2008年10月27日
穂村弘著『本当はちがうんだ日記』
私はエスプレッソが好きだ。カップをそっと口につける。目を閉じて、ゆっくりと一口啜ってみる。苦い。舌が苦い。苦くて、とても飲めたものではない。痺れた舌を空中でひらひらさせながら、私はカップを置く。
私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故なんだろう。果実の薫りとキャラメルの味わいの飲み物が、地獄の汁に感じられるのは何故か。それは、おそらく、私自身がまだエスプレッソに釣り合うほどの素敵レベルに達していないからだ。
私の本棚の一角カバーをかけた本たちが並んでいる。全てがいわゆる自己啓発本である。素敵な自分になるためだ。
コートや上着やズボンのポケットから小銭が出てくる。レジでお釣りを受け取るときに、その場で落ち着いて小銭入れに収納することが出来ず、ポケットのなかにばっと放り込んでしまうしまうからこうなるのだ。
小学校六年生のとき、卒業文集を作ることになり、その記入用紙に「名前」「誕生日」「血液型」「好きな食べ物」「趣味」「将来の夢」の中に「あだ名」という項目がありショックを受ける。私にはあだ名がなかった。私は記入欄に素直に「特になし」と書けばいいものを「ホムラ」と書いてしまった。
文集が出来上がって、隣の席の「かーくん」に何気なく「これ、おまえの、名前じゃん」と云われたとき、私の世界は張り裂けそうだった。「だって、ないんだ、ぼくには、あだ名、ないんだ」と絶叫したかった。だが私は「ふふふ」と笑っただけだった。何がふふふなんだ。
「なあ、トースケ、この三年間(高校の)にバスのなかで女の子から何通手紙貰った?」
「え、わかんない、二十個くらい?」
それは「がーん」でありつつ「やっぱり」なのだ。
勿論私は一通も貰ったことはなかった。ラブレターを「個」で数えるような奴が二十個貰えて、ちゃんと「通」で数えられる俺は0通。羨望と嫉妬と納得で、私は混乱していた。
彼女たちにとって、私は、バスの車内の吊革や椅子と同じ存在なのである。いや、掴まったり座ったり出来ない分、それよりも価値がない。
私は自分の方から女の子に手紙を出すことなど考えてもいなかった。
それがどんなジャンルの事項であれ、例えば、六十七勝七十三敗からの一敗は何ということもない出来事だ。そこから三連敗してもなんとか耐えられるだろう。だが、0勝0敗からの一敗は恐ろしい。三連敗などしようものなら、自分はこのまま生涯一勝もできずに終わるのではないか、という恐怖に囚われてしまう。その予感が私を動けなくする。
マネキンが着ている服をかっこいいなと思う。
早速買って帰って自分で着てみると、余りにも印象がちがって驚く。マネキン着用時にあんなに素敵だったシャツが、鏡のなかでへたっと死んでいる。これは、と私は思う。やはり僕のせいなんだろうな。
最初から書き出したらきりがない。気持としてはよくわかるし、誰だって見栄を張ったり、人をうらやましがったりするだろう。似たような経験や感じを持ったこともあるだろう。だけど不思議なもので、人生、そういう不幸?からいつの間にか解放されちゃう気がするし、まして年齢を重ねれば、だんだんそういうことを考えることさえ鬱陶しくなってくるのではないかと思うのだ。むしろ著者みたいに四十過ぎてもまだ自分は本来の素敵な姿になっていないと感じる方が、私にすればおかしいのではないかと思うのだ。若々しいといえばそう言えちゃうのかもしれないけれど、四十過ぎてもこれじゃ、どうなのだろうか?
別に人生論をぶちかまそうなんてさらさらないが、読んでいて面白かったし、「うん、うん」とうなずけちゃところはあるけれど、それは昔の自分を振り返ってそう感じるだけであって、今はそんなことどうでもいいじゃんと思う方が普通なんじゃないかと思う。むしろ若い頃の不幸をさらりと語れる方がかっこいいような気がするのだけれど。
この本は三浦しをんさんの本で知った。私は著者がどういう経歴の人なのか知らなかった。この本の見開きに著者の紹介があって、それを読んでいると、なるほど、著者は歌人でなんだ。だからいつまでも若い気分を持てあましているんだと思ったのである。世の中にはいろいろな人がいるもんだ。それでいいような気がする。私は穂村さんのこのエッセイを読んでそう思ったのだけれど、穂村さんはそれでは済まない人なのだ。そういうことだろう。
評価
★★
書誌
書名:本当はちがうんだ日記
著者:穂村 弘
ISBN:9784087463538
出版社:集英社 (2008/09/25 出版)集英社文庫
版型:213p / 15cm / A6判
販売価:479 円(税込)
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- by kmoto
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