
私はこうして自分が読んできた本のことをインターネットで書き込むようになってから、この『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のことを以前から書いてみたいと思っていた。それでやっと重い腰を上げて今回この本のことを書いてみることにする。思い入れがあるから今回はちょっと長くなってしまうけどやってみたい。(このブログの副題が「本に関するささやかな意見」とあるのに、ちっともささやかじゃないと文句をいわれているけど・・・)
この本は日本ではメジャーな本ではないので、おそらく知らない人が多いのではないかと思う。せいぜい『ティル・オイレンシュピーゲル』と聞いて、思い出されるのは、リヒテル・シュタインの交響曲ぐらいじゃないだろうか。しかしドイツでは結構読まれているらしい。
何故私がこの本のことが気になっているかというと、歴史の見方を全く違う方向から見ることを教えてくれたからだ。
この本のことを知ったのは、阿部謹也さんの著作からである。そして何冊もの阿部謹也さんの著作を読んで、また実際に阿部さんの話を聞いて、「ふ~ん、そうなんだ」と感心してしまったのだ。今まで自分が教わってきた歴史というものが、いかに教科書的で、ある意味無味乾燥なものであったかを知らされたのである。そこにはその時代に生きた人達の息づかいが全く感じられないものであった。ところがその当時に書かれた物語には、よく読んでみると、その時代に生きた人達の息づかいが聞こえてくるのである。

阿部謹也さんが訳したこの『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(岩波文庫版)は本文が96話(42話が欠番になっている)を331ページに対して、その訳注と解説を含めて142ページを割いて解説している。それくらい奥が深いのだ。本文を読んで、そのあと訳注を読んでみると、ただ単に物語の内容に呆れるだけじゃなくて、オイレンシュピーゲルにいたずらされる人物がどうしていたずらされるのか、その背景が分かると、当時の人々が置かれていた立場がわかり、単に子供向けの本じゃないことが分かってくる。
そもそもこの『ティル・オイレンシュピーゲル』が何故子供向けの話として受け取られるようになったのだろうか?それは『グリム童話』が本来ドイツに残っていた民話を集めたものだったのに、それが童話という題名がついてしまったことで子供向けの話だと受け取られるようになってしまったことと似ているかもしれない。それは日本でも民話が子供向けの話として扱われるのと同じだ。
日本ではこの『ティル・オイレンシュピーゲル』の本が紹介されたのは、巖谷小波の『みみずく太郎』からだろうか。私が持っているのは、巖谷小波お伽噺文庫(大和書房刊)がある。

この本は、昭和28年に発行された小波世界のおとぎ話全集の3巻『みみずく太郎』を親本にしていて、昭和51年に発行されている。読んでみると確かに世界中の民話などを元にして、子供向けにアレンジしているのが分かる。この『みみずく太郎』にしても『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の話をいくつかまとめて子供が読めるように書き直されている。

もう1冊この『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の日本語訳(法政大学出版局刊)を持っている。これは藤代幸一さんの訳で、1515年版の全訳である。全訳を読んだのはこれが初めてである。
ちなみに『ティル・オイレンシュピーゲル』がどういう話なのか紹介してみよう。
51話
オイレンシュピーゲルは織匠が月曜日を休日にすることを禁じたので、聖なる日に羊毛を打ったこと。

オイレンシュピーゲルはシュテンダルに向けて来たとき織工というふれこみであった。ちょうど日曜日だったので、織匠は「なあお前、お前さんたち職人は月曜日も休みにしようとしているようだが、そんなことをする奴はわしは雇いたくないのさ。職人なら一週間びっしり働くのが当然というものさね」といった。オイレンシュピーゲルは「ようがすとも親方、あっしもその方がすきでさあ」と答えた。こうしてオイレンシュピーゲルは朝から起きて羊毛を打ち(ととのえ、やわらかくする)、火曜日にも同じように働いたので織匠は機嫌がよかった。ところで水曜日は使徒の日(七月一五日)で皆が祝わねばならない日であったが、オイレンシュピーゲルは聖なる日のことを何も知らなかったので、朝から起きてガタガタ仕事をはじめ、羊毛をたたいた。その物音は道路中に響きわたったのである。親方はすぐに起きてベッドからとび起きて叫んだ。「こらやめろ、やめろ、今日は聖なる日なんだぞ」。オイレンシュピーゲルは答えた。「でも親方、親方は日曜日に、聖なる日を休めとはいいませんでしたよ。一週間ずっと働けといったでしょうが」。織匠はいった。「なあお前、わしはそういうつもりではなかったのだよ。とにかくやめろ。そしてもう打つな。今日一日の手間はだすからな」。そこでオイレンシュピーゲルも満足して、この日を祝って休み、夕方には親方と食事をして談笑したのである。そのとき親方は、羊毛の打ち方はまずまずだが、もうちょっと高く(強く)打った方がいいだろうといった。オイレンシュピーゲルは承知しましたと答え、あくる朝早く起きると羊毛たたくための台の上に弓(紡糸用に羊毛をととのえるのに使う梳き具)を張り、そこに梯子をかけた。彼はそれに登り、たたき棒が乾燥台にとどくようにして土間から屋根裏部屋にとどくほどの高さの乾燥台から羊毛とってたたいたので、羊毛は家じゅうにとび散った。織匠はベッドで寝ていたが、その音でまともに打っていないことがわかり、起きてのぞいてみた。するとオイレンシュピーゲルがいった。「親方、どうです。これくらいの高さでよいですかね」。親方はいった。「猿真似野郎め、屋根の上に座ってたたいたらどうかね」。こういって親方は家を出て教会へ行ってしまった。オイレンシュピーゲルは親方のすすめに従って梳き具をとり、屋根に登って羊毛を屋根の上でたたいた。親方はその物音を小路の向こうで聞きつけ、かけて戻ってきてどなった。「なんて馬鹿なことをしているんだ。やめろ。いったい屋根の上で羊毛をたたく奴がいるか」。オイレンシュピーゲルは答えた。「何をいうんですかい。親方が今いったでしょうが。梯子の上よりも屋根の上でたたいた方がよいといったばかりですよ。露台よりもここの方が高いですからね」。織匠はいった。「羊毛たたきたければたたくがいいさ。馬鹿なことをしたければ勝手にしやがれ。とにかく屋根からおりろ。乾燥台で糞でもたれやがれ(口ぎたない悪態)」。こうして親方は家に入り便所にいった。オイレンシュピーゲルはやっと屋根からおり、部屋にしゃがむと乾燥台にでっかい糞をたれた。織匠は便所から出てくると仕事部屋に糞をたれたのをみて、「お前はまったくろくでもないことばかりしやがる。てめえのすることは悪たれがやることそっくりだ」といった。オイレンシュピーゲルは答えた。「親方、でもあっしは親方の命じたこと以外のことはしていませんぜ。親方が屋根からおりて乾燥台で糞でもたれろというからしたまででさ。なんでそんなに怒りなさるんですかね。あっしは親方のいうとおりにしているんですぜ。織匠はいった。「お前は命ぜられもしないことを勝手にして糞をたれたんだ。糞を片づけろ。誰もが望まないところへもってゆけ」。オイレンシュピーゲルは「ようがす」といって、糞を板の上にのせ、食堂に入った。織匠は「そこから出せ。食堂に入れてはだめだ」といった。オイレンシュピーゲルはいった。「親方が食堂においてほしくないということは承知していまさあ。誰だって食堂に糞をおいときたくないからね。だからあっしは親方のいわれたとおりにしてるんですぜ」。織匠は怒って板のところへ走ってゆき、オイレンシュピーゲルの頭に板をなげつけようとした。オイレンシュピーゲルは家からとび出して、叫んだ。「あっしはどこでも感謝されないんだからなあ」。織匠は急いで板をつかもうとして糞で指がべっとりと汚れてしまったので、糞をはらいおとし、泉にとんでいって指を洗った。その間にオイレンシュピーゲルは出ていってしまった。
とまぁ、読んでみればたわいのない話だ。要は言葉が持つ二元性を逆手にとってオイレンシュピーゲルがいたずらをするということなのだ。ここの親方である織匠が本当はそういう意味で言ったわけではないのに、「職人なら一週間びっしり働くのが当然」と言われれば、たとえ他のみんなが休みにする聖なる日ででも働く。そうすることで、親方を非難の目に曝すことになるし、「高く」羊毛をうったほうがいいというのが「強く」という意味で言っていても、その通り高い場所で羊毛打ってしまう。腹をたてた親方はそれならもっと高い場所である屋根でも打てばいいと捨てぜりふはけば、その通りにして羊毛だめにしてしまう。更に腹をたてた親方はスラングで「糞でもたれやがれ」と罵れば、その通りにする。すべてこの調子である。この様ないたずらが多方面で展開されるのである。
確かにここにある話は偉そうにしている親方などをオイレンシュピーゲルがいたずらで懲らしめ、それにあわてふためいた親方を見て喝采の拍手を送ることで、半ば虐げられた職人達の慰めにもなったことだろうとは推測はできる。しかし500年以上も前の異国の話を日本語にただ置き換えられても、当時の背景が分からなければあまり面白味などない。
ここでは『ティル・オイレンシュピーゲル』を子供向けの話としてとらえるのではなく、この話が1510年~1511年に書かれた(編集された?)訳だから、その話の中から当時の生活状況を読み取ることできるのではないか。そうすることで、当時の生々しい人間像を描くことができるはずだと考えていく。
しかしその前にこの『ティル・オイレンシュピーゲル』はどのように生まれたのか書かないとならない。以下阿部謹也さんの著作集から説明する。(『阿部謹也著作集』3巻より)
『ティル・オイレンシュピーゲル』はいわゆる民衆本といわれものの1冊で、著者も不明で、原本さえ存在しない。(但し、『ティル・オイレンシュピーゲル』の著者は判明している)それではどうしてこういう話が残っているかというと阿部謹也さんの考察が面白いのであげてみる。
「私はこれらの話が何よりもまず遍歴職人の間で旅籠や職人宿などで語られたものであった、と考えている。長いあいだ遍歴職人の生活をしていれば、箸にも棒にもかからないような愚鈍な徒弟の話や鼻もちならない親方の話など皆いくらでもかかえていただろうから、こうして(旅籠や職人宿などで)たがいに見ず知らずの仲間と酒を酌みかわしながら談笑しているうちに、調子づいて身振りをまじた話ともなっただろう。それらの話は職人たちが歩んできた旅の長さと体験の重さに裏づけられ、聞く人にあたかもそれぞれの町の出来事として彷彿させるような強い印象を与えたに違いない。
こうした職人の食卓の隣にヘルマン・ボーテとか、トーマス・ムルナー(『ティル・オイレンシュピーゲル』の著者として考えられた人。但し現在はヘルマン・ボーテがその著者だろうと考えられている)のような人が偶然座っていたとしても少しも不思議ではない。職人たちの談笑を隣で聞いていたその人物がその話をいくつか書きとめ、次の機会にはその目的で職人宿を訪れるようになり、こうして遍歴職人の間で語られていた話を集めながら、それに類似した話を古今東西の文献のなかに探し求め、それを集成して最初の民衆本の原型が生まれたのではないかと私は推定しているのである」
この様に『ティル・オイレンシュピーゲル』は様々な話が寄せ集められたものが民衆本としてまとめられたのではないかと推察されている。この本の前口上に、オイレンシュピーゲルのいたずらを誰かまとめてくれないか頼まれたが、著者自身そんな能力を持っていないから辞退した旨が書かれている。それでも引き受けざるを得ないことになり、この本を書いた。けれど「私のオイレンシュピーゲルの書が短すぎるとか長すぎるとお思いの方はどなたがこれに手を入れて下さっても決して恩知らずめなどとは思いませんのでお願いしておきます」と著者自身書いている。しかし著者自身が手を入れているのである。事実この本の構造を3層に分けることができるという。つまり一番古い話として多分遍歴職人の話があり、つぎにそれを編集、追加した人物が2人いたのではないかと推察されている。それが現在残っている『ティル・オイレンシュピーゲル』なのだという。そのため話がちぐはぐなところがあるらしい。
ちなみにオイレンシュピーゲルのいたずら話を分類してみると以下通りになる。
1.手品師・宮廷道化師としての話(17話)
2.手工業者をめぐる話(28話)
3.司祭をめぐる話(9話)
4.旅籠の主人の話(14話)
5.農民その他をめぐる話(20話)
6.出生と埋葬、導入部と結末(7話)
ということで、手工業者をめぐる話が圧倒的に多い。このことから「『ティル・オイレンシュピーゲル』のいたずら話の核が、何よりまずティルが遍歴職人として各地で起こす事件にあったとみなければならないだろう。遍歴職人ティルをめぐる話がまずなんらかの形で成立し、そののちに他のさまざまな話が加えられていった、とみるのが自然な見方だと思えるのである」。と阿部さんはいう。このことから阿部さんは旅籠などで遍歴職人達の話を聞いてまとめたと推定するわけである。
その著者は、というか編集者はつい最近まではっきりしなかったことは書いた。それがヘルマン・ボーテだろうというのが今は定説になっている。何故はっきりしなかったのか。それはヘルマン・ボーテがついていた職業による。彼は1460年頃ブラウンシュヴァイクの鍛冶屋の親方アルントの子として生まれたが、足が悪いため親方になれず、当時賤民職とみられていた徴税書記の仕事についていた。それは中世社会では身体障害者には親方職は開かれていなかったからである。
市参事会員までなった親方の子でありながら賤民職についたボーテには社会の上層にも下層にも心を安んじてつきあえる世界はなかった。徴税書記という仕事は、手工業親方から特に嫌われる苦しい職場であった。手工業親方とやりあって口論になることもしばしばであった。(なんだか今の税務署職員みたいだ)このときのことをボーテは手紙の中で次のように書いている。
「ひる間の騒ぎと喧噪が全くおさまり、静まりかえったとき、身体にも心にも別の世界がはじまります。そうするといろいろな想念が、もとよりいつも最上ののものとは限りませんが、夜虫のごとく湧き起こってきます。そこで私もひるの苦労の多い官職との戦いの疲れから少し元気を回復し、あたかも知恵のふくろUlen der Weishayttのように書物の山に目を向け、ローマ人や古ドイツ人の先例や歴史を映してみるmich zu spiegeln のです。」と。
こうしてオイレンシュピーゲルという書名自体ヘルマン・ボーテの内面の苦しみのなかから生み出されたものであることが分かる。
このようにブラウンシュヴァイクの市内で手工業親方と口論をする毎日であったボーテにとって自分の署名で『ティル・オイレンシュピーゲル』を含め出版することは極めて危険であった。だから無記名で彼の著作は出版された。そのためこの『ティル・オイレンシュピーゲル』も誰の作品か分からずにいたのである。唯一残っている彼が作成した徴税原簿の文字とこれらのボーテの作品の文字を比べて彼の作品であると明らかになり、更にこの『ティル・オイレンシュピーゲル』の90話から95話までの最初の文字がERMANB(ヘルマン・ボーテ)の名であることがわかり、このため『ティル・オイレンシュピーゲル』が彼の作品であると判明したのである。(ヘルマン・ボーテに関しての考察は阿部謹也さんが訳した『ティル・オイレンシュピーゲル』の解説に詳しい)
この様にこの話をよく読んでみると、「それはスカトロジーなどという近代の学者世界の用語とは無縁な世界であり、賤視の淵に沈みながら誇り高く、いかなる権威にも屈することなく、自らイエス・キリストや悪魔になぞえることさえはばからない人間の姿が浮かび上がってくる」。それはある意味ボーテの姿でもあったのではないかと思える。賤民視され、手工業親方から蔑まれる姿は、オイレンシュピーゲルと同様である。オイレンシュピーゲルが敵視する目は、ボーテの目でもあったのではないかとさえ思える。
それではこの『ティル・オイレンシュピーゲル』から当時の生活環境がどう垣間見ることができるであろうか。試しに先に上げた51話から具体的に見てみたい。
ここで問題になるのは、何故親方はこうも偉そうな態度をとるのか?青い月曜日というのは何なのか?何故親方職人に仕事を任せ、ぶらぶら外へ出かけていくのか?その疑問を解くことで当時のヨーロッパ中世社会の姿が見えてくるのである。
まずはこの親方がどうしてこうも横柄で横暴な態度をとるのかである。
この親方が日曜日も青い月曜日(あとでこのことにはふれます)も休まずに働けとオイレンシュピーゲルに言える背景には、この頃は職人と親方の格差がかなり広がり、職人の立場がかなり弱い立場に置かれてしまったことが原因なのである。
14世紀の中頃になると、都市の経済的発展は限界に達し、労働力は相対的に過剰になり、そのため同職組合の組合員である親方達は自分達の地位を守るため親方株を制限したりして、職人達との格差が広がりつつあった。職人達は仕事に就くことも難しくなり、あるいは将来親方になることさえかなわなくなりつつあった。こうなってくると親方の地位は上昇する。この様な背景があったから、51話の親方は横柄で横暴な態度をとるようになったのである。職人も休みも取らずに働けと親方の言うことを聞かざるを得なっかたのである。
こうして親方を含む都市上層部は貴族化する傾向にあり、立ち振る舞いにさえその傾向が見られ、親方のもってまわった言い方をするのもそのためである。51話で単純に強く打った方がいいといえばいいものを、「羊毛の打ち方はまずまずだが、もうちょっと高く(強く)打った方がいいだろう」というのもそういう背景があったのだ。
しかも貴族化していく親方は職人と一緒に仕事をしなくなり、仕事は職人に任せ、自分は散歩をしたりして、外でぶらぶらするのである。
オイレンシュピーゲルは、こうして親方がいない間に、親方の横暴な態度を逆手に取り、持って回った言い方を、そのまま受け取ることで、いたずらをして親方を困らせるのである。
こうした背景があるからオイレンシュピーゲルのいたずらが支持されるのであったのだ。
また「青い月曜日」とは、親方になれない職人達が、親方に対抗して日曜日に続いて月曜日も休みにしようという労働時間の短縮、休日の拡大のための運動が実を結んだものである。もちろん親方にしてみれば面白くないことであった。だからこの親方は「青い月曜日」も仕事をしろと言うのである。
何故「青い月曜日」というかと言うと、「青い日」とは「聖なる日」として祝い、休日にして英気を養うとも言われていたとか、日曜日に夜遅くまで酒を飲み大騒ぎをして、喧嘩騒動になり、翌日身体中青あざだらけになったからそう呼ばれるようになったとか言われている。あるいは毛織物を大青(染料)で染めるとき羊毛は12時間染料桶につけたうえに、そのあと同じ時間空気にさらして乾かさないといけないので、日曜日に染め付けを始めると、月曜日には職人達はすることがないから、そう呼んでいるとか言われている。
閑話休題
開高健さんの自伝的小説で『青い月曜日』というのがある。この題名について開高さんはニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』にこの言葉があって、そこには日曜日に深酒をして、翌月曜日が二日酔いで青ざめ、へろへろになるから「青い月曜日」と呼んだという記述が気にいって自分の小説の題名に使ったというのを読んだことがある。これなんかも案外「青い月曜日」の由来であったりして・・・。
というわけでこの51話だけでもこれぐらい奥深い背景がこの話にはあるのである。民衆本を単に子供向けの話として片づけるのではなく、一つ一つの話を丹念に読んでいくと、当時の人達の生き方が見えてくるのである。案外一級の歴史的資料なのである。