2011年11月22日
吉村昭著『魚影の群れ』
本の内容の話に入る前にこの本のことを書きたい。実はこの本ちょっと探していた。本は初版が1983年だから、今から28年前に出版されている。しかしもう28年も経ってしまうと、よほどコンスタントに売れていないと、品切れ重版未定、あるいは絶版になって、お決まりの“手に入らない”状態になっている。まして文庫本となると、古本で探すのも大変だ。アマゾンのマーケットプレイスで探せば簡単に出てくるけれど、本の値段はそれほどでもなくても、送料を考えると、それほど安くない。結局携帯にメモを残し、古本屋を歩いている時や、ブックオフへ行ったときに目についたとき買うことにした。
こういう時携帯は便利だ。さすが“携帯”である。いつも持って歩く以上、そこにメモとして残しておけば、自分の探している本は何だったか、あるいは見かけたときすぐ確認ができる。重複して買うこともない。
で、この本も神田の古本屋さんを歩いていた時、ワゴンの中で見つけた。間違いないか携帯を開き、「うん、これだ」確認する。3冊まで100円のワゴンにあった。こういう時欲しい本が3冊あれば、お得なのだろうけど、大体にしてそんなことはない。今回もこの1冊だけだったので、100円を出して購入する。多少傷んではいるが、問題はない。
さてこの本は吉村昭さんの「動物小説」のジャンルに入る1冊である。これまでこのジャンルの小説は何冊か読んできているが、やはり自然相手の話は、厳しい。またその中で生きている人々も当然厳しい。我々のようにのほほんと暮らしている人間が予想する話の展開にはならない。気持ちとしてはハッピーエンドで終わって欲しい部分があるのだが、すべてにおいて無惨な結果で終わる。そんな甘っちょろいもんじゃないよ、教えてくれる。そうであることで、自然を相手にして暮らしている人々の暮らしの厳しさを伝えていく。
この文庫は、「海の鼠」、「蝸牛」、「鵜」、「魚影の群れ」の4編が収録されている。
「海の鼠」は島に「鼠が湧きました」、「磯も足元の路上も鼠で充満している。鼠を踏みしゃぐ」というほどの大量の鼠が島を襲った。もともとこの島は漁と、急な段々畑で農業をする、貧しい島であった。しかも台風も毎年襲ってくる。それでも島の人々はそうした自然の厳しさの中で堪え忍んで生きてきた。それが彼等の習性であった。
そんな中、大量の鼠が島を襲い、わずかな農作物を食い荒らしていく。それでも鼠に食い荒らされることが、分かっていても、島の人々は生きるために、農作物を植えていく。
人間にとって島は厳しい自然であるが、鼠にとってはいい環境であり、どんどん増え、太っていく。郡事務所の久保はさまざまな対策を講じるが、一向に効果がない。猛毒性の薬剤はある程度の効果を生むが、それだけでおさまらず他の動物をも殺してしまうし、自然環境を破壊してしまう。
結局なすすべもなく、7年後、鼠が減って行く。島民は鼠が島を襲う前までは、自然が襲う様々なことに堪え忍んで生きたが、鼠が及ぼす被害には諦めだけで済まなくなり、畑を耕さなくなったり、漁を放棄した人々が減っていく。島を離れていく。そうしたことで鼠の食糧不足が生じた。これが鼠のいなくなった理由であった。鼠が去ったあと久保は次のように、無力感に襲われる。
島に発生した鼠の数が減少したのは、駆除方法が成果をおさめたわけではない。鼠の食糧が乏しくなった島を放棄しただけにすぎないのだ。
人間の力は、遂に鼠の群れになんの影響もあたえなかった。むしろ久保たちの行為は島の鳥類を絶滅させ、多くの鼬、猫、犬を殺してしまっただけだった。そして、その間鼠は、村人たちの食糧をむさぼり食い交尾し妊娠し無数の仔をまき散らしていった。
かれは、鼠課長という言葉を耳にするたびに、物悲しい無力感におそわれた。そして鼠すら見捨てた島にしがみついて生きつづける村の者たちの生活を思い起こした。かれらは強靱な人間なのか、それとも土地を離れることのできぬ無器用な人たちなのか、かれにはいずれともわからなかった。
この話は実際にあった話だそうだ。
「蝸牛」はそれほど面白くなかった。
「鵜」は鵜飼いの父と娘の話である。松次郎は自分の家庭よりも鵜飼い中心の人間だった。松次郎には一人娘千代子がいて、千代子の子供の頃は鵜に興味を示し「川の匂いがする」と言って敬愛心を感じていた。しかし千代子が歳を経て、一人歩きするようになると鵜飼いに見向きもしなくなる。松次郎は千代子に婿養子をとらせ、鵜飼いを継がせようと考えていて、松次郎の元で働く時雄を候補と考えていた。
けれど千代子は男と不倫の末、家を出て行き、頼りにしていた時雄も事情で松次郎も元もとを去っていく。松次郎は自分が飼育している老獪な鵜に半ば八つ当たりして、えさなど与えないでいたが、逆にその鵜に顔を突かれてしまう。鵜にしてみれば、えさをもらえるかどうかが、すべてであり、もともと鵜飼いの鵜は完全に飼い慣らせないらしい。だから鵜は生きるためにそうしただけであり、逃げ出しただけなのだ。そう考えると人間というのは、生きものの自分の感情を移入してしまうけれど、結局それは思い込みであって、何ら関係ない。生きるためには生きるための手段、野生の本能があれば、その中で生きていくだけのことなのだろう。
「魚影の群れ」は確か映画にもなったはずだ。青森のマグロ漁師房次郎は逃げた女房が置いていった娘登喜子と暮らしていた。登喜子には恋人俊一がいた。俊一は房次郎について、マグロ漁師になるつもりでおり、登喜子に頼んで房次郎の舟に乗せてもらう。しかし房次郎はずっと一人でマグロを追ってきた。そして俊一にはマグロ漁師とは異質な部分を感じており、どうしても俊一を受け入れることが出来なかった。
あるとき房次郎の舟にマグロがかかったが、一緒に乗っていた俊一の額に釣り糸が巻き付いてしまい、皮膚を破り肉に食い入ってしまった。房次郎は一時糸を切って、俊一を助けようとするが、マグロ漁師たるもの、マグロがかかったらどんなことがあっても糸を切ってはならない。マグロを追いつつけなければならない、という教えを優先した。それでなくても房次郎は俊一にはいい感じを持っていない。
何とか俊一は命を取り留めたが、登喜子は俊一と去っていった。二人とも房次郎に反感をいだいていた。
俊一と登喜子は和歌山でマグロ漁の修得に努めているという噂が房次郎に入る。そして二人は戻ってきた。戻って来たとき俊一の容貌は漁師の顔つきとなっていた。俊一は房次郎と漁で争うこととなった。房次郎は大物のマグロを釣り上げていたが、俊一はなかなか成果が上がらなかった。
その俊一の乗った船が戻って来ない。遭難した。1ヶ月後漂流している船が発見され、船中に白骨化した遺体が横たわっていた。俊一であった。船には釣り糸がついていて、引き上げると長さ三メートルを越すマグロの骨がついていた。一見して三百キロ近い大物であった。
かれは、ようやく事情を理解することができた。俊一の鉤にマグロがかかって、かれはマグロを追った。漁獲に恵まれないかれは、その大物をのがすまいと釣糸をにぎりつづけた。しかし、未熟なかれはマグロの疲れを誘うこともできず、マグロとともに海上遠く進んだ。
深い疲労と飢えが、かれを襲った。が、房次郎が傷ついた俊一を無視してマグロを追いつづけたと同じように、かれも釣糸をはなそうとしなかった。
房次郎は、俊一のその行為は自分に対する憎しみによるものだということを知っていた。が、魚骨を見つめているかれの眼には、ただ物悲しい光が浮かんでいるだけであった。
俊一に死が訪れ、マグロも死んだ。俊一の体は陽光と潮風にさらされて白骨があらわになり、マグロの体もむらがる魚に食い荒らされて骨だけになってしまったのだろう。
房次郎は、海に眼を向けた。洋上を白骨化した俊一をのせた船が、魚骨をひいて漂い流れる光景が思い描かれた。
かれは、吏員に深く頭をさげて礼を言うと町の家並みの方へ歩いて行った。
私は房次郎の生き様に感動を覚える。長いこと一人でマグロだけを追ってきた。根っからの漁師である。そんな房次郎が俊一を受け入れたくても受け入れることが出来ずにいた。無器用なのである。結局意地の張り合いとなり、俊一は死に、房次郎はただ事実を受け入れるしかないのである。それしかできないのであった。
物語はすべて物悲しく終わっていく。
評価
★★★
書誌
書名:魚影の群れ
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117157
出版社:新潮社 (1983/07 出版) 新潮文庫
版型:300p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可
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- by kmoto
- at 10:33
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