2010年06月03日
脇村義太郎著『東西書肆街考』
この本は書名にもあるように、日本の東西の書肆街の歴史について書かれた本である。西は京都であり、東は神田である。従ってこの本は最初に「京都書肆街考」があり、その後「神田書肆街百年」と続いている。個人的に京都の方には興味がわかないので、ここでは「神田書肆街百年」について書かれたところから、細々書き込んでいきたい。今回は感想より、この本から知り得たことを咀嚼して書き残したいのである。
1.江戸時代全体を通じて狭義の神田の特徴
初期はいくらか寺院はあったが、徳川中期以降、寺院は神田から他に移され一寺も残らなくなった。従って墓地もなかった。更に町屋もなかったので、書籍の出版・販売を取り扱う本屋も一軒も見られなかった。何故なら神田は侍屋敷、少数の譜代大名、旗本屋敷の用地で占められて商業用地ではなかったからである。
江戸では、書籍出版や販売業は京橋から日本橋、さらに伝馬町方面にかけて集まっていた。
2.明治になって、江戸の大部分を占めていた大名屋敷、侍屋敷の多くは新政府の手に移された。それを新政府は京都から移ってきた公卿や薩長土肥の有力者の住居として提供した。
しかし神田のうち、錦町、神保町、猿楽町あたりは居住地として利用されず、空き家、空き地がかなり残っていた。こうした空き地、空き家を利用して、学校又は塾を新設しようという動きが現れてきた。
神田においてはじめ本屋は淡路町、小川町に出現したが、学校が出来てくると、明治10年頃から学校街に続き表神保町の通りに教科書、参考書、新古本売買を目的とした本屋がぼつぼつと出てきて、中心がこちらに移る。
3.神田書肆街の草分け
江草斧太郎が一ツ橋通りに開いた古本屋、有史閣がある。後に有斐閣と改める。
4.明治10年代の小川町、神保町
当時の社会情勢は、条約改正、国会開設、憲法発布など、法整備が急がれ、私立の法律学校がまだ空き地が残るこの地域に作られた。本屋は中西屋、東洋館、三省堂、冨山房が現れる。
中西屋は丸善の創立者早矢仕有的が開いた店である。ここが学生が多く集まるので、丸善で売れ残った本や汚損本、古本を売れば当たると考え中西屋を開いた。何故丸善でなく中西屋なのかというと、古本を売るため、丸善の名前を出せなかったからだという。
更に早矢仕は中西屋の隣りに文房具店を開き、これを親戚にやらせた。これが今でもすずらん通りある文房具・洋画材料商文房堂の発祥である。
東洋館は小野梓が開いた。小野は大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者である。
小野の死後東洋館の事業継続が不可能になり、清算が始まった。が、なくすのは惜しいということで、東洋館の仕事を手伝っていた坂本嘉治馬がそれを引き継ぎ、新たに出版業を始めた。これが冨山房で、明治19年のことである。ちなみに小野の元に集まった一人に天野為之は明治30年代に東洋経済新報社の社長となっている。
明治10年代に神田に出現した本屋を見ると、元士族であった人々の創業者が目立つ。たとえば有斐閣の創始者江草は忍藩の下級武士であったし、三省堂の創業者亀井忠一は旗本であったし、東洋館小野は土佐宿毛の士族出身であった。
閑話休題
この後出てくる東京堂にしてもそうなのだけれど、中西屋、東洋館、三省堂、冨山房のある場所は、今の多くの古本屋がある靖国通り沿いではない。この本の地図を見てみると、これらの店は今のすずらん通りある。ということはこの当時神田書肆街のメイン通りはここになるようである。いろいろ調べてみてそう思ったのだが、ネットで「“古書店街の生き字引”八木福次郎さんに訊く」(http://go-jimbou.info/hon/special/071020_01.html)を見て、どうやらそれで間違いがないと確信した。そこには「すずらん通りがメインストリートだった」と書いてあるのである。今では靖国通りの裏通りみたいになっているけれど、当時はこの通りが本屋さんが並んでいたことになる。そして市電の開通による靖国通りの道路拡張や大正2年の神田大火などで町が大きく変貌し、お店が移ってきたことで今の古書店街の原型ができ上がったらしい。
私は東京堂や冨山房(今はお店がなくなって、ドラッグストアになっている)という大書店がどうしてこんな裏通りにあるのか不思議に思っていたが、そういうことだったのである。昔はこの通りがメイン通りだったから、そのまますずらん通りにお店が残っていたのである。
5.明治20年代に出版・販売に大変革をもたらせた重要人物大橋佐平の存在が重要。
大橋佐平は越後(新潟県)長岡の生まれで、博文館の創業者である。この博文館は富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊する。なかでも明治28年創刊の雑誌『太陽』は、政治・経済・文芸から家庭までさまざまな記事を網羅した総合雑誌として明治後半期の興隆期資本主義の精神を象徴している。博文館は取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、日本最大の出版社として隆盛を誇った。特に新しく発展しつつある神田の書肆街に注目し、明治24年に取次部門として東京堂を発足させたことは重要である。
要するに、明治時代の博文館が、完全に東京の出版界、そして日本の出版界を独占し、その分身として東京堂が生まれた。東京堂は取次として出版物、特に雑誌の流通を押さえた。出版で成功した博文館はその収益で印刷所を持つ。この東京堂が今の東京堂書店およびトーハンの前身で、印刷所は後に共同印刷となるのである。
ちなみに博文館の雑誌の成功は、この時代雑誌出版の勃興期を演出する。そん中、野間清治という東大法科大学の一事務員が大学弁論部の学生を擁して大日本雄弁会という名の出版社を起こす。これが今日の講談社である。
6.神保町には東京堂より前に取次屋として上田屋が開業していた。これは明治20年越後出身の長井庄吉が開いたものだが、昭和になり戦中、整備統合で日本出版配給(日配)として会社を提供することとなる。これが母体となって戦後取次業の独占体制の解体により日販が生まれるのである。
ちなみにこの上田屋に明治25年頃から越後から出てきた若い小酒井五一郎が店員としていた。彼は明治40年独立し、英語研究社を始める。これが今辞書で有名な研究社となる。
7.東京のブックマン(出版社、取次店、新本・古本屋)に越後出身者が多いのには理由がある。特に東京堂の多くの従業員から取次店、小売店、古本屋の優秀な経営者を生んだ。彼らのほとんどが越後長岡やその周辺出身者であった。
そんな中の一人、酒井宇吉は神保町に一誠堂を持つ。この一誠堂で働いて古本経営を学び、独立し、順次古本屋を開業していった。
越後出身で出版社の経営者として、実業の日本の増田義一やダイヤモンド社の石山賢吉などがあげられる。それでは何故出版界には長岡を中心とする越後人が多いのか、その土壌を探ると次のようになる。
幕末長岡藩は河井継之助が中心となって官軍と戦い、敗れた。いわば長岡は維新政府にとって“賊軍”となってしまった。そのため長岡は復興に苦しんだ。こうした立場に置かれた越後の人々は新政府の役人とならず、青雲の志に燃え、東京に出て多くの学界(ことに医学)、言論界、出版界などに自由の新天地を求めたからである。
ちなみに、戊辰戦争で敗れた長岡藩は減知され、財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態となった。言ってみれば維新政府の“嫌がらせ”にあったのであった。この窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩は長岡藩に米百俵を贈った。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対して虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。
これがあの小泉純一郎の所信表明演説で引用され、有名となった「米百俵の精神」である。
8.神田書肆街は明治25年、大正2年、大正12年(関東大震災)の3度大きな火災に見舞われ、その都度大きなダメージを受け、数多くの蔵書を焼失した。しかしその度毎に町並みを変化させ復興していき、現在の町並みに近い状態に変わっていく。
大正2年の大火で焦土となった神田で、当時神田女学校の教員をしていた岩波茂雄が神保町の交差点に近い、空いてる店を借りて古本屋を開いた。これが岩波書店のスタートなる。
9.大正期の出版、書籍の取引業務の発展と神田との関係は重要であるが、特に栗田書店と誠文堂の創立がこの時期であった。明治期に東京堂のほか、五大取次があったが、その中の一つ平塚京華堂は破産整理中であった。栗田確也は岩波書店に飛び込み、岩波茂雄から資金を借り入れ、栗田書店を設立する。また小川菊松は明治45年に誠文堂を設立する。(後に新光社を吸収合併し、誠文堂新光社となる)この時期多くの小取次が生まれるが、激しい競争の上、生き残ったのはこの2社であった。
10.大正12年9月1日の関東大震災でも、同日夕刻まで神田書肆街はほとんど焼失することとなるが、古本屋は天幕やバラックで店を再開してたくましい立ち直りをみせる。その復興を手助けたのは、本を焼失した多くの個人が本を求めたことと、官庁や学校が震災で失った書物や資料を補填するため、巨額の予算が組まれ、それが神田書肆街に流れたからであった。
11.昭和になって、東京大空襲があったが、神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるし、神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、とにかく戦火を免れた。戦後神田書肆街は大きく変わる。
①平和が回復すると、空襲、疎開騒ぎで多くの人が書物を失い、文字に飢えた
②言論・出版の自由が回復された
③流通・販売は自由になる
特に取次業の独占体制の解体の中で、戦中にあった日配から離れた鈴木真一は復員後仲間と取次業を始める。彼は栗田書店時代から岩波の営業部と親しくしていた関係で、岩波書店の書物を分けてもらい、主に社会科学関係の書籍を扱うようになる。これが鈴木書店であった。彼は戦後各大学に出来た生協に着目し、そこに本を納入していく。
鈴木書店は今はもう倒産してなくなってしまったが、私は書店員時代よくここに岩波やみすず書店、未来社、白水社など硬い本を仕入れに行ったものである。個人的に好きな分野の本がたくさんあって、ここに仕入れに行くのは楽しみであった。鈴木書店が倒産して大学生協が本の仕入が出来なくなり一時困ったと聞いたことがあるが、どこか大手の問屋が引き継いだと聞いた。
以上がこの本を読んで、“そうなんだ!”と知ったことである。そういう意味で、個人的興味も加わって、この本は面白かった。この本によると神田の書肆街には今は新本、古本を合わせて七百万ないし一千万冊の膨大な量の本がここに集まっているという。書籍の一大コンビナートとしてこの街の魅力はつきない。
評価
★★★
書誌
書名:東西書肆街考
著者:脇村 義太郎
ISBN:9784004200871
出版社:岩波書店 (2006/03 出版)岩波新書
版型:229p / 18cm / 新書判
販売価:819円(税込)
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- by kmoto
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