2009年10月28日

篠田謙一著『日本人になった祖先たち』

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 この本を読んでみたいと思ったのは日経の9月6日の「SCIENCE」の記事を読んだからである。その記事は宮城県の前知事浅野史郎さんが成人T細胞白血病という聞き慣れない病気で入院したことから始まる。この病気母子間で感染する「成人T細胞白血病ウィルス(HTL-V1)」が原因らしい。この病気は九州南部、沖縄、そして東北地方の三陸海岸や北海道に多く発症者が出るという。つまり感染者の分布に地域的な偏りがあるというわけだ。
 HTL-V1はアフリカでは今も多くの感染者が見つかっていることから、アフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年前以上に日本に到達したことを示しているという。つまり縄文人はアフリカからの来たことを示している一例ということなのだろう。
 ところが日本には紀元前5世紀から紀元後3世紀に朝鮮半島から弥生人が渡来し、縄文人を日本の南北に追いやったために、この地方にHTL-V1の発症者が多く出るということらしい。
 おもしろいもので、このHTL-V1はアンデス山脈の先住民からも日本人と同じタイプのHTL-V1を持つ人が多くいるという。つまりアフリカから生まれた現生人類の子孫は南アメリカまで旅を続けたことになる。
 一方弥生人も渡来してきたときに、病原体を持ち込んでいる。それが結核である。結核菌に感染すると脊椎カリエスになることがある。(正岡子規が冒された病気だ)つまり骨に結核の証拠が残るわけだ。ところが縄文時代の人骨を調べてみると一つもその病気の痕跡が見つからず、逆に弥生時代の人骨を調べると、その痕跡が見つかるという。このことから結核菌は弥生人持ち込んだものだろうと推測されるらしい。それは「今の新型インフルエンザと同じように大きな被害を受けただろう」とその記事は結んでいるが、インフルエンザと結核を一緒にしていいのかなと素人ながら思うが、まあいい。私はアフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年以上前に日本に到達したことに多大な興味を覚えたのだ。それでそんなことを書いた、素人の私でもわかりそうな本を探していたら、この本を見つけたわけだ。ただやっぱり素人だから、いくらやさしく解説されていても難しい。

 ところでものすごく驚いたことがある。私たちが世界史で学んだ頃の人類の進化とは、アフリカで生まれた人類の祖先であるアウストラロピテクスから、原人と呼ばれるピテカントプロスエレクトウスやシナントロプスペキネンシスと進化し、ネアンデルタール人に至り、そしてもっとも今の人類に近いクロマニヨン人となって進化してきたと教わってきた。(しかし今でもよくこんな学術名を覚えているなあ。それだけ受験勉強した証拠?)絵で描けばこんな感じだ。多分教科書にもこんな感じで載っていた気がする。


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 ところがこれは違うらしい。この本によると私たちが教わってきた人類の進化は「多地域進化説」と呼ばれるもので、それは100万年以上前にアフリカを旅立った原人が各地で独自の進化進めてそれぞれの地域の新人に移行したという説である。しかし最近の科学はその説を否定し、現生人類はすべて20万~10万年前にアフリカで生まれ、7万年~6万年ほど前にアフリカを出て全世界広がったというのである。従ってこの説に従えば、北京原人やジャワ原人、あるいはネアンデルタール人といった各地の先行人類はすべて絶滅したことになる。
 200万年前以降にアフリカで生まれた人類はアフリカを旅立ち、旧大陸の各地に先行人類が分布したのだが、これらの先行人類はすべて絶滅し、再びアフリカで生まれた私たちの直接の祖先が世界を席巻したことになるのだ。要するにヒトが各地で段階的に進化して、今に至っているのではなく、アフリカで誕生した新人が世界に広がっただけのことらしい。これを「新人ホモサピエンスのアフリカ起源説」といいい、今ではこれは常識となっている。
 アフリカってすごい。高等類人猿からヒトへの第一歩を踏み出したのもアフリカなら、私たちの直接の祖先が生まれたのもアフリカなのだ。でも、何でアフリカなんだ。これに関しては未だ説明が出来ないらしい。

 これにを知ったとき、私たちが詰め込まされてきた知識って何だったんだ!と思ちゃったね。この説が常識となるのには、DNAを解析する分子生物学が1970代から爆発的に発展したことからわかったことらしい。推定される新人の移動経路がこの本に載っているけれど、これを見るとその旅路はものすごいことだなと思う。ものすごい時間と距離を改めて感じるのである。今みたいに飛行機で一気に飛べる訳じゃないんだよ。一歩一歩、歩いて世界を席巻したんだからすごい。こうして移動する訳って何だろうと思うのだが、それに関してはこの本には何も記述がない。だからこれは勝手な素人の想像だけれど、生きるために狩りをするうちに、餌を見つけるため移動していった結果、ここまで来ちゃったということなのかなと思う。

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 著者は「私たちは学校で新大陸を発見したのはコロンブスだと教わります。しかし、それはヨーロッパ人から見た発見であって、彼らは新しい大陸を発見した最初の人類だったわけではありません。実際には、人類の最初の旅がすでに終わっていたことを確認しただけだったのです」と書いているが、まさしくその通りだなと思う。ヨーロッパ中心の歴史書の記述と人類学が教えるものと大きく違うことを教えてくれる。
 さらに彼らの進出はポリネシアの島々まで行って完結するけれど、その先には南米大陸がある。中にはそこから南米に渡った新人がいたかもしれない。そうなると北から北米へ渡り、南米に至った同じ自分たちの子孫と出会い、再会した可能性がある。ここでも著者は「ミトコンドリアDNAの拡散の歴史から見れば、非常に劇的なものだった」と言っているが、もしそれが本当にあったとしたら、すごいことだ感じいっちゃう。

 それにしてもこの分子生物学ていうのはすごい。こんなことがわかってくるのだから。
 私たちはその歴史の変遷(あるいは文化の伝搬など)を知るには、残された遺跡や考古学的資料など、ぽつんぽつんと発見される事実を、その変化を目に見える範囲内で、同じものや似たものをつなぎ合わせて、たぶんこんな感じでつながっていったんじゃないかと想像することで、歴史を語ってきたような気がする。特に文書として記録がない時代はそうであろう。
 ところが科学は動かしがたい事実をそこに突きつける。それまであった歴史の常識さえ覆してしまうのだ。もしかしたら科学というのは、歴史を本当の意味で書けるんじゃないかと思ってしまう。もう歴史学は文系のものではなく、理系の範疇に組み入れられるものに変わってしまうのではないかと思ったりする。

 ではこのアフリカで誕生した新人がどのように世界に広がっていったのか、それを裏づける証拠となるものは何なのかというと、ミトコンドリアDNAからわかるという。たとえば私を作っている遺伝子は両親の卵と精子の結合から生まれている。そして両親はさらにその親の卵と精子の結合から生まれている。ということは私を作っている遺伝子はそれまでバラバラに集団の中にあった遺伝子から偶然組み合わされて出来たことになる。つまり数百年前には今の私を作っている遺伝子は影も形もなかったことになる。そしてその逆も言えるわけだ。この私において結実した遺伝子の組み合わせは、たとえ子孫を残しても世代を経るごとに散逸し、数世代すればまた元のようにバラバラとなる。これだと遺伝子からその祖先を探ることが不可能となる。
 ところが親の持つDNAがそのまま子孫に伝わるものがある。それがミトコンドリアDNAである。ミトコンドリアDNAは母系に伝わる。つまり常に娘が生まれて子孫を残していけば、母系の系列は絶えないのから、子孫のミトコンドリアDNAは先住者のものと同じとなる。一方父系にはY染色体のDNAが継承される。(この本は基本的にミトコンドリアDNAで人類の歴史を語っている)
 一時、天皇の皇位継承権で愛子様が女帝になるという話があり、それを認めようかどうか問題になった。そのとき反対意見としてそれまで男子に皇位継承権を与えてきたから、Y染色体が代々継承されてきた。しかしここで愛子様が天皇になるとそのY染色体が断絶するということがあったが、それがこれなんですね。著者もDNAを血統とか家系と結びつけて捉える考え方があり、場合によっては特定の家系を特殊なものであると考える際の生物学的なバックボーンと利用されることもあると、暗に当時騒がしていた皇位継承権の問題を批判しているような気がした。
 そもそもY染色体の「最大の機能は言うまでもなく男性を作る作用なのですが、その部分は非常に小さく1000塩基対程度しかありません。Y染色体の大部分は意味のないDNA配列で埋められていて、実情はそれほど威張れるものでもないようなのです。ことさら男子の系統を大切にする風潮は、DNAから見れば何か滑稽な感じすらします」と著者は言っている。

 さてそのミトコンドリアDNAである。詳しいことはよく分からなかったけれど、ミトコンドリアDNAは一つの細胞の中に多数のコピーを持っているので、核のDNAより人骨などに壊れないで残っている可能性が大きい。その上PCR法でそれを簡単に増幅できるらしく、解析にはもってこいなんだそうだ。しかもその構造の中で、「D-ループ」という狭い領域に異変が集中しているので、そこを解析すればいいという利点があるらしい。
 その解析の結果、ミトコンドリアDNAの多様性は大きく四つのグループに分けられる。それぞれA~Dの記号をつけられ、これを専門用語で「ハプログループ」と呼ぶ。このハプログループがさらに細かく分岐していく過程を見ていくと、アフリカで生まれた新人がどのように移動していったかが、わかるというので、結果さっきあげた分布図となっていく。(かなり端折っちゃたけれど、正直あまりにも細かくてよく分からなかった)
 日本人の祖先もこの分布図に示される人類の移動経路で考えなければならない。ただ書名の割には日本人の祖先はどこから来たのか、結論を明確にしていない。
 日本人の成立に関しては、形質人類学の立場から、旧石器時代につながる東南アジア系の縄文人が居住していた日本列島に東北アジア系の弥生人が流入して徐々に混血して現在に至っているという二重構造論が唱えられていることを、DNAの解析からある程度これを認めて終わっている。著者は「現代日本人が在来系の縄文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという、混血説(二重構造論)を強く支持しています」と書いている。ここでは結論しているんじゃない。あくまでも「支持している」と書いているだけだ。それを断定できるほど、ことは簡単じゃないらしい。

 ところで、著者は「日本人の祖先集団の成立に際しては、大陸の広い地域の人々が関与したために、私たちの持つDNAは、東アジアの広い地域の人々に共有されています」と書いている。これは日本という国家だけを考えるのではなく、アジアの広い地域の人々と共有するDNAがあるのだから、そのDNAを共有する民族同士もっと仲良くなっていい。隣接した国同士ほど、いがみ合いを持っているというのも普遍的な現象としてあるけれど、それを超越する共有のDNAがあるのだから、このことを認識すれば、お互いを信じることが出来るんじゃないかと言っている。それはアジアだけでなく世界でも通用するのではないかとも言っている。
 でも、こうした結論はちょっと陳腐過ぎるような気がする。たとえ生物学的共有物をお互いの国の人々が持っていても、だから仲良くなりましょうとはいかないのが現実で、こんなことを言っても「だから?」と言われそうな気がする。生物学的なことと実際の人間が持つ考え、宗教思想、あるいは政治思想とはまったく別問題だからだ。それに人が自分を認識するのは、他人と比べていかに自分は優れているか(劣っているか)、違うのかで、そう思うわけで、異なる他者がどうしても必要なところがある。悲しいけれどそれが事実だ。そういう比較は、仲良くなりましょうという考えから、明らかなに相反する。だからこの本の結論としては、せっかく面白く、ワクワクさせてくれたのにちょっともったいないなと思ったわけだ。
 この本の最後には、科学や技術の発達は、これまでにないヒトの移動を可能にする。経済のグローバル化はボーダレス社会を築き始めている。そのことはそれまで人類が長いことかけて蓄積してきた地域に固有のDNAの組織が解消する可能性がある示唆している。だろうな、と思った。このことはそれまで固有であったものがそうでなくなることを示している。さらに国の、社会の、民族の、あるいは特定の家系の固有性を示すバックボーンとして成り立たなくさせることにもなる。当然遺伝子の分野でも大きな変化を起こすのだろう。でも一方でなんとかしてその固有性にこだわるということも出てきそうだ。だからDNAの共有だけでは世界平和は生まれないのではないかとも思う。

 この本を読み始めたのは、日本人はどこから来たのか。それを知りたくて読んだのだけれど、予想に反して人類の歴史を知ることになってしまった。専門的な分子生物学の記述は難しかったが、けれど面白かった。新しい事実を知って驚いたし、日本人の祖先がアフリカから歩いて、代々来たというだけで、壮大なロマンを感じた。


評価
★★★


書誌
書名:日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
著者:篠田 謙一
ISBN:9784140910788
出版社:日本放送出版協会 (2007/02/25 出版)NHKブックス
版型:219p / 19cm / B6判
販売価:966円(税込)

2009年08月12日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈3〉

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 読みかけていたこの本を読み終える。読んで面白いなと思ったことを書いてみる。
 それは司馬さんが小説を書く場合、どんなとき、どんな人物を小説として書いてみようと思うのか?ということである。その素材を見つける時はどんなときなんだろうと興味がある。その見つけ方というか、司馬さんの興味のあり方を次のように書かれる。

 某という人物その人生というものは、その某の人生が完結したあと、時間がたてばたつほど、私にとって好材料になるのようである。時間が経たねば、俯瞰ができない。俯瞰、上から見下ろす。そういう角度が、私という作家には適している。たとえばビルの屋上から群衆を見おろし、その群衆のなかからその某の動き、運命、真理、表情を見おろしてゆく。この俯瞰法(つまり歴小説を書く視角)で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運命とその環境、そしてその最期、さらに某の存在と行動がおよぼしたあとあとへの影響、というものを知ることができる。たとえば織田信長を書く場合、どのように粗雑な態度の筆者でも、信長自身が知らなかったたった一つのことだけは知っている。それは本能寺でかれが自分の部将に殺される、という運命である。

 従って、「私は同時代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。理由は、最初にいったように「現代」では人生が完結していないからである」という。
 その上で、なおプラスアルファが必要だともいう。その人物が時代の変革期にいることである。その条件を満たしたとき、「自然、書くことが歴史小説になる」というのだ。
 そういう姿勢のだから、違う文章では「私は小説家であって、おなじく人間に興味をもつ教育者や政治家とちがう。だから『おまえはどんな人間像を期待するか』と問われても、答えようがないのである。そう在るような人間を書いているのであって、そうあるべき人間を書いているのではない」と言いきる。なるほどなと思った。

 そうして見つかった素材を小説にしていくとき、次のように注意していると言う。

 それぞれの創作家によって意見はちがうとおもうが、私の場合は、小説家には歴史を曲げる権利はないとおもっている。歴史は国民の共有財産であり、いかに小説であってもそれを勝手に変形していいものではないであろう。だから、私の能力のあたうかぎりにおいて正確を期したい。

 となれば当然多くの資料に当たらなければならないだろう。何かで読んだけれど、司馬さんが『坂の上の雲』を執筆されたとき、司馬さんが資料を集めたため、日露戦争関係の資料が神田の古本屋街でなくなったというくらい、正確を期するために多くの資料を読んで歴史小説を書かれている。これは大変なことだろうなと思うのだが、どうやらそうでもないようである。

 その正確を期すために先人の書いたものを読んだり、史料にあたったりするのだが、この段階のおもしろさというのは、私にとっていかなる娯楽にも代えがたいものである。
 かといって歴史家でないというのは、その段階を科学的精神と方法でやり、それを完結させるというのがその分野のしごとであり、小説家の場合は、その段階は単に創作的刺激をもとめるための予備運動にすぎない、ということである。いいかえれば、作家にとって資料というのは想像の刺激剤にすぎない。小説のたねではなく、あくまでも刺激剤なのである。

 ところがそうして資料あさりをしているとみごとすぎる歴史書に出くわしてしまった場合、ひどく困るという。それがあまりにも完全であるため、しかも文学的感動さえ与えてくれる歴史書を読んでしまうと、刺激剤どころではなく、想像の余地さえなくなってしまうものもあるという。
 このことは先日読んだ吉村昭さんの随筆にも似たようなことが書かれていた。吉村さんも歴史小説を書く場合、資料として例えば人物の伝記などを参考にする。その参考にした伝記が類い希な名著であり、史実すべてがその著作の中に詰め込まれていて、たとえ精力的に歩き回ったとしても、これ以上何も出てこず、これ以上手も足も出ない名著に出会ってしまうと、この素材を放棄するしかないと思うというのだ。
 私は大学で史学部を出ているけれども、そうした感動的な資料に出会ったことがなかったので、そういう歴史書とはどんなものなんだろうなと思う。もっとも大学では仕方がないからやってきただけだから、そんな本に出会えるわけがないだろうけど・・・。

 ところで、今度の30日には衆議院議員選挙がある。最近各政党では世襲議員の制限をやかましくいっている。いわゆる二世議員というやつだ。彼らは親の地盤を引きついでいるから、大した素質がなくてもその地盤を使って国会議員になれるから、よくないというのだ。
 だけどどうなんだろうなと思う。二世議員が親の地盤を引きついで議員になるのと、まったく政治に疎い素人が、ただ興味があるというだけで国会議員になるとどちらが素質的にいいのだろうかと思うのだ。もちろん機会均等ということは大切である。けれどその二世議員が子供のときから国会議員である親を見てきている。あるいはたくさんの政治関係者の中で育ってきているはずである。となればその二世議員が育ってきた生活環境は、どこまでも政治がつきまとう環境ではないのかと思うのだ。代々政治家を輩出してきた家では、そういう伝統だってあるだろう。そう考えたとき、ずぶの素人と二世議員のどちらが次の政治家として力を発揮できるのだろうかと思うのだ。何はさておき人脈がものをいうに決まっている。
 何でこんなことを言うかといえば、司馬さんが「日本というのは徹底した大衆社会というべきであろう」と言い、日本がヨーロッパの貴族階級のような支配階級が長つづきしなかったが、ただ徳川時代は例外である。武士の支配階級が三百年も続き、その精神美を作り上げた。明治もある意味それを引きついだが、終戦後それらすべて滅びた。以後大衆一枚きり社会となったと説明する。
 このことはそれまで持っていた重厚な伝統や美意識など関係なく、あるものはいかにも薄っぺらで、インスタントになったという意味を言っているからである。
 司馬さんはそうした貴族階級や支配階級の存在を肯定しているわけではないが、ただそうした階級の人々には重厚な伝統や美意識が骨の髄までしみこんでいるはずで、それ随順しようが、たとえ反逆しようがその社会(世界)にはそれに対応できる実容量あったはずだ。歴史とか伝統というのはそういうものであると言うのである。
 そうなのだ。二世議員のいる環境には「政治」という実容量があるわけだから、単に親の地盤を引き継ぐだけで政治家になるのはけしからんと言い切っていいのかどうかと思うことがある。もちろんどうどようもないボンクラもいるだろうけど、地盤も環境も政治とかけ離れた世界に住んでいた人間がある日突然政治家になっても、いったい何ができるというのか。二世議員の家にはそれまでのしがらみがあるだろうけど、大衆社会一辺倒になった今、そういうしがらみがない分、ある意味自由であるが、内容は薄っぺらいだけである。だからそれが政治家になれば恥知らずとなり、選挙民は単に政治家にたかるだけの存在となるだけなのではないだろうかという司馬さんの意見にはうなずいちゃう部分がある。

 えっ、東国原知事がいるではないかと言う声が聞こえそうだけど、あれは政治家じゃない。宮崎県知事を利用して国会議員になるという野望が見え見えだ。どこまで宮崎県のためにと思って行動しているか疑問がある。今回それが露呈したではないか。どう考えたって政治家の器じゃない。単に大衆社会の落とし子、あるいはあだ花だとしか思えないのである。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈3〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467035
出版社:新潮社 (2001/12/15 出版)
版型:397p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫ならあり

2009年07月31日

ジャック・ジョーンズ著『ジョン・レノンを殺した男』〈上〉〈下〉

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 この本は映画『チャプター27』の原案本である。訳者のあとがきによると、映画の方はこの本の上巻前半部分を使い、ジョン・レノン殺害にいたる3日間のマーク・デイヴィッド・チャップマンの行動に焦点を絞ったものだという。

 1980年12月8日、ニューヨーク・マンハッタン、ダコタハウスの前で、ジョン・レノンが5発の銃弾を浴びて殺害された。


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 犯人は世界一のジョン・レノンファンを自称するマーク・デイヴィッド・チャップマンであった。犯行の瞬間、彼が手にしていたのは、一丁の拳銃と『ライ麦畑でつかまえて』だった。


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 この本を読みたいと思ったのは、何故マーク・デイヴィッド・チャップマンはジョン・レノンを殺害しなければならなかったのか。それが知りたかった。確かにチャップマンが自分の心の中の“闇”を語る部分は興味深かったが、しかし読んでいるうちにだんだん吐き気を催すほどの怒りが私の中に生まれてくるのであった。
 それは自分が好きであったビートルズのメンバーであったジョン・レノンを殺したというファン意識からではなく、チャップマンが単に“ちやほやして欲しい”だけであって、そこには自己中心的で、被害妄想の塊であり、逃避癖がある人間でしかないことの怒りであった。彼は自分のすることにいつでも“正統性”を求めるだけの人間でしかなく、自己の中にある矛盾から自家中毒を起こしているだけの人間でもあった。そしてターゲットにされたのがチャップマンが子供の頃に憧れたビートルズであり、ジョン・レノンだったのである。
 チャップマンはビートルズというものが単なるミュージシャンであることをやめて、何百万ドルという規模の金を動かす一大事業になりはじめ、愛と平和をめぐる無垢の歌を自分たち個人の富と権力を求める堕落した強大な事業のために利用したと思い込んでいた。 それを偽善と考えたのである。チャップマンはそうした偽善がさまざまな問題の根源であり、さらに深刻なことにそうした偽善こそが自らの苦痛の原因にもなっているとチャップマンは考えていたのであった。
 チャップマンの友人が「マークがジョン・レノンの『イマジン』をあれは共産主義者の歌だと言っていたのをぼくは覚えています」と証言しているし、「そして、ビートルズがキリストより人気があるというあのレノンの発言には、彼は本当に頭に来てましたね」とも言っている。
 実際チャップマンが「天国もない宗教もない世界を想像してみろ」というレノンのメッセージが神への冒涜だとして『イマジン』を罰する抗議運動に参加していたし、彼はときには週に何度も宗派の祈祷集会やデモ行進に参加して、自らレノンの歌『イマジン』の預言めいた歌詞をつけて「ジョン・レノンが死んだと想ってごらん」と替え歌にして歌っていた。
 まぁこういうギャップに対して腹を立てるほど純粋だったと言えば言えそうだけど、そういうのっていつでも、どこでもある。現実は理想とは違うのだ。そのくらい分かれよと言いたくなる。

 しかし私がこのチャップマンに吐き気を催すほど怒るのは、そういうことじゃない。自分のやったことの正統性を主張するところが腹ただしいのだ。例えば何故ジョン・レノンを殺害に至ったのか、その説明を次のように言う。

 チャップマンは「自分が二十五歳の大人の男だが、いまだに子供の感受性を持っている」と言う。もっと彼の言うことを詳しく書くと、次のようになる。

 マーク・デイヴィッド・チャップマンは当時25歳という大人とホールデン・コールフィールド(サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)と同じ16歳の子供の内面を持っていたと言う。そしてジョン・レノンを殺したのはレノンが自分のヒーローであったその子供であるというのである。

 子供は自分の新しいおもちゃで遊びます。ところが、ある日、その新しいおもちゃを片づけようとして箱を開けると、もう何年も昔に遊んだおもちゃが出てきました。かつては自分のヒーローでしたが、いまはその面影もありません。子供はそれを見せかけの大人、偽りの大人に見せました。彼は言いました。「見てくれ!ぼくのおもちゃだったのに何だ、このザマは!」そして彼は癇癪を破裂させるのです。
 そして大人はなすべきことを知ったのです。大人には銃の知識がありました。飛行機の乗り方も知っています。お金を手に入れる方法も知っています。そうやって大人と子供はある種共謀をしたのです。自分のアイドルに対する子供の苛立ちと憤り。それは変わり果てたおもちゃに対するものでした。

「ダメだ!ダメだ!ダメだ!ダメだ。ぼくはヤツを殺したいんだ。ヤツをブッ殺してやりたいんだ。ヤツはぼくのものだ!ぼくはヤツの命が欲しいんだ!」

 ぼくは彼の背中に狙いを定めました。引き金を五回引きました。するともう頭の中は堰を切ったような状態になってしまいました。
 さらに「ぼくは自分がとてつもなくつまらない人間だという気がしていました。ですから、出かけていってその惨たらしい行為をすることで世の中がぼくを何者かにしてくれるのだというのは、ぼくにとっては、ひじょうに魅力的なことだったのです」と言うのである。
 つまり彼はジョン・レノンを殺害することで、人に相手にされない人間から、ジョン・レノンを殺した人間としてまた生まれ変わったとしてひとかどの人間(somebody)になれたことに満足するのである。
 というのも彼は絶えず人から自分の存在を認めて欲しいという願望が強かった。人にとって自分は意味ある存在であることいつも求めた。そこに自己満足を見出していた。
 実際彼はハイスクールを卒業した1973年からコヴェナント・カレッジに入学する1976年までの間、チャップマンはYMCAの国際的な特使として中東を旅し、歴代のふたりのアメリカ大統領と握手を交わしている。彼はまたジョージアでの恵まれない子供たち相手の仕事やヴェトナム戦争による難民のための仕事を評価される栄誉に浴している。レバノンのベイルートでは自分のいるすぐ近くの街路で勃発した内乱のさなかから生き還ってきた。それがチャップマンの栄光の時代でもあった。
 そういう体験をなまじしているものだから、いったんそうしたところから落ちてしまうと、こういう人間は弱い。何せ他人を通してしか自己を見出せないのだから。彼はその後精神的に病み、自らを次のように言うのだ。

 「ぼくは自分のいろんな問題から逃げて、自分を孤立させるという大きな過ちを犯してしまいました。
 自分を世界から切り離してしまうと、自分独自の世界を作り出さなきゃならなくなります。ぼくがやったのは、それだったんです。ぼくは自分の世界を編み出したのです。自分自身の中に引きこもり、もはや生きていく理由すらなくなってしまいました。ぼくはどんどん外の世界を遮断して、閉じこもり、パラノイアになっていきました。ますます敏感になり、傷つきやすくなっていきました。人間嫌いになりはじめ、みんなを軽蔑するようになりました」

 その時彼がやったことはけちくさい脅迫電話や、自分の妻に暴力を振ることだけだった。他人には何もできない人間であった。所詮その程度の人間なのである。後はそういう気持がどんどん鬱積しさえすれば、大きな力となり、あと何かの力が後押ししてくれれば大事件となる。彼の場合はジョン・レノン殺害であった。

 さらに腹立たしいのは、ジョン・レノン殺害に自ら怯えるに当たり、今度は自分が愛読してきたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の普及を自分の裁判で主張することで、罪悪感に対処していくのである。この本はいい本だから是非皆さん読んでくださいねとひたすら言うことが自分の使命と思い、自分が感じる怖れや罪悪感とすり替えていくのである。自らを「ライ麦畑の補導員」と称するのである。
 ちなみに『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドは、今でいう“おちこぼれ”で、学校の寮を飛び出し実家に帰るまでニューヨークを3日間ぶらぶらする話なのだが、自らの夢を「自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい」と語り、それがこの作品の主題ともなっている。チャップマンはホールデン・コールフィールドが語る夢の人を「ライ麦畑の補導員」と言っているのだ。

 こうしてこの男は自分を美化し、問題をすり替えて行く生き方しかできなかった。そういう人間だったのである。またそういう人間に限って被害妄想が激しいときているからたちが悪い。そして彼らを精神病者に仕立てていく輩がいるのである。精神鑑定家ってやつだ。何でも加害者の生い立ちや育ってきた家庭環境などに原因を求めるのだ。そしていつの間にか責任をどこかに吹っ飛ばしてしまうのだ。
 この本の下巻はそういう話でいっぱいである。チャップマンの育った家庭環境や生い立ちからジョン・レノンの殺害に結びつく何かを捜そうとするのは結構だけれど、私から言わせれば「だから?」と言いたくなる。むしろジョン・レノンのファンから出されたチャップマンへの手紙に「娑婆に出てきたら殺すぞ」という意見の方が、私としては自然のように思えるのだ。

 チャップマンは20年から終身刑の判決を受けていて、現在も釈放されていない。2008年8月12日、5度目の仮釈放申請を却下されている。ニューヨーク州当局の声明文によると、仮釈放は「公共の安全と福祉に与える影響を懸念して」認められなかったと言っている。


評価
★★


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈上〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055134
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:332p / 15cm / A6判
販売価:749円(税込)


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈下〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055141
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:370p / 15cm / A6判
販売価:800円(税込)

2009年06月23日

東海林さだお著『トンカツの丸かじり』

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 日曜日に東海林さん本を読もうと決めたのだが、先週は村上春樹さんの本に夢中になってしまい、とてもじゃないが途中でやめることができずに、そのまま読み続けてしまった。そして今週はテレビの映画とドラマに夢中になり、本を読むどころじゃなかった。ということで月曜日までこの本を持ち越してしまった。そしてそうこうしているうちに、このシリーズ30巻目が出ちゃって、こりゃあやばいなと思い始めている。しっかり予定通り読まないと、下手したら今年中で読み終わらないかもしれない。
 というわけで、慌てて読み始める。

 が、つまらない。

 というか、もう三冊目で食傷気味になってきてしまった。毎度毎度同じパターンで繰りかえされる食に関するエッセイは飽きるものだとわかり始めた。正直なところこんなはずじゃなかった。これはまずい。いつもの読書の箸置きみたいな感じで読むならいいのかもしれないが、ノルマとして読んでやろうと目論む本じゃないのではないかと思い始めた。これは“日曜日の読書”を考え直さないといけないかもしれない。
 というわけで、この本を読んでいて「もう、いいや」と思ったのが正直な感想だ。次はちょっと時間をおいてから読もうと思っている。


評価
★★


書誌
書名:トンカツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022560759
出版社:朝日新聞社 (1989/11/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月08日

東海林さだお著『キャベツの丸かじり』

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 また休みになったので、東海林さだおさんのシリーズ本第二弾を読む。やっぱり昔懐かしいものが気にかかる。「追憶の『ワタナベのジュースの素』」である。ありましたよね。「ワタナベジュースの素」というやつ。文字通りジュースの素が粉末状態になって袋に入ったやつ。オレンジジュースなんか飲んだ記憶がある。しかし今にして思うと、あの粉末には本当にオレンジが入っていたんだろうか?サッカリンたっぷりで、なんか化学物質いっぱいで、、最後に粉っぽい感じが記憶に残っている。でも私が子供の頃は今でいう清涼飲料水といえばワタナベジュースの素が代表格だった。思わず“懐かしい~”と言ってしまう。
 ここにも書いてあったが「プラッシー」というのもありました。どういう訳か米屋がダースでケースで持ってきた。なんで米屋だったのだろうか?あれは果肉が浮いていたはずだ。
 米屋といえば、正月ののし餅も米屋が配達してくれて、暮れ押し迫った頃、まだ柔らかい餅を母親が立てて、すーっと切っていったのを思い出す。いったいいつの頃から餅は袋に一口サイズに切って入るようになったんだろうか?思うに、お米を米屋ではなく、スーパーで買うようになった頃から、お餅もそうした袋入りに切り替わったのかもしれない。
 配達されたばかりののし餅(確か木の箱に入っていなかったかな?)を新聞紙の上に置いて、すーっと切っていく感じが面白そうに見えて、自分のもやらして欲しいと騒いだような気がする。やってみるとまっすぐ切れず、斜めに包丁が入ってしまい、変形した餅がいくつもできた。餅を切りやすくするために、濡らしたふきんが横に置いてあり、一度切ると包丁の刃をそのふきんで拭いて、多少湿らせて、再度切り込みを入れていく。あれはあれでちょっとした風物詩だった気がする。
 「懐かしののり弁」では今ホカ弁で売っているようなのり弁ではなく、弁当のご飯の上に醤油につけたのりがのっていて、しかもその下にも同じようにある。つまりのりが二段になっているのである。あの一番上にのっかっているのりが、弁当箱を開いたときにふたにひっついてしまい、醤油がしみたご飯だけになってしまうこともよくあった。それを元に戻したりしてね・・・。ふたを開ければぷ~んと醤油のにおいが漂っていいもんであった。しかしいつも早弁で食べてしまったから、昼は昼で、外でパンを買いに行ったりした。
 その弁当箱を包んでいたのは私の場合新聞紙であった。角の方で醤油がしみ出てしまい、破れてしまう。みんなはちゃんと弁当箱を包むやつで弁当箱を包んであった。私は自分のが新聞紙で包んであるのが、何か貧乏くさくて嫌で仕方がなかった。(実際貧乏だった)母親に弁当を包むナプキンみたいなやつで包んでくれと何度か頼んだけれど、がんとして母親は新聞紙で弁当を包み通した。
 だけど今思えばあの弁当はおいしかったなぁ。今その味を再現しろといってもなかなか難しいんじゃないかなんて思う。
 先月の31日は母親の祥月命日だったのをすっかり忘れてしまい、かみさんに怒られたのだけれど、こうした東海林さんの文章を読んで、ふと母親の姿を思い出した。


評価
★★


書誌
書名:キャベツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022559548
出版社:朝日新聞社 (1989/01/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月03日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第3巻〉

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 須賀敦子さんの文庫本全集三巻目を手に取る。須賀さんの本を読むにはそれなりに覚悟が私には必要で、じっくり読むぞという意識を持って読まないと挫折してしまう感じがする。要するにそれだけ私には須賀さんの書かれる文章が難解なのである。イタリアを中心にしたヨーロッパの作家たちの作品をここでは紹介してくれるのだが、大体において私の知らない作家たちであり、作品である。だからそうした作品を須賀さん自身、“思考の旅”として、様々な考えなり、感想をここで綴られると同時に、実際にゆかりの地を旅され、その“思考の旅”に肉付けしていく手法をここではとられる。
 読む側の私は、ふ~ん、こんな作家がいるんだと思いつつ、なんとかここに書かれている文章を自分なりに理解していくうちに、読んでみたいなと思うのだ。ただ一方できっと最後まで読むことはできないんじゃないかとも思う。それほどここに書かれる作品は奥が深そうである。
 たとえばマグリット・ユルスナールという女性作家の『ハドリアヌス帝の回想』など読んでみたいと思うのだけれど、多分かなり手こずりそうとも思える。
 例のよって読んでいて気になった文章を引っ張り出す。すると偶然かどうかわからないが、“信仰”を書かれたものがひっかかった。

 ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』で「神々はもはや無く、キリストはいまだ出ず、人間がひとりで立っていたまたとない時間」、『黒の過程』では「正統な学問がめざした<神という解答がすべての究極に待ちうけている>道を拒否すること」

 「マーティン・ルターのプロテスタンティズムは、それまで共同体のようなものであった祈りを個のものにしようとした人たちの、劇的で苦悩にみちた選択だった。(略)共同体によって唱和されることがなくなったとき、祈りは、特定のリズムも韻も、その他の形式も必要としなくなるから、韻文を捨てて、散文が主流を占めるようになる。散文は論理を離れるわけにはいかないから、人々はそのことに疲れはてて、祈りの代用品とし、呪文を捜すことがあるのかもしれない」

 どうしてこれらの文章が気になったかというと、多分キリスト教がなかった時代は、例えば阿刀田さんのギリシア神話の概説書を読んでいると、きわめて人間的だなと感じるところにある。キリスト教の信仰はあれもダメ、これもダメ、と人間の生活規範を縛り続けたんじゃないかなと思うことがあったからだ。
 史実として中世においてがんじがらめにヨーロッパ人の生活全般に普及したとき、今度はそこからの解放が行われる。すなわちルネサンス、宗教改革である。
 ところが、いったん縛られてしまった生活規範は共同体の主要な構成要素となっていたから、そこからの解放は、「個であることの心細さ」を生む。また個の存在を主張したとき、ここにあるように、共同体で唱和されていた祈りである韻文から、散文が主流になり、“文学”が生まれる。散文は論理的であることが求められるから、“科学”も生まれていく。そんなことを思ったのだ。

 あと気になった文章を書き出してみる。


 「人も物も、<生身>であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別の生命への移行をなしとげてあたらしい<物体>に変身したもの、それが廃墟かもしれない」

 「でも、もう、ちょっと指をはさんだり、ページを繰ったりされることのなくなった本たちは、とっくに死んでいるのが、私には痛いほどわかった。本は、それを蒐めた人間のいのちの長さだけ、生きるのだから」

 「日常に背をむけてしかもその日常を背おいながら文学に入る瞬間の、あのうしろめたさやはにかみのようなもの」

 「日はしずかに暮れていった。庭の木立の最後の蝉が鳴きやむころ、だれかが明かりをともすと、家に夜が来た」


 「ここに、じっとしていれば、じっと待っていれば、いいんだ」

 「日本語の『笑い』には、どこやら人間性を放棄したところでの、ちょっとよっぱらいの笑いのような、知性の領域をわざとはずしたところがあるのかもしれない」

 須賀さんの書かれる文章を徹底的に理解するのは私には難しいので、こうして書かれた言葉の余韻を楽しんでいる。ここから何か自分の中で生まれるのを楽しみにして・・・・。


評価
★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第3巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420530
出版社:河出書房新社 (2007/11/20 出版)河出文庫
版型:639p / 15cm / A6判
販売価:1,155円(税込)

2009年05月26日

小路幸也著『東京バンドワゴン』

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 結局ブックオフに売り飛ばしてしまったこの本を再度購入するはめになった。最初にこの本を読んだきっかけは、何かで本屋さんを舞台にした小説の紹介を読んで、いくつか続いて読んだ中にこの本があった。まとめて本屋さんを舞台にした小説を読んだものだから、いいものも悪いものも一緒になってしまったのだろう。だいたいこの手の本の紹介は手前味噌が多く、業界関係者がこぞって自分の職場が舞台になっているというだけで、“いいよ”となってしまうところがある。実際この時何冊か読んだはずだが、それほどよかったというものはなかったと思う。
 この本にしても、再度読み直してみても単独で読んだら大したことはない。ただこれがシリーズになって何冊が話が続いていると、いつの間にかその話に毒されちゃって、面白いじゃないかと思うようになってしまった。そのほのぼのとした大家族が繰り出す話が、その人間関係を伴って、話を面白くしてくれる。しかも肩の凝らない人間関係の話だから、読んでいて心地よい。それがわかったからこのシリーズは自分の本棚に収めておこうと思ったし、きっと続編も出版されるだろうから、それも楽しみにできる。
 ただ売り飛ばした第一弾が自分の本棚にないのはどうにもまずい。泣く泣く買い求め、再度読んで本棚に収めた。これでシリーズ全巻揃ったので、安心である?
 さて、再度このシリーズ第一弾を読み終えて、以後ホームドラマ的話の展開になるこのシリーズなのだが、まだこの巻は多少ミステリー的要素がちょっとしたスパイスとして利いていて、面白かった。潰れた旅館にある大量の蔵書の整理を頼まれ、値付けに行くのだが、翌日その本が全部消えていて、整理を頼んだ人物もいなかった話も、大した話に展開しなかったけれど、どたばたホームドラマの中でスパイスとなってよかったと思う。
 とにかくもう売った本を再度買い求めるなんてバカなことはやめて、自分の目利きをしっかりしたいなと思う。とにかく増え続ける本の整理が一番最初にあるものだから、読んでつまらなければすぐ売っちゃえと考えちゃうけれど、少々考えなければならない。


評価
★★★


書誌
書名:東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087753615
出版社:集英社 (2006/04/30 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年05月20日

小路幸也著『マイ・ブルー・ヘブン』

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 東京バンドワゴンの最新刊を読み終える。この本は今までのシリーズとは違い、現在の三代目の勘一と亡くなられて幽霊になって登場しているサチさんとの出会いを中心に、堀田家の歴史なども明かされて、どちらかと言えばストーリーの内容より面白い。お話の世界とはいえ、へぇ~そうなんだ!と感心しちゃった。“東京バンドワゴン”という古本屋さんはそこいらにある街中のしがない古本屋さんとは違うこと知らされる。
 話は終戦直後のアメリカによる占領時代である。子爵五条辻家にGHQが乗り込んでくる。慌てた当主政孝は長女の咲智子に秘密の文書が入った小さな木箱を渡し、静岡の伯母さん家へ逃れろというところから始まる。
 なんとか咲智子はGHQから逃れ、上野の駅に向かうがそこでGHQの関係者に捕まってしまう。それを助けたのが、キングス・イングリッシュを流暢にしゃべる勘一であった。

 えっ、勘一さんがキングス・イングリッシュをしゃべれるの?

 とにかくそこから咲智子を助け出し、勘一の実家である“東京バンドワゴン”という古本屋に連れてくる。ここで咲智子と勘一のお父さん、つまり“東京バンドワゴン”の二代目草平は自己紹介をする。なんと勘一のお父さんはケンブリッジ大学を卒業したらしく、その関係で勘一にキングス・イングリッシュを教え込んだという。
 そして草平の父親、つまり“東京バンドワゴン”創業者である達吉は、三宮達吉といい、明治の頃、財閥の娘さんと結婚し、鉄道事業で一時代を築いた政財界大物であった。三宮達吉はある日突然引退し、三宮とも縁を切り、堀田の性に戻り、古本屋をこの地で始めたという。そのため“東京バンドワゴン”には達吉の関係ですばらしい蔵書が蔵にたくさん在庫している。草平はケンブリッジにいた頃、二年下の五条辻政孝と友人であった。勘一はその頃医学生だった。

 えっ、勘一さん医学生だったの?!

 とにかく機密文書を持っている咲智子には危険が迫ってくるから、ここは咲智子を勘一の嫁として迎えたことにして、名前を堀田サチと変えることとなった。

 何かすごいことになってきた。

 “東京バンドワゴン”の創業者達吉は明治に鉄道事業で一時代を築いた政財界大物。そしてその息子二代目の草平はケンブリッジ大学を出ていて、さらに三代目となる勘一がキングス・イングリッシュをしゃべる、医学生。そしてあのサチさんが子爵の娘さんである。今までこのシリーズを楽しんで読んできた者にとっては、このシチュエーションは驚きである。それだけで話の展開より面白くなっちゃう。
 一応話の内容にも触れておかないといけない。この頃“東京バンドワゴン”には今と同じように多様な人が集まるのは同じであるが、時代が時代だけに、終戦直後の時代を反映する人々が集まってくる。戦災孤児のかずみさん。後に女医になる人。混血の若き貿易商高崎ジョー、日本陸軍の情報部の軍人であった和泉十郎、ジャズシンガーのマリアさん。
 草平と勘一、そして“東京バンドワゴン”に集まった彼らは、サチさんの親を助けるために活動するのである。そしてなんとかサチさんの両親を助け出す。勘一はサチさんを守るために偽装結婚をしたのだけれど、焼けぼっくりに火がついて、サチさんと結婚し、この“東京バンドワゴン”で暮らすことになるのである。
 勘一とサチさんの一人息子の我南人の名前の由来もここで明かされる。名付け親は勘一で、南の国住みたかったからだという。我南人がミュージシャンになった影響は、ジョーやマリアや十郎さんの影響だということになっている。

 すごいぞ、“東京バンドワゴン”と思った本であった。


評価
★★★


書誌
書名:マイ・ブルー・ヘブン―東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087712902
出版社:集英社 (2009/04/30 出版)
版型:305p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年05月18日

小路幸也著『スタンド・バイ・ミー』

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 第三弾を読み終える。今回も案外いけた。実を言うと今ちょっと後悔している。というのはこのシリーズは我が家の本棚に置いておこうと決めたのだが、第一弾は読後それほどでもないなということでブックオフに売り飛ばしちゃったのだ。ということはこのままだと第一弾がないことになる。これはちょっとまずいなと思い、なんとかしないといけなくなる。

 さて、今回もこの大家族に様々な問題が起こる。しかし問題といってもそれほど大したことではないのだが、主に人間関係のこじれから生じるものが多い。もともとこの家族、訳ありの人間関係から一つの絆で結ばれた家族なので、最初から問題を抱えていると言っていい・本人たちはそれほど気にせず、わきあいあいと過ごしているのだけれど、他人様からすれば面白いネタを提供してくれる。そこを突っつく輩がいて、それが時には問題となる。しかしこの家族のそんなことより、みんなと楽しく暮らしていることで、いつの間にかそういう問題は些細なことになってしまう。
 さらにご近所さんも、古本好きの人の様々な問題をこの家族に持ち込んでくる。当主の勘一は<文化文明に関する些事諸問題なら、如何なる事でも万事解決>という壁に貼ってある家訓を示し、「なぁに、ご覧の通り、我が家はあれこれ変なことを抱え込むのが家業みたいなもんでね。どうぞ、かまわんですよ」と何でも相談に乗る。
 これがこの話を面白くしてくれる。問題もすべてハッピーエンドで終わるのも、昔のホームドラマの鉄則で、それだから読んでいて安心できるのだ。
 またサチさんのナレーションもいい。様々な問題が解決した後、サチさんの存在を感じることができる紺さんがいつも仏壇の前に座り、サチさんと問題が解決してよかったねといった感じで会話するのもいい。この本の最後にも「わたしもいつかまた皆にさようなら言うときが来るのでしょうけれど、それまではもう少し、ここに居させてもらいましょうか」と次作につながる言葉は、それが出版されることを楽しみにさせてくれる。


評価
★★★


書誌
書名:スタンド・バイ・ミー
著者:小路 幸也
ISBN:9784087712292
出版社:集英社 (2008/04/30 出版)
版型:301p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年05月15日

小路幸也著『シー・ラブズ・ユー』

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 前作を読んだのは三年前ぐらいっだっただろうか?この本がシリーズになるなって思わなかったが、もう四作も出版されている。今回は第二作目で、次の三作も続いて読もうかと思っている。
 前作はなんとなくいいなぁという程度の感想だったと思うが、今回は“ちょっといいじゃん”という感じである。案外私はこういうホームドラマ的小説は好きかも、なんて思ったのだ。読んでいてほのぼのとしてくる。特にここのところ堅苦しい本や、読んでいても面白くない本が続いたので、何か気持がリフレッシュできた感じだ。
 大きな感動はないけれど、これはこれでいいと思った。まさしく昔あったテレビドラマの世界がここにある。近所づきあいの多様さ、大家族と、とにかく人が多いものだから、そこには様々なドラマがあって、事件がある。そしてそうした多くの人々が集まる家族にはやっぱり昔から連綿と続いてきた生活がほとんど変化せずに息づいているのがいい。時にはそれが古臭い部分があるけれど、かえって人々を集まらせるサムシングがあるんじゃないだろうか。
 舞台は下町の三代続いた<東京バンドワゴン>という屋号の古本屋。そしてその店の隣にあるカフェは若い家族がやっている。その古本屋の三代目堀田勘一がひいおじいちゃんで昔どこでもいた頑固で情にもろい、わがままなオヤジ。いかにも下町の古本屋のオヤジといった感じで、いい味を出している。そしてその息子我南人。“永遠のロックシンガー”と言われる61歳で現役ロックシンガーが自由に振る舞っているのもいい。そしてその我南人の長女藍子さんと息子の紺。紺の奥さんである亜美さんと藍子さんが隣のカフェをきりもりしている。さらに我南人と大女優と呼ばれる池沢百合枝の間で生まれた青。青の奥さんのすずみさんが勘一の古本屋を手伝っている。藍子には中学生なったばかりの一人娘花陽。紺と亜美さんには小学生の研人と生まれたばかりのかんながいる。そして青とすずみさんにはかんなと同じ日に生まれた鈴花がいる。藍子さんはイギリス人画家マードックさんという旦那さんいる。さらに猫と犬が数匹いて、これらの人や犬猫が一つ屋根の下でがやがや毎日を過ごす。そこに常連客、勘一の幼なじみ、あるいは我南人の仕事の関係者、いつも行く小料理居酒屋の<はる>の若女将などが訪ねてきて、まぁとにかくやかましい。
 そうしたやかましい家族のナレーション役をするのが、亡くなった勘一の奥さんサチさんで、あの世に行かずにこの家族の周りにいるという設定になっている。
 もうこれだけ聞けば、昔あったテレビドラマだと思うでしょう!今みたいに洗練されたドラマじゃないことがわかると思う。そういうのを私は子供の頃見てきたから、懐かしくもあるのだ。だからこの本を読んでいて心が和む。三作目も楽しみだし、四作目はまだ買っていないけれど、今日仕事が終わったら書泉さんに買いに行こうと思っている。最近“書泉ブッタワー”で本を買っていないしね・・・?


評価
★★★


書誌
書名:シー・ラブズ・ユー―東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087753776
出版社:集英社 (2007/05/30 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年02月20日

沢木耕太郎著『ミッドナイト・エクスプレス』

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 沢木さんの『深夜特急』第一便から三便までは単行本が発売されたとき、それぞれ読んでいる。今回それを再読してみようと思ったのは、ここのところ紀行文にはまってしまっている関係で取り出してみたのだ。
 この本は単行本三冊を一冊にまとめてあるので、結構なボリュームだ。なんだかちっともページが進まない感じがしてしまったが、気がついたら4日で読み切っていた。
 私は勘違いをしていて、沢木さんがユーラシア大陸を最初からバスを使ってロンドンまで旅をしたものだと思っていた。ところが沢木さんのこの旅の最初の趣旨はインドのデリーからロンドンまで乗り合いバスを使って旅をすることであって、デリーまで直接飛行機を使って行くこともできたが、途中降りることもできることを知って、まずは香港、マカオ、マレー半島、シンガポールに寄って、そしてデリーに向かい、そこからロンドンまで乗り合いバスを使って旅をした。
 ただ香港、マカオの記述が、特にカジノでのやりとりがおもしろかったので、そっちにばかりに記憶に残っていて、本当はここは“おまけ”みたいものだったのだと改めて知った次第である。

 私は観光旅行しかしたことがないので、こうした“放浪”の旅にはあこがれてしまうところがある。しかしこうした長い旅には、いわゆる人の一生みたいなところがあるんだなと感じた。
 どういうことかと言えば、旅の最初のころには、沢木さんが出会うものすべてにワクワクしいた。時には自分の子供の頃を思い出したり、相違点を見出したりして、新鮮であったのがよくわかる。

 「カルカッタの子供たちのボロから突き出したしなやかな手足を見るたびに、ただ体を動かしていればよかった時代の幸せさを思い出さないわけにはいかなかった。(略)
 路上で遊んでいる子供たちを見ていると、少年時代の自分を思い出す。しかし彼らがかつての私たちと違っていたのは、なにかしら仕事を持っていたことだ。彼らは、働く合い間に、時間をかすめとるようにして遊んでいた」

 旅をする前の自分の生活環境とまったく違うものと接すると、それがいかにも自分を縛っていたものではないかと思うようになり、訪れた土地の人の生活方法に従ううちに「またひとつ自由になれた」と感じるのである。一方で自分の旅の仕方も反省する。

 「もちろん、『金がない』と言うだけなら、私は自分が卑しいとは感じなかっただろう。私がその台詞を使う時、どこかでその相手の親切を期待するところがあったような気がするのだ。ほんの少しであっても、金のない旅人が土地の人の親切を受けるのは当然だという思いを抱いていなかったかどうか。私には『いや』と言い切れる自信がなかった。『金がない』という台詞を使わない時にも、相手の親切を期待する気持が態度に滲み出ていたのではないだろうか。(略)もしそうだったとすれば、それは手を出さないというだけの物乞いにすぎないのではないか・・・・」

 しかし旅を続けるうちに、自分の旅の姿がある意味無責任なものではないかと思うようになってくる。そう感じたとき沢木さんの胸には虚無感が生まれてくる。それを同じような旅をするヒッピーの体から発する臭いから次のように言う。

 「ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、長く旅をしていることからくる無責任さから生じます。彼はただ通過するだけの人です。今日この国いても明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。どの国にも、人々にも、まったく責任を負わないで日を送ることができてしまいます。しかし、もちろんそれは旅の恥は掻き捨てといった類の無責任さとは違います。その無責任さの裏側には深い虚無の穴が空いているのです。深い虚無、それは場合によっては自分自身も無関心にさせてしまうほどの虚無です」

 そのうち、訪ねた土地の人の親切が煩わしくなっていく。

 「私たちのような金を持たない旅人にとって、親切がわずらわしくなるというのは、かなり危険な兆候だった。なぜなら、私たちは行く先々で人の親切を『食って』生きているといってもよいくらいだったからだ。『食う』という意味は二重である。ひとつは、文字通り人から親切によって与えられる食物や情報が、旅をしていくために、だから異国で生きていくための必須だということ。もうひとつは、人々の親切が旅の目的そのものになっているということ。つまり私たちのようなその日ぐらしの旅人には、いつの間にか名所旧跡などどうでもよくなっている。体力や気力や金力はそこまで廻らなくなっていることもあるが、重要なことは一食にありつくこと、一晩過ごせるところを見つけること、でしかなくなってしまうのだ。しかし、そうであっても、いやそうだからこそ、人が大事だと思うようになる。旅にとって大事なのは、名所でも旧跡でもなく、その土地で出会う人なのだ、と。そしてまさにその人と人の関わりの最も甘美な表出の仕方が親切という行為にはずなのだ。
 ヒッピーとは、人から親切を貰って生きていく物乞いなのかもしれない。少なくとも、人の親切そのものが旅の全目的にまでなってしまう。それが、人から示される親切が面倒に感じてしまうとすれば、かなりの重症といえるかもしれなかった」

 いつの間にか沢木さんは自分の旅に新鮮さを感じられなくなっていくのがわかる。このころから沢木さんの旅は幼年期、少年期が終わっていたのだ。
 この本には「深夜特急ノート」が付録みたいな形で収録されている。そこに「しだいに好奇心が摩耗し、全身が蝕まれていくような気がする」という書き込みがある。長旅はいつの間にか初期の新鮮さや好奇心を失わせていくようだ。それを沢木さんは次のように言い表している。

 「旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことにでも心震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。歳をとってくるとしきりに昔のことが思い出されるという。私もまたギリシャを旅しながらしきりに過ぎてきた土地のことが思い出されてならなかった。ことあるごとに甦ってくる。それはまた、どのような経験をしても、これは以前にどこかで経験したことがあると感じてしまうということでもあった」

 この旅での成果は「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれない」というタイで暮らす日本人男性の言葉じゃないかと思った。そして長旅は、非日常が日常化してしまう部分があり、旅が終わった後、旅をする以前の日常に戻れないのではないかという不安を残す。

 「私にはひとつの恐れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その恐れとは、言葉にすれば、自分はいま旅をという長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜け切ることができないのではないか、というものだった。数カ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終わったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果たしてうまく折り合うことができるのかどうか、自信がなかった。旅の日々の、ペルシャの秋の空のように透明で空虚な生活に比べれば、その向こうにあるものがはるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか」
 
 これはかなり怖いところではないだろうか?


 ところで最近私はイスタンブールにあこがれていることは書いたが、沢木さんも当然ここを訪れている。ここにたどり着いたとき次のように書かれる。

 「いま私はアジアからヨーロッパへ向かっている。春の初めにアジアの端の島国から出発した私は、秋の終わりにヨーロッパのとば口に差しかかろうとしている。この船でこのボスポラス海峡を渡り切れば、東ローマ帝国の都であったかつてのコンスタンチノープルに到着するのだ。
 しかし、その重層的な歴史が塗り込められているはずの街は、夜の深い闇に覆われて何も見えない。対岸は、丘にでもなっているのだろうか、ところどころに点々と灯が見えるだけだ。その灯はいかにも心細げで、かえって丘の暗さを浮き出させるばかりのように思えた。
 <あれがヨーロッパなのか・・・・>」

 「ヨーロッパからアジアに向かう者も、アジアからヨーロッパに向かう者も、陸路をとる限り必ずこのイスタンブールを通過することになる。つまりイスタンブールはユーラシアを旅する者にとっての交差点になるというわけなのだ」

 またトルコの人々の親切さをこれまで何度も読んできたが、沢木さんも「だが、居心地のよいもっと大きな理由は、イスタンブールの人々の、というより、トルコの人々の親切が挙げられるだろう」と言われている。

 最後に沢木さんがミケランジェロの「ピエタ」を見られたときの感想が印象的であったので、それを書きたい。


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 「私は、これがミケランジェロ二十五歳の時の作品であるということに衝撃を受けた。自分とほとんど同じ年頃の若者がこのようなものを作り上げたということは信じがたかった。この世で一番美しい女性を造形したのが、今の私とほとんど同じ年頃の十五世紀人だったというのだ。
<こんなものがこの世に存在していいのだろうか・・・・>
 私は胸の裡で呟いた。この世の中に天才などというものがいるとは信じたくないが、この『ピエタ』を作った人物にだけはその呼称許さざるをえない、と思った。『ピエタ』は、天才が自分の才能を開花させていく過程での一作品という以上の意味を持っている。恐らくは、それが天才の出発点であり、到達点であり、同時にすべてでもあるという作品なのだ。しかし、二十代の半ばにこのような作品を作ってしまったミケランジェロは、それ以降の長い人生の中で、果たしてこれ以上のものを生み出すことができたのだろうか」

 沢木さんはこの「ピエタ」を見てしまってからはミケランジェロの他の作品、たとえばバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画やダビデ像はつまらないものに見えたという。
 ただそのダビデ像の前にはミケランジェロの未完の作品である大理石の塊があった。その大理石の塊には男のレリーフのようなものが浮き出ており、男の体にはミケランジェロがふるったノミのあとがくっきりと残っていた。それを沢木さんはが見て「ミケランジェロの振るうノミのひとふりひとふりが、男に肉体を与え、生命を吹き込んでいったのだ。その時、ミケランジェロは神に近い存在となる。大理石の男にとってはミケランジェロこそが神である、といってもよい。
 それにしても、創るということがなんと凄まじいことか」と感想を述べる。これを読んでいると、実際に本物を見ていなくても、真の作品を作り上げるという行為の神聖さを感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:ミッドナイト・エクスプレス 沢木耕太郎ノンフィクション〈8〉
著者:沢木 耕太郎
ISBN:9784163649207
出版社:文芸春秋 (2004/09/30 出版)
版型:734p / 19cm / B6判
販売価:3,465円 (税込)

2009年02月07日

渋沢幸子著『イスタンブールから船に乗って』

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 やっと渋沢さん二冊目の文庫本を手に入れ、早速読み始める。ところでこの本の奥付を見てみると、初版が平成11年9月となっている。ということは初版からわずか10年足らずで、本は品切重版未定になるんだ。本の寿命って短いもんだなと思った。しかもそれは初版からの話だから、もし重版でもしていたら、さらに短いことになる。

 さて、今回渋沢さんは、黒海をトルコ側沿岸に沿って東へ東へと向かい、グルジア国境まで船、バス、汽車を使って旅をされる。いったいここはどんなところなのかよく知らないので、ただただ、書かれていることに感心する。そうなのだ。ここトルコは東からも、西からも文明が衝突し、興亡の激しい土地なのだ。だからさまざまな民族がここに集まっていることを知る。
 東に向かうほど何度かヒッタイトという古代の国の名前が出てくる。ヒッタイトとって何だっけ?とふと思う。だいぶ前に覚えた古代帝国の名だ。今回はネットに頼らず、ひたすら思い出してみようとする。そうだ!人類の歴史の中で、初めて鉄器を使用した民族だ!そうかヒッタイトもトルコにあったんだ!ほんとトルコという国は、いろいろな民族が国を興し、滅んでいった。歴史の渦みたいなところである。渋沢さんが訪れる遺跡は朽ち果て、ほとんど廃墟化していて、修復保存が進んでいないようである。でもそれはそれで悠久の時間を感じてしまう。

 それにしても、トルコ人ってどうしてこうも旅人に優しいのだろう。たとえば「仕事中に作業場に外国旅行者がのこのこ入っていっても、トルコでは『なにしに来た』『なに見てんだよ』などと言う人は絶対にいない。それどころか、『おすわり』『チャイを飲むかい』と言ってくれる」と書いてある。
 さらに「トルコを旅行していると、毎日のように『贈物ですよ』とか『あなたはお客さまですから』などと言われる」といって、渋沢さんは町の人にチャイやコーヒー、あるいは食事など何度もご馳走になっている。トルコの人どうしてこんなに心が広いのだろうか?と思ってしまう。そんな人の優しさが幾度も書かれるものだから、トルコっていい国なんだなと思ってしまう。心が安らぐ感じがする。
 もちろん政治のゆがみなどで、社会に暗い影を残している部分もある。たとえばロシアから来る、ナターシャ(売春婦)たちがホテル各所にいることなど、渋沢さんはかなりイライラしているけれど、それもトルコという国が近隣の諸国より経済的に裕福で、人にやさしい国だからから彼女たちはこの国に来るのではないだろうか。もちろん詳しいことは知らないけれど、ただ渋沢さんの本でトルコを旅をさせてもらった私としては、そんなふうに思った。


評価
★★★


書誌
書名:イスタンブールから船に乗って
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458229
出版社:新潮社 (1999/09/01 出版)新潮文庫
版型:283p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月25日

渋沢幸子著『イスタンブール、時はゆるやかに』

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 私は著者のことはまったく知らなかった。ただ書名にある“イスタンブール”に惹かれた。私はこの町は叶わないだろうけど行ってみたいと思っている町である。
 コンスタンティヌス大帝が作った都、そして西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国として、ビザンティン帝国の首都として続いた町。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の最終章で、オスマントルコのメフメット2世が「一層貴重で重要な贈り物が欲しい」と言った町、コンスタンティノポリス。一方ビザンティン帝国皇帝コンスタンティヌス11世が自ら異教徒の中で生き延びることを拒み「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」と絶叫した町。
 シルクロードの最終地点であり、アジアから見ればヨーロッパの入り口、ヨーロッパから見れば出口にあたる町。たぶんアレキサンダーも通っただろう町。さまざまな民族が行き交っただろう町。もともとはキリスト教の教会だったものをイスラムのモスクに変えられ、ミナレットが立つ町。金角湾、ボスフォラス海峡。そして庄野真代も“飛んでイスタンブール”と歌った。うん?
 渋沢さんはが言うように「この町では、歴史がバウムクーヘンのように幾重にも層をなし、モザイクのように入り組んでいる」のだ。たとえばグランドバザールと聞けば、さまざまな文化、風習、人種が入り乱れ、喧騒で、しかも楽しそうな雰囲気が漂ってくる。渋沢さんも「その魅力は容易に説明できるものではないが、あえて言えば、層をなす歴史の重みと、混沌の中の輝きであろうか」という。とにかく書名に“イスタンブール”とあると、なんだ、なんだと本に手が伸びてしまうのだ。
 で、読んでみてこれは楽しかった。そしてこんな旅ができるなんてうらやましかった。イスタンブールの旧市街地の町並みが残るといわれている、特にビザンティン時代のギリシア正教会の総本山であったアヤソフィア、あるいはトルコのブルーモスクや、トプカプ宮殿など訪ねられるところはうらやましくて仕方がない。
 さらに渋沢さんはトルコ内陸部、あるいはシリアやイラン国境近くまで行かれ、ティグリス・ユーフラテス川上流まで進む。そこには、オスマントルコ帝国発祥の地ブルサ。“歴史学の父”といわれるギリシアの歴史家ヘロトドス生地ハリカルナソスであったボドゥルム。トロイ。コンスタンティヌス大帝がキリスト教の教義を統一するために開いたニカイアの公会議で知られるニカイアであったイズニック。クレオパトラがアントニウスに初めて会った町、タルスス。背教者ユリアヌスがペルシャ討伐で交戦中に槍が刺さり三十二歳の生涯を終えた町、ハランと、私が知っている歴史がてんこ盛りだ。読んでいるだけでワクワクしてしまう。

 この本によると、渋沢さんはイスタンブールを中心トルコを最初に旅されたのは1981年で、ギリシアの側から列車で入られている。とにかくトルコの人はどうしてこんなにやさしいのかと思うくらい、ここでは渋沢さんに親切なのだ。よく声をかけられ、仲良くなっていくのだ。思わずほんと?と言いたくなるくらいなのだ。
 トルコ人の日本人びいきは、日本がトルコ人の宿敵ロシアを打ち破ったからだともいわれる。あるいは渋沢さんが言っているように中央アジアの騎馬民族が西に移動してトルコ人となったとして自らがその末裔だとして誇りを持っていて、その騎馬民族が東に向かって日本になったのだから同胞だというのも面白い。その同胞がアジアのリーダーとなり、世界大国になったということを誇りに思うトルコの人が多いというのには驚かされる。
 もっともこれはもう三十年近く前の話であるから、やっぱり日本人女性一人トルコを旅するのが珍しかったからじゃないかと思う方が自然である。もちろん危険にも遭遇しているが、それでもそうしたやさしいトルコの人と接して、すばらしい旅をされたことが、この本をいいものにしている。
 ところでコンスタティノープルがなぜイスタンブールになったかその由来を知った。この町をギリシア人がコンスタティノープルと呼ばず、エストムポールと呼んでいて、それがトルコに伝わり、イスタンブールになったらしい。エストムポールはギリシア語のエス・テン・ポリン(都市へ)がなまったものと言われている。しかし現在、トルコとギリシアは仲が悪く、イスタンブールと呼ばず、コンスタティノープル呼んでいるのが渋沢さんは不思議だといっているのはおかしかった。


評価
★★★★


書誌
書名:イスタンブール、時はゆるやかに
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458212
出版社:新潮社 (1997/03/30 出版)新潮文庫
版型:276p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2008年12月04日

東海林さだお著『超優良企業「さだお商事」』

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 しばらく読んでいなかったが、私は東海林さだおさんのエッセイが大好きである。東海林さんが描かれる漫画より好きだと言っていい。だから自分の本棚にもかなりの冊数が東海林さん本が収まっている。
 久しぶりその東海林さんの本を手にした。といっても、この本は藤原あつこという人が聞き手になって、東海林さんの話を聞く。東海林さんの仕事をたとえば『さだお商事』のオーナーということにして、創業三六周年(2002年で)を迎えられるほどのアイデアの豊富な企業としてその秘密を探ろうとしている。
 次々とヒットを生み出す「さだお商事」にはどんな秘密があって、「さだお商事」のコンセプトが昨今苦戦を強いられる一般企業に生かせないかということらしい。また東海林さんのそこでの生活、あるいは生き方が企業で働くサラリーマンたちに自己啓発を促すようなかんじで構成されている。さすが発行元が東洋経済新報社である。一章ごとに“「さだお商事」を会社分析”として東海林さんの話す内容を企業やサラリーマンたちに役立つようにまとめられている。ただこれは無理があって、しかも非常に馬鹿らしい。
 東海林さんが話す内容をどこか自分の会社に生かせないか、あるいは社員の自己啓発に役立たないかとしてしまうと、どうも茶番劇ぽくなってしまう感じがする。しかもこの藤原という聞き手、恐ろしくへたくそなのだ。そこいらのOLか、こいつは、と思えるほど、頭が悪く、下手な相づちが鬱陶しいのだ。さすがにこれにはまいった。
 ただ、東海林さんが漫画を描く上で、自分の気持ち、あるいは精神を若く保っていることの苦労を知った。今まで読んできたエッセイや漫画は、オジサンが無理して若作りして、逆にそれが滑稽になっている。それがおもしろかった。
 しかしそのジェネレーションギャップが生み出すユーモアは、実際作者が体験するなり、感じていなければ描けないものだと、改めて知った。だから無理しても、若い世代の感覚に敏感になろうとしている。いやそうしなければならないのだ。東海林さんは次のように言う。

 漫画家の場合は、漫画がおもしろくない、時代遅れだ、感覚がヘン・・・・などとならないとも限りません。ぼくはその場面を想像すると、たまらなく怖いのです。肩たたきされるサラリーマンの心境がよくわかります。

 だから東海林さんは次のように考えるのである。

 ぼくは、デビュー以来ずっと、「世の中にウケるものは何か」というテーマを追い続けてきました。漫画は時代に合ったおもしろさでなければ、誰にも受け入れられません。時代とともに、人々の感覚も、読む人も、異なってきます。新しい感覚を持った読者が次々と生まれてきます。そうした人たちがおもしろいと感じてくれなくては、連載漫画は続きません。
 自分が若いときは、読者もおなじ年齢だから、そのままの感覚で描いていればよかったのですが、自分が年をとってくると、読者は自分より若い世代になってきて、自分の年齢との格差が広がってきます。こうしたときに、自分の感覚のままでいると、ぼくの読者層である若い世代の感覚とズレが生じてきてしまうのです。
 ですから、若い人たちの感覚を取り入れることは、必須であり最重要条件です。

 ぼくにとって、「若くある」ということは仕事を続けていくうえで不可欠です。自分を若く保って、最新の社会感覚を取り入れていかないと、漫画が時代に遅れてしまいます。必死に時流に遅れまいと、それなりの努力をすることが必須なのです。

 今まで東海林さん自身の文章や東海林さんが描く漫画を大笑いしていただけだったが、そこには自身の苦労があることを知らされた。オジサンが時代に遅れまいと、合コンに参加したり、プリクラをしたり、大変だなと思うけれど、幸い東海林さんはそうしたことを体験することに苦を感じていなく、むしろ楽しんでおられるから、明るい話題として提供されるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:超優良企業「さだお商事」―ショージ君のイキイキ快適仕事術
著者:東海林 さだお【著】 藤原 あつこ【聞き手】
ISBN: 9784492041864
出版社:東洋経済新報社 (2002/12/05 出版)
版型:188p / 20cm
販売価:1,260円 (税込)

2008年12月03日

沢木耕太郎著『旅する力』

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 久しぶりに沢木さんのエッセイを読む。この本はあとがきに書かれているように、沢木さんが「これまでも、『深夜特急』については断片的に書いてきたり話してきた。しかし、読者から直接さまざまな質問を投げかけられ、さまざまな答えを返しているうちに、いつかそれらをひとつにまとめておこうという気になってきた。それには、読者からの質問に答えているうちに、少しずつ『深夜特急』について、ひいては旅というものについて理解が深まっていったということが大きかったかもしれない」ということで、書かれた本である。いわばあの『深夜特急』の舞台裏と旅のその後と、その旅での沢木さんの変化が書かれている。
 そのため結構興味深く読んだ。
 『深夜特急』は第一、二、三便と全三冊に分かれている。第一、二便は1986年(昭和61年)に出版され、第三便が1992年(平成4年)に出版された。第一便の出版からもう22年も経っていることに少々驚いてしまうが、第三便だけが第一、二便が出版されて6年後に出たというのも忘れていた。
 そうだった。よくお客さんに第三便はいつ出るのと聞かれたものだった。一便、二便に続いてすぐ三便も出版されるものだと思っていたが、なかなか出版されず、この本にも書かれているけれど、なかには「三便は出版さません」という書店もあったという。6年もかかれば、そういいたくなるのもうなずける。

 さて、当時若者が外国を一人旅するのに、そのバイブルともなっていた本が、小田実さんの『なんでも見てやろう』だった。沢木さんも小田さんのこの本に大なり小なり影響を受けたことが書かれている。しかし沢木さんの『深夜特急』がされると、今度はこの本が若者たちのバイブルとなっているらしい。
 で、沢木さんが重い腰を上げて自分がしてきた旅を書くにあたり、まず頭に置いたのが、アクションではなくてリアクションだったという。沢木さんは「旅を描く紀行文に『移動』は必須の条件であるだろう。しかし、『移動』そのものが価値を持つ旅はさほど多くない。大事なのは『移動』によって巻き起こる『風』なのだ。いや、もっと正確に言えば、その『風』を受けて、自分の頬が感じる冷たさや暖かさを描くことなのだ。『移動』というアクションによって切り開かれた風景、あるいは状況に、旅人がどうリアクションするか。それが紀行文の質を決定するのではないか」と考えられたのである。
 だからこの『深夜特急』は旅の過程で沢木さん何を感じ、考えたのかがそのおもしろさとなっている。
 たとえば、バンコクで赴任まもない日本人夫妻と会い、その旦那さんが「外国というのはわからないですね」、「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれないな。知らなければ知らないでいいんだよね。自分が知らないことを知っているから、必要なら一から調べようとするに違いない。でも、中途半端に知っていると、それにとらわれてとんでもない結論を出してしまいかねないんだ。どんなに長くその国にいても、自分にはよくわからないと思っている人の方が、結局は誤らない」という話を聞いて、なるほどと思う。その言葉が沢木さんにとって旅で学ぶことのできた最も大事な考え方の一つだったと思うのである。そして旅という学校で何を学んできたかを次のようにいって最後を締めくくる。

 「私が旅という学校で学んだことがあるとすれば、それは自分の無力さを自覚するようになったということかもしれない。もし、旅に出なかったら、私は自分の無力さについてずいぶん鈍感になっていたような気がする。旅に出て手に入れたのは『無力さの感覚』だったと言ってもいいくらいかもしれない。
 いま、私はいかに自分が無力か知っている。できることはほんのわずかしかないということを知っている。しかし、だからといって、無力であることを嘆いてはいない。あるいは、無力だからといって諦めてもいない。無力であると自覚しつつ、まだ何か得体の知れないものと格闘している。無力な自分が悪戦苦闘しているところを、他人のようにどこからか眺めると、少しばかりいじらしくなってきたりもする。おいおい、そんなに頑張らなくてもいいものを、と。
 しかし、そのように頑張ることができるのも、もしかしたら自分の無力さを深く自覚しているからかもしれないのだ。そこからエネルギーが湧いてくるからかもしれないのだ」

 とにかく沢木さんは二十六歳の時ユーラシアの旅に出た。この年齢がまた大きな意味があったことを実感しているのが、なるほどそうかもしれないと思ったのだ。沢木さんは次のように言う。

 「やはり旅にはその旅にふさわしい年齢があるのだという気がする。たとえば、私にとって『深夜特急』の旅は、二十代なかばという年齢が必要だった。もし同じコースをいまの私が旅すれば、たとえ他のすべてがおなじ条件であったとしてもまったく違う旅になるだろう。
 残念ながら、いまの私は、どこに行っても、どのような旅をしても、感動することや興奮することが少なくなっている。すでに多くの土地を旅しているということもあるのだろうが、年齢が、つまり経験が、感動や興奮を奪ってしまったという要素もあるに違いない」

 その理由を「つまり、あの当時の私には、未経験という財産つきの若さがあったということなのだろう。もちろん経験は大きな財産だが、未経験もとても重要な財産なのだ。本来、未経験は負の要素だが、旅においては大きな財産になり得る。なぜなら、未経験ということ、経験していないことは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ」という。
 「未経験という財産」ってうまいこと言うなと思った。得てして未経験であることは、マイナスイメージとして評価されしまう現在だが、未経験が逆に財産にもなりうるのだと教えてくれる言葉である。

 またこの旅の後遺症が書かれているのが面白かった。これだけ劇的な旅をしてきた後だから、そうなっちゃうんだろうなと思った次第である。

 「私が旅で得た最大のものは、自分はどこでも生きていけるという自信だったかもしれない。どのようなところでも、どのような状況でも自分は生きていくことができるという自信を持つことができた。
 しかし、それは同時に大切なものを失わせることにもなった。自分はどこでも生きていくことができるという思いは、どこにいてもここは仮の場所なのではないかという意識を生むことなってしまったのだ。
 私は日本に帰ってしばらくは池上の父母の家にいたが、すぐ経堂でひとり暮らしを始めた。
 夜、その部屋の窓から暗い外の闇を眺めていると、ふと、自分がどこにいるのかわからなくなる、ということが長く続いた。そこが自分の部屋であり、家なのに、旅先で泊まったホテルの部屋より実存感がないような気がしてならなかった」

 以前書いたことがあるが、私は昔新潮社の招待で香港に行ったことがある。そこに沢木さんもゲストとして加わった。夕食の時、私もミーハー的に沢木さんに新潮社からもらった文庫の『深夜特急』一巻にサインを書いてもらった。
 翌日、マカオに向かう船のブリッジに一人で寄りかかっている姿を見かけたが、なんか場違いなところに来てしまったなというかんじを受けたものだった。今にして思えば、沢木さんは「こんなの旅じゃないよ」と思っていたんじゃないか。そんなことを考えてしまう。


評価
★★★★


書誌
書名:旅する力―深夜特急ノート
著者:沢木 耕太郎
ISBN:9784103275138
出版社:新潮社 (2008/11/30 出版)
版型:289p / 19cm / B6判
販売価:1,680 円(税込)

2008年11月07日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第2巻〉

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 須賀さんの全集第二巻を読んでみる。この巻は『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』が収録されている。『ヴェネツィアの宿』は須賀さんの日本での生い立ちなどが回想され、『トリエステの坂道』では須賀さんの夫ペッピーノ家を取り巻く人々とのふれあいがつづられている。
 前回もそうだったけれど、今回も須賀さんの文章に魅力を感じていた。それが何故なのか考えてみた。うまく言えないのだけれど、たぶんそれは回想というスタイルをとるためではないかと思う。つまりそこに書かれた文章はある程度時間がたったことであり、その分充分考え抜かれた感じがするのである。そしてそこには何か失った者への哀惜というのか、全体に“喪失感”を感じるのである。
 この二つのことは、あるときは苦しく、悲しい時代のことであっても、それを強調せずに済んでいるし、楽しく、豊かな時代では、浮かれることなく、冷静に描写することになるのではないだろうか。つまりかなり抑制のきいた文章になっている感じだ。それは時間がたっていることで冷静な思考が出来ることからくることだろうし、あるいは描かれた人々が今はいないという“喪失感”が、懐かしさを醸し出しているような気がする。そんなところが私が好きなところなのではないかと思う。それに表現や言葉の言い回しが本当にうまいと思う。こういう文章が書けること自体うらやましい次第だ。

 今回も須賀さんの書かれた文章から気になる言葉を拾ってみた。

 つい何ヶ月かまえまで、空襲の下をかいくぐりながら、今日は死ぬか、明日は家が焼けるかと覚悟ばかりしていた暮しにくらべると、いのちの尺度が変わっただけでも、なにもかもが愉しかった。

 橋をわたったあたりで、カテドラルが、夏の早朝の張りつめた空気のなかにその全容を見せはじめた瞬間、どうしたことか、私は、とつぜん、この中世の建造物と自分が、ずっといっしょに連れだって日本からやってきたのではないかという、奇妙な錯覚にみまわれた。それまで自分のなかではぐくみそだててきた夢幻のカテドラルと、目のまえに大きくそびえわだかまる現実のカテドラルとが、きらきらとふるえる朝の光のなかで、たがいに呼びあい、求めあって、私の内部でひとつに重なった。腕に鳥肌がたったのは、あきらかに冷たい空気のせいだけでなかった。

 「昼間から寝たりして、ごめんなさい。夜汽車でエクス・ラ・シャペルから来たものだから」
「エクス・ラ・シャペル?」
 どこかで聞いたような土地の名だったが、思い出せない。
「そうよ。ドイツ語だとアーヘン」
「アーヘン?シャルルマーニュの?」
「そうよ、そうよ」よくできましたねえ、というように彼女は大きくうなずいてから、つけくわえた。「フランス語ではエクス・ラ・シャペルっていうのよ。いまはドイツの町だけど」

 死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとりで行ってしまった。

 『用途のない備忘録』

 (そのころ、麻布あたりでも、冬の朝、庭中の土が、霜柱でざくざくにささくれた)

 カード好きのやさしいおじさん、と私が勝手に決めこんでいたあの人物は、残りすくない時間の中で必死に後輩をそだてようとする、山の村のおごそかな長老でもあったのだ。

 彼女の死に衝撃をうけるほど、自分と彼女とのあいだに親密なつきあいがあったわけではなかった。そう思ってみても、どうしようもない喪失感が、ほとんど私の意志とは関係なく、大切な本につけてしまたとりかえしのつかないインクのしみのように、私のなかに、黒い翳りをひろげていた。

 もたつきながら自分達の苦しみを見つめ、それに腹を立て、それに泣かされながらも試行錯誤をつづけていく社会、より自己充足的でない施設を目指していきたい。そうでないと、人類が人類として、生き残れないと思うからだ。政治も勿論、福祉政策を、そのような方向にもっていくべきだと思うし、それ以前に、私たち一人一人が、毎日の生活のひたすらな能率主義を、自分よりゆっくり歩いて行く人と歩調をあわせるために、少しずつ崩していく以外、私たちが、もう少しゆっくり歩こうとする以外、どうにもならぬのではないか。

 それにしても、なにかひとりよがりの匂いの抜けきらない「やさしさ」や「おもいやり」よりも、他人の立場に身を置いて相手を理解しようとする「想像力」のほうに、私はより魅力をおぼえるのだが。

 今日のローマには、自由をもとめて流れついた難民と、フィリピンやアフリカ、東欧などからの、出稼ぎの人たちも多くて、暗い活気のようなものが、この都会の目にみえない部分で、激しく流れているような気がすることがあります。

 難民なんて、なにも今日始まったことじゃない。トラステヴェレの町はそんな、あきらめと、おおらかさがまざった気持で、彼らを受け入れているようです。

 文章というのは、かなりそれが書かれた時代に似ているものである。内容だけでなくて、文の組みたて具合、といったものが、同時代の建物や道路の配置によく似ていることがある。

 パリの合理性(合理性は知性のほんの一面でしかない)に息がつまりそうになっていた自分には、イタリアの包容力がたのもしかった。なにも、かたくなることはないのだ。そう思うと、視界がすっとひらけた気がした。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第2巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420523
出版社:河出書房新社 (2006/12/20 出版) 河出文庫
版型:606p / 15cm / A6判
販売価:1,050 円(税込)

2008年10月28日

ジョルジュ・シムノン著『メグレ罠を張る』

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 このメグレシリーズは昔から読みたいと思っていた。いわゆる推理小説で、マンハントをする側が警察である方が好きなのだ。たとえば、マルティン・ベッグもいいし、キャレラもいい。日本でいえば鳥飼刑事も渋くていい。(ビートたけしはミスキャストだと思うが)
 さて今回も推理小説だから、あまり内容に関しては詳しく書いちゃいけないのだろうが、書いてしまう。のでもしこの小説を読もうと思う方はここでやめてください。(というように、こんな感じでネタバレしてしまうから以後読まないでね、という文章をよく見かけるけど、皆さん本当にそこでやめられます?少なくとも私は読んじゃうだな)

 パリで五人の女性がナイフで刺され、衣服が引き裂かれた殺人事件が発生する。その捜査をメグレ警視が陣頭指揮をして行う。物語はもう五件の殺人事件が発生してしまっており、犯人と思われるべき人物は登場しない。従って、「こいつが犯人だろう」という推測を読んでいて楽しめない。
 この物語を面白くしているのは、どうやって殺人事件の犯人をあぶり出すかにかかっている。題名にもあるように、メグレ警視は罠を張るのである。最初から罠を張ることから物語は始まっており、どのような罠で、なぜそうした罠をメグレ警視は張ったのかが、まず興味の対象となる。
 友人で医師のパルドンに食事を招待されたメグレ夫妻は、そこで有名な精神科医のティソオを紹介される。メグレはその精神科医のティソオと今回の捜査に当たって、犯人像を語り合う。そこに今回の罠のからくりが隠されている。
 メグレは犯罪者たちが遅かれ早かれ自分のやった行為を自慢するという欲求に駆られると語る。そしてティソオもメグレが捜している連中は、自分でも知らぬ間に捕まえられようという欲求に駆られている。それは自尊心の表れで、自分(犯人)は周りの人々に何の変哲もない人間だと思われることが我慢がならないのだ。自分の力を大声で言いたいのだ。だからといってわざわざ捕まりたいわけじゃない。彼らが捕まるのは犯行を重ねる内に身辺に払う注意が少なくなってきて、警察や運命をなめることで逮捕されてしまうというのである。
 そしてメグレは「かりに誰か他の人間が逮捕されて、いわばまあわれわれの殺人犯の地位におさまりかえり、犯人が自分の栄誉のように考えているものを横どりしたらどうでしょう・・・・」と言うのだ。
 これがメグレの作戦であり、犯人の自尊心を奪うことで、逆に犯人を挑発し、もう一度犯罪を起こさせ、犯行を行う前に捕まえようと罠を張る。
 そして一般市民に扮した婦警を襲われるが、警察は彼を取り逃がす。しかし彼の衣服についていたボタンと服の生地の一部をその婦警はもぎ取る。そこから面が割れ、一人の男が逮捕される。しかし彼は自供しない。
 被疑者を尋問している間、また一人の女性が襲われ殺される。しかしこの犯行は私でもその男をかばうための犯行だとわかる。少なくともこの殺人事件の犯人は彼の妻あるいは母親のどちらかだ。

 ざっと書いてしまうたわいのない小説のようになってしまうが、犯人逮捕のための心理作戦は結構面白かった。で、一つ知ったことは、日本の警察では取り調べ室で犯人あるいは被疑者の食事にカツ丼をよく出すシーンがテレビで映し出される。しかしフランスではビールとサンドイッチらしい。


評価
★★★


書誌
書名:メグレ罠を張る
著者:ジョルジュ・シムノン 峯岸久訳
ISBN:9784150709518
出版社:早川書房 (1991/09 出版) ハヤカワ・ミステリ文庫
版型:233p / 16cm / 文庫判
販売価:546 円(税込)

2008年10月25日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと 』1

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 司馬さんが亡くなられてから、未発表のエッセイや評論、あるいは対談、講演集などが次から次へと刊行された。この本もその手のもので、単行本未収録作品を集めて、何と全15巻のシリーズにしている。なんせ国民的作家なので、司馬遼太郎と名前がつけば売れないことはない。亡くなられても、とにかく司馬さんの書いたもの、あるいは話したものをどこからか探しだし本にした感じだ。私もいくつか司馬さんが亡くなられてから刊行されたシリーズ本をもっている。まずはこのシリーズから読んでみようと思ったわけである。幸い続けて読まなければ話の内容が忘れてしまうものでもないので、適当に間隔を置いて読んでみようと考えている。
 このシリーズは書かれた期間ごとに巻数わけしてあるので、第一巻は1953年(昭和28年)10月から1961年(昭和36年)10月のエッセイである。たぶんここに収録されたものは、復員後産経新聞の記者時代から、直木賞受賞後までのものであろう。実際初出を見ると本名の福田定一の名前で書かれているものもいくつかある。
 読んでいて、へぇ~、司馬さんもこんな言い回しの難しい文章を書いていたんだと思った。というのも私は司馬さんの膨大な知識を小難しく語るのではなく、わかりやすい文章で表現される人だと思っていたので、少々意外でもあった。
 さらに、歴史に関するエッセイだけでなく、身辺雑記やルポみたいなものもある。このあたりは初めて接したものだから新鮮でもあった。ただルポは読んでいて、開高健さんの『ずばり東京』みたいな感じを受けた。いかにも関西人が書いた文章なのである。

 この巻で面白かったのは「家康について」というエッセイである。まぁ、司馬さんがわかりやすく書いた家康の人物評みたいなものだ。司馬さんによると家康という人物を次のように評する。

「もともとこの人は、信玄や謙信のような戦術的天才もなく、信長のような俊敏な外交感覚もなかった。かれら右の三人より長じた才があるとすれば、部下の官僚(家康の部下だけが近代的官僚のにおいがする)に対する卓抜した統率力ぐらいのものだろう。かれがもし今日にあれば、律儀に受験勉強をし、律儀に東大に入り、律儀に公務員試験をうけてまず有能な局長クラスにゆくに相違ない」

 つまり家康は高級官僚だといい、官僚は自ら自分の偉さを発揮できない。上級官僚なり政治家の引き立てを必要とする。家康の場合の引き立て役が信長であった。家康は徹底して信長に従った。それこそ命を賭けて信長に律儀なまでに従った。当然信長の信頼は厚くなる。徳川家は信長の下請会社のようであった。ただ下請会社は親会社大きくなれば、自らも大きくなる。
 ところが本能寺の変で信長は明智光秀に討たれる。この時家康はわずかな家来を連れて泉州堺を見物していた。慌てて岡崎城に戻り、尾張まで来たとき、秀吉が中国から急遽軍を旋回して光秀を破った。司馬さんは家康が秀吉を「運のいいやつだ」と思ったに違いないと書く。
 なぜ秀吉が運がいいかといえば、この時秀吉は毛利討伐の司令官として、信長よりおびただしい軍勢を貸与されていたから、そのまま大軍勢を旋回し、光秀を討てた。そしてそのまま天下を取ってしまったのである。逆に家康はそういう好条件に恵まれていなかった。だから待つしかなく、「やがて運はまわってくるさ」とその間自分がすべきことを着々と行うことになる。
 天正十二年四月長久手の戦いで、家康は秀吉と戦い、大いに破ったが、秀吉と和睦する。これは家康自身天下に自分の威厳を見せつけるのと同時に秀吉に恩をきせることになる。以後家康は秀吉に仕えるが、その間関東に移封され二百四十万二千石の大大名となった。
 秀吉に死後天下分け目の関ヶ原の合戦があるがこの合戦の勝利を家康にもたらしたのは、関東二百四十万二千石の巨大な身上による。つまり家康に信用があったということである。この二百四十万二千石から振り出される信用と江州佐和山十九万四千石の石田三成の信用とどっちが信用度が高いかといえば、当然家康の方である。だから東軍の諸将は恩賞を期待して憂いなく戦ったのである。一方西軍に与する諸将は戦場に来ても三成に猜疑心を持ち、破れた。
 関ヶ原の勝利の後、家康は江戸に幕府を開き征夷大将軍となったが、まだ大阪には秀吉の遺児秀頼がいる。家康はこれを潰さないとならなかったが、大阪夏の陣は関ヶ原の合戦から15年待って戦われた。ただこのとき家康は今までみたいに気長に待つわけにもいかなかった。もうこの時点で家康は高齢であったから、いつ死ぬかもしれないという自覚がある。自分が生きている間に秀頼を討たなければならないという焦りがあった。だから家康は狡知にみちた策謀家に自ら変じ、大阪方を挑発する。司馬さんはそれを「この気のながい男が、気短かな老人に一変し、律儀者が陰謀家に化した。人生の残りわずかな持ち時間と競争するために、家康は半生もちつづけたそのパターンをなげすてなければならなかったのだ。あわれにも、そのために後生の不評を得た」という。

 もうひとつこのエッセイで面白かったのは、“東海道”に関する記述である。
 東海道は頼朝以来日本史の権力街道であった。鎌倉以来幕末までの日本史で、東海道以外の場所から起こって天下をとった者いない。
 信長、秀吉、家康の三人は今で言えば愛知県人であり、愛知県内にはその東海道が通っている。しかも東海道の中ほどに位置する。つまり彼らは京に近く、しかも多少離れている。つかず離れずの位置にいた。
 たとえば武田信玄や上杉謙信のような東国の英雄が上洛するためには、その沿道に気の遠くなるほどの豪族がおり、それらをいちいち潰して進むしかなく、それだけで一生が終わってしまう。信長、秀吉、家康はそういう意味で好条件立地にいたことになる。このことは大きいし、実際歴史は彼らを天下人にした。
 これを読んだとき、なるほどと思った。やっぱり司馬さんの視点は我々凡人とは違うなと思ったのである。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと 〈1(1953.10~1961.〉 ― エッセイ
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467011
出版社:新潮社 (2001/09 出版)
版型:397p / 20cm / B6判
販売価:入手不可 但し新潮文庫であり

2008年10月20日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第1巻〉

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 多分須賀さんの本は一冊は読んでいると思うのだが、なんていう題名だったか忘れてしまった。当時は文章の内容がよくわからなかった。イタリアの作家など知らないものだから余計である。
 最近イタリアに少々興味があって、歴史もそうだけれど、現在の日常生活がどのように営まれているのか、その普段の姿が知りたいところがある。だからイタリアで暮らした人のエッセイなど興味深く読んでいる。その関係で須賀さんの本を手にした。ただ須賀さんが描くイタリアは若干古くはあるのだが、その雰囲気は味わえるんじゃないかと思って読んでみた。
 私は須賀さんがどんな人生を過ごされてきたのか詳しくは知らないので、ネットで調べてみた。略歴は以下の通り。

須賀敦子(すがあつこ)
作家・翻訳家(1929-1998)

 兵庫県芦屋市に生まれ、聖心女子大学卒業後、パリのソルボンヌ大学に3年間留学。帰国後、知人から送ってもらった会報誌などによって、イタリア・ミラノのコルシア書店のことを知り、強く惹かれる。コルシア書店は、二人の神父を中心にしてできたグループで、書店を拠点として、出版活動、講演会、ボランティアなど、多岐にわたる活動をしていた。須賀さんはイタリアに留学すると同時に、コルシア書店へ向かう。やがて、書店の運営を担当していたジュゼッペ・リッカと結婚するが、夫と死別し帰国。その後、数十年経て作家活動を行う。作家活動は10年に満たない短いものだった。イタリア在住時から翻訳家としても活躍した。またキリスト教徒としても様々な活動を行っていた。1998年、心不全で死去。享年69歳。

 この第一巻には「ミラノの風景」、「コルシア書店の仲間たち」、「旅のあいまに」という数編のエッセイが収録されている。いずれも須賀さんがイタリアで夫を亡くされ、帰国して書かれたもののようである。それを須賀さんは「純粋な時間として考えると、六十年の人生のなかの十三年は、さして長い時間ではないかもしれない。しかし、私にとってイタリアで過ごした十三年は、消し去ることのできない軌跡を私になかに残した。二十代の終りから、四十代の初めという、人生にとって、さあ、いまだ、というような時間だったから、なのかもしれない」といい、自分の人生の中でイタリアでの濃厚な生活をここで書きつづるが、これらの文章が書かれる頃になると、その時を振り返る分、時間がたってしまっている。すべてが衰退へ向かいはじめている。人もそうだし、書店もそうである。だからかもしれないが、そこにはどこか“死”がつきまとう感じがする。そこには須賀さんのイタリアでの生活や交友関係などが書かれているのだが、元気で活動的な時代を振り返るのと同時に、その後が必ず描かれる。その後が死であったり、消滅であったり、あるいは音信不通であったりして、もの悲しさが漂う。

 須賀さんをミラノで生活させたコルシア・デイ・セルヴィ書店とはどんな書店だったのだろうか。その成り立ちを次のように書く。
 コルシア・デイ・セルヴィ書店は司祭で詩人のダヴィデ・マリア・トゥロルドが戦争末期には、ドイツ軍に占領されたミラノの、知識人が中心になって組織した地下活動をおこし、戦後、親友のカミッロ・デ・ピアノといっしょに数人の若者をまじえて、都心にあるサン・カルロ教会の場所を借りうけて始まった。

 せまいキリスト教の殻にとじこもらないで、人間のことばを話す「場」をつくろうというのが、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめた人たちの理念だった。ちゃんとした資金があったわけでもなく、都心の目ぬき通りの教会からほとんど無償で借りた場所だけが財産で、開店したころは、本をならべる棚もろくになかったという。だれかが買おうと思って手にとった本のページにダヴィデの手で書き込みがあったこともある。彼が自分の蔵書まで売っていたからだ。

 そうして出来上がった書店にはさまざまな階級の人々が集まり、サロン化して活気を呈していた。どちらかといえば反体制側の思想の持ち主が多かったようであるが、侯爵や伯爵といった階級の人々もパトロンとなって集まっていた。須賀さんは彼らを「ヨーロッパ史のエッセンスのような家族や招待客たち」とか「美術書を通してあこがれているルネッサンスの邸宅を日常の場に使っている人たち」などと表現しているが、こういう貴族がいるという社会も目をみはる。面白いのは彼らの生活意識である。

 この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店(いっけんしもたやふうの店)を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。(略)あたらしい貴金属を「終始」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ。

 それは私たちは新興貴族や成り上がりとは違うんだというものであろうか?

 それと須賀さんがある年の初夏にサン・ジュリアーノ・ミラネーゼという、ミラノ市から南に20キロほどの町に行っての帰り、何となく心細い気持で歩いていたとき、「ちらちらと白く光っているのが、ミラノの大聖堂の尖塔だとわかるのに、それほど時間はとらなかった。あ、ミラノだ。とっさにそう思ったのだったが、そのことで心がはずんだことに、私は小さな衝撃を受けた。ふだんは日常の一部になりきっていて、これといって感慨も持たなかったミラノだったのが、朝の陽光に白くかがやく大聖堂の尖塔のイメージに触発されて、いいようもなくなつかしい、あれが自分の家のあるところだ、といった感情がよびさまし、ほとんど頬がほてるほどだった」と書く部分が非常に興味深かった。
 昔、阿部謹也さんか誰かが言ったか、あるいは書かれた文章を読んだか忘れたけれど、ヨーロッパの教会の大聖堂がどうしてあんなに立派なのかということで、中世の旅人、たとえば遍歴商人が年季明けして自分の町へ帰っていくとき、遠くから見える大聖堂の尖塔が、自分たちがふるさとに帰ってきたという意識をもたらしたのだというのを思い出した。彼らが歩いているうちにだんだん、見慣れた大聖堂の尖塔が見えてくる感覚というのはきっと感慨深いものがあっただろうと当時は思った。それを須賀さんの文章を読んで、ああ、これだなと思ったのだ。

 須賀さんの文章に出てくる言葉はなんていっていいのかよくわからないけれど、どこか心に残る。この本の解説を書かれている池澤夏樹さんは「須賀敦子はたいへん言葉に長けた人だった」というのはよくわかる。こうして前後関係なく抜き出してみてもうまい言い方をする人だなと思うのだ。

「しかし何年かたついちに、(博物館に収められた)いくつかの真珠が光沢失いはじめる。(チェデルナはここでは“appassire”という、花などが「凋れる」という意味の言葉をつかっている。他でも耳にしたことのある表現であるが、うつくしいと思った)真珠は人肌にふれないと徐々に死んでしまう」

「生きるだけでも骨の折れたあの日々」

「生きるための争いを終えた人々が横たわる墓地と、まだ闘いのさなかにある市場の人々と」

「昔『ヴェニスに死す』を読んだのは、本を脳の筋肉(そんなものがあるとすれば)でただ噛み砕いているにすぎないような若いころのことで、あたまに残っているのは、だれもが知っているストーリーだけだった」

「彼がどうやって染料会社の仕事の合間にあれほど質の高い読書ができるのか、私には奇跡のように思えた」

「孤独で透徹した哀しみが、私には尊いものに思えた」

「彼は、いちど見えなくなった自分の人生をつかまえようとして、やっきになっていたのだ」

「人生は、どうしても妥協するわけにはいかない本質的に大切なものがすこしと、いいよ、いいよ、そんなことはどっちでも、で済むようなことがどっさり、とでなりたっていて、それを理性でひとつひとつ見きわめながら、どちらかをえらんでいくものだ、といった生き方を、あらためて、彼女のなかに見た気がしたのだった」

 やはり人生を振り返ってみて書かれた文章は、言葉だけをとっても重みがあるし、まして須賀さんのように言葉に長けた人が書くと余計にそう感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第1巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420516
出版社:河出書房新社 (2006/10/20 出版)河出文庫
版型:453p / 15cm / A6判
販売価:997 円(税込)

2008年09月27日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 7

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 ついに7巻全部読み通した。全体的な気分として重い。それはそうだろう。この巻は薩軍の敗走から始まり、最後は城山での自滅で終わるからだ。
 司馬さんはこの西南戦争の性質を「これは軍隊間の戦争というより、薩軍の場合は宗教一揆に酷似していた。総帥である西郷隆盛への宗教的崇拝心以外に政略も戦略もなく、あとは個々の殉教心をたよりにしているというところでは、まったくそれに似ているというべきであった」といい、その宗教一揆が凄惨な自己消耗のいくさをするように、薩軍も消耗のはてに全軍が消えてしまうのではないかというほどに激しく戦ったという。
 しかも面白いことに、薩軍が起つまえにあった士族の反乱、たとえば江藤新平の佐賀の乱や前原一誠の乱、あるいは神風連の乱にしても、「西郷が起つと聞けば六十余州の士族はことごとく起つであろう」と予想し、西郷に決起を促したのに、西郷はとどまった。結果として他の士族はたちあがらなかったので、自滅した。
 しかし今度自分たちが立ち上がったときはそれを信じ、それをもってして唯一の政略・戦略とした。西郷自身、そう信じた形跡が濃い。西郷のもつ一大声望が満天下を覆っていると信じていた。つまり西郷たちも江藤同様同じ失敗をしたわけである。
 薩軍には何度も言うように「勢い」という以外、戦略らしい思想はなかったし、財務的経略を持たなかった。薩軍は総合的な観点も配慮も準備ももたず、あたかも個人競技のように戦術的勇猛さだけで熊本城も押し潰せると思った。結局は駒とり将棋のように兵を駆けまわらせて政府軍の士卒を殺傷するだけが戦いという没戦略的運動から抜け出せなかった。その責任は西郷がテロリズムだけの経験と能力をもつ人間を将帥の位置に据えたことにある。司馬さんは「西郷は一介のテロリストだった桐野や書生にすぎなかった篠原を泥の中から掘り出して陸軍少将の軍服着せ、たれよりもこの両人を信頼し、結局はかれらの政治的狂躁に乗せられた。人間を見ることにいかに目が無かった」と言い切る。篠原はこの後すぐ戦死してしまったので、薩軍を実質指揮するのは桐野である。
 その桐野は幕末中村半次郎と称していた頃から、相手を言論で説得しようとしたり、根まわしをして相手を排除するところがなく、邪魔立てする者を自分の命を賭けて、一人で斬った。維新後西郷によって桐野という凶器は陸軍少将になり、日本の軍事権の一部を掌握した。桐野という凶器は栄誉と権限を得て自立したために自らの思想と判断で動くようになり、ついには飼い主である西郷を引きずり込んでしまったのである。司馬さんは「西郷が見こんだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だった」といい、各地で敗戦を繰り返す薩軍の戦略のなさを、桐野を将にかかげたことににあるとしている。
 薩軍は敗走し続ける。田原坂以降、人吉に南下し、そして今度は宮崎には入り、南下する。そして急展開し、宮崎の山奥から鹿児島に一気に戻る。その敗走劇はすさまじい。そして城山で完全に政府軍に包囲される。


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 「新説西南戦争」(週刊新説戦乱の日本史7 小学館刊)より

 その政府軍には薩摩系高級軍人が多くいる。かれらのほとんどは西郷の子飼か、縁戚の者である。政府軍の総帥山県有朋でさえ西郷に恩があった。そのため西郷を逐うことに、気持ちのひるみがあった。できれば、政府軍が躊躇している間、せめて西郷だけでも逃げてくれまいかという気持ちであった。
 西郷は維新最大の功労者であり、かつ士族の精神像の代表的存在でもあったから、その西郷を討ちとりたくないし、討ちとらなければならないことに、名状しがたいつらさを感じていた。そのため政府軍の幹部は敗走する薩軍をその力で一気に押しつぶすことができるのに、それを躊躇したのであった。
 だから政府軍の最先方に、幕末薩摩と戦って破れた会津藩、あるいは東北、越後諸藩の士族を集め、維新の恨みをここで果たさせようとするのである。
 川路利良が放ったポリスもそのほとんどが会津藩から集められた。このことは、恨みを持つ人間を戦争の駒として使っていることになる。彼らは本来、政府を恨んでいいはずのものが、その政府に逆に恨みを持っていることで利用されてしまうのである。考えてみるだけでそ政府幹部のの狡猾さは恐ろしくもある。
 城山に籠もる薩軍は三百七十人ぐらいで、それを五、六万という政府軍の大軍が城山を包囲しただけではなく、城山そのものを檻の中に入れてしまうような規模をもって、すきまなく柵を植えた。それでも攻撃を躊躇った。薩軍の幹部の中にもせめて西郷の命だけは助けて欲しい(桐野は大反対であったが)と政府軍に交渉にいくが、とき既に遅い。総攻撃の前に、総帥山県も西郷に「自決せよ」という手紙を書いたが、総攻撃は始まってしまった。薩軍はほとんど戦いにならない。西郷も前線に出て行く。死を覚悟して。


もう ゆはごはわすめか(もうよくはございますまいか)

まだまだ

しばらくして

晋どん、もうここでよか

別府晋介は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって、駕籠を下り(別府は負傷していた)、西郷の背に立った。

「御免なって賜(た)も」
というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

 司馬さんはあとがきで「倒幕の段階の西郷は陽画的であったが、明治後陰画的であった」と書く。この場合、写真のポジとネガみたいなことをいっているのではなく、単に陽と陰の対照として使っている。言ってみれば、倒幕時代華々しく活動したのに、維新後影が薄くなったということだろう。しかし過去の栄光はいつまでも西郷につきまとう、たとえ西郷自身自ら形骸化することを選んだにせよ、西郷の名前は革命の象徴となり、一人歩きし、担がれることになってしまった。もうそこには昔の西郷はいないのにである。そこにあるのは西郷という虚像と、自分たちの不満解消がそこに見いだせるかもしれないという淡い希望と合致してしまった不幸である。
 西郷には「西郷の人間ばなれした無私さと、高士の風のある独特の愛嬌と長者として寛仁さと、なによりも多量で透明度の高い感情の量が薩人に好まれた」と司馬さん書くが、それは薩人だけでなく、西郷に接した者が皆感じるものであった。
 薩摩の敗走で援軍として立ち上がった豊前中津隊が、今後どうすべきか討議する。増田栄太郎は中津に帰れと隊員にいうが、自分はこのまま薩軍と一緒に戦い続けるという。その理由を増田栄太郎は「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生と接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」というのである。西郷という人間に接してしまった以上もうどうしようもないのだというのだ。そんな西郷の人間性も災いしたかもしれないと思った。


評価
★★★


書誌
書名:翔ぶが如く 7
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617701
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:350p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月23日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 6

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 さて西郷たちは蜂起した。目指すは熊本城であった。なぜ熊本城であるのか?熊本城は周知の通り加藤清正が築城した。それを許したのは徳川家康であった。家康はここに難攻不落の城を築くことで、薩摩を封じ込めることにしたのである。薩摩がいつ反旗をひるがえしても、ここで食い止めることが出来るようにしたのである。以来明治のこの時期まで熊本城は薩摩を見張ってきたことになる。
 司馬さんは『街道をゆく』で「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあって、中央集権の象徴そのものであった」と書いている。だから「西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった」と書く。熊本城は薩摩にとっていつでも「官」の象徴であった。「官」に対し立ち上がった西郷たちが当然潰して通るべきものであった。
 その熊本城には政府によって強制的に集められた農民兵が鎮台としていた。当然それ以前の士族たちと比べて質が落ちる。実際西郷たちが立ち上がる前に起こった神風連の乱で、簡単に襲撃され、幹部たちが殺害された。それ以降官兵は弱いと思われ、桐野利秋は熊本城を「この青竹(いらさぼう)で、ひとたたきでごわす」といったくらいなのだ。
 しかし実際攻めてみると、さすが難攻不落の城である。そう簡単に落とせる城ではなかった。しかも政府軍は籠城することで、味方の援軍を待つという作戦に出たから余計である。薩軍にしてみれば、「こんなはずじゃなかった」というところだろう。熊本城の攻撃で「薩軍の作戦心理は自閉的におちいりつつあった。そのことは、途に食物が落ちているのを見つけた犬に似ていた。食物(熊本城)を見すてて先に進めばおもしろい活路がひらけるのもかかわらず、食物にとらわれ、食物のまわりをうろうろしつつ、自分に襲いかかろうとする他の犬の群れに対して、寄るな寄るなと咆えつづけている図に似ていた」と司馬さんは比喩する。
 とにかく薩軍は熊本城を陥落させることにこだわった。ここに時間をさけばさくほど薩軍に不利になるのだが、熊本城見すてることはできなかった。こだわった理由は先に司馬さんが言った精神的風土なのだろう。いってみれば薩軍は熊本城という罠にかかったことになる。「薩軍がもし最初から熊本城を黙殺して一路豊後を衝き、小倉城をおとして連隊の兵器弾薬をうばっていれば、らくらくと成功したに相違なく、あるいは歴史は変わっていたかもしれない」と司馬さんはいう。
 西郷を担いだ薩軍はその精神的風土からくる自分たちの意識下で行動していた。そこには戦略などない。薩軍にあるのは総帥の西郷の天下における威望とこの薩人最強説という神話以外になかった。だから西郷と薩軍の行動は「町内の花見のように、その根拠地である鹿児島県を空っぽにし、全軍をあげて出はらってしまう」のである。
 この西郷の威望は薩摩の私学校生徒だけではなく、近隣の農民たちにも及んだ。薩軍に心を寄せる付近の農民は、彼らに握り飯をはこんでやっている。
 司馬さんはこの時代には「世間一般に人望家を待ち望んだり、恋い慕ったりする異常な偏向が存在した」といい、その説明を次のようにいう。「士族にしても農民にしても、藩といったような緻密で堅牢な封建組織が霧散霧消してしまうと、殻をうしなった剥き肉(み)のやどかりのような心細さをもち、そのくせ『官』というあらたに出現した重量については違和感のみを感じてそこからのがれたくなってしまう。そういう自分たちに方向を与えてくれたり、居場所を決めてくれたり、ときには死に場所をつくってくれるのが、人望家であった」。その人望家が西郷であった。
 農民たちは東京でできた革命政府と、彼らが作りはじめている重苦しい近代国家というものを歓迎しなかった。だから新政府をこわそうとする西郷軍に満腔の厚意をもっていた。農民からみれば、にわかに東京にできた新政府などは税金をとりたてる泥棒も同然といったような印象だったにちがいない。農民たちは馴れなじんだ徳川封建制こそいまにして思えばよかったと一般に考えていたし、それを西郷と薩摩士族がとりもどしてくれることを歓迎していたのだ。
 また薩摩士族にしても戊辰戦争をわずか一年で片づけた「古今無双の英雄」として西郷を担ぎ、西郷の威望で天下を覆うことで、自分たちの存在が政府軍より重いのだと思え、東京の太政官を士気の上で軽んずことができ、太政官を正統の政府というより大久保の「私政府」のように受けとるようになる。

 薩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下し、熊本城と連携しようとするのを防ぐため、兵を割って田原坂を中心に布陣し、政府軍と激突する。その攻防はすさまじい。
 田原坂周辺ではいまでも土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。


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          「週刊街道をゆく」の13巻より

 これは敵味方の弾が空中でぶつかりあってお互い噛みあい、だんごのようになったものである。現在田原坂の坂の上にある通称「弾痕の家」とよばれる家にもこの「行きあい弾」が保存されている。これは偶然のおもしろさといった軽々しいものじゃなく、こういう「行きあい弾」がいくつも見つかるということは、それだけ一定の空間に相当な密度で銃弾が行き交ったという証明である。
 薩軍は田原坂ですさまじい戦いをしたが、結局敗走するところでこの巻は終わる。いくら政府軍が弱いといっても、兵、銃弾の数において薩軍を上回っていたし、兵器の性能も政府軍が上回っていた。さすがの屈強の薩軍も個人の能力だけでは勝負にならなかった。しかも薩軍には戦略を立て、統治し、指揮する人物がいなかった。西郷はこのときも何も言わなかったのである。


書誌
書名:翔ぶが如く 6
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617602
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:329p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月17日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 5

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 話は大久保利通と木戸孝允の関係から始まる。
 明治六年大久保は木戸孝允と手を組み、西郷の征韓論を排し、西郷を下野させた。しかし大久保が外征熱の高い薩人の気分をそらすために台湾征伐を行ったことで、木戸は怒り、参議を辞職する。木戸を失ったことは、大久保にとって痛恨事であった。なぜなら東京の政府は薩長の二本柱で成り立っていたからで、その一本を失ったことは大きい。大久保は執拗に木戸の復帰を願い、明治八年に復帰する。この頃の木戸は明確に立憲主義であったが、大久保はしばらくの間は政府主導方式の専制政府を目指していたので、木戸の考えを有名無実化した。このため明治九年に木戸は参議をやめた。
 その木戸が「鹿児島県だけが、なぜ治外法権のごとく政府から屹立しているのか」と大久保に詰め寄る。鹿児島県を他県同様、ただの府県としろというのである。これは大久保にとって苦悩の種で、木戸からいわれれば、反論の余地がないものであった。だから先の巻で県令の大山綱良を呼びつけたのである。
 ここに大警視川路利良という人物がいる。ジョゼフ・フーシェが創設した秘密警察の存在に感銘を受ける。ナポレオン以来パリの警視庁が反政府主義者について情報収集しているのを模範として、日本の警視庁の創設に努めた。実はこの話は最初に川路がフランスに渡り、パリの警察制度に感化されるところから始まる。川路は岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。
 そして今回も薩摩に密偵を放ち、私学校に潜入し、「私学校幹部の政略は無謀であり、東京政府について彼等が宣伝しているところはみんなうそである」と説いて内部分裂させようとする。その上で出来るなら西郷を暗殺してこいと指示したのである。
 川路は「鹿児島県が、県をあげて太政官に服しようとしないのは、日本一の強藩であるという誇りや、維新における薩摩藩の功績についての自負、また政府もそれを導入した文明も否定する島津久光という存在、さらに一般問題として士族の失権についての精神的、経済的不満などあげられるが、もし西郷が存在しなければ、在郷の鹿児島士族がここまで驕慢にならなかったであろう」と考えていた。
 川路にとって西郷に恩を蒙った経緯があるし、西郷は徳者であると思っていたが、ただ今は西郷の存在そのものが悪であると考えていた。私学校の若者(にせ)が西郷を担ぐからである。だから私学校に密偵を放ち、内部分裂させると同時に西郷を抹殺すれば、鹿児島の不満は沈静化すると考え、大久保にそれを提案する。大久保はこの川路の提案を承諾したかどうかは、真相は明らかじゃないらしい。ただ司馬さんは大久保が岩倉具視と孝明天皇暗殺にかかわった疑惑があるので、可能性はなくもないとしている。
 とにかく川路は警視庁の鹿児島出身の警官を密偵として帰郷させた。後に彼等は私学校側から「東京獅子(あずまじし)」と呼ばれる。いずれにせよ、これが私学校側に発覚し、西南戦争への導火線に火を点じたことになる。この真意を確かめるため、西郷は立ち上がったという理由を与えてしまった。
 そこに鹿児島の不穏状態にあるため、鹿児島にある兵器弾薬を大阪に移そうと太政官が動き出す。船を鹿児島に入れ、秘密裏に兵器弾薬を運ぶが、その噂は広まった。当然私学校生徒の憤激を買った。「政府がその気であれば、すべからく機先を制し、これをわが手に収むべきではないか」ということで、鹿児島北郊にある草牟田の陸軍火薬庫を私学校生徒が襲撃し兵器弾薬を奪ってしまった。弾薬が政府に運び去れれれば、いざというときにあてがなくなると思ったのだろう。
 これを聞いた西郷は「シモタ!」、「何事、弾薬などを追盗(おとつ)せえ」と怒鳴ったという。何事であるか弾薬など獲って、ということである。火薬庫襲撃は政府に対する公然たる挑戦であり、さらにいえば政府に討薩の名目を与えたようなものであった。
 確かに密偵や兵器弾薬の移動は政府の挑発である。私学校生徒はそれにまんまと乗ってしまったことになる。西郷が怒るのも当たり前であった。今まで自分が不平分子に担がれないように山にこもり、自ら隠れることで、彼等を抑えてきたのが、すべて水の泡と期したのである。こうなるといいわけなど出来ない。
 西郷は山を下り、私学校幹部も集まり、出兵すべきかどうか討議する。幹部には西郷一人に大久保に、刺客問題、弾薬の問題を談判に行かせればいいという者もいた。つまり挑発したのはそっちだろうと西郷にいわせればいいというのが反戦派の主張であった。しかし幹部の篠原国幹が「政府はどうであるか。すでに刺客を放って先生を打ち殺そうしている。いまわれわれが義兵をあげてその非を鳴らすに、何の不都合があるか」という任侠道的一言で出兵は決まった。最後に西郷の裁断を桐野利秋が仰ぐ。西郷は次のようにいう。

「自分は何もいうことはない。一同その気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され」

 この決起は戦略がない。ただ鹿児島で立ち上がって、兵を引き連れて東京まで行き、大久保たちに詰め寄るということであって、その間に起こりうる問題を一切考慮していなかった。司馬さんは「かれらは西郷を崇敬すること、あたかも宗教的感情のようである。さらには、ひとたび西郷が起ちあがれば満天下の士族が風を望んでやってくるだけでなく、鎮台も戦わずして靡き、東京政府はそれだけで瓦解する、と信じていた。私学校生徒に世界観などあるはずがなく西郷その人が世界観であり、戦略などあるはずがなく西郷そのひとを擁するというだけで戦略は足る」と考えていたのだろうという。
 その西郷にしても、幕末、維新とあれほど政略を持って行動した人物なのに、維新後まるで一切を投げ出した態度(それが性格的な問題としても)で明治政府とは無関係というような態度でここまできている。ただ維新の最大の功労者という肩書きだけが一人歩きしているような感じである。
 こうして立ち上がる以上、立ち上がる理由があったはずだと思いたい。例えば自分が作り上げた維新政府が、今まで描いていたものでなっかったなら、もう一度作り直してやろうという意味で今回のように挙兵するのだといえば意味はあるだろう。それを何もいわずにこの体差しあげますからとしか言えないのが不思議である。少なくとも自らの意思で立ち上がるなら、自らの意見を言って、作戦を立ててしかるべきだし、もっといえば、志士たちの暴発を防ぐことだって出来たはずだ。ただ担ぎ上げられることだけを恐れて山にこもってしまう。厭世的気分が西郷の頭の中でいっぱいだったのだろうか?司馬さんは維新前と維新後では別人のようだといっているけれど、まさしくそう感じる。
 そんな西郷の変化を説明するために、司馬さんは極端な事例を持ち出す始末である。それは西郷が山にこもっているとき、転んで切り株の角で頭を打ったからだというのである。そうしたことでしか説明できないほどの豹変なのである。
 とにかく西郷は立った。それを知った大久保利通は「それが終(つい)に、公表に拠り、西郷も加担してゐると知ったときは、アノ背の高い(殆ど六尺あつた)父が、座にゐたたまらず、焦燥しながら、座敷と廊下の間を鴨居に頭をぶつけながら、グルグル歩きまはつて、そして眼には一ぱい涙を湛へて居つた」と大久保の次男牧野伸顕が叔母から聞かされていたという。(司馬さんは大久保が西郷暗殺に加担したのであれば、この態度は大嘘だとはいってはいるが)
 いずれにせよ、ついに西南戦争が始まった。


書誌
書名:翔ぶが如く 5
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617503
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:311p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月10日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 4

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 この本を読んでいると、本来革命というものは、旧政権に対する下からの突き上げによって起こりうるものであろうと思うが、明治維新というのはその点多少異なることに気がつく。
 西欧列強が幕府に開国を迫り、幕府は列強のいわれるがまま開国をする。その恐怖から攘夷運動が起こり、尊皇と結び付き、倒幕運動とつながっていく。尊皇と結びつくのは、彼らには幕府を否定する思想的根拠がそれしかなかったからだ。司馬さんはそれを「その思想的根拠として、国学的教養の者も宋学(朱子学・陽明学)的教養の者も、みな天皇にもとめた。天皇という、多分に非現実的な超幕藩的存在を絶対視することによって、当面の敵である幕府の存在をを卑小化し、論理として非合法化し、やがては潰したのである」と説明する。
 倒幕を成し遂げたのは、薩摩や長州の志士たちであり、彼らの下にいる庶民を政治に参加させるという思想はない。彼らには、その次どうするかという構想がないに等しかった。だから倒幕を果たしたものの、しばらくは幕藩体制を維持することになる。ということは、支配する側の顔が変わったことだけであった。司馬さんも似たようなことをいっている。
 
 「旧幕府は、列強におどされ通商条約というかたちで屈辱的開国をした。それを責めて全国の攘夷家が立ちあがり、通商条約破棄をせまり、やがて薩長という二大雄藩がその時代の気分の代表をなした。その薩長がそれぞれ外国と武力戦(薩摩の薩英戦争と長州の下関海峡戦争)をおこない、外国の武力の抗しがたいことを知り、ひそかに体質を変えた。藩として大いに外国の技術を導入し、洋式軍隊の強化と併行して産業国家をめざそうとしたが、その二大雄藩が太政官を作った以上、ペリーに屈した旧幕府と似たふうにならざるを得ない」

 明治維新は倒幕運動で終わりではない。新政府(太政官)による国家を作らなければならない。しかし欧米風の近代国家を日本に植え付けるには、国民の意識がある程度成熟していなければならないのだが、それがなっていない。依然旧幕時代のまま意識であった。だから新国家は制度として国家と近代国家とはどうあるべきかということを国民に教えていかなければならなかった。だから大久保利通が考えたように、国民の意識がそこまで成熟するまで、新政府がイニシアティブをとって導いて行こうとする。そのためには中央集権による専制国家をまずは作り上げ、国民の意識はその後にというような、ある意味自分たちに都合のいい考えで、国家を動かしていく。
 まずは藩という存在がじゃまであった。だからそれを潰す。そしてそれに対して反抗しないように自分たちの軍を持つ。それは徴兵制度で百姓たちを軍人にすることでまかなった。そうなれば、いわゆる武士は不要になる。彼らは廃業するしかなかったのである。
 百姓も江戸時代では年貢だけを納めていればよかったものが、今度はそれ以外に徴兵制度に強制参加させられる。しかも近代国家というのはお金がかかるものだから、税金も高くなる。新国家は士族から百姓まで不満だらけになっていた。だから政府のいうことを聞かない所もでで来るし、なめてかかられた。
 例えば鹿児島県令の大山綱良がいい例である。大山綱良は島津久光の代理者的存在で、大久保利通を「一蔵め」と呼ぶ。大山にすれば、大久保は倒幕に恩ある藩士族を裏切り、その特権を奪い、四民平等といううそのような世間を作った詐欺師であり、東京政権を守るために百姓に軍服を着せ軍隊を作った悪党であった。
 鹿児島県は私学校幹部を県費でまるまる抱え、人員過剰で目に余るものがあった。大久保は大山に他県並みにせよと言うが、大山は「一蔵、汝(わい)は何をいうのか。それほど県官を淘汰したければ、汝自身がやれ。内務卿を辞職して鹿児島県令になり、その上で県官を淘汰せよ」「もし内務卿の後任がないというなら、わしがその職についてやる。交替せよ。交替してから、淘汰なり何なり、好きなことをやれ」とかみつかれるのである。大久保は黙るしかなかったという。
 一方で幕末、尊皇攘夷といって、薩長の志士たちが倒幕運動を始めたのが、いつの間にか攘夷というのが抜け落ちてくる。現状の日本では攘夷など出来るわけがないということで、そうならざるを得なかった訳だが、振り上げた拳をどうしていいのかわからない状態でもあった。そのエネルギーが士族階級の没落もあって、征韓論となっていく。
 そんな西郷や征韓論派の諸参議の下野後、太政官はその機構のなかに批判勢力を持たなくなり、一面では孤立、一面では独走の権力になった。そこに新政府への不満がからみ合って、エネルギーが変質し、自由民権運動がわき上がってくる。
 面白いのは政府への不満は新聞で行われ、その記者たちは旧幕臣や維新に乗り遅れた藩の出身者が多かったという。本来、革命をおこしたはずの新政府がもつべきであった自由民権という欧米の理念は、維新より遅れてこの国に入ってきたため主として新聞に拠る記者たちの理念になったのである。伊藤博文も日本中に充満する東京政府への不満を、民権体制をとることによって吸収してしまわねばならないと考え、やっと重い腰を上げようとするところへ、小規模な反乱が起こってくる。
 この本はこれじゃダメだといった感じで新政府への反乱、すなわち前原一誠らによる萩の乱や廃刀令に反発して旧熊本藩の士族たちが起こす神風連の乱の前夜で終わる。しかしこの小規模な反乱はその首謀者ができが悪いため、失敗に終わるだろうなという予感をさせる。
 前原一誠や神風連の乱の首謀者である太田黒伴雄は自分たちが立ち上がるに当たって、西郷もその後立ち上がってくれるだろうという淡い期待で暴走する。決起が西郷たのみなのである。江藤新平と同じであった。
 西郷隆盛(この巻では殆ど出てこない)は鹿児島の田舎に引っ込み、機会をうかがっているといった感じである。西郷は下にいる人間の怒気が満ちて挙兵をせまり、それを将たる者は抑えに抑え、ついに抑えきれなくなったときに抑えの手を放つといった感じで、その機会を待っている。やっぱり西郷は格が違う。


書誌
書名:翔ぶが如く 4
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617404
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:311p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月04日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 3

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 革命には膨大なエネルギーを必要とする。そのエネルギーとは、人、血、金、欲、武力、そして革命の裏付けとなる思想などであろう。そして革命が成ったとき、その余ったエネルギーを今度どうやって放出するかが問題となってくる。
 いわゆる消耗戦で、ぎりぎりのところで革命が成れば、そのエネルギーはほぼゼロとなるから、次の段階に比較的進みやすい。ところがそのエネルギーを使い果たすことなく、ほぼ温存してしまった場合、有り余ったエネルギーをどこかに放出しないと、今度は新しい政府の命取りとなる。まして結果が望んだこととはだいぶ違うとなれば余計である。西郷が持ち出した征韓論はそのエネルギー放出の一策でもあった。
 そもそも薩長の革命は、徳川幕府を倒すだけが目的ではない。幕藩体制も打ち壊し、中央集権国家を樹立して、初めて革命は完成する。その完成のためには廃藩置県がどうしても必要であった。
 廃藩置県の主役的役割を果たしたのは長州派であったが、これを実行に移すには薩摩を動かすしかなく、西郷を承知させなければならなかった。西郷にこの話を持っていったのが山県有朋であったが、西郷は廃藩置県をあっさりと承諾した。この時点で西郷は廃藩置県の承認者であった。司馬さんは「西郷はむしろ(廃藩置県に)積極的であった。かれは新政府樹立後、台閣に立つ者たちが優柔不断で、内乱終熄後何事もなしていない現状に優憤していたほどであった。あるいは維新をやった以上、歴史は藩否定にまで進展することを自覚し、自分の蒔いた種をそのようにして刈らねばならないとおもったのかもしれない」と書く。
 廃藩置県を実現するためには東京政府は兵力を持たねばならない。これよりさき政府は薩長土三藩から御親兵(のち近衛と改称)約一万人を東京にあつめていた。この兵力をもって、大改革をしようとする。薩摩軍は(島津久光をだまして)西郷みずからひきいて東上した。彼らにフランス風の軍服を着せ、階級を与え、近衛軍人にすることで、一挙に廃藩置県をやった。
 廃藩置県を明治政府がやるに当たり、その風当たりの強さが予想できたので、会議は紛糾したが、西郷は廃藩置県に反対するなら「この上は、もし各藩で異議がおこりましたならば、拙者がこの兵をひきいて打ち潰します」と言い切るのである。
 一方で廃藩置県は藩と士族階級の没落を意味し、兵を出した島津久光や薩摩系近衛軍人や士族階級の裏切りになる。それをわかった上で西郷は廃藩置県に賛成したのである。当然その恨みは西郷に向かっていいはずなのに、久光は別として、薩摩系近衛軍人は西郷を恨まない。大久保をを恨むのである。このあたりは不思議と言えば不思議である。
 西郷も薩摩士族の特権を奪ったのである。だから西郷自身「衆恨は私一身にあつまるでしょう」と言ったという。西郷は廃藩置県による士族の不満を一身でなだめ、抑えることに苦心しぬいた。「西郷はこの分のあわぬ作業のために内心傷だらけになってしまったにちがいない」と司馬さんも言う。
 その上、岩倉や大久保は廃藩置県に安堵して、政府ぐるみといったほどの大陣容で外遊してしまったのである。西郷は留守をさせられ、留守中の最大の問題は不平士族の反乱をおさえることであったが、西郷にとってこれほど苦しい仕事はなかった。こうした西郷の苦しみに薩摩系近衛軍人や士族階級は情義を感じたからであろうか、彼らの憤りは西郷には向かなかった。
 一方で彼らの功績がなければ、廃藩置県も出来なかったし、岩倉や大久保たちが大きな顔して為政者ぶっていられないはずであった。ところが、長い外遊から帰ってきた連中は、西郷のその苦しみを理解してやらなかった。特に大久保が理解すべきであったが、大久保は情緒感覚に天性欠けるところがあったため、それに対して冷然としている。だから不満は政府及び大久保に向かってしまった。西郷も配下の近衛軍人と同様憤りを覚えたであろう。
 その西郷が、近衛軍人や士族たちの憤りを他にむけるために征韓論をもち出した。西郷としてはこれ以外に、これ以上おさえつづける自信がなかったのである。その征韓論を大久保が蹴った。その理由は今日本が極東において武力紛争など起こせるほどの国力がないからであった。
 司馬さんは面白いことを書かれている。
「この明治初年の征韓派・非征韓派のあらそいは、ごく簡単な図式として考えることもできなくない。
 明治四年に出発した岩倉大使以下の洋行組が非征韓論者であり、日本に残留した西郷隆盛以下が征韓論をとなえたということである。海外に出れば一目瞭然に世界になかの日本というものが把握できるはずであり、いまの時期に極東で武力紛争をおこすことがどういう意味をなすかということがわかるはずであった」と。そして西郷は去った。しかし不満のエネルギーは蓄積する一方であった。それをなんとかしようと、大久保利通と西郷従道(西郷隆盛の弟)らによって台湾出兵が行われる。
 ことの発端は、明治四年十月那覇港を出港した宮古島船、八重山島船あわせて二隻が暴風のため漂流した。そのうち宮古島船が台湾の南端に打ち上げられ、高砂族に襲撃され五十四人が虐殺された。「報復のため、出兵すべきだ」という意見が出始める。しかし日本はこれをどう処理していいかわからなかった。ここに厦門の米国総領事のリ・ゼントルという南北戦争あがりの山師的人物がけしかける。台湾を取れというのである。西郷従道は台湾を日本領にすることは考えていなかったが、征伐することを考ええる。それも国内の不満分子を連れて、そのエネルギーを台湾に向けさせようとしたのである。「要するに、汽船いっぱいに壮士(薩摩系近衛軍人や士族階級の不満分子)を乗せて台湾の高砂族をなぐりつけにゆくだけのことを、従道は考えていたのである」。
 これは基本的に西郷隆盛が主張する征韓論の主旨と何ら変わらない。従道は征韓論に反対であったが、征台論は国内に沸騰する征韓気分を鎮めるためのものであった。行く先が違うだけのことであった。
 しかし大久保はこの話に乗った。乗ったどころの話じゃない。率先して征台に乗り出す。西郷従道は台湾に出兵する。そしてそこそこの戦いで征台は終わるのだが、大久保は中国清に自ら赴いて、管理不足だと喧嘩を売る。挙げ句の果て賠償金五十万ドルを分捕ってしまうのである。この巻はここで話が終わる。

 それにしてもこの話は西郷隆盛と大久保利通の衝突がメインとなっている。そのためこの二人の人物が魅力的な人物として描かれ、他の人物は馬鹿、あるいは二流の人物に感じさせられる。
 西郷や大久保以外、あるいはそうなのかもしれない。
 たとえば江藤新平がある。江藤は西郷が去った後、自らも東京を去る。その後佐賀の乱を起こす。維新政府を倒そうと考えるのだが、江藤自身立ち上がれば、西郷も立ち上がると勝手に思ってしまう。
 しかし機が熟していない。西郷はそのことがわかっていたが、江藤はわからなかった。だから江藤は西郷に「私が言うようになさらんと、あてが違いますぞ」と怒鳴られるのである。
 今立てば、大久保の思うつぼで、明治政府の兵力を強力にするだけのことであった。大久保は征台の前に、自ら佐賀に出向き、乱を鎮圧する。そして江藤をみせしめにするため、政府に逆らえばこうなるんだぞとさらし首にするのである。いわば西郷たちら不平分子に対するみせしめになっただけであった。
 


書誌
書名:翔ぶが如く 3
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617305
出版社:文藝春秋 1985/08 出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年08月31日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 2

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 明治という新国家に内蔵している問題を司馬さんは次のようなものだったと言う。
「歴史的にいえば明治政府ほどつらい政権ない。どの時代の革命政権も前時代より租税を安くするところから施政を出発させるのが普通であるのに、旧幕府よりもはるかに民衆の財政負担を重くせざるをえなかった。その最大の理由は明治革命の主目的が近代国家になるためのものであったからだ。やってみたものの、近代国家というのはべらぼうに金がかかるものだった」

「それらの無理は、百姓たちにしわよせされた。このため各地で一揆がしきりにおこった。軍費を負担させられるだけでなく、旧幕府もそれをしなかった徴兵の義務を百姓に課したのである」

 しかも始めたばかりであったから、体制が整っていない。その上幕末から大して時間が経っていないものだから、意識として未だ江戸時代をを引きずっているといっていい。そこに征韓論の是非の根拠がある。つまり大久保側からすれば、国としての体制も整っていないし、金もない状態で征韓論を認めれば、戦争に行きつくことは必死である以上、そんなことができるわけがないと主張する。大久保は国家を数量計算で見ようとする実際面から離れず、西郷の主張するところと次元を異にしていた。
 一方で「西郷の立論は現実への把握がとぼしく、多分に実際面において堅牢でなかったが、しかし西郷の哲学的論理からすればそれこそ実際的であり、なぜなら日本民族はこれによってこそ苦難を経て草木とともに一新するだろう、維新の意義はそこある、極端にいえば日本民族の半ばが戦火に倒れるともアジアの一新に役立てばそれでよい」といわゆる精神論で征韓論を主張する。
 要は征韓論の是非は現実面でいくか、精神面でいくか、それによってスタンス決まってしまうのであった。しかし「廟議は、討論において結局大久保が優位に立った。金がないからだめだ。という、財政面から押しつづけてゆけば、いかにすぐれた政策案でも無力にならざるをえない」のである。
 が、征韓論は一度勅許が条件付きで降りている。西郷にすれば、これ以上何をする必要があるかというのが心情であった。だから西郷は以前のような行動はしない。その点、前に私は不思議だと書いた。そうした態度を西郷が取ったのは「『公明正大の正論が堂々とまかり通る政府であるはず』というのが、西郷の多分に願望をこめた政府観で、そういう政府をつくるためにおびただしい流血のすえに成立した政府なのである。その政府を作った西郷としては、太政官政府を幕府のように見たくはなく、まして幕府を倒したときのやり方をこの政府に対して試みようとは思わなかった」からだと司馬さんは説明する。なるほど。自分が作った新政府は、誠意を持って主張すれば意見の通る政府であって欲しいし、そうでなければならないはずだとする西郷のなら、これ以上余計なことはする必要はなかったのだろう。


閑話休題
 この巻は征韓論を通して西郷と大久保の意見の戦いを描くことメインにしているが、同時に西郷、大久保の人物像にも当然ふれる。司馬さんはまず大久保について次のように言う。
 「かれは日本国の政綱を攪るにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷といえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。にべもなかった」と。だからこそ「やがて大久保は、彼が予感したように、殺されるべき人物であった。大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった」という。
 一方西郷は「本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。(略)げんにかれは幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をも集団をもまた世の中をもうごかした。西郷が放射するその雲間のきらめきのようなものを、ひとびとは政治的人間の徒類のなかでほとんどありうべからざるものとして感じた。西郷においてひとびとがなにか神聖なものを感じていたのは、そういうことであろう」と人々が西郷に引きつけられる理由の一つを説明する。さらに、「西郷は単なる仁者ではなく、その精神をつねに無私な覇気で緊張させている男であり、その無私ということが、西郷が衆を動かしうるところの大きな秘密であった。人間は本来無私ではありえず、ありえぬように作られているが、しかし西郷は無私である以外に人を動かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常な姿にひきすえることはできないと信じている男だった」。西郷の人望は西郷の無私によって動かされたものによるのだろう。
 ところで西郷たち革命家には革命家が持つ特別な精神体質があるように思えると司馬さんはいう。曰く「革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。西郷、大久保、木戸などは、旧幕府が一見盤石な重みをもっていたときに志をおこし、奔走し、法網と偵吏と刀槍のなかをくぐりぬけるという血みどろの前歴もっている。同時代でかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者いたが、しかしそれらのひとびとが日常の常識的世界の安らかさのなかで過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治以後である。交わりつつも、ついに交わりきれないものがあるのは、この連中を動かしてきた志ーある種の肉腫ーのようなものが邪魔をするのかもしれない。さらに西郷のように、その肉腫の疼きで行動してきた過去のさまざまな過程において、結果として旧主の島津久光を裏切るかたちになったり、あるいは生死を共にした多くの下僚(桐野ら)とのあいだに理屈を越えた恩愛の情が生じてしまっている」という。(その点「板垣退助や副島種臣にはその前歴が革命家ではなく、単に藩勢力の代表者として入閣していたに過ぎないので、そういう過去から持ち越してきた厄介な荷物はなかった」と彼らとは人間が違うんだよといっている)
 伊藤博文に関しても、「この時期の伊藤には軽快な政治処理能力はあるにしても、西郷や木戸が持ち、むしろそれによって苦しんでいる哲学は持たなかった。志士仁人の時代は過ぎ、すでに処理家の時代がきている。新国家に山積している解決困難な諸問題や諸事務を解決するにさしあたっては哲学は不要であり、処理家の手腕を必要とした。伊藤が、西郷退治の黒子として活躍しているのは、処理家が登場しようとしている新時代を象徴しているといっていい」と伊藤の台頭を説明する。西郷自身「自分はもはや世の進運に役立たぬ旧物」と感じていたが、そんな中征韓論は西郷にとって最後の情熱を傾けられるものであったし、存在感が示せるものであった。しかしそれは明治政府にとって命取りになるので、何とか阻止せねばならないことでもあった。西郷は「旧幕府より明治政権を小さく見ていたが、旧幕府がすでに歴史的生命をうしなっていたのに対し、明治政権は弱小ではあったが、誕生してまだ若々しくある。若いというのは、この誕生したばかりの権力を懸命に守ろうとする情熱が権力内部に横溢していた」ことを軽く見ていたのだろう。それが西郷の敗北につながったわけだ。

 さて、廟議は翌日に持ち越されたが、西郷、大久保とも一歩も引かず、三条が「万策尽きました」と西郷の征韓論に決定したのであった。
 どの後大久保は紋服を着用して三条に自ら辞表を手渡した。三条は封書の中身を見て絶句する。とりあえず詳しい話を聞きたいと、大久保を中に招き入れようとするが、大久保は「いいえ、ここで失礼します」、「これにて」と背をひるがえした。大久保にとって、自分が西郷と対決するにあたり、参議となり、しかも信用おけない三条や岩倉が反征韓論の立場に豹説しないという念書まで書いたのに、それを裏切った。だから大久保にとってこの態度は当然であった。
 ところが三条がこのあと倒れてしまう。伊藤は三条が偶然にしろ倒れたことをいいチャンスとして利用する。三条の代理をしたのは岩倉具視であった。岩倉に太政大臣職を代理すべき旨の勅命が下る。
 そんな岩倉の元へ副島種臣、江藤新平、板垣退助らは西郷を誘い、訪れる。廟議で決定した征韓論を早く上奏しろというのである。岩倉は「あすにも上奏いたす」と四人に言うが、それは岩倉自身に説を上奏するということであった。つまり岩倉も征韓論が愚論と考えているが、とりあえずそれを実施するには日本海軍、陸軍の整備が整うまで猶予するというものであった。これに対して江藤新平は岩倉は三条の代理なのだから、三条が決めたことを実行すべしと迫る。そうでなければ三条へ不忠実であり、廟議を侮辱するものだと言い切る。
 ところが岩倉も腹を据えている。岩倉は三条より代理を頼まれたわけではない。もしそうなら江藤の言うとおりであろう。しかし自分は天皇より代理を命じられた。代理という名称はついているけれど、岩倉は三条から独立した存在であって、政治の最高責任者が変わったのだから、自分の考えを天皇に上奏できると主張するのである。
 このとき別室ではこのやりとりを聞いている人物がいる。桐野利秋である。西郷がこのとき連れてきた。岩倉への脅しである。桐野は幕末中村半次郎といい、「人切り半次郎」と恐れられるほど、多くの人を切ってきた人物である。こんな人物が別部屋で岩倉と西郷らの話を聞きながら、刀の柄をかちゃかちゃやっているのだからたまったもんじゃない。しかし岩倉は耐えた。そして話が尽きた頃、一座をにらみまわし、「わしのこの両目の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思ってもそうはさせんぞ」岩倉の生涯の中でもっとも凄味のある一言を吐く。これで勝負は決まった。四人の参議は席を立つ。そのとき西郷は「右大臣、よく踏ん張り申したな」と言ったという。まさしくその通りであり、たぶん西郷の性格柄、このときの岩倉に感動したのだろう。「もうなにも申さぬ。勝手になされ」と辞した。岩倉はちゃらちゃらした公家ではなかった。幕末動乱の中を生き抜いてきた人物であった。だからこそこの言葉には凄味がある。
 このあと西郷は東京をひきはらうべく行動する。ただ一人暇乞いに行く。幼なじみであり、維新ではともに戦い、征韓論では政敵となった大久保利通である。このとき大久保のもとには伊藤博文がいたが、伊藤が席を外そうとすると西郷はかまわないという。西郷は大久保に次のように言う。
「一蔵(大久保)どん、おいはくにへ帰っど」
「辞表を送っておき申した」
「今後の国事(あとのことは)、よろしゅう頼んみやげ申す」
これに対して大久保は、怒気をみせ、「それは吉之助どん、おい(俺)の知った事か。いっでんこいじゃ(いつでもこうじゃ)。いまはちゅう大事なときにおまんさぁ、逃げなさる。後始末はおい(俺)せなならん。もう、知った事か」と言い放つ。西郷は「仕様がない」とつぶやいて立ち上がった。
 この日が両者の永遠の別れとなる。私はこの場面思わず絶句してしまう。妙に二人のこの会話に感動してしまった。

 この二人には征韓論に関しては妥協点が見いだせなかった。相反するだけである。結果として大久保が勝ち、大久保は自分が描く国家建設に邁進する。日本が近代国家となるためには、まだ国内に国民意識がない。だから制度もそうだけど、国民の意識も近代的なものに変えていかなければならない。その面倒を国が見るようにするのである。言ってみれば国民は馬鹿だから、国や政治家、役人が教え、面倒見てやるということである。確かに維新直後ではそうする必要があったかもしれない。けれど大久保が倒れた後、その意志を歪曲して継いだ山県有朋がおかしくしてしまい、その意識は現代になっても残っている。日本が今でも政治家、役人がやり放題の国家なのはこのためである。彼らの国民を小馬鹿にした態度も未だ持ち続けているのも、明治以来のものではないかと思う。
 もし西郷の征韓論が通っていたら(この時点で現実にはあり得ないのだが)、西郷がもっていた精神のあり方が日本人に植え付けられていたかもしれない。そうすれば、今の日本人はもっともっと自分たちに自信を持ち得たかもしれないし、もっと謙虚であり得たかもしれない、と思ったりする。


書誌
書名:翔ぶが如く 2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617206 (4163617205)
出版社:文藝春秋 1985/08出版
版型:354p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)

2008年08月29日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 1

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 西郷隆盛のことを知りたいと思った。それでこの本を読みはじめる。実はこの本を手に入れてから三巻までは読んでいる。ところが明治政府の台湾出兵あたりから面白くなくなってしまい、頓挫してしまった。今回は気合を入れて読んでみようと思っている。
 さて、この巻で気になる問題は征韓論と、明治維新を成し遂げ、新国家を建設した志士たちがどういう人物たちであったかである。
 まずは征韓論である。征韓論がわき上がる背景にはいくつかの理由がある。征韓論は「日本の幸福」と「韓国の幸福」ももたすものだと考えられていた。
 日本は明治維新をやって富国強兵をめざした欧化政策をとった。それを朝鮮に向かって「貴国もそうせよ」と迫ったのである。それは革命の輸出であった。「『韓国の幸福』とは韓国の国家組織も社会制度も世界から見れば老化しており、このままだと、ロシアの南下によって併呑されてしまう。そうなる前に韓国を開国させ、世界性をもたせ、ともに列強の侵略ふせぐことであった」。そのためには「朝鮮の政府を伐って朝鮮人民の目を醒ませ、この人民に維新政府をつくらせてそれと同盟するよりほかない」という考えに至るのである。
 最初朝鮮側に対して、「日本側はあくまでも鄭重な折衝法をとった。しかもいささかの野心もなく、友好と親切から出た働きかけであった。しかし朝鮮にとっては余計なお節介であった。朝鮮国の支配者にすれば、開国すれば国内体制がくずれるのである。どの国の支配階級が、自分の支配体制の崩壊を賭けてまでして他国の変な親切をうけいれるであろう。
 折衝は明治初年から足かけ六年つづいた。朝鮮側は毎度峻拒し、毎度罵倒した。結局は日本の壮士気分を激発させる結果をみた」。
 日本のこの気分は秀吉の無知の段階から少しも出ていない。朝鮮人が「倭奴(ウエノム)」と呪いの言葉を持って日本人を見るようになったのは豊臣秀吉の朝鮮討入の「壬辰倭乱」以後であったが、加害者である日本側はその後朝鮮とその民族を知ろうとする努力怠っていた。
 その上「日本における外交問題は、他の国におけるそれとはよほどちがった概念と性質をもっているといえるかもしれない。外交が技術であるよりも国民的情念の表現、もしくは情念によるヒステリー発作というにちかい性質をもっているのではないかとさえ思える」と司馬さんが言うように、特に「革命早々の日本国家の運営者たちは、むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きかった」から、征韓論は日本における重要な課題となっていったのである。その急先鋒が西郷隆盛であった。
 西郷は征韓論が「日本の幸福」をもたらすと考えていた。そもそも倒幕運動や明治維新はあまりにも短時間で達成してしまったため、薩摩軍人たちはふりあげたコブシのやりばもなくて鬱屈していたし、旧幕府側の士族階級もこの後行われる政策、「たとえば諸大名の版籍奉還があって、のち諸大名および士族階級が土地人民の支配権をうしなうという廃藩置県がおこなわれた。これらに並行して徴兵制度が布かれ、士族階級の最後の名誉であった武の特権までうばわれ、庶民に転落した」事実は当然不満の種となった。
 変な言い方であるが、もう少し倒幕運動や明治維新に時間がかかっておれば、多くの志士や士族階級たる武士に犠牲が出ていただろう。そうなれば、彼らの存在そのもの数がぐっと減ってしまい、維新後起こる彼らの不平不満など少数意見になっていたかもしれない。もちろん会津などには多大な犠牲が出たけれど、総じてあっけなく明治維新がなってしまったことが、後で大きな問題を抱えることなったわけである。
 西郷隆盛はそうした不満や悲鳴をある程度仕方がないと理性では思うのだが、一方でそれを見るに忍びなかった。それは司馬さんが言うように「西郷は『旧階級と旧階級の精神』というものを率いて幕府を倒した。ところがそれによって出来あがった新国家が自分を生んだ『旧階級と旧階級の精神』を圧殺した」ことの煩悶でもあった。
 確かに革命にはある程度の犠牲はやむを得ないところがあることは事実であるが、その犠牲を単に仕方がないことだとは西郷は受けいられなかったのである。不満や悲鳴の声を西郷は聞いてしまったのであった。「西郷は革命の成功者でありながら、革命が当然ひきおこすおびただしい惨禍のほうを一身でひきうけよう」とし、「巨大な感情量をもって幕府を倒した西郷は、革命の成功で無用になったその超人的感情量を、維新によって没落した士族階級への憐憫にむけたのである」と司馬さんは言う。
 そんな西郷の自己矛盾(革命には犠牲がつきものというのと、それを放っておけないという気持)と、志士たちの高揚した気分のはけ口と全国二百万人以上といわれる没落士族を救う解決策が征韓論であった。西郷はそれに飛びついた。
 さらに言えば、明治新政府の誕生と、廃藩置県は薩摩藩の島津久光に対しての裏切りでもあった。事実久光自身、西郷や大久保を裏切り者と罵っていた。特に西郷は久光の罵倒に自分の身の置き場所がなく、絶えずそれを探していた。つまり西郷自身自分が死ぬことを望んでいた。自分が遣韓大使として朝鮮に渡れば、必ず殺される。それはそれでいいと思っていた。いやそうあって欲しいと願っていたところがある。西郷が朝鮮で殺されれば、日本の重鎮が殺害されたのだから、朝鮮出兵の大義名分も整うことにもなると考えていた。
 ここで面白いと思うのは、西郷は明治革命政府で陸軍大将、近衛提督で明治の陸軍を掌握していた。やろうと思えば、これらの軍事力をもっ自分の主張する征韓論を簡単に押し通すことが出来たのに、ただ自分を遣韓大使に任命してくれと閣議でひたすら哀願泣訴するのである。幕末あれほど根回し、策を弄し、力にものを言わせた人物がただ嘆願するのである。この豹変ぶりはどうしてなのだろうかと思うくらいである。
 この巻では岩倉具視が参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通らを伴って欧米諸国を巡っている間(いわゆる岩倉使節団のこと)、その留守を預かっていた三条実美に西郷が迫り、困り果てた三条は西郷を遣韓大使として派遣する旨を了解し、天皇の勅旨を得るまでで終わる。但しこれには岩倉らが帰国するまで待って、再度討議するという条件がついていた。西郷はそれでも天皇の許可が下りたのだから、自分は遣韓大使として派遣されるだろうと思っていた。

 ところで明治維新で活躍した人物たちを司馬さんはどう書いているだろうか。例によってわざと話を逸脱したり、あるいは休んで登場人物たちについて語る手法でこの小説は書かれているが、それが面白いのでいくつか書きたい。
 まずは西郷隆盛である。司馬さんは西郷を「幕末の西郷には維新後の国家設計の青写真などなかった。せいぜいうちに王道楽土をつくり、外は列強のあなどりを防ぐ、というだけの輪郭の不明瞭なものであった。倒幕についての政略ではあれだけ緻密で雄大な構想と着実で地道な実行形態をとりつづけたこの人物が、新国家設計については一見まるで手ばなしの無能な姿を見せる」と言い、「西郷は政治は才略より人格であるという考えをとった」と語る。
 一方大久保利通については「大久保は、官僚専制思想家である。日本の町人百姓はまだ、欧米の人民ではない。未熟なること犬猫同然である。
 と大久保は考えていた。犬猫を欧米なみの『人民』に向上させるまでに三十年かかる。憲法も自由も権利もそれからのことだ、それまでは有司(官吏)専制という指導主義でゆかざるをえず、内務省は犬猫的な日本を欧米なみの日本たらしめるための強力な権力機構たるべきである、というのが大久保の思想であった」と言う。
 木戸孝允は「つねに大困りの憂鬱屋であったが、包容力もあった。木戸は意見の人であったが、しかしその意見に長者の風があったことは、これは一つの根から出ているとみていい」と評する。
 三条実美に関しては、「その実歴からどういう抱負も器量も能力もひき出せない。ただ誠実であった。この誠実さは富家の婿養子に適いていたが、しかし一国の太政大臣としては悲劇的なほど無能であった」と手厳しい。
 山県有朋や伊藤博文に関しては、司馬さんは結構厳しい評価を下しているように思える。司馬さんはまず、「(幕末)その奔走家としては西郷や大久保のほかに長州の木戸孝允、土佐の坂本龍馬などがいて、幕府をたおした。倒したあと、かれらのうごきがにわかに鈍くなり、代わってうごきが活発になるのはかれらの後輩たちで、そのうち頭をあげてくるのはみな議論下手だがしかし実務の才の横溢した連中であった。とくに長州人が多い。伊藤博文と山県有朋がその双璧であろう」と言う。半ば皮肉混じりで「革命期に最後まで生き残るのは、この種の実務的な出世主義者であるかもしれない」と自分の思いを語る。
 特に山県に関しては「日本の三権分立の政体をやがて破壊するにいたる『軍人勅諭』を山県憲法発布に先立って明治十五年実現している。(これは)軍隊をもって天皇の私兵であるかのごとき印象をあたえしめている。(略)昭和期に入ってこの勅諭が政治化した軍人をして軍閥をつくらしめ、三権のほかの『統帥権』があると主張せしめ、やがて統帥権は内閣をも議会をも超越するものであるとして国家そのものを破壊せしめるもとをつくった」と言い、さらに「国権主義は山県がまず種をまき、大久保がそれを苗にした。やがて西郷・大久保・木戸の死後、権力を得た山県がおもう存分ふるまってそれを鬱然たる大樹に仕上げてしまったのだが、この国権主義というのは、国民を国家という鋼鉄のたがで締めあげ、締めあげることによって近代国家を速成でつくりあげようとする思想で、結局はこれが日本国家をつくり、太平洋戦争の敗北によって敵国から打ちくだかれるまでつづく」と言い切る。
 これは多分司馬さんが常々言っている「あの馬鹿な戦争(太平洋戦争)を起こしたのは誰なんだろう?」と自分が体験した戦争経験を振り返ると、多分ここに突き当たるのではないかと思う。その思いが山県に批判的なるのではないだろうか。司馬さんが描いてきた幕末の志士たちには、志があって、熱い情熱があり、更に「滅びの美学」を持ち合わせた人物たちであった。決して伊藤博文や山県有朋などの実務家など描きたくもなかったのではないかといつも思う。


書誌
書名:翔ぶが如く 1
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617107 (4163617108)
出版社:文藝春秋 1984/02出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)

2008年08月21日

司馬遼太郎著『殉死』

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 歴史というのは非情なもので、ある程度時間が経って、その後の変化などを加味して時代考証をしたとき、例えば指揮官が有能な人物であったか、あるいは無能であったか、はっきりとしてしまう部分がある。そういう意味では乃木希典という人物は指揮官としては無能な人物であったようである。ただ明治天皇が崩御した後、追って殉死したという一点のみで、乃木という人物を過大評価してしまったところがあるようである。
 司馬さんはこの本で乃木希典という人物がどういう人物であったかをこの本で語る。従ってこの本は小説とは違う。これは推測なのだが、長編『坂の上の雲』で集められた資料から、乃木希典のことが独立して、この人物評伝となったのではないだろうか?
 乃木希典はわずか六カ月しか洋式軍事教育を受けていない。ただこの時代他の者もこの程度の軍事教育しか受けていないから、乃木だけがひどいというわけではないらしい。しかし乃木の筋目がものをいった。つまり乃木は長州人であったことが大きく、しかも乃木は吉田松陰の師匠玉木文之進と濃い縁続で、乃木が十六歳の時玉木文之進の内弟子となったため、松陰の相弟子でもあった。この筋目は明治という時代のとって抜群の筋目であった。つまり乃木の出世は自分の出自が明治新政府でものをいったからなったものであった。決して能力や才能で出世した人物ではなかった。そのため司馬さんは「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかった」と断言する。ただ「詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」と皮肉混じりで付け加える。
 「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人物として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できる」タイプで、「自己美の完成のために絶えずそこに意識を集中してきた。かれは軍事技術者よりも自己美求道者であった」。「乃木はもともと死のなかに唯一華やぎを求める思想家であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる低の行者であった」から、「自分の軍事能力に(あるいは不運に)絶望するとき、つねに自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救いだし、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射的におこるようであった」。
 こんな軍人らしくない人物を指揮官にし、日露戦争の旅順攻撃を任せたのである。もともとこの戦争では旅順は陸軍の目標にはなっていなかったらしい。ただ海軍の要請で、旅順を攻撃目標にした。陸軍が旅順に停泊している軍艦をたたいてくれれば、海軍はやがてやってくるバルチック艦隊だけと戦えばいいからである。乃木は旅順に到着し、一日かせいぜい三日もあれば陥落できると大本営に連絡したが、完全要塞化している旅順は落とせなかった。何と陥落に百五十余日もかかり、六万人死者を出したのであった。しかも児玉源太郎力がなければ、攻略さえ難しかった。これを無能と言わなければ何と言えばいいのかと言いたくなる。
 そして自分の能力なさを自殺することで自らを救おうとし、銃弾がばんばん飛んでくる前線に何度も立とうとするのであった。そのたびに部下が止めにかかる始末であった。
 乃木希典とはその程度の人物だった。こんな人物を指揮官として頭に置き、戦ったのである。部下や兵士たちはたまったもんじゃない。
 ただそう思うのは現代の私たちである。乃木に従った部下や兵士たちは「封建の世が去ってまだ遠くなく、しかも封建の世に躾られた節度と、権威への服従心と、つねになにごとかを仰ぐ心をもち、つねに崇敬すべき対象をもち、もしその崇敬すべき心がわずかでも自分において薄らげば天地がくずれるのではないかという畏怖心をあわせもっていた」人々であった。だから乃木に従ったのである。そういう意味ではたとえ乃木が無能であっても関係なく、もともと「動機が美であれば結果はさほど重視しなくてもよい」という倫理観で人間関係が成立していたのである。
 そして乃木もそうした倫理観を明治天皇にもっていた。だから天皇が崩御すれば、殉死するしかなかったのだろう。乃木が天皇を崇敬すればするほど、天皇は心地よかったに違いない。明治天皇は乃木の無能さをたぶん知っていたのであろう。しかし乃木が持つ倫理観は天皇にとってみれば「ういやつ」という気持ちにさせたに違いない。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などは能力の提供者として明治天皇に仕えたが、乃木希典は誠実の提供者として仕えただけであったと司馬さんは言い切る。
 そして殉死は先にキーンさんが言ったように、乃木をして天皇や皇室への忠義者とさせた。これは昭和の軍閥には有り難い存在であった。能力もないのに自分が作り上げた「美」に酔いしれるだけでもたちが悪いのに、殉死までも忠義の体現者と崇められるのだから、余計にたちが悪い。


評価
★★


書誌
書名:殉死
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163006208 (4163006206)
出版社:文藝春秋 1981/08出版
版型:206p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年07月06日

ハインリッヒ・シュリーマン著『古代への情熱』

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 この本は高校生の時に読んだ。とにかく子供の頃思い描いたことを一生かけて成し遂げていくシュリーマンの意志の強さと、そのために努力を惜しまない姿勢に、高校生なりに、感動していた。こんな人もいたんだというところである。
 あれから三十年以上の年月が経って、改めて読み返してみた。昔と同じ感想しかもてなきゃ、それだけ進歩していないことになるので、しゃくなところもあるけれど、やっぱり“すごいな”の一言に尽きる。
 この本の副題には「シュリーマン自伝」とついているが、シュリーマン自身が自分のことを書いたのは、「少年時代と、商人としての人生行路」だけで、後の部分は適当にシュリーマンが書き残して文章をはさんで、その後のシュリーマンの活動を描いている。最初の部分と、その後の文章が読んでいて、視点がが違うな、明らかに第三者が語っているなと感じたのは、こうした理由からである。この本の原題を直訳すると「死までを補完した自叙伝」となるらしいから、なるほどとうなずける。
 さて、ハインリッヒ・シュリーマンは1822年にプロイセン王国のメックレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ生まれ、父親はこの町のプロテスタントの牧師であった。シュリーマンはこの町に伝わるさまざまな伝承話に子供の頃から興味を持っていて、言い伝えで途方もない財宝が隠されているという話を聞いて、何で掘り出そうとしないのだと父親に尋ねていた。子供の頃からそんな傾向を持ち合わせていたようである。
 八歳の時ゲオルク・ルートヴィヒ・イェラーの『子どものための世界史』という本をプレゼントにもらい、そこにアイネイアースが父アンキーセースを背負い、アスカニオスの手を引いてトロイを脱出する挿絵を見て、トロイの遺跡の存在を確信する。以来シュリーマンはトロイのことを考え続け、いつかトロイを発掘するという夢を持ち続ける。
 しかし個人で遺跡を発掘するには莫大な資金を必要とする。シュリーマンはギムナジウムを退学して商人の徒弟になる。その後、オランダの貿易商社に入社した。以後クリミア戦争もあって、巨万の富を得た。
 その間トロイを発掘するための勉強は欠かさず、特に自ら考えた音読による文章を丸暗記し、多国語を理解する。覚えた言葉は、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語だという。
 そうしてトロイの発掘の資金が貯まると、さっさと事業をたたみ、トロイの発掘にかかることになる。ペロポネス半島のヒッサリクの丘にトロイがあるだろうと推測する。それは「彼にとってホメロスに関する言葉は福音書であり、彼は堅くそれを信仰していたから、『イリアス』の詩句にぼんやりと示される地形は、自由に創作する詩人の空想の産物にすぎないのではないかという学者たちの疑念など、てんから問題にしなかった」からである。ホメロスの記述がすべてであり、その合致しそうな地形があれば、それがトロイがあった場所であると信じて疑わなかった。そしてどんどんヒッサリクの丘を掘り進める。この本を読んでいると、この丘にはトロイだけでなく、その後ギリシア、ローマ時代にも町が作られていたようだ。シュリーマンはトロイの遺跡を発掘するのが究極の目的であったから、そうした遺跡を破壊してその下にあるだろうトロイ遺跡を発掘していく。しかしそのシュリーマンの発掘の仕方は現在批判されているようだ。
 1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見した。また1876年にミケーネでアガメムノンの黄金のマスクを発見した。


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 シュリーマンはトロイ遺跡を発見し、(実際はシュリーマンがトロイの遺跡だとしたのは、それ以前のものだったらしいが)古代ギリシア以前にエーゲ海に文明が発達していたことを証明することとなった。
 ドイツ人のルードルフ・フィルヒョーは「正しい前提から出発したか、それとも誤った前提から出発したかということは、今日では無意味な問いである。成功によって彼が正しいと判定されただけではなく、彼の調査の方法も正しかったことが実証されたのだ。いや恣意的であったかもしれないし、しかしこの心情の欠点、これを欠点と言ってよければだが、この中にまた彼の成功の秘密もひそんでいたのである。たしかな、いや熱狂的な信念につらぬかれたこの人を除いて、一体だれが、長年にわたるああいう大事業を企て、資材からああも莫大な資金を投じ、果てしなく積み重なっているように見える廃墟の層を掘りぬいて、はるか下に横たわる原地盤に達したであろうか。もし空想力にスコップが動かされなかったら、焼けた町は今日なお地中深く埋もれているであろう」というのは、まさしくその通りである。
 それにしても先のシャンポリオンにしてもこのシュリーマンにしても何かにとりつかれないと、それもとことんとりつかれ、発見に到る。凡人にはただただ呆れるばかりなのだが、いってみれば狂気のなせるワザかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:古代への情熱―シュリーマン自伝
著者:ハインリッヒ・シュリーマン/関 楠生 訳
ISBN:9784102079010 (4102079017)
出版社:新潮社 (2004-09-05出版) 新潮文庫
版型:181p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)

2008年05月31日

ベルンハルト・シュリンク著『朗読者』

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 やっと自分らしい本を読む。
 ミヒャエル・ベルクは15歳の時、学校の帰りに気分が悪くなり吐いてしまう。その時介抱してくれたのがハンナ・シュミッツという38歳のミヒャエルの母親といってもいいくらいの女性であった。ミヒャエルは黄疸であった。
 病状も何とか回復して、その時のお礼にハンナのアパートに向かう。彼女と話し、帰ろうとすると、彼女も出かけるから、一緒に出ようという。その時ミヒャエルは彼女の着替える姿、ストッキングはく姿を見てしまい、視線をそこから離すことができなかった。自分の視線を悟られたミヒャエルはあわててそこから逃げ出すが、一週間後またハンナのもとを訪ねる。
 暖房用のコークスを取ってくるのを手伝ったミヒャエルは黒く汚れてしまい、ハンナに風呂を勧められる。いつの間にかハンナも裸になり、「おいで!」「このために来たんでしょ!」とミヒャエルの下心を見抜き、彼女に抱かれる。
 ミヒャエルは彼女との性的関係を続けるうちに、ハンナがその前に本を読んで欲しいと言い出す。朗読と性的関係の不思議な状態が生まれる。関係を続けるうちに、彼女が路面電車の車掌であることがわかる。

 この本はこういう展開をする話だったのかとちょっとがっかりした。しかしそれは違った。突如話は複雑になっていき、ハンナの悲しい過去が明らかになると同時に、違った局面を見いだす。

 ハンナは突然失踪する。ハンナに失踪されたミヒャエルは最初彼女の姿がないことに苦悩するが、それを忘れるために大学での勉強に精を出す。ある日法学のゼミの課題として強制収容所の看守を裁く裁判を傍聴に行く。
 ミヒャエルはその裁判を傍聴することによって、自分たちのような後から来た世代の人間はユダヤ人絶滅計画にまつわる恐ろしい情報の前で、何を始めるべきなのだろうか?戦犯を明らかにし、責任者を糾弾することで、自分たちが今感じる恥ずかしさから逃れようとしていないか?恥じる者の苦しみを逃れるために戦争責任者を攻撃していないかと自問する。
 このあたりは訳者のあとがきによると、そういう時代「六八年世代」に著者が感じた時代の雰囲気なんだそうだ。ドイツにとって精神的に苦しい時代だったのだろう。

 その法廷でハンナの姿を見た。ハンナは21歳の時親衛隊の募集に応じ、強制収容所の看守になっていた。戦況が悪化したとき、囚人達を移動させたが、たまたま囚人達を泊めた教会が爆撃にあい、ほとんどの囚人が火事で死んでしまった。戦後生き残った者が本を出版し、ハンナたちの犯罪が裁かれることとなった。
 裁判ではハンナが収容所で若くて弱い女の子を一人選び、自分の保護のもとに置き、その子が働かなくてもいいようにし、ベッドも食事も与えた。そして夜になると、毎晩女の子を呼び本を朗読させた。そして飽きると、アウシュビッツに送ったと明らかになっていく。
 このことを含め、裁判ではハンナの立場がどんどん悪るくなっていく。以前何かの本で読んだことがあるが、ナチスの戦犯を裁く裁判では、必ず「それは命令であったから、逆らうことはできず、仕方がないことだった」と自分たちがしたことを正当化するのが常套手段で、ハンナ以外の被告もそう主張した。しかしハンナはたとえそれが命令であっても、自分が犯した罪は認めた。それをいいことに、あるいはハンナ一人が罪を認めたいらだちから、他の被告はハンナにすべての罪をなすりつけ、あの夜の事故の報告書は間違いで、それを書いたのはハンナだと主張し始める。
 実際その報告書を書いたのがハンナであるかどうか、筆跡鑑定をするということになったとき、ハンナはその報告書を書いたのは自分だと突然態度を変えて認めてしまう。判決が下り、他の被告は軽くすんだのにハンナは無期懲役となる。
 ミヒャエルは気づく。ハンナはおそらく貧しい境遇のため文字を読むことも書くこともできなかったことを。ハンナは文盲ではあったが、知識に飢えていた。だからミヒャエルや収容所で女の子に本を朗読させたのだ。そして文盲であることを恥ずかしく思っていた。それがあからさまになることをおそれていた。筆跡鑑定をされれば、自分が文盲であることがばれてしまう。だから一転して報告書を書いたのは自分だと認めたのだ。あるいはミヒャエルと旅行へ出かけたとき、朝ミヒャエルが食事を取りに行くというメモを残して、ハンナを一人にしたとき、一人にされたことを怒り、メモなどなかったと主張したのだ。さらにハンナ失踪したのも、会社がハンナに運転士の資格を取らしてやろうと提案したからで、車掌でいる間は自分の文盲を隠せたかもしれないが、運転手の訓練を受ければ、それがばれてしまうことをおそれ、会社から失踪したのであった。
 ミヒャエルはその事実を裁判長に言うかどうか迷い、哲学者である父親に相談する。父親は「他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位に置くべき理由はまったく認めないね」というのであった。それは人が生きていく上での尊厳の話であった。たとえハンナの罪が軽くなったとしても、ハンナにとって文盲がばれることは自分の尊厳を失うことになる。それが耐えられなかったのである。
 ミヒャエルは司法修習生の頃、同じ道を歩むゲルトルートという女性と結婚し一人娘をもうけるが、離婚してしまう。結局ミヒャエルはハンナから解放されることはなかった。
 離婚後、ミヒャエルがハンナにまた朗読をしてやろうと思い立ち、ハンナに録音したカセットテープを送る。しかし彼はテープは送るが自分の言葉を吹き込まなかったし、手紙も添えなかった。そして四年目に「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」という自筆の手紙が届く。ミヒャエルは歓喜に満たされその手紙を読んだ。なぜなら彼は、文盲の人たちが、日常生活を送る際の寄る辺のなさ、道や住所を見つけることの困難さ、レストランで料理を選ぶときの大変さ、そして何よりも読み書きができないということを隠すために、本来の生活とは関係ないところで費やされる余計なエネルギー、文盲であることは、市民として成熟に達することができないことを知ったからであった。
 不器用でぎこちないハンナの文字を見て、それだけを書くのにどれほど苦労したかを知るのであった。しかしそれまで長い間拒んだり、拒まれたりしたことは「遅すぎる」と彼は感じたが、一方で単に「遅い」だけでやらないよりやった方がましだろうかとまた自問する。
 しばらくミヒャエルの朗読を吹き込んだカセットとハンナの短い手紙のやりとりが続いたが、服役18年で恩赦があり、ハンナは出獄することとなった。ミヒャエルは身寄りのないハンナの社会復帰を助けるため、出所一週間前に彼女を訪ねていく。二十数年ぶりの対面である。ハンナはもう一人の老女だった。短い会話を交わし、来週の出迎えを約束した。それが最後だった。
 出所の朝、ハンナは首を吊り、自殺したのであった。どうしてハンナは自殺をしたのか。このあたりは私にはよくわからない。ハンナがいた部屋にはミヒャエルが送ったカセットテープがきちんと整理されて残され、ベッドある壁にはミヒャエルがギムナジウムをを卒業したとき、何かの賞を校長から受けている彼の写真が載っている新聞写真が貼ってあった。ミヒャエルはこみ上げてくる涙と戦っていた。刑務所の所長はハンナの遺書を読む。そこにはお茶の缶に入っているお金と銀行に入っている七千マルクお金をあの教会の火事で生き残った母と娘に渡して欲しいと書かれていた。

 私はミヒャエルが貧困と戦争に翻弄されたハンナの悲しい人生をつづるこの物語に圧倒されてしまった。時には自尊心は自らを苦しめることを知らされたし、正義心は時には、その人のために必ずなるとは言い切れないこともあるんだと思った。ミヒャエルは父親の助言を受け入れることは、ハンナの生き方を尊重することになるが、逆にハンナを苦況に陥れることもわかっていたはずだ。だからミヒャエルはハンナと追従しようとしたのではないか。あるいは無意識にそうせざるを得なくなったのではないか。だからハンナから一生解放されることもなく、また朗読を始めたのではないかと思った。
 ハンナが短い手紙を寄こしたとき、ミヒャエルはハンナを苦しめていたものから解放されると感じたはずだ。そしてそれはある意味ハンナと追従してきたミヒャエル自身の解放ともなり得たのではないか。そんなことを感じた。しかし物語はハッピーエンドでは終わらず、ハンナの自殺で、ミヒャエルのみ背負ってきたものから解放されずに生きていくはめになったような気がする。他人の人生の一部を共有してしまっための悲劇とでもいうのであろうか。


評価
★★★★★


書誌
書名:朗読者
著者:シュリンク,ベルンハルト、松永 美穂訳
ISBN:9784102007112 (4102007113)
出版社:新潮社 (2003-06-01出版) 新潮文庫
版型:258p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年03月26日

司馬遼太郎著『アメリカ素描』

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 この本は読んだと思っていて、本棚を探したのだが見あたらない。そして自分の記憶を探ってみても、なんだか読んでいないように思えてきた。多分読んでいなかったのだろう。ということで、文庫本をさっそく買い込み、読み始める。
 司馬さんがアメリカをどのようにとらえるのか興味のあるところであった。つまり“司馬史観”はアメリカをどう見るんだろうというところが、今回の主題である。
 しかしこの旅はかなり疲れたことだろうと思う。通常の旅なら、たとえば観光地の景色や建物、あるいは食べ物(ただし司馬さんの紀行文には食べ物に関しては自身が言われているように興味がないらしく、ほとんどこだわっていないのが特徴だ)を楽しむのだけれど、今回はいわゆる思索の旅に終始している。
 司馬さんには「文明は大陸の多民族国家でおこるもの」だという考えがあり、その点多民族国家のアメリカという国はそれを考えるにはもってこいの国なのである。だからこの本は司馬さんが見たアメリカから、一貫して文明と文化について考察されている。

 この本はカリフォルニアとアメリカ東部諸州を四十日ほど旅した記録であり、そのため二部構成になっているが、アメリカがどういう形で国作りをしてきたかをまず考える。
 知っての通り、アメリカはヨーロッパからの移民から始まり、それ以後たくさんの移民を受け入れてできあがった国である。だから本来その土地にある固有の「文化」というものが抜けている。つまり現在のアメリカ以外の国は「古代以来の文化が累積し、近代に入ってやっとその上に法が載るようになった。法によって日本や韓国やデンマークなどができたのではなく、もともとそこに人間の組織があって、近代に入ったがために近代の法で再秩序づけされたにすぎない」。
 ところが「アメリカだけが逆だった。広大な空間を法という網でおおい、つぎつぎに入ってくる移民に宣誓させ、その法に従わせるということで、国家ができた」。司馬さんはアメリカを「巨大な体育館のような国である」とたとえるのである。
 ところで「文化」とは何であろうか?あるいは「文明」とは何であろうか?司馬さんは「文化とは基本的には、人と共にくらすための行儀や規範のことで、母親の子宮内では養われず、出生後の家庭教育や村内での教育による」といい、その地域で生きるための“第二の子宮”だと定義する。
 一方文明は他民族に共有されてこそ文明なのであるとする。ただそのためには「文明が興る大地が、それら多様な諸民族を収容して食わせうるだけの農業的ゆたかさをもっていなければならない」。アメリカにはその条件がある意味そろっていた。その上で「多民族国家であることのつよみは、諸民族の多様な感覚群(つまり文化)がアメリカ国内において幾層もの濾過装置を経てゆくことである。そこで認められた価値(文明)が、そのまま多民族の地球上に普及することができる」というのである。だから「習慣が文化であるとすれば、体育館の屋根(法)は万人のために雨露をふせぐという点で普遍性そのものである。その意味で法は文明の典型的なあらわれ方であろう」というのだ。
 アメリカ人は自分の国を「ザ・ステイツ(the States)と呼ぶ」。それは「アタシの人工的な国家は」と響くと司馬さんはいう。従って「韓国やアイルランドや日本のように文化の累積でできあがった国は、Statesではない」。
 アメリカ内で濾過された文明はどの地域でも通用する普遍性を持っているはずだから、だからアメリカは自分の国のようになれと、「たのまれることなく、世界の世話を焼かなければならぬと思っている」のではないか。それを司馬さんは「アメリカ的善意」といい、「国家を越えた世話好きも理解できる」というのである。
 しかし、と考えてしまう。その地域独自の文化が抜け落ちてしまった制度は人を生きやすくするのであろうか?保障はしてくれても人を育てたり、精神の安らぎを与えてはくれないんじゃないだろうかと思うのだ。今の日本の現状を考えるとき、アメリカナイズされた制度や思想がはびこりすぎたために、たがいに孤独で、自分勝手になってしまっているような気がする。だからアメリカの社会のように危険な状態に陥り、平気で人を殺したりするようになったんじゃないかなんて思うのだ。

 話はちょっとずれるけれど、私は小泉内閣が残した負の遺産が今の日本の社会をおかしくしていると思っている。小泉内閣は民でできるものは民でというのがその政治思想であった。そして競争社会を是としたのである。そのモデルはアメリカに求めたのだろう。しかしそれを急激にやってしまったものだから、国民はついて行けなかった。どうしていいかわからなかったのではないかと思うのだ。 司馬さんは面白いことを言っている。「文明は大陸の多民族国家でおこるものだから、孤島に住む日本人は、それをみずから興すことを半ばあきらめている。むしろ、受益者になろうとしてきた。ただし、みずからを失うまでに受容したことは一度もなかった」と。 ところが今は自ら自分を失うほど、アメリカのやり方を受け入れてしまったのだ。だから「金儲けは悪いことですか」と平気で口にする輩が出てきたり、「金で買えないものはない」と言う人間が出てきたりする。
 もちろん金儲けが悪いはずはない。また金があれば何でも買えることは事実だけれど、それをあからさまに言うことと、やることは日本の慣習や文化が受け入れるはずがない。
 日本が受け入れた金儲けの仕方は、アメリカ流の金儲けの仕方を形だけをまねただけで、ただの成り上がりでしかなく、一個人の懐に貯まることである。社会に還元しないところが問題なのだ。
 欧米ではお金を持っている人たちが、社会のためにということで寄付をしたり、慈善事業を興したりして、そのお金を人が生きるために意味あるものに変えている。だからそうした人たちは尊敬をされる。ただ日本にもちょっと前までそうした気風があった。
 小村寿太郎という外務大臣がいた。彼は日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。そのとき会場を提供した州にお世話になったということだけで、当時のお金で一万ドルを寄付した。これにあわてたロシアのウィッテも同額のお金を寄付し、「露日基金」というものができた。基金は日露両国の国債に投資し、その利息で病院や老人ホームなどを作った。
 ロシア革命後ロシアの国債が債務不履行となり、以後ロシアから利息は来なくなったが日本は利息を送り続けた。さすがに日米開戦後九年間は日本も利息の支払いは停止したが、敗戦後その九年間の債務不履行を補うために倍額の利息を払ったという。現在この基金はソ連から利息の支払いがないので、「日本慈善基金」と改称されたという。
 また競争社会を是とすることは資本主義社会である以上当然であるけれど、そこからドロップアウトした人をそのままにすれば、社会は荒むだけである。
 形だけアメリカ流の文明を受け入れても、結果として日本にうまく根付かなければ意味がない。改革は痛みを伴うものであるとしても、その痛みに見合うものがなけりゃ、いつまでも我慢ができるわけがない。せめて未来のビジョンを見せてくれれば、納得できる可能性はあるかもしれないのに、それさえも見せてくれない。
 日本がそれまで持っていた文化というのは一見不合理で窮屈であるけれど、うまく機能していた部分がたくさんあった。すべてを非効率的だと否定したところに、今の日本社会、経済が、あるいは地域社会がおかしくなった原因じゃないかと思っている。
 司馬さんが見たアメリカは「人間は文明だけでは生きられない」と感じ始め、「文明」に疲れた神経を癒やそうとして、「文化」個々に探し求めているといっているのは、そういうことの現れじゃないかと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:アメリカ素描
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784101152363 (4101152365)
出版社:新潮社 (1989-04-25出版) 新潮文庫
版型:405p 15cm(A6)
販売価:660円(税込) (本体価:629円)

2008年02月23日

佐野眞一著『この国の品質』

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 いつもこの人の本を読んだ後、もうこの人の本を読むのはやめようとと思うのだが、どういう訳か新作が気になり読んでしまう。そして前と同じで、だめだなこりゃと思うのだ。今回も同様で、読んだ後何でこの人の本が気にかかるのか。そして何がおかしいのか考えてみた。

 この本では、最近の日本の品質が著しく低下していることを憂う。特にメディアの退廃のひどさを前書きで次のように言う。
「メディアの退廃は、これに輪をかけている。テレビで構造改革を叫ぶ者が、実は権力の我利我利亡者にすぎないことを、われわれはとっくの昔に知ってしまった。
 それを知らずに有頂天になっているのは、メディアのなかで相かわらず俗情におもねった浅薄な構造改革論を言い立てる本人だけである。その恥知らずな言動には、底なしの卑しさが漂う。廉恥心の美徳を忘れれば、人間は際限なく厚顔になれる。
 権力の暴走を監視するはずのジャーナリズムは、怒って見せるだけの権力の補完物になり下がり、マスメディアから日々垂れ流される情報は、読む者、聞く者、見る者の共感を呼ばないどころか、われわれの胸に響いて、つき動かすということがない」と。まさにその通りと思い、今回はちょっと期待できるかなとページを進んだが、結局この著者の情報もつまるところゴシップ的であるように思えてきた。
 著者が尊敬する民俗学者の宮本常一が自ら「あるく みる きく かく」をして、独自の学問を完成してきたことを自らの戒めとして、ルポライターとしての自分を確立していこうとするところはわかるが、結果著者が地にはうようにして得た情報はゴシップ的要素にとどまってしまっている。それがある意味衝撃的なだけに、へぇ~そうなんだとそれだけが頭に残ってしう。しかも時にはそれを何度も使って、話に色をつけている。
 著者が宮本常一の「あるく みる きく かく」を戒めとして、地をはうように様々な情報を得ることは、それこそ大変なことだし、すばらしいことだと思うけれど、だからといって、そうして苦労しないで得た情報は意味がない、あるいは浅薄だと断罪する姿勢はいかがなものかと思うのだ。
 たとえば司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を自らの足で歩かず、車に乗って、何人もお伴を引き連れた「大名旅行」だったいい、このことをもってして司馬さんのイメージが壊れたというのだが、私からすればえっなんで今頃そんなことをいうのだろうと思ってしまったのだ。しかも司馬さんの『街道をゆく』がこうして車を使った「大名旅行」だったことはあまり知られていないと平気でいうのである。
 これを読んだとき、私はこの人、司馬さんの『街道ゆく』全部読んでいないなと思ったのだ。いや全部読まなくてもいい。ある程度読んでいれば、司馬さんが車に乗って旅されたことは至る所に書かれている。つまり司馬さんの読者は知っていることなのだ。それをたいして読んでもいなくせに読んだかのように「知られていない」と平気で言うのはどういう神経をしているのだろうか。しかも宮本常一のように自らの足で歩かない紀行文を否定する言いぐさはない。
 同様の発想がインターネットに関する著者の意見にも見られる。つまりインターネットの情報が安物で、中身の薄いものと決めつけてしまい、またそこから情報得る人の安易さに危機を感じている。
 けれど、果たしてネット上の情報がすべて安物で中身のないものと断定できるのだろうか。少なくとネット上に真摯に読んで、調べて、書いている人もたくさんいる。その中には貴重な情報もたくさんある。もちろんどうしようもないものもたくさんあるので玉石混合状態なのだが、だからこそその中から貴重な情報があれば有り難いのだ。
 自分のことを偉そうに言うつもりはないけれど、こうして本を読んで、書くだけでもかなり頭を使い、書いている。それが地に足がついていないと言われるんじゃたまらない。だったらあんたのように本に書かれていれば地道なもので、貴重なものなのかと反論したくなる。
 ネットで簡単に情報が得られることにも危惧しているけれど、それは手段であり、方法なのだから、それでいい。むしろ情報の共有が簡単にできることの意味の大きさを考えるべきであって、問題はネット上で得た情報をいかに有効に使ったかその一点にかかってくるんじゃないかと思う。それこそ著者が力説する「読む力」が問われるだけのことじゃないかと思うのだ。
 私は一昔前のやり方がいちばん良くて、大変な労力要するやり方が一番だと主張する輩は大嫌いだ。


評価
★★


書誌
書名:この国の品質
著者:佐野 眞一
ISBN:9784828413914 (482841391X)
出版社:ビジネス社 (2007-11-05出版)
版型:334p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年01月21日

佐野真一著『東電OL殺人事件』

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 1997年(平成9年)3月19日午後5時半頃、東京都渋谷区円山町の木造2階建てのアパート「喜寿荘」の1階101号室の空き部屋で、東京電力に勤める渡邉泰子(39歳)が絞殺死体で発見された。捜査本部は殺害現場となった「喜寿荘」の隣りの粕谷ビル401号室に仲間4人と一緒に住でいたネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)を同年5月20日逮捕した。詳しくはゴビンダはオーバーステイで、入管難民法違反(不法残留)で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた後、その日の午後、すぐに警視庁により泰子殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴される。

 私はこの本に以前から興味を持っていて、読んでみたいと思っていた。
 この本は事件発生から、東京地裁でゴビンダの判決(一審無罪)の判決が出るまでの三年間をゴビンダが無実であることを詳しく証明して歩いた記録である。著者はこの事件を調べれば調べるほどゴビンダが無実の罪で逮捕された冤罪だと確信を得て、そのことを中心に記述が進む。が、それよりも私はなぜ地位も名誉もある東電のエリートOL渡邉泰子がなぜ渋谷のラブホテル街で一人で立ちんぼをして売春を行っていたのかそっちの方が興味があった。しかもこの本を読んでいると、泰子の奇行は、私には“どうして?”としか言いようがないほど異常であった。
 泰子は東大出の父親と、日本女子大出の母を持つ、高学歴の家庭の長女として生まれた。地元の公立中学校から慶応女子校、慶応大学経済学部と進み、昭和五十五年東京電力へ入社した。配属は企画部調査課であった。その後経済調査室副長という管理職に抜擢された。いずれの部署も当時の通産省や資源エネルギー庁との情報交換や経済動向の分析などが主な仕事であった。
 大学時代同じ東電に勤めていた父親を亡くしたが、学生時代はかなりの堅物だったようである。その上父親の溺愛からかファザコン傾向があったようであった。
 そして彼女がクラブホステスのアルバイトを始めたのは平成元年の頃で、東京電力本社を毎日午後5時20分に定時退社していたのに帰宅はほとんど深夜だった。1991年(平成3年)ころから勤務後は渋谷区円山町界隈に出没し、すぐ近くの道玄坂のホテル街で売春したり、なじみの客と待ち合わせをしたりして、一日に客を四人取るノルマを自分に課していた。しかし毎日きちんと最終に乗って自宅に帰ってきている。
 この間の泰子の行動にはかなりの異常性が見られる。コートの裾をたくし上げて路上で放尿したり、道に落ちているビール瓶を拾って酒屋で1本5円に換金し、その小銭を集めて、百円玉に、それがたまると千円札に、さらに一万円札にと“逆両替”をする。ホテルで布団を大便や小便で汚して出入り禁止になっても性懲りもなく利用する。帰りの終電の中で菓子パンをほおばる等々。
 泰子が売春を始めたのは三十代であったが、その行為はビルの陰、公園、駐車場と所かまわずで、最後には二千円で客を取っていた。そしてその行為は克明に自分の手帳に記されていた。
 ゴビンダはネパールで自分の家を建てるために、オーバーステイしてまでも日本で働いていた。その得た給料をほとんどネパールへ送金してい。そのため金銭的にはかなりきつかったはずであるが、それでも彼の性欲は旺盛で、わずかに手元に残っている金額で彼の性欲を満たしてくれる女性を渋谷界隈で物色していた。泰子とも3回会って性交渉を持っている。
 しかしすさまじいのは泰子に方で、一回目の性交渉を持った後、突然訪れて来て「今日もセックスしませんか」と誘ったという。マスコミはこうした泰子の行動を当然放っておくわけがなく、当時かなりおもしろ半分に報道した。
 著者は泰子のこうした異常性を探ろうと試みてはいるのだが、如何せんあまりにも裏表の激しい泰子の生活に踏み込めない状態である。結局ジグソーパズルのはめ込まれないままのピースように、泰子の行動に、これという確信を得られなかった。でもこれはやっぱり無理のようにも思える。精神的に異常を帰してしまっていると、言い切ってしまえばそれで済んでしまうことかもしれないが、それがどうして起こったのかは説明できない。間接的な理由を泰子の生い立ちから見いだせるかもしれないが、“これだ!”というものは見つけられないだろう。しかしそれは当然のような気がする。ジグソーパズルははめ込まれないまま残しておくしかなかった。だからゴビンダの無実をせっせと証明しようとこの本はなってしまっている。
 それはそれで仕方のないことと思うので、このまま残しておいていいのだと思っていたのに、安直に精神科医の意見を求めたところは残念だし、妙に納得してしまった著者の姿勢はどうもいただけない。いただけないついでに、「ファーストフード」もまずいでしょう。

 ちなみにゴビンダは一審では疑いの余地はあるが、無罪となった。そして直ちに検察は控訴、再勾留を要請し、最終的に裁判所もこれを認めた。2000年(平成12年)12月22日、東京高裁で判決公判が開かれ、「原判決を破棄する。被告人を無期懲役に処する」という判決が出る。2003年(平成15年)10月20日には最高裁が上告が棄却され、無期懲役刑が確定する。現在、横浜刑務所に服役しながら、無実を訴え、2005年3月24日、再審請求を提出したという。建設が一時止まってしまったネパールのゴビンダの家はどうなっているのだろうか?


評価
★★


書誌
書名:東電OL殺人事件
著者:佐野真一
ISBN:9784104369010 (4104369012)
出版社:新潮社 2000/05出版
版型:444p 20cm(B6)
販売価:絶版のため入手不能。新潮文庫ならあるようです。

2007年12月07日

雫井脩介著『犯人に告ぐ』

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 いや~、おもしろかった。今年どれだけミステリーを読んでいるかわからないけれど、少なくとも今年一番の本であった。さすが2004年のベストミステリーにあげられるだけのことはあった。

 話は、神奈川県警管轄内で、4人の男の子が殺害される「川崎男児連続殺害事件」が未解決であった。犯人は4人目犠牲者の時、テレビ局に声明文を送りつけ、新たな現場を明かすとともに女子アナを脅した。新たに赴任した県警本部長はこの犯罪を「劇場型犯罪」という。
 そして捜査が膠着したこの事件を解決するためには対抗処置として「劇場型捜査」を指示する。すなわち捜査官がテレビのニュース番組に出演して、事件の情報を得るともに、「バッドマン」と自ら称する犯人をこの劇場に再度登場させ、しっぽをつかむことであった。
 この事件の捜査を任されたのが、巻島史彦であった。巻島は以前神奈川県警にいた。この事件の6年前、児童誘拐事件捜査に失敗し、誘拐された男の子を死なせてしまった。しかも記者会見でマスコミとやり合ったために、徹底的にマスコミにたたかれる。巻島は事件の責任を取らされて、県警本部から飛ばされていた。
 巻島はテレビのニュース番組に出演し、事件後沈黙していた「バッドマン」を再度登場させることに成功する。当然このニュース番組は視聴率が上がっていき、他局のニュース番組は低迷することなる。その他局のニュース番組に巻島の上司、植草荘一郎の大学時代別れた恋人、杉村未央子が局アナとして出演していた。植草は未央子との縁を復活させるために、自分が巻島の上司であって、「川崎男児連続殺害事件」を扱っていることを伝える。未央子にすれば巻島が出演するニュース番組に視聴率を取られている以上、植草から情報は願ってもないことであった。植草にしても未央子との復縁を願っている以上、捜査の情報を未央子に流し始める。
 しかし流された捜査情報は巻島たちの捜査をじゃますることとなる。巻島は未央子の番組から流れる情報が、どうも内部から漏れたものではないかと思い始め、植草に罠をかける。
 犯罪捜査とテレビの視聴率争い、そして内部情報漏洩者狩りと三つどもえで話はどんどん進んでいく。そして「バッドマン」を追い詰めたとき、巻島の孫の一平が誘拐される。犯人は新宿、原宿、そして横浜と6年前の誘拐事件で犯人が指定した場所と同じ場所を巻島に指示する。そして一平の前で刺される。刺したのはあの男の子の父親、夕起也であった。
 「川崎男児連続殺害事件」の捜査が大詰めのところに来たとき、巻島は最後にテレビに出演し、「余興は終わった。これは正義をまっとうする捜査であり、私はその担い手だ」と「バッドマン」に告げた。それを聞いた夕起也は正義の担い手が自分の息子を殺した。怒りは頂点に達したのである。夕起也は巻島に土下座して謝れと迫る。巻島は「謝るときは自分の意思で謝る。指示されて謝るつもりはない」と突っぱねた。
 巻島は何とか命を取り留め、そこへ夕起也の妻、桜川麻美が謝罪に来た。巻島は麻美に呼びかける。

「もうすぐ、健児君の七回忌ですね・・・・」
「はい・・・・」麻美は小さな涙声で応えた。
「麻美さん・・・・」
 巻島は呼んで、歯を食いしばった。
 喉の奥で嗚咽が砕け・・・・。
 その声が言葉となって、巻島の口からこぼれる。
「申し訳・・・・ありませんでしたっ」
 天井がぶわりにじみ、涙が目尻の堰を一気にきった。
「私は・・・・」
 巻島はひくついた喉から、昴ぶったままの声を必死に絞り出した。
「私は・・・・自分の力不足で・・・・あなたから大事な命を・・・・かけがえのない宝物を奪い取ってしまいました」
 巻島はきっと眼を見開いて、流れる涙に悔恨の思いを乗せた。
「ごめんなさい・・・・本当に、本当にごめんなさい」
 とめどない嗚咽が喉を震わせ続ける。しかし、それでも言わねばという思いだった。自分の懺悔が一掬の救済となって彼女の耳に届くことを信じ・・・・巻島は顔を歪めて言葉を続けた。
「私も背負ってますから・・・・ずっと・・・・今までも・・・・だから、お願いです。あなた方だけで背負い込まないで下さい・・・・私も背負います・・・・これからも・・・・ずっと背負いますから・・・・」
 巻島はそれだけを精一杯言うと、あとはもう嗚咽に抗するのをやめ、ただ涙込み上げるままに泣いた。

 巻島は「川崎男児連続殺害事件」の間も、そしてこの6年間健児のことは忘れることは出来ずにいたのだ。この場面はちょっとやばかったなぁ。
 それと巻島と一緒に捜査にあたっていた津田もいい味を出している。その津田が昔の極悪人が廃人すれすれの生活をしているのを巻島に見せて言う言葉もいい。

「ああいう人の道すれすれで生きていると、いずれは一線越えてしまうってことでしょう。ちょっといつもより針が大きく振れたってことでしょう」と。


評価
★★★★★


書誌
書名:犯人に告ぐ
著者:雫井 脩介
ISBN:9784575234992 (4575234990)
出版社:双葉社 (2004-07-30出版)
版型:367p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

☆現在品切れのようです。文庫本ならあります。

2007年11月04日

佐藤優著『国家の罠』

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 以前から読みたいと思っていたこの本が、文庫本になったので、早速手に入れ読んでみた。かなり面白かった。そして一外交官の逮捕が日本という国家が大きく変わろうとしているエポックメイキングだったことを知らされる。
 そもそも著者と鈴木宗男氏は歴代総理の命令に従って、2000年に日露平和条約を締結するという国策のために走っていた。すなわちロシアと平和条約を結び、北方領土返還を目指していた。その目的のためあらゆるところからロシアに関する情報を集め、分析し、いかにして北方領土問題を解決するかに邁進していた。そこにはただ国益のためという純粋な目的だけで、私利私欲は一切なかった。ただ日本の国内法に触れる危ない橋も渡らなければならないこともある。あるいは可罰的違法性の範囲内(このことは後で説明する)で法を犯したかもしれない。それを東京地検特捜部に突っつかれた。著者の罪状は背任と偽計業務妨害である。しかしそれは、ロシアを支援しつつ、北方領土をスムースに返還してもらうためには、必要悪であったし、ロシアもそれを利用していた。著者は「そもそも外交の世界に純粋な人道支援など存在しない。どの国も人道支援の名の下で自国の国益を推進しているのである。ロシアとしても、『日本の人道支援を有り難く受け入れる』との姿勢をとりつつも、日本のカネを使っていかにロシアにとって有利な状況を作るかを考えている」と言い、「日本は北方領土返還の環境を整えるという意図もあって人道支援を行っており、ロシアはそれをわかりながら受け入れているが、日本の意図通りには事を運ばせないという腹ももっている。ここから虚々実々の駆け引きが展開された」と言い、ロシアのこともちゃんと見抜いていた。

 私はこうした駆け引きを記した部分より、著者が逮捕され、特捜部の検事とやりとりする部分がものすごく興味があったし、面白かった。著者が検事の取り調べに応じることは、著者の仕事上知り得た事実や人間関係をしゃべることになる。それをすれば外交秘密、さらに特殊情報に関連する事項が表に出て、その結果、日本外務省の情報収集活動に支障きたすことになる。著者は言う。「情報の世界では『存在しない』という話は当事者が合意しない限り、最後まで『存在しない』のである。そして、『会っていない』という約束になっている場合は、誰が何を言おうとあくまでも『会っていない』のである。このルールについては徹底的な遵守が要求される。そしてそれを破った場合、ルールを破った者に対して属人的に責任が追及される。この世界には時効はない」からである。その上で、著者と特捜部の西村尚芳検事が調書の落としどころを模索する。
 その西村検事が著者を逮捕した三日後「これは国策捜査です」と言うのである。そもそも国策捜査というものが何であるか、私は知らなかった。
それは簡単に言ってしまえば、政府の政治的意図によって恣意的に行われる刑事事件の捜査のことなのだが、それはライブドアや村上ファンドの事件もそういわれている。
 で、もっと詳しくその国策捜査とはなんぞやと感じていると、西村検事が著者との取調中の会話に詳しく出てくる。長くなるが引用する。ここに引用したのはほとんどが西村検事の言葉であるが、当然会話である以上著者の言葉もある。しかし長くなるので省いてしまった。ただしどうしても必要なところは、最後に(著者)と入れた。


「あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」

「評価の基準がかわるんだ。何かハードルが下がってくるんだ」

「しかし、法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家に対する国策捜査は近年驚くほどハードルが下がってきているんだ。一昔前ならば、鈴木さんが貰った巣百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下がっていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない」

「そうじゃない。実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない。外務省の人たちと話していて感じるのは、外務省の人たちの基準が一般国民から乖離しすぎているということだ。機密費で競走馬を買ったという事件もそうだし、鈴木さんとあんたの関係についても、一般国民の感覚から大きくズレている。それを断罪するのが僕たちの仕事なんだ」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショーと週刊誌の論調で事件ができていくことになるよ」(著者)

「そういうことなんだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

「それじゃ外交はできない。ましてや日本のために特殊情報を活用することなどできやしない」(著者)

「そういうことはできない国なんだよ。日本は。あんたはやりすぎたんだ。仕事のためにいつのまにか線を越えていた。仕事は与えられた条件の範囲でやればいいんだよ。成果がでなくても。自分や家族の生活をたいせつにすればいいんだよ。それが官僚なんだ。僕もあんたを反面教師としてやりすぎなようにしているんだ」

「鈴木先生だって、納得できないと思うよ。『やまりん』なんて、既に国会質問でクリアーされた事件で逮捕されるんだから」

「賄賂だって、汚いのとそうじゃないのがある。鈴木さんの場合はそうじゃない方だ。潰れかかっているかわいそうな会社を助けたわけで、道義的には恥ずかし話じゃない。しかし、賄賂は賄賂だ。この辺は法適用のハードルが低くなってきたんだから、諦めてもらわなくてはならない」

「それは諦めきれないだろうな。それに可罰的違法性の観点からも問題があるんじゃないか」(著者)

「可罰的違法性については、一般の公務員が十万円現金で賄賂をもらったら、確実にガチャン(手錠をかけられるの意味)なんて、問題ないよ。以前のように、政治にはカネがかかるという常識を国民が認めなくなったから、『やまりん』でも鈴木さんがやられるようになったんだよ」

「国策捜査は冤罪じゃない。これというターゲットを見つけだして、徹底的に揺さぶって、引っかけていくんだ。引っかけていくということは、ないところから作り上げることではない。何か隙があるんだ。そこに僕たちは釣り針をうまく引っかけて、引きずりあげていくんだ」

「そうじゃないよ。冤罪なんか作らない。だいたい国策捜査の対象になる人は、その道の第一人者なんだ。ちょっとした運命の歯車が違ったんで塀の中に落ちただけで、歯車がきちんと噛み合っていれば、社会的成功者として賞賛されていたんだ。そういう人たちは、世間一般の基準からするとどこか無理をしている。だから揺さぶれば必ず何かでてくる。そこに引っかけていくのが僕たちの仕事なんだ。だから捕まえれば、必ず事件を仕上げる自信はある」

「特捜に逮捕されれば、起訴、有罪もパッケージということか」(著者)

「そういうこと。それに万一無罪になっても、こっちは組織の面子を賭けて上にあげる。十年裁判になる。最終的に無罪になっても、被告人が失うものが大きすぎる。国策捜査で捕まる人は頭がいいから、みんなそれを読み取って、呑み込んでしまうんだ」

「アハハハ。そうそう運が悪い。ただね、国策捜査の犠牲になった人に対する礼儀というものがあるんだ」

「罪をできるだけ軽くすることだ。形だけ責任をとってもらうんだ」

「被告が実刑になるような事件ははよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。国策捜査は、逮捕がいちばんの大きいニュースで、初公判はそこそこの大きさで扱われるが、判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された人々のことを忘れてしまうのが、いい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の腕なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追求するのはよくない国策捜査なんだ」


 検事がここまで言っちゃっていいのだろうかと思うけれど、でもこれだけはっきりとものを言う検事は逆にいい検事さんという印象を読む側にも与えるし、取り調べられた著者にしても、西村検事を悪いイメージでとらえていない。むしろこうして自分とのやりとりを本であからさまにしてしまったことで、西村検事の進退に何らかの影響を与えたんじゃないかと心配しているくらいだ。幸い西村検事は今は最高検検事になっている。
 さてここにも「可罰的違法性」という言葉が出てくる。著者はこの本で次のように説明する。

「可罰的違法性の観点とは、厳密に言えば法律違反だが、誰もがやっていることなので、あえて刑事罰を与えるには及ばないという意味だ。要するに『お目こぼし』の範囲内ということだ」と。

 つまり先にも書いたが、法律違反だけれど、それほど目くじらたてるものじゃない。だけどあえてそれをすることでものごとがスムーズに行くならそうせざる得ない。だからちょっとやってしまった。一方取り締まる方も、それじゃ仕方がないよなと納得できる範囲のことだと思う。しかしそれがだんだん許されなくなってきてしまっている。西村検事が言うように「ハードルが低くなってきている」のである。一般国民が許さなくなってきてしまっているのである。世間が許さないという範囲がだんだん狭まってきていて、ぎすぎすしてきているのである。そしてそれを作っているのが著者が言う「ワイドショーと週刊誌の論調」なのである。東京地検だって世論の風潮を完全に無視して捜査はできないのであろう。
 これは今盛んに新聞やテレビを騒がせている「偽装問題」にも通ずる。食の安全ばかりをマスコミが強調しすぎるため、少しの余裕も許されなくなってしまっている。食の安全を本当に考えるなら、BSEなどはもっともっと追求すべきなのに、それをしないで和菓子の表示偽装などに目くじらたてている。BSEは何十年後かには多くの患者が出ちゃうんだよ。そして確実に死んじゃうんだよ。本質を見抜かないで細かいことに目を奪われていたらえらいことになる。私は何においても多少のおこぼれはあってもいいと思っているし、逆にそれが物事をスムーズに動かしていくことになるのではないかと思っている。

 話がずれた。ではどうして著者と鈴木宗男氏に「時代のけじめ」をつけさせる必要あったのだろうか。それは小泉政権成立が大きく関わっている。小泉政権成立後内政、外交が大きく変化したのだ。著者の分析が面白く、さすがと思った。
 小泉政権成立後、内政では、ケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交では、地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換したのだという。
 「ケインズ型公平配分路線」とは今まで日本の政治が行ってきた、悪い言葉で言えばばらまき政治なのだろう。しかしそれはそれでみんなが、あるいは地方もある程度富を分配していた。
 ところがら「ハイエク型傾斜配分路線」とは競争原理を強化することによって、日本経済を活性化し、国力を強化することを目指す。従って官から民への権限委譲、規制緩和、個人が何よりも重要で、個人の創意工夫を妨げるものはすべて排除することが理想となり、経済的に強い者が自分たちがもっと強くなることで社会を豊かにするという路線である。
 そして外交に関しても、今までは困ったときはお互い様。仲良くやりつつ、問題を解決しましょうという路線から、日本人の国家意識、民族意識の強化をめざす。小泉さんの強行までとも言える靖国参拝などいい例であろう。著者はこれを「排外主義的ナショナリズム」という。
 この内政・外交路線の変更が鈴木氏をターゲットとしたことによって、二つの大きな政策転換が容易になったと言っても過言ではない。鈴木宗男氏は旧態の政治路線をそのまま行っていたのだ。そして鈴木宗男氏についていた著者も同様に逮捕されたわけだ。著者は次のように言う。

「鈴木宗男氏は、『公平分配モデル』から『傾斜配分モデル』へ、『国際協調的愛国主義』から『排外主義的ナショナリズム』へという現在日本で進行している国家路線転換を促進するための格好の標的になった」

「鈴木氏が国策捜査の対象となった大きな要因は、この二つだという見立てでまず間違いない。そして鈴木氏のパーソナリティー、さらに田中眞紀子女史との対決が、国民の目線から悪役鈴木宗男を形成する上で大きな役割を果たした」


 この小泉路線の歪みが、地方の疲弊、格差社会の形成をすすめた。それが先の参議院選挙で自民との大敗北となったのは周知の事実である。劇場型政治踊らされていた国民は、気がついたらとんでもないことになっていたことに気がついたのである。言ってみれば馬鹿踊りされていた国民が鈴木宗男氏を時代が断罪したのかもしれない。
 そしてさらに言わせてもらえば、西村検事がいう「ハードルを低くした」のは国民で、自分たちに余裕がなくなったことで、他者を許せなくなってしまっているところが、そうさせたのではないかなんて思う。そしてそれはいつか自分たちの首を絞めかねないことになるかもしれないのに、そう動いていることをわかっているのであろうか?

 この本は一外交官の逮捕だけじゃなくて、つい今まで進んできた日本の政治に警鐘を鳴らしているように思えてならなかった。


評価
★★★★★


書誌
書名:国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて
著者:佐藤 優
ISBN:9784101331713 (4101331715)
出版社:新潮社 (2007-11-01出版) 新潮文庫
版型:550p 15cm(A6)
販売価:740円(税込) (本体価:705円)

2007年10月23日

司馬遼太郎著『街道をゆく 夜話』

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 今年の5月以来司馬さんの本を読む。この文庫は今月の新刊で、広告には文庫オリジナル、『街道をゆく』の入門書と書かれていたので、私としては読まないわけにはいかなかった。
 文庫オリジナルといっても司馬さんはもう亡くなられているので、新たな文章などあるわけがなく、生前、雑誌などに書かれたものをかき集めたものである。主に司馬さんの紀行文が集められているため、『街道をゆく』の入門書といっているのだろう。

 さて、この文庫の文章にあった言葉が気になる。それは「一隅を照す。これ則ち国宝なり」というものである。これは最澄がいった言葉と聞いている。私が初めてこの言葉を聞いたのは、中学校の修学旅行で根本中堂の関係者が修学旅行の団体客に説明するガイドからだった。
 そのときはこの言葉がどんな意味なのか聞き漏らしたのだが、どういう訳か「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉がただフレーズとして心に残っていた。その後何度か本などでこの言葉を目にしたので、今はもちろん言葉の意味は知っている。
 今回司馬さんの文庫本を読んでまたこの言葉を目にしたので、ちょっと詳しく調べてみようと思った。
 正確には、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という。最澄の「天台法華宗年分学生式」の冒頭に出てくる言葉だという。最澄の師、唐の湛の著「止観輔行伝弘決」にある話を踏まえているという。昔魏王が「私の国には直径一寸の玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」と言ったところ、斉王が「私の国にはそんな玉はない。しかし、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」と答えたという。これをふまえて、 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人一人がそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるという意味なんだそうだ。これに感銘した東洋思想家の安岡正篤は「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。別に偉い人になる必要はないではないか、社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」との見解を述べているという。
 まぁ例によってネットで調べてみるとそういうことになる。

 なんでこの「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉を持ち出したかというと、この本にはそういう人物が書かれているからである。
 歴史上有名な人物はたくさんいる。それぞれの功績によって名を残したわけだが、でもそういうたくさんの有名人に隠れてしまい、光が当たらない人物もいたということを言いたかったのだ。そしてそれが目立たないのは、やってきた仕事が地味であったり、報われなかったことももちろんだけれど、それだけでなく、その人物が奥ゆかしい部分がそうしているのではないかと思ったのだ。
 たとえば秋月悌次郎という人物がいる。秋月はいってみれば幕末、会津藩の外交官であった。幕末、会津藩はやりたくもない京都守護職を引き受けた。当時京都は薩長の志士がたくさん集まっており、治安が悪化していた。その京都の治安を守るのが京都守護職であった。京都の治安を安定したものにするために、新撰組と一緒に薩長の志士を斬った。そのため戊辰戦争で会津藩は恨みを買い、あの凄惨な会津戦争となり、その後も新政府にいじめられてきた。
 京都守護職を会津藩が引き受けたとき、秋月悌次郎が抜擢された。その理由がふるっている。秋月が機略縦横の才があることではなく、むしろ無さすぎることがその理由だろうと司馬さんは言う。ただ江戸である昌平黌に長いこと在籍したため、寄宿舎の舎長になり、全国各藩から来る者と顔見知りになり、知人を多く持っていた。こうした経歴が秋月を抜擢した理由だっただろうと司馬さんは推測されている。
 当時京都では薩長の志士がたむろしていたと書いたが、最初は長州藩が京都で幅をきかせていた。それが面白くなかった薩摩藩は敵である国家警察の会津藩と手を組んだ。「薩会同盟」である。この同盟を結ぶために薩摩の高崎佐太郎が秋月悌次郎のもとへ訪ねてくる。以後同盟はなり、長州藩は一時京都から追い出される。しかしご存じの通り、坂本龍馬の斡旋で今度は薩摩と長州が手を結び、倒幕運動となり、会津は朝敵とされ、凄惨な目に遭う。
 維新後秋月はその人望により東京に呼ばれ、仕官したが、旧会津藩がひどい目に遭っているのに自分だけが官を得るのは忍びないとやがて辞する。その後熊本で漢文の先生をする。秋月は小泉八雲から「神様のような人」と称されるが、「ある日、秋月は教壇にたって、いつものように本をひろげることもせず、よほど時間が経ってから、じつは昨夜、文久三年以来三十年ぶりに友人が訪ねてきて、そのため終夜、痛飲してしまった、といった。秋月が詫びているのは、要するに下調べができなかったために今日は授業を勘弁してもらいたい、ということで、かれはていねいに一礼すると教室を出て行った」。
 このとき訪ねてきた友人というのが高崎佐太郎であったという。司馬さんは秋月が痛飲したのは「薩会同盟」の当時を語り合ったためだろうという。しかし「薩会同盟」は結局薩摩藩にだまされたのと同じなのだが、「秋月は高崎を前にしてそういう恨みもいわず、ひたすら当時を懐かしみ、翌日の授業もできないほど飲んでしまった」という記述を読んで涙が出そうになってしまったのである。
 こういう話のたぐいはおそらく歴史というものの中にかなりの数が埋もれているのだろう。秋月悌次郎は人物として面白みはないかもしれないが(事実司馬さんは秋月を小説として書けないといっている)、人物であった。薩摩の高崎佐太郎にしたって、薩摩藩からすれば二流の人物だ。その高崎に藩の一大交渉を任せたのは、もし何かあった場合、高崎に詰め腹を切らせればいいということで人選されたようだ。しかし二人は当時すべき仕事をしたのである。そういう意味で二人は会津藩にしても薩摩藩にしてもなくてはならぬ人物だったのだろうと思う。ただ結果が悲惨であったということだ。それだけに晩年のこの再会は悲しい。
 私はこの文章を読んだだけでこの本に満足した。


評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく 夜話
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022644190 (4022644192)
出版社:朝日新聞社 (2007-10-30出版) 朝日文庫
版型:381p 15cm(A6)
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

2007年07月21日

重松清著『カシオペアの丘で』上下

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 読む前から、この話の展開は予想できた。幼い頃、故郷に何人かの仲間がいて、何かを共有している。夢とか希望とか特別な場所とかそんなものを。だけど、一方で危ういものもどこかにある。
 そして仲間がバラバラになり、あるものはそのままそこに残り、あるものは故郷を離れる。そして故郷を離れた一人が不治の病にかかり、故郷に帰る。当時の仲間がそこに集まり、子どもの頃を語り、病気になった仲間の残りわずかな時間を新たに共有する。
 病気になったやつは自分の人生を振り返り、残された家族の思いを語ることで、お涙頂戴という話だろうと思っていた。そして話はほぼその通りの展開をする。
 おそらく若い頃ならこんな話など絶対に読まなかったはずだ。だけど、3年ぶりの新作と聞いて、以前重松さん本を読んでいたので読んでみたくなっていた。焼きが回ったとしか言いようがない。そして感動してしまったのだ。やれやれ俺も歳をとっちゃったんだなぁと思う。

 1997年、4人の小学生は後に自分たちで名付けた「カシオペアに丘」に上り、夜空に星を見に出かける。4人の名前は俊介、敏彦、美智子、雄司。彼らはいつかこの丘が遊園地になるといいと星に願った。
 4人は大人になった。カシオペアに丘には遊園地ができ、北海道に残った敏彦が園長になり、美智子は敏彦と結婚した。俊介と雄司は東京にいる。

 この話は、「ゆるしたい相手を決してゆるせず生きていくひとと、ゆるされたい相手に決してゆるしてもらえず生きていくひと」の話なのである。そのどちらも悲しくて、苦しい。

 まずは敏彦と俊介の話である。
 倉田千太郎が経営する炭鉱で事故がある。坑内では火災が起こっている。消防団である敏彦の父親は坑内に閉じこめられている坑員助けに行って、やはり坑内に閉じこめられてしまった。倉田千太郎は炭坑を守るため、そして炭坑に依存するこの町を守るため、坑内に水を注入して火を消す決断をする。そして敏彦の父親は死んだ。倉田千太郎は俊介の祖父である。
 敏彦はこのことを知った時、俊介とけんかになる。そのとき崖から落ちて、下半身不随となり車イスで人生を過ごすことになってしまった。以後ここにいられなくなった俊介は札幌から東京へ出る。
 偶然大学のキャンパスで美智子と雄司に再会し、俊介は美智子と暮らすことになった。そして子供ができたが、美智子は流産してしまい、俊介の元を離れる。美智子は北海道に帰り、敏彦と一緒になる。
 俊介にとって敏彦には背負いきれない負い目がある。自分は敏彦の父親を殺した祖父の孫であり、いくらけんかの上の事故とはいえ、敏彦を車イスの生活を強いるようにしてしまった。更に今は敏彦の妻である美智子との関係もある。俊介は東京で恵美と一人息子哲生の3人で暮らしていたが、末期の肺ガンに冒されていた。

 カシオペアの丘にある遊園地に遊びに来た川原親子がいる。川原、典子、そして一人娘の真由。その真由が典子の不倫相手に殺されてしまう。犯人が捕まる前は、川原は典子と二人で真由を失ったことを悲しんだが、その犯人が典子の不倫相手とわかったとき、典子は川原の元を去り、川原一人、娘の死を悲しみくれる。
 雄司はその川原を取材してた。川原親子がカシオペアに丘にある遊園地に遊びに来ていたことを知り、レポーターの神内美唄(ミウ)を連れて、敏彦と美智子に話を聞きに行く。ミウにも過去があった。車を運転していたとき、老婆をはねてしまった。過失は老婆の方にあったが、老婆はその後寝たきりになり、腎不全で死亡した。ミウは自分が事故を起こさなければこんなことにはならなかったと思い、事故の事実がミウ自身の心に深い傷を残した。

 そして倉田千太郎は自分の決断で、坑内にいる人を見殺しにしてしまったことを、その後ずっと思い悩み、苦しんできた。それは自分が老いて、痴呆が始まっても、いつまでも心に残った。

 俊介、川原、ミウ、そして倉田千太郎がカシオペアに丘に帰ってくる。カシオペアの丘を離れて、時間がかなりたたったこともあり、それぞれの心の内部が変わり始め、「ゆるしたい相手」と「ゆるされたい相手」が再度時間を共有し、抜け落ちた時間を語ることで、今まで自分の負い目を自分で許せなかったことを、許し始める。相手も完全ではないけれど、許そうとする気持ちが生まれていく。それは俊介の余命少なくなってきていることが更にそうせざるを得なくした。それに触発されて、川原やミウも自分自身の心の変化が起こり始めた。
 そして相手を、自分を不完全ながら許そうという気持ちになった時、みんなはカシオペアの丘を去る。
「もうすぐ終わってしまう命がある。それを見送る命がある。断ち切られた命がある。さまよう命がある。静かに消えた命もある。その命が消えたあと暗闇をじっと見つめてきた命がある。そこから目をそらしてしまった命もある。身を寄せ合う命がある。孤独な命もある。満たされた命はない。どの命も傷つき、削られて、それでも夜空に星は光つづける」のである。


評価
★★★★


書誌
書名:カシオペアの丘で〈上〉
著者:重松 清
ISBN:9784062140027 (4062140020)
出版社:講談社 (2007-05-31出版)
版型:352p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)


書名:カシオペアの丘で〈下〉
著者:重松 清
ISBN:9784062140034 (4062140039)
出版社:講談社 (2007-05-31出版)
版型:341p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2007年05月31日

JR福知山線脱線事故被害者有志著『JR福知山線脱線事故―2005年4月25日の記憶』

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 この本を読みたいと思った動機は、この事故の被害者しか知り得ない事実、生の感情を知りたいと思ったからである。そこにはテレビなどのニュースでは知り得ない、きわめて人間的な感情があるのではないかと思ったのである。そしてそのことはかなり重要なことであって、人間のいいところ、悪しきところが明らかにされているものだと思うのだ。
 ニュースはどうしても取材関係者の意志が働いている。関係者の考えるところでニュースが作られている。事件全体の取捨選択がどこかゆがんでいる。マスコミ自身が正義の味方、あるいは被害を弁護する、または世論の先頭に立っている優越感みたいなものが目立つ。しかしそのニュースは被害者の存在感のないニュースになっている。
 いい例が次の会見である。たぶんご存じかと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=htNQ8rT5hWA


http://www.youtube.com/watch?v=U6W2eC1J6DE


 この怒号をあげた記者は読売新聞大阪本社の社会部の記者と聞いたが、いったい自分を何様だと思っているのだろうか?
 これら記者が現場でとった行動がこの本にも書かれている。これを読むと、これが被害者の代弁者がとる態度かと言いたくなる。ごろつきと同じである。

「そこへひとりの記者が『1両目に乗っていた方はいらっしゃいますかぁ?』と入り込んできた。その場には乗客が40~50人程いたのだが、皆その言葉に凍りついた。『この状況が読めないのか!皆、話せる状態だと思うのか!』そんな目でその記者を皆無言で睨み付けた。もちろんすぐに警察官が制し追い出したが、何だか悔しくて涙が出た」

「しばらくして(診察終えて病院からタクシーで帰ろうとしても)、『病院のタクシーはみんな待機しているみたいで、なかなかつかまらへんわ・・・』と電話があり、(略)病院前にいたタクシーは、報道関係者が乗りつけて来たものだったらしいということがわかりました。仕方がないことですけれど、血だらけのスーツで足を引きずりながら、タクシーを探してJR尼崎の駅まで歩いた夫のことを思うと、なんだかやりきれない思いです」

「歩道に出てきた私は、周りを見回した。上空にはものすごい爆音のヘリコプターが数台。救助隊よりも早く来て、現場を撮影するカメラマン。『なんでカメラを回してるんやろ。先に救助ちゃうの?』という思いと同時に怒りが込み上げてきた」

 またマスコミは知りたいと思う国民は馬鹿だから、俺たちが正しい考えを教えてやるという高圧的な態度があるように思える。そしてやることは単純で、一人を徹底的に悪者にして責め立てるのである。今回事故を起こしたのはJR西日本であるから、すべてJR西日本が悪者して、単純化してしまうのである。事故の複合的原因など追究しない。
 そんな新聞で、2005年6月19日の投稿欄に「おや!」と思うものがあった。京都のノートルダム女学院中学高校の講師たちが高校1年生約160人この事故の背景や影響についてレポートの課題を出した。そのレポートの多くがJR西日本のスピードを優先する企業体質を事故原因として挙げたけれど、中には「JRも発着時間を決めていた人も、いつも急いでいる私たちもすべて加害者」「電車が2分でも遅れたら『遅い』と思ってしまうことで、運転士や役員を追いつめることになってしまった。過密な仕事をしていることを危ないとも思わず、忠告もしなかった私たちにも非がある」という記述があったという。
 これを読んだとき、私もそう思っていた。確かに安全を無視した企業体質がこうした大惨事を起こしたことはまがうことない事実だけれど、それを要求したのは、あるいはJR西日本にサービスとして求めたのは、私たちなのである。それが便利だと思ったことで、JR西日本を利用した一面はあるのではないかと思うのだ。だから悪人をJR西日本にだけ求めるマスコミの態度はどうしても納得のいかないものが私にはある。
 ただ、そうした住民の要求に応え、サービスを提供したJR西日本の責任はもちろん回避できないけれど・・・。
 そして事故にあった乗客も事故は何だったのだろうと振り返る人がいて、単純に事故責任をJR西日本だけに求めていない人もいたことを知って、なんか安心した。そこには次のように書かれている。

「事故の直接の原因がスピードの出し過ぎであることは明白ですが、その背景にはJR西日本という企業の体質、さらにはそういう企業の存在を容認してきた私達の社会があります。時間に追われ余裕のない生活を送る私たちの社会。あの事故はいったい何だったのか。私たちはあの事故から何を学ぶべきなのか。直接は公共交通である鉄道の安全運行の重要性でしょう。しかし本当に気づくべきは事故を引き起こすこととなった社会のありようではないのでしょうか。1分、2分を争う社会。効率ばかり優先される社会。私はそれとは別の価値観があることを頭で理解するのではなく心から『実感』したのです」と。

 さてこの事故は平成17年4月25日に起こった。死者107名(うち1人が運転手)、負傷者500人以上の大惨事である。
 原因は伊丹駅でのオーバーランから始まる。ここで戻ったことによる時間のロスを取り戻そうとそれ以後かなりのスピードを出したことにより、カーブを曲がりきれず脱線した。脱線前の車内の状況を乗客である被害者は次のように語る。

「その時、誰かの『ホームが無い』と漏らした声を耳にして窓の外を見ると、線路脇に雑草が生えている景色が目に入った。かなりオーバーランしてしまった様子に、木村と顔を見合わせた瞬間、今度はいきなり体を後ろに引っ張られた。再び皆が体勢を崩した時、電車がホームに向かってバックしている事に気が付く。ブレーキも大変荒かったので、『バックする前に一言車内放送でもいれるやろ、普通・・・』と一人で憤慨していたが、まあ、焦るのも無理はないかと思い直し、車内を見回した(略)会話をしながら周りの様子に違和感を覚えはじめたのは、窓の外を流れる景色のスピードがいつもより早く感じた為だった。しかも時折、がたがたと窓が鳴っている。私は普段この路線を使うが、今までにその区間でそこまでのスピードを出された事は記憶になかった。周囲からも、不安げな声が上がりだし、それと連動するように床から振動が伝わってくる。(略)客観的に見ても、訳のわからない不安感を乗客は感じている様だった」

「私が利用しているこの快速電車は普段からよくダイヤが乱れていましたが、その日は定刻通りに電車がホームに入って来ました。しかし全く止まる気配が無く、ものすごい勢いで目の前を通過していったので『特急列車なのかな』と思いましたが、かなり行き過ぎてから急ブレーキをかけて突然止まりました。いつもなら目の前にあるはずの3両目は無く、ホームの右手に車掌の姿が見えました。この時点から何となく『この電車はおかしい・・・』と、漠然とした不安を感じていました。
 すると、荒っぽい運転で電車が逆方向に走り出し、いつもの位置よりも少し戻り過ぎた位置で停車したので、私の目の前には3両目の一番前のドアがなく、川西方向に少し歩きました。『この電車に乗っても大丈夫かな・・・』という気持ちを持ちながらも、エスカレーターから降りて来た若い女性2人が先に乗り込んだので、『電車だしそんな事はないだろう』と思い、そのままその電車に乗り込みました」

「オーバーランや急ブレーキ、急ぎ足の運転、そんないつもと少し違うちょっとしたハプニングを、関西弁のニュアンスで言えば『しゃあないなぁ』『しっかりせぇ』といった感じで笑っているような、本当に暖かいムードだったのだ。
 その空気が少し変化しだしたのは、塚口駅のあたり。ガタン、という大きな音とともに、電車が駅を通過する。車内がざわつき、車体が上下に揺れ、窓ガラスがガタガタと音を立てて軋みだした。時速100キロはゆうに超えているであろう速度だ。私たちは、『・・・速いな』『速いよな・・・』と少し不安げに声を揃えた。他の乗客も、ほとんどの人がひとりで乗っているにも関わらず、近く居る人と『ちょっと速いですよね』『速すぎないですか?』『大丈夫ですかね』と声を掛け合い始める。このとき初めて、車内にはっきりした緊迫感が生まれた」

「『ん?停まった?・・・ここ駅じゃないよなぁ・・・』窓の向こうは草っぱら。訳のわからないまま、電車は逆方向へ走り出しました。
 『ありゃー、オーバーランしてたんかぁ』それにしても逆走も結構なスピード。つり革をしっかり持ってないと倒れそうなほどでした。本来停まるべき伊丹駅に着いたとき、私の脳裏にはチラッと『この運転手大丈夫やろうか』とよぎりました。そして、走り出した電車はどんどん加速して行き、車内が何となくどよめき出しました。たまにしか乗ることのない私にはそれほど異常は感じなかったのですが、すでに毎日乗っている方はいつもと違うと感じられていたようです。そのどよめきで、私も初めて『そういえばすごいスピードが出ているきがするなぁ』と感じたとき、例のカーブにさしかかりました。
 『え!?、このスピード・・・曲がれるの』」

「一度大きな揺れがあり、立っていた乗客は笑いながらも大きくバランスを崩しました。信じられないことに、事故直前の異常な揺れを体験しても、乗客はまさか脱線するとは思わなかったのでしょう。仮に脱線しても『まさか自分が乗っている電車が・・・』という意識があったのでしょう。そのときまでは、尋常でない揺れを感じながらもつり革に必死につかまり、笑顔さえ浮かべていたのです」

 これを読んでいると、電車がオーバーランしたことで、この電車はおかしいと感じた人と、ちょっとしたハプニングと感じた人と別れるけれど、その後急に電車がバックしたこと、そして加速して尋常なスピードでないと感じたとき、みんなが不安に駆られる。しかし不安を感じたとしても、電車に乗ってしまった以上どうしようもない。しかしこの時点まではまさかこの電車が脱線するとまでは思っていない。そして電車は脱線した。
 脱線したときの車内の状況は乗客が乗っていた車両によってかなり違ってくるようだけれど、この手記を読んでいると、脱線し、車両がマンションに激突する瞬間は、ものすごい力乗客に加わり、人が振り落とされ、或いは飛ばされ、落ちてくる。
 「人同士がもみくちゃになりながら、痛みと衝撃に抵抗しようとしていました。まるで洗濯機の中にたくさんの人とともに入れられたような衝撃でした。まるでサンドバッグのように体中を殴られているような衝撃が続き、『どれだけ続くのか?』と思っていましたが、激しい大きな音と同時に衝撃も止み、それまでの轟音から打って変わって車内は静かになりました」

「揺れがおさまり、車体が停止すると、体の左側を下にして、地面に叩きつけられた。柔らかい。そっと下に目をやると、そこにはやはり人の山があった。誰の足か、誰の手か、誰の頭か、その下に一体何人居るのか想像がつかないほど、ぎっしりと積み重なっていた。暗い車内に背後から一筋の光が差し込み、充満したホコリが照らされて静かに光っている。気絶しているのか、死んでいるのか、呻き声すら聞こえない」

 と書かれている。人と人が重なり合って、うめき声があがり、か細い声で助けを呼ぶ。どのように救助されたのか。またその後どのようにして病院に運ばれたのか。そしてけがの状況とその治療がそれぞれ書かれている。
 ここには被害者の家族の手記も載せられている。被害者の記述も悲惨だが、事故を知らされた家族の不安がたまらない。自分の夫や娘がもしかしたらこの事故に巻き込まれた可能性があるかもしれないと思ったり、或いはとりあえずが大丈夫だけれどという連絡が被害者の携帯(この本を読んでいると携帯電話がかなり役立っていることがわかる)から連絡があるのだが、実際どんな状況なのかわからないだけにただ、おろおろする光景は、察してもあまりがある。顔を見るまで安心できない気持ちがよくわかる。

 けがが回復しても、電車に対する恐怖はなかなか消えない事実も書かれる。

「事故後とはいえ仕事が休めないので通勤はするものの、平常心では電車に乗れなくなり、ラッシュ時の電車や快速に乗る事への恐怖が出てきた。できるだけ電車に乗っている時間が少ないルートを選んで通勤したが、必然的に乗り換えも多くなり、乗り換え毎にベンチに座ってはしばらくは動けず、大阪に出るだけで2時間はかかった」

「電車に乗っていて、普段よりも速いスピードや急な停車、小さな異常を少しでも感じたら、すぐ電車を飛び降りるくせがついてしまい、途中下車をする回数がだんだんと、増えてきました。いつでも降りられるように、快速電車には乗らず、普通電車ばかり乗るようになりました」

「電車に、JRに乗ることには、以前に比べると慣れました。でも、スピードやカーブ、そのいたる瞬間にも緊張感を持って乗車していることはなんら、以前とは変わっていません。『電車に乗ることに慣れた』のではなく、『我慢して乗ることに慣れた』のです」

 そしてやりきれないのが「サバイバーズ・ギルド」と呼ばれる本来負わなくてもいいはずの罪意識が生存者に生まれてしまうことである。「あの事故での『生』と『死』は何の理由もなくほんの少しの場所の違いで分けられたのである」そしてたまたま自分は生き残ってしまったという苦悩。または自分もけがをしていたため、助け出された他の乗客が成す術もなく目の前で命の火が消えていく光景を目にするしかできなかったことによる罪の意識。
 そのことが残された者の義務として、事故を風化させないために、事故の真相を語り続ける。
 この本は最初に書いたように、人間の愚かさを書いていると同時に、人間ってすばらしいなぁと思わせる尊厳も感じさせる本であった。


評価
★★★★


書誌
書名:JR福知山線脱線事故―2005年4月25日の記憶
著者:JR福知山線脱線事故被害者有志
ISBN:9784343004048 (434300404X)
出版社:神戸新聞総合出版センター (2007-04-25出版)
版型:333p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2007年05月17日

志水辰夫著『生きいそぎ』

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 この本もお茶の水の丸善で、POPにつられて買ってしまった本である。(私にとってこの本屋は鬼門かもしれない)本の裏表紙に次のように書かれている。「定年を迎えたり、親しい友人が亡くなったり、親やきょうだいの法事に集まったりするとき、ふと胸をよぎるのは、幼かった頃のことや、最も輝いていた時期のことだ。人は皆、戻るべき故郷があるというけれど、戻ればそこは、変わり果て居場所さえもままならない。でもまた生きてゆかなければならない。老いに向かう人生の「秋」を叙情豊かに描く短編小説集」
 これを読んでちょっと読んでみようかなぁという気になった。歳のせいか、こういう「人生の『秋』」なんて書かれると、どうしても気になるのである。やばいなとは思っているのだけれど・・・。

 この本は「人形の家」、「こういう話」、「五十回忌」、「うつせみなれば」、「燐火」、「逃げ水」、「曼珠沙華」、「赤い記憶」の8編の短編で成っている。ただ、どれもどうってことはなかった。今回は完全に丸善の文庫担当者にだまされたことになる。
 題名自体なんか人生の哀愁を物語るけれど、だいたいこれら作品で何を言いたいのかよくわからなかった。どの短編も、子供時代に何らかの問題のある過去を持っていて、それが大人になり、仕事などで忙しくなって、一時忘却の彼方に追いやれる。しかし現役をリタイヤしてから、時間をもてあますためか、忘れていた拭い去りがたい過去がむくむくと頭をもたげ、かつて自分の子供時代の故郷に帰り、それを振り返るというパターンである。ただそれだけである。だからなんだというのだろうか?人は人生の秋を迎えるとこうなるとでも言いたかったのだろうか?
 その上、
「同時にふたつ以上にことをすると、片方のことを忘れてしまう。最近割合そういうことが多いのだ。脳が現実の多様性に対応しきれなくなっている。こういうかたちで老いを目の前に突きつけられるのは、あまり気持ちのいいものではなかった」

「仕方ないさ。人間の歴史なんて、しょせん有限なんだ。その人間ごとに、自分が立ち会ってきた歴史を大事にするほかない」

「若者にはいつだって住みにくい世のなかなのだ」

 といった人間歳をとるとなる状態や、冷め切った考え方が作品にちらちらと顔をだす。あ~、嫌だ、嫌だ。ちっとも叙情豊かじゃない。


評価


書誌
書名:生きいそぎ
著者:志水 辰夫
ISBN:9784087460124 (4087460126)
出版社:集英社 (2006-02-25出版) 集英社文庫
版型:319p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2007年05月15日

志水辰夫著『行きずりの街』

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 この本はこの本についている帯に惹かれて買った。そこには16年前の「このミステリーがすごい」の第一位の本だと書かれている。正直な話何で今頃本屋の目立つところに並んでいるのが少々不思議でもあったあった。お茶の水の丸善のPOPには16年後大ブレイクと書いてあった。私みたいにこのPOPを見て、買わされた客が多くいるのだろう。(それにしてもこの店のPOPに書かれている文句は結構触手が動いてしまうほど、うまい)

 さて16年前の「このミステリーがすごい」の第一位の本だというが、それほど色あせていない。だから結構話に引き込まれてしまう。
 郷里の塾の教え子であった広瀬ゆかりの伯母が祖母の病状が思わしくないので、今のうちにゆかりに会わせたいのでゆかりを探してほしいと波多野に頼み込むことから物語は始まる。
 ゆかりは孤児で、祖母の手で育てられていた。波多野の実家にも遊びに来た。高校卒業後、東京へ出て行ったが、波多野はゆかりの東京行きには彼女の性格を考えれば賛成できなかったが、本音のところでゆかりとこれ以上関わりたくもなかった。しかし東京でゆかりの消息がとれないと聞き、自分がゆかりを放り出してしまったのではないかという罪悪感に駆られ、東京に出て、ゆかりを探し始める。
 波多野は郷里に戻る前、都内の私立の名門学園の教師をしていた。しかし教え子の雅子と恋愛関係になり、雅子が卒業後結婚をする。それが高校でのスキャンダルとして扱われ、波多野はその高校を去った。そして雅子と別れて郷里へ戻ってきていた。
 ゆかりを捜しているうちに、ゆかりが角田という男に囲われていたことがわかる。この角田という男は波多野が去った後学園の経理部長をしていた男であった。ゆかりの行方を調べているうちに波多野は自分の追放劇が学園の陰謀であったことを知る。また、別れた雅子と再会する。
 ここから波多野は自分が追放された真相と学園の陰謀の究明が、ゆかりの行方を探るうちにあばかれていく。
 こんなに都合よく昔のことが関連するわけがないだろうと思いつつも、読んでいるうちに引き込まれていった。それに一介の高校教師がこんなにかっこいいわけないだろうとも思ったが、まぁ話としては面白かった。それに別れた雅子との会話ももの悲しく、その後の人生の哀愁がうまく描かれている。
 この本が本当に16年たってブレイクしているなら、それはミステリー的要素だけでなく、ハードボイルドの面も持っていて、しかも恋愛小説的要素を持っているからだろうか?過去の清算と再出発が最後に成就することもプラス要因かもしれない。
 ところでこの本のカバーのデザインがいい。


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 波多野が学園の教師をやっていた頃、雅子と夜隠れて会っている感じがよく出ている。あるいは探し当てたゆかりかもしれない。それほど雅子とゆかりがだぶる。


評価
★★★


書誌
書名:行きずりの街
著者:志水 辰夫
ISBN:9784101345116 (4101345112)
出版社:新潮社 (1994-01-25出版) 新潮文庫
版型:356p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2007年05月09日

司馬遼太郎著『街道をゆく』43巻

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 この巻は司馬さんの絶筆となった。そのためページ数にして約100ページほどで、これからこの三濃、尾張の旅で信長、家康と話が展開するはずだったのが、尻切れトンボのようになってしまっている。仕方がないとはいえ、残念である。特に司馬さんの戦国物が好きな人にとってみれば、きっと面白いものなったのではないかと思う。

 これでこの『街道をゆく』43巻、全巻読破したことになる。このブログの記録を見ると、第1巻を読み終えたのが、昨年3月31日になっているから、約1年1ヶ月かかったことになる。もちろんこれにかかりっきりなったわけじゃなく、途中かなり寄り道をしてしまったから、こんなに時間がかかってしまった。でも、読んでよかったと思う。このシリーズは私にとって、日本史の教科書になったような気がする。あと、このシリーズのまとめでもある分厚い本を読んで、このシリーズの完結としたい。


『街道をゆく』43巻の「濃尾参州記」は週刊「街道をゆく」の50巻に収録されている。

評価
★★


書誌
書名:街道をゆく〈43〉/濃尾参州記
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022570345 (4022570342)
出版社:朝日新聞社 (1996-11-01出版)
版型:123p 19cm(B6)
販売価:1,019円(税込) (本体価:971円)

2007年05月08日

司馬遼太郎著『街道をゆく』42巻

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 話は急に始まる。その昔、現代国語の先生が「一生懸命」は間違いで、正しいのは「一所懸命」が正しいとくどいくらい言っていたのをふと思い出した。今広辞苑を引いてみると、一生懸命は「イッショケンメイ(一所懸命)の転」とある。つまりどちらも併用されているということらしい。
 ここに「一所懸命」の意味が説明されていたので書いてみる。
 8世紀の奈良朝からその後400年ほど続く平安朝は、律令制の世界であった。律令制は、公地公民が大原則でった。つまり農地、農民は国家の所有物と考えられ、ただ租税を納める機械としか見なされていなかった。当然重税に耐えかねて離散する者も多かった。 やがて例外として荘園という私有が認められるが、この私は公家や有力社寺の私領であった。つまり、農民は国の農民と荘園農民と別れたが、ここにもう一種類の農民が生まれる。墾田の農民である。この墾田は基本的に開拓者の永代私有が認められたが、有力開発者が離散した農民たちを集めて、山野を開いたのが現状であった。
 ところがおかしいことに、せっかく開墾した自分たちの土地を自分たちの所有とはせず、開発人たちは、いったんその農場を京の公家や有力社寺に献上し、自分たちはその土地の管理人になって、その土地を安堵してもらう方法をとるのである。その管理人のことを武士と呼ぶ。つまり土地の法的持ち主は公家で、自分たちは武装して農地を管理する立場に置いたのである。当然公家に気に入らないといわれて追い出されることもあったわけで、この管理人(武士)はいつも京にたいしておびえていた。だから管理人は自分たちの管理権を懸命に守っていた。そのさまを「一所懸命」といったのである。
 この日本人の美徳の一つのエートスになっている「一所懸命」という言葉の由来を知ると、土地に必要以上に経済的価値観を置く日本人の原点になっているように思えてくる。

 さて今回は三浦半島の旅である。ここで、鎌倉幕府とそれを開いた源頼朝に重点を置いて旅をされる。ただこの地は日本海軍の発祥の地でもあるので、多少その関係にも触れられる。私は今回鎌倉幕府と頼朝について書きたい。

 ところでこの鎌倉幕府というのもよくわからない。そもそも源頼朝という人物はどんな人なのだろうか?司馬さんのこの本を読んでいると、先の「一所懸命」のところで書いたように、この当時武士は公家の顔色をうかがいながら生きていた。絶えず京に対して不安を持っていた。そういう心配を一手に引き受けたのが頼朝であった。公家に対して口利きをしてやる存在であった。つまり「自分がなんとかしてやる」といったのである。どうしてそんなことが可能かといえば、代々京に顔がきいたのである。そして頼朝そうしたことが自分の存在感であったことをよく知っていたし、そもそも鎌倉幕府はそうしたことをすることで存在できた。頼朝は自分の力で幕府を開くほどの家臣団を持っていなかったのである。関東の武士団、たとえば北条氏、三浦氏などの力を借りて、鎌倉幕府を開くのである。考えてみると不思議な存在であった。司馬さんは次のように言う。「頼朝はただ一人でもって、坂東武士団の推戴をうけて世に立っている。主役は、坂東武士である」と。だから頼朝の弟である義経が平家追討の最大の手柄を立てても、自分の血族をもろ手を上げて招き入れることはできなかった。そうしてしまえば、坂東武士たちの信頼を失ってしまうのである。その結果、頼朝は義経を殺せざるを得なかったのである。そして頼朝にしても、その後を次いだ北条氏も坂東武士団の信頼がなければ、幕府の存在が危うくなるのである。このあたりは、徳川幕府とは大きく異なる。
 また板東武士団も頼朝の存在を、関東の紛争の裁き人としてしか見ていなかった。だから鎌倉幕府の主要な機関を一般の政務を扱う政所の他に、軍事・警察をつかさどる侍所、訴訟・裁判を扱う問注所を整備したのである。そのことを司馬さんは簡潔に次のように言う。

「坂東のひとびとが頼朝に期待したのは、統治者というよりも、―くりかえすが―関東の地で恒常的におこっている農地の所有をめぐる争いの裁き人としてであった。
 鎌倉での頼朝は、唯一の司法者として期待された。
 かれの死後、鎌倉幕府の司法面は、合議制が濃くなるが、在世中は、かれ一人がさばいた」

 また律令国家から武士団の利益を守り、武士団相互の紛争を公平に裁くために征夷大将軍になったのであった。征夷大将軍は辺境の政治について専決権が許されていたからである。
 こうして頼朝のことを読んでいくと、鎌倉幕府の初期はおびただしい血が流れている。それも頼朝一人の存在感を守るために、血が流されていった感がある。ところが頼朝の家系が絶え、権力が北条氏に移ると(司馬さんは鎌倉幕府はもともと頼朝と北条氏の合資会社という言い方をしている。これはなかなかうまい言い方だ)政権が安定したという。面白いのは北条氏は将軍とはならなかったことである。将軍は尊貴であればいい存在なので、わざわざ京の藤原摂関家や皇族から迎え、自分たちは執権職におさまり、実質政治の実権を握っていた。北条氏は実に現実的で地に足がついた存在であった。京からもらう官職は代々「相模守」だけであった。司馬さんは面白いことを言っている。このことは、「神奈川県知事が日本の宰領をつとめつづけたことになる」と。

 こうして鎌倉幕府の存在によって、土地制度が定まった。公地公民の律令制から土地が所有者のものとなった。いわば道理が安定した。道理の通る時代になった。「従って、ひとびとの物を見る気分まで現実的になった。
 絵画では絵巻物という形式が盛行し、物事を動くものとしてとらえた。彫刻も、リアリズムがよろこばれた。
 また思想も簡潔になった。
 仏教という、えたいの知れぬほど煩瑣なものからただ一つの本質がとりだされ、親鸞や一遍の教学になった」と司馬さんは鎌倉幕府の存在の意味をいう。鎌倉幕府はがわずか百五十年だったけれど、「この時代から日本らしい歴史がはじまると極論していい。もし平安朝の中央集権制がそのままつづいていたとすれば、日本史は中国史や朝鮮史とさほど変わらないものとなる」と言い切る。

『街道をゆく』42巻の「三浦半島記」は週刊「街道をゆく」の5巻に収録されている。

評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく〈42〉/三浦半島記
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022569592 (402256959X)
出版社:朝日新聞社 (1996-06-01出版)
版型:371p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2007年05月04日

司馬遼太郎著『街道をゆく』41巻

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 「日本じゅうの道という道の束は、やがて一すじの細いみちになって、ここに尽きるのである」と、本州最北端の地、竜飛崎で司馬さんはいう。いかにもここでおしまいといった感じだ。伝説ではあの義経もここから北海道に渡ったということも書かれている。そこから更に大陸へ渡り成吉思汗となったというとんでもない話もある。
 司馬さんもここで書かれているけれど、高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』は私も高校時代読んだことがある。主人公の検事さんが病気か怪我か忘れたけれど、とにかく暇を持て余していて、病室で義経が成吉思汗だったという歴史ロマンに夢中になる話だった思う。なんか懐かしかったので、冒頭に書いてしまった。

 さて、今回は下北半島、津軽半島の旅である。司馬さんは今回のこの紀行文のタイトルを「北のまほろば」と題名した。この「まほろば」という言葉はあまり聞き慣れない言葉である。
 説明によると、伝説の日本武尊が、異郷にあって、望郷の思いを込めて、自分の故郷である大和のことを「まほろば」と呼んだという。その上で司馬さんは、「私は、まほろばはまろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持ちいい野として理解したい。むろんそこに沢山に人が住み、穀物がゆたかに稔っていなければならない」と、この「まほろば」にそうしたイメージを持たせている。
 しかし本州の最北端のこの地が「北のまほろば」とするには違和感がある。たとえば歴史上何度も飢饉を経験してきた寒冷でやせたこの土地に、「物成りがよく気持ちいい野」というのはいえないのではないかと思ってしまう。けれどそれはコメを主体とする農業にどっぷりつかってしまった影響による。以前にも書いたが、イネは南方系の植物だから寒さに弱い。そのためこの地で何度も「けかち(飢饉の方言)」に見舞われた。だから太宰治が自分の故郷をさして、「悲しき国」と『津軽』で嘆いたのである。
 しかし稲作が始まっていない縄文時代は違った。「山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べものほうから、身をよじるようにして、-サケ・マスのことだが-やってくる。そんな土地は、地球上にざらにはない」といい、「縄文時代、世界でいちばん食べものが多くて住みやすかったのが、青森県だったろうということを、私も考古学者たちの驥尾に付してそう思い、いわば"まほろば"だったと考えてきた」というのである。
 司馬さんは以前の「オホーツク街道」でもかなり熱かったが、今回も同様にかなり熱くこの土地を語る。はっきり言って「北方狂」とでもいえそうである。その「北方狂」が、この土地がコメを中心とした農業では、寒冷で、やせた土地であったがために、飢饉や凶作に見舞われるたが、先史時代(縄文時代)の採取経済の時代では、そんな心配がなく、自然豊かな土地であったと言わせるのだろう。更に「地下三尺に、他地方にない感覚のゆたかさを秘めているというふしぎな地でもある」と言わしめるような気がする。
 その地下にあの有名な三内丸山遺跡などいくつかの貴重な遺跡があることは周知の通りである。そしてその東北の地方のゆたかな文化が、太宰治、石坂洋次郎、葛西善蔵、棟方志功といった「他地方にない感覚」を持った人々を生むのであると考える。
 要は「日本史は、水田農耕がゆきわたった奈良朝時代あたりから、西方が優位になり、東北は夷(ひな)のあつかいをうけるようになった」だけのことじゃないかと司馬さんは強く主張されている。

 この地方における弥生式文化について、新たに知ったことを書きたい。
 先に書いたとおり、コメの性質上、古代東北地方には弥生文化が長いことなかったと思われていた。しかしこの東北に古代稲作(弥生文化)があったことを証明する土器や水田跡など見つかった。司馬さんは次のように想像してみる。
「北九州で水田を中心にできた村の次男坊たちが、つぎの適地をもとめてあらたな村をつくったはずである。さらにその次男、三男たちが、というふうに、世代があらたまるごとに適地から適地へと移り、この文化がひろまった。
 稲作は、食糧の不安を、いわば解消させた。
 よほどの魅力だったのか、弥生文化は日本列島をひた走った」

 青森県には縄文時代が続いていたほぼ二千年前に弥生前期の水田が出現していた。遺跡がそれを物語っている。弥生文化が、北九州から発して東進し、やっと今の名古屋あたりに達したころである。関東地方などはまだ縄文文化のときであった。しかし日本海側の津軽では弥生文化が来ていたのである。おそらく日本海岸を舟で移ってきたのだろう。
 しかし東北地方のこれらの弥生文化の孤島群はその後消滅してしまった。おそらく縄文勢力が圧倒的に多数だった時期に、少数派の稲作グループが力負けしたためではないか。そして豊かな自然が縄文人の養っていたから、わざわざコメを作る理由もなかったのかもしれないという。
 しかしいったん滅んだ稲作を、後の律令国家が稲作をせよこの地に再度勧めていくことになったのだという。ということはこの国家主導の稲作がやがてこの地方を不幸にしていったともいえそうである。

 司馬さんは今回太宰治の『津軽』を携えてか旅をなされているのか、とにかく太宰のこの作品から様々な津軽を引用する。この『津軽』も高校時代読んだけれど、また読んでみたくなった。


『街道をゆく』41巻の「北のまほろば」は週刊「街道をゆく」の24巻に収録されている。


評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく〈41〉/北のまほろば
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022569004 (402256900X)
出版社:朝日新聞社 (1995-11-01出版)
版型:485p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年04月25日

司馬遼太郎著『街道をゆく』40巻

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 今回は「台湾紀行」である。私は台湾について詳しいことは知らない。蒋介石が作った国だと長いこと思っていた。これがとんでもない間違いであったことを今回知る。
 今中国は台湾の存在を認めていない。「一つの中国」として、台湾を見ている。つまり台湾は中国本土の一部だと考えているわけだ。日本も田中角栄首相の時、「日中国交正常化」を整えたとき、台湾と断交した。それまで日本は、中国とは台湾を意味していたのが、これによって中国本土が中国としたのである。
 私は馬鹿だったから、台湾も蒋介石が作った国だし、同じ中国人の国なのだから、中国が主張する「一つの中国」は何ら問題のない主張だと思っていた。
 だけどよく考えてみると、中国が台湾は自分の国だというなら、台湾(中華民国)にとっても、中国大陸のすべてやモンゴルやチベットは台湾のものだと言えることになる。もちろんこれは台湾の人々が声を上げて言っている訳じゃない。司馬さん言う空想である。でも論理としては矛盾はない。ただ中国が台湾を自分の国だと主張する背景には、自国の国力にものを言わせているのところが感じる。
 司馬さんはこの紀行文で、台湾を通して、国家の起源論を考えている。

 清王朝にとって台湾は"化外の地"であった。要するに19世紀末までボートピープルや流民、棄民たちが暮らしていた島であった。国として清王朝が所有権を主張していても、ほとんど支配権などなかったといっていいようだ。言ってみれば歴史の空白地帯であった。
 1894年日清戦争が起こり、日本は台湾を植民地化した。以後50年に渡り台湾は日本の統治化に置かれた。日本は台湾を植民地化することで「文明」を持ち込んだ。児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造らが統治をし、八田與一という技術者が台湾に「文明」をもたらした。
 李登輝さんが面白いことを言っている。「植民地に対して宗主国というのは、自国いいところを見せたがります。シンガポールに対する英国もそうでしたし、台湾における日本もそうでした」と。これに対して司馬さんも同意し、「そういわれてみると、古いころの日本は国力の点では分不相応に、台北において上下水道など完備させている。いい格好をしてみせたかったのにちがいない」と言っている。
 日本の敗戦という形で太平洋戦争が終わり、日本は台湾から去ることになる。そこへ中国共産党に敗れた蒋介石が大陸から「中華民国」という国名を背負って泥靴で上陸してきた。彼らは支配階級を作り、ときに本島人を殺し、凌辱し、差別した。
 地生えの本島人にとってみればたまったものではない。「中華民国」がこの小さな島にのしかかり、陳儀以下の軍人・官吏は宝の山に入り込んだ盗賊のように掠奪に奔走し、汚職のかぎりをつくした。そのさいたるものが、1947年2月28日に起こった二.二八事件であった。
 司馬さんは「漢民族にとって歴朝の国家が皇帝の私物であったように、この台湾も、ながく蒋家に私物同然だった」と言い切る。本島人の間では「犬(日本人)が去って、豚がきた。犬はうるさいが、家の番はできる。豚はただ食って寝るだけだ」という悪口が流行ったという。
 1975年蒋介石が88歳で亡くなり、長男の蒋経国が総統となる。「蒋経国は私としての権力の命数をよく知っていたようで、総統就任以前から台湾人の俊才を抜擢しはじめた」という。
 蒋経国は1985年12月に「蒋家の者が権力を継承することはない」と公言した。更にその翌々年「台湾がやがて本島人たちのものになる」と発言し、同7月に40年近く続いた戒厳令を解除し、その翌年、1988年1月に死んだ。
 蒋経国は死の4年前に後継者に台湾人で学者でもあった李登輝を副総統にしていた。総統の死後、李登輝副総統が憲法の規定で、1988年1月に新総統に就任した。
 ここに「台湾のひとびとの表情が、一挙におだやかになった」と司馬さんは言うのである。
 これが台湾の現代史である。台湾は確かに大陸から来た、蒋介石たちに支配され、中国人の国であるかのような形になったけれど、彼らは最初から「中華民国」という国を背負ってここにやってきて、居座っただけのことであった。台湾の人たちが自ら作り上げた国ではなかった。つまり「一つの中国」ではなかったことになる。李登輝さんが総統になって初めて、自分たちの指導者を得たことになる。ここに中国本土の指導者が声高に主張する「一つの中国」には無理があることを知るのである。台湾は台湾なのである。

 私もそうなのだが、その国の歴史的背景を何も知らないで、知ったかぶりしてものを言うのは恐ろしい。

 それにしても、このシリーズを読んできて、司馬さんが入れ込み具合の強弱がよく感じる。今回の台湾紀行はかなり熱かった。その分台湾が抱える歴史的諸問題がよく分かり、中国が主張することが、そう簡単な問題でないことを知らされる。


『街道をゆく』40巻の「台湾紀行」は週刊「街道をゆく」の9巻に収録されている。


評価
★★★★

書誌
書名:街道をゆく〈40〉/台湾紀行
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022568083 (4022568089)
出版社:朝日新聞社 (1994-11-01出版)
版型:502p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年04月10日

司馬遼太郎著『街道をゆく』39巻

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 今回は「ニューヨーク散歩」である。この「ニューヨーク散歩」は司馬さんの親友であるドナルド・キーンさんのコロンビア大学の退官記念講演のため渡米したことによる。
 従って、キーンさんのコロンビア大学での業績が主にここに記される。そのためかこの巻はわずか221頁しかなく、内容も乏しいものであった。正直な話、わざわざこのシリーズに収録する必要があるのだろうかとさえ思える。
 せっかく司馬さんがアメリカに行かれたのだから、もう少し司馬さんの感想や史観がほしい。司馬さんには『アメリカ素描』という本が別にあるので、多分アメリカについてはそちらのほうが詳しいのかもしれない。
 ということで、今回はこれでおしまい。


『街道をゆく』39巻の「ニューヨーク散歩」は週刊「街道をゆく」の60巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈39〉/ニューヨーク散歩
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022567024 (4022567023)
出版社:朝日新聞社 (1994-02-01出版)
版型:221p 19cm(B6)
販売価:1,365円(税込) (本体価:1,300円)

2007年04月09日

司馬遼太郎著『街道をゆく』38巻

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「私は小学校の後半の三年間、重症の考古学少年で、奈良県の北葛城郡の冬田を歩いて石鏃(石器の矢ジリ)や土器の破片をあつめた。それらが集まるにつれ、学校ぎらいになり、頭の中が白いシーツのように真白になって、その上に置かれているものといえば、くろぐろとした石や土の置物ばかりだった。
 成績はむろん低落したが、元来競争心のない子供だったから、苦にはならなかった」と書かれている。
 この気持ち分かるのである。私は小学校の頃、地元で主催された考古学の集まりに出席したことがある。あるいは出席せざるを得なかったのかもしれないが、よく覚えていない。とにかくその集まりで、黒曜石の鏃をもらった。それを手にしたとき、妙な気持ちになったものである。もしかしたらこの鏃は古代人が作ったもので、これで動物をしとめたかもしれないと思ったのである。もちろん、子供にくれるものだから、そんなことはあり得ないと今では思うけど、当時はそう思い、古代のロマンに慕っていた。
 そうなのだ。考古学というのはそういう熱病を発するのである。その熱病が重症になると、抜き差しならない状況になってしまう。極端な話、人生を左右してしまう。
 たとえばこの本で紹介されている、「モヨロ貝塚」を発見した米村喜男衛さんにしてもそうだし、司馬さんが米村さんをシュリーマンにたとえているけど、そのシュリーマンにしても同様だ。私の知っているだけでも、たとえば岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんにしたってそうだし、考古学じゃないけど人類学の発見においても明石原人を発見した直良信夫さんも、なまじ発見してしまったことから自分の人生を大きく変えざるを得なかった。つまり考古学的発見は、熱病のウィルスみたいなところがある。この熱病にかかった人たちは、いわゆる専門家ではなく、その分純粋にロマンを夢見ることができる分、重症になるようだ。
 そんな子供の頃を一時過ごした司馬さんが、稚内から知床半島までの、オホーツク海に面した海沿いを歩かれている。このカタカナの「ノ」を逆にした感じのオホーツク海沿岸を「オホーツク街道」としてここで紹介しているのである。ここではたくさんの考古学的遺跡が発見されている。

 学校教育の弊害だろうと思うのだけれど、たとえば旧石器時代の次は縄文時代が来て、その後弥生時代、その後古墳時代が日本全国で均等に続くような教育を受けてきた。だけどよく考えてみれば、ある時急に時代が変わり、生き方や考え方、あるいは文化や価値観が一変してしまうことなどあり得るわけがない。しかもそれが日本全国で同時に起こるわけがない。このことを今回よく知らされた。
 日本はまわりが海で囲まれ、特に大陸側では、どこからでも日本に人が入ってくることができた。そこへイネを持ち込んだ人たちが来た。
 旧石器時代から縄文時代と採取生活をしていた原始日本人は、イネを持ち込んだ大陸側から来た人たちにだんだん北へ追い込まれていく。いわゆる弥生時代の始まりである。イネを栽培する場合、個人ではできない。またただ単にイネを植えれば育つものでもない。灌漑事業を何らかに形で行わなければ、イネは育たないのである。そのため王やカミを司る人間などをを中心にしてまとまって、イネの栽培を始める必要があった。またイネはたくさんの人の養う生産力があったため、ここでまとまった人たちの人数を更に増やしていきここに王権が発生し、強化される。このことが更に領域拡大に進み、南方から広まった稲作文化が北へ北へ進むことになる。ただしイネは南方系の植物であるため、北へ進むのには、いわゆる北限があった。従って日本全国が縄文時代から弥生時代に全国規模で変わっていったわけではない。このことは北海道の歴史に長い間縄文時代が続く理由でもあった。
 たとえば下の表を見てもらえれば分かるのだけれど、本州では弥生時代や古墳時代に入っていても、北海道では「続縄文時代」のままだし、その後奈良、平安鎌倉時代でも、北海道では「擦分文化」、「オホーツク文化」のままである。要はイネとは別な狩猟時代のままであった。司馬さんは次のように言う。「農耕民が広域社会をつくる。採集民がそういうムラをきらい、採集生活を持続させるため、辺境へ辺境へとゆく。東北の縄文人が北海道にゆき、やがて"続縄文化"といわれる文化をつくり、樺太にわたる。要するに、アイヌとは、異民族ではなく、縄文文化の末裔なのである」と。

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 北海道は本州とはまったく別な時代区分で古代が進んだということである。

 ところで先に言ったように日本は四方が海に囲まれている。従って、樺太から流氷に乗って、この沿岸にたどり着くこともできた。ということは先に言った東北にいたであろう縄文人とは別な民族がこの沿岸沿いに来ることもできたはずである。
 大陸側の黒龍江(アムール川)はその水量が多いのと、オホーツク海が陸地や列島で囲まれているので、いわば槽状をなしているため、淡水がたえず海上の上層をなしているらしい。その上層部の淡水が凍って流氷となる。そのため司馬さんは「冬、沿海州の大河である黒龍江の河口とこの島(樺太)の西岸との間の海峡(間宮海峡・タタール海峡)が凍るとき、水上交通が可能になる。冬のある時期だけはユーラシア大陸とつながって、人もモノも文化もソリに乗ってゆききしてきた。だから樺太は孤島ではなく、ユーラシア文化の一地方なのである」というのである。
 その上、この北海道のオホーツク沿岸はいくつかの川が注ぎ込む地域で、天の恵みとして、鮭や鱒が産卵のため遡上してくる。しかも鰊も来遊する。つまり食べ物得るために労することが少ない地域で、古代人にとってオホーツク海ほど宝の海はなかった。
 ここに本州とは異なるオホーツク人が住み着き、オホーツク文化が生まれることとなったのである。そのためここにはたくさんの古代人の遺跡が存在する。今回司馬さんは「北海道を"オホーツク文化"の場からみたい」といってこの海岸沿いを訪ね歩くのである。
 その"オホーツク文化"を広めたのが、米村喜男衛さんであり、米村さんが発見した「モヨロ貝塚」の存在であった。司馬さんは米村さんの発見をこの本で熱く語っている。それは考古学少年だった司馬さんだからこそそうさせるのであろう。読んでいて米村さんがこの遺跡にかける情熱がよく伝わってくる。「モヨロ貝塚」についてはネットで詳しい説明があったのでURLを載せておく。詳しくはここを参考にして下さい。(本州と北海道の考古学編年表はここにあるものを使わせてもらっている)

http://inoues.net/ruins/moyoro_kaiduka.htm


 それにしても司馬さんが言うように、「わりあい単一性が高いとされる日本民族・日本語も遠い古代において雑種だった」とこの本を読んでいてそう思う。だから司馬さんの「私ども日本人の体のなかに、北の海で海獣と格闘してきた"オホーツク海人"の血も入っている」という気分もよく分かる。
 司馬さんはこの旅を終えて、このシリーズではじめて「いい旅でした」と感謝の言葉を述べているけど、古代のロマンを子供の頃から感じていたからこそ、そう言われたのだろう。確かにこの狭い日本でも壮大な古代ロマンを感じさせてくれる1冊であった。


『街道をゆく』38巻の「オホーツク街道」は週刊「街道をゆく」の33巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈38〉/オホーツク街道
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022566393 (4022566396)
出版社:朝日新聞社 (1993-08-01出版)
版型:514p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年04月04日

司馬遼太郎著『街道をゆく』37巻

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 まずはどうでもいい話から始める。このシリーズが始まって以来、挿絵は須田剋太さんが受け持っていた。ところが前々回の時、亡くなられ、前回はピンチヒッターで桑野博利さんが受け持っていたが、今回から安野光雅さんが挿絵を描くようになっている。多分このまま最終巻まで安野さんの挿絵がこのシリーズを飾るはずだ。
 ところで、この巻の安野さん挿絵を見ていると、なんだか駅弁の飾りにある絵みたいな感じがしてしまい、個人的にどうもいただけない。確かにこの本の挿絵はモノクロなので、安野さんの描く線では細い感じがしてしまう。安野さんの絵はどうしても色が必要だと思う。そう考えると、須田さんの絵はモノクロの挿絵でも力強さが感じられ、存在感があった。まぁ好みの問題だから、どうでもいいことかもしれないが・・・。

 さて、今回は、「本郷界隈」である。実はこの界隈特に湯島天神界隈も書店員時代、自転車で走り回っていた。坂が多くて、しかも長い坂なので、ヒイヒイいいながら自転車を立ちこぎして走った。司馬さんと一緒にこの界隈を歩かれている編集部員の人が学生時代バイトで自転車で配達していたことがあって、「上り坂はできるだけ避け、横へ横へ、斜めへ斜めへ道をとるんです」とその頃の頃のことを言っているのがおかしかった。確かにそうなのである。まともに縦に坂を登ってばかりいると、ものすごい大変なのだ。

 明治新政府にとって、大学、特に医学部の設立は至上命題であった。それまでは和泉橋通りにあった医学所をそのまま使っていたが、和泉橋あたりは低湿地帯にあったので、いずれどこかに移転せざるを得なかった。
 その移転先の第一候補が上野であった。寛永寺や不忍池あたりをつぶして大きな病院を建てるつもりであった。しかしオランダのボードインが上野の森をつぶすことに反対した。西洋では森がなければ、わざわざ森を作るくらいなのに、こんなみごとな都市森林をつぶすなんてとんでもないという理由からであった。で、急遽本郷台にあった旧加賀藩邸を使用することになったのであるという。ここに東京大学の前身が生まれることとなったのである。
 ネットで東京大学医学部の歴史を調べてみると以下のようにあるので、記しておく。

安政5年(1858)
5月 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立された。
11月 種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続した。

安政6年(1859)
9月 種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転した。

万延元年(1860)
10月 幕府直轄の種痘所となった。

文久元年(1861)
10月 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となった。

文久3年(1863)
2月 西洋医学所は、医学所と改称された。

明治元年(1868)
7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所を含めて、大病院と称すことになった。

明治2年(1869)
2月 大病院は、医学校兼病院と改称された。
12月 医学校兼病院は、大学東校と改称された。

明治4年(1871)
7月 文部省が設置され、大学東校は、東校と改称された。

明治5年(1872)
8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。

明治7年(1874)
5月 第一大学区医学校は、東京医学校と改称された。

明治9年(1876)
11月 東京医学校は、本郷に移転した。

明治10年(1877)
4月 東京医学校は、東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なった。

明治19年(1886)
3月 東京大学が帝国大学となり、東京大学医学部は、帝国大学医科大学となった。大学院が設置された。

明治30年(1897)
6月 帝国大学は、東京帝国大学となった。


閑話休題
 私は秋葉原の和泉町で仕事をしていることは以前書いた。その関係で和泉町に東京大学の前身があることを知って、興味を持っていた。これを見るとその歴史がよく分かる。神田御玉ケ池もよくテレビの時代劇に出てくるけど、その御玉ケ池はどうやら今の岩本町2丁目あたりにあったというから、今の仕事場に近い。 森鴎外の作品で『雁』に、神田和泉町にあった寄宿舎で、小間使いをしていた末造という人物が、小銭を貯めて、いつのまにか学生相手の金貸しなり、大学が本郷に移る頃には一人前の高利貸となったことが書かれているらしい。何かちょっと読んでみたくなった。

 今回司馬さんはこの界隈を文学散歩として歩いている訳じゃないといっているが、結果としてそういう感じになってしまっている。というか、そうならざるを得ないのではないかと思う。それほど明治以降この界隈には多くの文人が暮らしていた。週刊「街道をゆく」にどれほど有名な文人がこの界隈にいたか、マップとして載っている。

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 これを見ても、この界隈で暮らしていた漱石や鴎外、一葉などの作品から当時のこの界隈を思い知る方が現実的だ。いや彼らの作品から当時を思い描きながら歩かれているといっていい。

 ところで、弥生式土器というのがあるが、どうして弥生式というのだろうとかねがね不思議に思っていた。というのも、弥生式土器の前の縄文式土器は土器に縄の文様があるから、そう名づけられた聞いていたからで、今回この本郷界隈の弥生町というところから出土したからだと分かった。明治17年3月に3人の学生が発見したという。その発見に寄与したのは、ここ本郷台に大学が置かれ、多くの研究者が集まっていたから、ここにあった貝塚に目がいったのではないかと司馬さんは言っている。
 とにかく東京は明治政府がヨーロッパでも評判になるくらいの俸給で雇った外国人教師が集中した。そのため明治の東京は、あらゆる分野で欧化の魁をなした。つまり東京は欧米の文明を受容する装置に一手に担い、同時にそれを地方に配る配電装置の役割をした。前回の神田や本郷界隈はその中心であったのである。明治の有名人がこの界隈にあるのもうなずける。
 だから東京は当時きらびやかであったろう。それを司馬さんは漱石の『三四郎』から語る。「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である」と司馬さんはいうのである。
 一方で江戸の風情も語る。面白いと思ったのは、「どうも江戸期日本では神聖場所と遊び場所がセットになっていたらしく、岡場所は、神社の門前に多かった。市谷八幡前、麹町の平河天神前、神田明神前、それにこの根津門前まどである」という司馬さんの記述である。
 どうしてこういう場所に岡場所が栄えるのか、分からないわけでもない。多分門前にたくさんの人が行き交えば、こんな商売も生まれるし栄える。あるいは神さまと性が一体の部分もあるかもしれない。
 もともと「江戸は独り者が多かった。商家の奉公人や職方の見習いなど流入人口が多く、いわば女ひでりの街だった。このため遊里がさかえた」と司馬さんはいう。江戸は「女ひでりの街」だったという語り口は面白い。


『街道をゆく』37巻の「本郷界隈」は週刊「街道をゆく」の12巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈37〉/本郷界隈
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022565549 (4022565543)
出版社:朝日新聞社 (1992-12-01出版)
版型:374p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年03月29日

司馬遼太郎著『街道をゆく』36巻

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 この巻は「本所深川散歩」と、「神田界隈」である。私はこの巻をこれで三度読んだことになる。考えてみると、今までこのシリーズを読むにあたり、本にある地図や週刊「街道をゆく」を見ながら、文章を追っていたが、この巻だけは、その必要がなく、すぐ情景が頭に浮かぶ。そういう意味で、この巻は身近なものであった。
 本所深川は高校がそこにあったので、ブイブイ言わせて歩いていたし(うそです)、半ば地元なので、ここに出てくる建物や神社、地名などは、あそこだ!とすぐ分かる。
 「神田界隈」は今の仕事場が秋葉原にあるし、また司馬さんがここで詳しく書く神保町界隈も昔の仕事場でもあった。
 昔本屋の店長を唯一やったことがある(以後、長がつく仕事がお断りしている)。大手町の第三合同庁舎、今の国税局が入っているビルの地下一階の10坪ほどの店であった。たかが10坪の店だけど、年度末など月商600万円ほど売上があったから、結構忙しかった。しかし日販は10坪の店などまともに面倒など見てくれないので、新刊、売れ行き良行書など配本してくれなかった。
 しかし客は横柄な公務員だから、自分が欲しい本がないと、何かと文句を言われる。また当時は私もまだ純粋だったから、任された店に新刊がないというのは本屋として恥ずかしいと思っていたので、仕方なしに自分で仕入をやった。朝から自転車に乗って、当時飯田橋にあった日販店売へ行って、その日発売の雑誌や新刊書、注文書を取ってきた。それを自転車の荷台に積んで、今度は神田村で仕入をして帰ってきた。それを春夏秋冬、晴れの日も、雨の日も、雪の日も毎日やった。雪が降った日に、仕入が多すぎて、スリップして神保町の交差点で転んだこともあった。
 また当時古本屋に興味を持ち始めた頃でもあったので、休日神保町にある古本屋を歩きまわった。
 そんな関係で、自転車で仕入をし、歩きまわったものだから、通りから一歩奥に入ったところまでよく知っている。だからこの界隈は私にとってもものすごく身近なところなのである。だから読んでいて楽しかった。とにかくこの巻に書かれていることを書くといくらでも書けそうだ。
 また昔ホームページを作っていた頃、「秋葉原の歴史」をおまけみたいなもので作った。その時もこの本を参考にして書いたので、今回はまったくこの本にこだわらず、書きたい。

閑話休題
 私は近頃本を読むとき、気になる文章があれば、付箋を貼る。以前は紙の付箋を貼っていたのだが、これ再利用出来ないので、いつも新しい付箋を持ち歩かなければならなかった。それで3Mから発売されているフィルム素材のPost-itを使うようになった。これは再利用でき、しかもブックカバーの裏にいくつも貼っておき、必要があればそこからはがして、貼ることが出来るので非常に便利なのだ。オススメです。で、今回もそうして読んでいたのだが、付箋だらけになっちゃって、まとめることが出来なくなっちゃったのだ。

 神田は学校(医学、法律)と本の町だ。本といえば、当然印刷業も栄える。司馬さんも老舗の精興社のことを書かれている。
 私は本のインクの匂いが好きだ。一昔前の本はページを指で触ってみると、文字のでっぱりが感じることができ、いかにも紙の上に文字が乗せられた雰囲気がある。今は多分コンピュータ化され、そんな雰囲気を感じられず、味気ない。
 本屋でアルバイトしていた頃、小さな左派の新聞社の印刷で働いているおじさんところへ本を配達していたことがある。確か岩波の「世界」とあとなんかの全集を配達していたと思う。
 おじさんはいつも原稿を見ながら、黒縁の眼鏡をずり下げて、金属活版の文字をひろっていた。手はいつも真っ黒であった。まわりは輪転機の大きな音が響き渡り、話をするにも大声じゃないと聞こえない。インクの匂いがフロアー中に漂っていた。私はここに配達に来るのが楽しみであった。
 大手町で店長をやっていたことは書いたが、この店は文房具も扱っていたし、名刺の印刷やはがきの印刷も請け負っていた。要は名刺やはがきの印刷注文を取り、それを印刷業者に依頼し、印刷してもらった後、お客に渡すということなのだが(その間の中間マージンはいただく)、店を引き継いだ時、取引していていた印刷業者はかなりいい加減なので、印刷業者を変えた。
 その業者はその人と奥さんの二人でやっておられたが、その人も金属活版の文字をひろって、印刷物の原本?を作って輪転機を回して印刷をしていた。できあがった印刷物を取りに行くと、いつも機械が回っており、傍らには金属活版で組んだ原本があった。ここでもインクの匂いが漂い、この人の手もインクで真っ黒であった。そしてこの人も本が好きみたいで、文庫本が山になって積み重なって隅に置いてあった。「機械が回っている間暇なんで、本を読むんだ。ここは本の問屋街(神田村のこと)なので、知り合いが本を安く売ってくれるからいい」と言っていたのを思い出す。
 あの新聞社のおじさんはまだ元気だろうか?本を受け取るとき、真っ黒な手をタオルで拭いて(といっても、そのタオルもすっかり汚れているので、手はきれいにならなかったけど)受け取ったのも思い出した。
 神田村界隈も再開発のため、あの小さな印刷屋さんは移転した。本の問屋さんもつぶれたり、移転してしまい、問屋の数が激減している。見上げると、オフィスビルだかマンションだか分からないが、高いビルが視界を遮るようになってしまっている。
 このあたりは都心の一等地なのだ。けど、江戸時代「護寺院ヶ原」と呼ばれた大きな野原で、追い剥ぎが頻繁に出る場所だったという。もちろん今はそんな面影はどこにもない。

『街道をゆく』34巻の「本所深川散歩」は週刊「街道をゆく」の29巻、「神田界隈」は7巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈36〉/本所深川散歩;神田界隈
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022564054 (4022564059)
出版社:朝日新聞社 (1992-04-01出版)
版型:486p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年03月26日

司馬遼太郎著『街道をゆく』35巻

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 今回は「オランダ紀行」である。ここで何故オランダなのかという疑問がわく。日本史との関係でいえば、オランダは確かに関係が深い。江戸時代、鎖国の中、オランダとは長崎の出島で交易をしていた関係であった。司馬さんは長崎の出島を「暗箱にあけられた針でついたような一つの穴であった」というが、まさにその通りで、その針穴からオランダが日本に影響を与えた。
 だから司馬さんがこの地を訪れるのも分からないわけでもないが、ここではそうした日本との関係を無理に求めていない。(後半の「日蘭交渉史・私記」で荻生徂徠の思想に強引に求めている気配はあるが・・・)オランダといういう国がどんな国であったか、この紀行で感じている。
 「オランダ国の地面は火山がつくったわけでもなく、地殻変動によってできたわけでもなく、すべて人によってつくられたのである」と干拓事業で興った国であることからはじめ、この国がプロテスタントの国であることから、その精神がこの国を特徴つけていることを書きつづる。司馬さんはこのプロテスタントを信仰することで「神ほどはげしい電流はないが、それを在来ののように教会という変電装置を通さず、個人が神にいきなり結びつくという思想的装置だった。当然ながら、個人にはげしい電流がながれこむ。この電流をうけとめるために、個人は前時代とはくらべものにならぬほどに、自律的になり、信仰生活は敬虔になり、さらには欲望についても、くらしのすみずみまで倫理的になった」と規定する。そしてこの精神を受け入れたことで十七世紀オランダが「殺風景にいえば、オランダの自由やら許容性やら市民的権利は、ひとえに金もうけという実利から出発したといえなくはない」といえるほど、どの商業も灰神楽がたつように忙しく、人手が足らないくらい、人口百五十万人でヨーロッパ第一の国民所得を誇るまでになった。
 ただ、カネがカネを生むという金融の方に浮かれ、技術や製造業をおろそかにしたため、英国との間に工業技術の差が大きくなり始め、イギリスに取って代わられることになる。

 前回の「アイルランド紀行」では司馬さんはアイルランドの文学に重点を置いた。今回のオランダでは絵画に力を入れ、この地で生まれたレンブラント、フェルメール、ブリューゲル、ルーベンス、そしてゴッホと語る。私はこれが一番面白かったので、このことを書く。
 先ほどいったようにオランダはプロテスタントの国である。オランダがプロテスタントの国になったことはカトリックを否定したことになる。またプロテスタント信仰から、市民が勃興し、それまでの貴族がいなくなる。
 このことは画家にとってみれば、教会からの仕事をなくしたことになり、貴族からの依頼もなくなった。つまり、それまでの画家の仕事は教会に飾る聖書物語の絵を描くことであり、貴族やその家族の肖像画を描くことで生計を立てていたが、それが出来なくなった。
 更に商人的市民社会の成立は絵画史にも多大な影響をあたえた。商人である彼らは船乗りでもあった。船乗りとして荒海の北海に繰り出す場合、頼るべきものは自分の機敏さ、天候などについての鋭い観察力、操船のための技術など、たえず精神の集中力を求められた。こうした精神風土は「レンブラントの力学的構成力や、微かな光までとらえる描写力、それに人間についての執拗な関心と注意力」にも見られるようになる。
 また「商人というのは平素、商品の形や質感に過敏だから、いわば"写実"まみれたひとびとだから、絵がすこしでも、自分の顔に似てないとなると、
 『これじゃ、金を払えないよ』
 と、言いかねない。商人の世界は、注文した"商品"どおりのものが来なければ、契約違反として突っかえすか、金を払わないというのがふつうなのである」
 こんな環境でレンブラント絵は生まれたといっていいかもしれない。レンブラントがレンブラントたる理由はここにありそうである。
 バロック美術の大家ルーベンスにしてもそうである。司馬さんはバロック美術についての感想を次のように言う。
 「まことに、バロック美術はなまなましい。『聖書』のなかの人物や事件を描いても、聖者の傷口の白い脂肪まで感じさせ、逆さにはりつけされる場面でも、聖者の筋肉や刑吏たちの筋肉が、ただ一つの運動目的にむかい、奔謄するように動いている。
 聖なる女性が、しずかな宗教陶酔のなかにいる場合でも、目を天にむけ、むせかえるような性を感じさせる。なんと過剰なことか。
 肉体をうかびあがらせるため、明暗が誇張されている。ときに画面から人物が躍り出てきそうな恐怖さえ感じさせる。
 『おどろいたか』
 というのが、バロックの時代の画家たちのひそかな目的だったのだろう。ときにあからさまな、さらにはしばしば唯一の芸術的衝動だったかもしれない。
 ただし、こけおどしではない。
 きたえぬかれた技術の結果といっていい」

 ただあまりにも過剰な表現は、一方で「ひょっとするとこけおどしではないか」という意識ももたげてくる。そのためただ人間を深い愛情で見つめたブリューゲルやフェルメールの絵がいいと思うやつも出てくる。しかしどちらにしても技術はしっかりしているから、後は好みの問題だろうか?

 ルーベンスといえばフランダースの犬である。打ちひしがれた少年ネロとパトラシュが凍死する前にあったのが、ルーベンスによる三連の絵である。

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 ところでこのフランダースの犬は日本でしか人気がなく、オランダでは有名じゃないらしい。思わずそうなんだと思った。この場面を見るたびにかわいそうだと思うけどね。

 最後にゴッホである。どうやら司馬さんはゴッホのファンらしく、その思い入れは激しい。ここで司馬さんの奥さんみどりさんの「ゴッホさんは疲れるね」という言葉がやはり頭に残る。確かにゴッホの絵は見ていると疲れてくる。なぜかとかねがね思っていたのだが、司馬さんがものすごくうまく説明してくれているので、それを引用する。
「ゴッホは、精神を絵画にした。
 このことそのものが、異様であった。
 それ以前の、たとえば宗教画でいえば、荘厳さとか神秘的光景、または聖母の慈愛、あるいは神に対する敬虔といった心理的情景は絵画によって描写できた。それも一種の"説明"だった。
 そういう"説明"からいえば、ゴッホはいわば無茶だった。かれは自分の精神を、絵画で表現しようとした。自己の皮膚を剥ぎ、自己そのものを画面にひろげてみせたのである」と。
 そうするしかなかったのである。何故ならゴッホの頃はもう写真機が出現しており、レンブラントのような稀代の写実力を持っていればともかくとして、そうした能力がゴッホにはなかった。だから自分の精神を切り売りするしかなかったのである。これは見る側からすれば疲れる。これがゴッホの絵を見るときに感じる疲労感である。昔から感じていたゴッホの絵に関して感じたことをやっと見出した感じである。

 最後にこのシリーズの挿絵を描かれてきた須田剋太さんが亡くなれたことが書かれている(1990年7月14日午後5時28分)。
 司馬さんは須田さんが亡くなられたこと、連載開始から20年須田さんと一緒に街道を歩いてきたことしかここでは書かれていない。もし須田さんのことを書きつづれば、きっといろいろなことが思い出されだろうから、わざと短い文章で事実だけを書いたのだろうと思う。
 前回の「アイルランド紀行」から須田さんと司馬さんの会話がないなぁと感じていたのだが、司馬さんはアイルランドの気候が須田さんの身体によくないから一緒に来なかったと書いていた。このとき須田さんは体調を崩されていたのかもしれない。もし須田さんが司馬さんと一緒にゴッホの絵を見たらなんと言っていただろうかと思う。残念である。


『街道をゆく』35巻の「オランダ紀行」は週刊「街道をゆく」の54巻、55巻、56巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈35〉/オランダ紀行
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022562579 (4022562579)
出版社:朝日新聞社 (1991-03-10出版)
版型:497p 19cm(B6)
販売価:2,310円(税込) (本体価:2,200円)

2007年03月23日

司馬遼太郎著『街道をゆく』34巻

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 このシリーズも残り9冊となった。今この『街道をゆく』は読み直していることになっているのだが、実はこの巻以降、読んでいない。つまりこの巻で挫折してしまったのだ。ただ、36,37巻は読んでいる。
 どうして挫折したかというと、この巻の「大徳寺散歩」が私にとって歯が立たないものだったからである。大徳寺というお寺がどういうお寺であるかも知らないし、臨済禅というのもなかなか頭の中に入ってこなかったからだ。要するに難しかったということである。前回「○○散歩」という表題はちょっと休憩といった感じだと書いたが、感じとしてそうなのかもしれないが、今回は私には難しかった。

 大徳寺にある山門(金毛閣という)があの千利休が秀吉に切腹を命じられた原因の門であることを思い出した。この山門は利休が建てたものなのだが、そこに自分の像を置いた。しかし山門を通る人たちは、その利休の足下を通ることになるので、当時の天下人秀吉も利休の足の下を通ることになる。それがけしからんということで、切腹を命じられてしまった。もっともそれだけで切腹はないだろうと思うから、この時期、秀吉と利休の関係が悪化していたのだろう。
 大徳寺は臨済禅の寺で、いわゆるわび、さびを重んじる寺なのだが、この門の派手さはちょっと異質な感じを与えるらしい。まして利休はそのわび、さびの大家だから、この寺にこんな派手な門を建てること自体、利休にどこかおごりがあったのではないかと司馬さんは言っている。
 大徳寺の特徴は大燈国師(1282~1337)以来きびしい禅風を守り、出来るだけ世間の喧噪から離れ、名刹や古刹が観光資源化しているこんにち、大徳寺は山内の一部を除いて俗化を拒んでいる。塔頭には「拝観謝絶」という木札を掲げて観光化を防いでいる。
 大徳寺は二十数寺の塔頭(「たっちゅう」とよむ)が本坊を包み込むように広がっているところで、その塔頭とは何かというと司馬さんが次のように説明する。
「"塔頭"ということばは、禅宗では多用される。臨済宗の各大本山のなかにある子院は"塔頭"とよばれるのである。
 塔もないのに塔頭というのはおかしいが、この場合の"塔"とは墓碑のことである(卵塔・五輪塔などをおもえばよい)
 高僧や施主の墓(塔)のほとりに庵をたて、亡き師に対し、生けるがごとく仕えたところから、塔頭ということばができた」と。
 要するに大徳寺にのまわりにいくつかの子院が取り巻いていて、全体として大徳寺をなしているということなのだろう。大徳寺は、一休や沢庵を輩出した。

 司馬さんは「室町といえば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から興っているのである」という。茶もそうだし、わび、さびの意識、数寄屋普請もこの時代から始まった。面白い時代のようだが、如何せん私にはその知識がない。さらに仏教にしたって、ここの禅がどういうものなのかよく分からない。ここで司馬さんは「絶対他力の親鸞念仏と絶対自力の禅がうまれ、相まって日本文化にふかい影響をあたえた」というが、うまく私の中でイメージできない。
 このシリーズを読んできて、自分のいる国のことをよく知らないというのはどうしようもないと思う。せめて歴史ぐらいきちんと勉強しておけばよかったと思うのである。今回この巻の司馬さんの文章がうまくイメージ出来ないのもそこに由来する。以前は分からないから、いいやという感じで諦めてしまったけれど、日本人なのだからせめて日本史の常識ぐらい知るべきだと今は感じている。だから今回はこのシリーズを読破するつもりでもいる。私にとって司馬さんのこのシリーズは日本史の教科書みたいなものなのである。

 「中津・宇佐のみち」は日本に存在する八幡神の故郷を訪ねる旅である。
「この神は、もっとも早い時代に仏教に習合したから『八幡菩薩』などともよぶ。
 日本の津々浦々に多い神々といえば天神(天満)さんに八坂神社、それにお稲荷さんだが、わが八幡宮は、それを超えて、全国で四万余社といわれる。
 八幡神は十二世紀には清和源氏の氏神になり、その家系の源頼朝が鎌倉幕府をひらいてから、諸国の武士たちが八幡をまつるようになって、大いに流行した」と司馬さんは説明してくれる。
 その八幡神は、古代、豊の国(豊前と豊後。今の大分県)から興った。古代この地方で朝鮮半島から渡来した秦氏が水田を開いた。つまり八幡の"はた"は秦氏の"はた"で、八幡神は秦氏の農業神だったのである。それが奈良朝時代は神託をくだす神として天皇の宮廷には入り、そのあと源氏の氏神となり、武神となった。このあたりも渡来系の神さまが日本で変遷していくさまは面白い。司馬さんは薦神社、宇佐神宮を訪ねる。
 また中津は黒田如水が大名としていた土地であった。黒田如水というより黒田官兵衛というほうが私には懐かしい。黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに秀吉の謀臣であった。司馬さんの『新史太閤記』で出てきたはずだ。また中津は福沢諭吉の生地でもある。
 中津での黒田時代は13年しかなかった。この後細川忠興から細川時代が始まるが、忠興・忠利も熊本に去る。その後譜代の大名、小笠原氏、奥平氏と続く。この譜代大名下での支配が福沢諭吉の思想に影響をあたえる。司馬さんはいう。
 「譜代藩の多くは、ぬしの徳川家康が天下をとることによってにわかにつくられた藩なのである。だからたいていは三河風の質朴さがあるものの、一面封建門閥制において教条的だった。