2011年10月29日

小路幸也著『オブ・ラ・ディオブ・ラ・ダ』

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 毎年出るのかどうか知らないが、楽しみにしているシリーズの新刊が出るのはうれしい。その新刊を書店の平台に見つけたときは、やっぱり本は書店で買うべきだよな、とつくづく思う。新刊の情報はネットでも取れるのだけれど、すべてを網羅出来る訳じゃない。しかも本として見てみないとよくわからないものも多いので、どうしても書店にほぼ毎日足を運ぶこととなる。それが楽しいし、今日はなかったか、と寂しい感じになることもある。

 で、この本である。シリーズ第6弾である。例によってさちさんの堀田家家族構成の説明から始まる。シリーズも進むうちに家族も多くなり、その関係も複雑になるので、見開きにある「登場人物相関図」がないと誰だかわからなくなる。これだけ多くの人たちが堀田家を中心にがやがやわいわいやっていくわけだから、話は面白くなって当たり前だ。小難しい小説と違って、微笑ましく読めるのがいい。
 今回もドタバタホームドラマを展開してくれる。東京バンドワゴンの店を使って映画撮影が行われることになり、その時帳場の机に古本を積み上げて、古本屋さんの風景を演出しようとした場面がある。それを見て勘一が怒ってしまうのである。
 勘一が怒った理由が次のようなのだ。もちろんサチさんが説明してくれる。


 これは、しょうがないですね。古本を乱雑に積み上げたのは、いわゆるステレオタイプな古本屋のイメージを出そうとしたのでしょう。けれども、我が家ではそんなことはしません。積み上げた古本はただ本を傷めるだけで何の得にもなりません。古本はただでさえ年月を経て痛んでいるのです。それをできるだけきれいな状態に戻して、我が子のように慈しんで、それを求める人に丁寧に手渡しするのが<東京バンドワゴン>なのです。


 これを読んで確かに古本は古本と呼ばれれば呼ばれるほど、年月が経っているわけでその分経年劣化をどこかに起こしている。そのことを、身を持って感じている人であれば、積み上げることは出来ない。なるほど、と思った。
 また<本棚の飾り>という言葉を教えてもらった。これは金持ちが見栄で書斎や応接間に飾る全集とか特装本のことを言う。
 それで思い出したことがある。たぶん以前どこかで書いたかと思うけれど、私が学生時代本屋でアルバイトしていた頃、筑摩書房などの高額な個人全集を、会社に配達したことがある。購入者はそこの社長さんである。領収書を会社の受付か経理の人に渡したとき、その人がぼそりと「社長の書棚を飾る本だね」と言ったのをよく覚えている。この人は社長さんが実際この全集を読まないことを知っているのであった。この社長さんは数種類の全集を予約していたし、言われれば確かに見栄えのする本ばかり買っていた。

 サチさんと勘一の言葉がいい。まずはサチさんから。堀田家のドタバタが終わって、毎度話を締めくくる時に出てきた言葉。


 人は弱いですから、いろいろ間違いを起こしますよ。それは誰にでも、大なり小なりあることです。
 でも、それに囚われていては、生きている甲斐がなくなってしまいます。大きな過ちでも、小さな過ちでも、それを償うためにしなければならないことは同じですね。
 しっかりと自分の足で歩いて行くことですよ。周りの人に支えられても、それが恥ずかしくても、自分が情けなくても、歩いていかなきゃならないんです。
 人間は、動物ですからね。そして動くから動物というんでしょう。だから歩かなきゃ、動かなきゃ駄目です。止まってはいけません。
 そしていけばきっといつか、傷は癒えるものです。

 勘一の言葉いい。


 人ってやつはね、失ったもんをいつまでも抱えてちゃあ荷物になって歩けなくなっちまう。忘れなきゃならねぇんだ。自分の中できちっりケリをつけて、そこに置いていかなきゃならねぇ。そいつが喪の仕事さ。


 甘っちょろい言葉だけど、こういうのに弱いのである。もともとホームドラマである。これでいいのだ。
 連続ドラマだろうから、このシリーズはまだまだ続くことを願う。私の楽しみとして、このシリーズを読んでいきたい。


評価
★★★★


書誌
書名:オブ・ラ・ディオブ・ラ・ダ ― 東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087754001
出版社:集英社 (2011/04 出版)
版型:302p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年10月25日

大沢在昌著『絆回廊』

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 新宿鮫を読むのは久しぶりだ。このシリーズは最初からずっとつきあってきているが、もうシリーズ10巻目のなったんだ。本の帯によると、五年ぶりの最新刊とある。新刊が出るたび毎度毎度ハラハラ、ドキドキしながら、スピーディな展開に、時間を忘れてきた。今回もそうであった。やっぱり長いこと読み続けているシリーズ物はいいものだ、と思う。土曜日の夜から読み始め、日曜日テレビを見るのも忘れ、読み続けた。

 話は長いこと刑務所から出てきた大男が、ベテランの薬売りに、「チャカは手に入るか」とたずねるところから始まる。男は警官を殺すために、銃が必要だと言う。男は自分の妻と息子を切り離したのは、その警官であって、その警官を殺すだけを考えて長い刑務所生活を耐えてきた。
 それを聞いた鮫島は、男の正体を探し、警官殺し防ごうとする。男は一体誰なのか?そして男のターゲットである警官とは誰なのか?
 男は今は解散した須藤会に貸しがあるとも言っていた。鮫島は須藤会の元組長の家を訪ねたが、詳しい情報を得ることができなかった。しかしその組長はその後撲殺されて、埋められていた。
 鮫島の捜査が進むなか、中国残留孤児の二世、三世で構成される「金石」というグループが浮かんでくる。須藤会の元組長を撲殺したのは「金石」ではないかと鮫島は思い始める。
 解散した須藤会の後、違う会に移り、今は若頭補佐に成り上がっている吉田という男に、その大男は銃の手配を依頼する。しかし吉田は銃の手配を「金石」に振った。そして大男と「金石」メンバーが言い争いになり、メンバーの一人が殺された。
 
 その「金石」に薬を流していた中国側の男に陸永昌という男が来日する。この男こそ、刑務所から出てきた男の息子であった。永昌は「金石」を捜査している鮫島を殺してくれと依頼を受け、ヒットマンを手配する。

 一方、鮫島の恋人、人気ロックバンド「フーズ・ハニイ」のリードボーカル晶から、バンドメンバーに薬をやっている奴がいて警察が内偵に入っていることを聞かされる。もちろん晶は薬をやっていないことを鮫島は分かっていたが、晶がいるバンドメンバーが薬をやっていたことになると鮫島の立場も危ういことになっていく。だが鮫島は晶との関係が途切れてしまうなら、警官を止めてもいいと思っていた。

 そんな中、男が殺したいという警官が鮫島の上司桃井であることが判明し、鮫島は晶の関係で警官を止めるわけにはいかなくなってしまう。恋人の晶を取るか、唯一鮫島が心を許せる桃井を取るか、板挟みになるが、晶はマスコミに鮫島との関係はとっくに終わっていて、今は関係ないと言い、鮫島との関係を終える。

 大男の身元引受人となってくれた、ゲイバーのママの店に陸永昌が訪れ、ママは陸永昌が大男の息子であること確信し、その男を呼び出す。鮫島と桃井は、その店に男が現れるものと、その店に入った。桃井と大男が、大男と息子がここで鉢合わせることとなる。鮫島と桃井は大男を逮捕しようとする。しかしゲイバーのママは大男を逃がそうとして、男から預かったマカロフを発砲し、玉は桃井に当たり、桃井は死んでしまう。あの桃井さんが殺されてしまった。この後鮫島はどうなるんだろう、と心配してしまう。まして晶との関係もなくなってしまったから、余計である。
 それでも鮫島は「金石」の逮捕に向かうのである。

 鮫島と晶との関係。大男と陸永昌との関係。大男とゲイバーのママとの関係。鮫島と桃井の関係。それぞれの絆が事件に複雑に絡み合い物語は一気に進んでいった。なかなか読み応えがあった。事件の展開のスピーディーさも今回堪能した。
 次作が気になるとともに、楽しみだが、また5年後なのか・・・と思うと、ちょっと長いなと思ってしまう。


評価
★★★★


書誌
書名:絆回廊 ― 新宿鮫10
著者:大沢 在昌
ISBN:9784334927585
出版社:光文社 (2011/06 出版)
版型:433p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2011年03月04日

東野圭吾著『麒麟の翼』

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 正月に放映された加賀恭一郎シリーズを見て知ったのこの新刊を楽しみに待っていた。今読み終えてかなり満足している。このシリーズは最初から読んでいるが、『新参者』から作品の厚みが増したと思っているので、今回も読み応えがあった。
 今回の事件現場は日本橋である。日本橋の欄干に胸にナイフが刺さった男がもたれかかっていた。発見したのは交番の巡査であった。事件が発生して緊急配備されたが、そこに一人の不審な男が見つけだされたが、男は大通りを飛び出し、トラックにはねられ、意識不明の重体になった。男は殺された男の鞄や財布を持っていた。犯人はトラックはねられた男なのか?そして日本橋の欄干にもたれかかるように死んでいた男は、何故ここに来て殺されたのか?加賀らの捜査が始まる。
 殺された男は『カネセキ金属』製造本部長青柳武明で、江戸橋にある地下道でナイフで刺され、自力で日本橋まで移動し、橋にある西洋のドラゴンそっくりな麒麟像に祈りを捧げるように背中を丸めて死んでいた。
 トラックにはねられた男は、持っていた免許証から八島冬樹と判明する。八島は中原香織と同棲していた。二人とも身寄りがなく、田舎から二人してヒッチハイクで日本橋まで来て、以来東京で慎ましく暮らしていた。八島は派遣社員でカネセキ金属で働いていたが、契約期間前に会社を解雇されていた。八島はカネセキ金属で事故にあい、首を痛めた。一方カネセキ金属は“労災隠し”のため、八島の労働事故を隠すために、契約期間前に解雇したのであった。警察は八島がそれを恨んで、製造ラインの責任者である青柳を恨み、刺したのではないか、という結論に達しようとしていた。しかし八島は意識不明の重体であり、その真相が聞けずにいた。同棲してた中原香織は冬樹がそんなことをするわけがない、と八島の犯行を否定する。香織は妊娠していた。そして八島は死亡する。
 加賀らは、青柳が普段の行動範囲外である日本橋にどうして来たのだろう、その理由を探り始める。調べているうちに、青柳は日本橋の七福神巡りをしていたことが分かった。特に水天宮には折り紙の折り鶴を賽銭箱においていた。何故水天宮なのであろうか?普通水天宮と言えば安産祈願に訪れる人でいっぱいなのだが、ここは水難除けの神様でもあった。
 青柳の一人息子悠人は友達から「キリンノツバサ」というブログの存在を知らされる。サイトをのぞいてみると、そこにあった写真に驚く。そこには3年前中学のプールで起こった事故で、おぼれたリレーの仲間である吉永友之の姿があった。吉永はそのとき救出されたが、以来意識が戻らずにいた。ブログのタイトルは「キリンノツバサ-いつか羽ばたく日を夢見て」とあり、意識の戻らない息子のことを思い、母親が立ち上げていたブログであった。
 吉永は生きていた。3年前水泳のリレー競技で敗退した悠人らチームは、その責任を吉永に帰した。ただでさえ悠人らは吉永をよく思っていなかったので、試合後、学校のプールに忍び込み、“特訓”と称して、吉永にいじめを行い、吉永はおぼれてしまったのだ。 悠人はそのブログを見て、今の自分に何が出来るか、探り、母親が書いた記事に、息子の事故のあと水難除けによく水天宮に通ったことを目にする。そして今軽井沢にいる吉永母親に水天宮の写真を送る。以来ブログ内で吉永の母親と悠人とやりとりが始まる。悠人は贖罪の意味で千羽鶴作り、水天宮の賽銭箱において、その写真を母親に送った。
 ある日そんな悠人と吉永の母親とのパソコンでのやりとりを、父親である武明が見てしまう。悠人はそれ以来吉永の母親とのやりとりを止めたが、父親の武明がそれを知らないうちに引き継いでいた。武明は3年前に起こった事故に疑いを持ち始め、調べているいるうちに殺害されたのであった。犯人は悠人がいた競泳チームの一人で、友人であった杉野達也であった。八島冬樹は青柳武明を偶然見つけた、武明が倒れていたとき、魔が差して(生活にも困っていたので)、武明の鞄や財布を奪ってしまったのであった。そして不審者として警察に追われるうちに、トラックはねられ、死亡したのであった。
 3年前の事故を隠さなければこんなことが起こらなかった。事故として処理しようとしたのは顧問の糸川であった。糸川は子供たちを傷つけたくなかったと釈明するが、それを聞いた加賀は糸川の襟首を掴んで言う。

 「ふざけるな。何が傷つけたくないんだ。あんたは何が悪いかわかっていない。なぜ杉野は青柳さんを刺した後、自首しなかったと思う?それはあんたが間違ったことを教えたからだ。過ちを犯しても、ごまかせば何とかなる-三年前、あんたはあの三人にそう教えたんだ。だから杉野は同じことを繰り返した。同じ過ちを繰り返したんだ。青柳さんは、あんたに間違った教育を施された息子に、正しいことを教えようとしたんだ。それがわからないなら、教師なんか辞めろ。あんたに人を教育する資格なんてない」

 それを言って加賀は汚らわしいものを捨てるように手を離した。刑事をやる前に加賀は一時教師をやっていたことがある。それだけにこの言葉は重く感じる。
 冬樹を信じていた香織は、おなかに子供を抱え国に帰る。そのとき香織は加賀に、

 「今日はどうもありがとうございました。それから、冬樹君の疑いを晴らしてくれたこと、一生忘れません」

 「そんなことは忘れてもいい」加賀はいった。「忘れちゃいけないのは、その子のために何があっても負けないと決心したことだ」
 なかなか格好いい。この作品もまたテレビ化するかな、と思った。もちろん加賀恭一郎の役は今までのように阿部ちゃんで・・・。楽しみである。

 最後にこの本の最後にこんなことが書かれていた。

 「著者は本書の自炊代行業者によるデジタル化を認めてはおりません」

 奥付にも同様のことが書かれており、代行業者等の第三者依頼してスキャンやデジタル化することはたとえ個人や家庭内の利用でも著作権法違反です、と書かれている。

 そうなんだ。

 奥付の文章はともかく最後にある「自炊代行業者」というのはちょっといただけない。「自炊」とは2ちゃんねるが由来の隠語じゃなかったかな?でもこうしてはっきりとそれを認めないぞ、というのは本を大切にする人と、著作権を守る著者の姿勢がはっきりしていていい。


評価
★★★★


書誌
書名:麒麟の翼
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062168069
出版社:講談社 (2011/03/03 出版)
版型:325p / 18cm
販売価:1,680円(税込)

2011年02月18日

高橋秀実著『からくり民主主義』

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 この本は先に読んだ村上さん本で知った。村上さんがこの本の解説を書かれていて、それが先の本に収録されていた。それを読んでなんか面白そうと思い、手に取った。

 確かに面白かった。

 「結局本当のところはどうなのよ」というところ追求したかったのだろうが、この本は取材すればするほど、わからなくなっていく。そしてもしかしたら様々な反対運動は、結局自分たちの現在の生活、あるいはこれから先を保証させる担保じゃないかと疑いたくなっていく。こうなると本当にみんなが平和や安全や自然環境保護など望んでいるんだろうと思ってしまう。それを壊す人間たちに、心から反対しているのだろうか、と思いたくなる事例がいくつも紹介されている。
 あるいは市民運動が本当に世を憂いて行われていたとしても、いつの間にか本来の意味を失ってしまっている現実を知らされると、ますます迷走していく感じだ。

 たとえば諫早湾干拓問題については最近民主党のバカ政権は諫早湾の堤防を開けると決めたみたいだが、ここでは有明湾の漁民と長崎の農民との対立が問題となっている。ニュースにもなっている。けれどニュースになればマスコミの取材で宿泊客が増え、旅館は商売繁盛なのである。
 特に漁民の「宝の海を返せ!」という主張が干拓事業が環境破壊に写って、大きく取り上げられている。中でも有明海の海苔の不作が問題となっているらしいが、著者が調べてみると佐賀県、福岡県、熊本県の漁協によってはばらつきがあり、中には堤防締め切り後、以前より海苔の出来がいいところもある。干拓事業と海苔の不作の因果関係は説明できないらしく。海苔の出来不出来は徹底した管理と腕で、粘りと頑張りであると言い切る一部の漁民もいる。しかしそれはタブーである。それを言うと他は腕がなかったせいだと言われるので、それ以上のことは言ってはいけないらしい。しかも海苔の養殖には不作はつきものらしく、今回はその被害が大きかったのでその原因を干拓事業に持って行っただけのことらしい。
 通常天災による被害の場合、融資の適用を受けるのだが、今回はこのようにばらつきがあるため融資が適用されなかった。そこへ持ってきて海苔漁民は莫大な設備投資を堤防着工前後にしていた。設備投資の主な理由はコンビニのおにぎりである。その需要が増して、単価の安い海苔を求められ、漁民は大量養殖を余儀なくされた。狭い場所に海苔網を張れば、病気にもなる。しかもコンビニ業者は品質管理が厳しいので、異物の混入は許されないから異物除去の機械も購入しなければならない。もちろん返品も多くなっていた。大量養殖は場所の確保も必要になり、その前払い賃料も馬鹿にならないらしい。
 こういう状況下で、海苔が不作になれば、その怒りを干拓事業に持って行くしかなくなっているのらしい。長崎側の農民にすれば「有明海の潮の流れは反時計回りです。つまり熊本、福岡、佐賀の海に捨てられた汚染物質が、潮の流れに乗って諫早湾に辿り着いていたんです。ノリ養殖の酸処理剤、工場排水、PCB・・・・すべてわれわれの所にずっと流れ込んで、奇形魚まで見つかっていたくらいですよ。潮受け堤防ができる前に、すでに干潟は死んでいたんです」となるらしい。

 あるいは今国会でもめている沖縄米軍基地問題の取材だと、本音はどうなんだろう、と思えてくる。この本を読んでいくと、沖縄の基地問題はけしからんと怒っているわけにはいかなくなっていく。
 たとえば今問題となっている普天間基地。この基地は世界で一番危険基地と言われている。基地が市街地にあるからだ。けれどこの本によると、市街地が出来たのは基地が建設された後であるらしく、要するに基地の「地の利」を生かし、「計画的に」次々と建物が建ち、多くの人が移り住んできたから、こういう状況になったという。
 こんなことはまったく知らなかったし、報道もされていないと思う。だから私はまったく逆にもともとあった市街地に隣接して後で作られたものだと思っていた。
 さらに普天間基地には2000人の軍用地主がおり、年間47億円借地料を受けとっている。返還はかなりショックだったらしく、地主のアンケートでは70%が「返還を希望しない」と答え、47%「借地料が切れると生活が困窮する」とも答えている。地主の6割が60歳以上であり、返還され厄介事を抱え込むより、借地料暮らしが楽と考えているわけだ。著者は「土地を奪われたという『犠牲』は、今はすっかり特権なのだった」と書いている。

 「反対する人を非難してはいかん。反対は政府を刺激するから、いい方向へ物事がいく。言ってみれば、ソバと七味唐辛子の関係なんだな。ソバに七味唐辛子を入れると、おいしくソバが食べられる。反対分子が頑張れば、それだけ得るものは大きいんだ。でも、七味唐辛子の中にソバを入れて食べる人はいないでしょ。食えたもんじゃない。本当は誰もそんなことは望んでいない」

 地主の代表は毎年予算内示期間に防衛省施設局を訪れ、借地料の陳情を続ける。“反対”のおかげで要求額は満額通り。年間821億円(2000年沖縄県借地料総額)、年約4%の上昇を維持している。もちろんこれは税金である。だから沖縄県知事が日本中に基地被害や事故を訴えれば訴えるほど、いい宣伝となり、彼らにとっていい功績となっていくのだ。
 また基地がある土地を返還されても実際問題困るらしい。実は沖縄の土地所有の公図は沖縄戦ですべて焼失している。その上フェンスで囲まれてしまったので、どこの誰の土地であるかはっきりしないそうだ。戦後自己申告によって面積を加算していくとフェンスを越えて海まではみ出してしまったらしい。いない人間が土地を持っていたと主張したためである。
 もしこれが返還されると、“わからない”現実が出てくる。電気や水道などのインフラをどう通すのか?境界線がはっきりしないため、間違いなく所有権で問題が生じるらしい。さらにアメリカ軍が実弾演習でミサイルや銃弾がバンバン打ち込まれていて、中にはかなりの不発弾が残っている。それを返されたって、今更どうしようもない。
 普天間の移設先が辺野古は自然の海といわれ、ジュゴンが生息する海と報道されているいるが、地元ではジュゴンを見た人はいないらしく、ただしらけるだけだそうだ。辺野古の海を地元の人は次のように言う。

 「汚い海ですよ。ここは採石場から流れる赤土や生活排水が垂れ流しですからね。いまさら、突然、“海は宝”と騒がれてもねえ・・・」

 同じことが若狭湾の原発銀座のもある。若狭湾にはわずか直線50キロメートルの海岸沿いに15基の原子炉が並んでいる。ここまで原発が増えてしまうと、今更「危険だ」と言われても今ひとつピンとこなくなる。辺鄙な町に道路や橋が欲しければ、原発を作れば早いと大手ゼネコンの熊谷組に持ちかけられ、それを受けいていく。もうこのときにはすでに原発があったから、ある以上これを誘致しても同じだ、という論理である。もちろん反対運動もある。そのために工事が中断することもある。けれど工事が中断すれば、換算電力から支払われる漁協への補償費は2億8000万から4億3000万と跳ね上がっている。こうなれば当然それにあやかろうとして慌てて漁業権を主張する輩も出てくる。反対派は住民に次にように言われる。

 「反対運動があれば関電はようけ出しますから、みんなあんたのおけげだ」と。

 「反対運動は大切ですわ」

 「原発誘致は全員賛成ではあかんのですわ。大体、賛成55、反対45くらいがちょうどええんですわ」

 「全部賛成は困ります。原発ベッタリになってはいけませんわ。これくらいのバランスだと、安全管理もしっかりやってもらえるから、ちょうどいいんですわ。運動が盛り上がって反対が50を超えたときは、しばらく冷却期間をおくんです。そうするとやっぱり原発に頼らざるをえないという気になる。そして反対熱が冷めたあたりにすっと始める。それが理想です」

 「若狭は20年以上、どこかしらで原発を建設していました。ずーっとバブルだったんです。それが二年前、もんじゅの建設が終わって、何もなくなり、さあ、ポスト原発は何を、と考えたところ、やっぱり原発しかないんですね。もうそういう体質になってしまっている。あれ(原発)がくればまた夢が、と地元では思ってしまうんです。確かにこんな金をもってきてくれる企業は他にはありませんから」

 原発が出来ると、町には巨額な交付金が入る。過疎地域の指定を受けていた町の財政は、原発によって一気にふくれあがるのである。沖縄の時もそうであったが、ここでも「反対の賛成」なのである。
 以上が反対の裏側の一面である。これをどうこう言うことは私には出来ないけれど、ただテレビニュースに流される反対運動にはいかにも住民が困っているという側面だけを放映していくが、こういう側面もあって不思議じゃない。いやあるんじゃないかと思っていても、一切そんな報道はない。弱者が困っているというのが視聴率がとれる。個人のそうした感情を正義に転換する際、『世間』なるものが現れてきて、それが世論となるのだから面白いものだ。今民主党に再度抱きつかれている社民党は普天間基地の移転を強く主張していて、沖縄の味方を演じているけれど、もしそうなったらその後をどう考えているのか、聞きたくなってくる。特にこんな話を読んでしまうと余計にそう思う。

 最後の笑ってしまったことを二つ書く。一つは「小さな親切」運動である。これは小さな親切が荒廃した日本の社会を救うというものである。この運動を推進している本部があるらしく、何をやっているかというと、世間で親切行為を見かけた人が、この本部に推薦して、表彰するのである。バッジをくれるらしい。あるいはそうした美談を公開する。要はあのときの親切をありがとう、と言うのである。あるいは他人が施した親切を見て、我がふりを直し、反省するのである。
 群馬県にある明和高校は生徒全員がこの「小さな親切」運動の会員で、全校をあげて電車やバスの席ゆずりに励んでいるという。この高校では成績で競い合うのではなく、卒業まで何回席をゆずれたかを競い合っているらしい。笑っちゃうのは、数多く席をゆずるこつは、「まず自分が座ること」だそうだ。確かにゆずる側が座っていなければゆずりようがない。こういう人はまず自分が電車やバスに乗ったら、目を皿のようにして空席を探すんだろうな。そして少しでも隙間があれば飛ぶようにそこへ行くんだろう。
 この運動を批判する気持ちはない。けれどそれを競い合うようなると、どこかがおかしくなっていく。親切をすることが目的となってしまうと、席をゆずる前にまず座ることことがコツだと平気で口に出せるようになってしまう。
 あるいは善行を感動の美談にまで持ちあげるためには、「親切しそうにない人」(たとえばやくざ風おっさん、ダンプの運転手、茶髪の若者)が善行をして自分はしなかったと反省することである。それは明らかに偏見であるけれど、その方が深く心にしみるわけである。
 もう一つが岐阜県の白川郷ある。ここは世界遺産となっている。今や「日本を代表する農村文化遺産」なのだ。そしてそれを求めて観光客が押し寄せる。

 「うわっ、田舎のにおい」

 「昔に戻ったみたい」

 「日本だね」

 そういう郷愁が観光客を集める。しかし実際ここで暮らしている人々にとって迷惑きわまりないものでもある。地元の人が忙しく仕事をしているのに、バカな観光客はいちいち話しかけてくる。むやみに歓声をあげる。町内には「話しかけないで下さい」という貼り紙まであるそうだ。観光シーズンになると道は渋滞し、そのため町民は外出を控えるし、急病人が出ても救急車も呼べない状況に陥る。
 町人は「本音を言えば、今でも合掌をおろしたいんです(壊すの意)」と言う。なぜなら、「こんな不衛生な建物はありませんよ。風が吹けば天井から茅のカスやゴミが降ってくるし、雪下ろしだって大変。この家の形も蚕を育てるためのもんで、今となっては必要ないし、二階も使えないんです。子供部屋もつくれない。誰だって住みたいなんて思わないですよ」と。保存のための規制も厳しい。金もかかる。簡単に修復さえできない。何しろ世界遺産である。家の周りはみんなのものなのだ。
 では何で保存するのだろう、と著者は疑問を呈する。

 「不公平があってはいけないので、一律が原則。おれが我慢しているのだから、おまえも我慢しろということなんです」

 という答えが返ってくる。勝手にやると村八分になる。町を規制しているのは実は町民自身なのである。

 結局そうなってしまった以上、反対は今の生活の保全の役目をしていることがあるんだということと、それを取り払ってしまうと生活が成り立たない現実もあることを知りべきなのだろう。すべてが「国民感情」とか「国民の声」ということで済まされないのだ。


評価
★★★★


書誌
書名:からくり民主主義
著者:高橋 秀実
ISBN:9784101335544
出版社:新潮社 (2009/12/01 出版)新潮文庫
版型:354p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年11月29日

酒井順子著『金閣寺の燃やし方』

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 三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいて、不可解な部分が私にはあった。それは主人公の溝口が生きるために金閣寺を焼いたとされていることである。あれほど死に対して陶酔的な美を感じていただろう三島が、この作品に関しては、主人公に“生きる”ことを選択させ、そのための手段として金閣寺に火をつけさせるのが、不思議であったのだ。普通なら溝口は金閣寺が火に包まれる中で、死んでいってもおかしくなかったのではないか。少なくとも事実として林養賢は金閣に火をつけた後、服毒自殺を図ろうとして失敗しているのである。
 自衛隊の駐屯地で檄を飛ばし、割腹自殺をやってのける三島である。なら溝口は死んでいいはずである。そう感じたのである。その答えがこの著者によって明かされている。そのことは後で書く。

 この本は、書名はかなり過激なものだが、内容は金閣寺放火事件という事実を三島由紀夫と水上勉がどう小説として書いたか、それを比較しているものである。三島と水上が同じ事件をどのように小説としたか、その違いを問うことで、三島と水上の取り組み方の違いを明らかにしていておもしろい。
 実際には三島の『金閣寺』は純粋な小説としてとらえることが出来るが、水上の『金閣炎上』は小説のスタイルをとってはいるが、どちらかと言えばノンフィクションに近い。著者も「全く違う個性を持つ二人が、なみなみならぬ思いで金閣寺放火事件に注目したのは、一体何故なのか。金閣寺を通して二人の作家を見る私の試みは、ここから始まりました」と書いている。
 では二人の作家が金閣寺放火事件をテーマにした小説を書くに当たり、そのスタンスの違いは何なのか、それを書いてみたい。まず最初に三島由紀夫の『金閣寺』が発表され、それを読んで水上勉がちょっと違うんじゃないのと感じ、『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』を書いたという経緯をしっかり把握しておかなければならない。つまり先に三島の作品が先にあり、その上で水上の作品があるということが重要なのだ。その上で著者は次のように書く。

 水上勉は、三島の「金閣寺」を読んでいたことでしょう。「金閣寺」が出版された時、水上勉は三十七歳。四十歳が見えてきたものの、社会の中枢にいるわけでもなく、未来の希望があるわけでもない。水上はその状態で「金閣寺」を読んだのでした。私生活も仕事もうまくいかない水上が、お坊ちゃま育ちのエリートで、文壇の寵児でもある年下の三島由紀夫が書いた「金閣寺」を読んだ時、一体どう思ったのか。
 結果的に言うならば、水上の「五番町夕霧楼」と「金閣炎上」は、三島の「金閣寺」に対するアンサー、ということになるのだ思います。金閣寺が燃えた時水上が感じた、「林養賢は自分だ」という感覚と、三島「金閣寺」において描かれた小僧の像は、全く違うものだった。その落差があまりに大きいものであったからこそ、水上は金閣寺にまつわる二つに作品を書いたのではないでしょうか。

 これは読み比べてみると明らかにわかることなのだが、三島の『金閣寺』は主人公が金閣を燃やすその動機が美への嫉妬につきる。両者を比較するため、まず三島由紀夫のスタンスを著者の考えから見てみよう。

 三島由紀夫は、林養賢の生い立ちや性質に対する共感は抱かなくても、「美への嫉妬」ただその一点において、養賢という人物の中に入っていくことができると思ったのです。

 三島は、自ら思想地図を説くのに最も適当な狂言回しとして、林養賢をピックアップしました。三島は、金閣寺放火事件という出来事のガワを借りて、底に自らの思想を充填したのであり、だからこそ「金閣寺」は、小説なのです。

 燃える前の金閣寺を特に美しいと思っていたわけではなく、上空から見たような観念上の美の物語として「金閣寺」を書いた。

 だから実際の犯人である林養賢などどうでもいい。林の行動や供述で小説として使えそうな部分だけを拝借して、『金閣寺』を書いたといっていい。三島は他のところで、「あれはね、現実には詰ンない動機らしいんですよ。見物人が来る、若いやつがきれいな恰好してね、アベックで見物に来たりする、それがシャクにさわる、自分は冷飯食わされてて、みじめな恰好しているしね、自分の青春は台なしになってしまう」と語り、その後も養賢のことを、「ああいうやつ」とか「キチガイ」といった呼び方しているのである。

 一方水上勉は林養賢の生い立ちから、その境遇、家族関係、金閣寺での徒弟生活などを克明に追うことに重点を置き、彼の人生の不遇さをその動機と見ている。いわば林養賢に寄り添ってその物語を書いている。それは林養賢が水上と似たような境遇であったことに由来する。
 彼が養賢と同じ若狭の貧しい家に生まれ、小さい頃から口べらしのために京都の寺に修行に出され、臨済宗相国寺派の寺において小僧としての生活を送っていた。寺の徒弟として生活することが、いかにつらく厳しいことかを、身体を知っている。還俗後も仕事を転々とし、四十歳過ぎてからやっと作家として一本立ちしたのが水上勉であった。作家として一本立ちした後も、生まれた土地と深いつながりを、人間としての存在証明としていた。
 一方養賢はそのつながりを断たれていた。水上は同郷であるし、若い頃養賢とも出遭っているということも伴って、養賢に、深く同情した。だから水上は「情」をもって裏から養賢へと歩みよっていったというのである。

 水上は、実在の人物である林養賢の隣に、自分が降りていきました。林養賢が立っていたのは、日本の、仏教界の「下」であり「底」であり「裏」。そんなじめじめした地帯にこよなく親しみを抱く水上は、養賢の脇に立って事件を追体験したのであり、だからこそ「金閣炎上」はノンフィクション(であると私は認識しております)なのです。

 と著者は言うのである。

 だから、水上は「三島の華麗なテクニックによって、林養賢という放火犯が、美に復讐する抽象的な犯罪者・溝口という存在に変わったのを見たことが、水上にとって執筆の一つのきっかけになったことは、間違いない」と著者が言うのはよくわかる。水上は三島「金閣寺」に対する違和感を強く覚えたのである。著者は次のように言う。

 水上勉が三島「金閣寺」に不足していると思ったものは、そして自分でなければ書くことはできないと思ったものは、京都の寺の生活の底に澱んだ、暗い部分であると同時に、そんな「どろどろしたもの」に幼い頃から心身を浸さざる得ない、貧しい少年達の気持ちでした。

 そして金閣寺を見ても、「どんな人がどんな苦労をしてこれを作ったのか」と思い、下から金閣を支えていた庶民の労苦に美を見る、水上。

 水上がエッセイで「ここで三島由紀夫さんの名作を持ち出すのもどうかと思うが、『金閣の美への反感』といったものは確かに林君にもあろう。そのことについては林君は似たようなことをいっている。然し、それらのことは、すべてことばにすぎない。美しいものを焼いても死ななくてもよい場合もある。むしろ、ここは死にたい気持ちが先にあって、金閣がいわばまきぞえだったのではないかという気がするのである」と言っているのをあげている。

 さらに著者は養賢と似た境遇の水上と三島の境遇をさらに比較する。三島を「作家という職業ににたどりつくまで、日の当たる表の道を歩いてきた」あるいは、「学習院から東大、そして大蔵省へ。三島が歩んだのは、まさに陽のあたる道。それは、東京という“表日本”の中でも、最も燦々と光が降り注ぐ道」を歩いてきたと言い、「三島は常に中央の人」であったという。
 一方水上を「裏街道をはいつくばるように進んできた」人生と言い、「裏日本の作家」と言い、水上を「端っこの人であった」と言うのである。要するに三島と水上をいちいち正反対だった言うのである。養賢を表から近付いたのが三島であり、情をもって、裏から養賢を理解しようとしたのが水上であったのだ。その正反対のスタンスの作家がすれ違ったのが金閣寺であった。同じ事件をテーマにしても、扱う作家がその境遇や考方の違いでこうも違った小説になるのはおもしろい。

 さて最後に三島の『金閣寺』で溝口を殺さなかった理由を著者は、実録にとらわれた」からだけではなく、この頃三島は人生の転換期いたからだという。すなわちお坊ちゃま育ちのエリートでうらなり時代から、心身のバランスが最も高いレベルで調和して、今までの分を取り返すが如く肉体改造をする意欲に満ちた三島は「生きる」気持ちに方向が向いていたことによるのではないか、と考察している。当時の三島はそうだったんだと知った次第。しかし著者も言っているが、その三島の肉体改造の行くつく先が「死」であったことは、結果として物語の中では死を望まなくても、自らの人生で死を望む羽目になるには、皮肉と言えば皮肉と言えまいか、そんなことを思った。


評価
★★★★


書誌
書名:金閣寺の燃やし方
著者:酒井 順子
ISBN:9784062166195
出版社:講談社 (2010/10/28 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月25日

三島由紀夫著『金閣寺』

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 どうしてこの単行本があるのかよく覚えていないが、たぶん古本屋さんで買ったのだろう。本の帯を見ると「復刊'83」と書いてあるから、この本は何らかの事情で復刊された本なのだろう。奥付を見ると初版は1956年の10月30日となっている。この本はその復刊かもしれない。私の持っているこの本は1983年8月20日、三十六刷である。

 さて、この本を再度読み直したのは、先の水上勉さんの『金閣炎上』を読んだからである。高校時代に読んだ三島由紀夫の『金閣寺』がどんな内容だったか思い出したかったから、手に取った。

 ここでは主人公の溝口が金閣寺の美に対する感覚というか、意識が自らの中で抜き差しならぬ存在となっていく過程が描かれ、それが破滅へと向かわせる。父から「金閣ほど美しいものは此世にない」と教え込まれた溝口は、どうあっても金閣は美しくなければならなかった。まだ見ぬ金閣にいよいよ接する時が近づくにつれ、そこですべては、金閣そのものの美しさよりも、金閣の美を想像しうる私の心の能力に賭けられた。
 しかし最初は「私はいろいろに角度を変え、あるいは首を傾けて眺めた。何の感動も起こらなかった。それは古い黒ずんだ小っぽけな三階建にすぎなかった。頂きの鳳凰も、鴉がとまっているようにしか見えなかった。美しいどころか、不調和な落着かない感じを受けた。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた」のである。とにかく最初はこの程度しか金閣を感じていない。
 溝口が金閣寺に来て最初の頃は、金閣寺に向かって問うている。

 「金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ」と私は箒の手を休めて、心に呟くことがあった。「今すぐでなくてもいいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきりと見えそうでいて、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ」と。

 しかし一方で、

 私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその「壁の少ない、吹きぬきの建築」は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい夜を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間というもの、このふしぎな船はそしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに任せ、夜がくると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出帆したのである。
 私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。父は田舎の素朴な僧侶で、語彙も乏しく、ただ「金閣ほど美しいものは此世にない」と私に教えた。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。美がたしかにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎外されたものなのだ。

 と思うのである。

 そこに戦争の影が忍び寄り、京都が空襲でやられるという噂が立つ。「それでも金閣という半ば永遠の存在と、空襲の災禍とは、私の中でそれぞれ無縁のものでしかなかった。金剛不壊の金閣と、あの科学的な火とは、お互いその異質なことをよく知っていて、会えばするりと身をかわすような気がしていた。・・・・しかし、やがて金閣は、空襲の火に焼き滅ぼされるかもしれぬ。このまま行けば、金閣が灰になることは確実なのだ」

 金閣が空襲で焼けることを想像したとき、溝口は「私を焼き亡ぼす火は金閣をも亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように、私の肉のなか、私の組織になかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした」のである。

 しかし金閣は焼けなかった。焼けなかったことで金閣は今までと同じ時間の海を渡って行くこととなる。このとき、「私の心象からも、否、現実世界からも超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅個な美を示したことはなかった!あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどに輝いたことはなかった」、「金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである」
 溝口は空襲で焼けなかった金閣をそれ以前と何も変わらない不変さを感じるのであった。そのとき、「金閣と私の関係は絶たれたんだ」、あるいは「これで私と金閣と同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりもっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝らぬ事態・・・」と感じるのであった。さらに溝口は、「美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものを、滅亡の白茶けた光りの下の露呈してしまうのである」と考えていくようになる。
 溝口は金閣に向かって、呪詛に近い調子で荒々しく叫ぶ。

 「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつか必ずお前をわがものにしてやるぞ」と。

 金閣が永遠に存在することで、そのことが美として輝き始める。その姿に溝口は圧倒されるのである。かつてそうであったように、そしてこれからもそうであり続けることが、金閣の美であった。短く、愚かな人間の一生とは決定的に違う。だから金閣の美を意識した人間はただただ恐れおののくだけなのであった。決して自分のものにならないものであった。その美が自分の中で一緒になれない絶対性を帯びている。
 しかしよく考えてみると、永遠であり続けたその美は、それだけしかない。次がないのである。これが「金閣の生は厳密な意味で一回性しか持っていない」という意味である。
 一方で人間は違う。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖する。人間は滅びやすいが故に、却って永生の幻が浮かぶのだ。
 金閣を作ったのも人間であるなら、それを消滅できるのも人間である。どうして人はそこに気がつかないのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間が作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。だから、

 「金閣を焼かなければならぬ」

 のであった。

 永遠の美という妄想にとりつかれた人間の苦悩がここで描かれている。金閣の美にとりつかれ、破滅へと向かうしかない人生は、私は怖かった。


評価
★★★★


書誌
書名:金閣寺
著者:三島 由紀夫
ISBN:
出版社:新潮社 (1956/10 出版)
版型:263p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年11月05日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈5〉

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 続いて司馬さんの5巻目を読む。まずはへぇ~と思ったことを書く。

 維新前に日本人名前にはナノリというものがあったそうだ。漢字で書くと「名告」、「名乗」と書く。広辞苑のよると、「公家及び武家の男子が、元服後に通称以外に加えた実名。通称籐吉郎に対して秀吉と名乗る類」らしい。坂本直柔(なおなり)は、坂本でだいたい想像がつくが、そう、坂本竜馬の名乗り名である。
 明治になって一人の人間がいくつも名前を持っているのは悪い習慣だということで、一つにせよという太政官令がでた。そこで桂小五郎は、それまで木戸貫治といったり、準一郞と名乗っていたが、それを木戸孝允とした。
 江藤新平は名乗り名として胤雄というのがあったが、自分は「新平」でいいとそれ名で登録した。まわりの者は新平では中間の名のようで、位階のついた大官らしくないといったらしいが、江藤は、なら新平(にいひら)とでも呼んでくれと吐き捨てるように言ったという。江藤らしい。
 西郷隆盛の場合が面白い。西郷ははじめ通称として吉兵衛といい、後に吉之助と改めた。維新後名前を届けなければならない時に、西郷は東京にいなかった。同藩の吉井友実が代理として届けた。その時、「ハテ、西郷の名乗りはどうじゃったか」、「たしか隆の字がつく」、「隆盛じゃった」と思い出しそれを届けた。西郷が東京に戻ってきて、代理で名前を届けてくれたことを礼を言ったが、その後で吉井に「おいは、隆永じゃど」とこぼしたという。もし西郷が東京にいれば西郷隆盛という名は日本史上残らなかったことになる。
 西郷の弟、西郷従道もふるっている。役人が名乗りをどうしましょうと訪ねた時、従道はやはり西郷隆盛同様、隆の字がつく。隆道である。で、「リュウドウじゃ」と言ったのだが、それが薩摩訛りであるために「ジュウドウ」と聞こえたらしい。それで隆道が従道となってしまったという。司馬さんは「この兄弟はそのユーモラスなふんいきで共通している」と言っているのは、確かにそうだ。

 さてこの巻を読んで考えたことがある。儒教的専制国家の問題点とでも言おうか、その悪影響に触れた司馬さんの文章に、今の日本と中国あるいは韓国や北朝鮮の横たわるぎくしゃくした関係が、そこから発しているような気がしたのである。
 それを書く前に断っておきたいことがある。私はこのブログで自分の政治的意見を出来るだけ言わないようにしている。個人的にはあれこれ言いたい部分もあるのだが、それをここであれこれ言うべきものじゃないと考えているからだ。基本的に政治色の強い発言はどこか偏った匂いを感じてしまうからである。その意見はそれを言っている人間が属している社会から意見を言っているわけで、そこは、公平じゃないと考えるからだ。もちろん個人的に何をどう思うと自由なことだし、さっき言ったように私にもそんな意見はある。けれど、それを個人の段階で言うならともかく、こうして不特定多数の人が見る可能性のあるブログに披露することは、どうなんだろう、と思うのだ。たとえ個人的意見と断っても、ここで公開した時点でもうそれは個人的意見ではなくなる可能性があるからだ。私はそこまで自分の意見に責任は持てない。だったら言わない方がいいに決まっている。そういう考えなのだ。(それでも言ってしまうこともたまにはあるが)
 で、そのことを断った上で、今回は私の個人の政治的意見ではない。あくまでも“そう感じる”ということで話を進めたい。以下司馬さんの言っていることから考えたい。

 儒教的専制国家は、中国が卸し元である。漢時代にこの体制がうまれ、宋におよんで大完成し、清朝までつづき、清朝が消滅してもなおその基本的な政治習風は蒋介石中国におよんでなおなお臭気が抜けなかったほど、その体制的体質というのはしぶといものであった。
 儒教というのは生活習慣まで至るもので、そうしないと儒教は完結しない。長幼の序とか、親類とのつきあい方、親類の範囲、結婚の仕方、葬式の出し方、こういうものが儒教であって、「子曰ク」だけが儒教ではない。儒教というのは社会体制そのものであり、生活規範であり、極端にいえば人間を飼い慣らす原理であり、システムである。
 ただ世界中のたいていの民族は絶対的原理を一つ持っていて、その絶対的原理で人間をつくり変えてしまう。そうでなければ人間は猛獣で手に負えない動物だと思っているらしい。中国では儒教でもって人間を飼い慣らしているし、ヨーロッパはキリスト教でそうしている。回教圏もむろんそのことが強烈におこなわれてきた。

 そして儒教体制が確立してからの中国では新しい技術を開発していくという競争がなくなって、古い時代の中国でいろいろなものが発明されたというのは既に伝説的な話になってしまった。
 司馬さんはこうして競争の原理のない儒教的な中国体制というのは人間が考えた政権永続の最良の方法である、と言っているし、これまで二千年間、儒教という原理で社会的存在として人間の猛獣性、つまり無用の競争の毒牙を抜いてきたとも言っている。
 だから競争の原理を内部にもたない当時の中国・朝鮮式体制(これについてはこの後触れる)にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。
 私はここに今の北朝鮮の姿を見るのである。つまりあの一党独裁で、一人の指導者がどうしていつまでも政治的権力有しているのか不思議でしょうがなかった。民衆は日々の食糧に窮しているにもかかわらず、政治批判や反体制が起こらないのは、一つには(あくまでも一つにはである)こうした反体制を持たない(あるいは持たせない)儒教的体質をいまだに残しているからではないのかと思ったのである。
 朝鮮は高麗朝でもそうであったが、李氏朝鮮でも儒教的専制国家の模範生的な国家であった。昔から朝鮮は中国をもって宗主国としていた。これはよくいわれているような属国ではない。属国というのはヨーロッパ的な考え方で、アジアでは中国が中心だと中国人は考えていた。アジアだけでなく全世界の中心だと考えていた。ただそれは地理的に可視範囲がヨーロッパまで及んでいないから、そのあたり一帯、つまり天が覆い地が続くかぎり自分たちの皇帝がその地上の皇帝であると思っていたのである。だから中国人は自分たちの体制が及んでいない所を蛮地とみる。野蛮人はしょうがないと思っている。
 このため朝鮮も、属国ということではなく、中国のそばにある小さな国だし、垣根の国、衛星国だから、長幼の序の礼儀として、蛮国ではなく蕃国として自分を位置づけていた。ただし蛮国、野蛮人ではないということで、一所懸命その中国体制、つまり仁義礼智信を原理としている儒教体制を取り入れて、それそのもので国家体制を作って「東方礼儀の国」と中国人にいってもらい、それをもって自分たちは文明国としてきたのである。こうして「アジア的専制国家」群が生まれたいった。これが中国や朝鮮にあって二十世紀初めまで続き、結局アジア的停滞という弾力性のない民族社会をつくっていったのである。

 ヨーロッパに産業革命が起こり、それがインドをへて帝国主義の形をとり、中国に接近し、その力をもって侵入してくるようになると、中国はこれに対抗できず、踏みにじられるしかなかった。中国人の国家観がヘンテコだったから、ヨーロッパ人たちに、ここは取り得な大地であるという観念を持たせた。ヨーロッパ列強のアジア進出はこうして生まれたのである。
 悲惨な歴史を踏んで、これではまずいと自覚し始め、本当に新しい中国をつくるためには、それまであった中国的なあらゆるものを吹きとばす原理を持ち込まないとダメなんじゃないかと考えた。
 司馬さんが言う「体制としての儒教は悪いものですよ」を蹴っ飛ばすには、別の強烈な原理を持ってこなければならない。しかも短期間で新しい原理でやらなきゃならない。そこでマルクスの原理がいいというので、そのシステムでやってみると悪習がサーッ消えたので、毛沢東もホー・チミンもそれを仕入れてやってきたのだろうと言うのである。それが中国におけるコミュニズムの出現である。中国人民は集団発狂したような勢いでそれを繰り返しやってきた。列強に対抗してきた。それが新しい中国の歴史であった。列強が好き勝手に中国に進出し、ここは取り得な大地であるという観念を持たせないために、新中国になって国境意識が前代未聞なほど厳格になってきたのである。
 私はここでも今の中国が尖閣列島に強い関心を持つのも、こうした歴史的背景があるため、自らの国境意識を厳格にせざるを得なかった所に由来するのではないか、と思ったのである。しかもそこは天然ガスを有するから余計であろう。
 反日デモにしたって、過去の歴史から学んだことであって、それに対抗してきた集団発狂したような勢いが、団結心を生んでいるんじゃないか、と思ったりしたのである。

 では東アジアの一員である日本はどうなのであろう。日本も8世紀のはじめその統治システムの模範を最初中国に求めた。それを推進したのは藤原氏であった(大化の改新)。日本がこの制度導入した理由は、藤原氏が他の土着勢力をつぶし、天皇の帝権を絶対的なものにするためであった。
 しかし藤原氏は権力の機能を分けあった。実際の政権は藤原氏が握ったため、律令制度の基本である帝権の絶対化を藤原氏自身曖昧にしてしまったのである。日本は律令時代といえども、儒教とそれにともなう官僚制度とを、滑稽なほど粗雑さでとり入れただけであった。そういう意味では日本は8世紀初頭にそれをまねたが、早々から落第生であった。
 さらに平安末期になると関東で武家集団が結束し、律令制の一大批判勢力となっていく。この後後醍醐天皇が中国の皇帝のような専制制を確立しようとしたが、結局足利尊氏に倒され、再び日本は二重構造となっていく。
 時代は更に戦国時代から、徳川幕府に進むが、徳川幕府でさえ、明快に二極化している。徳川幕府の権力内容は、譜代と准譜代(外様大名であるが、半与党的存在の大名で、関ヶ原以後家康についた豊臣側の大名のこと)である与党と、たとえば薩摩、長州などの外様の野党の存在を肯定していた。
 何故なら家康は「日本の歴史においてさまざまな政権がさまざまなテストをうけてきたあとに成立しあたために、『どういう権力が日本的現実になかでより自然であるか』ということを知りぬいていた」からだと司馬さんは指摘する。要するに日本の歴史を見ると、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけていて、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することができなかったのである。
 日本史をひもといてみれば、日本はどう考えても競争の原理ででき上がっている。あちこちに極がたくさんある。豪族間の競争とか、細かいところまで行けば、農民は農民で昔から競争している。こんな狭い国で競争の原理で競ってきた。それが外に押し出されたとき、倭寇になり、秀吉の朝鮮出兵になり、日中事変となり、破れかぶれとなると太平洋戦争となる。日本の競争原理がそのままナマで外に出た形である。国内の競争原理のエネルギーのまま、その形で行ったわけである。
 日本は専制国家を生まない体質であり、いつもある競争という意識が、国家システムとして二重構造のシステムが絶えず存在させてきた。明治維新だって、偉かったからではなく、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、あるいは機能とかが、作動していって、徳川幕府の反体制であった薩長があったから明治維新が成立し、その後もうまくいったのである。

 以上が司馬さんの言葉をかなり参考にさせてもらい、今でも歴史の残像がどこかで尾を引いているのではないかと感じた部分を書いた。
 司馬さんは「歴史は百年ではじめて成立する」、「歴史は百年たつとひからびて丁度いい。どうしてもなまがわきでは、歴史にはならない」というところから、このような大局的な考えが出来るんだなと思った次第である。


評価
★★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈5〉エッセイ1970.2~1972.4
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467059
出版社:新潮社 (2002/02/15 出版)
版型:389p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年10月30日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈4〉

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 また司馬さんのエッセイを読むこととした。
 今回この巻を読んでいて感じたことは「国家」を我々がどう感じているか、である。司馬さんはここに収録されているエッセイの中で何度か言っているのだが、今ほど「国家」が軽く感じられることはない、と言うのである。そしてこの国家とは何かを語るとき、前置きとして「いいわるいは別にして」とか言って、今国家という意識が日本国民に薄れている現状と、重苦しく「国家」というものが庶民にのしかかっていた時の、どう違うのかを論じている。司馬さんは次のよう言う。

 「現在、日本に国家があるか、というとちょっと疑問がある。すくなくともわれわれの意識の中では、国家というものはあるのかないのかわからないような、たいへん軽い存在になってしまった。何か悪いことをして警察にでもひっぱられてゆく以外は、国家の重みを一生感じないで過ごしそうで、実に頼りない」

 確かにそうだ。けれどこれはつい最近の日本の歴史を見ても、国家という意識が薄い方がいいに決まっている。ただ「良い悪いは別として、国家というのは充分に国民を興奮させるものだった」とも言っている。
 たとえば普段国歌の「君が代」さえ強制的に歌わせるのはどうかという教師がいて、それ歌えばさも戦前の体制に戻るような言いぐさで、それを拒否し、生徒もそう思うようになる。けれどサッカーのワールドカップに日本代表が出場すればみんなで「君が代」を斉唱する。歌うことで国家という意識をその時だけ共有し興奮していくのである。司馬さんは競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるものと言っているが、まさしくこれがその例としてみることができそうだ。
 今中国で日本バッシングが盛んに行われているけれど、あれだけ若者が興奮するのは、様々な背景が考えられるだろうけど、日本という敵を設定し、その意識を共有し、そこに戦う姿勢を見出されるからではないだろうか。もともと中国人は中国人で日本を昔から諸蛮、つまり衛星国の一つに数えていたのだから、彼らからすれば見下しても当然なのかもしれない。日本もわずかな期間だったが、そうした国家意識を高揚させた時期があったことを思えば、納得できなくもない。
 ただ司馬さんは「考えてみると、日本の長い歴史の中で近代ヨーロッパでいう国家を実際に日本人がもったのは、明治のはじめから太平洋戦争が終わるまでの、せいぜい八十年間に過ぎなかった。
 明治までの日本人の意識というには、たとえば薩摩藩士は薩摩藩のことしか考えない。その思考は藩どまりであった。百姓はもっとひどい。彼らは隣村との喧嘩なら生命がけでやるが、藩という大きさでは何も考えていない。
 要するに日本人は一つの国土に住みながら、国という意識はなかった。せいぜい藩なら藩まで、村なら村までしかない。極めてローカル主義であった。それが日本の地金である」という。
 それを明治政府は村の一人一人、藩の一藩士に国家という意識を植え付けようとした。愛国心を百姓や商人に起こさせようとした。国として一つの意識にまとまらないと当時の列強に侵略されてしまうという危機意識がそうさせた。しかし一端国家という意識を植え付けられた国民は歯止めがきかなくなっていく。それが太平洋戦争が終わるまで続いた。
 戦後それは悪夢だったと考え改め、平和の名の下に国づくりが進められ、国家という意識が次第に薄れていく。けれど司馬さんは「それは日本古来のものに戻ったにすぎない」と言い切る。だから「現代日本のナショナリズムは『村意識』のナショナリズムで、一地方、一企業間にとどまった強烈な帰属意識で、それがなかなか日本全体に拡がっていかない」と言う。
 中国では一漁船の船長が拘束されれば、国家をあげてそれに対抗措置をとるが、日本の一企業のサラリーマンが拘束されても、青い顔するのはその企業の関係者だけで、国家もうろたえ、国民は“ばばを引いた”としか思わない。その程度のナショナリズムしか持ち合わせていない。
 何度も言うように危機や競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるもので、ヨーロッパのような地続きで、いつ隣国が攻めてくるかわからない状況なら民族的にまとまれる。しかし島国である日本では、国家だとか民族とかいうものの実感がきわめて生まれにくい。ヨーロッパで生まれた近代国家というものを単にうわべだけ輸入したって、根本的なところで違うのだから、根付く訳がない。基本は自分だけが安穏として暮らせればいいという発想しかないし、他人を思いやる発想がないのだから、自分さえよければそれでいいとしか考えられない。その範囲が多少広げられるのは個人が所属する共同体までであろう。

 別の視点から見てみよう。江戸幕府が三百年続いたことの功罪を考えてみたい。司馬さんによると、「徳川幕府の作った社会は、人間をいかに反乱させずに安穏に暮らせるか、この目的で組織された社会」であった。
 たとえば関ヶ原、大坂の陣を経て徳川体制が安定すれば、普通機能的に考えて、兵隊は解雇し、帰農させるか商売をやらせる。ところが徳川家康は徳川体制の安定のためには現状維持が一番望ましいということで、兵隊は戦時体制のままおいた。そのため仕事のない侍がゴロゴロする。つまり仕事のためではなく、人を養うだけのために組織されたのが幕藩体制だった。これが三百年続いた。それがその後の日本人の組織感覚にあたえた影響は大きい。それが現代日本の終身雇用という独自の雇用体制が尊ばれるのもこの点から考えてもいい。雇ってやるからきちんと働けという発想は、食べさせてやるから謀反をおこすな、というのと同じである。
 どうして徳川家康は変革を恐れたのか。そこには幕府が独裁政治でなかったことにある。(司馬さんはもともと日本は独裁に向かない国と言い切っている)徳川幕府は他の藩という存在の上にただ乗っていただけで、一種の盟主に近い存在だったからである。だから場合によっては「江戸を襲われるかもしれぬという点では、その草創期から病的な神経を持っている」っていた。そのための懐柔政策である。そして「江戸体制の創始者は、人間を猛獣の一種として見る明快な人間眼と定義をもっていた。かれらの体制づくりは簡単で、猛獣を重秩序でしばりあげることによってのみその猛気を矯めることができると信じ、そのとおりやってのけ、みごとに成功した」のである。それが三百年も続いたのである。三百年ちかく教育されつづけた日本人は徳川幕府とおなじ心情になっていったのである。
 もともとヨーロッパのようなパブリックな意識がない。われわれには「自分の」というのしかないのである。そこに現状維持というのが一番という徳川幕府の心情が浸透すれば、それは平和ではあろうが、自分本位の平和でしかなく、文化にしても元禄文化みたいな庶民あげて平和ぼけした文化しか産まない。
 もともと日本人はローカル主義が地金で、そこに変革を望まない江戸幕府が三百年も続き、のうのう暮らして来た。他者を思いやることより自分が大事、自分が所属する共同体だけが大事という発想しか持てなくなってしまった。
 そこにヨーロッパ流の近代国家という思想やシステム持ってきても、都合いいところだけつまみ食いし、基本は変わっていない。そこに明治政府から昭和の軍閥の専制期は国家の高揚を掲げて戦争しても、それが個人にどのように利益が反映するのか、その程度しか考え到らない。個人に利益が享受できれば、それを肯定し、思ったようにいかなければ激高し、その時だけ「国家」を意識する程度なのだ。悲しい国家意識である。

 さて、最後に個人的に興味深かったことを羅列で抜き出しておく。

 江藤(新平)が天性の検事であるところは、その論理能力が他人の悪を追求するときにすさまじいほどに冴えわたることでもわかるが、しかしかれが明治の建設にのこした業績はそういうものだけではない。明治初期の政府機構を法制化するについてはほとんど江藤の手でおこなわれたのではないかとおもわれるほどよく働いている。さらには旧民法の基礎をつくった。そういう世界のみに江藤は自分の活動を限定すればよかったが、しかしかれの魅力と不幸は、革命期をへた者として野気がありすぎることであった。
 たとえば薩長の問題である。他の佐賀人は長いものにまかれろという気持が大なり小なりあった。副島(種臣)のようなひとまでこの気分が多少あり、それが副島をして天寿を全うさせた。大木(喬任)は協調主義であり、大隈(重信)はもっと次元のちがった場所で薩長を操縦しようとし、ときに妥協し、ときにおどしをきかせ、ときに恩を売ったりした。大隈の手腕は、それがやってのけられるだけに政治屋の素質がふくまれていたが、江藤にはそれができなかった。江藤は「長人は狡猾だから、口車には乗らない。その点薩人はおろかだからこれと手をにぎって、まず長州をたおし、ついで薩摩をたおす」といっていたが、そういうだいそれた政治の芸ができるほど、江藤は大狸ではない。であるのにかれはそれをしようとし、おりから西郷隆盛を中心としておこってきた征韓論にとびついてそのグループに入ったが、政治的飛躍の時期をあやまり、ついに佐賀の不平士族にかつがれ、いわゆる佐賀の乱をおこして刑死する。政治家としてはいかにも筋が通りすぎるほどに通ったみごとな一生というほかにない。


 近藤勇というひとは上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流からはずれると、ただの下凡になってしまう型のひとだった。
 京のの活躍期の近藤をもってその人物の目方を量ることはむずかしいが、この時期の近藤の行跡を計算に入れると、やはり二流の人物にすぎなかったようである。

 明治に英国から貴賓がきたとき、その時国歌の奏楽が必要になり、接待役の薩摩藩士原田宗助上司の川村純義に相談する。川村は「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか」と一喝する。そこで原田は同役の旧幕臣の乙骨太郎乙に相談し、乙骨は徳川家の大奥の元旦儀式の歌であった「君が代」を教え、それを採用する。司馬さんは「君が代」起源説の通説では大山巌などが関わったとされているのは、「君が代」が徳川家の要素を消すためではないかと言っている。

 この五稜郭という要塞ほど愚劣なものはないだろう。
当時の箱館奉行竹内保徳が監督し、武田斐三郎というあやしげな西洋兵術通という者が設計したもので、実際は西洋式でも日本式でもなく一種ハッタリ設計で、戦闘という実理をかいもく知らない者が役所仕事でつくったものにすぎない。諸事そのように実体の威力のない形式主義が徳川時代悪というものだが、この五稜郭こそよい見本だろう。
 旧幕府軍がここにこもったが、函館湾に進入した官軍の砲弾が三キロの射程をとんでことごとく城内に落ち、兵の闘志を奪い、五稜郭はあっけなく落ちた。
 われわれは五稜郭を見学するとき、当時の攻防を回顧して感傷にふけるよりも、むしろこのインチキくさい自称要塞というものを通して、当時の幕府や幕府役人というものがどういうものであったかを思うべきだろう。

 私は、いわゆる明治的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思惑より明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色にしておもくるしい装飾にほどこしたのが山県有朋だったとおもっている。


評価
★★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈4〉エッセイ1968.9~1970.2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467042
出版社:新潮社 (2002/01/15 出版)
版型:379p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年10月11日

吉村昭著『羆』

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 以前どこかで書いたような気がするが、吉村昭さんの小説は大まかに“戦記物”、“歴史小説”、“フィクション”と分かれる。もちろん分けたからどうこういうもんじゃない。ただ私は吉村さんの小説は“歴史小説”しか読んできてない。どうも戦記物は好みじゃないので、おそらく今後も読まないような気がするが、普通の小説は読んでみたいなと思っていた。
 で、今回“動物小説”といわれるものを読んでみた。これは「羆」、「蘭鋳」、「軍鶏」、「鳩」、「ハタハタ」の短篇5篇が収められている。ハタハタを動物とくくっちゃうのはどうかな、と思えるし、この後読んでいる同系の小説も“動物小説”といっているが、そこには魚や虫などを扱った小説なので、やっぱり“生き物小説”と変えた方がいいような気がする。まぁどうでもいいことかもしれないが・・・・。
 さて、今回小説にはある程度共通項がある。一つはここの登場する人物たちが、人生の落伍者に近い存在であること。だからこそなのかもしれないが、その人たちが生き物に接する接し方が異常に近いことである。そこにしか生きがいを見出せないようなところがある。
 そしてもう一つがその生き物たちが、人間の都合によって奇形に変えられた生き物であることである。それを「蘭鋳」の記述に見ることができる。

 蘭鋳は、鑑賞という目的だけのために人工的な交配をくり返されてきた。頭部には、獅子ガシラのような浮肉が異常なほどの大きさで盛り上がり、背鰭はない。それは一種の奇形であり、泳ぐ機能にも欠け、肥えた体をくねらせ背鰭をひらめかせて動きまわるにすぎない。が、そのおぼつかない動きに妖しい色気が感じられ、いったん魅せられた者の眼には、気品のある麗魚として映るのだ。
 金剛(主人公が飼う銘品の蘭鋳の名)の逆立ちした姿は、蘭鋳が魚として奇形であることをしめすものであった。老いが、辛うじて保っていた体の均衡を支えることができなくなったにちがいなかった。重い頭が水底に垂れさがり衣の裾のような尾が浮きあがるのは自然であり、背鰭のない金剛の体は水平に体を維持することができなくなったのだ。

 「羆」は殺された母親についていた小熊を、お土産店の見せ物ととして首輪をつけて飼っていたのが、成長して野生を取り戻したことで、主人公の妻を殺してしまう。主人公は復讐のために、また山には入り、その羆を追うはめになる話である。
 「軍鶏」のしても、闘鶏のため、鋭く爪を研がれる。もちろん血筋もものを言う。「鳩」にしても、伝書鳩レースに勝つために、能力のない鳩は首を折って間引く。すべてが人間の都合によって変えられた姿なのである。
 読んでいてそうした奇形の生き物は、どこか病的であるが、だからこそ妖艶な雰囲気を漂わせる。そしてそれに魅了された人物たちはその人生において何らかの問題を抱え、人の社会でまともに生きられないところが、その妖艶さと相まって異様な世界を醸し出す。
 そういう意味では「ハタハタ」はこれ以外の短篇とは異質である。ハタハタが港にやってくるかどうかで、漁師たちの一年間の生活を左右する出来事であった。しかしハタハタはどこの湾にもやってくるわけじゃない。ハタハタはただ一つの湾をめざす。そのためハタハタに選ばれた湾は豊漁に賑わうが、他の湾の漁村は飢えにおびえ出稼ぎに出なければならなくなる。だから漁師たちは自分たちの湾にハタハタがやってくるかどうか、その到来を不安と期待で待ち続ける。しかしそれはオールオアナッシングだから、厳しい。
 そこにハタハタがやってきた。ところがハタハタを取るために悪天候の中で網を入れた漁師の舟が転覆し、漁師たちが行方不明となった。湾の漁師たちは行方不明の仲間を捜すべきか、それともやっとやってきたハタハタの漁を開始すべきか、身動きができなくなったところへ、行方不明となった漁師の身重の妻が漁を始めてくれと他の漁師たちに言う。そうなったら漁の活気に満たされる。行方不明となった漁師たちの身内は、その喧騒の外に置かれてしまう。ここも厳しい。

 いずれにせよ、ここに収められた短篇には、私はそれぞれ魅了されてしまった。個人的には「蘭鋳」が一番よかったかな。それは話の構成もうまくできているし、また“懐かしさ”もあったからだ。
 私の子供の頃、友達の父親が蘭鋳を飼っていた。木箱にビニールをかぶせて、いくつも浅い水槽を作り、そこに何匹も蘭鋳が泳いでいたのを思い出したのである。不格好なのだが、一方で妙にきれいな金魚として子供の眼には映った。思えばあのオヤジも世捨て人のような雰囲気を出していたような気がする。
 私が住んでいるところは金魚の名産として東京では有名なところで、金魚の養魚場がいくつかあった。そのため町会でよく近所にある用水路で雑魚みたいな金魚放流し、それを子供たちにすくわせる金魚すくい大会が年に何度か行われていた。私はそれに参加し、どうでもいいような金魚を飼っていたことがある。
 友達父親が飼っていた蘭中と雲泥の差のものだが、水槽に入れ、空気をポンプで送り、小石や水草をその養魚場で飼ってきて、中に入れていた。餌には、朝か夕方に赤く群れなすミジンコを、母親のはき古したストッキングを網にして取りに行ったものだ。この「蘭鋳」に餌にミジンコを取りに行く記述を読んで、思わず懐かしくなってしまった。そもそもミジンコなんていう名前さえ記憶の中に消えていたので、思わず「おお!」と言ってしまったくらいだ。
 もう一冊この本の続編みたいな短編を続いて読んでいるが、結構楽しましてもらっている。吉村さんの短編もいいものがあることを知っただけでも収穫であり、またファンになっていく。


評価
★★★★


書誌
書名:羆
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117195
出版社:新潮社 (1985/07 出版)新潮文庫
版型:268p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年10月08日

森まゆみ著『抱きしめる、東京』

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 また森さんの新刊(といっても昔出ていたものだが)が出たので読んでみた。この本は森さんの自伝といっていい。


 よちよち歩きの子供は、好奇心で路地という路地を曲がる。ついていってみると何十年か住んでいて気がつかなかった路地があり、袋小路の奥にもアパートや長屋があった。そこにいるおばさんに、梅酒だの漬物だのごちそうになることもあった。町には奥がある。そこに人がいる。表面だけ見ていては分からない。
 大人の背の高さで立っていると気がつかないことでも、一、二歳の娘といっしょにしゃがんでみると、まるで拡大鏡でみるように、小さなタンポポやスミレやハルジョオンが眼前に迫ってくる。スズメやツバメもいた。ダンゴ虫やカエルにも久しぶりに会った。ネコの通る路地沿伝いのけもの道も、おぼろげながら見えてきた。
 この町が壊れていく、という危機感もあった。老朽化や代替りで古い建物は次々と消えていく。震災や戦炎に焼けのこった町の風景がむざむざ滅びてゆくのを見すごしにはできないという気持と、その子どもが小さくて陣地戦しかできなかったという消極的条件が重なって、地域雑誌『谷根千』は生まれた。私たちは「手に負えるメディア」をつくる楽しみを牧歌的に味わっていた。


 これが森さんたちが『谷根千』という雑誌を作り始めた理由である。
 この自伝を読んでいると森さん自身の自らの成長と共に地域と無縁になりつつあった姿が描かれている。だいたい誰でも自分が生まれ育った町とのしがらみなどがわずらわしくなってものだ。むしろどんどん離れていきたい、という気持ちが芽生えていくのは、ある意味成長の一過程だろう。しかし子供が生まれて、そこで遊ぶようになれば、嫌が上でも地域とつながっていく。まして子どもが小さければ余計に子どもの視線で町を見るようになるのはよく分かる。ここから森さんは自らが生まれ育った町と関わりを持っていくこととなる。
 時はちょうどバブル絶頂期である。森さんの住む町にも地下鉄が通り、都心に出るには都合のいい場所となっていく。路線価が上がり、固定資産税が上がり、それを支払うことができなくなり、土地を手放す。建物の老朽化と、代替わりなどが更に土地を手放す理由となっていく。そこに利便性のある場所ということで地上げ屋が跋扈し始める。まさしく「町が町が壊れていく」のである。


 大人たちは生活に忙しく、ふと信号で立ち止まり、考える。あれ、この前の家は何だったのだろう。こんどはビルにハンバーガー屋が出たんだな、と記憶をあわてて塗りかえる。そしてまた忙しさまぎれて忘れ、またある日、信号で立ちどまって、あれ、と考える。ハンバーガー屋はもうつぶれ、カラオケバーになっている。この変化の速さは何だ。こうして町は少しずつ、私たちの手を離れていく。


 町の変化のものすごい速さは、ある意味そこに住む人々のライフスタイルを変えていく。それについて行ける対応能力のある若者はいいけれど、お年寄りはそうはいかない。取り残されたこれらの人々の姿を森さんの祖父に見るのである。
 森さんは妻に先立たれた祖父面倒を見るため、一緒に暮らす。ところが祖父の行動が森さんの神経を逆なでする。ただでさえ子育てイラついている時期だったから余計である。しかし森さんは祖父の行動は、自らの意識に中で“昔のまま”だったのである。変化に対応できない分、森さんを苛立たせただけのことだと悟る。森さんは祖父と暮らすうちに、「人間はいいかげんであることによって他人をいたわることができる」と思うのである。


 私は祖父がかわいそうでならなかった。どうして人生の最後になって、こんな住みなれない共同住宅にすみ、生活習慣を変えさせられなければならないのか、追い立てた家主はもちろん、さまざまな事情とはいえ、祖父をたらい回しにした父やその兄弟たちを少し憎んだ。私がこんなことを夫に説明すると、夫はそうだよな、一度、身につけた習性ってそう変わるもんではない。


 それにひきかえ、ここに昔から暮らしている老人たちはなんて幸せなんだろうと思うのである。昔からの友達をいまだにちゃんづけで呼び、みんなこの町で死にたいと言えるのであると思うのである。
 でもだからこそ自らが生まれた町が大きく変わっていくのを嘆いた。少しでもそれまであったコミュニケーションのある町を維持したいと思うようになって行く。子どもやお年寄りを受けとめるコミュニケーションの大切さに気がつき始める。それに気がついた時、森さんの旦那さんが森さんから去って行った理由を悟っていく。
 森さんは女性解放運動の影響を受けて、結婚以来夫を変えないといけないと思いこんでいたという。そのため夫婦の会話が相手を責める闘争的なコミュニケーションになっていたという。なんで私ばかり家事をしなければならないの。子供を見なければならないの。 当然旦那さんは心を閉ざしていく。結局旦那さんは森さんから離れていった。町でのコミュニケーションの必要性を感じた時、自らの夫婦生活でも、そうではない会話が本当は必要だったんだと、思い、反省していく。町が自らの生き様を反省させていったというべきなのだろうか。
 
 東京は相変わらず“不夜城”である。24時間動きまわる人々でいっぱいである。情報の中継基地、発信基地的存在のためそうせざるを得ない。国際化、情報化、業務化は人の動きを加速する。ゆっくり、のんびり生きることを許さない。老人や子供や障害のある人をはじき飛ばし、生き馬の目を抜く町にしていく。
 森さんは『谷根千』の取材でこんな話を聞く。


 情報ってのは情けで報いると書くんでしょ。情報ってのは、人の暮らし向きのことを知ってて、さりげなく気をつかうことでしょう。地上げもそうだが、いまは人を出し抜いて、一山当てることを情報っていうんじゃないの。


 森さんは『谷根千』を作っていくうちに、「私は東京の田舎者、それでいい」と思うようになって行く。今、東京で生きていくには、本当はどうあるべきなのか、つくづく考えさせられた。

評価
★★★★


書誌
書名:抱きしめる、東京
著者:森 まゆみ
ISBN:9784591120910
出版社:ポプラ社 (2010/10 出版)ポプラ文庫
版型:315p / 16cm / 文庫判
販売価:672円(税込)

2010年09月21日

東野圭吾著『新参者』

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 実はこの本以前から読みたいと思っていたのだが、一方でもうテレビドラマで見てしまったし、いいかなという気持ちもあり、どうしようか迷っていた。結局のところ読むことにしたのだが、読んでよかった。
 テレビ化となると原作と大きく話を変えてしまうことが結構多いが、今回は見たドラマはわりと原作に忠実であったなと思った。またこうして読んでみると役者も適役だったなと感じた。だからか実際この小説を読んでいて、この話はあの場面だなとか、この人物はあの役者がやっていたんだなとこの話とうまく結びついて違和感がなかった。むしろ話を補足してくれる感じがあったし、それはそれで楽しかった。
 テレビを見ていたとき、話の度に出演者ががらりと変わるものだから、三井峯子の殺人事件とどうつながっていくんだろうかと思っていた。原作がそうだったから、あのようなドラマになったのだ知った。たとえば第一章「煎餅屋の娘」、第二章「料亭の小僧」、第三章「瀬戸物屋の嫁」、第四章「時計屋の犬」、第五章「洋菓子屋の店員」第六章「翻訳家の友」、第七章「掃除屋の社長」、第八章「民芸品屋の客」、第九章「日本橋の刑事」とそれぞれ中心となる出てくる人物が違う。

 これらの章には一見事件とは無関係な人物たちが登場してくる。けれど捜査をしていくうちに、三井峯子と何らかの関係を間接、直接、生前持っていた人物であった。そしてこれらの人物たちの中には三井峯子の事件とは別なところで、それぞれの生活があり、その中で問題を抱え悩んでいる人物もいた。
 たまたま三井峯子の捜査で捜査の対象となってしまったことで、事件とは別なところで抱えていた問題が明らかになってしまう。捜査をしているうちにそれが“誤解”から生じていること明らかになる。その“誤解”を解いて、救いの手を差し出すのが、日本橋署に新たに赴任してきた加賀恭一郎である。彼はこの街では“新参者”である。

 「加賀さん、事件の捜査をしていたんじゃなかったんですか」
 
 「捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です」

 こんなことあり得ないと言ってしまえば簡単なことだ。事実としてそうであろう。でもお話だから、これはこれでなかなかいい。こうして町に住む人々の生活を一見関係なさそうに見せかけ、事件の核心へと進んでいくあたりは、ドラマでもそうだが、小説もワクワクしていく。舞台が人形町というのもいいのかもしれない。老舗のお店が並ぶ商店街で働く人々を登場させることで、さらに人情味を醸し出させるのだ。ちょっと行ってみたくもなる。

 東野さんの小説は面白いのとそうでないものとがわりとはっきりしていて、その差が激しいように思える。だから面白ければ(当たり前だが)、とことん面白いし、そうでなければとことんつまらなくなってしまう。そのため面白いかどうかは読んでみないとわからない。まぁ、それだから次も読んでみようと思うのだ。これが出る作品すべてがつまらなくなったらおしまいだ。きっと次も何か東野さん作品を読むだろう。


評価
★★★★


書誌
書名:新参者
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062157711
出版社:講談社 (2009/09/18 出版)
版型:348p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年08月24日

吉村昭著『ニコライ遭難』

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 ニコライはロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝である。


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 そのニコライが皇太子の時、日本にやってきた。この本はそのニコライが大津において、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した事件、大津事件を扱った本である。
 そもそもニコライが日本にやってくることになったのは、ロシアが建設に着手しようとしていたシベリア鉄道のウラジオストックとハバロフスク間の起工式に、父であるアレキサンダー三世の名代として臨席するためであった。その途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本も訪れ、そこからウラジオストックに赴く予定となっていた。
 そんなニコライの世界巡航計画が内定したことを知った明治政府は、ニコライを招請し日本に来てもらうことを考えた。そこには明治政府にあったロシアに対する危機感から、ロシアと友好関係を持てれば日本の将来にとっても有効であると判断したからである。
 当時ロシアは全世界の六分の一の領土を保有し、陸、海軍力とも世界屈指の強力なもので、ことに陸軍は世界一と称されていた。維新後わずか二十年余年しかたたぬ日本は、ロシアが武力行使にでも出ればたちまち圧伏させられる。まして昔から極東地域で不凍港を持たなかったロシアは古くから南進の姿勢を示し、朝鮮、日本をうかがう気配が濃かっていた。そこにシベリア鉄道敷設は、ロシアが侵略による極東政策を実行に移すものと考えられ、危機感がつのっていたのである。
 皇太子ニコライはいずれロシア皇帝になる。ならばここで日本に好感を抱かせ、最上級の歓待で迎え、国賓として歓迎する意味は大いにある。
 そして明治24年4月27日ニコライは長崎に着く。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王が任命された。
 ニコライは正式に日本に上陸する前に、お忍びで何度も長崎に上陸し、ロシア人相手の遊郭に行ったり、腕に入れ墨をしてもらったりしている。買い物も日本固有のものを多く買い入れている。
 その後ニコライは鹿児島に向かった。ここで面白いのは“西郷隆盛生存説”である。こんな説があったなんて知らなかった。西郷隆盛は西南戦争で敗れ、自刃したが、西郷が生存しているという説は、西南戦争終了後も、折に触れて蒸し返されていた。インドの一島に潜伏しているとか、シベリアで兵士を訓練している西郷と会ったという人物もいたというのがあって、西郷生存説となっていたらしい。そこに本来なら皇太子ニコライが直接東京に来るのが自然なのに、行く必要もない鹿児島をわざわざ訪れるのは、ニコライらが西郷を連れてきているのではないかという話になったという。
 もちろん何事もなく、ニコライは鹿児島を離れ、その後神戸へ向かった。そして京都に着く。ニコライは終始日本に対して好意的であったし、日本の風習を重んじた行動をとっていた。そのため、迎えた日本人もニコライに対して好感を持っていた。
 そして同年5月11日に琵琶湖遊覧から京都に戻る際、大津で事件が起こる。以下本文記述である。

 皇太子の人力車が下小唐崎の町並の道に入った。
 両側にひしめく人々は頭をさげ、所々に立つ巡査は挙手の礼をする。皇太子は、吊り看板などのさがった店に視線を走らせながら車に体をゆらせていた。
 道の右手にある下小唐崎五番地の津田岩次郎宅の入口の前にも巡査が立ち、皇太子の車が車輪の音を鳴らせて近づいてゆくと、姿勢を正して敬礼した。
 皇太子の車がその前を通り過ぎようとした時、挙手の手をおろした巡査が、急にサーベルをひきぬき、進む人力車の右側一尺(三十センチ強)ほどに走り寄った。
 刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が鼠色に山高帽をかぶった皇太子ニコライの頭に打ちおろされた。
 その衝撃で帽子が飛んだが、皇太子は前をむいたままで、巡査は声を発しなかったので梶棒をとっている車夫の西岡太郎吉二十七歳も気づかず、変わらぬ歩度で車をひいてゆく。
 気づいたのは、車の右側後部を押していた車夫の和田彦五郎二十五歳であった。和田は茫然としながらも、後押しをやめて巡査に駆け寄り、右手で巡査の左脇腹を強く突いた。
 巡査はよろめいたが、再びサーベールをふりあげて皇太子に近づいた。その時、初めて皇太子は巡査の方に顔をむけた。巡査は、無帽の皇太子の頭に再びサーベールをたたきつけた。
 立ちあがった皇太子が叫び声をあげ、その声にふりむいた梶棒をとる車夫の西岡が、異変が起きたことにようやく気がつき、職業上の習性ですぐ足をとめると、梶棒をおろした。
 皇太子は、巡査とは反対側の路面にとびおり、頭を両手でおさえ、あ-、あ-と叫んで前方に走った。巡査はサーベールを手に追ってゆく。
 その出来事を初めから眼にしていたのは、皇太子の車の後方を進む人力車に乗っていたジョージ親王であった。巡査が傷ついた皇太子を追うのを見たジョージ親王は立ち上がり、それに気づいた車夫藤川角次郎二十五歳が梶棒をおろした。
 路上に飛び降りたジョージ親王が巡査にむかって走ると同時に、皇太子の車の左後部を押していた車夫向畑治三郎三十八歳がジョージ親王と肩をならべて走った。その後から、車夫の西岡、和田、それにつづいてジョージ親王の車を後押ししていた北賀市市太郎三十三歳と安田鉄次郎三十歳が駈けた。
 ジョージ親王が巡査に追いつき、手にした竹杖で巡査の後頭部をはげしくたたいた。その杖は、親王が県庁内の物産陳列所で買いあげた栗太郡草津村の木村熊次郎出品のものであった。
 それと同時に、向畑が巡査の腰にしがみつき、両足をかかえると勢いよく後ろへひいた。そのため巡査は前のめり倒れ、制帽が飛んだ。巡査がつかんでいたサーベールが、手からはなれ路上に投げ出された。
 向畑につづいて北賀市が、そのサーベールを拾うと、倒れた巡査に背部にふりおろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。

 巡査の名前は津田三蔵である。津田はこの後取り押さえられる。


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 ニコライは右側頭部に9センチ近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。これが大津事件であった。しかしロシア皇太子が殺害されようとしたのである。当然これは大きな外交問題となって、国際問題となりかねない事件であった。この後明治政府の対応は大変であった。俗っぽい言葉で言えば、国力も軍事力もない日本がロシアに攻めてこられたら、ひとたまりもない。だから仲良くしましょうよ、と言ってわざわざ国賓待遇で招いてのにもかかわらず、警備する巡査が凶行に及んだ。戦争になっておかしくないし、賠償問題として、莫大な金額を要求されてもおかしくない。それこそ日本のどこかをよこせと言われかねない。天皇をはじめ、皇族から政府要人、民間からも誠意を示すためお見舞いに向かう。

 「明治維新以来、政府のみならず国民も、欧米の先進国にならうことを願い、努力をかさねてきた。文明開化という言葉はすでにすたれていたが、文明を重んじる国と見られることを悲願としていた。そうした努力にもかかわらず、国賓としてまねいた皇太子ニコライを警備担当の巡査が斬りつけたことは、欧米諸国に日本は野蛮国として印象づけることになる。そのような行為をおかした者がいたことは、日本人として恥しく、見舞いをすることによって、欧米人の印象を好ましい方向にみちびこうとする気持ちがあった」

 日本が欧米なみの文明国となっていないと、政府悲願の不平等条約の改正などももちろん出来ない。このままニコライが気分を害して日本を去られては大変なことである。天皇や政府は当初の予定通り東京にニコライが来てもらわないならなかったが、最終的にはニコライは母国の指示でそのまま日本を後にした。幸いニコライはそれまでしてくれた自分への好意をうれしく思っていたし、ロシアも賠償問題などにも及ばなかった。

 ところで津田三蔵はどうしてこういう凶行に及んだのか。津田はロシアが日本に対して強圧な態度をとっていることに不快を感じていたとも言われている。
 ニコライは来日に当たりまず天皇のいる東京に来て、天皇に挨拶をするのが礼儀なのに、長崎、鹿児島、京都、滋賀をへて東京に行くのは、日本の国情を調べるためではないか。いずれは日本を侵略する意思があるのではないか。天皇は最大級の歓待を指示しているのに、ニコライはその好意を感謝していない。むしろ蔑んでいるのではないか。その驕慢さは許し難いと考えていたとも言う。
 あるいはニコライは西郷を連れて来ている。西郷が日本に戻れば、また西郷が政治の頂点に立ち、津田自身西南戦争で軍功を立てたことが、逆に粛清され、勲章を取り上げられるからだと言ったとも言う。
 ただ詳しい、正確な動機ははっきりしていないようだ。日本政府としては津田が精神を病んでいたこともあったので、そうした事情から凶行に及んだとなってくれれば一番有り難かった。
 とにかくロシア政府に対してはかなりの気の使いようであった。その中で犯人の津田の処分が問題となる。政府としては津田は極刑にしてロシアにそれを示したかった。そのため、政府は津田の裁判に介入してくる。津田をどんな罪状で裁くかである。政府は刑法百十六条(皇室罪)を適用し、津田を死刑にしようとした。刑法百十六条とは天皇、三皇(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子に危害を与えた場合、死刑に処すというものである。それを拡大解釈して皇太子ニコライも日本の皇太子と同一に扱い、それを適用することで、津田を死刑にし、ロシアに一つの誠意として示そうとした。しかし司法の大審院はそれを外国の皇族にも適用することは不当であり、今回の事件は、普通人に対して危害を加えたと解釈すべきであり、普通殺傷罪の未遂犯として扱うのが正しいと政府の意見を拒否する。
 面白いのは当時の政府は薩長閥で成り立っており、維新に功績のあったその他の藩は冷遇されていた。だから非薩長閥で構成されていた司法側は断固として政府の強引な司法介入を拒否続けた。これは江藤新平の意識と共通する。そして法律上、たとえニコライが皇太子であっても、あくまでもロシアの皇太子であって、日本の皇族ではない。だからどんなことがあっても日本の皇室罪は適用できないのが正しい。政府は司法の判断に対して、それではロシアと戦争になると脅したりして、何とかしようと介入したが、津田は無期刑に処され、釧路集治監収監される。しかし同年(明治24年)9月29日急性肺炎で獄中で病死した。

 私は大津事件としてニコライ二世が襲われたことは当然知っていたが、その後の経緯はこの本で知ったことが多い。特に政府と司法との間で津田の処遇をどうすべきか、多くの意見が戦わされた経緯は興味深い。明治政府が出来てわずか二十数年である。国として体面はあっても実力と内容が整っていない頃の事件である。だからロシアに気を使う政府の姿勢はわからないことはない。けれどそれを押し通したら、国としての体面が逆に潰れていた可能性があった。特に強引な皇室罪の適用は、文明国を目指していた日本をそういう国ではないと後年思われかねない。それを阻止した非薩長閥の存在があったからであった。非薩長閥は単に政府の薩長閥に対して不満を持っていただけのことかもしれないが、結果それが良かったことになるのは皮肉な話でもある。私はニコライの動向や津田が何故犯行に及んだかよりも、事件後津田を巡る政府と司法側の意見の戦いの方が面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:ニコライ遭難
著者:吉村 昭
ISBN:9784000017008
出版社:岩波書店 (1993/09/06 出版)
版型:359p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年08月02日

三宅理一著『秋葉原は今』

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 2007年度のデータによると、秋葉原の三つの駅、すなわちJR秋葉原と地下鉄日比谷線の秋葉原、それにつくばエクスプレスの秋葉原ターミナル駅で、一日ほぼ40万人の乗降客があるという。これだけの人間が、改札口を通って秋葉原の地に足を踏み入れている。年間1億4000万人を超す勘定だ。10年前、つまり秋葉原の再開発が始まる前の1998年では12万程度であったので、再開発を経て一気に三倍の人間が秋葉原に集まるようになったという。この本によると、「秋葉原は統計上では、年間掴みで3000万人程度の人が訪れ、外国人は100万人を超える規模と予想される。世界の観光者数と比較すると、訪問者数ではパリのポンピドー・センター、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する」そうだ。(ローマのサン・ピエトロ大聖堂を訪れる人がそんなものなのかな、と思うが、とりあえずそのことを信用しておく)

 さてこの本はほぼ秋葉原の再開発が終わった現在、その再開発がもたらした意味を考察できる時がきたので、その過程における問題点を、秋葉原の街が成り立っていった歴史を通して考えている。それが面白かった。多分それは個人的理由によるものだろうけど、そのことは後で書く。まずは秋葉原の歴史がかなり詳しく書かれていて、知っていることもあれば、へぇ~と思えることもあったので、その当たりをまとめておきたい。
 東京に鉄道が走るようになったのは、新橋・横浜間で、1872年(明治5年)ことである。そして山手線が秋葉原に達するのは半世紀以上後の大正の終わりを迎えた1925年(大正14年)だった。半世紀も時間がかかった理由は、この地域が経済的に未発達で、政策的に重要でなかったからではなく、江戸時代から古く密集した町並みが鉄道建設を疎外したからであった。
 1890年(明治23年)に現在の秋葉原の位置に貨物駅が建設され、鉄道そのものはその時点で上野からここまで伸びる。ここは神田川が流れていて、この場所が水運の結節点として好都合と判断されたからだ。
 現在の秋葉原から「水運」というイメージを思い浮かべにくいが、現在のヨドバシカメラの敷地がそのまま昔の船溜まりに対応しており、川からそこまで堀割となって水路が引き込まれていた。東北地方から輸送されてきた貨物をここで船に積み替えて、都内各地、あるいは東京湾まで運んだのである。神田川沿いのこのあたりの河岸は神田佐久間河岸と名付けられ、材木商や薪炭商が多く店を構えていたという。(これはNHKの「ブラタモリ」でもやっていた。その時はホンと驚いた)
 さて秋葉原という地名は「あきば」と「はら」と出来ている。本来「あきばはら」であるところを「あきはばら」と読む。この界隈には江戸時代から「秋葉神社」があり、当初はそこから名前を取って「あきばはら」あるいは「あきばっぱら」と言っていたのが、いつの間にかこんにちのようになった。
 秋葉原の読み方が変わった点についても諸説あるが、一般に流布しているのは、地方から来た鉄道官僚が「あきば」の読み方を知らずに、秋葉原の貨物駅を「あきはばら」と名付けたことが原因だといういう説である。永井荷風の『断腸亭日乗』にそのことが記載されているので、それが根拠となっているという。
 では秋葉原の代名詞となっている「電気街」はいつ成立したのであろうか?
 「電気街」の前身は大正時代に遡る。ラジオ時代の到来がこの街を変えたといっていい。NHKのラジオ放送が始まるのが1925年(大正14年)、マチュア無線が許可されるのが、1927年(昭和2年)当時のラジオは真空管や低周波トランスなどの部品を組み合わせてできた簡単な装置であった。そのため回路図がわかれば誰でも作ることが出来、工学系の知識欲旺盛な人間がこぞってラジオ製作に手を染め始めた。その部品を手に入れるためには工場から卸商を経て小売店での店頭販売という流通経路の整備が必要であり、新たに「電気材料卸商」なる卸業者が登場することとなる。これらの卸商は一般消費者を対象としたわけではなかったが、ラジオブームに乗って、卸商だけでなく部品の小売りも行っていた。秋葉原電気街の最古参としてあげられるのが、関東大震災の直後に創業した「山際電気商会」(1923年創業 現ヤマギワ株式会社)と「富久商会」(1923年創業)である。山際電気商会は震災で焼け野原になった秋葉原に創業者山際弘文は新潟から上京し、故郷から妹を呼び寄せ、バラック商店を構えスタートを切った。
 この二社に続くのが、秋葉原の廣瀬無線(1925年創業)、浅草の志村無線(1930年創業)、隅田川の向こうでは谷口商店(1930年創業 現ラオックス)が店を構えた。
 大正末から昭和の初めにかけて広まったラジオ熱も日中戦争が始まり、戦時統制経済が強化され、材料の調達も困難になり、さらに店主が出征し店の維持さえ出来なくなった。そこへ1945年(昭和20年)の東京大空襲で秋葉原を含めた下町が焼け野原になった。
 が、終戦にともなって統制が解除され、日々の情報を得るためにラジオの需要が一気に増す。ラジオはわずかな部品で出来るからであった。秋葉原は交通の便がよく、戦争でインフラがズタズタになりながらも、国鉄山手線、総武線、地下鉄、都電はいかなる状況になろうともきちんと動いていたし、秋葉原はそれらの交通機関が重なり合い交通結節点を形成していたことが大きく作用していた。そこにバラックの商店街が並び、闇市を形成していた。ラジオが飛ぶように売れた。秋葉原に次々電気店が開業していく。
 古参の二店(山際電気商会、富久商会)に対して、志村無線、谷口商店、ミナミ無線、鳥居産業(1925年新宿で創業)などはもとの店舗から秋葉原に店を移す。さらに新興電気材料商も続々と参入していく。石丸電気(1945年)は戦前に山際電気商会で店員を勤めていた石丸鶴雄が、山際の店舗再開に先立って秋葉原の地に創業した。同様に角田無線(1946年創業)、サトームセン(1946年創業)、ロケット(1946年創業)九十九電機(1947年創業)、中浦電気(1947年創業)などが店を構えたのもこの頃である。朝日無線電機(1948年谷口商店から家電部門を分離して設立、後のラオックス)、新徳電気(1948年創業)愛三電機(1949年創業)も後を追う。後発組としては、小野電業(1951年創業、後のオノデン)第一家庭電器(1958年創業)などがある。変わり種は、鹿野無線で税務調査が入ったことで電気商を早々見限って1949年(昭和24年)に精肉業「万世」に転身した。それが大当たりして飲食店が珍しいこの地域で大型レストランチェーン店を構えているのは周知の通りである。
 戦後忘れてはならないのは、露店商の存在である。秋葉原方面の場合、電気部品を扱った露店商が集中したことだ。戦後の復員した通信兵が秋葉原のパーツ屋の始まりで、当時としては最先端の通信技術を身を挺して覚えた陸軍時代の経験がジャンク屋やパーツ屋と呼ばれる中古の店に結実した。
 ところがGHQは1949年(昭和24年)8月に都内の露店を一掃することを掲げて「露店営業整備計画」(露店整理令)を発布し、翌年3月までに街頭からのすべての露店を立ち退かせようとするのである。これに公然と立ち向かった人物が後に山本無線を始める山本長蔵で、交渉の末、国鉄ガード下や都の土地の獲得に成功する。それが「ラジオガァデン」、「ラジオセンター」、「ラジオデパート」高架下に全ての露店商が収まった。これらは今もある。この後電波会館ができ、更に電波会館と同じ年に秋葉原デパートがオープンする。
 さて秋葉原にはこうした電気店の他にも有名な企業が存在する。(あるいは「存在した」)たとえば日本通運の本社もここに置かれていた。
 秋葉原は貨物駅から発展し、すでに大正末の時点で貨物取扱量が都内では隅田川駅に次いで二番目だった。ば日本通運は国策会社として1937年(昭和12年)に発足している。電気街の真ん中に日通本社という構図は若干奇妙に思えるが、これも時代を追って考えると日通の方がはるかに古い歴史を有しており、物流拠点の周りに雨後の筍のように電気店や量販店が出現し、周囲を取り巻いていったということである。
1975年(昭和50年)まで貨物駅が存続して、駅に隣接して青果市場が設けられていたのが、それがなくなれば日通本社がここに位置する意味がなくなり、結果として秋葉原再開発が進行中2003年(平成15年)に本社は汐留に移転し、最終的に住友不動産によってビルの建て替えが行われた。
 凸版印刷は、秋葉原に本社を構える代表的企業である。台東区側にある市村座の隣の敷地に大蔵省印刷局出身の技術者四名が印刷会社を旗揚げし、当時の最先端技術である銅凸版法を用いたので、この社名になった。その後本社は道路を挟んで向こう側の神田和泉町に移し、現在は印刷工場は秋葉原から東京の板橋をはじめ全国各地に展開。秋葉原は純粋にオフィスのみを残している。
 同じ神田和泉町にはYKK吉田工業の本社が建っている。世界のファスナーを50%近くを供給するYKKは、創業者吉田忠雄は富山県出身で、1934年(昭和9年)にファスナーを扱うサンエス商会を設立し、後に社名を吉田工業に改める。YKKの創業地は東日本橋で、戦後になって日本橋馬喰町、浅草雷門と本社を移し、1963年(昭和38年)になって現在の地に移ってきた。
 金物系でいえば、我が国の使い捨て剃刀や包丁でトップ座にある貝印も岩本町三丁目に本社を構えている。1908年(明治41年)に遠藤斉治朗が創業し、その後、遠藤刃物製作所として会社組織となる。1949年(昭和24年)のまだ戦後の混乱が続き、秋葉原一帯は焼け野原にバラックが建っている状態の時、東京に進出し、販売会社三和商会の名で岩本町に店を構え、売上を順調に伸ばし、1982年(昭和57年)に貝印の社名に変更した。
 龍角散はその名からも連想できるように漢方薬の系譜を引き、もともとは江戸時代中期に秋田佐竹藩の御殿医を務めた藤井家に伝わる藩薬がその元となっている。藤井家では藩の進取の気風を継いで積極的に蘭学を学び、漢方に西洋の生薬取り入れこの藩薬を改良した。幕末藩医藤井正亭治の代になって、喘息の持病をもつ藩主佐竹義堯の治療のためこの薬を改良し、龍角散と命名した。
 明治の廃藩置県のよって藩がなくなったため、藩薬であった龍角散は藤井家に下賜され、藤井正亭治は神田豊島町で薬種商を始めた。現在の東神田二丁目で、以後今日まで同じ敷地を守っている。1871年(明治4年)のことで、これをもって龍角散の創業年とする。

 もう一度秋葉原の電気街の盛衰をつづってみる。秋葉原の電気店の主力は電気材料卸商であったが、実態として看板とは異なって卸、小売りの兼業であった。秋葉原の秘密はそこにある。つまり小売店に対しては当然、問屋の役割を果たす一方、直接店頭に買いに来た客に対しては、小売りも行った。本来小売店が計上しなければならない利益をそぎ落として、卸値で小売販売ができることが秋葉原電気店の優位な点であり、それが価格の大幅な引き下げを可能にしたのである。
 朝鮮戦争を過ぎたあたりで、日本の景気は大きく上向きに転じ、日本のライフスタイルを大きく変えていく。電気洗濯機、テレビ、冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされ、それらを安く提供できたのが秋葉原であった。それが「秋葉原は安い」と評判を呼び、日本中から人々がさらに秋葉原に集まった。
 秋葉原に登場したビジネス・モデルは、家電製品をメーカーから大量に仕入れ、大量に売りさばく量販モデルであり、仕入価格を低くした分、販売数を大きくすることで利益が取れる。つまり薄利多売の商法である。今ではヤマダ電機やヨドバシカメラなどで当たり前のように用いられているこのモデルは、本来、秋葉原が発祥である。これは我が国が行ってきた販売代理店を通した系列化の方向と真っ向から対立する。しかし家電ブームが起きた1950年代半ばの時点では、メーカー側の販売態勢も未整備のため、マーケットは秋葉原に頼らざるを得なかった。その後メーカーは必死に系列化を進め、秋葉原の電気店もそれを受けいれた。しかしオイルショック後安定成長期に入って、秋葉原のマーケットしての容量はさらに拡大して、電気店側もメーカーの系列化に甘んずることなく、野心的なビジネスに打って出てくる。大型店の展開である。特に積極的だったのが、サトームセン、ラオックス、石丸電気あたりである。しかし店を大型化するといっても隣りに土地がない。だから多少距離はあっても秋葉原内であれば十分ということで、パッチワーク状に土地を入手し、二号店、三号店を出していく。これだと当時あった大店舗法に触れない。この結果1979年(昭和54年)で秋葉原全体の売り上げは年1,300億円に達している。この後パソコン・ブームが到来する。
 我が国のパソコン普及率を追ってみると、時間をかけて「徐々に」変化を遂げたというようなゆっくりした流れではなく、突如としてブームが起こったといった方がよい。パソコンの利用は1980年代後半を通しておおむね10%前後で推移していたが、1995年(平成7年)を過ぎた頃から一気に上昇し、2002年(平成14年)には70%台に達する。つまり、この7年間でかなりの家庭がパソコンをもつようになったということで、その分、売り上げが相当なものであったことは容易に推測できる。実際、電子情報技術産業協会の統計を調べてみると、この7年間の我が国のコンピュータの出荷数は総計で6,000万台に上り、そのかなりの部分が秋葉原で売られたと考えられている。
 秋葉原はパソコンで沸き返った。家電の華といわれたオーディオ関係が過当競争の段階に入り、これ以上の収益性が見込めないところに、付加価値があり将来性の高いコンピュータが登場したのである。しかしパソコンはオーディオと比べて進化の速度が速く、ビジネスとして持続させるには、メーカーから出荷台数の調整、さまざまな部品やアタッチメントの手配、専門的知識に精通した店員の配置などきちんと対応しなければならない。そこで最初に名乗りを上げたのが九十九電機で、次いでラオックスであった。更に部品系の商社からスタートしたT-ZONEである。亜細亜電子工業がトヨムラと組んで、中央通りにオープンした。ソフマップは元はビデオレンタル業から始まり、中古デジタル機器の取引、販売を通して新しい分野で伸びていく。
 もっとも華やかだったのがラオックスで、「コンピュータに関してないものはない」大型店舗「ザ・コンピュータ館」1990年(平成2年)にオープンさせた。その狙いは当たり、全国からパソコン好きの人間が殺到した。1995年(平成7年)を過ぎた頃から秋葉原では、ラオックス、九十九電機、T-ZONE、ソフマップがパソコン四天王と呼ばれた。しかし10年後にはそのうち三つが実質的に消滅するとは誰が予想しただろうか。
 以上秋葉原の繁栄を見ていくと、大量消費社会を背景として、国内で圧倒的シェアを誇るマーケットが確立したという事実がわかる戦後復興期に実質的に誕生した電機と電子の街が、半世紀の間にラジオ、家電、オーディオ、パソコンと商品を進化させ、品揃え、量、価格のいずれを取っても劣らない世界でも有数のマーケットに成長したのである。「出せば売れる」という状況が続き、少なくともつい最近の2000年(平成12年)までは右肩あがりの繁栄を謳歌してきた。「秋葉原に敵なし」とでもいうべき状態が半世紀にわたって続いてきたのである。
 しかし、その奢りが仇となったことは否めない。秋葉原であるということが無言の足枷となり、そこから全国に打って出ようとする企業が意外と少なかったのである。ラオックスやヤマギワ、九十九電機などは全国に店舗展開しているが、駅前のビルの一画に店舗を構えるといった程度で、ヨドバシカメラやヤマダ電機のスケールにはとても及ばなかった。言い換えれば、流通は地域性の中に囲い込まれ、秋葉原にあぐらをかいた状態が続いたのである。そこに再開発の話が浮上してきたのである。これからは再開発がどのように進んでいったのか。そしてその再開発が最初から問題を含んでいたものであり、その結果、再開発を望んだ電気街が日本の経済的動向もあるが、逆に自らの首を絞める結果となったことが書かれている。これがまた面白い。
 秋葉原には廃止された貨物駅と移転した青果市場跡地があった。再開発を始めるには、ある程度土地があってのことで、何よりも種地が必要で、これらがその種地となった。
 貨物駅は先に書いた通りである。青果市場は以外と知られていないかもしれない。青果市場は江戸時代から神田多町に存続し、下町一円の青果の取引をしていた。震災後復旧にもかかわらず、老朽化と不衛生な環境のため、1928年(昭和3年)に秋葉原駅の西横に、貨物駅の高架化に伴って敷地の余裕が出来、それを利用して、中央卸売売場神田分場が1.5ヘクタールに及ぶ市場が生まれた。業界筋では「ヤッチャバ」と呼ばれたが、築地市場ほど知られていない。その後1990年(平成2年)に大田市場に移るまで60年以上営業していた。秋葉原の大々的な再開発は、この青果市場の移転によって動き出した。
 駅東(貨物駅跡地)と駅西(青果市場跡地)を合わせると面積は8.8ヘクタールとなる。これは電気街とほぼ同じ面積であり、秋葉原にこれだけの用地が確保されれば、ここ一帯にそれまでにない都市空間を生み出すことが可能で、秋葉原のイメージは根底から変わると予想された。
 しかし土地所有者が違うことが後に大きな問題となる。貨物駅跡地は鉄道建設公団国鉄清算事業本部の持ち物であり、青果市場跡地は東京都である。
 JRは秋葉原に対しては、利用者の多さと立地のよさから将来的に駅ビル構想を温めているものの、鉄道事業という性格上、広く鉄道用地の外側にまで関心を示していない。何よりも、民営化の過程で国鉄時代の膨大な赤字を解消することが義務付けられ、日本鉄道建設公団を介して貨物駅の土地などをなるべく高い価格で売却することが求められている。だから、再開発の成果を地域に還元することは二の次である。
 他方、青果市場跡地を所有する東京都は地方公共団体であるので、当然ながら公共性が大きな足枷となる。企業誘致が可能な高度の情報施設を作って採算性の高い空間となすことをめざすにせよ、地域の還元は真っ先に考えないとならない。その意味で、秋葉原再開発は、たまたまJRと東京都の土地を駅を挟んで一体となったものの、水と油くらい異なる二つの巨大組織の関心が当初から違う方向に向いているという矛盾を含んでいた。
 再開発にあたり、様々な分野の人々の間で侃々諤々と行われるのだが、この間の話を読んでいると、どうも机の上のプランがそのまま、再開発に移される感じだ。現実の秋葉原とかけ離れた感じが歪めない。お偉い学者が建前を掲げても、それが地に着いたもののなるとは、普通考えにくい。
 だいたいITを金科玉条とし、関連企業の誘致、情報発信基地といったことを言えば、さも秋葉原らしいという発想が貧困であろう。考えてみれば、ITを駆使した産業や企業がわざわざ地べたの高い場所にこだわる必要はないだろう。ネットで双方がつながっていれば、場所にこだわる必要がないはずだ。どこでも情報のやりとりが出来るからである。だったらた再開発された秋葉原のビルの中にいる必要はなく、もっと家賃の安い場所でもかまわないはずだ。たとえそれがどんな僻地であってもかまわないはずだ。このあたりがIT=秋葉原という単純な発想しかできない人間が秋葉原の再開発のプランを立てても、浮いてしまうのは当たり前である。特に東京都など行政側が立てるプランはその程度である。だからど~んと大きな箱物を建てるしか能がないのである。そしてそれが出来る企業など、ゼネコンなどに限られてきてしまう。そしてますます秋葉原の地とかけ離れたものとなっていく。地域との共生など、そんなのどっかに行ってしまうのは当たり前である。
 ところで秋葉原タワーという話があったらしい。今東京スカイツリーが話題になっていて先日高さが400メートルを超えたという。まだ建設途中なのにこれだけの話題性がある。その巨大電波塔を秋葉原の敷地に建てようという話があったらしい。この本を読んでいるとそのプランの記述は曖昧なのだが、どうもそれはニュースソースの曖昧さから来ているようだ。でも地元にとって天から降ってわいた話でも、この話に沸き立った。再開発協議会を構成する電気街のメンバーは電波塔の誘致を緊急決議した。実際そのタワーの模型さえ作られている。その背景には秋葉原のイメージを根本から変えたいという地元の強い願いがあったのだ。
 というのも2000年(平成2年)を過ぎた頃から電気店の売上が急激に落ち込んでくる。バブルの崩壊の影響がこの頃から現れ、同時にパソコンの売り上げもピークを越え、過当競争の結果、量販店の業績がみるみる落ちていく時期であった。しかも街頭の風景として、それまで裏側に隠れていたオタクと呼ばれる集団が大手を振って街を歩き回り、それを見越した怪しげな風俗店が開店するようになった。今でこそ、秋葉原電気街で普通にフィギュアやアニメを扱うようになってきたが、それが顕在化し始めた2000年代初めの時点では、秋葉原の「負」の兆候として捉える人が多かった。風俗店に関する警察情報も芳しくない。このように商店街振興会、町会とも秋葉原の歌舞伎町化を本当に心配し始めた。
 そこに駅横に巨大なタワー建設の話が飛び込んでくる。タワーで科学技術のシンボルとして普通の人たちに発信出来る街に出来る。「タワーのあるような開放的な場所にはオタクは近寄らない」はずだと思え、タワー建設の話期待を寄せたのである。
 ところが長いこと時間をかけて再開発事業を進めてきた東京都側にすれば、そんな思いつきで動かれちゃ困るわけである。計画自体変更せざるを得なくなる。結局地元の熱い希望は却下された。このあたりから行政と再開発協議会との間で意見の食い違いが目立つようになっていく。
 そこへ東口の貨物駅跡地に膨大な資金調達が可能な企業として、さらに秋葉原の好立地とブランドを求めてヨドバシカメラがやってくる。つくばエクスプレス開通に眼をつけた。
 ヨドバシカメラは2001年(平成13年)10月に駅前0.5ヘクタールに及ぶ土地を購入した。この店舗が出来れば電気街最大手ラオックスの2.5倍、電気街の総売上より大きくなることが予想された。
 電気街の商売は、仕入値を少しでも下げて価格を落とし、販売数で勝負するのが基本である。ヨドバシカメラは、その規模の大きさを利用して、さらに低価格の商品を提供することが可能で、電気街の量販店にとって間違いなく大変な脅威となる。ヨドバシカメラの開店で、それまで電気街に流れていた客層が東口に流れることが大いに予想され、再開発が電気街にとって裏目に出るのではないかという懸念がささやかれるようになる。地元(電気街)は総意としてヨドバシカメラの進出に反対の意思表示をしたが、ヨドバシカメラ側はそんなの関係ないとばかり、工事を進めた。そもそも秋葉原は市場原理に基づいて多くの企業が熾烈な競争してきた土地柄で、今更新たな量販店が出来たから地元がダメになるという理屈が通らない。ヨドバシカメラは2005年(平成17年)9月16日オープンする。
 ちょうどその頃から電気街はパソコンの売り上げが一気に落ち込み、それに変わるヒット商品が出てこないところへ、東口にヨドバシカメラが出現したことで、地元の不安は現実となり、秋葉原へ来る人は増えるにもかかわらず、電気街の売上はみるみる減っていった。そしてあの秋葉原通り魔事件が起こっている。このため歩行者天国さえ中止となる。多分電気街の人通りは激減したに違いない。 量販店はそれまでの拡大戦略が仇となり、資金調達に汲汲としていた。今が手一杯の状態となり再開発、あるいはその後のデザインなどどうするかではなくなっていく。その兆候は1990年代から現れていた。

シントク電気が1993年(平成5年)の夏が冷夏のためエアコン商戦で完全に失敗し、ついに65億円の負債を抱えて倒産。

廣瀬無線電機グループのヒロセ無線も、同年廃業し家電業界から完全撤退。

ロケットは1991年(平成3年)をピークに経営状態が悪化、2000年(平成12年)に民事再生手続を行い、店舗を整理し2005年(平成17年)のは中央通り面した本店を閉鎖。まもなく家電量販から完全撤退。

第一家庭電器もバブル期が終わってた頃から業績悪化に苦しみ、首都圏を中心に200店近い店舗を擁した買う大戦略が裏目に出て、資金ショートを起こす。そしてついに2002年(平成14年)に倒産。

ラオックスも例外ではなく、バブル期には松波無線、神田無線、ナカウラ、庄子デンキといった量販店を次々と買収し拡大したが、パソコンの売り上げが一気に落ちたことで業績が悪化し、2004年(平成16年)には投資ファンドMKSパートナーズの傘下には入り、代表取締役の座を投資ファンドに譲り、「ザ・コンピュータ館」も閉鎖を余儀なくされる。2008年(平成20年)に別の投資ファンドに身売りする。投資ファンド間でたらい回しにされた挙げ句に、創業者の谷口家は経営から完全に身を引く。2009年(平成21年)6月に中国の量販店蘇寧電器に買収された。「ラオックス」は間違いなく秋葉原を示す日本ブランドである。それをラベリングして中国の顧客に発信するというのが大きな目的であった。

石丸電気もヨドバシカメラの出現で一番打撃を受けるという不安は的中し、2006年(平成18年)4月についに白旗を揚げ、ヤマダ電機に次いで業界第二位の家電量販店エディオンとの業務提携を発表し、翌年には創業者一族の株をすべてエディオンに売り渡した。

サトームセンも2005年(平成17年)に入って、ヤマダ電機の子会社マツヤデンキと業務提携を始め、佐藤一族は経営から身を引くこととなる。その直後今度はマツヤデンキが投資ファンドの傘下に入るが、2007年(平成19年)になってヤマダ電機がこの投資ファンドを傘下に収める。サトームセンはヤマダ電機の子会社となったが、翌年には完全に事業停止。

九十九電機も2008年(平成20年)に民事再生手続きの申し立て行う。負債総額110億円であった。2009年(平成21年)ヤマダ電機に事業譲渡を行う。ツクモの名前は残るものの、創業家完全に消えた。

ヤマギワ、オノデンは堅実路線貫き何とかやってきたが、ヤマギワはこの8月29日に、ヤマギワリビナ本館を閉店することを明らかにしている。秋には別地域でショールームのオープンも予定で、将来的には本社機能なども、同オープン予定のショールーム近くに移転することを視野に入れているという。ヤマギワリビナ本館の建物の今後については現在検討中。

角田無線、愛三電機のように自身の領分を守って量販せず、得意とする分野の販売に徹して、この時代の荒波を乗り切っている。

秋葉原駅前の再開発に引き続いて、旧ヤマギワ本店の跡地にソフマップ秋葉原本館(2007年)のビルが建ち、さらに旧日通本社ビル跡地に住友秋葉原ビル(2009年)が完成する。

 ということで秋葉原の再開発は電気街の衰退を招いたことになる。再開発は西口エリアに展開する電気街や商店街の面々が力を入れて取り組んでいたのが、皮肉な結果となったわけである。著者は最後に「都市計画が不在であるといわれている東京の、もっとも官とは相容れない秋葉原という土地柄で、役所の香りがプンプンとする「再開発」を云々するのはいかにも場違いな印象だが、東京都の肝煎りでともかくその事業が始まった。生き馬の目を抜くという言葉がぴったりの秋葉原の風土を相手として、まったく別の角度から大上段に構えて都市づくりを行うというのだから、やはりどう見ても不自然である。秋葉原に店を構える商店主も、そこに集まる電子マニアたちも、そして誰よりも萌えの商品に群がるオタクたちも、目の前で始まった再開発の何たるかを意識しないまま、いつのまにか現実の動きが加速され、最後には超高層が並ぶもうひとつの街ができあがったのである」と言っている。まさにその通りじゃないかなと思える。違う次元で再開発が行われ、それに希望を託し、結果振り回された電気街は衰退をしただけであった。

 私は大学卒業後29年間秋葉原の東口にある会社に勤めてきた。その間6年ほど他の地域にある支店にいたが、ほぼ秋葉原の変化を見てきている。本屋の店員として昭和通りから中央通りに出て、先にあげた有名電気店、サトームセン、ヤマギワや日本通運の本社、YKK、凸版印刷などに配達にも行った。御用聞きと同じだから、裏から担当部署に行くのだけれど、そこは薄暗く、荷物がいっぱいで通るのも大変な曲がりくねった通路を何冊も本を抱え歩いたものだ。裏方なんてそんなものかもしれないけれど、こうして秋葉原の歴史を改めて知ってみると、そうした混沌さはもともと秋葉原が持っていたものじゃないかと思えてくる。
 ヤッチャバはほとんどなくなっていたけれど、まだ一部残っていた。ヤッチャバから、あるいは家電の梱包ダンボールがたくさん出た。それを生活の糧にしている人も多くいた。集めたダンボールをリヤカーにいっぱいにして、平気で歩行者専用を歩く男がいっぱいいた。時にはそのまま店の前でダンボールいっぱいのリヤカーを止めて寝てしまうやつもたくさんいた。(今もいるけれどだいぶ少なくなった)何度もそんなやつと言い合いをしたし、警察を呼んだ。
 パソコンがブームになった頃ちょうど仕事が変わり、自分でもパソコンを必要とした。だから何度もラオックス、九十九電機、T-ZONE、ソフマップなど行って、パソコンを見てきた。当時は今と違って、パソコンの値段はべらぼうに高かった時代ある。手が出なかったから、ため息しか出なかった。新モデルが出れば興味津々であった。
 それに当時のパソコンはいろいろ手を加えることが出来たので、ちょっと改造したりして、そのためのパーツを買ってきたりした。考えてみれば今言われるオタクみたいなところがあった。この本の著者がまえがきで書いているけれど「細々とした部品への愛着が、気がついたらフィギュアへの偏愛になっていた」と言って、フィギュア文化が登場したのも秋葉原にはそれなりの必然性があったというのはよく分かる。
 そうなのだ。部品への愛着がラジオになり、家電になり、オーディオになり、パソコンとなっていった。そしてパソコンから生まれたバーチャルなものが、フィギュアとなり、美少女やメイドとなっていった。それが秋葉原の個性であった。元々は表だったものじゃない。そうした一種の裏文化的なものがある街そのものが秋葉原であった。そうした必然性を忌み嫌ったところに電気街の間違いがあり、秋葉原が持っていた個性を見失ったのである。
 そこに官主導の再開発に期待をかけすぎて、気がつけば経済動向が大き変わっていて、自分たちの足元が崩れていった。後は資本力のある量販店が電気街の秋葉原というブランドを求め、土地をさがしているところへ、一等地を売りたいと地主が出てくれば、もう太刀打ち出来るわけがない。
 もうここに来る多くの人は、そうしたモダンなビルに入っているきらびやかで清潔なお店であって、中央通りまで行く人々ではない。そこやその裏通りに行くのは少数となっていく。完全に棲み分けされつつあり、もともとあった電気街は廃れる一方であろう。学者じゃなくても、素人の私が見ても、歩いている人種が違うことがはっきりとわかる。
 個人的に言えば私は昔ながらバタ臭く、汚い秋葉原が好きだったので、いつも再開発で出来た高層ビルが異様なものとして写る。多分昔から秋葉原を知っている人は余計なんじゃないだろうかと思う。
 しかし再開発というのは恐ろしいものだと思う。そして再開発のコンセプトはなんだかんだ言っても、その土地を持っている企業や団体の意思によって決まってしまうもので、その周辺にたまたまいた人々の意見など、最終的には無視されるものなんだと思い知るのである。


評価
★★★★


書誌
書名:秋葉原は今
著者:三宅 理一
ISBN:9784875861928
出版社:芸術新聞社 (2010/06/30 出版)
版型:334p / 19cm / B6判
販売価:2,730円(税込)

2010年07月20日

辻由美著『翻訳史のプロムナード』

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 この本は先に読んだ須賀敦子さんの書評から知ったのだが、思った通りなかなか興味深い本で、いろいろ教えてもらったという感じがする本であった。
 私たちは翻訳ものをそれほど意識せず読んでいるが、よく考えてみると、他の言語を解さない者にとって、こうして日本語に訳され、外国の書物が読めるというのはホンと有り難いことだと思う。もし翻訳家さんたちがいなければ、ほとんどの人が外国の著作に触れられないことになる。だから翻訳家という人たちは私たちにとってなくてはならない存在なのだ。そうであるけれど、実際は著者の名前ばかりクローズアップされ、翻訳した人の名前はほとんど意識しない。それほど翻訳家は陰に隠れた存在になってしまっている。
 この本は翻訳史を語る上で、古代からルネサンスあたりまでは翻訳は創作以上に価値あるものと見なされていたものが、それが過去の著作物に限ったところに、所詮それは過去のものであって、今の方があらゆる面において優れているのではないか、という意識が広まると、翻訳そのものがそれほど注目をあびなくなり、今に至るようになっている。だから翻訳家が連携して、翻訳家の地位向上の運動が世界各国で広まりつつあるところまで語っている。
 しかし私はそうした翻訳家の地位の変遷より(もちろんそれも重要なことなのだろうけど)、その歴史、特に中世からルネサンス、そして近代に至り翻訳がどう世の中に関わってきたか、その方が興味があった。
 まずは「第一章 翻訳はいつからあるのか」で翻訳の始まりを知り、そして「第二章 バクダードからトレドへ」ではそのこと自体知ってはいたが、改めてわかりやすく、具体的に説明されると、ちょっとした驚きさえ感じてしまった。さらに「第四章 不実の美女」から翻訳された古代ギリシア・ローマ文明より、自分たちの方が優れているという優越感が持てるほど自らの文化に自信を持てるようになっていくことで、翻訳という作業がいっときより比べ、それほど注目されなくなっていく過程が興味深かった。
 これを順番に見ていきたい。私はこのことを中心にこの本を語らせてもらう。翻訳家の個人の業績より、全体として総括的に見た方が面白かったからである。
 では始めたい。著者は「ある言語圏の文化がべつの言語圏に移されるとき、そこにはつねに、なんらかのかたちで翻訳という作業がかかわっている。何千年も昔から翻訳は人類にとって普遍的なものだった」と語っている。
 一つの文化が完結的にそれだけで成り立つことは歴史上、おそらくないのではなかろうか。人類の歴史は他の民族と接触することで、触発され進歩し、逆に争うことの歴史であろう。他の民族を意識する、あるいは争うにしても、その民族のことを知らなければならないはずだ。そのことはその民族が話す、あるいは書き残した文書・書物を自らが読める言葉に書き換えられないと理解できないはずだ。それが翻訳である。だから著者は翻訳を“人類の普遍的ないとなみなのだ”というのである。それは翻訳は文字とほとんど同じくらい古くから存在し、今もなお続けられていることになる。
 さて、現在世界でもっとも多くの言語に訳されているのは聖書だといわれている。もともと世界の大宗教の伝播は翻訳ぬきにしては考えられない。当然であろう。その聖書の翻訳の歴史が興味深かった。
 旧約聖書の一番古い個所は紀元前10世紀以前にさかののぼり、五書(旧約聖書冒頭の五つの書)が正典となったのは紀元前400年頃のようだ。そして旧約聖書がはじめてギリシア語に完訳されたのは紀元前3世紀である。ギリシア語訳は、アレクサンドリアなどエジプトの地に移住してギリシア語で生計をいとなみ、ヘブライ語を忘れてしまったユダヤ人のためになされた。
 この聖書は「七十人訳」と呼ばれる。これはエジプトのプトレマイオス王(二世)の命をうけて、ギリシア語とヘブライ語に精通した七十二人の翻訳者(イスラエルの十二部族からそれぞれ六人ずつ)がアレキサンドリア湾のファロス島に送られ、そこで七十二日間閉じこもって訳したと伝えられることからくる名称だ。紀元2世紀ころの最初のラテン語訳は、この七十二人聖書からの重訳だった。本格的なラテン語聖書は、4世紀から5世紀にかけて聖ヒエロニムスによってなされたもので、『ウルガタ』と呼ばれる。『ウルガタ』は中世をつうじてローマ教会の聖書となった。ルネサンス以前におこなわれた初期のヨーロッパ諸言語への翻訳は、ほとんどすべてがこの『ウルガタ』からの重訳である。
 ところで中世フランスにおいて、文字で書かれる言葉は当初ラテン語だけだった。このため中世において聖書の言葉はラテン語であり、聖書は原則として通俗語に訳してはならないものだった。聖書の散文訳は異端的な解釈につうじるものとして禁止されていたいたのである。中世ヨーロッパの公用語はラテン語であり、ラテン語は学問と芸術、公文書の言葉であった。
 だが民衆が使う言葉は、すでにローマ帝国崩壊の前からラテン文語とはきわめて遠い言語になっていた。実際に民衆が使っていた話し言葉は「俗ラテン語」と呼ばれ、これを母体にしてイタリア、フランス、ポルトガル、スペインなど各国の国語が形成されていったというのが、いまのところだいたいの通説である。
 中世からルネサンスまでのフランス語史は、フランス語がじょじょに文字で表現される言葉としてかたちを整え、少しずつラテン語にとってかわってゆく歴史でもあるのだ。
 ラテン語から部分的なフランス語訳はすでに12世紀からはじまっていた。そしてはやくも13世紀には、聖書ははじめてフランス語に全訳されたが、この翻訳はあまり一貫性がなく、本格的なフランス語訳聖書は、16世紀のルネサンス期を待たねばならなかった。それはひとくちにフランス語といっても、はじめから現在のような標準語のフランス語があったわけではないからだ。面白いのはフランス語が国語として確立されていく過程は、封建制が弱体化し、王権が強化されていく過程とむすびついているという点である。それを具体的に見ていくと次のようになる。
 中世のフランス国王は事実上パリ・オルレアン地域の一領主にすぎず、しっかりした国境もなければ、国語という概念も国民のアイデンティティも存在しない。それをある程度まとめ、人々の精神生活を支配していたのはローマ教会であり、その担い手である聖職者たちの言葉がラテン語であり、ラテン語は中世ヨーロッパ知識人に共通の文章語であった。
 ところが封建制度がくずれ王権が強くなるにつれ、国王は教会をも支配下に置こうとするようになり、フランス語は行政の共通語として少しずつ地歩を歩み始める。これはフランスに限らず、ヨーロッパ各国においても同様な傾向を示していく。
 12、13世紀からフランス語への翻訳が徐々に拡大していく背景には、ラテン語を知らない新しい読者層が生まれたことによる。この新しい読者層は、王権がフランス各地に及び、行政や司法のために働く新しい社会集団で、その中には貴族もいれば、新興の市民(ブルジョア)がいた。13世紀末ころには、フランス国王や王家の人々、あるいは大貴族が自分の教養のためにラテン文学の古典をフランス語に翻訳させるようになった。フランスの翻訳史上に新しい時代をもたらすのは14世紀、ヴァロア王朝の到来からである。そしてルネサンス期に至ってフランス語はラテン語と対抗しうる言葉にまで成長を遂げるのである。
 さて、そのルネサンスであるが、これは承知の通り、14世紀から16世紀にイタリアを中心にヨーロッパで興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。古典古代とはギリシア・ローマの文化復興である。ここからが私が一番興味をもったところである。「第二章 バクダードからトレドへ」の始めに著者は次のように書いている。

 西洋文明の源泉として古代ギリシア・ローマの文化的遺産についてはつねに語られるが、そのわりには、アラビア文化から受けたはかりしれないほどの影響については、さほど強調されない。少数の専門家以外にはあまり意識されていないようだ。というよりは、むしろ知識としてはあっても、十分な重みをもってはとらえられていないと言ったほうが正確かもしれない。
 ヨーロッパ人は古代ギリシアの知的遺産を直接うけついだわけではない。中世ヨーロッパに入ってきたギリシア科学・哲学の大部分はは、アラビア世界を経由し、アラビア学者たちの研究と注釈が加えられたものだった。
 実際、中世ヨーロッパがギリシア・ヘレニズム科学とほぼ無縁だった時代に、アラビア世界はギリシア科学や哲学の主要な著作のほとんどすべてを自分たちの言葉に翻訳してしまった。こうして、アラビア世界で翻訳されたものは、つぎにヨーロッパ世界の言葉に重訳されることとなる。
 翻訳によって文化は、その担い手をかえながら移動していったのだ。アテネを中心とするギリシア文化からアレキサンドリアのヘレニズムへと継承されていった知的遺産は、アラビア語に翻訳されることによって、バクダードという新しいセンターで新しい生命を得た。そして、アラビア語からラテン語への翻訳は、ヨーロッパの「文明開化」をうながすのだ。

 概説的に見てみると次のようになる。
 マホメットが632年の死去してまもなく、初代カリフ(政教両権をもつ最高権力者)アブ・バクルのよってアラビア半島はイスラム教で統一される。その後継者たちはさらにこの半島の外に支配をひろげてゆき、まずビザンツ(東ローマ)帝国からシリア地方を奪い、ササン朝ペルシアを破り、642年にはアレキサンドリアを占領し、711年にはスペインの進入して西ゴート王国を滅ぼし、712年にはインダス河流域に進出した。
 こうして、わずか一世紀ほどのあいだに、西は現在のスペイン・ポルトガルのほぼ全域、東はいまのパキスタンあたりまで、アジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる巨大な帝国を築いた。これのよりギリシア・ヘレニズム文化を引き継いだ地域はほとんどイスラム教徒の支配下に入っていったことになる。
 イスラム教徒といえば、非寛容のイメージをかさねてしまいがちだが、彼らは他の文化に対して極めて大きな受容能力を持っていて、ギリシア、ペルシア、インドの科学がどっとアラビア語に翻訳され、大征服につづく時代は文字どおり翻訳の世紀であった。
 翻訳はウマイヤ朝(661-750)からすでに始まっていたようだ。そして真に翻訳の時代をもたらすのは、ウマイヤ朝に反乱を起こして取って代わったアッバース朝(750-1258)で、アッバース朝に至って、翻訳に対する情熱は社会的現象までなる。
 一方アッバース家に滅ぼされたウマイヤ朝の生き残りは、イベリア半島(スペイン)に渡り、独立した帝国を建てる。後ウマイヤ朝(756-1031)である。やがてコルドバはバクダードと並ぶ世界的学芸の中心地となり、コルドバに蓄積された文化は、11世紀のキリスト教徒によるスペインの再生服の後に、主としてトレドを架け橋としてヨーロッパに伝えられる。

 イスラム世界はありとあらゆる言語の著作をアラビア語に翻訳したが、そのもっとも基本的なものはギリシア・ヘレニズムの知的遺産である。プラトン、アリストテレスの哲学書、ヒッポクラテス、ガレノスの医学書、アルキメデス、ユークリッド、プトレマイオスの数学・天文書など。アッバース朝の君主たちは夢中になってギリシア語写本を集めた。
 しかしイスラム教徒たちがギリシア・ヘレニズムの科学の相続人になったといっても、7世紀彼らが大征服に乗り出した時には、アテネやアレキサンドリアにおける科学活動はとうの昔に終わっていた。
 アテネやアレキサンドリアは紀元前1世紀にローマに併合され、4世紀にローマ帝国が東西に分裂した後はビザンツ(東ローマ)帝国領となっていたが、そのころまではギリシア・ヘレニズム科学の伝統はなお維持されていた。
 だが、キリスト教徒による支配が確立すると、異教時代の科学や哲学はビザンツ帝国においても抑圧をうけた。ビザンツ帝国を逃れた異教徒や「異端の」キリスト教徒たちによって、アテネやアレキサンドリアの知的遺産は東方に運ばれ、今のトルコやイランにあたる地域でギリシア文化受け継いだ科学活動が営まれていた。それがさらに東のバクダードに行きつく。
 そうした科学活動を担っていたのがネストリウス派の人々とユダヤ教徒、サービア教徒などやはり異端とされた異教徒たちであった。彼らがアラビア語の翻訳の主役を演じるのである。なぜならアラビア人は当初ギリシア語を知らなかったからだ。
 ローマ帝国おいて国教となったキリスト教は教義論争に明け暮れ、431年エフェソス公会議において、コンスタンティノープルの司教ネストリウスが唱えた教義、単性論(キリストの持つ神性と人間性を別個のものととらえる立場)が異端とされ追放された。
 ネストリウスはシリアの首都アンチオキアの僧院の出身であったこともあって、シリア系キリスト教徒たちの多くがネストリウス側についた。シリア教会はエデッサ(いまのトルコのウルファ市)を中心に、学校では4世紀後半頃からアリストテレスをはじめとするギリシア科学・哲学がシリア語に翻訳されていた。このエデッサの学校がネストリウス派キリスト教徒たちの拠点となる。だがこのエデッサの学校は489年ビザンツ皇帝ゼノンによって閉鎖され、彼らはササン朝ペルシアに亡命し、新たな学校を作った。
 ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としていたため、キリスト教は迫害されたのであるが、異端のキリスト教徒は“敵の敵は味方として”保護された。そしてササン朝ペルシアがイスラム教徒によって征服され、今度はアラビア世界がその財産を引き継いでゆくのである。
 すぐれた翻訳家を輩出したもう一つの社会集団はハッラーンのサービア教徒たちがある。ハッラーン(現在トルコ領)はアレクサンドリアの数学・天文学を継承した地であった。もともとメソポタミア、シリア、小アジア結ぶ交通の要衝しめていたところである。サービア教徒は星を崇拝する人々で、特に天文学に秀でていて、そのためハッラーン出身の翻訳家たちはこの分野で活躍していた。
 翻訳に大きく関わったもう一つの集団がユダヤ教徒である。翻訳の歴史をたどっていくとユダヤ人がいたるところで翻訳家として起用されているのが目にとまる。
 ギリシア文化をイスラム教徒たちに伝える際にしても、その前のペルシアにおける翻訳活動においても、そしてのちにヨーロッパ人がアラビア語からラテン語への翻訳に大挙して乗り出したときも、ユダヤ人はきわめて大きな役割を演じていた。つまり、文化の担い手の移行がおこるたびに、ユダヤ教徒が欠かせない存在となっている。その理由はその優れた学識と語学力が買われたためであった。 ユダヤ人はヘレニズム支配下のもとで生活し、ギリシア文化との融合を成し遂げていた上に、エルサレム崩壊後四方に散り、特に八世紀には、ユダヤ教徒が移住したかなりの部分がイスラム帝国の支配下に入り、東西のユダヤ人社会の交流が可能になった。さらにヨーロッパに住むユダヤ教徒たちもイスラム圏のユダヤ人共同体を通じて、いちはやくアラビア文化に接することができた。このため著者はユダヤ人の存在を「この視点からすれば、ヨーロッパにおいて古代からの文化の連続性を担っているのがユダヤ人とさえ言えるかもしれない」と言う。
 アッバース朝第二カリフのアル・マンスールは762年、バクダードに新しい都を建設し、そこにありとあらゆる地域言語の知識人が集めた。翻訳活動は、七代カリフのアル・マアムーンの時代に絶頂期に達する。830年ころアル・マアムーンはギリシアの科学・哲学の翻訳と研究のためにバクダードに「智の家」(バイト・アルヒクマ)設立する。
 翻訳を奨励したのはカリフだけではない。学者や文人や宗教家たちも個人的にギリシア語写本を蒐集し、翻訳家の庇護者を演じた。諸侯や金持ちたちもアル・マアムーンの施設をまねて、独自に図書館を作り、翻訳家を抱えるようになった。つまりバクダードのモデルは他の地域にも波及しダマスクス、カイロ、スペインのコルドバなどにも同様の施設ができてくる。図書館も各地にでき、最大規模のものは10世紀にバクダードとコルドバに作られたもので、アレキサンドリア全盛期の図書館に匹敵するものだったという。
 このように書くとイスラム世界が単にギリシア・ヘレニズム文化の中継者の役割を果たしただけみたいに思われるかもしれないが、そうではない。何故なら翻訳とは内容の咀嚼と消化を必要とするもので、それはアラビア文化に大勢の優れた学者を生み出すこととなったのである。
 現在のスペイン・ポルトガルの大部分を支配下に置いていた西カリフ王国の首都コルドバは十世紀にはバクダードに並ぶアラビア文化センターとなっていた。蒐集された書籍は四十万冊を越えていたという。ところが1000年頃から西カリフ王の内乱によって、コルドバはかつての輝きを失い、その文化的伝統はトレドに引き継がれた。
 10世紀の終わり頃には、アラビア科学は断片的にラテン語に翻訳されていたようであったが、本格的な翻訳が始まるのは、キリスト教徒によるスペイン再征服の時代である、12世紀は文字どおり翻訳の世紀であった。
 アラビア文化をヨーロッパに導入する架け橋となったのは、スペイン、南イタリア、南フランスであったが、特にシチリアがギリシア・アラビア科学の西洋への伝達に果たした役割は大きい。シチリアは6世紀にビザンツ帝国領になり、9世紀から11世紀後半までイスラム教徒の支配下にあり、次にノルマン人に征服されたという歴史的事情から、ギリシア・アラビア・ラテンの三つの文化が共存していたからだ。
 だが、アラビア文化伝達の最大の拠点となるのは、スペインのトレドである。アラビア語の書物が豊富だった点でも、多くの学者たちを抱えていた点でも、トレドは格好の条件を備えていたのである。
 そして1085年、キリスト教徒たちがイスラム教徒たちとの戦いに勝利し、アルフォンソ六世がトレドを奪回したとき、彼らはそこに巨大な文化遺産を発見する。トレドの図書館に所蔵されていたアラビアの書物は、当時のヨーロッパ人にとって目がくらむほどの知識の宝庫であった。それをキリスト教徒たちはイスラム教徒たちからそっくり譲り受ける格好となる。ラテン語へ翻訳を通じて、ヨーロッパはアラビア世界のこの知的財産を吸収し始めるのである。そしてトレドでなされた翻訳は、12世紀から設立されるヨーロッパの大学において中心的な位置をしめることとなる。ヨーロッパのルネサンスを準備したのである。
 こうしてルネサンスは翻訳が檜舞台に躍り出た時代となる。なぜ翻訳がいち早く花形になったのか。まず活版印刷が普及し、本が大量に出回るようになり価格も安くなった。そのことで一挙に読者層が拡大する。ギリシア語やラテン語さえ知らない人たちが古代文化の接触を求めるとすれば、当然フランス語に訳されたものを頼るしかない。
 ギリシア・ローマの古典文化の価値を再発見しようとする動きは、こうして通俗語(フランス語)で古典文学を読むことができ、あらゆる教養が通俗語で得られる時代になったことが、ルネサンスの波及をヨーロッパ各地に開花させたのであった。と同時に、フランスにおける翻訳の黄金時代は、近代国家の基礎固めの時期とぴったり一致しているのは、先に書いた通りである。

 さてこうしてイスラム世界からもたらされたギリシア・ローマの文化は、翻訳によってルネサンス期の知識人の手本となっていったが、いつまでも手本でいられなくなる。それが「第四章 不実の美女」に書かれている。

 「じつのところ、近代人はギリシア・ローマ人よりすぐれているという主張がでてきたのは、フランスにかぎったことではなく、この時代のヨーロッパにかなり普遍的なもので、イタリアやイギリスでも新旧論争に類似したものがあった。が、それはおもに科学技術の分野においてである。
 羅針盤の発明が大洋航海を可能にし、望遠鏡は宇宙世界をひろげ、コペルニクスやガリレオの地動説はギリシア天文学の権威を打ちくだき、地理上の発見は未知の民族や動植物の存在をおしえてくれた。新しい産業も興った。そうなると、ギリシア人もローマ人もずいぶん狭い世界に住んでおり、天文学的にも地理的にもさほどのことは知らなかったではないか、ということになる。古代は人類の黄金時代という認識はくずれて、自分たちのような技術手段をもたなかった古代人はむしろ『未開人』のようにみえてくる。古代科学は永遠の真理などではなく、ある歴史時代の産物にすぎなくなってくるのだ」

 このように段々古代ギリシアやローマが今なお自分たちの手本になり得るかどうかということになってくる。最初はルネサンスは古代を熱烈に崇拝してきた。しかしそうした自分たちが手本としてきた古代ギリシアやローマをしのぐほど力を持ってきたと自覚できるようになり、自分たちの社会に対する自信が生まれ、時代とともに人間は知的にも道徳的にも進歩を遂げているという確信が芽生えてくる。
 こうして異教徒の古代人よりキリスト教徒の自分たちの方が優れてきたじゃないかという主張が台頭し始める。ラテン語よりフランス語の方が優っている主張する人たちも出てきた。
 そして何よりもこの時代、科学技術の進歩により古代人が知らなかった世界を自らが開いたことは、古代人より今の自分たちの方が優位に立ちつつあることを自覚させ始める。このことはもうルネサンスの意義を当時の人々は超え始めたことを意味する。そして翻訳活動はもう創造的な活動とは見なされなくなり、あれほど古代の文化を翻訳しているという威厳が低下していくのである。
 この章の「不実の美女」とはフランス語のベル・アンフィデル(Belles Infide'eles)という表現であり、その意味は「美しいが、原文に忠実でない翻訳」である。
 ルネサンス期翻訳活動はギリシア語やラテン語からフランス語に翻訳されていくということである。このことはラテン語の後退を明らかに示すものである。翻訳にあたり余計なものは除き、必要とあれば修正を加えられていく。手本としていた古代の作品が自分たちの嗜好や流儀や作法に合わせて紹介するといった傾向が大勢となっていく。「不実の美女」が大手を振って歩くようになっていったというのである。

 ここで著者は「ちょっと余談になりますが・・・・」といって、同様なことが日本においても起こったことを書いている。(こうして余談を始めるのだが、この書き出しいいなと思った。そして余談を終えて本論に戻るときは、「本論にもどりましょう」と書く)
 ここでは「日本においても、ふるくから中国文化は依拠すべき手本であり、漢籍を読み漢文を書き漢詩をつくることは、学をおさめるものにとって欠かせない素養であった。漢文は東アジア共通の書き言葉だったのだから、ヨーロッパにおけるラテン語と似かよった役割をはたしてきた」と書いている。
 ところが幕末蘭学を通して西洋文化にふれたとき、今まで師と仰いできた中国文化がいかにもとるに足らないものに見え始めた。西洋の存在を知るにいたって、中国の手本を絶対視してきた伝統的な価値観に打撃が加えられていったというのである。洋学の斬新さにふれると、それほど中国人は日本人やオランダ人ほど優秀ではないという批判に変わっていき、日本の中国一辺倒の世界観を否定するようになっていく。それが中国そのものに攻撃の矢を向けて、敵意となっていく。
 こうして開国後、明治になって日本は中国文化からの脱却があからさまとなる。一方でそれは日本の中国文化に対する負い目の深さをうかがわせるものがあり、その強迫観念が中国侵略のイデオロギーのひとつになったのではあるまいか。中国文化に対する負い目は、ひたすら中国文化の否定へとつながっていく。
 洋学を一心に取り入れたことで、中国文化は取るに値せずといった感じで、完全な中国文化の否定となっていく。中国は日本より劣っているということとなり、ならば侵略へ、という思想となっていったのではないかと言うのである。この考え方はなかなか面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:翻訳史のプロムナード
著者:辻 由美
ISBN:9784622045625
出版社:みすず書房 (1993/05/20 出版)
版型:275,7p / 20×14cm
販売価:入手不可

2010年03月19日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『笑う警官』

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 今回も今まで持っている文庫本とは別に買った文庫本を読んだ。初版本ではなく、再版本である。ここでは初版が昭和47年(1972年)7月20日となっているので、ここにあげた書誌とまた異なっている。ちなみに私がそれまでに持っていた本はこれである。

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 とにかくこの本は1970年アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀長編作品賞の受賞作品ともなっているくらい、スケールが大きく、しかも単に話が大がかりになっているだけでなく、地道な捜査をきめ細かに描写していて、なるほどこれならこの賞を受賞してもおかしくないと思える。

 さてこの話の内容である。ストックホルムでベトナム反戦デモで騒がしかった雨の夜、路線バスが道路から外れて停止していた。中を覗くと瀕死の人間が一人いたが、運転手を含め乗客8人が機関銃らしきもので打ち殺されていた。そしてその殺されれた乗客の中にマルティン・ベックの部下であるオーケ・ステントルムがいた。この事件では目撃者もおらず、しかも被害者のほぼ全員が死亡しているため誰がどのような理由で狙われたのかも分からず、捜査は被害者各々の背景を調べるところから始まった。地方からも応援を頼み捜査を続けるうちに被害者の中の何人かは裏に後ろ暗い事情を抱えていることが判明したが、その中に1人だけ身元不明の被害者がいた。
 一方マルティン・ベックはこの事件の捜査を始めるに当たり、何故非番だったステントルムがこのバスに乗っていたのか疑問を持ち始める。しかもステントルムは銃をいつも持ち歩いていたという。
 ベックの同僚コルベリはステントルムの恋人オーサー・トーレルの元に行き、ステントルムの近況を聞いた。そこでステントルムが休暇を取っていて、『バルコニ-の男』での公園での連続殺人事件に加われず、しかも休暇が終わった時点で事件が解決していたことにクサっていたと聞く。ステントルムは若いだけに野心家であった。

 事件がそれほどない時期に過去の迷宮事件を調べてみろと上司から言われ、ステントルムは“テレサ事件”を追っていた。この事件はテレサという色情狂の女が娼婦に身を落とし、殺されてしまった事件で、関係者は数多くいるのだが、決定的な証拠がなく迷宮入りとなっていた事件であった。
 コルベリはステントルムが追っていたこの事件を調べ始める。テレサと関係を持った男は様々な階級の男たちがいたが、中には身を崩しアル中になって収容されている者もいた。
 以前ステントルムからもいろいろ聞かれていたその男はかなり車に詳しかった。男とステントルムとの雑談の中で、テレサ殺害時に目撃された車が、正面から見ると他の車と見間違うほどよく似ていることを聞かされ、ステントルムがそれに異常に興味を持ったことを聞かされる。
 一方身元不明の被害者の身元が割れる。ところでベックの同僚で記憶力に優れた、メランデルという刑事がいるが、その身元不明の男の名前が“テレサ事件”の調書の中に名前があったはずだと言い出すが、“テレサ事件”を再調査していたコルベリはその調書を隅々まで読んでいて、その名前がなかったはずだと言う。結局調書は1ページ抜けていた。その抜けた調書にはその男の名前があったのだ。しかもその男が乗っていた車が事件当時目撃された車と見間違えしてもおかしくない車に乗っていたのであった。ステントルムはこの男を追っていたのである。
 この男を調べているうちに一枚のレシートが見つかり、裏には頭文字と見られるB・Fという文字があった。コルベリが作ったテレサの関係者リストにB・Fの頭文字がつく名前の男は3人いた。さらに意識不明の重体になっていた男が死ぬ間際に、犯人が自分が勤めていた会社の監督の男とよく似ているといって死んでいったことが分かり、B・Fの頭文字がつく男3人のうち監督に似ている男を見つける。そしてその男は身元不明の男が勤めていた会社の経営者であり、今は実業家であった。実業家はステントルムが男を尾行していることに恐怖を持ち、その男とステントルムの抹殺を計ったのであった。

 「よし、これでどうやらきまりだな」

 といって犯人の男のであるその実業家の元へ向かう。

 事件が解決し、グンヴァルト・ラーソンは次のように言う。

 「こんなことは、誰にも話したことはないんだが、おれはこんどの捜査で洗いだした連中には、そんそこ同情を感じているんだ。どいつもこいつも、てめいで生まれてこなけりゃよかったと後悔しているようなクズばかりだが、といって連中の人生の賽の目が、ままならぬ方向にころんだからたって、そいつは連中の責任じゃあない。許せないのは、そういう連中を虫けらのようにひねりつぶす、フォルスベリみたいな手合いだ。あの豚野郎ときたら、考えることはてめえの金、てめえの家庭、てめえの会社ばかりだ。たまたま他人よりちょっと裕福だというだけで、好きなように他人をあやつれると思っていやがる。ああいう手合いはフォルスベリだけじゃない。実は何千ているんだ。そいつらはポルトガルの娼婦をしめ殺すようなヘマはやらないだけの話だ。だから、そうおいそれとおれたちの網にもかからない。出てくるのはそいつらの犠牲者だけという寸法さ。フォルスベリの野郎は例外なんだ」

 という言葉が肯ける。ところでステントルムが隠した、“テレサ事件”の調書の1ページはステントルムの机の上に隠れてあった。そこにはこの大量殺人事件犯人の名前が疑問符付きであった。それを聞いたマルティン・ベックは低く笑った。それをもっと早く見つけていればというところなのだろう。


評価
★★★★


書誌
書名:笑う警官
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520023
出版社:角川書店 (1985/11 出版)角川文庫
版型:433p / 15cm / 文庫判
販売価:740円(税込)

2010年03月16日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『バルコニ-の男』

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 まずは本そのものの話から。このシリーズは日本ではこの『バルコニ-の男』から発売された。理由はどうしてなのか分からないことは書いた。察するにこの本からこのシリーズを面白くするグンヴァルト・ラーソンが出てくるからじゃないかと推察するが、あくまでも私がそう思っているだけのことだ。
 で、今回読んだ本は今までのカバーとは趣を異にする。そう、今回このシリーズが発売された最初の本、すなわち初版本を手に入れており、それを読んでみたのだ。
 初版は昭和46年(1971年)8月10日となっている。ということはここにあげた書誌とは異なる。この書誌は紀伊国屋書店Book Webを参考にしているが、そこには1993年(平成5年)となっている。昭和46年と平成5年とではちょっと隔たりがありすぎる。別に紀伊国屋書店Book Webの書誌をいい加減だといちゃもんをつけるわけではないが、私は初版の実物を今手にしているのだから、正しくは1971年だろう。私が持っているもう1冊本の方を見ると、これも初版が昭和46年8月10日となっていて、昭和59年(1984年)4月30日十六版発行となっている。


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 今回は今から39年前の文庫本を読んでいるのだけれど、これが下手に扱うとページがとれてしまいそうである。この時の角川文庫はスピンがついていたことを知るが、そのスピンが寸足らずになっている。先っぽが切れてしまっている。経年劣化もここにも現れている。またカバーの背表紙も紙質が劣化し、折り込みの部分が割れたようになっている。いったいこの文庫は後何年で崩壊するのだろうか、と思った。

 さて本の内容である。マルティン・ベックはロゼアンナ事件で一緒になったアールベリーの要請でモータラへ行く途中、署による。そこには連続辻強盗を捜査しているグンヴァルト・ラーソンが、一向に見えない犯人にイラついていた。そこに電話が鳴る。自分の部屋から見える先にあるバルコニーに不審な男が立っていると言うのだ。電話をかけてきた女性はその男の風体を言うが、男は自分の部屋のバルコニー立っているだけのことで、グンヴァルト・ラーソンはだからどうしろと言うのだと怒り、電話は切れた。
 そん中、ストックホルム市内の公園で8歳の少女が暴行され殺されているのが発見された。犯行時刻と推定される日には、同じ公園にある売店の店主が頻繁に発生している辻強盗に襲われるという事件も起きていた。数日後またしても少女の死体が発見され事件は連続殺人となっていった。
 可能性としてグンヴァルト・ラーソンが捜査している辻強盗の犯人が少女を殺害した人物を目撃している可能性が出てきた。マルティン・ベックはとにかくその辻強盗の犯人を探すことを最優先にした。なぜなら少女を殺害した犯人の手がかりは一向に出てこないからである。
 そしてタレコミで辻強盗の犯人が捕まった。犯人は犯行を実行する前に綿密に狙う相手を物色していたので、公園にいたときもそこにいた人物を一人一人あげていく。そして辻強盗の証言から連続少女殺人犯の似顔絵を作成することができた。ただその辻強盗の犯人が言った連続少女殺人犯の風体にマルティン・ベックは何か引っかかる物を感じていた。
 懸命の捜査にもかかわらず、少女を殺した犯人が何物でその行方も一向につかめないまま時間ばかりが過ぎていく。市民は自警団を自主的に作り、過剰に反応する事態に陥り、マルティン・ベックの同僚レンナルト・コルベリがそんな自警団に襲われる。
 マルティン・ベックは捜査に当たり何かが気にかかっていたが、それが何なのか分からないでいた。

 「不意に、彼は身を硬ばらせた。身内を熱いものが走り抜ける。思わず息がつまった。辻強盗の逮捕以来気になっていたこと、頭にこびりついて離れなかったこと、グンヴァルト・ラーソンと分かちがたく結びついていたこと、それがいったい何であったか、突然頭にひらめいたのである。
 人相だった。
 ルンドゲレン(辻強盗の名)が述べた人相をグンヴァルト・ラーソンがまとめた要約は、一言一句、ラーソンが二週間前受話器に向かって言っていたことの反復といってもいいではないか」

 マルティン・ベックは慌ててグンヴァルト・ラーソンが迷惑電話として扱った女性との会話を思い出させる。確かに連続少女殺人犯の人相とグンヴァルト・ラーソンが聞いたバルコニーに立っていた男の人相が似ているが、今のところ関連性が見出せない。単に偶然ということだってある。刑事の勘にしか過ぎない。ただ捜査が八方ふさがりの状態である以上、その男を調べても別に損することはない。このあたりのマルティン・ベックの刑事の勘は圧巻である。そしてその勘は当たり、事件は一気に解決に向かう。

 このシリーズを面白いものにしている要因は、地道な捜査と登場する刑事たちの決断力と推理力であろう。その熟練した推理力と捜査の仕方がリアルで、なるほどと思わせるのである。そしてそれだけだと単に捜査を時系列で追うだけになってしまうが、そこに登場するマルティン・ベックら刑事たちの個性のぶつかり合いを加えることで物語を面白いものとしていく。
 この話の運び方も最初に迷惑電話と見せかけて、それが重要な証言であることを後で分からせるし、辻強盗と連続少女殺人事件をうまく組み合わせて、物語を面白くさせる。思わず“さすが”と唸ってしまう。
 また刑事たちの人間性を訴えるため、彼らの私生活の描写も忘れず書き込んで、それが読む側に登場人物をより身近に感じさせるのである。


評価
★★★★


書誌
書名:バルコニ-の男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520016
出版社:角川書店 (1993/11 出版) 角川文庫
版型:340p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月13日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『ロゼアンナ』

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 私が持っている「マルティン・ベックシリーズ」は二代目である。というのも最初このシリーズを読んで、その面白さを堪能した後、もう読み返すことはないだろうと思い、古本屋さんに売ってしまったのだ。ところがいつかふと思い出し、また読んでみたいなと思い始めた。こうなると是が非でも読みたくなり、またこのシリーズを買い求めたのだ。だから今手元にある文庫本5冊、単行本5冊は二代目になるのだ。そして同じ本なのだが、初版本と表紙違いの本を2冊古本屋さんで見かけたのでそれを買い求めている。
 今回このシリーズを読み直すと、これで三度目となる。今回は新たに買い求めた初版本と表紙違いの本を2冊と、それ以外に持っている二代目の本を読むこととする。

 さてこの「マルティン・ベックシリーズ」はマイ・シュ-ヴァルと妻のペ-ル・ヴァ-ル-の共作で、スウェーデンの名作警察小説である。よくエド・マクベインの「87 分署シリーズ」と比較される。もしマイ・シュ-ヴァルが死亡していなければ、もっとシリーズは続いたものと思われる。
 結局夫のペール・ヴァールーが1975年、まだ48歳の若さでこの世を去ったため、シリーズは10作となった。私はあくまでも個人的に思うのだが、結局10作にこのシリーズがとどまったことが、かえってこのシリーズをいいものとしたんじゃないかと思っている。「87 分署シリーズ」のようにだらだら続いちゃうと、どこか間延びした感じになってしまうのではないかと思うのだ。作品は以下の通り。

 『ロゼアンナ』(1965)
 『蒸発した男』(1966)
 『バルコニーの男』(1967)
 『笑う警官』(1968)
 『消えた消防車』(1969)
 『サボイ・ホテルの殺人』(1970)
 『唾棄すべき男』(1971)
 『密室』(1972)
 『警官殺し』(1974)
 『テロリスト』(1975)

 日本ではどういうわけか、第一作の『ロゼアンナ』から出版されず、『バルコニーの男』から出版され、『笑う警官』が第二作として出版されてる。
 そして普通親本として単行本があっていいのだが、これもどういうわけか『ロゼアンナ』から『消えた消防車』は文庫本しか見つからない。もしかしたらこのシリーズはここまでは文庫本オリジナルなのかもしれない。主人公はマルティン・ベック警視である。
 このシリーズが面白いのは、登場人物のキャラクターが警察という職場でも、ごく普通の冗談や会話をするところにある。だからかもしれないが、シリーズ全体で登場人物が楽しいし、警察というきな臭い職場であっても、普通に笑えるのである。そういうことだから人物たちを愛せるのである。私はマルティン・ベックの同僚のレンナルト・コルベリと、ここでは出てこないが、グンヴァルト・ラーソンが大好きである。
 さて『ロゼアンナ』の内容である。遊覧船が行き交うところで、浚渫船が女性の死体を引き上げた。司法解剖の結果、性的暴行を受けた後に絞殺されたことは判明したが被害者の身元は不明のまま捜査は行き詰まり、本庁の応援を仰いだ。ストックホルムからマルティン・ベックとその部下たちが集まり、捜査を続けるが、これといって手がかりがないまま、またしても捜査は行き詰まる。
 そん中アメリカから失踪者の照会があり、殺された女性がロゼアンナ・マッグロウであることが判明する。ロゼアンナの名前は遊覧船の名簿にもあり、どうやら、殺された後遊覧船から投げ落とされたと分かってくるが、それではいったい誰がロゼアンナを殺害したのか皆目判明しない。
 マルティン・ベックは遊覧船にロゼアンナが乗っていたことで、その他の乗客が観光目的で写真やビデオを撮っていたはずだと考える。その船に乗っていて、写真やビデオを取っていた乗客からそれらを取り寄せ、ロゼアンナに近づく人間を捜していく。そうしているうちに一人の不審者が浮かび上がったが、しかし事情聴取をしても、しらを通され、決め手に欠けた。
 そこでマルティン・ベックはその疑わしい人物に婦警を使っておとり捜査をし、罠をかけるのである。男はその罠にはまり、事件は解決する。
 あらすじをこう書いてしまうと、“なんだ”と思ってしまうが、捜査が行き詰まり、次の捜査方法を悩んで考えつき、さらにその先も同様にマルティン・ベックがどう捜査を進めていけばいいのか、苦しみながら考えるあたりは臨場感が感じれるのである。しかも特別変わった手法を取っているわけではなく、オーソドックスな捜査方法だ。だから犯人逮捕までの間がリアルに感じられた。


評価
★★★★


書誌
書名:ロゼアンナ
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:
出版社:角川書店 (1993/11 出版)角川文庫
版型:375p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年02月19日

久坂部羊著『破裂』

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 思惑、野望、恨みを晴らしたいと思う人が何人かがいる。それがからみ合いこの話は展開する。
 松野公造はそれまで勤めていた新聞社を退職し、ノンフィクション作家をめざしていた。社会部の記者時代、吐血し、進行性胃がんと診断された。再度別の病院で検査を受けたときは、今度は胃潰瘍と診断され、最初の医者の診断は何だったんだと怒りを覚えるし、それをその医者に言えば、「結果よかったのだからいいじゃないか」という無神経さに腹をたてる。さらに妻が妊娠し、子供がお腹の中で育たないと言われ、別の医者に行けば妊娠は可能と言われ、娘が生まれた。松野夫婦が受けた心の傷は筆舌に尽くしがたく、医者に対する不信感が医療の問題に目を向けることとなる。
 松野の医療ノンフィクションにネタを提供したのが大学病院の麻酔科の医師江崎俊であった。江崎は医師の公にされないミスを聞き回り、それを「痛恨の症例」として松野に提供していた。
 そん中、中山枝利子の父親が医療ミスで死亡したということを知る。枝利子の父親は心臓の僧帽弁置換手術を受けたが、五日後出血性心タナポナーデ(心臓を包む袋の中で出血し、その圧迫で心臓が止まること)で死亡した。その後枝利子のもとに父親は医療ミスで死亡したという内部告発文書を受け取り、父親の手術に医療ミスがあったのではないかと疑い始める。
 江崎は枝利子と会い、枝利子の父親の手術を調べ始め、父親が死亡したのは手術の際、置き忘れた縫合針が刺さって出血死した疑いがあることを知る。
 枝利子の父親を手術したのが心臓外科の助教授香村鷹一郎であった。香村は次の教授選候補であった。その選挙で香村は日々苛立っていた。手術のときもそうであった。
 香村のライフワークは“ペプタイド療法”というものであった。これは心不全に陥った心筋細胞を甦らせるものであったが、重大な副作用があった。それは心筋の再生はそれにつながる血管の内膜も増殖させ、血管が狭くなって、心臓が破裂してしまうのであった。 一方で厚生労働省大臣官房主任企画官佐久間和尚という人物がいる。彼は“厚労省のマキャベリ”と呼ばれるほど、強引な政策をそれまで推し進めてきた。そして佐久間は日本の超高齢社会へ抜本的解決策を画策する。それがプロジェクト《天寿》であった。
 プロジェクト《天寿》は人口ピラミッドも正常化、少子少老化社会の実現、政府による「寝つかない死、苦痛のない死」の保障、平均寿命の引き下げと、健康寿命との僅差化をめざすものであった。佐久間ははっきりと言う。

 「日本は超高齢化社会はなぜ発生したかおわかりですか。医療が無軌道に進歩したからですよ。医者には病気を治して命をのばすという単純な発想しかなかった。その結果、高齢者が増えすぎて、介護危機、年金破綻、老人の医療費問題、世代間のいがみ合いなどを生み出したのです。医療は進歩さえすればいいというあさはかな発想、唾棄すべき長寿礼賛の結果です。このまま老人が増えれば、日本は国を維持できなくなります。なのに医者どもは今も漫然と寿命をのばしつづけている」

 「医者は世間知らずで幼稚ですから。日本の超高齢社会だって、医者が創り出したも同然でしょう。平均寿命が世界一だなんて浮かれていますが、おかげで国がつぶれそうですよ」

 「一部ではこれを若肉老食と呼び、老人が若者を食い物にしている状況を揶揄している」

 「少子化はいいのです。問題は高齢化です。少子少老化にすれば、規模は縮小します」

 このプロジェクトには不完全な香村の“ペプタイド療法”が必要であった。不完全な“ペプタイド療法”が老人の抹殺に役立つのであった。なぜなら年寄りの心臓を一時的に元気し、若返らせ、ある日突然心臓が破裂する。何の痛みもなく、ぽっくり死なせることができるからである。そのため佐久間は香村を呼び寄せる。幸い中山枝利子が香村を訴え、裁判を起こしたのをいいことに、大学の教授職より新しくできるネオ医療センターの副所長として招く。佐久間が職権を乱用して、莫大な予算を餌にして香村を副所長にそえる。 ネオ医療センターの研究テーマは、老人に望ましい死を保障することで、確実で、苦痛で、苦痛がなく速やかで安全な、誰でも求める死を提供することあった。佐久間は医療に老人の死の落とし前をつけろと次のように言う。

 「若い世代は長生きを望みますが、それは老化の苦しさを知らないからです。現実の高齢者は大半が老いの苦しみに苛まれています。こんなにつらいのならいっそ早く楽になりたい。なのに死ねない。そんな人に生きろというのは残酷です。むかしはだれでも自然に死ねた。今は死ぬのがむずかしい時代です。医療のおかげで、苦しい長寿を生きなければならない。その落とし前をつけることも、医療の責務ではありませんか」

 この本は香村の裁判で、香村が犯した医療ミスの実体が大学という“白い巨塔”でどう隠されていくか描く一方、日本の超高齢社会の極端な解決策の恐ろしさを描いていく。医療ミステリーという立場を取りながらも、日本が今突きつけられている現実を、特に医療の進歩の極端な礼賛の落とし穴をうまく描いている。先の『廃用身』もそうだったけれど、ここまで考えないと、日本は滅びる可能性が大きいというのは、恐ろしい。佐久間の言うことを果たして簡単に押しのけることができることなのだろうか、と思う。
 ゼウスの時代から人間は増えすぎて、ゼウス自身焦っているわけだから、こういう結果になることに必然性があったのかもしれない。マルサスの人口論を持ち出すまでもなく、生物としての「人間」のあり方をどう考えればいいのだろうか。この本で「医療は反自然」と言っている部分があるが、現実を見るとまさにその通りだ。医療の進歩を手放しで喜んでいいものかどうか、考えてしまう。だから佐久間が画策するプロジェクトを単に小説の中の話として片づけられるものじゃない。


評価
★★★★


書誌
書名:破裂
著者:久坂部 羊
ISBN:9784344006980
出版社:幻冬舎 (2004/11/25 出版)
版型:450p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本有り

2010年02月17日

久坂部羊著『廃用身』

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 この本も読もう読もうと思って、今日まで来てしまった。帯などに書いてある本の内容を読むと、ちょっとためらっちゃう部分があって、気が重くなっていたのである。しかし読んでいるうちに引き込まれてしまい、一気に読んでしまった。
 主人公の漆原糾は老人デイケアを中心とした神戸の「異人坂クリニック」の雇われ院長であった。このクリニックのデイケアに通う老人たちと接していて、廃用身である手足に苦しめられているお年寄り、そのお年寄りの介護に苦しんでいる親族、介護士を見ると、介護の未来に大きな不安を感じていく。廃用身とは脳梗塞などの麻痺で回復の見込みのない手足のことである。
 ある時脳梗塞で下半身と左上肢が完全に麻痺してしまった人がいた。この人は体重が九十キロもあり、親族も介護士もこの男の人を介護するのが大変であった。身体が重い分床ずれも起こし、それがひどくなっていく。もし廃用身の両脚と左腕がなければ、体重が五十キロくらい減らせるし、介護の負担も半分近く減る。「廃用身の切断」を選択肢が漆原の頭の中にむくむくと起き上がってくるのであった。それまでもこんな廃用身がなければいいのにと思っていたから、ますますその思いが強くなり、切断してはいけない合理的な理由がどこにあるんだろうかと考えていく。
 この男の人は親族の虐待にあって、足が壊疽を起こし、必然的に切断したほうがいいという話になって、両脚を切断した。そしてこの人が変わったのである。何か憑きものが落ちたみたいに、明るくなったのである。漆原は廃用身の切断が麻痺を起こした人に生きる希望をもたらすこと、介護する側にもその負担を軽減することを確信する。
 更に廃用身を切断することで、血流が変わったためか、脳に多くの血が流れるためか、それまでしゃべることもままならない人が言葉をしゃべるようになったりする効果を発見するのである。
 漆原は廃用身の切断にに介護の未来を見出すようになって行く。廃用身の切断はお年寄りのQOL(生活の質)を高めるものであると考えていく。そのため廃用身の切断を彼は「Aケア」と呼ぶようになる。「Aケア」のAは切断の英語「Amputation」の頭文字を取ったものである。
 廃用身はお年寄りを苦しめており、それからの解放は生活を一変させるほどの歓びだった。それまでは病気を悔い、麻痺した手足を嘆き、報われないリハビリに苛立っていたお年寄りたちが「Aケア」のあと、別人のように明るくなっていくのを確信していく。その「Aケア」の状況改善点を挙げると以下の通りになる。
・物理的に身軽になること
・気持が前向きになること
・介護者に気兼ねしなくてよくなること
・廃用身に対する嘆きが吹っ切れること
・廃用身の痛みや疼き、しびれ感、だるさなどが消えること

 しかしいくら廃用身とはいえ、人間の身体を不要だからといって、切断していいものかどうか。漆原は超高齢化社会の到来で、介護を維持していくには、何かを犠牲にしなければならないと考え、次のような詭弁を言う。

 「構造改革ばやりの昨今、企業は不要になった部門を切り捨て、効率アップを余儀なくされています。情やしがらみで成績の悪い部署や職員を温存していたのでは、全体の体力が落ちて倒産してしまいます。
 『Aケア』を身体のリストラと考えることはできなでしょうか。
 長年、働いてくれた手足を切断するのは、忠実な社員を解雇するのに等しい痛みを伴うでしょう。しかし、そうしなければ会社が倒産してしまうように、お年寄りも介護者も共倒れになってしまいます」

 「異人坂クリニック」は廃用身を切断した人が多くなり、当然それは社会の目にさらされ、非難、バッシングが始まる。それは人間の尊厳を大上段に構えているが、そのほとんどがその異様さを面白がるものばかりであった。いくら介護の破綻が目に見えていても、その解決策の一つとして廃用身の切断は受け入れられない人々の興味の対象となっていく。

 この本はそうしたバッシングに対する、「Aケア」の意味、すなわち「Aケア」が介護負担を軽減し、ひいては高齢者へのサービス向上につながり、危機的な老人介護の未来に貢献するものだという、漆原の考えを世に問おうとする原稿があって、それを本にしようとした編集者の矢倉俊太郎の「編集部註」の二部構成となっている。
 その「編集部註」で、なぜ漆原が廃用身の切断の考えに至ったのか、その彼の資質を生い立ちから追うことになった。そして「Aケア」の発案の根底には、漆原糾は合理主義者で不要なものは、徹底的排除しなければおさまらない頑なさがあったこと。さらに漆原の歪んだ嗜虐性があったことも矢倉は知るのである。漆原は患者の考えを一番に尊重して「Aケア」を勧めたが、どうもそこに追い込んでいく姿勢が明らかになって行く。患者に明るい未来を言い、人生の再出発を言うことで、患者に「Aケア」を選択させる姿が浮かび上がってくる。
 漆原もそうした自分の姿を段々認めていくこととなり、最後は「頭は わたしの 廃用身」という書き置きをして自殺するのである。
 更に「Aケア」が必ずしも明るい介護の未来ばかりをいうものではないこともわかってくる。すなわちたとえ廃用身であっても、手足がないことの不完全さに悩まされる人たちが少なからずいたことがわかってくる。

 廃用身の切断は超高齢化社会に介護という問題を考える上で究極の選択なのかもしれないが、だからといって「身体のリストラ」として受け入れていいものかどうか、考えてしまう。むしろそこまで考えないと介護の未来はないということに、危機感を感じてしまう。どちらかと言えばストーリーの怖さより、介護の未来を考えるとそっちの方が怖くなってくる。


評価
★★★★


書誌
書名:廃用身
著者:久坂部 羊
ISBN:9784344003408
出版社:幻冬舎 (2003/05/25 出版)
版型:323p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本有り

2009年12月30日

吉村昭著『熊撃ち』

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 この本は読みたかったが、本屋で入手できなかったので、探していた。やっと見つけたのでさっそく読み始めた。
 吉村さんには『羆嵐』という作品があるが、これを読んで羆の恐ろしさが身に迫るほど恐ろしく感じたのを今でも思い出す。今回読んだこの本は『羆嵐』を書く前に書かれた本である。猟師やハンターの取材から生まれたものだった。つまりこの『熊撃ち』は『羆嵐』を生むきっかけとなった作品なのである。吉村さんも『羆嵐』は『熊撃ち』の副産物として生まれたものだったと言っている。
 この作品は七話からなり、一話一話主人公の猟師の名前をタイトルにしている。しかも主人公は実在し、物語も実際あった話だという。だからだろうか、とにかく北海道にいる羆(一話だけ内地の熊の話だ)の恐ろしさがひしひし感じられる。
 だいたいが羆に襲われた人がいて、その後羆狩りが行われるパターンなのだが、まずはその羆に襲われた現場の無惨さである。

 「娘が行方不明になってから五日目の十一月二十三日、捜索隊は、楢の木の根本にころがる無残な娘の遺体を発見した。衣服はひきむしられ、隆起していた乳房も荒々しく食いちぎられている。さらに腹部や腿や臀部など、肉のついている部分はすべて食い荒らされ、頭部にも鋭い歯の跡があり地下足袋もかじられていた」

「青年が、大鎌をふりあげた。羆と青年の体が、接近した。鎌の刃が、ひらめいた。と同時に、ゴキッという音がした。羆の掌が青年の頭部をうち、その衝撃で首の骨が折れたのだ」

 「老女を襲って肉を喰べた羆が射殺されて解体された。すると胃のなかから消化されなかった人体の表皮が出てきた。両掌に乗る程度の量だったので水でよく洗ってビニール袋に入れ、遺族に渡すことになった」

 「娘を喰い殺した羆が射殺された。解体すると胃のなかの肉は完全に消化されていたが、奇妙なものがとけずに残っていた。それは赤く固い拳のようなもので、ほぐしてみると都腰巻の繊維と毛髪のからみあったものだった」

 吉村さんの文庫版のあとがきで、「内地の月の輪熊は植物性のものを主食とするが、北海道の羆は、植物性のものを食べると同時に肉食でもある。牛、緬羊など家畜を襲い、人間も食い殺す」と書かれているが、まさにこれが証明している。その力はものすごい。とにかく羆は猛獣なのである。
 息子が羆に襲われ、その敵討ちとして一緒に猟師と山に入り、目の前にその羆が迫ってきたとき、息子を襲われた男はライフルを発砲し、絶叫しながら逃げ出してしまう。それほど素人には恐ろしい生き物であった。しかし猟師はそうした羆の恐怖に立ち向かえるほどの強靱な精神力で引き金を引き、羆を倒すのである。彼等はだいたいが寡黙であり、自然の怖さ、羆の怖さを充分に知っており、決して自然や羆を軽んじない。用意周到であり、狩りのためには、何日も山には入り、待ち続ける忍耐力を持っている人たちであった。 そんな恐ろしい羆であるが、一方で羆狩りが村の収入源であり、食糧でもあったため、羆狩りの時期が待ち遠しいところもあった。毛皮と胆嚢は高く売れたのである。
 とにかく羆がどこにいて、どうやって追い詰めていくか、その自然の厳しいさとともに、緊迫感がずんずん伝わってくる作品であった。


評価
★★★★


書誌
書名:熊撃ち
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169268
出版社:文芸春秋 (1993/09/10 出版)文春文庫
版型:205p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年11月01日

三浦しをん著『まほろ駅前番外地』

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 この本が出たことを知ったときは、すぐ読みたいと思っていたのだが、あいにく読んでいる本があったので、今日になってしまった。あの多田便利軒の続編となれば、読みたくもなる。ただ悲しいことに詳しい内容は覚えていないが、とにかく面白くて大笑いしたことだけはよく覚えている。
 ちなみに自分のブログで検索してみると、前作を読んだのは3年前だ。3年前読んだ本の内容を忘れちゃうのもどうかと思うけれど、まぁそれだけ私の頭が老化していることなのかもしれない。幸いこうして読んだ本をブログでその感想を書き込んでいるので、検索さえすれば、当時のことがすぐ思い出せるので有り難い。早速当時書き込んだ内容を読んでみた。
 私はこの本を前作の続編と書いたが、実は続編とは違う。読んでみると、なるほど今回は、前作で多田便利軒に仕事を依頼した人の関係者の話であることがわかる。だから“番外地”と名をつけたのだろう。でも依頼者と違う視点で多田便利軒の多田や行天の姿が描かれていて、それはそれで面白かった。
 本の帯にも前作の登場人物のスピンアウトストーリーと書いてある通り、前作と同じ登場人物であっても話が別の方面のジャンルへの展開していく。そんなもんだから私は読んでいるうちに前作の依頼主や関係者の名前を思い出し、そうそう、そうだったと思いながら読んでいた。それはそれで結構楽しかった。こういう本の読み方も出来るんだなと感じた次第だ。
 私としては、地元のやくざである星とちょっと頭が温かい感じの女子高生(今風の女子高生はこんな感じなのかもしれないが)の清海との関係がアンバランスでおかしかった。その清海が携帯の充電を忘れたり、持ち歩くのを忘れたりするものだから、便利屋の多田が清海と連絡を取るのに、星の携帯に電話をかける。ちょうどその時星はやくざとしてとりこんでいるところなので、電話を取った星が「べーんーりーやぁあ!」と怒鳴るあたりは、間が悪いというか、何でやくざの星の携帯に便利屋の多田の名前が登録されているのか、おかしくて仕方がなかった。
 今回は笑いだけでなく、多田や行天のちょっと悲しい過去の部分も話の中でのぞいていて、これからどうなるのかなと思わせるところもあって、もしかしたらもう少し話が続くのかなと思わせる。私としてすぐにとは言わないけれど、もう何年かしたらその後の話が読みたいなと思う。でもシリーズものにして、話が陳腐になるのも、もったいないから(外の作家の作品でいくつも知っているので)、適当なところ話が終わるのがいいな。だってせっかく面白く、好きな物語なので、余計にそう思うのである。
 
 今回も前回同様まわりくどい感想など何もいらない、ただ単に物語を楽しんだ。笑ったり、おっ、どうなるんだと思ったり、気がついたら本が終わっていた。
 ということで、私もくどいことは書きません。ただ面白い。それだけです。私だっていつも堅苦しい本ばかり読んでいるわけじゃありませんって。いろいろ考えるのも好きですが、いつも小難しい感じでいられませんって。実はこういうのが大好きなのです。こういう話が楽しめるから本が面白のです。ハイ・・・。


評価
★★★★


書誌
書名:まほろ駅前番外地
著者:三浦 しをん
ISBN:9784163286006
出版社:文藝春秋 (2009/10/15 出版)
版型:286p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年09月21日

村上春樹著『ノルウェイの森』〈上〉〈下〉

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 書泉にこの本のポスターが貼ってあった。なんで今頃この本のポスターが貼られているのだろうとふと思う。確かに村上さんに最新刊が大きな話題になっているから、それも関係あるのかなと思ったが、よく見ると『ノルウェイの森』がその発行部数が1,000万部突破したことが書かれている。なるほどこれかと思った。
 そのポスターを見たからじゃないのだけれど、もう一度村上さんの作品を読み直してもいいかなと思っていたので、手始めにこの本を手にしたわけだ。私の持っている本は1988年8月17日の第20刷のものなのだが、久しぶりに手に取ってみると、古本の風格を帯びている。もうこれを読んで21年たったのかと、月日の流れが速いことを感じてしまう。
 この頃私はわずか10坪ほどの店の店長だった。私が持っている本は発売されて1年たった時の本なのだが、この時でもまだこの本は売れていて、仕入をしてもすぐ売れてしまい、仕入をするのに苦労していた。わずか10坪の本屋など問屋はまともに対応してくれないものだから、この本の配本なんかなかった。だからせっせと現金をもって神田村で仕入をしていた。ちょうどこの頃コミックの『東京ラブストーリー』もテレビドラマの影響もあって、それも売れていて、一緒に仕入をし、並べて売っていたはずだ。
 私は村上さんのこの本がどうしてこう長く売れ続けるのか知りたかったから、自分でも買って読んだ。ただ、今になるとそれほど本の内容が記憶にない。だから読み返すにはちょうどいいかもしれない。
 それで話はちょっと話は横道にそれるのだけれど、私の持っているこの本は上巻が赤、下巻が緑の一色で装丁され、帯が金色である。今の版もそうなのかどうか知らないが、これはクリスマスプレゼントにもってこいの装丁だ。実際当時クリスマスの時期にプレゼントにどうぞ!というのが講談社当たりから言われていたような気がする。(しかし恋人にあげて、盛り上がる本じゃないような気がするが・・・)
 ところで今回この本を再読するに当たり、そのままスキャンしたのだが、この金の帯が真っ黒になってしまうのである。そうか金色はうまくスキャンできないんだと知った。仕方がないので、私の趣旨から反するのだが、帯を取っスキャンする。

 さて、ワタナベが高校二年時の友人でキズキという仲のいい友人がいて、直子はキズキの幼友達であり、恋人であった。三人でうまく付き合っていくには一見バランスが悪そうなのだけれど、不思議なもので結局三人でいる方がうまくいく。こういうのってこの時期よくあるパターンだ。
 そして十七歳の五月の夜にキズキは自殺した。そして残されたワタナベと直子は人生の歪みに直面していく。とりあえずワタナベはその歪みを客観的に捉えながら生きていくが、直子はキズキの自殺の前に、姉の自殺を経験しているため、ワタナベより深刻な精神的に不安定に陥る。ワタナベは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と思うようになり、死というものが自分の人生に既に含まれてしまっているものだから、キズキの死を努力して忘れようとしても忘れ去れるものじゃないという境地になる。十七歳の時からそう考えなきゃならなくなったことは、これはかなりきつい。そこから自分の人生で失ってきた、あるいはこれから失っていくであろう多くのものを考え、そして後戻りできない事実に直面するとなると、嫌が上でも自分の人生に歪みが生じてくる。特に感受性の高いこの時期に友人の死は、間違いなく残された人に歪みを植え付けていくか、自覚させるだろう。そしてそうした歪みって、かなり怖い。それを感じるだけで、うまくうっちゃれればそれでいいのだが、もろ直面してしまうと、ただただ怖ろしいものではないだろうか。この小説はそうした歪みにどう対処していけるのか、ワタナベと直子の物語である。

 昔、たぶん中学生の頃だったと思うが、私はいつも感じていたことがあった。それは頭の中に一本の道みたいなものがあり、いつも自分はちゃんとこの道の上を歩いているだろうかと確認するのである。なんて言えばいいのか、よくわからないけど、それは私が進むべき清く正しい人生行路みたいなものだったような気がする。ときにちょっとした挫折(といっても大したことじゃなく、ほとんど失敗みたいなものだった)をすると、その道から外れた位置に自分はいると感じ、怖ろしくなったのである。何とか軌道修正してその道に戻らなければと焦った。そして今思うのだけれど、その道を外れていると感じたことはしょっちゅうで、些細なことでいつも不安に駆られていたような気がする。
 何でこんなくだらないことを書くかといえば、この本にある歪みって、たぶん私が当時感じていた不安や不安定感ともしかしたら似ているような気がしたのである。つまり私の頭の中にあった一本の道から自分がそれることは自分が歪んでいく過程だったような気がするのだ。
 私の場合、こんなくだらない感覚なのだが、おそらく誰しも若い頃にはどういう形であれ自分の歪みみたいなものに不安を感じ、恐れたことがあるんじゃないかと思ったりする。だからこの小説は若い人にとって“通過儀礼”のような一冊となって支持されているのではないかと思うのだ。
 そして長いこと人生を過ごしてきてオヤジとなった自分が今この本を読んで、むしろそうした時代が自分にも確かにあって、懐かしく思える。けれど一方でそういうピュアな気持ちがいつまでも続く方がおかしいのであって、そんなこといつまであり得るわけがないじゃないと半ばバカにするようになったことをどう考えればいいのか。喜ぶべきなのか、悲しむべきことなのか。そういうのが人生だと、どこからか聞こえそうだけど、少なくとも私はそんな風にぶりたくない。むしろこの悲しい物語を通して、かつて自分が自覚していたであろう歪みに対する不安を懐かしむのである。
 もしこの小説が今の若者の通過儀礼となっているなら、その若者はこの物語をどう感じるのか知りたくもある。またもし私の若い頃にこの本が出版されていて、読んだらどうだったろうかと思ってみたりする。直子みたいに不安に駆られるのか。あるいはワタナベのようにそうした歪みに彼なりの抵抗に共感するのか。考えてみるが、よくわからない。あるいはここにある性的描写に興奮するだけかもしれない。
 とにかく今の私はかつては共感できる部分があったかもしれないが、今となってはすれっからしのオジサンになってしまっているためどうしたって青臭く感じてしまうところはある。だからどこか懐かしい感覚でこの物語を再読する。しかしそれでも結構いけていた。

 直子が入所した療養所のルームメイトであるレイコさんの言葉がまず心に残る。

 「十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたをすると、年をとってから辛いのよ」

 これって何となくわかる。やっぱり自分もそういう時期に妙な歪みかたをしたんじゃないかと思う。だからまだ諦めのつかないときは、もがいてきたような気がする。詳しく自分の歪みをここで書いても仕方がないことだから、これ以上は書かないけれど、確かにそういうことがあり、もがき苦しんできた。
 そしてたぶんそれは悲しんでいいことなのかもしれないけれど、諦めが歳と共に勝ち、歪みが当たり前となっている。かといってリセットして昔のようにもがき苦しむことを望むかと言えば、“もういい”と断るだろう。この歳になってももがき苦しむのはごめんだ。歪んでしまったものはもうしょうがない。
 直子もレイコさんと似たようなことを言っているのが印象的だった。

 「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきているのよ」

 直子の手紙も考えさせられる。

 「ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けいれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方にくせがあるように、感じ方や考え方や物の見方にもくせはあるし、それをなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです」

 「私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません」

 「ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たち『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています」

 私はふと思うことがある。その歪みって、誰に対して、あるいは何に対して、歪んでいるということになるのだろうか。何かの対象となるものがあって、それに順応できないところが歪みというのであろうか。
 しかしよく考えてみると、人それぞれ人生に受ける衝撃の強度は違うはずで、その対応もまちまちであろう。またどういう形であれ、その衝撃から立ち直れる人もいれば、いつまでもそれを引きずる人もいる。そうなのだ。決して人は画一的に見られるものじゃない。そういうさまざまなタイプの人が集まって、いわゆる社会というものを形成しているわけである。だったら本来そういったことを認めていいはずのものが、いつの間にか、いつまでも引きずっている人間を隔離していく。それこそ“病気”として称して。そしてそのレッテルを貼られた人は自家中毒を起こし、自らを歪んでいると思い始め、それが高じて精神をおかしくしていく。
 自分のことを人に言いたくても、さまざまな事情でうまく表現できないことを悩む人がいる。そしてうまく言えない人を病気にしてしまう人がいるのである。だから人はそれこそ一所懸命、埋もれそうになりながらも、自分を表現していくのである。
 でも世の中にはワタナベのように自ら苦しんできた過去から歪みを自覚しながら、「みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてイライラするんだ」と言える優しい人がいる。たとえその優しさが特定の個人対しての優しさであっても、そう言ってくれる人がいるだけでも、本来救われる。
 それに対して直子は「誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです」と書いている。ただ直子の人生の衝撃(姉の自殺、キズキの自殺)は、直子の性格を考えると、それに耐えうる以上のものであった。そして直子の自殺は、直子を助けようとして自らが強くなろうとしているワタナベに、追い打ちをかけることとなる。今度はワタナベが助けてもらう番となる。レイコさんや緑にである。それが読んでいてわかるものだから、この物語は救いがある。そういう意味でこの小説は読み直してよかったなと思った。ただワタナベ君ちょっとかっこよすぎるんじゃないのと思わないでもなかった。

 ところでこの小説を読み返してみて、なんだか一部どこかで読んだことがあるような気がしたのだ。確かにこれで二度目だから、当然そう感じてもおかしくないのだが、どこかに似たような村上さんの小説があったような気がしたのである。(最初読んだときはそんなことは思わなかったのだが)で、あとがきに短篇の『蛍』を肉付けしてこの小説が生まれと書かれていて、思わず“やっぱり”と思った。さっそく、手持ちの短編集を取り出して、読んでみた。そうかこの短篇がベースになっているんだと思いつつ、次はこの短編集を読み始める。


評価
★★★★


書誌
書名:ノルウェイの森〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035156
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:267p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)


書誌
書名:ノルウェイの森〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035163
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:260p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年07月20日

村上春樹著『海辺のカフカ』〈上〉〈下〉

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 村上さんの本を一度読み出すと絶対にはまってしまうことはわかっていた。そしてその不可解なストーリーに魅了され、呆然とし、精神的に疲れて、その読感をどう書いていいのかわからずにいることも。
 15歳の誕生日に家出をして、「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意した「僕」と、知事さんにホジョをもらいながら生活しつつ、猫と話すことができることから迷子の猫を探す副職で小遣いを稼いでいたナカタさんの物語が交互に進む。そしてこの二人は四国でクロスし、二つの物語はやがて「入り口の石」に近づいてゆく。

 まぁここまでは何とか大まかに話の展開をまとめることができるが、それ以降どう考えたらいいのかかなり迷う。でも、一つこの物語を考える上で参考になることがある。たとえばナカタさんが猫と話すときのこと。

 「そうです。ナカタと申します。猫さん、あなたは?」
 「名前は忘れた」と黒猫は言った。「まったくなかったわけじゃないんだが、途中からそんなもの必要なくなってしまったもんだから、忘れた」
 「それでは猫さんのことをオオツカさんと呼んでよろしいでしょうか?」
 「なんだい、それは?どうしてオレが・・・・オオツカなんだい?」
 「いいえ、たいした意味はありません。ナカタが今ふと思いついただけであります。名前がないと覚えるのに困りますので、適当な名前をつけただけであります。名前があるとなにかと便利なのであります」
 「よくわからないな。猫にはそんなの必要ない。匂いとかかたちとか、ただあるものを受け入れればいいだけだ。それで不自由ないね」

 「田村カフカというのが君の名前であれば、ということだけど」

 「わたしの名前はわかるだろうね?」
 「ウィスキーを嗜む人なら一目見てわかるんだが、まあよろしい。私の名前はジョニー・ウォーカーだ。ジョニー・ウォーカー。世間のだいたいの人は私のことを知っている。自慢するんじゃないが全地球的に有名なんだ。イコン的な有名さと言ってもいい」

 「ホシノちゃん」
 「あんたは-」
 「そうだ。サンダース大佐だ」
 「そっくりだ」
 「そっくりではない。わしがカーネル・サンダースだ」
 「そのフライド・チキンの」
 「そのとおり」
 「よう、しかしあんた、どうして俺の名前を知ってんの?」
 「わしは中日ドラゴンズのファンにはいつもホシノちゃんと呼びかけることにしている。たとえば何があろうと、巨人といえばナガシマ、中日といえばホシノじゃないか」

 「おじさんはほんとにカーネル・サンダースなの?」
 「ほんとは違う。とりあえずカーネル・サンダースのかっこうをしておるだけだ」
 「そうだと思ったよ」「それでおじさん、ほんとは何なんだよ?」
 「名前はない」
 「名前がないと困らないかい?」
 「困らん。もともと名前もないし、かたちもない」
 「屁みたいだね」
 「そう言えなくもない。かたちのないものだから何にでもなれる」
 「はあ」
 「とりあえず、カーネル・サンダースという、資本主義社会のイコンとでも言うべき、わかりやすいかたちをとっているだけだ。ミッキーマウスだってよかったんだが、ディズニーは肖像権についてうるさい。訴訟されるのはごめんだ」
 「まあ俺もあんまり、ミッキーマウスに女を紹介されたくないね」
 「まあそうだろうな」

 つまり問題となるのは“名前”である。人や物に名前や固有名詞が付加されることによって、人はそれをそれとしか思わなくなる。猫にオオツカさんという名前が付いたとたん、オオツカさんの個性がそこに植え付けられるし、田村カフカという名の少年はどこまで行ってもこの物語では田村カフカでなければならなくなる。ジョニー・ウォーカーにしてもカーネル・サンダースにしてもその名前が出てくれば、ウィスキーの名前であり、フライド・チキンの名前となる。中日ドラゴンズのファンはホシノである。一見名前を付けることによって、差別化し、その個性を浮きだたせるようであるが、その名前を付けられたとたんそれ以外であり得なくなる。そうすることで非個性化し、ただの代名詞となる。余計なものが不要なものとして、ただ単にそのものとなるのだ。それがわれわれの日常なのだ。それで世の中が回っていて、それ以外を受け入れなくて済むようなっている。
 しかしそれは誰も知っているだけの、単に一時的に付けられた名前や固有名詞であって、本当にそれ以外のものはないのだろうか?この物語はそうした日常当たり前の世界が実はちっとも当たり前でない世界の側面を持つのではないかということを教えてくれる。それらの名前の下に隠れた世界が実はどこでもあって、ただ付加された名前によって隠されてしまっている。そんなことを感じた。そこには真の姿があるときもある。それを表現するために村上さんはいつものようにたくさんのメタファーを使い、もう一つの別の世界を作り上げ、そこに登場人物を入れてしまう。田村カフカ君にしても、ナカタさんにしても。
 日常は決して現実的ではなく、非現実的な側面を本来持っている。隠れたものがある。隠れたものには時に暴力的で、残酷なことなどをあからさまにしてしまう部分があるのだけれど、単にその行為を言葉で表すと、その言葉でしかなくなる。
 だから自ら非日常の世界に入り込んで(それは森の中であったり、井戸の中であったりして)あるべき姿が見えるまで待つ。そうしているうちに真の意味が姿を現す。これが村上ワールドじゃないかなんて思っている。

 ところで先に読んだ『ねじまき鳥クロニクル』よりこの『海辺のカフカ』の方が私は好きである。前作は人の真の姿を追求することばかりであって、どこにも物語として救いがなかったからだ。今回はナカタさんやホシノくん、大島さん、そしてカーネル・サンダースと笑い提供してくれる分、楽しく読めた。
 たとえば大島さんは最高である。

 「実を言いますと、私たちの組織は女性としての立場から、日本全国の文化公共施設の設備、使いやすさ、アクセスの公平性などを実地調査しております」
 「それで結論からまず申し上げますと、この図書館には残念ながらいくつかの問題点が見受けられます」
 「つまりそれは女性的見地から見てということですね」
 「まずここには女性専用の洗面所がありません。そうですね?」
 「たとえ私立の施設とはいえ、パブリックに開放された図書館であれば、原則として、洗面所は男女別にされるべきではないでしょうか」
 「原則として」
 「残念ながら男女別の洗面所をつくるほどのスペースの余裕はありません。今のところ利用者から苦情は出ていません。幸か不幸か、うちの図書館はそれほど混雑しないのです。もしあなたがたが男女別の洗面所の問題を追及なさりたければ、シアトルのボーイング社に行かれて、ジャンボ・ジェットの洗面所について言及なさったらいかがでしょう。私ども図書館よりはジャンボ・ジェットのほうが遙かに大きいし、遙かに混雑していますし、私の知るところでは機内の洗面所はすべて男女兼用です」
 「私たちは今ここで交通機関の調査をしているわけじゃありません。どうしてジャンボ・ジェットの話が急に出てこなくてはならないのですか」
 「ジャンボ・ジェットの洗面所が男女兼用であることも、図書館の洗面所が男女兼用であることも、原則的に考えれば、生じる問題は同じじゃありませんか?」
 「私たちは個々の公共施設の設備の調査しています。原則の話するためにここに来たのではありません」
 「そうですか。僕はてっきり、我々は原則について語りあっていると思っていたんですが」

 「ただしこの図書館では、すべての分類において、男性の著者が女性の著者より先に来ています」
 「私たちの考えるところによれば、これは男女平等という原則に反し、公平性を欠いた処置です」
 「曽我さん」
 「学校で出欠をとられるときには、曽我さんは田中さんの前だし、関根さんのあとだったはずです。あなたはこのことに対して文句を言いましたか?たまには逆から呼んでくれと抗議しましたか?アルファベットのGは自分がFのあとになっているからといって腹をたてますか?本の68ページは自分が67ページのあとになっているからといって革命を起こしますか?」

 「いいですか、僕が申しあげたいのはこういことです-小さな町の小さな私立図書館にやってきて、あたりをくんくん嗅ぎまわって、洗面所の形態や閲覧カードあらを探しているような時間があれば、全国の女性の正当な権利の確保にとって有効なことは、ほかにいくらでもみつけられるはずだ、と。僕らはこのささやかな図書館を少しでも地域の役に立つものにするべく、全力を尽くしています。書物を愛する人々のために、優れた書物を集め提供しています。人間味あるサービスを心がけています。あなたはご存じないかもしれませんが、この図書館の、大正から昭和中期にかけての詩歌の研究資料のコレクションは、全国的にも高く評価されています。もちろん不備はあります。限界だってあります。しかし及ばずながら精一杯のことはやっているのです。僕らができないでいることを見るよりは、できていることのほうに目を向けてください。それがフェアネスというものではありませんか」

 ここまで言われても引き下がらない曽我さんたちに大島さんは最後に自分が性同一障害に悩む女性であることを公にする(これは私も驚いたけれど)。さすがにそうなると大島さんの言うことに引き下がらずを得なくなっていく。
 大島さんは想像力の足らない人間をいちいち相手にしていたら、身体がいくつあっても足らないことを田村カフカ君にわからせる。その上で、「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか-もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにここには入ってきてもらいたくない」と言い切る。これはある意味この本の重要なテーマかもしれないと思う。

 あと、なんと言ってもカーネル・サンダースとホシノちゃんとのやりとりは大笑いした。

 「実はな、石はこの神社の林の中にある」
 「<入り口の石>だよ」
 「そうだ。<入り口の石>だ」
 「おじさん、それってひょっとしていい加減なことを言っているんじゃないよね?」
 「何を言うか。たわけものものが。わしがこれまでひとつでも嘘をついたか?口からでまかせを言ったか?ぴちぴちのセックス・マシンだと言ったら、たしかにぴちぴちのセックス・マシンだったろうが。それも大出血サービス料金、1万5000円ぽっきりで厚かましく三回も射精しやがって、それでもまだ人のことを疑うか」

 「でもさ、この石っていちおう神様の持ちものでしょうが。勝手に持っていったらきっと怒られるよ」
 「神様ってなんだ?」「神様ってどんなことをしているんだ?」
 「おれはそういうこと、よく知らねえけどさ。でも神様は神様だよ。いたるところに神様はいて、俺たちがやることを見ていて、良いか悪いか判断するんだ」
 「それじゃまるでサッカーの審判員じゃないか」
 「そういう風に言えるかもしれない」
 「じゃあ何か、神様ってのは半ズボンをはいて、口に笛をくわえて、ロスタイムを計っておるのか?」
 「しつこいね、おじさんも」

 「いいか、ホシノちゃん。神様ってのは人の意識の中にしか存在しないんだ。とくにこの日本においては、良くも悪くも、神様ってのがあくまでも融通無碍なものなんだ。その証拠に戦争の前には神様だった天皇は、占領軍司令官ダグラス・マッカーサーから『もう神様であるのはよしなさい』という指示を受けて、『はい、もう私は普通の人間です』って言って、1946年以後神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのは、それくらい調整のきくものなんだ。安物のパイプをくわえてサングラスをかけたアメリカ軍人にちょいと指示されただけでありかたが変わっちまう。それくらい超ポストモダンなものなんだ。いると思えばいる。いないと思えばいない。そんなもののことをいちいち気にすることはない」
 「はあ」

 「でもさ、あの女の人は本物だよね。キツネだとか、抽象なんとかだとか、そういう面倒なものじゃねえよな?」
 「キツネでもないし、抽象なんとかでもない。実物のセックス・マシンだ。混じりけなしの愛欲の四輪駆動だ。けっこう苦労してみつけてきたんだ。安心しなさい」
 「よかった」

 しかし星野君、なかなかいい味を出している。ナカタさんと関わるうちに内面から変化してくる。ナカタさんが字が読めない代わりに星野君が読んでやり、<入り口の石>を探し出してやったりするうちに、自分が正しい場所にいるという実感がわいてくる。それをたとえてお釈迦様やイエス・キリストの弟子になった連中もこんな気分だったじゃないかと感じる。教義とか真理とかむずかしいことを言う前に、その程度乗りだったのかもしれないと思うところは、何となくわかるような気がする。おそらく星野君の考える通りだったんじゃないかと思えてくる。
 ナカタさんとの珍道中で、いろいろな景色の見え方変わり、それまで面白いと思わなかった音楽が心に沁みるようになっていく。そんな星野君を見ているとなんかその変化が話の展開とともにうれしくなっていくのが自分でも感じた。


評価
★★★★


書誌
書名:海辺のカフカ〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534136
出版社:新潮社 (2002/09/10 出版)
版型:397p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)


書誌
書名:海辺のカフカ〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534143
出版社:新潮社 (2002/09/10 出版)
版型:429p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年01月25日

渋沢幸子著『イスタンブール、時はゆるやかに』

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 私は著者のことはまったく知らなかった。ただ書名にある“イスタンブール”に惹かれた。私はこの町は叶わないだろうけど行ってみたいと思っている町である。
 コンスタンティヌス大帝が作った都、そして西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国として、ビザンティン帝国の首都として続いた町。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の最終章で、オスマントルコのメフメット2世が「一層貴重で重要な贈り物が欲しい」と言った町、コンスタンティノポリス。一方ビザンティン帝国皇帝コンスタンティヌス11世が自ら異教徒の中で生き延びることを拒み「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」と絶叫した町。
 シルクロードの最終地点であり、アジアから見ればヨーロッパの入り口、ヨーロッパから見れば出口にあたる町。たぶんアレキサンダーも通っただろう町。さまざまな民族が行き交っただろう町。もともとはキリスト教の教会だったものをイスラムのモスクに変えられ、ミナレットが立つ町。金角湾、ボスフォラス海峡。そして庄野真代も“飛んでイスタンブール”と歌った。うん?
 渋沢さんはが言うように「この町では、歴史がバウムクーヘンのように幾重にも層をなし、モザイクのように入り組んでいる」のだ。たとえばグランドバザールと聞けば、さまざまな文化、風習、人種が入り乱れ、喧騒で、しかも楽しそうな雰囲気が漂ってくる。渋沢さんも「その魅力は容易に説明できるものではないが、あえて言えば、層をなす歴史の重みと、混沌の中の輝きであろうか」という。とにかく書名に“イスタンブール”とあると、なんだ、なんだと本に手が伸びてしまうのだ。
 で、読んでみてこれは楽しかった。そしてこんな旅ができるなんてうらやましかった。イスタンブールの旧市街地の町並みが残るといわれている、特にビザンティン時代のギリシア正教会の総本山であったアヤソフィア、あるいはトルコのブルーモスクや、トプカプ宮殿など訪ねられるところはうらやましくて仕方がない。
 さらに渋沢さんはトルコ内陸部、あるいはシリアやイラン国境近くまで行かれ、ティグリス・ユーフラテス川上流まで進む。そこには、オスマントルコ帝国発祥の地ブルサ。“歴史学の父”といわれるギリシアの歴史家ヘロトドス生地ハリカルナソスであったボドゥルム。トロイ。コンスタンティヌス大帝がキリスト教の教義を統一するために開いたニカイアの公会議で知られるニカイアであったイズニック。クレオパトラがアントニウスに初めて会った町、タルスス。背教者ユリアヌスがペルシャ討伐で交戦中に槍が刺さり三十二歳の生涯を終えた町、ハランと、私が知っている歴史がてんこ盛りだ。読んでいるだけでワクワクしてしまう。

 この本によると、渋沢さんはイスタンブールを中心トルコを最初に旅されたのは1981年で、ギリシアの側から列車で入られている。とにかくトルコの人はどうしてこんなにやさしいのかと思うくらい、ここでは渋沢さんに親切なのだ。よく声をかけられ、仲良くなっていくのだ。思わずほんと?と言いたくなるくらいなのだ。
 トルコ人の日本人びいきは、日本がトルコ人の宿敵ロシアを打ち破ったからだともいわれる。あるいは渋沢さんが言っているように中央アジアの騎馬民族が西に移動してトルコ人となったとして自らがその末裔だとして誇りを持っていて、その騎馬民族が東に向かって日本になったのだから同胞だというのも面白い。その同胞がアジアのリーダーとなり、世界大国になったということを誇りに思うトルコの人が多いというのには驚かされる。
 もっともこれはもう三十年近く前の話であるから、やっぱり日本人女性一人トルコを旅するのが珍しかったからじゃないかと思う方が自然である。もちろん危険にも遭遇しているが、それでもそうしたやさしいトルコの人と接して、すばらしい旅をされたことが、この本をいいものにしている。
 ところでコンスタティノープルがなぜイスタンブールになったかその由来を知った。この町をギリシア人がコンスタティノープルと呼ばず、エストムポールと呼んでいて、それがトルコに伝わり、イスタンブールになったらしい。エストムポールはギリシア語のエス・テン・ポリン(都市へ)がなまったものと言われている。しかし現在、トルコとギリシアは仲が悪く、イスタンブールと呼ばず、コンスタティノープル呼んでいるのが渋沢さんは不思議だといっているのはおかしかった。


評価
★★★★


書誌
書名:イスタンブール、時はゆるやかに
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458212
出版社:新潮社 (1997/03/30 出版)新潮文庫
版型:276p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月22日

アガサ・クリスティー著『ABC殺人事件』

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 またクリスティーの作品に戻る。この本もおもしろかった。


今回もねたばれ注意


 Aの頭文字がつく土地でAで始まる名前の持ち主が殺され、B頭文字がつく土地でBで始まる名前の持ち主が殺される。さらにC頭文字がつく土地でCで始まる名前の持ち主が殺される。殺人現場にはABC鉄道案内が残されていた。殺人の前には必ずポアロのところに殺人予告の手紙がABCと称する人物から届いている。
 話はポアロの友人でワトソン役を務めるヘイスティングスの叙述で進められるが、途中「ヘイスティングスの記述でない」という三人称の章をはさみ、一見この殺人事件とは無関係な人物(猫背で近視のストッキングの行商人)ことが書かれる。

 この三つの殺人事件は今までポアロたちが扱ってきた事件とは違い、三人の被害者には何ら関係が見出せない。ただ犯人がABCの順で人を殺していくというもの。だからポアロは「これまではいつも、内部から調べるというのがわれわれの仕事でした。重要な点はこうです。“この死によって利益を得るのは誰か”これまではつねに“内部の犯行”でした。今回は、わたしたちが協力するようになってはじめて遭遇した、没個性的な殺人です。外部からの殺人です」と言う。つまり今までの犯人は必ず被害者を中心の人間関係の中にいて、犯行の動機もその人間関係の中にあったが、今回はまったく違うということなのだ。
 そこでポアロの提案で被害者の関係者が集まって、一見無関係な殺人事件に関連を見出そうとし、殺人事件があった日に何か思い出すことがないか、話し合いがもたれる。しかし集まった被害者の関係者は、自分達が目撃したことはすべて警察に話しているので、もうこれ以上何も思い出すことはないと言う。しかしポアロは「いえ、いえ、マドモワゼル。そうではありませんぞ。それぞれが、何かしら知っているのです。-自分たちが何を知っているのかさえわかりさえすれば。かならず何かを知っているはずです、それをつかめばいいだけなのです」と言い、自分たちが何を知りたいのかそれさえわかれば、記憶の中から新しい何かを見出すことが出来ると言うのである。そうして一人のストッキングの行商人が三つの殺人事件の現場にいたことをつきとめるのである。
 しかしこの行商人には、特にB頭文字がつく土地でBで始まる名前の持ち主を殺すには無理があった。というのも殺されたのは若い尻軽娘で、どう考えてもうだつが上がらない、しかも猫背で近視のさえない男についていくようには見えない。しかもこの時行商人にはアリバイがあった。この時この三つの殺人事件は、実は一人の人間を殺したいために、他の二人が殺されたのではないかと思うようなる。つまり“木を隠すには森”である。そのため無差別殺人を装い、何ら関係のない人間をABCの順で殺し、ポアロたちを混乱させたのである。
 ここまで来ると今度は外部犯行から内部犯行に視点が移っていくことになり、ポアロの元に集まった関係者に真犯人がいることになる。
 こうしたストリーの運び方がすこぶるうまい。ヘイスティングスの記述の記述から突如「ヘイスティングスの記述でない」という章をもうけて、ストッキングの行商人を描き、こいつが犯人ではないかと思わせつつ、しかしどこか無理があるように描いていく。
 そしてこの行商人が犯人ではないだろうと確信するのだが、ではなぜこの男は三つの殺人現場の近くにいたのだという疑問がわくし、Dのつく土地と名前の人間を殺したとき(この時の被害者はDの頭文字を持つ人間ではなかった)、なぜこの男は凶器のナイフを持っていたのか。男の自宅に家宅捜査が入ったとき、何故部屋にABC鉄道案内があったのか、なぜこの男が犯人に仕立てられたのか、など違う疑問が生まれてくる。だからページがどんどん進んでしまう。なかなかおもしろいミステリーであった。


評価
★★★★


書誌
書名:ABC殺人事件
著者:アガサ・クリスティー 堀内 静子【訳】
ISBN:9784151300110
出版社:早川書房 (2003/11/15 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:412p / 16cm
販売価:798円 (税込)

2008年12月24日

東野圭吾著『聖女の救済』

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 この「ガリレオ」シリーズが映画化されるためか、新刊として2冊このシリーズが発売された。というわけで、まずは長編のこの本から私も読むことにする。おもしろかった。
 毎度ミステリーに関して書くのに苦労する。どこがどのようにおもしろかったのかを書いちゃうと、ネタバレしてしまうから、これから読もうとする人が、もしかして私のブログを読んで、おいおいここまで書いちゃ、読む気が起こらんだろうと文句を言われかねない。でも、ある程度話の内容を書かないと、私にとって備忘録にならないので、ここは我慢してもらわなければならない。

 綾音は夫の真柴義孝から一年以内に子供ができなかったので別れようと言われる。それは二人の結婚時の約束でもあった。そもそも綾音は子供が産めない身体であったから、一年後綾音は義孝から捨てられる運命でもあった。
 そして一年後のために綾音は義孝の運命を握るべく、義孝殺害のトリックを仕掛ける。それは綾音が子供が産めなくても、義孝が綾音を必要とすれば、それを破棄すればいいし、結婚時の約束を義孝が言い出せば、それを実行すればいいだけであった。「綾音にとっての結婚生活とは、絞首台に立った夫を救済し続ける毎日であった」。そしてその救済が終わったとき、義孝は殺されるのであった。
 この小説は犯人が最初からわかっている。だから犯人がどのようにしてトリックを仕掛け、犯罪を遂行していくか、その部分の謎解きがこの本の醍醐味となる。さすがにそれはちょっと書けない。でも、トリックがわかったとき、「すごい!」と思ってしまった。こういう動機なら、またこういうトリックなら完全犯罪は可能であろうと思われた。そういう意味では充分楽しめた。

 それはそうと、ガリレオこと湯川学がどうしても福山雅治と完全に結びついちゃって、ちょっとまずいなと思った。テレビドラマを見なきゃよかったなぁと思った次第だ。
 また、内海薫がi-podに福山雅治の曲を入れて聴いているという描写は、おいおいちょっとテレビや映画を意識しすぎじゃないのと思ったが、まぁ、話は充分楽しめたのだから、許すことにする。続いて短編の方も読み始める。


評価
★★★★


書誌
書名:聖女の救済
著者:東野 圭吾
ISBN:9784163276106
出版社:文藝春秋 (2008/10/25 出版)
版型:378p / 19cm / B6判
販売価:1,699円 (税込)

2008年12月20日

井原万見子著『すごい本屋!』

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 すごい本屋とは井原さんのイハラ・ハートショプのことである。お店のあるところは和歌山県。お店までJR和歌山駅から在来線で六〇分。御坊駅というところで降りて、路線バスで川原河めで五〇分。そこからコミュニティバスに乗り換えて二〇分の平橋で下車とある。つまり和歌山駅から二時間以上かかる山奥である。この本の最初に多分お店のある村の全景の写真だろう。それがあるが、まわりを山に囲まれている。川の流れる水の音、山桜、山藤、ホタル、秋の月、神社のイチョウが黄色くなる。冬には雪。イノシシ、鹿にも出くわすらしい。
 とにかく自然が豊かなところとは想像がつくが、いったいどこにあるんだろうと思ってしまう。Google Earthで調べてみて、「えっ~、こんなところで本屋さんなんてやっていけるの?」と思ってしまった。

 この本によると、イハラ・ハートショプの前身は井原さんの伯父さんが二十二年前にはじめた本屋さんである。その時はここには図書館もなければ、本屋も車で一時間近くかけていかなければならなかったという。村の人たちは伯父さんが大阪で本屋を開業したことを聞いて、この村にも本屋さんがあればいいなあという要望に応えてできたお店だそうだ。そしてその後を井原さんが継いだ。名前のイハラ・ハートショプとは井原さんの兄弟が自動車修理工場のイハラ・ボディーショップを開いてるので、ボディーがあるから今度はハートということで決まったそうだ。
 イハラ・ハートショプは現在集落に残るたった一つの小売店になってしまっているので、村人の要望を聞いて本だけでなくお菓子や日用雑貨、味噌や醤油なども置いている不思議な本屋さんである。アイスクリームもパンも、タバコもお線香も置いている。
 本の荷物が届くのは午後一時頃。新刊配本は受けていないという。要は注文品だけということなのだろう。お客さんもその点は心得ていて、きちんと入荷を待ってくれるという。だから「この書籍の入っている箱を開ける瞬間は、とてもわくわくします。茶色いダンボール箱の横に、青い文字で顔をデザインしたトーハンマークがついているだけのシンプルな箱なのですが、私にはリボンのついたプレゼント箱のように見えます。そして開いてみて、お客さんが楽しみに待ってくれている本が入っていると、小躍りしてしまうのです」と井原さんは書く。
 店に置いてあるのは絵本各種。「文藝春秋」や「現代農業」などここでの売れ筋の雑誌。文庫、コミックもあるという。久しぶりに「現代農業」という雑誌名を聞いた。もちろん農文協の農業書も置いてあるという。思わず、「へぇ~、農文協の本とはなるほどね」と思った次第だ。農文協という出版社は農業書はもちろん、食に関する本、児童書など、意外とおもしろい本をだしている。昔、どぶろくの作り方の本をよく売ったものだ。

 とにかく山奥にある小さな本屋さんである。本の流通も都会の本屋さんみたいなわけにはいかない。流行のものや話題の本などそう簡単に手に入るわけじゃないだろう。しかしだからこそ、はやりすたりの激しい本など追いかけずに、お客さんの要望に応えられる本を置く。この店は競合店の心配もなく、顔見知りのお客さんとゆっくり対応したりして、懐かしい書店だと井原さん自身言われる。人はイハラ・ハートショプは周回遅れの最前線の本屋さんと称したらしいが、周回遅れでも、何事にも乗り遅れまいとして走りまくってきた都会の書店がどんどん潰れていく中、この和歌山の山奥で存在価値がある本屋さんが元気に頑張っておられるというのがうれしくなってしまう。
 特に子供の本には井原さんは力を入れておられる。なぜ子どもの本に力を入れるのか、この本では詳しく書かれていないが、井原さんの同級生が子供を残してわずか二年半の闘病生活後亡くなられた。その同級生は自分が子供のそばにいて何も助言できないことで、一冊の絵本に子どもたちの成長を見守って欲しいと願いを託していったことが、絵本に取り組むきっかっけとなられたようだ。
 だから村の子供たちにもっともっと本とふれあってほしいという気持になり、児童書の見本を持って、小学校に出かけ、先生ではなく子供たちに本を選ばせる。ここではあくまでも子供が主役だ。子供が自ら絵本を選び、座り込んで夢中で読む姿が描かれるけど、そこには強制された読書では見られない光景がある。ホント強制された読書はつまらない。子供が本嫌いになるのはそうした強制された読書や感想文なんか書かされるからだと井原さんは言っておられるけど、まさしくその通りだと思う。
 そうした絵本の魅力を村の子供たちにさらに伝えたくて井原さんは絵本の原画を出版社から借りて展示したり、絵本作家を山奥に招いて朗読会やサイン会などを行い、子供たちと本のふれあいの輪を広げていく。絵本の原画を見る子供たちや作家のサイン会に参加する子供たちの目がきらきら輝いているのが見えそうな気がする。
 そうした絵本の原画を借りに行くため、あるいは作家さんにこの山奥に来てもらうために、井原さんは水曜日の定休日を利用して火曜日の夜に夜行バスに乗り、東京にある絵本の出版社に協力を得るため訪ねるのである。井原さんは「田舎で暮らしていますと、あきらめなければならないことが多すぎて・・・・。それでも、本と本屋に関わっていることで、著者に会い、絵本原画を見る機会が作ることができるんだと、知りました」という。あるいは「業界が厳しいと言われるようになった時代じゃなくても、当店は最初から厳しい環境にありました。ただ黙って待っているわけにはいかないなと動いていたら、イベントを開催できました」とも言っている。そうしたイベントを通して井原さんは「子どものころの体験が、大きくなってからの自分の進む道に影響するのだな」と思うのである
 ここを訪れた作家さんは「そうか、本はラーメンやパンや醤油と同じ日用品なのだ!」と店の品揃えを見て納得するのを読んで、本は特別なものではなく、そうした日用品の一部であることに案外意味があるのではないかと思えてくる。
 都会のようにたくさんの本が氾濫していると、あまりにも情報がありすぎて、その子にとって本当に必要な一冊が見つからないのではないかと思ったりする。本との出会いも一期一会であって、それは都会であってもイハラ・ハートショプのような山奥にある本屋さんでも関係ない。どこで自分が読みたい本に出会えるか。あるいはそれを提供してもらえるかにかかっているのではないかと思う。そういう意味では井原さんは村の子供たちに本の出会いを提供しているわけだから、それだけでもすばらしいことだと思うのだ。
 何でもかんでも流行を追いかけることで疲れはて、本当に自分は何を求めていたのかさえ忘れてしまう現代にあって、いいものに出会わせることに力を注いでおられる井原さんに敬意を表してしまう。
 井原さんののそうした行為と、子供たちの輝く目が見えるいい本であった。またこの本を読んでいて絵本の持つ魅力もあらためて考えさせられた。


イハラ・ハートショプ
http://www5.ocn.ne.jp/~i-heart/


評価
★★★★


書誌
書名:すごい本屋!
著者:井原 万見子
ISBN:9784022504050
出版社:朝日新聞出版 (2008/12/30 出版)
版型:220p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2008年12月16日

本多孝好著『チェーン・ポイズン』

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 駅で息子と会った。彼は大学へ行く途中、私は新宿へ本を買いに行くために、おなじ地下鉄に乗る。久しぶりに息子と話す。それまで何か気分が晴れなくて、気晴らしに本でも買いに行くかと出かけたのだが、しばらく息子と話している内に、気分が晴れ、いい心地になった。私は彼の感性、繊細さが好きなのである。
 最近なんかおもしろい本を読んだか?と聞いたら、この本を教えてくれた。持っているなら貸してくれと頼み、翌日貸してもらった。さっそく読み始める。一気に読んでしまった。最後に「あれ、おかしいじゃん?なんで?」と思った。しばらくわけがわからなかった。そして気がついたのである。私は作者のトリックにまんまとだまされていたことを。それがわかったとき、「やられた!」と思った。

 この本は高野章子が自分と同じ名前の人物が二十歳で自殺した高野悦子の『二十歳の原点』を手に取るところから始まる。

 そして誰も待っている人間がいない、単調な一日を送る女がいた。彼女は会社に行く気が起こらなくなった。行った公園のベンチに座り「もう死にたい」と呟いたとき、「本当ですか?」と声をかける人物がいた。その人物は、死ぬのを一年待ってくれたら、一瞬で楽に、眠るように死ねる薬を褒美として差しあげるという。
 女はその言葉を信じ、自分が勤めていた会社を辞る。時間つぶしに住宅街をふらふら歩いているときに児童養護施設のボランティア募集張り紙を見て、そこで一年間を過ごすことにする。

 週刊誌の編集部にいる山瀬は以前取材した突発性難聴にかかったバイオリニスト如月俊と妻と娘を無惨に殺された持田和夫がアルカロイド系毒物で自殺したことが気にかかっていた。如月俊は発病から一年半で、持田和夫は妻と娘を殺した犯人の死刑が執行されて一年後服毒自殺した。二つのキーワード、アルカロイド系毒物、一年という時間が気にかかった。何故同じ毒物なのか?なぜ一年という時間を置いての自殺だったのか?
 そして彼らと山瀬と何ら関係ない元OLの高野章子がやはりアルカロイド系毒物で、会社を辞めて一年後服毒自殺したことを知る。山瀬は高野章子のことを調べ始める。山瀬は彼ら三人にアルカロイド系毒物を売ったセールスマンがいるのではないかと推理し始めるが、それでも何故一年なのかわからなかった。
 物語は山瀬が高野章子の生前の生活を調べるのと、女がボランティアで一年過ごすことが同時に書き進められる。私は読んでいるうちに、この女が高野章子だと思いこまされてしまった。
 しかし私は山瀬が高野章子の生前付き合いのあった人物に会ったり、章子の両親に会ったりしているのに、章子が児童養護施設でボランティアをしていることが調べられないのが不思議であった。ここで高野章子と女は別人と気づくべきだったのかもしれない。

 女は施設でボランティアをしている内に、そこにいる子供たちと深い関係が築きあげられいくのを感じ始める。自分は一年後自殺をする覚悟でいる。約束の日まで今日も頑張って一日を潰した。近づいたと思っていた女が、いつかここにいる子供たちの将来も見てみたいという気持にもなる。
 そこへ園長が病気で死んでしまい、施設が解散される事態に陥る。園長の息子は施設の土地を売って、それを選挙資金にして区議会議員に打って出ようとしていた。そこで女は自分が自殺して入る保険金で子供たちの将来を保障してやろうとする。
 一方同じ施設で働く工藤たちは施設の存続を求めるホームページを立ち上げ、区政に打って出る園長の息子の中傷をそこに書き込む。怒った息子は女を襲うが、この時この女が高野章子でないことを知らされる。

 この本はミステリーの楽しみも充分堪能できたが、自殺を望む人間の絶望感にも考えさせられてしまう。山瀬が高野章子のことを調べているうちに、章子の性格がわかり始める。取材をしているうちに章子が「どんなに面倒なことでも、それで丸く収まるのなら、すべて自分が引き受けていた女性。その不器用な姿に、周囲は同情ともに、それよりも強い苛立ちを抱いてしまう女性。お線香を上げてあげたいという悼みより、お線香を上げてあげなきゃという義務感を覚えさせる女性」であることが浮かび上がってくる。そんな女が三十年以上も生きてきて、いろいろなものが溜まってしまい、自らの容量から溢れてしまったとき、自殺したのではないかという友人の言葉が重く響く。
 突発性難聴にかかったバイオリニスト如月俊にしても、、不遜で、傲慢で、けれど決して演奏に妥協しない過去の自分が、障害を乗り越えて演奏する自分をよしとしない。だから死ぬしかないという絶望感。
 妻と娘を轢き殺された持田和夫にしても、犯人が死ぬまで自分は一秒でも犯人より先に死ぬわけはいかない。犯人がいない世界を見届ける義務があると思っていた。けれど、犯人の弁護士がありもしない事実をでっち上げ、事実そのもを意識的にねじ曲げて弁護するのを見て、犯人みたいな化け物やそれを守ろうとする化け物が現実の社会にいることを知らされる。世界は何も変わらないという絶望感は、まさしく被害者や関係者でなければわからない、憤りのやり場のない絶望感がここに示される。
 そんな彼らの絶望感は何ともやりきれなかった。希望は人に生きる力を与えるかもしれないけれど、絶望はいった人に何を与えるのか。あるいは奪うのか。そんなことをふと考えさせられる本であった。


評価
★★★★


書誌
書名:チェーン・ポイズン
著者:本多 孝好
ISBN:9784062151306
出版社:講談社 (2008/11/01 出版)
版型:332p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2008年12月12日

吉村昭著『光る壁画』

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 この本は多分昔読んだはずだ。でも、もう一度読みたくなって文庫本を購入する。今は私も毎年一回はお世話になっている胃カメラの開発物語である。初めて読んだときは、まだ胃カメラのお世話になっていなかったから、それほど身近なものとして感じられなかったが、今は「どれどれどのようにして胃カメラ誕生したのか?」、と興味があった。
 開発は戦後まもなくオリオンカメラ(モデルはオリンパスカメラ)の曽根菊男(モデルとなった人は深海正治)のところに東大医学部附属病院分院の副手宇野達郎という外科医が胃カメラの製作を依頼するところから始まる。
 それまで胃の中を見るには、レントゲン写真を撮る方法と、胃鏡という方法、それと胃内撮影(これは実用化されていないし、失敗していた)の三つの方法があった。
 恐ろしいのはこの胃鏡という方法である。なんと口から金属の管を胃の中まで差し込んで、上から見る方法なのである。しかし金属管を飲み込むことが出来る人たちがいるのである。大道芸人の呑刀師という人たちである、よくあるでしょう、剣を口に入れて奥まで呑み込む芸をする人たちである。その人に直径十三ミリの金属管を呑み込んでもらい、管の中に光を送って胃の中を覗いたのが最初であったという。その後この胃鏡は多少改良されて、一般の患者に使われたが、食道を破ってしまう事故などが起こり、結局使用が避けられていた。
 依頼された曽根は、まずは胃の中まで入る管を、金属管ではなく、患者の苦痛の少ない素材で作り、次に胃に入った管にカメラを付けて、胃の内部を撮影する方法を、試行錯誤しながら開発していくのである。
 今みたいにファイバースコープなどない時代である。管の先に直接カメラ、六ミリフィルムを入れるマガジン、光源となる豆電球を付けるのである。人間の咽頭の広さは平均十四ミリだそうで、管はそれ以下でなくてはならない。当然管にも厚みがあるし、しかもその中に光源である豆電球と、カメラを装置しなければならないのである。
 まずは管の素材を探し、次に管の中に入るカメラ。当然レンズも極小のもとなる。電球ももちろん小さい物でなければならない。電球は小さくなればその光量も少なくなる。それを明るくすれば、今度は中のフィラメントがすぐ焼き入れてしまい、耐久性がなくなる。
 驚くのは戦後間もないこの時期に、胃カメラに付ける小さなレンズを磨いて作る人や、極小の豆電球、しかも光量があって耐久性のあるものを作れる職人がいたことである。
 おもしろいのはこの胃カメラに使う素材を当時巷にあった素材から探し、あるいは応用して、試作器を作り上げていくことである。たとえば、マガジンに入った六ミリのフィルムを一コマずつ引っ張り出す糸(シャッターの役目をするもの)に三味線の弦を応用する。またレンズが固定焦点なものだから、カメラと胃壁に一定の距離が必要となる。しかしこの胃カメラは一端胃の中に入れてしまうと、管の先端がどこにあるのかわからなかった。そのため透明なコンドームをカメラのついた先端に付けて、ふくらまし、そのことでカメラと胃壁の距離を一定にするのである。物資の少ない時代だから余計にそうしたさまざまなものを応用していく。まさしく“手作り”の胃カメラであった。
 しかし根本的な問題があった。先に言ったように、胃カメラが胃のどの部分あって、どこを撮しているのかわからないということなのである。今みたいにモニターがあって、それを見ながら操作出来ないのである。試作器を使って犬の胃を撮影しているとき、実験室の電球が切れた。その時、犬の腹がうっすらと光るのである。そうなのだ。胃カメラの豆電球が内部で光っているのである。まさしく“光る壁画”であった。偶然が胃カメラの操作方法を教えてくれたのであった。
 こうして試作器の胃カメラを犬を使って実験し、ある程度成果が出た時点で、今度は人に使うようになる。しかし何せすべてが初めてのことである。胃カメラを入れても奥まで入っていなかったりして、うまく胃の内部が写らない。それでも病院内の外科医が自ら実験台となって、胃カメラを呑むのである。こうして日本で世界最初の胃カメラが誕生したのである。
 この小説のおもしろさは胃カメラ製作に当たっての試行錯誤していく過程が描かれていることと、彼らがいた時代風景がうまく描かれているところである。その時代背景がよくわかり、いかにも戦後だなと思った

 主人公の曽根は箱根の旅館の息子でもあった。奥さんに旅館経営を任せて、自らは実験の合間に帰る単身赴任であった。この本を読んで知ったのだけれど、戦後の箱根の旅館に宿泊する人たちは、宿泊の条件として一食一合のお米を持参して、それを旅館の女中さんが計って受け取っていたという。戦後の食糧難がよくわかる。また曽根たちが東大病院に実験に行くときは、胃カメラをリュックサックに入れて背負って行くところなど、よく戦後日本を映した映画などに見られる風景である。
 またこの本では堅苦しい実験の模様だけでなく、曽根と妻の京子との人間関係も、感情も生々しく描かれていて好感をもった。いい小説であった。
 いずれにしても、この人たちのお陰で、私の胃の健康も維持されているとことがあるわけだから、感謝しなければならない。でも来年春にはまた胃の検査があることを思うと、やっぱり憂鬱だなぁ~。


評価
★★★★


書誌
書名:光る壁画
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117171
出版社:新潮社 (1984/11 出版) 新潮文庫
版型:313p / 15cm / 文庫判
販売価:499 円(税込)

2008年12月09日

吉村昭著『わたしの普段着』

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 私はどうも一回気に入ってしまうと、凝るところがあって、続けてその作家の本を読みたくなるのである。吉村さんの本もそうである。
 実は以前にも何冊か吉村さんの小説を読んでいる。けれどどこか吉村さんの小説は堅苦しく感じていた。もちろん自分の興味のある歴史小説なので、読むことは読むのだが、続けて読みたいとはなかなかなれないでいた。
 たとえば司馬遼太郎さんの歴史小説と比べてみても、司馬さんの小説はどこかあそびがあって、話が重くなると“閑話休題”と称して、雑談ぽくなる。それがまたおもしろいのだが、吉村さんの歴史小説はそれがない。その分堅苦しいのである。もちろん司馬さんの小説も史実には忠実であろうとは思うが、司馬さんの場合いわゆる独特の司馬史観を通して物語が語られるため、その分取っつきやすい。
 その点吉村さんの小説は史実に忠実であろうという姿勢があまりにも強すぎるため、私が読後重々しく感じてしまうのであろう。 このエッセイには、「これは小説になる」と吉村さんが思ったことを、妥協を許さないほどの取材を重ねて小説として形作っていかれることが書かれている。「乗り物への感謝」というエッセイでは「私は小説の史料収集や現地踏査の必要からしばしば旅行し、全国で泊まらない県はない。遠隔地へ行く折は、もちろん飛行機に乗り、長崎には百回以上、札幌には百五十回以上、愛媛県宇和島には五十回前後行っている。
 これだけでも飛行機に乗ったは三百回になるが、南アフリカとアメリカへと、海外旅行に二度行っているし、日本各地に空路おもむくことが多いので、五、六百回になるはずである」と書かれている。
 これだけ徹底している。しかも出版社の人間に取材に行かせず、自ら出かけて行く。人任せにしない。疑問があれば、何度も取材に出かけ、その地方に残る資料をあさり、古老に話を聞き、小説を形作っていくことが書かれている。
 歴史の生き証人が吉村さんが戦史ものを書かれていた頃は、まだ何人か生存されており、その話を聞くことが出来たから、ストイックなまでに、古老の話を聞き、その事実から小説を作り上げていく。だからその古老たちが亡くなれるようになってきたら、吉村さんは戦史ものから手を引き、歴史小説の方へ転換していくのである。
 でも、歴史小説でも、徹底した史料調べは変わらない。だから吉村さんは「私は、史実そのものがドラマであると考えているので、フィクションをまじえることはしない」と言い切るのである。それだからこそどんな分野の小説でもリアリティーが最優先されているのであろう。だから吉村さんの書かれる小説にはそうした思いが詰まっているのだと知る。そうわかると、ここで何冊か紹介されている吉村さんの著作を読みたくなってくる。

 そんな吉村さんが自分自身聞き手になっているわけだから、あくまでも謙虚な姿勢であることが、ここに収録されたエッセイから感じることが出来るし、そうした吉村さんだからこそ、一人間として実生活でのさまざまな現実を素直に見つめておられる。
 たとえば「順番待ち」というエッセイがおもしろかった。そこには編集者から、吉村さんのファンである財界の団体役員と会った話が書かれている。その人は吉村さんの文庫本を見せた。図書館から借りたものだという。他に吉村さんの作品を読みたいと思っているが、貸し出されているので、今文庫本の順番待ちをしていると吉村さんに言うのである。
 それに対して吉村さんは釈然としない思いがしたと書く。彼は経済的にも豊かな人間であるはずなのに、五百円ほどの文庫本を何故書店で買おうとしないのか。そんな彼が順番待ちをしていることは、他の読書好きの人の利用をさまたげている。だからこの財界人は真の読書人の範疇から外れていると断罪する。その後彼はハイヤーで帰っていった。
 吉村さんは「私は学生時代三食を二食にしてまで書店や古書店で書物を手に入れた。書物を自分の物として所有することが、読書の喜びでもあった」と書くから、吉村さんは会わなきゃよかったと後悔するのである。

 この文庫本の紹介文に「気取らず、気負わず、殊更には憂いを唱えず。いつも心に普段着を着て、本当に知った人生の滋味だけを優々閑々と綴ってゆく」と書かれているが、まさしくその通り、自分自身、人、生活、旅、歴史、そのものをありのまま、感じたまま、言葉を紡いでいる感じであった。


評価
★★★★


書誌
書名:わたしの普段着
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117492
出版社:新潮社 (2008/06/01 出版)
版型:324p / 15cm / A6判 新潮文庫
販売価:539 円(税込)

2008年12月03日

沢木耕太郎著『旅する力』

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 久しぶりに沢木さんのエッセイを読む。この本はあとがきに書かれているように、沢木さんが「これまでも、『深夜特急』については断片的に書いてきたり話してきた。しかし、読者から直接さまざまな質問を投げかけられ、さまざまな答えを返しているうちに、いつかそれらをひとつにまとめておこうという気になってきた。それには、読者からの質問に答えているうちに、少しずつ『深夜特急』について、ひいては旅というものについて理解が深まっていったということが大きかったかもしれない」ということで、書かれた本である。いわばあの『深夜特急』の舞台裏と旅のその後と、その旅での沢木さんの変化が書かれている。
 そのため結構興味深く読んだ。
 『深夜特急』は第一、二、三便と全三冊に分かれている。第一、二便は1986年(昭和61年)に出版され、第三便が1992年(平成4年)に出版された。第一便の出版からもう22年も経っていることに少々驚いてしまうが、第三便だけが第一、二便が出版されて6年後に出たというのも忘れていた。
 そうだった。よくお客さんに第三便はいつ出るのと聞かれたものだった。一便、二便に続いてすぐ三便も出版されるものだと思っていたが、なかなか出版されず、この本にも書かれているけれど、なかには「三便は出版さません」という書店もあったという。6年もかかれば、そういいたくなるのもうなずける。

 さて、当時若者が外国を一人旅するのに、そのバイブルともなっていた本が、小田実さんの『なんでも見てやろう』だった。沢木さんも小田さんのこの本に大なり小なり影響を受けたことが書かれている。しかし沢木さんの『深夜特急』がされると、今度はこの本が若者たちのバイブルとなっているらしい。
 で、沢木さんが重い腰を上げて自分がしてきた旅を書くにあたり、まず頭に置いたのが、アクションではなくてリアクションだったという。沢木さんは「旅を描く紀行文に『移動』は必須の条件であるだろう。しかし、『移動』そのものが価値を持つ旅はさほど多くない。大事なのは『移動』によって巻き起こる『風』なのだ。いや、もっと正確に言えば、その『風』を受けて、自分の頬が感じる冷たさや暖かさを描くことなのだ。『移動』というアクションによって切り開かれた風景、あるいは状況に、旅人がどうリアクションするか。それが紀行文の質を決定するのではないか」と考えられたのである。
 だからこの『深夜特急』は旅の過程で沢木さん何を感じ、考えたのかがそのおもしろさとなっている。
 たとえば、バンコクで赴任まもない日本人夫妻と会い、その旦那さんが「外国というのはわからないですね」、「ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれないな。知らなければ知らないでいいんだよね。自分が知らないことを知っているから、必要なら一から調べようとするに違いない。でも、中途半端に知っていると、それにとらわれてとんでもない結論を出してしまいかねないんだ。どんなに長くその国にいても、自分にはよくわからないと思っている人の方が、結局は誤らない」という話を聞いて、なるほどと思う。その言葉が沢木さんにとって旅で学ぶことのできた最も大事な考え方の一つだったと思うのである。そして旅という学校で何を学んできたかを次のようにいって最後を締めくくる。

 「私が旅という学校で学んだことがあるとすれば、それは自分の無力さを自覚するようになったということかもしれない。もし、旅に出なかったら、私は自分の無力さについてずいぶん鈍感になっていたような気がする。旅に出て手に入れたのは『無力さの感覚』だったと言ってもいいくらいかもしれない。
 いま、私はいかに自分が無力か知っている。できることはほんのわずかしかないということを知っている。しかし、だからといって、無力であることを嘆いてはいない。あるいは、無力だからといって諦めてもいない。無力であると自覚しつつ、まだ何か得体の知れないものと格闘している。無力な自分が悪戦苦闘しているところを、他人のようにどこからか眺めると、少しばかりいじらしくなってきたりもする。おいおい、そんなに頑張らなくてもいいものを、と。
 しかし、そのように頑張ることができるのも、もしかしたら自分の無力さを深く自覚しているからかもしれないのだ。そこからエネルギーが湧いてくるからかもしれないのだ」

 とにかく沢木さんは二十六歳の時ユーラシアの旅に出た。この年齢がまた大きな意味があったことを実感しているのが、なるほどそうかもしれないと思ったのだ。沢木さんは次のように言う。

 「やはり旅にはその旅にふさわしい年齢があるのだという気がする。たとえば、私にとって『深夜特急』の旅は、二十代なかばという年齢が必要だった。もし同じコースをいまの私が旅すれば、たとえ他のすべてがおなじ条件であったとしてもまったく違う旅になるだろう。
 残念ながら、いまの私は、どこに行っても、どのような旅をしても、感動することや興奮することが少なくなっている。すでに多くの土地を旅しているということもあるのだろうが、年齢が、つまり経験が、感動や興奮を奪ってしまったという要素もあるに違いない」

 その理由を「つまり、あの当時の私には、未経験という財産つきの若さがあったということなのだろう。もちろん経験は大きな財産だが、未経験もとても重要な財産なのだ。本来、未経験は負の要素だが、旅においては大きな財産になり得る。なぜなら、未経験ということ、経験していないことは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ」という。
 「未経験という財産」ってうまいこと言うなと思った。得てして未経験であることは、マイナスイメージとして評価されしまう現在だが、未経験が逆に財産にもなりうるのだと教えてくれる言葉である。

 またこの旅の後遺症が書かれているのが面白かった。これだけ劇的な旅をしてきた後だから、そうなっちゃうんだろうなと思った次第である。

 「私が旅で得た最大のものは、自分はどこでも生きていけるという自信だったかもしれない。どのようなところでも、どのような状況でも自分は生きていくことができるという自信を持つことができた。
 しかし、それは同時に大切なものを失わせることにもなった。自分はどこでも生きていくことができるという思いは、どこにいてもここは仮の場所なのではないかという意識を生むことなってしまったのだ。
 私は日本に帰ってしばらくは池上の父母の家にいたが、すぐ経堂でひとり暮らしを始めた。
 夜、その部屋の窓から暗い外の闇を眺めていると、ふと、自分がどこにいるのかわからなくなる、ということが長く続いた。そこが自分の部屋であり、家なのに、旅先で泊まったホテルの部屋より実存感がないような気がしてならなかった」

 以前書いたことがあるが、私は昔新潮社の招待で香港に行ったことがある。そこに沢木さんもゲストとして加わった。夕食の時、私もミーハー的に沢木さんに新潮社からもらった文庫の『深夜特急』一巻にサインを書いてもらった。
 翌日、マカオに向かう船のブリッジに一人で寄りかかっている姿を見かけたが、なんか場違いなところに来てしまったなというかんじを受けたものだった。今にして思えば、沢木さんは「こんなの旅じゃないよ」と思っていたんじゃないか。そんなことを考えてしまう。


評価
★★★★


書誌
書名:旅する力―深夜特急ノート
著者:沢木 耕太郎
ISBN:9784103275138
出版社:新潮社 (2008/11/30 出版)
版型:289p / 19cm / B6判
販売価:1,680 円(税込)

2008年11月18日

吉村昭著『羆嵐』

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 この本は、1915年(大正4年)12月に北海道留萌苫前村(現:苫前町古丹別)三毛別(現:三渓)六線沢で発生した日本最大最悪の熊害(ゆうがい)事件を扱った作品である。
“穴持たず”という冬ごもりの穴を見つけ損なった羆が当時の開拓民7名を殺し、3名の重傷者を出した。詳しくはWikipediaにある。


三毛別羆事件


 六線沢に入植した人たちはそれよりも北方三十キロの山間部に東北地方から入植した人たちであった。彼らは国から与えられたわずかな奨励金で草囲い小屋を建て、不毛の地に鍬を入れ、種を蒔いた。しかし蝗の襲来でわずかな農作物は全滅し、六線沢に移ってきた。
 新しい土地は以前の土地よりましではあったが、やはり自然環境は過酷であった。ここに巨大な羆が現れた。羆の存在は「草がこいの小舎に住むかれらは、穴居生活をしていた時代の人間たちと大差ない生活をしている。それは、地上に棲息する動物の一種属として、自然の変化に容赦なくさらされた生活であった。穴居していた人間たちは、強大な力をもつ肉食獣の食欲みたす存在にすぎなかった」ことを思い知らせるのである。

 12月9日、島川の妻と息子が羆に襲われた。息子の遺体はそこにあったが、島川の妻の遺体がない。羆が持ち去ったのである。「島川のおっかあをとりもどさなくちゃ」と村の男たちは遺体を山林の中でさがす。遺体を見つけた男が「おっかあが、少なくなっている」と目を血走らせて言った。島川の妻の遺体は頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それと黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみしかなかった。
 それでも彼らは羆におさわれた島川の妻と息子の遺体を懇ろに回向し、埋葬しなければならない義務が生じた。なぜなら遺体を土に帰すことは、入植者であるかれらが土に根を張ることを意味しているからだ。

 「かれらの生活は、その土地の土壌に仮の根をのばしはじめていたにすぎなかった。植物は、冬の訪れとともに地表から姿を消すが、種子は土の割れ目に入って春の訪れとともに多くの芽をふき出す。それは土壌との毎年約束された合意によるものだが、かれらはそこまで土の信頼を得るに至っていなかった」
 だから、自然と彼らの信頼は彼らの身内の死体を埋葬されることの深まることができる。「土との融合は、植物の種子が地表に落ちるように死体を土に帰すことによって深められる」のである。彼らはここに入植して四年目なのでまだ一人も死者を埋葬することがなかったのだ。

 翌日男たちは、羆が明景の家を襲っているところに出くわす。

「今、中でクマが食っている」

 「音がした。それは、なにか固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音であった。それにつづいて、物をこまかく砕く音がきこえてきた。
 区長たちの顔が、ゆがんだ。音はつづいている。それは、あきらかに羆が骨をかみくだいている音であった」

 男たちは銃を撃った。その後家の中へ入る。その凄惨な光景を見て、男たちの中からすすり泣きが起こる。殺されたのが誰だかわからなかったが、村落の者が無惨な肉片と骨に化していることに耐え難い悲しみを感じたのであった。

 「人々は、未開の地に村落を形成した。かれらは、荒地をひらいたが、土地は、逞しく張った木の根や石塊でかれらの鍬をこばもうとし、冬の寒気と積雪でその生活をおびやかした。それを当然のこととしてかれらは苦痛に堪え、自然にさからうこともなく生きてきた。
 しかし自然はかれらに大きな代償を強いた。先住者である羆を擁護する立場に立ち、村落の者たちを容赦なく死におとし入れた。それは、村落の者に対して加えられた制裁のように思えた。
 男たちは、自分たちのつつましい努力が自然の前に無力であることを感じた。土地を開墾し草囲いの家の中で寒気をしのいできた日々が、結局は無為なものであることを知らされたのだ」

 奇跡的に助かった明景の家の十歳の長男は、明景の家にいた臨月である斎田の妻が、羆に「腹、破らんでくれ」という羆に懇願する声を聞いた。
 わずか二日間で六名(胎児をいれれば七名)の者が殺害され、三名が重傷を負わされた。村民は村を放棄すべく、そこから非難し始める。遺体は羆が他に移動しないように、餌として村に放置された。
 
 救援に来た警察や銃を持ったたくさんの男たちは、最初自分たちの力を過信していたが、村の被害を目の当たりにする従い、恐怖におののきはじめる。屋根の雪が落ちただけで、羆の襲来だと勘違いし、怯える始末であった。区長は救援の警察や男たちがまったく役に立たないことを知り、熊撃ち銀四郎に応援を依頼する。銀四郎と区長は熊狩りに加わるが途中、彼らと別行動をする。羆がいる風上に彼らがいると、羆は彼らの存在をにおいで感じ取るからだ。銀四郎たちは風下に回り、羆を仕留める。銀四郎は二発で羆の急所を打ち抜いたのだ。
 仕留められた羆は頭の先から足先まで九尺(二.七メートル)体重百二貫(三八三キロ)の巨体であった。仕留められた羆を運ぶとき、吹雪が吹き荒れる。「クマ嵐だ。クマを仕とめた後には強い風が吹き荒れるという」一人の男が言う。

 とにかく読んでいて恐ろしさがひしひしと感じる本であった。北海道の開拓民たちが過酷な自然の中で生活している描写だけで、自然の恐ろしさを感じるのに、さらに体重383キロの羆が、人を襲い、骨を折り、肉を食いちぎる光景を想像すると、ぞっとしてしまう。話が事実に基づいているだけに、下手な恐怖小説より恐ろしかった。風や音が恐怖をさらに広げていく感じだった。


評価
★★★★


書誌
書名:羆嵐
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242130
出版社:新潮社 (1977/05 出版)
版型:204p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2008年10月04日

三浦しをん著『三四郎はそれから門を出た』

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 この本というか、この書名は朝日新聞で見て気になっていた。面白い題名をつけるもんだなと思っていたのである。もちろんこれはすべて夏目漱石の小説である。三浦さんによれば、遠い昔文学史の授業で夏目漱石の代表作を語呂合わせで覚えるために使ったものだそうだ。ちなみにこれは漱石前期三部作といわれる。後期三部作は『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』となる。
 さて、この本は今まで三浦さんがいろいろなところで書いてきたエッセイを一冊の本にまとめたもので、朝日新聞に掲載されたこのエッセイも含まれ、そのまま本の書名となった。主に三浦さんの書評といっていいだろう。
 ただ三浦さんの読まれる本は私が読む本と系統がかなり違うので、私としてはいろいろな本があるんだなというぐらいで、いくつかは除いて今後ほとんど読まない本だろうなと思う。ただ、ちょっと気になる本はいくつかあったので、さっそくメモして、後日読んでみようかと思っている。
 でもそれぞれの本の内容は別として、その内容について三浦さんが語る語り口は最高に面白い。
 基本は自分がしている“ゆる~い生活”を棚に上げて、その分ポジティブシンキングになり、過激なつっこみをいれる。それが大いに笑えるのである。ときに、この人本当に女性なのかなと思うくらい、男性的な過激さでものを言っている。出演者たちが楽しんじゃっていて、視聴者を置いてきぼりにしている最近のバラエティーよりはるかに面白かった。久々に笑わせてくれたという感じだ。
 たとえば、穂村弘さんの『本当はちがうんだ日記』を題材にして次のように語る。

 読んでいて、なんだか他人事とは思えない。たとえば私は、見知らぬ男女が親しく言葉を交わして飲み食いするという「合コン」なるものを心から憎んでいるが、そのくせ自分で出会いを演出する技にも気力にも努力にも欠け、現在使用中の化粧水は、タンスの奥に眠っていた試供品だ。
 問題は「過剰な自意識」だ。自意識が邪魔をして、「私も仲間に入れてほしい」と率直に表明することができない。楽しそうな人々をモジモジと遠巻きに眺めるのもである。
 こういう心性を、一言で表す言葉がある。「思春期」だ。この欄をお読みの中高生は、思春期まっただなかで、さぞかし生きにくい日々を送っていることだろう。しかし、いずれは思春期も終わり、楽しい青春が待ち受けているはず、と希望を抱いていると思う。残念ながら、その希望は捨てた方がいい。恐るべきことに、思春期は一生つづくものだからだ。
 その、つらくもあり情けなくもある真実が、笑いと鋭さに満ちたエピソードとなって、『本当はちがうんだ日記』に克明に記されている。

 この「三四郎はそれから門を出た」は中高生のための本の紹介ということになっているから、その年代の合わせてこのようにいっているのだ。他にも、次にようにある。

 え、もしかしてもう夏休み?いいなあ。海、山、恋、冒険と休み中の予定が目白押しかしら?いや案外夏期講習の予定だったりして。ははは、ざまあみろ(と、夏休み自体がないくせに喧嘩を売ってみた)

 気になる文章がある。

 本を売る店で働いていると(三浦さんはアルバイトして古本屋さんで働いていたらしい)、気がつくことがある。新刊、古本問わず、とにかく「本」というものを求めて集う人間は、総じてキャラクターが濃いのだ。お客さんも店員も、浮世離れしていたり、逆に欲望におもむくままに行動しすぎていたりで、見ていて飽きない。

 そうかなぁ、私も以前書店員であったからキャラが濃かったのかなぁ。そして今はどうだろう・・・・?確かに本好きにはどこか世間離れしていて、胡散臭い部分もあるので、個性的なキャラクターの人が集まる可能性は充分ある。そして本好きが本屋に勤めるというパターンが多いだろうから、買う方も売る方も似たようなキャラクターになる可能性も充分ある。まぁそれもそれで面白いと思うのだが、最近の大書店では女性には制服、男性にはネクタイを強制して、個性的なキャラを無臭化しようとしている。その結果書店員もその辺のOLやビジネスマンと何ら変わらないようになっちゃって、機械的で面白くない。検索機械の扱いは詳しいけど、本のことをまるで知らない馬鹿書店員が増えている。
 一方読む側もおかしな(あるいはつまらない)人間が増えているような気がする。三浦さんは次のように憤る。

 「趣味は読書」と、てらいなく履歴書に記入できる人々がうらやましくてならない。いや率直に言って、うらやましさが高じて憎しみすら覚える。
 「私、けっこう本読むんだ-。『冷静と情熱のあいだ』はすっごくよかったよ」なんて言う、おまえらなんてみんな死ね。合コン中の男女を横目に、居酒屋で一人、苦しい思いでビールを飲んだことが何度あっただろう。私にとっちゃあ、読書はもはや「趣味」なんて次元で語れるもんじゃないんだ。持てる時間と金の大半を注ぎ込んで挑む、「おまえ(本)と俺との愛の真剣勝負」なんだよ!

あるいは、

 私は読書を通してお役立ち知識を仕入れたいわけではなく、励ましを期待したためしはなく、癒されたくもなく、自己を肯定してもらいたくもないんじゃ!だいたいそんな甘えた精神で本を読んで、はたして楽しいのか?

 私は三浦さんのこの意見には大賛成で、趣味を「読書」と平気で言えたり、履歴書に書ける神経はちょっと私にも理解しかねる部分がある。あるいは最初から打算的に知識を得ることを期待したり、癒しを求めたりするのはどうかと思う。そんなもの読んでみなきゃわからないだろう。

 さて、ここに収録されている三浦さんのエッセイは本のことだけではない。旅、食事、映画、美容など女性らしい文章もあるのだが、やっぱり三浦節が出てしまう。「『大江戸温泉物語』へ行く」では、

 さっそく大きな風呂場に向かう。光差す真っ昼間の広大な風呂場には、大勢の裸の女性(老いも若きも)が集まっていた。あんまり裸体の数が多いから「風呂に入る」という日常的な行為も、なんだか非日常的な行為に変わる。私は湯船につかりながら、「なんかこう・・・・アウシュビッツのガス室を連想させる不吉さがあるんだよな」と思った。無数の裸体の、無防備さゆえの迫力に圧倒されたのだ。

 ここを読んだとき、飲んでいたアイスコーヒーを噴き出してしまった。何となく想像できちゃうからおかしかった。


評価
★★★★


書誌
書名:三四郎はそれから門を出た
著者:三浦 しをん
ISBN:9784591093566
出版社:ポプラ社 (2006/07/25 出版)
版型:305p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2008年07月22日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 休み前になると、この本を読もうと決めるのだが、どういう訳か、きちんと読めない。むしろ平日の時間がない方がきちんと本を読む。休みだと時間があるものだから、だらだら過ごして、気がついたら一日が終わっていたというパターンが多いのだ。結局緊張感の欠如がそうさせるのであろう。
 しかし今回は違った。三連休である。しかも連日真夏日が続いている。これは家にいて本を読む方がいいに決まっている。で、手にした本がこの本で、厚さといい、ちょうど三連休に読むにはもってこいの本だ。
 というわけでさっそく読み始める。面白い。やめられなくなってしまう。久しぶりに休みに本を読んだという充実感を味あわせてもらった。
 実はこの本以前にも手にしたのだが、なかなか先に進まない。そのため、他に読みたい本もあったものだから、後回しにしてしまった経緯がある。しかし今回は違った。話がよくわかるのである。先に読んだ『ホメロスを楽しむために』を読んでいたものだから、知識がちゃんとあるからだ。読んでいて、“ああ、ここはあそこのあった話だな”と察しがつくのがいい。
 話はアイネイアスを主人公にしたトロイア戦争とトロイア崩壊後、西に向かい、イタリアでローマ建国の素地を開くまでの話である。これだけでもトロイア、ギリシア、そしてローマと雄大な話である。そしてたくさんの英雄が活躍する。読んでいてワクワクしてくる。
 あとがきで阿刀田さんは、日本人が外国の歴史的ヒーローを小説化するのは珍しい。しかし今日日本は欧米化しているのだから、歴史小説も「何も宮本武蔵ばかりでなくてもよかろうに」とこの本は書かれたという。しかしこの本は「現代の日本人アイネイアスの物語」だとも言い切る。だからというわけじゃないけれど、トロイア、ギリシア、ローマの英雄譚であっても、確かに英雄たちの行動は迫力があって非日本人的ではあるけれど、その思考回路はきわめて日本人的である。だからストレートに英雄たちの気持が伝わってくる。例えば、アイネイアスがヘレネがトロイア崩壊後、メネラオスのもとに戻った(トロイア戦争がヘレネの略奪から始まり、トロイアが破れ、ヘレネが元の鞘に戻った)と聞いたとき、「あの戦争は何だったのか」と思うところは英雄らしくない。むしろ日本人がよく持つ感情のような気がする。もちろんそれもいいんだけどね。
 それでも日本の歴史小説は理屈や道理が通っていないと、受け入れがたい部分があるけれど、この話は「世間では、事実ではないけれど、皆で事実と認め合っていることがある」として、それでいいではないかとしているところが話を面白くしているような気がする。少なくとも私はそれを堪能した。だってお話だもの。
 そしてここでは人間のモラルが法や慣習より優先された社会が描かれる。
「古代社会では、信頼と報復が人間のモラルを強く規制していた。知己であることはの意味は重い。その分だけ裏切りは、最も忌むべき悪として憎まれ、報復も厳しい。普遍的な法制が存在しない以上、人間同士の結び付きは信頼するか否かに懸かっていた。アイネイアスたちが、ディロス島で歓迎された理由は(アイネイアスが差し出した金銀の効能とは別に)黒耳のルドンが浜長のアニウスと懇意であったからであり、更にまたアニウスの肝煎りでキドニアへ行くことは、同じ意味合いで安全を期待できる事情であった。『俺の知り合いだ。よろしく頼む』という言伝てには想像以上の価値があったのである」と西に向かう航海で各地の知り合いが、アイネイアスの安全を保障する。それは単に信頼できる知り合いだから当然である。ただそれだけなのだ。だからこそ裏切りは信義に反する訳だからそれは死を持って償わなければならない。この話に登場する英雄たちはすべてこの単純な、信用できるか否かの人間関係でつながっている。小賢しい屁理屈などまったくない。それがなんか心地よかった。

 しかしトロイの木馬は我々が知っているようにトロイアの城内に引き込んで欲しかったなぁと思う。ここでは、木馬(トロイアでは馬がトロイア人のシンボルだから)を生贄して燃やせと言う神託で、そのようにしている。結果地震が起きて、城砦の一部が崩れ、そこからギリシア人がなだれ込むという話になっている。これはトロイの木馬の伝説が、今考えればおかしいという理由だかららしいが、お話なのだから、やっぱり燃やすのではなく、ギリシア人が忍び込んだみ木馬をトロイア人自ら城内に引き込んで、その扉をヘレネが開ける方が面白いような気がするのだが、どうであろう?
 でも、知っているたくさんの英雄たちが活躍し、戦い、そして死んでいく。生き残った者はアイエネアスを中心にトロイアの再興を求め、イタリアに向かい、それがローマ建国の先駆けとなる話は雄大で、本当に面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062636582 (4062636581)
出版社:講談社 (1997-12-15出版) 講談社文庫
版型:697p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年06月05日

開高健著『一言半句の戦場』

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 本当に久しぶりに開高健さんの文章にふれる。開高さんの死後、追悼の意味も込めて、さまざまな本が出版され、どこから探してきたにかと思えるくらい、開高さんが書かれた文章を引っ張り出し、あるいは以前書かれたものを再度収録し直して、本が出版された。だからもう未収録の開高さんの文章などないだろうと思っていたら、まだこんだけあったのかと驚いた次第だ。そしてこの未収録の文章を集めたNPO法人の開高健「単行本未収録作品集成」編集委員会なるものがあること自体驚きであった。
 A5版の3段組で590ページもある本に少々たじろきながら読み始める。確かに分厚いけれど、各ページにイラスト、カットがちりばめてあるし、写真も数多く載っているので、ページの割には内容はそれほどでもない。こんなにイラストや写真はいらないんじゃないかと思えるし、トリス時代のコピーを二ページにわたり大きく掲載しているけれど、まぁ遊び心として許してもいいかと思うことにした。しかしあの「『人間』らしくやりたいナ トリスを飲んで『人間』らしくやりたいナ 『人間』なんだからナ」と名コピーを大きく掲載されると、なんか相田みつをみたいな感じがしないでもない。
 さて、今まで出版された本に未収録のものばかり集めたものだから、全体として統一感がないのは致し方ない。また対談などには同じフレーズが何度も出てくるけれど、それもご愛敬ということで読み進める。しかし大学時代よく開高さんの本を読んでいたので、やっぱり懐かしい。当時は何でも開高さんの書かれた文章や言葉を受け入れていたところがあったが、さすがこの歳になってくると、警句や膨大な語彙から選び抜かれた形容詞や比喩は多少鬱陶しく感じないでもない。けれど選びに選び抜かれた形容詞や比喩は今もさび付いていない。開高さんが「小説は形容詞から朽ちる、生物の死体が眼やはらわたから、もっとも美味なところからまっさきに腐りはじめるように」と言ったけれど、開高さんが選んだ形容詞は、この本では、今でも朽ちていない。

 この本は開高さんの追悼集にもなっており、後半開高さんと生前交友が深かった人の文章も載せている。その中で谷沢永一さんの文章は大変興味深かった。「開高健の強運」と称す文章なのだが、開高さんが成功したのは、その作家としての才能の他に、開高さんの強運にあったのではないかというものなのである。
 たとえば開高さんが世に出るきっかけとなった作品『パニック』は平野謙という当代きっての評論家が絶賛したことに始まる。平野謙は「そんじょそこらの利いた風な口をきく甘ちょろい評論家とは格が違う」。その平野が絶賛したのである。しかも『パニック』が「新日本文学」という雑誌に掲載されていたが、「新日本文学」は、予算的な都合で常に発行が遅れた。平野はその発行が遅れた「新日本文学」が届くまで待って、開高さんの作品を見出し、絶賛したのである。
 文芸記事は毎日と朝日が争っていた時代であったらしく、当時朝日の執筆者であった臼井吉見の面目は丸潰れになり、そこから感情がもつれ、開高さんの次の作品を酷評したらしい。
 芥川賞選考においても、開高さんは強運を発揮したという。当時開高さんは大江健三郎さんと芥川賞を争っていた。評価が拮抗していた。どちらか決められない状態であった。そこで病気欠席していた宇野浩二に電話で意見を聞いた。編集者はなかなか結果が決まらず焦っていた。宇野浩二の口から「開高」という名前が出た時点で、すぐ電話を切った。芥川賞は開高さんと決まった。
 ところが谷沢さんが宇野浩二の性格からして、先に結論を言うタイプじゃないはずだと推論する。宇野浩二は「ううん、開高も良えけど、そやなあ、やはり大江やろうか」と言おうとしていたんじゃないか。それを編集者が焦っていたために、最初に開高さんの名前が出た時点で電話を切ってしまった。これで開高さんが芥川賞を受賞することになったのではないかというのである。これを読んだとき、へえ~そうなんだと思った。
 芥川賞受賞後次の作品を主催者である文藝春秋の文芸誌に発表するのが慣例となっていたが、開高さんは強度のスランプに陥り、一作も作品が描けない状態であった。開高さんはその前に講談社の文芸誌に発表する予定であった作品を横流し、発表した。当然講談社側は激怒する。以後、開高さんはきついお仕置きを科す。「開高は講談社から完全に干され続ける」と谷沢さんは書く。
 開高さんと講談社が仲が悪いというのは有名な話で、その原因がこれにあることは知っていた。私の知っている限り、講談社から開高さんの作品は『饒舌の思想』というエッセイ集しか出ていない。少なくとも私の蔵書で講談社から出ている開高さんの本はこれしかない。
 しかし他社は開高さんを見放さなかった。新潮社が「現代文学全集」の編集をするに当たり、開高さんの作品はそこにはなかった。ところが山崎豊子さんの盗作冤罪事件が起こり、急遽開高さん作品集とすり替えられたという。週刊朝日でもルポの依頼が来る。また当時潮出版にいた背戸逸夫さんに惚れられ、多くの“背戸本”と呼ばれるエッセイ集や対談集が出版される。私は何で開高さんの本が創価学会系の出版社から多く出版されるのか不思議であったが、こうした事情があったのかと知らされる。
 この後集英社の「週刊プレイボーイ」に身の上相談のコーナーを担当したり、そこから集英社のあの『オーパ!』シリーズが生まれる。
 要するに谷沢さんが言うように「彼が何らかの難局に当面するたびごとに、決定的な打開の道を与えられ、終生の理解者および庇護者が現れた」強運に恵まれていた。

 開高さんは小説家としては寡作な方だと思うが、一方で評論、ルポ、エッセイ、あるいは釣りの紀行文はよく書かれた。だから私もそっちんほうの結構付き合ってきた。もちろん小説も読んできたが・・・。
 開高さんのこれらの文章を読むといつも思うのだが、そこに書かれた文章には奥深さがあり、それを書かれた裏付けが途方もなく膨大な書物によるものだと知らされる。そしてそれを読んでみたいという気持になり、私の読書に幅が広がっていった。私のエッセイ好きも多分ここから始まっているのではないかと思っている。名エッセイは読んでいて楽しいのだ。そこに紹介された本は結構読んでいる。またそれも楽しかった。今度はどんな本を紹介してくれるだろうかと、ワクワクしながら開高さんの本を読んできた。
 いつの間にか私は開高さんの書かれるものから離れなくなった。たまたま本屋でアルバイトをしていたものだから、次から次へと開高さんの本を注文していった。ところが注文しても品切れ、あるいは絶版というゴム印の押された注文書が多く帰ってくるようになり、いつしか私は古本屋通いをはじめ、手に入らなかった開高さんの本を集め始めた。以来コレクターとして開高さんの著作が手元に数多く残ることとなった。苦労して手に入れた本だけに、私の宝物といっていい。もちろん読む楽しみも充分味わってきた。
 それが開高さんが亡くなってからはなくなってしまった。当然新刊もないから、楽しみを奪われた子供のように、つまらなくなり、開高さんから遠ざかってしまった。
 これが本当に最後の開高健の本なら、これで私のコレクターは終わることになる。後は手元にある本をじっくり読むことになるだけだ。古本で集めた本を再び読むか、それともゆっくり味わいたいと思って買い揃えた全集をひもとくか、とにかくもう一度腰を据えて読んでみたくなった。


評価
★★★★


書誌
書名:一言半句の戦場―もっと、書いた!もっと、しゃべった!
著者:開高 健・開高健「単行本未収録作品集成」編集委員会編
ISBN:9784087812770 (4087812774)
出版社:集英社 (2008-05-06出版)
版型:590p 21cm(A5)
販売価:3,360円(税込) (本体価:3,200円)

2008年05月07日

高野和明著『13階段』

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 樹原亮介はガードレールにバイクをぶつけ、バイクは大破し、樹原も大けがをした。それを発見した宇津木啓介夫婦は、警察に連絡するために実家に戻る。そこでは啓介の両親が頭を割られ死んでいた。その死体は犯人との格闘のためか、腕は筋肉組織一本を残しぶら下がったまま、指は全部飛散し、眼球が飛び出した、悲惨な状態であった。
 樹原亮介は保護観察処分を受けており、樹原の保護司は宇津木啓介の父親耕平であった。病院に運ばれた樹原は宇津木耕平のキャッシュカードをもっており、衣服からは被害者の血痕が検出された。樹原は宇津木耕平夫婦殺害容疑で逮捕された。
 樹原は事故の衝撃で犯行時刻の記憶を喪失していた。そのため犯行当時の記憶がなく、改悛の情で裁判官に減刑の意思表示ができず、逆に反省の色がないということで、一審で死刑が言い渡され、二審で控訴棄却、最高裁でも上告棄却となり、樹原の死刑が確定した。
 松山刑務所の刑務官南郷正二と、傷害致死で二年の刑を終えた三上純一は、樹原が冤罪の可能性があるという調査依頼を受けて、事件を調べ始める。しかも樹原の死刑執行はまもなく行われる可能性があり、時間との戦いであった。手掛かりは、死刑囚の脳裏にわずかに甦った「階段」の記憶しかない。

 この本は先に読んだ阿刀田さんのエッセイに紹介されていたものである。話の内容はこれ以上書くとネタ晴らしになってしまうので書かないが、それよりもこの本の醍醐味は、死刑がいかに執行されるかが詳しく書かれていることである。そのことが樹原が冤罪事件に巻き込まれ、死刑に処される怖さを読む側に与え、さらにタイムリミットが近いことが、恐怖を醸し出していく。
 13階段とは死刑台に上る階段のことかなと思ったのだが、そうではなく、死刑確定囚が実際死刑に処されるための手続きが13段階あることを言っている。
 この本によると、日本では現在、目隠しされた死刑囚の首に縄がかけられた直後、床が二つに割れて地下に落下する「地下絞架式」で処刑されるらしい。さらに死刑囚がいるのは、刑務所ではなくて、拘置所なんだそうだ。というのも、彼らは死刑になって初めて刑を執行されることになるので、それまでは未決囚として拘置所に収監されているという。
 死刑が実行されるとき、その刑を執行する刑務官の選定が行われる。選考基準は職務執行が特に優秀で、本人はもちろん家族にも持病がない者。妻が妊娠中でない者。喪中でない者とあるらしい。そしてこれらの基準を満たした七名の刑務官が、死刑執行前にリハーサルをする。たとえば、落下したとき、死刑囚の足が床から三十センチの高さに来るように調整したりして、実際に刑務官を死刑囚に見立てて行う。床を割るためのスイッチであるボタンは三つあり、三人の刑務官が同時にボタンを押す。三つのボタンのうち一つが本物スイッチなのだが、それが三つのうちどれかはわからないようになっているらしい。
 死刑が執行された死刑囚は、まず心肺停止を確認され、その後五分間縄にぶら下がった状態にしておかれるらしい。

 ところで最近は死刑廃止の是非がとやかく言われているが、国際的動向に比べ、日本では死刑存続を是と考えている国民が大半だというところがある。それは被害者の心情を思うことから来る同情から、または、死刑が凶悪犯罪の抑止力となるというところからくるものだろう。実を言えば私もその考えに与している。しかし、被害者の家族でない者が、簡単に死刑と叫んでいいのだろうかとこの本を読んで思ったのだ。というのも、仕事として死刑を求刑しなければならない検事や、南郷のような実際に生身の人間を殺さなければならない立場の人間の苦しみを知ったからである。死刑は誰かが執行しなければできないものなのだということを改めて知らされた。 死刑囚がお呼びがかかって、その瞬間、慟哭し、嘔吐する場面がこの本では書かれているけれど、それは自分が招いたことだから、そうした恐怖を味わうのは当然のこととしても、たとえば罪を憎む検事や刑務官が自分の仕事を粛々とこなして、死刑囚を処刑するのだと簡単に言えないことを知る。
 特に実際に刑を執行する刑務官にとって、その精神的苦悩はものすごいものだとこの本で知った。生涯癒やされぬ深手を心に負う。また世間にも自分が刑の執行者と言えない、苦しみや後ろめたさをいつも感じながら生きていくことになる。そしてその家族もやはり人様に言えない苦しみを背負いながら生きることを強いる。だから南郷が「どうしてあんな馬鹿どもが、次から次へと出てくるんだろうな?あんな奴らがいなくなれば、制度があろうがなかろうが、死刑は行われなくなるんだ。死刑制度を維持しているのは、国民でも国家でもなく、他人を殺しまくる犯罪者自身なんだ」という言葉はかなり重みがある。

 この作品は第四十七回江戸川乱歩賞作品であるが、さすが江戸川乱歩賞作品である。ミステリーとしてのおもしろさと、死刑という制度が我々が簡単に見ているところがあることを戒めてもくれ、この制度を維持していく人たちの苦しみも教えてくれた。


評価
★★★★


書誌
書名:13階段
著者:高野 和明
ISBN:9784062748384 (406274838X)
出版社:講談社 (2004-08-15出版) 講談社文庫
版型:383p 15cm(A6)
販売価:680円(税込) (本体価:648円)

2008年04月29日

宮本映子著『ミラノ 朝のバールで』

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 バールとは日本でいえば喫茶店のようなものなのだろうか?ただ、この本を読んでいると、単に喫茶店というだけのものじゃないことがわかる。イタリアの人たちにとって日常生活には欠かせない存在のようだ。宮本さんも一日の始まりをイタリア人の旦那さんとバールで始める。「イタリア人ならば誰でも、行きつけのバールというものをもっているはずである。そこに彼らは、一日に、二、三回通うこともある。
 行きつけのバールの決め手は、なんといってもエスプレッソがおいしいこと、家や職場から適度な距離にあること、バールマンの感じがいいことなども理由に挙げられる。(略)
 バールには一日何百人もの人が足を運び、その行為を繰り返す。
 一日のスタートをきる、仕事の合間に一息つく、週末の予定を立てる、お目当ての女性を誘う、サッカーの試合結果の予想を練るなど、バールはその要望に応じて姿を変えてくれる。
 もし仮に、イタリア中の町や村からバールを取り除いてしまったら、一体どんなことになるのだろう。彼らはきっと、大袈裟な身振りをして、まるで空気がなくなってしまったかのような表情になるに違いない。バールは彼らにとって空気の如きもの」という。

 宮本さんが十歳のときお姉さんから一冊の写真集が贈られた。その写真集はイタリアの風景、子供たち、猫の写真集で、その色彩が宮本さんを魅了した。以来その写真を撮った写真家と手紙のやりとりが始まる。写真家からの手紙はイタリアからの手紙が多く、そこに語られるイタリアはいつも人が人として生きていられる、実に人間くさい土地として宮本さんには感じられ、ますますイタリアに夢中にさせられていく。
 家庭の事情で大学をやめ、就職をしたが、ある時雑誌に「イタリアにウェイトレス募集」という求人広告見て、心を大きく揺さぶられ、二十四歳ときイタリアに渡る。
 ミラノの日本料理店で働いていたとき、カメリエレ(給仕人)のアントニオ・シネージさんと出会い、結婚する。宮本さんはシネージさんの両親と五人の姉妹と暮らし、一男一女をもうける。
 現在はシネージさんの経営するレストランを手伝いながら、イタリアで暮らしている。このエッセイはそのイタリアでの二十二年間生活をつづったものである。
 ここで描かれるイタリアでの生活は、日本では見られない熱い人間関係が読んでいるうちに懐かしくもあり、うらやましくも感じることができる。もちろん宮本さん自身そうした人との関係にうんざりしてしまうところもあるけれど、いつの間にかそうした人間関係を肯定していくあたりは、根はイタリアを愛しているんだなあと感じさせてくれる。
 宮本さんは確かにイタリアで生活はしているが、自分が日本人であることで、どこか距離を置いてながめてイタリアでの生活を語る。ただしそれは文明批評のようなさめた目で見るのではなく、あくまでもイタリアのいいも、悪いもすべて受け入れなが語りかけてくれる。だからここにつづられる文章はやさしく、あたたかい。読んでいる方も、あきれる一方、どこか“いいな”と思わせてくれる。なんでもそうだと思うのだけれど、最初から疑いの目や否定的な目で物事を見てしまうと、あら探しだけが際だってしまい、とげとげしくなる。
 宮本さんのこの文章を読んでいると、住んでいる国は違うけれど、人の接し方、生き方はどこでも同じだと言っているようである。そういうやさしさのある文章には時にはきらりと光る言葉が出てくる。

「こんな義父にめぐり合えることも、私の人生という書物の中に、以前からすでに書き込まれていたような気さえしてくるのだ」

「人間とは、ほんの些細な事にも腹を立てたり、くよくよしたり、喜んだり、希望に満ちたりしながら、日々を送るおかしな動物だ。それを大空から眺めると、我々の人生における凸凹なんて実は大したものではなく、大らかな曲線であるに違いない」

「しかし、私は絶対的な強さで信じるものがあることの幸福を思う。膨大な時の流れのなかで、ほんのわずかな一生という時の一片を公平に与えられて、コツコツと生涯を送る人間たち。めまぐるしい日々の合間に、それでもふと立ち止まることがある。誰でもそんな時が訪れる。その瞬間、人間は広大な宇宙のなかで限りなくひとりだ。信じるものとは、そんな時のためだけにあるのだと思う」

 それにしてもここで語られる会話の楽しそうなこと。そしてバールでのエスプレッソやパスタをはじめとする家庭料理は本当に美味しそうである。
 それにこの本の装丁もいい。宮本さんの一生を決定づけた写真家の写真が使われている。窓から光が差し込み、猫が二匹語り合っているかのような写真である。いかにもこの本がそうしたやさしいイメージの本であることを予感させてくれる装丁である。


評価
★★★★


書誌
書名:ミラノ 朝のバールで
著者:宮本 映子
ISBN:9784163699400 (4163699406)
出版社:文藝春秋 (2008-02-15出版)
版型:254p 19cm(B6)
販売価:1,450円(税込) (本体価:1,381円)

2007年11月01日

阿刀田高著『小説家の休日』

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 初めて阿刀田さんのエッセイを読む。私は阿刀田さんの熱心な読者ではないのだけれど、最近なんか面白そうな作家なのかもしれないと興味を持っている。いずれ作品を読んでみたいと思っているのだ。
 さて、私はエッセイというのが好きである。自分にとって新しい作家の本を読むとき、まず一番最初に手にするのがエッセイである。エッセイを読めば、何となく作家の好みや考え方などがおおよそ見当がつく。そしてそれらが私の好みであれば、次に小説を手にすることになる。
 仮にちょとなぁ~と感じたとしても、すべてが否定的にならなくてすむのがエッセイのいいところのような気がする。まず全面、否定や拒否反応を起こすことはない。どこかおっ!と思わせてくれるところが必ずある。あるいはうん、そうだよねと感心したりもできるところがどこかある。小説だとこうはいかない。一つのテーマで書かれたものであると、一度拒否反応が起こるといつまでも尾を引いてしまい、最悪の場合、読まなきゃよかったなんてこともよくある。だからまずはエッセイからというのが私の本を読む場合の不文律というところだ。
 で、この本で私が感心したところを抜き出してみる。まずは松本清張さんに関する記述である。阿刀田さんが「清張さんは、知っていることはなんでも役に立ててしまうんだなあ」という感想を持つ。たとえば『砂の器』で「出雲方言の中になぜか東北地方の方言とまったく同じズーズー弁がある」という言語学的謎をみごとに利用した。阿刀田さんは「『砂の器』の発想の第一歩はあそこにあったのではないか」と考えるのである。それを読んだとき、私が以前から同じことを感じていたので、阿刀田さんもそう思いますかと、うれしくなった。
 私が『砂の器』を読んだのは高校時代である。このズーズー弁の謎も驚いたけれど、和賀の女が列車から紙吹雪をまいている記述があるが、あれが紙吹雪でないと、刑事が考えたとき、そしてそれを探すために線路をはいつくばって探すシーンを読んだとき、私はもうこの本の虜となっていたことを思い出す。

 次に、中島敦の『文字禍』のことが書かれている。この作品開高健さんがよく引用していたのを思い出す。開高さんも中島敦を高く評価していた。それを読んだとき、中島敦の作品を読みたいと思い、筑摩文庫版の作品集を買ったのだが、未だ読んでいない。今読んでみたなあと思った次第だ。
 阿刀田さんはこの『文字禍』と『狐憑』という作品からかなりの影響を受けたようである。これらを「従来の小説とは少しちがう小説だな」とか「大人の寓話みたいなおもしろさ、これはなかなか得難いものだな」と感じたという。そこから阿刀田さんは中島敦のこの二つの小説から技法を盗み取って、いろいろな形で利用してきたというのである。
 これを読んだときへぇ~そうなんだ。阿刀田さんの作品に私が以前関心を持っていた中島敦の作品(といってもまだ読んでいないのだけれど)が影響していたんだと知ったとき、なんだか阿刀田さんが身近に感じられたのである。だから中島敦の作品も今度こそ読んでみようと思うし、阿刀田さんの他の作品も読んでみたいと思うようになった。

 このエッセイには阿刀田さんの本に関する考えが至るところにちりばめられている。それは作風から、本そのものについても言及されている。様々な本を読まれて、その感想も書かれている。その中の「構造としてのミステリー」では、いわゆる謎解きはミステリーや推理小説のためにだけあるものじゃなくて、小説全般がそうだという。それを次のようにいう。

「一つの謎が呈示される。その謎が深まり解決のヒントが示され、やがて謎が解け、大団円となる。ミステリー構造と呼ぶべきものであり、これは狭義の推理小説だけではなく、広く小説全般に用いられ、ストーリーのおもしろさを醸し出す有力な方法となっている。夏目漱石の<こころ>や安部公房の<砂の女>も例外ではない。およそ小説と名のつくもので、主人公がどうなるのか、この事件はどう運ぶのか、謎の呈示とその解決に無縁なものは、むしろ少数ではあるまいか」

 なるほど確かにそういわれればそうだと思う。謎解きに特化したものがミステリーや推理小説なのだろうが、それらに限らず、小説のおもしろさはすべからくそこにつきるかもしれないななんて私なりに思った。
 あるいは「本は安いぞ」では、本が高いといわれるけれど、「本というものは、ほかの商品とちがって、それを利用する人によって価値がまるで異なる。天と地ほどちがう」というのも、よくわかる。たとえば文庫本を読み終わったとき、いい本を読んだと感じたら、これで○○○円とはかなりお得だと思う。でもまったく興味のない人にそれを言ったところで、そうか?と言われるのがおちである。本というのはそういうものなのだ。阿刀田さんは「私の思うところ、読書ほど安くて、おもしろくて、ためになるものは、ほかにそう多くはない。そのうえ、いつでも、どこでも、だれに迷惑をかけることもなく、独りで楽しむことができる。対象となる分野も、限りなく網羅的で、たいていのものがそろっている。入門から初級、中級、上級、奥義まで備わっている。読書の趣味を持っているかどうかで、一生の楽しみの総量は相当異なってくるのではあるまいか」というのは、もっともだと思う。
 だけど私は「だから本を読みなさい」なんて言いたくない。そんな偉そうな言い方をするほど本を読んじゃいないし、そもそも自分の楽しみで読んでいるだけのことなのだから、そんな教条的なことは言えない。阿刀田さんが言うように「ただおもしろいだけ、それだけで読書は価値がある」と思っているだけだ。
 そんな中、阿刀田さんは「一般論として言うのだが、小説は二十ページを読んでおもしろくなければ、読み続けることはあるまい。波長がちがっているのだ。好みに合うものを選んで読むのが第一義だ、と私は信じている」というのには、うん、確かにそうかもしれないなんて思った。
 けれど、じゃあ、そこでやめられるかというと、やめられない。もしかしたらこの後おもしろくなるかもしれないと考えたり、これがおもしろくないのは私の知識不足からくるものだろうから、読み終えた後、その知識が私に残るかもしれないと淡い期待を持ちながら我慢して読む。でも、たいがいは裏切られるか、まったく理解できなかったりする。それにお金を出して買った以上、読むなら最後まで読まないともったいないという貧乏性もそうさせる。そう簡単におもしろい本など出会えないものだ。でもまったくない訳じゃない。1冊でもそれがあるから楽しいのである。そんなもんだと思っている。

 最後に宮部みゆきさんの『模倣犯』の阿刀田さん感想が書かれているが、それが笑っちゃった。「とにかく長い。三千五百枚。長すぎるように感じた。(略)登場人物や出来事のディテールにこだわることは大切だが、そのディテール自体が読んでいておもしろい、ということも小説を読む楽しさの一つだが、そこにはおのずと濃淡があるはずだ。ディテールの表出に当たって厳しい取捨選択があるはずだ。<模倣犯>は克明すぎて、際立たせるものが際立っていない」という。私もそう感じた。多分それが宮部さんの作風なんだろうが、ある意味弱点なのかななんて偉そうなことを思う。


評価
★★★★


書誌
書名:小説家の休日
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087474312 (4087474313)
出版社:集英社 (2002-04-23出版) 集英社文庫
版型:344p 15cm(A6)
販売価:630円(税込) (本体価:600円)

2007年10月27日

宮部みゆき著『楽園』下

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 一気に読んでしまった。後半は結果を急ぎすぎた感じがしないでもないが、案外『模倣犯』より面白かったかもしれない。例によってこの手の話のあらすじを書いてしまうと、ネタバレになってしまうので、毎度悩んでしまう。思うがままに書きつづってもいいのだけれど、それじゃあまりにも身勝手だから、何とかうまく書ければいいのだが、ちょっと頑張ってみよう。

 あの『模倣犯』の事件から9年がたっても、前畑滋子はあの連続殺人を未だに引きずっていた。滋子のショックは完全に癒えていなかった。それでもフリペのライターとして仕事を始めていた。
 そこへ萩谷敏子という女性が現れる。彼女は交通事故で死んだ12歳の息子、等が書き残した不思議な絵について、滋子に調査を依頼しにきたのだ。その絵には16年前に殺された少女の遺体の発見場所が描かれていた。
 その少女は手に余ったため実の親に殺され、自宅に床下に埋められていた。自宅が火事になり、半分が消失したとき、土井崎夫妻は娘茜を殺害し、床下に埋めたことを警察に自白した。そのとき、事件が初めて明るみに出のだ。なのに等はそれ以前に知ってしまったのだ。どうして等はまだ明らかになっていない少女の遺体がある場所を知り得たのか?
 等の描いたその他の絵を見た滋子は愕然とする。なんと網川浩一たちがいたあの山荘が描かれた絵があったのだ、そこには関係者以外知り得ないことが描かれていた。滋子には様々な疑問が生まれてくる。

等はどうして茜の遺体があった場所やあの山荘を描けたのだろうか?
土井崎夫妻はなぜ茜を殺害したのか?
さらに16年隠し続けたのはなぜなのか?
そして自ら自白しなければ茜の遺体は発見されなかったはずなのに、ここに至ってなぜ自白したのか?

 滋子は土井崎夫妻の事件の真相調べることで等の不思議な能力を解明しようとする。
 滋子は等が「意味がわからず、解釈ができないまでも、他人の記憶と心の奥を不用意に覗き込んでしまうことを、等は物心つく以前から繰り返してきた。そこにあるのは美しい光景ばかりではなかった。秘密は常に暗く、常に危険をはらんでいる。萩谷等が生きて成長してゆくことは、そのエネルギーに抗するために、自分を駆り立ててゆくことだった」と知る。
 等は土井崎夫妻以外に茜の遺体がある場所を知っている人物とある時接触し、その人物の記憶や心の奥を覗いてしまい、それを描いたのがあの絵であった。等はそのエネルギーがあまりにも強いため、殴り書きをしたような勢いで描いた。

その人物とは誰なのか?
その人物がなぜ茜が殺され自宅の床下に埋められたことを知ったのか。
その人物は16年間もなぜそのことを黙っていたのか?
そして等との関係は?

 その人物が明らかになったとき、滋子たちは等の特別な能力を確信する。土井崎夫妻がなぜ茜を殺し隠し続けたことがわかってくる。
 しかし宮部さんは『模倣犯』にしても、この本にしても、どうしようもない男、最悪の男をこれでもかというくらい描く。その最悪さを知れば知るほど、男として嫌になってくる。


評価
★★★★


書誌
書名:楽園〈下〉
著者:宮部 みゆき
ISBN:9784163263601 (4163263608)
出版社:文藝春秋 (2007-08-10出版)
版型:361pp 19cm(B6)
販売価:1,699円(税込) (本体価:1,619円)

2007年10月25日

宮部みゆき著『楽園』上

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 こちらも久しぶりに宮部さんの本を読む。詳しいことは下巻を読んでから書きます。まずは上々の滑り出しというところか・・・。読む方もこれからどんな展開になるんだろうと、ハイピッチでページが進む。


評価
★★★


書誌
書名:楽園〈上〉
著者:宮部 みゆき
ISBN:9784163262406 (4163262407)
出版社:文藝春秋 (2007-08-10出版)
版型:413p 19cm(B6)
販売価:1,699円(税込) (本体価:1,619円)

2007年10月18日

リチャード・ローズ著『死の病原体プリオン』

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 最近は狂牛病のことをあまりうるさく言わなくなっているけれど、そもそも狂牛病って何なのだろうか。そしてそれがプリオンによって起こされるという。ではプリオンって何なんだ。
 ということで、この本を読んでみた。この本はいわゆる異常プリオンがどのように発見され、この本が発刊されるまでどのように解明されていったのかをつづったドキュメントである。まずはプリオン病といわれる病気を記してみる。

 ニューギニア東部高地フォアというところでクールーという病気に罹っていた患者がいた。歩行障害と病的笑いをする意識障害を起こしていた。この本の主人公であるD・カールトン・ガイデュシュックがこのクールーの解明のため1957年にニューギニア東部高地フォアへ乗り出すところからこの本は始まる。クールーの症状は欧米で見られるパーキンソン病、アルツハイマー病、多発性硬化症、筋萎縮性側索硬化症などの脳の退化に類似していた。このクールーはこの地域の女性や子供を中心に見られた。そしてここには食人慣習が残っていた。人を食べていたのが女性と子供でった。つまりクールーで死亡した遺体を調理して食べていたのである。ガイデュシュックはクールーで死亡した患者の脳を調べてみると、小脳およびその下部にある神経細胞が破壊されていることがわかった。

 1913年ブレスラウ修道院で下働きをしていたベルタ・エルシュカーが突然倒れた。神経学者のアロイス・アルツハイマーの助手のハンス・ゲルハルト・クロイツフェルトがベルタの病歴を記録した。ベルタは明らかに脳に障害があると判断された。死後、解剖し脳を調べてみると数百万という脳細胞が破壊されていた。クロイツフェルトは戦後学会にこれを報告した。その論文をヤコブ博士も見ていた。ヤコブ博士も同様な患者を診ていた。これは未知の病気で、クロイツフェルト=ヤコブ(CJD)と名付けられた。この病気の特徴は脳にスポンジ状たくさんの孔が見られることであった。

 スクレイピーという羊の病気がある。イギリスでの記録は1730年にさかのぼることができるらしい。この病気の症状は体がかゆくなるため体を壁や木にこすりつける。そのため毛が抜ける。さらに進行すると歩行が不安定になり、痙攣し、失明し、死んでいく。その脳を調べてみると、神経細胞は萎縮するか、消滅していた。スポンジ状態は小脳だけでなく大脳皮質まで及んでいるという。

 スクレイピーを調べた獣医学者のウィリアム・J・ハドローはミンクがたくさん死んでいるという報告を受ける。調べてみると、汚れたミンクが後ろ足を引きずり、檻の中をぐるぐる回っている。脳を解剖してみると、脳がスポンジ状になり、神経細胞が消失していた。この病気は感染性ミンク脳症(TME)と名付けられた。TMEは野生のミンクには見られない。

 1985年、イギリスの農家の一人が獣医のコリン・ホイッタカー電話をかけてくる。飼っている牛がおかしいと。普段おとなしい牛が攻撃的になり、全身の動きがばらばらで、よろめき、倒れ、もがいていた。他にも同じ症状の牛が見つかる。脳を調べてみると、スポンジ状の病変と星状グリア細胞が変性した茶色の斑点が確認できた。この病気は牛スポンジ状脳症(BSE)と名付けられた。ただマスコミがおもしろがって、この病気に罹った牛が攻撃的で、神経過敏になることから、「狂牛病」と呼びはじめた。

 1993年少女ヴィクトリア・リンマー学校から帰宅したところで倒れた。彼女は普段羊の肉を食べていたが、たまにはコーンビーフやハンバーガーを食べることもあった。生検の結果、大脳皮質にスポンジ状の病変があり、斑点も多数観察された。生検組織はプリオン・タンパク(PrP)の抗体には反応したが、アルツハイマー病の指標となるアミロイド抗体には反応しなかった。少女は1995年死亡した。解剖の結果、彼女の脳にはスポンジ状の病変と星状グリア細胞が大量に観察された。1996年初頭になると、彼女の他2名の青年、さらに7人もの若い人たちがBSEで死亡もしくは重傷に陥っていった。

 以上がこの本に書かれている異常プリオンに関する病気の経過である。そしてこれが恐ろしいのは、種の壁を越えて感染するということである。たとえばクールーに感染した人の脳をマウスやチンパンジーに投与すれば、脳がスポンジ状態になってしまうし、BSEが人間に感染することは今では周知の事実である。しかも動物(ヒトも含む)の身体を食べることによって引き起こされる。
 この病気を起こすのは、最初、遅発性ウイルス(スローウイルス)感染症だと考えられていた。しかし調べていくうちに、このこのウイルスには自分が増殖していくため遺伝子情報を持つ核酸がない。DNAあるいはRNAしかないのであった。そのためこれはウイルスではないとわかってきた。核酸がないため、ホルマリン,熱,紫外線に対して強い抵抗性をもっている。だから処理するのがかなり手間がかかる。
 現在ではこれらの病気はプリオンによって引き起こされるものだと考えられている。プリオンは感染性のあるタンパク粒子で,ウイルスとは別物である。命名したのは、スタンリー・ブルシナーという学者で、「プリオン」とは感染性タンパク粒子のことであって、タンパク質(Protein)と感染性(infaction)を組み合わせた造語だという。
 詳しいことはわからないが、このプリオン・タンパク(PrP)は通常神経細胞の膜の中で生産されているものらしい。この本ではこのPrPが何に使われているのかわからないとあったが、今は神経細胞の形を整えたり、神経の情報伝達に関わったりしているものと考えられているという(大野さんから聞いた)そしてこれは古くなると細胞内で分解され排除されていくらしい。
 ところがここに異常なPrPが入ってくると、自分のPrPが変質し、分解されず、蓄積していく。そして重要な細胞機能を阻害し、破壊していく。最終的には脳の細胞は死滅し、スポンジ状の孔ができることになる。これが先に挙げた病気の生成過程らしい。しかもやっかいなことに、変質したのは自分のPrPなので免疫反応が起こらないということなのだ。

 ここまでの記述は「というふうに考えられる」というもので、私が理解できたこの論理?はガイデュシュックの考えによる。面白いと思ったのは、ガイデュシュックがこのプリオン病が起こる過程のヒントを得たのが、カート・ヴォネガットというSF作家が書いた『猫のゆりかご』だったということだ。この本に登場するブリート博士が次のように言う。

「われわれがスケートをしたり、ハイボールを作ったりする氷は、たくさんある氷の形態の一つにすぎないんだ。これをアイス・ワンとでもしよう。地球上ではいつもアイス・ワンしかできない。その他の形態であるアイス・ツー、アイス・スリー、アイス・フォー・・・をどうやって作るかという種がないからなんだ。そこで考えてみてくれ。ここにわれわれがアイス・ナインと称する形態があるとする。この机ぐらい固い結晶で、融点は、そう、五五度cだ。もし雨が凍って、小さなアイス・ナインの粒になって降ってきたら、多分この世は終わりだよ」

 つまり異常プリオンとなる成核剤がアイス・ナインなのである。今まで知られていない変化が起こったことで、プリオン病が起こったとしたのだ。
 私が面白いなぁと思ったことは、その専門分野で超一流といわれる学者がSFを読んでいて、それをヒントに自分の考えを構成していったということなのだ。おそらくそれしかわからない専門馬鹿じゃこういう考え方はできなかったんじゃないかと思ったりする。
 最後にこの本にふれられていることで怖いと思ったことを書く。「ハイテクの中の新しい食人現象」に書かれていた。この表題を読めば何のことを言っているかおおよその見当がつくかもしれない。
 ニューギニアで食人慣習が行われていたことで、クールーという病気が発生した。人を食べることによって、異常のあるプリオンを体内に入れてしまったことから起こった病気であった。ここは未開文明の地域だからそうした野蛮な行為(といっても彼らにとっては貴重なタンパク源なのだ)が行われていたからだと簡単に言い切っちゃうことはできない。
 今医療行為としてたとえば死亡した人の角膜を移植したり、他人に使った検査器具の消毒が不完全だったことで、その人がCJDだったら、角膜を移植された人や消毒が不完全な器具を使われた患者は、後にCJDで亡くなってしまう医原病が起こっている。また医療分野で次の技術革新として期待されているのが、異種臓器移植技術だと言われている。つまりブタなど臓器を人間に移植するというものだ。ここには得られる利益の方が危険性よりも大きいからという理由で進められているが、こうしてプリオン病に関する記述を読んでいると、本当に危険はないのかと思ってしまう。人はやってはならないことに手を出し始めた結果、罰が当たり始めているんじゃないかと思ったりする。
 ガイデュシュックは「ヒトの体組織そのものが感染病の原因のひとつであることを忘れてはならない。ある人から別の人に組織を移植することは、同時に感染症を移す危険が伴うのである」と警告している。
 もちろん食の危険性も充分考えないとならない。BSEは「CJDの潜伏期間を平均二五~三〇年とすると、ヒトの間での流行のピークは二〇一五年あたりになるだろう。新型CJD患者が平均年率五〇パーセントで増加していくものと仮定する。それほどありえない仮定ではない。そうすると二〇一五年に年間約二〇万人が罹病する」という最悪のシナリオも描かれているらしい。後8年後には本当にこうなるのだろうか?


評価
★★★★


書誌
書名:死の病原体プリオン
著者:リチャード・ローズ /桃井 健司・網屋 慎哉訳
ISBN:9784794208323 (4794208324)
出版社:草思社 (1998-07-06出版)
版型:286p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年08月28日

大澤武男著『コンスタンティヌス』

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 この本を読んでいて、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をちょっと思い出し、なんか懐かしい気分になった。もちろんこの本はギボンの小難しい論理がない分、読みやすかった。コンスタンティヌスが生きた時代の歴史的背景や、作者によるコンスタンティヌスの心理的描写はわかりやすかった。
 
 さて歴史はディオクレティアヌス帝が始めたテトラルキア(四分割統治)から始まる。西の副帝となったコンスタンティヌスの父コンスタンティウスはディオクレティアヌス帝に忠誠を誓うために自分の息子コンスタンティヌスを人質としてディオクレティアヌス帝の元に置かされる。
 ディオクレティアヌス帝の元でコンスタンティヌスは学力、軍事力を身につけ、青年軍人として成長する。
 ディオクレティアヌス帝は帝位二十年で退位を考えていた。確かギボンはディオクレティアヌス帝が退位して畑を耕したいという希望を持っていたと書いていたはずだ。
 ディオクレティアヌス帝の退位に伴って、東の正帝マクシミアヌスも退位しなければならなくなったが、マクシミアヌスは自分の退位に納得していなかった。要するにディオクレティアヌス帝はさっさと皇帝を退位して自分の好きなように畑でも耕せばいいけれど、何で自分が一緒に西の皇帝を退位しなければならないのかと思っていた。
 ディオクレティアヌス帝退位後、西の正帝はコンスタンティヌスの父コンスタンティウスが就き、副帝にセヴィルスが就いた。しかしマクシミアヌスの息子であるマクセンティウスはイタリアの全支配権を握り、セヴィルスを退位させてしまう。マクセンティウスは父マクシミアヌスと共同統治を考えていたが、帝位はマクセンティウスが握っていた。父マクシミアヌスはそれでは満足せず、今度は父から帝位を譲り受けたコンスタンティヌスの元へ自分の娘ファウスタを連れて近づく。そしてファウスタをコンスタンティヌスと結婚させるが、やがてマクシミアヌスの野望は消滅し、残るマクセンティウスはコンスタンティヌスと対決せざるを得なくなっていく。しかしマクセンティウス軍は強大で、コンスタンティヌスの側近たちもマクセンティウスとの戦いには勝ち目はないとふんでいた。
 その上ローマでは古来軍事行動の前に占いをするのが慣例で、その占いも凶と出た。コンスタンティヌスのとっては自分の運命を切り開いてくれる神がいれば、何でもいい。そんな神が必要であった。そんな神がいれば彼にとって真の神となりえた。そんな中、秋空にくっきり輝く太陽の前方に、はっきりと十字の印、十字架を見つけた。その十字の印の上方には「汝、この印に勝て In hoc signo vince」という文字がくっきりと描かれたいた。それは彼にとって勝利の印であった。その夜、彼は夢に中でキリストから軍旗にギリシア文字でキリストを表示する最初の二文字「ク」(Ch=X)と「リ」(R=P)を組み合わせた印を掲げるように諭された。(ところでWindowsXPのXPとはこれと関係あるのだろうか?)
 そして奇跡は起こり、コンスタンティヌスはマクセンティウス軍を破る。彼は西の正帝として、しばらくは東の正帝リキニウスと共同統治を行ったが、しかしコンスタンティヌスはこの混乱した世界をまとめるにはディオクレティアヌスが始めたテトラルキアではダメで、単独で神の加護を受けた絶対的な権力を持った者が統治しなければならないと思っていた。そこで今度はリキニウスとのと戦いかが始まり、リキニウスに勝ち、コンスタンティヌスはローマの単独統治者となる。

 私がコンスタンティヌスに興味があるのは次の二点である。一つはなぜコンスタンティヌスはキリスト教を信じ、保護者(コンスタンティヌスは死ぬ直前に洗礼を受けたのでこの時点ではキリスト教徒ではない)となったのか。そしてコンスタンティヌスはなぜローマに都を構えずビザンティウムにしたのかである。
 この本の作者はコンスタンティヌスがキリスト教を信じる背景をうまく説明してくれている。まずは先に書いたマクセンティウス軍との戦いで、キリスト教のみがコンスタンティヌスに神の加護を与えたと思わせたことによる。つまりすべての古代ローマの神々はコンスタンティヌスを見捨てたのに、キリストの神々がコンスタンティヌスに手をさしのべた。この時点でコンスタンティヌスにとってキリストの神々が彼の神となった。
 もう一つは、幽閉時代にミネルヴィーナと間に生まれた息子クリスプスと自分の妻ファウスタ不倫に激怒し、自分に忠誠の限りを尽くしてくれた息子にあらぬ疑いをかけて毒殺し、自分を常に敬い、五人子供を送ってくれた妻を、いくらクリスプスと関係があったとはいえ、蒸風呂に閉じ込めて茹で殺してしまった。
 こうした残酷なやり方は、許されることのない大罪で、古来どんな神々もそうした恐ろしい罪を許してくれるとはコンスタンティヌスには思えなかったのである。しかしキリストの神はどんなに恐ろしい罪でも、本当に心から悔い改めるなら赦してくれる。そのことが心の安らぎとなっていった。(なんという身勝手な考えだろう!)
 まぁこうしたことがコンスタンティヌスの生涯にキリストの神の導きが不可欠となっていったことで、彼はキリストの神々を信じていった。そして「ミラノの勅令」でキリスト教を公認するようになっていく。
 それまではご存じの通り、キリスト教徒は迫害されてきた。特にディオクレティアヌス帝は「内外からの危機に見舞われている帝国を統治、維持してゆくためには、単なる軍事力や権力では不十分であり、支配を支える統一的、カリスマ的、神的権威が必須である、との考えに起因していた。そのため帝国の共同祭儀である神々への犠牲と神の子とされる皇帝の礼拝は欠かせないものであるが、キリスト教徒はそれをかたくなに拒否し続け、帝国の統一、支配の上できわめて反体制的であり、非協力的であったのである。
 丁度ユピテル神やヘラクレス神の息子であることを宣言していたディオクレティアヌスにとって、皇帝礼拝のあらゆる儀式を拒絶するキリスト教徒は、皇帝のカリスマ的、絶対権威を無視し、こけ下ろすけしからん輩であり、そうした信奉者団体は根こそぎにしないと、帝国の統制がとれなくなってしまうという考えであった」
 ところがコンスタンティヌスは「帝国の単独支配、統治は、唯一至高の神(キリスト)に召された皇帝の責務であり、使命である。その神の特別な加護があるがゆえに、コンスタンティヌスは初代皇帝アウグストゥス以来、どの皇帝も達成できなかった長年にわたる治世を全うしたのである」
 著者は言う。「はからずも摂理というか、アウグストゥス帝の時、この世に降誕したキリストは、その後三百年後にコンスタンティヌスという皇帝を召命することにより、初めてローマ帝国にキリスト教世界への道を開いたのである」と。
 そして「コンスタンテイヌスが断行したキリスト教の公認と保護、奨励策は、信徒の急速な増大とともに、全帝国に及ぶ教会組織を発展させ、傾斜しつつある帝国は、その支配と統一を、教会の普遍的な組織と唯一の神の権威に依存するようになっていった。教会の力を必要とするようになったコンスタンテイヌスの後継者達は、統一された教会の結集力を得ようと、次第に教会の内部、教義論争に干渉するようになり、統一された教会勢力を帝国の統治下におこうとしたのであった。
 古来の神々への祭儀では、もはや帝国の護持は達成できないことを誰でも知っていたのである。唯一絶対なる神の権威が必要とされたのである。
 明らかに新しい精神世界、イデオロギーを基盤とする秩序が生まれつつあった」

 もう一つの疑問である、コンスタンティヌスはなぜローマに都を構えずビザンティウムにしたのか。著者はコンスタンティヌスに次のように思わせる。

「あのアウレリアヌスの城壁がある限り、ローマは誰にも蹂躙されまい。そして帝国が存続する限り、都の不滅な地位と威厳は永遠に変わることはなかろう。ユピテル、ユノー、ミネルヴァをはじめとする神々の祭祀と伝統の中に生きる異教の地ローマは、果たしていつの日か、キリストの神がそれにとって代わることを許すのであろうか。帝国キリスト教会の首位に立ちつつあるローマ教会は、都の片隅で信徒を獲得しつつあるが、まだ新興宗教にすぎない。
 神々に祝され、守られてきた永遠の都がそうたやすくキリストの神に身を委ねることはまずあるまい。キリストの名を奉ずる皇帝といえども、この真実は動かしがたいのだ」と。
 だから「キリスト教信徒が多く、彼を快く受け入れ、歓迎していた帝国東方への関心を移していった。それは彼の政治的、政策的必要性にも合致していたのである」
 「ギリシア世界の主神ゼウスの娘で、角のある女ケロエッサと海の神ポセイドンの息子、ビュザスが建てた町という伝承のあるビザンティオンは、紀元前七世紀半ばにギリシア人植民地として建設された町であった」。しかもビザンティウムほど交通、軍事的にこれ以上重要な都市はなかった。この時点で「首都ローマの威厳は永遠であり、不変であったが、それはすでにローマ人のノスタルジーとなっていたのである」。それに歴代皇帝も長いことローマを不在にしていた。ローマに残る必要性がなくなっていたのである。
 これがローマからビザンティウムに都が移った理由であった。そしてローマは殉教した初代教会の二大人物、使徒ペテロとパウロの墓所がある土地として、世界帝国の首都とその文化の中心に、キリスト教会の首長が在るということは、キリスト教徒を特別にローマへと誘うこととなっていく。著者は次のようにうまいことを言って締めくくる。

「今滅びゆくローマは地上の衣を脱ぎ捨て、キリストの神の名のもとに永久に生きてゆくのである。
 永遠の都はキリストの神の代理者の都となったのである。世界帝国を支配した皇帝の権威は、今や地上における神の代理者、ローマ教皇の権威がそれにとって代わろうとしているのだ」と。


評価
★★★★


書誌
書名:コンスタンティヌス―ユーロの夜明け
著者:大澤 武男
ISBN:9784062136501 (4062136503)
出版社:講談社 (2006-11-25出版)
版型:289p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)