2010年03月06日

若桑みどり著『イメージを読む』

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 ちょっと図像学(イコノグラフィー)の一端を知りたくなった。図像学とは我々が知っている有名画家の作品には何らかの意味が込められていて、それを読み解こうとするものである。それがどんなものなのか、この本は教えてくれる。読んでいて、なるほどこれら絵画にはそうした思想的背景があって、それが絵に反映していたのかと知った。
 私が絵画展など行って、その会場に入れば、まず最初にその画家たちの生まれた場所、時代背景の説明が必ずあるが、だいたいそこは、飛ばしてしまう。何故なら、もうそこで人混みが出来ていて、先に進めないからだ。さっさとお目当ての絵を見始める。そして絵を見て、きれいだとか、すばらしいとかいった直感で感じたことしか思わない。それで通り過ぎてしまう。
 しかしよく考えてみれば、そうした時代背景は画家の作品から出てくる思想を読み解く上で重要だ。本当はおろそかにしてはいけないものだ。画家がその絵を描くに当たり、画家が生きた時代にどうしても縛られてしまうことが必ずあり、そことが絵に反映することとなるからだ。そのことを著者は次のように言っている。

 「たとえばある画家を考えてみてください。その画家は特定の社会に生まれて、その社会のなかで生活し、そこにいる人やそこにある作品から学び、そこにいる人たちに絵を売って生きているわけですから、自分の生きている社会や時代から無関係ではいられません。その先生や、見た作品から教えられた技術や、その当時のテクノロジーから生じたテクニックやメディア、ものの考え方や共通のイメージで絵を描くわけです。
 そういうわけで、すべての画家は、個人的な様式と同時にその時代、十二世紀なのか二十世紀なのか、そういう時代の特徴を否応なくもち、また、西洋人なのか日本人なのかという、ある民族や文化の長い底深い伝統からくる特徴をもっています。それらを全部ふくめて様式といっているわけです。したがって、様式とは、個人的なものであると同時に社会的なものであり、また歴史的なものなのです」

 だから「美術史は、文化人類学や考古学や歴史学や宗教学や神話学や文献学や、その他のもろもろの学問と結びついています。こういうふうにもろもろの学問と関連しながら、個々の学問の領域をこえて幅広く研究することが必要な学問のことを学際学といっていますが、美術史は学際学的な学問だ」と言っているのは、なるほどそうだなと思う。
 そして描かれた絵には、描かれる理由が必ずある。絵画も彫刻も創作である以上、それを創り上げなければならない理由が芸術家たちにはあったはずだ。

 「また絵というものが、芸術家の芸術についての理論の実践の場であり、思想の表現の場であり、いずれにせよ闘争的なものでもあった」

 それを読み解こうとするのが、図像学(イコノグラフィー)なのである。この本で著者が言う美術史なのである。「美術というものは言語ではなく、非言語的な「表現」(なんらかの目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちによって表現すること)の行為であり、またその結果としての作品」なのだと言う。それをどう読み取るか、そのサンプルとして出されたのが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」デューラーの「メランコリアⅠ」、ジョルジョーネの「テンペスタ(嵐)」である。

 以上を踏まえて、時代による“図像の変化”で考えてみる。たとえば「最後の審判」を例に取る。
 信仰が安定していた時期(九世紀から十五世紀までの東方ビザンティン帝国の芸術や十二世紀頃までの西ヨーロッパの芸術)は、この「最後の審判」の構図は、真ん中に裁判官であるキリストがいて、左右にとりなし(弁護役、仲介役)をする聖母と聖ヨハネがいて、祝福された魂と罰せられた魂がいるという公式で、それらは神の最終的な意志の実現を厳かに知らせていて、それほど恐ろしいドラマチックな表現じゃなかった。それを何百年にわたって表現していた。ところが何かの関係で図像の公式が変わる。十三~十四世紀になると様子が違ってきて、善人が祝福されて行く天国の安らかさに比べて、罪人が罰せられて落ちる地獄がどぎつく描かれるようになる。地獄では非常に残忍な拷問や虐殺のような情景が描かれる。
 さらに初期資本主義が盛んになってくる時期になると、キリスト教が禁じている様々な現世利益の追求や富や地位を築く信者が増えてくると、さらに地獄は生き生きとした残忍なものになっていく。
 そしてミケランジェロの「最後の審判」となると、それまで善人と罪人との構図がはっきりしていた頃から比べると、その隔たりが不明確になって行く。ミケランジェロの「最後の審判」のイエスの姿を見ると、はそれまであった安定や平和や秩序はすでになくなり、はかりしれれぬ激変と破局が読み取れるという。ちょうどこの絵が描かれた頃はカトリックとプロテスタントが争っていた時期であり、カトリックの教えが揺らぎ始めた頃だからだ。


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 このように一つの絵の題材であっても時代によって図像の変化があり、その変化となった社会的背景や思想の変化を読み取らなければならないことを教えてくれるというのだ。


 さて個人的に言って、やはりデューラーの記述が一番興味がある。デューラーはこの本であげられているミケランジェロやダ・ヴィンチとほぼ同世代の人であったが、決定的に違うことがある。デューラーはドイツ人であることである。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した地域はアルプス以南で、ギリシア・ローマ世界であり、古代文明に接ぎ木されたキリスト教世界である。ローマカトリックの神学者たちによって築き上げられた壮大な形而上学的世界であった。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍したルネサンスはカトリックと結びついたものであった。
 ところがドイツはルターによる宗教改革が起こった地域である。ルターはカトリック教会を否定した。ということはドイツではイタリアで起こったルネサンス閉め出したことになる。そしてデューラーはルターの共鳴者でもあった。
 当然ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品とは違うものがデューラーの作品の背景にあることになる。彼らとは違ったイデオロギーを持っていた。(もしかしたらダ・ヴィンチとは似ているところはあるのかもしれないが)そこで著者はデューラーの「メランコリア」をあげてその異質の背景を探ることとなる。これが興味深かった。

 この「メランコリア」が示す内面の不思議さはかなり面白い。


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 版画が否定的なものの考え方を示していたり、そうかといって肯定的見られるところもあって、その絵を見る見方によって大きく変わってしまうようである。
 まず否定的な面を見てみる。メランコリーとは憂鬱質のことをいう。ところでアリストテレス以来の万物は火、空気、水、土という四つの元素から成り立っている考えがあった。そして人間の個性を作っている気質もこの四つの元素の支配によるものと考えられた。すなわち軽くて陽気な多血質は空気、激しく怒りっぽい胆汁質は火、怠惰で不活発な粘液質は水、暗くて冷酷な憂鬱質は土が支配していると考えられていた。
 もともとこの四気質論(四性論)は医学の一種で、中でも憂鬱質はそれだけでも立派な病気と見なされていた。また中世では憂鬱質は七つの大罪中の一つである吝嗇の罪と結びついて考えられていた。それはどうしてか?
 この「メランコリア」の人物のポーズはロダンの「考える人」と同じポーズである。このポーズは物思いに耽る分、元気なポーズとは言えない。すなわちこのポーズは外側の現象にダイナミックに対応しようとするアクティブな姿勢ではなく、むしろ外側からの刺激を一切遮断して、自分の内部の心の動きに省察を凝らそうとしている。じっとしていることは究極の吝嗇な人間の姿である。そして吝嗇の極みが高利貸しである。中世キリスト教では、高利貸しは、怠惰で、人の金をくすねる犯罪者扱いであった。だから憂鬱質は吝嗇の罪と結びついて考えられていたのである。実際この版画には人物のスカートのところに高利貸しの象徴である鍵束と財布が描かれている。
 しかし一方でこの版画には大工道具が描かれている。半ば放り投げ出された感じである。無用に見える。手に持っているコンパスさえ、何も描いていない。そのことがこの人物が物思いに耽るというか、考え込む姿勢を、こうした道具を使う仕事よりも、優位にあることを示しているともいえるのである。さらにこの人物に翼をつけたことで、その人物が思考する姿勢を、人間の思考を潜在的能力として表現していることにもなるのだという。
 驚いたことにこの「メランコリア」の人物は男ではなく女であるということだ。

 デューラーといえば「人体比例理論」(人体の比例が大宇宙と小宇宙を結びつけているという理論)が有名だが、そういう考え方が出来るのは、ダ・ヴィンチ理論を吸収したものとはいえ、宇宙を作っている元素と人間を作っている元素が同じものであり、人間の運命は宇宙が関連しているという哲学がかなり影響したんじゃないかと思えてくる。
 芸術というのは見た目だけでなく、その奥にあるものを考えることが出来れば、さらに興味深いことを我々に提供してくれているんだと改めて感じた。一人の芸術家の作品を鑑賞するには、その奥底に流れるものを分からないと、真の意味で作品を鑑賞したことにならないのだろう。これから何度芸術作品を見る機会があるか分からないが、このことちゃんと踏まえておければと思った。


評価
★★★


書誌
書名:イメージを読む
著者:若桑 みどり
ISBN:9784480089076
出版社:筑摩書房 (2005/04/10 出版)ちくま学芸文庫
版型:254p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2010年03月04日

ダン・ブラウン著『ロスト・シンボル』

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 やっとラングドンシリーズの三作目が日本で発売された。期待して読んだ。が・・・・、あまり面白くなかった。というか少々この手の話に食傷気味なのかもしれない。それと今回は前作二作と比べて、いくらダン・ブラウンがワシントンというところがローマなどと比べても引けを取らない魅力的な場所と言っても、読む側が最初からそれほど魅力的なところと思っていないから、「そうかな?」と感じてしまう。

 話はラングドンが恩師で親友であるフリーメイソン最高幹部のピーター・ソロモンから急遽講演を頼まれ、ワシントンにある連邦議会議事堂に駆けつける。しかしそこにあったのはピーターの切断された右手首であった。指先にはジョージ・ワシントンを神格化した天井画があった。ピーターを人質に取った全身刺青の男のマラークは、古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵―"古の神秘"―へ至る門を解き放て、とラングドンに命じる。
 ここからラングトンはピーターの妹キャサリンとともに、以前にピーターから預けられたフリーメイソンのピラミッドの一部から前作同様さまざまな暗号を解きながら、CIAにあらぬ疑いをかけられて追われながら、"古の神秘"の正体を明かすべくワシントン一帯を駆けまわる。

 その預けられたピラミッドを入れた箱に1514の後にAとDをデザインした記号があった。これである。


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 それを見たとき私はすぐ分かった。これはアルブレヒト・デューラーが自分の作品に書いたものであった。これを見たとき正直言ってドキッとした。なんでここでデューラーが出てくるんだ?と思った。これはデューラーの「メランコリア」を示していた。


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 この版画は実は30年前に池袋にあった西武美術館で実物を見ている。思わずその時買ったカタログを本棚から取り出した。そして「メランコリア」を眺める。確かに版画の右上に魔方陣がある。気がつかなかったなぁ。そしてここに書かれている数字を縦でも横でも斜めでも足してみると34になる。しかもこの版画が作られた1514年の数字が一番下の2番目と3番目に入っている。本当にそうなのか思わずこのカタログを繁々と見てしまった。
 実を言うと私はデューラーに興味を持っている人なので、デューラーが使われただけでちょっとポイントが上がりそうになったけれど、結局大した役目を負っていなかったので、“残念!”

ここからはネタバレ注意!

 さて"古の神秘"とは何か?全身刺青の男のマラークとは誰か?そしてマラークは何故古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵を求めるのか?まずマラークはピーターのどら息子のザカリーだろうとすぐ予想がつく。ソロモン家は代々長男にその財産を譲る。財産はお金かそれとも知恵か、どちらかを選択させる。ザカリーはお金を選択したが、紆余曲折の上、フリーメイソンの知恵も求めるようになる。
 フリーメイソンが代々伝えてきた知恵が"古の神秘"であった。ピーターがラングトンに預けたピラミッドにはその"古の神秘"が隠されている場所が印された地図でもあった。
 例によって比喩が多くて、何が何だかよく分からない部分があるのだけれど、多分こう言っているんじゃないかと思うことを書いてみる。
 "古の神秘"とは「失われたことば」であった。だいたいどんな文化にも、独自の“ことば”があり、それを印したものが書物であった。その書物はキリスト教徒にとってみれば聖書であった。そう、聖書に"古の神秘"が印されていたのである。
 救出されたピーターは最後にラングトンに言う。

 「聖書は、歴史を通じて古の神秘を受け継いできた書物のひとつだ。その文面はわれわれに秘密を懸命に教えようとしている。分からないか?聖書の“暗き語”とは、秘密の智恵のすべてを密かに伝えようとする古代の人々のささやき声なのだよ」

 そこに書かれている本当の意味は、人間の果てしなき潜在能力を象徴として神を讃えたことであった。言ってみれば古代の人々は「人間≒神」と考えていたといっていい。人間は神の“被造物”ではなく、神と同じ“造物主”であるのだ。だから人間は神と同じくらいの能力を有することとなる。そして人間はその精神によって物質を変容しうるエネルギーを生み出せるというのである。
 ところがいつの頃からか、そうした人間の潜在能力を認めていた古の考えはいつの頃からか失われた。だから私たちは人間は神が作った“被造物”だということになってしまった。そのことは古の象徴は時とともに失われてしまったことを意味する。
 聖書は本来の人間の姿、能力を正しく導いていたのである。だから聖書はフリーメイソンの至宝であったのだ。聖書には人間の潜在能力を"古の神秘"として書かれていたのであった。

 多分こんなことを言っていたんだろうなと思うが、基本的に図像学(イコノグラフィー)というのはよく分からない。そうそうこの本を予約しておいたらこんなピンバッジがついていた。ついでにあげておく。


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評価
★★★


書誌
書名:ロスト・シンボル〈上〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916272
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:351p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

書誌
書名:ロスト・シンボル〈下〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916289
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:356p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年02月05日

本多孝好著『ALONE TOGETHER』

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 これで本多さんの著作は全部読んだことになる。この本は不思議な本であったが、面白かった。

 人は義務や責任や、世間体、あるいは世間の常識などに縛られて、本当はしたくない、関わりたくないのに、やらなければならない、あるいは関係を持たざるを得ないところがある。それらから解放されればどんなに楽であっても、それを許さない型どおりの義務や常識、責任などに縛られやむなくそうしている。そうしなければ家族が、社会が成り立たないからである。もしそれをすれば自分に対する言い訳を求める。
 本意は関わりたくない、やりたくなくても、それを放棄することが出来ない。放棄するにはそれなりの訳や理由が必要となる。あるいは形だけの義務を果たす姿を演じなければならない。それが人間そのものをある意味歪ませる。それを取り除いてやれば、本来ある姿になれるのにである。たとえそれが非常識で、非人間的であっても、それがその人が本来望んでいる姿なのだ。
 主人公である柳瀬の父親は次のように言う。

 「誰もが何かを胸の中に抱え込んでいる。みんながみんな、自分の思いのすべてを口にし始めれば社会が回らなくなる。外にぶちまけることのできない思いは、内側に溜まって澱になる。人はいつだってその澱を吐き捨てる穴を探している」

 柳瀬は父親から譲り受けた特殊な“能力”があった。

 「人はそれぞれ波長を持つ。その波長は谷を作り、山を作り、ときに揺れ、ときに震え、その人の怒りを作る。喜びを作る。悲しみを、楽しさを作る。僕はその波長を感じることができる。その波長に自分の波長を合わせることができる。そして波長が重なれば、その人にとって、僕は他者でなくなる。鏡に向かって独り言を言うようなものだ。隠す必要も、偽る必要もなくなる。けれど、それは能力と呼べる代物ではなかった。むしろ反射作用に近い。相手の波長を感じた途端、僕の意思とは無関係に僕の波長はシンクロを始めてしまう。その力を完全にコントロールするのは難しかった」

 つまり柳瀬は相手の本音を聞き出し、しがらみから解放してやれる能力があった。それは相手の波長に自分の波長をシンクロさせ、本音を引き出すことなのである。言葉を引き出された相手は、嘘で固められていた自分の本音、本来求めていた姿を語り始める。それを語った相手は、自由になり、ほとんど破滅への道を歩むこととなる。

 この本の怖さはそうした本音の解放が、いかに恐ろしい姿を見せるのかという点にある。そしてそうした本音の部分を隠すのが義務や責任や、世間体、常識などで、それらが社会をうまく機能させているかを知る。けれどそれは本来の姿ではないから、当然歪んでくる。そういうことなのだ。

 私は柳瀬の持つ特殊な“能力”と物語の展開がどうなっていくんだろうと思いながら、結構楽しんでこの本を読ませてもらった。けれどやっぱり、解放を望んでいる人間の心が、様々なしがらみに縛られ、それらが解放できずにいること。それが社会を成り立たせていること。解放された心のままに行動すれば、非社会的という烙印を押されてしまうこと。だからせめて少しでも本音の解放しようとすれば、絶対に言い訳が必要になること。それでなければ世間が、社会が許さないからだ。

 三年前に医大を辞めた柳瀬はそこの教授が立花サクラという14歳の守って欲しいと言われ、それを引き受けた。そして立花サクラが最後に逃げ込んだのは閉鎖した教会であった。そこに元司祭がいた。柳瀬はその元司祭とシンクロし、聞き出した言葉がものすごく気になった。それは司祭のもとにある男が来て言った言葉である。最後にそれを書き出す。

 「祭りを司って祭司。宗教とは本来お祭りです。だから、あなたのお考えは本末転倒です。祭りはその昔宗教的なものであった、のではなく、宗教はその昔お祭り的なものであった、のです。我を忘れるほどの高揚感。そこにもたらされる一瞬の陶酔。それこそが宗教なのではないか?」

 「ですから、宗教とは説くものではありません。授けるものです。授けた相手が要らぬと言うのなら、それ以上の無理強いは意味をなしません。わかりますか?ですから、宗教などとうの昔になくなっているのですよ。情によって授けられない教えは、理を持って説かれる。ときに権力という後ろ盾を得てね。それがあなたの言う、宗教、です。陶酔に訴えるのではなく、強迫観念に訴えるのです」

 “これってすごい!”

 今我々が信じている宗教がたどってきた歴史の本質を突いているように思えたのである。


評価
★★★


書誌
書名:ALONE TOGETHER
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508444
出版社:双葉社 (2002/10/20 出版)双葉文庫
版型:302p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年02月03日

本多孝好著『MISSING』

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 また本多さんの本を読む。この文庫と次に読もうと予定している文庫を読めば、一応本多さんの本は全部読んだことになる。いつの間にか息子に感化されて、こういうことになってしまった。
 さて、この文庫は短編5編、「眠りの海」、「祈灯」、「蟬の証」、「瑠璃」、「彼の棲む場所」である。そしてこの本は2000年「このミステリーがすごい!」の第10位になっており、「眠りの海」は第16回小説推理新人賞受賞作である。詳しいことは知らないが、どうやらこの本は本多さんの最初の本みたいだ。
 個人的には「眠りの海」、「祈灯」がよかった。本多さんの作品でいつも感心するのは、会話の面白味である。ある意味村上春樹さんより、シニカルだと思ってしまう。だから登場人物の会話には思わず吹き出してしまうことが多かった。
 ただそうした皮肉的で冷笑的な考えをする人物たちが若すぎないかと思うのだ。いくら何でも中学生や高校生が言うような言葉じゃない。そんな年齢でこんなにひねた会話ができるかな、とそれだけが気にかかった。
 あるいは今の若い奴らはこういう会話ができるのかなと思ったりするが、やっぱり無理があるような気がする。かといって登場人物の年齢を上げてしまえば、話の質が変わってしまいそうだから、この点は難しいところだ。
 でも、その点に目をつぶれば、斜に構えつつも、言っていることは至極まともで、言葉が心にしみるところがいくつかあった。

 「目茶苦茶なんだと、思うな」

 「情緒とか、感受性とか、考え方とか、その人がその人である理由みたいなものが、全部目茶苦茶になってるんだと思う。誰も悪くない。忘れなきゃいけない。そう思いながら必死で社会生活して、何とか普通でいようと歯を食いしばって。それが家に戻ってきて、一番安心できる場所で、一番安心できる人の顔見た途端に崩れちゃうんじゃないかな」(「祈灯」)

 「他の人よりずっと重い時間を過ごしちゃったんだ。十九年が、四十年にも五十年にも感じられるくらい」(「祈灯」)

 「どちらか一方がもう少し短気か器用であればよかった」(「蟬の証」)


 「正直と不器用との区別できない人だった」(「蟬の証」)


評価
★★★
 

書誌
書名:MISSING
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508031
出版社:双葉社 (2001/11/20 出版)双葉文庫
版型:341p / 15cm / A6判
販売価:630円(税込)

2010年01月22日

池澤夏樹著『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

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 興味は尽きない部分はあるのだけれど、信仰という問題はどう扱っていいのかわからない。ましてキリスト教徒として信仰を持たない人間としては、キリスト教徒や聖書を単に学問や雑学の部分でしか扱えない。そのため、知識として頭に残るものはあっても、それがどう信仰と係わってくるのか、その関連がまったくといって理解できない。
 私にはキリスト教が及ぼした人類への多大な影響は歴史や知識だけで推しはかれない部分が多すぎる。まして個人の心性の問題から発生して、それが民族の生活モラル、政治システム、文化、文明まで幅広く及ぶこととなると、どこから取り扱えばいいのか、皆目見当がつかない。そのためこの本の信仰に係わる問題は、私にははっきり言って難しすぎた。
 で、聖書のそのもの実態はどうであったか、その内容は別として、聖書がたどってきただろう歴史は多少理解できたので、そのことを書きたい。あともう一点、気候が及ぼす影響というのは面白かったのでそれも書いてみる。

 単純に思っていたことなのだが、いわゆる聖書というのはそれ自体そのものの確実な原典があって、それが訳され現代に残っていると思っていた。確かに歴史ではいろいろな教会議が催されたことは知っているが、そこで聖書に残すべきかどうか、取捨選択が行われ、それが現代に残ったものだと教えられれば、なるほどそうだったなと思い出す。
 しかしそれ以前聖書の原点とは何だったのだろうという疑問をこの本のように提示されると、果たしてそれは何だったのだろうかと思う。どういう訳であれ、とりあえず文字として表されているその原点は、いまからおよそ二千五百年前、古代のイスラエル諸部族の間で語りつがれてきた物語やリスト(テクストといっていいだろう)を広く集めて編集して、一巻のスクロール(巻物)に書き写したものであったという。つまり各部族で言い伝えられた来たことを、ただ単に巻物に書き写していったものが、その始まりであったというわけだ。従ってその時点で消えてしまった物語もあっただろうし、書き写されなかった物語もあったはずだ。
 ただそうして言い伝えられた物語が文字に介されることで、その物語を語りついている人だけのものであったものが、その個人の人格を離れ、空間的にも、そして時代もを超えることとなる。つまり保存だできるようになったのだ。
 最初はそうしてまとめられていった物語は、時間の流れや、おのおの物語の関連性など、お構いなしに、単に言い伝えられて来たことを、まとめただけであった。 
 そもそもこの本によると、古代ヘブライ語には過去形というものがないらしく、動詞の形を見て過去と未来の区別することができないらしい。だから文章の状況で判断していく。
 過去形がないということは時間の遠近法がないということで、そこにはすべての時代が何の脈絡もなく、一巻の巻物に収められていることとなる。こういうのって、昔話や言い伝えなどによくあるパターンで、いつが新しい時間なのかわからないことがある。おそらく聖書の原点もこれと同じであったのだろう。
 ところが聖書がギリシア、ローマに伝わるとそうはいかなくなる。言葉のシステムが古代ヘブライ語と違う。ギリシア語には時制があるため、それまで直線的にあった物語は、時間の軸によって整理された。時制があるということは、過去、現代、未来という思考方法になり、物語をクロノロジカルにしていく。整合性を求められることとなる。本当は時制に関係なく、言い伝えられていたことだったのに、ギリシア語に訳されたとたん、そうせざるを得なかったのだ。これは聖書の性質さえ変えてしまう出来事であった。
 違う側面からも聖書が最初に持っていた性質を変える出来事があった。
 本来語り手の言うがままに一巻の巻物につづられた物語は、語り手が録音テープみたいに朗読していったようなもので、聞く方はそれを耳と脳と体で吸収していく性質のものであった。この時点ではまだ神聖さが充分感じられたことだろう。
 ところが、そうして文字化された物語は、巻物からコデックス(冊子本)へまとめられ、つまり本となるわけだ。そうなるとページやインデックスがつく。時にはタイトルがついたりする。それまで語り手が話し始めたら終わるまで待つしかなかったものが、いつでも途切れていい状態を可能する。
 またそれまでは音読していたものが、本となった時点から黙読できるようになる。黙読がすることが常態化すれば、物語が本来持っていた神聖性が薄れていく一方となる。朗読によるリズムがもたらす一種の恍惚感さえ失われる。
 さらにページごとチャプターごとに収められ、中身の細分化が進み、必要とする人間が必要な箇所を都合よく引用することが可能になる。物語性はどんどん薄らいでくる。さらに細分化が進めば進んだらで、今度は俯瞰できなくなってしまう。これが聖書の変質といっていいとが書かれていた。
 なるほど昔から言葉で語りつがれた物語は、耳で聞き、脳が感じ、体で覚える性質のものであったんだなと思ったし、それが訳がついて、形を変えることによって、変質していく過程の言及は面白かった。おそらくそれは聖書に限らず、たとえばホメロスの作品だってそうかもしれない。

 さてもう一点なるほど思ったことがある。先ほどの古代ヘブライ語には過去形がないということにも多少関連するかもしれない。どういうことかと言えば、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が生まれた地帯の気候の問題である。気候が砂漠地帯で生まれたこれらの宗教の性格の決定づけている点があるのだ。
 たとえば、我々のようなモンスーン地帯に住んでいれば、一年が同じサイクルで考えられる。雨期があり、乾期がある。暑くなれば、寒くもなる。そこにはサイクルがあって、次が予想できる。だから歴史の記述もそうした法則性の下でまとめられる。編年という思考方法が生まれる。
 ところが、砂漠で暮らす遊牧民の間では、気候がそうした思考方法を許さない。気候の周期性というものがないから、その思考方法も同じ平面で相互の関係性を欠いた形になる。私にはそれが古代ヘブライ語に過去形がない理由に思えてならなかった。おそらく最初の聖書に書かれた物語はそうした性質のものが色濃かったに違いない。多分コーランも似た点があるのではないかと思う。

 気候で思い出したことがある。昔読んだ遠藤周作さん本である。この本は紀行文で、遠藤さんが若い頃この地域を旅したことも書かれていた。多分そこに書かれていたと思うのだが、こうした気候の厳しさをを肌で感じ、キリスト教が父性的な厳しさがあるのはこの気候の厳しさによるのではないかと書かれていたと思う。(この本自分の本棚にいくら探しても見つからず、もう一度読んでみたいと思い、古本屋で探していたのだが、先日それを見つけて手に入れた。近々読んでみようと思っている)
 気候と聖書の関連は、和辻哲郎の『風土』を通して、この本で語られているが、なるほどあの本からなら、そう言えそうだなと思った。まさか和辻哲郎の『風土』を持ってくるとは以外だったので、ちょっと懐かしかった。


評価
★★★


書誌
書名:ぼくたちが聖書について知りたかったこと
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784093878470
出版社:小学館 (2009/11/02 出版)
版型:284p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年01月18日

吉村昭著『生麦事件』

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 薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、公武合体を幕府に認めさせるため勅使を江戸に派遣する必要があると、朝廷に建言した。その建言が認められ、公卿大原重徳が勅使に任命された。久光もそれに同行し、江戸で目的を一応達成し、薩摩へ帰る。その途中、文久2年(1862年)、大行列を率いた久光の大名行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。薩摩藩士達は言葉が通じないため、身振り手振りで下馬し道を譲るように支持したが、道が狭かったために行列の中に馬を誤って進めてしまう。それにより乗馬が興奮して久光の列を乱した。これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡し、2人が負傷した。これが世に言う「生麦事件」である。

 「大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は討果てもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える」

 この本は生麦事件だけを扱った本ではない。どちらかと言えば、事件後たどった経緯に重点が置かれているといってもいい。つまりこの事件がその後大きな影響の及ぼしたことが書かれているのである。この後起こる薩英戦争や長州藩が自ら攘夷決行し、下関の海峡で西欧列強の船を攻撃したことに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争が大きな思想転換を生み、それが倒幕運動となり、明治維新となって行く、一つのきっけけとしてこの事件を扱っているのである。

 まずは薩英戦争である。イギリスは自らの国民が斬り殺されたことに怒った。幕府にもその責任があると迫り、賠償金を要求し、幕府は渋々その要求を飲むが、薩摩藩はその要求を一切拒否する。久光は、家臣が外国人を斬りつけたのはやむを得ぬこととその行為を是認していた。しかしイギリスとの戦争は免れないと思い、その準備を全藩あげて取り組む。西欧の兵術にしたがって武器を保有し、厳しい操練も繰り返した。
 文久3年戦いは始まった。薩摩は五分五分の戦いをしたと思っていたが、イギリス艦隊と対戦し、武器と技術に天と地の差があることを実感した。その旧式兵力では太刀打ちできないことをここで思い知らされれたのである。
 攘夷を実行するにはあまりにも兵力に差があり過ぎることを身をもって知った薩摩藩は、攘夷論がいかに愚かしいものであるかを思い知らされるのである
 結局イギリスを和議を結び、さらに友好関係を強め、イギリスから新式の軍艦や兵器を輸入することで、藩を旧式兵器から最新兵器に転換を図っていく。
 一方長州藩の動向も問題となる。当時京では、長州藩を中心とする急進攘夷派が勢力を伸ばし、朝廷は幕府に攘夷決行の勅命をが伝えられた。その決行日、文久3年(1863年)5月10日に、長州は下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃する攘夷に打ってでたのである。それに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争となるが、圧倒的な欧米諸国に近代兵器に完膚無きまでに叩かれた。長州藩もその力の差を見せつけられ、攘夷など馬鹿げた行為が実行不可能なものであることを思い知らされるのである。

 ところで倒幕運動は薩摩藩と長州藩が一緒になって行われた。しかしこの両藩は対立していた。薩摩藩は公武合体論を主張し、長州藩は徹底した尊王攘夷論の立場を取った。最初は京で長州藩が朝廷を擁して、薩摩藩の公武合体論を失敗に帰させた。その長州藩の過激さを恐れ薩摩藩は京都に入り、禁門ノ変で長州藩を京都から排除する。
 その後長州藩は自ら攘夷を決行したが、そんな中、間違って薩摩藩の「長崎丸」砲撃事件してしまい、それに乗っていた有能な藩士を薩摩藩は多数失った。当然長州藩に対する憤りの声がたかまった。
 しかし長州藩も薩摩藩も西欧列強と戦い、その力の差が歴然としていることを悟り、攘夷論の転換、軍備を強化して開国を推し進めるべきだという意見が主流となっていく。
 こうなっていくと両藩が進むべき道が同じ方向に向かっていくこととなる。しかしそれでもまだ両藩は反目する点が多かった。この後幕府による長州征討が行われるが、薩摩藩の西郷よる周旋で幕府の第一次長州征討が寛大な処置によって結着をみた。このことで薩摩藩に対する積年の恨みもうすらいだ。さらに西郷が、禁門ノ変で捕虜になった長州藩士たちを藩に送還し、長州にのがれていた急進攘夷派の三条実美ら公卿たちを、江戸に護送せよという幕命にそむいて、九州の筑前に身柄を移した配慮に感謝の念もいだいた。これらの事柄によって、薩摩、長州藩の間にはひそかに融和の気配がきざしていたのである。
 しかしそれでも長州藩は朝敵であり、薩摩藩はそう簡単に長州藩と手を結ぶわけにはいかなかった。下手に長州藩とむすびつけば、幕府はもとより勅許を下した朝廷へ敵対する結果となり、全国諸藩を敵にまわすことにもなって、藩は重大な危機にさらされる。しかし一方で長州藩に薩摩藩を通してイギリスからの武器の調達をさせていた。
 ここに坂本竜馬が登場する。坂本は自ら商業をやりたいと考えていたので、それをスムースに行うためには日本が幕府と諸藩に分かれていてはダメだと考えていた。薩摩藩と長州藩が一緒になって幕府を倒し、日本を一つの国としてまとめるべきだと考えていた。だからこの両藩が同盟を結ぶべきと考えていて、その斡旋をする。
 長州の木戸を京に呼び、薩摩の西郷、小松帯刀と会合させる。しかし両藩とも同盟を結ぶには問題があった。薩摩藩にすれば長州藩と手を結ぶことは、火中の栗を拾うような冒険であり、長州藩にすればこのままでいれば幕府の征討軍によって滅亡は必死の状態にあり、薩摩藩と提携すれば死地を脱するのも可能になるが、それは薩摩藩を危険な立場に追いこむことになる。さらに意を決して薩摩藩に提携を懇願するのは憐れみ乞うのと同様で、藩の面子としてそれはできかねていた。
 そんな双方の思惑があって、論議は十余日に及んでもなんの進展もみられなかった。木戸は話が進展しないことで帰藩しようとするが、それに驚いた坂本竜馬は「薩長両藩はお互いに猜疑心や面子を捨てて天下のため真情をもって協議すべきである」と両藩の間を取り持つのである。この坂本の発言は潤滑剤にも似た効果があって、これによって薩長同盟がなる。

 ところで司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』では、坂本のその独創性、行動力、交流の広さによって、薩長同盟がなったように書かれていたと思う。もしかしたら違うかもしれない。なにせ、この『竜馬がゆく』を読んだのは、私が高校三年の夏だから、それからだいぶ時間がたっているので、自信がない。(何でこんなに詳しくその本を読んだ時期を覚えているかと言えば、当時大学受験の夏期講座に出ていて、授業を聞かずに、この本に夢中になったことを覚えているからだ)
 しかしこの吉村さんの本を読むと、坂本竜馬の独創で薩長同盟がなったのではなく、そうなるべくしてなって行ったことを知った。確かに坂本の斡旋があってなったことは間違いないだろうが、そうなるべく雰囲気が両藩に生まれていたから、多少のメンツはあったにせよ、吉村さんの言うように坂本は単に「潤滑剤」の役目をしただけであり、薩長同盟が坂本の力だけでなったわけじゃないと知った。
 こういうのは見る人の視点によって変わるものだと思うが、多分司馬さんの小説は坂本竜馬を主人公にしているだけに、その思いが熱く伝わり、坂本の力を過大評価させる記述になっていて、私がその通り受け取ってしまったのだろう。だから長いこと薩長同盟は坂本竜馬の力だと思っていたのだ。
 それにしても生麦村で薩摩藩士の一人がイギリス人を斬ったことから、これが後に大きな流れとなっていくとのは、歴史の不思議さを感じてしまう。何がきっかけで時代が変わるのかわからないものだ。それを思うと面白い。


評価
★★★


書誌
書名:生麦事件
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242260
出版社:新潮社 (1998/09/25 出版)
版型:423p / 21cm / A5判
販売価:入手不可。文庫ならあり

2010年01月07日

森まゆみ著『彰義隊遺聞』

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 著者の森さんは地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(谷根千工房)を創刊し、編集人である。そしてこの地域は上野に近い。雑誌の取材なんかしているときなど、町の古老から彰義隊の話を聞くこともあったんじゃないだろうか。おそらくそうした古老からの聞いたことがこの本を生むことになったんじゃないだろうか。
 そんなことを思いつつ、森さんが集めた彰義隊に関する話を楽しんだ。ここにあるのはいわゆる逸話である。足で集めた話と自らが彰義隊に関わる資料を調べて、うまく聞いた話と照らし合わせていく。通史として物語であったが、吉村さんの『彰義隊』を読んでいるので、この本は伝え聞いた彰義隊に参加した人々の個々の経緯、その後が語られている。言ってみれば吉村さんの『彰義隊』の肉付けみたいな感じで読んだ。

 彰義隊と朝廷軍の戦いは“必要悪”のところがあったようだ。どういうことかというと、たとえば勝海舟や山岡鉄舟、高橋泥舟ら所謂「幕末の三舟」は、彰義隊の「君恥ずかしめらるれば臣死すとき」などといって内乱を起こせば、外国にいいように乗じられ、国そのものの存亡に関わることだと考えていたけれど、

 「しかし同じ幕臣として、彰義隊の主唱者たちのやむにやまれぬ思いも、彼らは理解していた。いや勝などは、二百六十年の徳川政権に一挙区切りをつけるためには象徴的な、しかし大勢に影響のない市街戦が江戸でも必要である、多少、死んで貰おうかぐらい考えていたのではないか。
 大村や西郷も同様だったかもしれない。窮鼠猫を噛んではわが軍の被害も大きい、とわざと上野の山の芋坂口を退き口として開けておいたことも、幕府瓦解の象徴として上野戦争の限定的な性格が表れている。すでに幕府は倒れており、そのことを民衆に周知徹底させねばならぬ。実際、鳥羽伏見の戦いは京都の民衆への実物教育になった。もはや政権をめぐる戦争でも、領土をめぐる戦争でもないのである」

 と森さんは書かれている。将軍慶喜が政権を返上し、謹慎したことで徳川幕府が終わったことを示すが、それに不満をもつ幕臣たちは一矢報いるため彰義隊として集まる。兵を挙させれば、それがガス抜きにもなる。朝廷軍はそうした彰義隊の気分の高揚をある程度歓迎していた観がある。それを一気に叩く。朝廷軍が持っている当時の最新兵器で彰義隊を壊滅させれば、朝廷軍の威光を示すことになるし、同時に民衆に時代は変わったのだとわからせることにもなるのだ。だから上野戦争は必要悪だったのである。森さんは「上野戦争がなかったなら、旧幕に心を寄せる人びとや、江戸の町っ子は憤懣やるかたなかったにちがいない。彰義隊は一つのカタルシスであった。彼らは江戸最後の日を花火のように彩り、長い徳川という時代を一瞬のうちに回想してみせた」と書く。
 こうなると君を辱められたという、臣としての取るべき態度が、指揮官や戦略家、あるいは時代を見据える人にいいように利用されたことになるわけだ。崇高な志さえこんな風に使われるのだから、時代というのは残酷である。

 ところで、吉村昭さんは最初彰義隊の物語を書こうと思ったが、戦いが半日で終わってしまったことで、小説にはしにくいと一時執筆を断念したことを書かれている。(結局その後の輪王寺宮の逃避行を書くことで、この物語は成った)しかしあくまでも“みせしめ”なら、戦いを長引かせる必要はない。早く決着がつくならそれに越したことはない。だから逆に半日で終わったことに重大な意味があることになる。もし上野での戦いが長引いた場合、江戸城がせっかく無血開城となって、民衆の安全が保証されたのに、町が血の海に変わったかもしれないのだ。

 「上野の戦が二、三日もつづけば、夜に入って市中はの町民たちまで、例のヤジ馬で何かやらかしそうな塩梅だった。たった半日で決着がついたので安穏におさまり、江戸市中も修羅の巷となることを免れ、ありがたいことだ」と当時の人たちが思っていたことは本音だろう。

 本音と建て前といえば、彰義隊に参加した人々のなかには、徳川の恩顧に報いるために参加した人たちだけで構成されたわけじゃないことをこの本を読んで知らされる。もちろんこういう話はどこでもあるのだろう。

 「彰義隊の数は三千人とも四千人ともいう資料がある。あわよくばこの機に一旗揚げようとしたものもあったにちがいない。旗本の長男は官軍へつき、次、三男は彰義隊に入る。どっちへ転んでも何とか家だけは残すという両天秤で、談合の上で敵味方に分かれた家もあった。本気で山を死守しようとする武士などごく少数だった」という話もある。

 「彰義隊は、兵糧も資金もそう困っていなかった。(困っていたという話もある)どうせ戦いになれば命はないものと思っているから、毎夜のように吉原へ通っていたという。(そうして実際戦争になった時は帰って来られなくなってしまった武士も多くいた)そうだとすれば上野の山の出入りは、夜もかなり自由だったと思われる」

 彰義隊に参加した兵士の思惑はさまざまであった。本当に志あるものだけの集まりではなかった。時に彰義隊が「烏合の衆」と呼ばれる所以はこのあたりにあるのかもしれない。ただ彰義隊と朝廷軍の上野の山での戦いは幕末最後のあだ花だったと思えなくもない。戦に敗れ、死んでいった彰義隊の隊員は、しばらくの間遺体を見せしめのため放置されたことを思えば、余計にそう感じてしまう。悲しくない戦争なんてないだろうけど、戦う個人に意味はあっても、全体としてさらしものみたいなところがある戦いだったし、滅びていくのが宿命であったのに、それでももがいているように思えたから、そういう意味でむなしく、悲しい戦争だった。


評価
★★★


書誌
書名:彰義隊遺聞
著者:森 まゆみ
ISBN:9784101390239
出版社:新潮社 (2008/01/01 出版)新潮文庫
版型:418p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年01月04日

吉村昭著『彰義隊』

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 まずは新年の挨拶から。

 新年あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願いいたします


 去年も吉村さんの随筆から始めたが、今年の第一発目も吉村昭さんのこの本から。
 徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いから江戸へ逃げ出した。慶喜が“朝敵”となり、自ら上野寛永寺で謹慎する。しかし一方で皇女和宮や寛永寺山主輪王寺久能親王にも恭順の意を朝廷に伝えてもらいたく画策する。徳川家にとって和宮と輪王寺宮が唯一の朝廷とのパイプであった。和宮は仁孝天皇の皇女で兄は孝明天皇である。徳川幕府は公武合体の最も有効な政策として皇女和宮を将軍家茂と結婚させることとして進めた。当時和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約が決まっていたのを破棄されて、徳川家に嫁いできた。その有栖川宮熾仁親王は東征大総督として任じられ江戸討伐軍としての最高幹部となっていた。従って有栖川宮熾仁親王にとってみれば徳川幕府は和宮を奪っていった敵であった。当然感情的に徳川幕府を許せるわけがないのである。

 和宮は慶喜の恭順の申し立てを受けいれ、使者を立てたが、これといった結果を得られなかった。そして次に白羽の矢がたったのが、寛永寺山主輪王寺久能親王であった。輪王寺宮は明治天皇の叔父に当たる。宮は十二歳で勅命により輪王寺の後継者となり、幕末日光と上野の山主となっていた。輪王寺宮にとって慶喜の恭順や徳川家の存続の嘆願よりも、江戸に対する思いの方が強かった。宮は寛永寺山主になって十年近く江戸にいた。そのため江戸が自らの故郷に近い存在になっていて、町民に対する愛着も強くなっていた。
 朝廷軍が江戸に入ってくれば、当然幕府と戦争になる。戦争になれば宮の愛する町民は逃げまとうことになる。そのことが宮にとって心配であった。だから宮は慶喜の使者となって有栖川宮と会うが、けんもほろろに扱われる。しかもここまで来る間に高貴な身分である宮に対して薩長軍を主流とする朝廷軍は、宮の御輿を止めたり、遮ったりし、近づいて扉を無造作に開け、覗くなど無礼な態度をとるのであった。そこには単に好奇の目しかなかった。この行為が宮や宮の執当である覚王院に深く屈辱的な記憶として残ることとなった。特に覚王院にはそれが甚だしかった。

 さてその彰義隊である。慶喜は朝敵にされるのはかなわんという気持ちから、恭順という態度をとった。将軍慶喜は水戸の出身であり、水戸藩といえば皇国史観のかたまりの藩である。天皇を重きに考える。そんな藩の出身である慶喜が自らが朝敵とされることにはどうしても耐えられなかったに違いない。だから恭順という態度をとった。
 そんな慶喜を君としている臣は、慶喜が終始朝廷に忠義の志あつく、二百年続いた幕府の政権を朝廷に奉還したにもかかわらず、朝廷に巧みに入り込んだ策士どもの陰謀によって、追討を受ける身となったことに耐えられなかった。君を辱められた臣は、死を覚悟して戦うものであるとして一橋家ゆかりのものが会合を持ち、そのうち諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加して、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成された。会は正式名を持つ必要性があるとして彰義隊と名変えた。
 彰義隊はどんどんその人数を増やしていく。しかし彰義隊が大きくなればなるほど、慶喜の謝罪を朝廷に認めてもらうのに大きな障害となる。旧幕臣は頭を悩ませる。本当からいえば彰義隊の解散が望ましいが、それを強行すれば、彼らは激怒し予想を絶した行動を取りかねない。そこで彼らを江戸の治安を守るために利用した。
 大政奉還以来幕府の権力は低下し、それによって盗賊が横行し、治安が乱れていた。彰義隊は町の治安維持のために働くようになる。そこに朝廷軍が入ってきて、戦勝気分で大胆な行動で町をのし歩き、横暴さが目立つため、朝廷軍と彰義隊が衝突するようになっていく。当然江戸の町民からすれば彰義隊は江戸の治安を維持してくれる存在であったから、支持した。

 「町民たちは彰義隊の提灯の列が近づくと家々から出て来て頭をさげ、隊員が休息のために足をとめると、茶や甘酒を出して感謝の言葉を口にする。上野の山にも食料を手にしたり大八車に積んだりして、彰義隊の屯所にとどける者がひきもきらなかった。正装し、連れ立って金を寄進する者が多かった」

 朝廷軍は、江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な江戸の町は町民のもので権勢は及んでいなかった。江戸の治安は彰義隊員によって維持されている趣があった。
 東征大総督府の目的は、むろん江戸城を接収することによる江戸の完全占拠であった。江戸の完全掌握には町民が支持している彰義隊の存在が邪魔であった。その状況を打ちくだくためには、彰義隊と町民の間に深いくさびを打ち込み、彰義隊を自然消滅させる以外になかったのである。
 東征大総督府はたびたび彰義隊の解散を要求し始める。山岡鉄舟は彰義隊の解散を促すために、上野に行くが、覚王院は慶喜謝罪の使者として輪王寺宮と一緒に道中を旅したときの屈辱感が思い出されていた。

 「朝廷軍と言っても、所詮は薩摩、長州の軍勢に過ぎず、貴殿が上使としてこられたのは、薩摩の策略に乗ったにすぎない」

 「当寺は古くから徳川家が経営し、皇族を山主と仰ぐ寺であり、徳川家に恩を感じる者たちが集まって守護しようとするのは当然のことである。そのような忠義の者たちである彰義隊を解散せよ、と言われる貴殿は、徳川家の恩を忘れた逆臣である」
 
 と声を荒げて言うのであった。

 その間に、彰義隊に加わる者は日を追って増し、その勢力は侮りがたくものになっていた。江戸城を接収しながら、江戸には朝廷軍に反抗する彰義隊が市中を歩きまわり、朝廷軍の藩兵に威圧感をあたえている。そのような状況が地方にも波及すれば、各地で朝廷軍に抵抗する動きが活発化することが予想された。そのような懸念から、大総督府内では彰義隊を一挙に武力をもって殲滅すべきだという声がたかまっていく。

 そして遂に慶応4年(1868年)5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。新政府軍は火力で優り、また肥前藩が保持するアームストロング砲の威力もあって、午後からは優勢に戦闘をすすめ、一日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
 戦いは半日で終わった。輪王寺宮は寛永寺から逃れ、関東にある寛永寺の支寺へ逃れるが、朝廷軍の追っ手が迫り、遂に品川沖に停泊していた榎本武揚が率いる艦隊に乗り込み、奥羽へ逃れる。
 当時東北では官軍に対抗して奥羽越列藩同盟がなっていた。彼らの士気を高めるために輪王寺宮を盟主に仰ぐ動きとなり、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主となるが、歯が欠けるように一つ一つ同盟の藩が朝廷軍に降っていく。最後は宮にはもう帰順しか残っていなかった。結局宮も朝廷軍に降った。
 宮はこれで江戸に帰れると思ったが、朝廷は宮を京都に謹慎させる。しかも有栖川宮熾仁親王のもとでである。威厳もへったくれもない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。

 宮は後に罪を許され、日清戦争で台湾征伐の総指揮を任されるまでになる。当時朝廷に反抗した徳川家ゆかりの人間は罪を許され、明治新政府に重職に就いている者もかなりいた。結局彰義隊に加わった、一心に君を思う者だけが死に、遺体を回収されないままさらされてしまっただけであった。貧乏くじを引いただけであった。

 この本を読んでいて、力にものを言わせ、それまであった威厳や秩序などをまるでローラをかけるように挽きつぶしていく感じがものすごく不愉快な気分として残った。確かに時代の流れとしてそうなっていくのは仕方がないことなのかもしれないが、たとえそれは粗にして野だが卑ではあってはならないと感じた。新しい時代が生まれようとするのである。そこには荒々しい力があっても当然であり、粗であり野であってもかまわない。ただ碑であれば、どこか醜い。そんな感じがどうしてもつきまとった。
 この時代、歴史に名を残した人間が多くいるが、一方で虎の威を借りて、横暴な態度をとる人間も新体制側に多くいたのであった。維新の話を読む度にいつもこういう輩の横暴さに腹が立ってしまう。
 一方で輪王寺宮や榎本武揚など、朝廷軍と相反して戦ってきたのに、戦いに敗れ、その罪が許されれば、明治政府の要人として生きていく姿にもどこか疑問を感じてしまう。彼らは盟主であり、指揮官であった。多くの無名の人が彼らを慕って、戦い、死んでいった。それなのに“転向”が簡単にできるほど生き方で、盟主や指揮官をやっていたのかと、どこか腑に落ちないところも私には残ってしまう。少なくとも“転向”に大きな苦悩があって欲しいと願うところである。何故なら彼らのために多くの人が死んでいったからだ。


評価
★★★


書誌
書名:彰義隊
著者:吉村 昭
ISBN:9784022500731
出版社:朝日新聞社 (2005/11/30 出版)
版型:395p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年12月24日

本多孝好著『FINE DAYS』

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 前回読んだ『正義のミカタ』がそれほど面白くなかったので、次に本多さんの本を息子から借りようかどうか迷っていたのだが、やはり借りて読んだ。その本がこれである。紀伊國屋書店のサイトでこの本のデータを取り出してみると、サブタイトルに恋愛小説とついている。本にはそれがついていないが、確かに読んでみれば恋愛小説の短編集であった。
 書名になっている「FINE DAYS」、「イエスタデイズ」、「眠りのための暖かな場所」、「シェード」の四編である。個人的には最後の「シェード」が好きである。
 主人公の僕が彼女のためにクリスマスプレゼントのために買おうと思っていた、骨董店ガラスのランプシェードが、売れてしまっていてショウウィンドウから消えていた。もしかしたら店内に移された可能性があると思い、初めて骨董店の店内に足を踏み入れた僕はそこにいた老婆からそれが売れてしまったことを知らされた。しかし老婆はそのシェードを作ったガラス職人の話を僕に聞かせてくれた。その話が僕と彼女の関係と入れ違いながら、話が進む。話の最後で老婆は次のように言う。

 「光がなければ、闇もまた存在しません。けれど、一度、光を生み出せば、闇もやはりそこに生まれます。たった一つの光から無限の闇が生まれるのです」

 「その闇の深さに怯える前に、それを照らす光に目を向けるべきだったのです。闇から生まれる闇などないのです。すべての闇は光から生まれます。違いますか?」

 「挑むのですよ」

 「ええ、挑むのです。彼女にでもなく、その男にでもなく、ただ自分の中の闇に挑むのです。そこにまだ光があるのなら」

 「挑み続けること。闇から光を守るには、それしかないのです」

 ここまで読んで、多分そのランプシェードは彼女が買っていったんだろうなと思えるようになる。いや老婆がそのランプシェードの話を始めたときから、そう思っていた。
 老婆の話が終わって老婆から買った蝋燭を持って彼女が待っているマンションへ急ぐ。僕が見てしまった幸せそうな彼女と前の夫との結婚式の写真と、その夫を失ってからもいつもしていた結婚指輪がチェストに上に置かれていた。
 やはりランプシェードは彼女が僕のためにプレゼントして買っていた。そして僕はその老婆から買った蝋燭に火をともす。

 僕にともせるのは呆れるほどにか弱く、頼りない火だ。ささやかな風にも揺らいでしまうその火は小さな光を本当に守り続けることができるのか、それも今の僕にはわからない。ただ、やってみようと思う。僕の持ちうるすべての力を使って。

 と思うのである。なかなかいい話であった。こんな話に酔ってしまうなんて、甘くなったなあとは思うが、たまにはいいであろう。 私は本多さんが作り出す言葉が好きである。この老婆の光と闇の関係もうまいことを言うもんだ感じたし、「FINE DAYS」の僕が言う言葉もいい。

 安井は背中を手すりにもたれさせ、ふうとため息ついた。
 「生きていることの意味って、考えたことある?」

 「あのな、どうして自分が生きているかなんて、そんなの悩みじゃない。悩みっていえば、解決しなきゃならないことに思える。けど、俺が思うにそんなのはもう高尚な哲学だ。哲学だから、答えなんてない。一生かかったって、答なんかきっと見つからない。そんな風に悩まない奴も人間として信用できないけど、それに対して答を見つけたなんていう奴とも俺は友達になりたくない。きっと水晶玉とか壺とか売りつけられるのがオチだ。だから、答えなんてないままに悩んでいればそれでいい、と俺は思う」

 “あのさぁ、高校生がこんな大人びたことを言えるか?”と横槍を入れたくなるけれど、言っていることは至極まともだ。大賛成だ。


評価
★★★


書誌
書名:FINE DAYS ― 恋愛小説
著者:本多 孝好
ISBN:9784396632229
出版社:祥伝社 (2003/03 出版)
版型:321p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年12月17日

吉村昭著『史実を歩く』

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 今度の新書の方は一般向けである。なんかここに書かれている史実に忠実に向き合う吉村さんの姿勢を読むと、安心できる。それは文章を読んでいてもそう感じる。やっぱり書かれたことにしっかりと裏付けがある文章は安心できるのだ。
 しかしここまでこだわる必要性など読む側は感じているのかなと思った。たとえば桜田門外の変で、この日、安政七年(1860年)3月3日は夜明け前から雪が降り、乱闘があったときは大雪になっていたと言われている。乱闘後、井伊大老を討った水戸藩士らは品川宿に向かっている。この時には雪はやんでいたらしい。吉村さんは、では雪はいつやんだのだろうと疑問を持つ。読む側にとっていつ雪がやんだのかどうでもいい感じだ。実際昔読んだ吉村さんの『桜田門外ノ変』でそんなことちっとも気にならなかった。しかし物語を書く吉村さんにとってはそうもいかないことだったらしい。どうしても知っておきたいことなんだそうだ。たぶん物語を書く上で乱闘と乱闘後を続いて書く上で、イメージとしてそれはどうしても必要なことだったのだろう。わかるような気がするが、でもそこまでこだわらないと小説が書けないというのは厳しい。

 さらに生麦事件でもそうだ。文久二年(1892年)八月に生麦村で薩摩藩藩主島津久光の行列にイギリス人商人が接触し、リチャードソンが薩摩藩の人間に斬られた。吉村さんはイギリス商人が乗っていた馬は日本の馬とは違い上海から持ってきたアラブ系の馬だったことを知っている。当然日本の馬より大きい。となると、斬られたリチャードソンの身体は斬った武士よりかなり高い位置にあったことになる。記録ではリチャードソンは脇腹を斬り上げられ、さらにそれより高い肩から斬り下げられている。そんなことが可能なのかと疑問を持つのだ。言われてみれば確かにそうだ。
 そこでその疑問を解消するために吉村さんは鹿児島に調査に行く。その結果、リチャードソンを斬った奈良原の剣は野太自顕流という流派の剣で、戦陣用の長大な大太刀で刀身が長く、幅が広い剣だと知るのである。そして奈良原はその剣法の達人だったのだ。だから自分より高い位置にいるリチャードソンを肩から斬り下げることが可能だったのだ。
 すごいと思いませんか?史実ではリチャードソンは脇腹を斬り上げられ、さらにそれより高い肩から斬り下げられているとわかっている。普通ならそうか、そうして斬られていたんだなで終わってしまう。でも吉村さんはそれで終われなかった。満足出来なかったのである。それは物語の細部にこだわりを持って出来る限りリアルに事件を描きたいという意識だけじゃない。
 この生麦事件が、その後薩英戦争となり、薩摩藩は徹底的にイギリスに痛めつけられ、それまで持っていた攘夷論がいかに現実を無視した愚かしいものであったかを思い知らされる。以後薩摩藩はイギリスと親好を結び、積極的にイギリス式兵法を取り入れ近代化していく。それが倒幕運動でも力を発揮していくのである。そう考えるとこの生麦事件は一つのエポックメイキングとなったわけで、そうであるからこそ、些細なことでもこだわらないわけにはいかないのである。そういう視点でこの生麦事件を吉村さんは見ているからこそ、こだわったのである。
 その経緯がここに書かれている。一つの事件だけを細かく描写するだけでなく、それを書く理由が、視点が、その先を見据えていることを知るのである。そういう吉村さんの歴史小説の裏側がここには紹介されていて、それだけでも楽しい。これだけ細かいことにこだわり、綿密な取材をされているからこそ、吉村さんの書かれる小説は面白いのだと思う。
 年明けはこの生麦事件を扱った小説もそうだけど、いくつか吉村さんの歴史小説を読もうと思っているので楽しみである。


評価
★★★


書誌
書名:史実を歩く
著者:吉村 昭
ISBN:9784166600038
出版社:文芸春秋 (1998/10/20 出版)文春新書
版型:214p / 18cm
販売価:714円(税込)

2009年12月16日

吉村昭著『事物はじまりの物語』

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 ちくまプリマー新書とはネットで調べてみると「高校生・ヤングアダルト向けの新書である,筑摩書房の「ちくまプリマー新書」のリストです。『岩波ジュニア新書』に比べると,薄手ですがそれほど堅苦しくなく気楽に読めるものが多いのが特徴です。逆に言うと重厚感には欠け,淡泊な感じもしますが,切り口は伝統的な「岩波ジュニア」よりも新鮮です」とある。だからこの本もわかりやすく、しかも簡単に書かれている。その分物足りなくもあることは事実だけれど、吉村昭さんの随筆だから読んでみた。
 ここでは吉村さんが歴史小説を書くために集めた史料から得た“はじめて”を語っている。内容は日本で初めて解剖をやった人は誰か。スキーを始めて日本でしたのは誰かとかいった感じで、以下石鹸、洋食、アイスクリーム、傘、国旗、幼稚園、マッチ、電話、蚊帳・蚊取り線香、胃カメラ、万年筆の初めてを紹介している。その中で私が興味を持ったというか、へぇ~そうなんだと思ったことが国旗と電話と万年筆の話である。

 日本の国旗はどうして日の丸なのか。日の丸は「江戸時代の廻船にかかげられた幟、旗の船印からはじまっている。
 日本各地に幕府が管理する天領と称された地があって、そこで産した米が、御城米(年貢米)として江戸の幕府に船で運ばれた。
 この船には御城米以外に銀や銅なども積まれ、一般の廻船と区別するため、白地に朱色の丸印をえがいた船印がかかげられていた」という。
 幕末薩摩藩は「昇平丸」という西洋型帆船を完成させ、その頃渡来する外国船と区別するため、「昇平丸」が日本船籍の船であることを示すため、日の丸の船印をかかげた。この船は幕府に献上されたが、その時藩主島津斉彬は、日本のすべての船に同一の船印を立てるべきと老中阿部正弘に建言した。つまり日の丸を最初に掲げたのは「昇平丸」であり、その元となったのは、江戸幕府の御用船すべての船に掲げられていた日の丸の船印だったのである。

 電話で我々は「もし、もし」と言うけれど、これはどうしてなんだろうか。言われてみれば不思議である。この本によると、日本で最初に電話が引かれたのは明治で、役所と役所の間だった。そして当時の役人は武家あがりが多く、「もうし、もうし、そこを行かれる方」などという武家の使った呼び方のもうしという言葉から「もし、もし」という言い方が使われたという。ちなみに広辞苑 第五版で“申し”という言葉を意味を調べてみると、「敬意をこめて呼びかける時にいう語」とあるし、三省堂の大辞林でも「人に呼びかけるときの言葉」とある。「申し、申し」から「もし、もし」となったわけだ。

 万年筆はへぇ~というより、懐かしいといった感じであった。ここには学生の頃上着のポケットに万年筆をさしたときの興奮を吉村さんは書かれているが、これはよく分かる。私も中学生になって学ランのポケットにさした万年筆に興奮したものだった。入学祝いにその万年筆を買ってもらったのである。なんかそれだけで勉強するみたいなところがあった。
 その興奮が今でも残っているものだから、私は万年筆が好きである。確かに今は使わないのだけれど、丸善や伊東屋でショーケースに並んでいる万年筆を見るとぞくぞくする。
 今モンブランの太いやつを持っているが、これにインクを入れる時、インク瓶にペン先をさしてインクを入れていく時の感覚が大好きである。そして必ず手にインクをくっつけてしまうのだけれど・・・。それもそれでいいのだ。
 というわけで、今回この原稿の下書きをこの万年筆で書いてから、パソコンで入力してみた。(すぐ感化されちゃうのだ)


評価
★★★


書誌
書名:事物はじまりの物語
著者:吉村 昭
ISBN:9784480687050
出版社:筑摩書房 (2005/01/25 出版)ちくまプリマー新書
版型:124p / 18cm
販売価:714円(税込)

2009年12月15日

石原千秋著『漱石と三人の読者』

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 夏目漱石はお札にもなったくらいの“国民的作家”になっている。しかし漱石の生前に売れた部数は作家活動十二年間の全作品をあわせて十万部程度だったらしい。
 これでは生前、売れっ子作家とは言い難いが、でも漱石の死後ものすごい勢いで売れていく。それに一役を買ったのが、中学では『坊っちゃん』、高校では『こころ』が夏休みの課題図書となって、所謂そういった学校空間で漱石を半ば強制的に読まされたことで、漱石を“国民的作家”に仕立てていったと著者は分析している。これはなかなか面白い。なるほどと思う。
 では何故漱石のそれらの作品が学校での課題図書として取り上げられるのであろうか?それは漱石の小説に“道徳教育”を求める背景があるからだ。漱石のそれらの作品を課題図書として選定する側に、漱石の作品を読ませるのは、それを読むことで“エゴイズムはいけません”と教えたいのである。友人を裏切って、自分も友人も好きであった女性を、先手を打って奪い取ってしまうことはいけませんとか、友人に譲りその妻となった女性を今度は奪い取るとか、そういった自分勝手なエゴイズムはダメですよと教えたいわけである。
 でもちょっと不思議である。小説にそうした効能?がいったいあるのだろうか。実はあるのである。漱石は「文学は矢張り一種の勧善懲悪であります」と言っており、それは「道徳上の好悪」も勧善懲悪と言っているのである。つまり「文学」は「道徳」の問題にも触れるべきという姿勢を漱石は持っていた。当然そういう考えは漱石の小説にも反映されている。そこに目をつけたのは課題図書を選定する人たちであった。そうして課題図書となった漱石の作品は、少なくとも一度くらいは学校で触れたことのある作品となって、誰しも漱石を知ることとなっていくのである。これは漱石を“国民的作家”として押し上げていた背景であったのだ。
 さらに漱石が読まれる背景を『彼岸過迄』にある「彼岸過迄に就いて」からも読み取ることが出来るというのだ。

 「東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上っている。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、・・・・・(略)・・・・自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている」

 当時漱石が対象とした読者は「教育ある且尋常なる士人」である中流市民のみから成る狭く一様で閉ざされた社会にいる“中流階級”であった。その“中流階級”は漱石の時代少数派だったのが、現在はその“中流階級”が底上げされ拡大したことによって漱石を読む人が増えたというのだ。
 まさか『彼岸過迄』にあるまえがきみたいなものがそんなに意味を持つものとは正直思わなかったけれど、なるほどそういう考え方もあったのか、と思い知らされる。

 この本はこのような例みたいに、漱石の作品に隠されている文化記号を、その作品をテクストして読み解こうとしたものである。それを読み解くことで、漱石が行ったのではないかと思われる実験を読んでみようというものである。漱石の作品にはそうした実験が隠れていて、それを読み解くことで、別な側面で夏目漱石が読めるという試みである。仮説である。
 そう考えたのは著者の石原さんである。その仮説はあるいは著者の思い込みかもしれない。私から言わせれば、「それは深読みのし過ぎじゃないの」と思えなくもないが、ただ一種の推理小説風に読むと、この本は面白い。こういう本の読み方もあるんだな、と思ったわけだ。

 著者に言わせると「書き手にとっての読者とは、顔のないのっぺりとした存在のとして読者、何となく顔の見える存在の読者、具体的な何人かの『あの人』がいる」という。この本の書名に三人の読者と言っているのはこの点にある。そして漱石の作品にも「このような三層に分節化され、それが構造化されて小説に組み込まれていた」というのである。では漱石のとってこの三人の読者を意識して、どう作品が書かれたのであろうか。
 最初に書いた通り、漱石は売れっ子作家と言えるほど作家ではなかった。もともと純粋に作家としてその人生を歩んだ人じゃない。漱石は熊本の第五高等学校教授、第一高等学校嘱託、東京帝国大学講師だったのである。その漱石が明治四十年に朝日新聞社の専属作家となったのである。朝日新聞が漱石を招聘したのは、新聞の目玉にしたかったという魂胆があったからだ。
 朝日新聞社の専属作家となった漱石は朝日新聞を読む読者を意識しなければならなくなる。それが三人の読者のうち、「顔のないのっぺりとした存在のとして読者」となるわけだ。それでは「具体的な何人かの『あの人』」である読者とは誰のことをいうのであろうか。それが漱石の弟子たちであった。
 漱石は先に言った通り、文壇から出てきた人間じゃない。そうしたつながりを持っていなかった。だから弟子たちを持つことで、自分の作品を弟子たちに「どうだ!」と見せつけたかったのである。それでなくても漱石の弟子たちは師匠の漱石の作品を批判することで、逆にその存在をアピールしたかったところがあるので、その批判に対して、「お前たちにはこんな作品は書けんだろう」と言いたかったのであるという。
 そして朝日新聞を読む読者、弟子たち以外の漱石を読む一般読者を「何となく顔の見える存在の読者」として意識したのである。漱石の作品にはそうした三人の立場である読者を意識して作品を重層的に書かれているというのである。

 具体的な例がこの本では示されている。使用した作品は『三四郎』である。その『三四郎』で、三四郎がはじめて美禰子と出会う場面である。
 私もそうだったが、この場面を「三四郎と美禰子が一目惚れする場面と読んだろう。そして、美禰子が先に誘惑したのだと思っただろう。その結果『三四郎』を三四郎が美禰子に翻弄されながらその恋心を育てて行く、三四郎と美禰子の淡い恋の物語と読んだ」。そう読み取った読者は「何となく顔の見える存在の読者」である。
 ところが、三四郎が美禰子と出会う場面の近くには野々宮いた。その野々宮のいた位置と美禰子のいた位置は東大構内をよく知っている読者でないとわからないところがある。それをよく知っている人なら「この場面では直接には三四郎を挑発しているが、美禰子が本当に挑発しているのは、それを後ろで見ているはずの野々宮だったということである。ではなぜ美禰子はそんなことをしたのかと言えば、それが重松の言う結婚問題で『煮え切らない野々宮への<挑発>』だったからである」と読めるらしい。これが「具体的な何人かの『あの人』」たちに向けた手法であったというのだ。
 そして「顔のないのっぺりとした存在のとして読者」、すなわち朝日新聞の読者には、庶民には高嶺の花の東大構内はこうですよと「東京遊学案内」の役割を果たしているというのだ。
 いずれの立場でこの『三四郎』を読んでも、その感想を聞いて漱石はニヤリと出来るわけだ。

 要するにどうのようにでも立場によってさまざまに読み取ることが出来るということである。たとえばその後の作品だって、美禰子のような“誘う女”の物語ととればとれるだろうし、一方“遺産相続”ともとれるというのは、なるほどと思った。それをある程度漱石は計算していたことを著者は言いたいのであろう。そのことは漱石以前に一世を風靡していた、小説には構成など不要だ。事実を切り取るが如く描写すればいいという自然主義文学=写実的文学に対する漱石の批判であり、実験だったと著者は言いたかったのだろう。
 まぁこれだって著者の仮説だろうし、こんなに深読みしなければ小説を楽しめないのも、文学者というのは悲しい商売だなと思った。何となくダン・ブラウンのラングトンがダ・ヴィンチ絵の奥底を語るようだな、とそんな感想を持った。少々小難しいかったけれど、わかれば、それなり面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:漱石と三人の読者
著者:石原 千秋
ISBN:9784061497436
出版社:講談社 (2004/10/20 出版)講談社現代新書
版型:252p / 18cm
販売価:777円(税込)

2009年12月09日

森まゆみ著『とびはねて町を行く』

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 この本は先に読んだ『「谷根千」の冒険』の番外篇といっていいのかもしれない。「谷根千」を始めた森さんを含め三人の主婦たちが合わせて10人の子育て、その子の成長をつづっている。母親は「谷根千」の編集・出版で忙しいものだから、事務所の谷根千工房で子供たちはみんな一緒に育ってきた。手の空いている仲間が他の仲間の子供の世話をするのである。一緒に食事をしたり、お風呂まで仲間の家で入ってくる。その上町が10人の子供たちの面倒を見ている。「谷根千」を通して、町の人々とつながりが出来、そのつながりから、森さん達の子供も町の人とつながっていくのである。
 母親が「谷根千」の仕事で忙しいものだから、子育て一辺倒というわけにもいかない。それで子供たちは子供なりに自立いていくのである。親の目が届かないことをいいことに、好き勝手にやっていく。それこそ自由奔放にだ。親が「まったく子どもっていいもんだ。際限なく無駄な時間が使える」と感じられるくらい、子どもなりに生きていく。そんな中しっかりと自我に目ざめ、自立していくのである。
 確かに仕事で忙しいけれど、だからといって子供ことを心配しないわけじゃない。親として当然心配する子供将来など、寄り添ってあげられない分、それこそ真剣そのものだ。でも子供の方はそうした環境の中でしっかりと育っていく。その分みんなで協調して生きていく。たくましく育っていく。
 おそらく一昔前の親と子供の関係というのはこういうものであったのではないか。今はいつでもどこででも親が子供についてくる。ただ心配で心配でという気持だけなのだ。そこにあるのは親の気持ちだけであって子供の自立なんか関係ない。

 話はちょっとずれてしまうけれど、昨日かみさんからおもしろい話を聞いた。我が家では今長男が就活中である。だから夫婦の会話として就活の話が話題となる。なんでも会社の合同説明会に子供の親がついていくそうである。そのため会社側は親の控え室を設けなければならないとか。
 これを聞いて、この親たちはいったい何を考えているんだろうかと思った。また子供も子供でここままで親がかりでないと生きていけないのかと思った。就活をしている子供もその親も、そんな自分たちを会社が雇ってくれると思っているのだろうか。親がいないと生きていけない子供をどうして会社が雇うか。そんなボランティアみたいな会社がこのご時世あるわけがないじゃないか。一人で自立できない人間を雇うわけがないじゃないか。
 ちょっと考えればわかりそうなものだと思うが、それでも親は自分の子供が心配だからここまでついていく。子供も親が側にいれば安心なんだろう。
 そういう世の中になっているのである。だからこの本に書かれている子供と親との関わり合いがものすごく自然な姿に映るのである。
 
 一方で親の方もそうして自立いていく子供たちを、心配ではあるけれど、成長の一過程として見る心構えも必要なことも知らされる。

 「一年ほど前、娘が『社会主義』に興味を持った。見ていると図書館に行って、マルクス、レーニン、向坂逸郎、不破哲三、安東仁兵衛、とにかく社会主義と名をついた本をあれこれ借りて読んでいる。
 このラインナップでは頭が混乱するゾーとは思ったが黙っていた。玉石混淆、くだらないものを含めてとんでもない順序で乱読し、考えるからこそ自分が鍛えられるはずだ。子どもに上から精選した優良図書を『正しい』順序で与えても力がつかない。
 進む道も読書と同じで、遠回りしたり、寄り道したり、行き止まりでひき返したらいい。
 そう思うのは、仕事柄、無駄なくエリート校を卒業して良い地位についた人に会う機会が多いが、たいていは面白くないし幸せそうでないからである。むしろ町の工場主や商店のおばさんや職人、芸人の方がずっと世渡りの智恵もあるし、人間として魅力的だ」

 このくらいの心構えがなければ本当はいけないのではないか。親もそうだし、学校の教師だってそうだ。子供たちをどう育てて行っていいかわからない。どう教えていけばわからないものだから、なんでも無難な方法をとる。あるいは多少の危険も子供には冒険として楽しいはずだし、身をもって堪えれば、次から同じことをやらなくなる。多少痛い目にあう方がいいのだ。だけどただ危険だからといって、すべてを禁止してしまう。多少人に迷惑をかけてもいい。それで怒られれば、しちゃいけないんだなと思えるはずだ。
 いきおいなんでも禁止しちゃうものだから、今は子供の方は森さんの言うように「人はより個人主義になり、かかわりを恐れるようになった」のだ。

 ところで男親は娘の成長にどきっとすることがある。特に母親と娘の会話に、男としてむやみに触れちゃいけないものを感じたことがある。ちょっとドキッとするのだ。

 「最近、中学生の娘の胸のふくらみが気になる。母親にそんなことをいわれるのは嫌だろうな、と思いつつ、
『そろそろブラジャーをしたほうがいいんじゃない?』
 と、おずおずと提案すると、娘は、
『お母さんこそ、そろそろブラジャーしても無意味じゃない』
 フンと鼻で笑った」


評価
★★★


書誌
書名:とびはねて町を行く―「谷根千」10人の子育て
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087477719
出版社:集英社 (2004/12/20 出版)集英社文庫
版型:279p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年12月03日

松本健一著『増補 司馬遼太郎の「場所」』

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 また松本さんの司馬遼太郎論を読む。一部は前回読んだ本と重なる部分があるが、なかなかおもしろかった。それに自分の好きな作家について批判されると、頭にくる時があるが、松本さんの場合そういう心配がないので安心して読めるので有り難い。
 おもしろいと思ったのは、司馬さんは純文学畑ではあまり評価されていなかった事実である。著者は次のように言う。

 「司馬の生前に文芸雑誌でかれを特集したものは、たしかほとんどなかったのである」

 「この扱いは、純文学とか文壇というような世界では、司馬遼太郎が文学者としてはあまり評価されてこなかった実態を物語っているのではないか」と言っている。つまり司馬文学は純文学とは違うということなのだろう。言われれば確かにそうなのかなと思う。司馬さんの書かれる小説は純文学雑誌にはなじまない。
 では司馬さんの書かれる作品はどこに位置するのだろうか。それを著者は大衆文学に位置するものと考えられる。大衆文学というと純文学と比較すると一つ格下のように思われるが、大衆文学が果たす役割の重要性、その持つ性格を松本さんは次のように言う。

 「明治以後の史学が最終的にたどりついたのは、右に皇国史観であり、左に日本的な唯物史観であった。前者が、明治国家を伝統的な権力であると位置づければ、後者は、その半封建的なブルジョア国家から権力を奪取することをいうのである。とすれば、つねに権力から裏切られつづけた民衆は、そのどちらにも拠ることもできない。このとき、大衆文学は、右に寄ることも左に走ることもできない民衆の生活のなかのエトス(肉声)を汲みあげて、「その日その日の出来心」で権力にむきあうヒーロー像を描いたのである。そのことによって、在野史学のかぼそい継承者となったのである」

 「大衆文学はたしかに、伝統や習慣や既成文化といったものを無視できない。民衆の生活が、これらに大きく規制されているからだ。しかし、これらを無視できず、それらの現実のありようとして描くことは、民衆にこび、へつらうということではない。プロレタリア文学運動における芸術大衆化運動のテーゼは、この点を見誤っているのだが、それはともかく、こういった伝統や習慣や既成文化に入りこみつつ、かれらを紙のうえで解放してやることが、大衆文学に課せられた課題なのだ。
 とすれば、大衆小説作家が伝統や慣習や既成文化にしばられた民衆の生活のなかのエトスを汲みあげる回路をもっているかどうか、これが大衆小説作家の資格として問われることである。そのかぎりでいえば、司馬遼太郎という歴史小説作家は、在野史学、大衆文学の正統を踏んだ作家ということができよう」

 つまり大衆文学はがちがちに権力に縛られた民衆が、物語の中で心を解放する役割を負ってきたと言うのである。そして「司馬遼太郎の歴史小説は、こういった在野史学なり大衆文学の正統を踏んでいる」というのである。司馬さんの作品が「一般うけがするということの意味は、時代の雰囲気を呼吸している大衆がその時代に応じて読み換えられる、ということである」というように、時代時代に応じて支持された。それは司馬さんが大衆の表情や動向を巧みに分析できることを意味している。
 民衆に支持された大衆文学は時代を反映するから、司馬さんの前には吉川英治がいたが、大きく括れれば同じ路線であるけれど、その姿勢は決定的に違う。吉川英治は戦争を支持し、司馬さんは戦争を忌み嫌った。それは時代が求めた結果と言っていいだろう。
 また塩野七生さんが司馬遼太郎さんを「高度成長期の日本を体現した作家」と評したことがあるらしいが、確かに司馬さんの作品は彼等の心証として心地よい感覚を与えたに違いない。
 また司馬さんが描く“気概”ある男たちは、男の美学として、美しく映るから、心地よい。そこに滅びの美学も加わるから、余計である。
 司馬さんはそうした大衆が今何を求めているのか、それに敏感に反応した。時代に反応した。そのための分析は鋭かった。しかし単に時代に反応し大衆が求めている作品を書けばいいというものでもない。あくまでも徹底的にディテールとして事実にこだわった。でもそこに登場する人物の心は司馬さんの心であろう。時にはそれを無批判的に信じ、受け売りする人々も出たくらい、司馬さんの作品は支持されたきた。だから逆に司馬さんは余計に史実にこだわらなければならなくなる。その資料調べのすさまじさは有名だ。一時神田の古本屋街で資料を買いあさったため、その資料が古本屋街でなくなったという逸話がある。

 司馬さんは時代に敏感であった。だから時代とともに自分も変わらざるを得なかった。それを松本さんはうまく振り分けて指摘されているので、それを書いて終わりにしよう。

 「司馬さんの文学的遍歴を、私は四つの段階に分けて捉えています。まずは『梟の城』に代表される、伝奇ロマン的色彩を持った大衆小説作家としての時代。次に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』といった、歴史上の人物にスポットをあてたヒーロー小説作家としての時代。そして『坂の上の雲』のように歴史そのものを鳥瞰して描く、歴史小説作家の時代を経て、最後は、小説家というよりは、むしろ文明批評家としての仕事をなさっていた。その遍歴は、作家そのもの転変であるとともに、それぞれ1950年代~60年代、60年代末から70年代、80年代20世紀末までの、日本の大衆のエトスのおおよその移行に見合った作家活動になっていると思われます」

 こうして司馬さんの作品を紹介され、その背後のあるものを指摘されると、また司馬さんの作品が読みたくなる。私は高校時代から司馬ファンであるが、まだまだ読んでいない作品がたくさんある。それをじっくり読んでみたいなという気持にさせられた。


評価
★★★


書誌
書名:増補 司馬遼太郎の「場所」 (増補新版)
著者:松本 健一
ISBN:9784480423115
出版社:筑摩書房 (2007/02/10 出版)ちくま文庫
版型:266p / 15cm / A6判
販売価:798円(税込)

2009年11月25日

森まゆみ著『「谷根千」の冒険』

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 「谷根千」とは谷中、根津、千駄木のコミュニティー雑誌のことで、著者によるとミニコミ誌とは違うらしい。そもそもコミュニティー雑誌とミニコミ誌の違いがよく分からないが、とにかく単に情報誌とならず、この地域の特有の文化や歴史を語りながら、ここで暮らす人達のための雑誌を自分たちで作りたいということから、この谷根千に住む著者をはじめ三人の主婦が始めた雑誌である。
 この本はその「谷根千」がどうして生まれるようになったか、その創世記の苦労を主に語っている。彼女らは子育てをしながら、地域に根ざした雑誌作りをモットーとし、この地域の文化や歴史をここに住む人達から取材する。幼い子供を抱いて取材し、子供を負ぶって出来上がった雑誌を自転車で雑誌を置いてくれるお店に配達するのである。時にはお腹の中に子供がいる状態で、近所の人に危ながられながら、自転車に乗って配達していた。多分こういう時は自分たちが苦労して作った雑誌が出来上がり、早くお店に置いて欲しいという気持ちから、危険とかいう意識より、とにかく意識が高揚していたんだろうなと思う。雑誌作りは大変だけど、楽しくて仕方がないという気持がよく伝わってくる。利益とかそんなことより、とにかく自分たちが作った雑誌を読んで欲しいという気持の方が強かったに違いない。
 今ではこの谷中、根津、千駄木という地域は、震災や戦災にもそれほどあわず、古き良き時代の下町の面影を残しているといって、結構話題になっている。谷中墓地があるものだから、多くの寺が残っているし、鴎外や漱石など明治の著名人も多く住んだ場所なので、その文化的話題性に事欠かない。だからテレビなどよく特集番組を放映している。
 ただそれは現在の話で、森さん達が雑誌作りを始めようとしていた頃は、「谷中と上の桜木は台東区、根津・千駄木・弥生は文京区、日暮里は荒川区、そして田端は北区とここは四区の区境。それだけに区役所からは遠く、行政サービスは薄く、おもしろいことにどの区の人も「○○区のチベット」とよんでいるよう」な地域なのであった。またそうした区境だから、行政上統一的な文化保存が行われない。でもここにはたくさんの文化や歴史もあり、そこで暮らしている人達からさまざまなことを聞いていけば、おもしろい雑誌が出来るだろうなと思う。

 昔書店員だった頃、仲間で雑誌を作ったから置いてくれませんかというのがよくあった。私は自分が仕入の権限を持っていたから、仕入条件さえ合えば、出来るだけ置いていた。けれどこの手の雑誌は大体続かないようで、最初のうちは新しい号が出たら前の号の精算に見えるのだが、いつの間にか新しい号も出なくなり、精算さえ来なくなるパターンが多かった。こっちもいつまでも古い雑誌を置いておくわけにもいかないし、かといって商品を預かっているわけだから、捨ててしまうことも出来ず、処理に困ることが多かった。
 森さん達はとにかく三年間は持ち出しであっても、続けよう。雑誌を置いてくれているお店にこうした迷惑をかけないようにしようと決めているところは立派だなと思った。
 資本も何もない主婦が地域のための雑誌作り、確かに大変だろう。けれど自分たちの雑誌を作るというのはきっと楽しいに違いない。それにこの地域はとにかく歴史がある。だから雑誌のテーマにことを欠かない。しかも当時を知っている古老も多くいる。だからおもしろい雑誌が出来てくるのも、肯ける。森さんも次のように言っている。

 「私たちのささやかな『谷根千』にしたってわれながら自費出版でよく続くと思う。そして出版そのものが目的でなく、それによって利益が上がるというものでもなく、やはり本を出すプロセスの楽しさつらさ、取材して調べることの新鮮なよろこび、人との出会い、自己形成というものが私たちにこれをやらせている」

 ちなみに1984年に始まったこの「谷根千」は2009年94号で終わっている。詳しくは以下のURLで見て下さい。


http://www.yanesen.net 谷根千ねっと


 さてこの本で興味を持ったことがいくつかある。まずこの雑誌の性格から、その地域に住む人達のことを聞き回って記事を書いている。けれどそういう聞き書きではよく誤解が起こる。実際雑誌が発売されてから、記事の内容に苦情が来たらしい。だから新しい号が発売されて一週間ぐらいはどこからか苦情の電話が鳴るんじゃないかと不安に駆られたという。まぁそれはちょっとした誤解から生じたことだろうと思われるが、やはりそういうことはいくら校正の時に神経を使っていても起こりうるだろうなあと思う。まして地域雑誌だから、雑誌の内容にはかなり神経を使われたことだろう。

 この雑誌の名物に「自筆広告」というのがあるらしい。自分たちの町のことが載った本をどう紹介したらいいのか悩んだ末、著者自身に広告を作ってもらうコーナーらしい。そこで日暮里に住んでおられた吉村昭さんに「自筆広告」を依頼した。広告料は無料なのだが、吉村さんは広告原稿とともに、一万円が同封され「無料広告代、ご笑納下さい」と添え書きがあったという。これを読んだとき、いかにも吉村さんらしいなと感じたのである。いくら無料とはいえ、吉村さんには広告料を出さずにいられなかったに違いない。「無料広告代」がいい。

 「谷根千」で鴎外の特集を組んだとき、『青年』に出てくる色川国士というどこかの議員さんの家はどこかという疑問に答えてくれた色部義明という人を訪ねたことがここに書かれている。色部?どこかで聞いたことがあるなと思って読んでいたら。協和銀行の頭取だった人だと思い出す。実際森さん達は大手町の協和銀行本店の役員室を訪ねている。
 どうしてこの会長のことを知っているかといえば、うちの会社がこの本店の売店に本屋さんを出していたことがあって、確か頭取が書いた本を売らせてもらったのを、当時の店長から聞いていたからである。それが記憶にあったのだ。妙なところでつながっていることに驚いた次第だ。

 最後に谷中の五重塔のことを書く。谷中には五重塔があった。その塔は1793年に建てられ、江戸の四大塔の一つと言われた。江戸の大火、彰義隊の戦争、関東大震災、戦災にも耐えて谷中墓地に建っていたのである。ところが昭和32年7月6日未明不倫の清算のため、放火心中のため全焼してしまった。その心中者は未だに悪く言われているという。

 「高い薪をつかいやがって」

 「何も心中するなら枝ぶりのいい木も鉄道も近くにあったのに」

 「でも不謹慎ないい方だが、塔が五色の炎を飛ばし、身もだえして昇天するさまはそれはそれは美しかった」

 以来ここには塔の跡はあるが、未だ塔は再建されていない。私は何で塔が再建されないんだろうと思っていた。よく昔あった建物が再建される例をよく聞くので、ちょっと不思議であった。でもこの本を読んで、五重塔再建運動はあったことを知った。
 しかし再建には何十億ものお金がかかる。そのためにはきちんとした体制を作っておかなければ、再建など覚束ない。それにたとえ塔の再建がなったとしてもそのときに再開発や地上げ、あるいは跡継ぎがいないという理由で、この町に住んできた人たちがいなくなったら、住民のシンボルであった塔の再建の意味がない。それよりもこの町に普通の人々のコミュニティーを残すことに時間を使いたいと森さんたちは思ったらしい。
 なるほどそういうことだったんだと納得した。


評価
★★★


書誌
書名:「谷根千」の冒険
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480037237
出版社:筑摩書房 (2002/05/08 出版)ちくま文庫
版型:287p / 15cm / A6判
販売価:756円(税込)

2009年11月20日

夏目漱石著『こころ』

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 実はこうして漱石を読んできたのはこの『こころ』を読みたくて、他の作品を読んできた。私はこの物語が大好きで、もう何度読んだろうか?そのたびに泣きたくなるのも毎度のことだった。
 ただ今回はどうだろうかと思った。これまで読んできた漱石の前期三部作、後期三部作の登場人物にかなりの不満を感じていたので、今までのように手放しで感動出来るかどうか不安であった。いずれもただ単に相手の気持ちと自分の気持ちとの間で苦悶するだけで、その先一向に光が見えないまま、終わってしまう話にいささか鼻についていたからだ。しかも彼等は生活に余裕があって、生きることに汗水流さないで済む分、普通生きることに必死の人なら、一銭でもお金を稼いでいるところを、ただ邪推や妄想の日々で終わるのである。どこか自分たちは特別なんだという臭いがプンプンしてしまうのである。それが鼻持ちならなかった。
 そう感じていたから、この『こころ』もそういう話の一つになってしまうのではないかと思ったのだ。それはとにかく好きな物語だったから、出来ればそうであって欲しくなかったのである。
 結論から言うと、今回何度目かわからないが、この物語を読んで、一番感動が少なかった。
 こうなると昔読んで感動した本を改めて読み直すというのは、時にその当時の感動に疑問を呈することもあるから、考えものだ。昔感動したからといって、読み直して同じ感動が味わえるかというと、そうでもないことが多いのかもしれない。

 さて、『こころ』である。解説によると、この『こころ』はいくつかの短編を書き継ぎ、それを合わせて総題として『こころ』とする予定で、漱石は最初にこの本のメインとなる「先生と遺書」を書いたのだそうだ。ところが片がつかなくなって、その前に「先生と私」を書き、そこで私と先生の出会いを明らかにし、次に「両親と私」で自分の父親と先生を比べることで、先生の姿をより明らかにしようとする。
 私は父が危篤と聞いて、大学卒業後すぐ国元へ帰るのだが、父親は私が大学を卒業したことを素直に喜ぶ。その姿とたかが大学を卒業したくらいでといった冷ややかな態度の先生と比較し、その冷めた態度の先生の方が、余計に偉く見えたりする。そんな私のところに先生から膨大な量の手紙が来る。それが「先生と遺書」となって結びつくことになる。そこで先生の過去が明らかにされ、自殺へと結びつく経緯を知ることとなる。だからこの「先生と遺書」が物語のメインとなるわけだ。
 まず「先生と私」で、先生との出会いを描く。「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮といよりも、その方が私に取って自然だからである」といって始まる。
 私は何度も先生のお宅に出入りし、先生が定職にも就かず、半ば隠遁生活している姿に疑問を感じつつ、先生ともあろう人がどうしてこんな生活をしているのか、聞きたくても聞けないまま、どこかに暗い影を感じつつ、先生の話しぶりから、先生を知ろうとする。 そんな中私は「人間を愛し得る人、愛さずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事が出来ない人、-これが先生であった」と先生の人物評をする。
 先生は私にすべてを語らなかったが、ぽつりぽつり含みのある言葉を私に投げかける。

 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」

 先生は自分たち夫婦を本来なら幸福な人間であるはずなのに、それをそうだとは言い切らなかった。ここに夫婦の間に何か暗い影を感じさせる。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです」

 「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」

 、と言ったりする。

 この新潮文庫に収録されている江藤淳さんの「漱石の文学」で、江藤さんがうまいことを言っている。こうした漱石の物語の運び方を「いわば告白しないことによって、告白し、虚構や象徴によってのみ自己の秘密を語るという、漱石独特の手法」だというのである。まさにこの物語はそうした手法を取りつつ、前作同様手紙ですべてを明らかにする方法をここでもとっているのである。

 そして「先生と遺書」ですべてが明らかになる。先生が最初から悪人なんていない。それが急に変わるのはお金のためだと言うのは、先生が両親を失って、自分を養育してくれたと恩を感じていた叔父が、先生の遺産を使い込んでしまったからだ。自分はだまされていたことを知ったから、そう言ったのであった。
 辛うじて残った遺産を処分して先生は東京に出て来る。そして母娘がいる家に下宿することとなる。最初は赤の他人である先生と母と娘はぎこちないところがあったが、その内打ち解けるようになって行き、先生もこの親子と暮らしているうちに、人間不信になっていた自分の気持ちが人間らしさを取り戻していくのを感じてくる。
 そこへ友人のKを連れてきて、一緒に住むことになった。Kは真宗の坊さんの子であったが、医者の家に養子に出された。養家ではKを医者にするために、東京に出した。ところがKはまったく医者になるつもりがなく、養家をだましながら大学で違う勉強をしつづけていた。結局Kは養家をだまし続けることが出来ず、真実を明らかにしたことで、養家の怒りを買い、仕送りが断たれたのであった。先生はKの後見人を自認していたため、Kを自分が下宿していた家に一緒に住むことにしたのである。先生は自分がこの親子の御陰で荒んでいた自分の気持を和らげてくれたことから、それをKにも望んだのである。
 ところが先生はKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかくなっていく。特に御嬢さんと仲良くなって、一緒にいるところを見ると、嫉妬した。
 ある時Kから御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた。その時先生は「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです」とこの遺書で告白するのであった。先生はなんとかしなければならないと焦り、Kが学問で精進していることをよく知っている先生はKに向かって「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言って女にうつつを抜かすKを非難する。
 その一方で、先生は自分の気持ちをKよりも早くこの親子に告白をしなければならないと思い、Kの気持を知っていながら、Kを出し抜いてこの母親に娘を嫁にくれと伝えるのであった。先生はKに勝った。しかしKをだまし、出し抜いたことに後悔する。

 「私はその刹那に、彼の前に手を突いて、謝りたくなったのです」

 そして先生と御嬢さんとの結婚話を聞いたあと、Kは自殺した。先生は取り返しのつかないことになったことを自覚する。

 「要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした」

 「おれは策略で勝っても人間として負けたのだ」

 「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」

 Kの葬式のあと御嬢さんは先生の妻となったが、先生後ろにはいつもKの姿があった。自分が軽蔑していた叔父と自分がKにしたことが同じであることに苦しみ続けた。毎月命日にはKの墓参りを欠かさなかったが、その内先生は“自己処罰”を思うようになる。ただ自分が死んだら妻はどうなると考えると、なかなか行動には移せなかった。だから先生は「私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです」というのである。
 あるいはKとのいきさつを話せば、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないと思う一方、自分の罪で妻の心を汚してしまうことに忍びなかったのであった。

 「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変苦痛だったのだと解釈してください」

 そんな時明治天皇が崩御した。先生は「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」と書く。先生は自分が生きた明治が天皇崩御で終わったことで、その間自分が人間形成をし、叔父を軽蔑し、そして自分も叔父と同じであったと自覚するに至った時代にけじめがついたと思ったのである。あるいは乃木大将の殉死が後押ししたのかもしれない。先生はその後妻を残し、自殺するのである。“自己処罰”のために。

 ところで夏目漱石は江戸幕末の慶応3年に生まれ、大正5年に死亡した。漱石の50年近い生涯はまさしく明治という時代そのものであった。漱石は明治精神をそのまま生きてきた。だから明治天皇の崩御はかなりの影響を残したはずだ。それをこの先生に託したと言っていいのかなと思ったりする。


 今回同じ『こころ』でも新潮文庫版と集英社文庫版の写真を掲載した。読んだ方は新潮文庫であったが、集英社文庫は解説を読んで、それを参考にさせてもらった。


評価
★★★


書誌
書名:こころ (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010137
出版社:新潮社 (2004/03/15 出版)新潮文庫
版型:378p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込)


書誌
書名:こころ
著者:夏目 漱石
ISBN:9784087520095
出版社:集英社 (1991/02/25 出版)集英社文庫
版型:340p / 15cm / A6判
販売価:320円(税込)

2009年11月18日

夏目漱石著『行人』

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 続いて漱石を読む。今回も「高等遊民」の長野一郎が自分の妻の直を信じられず、直の気持が弟の二郎に向いているんじゃないかと疑うところから、この物語は始まる。そのため二郎に自分の妻と一晩泊まって、妻の気持ちを確かめてくれという、とんでもないことを頼む。頼まれる二郎もどうかと思うのだけれど、まずは一郎の猜疑心にはいささか呆れる。
 とにかく二郎は気難しい兄の言うことには逆らえないので、結果として一晩直と夜を一緒に過ごすことになり、その夜のことを兄の一郎に報告する。この時になって二郎は自分が兄から疑われていることと、自分がいくら兄の頼みごととはいえ、嫂の気持ちを確かめるなど馬鹿なことをしたことに後悔するのだが、私からすれば、「あんたもどうかしているよ」と言いたくもなる。
 それにしても漱石が人物設定する「高等遊民」という輩は、まったくどうかしているとしか言いようがない。行動することより、頭の中であれこれ考え過ぎることから、つまらん邪推が生まれ、本来なら考えなくてもいいことが自分の頭の中で広がっていき、今度はそれで身動きがとれなくなるのだから、どうしようもない。
 確かに人はあらゆることで考え過ぎることがある。ただどうでもいいことを深く思い至るところはあるにしても、これほどじゃないだろう。誰にだって“不信”はある。そのためにさまざまなことに猜疑心を抱き、さらに気持が荒んでいく。しかし一郎の直に対する疑念は異常であるとしか思えない。自分以外本当のところはわからないのが当たり前なのだが、それをわかりたいと思うところに、一郎の破綻があるのだ。
 一郎が何故妻の直の気持を疑うようになっていったのか、その原因はこの物語ではつまびらかにされていないが、ただ直の日常の態度からそう察するのだろう。でもその直がそうした態度に出ているのは、結局一郎がそうさせたところがある。一郎と一緒に暮らしているうちに身につけた処世である。それを二郎は次のように言う。

 あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々しいものでもあった。
 或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕跡さえ認められない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代わりに微笑した。泣き伏す代わりに寡黙に端然と座った。恰もその座っている席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、殆ど彼女の自然に近い或物であった。

 二郎は直がそうなったのも一郎のせいだと見抜いているのに、直にもう少し兄に対してやさしくなれという。でも直は「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜の所為だって」と言うだけなのである。
 
 こうして一郎の懐疑心が、家族からの孤立を生み、それとともに一郎の神経の病的変調ともいえる状態が生まれる。家族もそれを心配し、気晴らしに旅でも出たらどうかということで、一郎の友人であるHと一緒に旅に出させる。
 物語はここからHによる一郎の精神状態の記述となる。私から言わせればわざわざ一郎の精神状態をここで明らかにする必要性を感じないのだけれど(多分そうだろうなと思えるから)、まぁ、Hの言う一郎姿を書くと次のようになる。

 兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥っています。兄さんは甲でも乙でも構わないという鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方かでなくては承知出来ないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合なりが、ぴたりと兄さんの思う坪に嵌らなければ肯がわないのです。兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこう思った針金の様に際どい線の上を渡って生活の歩を進めて行きます。その代わり相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで来て呉れなければ我慢しないのです。然しこれが兄さんの我儘から来ると思うのは間違いです。

 けれども、是非、善悪、美醜の区別に於いて、自分の今日まで養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。寧ろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんは能く呑み込めているのです。

 そうなのだ。一郎の今までしてきた知的生活、すなわち学問的の追求姿勢をそのまま実生活に移せば、唯単に猜疑心しか生まないのだ。このような現実乖離した生活感では、そうした姿勢がそれほど意味をなさないばかりか、時には邪魔にさえなることも一郎はわかってはいる。その証拠に「平生読み破った書物上の知識を残らず点検した揚句、ああああ画に描いた餅はやはり腹の足しにならなかったと嘆息したと云います」とHは書くのである。
 一郎はわかってはいるのだ。だけどそれが出来ずに苦しんでいる。まるで智恵だけが独立したかのように、一人歩きしている自分をわかっているのである。
 それでも自分がこれまでやってきたことは、絶対だと思うところには救いはない。だからHが一郎が宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうかと思うけれど、一郎はそれを否定する。一郎は自らやってきた生活と、実生活の乖離に苦しんでいるだけのことで、決して宗教家になるための修行をしている訳じゃないからだ。一郎はあくまでも実生活でも自らの幸福を求めてやまない人間でもあるのだ。
 結局この物語も行き着くところまで行き着いて、物語が終わる訳じゃなく、“寸止め小説”として、こうしたジレンマに苛まれたまま終わる。それ以降どうなっていくのか、読む側に考えさせるということなのかもしれないが、結局このまま悩み続け、これ以上の解決策は見出せないのではないかという予感だけが残る。後は一郎が狂ってしまうかであろう。
 漱石が描く精神の高貴さを追求する人が、実生活でのギャップに悩み続ける姿は、それだけを見れば尊い感じがしてしまう。けれど、どっぷり俗世間のしがらみに縛られている今の自分がこの物語を読むと、そういう知的生活、学問的探求と同じような姿勢では生きていくのは難しいだろうと思うのだ。むしろちっとも尊いと思えなかった。頭でっかちの戯れ言聞いている感じでもあった。


評価
★★★


書誌
書名:行人 (〔平成5年〕改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010120
出版社:新潮社 (1996/10 出版)新潮文庫
版型:417p / 16cm / 文庫判
販売価:539円(税込)

2009年11月13日

夏目漱石著『彼岸過迄』

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 また漱石に戻る。この『彼岸過迄』というタイトルは、漱石が序文でことわっているように、彼岸過ぎまでに書き上げる予定だから、そういうタイトルを付けただけだという。だから物語の内容とは何ら関係ない。最初、田川敬太郎の就職活動を須永の叔父に依頼するところから始まるので、この物語は敬太郎の話かと思われるが、実は彼の友人である須永と従妹の千代子の物語である。敬太郎はあくまでも須永の心持ちを観察し、聞いた話を語るだけの役割である。解説によるとこの手法は『猫』と同じ手法で、それが成功したものだから、今回もその手法を使っているのだという。猫が主人を観察することでその物語は成り立ったが、今回は敬太郎に猫の役目をさせ、須永を観察することで、須永の物語となる。

 この本も高校時代読んでいる。ただ当時はなんて言うのかな、世俗とは関係のない精神の尊さというか、そんなものに感動したのだけれど、今回は少々鼻持ちならないところを感じてしまう。
 当時私は普通の高校生だから、親抱えで、生活することに何ら心配のない時であった。だから生きることが今みたいにお金と直接結びつかずにいた。そのため人間の精神のあり方、あるいは葛藤だけが、ストレートに感動を呼んだのだろうと思える。しかし今は違う。敬太郎にしても、須永にしても、叔父の松本にしても、世間離れした生き方出来る人間の戯れ事のように思えてしまったのである。
 前期三部作にも「高等遊民」という言葉が出て来る。これは漱石の造語で、意味は大学を出ても職に就こうとはせず、職業のために心を汚し、あくせくしない、余裕ある時間を持つ人に対していう言葉だ。漱石はそうした恵まれた環境に育ち、何の心配もなく高等教育を受け、卒業しても、慌てて仕事を探さなくてもすむ人間の恋愛関係だけを取り上げる。だから気持だけであって、そこには生活するために“生きる”という姿が欠けている人達ばかりの話に感じてしまう。幸い『門』だけは生活の臭いがする分、救われるが、後は、余裕のある人間の物語にしか感じられないのである。
 やたら高慢で、うぬぼれの強さが至るところで見られる。自分は高等教育を受けてきて、人とは違うんだという視線で相手を見ているところがいたるところにある。そしてそうした教育を受けることだけがそれまでの人生だったから、生活する能力はないのだと平気で言えるのである。だからそれまであれこれ考えていたのに、話が現実的になると、尻込みしてしまうのだ。

 須永の母親は千代子を子供の頃から、須永の嫁に欲しいと言っていた。それは須永が自分の息子でなかったからだ。自分の生んだ息子じゃないからこそ、血縁関係を考えて、千代子を嫁に迎えたかったのであった。須永は母親のそうした意志のもとで、千代子と過ごしてきた。子供の頃からの幼なじみだったからこそ、自分が千代子を愛しているのかどうか判断できなかったし、自分が受けてきた高等教育や甘ちゃんで育ってきた自分を省みて次のように思う。

 僕は常に考えている。「純粋な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕は屹度その光の為に射竦められるに極まっている。それと同程度或いはより以上のの輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。

 千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年の行かない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指す事の出来る権力か財力をつかまなくっては男子ではないと考えている。単純な彼女は、たとい僕の所へ嫁に来ても、矢張そう云う働き振を僕から要求し、又要求さえすれば僕に出来るものとのみ思い詰めている。

 そんな煮え切らない須永に対して、千代子の縁談話が出てくると、今度は相手に嫉妬するのである。けれどその相手と競争して千代子を奪い取ろうと考えない。

 僕は断言する。若しその恋と同じ度合の激烈な競争を敢えてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄ててしまう積でいる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれ程切ない競争をしなければ吾有に出来にくい程、何方へ動いても好い女なら、それ程切ない競争に価しない女だとしか認められないのである。

 競争して勝った側の男につく女なら、そんな尻の軽い女なら、価値のある女には思えないと考えるのである。これって、どうよ、と言いたくなる。こういう自分勝手な考え方しかできないのが“高等遊民”なら、こいつら馬鹿かと言いたくなってくる。逆を言えば、これほど自分の都合よく物事を考えられるのはある意味うらやましい。さすが“高等遊民”である。ホンと頭でっかちとはこのことである。人間が生きるということは、もっとドロドロしているはずだと思うのだけれどね。
 しかしまったくの馬鹿じゃないようだ。須永は自分のこういう生き方が出来たのも、余裕がそうしてくれたことを、尊敬する叔父である松本の姿を見て思うのである。

 叔父は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥している。それを外に出さないのは、財産の御陰、年齢の御陰、学問と見識と修養の御陰である。

 あるいは今まで生きてきた姿がどこかおかしかったかも知れないと、小間使の作を見て思うのだった。ただその見方も、傲慢そのものなのだが、おかしいと思うだけでも多少救われるかもしれない。

 固より好い器量の女でも何でもなかった。けれど僕の前に出て畏こまる事より外に何も知っていない彼女の姿が、僕には如何に慎ましやかに如何に控目に、如何に女として憐れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分では既に生意気過ぎると思い定めた様子で、大人しく坐っていたのである。

 自分の腹は何故こう執濃い油絵の様に複雑なのだろうと呆れたからである。白状すると僕は高等教育受けた証拠として、今日まで自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところが何時かその働きに疲れていた。何の因果でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと情なかった。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。

 これが明治の知的階級の一般的な考えであったのだろうか。もっと自分の気持ちに素直になれば生きやすいんじゃないかと思うのだが・・・。知識がそれを邪魔するというなら、そんな知識など捨て去ればいいじゃんと思うのだけれど、そうしたらそれまで生きてきた証がなくなっちゃうから、そうもいかないのだろうか?
 それともそもそもそんな考え方さえ生まれないのかもしれない。高等教育は人間らしさや素直さをどこか否定してしまうところがあるのかもしれない。彼等の行動は頭の中で考えた行動しか出来ないところがあるし、そうであることが当たり前のような危うさがある。人間なんてそう簡単に割り切れるもんじゃないと思うのだけれど・・・。だから悶々とするでしょうが。まして人の気持ちなんて、どうなるかわかるものでもないはずだ。どうも私は生活感抜きで、物事を考えられない人間で、精神の高貴さだけを受け入れられない俗っぽいところがあるようだ。


評価
★★★


書誌
書名:彼岸過迄 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010113
出版社:新潮社 (1983/09 出版)新潮文庫
版型:328p / 16cm / 文庫判
販売価:459円(税込)

2009年11月05日

田山花袋著『東京震災記』

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 小沢信男さんの『東京骨灰紀行』の中にこの本の記述が引用されていた。それを読んだときこの本をあったはずだよなと思い、本棚を探し回ってみたら、確かにあった。この本も読んだという記憶はあるのだが、これもほとんど内容を覚えていない。ただこの本は持っていることは確信があった。
 というのも社会思想社が潰れたとき、当時お店にあった文庫を倒産に当たりすべて返品する時、面白そうな本を抜いて、買ったという記憶があるからだ。家の本棚には当期買った教養文庫が数冊ある。今ではきっと社会思想社の教養文庫といっても忘れられちゃっているんだろうなと思う。結構いい本を文庫本として出版していたんだけど、アドベンチャーゲームブックみたいなおかしな本を出すから潰れちゃったんじゃないかと思う。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』を出版した出版社だといえば多少思い出してくれる人もいるかもしれない。今では古本屋の均一本の中にこの現代教養文庫をよく見かける。

 さて、この本はあの田山花袋が関東大震災後自ら歩き、又は人から聞いたことをそのまま記したものであり、元は大正13年博文館から発行された『東京震災記』を全文収録したものである。
 とにかく、この地震はその大きさももちろんだけれど、やっぱり火災の恐ろしさをひしひしと感じる。ネットでもその惨劇状況を見ることが出来るので、見てもらいたい。

http://research.kahaku.go.jp/
rikou/namazu/03kanto/03kanto.html

 それを突切ってそのまま九段の坂の上へと行った。私はとにかくそこで地震以来焼けた区域の概念をつくることが出来た。私は一面焼野原で、目の及ぶ限り殆ど灰燼になっていないところのないのを見た。ニコライ堂の半ば焼け落ちているのも、駿河台から神保町にかけて処々に建物の残骸の聳えているのも、神田明神の焼けたあとの台地のガランとしているのも、何も彼もその火災のいかに烈しかったを語り尽くして余りあるのを見た。それはそこからでは、宮城の丘陵にかくれて、南の方面は見えていなかったけれども、京橋から銀座、東京駅あたりは見えなかったけれども、概して一面その惨害のほどを知ることが出来た。『全く廃墟だ!都会の廃墟だ!』私は思わずこう口に出して言った。

 焼野原になってしまっては、何処も彼処もすべて同じであった。賑かな通りも何もなかった。大きなデパアトメントストアも何もなかった。唯、ところところに、焼残った鉄筋の残骸が無気味に立っているだけで、その向こうは、東京湾の蒼波にまでずっとひろく続いているのであった。
 それはそう大して風の吹く日でもなかったけれど、それでも焼ぼこりがすさまじくあたりに漲って、ともすれば、眼も明いていられないような濛々とした光景となった。あまつさえ、街上には電信や電車の線が縦横に焼け落ちているので、注意しないと、すぐそれに引かかりそうになった。

 『被服廠にも行って見たかね?』
 『あそこはあそこで、えらいことだがね。とてもお話にも何もならないがね。大川の岸もひどかったんだよ。厩橋から両国橋の河岸は、死屍で満たされていたと言っても好いからね。何しろ、あの川の岸まで命カラガラ逃げて来ても、川があるのでどうすることも出来なかったんだからね。運良くそこらに繋いであった舟の上に逃げても、その舟までも焼かれてしまったんだからね。あれを見ると、実際、どうすることも出来なかったのがよくわかるよ』

 『まァ、あんなものわざわざ見て行かなくっても好いだろうに・・・・』ふとこういう女の声が私のすぐ向こうでしたので、ひょいと私は顔を上げて見た。私はびっくりした。そこには黒焦げになった人間の頭ろが、まるで炭団でも積み重ねたかのように際限なく重なり合っているではないか。『あ、これだな!これが被服廠だな!』突差の間にも私はこう思った。

 とにかく当時の記録として、実際に震災を経験し、その惨状を眼のあたりした人達の言葉は生々しい。そこには写真では感じられないものがあるように思える。どうしようもない状況下で、ただただ逃げる。しかしその後の惨状を見れば半ば諦めの境地というか、そうなるべくしてそうなっただけのことだと、思うしかないのは、ある意味むなしい。

 それは人間は大切だ。それは言うも待たないことである。しかし、自然というものの大きな眼から見れば、人間も亦一つの生きたものである。火が来れば焼け、水が来れば溺れるのは、それはきまり切ったことである。それに対して自然は全く無関心である。従って被服廠跡の悲惨な光景も、自然に取っては何でもないのである。唯、焼けるものがあったから焼けただけのことである。

 何もかも壊れ、火災に遭い焼け果てたところに、地震でびくともしないものもあった。そこから田山花袋は世界に冠たる都市、東京の復興を思い巡る。

 私は丸の内ビルデングから東京駅の方へと行った。そこには依然としてもとの東京駅であった。びくともしなかった。壁すら一つ落ちていないようだった。私は一種の勇ましさを感ぜずにはいられなかった。《矢張本当に力を入れたものか、どうかということは、こういう非常の時にわかるんだ。本ものはびくともしないんだ。》こう私は口に出して言った。私はじっとして立ってそれを眺めた。
 私はつづいてこのあたりが、大東京の中心になる時代のことを頭に浮べた。この大破壊の結果として、今度こそは本当にこのあたりが立派なものになって行くのであろう。一方は日本橋に、一方は京橋に、更に他の一方は銀座へと接続して行くようになるだろう。その時こそ、始めて、外国の都会と比べて決して恥ずかしくないような都会の中心が出来るだろう。それこそ全く純粋な東京-江戸趣味などの少しも雑っていない純粋な東京が蜃気楼のようになって此処にあらわれて来るだろう。そうすれば、この大破壊も決して徒為ではなかったと言えるだろう。

しかし・・・、

 震災当時は東京の復興ということがかなり力強く言説され、その具合では、まるで違った東京-ロンドン、パリ、ベルリンなどをも凌駕するに足りるような大きな立派な東京があらわれて来そうに思われたが、現に、新聞にそのおりおりに載せられた図面などで見ては、こういう風に出来上れば、一国の首部として東京も立派なものだなど思われたが、次第にそうした計画は小さくなって、今では復興ということより復旧ということに重きを置かれるようになったので、以前の東京とはそう大して違わない東京が出来上って来そうになって来た。これは残念なことだった。

 思わず、「だろうな」と思った。日本人は大きな花火を上げるのは得意なのだけれど、いざ実行に移す段階で、利害関係などがからみ合い、当初の計画が尻つぼみになるは、昔も今も変わらない。おまけに、出歯亀根性丸出しの国民性がむくむくと頭をもたげて、あの悲惨な被服廠が観光地になっちゃところは、情けないものだ。話のネタとして行ってみないといけないということになってしまうのだ。田山花袋は次のように書いている。

 あの時から二十日乃至一ヶ月経った頃には、被服廠から、厩橋、吾妻橋の川に添ったあたり、サッポロビイルの横、枕橋附近、すべてあのトタン板を上に蔽って、ブスブスと死屍を焼く煙があたりに漲って、何とも形容の出来ない悪臭がそこを通る人に鼻を蔽わせたが、四十九日経った頃には、それがすっかり骨となって、被服廠では大きな礼拝堂が出来、花を売る人達が集り、一種東京の新名所というような形になった。一度は行って見なければ話の種にならないと言って、後には誰も彼も出かけた。初めはお前達が焼跡になんか行ったらそれこそどんな眼に逢わされるか知れないと言われた女子供まで出かけた。お詣りに行くとか、お線香を上げに行くとか言うのは、表面の理由で、皆なそれを見物に出かけたのであった。

 この年、いつもなら釣れない時期でも、ボラがいつまでも釣れたという。

 『どうも、矢張、その故じゃないでしょうかね?今年は餌が海の中に沢山あるので、それでいつまでも残っているのではないでしょうかね?』

 逃げ遅れ、川で溺死した人々の遺体がボラの餌となり、その数があまりにも多いものだから、ボラも本来深いところにもぐるどころじゃなくなるというのは、結構恐ろしい。それを思うと誰しも大漁を素直に喜べなかったという。


評価
★★★


書誌
書名:東京震災記
著者:田山 花袋
ISBN:9784390113960
出版社:社会思想社 (1991/08/30 出版)現代教養文庫
版型:288p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年10月30日

小沢信男著『東京骨灰紀行』

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 一風変わった東京散歩である。歴史散歩、文学散歩とも言えそうだけど、巷にあるよくある歴史散歩でもないし、文学散歩でもない。東京に地下に埋まった骨、それも無数の骨が埋まった地帯を歩いているのだ。以前有名人のお墓を訪ね歩いた本があったような気がするけれど、ここでは無数の骨が埋まっている、あるいは埋まっていた場所を訪ねている。無数の骨という以上無名の人々たちが半ば打ち捨てられた場所と言っていい。
 そんな場所が東京にはいくつかある。たとえば両国、日本橋、千住、谷中などである。両国は明暦の大火、いわゆる振袖火事の犠牲になった人々を供養した回向院とあの関東大震災で多大な犠牲者を出した被服廠跡地、またその人たちと東京大空襲の被害にあった人たちを供養する東京都慰霊堂がある。
 日本橋は小伝馬町牢屋敷でばんばん首を斬られて処刑された場所。かの吉田松陰もここで処刑された。また吉原の遊郭も最初ここにあった。
 千住では明暦の大火のあと日本橋にあった吉原の遊郭が引っ越してきた。ここで春を売っていた遊女達が心身を病んで自殺や変死すると、総墓という大きな穴に投げ込まれた。その数二百余年でざっと二万五千体という。変死体は裸にされ菰に巻かれ投げ捨てられた。
 ここには江戸時代に火葬場もあり、とりわけ流行り病であるコレラ、赤痢、チフスで数多くの死亡者がここで焼かれた。さらに小塚原の処刑場もあり、回向院では「観臓記念碑」がある。すなわちかの杉田玄白・前野良沢、中川淳庵たちがここで処刑された青茶婆という五十歳ほどの女性の腑分けを見て、解体新書を訳そうと思った場所なのだ。とにかくこの地はものすごい数の人骨が埋まっており、あのつくばエクスプレスが地下を通る時の工事では、人骨の山だったというくらいなのだ。
 谷中ではまず上野の彰義隊がある。官軍に敗れた旧幕府側の犠牲者が打ち捨てられたままであった。また谷中といえば墓地ということになるだろうが、ここにはたくさんの歴史上の有名無名の人物達が葬られている。さらに「千人塚」というものがあって、大学病院で解剖された人々を慰霊碑がある。往年の古老が語っていることがすごい。曰く「あの辺を投げ込みっていって、大学病院などの研究材料で解剖した身元不明者や罪人を土葬で葬ったところです。土がやわらかく栄養もきいているのか、ふかふかで春はつくしんぼがいっぱい。いっちゃいけないといわれると怖いものみたさでいくと、白骨なんかころがっていて、むしろや樽棺で運んでこられた遺体をカラスがつついたりしてほどけたのなんかぞっとするほど怖かったです」と。
 ちょっと前までは遊女、罪人、行き倒れの身元不明者、賊軍の兵などの死体は、ゴミを捨てるが如く、打ち捨てられていたことを思い知る。

 この本では両国を最初と最後に取り上げているのだが、最後の被服廠跡地は私も行ったので興味があった。横網町公園の中に慰霊のためにある東京都慰霊堂も見てきた。ただ私はこの公園がその跡地なのかなと思うほど狭い気がして、公園の片隅にある東京都復興記念館の受付のおばちゃんに確認したくらいなのだ。
 この本によると被服廠跡は六万七千平方メートルだったそうで、横網町公園は二万平方メートル弱。大正12年の惨劇の三角地の、北側三分の一ほどを公園にしたとのこと。実際は横網町公園とその横にあるNTTドコモのビルと第一ホテル両国、日大一高墨田区立両国中学校があるところが被服廠跡地なんだそうだ。ちょっと前に行った両国を思い出しながら、なるほどと、思った。著者はこれらの高層ビル群は死屍累々を礎石としてそびえたっているのですねと言っているが、私も公園内の敷地のベンチでここで亡くなっていった人たちの数やその阿鼻叫喚とした状況を想像するに、ただただ呆然としていたのを思い出した。
 東京都慰霊堂には関東大震災の犠牲者五万八千体、戦災十万五千体の骨が弔われている。


評価
★★★


書誌
書名:東京骨灰紀行
著者:小沢 信男
ISBN:9784480857927
出版社:筑摩書房 (2009/09/10 出版)
版型:251p / 19cm / B6判
販売価:2,310円(税込)

2009年10月28日

篠田謙一著『日本人になった祖先たち』

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 この本を読んでみたいと思ったのは日経の9月6日の「SCIENCE」の記事を読んだからである。その記事は宮城県の前知事浅野史郎さんが成人T細胞白血病という聞き慣れない病気で入院したことから始まる。この病気母子間で感染する「成人T細胞白血病ウィルス(HTL-V1)」が原因らしい。この病気は九州南部、沖縄、そして東北地方の三陸海岸や北海道に多く発症者が出るという。つまり感染者の分布に地域的な偏りがあるというわけだ。
 HTL-V1はアフリカでは今も多くの感染者が見つかっていることから、アフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年前以上に日本に到達したことを示しているという。つまり縄文人はアフリカからの来たことを示している一例ということなのだろう。
 ところが日本には紀元前5世紀から紀元後3世紀に朝鮮半島から弥生人が渡来し、縄文人を日本の南北に追いやったために、この地方にHTL-V1の発症者が多く出るということらしい。
 おもしろいもので、このHTL-V1はアンデス山脈の先住民からも日本人と同じタイプのHTL-V1を持つ人が多くいるという。つまりアフリカから生まれた現生人類の子孫は南アメリカまで旅を続けたことになる。
 一方弥生人も渡来してきたときに、病原体を持ち込んでいる。それが結核である。結核菌に感染すると脊椎カリエスになることがある。(正岡子規が冒された病気だ)つまり骨に結核の証拠が残るわけだ。ところが縄文時代の人骨を調べてみると一つもその病気の痕跡が見つからず、逆に弥生時代の人骨を調べると、その痕跡が見つかるという。このことから結核菌は弥生人持ち込んだものだろうと推測されるらしい。それは「今の新型インフルエンザと同じように大きな被害を受けただろう」とその記事は結んでいるが、インフルエンザと結核を一緒にしていいのかなと素人ながら思うが、まあいい。私はアフリカで誕生した現生人類の子孫が一万年以上前に日本に到達したことに多大な興味を覚えたのだ。それでそんなことを書いた、素人の私でもわかりそうな本を探していたら、この本を見つけたわけだ。ただやっぱり素人だから、いくらやさしく解説されていても難しい。

 ところでものすごく驚いたことがある。私たちが世界史で学んだ頃の人類の進化とは、アフリカで生まれた人類の祖先であるアウストラロピテクスから、原人と呼ばれるピテカントプロスエレクトウスやシナントロプスペキネンシスと進化し、ネアンデルタール人に至り、そしてもっとも今の人類に近いクロマニヨン人となって進化してきたと教わってきた。(しかし今でもよくこんな学術名を覚えているなあ。それだけ受験勉強した証拠?)絵で描けばこんな感じだ。多分教科書にもこんな感じで載っていた気がする。


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 ところがこれは違うらしい。この本によると私たちが教わってきた人類の進化は「多地域進化説」と呼ばれるもので、それは100万年以上前にアフリカを旅立った原人が各地で独自の進化進めてそれぞれの地域の新人に移行したという説である。しかし最近の科学はその説を否定し、現生人類はすべて20万~10万年前にアフリカで生まれ、7万年~6万年ほど前にアフリカを出て全世界広がったというのである。従ってこの説に従えば、北京原人やジャワ原人、あるいはネアンデルタール人といった各地の先行人類はすべて絶滅したことになる。
 200万年前以降にアフリカで生まれた人類はアフリカを旅立ち、旧大陸の各地に先行人類が分布したのだが、これらの先行人類はすべて絶滅し、再びアフリカで生まれた私たちの直接の祖先が世界を席巻したことになるのだ。要するにヒトが各地で段階的に進化して、今に至っているのではなく、アフリカで誕生した新人が世界に広がっただけのことらしい。これを「新人ホモサピエンスのアフリカ起源説」といいい、今ではこれは常識となっている。
 アフリカってすごい。高等類人猿からヒトへの第一歩を踏み出したのもアフリカなら、私たちの直接の祖先が生まれたのもアフリカなのだ。でも、何でアフリカなんだ。これに関しては未だ説明が出来ないらしい。

 これにを知ったとき、私たちが詰め込まされてきた知識って何だったんだ!と思ちゃったね。この説が常識となるのには、DNAを解析する分子生物学が1970代から爆発的に発展したことからわかったことらしい。推定される新人の移動経路がこの本に載っているけれど、これを見るとその旅路はものすごいことだなと思う。ものすごい時間と距離を改めて感じるのである。今みたいに飛行機で一気に飛べる訳じゃないんだよ。一歩一歩、歩いて世界を席巻したんだからすごい。こうして移動する訳って何だろうと思うのだが、それに関してはこの本には何も記述がない。だからこれは勝手な素人の想像だけれど、生きるために狩りをするうちに、餌を見つけるため移動していった結果、ここまで来ちゃったということなのかなと思う。

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 著者は「私たちは学校で新大陸を発見したのはコロンブスだと教わります。しかし、それはヨーロッパ人から見た発見であって、彼らは新しい大陸を発見した最初の人類だったわけではありません。実際には、人類の最初の旅がすでに終わっていたことを確認しただけだったのです」と書いているが、まさしくその通りだなと思う。ヨーロッパ中心の歴史書の記述と人類学が教えるものと大きく違うことを教えてくれる。
 さらに彼らの進出はポリネシアの島々まで行って完結するけれど、その先には南米大陸がある。中にはそこから南米に渡った新人がいたかもしれない。そうなると北から北米へ渡り、南米に至った同じ自分たちの子孫と出会い、再会した可能性がある。ここでも著者は「ミトコンドリアDNAの拡散の歴史から見れば、非常に劇的なものだった」と言っているが、もしそれが本当にあったとしたら、すごいことだ感じいっちゃう。

 それにしてもこの分子生物学ていうのはすごい。こんなことがわかってくるのだから。
 私たちはその歴史の変遷(あるいは文化の伝搬など)を知るには、残された遺跡や考古学的資料など、ぽつんぽつんと発見される事実を、その変化を目に見える範囲内で、同じものや似たものをつなぎ合わせて、たぶんこんな感じでつながっていったんじゃないかと想像することで、歴史を語ってきたような気がする。特に文書として記録がない時代はそうであろう。
 ところが科学は動かしがたい事実をそこに突きつける。それまであった歴史の常識さえ覆してしまうのだ。もしかしたら科学というのは、歴史を本当の意味で書けるんじゃないかと思ってしまう。もう歴史学は文系のものではなく、理系の範疇に組み入れられるものに変わってしまうのではないかと思ったりする。

 ではこのアフリカで誕生した新人がどのように世界に広がっていったのか、それを裏づける証拠となるものは何なのかというと、ミトコンドリアDNAからわかるという。たとえば私を作っている遺伝子は両親の卵と精子の結合から生まれている。そして両親はさらにその親の卵と精子の結合から生まれている。ということは私を作っている遺伝子はそれまでバラバラに集団の中にあった遺伝子から偶然組み合わされて出来たことになる。つまり数百年前には今の私を作っている遺伝子は影も形もなかったことになる。そしてその逆も言えるわけだ。この私において結実した遺伝子の組み合わせは、たとえ子孫を残しても世代を経るごとに散逸し、数世代すればまた元のようにバラバラとなる。これだと遺伝子からその祖先を探ることが不可能となる。
 ところが親の持つDNAがそのまま子孫に伝わるものがある。それがミトコンドリアDNAである。ミトコンドリアDNAは母系に伝わる。つまり常に娘が生まれて子孫を残していけば、母系の系列は絶えないのから、子孫のミトコンドリアDNAは先住者のものと同じとなる。一方父系にはY染色体のDNAが継承される。(この本は基本的にミトコンドリアDNAで人類の歴史を語っている)
 一時、天皇の皇位継承権で愛子様が女帝になるという話があり、それを認めようかどうか問題になった。そのとき反対意見としてそれまで男子に皇位継承権を与えてきたから、Y染色体が代々継承されてきた。しかしここで愛子様が天皇になるとそのY染色体が断絶するということがあったが、それがこれなんですね。著者もDNAを血統とか家系と結びつけて捉える考え方があり、場合によっては特定の家系を特殊なものであると考える際の生物学的なバックボーンと利用されることもあると、暗に当時騒がしていた皇位継承権の問題を批判しているような気がした。
 そもそもY染色体の「最大の機能は言うまでもなく男性を作る作用なのですが、その部分は非常に小さく1000塩基対程度しかありません。Y染色体の大部分は意味のないDNA配列で埋められていて、実情はそれほど威張れるものでもないようなのです。ことさら男子の系統を大切にする風潮は、DNAから見れば何か滑稽な感じすらします」と著者は言っている。

 さてそのミトコンドリアDNAである。詳しいことはよく分からなかったけれど、ミトコンドリアDNAは一つの細胞の中に多数のコピーを持っているので、核のDNAより人骨などに壊れないで残っている可能性が大きい。その上PCR法でそれを簡単に増幅できるらしく、解析にはもってこいなんだそうだ。しかもその構造の中で、「D-ループ」という狭い領域に異変が集中しているので、そこを解析すればいいという利点があるらしい。
 その解析の結果、ミトコンドリアDNAの多様性は大きく四つのグループに分けられる。それぞれA~Dの記号をつけられ、これを専門用語で「ハプログループ」と呼ぶ。このハプログループがさらに細かく分岐していく過程を見ていくと、アフリカで生まれた新人がどのように移動していったかが、わかるというので、結果さっきあげた分布図となっていく。(かなり端折っちゃたけれど、正直あまりにも細かくてよく分からなかった)
 日本人の祖先もこの分布図に示される人類の移動経路で考えなければならない。ただ書名の割には日本人の祖先はどこから来たのか、結論を明確にしていない。
 日本人の成立に関しては、形質人類学の立場から、旧石器時代につながる東南アジア系の縄文人が居住していた日本列島に東北アジア系の弥生人が流入して徐々に混血して現在に至っているという二重構造論が唱えられていることを、DNAの解析からある程度これを認めて終わっている。著者は「現代日本人が在来系の縄文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという、混血説(二重構造論)を強く支持しています」と書いている。ここでは結論しているんじゃない。あくまでも「支持している」と書いているだけだ。それを断定できるほど、ことは簡単じゃないらしい。

 ところで、著者は「日本人の祖先集団の成立に際しては、大陸の広い地域の人々が関与したために、私たちの持つDNAは、東アジアの広い地域の人々に共有されています」と書いている。これは日本という国家だけを考えるのではなく、アジアの広い地域の人々と共有するDNAがあるのだから、そのDNAを共有する民族同士もっと仲良くなっていい。隣接した国同士ほど、いがみ合いを持っているというのも普遍的な現象としてあるけれど、それを超越する共有のDNAがあるのだから、このことを認識すれば、お互いを信じることが出来るんじゃないかと言っている。それはアジアだけでなく世界でも通用するのではないかとも言っている。
 でも、こうした結論はちょっと陳腐過ぎるような気がする。たとえ生物学的共有物をお互いの国の人々が持っていても、だから仲良くなりましょうとはいかないのが現実で、こんなことを言っても「だから?」と言われそうな気がする。生物学的なことと実際の人間が持つ考え、宗教思想、あるいは政治思想とはまったく別問題だからだ。それに人が自分を認識するのは、他人と比べていかに自分は優れているか(劣っているか)、違うのかで、そう思うわけで、異なる他者がどうしても必要なところがある。悲しいけれどそれが事実だ。そういう比較は、仲良くなりましょうという考えから、明らかなに相反する。だからこの本の結論としては、せっかく面白く、ワクワクさせてくれたのにちょっともったいないなと思ったわけだ。
 この本の最後には、科学や技術の発達は、これまでにないヒトの移動を可能にする。経済のグローバル化はボーダレス社会を築き始めている。そのことはそれまで人類が長いことかけて蓄積してきた地域に固有のDNAの組織が解消する可能性がある示唆している。だろうな、と思った。このことはそれまで固有であったものがそうでなくなることを示している。さらに国の、社会の、民族の、あるいは特定の家系の固有性を示すバックボーンとして成り立たなくさせることにもなる。当然遺伝子の分野でも大きな変化を起こすのだろう。でも一方でなんとかしてその固有性にこだわるということも出てきそうだ。だからDNAの共有だけでは世界平和は生まれないのではないかとも思う。

 この本を読み始めたのは、日本人はどこから来たのか。それを知りたくて読んだのだけれど、予想に反して人類の歴史を知ることになってしまった。専門的な分子生物学の記述は難しかったが、けれど面白かった。新しい事実を知って驚いたし、日本人の祖先がアフリカから歩いて、代々来たというだけで、壮大なロマンを感じた。


評価
★★★


書誌
書名:日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
著者:篠田 謙一
ISBN:9784140910788
出版社:日本放送出版協会 (2007/02/25 出版)NHKブックス
版型:219p / 19cm / B6判
販売価:966円(税込)

2009年10月23日

本多孝好著『真夜中の五分前』〈side‐A〉〈side‐B〉

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 続いて本多さんの本を読む。実はこの本単行本で以前読んでいる。この本を読んだのは、まだ岩本町に当社の本屋があったときであった。お店の手伝いをしていて、この本が結構売れていたので、どんなものなのか興味を持って読んだのだ。その時は今風の若者を描いた物語なんだなというくらいしか思わなかった。今回本多さんの書かれる本に引かれるようになって、改めて読み直してみた。そして変な表現だけど、ちょと淡々とした悲しみに酔いしれてしまった。妙に自分の気持ちに素直になれない僕がいとおしくなってしまった。倦怠感の中で失った悲しみを引きずるといった流れが、物語自体どうってこともないのに、“こういうのって、あるよなぁ”と思わせる。

 主人公の僕は大学時代、秋月水穂と付き合っていた。水穂は僕の部屋にある目覚まし時計を五分遅らせた。

 「普通、目覚まし時計って、進ませるんじゃないか?起きて、時間を見たときにちょっと慌てられるように」

 「時計は全部、五分遅らせることにしているの」

 「だって、人より、ちょっと得した気にならない?あら、あなたもう十時なの?私はまだ九時五十五分よって」

 「いい考えだ」「三十分遅らせよう。それなら時間通りに着く」

 「三十分は駄目よ」「三十分遅らせたら、世界に追いつけなくなるわよ。五分くらいがちょうどいいの」

 僕は水穂を交通事故で失った。水穂が亡くなったことはショックであったが、何故かそれがそのとき、それが悲しと感じられなかったし、もちろん泣けなかった。
 それでも僕は社会人となる。ある時近所の公営プールでかすみと知りあう。僕はそれまで付き合っていた原祥子と別れたばかりであった。原祥子は僕に「そう。狂ってるのよ。あなたの部屋にある目覚まし時計と同じ。ほんの五分くらいだけどね。ちょっとだけ、でもきっちりと狂っている。二人でいるときは気づかない。五分先にある本当の時間より心地いいくらい。でも私は、五分先の世界の住人で、五分遅れたあなたの世界では暮らせない」といって離れていった。
 かすみは僕に妹の結婚祝いのプレゼント見つくろってくれと頼んでくる。妹のあかりと双子であり、同じ遺伝子を持つものだから、お互い何を考え、どのように行動するか、すべてわかってしまう。それがしゃくなものだから、あかりには想像のつかないプレゼント僕に選ばせ、驚かそうとしたのであった。
 実はかすみはその妹の旦那となる男に恋をしていたのであった。その思いを断ち切るためにかすみは僕とつきあい始める。僕も普段クールにしているが、どこかで水穂のことを引きずっていた。その証拠に今でも部屋にある目覚まし時計は五分遅れたままだ。
 僕のいる会社は社内抗争みたいなものがあり、上司の小金井さんが取締役に就くという人事の噂が流れる。普段はバリバリのやり手の女上司である小金井さんが以後、ぼーっと過ごす姿を見かけるようになる。詳しく聞いてみると、十年間も自分を目の敵にしている同僚に恋しているというのであった。一方かすみは同じ遺伝子を持った妹の恋人に恋している三年間を過ごしてきた。僕のまわりに来る女性は、いったい何なんだと眩暈を通り越してげっぷが出そうだった。ここで〈side‐A〉がいったん終わる。

 〈side‐B〉では、僕は今までいた会社を去る。小金井さんも同じ会社を辞めていた。テレビでスペインで電車事故があったというニュースが流れる。スペインにはかすみと妹のあかりがちょうど旅をしていた。まさかと思ったが、かすみは事故に巻き込まれ死に、あかりは旦那の元へ帰っていた。しかしあかりの旦那である尾崎さんは帰ってきたのはあかりではなく、かすみではないかと疑い始める。それを僕のところへ相談を持ちかけられたとき、かすみが生きている。そして好きだった妹の夫の元で暮らしている、と思った。顔やスタイルの見分けの付かないほど似ていて、同じ遺伝子を持っているためか、考え方や感じ方も同じ。そして二人は仲のいい姉妹だったから、何でもお互いのこと話し合ってきた。だからかすみがあかねとすり替わっても、出来ない話ではない。
 あかねなのか。それともかすみなのか。尾崎さんは疑心暗鬼にとらわれ、あかねの元を去って行く。あかねも自分が事故のためか自分があかねなのか、それともかすみなのかわからない状態になっていた。

 ある時元上司の小金井さんと偶然会う。小金井さんは僕がプロデュースした店に行ったことを伝え、もし自分がまだ上司なら合格点を出しただろうけど、個人的には二度と行きたくない店だと言い、「君、少し休みなさい」とも言われる。僕はある意味“壁”にぶつかっていた。だから小金井さんの提案を受け入れ、三日間休みことにする。土日をはさんで五日間休むのだが、これといって何する訳でもない。ふと学生時代水穂と一緒に行った喫茶店へ行きたくなり、そこでマスターと水穂のことを話した。そして感じたのである。
 秋月水穂。それは確かにいたはずの人にもかかわらず、確かにそこで僕の前に座っていた人にかかわらず、ひどく現実感のない存在になっていた。今という地点から連続する時間を遡っても、その人には辿り着かないように思えた。

 水穂の法事に行けなかったことを思い出し、すぐ水穂の墓参りする。そして僕は初めて泣いた。水穂を失ったこと。かすみを失ったことで。二人を愛していたことを。初め二人をそれぞれ失った時は、確かにショックであったけれど、それは涙を流すほどの悲しみとはならなかった。しかし、この時初めて二人を失ったことに涙を流したのであった。二人を失った直後はそのことのショックが大きくて、茫然自失とでもいうのか、何をしていいのかわからない状態だった。
 その後立ち直るべく、忙しい中に自分を放り込んで、その喪失感から逃れて生きていくと、本当の自分を見失うことになるのかもしれない。人はちゃんと手続きを経て、泣くときは泣き、笑うときは笑うという作業をしないと、真っ当になれないのかもしれない。逆にその手続きを後に回せば、その分揺り返しがさらに大きくなり、かなりきつくなる。そんなことを感じると、ぐっと来てしまった。
 その後僕は遅れた五分間を水穂とかすみために使うことにするのである。

 僕は枕もとの目覚まし時計に目をやった。十一時五十五分。だったら世界はもう明日を迎えているのだろう。世界から取り残された五分が静かに僕を包んでいた。再び体を横たえ、僕は目を閉じた。完全に閉ざされた闇の中で、かすみのことを思い、水穂のことを思った。一日のたった二百八十八分の一くらい、そんな風に使っても許されるだろう。

 僕は今でも最後の五分間だけ、かすみのことを思う。水穂のことを思う。そのとき、そこにいた自分のことを思う。その時間は、僕の胸に静けさと穏やかさを運んでくれる。一日の二百八十八分の一だけ、僕はその静けさと穏やかさの中でじっと身をひそめ、自分の中から湧き上がってくるものにそっと身をゆだねる。僕はこれからも色いろなものを失っていくだろう。けれど、僕はそれらを一日の小さなかけらの中に集め続けるだろう。小さなかけらはやがて結晶となって、僕を形作ってくれるだろう。そんな気がしている。そして残りの二百八十七は、今の僕のために使い、今の僕が愛する人のために使っている。

 失ったことの悲しみを忘れたがために、それをわざと遅らせた五分を使って、それを思い出すという考え方がものすごくすてきに思えた。


評価
★★★


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐A〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322513
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:227p / 15cm / A6判
販売価:420円(税込)


書誌
書名:真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐B〉
著者:本多 孝好
ISBN:9784101322520
出版社:新潮社 (2007/07/01 出版)新潮文庫
版型:89p / 15cm / A6判
販売価:380円(税込

2009年10月20日

本多 孝好著『WILL』

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 続いて『MOMENT』から7年たって、最近出版されたこの本を読む。今回は神田の話ではなく、彼の幼なじみで実家の葬儀屋を継いだ森野の話である。彼女が請け負った葬儀から生まれたその後の話とでも言えばいいのだろうか。
 大体葬儀屋が葬式を請け負って、しめやかに終われば、それで葬儀屋の仕事はおしまいとなるだろう。後は葬式を行った遺族の問題であり、そこまで葬儀屋がケアするのも妙なものような気がするが、それを言ってしまったら、この物語は始まらない。そこまで首を突っ込むのは森野の性格からであり、そこからこの連作が始まる。

 死んじゃった人はもうそれ以上何も語れない。残された家族はその生前を忍び、いろいろなことを思い出し、死者の生前の姿を改めて作っていく。さらに死者が残していった遺品は、時にはとんでもない過去をあらわにしかねない部分がある。邪推が生まれる。
 人の死がそれまであった関係をすべてきれいさっぱりとなくすものであるなら(そんなことはたぶんないのだろうけど)この物語は生まれない。人間一人では生きていけないから、さまざまなものを残された人間に残していく。そこに物語が生まれる要素があるわけだが、それがいつもいい思い出ばかりじゃないところが厄介である。
 この本はそうした死者が残した厄介なものをテーマにして、連作として描かれる。一つは森野の友人佐伯杏奈の父親の葬儀の後送られてきた一枚の絵であり、死んだ男の愛人と称する女が自分を喪主として葬儀をやり直したい言ってきたり、杏奈の父親が請け負った葬儀の喪主が夫の生まれ変わりと言って、中学生がその老女のところに来ることを相談受けたりする。
 
 物語はミステリーを帯びていて面白いのだけれど、私は人の死って、それですべてが完全に終わるものではないんだなと改めて思わされた。出来れば自分の場合そうあって欲しいと個人的に思っている。だからもし自分の死に時間的余裕があるなら、身の回りをきれいさっぱりとして完全に消去しておきたいと常々思っているくらいなのだ。
 でもそうもいかないだろうなとも思う。なぜなら私という存在は私一人である訳じゃなくて、さまざまな人と係わっていることであるわけだから、ことそう簡単にいくわけがない。だったらせめて、それに近い形で自分の死というものを迎えたいとは思う。そしてその後も人に余計な迷惑や面倒をかけない方法を選びたい、と物語とは直接関係なけれど、そんなことを思ったのである。
 人は死者に対してその後もいろいろな形で装飾していき、いい意味でも悪い意味でも記憶に残していくものなのだ。そうすることで、時それは残された人が悲しみを乗り越える糧にもなるだろうし、その後の人生に何らかの意味を求めていく。死者はそれでおしまいだけれど、残された人は死者からまだ何かを望むのだ。そういうものなのだろう、きっと。自分だって今までそうだったのだから、これからもそうであるに違いない。
 この物語の中で森野の父親が“リビング・ウィル”という言葉を森野に説明する場面がある。このリビング・ウィルとはもともと自分の死に際して施される治療について、生前判断能力がある間に、その意思を文書化したもののことを言うらしいが、森野の父親は次のように言う。

 「このときのウィルってのは、意思のことなんだぞ。知ってたか?」

 「そのウィルが未来を表すってことは、だから、あれだ。未来という意思と一緒にあるってことだな」

 “ウィル”が死に際して意思であるなら、その後の未来においても、死者の意思は残された人々と一緒にあり続けることとなる。なるほどうまいことを言うものだ。結局それが人間なんだろう。人は亡くなった人に対して、その人がかけがえのない人であればあるほど、その存在に意味を持たせたいのだろう。ただその人はもう主役ではない。残された人が生きていく上でのサムシングとなるわけだ。決してサムワンではないだろう。

 ところでこの本は森野のが係わってきた葬儀の死者が残した意思が物語となっているのだが、一方で『MOMENT』で出てきた神田との関係も発展する。言ってみれば、幼なじみから恋人へ、そして一緒に暮らしたいと御互いの気持ちが、そうなっていく。
 ただ私は神田くんがちょっとかっこよすぎないかと思えた。『MOMENT』ではなげやりで、ちょっと世の中を小馬鹿にした感じだったのが、森野を求めるがあまり“いい人”になりすぎていないか、と感じた。出来れば『MOMENT』での神田くんでいて欲しかったな。妙にキザっぽくなっちゃているのが気にかかった。
 さて、『MOMENT』とこの『WILL』は息子から借りた本だ。やつはどうも本多孝好さんのファンみたいで、本多さんの本を全部読んでいる。また何か借りて読もうかなと思った。そうそうまず、ネットにあった「STORIES-もう一つの『MOMENT』」と、「青春と読書」の11月号に「エースナンバー」という本多さんの読み切り小説読んでから、近いうちに何か他に借りることにしようか。


評価
★★★


書誌
書名:WILL
著者:本多 孝好
ISBN:9784087713220
出版社:集英社 (2009/10/10 出版)
版型:322p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年10月18日

本多孝好著『MOMENT』

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 「釈迦は成仏したかったんだ。古代インドでは、生き物は死ぬと生まれ変わると信じられていた。輪廻転生だね。彼はその輪廻を断ち切りたかった。どうしてか?二度と生きたくなってななかったからさ。二度と、こんな辛いものを味わいたくなかったからさ。彼を支えたのは信念じゃない。恐怖だ。また生まれ変わる。また生きなければいけない。そこから生まれた恐怖だ。彼は痛切なまでに虚無になることを求めたんだ。そうだろう?」

 神田は幼なじみの葬儀屋森野が紹介してくれた病院で清掃夫として働いていた。たぶんこういう縁の下の働く人にはその職場、この場合病院で、さまざまな噂が耳に入ることだろう。まして病院である。言ってみればそれまでの人間の生きざまがあからさまに表れる場所である。
 そんな病院で死ぬ前に願い事を一つだけ叶える黒衣の男の話を聞いた。そして神田はひょんなことからその仕事を引き継ぐことになった。ただ必殺仕事人ではない。
 たぶん回復の見込みのない患者、死を待つしかない患者が究極に望むことは安らかな死であろう。しかし神田は大学生のアルバイトとしてここの病院の掃除夫として働いているだけである。患者に安らかな死を与えることは出来ない。それをやっていたのは神田が引き継ぐ前の必殺仕事人であった。神田に出来ることは、死を前にした患者が思い残したことをかなえてあげることであった。それが噂となり、「この病院には死を前にした患者の願い事を何でもかなえてくれる人がいるっていう噂です。それは掃除夫の人だって、そういう噂なんですけど」といって密かに広まっていった。

 ことの発端は、ある老女の願いを学費分二十三万九千円で請け負ったのだが、老女は死後神田の口座に百万円振り込んできた。つまり仕事四回分。だから神田には残り三回分仕事をしなければならないことになった。それがこの連作となっている。最後は請け負った仕事ではなく、神田の思い、気分で起こった話である。
 「ACT.1 FACE」は戦争中、裏切り者を殺せと支持した家族の動向を探る仕事であり、「ACT.2 WISH」は修学旅行で車に乗せてくれた大学生を捜す仕事であり、「ACT.3FIREFLY」では乳がんの再発で入院することになった女性のそれまでの人生を一所にたどる仕事であり、「ACT.4 MOMENT」は特別室にいる男を神田の気分で必殺仕事人から守ることであった。
 私は「ACT.3FIREFLY」が良かった。良かったというか、悲しいかったというべきなのかもしれない。乳がんを再発した女は留守番電話に自分の状態を報告する電話を入れていた。愛する男のところかもしれないと神田は推測した。しかし誰も彼女を見舞いに来る者がいなかった。
 神田はその女性がたどってきた人生の“場所”のドライブに連れて行ってくれと頼まれる。女は九州の田舎から東京に出てきた。喜びに満ちあふれて。けれど周りについていけず、野暮ったい大学生をやっていて、彼氏も出来ず、その後建設会社に入社する。上司と不倫関係になり、妊娠したが、堕ろして、会社を辞め、コンパニオンとして働く。

 「もっと派手に、パーッとね、生きてやろうと思ったの。生まれ変わったつもりで。それで、あの店に勤めた。化粧の仕方を勉強して、流行りの服と髪型を教わって、まあ、驚いたね。これが自分かって。男がわらわらと寄ってきてさ。今までの自分は何だったんだろうって思うくらい。生まれて初めて、モテたのよ、私」

 「指名なんかもばんばん取れちゃってさ。ナンバーワンにはなれなかったけど、結構いい線いってたのよ。お金を、会社に勤めていたときの給料が馬鹿馬鹿しくなるくらいいっぱい入ってきたし」

 「悪い人生だったとは思わない」
 
 「後悔がまったくないとは言わないけれど、それでも、まあまあ、よくやったと思うよ、私」

 その後彼女は両親に連れられ、実家の近くの病院に転院していったのだが、神田に彼女のマンションの鍵が預けられていた。神田はマンションに行き、部屋に入ると留守番電話にメッセージが入っているランプが点滅しているのに気がつく。一瞬躊躇したが神田はボタンを押した。

 「私です」

 「今日、検査の結果が出て、再入院ということになりました。また電話します」

 そう。彼女は自分の部屋にある電話に病院から近況を伝えていたのであった。いくつかメッセージが流れたあと、「もしもし、神田くん?」

 「わかったでしょ?私は誰も待ってなんかいなかった」

 「今日実家に戻ります。そう決めていたの。黙ってて悪かったけど、君に止められでもしたら、私、きっと泣いちゃうから。止めてくれる人が君しかいないなんて、情けなくて、きっと泣いちゃうから。君のまで止めてもらえなかったら、それはそれで泣いちゃいそうだし」

 「最後のお願い。もしも今年と同じような夏がきたら、そのときは私を思い出して。バイト代は出せないけど」

 「思い出して」

 「きっとよ」

 電話が切れたとき、神田は彼女の部屋を見渡す。「クローゼットに入り切らないような服も、大き過ぎる食器棚を埋める食器も、ひょっとしたら上田さんはそこに生まれる空っぽの空間を消すためだけに揃えたのかもしれない。一人で暮らすにはこの部屋広過ぎる」と思うのであった。
 彼女が働いていた店に自分の持ちものを取りに行った神田は、その店の男に言われたのであった。

 「向いてなかったんだよな、最初から」

 「だいぶ、キツそうだったもんな。早く仕事を辞めろって言ってたんだけどな」

 「よろしく伝えてくれ。早く元気になれって。元気になってこんなところには戻ってくるなって」

 一人の悲しい女性の生きざまが眼に浮かんだ。

 私は神田の考え方が結構気に入っている。なげやりでありながら、それでいてしっかりと根拠のある生き方が好きである。たとえば「エリートは貸しを作ることは気にしないけれど、借りを作ることは嫌う。資本主義というシステムを知り尽くしているからだ。借りには必ず利子がつくことがわかっている」という考え方は、まさにその通りだ。
 また病人を慰める言葉をかけるときでも「ただ力で押しつけるだけの、こういう根拠のない慰め」だとわかっていてもその言葉をかけざるを得ない状況があるのだということを自覚するあたりは、神田らしい。
 続いて、最新刊の続編を読もうと思う。


評価
★★★


書誌
書名:MOMENT
著者:本多 孝好
ISBN:9784087746044
出版社:集英社 (2002/08/30 出版)
版型:317p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年10月15日

松本健一著『司馬遼太郎を読む』

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 ちょっと漱石に疲れたので息抜きとして違う本を読む。
 書店の棚には司馬さんの解説本が数多くある。さすが“国民的作家”だけある。(これに匹敵するのが村上春樹さんであろうか)それこそ司馬さんの作品を一つでも読んだら、解説本を書きたくなるんじゃないかというくらいある。でも私にはこれらの解説本には胡散臭いところが感じられる。そもそも解説本まで読んで、司馬さんの作品を読みたいと思わないし、司馬さんの作品に限らず解説本というやつには、どこまで信用していいのか疑問にさえ思っている。
 しかし松本さんは違う。私が松本さんを知ったのは、「週刊『街道をゆく』」の解説でであった。その解説のわかりやすさは司馬さんの作品にかなり精通されているからこそ、出来るんだなと思い、結構楽しみにして毎週読んでいた。以来松本さんの司馬作品の解説に興味を持つようになった。

 さてこの本の最初にまえがきとして、松本さんの講演が収録されていて、面白いことが書かれている。
 
 日本の近・現代文学、とくに小説はといえば「私小説」、「わたくし小説」でして、極端にいえば「わたしを見てくれ」(look at me)という文学です。
 ところが、司馬さんは「私を見てくれ」という形で小説を書いていないのですね。じゃあ、どういう形で書いているのかというと、「私のことなんかよりも歴史を見てください、歴史の中にはこんなにすてきな漢達(おとこ)がいる、こんなに素晴らしい人間達がいる、こんなに光を放っている歴史上の人物がいるじゃないか」というのです。
 つまり「私を見てくれ」ではなく「彼を見てくれ」という小説であります。ですから、彼の物語り、つまり「his-story」は「history」、すなわち「歴史」の小説が多い。多いというよりも、それが司馬文学の本質である、ということができるだろうと思います。

 しかし司馬さんの作品は単なる無味乾燥の「歴史」じゃない。そこには漢達の血が通うかのように、確かにその時代に人が生きていた、という感じを読む側に持たせてくれる。つまり司馬さんは日本の「もう一つの物語」を書いたと松本さんは言うが、「私の見てくれ」をもっと具体的に言えば、「私の好きなあの人物、あの漢達の物語を聞いてくれ」なのだと松本さんは言う。そこには司馬さんの「私」がそれを熱く語らせているのであろう。司馬さんがそこにある人物たちにあこがれ、美学、いきざまに感動を受けているから、物語自体が最初は抑えが利いていても、次第に熱くなる。まさにその思いがその人物たちの一番クライマックスと呼応しているから、読んでいて感動もさらに大きくなるのである。

 司馬さんの「もう一つの物語」は、それまであった歴史上の人物の人気を変えた。たとえば30年前まででは、歴史上人気のあった人物は西郷隆盛であったのが、司馬さんの『竜馬がゆく』が書かれれば、西郷を抜いて、坂本竜馬が一番の人気となった。あるいは新撰組と言えば近藤勇であったのが、『燃えよ剣』が新撰組の副長であった土方歳三を人気に持ち上げた。さらに日露戦争では東郷平八郎から秋山好古、真之兄弟に光を与えた。一方乃木希典をそれまであった“軍神”からただの軍人として“無能”、あるいは“狂人”と位置つけた。光を与えたと言えば高田屋嘉兵衛や河井継之助など、数多くいる。
 個人的なことを言えば、私が日本史に興味を持ったのも司馬さんの作品を読んできたためと言っていいし、日本人である自分が自分の国の歴史をないがしろにしていたことを反省したのであった。今ではもう少し日本史を勉強すべきだったと後悔さえしている。
 それくらい司馬さんの作品から日本を、日本人を愛していることを感じられるのである。むしろ愛おしいと言っていいくらいだ。だから後半生はそういう思いから日本を憂う批評をしつづけてきた。警句を発し続けてきた。

 私はそれなりに司馬さんの作品や批評文を読んできたつもりだけれど、まだまだ読みたい本があると思った。小説にしたって、ここに紹介された作品で読んでみたい本がいくつもあった。これから先が楽しみである。
 またこの本の後半は『街道をゆく』の解説となっているが、そこには「司馬さんの『街道をゆく』の面白さは、かつてそこに生きていた人びとが、いまもそこに生きている、とでもいった風韻が伝わってくるところにある。学者だったら、かつてあった人といま生きている人とは同じではない、時代がちがう、などと真面目に(バカ正直に)いうことだろう。
 そういう学者を尻目に、司馬さんは読者を時空をこえて、連れさる」と松本さんは言っているが、これも全巻読んだものとして、まさにその通り!と諸手を挙げて賛成してしまう。また読み直したいほどだけど、全巻はきつい。でも興味のあるところ読み直してもいいかなぁと思ってしまう。
 そんなことを思っていたら、ふと先日神田の古本屋さんで、「司馬遼太郎全集」全巻がワンセット17万円で出ていたの思い出した。それを見たとき思わず足が止まってしまったが、17万はすごい。とてもじゃないが手を出せる金額じゃない。さらに全68冊をどこに置けばいいのか、それも考えなきゃいけない。ただ「いいなぁ!」と思いつつ、その店を後にしたのであった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎を読む
著者:松本 健一
ISBN:9784101287317
出版社:新潮社 (2009/10/01 出版)新潮文庫
版型:224p / 15cm / A6判
販売価:420円(税込)

2009年10月14日

夏目漱石著『門』

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 さて、漱石の前期三部作の最後となった。前回の『それから』では、友人関係と親子関係を失い、社会的制裁を受けてまでも代助が友人平岡からその妻である三千代を奪うところで終わった。
 そして今度は主人公を変えて、代助が宗助となり、三千代が御米となって、半ば世間から隠れた夫婦生活からこの物語は始まる。つまり野中宗助は安井の妻であった御米を奪った。そして二人は夫婦となったが、その瞬間から「彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。学校から無論棄てられた」のであった。
 「宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。一所になってから今日まで六年程の長い月日をまだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試は猶なかった。二人は呉服屋で反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つ所の極めて少ない人間であった。彼等は、日常の必需品を供給する以上の意味に於いて、社会の存在を殆ど認めていなかった。彼等に取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼等にはまた充分であった。彼等は山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた」のであった。
 人の女房を奪った男と、夫を裏切った女は、世間の目から隠れてひっそりと暮らすしかなかった。彼らの負い目がそうさせた。だから「二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影は殆ど射さない様に見えた。彼等は余り多く過去を語らなかった」

「その内には又きっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」

「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」

 その上に御米の三度の流産でさえ、特に御米は自分たちが犯した罪のせいだと考えるようになった。

 彼女は三度の胎児を失った時、夫からその折りの模様を聞いて、如何にも自分が残酷な母であるかの如く感じた。自分が手を下した覚えがないにせよ、考え様によっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇と明海の途中に待ち受けて、これを絞殺したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己を見なさない訳には行かなかった。そうして思わざる徳義上の呵責を人知れず受けた。

 御米は子供がなかなか授からない不安から易者に占ってもらえば、「貴方には子供は出来ません」、「貴方は人に対して済まない事をした覚えがある。その罪が祟っているから、子供は決して育たない」と言われるのである。

 『それから』にしてもこの『門』にしても、こうも厄介な人間関係を求め、そのためそれまであったすべてを失うことになっても、好きな女性といっしょになるというのが、どうもよく分からない。それは私の中に面倒なことを避ける性質や打算的な考えから、そう思うのかもしれないが、ここまでして三角関係にならなきゃならない強い求めが、そうあるのだろうかと思うのだ。まぁそれだけ純粋と言ってしまえばそうなのだろうけど、その純粋な気持ちを維持すればするほど、その後はただ不幸になるということのような気がするのである。
 幸せというのは精神的つながりだけで求められるものなのかとさえ思う。関係が成ったときは、所謂成就感で一杯にも成るかもしれないが、結局それに払う代償はその後永遠に続くことになる。いつも不安に怯え、後ろめたさを持ちながら生きていくことが、どこが幸せなのかと思うのだ。その不安や後ろめたさは、二人の関係を解消したって、多分一生当の本人たちに残るであろうから、結局一度そういう関係になってしまったら、その後は、この本の解説にあるように「この日常には、希望もないが絶望もない。激しいものは何もない。彼らには過去がある。時間がそれを癒やすこともないが、かといってそれが劇的におそいかかってくるわけでもない。結局なしくずしのまま老いていくような予感がこの作品にはある」のである。
 そう、一時は激しく燃え上がり、求めあったとしても、その過程に問題があれば、いや世間が認めなければ、如何に自分たちの気持ちが純粋であっても、その後にはそれに対する負い目を背負いながら生きていくしかないのである。ラブストーリーだけでは生きてはいけない。結果そのまま老いていき、死ぬしかないのである。
 やりきれないのは、そうした負い目から救いを求め、もがくことなのだ。宗助が御米の元夫である安井の影に怯え、禅寺に入っても、何も得られなかったように「自分は門を開けて貰いに来た。けれど門番は扉の向側にいて、敲いても遂に顔さえ出してくれなかった」し、「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」のであった。


評価
★★★


書誌
書名:門 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010069
出版社:新潮社 (2002/11 出版)新潮文庫
版型:311p / 16cm / 文庫判
販売価:380円(税込)

2009年10月11日

夏目漱石著『それから』

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 長井代助と平岡は中学時代から友人であった。特に学校を卒業してから兄弟のように親しくしていた。その後平岡は三千代と結婚し、勤めていた銀行の地方勤務となった。しばらくの間代助宛に平岡から便りがあったが、そのうち間隔をおくようになり、最後は来なくなる。そして平岡は銀行を辞めて、夫婦で東京に戻ってくる。。
 当然平岡は生活のために仕事を探しまわる。仕事が決まるまで、三千代は代助にお金を工面してもらうこともあったが、平岡は新聞記者の職につく。しかし平岡は家に帰るのも遅くなり、三千代にかまうことさえしなくなる。いやもう東京に戻るって来るまでに、平岡と三千代の関係は冷め切っていた。

 代助は椅子に腰を掛けたまま、新しく二度の世帯を東京に持つ、夫婦の未来を考えた。平岡は三年前新橋で分かれた時とは、もう大分変わっている。彼の経歴は処世の梯子段を一二段で踏み外したと同じ事である。まだ高い所へ上っていなかっただけが、幸いと云えば云う様なものの、世間の眼に映ずる程、身体に打撲を受けていないのみで、その精神状態には既に狂いが出来ている。始めて逢った時、代助はすぐにそう思った。

 もともと代助は行動するに当たり哲学的に物事を考えて行動するタイプであったが、こと三千代に関しては感情的にならざるを得ず、落ち着いていられない。平岡夫婦の関係、三千代の健康状態が、精神状態が不安で仕方がなくなってくる。無頓着でいられなくなる。しかし代助は最初は穏便な方法で平岡と対峙する。

「不断は今頃もう家に帰っているんだろう。この間僕が訪ねた時は大分遅かった様だが」

「まあ帰ったり、帰らなかったりだ。職業がこう云う不規則な性質だから、仕方がないさ」

「三千代さんは淋しいだろう」

「なに大丈夫だ。彼奴も大分変ったからね」

「そんな事が、あろう筈がない。いくら、変ったって、そりゃ唯年を取っただけの変化だ。なるべく帰って三千代さんに安慰を与えて遣れ」

「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金も要る。従って家の経済も旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなるだけじゃないか」

「家庭か。家庭もあまり下さったものじゃない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」

この言葉を聞いたとき、代助は平岡が悪くなった。あからさまに自分の腹の中を云うと、そんなに家庭が嫌なら、嫌でよし、その代わり細君を獲っちまうぞと判然知らせかった。

 しかし代助には本心が言えなかった。その分なんのために平岡に会ったのかさえ、このときの会談が偽善と思うようになる。もっと本音で平岡と対したかった。「もし思い切って、三千代を引合に出して、自分の考え通りを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと強い事が云えた。もっと平岡を動揺る事が出来た。もっと彼の肺腑に入る事が出来た。に違いない。その代わり遣り損なえば、三千代に迷惑がかかって来る。平岡と喧嘩になる。かもしれない。
 代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を取って、平岡に接していた事を腑甲斐なく思った」のであった。

 代助がなまじ自分自身を知識人たるべきであるべきであるという生きざまが、結局そのような曖昧な態度を取らざるを得なかったのだ。だから「代助は昔の人が、頭脳の不明瞭な所から、実は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の為と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、その結果遂に相手を、自分の思う通りに動かし得たのを羨ましく思った」にであった。
 しかし「彼は自分と三千代との関係を、直線的にに自然の命ずる通り発展させるか、又は全然その反対に出でて、何も知らぬ昔に返るか。何方かにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた」。
 でも三千代との関係を得ることは自らを社会的危険に陥れることでもあった。いくら三千代が同意しても、友人の妻を奪うことの道義的責任が伴う。社会的制裁を受けることになる。もちろん平岡との友人関係は消滅する。
 さらに代助は生活の糧も失うことにもなる。何故なら代助は父親の援助で生活をしてきた。だから定職も付かずに思索家として過ごせた。ところが父親の事業による政略結婚の話が代助に持ち上がっていた。それを断って三千代を選べば、父を裏切ることとなり、必然的に生活の糧を失うこととなる。代助は考えあぐねた末、それでも三千代に自分の思いを伝えることを決意する。「今日は始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言う。

 「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」

 「僕はそれを貴方に承知して貰いたいのです。承知して下さい」

 「余りだわ」という声が手帛の中で聞こえた。

 「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」

 「僕が悪い。堪忍して下さい」

 「残酷だわ」と云った。

 「いや僕は貴方に何処までも復讐して貰いたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、貴方を呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されている一部分としか思いやしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はそう生まれて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、それで沢山なんです。これ程嬉しい事はないと思っているんです」
 
 「仕様がない。覚悟を極めましょう」

 次に代助は平岡と対峙する。しかし平岡はなかなか代助と会おうとはしない。三千代の病気が悪化し、看病をしていたという。代助は三千代に対する自分の気持ちを正直に伝え、三千代も自分と同じであることを伝える。平岡は今三千代の症状が良くないので、回復したら三千代を渡すから、それまでは三千代に会わないでくれと言い、代助も同意する。
 ところが代助は三千代の病気の状態が良いのか悪いのかわからない。もし悪いのであればと思うと、いてもたってもいられない。そのうち代助は三千代の症状がかなり悪く、平岡は代助に三千代を会わせるときは、遺体となった三千代を会わせるのじゃないかと思うようになり、恐怖に戦く。
 そんなところに代助の兄が平岡の書いた代助の父宛の手紙を持ってきた。そこには代助が自分の妻を奪っていった顛末が書かれており、それを読んだ父親は、さらに激怒し、勘当同然を言い渡す。代助の恋はかなり高い代償を払わされて、この物語は終わる。

 この物語も明治の知識人が自らのプライドがなかなか素直な自分を受けいれることを許さないところがミソで、もう少し最初から素直な気持ちで代助が三千代に接していれば、こんなことにならなかった。自分の三千代へ恋心と平岡との友情を天秤にかけて、友情の方に傾いてしまう。いや無理にでも傾けさせたところから、代助の悲劇は始まったのだ。
 本来人が持っている恋心をストレートに表現することを明治の知識人はそれこそ下等な人間、無教養な人間のすることだと考えたのかもしれない。多くの知識は理性として、そうした人間の感情をコントロールするもので、それが出来て知識人だと考えたのかもしれない。もちろんあからさまに、そうした感情を、言えることが人間的かといえば、そうじゃないだろうけど、でも感情と知識はまったく別物だと考えたい。あれこれ考えすぎるものだから、結果まどろっこしくてかなわない。頭でかっちもいいところで、読んでいてもうちょっと自分に忠実で、素直な気持ちで接すればいいのにと思っちゃう。まぁそれだけ明治の知識人は、哲学的であったのかもしれないし、その分格調は高かったということなのだろう。でなければこんなことは考えまい。

第一、日本程借金を拵えて、貧乏震いしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そり外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方向に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何処を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。

 これは漱石の有名な明治批評と何かで読んだことがある。このように当時の風潮を代助は批判しているのだが、言っていることはまさに自分のことじゃないかと思えてくるのである。そしてある程度代助はこれらが自分に当てはまると考えてはいるものの、それでもどこか違うと言っているかにとれる。それが三千代との関係を複雑にしたのに。


評価
★★★


書誌
書名:それから (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010052
出版社:新潮社 (1992/05 出版)新潮文庫
版型:302p / 16cm / 文庫判
販売価:420円(税込)

2009年09月28日

村上春樹著『村上春樹全作品』〈3〉

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 先に読んだ『ノルウェイの森』のもとになった短編『蛍』を読みたくなり、この短編集を取り出して読んでみた。多分ここに収録されているのは、村上さんの初期の短編なんだと思われる。『中国行きのスロー・ボード』と『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録された作品がここには収録されている。もちろんいずれも昔読んでいる。個人的には「午後の最後の芝生」、「シドニーのグリーン・ストリート」、「蛍」が懐かしく、よかった。
 「午後の最後の芝生」は主人公の僕がアルバイトで芝刈りのアルバイトをやっていて、アルバイトして最後の仕事の風景を描いている。僕はとにかく徹底して自分が納得するまで仕事をする。だから機械よりも手作業が多くなる。必然的に他の人より時間がかかるが、その分仕事は丁寧なのだ。
 中年の女がいる庭の芝生を刈りに行くのだが、その芝生はそれほど延びてはいない。けれどとにかく刈ってくれと頼まれる。結構うるさそうな女なのだ。でも僕が刈った芝生を見て、彼女の死んだ亭主のように芝生を刈るという。そして彼女は僕を部屋に入れ、ビールとサンドイッチをご馳走し、多分自分の娘の部屋を僕に見せ、僕にどんなイメージが湧くか尋ねる。ただそれだけの話なんだけれど、なんかいい感じの物語であった。
 暑い日差しのなかで、ラジオかけ、ショートパンツ一枚で芝生を刈る情景。その後の彼女にご馳走されたサンドイッチとビールが美味しそうであった。そして仕事が終わり刈り上がった芝生の表面が絨毯のようになめらかになっている情景など、素直に頭の中に浮かんでくる。
 僕はその時彼女と別れたばかりであった。彼女から来た別れの手紙の内容を休憩中思い出す。

 「あなたのことは今でもとても好きです」

 「やさしくてとても立派な人だと思っています。これは嘘じゃありません。でもある時、それだけじゃ足らないんじゃないかという気がしたんです」

 これ言われたり、感じたりしたことありません?若い頃間違いなく相手が好きであっても、どこか相手にもの足りなさを感じることって、あるでしょう・・・。

 「シドニーのグリーン・ストリート」は、羊男が趣味で探偵をしている僕に、羊博士にかじり取られた耳を取り返してくれという依頼をしにくる。羊男が懐かしい。また羊男の話を読みたくなちゃったなぁ。

 「蛍」は僕がいる学生寮の同室人が近所のホテルで放された蛍を捕まえた。それを彼女に渡せば喜ぶよということで僕に渡す。『ノルウェイの森』ではワタナベ君の同室で、国立大学で地図学を専攻し、国土地理院への就職を希望する生真面目で潔癖症の突撃隊”になる。
 この「蛍」でも『ノルウェイの森』もその蛍を彼女にあげることはできなかったのだけれど、『ノルウェイの森』もよかったけれど、この「蛍」ももの悲しくていい。(当たり前か!だって『ノルウェイの森』はこの短編を肉付けして書かれたものなんだから)

 思うのだけれど、村上さんの小説はいわゆる“ムラカミワールド”として非現実的な舞台設定で物語が始まるけれど、でもそこに登場する人物たちは我々と同じ現実で生活している人と同じである。きわめて現実的で、生活感あふれる人たちなのである。だから舞台は非現実的であっても、ものの考え方、感じ方はストレートに読む側に入ってくる。いや、舞台が非現実的だからこそ余計に私小説的部分は心に響いてくるような気がする。ごく普通にあることなのだ。それが強調されて読む側に届くといっていいのかもしれない。妙に納得しちゃったりしてね。特に喪失感はずんと心に響くし、そのやるせなさはよくわかる。むなしさといってもいいかもしれない。そしてそういった喪失感は誰しも経験しているだけに、つらさがよくわかる。


評価
★★★


書誌
書名:村上春樹全作品 〈3〉 ― 1979~1989 短篇集 1
著者:村上 春樹
ISBN:9784061879331
出版社:講談社 (1990/09/20 出版)
版型:56p / 21cm / A5判
販売価:3,150円(税込)

2009年09月09日

フレデリク・フォ-サイス著『オデッサ・ファイル』

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 何で今頃こんな古い本を引っ張り出すのだと言われそうだけれど、引っ張り出して読む理由が出てきたからだ。実は本棚を整理していたら、探していた切り抜きが見つかったからだ。それは二枚ある

「ユダヤ人強制収容所長ロシュマン パラグアイの病院で死ぬ」

 【ブエノスアイレス十一日=鈴木(俊)特派員】パラグアイの首都アスンシオンから伝えられたところによると、十一日付のアスンシオンの新聞「ABCカラー」は、第二次世界大戦中ナチスのユダヤ人強制収容所長として約四万人のユダヤ人を殺害したかどで追われているエドワルド・ロシュマン元ナチ親衛隊(六三)が十日、アスンシオンの施療病院で死亡したと報じた。ロシュマンは先月四日、アルゼンチンで逮捕されたと一部外電で報じられたが、これは誤報で、その後、西独政府の引き渡し要請を受けて、アルゼンチン司法当局からロシュマンに対する逮捕命令が出されていた。
 ABCカラー紙によると、ロシュマンとみられる人物は十日朝、医療費を支払えない患者を収容するアスンシオンの施療病院で心筋梗塞のために死亡した。この人物は七月二十日ごろ、パラグアイに入国、同二十六日からフェデリコ・ベルナルド・ウェゲネルの名で同病院に入院していたという。この名前はロシュマンが先にアルゼンチンに入国した際使用していた偽名として、アルゼンチン当局が確認しているが、同紙によると、この患者は同じ名前の運転免許証を持っていた。また同紙が病院で遺体を調べたところ、両足の指が合わせて五本欠けているなど、身体的特徴もロシュマンのそれと一致するという。
 ロシュマンはナチ占領下のリガ(現ソ連ラトビア共和国)のユダヤ人強制収容所長をつとめ、一九四一年から四三年までにユダヤ人約四万人を殺害したとされるナチス親衛隊将校。ベストセラーとなったフォーサイスの「オデッサ・ファイル」にも登場することでも有名。 昭和52年(1977年)8月12日 読売新聞夕刊
 

「ナチのロシュマン既に死亡」 パラグアイ

   【ブエノスアイレス十九日=UPI共同】国際刑事警察機構(ICPO)は、十九日、今月十日、パラグアイの病院で心臓発作のため死亡した男が、第二次世界大戦中にラトビア共和国のリガで行われたユダヤ人大量虐殺の責任者エドアルト・ロシュマン元ナチ親衛隊(SS)大尉だったことを確認した。同機構によると、死亡した男の指紋は、ロシュマンがアルゼンチンでの亡命中に使っていた変名のフェデリコ・ベグナーのものと一致することが判明した。 昭和52年(1977年)8月20日 読売新聞夕刊
 

 この本を読むのはこれで三度目となる。フォーサイスの著作はほとんど読んでいるが、私はこの『オデッサ・ファイル』が一番のできだと思っていた。しかし今回また読み直してみると、そうでもないのかなと感じてしまった。確かにストーリーテラーの本領発揮で、ぐいぐい引き込まれて、ページが進む。フィクションとノンフィクションの境目が見分けが付かないほどリアルで、臨場感たっぷりなのだが、どうも最後がいただけない。実は私はこれまでこの最後の場面が気に入っていたのだが、今回はやけに鼻につく。説教くさく感じてしまった。


閑話休題
 実はこの本、私が初めて本屋さんで注文して取り寄せた本であった。いきさつは、最初フォーサイスの代表作『ジャッカルの日』を銀座の映画館で見て、すぐ原作を買い求め、その後フォーサイスの本を読みたいと思った。そして当時錦糸町の駅ビルにあった栄松堂書店で探し求めたのだが、この本だけが棚になかった。店員に在庫を聞いたのだが、在庫切れだと言われ、そのまま店員のペースに巻き込まれて注文することになってしまったのだ。私は本を注文して取り寄せられることを当時全く知らなかったのだ(まだ私は書店員ではなかった)
 たぶん一週間が過ぎた頃だったと思うが、その書店からはがきが届く。本が入荷したという通知である。当時ははがきで入荷を知らせていたのである。それを持ってカウンターに来てくれというものであった。
 それから約22年たった現在は、ネットで注文してネットで入荷の知らせが届く。先日セブンアンドアイで雑誌のバックナンバーを注文した。ご存じかもしれないが、だいぶ以前に私はセブンアンドアイでひどい目にあい、以来絶対にここでは本は買わないと誓ったのだが、ついにその誓いを破ってしまった。というのも、雑誌一冊690円をアマゾンで買えば送料が発生するし、今のところ他に抱き合わせで買う本もなかったので、ちょっとここでは買えないなと考える。じゃあ書店で注文するかと考えてみたものの、なんか手続きが面倒に感じた。それに書店に雑誌を注文すると、時間が書籍より時間がかかると自分たちの時の経験から思っているので、それはちょっと困る。すぐ読みたかったのである。(もちろん今は私が書店員の頃より改善されているだろうから、雑誌でも入荷時間は短縮されていると思いたい)
 でやむにやまれずセブンアンドアイで雑誌を注文せざるを得なくなったわけである。そこには入荷には当日から2日と書かれている。これに釣られたわけである。ネットから細かい入力をして、雑誌を受けとる店を指定する。そして“お客様控”をプリントアウトすればバーコードの付いた控えが出てくる。
 そして入荷のメール届き、指定の店に行って、印刷した控えを見せる。店ではその控えにあるバーコードをレジで読み込み会計をする。確かに注文して2日で手元に届いた。
 注文の仕方、入荷の通知、そしてレジでのやりとり、すべて22年前と大きな違いがある。それをわずか22年でこうも変わるのかと考えるか、22年も経っているんだから、進歩して当たり前と考えるか、それぞれ違うだろうけど、私の場合“こうも変わるのか”と思う方である。だからその違いを感心して書くのである。
 さてそんな思い入れのある本をまた読みたくなり手にとって読んだ。例えば本棚の整理をしてたりすると、昔読んだ本は気にかかる。読んでみようかなと思い、読み始めるのだが、今回のように昔えらく感動した本だったのに、読み直してみると“そうでもないな”と思うことがある。
 これが問題なのだ。読み直したいと思うのは、その本が面白かった、あるいは感動したという記憶があるからだと思う。けれど読み返してみてそれほどでもないと思うと、いったい俺はこの本にどうして感動したんだろうと思うのだ。何か昔の思い出が壊される感じがする。もちろん最初に読んだ頃と今とではあらゆる面で違うわけだし、それなりに歳をとってきたせいで、ひねてきているから仕方がないのだろうけど、どこか寂しい感じがする。思い出は思い出として残っていた方がいいような気がするのである。
 そんなことがあるものだから、今昔読んで面白かった本を読み直したいと思う本が数冊あるのだが、さて読み直していいのかどうか、考えあぐんでいる。

 さて、本の話である。話は1963年11月22日ケネディ大統領暗殺のニュースから始まる。そしてこの日一人のユダヤ人が自殺した。ケネディの暗殺ニュースを聞いた後、ペーター・ミラーは偶然にそのユダヤ人自殺現場に遭遇する。そしてそのユダヤ人の日記を手にし、そこに記された文章からある重大な事実を見つける。
 自殺したユダヤ人の名前はサロモン・タウバーといい、リガのユダヤ人強制収容所にいた。サロモン・タウバーはそこで多くのユダヤ人である同胞が虐殺されるのを目撃したし、自分の妻も自らの手で毒ガス車に押し込んだ。そうするしかなかったのである。タウバーは自分が生き残るためには、ユダヤ人でありながら、ここに連れ込まれたユダヤ人を監視するカポとなり、辛うじて生き残った。
 しかし終戦後ある意味ユダヤ人を裏切った自分をタウバーは許せなかったので、ひっそりと暮らしていた。そんな時リガのユダヤ人強制収容所長であったエドワルド・ロシュマンを町で見かけたのである。
 ロッシュマンは、終戦二度も捕まるのだが、何とか逃げ出し、復興した西ドイツで事業に成功し、それなりの立場の人間となっていた。ロッシュマンを手助けしたのはオデッサ(Organization Der Ehemaligen SS-Angehorigenの略。「元SS隊員の組織」という意味)であった。終戦間際ナチス第三帝国は崩壊が近いと知ると、それまで略奪してきた潤沢な資金でSSの高級幹部を守る組織を作っていた。それがオデッサであった。オデッサは最初ナチスの殺人鬼たちの逃亡を手助けしたが、その後彼らを連合軍の占領下にあるドイツに戻し、新しいドイツ連邦の各社会層に再定着させ、社会的にも政治的にも力を持つようさせた。ロッシュマンもその一人であった。彼らは相変わらずドイツ民族の優秀性を説き、ユダヤ人を抹殺しなければならないという考えを捨てていなかった。
 当時西ドイツはアメリカのケネディの意向で武器をイスラエルに輸出していたが、当然政治的に力をつけた元ナチスの高級幹部にとっては面白くなく、さまざまな妨害をしていた。またエジプトは当時イスラエルと対立しており、オデッサの幹部はエジプトに武器に必要な科学技術を裏で提供していた。そんな時ケネディが暗殺されたのである。
 一方ペーター・ミラーはロッシュマンをどうしても探し出さなければならないと思い、戦後ナチ狩りをしているさまざまな機関に接触し、ロッシュマンの行方を探す。そしてイスラエルの諜報機関と接触し、元ナチスに化けてオデッサと接触を図る。しかしオデッサもミラーの動向を知り、ミラーを抹殺しようとする。このあたりが物語を白熱させる。
 物語の題名である「オデッサ・ファイル」とは元ナチスを逃亡させるために身分を偽るために偽造パスポートを作った印刷屋が、自分の身の保全のために残した記録である。それをミラーは手に入れ、ロッシュマンの居場所にたどり着く。
 ロッシュマンと対面したミラーは、ドイツ人であるミラーがナチ狩りをしていることが誤りであり、ここでもドイツ民族の優秀性を説き、ドイツが戦後復興したのもそうしたドイツ民族の優秀性からだという詭弁を語る。
 ミラーはサロモン・タウバーの日記に一部をロッシュマンに読ませる。そこにはロッシュマンが迫ってきたソ連から逃げだそうとしたとき、一陸軍大尉がロッシュマンの言うことを聞かず、雪の埠頭で射殺した情景が書かれていた。その一陸軍大尉がミラーの父親であった。ミラーがロッシュマンを追う理由がここにあった。

 この本は昭和49年(1974年)に日本が訳が出版されている。何が言いたいかと言うと、最初にあげた新聞の切り抜きが1977年のものだから、それ以前にフォーサイスはロッシュマンのの動向をよく知っていたことになる。例えばロッシュマンがリガからの逃亡で雪の中を逃げた。その時足の指が凍傷になり、切断していることもきちんと書いているし、ミラーやナチ狩りをする専門機関から逃亡するために、南アメリカに逃亡したことも書かれているし、その偽名もフェデリコ・ベグナーだったことも書いてある。そしてこの新聞の切り抜きにはそれが全部書いてある。私はフォーサイスの取材力に圧倒されるのである。そして取材した事実をうまく組み合わせ、この迫真の物語を作ったのだと思っている。


評価
★★★


書誌
書名:オデッサ・ファイル
著者:フレデリク・フォ-サイス 篠原慎訳
ISBN:9784047910331
出版社:角川書店 (1981/02 出版)
版型:374p / 20cm / B6判
販売価:入手不可。文庫有り

2009年08月31日

吉村昭著『七十五度目の長崎行き』

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 先日大学の友人と飲んだとき、どうしてそんな話になったのか忘れてしまったが、ワープロが文章を書けなくさせているかどうかの話になった。要するにワープロのお陰で、辞書は引かなくなるし、文章もいかにもワープロで書きましたという無個性の文章しか書けなくしているというのである。かたくるしい文章で、普段絶対に使わない漢字がやたら並んでいる。それは誰でもワープロで簡単に文章が美しく書けるようにと、ワープロ自身が余計なお節介だと言えるほどの機能があって、それを使えばそれなりの文章が書けてしまうからだというのが、三人のうち一人の意見であった。そして私ともう一人がそうじゃないという意見である。(こいつと意見が合うのは珍しいのだが)
 確かにワープロはお節介の押し売りのような機能がたくさんあって、自分で文章を考えなくても、アシスト機能が満載されているので、ある程度の文章は書けてしまう。また辞書も引かずにすむ。でも、最終的に自分の書いた文章を確定し、enterキーを押すのは当の本人である。これでいいと押すわけで、その決定権は文章を書いた人物にある。ということは、たとえワープロにアシストされた文章でもそれで良ければそれが当の本人の文章となる。それが悪文かどうかはワープロの機能のせいではなく、書いた本人の資質が大きな影響が大きな作用すると思う。だから基本的にワープロがいい文章を書かせないとは絶対に言い切れないはずだ。
 ではワープロ任せの文章ではなく、あくまでもワープロを文章を書く道具として使い、読んでいて心地よいいい文章が少しでも書けるかどうかは、その人がいかにいい文章にふれあっているかどうかにかかっていると考える。つまりある程度文章を書く人は、他の人の文章にどれだけ多く接しているかにかかっている。そこで読んでいていい文章だなと感じれば、あるいは自分もこうした文章が書きたいなと思えばその人の文章のまねをすればいい。そういうことなのだ。すべてはいかにいい本を読んでいるかにかかっている。そこですばらしく簡潔でやさしいく、しかも内容を的確に表現している文章をに出会えれば、いかに自分の書く文章が悪文かわかるはずだ。
 何度も言うが、決してワープロが汚い文章を書かせるのではなく、書いた本人がいい文章にふれあっていないから、どうしようもない文章が出来上がるのだ。そういう意味では読書というのは大切なことになる。
 実際私もやっとそのことがわかり始め、本を読むことの大切さのひとつを感じている。ましてつたないながらもこうして文章を書いている以上、やっぱり少しでもいい文章でありたいと思うようになっている。だからひところよりは、ワープロで選択できる難しい漢字は使わないようにしているし(だって普段絶対に使わない漢字を、たまたまワープロが簡単に選び出してくれただけのことで、それがなければそのためにわざわざ辞書を引かないでしょう。ひらがなで十分ならそれでいいはずだ)アシスト機能できる限り外しているし、できなければ基本的に無視している。

 さて、そういう意味では私にとって吉村昭さんや阿刀田高さん、司馬遼太郎さんのエッセイは最高の教材なのである。私は小説の中でなかなかいい表現だなと感じることができない人なので、日常の生活の中から生まれるエッセイの方が、より身近に感じられ、あっ、そうか!こんな風に書けばいいんだと思うことが多くある。だからエッセイが好きで、特に最近はこの三人が先生となっている。少しでも自分が書きたいことを、この三人作家さんたちみたい表現できればいいなと思っている。
 そして今回も吉村昭さんの紀行文を読んでいる。この紀行文は吉村さんの最期の紀行文集となるらしい。というかもう新しい旅の文章はすべて出版されてしまっているので、それでももれてしまった、ミニコミ誌や機関誌などに掲載された吉村さんの短い旅に関する文章をかき集めたもののようだ。まぁ、その過程はどうでもいい。要は吉村さんが書かれた文章を味わえればいいのだ。それだけである。
 吉村さんの旅の目的はほとんど小説のための取材旅行である。その旅の途中で見た風景のすばらしさ、地元の人とのふれあい、地酒と美味しい料理の話である。そこは開高健さんとは違う。開高さんは言葉にできなほど美しい風景とか美味しい料理だとは、小説家であれば絶対に言ってはいけないという主義の人である。だから言葉を尽くして何とか表現しようとする。そのため時には饒舌過ぎるほどの表現になってしまう。ところが吉村さんにはそんな気負いはない。地元の小料理屋に入って、美味しいお酒と料理を単に“美味しい”と書くだけである。もちろんその素材の新鮮さなどは書いているが、それ以上の表現はしない。旅に関する全体の感想も最期に“いい旅であった”と書くだけである。
 でも読んでいる方もそう感じるのである。そこには個々の細かい表現にこだわるのではなく、全体からそう感じさせるテクニックがここにはあるような気がする。後は読む方で自由に想像すればいい。きっとすばらしい風景なんだろうなとか、これは美味しいんだろうなと思わせるのだ。
 文章表現というのは言葉だけで表現するのと、文章全体から感じ取られる方法があるんだなと改めて思う。そういう意味からすれば、文章というのは奥深いもんだ。
 書かれているものから何か読み取ってやろうとがつがつするのも結構だけれど、そうではなく、全体の雰囲気から“いいなぁ”と感じるのも、それこそいいと思う。私は吉村さんの随筆はそうして楽しんでいるし、今回も同様に楽しんでいた。
 またこの紀行文は先に書いたように、そのほとんどが吉村さんの小説のための取材旅行である。だからここに書かれる文章を読んでいると、その小説を読んでみたくなる。
 それにしても吉村さんがよく行かれる北海道や長崎は死ぬまでには絶対に行きたいと思う。長崎は特に行ってみたくなった。もし長崎に行ったら国に帰った昔の友人に会いたなとも思った。会えるだろうか?


評価
★★★


書誌
書名:七十五度目の長崎行き
著者:吉村 昭
ISBN:9784309019277
出版社:河出書房新社 (2009/08/30 出版)
版型:229p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年08月27日

阿刀田高著『新約聖書を知っていますか』

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 今度は新約聖書である。阿刀田さんは「旧約聖書のほうはイスラエル建国史と読める部分もあるから、まだしもやりようがあるけれど、新約聖書は徹頭徹尾信仰と結びついている」と言っているように、この本を読んで、新約聖書は信仰をどう考えるかに尽きるような気がする。しかも私みたいに信仰を持たない人間にとって、新約聖書の言葉は基本的に理解しにくい部分がどうしても残ってしまう。

 ここにミケランジェロの「ピエタ」がある。


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 この本を読んで知ったのだが、ミケランジェロの「ピエタ」は四作あるそうだ。その中で一番有名なのがバチカンにあるこの「ピエタ」である。後の三作をネットで調べてみると、これがミケランジェロの作品?と思えるほど、見栄えが悪い。中には作成中といったものさえある。
 阿刀田さんは、処刑されたイエスを抱きかかえるマリアの姿に美しさと神々しさを感じているが、確かにこれが人が彫った彫刻なのかと思えるほど、この作品の完成度は言葉が出ないほどだ。
 この「ピエタ」から阿刀田さんはイエスが十字架に懸かり、復活する意味を次のように説明する。

 神が実在し、自分が神の子であることを証明する方法として、(それだけが目的ではなかったろうが)病人を癒したり、超自然的な技を演じて見せたりしたが、それだけではまだ迫力が足りない。伝聞であったり偶然と思われたりして、説得力を欠く。そんなイエスが、ある日、忽然と得た啓示が“十字架に懸かり、三日後に復活する”であった。預言書にもそんなことが記してある。それを実現することが神の子の証明であり、それによっていっさいのロジックが生きて意味を持つ。先に私が“復活はイエスとその信奉者にとって、このうえなく大切なことであった。信教の存亡にかかわる重大事であった”と書いたのは、このことである。イエスは絶対に復活しなければいけなかったのである。

 とにかくここに書かれるイエスが行う奇跡は私みたいに信仰を持たない人間にとって、ただ“胡散臭い”だけであって、これがどうして信仰に結びつくのかわからない。
 阿刀田さんも私同様信仰を持たない人と言っているので、イエスが行う奇跡、復活を推理小説家としてそのトリックとして説明する。私も阿刀田さんのこの説明の方が受け入れやすかった。
 例えばマリアの処女受胎にしたって、昔、ナザレという町にマリアという名の娘がいて、ヨセフと婚約していたが、よんどころない事情により、他の男と交わり身籠もってしまった。それを知ったヨセフはいったん婚約を解消しようと思ったが、マリアの人柄の良さや愛情の深さを感じ、さらに生まれてくる子供には何ら罪はないと考え、二人は結ばれ、そしてイエスが生まれた。
 イエスが手を触れれば、病気が治るというのも、その人が心因性の病気の人であった可能性が高い。湖の上を歩いたというのも、単に湖の浅瀬を歩いただけなのに水上を歩いたと宣伝されたか、あるいは湖の浅瀬を歩いていただけでも見る方向によって水上を歩いたようにだって見えるだろう。結婚式の酒が上等な酒に変わったのも、単にイエスのスピーチがすばらしかったから、それを聞いた出席者が大きな喜びを感じただけであって、酒が上等なものに変わった訳じゃなくて、気分がそう感じさせただけのことだ。
 イエスの復活だって、復活したイエスがその姿をあらわすのは弟子の前だから、口裏を合わすのは簡単だったろう。マグダラのマリアだって言い含めていたのだろう。
 イエスの墓には遺体がなかった。復活のためには遺体があっちゃまずいからだ。イエスのシンパがイエスが生前言っていた復活を画策し、それを実行しただけのことだ。遺体を他に移したのだ。だから復活は墓より遠く離れた場所のガリラヤである方がいいに決まっている。
 たぶんそういうことなんだろう。

 しかしイエスの奇蹟、復活がこのように説明がつくとしても、イエスを信じる人にとってはそれは意味をなさないのだろう。聖書に書かれたことを、そのまま信じることが意味をなすからだ。大切なことは「信じること」なのだ。それを「そんなことありえんだろう!」と言っちゃおしまいなのである。
 阿刀田さんが言うように、「大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが実存していたことのほうである。事実に近い奇蹟もあったろうが、まるっきり作り話もあっただろう。だが、いずれにせよ、奇蹟のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こういう伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい」。
 そしてイエスが人を信じさせるテクニックに優れていたことに尽きるんじゃないかと思ったりする。阿刀田さんは「イエスの言葉は、たとえ話であったり、質問に対する断片的な返答であったり、戒めであったりして、まっ正面から教義の中核を語っているものは思いのほか少ない」と言っている。このことはイエスの性格である皮肉屋で韜晦趣味的傾向から由来するにしても、何から何まで、至れり尽くせり説明はしない。適当なところで止めている、と言えないだろうか。意味深長な言葉を残されれば、後は自分で考えるしかない。そこがポイントなのだ。考える人が置かれている環境によっては、あるいは性格によっては、イエスは神の子ともなるだろうし、ペテン師にもなるような気がする。
 そうしてイエスの教えを最初に広めたオルガナイザー的存在のパウロがいたからこそ、キリスト教は広まっていった。それはローマという時代背景も大きな意味を持つ。キリストの教えにすがりつかなきゃ生きていけない民衆が多数いたからである。信じるしかない状況に置かれた人間が数多くいればいるだけ、その宗教は広まっていくはずだ。

 私は何度も言うように信仰を持たない人間である。だから信仰という問題にこれ以上は何も言えない。そしてたとえそれが一種のペテン的記述であっても、それを信じることで、生きる意味を見出し、思想、文学、哲学、美術、音楽等、いわゆるヨーロッパ文化が生まれているなら、それはペテンでも何でもなくなると思っている。実際偉大さも、尊敬も感じている。信仰がなければそんな文化など生まれるわけがない。


評価
★★★


書誌
書名:新約聖書を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343165
出版社:新潮社 (1993/11/15 出版)
版型:265p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本あり

2009年08月25日

阿刀田高著『旧約聖書を知っていますか』

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 この本以前から気になっており、読んでみたいのだけれど、一方で手に負えない感じがしてしまい、手には取るのだけれど、また本棚に戻してしまうことが続いた。要するに昔から聖書について、どこから手をつけていいのかわからないところがあって、その気持が読むことに尻込みさせるのである。
 大学時代西洋史学を専攻しておきながら、根本的なところで聖書に手をつけずにきてしまった負い目みたいなところが自分にはあるのだ。聖書も読まずに何が西洋史学だと言われそうなのが嫌だったのである。で、ここで気を新たにこの本を読むことにした。それでこの本かよとも言われそうだが・・・。だってお恥ずかしい次第だが、この本を読むまで預言者を予言者と同じだとずっと思っていたのだ。ちなみに聖書の世界では預言者と書き、決して予言者とは書かないそうで、予言者は易者のように未来に起きることを予め言う者であって、預言者とは神の言葉を預かって言う者なんだそうだ。

 まずこの阿刀田さんのこの本を読んで知ったことを時系列的にまとめると次のようになるようだ。
 旧約聖書は天地創造から始まり、アダムとエバを作る。(エバはアダムのあばら骨を取って作られた)そして有名な禁断の実を食べてしまい、楽園を追放される。
 楽園を追放されたアダムとエバはカインとアベルを生む。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となるが、ところがカインはアベルを殺してしまい、神の怒りを買い、エデンの東をさまよう人となる。アベルは殺され、カインもどこかへ行ってしまったので、アダムとエバはまた子供を作り、その系図が続いてノアに至る。
 ノアの時代になると、どいつもこいつも悪事を企み、神をないがしろにする。神は失敗したと思い、世界をもう一度作り直そうとするが、ノアの一族は神を敬うことを忘れなかったので、神はノアに大きな箱船作らせ、洪水に備えさせる。そして洪水が去った後、ノアの一族、連れてきた家畜を外に出させた。神はノアの子孫の繁栄を約束し、この流れからアブラハムに至る。
 ノアの時代には地上の人間は同じ言葉を話していたが、人々は神に近づこうとして天まで届く塔を建てようとした。神はこのまま放っておけば人間は何をしでかすかわからないから、それまで話していた言葉を通じないようにした。当然共同作業の塔作りはできなくなり、作りかけのまま人々は四散する。こうして世界にはさまざまな言語が生まれたという。塔はバベルの塔と呼ばれたが、バベルとは“乱れる”という意味である。
 さてアブラハムの子がイサクで、イサクの子がヤコブ、ヤコブの子がヨセフと続く。そしてその四代あとに生まれたのがモーセである。
 モーセは“出エジプト”で有名だけど、なんでイスラエル人がエジプトいて、そこから脱出しなければならなかったのかとかねがね不思議に思っていた。この本によると、ヤコブは子沢山で、その中にヨセフがいた。こいつが兄の気持ちも察せずに、兄たちが自分にひれ伏す夢を見たことを伝え、それが生意気だと喧嘩になり、穴に突き落とされる。それを通りかかった隊商が見つけ、隊商たちの手でヨセフはエジプトに売り飛ばされたのだった。
 ところがヨセフはその得意な才能を発揮し、エジプト王に重用され、その一族はナイルの地で住みつく。そのうちイスラエル人は力を蓄え始め、あなどりがたい勢力となっていく。それがエジプトの反感を買い、迫害にあう。その生き残りがモーセであり、彼は仲間を救いだし、エジプトを出て、カナンに行けという神の声を聞く。その脱出行が映画の“十戒”の有名な場面となるわけだ。エジプトを出て三ヶ月後、モーセはシナイ山麓で神の言葉を聞く。それが十戒である。それを石版に刻み、それを納めた箱が聖なる箱として以後鄭重に扱われる。関係ないかもしれないが、これがインディージョーンズの『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』なんだろう。
 さて、イスラエル人はシナイ山麓でヤコブの子孫を祖先にして十二の部族に分かれて生活し、その後モーセの後を継いだのがヨシュアであり、ヨシュアはカナンの地を征服する。
 その後十二の部族は王を一人立てまとまろうとし、預言者サムエルに神の声を聞き、ベニヤミン族のサウルを選び王とする。しかしサウルは奢り、予言者サムエルはサウルを王にしたことを後悔し、再度神の声を聞く。神はベツレヘムにいるエッサイの息子に王となるべき者がいる言い、それがダビデであった。ダビデは末っ子ということもあって、弱そうであったが、ある時ペリシテ人との戦いで豪傑ゴリアトと誰もが戦いを尻込みしているところに「なにびびってんの?僕がやっつけてやる」と言い、石を紐に結びつけ、それをゴリアトに投げつける。それが額に命中し、ゴリアトは崩れ落ちる。すかさずダビデは剣を抜き、首を斬り落とす。この石を投げる前の姿があのミケランジェロのダビデ像である。右肩に石を持っているでしょう。



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 私は知らなかったがヴェロキオのダビデ像は足元にゴリアトの首が転がっているやつがある。



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 次にダビデ王の時代となる。ダビデは家臣のウリヤの妻パト・シェバの美しさに目を奪われ、彼女をものにするが、子供が出来てしまった。当然このことでダビデは神の怒りを買い、骨肉の争いが起こり、その罪を償わされる。ダビデはなんとか悔い改め、正式にパト・シェバを妻にし、また男の子を産む(先の子は神に怒りで死んでしまっていた)。それが英雄ソロモンである。
 ソロモンは新進的な王であったらしく、イスラエルの神にこだわらず、他の民族の神の存在を認めた。また神殿や宮殿に多くの国費を費やし、奢侈に流れ、民衆の信頼も神の信頼も失い、以後イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分かれるが、北王国は紀元前722年にアッシリアに攻められ滅亡。南王国も紀元前586年新バビロニアのネブカドネザル王に攻められ滅亡する。この時多くのイスラエル人がバビロンに連行される。所謂“バビロン捕囚”である。イスラエル人が再びカナンの地に戻るのはペルシア王キュロスが君臨した紀元前538年からである。ヘロデ大王の紀元前40年イスラエル人の王国が再建されるが、これも分裂後紀元70年に第二神殿が炎上し、以後イスラエル人は拠り所となる国を失う。彼らが再び国を持つのは1948年イスラエル建国を待たなければならず、その間約二千年の長きにわたり世界の各地で流浪することとなる。
 
 以上が旧約聖書をもとにしたイスラエルの歴史というところだ。この後阿刀田さんによれば、聖書の記述は複雑になるらしい。私が興味のある記述は、イザヤの書である。これは所謂預言の書というもので、バビロンの捕囚以後苦しい現実を前にして、ダビデの血筋から救世主が現れると言っているのである。それがイエス・キリストであり、そこから新約聖書が始まるので、旧約と新約の接点がここにあるのだと阿刀田さんは言っている。しかしユダヤ教では救世主の到来を預言しておきながら未だ現れていない。イエスを救世主として認めていないらしい。

 しかし思うのだけれど、イスラエル人の信仰は厳しい。いや、神が自分以外の神を信じることを認めない。だから少しでもそれに背くと、罰が与えられる。ひたすら罰が恐ろしいから、一心に自分たちの神を信じる。その神を信じていれば自分たちだけは救われるということにもなる。そうした背景があるから“選民思想”は強くなり、イスラエル人の団結がいっそう強固になる。
 ところがこうした融通の利かない民族は、多民族とうまくやっていけないのではないのかとも思ってしまう。他の民族からすれば、ひたすら自分たちの信じる神だけを信じ、自分たちだけが選ばれ、救われるといい続けられれば、やりにくて仕方がないだろう。協調性がないと思われても仕方がないような気がする。ユダヤ人の迫害が歴史上何度も起こっているのは、経済的理由によるものが大きかったと言われるけど、一方でこうした選民思想の塊である民族とうまくやれない関係が、そうした迫害のターゲットになっていった気がする。そしてそうした迫害が起これば起こるほど、ユダヤ人はさらに自分たちの団結を強める結果となり、それが他民族の憎しみをまた買うことになる、悪循環を生んだのではないかと思った。民族、その歴史は尊敬するけれど、偉大な民族は大変だね。

 最後に阿刀田さんの言葉が気に入った。この本を書くに至った理由を次のように言う。

 読書は楽しいことであり、大切なことでもあるけれど、人生にはほかにも楽しいことがたくさんあるし、大切なことはさらに多い。古典なんか読まなくたって、りっぱに生きていける。そういう人生もいくらでもある。
 そういう考えに立ったとき、古典は原点をしっかり読むのがよいにきまっているのだが、現実問題としてそうそう読めるものではないし、不充分ながらも知っておけば、ほかのことを考えるときに役に立つ。軽いダイジェストのようなものがもう少しあってよいのではあるまいか。私の、このエッセイは、そういう目的で綴ったものである。
 もう一度くり返して言うが、原典を読むのが一番よいのである。
 だが、旧約聖書について言えば、簡単に読めるものではない。研究者でもない限り、全巻をきちんと読むことは不可能である。断言してよい。普通のサラリーマンが信仰もないのに、電車の中で旧約聖書を読んでいたら、
 -狂ったのと、ちがうか-
 と私はそう思いたい。理想は理想として、この古典について読めないのが普通である。

 こういう風に書いてくれるとうれしくなる。人によって読める本と読めない本があって当然なのだと言ってくれるわけだから、私が聖書を手にしなかったことも、ある程度許されそうな気がする。
 一方だからといってそれでいいかというとそうも行かない部分がある。こうして本を読むこと、あるいは絵画など鑑賞する場合、ある程度聖書の知識があった方が、その奥行きを知ることができる。そういう意味で阿刀田さんのこのシリーズは非常に助かるのである。


評価
★★★


書誌
書名:旧約聖書を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343158
出版社:新潮社 (1991/05/25 出版)
版型:290p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本あり

2009年08月18日

吉村昭著『実を申すと』

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 何度も書いているが、最近私は吉村昭さんの随筆が気に入っていて、続けざまに読んでいる。どうして気に入っているかと、それなりに考えているのだけれど、要するに吉村さんの“やせ我慢”が好きなのである。その“やせ我慢”は吉村さんの見栄から発しているものなのだが、いかにも中年の無理がペーソスを醸し出していて、それが自分にも思いたるところがあって“よくわかるなぁ”と感じるし、“そうそう”と思い至るのだ。
 この本の「食」に関する文章で吉村さんが自分の姿がみじめったらしい姿に映ることを非常に気にされている。だから例えば食事のマナーにしても、たかが食べることなのになんでこんな窮屈な感じで食べなければならないのかと思いつつも、自分流に食べれば自分の姿がみじめに見えるかもしれないと思い、我慢する。でも本音はもっと好きに食べればいいのにと思っていることはちゃんと書き加えている。あるいはその方が美味しいはずだと言わんばかりである。
 吉村さんは戦前、戦中の人であり、その時苦労された経験があるところに、基本的にちょっと前までいた“一徹な生活人”であり、“律儀な人”なのである。ところが時代がそうした人を古臭い人間と見るようになってきているし、そんなに堅苦しいことを言わなさんなという風潮が当たり前ととなりつつある一方で、西欧的生活スタイルがあらゆる面で当たり前となってきているものだから、吉村さんの生き方や考え方がジェネレーッションギャップとなって、悲しい笑いを私に提供してくれるのである。笑うに笑えないところがよくわかり、読んでいて“そうなんだだよぁ”と思うのだ。あるいはよくぞ言ってくれたとも思うのだ。

閑話休題
 私は朝事務所の近くのドトールでコーヒーをテイクアウトして、会社に入る。毎日買うものだから、コーヒーチケットを買っておいて、それを出す。また、木曜日に社長と二人で仕事をしているときは三時にお茶をしているので、その時ドトールで買ったコーヒーを入れて飲んでいる。もちろん接客用にも使う。(これは会社出しではなく、私と社長と交互で負担している)
 あるとき店長からポイントカードを作ったらどうですかと言われ、いわれるままにポイントカード作った。それを作るに当たり私の名前や会社の住所などを記入したのだが、そのことでいつの間にか会員となってしまったらしく、毎月そのお店からはがきが来るようになった。
 このはがきはこれを持っていくとブレンドコーヒーを一杯サービスしてくれる。(はがきにはコーヒー一杯サービスしますとちゃんとかいてある)ところがこれがなかなか使えないのだ。これを使ってコーヒーをもらうのが恥ずかしいのだ。なんかせこいのではないのかと思ってしまうのである。あるいはなんか申し訳ないような気がしてしまうのである。儲けを減らしてしまうと思うのである。そういうサービスを期待して会員になったわけじゃないし、言われるままになっただけである。
 ポイントならそこで買ったものについて付加されるわけだから、そんなに気恥ずかしく使わなくても済むけれど、このはがきでコーヒーをもらうと、店の人間が私をせこい人間だと思うのじゃないかと思ってしまうのだ。どこかでちゃんと金を出して買えよと言っているんじゃないかと感じてしまう。だから堂々と使えない。
 最近は会社の同僚と飲まなくなったけれど、その彼と飲みに行くとお店の前で配っている割引券をしっかりもらったり、ぐるなびのクーポン券をちゃんとプリントアウトして、それを会計の時に出して、しっかりと割り引きしてもらう。私は酒を飲むときぐらいきちんとお金を払えよと思うのだが、彼にとってその行為は当たり前のことであって、権利としてそれを行使しているだけのことだから恥ずかしいことでもないみたいだ。それが今の人とっては当たり前であり、逆にそのくらいサービスしなさいよと言うところなのかもしれないが、どうもそういう感覚について行けないでいる。もちろん私だって割引は大好きである。大歓迎である。けれどそれをスマートに使えないだけなのだ。変な意地みたいなものがどこか自分の中にある。多分私の中にある融通の利かない古臭さがそうさせるのだろう。そして私が吉村さんの随筆を好むのは、そうした融通の利かない古臭さが吉村さんの文章には随所にあり、それが共感できるからじゃないかと思っている。結局小心者なのだ。

 さて、この本の解説を大河内昭彌さんが書かれている。この人がどういう人なのか知らなかったのだが、雑誌「食食食」の編集長だと知った。(この雑誌名「あさめし ひるめし ばんめし」という)実は私はこの雑誌二冊を手元に持っている。さっそく取り出してみると、確かに解説に書かれていたように吉村昭さんが連載している。しかも私の持っている35号には吉村さんの奥様も鼎談として参加されている。この雑誌今でもあるのかどうか知らないのだが、どうもネットで調べてみると、やたら古本屋さんの出品がヒットするので、もう出版されていないのかもしれない。でも面白い雑誌だと思ったので、そのままこの二冊は私の手元に残った。今、1983年(昭和58年)の雑誌のページをめくるのも楽しい。


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評価
★★★


書誌
書名:実を申すと
著者:吉村 昭
ISBN:9784480021526
出版社:筑摩書房 (1987/08/25 出版)ちくま文庫
版型:232p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年08月17日

吉村昭著『旅行鞄のなか』

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 またまた吉村昭さんの随筆を読む。もう完全に吉村さんの随筆にはまってしまっているのだが、まだ読んでいない随筆がだんだん少なくなってきているので、それを思うとゆっくりと味わいたい気分になる。もう新しい吉村さんの随筆は望めないなのだから。
 今回も吉村さんの身の回りのこと、あるいは小説のこと、そして旅のことなどがいつものように書かれているのだが、こうして同じ身辺雑記を読んでくると、なんか吉村さんの私生活がはっきりとわかってきて、それはそれで面白い。ああ、この人こうやって暮らしているんだな、と思えてくるのだ。その分身近に感じられ、もともと吉村さんの考え方や生きざまには共感する部分が多いだけに、ついつい「なるほど!」と思ってしまう。私はこの人みたいな一途で頑固な人が好きである。もちろん実際近くに接すことがあれば、ちょっと付き合いにくそうだけど、本の世界ではそういう現実がない分、気分だけを感じていればいいので、楽と言えば楽である。

 さてそんな中で「小説家と銀行」という文章で、吉村さんが家を購入するために、銀行にお金を借りに行くことが書かれているが、そこでには小説家は銀行の融資先として信用できないブラックリストに入っていると書かれている。だから銀行が小説家にお金を貸す場合、小説家の預金内に限られるというのだ。
 まぁ、小説家はいつも売れる本が書けるというわけじゃないからというところなのだろう。要するに当てにならないものにはお金は貸せないということだ。吉村さんは小説家はカタギじゃないから仕方がないし、それも当然と思われているようだ。
 でもカタギじゃないけれど、税金は収入のすべてが源泉課税され、それが税務署に報告される仕組みになっているから、脱税はできないといっているのがおかしかった。
 さらに小説家と税金の話をすれば、小説家が死ぬと遺された作品が今後どれほど売れるかを国税局で査定し、それが遺産に加算され遺族に相続税が課せられるという。
 カタギでない小説家は退職金はもらえないのは当然だけど、死後、その死によって逆に税金を払わないといけないのだと自虐的に書かれているのもおかしかった。
 有名作家が死ぬと追悼集とかその死を忍んで、生前の作品が大々的に売り出されるけど、あれも国税局は、作家の生前の人気で織り込み済みで、課税しているのかと思うと、薄ら寒く感じてくる。それがどれだけ正確なものなのか知りたくなってくる。もし国税局の予想に反して大いに売れちゃったりしたら、相続税は追徴課税されるのだろうか?逆の場合はちゃんと還付してくれるんだろうな・・・・。まあ思うに税金の徴収の仕方として、さっくりと多めに査定しておいて、その分先に税金を納めさせる。で、後で正確な数字がわかった時点で、「それじゃ、還してあげましょうかね」と言ってゆっくりと還付するのではないかと思ったりする。

 もう一つ気になる文章があった。「通夜、葬儀について」では、吉村さんが自分が死んだときは、これまで世話になった仕事の関係者に、死後までお世話になるのは申し訳ないから、葬儀は親族だけで済ますように遺書に書いていたという。その考えを菩提寺の僧に言ったら反対されたと書かれている。
 その僧は、葬儀は単なる仕来りにすぎず、お線香の一本でも、と言ってわざわざやってきてくれるのだ。その労力は並大抵じゃない。そういうことなのに、葬儀を営まぬ場合、死後も迷惑をかけたくないという故人の遺志とは逆に人に迷惑をかけることになると言ったという。
 確かに生前お世話になったから、心から冥福を祈りたい気持ちでお線香をあげに見える方がいれば、その気持ちはどうなるのだろうかと思う。またいわゆる冠婚葬祭として、お付き合いの葬儀の時もこういうのは困ることが多い。
 たとえば会社でお付き合いのあった人が亡くなられ、その葬儀はどうなっているんだとまず騒ぎ出すし、密葬だとわかれば、じゃどうすればいいんだと次に問題となる。
 会社としても知らぬ顔はできない部分があって、たとえつきあいとはいえ、できれば何とか葬儀に行って、お線香の一本でもあげれば形として済むのに、故人の遺志ということで、それに出席できないとなれば、会社としての体面をどうもっていけばいいか悩んでしまうことがたびたびある。そういうときははっきり言って迷惑だなと思う。
 故人としては、あるいは遺族としては、余計な迷惑を他人様にかけたくないというつもりであっても、それで済まない人も確かにあると思う。そういう意味では密葬というのは考えものかもしれない。この僧が言うとおり仕来りなんだから仕方がないと考えるべきなのかもしれないなんて思ったりした。
 もっともそういうのは有名人や会社のお偉方の話で、我々のような平凡な一般人で、平のサラリーマンである場合は、そんなに悩まなくてもいいかもしれない。
 私が死んだら葬式などいらないし、戒名なんていうのもいらない。焼いた後そのまま墓に放り込んでくれればいいと思っているし、家族にもそう言ってある。私は有名人でも何でもないので、私が死んで葬式をあげないということで、困る人はそれほどいまい。困るのは葬儀屋と寺の坊主だけだろう。
 でもふと考えたことがある。私が他人様の葬儀に出席するのは、そのほとんどが“お付き合い”からで、心底お線香の一本でもあげたいと思って葬儀に出席したことがない。逆に言えば、そういう気持ちを持たせる人がまだ亡くなっていないということだろうから、そう思えば喜ばしいことではあるかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:旅行鞄のなか
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169244
出版社:文芸春秋 (1992/08/10 出版)文春文庫
版型:237p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年08月13日

松田美智子著『新潟少女監禁事件』

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 この本は平成2年11月13日に新潟県三条市で当時小学校4年生の女の子の行方不明となり、その後9年2カ月後、平成12年1月28日に同県柏崎市で発見され保護された事件の記録である。犯人は本ではSとなっているが、佐藤宣行(当時37歳)である。何故この男の名前をSとするのかよくわからない。たとえ精神的病気をかかえていたとしても、もう最高裁で責任能力ありとして刑が確定しいるのだから、Sとする必要はないと思うのだが・・・)

 基本的にこの著者は犯人の裁判を傍聴することで事件の真相に迫る手法をとっている。私はこの犯人が何故9年2カ月も少女を監禁し続けたのかその理由を知りたいと思ってこの本を読んだ。しかし得てして犯罪者の心理は理解できないのが、ここでもあった。我々正常な人間にとってこの犯罪が裁判所の判決(一審)が言うように「動機も自己中心的かつ身勝手極まりなく、酌量の余地は皆無」と感じても、犯人にとってはそんなの関係ないというところなのだろう。犯人が少女を長期間監禁したことを監禁と思っていないのだから話にならない。いけしゃあしゃあと女の子が自分を怖がっているとは思わなかったと言うのであるから、「どうして?」という疑問には答えてくれるわけがないのである。
 我々はことが起こる度にそのわけを知りたいと思うし、何故それが起こったのか、筋の通った理由があるものだと思うところがある。けれどその筋の通った理由というのは、我々一般の人たちの常識範囲内で説明され、その範囲内で理解できることなのだ。そこから逸脱した論理や理由は当然理解不能となる。もちろん犯人側にとってはそれが正当な理由であってもだ。
 そうすると次にどうするかといえば、犯罪者の生い立ちや生活環境に理由を見出そうとするし、病気の有無を確認し始め、そこに問題があれば、「それだ!」とわかったような感じになってしまう。どうしてもどこかでわかりたいのだ。しかし果たしてそれで本当にわかったことになるのだろうか?単純な恨みつらみならはっきりしているから、ことは簡単だろうけど、他人の内面なんて理解できるものなのか、私には疑問に思えてくるときがある。

 さて、事件は少女にとって残酷なものであったことは疑いのない事実だけれど、私はどちらかというとこの犯人の裁判の方が面白かった。裁判は最高裁までいく。一審では懲役14年の判決が出る。ただし当時逮捕監禁致死傷罪の最高刑が10年の懲役刑(現在は15年)だったので、それでは少女が9年2カ月監禁されていたことを考えれば、あまりにも刑が短すぎる。そこで窃盗罪を合わせて併合罪とすれば、逮捕監禁致死傷罪の10年から五割を加算して15年にできることから、検察は求刑を15年と要求し、それでもまだ足りないということで、「未決拘置日数を刑期に1日も加算すべきじゃない」と異例の意見を加える。裁判所はほぼ検察の意見を認め、逮捕監禁致死傷罪で懲役14年の判決を下した。(未決拘置日数は刑期に加えられた)
 ところが控訴審では、それが破棄され、懲役11年の判決が出る。高裁の言い分は、逮捕監禁致死傷罪の最高刑が10年である以上、それ以上の刑期を下すのは刑法上の解釈の誤りだとしたのだ。併合罪を構成する個別の罪について、その法定刑を越える趣旨のものとすることは許されないというのだ。だからあくまでも逮捕監禁致死傷罪は10年が最高刑であり、それに窃盗罪をその法定刑の範囲内で加算すべきで、逮捕監禁致死傷罪の1.5倍は間違いだとしたのだ。そしてこの犯人の窃盗罪は軽微なものなので1年とし、合わせて11年としたのである。
 面白いのは高裁はこの逮捕監禁致死傷罪が10年であることが国民感情として軽すぎるとするなら、法律を改正するしかないと逃げ道を作っているのである。
 当然検察は最高裁に控訴する。当たり前である。最高裁は今度高裁の判決を破棄して、改めて懲役14年の判決を下す。但しこれは刑期の14年は同じだが、一審の判決を完全に支持したのではない。
 最高裁は併合罪の解釈について、それぞれの罪に個別の刑を合算するのは誤りで、法律上認められない。あくまでも全体を統一して処罰すべきだとしたのだ。当たり前である。窃盗罪として、この犯人が盗んだものは監禁した少女に着せるためのキャミソールなのだ。こんなこと最高裁まで行かなきゃわからないのかと思ってしまう。その上で逮捕監禁致死傷罪と窃盗罪を併合罪加重を行った場合、懲役3月以上15年以下となるので、14年が相当という判決を出したのだ。
 法解釈というのは不謹慎かもしれないがおもしろいものである。同じ14年の刑期でも地裁と最高裁で解釈の仕方が違うのだ。裁判というのは我々一般人からすると“茶番劇”みたいなところがあるんじゃないかとこの本を読んでいて思ってしまう。例えば高裁での弁護側の言い分には呆れる。監禁が9年2カ月も続いたのは、警察の不手際であって、今回偶然事件が発覚したため9年2カ月で済んだというのだ。確かにそうかもしれないけど、だからといってそれで済む問題じゃない。さっさと犯人を捕まえれば刑が軽くなったという弁護はおかしい。いったい弁護というのは何のためにするのだ。被告の人権を擁護するのは結構だけど、どう考えても酌量の余地のない犯罪に弁護はおかしいだろうといつも思う。行きすぎを抑制するのが弁護の仕事なら、それをすればいいのであって、ただクライアントの要求で刑を否定したりするだけだったら、いる意味がないのではないか。いつもニュースを見てそう感じるのである。結局弁護士も商売なのであろう。クライアントの要求が通ってなんぼなんだな、きっと。


評価
★★★


書誌
書名:新潟少女監禁事件―密室の3364日
著者:松田 美智子
ISBN:9784022616081
出版社:朝日新聞出版 (2009/02/28 出版)朝日文庫
版型:322p / 15cm / A6判
販売価:777円(税込)

2009年08月12日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈3〉

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 読みかけていたこの本を読み終える。読んで面白いなと思ったことを書いてみる。
 それは司馬さんが小説を書く場合、どんなとき、どんな人物を小説として書いてみようと思うのか?ということである。その素材を見つける時はどんなときなんだろうと興味がある。その見つけ方というか、司馬さんの興味のあり方を次のように書かれる。

 某という人物その人生というものは、その某の人生が完結したあと、時間がたてばたつほど、私にとって好材料になるのようである。時間が経たねば、俯瞰ができない。俯瞰、上から見下ろす。そういう角度が、私という作家には適している。たとえばビルの屋上から群衆を見おろし、その群衆のなかからその某の動き、運命、真理、表情を見おろしてゆく。この俯瞰法(つまり歴小説を書く視角)で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運命とその環境、そしてその最期、さらに某の存在と行動がおよぼしたあとあとへの影響、というものを知ることができる。たとえば織田信長を書く場合、どのように粗雑な態度の筆者でも、信長自身が知らなかったたった一つのことだけは知っている。それは本能寺でかれが自分の部将に殺される、という運命である。

 従って、「私は同時代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。理由は、最初にいったように「現代」では人生が完結していないからである」という。
 その上で、なおプラスアルファが必要だともいう。その人物が時代の変革期にいることである。その条件を満たしたとき、「自然、書くことが歴史小説になる」というのだ。
 そういう姿勢のだから、違う文章では「私は小説家であって、おなじく人間に興味をもつ教育者や政治家とちがう。だから『おまえはどんな人間像を期待するか』と問われても、答えようがないのである。そう在るような人間を書いているのであって、そうあるべき人間を書いているのではない」と言いきる。なるほどなと思った。

 そうして見つかった素材を小説にしていくとき、次のように注意していると言う。

 それぞれの創作家によって意見はちがうとおもうが、私の場合は、小説家には歴史を曲げる権利はないとおもっている。歴史は国民の共有財産であり、いかに小説であってもそれを勝手に変形していいものではないであろう。だから、私の能力のあたうかぎりにおいて正確を期したい。

 となれば当然多くの資料に当たらなければならないだろう。何かで読んだけれど、司馬さんが『坂の上の雲』を執筆されたとき、司馬さんが資料を集めたため、日露戦争関係の資料が神田の古本屋街でなくなったというくらい、正確を期するために多くの資料を読んで歴史小説を書かれている。これは大変なことだろうなと思うのだが、どうやらそうでもないようである。

 その正確を期すために先人の書いたものを読んだり、史料にあたったりするのだが、この段階のおもしろさというのは、私にとっていかなる娯楽にも代えがたいものである。
 かといって歴史家でないというのは、その段階を科学的精神と方法でやり、それを完結させるというのがその分野のしごとであり、小説家の場合は、その段階は単に創作的刺激をもとめるための予備運動にすぎない、ということである。いいかえれば、作家にとって資料というのは想像の刺激剤にすぎない。小説のたねではなく、あくまでも刺激剤なのである。

 ところがそうして資料あさりをしているとみごとすぎる歴史書に出くわしてしまった場合、ひどく困るという。それがあまりにも完全であるため、しかも文学的感動さえ与えてくれる歴史書を読んでしまうと、刺激剤どころではなく、想像の余地さえなくなってしまうものもあるという。
 このことは先日読んだ吉村昭さんの随筆にも似たようなことが書かれていた。吉村さんも歴史小説を書く場合、資料として例えば人物の伝記などを参考にする。その参考にした伝記が類い希な名著であり、史実すべてがその著作の中に詰め込まれていて、たとえ精力的に歩き回ったとしても、これ以上何も出てこず、これ以上手も足も出ない名著に出会ってしまうと、この素材を放棄するしかないと思うというのだ。
 私は大学で史学部を出ているけれども、そうした感動的な資料に出会ったことがなかったので、そういう歴史書とはどんなものなんだろうなと思う。もっとも大学では仕方がないからやってきただけだから、そんな本に出会えるわけがないだろうけど・・・。

 ところで、今度の30日には衆議院議員選挙がある。最近各政党では世襲議員の制限をやかましくいっている。いわゆる二世議員というやつだ。彼らは親の地盤を引きついでいるから、大した素質がなくてもその地盤を使って国会議員になれるから、よくないというのだ。
 だけどどうなんだろうなと思う。二世議員が親の地盤を引きついで議員になるのと、まったく政治に疎い素人が、ただ興味があるというだけで国会議員になるとどちらが素質的にいいのだろうかと思うのだ。もちろん機会均等ということは大切である。けれどその二世議員が子供のときから国会議員である親を見てきている。あるいはたくさんの政治関係者の中で育ってきているはずである。となればその二世議員が育ってきた生活環境は、どこまでも政治がつきまとう環境ではないのかと思うのだ。代々政治家を輩出してきた家では、そういう伝統だってあるだろう。そう考えたとき、ずぶの素人と二世議員のどちらが次の政治家として力を発揮できるのだろうかと思うのだ。何はさておき人脈がものをいうに決まっている。
 何でこんなことを言うかといえば、司馬さんが「日本というのは徹底した大衆社会というべきであろう」と言い、日本がヨーロッパの貴族階級のような支配階級が長つづきしなかったが、ただ徳川時代は例外である。武士の支配階級が三百年も続き、その精神美を作り上げた。明治もある意味それを引きついだが、終戦後それらすべて滅びた。以後大衆一枚きり社会となったと説明する。
 このことはそれまで持っていた重厚な伝統や美意識など関係なく、あるものはいかにも薄っぺらで、インスタントになったという意味を言っているからである。
 司馬さんはそうした貴族階級や支配階級の存在を肯定しているわけではないが、ただそうした階級の人々には重厚な伝統や美意識が骨の髄までしみこんでいるはずで、それ随順しようが、たとえ反逆しようがその社会(世界)にはそれに対応できる実容量あったはずだ。歴史とか伝統というのはそういうものであると言うのである。
 そうなのだ。二世議員のいる環境には「政治」という実容量があるわけだから、単に親の地盤を引き継ぐだけで政治家になるのはけしからんと言い切っていいのかどうかと思うことがある。もちろんどうどようもないボンクラもいるだろうけど、地盤も環境も政治とかけ離れた世界に住んでいた人間がある日突然政治家になっても、いったい何ができるというのか。二世議員の家にはそれまでのしがらみがあるだろうけど、大衆社会一辺倒になった今、そういうしがらみがない分、ある意味自由であるが、内容は薄っぺらいだけである。だからそれが政治家になれば恥知らずとなり、選挙民は単に政治家にたかるだけの存在となるだけなのではないだろうかという司馬さんの意見にはうなずいちゃう部分がある。

 えっ、東国原知事がいるではないかと言う声が聞こえそうだけど、あれは政治家じゃない。宮崎県知事を利用して国会議員になるという野望が見え見えだ。どこまで宮崎県のためにと思って行動しているか疑問がある。今回それが露呈したではないか。どう考えたって政治家の器じゃない。単に大衆社会の落とし子、あるいはあだ花だとしか思えないのである。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈3〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467035
出版社:新潮社 (2001/12/15 出版)
版型:397p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫ならあり

2009年08月10日

吉村昭著『私の引出し』

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 この随筆の題名が“うまいなぁ”と思った。吉村さんは多くの歴史小説を書かれている。そのため日本全国取材のため歩かれている。それだけじゃない。心臓移植の小説も書かれていて、世界ではじめて心臓移植をした南アフリカまで取材のため行かれている。そのため小説では描かれなかったエピソードがそれこそ吉村さんの引出しにはたくさんあって、それをここで披露される。
 それを最初の引出し―小説の周辺、二番目の引出し―歴史のはざまで、三番目の引出し―街のながめ、四番目の引出し―遠い記憶、五番目の引出し―書斎を出れば、六番目の引出し―お猪口と箸と分け、取材で印象深かった出会いや思いがけない事実、その土地で出会ったおいしい食べ物の話、あるいは吉村さん自身の思い出などをさまざまところで発表されたものを引出しに見立てたものにまとめ、いかにもそこから引き出している感じで描かれる。読んでいてほのぼのとしてくる。
 いい随筆はおいしいお酒や食べ物と同じで、読む人がそれぞれ味わい深く感じればいいものだと思ってしまう。先に読んだ『ジョン・レノンを殺した男』で少々気分的に陰になっていたので、気分転換に誰かのいい随筆やエッセイを読みたいと思っていたのだ。最初司馬遼太郎さんの単行本を手にしたのだが、腰を痛めてしまい分厚い本を持ち歩くのが苦痛になり、急遽文庫本の吉村さんの随筆に切り替えた。でもそれでよかったようだ。腰を痛めて余計に気分が滅入っていたところであったので、吉村さんの随筆はちょっとした気分転換になった。

 さて、戦後間もない頃、吉村さんお父様が病気になり、大学病院へ入院することになった時の話である。当時は自動車などなくて、大学病院まで長いリヤカー(大八車みたいなやつか?)に蒲団を敷き、そこに寝かせて運んだという。亡くなられたときは、遺体を焼くために燃料を持参して欲しいと火葬場から言われたという。火葬場では燃料が不足していた時代であったのだ。この時も遺体を納めた棺と、燃料をリヤカーで運んだという。そういう時代が六〇数年前にはあったのだ。
 そうしたリヤカーではないけれど、人が引き物を引いていた時代は、私の子供の頃にもあった。屋台を引いてものを売って歩いている人がいた。例えば金魚売りや風鈴売り、あるいは公園の入り口近くにいつも来るおでん屋さんの屋台など、いつも目にしていた時代であった。金魚鉢の水がゆらゆら揺れる様は懐かしいし、風鈴の涼しげな音色なども思い出す。小銭を握りしめて、おでんを物色していた頃も懐かしい。あれはあれで結構美味しいかったよなあと思う。
 バナナと卵のことも書かれている。今ではバナナはダイエット食品としてもてはやされているし、私もダイエットじゃないけれど、お腹にいいということで、一日一本は必ず食べている。
 卵にしても「物価の優等生」として、値段が大きく変動しない商品となっているが、吉村さんの若い頃はバナナも卵も高級商品だった。吉村さんの記述によると「戦前は、病気見舞いをはじめ他家を訪れる時など、手土産に卵を持っていくことが多かった。厚紙で作られた箱にモミガラを敷きつめ、そこに十個ほどの卵が埋められている。箱には鶏の絵が印刷された紙がかけられていた。手土産にしたことから考えて、今の価格で言えば卵一個三百円以上はしたことになる」と書かれている。卵がそんな高級品とは知らなかったけれど、私が子供の頃近所の商店で卵を売っていた頃を思い出すと、確かに卵はモミガラの中にあった。
 バナナにしても「家内が長男を産んだのは昭和三十年秋で、そのお祝いとして家内の親しい友人三人が、お金を出し合って一房のバナナを贈ってくれた。現在の価格で言えば、七、八千円でもあっただろう。高級メロンのような扱いをうけていたのである」と書かれている。
 これに似た記憶が私にもある。父親の会社の同僚が入院したので、そのお見舞いに一緒に行ったときのことである。父親が果物屋で大きな房のバナナをお見舞い用に包装してもらっていたのである。当時バナナはお見舞い用の果物だったのだ。大きな房にたくさんのバナナがついていて重そうであったのを思い出す。
 


評価
★★★


書誌
書名:私の引出し
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169305
出版社:文芸春秋 (1996/05/10 出版)文春文庫
版型:316p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年07月22日

村上春樹著『もし僕らのことばがウィスキ-であったなら』

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 最近ヨーロッパのどこに行きたいかと聞かれたら、アイルランドとギリシアとイタリアと答えるような気がする。大学時代なら間違いなくドイツ、特にバルト海に面した地域だったのだが、何故か今は当時の興味はない。
 特にアイルランド、J.M.シングの『アラン島』に描かれた景色を見てみたい。自然の荒々しさを間近に感じたい。その過酷な自然の中で生活している人々を見てみたいと思うのだ。わずかな土を大切に運び、強い風で飛ばされないように石垣を作り、作物を作っている姿を見てみたいと思う。妥協のない敬虔な祈りを捧げるカトリック世界を感じたい。よくそう思うのだ。
 そういう気分で自分の本棚を眺めてみると、村上さんの紀行文にこのスコットランド、アイルランドの紀行文とギリシア、イタリアの紀行文があるのを見つける。ギリシアの方は読んでいるのだが、当時はギリシア、イタリアにあまり興味がなかったためか、あるいは村上さんの本が記憶に残らないところがあるためか、とにかく内容がどんなものか覚えていない。ちょうど今ハルキフリークの状態なので、この2冊を読むことにする。手始めにこの本だ。

 この本はスコットランドとアイルランドでシングルモルトのウィスキーを飲みに行く旅である。私はお酒がほとんど飲めないので、ウィスキーに詳しくないのだが、それでも奥様の撮られた写真がいい雰囲気を出している。パブと前足を揃えた猫の写真がいい。猫の写真を見たとき、思わず指で頭をなでてしまった。
 昔本屋でアルバイトを始めたとき、先輩に新橋のパブに連れて行ってもらったことがある。もちろんパブなんて行ったのは初めてである。薄暗い店内のカウンターに座ったと思う。ウィスキーの瓶を逆さに吊してあって、そこからウィスキーをグラスに注ぐ。初めてバランタインを飲んだ。何年ものか忘れちゃったけれど、グラスにわずかに注がれ、大きな氷が溶けて、ウィスキーの琥珀色が氷が溶けた水になじむのが目に見えて不思議な感覚であった。当時は何でこんな少ししかウィスキーを入れてくれないのだろうと疑問に思っていたくらい、何も知らない時であったが、それでも店の雰囲気は今でも記憶に残っている。多分アイルランドでのパブもこんな感じなんだろうなんて思った。
 この先輩は私をいろいろなところに連れて行ってくれたが、連れて行ってくれたお店はみんないい雰囲気の店であったような気がする。薄暗く、騒がしくない、落ち着いてお酒が飲め、話ができた。今でもできるなら当時連れて行ってくれたお店に行ってみたいなという思いに駆られるけど、場所もわからないし、お店だってあるかどうかわからない。だってもう30年近くたっているから。でも私の中で静かにお酒を飲むなら(そんなに飲めないけど)、当時連れて行ってくれたお店であって欲しいと思う。今はやりのショットバーは狭く、やかましくてしかたがない。(いいところへ行っていないんじゃないのと言われればそうかもしれないけど・・・)
 本の中に、よれよれの背広を着てパブのカンターに座り、ポケットから一杯分のコインを正確に出し、バーテンダーが逆さに吊したボトルからシングルモルトのウィスキーをグラスに注ぎ、出されたお金を数えることなく取る。バーテンダーも男も一言も発しない。しかし男は出されたウィスキーをゆっくり飲む。村上さんはその男を見て次のように書く。

 老人はウィスキー・グラスを手に取り、静かに口に運んだ。水で割らなかった。チェーサーもとらなかった。店の中はひどくにぎやかだったのだけれど、それはほとんど気にならないようだった。多くの人がやるように、カウンターにもたれたまま後ろを振り向いて、店内をぐるりと見回したりもしなかった。そこに存在しているのは、彼と、彼の手の中にあるウィスキーだけだった。もしそのパブに彼以外にだれ一人客がいなかったとしても、おそらくまったく気にならなかったに違いない。
 見たところ、彼は話し相手や顔見知りの仲間を求めてこのパブに来ているわけではないようだった。というか、顔見知りの仲間というようなものがいるのかどうかさえあやしいものだった。でもひとつだけ、確信を持って僕に断言できることがあった。それは彼が完全にくつろいでいるということだった。こんなにくつろいでいる人を見かける機会は、長い人生の中であまりないだろう-と言えるくらいくつろいでいた。

 この手の話、なんか以前別の作家の本で読んだことがある。誰だったか忘れてしまったけれど。でもいい感じだなと思った。


評価
★★★


書誌
書名:もし僕らのことばがウィスキ-であったなら
著者:村上 春樹
ISBN:9784582829419
出版社:平凡社 (1999/12 出版)
版型:119p / 20cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年07月14日

吉村昭著『関東大震災』

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 関東大震災の焼失図を見ると、東京市の大半が焦土をしめす朱色がべったりと塗りつけられている。が、その中に浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が焼失をまぬがれていたことがわかるが、殊に和泉町、佐久間町の地域が、広大な朱色の焼失地域の中で焼け残り地区を示す白地のままであるのがひどく奇異なものに映る。
 この一区画の焼け残りは、関東大震災の奇蹟とさえ言われた。

 和泉町、佐久間町の見事な焼け残りは、好条件に恵まれていたが、住民たちの努力によるものであった
 環境条件として、町の東北隅に内務省衛生試験所、三井慈善病院があって、それらが耐火構造建物であったので防火に有利であったことも幸いした。また北側には道路をへだてて三ツ輪研究所、郵便局、市村座劇場の煉瓦造りの建物が一列に並び、それらは後に焼けたが防火壁の役目を果たした。
 さらに南側は神田川で、対岸に煉瓦造りの建物が並び、その向う側には広い道路が走っていたので、火流を防ぐことも比較的容易であった。
 それに水道は杜絶したが、神田川と秋葉原貨物駅構内から神田川に通じるドッグがあって、水利に恵まれていたことも幸運だった。 しかし、住民たちが、四囲を完全に火に包まれた中で町内にとどまり、火と戦ったことは大きな賭であった。もし防火に失敗すれば、町内には炎がさかまき、全員焼死することが確実だった。
 最初に火が起ったのは和泉町三ツ輪研究所で、隣接の内務省衛生試験所等にも移ったが、水道の水が断たれていなかったので、住民たちはバケツ注水でこれを消しとめた。
 午後三時頃になると、本石町方面から火が迫り、神田川をへだてた地域と東龍閑町、豊島町一帯を西から東に焼きはらった。丁度佐久間町二、三、四丁目は、その大火災の風下にあたっていて、重大な危機におちいった。
 住民たちは、神田川の水を汲み上げ、極力消火につとめた。そのうちに民家に飛火して炎をふきはじめたが、住民は一致してこれを消しとめた。
 また他の一隊は、神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき、道路の南側で火流を阻止することに成功した。
 日が没し、町の周囲には大火災が乱れ合った。
 午後十一時頃、神田明神方面から猛火が津波のように轟々と音を立てて迫ってきた。その火炎は遂に佐久間町一丁目の一部を焼き、秋葉原駅構内をなめつくして和泉町の袂まで燃えてきた。
 そのままでは平河町が焼きつくされてしまうので、住民たちは死力をつくしてバケツの水を浴びせかけ、ようやく九月二日午前零時頃消しとめることができた。
 さらに朝五時頃、浅草左右衛門町、向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に及んだので、それに面した家屋を破壊し、西側に火が移るのを防止した。
 二十時間にわたる火との戦いで、住民たちの疲労は濃かった。足腰も立たずに座り込む者が多かったが、その日の午後三時頃、最大の火炎が浅草方面から和泉町目がけて襲ってきた。
 住民たちは、声をはげまし合い和泉町方面に集まった。少数の外神田警察署員をふくむ数百名の住民たちに、老人、婦人も加わり、あくまでも町を死守しようとかたい決意のもと大火炎の迫るのを待ちかまえた。
 その時、町内の帝国嘲筒(そくとう)株式会社にガソリン消防ポンプが一台あることが判明した。それは、同社が八月二十九日に完成し目黒消防署に納入予定のポンプであった。
 住民たちは、同社重役の快諾を得てポンプを借受け、まず火の迫る以前に同町の西側に注水した。
 やがて、火炎がすさまじい勢いでのしかかってきた。
 住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。
 火との戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食いとめることに成功した。その結果、千六百余戸の家々が東京市の焦土の中で焼け残ったのである。この奇蹟的ともいえる和泉町、佐久間町の焼け残りは、すべて住民の努力によるもので、消防署は防火活動に全く従事していない。

 長い引用をした。この大火災は関東大震災によるものである。

 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分四十四秒、東京市内に設置されていた中央気象台と本郷の東大地震学教室の地震計が突然生き物のように動き始めた。
 振動は、押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから十五、六秒後には想像を絶した激烈さまでたかまった。
 その瞬間、戦慄すべき現象が起った。中央気象台は明治九年以来地震観測をおこなっていたが、観測室におかれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊してしまった。
 地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動が始まった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに震動が激化すると同時に破損してしまっていた。

 地震発生時が午前十一時五十八分四十四秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭では竈、七輪等に火をおこして昼食の支度をし、町の飲食を業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。そこに大地震である。今よく言われる“グラッときたら火を消す”という余裕などなかった。倒壊した家では、圧死からのがれるだけで精一杯で、竈や七輪におこっていた火の上に木材や家財がのしかかり、たちまち火災が起った。
 その上、この日は風向が南又は南東で、風速は低気圧の影響を受け十メートルから十五メートルとかなり激しい日であったため、さらに火災が広がった。
 そしてこの本を改めて読んで知ったことなのだけれど、火災を引き起こした最大の原因が学校、試験所、研究所、工場、医院、薬局等にあった薬品類であった。それらが地震で棚等から落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校(三カ所)、富士見町の日本歯科医専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市ヶ谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部、同医学部薬学教室(四カ所)、同医学部外来患者診察室、麹町区の麹町高等小学校、芝区の慈恵会医科大学、小石川区の専修高等女学校、日本女子大学からそれぞれ出火した。

 震災で引き起こされた火災は東京中を焼きつくすのだが、奇跡的に焼け残った地域が私の会社のある神田和泉町であった。私は以前からこのことに興味を持っていて、何度か調べたこともある。だからここに長い引用を引いたのだ。ここが焼け残ったのは、確かに環境条件がよかった部分もあるけれど、ここに住まれる住民たちの努力があったからで、私の会社の先代の社長が書いた震災による消火活動の手記を読んだとき、初めてそのことを知ったのであった。


 【和泉町防火奮闘記】神田和泉町(故)持田光太郎
 関東大震災の翌日、大正12年9月2日午後3時ごろ、浅草方面からの猛火が和泉町に迫った。町と道路一つ隔てた凸版印刷は焼け落ち、市村座も燃え始めている。水道は断水し、井戸水はあったがバケツ以外に消火器具はなく、町内の青年たちは猛煙の空を仰ぐばかりだった。
 このとき、「そうだ。ポンプがある!」と父喜太郎(当時51歳)が叫び、近くの帝国ポンプ会社が目黒消防署に納入することになっていたガソリンポンプ車を、下水道局和泉町ポンプ場に、みんなで運んだ。そこの浄水プールを水源に、それぞれ100メートル近いホース2本を延ばし、筒先は佐々木高太郎さん(当時40歳)と私(当時26歳)が握った。
 「市村座の火を消せ!」、「町を守れ!」などの声が飛ぶなか、私は市村座前の道路を阻止線とするしかないと考えた。佐々木さんは六尺ふんどし、私は紺色の水兵服(軍艦「長門」の元乗組員だった。)を着て、駆け巡り、放水を続けた。やっと町への延焼を食い止めたのは、5時間後か、8時間後だったか、よくおぼえていない。
 ポンプ車といってもガソリンがなければ動かない。父は自転車で、自動車修理工場や自転車店をかけ回り、ガソリンを集めてきた。当時、東京市全体にポンプ自動車38台、水管自動車17台、手引水管車28台しかなく、神田地区には一台の余力もなかった。事実、「神田地区消防隊従事なし。」の記録がある。
 いま振り返ってみると、家族をみんな上野に避難させ、大人たちが心おきなく協力して活躍できたこと、町内から二か所出火したがすぐ消し止めたこと、南に神田川、北に広い庭のある三井慈善病院が自然の防壁になったこと、火勢のいくつかが旨く一角を避けたこと、しかしなんといってもあのポンプ車の威力がすごかったと思います。そして、あの時の父の存在も忘れられません。(『目でみる千代田区の歴史』 東京都千代田区教育委員会)


 さて、この震災で焼死者が一番多くあったのが本所区横網町にあった被服廠跡であった。ここは陸軍省被服廠の建物があった場所で、被服廠移転にともなって大正十一年三月逓信省と東京市に払い下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予定になっていた。
 二万四百三十坪余の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署員も同地に避難民を誘導した。そのため被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起って、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。
 これはすごい数字である。わずかな地域で東京の半分以上の死者をここで出してしまったのである。吉村さんは「関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい」と言い切る。
 さらに避難者が持ち出した家財は東京にかかる橋を焼きつくすことにもなった。この当時東京にあった橋は「総数六百七十五で、地震によって墜落又は破損したものはわずか十八にすぎなかったが、火災によって三百四十の橋が被害を受けた」のだ。橋の上で家財に引火した火から逃れるために、人々は川に飛び込み、溺死者を多く生んだ。その数は「東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千百七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七.四倍弱にも達している」という。

 江戸には大体百年おきに大地震が起こっている。関東大震災と同規模の大地震であった安政二年の大地震でも、大火が起こっていて、火災が起こった箇所は六十六カ所で、関東大震災の八十四カ所と著しい差はない。しかしの焼失面積は、関東大震災の方が十九倍というすさまじさであった。
 しかも江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は秀れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していたし、家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。
 江戸時代に防火のため火除原と称された広場や広い道路(広小路)が作られていたのに、それが無駄な場所と考えられ、いつの間にか民家で埋められてしまい、防火思想が江戸時代より後退していたのである。これを見るだけでも明治という時代が何もかも慌てて造られ、後々のことも考えずに、体面だけ形だけでも繕った時代であったことを知らされる。
 寺田寅彦は関東大震災の大災害は、歴史的に考えれば前例が繰り返されたにすぎず、それは人間の愚かしさから発していると述べている。過去の人間が経験したことを軽視したことが災害を大きくした原因であり、火災に対する処置などは、むしろ江戸時代より後退していると嘆いた。
 さらのこの後起こる朝鮮人襲来の流言も、それを冷静に考えれば全く信ずるに足りないものであることぐらいわかるはずで、日本人が科学的な判断をもたぬために起こった不祥事であったと非難する。
 震災にかこつけて朝鮮人が襲来してくる。あるいは井戸に毒を投げ込んだという風説は、震災というパニック状態で起こったものであろうが、そうした風説が人々に信じられた背景がそこにはあった。
 明治三十七年二月に締結した日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意志を完全に無視したものであることを、日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、を十分に知っていた。また統監府の過酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れこんできた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気がついていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。その鬱積した憤りをこの大震災に当たり、朝鮮人が日本人にたたきつける公算があると思えたのだ。
 朝鮮人襲来説は、横浜市内で発生し、それが強風にあおられた野火のように東京府から地方の市町村へすさまじい速度でひろがった。それは、政府、軍部、警察関係者にも信じこまれて各種の通信等によって裏づけられたため、庶民はその流言を事実と思いこみ、朝鮮人をはじめ日本人、中国人の虐殺事件をひき起した。
 その後、政府は朝鮮人に関する風説が全く根拠のないものであることを確認して、流言を打ち消すことにつとめ、殺害事件の発生を防止することに努力した。
 しかし、大災害後の混乱で理性を失った庶民は、官憲の注意にも耳をかさず凶行をつづけていったのである。
 責任の根源は、政府、軍部、警察関係者にあったが、同時に騒擾を好む一部の日本人の残虐性が悲惨な事件を続発させたのである。
 犯罪も多発した。震災で人々は家屋や職を失い、生活するために盗みを行った。焼け跡に行って、金目のものを掘り出したり、食糧や金目のものを持っている人を脅したり、あるいはそれらが高く売れるため、私利私欲に走り値段を高額に引き上げたりした。人心はすさみ、賭博、売春も行われた。
 これは阪神淡路大震災の時も似たようなことが起こっている。生きるためにはやむを得ないといってしまえば、その言葉がどこか正統性を帯びているように思えるけど、多分これは日本人特有の“自分だけがよければいいのだ”という身勝手さと、日頃えせヒューマニズムで理論武装している人が本性を現せばこういうことになるのだ。当時も今も何ら変わっちゃいないことを改めて思う。


評価
★★★


書誌
書名:関東大震災 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169411
出版社:文芸春秋 (2004/08/10 出版)文春文庫
版型:347p / 15cm / A6判
販売価:570円(税込)

2009年07月12日

吉村昭著『蟹の縦ばい』

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 続いて村上春樹さんの本を読もうと思っていたのだけれど、『ねじまき鳥クロニクル』でいささか疲れちゃってとてもじゃないが続いて村上さんの本を読む気力がなくなってしまった。ちょっと休んでから読みたいと思う。
 こういう時は味のある、お気に入りの随筆を読むのがいい。今は吉村昭さんの随筆がいいので、この本を手にした。まずは「へぇ~」と思ったことから。

一.歳四拾弐三位ニ而 ふけ候方
一.丈高く 太り候方
一.面長ニ而 角張候方
一.色白く 眉薄し
一.鼻大キク高キ方
一.眼ノ外ニそばかす少し有
一.歯並揃ひ 入歯之様ニ見え候

 これは高野長英の人相書きの一部である。気になるのは入れ歯のことである。江戸時代にも入れ歯があったんだと思ったわけである。というかそれよりもかなり前から入れ歯はあったらしい。当時の入れ歯の床は黄楊(つげ)が使われ、歯は蝋石や水牛の角などが使われていたらしい。かなり精巧なものだという。

 もう一つ。人間70歳になると「古稀」というが、この言葉の由来が杜甫の曲江詩「人生七十古来稀なり」から来ている。「古来稀(まれ)なる長寿という意味だそうだ。

 さて、読んでいて「そうだ!」と同感することが、お気に入りの随筆には結構ある。結局自分が気に入るということは、その文章を書いた人と読む側の私が同じ精神構造を持っている部分が多いからじゃないかと思う。吉村さんのこの本は50代頃に書かれたもののようで、ちょうど今の私と同じ年齢である。だから吉村さんが感じることが、同感できる。これが若い奴が言っていると、「何言ってんだ」とちょっとからみたくもなるが・・・・。
 さて、私の父親はボタンのデザインを考える仕事をやっていた。もちろん今はリタイアしていているが、そのデザインを勉強するために、ヨーロッパのファッション動向を見に行った。昭和40年代だったと思う。
 その父親がヨーロッパから帰って来たら、いきなりフォークとナイフの使い方にうるさくなった。特にフォークでご飯を食べるとき、フォークの背にナイフでご飯を押しつけ、それを口に持っていく様にしろというのだ。
 最近“びっくりドンキー”などそんなフォークの使い方でご飯を食べている奴を見かけたことがある。こんなところでそんな食べ方をして何気取っているんだと思った。食べやすいように食べればいいのにと思う。たぶん当の本人してみればそれが正しいマナーだと思っているんだろう。
 しかしよく考えてみれば、ヨーロッパはパン食であろう。ご飯をナイフとフォークで食べる習慣はそれほどなかったんじゃないか?ということはヨーロッパでそんなフォークの使い方でご飯を食べるマナー?が生まれたとは思えない。たぶん日本のテーブルマナーを指導する先生方がお考えになったんじゃないかとにらんでいる。
 吉村さんもここで、「マナーというものは、第三者に不快な感じをあたえぬためのものである。気取った食べ物の食べ方をしたら、本人も味を十分に楽しむことはできないし、第三者からみても堅苦しい食事にみえる。自然であることが、望ましいのだ」と言っているし、「上品であることはむろん好ましいが、上品ぶることは野暮である」とも、店の雰囲気も含めて言っておられる。

 料理屋で吉村さんが女中さんを「お姐さん」と呼ぶ声を聞く。その人は一人で飲んでいる六十年輩の男性で、酒のおかわり頼んでいる。それを吉村さんは「実にいい感じであった。風鈴の音がチリンときこえたような涼やかな感じがし、いい言葉だ、と思った」と書かれている。
 それに比べて「お嬢さん」といい年をした女の人を平気で言う人間をおかしいという。この「お嬢さん」という言葉で思い出すのがみのもんたである。今はお昼のテレビに出ていないけれど、ちょっと前までいいおばちゃんをつかまえて、「お嬢さん」と言っていた。私は言う方も言う方だが、言われて平気でいられる方もおかしいんじゃないのと思っていた。吉村さんは「お嬢さんとは、目下の者が世話になっている家の娘に対する呼称である」のだからおかしいと言う。つまりみのもんたは言葉の使い方を知らないのだ。もちろんウケを狙って言っていることぐらいわかるが、そんな正しい言葉の意味もよく考えない奴が、ニュースキャスターみたいなことをやっていいのだろうかと思う。

 他にこの随筆では吉村さんの奥様のこともいくつか書かれている。奥様に対するやさしさや気遣いが見られ、読んでいてほのぼのとしていい感じであった。そんな吉村さんも結婚するといつの間にか奥様に手なずけられてしまうことを嘆いておられる。「女房というものは、絶えず亭主を自己流に手なずけようとうかがっている。結婚以来二十年たつが、その歳月はそうした妻との戦いの連続でもあった」、と書かれる。これはよくわかるなぁ~。


評価
★★★


書誌
書名:蟹の縦ばい
著者:吉村 昭
ISBN:9784122020146
出版社:中央公論社 (1993/07/10 出版)中公文庫
版型:373p / 15cm / A6判
販売価:840円(税込)

2009年07月10日

村上春樹著『ねじまき鳥クロニクル』〈第1部〉泥棒かささぎ編・〈第2部〉予言する鳥編・〈第3部〉鳥刺し男編

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 最新刊の村上さんの本を読んだので、読みそびれていた以前のこの本のことが気になり、手にする。第一部、二部はわりとすらすら物語の中に入っていけたのだけれど、三部になるといささか疲れを覚え、読み終えたときには疲労感いっぱいであった。
 いったいこの本はなんなんだ!というのが正直な感想である。これをどうやって自分の感想を書けばいいのか正直困っている。うまく書けないけれど書けばこんな感じだ。

 村上さんの小説はいつも大切な人、あるいは大切なものを捜し回るというパターンが多いが、今回もそれである。主人公の岡田亨が失踪した妻クミコを探しに行く。そして物語は様々な世界に我々を連れて行ってくれる。現実と非現実。過去と現在。それぞれが交錯する。それは我々が当たり前と思っている、今いる世界が、まるで回転扉ようにそれが回ると簡単に非現実的な世界や過去へと変わる。つまりそれほど確かなものじゃないということ教えてくれる。というか、今現在がどこか非現実的なことで成り立っているところがあるし、過去の蓄積が現在を成り立たせているところがあることを教えてくれる。
 我々のいる世界が実は理不尽で、残酷で、理解しがたい部分があまりにも多くあり、ちっともリアリティーじゃないことを思い知らされる。そういう世界がこの物語では、「ねじまき鳥」の存在を通して語る。

 「ねじまき鳥」は大きな力を持っていた。人々は特別な人間しか聞こえないその鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは、人間の自由意志などというものは無力だった。彼らは人形が背中のねじを巻かれテーブルの上に置かれたみたいに選択の余地のない行為に従事し、選択の余地のない方向に進まされた。その鳥の声の聞こえる範囲にいたほとんどの人々が激しく損なわれ、失われた。多くの人々が死んでいった。彼らはそのままテーブルの縁から下にこぼれ落ちていった。

 ねじまき鳥は実存するんだ。どんな格好をしているかは、僕も知らない。僕も実際にその姿を見たことはないからね。声だけしか聞いたことがない。ねじまき鳥はその辺の木の枝にとまってちょっとずつ世界のねじを巻くんだ。ぎりぎりという音を立ててねじを巻くんだよ。ねじまき鳥がねじを巻かないと、世界が動かないんだ。でも誰もそんなことは知らない。世の中の人々はみんなもっと立派で複雑で巨大な装置がしっかりと世界を動かしていると思っている。でもそんなことはない。本当はねじまき鳥がいろいろな場所に行って、行く先々でちょっとずつ小さなねじを巻いて世界を動かしているんだよ。それはぜんまい式のおもちゃについているような、簡単なねじなんだ。ただそのねじを巻けばいい。でもそのねじはねじまき鳥にしか見えない。

 ここでは説明できない、あるいは納得できない現実がどこかあって、それは「ねじまき鳥」が人間の意志に関係なくねじを巻くから、そうなるのだというのだ。岡田亨の妻クミコが失踪するのも、岡田亨が理解できる範囲のものを超えた何かであり、彼の回りに集まってくる変わった名前の登場人物も、彼の理解を超えた何かを持っているか、不可解な(あるいは異常な)過去の持ち主であるが故、ある意味なかなか理解しにくいものがそこにはある。
 でも、世の中というのはそうした雑多な世界にいる人々で成り立っているところがあるのだ。だからわかったようで実は誰もわかっちゃいないということなのだ。
 それでも何とかわかりたい。理解したい。失踪した妻を捜し出すために。だから笠原メイが岡田亨の苦悩を次のように言うのだ。

 あなたはいつも涼しい顔をして、何がどうなっても自分とは関係ないという風に見える。でも本当はそうじゃない。あなたはあなたなりに一生懸命闘っているのよね。

 この物語に登場する人物たちの話、過去に経験してきた悲惨で、残酷な体験は、その人物たちの思想形成に多大な影響を今現在に及ぼしたけれども、聞く側の人間にとって、それを完全に理解できないものである。そんな状態の人間の集まりである世の中がどうして確かなものなのか?世の中そのものが複雑怪奇となっても不思議じゃない。
 でも、そうであっても少なくとも自分が愛している妻だけはどうしても理解したい。二人の間だけは“確かなもの”でありたい。そういう気持だけは伝わってくる。多分それが岡田亨の闘いなのだろう。


評価
★★★


書誌
書名:ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534037
出版社:新潮社 (1994/04/12 出版)
版型:308p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)


書誌
書名:ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534044
出版社:新潮社 (1994/04/12 出版)
版型:356p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)


書誌
書名:ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534051
出版社:新潮社 (1995/08/25 出版)
版型:492p / 19cm / B6判
販売価:2,205円(税込)

2009年07月01日

吉村昭著『日本医家伝』

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 この本で取り上げられている医家は主に江戸時代の人物か、あるいは明治にかかる頃までの人物と限定し、しかも先駆的業績を持つ12人である。以下ざっと取り上げてみる。

 山脇東洋(1706~1762)は江戸中期の宝永二年十二月十八日、丹波亀山の医家清水立安(号東軒)の子として生まれた。名を尚徳、通称を道作といい、字は玄飛又は子樹、号を移山、後に東洋と称した。
 東洋は日本で初めて腑分を実際自分の目で見た医家である。東洋はかねがね人体は五臓六腑で成り立っているのだろうかという疑問を持っていた。もしそれが本当なら実際にそれを見てみたいと思っていた。
 宝暦四年京都で斬首刑になった人物の腑分けが行われるのに立ち会うことができた。当時は医者自らがメス(当時メスなんてあったのかどうか知らないが、とにかく体を切る道具)を握って体を開かない。雑役がちゃんといて、それが罪人の体を切り開き、それを医家が見るというものであった。それでも東洋は医家として日本で初めて人体の臓器を見た人物であった。

 前野良沢(1723~1803)は名を熹(よすみ)、字は子悦、号は楽山。筑前藩士谷口新介の子として享保八年江戸の牛込矢来に生まれた。医家として唯一オランダ語研究家であった。良沢は杉田玄白の誘いで腑分けを実見するが、この時オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」という解剖書を持参してきた。玄白もやはり同じ本を持ってそこにいた。その後杉田玄白が良沢を誘ってこの本を日本語に翻訳する。
 しかし玄白にはこの本を翻訳することで名声を得たいという野心があることを良沢は見抜いていた。学究肌の良沢にしてみればそういう野心は許し難かったが、玄白がいなければこの翻訳事業はできなかったので、ただ翻訳のみに没頭していく。玄白も良沢が自分に不快感を持っていることはわかっていたが、良沢がいないと翻訳ができないので、良沢のきげんを損なわないように翻訳の仕事を進めていった。
 翻訳から3年4カ月後「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」として刊行されたが、そこには良沢の名前がなかった。良沢は「解体新書」はまだ不完全なものだから、さらに年月をかけて完全なものにすべきであると考えていたが、玄白は刊行を急いだ。その考えに良沢はついていけなくなり、自分の名前を公にすることを辞退したのであった。結果「解体新書」訳者は杉田玄白一人となった。
 その後杉田玄白は経済的にも名誉的にも恵まれたが、良沢はさらにオランダ語の研究を進めたが、生活は貧しかった。享和三年十月十七日に八十一歳で病没したが、玄白はその葬儀にも行かず、日記にただ一言「良沢死」と書き残しただけであった。

 伊藤玄朴の功績は先に読んだ『「お玉ヶ池」散策』にある通りである。ただ玄朴は金銭への執着が強い人物だったらしい。
 ここで気になるのはシーボルト事件である。シーボルト事件とはシーボルトが帰国するときに自分の荷物を積んだ船が台風で座礁しその積荷から日本地図や葵の紋服などの禁制の品が発見された。誰がそれをシーボルトに渡したのかということが問題となり、多くの人間が連座して罰せられ、死罪になった者もいた。なかには獄中死や自殺した者もいた。
 その日本地図は玄朴が頼まれてシーボルトに渡したものであった。しかし玄朴の取り調べはシーボルトに渡したものが中身を知らないということで許される。
 シーボルト事件でオランダ語を知っている人物が少なくなり、玄朴の存在が貴重になりその存在がクローズアップされていく。
 シーボルト事件で葵の紋服を渡したのが土生玄碩であった。土生玄碩は宝暦十二年(1762)安芸吉田で生まれた江戸後期の眼科医である。目の手術の時瞳孔をひらく薬の成分をシーボルトから聞いたが、シーボルトは教えてくれない。シーボルトは薬の成分を教える代わりに葵の紋服が欲しいと要求する。土生玄碩はそれを渡し、薬の作製法を教わるが、シーボルト事件が発覚し、家財すべて没収され、医業にたずさわることも禁じられ、蟄居生活を送るはめとなる。

 楠本いねは遊女屋引田屋が抱える其扇とシーボルトとの間に生まれた。シーボルトが去った後、シーボルトの門人であった二宮敬作のもとで産科医を目指す。その後紆余曲折があるが、明治三年二月に東京府京橋区築地一番地に産科医院を開き、一時は名声を得るが、そのうちいねの持っている医学知識も古くなり患者も減り医院を閉じる。

 中川五郎治も『「お玉ヶ池」散策』で書いたとおりである。

 笠原良作は文化六年福井で生まれ、名を良、字を子馬、後に白翁と号した。福井で種痘の普及に尽くした医師である。その種痘に使う痘苗をどうやって福井へ運ぶか、その手段がすごい。笠原良作は種痘をした小児を一緒に福井へ連れて行くのである。
 種痘した小児の紅点は7日には消えてしまうので、途中で他の児童に植えかえていき、小児ともども痘苗を福井へ運ぶのである。これはすごい。当時は冬で吹雪く山を越えていくのである。

 松本良順は吉村さんの『暁の旅人』にある通りだ。

 相良知安(1836~1906)は佐賀藩出身の蘭方医である。オランダ人医師ボードインにより医学を学んでいた。
 維新政府は維新戦争で官軍に肩入れしたイギリスのパークスの依頼で戦場に赴いた医師ウイリスの業績を認め、戦後古くなったオランダ医学からイギリス医学を採用する方向へ向かう。
 しかし相良知安はオランダ医学書がドイツの医学書の翻訳が多いことを知っていたので、ドイツ医学こそ世界最高水準のもではないかと考えた。そしてその自説で新政府を動かし、日本にドイツ医学を導入する道筋を開いた人物である。

 荻野ぎん(1851~1913)は埼玉県大里郡秦村に荻野綾三郎の五女として生まれる。十六歳の時結婚するが夫なった男は遊蕩児で遊里でうつされた悪質な淋病を彼女にうつした。この病気の治療は女性とって屈辱的なものであった。ぎんはもし治療に当たる医師が女性であれば患者の苦痛はかなりいやされるのではないかと考え、以来医師を目指す。当時は女性は医師試験を受けることさえ認められなかったが、なんとかして女医になった。ぎんは近代日本における最初の女性の医師であり、女性運動家としても知られた。

 高木兼寛(1849~1920)は嘉永二年日向国東諸県郡白土坂に生まれ、十三歳の時に医学を志し、海軍に入り、イギリスへ医学留学をする。帰国後海軍に脚気が多発することに注目し、その撲滅に尽力する。東京慈恵会医科大学の創設者。

 秦佐八郎(1873~1938)石見国(現在の島根県)濃郡都茂村に生まれた。梅毒の特効薬サルバルサン606号をドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救った。

 この本にあげられた医家は、後に吉村さんの長編歴史小説となっていくものが多い。この本がきっかけになったのであろうか。ちなみに前野良沢は『冬の鷹』、楠本いねは『ふぉん・しーほるとの娘』、中川五郎治は『北天の星』、笠原良作は『雪の花』、松本良順は『暁の旅人』、高木兼寛は『白い航跡』となっている。いずれこれらの作品は読んでみたいと思っているので、この本はいい“前振り”になって、ちょっとしたガイドブックとなった。


評価
★★★


書誌
書名:日本医家伝 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062733557
出版社:講談社 (2002/01 出版)講談社文庫
版型:377p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2009年06月28日

北尾トロ著『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』

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 久しぶりにトロさんの本を読む。トロさんの面白さは企画にあると思う。といっても、大それたものではなく、小市民的な企画が面白みを誘い。読んでいて、「うん、そうだな!」と共感するところがいいのかもしれない。
 この本は、中学、高校時代の修学旅行の記憶が年齢とともに薄れ、今ではほとんど記憶に残らなくなった歳となっている。忘却の彼方、登録抹消に近くなっている。
 しかし学校あげての一大イベントであったはずの修学力のことをそう簡単に忘れていいのかと、一大決心し、それならもう一度修学旅行をやってみようじゃんという企画本である。だからここでは修学旅行のスッポトがメインになる。
 といっても最近の修学旅行は昔と違い、海外旅行など豪華版になっている。しかしわれわれの時代は日本にある歴史的に価値のある地域がその対象となっていた。たとえば東京に住むわれわれは、修学旅行といえば京都・奈良が当たり前であった。
 今回はそうした当時の状況を踏まえ、当時の修学旅行に行ったであろう日本の観光地域をトロさん含めオヤジ三人で旅をする。しかしオヤジとなったトロさんたちが旅をすれば、やはり中学や高校とは違う感想を持つのは当たり前で、昔を思い出すにはほど遠いオヤジ旅になっている。またオヤジなったからこそ感じる部分も、何となくそうかもしれない。
 たとえば京都や奈良の修学旅行では、学生時代は青臭いところが全面にあるものだから、歴史的価値をどれだけ認識していたか疑問のところがある。教科書や授業で習った建物など生で見ても、果たしてどこまで理解できたか。だからトロたちさんは奈良において次のように言う。

 高校生はもちろん、数年前までの自分なら退屈でしょうがなかっただろう。だが、いまはそこに味わいを感じ、安らぎさえ覚えるようになった。ズボンのベルトがきつくなり、内臓脂肪が気になるくらいに“中高年力”がアップして、初めて良さがわかるのが奈良なのかもしれない。

 確かにそうかもしれない。けれど若いときに何をどのように感じたか、その時しか感じられない純な部分があったのではないかと思う。それはとんでもない取り違えをしていたかもしれないけれど、その時そう感じたことは、その時だからこそ感じられたことで、歳をとって、苦いも甘いも、そしてつまらん雑学的教養にどっぷりつかったオヤジが感じるものとはわけが違うような気がする。そこには新鮮さや驚きもあっただろう。感じたまま陳腐と思ったかもしれない。けれどそれはそれでいいような気がする。
 その年齢で修学旅行を行ったことが何らかの価値があったと思いたいし、オヤジたちが今修学旅行だといってそのスポットに行っても、もう違うものになってしまうのだ。オヤジの修学旅行は「これだよ、これ。オヤジ流の修学旅行は、昼間しっかり観光したら、夜は地のものを味わわなきゃ」であり、「宿に多くは望まない。メシ、風呂、接客がちゃんとしていればそれで嬉しい。潤いの乏しいオヤジ旅では、小さなヨロコビが活力の源になるのだ」みたいなものがどうしても伴う。だからオヤジなのだ。

 大笑いしたところ書いておく。十和田湖で高村光太郎の「乙女像」を見たオヤジたちの感想である。

「嘘だろ!どこが乙女なんだよ」

 見上げると、正面に熟女としか思えない巨大な尻が。乙女像という呼び名とは裏腹に、やたら肉感的な裸婦像が二体、対になっている。少女らしい繊細な造形を予想していたぼくは、あまりのギャップに笑うしかなかった。見れば見るほどダマされた感が募る。
 あきれてそこを去るときも、最後に「あれは、断固乙女の尻じゃない」と言い捨てて、そこを後にするトロさんであった。

 そうだったかなと思った。私は修学旅行ではなかったけれど、高校時代ユースホステルのメンバーになって、東北地方を旅したことがある。安い国鉄の周遊券とヒッチハイクをして回ってきた。泊まったユースホステルの朝早いにほとほと参った記憶がある。旅で知り合った仲間と夜遅くまで消灯になっても、話、大笑いして過ごしていたので寝不足だったのだ。確か6時頃なるとスピーカーから大音響の音楽が流れた。頭に来たわれわれはそのスピーカーに枕を投げつけ黙らした記憶がある。(もう時効だろうから書くけど・・・)
 その時奥入瀬渓流沿いを歩いて十和田湖まで行った記憶がある。その時乙女像を見ている。当時はこの像があの智恵子抄の高村光太郎の作なんだなとしか感じなかった。今見たら熟女の尻だと思うだろうか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ
著者:北尾 トロ/中川 カンゴロー【写真】
ISBN:9784093797849
出版社:小学館 (2008/04/21 出版)
版型:239p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月26日

阿刀田高著『朱い旅』

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 主人公の“私”は、妻の房子からモリエールの「アンフィトリオン」という芝居のキップをもらい、それを見にいく。“私”はアンフィトリオンという題名の本を昔父親の本棚で見たことがあった。アンフィトリオン、それはギリシア神話であった。アンフィトリオンはテーベの武将で、その妻はアルクメーヌであった。新婚まもない二人は相思相愛の仲なのだが、オリンポスの大神ジュピテル(ゼウス)はアルクメーヌを見初め、わざわざ戦争を起こして、アンフィトリオンを戦場に追いやり、その間に自らアンフィトリオンの姿に変えてアルクメーヌの寝室に忍び込む。そして交わる。その子がエルキュール(ヘラクレス)であった。
 モリエールの劇はこのアンフィトリオン伝説を基に当時のフランス宮廷風俗を諷ししたものであった。しかしこのアンフィトリオン伝説はいろいろな劇作家がそれを基にして劇を作っていた。ローマ時代にはプラウトス等が諸神賛歌として表現したし、17世紀にはこのモリエールやロトール等の手によって宮廷風俗の風刺として、そして二十世紀に入りジロドゥーが「アンフィトリオン38」として実存主義の表現として演じられた。
 問題はこのジロドゥーが「アンフィトリオン38」である。この作品が“私”の両親の秘密と出生の秘密とからみ合って物語は進む。“私”は国立中央図書館で司書として働いていたが、両親はいずれも亡くなっていた。
 あるとき“私”は図書館連盟の親睦会でギリシア旅行へ行くこととなった。そこで“私”の父親の友人だという田辺という人物に声をかけら、結婚前の父親と母親が一緒に写っている鎌倉での集合写真を渡される。その写真を眺めているうちに自分に似た顔の男に目がとまる。
 翌日田辺に男の名前を聞くと不二草薫という経済学部の助教授だと知らされる。しかし不二草は自殺していた。不二草は萩の人であった。そして“私”の母親も萩の生まれであった。さらに母親の遺品から古い本を取り出してみると、そこには“不二草薫”という名前が書かれていた。
 以来“私”は不二草薫と両親の過去を調べ、両親の秘密と自分の出生を推理し始める。
 “私”の母親は上京して、二十歳の時に大学の経済学部の事務員として勤務した。そこに将来を嘱望された不二草がいた。やがて二人は同郷のよしみで近づき、関係が生まれた。しかし不二草は人間的に歪みのある人物で、“私”の母親はこのままでいいのか不安に駆られる。そんな時大学の図書館に勤務する父親と知りあう。次第に二人はお互い好意を持ち始め、愛を育んでいく。父親はこのままではまずいと思い、自分たちの関係を不二草に話そうとする。母親はそんなことをする必要はない。自分は不二草の持ち物でもないし、妻でもない。自分に意志で行動すると言い、大学を辞め、父親の元へ走る。それを知った不二草は自尊心を傷つけられ、もともと精神的に問題があったこともあり、奇行を示すようになり、自殺する。
 父親と母親が同棲を始めた頃、父親が交通事故に遭い、子供を得られない身体となったのに、母親に子供が宿ったことを知る。果たしてその子は自分たちの子供であろうかと疑いを持ち始める。しかし父親は決然と「私たちが信じれば、(その子は)私たちの子だ」と言い、“私”が生まれた。そう推理したのである。
 まさしくこれは漱石の『それから』と『門』の世界である。
 そして“私”の父親が修士論文として、アントフィトリオンをテーマにして書いていたことを知り、その論文を手に入れる。“私”はそれを読んで、ジロドゥーの「アンフィトリオン」にふれている章に至って、「入れ込んでいる」と感じ始る。
 ジロドゥーの「アンフィトリオン」ではジュピテルがアルクメーヌにエルキュールは自分の子で、神の子だと言うのだが、アルクメーヌはそれを認めない。エルキュールは自分の子で、神ではなく人間の子だと言い切るのである。ジュピテルが神としての能力を披露しても、「それが何なの?」と徹底的に否定的である。自分がアンフィトリオンとの間の子で、人間の子だと言えば、そうなのだと言い切るのである。そこには事実はどうであれ、生まれてくる子供が何であるか、その決定は神ではなく、アルクメーヌにかかっている。わが子の誕生はアルクメーヌとアントフィトリオン、つまり人間の夫婦の認識にすべて委ねられる。ここには明らかに実存主義の影響が読み取れる。
 19世紀までは混沌とした世界であっても神が調和の道を用意してくれるというよな思想が一般的であったが、20世紀になると“神が死んだ時代”であり、あるいは“神の否定”がそのまま“人間賛歌”と変わっていく。神であるジュピテルが何と言おうと、人間であるアルクメーヌとアントフィトリオンがまず自分たちがあって、そして自分たちの意志ですべてを決めていく、そういう姿勢が何より大切なのだとジロドゥーの「アンフィトリオン」では言っているのである。
 それを感じた“私”の父親の論文は、当然自分たちの境遇とクロスするところがあるから、必然的に入れ込むしかなく、“私”がそう感じても少しも不思議ではない。そして両親が“私”を自分たちの子だと決意したのだから、“私”は両親の子なのだと思うようになる。

 この作品はギリシア神話を基にした劇の中に隠されている思想と、漱石の作品かと思わせる物語がうまくミックスして、なかなか面白い作品であった。


評価
★★★


書誌
書名:朱い旅
著者:阿刀田 高
ISBN:9784877280468
出版社:幻冬舎 (1995/04/26 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,528円(税込)

2009年06月25日

清瀬闊著『「お玉ヶ池」散策』

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 お玉ヶ池の種痘所が気になってしょうがない。それでネットで調べていたら、この本がヒットした。なんか面白そうと思い読んでみる。
 この本は文章の素人が書いたためか、主語が省略されていたり、句点で文章をつなげすぎていて、やたら長い文章となっていて、時に何が言いたいのかわからなくなる悪文であった。でもそこに書かれている内容は、私が疑問と思っていたことをほとんど解消してくれた。また新しい発見があって、「へぇ~、そうなんだ」と感心できて、楽しかった。
 まずは私が疑問と感じていたことは、お玉ヶ池のことだ。その池はどこにあり、どんな様子だったんだろうということ。そしてそこに建てられた種痘所がどういう経緯で作られ、その後どう変遷していったのか、そのあたりを知りたかった。
 著者はお玉ヶ池がどこにあったかを、角川書店発行の『日本地名大辞典』を引いて、「千代田区神田岩本町、神田東松下町、神田須田町二丁目一帯にあった池沼」だと書いている。
 何とお玉ヶ池は私がいつも乗り降りしている岩本町近辺にあったのである。岩本町二丁目あたりにその史跡がある。


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 お玉ヶ池はその昔「桜が池」と呼ばれるほどの名所だったそうで、そこで器量よしで、美人のお玉が茶屋をやっていた。


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 そのうち二人の若い男に言い寄られ、お玉はどっちにしていいかわからず、とうとう池に身を投げてしまったことから、この池を「お玉ヶ池」と言うようになったらしい。ただこの池身を投げられるほどの深さがある池ではなかったようで、あくまでも言い伝えである。
 もちろん現在はその形跡すらない。というか、そもそも大きさの割には深い池ではなかったようで、家康が江戸に来る頃にはたいぶ干上がっていたみたいだ。詳しいことは「江戸の原型と神田川の流路」というサイトを見て頂きたい。


http://poco.cool.ne.jp/kanndagawa/kandagawa-mukasi/kanndagawamukasi.htm


 これを見ると1590年より昔では、上野の不忍池とお玉ヶ池が一つの川でつながっていたことがわかる。(しかしこの頃の江戸の地形は今とだいぶ違っており、日比谷あたりは入り江になっていたことを知らされる)そして神田川ができてからは、完全にお玉ヶ池はなくなってしまっている。著者はこのお玉ヶ池がどうしてなくなってしまったのかくどいくらい考察しているが、要は江戸時代住む土地がなくて、完全に埋め立てられてしまったみたいだ。

 さてこの種痘所の話に入る前に、日本における種痘の歴史をこの本で知り得たことを書いてみる。
 種痘とは、天然痘の予防接種のことである。イギリスの医師エドワード・ジェンナーが、牛飼いの乳搾りの女性が「痘瘡」に罹らないことをヒントにして、1796年牛の天然痘である牛痘の膿を接種する、より安全な牛痘法を考案し、以後ヨーロッパ各地に広がった。ちなみに牛のことをラテン語でvaccaといい、それにちなんでvaccine(ワクチン)というようになったそうである。
 “安全な”というのは、例えば日本では症状の軽い天然痘患者の瘡蓋を粉末にしてラッパ状のものを使って鼻孔より吹き込み免疫を作る方法が1790年秋月藩の藩医だった緒方春朔によって行われていた。これは成功する場合もあるが、逆に天然痘に罹患してしまう危険性もあったと言う意味で“安全な”と言っている。
 ジェンナーが発見した方法で、日本で初めて種痘を行ったのは、佐賀藩の医師・楢林宗健という人で、1849年長崎で行なったのが最初とされているらしい。
 ただ教科書的には、日本で最初に種痘を行ったのが楢林宗健となっているが、実はそうではないらしい。中川五郎治という人物が最初だという。
 五郎治は択捉島にいた。その五郎治はロシアに拉致され、その後ロシアにおいて種痘を受けた。さらにロシアで医師の助手となって種痘法を習得した。紆余曲折があるが、五郎治はとにかく日本に帰国する。その五郎治が文政五年(七年という説もある)田中正右偉門の娘に施したのが本邦初の種痘術であるという。まぁ最初は誰かなんて個人的にはどうでもいいのだけれど、とにかくそういうことらしい。

 次にお玉ヶ池の種痘所の話である。種痘の重要性を感じた、江戸の蘭方医は、伊藤玄朴、大槻俊齋らが呼びかけてお金を出し合い神田松枝町元誓願寺前の川路聖謨の拝領地に種痘所を作ったのがお玉ヶ池の種痘所である。



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 このお玉ヶ池の種痘所の歴史が面白い。実はこのお玉ヶ池の種痘所が東京大学医学部の発祥となるのである。
 お玉ヶ池に作られた種痘所は最初「私立お玉ヶ池種痘所」としてスタートした。もちろん種痘所は牛痘接種普及を目的で作られたが、別の側面として蘭方医の集会所でもあった。
 ところが設立半年後火事で焼失してしまう。その後しばらくの間、伊藤玄朴の家などで業務を続けたが、翌年種痘所は、下谷和泉橋通りに移転した。移転後「官立お玉ヶ池種痘所」となる。
 この下谷和泉橋通りがどこなのか、それが今度私の知りたいこととなる。その答えが、この本で、今私がいる事務所の近所である三井記念病院だということがわかった。それを知ったときは、へぇ~ここなんだ!とちょっと感動した。
 さて、官立お玉ヶ池種痘所がどう変遷していったのか。まず、最初の呼びかけをした大槻俊齋はすでに死去していたので大阪より緒方洪庵を招き初代頭取に任命し、文久元年(1861年)「西洋医学所」と改称される。そして文久3年にはただの「医学所」と改称される。
 戊辰戦争の負傷者治療するためにそれまで横浜と浅草にあった診療所をまとめ、この地に「東京府大病院」を作り、明治二年(1869年)に種痘所から名を変えた医学所と合併し、「医学校兼病院」と改称される。同年12月には「大学東校」と名を変える。(よく名前を変えるんだな、これが・・・)さらに、「大学東校」から「東校」へ、「東校」から「第一大学区医学校」へ、「第一大学区医学校」が「東京医学校」へ改称される。この東京医学校が本郷に移転し、東京大学医学部となるのである。
 以上変遷をたどると、お玉ヶ池の種痘所が東大医学部の発祥となるわけだ。それを考えると、お玉ヶ池の種痘所は、日本の近代医学史の大本だったことを知らされる。
 一時下谷に借りていた第二医学院も和泉町に来て、「医科大学第二医院」となる。その後「医科大学第二医院」は「東京帝国大学第二病院」と改称される。ただ明治三十四年に火事にあい、その後再建されず、この地は空き地となり、運動場となっていた。
 その空き地に今の三井記念病院である三井慈善病院が設立された。その経緯は次の通りである。
 明治三十六年(1903年)に東京市長尾崎行雄が施療病院の計画をし、それを聞いた三井八郎右衛門・高棟が十万円の寄付をして賛同の意を表す。しかし当時日露戦争の疲弊でその計画が一向に実現する様子がない。仕方がないので高棟は自力で病院を作ることを決意する。三井家より基金百万円を基に、和泉町にあった東京帝国大学第二病院跡地を払い下げを受け、明治四十二年三月に開院した。
 三井慈善病院という名の通り、この病院は生活困窮者を対象とし、患者の診察費、入院費は無料で行われた。その上診察内容は高度であったので、受診者が殺到したという。生活困窮者を対象としいたため、一般の人は受診できなかったので、病院の前に粗末な衣裳を貸し出す貸衣装屋があったという笑い話が残っているらしい。著者は三井記念病院で内科部長、副院長を務められた人で、この経緯は詳しく書かれている。
 また和泉町と言えば、関東大震災で奇跡的に焼け残った地域で、それでも震災時に上野公園へ病院スタッフや患者が避難する記録は著者だから得られた記録だろう。読んでみるとかなりなまなましい。一部のスタッフは病院に残り消火活動をするが、町内の人々もバケツリレーをして懸命な消火活動した。またたまたま近所にあった民間会社のガソリンポンプによる下水水利を得ての放水し、和泉町は震災による火災から免れた。現在「関東大震災協力防災の地碑」が和泉小学校の脇にある。

 そもそも神田和泉町は旧藤堂和泉守高虎(弘治二年~寛永七年、1556~1630年)の屋敷跡で、この地には医療関係の史跡がお玉ヶ池の種痘所以外にもいくつかある。
 近くには漢方医の医学校、躋寿館(せいじゅかん)もあった。場所は佐久間町二丁目から四丁目にかかる二千余坪、旧浅草天文台跡地(現在の清洲橋通りをはさんで和泉町の東側、外神田四丁目十四)である。
  東京衛生試験所もこの地にあった。もともとは明治七年(1874年)に「東京司薬場」の名称で 医薬品試験機関として発足し、医薬品の品質管理行っていた。日本で最も古い国立試験研究機関である。ここにも記念碑があり、次のように書かれている。
 
 国立衛生試験所は, わが国最初の国営の医薬品試験研究機関, 東京司薬場として, 明治7年(1874年)3月、 現在の中央区日本橋馬喰町に発足し同年8月この地、 千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始した。 昭和20年(1945年)3月の東京大空襲に罹災するまでの70年あまり、 医薬品を主とする日本の厚生行政に多大な貢献をしてきた。 現在は、 世田谷区上用賀において引き続き研究業務を行っている。
 本年, 創立120周年を迎えここに記念碑を設置するものである。
 平成6年11月建立   国立衛生試験所



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 東都病院もこの地にあった。東都病院とは斎藤紀一が開業した(斎藤茂吉は斎藤紀一の養子。北杜夫は茂吉の次男)が明治二十四年(1891年)に浅草区東三筋町に浅草病院を開業したが、ここが繁盛したので和泉町に東都病院を作った。この本によると、この病院の入院費はかなり高額だったらしい。現在当時のレンガの一部が坪井医院の入り口に残されている。

 私はこの和泉町にある会社でずっと働いている。だからこの和泉町の歴史、特に医療関係の歴史にずっと興味を持っていた。今回この本でかなりのことがはっきりわかったので、その点だけでもこの本を読んでよかった思っている。


評価
★★★


書誌
書名:「お玉ヶ池」散策―お玉ヶ池種痘所と三井記念病院周辺余話
著者:清瀬 闊
ISBN:9784895143127
出版社:中央公論事業出版 (2008/12/01 出版)
版型:242p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年06月22日

吉村昭著『暁の旅人』

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 この本は松本良順の生涯を描いた小説である。司馬遼太郎さんの『胡蝶の夢』も良順を主人公にした長編小説だが、この時も確かあるイメージが頭にこびりついていて、違和感があったことを思い出す。今回もそうであった。
 私が松本良順に対して思い浮かべるイメージとは子母澤寬さんの『勝海舟』に出てくる松本良順なのである。というのも、私が松本良順という人物を知ったのはこの小説が最初だったからだ。そこには奥医師として将軍のそばで、勝海舟と同様にベランメエ調でやりとりする姿があった。そのため良順という人物も海舟と同じように、なかなか自己を曲げないタイプで、わがままでやりたい放題の人物だったと思っていたのである。
 ところが吉村さんの描く良順像は、確かにそういうところもあるけれど、どちらかといえば当時としては最先端の医療技術を身につけた良順で、律儀で恩義に厚く、それが良順の行動指針となっている人物であった。
 良順は洋医学の大家佐藤泰然の子として生まれ、幕府の奥医師松本良甫の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医師ポンペについて西洋医術を身につけた。
 当時は漢方医の力が圧倒的に強く、蘭方医などとんでもないという時代であった。それでもこれからは西洋医術を身につけなければならないと思った良順を幕府の高官たちは終始援助の手を差しのべ、長崎伝習生の名目でオランダ医師ポンペについて西欧の最新医術を身につけられるようした。五年間にわたる長崎遊学費用も幕府はすべて出した。
 江戸にもどって幕府の奥医師となり、医学所頭取となった。「奥医師として身近かに仕えた将軍家茂は、絶えず温情をもって接してくれて、それに対する感謝の念は忘れられない。その臨終に際して手をにぎり心音をうかがっていたことがせめてもの救いで、次第に冷たくなっていった家茂の手の感触は今でもはっきりとおぼえている」。
 幕府が崩壊しつつあるときでも、自分を手厚く扱ってくれた幕府に対して、恩義を感じないわけがなかった。だから幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。江戸が新政府軍によって踏みにじられるのを眼にするのは堪えがたかったのである。自分は幕府とともにあり、それに殉じるのが人の道だと思う人物であった。
 しかし時代は明らかに変わりつつある。会津、庄内藩も新政府軍に敗れ、良順は仙台で榎本武揚と会う。榎本は良順に蝦夷に一緒に来て、戦傷者の手当をして欲しいと言うのだが、ここにそれを思い止まらせる人物がいた。土方歳三である。土方は次のように言う。
 「先生は、前途有為なお方です。蝦夷などに行かず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱に巻きこまれ、命を失うようなことあってはなりません。江戸にお帰り下さい」

 新政府軍が良順という優秀な人材をむやみに殺すわけがないと考えた上での言葉であった。さらに自分は榎本と共に蝦夷へ行くが、それは「私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し、国のために殉じるべきだと思っております。それがわれわれの定めなのです」から、新政府軍と戦い続けると言うのである。私は新撰組というのはごろつきの集まりだと思っていたので、このあたりはさすが土方歳三と見直しちゃった。
 ここでは生き様の差がはっきりと出ている。大きな時代の変化に必要な人物。滅びるしかない人物。日本という国の未来を考えると、このあたりの線引きははっきりしている。特に土方自身がそうした線引きをして、自分がどこにいるかはっきりと自覚しているところが悲しさを誘う。
 良順は江戸にもどり投獄されるが赦免され、山県有朋などの薦めで軍医総監となる。この時山県は人それぞれに国のために力をつくすべき時だと言ったが、明治新政府には人材がいなく、しばらくの間幕府の有能な人材を登用するしかなかったことを思うと、江戸幕府は本当に有能な人材を持っていたんだなと思う。その証拠に明治新政府に使えた旧幕府の人物たちが沢山いたことがいい証拠である。これらの人物たちがいなければ、明治という時代は成っていなかったかもしれない。そして無骨一辺倒な旧タイプの人物たちは滅びることで、その精神をいい意味でも悪い意味でも、新しい日本という国に残していったんじゃないかという気がする。
 

評価
★★★


書誌
書名:暁の旅人
著者:吉村 昭
ISBN:9784062128704
出版社:講談社 (2005/04/26 出版)
版型:298p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)