2009年10月21日
実名?
アマゾンのサイトで検索をかけると、この事件や裁判の本がリストアップされ、そしていつの間にか“酒井法子”の本となる。同じ話題性のある裁判つながりかと思えるが、肝心のこの本はない。さらに紀伊国屋書店のサイトで検索をかけてみると「該当するデータがありません」と出てくる。変な話である。ここにその本があり、ちゃんと書名もあり、著名もあり、ISBNの数字もあり、出版社も明記されているのに、データーベースにはこの本はないことになっている。おかしなものである。この二つのサイトではこの本は存在しないことになっているわけだ。しかし私はこの本を有隣堂で買った。
どうしてこんなことになっているかと言えば、単に書名に少年法に規定された被告の実名と中学時代の写真が載っているからだ。著者は少年から実名を公表することに了解を得たから、ここに実名を書いたと言っている。一方少年の弁護団は少年は了解していない。だから少年法に抵触するから、出版の差し止めを裁判所に求めて、今争っている。つまりいわくつきの本だから、大々的に販売できな本になっていて、これらのサイトでは自ら自粛して、データーベースに載せていないのだ。
しかしよく考えてみるとおかしな話で、この本に実名と写真が載っているのはけしからんと争っても、インターネットでちょっと検索をかければ、この少年の実名と写真がすぐヒットするのである。大体が誹謗、中傷ぽいのだが、私から言わせれば、こっちはどうなのよと言いたくなる。弁護団も片手落ちであろう。そこまでこの本に目くじらを立てているならネット方だってそれ相応の対応をすべきであろう。
少年はあの光市母子殺人事件の被告である。そして正直な話、この本は内容のある本じゃない。単に書名に実名を載せ、本文にもフルネームが頻繁に出てくる。それだけがこの本の存在価値といっていい。つまりきわものなのだ。明らかにウケを狙った本だと見ている。でなければ、この本は読まれない本だろう。
私は彼の弁護団がこの本の出版差し止めを求めていることは片手落ちであると書いたが、この著者だってどこか胡散臭い。実名公表を少年の了解を得たから、それでいいじゃんという、いい加減さを感じてしまう。なぜなら、著者も少年とのやりとの中で、少年の知的レベルの低さを感じているにもかかわらず、少年が実名を公表することを、本当に真剣に考えられる能力があったのか疑問に感じるのである。少なくともここに公表されている少年の手紙を読んでみて、物事をよく考えているところもあれば、いい加減なところもあるので、彼はこのことを果たして真剣に考えられる能力があったのだろうかと思うのだ。たとえ少年が自分の実名公表を真剣に考えたとしても、時にいい加減さを露呈する彼の思考能力をわかっているなら、やはり実名公表は避けるべきであったと思うのだ。要するにどっちかわからないグレイゾーンがある以上、本当の意味で彼が了解したと言い切れないのではないかと思うのだ。そう考えるから、私はこの本の著者をウケを狙ったのではないかと思うのである。
誤解をあえて招く言い方をすれば、この事件は確かに悲惨な事件ではあるけれど、単に殺人事件であり、その裁判である。その殺人があまりにもむごいもので、しかもその犯人が少年であったことで、犯人の名前や写真が公開されないものだから、この事件の報道を聞く第三者は、想像をやたら大きくしていく。そこにマスコミがつけ込み、さらに事件をモンスター化してしまったのである。世間の注目を浴びることになったが故に、裁判そのものがおかしな方向性を帯びてしまった。つまり本来当事者の間で粛々裁判が進行して行けばいいものを、マスコミが話を大きくしてしまった。そしてそのマスメディアの一翼を担うのもこの著者である。この本を出版する意味がどこにあるのかわからない本なのに、実名公表という話題性で、裁判をさらにモンスター化してしまうと私は考えている。
だって書名からもわかるように、『F君を殺して何になる』(私は実名を避ける)となっている以上、著者はこの本を書くに当たり、少年の死刑を最初から望んでいない。実際著者は「F君に生きてほしいと願っている」と本文に書いている。それは少年との面会や手紙のやりとりから、「単純に人情からそう思う」と告白しているのである。要するに情が移ってしまっているのである。これじゃ事件を冷静に見られる訳がないじゃないかと思う。せっかく少年の不謹慎な手紙がどのような経緯で書かれたものなのかを追求しても(これもあくまでも著者の推測にすぎないような気がする)、少年の弁護団の不誠実を問うても、これじゃ話にならない。
著者は少年が死刑になったら、何か一つでも社会にとって得るものであって欲しいと言っているが、そこまで必要があるのかなと私は思う。単に殺人犯に裁判所が刑を言い渡し、それが執行されるだけのことではないか。それを社会に意味を持たせる必要がどこにあるというのだ。彼の刑を社会が共有する意味が見出せない。「匿名の名もなき殺人犯として死刑が執行されても、世間の人々はなんの現実味も持てない」と言っているが、それでいいと私は思う。そもそも少年がこんな悲惨な事件を起こさなければこんなことにはならなかったのだから。
私はこの本を読んだのは、あの少年の実際の姿に少しでも迫った本なのかなと期待したからであった。でも最初から先入観を持って書かれた本であるから、何度も言うように何も得るものがなかった。読んで無駄な時間を使ってしまったとさえ思った。買わなきゃよかったとさえ思った。幸い一時間程度読める本であったから、それで済んだけれど、もし延々と時間がかかってこれだったら、私はこの本を壁にでも投げつけたかもしれない。その程度の本であった。
本当はどうであれ、この本を読んだのだから、きちんと書名を書いて、書誌もいつものように記して書くべきものだろうけど、アマゾンや紀伊國屋書店ではこの本は今は存在しない本になっているし、それにそれほどの本じゃないから別のカテゴリーに分類した。
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- by kmoto
- at 11:05
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