2011年11月22日

吉村昭著『魚影の群れ』

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 本の内容の話に入る前にこの本のことを書きたい。実はこの本ちょっと探していた。本は初版が1983年だから、今から28年前に出版されている。しかしもう28年も経ってしまうと、よほどコンスタントに売れていないと、品切れ重版未定、あるいは絶版になって、お決まりの“手に入らない”状態になっている。まして文庫本となると、古本で探すのも大変だ。アマゾンのマーケットプレイスで探せば簡単に出てくるけれど、本の値段はそれほどでもなくても、送料を考えると、それほど安くない。結局携帯にメモを残し、古本屋を歩いている時や、ブックオフへ行ったときに目についたとき買うことにした。
 こういう時携帯は便利だ。さすが“携帯”である。いつも持って歩く以上、そこにメモとして残しておけば、自分の探している本は何だったか、あるいは見かけたときすぐ確認ができる。重複して買うこともない。
 で、この本も神田の古本屋さんを歩いていた時、ワゴンの中で見つけた。間違いないか携帯を開き、「うん、これだ」確認する。3冊まで100円のワゴンにあった。こういう時欲しい本が3冊あれば、お得なのだろうけど、大体にしてそんなことはない。今回もこの1冊だけだったので、100円を出して購入する。多少傷んではいるが、問題はない。

 さてこの本は吉村昭さんの「動物小説」のジャンルに入る1冊である。これまでこのジャンルの小説は何冊か読んできているが、やはり自然相手の話は、厳しい。またその中で生きている人々も当然厳しい。我々のようにのほほんと暮らしている人間が予想する話の展開にはならない。気持ちとしてはハッピーエンドで終わって欲しい部分があるのだが、すべてにおいて無惨な結果で終わる。そんな甘っちょろいもんじゃないよ、教えてくれる。そうであることで、自然を相手にして暮らしている人々の暮らしの厳しさを伝えていく。
 この文庫は、「海の鼠」、「蝸牛」、「鵜」、「魚影の群れ」の4編が収録されている。
 「海の鼠」は島に「鼠が湧きました」、「磯も足元の路上も鼠で充満している。鼠を踏みしゃぐ」というほどの大量の鼠が島を襲った。もともとこの島は漁と、急な段々畑で農業をする、貧しい島であった。しかも台風も毎年襲ってくる。それでも島の人々はそうした自然の厳しさの中で堪え忍んで生きてきた。それが彼等の習性であった。
 そんな中、大量の鼠が島を襲い、わずかな農作物を食い荒らしていく。それでも鼠に食い荒らされることが、分かっていても、島の人々は生きるために、農作物を植えていく。
 人間にとって島は厳しい自然であるが、鼠にとってはいい環境であり、どんどん増え、太っていく。郡事務所の久保はさまざまな対策を講じるが、一向に効果がない。猛毒性の薬剤はある程度の効果を生むが、それだけでおさまらず他の動物をも殺してしまうし、自然環境を破壊してしまう。
 結局なすすべもなく、7年後、鼠が減って行く。島民は鼠が島を襲う前までは、自然が襲う様々なことに堪え忍んで生きたが、鼠が及ぼす被害には諦めだけで済まなくなり、畑を耕さなくなったり、漁を放棄した人々が減っていく。島を離れていく。そうしたことで鼠の食糧不足が生じた。これが鼠のいなくなった理由であった。鼠が去ったあと久保は次のように、無力感に襲われる。


 島に発生した鼠の数が減少したのは、駆除方法が成果をおさめたわけではない。鼠の食糧が乏しくなった島を放棄しただけにすぎないのだ。
 人間の力は、遂に鼠の群れになんの影響もあたえなかった。むしろ久保たちの行為は島の鳥類を絶滅させ、多くの鼬、猫、犬を殺してしまっただけだった。そして、その間鼠は、村人たちの食糧をむさぼり食い交尾し妊娠し無数の仔をまき散らしていった。
 かれは、鼠課長という言葉を耳にするたびに、物悲しい無力感におそわれた。そして鼠すら見捨てた島にしがみついて生きつづける村の者たちの生活を思い起こした。かれらは強靱な人間なのか、それとも土地を離れることのできぬ無器用な人たちなのか、かれにはいずれともわからなかった。

 この話は実際にあった話だそうだ。

 「蝸牛」はそれほど面白くなかった。
 
 「鵜」は鵜飼いの父と娘の話である。松次郎は自分の家庭よりも鵜飼い中心の人間だった。松次郎には一人娘千代子がいて、千代子の子供の頃は鵜に興味を示し「川の匂いがする」と言って敬愛心を感じていた。しかし千代子が歳を経て、一人歩きするようになると鵜飼いに見向きもしなくなる。松次郎は千代子に婿養子をとらせ、鵜飼いを継がせようと考えていて、松次郎の元で働く時雄を候補と考えていた。
 けれど千代子は男と不倫の末、家を出て行き、頼りにしていた時雄も事情で松次郎も元もとを去っていく。松次郎は自分が飼育している老獪な鵜に半ば八つ当たりして、えさなど与えないでいたが、逆にその鵜に顔を突かれてしまう。鵜にしてみれば、えさをもらえるかどうかが、すべてであり、もともと鵜飼いの鵜は完全に飼い慣らせないらしい。だから鵜は生きるためにそうしただけであり、逃げ出しただけなのだ。そう考えると人間というのは、生きものの自分の感情を移入してしまうけれど、結局それは思い込みであって、何ら関係ない。生きるためには生きるための手段、野生の本能があれば、その中で生きていくだけのことなのだろう。

 「魚影の群れ」は確か映画にもなったはずだ。青森のマグロ漁師房次郎は逃げた女房が置いていった娘登喜子と暮らしていた。登喜子には恋人俊一がいた。俊一は房次郎について、マグロ漁師になるつもりでおり、登喜子に頼んで房次郎の舟に乗せてもらう。しかし房次郎はずっと一人でマグロを追ってきた。そして俊一にはマグロ漁師とは異質な部分を感じており、どうしても俊一を受け入れることが出来なかった。
 あるとき房次郎の舟にマグロがかかったが、一緒に乗っていた俊一の額に釣り糸が巻き付いてしまい、皮膚を破り肉に食い入ってしまった。房次郎は一時糸を切って、俊一を助けようとするが、マグロ漁師たるもの、マグロがかかったらどんなことがあっても糸を切ってはならない。マグロを追いつつけなければならない、という教えを優先した。それでなくても房次郎は俊一にはいい感じを持っていない。
 何とか俊一は命を取り留めたが、登喜子は俊一と去っていった。二人とも房次郎に反感をいだいていた。
 俊一と登喜子は和歌山でマグロ漁の修得に努めているという噂が房次郎に入る。そして二人は戻ってきた。戻って来たとき俊一の容貌は漁師の顔つきとなっていた。俊一は房次郎と漁で争うこととなった。房次郎は大物のマグロを釣り上げていたが、俊一はなかなか成果が上がらなかった。
 その俊一の乗った船が戻って来ない。遭難した。1ヶ月後漂流している船が発見され、船中に白骨化した遺体が横たわっていた。俊一であった。船には釣り糸がついていて、引き上げると長さ三メートルを越すマグロの骨がついていた。一見して三百キロ近い大物であった。


 かれは、ようやく事情を理解することができた。俊一の鉤にマグロがかかって、かれはマグロを追った。漁獲に恵まれないかれは、その大物をのがすまいと釣糸をにぎりつづけた。しかし、未熟なかれはマグロの疲れを誘うこともできず、マグロとともに海上遠く進んだ。
 深い疲労と飢えが、かれを襲った。が、房次郎が傷ついた俊一を無視してマグロを追いつづけたと同じように、かれも釣糸をはなそうとしなかった。
 房次郎は、俊一のその行為は自分に対する憎しみによるものだということを知っていた。が、魚骨を見つめているかれの眼には、ただ物悲しい光が浮かんでいるだけであった。
 俊一に死が訪れ、マグロも死んだ。俊一の体は陽光と潮風にさらされて白骨があらわになり、マグロの体もむらがる魚に食い荒らされて骨だけになってしまったのだろう。
 房次郎は、海に眼を向けた。洋上を白骨化した俊一をのせた船が、魚骨をひいて漂い流れる光景が思い描かれた。
 かれは、吏員に深く頭をさげて礼を言うと町の家並みの方へ歩いて行った。

 
 私は房次郎の生き様に感動を覚える。長いこと一人でマグロだけを追ってきた。根っからの漁師である。そんな房次郎が俊一を受け入れたくても受け入れることが出来ずにいた。無器用なのである。結局意地の張り合いとなり、俊一は死に、房次郎はただ事実を受け入れるしかないのである。それしかできないのであった。

 物語はすべて物悲しく終わっていく。


評価
★★★


書誌
書名:魚影の群れ
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117157
出版社:新潮社 (1983/07 出版) 新潮文庫
版型:300p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2011年03月06日

吉村昭著『再婚』

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 今回も吉村昭さんの現代小説だ。今回は「老眼鏡」、「男の家出」、「再婚」、「貸金庫」、「湖のみえる風景」、「青い絵」、「月夜の炎」、「夜の饗宴」の8篇だ。

 前回、人間長生きしていれば、酸いも甘いも味わってきているから、人生の先輩として、様々な場面で配慮や対処が出来るもんだ、と書いた。しかし今回は長生きした分、恥かしい部分も多く持ってしまうことを知らされる。それをきちんと処理しないで自分の人生が終わってしまった場合、それが妙に生々しく残ってしまうものだな、と思った。
 たとえば「貸金庫」では、愛人の裸を写真に撮って、それを貸金庫に入れたまま死んでしまった男がいる。残された弟は、その若い愛人からその写真を返して欲しいと言われるのだが、言われた方はあの兄貴がそんな写真を撮っていたんだ、と思うだろう。これってちょっと嫌だな。
 愛人の裸の写真じゃなくても、人にはあまり他人には知られたくないものが、大なり小なりあるだろうし、死んでまでも、あれこれ言われたくないものではないだろうか。
 ただ厄介なのは、長く生きていればいるほど、そうした恥ずかしいものを多く抱えて生きているような気がする。だから下手にぽっくり死んでしまった場合、そうしたものを処理できない。もちろん自分が死んでしまえば、その後のことは何もわからないのだから、どうでもいいとも言えるかもしれない。でも私はやっぱり死ぬ時は、きちんと自分の人生を清算して死にたいものだ、と思う。
 一方長いこと生きていると、自分の行動にいつのまにか惨めたらっしい、所作が身についてしまうことがある。これも自分では気がつかない分、他人から、言われなくても、“ちょっと嫌だな”と思われるのは、あまりいいものではない。それが「再婚」に描かれている。
 男が昔会社で働いて部下と再婚を前提に会って、食事をし、会計をしようとした時、女がテーブルにあった爪楊枝を数本取ってバックに入れた所作を見てしまった。それが目に焼き付き、男はその女との再婚しようとは思わなくなった、というものである。確かに女にしてみればいつもやっていたことに違いない。まして爪楊枝である。そしていつの間にか身についてしまった行動が、こういう時にも出てしまっただけのことであろう。女にしてみれば爪楊枝だから、という気持ちだったろうが、逆に爪楊枝だからこそ、と思える。難しいものである。

 「夜の饗宴」は以外に面白かった。これは小さなネオン装飾制作業者の話である。そこに大手製菓業者から、代理店を通さず、直接大きな電飾看板の制作の依頼があった。それは今まであった駅前の敵対業者の電飾看板を隠してしまおうというものでった。そのため秘密を要する。それが代理店を通さない理由でもあった。主人公のいる業者は一攫千金を狙って、その大手製菓業者の依頼を受けて、大きなネオン塔を作りあげる。
 そこに台風が来て、ネオン塔が倒れてしまう。耐久性は計算していたが、鉄骨を組み上げる下請け業者の溶接が不十分で、強度不足となり倒れたのであった。
 それは鉄骨を組み上げる業者に広告代理店が入れ知恵をして、させたものであった。代理店は主人公のいる業者が自分たちを通さずに、大手製菓業者の依頼を引き受けたための嫌がらせであった。
 結局主人公たちはネオン塔の再建を強いられるが、その資金がない。社長は愛人と自殺し、男は夜逃げする。たぶんネオン看板を依頼した製菓業者の担当者も飛ばされたものと思われる。
 夜逃げした男は、大阪でミシン販売のセールスマンとなるが、駅で見上げたネオン広告塔は、倒れてしまったあのネオン塔と同じデザインであった。デザインはあの塔をデザインした人物であろう。ネオンデザインは有名デザイナーでなければ、一度デザイナーがデザインすると、その手を離れてしまうものらしい。当然あの倒れた塔のデザインもデザイナーから離れたものであったが、その塔が倒れ、塔の制作した自分たちも追われた。再起することが出来なかったが、デザインは復活した。主人公は、勝者は村瀬(デザイナー)だったと思うのであった。


評価
★★★


書誌
書名:再婚
著者:吉村 昭
ISBN:9784048728522
出版社:角川書店 (1995/03/20 出版)
版型:243p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年03月02日

吉村昭著『法師蝉』

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 吉村昭さんの現代小説を読む。ここには「海猫」、「チロリアンハット」、「手鏡」、「幻」、「或る町の出来事」、「秋の旅」、「果実の女」、「法師蝉」、「銀狐」の9篇の短篇が収められている。いずれもこの本の帯にあるように人生の後半を迎えた男と女が主人公である。
 長いこと人間をやってくると、人には様々な体験や経験が蓄積されているんだな、と思う。若い時経験したことが、幾ばくかの歳になって、酸いも甘いも、一緒になってよみがえってくる。それが長ければ長いほど、今では経験できないことを通り過ぎてきたんだな、とを思う。時代がそういう時代だったからこそ、あり得た話がたくさん出てくる。
 面白いもので、それはやっぱり歳を重ねないと、一つの話にならない。それがどういう訳か“哀愁”を帯びてしまうから、話になるのかもしれない。もちろん読む側もそれなりの歳がいっていないと、共感が生まれない。追体験というのは、やっぱり同年代であることが必要なのかな、とも思う。

 さて、この9篇のうち気に入ったものは「手鏡」と「幻」の2篇だ。「手鏡」の中に次のような文章がある。

 自分が病臥していたことを考えると、見舞客来てくれるのは嬉しいと思う反面、苦痛でもあった。肥後に対してそうであったように、元気であるかのようによそい、それが体に好ましくない影響をあたえた。そのような経験があるので、重病である人への見舞いはひかえ、花を買って病室の近くまで行きながら通路を引返し、看護婦詰所で渡してくれるよう頼んで帰ったこともある。

 ここにある「自分が病臥していた」というのは、吉村さんが若い頃結核にかかり、寝たきりの状態であった経験を書いている。吉村さんの現代小説でも随筆でも、「人への思いやり」が随所に見られる。それがちっとも気障に感じないのは、そうした配慮が自らの経験を濾過してきたからだろうと思っている。
 人は自分が経験したことから、それが心地よかったり、苦々しく感じたことがあれば、いつの間にか、そうしてみたり、あるいはそうした行動を控えたりすることが出来る。歳をとったことを、半ばうんざりしているところが私にはあるが、こういうのを読むと、悪いことばかりじゃないな、と思えてくる。
 もちろんそうした配慮が、歳をとっても出来る人と、出来ない人もいるだろうが、長いこと生きてきている分、経験してきたことの数の多さは、若い人には負けないはずだ。後は性格の問題かな、と思う。

 「幻」には、「年末に、父が焼け残った医科大学付属病院で死んだ。脳溢血とされていたが、実際は癌で、すでに末期症状であったのである。遺体をおさめる棺がなく、長兄が造船所から運んできた板でつくり、さらに遺体を焼く燃料も必要だというので、かなりの量の薪を用意し、それを棺とともにリヤカーにのせて火葬場に運んだ」とある。この話も吉村さんの随筆に書かれており、実際自ら体験したことをここに書かれていると思われる。時は終戦直後の話である。棺もなかったし、火葬する燃料がなかったのである。他の話に、火葬の薪を得るために、戦火で焼けた電柱を掘り出せ、という話もここにはある。地表に出ている電柱は燃えてしまっていても、地中に埋まっている部分は残っているので、それを掘り出して、遺体を焼く燃料にしろ、というのである。地中に埋まっている電柱は2メートルも地下に埋まっているので、大の男が二人がかり掘り出す労力がいるという。
 このときは何もかも物資が不足していた。餓死者も多く見かけたと書いてある。それは「戦時中は、戦局の悪化にともなって配給食料の質が加速度的に低下し、主食も米の代わりに薯類や雑穀が配給されるようになっていたが、それでも強力な統制で一応、名目だけの量は維持されていた。が、戦争の終結と同時に、辛うじて保たれていた流通秩序が一挙にくずれ、配給制度は維持されていたものの、農家は供出をしぶって農作物を横流しし、そのため遅配が習慣化していた」だから終戦後餓死者が増えたのである。
 戦争というのは実際行われている間も、戦火を逃げ回らなければならないけど、敗戦後もその後でさらに苦しまなければならなかったことを思い知る。
 「幻」はそうした何もかも不足していた時に、昭和通りに祭の練り歩きを見たことがあり、それが神田祭じゃないのか、と後で調べてみる話である。実際は神田明神でそうした祭は当時行われていないことを知らされ、それは幻だったのではないかと仲間に言われるのだが、主人公は確かにそれを見たという話である。話として実際著者が見たのかどうかわからないが、その祭のきらびやかさと、一緒に歩いている痩せ細った馬が、逆に当時物資が不足していたことを強調することになっている。


評価
★★


書誌
書名:法師蝉
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242239
出版社:新潮社 (1993/07/10 出版)
版型:195p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年02月21日

横田増生著『潜入ルポ アマゾン・ドット・コム』

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 この本は単行本が出た頃読んでいる。それの文庫化だ。今回文庫化に当たり、単行本を第一部として収録し、第二部を「その後のアマゾン・ドット・コム」として大幅加筆している。私は本来単行本の文庫化なら絶対に買わない本であったが、その加筆された第二部が気になり、購入し読んでみた。

 で、第一部は以前に感想を書いているので書き加えることはないかな、と思っていたが、以前の文章を読んでいると、肝心なことがうまく書かれていないような気がしたので、その部分だけ書き加えてみる。
 著者がアマゾンの物流センターに潜入したのは、アマゾンの秘密主義から、詳しい情報が流れてこないからであった。アマゾンの情報統制はかなり厳しいものであるらしい。しかし著者はアマゾンのような「通販企業」にとっては、物流が中核業務となるので、必然秘密主義になっていくと書く。なぜなら顧客と直接対面する店舗を持たない通販企業にとって、物流こそがその接点となる。どの物流業者と組んで、どんなサービスを提供するかは、通販企業の成否をわけるほど重要な戦略だからである。「物流業務で同業他社との差別化を図ろうとする企業の常として、物流現場を公開することは滅多にない。物流先進企業にとって、物流センターは企業機密のぎっしり詰まった場所であり、その業務内容を知られることは企業のノウハウや経営内容を暴露するに等しい」からである。
 そして物流部門は、商品開発や営業部門と比べると地味で野暮ったく、薄暗い倉庫で肉体労働をしているイメージであるが、業績好調な企業ほど、物流の重要性を認識し、また大切にしている。企業活動の背骨にあたる物流を軸に業務を組み立てていけば、無駄をなくした経営が可能なのである。
 その物流部門のコストパフォーマンスを実行するに当たり多くのアルバイトが使われていた。「そこには、アマゾン社員を頂点にいただく、“カースト制”があった。トップのアマゾン社員の次には、センター運営を請け負う日本通運の社員がきて、その下にはアルバイト。さらに最下層には、入ったばかりのアルバイト見習いが控えるといった四階層から成り立っていた」のである。そのアルバイターが強いられる実態を著者は自らの体験ととも明らかにする。
 コストパフォーマンスのためにはアルバイトを雇う側であるアマゾンや日通は人が長続きしないことを、露ほども気にしていない。ここではアルバイトとは、募集広告を打ちさえすれば、いくらでもやってくる、“使い捨ての人材”としか見ていない。だから毎週のようにアルバイト雇い入れる。
 どんなに働いても、時給900円以上(後に850円に下がる)は上がらな。交通費はなし。2ヶ月の期間雇用で、それの更新で、社会保険料の負担を逃れるシステムである。当然働く側はモチベーションなど生まれるはずもなく、雇用主や仕事内容さえ無関心となる。コスト削減のため仕事がなければ就業時間の一方的な切り上げもあるが、それでもそれを仕方がないといって簡単に諦めてしまうのである。
 著者は潜入時からその後もアマゾンを利用し、注文するごとにアマゾンの便利さを実感し、いつの間にか私はアマゾンにはまってしまった自分を見出す。けれど「同時に不思議な後ろめたさをぬぐうことができなかった。この便利さの裏側で、400人のアルバイトたちが私の注文した本を探して右往左往する姿を知っているからだ」と書く。
 著者は独自に入手した2004年のアマゾンの内部資料から、次のように書く。

 「アマゾンを利用する人の75%以上の世帯収入は、500万円を超えており、アマゾンの利用者の大多数は会社員だった。一方アルバイトの年収は200万円そこそこ。これでは、最新のパソコンを買うこともままならないし、さらにアルバイトという身分では、クレジットカードを持つことも難しい。 
 つまり、センターを這いずり回るようにして本を探す人と、自宅のパソコンから本を注文する人とは違う人たちなのだ。アマゾンの安くて迅速なサービスを享受する人と、それを可能にするために労働力を提供している人たちとは、ある意味別の階層に属している」
 アマゾンのアルバイト待遇を実感して、著者は「<ワンクリック>の向こう側では、その要求に応えるために、たしかに誰かが働いている。ネット社会の便利さを享受することが、IT企業の舞台裏で働く人々の自尊心を損なうことと無関係ではなく、ひいてはわれわれの生活基盤である社会全体を不安定にしていくのかもしれない。われわれは、ときに立ちとまり、そのことを今一度思い返してみる必要があるのではないか」とも書く。

 アマゾンで働くアルバイターは、待遇でも仕事内容でも人間性や社会性、そして“希望”さえ奪われながら働いている。そういう境遇に陥ったのが自業自得といえるかもしれないが、でもここ20年、そういう境遇に好きで陥った訳ではない人を多く生んできたのではないか、と思うことがある。“失われた20年”を取り戻すため、アメリカ的経営手法をどんどん取り入れていった結果、あぶれた労働力を生み、労働環境悪化させていく。それでも生きていくために働かざるを得ない以上、そうして悪化した労働条件を受け入れて、何とか働いていく。働く側に人間性の喪失が生まれても当然だ。日本の社会がおかしくなっていっても不思議じゃない。人と人の関係が労働環境に見られるような希薄さを反映している。そんな気がする。
 こんなことを言ってもしょうがないのだろうが、私もアマゾンの利用者である。この本を再度読んで、注文を簡単にワンクリックできなくなってしまった。

 さて気になる第二部である。第一部の最後にアマゾンとブックオフとの“黒い関係”を著者は疑って終えているので、それをまず追求する。著者は最初アマゾンがブックオフと取引関係が存在することで、ブックオフから中古本が新刊として流れているのではないか、と疑っている。しかしそうではなく、流れは逆でアマゾンからブックオフに本が流れていたのではないか、と考え始める。
 それは“返品枠”という商慣習が絡んでいる。通常取次が本を卸すとき78掛けであるが、それをさらに引き下げれば当然利益率が上がる。そうして卸値を下げたとき、取次は交換条件として、返品を受け入れに条件をつける。これが“返品枠”である。これ以上返品出来ませんよ、というやつだ。アマゾンはこれを利用して卸値を下げる。けれど売れ残る場合がある。そこで売れ残った本を返品して正味を上げさせたくないため、売れ残った本を損を覚悟でブックオフに売りさばいたのではないか、と思い始めるのである。もちろんアマゾンもブックオフもこれに関してはノーコメントである。
 でもこれを鬼の首を取ったように非難できるかどうか、よくわからない。少なくとも出版業界の“鬼っ子”であるブックオフの利用は読者だけでなく、出版業界でも噂が絶えないし、少なくと買い取った本や、自分の所で出した残った本を売りさばくことは、読者が本を売るのと同じと言えば言えなくもない。少なくとも書店の親父が、ブックオフ安く本を買ってきて、それを定価で返品する方が悪質である。(一時そういうことが行われている可能性があると言われていたが、今でもあるのだろうか?)

 最後にマーケットプレイスの問題である。アマゾンは新刊を掲載している横で中古品として出品者から売りに出している同じ本を掲載している。これがマーケットプレイスである。これは簡単に出品できるらしい。自分のアカウントでサインインして、「マーケットプレイスに出品する」をクリックして、本のコンディションを選び、値段をつけるだけで、すぐネット古書店を開業出来るらしい。後は注文があれば、アマゾンからメールがあり、それを受けて本を出荷すればいいだけである。送料は出品者持ちである。問題はアマゾンへの手数料である。その構造は以下の通り。

1.売値の15%の手数料

2.古本を1冊売るごとに<カテゴリー成約料>80円

3.さらに1冊ごとに<基本成約料>100円

 つまり出品者は、古本の売値と購入者が払う送料340円の内、実際にかかった送料の差額がまるまる手に入る訳ではない。まず本の売値の15%がアマゾンに持って行かれる。その上無条件で180円がアマゾンから徴収されるのである。
 マーケットプレイスの売値を見ていると、売値1円というのが結構ある。これだとどうなるかと言えば、購入者が支払う金額は送料込めて341円となり、そのうちアマゾンの取り分が180円となり、出品者は残りの161円を受けとる。けれどここから本の送料を捻出しなければならない。ヤマト運輸のメール便で発送できれば80円か160円で発送できる。もし160円かかったとしても、とんとんとなるが、メール便には「厚さ2センチ」という制約があるらしい。となると本の梱包材を含めてしまうとこれに引っかかり、メール便が使えず、郵便で送ることになり、手元に残る160円以上かかり、持ち出しとなる。要するにネット古書店なんていってアマゾンで出品しても、利益など出ない仕組みなのである。
 じゃあ、古本の売値から利益を出そうとしても、マーケットプレイスを見ればわかる通り、これも値下げの競争である。絶えず出品があり、売値をどんどん下げていく。出品者はいつもその売値の動向見ていなければならない。それが面倒なものだから、それを自動的に更新してくれるソフトもあるらしく、そのソフトのサービスを提供している会社もあるというから驚きである。
 月に100万円を売り上げている強者もいるらしいが、これだって古本の仕入にあっちこっちにあるブックオフに車で回るガソリン代、本の送料や梱包材、それに伴う手間を考えれば、副業としてやっていけるものじゃないようだ。
 それに反してアマゾンは自分ところで新刊を売るより、マーケットプレイスで売れた手数料の方が計算すると儲かることがわかってくる。何より自分の所で在庫を持たなくていいし、倉庫からピッキングするための人件費もかからないし、送料もかからない。まるまる純利益といっていい。下手をすれば、新刊を売るより倍儲かる可能性があるのである。
 今はマーケットプレイスから本を買う場合送料が340円から250円に下がったので、アマゾンはカテゴリー成約料を80円から60円に下げた。(売値の15%の手数料と基本成約料100円はそのまま)こうなるとますます出品者の手取りが少なくなる。たとえば売値1円の本では、購入者送料のときは161円手元に残った。けれど送料250円だと、アマゾンの取り分が160円となっても、残るのは90円だけである。ここから本を購入者から捻出することは絶対に無理で、さらに出品者に負担をかけることなる。古本でもうけを出す場合は、その本の仕入値にすべて関わってくるが、1円じゃあどうしようもない。何にしてもアマゾンが儲かる仕組みは変わらないのである。


評価
★★★


書誌
書名:潜入ルポ アマゾン・ドット・コム
著者:
ISBN:9784022616845
出版社:朝日新聞出版 (2010/12/30 出版)朝日文庫
版型:437p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2011年01月14日

吉村昭著『白い航跡』〈上〉〈下〉

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 この本は、明治時代海軍内で流行していた脚気の本格的にこの解決に取り組み、東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛という人物の生涯をつづった本である。

 高木兼寛は薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に嘉永2年(1849)9月15日に生まれ、藤四郎と名付けられた。父喜介は大工で、百姓北袈裟一の娘である園を妻にした。腕の良い喜介は、棟梁として豪農の家を建てるなど仕事に追われる身であったので収入には恵まれていた。
 藤四郎は幼い頃より読み書きを覚えたい、とせがむ子で、園は藤四郎が尋常な子供ではないと考え、喜介に相談する。喜介は園の言葉を受け入れ、穆佐にある中村敬助の塾に通わせる。
 そのうち藤四郎は医者になりたいと師の中村敬助に自分の気持ちを伝える。それを聞いた中村はどうせ医者になるならこれからは漢方医より蘭方医なるべきだと考え、藤四郎を薩摩藩蘭方医の石神良策に師事させる。
 その後医者となった藤四郎は慶応3年(1867)の年末に突然藩から医者として従軍することを命ぜられ、あわただしく鹿児島を出立した。そのおり藤四郎を兼寛と名を改め、先祖の姓と伝えられる高木を名乗り、鳥羽・伏見の戦いに参加した。
 ただ戊辰戦争に従軍して、医者として自分の能力の限界を悟らされる。医者でありながら戦傷者の手当もまったく出来ないのだ。それは医者ではないと思うのであった。
 ところがこうした中でも傷ついた兵に適切な治療をし、時には手術も施す人物がいた。関寛斎と佐藤進である。関と佐藤は佐倉順天堂の双璧と謳われた人物であった。兼寛は関や佐藤の治療を見て、自分はまだまだと思うのであった。
 さらに英人ウィリアム・ウィリスという医師の存在も知る。ウィリスは1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年、箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、公使パークス下で医官として働いた。横浜で彰義隊討伐作戦や会津討伐作戦での負傷兵などを治療していた。
 兼寛は重傷の負傷者らを横浜の病院に送っていた経緯もあって、東京に戻ったおり、横浜の病院を訪ねる。病院の頭取はあの石神であった。兼寛は石神がここで手術をしているのか、と尋ねると、石神はここで手術をしているのはイギリス人のウィリアム・ウィリスという医師でその医療技術の高さに驚いていると兼寛に言う。
 鹿児島に帰ってからも、兼寛は関のような負傷者から弾丸を除去し、手足を的確に切断手術して命を救う医者になりたいと思うようになる。師の中村敬助に新しい西洋医術を学びたいことを相談する。中村はそれなら鹿児島に出て開成所入学を進める。
 開成所とは薩摩藩が洋式軍制拡充のために、海・陸諸学科と英・蘭学の教授機関として創立された機関であった。開成所での授業は最初はオランダ語であったが、次第に英語が重視されるようになった。これは時の流れからいって当然の流れであった。ペリーの来航によって日本は開国し、アメリカ、イギリス公使が駐在し、さらに薩英戦争後、薩摩とイギリスとの関係が友好が進みとなおさらであった。
 兼寛はオランダ語の時代は去り、西欧の学術を吸収するためには、これからは英語を身につけないとならぬことを身をもって知るようになる。その上開国によって、オランダ一国のみから導入されていた医学知識は、欧米各国からふんだんに入ってくる知識の前にはたちまち色あせたものとなっていた。オランダ医学は過去のものとなっていることを感じた。そのことを敏感に察した順天堂創設者佐藤泰然は、積極的に西欧の医学知識の吸収につとめ、その門から関寛斎、佐藤進らが輩出していた。
 兼寛は、奥羽戦争に従軍したことを幸せに思うようになった。平潟で関寛斎の治療ぶりを眼にし、ウィリスの医術を感嘆する師の石神の言葉を耳にしたことによって、新しい医学の時代が到来しているのを知ったのだ。
 この時期政府は、やがて総合医科大学を創設し、それに病院を附属させる構想をいだいていたが、その長にウィリスを任命しようと考えていた。ウィリスは高潔な人格者で、新政府要人たちの中には彼の治療を受けた者も多く、戊辰戦争で献身的な治療につとめて多くの負傷者の生命を救った功績は偉大で、それぬ報いるために彼を最高の地位につかせるのが当然だ、という意見が大勢を占めていた。
 新政府内では最も強い発言力を持っていたのは旧薩摩藩出身者であり、彼らによってすべてが動かされていた。しかもイギリスと薩摩藩は親密な関係にあり、今後の日本の医学の主流をイギリス医学にする意向は彼らの意向を反映したものであった。
 このような中、新政府の医学取調御用掛の旧佐賀藩医師相良知安は激しい反対をした。相良は今まで日本では西洋医学といえばオランダ医学であったが、そのオランダ医学はドイツ医学の系統をふんだものであり、さらに日本が今求めているのは基礎医学であり、その分野でドイツ医学は世界最高峰に位置しているので、ドイツ医学を取り入れるべきだと主張するのである。ウィリスを長にしてイギリス医学を日本医学に取り入れる手続きに不備があり、そこを相良はついた。結局ドイツ医学採用となる。こうなると今度はウィリスの処遇が問題となってしまう。大久保利通などはウィリスを鹿児島に招くこととした。
 鹿児島で医学院が開設され、ウィリスが講師となるという噂を聞いた兼寛は、ウィリスを案内してきた石神にウィリスに教えを乞えるように頼み込む。それ以後兼寛はウィリスにイギリス医学の教えを聞いた。
 そのうち石神が新政府の要請で東京に行き、次に兼寛も石神の要請で、海軍に入る。兼寛は教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校に留学する。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得した。
 留学中に母の死を知る。父は兼寛が東京にいる時にすでに死亡していて、このときも父を看取れなかった。兼寛が医学の道に進みたいという希望を受け入れてた両親たち。そのため家業を継がず、親を振り切りるように故郷を離れたことを思い出すと、親孝行も出来なかったことに兼寛は涙に暮れるのであった。さらに長女の死亡の知らせも受け取り、義父の死に接していた。
 明治13年(1880年)に兼寛は帰国した。上巻はここで終わる。

 留学を終えて帰国し海軍病院長に就任した兼寛は、病院内に、留学前にもまして脚気の患者が多くなっているのに呆然とする。維新以来、政府は、海軍の近代化を目指しその充実に努めてきた。ところが乗組員に脚気の患者が多くなってくると、戦闘どころの話でなくって来る。政府もこの状況を問題視し、脚気の原因を追求してきたが、その原因がわからずにいた。兼寛は調査を始めると、そこには驚くべき数字が見られた。
 明治11年、海軍の総兵員数は4,528名中、脚気患者は1,485名で、それは総員の32.79%に当たる。死亡者は32名。明治12年、総兵員数5,081名中、脚気患者1,978名。明治13年、総兵員数4,956名中、脚気患者1,725名。明治14年、総兵員数4,641名中、脚気患者1,163名。11年から14年までの4年間で死亡者は146名に達していた。さらに彼はさかのぼって明治10年罹病状態を調査すると愕然とする。海軍の総兵員数1,552名中、年間で脚気におかされた者は延6,344名となり、それは同じ者が1年で4回以上も脚気にかかっていることを示すのであった。
 さらに幕末勝海舟らがアメリカに渡った咸臨丸以来、アメリカ訪問が軍艦「筑波」で行われた。その7ヶ月の航海で乗組員146名中47名が脚気となった。ただこの航海でわかったことがある。「筑波」がサンフランシスコやシドニーに碇泊している時は脚気患者は出なかったのである。そこで兼寛はそれは乗組員が洋食を口にしたからではないか、と考え、脚気と食事の関係を疑い始める。
 海軍病院に脚気で入院しているのは士官ではなく水兵が多いことに注目する。当時海軍では食事代を現金で渡していた。水兵たちは米だけを買い込み、余ったお金で副食でも買えばいいのだが、その分を貯蓄に回している者が多数であった。水兵には貧しい家の出が多かったので、故郷に節約したお金を送金していた者もいた。兼寛は脚気が食事と関係があることを確信する。
 そんな中、日清戦争前に「京城事件」起こる。中国が軍艦を派遣したことで、日本も軍艦を派遣する。そこで怖ろしいことが起こっていた。日本の五隻の軍艦内で多数の脚気患者が発生していたのである。もしこのとき清国と戦闘が起こっていれば、乗組員大半が脚気に罹病していては戦力として力がない。全滅する可能性が大きかったのである。
 兼寛は西欧で脚気はほとんど見られないので、食事を洋食にすべきだ、と軍部に提言する。それは兼寛の実験でも証明されていた。白米ではなくパン食にしろと言うのである。しかし予算の関係でそれは難しい。
 兼寛は海軍幹部だけではなく、政府の要職にある人物たちに自説を述べる。時には天皇にさえ、脚気は洋食で防げることを訴えた。結局パンがダメなら、パンが麦であるので、白米に麦食を混ぜることにする。これによって海軍では脚気患者激減した。そして兼寛は明治18年(1885)に自説を『大日本私立衛生会雑誌』に発表する。
 しかし兼寛の脚気の食物原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。
 ここに森鴎外が登場する。鴎外は兼寛の説に真っ向から反論する。鴎外はドイツ留学中コッホのような偉大な細菌学者に師事したため、脚気は細菌によるものだと主張する。鴎外はドイツ医学の信奉者であっただけに、兼寛の脚気食物原因説は学問的裏付けのない単なる思いつきだと決めつけたのである。鴎外には最新のドイツ医学を身につけてきたという自負がある。そのためイギリス医学を軽視する傾向があった。
 兼寛も自説が学問的な理論に乏しいことは自覚していた。しかし臨床医学を重んじるイギリス医学を身につけた兼寛とって、それはさしたる重要な問題ではなかった。兼寛も様々な統計を取り、あれこれ模索し実験した結果、麦混合の飯を主食とするのが最も好ましいという結論に達したいたからである。
 しかし鴎外の兼寛批判はしつこかった。もうこの時は日本医学界はドイツ医学を取り入れていたので、イギリス医学の兼寛の説は東京大学医学部出身の者から次々に批判され、黙殺された。
 しかし日清戦争では海軍では脚気患者が皆無に近かったのに、陸軍では四千名近い死者を出していたし、日露戦争に至っては、陸軍の傷病者352,700余名の内、脚気患者が実に211,600余名に達していた。そして傷病者の内死亡したのは37,000余名であったが、脚気で死んだ者は27,800余名だった。これは陸軍が兼寛の説を否定して、白米こそ優秀な兵食だと、そのまま白米を主食としていたからであった。さすがの鴎外もこの数字を知ったとき、その顔から血の色がひいた。世論も陸軍の白米至上主義を批判し始めた。
 そして大正14年4月の臨時脚気病調査会は最終報告会を開き、その席で脚気の原因はビタミンB欠乏によるものだと結論を下した。これによって陸軍医総監森林太郎をはじめ主流となったいた細菌原因説は完全に崩れ去ったのである。

 以上が兼寛が軍部に蔓延していた脚気に取り組んだ経緯である。一方兼寛は医学教育、看護教育にも力を注ぐ。兼寛は留学中西欧諸国では貧しい病人に対する無料の医療行為が行われていることに強い感銘を受けていた。また看護婦が病院内できびきび病人の世話をしていることにも感銘を受けていた。しかも看護婦たちは、医学の知識も持っており、彼女たちが医師にとってなくてはならぬ協力者であり、そのため尊重されていることも知った。
 帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵らと共に、臨床第一のイギリス医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。その後成医会講習所は明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。
 さらに明治15年(1882年)には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立する。院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。
 看護婦の養成では、陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立した。
 成医学校、有志共立東京病院(後に東京慈恵医院と改称)、有志共立東京病院看護婦教育所は後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

 私は高木兼寛という人物の存在は、吉村さんの『日本医家伝』で知ったのだが、まず明治の日本軍内にこれほど脚気が蔓延していたのは驚いた。日清・日露戦争で勝利によって新しい軍事力の華々しさばかり教わってきた。このように内部が脚気によってこんな深刻な状態になっているとは、教えてもらっていなかった。日本の軍が脚気によって崩壊しかねない状態だったことは、ホンと驚きであった。
 そして高木兼寛が東京慈恵会医科大学の創立者であっんだと感慨深かった。というのも私が大学時代新橋の本屋でアルバイトしていたとき、東京慈恵会医科大学附属病院の看護婦さんのところへ本を配達したことがあって、今はどうなのか知らないが、当時古めかしく、複雑な病院内を探し回った覚えがあるからだ。だから高木兼寛という人物が身近に感じたのである。
 あともう一つ気にかかることがある。明治天皇の崩御が高木兼寛を悄然させ、廃人みたいなってしまうことである。以前から私は乃木希典の殉死が今ひとつしっくり来ない部分があって、どうして天皇が死んだから、自分たちもその後を追わなければならないのか、正直なところ、感覚としてよくわからずいた。でも高木兼寛が明治天皇の死に接し、廃人みたいになり、その後人が変わったように各地に講演に出かけるのを読むと、天皇の死が支え棒を失ったかのようだったのかもしれない。
 高木兼寛とって、日本医学界で黙殺されても、明治天皇だけは高木兼寛の説に耳を傾けてくれていた。明治天皇だけは純粋に自分の功績を認め医学者として兼寛を高く評価してくれていた、と思っていた。それは学界で黙殺されていたから余計であり、一人の理解者がいた、それも日本の最高権力者が理解してくれていた。それがあったからこそ、反論や侮蔑に耐えられたのであった。その天皇が亡くなったことは、自分がまったく孤独になったと感じるのであろう。そして乃木の自殺を知って、自分以外にも明治天皇の死に大きな衝撃を受けた者がいたことを知った。乃木の気持ちが十分理解出来るのであった。
 明治という国家が明治天皇を中心に、修羅場をくぐり抜け、多くの死者を出し、数々の困難を乗り切ってきた。共に作り上げてきた自負があったからこそ、天皇の死は大きな衝撃であったのだろう。乃木も高木も明治天皇は心の支えだったことをちょっと感じた。


評価
★★★


書誌
書名:白い航跡〈上〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765411
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)


書誌
書名:白い航跡〈下〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765428
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:316p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)

2010年12月29日

横田順弥著『古書狩り』

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 著者はSF作家でもあり、小説を書くかたわら、資料集めなどで古書も詳しい。だから古書に関する本も何冊か出されているはずだ。そのためこの本もかなり期待して読んだのだけれど、はっきり言って肩すかしを食らった感じであった。
 古本を集めるマニアックな人たちの姿を描くのはいいのだけれど、そこにSF的要素を加えちゃうと、おいおいそこまでいっちゃ話がおかしくならないか、と思ってしまった。たとえば紙魚という紙を食べる小さな虫が古本にいることがある。「本の虫」という短編では、和本についた紙魚を大切な本をダメにしてしまうと、それを見かけると憎みようにつぶす人物が、ついに自分も巨大な紙魚になってしまうという話。カフカの『変身』グレゴリー・ザムザ風の話だ。あるいはパラレルワールドから来た人物があちらの世界で買った古本がこちらの世界では稀覯本となっていたので、それを売って生活の糧にする話もある。さらに宇宙船が故障して、また旅立つためのエネルギーを人間の精神エネルギーを求める美人の姿をした女宇宙人が、偶然稀覯本を安く買い求めて興奮して、精神エネルギーをバンバン発していた男に近づく話などである。
 確かに古本を求める人々は通常の人から見れば異常なところがあるから、それを発展させれば、こういうのも有りかな、とは思うが、でもやっぱりそれは、私の求めている世界ではない。
 古本の世界のマニアックで病的な姿を描くことは、もうそれだけで別世界の話になっている訳だから、それを現実にこういう人たちがいるんですよ、と知らしめして、はじめて関心が引けるんじゃないかと思うのだ。それをSF的要素でまとめてしまうと、もうそれだけでますます非現実的になってしまう気がする。もともと著者はSF作家だから仕方がないのだろうけど、せっかく古本の世界が持ち得る異常さ描くなら、それは排除すべきじゃないかと思う。もしこの発想を使えば稀覯本の存在すべてをそこから簡単に求められてしまう。
 古本を強く求める人たちは、その本の貴重さからそれを求めるわけで、そのため様々なドラマを生む。時には考えられない奇行をする。その世界が異常であるから話は面白いし、呆れるのである。本当にこいつら馬鹿じゃないかと思わせるから、私は好きなのである。そして現実的には古本を巡って殺人事件など起こったとは思えないけれど、でもそれが高じれば殺人事件になってもおかしくないと思わせるからこういう話は読めるのである。私が紀田順一郎さん古書を巡る推理小説を読むのも、ジョン・ダニングの推理小説を読むのが好きなのもこういう理由による。決して古本のSF的世界を求めた訳じゃないのだ。そういう意味で、この本は期待はずれであった。
 それは私がSFを好まない所に起因するから、このように批判してしまうのかもしれないが、もしかしたらこういうジャンルの好きな人にとっては、変わっていて面白いのかな、とは思うが、やっぱり私には受け入れられない。残念であった。

 この本は散歩の途中でブックオフで求めた。出版社はあの一太郎のジャストシステムだろう。最初は、へぇ~、ジャストシステムでもこうした文芸書を出しているんだと思った。もっとジャストシステムは自社のソフトのマニュアルを自ら出版しているから、別にこの手の本を出版することは簡単であろう。
 とにかく期待はずれだったので、またブックオフに戻そうかと思っている。


評価
★★

書誌
書名:古書狩り
著者:横田 順弥
ISBN:9784883094363
出版社:(徳島)ジャストシステム (1997/03/31 出版)
版型:285p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月18日

吉村昭著『味を訪ねて』

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 やっぱり好きな作家さんの随筆を読むのはいいが、今回は美味しそうというのとうらやましいという気持ちが複雑に絡み合って、微妙な気分でこの本を読んだ。

 今回も様々な機会に発表された随筆を集めたものである。しかもその初出紙誌/単行本一覧を見てみると、ちょっと古いものばかりである。個人的には短い随筆は好きではある。今回は食に関しての随筆を集められている。ただこの本は食通、グルメの本とは多少違う意識で吉村さんは書かれているようである。一応吉村さんはよくある食通を気取っていないことをことわって、食に関して自らの持論を次のように言われる。

 食通と言われている人は、美味な物を食べるためには金に糸目をつけぬという。私も、そのような人を数人知っている。食べる顔つきは真剣そのもので、ひと味ひと味たしかめているような食べ方をする。
 食物に対する知識はきわめて豊富で、自分で包丁も巧みに使う。味覚が常人とは異なって研ぎすまされているのだろう。

(略)
 
 そのような人とくらべると、私は、食通になることはあり得ないことに気づく。食物についての知識は無にひとしく包丁も使えない。第一、うまい食物を口にできた時、私は、ただ嬉しくて笑うだけなのだ。
 ただし、それがいかにうまい物でも値段が高ければ喜んでいられない。私の場合、食物には金に糸目をつけるのである。
 私にとって、うまいとは、安いわりに・・・・という条件が必要になる。

 もちろんここに紹介される食べ物は確かに産地に行けるだけの条件が必要になる。作家という職業のため取材旅行ができるから、こうしたご当地のうまいものを食べられる。だからこんな随筆が書ける。それだけでも十分「役得」だ。吉村さんは次のように書く。

 仕事の関係で、月に少なくとも二回は旅に出る。そんなことをくり返しているうちに、全国の都道府県すべてに足をふみ入れることとなった。
 好きな町は多いが、私の場合は、第一に人情がこまやかなこと、食べ物がおいしいこと、町独自の歴史のあることなどの条件をそなえている町である。

 これは誰だってそう思うだろう。旅をする醍醐味はそこにあるんじゃないのかと思う。

 吉村さんもここで「食物の随筆は、そんなうまいものがあるなら、食べてみよう、と思うところに面白みがあるので、自己陶酔だけの随筆は、かえってはた迷惑で、いら立つだけである」と書いている。あるいは「ほとんど行く機会もないような地の食物について書かれたものは、どうしようもない。ああそうですか、という以外にない」とも書いておられるが、私たちは吉村さんが書かれたここの文章にも同じことを感じている。いや感じてしまう。やっかみがあって、「あなたもそうですよ」と言いたくなってしまう。
 それくらいここに書かれた文章は美味しそうだった。

 私は咀嚼しながら嬉しくなって笑い出した。なんといううまさだ、と思った。

 これを読んだらそう思っても仕方がないでしょうと言いたくなる。いくら吉村さんが「味の旅という言葉がある。たしかに旅をすると、その地特有の食物に出遭う。しかし遠い地へ旅する必要はなく、東京にも近くの地で、他の地では味わえぬものがある」と書いてあっても、慰めとしか感じられない。
 せめて救われるのは、食通、グルメと称して、やたら高い物ばかり食べているやつより、吉村さんが「安いわりにうまい」ということを持論を持っておられるところだけであろう。それだって、産地に行けば、新鮮で安いに決まっているじゃんと突っ込みたくもなるが・・・。
 結局食に関する本はひがみを持ちつつ読むしかないところがどうしても出てきてしまうのかな、と思った。ということで、食べてみたいけれど食べられないジレンマを感じつつ、この本を読み終えた。

 最後に日本酒を飲む人が減っているという話。

 日本酒の需要が減っていると言われているが、なにも飲む者の趣向が変わったわけではない。遠い昔から得も言われぬ味わいをもつ酒として愛されてきた日本酒が、ほろびるはずがないではないか。
 それが減少傾向にあるというのは、ひとえに酒づくりをしている人の怠慢にある。戦後、私たちは、長い間、なんの工夫もこらさぬ日本酒を、押しつけられるようにがまんして飲んできた。年をへても、酒づくりをしている人は、売れることに甘えて、少しも自製の酒を検討することなく酒を市場に出してきた。
 葡萄酒、ウイスキー、焼酎など、戦後とは全く別種の飲み物と思えるほどうまくなったのに、日本酒だけはあぐらをかいたように味の進歩がない。飲む側にしてみれば忍耐の限界をすぎ、愛想をつかしたのである。

 これを読んで、同じことを開高健さんも言っておられたのを思い出した。開高さんも日本酒の衰退を同じように清酒業者の怠慢と嘆いておられた。もっとそれはだいぶ以前の話だ。最近は以前より日本酒の愛飲者も増えているのではないか、と思われる。


評価
★★★


書誌
書名:味を訪ねて
著者:吉村 昭
ISBN:9784309020099
出版社:河出書房新社 (2010/10/30 出版)
版型:176p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年10月22日

山口瞳著『江分利満氏の酒・酒・女』

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 新刊で文庫オリジナルと書いてある。といっても、たぶん“寄せ集め”のエッセイ集であろう。実際解説に「自分としては、この一冊で山口瞳の全体像はかなり浮き彫りにできた、そう自負してほくそえんでいる」と書かれているから、解説者が数ある山口さんのエッセイからセレクトしたものだろう。

 でも悪くない。

 読んでいて、ちょっと笑ってしまうし、そうだよなあ、と思わせるエッセイを集めているので、楽しかった。文庫のカバーにある絵は山口さん自身が描かれた絵のようで、夜の都会のビル群の雰囲気が出ていていい感じだ。こんな夜にどこかでお酒を飲んでいる姿が眼に浮かんでくる。(ここにあげた本の画像は帯が邪魔だったな)
 とにかく山口瞳という人は中学一年の時からお酒を飲んでいる人だし、サントリーという会社の広告に携わって来た人だけに、描かれるお酒に関する風景は、経験が長い分、クスッと笑わせてくれる。苦い経験も当然されているから、人のお酒の飲み方にも、忠告を兼ねた言い分は、「確かにそうだんだよな」と思わせる。
 私はほとんどお酒を飲まないので、このあたりの情景は、想像するしかないのだが、でもお酒を飲まなくても、人の世は何事も思うようにならないものだから、ある程度は想像することはできる。ましてお酒は男同士、あるいは会社の関係(同僚、上司など)、男と女の関係、をよりその姿をあからさまにさらけ出すか、部分的に表にしてしまうところがあるから、その分リアルで面白い。逆に言えばその分恐ろしくもある。普通お酒は苦い経験を多くさせてくれるのではないだろうか?
 酒飲みの実態も面白い。たとえば酒飲みは慢性下痢患者であって、朝起きて何度もトイレ行く。胃腸もかなりダメージを受けているだろうから、酒場の女性にもてるためには、その女性の胃腸の心配をしてあげるとモテるとも書いてある。本当のそうかどうかは知らないが、ただ会話ははずむだろうなとは思える。
 二日酔いにも当然悩まされ、その解消方法もいろいろあるようだ。けど二日酔いの解消法が多くあるということは、「宿酔の治療法について、古今東西、いろいろのことが書かれているが、こんなに書かれているということが、すなわち、治療法はないという証拠である。
 芸術とは何か、小説とは何かというのが文芸評論家における永遠のテーマであり、永遠のテーマになっているのは、要するに、わからないことであって、宿酔も治療法とよく似ている」らしい。でもこの記述は笑ってしまった。
 結局お酒は失敗がつきものである。だからそこに人生譚が生まれる余地がある。苦々しい経験が、人生訓を生む。けれどたちが悪いのは、だからといってそれが直らないということであろう。散々な目にあっても、同じことを繰り返す。“にもかかわらず・・・”である。
 お酒の話には女性がつきものである。女友達、会社にいる女性、酒場の女性、そして女房と。そこで男は女とは、女房とはと定義つけたくなるようだ。しかしだいたいが男の勝手な言い分だ。別にフェミニストを気どっているいるわけじゃないが、そう思う。

 たとえば、

「女の人のよさはやさしさじゃないでしょうか。美人じゃなくてもいいんですから、やはり気持ちのやさしい人がいいですね。それから肌の手入れがいい人がいますね、そういう女性は尊敬しますね。それから、女の人は着る物に対するセンスが必要だと思います。それのない人は女じゃないと思うんです。たとえば、みんなで海水浴なんかへ行っても、はでに飛び回る人と、じみだけど、ごはんのとき気をきかせておにぎりなんかつくってくれる女性がいるでしょう。そういう人は必ずうまい結婚をしますよ。気持ちのやさしさに男は打たれますからね。
 女の人というのは、きれいじゃなければいけない。きれいというのは、必ずしも心も体もいきいきしていること」

 こんな文章を読んで、なんて男って勝手な何でしょう!、と怒っちゃいけない。これが大方の男の心情なのだから諦めてもらうしかない。それに追随するかどうかは、もちろん別な話だけれども・・・。

 まだある。山口さんぐらいの年齢になると若いチャピチャピの女性を対象とはほとんどしない。興味がないということじゃない。ただ面倒だからであろう。しかし同年齢の女性や女房族に対してあれこれ言う。いや言わざるを得ないというところかもしれない。

「中年の女、中年の妻、中年の母親というのが私には怖ろしくて仕方がない。
 どういうところが怖いかというと、ガンバッテイル感ジがこわいのである。夫のため、子供のため、彼女はガンバッテイルのである。息を抜くことがない。正義の味方である。大義名分があるのである」からである。

「なぜ女房は強いのか。
 女房にとって、夫は、親であり、子供であり、賢者であり、手に負えぬウスラバカであり、金を運んでくれる人であり、小遣いを持ちだす人であり、甘えたり拗ねたりできる人であり、そのほか、ほとんどあらゆるものになりうる人である。
 女房は、こうしてヨリドコロがあるから強いのだと思う」 

 このように、反論の余地がなく、逃げどころがなくなると、男はお酒に、他の女に目が向く。そして傷口を広げるのである。山口さんの言い分に妙に納得するのは、結局それがまぎれもない真実であり、逃れようない事実だと思いつつ、自らの傷口を広げてきた経験が、ここに披露されているからではないだろうか?


評価
★★★


書誌
書名:江分利満氏の酒・酒・女
著者:山口 瞳
ISBN:9784198932299
出版社:徳間書店 (2010/09/15 出版)徳間文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年10月19日

吉村昭著『蛍』

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 またしても吉村昭さんの短篇を読む。今回は“生き物”は関係ない。「休暇」、「眼」、「霧の坂」、「蛍」、「時間」、「光る雨」、「橋」、「老人と柵」、「小さな欠伸」の9篇である。
 「休暇」は映画にもなった。死刑執行係が自らの新婚旅行のための休日を得るため、進んで死刑執行係を名乗り出て、特別休暇をもらう話。「眼」はアイバンクのために死後まもない人間の眼球を取りだす医師の話だ。「霧の坂」は主人公が結核で療養していた温泉旅館で、宿の支払をしてくれる弟を待つ間、その旅館に勤めていた女と子供が自殺する話で、「蛍」は蛍狩りに来ていた兄弟が、長男がふざけて乗っていた船を大きく揺らし、次男を川に落とし死なせてしまい、葬式で親たちは長男の扱いに大きな変化を見せる話だ。「時間」は主人公が末期がんの兄の死をただ待っている間の葛藤を描き、「光る雨」は主人公が療養生活していた家に家事見習いとして来た娘が、同じ結核になり、一緒に寝込んでしまい、彼女の扱いに当惑する話だ。「橋」は空襲で火災が発生したため、一時的に解放された囚人が橋のたもとで、火災の炎を逃れ、川で溺死してしまった死体の回収場面に遭遇する話である。「老人と柵」はある日突然自分の土地に無断に柵を設けられ、いつの間にかその老人は柵があることに安心感求めていたという話。「小さな欠伸」は空襲で焼け出され、その前に死んだ夫の母親の遺骨と共に逃れた女がなすすべもなく姑の妹先へ疎開する。やっとの思いで姑の妹のところに着いた時に、予想だしなかった情事の虚脱感と疲れで小さな欠伸が出てしまい、その後涙が止まらなくなる話だ。
 いずれの話もモチーフとして使われた情景は、これまで読んできた吉村さんのエッセイで読んだことがある話ばかりだ。だからこの話は若い頃吉村さんが結核で療養生活していた頃の体験を使っているんだなとか、取材で得た話から取っているんだな、とわかった。 この短篇集の全体には、死刑執行人、結核患者、囚人、旅館の主人にひどい仕打ちを受けても、それを受け入れるしかない子持ちの女、空襲で焼け出された女など、異様な境遇でなすすべのない者が主人公となっていることが共通している。加えて「死」が全体を支配している。
 私は「時間」に描かれた病院に来ている人間が死を待つ時間しかないことを経験したことがあるので、あの時のことがリアルに思い出されて、この短篇が一番印象に残った。
 私には主人公が兄の死を待っている間、自分が結核で手術を受けた時に感じた時間の観念が印象的であった。その観念は「私にも死の瞬間が時間の流れの中で確実に訪れてくることを知ることにもつながった。生は、死ぬまでの間に、許された時間に過ぎず、それは必ず断たれるものだという当然すぎるほど平凡な観念が私の内部に根を下していた」という記述である。
 死というものは、曖昧の中にいつも隠れていて、身近にそれを感じさせるものがなければ、自覚できないものであろう。そしてそこから得たものはあまりのも単純明快なこのような事実だ。単純なだけその分どうしようない。
 「橋」では、火災を逃れて、川に飛び込み溺死した多くの死体を見た囚人は両親以外の死体を見たことがないくせに、これほど多くの遺体を見ても何の感慨も抱かない自分は異常なのかもしれないと思い、それが死体でなく魚の群れであった方が、かえって感情が強く動いたかもしれないと告白している。そうなのだ。死は生と隣り合わせにあるにもかかわらず、その存在になかなか気づかせない。あるいは生を受けた時点で、避けることの出来ない事実だけに生理的に目をつぶるようになっているのかもしれない。
 囚人の主人公は、

 「つまり年齢というものなのだ、とかれは胸の中でつぶやいた」

 「年を重ねた者にとっては、物珍しいものであっても、驚きは淡く、ありふれたもののように感じる。たとえ初めて眼にする情景でも、過去に一度か二度見たことがあるようなに錯覚するものだ」

 きっとそういうことなのだろう。錯覚が死を遠のけ、生きているということだけが頭の中の中心を占めるように生き物はなっているのだろう。生きいるためにはどうすればいいか、絶えず考えるのはそういうことだ。よほどのことがないかぎり、死ぬためにはどうすればいいのかとは考えはしまい。結果としてそういうことになるのだろうが・・・。この短篇を読んでみて、そんなことを思った。この短編集はひょんなことから生の中から「死」を垣間見させる。あるいは「死」というものから生きていることの無情さを見つめさせる。なかなか秀作であった。


評価
★★★


書誌
書名:蛍
著者:吉村 昭
ISBN:9784122015784
出版社:中央公論社 (1989/01/20 出版)中公文庫
版型:284p / 15cm / A6判
販売価:660円(税込)

2010年10月13日

吉村昭著『海馬』

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 続いて吉村さんの古い文庫本を読む。今回も“生き物小説”である。「闇にひらめく」(鰻)、「研がれた角」(闘牛)、「蛍の舞い」(蛍)、「鴨」(鴨)、「銃を置く」(羆)、「凍った眼」(錦鯉)、「海馬」(トド)の短篇7編である。書名の横のかっこはその短篇が扱っている生き物である。
 やっぱりこうして生き物を扱うのを生業として人たちは、私たち一般人からすると、どこか異質なところを感じてしまう。一つにはこうした生き物を扱うに当たり、それに特化した知識と経験が必要であること。そして黙々とそれらに接していく姿勢を求められること。だからこそ人間が世間離れしたしたところがあること、などどこか一線を画すところを感じる。
 相手が“自然”なので、普段我々がある程度結果を予想して行動できるのとは違い、その“自然”に任せざるを得ないところがある。でもどうなんだろう?たとえば我々が思ったような結果が出ないことでイラつき、右往左往することが、果たして生き物として生き物らしいのだろうか、と思う。しかし自然を、生き物を相手にすれば、どうにもならないことはどうにもならないのがごく自然であり、それに任して対応していかないとならないものではないだろうか。人は何でも分かったように取り仕切っているけれど、本来思うようにならないものであると自覚すべきじゃないかと思ったりする。むしろそうした生き物や自然を相手にしている人たちは、そういう部分では諦めに似た鷹揚さがあるように思えてならない。
 さらに人間の傲慢さは自分の生死を左右しかねないこともよく知っており、結果を先取りして奪い合うことなどしない。なるようにしかならない、ということだ。

 今回も前回の作品集同様、登場人物が訳あって、生き物を扱う職業を生業としているが、それが自分に向いている職業であると自覚していく。時にそれは自分はこんな人間だから、こうして生き物と向き合うことで、社会からの隔離を自ら課している感じがする。黙々と仕事をするのは、自分の過去に禍根と後悔があるからであり、半ば諦めに似た気持ちで仕事に没頭していく。だから余計なことは一切言わない。仕事以外で人と接する時は寡黙である。むしろ人と接することを避けていく感じだ。
 ただ前回の作品集と今回の作品集の違いは主人公たちの“再生”があるところだ。仕事は仕事だけれど、人として人らしく生きていこうとする可能性がここでは描かれている。ここではそうした男たちが主人公なのだが、そこにやはり訳ありの女性が現れて、一緒にやっていこうかという気持になっていく展開である。
 男も性格柄、あるいは暗い過去から、鰻を捕り、闘牛を飼い、蛍を養殖し、鴨撃ちをし、羆を撃ち、トドを撃つ。そこに身内を亡くした首に痣があるため婚期を逃した女性。夫となるべき男の浮気現場に遭遇してしまい、縁談を破談にした女性。母親を亡くし、悲しみうちひしがれているときに自分の父親が伯母と性交している場面を目撃してしまい、憤りと悲しみを覚え自殺を図ろうした女性。東京に夢と希望を抱き、無惨に夢破れ、故郷に帰ってきて、家に入れてもらえない女性。そういう女性たちが男たちの近くに来て、男たちがそれらの女性と再生したいと思うようになるパターンである。
 話として陳腐さを感じないわけでもないが、自然や生き物を相手にしている男たちだけに、男たちも素朴である。あるいは男たちの暗い過去が、現れた女たちに躊躇しながらひかれていく姿が、淡々と描かれていて、ガツガツしていない分、素朴でいいな、と思えた。
 女性たちも自らの立場をわきまえているから、ひたすら待っている感じがいい。話はすべて再生を予感させるところで終わるので、逆に読む側にやり直してもらいたいな、という気持ちにさせる。
 やっぱり人の再生物語はいい。今度こそうまくいって欲しいという気持ちにさせてくれる分、読む方はやさしい気分にさせてくれる。陳腐と分かっていてもついつい気持ちが話にのめり込んでしまった。私は単純にできているので、こういう話に弱いところがある。
 
 まずいな・・・。


評価
★★★


書誌
書名:海馬
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117300
出版社:新潮社 (1992/06/25 出版)新潮文庫
版型:259p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2010年10月11日

吉村昭著『羆』

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 以前どこかで書いたような気がするが、吉村昭さんの小説は大まかに“戦記物”、“歴史小説”、“フィクション”と分かれる。もちろん分けたからどうこういうもんじゃない。ただ私は吉村さんの小説は“歴史小説”しか読んできてない。どうも戦記物は好みじゃないので、おそらく今後も読まないような気がするが、普通の小説は読んでみたいなと思っていた。
 で、今回“動物小説”といわれるものを読んでみた。これは「羆」、「蘭鋳」、「軍鶏」、「鳩」、「ハタハタ」の短篇5篇が収められている。ハタハタを動物とくくっちゃうのはどうかな、と思えるし、この後読んでいる同系の小説も“動物小説”といっているが、そこには魚や虫などを扱った小説なので、やっぱり“生き物小説”と変えた方がいいような気がする。まぁどうでもいいことかもしれないが・・・・。
 さて、今回小説にはある程度共通項がある。一つはここの登場する人物たちが、人生の落伍者に近い存在であること。だからこそなのかもしれないが、その人たちが生き物に接する接し方が異常に近いことである。そこにしか生きがいを見出せないようなところがある。
 そしてもう一つがその生き物たちが、人間の都合によって奇形に変えられた生き物であることである。それを「蘭鋳」の記述に見ることができる。

 蘭鋳は、鑑賞という目的だけのために人工的な交配をくり返されてきた。頭部には、獅子ガシラのような浮肉が異常なほどの大きさで盛り上がり、背鰭はない。それは一種の奇形であり、泳ぐ機能にも欠け、肥えた体をくねらせ背鰭をひらめかせて動きまわるにすぎない。が、そのおぼつかない動きに妖しい色気が感じられ、いったん魅せられた者の眼には、気品のある麗魚として映るのだ。
 金剛(主人公が飼う銘品の蘭鋳の名)の逆立ちした姿は、蘭鋳が魚として奇形であることをしめすものであった。老いが、辛うじて保っていた体の均衡を支えることができなくなったにちがいなかった。重い頭が水底に垂れさがり衣の裾のような尾が浮きあがるのは自然であり、背鰭のない金剛の体は水平に体を維持することができなくなったのだ。

 「羆」は殺された母親についていた小熊を、お土産店の見せ物ととして首輪をつけて飼っていたのが、成長して野生を取り戻したことで、主人公の妻を殺してしまう。主人公は復讐のために、また山には入り、その羆を追うはめになる話である。
 「軍鶏」のしても、闘鶏のため、鋭く爪を研がれる。もちろん血筋もものを言う。「鳩」にしても、伝書鳩レースに勝つために、能力のない鳩は首を折って間引く。すべてが人間の都合によって変えられた姿なのである。
 読んでいてそうした奇形の生き物は、どこか病的であるが、だからこそ妖艶な雰囲気を漂わせる。そしてそれに魅了された人物たちはその人生において何らかの問題を抱え、人の社会でまともに生きられないところが、その妖艶さと相まって異様な世界を醸し出す。
 そういう意味では「ハタハタ」はこれ以外の短篇とは異質である。ハタハタが港にやってくるかどうかで、漁師たちの一年間の生活を左右する出来事であった。しかしハタハタはどこの湾にもやってくるわけじゃない。ハタハタはただ一つの湾をめざす。そのためハタハタに選ばれた湾は豊漁に賑わうが、他の湾の漁村は飢えにおびえ出稼ぎに出なければならなくなる。だから漁師たちは自分たちの湾にハタハタがやってくるかどうか、その到来を不安と期待で待ち続ける。しかしそれはオールオアナッシングだから、厳しい。
 そこにハタハタがやってきた。ところがハタハタを取るために悪天候の中で網を入れた漁師の舟が転覆し、漁師たちが行方不明となった。湾の漁師たちは行方不明の仲間を捜すべきか、それともやっとやってきたハタハタの漁を開始すべきか、身動きができなくなったところへ、行方不明となった漁師の身重の妻が漁を始めてくれと他の漁師たちに言う。そうなったら漁の活気に満たされる。行方不明となった漁師たちの身内は、その喧騒の外に置かれてしまう。ここも厳しい。

 いずれにせよ、ここに収められた短篇には、私はそれぞれ魅了されてしまった。個人的には「蘭鋳」が一番よかったかな。それは話の構成もうまくできているし、また“懐かしさ”もあったからだ。
 私の子供の頃、友達の父親が蘭鋳を飼っていた。木箱にビニールをかぶせて、いくつも浅い水槽を作り、そこに何匹も蘭鋳が泳いでいたのを思い出したのである。不格好なのだが、一方で妙にきれいな金魚として子供の眼には映った。思えばあのオヤジも世捨て人のような雰囲気を出していたような気がする。
 私が住んでいるところは金魚の名産として東京では有名なところで、金魚の養魚場がいくつかあった。そのため町会でよく近所にある用水路で雑魚みたいな金魚放流し、それを子供たちにすくわせる金魚すくい大会が年に何度か行われていた。私はそれに参加し、どうでもいいような金魚を飼っていたことがある。
 友達父親が飼っていた蘭中と雲泥の差のものだが、水槽に入れ、空気をポンプで送り、小石や水草をその養魚場で飼ってきて、中に入れていた。餌には、朝か夕方に赤く群れなすミジンコを、母親のはき古したストッキングを網にして取りに行ったものだ。この「蘭鋳」に餌にミジンコを取りに行く記述を読んで、思わず懐かしくなってしまった。そもそもミジンコなんていう名前さえ記憶の中に消えていたので、思わず「おお!」と言ってしまったくらいだ。
 もう一冊この本の続編みたいな短編を続いて読んでいるが、結構楽しましてもらっている。吉村さんの短編もいいものがあることを知っただけでも収穫であり、またファンになっていく。


評価
★★★★


書誌
書名:羆
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117195
出版社:新潮社 (1985/07 出版)新潮文庫
版型:268p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年10月01日

山口瞳著『世相講談』 上 下

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 確かあったはずだと自分の本棚を探した。やっぱりあった。もうかなり本が焼けている。この文庫は昭和47年が初版で、私が持っているこの文庫は昭和54年の9刷である。それでも今から31年前になる。表紙やページが赤茶けた感じになっても当たり前だ。このブログに画像アップするためこの文庫をスキャンしたのだが、カバーがわずかだが寸足らずになっている。最初からそうだったのか。それとも31年という年月のためカバーが縮んでしまったのか。とにかく年代物の文庫を読み始めた。書誌を作るため紀伊国屋書店のサイトで検索するが、当然見あたらない。ただ最近論創社から復刻版みたいな形で上下本として出ている。後で沢木耕太郎さんの言葉を書き出すが、それによると、どうやらこの『世相講談』は全部で3巻出ていたようだ。余計なことだが、私は最初の単行本を持っている。どこの古本屋さんだか忘れたが、かなり痛んでいる本を買っている。裏表紙に100円と鉛筆で書いてあるところみると、どうやら店の均一本コーナーで見つけたのだろう。イラストも最近テレビ放映されているアンクルトリスの柳原良平さんだ。


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 で、この『世相講談』だが、先に読んだ山口瞳さんの対談集の中で、沢木耕太郎さんが次のように言っているのが印象深かったので、それで手に取ってみたわけだ。

 あれは全部で四年強で、単行本で三冊ですよね。あそこでとても印象的なのは、一つ一つの扱っている素材もそうなんですけれども、いろいろ文章のスタイルの実験というか、工夫というか、一個一個違えて一生懸命やってらしたような気がするんですよね。

 僕は、ルポルタージュを書き始めた時に、ある編集者の人から読むのを勧められた本が二冊あって、まだ二十三くらいの時だったと思うんですけど、一つは、坂口安吾の将棋のことを書いた「散る日本」と、もう一つは山口さんの「世相講談」の一巻だったんです。
 まだ何をどういうふうに書いたらいいのか分からなかった時だったら、その二つは密かなる教科書になったんです。

 「世相講談」は、こんなことでも、物をちゃんと見ようと思えば、大事な話になるというのが意外だったんですよ。

 どうやらこの『世相講談』は沢木さんにとって、ノンフィクション作家としてスタートするに当たり、バイブルの一冊だったようだ。そして実際読んでみると沢木さんの言うことは納得できる。

 この『世相講談』は昭和40年から44年まで連載されたものである。戦後20年たった頃の日本の姿といっていいかもしれない。高度成長期に入った頃か。ただここに登場する人物たちはその波に乗り損ねた人々を扱っている。
 そのためここに登場する人たちは、マルクス主義経済学風に言えば、社会を構成する“下部構造”に属する人たちである。だからいくら社会が高度成長期に入ったからといって、彼ら、彼女たちは一歩間違えれば、戦後に逆戻りしかねない危うさを持ち合わせている。ぎりぎりのところで踏ん張っている感じの人たちである。
 あるいは落剥してしまった人々である。この文庫本の解説者はここに登場する人物は「おおむね落剥の人生である」と言っている。落ちるか落ちないか、あるいは落ちてしまい、はげてしまった人たちの話にはその底にありのままの社会が見えてくるというものだ。 登場人物たちは、タクシー運転手、風呂屋、医者、芸妓、屑屋、ヌードダンサー、鳶、キャバレーホステス、バスガイド、競馬騎手、ファッションモデル、看護婦、活版屋、質屋、宝石セールスマン、舞妓、等々。その彼らの話を広告会社の社員で、副業で作家をやっていて、糖尿病を患っている主人公が聞く。まさしく山口瞳さんその人である。
 “講談”は巷談である。巷談とは、まちのうわさばなし。世間話である。社会のぎりぎりところで生きている彼らには、当時の日本の社会がそれほど豊かにはなっていないことを伝える。平凡であるが、所詮現代社会を生きる庶民の姿をそれぞれが短編小説風に仕上げているのである。
 その話の一つ一つには、どこか悲しみがつきまとっている。まぁ人生なんていつの時代もそんなもんなのかもしれない。一つ一つの話にはお酒がよく合う感じだ。酒の席で語られるのがふさわしい。

 「発車往来」でバスガイドが語られるが、バスガイドと運転手との関係が危うくなるのを会社が一番嫌っているというのは、笑ってしまった。バス旅行で運転手とバスガイドは二人になる機会が多く。時には一夜を一緒に過ごす場合だってある。こうなると二人の関係が問題となってくる。バス会社としてはこれはまずい。だから会社側は社員同士諜報員に仕立て、いつも見張らせているというのだ。
 ここでバスガイドが一番嫌う客はまず一番が高校生、二番目が学校の先生。三番目が警察・消防といった団体。最後が銀行員など接待ズレした奴だと書いてあるのも笑ってしまう。
 高校生はよく分かる。作者が言うように悪いのが多いからね。学校の先生は、酒はたらふく飲むわ、卑猥なヤジは飛ばすわ、旅館では女中の尻を追いかけるわで、いつも大変なんだそうだ。わかるような気がする。先生にしても、警察や消防にしても、銀行員は現実社会で鬱積したものがあるだろうから、こういう職種の人たちがはめを外したたら、一気に爆発するんだろうな。きっと。

 「親指の唄」ではパチンコ屋で知りあった客との会話が面白い。

 「だいたいが(パチンコ屋にいる客は)社交性のない男なんですよ。パチンコ屋で会う顔っていうのはわかっているんですがね。誰も話しかけたりしないんです。あたしなんぞは、パチンコやっていて、うしろを通る男に尻がふれても厭な気がしますからね」

 「あたしは、無口なんですよ。社交下手なんですよ。口をきくのが厭なんだ。あたしにはわかるんです。そういう連中がパチンコ屋に集まってくる。あんたがさっき言ったパチンコの魅力とか醍醐味ってのはそれなんですね、それだけですよ。ねえ、わかるでしょう。話しながら、あるいはワイワイ言いながらパチンコやるやつはいませんよ。みんな、だまっている」

 作者はここから日本人の社交下手がパチンコ屋が日本の至るところにある理由からではないかというのである。これはどうなんだろう。わかるようで、わからない。
 昔新大久保にあったお店を手伝っていた頃、お店を開ける準備をしていた時、向かいにあるパチンコ屋に開店前から列を成して並んでいる多くの人たちのことが目に浮かぶ。確かに彼らはだれ一人しゃべっていなかった。寒い時期だったから、ジャンバーの襟を立てて寒さをしのいでいた。この姿はまさに社交下手の集まりだったのかもしれない。

 今にしてみれば、この『世相講談』の職業名など古臭いところがあるけれど、当時は確かにそう言っていた。そして時代が45年たっても、日本人の生態はその当時となんら変わらない気がしてしまう。
 最後にちょっと面白い記述を見つけた。当時の吉永小百合のプロポーションである。
 
 「吉永小百合嬢は如何にと見てあれば、身長一米五十七糎、体重四十三瓩、バスト八十一糎、ウエスト五十六糎、ヒップ八十五糎ということになっております」

 ふ~ん。以外と・・・、なんですな。しかし当時の女優さんは自分の体重も公表していたんですね。


評価
★★★


書誌
書名:世相講談 上
著者:山口 瞳
ISBN:
出版社:角川書店(1972/08/30 出版) 角川文庫
版型:388p / 16cm / 文庫判
販売価:入手不可


書誌
書名:世相講談 下
著者:山口 瞳
ISBN:
出版社:角川書店(1972/08/30 出版) 角川文庫
版型:410p / 16cm / 文庫判
販売価:入手不可

ちなみに私が持っている単行本の書誌は以下の通り。

書誌
書名:世相講談
著者:山口 瞳
ISBN:
出版社:文藝春秋(1966/11/15 出版)
版型:251p / 19cm / B6判
販売価:380円(当時の値段)

2010年09月14日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈5〉

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 これで山口瞳さんの対談集は最後となる。こつこつと読んでいると、どこかいとおしくなってくるのが不思議だ。最初はもう一つ面白くないな、と読んでいたのが、ここまで来ると読んでいて気分が落ち着くのである。妙なものだ。
 さて、今回の対談相手は村松友視、田中真理、野坂昭如、丸谷才一、生江義男、古山高麗雄、木山捷平、矢口純・柳原良平、高橋義孝、パラオ・徳Q・スバル・都鳥・臥煙、吉行淳之介諸氏である。
 「『東京』もう一つの貌」で、村松友視さんは東京に残った昔ながら風景を次のように言っていたのは興味深い。

村松 そうでしょうね。でも逆に言いますと、変化がそれだけ激しいことが、変化の洗礼を受けないで生き残っている所のカルチャーショックを味わう上でものすごく効果的な役割を果たしている気がする。

 確かにそうだ。ものすごい勢いで変化している東京の中で、変化に取り残された町を歩けば、変わらないということが、逆に変わったということを鮮明にする。うまいことを言うものだと感心してしまう。その上で山口さんは東京という町を次のように言う。

山口 僕は、東京という町は、子供が砂場で遊んでいて、ここに川をつくって、ここに橋を架けて、トンネルをつくってお山をつくって、そういう所だと考えている。

 東京の中で行われる都市計画は子供の砂場の中で行われていることに例える言い方はわかりやすい。

 山口瞳さんは芥川賞を取って忙しくなった開高健さんの後釜に寿屋(現サントリー)に入社し、当時開高さんがやっていた広告雑誌「洋酒天国」の編集に携わる。この「洋酒天国」は当時トリス・バーに置かれていた。今で言うフリー・ペーパーである。ただしここでしか手に入らない。
 サントリーが出しているとはいえ、この「洋酒天国」は単純な広告雑誌ではなく、酒に関するあらゆること、更にそこから波及して森羅万象に渡って蘊蓄を披露した小雑誌であった。もちろん“あっちの方面”にも力を注ぎ、開高さん自ら晩年、“夜の岩波文庫”と称しているくらいだ。
 トリス・バーは当時一大ブームを呈した。この本の「ウイスキーあ・ら・かると」では、なぜウィスキーブームが起こったのかが書かれていて、トリス・ブームの下地は太平洋戦争にあったというのだ。その説明は面白い。

山口 戦争中、兵隊が広大な中国に散らばっており、日本酒じゃ瓶が大きいので輸送に難点がある。ウィスキーだと、その点は解決されるし、すごく効くし、うまいことがわかった。戦後、復員兵がその味をもって全国に散った。下地ができていたわけです。

山口 軍隊生活から農村出の若者が、ウィスキーの味を知った。それが、トリスの出回る頃、いいおっさんになっていた。収入も徐々に増えてきたし、実にラッキー。トリス・ブームといっても、決していきなりのものじゃない。下地があったんです。

 なるほどそういうことだったのか、と知る。日本酒からウィスキーに嗜好が変わった背景がそんなところにあったとは思わなかった。

 更に高橋義孝さんとの対談「礼儀作法とは己を虚しゅうすること」で高橋さんが人と話しているうちに、どこの大学を出ましたか、と話し始めることを、嫌なことだと言っているのが面白かった。そこで高橋さんは「わたしは東大出とか慶応出とかいいますけれど、学校って出るところじゃないと思うんです。そこにいて勉強するところで、それを日本じゃすぐ何大学出ということいいますね」と批判めいている。確かに一流大学に入るにはそれなりの学力がなければ入学など出来ない。それはよく分かる。けれど本来大学は勉強するところであるはずだと高橋さんは言っている訳だ。これがいつの対談なのかよく分からないが、その人が一流大学を出たということだけで、その人と接し方が変わってしまうのは今でもその姿勢は変わらない。学力より、大学の名前が優先される社会が日本にはある。

 さてこれで山口瞳さんの対談集全5巻を読み終えた。最初に書いた通り、最終巻になって、どこか山口さんの語り口がいい感じになって来てしまった。山口さんの日常におけるなにげないこだわりが、それがささいなことであっても、人と接する上で案外必要なことがあるのではないかと思えるようになって来た。対談の中で山口さんが語る一言一言にそれがちりばめられていたような気がする。ちょっとした気配りが潤滑剤となって人間関係をうまくいかせること知ったような気がするのである。
 次は山口さん名作と言われた『世相講談』を読んでみようか、と思っている。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈5〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010171
出版社:論創社 (2009/12/30 出版)
版型:325p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年08月24日

吉村昭著『ニコライ遭難』

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 ニコライはロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝である。


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 そのニコライが皇太子の時、日本にやってきた。この本はそのニコライが大津において、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した事件、大津事件を扱った本である。
 そもそもニコライが日本にやってくることになったのは、ロシアが建設に着手しようとしていたシベリア鉄道のウラジオストックとハバロフスク間の起工式に、父であるアレキサンダー三世の名代として臨席するためであった。その途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本も訪れ、そこからウラジオストックに赴く予定となっていた。
 そんなニコライの世界巡航計画が内定したことを知った明治政府は、ニコライを招請し日本に来てもらうことを考えた。そこには明治政府にあったロシアに対する危機感から、ロシアと友好関係を持てれば日本の将来にとっても有効であると判断したからである。
 当時ロシアは全世界の六分の一の領土を保有し、陸、海軍力とも世界屈指の強力なもので、ことに陸軍は世界一と称されていた。維新後わずか二十年余年しかたたぬ日本は、ロシアが武力行使にでも出ればたちまち圧伏させられる。まして昔から極東地域で不凍港を持たなかったロシアは古くから南進の姿勢を示し、朝鮮、日本をうかがう気配が濃かっていた。そこにシベリア鉄道敷設は、ロシアが侵略による極東政策を実行に移すものと考えられ、危機感がつのっていたのである。
 皇太子ニコライはいずれロシア皇帝になる。ならばここで日本に好感を抱かせ、最上級の歓待で迎え、国賓として歓迎する意味は大いにある。
 そして明治24年4月27日ニコライは長崎に着く。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王が任命された。
 ニコライは正式に日本に上陸する前に、お忍びで何度も長崎に上陸し、ロシア人相手の遊郭に行ったり、腕に入れ墨をしてもらったりしている。買い物も日本固有のものを多く買い入れている。
 その後ニコライは鹿児島に向かった。ここで面白いのは“西郷隆盛生存説”である。こんな説があったなんて知らなかった。西郷隆盛は西南戦争で敗れ、自刃したが、西郷が生存しているという説は、西南戦争終了後も、折に触れて蒸し返されていた。インドの一島に潜伏しているとか、シベリアで兵士を訓練している西郷と会ったという人物もいたというのがあって、西郷生存説となっていたらしい。そこに本来なら皇太子ニコライが直接東京に来るのが自然なのに、行く必要もない鹿児島をわざわざ訪れるのは、ニコライらが西郷を連れてきているのではないかという話になったという。
 もちろん何事もなく、ニコライは鹿児島を離れ、その後神戸へ向かった。そして京都に着く。ニコライは終始日本に対して好意的であったし、日本の風習を重んじた行動をとっていた。そのため、迎えた日本人もニコライに対して好感を持っていた。
 そして同年5月11日に琵琶湖遊覧から京都に戻る際、大津で事件が起こる。以下本文記述である。

 皇太子の人力車が下小唐崎の町並の道に入った。
 両側にひしめく人々は頭をさげ、所々に立つ巡査は挙手の礼をする。皇太子は、吊り看板などのさがった店に視線を走らせながら車に体をゆらせていた。
 道の右手にある下小唐崎五番地の津田岩次郎宅の入口の前にも巡査が立ち、皇太子の車が車輪の音を鳴らせて近づいてゆくと、姿勢を正して敬礼した。
 皇太子の車がその前を通り過ぎようとした時、挙手の手をおろした巡査が、急にサーベルをひきぬき、進む人力車の右側一尺(三十センチ強)ほどに走り寄った。
 刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が鼠色に山高帽をかぶった皇太子ニコライの頭に打ちおろされた。
 その衝撃で帽子が飛んだが、皇太子は前をむいたままで、巡査は声を発しなかったので梶棒をとっている車夫の西岡太郎吉二十七歳も気づかず、変わらぬ歩度で車をひいてゆく。
 気づいたのは、車の右側後部を押していた車夫の和田彦五郎二十五歳であった。和田は茫然としながらも、後押しをやめて巡査に駆け寄り、右手で巡査の左脇腹を強く突いた。
 巡査はよろめいたが、再びサーベールをふりあげて皇太子に近づいた。その時、初めて皇太子は巡査の方に顔をむけた。巡査は、無帽の皇太子の頭に再びサーベールをたたきつけた。
 立ちあがった皇太子が叫び声をあげ、その声にふりむいた梶棒をとる車夫の西岡が、異変が起きたことにようやく気がつき、職業上の習性ですぐ足をとめると、梶棒をおろした。
 皇太子は、巡査とは反対側の路面にとびおり、頭を両手でおさえ、あ-、あ-と叫んで前方に走った。巡査はサーベールを手に追ってゆく。
 その出来事を初めから眼にしていたのは、皇太子の車の後方を進む人力車に乗っていたジョージ親王であった。巡査が傷ついた皇太子を追うのを見たジョージ親王は立ち上がり、それに気づいた車夫藤川角次郎二十五歳が梶棒をおろした。
 路上に飛び降りたジョージ親王が巡査にむかって走ると同時に、皇太子の車の左後部を押していた車夫向畑治三郎三十八歳がジョージ親王と肩をならべて走った。その後から、車夫の西岡、和田、それにつづいてジョージ親王の車を後押ししていた北賀市市太郎三十三歳と安田鉄次郎三十歳が駈けた。
 ジョージ親王が巡査に追いつき、手にした竹杖で巡査の後頭部をはげしくたたいた。その杖は、親王が県庁内の物産陳列所で買いあげた栗太郡草津村の木村熊次郎出品のものであった。
 それと同時に、向畑が巡査の腰にしがみつき、両足をかかえると勢いよく後ろへひいた。そのため巡査は前のめり倒れ、制帽が飛んだ。巡査がつかんでいたサーベールが、手からはなれ路上に投げ出された。
 向畑につづいて北賀市が、そのサーベールを拾うと、倒れた巡査に背部にふりおろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。

 巡査の名前は津田三蔵である。津田はこの後取り押さえられる。


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 ニコライは右側頭部に9センチ近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。これが大津事件であった。しかしロシア皇太子が殺害されようとしたのである。当然これは大きな外交問題となって、国際問題となりかねない事件であった。この後明治政府の対応は大変であった。俗っぽい言葉で言えば、国力も軍事力もない日本がロシアに攻めてこられたら、ひとたまりもない。だから仲良くしましょうよ、と言ってわざわざ国賓待遇で招いてのにもかかわらず、警備する巡査が凶行に及んだ。戦争になっておかしくないし、賠償問題として、莫大な金額を要求されてもおかしくない。それこそ日本のどこかをよこせと言われかねない。天皇をはじめ、皇族から政府要人、民間からも誠意を示すためお見舞いに向かう。

 「明治維新以来、政府のみならず国民も、欧米の先進国にならうことを願い、努力をかさねてきた。文明開化という言葉はすでにすたれていたが、文明を重んじる国と見られることを悲願としていた。そうした努力にもかかわらず、国賓としてまねいた皇太子ニコライを警備担当の巡査が斬りつけたことは、欧米諸国に日本は野蛮国として印象づけることになる。そのような行為をおかした者がいたことは、日本人として恥しく、見舞いをすることによって、欧米人の印象を好ましい方向にみちびこうとする気持ちがあった」

 日本が欧米なみの文明国となっていないと、政府悲願の不平等条約の改正などももちろん出来ない。このままニコライが気分を害して日本を去られては大変なことである。天皇や政府は当初の予定通り東京にニコライが来てもらわないならなかったが、最終的にはニコライは母国の指示でそのまま日本を後にした。幸いニコライはそれまでしてくれた自分への好意をうれしく思っていたし、ロシアも賠償問題などにも及ばなかった。

 ところで津田三蔵はどうしてこういう凶行に及んだのか。津田はロシアが日本に対して強圧な態度をとっていることに不快を感じていたとも言われている。
 ニコライは来日に当たりまず天皇のいる東京に来て、天皇に挨拶をするのが礼儀なのに、長崎、鹿児島、京都、滋賀をへて東京に行くのは、日本の国情を調べるためではないか。いずれは日本を侵略する意思があるのではないか。天皇は最大級の歓待を指示しているのに、ニコライはその好意を感謝していない。むしろ蔑んでいるのではないか。その驕慢さは許し難いと考えていたとも言う。
 あるいはニコライは西郷を連れて来ている。西郷が日本に戻れば、また西郷が政治の頂点に立ち、津田自身西南戦争で軍功を立てたことが、逆に粛清され、勲章を取り上げられるからだと言ったとも言う。
 ただ詳しい、正確な動機ははっきりしていないようだ。日本政府としては津田が精神を病んでいたこともあったので、そうした事情から凶行に及んだとなってくれれば一番有り難かった。
 とにかくロシア政府に対してはかなりの気の使いようであった。その中で犯人の津田の処分が問題となる。政府としては津田は極刑にしてロシアにそれを示したかった。そのため、政府は津田の裁判に介入してくる。津田をどんな罪状で裁くかである。政府は刑法百十六条(皇室罪)を適用し、津田を死刑にしようとした。刑法百十六条とは天皇、三皇(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子に危害を与えた場合、死刑に処すというものである。それを拡大解釈して皇太子ニコライも日本の皇太子と同一に扱い、それを適用することで、津田を死刑にし、ロシアに一つの誠意として示そうとした。しかし司法の大審院はそれを外国の皇族にも適用することは不当であり、今回の事件は、普通人に対して危害を加えたと解釈すべきであり、普通殺傷罪の未遂犯として扱うのが正しいと政府の意見を拒否する。
 面白いのは当時の政府は薩長閥で成り立っており、維新に功績のあったその他の藩は冷遇されていた。だから非薩長閥で構成されていた司法側は断固として政府の強引な司法介入を拒否続けた。これは江藤新平の意識と共通する。そして法律上、たとえニコライが皇太子であっても、あくまでもロシアの皇太子であって、日本の皇族ではない。だからどんなことがあっても日本の皇室罪は適用できないのが正しい。政府は司法の判断に対して、それではロシアと戦争になると脅したりして、何とかしようと介入したが、津田は無期刑に処され、釧路集治監収監される。しかし同年(明治24年)9月29日急性肺炎で獄中で病死した。

 私は大津事件としてニコライ二世が襲われたことは当然知っていたが、その後の経緯はこの本で知ったことが多い。特に政府と司法との間で津田の処遇をどうすべきか、多くの意見が戦わされた経緯は興味深い。明治政府が出来てわずか二十数年である。国として体面はあっても実力と内容が整っていない頃の事件である。だからロシアに気を使う政府の姿勢はわからないことはない。けれどそれを押し通したら、国としての体面が逆に潰れていた可能性があった。特に強引な皇室罪の適用は、文明国を目指していた日本をそういう国ではないと後年思われかねない。それを阻止した非薩長閥の存在があったからであった。非薩長閥は単に政府の薩長閥に対して不満を持っていただけのことかもしれないが、結果それが良かったことになるのは皮肉な話でもある。私はニコライの動向や津田が何故犯行に及んだかよりも、事件後津田を巡る政府と司法側の意見の戦いの方が面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:ニコライ遭難
著者:吉村 昭
ISBN:9784000017008
出版社:岩波書店 (1993/09/06 出版)
版型:359p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年08月20日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈4〉

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 また山口瞳さんの対談集に戻る。このシリーズはこの巻を含めてあと二冊であるから、頑張って読んでしまおうと思っていたのだが、実はこの本を読んでいる時、夏バテと夏風邪でヘトヘトなってしまい、途中で投げ出してしまった。やっと身体の状態が回復したのでまた手にとって読み出したが、どうも前半は忘れてしまっているので、後半気になった部分のことを書く。
 とりあえず今回の山口さんの対談相手は、團伊玖磨、近藤日出造・杉浦幸雄、高橋義孝、永井龍男、嵐山光三郎、吉行淳之介、矢口純・井上ひさし、丸谷才一、諸井薫、藤原審爾・鳴瀬速夫、串田孫一、伊丹十三、大原麗子、田村隆一、矢野誠一の面々である。
 例によって対談相手が作家仲間だけでなく、多方面に渡っている。これは山口さんの多趣味から、そうした人脈が出来ていることの証明でもあろう。その中で高橋義孝さん、丸谷才一さん、田村隆一さんとの対談内容にちょっとひかれた。
 高橋義孝さんとの対談は「子どもも学生もぶん殴れ」という題がついていて、その中で高橋さんが言っていることが至極真っ当な
ことなので書いてみる。

山口 帰るときに、「さようなら」といいますね。わたしどもは「お先に失礼します」といったけれど。何か対等であることを主張している感じがありますね。そういうのがいいのかもしれないけれど。

高橋 対等じゃないですよ、ちっとも。同じ人間だろう、対等だろうなんて、生物学的にはそうでしょう。社会学的には違いますよ。だからデモクラシーなんてダメです、ぶっこわしたほうがいい。(笑)・・・まあ対等もいいですよ。でも低いところに対等を持ってきちゃう。いいものを下げちゃう。それで平気だ。そういうわけでしょう。進歩も発展もないじゃないですか。戦後の学校教育は全部そうです。ものを知らない野郎にレヴェルを合わしちゃうでしょう。こっちへ来いじゃなくて、一寸お待ち下さい、そちらへ降りて参りますから、なんです。

 この対談は1970年に行われているが、この当時もこんなことが言われていたんだなと思ってしまう。いや多分もっと昔から見識のある人たちの間ではそう思われていたんじゃないかと思う。そしてそのままズルズルきてしまい、今の日本の学力、科学など低レベルに陥ってしまったのではないかと思ってしまう。対等とか平等だとかいうものをはき違えると、とんでもないことになることを今の私たちは身にしみて感じられるはずだ。

 丸谷才一さんとの対談では「東京を語る」となっていて、その中で面白かったのは、「よそ者を許せる町-東京の生命力」と「山の手文化の正体」であった。
 「よそ者を許せる町-東京の生命力」でお二人は次のように言っているのは“なるほど”と頷ける。

山口 僕が東京を面白いと思うのはね、藤圭子という歌手が「ここは東京嘘の町」と歌ったでしょう。これを大阪でやれるかといったら、やれないと思うんだ。その歌、ある程度ヒットしたんです。つまり「ここは東京嘘の町」に、みんなが喜んだわけですよ。これをたとえば広島なんかでやったら、藤圭子は袋叩きにあいますよ。それが東京という町の面白いところじゃないですか。

丸谷 そうそう。僕はだいたい町の文化程度というのは、プロ野球の場合、その町がフランチャイズでないチーム、つまりビジター・チームをどれだけ大っぴらに応援出来るかどうかということでわかると思うんです。

山口 広島が優勝した時、「広島優勝祝賀会」というのが東京のほうぼうでありましたけれど、広島で「ジャイアンツ優勝祝賀会」というのは出来ないですよね。

丸谷 他人を許す度合いが強いというのは高級な町ですね。東京は、東京者でない人間を許す度合いが非常に強い。それが東京という町の生命力なんじゃないかしら。

 これはある意味東京にいる人間が様々な地域から来て成り立っている町であり、その数がそれなりにまとまるからそういうことが可能なのだろうと思える。そしてそうしたことがお互い許せ、東京の生命力となっている、というのがお二人の意見である。
 まあ多様性を無意識に認めているだけのことで、むしろ他者が関心がないだけのことで、だからいいんじゃないのといった程度の問題のような気がする。そうした多様性の存在を無意識であれ認めていることが、生命力ともなり得るとも言えるから、お二人の意見はある程度妥当性を得ているのだろう。

 「山の手文化の正体」では、

山口 僕は、地方都市から出てきた人のほうが流行に敏感だと思うんです。東京の人って、たとえば串田孫一さんのようにデパートの吊しぼうを買ってきてね、それが擦り切れるまで着ているんです。で、だめになると、また吊しぼうを買う。
    僕はダンディで洒落ているなと思うんだけれど、地方から出てきた人はそうは思わないね。いきなりダンヒルを買う。それで百円ライターを持っている人をいくらか軽蔑したような顔で見る。もちろん全部じゃないけど、そういう傾向があるんじゃないですか?

丸谷 それは、山の手文化というものがそういうふうにして出来たものだからだと思うんですね。つまり、山の手文化の中心になった人たちは東京帝国大学の教授たちだとしますね。彼らは、たとえば福島県とか佐賀県とかから出てきて、東京帝国大学を卒業するとすぐロンドンとかベルリンに留学する。そこで生活様式を学んで、佐賀や福島と、ベルリンやロンドンがくっついた生活様式を作った。それが山の手文化だと思うんです。だから山の手文化というのは、地方文化プラス西洋で、本当は東京じゃないんですよ。

山口 本当の東京は、ダウンタウンにわずかに残っているだけなんですね。

丸谷 つまり江戸抜きの東京を作ったのが山の手文化でしょう。

 この考えは面白いし、妙に納得してしまう。

 田村隆一との対談では、「死者のないところに文化はない」と題しているところで、「言葉」の存在感をいう件がある。

山口 いわゆる“内向の世代”の人たちの小説を読むと、舌を巻くほど巧いんで、感心するんですけど、読後五分ぐらいすると、それが一体どうなんだと言いたくなっちゃうんです。

田村 あれは不思議だな。もちろん文学ですから言葉が核をなすんだけれど、結局そういう人は言葉によって救われるという体験がないんじゃないの。言葉を駆使する能力とか、言葉に対するテクニックは訓練によって非常に発達しているけれど、言葉につまずいたり、救われたりという経験が、割合なくなって来ているんじゃないかと思うんです。それは個人だけの問題じゃなくて、状況の問題もありますけどね。実際、昔の人は言葉につまずくんだよ。死んでも言えないという言葉がある。口にしてはいけない言葉がある。それは個人個人がみんな心の底に持っている言葉なんだ。そうなると、言葉は単なる記号じゃなくなり、全人格を支配するようになる。それはもうパワーなんですね。もし言葉を単なる記号として考え、その効果を計算し、小説や詩を構成しようと思ったら、それはいろんなテクニックがあると思う。しかし、言葉で何らかの世界を創造しようと思ったら、言葉につまずいたか、救済されたかという体験がないと、モチーフは成り立たないと思うんです。いまはそういう言葉に傷つくということがないんかないかな。

田村 そこがある意味では救いだと思いますね。確かに祖父たちの時代に較べれば、言葉は乱れているでしょうが、それは順繰りですからね。問題は、言葉に傷ついたり、救われたりという人間的な体験が、文化の底になかったら、どんな言語になったとしても、仕様がないということでしょう。言葉と人間とがそういう関係で結ばれいないのなら、詩や小説もコンピューターで作ればいい。一つのシチュエーションと多少のセンスがあれば、それで出来るんです。日本で詩人が激増したしたことがある。詩人というのはコピーライターでしょう。(笑)だから、これは電通と博報堂のお陰なんですよ(笑)自称他称を含めて一万五千人ぐらいいる。

 さすが詩人である田村さんの言葉である。山口さんも言葉に対しては敏感な人で、この対談集の中で、何度か絶対に使いたくない言葉があるといっている。そのことは我々が普段何気なく使っている言葉なのだが、山口さん自身は絶対に使えないと言う。山口さんは一つの言葉に対して好き嫌いがはっきりしている人だから、そのことにこだわる。
 でも、田村さんが言わんとすることはよく分かる。私たちは言葉を記号として表現の対象としているところがあるが、言葉自体人を傷つけ、あるいは人を殺す力がある。そして逆に一つの言葉で救われることもある。つまり本来記号以上の重みがそこにはあるのだ。しかし最近はそれが伝わってこない文章が多いということなのだろう。そんな言葉の重みと責任を持って使われた小説や詩はやはりそこから滲み出てくる“何か”が違う。あるいは会話の中で発せられた言葉が、単にものを表現しただけのものじゃないということがわかった時、ハッとすることがあるが、多分その時は言葉の裏にある重みと責任を感じた時じゃないだろうかと思う。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈4〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010164
出版社:論創社 (2009/11/30 出版)
版型:318p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年08月03日

吉村昭著『白い道』

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 先日隅田川花火大会をテレビで見た。実は我が家は昨年地デジ対策を施し、それに伴いテレビもデジタルハイビジョンに替えたので、この花火大会の映像が今までのアナログテレビよりきれいに見えるんじゃないかなと期待していたのである。確かにきれいななんだろうなと思えたが、期待したほどではなかった。やっぱりテレビの画面サイズがものういうようで、この程度じゃ期待するほど感動は得られないようである。ただ音の方が鮮明であったような気がする。花火が打ち上がる音がはっきり聞こえたし、花火が開いた時の音も結構臨場感があった。要するに花火は実際に見た方がいいようだ。
 その隅田川である。テレビでは花火の美しさと、川面に映る花火も捨てがいたことを言っていた。確かに川で打ち上がる花火は風情があっていいなと思ったが、一方この川では悲惨な光景もあったんだなと、ちょうどこの本を読んでいたので思った。

 「三月十日の夜間空襲で下町一帯が焼きはらわれた後、隅田川には窒息死して流れ出た多くの死体が見られた。私は、尾竹橋の上を自転車で渡る時、半ば習慣のように川面を見下した。数人の通行人が欄干にもたれているのが常で、露出したわずかな洲を中心に多くの死体が橋下に寄り集まっているのをながめていた。
 見慣れた死体もあって、私は死体の中からそれを眼で探し出す。それは、日がたつにつれて黒ずみ、汚れていった。通行人はしばらくすると無言で欄干をはなれ、私も自転車のサドルにまたがる。妙に静かな時間であり、静かな情景であった。それは決して特異な情景ではなく、私の視覚に物憂くふくれるだけのものにすぎなかった」

 「昭和二十年月十日の夜、東京の下町一帯が夜間空襲で焼けました。それからまもなく、隅田川の橋の上を自転車で通るたびに、尾竹橋の欄干から川面を見下ろすのが私の習慣となりました。私だけでなく、五、六人の人が同様に川面を見ています。下には水死体が浮かんでいます。空襲で下町の人が火に追われ、熱いので川に入る。燃焼のため酸欠になって失神して水死した。川に浮かんでいるのはこうして死んだ人なのです。
 酸欠のために死んだので、焼けておらずきれいです。このような水死体は付着力があるのか三十から四十体がくっついて、あたかも筏のようになっています。手提金庫を背負った中年の男とか、若い女の人とか、若い女はなぜかうつぶせになっている。子供をおぶった婦人などが、みなおしりを上にして浮いている。私だけでなく橋の上を通る人はみんなそれを見ています。
 しかし、その死体の群は川の一つの風物のようにしか感じられない。気の毒だとか、無残だとかいう感情は一切ないのです。無感動というか、無感情に風物の一つとして見ていたのです。これは私だけではなく、川を見おろしている人がすべてそうでした。そしてその風景を見あきると離れていきました。こうした光景に対して何の感慨もない。戦争の時代というのは、死に対して無感覚になっていたと思います。いろいろな死体を見ましたからそうなっていたと思います」

 似たような光景を読んだことがあった。それは戦争ではなく、関東大震災の時の話である。田山花袋の『東京震災記』にも川面をうめた死体のおびただしい数が記述されていたはずだ。この川は下町の風情には欠かすことの出来ないものであろうが、一方で震災や戦災において、多くの死体を浮かべた川でもあったんだと思ったのである。

 吉村昭さんの死後、数冊の単行本未収録のエッセイが各社から出版され、ある程度時間がたったので、もうこれ以上こんな本は出ないだろうと思っていたら、本屋の新刊棚でこの本を見つけてしまった。ファンとしては読まないわけにはいかないので手にする。
 この本では吉村さんが書く素材をノンフィクションから戦史小説へと変え、そして歴史小説に変えていった理由が書かれている。吉村さんは小説家としてデビューしていわゆる私小説や虚構小説を書いていた。そして戦史小説を書くに至った理由が、自身が体験した戦争の姿を見つめ直すことにもなったからだという。吉村さん自身は実際戦争に行った経験はない。ただ戦争の被害者としての体験はある。たとえばこの隅田川の光景もそうである。
 吉村さんは戦争は罪悪とは思っていなかったし、何となく雄々しいもの、華々しいものと感じていたと書いている。ある程度高揚感の中で、戦争を身近に感じていたようだ。だから終戦を聞いた時、異質なものを感じた。もともと「戦争が終わるということは勝つことだと思いこんでいましたから、戦局が悪化してくると終戦はずっと先になるなと思っていました。日本がまた盛り返して勝つまでには相当な時間がかかる、そういう重苦しい感じを持っていたんです。当時、私は戦争が罪悪だと思ってなかったから、平和が訪れたということの意味も本当ににはわからなかったのです」と書いている。
 要するに戦局は厳しいけれど、戦争には日本が勝つと思いこんでいた。いやおそらくそう思いこまされていたというべきなんだろう。そうでなければならないと思っていたのだ。もともとこの戦争は軍部の暴走がそうさせたところがあるにせよ、それを暗黙のうちに支持した国民の感情があったことが問題なのだ。
 ところが終戦を境に新聞などの論調ががらりと変わる。それまでは戦意高揚を煽っていた新聞が戦争を批判し始めるのである。吉村さんはそれに戸惑いを感じたという。だろうな。だって吉村さんはそれまで戦争を罪悪だと感じていなかったのだから。しかし吉村さんはそうした戸惑いから、戦争の起こったわけを次のように考えるようになる。

 「私は呆然としていたわけです。戦争は罪悪とは思っていなかった。たしかに雄々しいもの、華々しいものと感じていました。それが急に罪悪だということになった。たしかに私自身も戦争は罪悪だということがわかりはじめた。そんな無惨なことはないなと思いはじめました。ところが文化人の中には、あの戦争は軍部がやったんだ、私は批判していた、と言う人がいる。
 しかし、こんな小さな島国で、あれだけの大戦争いくらなんでも軍部だけでやれるわけがない。軍部だけでなく日本人自身が戦争をやっていた。それをまずはっきりしておかないと戦争の実態はつかめないのではないか。戦争中、もっともこわい存在は、われわれの近所の人、隣組の組長とかいった人です」

 吉村さんは戦争が終わればそれを批判するのはただの保身のためだと言い切り、人間は時勢が変わったからといって、そんなに考え方が変わるわけがない。そのところに反省ということがあってしかるべきと思いはじめる。吉村さんは十八歳まで見た戦争というもの、日本人というものを書いてみようと思ったと書いている。それが戦史小説への転換意識となったと書いている。
 そしていくつか戦史小説を書く。その際軍部などに残された資料を中心にするのではなく、関係者の体験を直に聞き、物語を肉付けしていく方法をとる。
 そうして戦史小説を書きつづけるが、話を聞きたい人の数が減っていく。体験者、経験者、証言者、技術者の話が聞けなければ、吉村さんの小説手法は段々手詰まりになって行く。これが吉村さんの戦史小説を書かなくなった理由であった。
 そして歴史小説を書くようになる。吉村さんは歴史小説と称する以上、史実を物語の展開のために改竄してはならないと考えている。さらに歴史資料以上にもっともっと細かい様子、たとえば天気や風景など、詳しく現地へ行って資料を探し出し、それを元に小説をよりリアルに描こうとする。つまり書くものは変わったけれど、戦史小説でも歴史小説でも、事実を動かさず調べることの方法や材料は、生きている人からの証言から、文献や現地調査と変わっただけであり、ともに同じやり方だと言っているのである。
 私は吉村さんの戦史小説はほとんど読んでいない。個人的に吉村さん歴史小説が好きである。それは公にされている歴史資料に加えて、吉村さん自身がこだわる細部にあるものが、よりリアルに当時の状況や人物像を身近に感じさせてくれるからである。そしてそう感じさせてくれるのは戦史小説を書かれていた時の手法がそのまま生かされているからだと知るのである。

 最後に吉村さんが戦争が終わったんだな、と実感したことが印象的だったのでそれを書いておく。

 「3月十日の東京大空襲で、下町一帯に焼夷弾がばらまかれ、一キロほどしか離れていない三ノ輪あたりまで焼けました。(略)私はすぐ近くの谷中の墓地に非難して、町が轟々と焼けているのを見おろしていましたが、非難してから十分もすると火傷で火ぶくれした人が続々と墓地に逃げてきたりしました。
 あの頃は灯火管制で、ふだん明るい光に飢えていたから、それだけに空襲の夜の炎の色は華麗に思われました。あれほどの大燃焼は他に知りません。町そのものが燃え上がって、炎が逆巻いているんです。それに軽金属からでも発するものか、緑色や紫色の光なども入りまじる。空は朱に染まって、空の全面から赤い光が全反射していますから、影というものが全然なくて、墓石でも小石でも、物すべてが赤く浮き上がって見えるんです。ちょうど桜が満開で、それがまた、真っ赤に染まって不思議な光景でしたね。

(略)

戦争が終って間もなく、谷中の墓地近くの坂から町を見下ろした夜の印象は強く残っています。町の一角がわずかに焼け残っていて、そこから灯がともっている。灯火管制で闇に慣れていた目には、電灯のまたたきがとても賑わいだものにみえ、ああ電気をつけてもいいんだなと思った。そときに、戦争が終わったんだ、平和がきたんだという実感が湧きました」

 情報として知らされ、それを頭で理解しても、なかなか身体の中でうまく受けいれられないことがある。ところが些細なことを感じることで、それを実感することがある。これはその一例のようだ。そして読む側も「そうだろうなあ」と実感できるのである。


評価
★★★


書誌
書名:白い道
著者:吉村 昭
ISBN:9784000234771
出版社:岩波書店 (2010/07 出版)
版型:208p / 20cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2010年07月28日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈3〉

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 今回の対談の相手は、遠藤周作、丸谷才一、高橋義孝、俵万智、山本夏彦、池田弥三郎、中原誠、常盤新平、河野多惠子、野坂昭如、藤本真澄、吉行淳之介である。
 さすが三冊目となると飽きがくる。あと二冊あるのだが、これは続けて読めないなという感じになっているので、一端これで休憩するつもりだ。
 今回はこれといって面白い話はなかった。対談相手が結構地味な人が多い関係かもしれない。
 強いて面白いなと思ったのは藤本真澄さんとの対談だった。藤本真澄という名前を初めて聞いた。調べてみると、この人東宝映画初代社長さんで、日本映画黄金期の名作を多数手掛けたらしい。
 山口さんが「永遠の処女」と呼ばれる伝説的スター、原節子にしつこく迫る。なにせ藤本さんは東宝映画初代社長で、原節子の出演する映画をプロデュースした人である。当然原節子のことに詳しいに違いないとふんでいるわけだ。そこで今(対談した当時)でも、原節子は処女なのか、あるいは藤本さんが関係していたんじゃないかと勘ぐったりしている。山口さんの世代にとって、原節子が処女であることがかなり重要なポイントなのだろう。当然このあたりは私にはわからない。藤本さんも今頃原節子を知っている読者が少ないですよと言って、話をそらすのだが、山口さんは「いいんですよ。私が許す」としつこい。さすが「永遠の処女」である。なんだかんだと言って山口さんは、原節子に会わせてくれと藤本さんに頼み込む感じが、逆に山口さんの世代にとって、原節子はスターだったんだなと思わせる。
 だいたい女優の処女性を大事に思う当たりに年代を感じちゃう。今じゃ誰しもやっているんだろうと当たり前に思っているから(ちょっと下品だね)、そんなことなど考えもしないが、処女性=清純派が純粋に思われていたし、未だにそう思っているあたりが、かわいいと思えば思える。(歳をとればとるほど脚色されてしまうのかもしれない)

 さて、その原節子を使った監督の小津安二郎が藤本さんに「お互いにな、品行は少々悪くても品性はよくしよう」と言ったという言葉を紹介する。この言葉、山口さんの世代に通用する言葉じゃないかなと思った。確かに山口さんの若い頃の話を聞いていると、品行はよろしくない。少々下品である。が、だからといって人間性において品性が悪いというわけじゃないと思える。そこは自らの品性をおとしめるほどの行動にはなっていない。一本筋がきちんと通っているのが、話の端々で感じることが出来る。
 今よくあるような品行が悪いのは、品性が悪いからそうなっているのとはまったく違う。どこかで一歩踏みとどまっているのがよく分かり、とことん行ってしまうところがない。
 結局若い頃やった無茶な行動が逆にその人の人生訓みたいになっていて、その人が歳をとってヘンクツなオヤジとなって、あれこれ思うのである。山口さんにはそういうところがあって、今はそうしたヘンクツなオヤジが重宝がれ、そういう人に説教されることを望んでいるところがある。
 山口さんのエッセイなどが長いこと愛読されたのも、そうした姿勢を持ったままの人だから、同世代の人には、そうそうと共感を呼び、深く同意しちゃうからだろう。そして若い人には、誰も言ってくれないことを、そういうヘンクツなオヤジに一言言って欲しいという希望があってのことだと思っている。そこがいいのである。そして私もその一人なのである。
 「品行は少々悪くても品性はよくありたい」という言葉は確かにいい言葉だと思う。そして今まで読んできた山口さんの対談にはそういう姿勢がよく分かるのである。
 ただ一つ気になったことがある。山口さんのくだらないダジャレである。こんなことを言う人じゃないと思っていたから、妙にそれが引っかかった。やっぱりホスト役として対談相手を持ち上げなければならないので、こうしたことも言わなければならなかったのかなと思った。とはいえ出来ればやめて欲しかったなあ。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈3〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010157
出版社:論創社 (2009/10/30 出版)
版型:328p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年07月25日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈2〉

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 今回の対談の相手は、常盤新平、大橋巨泉、丸谷才一、瀬戸内晴美、王貞治、高橋義孝、吉行淳之介、杉本清・井崎脩五郎、嵐寛寿郎、野坂昭如、池波正太郎、小西得郎、中根千枝、村島健一、吉行淳之介・色川武大である。
 その中で一番興味深かったのは王貞治さんとの対談である。私は長嶋茂雄も嫌いじゃなかったけれど、長島はどこか“軽そうな”ところが鼻持ちならない時がある。それに比べれば王貞治というプレーヤーはバッティングフォームから、理論で固められた美しいフォームが好きだった。ホームランの軌道がきれいだった。長嶋に比べれば地味だったけれど、その分融通の利かない頑固さがあって、それが王さんの固い意志みたいなものが感じられ、ちゃらちゃらしていない分、好きだった。
 長嶋茂雄という選手はたぶん天才であり、王貞治という選手は努力の人を感じさせ、人格者を感じさせる。天才はなりたくてもなれないけれど、王さんは努力して、「世界の王」となった人と今も感じている。
 その王さんは結構おしゃべりで、バッターとして立ったとき、キャッチャーや審判に話しかけたり、一塁へ出た相手の選手と話したりしているのを山口さんは見ていて、その時何を話しているのか王さんに聞いている。そう言われれば、王さんはバッターボックスに立っているときや、一塁にいるときなど相手の選手によく話しかけていたと、思い出した。山口さんはよく見ている。
 その時何を話しているのか、と山口さんは聞いている。

山口 よくあなた、キャッチャーに話しかけるでしょ。

王 はい。

山口 何言っているんですか、あれ。

王 振った球がボールだったかストライクだったかとか。それから見逃したとき、自分ではストライクなのはわかっているのですけれど、あとどれくらいあるかとか。そういうことを確認したいわけです。キャッチャーに。というのは、審判に聞けませんから。

山口 いや、あなたはアンパイヤに話しかけませんか。

王 あれはですね、キャッチャー抜きで、今のは外したんじゃないかな、とかね、そういうことを聞くんです。

山口 え?

王 自分ではちょっと外れているんじゃないかと思うけどな、ということを。

山口 そういうことをアンパイヤに?

王 はい。僕も案外長くやっていますので、その点図々しくなりまして(笑)

山口 あれね、若いキャッチャーだとすくんじゃうんじゃないかという感じも受けるんです。あれは一つのテクニックじゃないかという感じも受けますけどね。

王 それだけに本当のことを言ってくれるようです。同じくらいの年齢でしたら、自分が実際打った球がボールだったとしても、キャッチャーが「いや、今のは入っていたよ」と言えば、次に同じような球が来たら、バッターは打たなきゃいけないわけですよね。ところが、「今のちょっと外れていたな」なんて言って、「ええ」なんて言われれば、次は、感覚的なちょっとしたものですけど、これは外れている、と見逃せるわけです。

山口 あなたね、一塁にいてですね、ランナーがフォアボールで来てまた話しかけるでしょ。

王 はい。

山口 あれは何言ってるんですか。

王 そうですね。「おい、元気か」とか、「誰々さんに会ったか」とか。長くやっていますと、いろんなつながりも出てきちゃいますしね。「だいぶ調子いいじゃないか」とか、「このごろ元気ないけど、どうしたんだ」とか、そういったことですね。

(略)

山口 だけどね、あなたの場合は何となく、そういう(行儀悪い)感じがしないんだね。

王 確かによく言われます。勝負の世界で、お互いに敵味方でしょう。でも、どうもこればっかりは長年の癖で。申し訳ありません(笑)

 なかなか面白い。若いキャッチャーが王さんに「今の球外れていたよな」と言われれば、世界の王さんである。それはすくんじゃったって不思議じゃない。正直なことを言っちゃうよな、と思う。逆に王さんの同年代のキャッチャーなら、バッターをだますことことも一つのテクニックだろうなと思う。
 我々はスタンドの上に設置されているテレビカメラからしか、野球を見られないから、こういう人間くさいやりとりがグランド内で行われていることを知ると、確かにこういうこともやっているだろうなと思う。一方で「やっぱり!」、と安心しちゃうし、それを聞くだけでクスクス笑いたくなる。心理戦というやつであろう。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈2〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010140
出版社:論創社 (2009/09/30 出版)
版型:333p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年07月22日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈1〉

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 考えてみたら、対談集なんて読むのは久しぶりのことだ。私は開高健さんと司馬遼太郎さんの対談シリーズを持っているが、こうして対談集を読むのは開高さんのものを読んで以来のことじゃないかと思う。
 この山口瞳さんの対談集は全5巻で、最近出版されたものだ。以前から気になっていたので今回このシリーズを読んでみようかと考え、まずは第一巻を手に取ってみた。
 今回山口さんと対談した人は、池波正太郎、沢木耕太郎、司馬遼太郎、長嶋茂雄、吉行淳之介、高橋義孝、大山康晴、土岐雄三、檀ふみ、野坂昭如、野平祐二、丸谷才一、佐治敬三といった面々である。
 対談は当然山口さんがホストとなって、これらの人々と話をする。ゲストとして招かれた人々は山口さんと何らかの関係のある人たちである。作家仲間、あるいは好きな酒、女、野球、将棋、競馬などそれぞれ一流の人たちとの話なので面白い。特にえっ、長嶋と対談したの、と驚いてしまったくらいだ。ここには対談の名人と呼ばれる吉行淳之介さんや司馬遼太郎さんが逆にゲストして呼ばれているのも面白い。解説によると山口瞳さんも対談の名人と称されているらしい。
 特に面白かったのは司馬遼太郎さんと将棋の大山康晴名人と対談だ。司馬さんとの対談は「東京・大阪“われらは異人種”」として東京は山口さん、大阪は司馬さんで、どっちも譲らないところが笑ってしまった。得てして対談はホスト側がゲストに意見に迎合することが多いが、司馬さんとの対話はそういう雰囲気は一切ない。東京のいいところ、悪いところ、あるいは大阪のいいところ、悪いところと双方が指摘しあい、「いやいや、そうじゃないでしょう」といった感じで、お互い歩み寄らないで終わってしまうところが面白かった。もちろん山口さんにしても司馬さんにしてもお互い認め合っている上で言い合いなのであるが、それでもそこにはそれぞれの性格が出ていて、“頑固じじい”さが面白味を醸し出しているように思えた。
 将棋の大山康晴さんとの対談では、勝負師としてあり方出ていて興味深かった。私は一切将棋をやらないので、その奥深さは解さないけれど、勝負師としてスランプ脱出法は“なるほどなあ”と思わせる。

山口 そんなに悪かったですか。ひどいもんですね。その大スランプをどうやって脱出したんです。

大山 あのね、あわてなかったいうのが、よかったと思います。調子が悪いからなんとかして早く勝ってやろうなんて思わないで、いっさいジタバタせず、負けに行ってやれというようなのんびりした気持でしばらくやったのが結果的にはよかったらしい。

大山 どうせ負けたって、負けるときは一緒なんだという気持、こういうと投げやりのようですが、勝とう勝とうとあせるよりは自然のなりゆきで負けたっていいやというつもりで対局にのぞんだわけです。

山口 えいくそ、酒でも飲んでやろうとか、女遊びしてやろうとか、そう思わなかったですか。

大山 ぜんぜん・・・・。自然に木が倒れるように負けるときは自然に負けましたよ。

山口 自然流ですか(笑)くやしいと感じませんでしたか。

大山 感じませんね。好調のとき負けるとくやしいですが、というより、くやしさを感じる時のほうが好調ともいえますね。

 別なところでは将棋に強くなった人の心構えみたいなものを次のように言っているのも、なにも将棋だけ勉強していれば強くなれるものではないらしく、心技体という言い尽くされた言葉がここでも重要な意味を持つことを知らされる。結果として将棋の強い人は心がけが違うということらしい。

大山 (将棋の)強くなった人いうのは、そういう面(生活態度)での気の使い方が少しずつ違っておりますね。先輩のはきものが乱れていたらちょっと揃えるとか、よごれ物がちらかっていたら黙って選択しておくとか、自分がお世話になっているところの庭に雑草が目立ったらむしるとか、そういう小さなことのつみかさねですよ。草をむしること自体は、なにも将棋にプラスすることはないんですよ。大事なのはその気持ちですね。

 多分これは何も将棋に限ったことではないのだろうな、と思う。おそらく今まで一流と言われてきた人々に当てはまったことだったのではないかと思ったりする。そして今言う一流とは単に技量や能力があって、それだけでお金を稼げた人を、半ばやっかみを含めて一流と見てしまう傾向がないだろうか。結局お金を稼ぐことが、自分の技量や能力を磨くことと勘違いし始め、ひたすらそれのみに専念する。なりふり構わないその行動が今度は墓穴を掘ることになる。見る側も卑しいけれど、見られる側も卑しいすぎる。そんなのが最近は多くないか・・・。
 今日航CEOをやっている稲森和夫さんの本を読んだとき感じたのだけれど、どこか宗教家の言動を読んいるみたいに感じたことがある。事を成した人の言動にはそうした宗教性を帯びる。その宗教性は多分その人の品性から来るものであって、単に技量や能力だけのものじゃない。そんな気がする。それがここで大山さんが言う“気持”であると思ったのである。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈1〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010133
出版社:論創社 (2009/08/30 出版)
版型:341p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年07月03日

吉村昭著『海も暮れきる』

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 吉村さんは終戦後、学習院旧制高等科に入学したが、入学して八ヶ月後、喀血する。結核である。そして絶対安静の身となり、体重が著しく減り、生きる気力も失われたが、東京大学医学部附属病院分院にて胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を失って、何とか復帰する。この手術、危険な手術だったようで、手術自体、麻酔もそれほど効かず、かなりの激痛を伴い、手術後も生存率が極めて悪かったらしい。それでも何とか助かりたいという一心でこの手術を受けた、と吉村さんの随筆に書かれている。多分吉村さんが尾崎放哉にひかれたのも、放哉も結核で死んだことによるのだろう。
 この本は尾崎放哉が小豆島を“死に場所”に選び、その土地を踏んでから死を迎えるまでの八ヶ月間が書かれている。
 放哉、本名は尾崎秀雄という。明治18年鳥取で生まれた。父親は鳥取地方裁判所書記であった。18歳の3月鳥取県第一中学校を卒業し、東京の第一高等学校に入学する。21歳の9月に東京帝国大学法学部に入る。この頃から放哉は酒に溺れるようになる。大酒を飲み、人にからむようになった。酒をあおるように飲むようになったのは、従妹の沢芳衛との失恋からであった。放哉は最初の雅号を芳衛の芳を取って、芳哉とした。しかし芳衛の兄に近親結婚とだとして反対され、芳哉を放哉と変えた。以後放哉の酒癖の悪さは死ぬまで続く。いやむしろこの酒癖の悪さが身を滅ぼしたと言っていい。たちの悪い“からみ酒”であった。
 大学卒業後、東洋生命保険株式会社の東京本社契約課長の任にあったが、やはり酒でそこを辞めざるを得なくなった。その後友人の紹介で京城の朝鮮火災保険に入った。赴任して半年後、放哉は高熱を発し、病臥する身となったが、何とか正常に戻ったが、やはり連日酒浸りであった。結局赴任して1年後社長から退職を命じられる。そして再び高熱を発し、妻馨にも去られ、寺男として過ごしてきて、この小豆島まで流れた来た。その間結核は放哉の身体を蝕み続けた。
 放哉はいわゆる自由律俳句の代表的俳人として有名であったため、同人や門人が何人かいて、彼らに生活のために金を無心し続けた。しかし彼らも簡単にお金を出せる身分でもなく、やっとの思いで放哉に金品を送っていたのである。
 一方で放哉は求めた金品が届かなかったり、冷たくされると悪態をつく。読んでいてもし放哉が有名な俳人でなければ、ただの“たかり”だなと思わせる。人にお金を送ってくれないか頼む一方、そのお金で酒を飲み、悪態をつき、店の人間が放哉が世話になっている住職告げ口しそうになると、生活場所を失うと不安になる、どうしようもない人間であった。
 自分の態度が悪いのにもかかわらず、同人や門人や島の人間に優しくされると、今度は涙ぐむのである。ホンとどうしようもない人間であった。
 結核は放哉の身体を蝕み続け、ついに庵で動けなくなる。今まで自分の気持ちを和らげてくれた好きな酒さえ、喉を通らなくなる。そして大正15年4月癒着性肋膜炎湿性咽喉カタルで死亡する。
 とにかく放哉ほど自分勝手で自分を律することの出来ない人間はないなと思った。たまたま有名な俳人というから、その才能で生きられたところがあったが、それさえも放哉を支えてくれる人の助力があってのことであった。しかも酒乱ときているだ。どうしようもない。
 よく作家などが世捨て人な生活をしていたと聞くが、私は彼らが芸術のためそうなったとは思えない。むしろ彼らが自らの感性を持てあまし、それが敏感で軟弱であるがため世の中と折り合いがつけられないだけだと思っている。そして芸術がその感性を必要としただけだと思っている。芸術におけるすぐれた作品は非日常から生まれるものなのか、どうなのか、その点はよく分からない。
 ただとこの本に関して言えば、放哉に少なくとも彼の俳句における芸術性と自身の破天荒な生活ぶりの因果関係は一切記述がない。だから読む側は単にいい加減な人間として放哉が写るだけである。私にはたまたま放哉は俳人としての才能があっただけであり、普通ならのたれ死んでいてもおかしくないとしか思えなかった。そこに結核という病気の進行が加わったため、“壮絶な人生”と言えるだけであって、少なくとも芸術性が彼を“壮絶な人生”を歩ませたとは思えなかった。要するに放哉の俳句の才能が、いい加減な人生を許したと思えるのである。
 ところで自由律俳句とは何であろうか?ネットで調べてみると、自由律俳句とは、五七五の定型俳句や五七五七七の定型短歌に対し、音数にとらわれず、季語も含めない、自由に表現する俳句だという。ちなみに放哉の有名な句をあげると以下の通りである。

咳をしても一人

墓のうらに廻る

足のうら洗えば白くなる

肉がやせてくる太い骨である

こんなよい月を一人で見て寝る

一人の道が暮れて来た

春の山のうしろから烟が出だした(辞世)


 自由なのは結構だけれど、音数にとらわれない分、何か変な感じだ。まぁもともと、俳句とか短歌を解さない人間なので、これが素晴らしいのか、どうか、それもよく分からない。私には尾崎放哉という変わった俳人がいたということだけであった。


評価
★★


書誌
書名:海も暮れきる
著者:吉村 昭
ISBN:9784061835337
出版社:講談社 (1985/09 出版)講談社文庫
版型:275p / 15cm / 文庫判
販売価:539円(税込)

2010年05月26日

吉村昭著『三陸海岸大津波』

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 今年の2月27日チリで大地震があった。その地震により、津波が発生し、それが翌日日本に到達する事態となった。気象庁は日本沿岸でも最大3メートルの高さの津波が到着する恐れがあるという津波警報を発した。テレビでも1日津波警報が画面を占領した。最初は注意深くテレビを見ていたのだが、その警報が一日中画面から消えず、いつの間にかその警報がテレビの画面を占領していることが鬱陶しくなり、苛立った覚えがある。
 結局津波は予測を下回り、同日午後に岩手県久慈港と高知県・須崎港で1.2メートルの津波が観測されただけであった。次の日からマスコミは気象庁の警報に問題があると非難し始め、気象庁も大津波警報が過大であったと謝罪し、今後の改善を表明したのであった。
 一方で一日中警報が発せられ、避難勧告が出ていたにもかかわらず避難しなかった人が多くいたことも報道された。

 この本は明治29年と昭和8年に三陸沖で起こった地震による津波の被害と、昭和35年チリで発生した地震による津波の被害を記録した本である。記録の仕方は、吉村さんが足で集めたものであった。
 三陸沿岸は海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある。しかもここはリアス式海岸という狭く入り組んだ海岸のため、そこに津波が押し寄せるとその威力を増幅させる地域であった。つまり本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えている地域であった。

 明治29年の3月頃からこの地域では小さな地震が続いていており、井戸水が枯れたり、水位が下がったり、鰯の大群が連日押し寄せ、マグロの大漁が続くなど、異常現象が起こっていた。このことはよく聞かれる、大きな天災が起こる前の異常現象であろう。
 6月15日は、日清戦争に従軍していた兵士たちの凱旋で、三陸の村々で祝賀式典が開かれ賑わっていた。しかもこの日は旧暦の端午の節句でもあり、多くの村民が集まっていた。
 そんな中午後7時32分、小さな揺れを感じた。しかしその地震は三陸沖約150Kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震だったのである。地震発生後約30分あとに津波の第一波がこの沿岸を襲う。津波が押し寄せる前には、海水が沿岸の海底がのぞくまで引き始め、今度は屏風のように立ち、山のように盛り上がり轟音とともに村をのみ込んでいったのであった。人々は「津波だ!、津波だ!」と叫びながら、それにのみ込まれないように必死に高台に逃げる。
 津波の高さは10メートルとも、20メートルとも言われているが、吉村さんが村の古老に聞いた話から、その高さは50メートルにも及んだ可能性があると書いている。この津波による死者は26,360名になった。

 昭和8年3月3日午前2時30分、岩手県沖250Kmの海底を震源とするM8.1の巨大地震が発生した。そしてこの時も地震発生後約30分後に巨大津波が押し寄せた。地震があった時間が夜中の2時ということもあって、人々は一端様子を見て、それほど異常がないことを確認し、また寝床に入っていたあと、津波が押し寄せたのである。
 この時も明治29年と同じように鰯の大群が海岸近くに殺到し、各漁村は大漁に沸いた。例年三陸沿岸の鰯漁は11月いっぱいで終わるのだが、この時は年を越しても大漁が続く異常現象があった。井戸の渇水も各地で見られた。
 この時の津波の高さも10メートルとも、20メートル以上とも記録がある。死者は2,995名であった。この本では、この時津波を体験した小学校の生徒が書いた作文がいくつか掲載されていて、津波と、そこから逃げる模様が描かれている。子供が書いた文章だけれど、子供の目で見た津波だけに、それだけリアルに感じられた。

 昭和35年チリで大地震が起こり、その地震で津波がこの三陸沿岸に押し寄せた。当時人々は津波は地震の後にやってくるものと思っていた。実際昭和8年に起こった津波の後、県庁から出された「地震津波の心得」の中にも、地震があったら津波がくる恐れがあると警告している。また津波の前に必ず起こる異常現象がなかったことも、住民たちに地震がなくても津波が襲ってくるものだと思わせなかった。気象庁でさえ、チリで大地震が発生したことはつかんでいても、その地震のよる津波が太平洋沿岸に来襲するとは考えておらず、津波警報さえ発令しなかった。津波は22時間30分をかけてこの三陸沿岸にやって来たのである。それこそ住民たちが言うように「のっこ、のっことやって来た」のであった。ただこの時の津波による死者は105名と激減している。もうこの時には住民たちに津波の恐ろしさが認識され、津波防止の施設も沿岸に備えられていたからであった。
 今年の2月の津波警報もこの時のチリの地震と同じである。幸い津波が小規模であったからよかったものの、中には津波の恐ろしさを忘れて、避難さえしなかった住民がいたことは、大きな問題であろう。過去に津波を甘く見て、大災害なった事実があるのだから、その点は考えないとならないような気がする。
 マスコミもマスコミである。気象庁の警報が過大だったと非難する方にしか目が向かず、警告が出ているにもかかわらず避難しなかった人が多くいたことを問題視しない。馬鹿としか言いようがない。気象庁もわざわざ謝る必要などないと思う。問題はあったにしても警報は正しかったはずだ。後はその精度を高めてくれればいいだけのことだ。オオカミが来たと叫んで、本当にオオカミが来たとき、いったいどうするのだろうか?ここでも自己責任という言葉を持ち出して、勝手放題にさせるつもりなのだろうか?私もテレビの警報を鬱陶しく思ったことを反省した。


評価
★★★


書誌
書名:三陸海岸大津波
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169404
出版社:文芸春秋 (2004/03/10 出版)文春文庫
版型:191p / 15cm / A6判
販売価:459円(税込)

2010年05月14日

吉村昭著『蚤と爆弾』

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 この本の親本を三省堂がやっている古本屋さん(三省堂がやっているというより三省堂が“胴元”みたいな形で、小さな古本屋さんを集めて上納金でも集めている感じのもの)で見た。原題は『細菌』という。私は吉村さんのこの本はこれを見たとき初めて知った。知らなかっただけに、買おうかなと思ったが、値段が高くてやめた。そして今回読んだ文庫はその『細菌』を改題し、文庫化したものである。
 話は、北満州のハルピンに作られた関東軍防疫給水部の創設者曾根二郎を主人公として、彼や関東軍防疫給水部が戦争中何をしてきたのかが書かれている。読んでいて“あれ?”と思ったのは、この曾根二郎という人物、もしかしたらあの七三一部隊の石井四郎ではないかと思ったのである。で、ネットで調べてみると、やはり曾根二郎は石井四郎をモデルにしたものであった。七三一部隊といえば、森村誠一さんの『悪魔の飽食』で有名になった細菌兵器の開発、製造、人体実験をした部隊である。
 この本は森村さんの本のように衝撃的で暴露本的要素を排除して、淡々と彼らが何をしてきたのかを記述していく。時系列として、日本が敗戦に向かっていく状況も記述し、関東軍防疫給水部が何故細菌兵器を製造していき、敗戦間際にきれいに消滅させていくかが書かれている。
 もともと関東軍防疫給水部はその名の通り、野戦で、特に南方で兵隊たちの飲料水をどう確保するため、その様々な菌で汚染された水を濾過する濾過器を開発するものであった。
 一方で全く逆の発想で、細菌が兵器として有用なものになり得ると曾根二郎は思いはじめる。日本軍にとって仮想敵国は中国、ソ連であり、特にソ連の兵力に対抗するには、日本軍が持っている通常兵器では太刀打ち出来ないところに、この細菌兵器が有効に力を発揮することを陸軍に提案するのである。
 曾根のこうした歪んだ行動は、曾根自身の個人的事情に由来していた。曾根は京都帝国大学医学部を卒業したが、当時陸軍の軍医として優遇されるのは東京帝国大学医学部出身者のみで、京都帝国大学医学部卒業の曾根には要職に就くことが望めなかった。そこで彼は軍の要職に就けないのなら、自分にしかできない仕事を確立したいと考えるようになる。それが細菌戦用兵器の開発であった。
 陸軍は曾根の提案を受け入れ、極秘にその開発を進めさせる。曾根は関東軍防疫給水部の中枢に京都帝国大学医学部卒業者を集め、研究を進める。そのため関東軍防疫給水部を別名で“加茂川部隊”などと自称していたという。
 さて、その細菌兵器である。ペスト菌やチフス菌、コレラ菌などを培養し、それを兵器とする。特にペスト菌を兵器とするために、中国中のネズミと蚤を採集していく。ペストに感染したネズミの血を蚤に吸わせ、その蚤を陶器製の爆弾につめるのであった。(通常の爆弾だと、爆弾が爆発するとき、その熱で蚤が死んでしまい、役に立たない)
 その試作品が出来上がったとき、人体実験として、中国人の捕虜、囚人、スパイなどを使う。彼らは“丸太”、“材木”などと呼ばれた。
 彼らを実験に使うため、それまで捕らえられ、拷問にあい、ろくに食事も与えられなかったのが、ここに連れてこられると、高栄養の食事が与えられた。健康体にさせられていくのである。そして細菌兵器の実験に使われていく。関東軍防疫給水部が人体実験に使った囚人の死亡数は三千名を超えた。(細菌だけでなく、他の実験に使われた)
 そして実際に中国大陸で上空から細菌を散布したし、撤収時には細菌ビスケットや細菌饅頭をばらまき、井戸や川、貯水池に細菌を投げ込み、細菌汚染地域とした。
 終戦間際、敗戦色が濃くなったとき、ソ連が参戦し、満州に進行を始めるが、この時こそ細菌爆弾を使いたい曾根は考えていた。しかしこの時にはもう日本軍は爆弾を投下する爆撃機さえなく、結局関東軍防疫給水部をきれいに抹殺し、撤退していく。その鮮やかさは開いた口がふさがらないといった感じである。
 戦後、戦犯がかり出されるが、彼らも三千人以上を実験と称して殺害し、実際に非人道的な細菌兵器を使用したわけだから、当然戦犯としてかり出されても仕方がなかった。しかし彼らは満州を撤退したときから、お互い顔を会わさず、目を背け、市民の中に息をひそめて隠れた。
 曾根二郎にしたって、当然重大な戦犯と扱われていいはずだったが、連合国は彼の行ってきた実験に多大な興味を持ち、特にアメリカは曾根から満州で行ってきた実験の資料の提出と引き替えに、身分を保障し、報酬さえ出す。アメリカは日本で軍部の解体、民主化などを推し進める一方、曾根が開発した細菌兵器の利用価値を見出しているのである。
 アメリカが身を潜めていた曾根の行方を必死に捜し、曾根がそれに応じるとき、曾根の言い分が気にかかる。

 「それでは私の考えを述べさせていただこう。初めに申した通り、私は軍人であると同時に医学者だ。しかし、戦争にやぶれた現在、私は軍人でなくなり、医学者としての自分だけが残った。従って医学者として考え、行動すべきであると思う。私は、研究実験をかさね、世界に類のない貴重な資料を得た。医学者としては、それを私物化すべきではなく人類のために提供したい。日本は敗戦国となって荒廃し、私の研究成果を受けいれる素地はない。もしアメリカが所望なら、喜んで研究成果を提供したい」

 個人的な意見を言わせてもらえば、医学者としての曾根の言い分は、許し難い傲慢さだと思っている。医学者としてというよりは、まず人間として、非人道的なことをやってきた研究を成果として言えるものなのか、と思う。いくら戦争という極限状態の中で、行われたこととはいえ、その結果を医学者として研究成果と言うのがちょっと疑問を持つ。しかも自分たちはそれを研究と称してはいるものの、戦後戦犯としてかり出されることを恐れ、身を隠しているのである。ということは、自分たちがやってきた研究方法に非難されるべきものがあると意識しているのではないか。だったらもう少し言い方があるのではないかと思う。その研究に犠牲にされた数多くの人命あったことを意識していれば、こういう言い方は絶対に出来ないだろう。
 ただ一方で、その過程はどういうものであれ、通常では絶対に得られない研究成果であることも事実だろう。医学、いや科学や進歩はそういう意味では非人道的なもので成り立っている部分がある。

 曾根の葬儀のとき、焼香に来た客は、一部の者を除き複雑な表情をしていた。顔見知りであることはその表情で窺えたが、焼香を終えると、互いに目をそらし合って斎場を出て行き、喪章を外し思い思いの方向に足を早め去って行った。彼らは旧関東軍防疫給水部の関係者であったと記述して、この物語は終わる。


評価
★★★


書誌
書名:蚤と爆弾
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169169
出版社:文芸春秋 (1989/08/10 出版)文春文庫
版型:221p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2010年04月14日

吉村昭著『わたしの取材余話』

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 吉村さんの新刊を読む。新刊といっても、もう吉村さんは亡くなられているので、新たに書かれた随筆ではない。以前どこかで寄稿されたものを寄せ集めて、未収録本として出された本だ。それまでいくつかある吉村さんが歴史小説を書く上で、取材されたことを小説とは別な形で書かれたものである。要するに“余話”だから、余った話である。
 とはいっても、“ついでに”といったものではなく、小説の舞台裏や小説では使われなかった話など、それはそれで滋味があって、私は結構好きなのである。

 この本で一番ページ数をさいているのが「『心臓移植』取材ノートから」である。これは日本で始めて心臓移植が行われた札幌医大の取材ノートである。吉村さんにはこの心臓移植を扱った『消えた鼓動』という著作がある。
 札幌医大の心臓移植には様々な疑問点があり、純粋に医療という側面だけでなく、事件として扱われる側面がかなり多いことがここでも書かれている。
 たとえば心臓を提供した山口義政さんは溺れて心肺停止の状態になり、救急車で運ばれた。その搬送中、救急車が前の車を追い越しカーブを曲がったとき、対向車が向かってきたので、救急車は急ブレーキをかけた。その時救急車の中で人工呼吸を施していた救急隊員がそのその急ブレーキで前につんのめり、自然と人工呼吸をしている手に力が入った。それによって山口さんの呼吸が回復したというのである。治療の当たった医師は「生命に関わることはない」と判断し、回復が期待されたという。
 その後山口さんは札幌医大に運ばれたあと、心肺停止、脳波も平坦になったとして死亡が確認され、心臓が摘出されたのである。(実は脳波は取っていなかった)
 山口さんは当然変死扱いとなるので、警察による検死が行われた。検死に当たった医師は心臓移植に立ち会った医師であった。警察は山口さんの胸部に大きな絆創膏が貼られているのをいぶかしく思い、それをはがしてみるとメスの切開痕があった。これは何かと立ち会った医師に聞いてみると、医師は心臓蘇生のため、胸部を切り開き直接心臓をマッサージしたための切開痕だと説明する。実はこの時山口さんの遺体には心臓がなかったのである。医師はこの時嘘をついていた。(後で訂正がある)
 一方心臓の提供を受けた宮崎信夫さんの病状は、外科で軽い僧帽弁閉鎖不全症と診断されいた。心臓移植を執刀した和田寿郎教授は宮崎さんの心臓を「箸にも棒にもかからぬ絶望的な状態」ではなかったのである。
 吉村さんは取材で、札幌医大の心臓移植にはこうした不可解な点が数多くあることで、功を焦った和田寿郎教授の不要な手術だったのではないかということを匂わすが、そうだとは言いきらない。ただこうした事実がありますよと、ここではあくまでも取材ノートとして明らかにしているだけである。これは吉村さんの姿勢である。この本の最後で吉村さんは自分が書いた歴史小説で自分が取る姿勢を次のように書いている。

 「歴史小説は、その背景となった時代の性格を裁断するという役割りもになっている。方法としては、作者が表面に出て自ら解釈を明確にすることと、史実を記してその判断を読者にゆだねることの二つがある。
 私は、後者の立場に身をおいているが、それは多分に自分の素質にもとづくやむを得ないものだと思っている。
 あらゆる事象を分析し、それによって一つの解釈を生み出す能力は私にはなく、基本的に物事はすべて漠としたもので、割り切った解釈をすれば、必ずなにかの誤りが生ずる恐れがある、と考えるからである。その点、私は臆病であり、自ら語ることはせず、ひたすら読者の思い思いの判断に一方的にまかせるという、一種なげやりな姿勢をとっている」

 これは多分吉村さんの歴史小説だけでなく、たとえばこの心臓移植の話にしても、表に出なかった事実を明らかにすることはするけれど、それをどう考えるかは吉村さんがしないのと同じであろう。
 また歴史小説の小説としての折り合いのむずかしさがここに書かれている。吉村さんは学生の頃「事実の中には、小説は無い。事実を作者の頭が濾過し抽象化してこそ、そこに小説が生まれる。カミュの『異邦人』の価値は、二十世紀の抽象小説であることだ。川端康成の小説も、畢竟作者の頭脳によって抽象された美であり、断じて現実美ではない。秀れた小説は僕達の理性を納得させ、感性を納得させてくれる」と学生らしい青臭い文章で書かれている。けれど基本的に吉村さんは、今でも小説のあり方はそうあるべきと考えているという。
 となると歴史小説はどうなってしまうのであろうか。歴史と冠するかぎり、歴史小説は史実に忠実でなければならないはずだ。もし史実のみに固執すると、その羅列に終始してしまい、小説としての性格は失われてしまうことになる。だからといって史実を動かしてしまうと歪みが出てくる。この点が歴史小説のむずかしさだというわけだ。そこで吉村さんが取られる姿勢は、史実にあくまでも忠実ではあるけれど、人物がその時何を思い、そうした史実にあることを行ったのか、それを人間として自然な形で表現をすることで、小説の持つ性格と歴史小説が負わざるを得ない史実との整合性をつけているのではないだろうか。それが歴史小説を書く醍醐味でもあるような気がする。だから史実では大して問題にならない細部が吉村さんには必要になり、それを取材で得ることで、人間味を加味していく。

 余話として面白かったのは、吉村さんが江戸城のことを調べているときの話が面白かった。四谷で深夜、土木作業で働いていた人が酒を飲んで皇居のお濠端で寝入ってしまった。しばらくして皇宮警察が心配してその人のことを見に来た。昭和天皇がお濠を隔てて土手に横たわっている人を見て、「倒れている」と言って心配され、皇宮警察が走って来たらしい。
 その人はお濠を隔てた皇居の石垣の上に昭和天皇がお立ちになっているのに気がつき、元霞ヶ浦航空隊の整備兵だった彼は、仰天して軍隊式に腰を折って最敬礼すると、天皇は手をふっておられたという。思わずあの天皇ならお濠の石垣に立ってこちらを見られていたこともあっただろうなと思えるエピソードである。最敬礼した後、手をふっておられたというのが、昭和天皇の人間性の一面を見るようである。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの取材余話
著者:吉村 昭
ISBN:9784309019765
出版社:河出書房新社 (2010/04 出版)
版型:233p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年02月24日

山口治子著『瞳さんと』

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 この本は山口瞳さんの奥様治子さんから、山口瞳さんとのなれそめから、夫婦生活、そして別れまでを聞き書いたものである。一応便宜上山口治子著と書いてあるが、あくまでも便宜上そうしたまでである。

 私にとって、山口瞳という人は『男性自身』がすべてであった。この30年以上も続いたエッセイが好きで、週刊新潮はよく読んでいたのである。どこかで書いたかもしれないが、『男性自身』は昭和38年(1963年)12月2日号から始まり、平成7年(1995年)8月31日号まで1、614回、一度も休みなく続いたエッセイである。
 山口さんは平成7年8月30日に亡くなられた。この日は水曜日であった。そして週刊新潮は毎週木曜日が発売なので、もし山口さんが8月31日以降亡くなられたら、連載を休載していたことになる。だから『男性自身』は連載開始から一回も休まず書かれたことになる。
 この本を読むと、もともとこの『男性自身』の原稿は1回3万円で、月4回で12万円になるので、それで生活の保証ができた。だからそれでそれまで勤めていたサントリーを退社することができ、作家として独り立ちできるようになったらしい。連載開始から新潮社にこの原稿を書くことで生活の保証のお墨付きをもらったからできたことなのだろう。
 しかしだからといって、いい加減な気持でこの連載を続けてきたわけではない。

 「一週間をなんとなくすごす人もいるけれど、一週間のうち全力投球できる場を持っていることを幸せとしなければなりません。僕にとって『男性自身』は大河小説なんです」

 と『男性自身』を書きつづける意味を山口さんは言っている。つまりそれだけ力を入れていた。だから「『男性自身』を書かなければ、山口瞳はもっといろいろな短篇を書けたはずだ。あの中には、短篇の原石のようなものがたくさんつまっている」と言われたのである。

 私は自分の好きな作家が亡くなり、奥さんなどがその作家について、夫婦しか知らない姿を書かれたものを読むのが好きで、今までも結構読んできた。だいたい男というものは、世間体がいいから、本当はどうなんだろうと思う。もうちょっと、生々しい姿があるはずだと思うのだ。だから今回もそんな気持からこの本を手に取った。二人出会いから、生活のあり方、当然作家として独り立ちできるまでの間の苦しい生活、夫婦間や家族との葛藤など、人間味ある姿を知りたいのだ。
 山口瞳さんの母親の生家は遊郭であった。このことはどうやら母親は長いこと隠していたようであるが、そこに流れる血は山口瞳さんにも流れており、そこが原点であった。
 また山口さんの父親も山師みたいなところがあって、景気のいいときはお大尽様みたいな生活をする一方、金に無頓着な部分もあって、その没落も早い。浮き沈みの激しい人生を送っている。そういう両親を持ったためか山口さんの生き方には、一般人とは違う価値観があるように思える。山口さんには“遊び”に徹し、破滅の臭いを放しつつ、一歩手前で止まるようなしたたかさやルールを求めるところがあるが、それらはこんなところから生まれたのかもしれない。こういう生い立ちがあったからこそ、礼儀作法や生き方の指南など、山口さんが書かれるもに妙に説得力を感じるのかもしれない。それまでの苦労が生々しいから、その中で生き抜かれてこられたから、そうした立場に立った人には、いい励ましとなるのだろう。

 全体に奥様は山口さんに対して、いつまでも少女のような思いを持たれていて、山口さんとの昔を語るときでも、好きで好きでたまらず、それで嫉妬したことなど書かれていると、なんか素直でいいなあと思った。
 山口さんが昔京都市立病院に入院したとき、奥様に宛てた手紙の中に次のように書いている。

 「ぼくは幸福な夫だ。それから、きみは世界でいちばん素適な夫を持った妻なんだよ。信じてください」

 こんなことなどそうそう書けるもんじゃない。山口さんだから書けたのだと思う。でもなかなか素適な文句だと思う。だから奥様も山口さんが亡くなられても、「瞳さんのことが好きで好きでいっしょにすごしてきただけの私でしたが、私の一生は幸せいっぱいだったと思います」と書けるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:瞳さんと
著者:山口 治子 中島 茂信【聞き書き】
ISBN:9784093876124
出版社:小学館 (2007/06/09 出版)
版型:271p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2010年01月18日

吉村昭著『生麦事件』

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 薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、公武合体を幕府に認めさせるため勅使を江戸に派遣する必要があると、朝廷に建言した。その建言が認められ、公卿大原重徳が勅使に任命された。久光もそれに同行し、江戸で目的を一応達成し、薩摩へ帰る。その途中、文久2年(1862年)、大行列を率いた久光の大名行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。薩摩藩士達は言葉が通じないため、身振り手振りで下馬し道を譲るように支持したが、道が狭かったために行列の中に馬を誤って進めてしまう。それにより乗馬が興奮して久光の列を乱した。これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡し、2人が負傷した。これが世に言う「生麦事件」である。

 「大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は討果てもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える」

 この本は生麦事件だけを扱った本ではない。どちらかと言えば、事件後たどった経緯に重点が置かれているといってもいい。つまりこの事件がその後大きな影響の及ぼしたことが書かれているのである。この後起こる薩英戦争や長州藩が自ら攘夷決行し、下関の海峡で西欧列強の船を攻撃したことに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争が大きな思想転換を生み、それが倒幕運動となり、明治維新となって行く、一つのきっけけとしてこの事件を扱っているのである。

 まずは薩英戦争である。イギリスは自らの国民が斬り殺されたことに怒った。幕府にもその責任があると迫り、賠償金を要求し、幕府は渋々その要求を飲むが、薩摩藩はその要求を一切拒否する。久光は、家臣が外国人を斬りつけたのはやむを得ぬこととその行為を是認していた。しかしイギリスとの戦争は免れないと思い、その準備を全藩あげて取り組む。西欧の兵術にしたがって武器を保有し、厳しい操練も繰り返した。
 文久3年戦いは始まった。薩摩は五分五分の戦いをしたと思っていたが、イギリス艦隊と対戦し、武器と技術に天と地の差があることを実感した。その旧式兵力では太刀打ちできないことをここで思い知らされれたのである。
 攘夷を実行するにはあまりにも兵力に差があり過ぎることを身をもって知った薩摩藩は、攘夷論がいかに愚かしいものであるかを思い知らされるのである
 結局イギリスを和議を結び、さらに友好関係を強め、イギリスから新式の軍艦や兵器を輸入することで、藩を旧式兵器から最新兵器に転換を図っていく。
 一方長州藩の動向も問題となる。当時京では、長州藩を中心とする急進攘夷派が勢力を伸ばし、朝廷は幕府に攘夷決行の勅命をが伝えられた。その決行日、文久3年(1863年)5月10日に、長州は下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃する攘夷に打ってでたのである。それに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争となるが、圧倒的な欧米諸国に近代兵器に完膚無きまでに叩かれた。長州藩もその力の差を見せつけられ、攘夷など馬鹿げた行為が実行不可能なものであることを思い知らされるのである。

 ところで倒幕運動は薩摩藩と長州藩が一緒になって行われた。しかしこの両藩は対立していた。薩摩藩は公武合体論を主張し、長州藩は徹底した尊王攘夷論の立場を取った。最初は京で長州藩が朝廷を擁して、薩摩藩の公武合体論を失敗に帰させた。その長州藩の過激さを恐れ薩摩藩は京都に入り、禁門ノ変で長州藩を京都から排除する。
 その後長州藩は自ら攘夷を決行したが、そんな中、間違って薩摩藩の「長崎丸」砲撃事件してしまい、それに乗っていた有能な藩士を薩摩藩は多数失った。当然長州藩に対する憤りの声がたかまった。
 しかし長州藩も薩摩藩も西欧列強と戦い、その力の差が歴然としていることを悟り、攘夷論の転換、軍備を強化して開国を推し進めるべきだという意見が主流となっていく。
 こうなっていくと両藩が進むべき道が同じ方向に向かっていくこととなる。しかしそれでもまだ両藩は反目する点が多かった。この後幕府による長州征討が行われるが、薩摩藩の西郷よる周旋で幕府の第一次長州征討が寛大な処置によって結着をみた。このことで薩摩藩に対する積年の恨みもうすらいだ。さらに西郷が、禁門ノ変で捕虜になった長州藩士たちを藩に送還し、長州にのがれていた急進攘夷派の三条実美ら公卿たちを、江戸に護送せよという幕命にそむいて、九州の筑前に身柄を移した配慮に感謝の念もいだいた。これらの事柄によって、薩摩、長州藩の間にはひそかに融和の気配がきざしていたのである。
 しかしそれでも長州藩は朝敵であり、薩摩藩はそう簡単に長州藩と手を結ぶわけにはいかなかった。下手に長州藩とむすびつけば、幕府はもとより勅許を下した朝廷へ敵対する結果となり、全国諸藩を敵にまわすことにもなって、藩は重大な危機にさらされる。しかし一方で長州藩に薩摩藩を通してイギリスからの武器の調達をさせていた。
 ここに坂本竜馬が登場する。坂本は自ら商業をやりたいと考えていたので、それをスムースに行うためには日本が幕府と諸藩に分かれていてはダメだと考えていた。薩摩藩と長州藩が一緒になって幕府を倒し、日本を一つの国としてまとめるべきだと考えていた。だからこの両藩が同盟を結ぶべきと考えていて、その斡旋をする。
 長州の木戸を京に呼び、薩摩の西郷、小松帯刀と会合させる。しかし両藩とも同盟を結ぶには問題があった。薩摩藩にすれば長州藩と手を結ぶことは、火中の栗を拾うような冒険であり、長州藩にすればこのままでいれば幕府の征討軍によって滅亡は必死の状態にあり、薩摩藩と提携すれば死地を脱するのも可能になるが、それは薩摩藩を危険な立場に追いこむことになる。さらに意を決して薩摩藩に提携を懇願するのは憐れみ乞うのと同様で、藩の面子としてそれはできかねていた。
 そんな双方の思惑があって、論議は十余日に及んでもなんの進展もみられなかった。木戸は話が進展しないことで帰藩しようとするが、それに驚いた坂本竜馬は「薩長両藩はお互いに猜疑心や面子を捨てて天下のため真情をもって協議すべきである」と両藩の間を取り持つのである。この坂本の発言は潤滑剤にも似た効果があって、これによって薩長同盟がなる。

 ところで司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』では、坂本のその独創性、行動力、交流の広さによって、薩長同盟がなったように書かれていたと思う。もしかしたら違うかもしれない。なにせ、この『竜馬がゆく』を読んだのは、私が高校三年の夏だから、それからだいぶ時間がたっているので、自信がない。(何でこんなに詳しくその本を読んだ時期を覚えているかと言えば、当時大学受験の夏期講座に出ていて、授業を聞かずに、この本に夢中になったことを覚えているからだ)
 しかしこの吉村さんの本を読むと、坂本竜馬の独創で薩長同盟がなったのではなく、そうなるべくしてなって行ったことを知った。確かに坂本の斡旋があってなったことは間違いないだろうが、そうなるべく雰囲気が両藩に生まれていたから、多少のメンツはあったにせよ、吉村さんの言うように坂本は単に「潤滑剤」の役目をしただけであり、薩長同盟が坂本の力だけでなったわけじゃないと知った。
 こういうのは見る人の視点によって変わるものだと思うが、多分司馬さんの小説は坂本竜馬を主人公にしているだけに、その思いが熱く伝わり、坂本の力を過大評価させる記述になっていて、私がその通り受け取ってしまったのだろう。だから長いこと薩長同盟は坂本竜馬の力だと思っていたのだ。
 それにしても生麦村で薩摩藩士の一人がイギリス人を斬ったことから、これが後に大きな流れとなっていくとのは、歴史の不思議さを感じてしまう。何がきっかけで時代が変わるのかわからないものだ。それを思うと面白い。


評価
★★★


書誌
書名:生麦事件
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242260
出版社:新潮社 (1998/09/25 出版)
版型:423p / 21cm / A5判
販売価:入手不可。文庫ならあり

2010年01月04日

吉村昭著『彰義隊』

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 まずは新年の挨拶から。

 新年あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願いいたします


 去年も吉村さんの随筆から始めたが、今年の第一発目も吉村昭さんのこの本から。
 徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いから江戸へ逃げ出した。慶喜が“朝敵”となり、自ら上野寛永寺で謹慎する。しかし一方で皇女和宮や寛永寺山主輪王寺久能親王にも恭順の意を朝廷に伝えてもらいたく画策する。徳川家にとって和宮と輪王寺宮が唯一の朝廷とのパイプであった。和宮は仁孝天皇の皇女で兄は孝明天皇である。徳川幕府は公武合体の最も有効な政策として皇女和宮を将軍家茂と結婚させることとして進めた。当時和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約が決まっていたのを破棄されて、徳川家に嫁いできた。その有栖川宮熾仁親王は東征大総督として任じられ江戸討伐軍としての最高幹部となっていた。従って有栖川宮熾仁親王にとってみれば徳川幕府は和宮を奪っていった敵であった。当然感情的に徳川幕府を許せるわけがないのである。

 和宮は慶喜の恭順の申し立てを受けいれ、使者を立てたが、これといった結果を得られなかった。そして次に白羽の矢がたったのが、寛永寺山主輪王寺久能親王であった。輪王寺宮は明治天皇の叔父に当たる。宮は十二歳で勅命により輪王寺の後継者となり、幕末日光と上野の山主となっていた。輪王寺宮にとって慶喜の恭順や徳川家の存続の嘆願よりも、江戸に対する思いの方が強かった。宮は寛永寺山主になって十年近く江戸にいた。そのため江戸が自らの故郷に近い存在になっていて、町民に対する愛着も強くなっていた。
 朝廷軍が江戸に入ってくれば、当然幕府と戦争になる。戦争になれば宮の愛する町民は逃げまとうことになる。そのことが宮にとって心配であった。だから宮は慶喜の使者となって有栖川宮と会うが、けんもほろろに扱われる。しかもここまで来る間に高貴な身分である宮に対して薩長軍を主流とする朝廷軍は、宮の御輿を止めたり、遮ったりし、近づいて扉を無造作に開け、覗くなど無礼な態度をとるのであった。そこには単に好奇の目しかなかった。この行為が宮や宮の執当である覚王院に深く屈辱的な記憶として残ることとなった。特に覚王院にはそれが甚だしかった。

 さてその彰義隊である。慶喜は朝敵にされるのはかなわんという気持ちから、恭順という態度をとった。将軍慶喜は水戸の出身であり、水戸藩といえば皇国史観のかたまりの藩である。天皇を重きに考える。そんな藩の出身である慶喜が自らが朝敵とされることにはどうしても耐えられなかったに違いない。だから恭順という態度をとった。
 そんな慶喜を君としている臣は、慶喜が終始朝廷に忠義の志あつく、二百年続いた幕府の政権を朝廷に奉還したにもかかわらず、朝廷に巧みに入り込んだ策士どもの陰謀によって、追討を受ける身となったことに耐えられなかった。君を辱められた臣は、死を覚悟して戦うものであるとして一橋家ゆかりのものが会合を持ち、そのうち諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加して、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成された。会は正式名を持つ必要性があるとして彰義隊と名変えた。
 彰義隊はどんどんその人数を増やしていく。しかし彰義隊が大きくなればなるほど、慶喜の謝罪を朝廷に認めてもらうのに大きな障害となる。旧幕臣は頭を悩ませる。本当からいえば彰義隊の解散が望ましいが、それを強行すれば、彼らは激怒し予想を絶した行動を取りかねない。そこで彼らを江戸の治安を守るために利用した。
 大政奉還以来幕府の権力は低下し、それによって盗賊が横行し、治安が乱れていた。彰義隊は町の治安維持のために働くようになる。そこに朝廷軍が入ってきて、戦勝気分で大胆な行動で町をのし歩き、横暴さが目立つため、朝廷軍と彰義隊が衝突するようになっていく。当然江戸の町民からすれば彰義隊は江戸の治安を維持してくれる存在であったから、支持した。

 「町民たちは彰義隊の提灯の列が近づくと家々から出て来て頭をさげ、隊員が休息のために足をとめると、茶や甘酒を出して感謝の言葉を口にする。上野の山にも食料を手にしたり大八車に積んだりして、彰義隊の屯所にとどける者がひきもきらなかった。正装し、連れ立って金を寄進する者が多かった」

 朝廷軍は、江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な江戸の町は町民のもので権勢は及んでいなかった。江戸の治安は彰義隊員によって維持されている趣があった。
 東征大総督府の目的は、むろん江戸城を接収することによる江戸の完全占拠であった。江戸の完全掌握には町民が支持している彰義隊の存在が邪魔であった。その状況を打ちくだくためには、彰義隊と町民の間に深いくさびを打ち込み、彰義隊を自然消滅させる以外になかったのである。
 東征大総督府はたびたび彰義隊の解散を要求し始める。山岡鉄舟は彰義隊の解散を促すために、上野に行くが、覚王院は慶喜謝罪の使者として輪王寺宮と一緒に道中を旅したときの屈辱感が思い出されていた。

 「朝廷軍と言っても、所詮は薩摩、長州の軍勢に過ぎず、貴殿が上使としてこられたのは、薩摩の策略に乗ったにすぎない」

 「当寺は古くから徳川家が経営し、皇族を山主と仰ぐ寺であり、徳川家に恩を感じる者たちが集まって守護しようとするのは当然のことである。そのような忠義の者たちである彰義隊を解散せよ、と言われる貴殿は、徳川家の恩を忘れた逆臣である」
 
 と声を荒げて言うのであった。

 その間に、彰義隊に加わる者は日を追って増し、その勢力は侮りがたくものになっていた。江戸城を接収しながら、江戸には朝廷軍に反抗する彰義隊が市中を歩きまわり、朝廷軍の藩兵に威圧感をあたえている。そのような状況が地方にも波及すれば、各地で朝廷軍に抵抗する動きが活発化することが予想された。そのような懸念から、大総督府内では彰義隊を一挙に武力をもって殲滅すべきだという声がたかまっていく。

 そして遂に慶応4年(1868年)5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。新政府軍は火力で優り、また肥前藩が保持するアームストロング砲の威力もあって、午後からは優勢に戦闘をすすめ、一日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
 戦いは半日で終わった。輪王寺宮は寛永寺から逃れ、関東にある寛永寺の支寺へ逃れるが、朝廷軍の追っ手が迫り、遂に品川沖に停泊していた榎本武揚が率いる艦隊に乗り込み、奥羽へ逃れる。
 当時東北では官軍に対抗して奥羽越列藩同盟がなっていた。彼らの士気を高めるために輪王寺宮を盟主に仰ぐ動きとなり、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主となるが、歯が欠けるように一つ一つ同盟の藩が朝廷軍に降っていく。最後は宮にはもう帰順しか残っていなかった。結局宮も朝廷軍に降った。
 宮はこれで江戸に帰れると思ったが、朝廷は宮を京都に謹慎させる。しかも有栖川宮熾仁親王のもとでである。威厳もへったくれもない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。

 宮は後に罪を許され、日清戦争で台湾征伐の総指揮を任されるまでになる。当時朝廷に反抗した徳川家ゆかりの人間は罪を許され、明治新政府に重職に就いている者もかなりいた。結局彰義隊に加わった、一心に君を思う者だけが死に、遺体を回収されないままさらされてしまっただけであった。貧乏くじを引いただけであった。

 この本を読んでいて、力にものを言わせ、それまであった威厳や秩序などをまるでローラをかけるように挽きつぶしていく感じがものすごく不愉快な気分として残った。確かに時代の流れとしてそうなっていくのは仕方がないことなのかもしれないが、たとえそれは粗にして野だが卑ではあってはならないと感じた。新しい時代が生まれようとするのである。そこには荒々しい力があっても当然であり、粗であり野であってもかまわない。ただ碑であれば、どこか醜い。そんな感じがどうしてもつきまとった。
 この時代、歴史に名を残した人間が多くいるが、一方で虎の威を借りて、横暴な態度をとる人間も新体制側に多くいたのであった。維新の話を読む度にいつもこういう輩の横暴さに腹が立ってしまう。
 一方で輪王寺宮や榎本武揚など、朝廷軍と相反して戦ってきたのに、戦いに敗れ、その罪が許されれば、明治政府の要人として生きていく姿にもどこか疑問を感じてしまう。彼らは盟主であり、指揮官であった。多くの無名の人が彼らを慕って、戦い、死んでいった。それなのに“転向”が簡単にできるほど生き方で、盟主や指揮官をやっていたのかと、どこか腑に落ちないところも私には残ってしまう。少なくとも“転向”に大きな苦悩があって欲しいと願うところである。何故なら彼らのために多くの人が死んでいったからだ。


評価
★★★


書誌
書名:彰義隊
著者:吉村 昭
ISBN:9784022500731
出版社:朝日新聞社 (2005/11/30 出版)
版型:395p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年12月30日

吉村昭著『熊撃ち』

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 この本は読みたかったが、本屋で入手できなかったので、探していた。やっと見つけたのでさっそく読み始めた。
 吉村さんには『羆嵐』という作品があるが、これを読んで羆の恐ろしさが身に迫るほど恐ろしく感じたのを今でも思い出す。今回読んだこの本は『羆嵐』を書く前に書かれた本である。猟師やハンターの取材から生まれたものだった。つまりこの『熊撃ち』は『羆嵐』を生むきっかけとなった作品なのである。吉村さんも『羆嵐』は『熊撃ち』の副産物として生まれたものだったと言っている。
 この作品は七話からなり、一話一話主人公の猟師の名前をタイトルにしている。しかも主人公は実在し、物語も実際あった話だという。だからだろうか、とにかく北海道にいる羆(一話だけ内地の熊の話だ)の恐ろしさがひしひし感じられる。
 だいたいが羆に襲われた人がいて、その後羆狩りが行われるパターンなのだが、まずはその羆に襲われた現場の無惨さである。

 「娘が行方不明になってから五日目の十一月二十三日、捜索隊は、楢の木の根本にころがる無残な娘の遺体を発見した。衣服はひきむしられ、隆起していた乳房も荒々しく食いちぎられている。さらに腹部や腿や臀部など、肉のついている部分はすべて食い荒らされ、頭部にも鋭い歯の跡があり地下足袋もかじられていた」

「青年が、大鎌をふりあげた。羆と青年の体が、接近した。鎌の刃が、ひらめいた。と同時に、ゴキッという音がした。羆の掌が青年の頭部をうち、その衝撃で首の骨が折れたのだ」

 「老女を襲って肉を喰べた羆が射殺されて解体された。すると胃のなかから消化されなかった人体の表皮が出てきた。両掌に乗る程度の量だったので水でよく洗ってビニール袋に入れ、遺族に渡すことになった」

 「娘を喰い殺した羆が射殺された。解体すると胃のなかの肉は完全に消化されていたが、奇妙なものがとけずに残っていた。それは赤く固い拳のようなもので、ほぐしてみると都腰巻の繊維と毛髪のからみあったものだった」

 吉村さんの文庫版のあとがきで、「内地の月の輪熊は植物性のものを主食とするが、北海道の羆は、植物性のものを食べると同時に肉食でもある。牛、緬羊など家畜を襲い、人間も食い殺す」と書かれているが、まさにこれが証明している。その力はものすごい。とにかく羆は猛獣なのである。
 息子が羆に襲われ、その敵討ちとして一緒に猟師と山に入り、目の前にその羆が迫ってきたとき、息子を襲われた男はライフルを発砲し、絶叫しながら逃げ出してしまう。それほど素人には恐ろしい生き物であった。しかし猟師はそうした羆の恐怖に立ち向かえるほどの強靱な精神力で引き金を引き、羆を倒すのである。彼等はだいたいが寡黙であり、自然の怖さ、羆の怖さを充分に知っており、決して自然や羆を軽んじない。用意周到であり、狩りのためには、何日も山には入り、待ち続ける忍耐力を持っている人たちであった。 そんな恐ろしい羆であるが、一方で羆狩りが村の収入源であり、食糧でもあったため、羆狩りの時期が待ち遠しいところもあった。毛皮と胆嚢は高く売れたのである。
 とにかく羆がどこにいて、どうやって追い詰めていくか、その自然の厳しいさとともに、緊迫感がずんずん伝わってくる作品であった。


評価
★★★★


書誌
書名:熊撃ち
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169268
出版社:文芸春秋 (1993/09/10 出版)文春文庫
版型:205p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年12月17日

吉村昭著『史実を歩く』

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 今度の新書の方は一般向けである。なんかここに書かれている史実に忠実に向き合う吉村さんの姿勢を読むと、安心できる。それは文章を読んでいてもそう感じる。やっぱり書かれたことにしっかりと裏付けがある文章は安心できるのだ。
 しかしここまでこだわる必要性など読む側は感じているのかなと思った。たとえば桜田門外の変で、この日、安政七年(1860年)3月3日は夜明け前から雪が降り、乱闘があったときは大雪になっていたと言われている。乱闘後、井伊大老を討った水戸藩士らは品川宿に向かっている。この時には雪はやんでいたらしい。吉村さんは、では雪はいつやんだのだろうと疑問を持つ。読む側にとっていつ雪がやんだのかどうでもいい感じだ。実際昔読んだ吉村さんの『桜田門外ノ変』でそんなことちっとも気にならなかった。しかし物語を書く吉村さんにとってはそうもいかないことだったらしい。どうしても知っておきたいことなんだそうだ。たぶん物語を書く上で乱闘と乱闘後を続いて書く上で、イメージとしてそれはどうしても必要なことだったのだろう。わかるような気がするが、でもそこまでこだわらないと小説が書けないというのは厳しい。

 さらに生麦事件でもそうだ。文久二年(1892年)八月に生麦村で薩摩藩藩主島津久光の行列にイギリス人商人が接触し、リチャードソンが薩摩藩の人間に斬られた。吉村さんはイギリス商人が乗っていた馬は日本の馬とは違い上海から持ってきたアラブ系の馬だったことを知っている。当然日本の馬より大きい。となると、斬られたリチャードソンの身体は斬った武士よりかなり高い位置にあったことになる。記録ではリチャードソンは脇腹を斬り上げられ、さらにそれより高い肩から斬り下げられている。そんなことが可能なのかと疑問を持つのだ。言われてみれば確かにそうだ。
 そこでその疑問を解消するために吉村さんは鹿児島に調査に行く。その結果、リチャードソンを斬った奈良原の剣は野太自顕流という流派の剣で、戦陣用の長大な大太刀で刀身が長く、幅が広い剣だと知るのである。そして奈良原はその剣法の達人だったのだ。だから自分より高い位置にいるリチャードソンを肩から斬り下げることが可能だったのだ。
 すごいと思いませんか?史実ではリチャードソンは脇腹を斬り上げられ、さらにそれより高い肩から斬り下げられているとわかっている。普通ならそうか、そうして斬られていたんだなで終わってしまう。でも吉村さんはそれで終われなかった。満足出来なかったのである。それは物語の細部にこだわりを持って出来る限りリアルに事件を描きたいという意識だけじゃない。
 この生麦事件が、その後薩英戦争となり、薩摩藩は徹底的にイギリスに痛めつけられ、それまで持っていた攘夷論がいかに現実を無視した愚かしいものであったかを思い知らされる。以後薩摩藩はイギリスと親好を結び、積極的にイギリス式兵法を取り入れ近代化していく。それが倒幕運動でも力を発揮していくのである。そう考えるとこの生麦事件は一つのエポックメイキングとなったわけで、そうであるからこそ、些細なことでもこだわらないわけにはいかないのである。そういう視点でこの生麦事件を吉村さんは見ているからこそ、こだわったのである。
 その経緯がここに書かれている。一つの事件だけを細かく描写するだけでなく、それを書く理由が、視点が、その先を見据えていることを知るのである。そういう吉村さんの歴史小説の裏側がここには紹介されていて、それだけでも楽しい。これだけ細かいことにこだわり、綿密な取材をされているからこそ、吉村さんの書かれる小説は面白いのだと思う。
 年明けはこの生麦事件を扱った小説もそうだけど、いくつか吉村さんの歴史小説を読もうと思っているので楽しみである。


評価
★★★


書誌
書名:史実を歩く
著者:吉村 昭
ISBN:9784166600038
出版社:文芸春秋 (1998/10/20 出版)文春新書
版型:214p / 18cm
販売価:714円(税込)

2009年12月16日

吉村昭著『事物はじまりの物語』

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 ちくまプリマー新書とはネットで調べてみると「高校生・ヤングアダルト向けの新書である,筑摩書房の「ちくまプリマー新書」のリストです。『岩波ジュニア新書』に比べると,薄手ですがそれほど堅苦しくなく気楽に読めるものが多いのが特徴です。逆に言うと重厚感には欠け,淡泊な感じもしますが,切り口は伝統的な「岩波ジュニア」よりも新鮮です」とある。だからこの本もわかりやすく、しかも簡単に書かれている。その分物足りなくもあることは事実だけれど、吉村昭さんの随筆だから読んでみた。
 ここでは吉村さんが歴史小説を書くために集めた史料から得た“はじめて”を語っている。内容は日本で初めて解剖をやった人は誰か。スキーを始めて日本でしたのは誰かとかいった感じで、以下石鹸、洋食、アイスクリーム、傘、国旗、幼稚園、マッチ、電話、蚊帳・蚊取り線香、胃カメラ、万年筆の初めてを紹介している。その中で私が興味を持ったというか、へぇ~そうなんだと思ったことが国旗と電話と万年筆の話である。

 日本の国旗はどうして日の丸なのか。日の丸は「江戸時代の廻船にかかげられた幟、旗の船印からはじまっている。
 日本各地に幕府が管理する天領と称された地があって、そこで産した米が、御城米(年貢米)として江戸の幕府に船で運ばれた。
 この船には御城米以外に銀や銅なども積まれ、一般の廻船と区別するため、白地に朱色の丸印をえがいた船印がかかげられていた」という。
 幕末薩摩藩は「昇平丸」という西洋型帆船を完成させ、その頃渡来する外国船と区別するため、「昇平丸」が日本船籍の船であることを示すため、日の丸の船印をかかげた。この船は幕府に献上されたが、その時藩主島津斉彬は、日本のすべての船に同一の船印を立てるべきと老中阿部正弘に建言した。つまり日の丸を最初に掲げたのは「昇平丸」であり、その元となったのは、江戸幕府の御用船すべての船に掲げられていた日の丸の船印だったのである。

 電話で我々は「もし、もし」と言うけれど、これはどうしてなんだろうか。言われてみれば不思議である。この本によると、日本で最初に電話が引かれたのは明治で、役所と役所の間だった。そして当時の役人は武家あがりが多く、「もうし、もうし、そこを行かれる方」などという武家の使った呼び方のもうしという言葉から「もし、もし」という言い方が使われたという。ちなみに広辞苑 第五版で“申し”という言葉を意味を調べてみると、「敬意をこめて呼びかける時にいう語」とあるし、三省堂の大辞林でも「人に呼びかけるときの言葉」とある。「申し、申し」から「もし、もし」となったわけだ。

 万年筆はへぇ~というより、懐かしいといった感じであった。ここには学生の頃上着のポケットに万年筆をさしたときの興奮を吉村さんは書かれているが、これはよく分かる。私も中学生になって学ランのポケットにさした万年筆に興奮したものだった。入学祝いにその万年筆を買ってもらったのである。なんかそれだけで勉強するみたいなところがあった。
 その興奮が今でも残っているものだから、私は万年筆が好きである。確かに今は使わないのだけれど、丸善や伊東屋でショーケースに並んでいる万年筆を見るとぞくぞくする。
 今モンブランの太いやつを持っているが、これにインクを入れる時、インク瓶にペン先をさしてインクを入れていく時の感覚が大好きである。そして必ず手にインクをくっつけてしまうのだけれど・・・。それもそれでいいのだ。
 というわけで、今回この原稿の下書きをこの万年筆で書いてから、パソコンで入力してみた。(すぐ感化されちゃうのだ)


評価
★★★


書誌
書名:事物はじまりの物語
著者:吉村 昭
ISBN:9784480687050
出版社:筑摩書房 (2005/01/25 出版)ちくまプリマー新書
版型:124p / 18cm
販売価:714円(税込)

2009年09月12日

吉村昭著『お医者さん・患者さん』

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 この随筆ちょっと期待したところがあったのだが、どうも期待はずれであった。私が期待したこととは、吉村さんが医者や患者を実際問題、どう考えているかということである。確かに吉村さんによる医者というもの、あるいは患者たるもの、こうあるべきだと書いてはあるのだが、どうも私には一般論としか読み取れなかった。

 ということで、ここは本から離れて、今の私が病気である患者(自分)が医師をどう考えているか書いてみる。その前にこの随筆に「医師は、医師である以前に人間でなければならないはずである。それも人間の生死をあずかる職業人だけに、高度な人格をもつ人間であることが要求される」と書かれていることから始めたい。
 この論理はおそらく大方の日本人が持っている意識じゃないかと思う。そしてそこから医師はそうであらねばならぬ、という思いに変わっていく。図式で書けば医師=人格者=名医ということだろう。そこから医師は人格者であるから、どんなときでも自分のことより患者のことを最優先に考えなければ医師じゃないということになっていく。しかしこの考え方は患者の優位性を自己主張させることになる。つまり自分は病人で弱者であるから、当然それなりに扱ってくれなきゃ困るという考えが生まれてくる。医師は人格者なんだから、そのように扱うのは当然というものである。ここにモンスターペイシェントが生まれる背景があるような気がする。そうしてモンスター化した患者は、医師は病気を治して当たり前という考えが頭から離れない。自分の病気がなかなか治らなければ、今度はその医師に藪医者というレッテルを貼り、吹聴するのだ。
 実は私もちょっと前までそうであった。しかしここ数年胃腸で通院し、最近はぎっくり腰、そして歯医者と病院通いが続くと少しずつ考えが変わってくる。特に胃腸に関してはその思いは複雑だ。私はこの病気で三回、病院を変えてきた。病院を変えた理由は簡単である。“治らない”からだ。やりたくもない検査をやって、複数の薬を毎日飲んでも一向に良くならなかったからだ。その結果、その医師はダメだということになり、その医師は力不足と思ってきたのである。違う先生のところへ行けば、もっと良くなると思うのである。そこには病院に行けば病気は必ず治るものだという考えがあるからである。
 でも最近はそうじゃなくて、病気は治るものもあれば、治らないものもあるんじゃないか、と思うようになっている。それは諦めみたいなところもあるけれど、どうしようもない状態だってあるのではないか。だからあとは、少しでも気分が良くなるような状態が維持できるようすればいいのではないか。

 医師は病気というものを必ずしてくれるものではないということを感じ始めたのである。あるいは薬は完全に病気を治してくれるものじゃないのではないかと思い始めたのである。断っておくがそれは医師の力とか薬の効能にいちゃもんをつけているんじゃない。ここは素人の考えだけど、多分病気から治ろうとするのは自分の身体であって、医師の力とか薬とかはあくまでもそうした自己回復力をサポートするものなのではないかと思うようになったのである。
 そして自分の身体の回復力が衰えていたら、治りは遅いか、あるいは治らないというか、以前のようにはなれないと思うようになってきた。そうなのだ。自分の身体の衰えや老化、生活環境、生活習慣などを差し置いて、病気が治らないというのはおかしいんじゃないかと思うようになったのだ。
 人間歳をとれば体力も落ちるし、身体のあちこちにがたが来るのは当たり前である。そのように酷使してきたんだから当然である。それで治らないと言ってしまうのはおかしな話だろう。人間の身体はパソコンのパーツをスコンと丸ごと変えて、元の状態にするのとはわけが違う。死ぬまで自分の身体と付き合うしかないのだ。衰えたら衰えたなりに付き合っていくしかないのである。調子が悪いなら、悪いなりに付き合って行くしかない。生活環境など変えられれば、多少違うかもしれないけれど、そうそう今生きている環境を変えることなどできない。無理をしても生きていかなければならないのだから仕方がない。
 となればあとはどうやって自分の身体と折り合いをつけていくか、それしかない。その上で以後どうしていくか、それを考えてくれる医師が信用できる医師なんじゃないかと思うようになってきている。

 今通っている胃腸の科の先生ははっきりとそのことを言ってくれた。だからあとは日々いかに少しでも楽に過ごすことができるか、それを薬でサポートしようということに、私の場合なっている。だから今後いくら病院を変えても、多分意味がないのだろうと思っている。
 歯医者にしてもそうであった。やっと自分が安心して任せられる歯医者さんが見つかって、ホッとしていたところ、その歯医者さんが廃業された。このあとどうすればいいのか途方に暮れ、今日まで来てしまった。当時先生から厳しく言われていた日々のケアを怠らなかったので、幸いにも以後歯痛に悩まされることはなかったが、差し歯のぐらつきはどうしようもない。ネットいろいろな歯医者さんを検索しているうちに、その先生がまた歯医者さんを開業したことを知り、メールで連絡を取れば、すぐ来なさいと言ってくれた。
 そして差し歯を直してもらい、また問題のあるところを治療してもらうことになったのだが、そんなことはちっとも苦じゃなかった。それよりまた自分の歯をこの先生に診てもらえるというだけで、安心であった。
 胃腸科の先生にしても、歯の先生にしても、その技量は個人的に絶大な信頼を置いているけれど、それよりこんな私のことでもきちんとサポートしてくれるという安心感が今の私にはある。それで気持ちが楽になる。それが人格者云々のなせるわざと言うのだというなら、それでもいいけれど、でもそんな大上段に構えた言い方はあまりしたくない。むしろ先生の方は淡々と治療されているだけじゃないかと思うし、それでいいのではないかと思うのだ。弱っている患者は投げかけられる言葉の一つ一つに過剰反応をしてしまう。対応如何でえらいことになる。そう考えると医師という
職業は大変だ。でも医師=人格者=名医という考えは間違いなく患者の奢りのような気がする。

 今日は変な文章になっちゃったな。何度書き直してもいい感じになれない。書かなきゃよかったかな?


評価
★★


書誌
書名:お医者さん・患者さん
著者:吉村 昭
ISBN:9784122012240
出版社:中央公論新社 (1985/06 出版)中公文庫
版型:221p / 16cm / 文庫判
販売価:619円(税込)

2009年08月31日

吉村昭著『七十五度目の長崎行き』

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 先日大学の友人と飲んだとき、どうしてそんな話になったのか忘れてしまったが、ワープロが文章を書けなくさせているかどうかの話になった。要するにワープロのお陰で、辞書は引かなくなるし、文章もいかにもワープロで書きましたという無個性の文章しか書けなくしているというのである。かたくるしい文章で、普段絶対に使わない漢字がやたら並んでいる。それは誰でもワープロで簡単に文章が美しく書けるようにと、ワープロ自身が余計なお節介だと言えるほどの機能があって、それを使えばそれなりの文章が書けてしまうからだというのが、三人のうち一人の意見であった。そして私ともう一人がそうじゃないという意見である。(こいつと意見が合うのは珍しいのだが)
 確かにワープロはお節介の押し売りのような機能がたくさんあって、自分で文章を考えなくても、アシスト機能が満載されているので、ある程度の文章は書けてしまう。また辞書も引かずにすむ。でも、最終的に自分の書いた文章を確定し、enterキーを押すのは当の本人である。これでいいと押すわけで、その決定権は文章を書いた人物にある。ということは、たとえワープロにアシストされた文章でもそれで良ければそれが当の本人の文章となる。それが悪文かどうかはワープロの機能のせいではなく、書いた本人の資質が大きな影響が大きな作用すると思う。だから基本的にワープロがいい文章を書かせないとは絶対に言い切れないはずだ。
 ではワープロ任せの文章ではなく、あくまでもワープロを文章を書く道具として使い、読んでいて心地よいいい文章が少しでも書けるかどうかは、その人がいかにいい文章にふれあっているかどうかにかかっていると考える。つまりある程度文章を書く人は、他の人の文章にどれだけ多く接しているかにかかっている。そこで読んでいていい文章だなと感じれば、あるいは自分もこうした文章が書きたいなと思えばその人の文章のまねをすればいい。そういうことなのだ。すべてはいかにいい本を読んでいるかにかかっている。そこですばらしく簡潔でやさしいく、しかも内容を的確に表現している文章をに出会えれば、いかに自分の書く文章が悪文かわかるはずだ。
 何度も言うが、決してワープロが汚い文章を書かせるのではなく、書いた本人がいい文章にふれあっていないから、どうしようもない文章が出来上がるのだ。そういう意味では読書というのは大切なことになる。
 実際私もやっとそのことがわかり始め、本を読むことの大切さのひとつを感じている。ましてつたないながらもこうして文章を書いている以上、やっぱり少しでもいい文章でありたいと思うようになっている。だからひところよりは、ワープロで選択できる難しい漢字は使わないようにしているし(だって普段絶対に使わない漢字を、たまたまワープロが簡単に選び出してくれただけのことで、それがなければそのためにわざわざ辞書を引かないでしょう。ひらがなで十分ならそれでいいはずだ)アシスト機能できる限り外しているし、できなければ基本的に無視している。

 さて、そういう意味では私にとって吉村昭さんや阿刀田高さん、司馬遼太郎さんのエッセイは最高の教材なのである。私は小説の中でなかなかいい表現だなと感じることができない人なので、日常の生活の中から生まれるエッセイの方が、より身近に感じられ、あっ、そうか!こんな風に書けばいいんだと思うことが多くある。だからエッセイが好きで、特に最近はこの三人が先生となっている。少しでも自分が書きたいことを、この三人作家さんたちみたい表現できればいいなと思っている。
 そして今回も吉村昭さんの紀行文を読んでいる。この紀行文は吉村さんの最期の紀行文集となるらしい。というかもう新しい旅の文章はすべて出版されてしまっているので、それでももれてしまった、ミニコミ誌や機関誌などに掲載された吉村さんの短い旅に関する文章をかき集めたもののようだ。まぁ、その過程はどうでもいい。要は吉村さんが書かれた文章を味わえればいいのだ。それだけである。
 吉村さんの旅の目的はほとんど小説のための取材旅行である。その旅の途中で見た風景のすばらしさ、地元の人とのふれあい、地酒と美味しい料理の話である。そこは開高健さんとは違う。開高さんは言葉にできなほど美しい風景とか美味しい料理だとは、小説家であれば絶対に言ってはいけないという主義の人である。だから言葉を尽くして何とか表現しようとする。そのため時には饒舌過ぎるほどの表現になってしまう。ところが吉村さんにはそんな気負いはない。地元の小料理屋に入って、美味しいお酒と料理を単に“美味しい”と書くだけである。もちろんその素材の新鮮さなどは書いているが、それ以上の表現はしない。旅に関する全体の感想も最期に“いい旅であった”と書くだけである。
 でも読んでいる方もそう感じるのである。そこには個々の細かい表現にこだわるのではなく、全体からそう感じさせるテクニックがここにはあるような気がする。後は読む方で自由に想像すればいい。きっとすばらしい風景なんだろうなとか、これは美味しいんだろうなと思わせるのだ。
 文章表現というのは言葉だけで表現するのと、文章全体から感じ取られる方法があるんだなと改めて思う。そういう意味からすれば、文章というのは奥深いもんだ。
 書かれているものから何か読み取ってやろうとがつがつするのも結構だけれど、そうではなく、全体の雰囲気から“いいなぁ”と感じるのも、それこそいいと思う。私は吉村さんの随筆はそうして楽しんでいるし、今回も同様に楽しんでいた。
 またこの紀行文は先に書いたように、そのほとんどが吉村さんの小説のための取材旅行である。だからここに書かれる文章を読んでいると、その小説を読んでみたくなる。
 それにしても吉村さんがよく行かれる北海道や長崎は死ぬまでには絶対に行きたいと思う。長崎は特に行ってみたくなった。もし長崎に行ったら国に帰った昔の友人に会いたなとも思った。会えるだろうか?


評価
★★★


書誌
書名:七十五度目の長崎行き
著者:吉村 昭
ISBN:9784309019277
出版社:河出書房新社 (2009/08/30 出版)
版型:229p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年08月20日

吉村昭著『昭和歳時記』

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 この文庫は平成8年に出版されているようだが、13年経った現在ではもう手に入らない状態になっているのは驚きである。確かに電化製品の部品が約5年から10年ほどでなくなる時代だから、13年経ってこの文庫本が手に入らないのは仕方がないのかもしれない。
 さてこの本は以前読んだ吉村さんの『東京の下町』の姉妹編である。書名に『昭和歳時記』といっている以上、昭和にあった風物詩がここでは描かれるが、その殆どが今、姿を消しているといっていいかもしれない。
 いやそれ以前に1955年(昭和30年)から1973年(昭和48年)の高度成長期が、それまであったものを時代遅れのものとして捨てていき、それが忘れ去られていったのではないかと思う。
 吉村さんは「衣服その他身につけるものは、明治、大正から昭和にうけつがれてきたが、昭和三十年頃に一挙に消え去ったものが多い。それは蚊帳が家庭から姿を消したのと一致している、と、なんとなくそんな風に思っている」と言っているところからも、それに間違いはなさそうである。
 ただいつも思うのだけれど、私の生まれた昭和31年はまだその高度成長期が始まったばかりだったから、自分の子供の頃にはまだ戦前・戦後の風物詩が多少残っていたのではないか。それが私の記憶にあるような気がする。しかも私は東京の下町育ちなので、高度成長期の波がまだここに全部きていなかったのではないか。だからここに書かれる風物詩を共有できるところがあるのである。
 もちろん昭和2年5月1日の生まれの吉村さんのように戦前・戦後を体験してきたわけじゃないから、私の記憶にあるのは戦後残されたものの一部というところだろう。

 一時“昭和ブーム”みたいなところがあって、そのレトロ感が郷愁を誘うような風潮があった。まぁ、平成元年生まれ私の息子が今年の1月に成人式を迎えたのだから、昭和が終わって20年経っているわけで、郷愁を誘うものになっても不思議じゃないかもしれない。
 ただ吉村さん「人間はとかく過去を美化しがちだが、『古き良き』などと軽々しく言ってもらっては困るのである」とそういう風潮に釘を刺している。過去がすべて古き良きものであったはずがなく、不便で非衛生的で、汚い部分もあったはずで、現代の方が圧倒的に社会生活が快適になっていると言っているのである。こういう客観的な比較がきちんとできて、この本は書かれているので、手放しで“あのときは良かった”と言われないところが読んでいて心地よかった。
 昔を振り返るとき、今から比べればおもちゃみたいなものであっても、必ず郷愁というものがそれを美化してしまうところがある。確かに何でもかんでも機械にやらせる今の道具から比べれば、この当時のものは基本的にマニュアルだったからどうしても人間の手や力がどこかで及ぶ。それを人間的だと勘違いする言い方は基本的に私は気にくわない。どう考えたって、今の方が便利はずで、その方が便利なら、あるいは楽だと思うなら、はっきりとそういえば言えばいいと思うのだ。
 私はそういうことを言う輩が、一昔前に戻ったら、果たしていつまでそれに堪えることができるだろうかと思う。当時が“良かった”というのは、視点を現在に置いているから言えるのであって、本当に当時は良かったのかどうかはまた別問題だったろう。当時はそんな方法しかなかったから、そうしていただけであって、もっと改良の余地があればそうしていたに違いない。限界がそこまでだったから、そんな粗末な(今から見れば)もので済ませていただけのことである。それを今復活したところで快適になれるはずがないと思う。
 確かに何でも過ごしてきた時代を懐かしむことはある。それはそれでいい。けれどそれを美化だけする傾向はおかしいと私も思う。ノスタルジーは所詮ノスタルジーである。それだけである。


評価
★★


書誌
書名:昭和歳時記
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169312
出版社:文芸春秋 (1996/10/10 出版)文春文庫
版型:270p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年08月18日

吉村昭著『実を申すと』

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 何度も書いているが、最近私は吉村昭さんの随筆が気に入っていて、続けざまに読んでいる。どうして気に入っているかと、それなりに考えているのだけれど、要するに吉村さんの“やせ我慢”が好きなのである。その“やせ我慢”は吉村さんの見栄から発しているものなのだが、いかにも中年の無理がペーソスを醸し出していて、それが自分にも思いたるところがあって“よくわかるなぁ”と感じるし、“そうそう”と思い至るのだ。
 この本の「食」に関する文章で吉村さんが自分の姿がみじめったらしい姿に映ることを非常に気にされている。だから例えば食事のマナーにしても、たかが食べることなのになんでこんな窮屈な感じで食べなければならないのかと思いつつも、自分流に食べれば自分の姿がみじめに見えるかもしれないと思い、我慢する。でも本音はもっと好きに食べればいいのにと思っていることはちゃんと書き加えている。あるいはその方が美味しいはずだと言わんばかりである。
 吉村さんは戦前、戦中の人であり、その時苦労された経験があるところに、基本的にちょっと前までいた“一徹な生活人”であり、“律儀な人”なのである。ところが時代がそうした人を古臭い人間と見るようになってきているし、そんなに堅苦しいことを言わなさんなという風潮が当たり前ととなりつつある一方で、西欧的生活スタイルがあらゆる面で当たり前となってきているものだから、吉村さんの生き方や考え方がジェネレーッションギャップとなって、悲しい笑いを私に提供してくれるのである。笑うに笑えないところがよくわかり、読んでいて“そうなんだだよぁ”と思うのだ。あるいはよくぞ言ってくれたとも思うのだ。

閑話休題
 私は朝事務所の近くのドトールでコーヒーをテイクアウトして、会社に入る。毎日買うものだから、コーヒーチケットを買っておいて、それを出す。また、木曜日に社長と二人で仕事をしているときは三時にお茶をしているので、その時ドトールで買ったコーヒーを入れて飲んでいる。もちろん接客用にも使う。(これは会社出しではなく、私と社長と交互で負担している)
 あるとき店長からポイントカードを作ったらどうですかと言われ、いわれるままにポイントカード作った。それを作るに当たり私の名前や会社の住所などを記入したのだが、そのことでいつの間にか会員となってしまったらしく、毎月そのお店からはがきが来るようになった。
 このはがきはこれを持っていくとブレンドコーヒーを一杯サービスしてくれる。(はがきにはコーヒー一杯サービスしますとちゃんとかいてある)ところがこれがなかなか使えないのだ。これを使ってコーヒーをもらうのが恥ずかしいのだ。なんかせこいのではないのかと思ってしまうのである。あるいはなんか申し訳ないような気がしてしまうのである。儲けを減らしてしまうと思うのである。そういうサービスを期待して会員になったわけじゃないし、言われるままになっただけである。
 ポイントならそこで買ったものについて付加されるわけだから、そんなに気恥ずかしく使わなくても済むけれど、このはがきでコーヒーをもらうと、店の人間が私をせこい人間だと思うのじゃないかと思ってしまうのだ。どこかでちゃんと金を出して買えよと言っているんじゃないかと感じてしまう。だから堂々と使えない。
 最近は会社の同僚と飲まなくなったけれど、その彼と飲みに行くとお店の前で配っている割引券をしっかりもらったり、ぐるなびのクーポン券をちゃんとプリントアウトして、それを会計の時に出して、しっかりと割り引きしてもらう。私は酒を飲むときぐらいきちんとお金を払えよと思うのだが、彼にとってその行為は当たり前のことであって、権利としてそれを行使しているだけのことだから恥ずかしいことでもないみたいだ。それが今の人とっては当たり前であり、逆にそのくらいサービスしなさいよと言うところなのかもしれないが、どうもそういう感覚について行けないでいる。もちろん私だって割引は大好きである。大歓迎である。けれどそれをスマートに使えないだけなのだ。変な意地みたいなものがどこか自分の中にある。多分私の中にある融通の利かない古臭さがそうさせるのだろう。そして私が吉村さんの随筆を好むのは、そうした融通の利かない古臭さが吉村さんの文章には随所にあり、それが共感できるからじゃないかと思っている。結局小心者なのだ。

 さて、この本の解説を大河内昭彌さんが書かれている。この人がどういう人なのか知らなかったのだが、雑誌「食食食」の編集長だと知った。(この雑誌名「あさめし ひるめし ばんめし」という)実は私はこの雑誌二冊を手元に持っている。さっそく取り出してみると、確かに解説に書かれていたように吉村昭さんが連載している。しかも私の持っている35号には吉村さんの奥様も鼎談として参加されている。この雑誌今でもあるのかどうか知らないのだが、どうもネットで調べてみると、やたら古本屋さんの出品がヒットするので、もう出版されていないのかもしれない。でも面白い雑誌だと思ったので、そのままこの二冊は私の手元に残った。今、1983年(昭和58年)の雑誌のページをめくるのも楽しい。


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評価
★★★


書誌
書名:実を申すと
著者:吉村 昭
ISBN:9784480021526
出版社:筑摩書房 (1987/08/25 出版)ちくま文庫
版型:232p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年08月17日

吉村昭著『旅行鞄のなか』

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 またまた吉村昭さんの随筆を読む。もう完全に吉村さんの随筆にはまってしまっているのだが、まだ読んでいない随筆がだんだん少なくなってきているので、それを思うとゆっくりと味わいたい気分になる。もう新しい吉村さんの随筆は望めないなのだから。
 今回も吉村さんの身の回りのこと、あるいは小説のこと、そして旅のことなどがいつものように書かれているのだが、こうして同じ身辺雑記を読んでくると、なんか吉村さんの私生活がはっきりとわかってきて、それはそれで面白い。ああ、この人こうやって暮らしているんだな、と思えてくるのだ。その分身近に感じられ、もともと吉村さんの考え方や生きざまには共感する部分が多いだけに、ついつい「なるほど!」と思ってしまう。私はこの人みたいな一途で頑固な人が好きである。もちろん実際近くに接すことがあれば、ちょっと付き合いにくそうだけど、本の世界ではそういう現実がない分、気分だけを感じていればいいので、楽と言えば楽である。

 さてそんな中で「小説家と銀行」という文章で、吉村さんが家を購入するために、銀行にお金を借りに行くことが書かれているが、そこでには小説家は銀行の融資先として信用できないブラックリストに入っていると書かれている。だから銀行が小説家にお金を貸す場合、小説家の預金内に限られるというのだ。
 まぁ、小説家はいつも売れる本が書けるというわけじゃないからというところなのだろう。要するに当てにならないものにはお金は貸せないということだ。吉村さんは小説家はカタギじゃないから仕方がないし、それも当然と思われているようだ。
 でもカタギじゃないけれど、税金は収入のすべてが源泉課税され、それが税務署に報告される仕組みになっているから、脱税はできないといっているのがおかしかった。
 さらに小説家と税金の話をすれば、小説家が死ぬと遺された作品が今後どれほど売れるかを国税局で査定し、それが遺産に加算され遺族に相続税が課せられるという。
 カタギでない小説家は退職金はもらえないのは当然だけど、死後、その死によって逆に税金を払わないといけないのだと自虐的に書かれているのもおかしかった。
 有名作家が死ぬと追悼集とかその死を忍んで、生前の作品が大々的に売り出されるけど、あれも国税局は、作家の生前の人気で織り込み済みで、課税しているのかと思うと、薄ら寒く感じてくる。それがどれだけ正確なものなのか知りたくなってくる。もし国税局の予想に反して大いに売れちゃったりしたら、相続税は追徴課税されるのだろうか?逆の場合はちゃんと還付してくれるんだろうな・・・・。まあ思うに税金の徴収の仕方として、さっくりと多めに査定しておいて、その分先に税金を納めさせる。で、後で正確な数字がわかった時点で、「それじゃ、還してあげましょうかね」と言ってゆっくりと還付するのではないかと思ったりする。

 もう一つ気になる文章があった。「通夜、葬儀について」では、吉村さんが自分が死んだときは、これまで世話になった仕事の関係者に、死後までお世話になるのは申し訳ないから、葬儀は親族だけで済ますように遺書に書いていたという。その考えを菩提寺の僧に言ったら反対されたと書かれている。
 その僧は、葬儀は単なる仕来りにすぎず、お線香の一本でも、と言ってわざわざやってきてくれるのだ。その労力は並大抵じゃない。そういうことなのに、葬儀を営まぬ場合、死後も迷惑をかけたくないという故人の遺志とは逆に人に迷惑をかけることになると言ったという。
 確かに生前お世話になったから、心から冥福を祈りたい気持ちでお線香をあげに見える方がいれば、その気持ちはどうなるのだろうかと思う。またいわゆる冠婚葬祭として、お付き合いの葬儀の時もこういうのは困ることが多い。
 たとえば会社でお付き合いのあった人が亡くなられ、その葬儀はどうなっているんだとまず騒ぎ出すし、密葬だとわかれば、じゃどうすればいいんだと次に問題となる。
 会社としても知らぬ顔はできない部分があって、たとえつきあいとはいえ、できれば何とか葬儀に行って、お線香の一本でもあげれば形として済むのに、故人の遺志ということで、それに出席できないとなれば、会社としての体面をどうもっていけばいいか悩んでしまうことがたびたびある。そういうときははっきり言って迷惑だなと思う。
 故人としては、あるいは遺族としては、余計な迷惑を他人様にかけたくないというつもりであっても、それで済まない人も確かにあると思う。そういう意味では密葬というのは考えものかもしれない。この僧が言うとおり仕来りなんだから仕方がないと考えるべきなのかもしれないなんて思ったりした。
 もっともそういうのは有名人や会社のお偉方の話で、我々のような平凡な一般人で、平のサラリーマンである場合は、そんなに悩まなくてもいいかもしれない。
 私が死んだら葬式などいらないし、戒名なんていうのもいらない。焼いた後そのまま墓に放り込んでくれればいいと思っているし、家族にもそう言ってある。私は有名人でも何でもないので、私が死んで葬式をあげないということで、困る人はそれほどいまい。困るのは葬儀屋と寺の坊主だけだろう。
 でもふと考えたことがある。私が他人様の葬儀に出席するのは、そのほとんどが“お付き合い”からで、心底お線香の一本でもあげたいと思って葬儀に出席したことがない。逆に言えば、そういう気持ちを持たせる人がまだ亡くなっていないということだろうから、そう思えば喜ばしいことではあるかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:旅行鞄のなか
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169244
出版社:文芸春秋 (1992/08/10 出版)文春文庫
版型:237p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年08月10日

吉村昭著『私の引出し』

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 この随筆の題名が“うまいなぁ”と思った。吉村さんは多くの歴史小説を書かれている。そのため日本全国取材のため歩かれている。それだけじゃない。心臓移植の小説も書かれていて、世界ではじめて心臓移植をした南アフリカまで取材のため行かれている。そのため小説では描かれなかったエピソードがそれこそ吉村さんの引出しにはたくさんあって、それをここで披露される。
 それを最初の引出し―小説の周辺、二番目の引出し―歴史のはざまで、三番目の引出し―街のながめ、四番目の引出し―遠い記憶、五番目の引出し―書斎を出れば、六番目の引出し―お猪口と箸と分け、取材で印象深かった出会いや思いがけない事実、その土地で出会ったおいしい食べ物の話、あるいは吉村さん自身の思い出などをさまざまところで発表されたものを引出しに見立てたものにまとめ、いかにもそこから引き出している感じで描かれる。読んでいてほのぼのとしてくる。
 いい随筆はおいしいお酒や食べ物と同じで、読む人がそれぞれ味わい深く感じればいいものだと思ってしまう。先に読んだ『ジョン・レノンを殺した男』で少々気分的に陰になっていたので、気分転換に誰かのいい随筆やエッセイを読みたいと思っていたのだ。最初司馬遼太郎さんの単行本を手にしたのだが、腰を痛めてしまい分厚い本を持ち歩くのが苦痛になり、急遽文庫本の吉村さんの随筆に切り替えた。でもそれでよかったようだ。腰を痛めて余計に気分が滅入っていたところであったので、吉村さんの随筆はちょっとした気分転換になった。

 さて、戦後間もない頃、吉村さんお父様が病気になり、大学病院へ入院することになった時の話である。当時は自動車などなくて、大学病院まで長いリヤカー(大八車みたいなやつか?)に蒲団を敷き、そこに寝かせて運んだという。亡くなられたときは、遺体を焼くために燃料を持参して欲しいと火葬場から言われたという。火葬場では燃料が不足していた時代であったのだ。この時も遺体を納めた棺と、燃料をリヤカーで運んだという。そういう時代が六〇数年前にはあったのだ。
 そうしたリヤカーではないけれど、人が引き物を引いていた時代は、私の子供の頃にもあった。屋台を引いてものを売って歩いている人がいた。例えば金魚売りや風鈴売り、あるいは公園の入り口近くにいつも来るおでん屋さんの屋台など、いつも目にしていた時代であった。金魚鉢の水がゆらゆら揺れる様は懐かしいし、風鈴の涼しげな音色なども思い出す。小銭を握りしめて、おでんを物色していた頃も懐かしい。あれはあれで結構美味しいかったよなあと思う。
 バナナと卵のことも書かれている。今ではバナナはダイエット食品としてもてはやされているし、私もダイエットじゃないけれど、お腹にいいということで、一日一本は必ず食べている。
 卵にしても「物価の優等生」として、値段が大きく変動しない商品となっているが、吉村さんの若い頃はバナナも卵も高級商品だった。吉村さんの記述によると「戦前は、病気見舞いをはじめ他家を訪れる時など、手土産に卵を持っていくことが多かった。厚紙で作られた箱にモミガラを敷きつめ、そこに十個ほどの卵が埋められている。箱には鶏の絵が印刷された紙がかけられていた。手土産にしたことから考えて、今の価格で言えば卵一個三百円以上はしたことになる」と書かれている。卵がそんな高級品とは知らなかったけれど、私が子供の頃近所の商店で卵を売っていた頃を思い出すと、確かに卵はモミガラの中にあった。
 バナナにしても「家内が長男を産んだのは昭和三十年秋で、そのお祝いとして家内の親しい友人三人が、お金を出し合って一房のバナナを贈ってくれた。現在の価格で言えば、七、八千円でもあっただろう。高級メロンのような扱いをうけていたのである」と書かれている。
 これに似た記憶が私にもある。父親の会社の同僚が入院したので、そのお見舞いに一緒に行ったときのことである。父親が果物屋で大きな房のバナナをお見舞い用に包装してもらっていたのである。当時バナナはお見舞い用の果物だったのだ。大きな房にたくさんのバナナがついていて重そうであったのを思い出す。
 


評価
★★★


書誌
書名:私の引出し
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169305
出版社:文芸春秋 (1996/05/10 出版)文春文庫
版型:316p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年07月14日

吉村昭著『関東大震災』

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 関東大震災の焼失図を見ると、東京市の大半が焦土をしめす朱色がべったりと塗りつけられている。が、その中に浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が焼失をまぬがれていたことがわかるが、殊に和泉町、佐久間町の地域が、広大な朱色の焼失地域の中で焼け残り地区を示す白地のままであるのがひどく奇異なものに映る。
 この一区画の焼け残りは、関東大震災の奇蹟とさえ言われた。

 和泉町、佐久間町の見事な焼け残りは、好条件に恵まれていたが、住民たちの努力によるものであった
 環境条件として、町の東北隅に内務省衛生試験所、三井慈善病院があって、それらが耐火構造建物であったので防火に有利であったことも幸いした。また北側には道路をへだてて三ツ輪研究所、郵便局、市村座劇場の煉瓦造りの建物が一列に並び、それらは後に焼けたが防火壁の役目を果たした。
 さらに南側は神田川で、対岸に煉瓦造りの建物が並び、その向う側には広い道路が走っていたので、火流を防ぐことも比較的容易であった。
 それに水道は杜絶したが、神田川と秋葉原貨物駅構内から神田川に通じるドッグがあって、水利に恵まれていたことも幸運だった。 しかし、住民たちが、四囲を完全に火に包まれた中で町内にとどまり、火と戦ったことは大きな賭であった。もし防火に失敗すれば、町内には炎がさかまき、全員焼死することが確実だった。
 最初に火が起ったのは和泉町三ツ輪研究所で、隣接の内務省衛生試験所等にも移ったが、水道の水が断たれていなかったので、住民たちはバケツ注水でこれを消しとめた。
 午後三時頃になると、本石町方面から火が迫り、神田川をへだてた地域と東龍閑町、豊島町一帯を西から東に焼きはらった。丁度佐久間町二、三、四丁目は、その大火災の風下にあたっていて、重大な危機におちいった。
 住民たちは、神田川の水を汲み上げ、極力消火につとめた。そのうちに民家に飛火して炎をふきはじめたが、住民は一致してこれを消しとめた。
 また他の一隊は、神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき、道路の南側で火流を阻止することに成功した。
 日が没し、町の周囲には大火災が乱れ合った。
 午後十一時頃、神田明神方面から猛火が津波のように轟々と音を立てて迫ってきた。その火炎は遂に佐久間町一丁目の一部を焼き、秋葉原駅構内をなめつくして和泉町の袂まで燃えてきた。
 そのままでは平河町が焼きつくされてしまうので、住民たちは死力をつくしてバケツの水を浴びせかけ、ようやく九月二日午前零時頃消しとめることができた。
 さらに朝五時頃、浅草左右衛門町、向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に及んだので、それに面した家屋を破壊し、西側に火が移るのを防止した。
 二十時間にわたる火との戦いで、住民たちの疲労は濃かった。足腰も立たずに座り込む者が多かったが、その日の午後三時頃、最大の火炎が浅草方面から和泉町目がけて襲ってきた。
 住民たちは、声をはげまし合い和泉町方面に集まった。少数の外神田警察署員をふくむ数百名の住民たちに、老人、婦人も加わり、あくまでも町を死守しようとかたい決意のもと大火炎の迫るのを待ちかまえた。
 その時、町内の帝国嘲筒(そくとう)株式会社にガソリン消防ポンプが一台あることが判明した。それは、同社が八月二十九日に完成し目黒消防署に納入予定のポンプであった。
 住民たちは、同社重役の快諾を得てポンプを借受け、まず火の迫る以前に同町の西側に注水した。
 やがて、火炎がすさまじい勢いでのしかかってきた。
 住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。
 火との戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食いとめることに成功した。その結果、千六百余戸の家々が東京市の焦土の中で焼け残ったのである。この奇蹟的ともいえる和泉町、佐久間町の焼け残りは、すべて住民の努力によるもので、消防署は防火活動に全く従事していない。

 長い引用をした。この大火災は関東大震災によるものである。

 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分四十四秒、東京市内に設置されていた中央気象台と本郷の東大地震学教室の地震計が突然生き物のように動き始めた。
 振動は、押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから十五、六秒後には想像を絶した激烈さまでたかまった。
 その瞬間、戦慄すべき現象が起った。中央気象台は明治九年以来地震観測をおこなっていたが、観測室におかれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊してしまった。
 地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動が始まった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに震動が激化すると同時に破損してしまっていた。

 地震発生時が午前十一時五十八分四十四秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭では竈、七輪等に火をおこして昼食の支度をし、町の飲食を業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。そこに大地震である。今よく言われる“グラッときたら火を消す”という余裕などなかった。倒壊した家では、圧死からのがれるだけで精一杯で、竈や七輪におこっていた火の上に木材や家財がのしかかり、たちまち火災が起った。
 その上、この日は風向が南又は南東で、風速は低気圧の影響を受け十メートルから十五メートルとかなり激しい日であったため、さらに火災が広がった。
 そしてこの本を改めて読んで知ったことなのだけれど、火災を引き起こした最大の原因が学校、試験所、研究所、工場、医院、薬局等にあった薬品類であった。それらが地震で棚等から落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校(三カ所)、富士見町の日本歯科医専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市ヶ谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部、同医学部薬学教室(四カ所)、同医学部外来患者診察室、麹町区の麹町高等小学校、芝区の慈恵会医科大学、小石川区の専修高等女学校、日本女子大学からそれぞれ出火した。

 震災で引き起こされた火災は東京中を焼きつくすのだが、奇跡的に焼け残った地域が私の会社のある神田和泉町であった。私は以前からこのことに興味を持っていて、何度か調べたこともある。だからここに長い引用を引いたのだ。ここが焼け残ったのは、確かに環境条件がよかった部分もあるけれど、ここに住まれる住民たちの努力があったからで、私の会社の先代の社長が書いた震災による消火活動の手記を読んだとき、初めてそのことを知ったのであった。


 【和泉町防火奮闘記】神田和泉町(故)持田光太郎
 関東大震災の翌日、大正12年9月2日午後3時ごろ、浅草方面からの猛火が和泉町に迫った。町と道路一つ隔てた凸版印刷は焼け落ち、市村座も燃え始めている。水道は断水し、井戸水はあったがバケツ以外に消火器具はなく、町内の青年たちは猛煙の空を仰ぐばかりだった。
 このとき、「そうだ。ポンプがある!」と父喜太郎(当時51歳)が叫び、近くの帝国ポンプ会社が目黒消防署に納入することになっていたガソリンポンプ車を、下水道局和泉町ポンプ場に、みんなで運んだ。そこの浄水プールを水源に、それぞれ100メートル近いホース2本を延ばし、筒先は佐々木高太郎さん(当時40歳)と私(当時26歳)が握った。
 「市村座の火を消せ!」、「町を守れ!」などの声が飛ぶなか、私は市村座前の道路を阻止線とするしかないと考えた。佐々木さんは六尺ふんどし、私は紺色の水兵服(軍艦「長門」の元乗組員だった。)を着て、駆け巡り、放水を続けた。やっと町への延焼を食い止めたのは、5時間後か、8時間後だったか、よくおぼえていない。
 ポンプ車といってもガソリンがなければ動かない。父は自転車で、自動車修理工場や自転車店をかけ回り、ガソリンを集めてきた。当時、東京市全体にポンプ自動車38台、水管自動車17台、手引水管車28台しかなく、神田地区には一台の余力もなかった。事実、「神田地区消防隊従事なし。」の記録がある。
 いま振り返ってみると、家族をみんな上野に避難させ、大人たちが心おきなく協力して活躍できたこと、町内から二か所出火したがすぐ消し止めたこと、南に神田川、北に広い庭のある三井慈善病院が自然の防壁になったこと、火勢のいくつかが旨く一角を避けたこと、しかしなんといってもあのポンプ車の威力がすごかったと思います。そして、あの時の父の存在も忘れられません。(『目でみる千代田区の歴史』 東京都千代田区教育委員会)


 さて、この震災で焼死者が一番多くあったのが本所区横網町にあった被服廠跡であった。ここは陸軍省被服廠の建物があった場所で、被服廠移転にともなって大正十一年三月逓信省と東京市に払い下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予定になっていた。
 二万四百三十坪余の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署員も同地に避難民を誘導した。そのため被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起って、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。
 これはすごい数字である。わずかな地域で東京の半分以上の死者をここで出してしまったのである。吉村さんは「関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい」と言い切る。
 さらに避難者が持ち出した家財は東京にかかる橋を焼きつくすことにもなった。この当時東京にあった橋は「総数六百七十五で、地震によって墜落又は破損したものはわずか十八にすぎなかったが、火災によって三百四十の橋が被害を受けた」のだ。橋の上で家財に引火した火から逃れるために、人々は川に飛び込み、溺死者を多く生んだ。その数は「東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千百七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七.四倍弱にも達している」という。

 江戸には大体百年おきに大地震が起こっている。関東大震災と同規模の大地震であった安政二年の大地震でも、大火が起こっていて、火災が起こった箇所は六十六カ所で、関東大震災の八十四カ所と著しい差はない。しかしの焼失面積は、関東大震災の方が十九倍というすさまじさであった。
 しかも江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は秀れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していたし、家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。
 江戸時代に防火のため火除原と称された広場や広い道路(広小路)が作られていたのに、それが無駄な場所と考えられ、いつの間にか民家で埋められてしまい、防火思想が江戸時代より後退していたのである。これを見るだけでも明治という時代が何もかも慌てて造られ、後々のことも考えずに、体面だけ形だけでも繕った時代であったことを知らされる。
 寺田寅彦は関東大震災の大災害は、歴史的に考えれば前例が繰り返されたにすぎず、それは人間の愚かしさから発していると述べている。過去の人間が経験したことを軽視したことが災害を大きくした原因であり、火災に対する処置などは、むしろ江戸時代より後退していると嘆いた。
 さらのこの後起こる朝鮮人襲来の流言も、それを冷静に考えれば全く信ずるに足りないものであることぐらいわかるはずで、日本人が科学的な判断をもたぬために起こった不祥事であったと非難する。
 震災にかこつけて朝鮮人が襲来してくる。あるいは井戸に毒を投げ込んだという風説は、震災というパニック状態で起こったものであろうが、そうした風説が人々に信じられた背景がそこにはあった。
 明治三十七年二月に締結した日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意志を完全に無視したものであることを、日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、を十分に知っていた。また統監府の過酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れこんできた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気がついていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。その鬱積した憤りをこの大震災に当たり、朝鮮人が日本人にたたきつける公算があると思えたのだ。
 朝鮮人襲来説は、横浜市内で発生し、それが強風にあおられた野火のように東京府から地方の市町村へすさまじい速度でひろがった。それは、政府、軍部、警察関係者にも信じこまれて各種の通信等によって裏づけられたため、庶民はその流言を事実と思いこみ、朝鮮人をはじめ日本人、中国人の虐殺事件をひき起した。
 その後、政府は朝鮮人に関する風説が全く根拠のないものであることを確認して、流言を打ち消すことにつとめ、殺害事件の発生を防止することに努力した。
 しかし、大災害後の混乱で理性を失った庶民は、官憲の注意にも耳をかさず凶行をつづけていったのである。
 責任の根源は、政府、軍部、警察関係者にあったが、同時に騒擾を好む一部の日本人の残虐性が悲惨な事件を続発させたのである。
 犯罪も多発した。震災で人々は家屋や職を失い、生活するために盗みを行った。焼け跡に行って、金目のものを掘り出したり、食糧や金目のものを持っている人を脅したり、あるいはそれらが高く売れるため、私利私欲に走り値段を高額に引き上げたりした。人心はすさみ、賭博、売春も行われた。
 これは阪神淡路大震災の時も似たようなことが起こっている。生きるためにはやむを得ないといってしまえば、その言葉がどこか正統性を帯びているように思えるけど、多分これは日本人特有の“自分だけがよければいいのだ”という身勝手さと、日頃えせヒューマニズムで理論武装している人が本性を現せばこういうことになるのだ。当時も今も何ら変わっちゃいないことを改めて思う。


評価
★★★


書誌
書名:関東大震災 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169411
出版社:文芸春秋 (2004/08/10 出版)文春文庫
版型:347p / 15cm / A6判
販売価:570円(税込)

2009年07月12日

吉村昭著『蟹の縦ばい』

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 続いて村上春樹さんの本を読もうと思っていたのだけれど、『ねじまき鳥クロニクル』でいささか疲れちゃってとてもじゃないが続いて村上さんの本を読む気力がなくなってしまった。ちょっと休んでから読みたいと思う。
 こういう時は味のある、お気に入りの随筆を読むのがいい。今は吉村昭さんの随筆がいいので、この本を手にした。まずは「へぇ~」と思ったことから。

一.歳四拾弐三位ニ而 ふけ候方
一.丈高く 太り候方
一.面長ニ而 角張候方
一.色白く 眉薄し
一.鼻大キク高キ方
一.眼ノ外ニそばかす少し有
一.歯並揃ひ 入歯之様ニ見え候

 これは高野長英の人相書きの一部である。気になるのは入れ歯のことである。江戸時代にも入れ歯があったんだと思ったわけである。というかそれよりもかなり前から入れ歯はあったらしい。当時の入れ歯の床は黄楊(つげ)が使われ、歯は蝋石や水牛の角などが使われていたらしい。かなり精巧なものだという。

 もう一つ。人間70歳になると「古稀」というが、この言葉の由来が杜甫の曲江詩「人生七十古来稀なり」から来ている。「古来稀(まれ)なる長寿という意味だそうだ。

 さて、読んでいて「そうだ!」と同感することが、お気に入りの随筆には結構ある。結局自分が気に入るということは、その文章を書いた人と読む側の私が同じ精神構造を持っている部分が多いからじゃないかと思う。吉村さんのこの本は50代頃に書かれたもののようで、ちょうど今の私と同じ年齢である。だから吉村さんが感じることが、同感できる。これが若い奴が言っていると、「何言ってんだ」とちょっとからみたくもなるが・・・・。
 さて、私の父親はボタンのデザインを考える仕事をやっていた。もちろん今はリタイアしていているが、そのデザインを勉強するために、ヨーロッパのファッション動向を見に行った。昭和40年代だったと思う。
 その父親がヨーロッパから帰って来たら、いきなりフォークとナイフの使い方にうるさくなった。特にフォークでご飯を食べるとき、フォークの背にナイフでご飯を押しつけ、それを口に持っていく様にしろというのだ。
 最近“びっくりドンキー”などそんなフォークの使い方でご飯を食べている奴を見かけたことがある。こんなところでそんな食べ方をして何気取っているんだと思った。食べやすいように食べればいいのにと思う。たぶん当の本人してみればそれが正しいマナーだと思っているんだろう。
 しかしよく考えてみれば、ヨーロッパはパン食であろう。ご飯をナイフとフォークで食べる習慣はそれほどなかったんじゃないか?ということはヨーロッパでそんなフォークの使い方でご飯を食べるマナー?が生まれたとは思えない。たぶん日本のテーブルマナーを指導する先生方がお考えになったんじゃないかとにらんでいる。
 吉村さんもここで、「マナーというものは、第三者に不快な感じをあたえぬためのものである。気取った食べ物の食べ方をしたら、本人も味を十分に楽しむことはできないし、第三者からみても堅苦しい食事にみえる。自然であることが、望ましいのだ」と言っているし、「上品であることはむろん好ましいが、上品ぶることは野暮である」とも、店の雰囲気も含めて言っておられる。

 料理屋で吉村さんが女中さんを「お姐さん」と呼ぶ声を聞く。その人は一人で飲んでいる六十年輩の男性で、酒のおかわり頼んでいる。それを吉村さんは「実にいい感じであった。風鈴の音がチリンときこえたような涼やかな感じがし、いい言葉だ、と思った」と書かれている。
 それに比べて「お嬢さん」といい年をした女の人を平気で言う人間をおかしいという。この「お嬢さん」という言葉で思い出すのがみのもんたである。今はお昼のテレビに出ていないけれど、ちょっと前までいいおばちゃんをつかまえて、「お嬢さん」と言っていた。私は言う方も言う方だが、言われて平気でいられる方もおかしいんじゃないのと思っていた。吉村さんは「お嬢さんとは、目下の者が世話になっている家の娘に対する呼称である」のだからおかしいと言う。つまりみのもんたは言葉の使い方を知らないのだ。もちろんウケを狙って言っていることぐらいわかるが、そんな正しい言葉の意味もよく考えない奴が、ニュースキャスターみたいなことをやっていいのだろうかと思う。

 他にこの随筆では吉村さんの奥様のこともいくつか書かれている。奥様に対するやさしさや気遣いが見られ、読んでいてほのぼのとしていい感じであった。そんな吉村さんも結婚するといつの間にか奥様に手なずけられてしまうことを嘆いておられる。「女房というものは、絶えず亭主を自己流に手なずけようとうかがっている。結婚以来二十年たつが、その歳月はそうした妻との戦いの連続でもあった」、と書かれる。これはよくわかるなぁ~。


評価
★★★


書誌
書名:蟹の縦ばい
著者:吉村 昭
ISBN:9784122020146
出版社:中央公論社 (1993/07/10 出版)中公文庫
版型:373p / 15cm / A6判
販売価:840円(税込)

2009年07月01日

吉村昭著『日本医家伝』

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 この本で取り上げられている医家は主に江戸時代の人物か、あるいは明治にかかる頃までの人物と限定し、しかも先駆的業績を持つ12人である。以下ざっと取り上げてみる。

 山脇東洋(1706~1762)は江戸中期の宝永二年十二月十八日、丹波亀山の医家清水立安(号東軒)の子として生まれた。名を尚徳、通称を道作といい、字は玄飛又は子樹、号を移山、後に東洋と称した。
 東洋は日本で初めて腑分を実際自分の目で見た医家である。東洋はかねがね人体は五臓六腑で成り立っているのだろうかという疑問を持っていた。もしそれが本当なら実際にそれを見てみたいと思っていた。
 宝暦四年京都で斬首刑になった人物の腑分けが行われるのに立ち会うことができた。当時は医者自らがメス(当時メスなんてあったのかどうか知らないが、とにかく体を切る道具)を握って体を開かない。雑役がちゃんといて、それが罪人の体を切り開き、それを医家が見るというものであった。それでも東洋は医家として日本で初めて人体の臓器を見た人物であった。

 前野良沢(1723~1803)は名を熹(よすみ)、字は子悦、号は楽山。筑前藩士谷口新介の子として享保八年江戸の牛込矢来に生まれた。医家として唯一オランダ語研究家であった。良沢は杉田玄白の誘いで腑分けを実見するが、この時オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」という解剖書を持参してきた。玄白もやはり同じ本を持ってそこにいた。その後杉田玄白が良沢を誘ってこの本を日本語に翻訳する。
 しかし玄白にはこの本を翻訳することで名声を得たいという野心があることを良沢は見抜いていた。学究肌の良沢にしてみればそういう野心は許し難かったが、玄白がいなければこの翻訳事業はできなかったので、ただ翻訳のみに没頭していく。玄白も良沢が自分に不快感を持っていることはわかっていたが、良沢がいないと翻訳ができないので、良沢のきげんを損なわないように翻訳の仕事を進めていった。
 翻訳から3年4カ月後「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」として刊行されたが、そこには良沢の名前がなかった。良沢は「解体新書」はまだ不完全なものだから、さらに年月をかけて完全なものにすべきであると考えていたが、玄白は刊行を急いだ。その考えに良沢はついていけなくなり、自分の名前を公にすることを辞退したのであった。結果「解体新書」訳者は杉田玄白一人となった。
 その後杉田玄白は経済的にも名誉的にも恵まれたが、良沢はさらにオランダ語の研究を進めたが、生活は貧しかった。享和三年十月十七日に八十一歳で病没したが、玄白はその葬儀にも行かず、日記にただ一言「良沢死」と書き残しただけであった。

 伊藤玄朴の功績は先に読んだ『「お玉ヶ池」散策』にある通りである。ただ玄朴は金銭への執着が強い人物だったらしい。
 ここで気になるのはシーボルト事件である。シーボルト事件とはシーボルトが帰国するときに自分の荷物を積んだ船が台風で座礁しその積荷から日本地図や葵の紋服などの禁制の品が発見された。誰がそれをシーボルトに渡したのかということが問題となり、多くの人間が連座して罰せられ、死罪になった者もいた。なかには獄中死や自殺した者もいた。
 その日本地図は玄朴が頼まれてシーボルトに渡したものであった。しかし玄朴の取り調べはシーボルトに渡したものが中身を知らないということで許される。
 シーボルト事件でオランダ語を知っている人物が少なくなり、玄朴の存在が貴重になりその存在がクローズアップされていく。
 シーボルト事件で葵の紋服を渡したのが土生玄碩であった。土生玄碩は宝暦十二年(1762)安芸吉田で生まれた江戸後期の眼科医である。目の手術の時瞳孔をひらく薬の成分をシーボルトから聞いたが、シーボルトは教えてくれない。シーボルトは薬の成分を教える代わりに葵の紋服が欲しいと要求する。土生玄碩はそれを渡し、薬の作製法を教わるが、シーボルト事件が発覚し、家財すべて没収され、医業にたずさわることも禁じられ、蟄居生活を送るはめとなる。

 楠本いねは遊女屋引田屋が抱える其扇とシーボルトとの間に生まれた。シーボルトが去った後、シーボルトの門人であった二宮敬作のもとで産科医を目指す。その後紆余曲折があるが、明治三年二月に東京府京橋区築地一番地に産科医院を開き、一時は名声を得るが、そのうちいねの持っている医学知識も古くなり患者も減り医院を閉じる。

 中川五郎治も『「お玉ヶ池」散策』で書いたとおりである。

 笠原良作は文化六年福井で生まれ、名を良、字を子馬、後に白翁と号した。福井で種痘の普及に尽くした医師である。その種痘に使う痘苗をどうやって福井へ運ぶか、その手段がすごい。笠原良作は種痘をした小児を一緒に福井へ連れて行くのである。
 種痘した小児の紅点は7日には消えてしまうので、途中で他の児童に植えかえていき、小児ともども痘苗を福井へ運ぶのである。これはすごい。当時は冬で吹雪く山を越えていくのである。

 松本良順は吉村さんの『暁の旅人』にある通りだ。

 相良知安(1836~1906)は佐賀藩出身の蘭方医である。オランダ人医師ボードインにより医学を学んでいた。
 維新政府は維新戦争で官軍に肩入れしたイギリスのパークスの依頼で戦場に赴いた医師ウイリスの業績を認め、戦後古くなったオランダ医学からイギリス医学を採用する方向へ向かう。
 しかし相良知安はオランダ医学書がドイツの医学書の翻訳が多いことを知っていたので、ドイツ医学こそ世界最高水準のもではないかと考えた。そしてその自説で新政府を動かし、日本にドイツ医学を導入する道筋を開いた人物である。

 荻野ぎん(1851~1913)は埼玉県大里郡秦村に荻野綾三郎の五女として生まれる。十六歳の時結婚するが夫なった男は遊蕩児で遊里でうつされた悪質な淋病を彼女にうつした。この病気の治療は女性とって屈辱的なものであった。ぎんはもし治療に当たる医師が女性であれば患者の苦痛はかなりいやされるのではないかと考え、以来医師を目指す。当時は女性は医師試験を受けることさえ認められなかったが、なんとかして女医になった。ぎんは近代日本における最初の女性の医師であり、女性運動家としても知られた。

 高木兼寛(1849~1920)は嘉永二年日向国東諸県郡白土坂に生まれ、十三歳の時に医学を志し、海軍に入り、イギリスへ医学留学をする。帰国後海軍に脚気が多発することに注目し、その撲滅に尽力する。東京慈恵会医科大学の創設者。

 秦佐八郎(1873~1938)石見国(現在の島根県)濃郡都茂村に生まれた。梅毒の特効薬サルバルサン606号をドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救った。

 この本にあげられた医家は、後に吉村さんの長編歴史小説となっていくものが多い。この本がきっかけになったのであろうか。ちなみに前野良沢は『冬の鷹』、楠本いねは『ふぉん・しーほるとの娘』、中川五郎治は『北天の星』、笠原良作は『雪の花』、松本良順は『暁の旅人』、高木兼寛は『白い航跡』となっている。いずれこれらの作品は読んでみたいと思っているので、この本はいい“前振り”になって、ちょっとしたガイドブックとなった。


評価
★★★


書誌
書名:日本医家伝 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062733557
出版社:講談社 (2002/01 出版)講談社文庫
版型:377p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2009年06月29日

吉村昭著『死顔』

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 今まで吉村さんの随筆と歴史小説は読んできたのだが、今回短編小説を初めて読んでみる。今回の本は私小説風のものが四作と短編の歴史小説が一作収録されている。「死顔」と「二人」は似ていて、多少趣を変えて書かれたといった感じだ。
 そしていずれも「死」をテーマにしたものばかりだ。この本の帯にもあるように、吉村さんの自らの「死」を覚悟して書かれたもののように感じることができる。

 「死顔」と「二人」は似ていると書いたが、短編小説としては「二人」の方がいい作品になっているように思えた。「死顔」は同じ兄弟の死を扱っているものの、どちらかと言えば、吉村さんが自分の死の迎え方、あるいは死後の家族の対応を遺書みたいな感じで書いてあって、そのことで、この作品はは失敗じゃないかなと思えた。つまり小説にするものではなかったような気がするのである。
 例えば、「死顔」では幕末の佐藤泰然の死の間際のことを次のように書いている。

 幕末の蘭方医佐藤泰然は、自らの死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。

 だから自分も延命治療は望まないし、葬式も家族だけの密葬を望んだ。確かにそのあたりは吉村昭さんらしいなと感じるし、むしろ吉村昭さんならそうあって欲しいと思っていた。
 司馬遼太郎さんみたいなメジャーな歴史小説家ではなかったけれど、独力で地道に取材を重ね書かれる重厚な歴史小説家であっただけに、その意志の強靱さは、最後はそうさせるだろうと思わせた。
 奥様の津村節子さんの「後書きに代えて」には癌との壮絶な闘いが記されているけれど、最後は「夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけた来た娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を引き抜いてしまったのである。私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという」と書かれている。まさしく佐藤泰然が死の間際にとった態度を地でいったようである。
 今まで何冊か吉村さんの随筆を読んでいて感じたことであるけれど、吉村さんの生き様には自分のことで「人様にご迷惑をかけぬよう」というところが至るところで読み取ることができた。だから自分の死も生前から佐藤泰然の死に方をそのまま置き換えていたのだろう。
 それでなくても学生時代結核を患い、辛うじて生き延びてこられた吉村さんである。きっといつも自分の「死」について考えてこられたのではないかと思うのだ。
 ただそうした「死」に対する個人的考えを多く入れてしまったため「死顔」は小説としては駄作としてしまった感が否めない。個人的には先に言ったように同じ兄弟の死を扱った「二人」の方がいい小説に思えた。

 翌日の夜、ウイスキーの水割りを飲んでいると、兄から電話がかかってきた。
 兄も酒を飲んでいるらしく声がはずんでいる。
 「とうとう二人きりになったね」
 兄は、感慨深げに言った。
 「そうですね。お互い体を大事にしましょうよ」
 私は、明るい気分になって答えた。
 兄は、あらたまった口調で、
 「今さらこんなことを言うのも変だが、人は必ず死ぬものなんだね。兄や妹、弟が八人いたのに、一人一人確実に死んでいった。残ったのは、あんたと私だけだ」
 と言った。
 次兄の死で同じことを考えていた私は、かすかに笑った。
 「どうだね、生まれた町の小料理屋にでも行って、二人で飲まないかね」
 「いいですね。ただ、この寒さじゃどうにもならない。桜でも開花した頃ですね」
 「そうね。そうしよう」
 兄は、じゃ、またと言うと、電話を切った。
 桜が開花した頃か、と私は胸の中でつぶやき、ゆっくりした気分でグラスを手にした。

 いい感じだと思いませんか。私はこの終わりが好きであった。


評価
★★


書誌
書名:死顔
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242314
出版社:新潮社 (2006/11/20 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月22日

吉村昭著『暁の旅人』

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 この本は松本良順の生涯を描いた小説である。司馬遼太郎さんの『胡蝶の夢』も良順を主人公にした長編小説だが、この時も確かあるイメージが頭にこびりついていて、違和感があったことを思い出す。今回もそうであった。
 私が松本良順に対して思い浮かべるイメージとは子母澤寬さんの『勝海舟』に出てくる松本良順なのである。というのも、私が松本良順という人物を知ったのはこの小説が最初だったからだ。そこには奥医師として将軍のそばで、勝海舟と同様にベランメエ調でやりとりする姿があった。そのため良順という人物も海舟と同じように、なかなか自己を曲げないタイプで、わがままでやりたい放題の人物だったと思っていたのである。
 ところが吉村さんの描く良順像は、確かにそういうところもあるけれど、どちらかといえば当時としては最先端の医療技術を身につけた良順で、律儀で恩義に厚く、それが良順の行動指針となっている人物であった。
 良順は洋医学の大家佐藤泰然の子として生まれ、幕府の奥医師松本良甫の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医師ポンペについて西洋医術を身につけた。
 当時は漢方医の力が圧倒的に強く、蘭方医などとんでもないという時代であった。それでもこれからは西洋医術を身につけなければならないと思った良順を幕府の高官たちは終始援助の手を差しのべ、長崎伝習生の名目でオランダ医師ポンペについて西欧の最新医術を身につけられるようした。五年間にわたる長崎遊学費用も幕府はすべて出した。
 江戸にもどって幕府の奥医師となり、医学所頭取となった。「奥医師として身近かに仕えた将軍家茂は、絶えず温情をもって接してくれて、それに対する感謝の念は忘れられない。その臨終に際して手をにぎり心音をうかがっていたことがせめてもの救いで、次第に冷たくなっていった家茂の手の感触は今でもはっきりとおぼえている」。
 幕府が崩壊しつつあるときでも、自分を手厚く扱ってくれた幕府に対して、恩義を感じないわけがなかった。だから幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。江戸が新政府軍によって踏みにじられるのを眼にするのは堪えがたかったのである。自分は幕府とともにあり、それに殉じるのが人の道だと思う人物であった。
 しかし時代は明らかに変わりつつある。会津、庄内藩も新政府軍に敗れ、良順は仙台で榎本武揚と会う。榎本は良順に蝦夷に一緒に来て、戦傷者の手当をして欲しいと言うのだが、ここにそれを思い止まらせる人物がいた。土方歳三である。土方は次のように言う。
 「先生は、前途有為なお方です。蝦夷などに行かず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱に巻きこまれ、命を失うようなことあってはなりません。江戸にお帰り下さい」

 新政府軍が良順という優秀な人材をむやみに殺すわけがないと考えた上での言葉であった。さらに自分は榎本と共に蝦夷へ行くが、それは「私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し、国のために殉じるべきだと思っております。それがわれわれの定めなのです」から、新政府軍と戦い続けると言うのである。私は新撰組というのはごろつきの集まりだと思っていたので、このあたりはさすが土方歳三と見直しちゃった。
 ここでは生き様の差がはっきりと出ている。大きな時代の変化に必要な人物。滅びるしかない人物。日本という国の未来を考えると、このあたりの線引きははっきりしている。特に土方自身がそうした線引きをして、自分がどこにいるかはっきりと自覚しているところが悲しさを誘う。
 良順は江戸にもどり投獄されるが赦免され、山県有朋などの薦めで軍医総監となる。この時山県は人それぞれに国のために力をつくすべき時だと言ったが、明治新政府には人材がいなく、しばらくの間幕府の有能な人材を登用するしかなかったことを思うと、江戸幕府は本当に有能な人材を持っていたんだなと思う。その証拠に明治新政府に使えた旧幕府の人物たちが沢山いたことがいい証拠である。これらの人物たちがいなければ、明治という時代は成っていなかったかもしれない。そして無骨一辺倒な旧タイプの人物たちは滅びることで、その精神をいい意味でも悪い意味でも、新しい日本という国に残していったんじゃないかという気がする。
 

評価
★★★


書誌
書名:暁の旅人
著者:吉村 昭
ISBN:9784062128704
出版社:講談社 (2005/04/26 出版)
版型:298p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2009年05月25日

吉村昭著『ポ-ツマスの旗』

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 以前読んだ吉村さんの随筆にも確か書いてあったと思うのだが、吉村さんのお父様が日露戦争の日本海海戦の話。その後ロシアとの屈辱的講和に納得できないとして東京で大暴動が起ったという話。そして全権大使の小村寿太郎が非難された話が吉村さんの記憶に残っていることが書かれていた。今回この記憶がこの小説を書く動機となったことをあとがきに記している。
 そうなのだ。この歴史小説は、日露戦争後、日本がロシアとどのような講和条約を結んだか。何故暴動が起こるほどの屈辱的講和条約を結ばざるを得なかったのか。そしてその暴動がその後の日本の進路を決定づける意味を持つようになったと考えられるのか。それらを日本の全権大使小村寿太郎という人物を描くことで、それらの疑問を解き明かしてくれる。
 日露戦争は旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦で確かに日本が勝った。それらの経緯は司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』に詳しい。しかし日本はロシアに勝ったことは勝ったけれど、元々ロシアに宣戦布告をすると同時に、軍部はどうやって戦争を終わらせるかを進めていた。つまり日本は長期間、大国ロシアと闘う力がなかったのである。日本は明治維新からやっと国らしい形になってきたにせよ、まだ外国と戦争ができるほど経済力、軍事力が成熟していなかった。
 たまたま先の戦いで日本はロシアに辛うじて勝ったにせよ、それ以上先に軍を進める力がなかった。従ってロシアがその国力をフルに使って、この極東に軍を動かせば、日本はどうすることもできず、壊滅してしまう運命でもあった。ただロシアには革命が起こり始め、国内も不安定な状態であったから、一気に日本を押しつぶすことができなかっただけであった。
 日本の軍部はそのことをよくわかっていた。だから第三国に仲介してもらって、早く講和条約を結んでしまう必要性があった。その仲介役を取ったのがアメリカのルーズベルトであった。日本は小村寿太郎を全権大使に、ロシアはウイッテが全権大使となって、ポーツマスで会議がもたれた。
 当時の日本は誰を全権大使にするか、そのなり手がないことでもめていた。当時桂首相は日清戦争の講和条約に伊藤博文が当たったので今回も伊藤に全権大使を要請した。しかし幕末から維新という激動の時代を生き残ってきた伊藤である。今回全権大使になれば自分が非難の矢面に立たされることをわかっていたから断っていた。
 どういうことかと言えば、日本は国力、兵力がかなり弱体化していた。話が決裂し、じゃあ戦争を続けましょうなんて言われたら、破滅の道を歩むことになる。だから早く戦争を終わらせたい。そのため日本が強硬的態度が取れないことをロシアは見抜いていた。
 一方でこの戦争で明治国家は国民に家族を兵隊に出させ、戦費捻出のため多大な負担をさせることとなった。だから国民はロシアに勝ったことで領土の拡大、賠償金の請求が当然なされるものと思っていた。それが本質的なところできない状況である以上、最初から日本はロシアに及び腰で交渉せざるを得ない。それは当然国民の不満を招くことになる。それを伊藤博文はわかっていたから全権大使を引き受けなかったのである。
 あの西南戦争の熊本鎮代の長官でもあった谷干城は「もし老台(あなた)がおだてられて全権になれば、必ず槍玉にあげられる。この度の会議は、だれが全権になっても好結果は得られない。老台が出掛けてゆくことはなく、桂首相、小村外相で沢山である。いたずらに馬鹿者のうらみを買うのは愚かである」と忠告の手紙を伊藤博文に出している。結局貧乏くじを引いたのが小村寿太郎であった。元老の井上馨は小村が全権大使になって送り出される時、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかも知れない」と涙ぐんだ。

 小村はロシアが日本の現状を知っている以上、日本が要求する条件をすべて呑むことは考えられない。だから条件をある程度限定して会議に臨んだが、最後の樺太譲渡、賠償金の請求は完全に拒否された。
 小村とウイッテとの駆け引きが息を呑む。しかしウイッテの方はしたたかである。敗戦国という不利な立場であるにも関わらず、アメリカのマスコミを巧妙に操作し、ロシアを好印象に持っていく。そうすることで自分たちの立場かなり有利にすることができるからである。日本が出した交渉条件をマスコミ流さないという約束をしたにもかかわらず、平気でそれを流す。そうすることで日本はロシアにこんな過酷な条件を出してきて、会議を決裂させる可能性があると言わせるのである。
 小村は日本が外国に対して交渉下手であることを自覚していた。

 「小村は、長い外交官生活で、日本の外交の歴史の浅さを身にしみて感じていた。幕末に試練に立たされた日本の外交政策は、鎖国政策を唯一の盾に徹底して受身の姿勢に終始したものであった。それは、欧米列強の植民地拡大政策の激烈さに逆に救われて、各国間に牽制し合う空気を醸成させ、それらの国から浸蝕をまぬがれる結果を生んだ。
 受身の外交は維新後もそのまま引きつがれたが、欧米との交流が増すにつれて攻めの外交も身につけなければならぬという動きが、一種のあせりをともなって顕著になり、実行されるようになっていた。しかしそれはきわめて未熟なものであり、多彩な術をそなえるまでにはかなりの時間がかかりそうであった。
 小村は、欧米殊にヨーロッパ各国の外交に長い歴史の重みを感じていた。国境を接するそれらの国々では、常に外交は戦争と表裏一体の関係にある。外交が戦争の回避を功を奏したこともあれば、逆に多くの人々に血を流せたことも数知れない。そのようなことをくりかえしている間に、外交は、攻めと守りの術を巧妙に駆使し、自国の利益を守るため他国との間でむすばれた約束事を一方的に破棄することすらある」

 つまり欧米の外交の歴史の中で、交渉では日本は絶対に勝てないことを小村は自覚していた。このことは今現在の日本の外交下手を思えば、未だに未熟なままである。いったいいつになったら日本という国は他国と外交交渉がうまくできるようになるのだろうかと思ってしまう。
 日本は回りを海に囲まれている。もうそれだけで国が守られていた。この点地続きの地形で、生きるか死ぬかの長い歴史を繰りかえしてきたヨーロッパとは決定的に違う。海に囲まれているということだけで自国内でのほほんと過ごすことを可能にしてきた。他国との交渉事は不要なものと勘違いさせ、それを放棄してしまった。
 そして日本が世界の中の一つの国となったときにはもう交渉ができなくなってしまい、いつも受身の立場で過ごさざるを得なかった。ただ単に交渉事は誠実に対応すればなんとかなる程度の発想しか持てないのである。しかしこのロシアの全権大使ウイッテの態度を見てしまうと誠実だけでものごとに対応できるもんじゃないことを思い知らされるのである。したたかさがどうしても必要である。

 会議はほとんど決裂状態に陥ったが、日本はここで絶対に講和条約を結ばなければならない。結局譲歩に譲歩をして、樺太の半分を日本領土として、賠償金の請求は放棄して、なんとか講和条約はなった。
 しかしこの講和条件を知った日本国民は黙っていなかった。苦労や負担を強いられ、家族が兵隊として取られ、戦死して帰ってくれば、不満は爆発する。何のための戦争であったのかと思ったに違いない。東京の各地で暴動が起こる。この本の解説者は「人間というものは何をしでかすかわからないという暗い好奇心と、何をやってもタカが知れているという無常観をはらんだ徒労の意識」を吉村さん自身に育てて来たと書いているが、多分それは吉村さんだけではあるまい。思うような結果が得られなければ、人間何をしでかすかわからない生き物であり、期待が裏切られれば、何をやっても同じという意識は特に日本人には強い気がする。
 このポーツマスでの会議における結果は、日本にとって国家的に屈辱としか国民には映らなかったし、その不満が昭和の敗戦までくすぶり続けることになった。極端なことを言えば、日本の軍国主義を、意識しようとしまいと影で支えてきたのは、こうした国民であった。それは国家の運営は一部の指導者がやればいいのであって、私たち国民はその指導者がもたらした結果を享受できればいい。現実がどういう状況であろうとそれはうまく隠されているから現実を知らないまま平気でいられる。しかし政治家も軍指導者も国民に美味しいところぶら下げておかなければならないから、後は泥沼化していくだけである。
 ポーツマスの暴動以後、日本の政治家、軍幹部はどうやって国民の前に人参をぶら下げるか。あるいはだましていくかしか考えなくなり、それを一番安易な戦争という暴力で国家運営をしていく。それでも国民が文句を言えば今度は権力という力でねじ伏せていく暗い時代を演出していく。しかし元を正せば国民の欲望が生んだことかもしれない。そう言う意味でこのポーツマスの会談は日本近代史、現代史のターニングポイントとなったとも言えそうである。


評価
★★★


書誌
書名:ポ-ツマスの旗
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117140
出版社:新潮社 (1983/05 出版)新潮文庫
版型:372p / 15cm / 文庫判
販売価:579円(税込)

2009年05月13日

山之内靖著『マックス・ヴェーバー入門』

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 だいぶ以前に長部日出男さんの『二十世紀を見抜いた男』を読んで、私はプロテスタンティズムと富の蓄積は矛盾するじゃないか、と書いたことがある。長部さんの本にはそれが矛盾しないことを書かれているのだが、どうも私はすっきりとしない部分があった。しかし今回山之内さんの本を読んで、完全にすっきりしないまでも、ある程度納得できるところがあった。

 この本はマックス・ヴェーバー入門とあるように、マックス・ヴェーバーの著作をどう読むか、解説されている。主に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と『古代農業事情』第三版をどう読めばいいか教えてくれる。私は興味が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあったので、こちらの部分が面白く読めた。はっきり言って『古代農業事情』第三版の解説は難しくてよくわからなかった。
 で、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をどう読めばいいのか。特に私がかねがね疑問に思っていた、プロテスタンティズムと富の蓄財がどうして矛盾せずに、受け入れられるのか、それを教えてくれる。
 
 それでは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にどうアプローチすればいいのだろうか?ヴェーバーは市場メカニズムの歴史的成立を可能にした主観的動機に注目した。つまりヴェーバーは宗教がもたらした魂のあり方、救済が行為が動機となり、それが倫理的・道徳的生活態度として社会的に形成されたはずだから、ここに注目していく。
 しかしこのままではあまりにも多様であり、不確定である。そこには民衆の感情世界が一貫した倫理性帯びなくては、社会科学を社会科学としてあらしめる基準が見出せない。
 具体的に言うと、人々はいつ終わるとも知れない苦難が理由もなく続くことには耐えられない。けれど苦難が宗教的救済の約束と結びつき、苦難そのものが聖なる意味を持ったとき、苦難が生きがいを感じることができるとする。こうした宗教による観念の力が歴史において偉大な作用を果たしたとき、それが“合理化された「世界像」”となる。それをヴェーバーは社会科学の内部に方法として組み込んだ。
 ちなみにアダム・スミスやマルクスは市場メカニズムが価格という記号化した非人格的な指標によって財の社会的交換と配分が行われため、価格のみが手がかりであり、生産者・商人・消費者を事前に差異化した社会的属性は意味がない。社会的交換を決定するのは、非人格的・匿名的な記号としての価格であって、それを制作した人の倫理・道徳でもなければ、趣味や教養でもないから、市場メカニズムが社会科学の手法を提供するとしたのである。
 さらにもう一つアプローチの仕方を説明する。世の中には社会的な言説は、それが伝播してゆくうちに元の意味とはかけ離れたものへとズレていくことがある。たとえばある人がAという命題を語ってそれを誰かに伝える、この誰かはその命題をさらに第三の人に伝える、というふうに命題はは人々の間に拡がっていくが、その間にAという命題はいつの間にか変質してしまい、AではなくてBだ、と言わざるを得ない別のものになってしまう。こういうことを踏まえて、最初に提示された言明が、宗教から経済へ、あるいは非日常性の領域から日常性の領域へその性格を変え、伝播していきついには主観的な意図とは別に客観的結果もたらす。“予期せざる結果”、“意図せざる結果”を生んだというのだ。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にはこの手法というか変化をフルに使っているというのだ。

 もともと中世キリスト教神学の中では、人間が日常生活そのものの中に宗教的な救済があり得るなどとは考えられていない。原始キリスト教の中にも民衆の世俗の生活そのものの中に、その営みだけによって神によって善しとされるような領域があるとは考えられていない。つまり世俗的日常労働の中には宗教的意味を認める思想は、本来、キリスト教思想の中には存在していなかった。
 特にカルヴァンの唱えた予定説においては、永遠の昔から、ある人間には救いが予定され、他の人々は堕落に予定されている。このことは、神の永遠の決断によってすでに決まっていることであり、人間の側の善行や、信仰のよってさえも、そうした事実を変えることはできない。まして人間は神によって作られた被造物であるから、神の意志を勝手に変えたりすることはあり得ないし、あってはならない。これほど宗教上の神観念の中で、これ以上ラディカルなものはない。これは私が思っていたとおりである。ここからどうして富の蓄財が肯定されるのであろうか。それは次の通りである。
 神はとうの昔に救われるかどうか決めてしまっているので、その神さえも聖典礼も教会も個人の救いに役立たないことになる。カルヴァニズムの説教にいったん接した信者は、心理的緊張を免除されるチャンス(救済)を予定されたいた人物以外剥奪される。このことは西欧の孤立した個人を生み出すこととなった。
 カルヴァニズムの予定説は、救いの確証を得るための魔術的な手段を一切排除してしまったために、信徒たちはただひたすら自らの職業労働に専念することによってしか、内面的な不安を排除することができなくなってしまったのである。絶えざる自己管理を強要されることとなったのである。著者はそれを「人々は今日は肉の欲に負けなかったか、禁欲的職業労働によって神の道具として徹したかどうか、と問いかけ、まるで一人の人間が日々の生活について、信仰上の貸借対照表厳密に作成してゆく作業」をせざるを得なかったというのだ。こうしてカルヴァニズム的な信徒生活の聖なる成果は、ほとんど事業経営と同じ性格のものへと近づいてゆく。ここから「人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく『営利機械』として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活上冷ややかな圧力をもってのしかかっている」という禁欲的合理化を生むこととなる。
 まさしく大どんでん返しの発想と転化するのだ。本来持っていたカルヴァニズム思想が資本の肯定になったことは、“予期せざる結果”、“意図せざる結果”をだったわけで、それをヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言ったまでのことだと著者は説明する。なるほどこれだとある程度納得できるし、この著者の考え方は面白い。
 そして著者は「こうした禁欲的合理化は個々人の合理化にとどまらず、社会的生活諸領域まで徹底して合理化推し進めるという結果を伴うが故に、皮肉な自己破壊的結末招く」として、今世界が行きすぎた資本主義や商業主義が招く当然の帰結を警鐘するのである。

評価
★★★


書誌
書名:マックス・ヴェーバー入門
著者:山之内 靖
ISBN:9784004305033
出版社:岩波書店 (1997/05/20 出版)岩波新書
版型:246,2p / 17cm
販売価:819円(税込)

2009年04月30日

吉村昭著『ひとり旅』

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 前回読んだ吉村さんの随筆が最後のものかと思っていたら、どうやらこれが最後の随筆集となるらしい。まぁどっちでもいいのだけれど、とにかくこれ以上新しい吉村さんの随筆が読めないことになるのは間違いない。
 例のよって、その落ち着いた雰囲気の文章を堪能した。やっぱり吉村さんの取材を通して語られる歴史に隠れてしまった話や、創作秘話や舞台裏の話が面白い。
 吉村さんはいわゆる定説となっている歴史的事実をそのまま鵜呑みにせずに、自らの足で、しかも一人で創作の舞台となった場所を訪れる。創作に当たり疑問に感じたことを調べるためにだ。そこで発見した新事実は時に定説となっている歴史的事実に疑問を投げかけることもある。それがどう評価されているのか知りたいところだけれど、少なくとも小説としては既成の歴史小説より新しい目線で人物なり、歴史的事実が語られるようだから、読む方としてはかなり面白いのではないかと思うのだ。
 あるいは今まで日の光さえ当たらなかった事実を取り出して、面白い小説を書かれているみたいだから、これから先吉村さんの書かれた歴史小説を読みたいと思っている私はかなり楽しみである。


評価
★★★


書誌
書名:ひとり旅
著者:吉村 昭
ISBN:9784163692708
出版社:文藝春秋 (2007/07/30 出版)
版型:247p / 20×14cm
販売価:1,365円(税込)

2009年04月17日

吉村昭著『回り灯篭』

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 この随筆は著者最後の連載随筆をまとめたものである。やっぱり初期の随筆より後期の方がいい。なんていうのかな、とにかく読んでいてこころが落ち着くのが感じるのである。
 この本の書名になっている「回り灯篭」という随筆の最後に「それらが、今でも回り灯篭のようにつぎつぎに浮かび上がる」と書かれているのがある。そうなのだ。吉村さんの随筆、特に後期の随筆には「回り灯篭」のように、今まで吉村さんがそれまで出会ってきた人々、経験したこと、あるいは旅で感じたことが、次々と描かれる。そこには長い人生の中からわき出るような感じがする。しかも時間という濾過を通しているので、角がない。まるで回り灯篭のほのかな明かりのようである。こういうのがいいのである。時間を通しているだけに、その分奥深さもあるし、話の内容も風化していないのを感じることができる。こういう穏やかな随筆を好むようになってきたということは、私も歳をとったことの証明なのだろうが、仕方がない。

 一つ気になった随筆がある。
 吉村さんが中学校に入学した年の夏に友人が死んだ。通夜に行って焼香しようと担任の教師から連絡があり、それを母親に言うと「絶対に行ってはなりません」と言われる。それは子を失った悲しみは親にしかわからない。学校の先生は安易な感傷でお通夜に行こうと言うが、それは親に亡くした子供と同じ姿を見せるだけで、親の悲しみ増すだけであるというのだ。配慮が足らなすぎるというのだ。
 よく幼い子供が事故や事件で亡くなり、その葬儀の映像がよくテレビで流される。そこには親に連れられてくる同じクラスや学校の友人たちが通夜や告別式などに出席している姿が映し出される。確かに考えてみると、亡くなった自分の子供と同じ年齢の子供たちが焼香や手を合わせていれば、それを見た遺族である親はたまらないだろうなと思う。何で自分の子だけが死ななきゃならないのかと思うに違いない。
 けど一方で、友人や同級生が出席しない葬儀も寂しいものもがあるような気がする。あるいは出席されなければされないで、うちの子は学校で、あるいはクラスでどんな立場にいたのだろうと思うかもしれない。それを思えばそれだけで悲しみも生まれるかもしれない。このあたりは難しい。でもどうなんだろう。吉村さんのお母様が言われることもよくわかるけれど、やはり亡くなった自分の子供の友人が来てくれるのは有り難く思えるんじゃないだろうかとも思う。もちろんそれもケースバイケースだろうけど。
 ただこの場合、安易な感傷だけで、簡単に子供を葬儀に参加させるのではなく、それなりの配慮もした上で、子供たちを葬儀に出席させるかどうか考えなければならないだろう。いずれにしても親が自分の子供の葬儀するというのは悲しいものだ。


評価
★★★


書誌
書名:回り灯篭
著者:吉村 昭
ISBN:9784480814852
出版社:筑摩書房 (2006/12/20 出版)
版型:216p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年04月06日

吉村昭著『月夜の記憶』

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 読んでいて、“おや?”と思った。今まで読んできた吉村さんの随筆とはちょっとトーンが違うなと感じたのである。
 どちらかと言えば私は吉村さんの随筆にどっしりと構えた感じが好きで、世の中のこと、あるいは身の回りのことなどあるがままに受け入れつつ、大人の対応を見せていた文章が好きだった。
 この本に収録されている随筆は吉村さん初の随筆からよるものが多いことを知る。書かれた文章は昭和30年代から40年代のもので、吉村さんが昭和41年に太宰治賞を受賞して、世の中に出られた頃の随筆かと思われる。
 そして私が今まで読んできた吉村さんの随筆は晩年のものであったから、この本の随筆からずいぶん時間がたっていることになる。その時間が吉村さんの文章に変化を生んでいるのだろう。ここにある文章は読んでいて“若いな”と感じさせるほど、自己主張がはっきりとされていて、たとえば世の中の風潮に対しても結構怒りをあらわにしているのだ。
 
 話は横にそれてしまうかもしれないが、最近私はこうした自己主張の激しい文章にはついて行けなくなってきているところあるのかもしれない。あるいは生きることとか死ぬこととか、そんなことを大上段に取り上げられると“もういいよ”と言いたくなってしまうのだ。
 恐らく若い頃には、そうした“どのように生きるか”といった問題を身近に、そして真剣に考えたくなるのだろうと思う。多分私もそれなりに考えたはずだ。あるいは友人と議論もした。しかしそれはその頃罹る“はしか”みたいなもので、そういう時期を通り過ごさないと今があり得ないのではないだろうか。
 だからそうした“はしか”に罹った頃は、そんな文章を読んで感動したり、あるいは怒ったりしていた。結構好んで読んでいたような気がするのである。
 しかしこの歳になると、“もういいや”という気持になっており、むしろそんなことを熱く語る奴を見かけると、逆に勘弁してくれと言いたくなってしまう。むしろ世の中を諦観している人の文章の方がストレートに今の自分の中に入ってくるようになった。好みも歳共に変わっていくものなのである。だからいくら好きな吉村さんの随筆であっても、若い頃に書かれたこれらの文章には少々辟易したしまった。
 まぁ、随筆に時と共に人の変化が見られて、それはそれで面白かったが、ここに書かれた文章は私が若い頃に読んだら、もう少し感想は変わったかもしれないなと思った次第だ。気に入った作家さんだから、何でも読めばいいもんじゃないということを知らされる。

評価
★★


書誌
書名:月夜の記憶
著者:吉村 昭
ISBN:9784061847422
出版社:講談社 (1990/08/15 出版)講談社文庫
版型:322p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年03月31日

吉村昭著『私の好きな悪い癖』

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 極上のエッセイとは読んでいて、何となく心が和んでいき、気がついたらページが終わっていたというものでいいと思う。だからそこから何か一言半句でも得ようなんて思っても、これというものが見出せないのではないかと思う。
 本を読んでいると、何か得るものがないかと文章をそうなめするみたいに探し回るところが私にはある。ましてこうして本について書いていると、「おっ、これいいじゃん」と思い、後で使わせてもらうつもりで付箋を付ける。
 でも思うのだけれど、こういう本の読み方って、どこか打算的なところがあり、本全体を楽しんでいるように思えない気がする時がある。別に何となく読んでいる訳じゃないが、心をさらにして本を読むこともあってもいいような気がするのだ。私は本を読むことに疲れたときは、こうしたエッセイを読むことで、心をリセットしている。だからエッセイは大好きなのだ。そこには書かれる方が自由に思うままに感じるままのことを書かれているから、読む方も心が解放される気分になれる。

 今回は吉村昭さんのエッセイで気持をリセットさせてもらった。ここには“人”、“旅”、“歴史の四方山話”など吉村さんが感じたこと、考えたことなどありのまま書かれている。それがいい。
 吉村さんは歴史小説家でもあるから、そんな小説を書くために日本全国旅に出て、取材してこられている。このエッセイはそんな吉村さんの旅から、人とのふれあい、あるいは埋もれてしまった歴史の一こまなど紹介されていて、読んでいて楽しい。もちろん素顔の吉村さんの生活ぶりも描かれる。
 こういう書き方にはあこがれる。とにかくさりげなく日常が描けるというのはいい。小難しいことなどついつい書きたくなるけれど、そればかりじゃ疲れてしまう。むしろ日々の日常をさらりと書く方が好感が持てる。私もできる限り文章を書くに当たり、その時の気持を素直に書くことを目標としているので、こうした文章はいい参考になる。

 吉村さんが長崎にはよく行かれるらしく、ここにも長崎の旅が書かれている。その時長崎で初めて自転車に乗っている人に気がつき、乗っていたタクシーの運転手さんにそのことを口にすると、その運転手さんは「長崎は坂が多いからあまり自転車は使わない」ことを言う。吉村さんはそこから「長崎を熟知していると思っていた私は、あらためて他者者でるのを知った、他者者はあくまでも他者者であり、その土地で生まれ育ち暮らしている者しか、土地の息づかいは知り得ないのだろう」と気がつく。「だよな」と思う。
 先週まで私は谷中、根津、千駄木という土地にあこがれをもって、森まゆみさんのエッセイを読んでいた。そこにあったのは少しでもこの町の息づかいが感じられればという気持であったが、結局何も実感として感じられなかった(それは森さんの文章の善し悪しを言っているんじゃない)ことを思い出し、吉村さんと同じ気持だと思ったのである。生活の重みは旅や文書から感じるより、はるかに重みがあるということだろうか。よくわからないということは、それだけ謙虚になっていることである。


評価
★★★


書誌
書名:私の好きな悪い癖
著者:吉村 昭
ISBN:9784062738972
出版社:講談社 (2003/11/15 出版)講談社文庫
版型:241p / 15cm / A6判
販売価:519円(税込)

2009年01月20日

吉村昭著『東京の下町』

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 また吉村さんのエッセイを読む。吉村さんは日暮里で生まれ育った人である。この本は吉村さんが子供頃の日暮里での風景を描写している。
 私が子供頃の日常はまだ吉村さんがいた日常とほぼ似ている。まだ戦後20年はたっていないから、多少は変わっているところもあるけれど、まだ昔懐かしい子供の頃の風景が残っていた。住んでいるところが江戸川区という東京都といっても、田舎だったから、高度成長期が始まる頃とはいえ、取り残されたところがあったのかもしれない。
 この本に記されている、トンボ取り、風鈴売り、金魚売り、豆腐売りのラッパの音、牛乳配達が鳴らす瓶が当たる音、蚊帳のある部屋、近くにあった街の映画館、公園に来る紙芝居やおでんの屋台、縁日のアセチレンガスの火、などなど、みんな私の思いでの中にある。なんせ、小学校の校歌に“シラサギ飛び交う”という歌詞があり、事実田植えが終わった冬の田んぼにはシラサギが何羽もいた。 こういう子供の頃の日常風景を懐かしむこと自体、やばいなと思うところがあるけれど、でもやっぱり懐かしい。なんかいいなぁと思うのだ。
 私の子供の頃の原風景と吉村さんの子供の頃の原風景との唯一の違いは、吉村さんの場合“戦争”をはさんでいることだろう。吉村さんは「少なくとも太平洋戦争がはじまるまでは、町には庶民の生活があった」と書かれているが、この本を読むと、戦後の生活と戦後の生活には一時戦争という断絶はあったにせよ、その復興には庶民の力が強く働き、完全までとは言えないしろ、戦前に似た生活に戻ったところが感じる。
 そしてその戻った庶民の生活は、「考えてみると、日本人の生活は、大ざっぱに言って明治以後、昭和三十年頃まで基本的な変化は余りなかったように思う」と吉村さんが言うように、私の子供の頃までは吉村さんの世代が回顧する子供の頃と共有できる部分が多かったのではないかと思うのだ。だからここに書かれることに妙に懐かしさを覚えるのだろう。
 そしてそれは私たちの世代までである。きっとこの後来る高度成長期に日本は大きく変わり、日本が世界の中の一つに位置し、世界経済が日本を大きく変えていき、今もその嵐にもまれているため、生活も変わらずを得ないのではないかと思うのだ。
 いつも私より年配の方の随筆やエッセイを読んでいると、何で私が“そうそう”と思うのか不思議ではあったが、たぶんそれらの人たちが過ごした生活、たとえば「道路は、少年少女の遊び場であった」頃の風景が私の世代までであっただけのことなのであろうと、改めて思った。
 私は自分の子供の頃と今の子供たちと比べてどうこう言うつもりはないけれど、ただこうしたエッセイを読んで、共感できることはうれしいと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:東京の下町
著者:吉村 昭 永田 力【絵】
ISBN:9784167169145
出版社:文芸春秋 (1989/01/10 出版)文春文庫
版型:233p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月09日

吉村昭著『街のはなし』

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 昨年は吉村さんのエッセイで締めくくったが、年始はその吉村さんのエッセイから始める。要は昨年の続きということだ。今回もやはり“うまいな”と感心して読んだ。たぶん、どうって言うことはないことなのかもしれないけれど、ちょっと考えてみると、こうも言えるし、ああも考えられるということをうまく、しかもそれとなくおかしく語られる。それでいて、もっともだと思えるのである。 ちょうどお正月なのでその話題にちなんだエッセイ、「松かざり」から。

 「正月に一家そろって海外旅行に出るのを常としている家族がいる。テレビに、成田空港へ帰ってきたそれらの家族が映し出される。
 私は、自然に親に連れられた子供の姿に視線がゆく。これらの子供たちは、日本の正月の行事には無縁で、もしも正月の絵を描くとすれば、ビーチパラソルが点々とある外国の海浜や、波の寄せる青い海で外国人にまじって泳ぐ肉親の姿になるのだろう」

 と吉村さんは危惧する。もともとこのエッセイはこの頃正月のお飾りをしない家が多くなっていることから始まるのだが、安価でもいいからそうしたお飾りをすべきだというのが吉村さんの主張である。
 どうしてかといえば日本は春夏秋冬が鮮やかなほどくっきりしている。そうした恵まれた四季に我々祖先はその季節にふさわしい行事をもうけてきた。それは季節のの移り変わりを確かめる人間の豊かな智恵によってもうけられたものだ。それらの行事は子供たちにとって新鮮な驚きとなるだろうし、あらためて季節を見つめる良い機会ともなり、それによって豊かな心がはぐくまれるからだという。それを我々は次の世代に伝えるべきなのに、正月に家族揃って海外旅行に出かけるとは何事かとというのである。
 確かに日本の季節感が失われつつあるし、みんなで行事に参加するという気分が薄れつつある。しかも長期の休みを取るとなれば盆か正月しかない現状があるから、そこに家族揃って海外旅行へ出かけるのはある意味やむを得ないだろう。だから諸手を挙げて吉村さんの意見に賛成できない。が、一方でもっともっと日本の正月気分を味わってもいいような気もする。だって子供たちが描く正月風景がたこあげではなく、外国の青い海っていうのはちょっとどうなんだろうと思うからだ。
 時たま思うのだけれど、最近は日本もグローバル化してきているから、いろいろなところで今までとは違う過ごし方が生まれつつある。しかしそれが完全にスタンダードになりきれないものだから、妙に中途半端な状態になっているのではないだろうか?なぜそれがスタンダードになりきれないかといえば、そこには日本固有の文化なり伝統があるからである。今きっとそれら固有のものと、新しい過ごし方がうまく融合していないか、あるいは一方が他方を排除していないから、正月は海外でエンジョイする人たちがいれば、おいおい正月は正月らしい過ごし方をしろよというやつもいることになるのだ。
 これから先これらの考え方なり、過ごし方がどう変わっていくのかわからないけれど、今まで日本が日本で有り得たものを完全に捨て去ってしまうと、没個性的になる。そしてそうした没個性は没落を招くことになると歴史は教えているのだけれど・・・。私は右的思想に傾いているとは思わないけれど、ただ日本人である以上、日本文化や伝統などを大切にすべきじゃないかと思ってはいる。

 さて、笑ってしまったエッセイがある。吉村さんの奥様、作家の津村節子さんが、友人との電話でぼやいている。内容は津村さんの友人の旦那がずっと家にいることに対して、「まだあなたの所はいいわよ。御亭主がお勤めだから、朝夕二回お食事をつくればいいのですもの。私の所なんて、毎日、家にいるから三食食べさせなければならないのよ」とい言われる。これを聞いちゃったら、ちょっとやりきれないなと思ったが、吉村さんも苦々しく感じておられる。そこで吉村さんははたと思いつく。

 「結婚して年を追うにつれ、夫が妻の前で弱々しい眼をするようになり、その原因が、家庭での食事にあることに、私は気がついた。妻がととのえた食物を夫が食べる。それが繰り返されているうちに、夫の眼は次第に弱々しいものに変化する。
 犬は、常に餌をあたえてくれる飼主に媚びるような眼をする。人間も動物であるかぎり、それが繰り返されているうちに、自然に飼主にむける犬のような眼になるのである。
 平均寿命が短いことから夫が先に死ぬのが普通だが、時には妻の方が先に死ぬこともある。妻に先立たれた夫は、哀れである。しょぼんとして、生気が失われ、体も痩せ衰えて、いくばくもなく死ぬ例が多い。それは、飼主を失った犬と同じであるからだ」

 む~んん。よくよく考えてみれば、確かに人間も犬と同様に動物ではあるけれど、しかし人間は犬ではない。だから犬の生態がそのまま人間に当てはまるのかともいえる。その点吉村さんの論理は破綻してしまうけれどそれを言ってしまったら身も蓋もない。
 妻が食事を作り、夫がそれを食べる。その繰り返しでいつの間にか妻は飼い主となり強くなる。夫は餌をもらう犬と化してしまうほど、弱々しくなってしまう。それが犬に似ているということなのだ。それがおかしくもあり、悲しくもあるところに、この話は面白味が出てくる。妙にうなずいてしまったりして、嫌になってくる。


評価
★★★


書誌
書名:街のはなし
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169343
出版社:文芸春秋 (1999/09/10 出版)文春文庫
版型:271p / 15cm / A6判
販売価:490円 (税込)

2008年12月31日

吉村昭著『縁起のいい客』

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 実はこのエッセイ集は文庫版で持っていたのだが、先日ブックオフで単行本を見かけ、それがコンパクトでやさしい感じで、さらに手になじむ装丁が気に入ってしまい買ってしまった。そしてこのエッセイが今年最後の締めくくりとなる。
 私は今年はじめて、吉村さんのエッセイを読んだのだが、以来完全にファンになってしまい、今は吉村さんを名エッセイシストだと思い始めている。
 今まで何冊か吉村さんのエッセイを読んできて、この人はいつも小説になる材料を探しているんだな知らされた。そしてそれが小説になりそうだとと思えば一人で資料を探し求めて、それこそ日本全国を歩き回っておられる。しかしその素材探しの中で、小説にはなりそうもない事実や事柄、人とのふれあいがエッセイとして生まれ変わる。吉村さんは次のように言われる。

「小説家である私は、自分の周囲に多くの触手をのばしていて、小説の素材になるものはないか、と絶えず探っている。その触手に、小説の素材にならぬもののエッセイの材料として格好だというものがふれることがある。ダイヤモンドを探していて、エメラルドを見出すような感じである。
 この場合、エッセイの素材であるエメラルドを決して加工してはならない。エメラルドそのものに美しさがあり、それを尊重すべきなのである」

 たとえば吉村さんが、自分が通われるお店が景気が悪くて一軒一軒つぶれていくのを残念がる。普通こう景気が悪いのは政治のせいだとか言ってしまいそうだけれど、そうした野暮なことは一切書かれない。ただひいきにしているお店がつぶれていくのを寂しがるだけなのである。しかし読む方としてはその方がかえって切実さが感じられる。
 そうなのである。ありがままにあったことを描写する。ただしそれを見る吉村さんの視点はぶれない。ある意味これは吉村さんが頑固な性格なのかなと感じられる。
 また自身のことを書かれるときも、吉村さん流の無理をしない自然体の生き方が書かれる。それは歳相応の常識で判断されたものであって、これはこれで安心できてしまう。無理して若ぶってみたり、背伸びしてみたりはしない。今の自分が感じるまま、あるいは考えるままを書かれる。それでいて押しつけがましいところは一切ない。
 得てして人は自分の生きてきた人生を過去の遺産みたいに後生大事にして語るものだから、どうしても説教くさくなるし、もっと言えば人生訓みたいな話し方になってしまうところがある。そういうのって嫌だと常日頃思っているものだから、こうした素直な歳相応な感覚でさりげなく語れる手法がなんか心地いいのである。うまいなとさえ思ってしまう。
 心地よいエッセイというのはいいなと思う。だから来年も吉村さんエッセイを読みたいと思う。さらにここに紹介されている吉村さんが書かれた歴史小説も読んでみたいなと思っている。

 今年も残すところ後二時間あまり。本当は今日読んだ本のことは翌日書くのが私の流儀なのですが、明日はもう年が変わってしまうので切りのいいところで今日書いてしまおうと思い、一気に書いてしまいました。なんか慌てた感じがしないでもないが、何とか書き上がりました。
 今年一年間このブログに付き合ってくださった方がどれほどいるのかわかりませんが、もしお付き合いしてくれた方がおりましたら、お礼申し上げます。ありがとうございました。来年もこんな感じで書きつづっていくつもりでおりますので、このままお付き合い願えれば幸いです。


評価
★★★


書誌
書名:縁起のいい客
著者:吉村 昭
ISBN:9784163592909
出版社:文芸春秋 (2003/01/15 出版)
版型:261p / 19cm / B6判
販売価:1,249 円(税込)

2008年12月12日

吉村昭著『光る壁画』

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 この本は多分昔読んだはずだ。でも、もう一度読みたくなって文庫本を購入する。今は私も毎年一回はお世話になっている胃カメラの開発物語である。初めて読んだときは、まだ胃カメラのお世話になっていなかったから、それほど身近なものとして感じられなかったが、今は「どれどれどのようにして胃カメラ誕生したのか?」、と興味があった。
 開発は戦後まもなくオリオンカメラ(モデルはオリンパスカメラ)の曽根菊男(モデルとなった人は深海正治)のところに東大医学部附属病院分院の副手宇野達郎という外科医が胃カメラの製作を依頼するところから始まる。
 それまで胃の中を見るには、レントゲン写真を撮る方法と、胃鏡という方法、それと胃内撮影(これは実用化されていないし、失敗していた)の三つの方法があった。
 恐ろしいのはこの胃鏡という方法である。なんと口から金属の管を胃の中まで差し込んで、上から見る方法なのである。しかし金属管を飲み込むことが出来る人たちがいるのである。大道芸人の呑刀師という人たちである、よくあるでしょう、剣を口に入れて奥まで呑み込む芸をする人たちである。その人に直径十三ミリの金属管を呑み込んでもらい、管の中に光を送って胃の中を覗いたのが最初であったという。その後この胃鏡は多少改良されて、一般の患者に使われたが、食道を破ってしまう事故などが起こり、結局使用が避けられていた。
 依頼された曽根は、まずは胃の中まで入る管を、金属管ではなく、患者の苦痛の少ない素材で作り、次に胃に入った管にカメラを付けて、胃の内部を撮影する方法を、試行錯誤しながら開発していくのである。
 今みたいにファイバースコープなどない時代である。管の先に直接カメラ、六ミリフィルムを入れるマガジン、光源となる豆電球を付けるのである。人間の咽頭の広さは平均十四ミリだそうで、管はそれ以下でなくてはならない。当然管にも厚みがあるし、しかもその中に光源である豆電球と、カメラを装置しなければならないのである。
 まずは管の素材を探し、次に管の中に入るカメラ。当然レンズも極小のもとなる。電球ももちろん小さい物でなければならない。電球は小さくなればその光量も少なくなる。それを明るくすれば、今度は中のフィラメントがすぐ焼き入れてしまい、耐久性がなくなる。
 驚くのは戦後間もないこの時期に、胃カメラに付ける小さなレンズを磨いて作る人や、極小の豆電球、しかも光量があって耐久性のあるものを作れる職人がいたことである。
 おもしろいのはこの胃カメラに使う素材を当時巷にあった素材から探し、あるいは応用して、試作器を作り上げていくことである。たとえば、マガジンに入った六ミリのフィルムを一コマずつ引っ張り出す糸(シャッターの役目をするもの)に三味線の弦を応用する。またレンズが固定焦点なものだから、カメラと胃壁に一定の距離が必要となる。しかしこの胃カメラは一端胃の中に入れてしまうと、管の先端がどこにあるのかわからなかった。そのため透明なコンドームをカメラのついた先端に付けて、ふくらまし、そのことでカメラと胃壁の距離を一定にするのである。物資の少ない時代だから余計にそうしたさまざまなものを応用していく。まさしく“手作り”の胃カメラであった。
 しかし根本的な問題があった。先に言ったように、胃カメラが胃のどの部分あって、どこを撮しているのかわからないということなのである。今みたいにモニターがあって、それを見ながら操作出来ないのである。試作器を使って犬の胃を撮影しているとき、実験室の電球が切れた。その時、犬の腹がうっすらと光るのである。そうなのだ。胃カメラの豆電球が内部で光っているのである。まさしく“光る壁画”であった。偶然が胃カメラの操作方法を教えてくれたのであった。
 こうして試作器の胃カメラを犬を使って実験し、ある程度成果が出た時点で、今度は人に使うようになる。しかし何せすべてが初めてのことである。胃カメラを入れても奥まで入っていなかったりして、うまく胃の内部が写らない。それでも病院内の外科医が自ら実験台となって、胃カメラを呑むのである。こうして日本で世界最初の胃カメラが誕生したのである。
 この小説のおもしろさは胃カメラ製作に当たっての試行錯誤していく過程が描かれていることと、彼らがいた時代風景がうまく描かれているところである。その時代背景がよくわかり、いかにも戦後だなと思った

 主人公の曽根は箱根の旅館の息子でもあった。奥さんに旅館経営を任せて、自らは実験の合間に帰る単身赴任であった。この本を読んで知ったのだけれど、戦後の箱根の旅館に宿泊する人たちは、宿泊の条件として一食一合のお米を持参して、それを旅館の女中さんが計って受け取っていたという。戦後の食糧難がよくわかる。また曽根たちが東大病院に実験に行くときは、胃カメラをリュックサックに入れて背負って行くところなど、よく戦後日本を映した映画などに見られる風景である。
 またこの本では堅苦しい実験の模様だけでなく、曽根と妻の京子との人間関係も、感情も生々しく描かれていて好感をもった。いい小説であった。
 いずれにしても、この人たちのお陰で、私の胃の健康も維持されているとことがあるわけだから、感謝しなければならない。でも来年春にはまた胃の検査があることを思うと、やっぱり憂鬱だなぁ~。


評価
★★★★


書誌
書名:光る壁画
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117171
出版社:新潮社 (1984/11 出版) 新潮文庫
版型:313p / 15cm / 文庫判
販売価:499 円(税込)

2008年12月09日

吉村昭著『わたしの普段着』

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 私はどうも一回気に入ってしまうと、凝るところがあって、続けてその作家の本を読みたくなるのである。吉村さんの本もそうである。
 実は以前にも何冊か吉村さんの小説を読んでいる。けれどどこか吉村さんの小説は堅苦しく感じていた。もちろん自分の興味のある歴史小説なので、読むことは読むのだが、続けて読みたいとはなかなかなれないでいた。
 たとえば司馬遼太郎さんの歴史小説と比べてみても、司馬さんの小説はどこかあそびがあって、話が重くなると“閑話休題”と称して、雑談ぽくなる。それがまたおもしろいのだが、吉村さんの歴史小説はそれがない。その分堅苦しいのである。もちろん司馬さんの小説も史実には忠実であろうとは思うが、司馬さんの場合いわゆる独特の司馬史観を通して物語が語られるため、その分取っつきやすい。
 その点吉村さんの小説は史実に忠実であろうという姿勢があまりにも強すぎるため、私が読後重々しく感じてしまうのであろう。 このエッセイには、「これは小説になる」と吉村さんが思ったことを、妥協を許さないほどの取材を重ねて小説として形作っていかれることが書かれている。「乗り物への感謝」というエッセイでは「私は小説の史料収集や現地踏査の必要からしばしば旅行し、全国で泊まらない県はない。遠隔地へ行く折は、もちろん飛行機に乗り、長崎には百回以上、札幌には百五十回以上、愛媛県宇和島には五十回前後行っている。
 これだけでも飛行機に乗ったは三百回になるが、南アフリカとアメリカへと、海外旅行に二度行っているし、日本各地に空路おもむくことが多いので、五、六百回になるはずである」と書かれている。
 これだけ徹底している。しかも出版社の人間に取材に行かせず、自ら出かけて行く。人任せにしない。疑問があれば、何度も取材に出かけ、その地方に残る資料をあさり、古老に話を聞き、小説を形作っていくことが書かれている。
 歴史の生き証人が吉村さんが戦史ものを書かれていた頃は、まだ何人か生存されており、その話を聞くことが出来たから、ストイックなまでに、古老の話を聞き、その事実から小説を作り上げていく。だからその古老たちが亡くなれるようになってきたら、吉村さんは戦史ものから手を引き、歴史小説の方へ転換していくのである。
 でも、歴史小説でも、徹底した史料調べは変わらない。だから吉村さんは「私は、史実そのものがドラマであると考えているので、フィクションをまじえることはしない」と言い切るのである。それだからこそどんな分野の小説でもリアリティーが最優先されているのであろう。だから吉村さんの書かれる小説にはそうした思いが詰まっているのだと知る。そうわかると、ここで何冊か紹介されている吉村さんの著作を読みたくなってくる。

 そんな吉村さんが自分自身聞き手になっているわけだから、あくまでも謙虚な姿勢であることが、ここに収録されたエッセイから感じることが出来るし、そうした吉村さんだからこそ、一人間として実生活でのさまざまな現実を素直に見つめておられる。
 たとえば「順番待ち」というエッセイがおもしろかった。そこには編集者から、吉村さんのファンである財界の団体役員と会った話が書かれている。その人は吉村さんの文庫本を見せた。図書館から借りたものだという。他に吉村さんの作品を読みたいと思っているが、貸し出されているので、今文庫本の順番待ちをしていると吉村さんに言うのである。
 それに対して吉村さんは釈然としない思いがしたと書く。彼は経済的にも豊かな人間であるはずなのに、五百円ほどの文庫本を何故書店で買おうとしないのか。そんな彼が順番待ちをしていることは、他の読書好きの人の利用をさまたげている。だからこの財界人は真の読書人の範疇から外れていると断罪する。その後彼はハイヤーで帰っていった。
 吉村さんは「私は学生時代三食を二食にしてまで書店や古書店で書物を手に入れた。書物を自分の物として所有することが、読書の喜びでもあった」と書くから、吉村さんは会わなきゃよかったと後悔するのである。

 この文庫本の紹介文に「気取らず、気負わず、殊更には憂いを唱えず。いつも心に普段着を着て、本当に知った人生の滋味だけを優々閑々と綴ってゆく」と書かれているが、まさしくその通り、自分自身、人、生活、旅、歴史、そのものをありのまま、感じたまま、言葉を紡いでいる感じであった。


評価
★★★★


書誌
書名:わたしの普段着
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117492
出版社:新潮社 (2008/06/01 出版)
版型:324p / 15cm / A6判 新潮文庫
販売価:539 円(税込)