2012年01月30日

日垣隆著『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』

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 この本は書名通り、電子書籍と紙の本について書かれたものと、著者の日々の思考作業を様々な事例を元に書かれている。後半は私にとって、それほど興味は湧かなかったけれど、電子書籍と本に関する意見は面白かった。
 ここで著者は「2010年は電子書籍元年」と言われ、これからはこうしたデバイスが主流になり、紙の本が駆逐されるような風潮、それって、本当にそうなの?と疑問を呈する。
 そして電子書籍やipad関連の本がよく売れていることあげ、「微笑ましいのは、『紙の時代は終わる!』という趣旨を強調しすぎるこれらの読み物が、ほぼ例外なく「紙の本」で売られていることだ」と笑い飛ばす。
 確かに電子書籍、電子書籍と騒いで取り上げているのは紙の本や雑誌だ。そして電子書籍のコンテンツはそれ専用のオリジナルではなく、本として出版されたものをわざわざデジタル化して売り出していることに、意味があるのか、と言うのである。
 著者は仕事柄、多くのデバイスを使い、電子書籍に接してきて、次のように言う。


 私は電子書籍を読むデバイスを10種類以上買って実際に読んできました。あんなもの使って、長い本を最初から最後まで読まないでしょ?というのが率直な感想です。iPhoneやキンドルで『カラマーゾフの兄弟』を最初から最後まで読むのは、拷問以外の何ものでもありません。


 さらに、


 『源氏物語』をiPhoneで読んでいる人がいたら「なにかの罰ゲームですか?」と訊いてしまいそう。


 とまで言う。
 アマゾンで出しているキンドルは目に優しい設計らしいが、それでも普段パソコンで仕事をしていて、なおかつデバイスで本を読んでいたら、日本人の視力はますます悪くなることは間違いない、とも言い切る。
 要するに本としてのメディアが存在するのに、それをわざわざ電子書籍用のデバイスで読んでも、ただ目を悪くするだけだと実際に使ってみた感想を言うのである。
 キンドルやiPadを“黒船”みたいに扱う日本の出版業、あるいは「これからは電子書籍だよ」という一辺倒なニュースを垂れ流すマスコミに、ちょっとおかしいんじゃないの、言うのである。著者は一部ITバブル評論家が言うように電子書籍は急激には進行しない。その理由を著者特有の皮肉を交えて言う。その言い分を聞いてみよう。


 まず1日は24時間しかない。8時間寝て、10時間働き、通勤に2時間。食事や飲み会、おしゃべりが3時間だとすれば、合計23時間。残りは1時間しかない。メディアは、たった1~2時間の細切れの時間を争奪しているだけだ。メディアはそうした可処分時間の奪い合いしているだけで、本やテレビ、新聞は所詮ニッチ産業ではないか、と言うのである。
 Wikipediaによると、ニッチ( Niche )とは直訳すれば「隙間」や「くぼみ」の事であり、もともとは生物学で生態的地位を表す用語である。ニッチ市場(にっちしじょう)とは市場全体の一部を構成する特定のニーズ(需要)を持つ規模の小さい市場のこと、と書かれている。要するに隙間市場ですね。元々その程度の市場である。そこに既存のメディアが競い合っているだけで、それがキンドルやiPadに取って代わるといっても、その程度の話なのである。
 さらに本をきちんと自分で選んで読める人は、日本に総勢で(各分野で多く見積もって)20万人くらいしかいないのではないか。電子書籍とそのデバイスの普及は、せいぜい本のヘビーユーザーたちに行き渡ればそれでおしまい、という市場規模であることは忘れないほうがいい。と言う。
 しかもそうしたヘビーユーザーたちが好む本は、おおむね頁数が多い。文学書、歴史書、専門書、学術書、古典・・・・すべて電子より紙の方が読みやすい。もともと本としてあるのだから、わざわざ電子書籍を読む必要性がどこにあるというのか?わずかな可処分時間の為に読みづらい本を読むよりも、そのものを手にした方がいいに決まっている。しかも高い金を投資しなければならないのだから、ユーザーが大規模にすぐ増えるとは思えないと言うのである。
 著者は「先走りも結構だけれども、習慣的な楽しさや、年齢や好奇心による違いも、決して小さく見積もってはいけません」とも言っている。たとえばこういうツールに早めに手を出すかどうかは、50歳が境目だそうで、それ以降の年齢になれば、既存の本や雑誌で充分だ、と言いそうである。私もそうだ。
 「優れた機能」だけで、人は商品を選ぶものではない。案外、「慣れ」のほうが重要だったりする。その「慣れ」を充分凌ぐ、新しいデバイスなりグッズなりスペック搭載品が出たら乗り換える可能性はあるだろうけれど、何度も言うように電子書籍のコンテンツは現在紙で同じものが存在するのである。紙の本をただデジタルにしたところで、その代償として目が悪くなるくらいだ。だから「紙の本ではできなかったこと」を電子書籍はメインにしていくべきだと改めて思う、と言うのである。それであれば電子書籍は新しい、そして広大なフロンティアであることは疑いない。今のところそうなっていないのだから、騒ぎ立てる程のことじゃない。
 著者はまえがきで、


 デジタル化は避けられない。それどころか、便利さに満ち溢れている。
 しかし同時に、習慣や伝統にも優れたものが無数にある。
 我々は、その両方の継承者でありたい。そう思いませんか-。


 まさしくその通りだ。むしろその二つの選択肢があることを素直に喜ぶべきで、“いいとこ取り”出来る。そもそも一つにしてしまう理由もなく、それぞれが読者を獲得出来ればいい。私は電子書籍の継承者にはなれないけれど、それが出来る世代の人は優れた既存のメディアを尊重しつつ、新しいメディアも使えばいいのではないか。むしろ新しいメディアしか使えないと、それに頼るしかなくなってしまう。

 話はちょっと横道にそれるけど、先日久しぶりにタクシーに乗った。行く先を告げたら、運転手がカーナビでいいですか?と聞く。最初何のこと言っているのか分からなかったけど、カーナビの指示で目的地へ行くと言うことらしい。それがあるとないとではどう違うのかよく分からなかったので、いいですよと言うしかなかった。
 そもそもこの運ちゃん道を知らないのだろう。いや知らなくてもいいのかもしれない。だってカーナビがあるからね。でも何でこんな道通るんだろうな?と乗っていて不思議には感じていた。まぁこの運ちゃんにとってカーナビの指示は絶対なのだろうし、私が不安を感じても、このまま乗っていれば目的地に着くんだろう、と思っていた。しかし最後の詰めで道に迷う。結局車を止めて、歩いている人を捕まえて道を聞いていた。
 帰りもタクシーを捕まえて帰ったのだが、乗ったタクシーの運転手は年配の方で、こっちが目的地を言った途端、メーターを下ろし、発進する。カーナビはついていたが、使わない。これだよね。道を知っているからカーナビを使わなくてもいいのだ。

 電子書籍の波で書店が生き残れるか、どうかは、著者は「書物に関する知識が豊富な書店員が『本のコンシェルジュ』化することが、リアル書店の最大の強みとなるはずだ」と書いている。そう書いた上で、「でもこれって、書店員の原点でもありますよね」とも言っている。
 書店も最近は人件費の安いパートやアルバイトに仕事を任せ、後は客に検索機で在庫を確認させることしか出来ない書店が増えてきた。それで出来ちゃうのだ。先のタクシーの運ちゃんと同じだ。道なんか知らなくてもいい。カーナビが教えてくれるからだ。必要なデバイスを使いこなせれば簡単にプロになれちゃう時代なのだ。経験とか教育とか、スキルアップとかいうものは時間がかかるし、人件費の高騰を招くだけなので、経費的に省かれた。プロが軽くなったか、いなくなる所以だ。せめてリアル書店ではコンシェルジュでも何でもいい。とにかく本のプロがいることに、生き残り道があるような気がする。
 生き残りといえば、音楽CDは凋落の一途だけれども、CDブックは静かなブームなのだそうだ。落語や有名経営者の講演会など聞かれる方が多いらしい。そうそう、音楽CDは何で74分なのか、知りました。CDソニーとフィリップス社が共同で開発・商品化したもので、顧問格のカラヤンがデジタル音源を絶賛し、彼が指揮する「第九」が収まる時間から、74分が決まった、そうだ。


評価
★★★


書誌
書名:電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。
著者:日垣 隆
ISBN:9784062169639
出版社:講談社 (2011/04 出版)
版型:262p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2011年11月14日

藤原正彦著『日本人の誇り』

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 この本は最終章の「日本をとり戻すために」に歴史的記述にかなりのページを割いている。「日本をとり戻すために」とは、日本という国の誇りがどうしてこうも国民に失われてしまったのか、その経緯を書かざるを得ないという思いがここにはある。
 たとえば、日本政府の対中外交の弱腰を次のように批判する。

 とりわけ中国にはやられ放題です。尖閣諸島など、歴史的にも国際法的にも日本領であることは明白なのに、領海侵犯したばかりか海上保安庁の巡視艇に体当たりまでしてきた中国漁船の船長を、中国の恫喝に屈し釈放してしまいました。体当たりしてきた段階で中国漁船を撃沈してもよかったほどのものですが、日本政府首脳は目を泳がせたまま「私はビデオを見ていません」「釈放は検察の判断でされました」など平気で言い、中国に断固たる抗議もせず「領土問題は存在しません」と蚊が泣くような声で繰り返すばかりです。 すばらしい学習をした中国はこれからも東シナ海でやりたい放題の乱暴狼藉を働き、こちらが逮捕などの行動に出るや謝罪と賠償を世界中に聞こえるようにがなり立て、それでもダメならありとあらゆる報復措置をとるでしょう。台湾の李登輝さんが言うように中国とは「美人を見たら自分の妻だと主張する国」なのです。(別の章では「利益のためなら何でも主張するという中国の慣習」とか、政府への不満を外国への憎しみにすりかえるというのは中国が現在もっともよくとる手法」とも言っている)

 あるいは、

 それならまだ分かるのですが理解し難いのは、祖国への誇りを育むと軍国主義につながりかねない、戦前の愛国教育と同じではないのか、など心配したり、近隣諸国条項を考慮したりすることです。
 近隣諸国条項とは1982年(昭和57年)に起きた不思議な事件により生まれたものです。その年、新聞やテレビが、「歴史教科書の検定において文部省が『大陸侵略』という言葉を『大陸進出』に書き改めさせた」と報道し、文部省と政府を攻撃しました。すぐさま中国政府は不快感を表明しました。
(略)
 ところが不可解なことにその後になって、当時の宮沢喜一官房長官が「今後の教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」という談話を発表したのです。そしてこれは教科書検定基準として定められました。世界のどこにもない奇妙な、と言いますか奇想天外な基準です。
 これがきっかけでその後、何かあるたびに日本は中国や韓国や北朝鮮に「歴史認識」を問われることになりました。この三国は「歴史認識」が黄門様の印籠でありこれを口にしさえすれば直ちに日本が謝罪し、外交上優位に立てることをこの時学習したのです。そもそも、国家が謝罪するなどということは、私の知る限り日本だけです。主権国家というものは、戦争で降伏し賠償金を払っても、謝罪という心情表明はしないものです。それは自国の立場を弱くし、自国への誇りを傷つけるからです。そしてなにより、もはや弁護できない私たち父祖を否定し冒涜することになるからです。
 第二次大戦やそれ以前の歴史を外交に持ち出す国は私に知る限りこの三国以外、世界中のどこにもありません。(略)日本が謝罪と譲歩で応える世界唯一の国だからです。1990年以降ほとんど毎年、政府が謝罪し続けています。それより関係は改善するどころかむしろ悪化しています。
 近隣諸国条項とは平たく言うと「中国、韓国、北朝鮮を刺激しかねない叙述はいけない」という政治的なものです。子供の学ぶ歴史教科書において、歴史的客観性より「事を荒立てない」を優先する滑稽な代物なのです。

 ではどうしてこうなってしまったのか?それを著者は歴史から説明する。まずは幕末から明治維新から紐解き始める。

 日本はこの大きな世界史の流れに、幕末になって突然、心ならずも放りこまれてしまいました。
その当時、アジアの国々は諦念からでしょうか、激しい抵抗もほとんど示さず、片っ端からヨーロッパ勢力により蹂躙されてしまいました。強力な武器を手に高圧的に迫る白人を前に従順な羊のようでした。
 その中にあって唯一、独自の、人類の宝石とも言うべき文明を生んできた日本は、その気高い自負ゆえに、ぼんやり眺めているばかりの他のアジア諸国とは異なり、命をかけて独立自尊を守ることを決意しました。日本のような後進の小国にとって、実に大それた望みでした。幕末から明治維新の日本人が、満腔にこの決意を固めたと同時に、その後の流れは決まってしまったのです。

 日本は南下政策をとったロシアをひどく恐れた。そのために「清国に朝貢しつつ無気力のまま暗闇の底で蠢いている朝鮮」叩き起こして開国させ、明治維新のような改革をさせねばならない。同時にヨーロッパ列強の食いものとなり果てて恥じることのない「性根のすわっていない兄貴分の中国に正気を取り戻させ」、日中朝で協力しヨーロッパ列強、特にロシアの侵略に備えなければならない、と考えた。西郷隆盛の征韓論の思想的根拠はここにあった。
 考えて見れば日本防衛のために、朝鮮や中国にとって迷惑な話でもあるけれど、自国防衛のためにはあまりにも日本は小さすぎた。だから協力してヨーロッパ列強に対処しようとしたわけだ。問題はそうしたアジア主義が朝鮮や中国に理解が得られず、一人歩きしてしまったところであろう。その結果日本は日清戦争、日露戦争と進んでいくこととなる。そして勝利し、奢ってくると、もともとフライング気味のアジア主義が変質してくる。日露戦争前後から日本を盟主とする大アジア主義となり、昭和になって大東亜共栄圏となっていく。結局日本は帝国主義列強の仲間入りをしてしまった。
 世界恐慌から列強ブロック経済化により、日本は窮地に追い込まれ、ついにアメリカとの戦争へと突入していく。
 敗戦で、日本はGHQの支配下に置かれるが、その時GHQは「罪意識扶植計画」を日本人に実行していく。

 「罪意識扶植計画」は、日本の歴史を否定することで日本人の魂の空洞化をも企図したものでした。ぽっかりと空いたその空地に罪意識を詰めこもうとしたのです。そのためまず、日本対アメリカの総力戦であった戦争を、邪悪な軍国主義者と罪のない国民との対立にすり替えました。三百万の国民が殺戮され、日本中の都市が廃墟とされ、現在の窮乏生活がもたらされたのは、軍人や軍国主義者が悪かったのであり米軍の責任ではない。なかんずく、世界史に永遠に残る戦争犯罪、すなわち二発の原爆投下による二十万市民の無差別大量虐殺を、アメリカは日本の軍国主義者の責任に転嫁することで、自らは免罪符を得ようとしたのです。

 「罪意識扶植計画」に協力的でない人間は公職追放されたり、圧力を加えられたりする。そのため最初は生存のため仕方なく罪意識扶植計画に協力していたのが、次第にそれに疑いをはさまない姿勢こそが戦争への懺悔、良心と思いこむようになり、洗脳されていった。疑いをはさむ人は軍国主義者とか右翼というレッテルが貼られることになった。
 このようにGHQが種をまき、日教組が大きく育てた「国家自己崩壊システム」は、今もなお機能しているため、自らの国家としての意識が主張出来ない。単に国を思う気持ちが、増幅されて、戦前の軍国主義だという話になってしまうのである。そしてそれを恐れる余り、中国など言いたい放題、やりたい放題やられるのだ、というわけだ。それくらいあの戦争の罪意識を日本人に植え付けてしまったのである。
 著者はそこまで強く罪意識を持たなくてもいいし、ある意味あの戦争は列強からのアジアの開放を促し、帝国主義に終止符を打った部分もあるという。
 今や敗戦で押しつけられた欧米の思想である個人主義や経済至上主義はイデオロギー的に破綻しかねている部分があり、これの対処療法では何ら効果を生まないところまで来ている。だからこそ、かつて日本が持っていた個の尊重より、みんなを思う心から、その延長で国家を思う心の復活に期待を寄せるのである。今こそ日本人として誇りで国作りをすべきだと著者は主張する。
 タカ派的な愛国心鼓舞は、行きすぎると問題があるが、国民が自分の国を誇りに持てないというのは、確かに異常だ。ヨーロッパで生まれた個人主義が、日本を、強いては世界をおかしくしている以上、国としてのオリジナリティーを回復し、その中で世界の国々と折り合いをつけていくべきである。今の日本のような他の国に卑屈になりながら、抜け道を探し、生き抜こうとする方法をとっていると、いつまでも日本人の誇りなど持てない。そんな気がする。


評価
★★★


書誌
書名:日本人の誇り
著者:藤原 正彦
ISBN:9784166608041
出版社:文藝春秋 (2011/04/20 出版)文春新書
版型:249p / 18cm
販売価:819円(税込)

2011年10月03日

堀江邦夫著『原発労働記』

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 この文庫本はこの震災による原発事故で、27年ぶりに緊急復刊された。もちろん今も予断を許さない状況下にある福島第一原発にも著者は加筆している。
 この本は原発労働者として著者自ら美浜原発、福島第一原発、敦賀原発で働き、“被ばく”の恐怖にさらされながら、過酷な労働に従事する人々を描く潜入ルポである。

 今回の震災で原発が安全でないことを日本のみならず、世界が実感した訳だが、この原発を維持するため働いている人々が、絶えず放射能の危険に曝されて仕事をしているからこそ、原発は維持されていたことを知る。
 最も近代技術や科学技術で支えられている原子力発電が、まるで前近代的な下請け制度支えられていたことは、皮肉としか言いようがない。とりわけ電力会社の社員より、“原発ジプシー”と呼ばれる下請け労働者の被曝量が高いことは、原発は電力会社の社員で維持されていたのではないことを証明する。
 “原発ジプシー”とは、手配師などが集めた日本各地の原発を渡り歩いている人々を言うが、彼等がいるからこそ、原発が維持できていた。彼等が電力社員のやらない危険で過酷な職場環境で仕事をしているから、原発がかろうじて動いていると言っていい。おそらく今必死に原発の暴走を止めようとしている人々で、実際に原発内部に入り込んでいる人々もこうした人たちではないか、と推測する。
 労災法などをかじっていると、下請け会社が親会社に気を使って、言うに言えない環境で仕事をさせられていて、一端事故などあると、労災を適用しない方法で、内部処理してしまうことをよく聞く。だからこうしたことは、どこの業界でも存在するのだろう。


 三時のとき、西野さんとトイレへ行く。ドアを二つ抜けると、左手にガラス張りの部屋-原発の“頭脳”部分にあたる中央制御室だ。明るい照明の下、たぶん電力会社の社員であろう、カラフルなワイシャツ姿の男たちが、コーヒー・カップを片手に計器と向かいあっている。その部屋とガラス一枚隔てた廊下を、薄汚れたボロ布を顔に巻き、ホコリだらけの作業着を身にまとった私たちが歩きまわる。なんと対照的だ。


 あるいは著者が原発内で転落して肋骨を骨折しても安全責任者は治療費の件で次のように言う。


 「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故があったことがバレてしまうんですよ。・・・ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。・・・だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」


 労災隠しである。労災扱いじゃないと嫌だと言えば、事故が公になり、マスコミが騒ぎ、東電に迷惑をかけ、その果てに会社に仕事が回ってこなくなり、行き着くところはあんたに仕事がなくなる、と暗にほのめかしているわけだ。

 そうまで電力会社に気を使いながら、原発内で危険な仕事を請け負っている。一方電力会社は“協力会社”として彼等に危険な仕事させている。
 下請け会社も高線エリアで仕事をしている従業員のアラーム・メーターが“パンク”すると、若いボーシンは「この分じゃあ、週300(ミリレム)の規定に引っかかっちゃうなあ」とボヤくが、彼が心配しているのは、労働者に一週間300ミリレムもの「被ばく」させてしまうことの心配ではなく、むしろ規定線量オーバーにより、別の労働者の確保しなければならない、という心配をする、状況下なのである。
 下請け労働者も、本当なら完全防護をしなければならないところを、不完全な、あるいは壊れているマスクなどを使いながら仕事をしている。また完全防護をして仕事をすれば、ちょっと動いただけで息苦しくなる。アラームは絶えずパンクし、必死でそこから脱出していく。

 「きのうの疲れがまだ残っていた。起き抜けに出た尿は、まっ赤だった。全身がだるい。仕事を休む」

 「だいぶ体調は回復してきた。しかし大事をとって、今日も休む。
 もし私が“本物”の貧しい下請け労働者だったら、生活は完全に破綻するだろう。なんら保障もなく、『体ひとつ』で生きていくことが、いかに苦しく、難しいかを身をもって痛感する」


 著者が原子炉内部に定期検査のために電源を確保するため、ケーブル引く作業に従事している時など(だいたい定期検査をするための電源が原子炉近くにはないのだ。これでどこが近代技術を駆使したものと言えるのだろうかと著者は言っている)、薄暗い中で、アラームが鳴りっぱなしであり、被曝量も他のところとは一桁違ってくる。それだけを読んでも、怖くなってくる。
 ここでは下請け会社で働く人たちと、正規社員との職場環境の格差は、どこにでもある格差ですまない。その格差が「つねに『死の影』がつきまとっているのだ」
 この本を読むと、原発で働く下請け会社の労働者の過酷な職場環境と危険性が単に労働問題だけでなく、原発そのものが危険なものであるというのを、我々に突きつけているのである。原発が最新テクノロジーで管理されているから、危険性はないのだ、というのは電力会社や国の嘘だったことを知らされる。そして奇しくもそれが今回の震災や津波であからさまになっただけのことである。
 いま我々は限りあるエネルギーと言いながら、一方で無尽蔵の如く電気を消費してきた。必要以上の快適さを求めるために、電気を使い続けた。原発が危険であっても、そのためにはその存在を認めざるを得なかった。我々は薄々感づいていたものを、突きつけられたのである。
 この本を読んで原発は怖いものだと改めて知らされたし、この震災で未だ先の見えない原発事故を、まるで人ごとのように淡々と説明する東電の社員を見ていると、原発は手を出しちゃいけないものだったのではないか、と思ってしまう。快適な生活の追求が原発のある地域に人が住めない場所に変えてしまったものなのだ。だったら我々は今までのライフスタイルをどう変えていけばいいのか、大きな課題を目の前に突きつけられてしまっている。


評価
★★★


書誌
書名:原発労働記
著者:堀江 邦夫
ISBN:9784062770002
出版社:講談社 (2011/05/13 出版)講談社文庫
版型:364p / 15cm / A6判
販売価:680円(税込)

2011年09月26日

細川布久子著『わたしの開高健』

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 <はじめに>

 この本の感想は一度掲載しました。ところが最後の部分で間違いがあり、いったん掲載を削除して、過ちの部分を最後に修正し、再度掲載しました。


 ここに一冊の古い雑誌がある。面白半分昭和53年11月臨時増刊号「これぞ、開高健。」である。もう33年前の雑誌だ。雑誌のため中のページは赤茶けてしまっているが、この編集人がこの本の著者細川布久子さんだ。


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 だいたい雑誌『面白半分』というのを知っているだろうか?当時『話の特集』と並ぶ1970年代のサブカルチャー雑誌の一つであった。で、この臨時増刊号の「これぞ、開高健。」は1978年の時点で開高健の特集を組んだ雑誌はこれだけだったという。雑誌『面白半分』に関してはWikipediaによると次のように書かれている。


 雑誌『面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長に吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊(1972年1月号)した。編集長は人気作家が半年毎に交代していた。
 吉行淳之介が朝日新聞に掲載したエッセイの「『日本軽薄派」という雑誌を作ってみたい」という一文を見た佐藤が、吉行の協力を取り付けて、「面白くてタメにならない雑誌」として刊行。編集長は吉行の後、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一が交代で務めた。
 野坂編集長時代に永井荷風作と言われる春本「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発された。(四畳半襖の下張事件)
 大日本肥満者連盟(大ピ連)結成でも話題となった。
 1980年まで刊行されたが、9月~11月号が休刊となり、12月号「臨終号」が最後となった。

 私はこの著者が面白半分に勤め、開高健さんの担当となり、以来開高さんの私設秘書役まで勤めた女性であったことを知ったのだが、まさかこの古い雑誌に関わった担当者とは、驚き、それで自分の本棚から引っ張り出し、編集人に著者の名前があることを確認したのであった。

 さて、ここで取り上げたいのは開高健さんの女性関係である。著者は開高さんの私設秘書役まで務めていた人だから、開高さんの女性関係に関わるざるを得なかったことを告白している。また女性ならではの嗅覚で敏感に開高さん女性関係を感じ取っていた。
 まずは開高さんの『輝ける闇』のヒロイン素娥の写真を一緒にベトナムに行った秋元啓一さんから見せてもらっているところから、次の“闇”シリーズの『夏の闇』で書いてしまった女性に言及する。これは菊谷匡さんの『開高健のいる風景』に詳しい。なのでこの本から書き出してみよう。


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 (『夏の闇』を)読み終わってしばらくしてから開高さんに会って、
 「あの女性、いったい誰です?」
 「何でや?」
 「ぞっこん惚れてるんでしょ?」
 「余計なお世話や」
 「まさか、佐々木千世じゃないでしょうね」
 すると開高さんは顔色を変えて、言った。
 「どうして君が知っとるんや」
 「あの作品を読めば、独立排除的に明々白々じゃないですか。開高さんは彼女が“諸外国を放浪して旅行記を一冊書いた”と書いているし、彼女とおぼしき女性の旅行記の袖に開高さんは“すいせんのことば”を書いているわけでしょ。ぴったり符合する」
 「・・・・・」

 その本の口絵写真で見ると、彼女はわたしが学生時代に学内でときどき見かけた女性だった。露文の学生だったと思う。色の白いほっそりとした人だったが、もし同じ女性だったら『夏の闇』では豊に変貌している。読むかぎりでは、開高さんにとって何物にも代えがたい女性のようだった。ついでながら、“独立排除的に”というのは、作中の女が口癖のように使う言葉である。
 開高さんの沈黙は、彼女がわたしの指摘する女性であることを物語っていた。それはいいが、この女性の存在を書いたことが開高宅で悶着を引き起こし、開高さんの晩年を苦しめることになった・・・・。


 開高さんの妻は詩人の牧羊子さんである。牧さんとは同人誌時代に知り合い、開高さんとの関係で妊娠し、結婚を迫られ、以来夫婦となって苦労してきた。開高健弱冠22歳であった。開高さんがサントリーに入社できたのも、牧さんがその前にサントリーの研究室に勤めており、その後釜で開高さんがサントリーに入社できた。
 開高さんは菊谷さんに「あのとき、おれの人生、決まっちゃったようなもんだデ。二十二で、お先真っ暗や」と言っている。

 この女性に関しては、2007年1月に読んだ滝田誠一郎さんの『長靴を履いた開高健』にも登場する。以下書き出して見る。


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 小説家として転機となったのは「女」との出会い。10年ぶりの再会。パリでの出来事だ。68年5月、フランスでは学生運動の盛り上がりが全国的なゼネストに発展し、当時ド・ゴール政権にとっての最大の危機、内乱寸前とまでいわれた。いわゆる5月革命だ。
 6月、『文藝春秋』の特派員として小説家は5月革命を視察するためパリに赴く。そのパリで、小説家は「女」と10年ぶりの再会を果たすのである。そしてほぼ一夏、小説家が滞在していたパリの学生町の旅館にこもり、「女」が客員研究員として勤務していたドイツのとある大学の職員用アパートに潜むようにして、「美食と好色は両立しない」などうそぶきなから食べるのもそっちのけで全裸の生活に没入するのである。
 この出会い、このエロチックな出来事が、3年後ひとつの文学作品の昇華する。71年10月、雑誌『新潮』に発表された『夏の闇』がそれである。翌72年3月に新潮社から発売された単行本の函に、小説家が次のような言葉を記している。
《これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを“第二の処女作”とする気持ちで、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変わった。 著者》


 滝田さんはここから、先に書いた菊谷さんと開高さんの会話を取り上げる。


 菊谷さんと佐々木千世さんは早稲田大学の同級生だというから、小説家とは5歳違いだ。
 「彼女はたしか露文(ロシア文学科)の学生で、実際話をしたことはないけれど、見た感じはいい女でした。少しすさんだ感じがするんだけれど」
 大学卒業後、佐々木千世さんはロシア文学研究家という肩書きで翻訳の仕事などをするようになる。小説家との出会い、お互い惹かれあうになるにはこのころだ。
 別にふたりの仲をあれこれ詮索しようというわけではない。あえて佐々木千世さんの名前を出したのは、彼女が小説家とルアーフィッシングの出会いに大きく関わっているからだ。
 小説家はぶらりと立ち寄ったバド・ゴーデスベルグの釣具屋の主にルアーフィッシングの手ほどきを受けるわけだが、そもそも小説家がバド・ゴーデスベルグなる町をぶらぶらしていたのはそこに佐々木千世さんが住んでいたからに他ならない。小説家と釣具屋の主の間に入って通訳したのも彼女だ。列車や宿の手配をしたのも彼女である。
 もちろん佐々木千世さんもジムス湖に行っている。一緒にボートに乗っていた。69年に発売された『私の釣魚大全』(文藝春秋)にボート上でワインをラッパ飲みしている小説家と、釣り上げたカワマスをうれしそうに差しだしている写真が掲載されているが、これを撮影したのも佐々木千世さんだと考えられる。


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 ここから細川さんのこの本から書き出してみる。ちょっと長くなるが・・・。


 けれども菊谷さんから伺うことができたのは、『夏の闇』によって開高さんの恋愛を知るに及んだ牧さんの激怒ぶりだけだった。
 私が彼女の名前や経歴を知ったのは、サン・アドの矢口純氏からだった。ただ『これぞ、開高健。』の作業中か、『面白半分』の連載原稿を頂いていた頃か、サン・アドで働くようになってからか、正確な時期はすっかり忘れている。
 矢口さんによると、『婦人画報』の編集長をされていた頃、開高さんから新進のライターとして彼女を紹介され、仕事上の相談にのってやってほしいと頼まれたそうである。その頃には彼女はソ連留学を終え、その体験記を出版しており、その本に推薦の辞を書いたのは開高さんで、開高家にも出入りしていたはずだ、ということだった。
 そうだとしたら、菊谷さんの表現を借りれば「怒り狂った」という牧さんのリアクションは当然すぎるほど当然である。ただでさえ夫の浮気は妻にとって悲しく腹立たしい。それが単なる火遊びではなく濃密な恋愛だった。そのうえ相手の女性は見知らぬ人でなく面識のある人間だったとわかった時の妻の驚愕。悲痛。嫉妬。苦悩。憤怒。絶望。牧さんがうけた傷の深さは何をもってしても消すことができなかったのではないだろうか。たとえ『夏の闇』以後「内面に寄りかかって書こう」と決めた開高さんの作家の業を、おなじ、ものを書く人間の立場から理解できたとしても。
 菊谷さんは、このことによって開高さんは不幸になったと書かれている。しかし牧さんも同じように不幸になったのだ。それぞれ不幸を抱えたまま夫婦であり続けたために、夫婦間の確執は最後まで続いた。お互いに決して癒されない傷に針を突き刺された気分に襲われながら生きざるをえなかった。
 開高さんにとって牧さんは大きな呪縛だった。ある編集者には「娘がいなければ離婚していた」と述懐したこともあったという。世間一般の男たちのように独身時代を謳歌することもなく、モラトリアムの季節もなく、予期せぬ妊娠で結婚を余儀なくされて以後、釣りも旅も恋愛も、書けないという苦境からの逃亡だけでなく、失われた自由を求めての行動、家庭からの脱出だったに違いない。
 一方、牧さんには七歳年下の開高さんの成功と栄光において、自分こそがこの天才を発見し育てたのだという深い自負があったのではないか。また、牧さんとって開高さんは唯一無二の男だった。開高さんを愛しすぎた。開高さんは「関西のオンナの深情けはえらいもんやデ」とお手上げ気味につぶやくことはあったけれど、牧さんの情けはあまりにも重すぎた。見方を変えれば、牧さんは「可愛い女」なのである。ただ、開高さんをコントロールしようと束縛しようとしすぎたのではないか。たえまなく、愛という名のもとで。
 その牧さんを『夏の闇』は完膚なきまでに打ちのめした。嘆きは深く内にこもり牧さんを浸食していった。時は傷を治癒せず毒をうみだしていった。そして、意識するしないにかかわらず、じわじわ開高さんに復讐していったのではないか。そこから逃げることができなかったところに開高さんの不幸があった。私にはそう思えてならない。
 茅ヶ崎の新居がついに「隠れ家」にならなかったのも、牧さんは開高さんが独りで自由を満喫することを許せなかったせいではないか。開高さんに癌を宣告したいきさつについては、病院食を無視した牧さん手製のスープを開高さんが強く拒否したことで、発作的に口走ったためだと聞いている。「可愛さあまって憎さ百倍」というけれども、長い間くすぶり続けた開高さんに対する恨みつらみが爆発してしまったといえなくない。
 そうだとしても、牧さんは残酷すぎた。病で身動きできなくなった開高さんは、やっと自分の許に帰ってきた、誰にも邪魔されず自分だけが独占できる夫になったのである。その歓びの想いはさもありなんと思われる。けれども親友の谷沢先生や向井さんの面会を一切禁止し、一部の人間を除き、菊谷さんをはじめ親しい友人編集者の見舞い客をすべて遮断するという仕打ちは理解できない。それほどまでに開高さんを所有したかったのだろうか。それほどまでに開高さんを許すことができなかったのだろうか。報復だったのか。愛のかたちだったのか。癌を宣告された開高さんは、以後、牧さんに口をきかなかったという。開高さんの胸に去来していたのは誰だったのだろう。貝のように閉じてしまった開高さんを牧さんはどんな想いで看取っていたのだろう。どちらも、哀しく、痛ましい。
 開高さんが食道癌であること宣告してしまった牧さんの経緯は菊谷さんの本にある。牧さんは開高さんの追悼特集で次のように書いている。
 「開高の性格をよく知っているので、いつ彼に、病気のことを知らせるかは大変悩みました。それまで、病院では病気のことはしゃべるな、と言われていたのですが、彼に病気のことを告げると、彼はちゃんと冷静に話を聞いてくれました。・・・・」
 しかし菊谷さんは違うと書いている。
 羊子夫人が漢方のスープを飲ませようとしたところ、開高さんが遮って、
 「オレの体は先生に預けてあるんだ。余計なことはせんといてくれ」
 と言ったとか。そうしたら、夫人が、
 「あんた、病院にだまされてるんや。これ飲まな、ガン治りゃせんデ!」
 と怒鳴った、一瞬、部屋中の空気が凍った。開高さんが、静かに言った-と聞く。
 「出てけ・・・・」
 それから開高さんは、ほとんど口をきかなくなったそうだ。生きる気力が日に日に失せていくような思えた。そして十二月九日を迎えるに至ったのである。
 悲しい話だ。わたしには、羊子夫人を責めることはできない。ご主人を救うべく奔命していたのだ。が、開高さんは衝撃を受けた。自分でもガンであること、もはや死を免れないことがわかっていたかも知れない。にもせよ、夫人の口からこういう形で宣告されるとは、ガンを知る以上に心に響いたろう。そのとき、夫婦それぞれの胸に去来した感情の乱れを思うと、あれからかれこれ十三年もたつ今日でも、いたたまれなくなる。


 開高さんはいくつかの自伝的小説書いているが、一回の関係で牧さんが妊娠してしまい、結婚せざるを得なかったし、子どもが生まれ牧さんがおむつを縫っている姿を見て、いたたまれなくなって逃げ出してしまったことも書かれている。以来夫婦関係、家庭に縛られることとなるわけだが、一方で若い頃の過ち?から、以後自由な恋愛ができなくなってしまった中での、一人の女性との関係が生まれる。そのことを小説で書いてしまったことで、夫婦間にひびが入り、以来傷が深まってしまったことを、ここに知る。自由を求める男と、その男を占有することのみ生き甲斐とする女が生んだ関係は小説以上に悲しい。
 またこうした自分の秘めた関係をあからさまに小説として発表しなければならなかったことは、いったいどういうことなんだろう?、と思う。開高さんが小説を書くことに行き詰まったこともあろう。でも、もしかしたら、自由な恋愛が出来なかったことで、あるときそれがかない、そのことで今までの自分とは違う自分を見出した。だからその関係を書いた作品を“第二の処女作”としたのではないか?
 そして牧さんの重い愛の関係にいささか辟易していた自分を開放出来たことの喜びがあったのではないか、と思ったりする。それを書くことで、牧さんとの夫婦関係が冷めても、その時の開放感、喜びが優ってしまう自分を抑えきれなかったのかもしれない。

 佐々木千世さんは交通事故で亡くなっている。


 さてここからが過ちを修正した部分である。

 それは私がこの文章を書くにあたって、ネットでいろいろ調べていて知った情報を掲載した。そのサイトに開高さんにはもう一人親密な関係の女性がいたらしいことが書かれており、女性の名前は高恵美子さんという。そして開高さんが亡くなられてから発売された「ザ・開高健 巨匠への鎮魂唄」(毎日新聞刊)に彼女が寄せた追悼文があるということ知った。


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 この情報では、高恵美子さんが寄稿した追悼文に、恋文ともとれる私信も含まれていて、その部分の削除をするという編集側と、泣きながら抗議する高さんとの間で、電話で二時間半ほどのやりとりがあったことが書かれていた。さらに彼女と開高さんの娘、道子のバイオリン教師をしていた文筆家志望の知的な美人とも書かれていた。
 そして彼女は開高さんが死んで1年後の命日の日、飛び込み自殺をして命を絶った。その時の年齢が38か39歳位で、後追い自殺なのかもしれない、と書いてあった。

 しかしその後高恵美子さんのご友人から、この情報は正確ではないというコメントを頂いた。そのコメントを読んでみると、私が使ったネットの情報は、かなりいい加減であることがわかった。確かにネット上にごまんとある情報の中には胡散臭いものもたくさんあることは事実だが、その真偽など確かめようもないところがある。
 しかし頂いたコメントを読ませて頂いて、これはまずいことをやってしまったな、と思った。
 最初に掲載したのは、この本を読んで知ったことと、それ以前に読んだ開高さんの女性関係を記した本を元にして書いた。本の内容の真偽を疑ってしまうと、もうこれは話にならないのだけれど、ただこれらの本を書いた人は、その名前や開高さんとの関係がはっきりとわかっている。つまりニュースソースがしっかりしているわけだが、その後書いた高恵美子さんに関する情報は、ネット上にある匿名の情報で、その点、不確かなものであった。
 もし高恵美子さんのことをネットで見つけなければ、書く予定などなかった。本来は書く必要性は最初からなかったのに、たまたまその情報を見つけてしまったがために、書いてしまった。
 そして書いてしまった以上、またその情報がいい加減なものであるということを知った以上、ここはきちんと訂正しておかないといけない。何故なら、いい加減な情報で文章を書いてしまうことは高恵美子という女性を侮辱してしまっている可能性が充分あるからだ。
 さらに頂いたコメントには、高恵美子さんを友人として救ってあげられなかったとして、その人は自分を責めるかのような文章を書かれている。私はこの人にも不愉快な思いをさせてしまったと思ったのである。
 だから私は高恵美子さんのご友人に、頂いたコメントを使わせてもらって自分の文章を修正したいというメールを出した。そのためいったん掲載したこの本の文章を削除し、改めてこのように再掲載したのである。以下ネットの情報がいい加減である点を記した。

 ネット情報では開高さんの追悼集の出版で、高恵美子さんが開高さんの恋人かのようなことが、編集部とのやりとりで書かれているが、確かに開高さんは彼女に思いを寄せていたようであるが、高恵美子さんご友人は彼女と接していて、彼女には恋人的な気持ちがあったとは思えない、と言われている。
 そして高恵美子さんは開高さんの死後(1989年12月9日死去)1年たった命日に、後を追い、飛び込み自殺をしたかのように書かれているが、彼女は自殺ではあるが、飛び込み自殺ではないということ。高恵美子さんは躁鬱病を発症し、その闘病生活の中で思い通りにならない状況下で、悲観して発作的に自殺したものだったということ。その日は、開高さんの死後ちょうど1年たった命日ではなく、1991年の1月28日で、享年49才であった。

 これらのことから、高恵美子さんが開高さんのもう一人の女性関係を持っていた人とは考えにくいことになる。高恵美子さんご友人から頂いたメールには、ネットに高恵美子の間違った情報がそのまま放置され、それが増幅されていくのは、友人として忍びない。さらに開高健という作家ことが取り上げられる度に、面白半分に彼女の名前が取り上げられるのはいたたまれない、とも書かれている。 ネットでは高恵美子さんと開高さんとの関係を取り上げているサイトがいくつかある。これはまったくの推測だけれど、どれもニュースソースは一つではないかと思われる。とすれば、まさしく間違った情報が増幅したことになる。私もある意味その増幅に手を貸したことになってしまった。
 もし高恵美子さんのご友人からコメントを頂かなければ、私はいつまでも気づかないまま間違った情報を垂れ流す手助けをし続けるところであった。
 ここで高恵美子さんと開高さん関係や高恵美子さんの死の真相を正したとしても、私のこのブログがどれだけそれに貢献できるか、いやネット上にある数え切れないほどのブログに埋もれてしまい、まったく意味をなさい可能性の方が強いと思われる。(少しでも役に立っては欲しいとは思うけれども)ただ私のブログだけであっても、正しいことを記載しておくのは意味がある。そしてこれ以上私が間違った情報を垂れ流す手助けをしなく済む。だから正しい情報くれたこのご友人に感謝しなければならない。またネットの情報を使う時はもっと神経を使うべきであることを改めて学ばせて頂いた。ここにお礼を申しあげます。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの開高健
著者:細川 布久子
ISBN:9784420310536
出版社:創美社 集英社〔発売〕 (2011/05/31 出版)
版型:228p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2011年09月24日

文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」

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 今年の3月11日、午後2時46分、後に東日本大震災と名付けられた、日本における観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した大地震が東北地方を直撃した。この作文集は、その地震、その後を襲った津波を体験した子ども達のものである。保育園児から高校生まで、80人の作文集である。このとき子ども達は何を体験し、その後どうしたか。子どもの目で地震、津波の恐怖を語る。
 大人の体験談はよく聞くが、子ども達が自分たちの言葉で書いた文章は、子どもだけが語り得る臨場感が直接感じられる。恐怖をそのままストレートに語る。大人が語るのとき、ためらってしまうことでさえ、子どもだから見たまま、感じたままを語ってくれる。子どもがよく使う濁音ばかりの擬音語が、子どもながら地震や津波の凄まじさを伝えてくれる。
 親からすれば出来れば子ども達にこうした悲惨な光景を思い出せたくないはずだし、地震や津波がトラウマみたいになるのを恐れるだろう。事実こうして地震や津波のことを作文に書いてくれと子ども達に頼んだ時、親は動揺したという。もちろん子ども達も一瞬戸惑った子もいたという。けれどだんだん手を上げる子ども達が出てきて、こうした作文集になったらしい。


 でも、つなみの色は黒っぽくつなみでした。くさかったです。


 「津波が来るぞ」
 言ってきました。僕は半信半疑で南にある田畑に目をやると、茶色い水がゴォーと音をたてて、こっちに向かっているのです。


 窓から外を見ると、辺り一面が茶色く濁っていて、とても不気味でした。さっきまで乗っていた車が家の後ろまで流されてしまいました。


 一時間くらいたって、まどから見た物は、津波から泳いでひっしににげている人が見えました。でもけっきょくは、おぼれてしまいました。そしてまた、たてつづけに見た物は、車から出られなくて、たすけをもとめているひとが見えました。


 1千年から8百年の間におきる東日本大震災。ぼくたちはうんがわるかったんだなあと思いました。


 何日ぶりに友達に会うと抱き合い、「大丈夫だった?家族は無事か?」と合言葉のように、必ずそんな言葉を交わします。


 余震が続いているけれどだいぶ落ちついた今、閖上に帰ってみるともう町がなくなっていて涙があふれてきます。大好きだった海が嫌いに変わった瞬間でした。わたしの大好きな海が、大好きな町と、大切な人達をうばっていくようなものに変わってしまったのがショックです。


 最後になりましたが、僕は人間の汚い心を見てしまうことがあります。避難所に来た物資を被害を受けていない大人たちが持ち去ってしまったり。みなさんは、この愚民たちの愚かな行動をどう思いますか。


 子ども達は冷静であった。事実をそのまま受け入れ、見たまま、感じたままを書いた。震災直後の悲惨な生活を綴ることを忘れないが、それでも少しずつ状況が良くなって行くことを書き、避難所で友達と一緒に遊べることを素直に喜ぶ。友達が転校していってしまうことをを悲しむ。
 そして復興に当たり、いろいろな人達の力を借りて、自分たちの生活環境が少しずつ良くなりつつあることを自覚し、その人達に感謝の念を忘れないで、その気持ちを文章の最後に書き添える。正直これが子ども達が書いた文章なのだろうか、とさえ感じさせる。少なくとも私が同じ年齢の頃にこんな文章など書けなかったはずだ。みんな文章がうまいのに驚いてしまう。
 塩野七生さんがイタリアの週刊誌で見たという写真の一枚がこの作文集の最初に子ども達の写真が掲載されている。


 気仙沼で見たという少年で、十歳かそれより少し上と思われる年齢だが、こちらは避難所でもらったのか、だぶだぶのグリーンのジャンパーにピンクの長靴という出で立ち。両手に持つのは大きなプラスティックの酒用のボトルだが、酒ではなく水が入っている。避難所に飲料水を運ぶ途中でもあるのか。少年は口をきつく結び、伏目で歩いているのも、足許に散乱する瓦礫に注意してのことだろう。


 確かにこの写真はすごくいい写真だ。少年の面構えがいい。また子ども達の笑顔の写真も最高である。こんな状況下でも、大人を和ましてくれる子どもの笑顔を、この写真で見ることが出来る。たぶん仮設に作られたブランコだろう。それを勢いよくこいでいる子ども達の笑顔を見ていると、この子らを悲しませては本当にいけないな、と思う。
 最後にたぶん中学生だろうか?女の子が赤い毛糸の手袋した手を合わせて祈っている姿がある。この女の子は本当に祈っているんだ、と感じることが出来る。これもいい写真だ。
 またこの作文集の最後には子ども達が描いた絵がギャラリーとしてある。そこにある絵のうち、津波を青いクレヨンでかたまりみたいに塗りつぶして表しているものがある。その塗りつぶされた青の中には車が描かれている。それは津波に巻き込まれたことを示しているのだろう。たぶんその光景を目撃したに違いない。似たような絵が2~3枚ある。絵自体拙い分、逆にそのかきなぐった青いかたまりが、怒りに満ちているように思えた。


評価
★★★


書誌
内容紹介:
東日本大震災による津波に直面した子供たちが、地震の瞬間や、津波を目の当たりにした時荷何を感じたのか。家族や親友を失った悲しみ、避難所の暮らし、そして今、何を支えにしているのかを綴ってくれた文集です。半分以上は直筆文章を原稿用紙のまま掲載します(それぞれ写真と解説文つき)。
●3・11地震の瞬間、津波の恐怖 
●家族・親友を失って
●避難所のくらし 
●これからのこと
〔カラーグラビア16ページ〕 被災地での子供たちの写真と絵画作品集
目次

・はじめに 「子どもの眼」が伝えるもの 森健

●宮城県名取市、仙台市若林区、東松島市
「つなみは黒くてくさかった」(仙台市若林区 小2)
「地鳴りが『ゴォー』」(名取市 小5)
「ままのくるまが、ながされた」(名取市 幼稚園)
「大親友の分まで生きよう」(名取市 小5)
「大好きだった海が嫌いになった」(名取市 中3)
「ままのかおがみえたらないちゃいました」(名取市 保育園)
「画用紙1枚で寝ました」(名取市 小4)
「今まで見た中で一番キレイな星空」(名取市 高3)
「NVER GIVE UP!」(名取市 高2)
「世界中の人に恩返ししたい」(名取市 中3)>
●石巻市、女川町
「たくさんの死体を見た」(石巻市 小6)
「『助けて』『苦しい』とゆう声」(石巻市 小学生)
「おとうさんにまけないせんしゅになりたい」(石巻市 小2)
「屋根の上に車」(石巻市 小6)
「くうきがきたない」(石巻市 小1)
「お母さんにだきついた」(石巻市 小3)
「食パン4分の1」(石巻市 小6)
「だるさ・吐き気・変な感覚」(石巻市 小6)
「自衛隊のシャワー」(石巻市 小5)
「私ひとりでも県外で頑張る」(石巻市 中3)
「人間は強い」(石巻市 中3)
「頑張るぞ俺達家族!」(石巻市 高1)
●南三陸町
「何も無くなってしまったやぁ」(南三陸町 中1)
「おにぎり一個十分かけて食べた」(南三陸町 小6)
「つよくてやさしい人になりたい」(南三陸町 小学生)
●気仙沼市
「わたしのたからばこは、どこにいったかな?」(気仙沼市 小1)
「赤く燃え上がる炎と黒煙」(気仙沼市 中2)
「川の水がぎゃく流」(気仙沼市 小4)
「ペットボトルの湯たんぽ」(気仙沼市 中3)
「唯一残ったのは、命」(気仙沼市 中2)
「つなみってよくばりだな」(気仙沼市 小1)
●釜石市、大槌町
「お母さんをかならず見つける」(大槌町 小5)
「白い煙のような波」(釜石市 中1)
「今は何がほしいのかわからない」(釜石市 小4)
「夢だったらいいなー」(釜石市 小3)
「バイバイ。おばあちゃん」(大槌町 中2)

・おわりに 笑顔の先には明日がある 森健

●グラビア16ページ
「被災地のこどもたち」(文・塩野七生)+「こども絵画ギャラ

書名:文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」 2011年 8月号 [雑誌]
著者:
ASIN:B0053VL8O8
出版社:文藝春秋; 不定版 (2011/6/28)
版型:160p /25.6 x 18.2 x 0.8 cm
販売価:800円(税込)

2011年03月04日

東野圭吾著『麒麟の翼』

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 正月に放映された加賀恭一郎シリーズを見て知ったのこの新刊を楽しみに待っていた。今読み終えてかなり満足している。このシリーズは最初から読んでいるが、『新参者』から作品の厚みが増したと思っているので、今回も読み応えがあった。
 今回の事件現場は日本橋である。日本橋の欄干に胸にナイフが刺さった男がもたれかかっていた。発見したのは交番の巡査であった。事件が発生して緊急配備されたが、そこに一人の不審な男が見つけだされたが、男は大通りを飛び出し、トラックにはねられ、意識不明の重体になった。男は殺された男の鞄や財布を持っていた。犯人はトラックはねられた男なのか?そして日本橋の欄干にもたれかかるように死んでいた男は、何故ここに来て殺されたのか?加賀らの捜査が始まる。
 殺された男は『カネセキ金属』製造本部長青柳武明で、江戸橋にある地下道でナイフで刺され、自力で日本橋まで移動し、橋にある西洋のドラゴンそっくりな麒麟像に祈りを捧げるように背中を丸めて死んでいた。
 トラックにはねられた男は、持っていた免許証から八島冬樹と判明する。八島は中原香織と同棲していた。二人とも身寄りがなく、田舎から二人してヒッチハイクで日本橋まで来て、以来東京で慎ましく暮らしていた。八島は派遣社員でカネセキ金属で働いていたが、契約期間前に会社を解雇されていた。八島はカネセキ金属で事故にあい、首を痛めた。一方カネセキ金属は“労災隠し”のため、八島の労働事故を隠すために、契約期間前に解雇したのであった。警察は八島がそれを恨んで、製造ラインの責任者である青柳を恨み、刺したのではないか、という結論に達しようとしていた。しかし八島は意識不明の重体であり、その真相が聞けずにいた。同棲してた中原香織は冬樹がそんなことをするわけがない、と八島の犯行を否定する。香織は妊娠していた。そして八島は死亡する。
 加賀らは、青柳が普段の行動範囲外である日本橋にどうして来たのだろう、その理由を探り始める。調べているうちに、青柳は日本橋の七福神巡りをしていたことが分かった。特に水天宮には折り紙の折り鶴を賽銭箱においていた。何故水天宮なのであろうか?普通水天宮と言えば安産祈願に訪れる人でいっぱいなのだが、ここは水難除けの神様でもあった。
 青柳の一人息子悠人は友達から「キリンノツバサ」というブログの存在を知らされる。サイトをのぞいてみると、そこにあった写真に驚く。そこには3年前中学のプールで起こった事故で、おぼれたリレーの仲間である吉永友之の姿があった。吉永はそのとき救出されたが、以来意識が戻らずにいた。ブログのタイトルは「キリンノツバサ-いつか羽ばたく日を夢見て」とあり、意識の戻らない息子のことを思い、母親が立ち上げていたブログであった。
 吉永は生きていた。3年前水泳のリレー競技で敗退した悠人らチームは、その責任を吉永に帰した。ただでさえ悠人らは吉永をよく思っていなかったので、試合後、学校のプールに忍び込み、“特訓”と称して、吉永にいじめを行い、吉永はおぼれてしまったのだ。 悠人はそのブログを見て、今の自分に何が出来るか、探り、母親が書いた記事に、息子の事故のあと水難除けによく水天宮に通ったことを目にする。そして今軽井沢にいる吉永母親に水天宮の写真を送る。以来ブログ内で吉永の母親と悠人とやりとりが始まる。悠人は贖罪の意味で千羽鶴作り、水天宮の賽銭箱において、その写真を母親に送った。
 ある日そんな悠人と吉永の母親とのパソコンでのやりとりを、父親である武明が見てしまう。悠人はそれ以来吉永の母親とのやりとりを止めたが、父親の武明がそれを知らないうちに引き継いでいた。武明は3年前に起こった事故に疑いを持ち始め、調べているいるうちに殺害されたのであった。犯人は悠人がいた競泳チームの一人で、友人であった杉野達也であった。八島冬樹は青柳武明を偶然見つけた、武明が倒れていたとき、魔が差して(生活にも困っていたので)、武明の鞄や財布を奪ってしまったのであった。そして不審者として警察に追われるうちに、トラックはねられ、死亡したのであった。
 3年前の事故を隠さなければこんなことが起こらなかった。事故として処理しようとしたのは顧問の糸川であった。糸川は子供たちを傷つけたくなかったと釈明するが、それを聞いた加賀は糸川の襟首を掴んで言う。

 「ふざけるな。何が傷つけたくないんだ。あんたは何が悪いかわかっていない。なぜ杉野は青柳さんを刺した後、自首しなかったと思う?それはあんたが間違ったことを教えたからだ。過ちを犯しても、ごまかせば何とかなる-三年前、あんたはあの三人にそう教えたんだ。だから杉野は同じことを繰り返した。同じ過ちを繰り返したんだ。青柳さんは、あんたに間違った教育を施された息子に、正しいことを教えようとしたんだ。それがわからないなら、教師なんか辞めろ。あんたに人を教育する資格なんてない」

 それを言って加賀は汚らわしいものを捨てるように手を離した。刑事をやる前に加賀は一時教師をやっていたことがある。それだけにこの言葉は重く感じる。
 冬樹を信じていた香織は、おなかに子供を抱え国に帰る。そのとき香織は加賀に、

 「今日はどうもありがとうございました。それから、冬樹君の疑いを晴らしてくれたこと、一生忘れません」

 「そんなことは忘れてもいい」加賀はいった。「忘れちゃいけないのは、その子のために何があっても負けないと決心したことだ」
 なかなか格好いい。この作品もまたテレビ化するかな、と思った。もちろん加賀恭一郎の役は今までのように阿部ちゃんで・・・。楽しみである。

 最後にこの本の最後にこんなことが書かれていた。

 「著者は本書の自炊代行業者によるデジタル化を認めてはおりません」

 奥付にも同様のことが書かれており、代行業者等の第三者依頼してスキャンやデジタル化することはたとえ個人や家庭内の利用でも著作権法違反です、と書かれている。

 そうなんだ。

 奥付の文章はともかく最後にある「自炊代行業者」というのはちょっといただけない。「自炊」とは2ちゃんねるが由来の隠語じゃなかったかな?でもこうしてはっきりとそれを認めないぞ、というのは本を大切にする人と、著作権を守る著者の姿勢がはっきりしていていい。


評価
★★★★


書誌
書名:麒麟の翼
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062168069
出版社:講談社 (2011/03/03 出版)
版型:325p / 18cm
販売価:1,680円(税込)

2011年01月10日

東野圭吾著『赤い指』

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 さてこの本で加賀恭一郎シリーズは、最新刊の『新参者』を以前に読んでいるから、これで全部読んだことになる。そしてこの『赤い指』は先日テレビで正月スペシャルとして単独で放映された。「新参者」が人気があったからだろう。。私は俳優の阿部寛さんは加賀恭一郎役にぴったりだと思っている。だからまた放映されたのはちょっと嬉しかった。

 さてテレビで先に見てしまったので、話の内容はもうわかってしまっているので、あとは原作と比べてみることを楽しんだ。読んでみてほぼ原作忠実にドラマ化されていた。ただ黒木メイサ演じる記者、青山亜美も原作にはないキャラクターで、『新参者』では新聞社を辞めてタウン誌の編集者になっていた。別にこの女、原作通りいなくてもいいと思うのだけれど、まぁ華を添える意味でいると思えばいいのかもしれない。ただ前作『新参者』のとき加賀からもらっている安っぽいボールペンがどういうものなのか、話としてちゃんとつながっている。ドラマは「新参者」より2年前に起こった事件として始まっていた。

 で、話はまず加賀恭一郎の父、隆正ががんで入院しているところから始まる。松宮脩平は母と自分を援助してくれた叔父を見舞うところから始まる。隆正はもうガンが進行していて助からない状態であったが、恭一郎は父親がそういう状況なのに一向に見舞いに来ない。この話は松宮脩平と加賀恭一郎の関係と恭一郎の家族関係も明らかにされていく。

 そんな中事件が発生する。
 前原昭夫は家に帰りたくないために、残業をしているとき、妻から急いで帰ってきて欲しい、という電話をもらう。慌てて家に帰ると死んでいる女の子が庭にいることを伝えられる。殺したのは一人息子の直己であった。
 昭夫の家庭はほとんど崩壊寸前であった。妻八重子は直己を溺愛していたが、その直己はいじめから引きこもりとなり、家では暴力的になっていた。また昭夫の母も同居していたが八重子は以前から昭夫の母を疎ましく思っていたので、その母親は認知症になってから、さらにその関係は悪化した。こんな家庭であるから昭夫は家に帰りたくなく、しなくてもいい残業をしていたのであった。
 昭夫は八重子から女の子を殺したのは直己であることを聞いて、最初警察に電話しようとするが、八重子がそれを拒む。昭夫は今まで家庭を顧みないことをなじられ、それを認めざるを得なくなる。八重子に「捨てて来て」と言われ、結局偽装工作をする。
 女の子の死体を庭に置いておくわけにもいかない。どこかに移動する必要性がある。そこで女の子の死体を段ボールに詰め込んで近くの公園のトイレに遺棄する。女の子が公園で変質者に殺されたように見せかける。そして女の子は朝早く発見され、加賀たちの捜査が始まる。
 女の子の死体には芝がついていた。昭夫の庭のものである。昭夫も死体を遺棄する時、その芝に気がつき、出来るだけ取り除いたのだが、気持ちがそこから早く逃げ出したいという状態だったので、完全に取り切れなかったのだ。
 加賀たちは公園の近くにある芝が植えられている家々を当たる。さらに前日雨でトイレの前がぬかるんでおり、そこに足で何かを消した跡が残っていた。加賀はそれが自転車のタイヤ痕であることを見抜く。
 犯人は二人以上だと加賀は考えた。それは女の子履いていた靴のひもの結び方が異なるので、これは違う人間が片足ずつ靴を履かせひもを結んだのではないかと考える。さらに本当はもっと遠くの人影の少ない場所に女の子の死体を遺棄したかったのだが、車でもあればそれも出来ただろうが、それが出来なかったのではないか。つまり車を持っていない家庭の人間が、死体の始末に困って、慌てて自転車に積んでここに遺棄したと考える。前原昭夫は車を持っていない。死体を運ぶのにちょうどいい自転車があった。しかも庭には芝が植えられている。
 ここから加賀は昭夫を揺さぶりかける。もともと昭夫は警察をだましきれるとは思ってもいなかったが、息子の直己を守るためには嘘を通し続けなければならない。しかし何度も加賀の訪問を受け、もうこれ以上今までの嘘はつけないと考え、女の子を殺したのは認知症の自分の母親だと加賀たちに伝える。
 加賀はその嘘も見抜いていた。昭夫に母親が厳しい拘置所に入ること。母親に手錠をかけるなどしようとする。母親を連行するとき杖を持たせたが、その杖には昭夫が子供の頃作った母親のための手彫りのネームプレートを見て、もうこれ以上嘘はつけなくなり、涙ながら告白する。女の子を殺したのは自分の息子直己だと。
 加賀は昭夫が本当のことをまだ知っていないと言う。昭夫の母親の指が妻の口紅でを真っ赤に染まってした。それは女の子が殺される前からそのままの状態であった。もし母親が殺害したなら、女の子首に口紅跡が残っていなければならないが、その跡がない。母親は息子の昭夫夫婦が直己の犯行を偽装することを聞いていた。昭夫も認知症の母親の前で何を言っても理解できないと思っていたのだ。しかし母親は直己が女の子を殺したこと、息子夫婦がそれを偽装したこと、それが理解できた。そう、母親は認知症を装っていたのであった。そして自分は犯人ではないと加賀たちにわからせるために、指に口紅をつけていたのだ。
 ただこれよく考えてみると、いつ指に口紅をつけたかである。もし母親が自分の犯行じゃないと主張するためにそうしたというなら、女の子が殺される前でなければならない。直己が女の子を殺すことがわかっていたのか、という疑問が出てくる。これがどうしても気にかかるが、きっとちゃんと書かれていたのだろう。私が読み込みが足らないのかもしれない。
 犯人が直己であることがわかり、直己を連行しようした時、「なんでだよ。警察には行かなくていいっていったじゃねえか」、「てめいらのせいだろう。てめいらのせいだからな」と喚いている。加賀は直己の襟首つかんで直己を床に振り落とす。「松宮刑事、この馬鹿餓鬼を連行してくれ」と。

 加賀隆正の死が近づいてきた。事件が解決し松宮脩平は慌てて病院に駆けつける。しかし恭一郎は来ない。しかし窓の外を見ると恭一郎が病室を見上げている姿を見つける。脩平は慌てて恭一郎呼びに行こうと思ったが隆正の息はまさに途絶えようとしていた。その後外にいる恭一郎のところへ行く。加賀は「脩平君が病院を出てきたということは・・・・・すべて終わったっていうことかな」言い、脩平が頷くと病室に入った。恭一郎が父親を見舞いに来なかったのは、父親の言いつけを守っていたからであった。隆正の妻は家出をしており、一人淋しく死んだ。妻をそうして死なせてしまった自分もそうでなければならないと恭一郎に言っていたのであった。
 ベッドの上では将棋盤があり、対戦相手は看護士の金森登紀子だと脩平は思っていたが、登紀子は隆正の打った手をメールで恭一郎に知らせ、次の手を登紀子に教え、将棋を打っていたのであった。登紀子は隆正の対戦相手が恭一郎だと知っていたはずだと言った。隆正は桂馬を握っており、恭一郎はそれを将棋盤の上に置き、「見事に詰みだ。親父の勝ちだよ。よかったな」と言って話は終わる。これはテレビでも原作でもかっこいいなぁと感じた。

 これで加賀恭一郎シリーズを全部読み終えたことになるのだが、テレビドラマ終了後、このシリーズの新刊が3月に『麒麟の翼』というのが出るという予告があった。今度はどんな加賀恭一郎を見せてくれるのだろう。
 なお、このシリーズの感想等々では、ほとんど内容を暴露しちゃっている。本当は最初に「ネタバレ注意」とでも書くのが常識なのだろが、面倒になっちゃって一切書かなかった。その点はお詫びしないといけない。でも、話の内容を知っていても、このシリーズは楽しめると思う。


評価
★★★


書誌
書名:赤い指
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062764445
出版社:講談社 (2009/08/12 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2011年01月07日

東野圭吾著『嘘をもうひとつだけ』

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 今回は加賀恭一郎を主人公とする短編集である。「嘘をもうひとつだけ」、「冷たい灼熱」、「第二の希望」、「狂った計算」、「友の助言」の5編である。
 私は東野さんの本を読んでいる方なのか、どうかわからないが、こうしたシリーズもので、同じ主人公とする短編集はガリレオしか読んでいない。だからそれと比べるしかないのだが、少なくともガリレオよりはこちらの短編集の方が面白かったと思う。だいたいガリレオの短編は枚数の制限があるからか、どうもトリックが非現実的で、今ひとつ納得できない部分があった。たぶん以前同じことを書いているはずだ。

 「嘘をもうひとつだけ」は、バレエ団の事務員、早川弘子が自宅のマンションから転落死した事件を加賀恭一郎が、それが事故でなく殺人であることを証明する。犯人は同じマンションに住む元バレリーナの寺西美千代であった。弘子は美千代を脅していた。
 問題は女の非力で弘子を突き落とすことが出来るかどうかである。弘子は独立してバレエ教室を開くため、自らも踊れるようにバルコニーでバレーレッスンをしていた。バルコニーの手すりを利用して練習していたのだ。ただその手すりは普通の稽古場より高めにあった。だから弘子はプランターを伏せてそれを台にしていた。
 練習の最後には片足を手すりに乗せてストレッチをする。つまり弘子は不安定な状態でバルコニーにいたことになり、美千代でも簡単に突き落とすことが出来た。美千代は犯行後そのプランターを元に戻した。当然そこには美千代がしていた手袋の痕跡があっていい。ところが美千代は弘子の引っ越しを手伝った時にそのプランターに触れたと主張する。
 しかし加賀が調べたところそのプランターは弘子の死の直前に買われたものとわかり、引っ越し時にはなかったことが判明する。美千代嘘がばれた。

 「冷たい灼熱」では、田沼洋次家に強盗が入り、妻の美枝子が殺されていた。部屋は荒らされていた。しかも一人息子の裕太がいない。誘拐されたかもしれなかった。
 しかし加賀は部屋の荒らされ方が不自然であること、洋次の言動にも不自然さを感じていた。結局美枝子がたぶんパチンコに通っており、裕太を車に置き去りにしていた。そして裕太は熱中症で車内で死亡した。美枝子その事実の発覚を恐れ、裕太をブレーカーの落ちた部屋で寝かせてしまったことで死亡したと洋次に嘘をついた。洋次は美枝子がパチンコに夢中になっていることを知っていたので、それが嘘であることを知っていた。そして美枝子を殺害した。息子の裕太は洋次が隠したのであった。

 「第二の希望」でも部屋を荒らされていた上に大男がベッドで首を絞められて死んでいた。男はこの部屋の楠木真智子の愛人であった。真智子は離婚しており、娘の理砂と二人で暮らしていた。理砂はオリンピックを目指すほどに器械体操に打ち込んでいた。いや母子でオリンピックを目指していた。
 ここでも加賀は現状に不審を持ち、男を殺したのはこの母子であろうと踏んでいた。結局娘の理砂が部屋にあったひもを使って殺したのであった。

 「狂った計算」は建築士が行方不明になり、建築士と不倫関係にある坂上奈央子に疑惑の目が注がれる。奈央子には横暴な夫がいて、それに耐えきれず、毎月家のメンテナンスにくる建築士の中瀬と関係を持つようになる。そして奈央子の夫を二人して殺そうと計画する。
 奈央子が実家の静岡に帰るとき、まず中瀬が薬で眠り込んだ夫を殺し、その後中瀬が夫に変装して奈央子を駅に送っていく姿を友人に目撃させる。つまり奈央子が駅に着くまでは夫は生きていたと偽装する予定であった。ところが夫は奈央子の不倫に気がついており、中瀬が逆に殺されてしまう。実際に奈央子を駅まで送ったのは実の夫であった。
 そこにトラックが突っ込んできて、夫の遺体は顔の判別が出来ないほどになっていた。そのため加賀はそれが夫ではなく中瀬ではないかと疑うほどであった。この事故はまさしく奈央子にとって“狂った計算”であった。

 「友の助言」は加賀の友人が居眠り運転で事故を起こした。友人は事故の前に加賀に会う予定であった。そしてその友人は決して居眠り運転をする男ではないことを加賀は知っていた。そこで加賀は友人が睡眠薬を飲まされたのではないかと疑い始める。さらに友人が加賀に面会を求めたのも睡眠薬を盛った妻に関する相談だとわかってくる。友人は加賀に助言を求めようと車に乗っていた時事故を起こしたのであった。

 いずれも短編という少ない枚数のため、犯人はすぐわかってしまうのだが、それはそれとして何故犯行が行われたのか、その動機は、その殺害方法は、と追求する加賀の捜査はここでも鋭く描かれる。そのため短編にある消化不良はなかった。


評価
★★★


書誌
書名:嘘をもうひとつだけ
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062736695
出版社:講談社 (2003/02/15 出版)講談社文庫
版型:269p / 15cm / A6判
販売価:519円(税込)

東野圭吾著『私が彼を殺した』

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 殺人事件は次のように起こった。脚本家で作家でもある穂高誠が、詩人の神林美和子との結婚式当日に毒殺された。穂高誠と神林美和子の関係者として、穂高のマネージャー駿河直之、女性編集者の雪笹香織、そして美和子の兄、神林貴弘の3人が登場する。問題はこの3人は穂高にそれぞれ殺意を持っていたことであった。
 マネージャーの駿河は以前勤めていた会社で横領事件を起こし、穂高に穴をあけたお金を出してもらった上で、穂高企画のマネージャーとなった。ところが結局穂高にいいように使われ、いつも穂高の尻ぬぐいさせられていた。さらに穂高は駿河が好意を寄せていた浪岡準子を自分の女にした上で、挙げ句の果てに堕胎させて捨てた。駿河にとってそれは当然許せないことだった。
 雪笹香織は神林美和子を発掘し、美和子の著作にすべて関わっていた。穂高と引き合わせたのは香織であったが、穂高との結婚で美和子との仕事上の関係が失われること恐れた。さらに香織は以前穂高と関係を持っていた上に、結局捨てられたのであった。香織にも穂高を殺す動機があったのだ。
 神林貴弘にも穂高を殺害する動機があった。それは美和子と近親相姦の関係となっており、今度の結婚で美和子を失ってしまう。だから美和子を奪った穂高を許せなかった。

 穂高の結婚式の前に、駿河が好意を寄せていた浪岡準子が、自分を捨てて美和子と結婚する穂高を恨んで服毒自殺を図った。穂高の死因も同じ薬によるものであった。つまり浪岡準子は自らが勤める動物病院から盗んだ毒で自殺を図り、その薬が鼻炎の持病を持つ穂高がいつも飲む薬にすり替えられていたのであった。誰が浪岡準子の毒入りカプセルを盗んだのか。そして誰が穂高の薬とすり替えたが焦点となってくる。
 まずは3人がどうやって毒入りカプセルを入手したかをである。その経路は明らかにされている。まず駿河である。穂高は浪岡準子が穂高の庭で服毒自殺したままにしておくのはまずいと思い、駿河と一緒に死体を彼女のマンションに運び出した。このとき準子の部屋にあったテーブルの上にあった鼻炎の薬の瓶と、毒を仕込むの失敗した思われる分解したカプセルが一錠あった。駿河は準子の部屋を出る時その瓶からカプセルを盗んだ。
 穂高と駿河が浪岡準子の死体を運ぶ光景を目撃している人物がいた。雪笹香織であった。香織もその瓶から1錠カプセルを盗んでいる。
 さて、話が長くなるので単純に薬の行方だけを考えたい。元々この鼻炎の薬の瓶は12錠入りであった。うち1錠が分解されたカプセルとしてある。そして浪岡準子が1錠飲んで服毒自殺図った。残り10錠である。さらに雪笹香織が1錠盗んでいる。ここで9錠となる。加賀はカプセルが6錠部屋に残っていたと言う。ということは、3錠合わない。駿河はカプセルを1錠盗んだといっている。残り2錠はどこへ行ったのか。
 ここで穂高の結婚式前に新しい鼻炎薬を開け、ピルケースにそれを入れようとしたとき、そのケースに薬が2錠入っていた。美和子が薬を飲むのは良くないというアドバイスを受け、穂高はカプセルを捨てていた。これが残りの2錠であった。そしてカプセルをゴミ箱に捨てる穂高を見ていた人物がいる。それは神林貴弘であった。貴弘はそれを拾い、効果を確かめるために猫に1錠飲ませる。残り1錠が貴弘の手元にあった。
 ところが神林貴弘に脅迫状とカプセルが1錠送られていた。脅迫状には妹の美和子との関係をばらされたくなかったら、穂高の薬をすり替えろというものであった。この時点で神林貴弘はカプセルを2錠持っていることとなる。
 しかし加賀は準子の部屋にあったカプセルは6錠といっていたが、瓶の中身を言っていたわけではない。あくまでも“部屋に”である。要するに分解されたカプセルを含めて6錠といっているのである。ということは、瓶の中身は5錠しかなかったことになる。12錠入りのうち、5錠が残っており、後の7錠がどこに行ったかを再度考証してみる。1錠は解体されて残され、2錠は浪岡準子が先に穂高のピルケースに仕込んだ。そして1錠を浪岡準子が飲んで服毒自殺を図る。残り3錠となる。しかし雪笹香織と駿河直之は1錠ずつしか盗んでいないという。ということは1錠が行方不明となるわけだ。
 ここで問題となるのが、ピルケースである。加賀はこのピルケースに関係者以外の身元不明指紋が残っていたことがわかっている。ここで加賀は「犯人はあなたです」と言ってこの話は終わる。
 そうこの小説は前の『どちらかが彼女を殺した』と同じである、“読者に挑戦”というスタイルをとっている。つまり話の中で犯人を明らかにせず、読者に考えさせるのである。
 ピルケースに残っていた身元不明の指紋は穂高の前妻のものであった。そして穂高は美和子と結婚するにあたり、前妻の持ち物をすべて使いっぱの駿河の部屋に移していた。従ってその荷物の中にペアのピルケースがあり、それを取り出すことが出来たのは駿河だけであった。そこに行方不明の毒入りカプセルを1錠仕込んだのであった。従って穂高を殺した犯人は駿河となる。

 以上であるが、どうもすっきりしない。“読者に挑戦”といっても、最後にピルケースが前妻のものだと明らかにするので、フェアーじゃない。本当に駿河以外の雪笹香織と神林貴弘に可能性はなかったのか?美和子の証言を信用すれば神林貴弘にはピルケースに近づくチャンスはなかったというが、それ以前に出来なくもない。なぜなら彼は毒入りカプセルを2錠持っていたのだから。そして雪笹香織も1錠しか盗んでいないということを信用して話は進むが、彼女がもう1錠盗むことも可能であったはずだ。ただそれは薬の数だけの話で、動かしがたい事実がピルケースに残っていた指紋ということであれば、正直なところこんなに詳しく薬の数にこだわって各必要もないのだけれど・・・・。
 

評価
★★


書誌
書名:私が彼を殺した
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062733854
出版社:講談社 (2002/03/15 出版) 講談社文庫
版型:431p / 15cm / A6判
販売価:729円(税込)

2011年01月05日

東野圭吾著『悪意』

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 昨年の流れで、東野圭吾さんの加賀恭一郎シリーズを読んでいる。本当は違う本を読もうと思っていたのだ、どうも正月はだらだらしているためか、精神的緊張感も希薄になっているのだろう。この手のミステリーしか今のところ受け付けない。

 あっ、挨拶を忘れていました。改めて、

 新年あけましておめでとうございます。

 本年もどうぞよろしくお願いします。

 さて今回の話である。作家日高邦彦が殺害された。彼の幼友達である童話作家の野々口修が、電話で話があるからと日高から呼び出されるが、どうも家の様子がおかしい。そのため日高の妻日高理恵を呼び出し、中に入る。そこには鈍器に殴られた後、電器コードで首を絞められた日高邦彦の死体があった。加賀はその捜査に当たる。野々口は加賀刑事なる前教師であったが、野々口は同じ中学校の教師であった。
 野々口は自分が作家であることから、この貴重な体験を克明に記録していく。この本は野々口の手記と加賀の捜査の記録が交互に書かれるスタイルを取る。そして簡単に日高邦彦を殺害した犯人が野々口であることがわかってしまう。
 逮捕された野々口は犯行を簡単に認めるが、その動機がわからない。日高を殺すにあったってのトリックは加賀によって簡単に見破られ、その後の犯行隠蔽工作も野々口が書いた手記に齟齬あるため、問題点を明らかにされ、野々口の犯行は確定しはじめる。しかしどうしても動機がはっきりしないのだ。野々口も殺害は認めても動機を語らない。
 そのうち野々口の仕事部屋から、日高の作品と類似する原稿が見つかる。野々口は日高のゴーストライターではなかったのか、という疑惑が浮かぶ。しかも日高の交通事故で亡くなった前妻初美と不倫していたことも判明する。野々口が日高を殺したのは、自分の作品を元にして日高が自分の作品として発表し文学賞を受賞したことに対する復讐と、前妻初美との不倫をネタに邦彦から自らがゴーストライターを強いられてしまったことで、発作的殺人と思われていく。
 野々口が書いた手記にはとにかく日高の性格が残虐で、自らをおとしめる人間としか書かれていない。それはその手記の最初に日高が家に入り込む猫に毒だんごを作って殺したと手記に書く。そうすることで日高が残虐なんだという先入観を読む者に与える。
 ただ加賀は何かがしっくり来ない。野々口の書いた手記から、野々口自らが捜査の方向をそのように持って行ったきらいがある。もっと深い殺害動機が野々口にはあるのではないか。それを探っていく。
 加賀は捜査を野々口と日高の中学時代まで捜査を広げていく。日高が本格的作家デビューとなった花火師の人生を描いた『燃えない炎』という作品もやはり、それは日高が子供の頃近所にいた花火師をモデルにしている。しかしそれは野々口が書いたものとされる。ということは花火師の仕事場に遊びに来ていた子供は当然日高でなく野々口でなければならいが、その花火師の証言で野々口でないことがわかる。
 さらに野々口は中学時代いじめにあっていたが、いつの間にか野々口はいじめる側に回っていたことがわかってくる。そのいじめのリーダー格に脅かされるのが怖くて、金を貢いだり、腰巾着になっていたのであった。一方日高は少年時代すばらしい少年であり、いじめにあった野々口を助けたりしたりしており、野々口にあっては日高は恩人でもあったことがわかってくる。
 
 日高の小説で、ある版画家の生涯を描いた『禁猟地』というのがある。この版画家のモデルが野々口が中学時代いじめにあっていたそのリーダー格藤尾正哉であった。そこには藤尾が少女を暴行したことが書かれており、遺族から名誉毀損で、『禁猟地』の書き換えを求められて、裁判となっていた。その少女を腕を押さえつけていたのが、野々口であり、その証拠の写真を日高が入手していた。裁判が長引けば、その写真が公にされかねない。これが日高殺害の動機であったが、どうせなら日高を殺害するなら、日高の人間性を貶める方法を考えた。日高殺害の嘘の動機が公表された時、日高の人間性が地に落ちる形を取りつつ、世間の同情が野々口に集まるようにしたかったのであった。そうした悪意が日高殺害を推し進めたのであった。要するに野々口にとって、日高の殺害より、日高を貶めるという動機が先にあったのであったのであった。
 結局日高の作品は野々口が書いたものではなく、野々口が自分がゴーストライターのように見せかけただけであり、日高の前妻初美も事故ではなく、自殺であったのだ。
 野々口の手記には加賀が近づいてくる足音がいつも聞こえてきたと書かれている。加賀はいつもこの手法で、じわりじわり真実に近づき、犯人に恐怖に貶める。これがこのシリーズの魅力であるが、今回は十分発揮されているように思えた。幾重にも仕掛けられた罠と心理トリックの駆け引きは読み応えがあった。


評価
★★★


書誌
書名:悪意
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062730174
出版社:講談社 (2001/01 出版)講談社文庫
版型:365p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2010年12月30日

東野圭吾著『どちらかが彼女を殺した』

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 まず事件のあらましを書いてみる。東京でOL生活をする和泉園子から愛知県に住む兄康正に電話がある。康正は園子の様子が変なので詳しく聞いてみると、園子は信じていた相手に裏切られた。信じられるのは結局兄だけだという。傷心した園子は実家に帰ると言った。康正は園子の帰りを待っていたが、帰って来ない。電話を入れてみても電話に出ない。不安を感じた康正は園子の部屋まで慌てて行くが、そこには感電自殺をしたと思われる園子の死体があった。
 康正は愛知県の交通課の警官で、自らの仕事が自己の痕跡や状況から事故を推理する人間であったため、園子の部屋を見回して、園子は自殺ではなく、殺されたのだと確信する。ただ康正はそのまま警察に園子が死んでいること連絡しない。園子を殺した犯人を自ら捜し出し復讐しようとする。そのため地元の警察に連絡する前に、園子の部屋にあった証拠を隠してしまう。一通り証拠を確保した上で加賀恭一郎のいる警察に連絡する。
 ここから康正と加賀の犯人捜しが始まる。ただ加賀は康正が隠し持っている証拠となるものが何であるのか、事件の謎と一緒に解かなければならないハンデがあった。
 今までこのシリーズを読んできて、加賀恭一郎はいつも脇に置かれた感じで描かれる。むしろ犯人や事件関係者のその後の行動を描くことで、逆にしっぽをつかむ設定が多い。今回も康正の行動を監視しながら、自らが残ったものから事件の真相に迫っていく。

 園子が自らの身体に貼り付けた、電源コードはキッチンで包丁を使って皮膜を削っていた。その際にその皮膜は、包丁に右側についていたことを確認し犯人は右利きであることを知る。また飲んだ睡眠薬袋の破り方が右利きの人間が破るやり方であった。園子は左利きである。加賀はこの時点で園子は自殺でないことを確信する。
 では犯人は誰か。容疑者は二人あがってくる。一人は園子の親友であった弓場佳世子で、もう一人は佃潤一であった。園子は潤一を自らの恋人として親友の佳世子に紹介したが、潤一は園子から佳世子に鞍替えしてしまう。園子が信じていた相手に裏切られた、というのはこのことであった。
 康正はいろいろ調べているうちにこの二人のいずれかが犯人であることを確信するが、特定はできない。加賀も同様であった。事件は最初潤一が園子に睡眠薬を飲ませ、自殺に見せかけて殺そうとしたが、そこに昔アダルトビデオに出演していたことを知った園子に脅された(裏切られたことの腹いせに)佳世子が来て鉢合わせになる。二人は一端園子を殺さず部屋をである。そのあと二人のうち一人がまた園子の部屋に入り、自殺を装って殺すのである。
 この本は最後まで犯人を特定していないで終わっている。要するに読んでいる人間が考えろ、ということらしい。証拠となる物件、状況はとことん明らかにしているから、後は読者が考えればいいということになっている。なかなか面白い。得意のネットで調べてみると、犯人は佳世子だ、いや潤一だと意見が分かれているが、私は潤一だと思う。
 問題は佳世子の利き手が右か左かである。この文庫には袋とじがあって、犯人捜しの手がかりを教えてくれるが、そこでも、また本文でも佳世子の利き手が曖昧だ。佳世子が右利きだと犯人の可能性があるが、それはわからない。ちなみに佳世子が園子の葬儀の時署名した時は右手で書いていたと書かれてはいる。ただこの場合園子と同じように普段の生活では矯正された右利きであったが、ふとしたことから本来の左利きに戻ることもあり得る。
 この小説は最初ノベルズ版で発表されたもので、そこには佳世子が左手で睡眠薬の袋を破った書いてあるそうだ。しかし文庫版ではその一文は削除されていて、佳世子の利き手がわかりにくくしているので、余計に犯人の特定が難しくなっているという。確かにそうだ。もしこの文章が残されていたら、簡単に犯人が潤一だと特定できてしまう。
 でも佳世子の利き手がわからなくても、園子の身体に貼り付けた電源コードを固定した絆創膏が、佳世子の身長では届かないところに置いてあった救急箱にあったこと。
 さらに康正が園子の復讐のために佳世子と潤一を呼び、動けないようにしてから、園子と同じように電源コードを身体に貼り付けるた。最後になって加賀に説得された康正はヤケになってスイッチに指をかけた。そのとき「犯人は絶叫し、犯人でないほうも悲鳴をあげた」と書いてある。これを読んだとき私は絶叫するのは男の方で、悲鳴は普通女が上げるものだと思ったので、この時点で犯人は潤一だろうと思ったのである。

 犯人を明らかにせず読む側に考えさせるものは、さっきも言ったように面白い。それこそ本当に犯人捜しをするかのように、読み終えても、もう一度必要な箇所を読み直し、あれこれ考えさせてくれる。こういう解答なきミステリーも“楽しみ”としていい。


評価
★★★


書誌
書名:どちらかが彼女を殺した
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062645751
出版社:講談社 (1999/05/15 出版)講談社文庫
版型:355p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年12月28日

本多孝好著『at Home』

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 この本は、「at Home」、「日曜日のヤドカリ」、「リバイバル」、「共犯者」の4編を集めた短編集である。しかしそれぞれには共通していることがある。それは壊れた家族がそれぞれ再生を目指すことである。時にはまったく別々の家族の一人が集まり、新たな家族を作る。あるいは主人公が離婚し、新しい妻を求め、家族再構築する。そこで妻の前の夫と問題が起こったり、または別れた夫婦が、あることがきっかけに再生を予感させるものもある。あるいは父親が急に失踪したが、その父親と息子が会って、妹の家庭で起こる幼児虐待から甥っ子を救うことなど、ちょっと変わった家族愛を描いている。

 実は最初の「at Home」のシチュエーションに戸惑ってしまった。最初に息子の僕と母親の会話がものすごく不自然であったのだ。だから“なんだ、この話は?”と違和感を感じながら読み続けると、家族がそれぞれまったくの他人であり、父親役が出来る男が父親をやり、母親の年齢の女が母親をやる。そして息子である僕と、妹と弟がそれぞれ集まって、疑似家族を作っていたのだ。
 僕の本当の両親は自分たちの仕事のことで頭がいっぱいで、仕事に没頭し、息子のことに一切関心を持たなかった。僕の話を聞いてくれと言った時、その時時間がないからと後にしてくれと言う。その約束の時間にも両親は帰ってこなかった。そんな両親を僕は殺そうと思い、包丁を振り上げる。殺すつもりでいたが、「殺さないでくれ」という悲鳴が行為を止めた。彼らは「殺さないでくれ」と悲鳴を上げる。それはお前は親である私を殺すなというのでもないし、まして息子が殺人者になることを止めている訳でもなかった。それは「小さな頃から必死に努力し、苦労してここまで実現してきた俺という自己を抹殺するな。お前にそんな権利はないだろう?」とそう言っていた。それが僕にはわかり、醒めた。僕は包丁を置き、家を出た。そのとき偶然泥棒に入った父さんと出会い、一緒に逃げた。
 妹の明日香は実の母親がずっと前に家を出て行ってしまい、父親も不在がちであった。妹がいたため明日香はその妹の親の役を務めたが、もともと心臓に疾患があったため、ある朝目が覚めると妹は死んでいた。
 母さんと出会ったのは、早朝のホームで、自らも夫の暴力に疲れ果て家を出ていたときであった。そのとき母さんは自分と同じ目でホームから線路を見ている少女に気がついた。少女は自分以上に疲れ果てているように見え、母さんは死んでる場合じゃないと思う。同じ死ぬならせめてこの少女を生かしてから死んでやろうと思う。
 弟の隆史は空き巣に入った父さんがその家の柱に縛り付けられていた一人の小学生を連れてきたのであった。
 こうして4人が疑似家族新しく作り始めた。本当の血のつながった家族ではないから、変な会話が出来る。母さんは男をだまし、金を巻き上げるのが仕事であったが、その付きっていた男と金を巻き上げて別れる時期を模索していたとき、

 「ま、いいの。二週間でけりつけるから」

 「できるの?」と明日香が聞いた。

 「どうせ、そろそろ一発やらせてあげなきゃってとこだったし、まあ、いいタイミングだわ」

 「そういうこと、中学生の娘の前で言う?」と明日香が声を上げ、「あら、中学三年なら、色々とご存じでしょうに」と母さんは笑った。

 そう言った母さんの「テク」はすごいのだろう。少なくと今日まで同じ手でやってこられたことを思えば・・。しかしあんまり想像したくないが、と僕は思うのであった。
 その母さんが男に逆にゆすられた。監禁され、身代金一千万を要求される。母さんは明日香を身元のばれない私立の高校にやるためのお金を稼いでいたのであった。
 僕は印刷屋で偽造パスポートを作る仕事をしていたが、そこに一緒に働いていたゲンジさんがいつか精巧な偽札を作りたいと思っていたことを思い出し、身代金を偽造してもらい、父さんと一緒に男に会う。そこに隆史が母さんが殴られて監禁されていることを知り、以前父さんが盗み出したピストルで男の足を撃ってしまう。母さんを殴ったことに対して怒ったためであった。このままだとこの偽装家族は崩壊してしまう。父さんは一人で罪をかぶるため、男を殺し、刑務所に入る。
 出所後、僕は父さんを迎えに行き、新しい家族を紹介する。僕は奥さんを迎えていた。明日香であった。そして母さんは明日香の母さんとなり、隆史は明日香の弟で、父さんは今度僕の父さんとなって、ゼロから始めるのであった。

 それぞれがそれぞれの家族で問題を抱え込み、逃げ出して、まったく別の家族を作った。そしてその疑似家族に本当の家族以上につながりが出来たとき、みんなで家族を守ろうとする。もしかしたら血のつながりがない分、あるいは本当の家族に裏切られた彼らだからこそ、より強い精神的つながり出来たのではないか、と思ってしまう。嘘でも古傷から身を寄せ合い、したたかに家族と共に生きているのだけれど、あっけらかんとしている分、むしろさわやかであった。

 「at Home」のことを詳しく書いたのは、この4編短編の中で一番気に入ったからだ。その次に良かったのは「リバイバル」であった。
 男は息子の翔太の塾代などの工面のため、サラ金で百五十万を超える金を借りた。しかし翔太は大学受験に失敗し、自殺してしまった。そして妻の昭子と別れた。
 残ったのは借金だけで、男は居酒屋で働き毎月五万八千円の返済を続けてきた。男はもう五十三であった。文句も泣き言も言わず、体がきつくても毎月期限に返し続けてきた。男は「返すために働く。働いて返す。それがくり返される日常。私はその日常に慣れていた。借金というくびきが私を働かせていた。私を生かしていた。その生活が地獄というなら、私の体は地獄に適応していた」と思うのであった。むしろその地獄を追い出されると生きていけるかとさえ思うのであった。
 そんな返済日にサラ金の矢島が来て、私をよくやっていると言い、優良顧客だとも言う。が、ここいらで手じまいにしようと提案する。条件は妊娠したブラジルの女と結婚し、子供を籍に入れる。ただし一年一緒に暮らして、その後別れていい。その際の条件は一切ない。そして残っている借金を棒引きにするという話であった。
 借金がなくなるということは男にとって生きいるためとはいえ、地獄からの解放であった。そして男は矢島の提案を受け入れ女と結婚する。
 一方男が働いている居酒屋に昭子が客として来るようになった。

 今日も昭子は、ビールを飲み、軽い食事をして、小一時間ほどで席を立った。レジに立ち、私は財布を持つ昭子の細い指を見るともなしに見ていた。かつてあった指輪を探したわけではない。私はいつも無意識に、自分の知らない指輪をそこに探してしまう。それがないことにホッとする自分がいて、それがないことに落胆する自分もいた。幸せになって欲しいと思う。そこには嘘はない。けれど、幸せになった昭子を素直に祝福することはないだろう。それもわかっていた。

 これを読むと、女の指はいろいろ語るんだな、と思う。

 半ば偽装結婚した男はだんだん女に情が移っていく。生まれてくる子供を翔太の時と重ね合わすようになる。それは男がかつてした家族の生活を思い出せるが、矢島は女を強引に連れ出してしまう。そのとき争いになり、男は鼻の骨が折れるほど殴られる。女がいなくなり、昭子がまた店に来ているのを知ったとき、男は昭子に翔太の写真が欲しいと頼む。昭子は翔太の写真もって男のアパートを訪ねる。「翔太の写真が飾られた部屋。そこに私と昭子がいる。静かに流れる時間の中で、幸せでないことだけをわけ合っているわけでない私たちがいる」ことを実感出来るようになる。息子はいないが男に再出発を予感させる話であった。


評価
★★★


書誌
書名:at Home
著者:本多 孝好
ISBN:9784048741361
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2010/10/31 出版)
版型:276p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年12月26日

東野圭吾著『眠りの森』

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 続けて加賀恭一郎のシリーズを読みたくなったので、手にする。
 今回は高柳バレエ団の事務所に強盗が入り、それに出くわした斎藤波瑠子がもみ合い、近くにあった花瓶で強盗を殴りつけた。そしておきまりの打つどころが悪くて殺してしまった。いわゆる正当防衛である。警察は波瑠子の正当防衛に疑いの余地がないのか?警察はしばらくの間波瑠子を拘留して調べる。
 波瑠子の幼なじみで同じバレエ団に所属する浅岡未緒は波瑠子のことを心配続ける。そんな心配な未緒に加賀は惹かれ始める。捜査に関わる以上に未緒に関わっていく。
 そもそもなぜバレエ団の事務所に強盗が入るのか?そしてそれは本当に強盗なのか?強盗の身元が不明だあったが、失踪届を出した恋人から身元が明らかになる。風間利之という人物であった。風間は二年ほど前からニューヨークに絵の勉強のため渡り、一年ほどそこに滞在し、そこが気に入ったためか、帰国後またニューヨークに渡るつもりであった。強盗に入り殺されたのは渡航二日前だった。
 加賀達は、そんな風間が強盗に入るのか。また聞き込みでも風間が強盗に入る人間ではないし、金にも困った様子がない。段々波瑠子の正当防衛に疑問が浮かび上がってくる。
 そんな中、高柳バレエ団の演出家梶田康成がリハーサル中、客席ど真ん中で指導中に毒殺される。梶田を調べているうちに風間がニューヨークのいた頃、彼もニューヨークにいたことがわかってくる。強盗の風間と演出家の梶田に接点が見つかる。ニューヨークに何かあるはずであった。警察がこの接点を調べ始めたのと同じようにバレエ団にもそれに気がついた男性バレエ団員がいた。それを調べていた柳生謙介は自分の入れておいたコーヒーを飲んだ時倒れた。水筒に梶田が殺された時と同じ毒が入っていたのだ。
 そして演出家の梶田が毒殺された方法がわかり、その仕掛けを作るために買った注射針の代わりにした軟式テニスのボールに空気を入れるための針を買ったことがわかる。調べているうちにやはり同じバレエ団の森井靖子の名前が上がる。しかし靖子は風邪をひいたと言ってバレエの練習を休んでいた。
 加賀たちは急いで靖子のアパートに駆けつけるが、靖子は自殺をしていた。そして梶田を殺した凶器が冷蔵庫から見つかる。梶田を殺したのは靖子であった。
 
 ニューヨークに事件に関係があるなにかが存在する。それはニューヨークで高柳バレエ団のプリマドンナである高柳亜希子が同じニューヨーク在駐の画学生青木一弘と恋に落ちたことから始まる。亜希子が帰国間際になると青木ともめ、ナイフで襲ってきた青木を亜希子は逆に刺してしまった。それを知った梶田康成は、バレエ団のプリマドンナである亜希子に傷がつくことを恐れ、刺したのは亜希子と一緒にいた森井靖子だと嘘の証言をする。
 以後青木一弘はニューヨークで荒んだ生活をし続けた。そこに青木からニューヨークで知り合いになった風間利之に連絡があり、自分にはもう未来に希望がないから死ぬつもりだと言われる。それを聞いた風間はもう一度青木に会ってやってくれと亜希子に頼むために、バレエ団に忍び込んだのであった。その時一緒にいたのは波瑠子ではなく、未緒であった。未緒にはバレエ団のプリマドンナを守らなければならないという殺意があった。
 しかし未緒の身代わりとなったのは波瑠子であった。ここにも過去の事件が尾を引くこととなる。波瑠子は以前未緒と一緒に乗っていた車で事故を起こし、自分も怪我をしたが、未緒には後遺症が残り、耳が聞こえなく鳴りつつあった。未緒にとって亜希子と一緒に踊る舞台は今回が最後になるかもしれないという思いもあって、亜希子に言い寄る風間を花瓶で殴ったのも大きな理由であった。
 そこに波瑠子は来て、未緒に借りがあるものだから自分が身代わりとなったのであった。
 一方梶田を毒殺した森井靖子は梶田の言うことをすべて受けいれてきた。演出家の梶田に気に入られるようなダンサーになることしか考えていなかった。全幅の信頼を梶田に置いていた。その梶田にニューヨークで青木を刺したのは自分だと言われ、もうその時点で梶田に裏切られていたことを知ったので、梶田を殺害したのであった。

 これが今回の連続殺人事件および一人のダンサーの自殺の全容であった。今回は話のつながりが複雑であるため、わりとじっくり読んでいかないと途中で話がつながらなくなる。この謎解きは過去の事件の多さで誤魔化している感がぬぐえなかった。けれどそれなりに面白かった。加賀恭一郎はこの事件を捜査をしているうちにどんどん浅岡未緒に惹かれていき、風間の殺害を認めた未緒に、耳が聞こえなくなる未緒を「俺が守ってみせる」と告白してこの話は終わる。この後二人の関係はどうなるのであろうか?次の話以後、展開はあるのだろうか?ちょっと気にかかる。
 ということでシリーズ第三弾も手に入れたので、近々読むことになるであろう。


評価
★★★


書誌
書名:眠りの森
著者:東野 圭吾
ISBN:9784061851306
出版社:講談社 (1992/04/15 出版)講談社文庫
版型:328p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年12月14日

東野圭吾著『卒業』

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 国立T大の女子学寮「白鷺荘」で、茶道部四年生の牧村祥子が自室で死んでいるのが発見される。発見者は祥子と同じ茶道部の相原沙都子と祥子の隣室に金井波香であった。沙都子は体調が悪いと言って途中で帰った祥子を気遣って白鷺荘にやってきて、祥子の部屋から光が漏れているのを不審に思い、管理人に祥子の部屋を開けてもらった。
 祥子は左手首を切り、腕を洗面器に突っ込んで出血多量で死んでいた。一見自殺に見えるが、祥子には自殺する理由が沙都子らに見あたらなかった。他殺の可能性もありそうだ。
 捜査は進展しないうちに、恩師の南沢雅子の誕生日を祝うお茶会が行われ、突然出席者の金井波香が倒れて死んだ。毒物死であった。
 沙都子の仲間が二人相次いで死んだ。加賀恭一郎はこの一連の事件の関連性を疑い始める。恭一郎と沙都子の仲間のうちに犯人がいる。二人は自ら仲間を疑わなければならない中、事件の真相に迫っていく。

 私は以前『新参者』を読んで楽しませてもらった。そして主人公加賀恭一郎は、シリーズものになっていることを知り読んでみたいと思いこの本を手に取った。加賀恭一郎が登場する第一作がこの作品である。
 なかなかおもしろかった。祥子は自殺なのか、それとも他殺なのか。他殺なら祥子の部屋は密室である。犯人がいるなら、簡単に祥子の部屋に入り込むことが出来ない。
 祥子には恭一郎と沙都子の仲間の一人である男を恋人に持っていた。しかし祥子はその男に内緒で違う男と遊び、病気をうつされてしまった、と勘違いする。そのことを恋人に打ち明けたが、冷たくされたことによる自殺であった。ちょうど祥子が死にかけているところに男が祥子の部屋に忍び込んできた。男には野心があり、祥子が病気だけでなく、他の男の子でも宿していたらたまらないと思い、まだ息のあった祥子をそのままにしてそこから立ち去った。
 さらにお茶会で波香が毒殺死した場合においても、波香だけを狙うには様々な障害がある。お茶会に参加していた沙都子たちにも毒が盛られているお茶を飲まされる可能性があったからだ。それを波香だけを狙う方法はどういう方法なのか?このお茶会にはお茶を飲むルールがあった。それは「雪月花之式」というもので、これはちょっと説明が難しい。というか本にも図式が書かれていて、これがないと読む側も理解できない。結局このお茶会で波香を殺害するには共犯者必要で、それも恭一郎と沙都子の仲間の一人であった。
 ことの発端は波香が剣道の試合の優勝決定戦破れたことから始まる。波香の対戦相手は波香実力からすれば当然勝てたはずであった。しかし対戦前に薬が入ったスポーツドリンクを飲まされたことで、敗れてしまった。波香は薬を入れた人間を追求し、今度は犯人がテニスの試合があるので、同じように薬を入れて、復讐しようとしていたのを、逆手にとられて殺されてしまったのだ。
 波香に薬入りのスポーツドリンクを飲ませた仲間も、自らの保身のために対戦相手から強要され拒むことが出来なかったのであった。
 この物語は就職先も決まり、大学の卒業を待つ仲間たちが、自らが未来における保身のために、犯行を行った。そういう意味では恭一郎と沙都子には大学の卒業がめでたくもなかった。

 私は学園ものはどこか甘ったるいところがあって好きじゃないが、これは案外おもしろかった。
 『新参者』で加賀恭一郎のキャラクターが好きになったので、刑事でない恭一郎はおもしろかったし、この後恭一郎は大学を卒業して刑事になるのだろうか。
 それも気になるので、次も読んでみたいという気持ちになっている。幸い何冊か出版されているいるようなので、楽しみである。ちなみに加賀恭一郎シリーズは以下の通り。

『卒業』(講談社文庫)
『眠りの森 』(講談社文庫)
『どちらかが彼女を殺した』 (講談社文庫)
『悪意』 (講談社文庫)
『私が彼を殺した』(講談社文庫)
『嘘をもうひとつだけ』(講談社文庫)
『赤い指』 (講談社文庫)
『新参者』(講談社)

評価
★★★


書誌
書名:卒業 ― 雪月花殺人ゲ-ム
著者:東野 圭吾
ISBN:9784061844407
出版社:講談社 (1989/05 出版)講談社文庫
版型:371p / 15cmX11cm / 文庫判
販売価:619円(税込)

2010年11月23日

半藤一利著『歴史探偵 昭和史をゆく』

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 私はこのブログを更新する場合、書誌を紀伊國屋書店BookWebから参考にさせてもらっている.そのためほとんど毎日このサイトを見ている。で、いつものように閲覧していたら、この本のことが眼に入る。よくわからないが、この本は紀伊國屋書店限定で復刊されているらしい。アマゾンで検索して見ると古本しか手に入らない。ということはこの本はここで購入するか、古本で買うか、どちらかになる。
 私は基本的にネットで本を買う場合、アマゾンで買うことにしている。理由は簡単である。送料が無料だからである。
 しかしこうして毎日このサイトを閲覧させてもらっているだけで、会員にもなっていなければ、本を一度も買ったことがないのも心苦しい。こうして欲しい本があるなら、別にどこで買ってもいいので、急遽会員になった。ただこの本だけだと、送料が取られる。
 実はこれが嫌なのである。送料を無料にするために、無理して1,500円以上買い物をしなければならない。欲しい本があって、それが1,500円以上になれば何ら問題はないが、そうでないときは、あれこれ考えて探すこととなる。こういう時候補として出てくる本は、一度は読んでみたいとは思うけれど、まだ買うほどじゃないなという本である。無理して買う本じゃない、ということだ。それを買わざるを得ないのは少々しゃくなのである。その点アマゾンはそんなことは無用なので、気兼ねなしに買えるからいい。
 今回はもう一冊吉村昭さんの新刊があったので、紀伊國屋書店BookWebで本を買った。

 さてこの本は半藤さん自ら歴史探偵と称して暗い昭和の戦争史の裏側を探っている。これがなかなか興味深く、いろいろ教えてもらった感じである。特に太平洋戦争の始まりと、その終わり方が興味に引いた。まずは開始の方から。
 昭和16年12月7日、日本はアメリカに宣戦布告なしに奇襲攻撃を開始した。いわゆる真珠湾攻撃である。しかしこれは宣戦布告をしなかった訳ではない。当時の東郷外相は野村大使宛対米覚書を発電した。その内容は「7日貴地時刻午後1時を期し米側に 貴大使より直接御手交ありたし」と指令したものであった。ところがワシントン大使館でタイプに手間取り野村大使がハル長官に渡したのは午後2時20分になってしまった(本当は真珠湾攻撃開始30分前の予定だった)。この結果、真珠湾攻撃は無通告攻撃となってしまったのである。
 山本五十六は開戦通告にはかなりこだわっていた。山本五十六は政務参謀藤井茂中佐を呼び、「藤井君、たびたび言うようだが、外務省はアメリカに対する開戦の通告はぬかりなくやってくれているだろうな。戦うかぎりは正々堂々戦わねばならぬからな」と尋ねているくらいなのだ。ただ政府・統帥部は、無通告開戦のほうに意志が傾いていたことも事実である。
 国際法上において、開戦通告の問題は20世紀の初めになって、世界各国の間で取り決められた法規がある。すなわち1907年の調印されたハーグ第三条約において、「開戦ニ関スル条約」第一条として、「締結国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、その相互間に戦争を開始すべからざることを承認す」である。日本も条約を批准していたので、当然この法規に拘束される。
 ただ日本は無通告開戦に対して理論武装を用意していた。すなわち国際法にいう自衛権・自己保存権には、たとえ条約無視の事実があっても、自衛権は一切の条約規定に勝るべきものであるから、自衛権・自己保存権のために戦争をおっ始めた場合、無通告開戦でも、ハーグ条約に違反していないと主張するのである。
 日本が主張する自衛権・自己保存権とは、ABCD包囲陣が日本の切迫せる形勢を示すものであって、それは日本から見れば、国家存続の重大利害の関わり、切迫した危険を有することは明白だというのである。そのための戦争であれば、ハーグ第三条約の規定を無視しても問題ないと考えていたのであった。
 ただこれは戦後、連合国側から追求された時の言い訳ともとれる。しかし日本はアメリカに対して決して無通告開戦をしたわけじゃない。政府の不手際から結果としてそうなってしまったということのようだ。

 次に終戦時に起こった問題を書く。昭和20年8月14日午後11時(日本時間)に日本政府はポツダム宣言の受託の通告を発した。これで日本は戦争を止めることで、すぐ戦争が終わるものと考えていたところがある。しかし通告は日本の降伏の意思表示に過ぎなかったのだ。国際法上の正式の「降伏」を完成するには、降伏条件の正式調印をまたなければんらないことを、日本の指導層はきちんとわきまえていなかった。この時点ではまだ戦争が続いていたことになる。
 だから満州に侵入したソ連軍参謀アントノフ中将は、8月16日の布告のなかで、堂々と言明している。天皇が14日に行った通告は「単に日本降伏に関する一般的なステートメント」にすぎず、日本軍の降伏が正式に実行されていない以上は、「極東におけるソ連軍の攻撃態勢はいぜん継続しなければならない」と。
 マッカーサーも8月16日には命令第一号として、「連合国の降伏条件を受諾せるにより、連合軍最高司令官は、ここに日本軍による戦闘の即時停止を命ず」と日本政府と大本営に発した。それでもソ連軍は侵攻をやめなかった。
 なぜか、理由は簡単である。8月15日以後に日本政府と軍部とがしばしば使った「降伏」という言葉は、すべて降伏文書調印(9月2日)以後を示していた。マッカーサーが連合軍最高司令官として最高指揮権を持つのはそれ以後となる。それまではアメリカとソ連の間ではマッカーサーが最高司令長官に任命されるという了解にとどまる。だからアメリカもソ連の侵攻を止められなかったのである。アメリカも日本の政軍指導層も国際法に対する無知さを露呈したことを示すこととなった。
 このあたりの不手際は、開戦時にも同様なことを起こしているし、終戦においても、適切な処置がとれない当時に政治上層部に大いに問題があった。少なくと国際法をきちんと守り、それに熟知していれば、宣戦布告にしてもあんな不手際は許されないことぐらいわかるだろうし、終戦においても、単に日本が戦いをやめたから、即、降伏調印と同じ効力を持つものではないことぐらい知り得たのではないか。それが今の北方領土の問題を引き起こしているのである。外交の難しさも、熟知する人間が当時の政治上層部に数多くいれば、もう少し歴史は変わっていたかもしれない。
 もっと言えば、日本の国力を熟知していれば、そもそもこんな無謀な戦争など出来やしない。それ以前に行ってきた戦争だって、首の皮一枚で何とか勝利したものである。それをすばらしい勝利と国民に知らしめたことが問題である。本当は危なかったんだよ、と多くの国民知らせるべきものであった。知らされなかったとはいえ、それを知らせなくてもいいと日本政府が判断したことは、国民がまだ政治に本当の意味で参加していないことを示すことになる。
 政府の言うことを言われるまま受け入れ、政府が戦争に勝った、と言えば国民は大喜びだったのである。戦争をするときだって、国民一致団結して望まなければ勝利は望めない、と言われればそれに渋々従うしかなかった。その程度の政治意識のレベルであった。ある意味指導者側はやりやすいといえばやりやすい。
 しかしだからといって、個人レベルで損得は勘定できる。苦しい思いをした分、その見返りが当然あるものと思うのだ。それが思ったほどなければ、不満となって爆発する。そのため国民にいつも美味しいにんじんを目の前にぶら下げていないと、国民の理解を得られないことになって、最後は戦争に行かざるを得ない。これが昭和の姿だったのではないか。なまじ日露戦争や日中戦争に勝ったという馬鹿なプロパガンダが国民の損得勘定に火をつけてしまったのではないか、と思う。見返りを求めた国民と、その見返りをあげるためにいい顔をしたい軍の指導部が戦争を起こしたといっていい。
 その中で山本五十六は、日本国民が熱狂し熱情にかられ動揺しやすい国民であり、日本人の集団主義にたいする恐れを抱きつづけた。集団は欲求不満が起こると、かならず大なり小なり攻撃的な行動をともなうことになるからである。
 また越後長岡藩の末裔であった山本は、敗亡の民がなめなければならぬ辛酸が、身にしみてわかっていた。それだけに負けるのが必死の戦争の回避に、最後まで努力したことが、著者のひいき目で記されているが、軍にも状況がきちんと把握できる人物もいたことは記憶しておくべきであろう。
 最後にこの本で知り得たことを書いておく。もしかしたら以前読んだ本で似たような記述をしたような記憶があるが、知っておいていいものだから重複しても書き残しておく。それは靖国神社とは何か、である。
 靖国神社の原型は、幕末の尊皇攘夷のために横死した志士たちの招魂場にある。文久2年(1862年)に早くも民間有志によって慰霊祭が営まれ、慶応年間から明治にかけて各地で招魂祭が行われ、それがつぎつぎに招魂社となっていった。そして明治2年(1869年)、明治天皇の「深き叡慮に似て」各地の招魂社をまとめて、東京招魂社が創建されることとなる。はじめは鳥羽伏見の戦い以来の戦死者三千五百八十八人が祀られた。それから毎年のように合祀者がふえ、これが靖国神社となったのは明治12年6月、社格を別格官弊社に列せられた。合祀者の最初の人は久留米藩家老、稲次稲葉正訓となっているらしい。
 問題となるA級戦犯7名は昭和20年11月12日に判決を受け、41日後の12月23日午前零時から同35分までの間に、巣鴨拘置所内の絞首台で処刑された。GHQは死体はは火葬に付すが「灰は取り捨てる」と発表。棺には氏名や標識もなく、No.1から7までの記号が大きく書かれていた。午前11時、粉末にされた遺骨は七つの黒塗りの箱に収められ、ジープに積まれると風のように火葬場から持ち去られ、その後これらがどう始末されたか、確たる発表も手記もない。
 火葬場長飛田美善以下五名の日本人はMPが立ち去った後、集骨台の上に残された灰をかき集め、一つにまとめた。もちろん誰の骨かはわからない。それが愛知県幡豆郡三ヶ根山頂に建てられた「殉国七士墓」の下に祀られている。


評価
★★★


書誌
書名:歴史探偵 昭和史をゆく
著者:半藤 一利
ISBN:9784569568294
出版社:PHP研究所 (1995/12/15 出版)PHP文庫
版型:366p / 15cm / A6判
販売価:649円(税込)

2010年09月21日

東野圭吾著『新参者』

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 実はこの本以前から読みたいと思っていたのだが、一方でもうテレビドラマで見てしまったし、いいかなという気持ちもあり、どうしようか迷っていた。結局のところ読むことにしたのだが、読んでよかった。
 テレビ化となると原作と大きく話を変えてしまうことが結構多いが、今回は見たドラマはわりと原作に忠実であったなと思った。またこうして読んでみると役者も適役だったなと感じた。だからか実際この小説を読んでいて、この話はあの場面だなとか、この人物はあの役者がやっていたんだなとこの話とうまく結びついて違和感がなかった。むしろ話を補足してくれる感じがあったし、それはそれで楽しかった。
 テレビを見ていたとき、話の度に出演者ががらりと変わるものだから、三井峯子の殺人事件とどうつながっていくんだろうかと思っていた。原作がそうだったから、あのようなドラマになったのだ知った。たとえば第一章「煎餅屋の娘」、第二章「料亭の小僧」、第三章「瀬戸物屋の嫁」、第四章「時計屋の犬」、第五章「洋菓子屋の店員」第六章「翻訳家の友」、第七章「掃除屋の社長」、第八章「民芸品屋の客」、第九章「日本橋の刑事」とそれぞれ中心となる出てくる人物が違う。

 これらの章には一見事件とは無関係な人物たちが登場してくる。けれど捜査をしていくうちに、三井峯子と何らかの関係を間接、直接、生前持っていた人物であった。そしてこれらの人物たちの中には三井峯子の事件とは別なところで、それぞれの生活があり、その中で問題を抱え悩んでいる人物もいた。
 たまたま三井峯子の捜査で捜査の対象となってしまったことで、事件とは別なところで抱えていた問題が明らかになってしまう。捜査をしているうちにそれが“誤解”から生じていること明らかになる。その“誤解”を解いて、救いの手を差し出すのが、日本橋署に新たに赴任してきた加賀恭一郎である。彼はこの街では“新参者”である。

 「加賀さん、事件の捜査をしていたんじゃなかったんですか」
 
 「捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です」

 こんなことあり得ないと言ってしまえば簡単なことだ。事実としてそうであろう。でもお話だから、これはこれでなかなかいい。こうして町に住む人々の生活を一見関係なさそうに見せかけ、事件の核心へと進んでいくあたりは、ドラマでもそうだが、小説もワクワクしていく。舞台が人形町というのもいいのかもしれない。老舗のお店が並ぶ商店街で働く人々を登場させることで、さらに人情味を醸し出させるのだ。ちょっと行ってみたくもなる。

 東野さんの小説は面白いのとそうでないものとがわりとはっきりしていて、その差が激しいように思える。だから面白ければ(当たり前だが)、とことん面白いし、そうでなければとことんつまらなくなってしまう。そのため面白いかどうかは読んでみないとわからない。まぁ、それだから次も読んでみようと思うのだ。これが出る作品すべてがつまらなくなったらおしまいだ。きっと次も何か東野さん作品を読むだろう。


評価
★★★★


書誌
書名:新参者
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062157711
出版社:講談社 (2009/09/18 出版)
版型:348p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年07月05日

秀村欣二著『ネロ』

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 どうもこの本のことは書きにくい。まずネロの家系が複雑だ。ネロはカエサルの家系ユリウス・クラウディウス朝の人物なのだが、この家系とにかく入り組んでいて、系図をたどればあのオクタビアヌスとアントニウスの血が一緒になってしまうのである。
 ネロの母親といえば、有名な小アグリッピナであるが、この小アグリッピナは初代皇帝アウグストゥスの曾孫であり、一方アントニウスの曾孫のもあたるのである。とにかくネロはネロはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの四代目の子孫、すなわち玄孫である。

 さてそのネロの経歴をざっくりと書くと次のようになる。


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 ネロは紀元37年、小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として生まれる。カエサルの家系であるユリウス・クラウディウス朝の最後の皇帝である。
 父親のグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスはネロが3歳のときに亡くなった。そして母子は一時皇帝カリグラによって幽閉されたが、カリグラ帝が殺されクラウディウス帝が即位すると、ネロはローマに戻ることを許された。
 クラウディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。しかしながらメッサリナは紀元48年に不義の咎で殺害され、後妻として小アグリッピナがクラウディウスと結婚し、皇妃となった。その母の計略によりネロはクラウディウスの娘オクタヴィア(クラウディウスとメッサリナの間に子)と婚約し、継子から養子となり、立場が強化された。
 さらに小アグリッピナはネロをローマ皇帝へと推し進めていく。クラウディウスとメッサリナの間にはブリタンニクスがいて、クラウディウスの後継者としてもっとも有力視されていたが、小アグリッピナの采配では徐々に疎外していく。
 そして小アグリッピナが夫のクラウディウスを毒殺し、ネロを五代目のローマ皇帝に即位させる。さらに小アグリッピナはネロに邪魔になる人物たちを次々と抹殺していく。小アグリッピナは自らの支配権を息子ネロを通して確立していくのであった。
 ところがネロは小アグリッピナが鬱陶しくなって行く。それは妻オクタヴィアに使えていた解放奴隷アクテと関係であった。ネロはオクタヴィアと別れてアクテと結婚しようとしたが、当然これは小アグリッピナは許し難いことであった。ここから母子の亀裂が生まれ、抜き差しならない状況になっていく。こうなってくると小アグリッピナはネロよりブリタンニクスを持ち上げようとする。そこでネロは母親からの血なのか、邪魔となるブリタンニクスを毒殺してしまう。
 そしてここに友人マルクス・オト(後の皇帝オト)の妻ポッパエア・サビナが登場する。この女タキトゥスによると「高貴な魂を除けば」女として欠けているものは何もなかったという。ネロはポッパエアの虜となってしまう。これでネロと小アグリッピナの母子は完全な破局を迎えることとなる。小アグリッピナは暗殺された。ネロは毒婦ポッパエアとの結婚を急ぎ、妻であるオクタヴィアと離婚し、島流し末、殺した。
 ポッパエアは女の子を産んだが四ヶ月もたたぬうち死亡した。この後あの「ローマの大火」があったが(これはこの後書く)、ポッパエアも急死した。死因はネロが身重のポッパエアを足で蹴ったとか、毒殺したとか伝えられているが確証はない。
 もうこのあたりからネロの性的感覚はかなりいおかしくなり男色に走り、自ら女装しては解放奴隷のピュータゴラースやドリュプォルスと正式に結婚して彼らの花嫁となったり、美少年スポルス・サビナとを去勢し、女装させては、これまた正式に結婚して自らの正室に迎えたりした。実はネロは後妻としてスタティリア・メッサリナを迎えたのであったが、すぐ飽きていたのであった。
 ローマ帝国はこの頃になると、各属州で反乱が起こっていたが、ネロは相変わらずギリシアにおり、心酔していたギリシア文化を楽しんでいた。ガリアでガイウス・ユリウス・ヴィンデックスが立ちあがった。彼は属州民に呼びかける。

 「ネロはローマ帝国を略奪した。彼は元老院の精華をすべてむしりとった。彼は放蕩に身をもちくずし、母を殺し、君主らしいところは少しもない。あの男-ピタゴラスの妻となり、スポルスを娶った者が男と言えるなら-劇場で竪琴をひき、悲劇俳優の扮装をしているのを私は見た。こんな男をいったいだれが元首と呼ぶだろう。諸君、いまこそ彼に反抗して起て。諸君自らを、ローマ人を救え。世界を解放せよ」

 しかし、ネロはそれでも我、関せずという認識で、ギリシアの旅を楽しんでいたが彼の足元は確実に崩れていた。ヴィンデックスはタラコンネシス属州総督ガルバに親書おくり、皇帝就任を扇動する。ガルバ支持は増える一方で各地の属州総督が支持、ついにネロは元老院から「国家の敵」としての宣告を受ける。こうして最後を悟ったネロは最後に「なんと惜しい芸術家が、私の死によって失われることか!」を繰り返し、自殺する。紀元68年6月9日の夜明け前であった。享年30歳で、元首の在位期間は13年8ヶ月ばかりであった。遺体はアクテによって火葬されマルス広場に葬られた。

 概略こんな感じだ。そのネロと言えば、ローマを暴政の下に混乱させ、キリスト教徒を迫害したため暴君の典型とされている。しかし著者は「暴君とは強力な自己中心的な意識にもとづき、他者と社会に加虐的な行動本能をのつ独裁的支配者であると定義するならば、それはネロの生涯を通じて、彼の方から先制攻撃を加えて、ライバルを倒したことは皆無に近い」と言い、必ずしも世間で言われているような暴君ではなかったという。やむにやまれずそうなったとでもいうようだ。
 事実「いわゆる『五賢帝』のひとりで『最後の元首』という称号を元老院から捧げられ、ローマ帝国最大の領土を現出したトラヤヌス帝は、ローマ歴代の元首の治世を回顧し、検討して、ネロの治世の最初の五年間は最善の御代だったとたびたび語ったという」ということがここに書かれている。最初は哲人セネカの助力もあって、いい政治を行ってはいたのである。
 しかしやっぱり小アグリッピナの血なのか、陰謀、暗殺といつも暗い影がつきまとう。そこに母親との葛藤、性的倒錯などがあり、その上強いギリシア文化や芸術へ関心が政治をさせなかった。
 そして紀元64年におきたローマの大火が後のネロ姿を決定したといっていい。特にキリスト教徒の迫害はネロを暴君と印象づけた。この火事はすべてのものを焼きつくしたが、ネロは行き届いた復興施策をした。それにもかかわらず「火事はネロが命じた」という風評が広まり、民衆の間に不穏な空気が兆し、暴動も起こりかねない状況となっていた。
 そこでタキトゥスによれば、「ネロはこの風評をもみ消そうとして身代わりの被告をこしらえ、一般にキリスト者とよび、そのかくされた罪ゆえに憎まれていた人々に大変手のこんだ刑罰を加えた」のであった。

 さてネロは自分の悪い風評を消すために、火事はキリスト教徒が起こしたとした。そしてそれがどうして可能であったのであろうか?そのことが興味がある。何故キリスト教徒がターゲットされたのかである。
 結局当時のローマが多神教的社会であり、キリスト教の一神教信仰は民衆を不安にさせていたし、憎悪を生んだ。だからネロにとってみれば自らの悪評を転化するにはキリスト教徒はいいターゲットとなったと思われると著者は言っている。
 一神教はユダヤ教もそうであるが、ユダヤ人は特別な民族であり、ユダヤ教が他民族に伝播するには限界があったものだから、ローマ人はユダヤ教の信仰を認めていた。しかもユダヤ教は神殿・犠牲・司祭などが備わり、多神教社会であるローマ人でもある程度理解しやすかった。
 ところがキリスト教は、ユダヤ人の民族的限界を超え、帝国内のすべての民族に広まっていた。しかも当時のキリスト教は外部から看知できるような宗教の形体をとっていないので、現世秩序破壊を企むアナーキスト、または風俗を壊乱する邪教徒と誤解されていた。それにキリスト教の非寛容さが更に民衆を不安がらせたものと思われる。
 ネロはその民衆心理を利用した。ただ火事の犯人をキリスト教徒にしてしまったことが、後世キリスト教徒に自らの姿を必要以上に怪物として見せてしまった。そしてパウロやペテロがネロの迫害下で殉教したとされているということが、それに拍車をかけているのではないか。
 もしこれがなかったならネロはただの暴君であり、このようなローマ皇帝は幾人もいたはずで、ネロもその中の一人であったのではないかと思われのである。ただキリスト教徒迫害は隠しようのない事実なので、あくまでも“もし”の話である。

 余計な話であるが、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとすると、イエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったというのが有名な話だ。この時ペテロが言った「Domine, quo vadis?」が、シェンキエヴィチの『クォ・ヴァディス』の題名となった。


評価
★★


書誌
書名:ネロ ― 暴君誕生の条件
著者:秀村 欣二
ISBN:9784121001443
出版社:中央公論新社 (1967/10 出版)中公新書
版型:190p / 18cm / 新書判
販売価:入手不可

2010年03月04日

ダン・ブラウン著『ロスト・シンボル』

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 やっとラングドンシリーズの三作目が日本で発売された。期待して読んだ。が・・・・、あまり面白くなかった。というか少々この手の話に食傷気味なのかもしれない。それと今回は前作二作と比べて、いくらダン・ブラウンがワシントンというところがローマなどと比べても引けを取らない魅力的な場所と言っても、読む側が最初からそれほど魅力的なところと思っていないから、「そうかな?」と感じてしまう。

 話はラングドンが恩師で親友であるフリーメイソン最高幹部のピーター・ソロモンから急遽講演を頼まれ、ワシントンにある連邦議会議事堂に駆けつける。しかしそこにあったのはピーターの切断された右手首であった。指先にはジョージ・ワシントンを神格化した天井画があった。ピーターを人質に取った全身刺青の男のマラークは、古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵―"古の神秘"―へ至る門を解き放て、とラングドンに命じる。
 ここからラングトンはピーターの妹キャサリンとともに、以前にピーターから預けられたフリーメイソンのピラミッドの一部から前作同様さまざまな暗号を解きながら、CIAにあらぬ疑いをかけられて追われながら、"古の神秘"の正体を明かすべくワシントン一帯を駆けまわる。

 その預けられたピラミッドを入れた箱に1514の後にAとDをデザインした記号があった。これである。


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 それを見たとき私はすぐ分かった。これはアルブレヒト・デューラーが自分の作品に書いたものであった。これを見たとき正直言ってドキッとした。なんでここでデューラーが出てくるんだ?と思った。これはデューラーの「メランコリア」を示していた。


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 この版画は実は30年前に池袋にあった西武美術館で実物を見ている。思わずその時買ったカタログを本棚から取り出した。そして「メランコリア」を眺める。確かに版画の右上に魔方陣がある。気がつかなかったなぁ。そしてここに書かれている数字を縦でも横でも斜めでも足してみると34になる。しかもこの版画が作られた1514年の数字が一番下の2番目と3番目に入っている。本当にそうなのか思わずこのカタログを繁々と見てしまった。
 実を言うと私はデューラーに興味を持っている人なので、デューラーが使われただけでちょっとポイントが上がりそうになったけれど、結局大した役目を負っていなかったので、“残念!”

ここからはネタバレ注意!

 さて"古の神秘"とは何か?全身刺青の男のマラークとは誰か?そしてマラークは何故古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵を求めるのか?まずマラークはピーターのどら息子のザカリーだろうとすぐ予想がつく。ソロモン家は代々長男にその財産を譲る。財産はお金かそれとも知恵か、どちらかを選択させる。ザカリーはお金を選択したが、紆余曲折の上、フリーメイソンの知恵も求めるようになる。
 フリーメイソンが代々伝えてきた知恵が"古の神秘"であった。ピーターがラングトンに預けたピラミッドにはその"古の神秘"が隠されている場所が印された地図でもあった。
 例によって比喩が多くて、何が何だかよく分からない部分があるのだけれど、多分こう言っているんじゃないかと思うことを書いてみる。
 "古の神秘"とは「失われたことば」であった。だいたいどんな文化にも、独自の“ことば”があり、それを印したものが書物であった。その書物はキリスト教徒にとってみれば聖書であった。そう、聖書に"古の神秘"が印されていたのである。
 救出されたピーターは最後にラングトンに言う。

 「聖書は、歴史を通じて古の神秘を受け継いできた書物のひとつだ。その文面はわれわれに秘密を懸命に教えようとしている。分からないか?聖書の“暗き語”とは、秘密の智恵のすべてを密かに伝えようとする古代の人々のささやき声なのだよ」

 そこに書かれている本当の意味は、人間の果てしなき潜在能力を象徴として神を讃えたことであった。言ってみれば古代の人々は「人間≒神」と考えていたといっていい。人間は神の“被造物”ではなく、神と同じ“造物主”であるのだ。だから人間は神と同じくらいの能力を有することとなる。そして人間はその精神によって物質を変容しうるエネルギーを生み出せるというのである。
 ところがいつの頃からか、そうした人間の潜在能力を認めていた古の考えはいつの頃からか失われた。だから私たちは人間は神が作った“被造物”だということになってしまった。そのことは古の象徴は時とともに失われてしまったことを意味する。
 聖書は本来の人間の姿、能力を正しく導いていたのである。だから聖書はフリーメイソンの至宝であったのだ。聖書には人間の潜在能力を"古の神秘"として書かれていたのであった。

 多分こんなことを言っていたんだろうなと思うが、基本的に図像学(イコノグラフィー)というのはよく分からない。そうそうこの本を予約しておいたらこんなピンバッジがついていた。ついでにあげておく。


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評価
★★★


書誌
書名:ロスト・シンボル〈上〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916272
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:351p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

書誌
書名:ロスト・シンボル〈下〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916289
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:356p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年02月05日

本多孝好著『ALONE TOGETHER』

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 これで本多さんの著作は全部読んだことになる。この本は不思議な本であったが、面白かった。

 人は義務や責任や、世間体、あるいは世間の常識などに縛られて、本当はしたくない、関わりたくないのに、やらなければならない、あるいは関係を持たざるを得ないところがある。それらから解放されればどんなに楽であっても、それを許さない型どおりの義務や常識、責任などに縛られやむなくそうしている。そうしなければ家族が、社会が成り立たないからである。もしそれをすれば自分に対する言い訳を求める。
 本意は関わりたくない、やりたくなくても、それを放棄することが出来ない。放棄するにはそれなりの訳や理由が必要となる。あるいは形だけの義務を果たす姿を演じなければならない。それが人間そのものをある意味歪ませる。それを取り除いてやれば、本来ある姿になれるのにである。たとえそれが非常識で、非人間的であっても、それがその人が本来望んでいる姿なのだ。
 主人公である柳瀬の父親は次のように言う。

 「誰もが何かを胸の中に抱え込んでいる。みんながみんな、自分の思いのすべてを口にし始めれば社会が回らなくなる。外にぶちまけることのできない思いは、内側に溜まって澱になる。人はいつだってその澱を吐き捨てる穴を探している」

 柳瀬は父親から譲り受けた特殊な“能力”があった。

 「人はそれぞれ波長を持つ。その波長は谷を作り、山を作り、ときに揺れ、ときに震え、その人の怒りを作る。喜びを作る。悲しみを、楽しさを作る。僕はその波長を感じることができる。その波長に自分の波長を合わせることができる。そして波長が重なれば、その人にとって、僕は他者でなくなる。鏡に向かって独り言を言うようなものだ。隠す必要も、偽る必要もなくなる。けれど、それは能力と呼べる代物ではなかった。むしろ反射作用に近い。相手の波長を感じた途端、僕の意思とは無関係に僕の波長はシンクロを始めてしまう。その力を完全にコントロールするのは難しかった」

 つまり柳瀬は相手の本音を聞き出し、しがらみから解放してやれる能力があった。それは相手の波長に自分の波長をシンクロさせ、本音を引き出すことなのである。言葉を引き出された相手は、嘘で固められていた自分の本音、本来求めていた姿を語り始める。それを語った相手は、自由になり、ほとんど破滅への道を歩むこととなる。

 この本の怖さはそうした本音の解放が、いかに恐ろしい姿を見せるのかという点にある。そしてそうした本音の部分を隠すのが義務や責任や、世間体、常識などで、それらが社会をうまく機能させているかを知る。けれどそれは本来の姿ではないから、当然歪んでくる。そういうことなのだ。

 私は柳瀬の持つ特殊な“能力”と物語の展開がどうなっていくんだろうと思いながら、結構楽しんでこの本を読ませてもらった。けれどやっぱり、解放を望んでいる人間の心が、様々なしがらみに縛られ、それらが解放できずにいること。それが社会を成り立たせていること。解放された心のままに行動すれば、非社会的という烙印を押されてしまうこと。だからせめて少しでも本音の解放しようとすれば、絶対に言い訳が必要になること。それでなければ世間が、社会が許さないからだ。

 三年前に医大を辞めた柳瀬はそこの教授が立花サクラという14歳の守って欲しいと言われ、それを引き受けた。そして立花サクラが最後に逃げ込んだのは閉鎖した教会であった。そこに元司祭がいた。柳瀬はその元司祭とシンクロし、聞き出した言葉がものすごく気になった。それは司祭のもとにある男が来て言った言葉である。最後にそれを書き出す。

 「祭りを司って祭司。宗教とは本来お祭りです。だから、あなたのお考えは本末転倒です。祭りはその昔宗教的なものであった、のではなく、宗教はその昔お祭り的なものであった、のです。我を忘れるほどの高揚感。そこにもたらされる一瞬の陶酔。それこそが宗教なのではないか?」

 「ですから、宗教とは説くものではありません。授けるものです。授けた相手が要らぬと言うのなら、それ以上の無理強いは意味をなしません。わかりますか?ですから、宗教などとうの昔になくなっているのですよ。情によって授けられない教えは、理を持って説かれる。ときに権力という後ろ盾を得てね。それがあなたの言う、宗教、です。陶酔に訴えるのではなく、強迫観念に訴えるのです」

 “これってすごい!”

 今我々が信じている宗教がたどってきた歴史の本質を突いているように思えたのである。


評価
★★★


書誌
書名:ALONE TOGETHER
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508444
出版社:双葉社 (2002/10/20 出版)双葉文庫
版型:302p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年02月03日

本多孝好著『MISSING』

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 また本多さんの本を読む。この文庫と次に読もうと予定している文庫を読めば、一応本多さんの本は全部読んだことになる。いつの間にか息子に感化されて、こういうことになってしまった。
 さて、この文庫は短編5編、「眠りの海」、「祈灯」、「蟬の証」、「瑠璃」、「彼の棲む場所」である。そしてこの本は2000年「このミステリーがすごい!」の第10位になっており、「眠りの海」は第16回小説推理新人賞受賞作である。詳しいことは知らないが、どうやらこの本は本多さんの最初の本みたいだ。
 個人的には「眠りの海」、「祈灯」がよかった。本多さんの作品でいつも感心するのは、会話の面白味である。ある意味村上春樹さんより、シニカルだと思ってしまう。だから登場人物の会話には思わず吹き出してしまうことが多かった。
 ただそうした皮肉的で冷笑的な考えをする人物たちが若すぎないかと思うのだ。いくら何でも中学生や高校生が言うような言葉じゃない。そんな年齢でこんなにひねた会話ができるかな、とそれだけが気にかかった。
 あるいは今の若い奴らはこういう会話ができるのかなと思ったりするが、やっぱり無理があるような気がする。かといって登場人物の年齢を上げてしまえば、話の質が変わってしまいそうだから、この点は難しいところだ。
 でも、その点に目をつぶれば、斜に構えつつも、言っていることは至極まともで、言葉が心にしみるところがいくつかあった。

 「目茶苦茶なんだと、思うな」

 「情緒とか、感受性とか、考え方とか、その人がその人である理由みたいなものが、全部目茶苦茶になってるんだと思う。誰も悪くない。忘れなきゃいけない。そう思いながら必死で社会生活して、何とか普通でいようと歯を食いしばって。それが家に戻ってきて、一番安心できる場所で、一番安心できる人の顔見た途端に崩れちゃうんじゃないかな」(「祈灯」)

 「他の人よりずっと重い時間を過ごしちゃったんだ。十九年が、四十年にも五十年にも感じられるくらい」(「祈灯」)

 「どちらか一方がもう少し短気か器用であればよかった」(「蟬の証」)


 「正直と不器用との区別できない人だった」(「蟬の証」)


評価
★★★
 

書誌
書名:MISSING
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508031
出版社:双葉社 (2001/11/20 出版)双葉文庫
版型:341p / 15cm / A6判
販売価:630円(税込)

2009年12月24日

本多孝好著『FINE DAYS』

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 前回読んだ『正義のミカタ』がそれほど面白くなかったので、次に本多さんの本を息子から借りようかどうか迷っていたのだが、やはり借りて読んだ。その本がこれである。紀伊國屋書店のサイトでこの本のデータを取り出してみると、サブタイトルに恋愛小説とついている。本にはそれがついていないが、確かに読んでみれば恋愛小説の短編集であった。
 書名になっている「FINE DAYS」、「イエスタデイズ」、「眠りのための暖かな場所」、「シェード」の四編である。個人的には最後の「シェード」が好きである。
 主人公の僕が彼女のためにクリスマスプレゼントのために買おうと思っていた、骨董店ガラスのランプシェードが、売れてしまっていてショウウィンドウから消えていた。もしかしたら店内に移された可能性があると思い、初めて骨董店の店内に足を踏み入れた僕はそこにいた老婆からそれが売れてしまったことを知らされた。しかし老婆はそのシェードを作ったガラス職人の話を僕に聞かせてくれた。その話が僕と彼女の関係と入れ違いながら、話が進む。話の最後で老婆は次のように言う。

 「光がなければ、闇もまた存在しません。けれど、一度、光を生み出せば、闇もやはりそこに生まれます。たった一つの光から無限の闇が生まれるのです」

 「その闇の深さに怯える前に、それを照らす光に目を向けるべきだったのです。闇から生まれる闇などないのです。すべての闇は光から生まれます。違いますか?」

 「挑むのですよ」

 「ええ、挑むのです。彼女にでもなく、その男にでもなく、ただ自分の中の闇に挑むのです。そこにまだ光があるのなら」

 「挑み続けること。闇から光を守るには、それしかないのです」

 ここまで読んで、多分そのランプシェードは彼女が買っていったんだろうなと思えるようになる。いや老婆がそのランプシェードの話を始めたときから、そう思っていた。
 老婆の話が終わって老婆から買った蝋燭を持って彼女が待っているマンションへ急ぐ。僕が見てしまった幸せそうな彼女と前の夫との結婚式の写真と、その夫を失ってからもいつもしていた結婚指輪がチェストに上に置かれていた。
 やはりランプシェードは彼女が僕のためにプレゼントして買っていた。そして僕はその老婆から買った蝋燭に火をともす。

 僕にともせるのは呆れるほどにか弱く、頼りない火だ。ささやかな風にも揺らいでしまうその火は小さな光を本当に守り続けることができるのか、それも今の僕にはわからない。ただ、やってみようと思う。僕の持ちうるすべての力を使って。

 と思うのである。なかなかいい話であった。こんな話に酔ってしまうなんて、甘くなったなあとは思うが、たまにはいいであろう。 私は本多さんが作り出す言葉が好きである。この老婆の光と闇の関係もうまいことを言うもんだ感じたし、「FINE DAYS」の僕が言う言葉もいい。

 安井は背中を手すりにもたれさせ、ふうとため息ついた。
 「生きていることの意味って、考えたことある?」

 「あのな、どうして自分が生きているかなんて、そんなの悩みじゃない。悩みっていえば、解決しなきゃならないことに思える。けど、俺が思うにそんなのはもう高尚な哲学だ。哲学だから、答えなんてない。一生かかったって、答なんかきっと見つからない。そんな風に悩まない奴も人間として信用できないけど、それに対して答を見つけたなんていう奴とも俺は友達になりたくない。きっと水晶玉とか壺とか売りつけられるのがオチだ。だから、答えなんてないままに悩んでいればそれでいい、と俺は思う」

 “あのさぁ、高校生がこんな大人びたことを言えるか?”と横槍を入れたくなるけれど、言っていることは至極まともだ。大賛成だ。


評価
★★★


書誌
書名:FINE DAYS ― 恋愛小説
著者:本多 孝好
ISBN:9784396632229
出版社:祥伝社 (2003/03 出版)
版型:321p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年11月09日

本多孝好著『正義のミカタ』

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 どうもよく分からない話だった。どういう展開になるのかな、と思いつつページを進めるのだが、読み終わった後、いったい何だったのだろうと思ってしまった。展開が予想がつかない分、ページは進むのだが、どうしてこの物語が書かれなければならなかったのかよく分からなかった。

 話は、蓮見亮太は三流大学の飛鳥大学に入学した。高校時代亮太はいじめられっ子であった。それでも何とか自分を変えたくて、自分なりに努力して大学に入る。大学に入れば、亮太をいじめていた奴もいなくなるから、自分は変われると考えていたが、ところが高校時代亮太をいじめていた畠田も入学していた。そしてその畠田と再会してしまい、またいじめにあう。亮太は入学して間もないのに、もう大学を辞めようと考えながら、畠田の暴力に耐える。その時高校時代ボクシングで全国大会三連勝した桐生友一(トモイチ)に窮地を救われる。トモイチは亮太を自分も入部している“正義の味方研究部”に連れて行き、入部させる。
 正義の味方研究部とは、ふざけた名前の部ではあるが、飛鳥大学において正式なサークルであり、伝統のあるサークルでもあった。大学内で不正や困っている人がいれば、それを助けるというものだ。当然こうした問題を解決するに当たり、力がものを言う世界であるが、亮太にはそうした能力がない。だって「生粋の、筋金入りのいじめられっ子」なのだ。悪者と戦う能力などあるはずがないと思っていた。ところが亮太は長い間いじめられ続けたため、自分の身体に与えられる暴力から出来るだけダメージを少なくしようとする能力が身についていた。ボクシングで言う“デフェンス”である。無意識のうちにその能力が身についていた。それをトモイチに見出され、正義の味方研究部に入部することが出来たのだ。後は攻撃を身につければいいということで、トモイチにボクシングの攻撃の基本を教わる。
 そうこうしているうちに、亮太は、大学で友人も仲間も、憧れる女性も、正義の味方研究部で尊敬出来る先輩も出来、しかも畠田からのいじめからも解放され、大学に入ってよかったと思い、キャンパスライフが薔薇色に見えてくるのであった。
 ある時“スイート・キューカンバーズ”というサークルの内偵を亮太はトモイチともにやってくれと、正義の味方研究部の先輩から頼まれる。このサークルは大学内のイベントを企画するサークルで、亮太はさえない企画を担当する間先輩のもとで、その手伝いをすることとなった。
 内偵しているうちに、このサークルはネズミ講をやっているらしいということがわかってくるが、しかしその金額がちゃっちい。もっと奥深いものがあるのではないかと更に内偵を続けると、間先輩が大麻を大学内でさばいていることがわかる。間先輩は亮太を可愛がり、自分のやっていることを亮太に明らかにするが、それは亮太が裏切らないと思っていたからだ。しかし亮太は正義の味方研究部に密告する。そして正義の味方研究部は間先輩のいるアパートへ乗り込んでいく。
 結局、すべては焼け出され、証拠は何も残らず、間先輩も飛鳥大学の学生でも関係者でもない、誰だかわからず、事件は終わる。
 間先輩はいじめの対象である下層部から上層部に違うレールで、半ば違法性の高いところで這い上がろうとしなければならない。お金も、学力も何もない自分たちが、這い上がるためにはそうするしか方法がないんだと間先輩に言われ、亮太もそう思い始めたのだけれど、「何かが違う」と感じ始める。
 自分は大学に入り、正義の味方研究部に入部し、自分は変わろうと思い続けたが、どこかしっくりこなかった。このままじゃいけないと思い続けるが、どうしていいのかわからなかった。そうこう悩んでいるうちに、「何でこのままじゃ駄目なんだ?」と思い至る。 
 亮太は自らが悪事を制裁する側の人間じゃないと自分で思い始める。長いこといじめにあってきた自分だからこそ、困っている人の側に立つべきだと考える。自らのいじめから解放されるために、制裁する側に回るべき人間じゃないと思い始め、正義の味方研究部の退部を決意する。
 それに100%の正義ってあり得るのか?そこに間違えはまったく存在し得ないのか?そう先輩達に問う。もし100%の正義があり得ないなら、間違えられる側の人間はたまったもんじゃない。たとえ困っている人を助けられても、そのために誰かを取り返しのつかないくらい傷つけてしまう可能性があるなら、制裁する側には立てないとも言う。
 いつも自分が他人に利用され、踏み台にされても、それを肯定すると亮太は言い切る。そうして今までやってきたのだから。少なくともこうすることで他人を傷つけてはいなかったのだから。それを誇りに思うのだ。正義の味方である自分に酔っているよりはるかに自分らしいと思うのであった。

 う~ん、ここまで来て著者が何を言いたいのか漠然と見えてきたような気がするが、どうも回りくどい。下手をするとただの解釈の違いに陥る可能性がある。
 「今までこうであったから、それは肯定出来ない」、「こうであったから、これからもこうであり続けるのが自分らしさだ」ということで、自らの存在感を示しているのか?どうなんだろう?よく分からないな。それとも今まで単にいじめられっ子で、何も言わずやられっぱなしであったけれど、多少自己主張することができるようになった“亮太らしさ”をそのまま認めればいいのかな。
 というか個人的には亮太の考え方が受け入れがたい部分がある。確かに弱い側に徹底的に立つのは結構だけれど、これじゃ宗教になっちゃうのではないか。現実を見据えれば、多少の犠牲はやむを得ないだろうし、現実問題として考えれば、明らかに正義の味方研究部の先輩達の考えが真っ当な気がするのである。ここに超越という考えを持ち込むと話がただ面倒になるだけである。


評価
★★


書誌
書名:正義のミカタ―I’m a loser
著者:本多 孝好
ISBN:9784575235814
出版社:双葉社 (2007/05/25 出版)
版型:413p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年10月23日

本多孝好著『真夜中の五分前』〈side‐A〉〈side‐B〉

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 続いて本多さんの本を読む。実はこの本単行本で以前読んでいる。この本を読んだのは、まだ岩本町に当社の本屋があったときであった。お店の手伝いをしていて、この本が結構売れていたので、どんなものなのか興味を持って読んだのだ。その時は今風の若者を描いた物語なんだなというくらいしか思わなかった。今回本多さんの書かれる本に引かれるようになって、改めて読み直してみた。そして変な表現だけど、ちょと淡々とした悲しみに酔いしれてしまった。妙に自分の気持ちに素直になれない僕がいとおしくなってしまった。倦怠感の中で失った悲しみを引きずるといった流れが、物語自体どうってこともないのに、“こういうのって、あるよなぁ”と思わせる。

 主人公の僕は大学時代、秋月水穂と付き合っていた。水穂は僕の部屋にある目覚まし時計を五分遅らせた。

 「普通、目覚まし時計って、進ませるんじゃないか?起きて、時間を見たときにちょっと慌てられるように」

 「時計は全部、五分遅らせることにしているの」

 「だって、人より、ちょっと得した気にならない?あら、あなたもう十時なの?私はまだ九時五十五分よって」

 「いい考えだ」「三十分遅らせよう。それなら時間通りに着く」

 「三十分は駄目よ」「三十分遅らせたら、世界に追いつけなくなるわよ。五分くらいがちょうどいいの」

 僕は水穂を交通事故で失った。水穂が亡くなったことはショックであったが、何故かそれがそのとき、それが悲しと感じられなかったし、もちろん泣けなかった。
 それでも僕は社会人となる。ある時近所の公営プールでかすみと知りあう。僕はそれまで付き合っていた原祥子と別れたばかりであった。原祥子は僕に「そう。狂ってるのよ。あなたの部屋にある目覚まし時計と同じ。ほんの五分くらいだけどね。ちょっとだけ、でもきっちりと狂っている。二人でいるときは気づかない。五分先にある本当の時間より心地いいくらい。でも私は、五分先の世界の住人で、五分遅れたあなたの世界では暮らせない」といって離れていった。
 かすみは僕に妹の結婚祝いのプレゼント見つくろってくれと頼んでくる。妹のあかりと双子であり、同じ遺伝子を持つものだから、お互い何を考え、どのように行動するか、すべてわかってしまう。それがしゃくなものだから、あかりには想像のつかないプレゼント僕に選ばせ、驚かそうとしたのであった。
 実はかすみはその妹の旦那となる男に恋をしていたのであった。その思いを断ち切るためにかすみは僕とつきあい始める。僕も普段クールにしているが、どこかで水穂のことを引きずっていた。その証拠に今でも部屋にある目覚まし時計は五分遅れたままだ。
 僕のいる会社は社内抗争みたいなものがあり、上司の小金井さんが取締役に就くという人事の噂が流れる。普段はバリバリのやり手の女上司である小金井さんが以後、ぼーっと過ごす姿を見かけるようになる。詳しく聞いてみると、十年間も自分を目の敵にしている同僚に恋しているというのであった。一方かすみは同じ遺伝子を持った妹の恋人に恋している三年間を過ごしてきた。僕のまわりに来る女性は、いったい何なんだと眩暈を通り越してげっぷが出そうだった。ここで〈side‐A〉がいったん終わる。

 〈side‐B〉では、僕は今までいた会社を去る。小金井さんも同じ会社を辞めていた。テレビでスペインで電車事故があったというニュースが流れる。スペインにはかすみと妹のあかりがちょうど旅をしていた。まさかと思ったが、かすみは事故に巻き込まれ死に、あかりは旦那の元へ帰っていた。しかしあかりの旦那である尾崎さんは帰ってきたのはあかりではなく、かすみではないかと疑い始める。それを僕のところへ相談を持ちかけられたとき、かすみが生きている。そして好きだった妹の夫の元で暮らしている、と思った。顔やスタイルの見分けの付かないほど似ていて、同じ遺伝子を持っているためか、考え方や感じ方も同じ。そして二人は仲のいい姉妹だったから、何でもお互いのこと話し合ってきた。だからかすみがあかねとすり替わっても、出来ない話ではない。
 あかねなのか。それともかすみなのか。尾崎さんは疑心暗鬼にとらわれ、あかねの元を去って行く。あかねも自分が事故のためか自分があかねなのか、それともかすみなのかわからない状態になっていた。

 ある時元上司の小金井さんと偶然会う。小金井さんは僕がプロデュースした店に行ったことを伝え、もし自分がまだ上司なら合格点を出しただろうけど、個人的には二度と行きたくない店だと言い、「君、少し休みなさい」とも言われる。僕はある意味“壁”にぶつかっていた。だから小金井さんの提案を受け入れ、三日間休みことにする。土日をはさんで五日間休むのだが、これといって何する訳でもない。ふと学生時代水穂と一緒に行った喫茶店へ行きたくなり、そこでマスターと水穂のことを話した。そして感じたのである。
 秋月水穂。それは確かにいたはずの人にもかかわらず、確かにそこで僕の前に座っていた人にかかわらず、ひどく現実感のない存在になっていた。今という地点から連続する時間を遡っても、その人には辿り着かないように思えた。

 水穂の法事に行けなかったことを思い出し、すぐ水穂の墓参りする。そして僕は初めて泣いた。水穂を失ったこと。かすみを失ったことで。二人を愛していたことを。初め二人をそれぞれ失った時は、確かにショックであったけれど、それは涙を流すほどの悲しみとはならなかった。しかし、この時初めて二人を失ったことに涙を流したのであった。二人を失った直後はそのことのショックが大きくて、茫然自失とでもいうのか、何をしていいのかわからない状態だった。
 その後立ち直るべく、忙しい中に自分を放り込んで、その喪失感から逃れて生きていくと、本当の自分を見失うことになるのかもしれない。人はちゃんと手続きを経て、泣くときは泣き、笑うときは笑うという作業をしないと、真っ当になれないのかもしれない。逆にその手続きを後に回せば、その分揺り返しがさらに大きくなり、かなりきつくなる。そんなことを感じると、ぐっと来てしまった。
 その後僕は遅れた五分間を水穂とかすみために使うことにするのである。

 僕は枕もとの目覚まし時計に目をやった。十一時五十五分。だったら世界はもう明日を迎えているのだろう。世界から取り残された五分が静かに僕を包んでいた。再び体を横たえ、僕は目を閉じた。完全に閉ざされた闇の中で、かすみのことを思い、水穂のことを思った。一日のたった二百八十八分の一くらい、そんな風に使っても許されるだろう。

 僕は今でも最後の五分間だけ、かすみのことを思う。水穂のことを思う。そのとき、そこにいた自分のことを思う。その時間は、僕の胸に静けさと穏やかさを運んでくれる。一日の二百八十八分の一だけ、僕はその静けさと穏やかさの中でじっと身をひそめ、自分の中から湧き上がってくるものにそっと身をゆだねる。僕はこれからも色いろなものを失っていくだろう。けれど、僕はそれらを一日の小さなかけらの中に集め続けるだろう。小さなかけらはやがて結晶となって、僕を形作ってくれるだろう。そんな気がしている。そして残りの二百八十七は、今の僕のために使い、今の僕が愛する人のために使っている。

 失ったことの悲しみを忘れたがために、それをわざと遅らせた五分を使って、それを思い出すという考え方がものすごくすてきに思えた。


評価
★★★


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐A〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322513
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:227p / 15cm / A6判
販売価:420円(税込)


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐B〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322520
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:89p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込

2009年10月20日

本多 孝好著『WILL』

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 続いて『MOMENT』から7年たって、最近出版されたこの本を読む。今回は神田の話ではなく、彼の幼なじみで実家の葬儀屋を継いだ森野の話である。彼女が請け負った葬儀から生まれたその後の話とでも言えばいいのだろうか。
 大体葬儀屋が葬式を請け負って、しめやかに終われば、それで葬儀屋の仕事はおしまいとなるだろう。後は葬式を行った遺族の問題であり、そこまで葬儀屋がケアするのも妙なものような気がするが、それを言ってしまったら、この物語は始まらない。そこまで首を突っ込むのは森野の性格からであり、そこからこの連作が始まる。

 死んじゃった人はもうそれ以上何も語れない。残された家族はその生前を忍び、いろいろなことを思い出し、死者の生前の姿を改めて作っていく。さらに死者が残していった遺品は、時にはとんでもない過去をあらわにしかねない部分がある。邪推が生まれる。
 人の死がそれまであった関係をすべてきれいさっぱりとなくすものであるなら(そんなことはたぶんないのだろうけど)この物語は生まれない。人間一人では生きていけないから、さまざまなものを残された人間に残していく。そこに物語が生まれる要素があるわけだが、それがいつもいい思い出ばかりじゃないところが厄介である。
 この本はそうした死者が残した厄介なものをテーマにして、連作として描かれる。一つは森野の友人佐伯杏奈の父親の葬儀の後送られてきた一枚の絵であり、死んだ男の愛人と称する女が自分を喪主として葬儀をやり直したい言ってきたり、杏奈の父親が請け負った葬儀の喪主が夫の生まれ変わりと言って、中学生がその老女のところに来ることを相談受けたりする。
 
 物語はミステリーを帯びていて面白いのだけれど、私は人の死って、それですべてが完全に終わるものではないんだなと改めて思わされた。出来れば自分の場合そうあって欲しいと個人的に思っている。だからもし自分の死に時間的余裕があるなら、身の回りをきれいさっぱりとして完全に消去しておきたいと常々思っているくらいなのだ。
 でもそうもいかないだろうなとも思う。なぜなら私という存在は私一人である訳じゃなくて、さまざまな人と係わっていることであるわけだから、ことそう簡単にいくわけがない。だったらせめて、それに近い形で自分の死というものを迎えたいとは思う。そしてその後も人に余計な迷惑や面倒をかけない方法を選びたい、と物語とは直接関係なけれど、そんなことを思ったのである。
 人は死者に対してその後もいろいろな形で装飾していき、いい意味でも悪い意味でも記憶に残していくものなのだ。そうすることで、時それは残された人が悲しみを乗り越える糧にもなるだろうし、その後の人生に何らかの意味を求めていく。死者はそれでおしまいだけれど、残された人は死者からまだ何かを望むのだ。そういうものなのだろう、きっと。自分だって今までそうだったのだから、これからもそうであるに違いない。
 この物語の中で森野の父親が“リビング・ウィル”という言葉を森野に説明する場面がある。このリビング・ウィルとはもともと自分の死に際して施される治療について、生前判断能力がある間に、その意思を文書化したもののことを言うらしいが、森野の父親は次のように言う。

 「このときのウィルってのは、意思のことなんだぞ。知ってたか?」

 「そのウィルが未来を表すってことは、だから、あれだ。未来という意思と一緒にあるってことだな」

 “ウィル”が死に際して意思であるなら、その後の未来においても、死者の意思は残された人々と一緒にあり続けることとなる。なるほどうまいことを言うものだ。結局それが人間なんだろう。人は亡くなった人に対して、その人がかけがえのない人であればあるほど、その存在に意味を持たせたいのだろう。ただその人はもう主役ではない。残された人が生きていく上でのサムシングとなるわけだ。決してサムワンではないだろう。

 ところでこの本は森野のが係わってきた葬儀の死者が残した意思が物語となっているのだが、一方で『MOMENT』で出てきた神田との関係も発展する。言ってみれば、幼なじみから恋人へ、そして一緒に暮らしたいと御互いの気持ちが、そうなっていく。
 ただ私は神田くんがちょっとかっこよすぎないかと思えた。『MOMENT』ではなげやりで、ちょっと世の中を小馬鹿にした感じだったのが、森野を求めるがあまり“いい人”になりすぎていないか、と感じた。出来れば『MOMENT』での神田くんでいて欲しかったな。妙にキザっぽくなっちゃているのが気にかかった。
 さて、『MOMENT』とこの『WILL』は息子から借りた本だ。やつはどうも本多孝好さんのファンみたいで、本多さんの本を全部読んでいる。また何か借りて読もうかなと思った。そうそうまず、ネットにあった「STORIES-もう一つの『MOMENT』」と、「青春と読書」の11月号に「エースナンバー」という本多さんの読み切り小説読んでから、近いうちに何か他に借りることにしようか。


評価
★★★


書誌
書名:WILL
著者:本多 孝好
ISBN:9784087713220
出版社:集英社 (2009/10/10 出版)
版型:322p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年10月18日

本多孝好著『MOMENT』

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 「釈迦は成仏したかったんだ。古代インドでは、生き物は死ぬと生まれ変わると信じられていた。輪廻転生だね。彼はその輪廻を断ち切りたかった。どうしてか?二度と生きたくなってななかったからさ。二度と、こんな辛いものを味わいたくなかったからさ。彼を支えたのは信念じゃない。恐怖だ。また生まれ変わる。また生きなければいけない。そこから生まれた恐怖だ。彼は痛切なまでに虚無になることを求めたんだ。そうだろう?」

 神田は幼なじみの葬儀屋森野が紹介してくれた病院で清掃夫として働いていた。たぶんこういう縁の下の働く人にはその職場、この場合病院で、さまざまな噂が耳に入ることだろう。まして病院である。言ってみればそれまでの人間の生きざまがあからさまに表れる場所である。
 そんな病院で死ぬ前に願い事を一つだけ叶える黒衣の男の話を聞いた。そして神田はひょんなことからその仕事を引き継ぐことになった。ただ必殺仕事人ではない。
 たぶん回復の見込みのない患者、死を待つしかない患者が究極に望むことは安らかな死であろう。しかし神田は大学生のアルバイトとしてここの病院の掃除夫として働いているだけである。患者に安らかな死を与えることは出来ない。それをやっていたのは神田が引き継ぐ前の必殺仕事人であった。神田に出来ることは、死を前にした患者が思い残したことをかなえてあげることであった。それが噂となり、「この病院には死を前にした患者の願い事を何でもかなえてくれる人がいるっていう噂です。それは掃除夫の人だって、そういう噂なんですけど」といって密かに広まっていった。

 ことの発端は、ある老女の願いを学費分二十三万九千円で請け負ったのだが、老女は死後神田の口座に百万円振り込んできた。つまり仕事四回分。だから神田には残り三回分仕事をしなければならないことになった。それがこの連作となっている。最後は請け負った仕事ではなく、神田の思い、気分で起こった話である。
 「ACT.1 FACE」は戦争中、裏切り者を殺せと支持した家族の動向を探る仕事であり、「ACT.2 WISH」は修学旅行で車に乗せてくれた大学生を捜す仕事であり、「ACT.3FIREFLY」では乳がんの再発で入院することになった女性のそれまでの人生を一所にたどる仕事であり、「ACT.4 MOMENT」は特別室にいる男を神田の気分で必殺仕事人から守ることであった。
 私は「ACT.3FIREFLY」が良かった。良かったというか、悲しいかったというべきなのかもしれない。乳がんを再発した女は留守番電話に自分の状態を報告する電話を入れていた。愛する男のところかもしれないと神田は推測した。しかし誰も彼女を見舞いに来る者がいなかった。
 神田はその女性がたどってきた人生の“場所”のドライブに連れて行ってくれと頼まれる。女は九州の田舎から東京に出てきた。喜びに満ちあふれて。けれど周りについていけず、野暮ったい大学生をやっていて、彼氏も出来ず、その後建設会社に入社する。上司と不倫関係になり、妊娠したが、堕ろして、会社を辞め、コンパニオンとして働く。

 「もっと派手に、パーッとね、生きてやろうと思ったの。生まれ変わったつもりで。それで、あの店に勤めた。化粧の仕方を勉強して、流行りの服と髪型を教わって、まあ、驚いたね。これが自分かって。男がわらわらと寄ってきてさ。今までの自分は何だったんだろうって思うくらい。生まれて初めて、モテたのよ、私」

 「指名なんかもばんばん取れちゃってさ。ナンバーワンにはなれなかったけど、結構いい線いってたのよ。お金を、会社に勤めていたときの給料が馬鹿馬鹿しくなるくらいいっぱい入ってきたし」

 「悪い人生だったとは思わない」
 
 「後悔がまったくないとは言わないけれど、それでも、まあまあ、よくやったと思うよ、私」

 その後彼女は両親に連れられ、実家の近くの病院に転院していったのだが、神田に彼女のマンションの鍵が預けられていた。神田はマンションに行き、部屋に入ると留守番電話にメッセージが入っているランプが点滅しているのに気がつく。一瞬躊躇したが神田はボタンを押した。

 「私です」

 「今日、検査の結果が出て、再入院ということになりました。また電話します」

 そう。彼女は自分の部屋にある電話に病院から近況を伝えていたのであった。いくつかメッセージが流れたあと、「もしもし、神田くん?」

 「わかったでしょ?私は誰も待ってなんかいなかった」

 「今日実家に戻ります。そう決めていたの。黙ってて悪かったけど、君に止められでもしたら、私、きっと泣いちゃうから。止めてくれる人が君しかいないなんて、情けなくて、きっと泣いちゃうから。君のまで止めてもらえなかったら、それはそれで泣いちゃいそうだし」

 「最後のお願い。もしも今年と同じような夏がきたら、そのときは私を思い出して。バイト代は出せないけど」

 「思い出して」

 「きっとよ」

 電話が切れたとき、神田は彼女の部屋を見渡す。「クローゼットに入り切らないような服も、大き過ぎる食器棚を埋める食器も、ひょっとしたら上田さんはそこに生まれる空っぽの空間を消すためだけに揃えたのかもしれない。一人で暮らすにはこの部屋広過ぎる」と思うのであった。
 彼女が働いていた店に自分の持ちものを取りに行った神田は、その店の男に言われたのであった。

 「向いてなかったんだよな、最初から」

 「だいぶ、キツそうだったもんな。早く仕事を辞めろって言ってたんだけどな」

 「よろしく伝えてくれ。早く元気になれって。元気になってこんなところには戻ってくるなって」

 一人の悲しい女性の生きざまが眼に浮かんだ。

 私は神田の考え方が結構気に入っている。なげやりでありながら、それでいてしっかりと根拠のある生き方が好きである。たとえば「エリートは貸しを作ることは気にしないけれど、借りを作ることは嫌う。資本主義というシステムを知り尽くしているからだ。借りには必ず利子がつくことがわかっている」という考え方は、まさにその通りだ。
 また病人を慰める言葉をかけるときでも「ただ力で押しつけるだけの、こういう根拠のない慰め」だとわかっていてもその言葉をかけざるを得ない状況があるのだということを自覚するあたりは、神田らしい。
 続いて、最新刊の続編を読もうと思う。


評価
★★★


書誌
書名:MOMENT
著者:本多 孝好
ISBN:9784087746044
出版社:集英社 (2002/08/30 出版)
版型:317p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年09月09日

フレデリク・フォ-サイス著『オデッサ・ファイル』

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 何で今頃こんな古い本を引っ張り出すのだと言われそうだけれど、引っ張り出して読む理由が出てきたからだ。実は本棚を整理していたら、探していた切り抜きが見つかったからだ。それは二枚ある

「ユダヤ人強制収容所長ロシュマン パラグアイの病院で死ぬ」

 【ブエノスアイレス十一日=鈴木(俊)特派員】パラグアイの首都アスンシオンから伝えられたところによると、十一日付のアスンシオンの新聞「ABCカラー」は、第二次世界大戦中ナチスのユダヤ人強制収容所長として約四万人のユダヤ人を殺害したかどで追われているエドワルド・ロシュマン元ナチ親衛隊(六三)が十日、アスンシオンの施療病院で死亡したと報じた。ロシュマンは先月四日、アルゼンチンで逮捕されたと一部外電で報じられたが、これは誤報で、その後、西独政府の引き渡し要請を受けて、アルゼンチン司法当局からロシュマンに対する逮捕命令が出されていた。
 ABCカラー紙によると、ロシュマンとみられる人物は十日朝、医療費を支払えない患者を収容するアスンシオンの施療病院で心筋梗塞のために死亡した。この人物は七月二十日ごろ、パラグアイに入国、同二十六日からフェデリコ・ベルナルド・ウェゲネルの名で同病院に入院していたという。この名前はロシュマンが先にアルゼンチンに入国した際使用していた偽名として、アルゼンチン当局が確認しているが、同紙によると、この患者は同じ名前の運転免許証を持っていた。また同紙が病院で遺体を調べたところ、両足の指が合わせて五本欠けているなど、身体的特徴もロシュマンのそれと一致するという。
 ロシュマンはナチ占領下のリガ(現ソ連ラトビア共和国)のユダヤ人強制収容所長をつとめ、一九四一年から四三年までにユダヤ人約四万人を殺害したとされるナチス親衛隊将校。ベストセラーとなったフォーサイスの「オデッサ・ファイル」にも登場することでも有名。 昭和52年(1977年)8月12日 読売新聞夕刊
 

「ナチのロシュマン既に死亡」 パラグアイ

   【ブエノスアイレス十九日=UPI共同】国際刑事警察機構(ICPO)は、十九日、今月十日、パラグアイの病院で心臓発作のため死亡した男が、第二次世界大戦中にラトビア共和国のリガで行われたユダヤ人大量虐殺の責任者エドアルト・ロシュマン元ナチ親衛隊(SS)大尉だったことを確認した。同機構によると、死亡した男の指紋は、ロシュマンがアルゼンチンでの亡命中に使っていた変名のフェデリコ・ベグナーのものと一致することが判明した。 昭和52年(1977年)8月20日 読売新聞夕刊
 

 この本を読むのはこれで三度目となる。フォーサイスの著作はほとんど読んでいるが、私はこの『オデッサ・ファイル』が一番のできだと思っていた。しかし今回また読み直してみると、そうでもないのかなと感じてしまった。確かにストーリーテラーの本領発揮で、ぐいぐい引き込まれて、ページが進む。フィクションとノンフィクションの境目が見分けが付かないほどリアルで、臨場感たっぷりなのだが、どうも最後がいただけない。実は私はこれまでこの最後の場面が気に入っていたのだが、今回はやけに鼻につく。説教くさく感じてしまった。


閑話休題
 実はこの本、私が初めて本屋さんで注文して取り寄せた本であった。いきさつは、最初フォーサイスの代表作『ジャッカルの日』を銀座の映画館で見て、すぐ原作を買い求め、その後フォーサイスの本を読みたいと思った。そして当時錦糸町の駅ビルにあった栄松堂書店で探し求めたのだが、この本だけが棚になかった。店員に在庫を聞いたのだが、在庫切れだと言われ、そのまま店員のペースに巻き込まれて注文することになってしまったのだ。私は本を注文して取り寄せられることを当時全く知らなかったのだ(まだ私は書店員ではなかった)
 たぶん一週間が過ぎた頃だったと思うが、その書店からはがきが届く。本が入荷したという通知である。当時ははがきで入荷を知らせていたのである。それを持ってカウンターに来てくれというものであった。
 それから約22年たった現在は、ネットで注文してネットで入荷の知らせが届く。先日セブンアンドアイで雑誌のバックナンバーを注文した。ご存じかもしれないが、だいぶ以前に私はセブンアンドアイでひどい目にあい、以来絶対にここでは本は買わないと誓ったのだが、ついにその誓いを破ってしまった。というのも、雑誌一冊690円をアマゾンで買えば送料が発生するし、今のところ他に抱き合わせで買う本もなかったので、ちょっとここでは買えないなと考える。じゃあ書店で注文するかと考えてみたものの、なんか手続きが面倒に感じた。それに書店に雑誌を注文すると、時間が書籍より時間がかかると自分たちの時の経験から思っているので、それはちょっと困る。すぐ読みたかったのである。(もちろん今は私が書店員の頃より改善されているだろうから、雑誌でも入荷時間は短縮されていると思いたい)
 でやむにやまれずセブンアンドアイで雑誌を注文せざるを得なくなったわけである。そこには入荷には当日から2日と書かれている。これに釣られたわけである。ネットから細かい入力をして、雑誌を受けとる店を指定する。そして“お客様控”をプリントアウトすればバーコードの付いた控えが出てくる。
 そして入荷のメール届き、指定の店に行って、印刷した控えを見せる。店ではその控えにあるバーコードをレジで読み込み会計をする。確かに注文して2日で手元に届いた。
 注文の仕方、入荷の通知、そしてレジでのやりとり、すべて22年前と大きな違いがある。それをわずか22年でこうも変わるのかと考えるか、22年も経っているんだから、進歩して当たり前と考えるか、それぞれ違うだろうけど、私の場合“こうも変わるのか”と思う方である。だからその違いを感心して書くのである。
 さてそんな思い入れのある本をまた読みたくなり手にとって読んだ。例えば本棚の整理をしてたりすると、昔読んだ本は気にかかる。読んでみようかなと思い、読み始めるのだが、今回のように昔えらく感動した本だったのに、読み直してみると“そうでもないな”と思うことがある。
 これが問題なのだ。読み直したいと思うのは、その本が面白かった、あるいは感動したという記憶があるからだと思う。けれど読み返してみてそれほどでもないと思うと、いったい俺はこの本にどうして感動したんだろうと思うのだ。何か昔の思い出が壊される感じがする。もちろん最初に読んだ頃と今とではあらゆる面で違うわけだし、それなりに歳をとってきたせいで、ひねてきているから仕方がないのだろうけど、どこか寂しい感じがする。思い出は思い出として残っていた方がいいような気がするのである。
 そんなことがあるものだから、今昔読んで面白かった本を読み直したいと思う本が数冊あるのだが、さて読み直していいのかどうか、考えあぐんでいる。

 さて、本の話である。話は1963年11月22日ケネディ大統領暗殺のニュースから始まる。そしてこの日一人のユダヤ人が自殺した。ケネディの暗殺ニュースを聞いた後、ペーター・ミラーは偶然にそのユダヤ人自殺現場に遭遇する。そしてそのユダヤ人の日記を手にし、そこに記された文章からある重大な事実を見つける。
 自殺したユダヤ人の名前はサロモン・タウバーといい、リガのユダヤ人強制収容所にいた。サロモン・タウバーはそこで多くのユダヤ人である同胞が虐殺されるのを目撃したし、自分の妻も自らの手で毒ガス車に押し込んだ。そうするしかなかったのである。タウバーは自分が生き残るためには、ユダヤ人でありながら、ここに連れ込まれたユダヤ人を監視するカポとなり、辛うじて生き残った。
 しかし終戦後ある意味ユダヤ人を裏切った自分をタウバーは許せなかったので、ひっそりと暮らしていた。そんな時リガのユダヤ人強制収容所長であったエドワルド・ロシュマンを町で見かけたのである。
 ロッシュマンは、終戦二度も捕まるのだが、何とか逃げ出し、復興した西ドイツで事業に成功し、それなりの立場の人間となっていた。ロッシュマンを手助けしたのはオデッサ(Organization Der Ehemaligen SS-Angehorigenの略。「元SS隊員の組織」という意味)であった。終戦間際ナチス第三帝国は崩壊が近いと知ると、それまで略奪してきた潤沢な資金でSSの高級幹部を守る組織を作っていた。それがオデッサであった。オデッサは最初ナチスの殺人鬼たちの逃亡を手助けしたが、その後彼らを連合軍の占領下にあるドイツに戻し、新しいドイツ連邦の各社会層に再定着させ、社会的にも政治的にも力を持つようさせた。ロッシュマンもその一人であった。彼らは相変わらずドイツ民族の優秀性を説き、ユダヤ人を抹殺しなければならないという考えを捨てていなかった。
 当時西ドイツはアメリカのケネディの意向で武器をイスラエルに輸出していたが、当然政治的に力をつけた元ナチスの高級幹部にとっては面白くなく、さまざまな妨害をしていた。またエジプトは当時イスラエルと対立しており、オデッサの幹部はエジプトに武器に必要な科学技術を裏で提供していた。そんな時ケネディが暗殺されたのである。
 一方ペーター・ミラーはロッシュマンをどうしても探し出さなければならないと思い、戦後ナチ狩りをしているさまざまな機関に接触し、ロッシュマンの行方を探す。そしてイスラエルの諜報機関と接触し、元ナチスに化けてオデッサと接触を図る。しかしオデッサもミラーの動向を知り、ミラーを抹殺しようとする。このあたりが物語を白熱させる。
 物語の題名である「オデッサ・ファイル」とは元ナチスを逃亡させるために身分を偽るために偽造パスポートを作った印刷屋が、自分の身の保全のために残した記録である。それをミラーは手に入れ、ロッシュマンの居場所にたどり着く。
 ロッシュマンと対面したミラーは、ドイツ人であるミラーがナチ狩りをしていることが誤りであり、ここでもドイツ民族の優秀性を説き、ドイツが戦後復興したのもそうしたドイツ民族の優秀性からだという詭弁を語る。
 ミラーはサロモン・タウバーの日記に一部をロッシュマンに読ませる。そこにはロッシュマンが迫ってきたソ連から逃げだそうとしたとき、一陸軍大尉がロッシュマンの言うことを聞かず、雪の埠頭で射殺した情景が書かれていた。その一陸軍大尉がミラーの父親であった。ミラーがロッシュマンを追う理由がここにあった。

 この本は昭和49年(1974年)に日本が訳が出版されている。何が言いたいかと言うと、最初にあげた新聞の切り抜きが1977年のものだから、それ以前にフォーサイスはロッシュマンのの動向をよく知っていたことになる。例えばロッシュマンがリガからの逃亡で雪の中を逃げた。その時足の指が凍傷になり、切断していることもきちんと書いているし、ミラーやナチ狩りをする専門機関から逃亡するために、南アメリカに逃亡したことも書かれているし、その偽名もフェデリコ・ベグナーだったことも書いてある。そしてこの新聞の切り抜きにはそれが全部書いてある。私はフォーサイスの取材力に圧倒されるのである。そして取材した事実をうまく組み合わせ、この迫真の物語を作ったのだと思っている。


評価
★★★


書誌
書名:オデッサ・ファイル
著者:フレデリク・フォ-サイス 篠原慎訳
ISBN:9784047910331
出版社:角川書店 (1981/02 出版)
版型:374p / 20cm / B6判
販売価:入手不可。文庫有り

2009年05月09日

半藤一利著『幕末史』

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 この本はペリー来航から西南戦争までの通史である。あとがきによるとこの本は市民講座みたいところで半藤さんが話されたものをまとめたようである。前作の『昭和史』はかなり面白かったので、今回も多少期待したのだけれど、内容に目新たらしさがなかった。
 案外こんなもんである。前作が面白かったりすると、ついつい今回も、と思うのだけれど、前作に力を注ぎすぎているからか、あるいはネタが尽きてしまっているのか、二作目が面白いというのはなかなか難しいようである。そのため普段私は本を読むときは、何か気になる文章があれば、そのページに付箋を貼っておくのだが、今回は一枚も貼ることなく終わってしまった。ある程度幕末から明治の知識のある人ならこのくらいは語れるじゃないかと思う。

 それと著者の勝海舟好きが高じてしまって、それほど必要もないだろうに、至る所で「勝海舟は・・・」と出てくる。確かに江戸城無血開城の最大の貢献者だから、このとき前後は海舟の記述はあってもいいけれど、それ以後はいらないような気がする。「勝っつあんは・・・」なんて言われちゃうと、いささか辟易してしまう。
 それとよくあるでしょう。歴史の先生が自分の専攻したところ、あるいは興味のあるところを長々と語りすぎ、結果最後は急ぎ足になってしまい、時間不足のため、簡単に触れるしかなくなちゃうやつ。今回も西南戦争までというけれど、そこなどは簡単にしか触れられていない。海舟もいいけれど、もう少しうまい時間配分をして、西南戦争も詳しく語って欲しかったなと思った。


評価
★★


書誌
書名:幕末史
著者:半藤 一利
ISBN:9784103132714
出版社:新潮社 (2008/12/20 出版)
版型:477p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年04月13日

東野圭吾著『さまよう刃』

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ねたばれ注意


 長峰重樹の一人娘絵摩は友人と行った花火大会の帰り、菅野快児、伴崎敦也、中井誠らに拉致され、蹂躙され殺された。彼等はいずれも未成年であった。
 一人娘を無残にも殺された長峰の携帯に犯人が菅野快児、伴崎敦也の二人であり、伴崎敦也のアパートを知らせるメッセージが入る。長峰はそのアパートに行き、絵摩の浴衣、そして絵摩が菅野快児と伴崎敦也に蹂躙されるビデオテープを発見する。それを涙ながらで見ているとき伴崎敦也が帰ってくる。長峰は部屋にあった包丁で伴崎敦也を何度も刺し、殺してしまう。長峰は伴崎敦也を殺してしまう前に菅野快児の居所を聞き出し、菅野快児が長野県に潜んでいることを知り、復讐に走る。そこから長峰のマンハントが始まる。
 一方伴崎敦也の死体がアパートで発見されたことで、警察は包丁などから残された指紋が長峰のものであることが判明し、伴崎敦也の殺害は長峰であることがわかる。
 部屋には絵摩以外にもたくさんの女性が連れ込まれ、強姦されたビデオテープがあった。警察は絵摩の殺害犯人は伴崎敦也と菅野快児であることを知る。警察は伴崎敦也の殺害犯人長峰重樹と絵摩殺害犯人の菅野快児を探し始める。

 この本はマンハントをする長峰の苦悩、そして長峰が娘の復讐に走っていることを充分理解していても、その長峰を逮捕しなければならない警察の苦悩が描かれる。
 長峰はごく普通のサラリーマンであった。しかし娘の絵摩が無残な殺され方をされてから、菅野快児に復讐をするために彼を追い続けているうちに、自分の考え方を整理し始める。

「そもそもなぜあのような偶然が起きたのか。あんな連中が生み出され、放置されたきたのか。世の中はなぜそれを許すのか。
 許しているわけではない、ただ無関心なだけだ、と長峰は周りを見て思う。ここにいる何人が、罪もない女子高生が性的玩具として扱われた上に、遺体となって発見された事件のことを覚えているだろうか。その父親が復讐鬼となったことを気に留めているだろうか。関連ニュースが流れるたびに思い出すことはあるかもしれない。しかしそれだけだ。ニュースの話題が切り替われば、彼等の関心も切り替わる。
 自分もそうだった、と長峰は思う。自分たちの生活が保障されていれば、他人のことなどどうでもよかった。少年犯罪について真剣に考えたことがあるか、問題解決のために何かをなしたかと問われれば、何も答えられない。
 自分だってこの世の中を作った共犯者なのだ、と長峰は気づいた。そして共犯者たちには、等しくその報いを受ける可能性が存在する。今回選ばれたのが自分だった、と思うしかない。
 ただ、絵摩は共犯者ではない。彼女が生き続けたなら、もっといい世の中を作ろうと努力したかもしれない。
 だからこそ自分は彼女に償いをしなければならない、と長峰は思った。スガノカイジのような人間の屑を生み出したのが自分たちならば、その後始末も自分たちの仕事だ。後始末にはいろいろと方法がある。更生、という言葉を使う人間もいるだろう。しかし長峰には、どうしてもその考えを持つことができなかった。世の中というシステムが作り出した怪物を、人間の力で人間に戻すことなど不可能としか思えない」

 しかし私にはこれは詭弁に思える。どこか自分のすること美化している。それよりも人として、親として、娘を殺され、その犯人が未成年ということで、充分に罰せられなければ、その傷は絶対に癒えない。法律があるいは社会がそうしないなら、自らがそうするしかないというのが人間であり親であろう。ところがこの本はその憎しみが妙に美化されてしまっている。もっともっと長峰重樹の犯人に対する憎しみが前面に出ていいような気がした。
 警察にしても「要するにこの銃は-織部は自分が持っている拳銃を思い浮かべた。この銃は、菅野の命を守るためのものなのだ。長峰絵摩を死に至らしめた張本人が、その父親から復讐されるのを防ぐための銃なのだ」そして「自分たちが正義の刃と信じているものは、本当に正しい方向に向いているのだろうかと織部は疑問を持った。向いていたとしても、その刃は本物だろうか。本当に『悪』を断ち切る力を持っているのだろうか」と思う警察官の姿も描かれるけれど、そこまでしかない。
 確かに犯人を捕まえる警察にしても、このように疑問を持って当たり前だと思う。娘を無残に殺された親の気持ち、その犯人を捕まえる警察官の気持ちを考えると、やっぱり今の法律にどこか誤りがあることを思い知らされる。人として“おかしい?”と思うのであれば、それはやっぱりおかしいのではないかと思う。そして特に最近はこういうことが多すぎる。更生させる前に、罪を償うこれが先であろう。
 私としては、せめて小説ので世界では、そうした復讐劇は徹底的であって欲しかった。この本はこうした法律と人の気持ちの乖離を言わしめるだけであって、言ってみればそうしたことを社会に訴えるみたいなところがあって、妙にしゃらくさい。


評価
★★


書誌
書名:さまよう刃
著者:東野 圭吾
ISBN:9784043718061
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2008/05/25 出版)角川文庫
版型:499p / 15cm / A6判
販売価:740円(税込)

2009年03月13日

サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』

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 この本は実は以前からかなり気になっていて、読んでみたいと思っていた。しかし読んだ時期が悪く、花粉症で頭がぼーっとしているこの時期に読む本ではなかった。しかも元が悪文なのか、訳が悪いのかわからないが、とにかく読みにくい。だからたかが500ページの本を読むのに一週間以上もかかってしまった。その上読後の感想を書こうとして、気にかかった文章を引っ張り出し、書き出してみると結構な量となってしまった。これはどうまとめればいいのだろうと今度はそのことで悩み、一週間たってしまった。
 この本は冷戦後の世界に現実に起こっている数々の紛争を「文明の衝突」としてとらえ、それらの紛争を詳細に解説し、そこから見えてくるものを「共通項」として語る。その紛争の解説がいくら必要であるとはいえ、あまりにも細かく語られるため、読む方はそれだけで疲れてしまう。しかも数々の紛争から見えてくるものを、書き出してみると、結局同じことの繰り返しだと気がつく。だったらもう少し簡単なやり方があったんじゃないかなとも思える。
 で、この本に書かれていることをなんとか自分なりに消化してみると、まず今現在世界で起こっている紛争は何に由来するのか。そしてそれがどこで、どのような形で生じ、それが現在どんな形になっているのかという点で考えるとある程度まとめることができるようである。

 1500年以来、ヨーロッパは大航海時代、植民地時代、二度の世界大戦、非西欧世界を支配していたといっていい。そして戦後、冷戦時代を迎え、中核国であるアメリカとソビエトが同じ政治体制や思想などを共有する国々をある程度まとめ、世界を支配した。つまり世界は冷戦以前まで、ある一つの文明(西欧文明)やそれに対抗する東方正教会(ソビエト)文明で支配される単純な形であった。当時はそれらの二つの文明は力があったから、支配能力が機能していた。さらにそれらの文明の力がある程度バランスがとれていたため、今ほどの紛争が生まれていない。
 ただヨーロッパがどうして世界を支配できたのかは、「理念や価値観、あるいは宗教(他の文明から改宗する者はほとんどいなかった)がすぐれていたからではなく、むしろ組織的な暴力の行使にすぐれていたからなのだ」とこの著者は言う。
 一方で、後進国は自国を西欧化することで、西欧のような近代化、工業化の道で模索していく。そうすることで、自分の国を進歩発展させると考えたからだ。このことは、西欧にとって自分のところの文明は「普遍的な文明」であると勘違いさせることにもなる。その勘違いを著者は「西欧文明が貴重なのは、それが普遍的だからではなく、類がないからである」と言い、その類がない点を次のように説明する。

「西欧が他の文明と異なるのは、その発展ぶりではなく、価値観や制度のきわだった特徴である。なかでもいちじるしい特徴はキリスト教、多元性、個人主義、法の支配であって、これがあったからこそ西欧は近代化することができ、世界中に広がって他の社会の羨望の的となったのである。これらが一つになって、西欧独特の特徴となったのだ」

 しかしその西欧文明の力も衰えてくる。それを「西欧が明らかに他の文明と異なっている点は、1500年以降に存在していた他のすべての文明に圧倒的な影響をおよぼしてきたことである。この文明はまた、世界的に広がる近代化と工業化の先陣を切り、その結果、他のすべての文明が西欧に追いついて富を獲得し、近代化を達成しようとつとめてきた。19世紀末のヨーロッパ勢力がほぼ世界的に広がったことと、20世紀末のアメリカが世界的に優勢になったことがあいまって、西欧文明の多くが世界中に広まった。だが、ヨーロッパのグローバリズムはもはや存在しない。また、たとえ冷戦型のソヴィエトの軍事的脅威からアメリカが守る必要がなくなったことが唯一の原因にしても、アメリカの覇権主義は後退しつつある」と言うのだ。それを具体的な数字で示すと以下の通りになる。

 「西欧は21世紀に入ってもなお数十年間は、充分に世界最強の文明圏の地位を守りつづけるだろう。その後は、科学技術、研究、開発力、民需、軍需技術の革新といった分野においては、他よりはるかに有力な立場を維持する。しかし、国力の源泉となる他の要素については、西欧の支配力はますます非西欧圏の中心的国家、指導的国家の手に拡散していく。西欧によるこれらの諸要素の支配体制は、1920年に絶頂期を迎え、その後は不規則ながらも大幅な衰退傾向つづけている。その絶頂期から100年後にあたる2020年代、西欧の支配領域は世界の全陸地の24パーセント(ピーク時は49パーセントであった)に低下し、支配下にある人口は世界総人口の10パーセント(ピーク時は48パーセントであった)に減少するだろう。そして、社会的な参加意識をもった人びとについては15~20パーセントが欧米圏に属し、世界の経済生産高の30パーセント(ピーク時70パーセントに達していたと思われる)を西欧が占めることになる。西欧は工業生産高の25パーセント(ピーク時は84パーセント)を占めるのみとなり、兵力総数では世界全体の10パーセントにもおよばない(ピーク時には45パーセント)」と予想する。
 これを見ても「西欧支配の時代は終わる。同時に欧米の力が低下し、他のいくつかの地域に権力の重心が移ることにより、世界的な自主性の復活という傾向が進んでおり、非西欧文化の復興が始まっているのである」。

 さらに「非西欧社会が西欧的な諸制度を取り入れることにより、地域主義者や反西欧的な政治運動が権力に近づくことを可能にし、容易にしてしまうのである。民主化が西欧化を逆行させる結果となる。なぜなら民主化は彼らの政治的参加をみとめるからだ」。その上「近代化によって社会全体の経済力、軍事力、政治力が増すと、その社会の人びとはそれに勇気づけられて自分たちの文化に自信を取り戻し、文化を主張するようになる」のである。
 自分たちのアイデンティティを西欧文明ではなく、自分たちの社会にある文明に求めるようになったのである。つまり支配されてきた国々が経済的に力をつけたことで、自分たちの文明や文化に目ざめ、自己主張をするようになってきたのである。たとえばアジア諸国は経済力を増したことで、人権や民主化にたいする西欧の圧力にますます動じなくなってきたし、「イスラム教徒たちも大挙してみずからの宗教に向きなおり、アイデンティティ、存在意義、安定性、正統性、発展、力、そして希望の源泉として見つめようとしている」のである。
 こうなってくるとそれまでのような二つの文明で世界がくくられてきたようには行かなくなる。複数の文明が世界で自己主張し始める。しかも厄介なことにいわゆる国境が文明単位で定められていないので、ある一つの国では異なる文明にアイデンティティを見出す民族が一緒にいることになる。この境を著者は「文明の断層線(フォルト・ライン)」という。
 今世界で起こっている紛争はこうしたフォルト・ラインで起こっているのだ。本来は狭い地域で起こっている紛争が、他の地域で同じ文明にアイデンティティを求める人びとに訴えて協力を求める。そのことで紛争は地域間から世界へ拡大していくのである。
 一方複数の文明が共存する国の支配者側が一部で敗北すると連鎖的に拡大することになり、それこそ破滅につながってしまうから、なんとかして死守しようとする。これが紛争を拡大、長期化、あるいは非人道的な行為となっていくのである。

 さらに続ければ、西欧化した非西欧諸国の社会が急激に変化すると、それまであった自己のアイデンティティは崩壊し、自己を新たに定義しなおし、新しい自己像を構築しなければならなくなる。「自分は何者か」、「自分はどこに帰属するのか」という問いを求める人にとってその答を用意してくれるのが宗教である。ここに宗教が力を持ち始める要因がある。
 たとえば湾岸戦争でイスラム世界の人びとが強く感じたことは、サダムが侵略したのは悪いが、サウジアラビアに非イスラム教徒の軍隊が駐留し、その結果イスラムの聖地を「冒涜」した西欧はもっと悪いということなのだ。
 イスラム諸国の自信は、社会の活性化と人口増加から発したもので、なかでも拡大しつつある15歳から24歳の年齢層から、原理主義、テロ活動、反乱、そして移民などの活動に人材を提供している。経済成長はアジアを強化し、人口増はイスラム諸国の政府と非イスラム諸国に脅威を与えているのである。しかも文明に中核国(中心となる国)があれば、文明内に秩序をもたらすことも、他の文明と交渉して秩序を保つこともできるが、イスラム世界には中核国がないため、イスラム教徒として意識をもちながら団結せず、内外で対立が広がり、それがこの世界の特徴となっているのである。

 著者は「文明とは人類を分類する最終的な枠組みであり、文明の衝突とはグローバルな広がりもった種族間の紛争である。新しい時代を迎える世界で、二つの異なる文明に属する国家や集団は一時的に限定的かつ戦術的な協力関係や連合をつくって、第三の文明にたいする自分たちの利益を追求したり、共通の目的を達成しようとしたりするだろう。しかし、異なる文明に属する集団間の関係が緊密になることは滅多になく、通常は冷淡で、多くの場合、敵対的である」
 である以上、アメリカのように自分たちの価値観と制度は普遍的であり、アジア社会の外交政策や内政を思いどおりにできる力がまだあると信じることはやめ、中核国が他の文明内の衝突への干渉を慎むこと。そして中核国が交渉を通じて文明の断層線(フォルト・ライン)で起こる戦争を阻止すること。その上で文明の多様性を受け入れ、あらゆる文化に見出される人間の「普遍的な性質」、つまり共通性を追求していくことが必要だとする。そうしたできた国際秩序こそが、世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置だというのが、本書の結論なのだろう。

 まぁ結構苦労して読んだ本にしては、結論が少々陳腐すぎる気がしないでもない。


評価
★★


書誌
書名:文明の衝突
著者:サミュエル・ハンチントン 鈴木 主税【訳】
ISBN:9784087732924
出版社:集英社 (1998/06/30 出版)
版型:554P / 19cm / B6判
販売価:2,940円 (税込)

2008年12月26日

東野圭吾著『ガリレオの苦悩』

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 続いて「ガリレオ」シリーズの新作を読む。今回は短編だ。しかし前回もそうだったけれど、はっきり言って「ガリレオ」の短編はつまらなかった。どうして長編はおもしろいのに短編はつまらないのだろうか。
 それはたぶんトリックの材料に物理や科学の実験道具を使うからだろう。つまり最新のそうした器具を犯罪道具として使ってしまえば、極端な話、何でも完全犯罪が可能になってしまうのではないか。しかもそうした器具は我々素人にはよくわからないから、現実性が薄い。一般的じゃない。その分リアリティーがなくなってしまう。だから読んでいてつまらないのだ。犯罪は現実の社会で起こりうるものなのだから、我々が直に感じ取れるものを使ってトリックを駆使して話を展開してもらいたい部分がある。その方が読んでいてもおもしろい。
 だから「ガリレオ」の短編は読まない方がいいのではないかと思う。だって長編で充分堪能したのに、短編で興醒めしてしまえば、もったいないではないか。


評価


書誌
書名:ガリレオの苦悩
著者:東野 圭吾
ISBN:9784163276205
出版社:文藝春秋 (2008/10/25 出版)
版型:339p / 19cm / B6判
販売価:1,600 円(税込)

2008年12月24日

東野圭吾著『聖女の救済』

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 この「ガリレオ」シリーズが映画化されるためか、新刊として2冊このシリーズが発売された。というわけで、まずは長編のこの本から私も読むことにする。おもしろかった。
 毎度ミステリーに関して書くのに苦労する。どこがどのようにおもしろかったのかを書いちゃうと、ネタバレしてしまうから、これから読もうとする人が、もしかして私のブログを読んで、おいおいここまで書いちゃ、読む気が起こらんだろうと文句を言われかねない。でも、ある程度話の内容を書かないと、私にとって備忘録にならないので、ここは我慢してもらわなければならない。

 綾音は夫の真柴義孝から一年以内に子供ができなかったので別れようと言われる。それは二人の結婚時の約束でもあった。そもそも綾音は子供が産めない身体であったから、一年後綾音は義孝から捨てられる運命でもあった。
 そして一年後のために綾音は義孝の運命を握るべく、義孝殺害のトリックを仕掛ける。それは綾音が子供が産めなくても、義孝が綾音を必要とすれば、それを破棄すればいいし、結婚時の約束を義孝が言い出せば、それを実行すればいいだけであった。「綾音にとっての結婚生活とは、絞首台に立った夫を救済し続ける毎日であった」。そしてその救済が終わったとき、義孝は殺されるのであった。
 この小説は犯人が最初からわかっている。だから犯人がどのようにしてトリックを仕掛け、犯罪を遂行していくか、その部分の謎解きがこの本の醍醐味となる。さすがにそれはちょっと書けない。でも、トリックがわかったとき、「すごい!」と思ってしまった。こういう動機なら、またこういうトリックなら完全犯罪は可能であろうと思われた。そういう意味では充分楽しめた。

 それはそうと、ガリレオこと湯川学がどうしても福山雅治と完全に結びついちゃって、ちょっとまずいなと思った。テレビドラマを見なきゃよかったなぁと思った次第だ。
 また、内海薫がi-podに福山雅治の曲を入れて聴いているという描写は、おいおいちょっとテレビや映画を意識しすぎじゃないのと思ったが、まぁ、話は充分楽しめたのだから、許すことにする。続いて短編の方も読み始める。


評価
★★★★


書誌
書名:聖女の救済
著者:東野 圭吾
ISBN:9784163276106
出版社:文藝春秋 (2008/10/25 出版)
版型:378p / 19cm / B6判
販売価:1,699円 (税込)

2008年12月16日

本多孝好著『チェーン・ポイズン』

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 駅で息子と会った。彼は大学へ行く途中、私は新宿へ本を買いに行くために、おなじ地下鉄に乗る。久しぶりに息子と話す。それまで何か気分が晴れなくて、気晴らしに本でも買いに行くかと出かけたのだが、しばらく息子と話している内に、気分が晴れ、いい心地になった。私は彼の感性、繊細さが好きなのである。
 最近なんかおもしろい本を読んだか?と聞いたら、この本を教えてくれた。持っているなら貸してくれと頼み、翌日貸してもらった。さっそく読み始める。一気に読んでしまった。最後に「あれ、おかしいじゃん?なんで?」と思った。しばらくわけがわからなかった。そして気がついたのである。私は作者のトリックにまんまとだまされていたことを。それがわかったとき、「やられた!」と思った。

 この本は高野章子が自分と同じ名前の人物が二十歳で自殺した高野悦子の『二十歳の原点』を手に取るところから始まる。

 そして誰も待っている人間がいない、単調な一日を送る女がいた。彼女は会社に行く気が起こらなくなった。行った公園のベンチに座り「もう死にたい」と呟いたとき、「本当ですか?」と声をかける人物がいた。その人物は、死ぬのを一年待ってくれたら、一瞬で楽に、眠るように死ねる薬を褒美として差しあげるという。
 女はその言葉を信じ、自分が勤めていた会社を辞る。時間つぶしに住宅街をふらふら歩いているときに児童養護施設のボランティア募集張り紙を見て、そこで一年間を過ごすことにする。

 週刊誌の編集部にいる山瀬は以前取材した突発性難聴にかかったバイオリニスト如月俊と妻と娘を無惨に殺された持田和夫がアルカロイド系毒物で自殺したことが気にかかっていた。如月俊は発病から一年半で、持田和夫は妻と娘を殺した犯人の死刑が執行されて一年後服毒自殺した。二つのキーワード、アルカロイド系毒物、一年という時間が気にかかった。何故同じ毒物なのか?なぜ一年という時間を置いての自殺だったのか?
 そして彼らと山瀬と何ら関係ない元OLの高野章子がやはりアルカロイド系毒物で、会社を辞めて一年後服毒自殺したことを知る。山瀬は高野章子のことを調べ始める。山瀬は彼ら三人にアルカロイド系毒物を売ったセールスマンがいるのではないかと推理し始めるが、それでも何故一年なのかわからなかった。
 物語は山瀬が高野章子の生前の生活を調べるのと、女がボランティアで一年過ごすことが同時に書き進められる。私は読んでいるうちに、この女が高野章子だと思いこまされてしまった。
 しかし私は山瀬が高野章子の生前付き合いのあった人物に会ったり、章子の両親に会ったりしているのに、章子が児童養護施設でボランティアをしていることが調べられないのが不思議であった。ここで高野章子と女は別人と気づくべきだったのかもしれない。

 女は施設でボランティアをしている内に、そこにいる子供たちと深い関係が築きあげられいくのを感じ始める。自分は一年後自殺をする覚悟でいる。約束の日まで今日も頑張って一日を潰した。近づいたと思っていた女が、いつかここにいる子供たちの将来も見てみたいという気持にもなる。
 そこへ園長が病気で死んでしまい、施設が解散される事態に陥る。園長の息子は施設の土地を売って、それを選挙資金にして区議会議員に打って出ようとしていた。そこで女は自分が自殺して入る保険金で子供たちの将来を保障してやろうとする。
 一方同じ施設で働く工藤たちは施設の存続を求めるホームページを立ち上げ、区政に打って出る園長の息子の中傷をそこに書き込む。怒った息子は女を襲うが、この時この女が高野章子でないことを知らされる。

 この本はミステリーの楽しみも充分堪能できたが、自殺を望む人間の絶望感にも考えさせられてしまう。山瀬が高野章子のことを調べているうちに、章子の性格がわかり始める。取材をしているうちに章子が「どんなに面倒なことでも、それで丸く収まるのなら、すべて自分が引き受けていた女性。その不器用な姿に、周囲は同情ともに、それよりも強い苛立ちを抱いてしまう女性。お線香を上げてあげたいという悼みより、お線香を上げてあげなきゃという義務感を覚えさせる女性」であることが浮かび上がってくる。そんな女が三十年以上も生きてきて、いろいろなものが溜まってしまい、自らの容量から溢れてしまったとき、自殺したのではないかという友人の言葉が重く響く。
 突発性難聴にかかったバイオリニスト如月俊にしても、、不遜で、傲慢で、けれど決して演奏に妥協しない過去の自分が、障害を乗り越えて演奏する自分をよしとしない。だから死ぬしかないという絶望感。
 妻と娘を轢き殺された持田和夫にしても、犯人が死ぬまで自分は一秒でも犯人より先に死ぬわけはいかない。犯人がいない世界を見届ける義務があると思っていた。けれど、犯人の弁護士がありもしない事実をでっち上げ、事実そのもを意識的にねじ曲げて弁護するのを見て、犯人みたいな化け物やそれを守ろうとする化け物が現実の社会にいることを知らされる。世界は何も変わらないという絶望感は、まさしく被害者や関係者でなければわからない、憤りのやり場のない絶望感がここに示される。
 そんな彼らの絶望感は何ともやりきれなかった。希望は人に生きる力を与えるかもしれないけれど、絶望はいった人に何を与えるのか。あるいは奪うのか。そんなことをふと考えさせられる本であった。


評価
★★★★


書誌
書名:チェーン・ポイズン
著者:本多 孝好
ISBN:9784062151306
出版社:講談社 (2008/11/01 出版)
版型:332p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2008年10月27日

穂村弘著『本当はちがうんだ日記』

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 私はエスプレッソが好きだ。カップをそっと口につける。目を閉じて、ゆっくりと一口啜ってみる。苦い。舌が苦い。苦くて、とても飲めたものではない。痺れた舌を空中でひらひらさせながら、私はカップを置く。
 私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故なんだろう。果実の薫りとキャラメルの味わいの飲み物が、地獄の汁に感じられるのは何故か。それは、おそらく、私自身がまだエスプレッソに釣り合うほどの素敵レベルに達していないからだ。

 私の本棚の一角カバーをかけた本たちが並んでいる。全てがいわゆる自己啓発本である。素敵な自分になるためだ。

 コートや上着やズボンのポケットから小銭が出てくる。レジでお釣りを受け取るときに、その場で落ち着いて小銭入れに収納することが出来ず、ポケットのなかにばっと放り込んでしまうしまうからこうなるのだ。

 小学校六年生のとき、卒業文集を作ることになり、その記入用紙に「名前」「誕生日」「血液型」「好きな食べ物」「趣味」「将来の夢」の中に「あだ名」という項目がありショックを受ける。私にはあだ名がなかった。私は記入欄に素直に「特になし」と書けばいいものを「ホムラ」と書いてしまった。
 文集が出来上がって、隣の席の「かーくん」に何気なく「これ、おまえの、名前じゃん」と云われたとき、私の世界は張り裂けそうだった。「だって、ないんだ、ぼくには、あだ名、ないんだ」と絶叫したかった。だが私は「ふふふ」と笑っただけだった。何がふふふなんだ。

「なあ、トースケ、この三年間(高校の)にバスのなかで女の子から何通手紙貰った?」
「え、わかんない、二十個くらい?」
 それは「がーん」でありつつ「やっぱり」なのだ。
 勿論私は一通も貰ったことはなかった。ラブレターを「個」で数えるような奴が二十個貰えて、ちゃんと「通」で数えられる俺は0通。羨望と嫉妬と納得で、私は混乱していた。
 彼女たちにとって、私は、バスの車内の吊革や椅子と同じ存在なのである。いや、掴まったり座ったり出来ない分、それよりも価値がない。

 私は自分の方から女の子に手紙を出すことなど考えてもいなかった。
 それがどんなジャンルの事項であれ、例えば、六十七勝七十三敗からの一敗は何ということもない出来事だ。そこから三連敗してもなんとか耐えられるだろう。だが、0勝0敗からの一敗は恐ろしい。三連敗などしようものなら、自分はこのまま生涯一勝もできずに終わるのではないか、という恐怖に囚われてしまう。その予感が私を動けなくする。

 マネキンが着ている服をかっこいいなと思う。
 早速買って帰って自分で着てみると、余りにも印象がちがって驚く。マネキン着用時にあんなに素敵だったシャツが、鏡のなかでへたっと死んでいる。これは、と私は思う。やはり僕のせいなんだろうな。

 最初から書き出したらきりがない。気持としてはよくわかるし、誰だって見栄を張ったり、人をうらやましがったりするだろう。似たような経験や感じを持ったこともあるだろう。だけど不思議なもので、人生、そういう不幸?からいつの間にか解放されちゃう気がするし、まして年齢を重ねれば、だんだんそういうことを考えることさえ鬱陶しくなってくるのではないかと思うのだ。むしろ著者みたいに四十過ぎてもまだ自分は本来の素敵な姿になっていないと感じる方が、私にすればおかしいのではないかと思うのだ。若々しいといえばそう言えちゃうのかもしれないけれど、四十過ぎてもこれじゃ、どうなのだろうか?
 別に人生論をぶちかまそうなんてさらさらないが、読んでいて面白かったし、「うん、うん」とうなずけちゃところはあるけれど、それは昔の自分を振り返ってそう感じるだけであって、今はそんなことどうでもいいじゃんと思う方が普通なんじゃないかと思う。むしろ若い頃の不幸をさらりと語れる方がかっこいいような気がするのだけれど。
 この本は三浦しをんさんの本で知った。私は著者がどういう経歴の人なのか知らなかった。この本の見開きに著者の紹介があって、それを読んでいると、なるほど、著者は歌人でなんだ。だからいつまでも若い気分を持てあましているんだと思ったのである。世の中にはいろいろな人がいるもんだ。それでいいような気がする。私は穂村さんのこのエッセイを読んでそう思ったのだけれど、穂村さんはそれでは済まない人なのだ。そういうことだろう。


評価
★★


書誌
書名:本当はちがうんだ日記
著者:穂村 弘
ISBN:9784087463538
出版社:集英社 (2008/09/25 出版)集英社文庫
版型:213p / 15cm / A6判
販売価:479 円(税込)

2008年10月02日

ヘレ-ン・ハンフ著『チャリング・クロス街84番地』

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 昔開高健さんの古い本を探すために、神田や早稲田の古本屋さんを回ったが、それでも手に入るものは限られていた。「日本古書通信」に全国の古本屋さんが自分のところ在庫を広告として載せていているので、その中から開高さん未入手の本を探し、はがきで注文した。確か2冊ほどこの方法で手に入れたと思う。中には抽選というやつもあって、外れたのだろう。その本は入手できなかった。
 今ではネットで簡単に日本全国の古本屋さんにアクセスできるので、こんな面倒なことなどすることもなく、在庫の確認も注文も数度のクリックで簡単にできてしまう。後は数日待てば、本と請求書が送られてきて、後は郵便振替で送金すればいいし、アマゾンならそのままカード決済だから、本を受け取るだけでいい。ここには古本を売る人とそれを買う人の顔が一切見えない。
 たとえば昔やったはがきでの注文でも、注文する本の書名などを書くのは当たり前だし、最後には「よろしくお願いします」の一言ぐらいは書き添えるだろう。それだけでも何か見えてくるものがあると思いたいが、ネットの場合それが一切ない。確かにつまらんしがらみがないから、その方が楽といえば楽であるが、どこか寂しさがつきまとう。特に古本という手垢のついた本にかかわるものだから、ちょっとは人との関係が欲しいといえば欲しい気もするのである。

 なんでこんなことを書いたかといえば、この本を読んだからである。私の持っているこの本は昭和59年発売の初版本である。当時からもう24年経ってしまっている。本もほどよく日焼けして、赤茶けている。多分買ってすぐ読んだと思うけど、内容は覚えていない。先日読んだ池谷伊佐夫さんの本にこの本のことがちょこっと書かれていて、気になったものだから読み返すことにしたのだ。
 この本は、ヘレ-ン・ハンフが『サンデー・レビュー』で絶版本を専門に扱っているイギリスのチャリング・クロス街84番地にあるマークス社の広告を見て、手紙に添え欲しい本のリストと一緒に送ったことから始まる。時は1949年10月5日である。ハンフの担当となったのはマークス社のフランク・ドエルであった。ドエルはハンフの注文した本を探し出し、アメリカにいるハンフの元へ本を送る。
 ヘレ-ン・ハンフは自ら貧乏作家で、古本好きと称しているが、生計はテレビの台本を書くことで立てている。古本好きもこの本を読んでいる限り、主にイギリスの古典作家に興味があって、それらの作家たちの本をドエルに注文している。
 しかし注文した本がすぐハンフの元に届くとは限らない。結構やっかいな作家たちの本を注文しているので、ドエルはそれらの本を探し出すのに苦労している。そのためなかなかハンフの元に本が届かない。ハンフは注文した本はどうなっているの?とキャンキャン吠えるし、本を探さないで、店でぼーっとしてるんじゃないのと毒づく。
 しかしそれは悪意があるわけじゃない。私もハンフの気持はよくわかる。古本好きのとって自分が探している本がなかなか見つからないというのは、結構イライラするものなのだ。まぁその分目当ての本が見つかり、手元でその本をさわり、ページをめくり、読んでみると、うれしさはひとしおなのだが・・・。ハンフも届いた本を見て驚き、感激し、ページにペーパーナイフを入れて読み、また感動するのである。
 この本を読んでいると、当時イギリスでは食料の販売統制がおこなわれていたようである。多分戦争終了後だからだろう。ハンフはドエルに肉やハム、卵(乾燥卵というのもあるらしいが、どんなやつなのだろうか?)や缶詰などをクリスマスや復活祭などのプレゼントして送っている。それはマークス社のドエルたちが苦労してハンフが注文した本を探していることのお礼であった。
 送られてきたプレゼントはマークス社の従業員やドエルの家族に渡り、そのためハンフとの手紙のやりとりが、マークス社の従業員、ドエルの奥さんや子供たちと広がっていく。あるいはプレゼントのお返しとして、ドエルがハンフに送ったテーブルクロスは近所の老婆の手編みで、それをハンフはえらく気に入り、その老婆との手紙のやりとりもある。もちろんハンフから送られた食料品はその老婆にもお裾分けされている。
 ここではハンフとドエル関係が店とお客という商売関係で終わるのではなく、古本を介して人としての関係に変わっていくのが、心地いい。それはドエルがハンフを一番最初に“マダム”と呼び、次に“ハンフ様”に変わり、さらに敬称を省いて“ヘーレン”になっていくのでもわかる。それだけ手紙や本、そしてプレゼントやりとりがお互いを親密化していったのである。いつの日か、ハンフがイギリスに行って、チャリング・クロスにあるマークス社を訪れたいという気持にもなり、ドエルや彼の家族もそしてマークス社の社員もハンフがイギリスに来てくれることを望むようになる。
 しかしハンフのイギリス訪問はなかなか実現せず、1969年1月8日付けのマークス社の秘書からの手紙で、ドエルが死亡したことを知らされる。読む側としては、それまでハンフとドエルの手紙のやりとりが書かれていたのに、いきなり秘書からの手紙でドエルの死亡を知ることになったので、正直驚いてしまった。
 訳者である江藤淳さんは解説で次のように書かれている。

「二十年の歳月にわたってつづけられたこのほのぼのとした交友に終止符を打つのは、フランク・ドエルの突然の死である。私たちが、フランクの死を告げる手紙を見て愕然とし、もう二十年も経ってしまったのか、と思い、人はやはり死んでしまうのだな、と思わざるを得ない。この切断は鮮烈であり、ひとことのコメントも添えられていないためにかえって粛然と襟を正させられる。つまり死が、この往復書簡集に作品の輪郭をあたえたのだということができる」

 たしかにハンフとドエルの往復書簡は読む側にとって、怒ったり、謝ったり、喜んでみたり、感謝してみたりして、素直な人間性とやさしさをそこに感じさせてくれた。だからそれがドエルの死によって終わってしまう残念さを余計に感じるのである。
 ハンフは最後にイギリスに行く友人宛に「イギリスのことは長い年月夢に見てきました。ただ、かの地の町のたたずまいを見るためだけに、よくイギリス映画を見にいきました。何年か前、私の知り合いのある男性が、イギリス旅行をする人は、見ようという目的のものが必ず見られる、って言ったのを覚えています。で、私ならイギリス文学のイギリスが見たいわって言ったら、彼、うなずいて、あるともって言っていたわ。
 あるかもしれないし、ないかもわからない。今私がすわっている敷物のまわりをながめると、一つだけ確実なことが言えます。イギリス文学はここにあるのです。
 ここにある私の古書を全部お世話してくださったありがたいお方は、数カ月前に亡くなってしまいました。その古書店の店主だったマークスさんももうこの世にはいらっしゃいません。でもマークス社は依然として残っています。もしチャリング・クロス街84番地の前をお通りになるようなことがあったら、私からよろしくって言ってくださいね。そうしてくだされば、大いに感謝いたします」と書いている。
 ここでハンフが注文したは、古さもあるけどきっとすばらしい装丁の本なのだろうなと思ってしまった。ウォルトンの『釣魚大全』や『ピープス氏の日記』(私のは岩波新書なのだけれど)などは、私も持っている本とは違い、まるで他の本のような感じがしてしまった。だってハンフがあれほど待ち望んだ本なのだから。
 いい本であった。


評価
★★★★★


書誌
書名:チャリング・クロス街84番地 ― 書物を愛する人のための本
著者:ヘレ-ン・ハンフ 江藤淳訳
ISBN:9784122011632
出版社:中央公論新社 (1984/10 出版) 中公文庫
版型:233p / 16cm / 文庫判
販売価:680円(税込)

2008年09月29日

文芸春秋編『目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛』

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 確か文藝春秋デラックスというムックがあったのだけれど、今もあるのだろうか?なんか最近本屋さんで見たこともあるけれど、ちょっと昔のやつとは違うような感じだ。昔のは内容がもっと“俗っぽい”かったし、サイズも大きかったような気がする。
 この本はそれを文庫化したもので、当時NHKの大河ドラマで「翔ぶが如く」が放映されるのにあやかってというか便乗して出版されたものだろう。もちろんこんな本、今では本屋では手に入らない。きわものぽいもね。
 で、なんでこんな文庫本が私の手元にあるかといえば、以前『翔ぶが如く』を読もうととして、古本屋さんの均一本コーナーで各巻を集めていたときに、この本も見つけたので買っておいたのだ。
 今回やっと『翔ぶが如く』を読み終えたので、この本のことを思い出し、手に取った次第だ。便乗本?にしては面白かったし、内容もしっかりしている。特に明治時代の写真が興味深い。『翔ぶが如く』に出てくる人物たちの肖像写真もあって、「へぇ~、桐野利秋はこんな顔をしていたのか」とか、大久保利通が新築した邸宅の写真を見て、「ふ~ん、これが『大久保はこんな豪邸を建てやがって』と帰郷した薩摩士族に反感を買った家なのか」としげしげと眺めてしまった。
 西郷たちが最後に籠もった城山の写真があったが、竹を組んで土嚢を積み上げ、政府軍の攻撃を防ごうとしている状況がよくわかる。ちょっとした万里の長城みたい。
 後は当時の錦絵がいくとも掲載されているが、それがカラーじゃないのが残念だなと思った。昔「別冊太陽」で明治の新聞や錦絵などがたくさん載ったものを持っていたのだけれど、古本屋さんに売っちゃった。今にして思えば残しておけばよかったなぁ。
 さて、写真も面白いけれど、この本に寄稿している作家や評論家などの文章にも面白ものがあった。特に「鼎談書評」として木村尚三郎さん(いやぁ~懐かしい名前だ)、丸谷才一さん、山崎正和さんの鼎談は興味深かった。
 例えば丸谷才一さんが「(司馬さんは)明治維新以前の西郷への高い評価と、以後の彼に対する極度に低い評価との間で、困りながらこの七冊(『翔ぶが如く』)の本を書いた。この本の最大の読みどころは、その司馬さんの困り方です」といっているのが、確かに!と思ったのだ。そのギャップがあまりにもあるので、司馬さんは『街道をゆく』では「西郷の不思議さ」といっているのだが、それをいろいろな方向からなんとか説明したい、あるいは司馬さん自身納得したいという思いで、この本がこうも長くなってしまったんじゃないかと思うくらいだ。しかし結局司馬さんもそして読む我々も、西郷の極端な変化に理解が及ばない。「こうだから西郷は維新前と維新後で変わらずを得なかった」という説明が出来ない。それを丸谷さんは司馬さんが困っているといっているのである。それがよくわかったのである。

 さらに、山崎正和さんが明治維新という革命の性質をうまいこと言い当てているなと感じた言葉がある。

 「やってみて悪ければまた考える、というやり方で一貫して明治維新はおこなわれた。ですからそれは西洋流の革命とはまったく性質を異にしたものだと考えていいですね。
 西洋流の革命というのは、マルクス主義の革命もそうですし、ナポレオンの革命ですらそうですけれども、最初にイデオロギーがあり、一つの政体に対する青写真というものがあった。それについては動かない信念があったから、革命家は敗けたら敗けっきり、勝てば官軍です。
 ところが日本の場合、寄り合って相談しながらあっちへ行こう、こっちへ行こうといっているうちにだんだん現状が成り立った。そういう意味ではわたしは西洋流の革命が宗教的革命であるのに対して、日本の革命は自然科学的な革命だと思うんです。しかしこれを裏返していうと、ある短い時点の中では全員が裏切り者になるという性質がある。西郷自身も島津久光から見ればたいへんな裏切り者なんですね。そして、西郷はやがて明治維新に対する裏切り者にもならざるを得ない。そういう必然性がすでに明治維新を用意する運動の中にあったという印象をもちました」

 つまり西洋流革命はぶれないけど、日本の明治維新は試行錯誤しながら変化し発展していくから、状況が刻々と変化していく。最初は革命側であっても、いつの間にか反革命側になりかねない部分があるというのである。これは幕末から明治、あるいは西南戦争まで歴史を追っていくと「なるほど」と頷ける。たとえば西郷が作り上げた明治政府に自ら失望し始めると、今度は西郷が反政府側に立っているというのを見るとますます頷けちゃう。
 それは基本的にしっかりしたイデオロギーが根付いていないからそうなってしまうのだろうけど、その変化についていかないといつの間にか自分が反革命側あるいは反政府側に立っていることになってしまうから恐ろしい。
 それは現代の日本社会まで続いている。体制側にいると思っていたあなた、いつまでも今の地位に安穏としていると、気がついた時は反体制側にいることになりかねませんよ。日本という国はそういう国なんだから。

 さて、話は変な方向に行っちゃいかねないので、もう一つこの鼎談で木村尚三郎さんがいっていることも懐かしかった。「辺境改革説」(ここでは「辺境理論」といっている)である。
 木村さんは、なぜ薩長が明治維新を成し遂げたかを説明するに当たり、彼等が「野蛮」であったからだというのである。その説明が以下の通り。

 「知的エリートは、たしかに江戸にいたわけです。そういう人たちは都会化され、野蛮性を失っていたからこそ、逆に力にならない。こうすればこうなる、ああすればああなる、ということがみんなわかっていると指導力を発揮できず、結果として何もできないわけですよ。
 歴史はいつもそうですよ。都市文明が進むと女性化して野蛮にやられてしまう。ローマが都市文明化すると全く無知蒙昧なしかし男性的なゲルマン人にやられるわけですよ。そのゲルマンの中でさらに田舎のイギリスが近代になって大陸を押さえつける。さらにイギリスの中の野蛮な連中がアメリカに渡って、これがカンカラで豆なんか煮て食って、頑張った。そして二十世紀の初めからヨーロッパを押さえつけるようになった。もちろんこの「辺境理論」で歴史のすべてが理解できるわけではありません。しかし、明治維新も、その一つの典型的な例のように思えるわけです」
 
 これ昔、大学時代にえらく感動した理論だったのだ。文明はいつまでも続かない。腐敗などが起こり、内部崩壊していく。その文明が成熟していればしているほど、腐敗から逃れられない。その文明から一定の距離をおいている(これは肝腎です。だって全く関係のないところから次を担う文明が生まれるわけがないからだ)他の文明が、その成熟した文明の一部を取り入れつつも自分を見失わないところで(要するに新しい血が入ることで)、次の文明が生まれていくというものなのだ。それが歴史的に説明できるというので、えらく感動したのである。それをまさかここで読むとは思わなかったので、ちょっと懐かしくもあったのだ。


評価
★★★


書誌
書名:目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛
著者:文芸春秋【編】
ISBN:9784168104060
出版社:文芸春秋 (1989/11/10 出版)文春文庫―ビジュアル版
版型:277p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年06月20日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』下

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 どうも感激がわかない。出版された当時はきっとワクワク、ハラハラしながら読んだに違いなのに、今回読み直してみると、それほどでもない。

 1990年8月にイラクがクエートに武力侵攻し、国連の度重なる撤退勧告を無視したため、翌1月17日にアメリカを中心とする多国籍軍によるイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )が始まった。この本はいわゆる“湾岸戦争”を舞台にした話である。
 もともとイスラエルの情報機関モサドが抱えていた内部通報者で、イラクの幹部である“ジェリコ”から、湾岸戦争でイラクが何を考え、どんな兵器をもっているかという情報を今度はイギリス、アメリカの情報機関が彼から得ようとする。その情報の直接の受け渡しするのがマイク・マーティンである。マイクは最初クエートに入った経緯は先に書いた通りで、その後バクダッドに潜入する。ジェリコは多国籍軍に貴重な情報をもたらしてくれるが、その情報の中にフセインが核兵器を所有して、発射準備をしているという情報が入った。それがフセインのとっておきの兵器“神の拳”であった。
 詳しいことはわからないが、核兵器を自国で作る場合、濃縮ウランを作る必要性があり、それには時間がかかる。多国籍軍は計算からイランが核兵器を持てるわけがないと推定していたが、それが可能であるとわかると、空爆後、歩兵を投入すれば、甚大な被害が及ぶ。マーチンらは核弾頭を積んだロケット基地の正確な位置を知らせるため、一度バクダッドを脱出した後、再度イランに入る。

 この本は今読むと、明らかに失敗作であろう。というのもイランはその後大量破壊兵器である核兵器も生物兵器も所有していないことが明らかになったからだ。
 ここにフォーサイスの現代の紛争地域を舞台にした小説そのものが、ただ単に情報戦のすごさや兵器のすごさを描くだけになってしまっている不満がある。確かに当時としてはタイムリーで、新鮮味もあっただろうが、結局こうして時間が経って読み返してみると、古びたエンターテイメントとしてしか楽しめない。正直な話、読み返すに耐えないものになってしまっている。風化してしまっているように思えてならないのだ。
 最初からフォーサイスの作品はこんな危ない要素を含んだ作品ばかりだったのだろうか?違うと思う。少なくとも初期の三部作はそうではなかった。少なくとも歴史というものに濾過された事実を駆使して、描かれた作品は今でも読み応えがあると思うのだ。歴然たる事実の重みとでもいうものが、ものを言うものだから、読んでいても読み応えがある。
 今の時代を描くエンターテイメントを要求されると、こういう結果にならざるを得ないのかもしれない。トム・クランシーが兵器のすごさばかりを描くことで、一時話題になって、もてはやされたけれど、いつか結局それだけじゃないかということで、飽きられしまった。それとも一過性のものとして、命をかけるプロの仕事を楽しめばいいのだろうか?なんかフォーサイスもトム・クランシーと同じ道を歩みつつあるんじゃないのかなと心配してしまう。


評価
★★


書誌
書名:神の拳〈下〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912205 (4047912204)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:425p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2008年06月16日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』上

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 急遽忘れてしまったフォーサイスのこの本を読むことにした。まぁ、14年前に読んだ本を、主人公を忘れたということで、慌てて読む必要もないとは思うのだけれど、気になるので読むことにしたわけだ。
 今回も詳しいことは下巻を読んでから書きたいと思うのだけれど、一つだけ書きたい。
 主人公のマイク・マーティンには学者である弟がいる。名前はテリー・マーティンという。テリーは中東の学者で、アメリカやイギリスの情報機関のオブザーバー的存在で、中東で何かあると、それらの情報機関から意見を求められる。先に読んだ『アフガンの男』でも、アフガンでアルカイダが9.11以降の大規模なテロが行われる可能性が出てきて、アフガニスタンでの情報が欲しいということで、情報機関の人間を忍び込ませたいが、適当な人間がいないかと意見を求められ、兄のマイク・マーティンがいると言ってしまう。
 マーティン兄弟の母方の祖父はインドのダージリンにお茶の栽培のため入植したイギリス人であった。この祖父インド人の娘と恋に落ち結婚してしまった。当時イギリス人はインドの植民地支配者だったので、インドの娘と結婚することは驚天動地の騒ぎとなった。
 祖父テレンス・グランガーとインド人の娘の間に、一人娘のスーザンが生まれた。スーザンはイラク石油会社の経理をしていたナイジュエル・マーチンと結婚しバクダッドで暮らし、二人の男の子をもうけた。それがマイクとテリーである。マイクは母方の遺伝子を受け継いで、髪と眼は黒く、肌はオリーブ色で、当時のイギリス人コミュニティーの悪童から“アラブ人そっくりだ”と冷やかされた。
 マーティンはパブリックスクールを卒業した後、パラシュート部隊入隊し、その後厳しい訓練の後、SAS(空軍特殊任務連隊)に配属される。バクダッドで子供時代を過ごした関係で容姿もそうであるが、アラブ人並みにアラビア語がしゃべれた。
 だからテリー・マーティンはアフガンに潜入する人物として兄のマイク・マーティンが適材と言ったのだ。しかし危険きわまりない地域でスパイ活動するわけだから、見つかれば命はない。自分の兄を推薦したことをテリーはひどく後悔し涙する。
 ところがテリーのおしゃべりはこれが初めてではなく、実はこの本でも同じことをしているのだ。いやこの本が最初であった。イラクがクエートに侵攻したとき、クエートの情勢を知るために、スパイとして適している人物として、兄のマーチンを推薦しているのだ。そしてひどく後悔する。
 こんな危険なところに自分の一言で兄を派遣させてしまったことを後悔したら、普通二度と同じことはしないんじゃないのかなぁと思うのだが、どうだろう?それをいくらそそのかされたとはいえ、また自分の兄の名前を出しちゃうなんて、一体テリー・マーティンという人物はどういう神経をしているのか、正直呆れかえるばかりであった。
 それともマイク・マーティンを再び『アフガンの男』で使うためには、フォーサイスとしては同じ手を使うしかなかったのだろうか?それにしてもちょっと安易すぎないか?と思った次第だ。


書誌
書名:神の拳〈上〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912199 (4047912190)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:414p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2008年06月10日

フレデリク・フォ-サイス著『アフガンの男』下

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 おいおい、これでおしまいかよ。ここまで盛り上げておきながら、この結末はないんじゃないの?しかし何となくこうなるんじゃないのかなあと感じていた。アルカイダが9.11以降大規模なテロを計画し、実行する。そしてそれがどんなテロなのか、アメリカやイギリスの情報局が探りを入れ、阻止しようとするのがこの本の話なのだが、そのテロに使われたのが船であるところに、話の面白みに限界があるように思える。
 だって、テロリストが船に乗ってしまえば、そこに潜入したSASのマイク・マーティンには、そのテロがどんなものなのか伝える手段がないし、阻止するにもマイク自身がするしかない。なぜなら外は大海原なのだし、船の中には自分以外テロリストしかいないのだから、必然的にそうならざるを得ない。だからテロが進み始めると、話は行き詰まってくる。ということは読む側にとって話が見えてしまうし、実際その通り話が終わる。
 しかも、実際のテロが進行する場面は下巻の後半の後半で、もうすぐ終わっちゃうよと心配したくなるところからで、ぎりぎりまでクライマックスがこない。そしてそのクライマックスも“これだけ?”と言いたくなるくらい。
 まぁ、結果は尻つぼみだったけれど、その過程は充分楽しめたので、“よし”とするしかないかと思うことにした。

 フォーサイスはいつもそうなのだが、実際あった事実と、今進行しつつある現実の中に物語の登場人物を組み込み、しかも何の不自然さもなく、いつの間にかその事実や現実に登場人物がいたようしてしまう。だから過去にあった、あるいは現在進行しつつある戦争や紛争の中で、リアルに行動しているように感じさせる。それはフォーサイスが膨大な情報を駆使しているため、当然あってもおかしくない状況をうまく生み出すからだろう。
 たとえば主人公であるマイク・マーティンがアフガニスタンに潜入するとき雇った地元のガイドのイズマート・ハーン(後にタリバン戦士となる)が当時のソ連軍のヘリに銃撃され、イズマート・ハーンが足に大けがをする。何とかとある洞窟にたどり着く。その洞窟内部には兵舎、モスク、図書館、厨房、商店、外科病院まで設備されていた。イズマート・ハーンはそこで手術を受けた。手術後病室に入ってきた男がイズマート・ハーンに「年若いアフガンの闘志の気分はどうかね?」尋ねる。その男はオサマ・ビン・ラディンで、手術をしたのが、アルカイダのナンバーツーのアイマン・アル・ザワヒリ医師であった。今世界で最も危険な人物たちが、こうしてさりげなく登場するのである。(後にこのことがイズマート・ハーンの勲章となり、彼に扮したマイク・マーティンがアルカイダに潜入できるきっかけとなる)
 私はアフガニスタンの政治状況についてまったく疎いのだが、この本を読んで、ちょっと勉強になったこともある。アフガニスタンからソ連が撤退した後、何千人もの若いアフガン人は学業を終えるためにパキスタンにある神学校(マサド)に戻っていった。そこでワッハーブ派による洗脳を受けた。ワッハーブ派は極めて厳格なイスラム原理主義に基づく宗派であった。現在もサウジアラビアの国教であり、オサマ・ビン・ラディンもその信徒であった。
 アフガニスタンの政局は不安定で、中央政権が倒れてしまった後、軍は一番お金を払ってくれる地元の軍閥に身売りしていく。軍の無法状態が続いた。カンダハルの郊外で村の娘二人が連れ去られ、輪姦された。村の宗教指導者は報復のため立ち上がり、基地に乗り込み、兵士達を殴り倒し、司令官を戦車の砲身で吊し首のした。この指導者がハンマド・オアマール、いわゆるオマール師である。彼は地方の英雄となった。彼の下に一万二千人もの男達が集まり、彼が巻いた黒いターバンを自分たちまねて巻いた。自ら弟子と称した。パシュート語では弟子をタリブといい、その複数形がタリバンである。彼らはどんどん巨大になり、カンダハルに代替政府樹立する。タリバン政権はイスラムの価値観に基づいたアフガニスタンの復興を目指したが、イスラムの名のもとに国民に女子教育禁止など極端な人権侵害を行ったため国際的に孤立した。さらにアメリカ合衆国に対するテロ行為の黒幕と目されていたサウジアラビア人オサマ・ビン・ラディンを客人として迎え入れてかくまったことから、アメリカと激しく対立する。
 オサマ・ビン・ラディンは9.11の首謀者としてみなされ、タリバンはアメリカにオサマ・ビン・ラディンの身柄の引渡しを要求されるが、オマールはこれを拒否した。このためターリバーンは米軍の攻撃対象とされ、米軍と北部同盟の攻撃により2001年12月までに政権は崩壊した。

 この本は最後に欲求不満がのこるけれど、フォーサイスがストリーテラーとしての醍醐味は随所に健在だし、このようにちょっと勉強になることもあったので、読んでよかった。
 それはそうと、この本の主人公マイク・マーティンはフォーサイスの前の本『神の拳』にも登場していたことを解説(いつも解説は訳者の篠原さんが書かれて、本の裏話やフォーサイスの近況などを教えてくれるのだけれど、今回は書かれていない)を読んで知り、愕然とする。フォーサイスファンとしては当然覚えていていい名前であったはずなのに、まったく記憶に残っていなかった。
 『神の拳』は確か湾岸戦争を舞台にして、サダム・フセインの大統領親衛隊との戦いを描いたものだったと思うのだが(これもあやふやなので自信がない)、まさかこの本の主人公がマイク・マーティンだとは思わなかった。この本が書かれたのは1994年だというから、もう14年前に読んだものだ。だから忘れても仕方がないけれど、あわてて本この本を取りだし、再度読むことにした。


評価
★★★


書誌
書名:アフガンの男 下
著者:フレデリク・フォ-サイス・篠原慎訳
ISBN:9784047915596 (4047915599)
出版社:角川書店 (角川グル-プパブリッ) 2008/05出版
版型:269p 20cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年06月07日

フレデリク・フォ-サイス著『アフガンの男』上

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 久しぶりのフォーサイスの新刊、やっぱり面白いな。ぞくぞくしながら読み進む。あっという間に上巻を読み終える。詳しいことは下巻を読んでから・・・。


書誌
書名:アフガンの男 上
著者:フレデリク・フォ-サイス・篠原慎訳
ISBN:9784047915589 (4047915580)
出版社:角川書店 (角川グル-プパブリッ) 2008/05出版
版型:255p 20cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年05月23日

林直樹著『リストカット』

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 どうも釈然としない。人間のこころという不定形で確かめようのないものを論理であるいは図形で示そうとすると、多分こういうことになるのだろうと感じた。
 たとえば、病気の根源がガンのようにはっきりしたものであれば、それを取り除けばいい。だけど、じゃあそのガンは何でできたのと質問すれば、遺伝的要素、外的要因、生活環境などさまざまなものが、それこそからみ合って、ガン細胞が生まれたと説明を受けるに違いない。よほどのことがなければ、「これだ!」という原因が突き止められないのではないか?つまり人間の身体やこころはそう簡単に病気の根源を突き止めていけるほど単純じゃないだろうと思うのだ。特にこころの問題はさまざまな要因がからみ合って問題を起こしているものだと思うので余計である。
 この本を読んでいてリストカットを含む自傷行為がなぜ生じるのか、わかりやすく図を用いて説明してくれるけれど、たとえば正常な精神(これだって何をもって正常と判断するのかよくわからないが・・・)では図の中ではそのバランスが保たれているから、正常であって、そのバランス崩れると、自傷行為が生じ、自殺へと進むのだとあまりにも短絡的に説明しているように思えてならなかった。
 もちろんその図を作成するに当たり、膨大な臨床例をもって、それを分析して作られたものであろうことは理解できるけれど、だからといってあなたは今この図ではこの位置にいますと言い切れるものなのだろうか?そんなに一般化できちゃうものなのだろうかと思うのだ。(逆を考えれば、それだけ複雑な生き物だから、人間はこころの病を発症するのだろう)
 この本が新書というスタイルをとっているので、誰にでもわかりやすい入門書的要素が要求されていることもわかる。また治療という行為は、何らかの病名を確定しなければ先に進めないし、診療報酬や調剤報酬が得られない保険制度だから仕方がないにしろ、人間ってそんな簡単な生き物じゃないだろうと思いたい。

 基本的に、私は自分の身体を傷つける行為というのはよくわからない。どうして自分の身体を傷つけようとするのだろう?たとえばこの本に説明されているようなリストカットは、自分が抱え込んでいる悩みや苦しみから解放されるためとか、リストカットをすることで、他の人に苦しんでいる自分をわかってもらいたいという気持から、そうした行為に走るというのも、よくわからない。まぁ自傷行為自体、よっぽど悩んで、苦しんでいるから、そういう行為に現れるのだろうとは思うのだが、それを自分の身体傷つけることとどう関係があるのかわからないのである。むしろストレートに自殺の方向に行ってくれる方が他人事とはいえ、わかりやすい。あるいは自殺への前段階に自傷行為があるといわれれば、納得できないこともない。ということは、自傷行為はまだ死ぬことはちょっと怖いという意識がその人にはあって、糸が完全に切れたとき自殺となるということなのだろうか。であれば、自傷行為は自殺へのシグナルを発している可能性がある。
 そういう意味で自傷行為をとらえるなら、何とかできないものだろうかとやっぱり思う。自傷行為がこころの病から発しているものなら、まずはその治療が先決となる。この本を読んでいると、こころの病を病んでいる人や自傷行為に走る人は「私」の存在をなくしてしまっている人のように思える。だけどそう簡単に「私」の存在はなくなるものではなかろう。勝手にそう思いこんでいるだけであって、その人にはその人を大切に思う人が必ずいるものだと思いたい。なぜなら人間はきっと一人では生きていけるものではないから、必ずどこかで人間関係がつながっているはずだ。そういう人たちの気持ちを無にして、自分だけが苦しいから、自分の身体を傷つける、あるいは自殺するなど、とんでもないと思う。偉そうなことは言いたくないけれど、あなたの身体やこころはあなただけのもんじゃないですよと言いたい気持がある。ここでも生きることは大変なことなんだなと思った。


評価
★★


書誌
書名:リストカット―自傷行為をのりこえる
著者:林 直樹
ISBN:9784062879125 (4062879123)
出版社:講談社 (2007-10-20出版) 講談社現代新書
版型:190p 18×11cm
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

2008年05月17日

藤原正彦著『決定版 この国のけじめ』

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 歳をとってくると、世の中のことに何かと文句をつけたくなるのか知らないが、“何かおかしい”あるいは“それは違うんじゃないか”と感じることが多くなってきている。おそらくそうした感情が生まれる背景には、私自身がこれまで生きてきた年月やその中で経験したことが今の世の中の出来事とずれてきているからそう感じるのだろう。いいとか悪いとかそういう問題ではなく、価値観に違和感を覚えるのが今日この頃なのだ。
 しかしちょっと前まではそんなことは感じなかったし、アメリカ式小泉改革を支持していたところがあった。能力のあるものはそれなりの報酬を得るのは当たり前だと思っていたし、できる者ができない者に足を引っ張られることはおかしいと考えていた。また支払うものを支払わないで、自己主張するやつはとんでもないと思っていた。もちろん今でも基本的にはこの考えに変わりはない。が、最近はそれだけでいいのだろうかと思うことが多くなってきたのはなぜなんだろうと思うのだ。ただ単に歳をとったからだけでは自分の中で説明できなくなってきているところがある。
 特に小泉首相が唱えてきた「構造改革」は間違いじゃなかったのかと、最近思うようになってきた。確かに不具合は修正しないとならないだろうけれど、改革という名の下で、それまで日本に存在していた文化、伝統、道徳、倫理を壊し、グロバールスタンダードということで市場原理主義に走ったことは、果たして正解だったのだろうかと思うようになっている。この点藤原さんは、くどいくらい市場原理主義が日本という国家をだめにし、国としての品格のない国家を生んでしまったことを主張している。
 戦後、日本はアメリカの言いなりになって、アメリカ式民主主義を取り入れた。そして戦後の復興を成し遂げ、成長してきた。その間はまだマシだったかも知れない。まだ日本的情緒は残されていた。けれど、バブルで踊らされ、それがはじけると、長い不況となる。国民も経済界もこれに苛立ち、何とかしようとするところに小泉さんが出てきた。
 小泉さんは構造改革という名の下で、「官から民へ」「中央から地方へ」「小さな国家」という構造改革を始めた。つまりできる限り市場原理主義に任せ、国の規制を緩和し、極端なことを言えば、国家という枠を取っ払い、自由にやらせようとした。そのことが逆に日本という国を愛する気持を希薄にし、国歌の君が代さえ歌わない状態を生む。そういう人がどうして靖国神社参拝にこだわるのか不思議といえば不思議なのだが、とにかく自由ということなら君が代を歌う歌わないは個人の自由だろうということになる。けれど、少なくとも生徒がそう判断したならともかく、それを学校の先生が言っちゃまずい。国を大切に思わなくなったら、自分の今いるところも意味がなくなる訳だし、自分たちが根なし草になってしまう。そうなったときどこに自分たちのアイデンティテーを求めるのだろうか?すべては個人の理性とやらに絶大な信頼を置いて判断することになるのだろうが、それって、そんなに確固としたものなのだろうか。さらにそうしたことは自分さえよければそれでいいということになりかねないし、事実そうなってはいないだろうか?
 「改革」という言葉の響きはいい。日本人は特にそういう言葉に踊らされやすいところがあるものだから余計である。今騒がれている「後期高齢者医療制度」だって、小泉時代に言われたものだ。それを実際施行されれば「老人は死ねということか!」と文句を言う。私たちは小泉さんを「純ちゃん」といってもてはやしたんだから、文句を言える筋合いのものじゃない。藤原さんはこの本で、「民主主義は国民の総意に基づいて物事を決めていくのだから、その国民に判断力がないと衆愚政治となる」といっているが、まさしくその通りで、私たちが馬鹿なマスコミが垂れ流す情報に踊らされ、考えることしなかっただけのことである。

 さて、藤原さんがその市場原理主義というものがいかに日本をダメにしたのか、その主張を書いてみたい。たとえば株式である。日本の会社は従業員の愛社精神で存続していたところがある。従業員が自分のいる会社で一所懸命汗水流して働いてきたから、日本は成長してきた。会社もそうした従業員の気持に応えるために終身雇用制度、年功序列を維持してきた。もちろんこの制度がいつまでもそのまま維持できるとは私も思わないが、市場原理主義の下では会社は株主のものになってしまう。だからどうしても株主の期待するキャピタルゲイン生まなければならない。そのため経済が衰退しつつある現在、利益はそう生まないから、成果主義、リストラと経営者は走りざるを得なくなってしまった。
 本来会社は従業員のためにあったはずなのに、いつの間にか株主のためにあるようになってしまった。それを藤原さんは「市場原理主義とは論理が情緒の上位に立つというものである。情緒を徹底的に排斥し論理を徹底的に貫くというものである。だから従業員の情緒を無視したうえで会社は株主中心となる。経営者社員の間に情緒はなくなり、そこにあるのは単に雇用関係という論理だけだから、論理さえ整えば自由にリストラする。そうして利益を株主に配分する」と分析する。
 このため働きたくても正規社員として働けないし、いつリストラされるかもわからないので、会社に勤めたい若者が激減するのは当たり前の状態になる。
 このような利益の出し方は対処療法であって、このまま市場原理主義を貫き、リストラや非正規社員やパート・アルバイトの依存は失業者やニートを増やす。しいては消費の減退(当たり前だ。収入がないだから)税収不足となり、経済の衰退を招く。実際今の日本はそうなっている。そして個人の収入減は、気持の余裕さえもなくし、ぎすぎすしてくる。そもそも市場原理主義は競争社会だから、勝つか負けるかになるわけで、いつも目くじら立てて競っていなければならない状態になる。その結果勝者は一人だけれど、敗者は九人といった状態を生み出し、格差が広がる一方となる。それはアメリカを見れば歴然としており、上位1パーセントの人が国富の半分を占める状況になり、一方では極端な貧困層を形成する。アメリカは弁護士数が人口当たり日本の二十倍、精神カウンセラーが同じく六十倍という世界である。戦いとストレスの世界である。効率のよい世界かも知れぬが、もはや平穏な心で微笑んでいられるようなところではなくなる。敗者はやけにもなる。最近の日本の世情の物騒なことや、自殺者が絶えないことなどはここに原因がある。
 さらにすべての国民は消費者であるという消費者至上主義に陥り、消費者のためなら何でもありという状況を生み出す。たとえば食品など国産より輸入品の方が安いから、そうした方が消費者は喜ぶ。その結果日本の農業は壊滅に瀕し、自給率が四十パーセント切ることになる。毒入り餃子ではじめて、そうしたことを知ってあわてる始末である。戦争でもあったらこの自給率では国が維持できないこと知るべきで、高くても、無駄でも、日本で生産することを国を挙げて真剣に考えないととんでもないことになる。それに農業が廃れば、日本の自然だって崩壊する。
 そして市場原理主義は経済分野だけではなく、あらゆる面で影響を及ぼす。それを藤原さんは「市場原理主義は共産主義にも似て、単なる経済上の教義ではなく、経済の枠を越え、あらゆる面に影響を及ぼすイデオロギーである」と言い、「市場原理主義は経済だけなく、不効率ということで、人類が築いてきた文化、伝統、道徳、倫理を壊し、人々がそれぞれの土地で穏やかな気持で暮らすことを困難にさせている。市場原理主義は人類を不幸にする」と言い切る。
 こうなってくると修正なしのアメリカ式民主主義、あるいは市場原理主義の単純な導入は、日本という国を経済だけでなく文化も崩壊させるかもしれない。もちろんだからといって武道精神の「武士は食わねど高楊枝」だけでは生きてはいけない。やせ我慢には限界があるはずだ。しかし国家として日本を存続するには、経済もしっかりしなければならない。それと同時に日本人である以上、日本が本来もっていた文化や伝統、あるいは習慣など維持し、自分たちが日本人であることの誇りを持たさなければならない。
 経済のグローバル化のためだといって小学校から英語を教えるのも、日本がアメリカの51番目の州ならともかく、自分たちの国のことをおろそかにして英語教育はないだろうとは思う。それに仮に英語がぺらぺらしゃべれても、話す内容に中身がなければ、相手にされないはずだ。英語は意思の伝達手段と認識すべきだ。藤原さんは「人間には主軸が必要である。これがしっかりしていないと、精神は根なし草の如く頼りないものになる。この主軸を獲得するには、母国語の完全習得とそれに支えられた豊かな読書を通して、文化・教養を吸収することが不可欠である。これは並大抵のことではなく、小学校くらいまで全時間の半分くらい国語に費し、その後も読書などに励まねば覚束ない。
 日本人として育てるなら、小学校で外国語を導入するのは愚かである」というのは正論であろう。まずはそこからスタートしなければいけないような気が私もする。


評価
★★★


書誌
書名:決定版 この国のけじめ
著者:藤原 正彦
ISBN:9784167749019 (4167749017)
出版社:文藝春秋 (2008-04-10出版) 文春文庫
版型:346p 15cm(A6)
販売価:559円(税込) (本体価:533円)

2008年04月04日

秦建日子著『推理小説』

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 この本のことを書くと間違いなくネタバレになるので、以下読まれる方は、ご了承を願います。
 
 『推理小説』という小説がまずあって、一方その話に沿って連続殺人事件が起こる。つまり『推理小説』の著者が連続殺人の犯人であることなる。ただこの本は『推理小説』という小説の内容の記述と、それと同じ内容の殺人事件が同時に展開され、交錯し、少々読みづらい部分がある。

 殺人事件が起こるたびに、『推理小説』の原稿が出版社や警察に送られてくる。小説の内容が殺人事件と同じなので当然注目され、話題を呼ぶこととなる。『推理小説』の著者はこの原稿を買い取れと注文してくる。
 ところでこの本の著者である秦さんは、『推理小説』の著者が以前に出版社に原稿を投稿したが、編集者に「展開がアンフェア」、「動機にリアリティがない」と言われ、その原稿はボツとなった経緯のある人物と設定している。ということは、『推理小説』の著者が犯人である以上、連続殺人の犯人は、以前原稿をボツにされた人物ということになる。では本当にその人物が犯人なのか。たぶんそれはないだろうと予想できた。それじゃあまりにも安易すぎる。
 殺人事件が起こっても、マスコミや興味本位で事件を眺める大衆は、事件が他人事であるが故に、正義や人間性を白々しく掲げられる。それが自分自身に関係のないことだけに、冷静に語れるのだ。そしてそれがいかにアンフェアであるか。しかしそれが現実である。リアリティなのだ。
 『推理小説』の本当の著者は、それを証明しようとした。ここまでくればそれを証明しようとした人物は、「展開がアンフェア」、「動機にリアリティがない」と言った人物となる。そしてその人物が『推理小説』を書いたことになる。

 刑事雪平夏見は地道な捜査方法で、犯人を特定するが、なぜ彼が犯人なのか、そう確信する過程は一切書かれていない。ただ、誰が『推理小説』を書いたのか?疑わしき登場人物を一人ずつ消去していくと、読む側は犯人に行きつく。そういう設定だけ。従ってこの本自体も「展開がアンフェア」である。「動機にリアリティがない」とまではいかないけれど、はっきりとしない。かろうじて雪平夏見と編集者の人物像がこの本の救っている。そして事件が劇場型なので、テレビドラマにしやすい感じがする。そういえばこの著者の経歴を見ると劇作家、演出家、シナリオライターとあるから、こんな感じになったのだろう。
 謎解きがしたかったのか、それとも刑事雪平夏見を売り出したかったのか、その点がはっきりしない。やるならもう少しスマートに、かっこよく(あるいは泥臭く)やって欲しかったなぁと思った。


評価
★★
 

書誌
書名:推理小説
著者:秦 建日子
ISBN:9784309407760 (4309407765)
出版社:河出書房新社 (2005-12-30出版) 河出文庫
版型:317p 15cm(A6)
販売価:619円(税込) (本体価:590円)

2008年03月29日

長谷川博隆著『シーザー』

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 先日買ってきたこの本を読む。買うときは何か面白そうというのと、100円という安さ、それに昔懐かしい箱入りの旺文社文庫ということで買ったわけだが、読んでみたら意外と面白かった。
 私は古代ローマ史はある意味門外漢なので、シーザーという人物がどういう人物だったのか詳しく知らなかった。でもこの本を読んで、英雄も案外泥臭く、そして当然というか、結構したたかであったんだなと知らされた。「サイは投げられた」とか、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」とかいう歴史的名文句を残している。ほかにもシーザーの名文句はあるようだが、著者が言うように「シーザーはたしかに軍人であり、政治家であった。しかしそれだけではなかったのだ。シーザーは第一級の文章家だったのである」

 でも、シーザーが生きた時代がどんな時代で、またシーザーがその中でどう生きてきたかを考える場合、やはりなぜ、シーザーは殺されなきゃならなかったのか。それを考えるとよくわかりそうである。まずは「ブルータス、お前もか」と、シーザーの暗殺の立役者であったブルータスがどういう人間であったかみればその一端が見えてくる。


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 ブルータスは、カトーの甥であり、カトーを模範として生きていこうとしていた。ここに出てくるカトーとはあのハンニバルの時に出てきたカトーの曾孫にあたる。ひいおじいちゃんのカトーと区別するため小カトーと歴史上呼ばれる。ひいおじいちゃんのカトーもポエニ戦争の時カルタゴを滅ぼさなきゃならないと、結構過激な発言をし、元老院で大きな顔をしていたが、曾孫のカトーも保守的で元老院でなんだかんだといってシーザーのやることなすこと横やりを入れていた。まぁローマの共和制のドンといったところかもしれない。ドンだけあって、結構過激で、最後まで反シーザーの立場を貫き、シーザーの残党狩り開始の報を受けて割腹し、後に自らの内臓を掴み取っての自殺という壮烈な方法で自決した。 新渡戸稲造が欧米人に日本の切腹を説明する時、カトーを例にしたという。
 まぁカトーのことはどうでもいい。ブルータスである。なぜシーザーはブルータスに目をかけていたかである。一説にはブルータスの母親セルウィリアとシーザーが恋仲で、ブルータスはシーザーとセルウィリアの子だという噂もあったらしいが(これがでたらめな話だそうだ)、保守的で、共和制支持者のブルータスを自分の腹心に加えることが、シーザー自身の共和制ローマの伝統を尊重するというイメージアップにつながるからであった。
 シーザーは、もうローマは共和制ではやっていけないことがわかっていたが、過激にそれを否定できない時代でもあった。いわば過渡期であった。だからシーザー自身がやろうとしている「一人支配」をいきなりできないため、保守派のブルータスを自分達のなかに組み入れ、宥和政策をとらざるを得なかったのである。いってみればシーザーの生きた時代はまだシーザーのやりたいことがそのまま受け入れられない時代でもあった。だからいつでもシーザーは保守派に気を使い、駆け引きをし、物的約束をし、人心掌握に努めざるを得なかった。そのためには借金までして金をばらまくのである。
 シーザーが生きた時代は、ローマにとってその支配方法の転換期だった。都市国家だったローマがローマ帝国として拡大していく中で、その政治方法である元老院を中心とした共和政にほころびが見え始めていた。つまり都市国家が領土国家に変換するにあたり、共和制では国家の運営が難しくなってくる。領土が拡大すればするほど、一人の絶対的権力を持った支配者が統治していかなければやっていけない。シーザーはそれを知っていた。しかしそれはいきなりやってしまえば、当然反感を買う。だからまずはシーザーとポンペイウス、クラッススと組んで三頭政治を始める。しかしクラッススが戦死し、この三頭政治は崩壊し、ポンペイウスとシーザーの戦いに突入し、シーザーが勝利する。しかしまだシーザーの一人支配はローマでは受け入れられなかった。それがブルータスらのシーザー暗殺とつながっていった。
 時代の流れは、共和制ではもうローマを運営できないことは事実で、シーザーはこれからのローマの政治体制がどうあるべきか、そのレールを引いたことになる。その後カエサル暗殺後の動乱の中、二回三頭政治がオクタビアヌスとアントニウスとレピドゥスによって行われた。そしてシーザーの姉ユリアの孫、シーザーの養子で相続人であるオクタビアヌスが初代ローマ皇帝となり、ローマは帝政に移行する。

 と、ここまでの記述はシーザーが偉大な政治家で英雄であるという前提で書いている。ただ一方でこの本を読んでいると、案外私利私欲で動いていたんじゃないかと思えるところもある。つまりやり方結構きわどい。まぁ、いつの時代においても政治はきれいなもんじゃないから、そんなもんだといってしまえばそれまでなのだが、ルビコン川を渡ったのも保身のためとも言えなくもない。もっともやらなきゃやられるという時代だったことも事実ではあるが・・・。
 ただ、著者が興味深いことを書いている。「少なくとも、シーザーの偉大さは、内政的・党派的なさまざまの葛藤の中にとじこもらない視野の広さにあったことはだれも否定しないであろう。シーザーの政治活動の対象となってきたのは、ただ単なる『都市ローマ』ではなく、もっと広い世界であった」と。つまりシーザーは「世界帝国の理想」を持っていたのではないかということである。なぜそうした理想を持つようになったかといえば、それはガリアなど長いことローマ以外の土地で暮らしたことによって、それまでのローマ支配者とは違った考えを持つようになっていったからだ。その理想の実現のために、金のばらまき、寛恕政策、宥和政策していったのだろうと著者はいう。たぶんそうなのだろう。いい意味でも、悪い意味でも歴史上の人物の二面性がうまく表されていて、この本は面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:シーザー-古代ローマの英雄-
著者:長谷川 博隆
ISBN:
出版社:旺文社 (1967-01-20出版) 旺文社文庫
版型:264p 15cm(A6)
販売価:入手不可。ただし講談社学術文庫で同じものがあり

2008年02月13日

松谷健二著『カルタゴ興亡史』と長谷川博隆著『ハンニバル』

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 “カルタゴ”に興味を持った。
 古代地中海世界に通商国家として栄えたにもかかわらず、自分たちで自分たちのことを一切残さず、あの古代ローマ帝国を一時は恐怖におとしめたにもかかわらず、かえってそのことがローマに完全に抹殺される理由になった国、ローマを一生恨み続けた男、ハンニバル・・・。ちょっと面白くありませんか?で、入門書みたいなものを探していたら、この二冊がいいかなということで、アマゾンで注文し、読んでみたわけである。
 『カルタゴ興亡史』はいわゆるカルタゴの通史であり、もう一冊の『ハンニバル』はカルタゴといえばハンニバルというわけで、ハンニバルにスポット当てて、彼が歩んだ歴史をつづっている。
 今回はこの二冊をまとめて書いてみたい。
 といっても、カルタゴっ何って言われそうな感じがするし、何で今頃カルタゴなのと言われそうな気がする。事の発端は、先に読んだ阿刀田高志さん『海の挽歌』の影響による。あの本を読んで、もう少しカルタゴのことを知りたいと思ったのだ。それでこの二冊を読んでいて愕然としたのは、私の中でいわゆるヘレニズム文化が抜け落ちていることであった。たとえば地中海の地図である。私の中でローマのあるイタリア半島からいきなり小アジアになってしまい、そこから北アフリカと続く世界になっていたのである。つまり、ギリシア、マケドニア地域がなかったのである。今回この本にある地図を眺めていて、またカルタゴという国の歴史を知るにあたり、改めて、認識をした次第である。

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 さてそのカルタゴの歴史である。カルタゴは今のチュニジアに位置し、いわゆるフェニキア人の植民地であった。チュニス市街から北東約二十キロあたりがフェニキア語で“新しい町”を意味する旧カルタゴで、今はカルタゴ本来の遺跡はない。すべてローマによって破壊され、自然の地形である商港と軍港の跡がわかるだけであるという。『カルタゴ興亡史』の著者はかつてカルタゴがあった土地に立って、「その遺跡がないという事実にはなにか鬼気せまるものがある」という。
 フェニキア人は元々は今のレバノンあたりに住んでいた民族であり、場所柄、エジプトと小アジア、メソポタミアから地中海に至る終点に当たるため、交易が盛んな地域であった。特にレバノン杉はエジプトに持って行けば高く売れた。そしてカルタゴの富を作ったのは、前四世紀半ばから東方への穀物その他食糧の輸出が増えた結果だろうとされる。中心都市はチェロスである。
 カルタゴの建国伝説が面白い。チェロスの王ピュグマリオンの妹エリッサは大司祭で大富豪で、叔父であるアケルバスを夫としていた。しかしピュグマリオンはアケルバスの勢いと、財宝に目がくらみ彼を殺してしまった。怒ったエリッサは船を仕立て、財宝を積んで亡命する。長い後悔の末たどり着いたのがアフリカに一角で、伝説では原住民に一枚の牛の皮を示し、これが覆うだけの土地を譲って欲しいと頼む。原住民はそれくらいならおやすい御用と承知するが、エリッサは皮を細く切り刻み帯として広大な土地を手に入れたという。
 エリッサは土地の首長に言い寄られ悩み、自殺遂げたというが、ローマの詩人ウェルギリウスはトロヤの王子でローマの建国の祖とされているアエネアスが彼女を愛人としたという。アエネアスは神の命ずるがまま、ローマに赴くが、それに絶望したエリッサは火に身を投じた。(ここではエリッサはディドーという名になっている)
 まあとにかくカルタゴは海洋国家であり、商業をメインとして成り立っていた国家であった。そのためギリシア人やローマ人に比べてカルタゴ人は非政治的であった。さらに彼らには、特別な場合を除き軍事義務がなかった(軍隊はほとんどが傭兵であった)ことが、市民としての連帯感や相互扶助意識の欠如を生んだようである。
 カルタゴで最も崇められた神様はバール・ハモンと女神のタニトという神で、ちなみにハンニバルは「バールのお気に入り」という意味だそうだ。子供などいけにえ捧げる野蛮なところも持ち合わせていた。 地中海の地図を眺めていると、カルタゴは故郷小アジアとスペインの中間地点にあたり、ここは重要な地点であっただろうなということがわかる。そしてそのすぐ先にあるシシリー島もヨーロッパと北アフリカの中間地にあるので、ギリシアもローマもカルタゴと覇権争いせざるを得ないことがわかる。カルタゴといえばローマと戦争(ポエニ戦争)していたことばかり記憶にあるのだが、それ以前にギリシアとも長いことこのシチリアを巡り戦争をしていた。だからこの『カルタゴ興亡史』の前半はギリシアとの争いにだいぶ記述がさかれている。
 そしてカルタゴといえばハンニバルとなる。しかしこの二冊の本を読んでいて、いったいハンニバルは何を考えていたんだろうと思ってしまった。確かに第一次ポエニ戦争の敗北で、海軍の使用で失敗したこと。そして大海軍と大陸軍をともに養うのは財政的に不可能なことから、思い切って伝統の海軍を捨てて、歩兵と騎兵に重点を置きイタリアへ攻め込むには陸路を取るしかない。ローマに勝つためにはその本拠地イタリアで潰すしかないという認識に基づく計画で、わざわざアルプスを越えてローマに入り込んだのはわからない訳じゃないが、どう考えても無謀としかいいようのない作戦であったと思うのだ。確かに局部戦ではいわゆる奇襲作戦が成功しているし、ハンニバルの作戦が功を奏した部分もあるけれど、短期決戦ならともかく、戦いが長期化すればするほど、ローマ領内で戦いをすれば不利になることは明らかである。しかも相手はローマである。しっかりしたバックボーンを持っている。たとえ一時ハンニバルに敗れてもすぐ体制を立て直せる力は充分持ち合わせているのである。そしてそのようになっていく。
 『ハンニバル』の著者はハンニバルは、ローマをぶちのめすことなど考えておらず、イタリアの占領すら考えていなかった。これまでの作戦は、交渉のため有利な条件を獲得するためのものであったという。ならば少しでもカルタゴのために有利になったとき、ローマと交渉にはいればよかったはずである。たとえばカンナエの戦いで快勝したときでもよかったはずである。しかしハンニバルは全くそうした交渉をローマとしていない。もっともローマもカルタゴとそう簡単に交渉に臨むとは思えないが、ただそうしたチャンスはあったはずである。それをイタリアでローマに征服された原住民たちの反旗を待っているだけじゃ、やっぱり話にならない。結局じり貧になって、カルタゴ本国がローマの攻撃にあうようになり、本国から呼び戻され、帰って行く。
 第二次ポエニ戦争もカルタゴはローマに負けた。以後ハンニバルは政治家としてカルタゴで手腕を振るう。ローマへの賠償金を支払いため、財政改革を断行していく。そんなハンニバルはローマにとって脅威であり、ローマはハンニバルを引き渡せと要求することになり、ハンニバルはカルタゴから亡命することとなる。しかしこの二冊の本を読んでいる限り、ハンニバルはローマへの復讐を忘れていない。チャンスがあればマケドニア、あるいはシリアの国々と手を組み、ローマへの復讐を企んでいく。だから私はハンニバルはカルタゴのために戦争をしたのではなく、あくまでも自分の意地でローマと戦ったんじゃないかなんて思えてしまう。
 最後は毒杯をあおり、自殺する。そのときハンニバルは「老人の死を待っていても、なかなか叶えそうもないようだな。このあたりでローマを永遠の不安から解放してやるか」といったともいう。
 ローマは第三次ポエニ戦争で、スキピオ・アエミリアヌスはカルタゴ本土に火を放した。カルタゴは粘土壁にタールをしみこませていたため可燃性が高かく、火はそのあと10日以上も消えなかったという。金銀祭具をすべて押収し、住民を奴隷として売り払う。廃墟を鋤でならし、畦に塩まき、人も住めないようにした上に、作物も出来ないようにした。


評価
★★★


書誌
書名:カルタゴ興亡史
著者:松谷 健二
ISBN:9784122040472 (4122040477)
出版社:中央公論新社 (2002-06-25出版) 中公文庫BIBLIO
版型:253p 15cm(A6)
販売価:899円(税込) (本体価:857円)


書誌
書名:ハンニバル―地中海世界の覇権をかけて
著者:長谷川 博隆
ISBN:9784061597204 (4061597205)
出版社:講談社 (2005-08-10出版) 講談社学術文庫
版型:253p 15cm(A6)
販売価:924円(税込) (本体価:880円)

2007年12月03日

日垣隆著『そして殺人者は野に放たれる』

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 この本は刑法39条による悪法がいかに犯罪者を野放しにしているかを、実際あった事件やその判決から語っている。あとがきによると著者の弟さんも理不尽に殺され、またお兄さんも長いこと精神分裂病あったことから、被害遺族として、また身内に精神障害者いることで、この刑法39条の理不尽さと取り組むことになったという。
 刑法39条とは1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。というものである。詳しいことは知らないが、この本を読む限り、この三九条は明治に刑法が制定されたときからそのまま残っているようである。
 心神喪失というのは、犯行時における是非弁別を全くできない場合をいい、心身喪失ではないが充分な弁別ができない状態にある場合を心神耗弱(しんしんこうじゃく)というらしい。
 そしてわれわれは最近の凶悪犯罪の裁判でこれが乱発されていることに憤りを感じているはずだ。日本という国は加害者を一所懸命守るけれども、その被害者の救済にはほとんど手がつけられていない状態だといってもいい。ちなみにこの本によると「この年(1996年)、日本全体で加害者には総計46億円の国選弁護報酬と食料費+医療費+被服費に300億円も国が支出した。対照的に、被害者には遺族給付金と障害給付金を合計して5億7000万円しか払われていない」という。しかも加害者が精神障害もしくは責任能力がないと思われたら、その時点で加害者の名前は伏せられ、被害者の名前が大々的にマスコミで報じられる。
 この刑法39条があるおかげで、犯罪者は訳のわからないことをつぶやけば精神的に問題があるのではないかということになり、お得意の「精神鑑定」が行われる。その鑑定で異常があると言われれば、無罪、あるいは刑が軽減されることとなる。従って「何度もの刑事被告人体験なのかで、『ほとんど記憶がない』『異常な泥酔状態にあった』『覚醒剤を打っていた』ことが、罪科の加重ではなく、逆に日本では無罪や刑減軽の理由になると知った者たちが、この“救済”法を重大事件に際して思い浮かべるのは、むしろ自然なこと」になる。いわゆる詐病である。裁判でこの通りいって、刑が軽減された被告人が「ニヤっと笑った」という記述がこの本にはある。
 著者によると、「思慮分別のない犯罪を、日本の刑法は心神喪失と読んで特別扱いをしてきた。欧米では、ただ精神異常と呼んでいる。この国では心神喪失があまりにも安易に乱発され、不起訴または無罪放免となる殺人者だけで毎年百数十人にも達する。犠牲者数は、無論これより多い」という。
 著者は精神鑑定が害悪で、時間の無駄と断罪するが、その理由を次のようにあげる。

1.精神鑑定は必ず刑を減ずる。または事件そのものがなかったことにする方向で作用する。日本裁判史上、精神鑑定により刑罰が加重された事例は一つもないということ。

2.精神鑑定が惹起されるような事件は、そうでないものに比べて、その異常性において異彩を放っている。精神鑑定を「やむをえないこと」とする発想は、より凄惨かつ不可解な事件を「なかったこと」として闇に葬り去る役割を果たしてきた。

3.事件の深層は精神鑑定がなすべき務めではなく、刑事裁判全体が果たすべき任務。

4.精神鑑定は科学的検証に全く耐ええない。結論は専門家によって異なる。あるいは学派によってあらかじめ決められている。精神鑑定は科学ではなく、証拠でもなく、事件が起きた過去の一時点における精神状態を推理することにほかならないこと。

5.従ってというか、精神鑑定をしても「結局わからない」のが本音なのだが、それをわからないとは書けない。あるいは医師である以上病者の味方であり、いかに治療し、助けてあげられるかというイデオロギー的観点から精神鑑定を引き受けている者もいる。さらに精神分裂病は病気であり、病人に刑罰を課すことは意味がなく、それよりも治療を行うべきという考えに基づく。しかし日本には精神障害者を処遇する施設は一つもなく、結果的に「野放し」を常態化させることになる。また39条が廃止されると、多数の凶悪犯罪を無罪化する“弁護士のお仕事”がなくなるから、日弁連も強行に反対していること。

6.精神鑑定が推測に基づく意見にすぎないにもかかわらず(参考にはなるとしても)、これを責任能力鑑定として検察庁または裁判所が真に受け、または鑑定書を言い逃れの担保として、心神喪失的事件の8割不起訴、2割が裁判で心神耗弱が認められて刑の軽減が図られる不条理さがあること。

7.仮に精神鑑定や刑法39条を是とするなら、「①故意に、みずから精神の障害を招いて罪となるべき事実を生ぜしめた者には、前条の規定を適用しない。②過失により、みずから精神の障害を招いて罪となるべき事実を生ぜしめた者についても、前項と同じである」という条文を至急追加すべきであること。(順不同)

 以上のことから刑法39条は廃止しても、「《罪を犯す意思がない行為は、罰しない》(刑法38条)および《犯罪の情状に酌量すべきものがあるとき、その刑を減軽することができる》(刑法66条)があれば必要かつ充分なのである」と言う。その上で「何人も、故意に基づく凶悪犯罪に対して、責任と刑罰を免れるべきではない。傷害や死亡事件が明らかに病のみを原因とする過失であるならば、まさに過失犯(刑法209条、210条)として裁けばよい。裁判に耐えられないほどの重篤な病に罹患している被告に限って、現行どおり強制入院を命じれば足りる」と言い切る。
 そもそもこの世の凶悪犯罪で正常な犯罪など存在するはずがない。それに素朴な疑問として重篤な精神病患者はそれなりの病院や施設に入所しているはずだ。巷で事件や事故など起こしようもない。あった場合はそれこそ監督責任を問えばいい。
 問題は軽度の精神病患者や刑法39条を盾にとって神病患者を演じる奴や覚醒剤常習者、飲酒などによる異常性を発揮する場合も、この刑法39条が適用されることの方が問題である。
 ところで司法試験には「原因において自由な行為」というのがあるらしい。要するに飲酒やシンナーなどは自らの意思によって為した行為であり、たとえそれが犯罪を結果したとしても、その「原因」となった行動を為すか為さないかは「自由」に選べたはずだから、したがって免責すべきでないという理論である。私はこれは正論だと思う。それにたとえば飲酒運転で死亡事故を起こした場合、有無も言わさず危険運転致死傷罪で逮捕するのだから、同様の理由で覚醒剤、飲酒で精神的におかしくなっていたとしても、それを打ったり、飲んだりするのは自由意思であって、その後精神的におかしくなっていたとしても、それはその結果だから、そのとき正常な判断がつかない状態だったとしても、問題外である。むしろ罪を加重すべきことであろう。
 そうあるべきなのに、「被告弁護側が心神喪失(異常)を、検察側が完全責任能力(正常)を主張し、裁判所その中間(心神耗弱)をとる、という実に安易で退廃的な判決が頻出する。正常と異常のあいだが心神耗弱なら、ほとんどすべての凶悪犯罪はその罪を減じられることにならざるをえない」ことになる。裁判って落としどころを探しているもんじゃないだろう。中間地点が心神耗弱なんて、いかに馬鹿げた法的屁理屈であるか!
 それに責任能力のない者を裁くことが人権無視というなら、事件や犯罪者をないものにしてしまって、無罪にする方が人権無視ではないかと思うのだ。だって「あなたは正常じゃないのだから」と公にしているのだし、そもそも事件がなかったことにされたら被害者の人権だって無視していることになるはずだ。
 著者の言うとおり、「刑法39条1項は、即刻廃止するのが人道的である」。それでなくても現在精神鑑定の乱発(日本では年間650件以上!)というのだから、余計である。


評価
★★★


書誌
書名:そして殺人者は野に放たれる
著者:日垣 隆
ISBN:9784104648016 (4104648019)
出版社:新潮社 (2003-12-20出版)
版型:253p 19cm(B6)
販売価:1,470円(税込) (本体価:1,400円)

2007年07月04日

半藤一利著『続・漱石先生ぞな、もし』

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 また半藤さんの本に戻る。話はちょっとずれるが、たまたまついていたテレビを眺めていたら、ショコタンが出ていて、「ギザカワユス」、「ギガントうまい」なんて訳のわからん日本語を使っている。ショコタン語というらしい。要するに彼女が作ったニホンゴなのだそうだ。彼女のブログでは頻繁に使われているらしい。私が「彼女の作ったニホンゴ」とカタカナにしたのは、日本語じゃないからで、ただ単におぞましく感じるからである。こんな言葉を共有するやつは正直馬鹿じゃないかとさえ思っている。
 司馬遼太郎さんが現代の日本語文をみんなが使えるようにしたのは夏目漱石だと言っていた。つまり口語と文語を一致させた文章を普及させたのは漱石だというのだ。それを半藤さんは司馬さん言葉を次のように引用する。

「明治元年以後の日本語の文章がいつ成熟したのか。私は夏目漱石で、最初の成熟を見たと思います。この成熟というのは、一つの文章で日米貿易摩擦について社説を書くこともできれば、自分の恋愛感情を小説にすることもできる、つまり多目的に使えるという意味の文章ですが、それを明治四十年前後に漱石がつくったと思っています」

 つまり漱石は誰でも参加できる文章日本語として小説を書いたというのである。そのためにはそれまでなかった言葉を苦労して造る。たとえば「不可能」、「反射」、「無意識」、「経済」、「価値」、「電力」、「評価」、「自由行動」、「生活難」、「正当防衛」「世界観」など、漱石の作品に見られる当時の新語を半藤さんは羅列していく。もちろんそれは漱石だけじゃなかっただろう。明治の文人はヨーロッパから輸入される言葉を日本語に当てはめる場合、それに該当する言葉がないことが多かったに違いない。だから新しい日本語を造らなければならなかったはずだ。半藤さんは「いま日本語の乱れを嘆く声はすこぶる多い。たしかに、明治の漱石・鴎外時代のきちんとした意味のある言葉を造る苦労も知らないで、勝手気儘に使いながらどんどん正確さから遠退いていく。新しい言葉を流行にまかせてポンポンとこしらえ、さっさと捨てていく。ワープロなどハード面の長足な発達で、言霊としての文字への怖れを失い、文章は日を追って機械的に味気なくなっていく。まこと昔の日本人の建設の苦労や守成のつらさを知らず、いまのわれわれは言葉を消耗品のごとくしてしまっている」という。まさにショコタン語なる馬鹿な言葉がそれにあたると思うのだ。言葉には当然はやり廃りがあると思うが、言葉をファッションのように造りだし、趣味や嗜好を同じくする人間だけの間使っているならともかく、いい気になってどこでも使う無神経さに無性に腹がたつ。言葉は言霊なのだ。

 さて、前作同様漱石のトリビアが続く。私の方も前回と同様にへぇ~と思ったことを書く。
 漱石の収入はどんなものだったのだろうか?つまり印税収入はどれくらいあったのだろうかということである。半藤さんの義父の松岡譲の計算によると、その死まで売れた部数は十万冊前後だという。えっ!そんなもんしか売れてないのと思ったけれど、どうやらそんなものらしい。そこからさらに計算すると漱石が生前受け取った印税は二万五千円程度で、これを今の相場に直すと、八千八百二十万円弱になり、月額六十六万円八千円になるという。これじゃ有名人で門下生が多かった漱石の生活は厳しかったようである。
 ところで今岩波書店から出ている文庫のカバーや以前出版された漱石全集の表紙に使われている朱地に文字が浮き出た模様がある。この模様を見れば、あっ漱石の作品だなとすぐわかるほど目立つものだ。これは漱石自らデザインをしたものらしい。その経緯が書かれていた。
 岩波書店の創業者岩波茂雄が漱石の『こころ』を出版させてほしい頼みに来た。それまで漱石の作品は春陽堂か大倉書店で出版されていたのだが、漱石は簡単に了承した。岩波書店は創業時は古籍商、すなわち古本屋さんであった。この申し出のあと岩波茂雄は「資金がありません。ついては(『こころ』の)出版費用もかしていただきたい」と言って、それも漱石は了承したのである。
 ここで半藤さんは推理する。『こころ』が自費出版に近い形の出版となれば費用は抑えないとならないと漱石は考え、「装幀の事は今まで専門家にばかり依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって、箱、表紙、見返し、扉および奥附の模様および題字、朱印、検印ともに、ことごとく自分で考案して自分で描いた」と『こころ』の序で書いている。それがあの朱地に文字が浮き出た模様である。あの独特な表紙のデザインがこうして生まれたことを初めて知った。

 日本近代史の通史などを読んでいると、時たま漱石の文明批評が引用されるのをたびたび読む。読むたびに結構鋭いなぁと思っていた。結構冷めた目で当時の日本の現実を見ていると思うのだ。今回もいくつか引用されている。
「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている」

「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏みつけようとする」

「ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから、自分の事と、自分の今日の、ただ今の事よりほかに、何も考えやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない」

 これが明治時代に言われたことだと知らなければ、今でも通用しそうである。やっぱり漱石は読みたいな。


評価
★★


書誌
書名:続・漱石先生ぞな、もし
著者:半藤 一利
ISBN:9784167483050 (416748305X)
出版社:文芸春秋 (1996-12-10出版) 文春文庫
版型:324p 15cm(A6)
販売価:479円(税込) (本体価:457円)

☆品切れ(重版未定)の為、入手不能のようである。

2007年06月28日

半藤一利著『漱石先生ぞな、もし』

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 先日本棚の整理をしていて、日記を処分していたら、領収書が出てきた。岩波の漱石全集全巻を当時三和図書大山さんを通じて、古本屋さんで買ってもらったものである。私は漱石が好きで、何度か岩波から全集が出版されるたびに、買おうかどうか迷い、結局買わずにいた。でも当時欲しくなって、大山さんに相談し、大山さんのコネで手に入れた。全17巻を4万円で購入した。たぶん今ならもっと安く手にはいるだろう。

閑話休題
 そういえば後藤君はまだ私のこのブログにつきあってくれているだろうか?後藤君は天金版の漱石全集を買っていたよね。あの本かっこよかった。いつも取り置きしてある漱石全集をうらやましく見ていました。きっとゆったりした気分で読まれているんだろうなぁなんて思っているのですが・・・。もしかしたらそのときの気持ちがいつまでも私の中に残っていて、漱石の全集が欲しいなんて思っていたんじゃないかなんて思うのです。ちなみに私のは通常の漱石全集です。

 漱石の作品はそれなりに読んでいるが、きちんと読んでみたいと思っていたのでこの全集を買った。買った当初2巻までは読んだ。どうしてその先を読まなかったか?挫折したといってしまえばそうなのだが、でもいつもその先を読んでみたいとは思ってはいた。もう少し歳をとったらじっくりと腰を据えて読みたいと思っていたのだ。(なんか言い訳がましいが・・・)
 で、あれから年月もたち、そろそろ続きを読んでみようかなんて、最近思ってはいるが、これに手を出してしまうと、かかりっきりになってしまうので、今は雑学程度に漱石のことを仕入れようと思い、この本を読んでみた。
 読んでいて知ったのだが、半藤さんは漱石の孫に当たる人だったのだ。ネットで調べてみると、半藤さんの奥様は作家の松岡譲さんの四女で、お母様の筆子さんが漱石の長女なんだそうだ。そんな関係で、半藤さんしか知り得ない夏目家の事情が、漱石の作品を通して語られる。読んでいてへぇ~と思ったことをいくつか書き出す。
 まずは「漱石」というペンネームの由来である。漱石の本名は夏目金之助である。半藤さんによると、正岡子規の『七草集』を金之助が読んで、その批評を「漱石」の号を使って書いたのが初めてだという。しかもこの「漱石」という号は元々は子規が使っていたものをもらい受けたものらしい。この「漱石」というペンネームを「俗な号」といっては気に入らなかったらしいが、かといって変えるの面倒だったらしくそのまま使っていたという。
 その「俗な号」の出所は、中国の『蒙求』という書にある故事にあるらしい。それによると、秀才誉れ高い孫楚という男が隠遁を決意し、親友の王済に心境を語るとき、俗世間を離れて自然に親しむという意の「枕石漱流」という言葉を間違えて、「漱石枕流」と言ってしまった。王済はカラカラ笑って、「流れに枕することはできぬ、石で口を漱(すす)ぐことはできぬ。そんなことじゃ隠遁なんて無理だ」と言い放ったという。馬鹿にされた孫楚は「流れに枕するのは耳を洗うためであり、石に漱ぐのは歯を磨くためだ」と屁理屈をつけて反論した。そこから「漱石枕流」はへそ曲がりで負けず嫌いという意味のことわざに用いられるようになった。子規は「漱石」という号をそこから取り、金之助は自分がつむじ曲がりで負け惜しみが強かった自分自身を反省の意味を込めて、子規からこの号をもらい受けたのではないかと半藤さんは推察している。
 さらに面白いと思ったのは、漱石の神経衰弱は有名な話だけれど、漱石が神経衰弱になったのは、徴兵制を回避するために、自分の籍を北海道に移した(送籍)したことによるという丸谷才一さんの文章を引用する。
 漱石は自分は北海道に送籍したことで徴兵制を回避したが(当時北海道は人口が極めて少なかったので、北海道の住民はこの徴兵制の埒外に置かれていた)、そうでなかった者は、その後起こった日清戦争で兵隊に取られ、戦死していった現実を知って、自分は卑怯者だという自責の念にかられ、自分を責め、それがきっかけで神経衰弱になったか、こじらせたのではないかと丸谷さんはいうのである。
 半藤さんはこの送籍が金之助を苦しめ、『吾輩は猫である』を執筆したときに、子規からもらい受けた「漱石」を送籍と引っかけて、使い始めたのではないかと推察している。なぜならそもそも『吾輩は猫である』という作品は、猫を使って人間の馬鹿さ加減を茶化しているわけだから、ちょうどよかったわけだというのである。(もちろんこのことは半藤さんも仮説もいいところだけれどと断っている)でも面白い話だ。
 ところで漱石はロンドン留学でノイローゼになったというのが有名だが、その情報源は当時の文部省だったらしい。もともと官費での留学だったから、1年に1回研究報告書を提出しなければならなかった。漱石はもちろん勉強に励んではいたが、だいたい言葉や風俗習慣が違う異国にあって1年やそこらでまとまるような研究はロクなもんじゃないと思い、無視していた。しかし矢のような催促のため漱石は白紙のまま報告書を送ったのである。
 これを受け取ったお役人は仰天した。まさか五高の夏目金之助教授がそんなことをするわけがない。正気を失ったのではあるまいかということで、すぐ保護して帰国させるべしというのが真相らしい。
 もちろんロンドンでは支給される費用が少なくてかなり苦労していたらしく、「当地にては金のないのと病気になるのが一番心細く候。病気は帰朝まで謝絶するつもりなれど金のなきには閉口いたし候」と手紙に書いている。まして日本とはまったく生活習慣も違う、ノイローゼにちかい症状になって仕方があるまい。
 その『吾輩は猫である』の猫のことだが、実際漱石の家では猫を飼っていたらしい。野良猫が迷い込んできたもので、家人に悪さをしでかしていた。あるとき夏目家に来るあんまが「この猫は福の神です」というものだから占いの好きな漱石夫人の鏡子さんが飼う気になったらしい。小説の猫は1年足らずで作者に溺死させられたけれど、本物の猫の方は長生きしたという。漱石はこの猫が死んだとき知人に次のような手紙を書いている。
「辱知猫儀久々病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にか、うらの物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋にたのみ、箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但、主人『三四郎』執筆につき、御会葬には及び不申候。以上。九月十四日」
 この通知を受け取った寺田寅彦は日記に「夏目先生より猫病死の報あり。見舞の端書したたむ」と書いてあるという。明治の大らかさに、思わず笑ってしまった。
 しかしこうして漱石の作品や手紙などを通して明治という時代を見ると面白いものがある。司馬遼太郎さんのいう『坂の上の雲』を目指して懸命に登りつめてきた時代は、新旧混沌としていて、様々な矛盾を抱えていた時代だったんだなと感じる。だからこそ面白いのだが・・・。近いうちに漱石の作品を読んでみようかなぁと思った。


評価
★★


書誌
書名:漱石先生ぞな、もし
著者:半藤 一利
ISBN:9784167483043 (4167483041)
出版社:文芸春秋 (1996-03-10出版) 文春文庫
版型:302p 15cm(A6)
販売価:499円(税込) (本体価:476円)

2007年04月01日

トマス・ハリス著『ハンニバル・ライジング』 下巻

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 えっ、なんでハンニバルの本に日本人や日本の古典が出てくるんだ!これは著者による「御神輿本」かと思った。
 ふと、フォーサイスの『ハイディング・プレイス』を思い出す。この本はフォーサイスが日本を舞台にして書かれた本だが、読んでいてなんかおかしいと感じる本であった。うわさではこれはフォーサイスが書いた本じゃないというのがあるらしい。(出版社がフジテレビ出版という。たぶんフジテレビが出資していた出版社なんだろう。フジテレビといえば例の「あるある」のねつ造問題があったが、もしかしたらこの本もねつ造だったかもしれない?)
 とにかく、外国小説に日本文化や日本人が出てくると、どうしても洋画で日本人が出てくる時のように、不自然な感じがしてしまうのである。
 さて、日本人の紫がハンニバル・レクターの叔父ロベルト・レクターの夫人として登場するのに驚きつつ、この本を読む。

 

ネタバレ注意


 この本はどうしてハンニバル・レクターが怪物ハンニバル・レクターになったか、その原因をエピソードとして、少年期の悲劇から解き明かす。
 リトアニアにあるレクター城(ハンニバル一族は貴族であった)でハンニバル・レクターたちは優雅に暮らしていたが、ヒットラーのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)に巻き込まれる。ハンニバルは、父、母、家庭教師のヤコフ先生を失い、妹のミーシャと二人きりなる。そこへ対独協力者、俗に"ヒヴィ"と呼ばれるグルータスらに捕まる。彼らは腹をすかせていた。そして自分たちが生きるために妹のミーシャを食べた。そこでハンニバルの精神は壊れた。
 戦争が終わり、叔父のロベルト・レクターにひきとられたハンニバルは紫夫人とともに青年期を過ごす。
 しかしミーシャの復讐は忘れない。あのときの記憶が恐怖で凍り付いたままであるハンニバルは薬を使ってまでも思い出そうとし、ミーシャを喰らった奴らの顔を思い出す。後半はハンニバルによるマンハントである。
 復讐劇を行うハンニバルをパリの警視庁警視ポピールは言う。
「ハンニバルという少年は、1945年、雪の中で妹を救おうしたときに、死んだのだ。妹ミーシャと共に、彼の心も死んだ。じゃあ、いまの彼はいったい何者か?それを形容すべき言葉は、いまは何もない。便宜上、われわれは彼のことを"怪物"と呼ぶことにしよう」
 そしてグルータスを追い詰めたとき、衝撃の事実をグルータスから聞かされる。あのときハンニバルも妹の肉が混ざったスープを喰らったことを。
 訳者で解説者である高見浩さんはハンニバルがハンニバルである人肉嗜好の問題がここに生まれるという。


評価
★★★


書誌
書名:ハンニバル・ライジング  下巻
著者:トマス・ハリス;高見浩
ISBN:9784102167076 (4102167072)
出版社:新潮社 2007/04出版
版型:16cm 261p 新潮文庫
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2007年03月30日

トマス・ハリス著『ハンニバル・ライジング』 上巻

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 ハンニバルは琵琶を奏でながら待っていた。太刀で精肉業者のポール・モマンの下腹部X字に切り裂き、首を落とした。13歳の時である。む~ん、さすがハンニバル・レクター!
 詳しい感想は下巻を読んでから書こうと思う。
 

書誌
書名:ハンニバル・ライジング 上巻
著者:トマス・ハリス;高見浩訳
ISBN:9784102167069 (4102167064)
出版社:新潮社 2007/04出版 新潮文庫
版型:16cm 246p
販売価539円(税込) (本体価:514円)

2007年01月17日

林總著『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』

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 この本(ダイヤモンド社刊)は、社長であった父親が急逝し、その娘で父親が経営するアパレル会社のデザイナーであった由紀が株主総会の決議で社長になってしまったところから始まる。当然由紀は会社の経営も会計も分からない。(このあたりはかなり無理があるが・・・)その上引き継いだ会社は借金漬けで、銀行も社長が代わったことで、融資を打ち切り、回収を急ぐ事態となった。

 そんな会社を由紀と同じマンションに住み、大学で会計を教えている安曇に力を借りて何とか立て直そうと由紀はする。安曇はコンサルタント及び会計のレクチャーをを由紀にする条件として、レクチャーは月に一回、美味しい食事をしながらすること、そして教えたことは必ずその月に実行することを条件にして、引き受ける。
 この美味しい食事をしながらというのがミソで、ある時は寿司屋で、またある時は高級フレンチのお店で、または場末の餃子屋で、そこのお店で出される料理を堪能しながら、食材やそのお店の性格をテーマしながら、会計と何かを安曇は由紀に会計や経営をレクチャーしていく。
 たとえば、寿司屋ではコハダと大トロではどちらが儲かるかという質問を由紀にする。大トロは仕入値が高く、いつも手に入るわけではないので、市場にあれば多めに仕入れる。しかもすべて売り切れるまでに1カ月かかるとする。一方コハダは仕入値が安く、新鮮さが売り物だから、その日に売り切れる量を仕入れをするとする。
 細かい計算はあるのだけど、大トロは完売するのに1カ月かかるわけだし、コハダは毎日完売する。しかも仕入れ値も売価も安いから大量に出るはずだ。となれば、在庫として留まっている時間が大トロと違い、ない。すべてその日に現金化する。しかもコハダの方が大トロよりも多く利益が出るのである。このことから、在庫の持ち方、リードタイムの短縮が極めて重要な課題であることを示唆するのである。
 またこの本の書名にもなっている餃子屋と高級フレンチのお店ではどちらが儲かるのかも、それぞれのお店に行って、限界利益(売上-材料費)と固定費の関係から、お店の特徴を説明していく。限界利益は高級フレンチのお店の方が餃子屋と比べて、圧倒的に高くても、お店の維持費が高級感を演出するため固定費が高い。そのため損益分岐点が高くなる。このバランスでどちらが儲かるのかを説明していくのである。そしてまずは会社はこの損益分岐点を目指すことが最低条件であることをレクチャーしていく。

 こんな感じでこの本は、グルメと会計をうまく結びつけて、会計の入門書を面白くしている。その上で決算書の読み方を安曇は由紀に教え、会社の経営状況をそこから読み取れるようにさせていくのである。その結果、経理部長の不正さえ見抜けるようになっていく。
 安曇は面白いことを言っている。会社が重視する利益とは、「売上と費用の差額概念で、利益は計算の結果であって、手にとって確かめることができない」と。
 更に「真実を表現した決算書はこの世には存在しない。決算書が伝える情報には、会社の主観が織り込まれている。その主観によって利益は変動する」というのだ。だから「会計は自然科学のように絶対的な真理を追求するものではない。ルールの上に立った相対的な真実を追求するものなのだ」とする。そのルールも会社が選択する会計ルールがいくつか用意されており、その選択は会社の意思で行うことができる。要は選択したルールが継続して適用されることによって、それが正しくなるというのだ。
 こうして「描き出された結果(決算書)は、会社の実態の正確な写像ではなく、要約された近似値にならざるを得ない」とする。それでも「会計は非常に重要だ。しかし会計数値は事実ではない。事実を把握するとっかかりと考えるべきだ。つまり、会計数値で異常を見つけたら、そこを突破口にするのだ。現場に行き、関係者の話しを聞き、とことん原因を突き止める。そうすれば、自ずと真実が見えてくる。改善の手だても見えてくる」と会計を手段として、いかに使うかを説くのである。


評価
★★★

書誌
書名:餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?―読むだけで「経営に必要な会計センス」が身につく本!
著者:林 總
ISBN:9784478470886 (447847088X)
出版社:ダイヤモンド社 (2006-09-28出版)
版型:225p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2007年01月05日