2009年07月01日

吉村昭著『日本医家伝』

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 この本で取り上げられている医家は主に江戸時代の人物か、あるいは明治にかかる頃までの人物と限定し、しかも先駆的業績を持つ12人である。以下ざっと取り上げてみる。

 山脇東洋(1706~1762)は江戸中期の宝永二年十二月十八日、丹波亀山の医家清水立安(号東軒)の子として生まれた。名を尚徳、通称を道作といい、字は玄飛又は子樹、号を移山、後に東洋と称した。
 東洋は日本で初めて腑分を実際自分の目で見た医家である。東洋はかねがね人体は五臓六腑で成り立っているのだろうかという疑問を持っていた。もしそれが本当なら実際にそれを見てみたいと思っていた。
 宝暦四年京都で斬首刑になった人物の腑分けが行われるのに立ち会うことができた。当時は医者自らがメス(当時メスなんてあったのかどうか知らないが、とにかく体を切る道具)を握って体を開かない。雑役がちゃんといて、それが罪人の体を切り開き、それを医家が見るというものであった。それでも東洋は医家として日本で初めて人体の臓器を見た人物であった。

 前野良沢(1723~1803)は名を熹(よすみ)、字は子悦、号は楽山。筑前藩士谷口新介の子として享保八年江戸の牛込矢来に生まれた。医家として唯一オランダ語研究家であった。良沢は杉田玄白の誘いで腑分けを実見するが、この時オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」という解剖書を持参してきた。玄白もやはり同じ本を持ってそこにいた。その後杉田玄白が良沢を誘ってこの本を日本語に翻訳する。
 しかし玄白にはこの本を翻訳することで名声を得たいという野心があることを良沢は見抜いていた。学究肌の良沢にしてみればそういう野心は許し難かったが、玄白がいなければこの翻訳事業はできなかったので、ただ翻訳のみに没頭していく。玄白も良沢が自分に不快感を持っていることはわかっていたが、良沢がいないと翻訳ができないので、良沢のきげんを損なわないように翻訳の仕事を進めていった。
 翻訳から3年4カ月後「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」として刊行されたが、そこには良沢の名前がなかった。良沢は「解体新書」はまだ不完全なものだから、さらに年月をかけて完全なものにすべきであると考えていたが、玄白は刊行を急いだ。その考えに良沢はついていけなくなり、自分の名前を公にすることを辞退したのであった。結果「解体新書」訳者は杉田玄白一人となった。
 その後杉田玄白は経済的にも名誉的にも恵まれたが、良沢はさらにオランダ語の研究を進めたが、生活は貧しかった。享和三年十月十七日に八十一歳で病没したが、玄白はその葬儀にも行かず、日記にただ一言「良沢死」と書き残しただけであった。

 伊藤玄朴の功績は先に読んだ『「お玉ヶ池」散策』にある通りである。ただ玄朴は金銭への執着が強い人物だったらしい。
 ここで気になるのはシーボルト事件である。シーボルト事件とはシーボルトが帰国するときに自分の荷物を積んだ船が台風で座礁しその積荷から日本地図や葵の紋服などの禁制の品が発見された。誰がそれをシーボルトに渡したのかということが問題となり、多くの人間が連座して罰せられ、死罪になった者もいた。なかには獄中死や自殺した者もいた。
 その日本地図は玄朴が頼まれてシーボルトに渡したものであった。しかし玄朴の取り調べはシーボルトに渡したものが中身を知らないということで許される。
 シーボルト事件でオランダ語を知っている人物が少なくなり、玄朴の存在が貴重になりその存在がクローズアップされていく。
 シーボルト事件で葵の紋服を渡したのが土生玄碩であった。土生玄碩は宝暦十二年(1762)安芸吉田で生まれた江戸後期の眼科医である。目の手術の時瞳孔をひらく薬の成分をシーボルトから聞いたが、シーボルトは教えてくれない。シーボルトは薬の成分を教える代わりに葵の紋服が欲しいと要求する。土生玄碩はそれを渡し、薬の作製法を教わるが、シーボルト事件が発覚し、家財すべて没収され、医業にたずさわることも禁じられ、蟄居生活を送るはめとなる。

 楠本いねは遊女屋引田屋が抱える其扇とシーボルトとの間に生まれた。シーボルトが去った後、シーボルトの門人であった二宮敬作のもとで産科医を目指す。その後紆余曲折があるが、明治三年二月に東京府京橋区築地一番地に産科医院を開き、一時は名声を得るが、そのうちいねの持っている医学知識も古くなり患者も減り医院を閉じる。

 中川五郎治も『「お玉ヶ池」散策』で書いたとおりである。

 笠原良作は文化六年福井で生まれ、名を良、字を子馬、後に白翁と号した。福井で種痘の普及に尽くした医師である。その種痘に使う痘苗をどうやって福井へ運ぶか、その手段がすごい。笠原良作は種痘をした小児を一緒に福井へ連れて行くのである。
 種痘した小児の紅点は7日には消えてしまうので、途中で他の児童に植えかえていき、小児ともども痘苗を福井へ運ぶのである。これはすごい。当時は冬で吹雪く山を越えていくのである。

 松本良順は吉村さんの『暁の旅人』にある通りだ。

 相良知安(1836~1906)は佐賀藩出身の蘭方医である。オランダ人医師ボードインにより医学を学んでいた。
 維新政府は維新戦争で官軍に肩入れしたイギリスのパークスの依頼で戦場に赴いた医師ウイリスの業績を認め、戦後古くなったオランダ医学からイギリス医学を採用する方向へ向かう。
 しかし相良知安はオランダ医学書がドイツの医学書の翻訳が多いことを知っていたので、ドイツ医学こそ世界最高水準のもではないかと考えた。そしてその自説で新政府を動かし、日本にドイツ医学を導入する道筋を開いた人物である。

 荻野ぎん(1851~1913)は埼玉県大里郡秦村に荻野綾三郎の五女として生まれる。十六歳の時結婚するが夫なった男は遊蕩児で遊里でうつされた悪質な淋病を彼女にうつした。この病気の治療は女性とって屈辱的なものであった。ぎんはもし治療に当たる医師が女性であれば患者の苦痛はかなりいやされるのではないかと考え、以来医師を目指す。当時は女性は医師試験を受けることさえ認められなかったが、なんとかして女医になった。ぎんは近代日本における最初の女性の医師であり、女性運動家としても知られた。

 高木兼寛(1849~1920)は嘉永二年日向国東諸県郡白土坂に生まれ、十三歳の時に医学を志し、海軍に入り、イギリスへ医学留学をする。帰国後海軍に脚気が多発することに注目し、その撲滅に尽力する。東京慈恵会医科大学の創設者。

 秦佐八郎(1873~1938)石見国(現在の島根県)濃郡都茂村に生まれた。梅毒の特効薬サルバルサン606号をドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救った。

 この本にあげられた医家は、後に吉村さんの長編歴史小説となっていくものが多い。この本がきっかけになったのであろうか。ちなみに前野良沢は『冬の鷹』、楠本いねは『ふぉん・しーほるとの娘』、中川五郎治は『北天の星』、笠原良作は『雪の花』、松本良順は『暁の旅人』、高木兼寛は『白い航跡』となっている。いずれこれらの作品は読んでみたいと思っているので、この本はいい“前振り”になって、ちょっとしたガイドブックとなった。


評価
★★★


書誌
書名:日本医家伝 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062733557
出版社:講談社 (2002/01 出版)講談社文庫
版型:377p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2009年06月29日

吉村昭著『死顔』

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 今まで吉村さんの随筆と歴史小説は読んできたのだが、今回短編小説を初めて読んでみる。今回の本は私小説風のものが四作と短編の歴史小説が一作収録されている。「死顔」と「二人」は似ていて、多少趣を変えて書かれたといった感じだ。
 そしていずれも「死」をテーマにしたものばかりだ。この本の帯にもあるように、吉村さんの自らの「死」を覚悟して書かれたもののように感じることができる。

 「死顔」と「二人」は似ていると書いたが、短編小説としては「二人」の方がいい作品になっているように思えた。「死顔」は同じ兄弟の死を扱っているものの、どちらかと言えば、吉村さんが自分の死の迎え方、あるいは死後の家族の対応を遺書みたいな感じで書いてあって、そのことで、この作品はは失敗じゃないかなと思えた。つまり小説にするものではなかったような気がするのである。
 例えば、「死顔」では幕末の佐藤泰然の死の間際のことを次のように書いている。

 幕末の蘭方医佐藤泰然は、自らの死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。

 だから自分も延命治療は望まないし、葬式も家族だけの密葬を望んだ。確かにそのあたりは吉村昭さんらしいなと感じるし、むしろ吉村昭さんならそうあって欲しいと思っていた。
 司馬遼太郎さんみたいなメジャーな歴史小説家ではなかったけれど、独力で地道に取材を重ね書かれる重厚な歴史小説家であっただけに、その意志の強靱さは、最後はそうさせるだろうと思わせた。
 奥様の津村節子さんの「後書きに代えて」には癌との壮絶な闘いが記されているけれど、最後は「夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけた来た娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を引き抜いてしまったのである。私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという」と書かれている。まさしく佐藤泰然が死の間際にとった態度を地でいったようである。
 今まで何冊か吉村さんの随筆を読んでいて感じたことであるけれど、吉村さんの生き様には自分のことで「人様にご迷惑をかけぬよう」というところが至るところで読み取ることができた。だから自分の死も生前から佐藤泰然の死に方をそのまま置き換えていたのだろう。
 それでなくても学生時代結核を患い、辛うじて生き延びてこられた吉村さんである。きっといつも自分の「死」について考えてこられたのではないかと思うのだ。
 ただそうした「死」に対する個人的考えを多く入れてしまったため「死顔」は小説としては駄作としてしまった感が否めない。個人的には先に言ったように同じ兄弟の死を扱った「二人」の方がいい小説に思えた。

 翌日の夜、ウイスキーの水割りを飲んでいると、兄から電話がかかってきた。
 兄も酒を飲んでいるらしく声がはずんでいる。
 「とうとう二人きりになったね」
 兄は、感慨深げに言った。
 「そうですね。お互い体を大事にしましょうよ」
 私は、明るい気分になって答えた。
 兄は、あらたまった口調で、
 「今さらこんなことを言うのも変だが、人は必ず死ぬものなんだね。兄や妹、弟が八人いたのに、一人一人確実に死んでいった。残ったのは、あんたと私だけだ」
 と言った。
 次兄の死で同じことを考えていた私は、かすかに笑った。
 「どうだね、生まれた町の小料理屋にでも行って、二人で飲まないかね」
 「いいですね。ただ、この寒さじゃどうにもならない。桜でも開花した頃ですね」
 「そうね。そうしよう」
 兄は、じゃ、またと言うと、電話を切った。
 桜が開花した頃か、と私は胸の中でつぶやき、ゆっくりした気分でグラスを手にした。

 いい感じだと思いませんか。私はこの終わりが好きであった。


評価
★★


書誌
書名:死顔
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242314
出版社:新潮社 (2006/11/20 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月22日

吉村昭著『暁の旅人』

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 この本は松本良順の生涯を描いた小説である。司馬遼太郎さんの『胡蝶の夢』も良順を主人公にした長編小説だが、この時も確かあるイメージが頭にこびりついていて、違和感があったことを思い出す。今回もそうであった。
 私が松本良順に対して思い浮かべるイメージとは子母澤寬さんの『勝海舟』に出てくる松本良順なのである。というのも、私が松本良順という人物を知ったのはこの小説が最初だったからだ。そこには奥医師として将軍のそばで、勝海舟と同様にベランメエ調でやりとりする姿があった。そのため良順という人物も海舟と同じように、なかなか自己を曲げないタイプで、わがままでやりたい放題の人物だったと思っていたのである。
 ところが吉村さんの描く良順像は、確かにそういうところもあるけれど、どちらかといえば当時としては最先端の医療技術を身につけた良順で、律儀で恩義に厚く、それが良順の行動指針となっている人物であった。
 良順は洋医学の大家佐藤泰然の子として生まれ、幕府の奥医師松本良甫の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医師ポンペについて西洋医術を身につけた。
 当時は漢方医の力が圧倒的に強く、蘭方医などとんでもないという時代であった。それでもこれからは西洋医術を身につけなければならないと思った良順を幕府の高官たちは終始援助の手を差しのべ、長崎伝習生の名目でオランダ医師ポンペについて西欧の最新医術を身につけられるようした。五年間にわたる長崎遊学費用も幕府はすべて出した。
 江戸にもどって幕府の奥医師となり、医学所頭取となった。「奥医師として身近かに仕えた将軍家茂は、絶えず温情をもって接してくれて、それに対する感謝の念は忘れられない。その臨終に際して手をにぎり心音をうかがっていたことがせめてもの救いで、次第に冷たくなっていった家茂の手の感触は今でもはっきりとおぼえている」。
 幕府が崩壊しつつあるときでも、自分を手厚く扱ってくれた幕府に対して、恩義を感じないわけがなかった。だから幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。江戸が新政府軍によって踏みにじられるのを眼にするのは堪えがたかったのである。自分は幕府とともにあり、それに殉じるのが人の道だと思う人物であった。
 しかし時代は明らかに変わりつつある。会津、庄内藩も新政府軍に敗れ、良順は仙台で榎本武揚と会う。榎本は良順に蝦夷に一緒に来て、戦傷者の手当をして欲しいと言うのだが、ここにそれを思い止まらせる人物がいた。土方歳三である。土方は次のように言う。
 「先生は、前途有為なお方です。蝦夷などに行かず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱に巻きこまれ、命を失うようなことあってはなりません。江戸にお帰り下さい」

 新政府軍が良順という優秀な人材をむやみに殺すわけがないと考えた上での言葉であった。さらに自分は榎本と共に蝦夷へ行くが、それは「私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し、国のために殉じるべきだと思っております。それがわれわれの定めなのです」から、新政府軍と戦い続けると言うのである。私は新撰組というのはごろつきの集まりだと思っていたので、このあたりはさすが土方歳三と見直しちゃった。
 ここでは生き様の差がはっきりと出ている。大きな時代の変化に必要な人物。滅びるしかない人物。日本という国の未来を考えると、このあたりの線引きははっきりしている。特に土方自身がそうした線引きをして、自分がどこにいるかはっきりと自覚しているところが悲しさを誘う。
 良順は江戸にもどり投獄されるが赦免され、山県有朋などの薦めで軍医総監となる。この時山県は人それぞれに国のために力をつくすべき時だと言ったが、明治新政府には人材がいなく、しばらくの間幕府の有能な人材を登用するしかなかったことを思うと、江戸幕府は本当に有能な人材を持っていたんだなと思う。その証拠に明治新政府に使えた旧幕府の人物たちが沢山いたことがいい証拠である。これらの人物たちがいなければ、明治という時代は成っていなかったかもしれない。そして無骨一辺倒な旧タイプの人物たちは滅びることで、その精神をいい意味でも悪い意味でも、新しい日本という国に残していったんじゃないかという気がする。
 

評価
★★★


書誌
書名:暁の旅人
著者:吉村 昭
ISBN:9784062128704
出版社:講談社 (2005/04/26 出版)
版型:298p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2009年05月25日

吉村昭著『ポ-ツマスの旗』

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 以前読んだ吉村さんの随筆にも確か書いてあったと思うのだが、吉村さんのお父様が日露戦争の日本海海戦の話。その後ロシアとの屈辱的講和に納得できないとして東京で大暴動が起ったという話。そして全権大使の小村寿太郎が非難された話が吉村さんの記憶に残っていることが書かれていた。今回この記憶がこの小説を書く動機となったことをあとがきに記している。
 そうなのだ。この歴史小説は、日露戦争後、日本がロシアとどのような講和条約を結んだか。何故暴動が起こるほどの屈辱的講和条約を結ばざるを得なかったのか。そしてその暴動がその後の日本の進路を決定づける意味を持つようになったと考えられるのか。それらを日本の全権大使小村寿太郎という人物を描くことで、それらの疑問を解き明かしてくれる。
 日露戦争は旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦で確かに日本が勝った。それらの経緯は司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』に詳しい。しかし日本はロシアに勝ったことは勝ったけれど、元々ロシアに宣戦布告をすると同時に、軍部はどうやって戦争を終わらせるかを進めていた。つまり日本は長期間、大国ロシアと闘う力がなかったのである。日本は明治維新からやっと国らしい形になってきたにせよ、まだ外国と戦争ができるほど経済力、軍事力が成熟していなかった。
 たまたま先の戦いで日本はロシアに辛うじて勝ったにせよ、それ以上先に軍を進める力がなかった。従ってロシアがその国力をフルに使って、この極東に軍を動かせば、日本はどうすることもできず、壊滅してしまう運命でもあった。ただロシアには革命が起こり始め、国内も不安定な状態であったから、一気に日本を押しつぶすことができなかっただけであった。
 日本の軍部はそのことをよくわかっていた。だから第三国に仲介してもらって、早く講和条約を結んでしまう必要性があった。その仲介役を取ったのがアメリカのルーズベルトであった。日本は小村寿太郎を全権大使に、ロシアはウイッテが全権大使となって、ポーツマスで会議がもたれた。
 当時の日本は誰を全権大使にするか、そのなり手がないことでもめていた。当時桂首相は日清戦争の講和条約に伊藤博文が当たったので今回も伊藤に全権大使を要請した。しかし幕末から維新という激動の時代を生き残ってきた伊藤である。今回全権大使になれば自分が非難の矢面に立たされることをわかっていたから断っていた。
 どういうことかと言えば、日本は国力、兵力がかなり弱体化していた。話が決裂し、じゃあ戦争を続けましょうなんて言われたら、破滅の道を歩むことになる。だから早く戦争を終わらせたい。そのため日本が強硬的態度が取れないことをロシアは見抜いていた。
 一方でこの戦争で明治国家は国民に家族を兵隊に出させ、戦費捻出のため多大な負担をさせることとなった。だから国民はロシアに勝ったことで領土の拡大、賠償金の請求が当然なされるものと思っていた。それが本質的なところできない状況である以上、最初から日本はロシアに及び腰で交渉せざるを得ない。それは当然国民の不満を招くことになる。それを伊藤博文はわかっていたから全権大使を引き受けなかったのである。
 あの西南戦争の熊本鎮代の長官でもあった谷干城は「もし老台(あなた)がおだてられて全権になれば、必ず槍玉にあげられる。この度の会議は、だれが全権になっても好結果は得られない。老台が出掛けてゆくことはなく、桂首相、小村外相で沢山である。いたずらに馬鹿者のうらみを買うのは愚かである」と忠告の手紙を伊藤博文に出している。結局貧乏くじを引いたのが小村寿太郎であった。元老の井上馨は小村が全権大使になって送り出される時、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかも知れない」と涙ぐんだ。

 小村はロシアが日本の現状を知っている以上、日本が要求する条件をすべて呑むことは考えられない。だから条件をある程度限定して会議に臨んだが、最後の樺太譲渡、賠償金の請求は完全に拒否された。
 小村とウイッテとの駆け引きが息を呑む。しかしウイッテの方はしたたかである。敗戦国という不利な立場であるにも関わらず、アメリカのマスコミを巧妙に操作し、ロシアを好印象に持っていく。そうすることで自分たちの立場かなり有利にすることができるからである。日本が出した交渉条件をマスコミ流さないという約束をしたにもかかわらず、平気でそれを流す。そうすることで日本はロシアにこんな過酷な条件を出してきて、会議を決裂させる可能性があると言わせるのである。
 小村は日本が外国に対して交渉下手であることを自覚していた。

 「小村は、長い外交官生活で、日本の外交の歴史の浅さを身にしみて感じていた。幕末に試練に立たされた日本の外交政策は、鎖国政策を唯一の盾に徹底して受身の姿勢に終始したものであった。それは、欧米列強の植民地拡大政策の激烈さに逆に救われて、各国間に牽制し合う空気を醸成させ、それらの国から浸蝕をまぬがれる結果を生んだ。
 受身の外交は維新後もそのまま引きつがれたが、欧米との交流が増すにつれて攻めの外交も身につけなければならぬという動きが、一種のあせりをともなって顕著になり、実行されるようになっていた。しかしそれはきわめて未熟なものであり、多彩な術をそなえるまでにはかなりの時間がかかりそうであった。
 小村は、欧米殊にヨーロッパ各国の外交に長い歴史の重みを感じていた。国境を接するそれらの国々では、常に外交は戦争と表裏一体の関係にある。外交が戦争の回避を功を奏したこともあれば、逆に多くの人々に血を流せたことも数知れない。そのようなことをくりかえしている間に、外交は、攻めと守りの術を巧妙に駆使し、自国の利益を守るため他国との間でむすばれた約束事を一方的に破棄することすらある」

 つまり欧米の外交の歴史の中で、交渉では日本は絶対に勝てないことを小村は自覚していた。このことは今現在の日本の外交下手を思えば、未だに未熟なままである。いったいいつになったら日本という国は他国と外交交渉がうまくできるようになるのだろうかと思ってしまう。
 日本は回りを海に囲まれている。もうそれだけで国が守られていた。この点地続きの地形で、生きるか死ぬかの長い歴史を繰りかえしてきたヨーロッパとは決定的に違う。海に囲まれているということだけで自国内でのほほんと過ごすことを可能にしてきた。他国との交渉事は不要なものと勘違いさせ、それを放棄してしまった。
 そして日本が世界の中の一つの国となったときにはもう交渉ができなくなってしまい、いつも受身の立場で過ごさざるを得なかった。ただ単に交渉事は誠実に対応すればなんとかなる程度の発想しか持てないのである。しかしこのロシアの全権大使ウイッテの態度を見てしまうと誠実だけでものごとに対応できるもんじゃないことを思い知らされるのである。したたかさがどうしても必要である。

 会議はほとんど決裂状態に陥ったが、日本はここで絶対に講和条約を結ばなければならない。結局譲歩に譲歩をして、樺太の半分を日本領土として、賠償金の請求は放棄して、なんとか講和条約はなった。
 しかしこの講和条件を知った日本国民は黙っていなかった。苦労や負担を強いられ、家族が兵隊として取られ、戦死して帰ってくれば、不満は爆発する。何のための戦争であったのかと思ったに違いない。東京の各地で暴動が起こる。この本の解説者は「人間というものは何をしでかすかわからないという暗い好奇心と、何をやってもタカが知れているという無常観をはらんだ徒労の意識」を吉村さん自身に育てて来たと書いているが、多分それは吉村さんだけではあるまい。思うような結果が得られなければ、人間何をしでかすかわからない生き物であり、期待が裏切られれば、何をやっても同じという意識は特に日本人には強い気がする。
 このポーツマスでの会議における結果は、日本にとって国家的に屈辱としか国民には映らなかったし、その不満が昭和の敗戦までくすぶり続けることになった。極端なことを言えば、日本の軍国主義を、意識しようとしまいと影で支えてきたのは、こうした国民であった。それは国家の運営は一部の指導者がやればいいのであって、私たち国民はその指導者がもたらした結果を享受できればいい。現実がどういう状況であろうとそれはうまく隠されているから現実を知らないまま平気でいられる。しかし政治家も軍指導者も国民に美味しいところぶら下げておかなければならないから、後は泥沼化していくだけである。
 ポーツマスの暴動以後、日本の政治家、軍幹部はどうやって国民の前に人参をぶら下げるか。あるいはだましていくかしか考えなくなり、それを一番安易な戦争という暴力で国家運営をしていく。それでも国民が文句を言えば今度は権力という力でねじ伏せていく暗い時代を演出していく。しかし元を正せば国民の欲望が生んだことかもしれない。そう言う意味でこのポーツマスの会談は日本近代史、現代史のターニングポイントとなったとも言えそうである。


評価
★★★


書誌
書名:ポ-ツマスの旗
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117140
出版社:新潮社 (1983/05 出版)新潮文庫
版型:372p / 15cm / 文庫判
販売価:579円(税込)

2009年05月13日

山之内靖著『マックス・ヴェーバー入門』

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 だいぶ以前に長部日出男さんの『二十世紀を見抜いた男』を読んで、私はプロテスタンティズムと富の蓄積は矛盾するじゃないか、と書いたことがある。長部さんの本にはそれが矛盾しないことを書かれているのだが、どうも私はすっきりとしない部分があった。しかし今回山之内さんの本を読んで、完全にすっきりしないまでも、ある程度納得できるところがあった。

 この本はマックス・ヴェーバー入門とあるように、マックス・ヴェーバーの著作をどう読むか、解説されている。主に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と『古代農業事情』第三版をどう読めばいいか教えてくれる。私は興味が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあったので、こちらの部分が面白く読めた。はっきり言って『古代農業事情』第三版の解説は難しくてよくわからなかった。
 で、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をどう読めばいいのか。特に私がかねがね疑問に思っていた、プロテスタンティズムと富の蓄財がどうして矛盾せずに、受け入れられるのか、それを教えてくれる。
 
 それでは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にどうアプローチすればいいのだろうか?ヴェーバーは市場メカニズムの歴史的成立を可能にした主観的動機に注目した。つまりヴェーバーは宗教がもたらした魂のあり方、救済が行為が動機となり、それが倫理的・道徳的生活態度として社会的に形成されたはずだから、ここに注目していく。
 しかしこのままではあまりにも多様であり、不確定である。そこには民衆の感情世界が一貫した倫理性帯びなくては、社会科学を社会科学としてあらしめる基準が見出せない。
 具体的に言うと、人々はいつ終わるとも知れない苦難が理由もなく続くことには耐えられない。けれど苦難が宗教的救済の約束と結びつき、苦難そのものが聖なる意味を持ったとき、苦難が生きがいを感じることができるとする。こうした宗教による観念の力が歴史において偉大な作用を果たしたとき、それが“合理化された「世界像」”となる。それをヴェーバーは社会科学の内部に方法として組み込んだ。
 ちなみにアダム・スミスやマルクスは市場メカニズムが価格という記号化した非人格的な指標によって財の社会的交換と配分が行われため、価格のみが手がかりであり、生産者・商人・消費者を事前に差異化した社会的属性は意味がない。社会的交換を決定するのは、非人格的・匿名的な記号としての価格であって、それを制作した人の倫理・道徳でもなければ、趣味や教養でもないから、市場メカニズムが社会科学の手法を提供するとしたのである。
 さらにもう一つアプローチの仕方を説明する。世の中には社会的な言説は、それが伝播してゆくうちに元の意味とはかけ離れたものへとズレていくことがある。たとえばある人がAという命題を語ってそれを誰かに伝える、この誰かはその命題をさらに第三の人に伝える、というふうに命題はは人々の間に拡がっていくが、その間にAという命題はいつの間にか変質してしまい、AではなくてBだ、と言わざるを得ない別のものになってしまう。こういうことを踏まえて、最初に提示された言明が、宗教から経済へ、あるいは非日常性の領域から日常性の領域へその性格を変え、伝播していきついには主観的な意図とは別に客観的結果もたらす。“予期せざる結果”、“意図せざる結果”を生んだというのだ。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にはこの手法というか変化をフルに使っているというのだ。

 もともと中世キリスト教神学の中では、人間が日常生活そのものの中に宗教的な救済があり得るなどとは考えられていない。原始キリスト教の中にも民衆の世俗の生活そのものの中に、その営みだけによって神によって善しとされるような領域があるとは考えられていない。つまり世俗的日常労働の中には宗教的意味を認める思想は、本来、キリスト教思想の中には存在していなかった。
 特にカルヴァンの唱えた予定説においては、永遠の昔から、ある人間には救いが予定され、他の人々は堕落に予定されている。このことは、神の永遠の決断によってすでに決まっていることであり、人間の側の善行や、信仰のよってさえも、そうした事実を変えることはできない。まして人間は神によって作られた被造物であるから、神の意志を勝手に変えたりすることはあり得ないし、あってはならない。これほど宗教上の神観念の中で、これ以上ラディカルなものはない。これは私が思っていたとおりである。ここからどうして富の蓄財が肯定されるのであろうか。それは次の通りである。
 神はとうの昔に救われるかどうか決めてしまっているので、その神さえも聖典礼も教会も個人の救いに役立たないことになる。カルヴァニズムの説教にいったん接した信者は、心理的緊張を免除されるチャンス(救済)を予定されたいた人物以外剥奪される。このことは西欧の孤立した個人を生み出すこととなった。
 カルヴァニズムの予定説は、救いの確証を得るための魔術的な手段を一切排除してしまったために、信徒たちはただひたすら自らの職業労働に専念することによってしか、内面的な不安を排除することができなくなってしまったのである。絶えざる自己管理を強要されることとなったのである。著者はそれを「人々は今日は肉の欲に負けなかったか、禁欲的職業労働によって神の道具として徹したかどうか、と問いかけ、まるで一人の人間が日々の生活について、信仰上の貸借対照表厳密に作成してゆく作業」をせざるを得なかったというのだ。こうしてカルヴァニズム的な信徒生活の聖なる成果は、ほとんど事業経営と同じ性格のものへと近づいてゆく。ここから「人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく『営利機械』として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活上冷ややかな圧力をもってのしかかっている」という禁欲的合理化を生むこととなる。
 まさしく大どんでん返しの発想と転化するのだ。本来持っていたカルヴァニズム思想が資本の肯定になったことは、“予期せざる結果”、“意図せざる結果”をだったわけで、それをヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言ったまでのことだと著者は説明する。なるほどこれだとある程度納得できるし、この著者の考え方は面白い。
 そして著者は「こうした禁欲的合理化は個々人の合理化にとどまらず、社会的生活諸領域まで徹底して合理化推し進めるという結果を伴うが故に、皮肉な自己破壊的結末招く」として、今世界が行きすぎた資本主義や商業主義が招く当然の帰結を警鐘するのである。

評価
★★★


書誌
書名:マックス・ヴェーバー入門
著者:山之内 靖
ISBN:9784004305033
出版社:岩波書店 (1997/05/20 出版)岩波新書
版型:246,2p / 17cm
販売価:819円(税込)

2009年04月30日

吉村昭著『ひとり旅』

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 前回読んだ吉村さんの随筆が最後のものかと思っていたら、どうやらこれが最後の随筆集となるらしい。まぁどっちでもいいのだけれど、とにかくこれ以上新しい吉村さんの随筆が読めないことになるのは間違いない。
 例のよって、その落ち着いた雰囲気の文章を堪能した。やっぱり吉村さんの取材を通して語られる歴史に隠れてしまった話や、創作秘話や舞台裏の話が面白い。
 吉村さんはいわゆる定説となっている歴史的事実をそのまま鵜呑みにせずに、自らの足で、しかも一人で創作の舞台となった場所を訪れる。創作に当たり疑問に感じたことを調べるためにだ。そこで発見した新事実は時に定説となっている歴史的事実に疑問を投げかけることもある。それがどう評価されているのか知りたいところだけれど、少なくとも小説としては既成の歴史小説より新しい目線で人物なり、歴史的事実が語られるようだから、読む方としてはかなり面白いのではないかと思うのだ。
 あるいは今まで日の光さえ当たらなかった事実を取り出して、面白い小説を書かれているみたいだから、これから先吉村さんの書かれた歴史小説を読みたいと思っている私はかなり楽しみである。


評価
★★★


書誌
書名:ひとり旅
著者:吉村 昭
ISBN:9784163692708
出版社:文藝春秋 (2007/07/30 出版)
版型:247p / 20×14cm
販売価:1,365円(税込)

2009年04月17日

吉村昭著『回り灯篭』

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 この随筆は著者最後の連載随筆をまとめたものである。やっぱり初期の随筆より後期の方がいい。なんていうのかな、とにかく読んでいてこころが落ち着くのが感じるのである。
 この本の書名になっている「回り灯篭」という随筆の最後に「それらが、今でも回り灯篭のようにつぎつぎに浮かび上がる」と書かれているのがある。そうなのだ。吉村さんの随筆、特に後期の随筆には「回り灯篭」のように、今まで吉村さんがそれまで出会ってきた人々、経験したこと、あるいは旅で感じたことが、次々と描かれる。そこには長い人生の中からわき出るような感じがする。しかも時間という濾過を通しているので、角がない。まるで回り灯篭のほのかな明かりのようである。こういうのがいいのである。時間を通しているだけに、その分奥深さもあるし、話の内容も風化していないのを感じることができる。こういう穏やかな随筆を好むようになってきたということは、私も歳をとったことの証明なのだろうが、仕方がない。

 一つ気になった随筆がある。
 吉村さんが中学校に入学した年の夏に友人が死んだ。通夜に行って焼香しようと担任の教師から連絡があり、それを母親に言うと「絶対に行ってはなりません」と言われる。それは子を失った悲しみは親にしかわからない。学校の先生は安易な感傷でお通夜に行こうと言うが、それは親に亡くした子供と同じ姿を見せるだけで、親の悲しみ増すだけであるというのだ。配慮が足らなすぎるというのだ。
 よく幼い子供が事故や事件で亡くなり、その葬儀の映像がよくテレビで流される。そこには親に連れられてくる同じクラスや学校の友人たちが通夜や告別式などに出席している姿が映し出される。確かに考えてみると、亡くなった自分の子供と同じ年齢の子供たちが焼香や手を合わせていれば、それを見た遺族である親はたまらないだろうなと思う。何で自分の子だけが死ななきゃならないのかと思うに違いない。
 けど一方で、友人や同級生が出席しない葬儀も寂しいものもがあるような気がする。あるいは出席されなければされないで、うちの子は学校で、あるいはクラスでどんな立場にいたのだろうと思うかもしれない。それを思えばそれだけで悲しみも生まれるかもしれない。このあたりは難しい。でもどうなんだろう。吉村さんのお母様が言われることもよくわかるけれど、やはり亡くなった自分の子供の友人が来てくれるのは有り難く思えるんじゃないだろうかとも思う。もちろんそれもケースバイケースだろうけど。
 ただこの場合、安易な感傷だけで、簡単に子供を葬儀に参加させるのではなく、それなりの配慮もした上で、子供たちを葬儀に出席させるかどうか考えなければならないだろう。いずれにしても親が自分の子供の葬儀するというのは悲しいものだ。


評価
★★★


書誌
書名:回り灯篭
著者:吉村 昭
ISBN:9784480814852
出版社:筑摩書房 (2006/12/20 出版)
版型:216p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年04月06日

吉村昭著『月夜の記憶』

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 読んでいて、“おや?”と思った。今まで読んできた吉村さんの随筆とはちょっとトーンが違うなと感じたのである。
 どちらかと言えば私は吉村さんの随筆にどっしりと構えた感じが好きで、世の中のこと、あるいは身の回りのことなどあるがままに受け入れつつ、大人の対応を見せていた文章が好きだった。
 この本に収録されている随筆は吉村さん初の随筆からよるものが多いことを知る。書かれた文章は昭和30年代から40年代のもので、吉村さんが昭和41年に太宰治賞を受賞して、世の中に出られた頃の随筆かと思われる。
 そして私が今まで読んできた吉村さんの随筆は晩年のものであったから、この本の随筆からずいぶん時間がたっていることになる。その時間が吉村さんの文章に変化を生んでいるのだろう。ここにある文章は読んでいて“若いな”と感じさせるほど、自己主張がはっきりとされていて、たとえば世の中の風潮に対しても結構怒りをあらわにしているのだ。
 
 話は横にそれてしまうかもしれないが、最近私はこうした自己主張の激しい文章にはついて行けなくなってきているところあるのかもしれない。あるいは生きることとか死ぬこととか、そんなことを大上段に取り上げられると“もういいよ”と言いたくなってしまうのだ。
 恐らく若い頃には、そうした“どのように生きるか”といった問題を身近に、そして真剣に考えたくなるのだろうと思う。多分私もそれなりに考えたはずだ。あるいは友人と議論もした。しかしそれはその頃罹る“はしか”みたいなもので、そういう時期を通り過ごさないと今があり得ないのではないだろうか。
 だからそうした“はしか”に罹った頃は、そんな文章を読んで感動したり、あるいは怒ったりしていた。結構好んで読んでいたような気がするのである。
 しかしこの歳になると、“もういいや”という気持になっており、むしろそんなことを熱く語る奴を見かけると、逆に勘弁してくれと言いたくなってしまう。むしろ世の中を諦観している人の文章の方がストレートに今の自分の中に入ってくるようになった。好みも歳共に変わっていくものなのである。だからいくら好きな吉村さんの随筆であっても、若い頃に書かれたこれらの文章には少々辟易したしまった。
 まぁ、随筆に時と共に人の変化が見られて、それはそれで面白かったが、ここに書かれた文章は私が若い頃に読んだら、もう少し感想は変わったかもしれないなと思った次第だ。気に入った作家さんだから、何でも読めばいいもんじゃないということを知らされる。

評価
★★


書誌
書名:月夜の記憶
著者:吉村 昭
ISBN:9784061847422
出版社:講談社 (1990/08/15 出版)講談社文庫
版型:322p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年03月31日

吉村昭著『私の好きな悪い癖』

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 極上のエッセイとは読んでいて、何となく心が和んでいき、気がついたらページが終わっていたというものでいいと思う。だからそこから何か一言半句でも得ようなんて思っても、これというものが見出せないのではないかと思う。
 本を読んでいると、何か得るものがないかと文章をそうなめするみたいに探し回るところが私にはある。ましてこうして本について書いていると、「おっ、これいいじゃん」と思い、後で使わせてもらうつもりで付箋を付ける。
 でも思うのだけれど、こういう本の読み方って、どこか打算的なところがあり、本全体を楽しんでいるように思えない気がする時がある。別に何となく読んでいる訳じゃないが、心をさらにして本を読むこともあってもいいような気がするのだ。私は本を読むことに疲れたときは、こうしたエッセイを読むことで、心をリセットしている。だからエッセイは大好きなのだ。そこには書かれる方が自由に思うままに感じるままのことを書かれているから、読む方も心が解放される気分になれる。

 今回は吉村昭さんのエッセイで気持をリセットさせてもらった。ここには“人”、“旅”、“歴史の四方山話”など吉村さんが感じたこと、考えたことなどありのまま書かれている。それがいい。
 吉村さんは歴史小説家でもあるから、そんな小説を書くために日本全国旅に出て、取材してこられている。このエッセイはそんな吉村さんの旅から、人とのふれあい、あるいは埋もれてしまった歴史の一こまなど紹介されていて、読んでいて楽しい。もちろん素顔の吉村さんの生活ぶりも描かれる。
 こういう書き方にはあこがれる。とにかくさりげなく日常が描けるというのはいい。小難しいことなどついつい書きたくなるけれど、そればかりじゃ疲れてしまう。むしろ日々の日常をさらりと書く方が好感が持てる。私もできる限り文章を書くに当たり、その時の気持を素直に書くことを目標としているので、こうした文章はいい参考になる。

 吉村さんが長崎にはよく行かれるらしく、ここにも長崎の旅が書かれている。その時長崎で初めて自転車に乗っている人に気がつき、乗っていたタクシーの運転手さんにそのことを口にすると、その運転手さんは「長崎は坂が多いからあまり自転車は使わない」ことを言う。吉村さんはそこから「長崎を熟知していると思っていた私は、あらためて他者者でるのを知った、他者者はあくまでも他者者であり、その土地で生まれ育ち暮らしている者しか、土地の息づかいは知り得ないのだろう」と気がつく。「だよな」と思う。
 先週まで私は谷中、根津、千駄木という土地にあこがれをもって、森まゆみさんのエッセイを読んでいた。そこにあったのは少しでもこの町の息づかいが感じられればという気持であったが、結局何も実感として感じられなかった(それは森さんの文章の善し悪しを言っているんじゃない)ことを思い出し、吉村さんと同じ気持だと思ったのである。生活の重みは旅や文書から感じるより、はるかに重みがあるということだろうか。よくわからないということは、それだけ謙虚になっていることである。


評価
★★★


書誌
書名:私の好きな悪い癖
著者:吉村 昭
ISBN:9784062738972
出版社:講談社 (2003/11/15 出版)講談社文庫
版型:241p / 15cm / A6判
販売価:519円(税込)

2009年01月20日

吉村昭著『東京の下町』

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 また吉村さんのエッセイを読む。吉村さんは日暮里で生まれ育った人である。この本は吉村さんが子供頃の日暮里での風景を描写している。
 私が子供頃の日常はまだ吉村さんがいた日常とほぼ似ている。まだ戦後20年はたっていないから、多少は変わっているところもあるけれど、まだ昔懐かしい子供の頃の風景が残っていた。住んでいるところが江戸川区という東京都といっても、田舎だったから、高度成長期が始まる頃とはいえ、取り残されたところがあったのかもしれない。
 この本に記されている、トンボ取り、風鈴売り、金魚売り、豆腐売りのラッパの音、牛乳配達が鳴らす瓶が当たる音、蚊帳のある部屋、近くにあった街の映画館、公園に来る紙芝居やおでんの屋台、縁日のアセチレンガスの火、などなど、みんな私の思いでの中にある。なんせ、小学校の校歌に“シラサギ飛び交う”という歌詞があり、事実田植えが終わった冬の田んぼにはシラサギが何羽もいた。 こういう子供の頃の日常風景を懐かしむこと自体、やばいなと思うところがあるけれど、でもやっぱり懐かしい。なんかいいなぁと思うのだ。
 私の子供の頃の原風景と吉村さんの子供の頃の原風景との唯一の違いは、吉村さんの場合“戦争”をはさんでいることだろう。吉村さんは「少なくとも太平洋戦争がはじまるまでは、町には庶民の生活があった」と書かれているが、この本を読むと、戦後の生活と戦後の生活には一時戦争という断絶はあったにせよ、その復興には庶民の力が強く働き、完全までとは言えないしろ、戦前に似た生活に戻ったところが感じる。
 そしてその戻った庶民の生活は、「考えてみると、日本人の生活は、大ざっぱに言って明治以後、昭和三十年頃まで基本的な変化は余りなかったように思う」と吉村さんが言うように、私の子供の頃までは吉村さんの世代が回顧する子供の頃と共有できる部分が多かったのではないかと思うのだ。だからここに書かれることに妙に懐かしさを覚えるのだろう。
 そしてそれは私たちの世代までである。きっとこの後来る高度成長期に日本は大きく変わり、日本が世界の中の一つに位置し、世界経済が日本を大きく変えていき、今もその嵐にもまれているため、生活も変わらずを得ないのではないかと思うのだ。
 いつも私より年配の方の随筆やエッセイを読んでいると、何で私が“そうそう”と思うのか不思議ではあったが、たぶんそれらの人たちが過ごした生活、たとえば「道路は、少年少女の遊び場であった」頃の風景が私の世代までであっただけのことなのであろうと、改めて思った。
 私は自分の子供の頃と今の子供たちと比べてどうこう言うつもりはないけれど、ただこうしたエッセイを読んで、共感できることはうれしいと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:東京の下町
著者:吉村 昭 永田 力【絵】
ISBN:9784167169145
出版社:文芸春秋 (1989/01/10 出版)文春文庫
版型:233p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月09日

吉村昭著『街のはなし』

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 昨年は吉村さんのエッセイで締めくくったが、年始はその吉村さんのエッセイから始める。要は昨年の続きということだ。今回もやはり“うまいな”と感心して読んだ。たぶん、どうって言うことはないことなのかもしれないけれど、ちょっと考えてみると、こうも言えるし、ああも考えられるということをうまく、しかもそれとなくおかしく語られる。それでいて、もっともだと思えるのである。 ちょうどお正月なのでその話題にちなんだエッセイ、「松かざり」から。

 「正月に一家そろって海外旅行に出るのを常としている家族がいる。テレビに、成田空港へ帰ってきたそれらの家族が映し出される。
 私は、自然に親に連れられた子供の姿に視線がゆく。これらの子供たちは、日本の正月の行事には無縁で、もしも正月の絵を描くとすれば、ビーチパラソルが点々とある外国の海浜や、波の寄せる青い海で外国人にまじって泳ぐ肉親の姿になるのだろう」

 と吉村さんは危惧する。もともとこのエッセイはこの頃正月のお飾りをしない家が多くなっていることから始まるのだが、安価でもいいからそうしたお飾りをすべきだというのが吉村さんの主張である。
 どうしてかといえば日本は春夏秋冬が鮮やかなほどくっきりしている。そうした恵まれた四季に我々祖先はその季節にふさわしい行事をもうけてきた。それは季節のの移り変わりを確かめる人間の豊かな智恵によってもうけられたものだ。それらの行事は子供たちにとって新鮮な驚きとなるだろうし、あらためて季節を見つめる良い機会ともなり、それによって豊かな心がはぐくまれるからだという。それを我々は次の世代に伝えるべきなのに、正月に家族揃って海外旅行に出かけるとは何事かとというのである。
 確かに日本の季節感が失われつつあるし、みんなで行事に参加するという気分が薄れつつある。しかも長期の休みを取るとなれば盆か正月しかない現状があるから、そこに家族揃って海外旅行へ出かけるのはある意味やむを得ないだろう。だから諸手を挙げて吉村さんの意見に賛成できない。が、一方でもっともっと日本の正月気分を味わってもいいような気もする。だって子供たちが描く正月風景がたこあげではなく、外国の青い海っていうのはちょっとどうなんだろうと思うからだ。
 時たま思うのだけれど、最近は日本もグローバル化してきているから、いろいろなところで今までとは違う過ごし方が生まれつつある。しかしそれが完全にスタンダードになりきれないものだから、妙に中途半端な状態になっているのではないだろうか?なぜそれがスタンダードになりきれないかといえば、そこには日本固有の文化なり伝統があるからである。今きっとそれら固有のものと、新しい過ごし方がうまく融合していないか、あるいは一方が他方を排除していないから、正月は海外でエンジョイする人たちがいれば、おいおい正月は正月らしい過ごし方をしろよというやつもいることになるのだ。
 これから先これらの考え方なり、過ごし方がどう変わっていくのかわからないけれど、今まで日本が日本で有り得たものを完全に捨て去ってしまうと、没個性的になる。そしてそうした没個性は没落を招くことになると歴史は教えているのだけれど・・・。私は右的思想に傾いているとは思わないけれど、ただ日本人である以上、日本文化や伝統などを大切にすべきじゃないかと思ってはいる。

 さて、笑ってしまったエッセイがある。吉村さんの奥様、作家の津村節子さんが、友人との電話でぼやいている。内容は津村さんの友人の旦那がずっと家にいることに対して、「まだあなたの所はいいわよ。御亭主がお勤めだから、朝夕二回お食事をつくればいいのですもの。私の所なんて、毎日、家にいるから三食食べさせなければならないのよ」とい言われる。これを聞いちゃったら、ちょっとやりきれないなと思ったが、吉村さんも苦々しく感じておられる。そこで吉村さんははたと思いつく。

 「結婚して年を追うにつれ、夫が妻の前で弱々しい眼をするようになり、その原因が、家庭での食事にあることに、私は気がついた。妻がととのえた食物を夫が食べる。それが繰り返されているうちに、夫の眼は次第に弱々しいものに変化する。
 犬は、常に餌をあたえてくれる飼主に媚びるような眼をする。人間も動物であるかぎり、それが繰り返されているうちに、自然に飼主にむける犬のような眼になるのである。
 平均寿命が短いことから夫が先に死ぬのが普通だが、時には妻の方が先に死ぬこともある。妻に先立たれた夫は、哀れである。しょぼんとして、生気が失われ、体も痩せ衰えて、いくばくもなく死ぬ例が多い。それは、飼主を失った犬と同じであるからだ」

 む~んん。よくよく考えてみれば、確かに人間も犬と同様に動物ではあるけれど、しかし人間は犬ではない。だから犬の生態がそのまま人間に当てはまるのかともいえる。その点吉村さんの論理は破綻してしまうけれどそれを言ってしまったら身も蓋もない。
 妻が食事を作り、夫がそれを食べる。その繰り返しでいつの間にか妻は飼い主となり強くなる。夫は餌をもらう犬と化してしまうほど、弱々しくなってしまう。それが犬に似ているということなのだ。それがおかしくもあり、悲しくもあるところに、この話は面白味が出てくる。妙にうなずいてしまったりして、嫌になってくる。


評価
★★★


書誌
書名:街のはなし
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169343
出版社:文芸春秋 (1999/09/10 出版)文春文庫
版型:271p / 15cm / A6判
販売価:490円 (税込)

2008年12月31日

吉村昭著『縁起のいい客』

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 実はこのエッセイ集は文庫版で持っていたのだが、先日ブックオフで単行本を見かけ、それがコンパクトでやさしい感じで、さらに手になじむ装丁が気に入ってしまい買ってしまった。そしてこのエッセイが今年最後の締めくくりとなる。
 私は今年はじめて、吉村さんのエッセイを読んだのだが、以来完全にファンになってしまい、今は吉村さんを名エッセイシストだと思い始めている。
 今まで何冊か吉村さんのエッセイを読んできて、この人はいつも小説になる材料を探しているんだな知らされた。そしてそれが小説になりそうだとと思えば一人で資料を探し求めて、それこそ日本全国を歩き回っておられる。しかしその素材探しの中で、小説にはなりそうもない事実や事柄、人とのふれあいがエッセイとして生まれ変わる。吉村さんは次のように言われる。

「小説家である私は、自分の周囲に多くの触手をのばしていて、小説の素材になるものはないか、と絶えず探っている。その触手に、小説の素材にならぬもののエッセイの材料として格好だというものがふれることがある。ダイヤモンドを探していて、エメラルドを見出すような感じである。
 この場合、エッセイの素材であるエメラルドを決して加工してはならない。エメラルドそのものに美しさがあり、それを尊重すべきなのである」

 たとえば吉村さんが、自分が通われるお店が景気が悪くて一軒一軒つぶれていくのを残念がる。普通こう景気が悪いのは政治のせいだとか言ってしまいそうだけれど、そうした野暮なことは一切書かれない。ただひいきにしているお店がつぶれていくのを寂しがるだけなのである。しかし読む方としてはその方がかえって切実さが感じられる。
 そうなのである。ありがままにあったことを描写する。ただしそれを見る吉村さんの視点はぶれない。ある意味これは吉村さんが頑固な性格なのかなと感じられる。
 また自身のことを書かれるときも、吉村さん流の無理をしない自然体の生き方が書かれる。それは歳相応の常識で判断されたものであって、これはこれで安心できてしまう。無理して若ぶってみたり、背伸びしてみたりはしない。今の自分が感じるまま、あるいは考えるままを書かれる。それでいて押しつけがましいところは一切ない。
 得てして人は自分の生きてきた人生を過去の遺産みたいに後生大事にして語るものだから、どうしても説教くさくなるし、もっと言えば人生訓みたいな話し方になってしまうところがある。そういうのって嫌だと常日頃思っているものだから、こうした素直な歳相応な感覚でさりげなく語れる手法がなんか心地いいのである。うまいなとさえ思ってしまう。
 心地よいエッセイというのはいいなと思う。だから来年も吉村さんエッセイを読みたいと思う。さらにここに紹介されている吉村さんが書かれた歴史小説も読んでみたいなと思っている。

 今年も残すところ後二時間あまり。本当は今日読んだ本のことは翌日書くのが私の流儀なのですが、明日はもう年が変わってしまうので切りのいいところで今日書いてしまおうと思い、一気に書いてしまいました。なんか慌てた感じがしないでもないが、何とか書き上がりました。
 今年一年間このブログに付き合ってくださった方がどれほどいるのかわかりませんが、もしお付き合いしてくれた方がおりましたら、お礼申し上げます。ありがとうございました。来年もこんな感じで書きつづっていくつもりでおりますので、このままお付き合い願えれば幸いです。


評価
★★★


書誌
書名:縁起のいい客
著者:吉村 昭
ISBN:9784163592909
出版社:文芸春秋 (2003/01/15 出版)
版型:261p / 19cm / B6判
販売価:1,249 円(税込)

2008年12月12日

吉村昭著『光る壁画』

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 この本は多分昔読んだはずだ。でも、もう一度読みたくなって文庫本を購入する。今は私も毎年一回はお世話になっている胃カメラの開発物語である。初めて読んだときは、まだ胃カメラのお世話になっていなかったから、それほど身近なものとして感じられなかったが、今は「どれどれどのようにして胃カメラ誕生したのか?」、と興味があった。
 開発は戦後まもなくオリオンカメラ(モデルはオリンパスカメラ)の曽根菊男(モデルとなった人は深海正治)のところに東大医学部附属病院分院の副手宇野達郎という外科医が胃カメラの製作を依頼するところから始まる。
 それまで胃の中を見るには、レントゲン写真を撮る方法と、胃鏡という方法、それと胃内撮影(これは実用化されていないし、失敗していた)の三つの方法があった。
 恐ろしいのはこの胃鏡という方法である。なんと口から金属の管を胃の中まで差し込んで、上から見る方法なのである。しかし金属管を飲み込むことが出来る人たちがいるのである。大道芸人の呑刀師という人たちである、よくあるでしょう、剣を口に入れて奥まで呑み込む芸をする人たちである。その人に直径十三ミリの金属管を呑み込んでもらい、管の中に光を送って胃の中を覗いたのが最初であったという。その後この胃鏡は多少改良されて、一般の患者に使われたが、食道を破ってしまう事故などが起こり、結局使用が避けられていた。
 依頼された曽根は、まずは胃の中まで入る管を、金属管ではなく、患者の苦痛の少ない素材で作り、次に胃に入った管にカメラを付けて、胃の内部を撮影する方法を、試行錯誤しながら開発していくのである。
 今みたいにファイバースコープなどない時代である。管の先に直接カメラ、六ミリフィルムを入れるマガジン、光源となる豆電球を付けるのである。人間の咽頭の広さは平均十四ミリだそうで、管はそれ以下でなくてはならない。当然管にも厚みがあるし、しかもその中に光源である豆電球と、カメラを装置しなければならないのである。
 まずは管の素材を探し、次に管の中に入るカメラ。当然レンズも極小のもとなる。電球ももちろん小さい物でなければならない。電球は小さくなればその光量も少なくなる。それを明るくすれば、今度は中のフィラメントがすぐ焼き入れてしまい、耐久性がなくなる。
 驚くのは戦後間もないこの時期に、胃カメラに付ける小さなレンズを磨いて作る人や、極小の豆電球、しかも光量があって耐久性のあるものを作れる職人がいたことである。
 おもしろいのはこの胃カメラに使う素材を当時巷にあった素材から探し、あるいは応用して、試作器を作り上げていくことである。たとえば、マガジンに入った六ミリのフィルムを一コマずつ引っ張り出す糸(シャッターの役目をするもの)に三味線の弦を応用する。またレンズが固定焦点なものだから、カメラと胃壁に一定の距離が必要となる。しかしこの胃カメラは一端胃の中に入れてしまうと、管の先端がどこにあるのかわからなかった。そのため透明なコンドームをカメラのついた先端に付けて、ふくらまし、そのことでカメラと胃壁の距離を一定にするのである。物資の少ない時代だから余計にそうしたさまざまなものを応用していく。まさしく“手作り”の胃カメラであった。
 しかし根本的な問題があった。先に言ったように、胃カメラが胃のどの部分あって、どこを撮しているのかわからないということなのである。今みたいにモニターがあって、それを見ながら操作出来ないのである。試作器を使って犬の胃を撮影しているとき、実験室の電球が切れた。その時、犬の腹がうっすらと光るのである。そうなのだ。胃カメラの豆電球が内部で光っているのである。まさしく“光る壁画”であった。偶然が胃カメラの操作方法を教えてくれたのであった。
 こうして試作器の胃カメラを犬を使って実験し、ある程度成果が出た時点で、今度は人に使うようになる。しかし何せすべてが初めてのことである。胃カメラを入れても奥まで入っていなかったりして、うまく胃の内部が写らない。それでも病院内の外科医が自ら実験台となって、胃カメラを呑むのである。こうして日本で世界最初の胃カメラが誕生したのである。
 この小説のおもしろさは胃カメラ製作に当たっての試行錯誤していく過程が描かれていることと、彼らがいた時代風景がうまく描かれているところである。その時代背景がよくわかり、いかにも戦後だなと思った

 主人公の曽根は箱根の旅館の息子でもあった。奥さんに旅館経営を任せて、自らは実験の合間に帰る単身赴任であった。この本を読んで知ったのだけれど、戦後の箱根の旅館に宿泊する人たちは、宿泊の条件として一食一合のお米を持参して、それを旅館の女中さんが計って受け取っていたという。戦後の食糧難がよくわかる。また曽根たちが東大病院に実験に行くときは、胃カメラをリュックサックに入れて背負って行くところなど、よく戦後日本を映した映画などに見られる風景である。
 またこの本では堅苦しい実験の模様だけでなく、曽根と妻の京子との人間関係も、感情も生々しく描かれていて好感をもった。いい小説であった。
 いずれにしても、この人たちのお陰で、私の胃の健康も維持されているとことがあるわけだから、感謝しなければならない。でも来年春にはまた胃の検査があることを思うと、やっぱり憂鬱だなぁ~。


評価
★★★★


書誌
書名:光る壁画
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117171
出版社:新潮社 (1984/11 出版) 新潮文庫
版型:313p / 15cm / 文庫判
販売価:499 円(税込)

2008年12月09日

吉村昭著『わたしの普段着』

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 私はどうも一回気に入ってしまうと、凝るところがあって、続けてその作家の本を読みたくなるのである。吉村さんの本もそうである。
 実は以前にも何冊か吉村さんの小説を読んでいる。けれどどこか吉村さんの小説は堅苦しく感じていた。もちろん自分の興味のある歴史小説なので、読むことは読むのだが、続けて読みたいとはなかなかなれないでいた。
 たとえば司馬遼太郎さんの歴史小説と比べてみても、司馬さんの小説はどこかあそびがあって、話が重くなると“閑話休題”と称して、雑談ぽくなる。それがまたおもしろいのだが、吉村さんの歴史小説はそれがない。その分堅苦しいのである。もちろん司馬さんの小説も史実には忠実であろうとは思うが、司馬さんの場合いわゆる独特の司馬史観を通して物語が語られるため、その分取っつきやすい。
 その点吉村さんの小説は史実に忠実であろうという姿勢があまりにも強すぎるため、私が読後重々しく感じてしまうのであろう。 このエッセイには、「これは小説になる」と吉村さんが思ったことを、妥協を許さないほどの取材を重ねて小説として形作っていかれることが書かれている。「乗り物への感謝」というエッセイでは「私は小説の史料収集や現地踏査の必要からしばしば旅行し、全国で泊まらない県はない。遠隔地へ行く折は、もちろん飛行機に乗り、長崎には百回以上、札幌には百五十回以上、愛媛県宇和島には五十回前後行っている。
 これだけでも飛行機に乗ったは三百回になるが、南アフリカとアメリカへと、海外旅行に二度行っているし、日本各地に空路おもむくことが多いので、五、六百回になるはずである」と書かれている。
 これだけ徹底している。しかも出版社の人間に取材に行かせず、自ら出かけて行く。人任せにしない。疑問があれば、何度も取材に出かけ、その地方に残る資料をあさり、古老に話を聞き、小説を形作っていくことが書かれている。
 歴史の生き証人が吉村さんが戦史ものを書かれていた頃は、まだ何人か生存されており、その話を聞くことが出来たから、ストイックなまでに、古老の話を聞き、その事実から小説を作り上げていく。だからその古老たちが亡くなれるようになってきたら、吉村さんは戦史ものから手を引き、歴史小説の方へ転換していくのである。
 でも、歴史小説でも、徹底した史料調べは変わらない。だから吉村さんは「私は、史実そのものがドラマであると考えているので、フィクションをまじえることはしない」と言い切るのである。それだからこそどんな分野の小説でもリアリティーが最優先されているのであろう。だから吉村さんの書かれる小説にはそうした思いが詰まっているのだと知る。そうわかると、ここで何冊か紹介されている吉村さんの著作を読みたくなってくる。

 そんな吉村さんが自分自身聞き手になっているわけだから、あくまでも謙虚な姿勢であることが、ここに収録されたエッセイから感じることが出来るし、そうした吉村さんだからこそ、一人間として実生活でのさまざまな現実を素直に見つめておられる。
 たとえば「順番待ち」というエッセイがおもしろかった。そこには編集者から、吉村さんのファンである財界の団体役員と会った話が書かれている。その人は吉村さんの文庫本を見せた。図書館から借りたものだという。他に吉村さんの作品を読みたいと思っているが、貸し出されているので、今文庫本の順番待ちをしていると吉村さんに言うのである。
 それに対して吉村さんは釈然としない思いがしたと書く。彼は経済的にも豊かな人間であるはずなのに、五百円ほどの文庫本を何故書店で買おうとしないのか。そんな彼が順番待ちをしていることは、他の読書好きの人の利用をさまたげている。だからこの財界人は真の読書人の範疇から外れていると断罪する。その後彼はハイヤーで帰っていった。
 吉村さんは「私は学生時代三食を二食にしてまで書店や古書店で書物を手に入れた。書物を自分の物として所有することが、読書の喜びでもあった」と書くから、吉村さんは会わなきゃよかったと後悔するのである。

 この文庫本の紹介文に「気取らず、気負わず、殊更には憂いを唱えず。いつも心に普段着を着て、本当に知った人生の滋味だけを優々閑々と綴ってゆく」と書かれているが、まさしくその通り、自分自身、人、生活、旅、歴史、そのものをありのまま、感じたまま、言葉を紡いでいる感じであった。


評価
★★★★


書誌
書名:わたしの普段着
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117492
出版社:新潮社 (2008/06/01 出版)
版型:324p / 15cm / A6判 新潮文庫
販売価:539 円(税込)

2008年11月26日

吉村昭著『わたしの流儀』

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 吉村昭さんの小説は今まで何冊か読んできた。しかしエッセイは今回初めてである。でもいい感じのエッセイを書かれるなあと思った。肩の張らない吉村さんの日常がさりげなく語られ、しかもお説教臭さもなくていい。ただ吉村さんが当たり前と思うことを思うままに書かれている。
 しかし吉村さんにとって当たりまでも、最近世の中全体的におかしくなってきているので、それが当たり前じゃなくなってしまっている部分がある。それを理屈抜きでおかしいのだからおかしいと言える態度が凛としていていい感じだ。
 例えば「赤信号」という随筆では、「横断歩道で赤信号になっている場合、車が全く通っていなくても渡ってはいけない、ときびしく教えるのが幼児教育である。理屈ではない。してはいけないことは、決してしてはいけないということを教え込む」べきだと言う。
 最近何でも、どこでも、理屈にかなっていないと、おかしいんじゃないのというのが当たり前のようになっている気がする。だから理屈じゃないんだということが通らない。なぜ、どうして、ということが最前提にある。その答えがちゃんと用意されていて、納得してもらって、初めて意思疎通ができるという世の中になっている。“そんなことぐらいわかれよ”思っていても、相手がまったくわからないのだから話にならない。
 しかし世の中にはしてはいけないことはたくさんあって、それは理屈で説明できないものだと私も思う。ダメなものはダメでいいものも多くあるはずだ。それを押し通せない嫌な世の中になっていると思うのだ。

 さて、「卒業生の寄付」では吉村さんの学歴が公的にどのようなものかを知らされたにが国勢調査だという記述があった。吉村さんは戦後旧制高校に入学したが、中学時代の肺結核が進行し、絶対安静の身となり高校を退学した。幸い手術などをして回復し、三年後新制大学に入学する。しかし体力的に学業に堪えられず、大学を中退した。
 国勢調査には最終学歴を記入する欄があって、そこには中退の文字はない。従って吉村さんは中卒となった。息子さんと娘さんは大卒、奥さんは短大卒、お手伝いさんは高卒なのに、自分は中卒かと多少嘆いている。
 これと同じことを他の人が書かれている文章で読んだことがある。五木寛之さんのエッセイであった。五木さんも早稲田中退である。だから国勢調査の記入欄に、中退がないから中卒だ、といやみな言い方する奥さんに文句をつけていた。結局後で五木さんがその国勢調査を見たとき、最終学歴は夫婦とも未記入となっていたという文章である。(五木さんの初期のエッセイは奥様が出て来るのが面白い。五木さんは奥様は半ば五木さんを小馬鹿にした感じで書かれていて、そのためか奥様を“配偶者”といって書かれる)

 吉村さんのこの文章はどうでもいい文章かもしれないけれど、そこに書かれていることが昔読んだ五木さん文章と同じだと思ったことが楽しかった。お二人とも公的には自分たちは中卒だというのには、ちょっと待ってくれよという感じが出てて、言い意味でも悪い意味でも面白い。なんだかんだ言っても、学歴が気になるのは小市民的でおかしい。
 また吉村さんの違うエッセイを読みたいと思ったし、五木さん昔読んだエッセイも読み返したくなった。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの流儀
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117409
出版社:新潮社 (2001/05/01 出版)新潮文庫
版型:246p / 15cm / A6判
販売価:420円 (税込)

2008年11月18日

吉村昭著『羆嵐』

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 この本は、1915年(大正4年)12月に北海道留萌苫前村(現:苫前町古丹別)三毛別(現:三渓)六線沢で発生した日本最大最悪の熊害(ゆうがい)事件を扱った作品である。
“穴持たず”という冬ごもりの穴を見つけ損なった羆が当時の開拓民7名を殺し、3名の重傷者を出した。詳しくはWikipediaにある。


三毛別羆事件


 六線沢に入植した人たちはそれよりも北方三十キロの山間部に東北地方から入植した人たちであった。彼らは国から与えられたわずかな奨励金で草囲い小屋を建て、不毛の地に鍬を入れ、種を蒔いた。しかし蝗の襲来でわずかな農作物は全滅し、六線沢に移ってきた。
 新しい土地は以前の土地よりましではあったが、やはり自然環境は過酷であった。ここに巨大な羆が現れた。羆の存在は「草がこいの小舎に住むかれらは、穴居生活をしていた時代の人間たちと大差ない生活をしている。それは、地上に棲息する動物の一種属として、自然の変化に容赦なくさらされた生活であった。穴居していた人間たちは、強大な力をもつ肉食獣の食欲みたす存在にすぎなかった」ことを思い知らせるのである。

 12月9日、島川の妻と息子が羆に襲われた。息子の遺体はそこにあったが、島川の妻の遺体がない。羆が持ち去ったのである。「島川のおっかあをとりもどさなくちゃ」と村の男たちは遺体を山林の中でさがす。遺体を見つけた男が「おっかあが、少なくなっている」と目を血走らせて言った。島川の妻の遺体は頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それと黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみしかなかった。
 それでも彼らは羆におさわれた島川の妻と息子の遺体を懇ろに回向し、埋葬しなければならない義務が生じた。なぜなら遺体を土に帰すことは、入植者であるかれらが土に根を張ることを意味しているからだ。

 「かれらの生活は、その土地の土壌に仮の根をのばしはじめていたにすぎなかった。植物は、冬の訪れとともに地表から姿を消すが、種子は土の割れ目に入って春の訪れとともに多くの芽をふき出す。それは土壌との毎年約束された合意によるものだが、かれらはそこまで土の信頼を得るに至っていなかった」
 だから、自然と彼らの信頼は彼らの身内の死体を埋葬されることの深まることができる。「土との融合は、植物の種子が地表に落ちるように死体を土に帰すことによって深められる」のである。彼らはここに入植して四年目なのでまだ一人も死者を埋葬することがなかったのだ。

 翌日男たちは、羆が明景の家を襲っているところに出くわす。

「今、中でクマが食っている」

 「音がした。それは、なにか固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音であった。それにつづいて、物をこまかく砕く音がきこえてきた。
 区長たちの顔が、ゆがんだ。音はつづいている。それは、あきらかに羆が骨をかみくだいている音であった」

 男たちは銃を撃った。その後家の中へ入る。その凄惨な光景を見て、男たちの中からすすり泣きが起こる。殺されたのが誰だかわからなかったが、村落の者が無惨な肉片と骨に化していることに耐え難い悲しみを感じたのであった。

 「人々は、未開の地に村落を形成した。かれらは、荒地をひらいたが、土地は、逞しく張った木の根や石塊でかれらの鍬をこばもうとし、冬の寒気と積雪でその生活をおびやかした。それを当然のこととしてかれらは苦痛に堪え、自然にさからうこともなく生きてきた。
 しかし自然はかれらに大きな代償を強いた。先住者である羆を擁護する立場に立ち、村落の者たちを容赦なく死におとし入れた。それは、村落の者に対して加えられた制裁のように思えた。
 男たちは、自分たちのつつましい努力が自然の前に無力であることを感じた。土地を開墾し草囲いの家の中で寒気をしのいできた日々が、結局は無為なものであることを知らされたのだ」

 奇跡的に助かった明景の家の十歳の長男は、明景の家にいた臨月である斎田の妻が、羆に「腹、破らんでくれ」という羆に懇願する声を聞いた。
 わずか二日間で六名(胎児をいれれば七名)の者が殺害され、三名が重傷を負わされた。村民は村を放棄すべく、そこから非難し始める。遺体は羆が他に移動しないように、餌として村に放置された。
 
 救援に来た警察や銃を持ったたくさんの男たちは、最初自分たちの力を過信していたが、村の被害を目の当たりにする従い、恐怖におののきはじめる。屋根の雪が落ちただけで、羆の襲来だと勘違いし、怯える始末であった。区長は救援の警察や男たちがまったく役に立たないことを知り、熊撃ち銀四郎に応援を依頼する。銀四郎と区長は熊狩りに加わるが途中、彼らと別行動をする。羆がいる風上に彼らがいると、羆は彼らの存在をにおいで感じ取るからだ。銀四郎たちは風下に回り、羆を仕留める。銀四郎は二発で羆の急所を打ち抜いたのだ。
 仕留められた羆は頭の先から足先まで九尺(二.七メートル)体重百二貫(三八三キロ)の巨体であった。仕留められた羆を運ぶとき、吹雪が吹き荒れる。「クマ嵐だ。クマを仕とめた後には強い風が吹き荒れるという」一人の男が言う。

 とにかく読んでいて恐ろしさがひしひしと感じる本であった。北海道の開拓民たちが過酷な自然の中で生活している描写だけで、自然の恐ろしさを感じるのに、さらに体重383キロの羆が、人を襲い、骨を折り、肉を食いちぎる光景を想像すると、ぞっとしてしまう。話が事実に基づいているだけに、下手な恐怖小説より恐ろしかった。風や音が恐怖をさらに広げていく感じだった。


評価
★★★★


書誌
書名:羆嵐
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242130
出版社:新潮社 (1977/05 出版)
版型:204p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2008年11月15日

山口瞳著『男性自身』

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 「男性自身」は「週刊新潮」に1963年(昭和38年)年から1995年(平成7年)に死去するまで31年間、延べ1,614回、一度も穴を開けることなく連載を続けたコラムである。この本は男性自身シリ-ズの第一巻目の作品である。
 私は書店員時代、毎週、「週刊新潮は本日発売です」と聞くたびに、今日は週刊新潮の「男性自身」シリーズを読んできた。自分の本棚にもこれをまとめた単行本や文庫本がある。ただ気合いを入れて集めてこなかったので欠本がある。この第一巻も持っていなかった。
 私はこのシリーズは途中からの読者である。だから最初このシリーズはどんな感じで始まったのか知りたかった。だからどうしても第一巻は読んでみたかった。そのためこの巻を探しに神田古本まつりにも行った。ないことはなかったけれど、値段が高かった。で、アマゾンのマーケットプレイスで買った。それを今回読んだ。以後このシリーズも読んでいこうと思っている。
 で、途中からの読者として、へぇ~山口さんは最初、こんな文章も書いていたんだと思ったことだ。そもそもこのシリーズが何故“男性自身”というかである。その目論見が次のように書かれている。

 「もしそれ、非常に注意ぶかい読者ならは、私が、この随筆ともオトギバナシとも精神訓話ともつかぬもので何を目論でいるかをすでに察知せられることであろう。
 私自身の心構えとしては長篇小説を書いているつもりなのである。もし私に幸運にもかの「白樺派」の如き長寿が許されるならば、実にこれは大河小説ともなるはずのものである。
 すなわち、現代に於いて一穴主義(女房だけしか女を知らない男)は果たして可能であるか、というのがこの大河小説に課されたテーマなのである。従ってこれは『日常生活における華麗な冒険もしくはサムワン氏の悲しき生活』と題されてしかるべきものであるが、誰かさん小説の題名に似てしまうので、いさぎよく、きっぱりと、簡潔に『男性自身』とした。男性自身とは考えようによってはかなりキワドイ題名である。今様にいえばそのものずばりである。吾人は清く正しく美しくこれを保たなければならぬ」

 要するにここでは山口さんは自分を含めて、貧乏人根性の持ち主で、生活を一番大事にしている人種であるとして、そういう人たちがどう生きているか、半ばちゃかして書いているのである。仕事にも、人間関係にも、女性の誘惑に負けず、一穴主義と呼ばれようが、軽石(カカトスルバカリ)と呼ばれようが、1DK(寝る所も排泄するところもひとつだけ)と呼ばれようが、ミシン(ひとつ穴ばかりつつく男)と呼ばれようが、とにかく、自分の生活を守ることを身上としている男が、どうやってこの世の中を生きていけばいいか、その処世訓を教えてくれている。
 ただひたすら生活を守ることがいつも頭にあるわけじゃない。ここは戦争体験者である。「どうせあのとき死ぬ運命にあったんじゃないか、いつ死んでもいいや、という気分と、戦時に育ったための極端な臆病とが交互する。どうせ変な具合に生き残ったんだから、こんな世の中は笑いとばしてやれというヤケッパチと、せっかく生き残って、切望した戦争のない世界にいるのだから、父と妻子の小さなかたまりを大事にしようという気持が交互する」と男の切ない欲望も吐露する。
 それにしても女房至上主義者をちゃかすのにいろいろな言い方があったんだなと笑ってしまった。でもこういう小市民的な部分は個人的には好きだなぁ。


評価
★★★


書誌
書名:男性自身 男性自身シリ-ズ
著者:山口 瞳
ISBN:9784103226048
出版社:新潮社 (1985/05 出版)
版型:255p / B6判
販売価:入手不可

2008年10月01日

YOMIURI PC編集部編『パソコンは日本語をどう変えたか』

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 私はWindows Vistaが搭載されたノートパソコンを使ってこのブログの文章を書いているが、最初Vistaの画面の文字を見たとき「あれっ、なんか違うな?」と感じた。普段フォントなどあまり気にしない方なのだが、そんな私でもそんなことを感じた。
 Vistaのシステムフォントを“メイリオ”ということをはじめて知った。私は知らなかったが、このフォントはVista発売前から結構話題になったらしい。“メイリオ”の語源は「明瞭」からきているらしいが、その語源の通り、確かにXPの文字よりスッキリしているかもしれない。そのねらいは①ディスプレイ上(特に液晶ディスプレイに)での可読性向上、②和文と欧文を違和感なく調和させるということにあるらしい。
 ところで漢字をコンピューター上で扱えるようにするためには、一定の数の漢字に番号を振ってソフトに組み込まなければならない。この組み込まれた文字の集合体を「文字セット」といい、多くはJISの文字コードを基準にしている。Vistaは「JIS X 0213:2004」(通称「JIS2004」)という文字コードを使っている。
 ところがVista以前のバージョン、例えばXPでは「90JIS」が組み込まれていて、ここで問題が生じるらしい。下の文字を見てほしい。「かつしかく」を漢字変換すると、上がXPの場合、下がVistaの場合である。違いがわかるであろうか?


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 XPは「ヒカツ」であり、Vistaは「人カツ」なのである。それをこの本で知ったとき、実際試してみて「へぇ~、そうなんだ!」としげしげとその文字を見てしまった。
 これは大したことじゃないと思われるかもしれないけど、搭載している文字コードの違いがあるということは結構問題なのである。だって双方名前なのだから当然こだわりがあるはずで、いい加減に済ませられる問題じゃない。
 さらにVistaの「JIS2004」の文字コードにはあまり日常生活では使われない第3、第4水準の漢字が収録されているが、XPの「90JIS」はそれが収録されていない。もしVistaで第3、第4水準の漢字を使って、例えばメールなどした場合、XPでは文字化けしてしまうのである。今のところ混乱がないのは、Vistaがまだそれほど普及していなし、そもそも第3、第4水準の漢字が日常生活であまり使われることのない漢字だからであるが、固有名詞にはこの第3、第4水準の漢字が使われる可能性が充分あるので、ネットの取引など支障をきたすおそれがあるという。

 アメリカ生まれのコンピューターはアルファベットしか扱えない。しかし日本でコンピューターを使うためにはどうしても漢字が使えないとその普及は進まない。当然である。しかしコンピューターで漢字が扱えるとなると、大変なシステムが必要になるし、ソフトも複雑になる。
 例えば英語の場合、基本的な文字数はアルファベット26文字と数字と記号だけで100字あれば事足りるし、しかもアルファベットは漢字に比べれば字形が単純だ。ところが日本語の場合、ひらがな、カタカナ、それにいくあるかわからない漢字を扱わないとならない。しかも字形が複雑ときている。さらに同音異義語が日本語にはたくさんある。それらの問題をどうやってクリアーして、パソコンに日本語変換を組み込んでいったかを、その歴史をこの本では書かれている。
 昔、日経新聞から出版された『パソコン革命の旗手たち』という本を楽しく読ませてもらった記憶があるが、まさにそれを日本語変換ということに限って再現した感じだ。
 ところでこの本の題名である「パソコンは日本語をどう変えていったか」が、私としては一番興味のあることがらである。この本ではこのことが最後の章にわずかしか書かれていないのは残念である。
 ここではパソコンで簡単に漢字変換できることが「きちんと漢字を使えない人が増えた」、「難しい漢字は読めるが、『手で』書けない」という状況を生み出したと指摘しているが、それは今までいわれてきたことだし、自分自身もそう感じているから、目新しいことではない。
 パソコンで簡単に漢字に変換してくれるものだから、個人のブログなど見ていると、時に、普段絶対に使わない漢字が使われていることに気がつく。あるいは個人の手記などまとめた本など読んでいると、多分パソコンで原稿を書いたのだろう。「ここでこんな難しい漢字を使うか?」と疑問に思うことがある。これらすべて、日本語変換ソフトの「お節介」から生じたことだろう。
 私はこのブログでよく本の中の文章を引用する。それをそのままパソコンに入力して、変換すると、本の文章では漢字が使われていないのに、ここでは漢字になってしまう。正確を期すため、本に書かれている通りにしたいので、漢字に変換されないようにするか、あるいは戻って直したりする。そのたびにイライラしする。無理に漢字に変換しなくてもいいのにとさえ思う。
 プロの文章家の文章を引用していると、気づくことがある。パソコンでは漢字になってしまうことばがひらがなで書かれることによって、やさしくなっているような気がする。やたら漢字が連なっていると、堅苦しいし、なんか文章にトゲがあるように感じてしまう。そして漢字を思い切って使う時はその漢字が端的に意味を言い表しているときに使われる。それが文章全体を引きしめる。
 それを感じたので、私も無理に漢字は使わないようにしようと思ったのである。もちろん大した文章など素人なので書けはしないのだが、それでもやさしい文章で、引きしまった文章は美しいし、見た目にもきれいだと思う。だから少しでもそうありたいと、パソコンまかせに文章を書かないようにしているつもりである。


評価
★★


書誌
書名:パソコンは日本語をどう変えたか―日本語処理の技術史
著者:YOMIURI PC編集部【編】
ISBN:9784062576109
出版社:講談社 (2008/08/20 出版)ブルーバックス
版型:253p / 18cm
販売価:945円 (税込)

2008年07月12日

柳広司著『黄金の灰』

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 ネットでシュリーマンやトロイなど調べていたら、こんな本があることを偶然知り、面白そうと思い、さっそく読んでみた。
 読んでみて、全体で感じたことは、奇妙な推理小説だなということである。とにかく話にまとまりがなく、面白い展開になったと思ったら、明かされた推理はそのままにして、次に進んでしまい、じゃあこれはどうなるのだと思っていたら、それで話が終わってしまう。
 話はシュリーマンがトロイでプリアモスの財宝を発見したことから始まり、それが盗まれ、二人の人間が殺される。シュリーマンたちが盗まれた財宝を探しだし、二人の人間を殺した犯人を捜すことになる。その経過をシュリーマンの婦人ソフィアを通して語られる。まあ、史実の縛りがあるから結果の嘘は書けないだろうけど、結果としてシュリーマンがプリアモスの財宝を発見したことが揺るがなければ、その間一時的にその財宝が盗まれ、人が殺されても、事件が解決すれば、シュリーマンの手元に財宝が戻る訳だから、お話の世界は成り立つ。だからそれはそれでいい。
 問題は話の中に密室殺人あり、そのトリックを『モルグ街の殺人』からヒントを得たと言ってみたり、トルコの民族解放問題あり、キリスト教の神学問題あり、果てはフロイトの無意識の問題ありとなんでも知っていることを盛り込んじゃった感じで、話に脈絡がない。
 面白そうと思ったこともある。シュリーマンが地元のギムナジウムを退学して商人の徒弟になり、体調を崩し、首になり、南米に渡って仕事を探そうとしたとき、その船が難破した。シュリーマンはその自伝で「船は難破したが、死者はいなかった」と書いている。これに疑問をもったアメリカの旅行者トマス・ブラウンは、船が難破したのは12月11日の北海である。この時期、海水の温度は零度近くなるはずだから、そんなことはあり得ないという。そしてこの船にはシュリーマンとよく似ていた少年がもう一人乗っていた。ブラウンはここから今ここにいるシュリーマンは本物のシュリーマンじゃないのではないか。つまりこの難破事故で、本物のシュリーマンは死亡し、すり替わってもう一人の少年がシュリーマンとなったのではないかと。
 だからすり替わったシュリーマンは以後故郷に帰ろうとはしなかったし、初恋のミンナに結婚を申し込もうとした数日前にミンナが結婚していて、悲しみにくれたと言っているが、本当はミンナが結婚した事実を確かめてから、結婚を申し込もうとしたしたのではないか。そして幼い弟呼び戻したけれど、アメリカにいるルイスは呼び戻さなかった。それらすべてが、自分が本物のシュリーマンではないことがばれてしまうからそうしたんじゃないかというのである。
 この展開は「おお!」と思ったのだけれど、しかしこのルイスの推理は以後話に出てこない。だったら何でここでこんなことを持ち出したのか、作者の意図がよくわからない。しかもこれを使えば話は面白くなりそうなのに、何かもったいない感じがしてしまった。もっともこの推理を展開しちゃうと史実と食い違ってしまうから、それまでにしておいたのかもしれない。とにかく史実に縛られてしまい、せっかくいいアイデアがあるのに生かし切れずいるのは残念だ。
 それとここに出てくる人物のしぐさがどうもヨーロッパ人ぽくないのだ。たとえばシュリーマンがプリアモスの財宝を見つけ、それを遺跡現場から密かに持ち出したとき、ブラウンにどうしてそんなこそこそするのかと問われる場面。

「黄金が発掘された事実を、この土地の者や、ましてトルコの役人に知られたら、とても面倒なことになるのです。だから・・・」
「なるほど」ブラウンはぽんと額を打つとハインリッヒに向き直り、なお興奮さめやらぬ口調で尋ねた。「で、いつ見つかったのです?」

 ヨーロッパ人がポンと額を打つか?何か落語の長屋での会話で出てくるしぐさに似ていていないか。この後もう一度ブラウンは同じしぐさをする場面があるから、それは癖なのかもしれないが、何かおかしい。もうちょっとスマートやってほしいな。それにいろいろ持ち出して、話を複雑にしても、すぐ犯人の見当がついちゃったしね。これは失敗作だな。それにこの本の解説も何を言いたいのかよくわからなかった。


評価


書誌
書名:黄金の灰
著者:柳 広司
ISBN:9784488463021 (4488463029)
出版社:東京創元社 (2006-11-30出版) 創元推理文庫
版型:390p 15cm(A6)
販売価:780円(税込) (本体価:743円)

2008年05月12日

矢口敦子著『償い』

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 話は医師日高英介は子供の病死と妻の自殺で絶望し、「私」が「男」という普通名詞扱いになるホームレスとなった。ホームレスとして暮らす土地で、火事を最初に見つけた。それが日高が経験する連続殺人事件の始まりとなった。日高はホームレスという身分のためその火事の第一発見者にもかかわらず、放火犯人として警察で取り調べを受ける羽目となる。しかしその後殺人事件が続き、日高は山岸という刑事の依頼を受けて、事件を調べ始める。
 連続殺人事件を調べているうちに、日高が十二年前医師の国家試験を合格し、長期休暇でデートをしていた頃、誘拐魔に殺されそうになった幼児、草薙真人と偶然知り合う。そして何度か草薙と話しているうちに、日高はこの十五歳になった少年が犯人ではないかと疑い始める。
 日高にとって医師としての仕事も子供も妻も失ったばかりだから、せめて十二年前に助けた幼児が助けたということで、唯一意味があったことなのに、それさえも意味がなくなりつつあり、自分が助けたばかりに草薙は連続殺人犯になってしまったのではないかと苦しみ始める。
 そして事件を調べていくうちに、日高は普通名詞の「男」から「日高英介」という固有名詞の男を取り戻しつつあることを自覚する。何もかも捨てて、なげやりになっていた自分を事件解決にあたって、とにかくまっとうに生きていこうとする。

 この本は書評や店頭のPOPなどでは“いい本”と好評なのだけれど、読んでみて、はたしてそんなにいい本だったかなと思った。話は連続殺人事件と登場人物の心の傷が両輪として話が進むのだが、作者の意図がその傷で感動を呼ぶような構成になっている気がしてならなかった。どこか白々しさが感じてしまい、ここが感動するところですよと言われている気がしてしまった。そしてこの本が“いい本”と感動する人は、作者の意図にはまった人じゃないかと穿った見方をしてしまう。
 もちろん読んでどんな感想を持ってもいいのだけれど、やっぱりミステリーなら、話の必然性をリアルにわかるようにぐいぐい読ませてくれる方がいい。そんな気がしたのである。あんまりミステリーに魂の救いを求めてほしくないなぁ、やっぱり。
 それにしても書店員はどうしてこういう魂の救い、あるいは心の荷物を下ろしてくれる本が好きなんだろうか?たまにはいいかもしれないが、毎度毎度だと、甘ったるいケーキを食べさせられている感じがしてしまう。


評価
★★


書誌
書名:償い
著者:矢口 敦子
ISBN:9784344403772 (4344403770)
出版社:幻冬舎 (2003-06-15出版) 幻冬舎文庫
版型:450p 15cm(A6)
販売価:680円(税込) (本体価:648円)

2007年06月20日

柳田邦男著『人の痛みを感じる国家』

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 久しぶりに柳田さんの本を読む。しばらく柳田さんの本を読んでいなかったので、最近の柳田さんの傾向がこんな感じになっているんだと少々驚いている。ノンフィクション作家としての柳田邦男ではなく、どちらかと言えば「人の生き方」に言及されるようになっていた。それはどうやら前作2作から柳田さんの問題点であるようだ。ただ私はそれらの本を読んでいないので、この本にだけについて書いてみたい。
 この本では主に二つのことに言及されている。一つはケータイ・ネットの危険性、さらもう一つはに本の題名にあるように「人の痛みを感じる国家」についてである。
 話は前後しちゃうのだけれど、ケータイ・ネットの危険性については思うところがあるので、あとでいいたい。まずは「人の痛みを感じる国家」についてである。
 柳田さんは「この三年ほどの間に、水俣病事件をはじめ、公害、労働災害、薬害、原爆被災などの事件に関して。被害者の救済を求める裁判で、国の行政の不作為つまり怠慢を厳しく断じた判決が相次いでいる」ことについて、裁判所が国家や官僚が国民の健康と生命に対する意識の希薄さを断じたことは、ただごとじゃないというのである。つまりこれらの裁判はすべて行政の規制権限や認定基準が機械的すぎることへの不当性を訴えており、裁判所はそれを認めた形になっているのが最近の潮流だというのである。
 今までの日本の行政は国家の政策目標のために、その実現のためには犠牲者がでても無視して突き進んできた。国の経済発展を最優先にしてきた。ところが裁判所はそれにNGを出しつつある。ということは今後今までのような国策優先のためには多少の犠牲者が出ても仕方がないという論理がだんだんまかり通らなくなりつつあるということだろう。
 柳田さんはガンになった精神科医の次の言葉を引用する。「他人の痛みは何年でも耐えられるものです。今、自分が毎日襲ってくる痛みをかかえるようになって、そのことを身にしみて感じるようになりました」と。
 これまでの日本の官僚はこの精神科医がガンにかかる前の意識と同じだというのである。だから行政は自分の正当性を何年でもかかっていいから主張し、争ってきた。官僚には異動があり、2年もすれば担当を交替し、他者の痛みなど忘れられる。ところが被害者は病気や障害を抱え、10年、15年と裁判で戦っていく。そうこうしていくうちに被害者は長い歳月を待てずに死んでいくという残酷な現実がある。
 いまこそ、官僚は意識の転換をし、他者(国民)の痛みをこの精神科医のように身をもって感じる行政をすべきであり、「人の痛みを感じる国家」を創らなければならないと提言する。
 これについては確かにそうであろう。とにかく裁判が長すぎる。国家の政策がいつも完璧であれるわけがないこともわかるつもりである。片方をたてれば、もう片方がたたないこともあろう。ただ間違いは間違いだと素直に認めるべき態度は必要であり、つまらん主張や自己弁護を永遠と繰り返すことでは国民は納得しなくなってきている。それは社保庁の年金問題だって、そういえるんじゃないかと思う。おそらく今は国の政治のあり方、官僚の態度など、今までのようなやり方に方向転換を求められているのが、今なんじゃないかと思う。

 あと一つの問題である、ケータイ・ネットの危険性については、柳田さんは携帯電話やインターネットは著しく人間性を損なうというのである。その理由を以下のようにあげる。

①バーチャルな世界だからこそ描かれる凄惨な殺し合いやおぞましい行動なのに、それをあっさりと現実の世界に持ちこんでしまうという倒錯を引き起こす。

②世界を自分の思いどおりにあやつれると錯覚する全能感を持ってしまう。

③匿名による情報発信で誰かを中傷したり脅迫したりプライバシーを暴いたりしても、罪悪感を感じなくなってしまう。

 さらに柳田さんは岡田尊司さんの『脳内汚染』という本から「情報の毒性には、さらに恐るべきことがある。物質であれば、血液に入っても、血液脳関門(ブラッド・ブレイン・バリアー)と呼ばれる組織(いわば濾過膜)によって、脳内に入るのを防ぎ、脳の神経細胞を守る仕掛けがある。しかし、情報は信号であって物質でないから、眼や耳から入ったら、何のバリアーもなく、ストレートに脳を直撃することになる。
 こうして脳が情報に浸されると、その子どもの心にどのような影響が現れてくるか、その主な変化を挙げると、次のようになる。
▽我慢しようという意思がなくなる
▽行動をする際に、どちらにしようかなどと迷ったりする緊張感がない
▽他者に対する共感性が欠ける」とあげる。

 これらいわれていることは、別に目新しいことではなく、おそらく誰しも最近の事件などを思えば、その原因の深淵はここにあるんじゃないかと思っているのではなかろうか。
 そして匿名性に関しては、それを加速しているのが個人情報保護法であるという。柳田さんは「現代は、一方ではケータイ・ネットでの匿名の情報発信による人権侵害や中傷・誹謗や脅かしなど横行しているのと同時に、他方では公的機関が個人情報保護法を都合よく拡大解釈して『匿名社会』を形成しつつあるという、極めて危うい時代になっていることがわかる。この状況がさらに進むと、犯罪・事故・災害の被害者名(とくに死亡者名)が公表されなくなって、人々が不安にさらされる一方では、公務員などが自分たちの不利益になる情報や天下り状況などを隠してのうのうとしているという、暗黒社会がやってくるのは避けられないだろう。これは重大な事態だ」と警告する。
 その結果柳田さんは当時の小泉首相に「小中学校からパソコン排除を!」という手紙を出している。そもそも「パソコンを使いインターネットなどから入手する情報は単なる情報でしかない。情報レベルでの思考ははらわたに浸み、全身を揺さぶるほどの力を発揮しない」とネットからの情報入手に否定的だ。徹底した「現場主義」なのだ。その方が、「たちまち脳内の感性と思考機能がフル回転を始め、全身が揺さぶられることになる」と言い切る。
 そうかもしれない。そうかもしれないが、だからといってパソコンやネットが不要かという話にはならないだろう。だからこそパソコンを排除できるという論理はあまりにも無謀な論理だ。単にパソコンを排除しただけで問題は解決するのだろうか。いやそれより今の時代パソコンを排除することが可能なのだろうか?
 確かにネットには様々な問題がある。けど何でもありのネットだからこそ、ネット存在感があるのではなかろうか?そして私たちはインターネットという「パンドラの箱」を開けてしまったのである。ただ単に問題があるネット排除すれば問題が解決するというのは、あまりにも短絡過ぎるし、あれほど「セーフティーネット」と口酸っぱくいう柳田さんらしくない。
 陳腐な言い方かもしれないけれど、パソコンやネットの使い方が問題なのではないか。情報の選択の仕方に問題があるんじゃないかと思う。そもそも玉石混淆だからこそ意味があるのであって、問題があるから、すべてを切り捨ててしまう発想自体が危険だ。いいも悪いもあるから、それはいい、これは悪いといえるもんだろうし、そもそもいい悪いの判断は個人個人違うものだろう。すべては取り扱いの問題につきるんじゃないかと思うのだ。
 なんだかこの本を読んで柳田さんに失望しちゃったなぁ。


評価
★★


書誌
書名:人の痛みを感じる国家
著者:柳田 邦男
ISBN:9784103223177 (4103223170)
出版社:新潮社 (2007-04-20出版)
版型:219p 19cm(B6)
販売価:1,470円(税込) (本体価:1,400円)

2007年06月10日

柳原良平著『アンクル・トリス交友録』

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 この本はいつ手に入れたのか覚えていないが、ただ古本屋で100円均一のワゴンにあったことは覚えている。100円だし、31年前の本なので本はやけているし、シミもあっていかにも古本といった感じで、状態はあまりよくない。けれど「洋酒天国」のデザインを担当した柳原良平さん本だし、「洋酒天国」のことが書かれていたので、買っておいた。今回この「洋酒天国」のことを書きたいと思い、確かこの本があったと思いだし、いそいそと本棚を探して取り出した。
 前回の本の著者は確かに「洋酒天国」の編集に関わっていたが、本の内容が「洋酒天国」がブームになったその時代背景、執筆者である当時の有名人や文士たちにスポットを主に当てていたので、物足りなさを感じていたことは書いた。で、今回はその「洋酒天国」でイラストを描いていた柳原さんなら当時のことを、関係者ならではということが書かれているのではないかと思い、読み始めた。

 「洋酒天国」で柳原さんイラストいえば、アンクル・トリスのあのキャラクターだろう。

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 昭和30年代になるとテレビも普及し始め、それまでの広告媒体である新聞、雑誌を中心とする活字媒体からラジオとテレビも加わってきた。特にテレビの普及が著しく、それまで新聞広告を描いていた柳原さんがテレビコマーシャルを作ることになり、そこに登場する人物として例のアンクル・トリスが考え出された。このキャラクターを考えたのは、柳原さんと開高健さんと柳原さんと同じ美大出身のテレビコーマーシャル担当の酒井睦雄さんの3人だという。
 キャラクターの設定は退職前の54~55歳年齢に設定したという。(CMでウィスキーを飲むことが多いのだから、主人公がまじめに働き終えた年齢であれば視聴者も今までの功労に免じて大目に見てくれる。逆に若いのに酒ばかり飲んでいればヒンシュクを買うからだという。)性格は「小市民的に小心ではあるが時々思い切ったことをする。少し偏屈だが気はいいところもあり、義理人情にもろいが一面合理主義的、女嫌いところとエッチなところを持つ」ものとした。そして生み出されたのが、「ハゲ頭で鼻は三角にとがり、首はまるでないように太く、目玉は丸く片方に平目やカレイのように二つ、しかもいじ悪そうに両目と両肩がくっついて、目の下にシワが二本、体は二等身半で、胴も太く、足が極端に短い」あのキャラクターである。
 コマーシャルデビューはサントリーが提供していた天気予報だという。天気予報だから連日連夜流れる。毎回、二等身半の主人公がバーへ行き、何杯もハイボールを飲み、顔を赤くして出て行くというものだった。
 面白いと思ったのは、柳原さんたちが二作目のアイデアに窮していたため、なかなか新作が出来ず、1年半同じコマーシャルが流された結果、逆にこのアンクル・トリスを覚えてもらったことになったという。

 さて「洋酒天国」のことである。この雑誌のアイデアがいかにして生まれたかこの本で書かれている。
 「私たちは新聞広告をつくるかたわら、なにか他の違った仕事をしてみたいと思いはじめていた。それは本を出してみたいという気持ちだったようだ。すでにその頃、開高クンは『近代文学』に小説を載せ、作家になろうと考えていた時であり、本を編集したり、作家にいろいろ原稿を依頼することによって接触することに興味を感じたのではないだろうか。私も又、その本を通じて、絵本のような仕事への試みをしてみたと思ったのである。われわれは思いのまま気のきいた、しゃれた本をつくってみたいという気持ちが結びついたところで考え出されたのが『洋酒天国』である」

 それがトリスバーブームを盛り上げるための一連の宣伝計画のひとつとして折り込まれたわけだ。
 そして大好評となる。この本によると、初版は3万部ぐらいだったという。その後飛躍的に部数は伸びていき、最終的には50万部を超えたという。(先の小玉さんの本では20万部となっているが・・・) もし50万部の部数を超えていたとすれば、これってすごい数字である。日本雑誌協会というところのサイトで「JMPAマガジンデータ」の資料で、今発行されている雑誌の発行部数が一部載っている。それを見ると、月刊の文藝春秋が62万部の部数である。それを考えればこの50万部という部数はすごい。
 ただ、「洋酒天国」は無料のPR誌である。部数が多くなればなるほど経費が大きくなる悩みがあったという。
 とにかく「洋酒天国」は人気となり、当時の広告関係の賞を総なめしたそうである。そんなところへ朝日新聞から連載漫画の依頼がある。ところがこれが問題となってくる。この連載が社内でも知られ、副業だと文句を言う者が出てきたのである。つまり勤務中に副業をやっていると言われたのである。もちろん柳原さんたちは就業時間外にアイデアを出し、描いていたのだが、結局柳原さんは辞表を出し、嘱託となった。このろき開高さんはもう芥川賞を受賞していて、小説家デビューを果たしていて、二足のわらじがきつくなり、嘱託となっていた。
 このことはこの本の最後にも問題点としてあげられている。企業の広報部に優秀な人材がいれば、いい宣伝活動が出来るし、またいいスタッフも集まってくる。当然世間でも注目をあびてくる。それは単に一企業の社員という立場だけでなく、アーティストとして評価され、外部でフリーで仕事をしているデザイナーやコピーライター、広告会社あるいはデザイン研究所を主宰しているアートディレクターと並んでその世界に入ることとなる。
 しかし彼らはあくまでも一企業の社員である。いい広告を作ったからといっても、給与体系にしたって、勤務時間にしたって、会社の就業規則に縛られる。彼らだけを特別待遇すれば他の社員にしめしがつかなくなる。その結果彼らはだんだん居づらくなり、独立していくこととなる。企業広報の難しさがこの点にあることを知らされる。
 ただ、こういうのって、単に広報だけでなく、他の部署においても、その人の才能があればあるほど、なかなかうまく企業内では発揮できなくなる場合もあるのではないかと思ったりする。

 この本は柳原さんのサントリー時代の話、そして大好きな「船」のことが書かれているわけだけれど、読んでいて、柳原さんの性格が出ていて、ほのぼのとしてきた。そしてそんな中、ちくりとする部分があって楽しかった。


評価
★★★


書誌
書名:アンクル・トリス交友録
著者:柳原 良平
ISBN:
出版社:大和出版(1976-4-30出版)
版型:19cm228p
販売価:(古本屋で入手。たぶん絶版だと思う)

2007年05月23日

弓削達著『ローマはなぜ滅んだか』

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 この本、本棚の整理をしていたら、目についた。一度は読んでいるようである。調べてみると、確かに一度は読んでいる。どうもこの本は、岩波文庫版の『ローマ帝国衰亡史』の復刊後に出版されたようで、この復刻版が人気があって品切れを起こしたことも書かれている。しかし私の中にこの本の印象が全くない。だからもう一度読んでみようと思ったわけである
 読んでみて、私の中でそれほど印象が残らないのも何となくわかった。とにかく読みにくいのである。
 通常新書という媒体を使う以上、だいたいは読みやすく書かれる。しかしこの本はかなり比喩が多くて、その分抽象的で、わかりづらい。だから何となく読んで、そのままにしておいたのだろう。

 著者は序章で、なぜローマだけその滅亡を問うのかという。生者必滅の人の世にあって、ローマのみその訳を問うのはどうしてなのだろうかというのだ。言われてみれば確かにそうだ。
 しかしローマ滅亡の理由を問うには問う理由があるはずだ。その理由を著者は次のようにいう。「すなわち、ローマは、世界史上まれに見る長年月の間に空前絶後の大帝国を建設し、かつそれを、これまた比類のない長い年月の間維持発展させることができた、という事実が一つ。
 そしてまた、ローマを中心に帝国各地に放射し、辺境から人間や物資をローマに運んだローマの公道のように、これ以前の先進文明を吸収し、それを次代の諸世界へとそれぞれ伝えていったというもう一つの事実」をあげる。この二つの事実が「ローマは一日で成らず」、「すべての道はローマに通ず」のことわざが象徴的に言い表しているという。
 それではそうした大帝国を維持できたシステムとはどんなものであったのだろうか?以後「ローマ帝国の繁栄とは何か」、「道路の整備」、「ローマ帝国の経済構造」、「経済大国ローマの実態」「爛熟した文明の経済的基礎」とローマ帝国を経済的見地からその実態を解明する。その上で、その繁栄した帝国の文化が実は腐敗と退廃をもたらしたことを「悪徳・不正・浪費・奢侈・美食」、「性解放・女性解放・知性と教養と文化」で知らしめる。
 そしてやっと「ローマ帝国の衰退とは何か」、「第三世界(周辺)への評価の岐れ道」、「ローマはなぜ滅んだか」となる。
 確かに後半の3章のためにはローマの経済、文化の実態を知っておかなければ、その滅亡の過程がわかりづらい部分はあるにしても、正直退屈であった。
 で、やっぱりローマ帝国の滅亡理由が気になる。面白いと思った記述は次の通りである。
「共同体国家すなわちポリス(ローマのこと)まで発達した先進的共同体は、自己への同化力を周囲に拡散する磁力の中心のようなものであり、それにふれた発展度のより低い共同体はいわばその磁場の中におかれ、その質において磁力の中心へと吸い寄せられる、という運動方向を示している。
 また言いかえれば、ポリスは、周辺の共同体を自己へとまき込んでゆく渦巻の中心である。地中海沿岸地方及びそれをとりまく諸地方は、共同体国家すなわちポリスという磁場の中心とそれがつくる磁場、或いは渦巻の中心、そういう中心が多数に散在し、それぞれの中心にそれをとりまくペリフェリー(周辺)の共同体が吸い寄せられ、或いはまき込まれてゆく、そういう諸中心と、それをとりまく諸ペリフェリーによって構成されている」
 これがローマ帝国のシステムである。ローマから地中海沿岸地方とその領域を拡大した帝国は、これらを磁場の中心とし、さらに内陸へと広がっていった。
 ローマは恒常的に戦争状態であり、属州からの戦利金(品)と賠償金が国家収入のかなりの部分占めていたし、属州の人々は奴隷として扱われた。そしてその「支配の果実」はローマに集まり、一部の貴族に独占された。それを可能にしたのが「すべての道はローマに通ず」といわれる交通網である。まさしくローマは「磁力の中心」であった。
 属州の支配方法は、ローマ人と非ローマ人の二つの部分に分けた。そのローマ人の範疇は「ローマ人の枠を狭量に閉鎖することなく、賢明にも新しい成員を選び出してその枠を補う。だから、各地の砦を自分で守る必要はない、各地のもっとも権勢と実力をもつ人びとが、補われたローマ人として、自分たちの母市ローマをローマ人のために守ってくれる」のである。
 このことはローマがローマであるためには、地中海沿岸地方以外の「蛮族世界」が不可欠であったことを如実に語っている。そこからの実入りがなければローマは成り立たなかったのである。
 磁場の中心がローマを含む地中海沿岸地方であったときはローマは安泰であった。しかしそうでなくなったとき、ローマは滅びざるを得なかったのである。磁場の中心が「蛮族世界」に移ったのである。(この本はなぜ磁場の中心が「蛮族世界」に移ったのか具体的に言及していない)ただ「蛮族世界」の人々(ゲルマン民族)が「支配の果実」を求めてローマに集まったことでローマは滅んだ。
 ゲルマン民族がなぜローマを目指して移動してきたのか、かねがね不思議に思っていたのだが、それまであった磁場の中心がローマであり、そこにローマの「支配の果実」があったから、彼らはそれを求めてやってきたのである。そしてその果実はかなり毒を持っていて、それに毒されたゲルマン民族は、本来持っていた自分たちの特性を失い、結局ローマ同様滅びざるを得なかった。唯一ローマと距離を置いたフランク族が次の時代を担ったのである。


評価
★★


書誌
書名:ローマはなぜ滅んだか
著者:弓削 達
ISBN:9784061489684 (4061489682)
出版社:講談社 (1989-10-20出版) 講談社現代新書〈968〉
版型:241p 18cm
販売価:777円(税込) (本体価:740円)

2007年04月13日

米村喜男衛著『モヨロ貝塚』

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 司馬さん『オホーツク街道』を読んで米村喜男衛さんの書かれた本が読んでみたい思った。この本が14年前に出ているので、ここに紹介されている米村さんの著作がもしかしたら手にはいるかもしれないと思い、まずは紀伊国屋のサイトで検索したら、該当がないと出る。ということは新刊書店では手に入らないということになる。で、仕方がないので「日本の古本屋」で検索したらヒットした。で、手頃な値段でこの本を入手した。今から38年前の本であった。読んでみると面白い。その純粋さ、熱意がひしひしと伝わってくる。

 米村さんは明治25年(1892)青森県津軽郡常盤村大字久井名館で生まれた。子供の頃は家の事情もあって、おばあちゃん子で、昔話や民話など聞いて育った。

 「小学校の尋常科三年のときである。山手の畠で遊んでいた私は、偶然に、削ったように尖った形の石ころをひろった。
 ついぞ見かけたことのない石だったので、ふしぎに思い、学校へ持っていって、佐藤良一という先生にたずねたところ、先生はびっくりしたよううすで、
『これはよいものを見つけた。これはたぶん大昔、まだ世の中に金というものがない時代には、このように石をかいて(割って)刃物にして使ったとのことである。これは、その頃のものかもしれない』
 と教えてくれた。
 これが私の石器を手にした初めであった。
 それ以来、私は祖母からいろいろと話して聞かされたことが、大昔には実際にあったことのようであり、この石ころが何かそれに関係あるように思われ、私はそこに秘密のおもしろさというものを感じたのである。それからというもの、私はもっともっと集めてみよう、と一生懸命なった」

 その後日露戦争があり、国内が不景気になり、米村家でもその波に襲われ、米村さんは学校を辞めて、働かざる得なくなる。米村さんは床場(床屋)で修行し働くようになった。このことは米村さんが手に職をつけることになり、後に北海道へ渡ってもその技術で糊口をしのぐことができることとなった。
 米村さんは弘前で床場の小僧となり、修行を始める。一方で、職人達が遊び回る中、考古学の勉強を独学で続けていた。年季が明けてから東京へ出て、考古学の研究をしたいと思い、神田小川町の理髪店に勤める。
 ここは神田の書店街が近いので、お金さえ出せば自分が欲しい本が手に入るという環境に喜びを感じていた。古本をあさり、徹夜して本を読み続けた。それこそ欲しい本を手にしたときは、なめるように読んだのだろう。そして東京大学人類学教室の鳥居竜蔵を訪ね、その指導を受けるようになった。
 鳥居に指導を受けながら、米村さんは鳥居が初めて貝塚を発見したのはどこかと尋ね、その話を聞いているうちに、自分もどこかで貝塚を発見したいものだと思い始めた。
 そんな中、神田の古本屋で鳥居が書いた『千島アイヌ』という本を手に入れ、いまだ原始的な生活を営んでいるアイヌ人を見てみたいという衝動に駆られ、明治40年に北海道に渡る。
 ここでも理髪職人として函館で働きながら、アイヌの研究をするにはどこへ行けばいいか検討できた。アイヌ研究にはオホーツク海に面した網走いいと判断し、3日かけて網走へ向かった。そして網走川の川岸に厚さ1メートルもある貝塚の層を見つけ、棒の先でくずしてみると、貝殻の中から、石器や骨角器、土器などが出てきたのである。このときの米村さんは自分自身に「おちつけ、おちつけ」と言い聞かせたという。ついに米村さんは貝塚を発見したのである。「モヨロ貝塚」であった。
 ただここは米村さんが最初に発見した場所ではなかった。ここは明治20年代に、学会には報告されてはいたが、大ざっぱな発掘しかされておらず、後はそのまま放置されていた。
 そして米村さんは網走に定住してこの貝塚を研究しようと決意する。ここでも理髪師の技術が役に立つが、ただ雇われていては自由な時間持てない。そこで自分で店を持つことにした。店名を「ババーショップ」とした。子供たちが「ババーショップ、ババーショップ」と騒ぎ立てたことが評判になり、東京から来た床屋さんということで商売は繁盛した。
 こうして床屋家業に精を出す一方、夜が明けきらぬ暗いうちに、遺跡へ出かけ、土器や石器、骨角器、人骨などを掘り出し、閉店後夜遅くまで参考書と首っきりで調べる毎日を過ごした。
 掘り出した資料は、家の一部を改築して、郷土研究の資料室にし、展示した。 米村さんは床屋、発掘という毎日を過ごす一方、地元にとけ込むことも真剣の考え、床屋の補習学校を自分の店で開いたり、災害時の救護活動する網走救護団を作ったりした。もちろん発掘も進み自宅を完全に資料室して、「郷土室」とした。また同好の士とともに網走史辿会を作り、一緒に研究する。またアイヌの古老からアイヌの民話を聞いて、それを子供劇にして、地元の子供たちに演じさせたりもした。そしてここで結婚もされた。
 おかしかったのは、奥さんのいささんが結婚後10日目に家出をしたことである。ある時、部屋にある箱の蓋を開けたら人骨がいっぱいであった。(奥さんは米村さんがただの床屋ではなく、アイヌの古代を研究する人だとしか聞かされていなかったのである)最初は別段気にもしなかったらしいが、一人になると骨がカチカチ音を立てているように聞こえ始め、そのうち化けて出てくるんじゃないかと思い、怖くなり、居たたまれなくなって家を出てしまったという。それを聞いた米村さんは慌てて奥さんの実家へ行って、話し合い、なんとか収拾がついたという。
 同じようなことが、仲間と一緒に発掘した帰りに、飲み屋一杯やったときにも起こった。お金が足りなくて、後でお金を持ってくから、持っていた風呂敷の包みを置いていくと仲間が言ったのである。そこには発掘した人骨が入っていたのである。女将はそれを見てしまい、卒倒してしまい大騒ぎになったと女中が文句を言いに来たという。そりゃそうだわな。いくら遺跡から出土したものとはいえ人の骨である。考古学者ならともかく、普通の人なら、いきなりそれを見たら驚くに決まっている。

 その奥さんも発掘された人骨の洗浄を進んでやられるようになったというし、東京から来る研究者をモヨロ貝塚に案内したり、本職の床屋もやるようになったという。
 モヨロ貝塚を東京の研究者などに見てもらうのは、米村さんのとっても、また貝塚の評価という上でも、歓迎すべきことなのだが、もてなすのは米村さんである。費用は米村さんの自腹であった。まして戦後の食糧難の時代である。統制が引かれている。こんなとき一番苦労されたのは奥さんのいささんであった。そのいささんもがんで亡くなられる。
 時代が「戦争」をはさんだ怪しい時代だったので、遺跡を守るために海軍とやりあったこともあった。こうしてモヨロ貝塚とともに米村さんは過ごすことで、地元でも、そして日本だけでなく海外の研究者とも親密な交流が生まれていく。そん中、米村さんの態度というか姿勢は、あくまでも控えめである。
 発掘を通して、その展示方法をめぐって、博物館というものにかなり興味を持たれ、晩年海外に招待されるにあたり、その土地の博物館をいくとも訪ねられる。

 貝塚のことは詳しいことは分からないけれど、司馬さんの本の時書いたような状況にこの貝塚はあるようだ。重複するが、この貝塚が時代的にどんなとこにあるのか知る上で重要なので、この本から抜粋する。
 モヨロ貝塚では地層上部から順番に、アイヌ墳墓や竪穴跡、擦文式土器、オホーツク式土器、後北式(続縄文)、前北式(縄文後期)、北筒式(北海道式円筒土器の略、縄文中期、前期)、網走式土器(縄文前期)が出土した。これは何を意味するかというと、本州では縄文式の後、弥生式土器文化が発生したが、農耕に適さない北海道ではそのまま縄文式文化が続いたことを意味する。そしてやがて大陸や本州から金属器が伝来し、金石併用文化になった。それは年代的に奈良、平安、鎌倉時代まで及んでいる。
 そして最初にここにいた人たち(縄文人)から、オホーツクからオホーツク人が来て、その後アイヌ人の中に移行していったことになる。移行というのはちょっとおかしいかもしれない。様々な民族がここで暮らし、最後にアイヌ人になったわけで、ある時は一緒に共存し、ある時は戦い、やがて相互に雑婚し、固有のものが薄れていったというべきだという。時代が画一的に、そして単純に連続しているのではなく、重なり合って動いていて、最後にアイヌ人として残ったというべきなのだろう。


評価
★★★


書誌
書名:モヨロ貝塚
著者:米村 喜男衛
ISBN:
出版社:講談社 (1969-10-08出版)
版型:246p 19cm(B6)
販売価:定価420円(古本860円で入手)

2006年03月22日

夢をつかむイチロー262のメッセージ編集委員会著『夢をつかむイチロー262のメッセージ』

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 昨日、WBCで日本はキューバに圧勝し、ついに初代世界チャンピオンに輝いた。


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 野球は嫌いじゃなかったけど、巨人に松井がいなくなってからほとんどナイター中継を見なくなっていたから、中継を最初から見たのは本当に久しぶりでテレビにかじりついて野球を見た。だから、イチローが試合に先立っていろいろなことを言っていたのを知ったのもこのときである。
 アジア・ラウンドを前にした2月21日にイチローが発した「むこう30年。日本には手が出せない。そんな感じで勝ちたい」と言ったと聞いたとき、思わずよく言ったと思った。この言葉を韓国は挑発と受け取ったらしいが、私に言わせれば、勝負事である。政治じゃないのだ。このくらい言ったっていいじゃないかと思う。日本人が発する一言一言に目くじらたててクレームをつける方がおかしい。
 イチローはこの本(ぴあ刊)で似たような言葉を発している。
 「勝負の場で力の差を見せつけるのがいちばんです。/野球に限らず何でも実力の差を見せてしまえばいいと思います」と。
 アジアの国々を見下しているのではない。野球に限らず、勝負事に関して言っている言葉だと思うのだ。それをすぐ政治的要因に結びつけてしまう国民性に問題があるのではないかと思う。もちろんそんな風にナーバスになっているところは分からない訳じゃないけど・・・。

 こんな訳でこのWBCを盛り上げたのやっぱりイチローだったんじゃないかと思う。これだけのことを言い放ったのだから、韓国との試合で2連敗してしまったとき、「僕の人生において一番屈辱的な日でした」というのも、よく分かる。韓国との試合に負けたとき、イチローが吠えたところが映されたけど、まさしく本当に悔しかったに違いない。
 だから3度目の韓国戦どうしてもリベンジしないとならない。イチローが同じチームに3度負けるわけにはいかないと言えば、「そうだろう、そうだろう」とうなずいちゃう。だから俄然力が入って3度目の韓国戦で俄然テンションが上がって、応援モードになる。 韓国戦とき、どうしても出かける用があって、かみさんが買い物をしているときに私はテレビ売場に行って、中継を見ていた。まさしくこんな感じである。

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 韓国に6-0で勝ったときイチローが「勝つべきチームが勝たなくてはいけない。そのチームが僕らだと思ってました。今日負けることは、日本のプロ野球にとって大きな汚点を残すことと同じですから、最高に気持ちいい」と言ったときまさしくそうだろうと思った。この日、イチローが打席に立つたびに地鳴りのような大ブーイングが浴びせられたけど、試合後のインタビューでイチローはそのブーイングに対して、「ああ、もう、大好きだね、最高!もうちょっと強いブーイングの方がよかったね。今日はちょっと足りなかったね」と言い放つのはさすがである。イチローはこの本で言っている。

 「プレッシャーのかかる感じはたまりません。/ぼくにとっては最高ですよね。/ものすごく苦しいですけど」

 またこうも言っている。

 「『達成できないのではないか?』という逆風、最高です。/『がんばれ、がんばれ』という人がいるより、僕は、/『できないでいてくれ』という人がいる方が熱くなる」

 言っておくけど私は韓国に恨みなどない。

 キューバ戦の時は墓参りに行かなければならなかったから、車の中でラジオで中継を聞き、早めに切り上げ、家に帰ってテレビで中継を見た。1点差に追い上げられたとき、「これはやばい!」と思ったが、ここでもイチローが追加点を入れるヒットを放ち、思わず「よ~し!」手を打つ。

 今回ほどイチローの発する言葉が気になることはなかった。だからこの本を読んで今までのイチローの言葉を感じたいと思ったのだ。以下この本に書かれているイチローの言葉で「さすが!」と思われるものを書き出してみる。

 「第三者の評価を意識した生き方はしたくありません。/自分が納得した生き方をしたいです」

 「自分のプレイに驚きはありません。/プレイそのものは自分の力の範囲内です。/第三者からこれだけの評価を受けたことに驚いています」

 「自分のやっていることは、/理由があることでなくてはいけないと思っているし、/自分の行動の意味を、必ず説明できる自信もあります」

 「ひとりの人間のできることは、かぎられています」(「世の中の流れに乗って、なにかを変えるきっかけを作ることはできたとしても、ひとりの力で世の中を変えることは無理です。ぼくもかつては自分の力を過大評価していました」)
 「誰かを勇気づけようとしたのでもなく、自分を満足させようとした結果、/世の中の人に、なにかを感じてもらえて、たのしんでもらえたわけです」

 「いい評価のほうに惑わされたくありません。/いつまでも初心では、それは成長してないともいえますから」

 「ぼくは常に自分にプレッシャーをかけてきましたし、/どんな状況でも動揺することはあまりないはずです」

 「やれることはすべてやったし、手を抜いたことは一度もありません。/常にやれることやろうとした自分がいたこと、/それに対して準備ができた自分がいたことを、誇りに思っています」

 「苦しいことの先に、あたらしいなにかが見つかると信じています」

 「力を出しきることは難しですよ。/苦しくて、苦しくて、倒れそうになります。/でも、それをやめてしまったら終わりです。プロの資格はなくなりますね」

 「自分のしたことに人が評価をくだす、それは自由ですけども、/それによって、自分を惑わされたくないのです」

 「プレイを見るだけで、なにを語ろうとしているかわかる選手は、かっこいいと思います」

 と、イチローらしい言葉がふんだんに書かれている。しかし、やっぱりことをなした人間の言葉は重みがある。
 この本を読んでいて、ちょっと元気が出た。落ち込んだときなど読む本としていい本だ。

評価
★★★★

2006年02月16日

養老孟司著『解剖学教室へようこそ』

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 この『解剖学教室へようこそ』(筑摩文庫)の親本はちくまプリマーブックスである。この、ちくまプリマーブックスというのはどちらかというとわかりやすくその専門分野の入門書や解説書みたいに書かれた本である。
 今回は養老孟司さんが専門としておられる解剖学について、人の解剖を何故するのか、又はその歴史、解剖から分かったことなど、いわゆる養老ワールドを幅広く展開する。
 何でもそうなのかもしれないが、その道を極めた人の話は、その分野だけに留まらず、様々な分野にその関係をたどり、話そのものに「なるほど、こういう考えもあるんだ!」と我々が当たり前の論理として普段考えていることにちょっと違った目を開かせてくれる部分がある。今回も話の随所にそれらがちりばめられていた。多分それが専門外の人間が読むと楽しいと思えることなのだろう。もちろん解剖のやり方や、人体や細胞の仕組み、「死」とは何か、などもわかりやすく説明している。
 さて、この本の中で問題となるのは「何故解剖をするのか?」その意味は何なのかを養老さんの自身の答えが示されている。
 通常、人を解剖する理由って、たとえば患者がおなかが痛いといって訴えてきたとき、おなかの中で何が起こっているか分からないとならない。その時解剖の知識が構造的に必要である。そういう意味で、人の身体の中を知る必要から解剖が行われる。そいう説明の仕方で解剖の必要性を説くのが一般的である。我々凡人からすると、この説明の方が分かりやすいし、すっきりする。けれどその道のスペシャリストとなると、それ以上の意味を持ち始めるのかもしれない。言ってみれば「悟り」みたいなものかもしれない。
 では養老さんは解剖をすることをどう説明するのだろうか?それを人間が「ことばを使う」ことから説明する。
 人はことばを使うことで世界を理解しようとする。ところがこの「ことばを使う」という行為は、モノをバラバラに壊すことだというのだ。つまり人は「ことばを使う」ようになってから、ありとあらゆるものに名前を付けてきた。その方が分かりやすいからだ。ところがこの名前を付けることは、そのものを切ることと同じだというのである。たとえば「頭」という名前を付ければ、「頭」と「頭でないところ」ができ、そこに境目ができてしまう。本来つながっていたものが切れてしまうというのである。
 このあたりはなかなか理解しにくい。1回ぐらい読んだって理解できない。仕方がないこれは「悟り」なのだから・・・。私が自分なりに理解したことは以下の通りである。
 人は世界を理解しようとことばを使い、ありとあらゆるものに固有名詞を付けてきた。その方が理解しやすいからだ。そうすることで世界を理解しようとしてきた。しかしこうして名前を付けることは、その名前の部分とそうでない部分を切り離してしまうことにもなる。
 解剖もこれと同じで、人間の身体について何かを知ろうとしただけのことなのだ。だから、医者でもないレオナルド・ダヴィンチが人体を解剖し、スケッチを残したのは、この理由による。彼が身体を描いたり、彫刻したりするに、どうしても人体の構造を知る必要があったから解剖を行ったのだ。そして彼は人を描き、彫刻した作品を残す。そして出来上がった作品は、何かを我々に訴えかける。 身体を知ることは、広い意味で人を知ることであり、人の心を知ることなのだ。そして心は身体があって初めて成り立つことであるから、身体を知ることは、人を知る基礎だというのである。
 こういう論理は多少こじつけがましいけど、ロジックとしては面白い。

評価
★★★

2005年12月11日

横山秀夫著『震度0』

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 こういうサスペンスはどんな形でここに書けばいいのか難しい。下手に書いてしまうと話の内容をバラしてしまうわけだから、それは礼儀に反するだろうし、かといって「この本読みました」で終わりというわけにもいかないので困ったものである。
 さて、『震度0』(朝日新聞社刊)に限らず、横山さんの著作の特徴として、事件事故とは別に、それに関わる人たち立場が問題になってくるパターンが多い。たとえば昨日NHKでやって『クライマーズ・ハイ』にしても、日航の墜落事故を誰がどのように扱うか、同じ新聞社内でも立場の違いで、扱い方が違ってくることがうまく表現されていた。(但し悠木はちょっとかっこよすぎて浮いちゃっている部分があって、こんなやつ現実にいるのかなぁ、いるとやっかいだなぁと思うところがある)まぁどの社会にもセクト的なものがあるから、これがN県警だとこの物語になる。
 阪神淡路大震災があった日、N県警の不破警務課長が失踪が判明する。この失踪捜査を県警幹部の誰がイニシアティブを取って捜査するか、内部的立場や、次のポストなどの野心、あるいは癒着、不倫などが絡んで、本部長、警務部長、警備部長、刑事部長、生活安全部長、交通部長が内部抗争的に争い、あるいは牽制しながら不破警務課長の失踪原因の究明にあたる。更に警察にある、キャリア、ノンキャリアの争いもそれに加わってくる。
 この話どちらかといえば何故不破警務課長が失踪したのかを直接解明するのではなく、その捜査が誰がどのようにやっていくか、その主導権争いの過程で不破警務課長の失踪原因が明らかにしていく。
 それにしても自分の野心に邁進すると、そのために保身は絶対的必要なのであろうが、ここまでくると計算ずくめだから本当に醜い。
 そういえばこの本今年の「このミステリーがすごい!2006年版」の国内編3位に入っている。

2005年12月04日

山本夏彦著『私の岩波物語』

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 時に雑誌の名前よりその編集者の方が有名な場合がある。たとえば「暮らしの手帖」の花森安治やこの本の著者である山本夏彦さんの「室内」がそうである。これらの雑誌は編集者の編集方針で特徴を出していて、それが名物になっている。
 その山本夏彦さんが書いた『私の岩波物語』(文春文庫)は不思議な本だ。この本は実は「室内」を出している工作社の社史なのである。ところが山本さんも言っているがこの社史というやつはだいたいが面白くなく、読まれない代物なのだ。どうしてかというと、自分のところの会社をよいしょしているだけだから、読むに堪えないものなのだ。それで山本さんは社史がどうしたら読まれるか考え、それまであった社史から離れて、自分が関わった出版業界、広告業界など関連事業を取り込んで、見聞したことをゴシップも混ぜて、自分のところの社史を書いた。それがこの本なのである。山本さんは言う「私の『社史』は工作社を語るふりをして他社を語りまた工作社にもどることを繰返して、結局この百年の言論界の一端を語ろうとするものである」と。だから読んでいて、「ふ~ん、そうだったんだ」とこの業界の歴史を知ることが出来る。明治・大正・昭和の中で出版社や広告業界の成り立ちから、栄枯盛衰が書かれていて、この業界に興味のある人には面白く読める。今ある出版社は昔はこうだったんだとか、大手老舗の書店さんの前身は当時羽振りの良かった出版社の取次だったとか、著者、版元、印刷、製本、本に関わるすべての分野の歴史に言及されている。
 私も知らなかった出版界の歴史は面白かったのでそれを一部書いてみよう。まずは出版社編から・・・・

 「大正2年岩波茂雄は3年あまり勤めた女学校をやめて古本屋を開業するに当たって、『自分ごときが教職にあるのは人の子をそこなうと恐れてやめた』と挨拶状に書いた。その岩波が岩波文庫を出すに当たり、真理は万人によって求められることを欲しているのに、学芸は狭い堂宇にとじこめられている。それを特権階級からとりかえして民衆に解放するために文庫を出すと言っているところをみると、女学校の教師はやめたがこんどはさらに大ぜいの教育を試みようしたのである。再び人生教師になるなかれ、女生徒を教えることができないものがどうしてはるか大ぜいを教えることができよう」と岩波の姿勢に厳しい。山本さんは岩波茂雄は「正義の人」だからこういうことを言うのだという。しかし「正義の人」ほど始末に悪いものがないから、岩波書店は出版界、言論界に悪弊を及ぼすのだという。
 たとえば、岩波の出版物が高い正味で買切なのも、自分のところで出す本が正義に基づく本であるから、そのことに疑いを持たない。また岩波の書物が読みにくいのは専門的な知識の持ち主や外国語ができる人を重用するからで、その人達の日本語能力を問わなかった。だから「国語の破壊者」としての岩波を弾劾している。そんな事情から「絶対矛盾的自己同一」なんて言葉生まれたのだ。『アンナ・カレーニナ』が面白いのに、こんなにつまらなくしたのも、外国語はできるけど日本語ができない訳者を使ったからだし、『プルターク英雄伝』も英雄伝なのだから本来手に汗にぎってもいいはずの読み物なのにつまらないものしたのもそんな事情によるのだという。これは笑った。

 講談社については、どっちかといえばゴシップ的要素が強いが面白いので書き出してみる。講談社の社屋は護国寺にあるがそれは御殿みたいな建物で「音羽御殿」と呼ばれている。この本によると、この御殿、もと山田顕義伯爵の豪邸だったものを大正10年に創業者野間清治が当時のお金50万円で買った。敷地6,500坪という。どうしてこんなにお金があったかというと、講談社の旧社名は日本雄辯會講談社といい、その看板雑誌「雄辯」が当時の演説の時代であったので、売れに売れたらしい。その後講談の全盛時代になり、「講談倶楽部」を出し、ついで「少年倶楽部」、「面白倶楽部」、「現代」、「婦人倶楽部」、「少女倶楽部」、「キング」、「幼年倶楽部」と次々と雑誌を出していく。野間のポリシーは「面白くて為になる」でこれは大衆に支持された。だから百万大雑誌になれた。これに反してインテリを相手にした岩波売れなかった。ただし、オピニオンリーダーにはなれた。多分岩波書店は今もこのオピニオンリーダーをそのまま自負しているところがあるんじゃないかと思うが、どうだろう?とにかくそういう台所事情だからお金があったし、講談社を大きくした理由であるという。なるほど・・・。

 次いで、問屋(取次)編を・・・・。

 今は本や雑誌は定価販売である。いわゆる「再販制」がそうさせているのだが、それに伴い委託販売が原則である。要は「文化的価値の高いものだから定価で売ってね。その代わり見本を何冊か送るから、売れ残ったら返品していいよ」という方法で商売をする。
 しかしそれは昔からそうであったんじゃないらしいことを知った。明治から大正末まで本も雑誌も定価販売でなかったし、割り引いて売っていた。もちろんはじめは委託ではなく買取であった。
 現在書店と出版社(版元)をつないでいるのが、日販やトーハンの二大取次が有名であるが、昔はこの東日販のような大取次を「大売捌所」、「元取次」といった。当時は、東京堂、東海堂、北隆館、上田屋、至誠堂が五大取次として有名で、特に東京堂は博文館直系の元取次で、雑誌と書籍の両方を扱ってこの時日本一であった。ちなみにこの博文館という出版社は現在日記帳だけの出版社に成り下がっているけれど、明治末まで当時の出版物の7割までが博文館の雑誌と書籍だった。
 この頃は、取次は版元(出版社)から新刊が出ると、いち早く見本をもらって書店に注文をもらいにいく。「入銀帳」といわれるやつに注文冊数を書いてもらう。もちろん買取である。ただ初版の正味安くなっている。買取だから売れるか、売れないか、本に目利きがいる。だから取次は売れる本を仕入れることで、当時はマージンを取っていた。つまり本の目利きがとり取次の利益を左右したのである。
 ところがここに委託販売、返品可能という状況が生まれ、取次の利益が目利きに左右されることから、本や雑誌を配送することでマージンを取ることで利益を確保するようになってしまうのである。
 博文館が明治の末まで出版界を牛耳っていたことは書いた。そこに実業之日本社の「実業之日本」、「婦人世界」、「日本少年」などが売れ出しのである。そしてこの勢いに乗じて実業之日本社は「婦人世界」の返品をいくらでも受け付けると言いだしたのである。だから小売側に多く取ってくれと言い出すのである。
 こうなると書店は見込み仕入が可能になり、多めに仕入をし、残りを返品することになる。当然返品を心配する必要性が出てくるが、当時はこれが大当たりになり、返品の心配などなく「婦人世界」の部数が逆に伸びる結果となった。これが買取が前提の博文館の衰退の始まりであった。しかし実業之日本社の繁栄は10年ぐらいしか続かなかったが、その後講談社が実業之日本社の真似をして「返品はいいよ」と返品を受け付け、実業之日本社のあと講談社の全盛時代となっていく。こうしてまずは雑誌が委託販売になり、返品が可能な状況を生み出したのであった。
 さらに大正15年、改造社の『現代日本文学全集』の刊行する。1冊1円の廉価版の文学全集を予約出版する。いわゆる「円本」である。これが売れに売れたのだが、一方でかなりの書籍の返品を生み出す。またこのブームは大部数を廉価で出版・流通する、現在の出版産業につながる体制を生み出す。

円本
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 こうなるとますます取次はただ本や雑誌を配送し、そのマージンで商売することになってしまうのである。そこへ昭和16年に政府はそれまであった多数の取次を一つにまとめたのである。それが日本出版配給株式会社-略して日配(ニッパイ)という-である。まさしく取次は本を配給するだけに落ちぶれたのであった。
 戦後このニッパイは解体され、東販、日販、大阪屋、中央社、日教販に分かれた。分かれても本を配給という体質は変わらず、本の目利きという必要性がなく、ただ配送するだけなので競争がない。従って現在の東日販の寡占が生まれたのである。
 そして本を配送するだけなら、こうもデリバリーが進んだ現代なら東日販に頼る必要性もだんだん少なくなっていくのではないかというのは、以前書いた。実際クロネコヤマトが書店と出版社をつないで、8掛けで仕入を請け負っている。アマゾンが直接出版社との取引を考えていることも書いた。だんだん取次も厳しくなっていくのだろう。きっとこれから先もっともっと出版流通は変わっていくことと思う。変わっていくことは大賛成だ。そのことが読者にどのように還元されるか楽しみだ。

 この本はその他の出版社にもふれているが、面倒なのでやめる。それより山本さんは辛口コラムニストとして有名だから、忌憚なくものを言っていて面白い。最後にそれをちょっと書き出してみよう。

「人の病は人の師となるを好むにあり」

「人は金より正義が好きだ。ことに金に縁のないひとは好きだ」

「正義は国を滅ぼす」

「経営者は人に迷惑をかけても自分の会社を死守する。大小を問わずそれこそ経営者である。死守するに値するか否かを問わない。問えばたいていのテーマは値しない」

「ひとたび出来てしまったものは、出来ない昔にかえれない」

これらは山本さんが自分が雑誌を出すに当たって、他の出版社などの動向を見て感じたことを書いている。このあたり、何だか今のマンションの耐震データ偽造問題に通ずるところがある感じだ。どこかのデベロッパーの社長さんはこれを地でいっているのかもしれないなんて思った次第だ。

2005年10月16日

横田増生著『アマゾン・ドット・コムの光と影』

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 この横田増生さんの『アマゾン・ドット・コムの光と影』(情報センター出版局)は先の森岡孝二さんの『働きすぎの時代』とセット読んでみると面白い。
 この本は基本的に、1.アマゾン・ドット・コムの歴史から、その日本上陸、そしてものすごい勢いで成長していく背景、更にアマゾン・ドット・コムが次に日本で何をしようとしているのかを書く一方で、2.アマゾン・ドット・コムを支える物流倉庫で働くフリーターやアルバイトがどんな待遇で働かされ、そのフリーターやアルバイトがアマゾンでの仕事に関してどんな意識で仕事をしているかを書いている。
 まずはアマゾン・ドット・コムの歴史からさらりと書いてみよう。
個人的に私はリアル書店(実際の本屋さんのこと。それに対してアマゾンみたいなネットで本を売る本屋をネット書店という)で働いていたときは、本を買うという行為に不自由したことがなかったし、本意関する情報にも事欠かなかったので、アマゾンに対して興味などわかなかった。 しかし、本屋を辞めて、今度は本を買うことに正直苦労していた。新刊なら本屋さん行けば買うことが簡単に出来るが、昔の本やちょっとマニアックな本など欲しいと思ってもそこにはないことが多い。注文したくても、どこでその本を注文していいのか迷ってしまった。
 こうして本屋の仕事を離れてみると、本を本屋で注文することがいかに面倒で、億劫なことなのかを知った次第だ。本屋では自由に、どんどん注文して欲しいのだけど(中にはお客さんの注文を嫌がったり、あるいは受け付けなかったりする本屋もあると聞くが、私に言わせればとんでもない話しである)、いざ本を注文してみたいと思っても、どこで、どのようにすればいいのかわからないもんだと知った。
 それに比べてネットで本を注文するのは簡単だ。アマゾンに限らず、今はだいたいの大書店ではネット注文も受け付けているから、画面上で簡単に出来る。煩わしさがなくていい。
 けど、私は本屋という現場に長くいたので、どうしても本を注文するなら本屋さんでしたいという意識が強かった。だから最初はアマゾンで注文しようかと思ったけど(1,500円以上なら送料無料だから)なんか気乗りしなかったのだ。それに欲しいと思っていた本が秋田県にある出版社なので流通上時間がかかるのか(本当は東京で仕入れることが簡単に出来るんだけど)アマゾンでは発送に1~2週間かかると書かれていたのでやめた。
 まぁ、さらりと書こうと思っていたのに、又脱線してしまった。とにかくアマゾン・ドット・コムには今でもそれほど興味を持っていないということである。でもきっと今まで以上にアマゾン・ドット・コムは日本の出版業界で大きな存在になることは間違いないだろとは思う。
 で、そのアマゾンの歴史は、1994年にジェフ・ベゾスたちが、シアトルでガレージをオフィスにして旗揚げした。そして日本には、2000年にサイトをオープンする。本の仕入れ先が問屋の大阪屋(現在はアマゾン自体が巨大になったので、小さな大阪屋では本の仕入れが間に合わないので、日販とも取引を始め、今ではかなりのシェアーを日販は占めるようになっているらしい)で、物流は日通に任せている。
 創業当時から、アマゾンは徹底した秘密主義を通し、その内情は詳しく公開されていない。アマゾンでのノウハウを他に利用されたら、自分たちの脅威となるので、従業員でさえ退職後そのノウハウを他に漏らさない、利用しないという誓約書を入社時に書かされるらしい。
 それで著者は、2003年には500億円に売上を超えたのではないかと推測している。(この数字はCDやDVDも含んでいるが、書籍だけで200億円の売上があるのではないかと推測している。)
 この業界では、1,000億円を超える売上を出しているリアル書店は紀伊国屋と丸善だけで、二番手集団が文教堂と有隣堂で、400~500億円の売上を出している。ということは、アマゾンの500億円を超える売上は、それに匹敵するかそれ以上かもしれない。アマゾンが1,000億円を超える売上を出す日もそう遠くないとしている。
 そうなると日本の出版業界にかなりの意見が言えそうである。事実アマゾンは利益率の向上を目指している。つまりアマゾンが大阪屋や日販などに仕入を依存すれば、リアル書店と同様な利益率22%しか取れない。(実はもう少し利益率は低い。というのも、大阪屋や日販が自分たちの取り分を多く取ろうとして、仕入原価を高くしてアマゾンに納品しているからだ。日本の出版物は、定価の70%が出版社、8%が取次、書店が22%が基本である)
 それで取次を通さず直に出版社と取引出来れば、取次の8%も取れる。つまり30%の利益率となるわけだ。これを「中抜き」という。出版社は本を出せば30%~40%近く返品が出てくる今の出版業界の閉塞的な状況より、ほとんど返品のない、あるいは全部買い取ってくれるアマゾンと取引した方が出版社にとって見れば、得に決まっている。アマゾンの側でも、大量に全部買い取るんだから、出版社に値引き交渉だって簡単にできるメリットがあるはずだ。だから70%以下で仕入も可能になる。これを目指しているんじゃないかと著者は推測している。
 またアマゾンでしか買えないプライベートブランド商品の開発もしている。これもかなりの利益率を生むだろう。こうしてどんどんアマゾンは巨大化していく。
 しかしそのアマゾンが巨大化していく背景は、ネットでアマゾンを利用してくれなければ話しにならない。そこでアマゾンは何をしたかというと。「小さな書店」を目指しているのである。アマゾンという巨大システムからするとこの「小さな書店」というのはちょっとぴんとこないかもしれない。
 アマゾンは確かにシステムは巨大だけど、それはユーザ一人一人を大切にした「顧客第一主義」に徹底していて、「小さな書店」とは顧客にはその顧客にあった情報をここに提供できる書店であることをいっている。
 一昔前の本屋さんがいつもお店にきてくれるお客さんがどういったジャンルの本を買っているかよく分かっていた。だからそのお客さんが何を求めているか当時の店員さんは分かっていた。時にはそのお客さんに「こんな本が出ましたよ」なんて勧めることもあった。それをアマゾンはやっている。アマゾンを利用したお客さんが何を買ったのかをデータベース化しているから、お客さんのニーズや情報を個々に提供できる。だからお客さんにとってみれば「小さな書店」である続けるのである。それは「顧客第一主義」からの発想であり、今の日本の大書店では出来ないことをコンピュータを使ってやっているのである。だからアマゾンを利用する人はリピーターが多いというのもうなずける。
 更にアマゾンを利用するお客さんが何をどれだけ買ったかというデータは当然適正仕入にも反映できるはずだ。リアル書店より無駄がない。

 あぁ~!また長くなっちゃった。本当はこれから書くことが私の最大の興味対象なのだけど、どうしてうまくまとめられないんだろうか。嫌になっちゃうなぁ。でも頑張って書こう。

 前回紹介した森岡孝二さんの『働きすぎの時代』は、フリーターやアルバイトの存在が少なくともIT化が進んだお陰で成り立っている産業、たとえば、コンビニやこのアマゾンのようなもの、通常やらない深夜産業などを支えていることはまがいようもない事実であることを書いている。
 フリーターやアルバイトがいいとか悪いとかいうのではなく、彼らがいることで成り立っている産業が現在たくさんあり、その恩恵を我々は受けていることは間違いない。
 たとえばアマゾンみたいに利用者に「簡単、便利で、手間いらず」を感じさせるものであっても、利用者がワンクリックした先には、機械やコンピュータではできない、つまりどうしても人間じゃなければできない、単純で、その分仕事に期待できない作業がある。アマゾンの場合、ピッキングといわれる、棚から注文された本を抜き出す作業などがそうである。
 アマゾンは先ほど書いたように秘密主義を徹底しているので、その経営状態が明らかでない。けれどお店を持たないアマゾンの生命線は、その物流にあると著者は考える。つまり「簡単、便利で、手間いらず」は、その物流システムがしっかりしていることがそれを支えているわけで、だからそこに潜入すればアマゾンの実態がつかめると考た。そこでアマゾンの物流を請け負っている日通の流通倉庫でアルバイトとして潜入したのである。
 私が興味があったのは、そこで働くフリーターやアルバイトの実態であり、彼らの仕事に対する意識である。採用には大した試験がある訳じゃなく、簡単な面接後、すぐ倉庫に案内され、簡単な仕事の説明の後、すぐ採用となる。時給900円(後に850円に下がる)で、交通費の支給なし。もちろん昼食代などでない。2ヶ月の期限付きで採用され、2ヶ月後に再雇用するかどうかは、それまでの成績次第。しかしどんなに成績がよくても決して時給が上がることはない。予定の勤務時間があっても、暇なときはすぐ返される。もちろん2ヶ月の期限付きで雇用されているわけだから、会社は彼らの社会保険の加入義務を負わない。そして会社は彼らに「1分間に3冊」のピッキングしろというノルマを課す。
 これはきついと思う。その棚はきちんと分類された棚ではなく、ピッキングされた後空いたところに入荷した本が入れられるだけで、ただ、棚入れ時にどこの棚に入れたかコンピュータに入力されたものが注文書のデータに記載されているだけ。つまりある場所は限定できるけど、その先は自分たちの目で探すしかないのだ。しかもなんの脈絡もないまま棚入れされているから、恐らく記憶力との勝負となるだろう。できる人でも1分間に平均2.5冊が限度だという。こうなると黙々と本を探すしかなく、おしゃべりなどしている暇などない。もちろん人やビデオカメラの監視付き。自分たちが1分間に何冊ピッキングできたかという成績データはすぐ出てくる。それを絶えず見せられ、もっと頑張れ!と尻をたたかれるか、あるいは本人達の能力のなさを思い知らせる用途に使われる。まさしく著者が言っているようにジョージ・オーエルの『1984年』の世界である。
 飴と鞭をうまく使って人を使う方法と、鞭のみでの人の使い方があるなら、アマゾンはまさしく後者の方だろう。
 結局、使用期間を2ヶ月と限定し、昇給の機会も与えない。辞めるならいつでもどうぞ!という環境であっても、それが成り立つ理由は、職を求める人間がいくらでもいることと、仕事の内容がマニュアル通りに働くだけで、能力の向上が原則的に不要とする職種だからだ。何も考える必要のない、いや考えることさえ放棄させる職場を構築できるからだ。それがIT化された職場なのだろう。そしてどうしてもコンピュータが出来ない仕事を人間にやらせるのだ。その際人件費も出来るだけ安い人件費で済むようにフリーターやアルバイトで補うわけだ。
 そんな職場環境で、たとえば仕事に対するモチベーションの向上など望めるわけがない。ただ、自分の時間を時給のために割り裂いているだけである。だから使用者側の横暴に対しても、あるいは常識的に考えてもちょっとおかしいんじゃないかと潜入した著者が疑問に思って、それを一緒に働いている同僚に聞いても、何ら反応しない状況が生まれているのである。
 たとえば本をピッキングする際、本についている帯を破ってしまうことがよくある。本当に本を愛する人なら、あるいはお客さんにそれを売るというなら、帯も本の一部であって、それがが破れていたんじゃまずいはずだ。著者は常識的にあるいは本に関わる仕事をしているから、帯が破れてしまった本はダメージ本だと考えた。だから破れてしまった帯のついた本の扱い方をどうしたらいいのか日通の社員やその上にいるアマゾンの社員に聞いた。その答えが「帯は捨てていいよ!」と簡単に言わたのであった。そんなことを気にするより、1分間に3冊ピッキングするノルマを優先させなさいと言わんばかりなのだ。
 実は私はちょっと気になっていたことがあったのだ。たとえばアマゾンのサイトでこの『アマゾン・ドット・コムの光と影』を検索すると、その本の画像が出てくる。もう一つ紀伊国屋のウエブサイトで同様に検索するとやはりこの本の画像が出てくる。やってみて下さい。

アマゾン http://www.amazon.co.jp/

紀伊国屋 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/

 
 もう違いが分かると思うけど、アマゾンの画像には本の帯がないのである。恐らくすべての本の画像に対して帯付きはないんじゃないかと今までアマゾンで検索して感じている。そのわけがやっと分かったのだ。つまりウエブ上で帯付きの画像を載せてしまうと、配送された本にそれがないと違うじゃないかというクレームがくる可能性がある。それに案外この帯にこだわる人もいるのだ。またこの帯がその本を浮きだたせる役目をしているときもある。古本では帯付きとそうでないのとでは値段が違うのもそういう理由だ。 アマゾンはピッキングの際、帯が破れてしまうことがあることを前提として、クレームを避けるために、わざわざ帯を外した画像を載せているのだ。

 また話が横道に行ってしまった。私はアルバイトやフリーターが自ら努力もせずにその立場に甘んじている奴は擁護ない。好き勝手なことをしていて、口先だけは達者な奴などとは話もしたくない。欲望だけは強く、自分の欲望を満たすだけのために、仕事をするのはどう考えてもおかしい。(自分の欲望のために、人を殺してでもお金を奪う奴が最近多いから、そのためだけに仕事をする方がまだましかもしれないけど)そこには生活感がないからだ。
 だけどそんな奴らと一緒にリストラされたおじさんや、生活のために働く主婦を労働力としてのみ使う企業にも賛成しない。そこにあるのはスピード化、効率化、あるいは利便性を追求する企業の手足だけであって、そんな手足を安価で使えるという理由で彼らを使うのだ。企業も「そんなんでいいよ」といっているもんである。人を人として見ていない部分が感じるのである。能力や技術、あるいは資格がある人間を正規に雇い、それ以外は臨時に集めればいいという考え方は、基本的に与しない。出来る人間、出来ない人間と二極分化した先には一体何があるというのだろうか?
 それでもそれが資本主義であって、貧富の差は如何ともしがたいし、能力の差も同様にあっても当然だとは思う。けれど、貧しくても心豊かに暮らせる方法をどこかで見つけないと、世の中荒廃するだけじゃないかと思うのだ。アマゾンの物流センターみたいに、ロボットようにしか働けない場所しか提供できなくなれば、一体どうなるのだろうか?それでいいとは思わないのだが・・・。