2010年08月04日

柴田光滋著『編集者の仕事』

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 私が思っていた編集者の仕事とはどんなものだろうと、自分で思い浮かべてみた。それは出版の企画から作家の選定、原稿の依頼、その原稿を本にしていく程度しか思い浮かばない。大方はそれで間違いはないのだろうけど、この本を読むまで編集者は本に、それこそ印刷された文字一文字一文字、余白まで、ここまでこだわるのかと正直びっくりした。

 「たしかに内容は第一です。しかし、だからと言って形はただあればいいというものではないでしょう。読者はともかく、もし書籍の編集が形を軽視するとすれば、それは仕事の半ば放棄しているに等しい。書籍の編集とは、言わば一次元である原稿を獲得し、その内容にふさわしい本という三次元のモノに仕上げて読者に届ける作業だからです。
 タイトルは内容を示せばそれでいいものなのか。書名著者名がわかるだけでジャケットや表紙は要件を満たしているのか。本文の体裁は読めさえすればそれでかまわないものなのか。本文紙は白っぽければ何でも同じものなのか。・・・・」

 と著者は書いている。本の内容に見合う本を本という形まで作り上げるのが編集者の仕事だというのである。もちろん校正には校正する人、印刷は印刷業者、装丁は装丁者と、それぞれ専門の担当者がいるのだろうが、原稿が一冊の本になるまでの過程にいるこれらの人々を仲介し、自分たちが思い描く原稿の内容と出来上がった本が一致しているかどうか。あるいは読者が読みやすい文字サイズか、配列か、とか、紙質や紙の色までこだわるのだと知った。そして予算にあった装丁であるかどうか。だからといって貧相でないかどうか。帯の内容はちゃんと読者の目を捕らえるかどうか。それこそとことん原稿から本になるまで、あらゆるところに目を光らせるのだ。 こうして編集者が一冊の本になるまで、細部にこだわったものは、もう一つの作品にまでなっている。だからいい本は、その存在だけで実在感があるのだと思い至る。
 そう、内容もそうだけれど、一冊の本をものとして見れば、時には芸術作品的な要素させ感じさせる。私はこれまで何度か言ってきたけれど、本は内容だけに限らず、その本を持っているだけで豊かな気持になれる時があるのも、そういう理由からなんだなと思ったのである。
 特に本文が読者に読みやすいかどうかのこだわりは、へぇ~、ここまで考えているのかとさえ驚いた。たとえばこの本は新潮新書だけれど、読者はサラリーマン多い。そしてそのサラリーマンは電車の中で本を読むことが多い。その際一行の文字数を40文字にすると、片手で吊革に掴まっているから、もう一方の手でこの新書の地(下の方)を指で支えて読む事になる。その時40文字だと親指が本文にかかって読みにくい。だから余白のバランスを考えて一文字減らし、39文字にしたという。本当なら一文字でも多く入れ、コストを抑えたいところであろうが、読者の利便性を考えてあえてそうするのである。とにかく読者が本を読んでいて、本文に集中出来る心地よさを提供してくれている。そして多分そのことは読んでる側は意識しない。そのくらい配慮されているのだ。

閑話休題
 
 先日三宅理一さんの『秋葉原は今』を読んだ。この本は内容はかなり面白い。私は興味深く読ませてもらったのだが、いくつか気になる点があった。明らかにワープロの変換ミスによる誤字がいくつか見つかるのである。私の読み方はかなり荒い方なので、普通の人が気がつくであろう誤字などわからない方なのだが、そんな私でもいくつかそうした誤字を見つけた。読んでいて、あれ?何かおかしいなと、そのおかしな点が何なのか、考えてしまう。その分先に進めない。読むリズムが崩れる。そしてやっとそれが変換ミスによる誤字だと気がつくのである。
 また英字のフォントがそれだけ変わっているのである。これは見た目にも違和感を感じ、何でだろうと思っているうちに、やだなとさえ感じた。些細なことかもしれないが、気になり始めると、結構後を引くものだ。こういうことがないように心配りするのが、編集者の仕事の善し悪しになるのだろう。

 印刷で思い出すことがある。
 学生時代アルバイトをしていた頃に、共産党系の業界新聞を印刷しているところへ、ここで活字をひろっている職人さんが注文した本を配達していたことがあった。その職人さんはインクで汚れた制服とやはりインクで汚れた軍手姿だった。私が頼まれていた本を手渡すと、その軍手をを外して、ズボンのポケットにある財布からお金を取り出した。軍手を外しても手は結構インクで黒かった。職人さんはうれしそうにいつも本を受け取るのが印象的だった。インクの匂いが漂い、薄暗い感じのところだったという記憶があるが、机には組まれた活字の版でいっぱいであった。
 今の会社で本屋をやっていた頃、大手町で小さな本屋にいたことがある。店では文房具、印鑑、印刷も扱っていた。印刷はただの窓口で、名刺や挨拶状、年賀はがきなど印刷の注文があると、その原稿を持って、神田村にあった小さな印刷屋さんに持って行く。
 その印刷屋さんは細長い間口に一台の輪転機を置いてある程度の印刷屋さんである。しかし壁全体が活字の棚であった。ここから活字をひろって、版を作っていたのである。いわゆる活版印刷であった。私は出来上がりを待っている間に、何度もその金属活字の精巧さをながめたものであった。この組み合わせで、名刺になり、はがきになるのである。その過程を見てきたものだから、こうした手間のかかる印刷には、どこか暖かみを感じてしまう。何と言っても一文字一文字の金属活字がいい。
 かなり古い本などのページを指でなぞってみると、文字が僅かに、多分インクの分浮き上がっているのを感じることができるものがある。あれなど間違いなく印刷されたものなんだなと思える。

 さて、この本を読んでいてへぇ~、そうなんだと思ったことを書く。

 スピンという紐のしおりである。これを付けないと一冊当たり定価十円は低く抑えられるという。

 本のサイズの話では、単行本で多いのがB6判と四六判。しかしその見分けがしにくい。B6判は128×182ミリ、四六判は127×188ミリとされている。ただ四六判は出版社によって微妙にサイズが異なるらしい。何故四六判と呼ぶかというと、江戸時代の代表的なサイズ美濃判を八倍にしたものを「大八ツ判」と呼び、これを32面取り、つまり32頁分取ると、四寸二分×六寸二分の紙がとれたとろから四六判と呼ばれたそうだ。明治以降イギリスの判型に近いこともあり、出版物にはよく使われてきた。今でも単行本の代表的なサイズである。
 紙のサイズはA判とB判があるが、A判はもともとドイツの規格でA全(A1)に始まり、その半分がA2、そのまた半分がA3となり、それが我々がよく使うA4となり、更にその半分のA5が処方せんサイズである。
 一方B判は江戸時代の美濃紙に由来する日本独自のもので、B全(B1)に始まり、B4,B5となっていく。面白いのはA全が841×1189ミリm、すなわちほぼ1㎡であるのに対して、B全は1030×1456ミリでほぼ1.5㎡、つまりA全の1.5倍になる。縦と横の比率が1対ルート2(1.414)になり、半分に切っていてもその比率は変わらない。

 書籍の本文紙は大雑把に言えば白であるが、実際は真っ白くない。ほぼ真っ白な紙と言えば、コピー用紙が身近であるが、光の反射が強いので、長時間読んだり書いたりするのには向いていない。原稿用紙にイエロー系が多いのも何より目が疲れないからである。

 以前に最近函入りの本が少なくなったと書いたが、それには理由があるという。一つは定価を抑えるためであり、もう一つは長期保存の必要のない本には無用だからという。定価を抑えるという理由はわかるが、長期保存の必要ない本には無用だからというのは、どういうことなんだろう。今流通している本のほとんどが函入りじゃないところを見ると、それらの本は長期保存の必要ない本ばかりということなのか。あるいは本は今や長期保存するものじゃないということなのだろうか。

 日本の近代出版史から見れば、昭和という時代は文学全集の時代とすら言える。その果たした歴史的役割は、1.出版社、印刷所や製本所、取次や書店を含む出版界全体の経済的基盤を作ったこと。2.印刷や製本といった技術面が一新され、紙の大量調達や本の大量輸送が可能になったこと。3.出版と新聞広告との間に密接な関係が生まれたこと。4.文学の大衆化が始まったこと。があげられ、全国の家庭に小説が広く普及するのはここからである。
 全集を企画し発売するにあたり、「巻立て」に苦労するという。「巻立て」とは全集の時代区分、全何巻とし、そこにどの作家や作品を割り振るか、基礎設計をいう。これは言わば人事と同じで、波風が立ちやすい。一巻に複数の作家を収める場合、「あの作家とは一緒になりたくない」と言われたり、文壇の人間関係にも慎重に配慮しなければならないという。
 また配本順(発売順)も難しい。配本順は売れそうな順、要するに人気の順番で決まる。どんな全集でも部数は次第に落ちてくるので、当然ながら印税に関わって来るので、作家にとって早い配本の方が望ましい。実際したたかな老作家は収録を認めるに当たり、配本は十番以内にしろと条件を出したという。いるんだね、こういうの・・・。
 そうそう、昔小学館から出した「昭和文学全集」に村上春樹さんのが収録されなかったので、業界では話題になった。今から思えばあれはやはり片手落ちだったと思う。これだけでもこの全集の価値は落ちてしまいそうだ。よく古本屋さんの均一本コーナーにこの全集の端本を見かけるが、それもそんことが関係しているんだろうか?
 いずれにせよ、たかが一冊の本でも、そこには様々な配慮がなされていることを知っただけでも、この本を読んだ価値があったし、そこには普段意識ないことが多くあるんだな、と言うことを知った。一冊の本を手にするとき、今までと違う目で本を見るようになる。まずは読む前にしみじみ本の状態を眺めてしまう気がする。

評価
★★★


書誌
書名:編集者の仕事―本の魂は細部に宿る
著者:柴田 光滋
ISBN:9784106103711
出版社:新潮社 (2010/06/20 出版)新潮新書
版型:206p / 18cm
販売価:735円(税込)

2010年08月03日

吉村昭著『白い道』

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 先日隅田川花火大会をテレビで見た。実は我が家は昨年地デジ対策を施し、それに伴いテレビもデジタルハイビジョンに替えたので、この花火大会の映像が今までのアナログテレビよりきれいに見えるんじゃないかなと期待していたのである。確かにきれいななんだろうなと思えたが、期待したほどではなかった。やっぱりテレビの画面サイズがものういうようで、この程度じゃ期待するほど感動は得られないようである。ただ音の方が鮮明であったような気がする。花火が打ち上がる音がはっきり聞こえたし、花火が開いた時の音も結構臨場感があった。要するに花火は実際に見た方がいいようだ。
 その隅田川である。テレビでは花火の美しさと、川面に映る花火も捨てがいたことを言っていた。確かに川で打ち上がる花火は風情があっていいなと思ったが、一方この川では悲惨な光景もあったんだなと、ちょうどこの本を読んでいたので思った。

 「三月十日の夜間空襲で下町一帯が焼きはらわれた後、隅田川には窒息死して流れ出た多くの死体が見られた。私は、尾竹橋の上を自転車で渡る時、半ば習慣のように川面を見下した。数人の通行人が欄干にもたれているのが常で、露出したわずかな洲を中心に多くの死体が橋下に寄り集まっているのをながめていた。
 見慣れた死体もあって、私は死体の中からそれを眼で探し出す。それは、日がたつにつれて黒ずみ、汚れていった。通行人はしばらくすると無言で欄干をはなれ、私も自転車のサドルにまたがる。妙に静かな時間であり、静かな情景であった。それは決して特異な情景ではなく、私の視覚に物憂くふくれるだけのものにすぎなかった」

 「昭和二十年月十日の夜、東京の下町一帯が夜間空襲で焼けました。それからまもなく、隅田川の橋の上を自転車で通るたびに、尾竹橋の欄干から川面を見下ろすのが私の習慣となりました。私だけでなく、五、六人の人が同様に川面を見ています。下には水死体が浮かんでいます。空襲で下町の人が火に追われ、熱いので川に入る。燃焼のため酸欠になって失神して水死した。川に浮かんでいるのはこうして死んだ人なのです。
 酸欠のために死んだので、焼けておらずきれいです。このような水死体は付着力があるのか三十から四十体がくっついて、あたかも筏のようになっています。手提金庫を背負った中年の男とか、若い女の人とか、若い女はなぜかうつぶせになっている。子供をおぶった婦人などが、みなおしりを上にして浮いている。私だけでなく橋の上を通る人はみんなそれを見ています。
 しかし、その死体の群は川の一つの風物のようにしか感じられない。気の毒だとか、無残だとかいう感情は一切ないのです。無感動というか、無感情に風物の一つとして見ていたのです。これは私だけではなく、川を見おろしている人がすべてそうでした。そしてその風景を見あきると離れていきました。こうした光景に対して何の感慨もない。戦争の時代というのは、死に対して無感覚になっていたと思います。いろいろな死体を見ましたからそうなっていたと思います」

 似たような光景を読んだことがあった。それは戦争ではなく、関東大震災の時の話である。田山花袋の『東京震災記』にも川面をうめた死体のおびただしい数が記述されていたはずだ。この川は下町の風情には欠かすことの出来ないものであろうが、一方で震災や戦災において、多くの死体を浮かべた川でもあったんだと思ったのである。

 吉村昭さんの死後、数冊の単行本未収録のエッセイが各社から出版され、ある程度時間がたったので、もうこれ以上こんな本は出ないだろうと思っていたら、本屋の新刊棚でこの本を見つけてしまった。ファンとしては読まないわけにはいかないので手にする。
 この本では吉村さんが書く素材をノンフィクションから戦史小説へと変え、そして歴史小説に変えていった理由が書かれている。吉村さんは小説家としてデビューしていわゆる私小説や虚構小説を書いていた。そして戦史小説を書くに至った理由が、自身が体験した戦争の姿を見つめ直すことにもなったからだという。吉村さん自身は実際戦争に行った経験はない。ただ戦争の被害者としての体験はある。たとえばこの隅田川の光景もそうである。
 吉村さんは戦争は罪悪とは思っていなかったし、何となく雄々しいもの、華々しいものと感じていたと書いている。ある程度高揚感の中で、戦争を身近に感じていたようだ。だから終戦を聞いた時、異質なものを感じた。もともと「戦争が終わるということは勝つことだと思いこんでいましたから、戦局が悪化してくると終戦はずっと先になるなと思っていました。日本がまた盛り返して勝つまでには相当な時間がかかる、そういう重苦しい感じを持っていたんです。当時、私は戦争が罪悪だと思ってなかったから、平和が訪れたということの意味も本当ににはわからなかったのです」と書いている。
 要するに戦局は厳しいけれど、戦争には日本が勝つと思いこんでいた。いやおそらくそう思いこまされていたというべきなんだろう。そうでなければならないと思っていたのだ。もともとこの戦争は軍部の暴走がそうさせたところがあるにせよ、それを暗黙のうちに支持した国民の感情があったことが問題なのだ。
 ところが終戦を境に新聞などの論調ががらりと変わる。それまでは戦意高揚を煽っていた新聞が戦争を批判し始めるのである。吉村さんはそれに戸惑いを感じたという。だろうな。だって吉村さんはそれまで戦争を罪悪だと感じていなかったのだから。しかし吉村さんはそうした戸惑いから、戦争の起こったわけを次のように考えるようになる。

 「私は呆然としていたわけです。戦争は罪悪とは思っていなかった。たしかに雄々しいもの、華々しいものと感じていました。それが急に罪悪だということになった。たしかに私自身も戦争は罪悪だということがわかりはじめた。そんな無惨なことはないなと思いはじめました。ところが文化人の中には、あの戦争は軍部がやったんだ、私は批判していた、と言う人がいる。
 しかし、こんな小さな島国で、あれだけの大戦争いくらなんでも軍部だけでやれるわけがない。軍部だけでなく日本人自身が戦争をやっていた。それをまずはっきりしておかないと戦争の実態はつかめないのではないか。戦争中、もっともこわい存在は、われわれの近所の人、隣組の組長とかいった人です」

 吉村さんは戦争が終わればそれを批判するのはただの保身のためだと言い切り、人間は時勢が変わったからといって、そんなに考え方が変わるわけがない。そのところに反省ということがあってしかるべきと思いはじめる。吉村さんは十八歳まで見た戦争というもの、日本人というものを書いてみようと思ったと書いている。それが戦史小説への転換意識となったと書いている。
 そしていくつか戦史小説を書く。その際軍部などに残された資料を中心にするのではなく、関係者の体験を直に聞き、物語を肉付けしていく方法をとる。
 そうして戦史小説を書きつづけるが、話を聞きたい人の数が減っていく。体験者、経験者、証言者、技術者の話が聞けなければ、吉村さんの小説手法は段々手詰まりになって行く。これが吉村さんの戦史小説を書かなくなった理由であった。
 そして歴史小説を書くようになる。吉村さんは歴史小説と称する以上、史実を物語の展開のために改竄してはならないと考えている。さらに歴史資料以上にもっともっと細かい様子、たとえば天気や風景など、詳しく現地へ行って資料を探し出し、それを元に小説をよりリアルに描こうとする。つまり書くものは変わったけれど、戦史小説でも歴史小説でも、事実を動かさず調べることの方法や材料は、生きている人からの証言から、文献や現地調査と変わっただけであり、ともに同じやり方だと言っているのである。
 私は吉村さんの戦史小説はほとんど読んでいない。個人的に吉村さん歴史小説が好きである。それは公にされている歴史資料に加えて、吉村さん自身がこだわる細部にあるものが、よりリアルに当時の状況や人物像を身近に感じさせてくれるからである。そしてそう感じさせてくれるのは戦史小説を書かれていた時の手法がそのまま生かされているからだと知るのである。

 最後に吉村さんが戦争が終わったんだな、と実感したことが印象的だったのでそれを書いておく。

 「3月十日の東京大空襲で、下町一帯に焼夷弾がばらまかれ、一キロほどしか離れていない三ノ輪あたりまで焼けました。(略)私はすぐ近くの谷中の墓地に非難して、町が轟々と焼けているのを見おろしていましたが、非難してから十分もすると火傷で火ぶくれした人が続々と墓地に逃げてきたりしました。
 あの頃は灯火管制で、ふだん明るい光に飢えていたから、それだけに空襲の夜の炎の色は華麗に思われました。あれほどの大燃焼は他に知りません。町そのものが燃え上がって、炎が逆巻いているんです。それに軽金属からでも発するものか、緑色や紫色の光なども入りまじる。空は朱に染まって、空の全面から赤い光が全反射していますから、影というものが全然なくて、墓石でも小石でも、物すべてが赤く浮き上がって見えるんです。ちょうど桜が満開で、それがまた、真っ赤に染まって不思議な光景でしたね。

(略)

戦争が終って間もなく、谷中の墓地近くの坂から町を見下ろした夜の印象は強く残っています。町の一角がわずかに焼け残っていて、そこから灯がともっている。灯火管制で闇に慣れていた目には、電灯のまたたきがとても賑わいだものにみえ、ああ電気をつけてもいいんだなと思った。そときに、戦争が終わったんだ、平和がきたんだという実感が湧きました」

 情報として知らされ、それを頭で理解しても、なかなか身体の中でうまく受けいれられないことがある。ところが些細なことを感じることで、それを実感することがある。これはその一例のようだ。そして読む側も「そうだろうなあ」と実感できるのである。


評価
★★★


書誌
書名:白い道
著者:吉村 昭
ISBN:9784000234771
出版社:岩波書店 (2010/07 出版)
版型:208p / 20cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2010年07月11日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第4巻〉

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 著者がこの本を書きおえて二年目の一九九五年、阪神地方を襲った大地震がそれにつづく暗い時代のいやな予兆ででもあったかのように、日本人は、じぶんたちの国が、世界のなかで確実に精神の後進国であることを真剣に考えずにいられなくなった。いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答えは、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答えをみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
 人が生きるのは、答えをみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。

 この文章はある本に関して須賀さんが感じたことを書かれた文章である。こういう書評を書かれると、さすがだなと思ってしまうし、しっかりと読まれていることを感じてしまう。またこうしたすばらしい文章で書かれていれば、本を書いた方も、書いた甲斐があるように思える。
 今回の巻は1991年から1997年に発表された書評がほとんどである。そしてそのほとんどが私の知らない作家さん本であり、まさしく世の中にはまだまだ知らない人が多くの本を書かれており、様々な内容の本が書かれているんだな、と思わせる。私がここに紹介された本を書いた人をほとんど知らない、ということは、まさしく本の世界はとりとめもなく奥深いものなんだと思わせる。
 ここにあるたくさんの本を、ここまで自分のものとし、意見が言えるのがうらやましくも思えるのである。そこには須賀さんの人生経験や読書経験から縦横無尽に語られ、そこに須賀さんが持っていられる知識がいいスパイスを添えているのが、内容はわからなくても、感覚的に感じることができる。最初にあげた文章と似たような文章があるが、それも書き出してみる。

 明治維新このかた百三十年ちかくを、私たちは、なにかにつけて不本意に生きてきた。日常生活の面でも、思想や哲学の分野でも、西洋と東洋の谷間に墜落したまま、あっちでもない、こっちでもないと道に迷いながら、息をきらせ、青い顔をして歩いてきたように思える。

 たぶん須賀さんは若い頃から西洋文化に憧れ、それを吸収し、イタリアへ渡り、そこで反体制派の仲間と一緒になり、その一人の男性と結婚し、夫となったその男性と死別し、日本に帰って来たところで、自分の半生を振り返えるが故に、そう感じられるのだろう。大勢に流され、自分を見失い、気がついたらヘトヘトに疲れている顔が自分のまわりであちこち見受けられるところに、何か感じるものが出てきてしまうのだろう。

 大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかっていなかった、と私があきれると、しげちゃんはふと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてきた。

 個人的なことを言えば、ここのところ妙に自分の人生に疲れを感じているものだから、こういう文章に触れると、ほんとそうだよな、と思うのだ。結局何だったのだ、と手元にほとんど何も残っておらず、むなしさのみを感じる日々が続くものだから、妙にこれらの文章は身にこたえる。

 もともと須賀さんの文章は“硬質”なので、女性の繊細さの中に、男性的な言い回しが、おや?と思わせるところがあって、私はそれが好きで須賀さんの本を読んでいる。ほとんど内容を理解できなくても、中にちょっと立ち止まってしまう言葉があるものだから、それが気にっている。たとえば須賀さんが小学生の頃買ってもらっていた雑誌について書かれた文章は、妙に今となると納得してしまう。

 このように「小学○年生」は毎月、なんの苦労もしないで手に入ったのだが、私も妹も、「おまけ」のやたらついてくるその雑誌がとりわけ好きだったわけじゃない。その雑誌には、どこか、教壇で間のぬけた冗談を口にしてとくいになる先生につきあっているみたいなところ、勉強すきにならせようとする「陰謀」もたいなものが底にひそませてあるのを、私たちは嗅ぎつけて、こころのどこかで軽蔑していた。

 また本のカバーについて書かれた文章は深くうなずいちゃう。

 表紙(正式には、表紙カヴァーと言うのだろうが)は、私にとって本の大切な一部だ。カヴァーで記憶していた書物が、図書館の棚では無残にそれをはぎとられて並んでいるのに出会うと、管理や効率ということのいやな暴力を感じてしまう。反対に、文庫本やペーパーバック版で、きにいったあたらしい表紙に代わっているのを店頭で見つけると、たとえ旧知の作品ですでに所有しているものでも、ふらふらと買ってしまうことがある。

 そうなんだよとホンと思う。本の内容だけでなくその装丁にも深くこだわれるほどの人だと、私はうれしくて仕方がない。自分も須賀さんと同じことをしているものだから、同じ内容の本を二冊も買うのは自分だけじゃなかったんだと、ちょっと安心もしたし、それ以上に須賀敦子という人が好きになれる。
 何度も書くように、私は須賀さんが書かれる文章の内容はほとんど理解できていないと思う。けれどその根底に流れるやさしやが好きだし、人として本当の姿はどういうものかをさりげなく知らせてくれる文章が好きなので、続けては読めないけれど間隔をおいて触れておきたいなと思っている。というのも自分の心がささくれたったままだと、どうにもやりきれないので、時には「そうそう」と言ってくれる文章に触れておきたいのだ。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第4巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420547
出版社:河出書房新社 (2007/01/20 出版)河出文庫
版型:612p / 15cm / A6判
販売価:1,050円(税込)

2010年06月29日

森まゆみ著『貧楽暮らし』

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 森さんの『暮らし』シリーズは全部読み終えたと思ったら、新刊が出た。それがこれである。今回は前回よりかなり時間がたっており、森さんがほぼ子育てを終え、自分の仕事のスタイルも形になってきた、最近の姿が描かれている。そしてその分歳もとっているわけで、その点人生の落ち着きがここでは感じられた。
 普通こうなってくると説教がましいところ出てきたり、どこか自分の生き方を押しつけるような部分が出てくるのだが、森さんのこのエッセイにはそうしたお節介なところがなくて、よかったなと思っている。
 これはどうしてなんだろうかと思った。結局今までの森さんのエッセイを通して読んでいると、そこには自分たち親子が町のみんなに助けられて生きて来たからだと身をもって感じているからではないだろうか。だからそこには“自分だけが”というものがない。
 普通どうしたって歳をとれば、お説教がましいことの一言など言いたくもなるし、書きたくもなる。実際私だってそれを感じるときがある。その時自分でも“嫌だな”と感じる。偉そうなことを言ってみても、その背後にあるものが薄っぺらいものを自分でもわかっているから、化けの皮がすぐ剥がれる。その時はみっともないこときわまりない。だから極力そういう態度をとることは避けたいと思っている。そして平気でそういうことが言える人間を腹の中で蔑んでいる。そういう人を見るといつも「あんたそんな偉そうなこと言えるの?」と思ってしまうのだ。恥を忍んで言うという言葉もあるけれど、わざわざ恥を忍んで言う必要もないだろう。そこまで言うのは、その人の気持ちの中で“言いたい”という気持があるからだと思っている。私は自分の人生の体験や経験を、人生訓のように平気で言える人がどうしても好きになれない。
 私の性格が歪んでいるからそう思うのかもしれないが、むしろ進んで偉そうなことを言う人より、さらりと経験したことを書いて終わらせる姿の方が、私は好きであり、森さんの今回のエッセイはそういう姿勢が貫かれているので、読んでいて楽しかったし、素直にそうだよなと思えるたのである。
 たとえば『「恥ずかしい」という感覚』というエッセイでは、修学旅行のとき感じたことが書かれている。森さんのいた高校は恵まれた家の子女がほとんどで、勉強もでき、才気煥発であった。だからおしきせの修学旅行を半ば馬鹿にして、バスガイドの説明など聞かず、好き勝手におしゃべりに夢中になっていたという。
 そしてバスを降りる頃が近づくとバスガイドが挨拶した。

 「皆様、この楽しい旅も終わりに近付いてまいりました。つたないガイドでご迷惑をかけましたが、私は同じ年の方たちをご案内できて大変うれしく思っております」

 この挨拶を聞いた森さんたちはしんとなったという。みんながバスで子供っぽく騒いでいる間、自分たちと同じ年齢のバスガイドは、高校にも行かず就職し、ちゃんと社会人をやって、自分の仕事を全うしていたのである。その時森さんたちは、自分たちは恵まれた環境に甘えているだけで、同じ年齢の同性が一生懸命仕事をしているのに、話を聞かずに騒いでいた。それを思ったとき「恥」を感じたというのである。
 そしてさらりと、自分に対して恥を感じるという感覚は人間を育てると思う、と書き加えるのである。もうこれだけで、「そうだよな」と思ってしまう。
 あるいは歳をとったり、病気になったりしたことを寂しく思ったり、悲観したりするのではなく、それらが身にこたえるようになって「“ひよわさ”を獲得することになって、むしろ敏感になったのかもしれない」と書く。
 これを読んだとき、「あっ、そうか!」と思ったのである。私もそうだけれど、自分が歳をとって、若くないことを嫌が上でも自覚するようになると、一抹の寂しさを感じるのではないだろうか。ある意味逆にその反動で、歳をとった分説教がましくなるのかもしれないが、そうではなく、“ひよわさ”を感じることで、自分はいろいろな部分で、物事に敏感になれるようになり、深く感じられるようになっているんだと思うべきなのではないか、と思ったのである。そしてそれは確かにそう言えそうである。
 そう思ったとき、これはこれでいいんだなと思えるようになったのである。これはちょっとした“目から鱗”であった。歳をとったことや病気になったことを、悲観するものでもないし、だからといって無理に虚勢を張って若者ぶるのも、結構疲れるので、あるがままに物事を考えていけばいいんだなと思わされた。


評価
★★★


書誌
書名:貧楽暮らし
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087465860
出版社:集英社 (2010/06/30 出版)集英社文庫
版型:223p / 15cm / A6判
販売価:450円(税込)

2010年06月21日

司馬遼太郎著『歳月』

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 私の知っている江藤新平という人物は西郷隆盛の征韓論を支持したが、最後は大久保利通らに破れた。江藤は西郷とともに中央から去り、佐賀に帰り新政府に不満な士族等に担ぎ上げられ、佐賀の乱を起こす。その発想はまずは自分たちが立ち上がれば、薩摩や土佐も立ち上がり、第二維新を起こせるというものであった。それはあくまでも他人の行動をいいように解釈し、期待したものであって、もし西郷や後藤らが一緒に立ち上がらなければ、単に佐賀での乱にしか過ぎなくなる危ういものであり、実際そうなった。江藤は佐賀で新政府軍に破れ、同士を見棄てて、鹿児島に入り、西郷にその説を説くが、西郷に一喝され、その後土佐に渡り、一緒に再起しようと説いても、見棄てられ、最後は大久保らに捕まる。
 大久保にとって江藤の蜂起は新政府にとってこれからを考えれば許し難いものであった。断固とした処理をしなければ、以後政権の存続に関わってくる。そのため大久保は全権を持って、参議であった江藤に梟首(さらし首)を申しつける。江藤も死罪は免れないだろうと腹をくくっていたが、まさか元参議の自分がさらし首になるとは考えていなかった。それだけ大久保は江藤の行動を許せなかった。しかもそのさらし首の写真さえ撮っていて、それは今でも残っている。

 江藤は佐賀藩出身である。その佐賀藩であるが、「葉隠」に代表される保守的な風土の藩であった。そんな中、幕末藩主鍋島閑叟は藩の洋式化を図り、幕府から長崎の警備を命じられていたことを利用し、藩軍を洋式体制し、そればかりではなく製鉄所や工作工場などを作って、小型軍艦でさえ国産で建造できる域まで達せさせた。その軍事的実力は長州の桂などに、「佐賀を抱き入れれば天下の事は成る」と言わせたものであった。しかし鍋島閑叟は藩内事情を極秘にした。藩士が他藩と交わることを禁じた。佐賀の“二重鎖国”といわれるのこれであった。時勢が騒然としていても、その体制を維持した。
 しかし鳥羽伏見の戦いで薩長側が勝利に終わって以降は、佐賀藩は新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。
 明治維新は薩長土肥の志士でなった。この順番が大きい。この順番は維新が成るに当たって、その犠牲者の多い順を意味し、順番が後になればなるほど、維新の功労が少ないことを意味した。薩長の多くの犠牲の後、のこのこと土肥が出てきたと思われていた。要するに佐賀は“出遅れ”てしまったのであった。維新政府の要人は薩長に独占された形になった。これが江藤新平には堪えられなかった。江藤の性格から許せなかった。「佐賀勢力は時制に数歩遅れたために薩人の後塵を拝し、薩人がひらいた切通し道の地ならしをするしか働く場所がなさそうであった」。だから江藤は「いつかは」と思うのである。
 江藤新平の経歴を司馬さんは次のように総括する。

 信じられないほどのことであるが、江藤の人生の異様さは維新になってはじめてひろい世間に出てきたことである。それまでは家のなかで莨の葉をきざんだり、火薬づくりの内職をしたりしているか、それとも藩命によって蟄居させられているか、どちらかであった。二十六七のころ一時藩の小役人の職にありついたことがあったが、ほどなく京へ脱走し、帰藩し、蟄居ぐらしに入った。世間を知らないのにひとしい。維新が成立し、かぞえで三十五になってからにわかに人臭い世の中のおどり出、わずか五年目に司法卿になった。稀代のことであろう。
 この時代、太政官の大官の座についた者はほとんどは幕末の志士あがりであったが、それですら江藤新平のような例はない。かれらはそれぞれ藩の中でしかるべき職務歴を経験しており、人の世の錯綜のなかで人のむずかしさを体験してきたが、江藤はそうではなかった。

 しかも江藤の志士活動は、脱走し京都に滞在わずかな日数でしかなかった。ざっとひと月であった。これだけの日数が、のちの参議江藤新平の生涯における唯一の志士活動であったのだ。
 同じ佐賀藩出身の大隈重信は江藤の性格を次のように評した。

 「江藤には非常の才略がある。とくに非常の雄弁をもち、非常の討論家であった」

 「しかし江藤は群集心理というもののを知らなかった。ひょっとすると物事の筋の正しさを追うあまり、人間というものの何たるかを見忘れるところがあったかもしれない」

 江藤はあまりにも自分に自信を持ちすぎていて、自らの無用の論争癖、衒学癖から、買わなくてもいい恨みを買うことが多かった。 江藤は後から来た。しかし権力を欲した。ただそれを必ずつかんでみせると思いは権力の全てを求めたわけじゃない。一部でいいと考える。「その一部というのは、法律であった。この場合、法制というべきか。いまからできあがる新国家の制度と法律をこに江藤新平の一手でつくりあげたい、とこの男ははげしくおもっている」そして司法卿となった。
 そこに征韓論が起こる。これは江藤にとってみれば、薩長分裂させ、彼の持論である薩長両閥を打倒して彼のいう第二維新をまねきよせることができると考えるようになる。「江藤の心象のなかでの征韓論はすでに敵は朝鮮ではなく、その本音である藩閥退治のほうにいよいよかたむきつつ」あったのであった。これが江藤新平が征韓論を支持した理由であった。
 歴史は征韓論を唱えた参議が下野させる。特に西郷隆盛の鹿児島帰還は、その人望、軍を掌握している力は新政府のとって大きな不安となる。江藤はそれを利用しようとする。しかも維新では佐賀は乗り遅れたが、今度は佐賀が率先して、第二維新を起こそうと考えるようになる。
 一方残った大久保利通は江藤という男が「自分と酷似した体質であるために大久保はその胚のうちを腑分け図を見るように見ることができた」。つまり江藤は「日本を危険きわまりない賭けに投ずることによって、薩長政権をつきくずそうとしている」と見抜いていた。「この男だけは、奸人である」と考えていた。大久保にとって江藤は征韓論から日本を追いこむことによって自らの政権を崩壊させ、そのあとの果実を得ようとしているとしか思えなかったのである。だから大久保は江藤を憎悪という感情ぬきにしては見られなくなっていたのであった。
 大久保の江藤に対する憎悪は江藤が捕らえられ、その刑の重さ、梟首(さらし首)という刑の言い渡しに表れている。ここで断固とした姿勢を示さなければ、新政府は崩壊するのであった。そういう意味で江藤の蜂起は、新政府にとって自らの政権強化にはもってこいであっただろうし、いいように利用した。江藤より大久保の方が何枚も上であった。
 
 こうして江藤新平の生涯を知ってみると、確かに薩摩や長州の後塵を拝したとはいえ、わずか数年で新政府軍の参議まで上りつめたのだから“きれ者”であったろう。しかしその野望はあまりにも自分勝手であり、大隈重信が言うように、「人間というものの何たるかを見忘れるところがあった」ように思える。はっきり言って江藤は無謀であった。深く物事を考えるタイプではなく、ただ自分に酔いしれるだけであったのではないかと思うようになった。
 私はこの本を読み終える頃になって、どうして司馬さんが江藤新平を描いたのだろうと疑問に思うようになった。私には江藤新平という人物は司馬さんが好む漢(おとこ)にはどうしても思えなかったのである。だから読んでいて不思議になって仕方がなかった。


評価
★★★


書誌
書名:歳月
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784061310391
出版社:講談社 (1983/03 出版)講談社文庫
版型:729p / 15cm / 文庫判
販売価:979円(税込)

2010年06月15日

紀田順一郎著『私の神保町』

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 この本は一度読んだことがあり、それを処分してしまった。まぁ処分してしまったのだから、大した本じゃなかったのかもしれないが、なんか気になっていた。それでたまたま神田の古本屋さんで安く手に入れたので、再度読んでみた。

 私が初めて神保町に行ったのは多分高校一年の頃じゃないかと思う。まだ三省堂が古めかしい建物であったはずで、中も薄暗く、棚も木の棚だったような気がする。本につけてくれるブックカバーがいくつかの大学の校章が印刷されたものであったはずだ。こづかいの千円も出せば、文庫本が4冊ほど買えた時代だった。三省堂が改築されたのが、この本によると、昭和56年だという。それまでの建物は消防署から要注意の建物とされていたらしい。詳しいことはわからないが、もしかしたら消防法に引っかかるほど、火災にあうと危ない建物になっていたんだろう。
 とにかく月一回こづかいをもらう度にここに来れるという楽しみがあって、それから何度もこの町に足を運んだ。大書店で本が買えることがうれしかった。ただその頃は古本ではなかった。
 私が古本に目ざめたのは大学時代になってからで、欲しい本がもう新刊書店に手に入らなくなってから、古本を探し始めたことによる。以来大学も近所にあったこともあり、一時は働いていた店も大手町であったことから、仕入の帰りや、昼休み、あるいは帰りにここに寄って、目的の本を探していた。

 神保町という名前の由来は、江戸時代この地域に屋敷を構えていた神保伯耆守(九百石)に因む。麹町や神田一帯に住んでいた旗本は幕府から厩舎や道場用の土地まで与えられ、極めて裕福だった。特に神保氏は恵まれていたらしい。明治になってから、この地域は大規模な市区改正が施され、表神保町、裏神保町の二つの町が誕生した。最初の古書店(高山書店)が誕生したのは三年後で、創業者は有馬藩の弓師だった。ついで有史閣(のちの有斐閣)、三省堂などが開店した。それは以前『東西書肆街考』で書いた通りだ。
 昭和になって空襲を免れた噂がここに詳しく書かれているので紹介したい。セルゲイ・エリセーエフ(1889~1975)のロシア生まれの日本研究家がマッカーサーに「爆撃回避」の進言を行ったため、この地域は空襲を免れたというのだ。
 セルゲイ・エリセーエフは1908年(明治41年)から6年間、東京帝国大学国文科で学び、夏目漱石や小宮豊隆と親交を結び、後年ハーバード大学で日本語のほか日本の歴史と文学を講じ、E・ライシャワーほか知日派のアメリカ人を多数養成した。神保町にも頻繁に通ったことで知られるそうだ。
 もちろんこれは噂であって、紀田さんも、あの空襲の際神保町だけピンポイントで爆撃を回避出来るかという疑問を呈している。だからこれは伝説扱いとなっていると書いている。

 さてこの本を読んでいて面白いと思ったのは古本の陳腐化である。古本屋の在庫が陳腐になるのは、結局新刊の陳腐化に左右されるというのだ。確かに言われてみればそうだよなと思う。新刊全般が内容が陳腐になれば、それが古本となっても古本として付加価値がない。つまらない作家の本が大量に出版されれば、たとえそれが古本屋さんに回っても、それはいつまでもつまらない本であって、店の棚に並ぶより、均一ワゴンに並ぶしかないだろう。年間二万数千点、冊数にして十億四千万冊という本の洪水である。本が消耗品化しても当然である。勢い雑本ばかりになり、店内にはアダルトものや、サブカルチャーものばかりになっていく。実際そうした本や雑誌専門店が最近神保町で多くなってきている。正統派の古本屋の在庫として置ける本がないのだろう、と思う。
 
 話はちょっと違うのだけれど、私の住む近くに三軒ほどブックオフがある。最近気がついたのだけれど、これらの店では単行本のコーナーが縮小されている。一方コミックや雑誌、あるいはDVDやCDコーナーが広がりつつあるのだ。これはどういうことなんだろうか。多分単行本がここに回ってこない。回ってきても同じ本ばかりだから、わざわざ広い場所を確保するより、回転の速いコミックや雑誌、あるいはDVDやCDなどのコーナーを広げた方が効率がいい。
 つまり新刊書籍が売れていない。あってもどうでもいい本ばかりだから、棚構成が出来ないのではないかと思っている。出版不況がついにここにも及んできたのではないかと思っている。これと同様に神田の古本屋さんにおいても、古本として付加価値のある本が出てこない。いくら出版される冊数や点数が多くても、それがゴミと同様な価値しかないものばかりだと、古本屋さんも大変だろうなと思う。そして古本的価値のある本はそれが出回った頃、図書館などに納まる所に納まちゃったから、そこから先の本の移動が望めない。ブックオフでさえ、単行本の棚の縮小が行われているのである。だったら正統派の古本屋さんの仕入の大変さはある程度予想が出来る。

 これから書くことは勝手に思っていることで、根拠はない。ただそんな予感がするという話である。こうも出版不況が続くと、新刊が売れない。ということはそれが古本に回ることが少なくなる。そして本の出版点数がそれほど変わらなくても、雑本や消耗品的要素の強い本ばかり出版されていれば、古本の質が落ちる一方であろう。
 本自体の価値が短期的に陳腐化する。古書らしい古書が払底して、白っぽい本ばかりになってしまう。となればこの手のリサイクルショップはますます厳しくなるのではないかと思うのである。
 iPadが話題を呼ぶが、だからといってそうそう日本の出版物がコンテンツとして普及しないだろうとは思っているが、ただ一端堰が切れたら、どーっと進んでしまう可能性がある。そうなったとき、本というメディアはなくなりはしないだろうけど、その影響は古本業界を含め、間違いなく日本の出版業界を大きく変えることになるだろう。
 iPadというメディアはかなり興味はあるけれど、一方で本というメディアを愛してやまないだけに、それが少数派になっていく可能性があることを想像すると、一抹の寂しさを感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:私の神保町
著者:紀田 順一郎
ISBN:9784794966261
出版社:晶文社 (2004/10/10 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年06月03日

脇村義太郎著『東西書肆街考』

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 この本は書名にもあるように、日本の東西の書肆街の歴史について書かれた本である。西は京都であり、東は神田である。従ってこの本は最初に「京都書肆街考」があり、その後「神田書肆街百年」と続いている。個人的に京都の方には興味がわかないので、ここでは「神田書肆街百年」について書かれたところから、細々書き込んでいきたい。今回は感想より、この本から知り得たことを咀嚼して書き残したいのである。

1.江戸時代全体を通じて狭義の神田の特徴
初期はいくらか寺院はあったが、徳川中期以降、寺院は神田から他に移され一寺も残らなくなった。従って墓地もなかった。更に町屋もなかったので、書籍の出版・販売を取り扱う本屋も一軒も見られなかった。何故なら神田は侍屋敷、少数の譜代大名、旗本屋敷の用地で占められて商業用地ではなかったからである。
 江戸では、書籍出版や販売業は京橋から日本橋、さらに伝馬町方面にかけて集まっていた。

2.明治になって、江戸の大部分を占めていた大名屋敷、侍屋敷の多くは新政府の手に移された。それを新政府は京都から移ってきた公卿や薩長土肥の有力者の住居として提供した。
 しかし神田のうち、錦町、神保町、猿楽町あたりは居住地として利用されず、空き家、空き地がかなり残っていた。こうした空き地、空き家を利用して、学校又は塾を新設しようという動きが現れてきた。
 神田においてはじめ本屋は淡路町、小川町に出現したが、学校が出来てくると、明治10年頃から学校街に続き表神保町の通りに教科書、参考書、新古本売買を目的とした本屋がぼつぼつと出てきて、中心がこちらに移る。

3.神田書肆街の草分け
 江草斧太郎が一ツ橋通りに開いた古本屋、有史閣がある。後に有斐閣と改める。

4.明治10年代の小川町、神保町
 当時の社会情勢は、条約改正、国会開設、憲法発布など、法整備が急がれ、私立の法律学校がまだ空き地が残るこの地域に作られた。本屋は中西屋、東洋館、三省堂、冨山房が現れる。

 中西屋は丸善の創立者早矢仕有的が開いた店である。ここが学生が多く集まるので、丸善で売れ残った本や汚損本、古本を売れば当たると考え中西屋を開いた。何故丸善でなく中西屋なのかというと、古本を売るため、丸善の名前を出せなかったからだという。
 更に早矢仕は中西屋の隣りに文房具店を開き、これを親戚にやらせた。これが今でもすずらん通りある文房具・洋画材料商文房堂の発祥である。

 東洋館は小野梓が開いた。小野は大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者である。
 小野の死後東洋館の事業継続が不可能になり、清算が始まった。が、なくすのは惜しいということで、東洋館の仕事を手伝っていた坂本嘉治馬がそれを引き継ぎ、新たに出版業を始めた。これが冨山房で、明治19年のことである。ちなみに小野の元に集まった一人に天野為之は明治30年代に東洋経済新報社の社長となっている。
 明治10年代に神田に出現した本屋を見ると、元士族であった人々の創業者が目立つ。たとえば有斐閣の創始者江草は忍藩の下級武士であったし、三省堂の創業者亀井忠一は旗本であったし、東洋館小野は土佐宿毛の士族出身であった。
 
 閑話休題
 この後出てくる東京堂にしてもそうなのだけれど、中西屋、東洋館、三省堂、冨山房のある場所は、今の多くの古本屋がある靖国通り沿いではない。この本の地図を見てみると、これらの店は今のすずらん通りある。ということはこの当時神田書肆街のメイン通りはここになるようである。いろいろ調べてみてそう思ったのだが、ネットで「“古書店街の生き字引”八木福次郎さんに訊く」(http://go-jimbou.info/hon/special/071020_01.html)を見て、どうやらそれで間違いがないと確信した。そこには「すずらん通りがメインストリートだった」と書いてあるのである。今では靖国通りの裏通りみたいになっているけれど、当時はこの通りが本屋さんが並んでいたことになる。そして市電の開通による靖国通りの道路拡張や大正2年の神田大火などで町が大きく変貌し、お店が移ってきたことで今の古書店街の原型ができ上がったらしい。
 私は東京堂や冨山房(今はお店がなくなって、ドラッグストアになっている)という大書店がどうしてこんな裏通りにあるのか不思議に思っていたが、そういうことだったのである。昔はこの通りがメイン通りだったから、そのまますずらん通りにお店が残っていたのである。

5.明治20年代に出版・販売に大変革をもたらせた重要人物大橋佐平の存在が重要。
 大橋佐平は越後(新潟県)長岡の生まれで、博文館の創業者である。この博文館は富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊する。なかでも明治28年創刊の雑誌『太陽』は、政治・経済・文芸から家庭までさまざまな記事を網羅した総合雑誌として明治後半期の興隆期資本主義の精神を象徴している。博文館は取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、日本最大の出版社として隆盛を誇った。特に新しく発展しつつある神田の書肆街に注目し、明治24年に取次部門として東京堂を発足させたことは重要である。
 要するに、明治時代の博文館が、完全に東京の出版界、そして日本の出版界を独占し、その分身として東京堂が生まれた。東京堂は取次として出版物、特に雑誌の流通を押さえた。出版で成功した博文館はその収益で印刷所を持つ。この東京堂が今の東京堂書店およびトーハンの前身で、印刷所は後に共同印刷となるのである。
 ちなみに博文館の雑誌の成功は、この時代雑誌出版の勃興期を演出する。そん中、野間清治という東大法科大学の一事務員が大学弁論部の学生を擁して大日本雄弁会という名の出版社を起こす。これが今日の講談社である。

6.神保町には東京堂より前に取次屋として上田屋が開業していた。これは明治20年越後出身の長井庄吉が開いたものだが、昭和になり戦中、整備統合で日本出版配給(日配)として会社を提供することとなる。これが母体となって戦後取次業の独占体制の解体により日販が生まれるのである。
 ちなみにこの上田屋に明治25年頃から越後から出てきた若い小酒井五一郎が店員としていた。彼は明治40年独立し、英語研究社を始める。これが今辞書で有名な研究社となる。

7.東京のブックマン(出版社、取次店、新本・古本屋)に越後出身者が多いのには理由がある。特に東京堂の多くの従業員から取次店、小売店、古本屋の優秀な経営者を生んだ。彼らのほとんどが越後長岡やその周辺出身者であった。
 そんな中の一人、酒井宇吉は神保町に一誠堂を持つ。この一誠堂で働いて古本経営を学び、独立し、順次古本屋を開業していった。
 越後出身で出版社の経営者として、実業の日本の増田義一やダイヤモンド社の石山賢吉などがあげられる。それでは何故出版界には長岡を中心とする越後人が多いのか、その土壌を探ると次のようになる。
 幕末長岡藩は河井継之助が中心となって官軍と戦い、敗れた。いわば長岡は維新政府にとって“賊軍”となってしまった。そのため長岡は復興に苦しんだ。こうした立場に置かれた越後の人々は新政府の役人とならず、青雲の志に燃え、東京に出て多くの学界(ことに医学)、言論界、出版界などに自由の新天地を求めたからである。
 ちなみに、戊辰戦争で敗れた長岡藩は減知され、財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態となった。言ってみれば維新政府の“嫌がらせ”にあったのであった。この窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩は長岡藩に米百俵を贈った。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対して虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。
 これがあの小泉純一郎の所信表明演説で引用され、有名となった「米百俵の精神」である。

8.神田書肆街は明治25年、大正2年、大正12年(関東大震災)の3度大きな火災に見舞われ、その都度大きなダメージを受け、数多くの蔵書を焼失した。しかしその度毎に町並みを変化させ復興していき、現在の町並みに近い状態に変わっていく。
 大正2年の大火で焦土となった神田で、当時神田女学校の教員をしていた岩波茂雄が神保町の交差点に近い、空いてる店を借りて古本屋を開いた。これが岩波書店のスタートなる。

9.大正期の出版、書籍の取引業務の発展と神田との関係は重要であるが、特に栗田書店と誠文堂の創立がこの時期であった。明治期に東京堂のほか、五大取次があったが、その中の一つ平塚京華堂は破産整理中であった。栗田確也は岩波書店に飛び込み、岩波茂雄から資金を借り入れ、栗田書店を設立する。また小川菊松は明治45年に誠文堂を設立する。(後に新光社を吸収合併し、誠文堂新光社となる)この時期多くの小取次が生まれるが、激しい競争の上、生き残ったのはこの2社であった。

10.大正12年9月1日の関東大震災でも、同日夕刻まで神田書肆街はほとんど焼失することとなるが、古本屋は天幕やバラックで店を再開してたくましい立ち直りをみせる。その復興を手助けたのは、本を焼失した多くの個人が本を求めたことと、官庁や学校が震災で失った書物や資料を補填するため、巨額の予算が組まれ、それが神田書肆街に流れたからであった。

11.昭和になって、東京大空襲があったが、神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるし、神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、とにかく戦火を免れた。戦後神田書肆街は大きく変わる。

①平和が回復すると、空襲、疎開騒ぎで多くの人が書物を失い、文字に飢えた

②言論・出版の自由が回復された

③流通・販売は自由になる

 特に取次業の独占体制の解体の中で、戦中にあった日配から離れた鈴木真一は復員後仲間と取次業を始める。彼は栗田書店時代から岩波の営業部と親しくしていた関係で、岩波書店の書物を分けてもらい、主に社会科学関係の書籍を扱うようになる。これが鈴木書店であった。彼は戦後各大学に出来た生協に着目し、そこに本を納入していく。
 鈴木書店は今はもう倒産してなくなってしまったが、私は書店員時代よくここに岩波やみすず書店、未来社、白水社など硬い本を仕入れに行ったものである。個人的に好きな分野の本がたくさんあって、ここに仕入れに行くのは楽しみであった。鈴木書店が倒産して大学生協が本の仕入が出来なくなり一時困ったと聞いたことがあるが、どこか大手の問屋が引き継いだと聞いた。

 以上がこの本を読んで、“そうなんだ!”と知ったことである。そういう意味で、個人的興味も加わって、この本は面白かった。この本によると神田の書肆街には今は新本、古本を合わせて七百万ないし一千万冊の膨大な量の本がここに集まっているという。書籍の一大コンビナートとしてこの街の魅力はつきない。


評価
★★★


書誌
書名:東西書肆街考
著者:脇村 義太郎
ISBN:9784004200871
出版社:岩波書店 (2006/03 出版)岩波新書
版型:229p / 18cm / 新書判
販売価:819円(税込)

2010年06月01日

久坂部羊著『神の手』〈上〉〈下〉

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 古林章太郎は21歳で肛門がんの末期だった。章太郎は耐えがたい苦痛に苛まれながらも、死ぬに死ねなかった。ほぼ一カ月もその状態に苦しんでいた。付き添っていた伯母古林晶子は担当医師白川泰生に楽にさせてやって欲しいという願う。白川は苦悩の上、章太郎の安楽死に手を下したことから話は始まる。
 もちろん安楽死は今の日本では殺人である。だから当事者だけの秘密であったが、病院に白川が章太郎を安楽死させたという怪文書が届く。病院側も調査委委員会を設置し、結果として安楽死の事実を隠す報告書を出した。しかし章太郎の母親康代は息子が安楽死させられたと、白川を告発する。
 この康代という母親もくせ者で、エッセイシストとしてマスコミに名前の知られた存在であったが、息子の病気に関しては“吾関せず”で、すべて妹の晶子に任せっぱなしであった。章太郎が苦痛で苦しんで、もう安楽死させるしか楽にならない状態であったとき、白川の連絡にも応ぜず、いわば子育てを放棄した母親であった。その康代が章太郎を安楽死させたことを悩んでいた妹から息子が安楽死させられたことを知り、白川の行為を追求し始めたのである。
 刑事事件として告発され、白川の行為は調べられる。最終的に白川はその事実を認め、検察に送られるが、ここで白川は不起訴となる。外から圧力がかけられたのである。
 白川は不起訴となったが、古林康代のマスコミの批判にさらされた。康代は安楽死阻止派として活動していく。
 そんな中、新見偵一は今の日本の医療崩壊を招いたのは既存の勢力である全日本医師会だとして、別に日本医療協会(JAMA)を立ち上げる。JAMAは日本の医療崩壊を嘆き、今の制度や状況に不満をもつ医師たちの集団として、大物政治家を後ろ盾にして、日本の新しい医療秩序を実現、安楽死を適正な医療であると規定し、終末医療の現実的展開を一貫して追及、無駄な延命治療の中止、欺瞞性に依拠する独善的医療の淘汰など、「医療崩壊阻止の五提案」を掲げる。そして医療の崩壊の元凶は、医師、患者の自由という建前がそうさせたと考え、その自由を制限し、医師や医療の一元管理をする“医療庁”の立ち上げに奔走する。
 JAMAは自分たちの活動を広げるため、全日本医師会と康代たちの安楽死阻止派をあらゆる方策を駆使して、潰していく。JAMAは安楽死法制定のため、白川を安楽死のパイオニアとして仕立て、世論操作を始めていくこととなる。新見は「人の命を奪う安楽死は、聖なる神の営為です。すなわち、安楽死を執り行う医師は“神の手”を預託された存在なのです!」と言って、安楽死の容認活動に邁進していく。新見偵一らの活動の影にいたのが“センセイ”であった。
 そしてついに安楽死法が成立する。ただこの安楽死法の成立の背後には、医療を政治の道具に目論む政治家と、さらに安楽死をさせる薬を開発したベンチャー創薬のMRがいたのであった。新見たちの“センセイ”はそのMRであった。

 この本では安楽死しか選択肢がないほど苦しんでいる患者が現実にいて、その患者を診る医師も、介護する家族も、これ以上患者を苦しませないのは安楽死しかないとわかっているのに、それが認められていないことに苦悩する姿が描かれている。
 この本を読むまで私もそう思っていたのだが、安楽死というと、高齢の患者の問題だと思っている人が多いけれど、実はそうでないということを知った。むしろ高齢の患者はそれほど体力がないから、苦しい状況になった場合、放って置いてもそこそこ死ぬ。
 ところが若い患者は体力があるから、がん末期や難病でも、なかなか死ねない。過酷な苦痛が、命を食い尽くすのに時間がかかる。それを早く終わらせてあげること、すなわち安楽死が必要となる、というのだ。これはちょっとショックだった。

 新見たちは医療崩壊阻止と言って立ち上がったのだが、結局いいように使われた一つの“駒”であった。ただその提案の根源となる問題点の指摘は考えさせられる。以下書き出してみると次のようになる。

 医療の進歩の問題。これまでの医療は、ある種、素朴で単純なもだった。たとえば一昔前なら、胃がんはバリウムの検査と胃カメラくらいで手術をしていた。ところが今は、エコーにCTにMRI、腫瘍マーカーに、がんの遺伝子検査までしなくてならなくなった。他にも複雑な検査や治療がずいぶん増えている。そこにインフォームドコンセントという問題がからんできて、患者の説明が煩雑になり、検査の度に同意書にサインを得なければならない。これが現場の負担を極端に増大させた。

 2002年頃から医局制度の崩壊が大学教授が権力を奪い、それまで教授命令で派遣されていた地方の病院に医師が赴任しなくなった。これが地域医療の崩壊の一因となる。

 2004年から導入された新しい臨床研修制度では、研修医が自由に病院を選べるようになったため、大学病院が人手不足になり、一般病院から医師を引き揚げたために、病院が激務化し、医師が退職して、さらに激務化を招くという悪循環を生み出す。

 医師が自由に科を選べるため、産科医や小児科医が不足してもそれを補う手立てがない。

 医師が自由に勤務地を選べるため、医師が都市部に集中する。これが地方医療が破綻させる。

 医師が自由に診療科目を選べるため、ろくに経験もなくても開業できる。

 自由に病院を開業できるため、大都市では高額医療機器を備えた病院が乱立し、収益目当てに無駄な検査が無制限に行われる。(莫大な初期投資回収のため無駄な検査と治療をせざるを得ない)

 保険証さえあれば、どの医療機関でも自由に受診できるため(患者のフリーアクセス)、軽症の者の専門病院受診を容認する。軽症患者が外来に列をなし、医師を疲弊させ、重症患者の治療を滞らせている。一方で開業医による患者の奪い合いがある。

 これらを読むと「自由」って何だろう考えさせられる。みんながみんな、「自由だ!、自由だ!」と叫び始めた結果、こういうことになったわけだ。多分これは医療だけの問題じゃないだろう。自由という言葉は確かに尊重されなければならないし、個人の権利かもしれないが、むやみやたらにそれを主張すれば、収拾がつかなくなる面がある。
 平等にしてもそうだ。今やたら格差の是正を求めているところがあるが、それを追求していけば、それはみんなで貧乏になろうって発想となること間違いない。果たしてそれでいいのかどうか。
 人が集団で生活していくには、個人の権利を一部放棄しないとならないはずだ。どこかで、誰かが規制をしなければ、まとまりがつかなくなる。今人間が持っているシステムはそれを要求して成り立っているはずだ。少なくとも今はそれ以上のシステムが見出せない以上、これは仕方がないことだ。我々はそのことを自覚しなければならないのではないか、と思った。何でも野放しにしてしまうと、言った奴が勝ち、やったものが勝ちとなってしまう。実際あらゆる面でそういうことが現実に見出されるような気がする。だから新見たちが主張する意見を一概に一蹴出来ないような気がして仕方がなかった。
 更にこの本には安楽死を容認するかどうか、それを決定するのは、世間の“空気”だというところがある。ここで言われているのは、「この国を律しているのは、正義でも理念でも経済でもない。ただの“空気”だ」という言葉なのだが、確かにこれは言えてるなと思った。そしていったん“空気”ができ上がると、それにそぐわない意見はすべてシャットアウトされる。古くは戦前の軍国主義から最近の自己責任論やグローバリズムまで、日本を動かしてきたのは、常に社会を覆う“空気”だ、という意見はもっともだと思った。特に日本人はこの傾向が強いような気がする。わずかに日本の歴史をかじっていると、いつもこの“空気”を感じてきただけに、余計にそう感じたのである。そしてそれが高じると、とんでもないことになっていったことを歴史は教えてくれているのだが、いったいどれだけの人が、そのことを自覚しているか。それを考えると、いつまでも進歩できないのが日本人なんだなと思ってしまう。


評価
★★★


書誌
書名:神の手 〈上〉
著者:久坂部 羊
ISBN:9784140055830
出版社:日本放送出版協会 (2010/05 出版)
版型:359p / 20cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

書誌
書名:神の手 〈下〉
著者:久坂部 羊
ISBN:9784140055847
出版社:日本放送出版協会 (2010/05 出版)
版型:351p / 20cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年05月26日

吉村昭著『三陸海岸大津波』

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 今年の2月27日チリで大地震があった。その地震により、津波が発生し、それが翌日日本に到達する事態となった。気象庁は日本沿岸でも最大3メートルの高さの津波が到着する恐れがあるという津波警報を発した。テレビでも1日津波警報が画面を占領した。最初は注意深くテレビを見ていたのだが、その警報が一日中画面から消えず、いつの間にかその警報がテレビの画面を占領していることが鬱陶しくなり、苛立った覚えがある。
 結局津波は予測を下回り、同日午後に岩手県久慈港と高知県・須崎港で1.2メートルの津波が観測されただけであった。次の日からマスコミは気象庁の警報に問題があると非難し始め、気象庁も大津波警報が過大であったと謝罪し、今後の改善を表明したのであった。
 一方で一日中警報が発せられ、避難勧告が出ていたにもかかわらず避難しなかった人が多くいたことも報道された。

 この本は明治29年と昭和8年に三陸沖で起こった地震による津波の被害と、昭和35年チリで発生した地震による津波の被害を記録した本である。記録の仕方は、吉村さんが足で集めたものであった。
 三陸沿岸は海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある。しかもここはリアス式海岸という狭く入り組んだ海岸のため、そこに津波が押し寄せるとその威力を増幅させる地域であった。つまり本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えている地域であった。

 明治29年の3月頃からこの地域では小さな地震が続いていており、井戸水が枯れたり、水位が下がったり、鰯の大群が連日押し寄せ、マグロの大漁が続くなど、異常現象が起こっていた。このことはよく聞かれる、大きな天災が起こる前の異常現象であろう。
 6月15日は、日清戦争に従軍していた兵士たちの凱旋で、三陸の村々で祝賀式典が開かれ賑わっていた。しかもこの日は旧暦の端午の節句でもあり、多くの村民が集まっていた。
 そんな中午後7時32分、小さな揺れを感じた。しかしその地震は三陸沖約150Kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震だったのである。地震発生後約30分あとに津波の第一波がこの沿岸を襲う。津波が押し寄せる前には、海水が沿岸の海底がのぞくまで引き始め、今度は屏風のように立ち、山のように盛り上がり轟音とともに村をのみ込んでいったのであった。人々は「津波だ!、津波だ!」と叫びながら、それにのみ込まれないように必死に高台に逃げる。
 津波の高さは10メートルとも、20メートルとも言われているが、吉村さんが村の古老に聞いた話から、その高さは50メートルにも及んだ可能性があると書いている。この津波による死者は26,360名になった。

 昭和8年3月3日午前2時30分、岩手県沖250Kmの海底を震源とするM8.1の巨大地震が発生した。そしてこの時も地震発生後約30分後に巨大津波が押し寄せた。地震があった時間が夜中の2時ということもあって、人々は一端様子を見て、それほど異常がないことを確認し、また寝床に入っていたあと、津波が押し寄せたのである。
 この時も明治29年と同じように鰯の大群が海岸近くに殺到し、各漁村は大漁に沸いた。例年三陸沿岸の鰯漁は11月いっぱいで終わるのだが、この時は年を越しても大漁が続く異常現象があった。井戸の渇水も各地で見られた。
 この時の津波の高さも10メートルとも、20メートル以上とも記録がある。死者は2,995名であった。この本では、この時津波を体験した小学校の生徒が書いた作文がいくつか掲載されていて、津波と、そこから逃げる模様が描かれている。子供が書いた文章だけれど、子供の目で見た津波だけに、それだけリアルに感じられた。

 昭和35年チリで大地震が起こり、その地震で津波がこの三陸沿岸に押し寄せた。当時人々は津波は地震の後にやってくるものと思っていた。実際昭和8年に起こった津波の後、県庁から出された「地震津波の心得」の中にも、地震があったら津波がくる恐れがあると警告している。また津波の前に必ず起こる異常現象がなかったことも、住民たちに地震がなくても津波が襲ってくるものだと思わせなかった。気象庁でさえ、チリで大地震が発生したことはつかんでいても、その地震のよる津波が太平洋沿岸に来襲するとは考えておらず、津波警報さえ発令しなかった。津波は22時間30分をかけてこの三陸沿岸にやって来たのである。それこそ住民たちが言うように「のっこ、のっことやって来た」のであった。ただこの時の津波による死者は105名と激減している。もうこの時には住民たちに津波の恐ろしさが認識され、津波防止の施設も沿岸に備えられていたからであった。
 今年の2月の津波警報もこの時のチリの地震と同じである。幸い津波が小規模であったからよかったものの、中には津波の恐ろしさを忘れて、避難さえしなかった住民がいたことは、大きな問題であろう。過去に津波を甘く見て、大災害なった事実があるのだから、その点は考えないとならないような気がする。
 マスコミもマスコミである。気象庁の警報が過大だったと非難する方にしか目が向かず、警告が出ているにもかかわらず避難しなかった人が多くいたことを問題視しない。馬鹿としか言いようがない。気象庁もわざわざ謝る必要などないと思う。問題はあったにしても警報は正しかったはずだ。後はその精度を高めてくれればいいだけのことだ。オオカミが来たと叫んで、本当にオオカミが来たとき、いったいどうするのだろうか?ここでも自己責任という言葉を持ち出して、勝手放題にさせるつもりなのだろうか?私もテレビの警報を鬱陶しく思ったことを反省した。


評価
★★★


書誌
書名:三陸海岸大津波
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169404
出版社:文芸春秋 (2004/03/10 出版)文春文庫
版型:191p / 15cm / A6判
販売価:459円(税込)

2010年05月17日

佐々木譲著『笑う警官』

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 先にマイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-のマルティンベックシリーズを読んだ。その中にこれと同じ書名がある。あって当たり前なのだ。何故ならこの本はこのマルティンベックシリーズを意識して、わざわざ単行本から改題しているのである。単行本は『うたう警官』である。この“うたう”というのが分かりづらいということで、改題したという。
 この“うたう”とは、警察内部の秘密を公表することを言う。内部秘密と言うからには、公にしてしまうとまずい内容のことであり、それが公になれば、世間の非難を浴びることとなる。

 話は、札幌市内のマンションの一室で女性の他殺死体が発見される。被害者の身元は道警本部の防犯総務課婦警であった。最初は所轄刑事たちが捜査にあたったが、すぐ道警本部が直接捜査をするということになり、事件を“さらわれた”形となる。死体があったマンションは警察が借り上げていた秘密のアジトであった。事件は異例の形で進み、犯人はその婦警と付き合いがあった、銃器対策課の津久井巡査部長だと断定された。津久井は覚醒剤中毒者で拳銃を持っている危険人物として、射殺命令が下された。

 道警には郡司問題が公となっていた。それは道警の郡司警部が数多くの拳銃を不法所持し、覚醒剤の密売にも手を染めていたというものであった。郡司は拳銃摘発数では日本一生活安全部のやり手捜査員であった。
 しかし郡司警部が覚醒剤の密売をしていた本当の理由は、拳銃摘発の協力者に渡す謝礼経費の不足を補うものであったのだ。本来捜査員に渡るべき経費や報償金が、幹部のポケットマネーや裏金としてプールされていて、実際捜査員に渡っていなかった。そのため郡司はめ覚醒剤の密売でその不足分を工面していたのである。刑事が覚醒剤の密売に手を染めていたことは警察にとってかなりの不祥事であるが、もう一つ警察内部で裏金がプールされ、幹部たちでいいように使われているということが公になることは何としても避けたかった。
 射殺命令が下った津久井はその郡司と一緒に仕事をしていて、道警幹部の裏金問題を直接知る者として、排除される形で射殺命令が出たのである。しかも津久井はそのことを議会で証言する、つまり“うたう”人間として証人として喚問されていた。

 その津久井と以前危険なおとり捜査を一緒にしたことがある佐伯宏一は津久井のことをよく知っており、津久井がその婦警殺害の犯人ではないと確信し、密かに仲間を募って、津久井の無実を晴らそうと非合法の捜査を始める。津久井が議会で証言するのは事件の翌日で、道警幹部は津久井をどんなことをしても射殺して、口をふさごうとするだろう。それまでに真犯人を挙げないとならない。
 道警内部でも自浄作用があって、津久井の証言で道警内部の腐敗がなくなればと思う人間も、現場にはいて、徐々に婦警殺害の真犯人捜しに協力する刑事が出てくる。

 婦警が殺害されたマンションには、双眼鏡、暗視装置、盗聴器、手錠、縄、革ベルト、婦警の制服があったが、アジトとして使われていたとすれば、おかしくないものであったし、婦警がここを逢い引き場所として使っていたことが判明していたので、制服があってもおかしくない。
 しかしこれはノーマルな性癖以外に使われてもおかしくないものでもあった。婦警と津久井の関係はほとんど冷めていたが、完全に終わらせてはいなかった。それよりも他に男がいた可能性があり、その男との関係を隠すために、まだ津久井と関係があるように装っていた可能性がある。その異常な性癖を持つ男が犯人であった。犯人は道警の幹部でキャリアであった。

 この本は先に書いた通り、マルティン・ベックシリーズと同じ題名の本であることを知ったので、どんな本だろうと思ったのが読むきっかけであった。あとがきで書いてあることをネットで先に知り、更に興味をそそられ読んだ。それほど期待はしていなかったが、以外と面白かった。津久井の無実を晴らそうとする佐伯の捜査の仕方にちょっとリアリティーが欠けなくもないが、時間をうっちゃるにはちょうどいい話であった。


評価
★★★


書誌
書名:笑う警官
著者:佐々木 譲
ISBN:9784758432863
出版社:角川春樹事務所 (2007/05/18 出版)ハルキ文庫
版型:448p / 15cm / A6判
販売価:720円(税込)

2010年05月14日

吉村昭著『蚤と爆弾』

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 この本の親本を三省堂がやっている古本屋さん(三省堂がやっているというより三省堂が“胴元”みたいな形で、小さな古本屋さんを集めて上納金でも集めている感じのもの)で見た。原題は『細菌』という。私は吉村さんのこの本はこれを見たとき初めて知った。知らなかっただけに、買おうかなと思ったが、値段が高くてやめた。そして今回読んだ文庫はその『細菌』を改題し、文庫化したものである。
 話は、北満州のハルピンに作られた関東軍防疫給水部の創設者曾根二郎を主人公として、彼や関東軍防疫給水部が戦争中何をしてきたのかが書かれている。読んでいて“あれ?”と思ったのは、この曾根二郎という人物、もしかしたらあの七三一部隊の石井四郎ではないかと思ったのである。で、ネットで調べてみると、やはり曾根二郎は石井四郎をモデルにしたものであった。七三一部隊といえば、森村誠一さんの『悪魔の飽食』で有名になった細菌兵器の開発、製造、人体実験をした部隊である。
 この本は森村さんの本のように衝撃的で暴露本的要素を排除して、淡々と彼らが何をしてきたのかを記述していく。時系列として、日本が敗戦に向かっていく状況も記述し、関東軍防疫給水部が何故細菌兵器を製造していき、敗戦間際にきれいに消滅させていくかが書かれている。
 もともと関東軍防疫給水部はその名の通り、野戦で、特に南方で兵隊たちの飲料水をどう確保するため、その様々な菌で汚染された水を濾過する濾過器を開発するものであった。
 一方で全く逆の発想で、細菌が兵器として有用なものになり得ると曾根二郎は思いはじめる。日本軍にとって仮想敵国は中国、ソ連であり、特にソ連の兵力に対抗するには、日本軍が持っている通常兵器では太刀打ち出来ないところに、この細菌兵器が有効に力を発揮することを陸軍に提案するのである。
 曾根のこうした歪んだ行動は、曾根自身の個人的事情に由来していた。曾根は京都帝国大学医学部を卒業したが、当時陸軍の軍医として優遇されるのは東京帝国大学医学部出身者のみで、京都帝国大学医学部卒業の曾根には要職に就くことが望めなかった。そこで彼は軍の要職に就けないのなら、自分にしかできない仕事を確立したいと考えるようになる。それが細菌戦用兵器の開発であった。
 陸軍は曾根の提案を受け入れ、極秘にその開発を進めさせる。曾根は関東軍防疫給水部の中枢に京都帝国大学医学部卒業者を集め、研究を進める。そのため関東軍防疫給水部を別名で“加茂川部隊”などと自称していたという。
 さて、その細菌兵器である。ペスト菌やチフス菌、コレラ菌などを培養し、それを兵器とする。特にペスト菌を兵器とするために、中国中のネズミと蚤を採集していく。ペストに感染したネズミの血を蚤に吸わせ、その蚤を陶器製の爆弾につめるのであった。(通常の爆弾だと、爆弾が爆発するとき、その熱で蚤が死んでしまい、役に立たない)
 その試作品が出来上がったとき、人体実験として、中国人の捕虜、囚人、スパイなどを使う。彼らは“丸太”、“材木”などと呼ばれた。
 彼らを実験に使うため、それまで捕らえられ、拷問にあい、ろくに食事も与えられなかったのが、ここに連れてこられると、高栄養の食事が与えられた。健康体にさせられていくのである。そして細菌兵器の実験に使われていく。関東軍防疫給水部が人体実験に使った囚人の死亡数は三千名を超えた。(細菌だけでなく、他の実験に使われた)
 そして実際に中国大陸で上空から細菌を散布したし、撤収時には細菌ビスケットや細菌饅頭をばらまき、井戸や川、貯水池に細菌を投げ込み、細菌汚染地域とした。
 終戦間際、敗戦色が濃くなったとき、ソ連が参戦し、満州に進行を始めるが、この時こそ細菌爆弾を使いたい曾根は考えていた。しかしこの時にはもう日本軍は爆弾を投下する爆撃機さえなく、結局関東軍防疫給水部をきれいに抹殺し、撤退していく。その鮮やかさは開いた口がふさがらないといった感じである。
 戦後、戦犯がかり出されるが、彼らも三千人以上を実験と称して殺害し、実際に非人道的な細菌兵器を使用したわけだから、当然戦犯としてかり出されても仕方がなかった。しかし彼らは満州を撤退したときから、お互い顔を会わさず、目を背け、市民の中に息をひそめて隠れた。
 曾根二郎にしたって、当然重大な戦犯と扱われていいはずだったが、連合国は彼の行ってきた実験に多大な興味を持ち、特にアメリカは曾根から満州で行ってきた実験の資料の提出と引き替えに、身分を保障し、報酬さえ出す。アメリカは日本で軍部の解体、民主化などを推し進める一方、曾根が開発した細菌兵器の利用価値を見出しているのである。
 アメリカが身を潜めていた曾根の行方を必死に捜し、曾根がそれに応じるとき、曾根の言い分が気にかかる。

 「それでは私の考えを述べさせていただこう。初めに申した通り、私は軍人であると同時に医学者だ。しかし、戦争にやぶれた現在、私は軍人でなくなり、医学者としての自分だけが残った。従って医学者として考え、行動すべきであると思う。私は、研究実験をかさね、世界に類のない貴重な資料を得た。医学者としては、それを私物化すべきではなく人類のために提供したい。日本は敗戦国となって荒廃し、私の研究成果を受けいれる素地はない。もしアメリカが所望なら、喜んで研究成果を提供したい」

 個人的な意見を言わせてもらえば、医学者としての曾根の言い分は、許し難い傲慢さだと思っている。医学者としてというよりは、まず人間として、非人道的なことをやってきた研究を成果として言えるものなのか、と思う。いくら戦争という極限状態の中で、行われたこととはいえ、その結果を医学者として研究成果と言うのがちょっと疑問を持つ。しかも自分たちはそれを研究と称してはいるものの、戦後戦犯としてかり出されることを恐れ、身を隠しているのである。ということは、自分たちがやってきた研究方法に非難されるべきものがあると意識しているのではないか。だったらもう少し言い方があるのではないかと思う。その研究に犠牲にされた数多くの人命あったことを意識していれば、こういう言い方は絶対に出来ないだろう。
 ただ一方で、その過程はどういうものであれ、通常では絶対に得られない研究成果であることも事実だろう。医学、いや科学や進歩はそういう意味では非人道的なもので成り立っている部分がある。

 曾根の葬儀のとき、焼香に来た客は、一部の者を除き複雑な表情をしていた。顔見知りであることはその表情で窺えたが、焼香を終えると、互いに目をそらし合って斎場を出て行き、喪章を外し思い思いの方向に足を早め去って行った。彼らは旧関東軍防疫給水部の関係者であったと記述して、この物語は終わる。


評価
★★★


書誌
書名:蚤と爆弾
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169169
出版社:文芸春秋 (1989/08/10 出版)文春文庫
版型:221p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2010年05月12日

辻邦生著『遙かなる旅への追想』

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 今朝テレビのニュースでアメリカの運輸長官が日本が開発しているリニアモーターカーの実験車両に試乗して、その時速500キロを超えるスピードに興奮している模様が放映されていた。何でもこれが開通すれば、東京-大阪間を60何分で行くそうだ。
 それを見ていて、どうしてそんなに急ぐ必要があるんだろうと思ったのである。今でも新幹線で大阪まで3時間で行く。それを2時間速めたからといって、その2時間を無意味に過ごしたなら、何もならない。あるいはその2時間別の仕事で振り回されることになるんじゃないか、と思ったのである。だってたとえ今より2時間移動が短縮されたからといっても、労働している拘束時間が短くなるとは思えないのだ。
 旅にしたってそうである。移動の時間が短縮されて、その分多くの名所を回れるとしても、もともと短い時間で旅をしている以上、単に名所・名跡を詰め込むだけのことであって、それは情報でしかあり得ないのではないか、と思う。
 辻さんはこの本で次のように言っている。

 町々をただ突っ走って、写真をやたら撮って、あとに何一つ残らない最近の旅行のやり方を見ると、歩くということは、いまもなお、ものを真に味わう唯一の方法ではないかと思う。しかし現代は何はともあれ忙しい時代なのだ。一つのことに時間をかけるのもいいが、同一時間内にできるだけ多くのものを知る必要もある。事実、現代はしかるべき情報を持たなくては十分に生ききれない時代である。
 ただ問題なのは、この過剰な情報ゆえに、かえって何一つ真に知ることがなくなりはしないか、という点である。一方だけだと、視野のきかない独断になろうし、他方に夢中になれば無味乾燥な物知りになるしかない。

 現代人はどうしてこうもスピードばかり追求するのだろうか。それを追求することで効率化、能率化を求め、さらに他の分野でその時間を使うことにあくせくしている。そして気がついたときはヘトヘトに疲れている自分を見出すのだ。
 辻さんは自らの旅の経験から次のように言う。

 いや、むしろ旅とは本当はこうした<悠長な>ものでなければならないのだ、と思うようにさえなった。なぜなら生きるとは、この<悠長さ>以外の何ものでもなく、したがって<悠長な>態度でいる以外に生を理解する方法はないからだ。
 たとえば子供が生まれるまでの十ヶ月、人はそれを待たなければならない。すくなくともすべての女性は自然のこの<悠長さ>を知っているし、それに従うことも知っている。農夫ももちろん種播きから穫入れまでの自然の定める<悠長な>期間、じっと待つことを知っている。
 自然のめぐりというこの<悠長な>もの-それに身を託することが生きることに他ならない。現代文明がこの<悠長さ>に反抗し、勝手にスピードを発明し、能率崇拝をつくりあげたが、そのことによって得たものは多いとしても、そこから決定的なものを欠落させてしまった。つまり自然の持つこの<悠長さ>と一体となった<生>を失ったのだ。

 時間にしても空間にしても、この自然の定めた秩序(オルドル)がある。そのordreは秩序であるとともに、本来は命令(オルドル)なのだ。もしぼくらが自然のなかで生産的ありたいと思うなら、その命令に従うほかない。十ヶ月の懐妊期間を半分に短縮しようなどと考えても、それは自然の秩序=命令(オルドル)に反することだ。反すれば当然秩序は失われ、混乱が起こる。特殊栽培による季節はずれの果物や野菜の氾濫は、初もののよろこびを奪ってしまった。このよろこびの喪失は、生の荒廃の一つのシンボルと考えても差し支えないものだ。
 考えてみれば、現代文明がもたらされる以前、人々は、この自然の動きによって暮らしていた。水車の音はこの自然のリズムに他ならなかった。風車は風のままに粉をひいていた。海の旅は波まかせ風まかせであった。そして河の流れもこの自然の動きをなまなましく直截な形で人々に示していた。

 辻さんがそう思ったとき、「どうしてぼくらは自分でスピードをつくらなければならないのか。どうして自然の<悠長さ>に委ねてはいけないのか。女性たちが自然の秩序=命令(オルドル)に従っており、なお世界の大半の農民が季節のめぐりと一つになって生きているとき、一握り大都市と近代国家が生活を早くしても、人間は、苦しげに身を捩じるだけではないのか。一方は自然の<悠長さ>のなかにあり、他の半分は、それに反したスピードと能率化のなかにあるのだから」と思うのである。
 自然のもたらす速度との一致は自然の秩序=命令(オルドル)に従うことであり、それが文明の速度でもあったはずで、文明は実はこうして<悠長に>基本の速さと一致しながら進んできたのである、と思うのである。
 なぜなら文明は大自然のもつ荒々しさから人間を守る役割を果たしているからで、衣食住をはじめ文明がもたらしてくれる生活の快適さは、大自然の荒々しさを柔らげた結果と言えなくもないからだ。だから「文明はゆっくり進む。考えながら、手さぐりしながら、試行錯誤を繰返しながら、そして何よりも<快適さ>をつねに失うまいと努めながら」
 「文明が<快適さ>と結びついている以上、その速さが人間の不調和と混乱を招来したならば、やはりその進歩の速度は文明の本質に反するもの」となると考えるのである。

 現代人がヘトヘトに疲れているのはこうしたスピードに振り回されているからであって、それは何も仕事だけでなく、自分の時間でさえその姿勢が変わらないからである。結局必要以上のスピードというのは快適さを追求しているように見えて、ちっとも快適ではない。時間がかかるということは、それだけ距離が離れていることを実感させるし、それだけ手間がかかるということを教えてくれる。それを極端に短くしてしまえば、距離感も、存在感も、重量感も、有難味も希薄になってしまうし、実際そうなっている。私は辻さんが感じる自然の<悠長さ>が本来の人間の文明の速度ではないかという考えに深く同意してしまうのである。

 この本は旅という非日常だからこそ、普段見えない部分を深く掘り下げることなることを教えてくれる。が、その分思索的になるので、非常に理解しにくいところがある。もともと辻さんの書かれる本はとっかかりが難しいものだから、下手をするとこれは重すぎると感じてしまい、投げ出してしまいそうになるし、実際投げ出してしまった本もある。しかし今回は我慢して読んでいると“なるほど”と思ったのがこれらのことであった。

 さて、私にとって辻さんといえば、『背教者ユリアヌス』の著者というのがある。私はこの大作を高校時代夢中になって読んだ。面白くてやめられなかった覚えがある。
 西暦313年にコンスタンティヌス大帝よってキリスト教が公認され、それまでローマで信仰されていたギリシア以来の神々を捨ててキリスト教の信仰に変わった。ユリアヌスはコンスタンティヌス大帝の死後、その息子たちによる、醜い後継者争いから、生き残ってローマ皇帝となった人物であった。彼は思慮深く、学者肌であり、何よりもギリシア以来の神々を信仰していた。彼が皇帝になったとき、ギリシア以来の神々の復権が行われる。だから“背教者”なのである。
 ユリアヌスの治世はそれまで信仰されていたギリシア以来の神々からキリスト教へ転換の時代でもあり、その中で彼は揺り戻し役を演じたことになる。つまり時代の変わり目にいた人物であった。
 私はこの本がどういう意図で書かれたのかをこの本で知った。この『背教者ユリアヌス』を辻さんが書かれたのは60年代の終わりの頃で、世界各国で学生紛争があり、戦後から30年たち、20世紀の後半に入った時期であった。この時様々な形でイデオロギーが精神文化に何か新しいもの向かっているという感覚を感じさせる時代だったという。そのことがユリアヌスが生きた時代とアナロジーを感じ、それがこの700ページ以上もある著作となったというのである。
 私は単に波瀾万丈なローマ皇帝ユリアヌスという人物の生き様だけを読んできただけに、これを読んで、なるほどこの本にはそうした著者の意図があったんだなと思った。


評価
★★★


書誌
書名:遙かなる旅への追想
著者:辻 邦生
ISBN:9784103142140
出版社:新潮社 (1992/04/20 出版)
版型:339p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年05月04日

開高健著『直筆原稿版 オーパ!』

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 最近はそれほど読まなくなったが、以前は好きでよく開高健さんの本を読んでいた。あれもこれもと手を出していたら、気がついてみると私の本棚の六段ほど開高さんの本で占められている。とにかく何でもよかった。“開高健”という名前が付いている本ならすぐ買って読んだし、新刊書店で手に入らなければ、古本屋を歩いて、せっせと開高さんの本を探した結果であった。
 こうなってくると完全にコレクターである。たとえ読まなくても、まだ手に入れていない開高さんの本があれば、買わないとまずいと思い始めることになる。せっかくここまで集めたのだから、最後まできちんと集めたいということになってしまった。もう蔵書ではなくコレクションである。
 もう開高さん亡くなられて、20年以上たっているのだから、未発表の作品などそうそうあるはずがない。それでもちょこちょこ焼き直しみたいな本が出ていた。晩年の大がかりな釣り紀行の写真など載せて、ページ数を稼いでいるとしか思えない本がよく出ていた。当時はそんな本でも集めていたが、さすがにこんなものを集めているときりがないと思い、以降そうした本を買うのをやめた。
 ただまったく集めることをやめたかというとそうではない。しっかりしたコンセプトのある本は買っている。この本もそういう経緯で買った。もともとこのオーパ!は月刊PLAYBOYに1978年2月号から同年9月号まで連載された。



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 そして同年11月には大判の本で出版される。



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 連載時も毎月楽しみに読んでいたし、単行本になってからも、すぐ買って読んだ。そして今回直筆版を購入して、32年ぶり読み返したことになる。
 最初はコレクションとして買ったつもりだったのだが、いつの間にかページをめくって読んでしまった。よく悪筆の作家がいて、編集者も読めないという話を聞いたことがあるが、開高さんの場合、暖かみのある丸文字は読みやすいし、書き直しも少ないものだから、普通に本を読んでいる感覚で読めるのである。



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 読んでいて久しぶりの開高健の語り口を懐かしく感じた。

 東京のバーで私はおよそ二十五年間、浮きつ沈みつを飽きもせずに繰返してきたけれど、自分の時間をサカナにして酒を飲んでいる男というものの姿態をついぞ見かけたことがない。東京の時間はいうなれば炭酸水の泡のように無味のままセカセカと泡だっているだけである。

 去年はよかったのに今年はどういうものか低調、不振だという言葉が出没しはじめた。またまた釣師の時制である。過去と未来があって現在がないのだ。あったとしても現在は稀薄である。聞いていて私はホロにがく微笑する。こんな地の涯でも萬国共通の原則と遭遇すると、憂愁と同時に、おかしな、うそ寒い安堵感もあたえられる。

 こうしてブラジリアはそこに、そのまま、おかれている。今日も輝いている。まるで昨日生まれたばかりのように輝いている。構造物たちはまだ細根も、地下茎も、気根もはやしていない。しかし、建築物も人とおなじように年令を知らずにはいられないし、体のあちこちにそれを分泌せずにはいられないものである。これまでの木造建築や石造建築は歳月や疲労がしるしづけられると同時に成熟の気品や威厳を身につけるすべを知っていて、不断に育ちつづけて数世紀、十数世紀を生きぬいてきた。しかし、現代建築というものはこれまで私が諸国で見聞してきたかぎりでは、歳月と添寝することができないのである。デザインの流行が変わるから“時代遅れ”になってそうなのではなく、どうやら、もともとそんな体質や気質に生まれついていないのである。らしいのである。どの傑作もちょっと歳月がたつとたちまち醜怪、卑称な不具者となってしまう。ある年令で成熟がとまってしまった美少年みたいなところがある。

 気に入った開高さんの文章をこうして書き写していると、だいたい言い回しが予想でき、本文を確認すると、その通り書かれているので、割と書き写しやすい。ということはそれだけ文章が平易であって、今我々が使っている言い回しをされているからである。
 だからといって軽いわけではなく、深みがあり、特に漢字の語句にはこだわっていると改めて感じた。漢字にこだわるというのは、読めない漢字や普段使わない漢字を使うのではなく、いつも使っている漢字をうまく組み合わせて、その雰囲気をだすあたりはさすがだなと思う。
 そしてここではパソコンで書き写しているから今の漢字になっているが原稿では書くのに大変な旧漢字が使われているところあって、このあたりは、そういう世代の人なんだと思わせる。こんなのは直筆原稿を見ないと分からないことである。それがちょっとした発見でもあった。
 32年ぶりに読み返したことになったが、色あせてはいない。それは開高さんの研ぎ澄まされた感性で書かれた平易な文章だから、32年という年月にも耐えたのかもしれないなと思った。

 開高さんのこの手の大がかり釣り紀行はこの後いくつか続くことになるが、その時は何も知らなかったから、エンターテイメントとして楽しんで読んだ。けれど、後年、開高さんのこうした釣りは、普通の人が入れる場所でも禁漁区にしてあるところを、開高さんだからといって、特別に入っていって釣りをしているのだという裏話を読んだことがある。そうなのかと思った。言われてみればそうだよなと思う。誰も行かない、誰も釣りができないところで釣りをすれば大物は釣れるだろうし、きちんとサポートする人がいればそれなりの釣果があるはずである。普通に釣りを楽しむ人にとって苦々しいものなのかと思い、以来開高さんの釣りに関する文章には冷めてしまっている。
 でも、今回はたとえ現実はそうであっても、文章は楽しめた。もしかしたらこれは写真が少ないからかもしれない。釣りの写真が多くあると、リアルに裏話がよみがえってきてしまう。それよりも生原稿の雰囲気が開高さんの文章、語句を楽しませてくれたのかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:直筆原稿版 オーパ!
著者:開高 健 高橋 昇【写真】
ISBN:9784087814392
出版社:集英社 (2010/04/30 出版)
版型:301p / 19×27cm
販売価:3,150 (税込)

2010年04月30日

出久根達郎著『作家の値段』

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 出久根さんは古本屋さんである。(プロフィールよると現在は目録販売のみとに書かれている)だからここでいう作家の値段とは古本価格のことである。ただ読んでみると分かるが、単に古本の値段だけでなく、むしろ古本屋さんによる作家論だと分かる。著者もあとがきで「本書は、『古本屋の作家論』といってよい」と書いている。だからここに挙がっている作家について著者の読書経験からその作家を語り、その後で古本価格にも触れ、だいたいが初版で美本であれば数十万から百万と驚かせる。
 たとえば司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』である。この本の「立志篇」の初版は昭和38年7月で以後全五巻、すべて初版だと32万円、状態がかなり良ければ50万もするかもしれないという。「立志篇」の発売当時の定価は420円である。すごいものである。昭和38年というと今から47年前である。銀行の利息より高利息である。だから本を大事に読むこと、帯など邪魔だと邪険にせず、破れないようにしないといけない理由がここにある。帯があるなしで場合によっては一桁売価が違うのだ。
 ちなみに私が高校時代に買った『竜馬がゆく』の「立志篇」は昭和49年2月の62刷りで、定価が650円となっていた。ホンと久しぶり棚から引っ張り出したが、日に焼けてボロボロで、売ってもゴミ扱いになるだけの状態であった。
 もしここに挙がっている司馬遼太郎、三島由紀夫、山本周五郎、川端康成、太宰治、寺山修司、宮澤賢治、永井荷風、江戸川乱歩、樋口一葉、夏目漱石、直木三十五、野村胡堂、泉鏡花、横溝正史、石川啄木、深沢七郎、坂口安吾、火野葦平、立原道造、森鴎外、吉屋信子、吉川英治、梶井基次郎の作品で初版本であり美本が家にあるようでしたら、場合によっては百万円以上になる場合もありますよ、と教えてくれる。もっとも売値がそうだとしても古本屋さんがいくらで引き取ってくれるか、どちらかといえばそっちの方が知りたい。結構たたいていたりして、と思わなくもないが、さすがこのあたりは企業秘密の属するようで一切触れられていない。あくまでも売価での話である。
 しかしどうしてマニアは初版にこだわるのであろうか?それを著者は次のように言う。

 初版本の魅力をあえて言うなら、その本が世に生まれた時の姿、著者がその目で確かめ、手に取って喜び愛しんだに違いない、その姿を、そっくりそのまま見て触れて愛しむことができる喜び、ではないかと思う。

 そうなのかな?確かに一番最初の姿に価値があることは分かるけれど、でも初版本という限定されたものであることに、必然的に価値が出て来てしまうような気がする。まして後に大作家として名をはせるようになった作家だと、あの作家のあの作品の初版本ということで、その時にはもう時間がたってしまっていて、後戻りできないところに価値が出るのではないか。それに時間がたってしまっていることで、その本の数が減ってしまっていることも大いにあり得るだろうし、あっても経年劣化してまっていて、本当に出版された当時のままか美本として残っていることが少ないことも、その本の価値の付加価値を加えているのではないかと思う。そこに需要と供給のバランスが崩れるものだから、追々初版本に高値が付く。

 さて古本屋さんのすべき仕事に言及しているところがあって、それが面白かった。たとえば石川啄木や宮沢賢治の場合、生前彼らの作品は売れなかった。そのことはそれだけ当時は評価されていなかったこととなる。彼らが有名になったのは死後である。彼らの本は売れず捨てられていった。著者は古本屋はそうした偉才を世に出す役割を担っているという。それが古本屋の自負でもあるという。多くは捨てられていった作品を見出し、世に出すことが自らの仕事だと言うのである。
 一方で古本屋で紙屑扱いされる、いい加減な本や内容のない本など後世に残さないために、安い値段をつけて処分扱いをする。その本が安ければ安いほど大切にされることはなくなり、いずれは消えていくからである。なるほどそういうこともあるのかと思った。きっと世の中にはそうしたクズ本がたくさんあるんだろうなと思う。

 ところで面白かったのは石川啄木の『ローマ字日記』であった。啄木のこの本は昭和23年に初めて公開されたが、全文が読めるようになったのは昭和52年の岩波文庫化してされてからだという。というのも、この『ローマ字日記』は春本扱いされていたのでカットされたり伏せ字入りで紹介されていたというのだ。私はこれを読んだことがないので、まったく知らなかったのだが、ここに紹介されている文章を読むと結構過激な性描写があるのだ。
 それをわざわざローマ字で日記を書いたのは、こうした性描写や芸者を買ったことなど妻に知られたくないということと、ローマ字で書くことによって自らの体験を客観化し、後でそれを楽しむために書かれたのではないかと著者は推理している。
 我々が知っている“働けど働けど 我が暮らし楽にならざり ぢっと手を見る”といった一所懸命働いても、一向に生活にゆとりの出来ない状況を語る啄木ではない。もちろんそれはそれで事実なんだろうけど、だからかこそ、そうした鬱積した性への指向があったのかもしれないなと思った。啄木は借りた春本をせっせと書き写していたという。真面目だけでは生きていけないということか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:作家の値段
著者:出久根 達郎
ISBN:9784062766593
出版社:講談社 (2010/03/12 出版)講談社文庫
版型:442p / 15cm / A6判
販売価:780円(税込)

2010年04月27日

森まゆみ著『東京ひがし案内』

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 この本はWEbちくまで連載されていたのを文庫オリジナルとして出版したようだ。東京ひがし案内となっているが、メインは東京の東側の町並み、神社仏閣、明治・大正・昭和の建造物を訪ね歩いている。この本を読んでいると東京という町は京都や奈良みたいな古い歴史はないかもしれないが、江戸から明治と面白いものがまだ残っていると思わせてくれる。むしろ割と年代的に身近に感じられるものが多いし、知っている地名、建物などが出てくるので、かなり興味深く読ませてもらった。私はこういうのが好きである。

 いくつか面白い記述があったのでそれを書き出してみる。たとえば神保町界隈にはカレー屋が多い理由。「なんでカレーが流行るのかというと、左手で買ったばかりの本を読みながら右手で食べられるファストフードであるという説がある。また出版、書籍の町の人びとは食事時間が不規則で、カレーならご飯さえ炊いておけば、即座に出せるという。二日、三日煮込みましたと保ちのよいメニューでもある」とそのわけを紹介する。なるほどね。
 またこの附近は中華料理も多いともある。
 昔神田村に“餃子屋”という餃子の美味しいお店があって、よく仕入の途中遅い昼飯をここで食べたものだ。今は再開発でなくなってしまった。ネットで調べてみると、三省堂の前、靖国通りを渡った奥に本店があるらしい。
 このあたりある“伊峡”という中華料理には学生時代お世話になった。先日大学のクラス会がその近くお店であった。目印が伊峡の前と友人から聞いて、すぐ分かっちゃうのだが、それよりも30年近くたって久々に聞いたその名前方が懐かしかったし、まだ頑張って営業しているんだと感心してしまった。その日は日曜日だったのでお店の前を通ったが休みであった。
 そういえば最近は靖国通り沿いには新しい中華料理屋はいくつか目にするが、私は“餃子屋”や“伊峡”に行ってみたいな。

 後楽園に奥にある東京都戦没者霊園を訪ねて、森さんはここがあまり知られていないこと、それに伴って墨田区横網にある東京都慰霊堂のことも次のように書かれている。

 関東大震災や空襲でなくなった行方不明の遺骨を慰める墨田区の東京都慰霊堂というのがなんともやる気のない、薄暗い建物なのである。建物は伊東忠太の歴史的建造物のほうは保存改修するとして、別にちゃんとした記念館を建てて、もっと関東大震災や東京大空襲についてきちんと展示したいものだ。長崎も広島も内容のある記念館を作って、戦争を知らない世代も、外国人も訪ねやすいようにしているのだから。
 
 と書いている。私もここに行ったけれど、確かにそうだ。やる気のないためか、おばちゃんを受付において、中は薄暗かった。本当にここはもっともっと知られていいところだと思う。

 浅草について。「浅草へ行って雷門や仲見世付近には近寄りたくない。ものすごく混んでいるし、観光客目当ての新しい店がどんどん開店している。中には老舗もあるのに、見るところ、安っぽくて、こけおどしで、キッチュなのが目立つ。新撰組の半纏みたいのとか、アラン・ドロンがひっかけているようなサテンの着物とか、必勝と書いた日の丸のハチ巻。外国人観光客向け、記号としての日本」と書いている。深く同感。ここを歩いていると毎回薄ら寒くなってくる。

 この本は文庫オリジナルだから、単行本から文庫になった本じゃない。何故そんなことを書くかというと、ここに描かれているイラストがいい感じだなと思っていたので、出来れば大判の本で見たかったなと思ったのである。誰が描いているんだろうと思い、目次の下に「本文イラスト 内澤旬子」とある。この名前どっかで聞いたことがある。思い出してみると、以前読んだ松田哲夫さんの『「本」に恋して』でイラストを描かれていた人だとわかる。そうか、そう言われれば、この絵のタッチはあの人だと思った。この本を引っ張り出して見てみると、内澤旬子さんを“イラストルポライター”と紹介されていた。何だかよく分からないけれど、こういう人もいるんだ。でも絵のタッチは好きである。


評価
★★★


書誌
書名:東京ひがし案内
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480427007
出版社:筑摩書房 (2010/04/10 出版)ちくま文庫
版型:238p / 15cm / A6判
販売価:798円(税込)

2010年04月25日

小路幸也著『オ-ル・マイ・ラビング』

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 このシリーズもこれで5巻目となる。


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 4巻を読んだのがこれも1年ほど前だったと思う。そんなものだから、やはり人物関係を忘れている。それでなくてもこの話、登場人物が多いので、“この人誰だったけ?”と立ち止まってしまうのだ。たぶんこのシリーズを読む人は私と似たようにこれで苦労しているんじゃないかと思える。だからか巻頭に「登場人物相関図」というのがある。これまで登場してきた人物たちがきちんとまとめられているので、これを見て話のつじつまを合わす。結局今までの4作でこの人物相関図がどんどんふくれあがったものだから、話がややこしくなってしまっている。けれどそれがこのシリーズの面白さだから仕方がない。いつものようにドタバタ感があって、古本に関するささやかなミステリー的要素も多少折り込んでいく。
 でもやっぱり、人情の厚さに癒されるのがこの本のいいところだ。世の中こう簡単に話がまとまらんでしょう、とは思うけれど、それは下町の人情厚い老舗の古本屋さんでの話である。これはこれでいいんだと思いつつ、結構楽しんで読ませてもらった。
 結局この話に癒されるのは、今核家族化している中で、こうした大家族と、家族の一人一人の人間関係が、みんなで共有できているところにあるんじゃないかと思われる。得てして秘密にしてしまうことが、みんなが分かっていて、悩み、笑い、泣き、最後は我南人の強引さで丸め込まれて、Happy Endで終わってくれる。だから読む方も安心出来るのである。ホンと、昔あったテレビドラマである。
 こういう昔あった茶の間のテレビドラマに癒されるということは、逆にいえば、今がどこかぎすぎすしていて、疑心暗鬼になっている人間関係に疲れちゃったいるからかな、と思う。
 話の内容には奥行きなどない。難しいこともない。深く深く考え込むこともない。むしろこんなのあり?といった気持ちになる。けれどこの話をひたすら読みたいと思う気持ちがあるということだけで、本を読むという行為がそこから何かを学び取るといった、がむしゃらな気持ちで読まなくてもいい本があるということを教えてくれる。それがこの本の存在価値だと思う。難しいことや、複雑な人間感情を考えるだけが、本を読んだということではない。娯楽として本を読んでいいことを改めて思った。
 今回“伝説のロッカー”の我南人が甲状腺ガンになって歌えなくなるという心配があったが、幸い手術がうまくいき、ガンも良性だったようで、復帰できないことはなかった。ただ我南人は声を張り上げてシャウトすることに心配を感じていた。それを孫の研人が、子供ながら粋な計らいで、自らの小学校卒業式に我南人に「オール・マイ・ラビング」を歌わせる。どうやらこれで我南人もいつもの我南人でいられるようで安心である。
 このシリーズはまだネットでは連載されているようなので、続巻がまた1年後に発売されるかもしれない。楽しみに待っていよう。


評価
★★★


書誌
書名:オ-ル・マイ・ラビング ― 東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087713503
出版社集英社 (2010/04 出版):
版型:301p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年04月16日

佃由美子著『日本でいちばん小さな出版社』

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 話はいきなり関係のないところから始めるけれど、本というには“匂い”がある。この場合の“匂い”とは実際に本から立ちのぼるインクの匂いとか、あるいは古本のかび臭い“匂い”を言っているんじゃない。この本は面白いかどうかの“匂い”である。面白そうだとなると、何となくそれらしきものを感じるものである。
 この本にそうした“匂い”を私は感じた。さらにこの本を出版しているのが晶文社なので、その点はある程度間違いがないと思われる。晶文社の本(古本も含む)や出版関係に関する本は結構面白く読ましてもらっているからだ。

 でも今回はちょっと珍しいかもしれない。今まで出版社の営業奮闘記みたいなものをいくつか読んだことがあるが、今回みたいなまったくの素人が、自ら出版社を立ち上げ、本の出版から、問屋への納品、返品、さらに在庫管理や出版経理など悪戦苦闘の日々を書いたのを読んだのは初めてだ。日々新しいことが持ち上がるのだが、それは半ば行き当たりばったりで、ときにはヤケッパチな感じで対応できちゃうのは著者の人徳なのかもしれないなと思えるところが面白い。
 著者の経歴をザッと書くと、大学中退後オーストラリアに渡り、永住権を取り、建設会社に就職し、9年間そこにいた。帰国後翻訳やシステム開発を請け負う会社を友人と設立する。
 そん中、知人が今まで本を出してくれた出版社潰れそうなので、出版社になって、続いて自分の本を出してくれと頼まれる。頼まれれば「合点承知!その問屋とやらの取引を始めておくよ」と軽い。
 出版社を始めるには、自分のところで出した本を書店にまいてもらわないとならない。そのために問屋の取次口座を取得しないと、全国の書店に本が置かれない。ところがこの取次口座を取るのが大変なのだ。普通問屋に相手にされない小さな出版社が多い。問屋だってその出版社がちゃんと本を出してくれないと困るし、財務体質だってしっかりしていないと、取引など出来ないだろう。リスクは負えないはずだ。だから新規の小さな出版社の取引条件は大手と比べると厳しい条件を飲まされると聞いたことがある。
 でも著者は「仕事はのんびりなんだが、ちょっと目新しいことにすぐ首を突っ込んでしまう。本当に何でも屋なのである。となると、出版社の権利とやらも、ぜひ獲得したい」と、最初に東販と取次口座開設にこぎ着ける。そして日販とも続いて取次口座を開設する。
 たぶん厳しい条件を飲まされたのだと思うが、それでも本を出したいという気持ちの方が優先してしまう。自分が本を出すと思うと(たとえ自分が書いたものでもなくても)、どこか誘惑的なところがあるのだろう。だから自費出版なんていうのが流行るのだ。著者も取次口座が開設できると、これと似たような気持ちになったと書いている。

 これからいっぱい本を出して、私も彼も儲かって。明るい未来を頭に描いた。

 とか、

 当時は出せば売れると思っているので、
 「へへっ、ベストセラーになったらいいなあ」
 なんて、ヘラヘラ考えていた。他の商売なら、そんな根拠のない夢は見ない。建設だろうが翻訳だろうがシステム開発だろうが、仕事に見合った利益しか考えない。ところが出版となると、とたんにバカみたいに空想してしまうのだ。

 納品など身体を動かしていると、「建設業とサービス業の経験しかないと、商品を運んだり納品したりするのは、すごく新鮮だ。机の前で書類なんか作っているより、断然楽しい。働いているという実感がわく。八百屋や消防士や漁師みたいな、小学校の社会科で習った『働く人々』をしている感じだ」とこのあたりも楽しそうだ。

 私は楽しいことを考えるのが好き。ぬか喜びになろうが気にしない。毎日頑張って働いてるんだから、何か楽しいそうなことがあったら前向きどんどん想像する。そうすると、実現したらしたで二度美味しいではないか。

 せっかく「製造業かつ自営」を満喫しているとも言い切る。

 しかし現実は甘くない。最初に作った資格本はほとんど売れない。毎日返品が戻ってくる。しかも汚れた状態で。仕方がないので消しゴムで汚れを落とし、カバーを取り替えたり、次来る注文に回そうとするが、印刷所にはまだパレット二つ分の在庫を抱えていることをすっかり忘れている。まだ一回も流通していないのに結局裁断処分するしか他になく、泣く泣く処分する。
 また最初に出版社を作ってくれとと言った知人は、結局元いた出版社がつぶれず、著者の出版社から知人の本が出版出来なくなる。

 これまでの人生、本との関わりはあくまでも読者としてだった。突然作れと言われて(言われていないけど)心底困ってしまった。贅沢な悩みかもしれないけれど、本人にとっては本当に困ったことだったのだ。

 そもそも私が出版社になったのは、志高くして念願かなったわけじゃない。取次口座の話自体が、向こうからやってきた。どういう出版をしていくかという根本的な問題に、急に答が出るわけがない。

 でもそこはさすがというか、何とか危機を乗り越え、地道な出版が続く。そうなると出版がますます楽しくなってくる。たった一冊の本で「企画を練って、原稿を作って、印刷準備(組版やカバーデザインなど)をして、新刊として出して、売るためにあれこれ動いて、そうして納品にいく。返品を受けて、消しゴム作戦をして、もっと売ろうといろいろ試す。経理も在庫管理もある」。これだけ多様な仕事が関わっているとは、この商売をするまで考えもしなかったと思うのだ。

 まぁ現実はここに書かれない苦労がたくさんあるだろうし、とにかく本の売れない時代に入っているから、もっともっと厳しいだろうなと思う。著者の出版社であるアニカから出だされている本は、私のジャンルじゃないので、手にすることはたぶんないだろうけど、でも頑張って欲しいなと思った。もしかしたらここで出された本といつか出会うことがあるかもしれない。

 最後にネットと本の関係を著者も述べているので、そのことを書きたい。たとえばオンライン書店の存在をどう考えるかである。確かにオンライン書店の売上がリアル書店を食っているというのが、今言われている現状だろう。だからといって「そんなに売れているのか。みんな、そんなにオンライン書店で買うのか、と思う」と著者は疑問を持つ。
 こういうのは結局どこに立つかでものの見方が変わってしまうものだろう。著者のようにリアル書店を主に相手にしている、せざるを得ない(アマゾンで相手にしてもらえなかった経緯がここに書かれている)から、そんなにオンライン書店で売れているのか、と疑問を持ってしまうのだろう。
 また好みの問題もある。むしろこれの方が強いかもしれない。書店が好きで、棚を眺めながら何か面白い本はないかなと探すのが好きな人であれば、「けっ、何がオンライン書店だ!」と言いたくなるであろう。逆に近所に本屋さんがないか、あってもしょうもない本しか置いていないと感じればオンライン書店になびくであろう。あるいは忙しく動き回っている人は、本屋に寄る時間なんかないよと言い、目の前にあるパソコンで本を注文するであろう。そういうことなんじゃないかと思う。
 著者はオンライン書店の美点ばかりを絶賛する姿勢に疑問を持つものだから、一つのジョークを披露する。ネットの利用状況調査したところ100%という結果となった。それはインターネット上のアンケートだったからだという話だ。オンライン書店の隆盛ばかりを強調する姿勢はこれと同じじゃないかというのだ。私はリアル書店の出身なのでこれに一票あげたいところである。けど要はうまくオンライン書店もリアル書店も付き合っていけばいいだけのことだろう。
 電子出版にしても同じである。それがいいと思う人はそれを利用すればいい。逆に紙に印刷されたものがいいななら、今の本の形態を愛すればいい。著者のように本の出版にこだわるなら、まして苦労して問屋との取次口座を持った以上その恩恵に浴したいものであろう。電子出版には未来を感じるけれど、私も最終的には本の方がいい。


評価
★★★


書誌
書名:日本でいちばん小さな出版社
著者:佃 由美子
ISBN:9784794967091
出版社:晶文社 (2007/05/01 出版)
版型:242p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年04月14日

吉村昭著『わたしの取材余話』

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 吉村さんの新刊を読む。新刊といっても、もう吉村さんは亡くなられているので、新たに書かれた随筆ではない。以前どこかで寄稿されたものを寄せ集めて、未収録本として出された本だ。それまでいくつかある吉村さんが歴史小説を書く上で、取材されたことを小説とは別な形で書かれたものである。要するに“余話”だから、余った話である。
 とはいっても、“ついでに”といったものではなく、小説の舞台裏や小説では使われなかった話など、それはそれで滋味があって、私は結構好きなのである。

 この本で一番ページ数をさいているのが「『心臓移植』取材ノートから」である。これは日本で始めて心臓移植が行われた札幌医大の取材ノートである。吉村さんにはこの心臓移植を扱った『消えた鼓動』という著作がある。
 札幌医大の心臓移植には様々な疑問点があり、純粋に医療という側面だけでなく、事件として扱われる側面がかなり多いことがここでも書かれている。
 たとえば心臓を提供した山口義政さんは溺れて心肺停止の状態になり、救急車で運ばれた。その搬送中、救急車が前の車を追い越しカーブを曲がったとき、対向車が向かってきたので、救急車は急ブレーキをかけた。その時救急車の中で人工呼吸を施していた救急隊員がそのその急ブレーキで前につんのめり、自然と人工呼吸をしている手に力が入った。それによって山口さんの呼吸が回復したというのである。治療の当たった医師は「生命に関わることはない」と判断し、回復が期待されたという。
 その後山口さんは札幌医大に運ばれたあと、心肺停止、脳波も平坦になったとして死亡が確認され、心臓が摘出されたのである。(実は脳波は取っていなかった)
 山口さんは当然変死扱いとなるので、警察による検死が行われた。検死に当たった医師は心臓移植に立ち会った医師であった。警察は山口さんの胸部に大きな絆創膏が貼られているのをいぶかしく思い、それをはがしてみるとメスの切開痕があった。これは何かと立ち会った医師に聞いてみると、医師は心臓蘇生のため、胸部を切り開き直接心臓をマッサージしたための切開痕だと説明する。実はこの時山口さんの遺体には心臓がなかったのである。医師はこの時嘘をついていた。(後で訂正がある)
 一方心臓の提供を受けた宮崎信夫さんの病状は、外科で軽い僧帽弁閉鎖不全症と診断されいた。心臓移植を執刀した和田寿郎教授は宮崎さんの心臓を「箸にも棒にもかからぬ絶望的な状態」ではなかったのである。
 吉村さんは取材で、札幌医大の心臓移植にはこうした不可解な点が数多くあることで、功を焦った和田寿郎教授の不要な手術だったのではないかということを匂わすが、そうだとは言いきらない。ただこうした事実がありますよと、ここではあくまでも取材ノートとして明らかにしているだけである。これは吉村さんの姿勢である。この本の最後で吉村さんは自分が書いた歴史小説で自分が取る姿勢を次のように書いている。

 「歴史小説は、その背景となった時代の性格を裁断するという役割りもになっている。方法としては、作者が表面に出て自ら解釈を明確にすることと、史実を記してその判断を読者にゆだねることの二つがある。
 私は、後者の立場に身をおいているが、それは多分に自分の素質にもとづくやむを得ないものだと思っている。
 あらゆる事象を分析し、それによって一つの解釈を生み出す能力は私にはなく、基本的に物事はすべて漠としたもので、割り切った解釈をすれば、必ずなにかの誤りが生ずる恐れがある、と考えるからである。その点、私は臆病であり、自ら語ることはせず、ひたすら読者の思い思いの判断に一方的にまかせるという、一種なげやりな姿勢をとっている」

 これは多分吉村さんの歴史小説だけでなく、たとえばこの心臓移植の話にしても、表に出なかった事実を明らかにすることはするけれど、それをどう考えるかは吉村さんがしないのと同じであろう。
 また歴史小説の小説としての折り合いのむずかしさがここに書かれている。吉村さんは学生の頃「事実の中には、小説は無い。事実を作者の頭が濾過し抽象化してこそ、そこに小説が生まれる。カミュの『異邦人』の価値は、二十世紀の抽象小説であることだ。川端康成の小説も、畢竟作者の頭脳によって抽象された美であり、断じて現実美ではない。秀れた小説は僕達の理性を納得させ、感性を納得させてくれる」と学生らしい青臭い文章で書かれている。けれど基本的に吉村さんは、今でも小説のあり方はそうあるべきと考えているという。
 となると歴史小説はどうなってしまうのであろうか。歴史と冠するかぎり、歴史小説は史実に忠実でなければならないはずだ。もし史実のみに固執すると、その羅列に終始してしまい、小説としての性格は失われてしまうことになる。だからといって史実を動かしてしまうと歪みが出てくる。この点が歴史小説のむずかしさだというわけだ。そこで吉村さんが取られる姿勢は、史実にあくまでも忠実ではあるけれど、人物がその時何を思い、そうした史実にあることを行ったのか、それを人間として自然な形で表現をすることで、小説の持つ性格と歴史小説が負わざるを得ない史実との整合性をつけているのではないだろうか。それが歴史小説を書く醍醐味でもあるような気がする。だから史実では大して問題にならない細部が吉村さんには必要になり、それを取材で得ることで、人間味を加味していく。

 余話として面白かったのは、吉村さんが江戸城のことを調べているときの話が面白かった。四谷で深夜、土木作業で働いていた人が酒を飲んで皇居のお濠端で寝入ってしまった。しばらくして皇宮警察が心配してその人のことを見に来た。昭和天皇がお濠を隔てて土手に横たわっている人を見て、「倒れている」と言って心配され、皇宮警察が走って来たらしい。
 その人はお濠を隔てた皇居の石垣の上に昭和天皇がお立ちになっているのに気がつき、元霞ヶ浦航空隊の整備兵だった彼は、仰天して軍隊式に腰を折って最敬礼すると、天皇は手をふっておられたという。思わずあの天皇ならお濠の石垣に立ってこちらを見られていたこともあっただろうなと思えるエピソードである。最敬礼した後、手をふっておられたというのが、昭和天皇の人間性の一面を見るようである。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの取材余話
著者:吉村 昭
ISBN:9784309019765
出版社:河出書房新社 (2010/04 出版)
版型:233p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年04月12日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『テロリスト』

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 ついにこのシリーズ最終巻となった。最後は、今までこのシリーズで出て来た人物たちが総登場となる。テロリスト対策で全員がかり出されるといった感じだ。ただ話は単にテロ対策の話だけでなく、他の事件がいくつかあって、最後はテロ対策と話がクロスしていく。
 まず銀行強盗の容疑で、18歳の未婚の母、レベッカ・リンドの裁判で、マルティンベックが弁護側の証人として出廷する。弁護士のブラクセンによって、彼女が誤解によって銀行強盗にされてしまった経緯を説明される。
 ことのきっかけは、彼女の夫に会いに行くため渡米する費用を銀行に借りに行ったことから始まる。その時いつも携帯している園芸用ナイフを脅しだと行員が勘違いしてまったことで、彼女が銀行強盗にされてしまったと事件の真相が明かされる。
 もともとリンドはスウェーデンの社会体制に批判的だったし、社会システムにうとい生活をしていたので、行員が彼女を銀行強盗と勘違いし、彼女の持っていた大きなバックにお金を詰め込んだので、彼女は銀行でお金を借りることは簡単なことだとしか感じなかったのである。
 一方スウェーデン警視庁幹部は、秋にスウェーデンを訪問する米国上院議員の扱いに頭を痛めていた。そのため要人警護体制の視察のためグンヴァルト・ラーソンを某国に派遣した。結局ここの大統領は国際テロ組織ULAGに暗殺され、ラーソンもその爆破現場で事件に巻き込まれるが、そのテロ集団のテロのやり方を学習し、今度ウェーデンに訪問する米国上院議員のテロ対策に応用する。
 マルティン・ベックはその上院議員の警備対策本部の責任者にされる。が、ベックは目下別の殺人事件の捜査に関わっていた。映画の監督であったヴァルター・ペトルスが愛人宅で撲殺されたのであった。ペトルスが自らは有名な映画監督だと自称していたが、制作された物は有名になりたい少女などたぶらかして出演させるポルノ映画であった。当然いかがわしい部分がいくつか出てくるが、結局その映画に出演した女優の一人が、ペトルスの自宅の庭師で運転手であった男の娘だと判明する。男はヴァルター・ペトルスが一人娘を薬漬けにして、ポルノ映画に出演させたことを恨み、ペトルスを撲殺したのであった。
 事件が解決したことで、ベックは今度米国上院議員に対するテロ対策に本格的に乗り出す。国際テロ組織ULAGの要人暗殺方法が主にパレードをしている要人の通り道に爆弾を仕掛ける方法であった。テロリストは現場にいる必要がない。なぜならそこを通るのをテレビやラジオで確認することが出来るからで、その時離れたところで遠隔操作をして爆弾を爆発させればいいのだ。そのことをベックはラーソンから聞いて、トリックを仕掛ける。パレードの放送を15分ほど遅らせるのである。テレビやラジオで確認してテロリストが爆弾を爆発させたときは、もう上院議員はその場所を通過していたのである。
 ところが上院議員がスウェーデンの前王の墓所に来たとき、一人の少女が上院議員と一緒にいたスウェーデンの首相に銃を発射する。首相は即死であった。少女の名前はレベッカ・リンドであった。
 レベッカ・リンドは銀行強盗の容疑で裁判にかけられた後、住んでいたところを追い出され、子供と一緒に友人の家を点々としていたが、こんなことになる社会を作った張本人がスウェーデンの首相だと思い、彼を殺害すれば、もう少し社会がよくなるのではないかと思いはじめる。
 もともとレベッカ・リンドがアメリカに渡りたかったのは、自分の夫が脱走兵であり、アメリカに帰って刑に服していたからであり、その夫が自殺したことで自暴自棄となってしまっていたのであった。

 ということで、このシリーズを全巻読み終えた。私はこのシリーズを昔読んで面白かったという思いがあって、今回面白い本としてこのシリーズを紹介したくて再度読み始めた。しかし今は失敗であったと思っている。というのも当時夢中になって読んだ本でも、時間がたって読み返してもまた面白いとは限らないことを改め知らされたからであった。つまり読む側が、それ以降いろいろな本を読んで、変わってしまい、すれてしまったものだから、様々なところで疑問を感じることが多くなったのである。だから「これはどうかな?」と思っちゃうのである。鼻につくことが多くなってしまったのである。そのギャップが大きいものだから、こんなはずじゃなかったと感じて、このシリーズを読んでいた。
 たとえばこの本は1年に1作として10年間書かれたのだが、その間スウェーデン社会の変遷が悪い方へ傾くことを嘆くことに多くを費やしている。そのためどうしても政治色が強くなってしまう。今回それを強く感じた。昔はそんなことはある意味どうでもよく、むしろ話に展開を純粋に楽しんでいたような気がする。しかし今回はそれが妙に鬱陶しく、それがためにこの本は推理小説より社会派小説なのかと思えてしまうのであった。その点が残念で仕方がなかった。
 やっぱり昔読んで面白かった本はそのままにして置く方がいいのかも知れない。今読み返してしまうと、いろいろあらが見えてしまい、それが気になってしまう。面白い本だった、あるいは感動した本だったという思い出が無残に壊れていくのは結構寂しいものである。昔面白かったと思った本がまた読めるという期待があっただけに、この結果が残念であった。いくら読み返しても色あせない話というのは少ないのかも知れない。そんなことを思った。


評価
★★★


書誌
書名:テロリスト
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910904
出版社:角川書店 (1979/02 出版) 海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:398p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月07日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『警官殺し』

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 ついにこれでこのシリーズ9作目となった。
 話の内容は、独り暮らしをしていた女、シグブリート・モードが行方不明になった。失踪したのか、殺されたのか状況は分からなかったが、狭い町である。この町で彼女の行方を捜していた駐在所長のヘルゴット・オーライはシグブリート・モードは殺されたものとにらんでいた。そしてシグブリート・モードの近所に住んでいたのがあのロゼアンナを殺した犯人、フォルケ・ベンクトソンであった。彼は出所後ここで暮らしていた。当然彼はシグブリート・モードが行方不明に関わりがあるものと見られ、捜査に協力したマルティン・ベックとコルベリは、上層部の意向で彼を逮捕し、尋問を始めるが、確たる証拠が出てこない。シグブリート・モードと一緒にいたところを目撃されているが、その後が分からない。確かに彼は今でも女性に対して潔癖症であり、男を誘惑する女を敵と見なしているところは昔と変わらない。
 そして近所の森をハイキングしていたものが、シグブリート・モードの手が地面から出ているところを発見する。彼女は絞め殺され埋められていたのであった。土の中にはボロきれも発見され、ニッケルの削りくずがついていたことが後で判明する。フォルケ・ベンクトソンは疑われ続けるが、相手をするベックやコルベリは今ひとつ確信が持てずにいた。
 ベックとコルベリは、シグブリート・モードの家を捜索し、そこでラブレターらしきものを見つける。そのラブレターには「クラーク」という署名が入っていた。どうやらシグブリート・モードはクラークと付き合っていたようであった。

 そん中マルメ警察管区内で無灯火の不審車両を停止させたパトカー警官が射殺されるという事件が発生した。警官を撃った犯人の一人はその場で射殺されたが、一人はその車で逃走した。逃走したキャスパーは他の車を盗み乗り換え、捜査網を突破した。その車を盗まれた男がシグブリート・モードを絞殺したクラーク・エヴァート・スンドストレームであった。それを見つけたのはコルベリであった。実はコルベリはそれまでシグブリート・モード殺しの捜査をベックと捜査をしていたのだが、警官の射殺事件が起こった時点でこちらの捜査にかり出されたのであった。
 この時コルベリはもう刑事の仕事に見切りをつけていた。本来市民の生活を守るための仕事であった警察が、逆に人を抑圧する機関にに変質してしまったことを感じており、そのことに深く恥じるようになってしまったのだ。こんな状態ではもう警察は勤められないと判断し、退職願を提出した。

 この話はそれまで捜査が行き詰まってしまっても、まったく別のところで偶然の出来事や発見がその事件の糸を結びつけるところがある。たまたま偶然が起こったことで話がつながるのだ。正直これってあり?と思わなくもない。もっともこの傾向はこのシリーズの特色となっているところがあるけれど、どこか不自然な気がする。もしこれらが起こらなければ事件は完全に手詰まりとなってしまう。まぁ、世の中ってそういうもんだよ、と言ってしまえばそれまでだが・・・。
 それとこの物語は昔の事件の犯人や場所を登場させるところに特色がある。たとえばシグブリート・モード殺しの犯人ではないかとして、ロゼアンナを殺した犯人、フォルケ・ベンクトソン出したり、『蒸発した男』の犯人も刑期を終えて、名前を変え、新聞記者として再度登場させたりする。「マルティン・ベックは、奇妙な運命のめぐり合わせにつくづく感じ入っていた-過去に扱った二つの難事件の犯人たちと自分たち二人が、突然、それも忘れた頃になって、アンダスレーヴのような辺鄙な村で再び顔を合わせようとは」と書いているが、そういう意味では懐かしくもあるのだが、ただそれを持って話を読ませる手法は少々疑問を感じてしまう。
 もともとこのシリーズは1年に1作書かれてきたので、このシリーズで9年目になるわけで、その間の8年間の重みを感じさせようとしているのであろうか? 今回懐かしさもあってこのシリーズを読み始めたのだが、いろいろ考えることがあった。そのことは後1冊読んで、このシリーズが完結するので、そこで思っていることを書こうと思う。そうそう、サボイホテルのバーも登場したっけ!

 あと『唾棄すべき男』で私はいつもドジを踏むパトロール警官で、グンヴァルト・ラーソンが「またお前等か!」と呆れる警官二人が射殺される、と書いたが、射殺されたのは一人だけで、もう一人は膝を打ち抜かれたことを知ったので、訂正しておく。生き残った彼は新しパートナーとまたパトロール警官をやるが、やっぱりドジを踏み、グンヴァルト・ラーソンに怒鳴りつけられる。


評価
★★★


書誌
書名:警官殺し
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910843
出版社:角川書店 (1978/04 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:363p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月06日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『密室』

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 前作で私はマルティン・ベックのとった行動が、ベックらしくないと書いて終えた。今回はベックが撃たれた傷の治療後、復帰するところから始まるが、やはりベックは撃たれたときのことが夢に出てきて何度かうなされる場面がある。その後ベックはあの時の行動を次のように考える。

 1971年4月のあの運命の日の出来事については、ベック自身、十分に分析する時間があった。その結果、自分の行動は誤っていた、道徳的にも技術的にも誤っていた、という結論に早くから達していた。その見解は、自分が認めるより早く、自分の同僚たちも抱くに至っていたということも知っている。彼は愚かな振舞いをしたからこそ射たれたのだ。

 やっぱりマルティン・ベックはあの時の行動を誤っていたと後悔していたんだと思った次第だ。そうでなくちゃまずい。

 さて今回の話は、そのベックが撃たれて、療養した後、現場に戻るところから始まる。ちょうどその頃、ストックホルムの銀行に女性と思われる拳銃を持った強盗が入り、1人を射殺し現金を奪い逃走する事件が発生した。
 当時ストックホルムでは銀行強盗が多発していて、ベックの同僚のコルベリやグンヴァルト・ラーソンらは、対策本部にかり出されていた。コルベリはベックの復帰の手始めとして、リハビリも兼ねて、密室の中で死亡したスヴェードという老人の事件をやってみろと言って、そのファイルを渡す。ベックはその老人のことを調べ始める。老人は死から二ヶ月経って発見され、しかも完全な密室で死んでいたものだから、警察は孤独な老人の自殺として片づけられようとしていた。しかしスヴェードは銃で撃たれて死んでいた。ベックはスヴェードが自殺であった可能性があったはずがない。銃器なしで自分を撃つことがそう簡単なことであるはずがないと思うのであった。しかも部屋には銃器と呼べるものが一挺もなかったのだ。これは殺人事件であると確信する。

 一方銀行強盗の対策本部では、容疑者として、マルムストレーム、モーレンの二人組みの仕業でないかと疑う。そして彼らに食べ物など物資を調達する人物としてモーリッソンという人物がいた。この男たまたま親切心で横断歩道で目の悪い老人を助けていたとき、横断補導員に泥棒と勘違いされる。結局誤解であったことで解放されるのだが、たまたまそこに麻薬警察犬が彼の持っていた食品に何かを嗅ぎつける。食品の中に麻薬が隠されていたのであった。
 窮地に陥ったモーリッソンはマルムストレームとモーレンに居場所と、次に襲う銀行のなどをしゃべることで、自らの罪から逃れようとする。捜査本部を指揮していたブルドーザー・オルソンは歓びモーリッソンの条件を呑むが、アパートにはマルムストレームとモーレン居ず、ストックホルムでは銀行強盗が起こらず、マルムで起こった。
 モーリッソンは釈放されるが、その後をコルベリやグンヴァルト・ラーソンは彼を尾行する。モーリッソンの隠れ家を見つけ、地下室であの銀行強盗で使われた銃と、そのとき女性が着ていたのと同じ服、カツラを発見する。このため銀行強盗をし、一人を射殺した犯人はモーリッソンだとされた。
 実はこの銀行強盗はモーリッソンと当時付き合っていた女の仕業であった。女はモーリッソンのアパートに一人で入り、そこで銃を発見したのであった。女はそれまでの生活苦から脱出するためには銀行強盗をするしかないとして、その行動を起こしたのだ。その時一人を撃ってしまったため、銃を元の場所に戻し、着ていた服、カツラもモーリッソンのいる部屋の地下室に置いて行ったのであった。

 マルティン・ベックの方は、スヴェードが外から射殺され、彼が倒れるときその反動で扉が閉まってしまい、完全密室となったことを知り、銃が発砲された場所を綿密に調べると、そこの薬莢があった。その薬莢はモーリッソンのところから発見された銃から発射されたものであることが鑑識から判明する。スヴェードはどうしようもない男であって、吝嗇家であった。個人で当座預金を持ち、定期的に振込があった。モーリッソンはスヴェードから脅され、金をむしり取られていたのであった。そしてモーリッソンはスヴェードの脅しに我慢できずに、最後に彼を殺したのであった。
 ベックはモーリッソンを尋問し、彼はスヴェード殺しの犯人だと自供するが、一方で銀行強盗は濡れ衣だと主張する。しかし聞き入れられず起訴される。
 裁判ではモーリッソンは銀行強盗で無期懲役となるが、スヴェード殺しは不問とされた。実はモーリッソンは銀行強盗は冤罪であり、スヴェード殺しの犯人だったのである。
 スヴェード殺しは不問とされたことで、それまであったベックの昇進の話が、まだは復帰が完全じゃないということになって、話は先送りとなった。ベック自身は現場に居たかったので、これはこれでよかったのだが・・・。

 この話はシリーズの中で『笑う警官』を凌ぐ傑作と訳者は言っているが、私にはどうも話が中途半端のような気がした。確かに話はそれぞれ込み入っていて、面白かったけれど、最後は消化不良の感が拭えなかった。


評価
★★★


書誌
書名:密室
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910676
出版社:角川書店 (1981/06 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:361p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月02日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『唾棄すべき男』

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 入院中の男が何者かに騎兵銃の銃剣で刺殺された。男は主任警部スティーグ・ニーマンであった。その刺殺死体は残虐そのものであった。
 マルティン・ベックはニーマンがどんな人物か調べ始めた。ニーマンに関してはベックの同僚コルベリが詳しかった。

 「きみの話を聞いていると、まるでスティーグ・ニーマンに関する生き字引みたいだ」

 「ああ、やつに関することなら、おれはあんたたちが知らないことも多少知っているとも。しかし、その話は後でいい。それよりまず、やつは最低の種類の警官、権威を笠にきた、無頼漢も同然の男だったことをはっきりさせとこうじゃないか。やつは警察全体の面よごしだよ。おれは同時代、同じ都市で、あんなやつと同じ釜のメシを食ったことを恥ずかしと思っているくらいなんだ」

 「“セレフからきた唾棄すべき男”、おれたちはやつをそう呼んでいたんだ」
 
 ベック等はニーマンの過去の捜査状況を調べていくと、ニーマンは自らの権力を笠に、民間人に対して、とんでもない行為に及んでいて、そのため法務省の護民官宛にニーマンに関する訴状が幾通も出てきた。その中に何通も訴状を出している巡査、オーケ・エリクソンがいた。
 ベックは同僚のフレドリック・メランデルを呼び出す。彼は伝説的な記憶の持ち主で、任意の特定の人間ないし主題について、自分が過去に聞いたり見たり読んだりした重要なデータを自在に選り分け、しかも淀みのない明瞭な語り口で説明出来る刑事であった。そのメランデルが言うエリクソンは次のようであった。
 彼の妻は糖尿病を患っており、いつもインシュリン注射器を持ち歩いていた。が、たまたま自分の子供を迎えに行くときその注射器を忘れてしまい、歩くことも出来ない状態になっていた。その時ニーマンがいた署の部下が彼女を麻薬で朦朧となっているか、泥酔していると勘違いし、警察に連れ込み、ニーマンは彼女を泥酔者用の独房にぶち込んでおけと命じた。そして彼女は独房で死亡した。
 以来エリクソンは人が変わり、ニーマンをはじめ誰彼構わず訴状を送るようになり、妻を殺したのは警察全体だと思うようになる。その後エリクソンは免職処分を受けた。エリクソンは射撃の名手であった。
 彼には一人娘がいたが、児童福祉局がその娘を彼から引き離した。エリクソンと一緒にいると娘の福祉上好ましくないという言う理由で。児童福祉局がそういう決定を下すに当たり、エリクソンの警察時代の上司に事情を聞き、それが決定的になった。何を隠そう児童福祉局の答申書に答えたのがニーマンであった。
 そして銃声が起こった。今まで何度かこのシリーズに出てきて、いつもドジを踏むパトロール警官で、グンヴァルト・ラーソンが「またお前等か!」と呆れる警官二人が射殺される。さらに警官が撃たれる。エリクソンは屋上から、警官を的にしてライフルで撃つ。 マルティン・ベックはニーマン刺殺事件を捜査しているうちに胸騒ぎを覚えていた。

 何か突拍子もないことが起きそうな気がしてならない。どんな犠牲を払ってでも阻止しなければならない突発事故が-

 とにかくベックたちはエリクソンのいる屋上に近づけない。しかしマルティン・ベックは自らが志願してエリクソンのいる屋上に上がり、撃たれてしまう。幸い弾はベックの身体を貫通し、出血のそれほどでなかったが、動けなくなる。ベックは自らの意識が遠のくなかで次のように思う。

 あの瞬間までベックは、自分はこの男を理解していると思っていた。この悲劇の責任の一半は自分にある、従って自分には彼に助けの手を差しのべる義務がある、と思っていた。けれども屋上の男は、もはやいかなる助けの手も届かない領域に入っていたのだ。この二十四時間のある時点で、彼は狂気の棲む世界、復讐と暴力と憎悪以外何物も存在しない世界に、決定的な一歩を踏み出してしまったのに相違ない。

 ベックを救助したのはコルベリとグンヴァルト・ラーソンであり、エリクソンは逮捕される。ただどうしてマルティン・ベックが一人でエリクソンに立ち向かわなければならなかったのか、しかも最終的にコルベリやラーソンが踏み込めたのだから、わざわざ一人で行く理由がないように思える。確かにベックはエリクソンがこうした事件を起こしたのはニーマンがいた警察であり、自分のその組織の中にいるのだから、責任の一端は自分にもあると思うのは分からないわけではないが、だからといってベックが一人でエリクソンと対峙するのは、これまでのマルティン・ベックらしくないように思えた。


評価
★★★


書誌
書名:唾棄すべき男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910591
出版社:角川書店 (1980/09 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:247p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年03月31日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『サボイ・ホテルの殺人』

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 またマルティン・ベックシリーズに戻る。第6作目である。スウェーデンの実業家のヴィクトール・パルムグレンが系列会社の重役たちの前でスピーチをしている最中、近づいて来た男にピストルで頭部を撃たれた。そして犯人は窓から逃亡した。
 パルムグレン傘下の企業は手広く事業をしていたが、アフリカなどに武器を輸出していたと黒い噂もあった。が、とにかくパルムグレンはスウェーデンの経済界の大物であった。
 その彼が殺害されたのである。警察上層部は嫌が上でも事件を重要視せざるを得なかった。彼の殺害が政治的背景があるようにも思えたからである。そこでマルティン・ベックがマルメのサボイホテルへ派遣される。
 事件は彼の事業内容による国際的トラブルか、それとも彼の部下たちの反逆による暗殺か、いくつかの糸はあるのだが、すべて途中で切れてしまい、捜査は行き詰まっていく。
 そうしているうちにマルティン・ベックはそもそもこの事件は政治的背景とか、ビジネストラブルとか、そういう厄介なところで起こった事件ではなく、もっと単純なところで起こった事件ではないかと思い始める。
 事件直後、犯人に良く似た男が、マルメからコペンハーゲンに向かう船の甲板で、黒い箱を持って佇んでいたという情報が入るが、その男が何者か特定することが出来ずにいた。犯人が使ったと思われる銃もいくつか特定されつつあったが、これもはっきりしない。
 そんな中コペンハーゲンから送ってきた事件リストの中に、浜辺を散歩している家族の息子が砂浜に打ち寄せられた黒い箱をみつけ、中身がサボイホテルの殺人事件で使われた銃のリストの中にあった銃が入っていた。その銃は射撃練習場で使われるもので、判読しづらいが名前も入っていた。
 浜辺で見つかった銃の持ち主、スヴェンソンは、以前パルムグレン傘下の工場で働いていたが、工場が閉鎖され、解雇されていた。さらに住んでいたパルムグレン所有のアパートも策略のよって追い出されてしまっていた。マルティン・ベックは事件の動機を次のように推理する。

 「その場合、スヴェンソンは相当長期間にわたって、踏んだり蹴ったりの目にあったという事実を想起する必要があると思う。これはただ単に自分の運が悪いのではなく、ある特定の人物、ないしは集団から不当にあしらわれた結果なんだと思いはじめたとき、彼の憎悪は偏執的な敵意にまで昂まったと見ていい。言ってみれば、一つまた一つ身ぐるみ剥がれていって、最後に丸裸にされてしまったようなものなんだから」

「そしてその集団の代表がパルムグレンだったというわけか」とマルティン・ベックと一緒に捜査しているのペール・モーソンが言う。

 犯人のスヴェンソンは逮捕後、「あいつを殺してやりたいと思ったことは、あの前にもあったと思います。といって、あらかじめ計画を練っていたわけじゃありません。ところが、あそこにああやって立っている彼の姿を見、自分がリボルバーを持っていることに気づいたとき、いまならあいつを射ち殺すことなど造作もないじゃないか、という考えがパッとひらめいたんです」と言うのであった。 事件は政治的背景やビジネストラブルではなく、一人の男の恨みから起こったもので、ベックが思った通り、単純な動機であった。
 この話で妻との仲が冷え切っていたマルティン・ベックは、別居生活を一人で始めたことが書かれている。別居生活が彼を元気にし、また射殺された昔の部下の恋人とのラヴシーンもあり、ガチガチの刑事ではないことを我々は知って、どこかホッとする。こういうのも人間味があっていい。


評価
★★★


書誌
書名:サボイ・ホテルの殺人
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910409
出版社:角川書店 (1980/09 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:304p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年03月15日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『蒸発した男』

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 マルティンベック・シリーズ第二弾。今回はスウェーデンが舞台ではなくハンガリーである。
 マルティンベックはせっかくの夏休みに上司のハンマルから呼び出しがかかる。外務省から依頼があって、スウェーデンの週刊誌の記者がブタペストで行方不明になっているというのである。わざわざ外務省が警察に依頼する理由はその記者アルフ・マトソンの行方不明が国際問題に発展する事態を避けたいからという。
 このあたりは少々古い話で歴史的な問題を含んでいる。第二次世界大戦が終わった後、著名なスウェーデン人が行方不明となった。当時スウェーデンではハンガリーの共産主義者の殺されたとか、ソ連の諜報機関に拉致されたとか、様々な噂が乱れ飛んだという。どうやら国際的諜報戦の匂いがするこの事件は、この本が書かれた頃でも、スウェーデンの作家や映画人の想像力を刺激していたという。実際ドキュメント映画が作成されようとして、その脚本をマイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻が書いたらしい。結局映画は放映されなかったらしいが、マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻がその時の取材を生かしてこの小説が書かれた。
 さて行方不明となったアルフ・マトソンを探し、マルティン・ベックがハンガリーに飛ぶのであるが、アルフ・マトソンはブタペストに着いて泊まったホテルから翌日違うホテルに移った後すぐ姿を消した。しかも荷物、パスポートを残して。
 マルティン・ベックは方々探し回るが、依然として行方がしれない。ただアルフ・マトソンが交際していたと思われる女性が判明するが、その女性もアルフ・マトソンを知らないといわれてしまう。そしてマルティン・ベックはある暑い晩散歩に出たときに何者かに襲われた。幸いマルティン・ベックは九死に一生を得て助かったが、襲った犯人を調べると、アルフ・マトソンはハンガリーで麻薬を仕入れに来ていたことが分かる。
 結局アルフ・マトソンはハンガリーには行っていなかった。スウェーデンで仲間に殺されていたのであった。アルフ・マトソンがハンガリーに麻薬を仕入れに行くのを知っていた犯人は、彼に扮してハンガリーに渡り、密かに帰っていたのであった。
 
 マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻が先に言ったように著名なスウェーデン人の行方不明事件を取材していた。だからこの小説でもそうした諜報事件として、話を展開できたのかもしれないが、そういう風にはしなかった。
 あとがきにおもしろことが書かれている。フレデリック・フォーサイスをどう思うか聞かれ、自分たちと作風が違うと言うのである。そう、この話をそういう国際的な諜報事件として扱うのではなく、(もちろんそれらしく匂わせておくのだが)、あくまでもスウェーデンでの痴話喧嘩の行き着く先にある殺人事件として物語をまとめるのである。普通の人間がフィアンセを侮辱され、かっとなって殺したという話にするのである。ハンガリーでの行方不明や麻薬の売人はあくまでも話のスパイスである。

 しかしやっぱり昔読んだ本の内容はほとんど忘れてしまうものだ。全体としてこのシリーズは面白かったという記憶が残っているが、個々の話の内容などほとんど記憶にない。だから読んでいて思い出すこともあるけれど、新たに推理小説を読んでいる感じになって再読したという感じではない。続いて次を読んでみようと思う。


評価
★★★


書誌
書名:蒸発した男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520054
出版社:角川書店 (1977/05 出版)角川文庫
版型:324p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月06日

若桑みどり著『イメージを読む』

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 ちょっと図像学(イコノグラフィー)の一端を知りたくなった。図像学とは我々が知っている有名画家の作品には何らかの意味が込められていて、それを読み解こうとするものである。それがどんなものなのか、この本は教えてくれる。読んでいて、なるほどこれら絵画にはそうした思想的背景があって、それが絵に反映していたのかと知った。
 私が絵画展など行って、その会場に入れば、まず最初にその画家たちの生まれた場所、時代背景の説明が必ずあるが、だいたいそこは、飛ばしてしまう。何故なら、もうそこで人混みが出来ていて、先に進めないからだ。さっさとお目当ての絵を見始める。そして絵を見て、きれいだとか、すばらしいとかいった直感で感じたことしか思わない。それで通り過ぎてしまう。
 しかしよく考えてみれば、そうした時代背景は画家の作品から出てくる思想を読み解く上で重要だ。本当はおろそかにしてはいけないものだ。画家がその絵を描くに当たり、画家が生きた時代にどうしても縛られてしまうことが必ずあり、そことが絵に反映することとなるからだ。そのことを著者は次のように言っている。

 「たとえばある画家を考えてみてください。その画家は特定の社会に生まれて、その社会のなかで生活し、そこにいる人やそこにある作品から学び、そこにいる人たちに絵を売って生きているわけですから、自分の生きている社会や時代から無関係ではいられません。その先生や、見た作品から教えられた技術や、その当時のテクノロジーから生じたテクニックやメディア、ものの考え方や共通のイメージで絵を描くわけです。
 そういうわけで、すべての画家は、個人的な様式と同時にその時代、十二世紀なのか二十世紀なのか、そういう時代の特徴を否応なくもち、また、西洋人なのか日本人なのかという、ある民族や文化の長い底深い伝統からくる特徴をもっています。それらを全部ふくめて様式といっているわけです。したがって、様式とは、個人的なものであると同時に社会的なものであり、また歴史的なものなのです」

 だから「美術史は、文化人類学や考古学や歴史学や宗教学や神話学や文献学や、その他のもろもろの学問と結びついています。こういうふうにもろもろの学問と関連しながら、個々の学問の領域をこえて幅広く研究することが必要な学問のことを学際学といっていますが、美術史は学際学的な学問だ」と言っているのは、なるほどそうだなと思う。
 そして描かれた絵には、描かれる理由が必ずある。絵画も彫刻も創作である以上、それを創り上げなければならない理由が芸術家たちにはあったはずだ。

 「また絵というものが、芸術家の芸術についての理論の実践の場であり、思想の表現の場であり、いずれにせよ闘争的なものでもあった」

 それを読み解こうとするのが、図像学(イコノグラフィー)なのである。この本で著者が言う美術史なのである。「美術というものは言語ではなく、非言語的な「表現」(なんらかの目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちによって表現すること)の行為であり、またその結果としての作品」なのだと言う。それをどう読み取るか、そのサンプルとして出されたのが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」デューラーの「メランコリアⅠ」、ジョルジョーネの「テンペスタ(嵐)」である。

 以上を踏まえて、時代による“図像の変化”で考えてみる。たとえば「最後の審判」を例に取る。
 信仰が安定していた時期(九世紀から十五世紀までの東方ビザンティン帝国の芸術や十二世紀頃までの西ヨーロッパの芸術)は、この「最後の審判」の構図は、真ん中に裁判官であるキリストがいて、左右にとりなし(弁護役、仲介役)をする聖母と聖ヨハネがいて、祝福された魂と罰せられた魂がいるという公式で、それらは神の最終的な意志の実現を厳かに知らせていて、それほど恐ろしいドラマチックな表現じゃなかった。それを何百年にわたって表現していた。ところが何かの関係で図像の公式が変わる。十三~十四世紀になると様子が違ってきて、善人が祝福されて行く天国の安らかさに比べて、罪人が罰せられて落ちる地獄がどぎつく描かれるようになる。地獄では非常に残忍な拷問や虐殺のような情景が描かれる。
 さらに初期資本主義が盛んになってくる時期になると、キリスト教が禁じている様々な現世利益の追求や富や地位を築く信者が増えてくると、さらに地獄は生き生きとした残忍なものになっていく。
 そしてミケランジェロの「最後の審判」となると、それまで善人と罪人との構図がはっきりしていた頃から比べると、その隔たりが不明確になって行く。ミケランジェロの「最後の審判」のイエスの姿を見ると、はそれまであった安定や平和や秩序はすでになくなり、はかりしれれぬ激変と破局が読み取れるという。ちょうどこの絵が描かれた頃はカトリックとプロテスタントが争っていた時期であり、カトリックの教えが揺らぎ始めた頃だからだ。


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 このように一つの絵の題材であっても時代によって図像の変化があり、その変化となった社会的背景や思想の変化を読み取らなければならないことを教えてくれるというのだ。


 さて個人的に言って、やはりデューラーの記述が一番興味がある。デューラーはこの本であげられているミケランジェロやダ・ヴィンチとほぼ同世代の人であったが、決定的に違うことがある。デューラーはドイツ人であることである。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した地域はアルプス以南で、ギリシア・ローマ世界であり、古代文明に接ぎ木されたキリスト教世界である。ローマカトリックの神学者たちによって築き上げられた壮大な形而上学的世界であった。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍したルネサンスはカトリックと結びついたものであった。
 ところがドイツはルターによる宗教改革が起こった地域である。ルターはカトリック教会を否定した。ということはドイツではイタリアで起こったルネサンス閉め出したことになる。そしてデューラーはルターの共鳴者でもあった。
 当然ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品とは違うものがデューラーの作品の背景にあることになる。彼らとは違ったイデオロギーを持っていた。(もしかしたらダ・ヴィンチとは似ているところはあるのかもしれないが)そこで著者はデューラーの「メランコリア」をあげてその異質の背景を探ることとなる。これが興味深かった。

 この「メランコリア」が示す内面の不思議さはかなり面白い。


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 版画が否定的なものの考え方を示していたり、そうかといって肯定的見られるところもあって、その絵を見る見方によって大きく変わってしまうようである。
 まず否定的な面を見てみる。メランコリーとは憂鬱質のことをいう。ところでアリストテレス以来の万物は火、空気、水、土という四つの元素から成り立っている考えがあった。そして人間の個性を作っている気質もこの四つの元素の支配によるものと考えられた。すなわち軽くて陽気な多血質は空気、激しく怒りっぽい胆汁質は火、怠惰で不活発な粘液質は水、暗くて冷酷な憂鬱質は土が支配していると考えられていた。
 もともとこの四気質論(四性論)は医学の一種で、中でも憂鬱質はそれだけでも立派な病気と見なされていた。また中世では憂鬱質は七つの大罪中の一つである吝嗇の罪と結びついて考えられていた。それはどうしてか?
 この「メランコリア」の人物のポーズはロダンの「考える人」と同じポーズである。このポーズは物思いに耽る分、元気なポーズとは言えない。すなわちこのポーズは外側の現象にダイナミックに対応しようとするアクティブな姿勢ではなく、むしろ外側からの刺激を一切遮断して、自分の内部の心の動きに省察を凝らそうとしている。じっとしていることは究極の吝嗇な人間の姿である。そして吝嗇の極みが高利貸しである。中世キリスト教では、高利貸しは、怠惰で、人の金をくすねる犯罪者扱いであった。だから憂鬱質は吝嗇の罪と結びついて考えられていたのである。実際この版画には人物のスカートのところに高利貸しの象徴である鍵束と財布が描かれている。
 しかし一方でこの版画には大工道具が描かれている。半ば放り投げ出された感じである。無用に見える。手に持っているコンパスさえ、何も描いていない。そのことがこの人物が物思いに耽るというか、考え込む姿勢を、こうした道具を使う仕事よりも、優位にあることを示しているともいえるのである。さらにこの人物に翼をつけたことで、その人物が思考する姿勢を、人間の思考を潜在的能力として表現していることにもなるのだという。
 驚いたことにこの「メランコリア」の人物は男ではなく女であるということだ。

 デューラーといえば「人体比例理論」(人体の比例が大宇宙と小宇宙を結びつけているという理論)が有名だが、そういう考え方が出来るのは、ダ・ヴィンチ理論を吸収したものとはいえ、宇宙を作っている元素と人間を作っている元素が同じものであり、人間の運命は宇宙が関連しているという哲学がかなり影響したんじゃないかと思えてくる。
 芸術というのは見た目だけでなく、その奥にあるものを考えることが出来れば、さらに興味深いことを我々に提供してくれているんだと改めて感じた。一人の芸術家の作品を鑑賞するには、その奥底に流れるものを分からないと、真の意味で作品を鑑賞したことにならないのだろう。これから何度芸術作品を見る機会があるか分からないが、このことちゃんと踏まえておければと思った。


評価
★★★


書誌
書名:イメージを読む
著者:若桑 みどり
ISBN:9784480089076
出版社:筑摩書房 (2005/04/10 出版)ちくま学芸文庫
版型:254p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2010年03月04日

ダン・ブラウン著『ロスト・シンボル』

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 やっとラングドンシリーズの三作目が日本で発売された。期待して読んだ。が・・・・、あまり面白くなかった。というか少々この手の話に食傷気味なのかもしれない。それと今回は前作二作と比べて、いくらダン・ブラウンがワシントンというところがローマなどと比べても引けを取らない魅力的な場所と言っても、読む側が最初からそれほど魅力的なところと思っていないから、「そうかな?」と感じてしまう。

 話はラングドンが恩師で親友であるフリーメイソン最高幹部のピーター・ソロモンから急遽講演を頼まれ、ワシントンにある連邦議会議事堂に駆けつける。しかしそこにあったのはピーターの切断された右手首であった。指先にはジョージ・ワシントンを神格化した天井画があった。ピーターを人質に取った全身刺青の男のマラークは、古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵―"古の神秘"―へ至る門を解き放て、とラングドンに命じる。
 ここからラングトンはピーターの妹キャサリンとともに、以前にピーターから預けられたフリーメイソンのピラミッドの一部から前作同様さまざまな暗号を解きながら、CIAにあらぬ疑いをかけられて追われながら、"古の神秘"の正体を明かすべくワシントン一帯を駆けまわる。

 その預けられたピラミッドを入れた箱に1514の後にAとDをデザインした記号があった。これである。


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 それを見たとき私はすぐ分かった。これはアルブレヒト・デューラーが自分の作品に書いたものであった。これを見たとき正直言ってドキッとした。なんでここでデューラーが出てくるんだ?と思った。これはデューラーの「メランコリア」を示していた。


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 この版画は実は30年前に池袋にあった西武美術館で実物を見ている。思わずその時買ったカタログを本棚から取り出した。そして「メランコリア」を眺める。確かに版画の右上に魔方陣がある。気がつかなかったなぁ。そしてここに書かれている数字を縦でも横でも斜めでも足してみると34になる。しかもこの版画が作られた1514年の数字が一番下の2番目と3番目に入っている。本当にそうなのか思わずこのカタログを繁々と見てしまった。
 実を言うと私はデューラーに興味を持っている人なので、デューラーが使われただけでちょっとポイントが上がりそうになったけれど、結局大した役目を負っていなかったので、“残念!”

ここからはネタバレ注意!

 さて"古の神秘"とは何か?全身刺青の男のマラークとは誰か?そしてマラークは何故古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵を求めるのか?まずマラークはピーターのどら息子のザカリーだろうとすぐ予想がつく。ソロモン家は代々長男にその財産を譲る。財産はお金かそれとも知恵か、どちらかを選択させる。ザカリーはお金を選択したが、紆余曲折の上、フリーメイソンの知恵も求めるようになる。
 フリーメイソンが代々伝えてきた知恵が"古の神秘"であった。ピーターがラングトンに預けたピラミッドにはその"古の神秘"が隠されている場所が印された地図でもあった。
 例によって比喩が多くて、何が何だかよく分からない部分があるのだけれど、多分こう言っているんじゃないかと思うことを書いてみる。
 "古の神秘"とは「失われたことば」であった。だいたいどんな文化にも、独自の“ことば”があり、それを印したものが書物であった。その書物はキリスト教徒にとってみれば聖書であった。そう、聖書に"古の神秘"が印されていたのである。
 救出されたピーターは最後にラングトンに言う。

 「聖書は、歴史を通じて古の神秘を受け継いできた書物のひとつだ。その文面はわれわれに秘密を懸命に教えようとしている。分からないか?聖書の“暗き語”とは、秘密の智恵のすべてを密かに伝えようとする古代の人々のささやき声なのだよ」

 そこに書かれている本当の意味は、人間の果てしなき潜在能力を象徴として神を讃えたことであった。言ってみれば古代の人々は「人間≒神」と考えていたといっていい。人間は神の“被造物”ではなく、神と同じ“造物主”であるのだ。だから人間は神と同じくらいの能力を有することとなる。そして人間はその精神によって物質を変容しうるエネルギーを生み出せるというのである。
 ところがいつの頃からか、そうした人間の潜在能力を認めていた古の考えはいつの頃からか失われた。だから私たちは人間は神が作った“被造物”だということになってしまった。そのことは古の象徴は時とともに失われてしまったことを意味する。
 聖書は本来の人間の姿、能力を正しく導いていたのである。だから聖書はフリーメイソンの至宝であったのだ。聖書には人間の潜在能力を"古の神秘"として書かれていたのであった。

 多分こんなことを言っていたんだろうなと思うが、基本的に図像学(イコノグラフィー)というのはよく分からない。そうそうこの本を予約しておいたらこんなピンバッジがついていた。ついでにあげておく。


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評価
★★★


書誌
書名:ロスト・シンボル〈上〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916272
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:351p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

書誌
書名:ロスト・シンボル〈下〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916289
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:356p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年02月05日

本多孝好著『ALONE TOGETHER』

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 これで本多さんの著作は全部読んだことになる。この本は不思議な本であったが、面白かった。

 人は義務や責任や、世間体、あるいは世間の常識などに縛られて、本当はしたくない、関わりたくないのに、やらなければならない、あるいは関係を持たざるを得ないところがある。それらから解放されればどんなに楽であっても、それを許さない型どおりの義務や常識、責任などに縛られやむなくそうしている。そうしなければ家族が、社会が成り立たないからである。もしそれをすれば自分に対する言い訳を求める。
 本意は関わりたくない、やりたくなくても、それを放棄することが出来ない。放棄するにはそれなりの訳や理由が必要となる。あるいは形だけの義務を果たす姿を演じなければならない。それが人間そのものをある意味歪ませる。それを取り除いてやれば、本来ある姿になれるのにである。たとえそれが非常識で、非人間的であっても、それがその人が本来望んでいる姿なのだ。
 主人公である柳瀬の父親は次のように言う。

 「誰もが何かを胸の中に抱え込んでいる。みんながみんな、自分の思いのすべてを口にし始めれば社会が回らなくなる。外にぶちまけることのできない思いは、内側に溜まって澱になる。人はいつだってその澱を吐き捨てる穴を探している」

 柳瀬は父親から譲り受けた特殊な“能力”があった。

 「人はそれぞれ波長を持つ。その波長は谷を作り、山を作り、ときに揺れ、ときに震え、その人の怒りを作る。喜びを作る。悲しみを、楽しさを作る。僕はその波長を感じることができる。その波長に自分の波長を合わせることができる。そして波長が重なれば、その人にとって、僕は他者でなくなる。鏡に向かって独り言を言うようなものだ。隠す必要も、偽る必要もなくなる。けれど、それは能力と呼べる代物ではなかった。むしろ反射作用に近い。相手の波長を感じた途端、僕の意思とは無関係に僕の波長はシンクロを始めてしまう。その力を完全にコントロールするのは難しかった」

 つまり柳瀬は相手の本音を聞き出し、しがらみから解放してやれる能力があった。それは相手の波長に自分の波長をシンクロさせ、本音を引き出すことなのである。言葉を引き出された相手は、嘘で固められていた自分の本音、本来求めていた姿を語り始める。それを語った相手は、自由になり、ほとんど破滅への道を歩むこととなる。

 この本の怖さはそうした本音の解放が、いかに恐ろしい姿を見せるのかという点にある。そしてそうした本音の部分を隠すのが義務や責任や、世間体、常識などで、それらが社会をうまく機能させているかを知る。けれどそれは本来の姿ではないから、当然歪んでくる。そういうことなのだ。

 私は柳瀬の持つ特殊な“能力”と物語の展開がどうなっていくんだろうと思いながら、結構楽しんでこの本を読ませてもらった。けれどやっぱり、解放を望んでいる人間の心が、様々なしがらみに縛られ、それらが解放できずにいること。それが社会を成り立たせていること。解放された心のままに行動すれば、非社会的という烙印を押されてしまうこと。だからせめて少しでも本音の解放しようとすれば、絶対に言い訳が必要になること。それでなければ世間が、社会が許さないからだ。

 三年前に医大を辞めた柳瀬はそこの教授が立花サクラという14歳の守って欲しいと言われ、それを引き受けた。そして立花サクラが最後に逃げ込んだのは閉鎖した教会であった。そこに元司祭がいた。柳瀬はその元司祭とシンクロし、聞き出した言葉がものすごく気になった。それは司祭のもとにある男が来て言った言葉である。最後にそれを書き出す。

 「祭りを司って祭司。宗教とは本来お祭りです。だから、あなたのお考えは本末転倒です。祭りはその昔宗教的なものであった、のではなく、宗教はその昔お祭り的なものであった、のです。我を忘れるほどの高揚感。そこにもたらされる一瞬の陶酔。それこそが宗教なのではないか?」

 「ですから、宗教とは説くものではありません。授けるものです。授けた相手が要らぬと言うのなら、それ以上の無理強いは意味をなしません。わかりますか?ですから、宗教などとうの昔になくなっているのですよ。情によって授けられない教えは、理を持って説かれる。ときに権力という後ろ盾を得てね。それがあなたの言う、宗教、です。陶酔に訴えるのではなく、強迫観念に訴えるのです」

 “これってすごい!”

 今我々が信じている宗教がたどってきた歴史の本質を突いているように思えたのである。


評価
★★★


書誌
書名:ALONE TOGETHER
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508444
出版社:双葉社 (2002/10/20 出版)双葉文庫
版型:302p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年02月03日

本多孝好著『MISSING』

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 また本多さんの本を読む。この文庫と次に読もうと予定している文庫を読めば、一応本多さんの本は全部読んだことになる。いつの間にか息子に感化されて、こういうことになってしまった。
 さて、この文庫は短編5編、「眠りの海」、「祈灯」、「蟬の証」、「瑠璃」、「彼の棲む場所」である。そしてこの本は2000年「このミステリーがすごい!」の第10位になっており、「眠りの海」は第16回小説推理新人賞受賞作である。詳しいことは知らないが、どうやらこの本は本多さんの最初の本みたいだ。
 個人的には「眠りの海」、「祈灯」がよかった。本多さんの作品でいつも感心するのは、会話の面白味である。ある意味村上春樹さんより、シニカルだと思ってしまう。だから登場人物の会話には思わず吹き出してしまうことが多かった。
 ただそうした皮肉的で冷笑的な考えをする人物たちが若すぎないかと思うのだ。いくら何でも中学生や高校生が言うような言葉じゃない。そんな年齢でこんなにひねた会話ができるかな、とそれだけが気にかかった。
 あるいは今の若い奴らはこういう会話ができるのかなと思ったりするが、やっぱり無理があるような気がする。かといって登場人物の年齢を上げてしまえば、話の質が変わってしまいそうだから、この点は難しいところだ。
 でも、その点に目をつぶれば、斜に構えつつも、言っていることは至極まともで、言葉が心にしみるところがいくつかあった。

 「目茶苦茶なんだと、思うな」

 「情緒とか、感受性とか、考え方とか、その人がその人である理由みたいなものが、全部目茶苦茶になってるんだと思う。誰も悪くない。忘れなきゃいけない。そう思いながら必死で社会生活して、何とか普通でいようと歯を食いしばって。それが家に戻ってきて、一番安心できる場所で、一番安心できる人の顔見た途端に崩れちゃうんじゃないかな」(「祈灯」)

 「他の人よりずっと重い時間を過ごしちゃったんだ。十九年が、四十年にも五十年にも感じられるくらい」(「祈灯」)

 「どちらか一方がもう少し短気か器用であればよかった」(「蟬の証」)


 「正直と不器用との区別できない人だった」(「蟬の証」)


評価
★★★
 

書誌
書名:MISSING
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508031
出版社:双葉社 (2001/11/20 出版)双葉文庫
版型:341p / 15cm / A6判
販売価:630円(税込)

2010年01月22日

池澤夏樹著『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

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 興味は尽きない部分はあるのだけれど、信仰という問題はどう扱っていいのかわからない。ましてキリスト教徒として信仰を持たない人間としては、キリスト教徒や聖書を単に学問や雑学の部分でしか扱えない。そのため、知識として頭に残るものはあっても、それがどう信仰と係わってくるのか、その関連がまったくといって理解できない。
 私にはキリスト教が及ぼした人類への多大な影響は歴史や知識だけで推しはかれない部分が多すぎる。まして個人の心性の問題から発生して、それが民族の生活モラル、政治システム、文化、文明まで幅広く及ぶこととなると、どこから取り扱えばいいのか、皆目見当がつかない。そのためこの本の信仰に係わる問題は、私にははっきり言って難しすぎた。
 で、聖書のそのもの実態はどうであったか、その内容は別として、聖書がたどってきただろう歴史は多少理解できたので、そのことを書きたい。あともう一点、気候が及ぼす影響というのは面白かったのでそれも書いてみる。

 単純に思っていたことなのだが、いわゆる聖書というのはそれ自体そのものの確実な原典があって、それが訳され現代に残っていると思っていた。確かに歴史ではいろいろな教会議が催されたことは知っているが、そこで聖書に残すべきかどうか、取捨選択が行われ、それが現代に残ったものだと教えられれば、なるほどそうだったなと思い出す。
 しかしそれ以前聖書の原点とは何だったのだろうという疑問をこの本のように提示されると、果たしてそれは何だったのだろうかと思う。どういう訳であれ、とりあえず文字として表されているその原点は、いまからおよそ二千五百年前、古代のイスラエル諸部族の間で語りつがれてきた物語やリスト(テクストといっていいだろう)を広く集めて編集して、一巻のスクロール(巻物)に書き写したものであったという。つまり各部族で言い伝えられた来たことを、ただ単に巻物に書き写していったものが、その始まりであったというわけだ。従ってその時点で消えてしまった物語もあっただろうし、書き写されなかった物語もあったはずだ。
 ただそうして言い伝えられた物語が文字に介されることで、その物語を語りついている人だけのものであったものが、その個人の人格を離れ、空間的にも、そして時代もを超えることとなる。つまり保存だできるようになったのだ。
 最初はそうしてまとめられていった物語は、時間の流れや、おのおの物語の関連性など、お構いなしに、単に言い伝えられて来たことを、まとめただけであった。 
 そもそもこの本によると、古代ヘブライ語には過去形というものがないらしく、動詞の形を見て過去と未来の区別することができないらしい。だから文章の状況で判断していく。
 過去形がないということは時間の遠近法がないということで、そこにはすべての時代が何の脈絡もなく、一巻の巻物に収められていることとなる。こういうのって、昔話や言い伝えなどによくあるパターンで、いつが新しい時間なのかわからないことがある。おそらく聖書の原点もこれと同じであったのだろう。
 ところが聖書がギリシア、ローマに伝わるとそうはいかなくなる。言葉のシステムが古代ヘブライ語と違う。ギリシア語には時制があるため、それまで直線的にあった物語は、時間の軸によって整理された。時制があるということは、過去、現代、未来という思考方法になり、物語をクロノロジカルにしていく。整合性を求められることとなる。本当は時制に関係なく、言い伝えられていたことだったのに、ギリシア語に訳されたとたん、そうせざるを得なかったのだ。これは聖書の性質さえ変えてしまう出来事であった。
 違う側面からも聖書が最初に持っていた性質を変える出来事があった。
 本来語り手の言うがままに一巻の巻物につづられた物語は、語り手が録音テープみたいに朗読していったようなもので、聞く方はそれを耳と脳と体で吸収していく性質のものであった。この時点ではまだ神聖さが充分感じられたことだろう。
 ところが、そうして文字化された物語は、巻物からコデックス(冊子本)へまとめられ、つまり本となるわけだ。そうなるとページやインデックスがつく。時にはタイトルがついたりする。それまで語り手が話し始めたら終わるまで待つしかなかったものが、いつでも途切れていい状態を可能する。
 またそれまでは音読していたものが、本となった時点から黙読できるようになる。黙読がすることが常態化すれば、物語が本来持っていた神聖性が薄れていく一方となる。朗読によるリズムがもたらす一種の恍惚感さえ失われる。
 さらにページごとチャプターごとに収められ、中身の細分化が進み、必要とする人間が必要な箇所を都合よく引用することが可能になる。物語性はどんどん薄らいでくる。さらに細分化が進めば進んだらで、今度は俯瞰できなくなってしまう。これが聖書の変質といっていいとが書かれていた。
 なるほど昔から言葉で語りつがれた物語は、耳で聞き、脳が感じ、体で覚える性質のものであったんだなと思ったし、それが訳がついて、形を変えることによって、変質していく過程の言及は面白かった。おそらくそれは聖書に限らず、たとえばホメロスの作品だってそうかもしれない。

 さてもう一点なるほど思ったことがある。先ほどの古代ヘブライ語には過去形がないということにも多少関連するかもしれない。どういうことかと言えば、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が生まれた地帯の気候の問題である。気候が砂漠地帯で生まれたこれらの宗教の性格の決定づけている点があるのだ。
 たとえば、我々のようなモンスーン地帯に住んでいれば、一年が同じサイクルで考えられる。雨期があり、乾期がある。暑くなれば、寒くもなる。そこにはサイクルがあって、次が予想できる。だから歴史の記述もそうした法則性の下でまとめられる。編年という思考方法が生まれる。
 ところが、砂漠で暮らす遊牧民の間では、気候がそうした思考方法を許さない。気候の周期性というものがないから、その思考方法も同じ平面で相互の関係性を欠いた形になる。私にはそれが古代ヘブライ語に過去形がない理由に思えてならなかった。おそらく最初の聖書に書かれた物語はそうした性質のものが色濃かったに違いない。多分コーランも似た点があるのではないかと思う。

 気候で思い出したことがある。昔読んだ遠藤周作さん本である。この本は紀行文で、遠藤さんが若い頃この地域を旅したことも書かれていた。多分そこに書かれていたと思うのだが、こうした気候の厳しさをを肌で感じ、キリスト教が父性的な厳しさがあるのはこの気候の厳しさによるのではないかと書かれていたと思う。(この本自分の本棚にいくら探しても見つからず、もう一度読んでみたいと思い、古本屋で探していたのだが、先日それを見つけて手に入れた。近々読んでみようと思っている)
 気候と聖書の関連は、和辻哲郎の『風土』を通して、この本で語られているが、なるほどあの本からなら、そう言えそうだなと思った。まさか和辻哲郎の『風土』を持ってくるとは以外だったので、ちょっと懐かしかった。


評価
★★★


書誌
書名:ぼくたちが聖書について知りたかったこと
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784093878470
出版社:小学館 (2009/11/02 出版)
版型:284p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年01月18日

吉村昭著『生麦事件』

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 薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、公武合体を幕府に認めさせるため勅使を江戸に派遣する必要があると、朝廷に建言した。その建言が認められ、公卿大原重徳が勅使に任命された。久光もそれに同行し、江戸で目的を一応達成し、薩摩へ帰る。その途中、文久2年(1862年)、大行列を率いた久光の大名行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。薩摩藩士達は言葉が通じないため、身振り手振りで下馬し道を譲るように支持したが、道が狭かったために行列の中に馬を誤って進めてしまう。それにより乗馬が興奮して久光の列を乱した。これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡し、2人が負傷した。これが世に言う「生麦事件」である。

 「大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は討果てもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える」

 この本は生麦事件だけを扱った本ではない。どちらかと言えば、事件後たどった経緯に重点が置かれているといってもいい。つまりこの事件がその後大きな影響の及ぼしたことが書かれているのである。この後起こる薩英戦争や長州藩が自ら攘夷決行し、下関の海峡で西欧列強の船を攻撃したことに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争が大きな思想転換を生み、それが倒幕運動となり、明治維新となって行く、一つのきっけけとしてこの事件を扱っているのである。

 まずは薩英戦争である。イギリスは自らの国民が斬り殺されたことに怒った。幕府にもその責任があると迫り、賠償金を要求し、幕府は渋々その要求を飲むが、薩摩藩はその要求を一切拒否する。久光は、家臣が外国人を斬りつけたのはやむを得ぬこととその行為を是認していた。しかしイギリスとの戦争は免れないと思い、その準備を全藩あげて取り組む。西欧の兵術にしたがって武器を保有し、厳しい操練も繰り返した。
 文久3年戦いは始まった。薩摩は五分五分の戦いをしたと思っていたが、イギリス艦隊と対戦し、武器と技術に天と地の差があることを実感した。その旧式兵力では太刀打ちできないことをここで思い知らされれたのである。
 攘夷を実行するにはあまりにも兵力に差があり過ぎることを身をもって知った薩摩藩は、攘夷論がいかに愚かしいものであるかを思い知らされるのである
 結局イギリスを和議を結び、さらに友好関係を強め、イギリスから新式の軍艦や兵器を輸入することで、藩を旧式兵器から最新兵器に転換を図っていく。
 一方長州藩の動向も問題となる。当時京では、長州藩を中心とする急進攘夷派が勢力を伸ばし、朝廷は幕府に攘夷決行の勅命をが伝えられた。その決行日、文久3年(1863年)5月10日に、長州は下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃する攘夷に打ってでたのである。それに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争となるが、圧倒的な欧米諸国に近代兵器に完膚無きまでに叩かれた。長州藩もその力の差を見せつけられ、攘夷など馬鹿げた行為が実行不可能なものであることを思い知らされるのである。

 ところで倒幕運動は薩摩藩と長州藩が一緒になって行われた。しかしこの両藩は対立していた。薩摩藩は公武合体論を主張し、長州藩は徹底した尊王攘夷論の立場を取った。最初は京で長州藩が朝廷を擁して、薩摩藩の公武合体論を失敗に帰させた。その長州藩の過激さを恐れ薩摩藩は京都に入り、禁門ノ変で長州藩を京都から排除する。
 その後長州藩は自ら攘夷を決行したが、そんな中、間違って薩摩藩の「長崎丸」砲撃事件してしまい、それに乗っていた有能な藩士を薩摩藩は多数失った。当然長州藩に対する憤りの声がたかまった。
 しかし長州藩も薩摩藩も西欧列強と戦い、その力の差が歴然としていることを悟り、攘夷論の転換、軍備を強化して開国を推し進めるべきだという意見が主流となっていく。
 こうなっていくと両藩が進むべき道が同じ方向に向かっていくこととなる。しかしそれでもまだ両藩は反目する点が多かった。この後幕府による長州征討が行われるが、薩摩藩の西郷よる周旋で幕府の第一次長州征討が寛大な処置によって結着をみた。このことで薩摩藩に対する積年の恨みもうすらいだ。さらに西郷が、禁門ノ変で捕虜になった長州藩士たちを藩に送還し、長州にのがれていた急進攘夷派の三条実美ら公卿たちを、江戸に護送せよという幕命にそむいて、九州の筑前に身柄を移した配慮に感謝の念もいだいた。これらの事柄によって、薩摩、長州藩の間にはひそかに融和の気配がきざしていたのである。
 しかしそれでも長州藩は朝敵であり、薩摩藩はそう簡単に長州藩と手を結ぶわけにはいかなかった。下手に長州藩とむすびつけば、幕府はもとより勅許を下した朝廷へ敵対する結果となり、全国諸藩を敵にまわすことにもなって、藩は重大な危機にさらされる。しかし一方で長州藩に薩摩藩を通してイギリスからの武器の調達をさせていた。
 ここに坂本竜馬が登場する。坂本は自ら商業をやりたいと考えていたので、それをスムースに行うためには日本が幕府と諸藩に分かれていてはダメだと考えていた。薩摩藩と長州藩が一緒になって幕府を倒し、日本を一つの国としてまとめるべきだと考えていた。だからこの両藩が同盟を結ぶべきと考えていて、その斡旋をする。
 長州の木戸を京に呼び、薩摩の西郷、小松帯刀と会合させる。しかし両藩とも同盟を結ぶには問題があった。薩摩藩にすれば長州藩と手を結ぶことは、火中の栗を拾うような冒険であり、長州藩にすればこのままでいれば幕府の征討軍によって滅亡は必死の状態にあり、薩摩藩と提携すれば死地を脱するのも可能になるが、それは薩摩藩を危険な立場に追いこむことになる。さらに意を決して薩摩藩に提携を懇願するのは憐れみ乞うのと同様で、藩の面子としてそれはできかねていた。
 そんな双方の思惑があって、論議は十余日に及んでもなんの進展もみられなかった。木戸は話が進展しないことで帰藩しようとするが、それに驚いた坂本竜馬は「薩長両藩はお互いに猜疑心や面子を捨てて天下のため真情をもって協議すべきである」と両藩の間を取り持つのである。この坂本の発言は潤滑剤にも似た効果があって、これによって薩長同盟がなる。

 ところで司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』では、坂本のその独創性、行動力、交流の広さによって、薩長同盟がなったように書かれていたと思う。もしかしたら違うかもしれない。なにせ、この『竜馬がゆく』を読んだのは、私が高校三年の夏だから、それからだいぶ時間がたっているので、自信がない。(何でこんなに詳しくその本を読んだ時期を覚えているかと言えば、当時大学受験の夏期講座に出ていて、授業を聞かずに、この本に夢中になったことを覚えているからだ)
 しかしこの吉村さんの本を読むと、坂本竜馬の独創で薩長同盟がなったのではなく、そうなるべくしてなって行ったことを知った。確かに坂本の斡旋があってなったことは間違いないだろうが、そうなるべく雰囲気が両藩に生まれていたから、多少のメンツはあったにせよ、吉村さんの言うように坂本は単に「潤滑剤」の役目をしただけであり、薩長同盟が坂本の力だけでなったわけじゃないと知った。
 こういうのは見る人の視点によって変わるものだと思うが、多分司馬さんの小説は坂本竜馬を主人公にしているだけに、その思いが熱く伝わり、坂本の力を過大評価させる記述になっていて、私がその通り受け取ってしまったのだろう。だから長いこと薩長同盟は坂本竜馬の力だと思っていたのだ。
 それにしても生麦村で薩摩藩士の一人がイギリス人を斬ったことから、これが後に大きな流れとなっていくとのは、歴史の不思議さを感じてしまう。何がきっかけで時代が変わるのかわからないものだ。それを思うと面白い。


評価
★★★


書誌
書名:生麦事件
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242260
出版社:新潮社 (1998/09/25 出版)
版型:423p / 21cm / A5判
販売価:入手不可。文庫ならあり

2010年01月07日

森まゆみ著『彰義隊遺聞』

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 著者の森さんは地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(谷根千工房)を創刊し、編集人である。そしてこの地域は上野に近い。雑誌の取材なんかしているときなど、町の古老から彰義隊の話を聞くこともあったんじゃないだろうか。おそらくそうした古老からの聞いたことがこの本を生むことになったんじゃないだろうか。
 そんなことを思いつつ、森さんが集めた彰義隊に関する話を楽しんだ。ここにあるのはいわゆる逸話である。足で集めた話と自らが彰義隊に関わる資料を調べて、うまく聞いた話と照らし合わせていく。通史として物語であったが、吉村さんの『彰義隊』を読んでいるので、この本は伝え聞いた彰義隊に参加した人々の個々の経緯、その後が語られている。言ってみれば吉村さんの『彰義隊』の肉付けみたいな感じで読んだ。

 彰義隊と朝廷軍の戦いは“必要悪”のところがあったようだ。どういうことかというと、たとえば勝海舟や山岡鉄舟、高橋泥舟ら所謂「幕末の三舟」は、彰義隊の「君恥ずかしめらるれば臣死すとき」などといって内乱を起こせば、外国にいいように乗じられ、国そのものの存亡に関わることだと考えていたけれど、

 「しかし同じ幕臣として、彰義隊の主唱者たちのやむにやまれぬ思いも、彼らは理解していた。いや勝などは、二百六十年の徳川政権に一挙区切りをつけるためには象徴的な、しかし大勢に影響のない市街戦が江戸でも必要である、多少、死んで貰おうかぐらい考えていたのではないか。
 大村や西郷も同様だったかもしれない。窮鼠猫を噛んではわが軍の被害も大きい、とわざと上野の山の芋坂口を退き口として開けておいたことも、幕府瓦解の象徴として上野戦争の限定的な性格が表れている。すでに幕府は倒れており、そのことを民衆に周知徹底させねばならぬ。実際、鳥羽伏見の戦いは京都の民衆への実物教育になった。もはや政権をめぐる戦争でも、領土をめぐる戦争でもないのである」

 と森さんは書かれている。将軍慶喜が政権を返上し、謹慎したことで徳川幕府が終わったことを示すが、それに不満をもつ幕臣たちは一矢報いるため彰義隊として集まる。兵を挙させれば、それがガス抜きにもなる。朝廷軍はそうした彰義隊の気分の高揚をある程度歓迎していた観がある。それを一気に叩く。朝廷軍が持っている当時の最新兵器で彰義隊を壊滅させれば、朝廷軍の威光を示すことになるし、同時に民衆に時代は変わったのだとわからせることにもなるのだ。だから上野戦争は必要悪だったのである。森さんは「上野戦争がなかったなら、旧幕に心を寄せる人びとや、江戸の町っ子は憤懣やるかたなかったにちがいない。彰義隊は一つのカタルシスであった。彼らは江戸最後の日を花火のように彩り、長い徳川という時代を一瞬のうちに回想してみせた」と書く。
 こうなると君を辱められたという、臣としての取るべき態度が、指揮官や戦略家、あるいは時代を見据える人にいいように利用されたことになるわけだ。崇高な志さえこんな風に使われるのだから、時代というのは残酷である。

 ところで、吉村昭さんは最初彰義隊の物語を書こうと思ったが、戦いが半日で終わってしまったことで、小説にはしにくいと一時執筆を断念したことを書かれている。(結局その後の輪王寺宮の逃避行を書くことで、この物語は成った)しかしあくまでも“みせしめ”なら、戦いを長引かせる必要はない。早く決着がつくならそれに越したことはない。だから逆に半日で終わったことに重大な意味があることになる。もし上野での戦いが長引いた場合、江戸城がせっかく無血開城となって、民衆の安全が保証されたのに、町が血の海に変わったかもしれないのだ。

 「上野の戦が二、三日もつづけば、夜に入って市中はの町民たちまで、例のヤジ馬で何かやらかしそうな塩梅だった。たった半日で決着がついたので安穏におさまり、江戸市中も修羅の巷となることを免れ、ありがたいことだ」と当時の人たちが思っていたことは本音だろう。

 本音と建て前といえば、彰義隊に参加した人々のなかには、徳川の恩顧に報いるために参加した人たちだけで構成されたわけじゃないことをこの本を読んで知らされる。もちろんこういう話はどこでもあるのだろう。

 「彰義隊の数は三千人とも四千人ともいう資料がある。あわよくばこの機に一旗揚げようとしたものもあったにちがいない。旗本の長男は官軍へつき、次、三男は彰義隊に入る。どっちへ転んでも何とか家だけは残すという両天秤で、談合の上で敵味方に分かれた家もあった。本気で山を死守しようとする武士などごく少数だった」という話もある。

 「彰義隊は、兵糧も資金もそう困っていなかった。(困っていたという話もある)どうせ戦いになれば命はないものと思っているから、毎夜のように吉原へ通っていたという。(そうして実際戦争になった時は帰って来られなくなってしまった武士も多くいた)そうだとすれば上野の山の出入りは、夜もかなり自由だったと思われる」

 彰義隊に参加した兵士の思惑はさまざまであった。本当に志あるものだけの集まりではなかった。時に彰義隊が「烏合の衆」と呼ばれる所以はこのあたりにあるのかもしれない。ただ彰義隊と朝廷軍の上野の山での戦いは幕末最後のあだ花だったと思えなくもない。戦に敗れ、死んでいった彰義隊の隊員は、しばらくの間遺体を見せしめのため放置されたことを思えば、余計にそう感じてしまう。悲しくない戦争なんてないだろうけど、戦う個人に意味はあっても、全体としてさらしものみたいなところがある戦いだったし、滅びていくのが宿命であったのに、それでももがいているように思えたから、そういう意味でむなしく、悲しい戦争だった。


評価
★★★


書誌
書名:彰義隊遺聞
著者:森 まゆみ
ISBN:9784101390239
出版社:新潮社 (2008/01/01 出版)新潮文庫
版型:418p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年01月04日

吉村昭著『彰義隊』

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 まずは新年の挨拶から。

 新年あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願いいたします


 去年も吉村さんの随筆から始めたが、今年の第一発目も吉村昭さんのこの本から。
 徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いから江戸へ逃げ出した。慶喜が“朝敵”となり、自ら上野寛永寺で謹慎する。しかし一方で皇女和宮や寛永寺山主輪王寺久能親王にも恭順の意を朝廷に伝えてもらいたく画策する。徳川家にとって和宮と輪王寺宮が唯一の朝廷とのパイプであった。和宮は仁孝天皇の皇女で兄は孝明天皇である。徳川幕府は公武合体の最も有効な政策として皇女和宮を将軍家茂と結婚させることとして進めた。当時和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約が決まっていたのを破棄されて、徳川家に嫁いできた。その有栖川宮熾仁親王は東征大総督として任じられ江戸討伐軍としての最高幹部となっていた。従って有栖川宮熾仁親王にとってみれば徳川幕府は和宮を奪っていった敵であった。当然感情的に徳川幕府を許せるわけがないのである。

 和宮は慶喜の恭順の申し立てを受けいれ、使者を立てたが、これといった結果を得られなかった。そして次に白羽の矢がたったのが、寛永寺山主輪王寺久能親王であった。輪王寺宮は明治天皇の叔父に当たる。宮は十二歳で勅命により輪王寺の後継者となり、幕末日光と上野の山主となっていた。輪王寺宮にとって慶喜の恭順や徳川家の存続の嘆願よりも、江戸に対する思いの方が強かった。宮は寛永寺山主になって十年近く江戸にいた。そのため江戸が自らの故郷に近い存在になっていて、町民に対する愛着も強くなっていた。
 朝廷軍が江戸に入ってくれば、当然幕府と戦争になる。戦争になれば宮の愛する町民は逃げまとうことになる。そのことが宮にとって心配であった。だから宮は慶喜の使者となって有栖川宮と会うが、けんもほろろに扱われる。しかもここまで来る間に高貴な身分である宮に対して薩長軍を主流とする朝廷軍は、宮の御輿を止めたり、遮ったりし、近づいて扉を無造作に開け、覗くなど無礼な態度をとるのであった。そこには単に好奇の目しかなかった。この行為が宮や宮の執当である覚王院に深く屈辱的な記憶として残ることとなった。特に覚王院にはそれが甚だしかった。

 さてその彰義隊である。慶喜は朝敵にされるのはかなわんという気持ちから、恭順という態度をとった。将軍慶喜は水戸の出身であり、水戸藩といえば皇国史観のかたまりの藩である。天皇を重きに考える。そんな藩の出身である慶喜が自らが朝敵とされることにはどうしても耐えられなかったに違いない。だから恭順という態度をとった。
 そんな慶喜を君としている臣は、慶喜が終始朝廷に忠義の志あつく、二百年続いた幕府の政権を朝廷に奉還したにもかかわらず、朝廷に巧みに入り込んだ策士どもの陰謀によって、追討を受ける身となったことに耐えられなかった。君を辱められた臣は、死を覚悟して戦うものであるとして一橋家ゆかりのものが会合を持ち、そのうち諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加して、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成された。会は正式名を持つ必要性があるとして彰義隊と名変えた。
 彰義隊はどんどんその人数を増やしていく。しかし彰義隊が大きくなればなるほど、慶喜の謝罪を朝廷に認めてもらうのに大きな障害となる。旧幕臣は頭を悩ませる。本当からいえば彰義隊の解散が望ましいが、それを強行すれば、彼らは激怒し予想を絶した行動を取りかねない。そこで彼らを江戸の治安を守るために利用した。
 大政奉還以来幕府の権力は低下し、それによって盗賊が横行し、治安が乱れていた。彰義隊は町の治安維持のために働くようになる。そこに朝廷軍が入ってきて、戦勝気分で大胆な行動で町をのし歩き、横暴さが目立つため、朝廷軍と彰義隊が衝突するようになっていく。当然江戸の町民からすれば彰義隊は江戸の治安を維持してくれる存在であったから、支持した。

 「町民たちは彰義隊の提灯の列が近づくと家々から出て来て頭をさげ、隊員が休息のために足をとめると、茶や甘酒を出して感謝の言葉を口にする。上野の山にも食料を手にしたり大八車に積んだりして、彰義隊の屯所にとどける者がひきもきらなかった。正装し、連れ立って金を寄進する者が多かった」

 朝廷軍は、江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な江戸の町は町民のもので権勢は及んでいなかった。江戸の治安は彰義隊員によって維持されている趣があった。
 東征大総督府の目的は、むろん江戸城を接収することによる江戸の完全占拠であった。江戸の完全掌握には町民が支持している彰義隊の存在が邪魔であった。その状況を打ちくだくためには、彰義隊と町民の間に深いくさびを打ち込み、彰義隊を自然消滅させる以外になかったのである。
 東征大総督府はたびたび彰義隊の解散を要求し始める。山岡鉄舟は彰義隊の解散を促すために、上野に行くが、覚王院は慶喜謝罪の使者として輪王寺宮と一緒に道中を旅したときの屈辱感が思い出されていた。

 「朝廷軍と言っても、所詮は薩摩、長州の軍勢に過ぎず、貴殿が上使としてこられたのは、薩摩の策略に乗ったにすぎない」

 「当寺は古くから徳川家が経営し、皇族を山主と仰ぐ寺であり、徳川家に恩を感じる者たちが集まって守護しようとするのは当然のことである。そのような忠義の者たちである彰義隊を解散せよ、と言われる貴殿は、徳川家の恩を忘れた逆臣である」
 
 と声を荒げて言うのであった。

 その間に、彰義隊に加わる者は日を追って増し、その勢力は侮りがたくものになっていた。江戸城を接収しながら、江戸には朝廷軍に反抗する彰義隊が市中を歩きまわり、朝廷軍の藩兵に威圧感をあたえている。そのような状況が地方にも波及すれば、各地で朝廷軍に抵抗する動きが活発化することが予想された。そのような懸念から、大総督府内では彰義隊を一挙に武力をもって殲滅すべきだという声がたかまっていく。

 そして遂に慶応4年(1868年)5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。新政府軍は火力で優り、また肥前藩が保持するアームストロング砲の威力もあって、午後からは優勢に戦闘をすすめ、一日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
 戦いは半日で終わった。輪王寺宮は寛永寺から逃れ、関東にある寛永寺の支寺へ逃れるが、朝廷軍の追っ手が迫り、遂に品川沖に停泊していた榎本武揚が率いる艦隊に乗り込み、奥羽へ逃れる。
 当時東北では官軍に対抗して奥羽越列藩同盟がなっていた。彼らの士気を高めるために輪王寺宮を盟主に仰ぐ動きとなり、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主となるが、歯が欠けるように一つ一つ同盟の藩が朝廷軍に降っていく。最後は宮にはもう帰順しか残っていなかった。結局宮も朝廷軍に降った。
 宮はこれで江戸に帰れると思ったが、朝廷は宮を京都に謹慎させる。しかも有栖川宮熾仁親王のもとでである。威厳もへったくれもない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。

 宮は後に罪を許され、日清戦争で台湾征伐の総指揮を任されるまでになる。当時朝廷に反抗した徳川家ゆかりの人間は罪を許され、明治新政府に重職に就いている者もかなりいた。結局彰義隊に加わった、一心に君を思う者だけが死に、遺体を回収されないままさらされてしまっただけであった。貧乏くじを引いただけであった。

 この本を読んでいて、力にものを言わせ、それまであった威厳や秩序などをまるでローラをかけるように挽きつぶしていく感じがものすごく不愉快な気分として残った。確かに時代の流れとしてそうなっていくのは仕方がないことなのかもしれないが、たとえそれは粗にして野だが卑ではあってはならないと感じた。新しい時代が生まれようとするのである。そこには荒々しい力があっても当然であり、粗であり野であってもかまわない。ただ碑であれば、どこか醜い。そんな感じがどうしてもつきまとった。
 この時代、歴史に名を残した人間が多くいるが、一方で虎の威を借りて、横暴な態度をとる人間も新体制側に多くいたのであった。維新の話を読む度にいつもこういう輩の横暴さに腹が立ってしまう。
 一方で輪王寺宮や榎本武揚など、朝廷軍と相反して戦ってきたのに、戦いに敗れ、その罪が許されれば、明治政府の要人として生きていく姿にもどこか疑問を感じてしまう。彼らは盟主であり、指揮官であった。多くの無名の人が彼らを慕って、戦い、死んでいった。それなのに“転向”が簡単にできるほど生き方で、盟主や指揮官をやっていたのかと、どこか腑に落ちないところも私には残ってしまう。少なくとも“転向”に大きな苦悩があって欲しいと願うところである。何故なら彼らのために多くの人が死んでいったからだ。


評価
★★★


書誌
書名:彰義隊
著者:吉村 昭
ISBN:9784022500731
出版社:朝日新聞社 (2005/11/30 出版)
版型:395p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年12月24日

本多孝好著『FINE DAYS』

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 前回読んだ『正義のミカタ』がそれほど面白くなかったので、次に本多さんの本を息子から借りようかどうか迷っていたのだが、やはり借りて読んだ。その本がこれである。紀伊國屋書店のサイトでこの本のデータを取り出してみると、サブタイトルに恋愛小説とついている。本にはそれがついていないが、確かに読んでみれば恋愛小説の短編集であった。
 書名になっている「FINE DAYS」、「イエスタデイズ」、「眠りのための暖かな場所」、「シェード」の四編である。個人的には最後の「シェード」が好きである。
 主人公の僕が彼女のためにクリスマスプレゼントのために買おうと思っていた、骨董店ガラスのランプシェードが、売れてしまっていてショウウィンドウから消えていた。もしかしたら店内に移された可能性があると思い、初めて骨董店の店内に足を踏み入れた僕はそこにいた老婆からそれが売れてしまったことを知らされた。しかし老婆はそのシェードを作ったガラス職人の話を僕に聞かせてくれた。その話が僕と彼女の関係と入れ違いながら、話が進む。話の最後で老婆は次のように言う。

 「光がなければ、闇もまた存在しません。けれど、一度、光を生み出せば、闇もやはりそこに生まれます。たった一つの光から無限の闇が生まれるのです」

 「その闇の深さに怯える前に、それを照らす光に目を向けるべきだったのです。闇から生まれる闇などないのです。すべての闇は光から生まれます。違いますか?」

 「挑むのですよ」

 「ええ、挑むのです。彼女にでもなく、その男にでもなく、ただ自分の中の闇に挑むのです。そこにまだ光があるのなら」

 「挑み続けること。闇から光を守るには、それしかないのです」

 ここまで読んで、多分そのランプシェードは彼女が買っていったんだろうなと思えるようになる。いや老婆がそのランプシェードの話を始めたときから、そう思っていた。
 老婆の話が終わって老婆から買った蝋燭を持って彼女が待っているマンションへ急ぐ。僕が見てしまった幸せそうな彼女と前の夫との結婚式の写真と、その夫を失ってからもいつもしていた結婚指輪がチェストに上に置かれていた。
 やはりランプシェードは彼女が僕のためにプレゼントして買っていた。そして僕はその老婆から買った蝋燭に火をともす。

 僕にともせるのは呆れるほどにか弱く、頼りない火だ。ささやかな風にも揺らいでしまうその火は小さな光を本当に守り続けることができるのか、それも今の僕にはわからない。ただ、やってみようと思う。僕の持ちうるすべての力を使って。

 と思うのである。なかなかいい話であった。こんな話に酔ってしまうなんて、甘くなったなあとは思うが、たまにはいいであろう。 私は本多さんが作り出す言葉が好きである。この老婆の光と闇の関係もうまいことを言うもんだ感じたし、「FINE DAYS」の僕が言う言葉もいい。

 安井は背中を手すりにもたれさせ、ふうとため息ついた。
 「生きていることの意味って、考えたことある?」

 「あのな、どうして自分が生きているかなんて、そんなの悩みじゃない。悩みっていえば、解決しなきゃならないことに思える。けど、俺が思うにそんなのはもう高尚な哲学だ。哲学だから、答えなんてない。一生かかったって、答なんかきっと見つからない。そんな風に悩まない奴も人間として信用できないけど、それに対して答を見つけたなんていう奴とも俺は友達になりたくない。きっと水晶玉とか壺とか売りつけられるのがオチだ。だから、答えなんてないままに悩んでいればそれでいい、と俺は思う」

 “あのさぁ、高校生がこんな大人びたことを言えるか?”と横槍を入れたくなるけれど、言っていることは至極まともだ。大賛成だ。


評価
★★★


書誌
書名:FINE DAYS ― 恋愛小説
著者:本多 孝好
ISBN:9784396632229
出版社:祥伝社 (2003/03 出版)
版型:321p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年12月17日

吉村昭著『史実を歩く』

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 今度の新書の方は一般向けである。なんかここに書かれている史実に忠実に向き合う吉村さんの姿勢を読むと、安心できる。それは文章を読んでいてもそう感じる。やっぱり書かれたことにしっかりと裏付けがある文章は安心できるのだ。
 しかしここまでこだわる必要性など読む側は感じているのかなと思った。たとえば桜田門外の変で、この日、安政七年(1860年)3月3日は夜明け前から雪が降り、乱闘があったときは大雪になっていたと言われている。乱闘後、井伊大老を討った水戸藩士らは品川宿に向かっている。この時には雪はやんでいたらしい。吉村さんは、では雪はいつやんだのだろうと疑問を持つ。読む側にとっていつ雪がやんだのかどうでもいい感じだ。実際昔読んだ吉村さんの『桜田門外ノ変』でそんなことちっとも気にならなかった。しかし物語を書く吉村さんにとってはそうもいかないことだったらしい。どうしても知っておきたいことなんだそうだ。たぶん物語を書く上で乱闘と乱闘後を続いて書く上で、イメージとしてそれはどうしても必要なことだったのだろう。わかるような気がするが、でもそこまでこだわらないと小説が書けないというのは厳しい。

 さらに生麦事件でもそうだ。文久二年(1892年)八月に生麦村で薩摩藩藩主島津久光の行列にイギリス人商人が接触し、リチャードソンが薩摩藩の人間に斬られた。吉村さんはイギリス商人が乗っていた馬は日本の馬とは違い上海から持ってきたアラブ系の馬だったことを知っている。当然日本の馬より大きい。となると、斬られたリチャードソンの身体は斬った武士よりかなり高い位置にあったことになる。記録ではリチャードソンは脇腹を斬り上げられ、さらにそれより高い肩から斬り下げられている。そんなことが可能なのかと疑問を持つのだ。言われてみれば確かにそうだ。
 そこでその疑問を解消するために吉村さんは鹿児島に調査に行く。その結果、リチャードソンを斬った奈良原の剣は野太自顕流という流派の剣で、戦陣用の長大な大太刀で刀身が長く、幅が広い剣だと知るのである。そして奈良原はその剣法の達人だったのだ。だから自分より高い位置にいるリチャードソンを肩から斬り下げることが可能だったのだ。
 すごいと思いませんか?史実ではリチャードソンは脇腹を斬り上げられ、さらにそれより高い肩から斬り下げられているとわかっている。普通ならそうか、そうして斬られていたんだなで終わってしまう。でも吉村さんはそれで終われなかった。満足出来なかったのである。それは物語の細部にこだわりを持って出来る限りリアルに事件を描きたいという意識だけじゃない。
 この生麦事件が、その後薩英戦争となり、薩摩藩は徹底的にイギリスに痛めつけられ、それまで持っていた攘夷論がいかに現実を無視した愚かしいものであったかを思い知らされる。以後薩摩藩はイギリスと親好を結び、積極的にイギリス式兵法を取り入れ近代化していく。それが倒幕運動でも力を発揮していくのである。そう考えるとこの生麦事件は一つのエポックメイキングとなったわけで、そうであるからこそ、些細なことでもこだわらないわけにはいかないのである。そういう視点でこの生麦事件を吉村さんは見ているからこそ、こだわったのである。
 その経緯がここに書かれている。一つの事件だけを細かく描写するだけでなく、それを書く理由が、視点が、その先を見据えていることを知るのである。そういう吉村さんの歴史小説の裏側がここには紹介されていて、それだけでも楽しい。これだけ細かいことにこだわり、綿密な取材をされているからこそ、吉村さんの書かれる小説は面白いのだと思う。
 年明けはこの生麦事件を扱った小説もそうだけど、いくつか吉村さんの歴史小説を読もうと思っているので楽しみである。


評価
★★★


書誌
書名:史実を歩く
著者:吉村 昭
ISBN:9784166600038
出版社:文芸春秋 (1998/10/20 出版)文春新書
版型:214p / 18cm
販売価:714円(税込)

2009年12月16日

吉村昭著『事物はじまりの物語』

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 ちくまプリマー新書とはネットで調べてみると「高校生・ヤングアダルト向けの新書である,筑摩書房の「ちくまプリマー新書」のリストです。『岩波ジュニア新書』に比べると,薄手ですがそれほど堅苦しくなく気楽に読めるものが多いのが特徴です。逆に言うと重厚感には欠け,淡泊な感じもしますが,切り口は伝統的な「岩波ジュニア」よりも新鮮です」とある。だからこの本もわかりやすく、しかも簡単に書かれている。その分物足りなくもあることは事実だけれど、吉村昭さんの随筆だから読んでみた。
 ここでは吉村さんが歴史小説を書くために集めた史料から得た“はじめて”を語っている。内容は日本で初めて解剖をやった人は誰か。スキーを始めて日本でしたのは誰かとかいった感じで、以下石鹸、洋食、アイスクリーム、傘、国旗、幼稚園、マッチ、電話、蚊帳・蚊取り線香、胃カメラ、万年筆の初めてを紹介している。その中で私が興味を持ったというか、へぇ~そうなんだと思ったことが国旗と電話と万年筆の話である。

 日本の国旗はどうして日の丸なのか。日の丸は「江戸時代の廻船にかかげられた幟、旗の船印からはじまっている。
 日本各地に幕府が管理する天領と称された地があって、そこで産した米が、御城米(年貢米)として江戸の幕府に船で運ばれた。
 この船には御城米以外に銀や銅なども積まれ、一般の廻船と区別するため、白地に朱色の丸印をえがいた船印がかかげられていた」という。
 幕末薩摩藩は「昇平丸」という西洋型帆船を完成させ、その頃渡来する外国船と区別するため、「昇平丸」が日本船籍の船であることを示すため、日の丸の船印をかかげた。この船は幕府に献上されたが、その時藩主島津斉彬は、日本のすべての船に同一の船印を立てるべきと老中阿部正弘に建言した。つまり日の丸を最初に掲げたのは「昇平丸」であり、その元となったのは、江戸幕府の御用船すべての船に掲げられていた日の丸の船印だったのである。

 電話で我々は「もし、もし」と言うけれど、これはどうしてなんだろうか。言われてみれば不思議である。この本によると、日本で最初に電話が引かれたのは明治で、役所と役所の間だった。そして当時の役人は武家あがりが多く、「もうし、もうし、そこを行かれる方」などという武家の使った呼び方のもうしという言葉から「もし、もし」という言い方が使われたという。ちなみに広辞苑 第五版で“申し”という言葉を意味を調べてみると、「敬意をこめて呼びかける時にいう語」とあるし、三省堂の大辞林でも「人に呼びかけるときの言葉」とある。「申し、申し」から「もし、もし」となったわけだ。

 万年筆はへぇ~というより、懐かしいといった感じであった。ここには学生の頃上着のポケットに万年筆をさしたときの興奮を吉村さんは書かれているが、これはよく分かる。私も中学生になって学ランのポケットにさした万年筆に興奮したものだった。入学祝いにその万年筆を買ってもらったのである。なんかそれだけで勉強するみたいなところがあった。
 その興奮が今でも残っているものだから、私は万年筆が好きである。確かに今は使わないのだけれど、丸善や伊東屋でショーケースに並んでいる万年筆を見るとぞくぞくする。
 今モンブランの太いやつを持っているが、これにインクを入れる時、インク瓶にペン先をさしてインクを入れていく時の感覚が大好きである。そして必ず手にインクをくっつけてしまうのだけれど・・・。それもそれでいいのだ。
 というわけで、今回この原稿の下書きをこの万年筆で書いてから、パソコンで入力してみた。(すぐ感化されちゃうのだ)


評価
★★★


書誌
書名:事物はじまりの物語
著者:吉村 昭
ISBN:9784480687050
出版社:筑摩書房 (2005/01/25 出版)ちくまプリマー新書
版型:124p / 18cm
販売価:714円(税込)

2009年12月15日

石原千秋著『漱石と三人の読者』

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 夏目漱石はお札にもなったくらいの“国民的作家”になっている。しかし漱石の生前に売れた部数は作家活動十二年間の全作品をあわせて十万部程度だったらしい。
 これでは生前、売れっ子作家とは言い難いが、でも漱石の死後ものすごい勢いで売れていく。それに一役を買ったのが、中学では『坊っちゃん』、高校では『こころ』が夏休みの課題図書となって、所謂そういった学校空間で漱石を半ば強制的に読まされたことで、漱石を“国民的作家”に仕立てていったと著者は分析している。これはなかなか面白い。なるほどと思う。
 では何故漱石のそれらの作品が学校での課題図書として取り上げられるのであろうか?それは漱石の小説に“道徳教育”を求める背景があるからだ。漱石のそれらの作品を課題図書として選定する側に、漱石の作品を読ませるのは、それを読むことで“エゴイズムはいけません”と教えたいのである。友人を裏切って、自分も友人も好きであった女性を、先手を打って奪い取ってしまうことはいけませんとか、友人に譲りその妻となった女性を今度は奪い取るとか、そういった自分勝手なエゴイズムはダメですよと教えたいわけである。
 でもちょっと不思議である。小説にそうした効能?がいったいあるのだろうか。実はあるのである。漱石は「文学は矢張り一種の勧善懲悪であります」と言っており、それは「道徳上の好悪」も勧善懲悪と言っているのである。つまり「文学」は「道徳」の問題にも触れるべきという姿勢を漱石は持っていた。当然そういう考えは漱石の小説にも反映されている。そこに目をつけたのは課題図書を選定する人たちであった。そうして課題図書となった漱石の作品は、少なくとも一度くらいは学校で触れたことのある作品となって、誰しも漱石を知ることとなっていくのである。これは漱石を“国民的作家”として押し上げていた背景であったのだ。
 さらに漱石が読まれる背景を『彼岸過迄』にある「彼岸過迄に就いて」からも読み取ることが出来るというのだ。

 「東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上っている。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、・・・・・(略)・・・・自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている」

 当時漱石が対象とした読者は「教育ある且尋常なる士人」である中流市民のみから成る狭く一様で閉ざされた社会にいる“中流階級”であった。その“中流階級”は漱石の時代少数派だったのが、現在はその“中流階級”が底上げされ拡大したことによって漱石を読む人が増えたというのだ。
 まさか『彼岸過迄』にあるまえがきみたいなものがそんなに意味を持つものとは正直思わなかったけれど、なるほどそういう考え方もあったのか、と思い知らされる。

 この本はこのような例みたいに、漱石の作品に隠されている文化記号を、その作品をテクストして読み解こうとしたものである。それを読み解くことで、漱石が行ったのではないかと思われる実験を読んでみようというものである。漱石の作品にはそうした実験が隠れていて、それを読み解くことで、別な側面で夏目漱石が読めるという試みである。仮説である。
 そう考えたのは著者の石原さんである。その仮説はあるいは著者の思い込みかもしれない。私から言わせれば、「それは深読みのし過ぎじゃないの」と思えなくもないが、ただ一種の推理小説風に読むと、この本は面白い。こういう本の読み方もあるんだな、と思ったわけだ。

 著者に言わせると「書き手にとっての読者とは、顔のないのっぺりとした存在のとして読者、何となく顔の見える存在の読者、具体的な何人かの『あの人』がいる」という。この本の書名に三人の読者と言っているのはこの点にある。そして漱石の作品にも「このような三層に分節化され、それが構造化されて小説に組み込まれていた」というのである。では漱石のとってこの三人の読者を意識して、どう作品が書かれたのであろうか。
 最初に書いた通り、漱石は売れっ子作家と言えるほど作家ではなかった。もともと純粋に作家としてその人生を歩んだ人じゃない。漱石は熊本の第五高等学校教授、第一高等学校嘱託、東京帝国大学講師だったのである。その漱石が明治四十年に朝日新聞社の専属作家となったのである。朝日新聞が漱石を招聘したのは、新聞の目玉にしたかったという魂胆があったからだ。
 朝日新聞社の専属作家となった漱石は朝日新聞を読む読者を意識しなければならなくなる。それが三人の読者のうち、「顔のないのっぺりとした存在のとして読者」となるわけだ。それでは「具体的な何人かの『あの人』」である読者とは誰のことをいうのであろうか。それが漱石の弟子たちであった。
 漱石は先に言った通り、文壇から出てきた人間じゃない。そうしたつながりを持っていなかった。だから弟子たちを持つことで、自分の作品を弟子たちに「どうだ!」と見せつけたかったのである。それでなくても漱石の弟子たちは師匠の漱石の作品を批判することで、逆にその存在をアピールしたかったところがあるので、その批判に対して、「お前たちにはこんな作品は書けんだろう」と言いたかったのであるという。
 そして朝日新聞を読む読者、弟子たち以外の漱石を読む一般読者を「何となく顔の見える存在の読者」として意識したのである。漱石の作品にはそうした三人の立場である読者を意識して作品を重層的に書かれているというのである。

 具体的な例がこの本では示されている。使用した作品は『三四郎』である。その『三四郎』で、三四郎がはじめて美禰子と出会う場面である。
 私もそうだったが、この場面を「三四郎と美禰子が一目惚れする場面と読んだろう。そして、美禰子が先に誘惑したのだと思っただろう。その結果『三四郎』を三四郎が美禰子に翻弄されながらその恋心を育てて行く、三四郎と美禰子の淡い恋の物語と読んだ」。そう読み取った読者は「何となく顔の見える存在の読者」である。
 ところが、三四郎が美禰子と出会う場面の近くには野々宮いた。その野々宮のいた位置と美禰子のいた位置は東大構内をよく知っている読者でないとわからないところがある。それをよく知っている人なら「この場面では直接には三四郎を挑発しているが、美禰子が本当に挑発しているのは、それを後ろで見ているはずの野々宮だったということである。ではなぜ美禰子はそんなことをしたのかと言えば、それが重松の言う結婚問題で『煮え切らない野々宮への<挑発>』だったからである」と読めるらしい。これが「具体的な何人かの『あの人』」たちに向けた手法であったというのだ。
 そして「顔のないのっぺりとした存在のとして読者」、すなわち朝日新聞の読者には、庶民には高嶺の花の東大構内はこうですよと「東京遊学案内」の役割を果たしているというのだ。
 いずれの立場でこの『三四郎』を読んでも、その感想を聞いて漱石はニヤリと出来るわけだ。

 要するにどうのようにでも立場によってさまざまに読み取ることが出来るということである。たとえばその後の作品だって、美禰子のような“誘う女”の物語ととればとれるだろうし、一方“遺産相続”ともとれるというのは、なるほどと思った。それをある程度漱石は計算していたことを著者は言いたいのであろう。そのことは漱石以前に一世を風靡していた、小説には構成など不要だ。事実を切り取るが如く描写すればいいという自然主義文学=写実的文学に対する漱石の批判であり、実験だったと著者は言いたかったのだろう。
 まぁこれだって著者の仮説だろうし、こんなに深読みしなければ小説を楽しめないのも、文学者というのは悲しい商売だなと思った。何となくダン・ブラウンのラングトンがダ・ヴィンチ絵の奥底を語るようだな、とそんな感想を持った。少々小難しいかったけれど、わかれば、それなり面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:漱石と三人の読者
著者:石原 千秋
ISBN:9784061497436
出版社:講談社 (2004/10/20 出版)講談社現代新書
版型:252p / 18cm
販売価:777円(税込)

2009年12月09日

森まゆみ著『とびはねて町を行く』

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 この本は先に読んだ『「谷根千」の冒険』の番外篇といっていいのかもしれない。「谷根千」を始めた森さんを含め三人の主婦たちが合わせて10人の子育て、その子の成長をつづっている。母親は「谷根千」の編集・出版で忙しいものだから、事務所の谷根千工房で子供たちはみんな一緒に育ってきた。手の空いている仲間が他の仲間の子供の世話をするのである。一緒に食事をしたり、お風呂まで仲間の家で入ってくる。その上町が10人の子供たちの面倒を見ている。「谷根千」を通して、町の人々とつながりが出来、そのつながりから、森さん達の子供も町の人とつながっていくのである。
 母親が「谷根千」の仕事で忙しいものだから、子育て一辺倒というわけにもいかない。それで子供たちは子供なりに自立いていくのである。親の目が届かないことをいいことに、好き勝手にやっていく。それこそ自由奔放にだ。親が「まったく子どもっていいもんだ。際限なく無駄な時間が使える」と感じられるくらい、子どもなりに生きていく。そんな中しっかりと自我に目ざめ、自立していくのである。
 確かに仕事で忙しいけれど、だからといって子供ことを心配しないわけじゃない。親として当然心配する子供将来など、寄り添ってあげられない分、それこそ真剣そのものだ。でも子供の方はそうした環境の中でしっかりと育っていく。その分みんなで協調して生きていく。たくましく育っていく。
 おそらく一昔前の親と子供の関係というのはこういうものであったのではないか。今はいつでもどこででも親が子供についてくる。ただ心配で心配でという気持だけなのだ。そこにあるのは親の気持ちだけであって子供の自立なんか関係ない。

 話はちょっとずれてしまうけれど、昨日かみさんからおもしろい話を聞いた。我が家では今長男が就活中である。だから夫婦の会話として就活の話が話題となる。なんでも会社の合同説明会に子供の親がついていくそうである。そのため会社側は親の控え室を設けなければならないとか。
 これを聞いて、この親たちはいったい何を考えているんだろうかと思った。また子供も子供でここままで親がかりでないと生きていけないのかと思った。就活をしている子供もその親も、そんな自分たちを会社が雇ってくれると思っているのだろうか。親がいないと生きていけない子供をどうして会社が雇うか。そんなボランティアみたいな会社がこのご時世あるわけがないじゃないか。一人で自立できない人間を雇うわけがないじゃないか。
 ちょっと考えればわかりそうなものだと思うが、それでも親は自分の子供が心配だからここまでついていく。子供も親が側にいれば安心なんだろう。
 そういう世の中になっているのである。だからこの本に書かれている子供と親との関わり合いがものすごく自然な姿に映るのである。
 
 一方で親の方もそうして自立いていく子供たちを、心配ではあるけれど、成長の一過程として見る心構えも必要なことも知らされる。

 「一年ほど前、娘が『社会主義』に興味を持った。見ていると図書館に行って、マルクス、レーニン、向坂逸郎、不破哲三、安東仁兵衛、とにかく社会主義と名をついた本をあれこれ借りて読んでいる。
 このラインナップでは頭が混乱するゾーとは思ったが黙っていた。玉石混淆、くだらないものを含めてとんでもない順序で乱読し、考えるからこそ自分が鍛えられるはずだ。子どもに上から精選した優良図書を『正しい』順序で与えても力がつかない。
 進む道も読書と同じで、遠回りしたり、寄り道したり、行き止まりでひき返したらいい。
 そう思うのは、仕事柄、無駄なくエリート校を卒業して良い地位についた人に会う機会が多いが、たいていは面白くないし幸せそうでないからである。むしろ町の工場主や商店のおばさんや職人、芸人の方がずっと世渡りの智恵もあるし、人間として魅力的だ」

 このくらいの心構えがなければ本当はいけないのではないか。親もそうだし、学校の教師だってそうだ。子供たちをどう育てて行っていいかわからない。どう教えていけばわからないものだから、なんでも無難な方法をとる。あるいは多少の危険も子供には冒険として楽しいはずだし、身をもって堪えれば、次から同じことをやらなくなる。多少痛い目にあう方がいいのだ。だけどただ危険だからといって、すべてを禁止してしまう。多少人に迷惑をかけてもいい。それで怒られれば、しちゃいけないんだなと思えるはずだ。
 いきおいなんでも禁止しちゃうものだから、今は子供の方は森さんの言うように「人はより個人主義になり、かかわりを恐れるようになった」のだ。

 ところで男親は娘の成長にどきっとすることがある。特に母親と娘の会話に、男としてむやみに触れちゃいけないものを感じたことがある。ちょっとドキッとするのだ。

 「最近、中学生の娘の胸のふくらみが気になる。母親にそんなことをいわれるのは嫌だろうな、と思いつつ、
『そろそろブラジャーをしたほうがいいんじゃない?』
 と、おずおずと提案すると、娘は、
『お母さんこそ、そろそろブラジャーしても無意味じゃない』
 フンと鼻で笑った」


評価
★★★


書誌
書名:とびはねて町を行く―「谷根千」10人の子育て
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087477719
出版社:集英社 (2004/12/20 出版)集英社文庫
版型:279p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年12月03日

松本健一著『増補 司馬遼太郎の「場所」』

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 また松本さんの司馬遼太郎論を読む。一部は前回読んだ本と重なる部分があるが、なかなかおもしろかった。それに自分の好きな作家について批判されると、頭にくる時があるが、松本さんの場合そういう心配がないので安心して読めるので有り難い。
 おもしろいと思ったのは、司馬さんは純文学畑ではあまり評価されていなかった事実である。著者は次のように言う。

 「司馬の生前に文芸雑誌でかれを特集したものは、たしかほとんどなかったのである」

 「この扱いは、純文学とか文壇というような世界では、司馬遼太郎が文学者としてはあまり評価されてこなかった実態を物語っているのではないか」と言っている。つまり司馬文学は純文学とは違うということなのだろう。言われれば確かにそうなのかなと思う。司馬さんの書かれる小説は純文学雑誌にはなじまない。
 では司馬さんの書かれる作品はどこに位置するのだろうか。それを著者は大衆文学に位置するものと考えられる。大衆文学というと純文学と比較すると一つ格下のように思われるが、大衆文学が果たす役割の重要性、その持つ性格を松本さんは次のように言う。

 「明治以後の史学が最終的にたどりついたのは、右に皇国史観であり、左に日本的な唯物史観であった。前者が、明治国家を伝統的な権力であると位置づければ、後者は、その半封建的なブルジョア国家から権力を奪取することをいうのである。とすれば、つねに権力から裏切られつづけた民衆は、そのどちらにも拠ることもできない。このとき、大衆文学は、右に寄ることも左に走ることもできない民衆の生活のなかのエトス(肉声)を汲みあげて、「その日その日の出来心」で権力にむきあうヒーロー像を描いたのである。そのことによって、在野史学のかぼそい継承者となったのである」

 「大衆文学はたしかに、伝統や習慣や既成文化といったものを無視できない。民衆の生活が、これらに大きく規制されているからだ。しかし、これらを無視できず、それらの現実のありようとして描くことは、民衆にこび、へつらうということではない。プロレタリア文学運動における芸術大衆化運動のテーゼは、この点を見誤っているのだが、それはともかく、こういった伝統や習慣や既成文化に入りこみつつ、かれらを紙のうえで解放してやることが、大衆文学に課せられた課題なのだ。
 とすれば、大衆小説作家が伝統や慣習や既成文化にしばられた民衆の生活のなかのエトスを汲みあげる回路をもっているかどうか、これが大衆小説作家の資格として問われることである。そのかぎりでいえば、司馬遼太郎という歴史小説作家は、在野史学、大衆文学の正統を踏んだ作家ということができよう」

 つまり大衆文学はがちがちに権力に縛られた民衆が、物語の中で心を解放する役割を負ってきたと言うのである。そして「司馬遼太郎の歴史小説は、こういった在野史学なり大衆文学の正統を踏んでいる」というのである。司馬さんの作品が「一般うけがするということの意味は、時代の雰囲気を呼吸している大衆がその時代に応じて読み換えられる、ということである」というように、時代時代に応じて支持された。それは司馬さんが大衆の表情や動向を巧みに分析できることを意味している。
 民衆に支持された大衆文学は時代を反映するから、司馬さんの前には吉川英治がいたが、大きく括れれば同じ路線であるけれど、その姿勢は決定的に違う。吉川英治は戦争を支持し、司馬さんは戦争を忌み嫌った。それは時代が求めた結果と言っていいだろう。
 また塩野七生さんが司馬遼太郎さんを「高度成長期の日本を体現した作家」と評したことがあるらしいが、確かに司馬さんの作品は彼等の心証として心地よい感覚を与えたに違いない。
 また司馬さんが描く“気概”ある男たちは、男の美学として、美しく映るから、心地よい。そこに滅びの美学も加わるから、余計である。
 司馬さんはそうした大衆が今何を求めているのか、それに敏感に反応した。時代に反応した。そのための分析は鋭かった。しかし単に時代に反応し大衆が求めている作品を書けばいいというものでもない。あくまでも徹底的にディテールとして事実にこだわった。でもそこに登場する人物の心は司馬さんの心であろう。時にはそれを無批判的に信じ、受け売りする人々も出たくらい、司馬さんの作品は支持されたきた。だから逆に司馬さんは余計に史実にこだわらなければならなくなる。その資料調べのすさまじさは有名だ。一時神田の古本屋街で資料を買いあさったため、その資料が古本屋街でなくなったという逸話がある。

 司馬さんは時代に敏感であった。だから時代とともに自分も変わらざるを得なかった。それを松本さんはうまく振り分けて指摘されているので、それを書いて終わりにしよう。

 「司馬さんの文学的遍歴を、私は四つの段階に分けて捉えています。まずは『梟の城』に代表される、伝奇ロマン的色彩を持った大衆小説作家としての時代。次に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』といった、歴史上の人物にスポットをあてたヒーロー小説作家としての時代。そして『坂の上の雲』のように歴史そのものを鳥瞰して描く、歴史小説作家の時代を経て、最後は、小説家というよりは、むしろ文明批評家としての仕事をなさっていた。その遍歴は、作家そのもの転変であるとともに、それぞれ1950年代~60年代、60年代末から70年代、80年代20世紀末までの、日本の大衆のエトスのおおよその移行に見合った作家活動になっていると思われます」

 こうして司馬さんの作品を紹介され、その背後のあるものを指摘されると、また司馬さんの作品が読みたくなる。私は高校時代から司馬ファンであるが、まだまだ読んでいない作品がたくさんある。それをじっくり読んでみたいなという気持にさせられた。


評価
★★★


書誌
書名:増補 司馬遼太郎の「場所」 (増補新版)
著者:松本 健一
ISBN:9784480423115
出版社:筑摩書房 (2007/02/10 出版)ちくま文庫
版型:266p / 15cm / A6判
販売価:798円(税込)

2009年11月25日

森まゆみ著『「谷根千」の冒険』

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 「谷根千」とは谷中、根津、千駄木のコミュニティー雑誌のことで、著者によるとミニコミ誌とは違うらしい。そもそもコミュニティー雑誌とミニコミ誌の違いがよく分からないが、とにかく単に情報誌とならず、この地域の特有の文化や歴史を語りながら、ここで暮らす人達のための雑誌を自分たちで作りたいということから、この谷根千に住む著者をはじめ三人の主婦が始めた雑誌である。
 この本はその「谷根千」がどうして生まれるようになったか、その創世記の苦労を主に語っている。彼女らは子育てをしながら、地域に根ざした雑誌作りをモットーとし、この地域の文化や歴史をここに住む人達から取材する。幼い子供を抱いて取材し、子供を負ぶって出来上がった雑誌を自転車で雑誌を置いてくれるお店に配達するのである。時にはお腹の中に子供がいる状態で、近所の人に危ながられながら、自転車に乗って配達していた。多分こういう時は自分たちが苦労して作った雑誌が出来上がり、早くお店に置いて欲しいという気持ちから、危険とかいう意識より、とにかく意識が高揚していたんだろうなと思う。雑誌作りは大変だけど、楽しくて仕方がないという気持がよく伝わってくる。利益とかそんなことより、とにかく自分たちが作った雑誌を読んで欲しいという気持の方が強かったに違いない。
 今ではこの谷中、根津、千駄木という地域は、震災や戦災にもそれほどあわず、古き良き時代の下町の面影を残しているといって、結構話題になっている。谷中墓地があるものだから、多くの寺が残っているし、鴎外や漱石など明治の著名人も多く住んだ場所なので、その文化的話題性に事欠かない。だからテレビなどよく特集番組を放映している。
 ただそれは現在の話で、森さん達が雑誌作りを始めようとしていた頃は、「谷中と上の桜木は台東区、根津・千駄木・弥生は文京区、日暮里は荒川区、そして田端は北区とここは四区の区境。それだけに区役所からは遠く、行政サービスは薄く、おもしろいことにどの区の人も「○○区のチベット」とよんでいるよう」な地域なのであった。またそうした区境だから、行政上統一的な文化保存が行われない。でもここにはたくさんの文化や歴史もあり、そこで暮らしている人達からさまざまなことを聞いていけば、おもしろい雑誌が出来るだろうなと思う。

 昔書店員だった頃、仲間で雑誌を作ったから置いてくれませんかというのがよくあった。私は自分が仕入の権限を持っていたから、仕入条件さえ合えば、出来るだけ置いていた。けれどこの手の雑誌は大体続かないようで、最初のうちは新しい号が出たら前の号の精算に見えるのだが、いつの間にか新しい号も出なくなり、精算さえ来なくなるパターンが多かった。こっちもいつまでも古い雑誌を置いておくわけにもいかないし、かといって商品を預かっているわけだから、捨ててしまうことも出来ず、処理に困ることが多かった。
 森さん達はとにかく三年間は持ち出しであっても、続けよう。雑誌を置いてくれているお店にこうした迷惑をかけないようにしようと決めているところは立派だなと思った。
 資本も何もない主婦が地域のための雑誌作り、確かに大変だろう。けれど自分たちの雑誌を作るというのはきっと楽しいに違いない。それにこの地域はとにかく歴史がある。だから雑誌のテーマにことを欠かない。しかも当時を知っている古老も多くいる。だからおもしろい雑誌が出来てくるのも、肯ける。森さんも次のように言っている。

 「私たちのささやかな『谷根千』にしたってわれながら自費出版でよく続くと思う。そして出版そのものが目的でなく、それによって利益が上がるというものでもなく、やはり本を出すプロセスの楽しさつらさ、取材して調べることの新鮮なよろこび、人との出会い、自己形成というものが私たちにこれをやらせている」

 ちなみに1984年に始まったこの「谷根千」は2009年94号で終わっている。詳しくは以下のURLで見て下さい。


http://www.yanesen.net 谷根千ねっと


 さてこの本で興味を持ったことがいくつかある。まずこの雑誌の性格から、その地域に住む人達のことを聞き回って記事を書いている。けれどそういう聞き書きではよく誤解が起こる。実際雑誌が発売されてから、記事の内容に苦情が来たらしい。だから新しい号が発売されて一週間ぐらいはどこからか苦情の電話が鳴るんじゃないかと不安に駆られたという。まぁそれはちょっとした誤解から生じたことだろうと思われるが、やはりそういうことはいくら校正の時に神経を使っていても起こりうるだろうなあと思う。まして地域雑誌だから、雑誌の内容にはかなり神経を使われたことだろう。

 この雑誌の名物に「自筆広告」というのがあるらしい。自分たちの町のことが載った本をどう紹介したらいいのか悩んだ末、著者自身に広告を作ってもらうコーナーらしい。そこで日暮里に住んでおられた吉村昭さんに「自筆広告」を依頼した。広告料は無料なのだが、吉村さんは広告原稿とともに、一万円が同封され「無料広告代、ご笑納下さい」と添え書きがあったという。これを読んだとき、いかにも吉村さんらしいなと感じたのである。いくら無料とはいえ、吉村さんには広告料を出さずにいられなかったに違いない。「無料広告代」がいい。

 「谷根千」で鴎外の特集を組んだとき、『青年』に出てくる色川国士というどこかの議員さんの家はどこかという疑問に答えてくれた色部義明という人を訪ねたことがここに書かれている。色部?どこかで聞いたことがあるなと思って読んでいたら。協和銀行の頭取だった人だと思い出す。実際森さん達は大手町の協和銀行本店の役員室を訪ねている。
 どうしてこの会長のことを知っているかといえば、うちの会社がこの本店の売店に本屋さんを出していたことがあって、確か頭取が書いた本を売らせてもらったのを、当時の店長から聞いていたからである。それが記憶にあったのだ。妙なところでつながっていることに驚いた次第だ。

 最後に谷中の五重塔のことを書く。谷中には五重塔があった。その塔は1793年に建てられ、江戸の四大塔の一つと言われた。江戸の大火、彰義隊の戦争、関東大震災、戦災にも耐えて谷中墓地に建っていたのである。ところが昭和32年7月6日未明不倫の清算のため、放火心中のため全焼してしまった。その心中者は未だに悪く言われているという。

 「高い薪をつかいやがって」

 「何も心中するなら枝ぶりのいい木も鉄道も近くにあったのに」

 「でも不謹慎ないい方だが、塔が五色の炎を飛ばし、身もだえして昇天するさまはそれはそれは美しかった」

 以来ここには塔の跡はあるが、未だ塔は再建されていない。私は何で塔が再建されないんだろうと思っていた。よく昔あった建物が再建される例をよく聞くので、ちょっと不思議であった。でもこの本を読んで、五重塔再建運動はあったことを知った。
 しかし再建には何十億ものお金がかかる。そのためにはきちんとした体制を作っておかなければ、再建など覚束ない。それにたとえ塔の再建がなったとしてもそのときに再開発や地上げ、あるいは跡継ぎがいないという理由で、この町に住んできた人たちがいなくなったら、住民のシンボルであった塔の再建の意味がない。それよりもこの町に普通の人々のコミュニティーを残すことに時間を使いたいと森さんたちは思ったらしい。
 なるほどそういうことだったんだと納得した。


評価
★★★


書誌
書名:「谷根千」の冒険
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480037237
出版社:筑摩書房 (2002/05/08 出版)ちくま文庫
版型:287p / 15cm / A6判
販売価:756円(税込)

2009年11月20日

夏目漱石著『こころ』

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 実はこうして漱石を読んできたのはこの『こころ』を読みたくて、他の作品を読んできた。私はこの物語が大好きで、もう何度読んだろうか?そのたびに泣きたくなるのも毎度のことだった。
 ただ今回はどうだろうかと思った。これまで読んできた漱石の前期三部作、後期三部作の登場人物にかなりの不満を感じていたので、今までのように手放しで感動出来るかどうか不安であった。いずれもただ単に相手の気持ちと自分の気持ちとの間で苦悶するだけで、その先一向に光が見えないまま、終わってしまう話にいささか鼻についていたからだ。しかも彼等は生活に余裕があって、生きることに汗水流さないで済む分、普通生きることに必死の人なら、一銭でもお金を稼いでいるところを、ただ邪推や妄想の日々で終わるのである。どこか自分たちは特別なんだという臭いがプンプンしてしまうのである。それが鼻持ちならなかった。
 そう感じていたから、この『こころ』もそういう話の一つになってしまうのではないかと思ったのだ。それはとにかく好きな物語だったから、出来ればそうであって欲しくなかったのである。
 結論から言うと、今回何度目かわからないが、この物語を読んで、一番感動が少なかった。
 こうなると昔読んで感動した本を改めて読み直すというのは、時にその当時の感動に疑問を呈することもあるから、考えものだ。昔感動したからといって、読み直して同じ感動が味わえるかというと、そうでもないことが多いのかもしれない。

 さて、『こころ』である。解説によると、この『こころ』はいくつかの短編を書き継ぎ、それを合わせて総題として『こころ』とする予定で、漱石は最初にこの本のメインとなる「先生と遺書」を書いたのだそうだ。ところが片がつかなくなって、その前に「先生と私」を書き、そこで私と先生の出会いを明らかにし、次に「両親と私」で自分の父親と先生を比べることで、先生の姿をより明らかにしようとする。
 私は父が危篤と聞いて、大学卒業後すぐ国元へ帰るのだが、父親は私が大学を卒業したことを素直に喜ぶ。その姿とたかが大学を卒業したくらいでといった冷ややかな態度の先生と比較し、その冷めた態度の先生の方が、余計に偉く見えたりする。そんな私のところに先生から膨大な量の手紙が来る。それが「先生と遺書」となって結びつくことになる。そこで先生の過去が明らかにされ、自殺へと結びつく経緯を知ることとなる。だからこの「先生と遺書」が物語のメインとなるわけだ。
 まず「先生と私」で、先生との出会いを描く。「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮といよりも、その方が私に取って自然だからである」といって始まる。
 私は何度も先生のお宅に出入りし、先生が定職にも就かず、半ば隠遁生活している姿に疑問を感じつつ、先生ともあろう人がどうしてこんな生活をしているのか、聞きたくても聞けないまま、どこかに暗い影を感じつつ、先生の話しぶりから、先生を知ろうとする。 そんな中私は「人間を愛し得る人、愛さずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事が出来ない人、-これが先生であった」と先生の人物評をする。
 先生は私にすべてを語らなかったが、ぽつりぽつり含みのある言葉を私に投げかける。

 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」

 先生は自分たち夫婦を本来なら幸福な人間であるはずなのに、それをそうだとは言い切らなかった。ここに夫婦の間に何か暗い影を感じさせる。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです」

 「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」

 、と言ったりする。

 この新潮文庫に収録されている江藤淳さんの「漱石の文学」で、江藤さんがうまいことを言っている。こうした漱石の物語の運び方を「いわば告白しないことによって、告白し、虚構や象徴によってのみ自己の秘密を語るという、漱石独特の手法」だというのである。まさにこの物語はそうした手法を取りつつ、前作同様手紙ですべてを明らかにする方法をここでもとっているのである。

 そして「先生と遺書」ですべてが明らかになる。先生が最初から悪人なんていない。それが急に変わるのはお金のためだと言うのは、先生が両親を失って、自分を養育してくれたと恩を感じていた叔父が、先生の遺産を使い込んでしまったからだ。自分はだまされていたことを知ったから、そう言ったのであった。
 辛うじて残った遺産を処分して先生は東京に出て来る。そして母娘がいる家に下宿することとなる。最初は赤の他人である先生と母と娘はぎこちないところがあったが、その内打ち解けるようになって行き、先生もこの親子と暮らしているうちに、人間不信になっていた自分の気持ちが人間らしさを取り戻していくのを感じてくる。
 そこへ友人のKを連れてきて、一緒に住むことになった。Kは真宗の坊さんの子であったが、医者の家に養子に出された。養家ではKを医者にするために、東京に出した。ところがKはまったく医者になるつもりがなく、養家をだましながら大学で違う勉強をしつづけていた。結局Kは養家をだまし続けることが出来ず、真実を明らかにしたことで、養家の怒りを買い、仕送りが断たれたのであった。先生はKの後見人を自認していたため、Kを自分が下宿していた家に一緒に住むことにしたのである。先生は自分がこの親子の御陰で荒んでいた自分の気持を和らげてくれたことから、それをKにも望んだのである。
 ところが先生はKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかくなっていく。特に御嬢さんと仲良くなって、一緒にいるところを見ると、嫉妬した。
 ある時Kから御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた。その時先生は「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです」とこの遺書で告白するのであった。先生はなんとかしなければならないと焦り、Kが学問で精進していることをよく知っている先生はKに向かって「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言って女にうつつを抜かすKを非難する。
 その一方で、先生は自分の気持ちをKよりも早くこの親子に告白をしなければならないと思い、Kの気持を知っていながら、Kを出し抜いてこの母親に娘を嫁にくれと伝えるのであった。先生はKに勝った。しかしKをだまし、出し抜いたことに後悔する。

 「私はその刹那に、彼の前に手を突いて、謝りたくなったのです」

 そして先生と御嬢さんとの結婚話を聞いたあと、Kは自殺した。先生は取り返しのつかないことになったことを自覚する。

 「要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした」

 「おれは策略で勝っても人間として負けたのだ」

 「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」

 Kの葬式のあと御嬢さんは先生の妻となったが、先生後ろにはいつもKの姿があった。自分が軽蔑していた叔父と自分がKにしたことが同じであることに苦しみ続けた。毎月命日にはKの墓参りを欠かさなかったが、その内先生は“自己処罰”を思うようになる。ただ自分が死んだら妻はどうなると考えると、なかなか行動には移せなかった。だから先生は「私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです」というのである。
 あるいはKとのいきさつを話せば、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないと思う一方、自分の罪で妻の心を汚してしまうことに忍びなかったのであった。

 「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変苦痛だったのだと解釈してください」

 そんな時明治天皇が崩御した。先生は「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」と書く。先生は自分が生きた明治が天皇崩御で終わったことで、その間自分が人間形成をし、叔父を軽蔑し、そして自分も叔父と同じであったと自覚するに至った時代にけじめがついたと思ったのである。あるいは乃木大将の殉死が後押ししたのかもしれない。先生はその後妻を残し、自殺するのである。“自己処罰”のために。

 ところで夏目漱石は江戸幕末の慶応3年に生まれ、大正5年に死亡した。漱石の50年近い生涯はまさしく明治という時代そのものであった。漱石は明治精神をそのまま生きてきた。だから明治天皇の崩御はかなりの影響を残したはずだ。それをこの先生に託したと言っていいのかなと思ったりする。


 今回同じ『こころ』でも新潮文庫版と集英社文庫版の写真を掲載した。読んだ方は新潮文庫であったが、集英社文庫は解説を読んで、それを参考にさせてもらった。


評価
★★★


書誌
書名:こころ (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010137
出版社:新潮社 (2004/03/15 出版)新潮文庫
版型:378p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込)


書誌
書名:こころ
著者:夏目 漱石
ISBN:9784087520095
出版社:集英社 (1991/02/25 出版)集英社文庫
版型:340p / 15cm / A6判
販売価:320円(税込)

2009年11月18日

夏目漱石著『行人』

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 続いて漱石を読む。今回も「高等遊民」の長野一郎が自分の妻の直を信じられず、直の気持が弟の二郎に向いているんじゃないかと疑うところから、この物語は始まる。そのため二郎に自分の妻と一晩泊まって、妻の気持ちを確かめてくれという、とんでもないことを頼む。頼まれる二郎もどうかと思うのだけれど、まずは一郎の猜疑心にはいささか呆れる。
 とにかく二郎は気難しい兄の言うことには逆らえないので、結果として一晩直と夜を一緒に過ごすことになり、その夜のことを兄の一郎に報告する。この時になって二郎は自分が兄から疑われていることと、自分がいくら兄の頼みごととはいえ、嫂の気持ちを確かめるなど馬鹿なことをしたことに後悔するのだが、私からすれば、「あんたもどうかしているよ」と言いたくもなる。
 それにしても漱石が人物設定する「高等遊民」という輩は、まったくどうかしているとしか言いようがない。行動することより、頭の中であれこれ考え過ぎることから、つまらん邪推が生まれ、本来なら考えなくてもいいことが自分の頭の中で広がっていき、今度はそれで身動きがとれなくなるのだから、どうしようもない。
 確かに人はあらゆることで考え過ぎることがある。ただどうでもいいことを深く思い至るところはあるにしても、これほどじゃないだろう。誰にだって“不信”はある。そのためにさまざまなことに猜疑心を抱き、さらに気持が荒んでいく。しかし一郎の直に対する疑念は異常であるとしか思えない。自分以外本当のところはわからないのが当たり前なのだが、それをわかりたいと思うところに、一郎の破綻があるのだ。
 一郎が何故妻の直の気持を疑うようになっていったのか、その原因はこの物語ではつまびらかにされていないが、ただ直の日常の態度からそう察するのだろう。でもその直がそうした態度に出ているのは、結局一郎がそうさせたところがある。一郎と一緒に暮らしているうちに身につけた処世である。それを二郎は次のように言う。

 あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々しいものでもあった。
 或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕跡さえ認められない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代わりに微笑した。泣き伏す代わりに寡黙に端然と座った。恰もその座っている席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、殆ど彼女の自然に近い或物であった。

 二郎は直がそうなったのも一郎のせいだと見抜いているのに、直にもう少し兄に対してやさしくなれという。でも直は「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜の所為だって」と言うだけなのである。
 
 こうして一郎の懐疑心が、家族からの孤立を生み、それとともに一郎の神経の病的変調ともいえる状態が生まれる。家族もそれを心配し、気晴らしに旅でも出たらどうかということで、一郎の友人であるHと一緒に旅に出させる。
 物語はここからHによる一郎の精神状態の記述となる。私から言わせればわざわざ一郎の精神状態をここで明らかにする必要性を感じないのだけれど(多分そうだろうなと思えるから)、まぁ、Hの言う一郎姿を書くと次のようになる。

 兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥っています。兄さんは甲でも乙でも構わないという鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方かでなくては承知出来ないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合なりが、ぴたりと兄さんの思う坪に嵌らなければ肯がわないのです。兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこう思った針金の様に際どい線の上を渡って生活の歩を進めて行きます。その代わり相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで来て呉れなければ我慢しないのです。然しこれが兄さんの我儘から来ると思うのは間違いです。

 けれども、是非、善悪、美醜の区別に於いて、自分の今日まで養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。寧ろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんは能く呑み込めているのです。

 そうなのだ。一郎の今までしてきた知的生活、すなわち学問的の追求姿勢をそのまま実生活に移せば、唯単に猜疑心しか生まないのだ。このような現実乖離した生活感では、そうした姿勢がそれほど意味をなさないばかりか、時には邪魔にさえなることも一郎はわかってはいる。その証拠に「平生読み破った書物上の知識を残らず点検した揚句、ああああ画に描いた餅はやはり腹の足しにならなかったと嘆息したと云います」とHは書くのである。
 一郎はわかってはいるのだ。だけどそれが出来ずに苦しんでいる。まるで智恵だけが独立したかのように、一人歩きしている自分をわかっているのである。
 それでも自分がこれまでやってきたことは、絶対だと思うところには救いはない。だからHが一郎が宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうかと思うけれど、一郎はそれを否定する。一郎は自らやってきた生活と、実生活の乖離に苦しんでいるだけのことで、決して宗教家になるための修行をしている訳じゃないからだ。一郎はあくまでも実生活でも自らの幸福を求めてやまない人間でもあるのだ。
 結局この物語も行き着くところまで行き着いて、物語が終わる訳じゃなく、“寸止め小説”として、こうしたジレンマに苛まれたまま終わる。それ以降どうなっていくのか、読む側に考えさせるということなのかもしれないが、結局このまま悩み続け、これ以上の解決策は見出せないのではないかという予感だけが残る。後は一郎が狂ってしまうかであろう。
 漱石が描く精神の高貴さを追求する人が、実生活でのギャップに悩み続ける姿は、それだけを見れば尊い感じがしてしまう。けれど、どっぷり俗世間のしがらみに縛られている今の自分がこの物語を読むと、そういう知的生活、学問的探求と同じような姿勢では生きていくのは難しいだろうと思うのだ。むしろちっとも尊いと思えなかった。頭でっかちの戯れ言聞いている感じでもあった。


評価
★★★


書誌
書名:行人 (〔平成5年〕改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010120
出版社:新潮社 (1996/10 出版)新潮文庫
版型:417p / 16cm / 文庫判
販売価:539円(税込)

2009年11月13日

夏目漱石著『彼岸過迄』

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 また漱石に戻る。この『彼岸過迄』というタイトルは、漱石が序文でことわっているように、彼岸過ぎまでに書き上げる予定だから、そういうタイトルを付けただけだという。だから物語の内容とは何ら関係ない。最初、田川敬太郎の就職活動を須永の叔父に依頼するところから始まるので、この物語は敬太郎の話かと思われるが、実は彼の友人である須永と従妹の千代子の物語である。敬太郎はあくまでも須永の心持ちを観察し、聞いた話を語るだけの役割である。解説によるとこの手法は『猫』と同じ手法で、それが成功したものだから、今回もその手法を使っているのだという。猫が主人を観察することでその物語は成り立ったが、今回は敬太郎に猫の役目をさせ、須永を観察することで、須永の物語となる。

 この本も高校時代読んでいる。ただ当時はなんて言うのかな、世俗とは関係のない精神の尊さというか、そんなものに感動したのだけれど、今回は少々鼻持ちならないところを感じてしまう。
 当時私は普通の高校生だから、親抱えで、生活することに何ら心配のない時であった。だから生きることが今みたいにお金と直接結びつかずにいた。そのため人間の精神のあり方、あるいは葛藤だけが、ストレートに感動を呼んだのだろうと思える。しかし今は違う。敬太郎にしても、須永にしても、叔父の松本にしても、世間離れした生き方出来る人間の戯れ事のように思えてしまったのである。
 前期三部作にも「高等遊民」という言葉が出て来る。これは漱石の造語で、意味は大学を出ても職に就こうとはせず、職業のために心を汚し、あくせくしない、余裕ある時間を持つ人に対していう言葉だ。漱石はそうした恵まれた環境に育ち、何の心配もなく高等教育を受け、卒業しても、慌てて仕事を探さなくてもすむ人間の恋愛関係だけを取り上げる。だから気持だけであって、そこには生活するために“生きる”という姿が欠けている人達ばかりの話に感じてしまう。幸い『門』だけは生活の臭いがする分、救われるが、後は、余裕のある人間の物語にしか感じられないのである。
 やたら高慢で、うぬぼれの強さが至るところで見られる。自分は高等教育を受けてきて、人とは違うんだという視線で相手を見ているところがいたるところにある。そしてそうした教育を受けることだけがそれまでの人生だったから、生活する能力はないのだと平気で言えるのである。だからそれまであれこれ考えていたのに、話が現実的になると、尻込みしてしまうのだ。

 須永の母親は千代子を子供の頃から、須永の嫁に欲しいと言っていた。それは須永が自分の息子でなかったからだ。自分の生んだ息子じゃないからこそ、血縁関係を考えて、千代子を嫁に迎えたかったのであった。須永は母親のそうした意志のもとで、千代子と過ごしてきた。子供の頃からの幼なじみだったからこそ、自分が千代子を愛しているのかどうか判断できなかったし、自分が受けてきた高等教育や甘ちゃんで育ってきた自分を省みて次のように思う。

 僕は常に考えている。「純粋な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕は屹度その光の為に射竦められるに極まっている。それと同程度或いはより以上のの輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。

 千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年の行かない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指す事の出来る権力か財力をつかまなくっては男子ではないと考えている。単純な彼女は、たとい僕の所へ嫁に来ても、矢張そう云う働き振を僕から要求し、又要求さえすれば僕に出来るものとのみ思い詰めている。

 そんな煮え切らない須永に対して、千代子の縁談話が出てくると、今度は相手に嫉妬するのである。けれどその相手と競争して千代子を奪い取ろうと考えない。

 僕は断言する。若しその恋と同じ度合の激烈な競争を敢えてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄ててしまう積でいる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれ程切ない競争をしなければ吾有に出来にくい程、何方へ動いても好い女なら、それ程切ない競争に価しない女だとしか認められないのである。

 競争して勝った側の男につく女なら、そんな尻の軽い女なら、価値のある女には思えないと考えるのである。これって、どうよ、と言いたくなる。こういう自分勝手な考え方しかできないのが“高等遊民”なら、こいつら馬鹿かと言いたくなってくる。逆を言えば、これほど自分の都合よく物事を考えられるのはある意味うらやましい。さすが“高等遊民”である。ホンと頭でっかちとはこのことである。人間が生きるということは、もっとドロドロしているはずだと思うのだけれどね。
 しかしまったくの馬鹿じゃないようだ。須永は自分のこういう生き方が出来たのも、余裕がそうしてくれたことを、尊敬する叔父である松本の姿を見て思うのである。

 叔父は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥している。それを外に出さないのは、財産の御陰、年齢の御陰、学問と見識と修養の御陰である。

 あるいは今まで生きてきた姿がどこかおかしかったかも知れないと、小間使の作を見て思うのだった。ただその見方も、傲慢そのものなのだが、おかしいと思うだけでも多少救われるかもしれない。

 固より好い器量の女でも何でもなかった。けれど僕の前に出て畏こまる事より外に何も知っていない彼女の姿が、僕には如何に慎ましやかに如何に控目に、如何に女として憐れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分では既に生意気過ぎると思い定めた様子で、大人しく坐っていたのである。

 自分の腹は何故こう執濃い油絵の様に複雑なのだろうと呆れたからである。白状すると僕は高等教育受けた証拠として、今日まで自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところが何時かその働きに疲れていた。何の因果でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと情なかった。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。

 これが明治の知的階級の一般的な考えであったのだろうか。もっと自分の気持ちに素直になれば生きやすいんじゃないかと思うのだが・・・。知識がそれを邪魔するというなら、そんな知識など捨て去ればいいじゃんと思うのだけれど、そうしたらそれまで生きてきた証がなくなっちゃうから、そうもいかないのだろうか?
 それともそもそもそんな考え方さえ生まれないのかもしれない。高等教育は人間らしさや素直さをどこか否定してしまうところがあるのかもしれない。彼等の行動は頭の中で考えた行動しか出来ないところがあるし、そうであることが当たり前のような危うさがある。人間なんてそう簡単に割り切れるもんじゃないと思うのだけれど・・・。だから悶々とするでしょうが。まして人の気持ちなんて、どうなるかわかるものでもないはずだ。どうも私は生活感抜きで、物事を考えられない人間で、精神の高貴さだけを受け入れられない俗っぽいところがあるようだ。


評価
★★★


書誌
書名:彼岸過迄 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010113
出版社:新潮社 (1983/09 出版)新潮文庫
版型:328p / 16cm / 文庫判
販売価:459円(税込)

2009年11月05日

田山花袋著『東京震災記』

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 小沢信男さんの『東京骨灰紀行』の中にこの本の記述が引用されていた。それを読んだときこの本をあったはずだよなと思い、本棚を探し回ってみたら、確かにあった。この本も読んだという記憶はあるのだが、これもほとんど内容を覚えていない。ただこの本は持っていることは確信があった。
 というのも社会思想社が潰れたとき、当時お店にあった文庫を倒産に当たりすべて返品する時、面白そうな本を抜いて、買ったという記憶があるからだ。家の本棚には当期買った教養文庫が数冊ある。今ではきっと社会思想社の教養文庫といっても忘れられちゃっているんだろうなと思う。結構いい本を文庫本として出版していたんだけど、アドベンチャーゲームブックみたいなおかしな本を出すから潰れちゃったんじゃないかと思う。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』を出版した出版社だといえば多少思い出してくれる人もいるかもしれない。今では古本屋の均一本の中にこの現代教養文庫をよく見かける。

 さて、この本はあの田山花袋が関東大震災後自ら歩き、又は人から聞いたことをそのまま記したものであり、元は大正13年博文館から発行された『東京震災記』を全文収録したものである。
 とにかく、この地震はその大きさももちろんだけれど、やっぱり火災の恐ろしさをひしひしと感じる。ネットでもその惨劇状況を見ることが出来るので、見てもらいたい。

http://research.kahaku.go.jp/
rikou/namazu/03kanto/03kanto.html

 それを突切ってそのまま九段の坂の上へと行った。私はとにかくそこで地震以来焼けた区域の概念をつくることが出来た。私は一面焼野原で、目の及ぶ限り殆ど灰燼になっていないところのないのを見た。ニコライ堂の半ば焼け落ちているのも、駿河台から神保町にかけて処々に建物の残骸の聳えているのも、神田明神の焼けたあとの台地のガランとしているのも、何も彼もその火災のいかに烈しかったを語り尽くして余りあるのを見た。それはそこからでは、宮城の丘陵にかくれて、南の方面は見えていなかったけれども、京橋から銀座、東京駅あたりは見えなかったけれども、概して一面その惨害のほどを知ることが出来た。『全く廃墟だ!都会の廃墟だ!』私は思わずこう口に出して言った。

 焼野原になってしまっては、何処も彼処もすべて同じであった。賑かな通りも何もなかった。大きなデパアトメントストアも何もなかった。唯、ところところに、焼残った鉄筋の残骸が無気味に立っているだけで、その向こうは、東京湾の蒼波にまでずっとひろく続いているのであった。
 それはそう大して風の吹く日でもなかったけれど、それでも焼ぼこりがすさまじくあたりに漲って、ともすれば、眼も明いていられないような濛々とした光景となった。あまつさえ、街上には電信や電車の線が縦横に焼け落ちているので、注意しないと、すぐそれに引かかりそうになった。

 『被服廠にも行って見たかね?』
 『あそこはあそこで、えらいことだがね。とてもお話にも何もならないがね。大川の岸もひどかったんだよ。厩橋から両国橋の河岸は、死屍で満たされていたと言っても好いからね。何しろ、あの川の岸まで命カラガラ逃げて来ても、川があるのでどうすることも出来なかったんだからね。運良くそこらに繋いであった舟の上に逃げても、その舟までも焼かれてしまったんだからね。あれを見ると、実際、どうすることも出来なかったのがよくわかるよ』

 『まァ、あんなものわざわざ見て行かなくっても好いだろうに・・・・』ふとこういう女の声が私のすぐ向こうでしたので、ひょいと私は顔を上げて見た。私はびっくりした。そこには黒焦げになった人間の頭ろが、まるで炭団でも積み重ねたかのように際限なく重なり合っているではないか。『あ、これだな!これが被服廠だな!』突差の間にも私はこう思った。

 とにかく当時の記録として、実際に震災を経験し、その惨状を眼のあたりした人達の言葉は生々しい。そこには写真では感じられないものがあるように思える。どうしようもない状況下で、ただただ逃げる。しかしその後の惨状を見れば半ば諦めの境地というか、そうなるべくしてそうなっただけのことだと、思うしかないのは、ある意味むなしい。

 それは人間は大切だ。それは言うも待たないことである。しかし、自然というものの大きな眼から見れば、人間も亦一つの生きたものである。火が来れば焼け、水が来れば溺れるのは、それはきまり切ったことである。それに対して自然は全く無関心である。従って被服廠跡の悲惨な光景も、自然に取っては何でもないのである。唯、焼けるものがあったから焼けただけのことである。

 何もかも壊れ、火災に遭い焼け果てたところに、地震でびくともしないものもあった。そこから田山花袋は世界に冠たる都市、東京の復興を思い巡る。

 私は丸の内ビルデングから東京駅の方へと行った。そこには依然としてもとの東京駅であった。びくともしなかった。壁すら一つ落ちていないようだった。私は一種の勇ましさを感ぜずにはいられなかった。《矢張本当に力を入れたものか、どうかということは、こういう非常の時にわかるんだ。本ものはびくともしないんだ。》こう私は口に出して言った。私はじっとして立ってそれを眺めた。
 私はつづいてこのあたりが、大東京の中心になる時代のことを頭に浮べた。この大破壊の結果として、今度こそは本当にこのあたりが立派なものになって行くのであろう。一方は日本橋に、一方は京橋に、更に他の一方は銀座へと接続して行くようになるだろう。その時こそ、始めて、外国の都会と比べて決して恥ずかしくないような都会の中心が出来るだろう。それこそ全く純粋な東京-江戸趣味などの少しも雑っていない純粋な東京が蜃気楼のようになって此処にあらわれて来るだろう。そうすれば、この大破壊も決して徒為ではなかったと言えるだろう。

しかし・・・、

 震災当時は東京の復興ということがかなり力強く言説され、その具合では、まるで違った東京-ロンドン、パリ、ベルリンなどをも凌駕するに足りるような大きな立派な東京があらわれて来そうに思われたが、現に、新聞にそのおりおりに載せられた図面などで見ては、こういう風に出来上れば、一国の首部として東京も立派なものだなど思われたが、次第にそうした計画は小さくなって、今では復興ということより復旧ということに重きを置かれるようになったので、以前の東京とはそう大して違わない東京が出来上って来そうになって来た。これは残念なことだった。

 思わず、「だろうな」と思った。日本人は大きな花火を上げるのは得意なのだけれど、いざ実行に移す段階で、利害関係などがからみ合い、当初の計画が尻つぼみになるは、昔も今も変わらない。おまけに、出歯亀根性丸出しの国民性がむくむくと頭をもたげて、あの悲惨な被服廠が観光地になっちゃところは、情けないものだ。話のネタとして行ってみないといけないということになってしまうのだ。田山花袋は次のように書いている。

 あの時から二十日乃至一ヶ月経った頃には、被服廠から、厩橋、吾妻橋の川に添ったあたり、サッポロビイルの横、枕橋附近、すべてあのトタン板を上に蔽って、ブスブスと死屍を焼く煙があたりに漲って、何とも形容の出来ない悪臭がそこを通る人に鼻を蔽わせたが、四十九日経った頃には、それがすっかり骨となって、被服廠では大きな礼拝堂が出来、花を売る人達が集り、一種東京の新名所というような形になった。一度は行って見なければ話の種にならないと言って、後には誰も彼も出かけた。初めはお前達が焼跡になんか行ったらそれこそどんな眼に逢わされるか知れないと言われた女子供まで出かけた。お詣りに行くとか、お線香を上げに行くとか言うのは、表面の理由で、皆なそれを見物に出かけたのであった。

 この年、いつもなら釣れない時期でも、ボラがいつまでも釣れたという。

 『どうも、矢張、その故じゃないでしょうかね?今年は餌が海の中に沢山あるので、それでいつまでも残っているのではないでしょうかね?』

 逃げ遅れ、川で溺死した人々の遺体がボラの餌となり、その数があまりにも多いものだから、ボラも本来深いところにもぐるどころじゃなくなるというのは、結構恐ろしい。それを思うと誰しも大漁を素直に喜べなかったという。


評価
★★★


書誌
書名:東京震災記
著者:田山 花袋
ISBN:9784390113960
出版社:社会思想社 (1991/08/30 出版)現代教養文庫
版型:288p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年10月30日

小沢信男著『東京骨灰紀行』

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 一風変わった東京散歩である。歴史散歩、文学散歩とも言えそうだけど、巷にあるよくある歴史散歩でもないし、文学散歩でもない。東京に地下に埋まった骨、それも無数の骨が埋まった地帯を歩いているのだ。以前有名人のお墓を訪ね歩いた本があったような気がするけれど、ここでは無数の骨が埋まっている、あるいは埋まっていた場所を訪ねている。無数の骨という以上無名の人々たちが半ば打ち捨てられた場所と言っていい。
 そんな場所が東京にはいくつかある。たとえば両国、日本橋、千住、谷中などである。両国は明暦の大火、いわゆる振袖火事の犠牲になった人々を供養した回向院とあの関東大震災で多大な犠牲者を出した被服廠跡地、またその人たちと東京大空襲の被害にあった人たちを供養する東京都慰霊堂がある。
 日本橋は小伝馬町牢屋敷でばんばん首を斬られて処刑された場所。かの吉田松陰もここで処刑された。また吉原の遊郭も最初ここにあった。
 千住では明暦の大火のあと日本橋にあった吉原の遊郭が引っ越してきた。ここで春を売っていた遊女達が心身を病んで自殺や変死すると、総墓という大きな穴に投げ込まれた。その数二百余年でざっと二万五千体という。変死体は裸にされ菰に巻かれ投げ捨てられた。
 ここには江戸時代に火葬場もあり、とりわけ流行り病であるコレラ、赤痢、チフスで数多くの死亡者がここで焼かれた。さらに小塚原の処刑場もあり、回向院では「観臓記念碑」がある。すなわちかの杉田玄白・前野良沢、中川淳庵たちがここで処刑された青茶婆という五十歳ほどの女性の腑分けを見て、解体新書を訳そうと思った場所なのだ。とにかくこの地はものすごい数の人骨が埋まっており、あのつくばエクスプレスが地下を通る時の工事では、人骨の山だったというくらいなのだ。
 谷中ではまず上野の彰義隊がある。官軍に敗れた旧幕府側の犠牲者が打ち捨てられたままであった。また谷中といえば墓地ということになるだろうが、ここにはたくさんの歴史上の有名無名の人物達が葬られている。さらに「千人塚」というものがあって、大学病院で解剖された人々を慰霊碑がある。往年の古老が語っていることがすごい。曰く「あの辺を投げ込みっていって、大学病院などの研究材料で解剖した身元不明者や罪人を土葬で葬ったところです。土がやわらかく栄養もきいているのか、ふかふかで春はつくしんぼがいっぱい。いっちゃいけないといわれると怖いものみたさでいくと、白骨なんかころがっていて、むしろや樽棺で運んでこられた遺体をカラスがつついたりしてほどけたのなんかぞっとするほど怖かったです」と。
 ちょっと前までは遊女、罪人、行き倒れの身元不明者、賊軍の兵などの死体は、ゴミを捨てるが如く、打ち捨てられていたことを思い知る。

 この本では両国を最初と最後に取り上げているのだが、最後の被服廠跡地は私も行ったので興味があった。横網町公園の中に慰霊のためにある東京都慰霊堂も見てきた。ただ私はこの公園がその跡地なのかなと思うほど狭い気がして、公園の片隅にある東京都復興記念館の受付のおばちゃんに確認したくらいなのだ。
 この本によると被服廠跡は六万七千平方メートルだったそうで、横網町公園は二万平方メートル弱。大正12年の惨劇の三角地の、北側三分の一ほどを公園にしたとのこと。実際は横網町公園とその横にあるNTTドコモのビルと第一ホテル両国、日大一高墨田区立両国中学校があるところが被服廠跡地なんだそうだ。ちょっと前に行った両国を思い出しながら、なるほどと、思った。著者はこれらの高層ビル群は死屍累々を礎石としてそびえたっているのですねと言っているが、私も公園内の敷地のベンチでここで亡くなっていった人たちの数やその阿鼻叫喚とした状況を想像するに、ただただ呆然としていたのを思い出した。
 東京都慰霊堂には関東大震災の犠牲者五万八千体、戦災十万五千体の骨が弔われている。


評価
★★★


書誌
書名:東京骨灰紀行
著者:小沢 信男
ISBN:9784480857927
出版社:筑摩書房 (2009/09/10 出版)
版型:251p / 19cm / B6判
販売価:2,310円(税込)

2009年10月28日

篠田謙一著『日本人になった祖先たち』

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 この本を読んでみたいと思ったのは日経の9月6日の「SCIENCE」の記事を読んだからである。その記事は宮城県の前知事浅野史郎さんが成人T細胞白血病という聞き慣れない病気で入院したことから始まる。この病気母子間で感染する「成人T細胞白血病ウィルス(HTL-V1)」が原因らしい。この病気は九州南部、沖縄、そして東北地方の三陸海岸や北海道に多く発症者が出るという。つまり感染者の分布に地域的な偏りがあるというわけだ。
 HTL-V1はアフリカでは今も多くの感染者が見つかっていることから、アフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年前以上に日本に到達したことを示しているという。つまり縄文人はアフリカからの来たことを示している一例ということなのだろう。
 ところが日本には紀元前5世紀から紀元後3世紀に朝鮮半島から弥生人が渡来し、縄文人を日本の南北に追いやったために、この地方にHTL-V1の発症者が多く出るということらしい。
 おもしろいもので、このHTL-V1はアンデス山脈の先住民からも日本人と同じタイプのHTL-V1を持つ人が多くいるという。つまりアフリカから生まれた現生人類の子孫は南アメリカまで旅を続けたことになる。
 一方弥生人も渡来してきたときに、病原体を持ち込んでいる。それが結核である。結核菌に感染すると脊椎カリエスになることがある。(正岡子規が冒された病気だ)つまり骨に結核の証拠が残るわけだ。ところが縄文時代の人骨を調べてみると一つもその病気の痕跡が見つからず、逆に弥生時代の人骨を調べると、その痕跡が見つかるという。このことから結核菌は弥生人持ち込んだものだろうと推測されるらしい。それは「今の新型インフルエンザと同じように大きな被害を受けただろう」とその記事は結んでいるが、インフルエンザと結核を一緒にしていいのかなと素人ながら思うが、まあいい。私はアフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年以上前に日本に到達したことに多大な興味を覚えたのだ。それでそんなことを書いた、素人の私でもわかりそうな本を探していたら、この本を見つけたわけだ。ただやっぱり素人だから、いくらやさしく解説されていても難しい。

 ところでものすごく驚いたことがある。私たちが世界史で学んだ頃の人類の進化とは、アフリカで生まれた人類の祖先であるアウストラロピテクスから、原人と呼ばれるピテカントプロスエレクトウスやシナントロプスペキネンシスと進化し、ネアンデルタール人に至り、そしてもっとも今の人類に近いクロマニヨン人となって進化してきたと教わってきた。(しかし今でもよくこんな学術名を覚えているなあ。それだけ受験勉強した証拠?)絵で描けばこんな感じだ。多分教科書にもこんな感じで載っていた気がする。


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 ところがこれは違うらしい。この本によると私たちが教わってきた人類の進化は「多地域進化説」と呼ばれるもので、それは100万年以上前にアフリカを旅立った原人が各地で独自の進化進めてそれぞれの地域の新人に移行したという説である。しかし最近の科学はその説を否定し、現生人類はすべて20万~10万年前にアフリカで生まれ、7万年~6万年ほど前にアフリカを出て全世界広がったというのである。従ってこの説に従えば、北京原人やジャワ原人、あるいはネアンデルタール人といった各地の先行人類はすべて絶滅したことになる。
 200万年前以降にアフリカで生まれた人類はアフリカを旅立ち、旧大陸の各地に先行人類が分布したのだが、これらの先行人類はすべて絶滅し、再びアフリカで生まれた私たちの直接の祖先が世界を席巻したことになるのだ。要するにヒトが各地で段階的に進化して、今に至っているのではなく、アフリカで誕生した新人が世界に広がっただけのことらしい。これを「新人ホモサピエンスのアフリカ起源説」といいい、今ではこれは常識となっている。
 アフリカってすごい。高等類人猿からヒトへの第一歩を踏み出したのもアフリカなら、私たちの直接の祖先が生まれたのもアフリカなのだ。でも、何でアフリカなんだ。これに関しては未だ説明が出来ないらしい。

 これにを知ったとき、私たちが詰め込まされてきた知識って何だったんだ!と思ちゃったね。この説が常識となるのには、DNAを解析する分子生物学が1970代から爆発的に発展したことからわかったことらしい。推定される新人の移動経路がこの本に載っているけれど、これを見るとその旅路はものすごいことだなと思う。ものすごい時間と距離を改めて感じるのである。今みたいに飛行機で一気に飛べる訳じゃないんだよ。一歩一歩、歩いて世界を席巻したんだからすごい。こうして移動する訳って何だろうと思うのだが、それに関してはこの本には何も記述がない。だからこれは勝手な素人の想像だけれど、生きるために狩りをするうちに、餌を見つけるため移動していった結果、ここまで来ちゃったということなのかなと思う。

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 著者は「私たちは学校で新大陸を発見したのはコロンブスだと教わります。しかし、それはヨーロッパ人から見た発見であって、彼らは新しい大陸を発見した最初の人類だったわけではありません。実際には、人類の最初の旅がすでに終わっていたことを確認しただけだったのです」と書いているが、まさしくその通りだなと思う。ヨーロッパ中心の歴史書の記述と人類学が教えるものと大きく違うことを教えてくれる。
 さらに彼らの進出はポリネシアの島々まで行って完結するけれど、その先には南米大陸がある。中にはそこから南米に渡った新人がいたかもしれない。そうなると北から北米へ渡り、南米に至った同じ自分たちの子孫と出会い、再会した可能性がある。ここでも著者は「ミトコンドリアDNAの拡散の歴史から見れば、非常に劇的なものだった」と言っているが、もしそれが本当にあったとしたら、すごいことだ感じいっちゃう。

 それにしてもこの分子生物学ていうのはすごい。こんなことがわかってくるのだから。
 私たちはその歴史の変遷(あるいは文化の伝搬など)を知るには、残された遺跡や考古学的資料など、ぽつんぽつんと発見される事実を、その変化を目に見える範囲内で、同じものや似たものをつなぎ合わせて、たぶんこんな感じでつながっていったんじゃないかと想像することで、歴史を語ってきたような気がする。特に文書として記録がない時代はそうであろう。
 ところが科学は動かしがたい事実をそこに突きつける。それまであった歴史の常識さえ覆してしまうのだ。もしかしたら科学というのは、歴史を本当の意味で書けるんじゃないかと思ってしまう。もう歴史学は文系のものではなく、理系の範疇に組み入れられるものに変わってしまうのではないかと思ったりする。

 ではこのアフリカで誕生した新人がどのように世界に広がっていったのか、それを裏づける証拠となるものは何なのかというと、ミトコンドリアDNAからわかるという。たとえば私を作っている遺伝子は両親の卵と精子の結合から生まれている。そして両親はさらにその親の卵と精子の結合から生まれている。ということは私を作っている遺伝子はそれまでバラバラに集団の中にあった遺伝子から偶然組み合わされて出来たことになる。つまり数百年前には今の私を作っている遺伝子は影も形もなかったことになる。そしてその逆も言えるわけだ。この私において結実した遺伝子の組み合わせは、たとえ子孫を残しても世代を経るごとに散逸し、数世代すればまた元のようにバラバラとなる。これだと遺伝子からその祖先を探ることが不可能となる。
 ところが親の持つDNAがそのまま子孫に伝わるものがある。それがミトコンドリアDNAである。ミトコンドリアDNAは母系に伝わる。つまり常に娘が生まれて子孫を残していけば、母系の系列は絶えないのから、子孫のミトコンドリアDNAは先住者のものと同じとなる。一方父系にはY染色体のDNAが継承される。(この本は基本的にミトコンドリアDNAで人類の歴史を語っている)
 一時、天皇の皇位継承権で愛子様が女帝になるという話があり、それを認めようかどうか問題になった。そのとき反対意見としてそれまで男子に皇位継承権を与えてきたから、Y染色体が代々継承されてきた。しかしここで愛子様が天皇になるとそのY染色体が断絶するということがあったが、それがこれなんですね。著者もDNAを血統とか家系と結びつけて捉える考え方があり、場合によっては特定の家系を特殊なものであると考える際の生物学的なバックボーンと利用されることもあると、暗に当時騒がしていた皇位継承権の問題を批判しているような気がした。
 そもそもY染色体の「最大の機能は言うまでもなく男性を作る作用なのですが、その部分は非常に小さく1000塩基対程度しかありません。Y染色体の大部分は意味のないDNA配列で埋められていて、実情はそれほど威張れるものでもないようなのです。ことさら男子の系統を大切にする風潮は、DNAから見れば何か滑稽な感じすらします」と著者は言っている。

 さてそのミトコンドリアDNAである。詳しいことはよく分からなかったけれど、ミトコンドリアDNAは一つの細胞の中に多数のコピーを持っているので、核のDNAより人骨などに壊れないで残っている可能性が大きい。その上PCR法でそれを簡単に増幅できるらしく、解析にはもってこいなんだそうだ。しかもその構造の中で、「D-ループ」という狭い領域に異変が集中しているので、そこを解析すればいいという利点があるらしい。
 その解析の結果、ミトコンドリアDNAの多様性は大きく四つのグループに分けられる。それぞれA~Dの記号をつけられ、これを専門用語で「ハプログループ」と呼ぶ。このハプログループがさらに細かく分岐していく過程を見ていくと、アフリカで生まれた新人がどのように移動していったかが、わかるというので、結果さっきあげた分布図となっていく。(かなり端折っちゃたけれど、正直あまりにも細かくてよく分からなかった)
 日本人の祖先もこの分布図に示される人類の移動経路で考えなければならない。ただ書名の割には日本人の祖先はどこから来たのか、結論を明確にしていない。
 日本人の成立に関しては、形質人類学の立場から、旧石器時代につながる東南アジア系の縄文人が居住していた日本列島に東北アジア系の弥生人が流入して徐々に混血して現在に至っているという二重構造論が唱えられていることを、DNAの解析からある程度これを認めて終わっている。著者は「現代日本人が在来系の縄文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという、混血説(二重構造論)を強く支持しています」と書いている。ここでは結論しているんじゃない。あくまでも「支持している」と書いているだけだ。それを断定できるほど、ことは簡単じゃないらしい。

 ところで、著者は「日本人の祖先集団の成立に際しては、大陸の広い地域の人々が関与したために、私たちの持つDNAは、東アジアの広い地域の人々に共有されています」と書いている。これは日本という国家だけを考えるのではなく、アジアの広い地域の人々と共有するDNAがあるのだから、そのDNAを共有する民族同士もっと仲良くなっていい。隣接した国同士ほど、いがみ合いを持っているというのも普遍的な現象としてあるけれど、それを超越する共有のDNAがあるのだから、このことを認識すれば、お互いを信じることが出来るんじゃないかと言っている。それはアジアだけでなく世界でも通用するのではないかとも言っている。
 でも、こうした結論はちょっと陳腐過ぎるような気がする。たとえ生物学的共有物をお互いの国の人々が持っていても、だから仲良くなりましょうとはいかないのが現実で、こんなことを言っても「だから?」と言われそうな気がする。生物学的なことと実際の人間が持つ考え、宗教思想、あるいは政治思想とはまったく別問題だからだ。それに人が自分を認識するのは、他人と比べていかに自分は優れているか(劣っているか)、違うのかで、そう思うわけで、異なる他者がどうしても必要なところがある。悲しいけれどそれが事実だ。そういう比較は、仲良くなりましょうという考えから、明らかなに相反する。だからこの本の結論としては、せっかく面白く、ワクワクさせてくれたのにちょっともったいないなと思ったわけだ。
 この本の最後には、科学や技術の発達は、これまでにないヒトの移動を可能にする。経済のグローバル化はボーダレス社会を築き始めている。そのことはそれまで人類が長いことかけて蓄積してきた地域に固有のDNAの組織が解消する可能性がある示唆している。だろうな、と思った。このことはそれまで固有であったものがそうでなくなることを示している。さらに国の、社会の、民族の、あるいは特定の家系の固有性を示すバックボーンとして成り立たなくさせることにもなる。当然遺伝子の分野でも大きな変化を起こすのだろう。でも一方でなんとかしてその固有性にこだわるということも出てきそうだ。だからDNAの共有だけでは世界平和は生まれないのではないかとも思う。

 この本を読み始めたのは、日本人はどこから来たのか。それを知りたくて読んだのだけれど、予想に反して人類の歴史を知ることになってしまった。専門的な分子生物学の記述は難しかったが、けれど面白かった。新しい事実を知って驚いたし、日本人の祖先がアフリカから歩いて、代々来たというだけで、壮大なロマンを感じた。


評価
★★★


書誌
書名:日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
著者:篠田 謙一
ISBN:9784140910788
出版社:日本放送出版協会 (2007/02/25 出版)NHKブックス
版型:219p / 19cm / B6判
販売価:966円(税込)

2009年10月23日

本多孝好著『真夜中の五分前』〈side‐A〉〈side‐B〉

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 続いて本多さんの本を読む。実はこの本単行本で以前読んでいる。この本を読んだのは、まだ岩本町に当社の本屋があったときであった。お店の手伝いをしていて、この本が結構売れていたので、どんなものなのか興味を持って読んだのだ。その時は今風の若者を描いた物語なんだなというくらいしか思わなかった。今回本多さんの書かれる本に引かれるようになって、改めて読み直してみた。そして変な表現だけど、ちょと淡々とした悲しみに酔いしれてしまった。妙に自分の気持ちに素直になれない僕がいとおしくなってしまった。倦怠感の中で失った悲しみを引きずるといった流れが、物語自体どうってこともないのに、“こういうのって、あるよなぁ”と思わせる。

 主人公の僕は大学時代、秋月水穂と付き合っていた。水穂は僕の部屋にある目覚まし時計を五分遅らせた。

 「普通、目覚まし時計って、進ませるんじゃないか?起きて、時間を見たときにちょっと慌てられるように」

 「時計は全部、五分遅らせることにしているの」

 「だって、人より、ちょっと得した気にならない?あら、あなたもう十時なの?私はまだ九時五十五分よって」

 「いい考えだ」「三十分遅らせよう。それなら時間通りに着く」

 「三十分は駄目よ」「三十分遅らせたら、世界に追いつけなくなるわよ。五分くらいがちょうどいいの」

 僕は水穂を交通事故で失った。水穂が亡くなったことはショックであったが、何故かそれがそのとき、それが悲しと感じられなかったし、もちろん泣けなかった。
 それでも僕は社会人となる。ある時近所の公営プールでかすみと知りあう。僕はそれまで付き合っていた原祥子と別れたばかりであった。原祥子は僕に「そう。狂ってるのよ。あなたの部屋にある目覚まし時計と同じ。ほんの五分くらいだけどね。ちょっとだけ、でもきっちりと狂っている。二人でいるときは気づかない。五分先にある本当の時間より心地いいくらい。でも私は、五分先の世界の住人で、五分遅れたあなたの世界では暮らせない」といって離れていった。
 かすみは僕に妹の結婚祝いのプレゼント見つくろってくれと頼んでくる。妹のあかりと双子であり、同じ遺伝子を持つものだから、お互い何を考え、どのように行動するか、すべてわかってしまう。それがしゃくなものだから、あかりには想像のつかないプレゼント僕に選ばせ、驚かそうとしたのであった。
 実はかすみはその妹の旦那となる男に恋をしていたのであった。その思いを断ち切るためにかすみは僕とつきあい始める。僕も普段クールにしているが、どこかで水穂のことを引きずっていた。その証拠に今でも部屋にある目覚まし時計は五分遅れたままだ。
 僕のいる会社は社内抗争みたいなものがあり、上司の小金井さんが取締役に就くという人事の噂が流れる。普段はバリバリのやり手の女上司である小金井さんが以後、ぼーっと過ごす姿を見かけるようになる。詳しく聞いてみると、十年間も自分を目の敵にしている同僚に恋しているというのであった。一方かすみは同じ遺伝子を持った妹の恋人に恋している三年間を過ごしてきた。僕のまわりに来る女性は、いったい何なんだと眩暈を通り越してげっぷが出そうだった。ここで〈side‐A〉がいったん終わる。

 〈side‐B〉では、僕は今までいた会社を去る。小金井さんも同じ会社を辞めていた。テレビでスペインで電車事故があったというニュースが流れる。スペインにはかすみと妹のあかりがちょうど旅をしていた。まさかと思ったが、かすみは事故に巻き込まれ死に、あかりは旦那の元へ帰っていた。しかしあかりの旦那である尾崎さんは帰ってきたのはあかりではなく、かすみではないかと疑い始める。それを僕のところへ相談を持ちかけられたとき、かすみが生きている。そして好きだった妹の夫の元で暮らしている、と思った。顔やスタイルの見分けの付かないほど似ていて、同じ遺伝子を持っているためか、考え方や感じ方も同じ。そして二人は仲のいい姉妹だったから、何でもお互いのこと話し合ってきた。だからかすみがあかねとすり替わっても、出来ない話ではない。
 あかねなのか。それともかすみなのか。尾崎さんは疑心暗鬼にとらわれ、あかねの元を去って行く。あかねも自分が事故のためか自分があかねなのか、それともかすみなのかわからない状態になっていた。

 ある時元上司の小金井さんと偶然会う。小金井さんは僕がプロデュースした店に行ったことを伝え、もし自分がまだ上司なら合格点を出しただろうけど、個人的には二度と行きたくない店だと言い、「君、少し休みなさい」とも言われる。僕はある意味“壁”にぶつかっていた。だから小金井さんの提案を受け入れ、三日間休みことにする。土日をはさんで五日間休むのだが、これといって何する訳でもない。ふと学生時代水穂と一緒に行った喫茶店へ行きたくなり、そこでマスターと水穂のことを話した。そして感じたのである。
 秋月水穂。それは確かにいたはずの人にもかかわらず、確かにそこで僕の前に座っていた人にかかわらず、ひどく現実感のない存在になっていた。今という地点から連続する時間を遡っても、その人には辿り着かないように思えた。

 水穂の法事に行けなかったことを思い出し、すぐ水穂の墓参りする。そして僕は初めて泣いた。水穂を失ったこと。かすみを失ったことで。二人を愛していたことを。初め二人をそれぞれ失った時は、確かにショックであったけれど、それは涙を流すほどの悲しみとはならなかった。しかし、この時初めて二人を失ったことに涙を流したのであった。二人を失った直後はそのことのショックが大きくて、茫然自失とでもいうのか、何をしていいのかわからない状態だった。
 その後立ち直るべく、忙しい中に自分を放り込んで、その喪失感から逃れて生きていくと、本当の自分を見失うことになるのかもしれない。人はちゃんと手続きを経て、泣くときは泣き、笑うときは笑うという作業をしないと、真っ当になれないのかもしれない。逆にその手続きを後に回せば、その分揺り返しがさらに大きくなり、かなりきつくなる。そんなことを感じると、ぐっと来てしまった。
 その後僕は遅れた五分間を水穂とかすみために使うことにするのである。

 僕は枕もとの目覚まし時計に目をやった。十一時五十五分。だったら世界はもう明日を迎えているのだろう。世界から取り残された五分が静かに僕を包んでいた。再び体を横たえ、僕は目を閉じた。完全に閉ざされた闇の中で、かすみのことを思い、水穂のことを思った。一日のたった二百八十八分の一くらい、そんな風に使っても許されるだろう。

 僕は今でも最後の五分間だけ、かすみのことを思う。水穂のことを思う。そのとき、そこにいた自分のことを思う。その時間は、僕の胸に静けさと穏やかさを運んでくれる。一日の二百八十八分の一だけ、僕はその静けさと穏やかさの中でじっと身をひそめ、自分の中から湧き上がってくるものにそっと身をゆだねる。僕はこれからも色いろなものを失っていくだろう。けれど、僕はそれらを一日の小さなかけらの中に集め続けるだろう。小さなかけらはやがて結晶となって、僕を形作ってくれるだろう。そんな気がしている。そして残りの二百八十七は、今の僕のために使い、今の僕が愛する人のために使っている。

 失ったことの悲しみを忘れたがために、それをわざと遅らせた五分を使って、それを思い出すという考え方がものすごくすてきに思えた。


評価
★★★


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐A〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322513
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:227p / 15cm / A6判
販売価:420円(税込)


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐B〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322520
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:89p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込

2009年10月20日

本多 孝好著『WILL』

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 続いて『MOMENT』から7年たって、最近出版されたこの本を読む。今回は神田の話ではなく、彼の幼なじみで実家の葬儀屋を継いだ森野の話である。彼女が請け負った葬儀から生まれたその後の話とでも言えばいいのだろうか。
 大体葬儀屋が葬式を請け負って、しめやかに終われば、それで葬儀屋の仕事はおしまいとなるだろう。後は葬式を行った遺族の問題であり、そこまで葬儀屋がケアするのも妙なものような気がするが、それを言ってしまったら、この物語は始まらない。そこまで首を突っ込むのは森野の性格からであり、そこからこの連作が始まる。

 死んじゃった人はもうそれ以上何も語れない。残された家族はその生前を忍び、いろいろなことを思い出し、死者の生前の姿を改めて作っていく。さらに死者が残していった遺品は、時にはとんでもない過去をあらわにしかねない部分がある。邪推が生まれる。
 人の死がそれまであった関係をすべてきれいさっぱりとなくすものであるなら(そんなことはたぶんないのだろうけど)この物語は生まれない。人間一人では生きていけないから、さまざまなものを残された人間に残していく。そこに物語が生まれる要素があるわけだが、それがいつもいい思い出ばかりじゃないところが厄介である。
 この本はそうした死者が残した厄介なものをテーマにして、連作として描かれる。一つは森野の友人佐伯杏奈の父親の葬儀の後送られてきた一枚の絵であり、死んだ男の愛人と称する女が自分を喪主として葬儀をやり直したい言ってきたり、杏奈の父親が請け負った葬儀の喪主が夫の生まれ変わりと言って、中学生がその老女のところに来ることを相談受けたりする。
 
 物語はミステリーを帯びていて面白いのだけれど、私は人の死って、それですべてが完全に終わるものではないんだなと改めて思わされた。出来れば自分の場合そうあって欲しいと個人的に思っている。だからもし自分の死に時間的余裕があるなら、身の回りをきれいさっぱりとして完全に消去しておきたいと常々思っているくらいなのだ。
 でもそうもいかないだろうなとも思う。なぜなら私という存在は私一人である訳じゃなくて、さまざまな人と係わっていることであるわけだから、ことそう簡単にいくわけがない。だったらせめて、それに近い形で自分の死というものを迎えたいとは思う。そしてその後も人に余計な迷惑や面倒をかけない方法を選びたい、と物語とは直接関係なけれど、そんなことを思ったのである。
 人は死者に対してその後もいろいろな形で装飾していき、いい意味でも悪い意味でも記憶に残していくものなのだ。そうすることで、時それは残された人が悲しみを乗り越える糧にもなるだろうし、その後の人生に何らかの意味を求めていく。死者はそれでおしまいだけれど、残された人は死者からまだ何かを望むのだ。そういうものなのだろう、きっと。自分だって今までそうだったのだから、これからもそうであるに違いない。
 この物語の中で森野の父親が“リビング・ウィル”という言葉を森野に説明する場面がある。このリビング・ウィルとはもともと自分の死に際して施される治療について、生前判断能力がある間に、その意思を文書化したもののことを言うらしいが、森野の父親は次のように言う。

 「このときのウィルってのは、意思のことなんだぞ。知ってたか?」

 「そのウィルが未来を表すってことは、だから、あれだ。未来という意思と一緒にあるってことだな」

 “ウィル”が死に際して意思であるなら、その後の未来においても、死者の意思は残された人々と一緒にあり続けることとなる。なるほどうまいことを言うものだ。結局それが人間なんだろう。人は亡くなった人に対して、その人がかけがえのない人であればあるほど、その存在に意味を持たせたいのだろう。ただその人はもう主役ではない。残された人が生きていく上でのサムシングとなるわけだ。決してサムワンではないだろう。

 ところでこの本は森野のが係わってきた葬儀の死者が残した意思が物語となっているのだが、一方で『MOMENT』で出てきた神田との関係も発展する。言ってみれば、幼なじみから恋人へ、そして一緒に暮らしたいと御互いの気持ちが、そうなっていく。
 ただ私は神田くんがちょっとかっこよすぎないかと思えた。『MOMENT』ではなげやりで、ちょっと世の中を小馬鹿にした感じだったのが、森野を求めるがあまり“いい人”になりすぎていないか、と感じた。出来れば『MOMENT』での神田くんでいて欲しかったな。妙にキザっぽくなっちゃているのが気にかかった。
 さて、『MOMENT』とこの『WILL』は息子から借りた本だ。やつはどうも本多孝好さんのファンみたいで、本多さんの本を全部読んでいる。また何か借りて読もうかなと思った。そうそうまず、ネットにあった「STORIES-もう一つの『MOMENT』」と、「青春と読書」の11月号に「エースナンバー」という本多さんの読み切り小説読んでから、近いうちに何か他に借りることにしようか。


評価
★★★


書誌
書名:WILL
著者:本多 孝好
ISBN:9784087713220
出版社:集英社 (2009/10/10 出版)
版型:322p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年10月18日

本多孝好著『MOMENT』

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 「釈迦は成仏したかったんだ。古代インドでは、生き物は死ぬと生まれ変わると信じられていた。輪廻転生だね。彼はその輪廻を断ち切りたかった。どうしてか?二度と生きたくなってななかったからさ。二度と、こんな辛いものを味わいたくなかったからさ。彼を支えたのは信念じゃない。恐怖だ。また生まれ変わる。また生きなければいけない。そこから生まれた恐怖だ。彼は痛切なまでに虚無になることを求めたんだ。そうだろう?」

 神田は幼なじみの葬儀屋森野が紹介してくれた病院で清掃夫として働いていた。たぶんこういう縁の下の働く人にはその職場、この場合病院で、さまざまな噂が耳に入ることだろう。まして病院である。言ってみればそれまでの人間の生きざまがあから