2010年03月06日

若桑みどり著『イメージを読む』

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 ちょっと図像学(イコノグラフィー)の一端を知りたくなった。図像学とは我々が知っている有名画家の作品には何らかの意味が込められていて、それを読み解こうとするものである。それがどんなものなのか、この本は教えてくれる。読んでいて、なるほどこれら絵画にはそうした思想的背景があって、それが絵に反映していたのかと知った。
 私が絵画展など行って、その会場に入れば、まず最初にその画家たちの生まれた場所、時代背景の説明が必ずあるが、だいたいそこは、飛ばしてしまう。何故なら、もうそこで人混みが出来ていて、先に進めないからだ。さっさとお目当ての絵を見始める。そして絵を見て、きれいだとか、すばらしいとかいった直感で感じたことしか思わない。それで通り過ぎてしまう。
 しかしよく考えてみれば、そうした時代背景は画家の作品から出てくる思想を読み解く上で重要だ。本当はおろそかにしてはいけないものだ。画家がその絵を描くに当たり、画家が生きた時代にどうしても縛られてしまうことが必ずあり、そことが絵に反映することとなるからだ。そのことを著者は次のように言っている。

 「たとえばある画家を考えてみてください。その画家は特定の社会に生まれて、その社会のなかで生活し、そこにいる人やそこにある作品から学び、そこにいる人たちに絵を売って生きているわけですから、自分の生きている社会や時代から無関係ではいられません。その先生や、見た作品から教えられた技術や、その当時のテクノロジーから生じたテクニックやメディア、ものの考え方や共通のイメージで絵を描くわけです。
 そういうわけで、すべての画家は、個人的な様式と同時にその時代、十二世紀なのか二十世紀なのか、そういう時代の特徴を否応なくもち、また、西洋人なのか日本人なのかという、ある民族や文化の長い底深い伝統からくる特徴をもっています。それらを全部ふくめて様式といっているわけです。したがって、様式とは、個人的なものであると同時に社会的なものであり、また歴史的なものなのです」

 だから「美術史は、文化人類学や考古学や歴史学や宗教学や神話学や文献学や、その他のもろもろの学問と結びついています。こういうふうにもろもろの学問と関連しながら、個々の学問の領域をこえて幅広く研究することが必要な学問のことを学際学といっていますが、美術史は学際学的な学問だ」と言っているのは、なるほどそうだなと思う。
 そして描かれた絵には、描かれる理由が必ずある。絵画も彫刻も創作である以上、それを創り上げなければならない理由が芸術家たちにはあったはずだ。

 「また絵というものが、芸術家の芸術についての理論の実践の場であり、思想の表現の場であり、いずれにせよ闘争的なものでもあった」

 それを読み解こうとするのが、図像学(イコノグラフィー)なのである。この本で著者が言う美術史なのである。「美術というものは言語ではなく、非言語的な「表現」(なんらかの目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちによって表現すること)の行為であり、またその結果としての作品」なのだと言う。それをどう読み取るか、そのサンプルとして出されたのが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」デューラーの「メランコリアⅠ」、ジョルジョーネの「テンペスタ(嵐)」である。

 以上を踏まえて、時代による“図像の変化”で考えてみる。たとえば「最後の審判」を例に取る。
 信仰が安定していた時期(九世紀から十五世紀までの東方ビザンティン帝国の芸術や十二世紀頃までの西ヨーロッパの芸術)は、この「最後の審判」の構図は、真ん中に裁判官であるキリストがいて、左右にとりなし(弁護役、仲介役)をする聖母と聖ヨハネがいて、祝福された魂と罰せられた魂がいるという公式で、それらは神の最終的な意志の実現を厳かに知らせていて、それほど恐ろしいドラマチックな表現じゃなかった。それを何百年にわたって表現していた。ところが何かの関係で図像の公式が変わる。十三~十四世紀になると様子が違ってきて、善人が祝福されて行く天国の安らかさに比べて、罪人が罰せられて落ちる地獄がどぎつく描かれるようになる。地獄では非常に残忍な拷問や虐殺のような情景が描かれる。
 さらに初期資本主義が盛んになってくる時期になると、キリスト教が禁じている様々な現世利益の追求や富や地位を築く信者が増えてくると、さらに地獄は生き生きとした残忍なものになっていく。
 そしてミケランジェロの「最後の審判」となると、それまで善人と罪人との構図がはっきりしていた頃から比べると、その隔たりが不明確になって行く。ミケランジェロの「最後の審判」のイエスの姿を見ると、はそれまであった安定や平和や秩序はすでになくなり、はかりしれれぬ激変と破局が読み取れるという。ちょうどこの絵が描かれた頃はカトリックとプロテスタントが争っていた時期であり、カトリックの教えが揺らぎ始めた頃だからだ。


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 このように一つの絵の題材であっても時代によって図像の変化があり、その変化となった社会的背景や思想の変化を読み取らなければならないことを教えてくれるというのだ。


 さて個人的に言って、やはりデューラーの記述が一番興味がある。デューラーはこの本であげられているミケランジェロやダ・ヴィンチとほぼ同世代の人であったが、決定的に違うことがある。デューラーはドイツ人であることである。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した地域はアルプス以南で、ギリシア・ローマ世界であり、古代文明に接ぎ木されたキリスト教世界である。ローマカトリックの神学者たちによって築き上げられた壮大な形而上学的世界であった。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍したルネサンスはカトリックと結びついたものであった。
 ところがドイツはルターによる宗教改革が起こった地域である。ルターはカトリック教会を否定した。ということはドイツではイタリアで起こったルネサンス閉め出したことになる。そしてデューラーはルターの共鳴者でもあった。
 当然ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品とは違うものがデューラーの作品の背景にあることになる。彼らとは違ったイデオロギーを持っていた。(もしかしたらダ・ヴィンチとは似ているところはあるのかもしれないが)そこで著者はデューラーの「メランコリア」をあげてその異質の背景を探ることとなる。これが興味深かった。

 この「メランコリア」が示す内面の不思議さはかなり面白い。


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 版画が否定的なものの考え方を示していたり、そうかといって肯定的見られるところもあって、その絵を見る見方によって大きく変わってしまうようである。
 まず否定的な面を見てみる。メランコリーとは憂鬱質のことをいう。ところでアリストテレス以来の万物は火、空気、水、土という四つの元素から成り立っている考えがあった。そして人間の個性を作っている気質もこの四つの元素の支配によるものと考えられた。すなわち軽くて陽気な多血質は空気、激しく怒りっぽい胆汁質は火、怠惰で不活発な粘液質は水、暗くて冷酷な憂鬱質は土が支配していると考えられていた。
 もともとこの四気質論(四性論)は医学の一種で、中でも憂鬱質はそれだけでも立派な病気と見なされていた。また中世では憂鬱質は七つの大罪中の一つである吝嗇の罪と結びついて考えられていた。それはどうしてか?
 この「メランコリア」の人物のポーズはロダンの「考える人」と同じポーズである。このポーズは物思いに耽る分、元気なポーズとは言えない。すなわちこのポーズは外側の現象にダイナミックに対応しようとするアクティブな姿勢ではなく、むしろ外側からの刺激を一切遮断して、自分の内部の心の動きに省察を凝らそうとしている。じっとしていることは究極の吝嗇な人間の姿である。そして吝嗇の極みが高利貸しである。中世キリスト教では、高利貸しは、怠惰で、人の金をくすねる犯罪者扱いであった。だから憂鬱質は吝嗇の罪と結びついて考えられていたのである。実際この版画には人物のスカートのところに高利貸しの象徴である鍵束と財布が描かれている。
 しかし一方でこの版画には大工道具が描かれている。半ば放り投げ出された感じである。無用に見える。手に持っているコンパスさえ、何も描いていない。そのことがこの人物が物思いに耽るというか、考え込む姿勢を、こうした道具を使う仕事よりも、優位にあることを示しているともいえるのである。さらにこの人物に翼をつけたことで、その人物が思考する姿勢を、人間の思考を潜在的能力として表現していることにもなるのだという。
 驚いたことにこの「メランコリア」の人物は男ではなく女であるということだ。

 デューラーといえば「人体比例理論」(人体の比例が大宇宙と小宇宙を結びつけているという理論)が有名だが、そういう考え方が出来るのは、ダ・ヴィンチ理論を吸収したものとはいえ、宇宙を作っている元素と人間を作っている元素が同じものであり、人間の運命は宇宙が関連しているという哲学がかなり影響したんじゃないかと思えてくる。
 芸術というのは見た目だけでなく、その奥にあるものを考えることが出来れば、さらに興味深いことを我々に提供してくれているんだと改めて感じた。一人の芸術家の作品を鑑賞するには、その奥底に流れるものを分からないと、真の意味で作品を鑑賞したことにならないのだろう。これから何度芸術作品を見る機会があるか分からないが、このことちゃんと踏まえておければと思った。


評価
★★★


書誌
書名:イメージを読む
著者:若桑 みどり
ISBN:9784480089076
出版社:筑摩書房 (2005/04/10 出版)ちくま学芸文庫
版型:254p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2010年02月14日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 この本は以前文庫本で読んだ。たまたま単行本を手に入れたので、また読み返している。きっかけは先日テレビで放映されていたブラッド・ピット主演の「トロイ」を見たからである。しかしどうしてこうも違うのだろうか?前に読んだ阿刀田さんの本は怖ろしいほど面白くなく、陳腐だったけど、今回は面白くて、一気に読んでしまった。
 この本を読んでいると、映画の場面、たとえばブラビが扮するアキレウスとトロイの第一王子ヘクトルとの一騎打ちなど、本でその場面が描かれると、すぐあぁ、ここだなと思い出す。


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 一方で改めて読み返していると、阿刀田さんがその著作で教えてくれたギリシア神話のことを思い出す。今までは単独で話の内容を理解していたが、今回はうまく話がつながって、先に読んだ以上にその分面白かったかもしれない。
 たとえばトロイの第二王子であるパリスである。この本を読んでいて、あれ?パリスって聞いたことがあるぞと思い、とりあえずそのまま読んでいたら、羊飼いをやっていた頃、ゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテがその中で誰が一番美しいか争っていたとき、このパリスが判定したと書いてあって、あぁ、このことかと思い出す。俗に言う「パリスの審判」である。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎて、人口を減らすには戦争が一番と考えた。折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、そこに争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。さらにそこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。これを争ったのが先に書いたヘラとアテネとアフロディテである。そこに巻き込まれたのがパリスであった。
 そのパリスである。この男トロイに帰った後、父である王プリモアスの命を受けスパルタへアイネイアスと共に赴く。そこにはスパルタの王メネラオスの王妃ヘレネがいた。このヘレネは絶世の美女であり、パリスは一目でその虜となる。アイネイアスもそうであった。一方ヘレネは夫メネラオスに嫌気がさしていたところに、美男で勇者の誉れ高いパリスが現れたものだから、パリスに心奪われる。そしてパリスはヘレネを奪ってスパルタを後にする。
 当然メネラオスは怒る。厄介なのはメネラオスはミケーネの王アガメムノンの弟であった。アガメムノンのはギリシアの盟主を自ら任じていたし、トロイの繁栄を羨んでいたので、これはヘレネを奪い返すための戦争をすべし、ということで戦いが始まった。これがトロイ戦争である。
 ところでそのヘレネであるが、ゼウスの病気とも言える女好きから始まった。スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれたのである。

 さらにヘクトルと戦ったアキレウスの出生も覚えていたので、それも書いておく。アキレウスは先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせたのである。だからアキレウスは強い。みんながアガメムノンの横暴さに怖じけついて、渋々従うのに、アキレウスはオデッセイウスに誘われとりあえず戦争に参加したけれど、最初は物見遊山であった。しかしパトロクロスがヘクトルに殺されたことを知って、戦いに出る。そしてヘクトルとの一騎打ちが最初にいた場面である。

 こういう背景を知っていると、俄然この話は面白くなる。ただでさえ、話のテンポがあって楽しいのに、登場人物の出生を知っていれば、楽しみが倍増する。
 この本の主人公はアイネイアスであるが、その父アンキセウスで、アイエネイアスはアンキセウスとアプロディーテーの間の息子である。そして彼もトロイでは勇者の誉れ高い若者であり、トロイ戦争ではギリシア軍と戦ったが、最後は落城するトロイを父と共に後にする。アンキセウスは昔の戦いで足を悪くしており、トロイを脱出するとき、アイエネイアスはアンキセウスを負ぶってトロイを後にする。この場面を描いた絵を見てシュリーマンはトロイの発掘を目指したのである。
 さてそのアイエネイアスであるが、トロイを出た後、トロイ再興を目指して地中海をまずは東に行き、次に西に向かう。そして何度も遭難しながらイタリアに到着する。そう、アイエネイアスはローマ建国の祖の祖なのである。イタリアのラティウムの王女ラウィニアと結婚し、子のユルースを得るが、そのユルースの末裔がオオカミに育まれた双子の兄弟ロムルスとレムスであり、そして兄弟が争って勝ったロムルスがローマ建国の祖となるのである。
 ところでアイエネイアスがイタリアを目指し、地中海を航海しているとき、嵐に遭い、北アフリカのカルタゴの漂着する。このときカルタゴはまだ女王ディドの時代であった。
 ディドは父の弟のシュカイオスと結ばれて、巫女として神に仕えていた。その父の死後、遺言で彼女と兄のピュグマリオンが共同で国を治める様にといわれていたが、ピュグマリオンは王位の独占と叔父の財産目当てに遺言に違えてシュカイオスを暗殺し、ディドの命をも狙った。
 そこで彼女は全てを捨てて心ある家臣たちとともにフェニキアの都市国家テュロスから航海に出た。そして北アフリカのチュニジアの地に辿り着いく。そこがカルタゴである。だからディドはギリシア・ローマ神話の中で、カルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王となっている。
 そしてアイエネイアスはカルタゴに漂着し、ディドに手厚くもてなされるし、恋も生まれた。しかしアイエネイアスにはトロイ復興という目的があるので、ここを後にする。
 私が面白いと思ったのは、ディドがカルタゴ建国した女王であり、アイエネイアスはローマ建国の祖である。この二人が一時は恋仲となったのに、後の歴史はこの二つの国が地中海の覇権を巡って争うのである。

 さて最後にトロイの木馬である。我々が知っているトロイの木馬はギリシア軍が作り、それをトロイの人々が城の中に入れてしまい、夜、そこに忍び込んだギリシア軍が出て来てくる。攻めあぐんできた城の門を中から開け、そこからギリシア軍がなだれ込むことによって、トロイが炎上し、崩壊するという話である。映画「トロイ」もそういう話になっている
 しかしこの本では、なかなかトロイを攻めきれないギリシアが、大きな木馬を神への捧げ物として作り、城の外で燃やすのである。つまり木馬は城の中には入らないのである。そしてその後大きな地震が来て、城壁を崩す。そこからギリシア軍がなだれ込んで、トロイを滅ぼす話になっている。
 阿刀田さんは考古学的、歴史的考証に注意を払ったとあとがきに書いてある。つまりシュリーマン等によって発掘されたトロイの遺跡は少なくとも九層からなっているらしく、その第七層がトロイ戦争があった頃の層だと推定されている。そしてトロイがもっとも栄えたのがその一つ前の第六層の都市時代だったらしい。その頃大きな地震があって堅牢を誇っていた城塞が崩れ落ちた。そこに第七層の都市が慌てて作られ、そのやわな城壁がギリシア軍に破られたというのが実情らしい。それを阿刀田さんは踏襲しているのである。でもやっぱり木馬はトロイの人が引き込んでしまい、そこに隠れていたギリシア軍が出てくる方がいいなぁ。
 とにかく再読してこんなに堪能しただけでも、読み返した甲斐があった。


評価
★★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062072205
出版社:講談社 (1994/11/30 出版)
版型:565p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2005年11月07日

綿矢りさ著『インストール』

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 この日もう1冊読んじゃった。綿矢りささんの『インストール』(河出文庫)の方がまだ面白かったかなあ。でもやっぱりものたりなかった。

 子供の頃の夢とか希望って、現実味がなくても、大きければ大きいほど、何だか立派にみてくれるところがある。まさしく「BOYS, BE AMBITIOUS!」である。ところがそれを実現するために第一歩を踏み出したとたん、とんでもないことに気がつき始める。そう、自分の夢や希望が現実のギャップから、実現性の希薄さに気がつき始めるのだ。
 朝子は「まだお酒も飲めない、ついでにセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。歌手になりたい訳じゃない作家になりたい訳じゃない、でも中学生の頃には確実に両手に握りしめることができていた私のあらゆる可能性の芽が、気がついたらごそっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦しい」と思うようになる。
 こうして登校拒否の高校生になった朝子は、何もかも嫌になる一方でこのまま何もしないでいることで廃人になってしまうんじゃないのかという不安から、自分の部屋を徹底的に掃除することで何かやっているというに充実感を得ようとする。しかしその掃除は、ある意味現在の朝子が何もかも拒否しているのと同様に、部屋にあるものすべて拒否してしまう感覚にとらわれる。つまり部屋にあるものすべてを彼女は捨ててしまうのだ。
 そのゴミと出された古いパソコンを同じマンションに住む小学生のかずよしがもらい受け、押入でインストールされ直され、再生する。
 このませガキはメル友で風俗で働く雅さんの代行チャットのアルバイトをやらないかと朝子を誘う。要は忙しい雅さんに代わって、そっちの方面の話をバカな男とチャットやるわけだ。もちろん朝子は現在あるものすべてを拒否する一方、新しいものは受け入れることで何とか自分の存在感を保とうとするのでこの話に乗る。この小説は、まぁこんな話で展開する。

 面白いフレーズがあったのでそれを書いておく。「高倉健のようなプラスの不器用さではなく、相手の人間を思わずのけぞらせてしまう程の異様な一途さをぶっつけてくるマイナスの不器用さを持った人は、実際迷惑だ。怖い。」
 高倉健の売りである「不器用ですけど、よろしく」というのをプラスの不器用さと言い表すのは言い得て妙だと思った。一方プラスがあればマイナスがあっていいわけだけど、マイナスの不器用さを「相手の人間を思わずのけぞらせてしまう程の異様な一途さをぶっつけてくる」ものと定義するのは面白い。実際こういう人がいるもんなぁ。著者は朝子に「本当の不器用は、愛嬌がなく、みじめに泥臭く、見ている方の人間をぎゅっと真面目にさせる」と思わせる。確かにそうだと思う。案外この著者若いのに人間観察がするどい!