

村上さんの本を一度読み出すと絶対にはまってしまうことはわかっていた。そしてその不可解なストーリーに魅了され、呆然とし、精神的に疲れて、その読感をどう書いていいのかわからずにいることも。
15歳の誕生日に家出をして、「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意した「僕」と、知事さんにホジョをもらいながら生活しつつ、猫と話すことができることから迷子の猫を探す副職で小遣いを稼いでいたナカタさんの物語が交互に進む。そしてこの二人は四国でクロスし、二つの物語はやがて「入り口の石」に近づいてゆく。
まぁここまでは何とか大まかに話の展開をまとめることができるが、それ以降どう考えたらいいのかかなり迷う。でも、一つこの物語を考える上で参考になることがある。たとえばナカタさんが猫と話すときのこと。
「そうです。ナカタと申します。猫さん、あなたは?」
「名前は忘れた」と黒猫は言った。「まったくなかったわけじゃないんだが、途中からそんなもの必要なくなってしまったもんだから、忘れた」
「それでは猫さんのことをオオツカさんと呼んでよろしいでしょうか?」
「なんだい、それは?どうしてオレが・・・・オオツカなんだい?」
「いいえ、たいした意味はありません。ナカタが今ふと思いついただけであります。名前がないと覚えるのに困りますので、適当な名前をつけただけであります。名前があるとなにかと便利なのであります」
「よくわからないな。猫にはそんなの必要ない。匂いとかかたちとか、ただあるものを受け入れればいいだけだ。それで不自由ないね」
「田村カフカというのが君の名前であれば、ということだけど」
「わたしの名前はわかるだろうね?」
「ウィスキーを嗜む人なら一目見てわかるんだが、まあよろしい。私の名前はジョニー・ウォーカーだ。ジョニー・ウォーカー。世間のだいたいの人は私のことを知っている。自慢するんじゃないが全地球的に有名なんだ。イコン的な有名さと言ってもいい」
「ホシノちゃん」
「あんたは-」
「そうだ。サンダース大佐だ」
「そっくりだ」
「そっくりではない。わしがカーネル・サンダースだ」
「そのフライド・チキンの」
「そのとおり」
「よう、しかしあんた、どうして俺の名前を知ってんの?」
「わしは中日ドラゴンズのファンにはいつもホシノちゃんと呼びかけることにしている。たとえば何があろうと、巨人といえばナガシマ、中日といえばホシノじゃないか」
「おじさんはほんとにカーネル・サンダースなの?」
「ほんとは違う。とりあえずカーネル・サンダースのかっこうをしておるだけだ」
「そうだと思ったよ」「それでおじさん、ほんとは何なんだよ?」
「名前はない」
「名前がないと困らないかい?」
「困らん。もともと名前もないし、かたちもない」
「屁みたいだね」
「そう言えなくもない。かたちのないものだから何にでもなれる」
「はあ」
「とりあえず、カーネル・サンダースという、資本主義社会のイコンとでも言うべき、わかりやすいかたちをとっているだけだ。ミッキーマウスだってよかったんだが、ディズニーは肖像権についてうるさい。訴訟されるのはごめんだ」
「まあ俺もあんまり、ミッキーマウスに女を紹介されたくないね」
「まあそうだろうな」
つまり問題となるのは“名前”である。人や物に名前や固有名詞が付加されることによって、人はそれをそれとしか思わなくなる。猫にオオツカさんという名前が付いたとたん、オオツカさんの個性がそこに植え付けられるし、田村カフカという名の少年はどこまで行ってもこの物語では田村カフカでなければならなくなる。ジョニー・ウォーカーにしてもカーネル・サンダースにしてもその名前が出てくれば、ウィスキーの名前であり、フライド・チキンの名前となる。中日ドラゴンズのファンはホシノである。一見名前を付けることによって、差別化し、その個性を浮きだたせるようであるが、その名前を付けられたとたんそれ以外であり得なくなる。そうすることで非個性化し、ただの代名詞となる。余計なものが不要なものとして、ただ単にそのものとなるのだ。それがわれわれの日常なのだ。それで世の中が回っていて、それ以外を受け入れなくて済むようなっている。
しかしそれは誰も知っているだけの、単に一時的に付けられた名前や固有名詞であって、本当にそれ以外のものはないのだろうか?この物語はそうした日常当たり前の世界が実はちっとも当たり前でない世界の側面を持つのではないかということを教えてくれる。それらの名前の下に隠れた世界が実はどこでもあって、ただ付加された名前によって隠されてしまっている。そんなことを感じた。そこには真の姿があるときもある。それを表現するために村上さんはいつものようにたくさんのメタファーを使い、もう一つの別の世界を作り上げ、そこに登場人物を入れてしまう。田村カフカ君にしても、ナカタさんにしても。
日常は決して現実的ではなく、非現実的な側面を本来持っている。隠れたものがある。隠れたものには時に暴力的で、残酷なことなどをあからさまにしてしまう部分があるのだけれど、単にその行為を言葉で表すと、その言葉でしかなくなる。
だから自ら非日常の世界に入り込んで(それは森の中であったり、井戸の中であったりして)あるべき姿が見えるまで待つ。そうしているうちに真の意味が姿を現す。これが村上ワールドじゃないかなんて思っている。
ところで先に読んだ『ねじまき鳥クロニクル』よりこの『海辺のカフカ』の方が私は好きである。前作は人の真の姿を追求することばかりであって、どこにも物語として救いがなかったからだ。今回はナカタさんやホシノくん、大島さん、そしてカーネル・サンダースと笑い提供してくれる分、楽しく読めた。
たとえば大島さんは最高である。
「実を言いますと、私たちの組織は女性としての立場から、日本全国の文化公共施設の設備、使いやすさ、アクセスの公平性などを実地調査しております」
「それで結論からまず申し上げますと、この図書館には残念ながらいくつかの問題点が見受けられます」
「つまりそれは女性的見地から見てということですね」
「まずここには女性専用の洗面所がありません。そうですね?」
「たとえ私立の施設とはいえ、パブリックに開放された図書館であれば、原則として、洗面所は男女別にされるべきではないでしょうか」
「原則として」
「残念ながら男女別の洗面所をつくるほどのスペースの余裕はありません。今のところ利用者から苦情は出ていません。幸か不幸か、うちの図書館はそれほど混雑しないのです。もしあなたがたが男女別の洗面所の問題を追及なさりたければ、シアトルのボーイング社に行かれて、ジャンボ・ジェットの洗面所について言及なさったらいかがでしょう。私ども図書館よりはジャンボ・ジェットのほうが遙かに大きいし、遙かに混雑していますし、私の知るところでは機内の洗面所はすべて男女兼用です」
「私たちは今ここで交通機関の調査をしているわけじゃありません。どうしてジャンボ・ジェットの話が急に出てこなくてはならないのですか」
「ジャンボ・ジェットの洗面所が男女兼用であることも、図書館の洗面所が男女兼用であることも、原則的に考えれば、生じる問題は同じじゃありませんか?」
「私たちは個々の公共施設の設備の調査しています。原則の話するためにここに来たのではありません」
「そうですか。僕はてっきり、我々は原則について語りあっていると思っていたんですが」
「ただしこの図書館では、すべての分類において、男性の著者が女性の著者より先に来ています」
「私たちの考えるところによれば、これは男女平等という原則に反し、公平性を欠いた処置です」
「曽我さん」
「学校で出欠をとられるときには、曽我さんは田中さんの前だし、関根さんのあとだったはずです。あなたはこのことに対して文句を言いましたか?たまには逆から呼んでくれと抗議しましたか?アルファベットのGは自分がFのあとになっているからといって腹をたてますか?本の68ページは自分が67ページのあとになっているからといって革命を起こしますか?」
「いいですか、僕が申しあげたいのはこういことです-小さな町の小さな私立図書館にやってきて、あたりをくんくん嗅ぎまわって、洗面所の形態や閲覧カードあらを探しているような時間があれば、全国の女性の正当な権利の確保にとって有効なことは、ほかにいくらでもみつけられるはずだ、と。僕らはこのささやかな図書館を少しでも地域の役に立つものにするべく、全力を尽くしています。書物を愛する人々のために、優れた書物を集め提供しています。人間味あるサービスを心がけています。あなたはご存じないかもしれませんが、この図書館の、大正から昭和中期にかけての詩歌の研究資料のコレクションは、全国的にも高く評価されています。もちろん不備はあります。限界だってあります。しかし及ばずながら精一杯のことはやっているのです。僕らができないでいることを見るよりは、できていることのほうに目を向けてください。それがフェアネスというものではありませんか」
ここまで言われても引き下がらない曽我さんたちに大島さんは最後に自分が性同一障害に悩む女性であることを公にする(これは私も驚いたけれど)。さすがにそうなると大島さんの言うことに引き下がらずを得なくなっていく。
大島さんは想像力の足らない人間をいちいち相手にしていたら、身体がいくつあっても足らないことを田村カフカ君にわからせる。その上で、「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか-もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにここには入ってきてもらいたくない」と言い切る。これはある意味この本の重要なテーマかもしれないと思う。
あと、なんと言ってもカーネル・サンダースとホシノちゃんとのやりとりは大笑いした。
「実はな、石はこの神社の林の中にある」
「<入り口の石>だよ」
「そうだ。<入り口の石>だ」
「おじさん、それってひょっとしていい加減なことを言っているんじゃないよね?」
「何を言うか。たわけものものが。わしがこれまでひとつでも嘘をついたか?口からでまかせを言ったか?ぴちぴちのセックス・マシンだと言ったら、たしかにぴちぴちのセックス・マシンだったろうが。それも大出血サービス料金、1万5000円ぽっきりで厚かましく三回も射精しやがって、それでもまだ人のことを疑うか」
「でもさ、この石っていちおう神様の持ちものでしょうが。勝手に持っていったらきっと怒られるよ」
「神様ってなんだ?」「神様ってどんなことをしているんだ?」
「おれはそういうこと、よく知らねえけどさ。でも神様は神様だよ。いたるところに神様はいて、俺たちがやることを見ていて、良いか悪いか判断するんだ」
「それじゃまるでサッカーの審判員じゃないか」
「そういう風に言えるかもしれない」
「じゃあ何か、神様ってのは半ズボンをはいて、口に笛をくわえて、ロスタイムを計っておるのか?」
「しつこいね、おじさんも」
「いいか、ホシノちゃん。神様ってのは人の意識の中にしか存在しないんだ。とくにこの日本においては、良くも悪くも、神様ってのがあくまでも融通無碍なものなんだ。その証拠に戦争の前には神様だった天皇は、占領軍司令官ダグラス・マッカーサーから『もう神様であるのはよしなさい』という指示を受けて、『はい、もう私は普通の人間です』って言って、1946年以後神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのは、それくらい調整のきくものなんだ。安物のパイプをくわえてサングラスをかけたアメリカ軍人にちょいと指示されただけでありかたが変わっちまう。それくらい超ポストモダンなものなんだ。いると思えばいる。いないと思えばいない。そんなもののことをいちいち気にすることはない」
「はあ」
「でもさ、あの女の人は本物だよね。キツネだとか、抽象なんとかだとか、そういう面倒なものじゃねえよな?」
「キツネでもないし、抽象なんとかでもない。実物のセックス・マシンだ。混じりけなしの愛欲の四輪駆動だ。けっこう苦労してみつけてきたんだ。安心しなさい」
「よかった」
しかし星野君、なかなかいい味を出している。ナカタさんと関わるうちに内面から変化してくる。ナカタさんが字が読めない代わりに星野君が読んでやり、<入り口の石>を探し出してやったりするうちに、自分が正しい場所にいるという実感がわいてくる。それをたとえてお釈迦様やイエス・キリストの弟子になった連中もこんな気分だったじゃないかと感じる。教義とか真理とかむずかしいことを言う前に、その程度乗りだったのかもしれないと思うところは、何となくわかるような気がする。おそらく星野君の考える通りだったんじゃないかと思えてくる。
ナカタさんとの珍道中で、いろいろな景色の見え方変わり、それまで面白いと思わなかった音楽が心に沁みるようになっていく。そんな星野君を見ているとなんかその変化が話の展開とともにうれしくなっていくのが自分でも感じた。
評価
★★★★
書誌
書名:海辺のカフカ〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534136
出版社:新潮社 (2002/09/10 出版)
版型:397p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)
書誌
書名:海辺のカフカ〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534143
出版社:新潮社 (2002/09/10 出版)
版型:429p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)