じてしまう。

 それにしても、トルコ人ってどうしてこうも旅人に優しいのだろう。たとえば「仕事中に作業場に外国旅行者がのこのこ入っていっても、トルコでは『なにしに来た』『なに見てんだよ』などと言う人は絶対にいない。それどころか、『おすわり』『チャイを飲むかい』と言ってくれる」と書いてある。
 さらに「トルコを旅行していると、毎日のように『贈物ですよ』とか『あなたはお客さまですから』などと言われる」といって、渋沢さんは町の人にチャイやコーヒー、あるいは食事など何度もご馳走になっている。トルコの人どうしてこんなに心が広いのだろうか?と思ってしまう。そんな人の優しさが幾度も書かれるものだから、トルコっていい国なんだなと思ってしまう。心が安らぐ感じがする。
 もちろん政治のゆがみなどで、社会に暗い影を残している部分もある。たとえばロシアから来る、ナターシャ(売春婦)たちがホテル各所にいることなど、渋沢さんはかなりイライラしているけれど、それもトルコという国が近隣の諸国より経済的に裕福で、人にやさしい国だからから彼女たちはこの国に来るのではないだろうか。もちろん詳しいことは知らないけれど、ただ渋沢さんの本でトルコを旅をさせてもらった私としては、そんなふうに思った。


評価
★★★


書誌
書名:イスタンブールから船に乗って
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458229
出版社:新潮社 (1999/09/01 出版)新潮文庫
版型:283p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月25日

渋沢幸子著『イスタンブール、時はゆるやかに』

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 私は著者のことはまったく知らなかった。ただ書名にある“イスタンブール”に惹かれた。私はこの町は叶わないだろうけど行ってみたいと思っている町である。
 コンスタンティヌス大帝が作った都、そして西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国として、ビザンティン帝国の首都として続いた町。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の最終章で、オスマントルコのメフメット2世が「一層貴重で重要な贈り物が欲しい」と言った町、コンスタンティノポリス。一方ビザンティン帝国皇帝コンスタンティヌス11世が自ら異教徒の中で生き延びることを拒み「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」と絶叫した町。
 シルクロードの最終地点であり、アジアから見ればヨーロッパの入り口、ヨーロッパから見れば出口にあたる町。たぶんアレキサンダーも通っただろう町。さまざまな民族が行き交っただろう町。もともとはキリスト教の教会だったものをイスラムのモスクに変えられ、ミナレットが立つ町。金角湾、ボスフォラス海峡。そして庄野真代も“飛んでイスタンブール”と歌った。うん?
 渋沢さんはが言うように「この町では、歴史がバウムクーヘンのように幾重にも層をなし、モザイクのように入り組んでいる」のだ。たとえばグランドバザールと聞けば、さまざまな文化、風習、人種が入り乱れ、喧騒で、しかも楽しそうな雰囲気が漂ってくる。渋沢さんも「その魅力は容易に説明できるものではないが、あえて言えば、層をなす歴史の重みと、混沌の中の輝きであろうか」という。とにかく書名に“イスタンブール”とあると、なんだ、なんだと本に手が伸びてしまうのだ。
 で、読んでみてこれは楽しかった。そしてこんな旅ができるなんてうらやましかった。イスタンブールの旧市街地の町並みが残るといわれている、特にビザンティン時代のギリシア正教会の総本山であったアヤソフィア、あるいはトルコのブルーモスクや、トプカプ宮殿など訪ねられるところはうらやましくて仕方がない。
 さらに渋沢さんはトルコ内陸部、あるいはシリアやイラン国境近くまで行かれ、ティグリス・ユーフラテス川上流まで進む。そこには、オスマントルコ帝国発祥の地ブルサ。“歴史学の父”といわれるギリシアの歴史家ヘロトドス生地ハリカルナソスであったボドゥルム。トロイ。コンスタンティヌス大帝がキリスト教の教義を統一するために開いたニカイアの公会議で知られるニカイアであったイズニック。クレオパトラがアントニウスに初めて会った町、タルスス。背教者ユリアヌスがペルシャ討伐で交戦中に槍が刺さり三十二歳の生涯を終えた町、ハランと、私が知っている歴史がてんこ盛りだ。読んでいるだけでワクワクしてしまう。

 この本によると、渋沢さんはイスタンブールを中心トルコを最初に旅されたのは1981年で、ギリシアの側から列車で入られている。とにかくトルコの人はどうしてこんなにやさしいのかと思うくらい、ここでは渋沢さんに親切なのだ。よく声をかけられ、仲良くなっていくのだ。思わずほんと?と言いたくなるくらいなのだ。
 トルコ人の日本人びいきは、日本がトルコ人の宿敵ロシアを打ち破ったからだともいわれる。あるいは渋沢さんが言っているように中央アジアの騎馬民族が西に移動してトルコ人となったとして自らがその末裔だとして誇りを持っていて、その騎馬民族が東に向かって日本になったのだから同胞だというのも面白い。その同胞がアジアのリーダーとなり、世界大国になったということを誇りに思うトルコの人が多いというのには驚かされる。
 もっともこれはもう三十年近く前の話であるから、やっぱり日本人女性一人トルコを旅するのが珍しかったからじゃないかと思う方が自然である。もちろん危険にも遭遇しているが、それでもそうしたやさしいトルコの人と接して、すばらしい旅をされたことが、この本をいいものにしている。
 ところでコンスタティノープルがなぜイスタンブールになったかその由来を知った。この町をギリシア人がコンスタティノープルと呼ばず、エストムポールと呼んでいて、それがトルコに伝わり、イスタンブールになったらしい。エストムポールはギリシア語のエス・テン・ポリン(都市へ)がなまったものと言われている。しかし現在、トルコとギリシアは仲が悪く、イスタンブールと呼ばず、コンスタティノープル呼んでいるのが渋沢さんは不思議だといっているのはおかしかった。


評価
★★★★


書誌
書名:イスタンブール、時はゆるやかに
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458212
出版社:新潮社 (1997/03/30 出版)新潮文庫
版型:276p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2008年12月04日

東海林さだお著『超優良企業「さだお商事」』

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 しばらく読んでいなかったが、私は東海林さだおさんのエッセイが大好きである。東海林さんが描かれる漫画より好きだと言っていい。だから自分の本棚にもかなりの冊数が東海林さん本が収まっている。
 久しぶりその東海林さんの本を手にした。といっても、この本は藤原あつこという人が聞き手になって、東海林さんの話を聞く。東海林さんの仕事をたとえば『さだお商事』のオーナーということにして、創業三六周年(2002年で)を迎えられるほどのアイデアの豊富な企業としてその秘密を探ろうとしている。
 次々とヒットを生み出す「さだお商事」にはどんな秘密があって、「さだお商事」のコンセプトが昨今苦戦を強いられる一般企業に生かせないかということらしい。また東海林さんのそこでの生活、あるいは生き方が企業で働くサラリーマンたちに自己啓発を促すようなかんじで構成されている。さすが発行元が東洋経済新報社である。一章ごとに“「さだお商事」を会社分析”として東海林さんの話す内容を企業やサラリーマンたちに役立つようにまとめられている。ただこれは無理があって、しかも非常に馬鹿らしい。
 東海林さんが話す内容をどこか自分の会社に生かせないか、あるいは社員の自己啓発に役立たないかとしてしまうと、どうも茶番劇ぽくなってしまう感じがする。しかもこの藤原という聞き手、恐ろしくへたくそなのだ。そこいらのOLか、こいつは、と思えるほど、頭が悪く、下手な相づちが鬱陶しいのだ。さすがにこれにはまいった。
 ただ、東海林さんが漫画を描く上で、自分の気持ち、あるいは精神を若く保っていることの苦労を知った。今まで読んできたエッセイや漫画は、オジサンが無理して若作りして、逆にそれが滑稽になっている。それがおもしろかった。
 しかしそのジェネレーションギャップが生み出すユーモアは、実際作者が体験するなり、感じていなければ描けないものだと、改めて知った。だから無理しても、若い世代の感覚に敏感になろうとしている。いやそうしなければならないのだ。東海林さんは次のように言う。

 漫画家の場合は、漫画がおもしろくない、時代遅れだ、感覚がヘン・・・・などとならないとも限りません。ぼくはその場面を想像すると、たまらなく怖いのです。肩たたきされるサラリーマンの心境がよくわかります。

 だから東海林さんは次のように考えるのである。

 ぼくは、デビュー以来ずっと、「世の中にウケるものは何か」というテーマを追い続けてきました。漫画は時代に合ったおもしろさでなければ、誰にも受け入れられません。時代とともに、人々の感覚も、読む人も、異なってきます。新しい感覚を持った読者が次々と生まれてきます。そうした人たちがおもしろいと感じてくれなくては、連載漫画は続きません。
 自分が若いときは、読者もおなじ年齢だから、そのままの感覚で描いていればよかったのですが、自分が年をとってくると、読者は自分より若い世代になってきて、自分の年齢との格差が広がってきます。こうしたときに、自分の感覚のままでいると、ぼくの読者層である若い世代の感覚とズレが生じてきてしまうのです。
 ですから、若い人たちの感覚を取り入れることは、必須であり最重要条件です。

 ぼくにとって、「若くある」ということは仕事を続けていくうえで不可欠です。自分を若く保って、最新の社会感覚を取り入れていかないと、漫画が時代に遅れてしまいます。必死に時流に遅れまいと、それなりの努力をすることが必須なのです。

 今まで東海林さん自身の文章や東海林さんが描く漫画を大笑いしていただけだったが、そこには自身の苦労があることを知らされた。オジサンが時代に遅れまいと、合コンに参加したり、プリクラをしたり、大変だなと思うけれど、幸い東海林さんはそうしたことを体験することに苦を感じていなく、むしろ楽しんでおられるから、明るい話題として提供されるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:超優良企業「さだお商事」―ショージ君のイキイキ快適仕事術
著者:東海林 さだお【著】 藤原 あつこ【聞き手】
ISBN: 9784492041864
出版社:東洋経済新報社 (2002/12/05 出版)
版型:188p / 20cm
販売価:1,260円 (税込)

2008年12月03日

沢木耕太郎著『旅する力』

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 久しぶりに沢木さんのエッセイを読む。この本はあとがきに書かれているように、沢木さんが「これまでも、『深夜特急』については断片的に書いてきたり話してきた。しかし、読者から直接さまざまな質問を投げかけられ、さまざまな答えを返しているうちに、いつかそれらをひとつにまとめておこうという気になってきた。それには、読者からの質問に答えているうちに、少しずつ『深夜特急』について、ひいては旅というものについて理解が深まっていったということが大きかったかもしれない」ということで、書かれた本である。いわばあの『深夜特急』の舞台裏と旅のその後と、その旅での沢木さんの変化が書かれている。
 そのため結構興味深く読んだ。
 『深夜特急』は第一、二、三便と全三冊に分かれている。第一、二便は1986年(昭和61年)に出版され、第三便が1992年(平成4年)に出版された。第一便の出版からもう22年も経っていることに少々驚いてしまうが、第三便だけが第一、二便が出版されて6年後に出たというのも忘れていた。
 そうだった。よくお客さんに第三便はいつ出るのと聞かれたものだった。一便、二便に続いてすぐ三便も出版されるものだと思っていたが、なかなか出版されず、この本にも書かれているけれど、なかには「三便は出版さません」という書店もあったという。6年もかかれば、そういいたくなるのもうなずける。

 さて、当時若者が外国を一人旅するのに、そのバイブルともなっていた本が、小田実さんの『なんでも見てやろう』だった。沢木さんも小田さんのこの本に大なり小なり影響を受けたことが書かれている。しかし沢木さんの『深夜特急』がされると、今度はこの本が若者たちのバイブルとなっているらしい。
 で、沢木さんが重い腰を上げて自分がしてきた旅を書くにあたり、まず頭に置いたのが、アクションではなくてリアクションだったという。沢木さんは「旅を描く紀行文に『移動』は必須の条件であるだろう。しかし、『移動』そのものが価値を持つ旅はさほど多くない。大事なのは『移動』によって巻き起こる『風』なのだ。いや、もっと正確に言えば、その『風』を受けて、自分の頬が感じる冷たさや暖かさを描くことなのだ。『移動』というアクションによって切り開かれた風景、あるいは状況に、旅人がどうリアクションするか。それが紀行文の質を決定するのではないか」と考えられたのである。
 だからこの『深夜特急』は旅の過程で沢木さん何を感じ、考えたのかがそのおもしろさとなっている。
 たとえば、バンコクで赴任まもない日本人夫妻と会い、その旦那さんが「外国というのはわからないですね」、「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれないな。知らなければ知らないでいいんだよね。自分が知らないことを知っているから、必要なら一から調べようとするに違いない。でも、中途半端に知っていると、それにとらわれてとんでもない結論を出してしまいかねないんだ。どんなに長くその国にいても、自分にはよくわからないと思っている人の方が、結局は誤らない」という話を聞いて、なるほどと思う。その言葉が沢木さんにとって旅で学ぶことのできた最も大事な考え方の一つだったと思うのである。そして旅という学校で何を学んできたかを次のようにいって最後を締めくくる。

 「私が旅という学校で学んだことがあるとすれば、それは自分の無力さを自覚するようになったということかもしれない。もし、旅に出なかったら、私は自分の無力さについてずいぶん鈍感になっていたような気がする。旅に出て手に入れたのは『無力さの感覚』だったと言ってもいいくらいかもしれない。
 いま、私はいかに自分が無力か知っている。できることはほんのわずかしかないということを知っている。しかし、だからといって、無力であることを嘆いてはいない。あるいは、無力だからといって諦めてもいない。無力であると自覚しつつ、まだ何か得体の知れないものと格闘している。無力な自分が悪戦苦闘しているところを、他人のようにどこからか眺めると、少しばかりいじらしくなってきたりもする。おいおい、そんなに頑張らなくてもいいものを、と。
 しかし、そのように頑張ることができるのも、もしかしたら自分の無力さを深く自覚しているからかもしれないのだ。そこからエネルギーが湧いてくるからかもしれないのだ」

 とにかく沢木さんは二十六歳の時ユーラシアの旅に出た。この年齢がまた大きな意味があったことを実感しているのが、なるほどそうかもしれないと思ったのだ。沢木さんは次のように言う。

 「やはり旅にはその旅にふさわしい年齢があるのだという気がする。たとえば、私にとって『深夜特急』の旅は、二十代なかばという年齢が必要だった。もし同じコースをいまの私が旅すれば、たとえ他のすべてがおなじ条件であったとしてもまったく違う旅になるだろう。
 残念ながら、いまの私は、どこに行っても、どのような旅をしても、感動することや興奮することが少なくなっている。すでに多くの土地を旅しているということもあるのだろうが、年齢が、つまり経験が、感動や興奮を奪ってしまったという要素もあるに違いない」

 その理由を「つまり、あの当時の私には、未経験という財産つきの若さがあったということなのだろう。もちろん経験は大きな財産だが、未経験もとても重要な財産なのだ。本来、未経験は負の要素だが、旅においては大きな財産になり得る。なぜなら、未経験ということ、経験していないことは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ」という。
 「未経験という財産」ってうまいこと言うなと思った。得てして未経験であることは、マイナスイメージとして評価されしまう現在だが、未経験が逆に財産にもなりうるのだと教えてくれる言葉である。

 またこの旅の後遺症が書かれているのが面白かった。これだけ劇的な旅をしてきた後だから、そうなっちゃうんだろうなと思った次第である。

 「私が旅で得た最大のものは、自分はどこでも生きていけるという自信だったかもしれない。どのようなところでも、どのような状況でも自分は生きていくことができるという自信を持つことができた。
 しかし、それは同時に大切なものを失わせることにもなった。自分はどこでも生きていくことができるという思いは、どこにいてもここは仮の場所なのではないかという意識を生むことなってしまったのだ。
 私は日本に帰ってしばらくは池上の父母の家にいたが、すぐ経堂でひとり暮らしを始めた。
 夜、その部屋の窓から暗い外の闇を眺めていると、ふと、自分がどこにいるのかわからなくなる、ということが長く続いた。そこが自分の部屋であり、家なのに、旅先で泊まったホテルの部屋より実存感がないような気がしてならなかった」

 以前書いたことがあるが、私は昔新潮社の招待で香港に行ったことがある。そこに沢木さんもゲストとして加わった。夕食の時、私もミーハー的に沢木さんに新潮社からもらった文庫の『深夜特急』一巻にサインを書いてもらった。
 翌日、マカオに向かう船のブリッジに一人で寄りかかっている姿を見かけたが、なんか場違いなところに来てしまったなというかんじを受けたものだった。今にして思えば、沢木さんは「こんなの旅じゃないよ」と思っていたんじゃないか。そんなことを考えてしまう。


評価
★★★★


書誌
書名:旅する力―深夜特急ノート
著者:沢木 耕太郎
ISBN:9784103275138
出版社:新潮社 (2008/11/30 出版)
版型:289p / 19cm / B6判
販売価:1,680 円(税込)

2008年11月12日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』2

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 続いてこのシリーズの二巻目を読む。面白いもので、確かにこうしてまとめられた司馬さんのエッセイを読んでいると“司馬遼太郎が考えたこと”が生き生き伝わってくる。それはいわゆる司馬さんの歴史観だけでなく、私生活の一部も描かれていて、結構興味深く読ませてもらった。しかももうこの頃の文章になると、私が知っている司馬さんの文章で、わかりやすく、初期の文章のような堅苦しさもない。
 さてまずは司馬さんの歴史観で面白いと思ったことを三つあげる。一つは「歴史を変えた黄金の城」というエッセイで大阪城をテーマにしたものである。
 大阪冬の陣で大阪方は秀吉恩顧の大名に応援を求めたが、ほとんどの大名は来なかった。が、牢人は来た。関ヶ原で敗北したために主家を失った武士が生活に困窮し、変の起こるのを待っていた。その大半が大阪城に馳せ参じた。司馬さんはこの決戦を「徳川、豊臣の政権争奪戦という性格のほかに、サラリーマン対失業者の決戦であった。これほどおもしろい性格をもった合戦は、世界史上類をみない」と書く。
 そして時代は徳川末期の鳥羽伏見の戦いに至る。この戦いで将軍慶喜が大阪城にいたが城を抜け出した。それを司馬さんは「大阪城をとって天下を得た徳川氏は、大阪城をすてて天下をうしなった」という。そこから司馬さんは大阪城を「信長以来、つねにあたらしい権力者の目標となり、史上数度もその総攻撃の前にさらされた。しかも、武力によって陥ちたことは一度もなく、つねに政治情勢の変化のために前時代の主権者は、この城を、出ざるをえなかった。この城が開城するとき、日本史はそのつど、つねに一変した。ふしぎな城ではないか」と書くのである。思わず“なるほど言われみれば確かにそうだ”と思ってしまった。
 もう一つは関ヶ原の合戦で、なぜ秀吉子飼いである福島正則、加藤清正、浅野長政らは家康についたのかということである。これは先の巻でも書いたことだけど、こっちの方がより現実的わかりやすかった。曰く「かれらは、感傷としては豊臣への恩義を思っているが、現実では数十万石の大大名である。家来も多い。もし政治的に失敗すれば、多数の家来を路頭に迷わさなければならない。一片の感傷で自分の処世を決するわけにはいかなかったのである。家の保存のためには、何よりも安心なのは徳川家康につくことであった」と。これが現実である。大義名分は美化されやすいけど、それだけじゃ生きてはいけない。いつの時代でも現実無視の行動はただの無茶で、そうした現実を保障する力をもっていた家康が勝つべくして勝ったということなのだろう。
 最後に司馬さんは次のように言っている。「ある種の宗教的ふんい気をもった英雄がいます。たとえば関羽、八幡太郎義家、楠木正成、上杉謙信、西郷隆盛など、もしこういう人達を主人として選んで、しかもその人物に魅力を感じてしまったばあい、人は多く命をすててしまいます」と。司馬さんの歴史小説を読んでいるとこのことがひしひし感じられるので、これもそうかもしれないなと思った。ただ幸か不幸か現代はそういう英雄がいない時代なので、本の中でしか感じられないのだけれど。

 この本には司馬さんの小説の題材がどう選ばれるのか、その小説作法がいくつか書かれている。それをいくつかピックアップして書いておきたいが、その前になぜ司馬さんが“司馬遼太郎”と名乗るようになったのか、その経緯が書かれている文章があったのでまずはそのことを書いておきたい。
 司馬さんが懸賞小説を書いたとき、ペンネームが必要となった。ちょうどその時司馬さんは司馬遷の「史記」を読んでいられた。司馬さんは史記こそ世界最大の文学と信じていたから、司馬遷の姓を借りた。名を遼とした。それは司馬ヨリモ遼(ハルカニトオシ)としゃれたらしい。しかし司馬遼では国籍を間違えられると思い、太郎をつけたという。
 その“司馬遼太郎”という名前が気に入っているかといえば、必ずしもそうでもないらしいが、名前は符丁のようなものだと悟りきっている。ただ「このフチョウに慣れてしまうと、不意に本名でよばれたりしたとき、ふりむかないことがある。本名ではもはや反応力がにぶくなっている。この本名には私は入学試験に失敗したり、兵隊にとられたり、いまでも税金をとられたりして、ずいぶん厄介をかけているのだが」と自分の本名よりもペンネームの方が世間でも自分の中でも一人歩きしていることを書いておられる。
さて司馬さんが何故歴史小説や時代小説を書かれるかである。司馬さんはまず次のように言う。「ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点からその人物と人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書くおもしろさはそこにある」と。そして「時代小説というのは、一にも二にも男の魅力、悲しさ、おかしみをえがく小説だが、私自身、そういう理由こえて、男を見物するのがかぎりなく楽しい」とも言う。
 なぜ人生を完了した男がおもしろいか。それを「すこし語弊のある言い方がゆるされるとすれば、女性は、その人生の進行中にとらえるほうがおもしろく、男性はその人生が終了してから彼をながめるほうがおもしろい」と説明するのである。
 ただ誰でも男であればいいというわけじゃない。作家として男の魅力を感じさせる男でなければならないのである。その舞台となるのが歴史の中であり、その中で男の魅力をプンプンさせる男(肉体美ではない)でなければならない。それを司馬さんは「男という生きものが、その特質のもっともおもしろい部分を発揮するときは、かれが野望に燃えたときだ。権力慾、栄達慾、求道慾、復讐慾、攻撃慾に燃えたときである。その行動がきわめてダイナミックになり、美しさも醜さもいきいきと出てくる。こういう男をえがくためにはやはりこんにちの舞台ではまずい。一時代前の「歴史」を舞台にしなければ大きく動いてくれないのである。
 しかも、変動期でなければならない。戦国時代とか、幕末とか、そういう舞台がいい。そういう時代こそ、男のアクをふんだんにもった男が時代の主流に出てくるわけで泰平の世ではだめである」と説明する。
 なるほどと思う。しかし野望や権力慾、栄達慾、求道慾、復讐慾、攻撃慾だけではダメなのだ。そこには面白くかつ美しくなければならない。だから司馬さんは坂本龍馬や西郷隆盛などは描くけど、例えば山県有朋は絶対に書かないだろうと思うのだ。山県には“美しさ”がないからだ。
 そうして選ばれた主人公はすべて魅力的なのである。司馬さんが「文学のはたらきのなかで、もっとも大きな光栄の一つは、人間の典型をつくることである」と言っているが、司馬文学の主人公は、それぞれ人間の典型を表現したと思う。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467028
出版社:新潮社 (2001/11/15 出版)
版型:407p / 19cm / B6判
販売価:1,890円 (税込)

2008年11月07日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第2巻〉

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 須賀さんの全集第二巻を読んでみる。この巻は『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』が収録されている。『ヴェネツィアの宿』は須賀さんの日本での生い立ちなどが回想され、『トリエステの坂道』では須賀さんの夫ペッピーノ家を取り巻く人々とのふれあいがつづられている。
 前回もそうだったけれど、今回も須賀さんの文章に魅力を感じていた。それが何故なのか考えてみた。うまく言えないのだけれど、たぶんそれは回想というスタイルをとるためではないかと思う。つまりそこに書かれた文章はある程度時間がたったことであり、その分充分考え抜かれた感じがするのである。そしてそこには何か失った者への哀惜というのか、全体に“喪失感”を感じるのである。
 この二つのことは、あるときは苦しく、悲しい時代のことであっても、それを強調せずに済んでいるし、楽しく、豊かな時代では、浮かれることなく、冷静に描写することになるのではないだろうか。つまりかなり抑制のきいた文章になっている感じだ。それは時間がたっていることで冷静な思考が出来ることからくることだろうし、あるいは描かれた人々が今はいないという“喪失感”が、懐かしさを醸し出しているような気がする。そんなところが私が好きなところなのではないかと思う。それに表現や言葉の言い回しが本当にうまいと思う。こういう文章が書けること自体うらやましい次第だ。

 今回も須賀さんの書かれた文章から気になる言葉を拾ってみた。

 つい何ヶ月かまえまで、空襲の下をかいくぐりながら、今日は死ぬか、明日は家が焼けるかと覚悟ばかりしていた暮しにくらべると、いのちの尺度が変わっただけでも、なにもかもが愉しかった。

 橋をわたったあたりで、カテドラルが、夏の早朝の張りつめた空気のなかにその全容を見せはじめた瞬間、どうしたことか、私は、とつぜん、この中世の建造物と自分が、ずっといっしょに連れだって日本からやってきたのではないかという、奇妙な錯覚にみまわれた。それまで自分のなかではぐくみそだててきた夢幻のカテドラルと、目のまえに大きくそびえわだかまる現実のカテドラルとが、きらきらとふるえる朝の光のなかで、たがいに呼びあい、求めあって、私の内部でひとつに重なった。腕に鳥肌がたったのは、あきらかに冷たい空気のせいだけでなかった。

 「昼間から寝たりして、ごめんなさい。夜汽車でエクス・ラ・シャペルから来たものだから」
「エクス・ラ・シャペル?」
 どこかで聞いたような土地の名だったが、思い出せない。
「そうよ。ドイツ語だとアーヘン」
「アーヘン?シャルルマーニュの?」
「そうよ、そうよ」よくできましたねえ、というように彼女は大きくうなずいてから、つけくわえた。「フランス語ではエクス・ラ・シャペルっていうのよ。いまはドイツの町だけど」

 死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとりで行ってしまった。

 『用途のない備忘録』

 (そのころ、麻布あたりでも、冬の朝、庭中の土が、霜柱でざくざくにささくれた)

 カード好きのやさしいおじさん、と私が勝手に決めこんでいたあの人物は、残りすくない時間の中で必死に後輩をそだてようとする、山の村のおごそかな長老でもあったのだ。

 彼女の死に衝撃をうけるほど、自分と彼女とのあいだに親密なつきあいがあったわけではなかった。そう思ってみても、どうしようもない喪失感が、ほとんど私の意志とは関係なく、大切な本につけてしまたとりかえしのつかないインクのしみのように、私のなかに、黒い翳りをひろげていた。

 もたつきながら自分達の苦しみを見つめ、それに腹を立て、それに泣かされながらも試行錯誤をつづけていく社会、より自己充足的でない施設を目指していきたい。そうでないと、人類が人類として、生き残れないと思うからだ。政治も勿論、福祉政策を、そのような方向にもっていくべきだと思うし、それ以前に、私たち一人一人が、毎日の生活のひたすらな能率主義を、自分よりゆっくり歩いて行く人と歩調をあわせるために、少しずつ崩していく以外、私たちが、もう少しゆっくり歩こうとする以外、どうにもならぬのではないか。

 それにしても、なにかひとりよがりの匂いの抜けきらない「やさしさ」や「おもいやり」よりも、他人の立場に身を置いて相手を理解しようとする「想像力」のほうに、私はより魅力をおぼえるのだが。

 今日のローマには、自由をもとめて流れついた難民と、フィリピンやアフリカ、東欧などからの、出稼ぎの人たちも多くて、暗い活気のようなものが、この都会の目にみえない部分で、激しく流れているような気がすることがあります。

 難民なんて、なにも今日始まったことじゃない。トラステヴェレの町はそんな、あきらめと、おおらかさがまざった気持で、彼らを受け入れているようです。

 文章というのは、かなりそれが書かれた時代に似ているものである。内容だけでなくて、文の組みたて具合、といったものが、同時代の建物や道路の配置によく似ていることがある。

 パリの合理性(合理性は知性のほんの一面でしかない)に息がつまりそうになっていた自分には、イタリアの包容力がたのもしかった。なにも、かたくなることはないのだ。そう思うと、視界がすっとひらけた気がした。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第2巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420523
出版社:河出書房新社 (2006/12/20 出版) 河出文庫
版型:606p / 15cm / A6判
販売価:1,050 円(税込)

2008年10月28日

ジョルジュ・シムノン著『メグレ罠を張る』

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 このメグレシリーズは昔から読みたいと思っていた。いわゆる推理小説で、マンハントをする側が警察である方が好きなのだ。たとえば、マルティン・ベッグもいいし、キャレラもいい。日本でいえば鳥飼刑事も渋くていい。(ビートたけしはミスキャストだと思うが)
 さて今回も推理小説だから、あまり内容に関しては詳しく書いちゃいけないのだろうが、書いてしまう。のでもしこの小説を読もうと思う方はここでやめてください。(というように、こんな感じでネタバレしてしまうから以後読まないでね、という文章をよく見かけるけど、皆さん本当にそこでやめられます?少なくとも私は読んじゃうだな)

 パリで五人の女性がナイフで刺され、衣服が引き裂かれた殺人事件が発生する。その捜査をメグレ警視が陣頭指揮をして行う。物語はもう五件の殺人事件が発生してしまっており、犯人と思われるべき人物は登場しない。従って、「こいつが犯人だろう」という推測を読んでいて楽しめない。
 この物語を面白くしているのは、どうやって殺人事件の犯人をあぶり出すかにかかっている。題名にもあるように、メグレ警視は罠を張るのである。最初から罠を張ることから物語は始まっており、どのような罠で、なぜそうした罠をメグレ警視は張ったのかが、まず興味の対象となる。
 友人で医師のパルドンに食事を招待されたメグレ夫妻は、そこで有名な精神科医のティソオを紹介される。メグレはその精神科医のティソオと今回の捜査に当たって、犯人像を語り合う。そこに今回の罠のからくりが隠されている。
 メグレは犯罪者たちが遅かれ早かれ自分のやった行為を自慢するという欲求に駆られると語る。そしてティソオもメグレが捜している連中は、自分でも知らぬ間に捕まえられようという欲求に駆られている。それは自尊心の表れで、自分(犯人)は周りの人々に何の変哲もない人間だと思われることが我慢がならないのだ。自分の力を大声で言いたいのだ。だからといってわざわざ捕まりたいわけじゃない。彼らが捕まるのは犯行を重ねる内に身辺に払う注意が少なくなってきて、警察や運命をなめることで逮捕されてしまうというのである。
 そしてメグレは「かりに誰か他の人間が逮捕されて、いわばまあわれわれの殺人犯の地位におさまりかえり、犯人が自分の栄誉のように考えているものを横どりしたらどうでしょう・・・・」と言うのだ。
 これがメグレの作戦であり、犯人の自尊心を奪うことで、逆に犯人を挑発し、もう一度犯罪を起こさせ、犯行を行う前に捕まえようと罠を張る。
 そして一般市民に扮した婦警を襲われるが、警察は彼を取り逃がす。しかし彼の衣服についていたボタンと服の生地の一部をその婦警はもぎ取る。そこから面が割れ、一人の男が逮捕される。しかし彼は自供しない。
 被疑者を尋問している間、また一人の女性が襲われ殺される。しかしこの犯行は私でもその男をかばうための犯行だとわかる。少なくともこの殺人事件の犯人は彼の妻あるいは母親のどちらかだ。

 ざっと書いてしまうたわいのない小説のようになってしまうが、犯人逮捕のための心理作戦は結構面白かった。で、一つ知ったことは、日本の警察では取り調べ室で犯人あるいは被疑者の食事にカツ丼をよく出すシーンがテレビで映し出される。しかしフランスではビールとサンドイッチらしい。


評価
★★★


書誌
書名:メグレ罠を張る
著者:ジョルジュ・シムノン 峯岸久訳
ISBN:9784150709518
出版社:早川書房 (1991/09 出版) ハヤカワ・ミステリ文庫
版型:233p / 16cm / 文庫判
販売価:546 円(税込)

2008年10月25日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと 』1

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 司馬さんが亡くなられてから、未発表のエッセイや評論、あるいは対談、講演集などが次から次へと刊行された。この本もその手のもので、単行本未収録作品を集めて、何と全15巻のシリーズにしている。なんせ国民的作家なので、司馬遼太郎と名前がつけば売れないことはない。亡くなられても、とにかく司馬さんの書いたもの、あるいは話したものをどこからか探しだし本にした感じだ。私もいくつか司馬さんが亡くなられてから刊行されたシリーズ本をもっている。まずはこのシリーズから読んでみようと思ったわけである。幸い続けて読まなければ話の内容が忘れてしまうものでもないので、適当に間隔を置いて読んでみようと考えている。
 このシリーズは書かれた期間ごとに巻数わけしてあるので、第一巻は1953年(昭和28年)10月から1961年(昭和36年)10月のエッセイである。たぶんここに収録されたものは、復員後産経新聞の記者時代から、直木賞受賞後までのものであろう。実際初出を見ると本名の福田定一の名前で書かれているものもいくつかある。
 読んでいて、へぇ~、司馬さんもこんな言い回しの難しい文章を書いていたんだと思った。というのも私は司馬さんの膨大な知識を小難しく語るのではなく、わかりやすい文章で表現される人だと思っていたので、少々意外でもあった。
 さらに、歴史に関するエッセイだけでなく、身辺雑記やルポみたいなものもある。このあたりは初めて接したものだから新鮮でもあった。ただルポは読んでいて、開高健さんの『ずばり東京』みたいな感じを受けた。いかにも関西人が書いた文章なのである。

 この巻で面白かったのは「家康について」というエッセイである。まぁ、司馬さんがわかりやすく書いた家康の人物評みたいなものだ。司馬さんによると家康という人物を次のように評する。

「もともとこの人は、信玄や謙信のような戦術的天才もなく、信長のような俊敏な外交感覚もなかった。かれら右の三人より長じた才があるとすれば、部下の官僚(家康の部下だけが近代的官僚のにおいがする)に対する卓抜した統率力ぐらいのものだろう。かれがもし今日にあれば、律儀に受験勉強をし、律儀に東大に入り、律儀に公務員試験をうけてまず有能な局長クラスにゆくに相違ない」

 つまり家康は高級官僚だといい、官僚は自ら自分の偉さを発揮できない。上級官僚なり政治家の引き立てを必要とする。家康の場合の引き立て役が信長であった。家康は徹底して信長に従った。それこそ命を賭けて信長に律儀なまでに従った。当然信長の信頼は厚くなる。徳川家は信長の下請会社のようであった。ただ下請会社は親会社大きくなれば、自らも大きくなる。
 ところが本能寺の変で信長は明智光秀に討たれる。この時家康はわずかな家来を連れて泉州堺を見物していた。慌てて岡崎城に戻り、尾張まで来たとき、秀吉が中国から急遽軍を旋回して光秀を破った。司馬さんは家康が秀吉を「運のいいやつだ」と思ったに違いないと書く。
 なぜ秀吉が運がいいかといえば、この時秀吉は毛利討伐の司令官として、信長よりおびただしい軍勢を貸与されていたから、そのまま大軍勢を旋回し、光秀を討てた。そしてそのまま天下を取ってしまったのである。逆に家康はそういう好条件に恵まれていなかった。だから待つしかなく、「やがて運はまわってくるさ」とその間自分がすべきことを着々と行うことになる。
 天正十二年四月長久手の戦いで、家康は秀吉と戦い、大いに破ったが、秀吉と和睦する。これは家康自身天下に自分の威厳を見せつけるのと同時に秀吉に恩をきせることになる。以後家康は秀吉に仕えるが、その間関東に移封され二百四十万二千石の大大名となった。
 秀吉に死後天下分け目の関ヶ原の合戦があるがこの合戦の勝利を家康にもたらしたのは、関東二百四十万二千石の巨大な身上による。つまり家康に信用があったということである。この二百四十万二千石から振り出される信用と江州佐和山十九万四千石の石田三成の信用とどっちが信用度が高いかといえば、当然家康の方である。だから東軍の諸将は恩賞を期待して憂いなく戦ったのである。一方西軍に与する諸将は戦場に来ても三成に猜疑心を持ち、破れた。
 関ヶ原の勝利の後、家康は江戸に幕府を開き征夷大将軍となったが、まだ大阪には秀吉の遺児秀頼がいる。家康はこれを潰さないとならなかったが、大阪夏の陣は関ヶ原の合戦から15年待って戦われた。ただこのとき家康は今までみたいに気長に待つわけにもいかなかった。もうこの時点で家康は高齢であったから、いつ死ぬかもしれないという自覚がある。自分が生きている間に秀頼を討たなければならないという焦りがあった。だから家康は狡知にみちた策謀家に自ら変じ、大阪方を挑発する。司馬さんはそれを「この気のながい男が、気短かな老人に一変し、律儀者が陰謀家に化した。人生の残りわずかな持ち時間と競争するために、家康は半生もちつづけたそのパターンをなげすてなければならなかったのだ。あわれにも、そのために後生の不評を得た」という。

 もうひとつこのエッセイで面白かったのは、“東海道”に関する記述である。
 東海道は頼朝以来日本史の権力街道であった。鎌倉以来幕末までの日本史で、東海道以外の場所から起こって天下をとった者いない。
 信長、秀吉、家康の三人は今で言えば愛知県人であり、愛知県内にはその東海道が通っている。しかも東海道の中ほどに位置する。つまり彼らは京に近く、しかも多少離れている。つかず離れずの位置にいた。
 たとえば武田信玄や上杉謙信のような東国の英雄が上洛するためには、その沿道に気の遠くなるほどの豪族がおり、それらをいちいち潰して進むしかなく、それだけで一生が終わってしまう。信長、秀吉、家康はそういう意味で好条件立地にいたことになる。このことは大きいし、実際歴史は彼らを天下人にした。
 これを読んだとき、なるほどと思った。やっぱり司馬さんの視点は我々凡人とは違うなと思ったのである。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと 〈1(1953.10~1961.〉 ― エッセイ
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467011
出版社:新潮社 (2001/09 出版)
版型:397p / 20cm / B6判
販売価:入手不可 但し新潮文庫であり

2008年10月20日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第1巻〉

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 多分須賀さんの本は一冊は読んでいると思うのだが、なんていう題名だったか忘れてしまった。当時は文章の内容がよくわからなかった。イタリアの作家など知らないものだから余計である。
 最近イタリアに少々興味があって、歴史もそうだけれど、現在の日常生活がどのように営まれているのか、その普段の姿が知りたいところがある。だからイタリアで暮らした人のエッセイなど興味深く読んでいる。その関係で須賀さんの本を手にした。ただ須賀さんが描くイタリアは若干古くはあるのだが、その雰囲気は味わえるんじゃないかと思って読んでみた。
 私は須賀さんがどんな人生を過ごされてきたのか詳しくは知らないので、ネットで調べてみた。略歴は以下の通り。

須賀敦子(すがあつこ)
作家・翻訳家(1929-1998)

 兵庫県芦屋市に生まれ、聖心女子大学卒業後、パリのソルボンヌ大学に3年間留学。帰国後、知人から送ってもらった会報誌などによって、イタリア・ミラノのコルシア書店のことを知り、強く惹かれる。コルシア書店は、二人の神父を中心にしてできたグループで、書店を拠点として、出版活動、講演会、ボランティアなど、多岐にわたる活動をしていた。須賀さんはイタリアに留学すると同時に、コルシア書店へ向かう。やがて、書店の運営を担当していたジュゼッペ・リッカと結婚するが、夫と死別し帰国。その後、数十年経て作家活動を行う。作家活動は10年に満たない短いものだった。イタリア在住時から翻訳家としても活躍した。またキリスト教徒としても様々な活動を行っていた。1998年、心不全で死去。享年69歳。

 この第一巻には「ミラノの風景」、「コルシア書店の仲間たち」、「旅のあいまに」という数編のエッセイが収録されている。いずれも須賀さんがイタリアで夫を亡くされ、帰国して書かれたもののようである。それを須賀さんは「純粋な時間として考えると、六十年の人生のなかの十三年は、さして長い時間ではないかもしれない。しかし、私にとってイタリアで過ごした十三年は、消し去ることのできない軌跡を私になかに残した。二十代の終りから、四十代の初めという、人生にとって、さあ、いまだ、というような時間だったから、なのかもしれない」といい、自分の人生の中でイタリアでの濃厚な生活をここで書きつづるが、これらの文章が書かれる頃になると、その時を振り返る分、時間がたってしまっている。すべてが衰退へ向かいはじめている。人もそうだし、書店もそうである。だからかもしれないが、そこにはどこか“死”がつきまとう感じがする。そこには須賀さんのイタリアでの生活や交友関係などが書かれているのだが、元気で活動的な時代を振り返るのと同時に、その後が必ず描かれる。その後が死であったり、消滅であったり、あるいは音信不通であったりして、もの悲しさが漂う。

 須賀さんをミラノで生活させたコルシア・デイ・セルヴィ書店とはどんな書店だったのだろうか。その成り立ちを次のように書く。
 コルシア・デイ・セルヴィ書店は司祭で詩人のダヴィデ・マリア・トゥロルドが戦争末期には、ドイツ軍に占領されたミラノの、知識人が中心になって組織した地下活動をおこし、戦後、親友のカミッロ・デ・ピアノといっしょに数人の若者をまじえて、都心にあるサン・カルロ教会の場所を借りうけて始まった。

 せまいキリスト教の殻にとじこもらないで、人間のことばを話す「場」をつくろうというのが、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめた人たちの理念だった。ちゃんとした資金があったわけでもなく、都心の目ぬき通りの教会からほとんど無償で借りた場所だけが財産で、開店したころは、本をならべる棚もろくになかったという。だれかが買おうと思って手にとった本のページにダヴィデの手で書き込みがあったこともある。彼が自分の蔵書まで売っていたからだ。

 そうして出来上がった書店にはさまざまな階級の人々が集まり、サロン化して活気を呈していた。どちらかといえば反体制側の思想の持ち主が多かったようであるが、侯爵や伯爵といった階級の人々もパトロンとなって集まっていた。須賀さんは彼らを「ヨーロッパ史のエッセンスのような家族や招待客たち」とか「美術書を通してあこがれているルネッサンスの邸宅を日常の場に使っている人たち」などと表現しているが、こういう貴族がいるという社会も目をみはる。面白いのは彼らの生活意識である。

 この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店(いっけんしもたやふうの店)を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。(略)あたらしい貴金属を「終始」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ。

 それは私たちは新興貴族や成り上がりとは違うんだというものであろうか?

 それと須賀さんがある年の初夏にサン・ジュリアーノ・ミラネーゼという、ミラノ市から南に20キロほどの町に行っての帰り、何となく心細い気持で歩いていたとき、「ちらちらと白く光っているのが、ミラノの大聖堂の尖塔だとわかるのに、それほど時間はとらなかった。あ、ミラノだ。とっさにそう思ったのだったが、そのことで心がはずんだことに、私は小さな衝撃を受けた。ふだんは日常の一部になりきっていて、これといって感慨も持たなかったミラノだったのが、朝の陽光に白くかがやく大聖堂の尖塔のイメージに触発されて、いいようもなくなつかしい、あれが自分の家のあるところだ、といった感情がよびさまし、ほとんど頬がほてるほどだった」と書く部分が非常に興味深かった。
 昔、阿部謹也さんか誰かが言ったか、あるいは書かれた文章を読んだか忘れたけれど、ヨーロッパの教会の大聖堂がどうしてあんなに立派なのかということで、中世の旅人、たとえば遍歴商人が年季明けして自分の町へ帰っていくとき、遠くから見える大聖堂の尖塔が、自分たちがふるさとに帰ってきたという意識をもたらしたのだというのを思い出した。彼らが歩いているうちにだんだん、見慣れた大聖堂の尖塔が見えてくる感覚というのはきっと感慨深いものがあっただろうと当時は思った。それを須賀さんの文章を読んで、ああ、これだなと思ったのだ。

 須賀さんの文章に出てくる言葉はなんていっていいのかよくわからないけれど、どこか心に残る。この本の解説を書かれている池澤夏樹さんは「須賀敦子はたいへん言葉に長けた人だった」というのはよくわかる。こうして前後関係なく抜き出してみてもうまい言い方をする人だなと思うのだ。

「しかし何年かたついちに、(博物館に収められた)いくつかの真珠が光沢失いはじめる。(チェデルナはここでは“appassire”という、花などが「凋れる」という意味の言葉をつかっている。他でも耳にしたことのある表現であるが、うつくしいと思った)真珠は人肌にふれないと徐々に死んでしまう」

「生きるだけでも骨の折れたあの日々」

「生きるための争いを終えた人々が横たわる墓地と、まだ闘いのさなかにある市場の人々と」

「昔『ヴェニスに死す』を読んだのは、本を脳の筋肉(そんなものがあるとすれば)でただ噛み砕いているにすぎないような若いころのことで、あたまに残っているのは、だれもが知っているストーリーだけだった」

「彼がどうやって染料会社の仕事の合間にあれほど質の高い読書ができるのか、私には奇跡のように思えた」

「孤独で透徹した哀しみが、私には尊いものに思えた」

「彼は、いちど見えなくなった自分の人生をつかまえようとして、やっきになっていたのだ」

「人生は、どうしても妥協するわけにはいかない本質的に大切なものがすこしと、いいよ、いいよ、そんなことはどっちでも、で済むようなことがどっさり、とでなりたっていて、それを理性でひとつひとつ見きわめながら、どちらかをえらんでいくものだ、といった生き方を、あらためて、彼女のなかに見た気がしたのだった」

 やはり人生を振り返ってみて書かれた文章は、言葉だけをとっても重みがあるし、まして須賀さんのように言葉に長けた人が書くと余計にそう感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第1巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420516
出版社:河出書房新社 (2006/10/20 出版)河出文庫
版型:453p / 15cm / A6判
販売価:997 円(税込)

2008年09月27日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 7

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 ついに7巻全部読み通した。全体的な気分として重い。それはそうだろう。この巻は薩軍の敗走から始まり、最後は城山での自滅で終わるからだ。
 司馬さんはこの西南戦争の性質を「これは軍隊間の戦争というより、薩軍の場合は宗教一揆に酷似していた。総帥である西郷隆盛への宗教的崇拝心以外に政略も戦略もなく、あとは個々の殉教心をたよりにしているというところでは、まったくそれに似ているというべきであった」といい、その宗教一揆が凄惨な自己消耗のいくさをするように、薩軍も消耗のはてに全軍が消えてしまうのではないかというほどに激しく戦ったという。
 しかも面白いことに、薩軍が起つまえにあった士族の反乱、たとえば江藤新平の佐賀の乱や前原一誠の乱、あるいは神風連の乱にしても、「西郷が起つと聞けば六十余州の士族はことごとく起つであろう」と予想し、西郷に決起を促したのに、西郷はとどまった。結果として他の士族はたちあがらなかったので、自滅した。
 しかし今度自分たちが立ち上がったときはそれを信じ、それをもってして唯一の政略・戦略とした。西郷自身、そう信じた形跡が濃い。西郷のもつ一大声望が満天下を覆っていると信じていた。つまり西郷たちも江藤同様同じ失敗をしたわけである。
 薩軍には何度も言うように「勢い」という以外、戦略らしい思想はなかったし、財務的経略を持たなかった。薩軍は総合的な観点も配慮も準備ももたず、あたかも個人競技のように戦術的勇猛さだけで熊本城も押し潰せると思った。結局は駒とり将棋のように兵を駆けまわらせて政府軍の士卒を殺傷するだけが戦いという没戦略的運動から抜け出せなかった。その責任は西郷がテロリズムだけの経験と能力をもつ人間を将帥の位置に据えたことにある。司馬さんは「西郷は一介のテロリストだった桐野や書生にすぎなかった篠原を泥の中から掘り出して陸軍少将の軍服着せ、たれよりもこの両人を信頼し、結局はかれらの政治的狂躁に乗せられた。人間を見ることにいかに目が無かった」と言い切る。篠原はこの後すぐ戦死してしまったので、薩軍を実質指揮するのは桐野である。
 その桐野は幕末中村半次郎と称していた頃から、相手を言論で説得しようとしたり、根まわしをして相手を排除するところがなく、邪魔立てする者を自分の命を賭けて、一人で斬った。維新後西郷によって桐野という凶器は陸軍少将になり、日本の軍事権の一部を掌握した。桐野という凶器は栄誉と権限を得て自立したために自らの思想と判断で動くようになり、ついには飼い主である西郷を引きずり込んでしまったのである。司馬さんは「西郷が見こんだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だった」といい、各地で敗戦を繰り返す薩軍の戦略のなさを、桐野を将にかかげたことににあるとしている。
 薩軍は敗走し続ける。田原坂以降、人吉に南下し、そして今度は宮崎には入り、南下する。そして急展開し、宮崎の山奥から鹿児島に一気に戻る。その敗走劇はすさまじい。そして城山で完全に政府軍に包囲される。


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 「新説西南戦争」(週刊新説戦乱の日本史7 小学館刊)より

 その政府軍には薩摩系高級軍人が多くいる。かれらのほとんどは西郷の子飼か、縁戚の者である。政府軍の総帥山県有朋でさえ西郷に恩があった。そのため西郷を逐うことに、気持ちのひるみがあった。できれば、政府軍が躊躇している間、せめて西郷だけでも逃げてくれまいかという気持ちであった。
 西郷は維新最大の功労者であり、かつ士族の精神像の代表的存在でもあったから、その西郷を討ちとりたくないし、討ちとらなければならないことに、名状しがたいつらさを感じていた。そのため政府軍の幹部は敗走する薩軍をその力で一気に押しつぶすことができるのに、それを躊躇したのであった。
 だから政府軍の最先方に、幕末薩摩と戦って破れた会津藩、あるいは東北、越後諸藩の士族を集め、維新の恨みをここで果たさせようとするのである。
 川路利良が放ったポリスもそのほとんどが会津藩から集められた。このことは、恨みを持つ人間を戦争の駒として使っていることになる。彼らは本来、政府を恨んでいいはずのものが、その政府に逆に恨みを持っていることで利用されてしまうのである。考えてみるだけでそ政府幹部のの狡猾さは恐ろしくもある。
 城山に籠もる薩軍は三百七十人ぐらいで、それを五、六万という政府軍の大軍が城山を包囲しただけではなく、城山そのものを檻の中に入れてしまうような規模をもって、すきまなく柵を植えた。それでも攻撃を躊躇った。薩軍の幹部の中にもせめて西郷の命だけは助けて欲しい(桐野は大反対であったが)と政府軍に交渉にいくが、とき既に遅い。総攻撃の前に、総帥山県も西郷に「自決せよ」という手紙を書いたが、総攻撃は始まってしまった。薩軍はほとんど戦いにならない。西郷も前線に出て行く。死を覚悟して。


もう ゆはごはわすめか(もうよくはございますまいか)

まだまだ

しばらくして

晋どん、もうここでよか

別府晋介は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって、駕籠を下り(別府は負傷していた)、西郷の背に立った。

「御免なって賜(た)も」
というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

 司馬さんはあとがきで「倒幕の段階の西郷は陽画的であったが、明治後陰画的であった」と書く。この場合、写真のポジとネガみたいなことをいっているのではなく、単に陽と陰の対照として使っている。言ってみれば、倒幕時代華々しく活動したのに、維新後影が薄くなったということだろう。しかし過去の栄光はいつまでも西郷につきまとう、たとえ西郷自身自ら形骸化することを選んだにせよ、西郷の名前は革命の象徴となり、一人歩きし、担がれることになってしまった。もうそこには昔の西郷はいないのにである。そこにあるのは西郷という虚像と、自分たちの不満解消がそこに見いだせるかもしれないという淡い希望と合致してしまった不幸である。
 西郷には「西郷の人間ばなれした無私さと、高士の風のある独特の愛嬌と長者として寛仁さと、なによりも多量で透明度の高い感情の量が薩人に好まれた」と司馬さん書くが、それは薩人だけでなく、西郷に接した者が皆感じるものであった。
 薩摩の敗走で援軍として立ち上がった豊前中津隊が、今後どうすべきか討議する。増田栄太郎は中津に帰れと隊員にいうが、自分はこのまま薩軍と一緒に戦い続けるという。その理由を増田栄太郎は「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生と接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」というのである。西郷という人間に接してしまった以上もうどうしようもないのだというのだ。そんな西郷の人間性も災いしたかもしれないと思った。


評価
★★★


書誌
書名:翔ぶが如く 7
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617701
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:350p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月23日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 6

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 さて西郷たちは蜂起した。目指すは熊本城であった。なぜ熊本城であるのか?熊本城は周知の通り加藤清正が築城した。それを許したのは徳川家康であった。家康はここに難攻不落の城を築くことで、薩摩を封じ込めることにしたのである。薩摩がいつ反旗をひるがえしても、ここで食い止めることが出来るようにしたのである。以来明治のこの時期まで熊本城は薩摩を見張ってきたことになる。
 司馬さんは『街道をゆく』で「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあって、中央集権の象徴そのものであった」と書いている。だから「西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった」と書く。熊本城は薩摩にとっていつでも「官」の象徴であった。「官」に対し立ち上がった西郷たちが当然潰して通るべきものであった。
 その熊本城には政府によって強制的に集められた農民兵が鎮台としていた。当然それ以前の士族たちと比べて質が落ちる。実際西郷たちが立ち上がる前に起こった神風連の乱で、簡単に襲撃され、幹部たちが殺害された。それ以降官兵は弱いと思われ、桐野利秋は熊本城を「この青竹(いらさぼう)で、ひとたたきでごわす」といったくらいなのだ。
 しかし実際攻めてみると、さすが難攻不落の城である。そう簡単に落とせる城ではなかった。しかも政府軍は籠城することで、味方の援軍を待つという作戦に出たから余計である。薩軍にしてみれば、「こんなはずじゃなかった」というところだろう。熊本城の攻撃で「薩軍の作戦心理は自閉的におちいりつつあった。そのことは、途に食物が落ちているのを見つけた犬に似ていた。食物(熊本城)を見すてて先に進めばおもしろい活路がひらけるのもかかわらず、食物にとらわれ、食物のまわりをうろうろしつつ、自分に襲いかかろうとする他の犬の群れに対して、寄るな寄るなと咆えつづけている図に似ていた」と司馬さんは比喩する。
 とにかく薩軍は熊本城を陥落させることにこだわった。ここに時間をさけばさくほど薩軍に不利になるのだが、熊本城見すてることはできなかった。こだわった理由は先に司馬さんが言った精神的風土なのだろう。いってみれば薩軍は熊本城という罠にかかったことになる。「薩軍がもし最初から熊本城を黙殺して一路豊後を衝き、小倉城をおとして連隊の兵器弾薬をうばっていれば、らくらくと成功したに相違なく、あるいは歴史は変わっていたかもしれない」と司馬さんはいう。
 西郷を担いだ薩軍はその精神的風土からくる自分たちの意識下で行動していた。そこには戦略などない。薩軍にあるのは総帥の西郷の天下における威望とこの薩人最強説という神話以外になかった。だから西郷と薩軍の行動は「町内の花見のように、その根拠地である鹿児島県を空っぽにし、全軍をあげて出はらってしまう」のである。
 この西郷の威望は薩摩の私学校生徒だけではなく、近隣の農民たちにも及んだ。薩軍に心を寄せる付近の農民は、彼らに握り飯をはこんでやっている。
 司馬さんはこの時代には「世間一般に人望家を待ち望んだり、恋い慕ったりする異常な偏向が存在した」といい、その説明を次のようにいう。「士族にしても農民にしても、藩といったような緻密で堅牢な封建組織が霧散霧消してしまうと、殻をうしなった剥き肉(み)のやどかりのような心細さをもち、そのくせ『官』というあらたに出現した重量については違和感のみを感じてそこからのがれたくなってしまう。そういう自分たちに方向を与えてくれたり、居場所を決めてくれたり、ときには死に場所をつくってくれるのが、人望家であった」。その人望家が西郷であった。
 農民たちは東京でできた革命政府と、彼らが作りはじめている重苦しい近代国家というものを歓迎しなかった。だから新政府をこわそうとする西郷軍に満腔の厚意をもっていた。農民からみれば、にわかに東京にできた新政府などは税金をとりたてる泥棒も同然といったような印象だったにちがいない。農民たちは馴れなじんだ徳川封建制こそいまにして思えばよかったと一般に考えていたし、それを西郷と薩摩士族がとりもどしてくれることを歓迎していたのだ。
 また薩摩士族にしても戊辰戦争をわずか一年で片づけた「古今無双の英雄」として西郷を担ぎ、西郷の威望で天下を覆うことで、自分たちの存在が政府軍より重いのだと思え、東京の太政官を士気の上で軽んずことができ、太政官を正統の政府というより大久保の「私政府」のように受けとるようになる。

 薩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下し、熊本城と連携しようとするのを防ぐため、兵を割って田原坂を中心に布陣し、政府軍と激突する。その攻防はすさまじい。
 田原坂周辺ではいまでも土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。


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          「週刊街道をゆく」の13巻より

 これは敵味方の弾が空中でぶつかりあってお互い噛みあい、だんごのようになったものである。現在田原坂の坂の上にある通称「弾痕の家」とよばれる家にもこの「行きあい弾」が保存されている。これは偶然のおもしろさといった軽々しいものじゃなく、こういう「行きあい弾」がいくつも見つかるということは、それだけ一定の空間に相当な密度で銃弾が行き交ったという証明である。
 薩軍は田原坂ですさまじい戦いをしたが、結局敗走するところでこの巻は終わる。いくら政府軍が弱いといっても、兵、銃弾の数において薩軍を上回っていたし、兵器の性能も政府軍が上回っていた。さすがの屈強の薩軍も個人の能力だけでは勝負にならなかった。しかも薩軍には戦略を立て、統治し、指揮する人物がいなかった。西郷はこのときも何も言わなかったのである。


書誌
書名:翔ぶが如く 6
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617602
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:329p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月17日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 5

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 話は大久保利通と木戸孝允の関係から始まる。
 明治六年大久保は木戸孝允と手を組み、西郷の征韓論を排し、西郷を下野させた。しかし大久保が外征熱の高い薩人の気分をそらすために台湾征伐を行ったことで、木戸は怒り、参議を辞職する。木戸を失ったことは、大久保にとって痛恨事であった。なぜなら東京の政府は薩長の二本柱で成り立っていたからで、その一本を失ったことは大きい。大久保は執拗に木戸の復帰を願い、明治八年に復帰する。この頃の木戸は明確に立憲主義であったが、大久保はしばらくの間は政府主導方式の専制政府を目指していたので、木戸の考えを有名無実化した。このため明治九年に木戸は参議をやめた。
 その木戸が「鹿児島県だけが、なぜ治外法権のごとく政府から屹立しているのか」と大久保に詰め寄る。鹿児島県を他県同様、ただの府県としろというのである。これは大久保にとって苦悩の種で、木戸からいわれれば、反論の余地がないものであった。だから先の巻で県令の大山綱良を呼びつけたのである。
 ここに大警視川路利良という人物がいる。ジョゼフ・フーシェが創設した秘密警察の存在に感銘を受ける。ナポレオン以来パリの警視庁が反政府主義者について情報収集しているのを模範として、日本の警視庁の創設に努めた。実はこの話は最初に川路がフランスに渡り、パリの警察制度に感化されるところから始まる。川路は岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。
 そして今回も薩摩に密偵を放ち、私学校に潜入し、「私学校幹部の政略は無謀であり、東京政府について彼等が宣伝しているところはみんなうそである」と説いて内部分裂させようとする。その上で出来るなら西郷を暗殺してこいと指示したのである。
 川路は「鹿児島県が、県をあげて太政官に服しようとしないのは、日本一の強藩であるという誇りや、維新における薩摩藩の功績についての自負、また政府もそれを導入した文明も否定する島津久光という存在、さらに一般問題として士族の失権についての精神的、経済的不満などあげられるが、もし西郷が存在しなければ、在郷の鹿児島士族がここまで驕慢にならなかったであろう」と考えていた。
 川路にとって西郷に恩を蒙った経緯があるし、西郷は徳者であると思っていたが、ただ今は西郷の存在そのものが悪であると考えていた。私学校の若者(にせ)が西郷を担ぐからである。だから私学校に密偵を放ち、内部分裂させると同時に西郷を抹殺すれば、鹿児島の不満は沈静化すると考え、大久保にそれを提案する。大久保はこの川路の提案を承諾したかどうかは、真相は明らかじゃないらしい。ただ司馬さんは大久保が岩倉具視と孝明天皇暗殺にかかわった疑惑があるので、可能性はなくもないとしている。
 とにかく川路は警視庁の鹿児島出身の警官を密偵として帰郷させた。後に彼等は私学校側から「東京獅子(あずまじし)」と呼ばれる。いずれにせよ、これが私学校側に発覚し、西南戦争への導火線に火を点じたことになる。この真意を確かめるため、西郷は立ち上がったという理由を与えてしまった。
 そこに鹿児島の不穏状態にあるため、鹿児島にある兵器弾薬を大阪に移そうと太政官が動き出す。船を鹿児島に入れ、秘密裏に兵器弾薬を運ぶが、その噂は広まった。当然私学校生徒の憤激を買った。「政府がその気であれば、すべからく機先を制し、これをわが手に収むべきではないか」ということで、鹿児島北郊にある草牟田の陸軍火薬庫を私学校生徒が襲撃し兵器弾薬を奪ってしまった。弾薬が政府に運び去れれれば、いざというときにあてがなくなると思ったのだろう。
 これを聞いた西郷は「シモタ!」、「何事、弾薬などを追盗(おとつ)せえ」と怒鳴ったという。何事であるか弾薬など獲って、ということである。火薬庫襲撃は政府に対する公然たる挑戦であり、さらにいえば政府に討薩の名目を与えたようなものであった。
 確かに密偵や兵器弾薬の移動は政府の挑発である。私学校生徒はそれにまんまと乗ってしまったことになる。西郷が怒るのも当たり前であった。今まで自分が不平分子に担がれないように山にこもり、自ら隠れることで、彼等を抑えてきたのが、すべて水の泡と期したのである。こうなるといいわけなど出来ない。
 西郷は山を下り、私学校幹部も集まり、出兵すべきかどうか討議する。幹部には西郷一人に大久保に、刺客問題、弾薬の問題を談判に行かせればいいという者もいた。つまり挑発したのはそっちだろうと西郷にいわせればいいというのが反戦派の主張であった。しかし幹部の篠原国幹が「政府はどうであるか。すでに刺客を放って先生を打ち殺そうしている。いまわれわれが義兵をあげてその非を鳴らすに、何の不都合があるか」という任侠道的一言で出兵は決まった。最後に西郷の裁断を桐野利秋が仰ぐ。西郷は次のようにいう。

「自分は何もいうことはない。一同その気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され」

 この決起は戦略がない。ただ鹿児島で立ち上がって、兵を引き連れて東京まで行き、大久保たちに詰め寄るということであって、その間に起こりうる問題を一切考慮していなかった。司馬さんは「かれらは西郷を崇敬すること、あたかも宗教的感情のようである。さらには、ひとたび西郷が起ちあがれば満天下の士族が風を望んでやってくるだけでなく、鎮台も戦わずして靡き、東京政府はそれだけで瓦解する、と信じていた。私学校生徒に世界観などあるはずがなく西郷その人が世界観であり、戦略などあるはずがなく西郷そのひとを擁するというだけで戦略は足る」と考えていたのだろうという。
 その西郷にしても、幕末、維新とあれほど政略を持って行動した人物なのに、維新後まるで一切を投げ出した態度(それが性格的な問題としても)で明治政府とは無関係というような態度でここまできている。ただ維新の最大の功労者という肩書きだけが一人歩きしているような感じである。
 こうして立ち上がる以上、立ち上がる理由があったはずだと思いたい。例えば自分が作り上げた維新政府が、今まで描いていたものでなっかったなら、もう一度作り直してやろうという意味で今回のように挙兵するのだといえば意味はあるだろう。それを何もいわずにこの体差しあげますからとしか言えないのが不思議である。少なくとも自らの意思で立ち上がるなら、自らの意見を言って、作戦を立ててしかるべきだし、もっといえば、志士たちの暴発を防ぐことだって出来たはずだ。ただ担ぎ上げられることだけを恐れて山にこもってしまう。厭世的気分が西郷の頭の中でいっぱいだったのだろうか?司馬さんは維新前と維新後では別人のようだといっているけれど、まさしくそう感じる。
 そんな西郷の変化を説明するために、司馬さんは極端な事例を持ち出す始末である。それは西郷が山にこもっているとき、転んで切り株の角で頭を打ったからだというのである。そうしたことでしか説明できないほどの豹変なのである。
 とにかく西郷は立った。それを知った大久保利通は「それが終(つい)に、公表に拠り、西郷も加担してゐると知ったときは、アノ背の高い(殆ど六尺あつた)父が、座にゐたたまらず、焦燥しながら、座敷と廊下の間を鴨居に頭をぶつけながら、グルグル歩きまはつて、そして眼には一ぱい涙を湛へて居つた」と大久保の次男牧野伸顕が叔母から聞かされていたという。(司馬さんは大久保が西郷暗殺に加担したのであれば、この態度は大嘘だとはいってはいるが)
 いずれにせよ、ついに西南戦争が始まった。


書誌
書名:翔ぶが如く 5
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617503
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:311p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月10日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 4

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 この本を読んでいると、本来革命というものは、旧政権に対する下からの突き上げによって起こりうるものであろうと思うが、明治維新というのはその点多少異なることに気がつく。
 西欧列強が幕府に開国を迫り、幕府は列強のいわれるがまま開国をする。その恐怖から攘夷運動が起こり、尊皇と結び付き、倒幕運動とつながっていく。尊皇と結びつくのは、彼らには幕府を否定する思想的根拠がそれしかなかったからだ。司馬さんはそれを「その思想的根拠として、国学的教養の者も宋学(朱子学・陽明学)的教養の者も、みな天皇にもとめた。天皇という、多分に非現実的な超幕藩的存在を絶対視することによって、当面の敵である幕府の存在をを卑小化し、論理として非合法化し、やがては潰したのである」と説明する。
 倒幕を成し遂げたのは、薩摩や長州の志士たちであり、彼らの下にいる庶民を政治に参加させるという思想はない。彼らには、その次どうするかという構想がないに等しかった。だから倒幕を果たしたものの、しばらくは幕藩体制を維持することになる。ということは、支配する側の顔が変わったことだけであった。司馬さんも似たようなことをいっている。
 
 「旧幕府は、列強におどされ通商条約というかたちで屈辱的開国をした。それを責めて全国の攘夷家が立ちあがり、通商条約破棄をせまり、やがて薩長という二大雄藩がその時代の気分の代表をなした。その薩長がそれぞれ外国と武力戦(薩摩の薩英戦争と長州の下関海峡戦争)をおこない、外国の武力の抗しがたいことを知り、ひそかに体質を変えた。藩として大いに外国の技術を導入し、洋式軍隊の強化と併行して産業国家をめざそうとしたが、その二大雄藩が太政官を作った以上、ペリーに屈した旧幕府と似たふうにならざるを得ない」

 明治維新は倒幕運動で終わりではない。新政府(太政官)による国家を作らなければならない。しかし欧米風の近代国家を日本に植え付けるには、国民の意識がある程度成熟していなければならないのだが、それがなっていない。依然旧幕時代のまま意識であった。だから新国家は制度として国家と近代国家とはどうあるべきかということを国民に教えていかなければならなかった。だから大久保利通が考えたように、国民の意識がそこまで成熟するまで、新政府がイニシアティブをとって導いて行こうとする。そのためには中央集権による専制国家をまずは作り上げ、国民の意識はその後にというような、ある意味自分たちに都合のいい考えで、国家を動かしていく。
 まずは藩という存在がじゃまであった。だからそれを潰す。そしてそれに対して反抗しないように自分たちの軍を持つ。それは徴兵制度で百姓たちを軍人にすることでまかなった。そうなれば、いわゆる武士は不要になる。彼らは廃業するしかなかったのである。
 百姓も江戸時代では年貢だけを納めていればよかったものが、今度はそれ以外に徴兵制度に強制参加させられる。しかも近代国家というのはお金がかかるものだから、税金も高くなる。新国家は士族から百姓まで不満だらけになっていた。だから政府のいうことを聞かない所もでで来るし、なめてかかられた。
 例えば鹿児島県令の大山綱良がいい例である。大山綱良は島津久光の代理者的存在で、大久保利通を「一蔵め」と呼ぶ。大山にすれば、大久保は倒幕に恩ある藩士族を裏切り、その特権を奪い、四民平等といううそのような世間を作った詐欺師であり、東京政権を守るために百姓に軍服を着せ軍隊を作った悪党であった。
 鹿児島県は私学校幹部を県費でまるまる抱え、人員過剰で目に余るものがあった。大久保は大山に他県並みにせよと言うが、大山は「一蔵、汝(わい)は何をいうのか。それほど県官を淘汰したければ、汝自身がやれ。内務卿を辞職して鹿児島県令になり、その上で県官を淘汰せよ」「もし内務卿の後任がないというなら、わしがその職についてやる。交替せよ。交替してから、淘汰なり何なり、好きなことをやれ」とかみつかれるのである。大久保は黙るしかなかったという。
 一方で幕末、尊皇攘夷といって、薩長の志士たちが倒幕運動を始めたのが、いつの間にか攘夷というのが抜け落ちてくる。現状の日本では攘夷など出来るわけがないということで、そうならざるを得なかった訳だが、振り上げた拳をどうしていいのかわからない状態でもあった。そのエネルギーが士族階級の没落もあって、征韓論となっていく。
 そんな西郷や征韓論派の諸参議の下野後、太政官はその機構のなかに批判勢力を持たなくなり、一面では孤立、一面では独走の権力になった。そこに新政府への不満がからみ合って、エネルギーが変質し、自由民権運動がわき上がってくる。
 面白いのは政府への不満は新聞で行われ、その記者たちは旧幕臣や維新に乗り遅れた藩の出身者が多かったという。本来、革命をおこしたはずの新政府がもつべきであった自由民権という欧米の理念は、維新より遅れてこの国に入ってきたため主として新聞に拠る記者たちの理念になったのである。伊藤博文