2011年11月08日
夏目漱石著『草枕』
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。
人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。矢張り向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世より猶住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容で、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である。画である。あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
世に住むこと二十年にして、住む甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日こう思うている。
-喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寐る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋も積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。・・・
とまあ、この出だしは有名なのだが、よく読んでみると、屁理屈極まりない。要するに我がままの言い放題である。ああ言えばこう思う。否定すれば肯定する。思わず“どうしろと言うのだ?”と聞きたくなる。ひねくれ者の与太にさえ聞こえる。これが延々と続くのだ。超然としている、と言えば聞こえがいいが、結局どうしようもないことにつきそうだ。けだるさが全編に流れる感じだ。まるで世捨て人の戯れ言を読んでいる感じがした。
とにかく読みづらい。主人公の観念的な思索が、仏教用語や中国の古典から引用され、表現される。そのため本文と注解をしょっちゅう行ったり来たりしなければならず、そのうち本文のどこを読んでいるのかわからなくなる。おかげでたかが170ページほどを読むのに4日もかかってしまう。途中で放り出したくもなった。
いわゆる自分は画家で詩人であるので、一般人とは違う。世間一般の常識や考え、また情に流されずに、そこから超越した立場でものごと見ることを決めている。だから冒頭の言葉生きてくる。自ら「余はこの度の旅行は俗情を離れて、あくまでも画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。能、芝居、若しくは詩中の人物として観察しなければならん」と言っている。
だから那美に「御勉強ですか」と聞かれ、勉強じゃない。いい加減に開いた本読んでるだけだと主人公は答える場面があるが、それで面白のかと聞かれると、それでいいと答えるのである。
「全くです。画工だから、小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここに逗留しているうちに毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなると猶面白い。然しいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を最初から仕舞まで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方するのが画工なんですね」
「不人情ではありません。非人情な惚れ方するんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでいるのが面白いんです」
主人公は人とあれこれ関わった姿勢で絵を描こうなんて思っていないのである。あらゆることから中立の立場で、何事にもとらわれずに事象を見ていこうとする。その瞬間が大切なのだ。主人公が言う非人情とはそういうことなのだろう。中立の立場と言えば聞こえがいいが、要は傍観者でありたいわけである。どうもイライラする。
だからどうなんだ!、と言いたくなってしまう。
それが芸術と言うものなのか?芸術だからこれほど昇華しないと表現出来ないとでも言うのであろうか?よくわからない。でもこういう屁理屈をこねる画家の絵などあまり見たいとは思わないないけどね・・・。
ところでこの小説に神田松永町が出てくる。実は私は以前ここにあった店で働いていた。だから松永町と出てきたときは、おっ、と思った。でも床屋の親父は結構言いたいことを言っている。
ちなみに千代田区にはよく町名や坂の由来を記したモニュメントが建っているが、松永町にも町の由来が書いたものが建っている。そこには次のように書かれている。
ここはかつて松永町(まつながちょう)と呼ばれていました。この町名ができたのは今から三百年ほど前の元禄(げんろく)(1688~1704)のころです。
元禄十一年(1698)、江戸城整備の一環として、鎌倉町(かまくらちょう)から西紺屋町(にしこんやちょう)(現・中央区)までの十五の町の一部を削って、外堀沿いの道が拡張されました。その翌年、これらの町に住んでいた人々が、現在の外神田一丁目(そとかんだいっちょうめ)周辺に代地(だいち)を与えられて移り住みました。このとき付けられたのが、「松永町」です。
名前の由来については明確な記録が残っていません。明治三十三年(1900)刊行の『新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)』には、当時の人々が、新たな町に住むにあたって「松がいつも緑であるように、この町の賑(にぎ)わいも永久のものであってほしい」という願いを込め、「松永」という名を選んだのではないかと記されています。
商人や職人の住む町として発展をとげた松永町ですが、幕府とのかかわりも深い土地でした。『文政町方書上(ぶんせいまちかたかきあげ)』によれば、町ができた当時、幕府お抱(かか)えの絵師・狩野探信(かのうたんしん)の拝領屋敷も町内にありました。狩野派は幕府や朝廷の御用絵師として栄え、探信の父の探幽(たんゆう)は、「鵜飼(うかい)図屏風」や二条城(にじょうじょう)二の丸の障壁画(しょうへきが)などで知られています。また、文政七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、弓を射るときに用いる「ゆがけ(鹿革の手袋)」という道具をつくる御用職人・釘元又左衛門が住んでいたことも記録されています。
明治時代には、文豪森鴎外(もりおうがい)の住居も町内にあったと伝わっており、夏目漱石(なつめそうせき)もまた小説『草枕(くさまくら)』の中で、この松永町にふれています。
確かに書かれている。
しかし主人公が顔を当たってもらっている髪結床の親父は次のように言っている。
「親方じゃねえ、職人さ。所かね。所は神田松永町でさあ。なあに猫の額みた様な小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえ筈さ。あそこは竜閑橋てえ橋がありましょう。そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代な橋だがね」
まさか町の由来に漱石の『草枕』で髪結床の親父が“小さな汚ねえ町”と言っているとは書けないから、「夏目漱石(なつめそうせき)もまた小説『草枕(くさまくら)』の中で、この松永町にふれています」と書いているのだろう。漱石の作品でもふれてますといえば、なんか由緒正しいような、格が高いような感じがしてしまうが実際はこのように書かれている。
評価
★★
書誌
書名:草枕 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010090
出版社:新潮社 (2005/09/20 出版)新潮文庫
版型:242p / 15cm / A6判
販売価:420円(税込)
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- by kmoto
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