
<はじめに>
この本の感想は一度掲載しました。ところが最後の部分で間違いがあり、いったん掲載を削除して、過ちの部分を最後に修正し、再度掲載しました。
ここに一冊の古い雑誌がある。面白半分昭和53年11月臨時増刊号「これぞ、開高健。」である。もう33年前の雑誌だ。雑誌のため中のページは赤茶けてしまっているが、この編集人がこの本の著者細川布久子さんだ。

だいたい雑誌『面白半分』というのを知っているだろうか?当時『話の特集』と並ぶ1970年代のサブカルチャー雑誌の一つであった。で、この臨時増刊号の「これぞ、開高健。」は1978年の時点で開高健の特集を組んだ雑誌はこれだけだったという。雑誌『面白半分』に関してはWikipediaによると次のように書かれている。
雑誌『面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長に吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊(1972年1月号)した。編集長は人気作家が半年毎に交代していた。
吉行淳之介が朝日新聞に掲載したエッセイの「『日本軽薄派」という雑誌を作ってみたい」という一文を見た佐藤が、吉行の協力を取り付けて、「面白くてタメにならない雑誌」として刊行。編集長は吉行の後、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一が交代で務めた。
野坂編集長時代に永井荷風作と言われる春本「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発された。(四畳半襖の下張事件)
大日本肥満者連盟(大ピ連)結成でも話題となった。
1980年まで刊行されたが、9月~11月号が休刊となり、12月号「臨終号」が最後となった。
私はこの著者が面白半分に勤め、開高健さんの担当となり、以来開高さんの私設秘書役まで勤めた女性であったことを知ったのだが、まさかこの古い雑誌に関わった担当者とは、驚き、それで自分の本棚から引っ張り出し、編集人に著者の名前があることを確認したのであった。
さて、ここで取り上げたいのは開高健さんの女性関係である。著者は開高さんの私設秘書役まで務めていた人だから、開高さんの女性関係に関わるざるを得なかったことを告白している。また女性ならではの嗅覚で敏感に開高さん女性関係を感じ取っていた。
まずは開高さんの『輝ける闇』のヒロイン素娥の写真を一緒にベトナムに行った秋元啓一さんから見せてもらっているところから、次の“闇”シリーズの『夏の闇』で書いてしまった女性に言及する。これは菊谷匡さんの『開高健のいる風景』に詳しい。なのでこの本から書き出してみよう。

(『夏の闇』を)読み終わってしばらくしてから開高さんに会って、
「あの女性、いったい誰です?」
「何でや?」
「ぞっこん惚れてるんでしょ?」
「余計なお世話や」
「まさか、佐々木千世じゃないでしょうね」
すると開高さんは顔色を変えて、言った。
「どうして君が知っとるんや」
「あの作品を読めば、独立排除的に明々白々じゃないですか。開高さんは彼女が“諸外国を放浪して旅行記を一冊書いた”と書いているし、彼女とおぼしき女性の旅行記の袖に開高さんは“すいせんのことば”を書いているわけでしょ。ぴったり符合する」
「・・・・・」
その本の口絵写真で見ると、彼女はわたしが学生時代に学内でときどき見かけた女性だった。露文の学生だったと思う。色の白いほっそりとした人だったが、もし同じ女性だったら『夏の闇』では豊に変貌している。読むかぎりでは、開高さんにとって何物にも代えがたい女性のようだった。ついでながら、“独立排除的に”というのは、作中の女が口癖のように使う言葉である。
開高さんの沈黙は、彼女がわたしの指摘する女性であることを物語っていた。それはいいが、この女性の存在を書いたことが開高宅で悶着を引き起こし、開高さんの晩年を苦しめることになった・・・・。
開高さんの妻は詩人の牧羊子さんである。牧さんとは同人誌時代に知り合い、開高さんとの関係で妊娠し、結婚を迫られ、以来夫婦となって苦労してきた。開高健弱冠22歳であった。開高さんがサントリーに入社できたのも、牧さんがその前にサントリーの研究室に勤めており、その後釜で開高さんがサントリーに入社できた。
開高さんは菊谷さんに「あのとき、おれの人生、決まっちゃったようなもんだデ。二十二で、お先真っ暗や」と言っている。
この女性に関しては、2007年1月に読んだ滝田誠一郎さんの『長靴を履いた開高健』にも登場する。以下書き出して見る。

小説家として転機となったのは「女」との出会い。10年ぶりの再会。パリでの出来事だ。68年5月、フランスでは学生運動の盛り上がりが全国的なゼネストに発展し、当時ド・ゴール政権にとっての最大の危機、内乱寸前とまでいわれた。いわゆる5月革命だ。
6月、『文藝春秋』の特派員として小説家は5月革命を視察するためパリに赴く。そのパリで、小説家は「女」と10年ぶりの再会を果たすのである。そしてほぼ一夏、小説家が滞在していたパリの学生町の旅館にこもり、「女」が客員研究員として勤務していたドイツのとある大学の職員用アパートに潜むようにして、「美食と好色は両立しない」などうそぶきなから食べるのもそっちのけで全裸の生活に没入するのである。
この出会い、このエロチックな出来事が、3年後ひとつの文学作品の昇華する。71年10月、雑誌『新潮』に発表された『夏の闇』がそれである。翌72年3月に新潮社から発売された単行本の函に、小説家が次のような言葉を記している。
《これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを“第二の処女作”とする気持ちで、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変わった。 著者》
滝田さんはここから、先に書いた菊谷さんと開高さんの会話を取り上げる。
菊谷さんと佐々木千世さんは早稲田大学の同級生だというから、小説家とは5歳違いだ。
「彼女はたしか露文(ロシア文学科)の学生で、実際話をしたことはないけれど、見た感じはいい女でした。少しすさんだ感じがするんだけれど」
大学卒業後、佐々木千世さんはロシア文学研究家という肩書きで翻訳の仕事などをするようになる。小説家との出会い、お互い惹かれあうになるにはこのころだ。
別にふたりの仲をあれこれ詮索しようというわけではない。あえて佐々木千世さんの名前を出したのは、彼女が小説家とルアーフィッシングの出会いに大きく関わっているからだ。
小説家はぶらりと立ち寄ったバド・ゴーデスベルグの釣具屋の主にルアーフィッシングの手ほどきを受けるわけだが、そもそも小説家がバド・ゴーデスベルグなる町をぶらぶらしていたのはそこに佐々木千世さんが住んでいたからに他ならない。小説家と釣具屋の主の間に入って通訳したのも彼女だ。列車や宿の手配をしたのも彼女である。
もちろん佐々木千世さんもジムス湖に行っている。一緒にボートに乗っていた。69年に発売された『私の釣魚大全』(文藝春秋)にボート上でワインをラッパ飲みしている小説家と、釣り上げたカワマスをうれしそうに差しだしている写真が掲載されているが、これを撮影したのも佐々木千世さんだと考えられる。



ここから細川さんのこの本から書き出してみる。ちょっと長くなるが・・・。
けれども菊谷さんから伺うことができたのは、『夏の闇』によって開高さんの恋愛を知るに及んだ牧さんの激怒ぶりだけだった。
私が彼女の名前や経歴を知ったのは、サン・アドの矢口純氏からだった。ただ『これぞ、開高健。』の作業中か、『面白半分』の連載原稿を頂いていた頃か、サン・アドで働くようになってからか、正確な時期はすっかり忘れている。
矢口さんによると、『婦人画報』の編集長をされていた頃、開高さんから新進のライターとして彼女を紹介され、仕事上の相談にのってやってほしいと頼まれたそうである。その頃には彼女はソ連留学を終え、その体験記を出版しており、その本に推薦の辞を書いたのは開高さんで、開高家にも出入りしていたはずだ、ということだった。
そうだとしたら、菊谷さんの表現を借りれば「怒り狂った」という牧さんのリアクションは当然すぎるほど当然である。ただでさえ夫の浮気は妻にとって悲しく腹立たしい。それが単なる火遊びではなく濃密な恋愛だった。そのうえ相手の女性は見知らぬ人でなく面識のある人間だったとわかった時の妻の驚愕。悲痛。嫉妬。苦悩。憤怒。絶望。牧さんがうけた傷の深さは何をもってしても消すことができなかったのではないだろうか。たとえ『夏の闇』以後「内面に寄りかかって書こう」と決めた開高さんの作家の業を、おなじ、ものを書く人間の立場から理解できたとしても。
菊谷さんは、このことによって開高さんは不幸になったと書かれている。しかし牧さんも同じように不幸になったのだ。それぞれ不幸を抱えたまま夫婦であり続けたために、夫婦間の確執は最後まで続いた。お互いに決して癒されない傷に針を突き刺された気分に襲われながら生きざるをえなかった。
開高さんにとって牧さんは大きな呪縛だった。ある編集者には「娘がいなければ離婚していた」と述懐したこともあったという。世間一般の男たちのように独身時代を謳歌することもなく、モラトリアムの季節もなく、予期せぬ妊娠で結婚を余儀なくされて以後、釣りも旅も恋愛も、書けないという苦境からの逃亡だけでなく、失われた自由を求めての行動、家庭からの脱出だったに違いない。
一方、牧さんには七歳年下の開高さんの成功と栄光において、自分こそがこの天才を発見し育てたのだという深い自負があったのではないか。また、牧さんとって開高さんは唯一無二の男だった。開高さんを愛しすぎた。開高さんは「関西のオンナの深情けはえらいもんやデ」とお手上げ気味につぶやくことはあったけれど、牧さんの情けはあまりにも重すぎた。見方を変えれば、牧さんは「可愛い女」なのである。ただ、開高さんをコントロールしようと束縛しようとしすぎたのではないか。たえまなく、愛という名のもとで。
その牧さんを『夏の闇』は完膚なきまでに打ちのめした。嘆きは深く内にこもり牧さんを浸食していった。時は傷を治癒せず毒をうみだしていった。そして、意識するしないにかかわらず、じわじわ開高さんに復讐していったのではないか。そこから逃げることができなかったところに開高さんの不幸があった。私にはそう思えてならない。
茅ヶ崎の新居がついに「隠れ家」にならなかったのも、牧さんは開高さんが独りで自由を満喫することを許せなかったせいではないか。開高さんに癌を宣告したいきさつについては、病院食を無視した牧さん手製のスープを開高さんが強く拒否したことで、発作的に口走ったためだと聞いている。「可愛さあまって憎さ百倍」というけれども、長い間くすぶり続けた開高さんに対する恨みつらみが爆発してしまったといえなくない。
そうだとしても、牧さんは残酷すぎた。病で身動きできなくなった開高さんは、やっと自分の許に帰ってきた、誰にも邪魔されず自分だけが独占できる夫になったのである。その歓びの想いはさもありなんと思われる。けれども親友の谷沢先生や向井さんの面会を一切禁止し、一部の人間を除き、菊谷さんをはじめ親しい友人編集者の見舞い客をすべて遮断するという仕打ちは理解できない。それほどまでに開高さんを所有したかったのだろうか。それほどまでに開高さんを許すことができなかったのだろうか。報復だったのか。愛のかたちだったのか。癌を宣告された開高さんは、以後、牧さんに口をきかなかったという。開高さんの胸に去来していたのは誰だったのだろう。貝のように閉じてしまった開高さんを牧さんはどんな想いで看取っていたのだろう。どちらも、哀しく、痛ましい。
開高さんが食道癌であること宣告してしまった牧さんの経緯は菊谷さんの本にある。牧さんは開高さんの追悼特集で次のように書いている。
「開高の性格をよく知っているので、いつ彼に、病気のことを知らせるかは大変悩みました。それまで、病院では病気のことはしゃべるな、と言われていたのですが、彼に病気のことを告げると、彼はちゃんと冷静に話を聞いてくれました。・・・・」
しかし菊谷さんは違うと書いている。
羊子夫人が漢方のスープを飲ませようとしたところ、開高さんが遮って、
「オレの体は先生に預けてあるんだ。余計なことはせんといてくれ」
と言ったとか。そうしたら、夫人が、
「あんた、病院にだまされてるんや。これ飲まな、ガン治りゃせんデ!」
と怒鳴った、一瞬、部屋中の空気が凍った。開高さんが、静かに言った-と聞く。
「出てけ・・・・」
それから開高さんは、ほとんど口をきかなくなったそうだ。生きる気力が日に日に失せていくような思えた。そして十二月九日を迎えるに至ったのである。
悲しい話だ。わたしには、羊子夫人を責めることはできない。ご主人を救うべく奔命していたのだ。が、開高さんは衝撃を受けた。自分でもガンであること、もはや死を免れないことがわかっていたかも知れない。にもせよ、夫人の口からこういう形で宣告されるとは、ガンを知る以上に心に響いたろう。そのとき、夫婦それぞれの胸に去来した感情の乱れを思うと、あれからかれこれ十三年もたつ今日でも、いたたまれなくなる。
開高さんはいくつかの自伝的小説書いているが、一回の関係で牧さんが妊娠してしまい、結婚せざるを得なかったし、子どもが生まれ牧さんがおむつを縫っている姿を見て、いたたまれなくなって逃げ出してしまったことも書かれている。以来夫婦関係、家庭に縛られることとなるわけだが、一方で若い頃の過ち?から、以後自由な恋愛ができなくなってしまった中での、一人の女性との関係が生まれる。そのことを小説で書いてしまったことで、夫婦間にひびが入り、以来傷が深まってしまったことを、ここに知る。自由を求める男と、その男を占有することのみ生き甲斐とする女が生んだ関係は小説以上に悲しい。
またこうした自分の秘めた関係をあからさまに小説として発表しなければならなかったことは、いったいどういうことなんだろう?、と思う。開高さんが小説を書くことに行き詰まったこともあろう。でも、もしかしたら、自由な恋愛が出来なかったことで、あるときそれがかない、そのことで今までの自分とは違う自分を見出した。だからその関係を書いた作品を“第二の処女作”としたのではないか?
そして牧さんの重い愛の関係にいささか辟易していた自分を開放出来たことの喜びがあったのではないか、と思ったりする。それを書くことで、牧さんとの夫婦関係が冷めても、その時の開放感、喜びが優ってしまう自分を抑えきれなかったのかもしれない。
佐々木千世さんは交通事故で亡くなっている。
さてここからが過ちを修正した部分である。
それは私がこの文章を書くにあたって、ネットでいろいろ調べていて知った情報を掲載した。そのサイトに開高さんにはもう一人親密な関係の女性がいたらしいことが書かれており、女性の名前は高恵美子さんという。そして開高さんが亡くなられてから発売された「ザ・開高健 巨匠への鎮魂唄」(毎日新聞刊)に彼女が寄せた追悼文があるということ知った。

この情報では、高恵美子さんが寄稿した追悼文に、恋文ともとれる私信も含まれていて、その部分の削除をするという編集側と、泣きながら抗議する高さんとの間で、電話で二時間半ほどのやりとりがあったことが書かれていた。さらに彼女と開高さんの娘、道子のバイオリン教師をしていた文筆家志望の知的な美人とも書かれていた。
そして彼女は開高さんが死んで1年後の命日の日、飛び込み自殺をして命を絶った。その時の年齢が38か39歳位で、後追い自殺なのかもしれない、と書いてあった。
しかしその後高恵美子さんのご友人から、この情報は正確ではないというコメントを頂いた。そのコメントを読んでみると、私が使ったネットの情報は、かなりいい加減であることがわかった。確かにネット上にごまんとある情報の中には胡散臭いものもたくさんあることは事実だが、その真偽など確かめようもないところがある。
しかし頂いたコメントを読ませて頂いて、これはまずいことをやってしまったな、と思った。
最初に掲載したのは、この本を読んで知ったことと、それ以前に読んだ開高さんの女性関係を記した本を元にして書いた。本の内容の真偽を疑ってしまうと、もうこれは話にならないのだけれど、ただこれらの本を書いた人は、その名前や開高さんとの関係がはっきりとわかっている。つまりニュースソースがしっかりしているわけだが、その後書いた高恵美子さんに関する情報は、ネット上にある匿名の情報で、その点、不確かなものであった。
もし高恵美子さんのことをネットで見つけなければ、書く予定などなかった。本来は書く必要性は最初からなかったのに、たまたまその情報を見つけてしまったがために、書いてしまった。
そして書いてしまった以上、またその情報がいい加減なものであるということを知った以上、ここはきちんと訂正しておかないといけない。何故なら、いい加減な情報で文章を書いてしまうことは高恵美子という女性を侮辱してしまっている可能性が充分あるからだ。
さらに頂いたコメントには、高恵美子さんを友人として救ってあげられなかったとして、その人は自分を責めるかのような文章を書かれている。私はこの人にも不愉快な思いをさせてしまったと思ったのである。
だから私は高恵美子さんのご友人に、頂いたコメントを使わせてもらって自分の文章を修正したいというメールを出した。そのためいったん掲載したこの本の文章を削除し、改めてこのように再掲載したのである。以下ネットの情報がいい加減である点を記した。
ネット情報では開高さんの追悼集の出版で、高恵美子さんが開高さんの恋人かのようなことが、編集部とのやりとりで書かれているが、確かに開高さんは彼女に思いを寄せていたようであるが、高恵美子さんご友人は彼女と接していて、彼女には恋人的な気持ちがあったとは思えない、と言われている。
そして高恵美子さんは開高さんの死後(1989年12月9日死去)1年たった命日に、後を追い、飛び込み自殺をしたかのように書かれているが、彼女は自殺ではあるが、飛び込み自殺ではないということ。高恵美子さんは躁鬱病を発症し、その闘病生活の中で思い通りにならない状況下で、悲観して発作的に自殺したものだったということ。その日は、開高さんの死後ちょうど1年たった命日ではなく、1991年の1月28日で、享年49才であった。
これらのことから、高恵美子さんが開高さんのもう一人の女性関係を持っていた人とは考えにくいことになる。高恵美子さんご友人から頂いたメールには、ネットに高恵美子の間違った情報がそのまま放置され、それが増幅されていくのは、友人として忍びない。さらに開高健という作家ことが取り上げられる度に、面白半分に彼女の名前が取り上げられるのはいたたまれない、とも書かれている。 ネットでは高恵美子さんと開高さんとの関係を取り上げているサイトがいくつかある。これはまったくの推測だけれど、どれもニュースソースは一つではないかと思われる。とすれば、まさしく間違った情報が増幅したことになる。私もある意味その増幅に手を貸したことになってしまった。
もし高恵美子さんのご友人からコメントを頂かなければ、私はいつまでも気づかないまま間違った情報を垂れ流す手助けをし続けるところであった。
ここで高恵美子さんと開高さん関係や高恵美子さんの死の真相を正したとしても、私のこのブログがどれだけそれに貢献できるか、いやネット上にある数え切れないほどのブログに埋もれてしまい、まったく意味をなさい可能性の方が強いと思われる。(少しでも役に立っては欲しいとは思うけれども)ただ私のブログだけであっても、正しいことを記載しておくのは意味がある。そしてこれ以上私が間違った情報を垂れ流す手助けをしなく済む。だから正しい情報くれたこのご友人に感謝しなければならない。またネットの情報を使う時はもっと神経を使うべきであることを改めて学ばせて頂いた。ここにお礼を申しあげます。
評価
★★★
書誌
書名:わたしの開高健
著者:細川 布久子
ISBN:9784420310536
出版社:創美社 集英社〔発売〕 (2011/05/31 出版)
版型:228p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)