2008年10月02日

ヘレ-ン・ハンフ著『チャリング・クロス街84番地』

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 昔開高健さんの古い本を探すために、神田や早稲田の古本屋さんを回ったが、それでも手に入るものは限られていた。「日本古書通信」に全国の古本屋さんが自分のところ在庫を広告として載せていているので、その中から開高さん未入手の本を探し、はがきで注文した。確か2冊ほどこの方法で手に入れたと思う。中には抽選というやつもあって、外れたのだろう。その本は入手できなかった。
 今ではネットで簡単に日本全国の古本屋さんにアクセスできるので、こんな面倒なことなどすることもなく、在庫の確認も注文も数度のクリックで簡単にできてしまう。後は数日待てば、本と請求書が送られてきて、後は郵便振替で送金すればいいし、アマゾンならそのままカード決済だから、本を受け取るだけでいい。ここには古本を売る人とそれを買う人の顔が一切見えない。
 たとえば昔やったはがきでの注文でも、注文する本の書名などを書くのは当たり前だし、最後には「よろしくお願いします」の一言ぐらいは書き添えるだろう。それだけでも何か見えてくるものがあると思いたいが、ネットの場合それが一切ない。確かにつまらんしがらみがないから、その方が楽といえば楽であるが、どこか寂しさがつきまとう。特に古本という手垢のついた本にかかわるものだから、ちょっとは人との関係が欲しいといえば欲しい気もするのである。

 なんでこんなことを書いたかといえば、この本を読んだからである。私の持っているこの本は昭和59年発売の初版本である。当時からもう24年経ってしまっている。本もほどよく日焼けして、赤茶けている。多分買ってすぐ読んだと思うけど、内容は覚えていない。先日読んだ池谷伊佐夫さんの本にこの本のことがちょこっと書かれていて、気になったものだから読み返すことにしたのだ。
 この本は、ヘレ-ン・ハンフが『サンデー・レビュー』で絶版本を専門に扱っているイギリスのチャリング・クロス街84番地にあるマークス社の広告を見て、手紙に添え欲しい本のリストと一緒に送ったことから始まる。時は1949年10月5日である。ハンフの担当となったのはマークス社のフランク・ドエルであった。ドエルはハンフの注文した本を探し出し、アメリカにいるハンフの元へ本を送る。
 ヘレ-ン・ハンフは自ら貧乏作家で、古本好きと称しているが、生計はテレビの台本を書くことで立てている。古本好きもこの本を読んでいる限り、主にイギリスの古典作家に興味があって、それらの作家たちの本をドエルに注文している。
 しかし注文した本がすぐハンフの元に届くとは限らない。結構やっかいな作家たちの本を注文しているので、ドエルはそれらの本を探し出すのに苦労している。そのためなかなかハンフの元に本が届かない。ハンフは注文した本はどうなっているの?とキャンキャン吠えるし、本を探さないで、店でぼーっとしてるんじゃないのと毒づく。
 しかしそれは悪意があるわけじゃない。私もハンフの気持はよくわかる。古本好きのとって自分が探している本がなかなか見つからないというのは、結構イライラするものなのだ。まぁその分目当ての本が見つかり、手元でその本をさわり、ページをめくり、読んでみると、うれしさはひとしおなのだが・・・。ハンフも届いた本を見て驚き、感激し、ページにペーパーナイフを入れて読み、また感動するのである。
 この本を読んでいると、当時イギリスでは食料の販売統制がおこなわれていたようである。多分戦争終了後だからだろう。ハンフはドエルに肉やハム、卵(乾燥卵というのもあるらしいが、どんなやつなのだろうか?)や缶詰などをクリスマスや復活祭などのプレゼントして送っている。それはマークス社のドエルたちが苦労してハンフが注文した本を探していることのお礼であった。
 送られてきたプレゼントはマークス社の従業員やドエルの家族に渡り、そのためハンフとの手紙のやりとりが、マークス社の従業員、ドエルの奥さんや子供たちと広がっていく。あるいはプレゼントのお返しとして、ドエルがハンフに送ったテーブルクロスは近所の老婆の手編みで、それをハンフはえらく気に入り、その老婆との手紙のやりとりもある。もちろんハンフから送られた食料品はその老婆にもお裾分けされている。
 ここではハンフとドエル関係が店とお客という商売関係で終わるのではなく、古本を介して人としての関係に変わっていくのが、心地いい。それはドエルがハンフを一番最初に“マダム”と呼び、次に“ハンフ様”に変わり、さらに敬称を省いて“ヘーレン”になっていくのでもわかる。それだけ手紙や本、そしてプレゼントやりとりがお互いを親密化していったのである。いつの日か、ハンフがイギリスに行って、チャリング・クロスにあるマークス社を訪れたいという気持にもなり、ドエルや彼の家族もそしてマークス社の社員もハンフがイギリスに来てくれることを望むようになる。
 しかしハンフのイギリス訪問はなかなか実現せず、1969年1月8日付けのマークス社の秘書からの手紙で、ドエルが死亡したことを知らされる。読む側としては、それまでハンフとドエルの手紙のやりとりが書かれていたのに、いきなり秘書からの手紙でドエルの死亡を知ることになったので、正直驚いてしまった。
 訳者である江藤淳さんは解説で次のように書かれている。

「二十年の歳月にわたってつづけられたこのほのぼのとした交友に終止符を打つのは、フランク・ドエルの突然の死である。私たちが、フランクの死を告げる手紙を見て愕然とし、もう二十年も経ってしまったのか、と思い、人はやはり死んでしまうのだな、と思わざるを得ない。この切断は鮮烈であり、ひとことのコメントも添えられていないためにかえって粛然と襟を正させられる。つまり死が、この往復書簡集に作品の輪郭をあたえたのだということができる」

 たしかにハンフとドエルの往復書簡は読む側にとって、怒ったり、謝ったり、喜んでみたり、感謝してみたりして、素直な人間性とやさしさをそこに感じさせてくれた。だからそれがドエルの死によって終わってしまう残念さを余計に感じるのである。
 ハンフは最後にイギリスに行く友人宛に「イギリスのことは長い年月夢に見てきました。ただ、かの地の町のたたずまいを見るためだけに、よくイギリス映画を見にいきました。何年か前、私の知り合いのある男性が、イギリス旅行をする人は、見ようという目的のものが必ず見られる、って言ったのを覚えています。で、私ならイギリス文学のイギリスが見たいわって言ったら、彼、うなずいて、あるともって言っていたわ。
 あるかもしれないし、ないかもわからない。今私がすわっている敷物のまわりをながめると、一つだけ確実なことが言えます。イギリス文学はここにあるのです。
 ここにある私の古書を全部お世話してくださったありがたいお方は、数カ月前に亡くなってしまいました。その古書店の店主だったマークスさんももうこの世にはいらっしゃいません。でもマークス社は依然として残っています。もしチャリング・クロス街84番地の前をお通りになるようなことがあったら、私からよろしくって言ってくださいね。そうしてくだされば、大いに感謝いたします」と書いている。
 ここでハンフが注文したは、古さもあるけどきっとすばらしい装丁の本なのだろうなと思ってしまった。ウォルトンの『釣魚大全』や『ピープス氏の日記』(私のは岩波新書なのだけれど)などは、私も持っている本とは違い、まるで他の本のような感じがしてしまった。だってハンフがあれほど待ち望んだ本なのだから。
 いい本であった。


評価
★★★★★


書誌
書名:チャリング・クロス街84番地 ― 書物を愛する人のための本
著者:ヘレ-ン・ハンフ 江藤淳訳
ISBN:9784122011632
出版社:中央公論新社 (1984/10 出版) 中公文庫
版型:233p / 16cm / 文庫判
販売価:680円(税込)

2008年07月17日

阿刀田高著『ホメロスを楽しむために』

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 ここのところ、シャンポリオンからシュリーマンと古代史に興味を持っちゃって、自分でもどうなっちゃっているんだと感じている。シュリーマンとくれば、ホメロスということになるので、ではホメロスはどんな人物で、どんな作品を残したんだと知りたくなった。かといって、『イリアス』や『オデュッセイア』はきっと読めないだろうなぁと思ったので、阿刀田さんのこの本を手にした訳だ。 とにかくやさしく解説してくれて、しかも面白い。
 基本的にこの『イリアス』や『オデュッセイア』がどういう話なのか私は知らなかったので、この本から知ったことを書く。まずは『イリアス』からである。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎていて、「これはまずいぞ」と思うところから始まる。ゼウスは人口を減らすにはどうすればいいかと考え、戦争を起こせば、人が多く死ぬからこれがいいと考える。周囲を見渡すと、折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。そこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。特にゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテが激しく争う。そこでこの三人(神)は誰がこの中で一番美しいか、トロイアの王家の第2子として生まれたパリスに決めてもらおうとする。もちろん誘惑付きでである。自分を選んでくれたら、ヘラは「世界の王者にしてあげよう」と言い、アテネは「すべての戦の勝利者にしてあげよう」と言う。アフロディテは「世界一の美女をあげよう」言って、判断を自分の方へと誘い込む。結局パリスはアフロディテを選んだ。この時点でトロイはアフロディテを味方にし、ヘラとアテネを敵に回すこととなった。
 パリスはこの時不吉なことは起こると言って、山の中に捨てられちゃって、羊飼いをやっていたが、何とか復帰した。父プリモアスの命を受け、スパルタへ赴く。そこには世界一の美女で名高い王妃ヘレネがいた。ヘレネは大神ゼウスと白鳥を愛でる王妃レダとの間に生まれた子であったが、とにかく求婚の申し出が多い。そこでヘレナの養い親は花婿の決定はヘレナに委ねるからそれに従って欲しいと言う。それに不服な奴は今回の花婿候補者が一致して制裁を加えると決める。そんなときパリスはアフロディテの計らいもあって、たちまちヘレネを見そめ、彼女を国外へ連れ出してしまった。スパルタの王メネラオスは当然これに怒った。メネラオスの兄は当時ギリシアきっての実力者であったミケイナ王アガメムノンであった。ここにアガメムノンを総大将にしてギリシアの王侯貴族や勇者がトロイに向けて船を出し、トロイア戦争の火ぶたが切られたのであった。
 
 ふむふむ、なるほどね。
 
 ところでトロイア戦争といえば、アキレウスの存在が気になる。アキレウスは何者かというと、先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせた経緯がある。

閑話休題
 ここで知ったオリンポスに住むギリシアの神々のことを備忘録として書いておきたい。まずは大神ゼウス。ゼウスの家系は父がクロノス。クロノスの父がウラノスで、代々息子が父親を斃して自分が支配者となった。そのためゼウスの父親クロノスは我が子に斃されるのを恐れて、妻レアが生む子どもたちを次々と飲み込んでしまったが、ゼウスだけはその難を逃れた。ゼウスは父親に薬酒を飲ませ、父親の体内に飲み込まれた兄弟姉妹を助け出す。助け出された兄弟姉妹たちは男神ポセイドンとハデス、女神はヘラ、デメテル、ヘスティアである。兄弟たちはクロノスを亡ぼし、ゼウス(ローマ神話ではユピテル。英語でジュピター)が天と地の支配者となり、ポセイドン(ローマ神話ではネプトゥヌス。英語でネプチュン)が海を、ハデス(ローマ神話ではプルトン。英語でプルート)冥界を支配することとなった。
 ゼウスは姉のヘラと結婚し、アレスとヘパイトスが生まれ、またゼウス頭の中からアテネが誕生する。さらに浮気者のゼウスはレトという女神を愛し、アポロンとアルテミスの双子が生まれた。さらにさらにゼウスはマイナという女神と交わってヘルメスが生まれる。そしてゼウスの祖父ウラノスの精液から生まれたのがアフロディテである。要するに男神は1.ゼウス、2.ポセイドン、3.アレス、4.ヘパイトス、5.アポロン、6.ヘルメス、女神は7.ヘラ、8.デメテル、9.ヘスティア、10.アテネ、11.アルテミス、12.アフロディテの十二神である。どうしてか知らないが、ハデスは通常この十二神に含まれないらしい。ハデスが冥界の支配者だからだろうか?

 話を元に戻して、アキレウスといえば“アキレス腱”という弱点が有名だけれど、それは次の理由でアキレス腱が弱点となった。母親のテティスはアキレウスを不死身にしようと思い、その効能がある冥府の川に幼いアキレウスをくるぶしを握って浸けた。当然くるぶしは霊験あらたかな霊水が触れないわけだ。ここが弱点となり、“アキレス腱”となった。
 そのアキレウスである。テティスを仕方なしに諦めたゼウスとポセイドンは二人はうまくやっているかなあと気にかける。この心理を阿刀田さんは「下世話な話をするならば、あなたの知りあいに、とてもすてきな娘がいた。しかし、あなたはしかるべき事情があって、彼女を妻にすることができない。そこで、知りあいのよい青年を彼女に紹介する。二人は結婚し、
ー幸福にやっているかなー
 とあなたは気にかけるようになる。一種の代償行為かな。彼女に子どもが生まれれば、わけもなくその子がかわいかったりする」と説明する。あははは!これはうまい言い方だ!とにかくアキレウスは神々の寵愛を受けていたわけだ。
 この本によると、アキレウスも最初アガメムノンと一緒にギリシア側で戦っていたようだ、トロイの近くにアポロンの神殿があり、ギリシア軍はこの町を攻め、戦利品として神官の娘を奪い取った。娘はアガメムノンの所有物となった。神官は娘を返して欲しいというアガメムノンに願い出たが、拒否されたので、アポロン祈ってギリシア軍を懲らしめて欲しい頼み込む。アポロンを敵に回すとまずいので、アキレウスが中心になって娘を返すことになったが、アガメムノンは自分だけ戦利品がないのはなにごとじゃと言うことで、アキレウスが戦利品として得た女ブリセイスを横取りしてしまう。アキレウスはブリセイスを妻のように可愛がっていたので怒り出す。アキレウスは、“もう俺は戦わない”と戦線離脱をしてしまう。
 もっともアガメムノンとアキレウスの不和はそれ以前にさかのぼって原因があるらしい。トロイを討とうとギリシア軍が立ち上がって船を出したとき、逆風で船が出陣できない。それは女神アルテミスの怒りのためであった。アガメムノンがアルテミスに不敬を犯したのである。アガメムノンはどうすれば女神の怒りが解けると占い師に尋ねると、アガメムノンの長女イピゲネイアを人身御供として捧げなさいと言われる。イピゲネイアはアキレウスの花嫁にするからと言われ故郷から呼び出されたのだ。アキレウスは自分がだしに使われたことで激怒した。これがアガメムノンとアキレウスの不和の最初の原因らしい。とにかく勇者アキレウスがいないギリシア側は戦況が悪化してくる。
 トロイヤ王プリアモスの長子ヘクトル。これがめちゃめちゃ強い。ばったばったとギリシア軍を斃していく。瀕死の重傷を負っても、アポロンの加護を受けて復活するし、そもそも大神ゼウスもちょこっとトロイヤの側についているものだから、ますますギリシア側は不利な状況になっていく。そこでアガメムノンは重臣たちを集めて作戦会議を開く。そこで重臣たちはアキレウスに贈り物をして、何とか気分を宥め、戦場に戻ってきてもらおうとする。アキレスのもとに大アイアスとオデュッセウスが使者として向かう。が、気分を損ねたアキレウスはなかなか戦場に戻ろうとはしない。そもそもアキレウスの運命は、トロイヤを攻めれば不朽の名誉を得るが、自分の命を失う。戦わず故郷に帰れば長生きできるとテティスから予言されていたのだ。
 しかし友人のパトロクスが討たれ、アキレウスは自分の命がなくなるのも顧みず、戦場に復帰する。そしてヘクトルとの一騎打ちに勝ち、パトロクスの仇を討つ。
 この後ヘクトルの亡骸を巡ってすったもんだあるのだが、トロイヤ王プリアモスがアキレウスに泣きついて何とかヘクトルの遺体を返してもらい、葬儀が行われた。ここで『イリアス』は終わる。

 あれ?

 トロイの木馬の話はどうなっているんだ?

 『イリアス』には以後何も書かれていないそうだ。実はホメロス以外の詩人がトロイヤ戦争やその周辺のことを唱っていて、そこにトロイの木馬の話があるらしい。その前にアキレウスの死について書いておく。アキレウスはアマゾネスの女王ペンテシレイアを殺し、エチオピアの王メムノンを斃し、周章狼狽するトロイヤ勢を追って城内に攻め込む。トロイヤの敗北が決定的と思われた時、アポロンが現れて、パリスの矢でアキレウスの踵を射抜き、その後胸を射され、アキレウスは死ぬ。アキレウスの死後アキレウスの武具を誰に与えるかでオデュッセウスと大アイアスとが争いになり、結局オデュッセウスに渡るが、それよりもアキレウスがいなくなったギリシア軍は戦果あげられず、もうやめようかという話になりつつあった。“これはまずい”ということで、アテネ女神がオデュッセウスに木馬の建造を吹き込み、木馬に隠れてトロイヤ城内に入ることを勧める。ギリシア軍は撤退を装い、トロイヤ側は木馬を城内に引き込んでしまった。木馬の中にはオデュッセウスらが忍び込んでいて、あの駆け落ちをしたヘレネの合図で木馬の蓋が開けられ、以後はご存じの通りである。
 なぜヘレネがオデュッセウスに協力したのか、この後の『オデュッセイア』に書かれている。これが笑っちゃうのだ。父オデュッセウスを探すために息子のテレマコスがスパルタを訪れた時、ヘレネに会う。その時ヘレネは次のように言う。

 「あのとき、私、ひどく後悔しておりましたのよ。女神アフロディテのせいで、心を迷わされ、故郷を捨て、非のうちどころない夫を忘れ、かわいい娘まで残してトロイアまで行ってしまったことが、くやしくてくやしくてたまらなかったわ。だから、オデュッセウスに協力してあげましたの」と。

 これに対して阿刀田さんの言い方が最高である。

「おい、おい、ヘレネの、この言い分をテレマコスがどう聞いたかともかく、われ等、後世の読者は釈然としないぞ。少なくとも私は、
 ーあんた、それを本気で言うの。絶世の美女ともなると、すごいもんだねー
 と考えてしまう」

 「『私も被害者なの。だから裏切ってやったわ』と言われたら、どうにもやりきれない。そもそもトロイア戦争はヘレネの出奔から始まったことではないか」と。

 まさしくその通りだ。ギリシアの神様もわがままで、勝手放題のことをやっているけれど、王や王妃もやりたい放題。言いたい放題だね。だから面白いといえば面白いのだけれど・・・。

 さて、トロイア戦争のことでこんなに長くなっちゃった。『オデュッセイア』のことが書けなくなった。『オデュッセイア』は十年かかったトロイア戦争後オデュッセウスが故郷に帰るまでの話である。
 故郷のイタキ島には妻のペレロペイアがいるが、オデュッセウスがなかなか帰ってこないので、もう死んでしまったのではないということで、ペレロペイアに言い寄る狼藉者がたくさんいた。オデュッセウスの館で好き勝手なことをし始める。女中に手を出したりもする。
 一方オデュッセウスは怪獣たちと戦ったり、冥府に行ったりして、やっとの思いで帰ってくれば、そんな状態であった。オデュッセウスは彼らを成敗してめでたしめでたしというところか・・・。

 長くなったついでというわけじゃないけれど、ちょっと思うところがある。それは歴史って“振り子”のようだなと思ったのである。どういうことかといえば、この本に書かれているギリシアの神様たちはきわめて人間くさいと感じたのだ。確かに阿刀田さんの解説がそう思わせるところがあるかもしれないが、それにしてもここに登場する神様たちは、時に人間と区別がつきにくい。ということは人間的と言ってもいいんじゃないかと思う。ギリシア彫刻や絵画などをがそれを如実に表しているような気がする。
 だから、ギリシア・ローマ時代が人間性を謳歌するように、振り子がそちらに大きく振れれば、その反動で、今度は中世のようにキリスト教にがちがちに縛られ、神を絶対的存在として崇め、人間の生活自体もストイックになっていく。そしてそっちの方向に振り子が大きく振れれば、今度は元に戻って、人間性の復活としてルネサンスや宗教改革が起こってくる。そんな流れを歴史に感じてしまった。案外人間の歴史というのは、その程度のものでしかなく、回り回って、振って振られて、今はトロイア戦争時代のように、大神ゼウスが人間が増えすぎて困ったなと思って、地球環境を悪くしたりして人類を減らしているんじゃないかなんて思ったりした。


評価
★★★★★


書誌
書名:ホメロスを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255248 (4101255245)
出版社:新潮社 (2000-11-01出版) 新潮文庫
版型:368p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2008年05月31日

ベルンハルト・シュリンク著『朗読者』

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 やっと自分らしい本を読む。
 ミヒャエル・ベルクは15歳の時、学校の帰りに気分が悪くなり吐いてしまう。その時介抱してくれたのがハンナ・シュミッツという38歳のミヒャエルの母親といってもいいくらいの女性であった。ミヒャエルは黄疸であった。
 病状も何とか回復して、その時のお礼にハンナのアパートに向かう。彼女と話し、帰ろうとすると、彼女も出かけるから、一緒に出ようという。その時ミヒャエルは彼女の着替える姿、ストッキングはく姿を見てしまい、視線をそこから離すことができなかった。自分の視線を悟られたミヒャエルはあわててそこから逃げ出すが、一週間後またハンナのもとを訪ねる。
 暖房用のコークスを取ってくるのを手伝ったミヒャエルは黒く汚れてしまい、ハンナに風呂を勧められる。いつの間にかハンナも裸になり、「おいで!」「このために来たんでしょ!」とミヒャエルの下心を見抜き、彼女に抱かれる。
 ミヒャエルは彼女との性的関係を続けるうちに、ハンナがその前に本を読んで欲しいと言い出す。朗読と性的関係の不思議な状態が生まれる。関係を続けるうちに、彼女が路面電車の車掌であることがわかる。

 この本はこういう展開をする話だったのかとちょっとがっかりした。しかしそれは違った。突如話は複雑になっていき、ハンナの悲しい過去が明らかになると同時に、違った局面を見いだす。

 ハンナは突然失踪する。ハンナに失踪されたミヒャエルは最初彼女の姿がないことに苦悩するが、それを忘れるために大学での勉強に精を出す。ある日法学のゼミの課題として強制収容所の看守を裁く裁判を傍聴に行く。
 ミヒャエルはその裁判を傍聴することによって、自分たちのような後から来た世代の人間はユダヤ人絶滅計画にまつわる恐ろしい情報の前で、何を始めるべきなのだろうか?戦犯を明らかにし、責任者を糾弾することで、自分たちが今感じる恥ずかしさから逃れようとしていないか?恥じる者の苦しみを逃れるために戦争責任者を攻撃していないかと自問する。
 このあたりは訳者のあとがきによると、そういう時代「六八年世代」に著者が感じた時代の雰囲気なんだそうだ。ドイツにとって精神的に苦しい時代だったのだろう。

 その法廷でハンナの姿を見た。ハンナは21歳の時親衛隊の募集に応じ、強制収容所の看守になっていた。戦況が悪化したとき、囚人達を移動させたが、たまたま囚人達を泊めた教会が爆撃にあい、ほとんどの囚人が火事で死んでしまった。戦後生き残った者が本を出版し、ハンナたちの犯罪が裁かれることとなった。
 裁判ではハンナが収容所で若くて弱い女の子を一人選び、自分の保護のもとに置き、その子が働かなくてもいいようにし、ベッドも食事も与えた。そして夜になると、毎晩女の子を呼び本を朗読させた。そして飽きると、アウシュビッツに送ったと明らかになっていく。
 このことを含め、裁判ではハンナの立場がどんどん悪るくなっていく。以前何かの本で読んだことがあるが、ナチスの戦犯を裁く裁判では、必ず「それは命令であったから、逆らうことはできず、仕方がないことだった」と自分たちがしたことを正当化するのが常套手段で、ハンナ以外の被告もそう主張した。しかしハンナはたとえそれが命令であっても、自分が犯した罪は認めた。それをいいことに、あるいはハンナ一人が罪を認めたいらだちから、他の被告はハンナにすべての罪をなすりつけ、あの夜の事故の報告書は間違いで、それを書いたのはハンナだと主張し始める。
 実際その報告書を書いたのがハンナであるかどうか、筆跡鑑定をするということになったとき、ハンナはその報告書を書いたのは自分だと突然態度を変えて認めてしまう。判決が下り、他の被告は軽くすんだのにハンナは無期懲役となる。
 ミヒャエルは気づく。ハンナはおそらく貧しい境遇のため文字を読むことも書くこともできなかったことを。ハンナは文盲ではあったが、知識に飢えていた。だからミヒャエルや収容所で女の子に本を朗読させたのだ。そして文盲であることを恥ずかしく思っていた。それがあからさまになることをおそれていた。筆跡鑑定をされれば、自分が文盲であることがばれてしまう。だから一転して報告書を書いたのは自分だと認めたのだ。あるいはミヒャエルと旅行へ出かけたとき、朝ミヒャエルが食事を取りに行くというメモを残して、ハンナを一人にしたとき、一人にされたことを怒り、メモなどなかったと主張したのだ。さらにハンナ失踪したのも、会社がハンナに運転士の資格を取らしてやろうと提案したからで、車掌でいる間は自分の文盲を隠せたかもしれないが、運転手の訓練を受ければ、それがばれてしまうことをおそれ、会社から失踪したのであった。
 ミヒャエルはその事実を裁判長に言うかどうか迷い、哲学者である父親に相談する。父親は「他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位に置くべき理由はまったく認めないね」というのであった。それは人が生きていく上での尊厳の話であった。たとえハンナの罪が軽くなったとしても、ハンナにとって文盲がばれることは自分の尊厳を失うことになる。それが耐えられなかったのである。
 ミヒャエルは司法修習生の頃、同じ道を歩むゲルトルートという女性と結婚し一人娘をもうけるが、離婚してしまう。結局ミヒャエルはハンナから解放されることはなかった。
 離婚後、ミヒャエルがハンナにまた朗読をしてやろうと思い立ち、ハンナに録音したカセットテープを送る。しかし彼はテープは送るが自分の言葉を吹き込まなかったし、手紙も添えなかった。そして四年目に「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」という自筆の手紙が届く。ミヒャエルは歓喜に満たされその手紙を読んだ。なぜなら彼は、文盲の人たちが、日常生活を送る際の寄る辺のなさ、道や住所を見つけることの困難さ、レストランで料理を選ぶときの大変さ、そして何よりも読み書きができないということを隠すために、本来の生活とは関係ないところで費やされる余計なエネルギー、文盲であることは、市民として成熟に達することができないことを知ったからであった。
 不器用でぎこちないハンナの文字を見て、それだけを書くのにどれほど苦労したかを知るのであった。しかしそれまで長い間拒んだり、拒まれたりしたことは「遅すぎる」と彼は感じたが、一方で単に「遅い」だけでやらないよりやった方がましだろうかとまた自問する。
 しばらくミヒャエルの朗読を吹き込んだカセットとハンナの短い手紙のやりとりが続いたが、服役18年で恩赦があり、ハンナは出獄することとなった。ミヒャエルは身寄りのないハンナの社会復帰を助けるため、出所一週間前に彼女を訪ねていく。二十数年ぶりの対面である。ハンナはもう一人の老女だった。短い会話を交わし、来週の出迎えを約束した。それが最後だった。
 出所の朝、ハンナは首を吊り、自殺したのであった。どうしてハンナは自殺をしたのか。このあたりは私にはよくわからない。ハンナがいた部屋にはミヒャエルが送ったカセットテープがきちんと整理されて残され、ベッドある壁にはミヒャエルがギムナジウムをを卒業したとき、何かの賞を校長から受けている彼の写真が載っている新聞写真が貼ってあった。ミヒャエルはこみ上げてくる涙と戦っていた。刑務所の所長はハンナの遺書を読む。そこにはお茶の缶に入っているお金と銀行に入っている七千マルクお金をあの教会の火事で生き残った母と娘に渡して欲しいと書かれていた。

 私はミヒャエルが貧困と戦争に翻弄されたハンナの悲しい人生をつづるこの物語に圧倒されてしまった。時には自尊心は自らを苦しめることを知らされたし、正義心は時には、その人のために必ずなるとは言い切れないこともあるんだと思った。ミヒャエルは父親の助言を受け入れることは、ハンナの生き方を尊重することになるが、逆にハンナを苦況に陥れることもわかっていたはずだ。だからミヒャエルはハンナと追従しようとしたのではないか。あるいは無意識にそうせざるを得なくなったのではないか。だからハンナから一生解放されることもなく、また朗読を始めたのではないかと思った。
 ハンナが短い手紙を寄こしたとき、ミヒャエルはハンナを苦しめていたものから解放されると感じたはずだ。そしてそれはある意味ハンナと追従してきたミヒャエル自身の解放ともなり得たのではないか。そんなことを感じた。しかし物語はハッピーエンドでは終わらず、ハンナの自殺で、ミヒャエルのみ背負ってきたものから解放されずに生きていくはめになったような気がする。他人の人生の一部を共有してしまっための悲劇とでもいうのであろうか。


評価
★★★★★


書誌
書名:朗読者
著者:シュリンク,ベルンハルト、松永 美穂訳
ISBN:9784102007112 (4102007113)
出版社:新潮社 (2003-06-01出版) 新潮文庫
版型:258p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年01月15日

阿刀田高著『海の挽歌』

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 最近些細なことで腹が立って、感情むき出しに怒っていた自分が、なにバカなことをしてるんだろうとか、言っているんだろうと、少し引いて物事を見るようになっている。ただ、それはやっとこの歳になって大人になったということじゃない。そんなことにいちいち付き合っておれんという気持ちがあって、もっと自分のやりたいことに自分の全神経を傾けたい、と大げさじゃなくて、そう思うようになったということである。だから、つまらんことに関わるのが時間の無駄という気持ちになってしまうのだ。それでいて本を読んでいると、その中に出てくる言葉や文章に妙に心惹かれ、こだわり、考え込んでしまうところがある。
 今回もこの本を読んで次の文章が引っかかってしまう。

 「人生なんて、右へ行くか左へ行くか、分岐点の連続だろ。あのときあっちの道を進んでいたら、どうなっていたか、その後の人生がまるで変わっているようなことって、いくらでもあるんじゃないか」

 「一つの道を選ぶたびに、無数の可能性を消していく。一つの人生の陰には、こうして消えていった人生の幻が山のように存在しているわけだろ。一種の亡霊だな。実態はなにもない。ただ、もしかしたらあったかもしれない人生がいっぱいさまよっている」

 このように主人公である宮島麦彦は元恋人の朋子の前で自分の人生を振り返る。麦彦と八年前別れた朋子は古代カルタゴという海洋民族が建てた国があったチュニジアにいた。麦彦は三十五歳、妻もいれば一人娘もいるサラリーマン。昔西洋史学を学んだ。不倫というものじゃない。ただ八年前急に別れた朋子に会いたかっただけのことだろう。偉そうなことは言えないけれど、男って、そういうところがある。今の生活を壊そうなんていう意識は全くない。ただ別れた彼女がどうしているだろうかとふと会いたくなるときがある。あるいはそれも捨ててきた人生の一つなのかもしれない。きっかけがあれば会ってみたいと思う気持ちは何となく自然なような気がする。麦彦にはそのきっかけがあった。だから朋子のいるチュニジアに向かう。

 基本的に歴史に“もし・・・”というのはあり得ない。ただそう想像を楽しむことは自由である。麦彦が思うように、「あのときあっちの道を進んでいたら、どうなっていたか」を自分が昔専攻していた西洋史のなかで、カルタゴのハンニバルに置き換えてみる。麦彦は朋子と僅かに残されたカルタゴの遺跡をたどる途中で、次のように言う。

「ハンニバルがローマに勝っていたらローマ帝国は存在しなかったろ、きっと。ローマ帝国がなければ、その後の歴史はまるで変わる。中世の歴史が変わり、ルネッサンスだってあったかどうかわからないし、フランス革命もなさそうだし、現在の世界地図だってちがっているね。歴史も個人も、いくつもの分岐点を通り抜けて現在に至ってるわけだけど、そのプロセスで“あっちの道へ行ってたら”という無数の可能性を捨てて来ている。実現されたものより、捨て去られて日のめを見なかったもののほうが、よっぽど多いんだ。死屍累々、そんな光景が見えて来る」と。

 確かにそうだろう。もしハンニバルがしっかりした後方支援を持っていたらローマはどうなったかわからなかった。けれど、史実としてハンニバルは局部戦ではローマに勝ったかもしれないが、結果としてローマに敗れた。そいうことなのだ。後になっての“可能性はあったかもしれない”は成り立たない。それは多分人生においても同じだろうと思っちゃう。今の人生がたくさんの可能性を消し去ってあっても、もう消し去ったものは消し去ったものなのだ。想像することは出来ても消し去ったものは復活しない。リセットはほとんど出来ない。仮にリセットを試みようとすれば、失敗するのがおちだ。それに歴史においても人生においても変えられない何かがあって、そう進むしかない“意思”があるように思える。つまりなるようにしかならないのではないか。あるいは変わっていたかもしれないけど、根本的には変わらなかったかもしれないのだ。朋子の言葉が印象的だ。

 「あのね、ハンニバルが勝っていたら世界は変わっていた・・・・と、私も考えたわ。でも、本当にそうなのかしら。たしかにローマ帝国はなかったでしょうし、カルタゴ帝国があったかもしれない。だけど、イエスは生まれ、キリスト教は広がり、マホメットは生まれ、イスラム教は広がり、地中海沿岸は同じような歴史をたどったでしょうね。ヨーロッパの平野に似たような国が興り、ナポレオンが出現し、革命が起こり、アメリカはさまざまな民族を集めた合衆国になり、世界戦争が勃発して原子爆弾が落ちる。こまかい部品の組合せはちがっても人類は同じような歴史をたどったように思えるの。どんな英雄の力でも変えられない、大きな歴史の意思のようなものを感じたりするのね、私は」

 麦彦も朋子と別れてから、同様のことを思う。
 
 「ハンニバルが勝っていたら世界はどうなっていたか。ローマ帝国の誕生はなく、世界の様相はまるで変わっていたように思えるけれど、案外、歴史の進行にはゆるぎない法則があって大綱はそれほど変わらないのかもしれない。
 同様に個人の生活でも、さまざまな分岐点を通過したあとで、
 -あのとき、あっちの道へ行っていたら-
 と、後悔を覚えることも多いけれど、同じ人間がやることなのだから、五年、十年の長さで考えてみれば成功も失敗も同じように遭遇して結局はよく似た道をたどり似たような状況に落ちつく。ちがうだろうか」と。

 最近私はこれでよかったのだろうか思うことがたくさんあって、思い悩むことが多い。たとえ違う選択肢があっても結果として、今と似たような状況になるのかもしれないなんて、半ばあきらめつつ、自分なりの結論を出している矢先にこの本を読んだものだから、やっぱりそうかもしれない、なんて思った次第だ。もちろん違う道もあったかもしれないけれど、もうそれはどうしようもできない。だから麦彦が考え至ったことは痛く同感しちゃうのだ。

 この本は先に読んだ阿刀田さんのエッセイで知った。読んでよかったと、本を閉じるとき素直に思った。人生の機微も充分感じさせてくれた。
 更にカルタゴの歴史も詳しく知ることができた。ローマによって徹底的に破壊された文明が確かにここにあった。けれどカルタゴ自身も優れた表意文字(アルファベットの起源となる)持ちながら、自分たちのことは多くを語らなかった。だから朋子がこの本で語るカルタゴをモチーフにした自作の物語は面白さの中に哀しみもあって、いいなぁと思った。
 とにかく新年早々いい本を読んだ。


評価
★★★★★


書誌
書名:海の挽歌
著者:阿刀田 高
ISBN:9784163132105 (4163132104)
出版社:文芸春秋 (1992-05-15出版)
版型:286p 19cm(B6)
販売価:どうやらこの本も新刊書店では手に入らないようです。

2007年12月07日

雫井脩介著『犯人に告ぐ』

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 いや~、おもしろかった。今年どれだけミステリーを読んでいるかわからないけれど、少なくとも今年一番の本であった。さすが2004年のベストミステリーにあげられるだけのことはあった。

 話は、神奈川県警管轄内で、4人の男の子が殺害される「川崎男児連続殺害事件」が未解決であった。犯人は4人目犠牲者の時、テレビ局に声明文を送りつけ、新たな現場を明かすとともに女子アナを脅した。新たに赴任した県警本部長はこの犯罪を「劇場型犯罪」という。
 そして捜査が膠着したこの事件を解決するためには対抗処置として「劇場型捜査」を指示する。すなわち捜査官がテレビのニュース番組に出演して、事件の情報を得るともに、「バッドマン」と自ら称する犯人をこの劇場に再度登場させ、しっぽをつかむことであった。
 この事件の捜査を任されたのが、巻島史彦であった。巻島は以前神奈川県警にいた。この事件の6年前、児童誘拐事件捜査に失敗し、誘拐された男の子を死なせてしまった。しかも記者会見でマスコミとやり合ったために、徹底的にマスコミにたたかれる。巻島は事件の責任を取らされて、県警本部から飛ばされていた。
 巻島はテレビのニュース番組に出演し、事件後沈黙していた「バッドマン」を再度登場させることに成功する。当然このニュース番組は視聴率が上がっていき、他局のニュース番組は低迷することなる。その他局のニュース番組に巻島の上司、植草荘一郎の大学時代別れた恋人、杉村未央子が局アナとして出演していた。植草は未央子との縁を復活させるために、自分が巻島の上司であって、「川崎男児連続殺害事件」を扱っていることを伝える。未央子にすれば巻島が出演するニュース番組に視聴率を取られている以上、植草から情報は願ってもないことであった。植草にしても未央子との復縁を願っている以上、捜査の情報を未央子に流し始める。
 しかし流された捜査情報は巻島たちの捜査をじゃますることとなる。巻島は未央子の番組から流れる情報が、どうも内部から漏れたものではないかと思い始め、植草に罠をかける。
 犯罪捜査とテレビの視聴率争い、そして内部情報漏洩者狩りと三つどもえで話はどんどん進んでいく。そして「バッドマン」を追い詰めたとき、巻島の孫の一平が誘拐される。犯人は新宿、原宿、そして横浜と6年前の誘拐事件で犯人が指定した場所と同じ場所を巻島に指示する。そして一平の前で刺される。刺したのはあの男の子の父親、夕起也であった。
 「川崎男児連続殺害事件」の捜査が大詰めのところに来たとき、巻島は最後にテレビに出演し、「余興は終わった。これは正義をまっとうする捜査であり、私はその担い手だ」と「バッドマン」に告げた。それを聞いた夕起也は正義の担い手が自分の息子を殺した。怒りは頂点に達したのである。夕起也は巻島に土下座して謝れと迫る。巻島は「謝るときは自分の意思で謝る。指示されて謝るつもりはない」と突っぱねた。
 巻島は何とか命を取り留め、そこへ夕起也の妻、桜川麻美が謝罪に来た。巻島は麻美に呼びかける。

「もうすぐ、健児君の七回忌ですね・・・・」
「はい・・・・」麻美は小さな涙声で応えた。
「麻美さん・・・・」
 巻島は呼んで、歯を食いしばった。
 喉の奥で嗚咽が砕け・・・・。
 その声が言葉となって、巻島の口からこぼれる。
「申し訳・・・・ありませんでしたっ」
 天井がぶわりにじみ、涙が目尻の堰を一気にきった。
「私は・・・・」
 巻島はひくついた喉から、昴ぶったままの声を必死に絞り出した。
「私は・・・・自分の力不足で・・・・あなたから大事な命を・・・・かけがえのない宝物を奪い取ってしまいました」
 巻島はきっと眼を見開いて、流れる涙に悔恨の思いを乗せた。
「ごめんなさい・・・・本当に、本当にごめんなさい」
 とめどない嗚咽が喉を震わせ続ける。しかし、それでも言わねばという思いだった。自分の懺悔が一掬の救済となって彼女の耳に届くことを信じ・・・・巻島は顔を歪めて言葉を続けた。
「私も背負ってますから・・・・ずっと・・・・今までも・・・・だから、お願いです。あなた方だけで背負い込まないで下さい・・・・私も背負います・・・・これからも・・・・ずっと背負いますから・・・・」
 巻島はそれだけを精一杯言うと、あとはもう嗚咽に抗するのをやめ、ただ涙込み上げるままに泣いた。

 巻島は「川崎男児連続殺害事件」の間も、そしてこの6年間健児のことは忘れることは出来ずにいたのだ。この場面はちょっとやばかったなぁ。
 それと巻島と一緒に捜査にあたっていた津田もいい味を出している。その津田が昔の極悪人が廃人すれすれの生活をしているのを巻島に見せて言う言葉もいい。

「ああいう人の道すれすれで生きていると、いずれは一線越えてしまうってことでしょう。ちょっといつもより針が大きく振れたってことでしょう」と。


評価
★★★★★


書誌
書名:犯人に告ぐ
著者:雫井 脩介
ISBN:9784575234992 (4575234990)
出版社:双葉社 (2004-07-30出版)
版型:367p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

☆現在品切れのようです。文庫本ならあります。

2007年11月04日

佐藤優著『国家の罠』

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 以前から読みたいと思っていたこの本が、文庫本になったので、早速手に入れ読んでみた。かなり面白かった。そして一外交官の逮捕が日本という国家が大きく変わろうとしているエポックメイキングだったことを知らされる。
 そもそも著者と鈴木宗男氏は歴代総理の命令に従って、2000年に日露平和条約を締結するという国策のために走っていた。すなわちロシアと平和条約を結び、北方領土返還を目指していた。その目的のためあらゆるところからロシアに関する情報を集め、分析し、いかにして北方領土問題を解決するかに邁進していた。そこにはただ国益のためという純粋な目的だけで、私利私欲は一切なかった。ただ日本の国内法に触れる危ない橋も渡らなければならないこともある。あるいは可罰的違法性の範囲内(このことは後で説明する)で法を犯したかもしれない。それを東京地検特捜部に突っつかれた。著者の罪状は背任と偽計業務妨害である。しかしそれは、ロシアを支援しつつ、北方領土をスムースに返還してもらうためには、必要悪であったし、ロシアもそれを利用していた。著者は「そもそも外交の世界に純粋な人道支援など存在しない。どの国も人道支援の名の下で自国の国益を推進しているのである。ロシアとしても、『日本の人道支援を有り難く受け入れる』との姿勢をとりつつも、日本のカネを使っていかにロシアにとって有利な状況を作るかを考えている」と言い、「日本は北方領土返還の環境を整えるという意図もあって人道支援を行っており、ロシアはそれをわかりながら受け入れているが、日本の意図通りには事を運ばせないという腹ももっている。ここから虚々実々の駆け引きが展開された」と言い、ロシアのこともちゃんと見抜いていた。

 私はこうした駆け引きを記した部分より、著者が逮捕され、特捜部の検事とやりとりする部分がものすごく興味があったし、面白かった。著者が検事の取り調べに応じることは、著者の仕事上知り得た事実や人間関係をしゃべることになる。それをすれば外交秘密、さらに特殊情報に関連する事項が表に出て、その結果、日本外務省の情報収集活動に支障きたすことになる。著者は言う。「情報の世界では『存在しない』という話は当事者が合意しない限り、最後まで『存在しない』のである。そして、『会っていない』という約束になっている場合は、誰が何を言おうとあくまでも『会っていない』のである。このルールについては徹底的な遵守が要求される。そしてそれを破った場合、ルールを破った者に対して属人的に責任が追及される。この世界には時効はない」からである。その上で、著者と特捜部の西村尚芳検事が調書の落としどころを模索する。
 その西村検事が著者を逮捕した三日後「これは国策捜査です」と言うのである。そもそも国策捜査というものが何であるか、私は知らなかった。
それは簡単に言ってしまえば、政府の政治的意図によって恣意的に行われる刑事事件の捜査のことなのだが、それはライブドアや村上ファンドの事件もそういわれている。
 で、もっと詳しくその国策捜査とはなんぞやと感じていると、西村検事が著者との取調中の会話に詳しく出てくる。長くなるが引用する。ここに引用したのはほとんどが西村検事の言葉であるが、当然会話である以上著者の言葉もある。しかし長くなるので省いてしまった。ただしどうしても必要なところは、最後に(著者)と入れた。


「あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」

「評価の基準がかわるんだ。何かハードルが下がってくるんだ」

「しかし、法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家に対する国策捜査は近年驚くほどハードルが下がってきているんだ。一昔前ならば、鈴木さんが貰った巣百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下がっていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない」

「そうじゃない。実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない。外務省の人たちと話していて感じるのは、外務省の人たちの基準が一般国民から乖離しすぎているということだ。機密費で競走馬を買ったという事件もそうだし、鈴木さんとあんたの関係についても、一般国民の感覚から大きくズレている。それを断罪するのが僕たちの仕事なんだ」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショーと週刊誌の論調で事件ができていくことになるよ」(著者)

「そういうことなんだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

「それじゃ外交はできない。ましてや日本のために特殊情報を活用することなどできやしない」(著者)

「そういうことはできない国なんだよ。日本は。あんたはやりすぎたんだ。仕事のためにいつのまにか線を越えていた。仕事は与えられた条件の範囲でやればいいんだよ。成果がでなくても。自分や家族の生活をたいせつにすればいいんだよ。それが官僚なんだ。僕もあんたを反面教師としてやりすぎなようにしているんだ」

「鈴木先生だって、納得できないと思うよ。『やまりん』なんて、既に国会質問でクリアーされた事件で逮捕されるんだから」

「賄賂だって、汚いのとそうじゃないのがある。鈴木さんの場合はそうじゃない方だ。潰れかかっているかわいそうな会社を助けたわけで、道義的には恥ずかし話じゃない。しかし、賄賂は賄賂だ。この辺は法適用のハードルが低くなってきたんだから、諦めてもらわなくてはならない」

「それは諦めきれないだろうな。それに可罰的違法性の観点からも問題があるんじゃないか」(著者)

「可罰的違法性については、一般の公務員が十万円現金で賄賂をもらったら、確実にガチャン(手錠をかけられるの意味)なんて、問題ないよ。以前のように、政治にはカネがかかるという常識を国民が認めなくなったから、『やまりん』でも鈴木さんがやられるようになったんだよ」

「国策捜査は冤罪じゃない。これというターゲットを見つけだして、徹底的に揺さぶって、引っかけていくんだ。引っかけていくということは、ないところから作り上げることではない。何か隙があるんだ。そこに僕たちは釣り針をうまく引っかけて、引きずりあげていくんだ」

「そうじゃないよ。冤罪なんか作らない。だいたい国策捜査の対象になる人は、その道の第一人者なんだ。ちょっとした運命の歯車が違ったんで塀の中に落ちただけで、歯車がきちんと噛み合っていれば、社会的成功者として賞賛されていたんだ。そういう人たちは、世間一般の基準からするとどこか無理をしている。だから揺さぶれば必ず何かでてくる。そこに引っかけていくのが僕たちの仕事なんだ。だから捕まえれば、必ず事件を仕上げる自信はある」

「特捜に逮捕されれば、起訴、有罪もパッケージということか」(著者)

「そういうこと。それに万一無罪になっても、こっちは組織の面子を賭けて上にあげる。十年裁判になる。最終的に無罪になっても、被告人が失うものが大きすぎる。国策捜査で捕まる人は頭がいいから、みんなそれを読み取って、呑み込んでしまうんだ」

「アハハハ。そうそう運が悪い。ただね、国策捜査の犠牲になった人に対する礼儀というものがあるんだ」

「罪をできるだけ軽くすることだ。形だけ責任をとってもらうんだ」

「被告が実刑になるような事件ははよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。国策捜査は、逮捕がいちばんの大きいニュースで、初公判はそこそこの大きさで扱われるが、判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された人々のことを忘れてしまうのが、いい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の腕なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追求するのはよくない国策捜査なんだ」


 検事がここまで言っちゃっていいのだろうかと思うけれど、でもこれだけはっきりとものを言う検事は逆にいい検事さんという印象を読む側にも与えるし、取り調べられた著者にしても、西村検事を悪いイメージでとらえていない。むしろこうして自分とのやりとりを本であからさまにしてしまったことで、西村検事の進退に何らかの影響を与えたんじゃないかと心配しているくらいだ。幸い西村検事は今は最高検検事になっている。
 さてここにも「可罰的違法性」という言葉が出てくる。著者はこの本で次のように説明する。

「可罰的違法性の観点とは、厳密に言えば法律違反だが、誰もがやっていることなので、あえて刑事罰を与えるには及ばないという意味だ。要するに『お目こぼし』の範囲内ということだ」と。

 つまり先にも書いたが、法律違反だけれど、それほど目くじらたてるものじゃない。だけどあえてそれをすることでものごとがスムーズに行くならそうせざる得ない。だからちょっとやってしまった。一方取り締まる方も、それじゃ仕方がないよなと納得できる範囲のことだと思う。しかしそれがだんだん許されなくなってきてしまっている。西村検事が言うように「ハードルが低くなってきている」のである。一般国民が許さなくなってきてしまっているのである。世間が許さないという範囲がだんだん狭まってきていて、ぎすぎすしてきているのである。そしてそれを作っているのが著者が言う「ワイドショーと週刊誌の論調」なのである。東京地検だって世論の風潮を完全に無視して捜査はできないのであろう。
 これは今盛んに新聞やテレビを騒がせている「偽装問題」にも通ずる。食の安全ばかりをマスコミが強調しすぎるため、少しの余裕も許されなくなってしまっている。食の安全を本当に考えるなら、BSEなどはもっともっと追求すべきなのに、それをしないで和菓子の表示偽装などに目くじらたてている。BSEは何十年後かには多くの患者が出ちゃうんだよ。そして確実に死んじゃうんだよ。本質を見抜かないで細かいことに目を奪われていたらえらいことになる。私は何においても多少のおこぼれはあってもいいと思っているし、逆にそれが物事をスムーズに動かしていくことになるのではないかと思っている。

 話がずれた。ではどうして著者と鈴木宗男氏に「時代のけじめ」をつけさせる必要あったのだろうか。それは小泉政権成立が大きく関わっている。小泉政権成立後内政、外交が大きく変化したのだ。著者の分析が面白く、さすがと思った。
 小泉政権成立後、内政では、ケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交では、地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換したのだという。
 「ケインズ型公平配分路線」とは今まで日本の政治が行ってきた、悪い言葉で言えばばらまき政治なのだろう。しかしそれはそれでみんなが、あるいは地方もある程度富を分配していた。
 ところがら「ハイエク型傾斜配分路線」とは競争原理を強化することによって、日本経済を活性化し、国力を強化することを目指す。従って官から民への権限委譲、規制緩和、個人が何よりも重要で、個人の創意工夫を妨げるものはすべて排除することが理想となり、経済的に強い者が自分たちがもっと強くなることで社会を豊かにするという路線である。
 そして外交に関しても、今までは困ったときはお互い様。仲良くやりつつ、問題を解決しましょうという路線から、日本人の国家意識、民族意識の強化をめざす。小泉さんの強行までとも言える靖国参拝などいい例であろう。著者はこれを「排外主義的ナショナリズム」という。
 この内政・外交路線の変更が鈴木氏をターゲットとしたことによって、二つの大きな政策転換が容易になったと言っても過言ではない。鈴木宗男氏は旧態の政治路線をそのまま行っていたのだ。そして鈴木宗男氏についていた著者も同様に逮捕されたわけだ。著者は次のように言う。

「鈴木宗男氏は、『公平分配モデル』から『傾斜配分モデル』へ、『国際協調的愛国主義』から『排外主義的ナショナリズム』へという現在日本で進行している国家路線転換を促進するための格好の標的になった」

「鈴木氏が国策捜査の対象となった大きな要因は、この二つだという見立てでまず間違いない。そして鈴木氏のパーソナリティー、さらに田中眞紀子女史との対決が、国民の目線から悪役鈴木宗男を形成する上で大きな役割を果たした」


 この小泉路線の歪みが、地方の疲弊、格差社会の形成をすすめた。それが先の参議院選挙で自民との大敗北となったのは周知の事実である。劇場型政治踊らされていた国民は、気がついたらとんでもないことになっていたことに気がついたのである。言ってみれば馬鹿踊りされていた国民が鈴木宗男氏を時代が断罪したのかもしれない。
 そしてさらに言わせてもらえば、西村検事がいう「ハードルを低くした」のは国民で、自分たちに余裕がなくなったことで、他者を許せなくなってしまっているところが、そうさせたのではないかなんて思う。そしてそれはいつか自分たちの首を絞めかねないことになるかもしれないのに、そう動いていることをわかっているのであろうか?

 この本は一外交官の逮捕だけじゃなくて、つい今まで進んできた日本の政治に警鐘を鳴らしているように思えてならなかった。


評価
★★★★★


書誌
書名:国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて
著者:佐藤 優
ISBN:9784101331713 (4101331715)
出版社:新潮社 (2007-11-01出版) 新潮文庫
版型:550p 15cm(A6)
販売価:740円(税込) (本体価:705円)

2007年07月29日

ジョン・ダンニング著『災いの古書』

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 元警官で古書店店主クリフ・ジェーンウェイの最新刊を読み終える。やっぱり本格派ミステリーは面白い。つまらん青春小説など屁みたいだ。
 さて、今回はクリフの恋人で弁護士であるエリンの昔の友人ローラ・マーシャルが夫殺しで逮捕されたことから物語は始まる。ローラの夫、ロバート・マーシャルはエリンの昔の恋人でもあった。
 ローラはエリンに弁護の依頼をするが、エリンにはためらいがあった。いくら昔の友人であっても、ローラはエリンの恋人であったロバートを奪った人物である。そのためエリンはまずクリフをローラの元へ行かせる。
 ロバートは蔵書家でもあった。調べてみると、本自体は大した値打ちのある本ではなかったが、そのほとんどに著者や有名人のサインがあった。つまり蔵書していたのはサイン本だったのである。
 ローラは最初自分が夫であるロバートを殺害したと自白したが、エリンやクリフ、そして地元の老弁護士のバリーはその自白に疑問を持ち始める。
 では誰がロバートを殺害したのか?そしてこの大量のサイン本は何を意味するのか?ロバートの蔵書を持ち出したバイヤーのおかげで、やがてこのサイン本に疑惑が生じ始める。
 う~ん、これ以上は書けない。書いちゃうとネタバレしてしまう。しかし、古本にまつわるミステリーは大好きだ。500ページもある本をあっという間に読んでしまった。
 これ以上話の内容には関われないので、違うことを書く。アメリカのミステリーは会話がやけに明るくて、ざっくばらんでいい。ロバートとエリンが恋人関係になった頃の話を次のように言う。

「そのとおり。あなたはアメリカの古書籍商協会に入り、各地で催される古書フェアに行くのよ。もちろん、私も同伴する。見習い兼、飢えた性の奴隷として」
「それはいい。特に最後のやつがね」
「皮肉を返したいところだけれど、あの晩、どちらがどちらを襲ったのか、思い出しちゃった」
「弁護士がすきそうな言葉を使えば、併発的な事態だったな。お互い同時にむしゃぶりついたぞ」
「あなたが玄関のドアをあけたとき、私、もう半分脱がされていたわ」
「ほんとうか?気がつかなかったな。それで通りにおっぽり出した半分は、なんだったのかな」
「パンティーは側溝のなか、ブラは消火栓に向かって放り投げたわ。ストッキング、靴、アクセサリーは歩道にまきちらしたのよ」
「どうりで気がつかなかったはずだ。きみはあの売春通りにすっかり溶け込んでしまっていたのさ」
「それで、いま、こういう関係になったわけね」

 なかなかじゃないですか!

評価
★★★★★


書誌
書名:災いの古書
著者:ジョン・ダンニング・横山啓明訳
ISBN:9784151704093 (4151704094)
出版社:早川書房 2007/07出版 ハヤカワ文庫
版型:15cm 558p
販売価:945円(税込) (本体価:900円)

2006年12月26日

重松清著『その日のまえに』

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 この本(文藝春秋刊)は自分の身近にいる人の死をテーマとした短編集なのだが、最初の「ひこうき雲」、「朝日のあたる家」、「潮騒」、「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、読んでいて何故か不快感が残った。気持ちがざらざらした。違うなと思った。人の死ってこんな感じで受け取れるはずがないし、変に格好つけているような気がしたのだ。
 ところがこれら短編は、この後に続く、「その日のまえに」、「その日」、「その日のあとで」の前章であったことを知る。これら3編に登場する看護師の山本さんは、「ひこうき雲」で小学校時代クラスメイトの死を身近に体験したし、僕に広告デザインを依頼した石川さんは、「潮騒」で余命三ヵ月という小学校時代の同級生が急に訪ねてきて、昔泳いだ海岸で一時を過ごした人達であった。
 それにしても、「その日のまえに」、「その日」、「その日のあとで」は堪えた。この場合、近いうちに「その日」が来るとを宣告された妻の和美と、妻の「その日」が近いうちに訪れるのだと覚悟をしなければならない立場の夫の僕とでは、死の受け止め方が違ってしまう。
 和美は残された時間で自分の人生の整理を始め、「その日のまえ」にまず、二人が一緒になった場所を夫ともに旅と称して訪れる。これに付き合わざるを得ない僕のことを思うとたまらない。和美には人生を途中下車しなければならない無念さがあるだろうけど、しかしそれに付き合わされる方のことを考えると、あるいは「その日のあとで」残された僕のような立場を考えると、これもやりきれない。

 「(病院へ行く前に)風呂からあがって髪を乾かし、歯を磨いておこうと洗面台の棚に手を伸ばした。
 スタンドに立つ歯ブラシは三本。青が僕、黄緑が健哉、白が大輔。和美は入院前に、自分の赤い歯ブラシを処分していた。
 手回しがよすぎるよな、と苦笑した顔が鏡に映る」

 その歯ブラシが傷んでいるので取り替えようと思い、確か買い置きがあるはずだと戸棚を開けて新しい歯ブラシを探す。そこには青、黄緑、白、そして赤の歯ブラシがあった。退院したら使うつもりでいたのか、いつもの習慣で買ってしまったものなのか。それとも病気になる前に買ったあったものなのか、分からないが、処分できなかった日常がここにある。あるいは赤い歯ブラシが断ち切られた日常を物語る。
 死後、和美あてに来るダイレクトメールもそうである。本人は自分の人生を整理し、後腐れない状態にしても、どこか整理しきれないところが出てきてしまう。きれいに整理してあると思えば思うほど、こういうほころびがさらに悲しみを誘う。このあたりの描写はうまいなぁと思った。歯ブラシという日常的なものから、その人の存在感をうまく表している。
 もし自分が和美のような余命を宣告されれば、やっぱり自分の人生の整理を始めると思う。取りこぼしのないような形にはしたいと思うが、それでもきっとこのような形で残ってしまう部分が出てくるだろうか?あるいは少しだけでもこうした取りこぼしはあった方がいいのだろうか?よく分からない。
 和美が看護師の山本さんに、家族に書き残したいことがあれば、手紙を渡すと促されて、書かれた手紙には「忘れてもいいよ」の一言であった。これは残された夫の僕に対する思いやりから書かれた言葉であろうが、これにもまいった。パソコンのようにクリック一つで完全に消去できるほど、思い出や感情は消去できないから、たとえそれが愛情からの言葉であっても、そうはいかないし、受け入れがたいのではないかと思った。


評価
★★★★★

2006年08月12日

三浦しをん著『まほろ駅前多田便利軒』

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 私のもう一つのブログで書いたようにこの本(文芸春秋社刊)を神田の三省堂本店で買った。直木賞を取った作品だから読んだわけではない。実は以前から題名に惹かれ、帯の内容紹介を読んで、面白そうな本だなぁとは思っていた。私の中では購入図書のリストに入っていたのである。
 で、せっかく三省堂まで来たのだから、何かめぼしい本がないかと思い、結局この本を買った。買って家に帰ったら、この本がサイン本であることが判明する。(別にどうでもいいのだけど・・・)

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 いやぁ~、久しぶりに全編笑わせてくれる本であった。面白かった。読んでいるうちに昔テレビでやっていた「傷だらけの天使」を思い出してしまった。
 地域に密着して仕事をする便利屋として多田啓介は、バスの間引き運転を疑っている岡から、その運転が間違いなく運行予定表通り運転されているかどうか、その実態を調べてくれという仕事の依頼を受ける。
 この仕事の前に実家に帰省するからチワワをその間預かってくれという仕事の依頼を受けていたので、チワワと一緒に岡に家に行く。
 多田は正月にこんな依頼をしても、バスの間引き運転が行われるわけがないと思う。何故なら正月に運転すれば、たぶん正月休みに仕事をしたということで、バスの運転手には特別な手当が出るはずだから、そんなことするはずがないからだ。
 多田はバスの運転状況を調べるのに夢中になっていた為に、チワワのことを忘れてしまい、探し回る。チワワは高校時代の同級生であった行天春彦が抱いていた。行天は行く場所がなく、多田の事務所に泊まることになる。
 これから多田と行天の同居生活が仕事とともに始まる。チワワの飼い主は約束の期日になっても現れず、飼い主は夜逃げをしていた。多田の事務所にもう一匹同居者が加わった。
 とりあえずはチワワの飼い主を捜したのだが、結局チワワの新しい飼い主を多田と行天は捜すはめになり、自称コロンビア人のルルという娼婦がチワワがほしいといってくる。ルルはどう見てもコロンビア人には見えない。行天が「なんでコロンビア人なの」と聞けば、ルルは「コロンビアの女を運ぶルートがあるのよぅ。あたし、国では毎日、フェンスの向こうを見ていたんだ。これを越えればアメリカだわ。って。すっごくたくさんの星が見える夜、あたしは友だちとフェンスを越えた。そしたらマフィアが待っていて、コンテナに積まれて、着いたら日本だったのぉ」と言う。多田はその話を聞いて、コロンビアはアメリカとはつながっていないぞと思う。
 チワワのもとの持ち主の子供に新しい飼い主を捜して、今度まほろ市に来たとき、新しい飼い主を紹介してあげるからと多田は言った以上、その飼い主が娼婦じゃまずいと行天に言う。行天はなぜ娼婦じゃまずいの。職業に貴賤などないでしょうと言い返される。
 結局チワワはこのルルと一緒に暮らすハイシーに手渡された。彼女らは小さな犬を飼いたかっただけにチワワは大事に飼われた。元の飼い主であった子供が訪ねてきたとき、最初はルルとハイシーに戸惑ったが、すぐに彼女たちが自分のチワワを大切に育ててくれることが分かったし、自分をもてなしてくれるルルとハイシーたちと仲良くなった。この事務所で起こることはすべてこんな調子進んでいく。

 塾で帰りが遅くなるので、子供を迎えに行ってほしいという仕事の依頼がくる。こんな物騒な時代なので子供の帰りが不安だというのである。しかし子供の方は、家では帰りにはちゃんと迎えがつけているという親の見栄で多田たちに頼んだこと見抜いていた。両親は共稼ぎで帰りが遅かった。
 ある時多田はその子が塾へ行くバスの中で見かけたが、挙動がおかしいのに気づく。彼は座席のシートの間にスティック状の砂糖のようなものを隠していたのだ。覚醒剤の売人の手助けをしていたのであった。成り行き上、多田と行天は子供を救わざるを得なくなり、以前ハイシーにつきまとっていた男を行天が締め上げたことがあり、その男から、覚醒剤の売人の元締めを捜し出す。
 子供にもう手を出さないこと、残っているスティック状の砂糖を受け渡す条件として、売人に自分たちがいつも行っているお弁当屋でノリ弁18個とシャケ弁23個を買ったら、その時一緒に渡してもらうからという条件を多田が出し、行天は「多すぎ」と思うのだった。
 その覚醒剤の元締めが女子高生を多田の事務所に連れてきて、かくまって欲しいというのだ。その女子高生、まほろ市で起こった両親殺害事件の犯人と同級生であった。マスコミやクラスメイトがうるさいので星(覚醒剤の元締め)に助けを求めたらしい。身の安全を考えるならその元締めの所にいた方がいいはずだと多田は思うのだが、そのやりとりがふるっている。

「星くんは、『俺はカタギじゃないから、清海に迷惑がかかる』って」
「カタギじゃないやつと女子高生が、なんで知りあいなんだ」

 これにはさすが吹き出してしまった。しかも電車の中で(恥ずかしかった)
 妙な人間と遭遇する確率が高い気がするのは、便利屋の仕事柄なのか、行天のせいなのか、多田は自分の仕事を振り返るのだが、ボケかましているところがあっても、押さえるところは押さえているし、締めるところは締めている。多田にしたって、行天にしたって、ちょっと性格的にぬけてるところはあるけれど、極めて常識的なのである。その二人が、非常識な世界に巻き込まれるから、この話は面白いのだ。
 もともと便利屋に依頼する仕事って、本来自分たちで出来ることがほとんどだろう。それをわざわざお金を出して頼まなければならないところに、もう常識外のことが発生していて、その家族の暗い部分を垣間見ることになってしまう。しかも多田にしても行天にしても自分たちの過去を引きずりながら生きているところに、この話が面白いだけでなく、悲しみをにじませている。


評価
★★★★★

2006年06月02日

リリー・フランキー著『東京タワー』

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 この本も気になっていた。まして今年本屋の店員が一番いいといった「本屋大賞」を受賞しただけに、読んでみたかった。

 親戚の家に間借りするほど著者と母親は貧しかったが、けれどこの町で暮らしていた人々、子供は、金がない、仕事がないと悩んでいたかもしれないが、自らを「貧しい」と感じたようにはまるで思えなかったという。
 著者は言う。「東京の大金持ちのような際立った存在がいなければ、あとは団栗の背比べのよなもので、誰もが食うに困っているでもないなら、必要なものだけあれば貧しくは感じない。
 しかし、東京にいると『必要』なものだけしか持っていない者は、貧しい者となる。東京では『必要以上』のものをもって、初めて一般的な庶民であり、『必要過剰』な財を手にして初めて、豊かなる者になる」と。
 なるほどそうなのかもしれない。自分たちと比較する対象が際立っていれば、それは貧しくもなり、妬みにもなる。
 読み進んでみると、この著者はほぼ私と世代的に同世代だろうと感じた。筑豊の炭坑の街で著者は子供の頃を過ごした。

 「蜂の巣を棒で突く。うんこを見つけたら爆竹を仕掛けて、ギリギリまで逃げない。肥溜めに棒を差し込み、その先端に付いたうんこを人んちの洗濯物に付ける。カエルの皮を剥がして肛門に爆竹を。
 最低である。子供は愉快犯だ。モラルよりも、楽しさが勝ってしまう。しかし、完全犯罪を成し遂げる知恵はない。結果、くまん蜂や足長蜂に刺されて何度も病院へ運ばれる。うんこまみれになる。洗濯物の主にグーで本気で殴られる。カエルの夢にうなされる。そうやって、悪いことをするのがどんどん怖くなる」

 そうなのだ。私たち子供の頃は、こうしたいい加減さ、あるいは残酷さをしてきたから、悪いことをすることが怖くなり、してはならないということが潜在的に意識の中に刷り込まれていった。
 言い古されたことかもしれないが、今の子供達はゲームの中で、バーチャルな世界で、そういった悪さや残酷さを行う。そこには痛みなど実際に感じない。負ければリセットしてやり直しのきく世界だけが刷り込まれ、成人になっていく。これではおかしな子供、大人が出てきても不思議じゃない。思うのだけど、こういった残酷さ、悪さ、あるいは危険を子供の頃に、子供なりに実際に体験すべきなのではないかと思うが、どうだろう?

 著者が子供の頃駄菓子屋で売っていたものや飲み物が懐かしかった。ベビーコーラに串刺しのカステラ。クッピーラムネにチロルチョコ。ゴム人形にに指でネバネバやると煙の出る魔法の薬、チクロやサッカリン満載の粉末ジュース、当たりの入っていないクジ、ねぶりクジ。それと米屋から配達されるプラッシーなどなど・・・。よく覚えているなぁと感心しちゃった。

 こうして著者は成長していくが、この著者はオカンの心知らずというか、母親が苦労して働いているのを分かってはいるのにどうしようもなく、大学は留年するは、やっと大学を出ても大した仕事もせずに、家賃を滞納して追い出されるは、サラ金から金は借りるはで、迷惑のかけっぱなしであった。自分でもこの生活がいいとは思っていないのだが、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると、そういう生活に巻き込まれ、流されていく。

 「当たり前になれると思っていたその『当たり前』が、自分には起こらないことがある。誰にでも起きている『当たり前』。いらないと思っている人にも届けられる。『当たり前』が、自分には叶わないことがある。
 難しいことじゃなかったはずだ。叶わないことじゃなかったはずだ。
 人にとって『当たり前』のことが、自分にとっては『当たり前』ではなくなる。世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては『奇蹟』に映る。
 歌手や宇宙飛行士になることより、はるかに遠く感じるその奇蹟。
 子供の頃の夢に破れ、挫折することなんてたいした問題じゃない。単なる職業に馳せた夢なんてものは、たいして美しい想いじゃない。
 でも、大人の想う夢。叶っていいはずの日常の中にある慎ましい夢。子供の時は平凡を毛嫌いしたが、平凡になりうるための大人の夢。かつて当たり前だったことが、当たり前でなくなった時。平凡につまずいた時。
 人は手を合わせて、祈るのだろう」

 「日進月歩、道具は発明され、延命の術は見つかり、私たちは過去の人類からは想像できないような『素敵な生活』をしている。しかし、数千年前の思想家や哲学家が残した言葉、大昔の人間が感じた『感情』や『幸福』に関する言葉や価値は、今でも笑えるくらいに、なんにも変わってはいない。どんな道具を持ち、いかなる環境に囲まれても、ヒトの感じることはずっと同じだ。
 感情の受け皿には、もう可能性はない。だから、人間はこれから先も永遠に潜在する能力を出し切ることができないだろう。
 『幸福』という、ひまわり畑にいるおばけを意識した時から、まだ見ぬ己の能力など一銭の価値もなくなる」
 こうして厭世的になりつつも、いくつになってもオカンの力を借りて生きていく。

 最初はまったく、このぐーたらが何を言ってるんだと思って読んでいたが、そんな人間であっても母親の苦労は身にしみて感じてはいる。自分の父親がちっとも父親らしくなく、ほとんど母と二人で生きてきただけに余計である。それは痛いほど分かっていたことがせめてもの救いである。

 「ボクを育ててくれたのは、オカンひとりなのだから。オトンは面倒を見てくれるけど、ジョン(ジョン・レノンのこと)のように育ててはくれなかった。そのための時間を持ってはくれなかった。口とお金では伝わらない大きなものがある。時間と手足でしか伝えられない大切なことがある。
 オトンの人生は大きく見えるけど、オカンの人生は十八のボクから見ても、小さく見えてしまう。それはボクに自分の人生を切り分けてくれたからなのだ」

 そんなオカンが甲状腺のがんに罹り、一度目は地元で、二度目は東京にいる著者の元に住むようになってから、手術を受ける。二度目手術の後、意識を回復した母親が手鏡を使ってその外の風景であるライトアップされた東京タワーを映して見ている場面がある。
 ふと自分の母親が8時間かかった胃がんの手術を終え、集中治療室でその夜むかえたことを思い出した。タバコが吸いたくなり、灰皿のある喫煙室から、窓の外を見た。この病院は駅から少し奥まったところにあり、近所にはラブホテルが林立する。窓からはラブホテルのけばけばしいネオンの点滅と、ホテルの窓からうっすらと明かりがもれてくるのが見えた。そこでは性の営みをはげんでいる人間達がいて、こちらでは生死をさまよう人間いる。その妙なコントラストに何も言えない感情が私にはあったのを思い出した。
 オカンは甲状腺のがんは何とか手術でき、声帯も無事だったのだが、今度は胃がんである。しかもスキル性の進行胃がん。
 極楽とんぼのオトンも「お母さんのぉ・・・・。今度はだめかもしれんのぉ・・・・。」とつぶやく。

 この時になって改めて思い知る。

 「ぐるぐるぐるぐるぐる。ゴウゴウゴウゴウ。ぐるぐるぐるぐるぐる。ゴウゴウゴウゴウ。
 巨大な竜巻。運命の渦巻。ボクの一番恐れているものが、どんどん勢力を増してこちらに向かってくる」

 「母親に手を引かれている子供が、その母親の身長など気にしたことがないように。
『たわむれに母を背負いてそのあまりの軽さに泣きて三歩歩まず』
石川啄木が目を潤ませて立ち止まったよ