2012年01月30日

日垣隆著『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』

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 この本は書名通り、電子書籍と紙の本について書かれたものと、著者の日々の思考作業を様々な事例を元に書かれている。後半は私にとって、それほど興味は湧かなかったけれど、電子書籍と本に関する意見は面白かった。
 ここで著者は「2010年は電子書籍元年」と言われ、これからはこうしたデバイスが主流になり、紙の本が駆逐されるような風潮、それって、本当にそうなの?と疑問を呈する。
 そして電子書籍やipad関連の本がよく売れていることあげ、「微笑ましいのは、『紙の時代は終わる!』という趣旨を強調しすぎるこれらの読み物が、ほぼ例外なく「紙の本」で売られていることだ」と笑い飛ばす。
 確かに電子書籍、電子書籍と騒いで取り上げているのは紙の本や雑誌だ。そして電子書籍のコンテンツはそれ専用のオリジナルではなく、本として出版されたものをわざわざデジタル化して売り出していることに、意味があるのか、と言うのである。
 著者は仕事柄、多くのデバイスを使い、電子書籍に接してきて、次のように言う。


 私は電子書籍を読むデバイスを10種類以上買って実際に読んできました。あんなもの使って、長い本を最初から最後まで読まないでしょ?というのが率直な感想です。iPhoneやキンドルで『カラマーゾフの兄弟』を最初から最後まで読むのは、拷問以外の何ものでもありません。


 さらに、


 『源氏物語』をiPhoneで読んでいる人がいたら「なにかの罰ゲームですか?」と訊いてしまいそう。


 とまで言う。
 アマゾンで出しているキンドルは目に優しい設計らしいが、それでも普段パソコンで仕事をしていて、なおかつデバイスで本を読んでいたら、日本人の視力はますます悪くなることは間違いない、とも言い切る。
 要するに本としてのメディアが存在するのに、それをわざわざ電子書籍用のデバイスで読んでも、ただ目を悪くするだけだと実際に使ってみた感想を言うのである。
 キンドルやiPadを“黒船”みたいに扱う日本の出版業、あるいは「これからは電子書籍だよ」という一辺倒なニュースを垂れ流すマスコミに、ちょっとおかしいんじゃないの、言うのである。著者は一部ITバブル評論家が言うように電子書籍は急激には進行しない。その理由を著者特有の皮肉を交えて言う。その言い分を聞いてみよう。


 まず1日は24時間しかない。8時間寝て、10時間働き、通勤に2時間。食事や飲み会、おしゃべりが3時間だとすれば、合計23時間。残りは1時間しかない。メディアは、たった1~2時間の細切れの時間を争奪しているだけだ。メディアはそうした可処分時間の奪い合いしているだけで、本やテレビ、新聞は所詮ニッチ産業ではないか、と言うのである。
 Wikipediaによると、ニッチ( Niche )とは直訳すれば「隙間」や「くぼみ」の事であり、もともとは生物学で生態的地位を表す用語である。ニッチ市場(にっちしじょう)とは市場全体の一部を構成する特定のニーズ(需要)を持つ規模の小さい市場のこと、と書かれている。要するに隙間市場ですね。元々その程度の市場である。そこに既存のメディアが競い合っているだけで、それがキンドルやiPadに取って代わるといっても、その程度の話なのである。
 さらに本をきちんと自分で選んで読める人は、日本に総勢で(各分野で多く見積もって)20万人くらいしかいないのではないか。電子書籍とそのデバイスの普及は、せいぜい本のヘビーユーザーたちに行き渡ればそれでおしまい、という市場規模であることは忘れないほうがいい。と言う。
 しかもそうしたヘビーユーザーたちが好む本は、おおむね頁数が多い。文学書、歴史書、専門書、学術書、古典・・・・すべて電子より紙の方が読みやすい。もともと本としてあるのだから、わざわざ電子書籍を読む必要性がどこにあるというのか?わずかな可処分時間の為に読みづらい本を読むよりも、そのものを手にした方がいいに決まっている。しかも高い金を投資しなければならないのだから、ユーザーが大規模にすぐ増えるとは思えないと言うのである。
 著者は「先走りも結構だけれども、習慣的な楽しさや、年齢や好奇心による違いも、決して小さく見積もってはいけません」とも言っている。たとえばこういうツールに早めに手を出すかどうかは、50歳が境目だそうで、それ以降の年齢になれば、既存の本や雑誌で充分だ、と言いそうである。私もそうだ。
 「優れた機能」だけで、人は商品を選ぶものではない。案外、「慣れ」のほうが重要だったりする。その「慣れ」を充分凌ぐ、新しいデバイスなりグッズなりスペック搭載品が出たら乗り換える可能性はあるだろうけれど、何度も言うように電子書籍のコンテンツは現在紙で同じものが存在するのである。紙の本をただデジタルにしたところで、その代償として目が悪くなるくらいだ。だから「紙の本ではできなかったこと」を電子書籍はメインにしていくべきだと改めて思う、と言うのである。それであれば電子書籍は新しい、そして広大なフロンティアであることは疑いない。今のところそうなっていないのだから、騒ぎ立てる程のことじゃない。
 著者はまえがきで、


 デジタル化は避けられない。それどころか、便利さに満ち溢れている。
 しかし同時に、習慣や伝統にも優れたものが無数にある。
 我々は、その両方の継承者でありたい。そう思いませんか-。


 まさしくその通りだ。むしろその二つの選択肢があることを素直に喜ぶべきで、“いいとこ取り”出来る。そもそも一つにしてしまう理由もなく、それぞれが読者を獲得出来ればいい。私は電子書籍の継承者にはなれないけれど、それが出来る世代の人は優れた既存のメディアを尊重しつつ、新しいメディアも使えばいいのではないか。むしろ新しいメディアしか使えないと、それに頼るしかなくなってしまう。

 話はちょっと横道にそれるけど、先日久しぶりにタクシーに乗った。行く先を告げたら、運転手がカーナビでいいですか?と聞く。最初何のこと言っているのか分からなかったけど、カーナビの指示で目的地へ行くと言うことらしい。それがあるとないとではどう違うのかよく分からなかったので、いいですよと言うしかなかった。
 そもそもこの運ちゃん道を知らないのだろう。いや知らなくてもいいのかもしれない。だってカーナビがあるからね。でも何でこんな道通るんだろうな?と乗っていて不思議には感じていた。まぁこの運ちゃんにとってカーナビの指示は絶対なのだろうし、私が不安を感じても、このまま乗っていれば目的地に着くんだろう、と思っていた。しかし最後の詰めで道に迷う。結局車を止めて、歩いている人を捕まえて道を聞いていた。
 帰りもタクシーを捕まえて帰ったのだが、乗ったタクシーの運転手は年配の方で、こっちが目的地を言った途端、メーターを下ろし、発進する。カーナビはついていたが、使わない。これだよね。道を知っているからカーナビを使わなくてもいいのだ。

 電子書籍の波で書店が生き残れるか、どうかは、著者は「書物に関する知識が豊富な書店員が『本のコンシェルジュ』化することが、リアル書店の最大の強みとなるはずだ」と書いている。そう書いた上で、「でもこれって、書店員の原点でもありますよね」とも言っている。
 書店も最近は人件費の安いパートやアルバイトに仕事を任せ、後は客に検索機で在庫を確認させることしか出来ない書店が増えてきた。それで出来ちゃうのだ。先のタクシーの運ちゃんと同じだ。道なんか知らなくてもいい。カーナビが教えてくれるからだ。必要なデバイスを使いこなせれば簡単にプロになれちゃう時代なのだ。経験とか教育とか、スキルアップとかいうものは時間がかかるし、人件費の高騰を招くだけなので、経費的に省かれた。プロが軽くなったか、いなくなる所以だ。せめてリアル書店ではコンシェルジュでも何でもいい。とにかく本のプロがいることに、生き残り道があるような気がする。
 生き残りといえば、音楽CDは凋落の一途だけれども、CDブックは静かなブームなのだそうだ。落語や有名経営者の講演会など聞かれる方が多いらしい。そうそう、音楽CDは何で74分なのか、知りました。CDソニーとフィリップス社が共同で開発・商品化したもので、顧問格のカラヤンがデジタル音源を絶賛し、彼が指揮する「第九」が収まる時間から、74分が決まった、そうだ。


評価
★★★


書誌
書名:電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。
著者:日垣 隆
ISBN:9784062169639
出版社:講談社 (2011/04 出版)
版型:262p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2012年01月26日

鹿島茂著『神田村通信』

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 筑摩書房の宣伝雑誌「ちくま」に今、鹿島さんの「神田神保町書肆街考」が連載されていて、私はこれを楽しみに読んでいる。私は神保町の歴史にはかなりの興味を持っていて、今まで何冊かその関係の本を読んできたが、未だにしっくりと来ない部分があったが、この連載は神保町の成り立ちがわかりやすく書かれている。
 だいたい町の歴史というのは地形もそうだし、住んでいた人間や町に関わった人間も大きく変わっているので、なかなか理解しにくい。ところが鹿島さんの文章はわかりやすく、丁寧に書かれているので、その変遷がよくわかる。たぶんそれは鹿島さんの文章力にもよるのかな、と思われる。で、鹿島さんの本を読んでみようと思った訳である。
 
 鹿島さんは最初、神保町に事務所を持ち、次にここで暮らすようになった。この本はここで生活する鹿島さんの日々における雑感集とでもいうべき本だ。もちろん神保町に限らず、専門のフランス文学のことや、食や興味のあることが書かれている。こういうエッセイは読んでいて楽しい。
 序章の「神田神保町ノスタルジア」に次のような文章がある。

 駿河台から坂を降りていくと、低く垂れ込めた空の下、戦前のものと思われる灰色の木造三階建ての古書店の群れが靖国通りの南側にビッシリと建ち並んでいた。
 大きなビルといえば、三省堂だけ。建て替える以前の古い鉄骨モルタルで、外壁はたしか薄い緑色だったと記憶する。店内に入ると、独特の匂いがした。これはおそらく当時のインクの匂いで、大量の新刊を扱う大型書店ではたいていこの匂いがしたのである。
 では、肝心の古書店はというと、こちらは黴と埃の匂いに圧倒された。今では神保町の古書店もだいぶ小ぎれいになったが、この時代には、それこそ古色蒼然という形容詞がふさわしい雰囲気だった。紙質のよくない昭和二十年代の古書が中心だったせいかもしれない。黴と埃、それに古紙のすえたような匂い、これがどの店でも支配的だった。

 この話は昭和四十年代の頃の話である。私もかろうじて、建て替える前の三省堂本店を知っている。私が初めて神保町に行ったのは、高校に入った頃であった。やっぱり駿河台の坂をずんずん下って行った。この先行けば、本の町が広がっているんだ、と思った。そして鹿島さんが書かれている三省堂も入った。インクの匂いまでは気がつかなかったが、ただ木製の背の高い本棚がたくさん並び、その本の量に圧倒された記憶がある。地元にあった本屋さんとまったく違う、その偉容さ驚いた。以来、毎月こづかいをもらうたびに、ここへ行った。
 古本屋さんは大学時代から通い始めた。高校生ではまだ古本屋に入るという考えはなかった。しかしここで探している本が次々と見つかると、もうその魅力に取り付かれっぱなしであった。
 私は大学も近所だったし、仕事場も近くだったこともあり、この時から現在までつきあっていることになる。実を言うと昨日も、天気が良かったものだから、ぶらりと神保町界隈を歩いてきた。別に探している本はないのだが、三省堂にしても、書泉にしても、東京堂にしても、店に入り、本を眺め、手に取るだけで、いい気持ちになる。古本屋さんにも当然入る。ここでもこれといって捜し物があるわけでもないのだが、棚に入っている、知っている本や、文庫本しか知らないけれど、その親本はこういう装丁の本だったんだな、知るだけでも楽しい。一回りして、靖国通りの奥にあるコーヒーチェーンに入り、持ってきた本を読み出す。
 ここも節電のため、店内の照明を落としているので、日の光が入る窓際に座り、小一時間ほど、本を読んだ。ここのところ節電で、照明を落としていることが多いけれど、いくらそれがやむを得ないにしても、視力が落ちているおじさんには、電車の中で本を読むことが少々キツイ。
 そうそうちょうど鹿島さんのこの本を読んだばかりだったので、思わず裏通りのビルに目がいってしまった。ちょっとくたびれたビルなど見ると、鹿島さんこんなビルの一画に事務所を構えているのだろうか、と思ったりした。こんなところで個人事務所を持てるなんてうらやましい限りだ。私は事務所を持つ理由などまったくないし、これからもないだろうから余計である。ここにいればいつでも本に触れられ、散歩や気分転換に歩き回れることが楽しいに決まっている。でも鹿島さんだけでなく、間違いなく本の冊数が急激に増えるだろうな、とも思う。
 昔はここに来るのには国鉄お茶の水駅からここまで歩いてくるしかなかった。今は交通の便がホンと良くなり、簡単にここに来られる。ということはここに住んでいれば、簡単にどこでも行けるということだ。だから再開発され、大きなマンションが建ったのだろう。
 面白かったのは、鹿島さんがここで暮らすために南向きの部屋を避けたということである。通常日当たりなど考えて、部屋は南向きを求めるが、神保町に関しては北向きがいいという。何故かというと、神保町は夏が耐え難いからだそうだ。神保町はかつて「大池」と呼ばれていたことからも明らかなように、周りを高台に囲まれる谷間になっている。そのため夏になると猛烈な暑気が低地に溜まるらしい。おまけに車道も舗道もアスファルトになっているから(過激派学生が舗石を剥がして暴れたため)、太陽の照り返しが猛烈だからという。しかも最近は高層ビルが皇居側に建ち並んでいるので、海からの風も吹いてこないし、冷房のため室外機の熱風もそれに加わる。だからここでは北側がいいのだ。
 もちろん冬は寒いが、夏の暑さより我慢できる。もとより暖房設備が充実しているから寒さにも問題ない。さらに最初から北側を希望しているから、建設中のマンションの抽選に当たりやすいという特典もつくから面白い。
 そういえば「神田神保町書肆街考」にも神保町の地形のことが書いてあった。だから“なるほど!”と思ってしまった。

 最後に、「神田神保町にあるべき書店形態」が面白かったので、それを書いてみたい。それは鹿島さんの新しいタイプの書店形態の提案である。鹿島さんは神保町にデパート方式ではなく、パルコ式の集合的新刊書店を望んでいるのである。パルコといえば専門店であるが、書店もそうあるべきで、大型書店のように何でもありますよ、といったデパート方式より、こちらの方がよろしいのではないかという。長くなるが引用してみる。

 なぜなら、私が夢想するパルコ方式の集合書店では、本を選び、仕入れ、棚に並べてディスプレイーするのは、それぞれ、深い専門的な知識を有するプロの読書人であり、選書にもディスプレイーにも各人の哲学と美学が発揮されるに違いないからだ。つまり、それぞれの専門店の店主が独自性を発揮して店づくりをすることができるというわけである。
 いいかえれば、書店経営がそのまま自己表現になり得る可能性があるということだ。経営はもちろん独立採算制だから、店主の責任において、この本は絶対におもしろいから小出版社の本でも断固置く、あるいはこれは売れ筋だが内容空疎だから並べないというような我がまま許される。
 そして、このように選別と排除のシステムを独自に働かせて選書とディスプレイーを行うことは、ある種のコレクションに通じる。そして、コレクションである以上、そこには個性が生まれる。いや、個性というよりも、私の用語を使って「ドーダ!」といったほうが正確だ。「ドーダ、オレ(わたし)の選んだ本はスゴイだろ。マイッタカ!」という、自己愛に発する「認められたい」願望である。
 この「ドーダ」が重要なのである。つまり書店主の「ドーダ」が感じられる棚揃えの専門店なら、その「ドーダ」自体が売り物になるというわけだ。

 もちろん「ドーダ」が個性として、売り物になることはよくわかるが、これを行き過ぎてしまうと、まったく売れない書店になってしまうから、そこはバランスが必要になることも、著者は後で付け加えている。神保町では古本屋さんはこの方式である。だから新刊書店もそうあっていいのではないか、というのである。
 大書店が闊歩する業界になりつつあるので、中小書店が生き残るには、この方法しかないかもしれないが、こと神保町では新刊書店は別にこの方式でなくてもいいような気がする。ここは三省堂を中心に大型書店で、新刊の情報を得て、それを手に出来るところであって欲しい気がするからである。個性派専門店もいいけれど、それなら別に神保町である必要はない。そんな気がする。
 むしろ大型書店と古本屋さんが共存している町で、世界に類のないほど本の在庫が、新刊と古本がここにある、というのは魅力なのではないか、と思うのである。

評価
★★★


書誌
書名:神田村通信
著者:鹿島 茂
ISBN:9784860292188
出版社:清流出版 (2007/12/25 出版)
版型:270p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2012年01月20日

大沢在昌著『鮫島の貌』

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 新宿鮫の鮫島が登場する短編集である。私が読んできた新宿鮫はすべて長編であり、一つの事件を追う鮫島の姿が事件の成り行きと描かれるものであった。だからすべてが一つの犯罪に集約されてしまう。もちろんそれはそれでエンターテイメントとして堪能してきた。
 しかしこうした短編はそれ以外の日常の鮫島を描いていて、「ああ、短編というのはこういう効果もあるんだな」と思った。時には鮫島の出生地や父親の仕事を知ることも出来る。上司の桃井さんも登場して、例によってかっこいい。同じ警官で“腐ったリンゴ”と称される大森とのやりとりは迫力がある。ちょうど鮫島が桃井の部下として赴任してきた頃の話だ。


 私はコートの前を開いた。腰に吊している拳銃をよく見えるようにした。

 「そんなもの、なんでもってんだよ」
 「ここのところ物騒でね」
 「一発でも撃ったら、あんた終わりだ。トバされる」
 「忘れたのか。私は“死体”(マンジュウ)だ。先にことに興味などない」

 「忘れてやる」
 「ただし、あの若いのに何かあったら、お前と藤野組にまっ先にいく。わかったか」
 大森は瞬きをした。目をそらし、吐きだした。
 「俺はあんたを見くびってました」
 「けっこうだ。いくら見くびろうと、馬鹿にしようと、かまわんよ」


 桃井は周りから無能で反応の鈍い人間として見られているが(だから“マンジュウ”と呼ばれている)、実際は部下思いで、迫力があるのだ。その桃井さんも殺されちゃったしなあ。残念だ。

 鮫島の生まれは「水仙」に書かれている。中国国家安全部の女“安”が鮫島に近づき、会話する場面である。


 「鮫島さんはどこの生まれですか」
 「生まれたのは静岡ですが、父親の仕事の都合で、あちこちで育ちました。主に関東圏ですが」
 「お父さんは仕事は何をしていましたか」
 「新聞記者でした」

 こんなプライベートは、長編では出てこなかった。

 「幼馴染み」では“遊び”があって楽しかった。晶が浅草に初詣に行きたいと鮫島を誘い、鑑識の藪がこのあたりの生まれなので、誘って美味しいお店を紹介してもうらおうとする。藪はうまい佃煮屋があることを鮫島ら言うが、言った後後悔する。そこは藪の幼馴染みの両津勘吉の実家である佃煮屋だったからだ。藪は両津に頭が子どもの頃から頭が上がらない。
 で、その佃煮屋で両津と会ってしまう。この両津さん、「こち亀」の両津さんと同じキャラクターをしているのだ。これは作者が遊んでいるな、と思わせる。でも面白かった。こういうのもありかな、と思った次第だ。

 ところで最近テレビで「ガールズバー」と称するバーがあるのをよく見る。こんなスタイルのバーが何故普及してきたのか、その背景が書かれているところがあって、興味深かった。
 風営法によると、ホステスや客の隣席で接待するスナックやクラブは午前一時までに閉店しなければならない。それに違反すると営業停止をくらう。そこで女性バーテンダーを置いてガールズバーとして営業を始めた。ここは「深夜酒類提供飲食店営業」として届け出た場合は終夜営業が可能であるのだ。中身はホステスなのだが、カウンターを隔てて接客するということで風営法に引っかからないらしい。

 とにかく違う角度で新宿鮫を楽しませてくれる一冊であった。


評価
★★★


書誌
書名:鮫島の貌―新宿鮫短編集
著者:大沢 在昌
ISBN:9784334927998
出版社:光文社 (2012/01/20 出版)
版型:281p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2012年01月03日

向井透史著『早稲田古本屋日録』

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 私は本を読む時はいつも付箋を本の表紙の裏につけておき、気になる文章や言葉などあったところに貼り付けていく読み方をしている。それはたとえば本文にマーカーなど使ってもいいし、あるいは書き込みをしてもいいのだけれど、本を汚してしまうことが嫌なのでそうしている。そして読み終えたら、その本に付箋だらけになっていることが多い。
 しかしこの本はそうした付箋がほとんど付かなかった。それはこの本にそうした箇所がなかったということではなく、付箋などつけずに本の内容を素直に感じ取るのがいいのかな、と読み始めてそう思ったからである。詩的で素直な文章は読んでいて心地よかったのである。
 年の暮れから読み始め、元旦に読み終えたのだが、最初の「大雪の夜」が本の内容のように雪はないが、ちょうど暮れの時期のことが書かれていて、どこか雰囲気が同化出来る部分があってよかったのである。この文章は著者が19歳の時に書かれたと後で知ったが、なかなか大したものである。


 「すごい雪だ。明日は営業できるかな」
 こんなことを考えているのは、年の終わりも近づく頃。大雪の日である。
 とても静かな一日であった。なにせ店のドアが開く音がまたったくしないのだから。聞こえるのは、私の打つパソコンの音だけ。外を見れば、百円均一のワゴンには雪が山盛りに積もっている。たまに通る、車の振動が積もった雪を崩していく。
 こんな状況になってくると、それほど広くない店の中は、まるでかまくらの中のようではないか。先ほどから、外の雪のひとひらひとひらを目で追うというような、無駄なことに時間を使っている。

 「いしやーきいもー」

 五十代半ばと思われるおじさんは、車から降りるなり店に入ってきた。壊れてしまった眼鏡の縁が、セロテープで固定してある。肩の雪を払いつつ「どうだい、売れているかい?」

 「見ての通りですよ」

 「そうだろうな。ここいらへんで開いているのはあんたの所だけだ。人なんかいやしないよ。寒くたって外に人が出てこないんじゃ俺も商売にならないよ」

 「兄さん、一つ買ってくれよ。おまけするから」

 営業か。ちょうど腹もへっているし、買うことにした。石焼いもの押し売り、というのもおかしくて気に入った。

 「わるいね」というと、すばやく大きな焼きいもを持ってきた。小さめのものを、ひとつ付けてくれた。これがおまけというわけだ。
 おじさんは、お金を受けとると店内をゆっくりながめた。数分してから突然おじさんは口を開いた。

 「俺って本を読むように見える?」

 「お客さんで、あまりいないタイプ」

 「見えないよな」

 「俺、昔はずいぶん本を読んだんぜ。古本屋にもよく行ったもん。自宅の近所にはさ、なじみの店もあったの。まあ事情があってこの仕事をやるようになってからはあまり読まなくなったけどさ。まぁ、読む気力なくなっちゃうんだよな、仕事の後って」

 「何時までやるんだい」

 「もう終わりです」

 「ちょっと待ってな」とおじさんは一昔前のでっかい魔法瓶と、小学生が使うようなプラスチックのコップを持って戻ってきた。
 「まあ飲めよ」
 コップから湯気が上がる。店内に、甘い紅茶の香りがひろがった。
 「いい香りですね」
 「本の香りも悪くないよな。なんちゃってな」
 「うまいこといいますね」
 おじさんは耳まで真っ赤になると、紅茶を一気に飲みほした。


 古本屋さんはいい感じの文章を書く人が多いような気がする。文章もうまいし。向井さんの本は初めて読むが、私もこういう文章が書ければいいなと思ってしまう。
 早稲田でも年に一回青空古本祭があるとは聞いていたが、向井さんは早稲田の古本屋さんで、その祭の目録作成に関わっているらしい。お祭りは9月にあるのだが、その用意は春から始めていることを知った。1年に1回の大きな催し物のため、それくらいの時間をかけなければならないらしい。もちろん日々の営業もあるわけだから、夜遅くまでパソコンを打ち、目録を作り、原稿を書く。だから店番中居眠りもしてしまうし、買い取り先でも居眠りしてしまい、気がつくとタオルケットを掛けられて、慌ててしまったことが書かれている。古本屋さんも大変だ。
 新年早々いい本からスタート出来た。


評価
★★★


書誌
書名:早稲田古本屋日録
著者:向井 透史
ISBN:9784842100661
出版社:右文書院 (2006/02/28 出版)
版型:199p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年12月30日

北尾トロ著『駅長さん!これ以上先には行けないんすか』

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 トロさんの本を読む。トロさんの本はいわゆる“企画”が勝負なんだな、と思う。人がやらないことで、でもどこか気になると言えば気になることを企画に取り上げ、それに自ら参加し、このように本にしていく。今回もそうだ。


 線路は続かないよ、どこまでも。
 時刻表をつぶさに見れば、終着駅がどこにもつながらない鉄道があちこちに発見できるはずだ。
 諸般の事情でそれ以上先へ延びることは許されず、レール止めによって行く手を阻まれた鉄道路線。錆の浮いた鉄の断面を悔しげに見せながら、オノレの置かれた立場や情況を悲しみとともに受け入れ、延々とつながってきたレールの最終地点を受け持つ最後の一本の姿をしっかりと見届ける。見届けずにおくものか。その精神で、どんどん鉄道旅をしたいのである。


 これが今回のコンセプトだ。要するにどこにもつながらない路線の終着駅の先はどうなっているのか?はたまたどうしてここで行き止まりなのか、その理由を悲しげに探る旅である。まぁ本当はその先に延びる計画はあったのだが、大体が経営的理由で線路はここで終わってしまったというのが多い。その路線がかろうじて生活路線として生き延びていて、そこを旅している。
 しかしこうした路線を旅するのは時間を贅沢に使う。そこまでに行くのが大変だし、行ったはいいが、接続がないため、帰って戻ってくるしかない。しかも電車はものすごい間隔でしか走っていないから、時間を要するわけだ。このあたりは普段我々が使う路線がきちんと接続されているものという意識を、そうじゃないんだよ、と教えてくれる。


 便利な電車たちは行って戻ってまた行って、ひたすら沿線を往復する。で、終点に着いたら別の便利な路線にバトンタッチして乗客をどこまでも連れて行く。路線が変わるだけで、便利な電車たちはネットワークを作っている。
 一方、行き止まり鉄道は各線ごと独立路線。かろうじて片側だけネットワークに参加しているけれど、小さな拠点の住民たちと運命共同体のように生きていて、重心は終着駅側にある。この路線があるから終着駅の町がある。この町があるから路線の役目がある。存在理由がはっきりしているのだ。


 だからこうした行き止まり路線に乗っていると、「いかにも物足りない気分である。便利さと快適さを追求して忙しく暮らす人々の足となる路線と、中央へとつながるパイプとして継続を第一に運行されるいきどまり鉄道が別の乗り物に思えてしまうのだ」とトロさんは書いている。
 でも逆に行き止まったおかげで古い文化の匂いが残って、人々の生活もその鉄道と密着していると感じることができる。それが各行き止まり路線の記述を読んで思ったことであった。生活感が直に感じられていい。美味しいコーヒーをうたっている喫茶店に入ったはいいが、そのこだわりのサイフォンコーヒーのまずさに呆れたり、期待していなかった駅前の中華食堂のラーメンが期待以上の美味しさであったり、B級グルメを目指すカレー蕎麦が、カレーの味に負けてしまって、蕎麦であることに意味がないことに呆れたり、駅前に本屋が続けて二軒もあることに感動したりする。
 本屋さんが駅前に二件もあることに感動した理由がふるっている。ちょっと書き出してみる。


 「小さな構えとはいえ、複数の書店がやっていけるということはだ・・・・」
 そのココロは、一定の住民が暮らし、地元の書店で本を買うということだ。本を入手するだけならロードサイドにある古本屋で用は足りるしネットもある。持ち家で営業するにせよ、一軒だけも存続するのが大変なご時世に二軒も健在なのは、住民が意識的に地元で調達しているとしか思えない。
 もうひとつ、地元に根を下ろした書店は教科書販売という武器を持つ。つまり、子どもがある程度いると考えられる。子どもが少なければ高齢化は進む一方で暗くなる。でも、ここは違う。おそらくそれが鯨ヶ丘の活性化を下支えしているのではないか。


 なるほどその地域に書店がいくつあるかが、その地域のバロメーターになるんだ、と思った。なかなか面白い。子どもが本屋でコロコロコミック(まだあるのかな?)を買い求めて走る姿が眼に浮かぶ。
 とにかくこうした行き止まり路線の旅は、一方で現代の旅の姿を浮き彫りにする。特にスピード化だ。トロさんは次のように言う。

 東北新幹線が青森まで開通。めでたいことだ。札幌から鹿児島まで新幹線だけで移動できる日も近いというではないか。すごいことだ。でも何がすごいのか、よくよく考えてみると、時間短縮くらいしか思いつかない。リニアモーターカーのすごさも、突き詰めると速さだ。
 でも、速さが求められるのは急いでいる人がいるからで、そんなに急いでいないのであれば値打ちは半減する。それでも人はスピードに憧れるものであるから、速さは善、速さは最新ということになってしまう。いつの時代も「のんびり行こうよ」がキャッチフレーズになり得るのは、それが少数意見だからだろう。


 でもいつもいつもスピード化を求められている社会が果たしてどこまで幸せな社会なんだろうと思う。急げば急ぐほど、それは余裕のなさを物語っているんじゃないか、とも思う。ここにも価値観の見直しがあってもいいような気がする。


評価
★★★


書誌
書名:駅長さん!これ以上先には行けないんすか
著者:北尾 トロ
ISBN:9784309020303
出版社:河出書房新社 (2011/03/30 出版)
版型:236p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2011年12月21日

森田功著『やぶ医者の一言』

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 今まで手に入る文春文庫を読んできた。今回は集英社文庫である。『やぶ医者の一言』というように、今回は短い文章の中で、最後に森田さんの一言が加えられていて、それが森田さんらしい。前回がちょっとと思っていただけに、これは楽しく読めた。森田さんの診療に見える患者さんを通して、町医者とは、病気とは、医療とは、何なんだろうと思われるあたりは、森田さんらしくて良かった。いくつか書き出してみよう。ほとんどの文章で森田さんが最後に呟く一言である。


 町医者は喘息ばかりとは言ってられず、交通整理のお巡りさんのような役割を果たさなければならない。


 医者には後悔がつきものと思いなおすが、通夜の席は被告席と変わりない。私は箸を握り、盃をもったままうつむいて、時を過ぎるのを待った。


 医療を含めて、西欧文明というものを、根底から見なおす時にきているのではなかろうか。


 花粉症は、排ガスに枯らされた杉の木が、適を討っているように思えてならない。


 親戚の人たちの意見は二分したらしかった。死にかけた者を助けた、というのと、助かる者も見分けのつかないやぶ医者、というのだった。


 心配代行業も町医者の仕事らしい。


 薬を計る手は、毒物を計るように慎重であらねばならないと自戒する。


 祖父の、一見でたらめな育児に、誤りはなかったようだ。子育ては百の議論より心であると思う。


 余計な病名ばかり心配するより、つまらない症状でも正しく伝えることが、診察を受ける際には大切であろう。
 ものを言わない動物相手の獣医さんは、さぞかし診断が難しかろうと思うが、逆に犬や猫を連れた飼い主は、病人以上に口やかましいものらしい。


 広く浅い知識で、何の相談にも乗らなければならない町医者は、大病院の専門医がしみじみとうらやましい。


 と、いろんな患者の言うこと、症状を診なくてはならない町医者は、愚痴もこのようにこぼしたくなるだろう。地域に密着している分そこにいる人たちの目に絶えずさらされていなければならない分、その精神的苦痛は大変だろうと思われる。町医者は“心配代行業”というのもそうであろうし、患者さんの通夜に出席すれば、その席が“被告席と変わりない”と感じるのも、大変だなと思うのである。

 森田功さんの本はこの本を含め続けて5冊読んできた。しかしこれで森田さんの本は最後にしようと思っている。私たちはかかりつけのお医者さんをたぶん持っているだろうし、ちょっと調子が悪ければ、すぐかかれるお医者さんを持っているはずだ。そのお医者さんの苦労をちょっと知ることが出来たので、何でも思うようにいかなかったら「やぶ医者め!」と思うのはちょっと控えようかな、と思うようになった。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者の一言
著者:森田 功
ISBN:9784087483659
出版社:集英社 (1995/07/25 出版)集英社文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月13日

森田功著『やぶ医者のなみだ』

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 ここでも町医者として開業医の苦労が書かれている。いくつか書き出してみる。


 もののはずみのふとした勘違いが、人の生命にかかわる。とくに開業医は、あらゆる事故の責めを自分一人で負わなければならない。いつ世間の非難を浴びて夜逃げという事態にならないか、いや、投獄されるようなことになりはしないか、毎日が薄氷を踏む思いである。


 二十年あまり前に私が開業したころは、往診を頼まれるとすぐ引き受けた。来院されると困る麻疹など、伝染病の多かったせいもあるが、実のところ開業資金を返すために、一軒の患家でも増やし、少しでも稼ぐ必要に迫られてのことだった。
 借金に追われなければ働かないのかと、われながら浅ましい気もするが、保険の往診点数が上がるにつれ、たのまれる件数が落ちたのも事実である。初め往診料は整髪料の半分でしかなかったが、現在は二倍近くなっている。
 実際当時と比べると医療設備が整い、検査は格段の進歩をとげた。歩けないほどの病気であれば、手当てをしながら検査をするために、入院が常識となった。そのせいもあって往診は減った。


 毎夜のように私は紹介状を書いている。紹介というよりは依頼である。あちこちの病院に、検査や治療を頼む。病院のお世話にならなければ、今では町医者の設備や技術だけではどうにもやっていけない。
 ひと昔前の町医者には、聴診器と血圧計があるばかりで、レントゲン装置さえなかった。


 機械は置いただけでは役に立たない。診断に活かすためには、それ相応の学習をしなければならない。設備投資もさることながら、勉強して機械を使いこなすまでの苦労が、町医者の片手間にはこたえる。


 こうして書かれれば、確かにそうだろうな、と思う。病気だって、ちょっとしたことでもすぐ病気にしちゃうものだから、たぶん一昔前より増えているんじゃないかと推察する。その治療方法も日進月歩だろうから、その勉強も大変だろう。診察するに当たって最新の機器を使っていないと、患者からそっぽを向かれかねない。薬の種類だって、ものすごい量に増えているに違いない。
 森田さんは次のように書いている。


 診断について、問診や視診、打聴診から病名を予測し、それに従って検査を進めるのは時代遅れだという意見がある。ひととおり検査して、検査結果に異常があったところだけを考えればよい、というのである。
 この意見に従うと町医者の存在理由がなくなる。中規模の病院も、ますます大病院化を志向しなければならない。
 医療を受ける側にも、この傾向を促進する責任があるのではないか。病院のよしあしを設備の有無で判定し、「CTがないのは病院ではない」ような言いかたがされる。


 確かに患者である我々も、町医者を信用できないとすぐ専門医と最新の医療機器がある大病院を志向する。その結果必要以上の検査をされ、検査でふらふらになってしまうのだから、この点はちょっと考えないといけないような気がする。少しでも健康で長生きしたいのは誰でも同じだろうけど、歳を取れば身体に異常が出てくるだろうし、そして人はいつか間違いなく死ぬのである。それを医療技術の進歩で多少時間を遅らせたとしても、その結果苦しい検査を受けなければならないし、死ぬことさえ、身体中にチューブが巻きつけられ、そう簡単に死なせてくれない。ぎりぎりまで心臓は動かされるのである。それが日本の最高の医療なのである。
 この本の解説は立川昭二さんが書かれているが、そこには次のように書かれている。


 それには、かならずしも最新の機器をそなえた最高の医療である必要はない。それはその病人にとって最善の医療であればいい。
 「最高」の医療と「最善」の医療とはちがう。
 最高の医療がかならずしも最善の医療ではない。そして最善の医療のほうが最高の医療よりむつかしい。そして私たちは、どちらを望むかといえば最善の医療のほうを望んでいるのである。森田さんは、このむつかしい、そして私たちがいちばん望んでいる最善の医療をやってくれる「お医者さん」なのである。


 その最善の医療を施してくれるお医者さんが永いこと往診していた八十六歳の女性を自宅で見送る場面を描いた「泣き虫」という文章がある。


 駆けつけてみると、下顎で空気を集めて飲みこむような、ゆっくりとした臨終の呼吸であった。もはや見せかけの注射をする暇さえなかった。
 すまさんの手を握った子息が「ほら、ぬくもりが消えてゆく」と、嫁や孫に呼びかけた。私は蒲団に裾に座り、膝頭を両手でつかんでうつむいた。
 「おばあちゃん」「お母さん」と口ぐちに呼びかける声を聞いていると、涙が手の甲に滴った。泣き声をこらえようとして、のどの奥で鶏の鳴くような音がした。これほどつらい仕事が世の中にまたとあるのだろうか。毎度まいど涙をこぼしながら、誰か代わってもらえないものかと思いつめる。


 こういう文章を読むと、人の病気や死に付き添ってくれるお医者さんというのが有難いな、と思う。けれど、こういうのもなかなか難しい世の中になりつつあるんだろうなとも思う。世の中あらゆるところで、効率やスピードを要求するのだから、人の病気や死も、右から左へと次から次へと処理されても、ある意味当然のような気がする。効率やスピード、利便性を競争すればするほど、そのほころびが人間の尊厳を軽くしていく。そこに利益という考えが加われば加わるほど、ますます人間の尊厳が軽視される傾向になるのはやむを得ない。
 設備のある程度整った病院付近で、胃を取られた人が多いと書かれ、そこは無胃村と呼ばれているらしい、と書かれると、笑ってばかりいられない。ちょっと考えてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者のなみだ
著者:森田 功
ISBN:9784167393045
出版社:文芸春秋 (1997/08/10 出版)文春文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月05日

森田功著『やぶ医者のほんね』

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 初七日の前後、道で姿を見かけた夫人が用のないはずの路地へ曲がっていったが、うなだれたまま目礼も返してくれなかった。
 非力な医療を恨むことが、多少でも夫人の悲しみの軽減に役立つならばと、私は自分に言い聞かせたが、甲斐のない町医者の働きがわれながら哀れであった。


 この文章は森田さんが診ていた心疾患の患者さんが、甲斐なく亡くなってから、その夫人と道でばったり出会った時のことを書いたものである。夫人からすれば、もう少ししっかり診てくれれば、という気持ちの表れなんだろうと思う。もう少し町医者がしっかりしてくれれば、死ななくて済んだかもしれないという気持ちは、病気で失った人を思う余り、そう思いたいのはよくわかる。
 私の父親が母親を亡くした時、かかりつけの医者がもう少ししっかりしてくれれば、もっと早く癌を見つけることが出来たんじゃないのかと恨みがましく言っていたことがあるのを思い出す。何のために毎月通っていたんだ、とも言っていた。でもそれって、今にして思えば、父親の悲しみをその医者にぶつけていただけのことじゃないかと思う。そうすることで、悲しみのやり場をそこへ持っていったのだろう。だからそれは身内に言う愚痴だったし、この夫人も自分の悲しみを森田さんに見せただけであろう。
 ただそれがわかるから森田さんは、「夫人の悲しみの軽減に役立つならば」、と夫人の態度に耐えたのだ。仕方がないと。でもこれって苦しいだろうな、と思う。しかし町医者の限界というのがあるだろう。なんでも大病院だったら助かるかもしれないという患者の思いに対して、森田さんが町医者としての自分の気持ちを隠さないところはいい。


 「二カ所の大学で手術しなければと診たてた病気が、放っておいたら治るとは、どうなっているのだ」
 受話器の中で村上が罵るのを聞きながら、私はいく分は痛快な気分を味わっている。雲の上の存在のような医学部教授に向けた悪態は、胸がすく。

 医学部教授の誤りに対して、鬼の首でも取ったようにはしゃぐのは、町医者の劣等感の裏返しなのであろう。


 いずれにせよ、どう転んでも町医者は、その限界をいつも感じつつ診察をしなければならないものなんだ、わかった。町医者は個人で開業している以上、リアルに生死を突きつけられ、場合によっては、直に訴えられかねない危機さえいつも抱えているのである。


 自分の半生は刑務所の塀の上を歩いてきたようなものだという政治家がいたが、罪人にならないまでも、どちらに転んでも不思議のなかった場面が、私の半生にも幾度かあった。


 それでも森田さんは次のように書く。


 狭い塀の上を、落ちたのか落ちなかったのか、とにかく現在の町医者にたどり着いて今日まで来てしまった。学問上の業績からは遠く、地位名誉には何の縁もない、だが私はこのまま、この地で生涯を過ごしたいと念願している。


 ところで私は毎日胃腸の薬を服用しているので、森田さんの薬に関する記述は気になった。森田さんは薬に関して次のように言う。


 薬は心理的な効能もあり、飲んだり注射しただけで効いたような気がする場合が多い。


 これ、よくわかる。

 結局いつもの薬を飲むことが、特別その薬が命に関わるもの以外、案外その効能よりも、森田さんの言うように「心理的な効能」も馬鹿に出来ないように思う。飲んでいれば安心、というのがあるじゃないですか。
 次の森田さんの患者の薬に関する会話が面白い。


 「また同じ薬か」

 「同じ薬が続けられるほどいいんだよ」

 「一度飲んだだけで、がばっと治ってしまうような薬はないものかね」

 「今のところはまだないが、そのうちできるだろうから、現状維持に努めるのがいちばんだね」

 「気の長い話だな」

 「一病息災とも言うし、腹を立ててはいけない持病というのは身のためじゃないか」


 森田さんは“一病息災”という四字熟語を持ち出して、そのための薬は「長い将来を考えれば、薬は増量しないことにこしたことはない。少しばかりの薬を続けるのは、本人が病気を意識し管理してゆこうという自覚を持たせる意味もある」のだと書いている。なるほど!そうかもしれないと思った次第だ。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者のほんね
著者:森田 功
ISBN:9784167393038
出版社:文芸春秋 (1996/03/10 出版)文春文庫
版型:249p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年12月01日

森田功著『やぶ医者の言い分』

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 私が森田功という人物を知ったのは、吉村昭さんの随筆からであった。この人の詳しい経歴は知らないが、吉村さんの文章を読むと、順天堂大学医学部の病理解剖を長いことされていて、その後三鷹台で診療所開き、町医者とその後の人生を過ごされた。吉村さんは森田さんをかかりつけとしていたという。広島で原爆被ばく経験を持っておられる。
 とにかくその文章を読んで、森田さんがエッセイシストでもあり、いくつかの著作もあると聞いて、読んでみたくなり手にした本が5冊である。『やぶ医者』シリーズといっていいのかも知れない。(いずれも今は新刊書店で手に入らないので、ブックオフとアマゾンのマーケットプレイスで購入した)

 私は自分が胃腸の調子がおかしくなるまで、医者というものにかかったことがほとんどなかった。だから町医者についてそれほど考えたことがなかった。かかりつけのお医者さんというのに、長いこと縁がなかったといっていい。けれどこうして歳をとって、胃腸の調子が芳しくなって、まずは近所の診療所やクリニックなどへ通った。苦しい胃カメラや大腸の内視鏡検査を我慢して受けてきた。病名は十二指腸潰瘍だとか、逆流正食道炎とか、内視鏡検査で、胃と十二指腸の間に、昔あった潰瘍が小さなこぶみたいになっていて、通りが悪くなっているとか、いろいろ言われた。いずれも胃腸科とうたっているところであったが、長いこと通っても一向に改善する雰囲気はなかった。
 病名が変わるたびに、あるいは病院を変わるたびに、薬が変わり、数も増えていったりする。そして今通っている胃と腸の内視鏡専門医のクリニックに落ち着いている。
 こうして、何度か病院を変えてみて、わかったことがある。診断というのはある意味ドクターの主観であるのではないか、ということである。特に内科ほそうじゃないかと思う。もちろん診断を下すには、それなりの知識と経験の裏付けがあってのことだとわかっている。でも、はっきりとした病巣が目に見える形であればともかくとして、私みたいななんだかよくわからない症状は診断が付きにくいのであろう。
 それでもはっきりした病名をつけなければ、保険請求もできないし、治療方法も決まらないし、薬も決まらないはずだ。そこで診断を下すに際して、かなり悩まれるだろうことは推測できる。ただその診断が大きく間違っていなければいいが、誤診まではいかなくても、治療方法や薬の選択に違うチョイスがあったのではないかと悩まないのだろうか、と常々思っていたところ、森田さんが町医者の心境をこう書かれている。


 どんな仕事をしていても運不運というものはついて回るが、町医者を開業してから二十年余り、ふしぎと私は幸運に恵まれてきた。
 なんとか今までは持ちこたえてきたものの、いつ運に見放されるかわからないという不安はたえず心の底にある。
 深夜目がさめて救急車の音を聞くと、もしや自分の診た患者ではと不吉な想像を巡らさずにはいられない。町医者をしていればいつでも、二、三人は気がかりな患者がいる。


 自分が診断した患者が、診断通りあれば、それでいいけれど、はたしてそれで間違いはなかったのか絶えず不安に駆られることがいくたびか書かれている。だろうな、と思う。いろんな患者を安心させたり、注意をしたりしているけれど、


 ひとの心配を肩代わりするのが医者の仕事かも知れないが、氏が安心して帰ったぶんだけ私は気が重くなった。やはり血液検査ぐらいすぐすべきであった。胃の透視も二、三日のうちに約束しておけば良かった。ひと月で三キロも痩せるのはただごとではない。考えれば考えるほど不安は大きくなってくる。


 こういう不安に絶えず悩まされるという医者は、自信がないなら話にならないが、そうじゃなくて、人の身体のことである。何が起こるかわからない。また一つの症状で判断を迫られる訳だから、“これだ!”という確実なことが言えることなど少ないのではないか。それに吐露する分この先生は良心的だと思うべきなのだろう。まして町医者である、いつも患者の顔が見える立場の人だから、余計に慎重になるはずだし、その責任の重さが不安を残すのだろう。

 また次の文章は素直な気持ちとして嬉しい気分がよく出ていて、私は気に入っている。


 病状が回復に向かったと聞くのは町医者にとって何よりも嬉しい。お陰さまでと付け加える人がたまにいるとなおさらだ。病気が治るのは医者のせいよりも、むしろ体に備わった自然治癒力に負うところが大きいから、感謝されても面映ゆいだけなのだが、それでも心が弾む。

 と書かれる。医者である自分の診断や治療方法が病気を治したと思うのではなく、病気が治るのはあくまでも自らの“自然治癒力に負うところが大きい”と書かれたことは、私もそうじゃないかと思っているところがあるので、やっぱりと思うのである。


 最後に薬の飲み方で気になったことを書く。森田さんのところに来る患者が、薬が効かないと言う。で、カルテを調べてみるともう薬がないことがわかるが、その患者はまだ薬は残っていると言うのである。毎食後飲む薬みたいだが、その患者は朝食べないので1日2回しか服用していないというのである。確かに朝食を食べない以上、食後30分後というわけにはいかないだろう。ちゃんと決まった時間に決まった量の薬を飲まないと効果が出ないと思われるが、この場合どうすればいいんだろう?特に若い人は朝食を抜く人が多いだろうから、この人達はどうしているんだろう?
 もっとこうした若い人は、薬など決まった時間に飲まなくても、若い分自らの自然治癒力で治せるのかもしれない。逆に慢性疾患の人はそれこそ自分の身体に気をつかうから、朝食を食べないことが少ないに違いない。むしろ薬を飲むために、食べられない朝食でも無理して食べるかもしれない。
 ところで私は今、漢方を毎食30分前に飲んでいるが、漢方は毎食30分前に飲むものが多いと聞いたことがある。なぜ漢方は毎食30分前何だろう、と思っていたら、その答えが書かれていて、納得した。


 昔よく用いられた漢方薬には、食前三十分と指示されたものが多い。草根木皮や獣の骨などを成分とする生薬は、調理された食品に比べると消化吸収が悪い。薬の吸収をよくするために、食前の三十分ほど前にとされたのだろう。

 ということらしい。


評価
★★★


書誌
書名:やぶ医者の言い分
著者:森田 功
ISBN:9784167393021
出版社:文芸春秋 (1994/06/10 出版)文春文庫
版型:237p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2011年11月25日

梶山季之著『せどり男爵数奇譚』

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 書店に『ビブリア古書堂の事件手帖』の新刊と一緒にこの文庫本が並んでいるのを何度か見た。まあ、古本に関するミステリーを店頭に一緒に並べるなら、この本は欠かすことはできまいと思う。私も気になって、自分の本棚にあるこの本を取り出して再度読むことにした。この本は文庫として発売されたとき買って読んだ。まあまあ面白かったという記憶があるが、それ以上は忘れちゃっているので、また読み直してみてもいいかな、と思ったのである。
 さてこの本はどんな本かというと、解説にうまいことこの本の紹介をしている部分があるので、それを書き出してみる。


 『せどり男爵数奇譚』は古書と古本屋をめぐる連作短編小説集である。愛書家、書痴、書狂、ビブリオマニア、異常なほど古書に取り憑かれた人々が登場するだけでなく、古書業界のさまざまなルールや逸話などが小説に織り込まれている。古書ミステリー、古書ホラーであると同時に、いわば古書に関する情報小説でもある。


 せどり男爵こと笠井菊哉の父親は戦前の成金で、いわゆる多額納税者で、それで爵位を買った。昭和16年にその父親が妾宅で腹上死して、世襲で男爵となった。父親の財産が転がり込んできたことで、古書に現を抜かすことなった。
 大学時代和本の魅力に取り付かれ、全集もので欠けている巻数を地方の古本屋で探す。その古本屋してみれば全集の端本はただのクズ本にしか過ぎないが、欠本を探している古本屋では、それが全巻揃うことで、高く売れるため、重宝された。こうして笠井菊哉は古書店主から一目を置かれる存在となっていった。

 「せどり」とは、彼が「せどり男爵」と呼ばれる所以は、


 古本屋仲間で、厭がられる商売の仕方に、新規開店の店に行って、必要な古本だけを買うのを、続に「抜く」とか「せどり」と云うですよね・・・・
 あたしはこの「せどり」の名人でしてねえ。まあ、本の値打ちを知らない未亡人なんかが、主人の蔵書を資本に、古本屋を開業すると、目星しい本をあらかた抜いて、神田や本郷の店に売りつけるわけです。
 まあ、背中を取る・・・・と云うような意味から来たんでしょうが、それで「せどり男爵」と渾名されたんですよ。


 である。とにかく古本狂うと、ミステリーにもなるし、ホラーにもなる。


 これに魅入られたら-そうですな、本の虫といいますか、こいつが取り憑いたら、もう逃れようがない。


 たとえば世界で一冊しかない本を手に入れたと思ったら、もう何冊かあった場合、どんなことをしてもその本を手に入れる。そしてその本を手に入れたら、さっさと燃やしてしまう。そして自分の手元に残った一冊を世界で一冊しかない本としてしまう。そのためには他の本を高額な値で買い取ったり、人を殺したりすることも辞さない。こうして本を破損する人を“ビブリオクラスト”と言うらしい。
 あるいは古書の持ち主が“ワ印”と呼ばれる春本を隠し持っていたりする。それをとんでもないところに隠していたりする。だからこれがミステリーとなる。
 一方ホラーとしては、世界で一冊しかない本にするために特殊な装丁にする。
 ここでは装丁に人間の皮膚を使うことで、世界で一冊しかない本としてしまう装丁家の話である。この場合本の内容よりその外観が価値を生む。
 聖書の「汝姦淫するなかれ」が印刷ミスで“not”が抜けてしまい。「汝、姦淫せよ」となってしまったものがある。これを『姦淫聖書』という。
 物語はこのミスプリントの聖書を人間の皮膚で暖かく包んでやりたいという中国人の話から始まる。皮膚を提供する女は麻酔をかけられて、男に犯されながら背中の皮膚をメスで切り取られる。まさしく「汝、姦淫せよ」を地で行った装丁の素材である。その光景を見てしまったある装丁家はその怪しい光景に魅了され、以来人の皮膚を使って装丁することに夢中となる。「人間てえものは、なにかのキッカケがあると曲がっちまう」である。
 人の皮膚で何かを飾るというのは、昔五木寛之さん小説でナチスがユダヤ人の皮膚を使ってランプシェードを作った話を読んだことがあるが、究極を極めるとこういうことになる。

 さて、最近私が聞いたことと経験したことを二つ書いておしまいにする。この本で次のようなことが書かれている。


 「また、不況が訪れそうですね」
 笠井は、セドリー・カクテル(笠井が好む変なカクテルのこと)を飲みながら小柳に云った。
 「そうなると、われわれの商売が繁昌する時だ。不況の時ほど、アレレと思うような逸品が出てくるからね。大体、“古”と云う文字のつく商売は、不況の時に強いんだ・・・・」
 小柳は、そう云って微笑した。
 不況になると、不要品を売却する人が出てくる。骨董品、書画などを、売る気になるのである。
 おそらく先祖譲りの品だとか、亡夫の残した蔵書なのであろうが、不況のさなかだから値下がりしている。
 だから売り手は、損をするのだ。
 買った側は、値打ちを知っているから、店頭に出さず、不況の嵐が通り過ぎるのを、じっと辛抱して待っている。


 私は先ほど自分の本棚の整理を大々的に行い、文庫本などほとんど処分がてら古本屋さんに売り飛ばした。そのとき、古本屋さんに聞いた。

 「今年の神田の古本市にはお宝本が豊富な年だったですってね?」

 私は何処かのタウン誌の特集で神保町の古本市に書いてあった見出しを目にしていたので、そう言ったのである。しかし来てくれた古本屋さんの社長さんは、それは今年に限らずここ数年そうだと言うのであった。理由は不景気による。景気が悪くなって、手元不如意なって、貴重な蔵書売る人が増えたというのだ。だから今まで市に出なかった本が続々出てくるようになっているという。そしてそういう人たちが増えたことによって、価格が下落して、お宝本が手に入りやすくなっているらしい。
 そして古本が買い手市場になっているものだから、引き取り価格も下落しているだけでなく、もうだぶついてか、引き取りをやめてしまっている古本屋さんもあるとも言っていた。古本屋さんも売り手の言い分を聞くことをしないで、値をふっかけられたら「だったら引き取りません」と強気にも出ているとも言っていた。
 だからであろうか?私の本の引き取り価格も低かった。けれど私が出した本は駄本ばかりなので、当然とはいえば当然なのだが・・・。むしろ私は最初から引き取り価格は気にしていなかった。引き取りに来てくれるだけで有難かったのである。
 そんな駄本ばかりの中には、多少古本的価値のある本をその社長さんは別により分けていた。これがこの本は多少値が付くだろうと思っていたものだった。この本にも「わたしには、どの本が本命なのか、わかるんです」と帳場に数冊持ってくる客の話をしている。
 そう、別に古本屋さんじゃなくても、ある程度本にふれていると、これはちょっと価値があるなとわかってくるものである。結局本に関していつもどこかに気にかけているものだから、そういったことがわかってしまうのだ。たとえば時代のニーズとか、人気があっても肝心の本が品切れや絶版になっている作家さんの本などは、多少値が付くだろうな、とわかるのである。

 もう一つが「せどり」である。この本の解説に最近はせどりが新古書店で行われていることが書かれている。実は私はそれらしき人をブックオフで見かけたのである。その日は単行本500円均一というセールが行われていた。私はそれを見たとき、しめしめ何かいい本がないかなと思い棚を見たが、棚がガタガタなのである。そして床にはいくつものカゴが置かれ、そこにごっそりと本が入っていた。どう考えても一人の人間が欲しい本を引っ張り出したようには見えなかった。そこには人が座り込んで、スマホでカゴの中の本を確認している。たぶんそこには求めている本のデータが入っているんだろう。私はこの人はここでせどりをしているんだな、と思った。
 昔ネットで古本屋さんをやっている人の本を読んだことがある。仕入れ先の一つにブックオフをあげていた。いくつも駆け回って仕入れをしていると書いてあった。これがそうなのか、と思ったのである。
 しかし本業かサイドビジネスか知らないが、こんな仕入れの仕方で商売をし、金を稼ぐのも大変そうだ。


評価
★★★


書誌
書名:せどり男爵数奇譚
著者:梶山 季之
ISBN:9784480035677
出版社:筑摩書房 (2000/06/07 出版)ちくま文庫
版型:299p / 15cm / A6判
販売価:819円(税込)

2011年11月22日

吉村昭著『魚影の群れ』

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 本の内容の話に入る前にこの本のことを書きたい。実はこの本ちょっと探していた。本は初版が1983年だから、今から28年前に出版されている。しかしもう28年も経ってしまうと、よほどコンスタントに売れていないと、品切れ重版未定、あるいは絶版になって、お決まりの“手に入らない”状態になっている。まして文庫本となると、古本で探すのも大変だ。アマゾンのマーケットプレイスで探せば簡単に出てくるけれど、本の値段はそれほどでもなくても、送料を考えると、それほど安くない。結局携帯にメモを残し、古本屋を歩いている時や、ブックオフへ行ったときに目についたとき買うことにした。
 こういう時携帯は便利だ。さすが“携帯”である。いつも持って歩く以上、そこにメモとして残しておけば、自分の探している本は何だったか、あるいは見かけたときすぐ確認ができる。重複して買うこともない。
 で、この本も神田の古本屋さんを歩いていた時、ワゴンの中で見つけた。間違いないか携帯を開き、「うん、これだ」確認する。3冊まで100円のワゴンにあった。こういう時欲しい本が3冊あれば、お得なのだろうけど、大体にしてそんなことはない。今回もこの1冊だけだったので、100円を出して購入する。多少傷んではいるが、問題はない。

 さてこの本は吉村昭さんの「動物小説」のジャンルに入る1冊である。これまでこのジャンルの小説は何冊か読んできているが、やはり自然相手の話は、厳しい。またその中で生きている人々も当然厳しい。我々のようにのほほんと暮らしている人間が予想する話の展開にはならない。気持ちとしてはハッピーエンドで終わって欲しい部分があるのだが、すべてにおいて無惨な結果で終わる。そんな甘っちょろいもんじゃないよ、教えてくれる。そうであることで、自然を相手にして暮らしている人々の暮らしの厳しさを伝えていく。
 この文庫は、「海の鼠」、「蝸牛」、「鵜」、「魚影の群れ」の4編が収録されている。
 「海の鼠」は島に「鼠が湧きました」、「磯も足元の路上も鼠で充満している。鼠を踏みしゃぐ」というほどの大量の鼠が島を襲った。もともとこの島は漁と、急な段々畑で農業をする、貧しい島であった。しかも台風も毎年襲ってくる。それでも島の人々はそうした自然の厳しさの中で堪え忍んで生きてきた。それが彼等の習性であった。
 そんな中、大量の鼠が島を襲い、わずかな農作物を食い荒らしていく。それでも鼠に食い荒らされることが、分かっていても、島の人々は生きるために、農作物を植えていく。
 人間にとって島は厳しい自然であるが、鼠にとってはいい環境であり、どんどん増え、太っていく。郡事務所の久保はさまざまな対策を講じるが、一向に効果がない。猛毒性の薬剤はある程度の効果を生むが、それだけでおさまらず他の動物をも殺してしまうし、自然環境を破壊してしまう。
 結局なすすべもなく、7年後、鼠が減って行く。島民は鼠が島を襲う前までは、自然が襲う様々なことに堪え忍んで生きたが、鼠が及ぼす被害には諦めだけで済まなくなり、畑を耕さなくなったり、漁を放棄した人々が減っていく。島を離れていく。そうしたことで鼠の食糧不足が生じた。これが鼠のいなくなった理由であった。鼠が去ったあと久保は次のように、無力感に襲われる。


 島に発生した鼠の数が減少したのは、駆除方法が成果をおさめたわけではない。鼠の食糧が乏しくなった島を放棄しただけにすぎないのだ。
 人間の力は、遂に鼠の群れになんの影響もあたえなかった。むしろ久保たちの行為は島の鳥類を絶滅させ、多くの鼬、猫、犬を殺してしまっただけだった。そして、その間鼠は、村人たちの食糧をむさぼり食い交尾し妊娠し無数の仔をまき散らしていった。
 かれは、鼠課長という言葉を耳にするたびに、物悲しい無力感におそわれた。そして鼠すら見捨てた島にしがみついて生きつづける村の者たちの生活を思い起こした。かれらは強靱な人間なのか、それとも土地を離れることのできぬ無器用な人たちなのか、かれにはいずれともわからなかった。

 この話は実際にあった話だそうだ。

 「蝸牛」はそれほど面白くなかった。
 
 「鵜」は鵜飼いの父と娘の話である。松次郎は自分の家庭よりも鵜飼い中心の人間だった。松次郎には一人娘千代子がいて、千代子の子供の頃は鵜に興味を示し「川の匂いがする」と言って敬愛心を感じていた。しかし千代子が歳を経て、一人歩きするようになると鵜飼いに見向きもしなくなる。松次郎は千代子に婿養子をとらせ、鵜飼いを継がせようと考えていて、松次郎の元で働く時雄を候補と考えていた。
 けれど千代子は男と不倫の末、家を出て行き、頼りにしていた時雄も事情で松次郎も元もとを去っていく。松次郎は自分が飼育している老獪な鵜に半ば八つ当たりして、えさなど与えないでいたが、逆にその鵜に顔を突かれてしまう。鵜にしてみれば、えさをもらえるかどうかが、すべてであり、もともと鵜飼いの鵜は完全に飼い慣らせないらしい。だから鵜は生きるためにそうしただけであり、逃げ出しただけなのだ。そう考えると人間というのは、生きものの自分の感情を移入してしまうけれど、結局それは思い込みであって、何ら関係ない。生きるためには生きるための手段、野生の本能があれば、その中で生きていくだけのことなのだろう。

 「魚影の群れ」は確か映画にもなったはずだ。青森のマグロ漁師房次郎は逃げた女房が置いていった娘登喜子と暮らしていた。登喜子には恋人俊一がいた。俊一は房次郎について、マグロ漁師になるつもりでおり、登喜子に頼んで房次郎の舟に乗せてもらう。しかし房次郎はずっと一人でマグロを追ってきた。そして俊一にはマグロ漁師とは異質な部分を感じており、どうしても俊一を受け入れることが出来なかった。
 あるとき房次郎の舟にマグロがかかったが、一緒に乗っていた俊一の額に釣り糸が巻き付いてしまい、皮膚を破り肉に食い入ってしまった。房次郎は一時糸を切って、俊一を助けようとするが、マグロ漁師たるもの、マグロがかかったらどんなことがあっても糸を切ってはならない。マグロを追いつつけなければならない、という教えを優先した。それでなくても房次郎は俊一にはいい感じを持っていない。
 何とか俊一は命を取り留めたが、登喜子は俊一と去っていった。二人とも房次郎に反感をいだいていた。
 俊一と登喜子は和歌山でマグロ漁の修得に努めているという噂が房次郎に入る。そして二人は戻ってきた。戻って来たとき俊一の容貌は漁師の顔つきとなっていた。俊一は房次郎と漁で争うこととなった。房次郎は大物のマグロを釣り上げていたが、俊一はなかなか成果が上がらなかった。
 その俊一の乗った船が戻って来ない。遭難した。1ヶ月後漂流している船が発見され、船中に白骨化した遺体が横たわっていた。俊一であった。船には釣り糸がついていて、引き上げると長さ三メートルを越すマグロの骨がついていた。一見して三百キロ近い大物であった。


 かれは、ようやく事情を理解することができた。俊一の鉤にマグロがかかって、かれはマグロを追った。漁獲に恵まれないかれは、その大物をのがすまいと釣糸をにぎりつづけた。しかし、未熟なかれはマグロの疲れを誘うこともできず、マグロとともに海上遠く進んだ。
 深い疲労と飢えが、かれを襲った。が、房次郎が傷ついた俊一を無視してマグロを追いつづけたと同じように、かれも釣糸をはなそうとしなかった。
 房次郎は、俊一のその行為は自分に対する憎しみによるものだということを知っていた。が、魚骨を見つめているかれの眼には、ただ物悲しい光が浮かんでいるだけであった。
 俊一に死が訪れ、マグロも死んだ。俊一の体は陽光と潮風にさらされて白骨があらわになり、マグロの体もむらがる魚に食い荒らされて骨だけになってしまったのだろう。
 房次郎は、海に眼を向けた。洋上を白骨化した俊一をのせた船が、魚骨をひいて漂い流れる光景が思い描かれた。
 かれは、吏員に深く頭をさげて礼を言うと町の家並みの方へ歩いて行った。

 
 私は房次郎の生き様に感動を覚える。長いこと一人でマグロだけを追ってきた。根っからの漁師である。そんな房次郎が俊一を受け入れたくても受け入れることが出来ずにいた。無器用なのである。結局意地の張り合いとなり、俊一は死に、房次郎はただ事実を受け入れるしかないのである。それしかできないのであった。

 物語はすべて物悲しく終わっていく。


評価
★★★


書誌
書名:魚影の群れ
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117157
出版社:新潮社 (1983/07 出版) 新潮文庫
版型:300p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2011年11月16日

三上延著『ビブリア古書堂の事件手帖』〈2〉

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 栞子さんのシリーズ第2巻が出たので、早速買ってみた。前回は漱石全集に絡んだ大輔の祖母の話を縦糸にして話が進んだが、今回は栞子の家族、特に母親の秘密がこの巻の縦糸となって、横糸を古本に関わる人間模様を栞子が謎を解いていく。
 とにかくこの栞子は謎の多い女性で、好意を寄せている大輔にとっては、知りたいこと部分が多い。それでなくても大輔が昔付き合っていた女性と再会するにあたり、自分はこの女性に関して何も知らなかったし、その分相談相手にもなれなかったこと改めて思い知り、悔やんでいたので、栞子とは、そうありたくないという気持ちが強く働くのであった。

 さて、今回も古本に関わる人間関係の解明である。古本は四冊。坂口三千代『クラクラ日記』、アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』、福田定一『名言随筆 サラリーマン』、足塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』である。うち本編が坂口三千代『クラクラ日記』を除く三冊である。
 まずアントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』。女子高生の小菅奈緒がビブリア古書堂にいる大輔を訪ねてくる。彼女は前回窃盗事件を起こしていて、その関係で大輔たちと知り合いになっているのだが、その奈緒が大輔に妹の結衣の書いた感想文を持って、相談に来る。その感想文は大人びた、一種の危うさを持ったものであったので、奈緒は心配していたのである。読んでみると確かに女子高校生が書くような感想文ではない。そこで大輔は本のことなら栞子に相談するに限ると、その感想文を栞子に読んでもらう。そして栞子は結衣が「この本を読んでいない!」と言うのであった。
 この本は奈緒がネット書店で結衣の代わりに購入したものであったが、この『時計じかけのオレンジ』には二種類あって、旧版はアントニイ・バージェスが書いた最終章が削除された形で出版されていた。そして新版は完全版として削除された最終章を載せて出版され、旧版は絶版となっている。その最終章はあるなしでは、話の内容が変わってしまうものであり、感想文は明らかに旧版の本の感想文であった。
 それはまずネット書店で購入したものであるから、絶対に絶版になった旧版のものであり得ない。またその文庫にはスリップが付けたままになっていた。
 これはちょっと説明がいる。通常書店で本を買うとこのスリップは書店員によって抜かれる。このスリップが在庫管理にも、注文書にも使われるからだ。けれどアマゾンなどで本を買うと、そのまま付けた形で送られてくる。スリップを付けたままだと本文が読みづらいから、普通それを外すはずだ。それが付いたままになっているということは、結衣はこの本を読んでいないということになる。そして何よりもその感想文は栞子が高校時代に書いたものだったのである。それで結衣のウソがばれる。

 福田定一『名言随筆 サラリーマン』は、著者が福田定一となっていたことで、だいたい話が読めた。福田定一とは司馬遼太郎の本名なのである。私はそれを知っていた。そしてこの本は司馬さんが隠したい本だったらしく、今では稀覯本となっている。
 そんなことを知っていたので、たぶん古本の中にこの本が混じっており、それに栞子が気がつかず、話が展開し、最後にすべてが判明するのだろう、と思ったら、ほぼその通りとなった。
 話は大輔が学生時代付き合っていた高坂晶穂と久しぶりに再会し、亡くなった父親の蔵書を処分したいと大輔に依頼するところから始まる。栞子と大輔は晶穂の実家に赴き、本の査定を始める、そこにあるのは時代小説とビジネス書が中心であった。晶穂の父親は県内でレストランチェーンを経営していたが、若い頃は職を転々として苦労していた。
 晶穂の父親の本は時代小説で多少値が付くものがあったが、ビジネス書などは役立たず値が付けられなかった。しかし栞子はその本の中に何か気にかかるものがあった。何か忘れていることがあるのだ、と思うのだがそれが思い出せずにいた。結局値の付かない本を処分がてら新古書店に晶穂が持ち込むことになるのだが、栞子たちが引き上げるとき、引っかかることを栞子が思い出し、慌てて晶穂を追いかける。そして値の付かない本の中に福田定一の本を見つけるのである。しかも本には「福田定一」と署名してある。こうなるとこの本は大変価値のある本となる。
 父親はこの貴重な本を晶穂に直接手渡したかったのであった。晶穂の父親は一時期画廊の受付の仕事に就いていたことがあった。一方司馬遼太郎は産経新聞の文化部に勤めていたので、その頃晶穂の父親と知り合った可能性がある。晶穂の父親は一介のサラリーマンから大作家となった同郷の司馬遼太郎の著書は、仕事で苦労した父親にとって「お守り」だった。その「お守り」を晶穂に渡したかったのだと栞子は推理するのである。

 足塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』では、ビブリア古書堂に本を売りに来た男が、栞子が本の査定をしている間に、持ち込んだ本をそのままにして消え去っていく。古本を買い取るにあたり「買取表」に住所や氏名を記入するのだが、この男は住所を途中にして、氏名や電話番号は記入していなかった。しかし栞子は持ち込まれた本の状態から、その男の住んでいる家の状態を推理し、男を捜し出す。
 男は亡くなった父親と一緒に藤子不二雄の漫画をコレクションしていた。店に来たときに足塚不二雄の『UTOPIA 最後の世界大戦』をいくらで買い取ってくれるか訊ねていた。足塚不二雄とは藤子不二雄の若い頃のペンネームであった。足塚とは大先輩の手塚治虫にあやかって付けたという。そしてこの本は著者にとって最初の単行本で、現存するのは十冊ほどだと言われていた。1980年に初めて古書店に現れるまでマニアに間でも幻の一冊と言われていた。それを知っていた栞子はどうしても男を訪ねなければならなかった。
 男の父親は小学生の頃、この漫画を愛読していたので、どうしてもその本を見てみたいと思い、店を訪ねるが、本は万引きされた後であった。父親は恋い焦がれていた本と再開出来なかったことがショックで、しばらくの間酒浸りとなった。
 ところが父親がビブリア古書堂に本を売りに行った時に、棚にこの本が並んでいた。値段は二千円だった。父親は店員に代金を払い、持ち込んだ本をそのままにして逃げるように店を出た。その店員は栞子と同じように男の父親の家を探し出し、訪ねてきた。店員は栞子の母親であった。栞子の母親は預かった本を届ける目的でここを訪ねたのではなく、その本を買って突然飛び出したものだから、この本は貴重な古書であることに気がついた。二千円の値札の本じゃないと気がついたから、母親が教えを乞いに来たと男は言った。 しかし事実は違うと栞子は推理した。この漫画は男の父親が持ち込んだ段ボール箱に紛れ込んでいた。それを手にした母親はすべてを理解した。すなわち初めてこの漫画本が古書店に並んだとき、万引きにあって、父親はそれを見ることができなかったと言っていたが、実は万引きしたのは父親であったのではないか。だから男の父親は慌てて逃げ出すように店を出たのである。それを察した栞子の母親は、父親を訪ね、一計を案ずるのである。つまりこの盗まれた漫画を犯人から安く買取り、それを売ってしまったということにすれば、法的に罪は問われなくなる。架空の万引き犯をでっち上げ、その本を男の父親が安く買ったとすれば、父親も万引き犯となくなるわけだ。だからこの漫画にビブリア古書堂の値札がいまだ付いているのである。その代わり栞子の母親は父親が持っていた他の貴重な漫画本を安く譲り受けるのである。
 栞子は自分の母親について次のように言う。


 「わたしの母がどういう人間か、これで分かったでしょう?古書に詳しい、頭の切れる、得体の知れない人です。・・・・十年前に姿を消したきり、連絡もありません」


 その母親が残していった本が一冊ある。坂口三千代『クラクラ日記』である。母親は自分の気持ちを本に託すのが好きだった。『クラクラ日記』を見た後母親が何をしたかわかったという。


 「他に好きな人ができたんだと思います。『クラクラ日記』には、著者が幼い娘を家に残して、(坂口)安吾のもとへ走る記述があるんです」


 栞子はこの『クラクラ日記』を何冊も持っていた。栞子は母親が残していったこの本を古本市場に売りに出した。けれどあとになってこの本の中に直接自分宛のメッセージがあったのではないかと思い始め、その本を探し出すために古本市場でこの本が出品されると買い求めた。だから同じ本を何冊も持つことになってしまったのである。大輔はそう推理した。

 栞子さんの本は人気があり、どうやらシリーズ化されるようで、まだ続巻が出るようである。結構気に入っているので楽しみだ。そうそう秋葉原のヨドバシカメラにある有隣堂では、『ビブリア古書堂の事件手帖』の1巻と2巻が平積みにされていて、その横に栞子さんが推理した本、例えば今回の『クラクラ日記』や前巻の漱石の『それから』や太宰治の『晩年』の文庫本が一緒に並べられていた。この本を読んで、これらの作品を読もうという人のため配慮と売上アップを狙った作戦なのだろうが、なかなかやるものである。


評価
★★★


書誌
書名:ビブリア古書堂の事件手帖〈2〉栞子さんと謎めく日常
著者:三上 延
ISBN:9784048708241
出版社:アスキー・メディアワークス 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2011/10/25 出版)メディアワークス文庫
版型:261p / 15cm / A6判
販売価:556円(税込)

2011年11月14日

藤原正彦著『日本人の誇り』

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 この本は最終章の「日本をとり戻すために」に歴史的記述にかなりのページを割いている。「日本をとり戻すために」とは、日本という国の誇りがどうしてこうも国民に失われてしまったのか、その経緯を書かざるを得ないという思いがここにはある。
 たとえば、日本政府の対中外交の弱腰を次のように批判する。

 とりわけ中国にはやられ放題です。尖閣諸島など、歴史的にも国際法的にも日本領であることは明白なのに、領海侵犯したばかりか海上保安庁の巡視艇に体当たりまでしてきた中国漁船の船長を、中国の恫喝に屈し釈放してしまいました。体当たりしてきた段階で中国漁船を撃沈してもよかったほどのものですが、日本政府首脳は目を泳がせたまま「私はビデオを見ていません」「釈放は検察の判断でされました」など平気で言い、中国に断固たる抗議もせず「領土問題は存在しません」と蚊が泣くような声で繰り返すばかりです。 すばらしい学習をした中国はこれからも東シナ海でやりたい放題の乱暴狼藉を働き、こちらが逮捕などの行動に出るや謝罪と賠償を世界中に聞こえるようにがなり立て、それでもダメならありとあらゆる報復措置をとるでしょう。台湾の李登輝さんが言うように中国とは「美人を見たら自分の妻だと主張する国」なのです。(別の章では「利益のためなら何でも主張するという中国の慣習」とか、政府への不満を外国への憎しみにすりかえるというのは中国が現在もっともよくとる手法」とも言っている)

 あるいは、

 それならまだ分かるのですが理解し難いのは、祖国への誇りを育むと軍国主義につながりかねない、戦前の愛国教育と同じではないのか、など心配したり、近隣諸国条項を考慮したりすることです。
 近隣諸国条項とは1982年(昭和57年)に起きた不思議な事件により生まれたものです。その年、新聞やテレビが、「歴史教科書の検定において文部省が『大陸侵略』という言葉を『大陸進出』に書き改めさせた」と報道し、文部省と政府を攻撃しました。すぐさま中国政府は不快感を表明しました。
(略)
 ところが不可解なことにその後になって、当時の宮沢喜一官房長官が「今後の教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」という談話を発表したのです。そしてこれは教科書検定基準として定められました。世界のどこにもない奇妙な、と言いますか奇想天外な基準です。
 これがきっかけでその後、何かあるたびに日本は中国や韓国や北朝鮮に「歴史認識」を問われることになりました。この三国は「歴史認識」が黄門様の印籠でありこれを口にしさえすれば直ちに日本が謝罪し、外交上優位に立てることをこの時学習したのです。そもそも、国家が謝罪するなどということは、私の知る限り日本だけです。主権国家というものは、戦争で降伏し賠償金を払っても、謝罪という心情表明はしないものです。それは自国の立場を弱くし、自国への誇りを傷つけるからです。そしてなにより、もはや弁護できない私たち父祖を否定し冒涜することになるからです。
 第二次大戦やそれ以前の歴史を外交に持ち出す国は私に知る限りこの三国以外、世界中のどこにもありません。(略)日本が謝罪と譲歩で応える世界唯一の国だからです。1990年以降ほとんど毎年、政府が謝罪し続けています。それより関係は改善するどころかむしろ悪化しています。
 近隣諸国条項とは平たく言うと「中国、韓国、北朝鮮を刺激しかねない叙述はいけない」という政治的なものです。子供の学ぶ歴史教科書において、歴史的客観性より「事を荒立てない」を優先する滑稽な代物なのです。

 ではどうしてこうなってしまったのか?それを著者は歴史から説明する。まずは幕末から明治維新から紐解き始める。

 日本はこの大きな世界史の流れに、幕末になって突然、心ならずも放りこまれてしまいました。
その当時、アジアの国々は諦念からでしょうか、激しい抵抗もほとんど示さず、片っ端からヨーロッパ勢力により蹂躙されてしまいました。強力な武器を手に高圧的に迫る白人を前に従順な羊のようでした。
 その中にあって唯一、独自の、人類の宝石とも言うべき文明を生んできた日本は、その気高い自負ゆえに、ぼんやり眺めているばかりの他のアジア諸国とは異なり、命をかけて独立自尊を守ることを決意しました。日本のような後進の小国にとって、実に大それた望みでした。幕末から明治維新の日本人が、満腔にこの決意を固めたと同時に、その後の流れは決まってしまったのです。

 日本は南下政策をとったロシアをひどく恐れた。そのために「清国に朝貢しつつ無気力のまま暗闇の底で蠢いている朝鮮」叩き起こして開国させ、明治維新のような改革をさせねばならない。同時にヨーロッパ列強の食いものとなり果てて恥じることのない「性根のすわっていない兄貴分の中国に正気を取り戻させ」、日中朝で協力しヨーロッパ列強、特にロシアの侵略に備えなければならない、と考えた。西郷隆盛の征韓論の思想的根拠はここにあった。
 考えて見れば日本防衛のために、朝鮮や中国にとって迷惑な話でもあるけれど、自国防衛のためにはあまりにも日本は小さすぎた。だから協力してヨーロッパ列強に対処しようとしたわけだ。問題はそうしたアジア主義が朝鮮や中国に理解が得られず、一人歩きしてしまったところであろう。その結果日本は日清戦争、日露戦争と進んでいくこととなる。そして勝利し、奢ってくると、もともとフライング気味のアジア主義が変質してくる。日露戦争前後から日本を盟主とする大アジア主義となり、昭和になって大東亜共栄圏となっていく。結局日本は帝国主義列強の仲間入りをしてしまった。
 世界恐慌から列強ブロック経済化により、日本は窮地に追い込まれ、ついにアメリカとの戦争へと突入していく。
 敗戦で、日本はGHQの支配下に置かれるが、その時GHQは「罪意識扶植計画」を日本人に実行していく。

 「罪意識扶植計画」は、日本の歴史を否定することで日本人の魂の空洞化をも企図したものでした。ぽっかりと空いたその空地に罪意識を詰めこもうとしたのです。そのためまず、日本対アメリカの総力戦であった戦争を、邪悪な軍国主義者と罪のない国民との対立にすり替えました。三百万の国民が殺戮され、日本中の都市が廃墟とされ、現在の窮乏生活がもたらされたのは、軍人や軍国主義者が悪かったのであり米軍の責任ではない。なかんずく、世界史に永遠に残る戦争犯罪、すなわち二発の原爆投下による二十万市民の無差別大量虐殺を、アメリカは日本の軍国主義者の責任に転嫁することで、自らは免罪符を得ようとしたのです。

 「罪意識扶植計画」に協力的でない人間は公職追放されたり、圧力を加えられたりする。そのため最初は生存のため仕方なく罪意識扶植計画に協力していたのが、次第にそれに疑いをはさまない姿勢こそが戦争への懺悔、良心と思いこむようになり、洗脳されていった。疑いをはさむ人は軍国主義者とか右翼というレッテルが貼られることになった。
 このようにGHQが種をまき、日教組が大きく育てた「国家自己崩壊システム」は、今もなお機能しているため、自らの国家としての意識が主張出来ない。単に国を思う気持ちが、増幅されて、戦前の軍国主義だという話になってしまうのである。そしてそれを恐れる余り、中国など言いたい放題、やりたい放題やられるのだ、というわけだ。それくらいあの戦争の罪意識を日本人に植え付けてしまったのである。
 著者はそこまで強く罪意識を持たなくてもいいし、ある意味あの戦争は列強からのアジアの開放を促し、帝国主義に終止符を打った部分もあるという。
 今や敗戦で押しつけられた欧米の思想である個人主義や経済至上主義はイデオロギー的に破綻しかねている部分があり、これの対処療法では何ら効果を生まないところまで来ている。だからこそ、かつて日本が持っていた個の尊重より、みんなを思う心から、その延長で国家を思う心の復活に期待を寄せるのである。今こそ日本人として誇りで国作りをすべきだと著者は主張する。
 タカ派的な愛国心鼓舞は、行きすぎると問題があるが、国民が自分の国を誇りに持てないというのは、確かに異常だ。ヨーロッパで生まれた個人主義が、日本を、強いては世界をおかしくしている以上、国としてのオリジナリティーを回復し、その中で世界の国々と折り合いをつけていくべきである。今の日本のような他の国に卑屈になりながら、抜け道を探し、生き抜こうとする方法をとっていると、いつまでも日本人の誇りなど持てない。そんな気がする。


評価
★★★


書誌
書名:日本人の誇り
著者:藤原 正彦
ISBN:9784166608041
出版社:文藝春秋 (2011/04/20 出版)文春新書
版型:249p / 18cm
販売価:819円(税込)

2011年11月03日

新田次郎著『強力伝 孤島』

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 私は新田次郎さんの本は今まで『武田信玄』、『武田勝頼』の歴史小説しか読んでいない。で、今回は新田さんの山岳小説であるこの本を読んでみた。「強力伝」、「八甲田山」、「凍傷」、「おとし穴」、「山犬物語」、「孤島」の6篇の短編が収められている。「強力伝」、「凍傷」は実在の人物を扱ったものである。「八甲田山」はたぶん後に「八甲田山死の彷徨」に書き換えられた作品ではないか、と思われる。
 「凍傷」は富士山山頂設立のために、予算を確保する必要があった。そのためには真冬でも富士山に登頂できることを証明する必要があった。その証明のため、真冬の富士山登頂や、山頂での気象観測、そして下山と、その過酷さの中で、主人公の技師の意地が描かれる。
 強力が凍傷になったとき、その技師が独自の凍傷の荒治療をしてくれる。その強力は、「こんなに苦労してまで気象観測を続けなければならない佐藤の行動を、単に学問のためというよりも、富士山を取りまく一群の信仰家達の業のような執着を持っているのではないかと思った。佐藤は富士行者の一人に見えてならなかった」と感じるのである。その感慨に技師の妄執が語られている。
 「おとし穴」、「山犬物語」は山犬(たぶんオオカミだろう)を扱った小説で、「おとし穴」は文字通りおとし穴に酔っぱらって落ちてしまい、その穴に山犬が先に落ちていて、落ちた男が山犬に襲われないように、穴の中で格闘する話である。
 「山犬物語」は山犬によって愛娘を失った主人公が、復讐のために山犬を殺す。しかし山犬の子犬を育てた妻も、主人公もやがて狂犬病のため死んでいく話である。

 個人的にはやっぱり「強力伝」が良かった。この作品は新田次郎さんの直木賞受賞作品である。この作品の主人公は新田さんが富士山頂観測所に勤務していたとき、当時炊事係をしていた小宮山正がモデルとなっているという。主人公の小宮正作は自分のことが新聞に書かれることが何よりも尊いものと感じていて、その記事を宝物のように持ち歩いて歩く強力であった。
 小宮はあるとき新聞に自分の名前が出るというので新聞社の誘いに乗って、50貫(187キロ)もある花崗岩の風景指示盤を背負って白馬山頂に登ることとなった。
 それを何とか止めようと石田は小宮のもとを訪ねる。石田は富士山山頂観測所の交代員として勤務していた頃、夜中に変なうめき声を聞いたことがある。
 
 「中央ホールに寝ていた荷上げの強力のうちで誰かが酷い夢にでもうなされているらしい。堤電灯を向けると、それが小宮であった。額に脂汗をぎらぎら光らせて、歯を喰いしばって身もだえしている様子は、毒でも飲んだかと思う程凄惨な感じがした。じっと立ってそこに寝ている他の強力の顔を見ても、どの顔も安らかな眠りではなく、互いに身体を反転しては楽になろうとしている様子は、何かから抜けだそうする動物のあがきのように心を寒くするものだった。日中の度を過ぎた労働が彼等の肉体を夜になって責めたてているに違いない」

 しかし小宮は石田の忠告を聞かずに花崗岩の風景指示盤を背負って歩き出した。187キロの石を標高2,932メートルの白馬岳の頂上に背負って運ぶのである。力自慢は結構だけれど、このことは当然身体にかなりの負担をかける。実際主人公のモデルとなった小宮山正はその時の無茶が原因で2年後には箱根で亡くなられたという。
 作品ではその石の重みが、小宮の背中、足腰にものすごい負担をかける感じが行間からにじみ出てくる。しかも足下は雪である。身体から悲鳴のような音が聞こえそうである。しかも休憩も取らないし、風呂も入らない。それは「小宮は今迄の経験から、重い荷とか苦しい道を続ける場合、呼吸の入れ方が最も重要であることを知っていた。大きな呼吸、つまり休憩時間を長く取ることはかえって身体をなますことになり、一気呵成にやっつけて後で充分休養を取るやり方が小宮の今迄の仕方であった。だから彼は風呂に入って筋肉をもむことより、睡眠と食事に重きを置いた。異常に緊張した筋肉に特別の休養を与えると、かえってそこが痛みだすこともよく承知していた」からであった。

 何かで高山に荷物を歩いて運ぶ人の話を聞いたことがある。その人達を“強力”という人たちだったのだ。実際に白馬山頂に50貫(187キロ)の花崗岩の風景指示盤があるらしい。ネット調べて見るとその写真があったので、ちょっと拝借した。


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 写真で見てみるとその石に太さ、大きさに驚いてしまう。これを人が運んだとは、思うだけでぞっとする。背負って運んだのである。運んだ人の身体をおかしくしても当然と思えた。
 いくら新聞に自分のことが載ることがうれしくても、そうまでしなければならないのは何故なんだろう?自分が新聞に載れるのは力自慢しかないから、「そうしたんだ」と言われれば、それまでだけれど、これをすれば自分の身体をこわすことくらいわかっていたはずである。それでも50貫もある石を運んだのである。天秤にかけるには、あまりにもバランスがとれない。無茶をわかっていてもそれをする。生物学的にただ「生きる」だけでは人間は生きていけないものであるらしい。ある意味人間の業を感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:強力伝 孤島(改版)
著者:
ISBN:9784101122021
出版社:新潮社 (1983/07 出版)
版型:281p / 16cm / 文庫判
販売価:459円(税込)

2011年10月18日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈7〉

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 また司馬さんの本を取り出す。このシリーズは全14巻だったと思うが、とにかくそれだけある。そしてやっと半分読み終えたことになる。とにかく気の向いた時に読んでいるものだから、一向に終わらない。いずれ気合いを入れて読んでみようとは思っているのだが・・・。

 司馬さんはこの本の中で身辺雑記を書けない人と自分を位置づけている。確かに司馬さんの随筆は、個人的な生活感が薄い。いつも論文調になってしまっているといえば言えるかもしれない。だけれど、それが司馬さんの文章の魅力だと思っているし、それを期待している。でもそうは言っても今回は珍しく司馬さんの交友録みたいなものがあって、司馬さんとそれらの人たちの関わり方が面白かった。
 それでもやっぱり司馬さんの文章の楽しみは、歴史に関する認識である。そしてこの本を読んでいて、どうしても“震災”と関連して考えてしまう。それが正しい本の読み方なのか、どうかわからないが、でもこの“震災”後のどう歩んでいけばいいのか、みんなが不安を抱えている中で、本来なら政治が率先して行かなければならないのに、それが出来ていないことにものすごく苛立ちを感じてしまう。まして被災者の人々にとっては余計にそうであろう。
 とにかく政治がどうしようもない。もともと野党しかやったことのない政党が、与党となって、日本の政治を動かしているものだから、やることなすことちぐはぐである。ちょっと前まで政治主導と言って格好いいスローガンをぶち上げたけれど、専門の官僚を無視して、行政の素人である彼らに一体何が出来るというのか、考えればわかることである。結局震災ですべてが露呈し、自らの無能ぶりをさらけ出しただけであった。つまり彼らは以前から“健全な野党じゃなかった”ということである。

 司馬さんは日本に健全な野党が成立しえなかった理由を「竜馬像の変遷」で述べている。
 われわれはいま、坂本竜馬という人物像を思い浮かべることが出来るが、実は1907年(明治40年)ごろまでは竜馬に触れることはタブーだった。もちろん明治の統一国家をつくるために果たした彼の功績は大きい。しかし明治国家が薩長のものであり、明治国家の目的は富国強兵であった。それ以外の思想の持ち主である坂本竜馬を含む人物たちは、歴史のなかの困りものにすぎなかった。
 特に西南戦争(1877)である。司馬さんは次のように言う。
 
 「西南戦争というのは、西郷の人望と、薩摩の土俗的な士族の軍事的な強さが中核になっている反政府運動ですが、自由民権の芽も濃厚に混じっていますから、いまで言う野党連合だった。近代の日本に、ついに健康的な野党が成立しなかったのは、それがこのとき、完全に軍事的に制圧されたからだとも言えるでしょう。このとき、坂本竜馬および竜馬的人物というものもまた、国権的祭壇におさまらなくなってしまった」

 こうした明治国家が昭和の終戦まで基本的に続いていたため、日本には健全な野党が育つ余地がなかった。そして戦後も連合国から押しつけられた国家であったために、未だに健全な野党が育たないで来たのである。
 その野党であった政党が政権与党となって、実際政治をやってみると「これはなんか違うぞ?」と戸惑ったまま、この震災にあった。だからどうしていいのかわからないのである。あるのは野党時代に培った“怒鳴り倒すこと”である。それを震災直後にやった“脅し”になっただけのことである。
 もっともその政党に政治をやらせてみたら、と与党にしたのは国民である。国民は何かが変わると思ったのだ。けれど何も出来ないことに、失望しただけであった。そんなことを考えながら、司馬さんの意見を読んでみた。
 
 さて、それ以外に司馬さんの意見で面白かったことを書き並べてみる。
 「歴史と風土」で現在の土佐と薩摩の風土を比べている。特に薩摩に来てみて「これが薩摩隼人の国か、それほどじゃない」と司馬さんは感じ、それがどうしてなのだろう?と考える。
 まず薩摩的なものというのは戦国の末期、島津家が意識的に訓練してつくりあげたもので、江戸時代もずっと訓練のし続けだった、考える。その薩摩的なエネルギーが西南戦争で尽きてしまったことにより、薩摩的なものが失われていったと思うのである。
 一方土佐はそうじゃない。歴史をひもといてみると、百姓の方がむしろ土佐人であって、藩をつくっていた山内侍は進駐軍に過ぎなかったから、今高知の町へいってみても、これはいかにも幕末ごろに出てきそうな人間だとか、長曽我部の足軽というのはおそらくこんなやつだったろうという雰囲気を猛烈にもった人が歩いている、というのである。そんなものなのだろうか?

 「“旅順”と日本の近代の愚かさ」では次のように書いている。

 「これらの作品(『坂の上の雲』)をかくときに、昭和十年代の陸軍大学校の教授内容をしらべ、それを経たひとにあたってきいてみたが、旅順攻撃の失敗についての解剖がほどよくしかおこなわれていないことに驚いたことがある。むしろ失敗とみとめず、成功とするようなふんいきがあり、そのふんいきのなかから、日露戦争後の軍部の体質ができあがって行ったのではないかとさえ思えた。この体質の軍部が昭和十年前後に日本を支配したとき、日本そのものを賭け物にして“旅順”へたたきこんだというのもむりがないような気もするのである」

 この戦争後生まれた土壌に関しては、以前にもどこかで書いたような気がするので、引用だけでとどめておく。次に司馬さんの著作で徳川家康のことを書いた小説『覇王の家』のあとがきがここに掲載されている。そこの次のように書かれている。

 「かれ(徳川家康)がその基礎を堅牢に築いて二百七十年つづかせた江戸時代というのは、むろん功罪半ばする。文化文政時代という特異な文化や、教養の普及という点で代表されるように功も大きかったかもしれないが、天文年間から慶長年間にかけての日本人にくらべ、同民族と思えぬほどに民族的矮小化され、奇形化されたという点では、罪のほうに入るかもしれない。室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本をとざし、さらにキリスト教を禁圧するにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった。
 その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ている。その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い」

 私は井上清さんが鎖国の功罪に関して、日本独自の文化を生んだことは事実であっても、それ以上に弊害の方が強いと断罪をしていることを知っているが、個人的には司馬さんの考え方の方がすっきりするような気がする。
 あと歴史上の中国とその周辺国に関する考察で、周辺民族というのは、文化さえ持てばよかった。(中国)文明という光源があれば、周辺にあっては文明を興す機能性を持ちえないか、あるいは持つ必要がなかった。つまり文化という村落内に通用するだけの秩序意識を背負っている身軽な立場であるため、時勢の必要に応じて他の文明を仕入れることが容易であるということである。明治以後、日本が欧米での普遍性をもっていた技術文明を人文科学ともに仕入れたということが、その好例といえるかもしれない、と書く。
 一方その胴元の中国など、文明を興したということは民族の偉大さではあるが、同時に、自己が興した文明を他のものと交換することができにくく、自己の文明によって自家中毒になるまでそれを持ちつづけざるをえず、ときに民族的衰弱を来すという深刻さがある、と書いているのは面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467073
出版社:新潮社 (2002/04/15 出版)
版型:379p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2011年10月11日

三上延著『ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち』

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 この本は大分以前からお茶の水の丸善に平積みになっていて、気になっていた。でも出版社を見るとメディアワークスとなっている。要するにこの出版社、日本のサブカルチャー系出版社でゲームメーカーである株式会社アスキー・メディアワークスが、IT系出版社のアスキー(新社)を吸収合併して出来た出版社であり、現在角川グループホールディングス傘下の企業である。
 まぁどこの出版社でも読みたい本なら一向にかまわないのだが、今回は気になってはいても、内容がサブカルチャー的だと困るな、と思い、尻込みしていた。著者もネットで調べてみると「三上延(みかみ えん、1971年)は神奈川県出身のライトノベル作家。作風は全般的にホラー風味」とある。
 カバーの表紙もそれっぽいでしょう。でも気になって、ついに買ってしまった。私は古本に関するミステリーが好きでたまらないので、我慢できなくなってしまったわけだ。
 しかし内容はサブカルチャーではない、しっかりした内容の古本に関するミステリーとなっていて、予想以上の出来であった。

 話の内容は、主人公の五浦大輔が高校生のとき北鎌倉のビブリア古書堂で篠川栞子の姿に気をとめたころの話がプロローグとして始めている。
 
 大輔の祖母が亡くなり、その遺品に漱石全集があり、そこに次のようなサインがあった。

「夏目漱石
   田中嘉雄様へ」

 これを漱石のサインと勘違いした母親は一緒にはさまっていたビブリア古書堂の値札からここでこのサインを鑑定してもらい、高価なものであれば大事に取っておこうというのであった。全集は昭和31年判で、どう考えても漱石がこのときまで生きていたとは考えられないから、このサインは偽物に違いないと疑いつつ、大輔はビブリア古書堂に全集を持って行き、鑑定してもらうことになった。 ところがビブリア古書堂には彼女がいない。けがをして入院していると聞き、わざわざ病院まで訪ね、このサインの真相を聞くことになる。そこで篠川栞子はこのサインの真相を推理することになる。
 彼女が推理したサインの秘密は次の通りである。
 これは夏目漱石が田中嘉雄さんに献呈したように装っているが、実は田中嘉雄さんが大輔の祖母にプレゼントしたものではないか、と言うのである。なぜなら本を献呈する場合、本をあげる人の名前を中央に書いて、その後に著者の名前を書くのが普通であるが、これが逆になっている。ということは、大輔の祖母が田中嘉雄さんからこの全集の「それから」の巻のみプレゼントされたもので、それを隠すために、漱石の名前を書き加えたものだろう、というのであった。
 『それから』の主人公の名前は大介である。大輔の名前は祖母が付けたという。大輔は子どもの頃、祖母の部屋に入って祖母の本棚から読めそうな本を物色しているところを祖母に見つかり殴られた。そのとき祖母は「もう一度同じことをやったら、うちの子じゃなくなるからね」と言った。以来大輔は本が好きだけど、このことがトラウマになって本が読めなくなってしまった。しかしこの本は大輔の母の出生の秘密を解き開くことになっていく。

 大輔は栞子がきれいな若い女性であり、初対面の人や、本以外のことを話すことがうまくできない彼女が、本のこととなると途端に饒舌になるのに興味が引かれた。一方栞子は大輔が就活中であることを聞き、自分が今、足をけがして入院しているので、ビブリア古書堂で働いてくれないかと頼み込む。大輔はそれを当然引き受ける。ここから大輔と篠川栞子のコンビが古本の謎を解いていく。

 大輔は店番をし、持ち込まれる古本があれば、一時それを預かり、栞子に査定してもらうのと同時に、自分が本が読めないので、その本の内容を栞子に聞くことで、だんだん栞子に引かれていく。そして最終章の太宰治の『晩年』の話となる。

 大輔は栞子が階段を突き落とされたことでけがをしたことを知り、それが太宰治の『晩年』の初版本に原因があることを聞かされる。この『晩年』はビブリア古書堂で代々受け継がれてきたこの書店のコレクター品であった。
 そのとき大庭葉蔵と名乗る男がそれをゆずってくれないかと強く申し出てくるが、栞子はこの本は自分の所のコレクター本なので売ることが出来ないと言うと、暴力でそれを奪おうとして、栞子は突き落とされてしまったのである。
 そこで栞子はその男がどういう人間なのか突き止めようとし、罠をはる。大輔は協力を求められた。

 店にはせどりで貴重本を持ち込む志田という男がいるが、その仲間で二カ月前に知り合った“男爵”と呼ばれる笠原という男と一緒に店に来た。店にはあの『晩年』が並べられていた。しかし彼らはそれが復刻版の偽物と見破る。本物は栞子が病室に置いてあると大輔は彼らに言ってしまうのである。
 あとで二カ月前といえば栞子が突き落とされた頃だと大輔は気がつく。もしかしたら笠原が大庭ではないかと疑う。
 一方大庭は栞子のいる病院向かい、屋上で『晩年』を抱えた栞子栞子を追い詰めている。大輔は「たかが本のためにそこまでするかよ」と大庭に迫るが、栞子は『晩年』に火をつけ、屋上から投げ捨てた。大庭は捕まる。
 大輔らは大庭の本名が田中敏雄だと知る。もしかしたらこの男の祖父は田中嘉雄ではないかと聞くと、そうだという。祖母の恋人であり、大輔の母の本当の父親であった。田中嘉雄は古本のコレクターであり、あの『晩年』も祖父のコレクターだったと聞かされた。そして田中から栞子が火をつけた本は本物じゃないだろうとも聞かされる。本当に本が好きだったらそんなことなどできないというのである。
 それを栞子に問うと、栞子は大輔が本を読む人じゃないから、大好きな本を手元に置きたいという気持ちがわからないかもしれないと、大輔を最後で信用できなくなり、そうした芝居をしたというのであった。大輔は裏切られた気持ちになり、店を辞めた。
 大輔はまた就活活動に入るが、栞子の妹から電話があり栞子があれ以来本を読まなくなってしまい、退院しても心配だから、一度見舞ってくれないかと頼まれる。
 大輔はどうしようか迷ったが、就活の帰りに病院によると栞子がベンチで待っていた。栞子は『晩年』を大輔に預けるというのである。この本を預けることが、すなわち自分が大輔を信用するという気持ちだと言う。仲直りのつもりであった。

 この本は古本に関する小粒なミステリーだが、それでもなかなか面白かった。大輔が言ったように「たかが本のため」だから、古本に関してミステリーはそうそう大がかりになることは少ない。けれどコレクターの少々歪んだ心性が、一歩間違えれば事件を生むパターンは、それなりに面白い。


評価
★★★


書誌
書名:ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち
著者:三上 延
ISBN:9784048704694
出版社:アスキー・メディアワークス 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2011/03/25 出版)メディアワークス文庫
版型:307p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2011年10月03日

堀江邦夫著『原発労働記』

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 この文庫本はこの震災による原発事故で、27年ぶりに緊急復刊された。もちろん今も予断を許さない状況下にある福島第一原発にも著者は加筆している。
 この本は原発労働者として著者自ら美浜原発、福島第一原発、敦賀原発で働き、“被ばく”の恐怖にさらされながら、過酷な労働に従事する人々を描く潜入ルポである。

 今回の震災で原発が安全でないことを日本のみならず、世界が実感した訳だが、この原発を維持するため働いている人々が、絶えず放射能の危険に曝されて仕事をしているからこそ、原発は維持されていたことを知る。
 最も近代技術や科学技術で支えられている原子力発電が、まるで前近代的な下請け制度支えられていたことは、皮肉としか言いようがない。とりわけ電力会社の社員より、“原発ジプシー”と呼ばれる下請け労働者の被曝量が高いことは、原発は電力会社の社員で維持されていたのではないことを証明する。
 “原発ジプシー”とは、手配師などが集めた日本各地の原発を渡り歩いている人々を言うが、彼等がいるからこそ、原発が維持できていた。彼等が電力社員のやらない危険で過酷な職場環境で仕事をしているから、原発がかろうじて動いていると言っていい。おそらく今必死に原発の暴走を止めようとしている人々で、実際に原発内部に入り込んでいる人々もこうした人たちではないか、と推測する。
 労災法などをかじっていると、下請け会社が親会社に気を使って、言うに言えない環境で仕事をさせられていて、一端事故などあると、労災を適用しない方法で、内部処理してしまうことをよく聞く。だからこうしたことは、どこの業界でも存在するのだろう。


 三時のとき、西野さんとトイレへ行く。ドアを二つ抜けると、左手にガラス張りの部屋-原発の“頭脳”部分にあたる中央制御室だ。明るい照明の下、たぶん電力会社の社員であろう、カラフルなワイシャツ姿の男たちが、コーヒー・カップを片手に計器と向かいあっている。その部屋とガラス一枚隔てた廊下を、薄汚れたボロ布を顔に巻き、ホコリだらけの作業着を身にまとった私たちが歩きまわる。なんと対照的だ。


 あるいは著者が原発内で転落して肋骨を骨折しても安全責任者は治療費の件で次のように言う。


 「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故があったことがバレてしまうんですよ。・・・ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。・・・だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」


 労災隠しである。労災扱いじゃないと嫌だと言えば、事故が公になり、マスコミが騒ぎ、東電に迷惑をかけ、その果てに会社に仕事が回ってこなくなり、行き着くところはあんたに仕事がなくなる、と暗にほのめかしているわけだ。

 そうまで電力会社に気を使いながら、原発内で危険な仕事を請け負っている。一方電力会社は“協力会社”として彼等に危険な仕事させている。
 下請け会社も高線エリアで仕事をしている従業員のアラーム・メーターが“パンク”すると、若いボーシンは「この分じゃあ、週300(ミリレム)の規定に引っかかっちゃうなあ」とボヤくが、彼が心配しているのは、労働者に一週間300ミリレムもの「被ばく」させてしまうことの心配ではなく、むしろ規定線量オーバーにより、別の労働者の確保しなければならない、という心配をする、状況下なのである。
 下請け労働者も、本当なら完全防護をしなければならないところを、不完全な、あるいは壊れているマスクなどを使いながら仕事をしている。また完全防護をして仕事をすれば、ちょっと動いただけで息苦しくなる。アラームは絶えずパンクし、必死でそこから脱出していく。

 「きのうの疲れがまだ残っていた。起き抜けに出た尿は、まっ赤だった。全身がだるい。仕事を休む」

 「だいぶ体調は回復してきた。しかし大事をとって、今日も休む。
 もし私が“本物”の貧しい下請け労働者だったら、生活は完全に破綻するだろう。なんら保障もなく、『体ひとつ』で生きていくことが、いかに苦しく、難しいかを身をもって痛感する」


 著者が原子炉内部に定期検査のために電源を確保するため、ケーブル引く作業に従事している時など(だいたい定期検査をするための電源が原子炉近くにはないのだ。これでどこが近代技術を駆使したものと言えるのだろうかと著者は言っている)、薄暗い中で、アラームが鳴りっぱなしであり、被曝量も他のところとは一桁違ってくる。それだけを読んでも、怖くなってくる。
 ここでは下請け会社で働く人たちと、正規社員との職場環境の格差は、どこにでもある格差ですまない。その格差が「つねに『死の影』がつきまとっているのだ」
 この本を読むと、原発で働く下請け会社の労働者の過酷な職場環境と危険性が単に労働問題だけでなく、原発そのものが危険なものであるというのを、我々に突きつけているのである。原発が最新テクノロジーで管理されているから、危険性はないのだ、というのは電力会社や国の嘘だったことを知らされる。そして奇しくもそれが今回の震災や津波であからさまになっただけのことである。
 いま我々は限りあるエネルギーと言いながら、一方で無尽蔵の如く電気を消費してきた。必要以上の快適さを求めるために、電気を使い続けた。原発が危険であっても、そのためにはその存在を認めざるを得なかった。我々は薄々感づいていたものを、突きつけられたのである。
 この本を読んで原発は怖いものだと改めて知らされたし、この震災で未だ先の見えない原発事故を、まるで人ごとのように淡々と説明する東電の社員を見ていると、原発は手を出しちゃいけないものだったのではないか、と思ってしまう。快適な生活の追求が原発のある地域に人が住めない場所に変えてしまったものなのだ。だったら我々は今までのライフスタイルをどう変えていけばいいのか、大きな課題を目の前に突きつけられてしまっている。


評価
★★★


書誌
書名:原発労働記
著者:堀江 邦夫
ISBN:9784062770002
出版社:講談社 (2011/05/13 出版)講談社文庫
版型:364p / 15cm / A6判
販売価:680円(税込)

2011年09月26日

細川布久子著『わたしの開高健』

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 <はじめに>

 この本の感想は一度掲載しました。ところが最後の部分で間違いがあり、いったん掲載を削除して、過ちの部分を最後に修正し、再度掲載しました。


 ここに一冊の古い雑誌がある。面白半分昭和53年11月臨時増刊号「これぞ、開高健。」である。もう33年前の雑誌だ。雑誌のため中のページは赤茶けてしまっているが、この編集人がこの本の著者細川布久子さんだ。


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 だいたい雑誌『面白半分』というのを知っているだろうか?当時『話の特集』と並ぶ1970年代のサブカルチャー雑誌の一つであった。で、この臨時増刊号の「これぞ、開高健。」は1978年の時点で開高健の特集を組んだ雑誌はこれだけだったという。雑誌『面白半分』に関してはWikipediaによると次のように書かれている。


 雑誌『面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長に吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊(1972年1月号)した。編集長は人気作家が半年毎に交代していた。
 吉行淳之介が朝日新聞に掲載したエッセイの「『日本軽薄派」という雑誌を作ってみたい」という一文を見た佐藤が、吉行の協力を取り付けて、「面白くてタメにならない雑誌」として刊行。編集長は吉行の後、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一が交代で務めた。
 野坂編集長時代に永井荷風作と言われる春本「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発された。(四畳半襖の下張事件)
 大日本肥満者連盟(大ピ連)結成でも話題となった。
 1980年まで刊行されたが、9月~11月号が休刊となり、12月号「臨終号」が最後となった。

 私はこの著者が面白半分に勤め、開高健さんの担当となり、以来開高さんの私設秘書役まで勤めた女性であったことを知ったのだが、まさかこの古い雑誌に関わった担当者とは、驚き、それで自分の本棚から引っ張り出し、編集人に著者の名前があることを確認したのであった。

 さて、ここで取り上げたいのは開高健さんの女性関係である。著者は開高さんの私設秘書役まで務めていた人だから、開高さんの女性関係に関わるざるを得なかったことを告白している。また女性ならではの嗅覚で敏感に開高さん女性関係を感じ取っていた。
 まずは開高さんの『輝ける闇』のヒロイン素娥の写真を一緒にベトナムに行った秋元啓一さんから見せてもらっているところから、次の“闇”シリーズの『夏の闇』で書いてしまった女性に言及する。これは菊谷匡さんの『開高健のいる風景』に詳しい。なのでこの本から書き出してみよう。


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 (『夏の闇』を)読み終わってしばらくしてから開高さんに会って、
 「あの女性、いったい誰です?」
 「何でや?」
 「ぞっこん惚れてるんでしょ?」
 「余計なお世話や」
 「まさか、佐々木千世じゃないでしょうね」
 すると開高さんは顔色を変えて、言った。
 「どうして君が知っとるんや」
 「あの作品を読めば、独立排除的に明々白々じゃないですか。開高さんは彼女が“諸外国を放浪して旅行記を一冊書いた”と書いているし、彼女とおぼしき女性の旅行記の袖に開高さんは“すいせんのことば”を書いているわけでしょ。ぴったり符合する」
 「・・・・・」

 その本の口絵写真で見ると、彼女はわたしが学生時代に学内でときどき見かけた女性だった。露文の学生だったと思う。色の白いほっそりとした人だったが、もし同じ女性だったら『夏の闇』では豊に変貌している。読むかぎりでは、開高さんにとって何物にも代えがたい女性のようだった。ついでながら、“独立排除的に”というのは、作中の女が口癖のように使う言葉である。
 開高さんの沈黙は、彼女がわたしの指摘する女性であることを物語っていた。それはいいが、この女性の存在を書いたことが開高宅で悶着を引き起こし、開高さんの晩年を苦しめることになった・・・・。


 開高さんの妻は詩人の牧羊子さんである。牧さんとは同人誌時代に知り合い、開高さんとの関係で妊娠し、結婚を迫られ、以来夫婦となって苦労してきた。開高健弱冠22歳であった。開高さんがサントリーに入社できたのも、牧さんがその前にサントリーの研究室に勤めており、その後釜で開高さんがサントリーに入社できた。
 開高さんは菊谷さんに「あのとき、おれの人生、決まっちゃったようなもんだデ。二十二で、お先真っ暗や」と言っている。

 この女性に関しては、2007年1月に読んだ滝田誠一郎さんの『長靴を履いた開高健』にも登場する。以下書き出して見る。


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 小説家として転機となったのは「女」との出会い。10年ぶりの再会。パリでの出来事だ。68年5月、フランスでは学生運動の盛り上がりが全国的なゼネストに発展し、当時ド・ゴール政権にとっての最大の危機、内乱寸前とまでいわれた。いわゆる5月革命だ。
 6月、『文藝春秋』の特派員として小説家は5月革命を視察するためパリに赴く。そのパリで、小説家は「女」と10年ぶりの再会を果たすのである。そしてほぼ一夏、小説家が滞在していたパリの学生町の旅館にこもり、「女」が客員研究員として勤務していたドイツのとある大学の職員用アパートに潜むようにして、「美食と好色は両立しない」などうそぶきなから食べるのもそっちのけで全裸の生活に没入するのである。
 この出会い、このエロチックな出来事が、3年後ひとつの文学作品の昇華する。71年10月、雑誌『新潮』に発表された『夏の闇』がそれである。翌72年3月に新潮社から発売された単行本の函に、小説家が次のような言葉を記している。
《これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを“第二の処女作”とする気持ちで、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変わった。 著者》


 滝田さんはここから、先に書いた菊谷さんと開高さんの会話を取り上げる。


 菊谷さんと佐々木千世さんは早稲田大学の同級生だというから、小説家とは5歳違いだ。
 「彼女はたしか露文(ロシア文学科)の学生で、実際話をしたことはないけれど、見た感じはいい女でした。少しすさんだ感じがするんだけれど」
 大学卒業後、佐々木千世さんはロシア文学研究家という肩書きで翻訳の仕事などをするようになる。小説家との出会い、お互い惹かれあうになるにはこのころだ。
 別にふたりの仲をあれこれ詮索しようというわけではない。あえて佐々木千世さんの名前を出したのは、彼女が小説家とルアーフィッシングの出会いに大きく関わっているからだ。
 小説家はぶらりと立ち寄ったバド・ゴーデスベルグの釣具屋の主にルアーフィッシングの手ほどきを受けるわけだが、そもそも小説家がバド・ゴーデスベルグなる町をぶらぶらしていたのはそこに佐々木千世さんが住んでいたからに他ならない。小説家と釣具屋の主の間に入って通訳したのも彼女だ。列車や宿の手配をしたのも彼女である。
 もちろん佐々木千世さんもジムス湖に行っている。一緒にボートに乗っていた。69年に発売された『私の釣魚大全』(文藝春秋)にボート上でワインをラッパ飲みしている小説家と、釣り上げたカワマスをうれしそうに差しだしている写真が掲載されているが、これを撮影したのも佐々木千世さんだと考えられる。


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 ここから細川さんのこの本から書き出してみる。ちょっと長くなるが・・・。


 けれども菊谷さんから伺うことができたのは、『夏の闇』によって開高さんの恋愛を知るに及んだ牧さんの激怒ぶりだけだった。
 私が彼女の名前や経歴を知ったのは、サン・アドの矢口純氏からだった。ただ『これぞ、開高健。』の作業中か、『面白半分』の連載原稿を頂いていた頃か、サン・アドで働くようになってからか、正確な時期はすっかり忘れている。
 矢口さんによると、『婦人画報』の編集長をされていた頃、開高さんから新進のライターとして彼女を紹介され、仕事上の相談にのってやってほしいと頼まれたそうである。その頃には彼女はソ連留学を終え、その体験記を出版しており、その本に推薦の辞を書いたのは開高さんで、開高家にも出入りしていたはずだ、ということだった。
 そうだとしたら、菊谷さんの表現を借りれば「怒り狂った」という牧さんのリアクションは当然すぎるほど当然である。ただでさえ夫の浮気は妻にとって悲しく腹立たしい。それが単なる火遊びではなく濃密な恋愛だった。そのうえ相手の女性は見知らぬ人でなく面識のある人間だったとわかった時の妻の驚愕。悲痛。嫉妬。苦悩。憤怒。絶望。牧さんがうけた傷の深さは何をもってしても消すことができなかったのではないだろうか。たとえ『夏の闇』以後「内面に寄りかかって書こう」と決めた開高さんの作家の業を、おなじ、ものを書く人間の立場から理解できたとしても。
 菊谷さんは、このことによって開高さんは不幸になったと書かれている。しかし牧さんも同じように不幸になったのだ。それぞれ不幸を抱えたまま夫婦であり続けたために、夫婦間の確執は最後まで続いた。お互いに決して癒されない傷に針を突き刺された気分に襲われながら生きざるをえなかった。
 開高さんにとって牧さんは大きな呪縛だった。ある編集者には「娘がいなければ離婚していた」と述懐したこともあったという。世間一般の男たちのように独身時代を謳歌することもなく、モラトリアムの季節もなく、予期せぬ妊娠で結婚を余儀なくされて以後、釣りも旅も恋愛も、書けないという苦境からの逃亡だけでなく、失われた自由を求めての行動、家庭からの脱出だったに違いない。
 一方、牧さんには七歳年下の開高さんの成功と栄光において、自分こそがこの天才を発見し育てたのだという深い自負があったのではないか。また、牧さんとって開高さんは唯一無二の男だった。開高さんを愛しすぎた。開高さんは「関西のオンナの深情けはえらいもんやデ」とお手上げ気味につぶやくことはあったけれど、牧さんの情けはあまりにも重すぎた。見方を変えれば、牧さんは「可愛い女」なのである。ただ、開高さんをコントロールしようと束縛しようとしすぎたのではないか。たえまなく、愛という名のもとで。
 その牧さんを『夏の闇』は完膚なきまでに打ちのめした。嘆きは深く内にこもり牧さんを浸食していった。時は傷を治癒せず毒をうみだしていった。そして、意識するしないにかかわらず、じわじわ開高さんに復讐していったのではないか。そこから逃げることができなかったところに開高さんの不幸があった。私にはそう思えてならない。
 茅ヶ崎の新居がついに「隠れ家」にならなかったのも、牧さんは開高さんが独りで自由を満喫することを許せなかったせいではないか。開高さんに癌を宣告したいきさつについては、病院食を無視した牧さん手製のスープを開高さんが強く拒否したことで、発作的に口走ったためだと聞いている。「可愛さあまって憎さ百倍」というけれども、長い間くすぶり続けた開高さんに対する恨みつらみが爆発してしまったといえなくない。
 そうだとしても、牧さんは残酷すぎた。病で身動きできなくなった開高さんは、やっと自分の許に帰ってきた、誰にも邪魔されず自分だけが独占できる夫になったのである。その歓びの想いはさもありなんと思われる。けれども親友の谷沢先生や向井さんの面会を一切禁止し、一部の人間を除き、菊谷さんをはじめ親しい友人編集者の見舞い客をすべて遮断するという仕打ちは理解できない。それほどまでに開高さんを所有したかったのだろうか。それほどまでに開高さんを許すことができなかったのだろうか。報復だったのか。愛のかたちだったのか。癌を宣告された開高さんは、以後、牧さんに口をきかなかったという。開高さんの胸に去来していたのは誰だったのだろう。貝のように閉じてしまった開高さんを牧さんはどんな想いで看取っていたのだろう。どちらも、哀しく、痛ましい。
 開高さんが食道癌であること宣告してしまった牧さんの経緯は菊谷さんの本にある。牧さんは開高さんの追悼特集で次のように書いている。
 「開高の性格をよく知っているので、いつ彼に、病気のことを知らせるかは大変悩みました。それまで、病院では病気のことはしゃべるな、と言われていたのですが、彼に病気のことを告げると、彼はちゃんと冷静に話を聞いてくれました。・・・・」
 しかし菊谷さんは違うと書いている。
 羊子夫人が漢方のスープを飲ませようとしたところ、開高さんが遮って、
 「オレの体は先生に預けてあるんだ。余計なことはせんといてくれ」
 と言ったとか。そうしたら、夫人が、
 「あんた、病院にだまされてるんや。これ飲まな、ガン治りゃせんデ!」
 と怒鳴った、一瞬、部屋中の空気が凍った。開高さんが、静かに言った-と聞く。
 「出てけ・・・・」
 それから開高さんは、ほとんど口をきかなくなったそうだ。生きる気力が日に日に失せていくような思えた。そして十二月九日を迎えるに至ったのである。
 悲しい話だ。わたしには、羊子夫人を責めることはできない。ご主人を救うべく奔命していたのだ。が、開高さんは衝撃を受けた。自分でもガンであること、もはや死を免れないことがわかっていたかも知れない。にもせよ、夫人の口からこういう形で宣告されるとは、ガンを知る以上に心に響いたろう。そのとき、夫婦それぞれの胸に去来した感情の乱れを思うと、あれからかれこれ十三年もたつ今日でも、いたたまれなくなる。


 開高さんはいくつかの自伝的小説書いているが、一回の関係で牧さんが妊娠してしまい、結婚せざるを得なかったし、子どもが生まれ牧さんがおむつを縫っている姿を見て、いたたまれなくなって逃げ出してしまったことも書かれている。以来夫婦関係、家庭に縛られることとなるわけだが、一方で若い頃の過ち?から、以後自由な恋愛ができなくなってしまった中での、一人の女性との関係が生まれる。そのことを小説で書いてしまったことで、夫婦間にひびが入り、以来傷が深まってしまったことを、ここに知る。自由を求める男と、その男を占有することのみ生き甲斐とする女が生んだ関係は小説以上に悲しい。
 またこうした自分の秘めた関係をあからさまに小説として発表しなければならなかったことは、いったいどういうことなんだろう?、と思う。開高さんが小説を書くことに行き詰まったこともあろう。でも、もしかしたら、自由な恋愛が出来なかったことで、あるときそれがかない、そのことで今までの自分とは違う自分を見出した。だからその関係を書いた作品を“第二の処女作”としたのではないか?
 そして牧さんの重い愛の関係にいささか辟易していた自分を開放出来たことの喜びがあったのではないか、と思ったりする。それを書くことで、牧さんとの夫婦関係が冷めても、その時の開放感、喜びが優ってしまう自分を抑えきれなかったのかもしれない。

 佐々木千世さんは交通事故で亡くなっている。


 さてここからが過ちを修正した部分である。

 それは私がこの文章を書くにあたって、ネットでいろいろ調べていて知った情報を掲載した。そのサイトに開高さんにはもう一人親密な関係の女性がいたらしいことが書かれており、女性の名前は高恵美子さんという。そして開高さんが亡くなられてから発売された「ザ・開高健 巨匠への鎮魂唄」(毎日新聞刊)に彼女が寄せた追悼文があるということ知った。


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 この情報では、高恵美子さんが寄稿した追悼文に、恋文ともとれる私信も含まれていて、その部分の削除をするという編集側と、泣きながら抗議する高さんとの間で、電話で二時間半ほどのやりとりがあったことが書かれていた。さらに彼女と開高さんの娘、道子のバイオリン教師をしていた文筆家志望の知的な美人とも書かれていた。
 そして彼女は開高さんが死んで1年後の命日の日、飛び込み自殺をして命を絶った。その時の年齢が38か39歳位で、後追い自殺なのかもしれない、と書いてあった。

 しかしその後高恵美子さんのご友人から、この情報は正確ではないというコメントを頂いた。そのコメントを読んでみると、私が使ったネットの情報は、かなりいい加減であることがわかった。確かにネット上にごまんとある情報の中には胡散臭いものもたくさんあることは事実だが、その真偽など確かめようもないところがある。
 しかし頂いたコメントを読ませて頂いて、これはまずいことをやってしまったな、と思った。
 最初に掲載したのは、この本を読んで知ったことと、それ以前に読んだ開高さんの女性関係を記した本を元にして書いた。本の内容の真偽を疑ってしまうと、もうこれは話にならないのだけれど、ただこれらの本を書いた人は、その名前や開高さんとの関係がはっきりとわかっている。つまりニュースソースがしっかりしているわけだが、その後書いた高恵美子さんに関する情報は、ネット上にある匿名の情報で、その点、不確かなものであった。
 もし高恵美子さんのことをネットで見つけなければ、書く予定などなかった。本来は書く必要性は最初からなかったのに、たまたまその情報を見つけてしまったがために、書いてしまった。
 そして書いてしまった以上、またその情報がいい加減なものであるということを知った以上、ここはきちんと訂正しておかないといけない。何故なら、いい加減な情報で文章を書いてしまうことは高恵美子という女性を侮辱してしまっている可能性が充分あるからだ。
 さらに頂いたコメントには、高恵美子さんを友人として救ってあげられなかったとして、その人は自分を責めるかのような文章を書かれている。私はこの人にも不愉快な思いをさせてしまったと思ったのである。
 だから私は高恵美子さんのご友人に、頂いたコメントを使わせてもらって自分の文章を修正したいというメールを出した。そのためいったん掲載したこの本の文章を削除し、改めてこのように再掲載したのである。以下ネットの情報がいい加減である点を記した。

 ネット情報では開高さんの追悼集の出版で、高恵美子さんが開高さんの恋人かのようなことが、編集部とのやりとりで書かれているが、確かに開高さんは彼女に思いを寄せていたようであるが、高恵美子さんご友人は彼女と接していて、彼女には恋人的な気持ちがあったとは思えない、と言われている。
 そして高恵美子さんは開高さんの死後(1989年12月9日死去)1年たった命日に、後を追い、飛び込み自殺をしたかのように書かれているが、彼女は自殺ではあるが、飛び込み自殺ではないということ。高恵美子さんは躁鬱病を発症し、その闘病生活の中で思い通りにならない状況下で、悲観して発作的に自殺したものだったということ。その日は、開高さんの死後ちょうど1年たった命日ではなく、1991年の1月28日で、享年49才であった。

 これらのことから、高恵美子さんが開高さんのもう一人の女性関係を持っていた人とは考えにくいことになる。高恵美子さんご友人から頂いたメールには、ネットに高恵美子の間違った情報がそのまま放置され、それが増幅されていくのは、友人として忍びない。さらに開高健という作家ことが取り上げられる度に、面白半分に彼女の名前が取り上げられるのはいたたまれない、とも書かれている。 ネットでは高恵美子さんと開高さんとの関係を取り上げているサイトがいくつかある。これはまったくの推測だけれど、どれもニュースソースは一つではないかと思われる。とすれば、まさしく間違った情報が増幅したことになる。私もある意味その増幅に手を貸したことになってしまった。
 もし高恵美子さんのご友人からコメントを頂かなければ、私はいつまでも気づかないまま間違った情報を垂れ流す手助けをし続けるところであった。
 ここで高恵美子さんと開高さん関係や高恵美子さんの死の真相を正したとしても、私のこのブログがどれだけそれに貢献できるか、いやネット上にある数え切れないほどのブログに埋もれてしまい、まったく意味をなさい可能性の方が強いと思われる。(少しでも役に立っては欲しいとは思うけれども)ただ私のブログだけであっても、正しいことを記載しておくのは意味がある。そしてこれ以上私が間違った情報を垂れ流す手助けをしなく済む。だから正しい情報くれたこのご友人に感謝しなければならない。またネットの情報を使う時はもっと神経を使うべきであることを改めて学ばせて頂いた。ここにお礼を申しあげます。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの開高健
著者:細川 布久子
ISBN:9784420310536
出版社:創美社 集英社〔発売〕 (2011/05/31 出版)
版型:228p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2011年09月24日

文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」

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 今年の3月11日、午後2時46分、後に東日本大震災と名付けられた、日本における観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した大地震が東北地方を直撃した。この作文集は、その地震、その後を襲った津波を体験した子ども達のものである。保育園児から高校生まで、80人の作文集である。このとき子ども達は何を体験し、その後どうしたか。子どもの目で地震、津波の恐怖を語る。
 大人の体験談はよく聞くが、子ども達が自分たちの言葉で書いた文章は、子どもだけが語り得る臨場感が直接感じられる。恐怖をそのままストレートに語る。大人が語るのとき、ためらってしまうことでさえ、子どもだから見たまま、感じたままを語ってくれる。子どもがよく使う濁音ばかりの擬音語が、子どもながら地震や津波の凄まじさを伝えてくれる。
 親からすれば出来れば子ども達にこうした悲惨な光景を思い出せたくないはずだし、地震や津波がトラウマみたいになるのを恐れるだろう。事実こうして地震や津波のことを作文に書いてくれと子ども達に頼んだ時、親は動揺したという。もちろん子ども達も一瞬戸惑った子もいたという。けれどだんだん手を上げる子ども達が出てきて、こうした作文集になったらしい。


 でも、つなみの色は黒っぽくつなみでした。くさかったです。


 「津波が来るぞ」
 言ってきました。僕は半信半疑で南にある田畑に目をやると、茶色い水がゴォーと音をたてて、こっちに向かっているのです。


 窓から外を見ると、辺り一面が茶色く濁っていて、とても不気味でした。さっきまで乗っていた車が家の後ろまで流されてしまいました。


 一時間くらいたって、まどから見た物は、津波から泳いでひっしににげている人が見えました。でもけっきょくは、おぼれてしまいました。そしてまた、たてつづけに見た物は、車から出られなくて、たすけをもとめているひとが見えました。


 1千年から8百年の間におきる東日本大震災。ぼくたちはうんがわるかったんだなあと思いました。


 何日ぶりに友達に会うと抱き合い、「大丈夫だった?家族は無事か?」と合言葉のように、必ずそんな言葉を交わします。


 余震が続いているけれどだいぶ落ちついた今、閖上に帰ってみるともう町がなくなっていて涙があふれてきます。大好きだった海が嫌いに変わった瞬間でした。わたしの大好きな海が、大好きな町と、大切な人達をうばっていくようなものに変わってしまったのがショックです。


 最後になりましたが、僕は人間の汚い心を見てしまうことがあります。避難所に来た物資を被害を受けていない大人たちが持ち去ってしまったり。みなさんは、この愚民たちの愚かな行動をどう思いますか。


 子ども達は冷静であった。事実をそのまま受け入れ、見たまま、感じたままを書いた。震災直後の悲惨な生活を綴ることを忘れないが、それでも少しずつ状況が良くなって行くことを書き、避難所で友達と一緒に遊べることを素直に喜ぶ。友達が転校していってしまうことをを悲しむ。
 そして復興に当たり、いろいろな人達の力を借りて、自分たちの生活環境が少しずつ良くなりつつあることを自覚し、その人達に感謝の念を忘れないで、その気持ちを文章の最後に書き添える。正直これが子ども達が書いた文章なのだろうか、とさえ感じさせる。少なくとも私が同じ年齢の頃にこんな文章など書けなかったはずだ。みんな文章がうまいのに驚いてしまう。
 塩野七生さんがイタリアの週刊誌で見たという写真の一枚がこの作文集の最初に子ども達の写真が掲載されている。


 気仙沼で見たという少年で、十歳かそれより少し上と思われる年齢だが、こちらは避難所でもらったのか、だぶだぶのグリーンのジャンパーにピンクの長靴という出で立ち。両手に持つのは大きなプラスティックの酒用のボトルだが、酒ではなく水が入っている。避難所に飲料水を運ぶ途中でもあるのか。少年は口をきつく結び、伏目で歩いているのも、足許に散乱する瓦礫に注意してのことだろう。


 確かにこの写真はすごくいい写真だ。少年の面構えがいい。また子ども達の笑顔の写真も最高である。こんな状況下でも、大人を和ましてくれる子どもの笑顔を、この写真で見ることが出来る。たぶん仮設に作られたブランコだろう。それを勢いよくこいでいる子ども達の笑顔を見ていると、この子らを悲しませては本当にいけないな、と思う。
 最後にたぶん中学生だろうか?女の子が赤い毛糸の手袋した手を合わせて祈っている姿がある。この女の子は本当に祈っているんだ、と感じることが出来る。これもいい写真だ。
 またこの作文集の最後には子ども達が描いた絵がギャラリーとしてある。そこにある絵のうち、津波を青いクレヨンでかたまりみたいに塗りつぶして表しているものがある。その塗りつぶされた青の中には車が描かれている。それは津波に巻き込まれたことを示しているのだろう。たぶんその光景を目撃したに違いない。似たような絵が2~3枚ある。絵自体拙い分、逆にそのかきなぐった青いかたまりが、怒りに満ちているように思えた。


評価
★★★


書誌
内容紹介:
東日本大震災による津波に直面した子供たちが、地震の瞬間や、津波を目の当たりにした時荷何を感じたのか。家族や親友を失った悲しみ、避難所の暮らし、そして今、何を支えにしているのかを綴ってくれた文集です。半分以上は直筆文章を原稿用紙のまま掲載します(それぞれ写真と解説文つき)。
●3・11地震の瞬間、津波の恐怖 
●家族・親友を失って
●避難所のくらし 
●これからのこと
〔カラーグラビア16ページ〕 被災地での子供たちの写真と絵画作品集
目次

・はじめに 「子どもの眼」が伝えるもの 森健

●宮城県名取市、仙台市若林区、東松島市
「つなみは黒くてくさかった」(仙台市若林区 小2)
「地鳴りが『ゴォー』」(名取市 小5)
「ままのくるまが、ながされた」(名取市 幼稚園)
「大親友の分まで生きよう」(名取市 小5)
「大好きだった海が嫌いになった」(名取市 中3)
「ままのかおがみえたらないちゃいました」(名取市 保育園)
「画用紙1枚で寝ました」(名取市 小4)
「今まで見た中で一番キレイな星空」(名取市 高3)
「NVER GIVE UP!」(名取市 高2)
「世界中の人に恩返ししたい」(名取市 中3)>
●石巻市、女川町
「たくさんの死体を見た」(石巻市 小6)
「『助けて』『苦しい』とゆう声」(石巻市 小学生)
「おとうさんにまけないせんしゅになりたい」(石巻市 小2)
「屋根の上に車」(石巻市 小6)
「くうきがきたない」(石巻市 小1)
「お母さんにだきついた」(石巻市 小3)
「食パン4分の1」(石巻市 小6)
「だるさ・吐き気・変な感覚」(石巻市 小6)
「自衛隊のシャワー」(石巻市 小5)
「私ひとりでも県外で頑張る」(石巻市 中3)
「人間は強い」(石巻市 中3)
「頑張るぞ俺達家族!」(石巻市 高1)
●南三陸町
「何も無くなってしまったやぁ」(南三陸町 中1)
「おにぎり一個十分かけて食べた」(南三陸町 小6)
「つよくてやさしい人になりたい」(南三陸町 小学生)
●気仙沼市
「わたしのたからばこは、どこにいったかな?」(気仙沼市 小1)
「赤く燃え上がる炎と黒煙」(気仙沼市 中2)
「川の水がぎゃく流」(気仙沼市 小4)
「ペットボトルの湯たんぽ」(気仙沼市 中3)
「唯一残ったのは、命」(気仙沼市 中2)
「つなみってよくばりだな」(気仙沼市 小1)
●釜石市、大槌町
「お母さんをかならず見つける」(大槌町 小5)
「白い煙のような波」(釜石市 中1)
「今は何がほしいのかわからない」(釜石市 小4)
「夢だったらいいなー」(釜石市 小3)
「バイバイ。おばあちゃん」(大槌町 中2)

・おわりに 笑顔の先には明日がある 森健

●グラビア16ページ
「被災地のこどもたち」(文・塩野七生)+「こども絵画ギャラ

書名:文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」 2011年 8月号 [雑誌]
著者:
ASIN:B0053VL8O8
出版社:文藝春秋; 不定版 (2011/6/28)
版型:160p /25.6 x 18.2 x 0.8 cm
販売価:800円(税込)

2011年09月01日

難波 利三 藤本 義一 柳原 良平 岡田 圭二 來田 仁成他著『大阪で生まれた開高健』

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 私は大学時代に、開高健ファンになり、その著作を読みあさった。また本として開高さんの単行本を集めることに、夢中となり、古本屋を駆け巡ることとなった。今でも自宅にはたくさんの著作が棚を占めている。
 ところがある本をきっかけに、開高さんがちょっと嫌いになり、以来ほとんど開高さんの本を読まなくなってしまった。
 そこには開高さんの釣りに関することが書かれていた。曰く、開高さんの釣りは特別待遇で、普通一般の人が入れない場所で、 “開高健”ということで特別に入れ、そこで一人で釣りをし、それをエッセイとして書いている、と書かれていたのであった。
 私は開高さんのエッセイもそうだけれど、釣りに関するエッセイも好きであった。ただ晩年の釣魚紀行はあまりにも大がかりで、ちょっと芝居がかっている感じがしていただけに、こう言われると確かにそうかもしれない、と思い始めたのである。もちろん、夢やロマンスでこれをとらえればいいのだろうけど、あまりにも仰々しくなっていくと、ちょっとついて行けないな、と潜在的に思っていたのではないかと思う。だからそれをあからさまに指摘されると、今度はそれが気にかかり、それだけで収まらず、すべての点で鼻持ちならなくなってしまったのである。

 ということで、久々に開高さんに関する本を読んでみた。この本は開高さんの生誕80年記念ということで、開高さんの人物評、作品評なのだが、どちらかといえば開高さん作家になる以前に重点が置かれている。興味深い写真も多く用いられている。開高さんの実家の写真や壽屋(現サントリー)の入社時の手書きの履歴書が特に興味深かった。
 本の中では、坪松博之さん「開高健と佐治敬三 トリスをめぐる二人の冒険」の文章が面白かった。


 工作に熱中するこどもがいた。そして、この「言葉の工作」作業こそ、開高の作品づくりのひとつの特徴を示しているように思われる。それは開高作品にしばしば登場する凝縮された「鮮烈の一言半句」である。
 開高は混沌とした世の中を豊かな語彙を駆使してなんとか表現しようとする。そこには妥協はない。細かいディテールをあらゆる名詞、形容詞を駆使して描き、極端な対句を用いて物事の裏と表、あらゆる虚実を提示する。さまざまな言葉があふれ出す。読み手が疲労感を覚えるほどの手厚いアプローチである。
 そして、その言葉の到達点に凝縮された一言半句が登場する。物事の原理をひとことで貫いてしまう。読者に、ある真実を的確に伝える。鮮やかな決まり手である。もちろん、その一言半句を構成するひとつひとつの言葉は吟味され、並べられている。決して他の言葉に言い換えることができない。揺るぎない洗練がそこにある。

 その開高さんの一言半句の追求は、サントリー時代の広告を担当するにあたり、コピーライターとして修練を積んだことで生まれたものであろう。開高さんはエッセイでよく文学作品でいつも「鮮烈な一言半句」、「光った一行」を求めていたことを書いている。それがあるだけでたとえ作品がランク落ちたものであっても、それがあるだけで開高さんは評価していた。新人作家にもそれを求めた。作品の中で著者が言いたいことを一言で表現でき、しかも読み手に鮮烈に伝わる一言、それを求めた。
 しかしこれはかなり難しいことだ。そう簡単に出来るものでもないし、あるいは意識が過剰になると、逆に嫌みとなりかねない。もちろん読者にそれがどう伝わるか、その計算もされなければならない。

 しかし、小説においては、意味が凝縮された一文が加わることで作品に奥行きを与えるという大きな効果も生みだすが、一歩間違えると言葉だけが空回りし、作品全体を台無しにする危険もある。うまく消化しないと途端に説教くさくなる。一言半句の使い方は極めて難しい。もちろん言葉として独自性、スケールの大きさ、あるいは意味の深さ、鮮烈さが必要ではあるが、生まれでたものをそのまま示すだけでなく、読み手にどう解釈されるか、その言葉の効き目を冷静に把握する繊細なバランス感覚が要求される。洗練が求められる。どんなに輝きを放つ一文でも一人よがりの存在では決して効果は発揮されない。

 実は、開高が文章表現に対して課したものは「何を、どう書くか」にはとどまらない。さらに、その言葉はどう伝わるか、どう届くか、どう残るか、そこまで確実に意識が及んでいたように思われる。あるいは、それを意識したものではなく、自然に開高の心の中に内在していた才能といえるかもしれない。しかし、その意識、あるいは無意識を経て、物事の真実が初めて言葉として明確に、そして生き生きと読者の眼前に示されるのである。
 作品の中には二人の開高がいるように思われる。表現し難い物事に挑み漢文調の言葉を駆使し、時には対句的表現を用いて完全なる表現を求める。いわば「何をどう書くか」という開高と、最後の一文にみられるような平易な言葉遣いと洗練にこだわる、「どう伝わるか」という開高である。ひとつの頂きを目指してあらゆる言葉を駆使してのぼりつめようとする開高と、表現の裾野を目指して注意深く、一歩一歩下山しようとする開高である。
 言葉の鮮烈さ、輝きから一人目の開高がクローズアップされることが多いが、実は二人目に開高が居なければ開高文学は成立しない。そして、この表現アプローチこそコピーライターとして開高がトリスウイスキーの広告制作の中で修得していったものではないだろうか。


 この文章は極めて開高さんの作品の根底を言い表していると思う。ものすごく的確に表現されている。思わずうなずいてしまった。もしかしたら今まで読んできた開高健の文学評論の中で、もっと開高文学の本質をついている気がする。

 また開高さんの作品を読んでみてもいいかな、と思った次第である。


評価
★★★


書誌
書名:大阪で生まれた開高健
著者:難波 利三 藤本 義一 柳原 良平 岡田 圭二 來田 仁成【ほか著】
ISBN:9784924713987
出版社:たる出版 (2011/03/03 出版)
版型:312p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2011年03月06日

吉村昭著『再婚』

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 今回も吉村昭さんの現代小説だ。今回は「老眼鏡」、「男の家出」、「再婚」、「貸金庫」、「湖のみえる風景」、「青い絵」、「月夜の炎」、「夜の饗宴」の8篇だ。

 前回、人間長生きしていれば、酸いも甘いも味わってきているから、人生の先輩として、様々な場面で配慮や対処が出来るもんだ、と書いた。しかし今回は長生きした分、恥かしい部分も多く持ってしまうことを知らされる。それをきちんと処理しないで自分の人生が終わってしまった場合、それが妙に生々しく残ってしまうものだな、と思った。
 たとえば「貸金庫」では、愛人の裸を写真に撮って、それを貸金庫に入れたまま死んでしまった男がいる。残された弟は、その若い愛人からその写真を返して欲しいと言われるのだが、言われた方はあの兄貴がそんな写真を撮っていたんだ、と思うだろう。これってちょっと嫌だな。
 愛人の裸の写真じゃなくても、人にはあまり他人には知られたくないものが、大なり小なりあるだろうし、死んでまでも、あれこれ言われたくないものではないだろうか。
 ただ厄介なのは、長く生きていればいるほど、そうした恥ずかしいものを多く抱えて生きているような気がする。だから下手にぽっくり死んでしまった場合、そうしたものを処理できない。もちろん自分が死んでしまえば、その後のことは何もわからないのだから、どうでもいいとも言えるかもしれない。でも私はやっぱり死ぬ時は、きちんと自分の人生を清算して死にたいものだ、と思う。
 一方長いこと生きていると、自分の行動にいつのまにか惨めたらっしい、所作が身についてしまうことがある。これも自分では気がつかない分、他人から、言われなくても、“ちょっと嫌だな”と思われるのは、あまりいいものではない。それが「再婚」に描かれている。
 男が昔会社で働いて部下と再婚を前提に会って、食事をし、会計をしようとした時、女がテーブルにあった爪楊枝を数本取ってバックに入れた所作を見てしまった。それが目に焼き付き、男はその女との再婚しようとは思わなくなった、というものである。確かに女にしてみればいつもやっていたことに違いない。まして爪楊枝である。そしていつの間にか身についてしまった行動が、こういう時にも出てしまっただけのことであろう。女にしてみれば爪楊枝だから、という気持ちだったろうが、逆に爪楊枝だからこそ、と思える。難しいものである。

 「夜の饗宴」は以外に面白かった。これは小さなネオン装飾制作業者の話である。そこに大手製菓業者から、代理店を通さず、直接大きな電飾看板の制作の依頼があった。それは今まであった駅前の敵対業者の電飾看板を隠してしまおうというものでった。そのため秘密を要する。それが代理店を通さない理由でもあった。主人公のいる業者は一攫千金を狙って、その大手製菓業者の依頼を受けて、大きなネオン塔を作りあげる。
 そこに台風が来て、ネオン塔が倒れてしまう。耐久性は計算していたが、鉄骨を組み上げる下請け業者の溶接が不十分で、強度不足となり倒れたのであった。
 それは鉄骨を組み上げる業者に広告代理店が入れ知恵をして、させたものであった。代理店は主人公のいる業者が自分たちを通さずに、大手製菓業者の依頼を引き受けたための嫌がらせであった。
 結局主人公たちはネオン塔の再建を強いられるが、その資金がない。社長は愛人と自殺し、男は夜逃げする。たぶんネオン看板を依頼した製菓業者の担当者も飛ばされたものと思われる。
 夜逃げした男は、大阪でミシン販売のセールスマンとなるが、駅で見上げたネオン広告塔は、倒れてしまったあのネオン塔と同じデザインであった。デザインはあの塔をデザインした人物であろう。ネオンデザインは有名デザイナーでなければ、一度デザイナーがデザインすると、その手を離れてしまうものらしい。当然あの倒れた塔のデザインもデザイナーから離れたものであったが、その塔が倒れ、塔の制作した自分たちも追われた。再起することが出来なかったが、デザインは復活した。主人公は、勝者は村瀬(デザイナー)だったと思うのであった。


評価
★★★


書誌
書名:再婚
著者:吉村 昭
ISBN:9784048728522
出版社:角川書店 (1995/03/20 出版)
版型:243p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年02月21日

横田増生著『潜入ルポ アマゾン・ドット・コム』

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 この本は単行本が出た頃読んでいる。それの文庫化だ。今回文庫化に当たり、単行本を第一部として収録し、第二部を「その後のアマゾン・ドット・コム」として大幅加筆している。私は本来単行本の文庫化なら絶対に買わない本であったが、その加筆された第二部が気になり、購入し読んでみた。

 で、第一部は以前に感想を書いているので書き加えることはないかな、と思っていたが、以前の文章を読んでいると、肝心なことがうまく書かれていないような気がしたので、その部分だけ書き加えてみる。
 著者がアマゾンの物流センターに潜入したのは、アマゾンの秘密主義から、詳しい情報が流れてこないからであった。アマゾンの情報統制はかなり厳しいものであるらしい。しかし著者はアマゾンのような「通販企業」にとっては、物流が中核業務となるので、必然秘密主義になっていくと書く。なぜなら顧客と直接対面する店舗を持たない通販企業にとって、物流こそがその接点となる。どの物流業者と組んで、どんなサービスを提供するかは、通販企業の成否をわけるほど重要な戦略だからである。「物流業務で同業他社との差別化を図ろうとする企業の常として、物流現場を公開することは滅多にない。物流先進企業にとって、物流センターは企業機密のぎっしり詰まった場所であり、その業務内容を知られることは企業のノウハウや経営内容を暴露するに等しい」からである。
 そして物流部門は、商品開発や営業部門と比べると地味で野暮ったく、薄暗い倉庫で肉体労働をしているイメージであるが、業績好調な企業ほど、物流の重要性を認識し、また大切にしている。企業活動の背骨にあたる物流を軸に業務を組み立てていけば、無駄をなくした経営が可能なのである。
 その物流部門のコストパフォーマンスを実行するに当たり多くのアルバイトが使われていた。「そこには、アマゾン社員を頂点にいただく、“カースト制”があった。トップのアマゾン社員の次には、センター運営を請け負う日本通運の社員がきて、その下にはアルバイト。さらに最下層には、入ったばかりのアルバイト見習いが控えるといった四階層から成り立っていた」のである。そのアルバイターが強いられる実態を著者は自らの体験ととも明らかにする。
 コストパフォーマンスのためにはアルバイトを雇う側であるアマゾンや日通は人が長続きしないことを、露ほども気にしていない。ここではアルバイトとは、募集広告を打ちさえすれば、いくらでもやってくる、“使い捨ての人材”としか見ていない。だから毎週のようにアルバイト雇い入れる。
 どんなに働いても、時給900円以上(後に850円に下がる)は上がらな。交通費はなし。2ヶ月の期間雇用で、それの更新で、社会保険料の負担を逃れるシステムである。当然働く側はモチベーションなど生まれるはずもなく、雇用主や仕事内容さえ無関心となる。コスト削減のため仕事がなければ就業時間の一方的な切り上げもあるが、それでもそれを仕方がないといって簡単に諦めてしまうのである。
 著者は潜入時からその後もアマゾンを利用し、注文するごとにアマゾンの便利さを実感し、いつの間にか私はアマゾンにはまってしまった自分を見出す。けれど「同時に不思議な後ろめたさをぬぐうことができなかった。この便利さの裏側で、400人のアルバイトたちが私の注文した本を探して右往左往する姿を知っているからだ」と書く。
 著者は独自に入手した2004年のアマゾンの内部資料から、次のように書く。

 「アマゾンを利用する人の75%以上の世帯収入は、500万円を超えており、アマゾンの利用者の大多数は会社員だった。一方アルバイトの年収は200万円そこそこ。これでは、最新のパソコンを買うこともままならないし、さらにアルバイトという身分では、クレジットカードを持つことも難しい。 
 つまり、センターを這いずり回るようにして本を探す人と、自宅のパソコンから本を注文する人とは違う人たちなのだ。アマゾンの安くて迅速なサービスを享受する人と、それを可能にするために労働力を提供している人たちとは、ある意味別の階層に属している」
 アマゾンのアルバイト待遇を実感して、著者は「<ワンクリック>の向こう側では、その要求に応えるために、たしかに誰かが働いている。ネット社会の便利さを享受することが、IT企業の舞台裏で働く人々の自尊心を損なうことと無関係ではなく、ひいてはわれわれの生活基盤である社会全体を不安定にしていくのかもしれない。われわれは、ときに立ちとまり、そのことを今一度思い返してみる必要があるのではないか」とも書く。

 アマゾンで働くアルバイターは、待遇でも仕事内容でも人間性や社会性、そして“希望”さえ奪われながら働いている。そういう境遇に陥ったのが自業自得といえるかもしれないが、でもここ20年、そういう境遇に好きで陥った訳ではない人を多く生んできたのではないか、と思うことがある。“失われた20年”を取り戻すため、アメリカ的経営手法をどんどん取り入れていった結果、あぶれた労働力を生み、労働環境悪化させていく。それでも生きていくために働かざるを得ない以上、そうして悪化した労働条件を受け入れて、何とか働いていく。働く側に人間性の喪失が生まれても当然だ。日本の社会がおかしくなっていっても不思議じゃない。人と人の関係が労働環境に見られるような希薄さを反映している。そんな気がする。
 こんなことを言ってもしょうがないのだろうが、私もアマゾンの利用者である。この本を再度読んで、注文を簡単にワンクリックできなくなってしまった。

 さて気になる第二部である。第一部の最後にアマゾンとブックオフとの“黒い関係”を著者は疑って終えているので、それをまず追求する。著者は最初アマゾンがブックオフと取引関係が存在することで、ブックオフから中古本が新刊として流れているのではないか、と疑っている。しかしそうではなく、流れは逆でアマゾンからブックオフに本が流れていたのではないか、と考え始める。
 それは“返品枠”という商慣習が絡んでいる。通常取次が本を卸すとき78掛けであるが、それをさらに引き下げれば当然利益率が上がる。そうして卸値を下げたとき、取次は交換条件として、返品を受け入れに条件をつける。これが“返品枠”である。これ以上返品出来ませんよ、というやつだ。アマゾンはこれを利用して卸値を下げる。けれど売れ残る場合がある。そこで売れ残った本を返品して正味を上げさせたくないため、売れ残った本を損を覚悟でブックオフに売りさばいたのではないか、と思い始めるのである。もちろんアマゾンもブックオフもこれに関してはノーコメントである。
 でもこれを鬼の首を取ったように非難できるかどうか、よくわからない。少なくとも出版業界の“鬼っ子”であるブックオフの利用は読者だけでなく、出版業界でも噂が絶えないし、少なくと買い取った本や、自分の所で出した残った本を売りさばくことは、読者が本を売るのと同じと言えば言えなくもない。少なくとも書店の親父が、ブックオフ安く本を買ってきて、それを定価で返品する方が悪質である。(一時そういうことが行われている可能性があると言われていたが、今でもあるのだろうか?)

 最後にマーケットプレイスの問題である。アマゾンは新刊を掲載している横で中古品として出品者から売りに出している同じ本を掲載している。これがマーケットプレイスである。これは簡単に出品できるらしい。自分のアカウントでサインインして、「マーケットプレイスに出品する」をクリックして、本のコンディションを選び、値段をつけるだけで、すぐネット古書店を開業出来るらしい。後は注文があれば、アマゾンからメールがあり、それを受けて本を出荷すればいいだけである。送料は出品者持ちである。問題はアマゾンへの手数料である。その構造は以下の通り。

1.売値の15%の手数料

2.古本を1冊売るごとに<カテゴリー成約料>80円

3.さらに1冊ごとに<基本成約料>100円

 つまり出品者は、古本の売値と購入者が払う送料340円の内、実際にかかった送料の差額がまるまる手に入る訳ではない。まず本の売値の15%がアマゾンに持って行かれる。その上無条件で180円がアマゾンから徴収されるのである。
 マーケットプレイスの売値を見ていると、売値1円というのが結構ある。これだとどうなるかと言えば、購入者が支払う金額は送料込めて341円となり、そのうちアマゾンの取り分が180円となり、出品者は残りの161円を受けとる。けれどここから本の送料を捻出しなければならない。ヤマト運輸のメール便で発送できれば80円か160円で発送できる。もし160円かかったとしても、とんとんとなるが、メール便には「厚さ2センチ」という制約があるらしい。となると本の梱包材を含めてしまうとこれに引っかかり、メール便が使えず、郵便で送ることになり、手元に残る160円以上かかり、持ち出しとなる。要するにネット古書店なんていってアマゾンで出品しても、利益など出ない仕組みなのである。
 じゃあ、古本の売値から利益を出そうとしても、マーケットプレイスを見ればわかる通り、これも値下げの競争である。絶えず出品があり、売値をどんどん下げていく。出品者はいつもその売値の動向見ていなければならない。それが面倒なものだから、それを自動的に更新してくれるソフトもあるらしく、そのソフトのサービスを提供している会社もあるというから驚きである。
 月に100万円を売り上げている強者もいるらしいが、これだって古本の仕入にあっちこっちにあるブックオフに車で回るガソリン代、本の送料や梱包材、それに伴う手間を考えれば、副業としてやっていけるものじゃないようだ。
 それに反してアマゾンは自分ところで新刊を売るより、マーケットプレイスで売れた手数料の方が計算すると儲かることがわかってくる。何より自分の所で在庫を持たなくていいし、倉庫からピッキングするための人件費もかからないし、送料もかからない。まるまる純利益といっていい。下手をすれば、新刊を売るより倍儲かる可能性があるのである。
 今はマーケットプレイスから本を買う場合送料が340円から250円に下がったので、アマゾンはカテゴリー成約料を80円から60円に下げた。(売値の15%の手数料と基本成約料100円はそのまま)こうなるとますます出品者の手取りが少なくなる。たとえば売値1円の本では、購入者送料のときは161円手元に残った。けれど送料250円だと、アマゾンの取り分が160円となっても、残るのは90円だけである。ここから本を購入者から捻出することは絶対に無理で、さらに出品者に負担をかけることなる。古本でもうけを出す場合は、その本の仕入値にすべて関わってくるが、1円じゃあどうしようもない。何にしてもアマゾンが儲かる仕組みは変わらないのである。


評価
★★★


書誌
書名:潜入ルポ アマゾン・ドット・コム
著者:
ISBN:9784022616845
出版社:朝日新聞出版 (2010/12/30 出版)朝日文庫
版型:437p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2011年02月14日

村上春樹著『村上春樹 雑文集』

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 この本は村上さんの前書きによると、編集者との打ち合わせの時に「雑文集」と呼んでいたものを、そのまま名付けたという。内容が村上さんが作家としてデビューして30年余りあちこちに書いた、エッセイ、本の序文・解説、質問、挨拶、短いフィクションが掲載されているので、まさに雑文集なのだから、そのままでいいということになったという。
 確かにいろいろな文章がある。その中で私が一番興味を引いたのがオウム真理教についての村上さんの意見である。今更オウム真理教を取り上げるのも、どうなのかな、と思わないわけではないが、考え方が面白かったのでそれを書いてみる。
 村上さんには地下鉄サリン事件の被害にあった人々を取材したノンフィクションがある。そしてその後村上さんの作品には、オウム真理教だけでなく、新興宗教が形を変えて登場するくらい、オウム真理教は様々な影響を与えたに違いない形跡が見られる。それをどうしてなのかをここで問う訳じゃないが、オウム真理教信者の特徴を通して、人間の“危うさ”をうまくついているように思えたのである。

 彼らの多くは、「本当の自分とは何か」という出口の見えない思考トラックに深くはまりこむことによって、現実世界とのフィジカルな接触を少しずつ失っていったのではないか、と村上さんは仮定する。
 確かに今我々がいる世界には様々な情報があり、多様な選択肢に満ちている。そのため逆に何を選んでいいかわからなくなり、あれこれ取り込んでいるうちに自家中毒を起こしている。しかも現実を動かしているスピードが余りにも早く、先行する世代の積み上げられた経験がサンプルとして役立たなくなってしまっている場合が多い。
 そこにいくつかのわかりやすいセットメニューを用意してくれる強力な外部者が現れる。わかりやすいということは、選択肢を限ってしまうことであり、あれこれ悩ませないことである。それを提供したのが麻原彰晃である。そして相対性は避けられ、絶対性がそれにとって変わるのである。
 一端“迷える羊”を取り込んでしまえば、後は彼らを外部から遮断すればそれでいい。元々フィクションとノンフィクションの区別をうまくできない彼らである。ことは簡単に行われた。村上さんオウム真理教の信者にインタビューしたとき、彼らに共通の質問をしたという。

 「あなたは思春期に小説を読みましたか?」

 答えはほとんどノーであったという。そこから村上さんは次のように言う。長くなるが引用する。

 彼らはほとんど小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった。人によっては哲学や宗教に深い興味を持っており、そのような種類の本を熱心に読んでいた。アニメーションにのめり込んでいるのも多かった。言い換えれば、彼らの心には主に形而上的思考と視覚的虚構とのあいだを行ったり来たりしていたということになるかもしれない。(形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆)
 彼らは物語というものの成り立ち方を十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語」と判断できる。しかしオウム真理教に惹かれた人々はには、その大事な一線をうまく炙り出すことができなかったようだ。つまりフィクションが本来的に発揮する作用に対する免疫性を身につけていなかったと言っていいかもしれない。

 だからこそ麻原彰晃のフィクションが致命的なバグーそれはおそらく彼の魂に潜在的に含まれていたものじゃないかと想像するのだがーに汚染されたとき、彼らもまたそのバグに汚染されてしまうことになった。一人の人間の悪夢と妄想が多くの人々を同時的に同質的に包含してしまったのだ。そして彼らは麻原の妄想、あるいはその物語が発揮するブラック・マジックの命じるままに(あるいは示唆するままに)、サリンの袋を抱えて「エスタブリッシュメント」に対する虚しく見当違いな攻撃を敢行した。ひとつの大きなシステムからドロップアウトした彼らを受けとめてくれたはずの柔らかなネットは、実は危険きわまりない蜘蛛の巣だったのだ。

 しかしよく考えてみると元々「宗教」と名の付くものはオウム真理教と同じ道程を取ったと言ってもいいかもしれないのではないかと思うこともある。少なくと一つの宗教に帰依するきっかけになるのは、人々の不安や心配、絶望などのベイシックなものがまずあり、そこに宗教という名の、あるいは救いという名のフィクションが現れたときであろうと推察する。村上さんも「誤解を恐れずにいえば、あらゆる宗教は基本的成り立ちにおいて物語であり、フィクションである」と言っている。
 問題はそのフィクションにバグがないことであろう。たとえあっても、そのバグを修正できるシステムなり、個人的浄化作用を持っている限り、それは宗教として普遍性を持ち得てくるということなのだろう。普遍性を持てば「文化」も生まれてくることは歴史が教えてくれている。オウム真理教には麻原彰晃にも信者にもバグ修正機能、浄化作用を持ち得なかった。

 村上さんは地下鉄サリン事件を通して、被害者と加害者の取材をしているが、「しかし両者のどちらのヒストリーが僕の心にしみたかというと、圧倒的に『普通の人々』によって語られたものの方だった。なぜならそのような人々が語るヒストリーには、現実にしっかり根ざしたものではなくては獲得し得ない深みがあったし、奥行きがあったし、それは小説家としての僕の意識に確実にコミットしてくる種類のものであったからだ」と書いている。これを読んで妙に安心してしまった。そしてこの延長上にエルサレム賞の受賞時にイスラエルで挨拶した村上さん言葉があるように思えた。

 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

 卵には現実にしっかり根ざしたものではなくては獲得し得ない深みと奥行きがあるからだ。システムという硬い大きな壁がむやみやたらにそれを壊していいというものではない。


評価
★★★


書誌
書名:村上春樹 雑文集
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534273
出版社:新潮社 (2011/01/30 出版)
版型:435p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2011年02月10日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』〈6〉

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 ここのところ本が読めない精神状態が続いていて、この本もやっとの思いで読んだ。だらだら読んでいたのでうまく感想が書けるかどうか不安なところがあるが、とりあえず書いてみる。
 気になったところは二カ所あった。一つは司馬さんが太平洋戦争時に戦車部隊に配属され、当時乗っていた戦車から太平洋戦争を考えたことである。もう一つはゴッホについての文章である。まずは戦車のことから書いてみる。
 司馬さんは兵隊に取られて満州にあった陸軍戦車学校へ送られた。この時乗っていた戦車は、「もし戦争に参加しないとすれば、皮肉ではなく同時代の世界で最優秀の機械」であったが、最大の欠陥は「戦争ができないことであった」。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もない代物であった。どういうことかと言えば、戦車のボディである鋼板薄すぎ、敵の砲弾はほとんど貫いてくる。しかも積んでいる大砲は砲身が短く敵に対する貫徹力がまったくなかったのである。要するにおもちゃの戦車であった。
 この戦車満州事変では活躍したが、当時はそれで何とかなったが、ノモンハンで大恥をかいた。陸軍の技術本部ももっと長大な砲を積み、もっと強い防御力を持たなければ戦車に値しないと参謀本部に持って行ったのだが、参謀本部は「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。砲の力がよわいというが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか」と馬鹿げたことを言うのであった。

 「ところが陸軍は戦車というものを所有した当初からこの論理的兵器に対して論理的戦術をもたず、論理的思考方法ももたなかった。信じられないようなことだが、陸軍にあっては『戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力もおなじである』とされ、このふしぎな仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問をいだかなかった。現場の部隊でも同様であり、この子供でもわかる単純なことに疑問をいだくことは、暗黙の禁忌であった。戦車技術の教本も実際の運用も、そうしたフィクションの上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかしな国家であった」

 これは歩兵においても同じ論理を展開する。「師団と名をつけた以上どの国の師団もみな同じである。なぜならそれは師団であるからである」と。司馬さんはこうしたフィクションのもとで戦争が遂行されたという。彼らが守るべき国家よりこのフィクションを命がけで守った。そのためにその本体の曖昧さを覆い隠すために、誇大な漢語フレーズ、たとえば無敵皇軍とか、神州不滅とか言い続け、自らも自己暗示にかけてしまう。そのフィクションを守るために我々は何百万という生霊を犠牲にすることなったのである。
 どうしてだろうか?司馬さんは日露戦争ころまでは、そういうフィクションはなかったという。問題は日露戦以後からである。

 「日本は維新後、西洋が四百年かかった経験をわずか半世紀で濃縮してやってしまった。日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的いえば日露戦争の勘定書というべきものがやってきた」

 つまり日本人が世界史上もっとも滑稽な夜郎自大の民族になるのはこの日露戦争の勝利によるものだと言うのである。日露戦争でかろうじて勝ったことを認識せず、冷静さを失い、勝利に酔い、自らの国力を過大評価する馬鹿馬鹿しい自国観を築き上げてしまった。その後日本をのぞく世界の軍事力は飛躍的に進歩する。日本は日露戦争の勝利の美酒に酔いことで、世界の状況を見ず、以後軍事力はそのままの状態であった。軍部は日本の精神論で太平洋戦争をおこない、そのつけを払ったのである。司馬さんは「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である面が多い」というのはこのことなのである。

 「日露戦争の勝利はある意味日本人を子供にもどした。その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい」

 こうした“失敗の本質”は、日本が太平洋戦争の敗北から嫌が上でも自らの歴史を検証せざるを得なくなって、初めて知ることとなったから言えるわけで、それ以前では政治家、軍部、そして国民もそうした熟成度に達していなかったのだから、どうしようもない。ただ脆弱な戦車に乗っていた司馬さんは身をもって、これはおかしい、と感じられたということなのだ。


 ゴッホの司馬さん文章のことを書く。この文章の初出はゴッホ画集によるものらしい。昔何かのCMで、ゴッホは1890年7月27日、37歳でピストル自殺をした。かれが画家になるべく決意したのが27歳であったから、画家としての活動期間はわずか10年にすぎなかった。写楽は僅か10ヶ月の間に150枚の作品を残して忽然と姿を消した。西鶴は一昼夜に2万3500句を詠んだ。いずれも短期間で狂おしいほど作品を発表していることを驚きとしてあげていた。
 そのゴッホは昔から興味がある。そしてこのゴッホの人物像を司馬さんが紹介している文章は興味深かった。司馬さんは「美術史の中の多くの天才たちのなかには生まれついて絵筆を持っていたという内外の条件にめぐまれたひともいたが、なかには「これ以外に自分のやることがない。仕方なく絵のなかにいるのだ」というぎりぎりの放下のなかで画家である自分を見出したひともいる。ゴッホはその中でももっとも痛烈な存在である」と書いている。ゴッホは自分が「絵を描いて生きてゆくしか仕方がない」と思った人であり、そこには人間の社会に入れてもらうことにことごとく失敗し、生皮を剥がされてゆくような痛みと絶望の思いがあった。やることなすことうまくいかない。ゴッホとしては父がプロテスタントの牧師であったため、牧師になるべきだったかもしれないし、そうした奉仕の仕事を求めた。しかしそれが具体的に何であるのかゴッホにもよくわからなかった。ゴッホ自身も社会に疎外されている存在として、いたたまれないほど生きものとしてさびしかったから、下層民の中に入って彼らのことを聞いたりした。
 ゴッホの初期の絵に「ジャガイモを食べる人々」という暗い絵がある。


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 アルルの時代のゴッホしか知らなければ、これがゴッホの絵かと思えるほど、その絵に漂う雰囲気は暗く寂しい。そんな中にゴッホはいたときもある。が、そこでも彼の存在は否定された。今流に言えば彼の言動は“重かった”のである。
 ゴッホの場合は外側から与えられつづけた否定であったために奈落へ落ちた。落ちる寸前にかれは奈落の暗さのなかで自分の絵の才能にしがみついた。それが彼の絵の基本といっていいかもしれない。逆に言えば自らの人生を反映するかのような暗さ故、色彩への欲求が弾け出るような表現場所を求めた。それが南仏のアルルに移ったとき開花した。司馬さんはここで次のように言う。
 
 「この場合、南仏の光線はかれの中にうずいていた創造衝動のために触媒になったのではなく、逆であったかもしれない。かれの天才のほうが触媒になり、アルルの光線のなかであたかも自然現象のようにアルル時代の絵が生まれたといっていい」

 私はゴッホ絵を見るたびに、どんなに色彩鮮やかに描かれた絵であろうと、そこに暗さをいつも感じていたので、司馬さんのこの文章を読んだとき、それがこれだったんだな、と思ったのである。そういう意味で、司馬さんのゴッホに関するこの文章は“目から鱗が落ちる”感じであった。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈6〉エッセイ1972.4~1973.2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467066
出版社:新潮社 (2002/03/15 出版)
版型:378p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2011年01月14日

吉村昭著『白い航跡』〈上〉〈下〉

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 この本は、明治時代海軍内で流行していた脚気の本格的にこの解決に取り組み、東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛という人物の生涯をつづった本である。

 高木兼寛は薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に嘉永2年(1849)9月15日に生まれ、藤四郎と名付けられた。父喜介は大工で、百姓北袈裟一の娘である園を妻にした。腕の良い喜介は、棟梁として豪農の家を建てるなど仕事に追われる身であったので収入には恵まれていた。
 藤四郎は幼い頃より読み書きを覚えたい、とせがむ子で、園は藤四郎が尋常な子供ではないと考え、喜介に相談する。喜介は園の言葉を受け入れ、穆佐にある中村敬助の塾に通わせる。
 そのうち藤四郎は医者になりたいと師の中村敬助に自分の気持ちを伝える。それを聞いた中村はどうせ医者になるならこれからは漢方医より蘭方医なるべきだと考え、藤四郎を薩摩藩蘭方医の石神良策に師事させる。
 その後医者となった藤四郎は慶応3年(1867)の年末に突然藩から医者として従軍することを命ぜられ、あわただしく鹿児島を出立した。そのおり藤四郎を兼寛と名を改め、先祖の姓と伝えられる高木を名乗り、鳥羽・伏見の戦いに参加した。
 ただ戊辰戦争に従軍して、医者として自分の能力の限界を悟らされる。医者でありながら戦傷者の手当もまったく出来ないのだ。それは医者ではないと思うのであった。
 ところがこうした中でも傷ついた兵に適切な治療をし、時には手術も施す人物がいた。関寛斎と佐藤進である。関と佐藤は佐倉順天堂の双璧と謳われた人物であった。兼寛は関や佐藤の治療を見て、自分はまだまだと思うのであった。
 さらに英人ウィリアム・ウィリスという医師の存在も知る。ウィリスは1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年、箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、公使パークス下で医官として働いた。横浜で彰義隊討伐作戦や会津討伐作戦での負傷兵などを治療していた。
 兼寛は重傷の負傷者らを横浜の病院に送っていた経緯もあって、東京に戻ったおり、横浜の病院を訪ねる。病院の頭取はあの石神であった。兼寛は石神がここで手術をしているのか、と尋ねると、石神はここで手術をしているのはイギリス人のウィリアム・ウィリスという医師でその医療技術の高さに驚いていると兼寛に言う。
 鹿児島に帰ってからも、兼寛は関のような負傷者から弾丸を除去し、手足を的確に切断手術して命を救う医者になりたいと思うようになる。師の中村敬助に新しい西洋医術を学びたいことを相談する。中村はそれなら鹿児島に出て開成所入学を進める。
 開成所とは薩摩藩が洋式軍制拡充のために、海・陸諸学科と英・蘭学の教授機関として創立された機関であった。開成所での授業は最初はオランダ語であったが、次第に英語が重視されるようになった。これは時の流れからいって当然の流れであった。ペリーの来航によって日本は開国し、アメリカ、イギリス公使が駐在し、さらに薩英戦争後、薩摩とイギリスとの関係が友好が進みとなおさらであった。
 兼寛はオランダ語の時代は去り、西欧の学術を吸収するためには、これからは英語を身につけないとならぬことを身をもって知るようになる。その上開国によって、オランダ一国のみから導入されていた医学知識は、欧米各国からふんだんに入ってくる知識の前にはたちまち色あせたものとなっていた。オランダ医学は過去のものとなっていることを感じた。そのことを敏感に察した順天堂創設者佐藤泰然は、積極的に西欧の医学知識の吸収につとめ、その門から関寛斎、佐藤進らが輩出していた。
 兼寛は、奥羽戦争に従軍したことを幸せに思うようになった。平潟で関寛斎の治療ぶりを眼にし、ウィリスの医術を感嘆する師の石神の言葉を耳にしたことによって、新しい医学の時代が到来しているのを知ったのだ。
 この時期政府は、やがて総合医科大学を創設し、それに病院を附属させる構想をいだいていたが、その長にウィリスを任命しようと考えていた。ウィリスは高潔な人格者で、新政府要人たちの中には彼の治療を受けた者も多く、戊辰戦争で献身的な治療につとめて多くの負傷者の生命を救った功績は偉大で、それぬ報いるために彼を最高の地位につかせるのが当然だ、という意見が大勢を占めていた。
 新政府内では最も強い発言力を持っていたのは旧薩摩藩出身者であり、彼らによってすべてが動かされていた。しかもイギリスと薩摩藩は親密な関係にあり、今後の日本の医学の主流をイギリス医学にする意向は彼らの意向を反映したものであった。
 このような中、新政府の医学取調御用掛の旧佐賀藩医師相良知安は激しい反対をした。相良は今まで日本では西洋医学といえばオランダ医学であったが、そのオランダ医学はドイツ医学の系統をふんだものであり、さらに日本が今求めているのは基礎医学であり、その分野でドイツ医学は世界最高峰に位置しているので、ドイツ医学を取り入れるべきだと主張するのである。ウィリスを長にしてイギリス医学を日本医学に取り入れる手続きに不備があり、そこを相良はついた。結局ドイツ医学採用となる。こうなると今度はウィリスの処遇が問題となってしまう。大久保利通などはウィリスを鹿児島に招くこととした。
 鹿児島で医学院が開設され、ウィリスが講師となるという噂を聞いた兼寛は、ウィリスを案内してきた石神にウィリスに教えを乞えるように頼み込む。それ以後兼寛はウィリスにイギリス医学の教えを聞いた。
 そのうち石神が新政府の要請で東京に行き、次に兼寛も石神の要請で、海軍に入る。兼寛は教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校に留学する。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得した。
 留学中に母の死を知る。父は兼寛が東京にいる時にすでに死亡していて、このときも父を看取れなかった。兼寛が医学の道に進みたいという希望を受け入れてた両親たち。そのため家業を継がず、親を振り切りるように故郷を離れたことを思い出すと、親孝行も出来なかったことに兼寛は涙に暮れるのであった。さらに長女の死亡の知らせも受け取り、義父の死に接していた。
 明治13年(1880年)に兼寛は帰国した。上巻はここで終わる。

 留学を終えて帰国し海軍病院長に就任した兼寛は、病院内に、留学前にもまして脚気の患者が多くなっているのに呆然とする。維新以来、政府は、海軍の近代化を目指しその充実に努めてきた。ところが乗組員に脚気の患者が多くなってくると、戦闘どころの話でなくって来る。政府もこの状況を問題視し、脚気の原因を追求してきたが、その原因がわからずにいた。兼寛は調査を始めると、そこには驚くべき数字が見られた。
 明治11年、海軍の総兵員数は4,528名中、脚気患者は1,485名で、それは総員の32.79%に当たる。死亡者は32名。明治12年、総兵員数5,081名中、脚気患者1,978名。明治13年、総兵員数4,956名中、脚気患者1,725名。明治14年、総兵員数4,641名中、脚気患者1,163名。11年から14年までの4年間で死亡者は146名に達していた。さらに彼はさかのぼって明治10年罹病状態を調査すると愕然とする。海軍の総兵員数1,552名中、年間で脚気におかされた者は延6,344名となり、それは同じ者が1年で4回以上も脚気にかかっていることを示すのであった。
 さらに幕末勝海舟らがアメリカに渡った咸臨丸以来、アメリカ訪問が軍艦「筑波」で行われた。その7ヶ月の航海で乗組員146名中47名が脚気となった。ただこの航海でわかったことがある。「筑波」がサンフランシスコやシドニーに碇泊している時は脚気患者は出なかったのである。そこで兼寛はそれは乗組員が洋食を口にしたからではないか、と考え、脚気と食事の関係を疑い始める。
 海軍病院に脚気で入院しているのは士官ではなく水兵が多いことに注目する。当時海軍では食事代を現金で渡していた。水兵たちは米だけを買い込み、余ったお金で副食でも買えばいいのだが、その分を貯蓄に回している者が多数であった。水兵には貧しい家の出が多かったので、故郷に節約したお金を送金していた者もいた。兼寛は脚気が食事と関係があることを確信する。
 そんな中、日清戦争前に「京城事件」起こる。中国が軍艦を派遣したことで、日本も軍艦を派遣する。そこで怖ろしいことが起こっていた。日本の五隻の軍艦内で多数の脚気患者が発生していたのである。もしこのとき清国と戦闘が起こっていれば、乗組員大半が脚気に罹病していては戦力として力がない。全滅する可能性が大きかったのである。
 兼寛は西欧で脚気はほとんど見られないので、食事を洋食にすべきだ、と軍部に提言する。それは兼寛の実験でも証明されていた。白米ではなくパン食にしろと言うのである。しかし予算の関係でそれは難しい。
 兼寛は海軍幹部だけではなく、政府の要職にある人物たちに自説を述べる。時には天皇にさえ、脚気は洋食で防げることを訴えた。結局パンがダメなら、パンが麦であるので、白米に麦食を混ぜることにする。これによって海軍では脚気患者激減した。そして兼寛は明治18年(1885)に自説を『大日本私立衛生会雑誌』に発表する。
 しかし兼寛の脚気の食物原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。
 ここに森鴎外が登場する。鴎外は兼寛の説に真っ向から反論する。鴎外はドイツ留学中コッホのような偉大な細菌学者に師事したため、脚気は細菌によるものだと主張する。鴎外はドイツ医学の信奉者であっただけに、兼寛の脚気食物原因説は学問的裏付けのない単なる思いつきだと決めつけたのである。鴎外には最新のドイツ医学を身につけてきたという自負がある。そのためイギリス医学を軽視する傾向があった。
 兼寛も自説が学問的な理論に乏しいことは自覚していた。しかし臨床医学を重んじるイギリス医学を身につけた兼寛とって、それはさしたる重要な問題ではなかった。兼寛も様々な統計を取り、あれこれ模索し実験した結果、麦混合の飯を主食とするのが最も好ましいという結論に達したいたからである。
 しかし鴎外の兼寛批判はしつこかった。もうこの時は日本医学界はドイツ医学を取り入れていたので、イギリス医学の兼寛の説は東京大学医学部出身の者から次々に批判され、黙殺された。
 しかし日清戦争では海軍では脚気患者が皆無に近かったのに、陸軍では四千名近い死者を出していたし、日露戦争に至っては、陸軍の傷病者352,700余名の内、脚気患者が実に211,600余名に達していた。そして傷病者の内死亡したのは37,000余名であったが、脚気で死んだ者は27,800余名だった。これは陸軍が兼寛の説を否定して、白米こそ優秀な兵食だと、そのまま白米を主食としていたからであった。さすがの鴎外もこの数字を知ったとき、その顔から血の色がひいた。世論も陸軍の白米至上主義を批判し始めた。
 そして大正14年4月の臨時脚気病調査会は最終報告会を開き、その席で脚気の原因はビタミンB欠乏によるものだと結論を下した。これによって陸軍医総監森林太郎をはじめ主流となったいた細菌原因説は完全に崩れ去ったのである。

 以上が兼寛が軍部に蔓延していた脚気に取り組んだ経緯である。一方兼寛は医学教育、看護教育にも力を注ぐ。兼寛は留学中西欧諸国では貧しい病人に対する無料の医療行為が行われていることに強い感銘を受けていた。また看護婦が病院内できびきび病人の世話をしていることにも感銘を受けていた。しかも看護婦たちは、医学の知識も持っており、彼女たちが医師にとってなくてはならぬ協力者であり、そのため尊重されていることも知った。
 帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵らと共に、臨床第一のイギリス医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。その後成医会講習所は明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。
 さらに明治15年(1882年)には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立する。院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。
 看護婦の養成では、陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立した。
 成医学校、有志共立東京病院(後に東京慈恵医院と改称)、有志共立東京病院看護婦教育所は後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

 私は高木兼寛という人物の存在は、吉村さんの『日本医家伝』で知ったのだが、まず明治の日本軍内にこれほど脚気が蔓延していたのは驚いた。日清・日露戦争で勝利によって新しい軍事力の華々しさばかり教わってきた。このように内部が脚気によってこんな深刻な状態になっているとは、教えてもらっていなかった。日本の軍が脚気によって崩壊しかねない状態だったことは、ホンと驚きであった。
 そして高木兼寛が東京慈恵会医科大学の創立者であっんだと感慨深かった。というのも私が大学時代新橋の本屋でアルバイトしていたとき、東京慈恵会医科大学附属病院の看護婦さんのところへ本を配達したことがあって、今はどうなのか知らないが、当時古めかしく、複雑な病院内を探し回った覚えがあるからだ。だから高木兼寛という人物が身近に感じたのである。
 あともう一つ気にかかることがある。明治天皇の崩御が高木兼寛を悄然させ、廃人みたいなってしまうことである。以前から私は乃木希典の殉死が今ひとつしっくり来ない部分があって、どうして天皇が死んだから、自分たちもその後を追わなければならないのか、正直なところ、感覚としてよくわからずいた。でも高木兼寛が明治天皇の死に接し、廃人みたいになり、その後人が変わったように各地に講演に出かけるのを読むと、天皇の死が支え棒を失ったかのようだったのかもしれない。
 高木兼寛とって、日本医学界で黙殺されても、明治天皇だけは高木兼寛の説に耳を傾けてくれていた。明治天皇だけは純粋に自分の功績を認め医学者として兼寛を高く評価してくれていた、と思っていた。それは学界で黙殺されていたから余計であり、一人の理解者がいた、それも日本の最高権力者が理解してくれていた。それがあったからこそ、反論や侮蔑に耐えられたのであった。その天皇が亡くなったことは、自分がまったく孤独になったと感じるのであろう。そして乃木の自殺を知って、自分以外にも明治天皇の死に大きな衝撃を受けた者がいたことを知った。乃木の気持ちが十分理解出来るのであった。
 明治という国家が明治天皇を中心に、修羅場をくぐり抜け、多くの死者を出し、数々の困難を乗り切ってきた。共に作り上げてきた自負があったからこそ、天皇の死は大きな衝撃であったのだろう。乃木も高木も明治天皇は心の支えだったことをちょっと感じた。


評価
★★★


書誌
書名:白い航跡〈上〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765411
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)


書誌
書名:白い航跡〈下〉 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062765428
出版社:講談社 (2009/12/15 出版) 講談社文庫
版型:316p / 15cm / A6判
販売価:610円(税込)

2011年01月10日

東野圭吾著『赤い指』

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 さてこの本で加賀恭一郎シリーズは、最新刊の『新参者』を以前に読んでいるから、これで全部読んだことになる。そしてこの『赤い指』は先日テレビで正月スペシャルとして単独で放映された。「新参者」が人気があったからだろう。。私は俳優の阿部寛さんは加賀恭一郎役にぴったりだと思っている。だからまた放映されたのはちょっと嬉しかった。

 さてテレビで先に見てしまったので、話の内容はもうわかってしまっているので、あとは原作と比べてみることを楽しんだ。読んでみてほぼ原作忠実にドラマ化されていた。ただ黒木メイサ演じる記者、青山亜美も原作にはないキャラクターで、『新参者』では新聞社を辞めてタウン誌の編集者になっていた。別にこの女、原作通りいなくてもいいと思うのだけれど、まぁ華を添える意味でいると思えばいいのかもしれない。ただ前作『新参者』のとき加賀からもらっている安っぽいボールペンがどういうものなのか、話としてちゃんとつながっている。ドラマは「新参者」より2年前に起こった事件として始まっていた。

 で、話はまず加賀恭一郎の父、隆正ががんで入院しているところから始まる。松宮脩平は母と自分を援助してくれた叔父を見舞うところから始まる。隆正はもうガンが進行していて助からない状態であったが、恭一郎は父親がそういう状況なのに一向に見舞いに来ない。この話は松宮脩平と加賀恭一郎の関係と恭一郎の家族関係も明らかにされていく。

 そんな中事件が発生する。
 前原昭夫は家に帰りたくないために、残業をしているとき、妻から急いで帰ってきて欲しい、という電話をもらう。慌てて家に帰ると死んでいる女の子が庭にいることを伝えられる。殺したのは一人息子の直己であった。
 昭夫の家庭はほとんど崩壊寸前であった。妻八重子は直己を溺愛していたが、その直己はいじめから引きこもりとなり、家では暴力的になっていた。また昭夫の母も同居していたが八重子は以前から昭夫の母を疎ましく思っていたので、その母親は認知症になってから、さらにその関係は悪化した。こんな家庭であるから昭夫は家に帰りたくなく、しなくてもいい残業をしていたのであった。
 昭夫は八重子から女の子を殺したのは直己であることを聞いて、最初警察に電話しようとするが、八重子がそれを拒む。昭夫は今まで家庭を顧みないことをなじられ、それを認めざるを得なくなる。八重子に「捨てて来て」と言われ、結局偽装工作をする。
 女の子の死体を庭に置いておくわけにもいかない。どこかに移動する必要性がある。そこで女の子の死体を段ボールに詰め込んで近くの公園のトイレに遺棄する。女の子が公園で変質者に殺されたように見せかける。そして女の子は朝早く発見され、加賀たちの捜査が始まる。
 女の子の死体には芝がついていた。昭夫の庭のものである。昭夫も死体を遺棄する時、その芝に気がつき、出来るだけ取り除いたのだが、気持ちがそこから早く逃げ出したいという状態だったので、完全に取り切れなかったのだ。
 加賀たちは公園の近くにある芝が植えられている家々を当たる。さらに前日雨でトイレの前がぬかるんでおり、そこに足で何かを消した跡が残っていた。加賀はそれが自転車のタイヤ痕であることを見抜く。
 犯人は二人以上だと加賀は考えた。それは女の子履いていた靴のひもの結び方が異なるので、これは違う人間が片足ずつ靴を履かせひもを結んだのではないかと考える。さらに本当はもっと遠くの人影の少ない場所に女の子の死体を遺棄したかったのだが、車でもあればそれも出来ただろうが、それが出来なかったのではないか。つまり車を持っていない家庭の人間が、死体の始末に困って、慌てて自転車に積んでここに遺棄したと考える。前原昭夫は車を持っていない。死体を運ぶのにちょうどいい自転車があった。しかも庭には芝が植えられている。
 ここから加賀は昭夫を揺さぶりかける。もともと昭夫は警察をだましきれるとは思ってもいなかったが、息子の直己を守るためには嘘を通し続けなければならない。しかし何度も加賀の訪問を受け、もうこれ以上今までの嘘はつけないと考え、女の子を殺したのは認知症の自分の母親だと加賀たちに伝える。
 加賀はその嘘も見抜いていた。昭夫に母親が厳しい拘置所に入ること。母親に手錠をかけるなどしようとする。母親を連行するとき杖を持たせたが、その杖には昭夫が子供の頃作った母親のための手彫りのネームプレートを見て、もうこれ以上嘘はつけなくなり、涙ながら告白する。女の子を殺したのは自分の息子直己だと。
 加賀は昭夫が本当のことをまだ知っていないと言う。昭夫の母親の指が妻の口紅でを真っ赤に染まってした。それは女の子が殺される前からそのままの状態であった。もし母親が殺害したなら、女の子首に口紅跡が残っていなければならないが、その跡がない。母親は息子の昭夫夫婦が直己の犯行を偽装することを聞いていた。昭夫も認知症の母親の前で何を言っても理解できないと思っていたのだ。しかし母親は直己が女の子を殺したこと、息子夫婦がそれを偽装したこと、それが理解できた。そう、母親は認知症を装っていたのであった。そして自分は犯人ではないと加賀たちにわからせるために、指に口紅をつけていたのだ。
 ただこれよく考えてみると、いつ指に口紅をつけたかである。もし母親が自分の犯行じゃないと主張するためにそうしたというなら、女の子が殺される前でなければならない。直己が女の子を殺すことがわかっていたのか、という疑問が出てくる。これがどうしても気にかかるが、きっとちゃんと書かれていたのだろう。私が読み込みが足らないのかもしれない。
 犯人が直己であることがわかり、直己を連行しようした時、「なんでだよ。警察には行かなくていいっていったじゃねえか」、「てめいらのせいだろう。てめいらのせいだからな」と喚いている。加賀は直己の襟首つかんで直己を床に振り落とす。「松宮刑事、この馬鹿餓鬼を連行してくれ」と。

 加賀隆正の死が近づいてきた。事件が解決し松宮脩平は慌てて病院に駆けつける。しかし恭一郎は来ない。しかし窓の外を見ると恭一郎が病室を見上げている姿を見つける。脩平は慌てて恭一郎呼びに行こうと思ったが隆正の息はまさに途絶えようとしていた。その後外にいる恭一郎のところへ行く。加賀は「脩平君が病院を出てきたということは・・・・・すべて終わったっていうことかな」言い、脩平が頷くと病室に入った。恭一郎が父親を見舞いに来なかったのは、父親の言いつけを守っていたからであった。隆正の妻は家出をしており、一人淋しく死んだ。妻をそうして死なせてしまった自分もそうでなければならないと恭一郎に言っていたのであった。
 ベッドの上では将棋盤があり、対戦相手は看護士の金森登紀子だと脩平は思っていたが、登紀子は隆正の打った手をメールで恭一郎に知らせ、次の手を登紀子に教え、将棋を打っていたのであった。登紀子は隆正の対戦相手が恭一郎だと知っていたはずだと言った。隆正は桂馬を握っており、恭一郎はそれを将棋盤の上に置き、「見事に詰みだ。親父の勝ちだよ。よかったな」と言って話は終わる。これはテレビでも原作でもかっこいいなぁと感じた。

 これで加賀恭一郎シリーズを全部読み終えたことになるのだが、テレビドラマ終了後、このシリーズの新刊が3月に『麒麟の翼』というのが出るという予告があった。今度はどんな加賀恭一郎を見せてくれるのだろう。
 なお、このシリーズの感想等々では、ほとんど内容を暴露しちゃっている。本当は最初に「ネタバレ注意」とでも書くのが常識なのだろが、面倒になっちゃって一切書かなかった。その点はお詫びしないといけない。でも、話の内容を知っていても、このシリーズは楽しめると思う。


評価
★★★


書誌
書名:赤い指
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062764445
出版社:講談社 (2009/08/12 出版) 講談社文庫
版型:306p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2011年01月07日

東野圭吾著『嘘をもうひとつだけ』

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 今回は加賀恭一郎を主人公とする短編集である。「嘘をもうひとつだけ」、「冷たい灼熱」、「第二の希望」、「狂った計算」、「友の助言」の5編である。
 私は東野さんの本を読んでいる方なのか、どうかわからないが、こうしたシリーズもので、同じ主人公とする短編集はガリレオしか読んでいない。だからそれと比べるしかないのだが、少なくともガリレオよりはこちらの短編集の方が面白かったと思う。だいたいガリレオの短編は枚数の制限があるからか、どうもトリックが非現実的で、今ひとつ納得できない部分があった。たぶん以前同じことを書いているはずだ。

 「嘘をもうひとつだけ」は、バレエ団の事務員、早川弘子が自宅のマンションから転落死した事件を加賀恭一郎が、それが事故でなく殺人であることを証明する。犯人は同じマンションに住む元バレリーナの寺西美千代であった。弘子は美千代を脅していた。
 問題は女の非力で弘子を突き落とすことが出来るかどうかである。弘子は独立してバレエ教室を開くため、自らも踊れるようにバルコニーでバレーレッスンをしていた。バルコニーの手すりを利用して練習していたのだ。ただその手すりは普通の稽古場より高めにあった。だから弘子はプランターを伏せてそれを台にしていた。
 練習の最後には片足を手すりに乗せてストレッチをする。つまり弘子は不安定な状態でバルコニーにいたことになり、美千代でも簡単に突き落とすことが出来た。美千代は犯行後そのプランターを元に戻した。当然そこには美千代がしていた手袋の痕跡があっていい。ところが美千代は弘子の引っ越しを手伝った時にそのプランターに触れたと主張する。
 しかし加賀が調べたところそのプランターは弘子の死の直前に買われたものとわかり、引っ越し時にはなかったことが判明する。美千代嘘がばれた。

 「冷たい灼熱」では、田沼洋次家に強盗が入り、妻の美枝子が殺されていた。部屋は荒らされていた。しかも一人息子の裕太がいない。誘拐されたかもしれなかった。
 しかし加賀は部屋の荒らされ方が不自然であること、洋次の言動にも不自然さを感じていた。結局美枝子がたぶんパチンコに通っており、裕太を車に置き去りにしていた。そして裕太は熱中症で車内で死亡した。美枝子その事実の発覚を恐れ、裕太をブレーカーの落ちた部屋で寝かせてしまったことで死亡したと洋次に嘘をついた。洋次は美枝子がパチンコに夢中になっていることを知っていたので、それが嘘であることを知っていた。そして美枝子を殺害した。息子の裕太は洋次が隠したのであった。

 「第二の希望」でも部屋を荒らされていた上に大男がベッドで首を絞められて死んでいた。男はこの部屋の楠木真智子の愛人であった。真智子は離婚しており、娘の理砂と二人で暮らしていた。理砂はオリンピックを目指すほどに器械体操に打ち込んでいた。いや母子でオリンピックを目指していた。
 ここでも加賀は現状に不審を持ち、男を殺したのはこの母子であろうと踏んでいた。結局娘の理砂が部屋にあったひもを使って殺したのであった。

 「狂った計算」は建築士が行方不明になり、建築士と不倫関係にある坂上奈央子に疑惑の目が注がれる。奈央子には横暴な夫がいて、それに耐えきれず、毎月家のメンテナンスにくる建築士の中瀬と関係を持つようになる。そして奈央子の夫を二人して殺そうと計画する。
 奈央子が実家の静岡に帰るとき、まず中瀬が薬で眠り込んだ夫を殺し、その後中瀬が夫に変装して奈央子を駅に送っていく姿を友人に目撃させる。つまり奈央子が駅に着くまでは夫は生きていたと偽装する予定であった。ところが夫は奈央子の不倫に気がついており、中瀬が逆に殺されてしまう。実際に奈央子を駅まで送ったのは実の夫であった。
 そこにトラックが突っ込んできて、夫の遺体は顔の判別が出来ないほどになっていた。そのため加賀はそれが夫ではなく中瀬ではないかと疑うほどであった。この事故はまさしく奈央子にとって“狂った計算”であった。

 「友の助言」は加賀の友人が居眠り運転で事故を起こした。友人は事故の前に加賀に会う予定であった。そしてその友人は決して居眠り運転をする男ではないことを加賀は知っていた。そこで加賀は友人が睡眠薬を飲まされたのではないかと疑い始める。さらに友人が加賀に面会を求めたのも睡眠薬を盛った妻に関する相談だとわかってくる。友人は加賀に助言を求めようと車に乗っていた時事故を起こしたのであった。

 いずれも短編という少ない枚数のため、犯人はすぐわかってしまうのだが、それはそれとして何故犯行が行われたのか、その動機は、その殺害方法は、と追求する加賀の捜査はここでも鋭く描かれる。そのため短編にある消化不良はなかった。


評価
★★★


書誌
書名:嘘をもうひとつだけ
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062736695
出版社:講談社 (2003/02/15 出版)講談社文庫
版型:269p / 15cm / A6判
販売価:519円(税込)

2011年01月05日

東野圭吾著『悪意』

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 昨年の流れで、東野圭吾さんの加賀恭一郎シリーズを読んでいる。本当は違う本を読もうと思っていたのだ、どうも正月はだらだらしているためか、精神的緊張感も希薄になっているのだろう。この手のミステリーしか今のところ受け付けない。

 あっ、挨拶を忘れていました。改めて、

 新年あけましておめでとうございます。

 本年もどうぞよろしくお願いします。

 さて今回の話である。作家日高邦彦が殺害された。彼の幼友達である童話作家の野々口修が、電話で話があるからと日高から呼び出されるが、どうも家の様子がおかしい。そのため日高の妻日高理恵を呼び出し、中に入る。そこには鈍器に殴られた後、電器コードで首を絞められた日高邦彦の死体があった。加賀はその捜査に当たる。野々口は加賀刑事なる前教師であったが、野々口は同じ中学校の教師であった。
 野々口は自分が作家であることから、この貴重な体験を克明に記録していく。この本は野々口の手記と加賀の捜査の記録が交互に書かれるスタイルを取る。そして簡単に日高邦彦を殺害した犯人が野々口であることがわかってしまう。
 逮捕された野々口は犯行を簡単に認めるが、その動機がわからない。日高を殺すにあったってのトリックは加賀によって簡単に見破られ、その後の犯行隠蔽工作も野々口が書いた手記に齟齬あるため、問題点を明らかにされ、野々口の犯行は確定しはじめる。しかしどうしても動機がはっきりしないのだ。野々口も殺害は認めても動機を語らない。
 そのうち野々口の仕事部屋から、日高の作品と類似する原稿が見つかる。野々口は日高のゴーストライターではなかったのか、という疑惑が浮かぶ。しかも日高の交通事故で亡くなった前妻初美と不倫していたことも判明する。野々口が日高を殺したのは、自分の作品を元にして日高が自分の作品として発表し文学賞を受賞したことに対する復讐と、前妻初美との不倫をネタに邦彦から自らがゴーストライターを強いられてしまったことで、発作的殺人と思われていく。
 野々口が書いた手記にはとにかく日高の性格が残虐で、自らをおとしめる人間としか書かれていない。それはその手記の最初に日高が家に入り込む猫に毒だんごを作って殺したと手記に書く。そうすることで日高が残虐なんだという先入観を読む者に与える。
 ただ加賀は何かがしっくり来ない。野々口の書いた手記から、野々口自らが捜査の方向をそのように持って行ったきらいがある。もっと深い殺害動機が野々口にはあるのではないか。それを探っていく。
 加賀は捜査を野々口と日高の中学時代まで捜査を広げていく。日高が本格的作家デビューとなった花火師の人生を描いた『燃えない炎』という作品もやはり、それは日高が子供の頃近所にいた花火師をモデルにしている。しかしそれは野々口が書いたものとされる。ということは花火師の仕事場に遊びに来ていた子供は当然日高でなく野々口でなければならいが、その花火師の証言で野々口でないことがわかる。
 さらに野々口は中学時代いじめにあっていたが、いつの間にか野々口はいじめる側に回っていたことがわかってくる。そのいじめのリーダー格に脅かされるのが怖くて、金を貢いだり、腰巾着になっていたのであった。一方日高は少年時代すばらしい少年であり、いじめにあった野々口を助けたりしたりしており、野々口にあっては日高は恩人でもあったことがわかってくる。
 
 日高の小説で、ある版画家の生涯を描いた『禁猟地』というのがある。この版画家のモデルが野々口が中学時代いじめにあっていたそのリーダー格藤尾正哉であった。そこには藤尾が少女を暴行したことが書かれており、遺族から名誉毀損で、『禁猟地』の書き換えを求められて、裁判となっていた。その少女を腕を押さえつけていたのが、野々口であり、その証拠の写真を日高が入手していた。裁判が長引けば、その写真が公にされかねない。これが日高殺害の動機であったが、どうせなら日高を殺害するなら、日高の人間性を貶める方法を考えた。日高殺害の嘘の動機が公表された時、日高の人間性が地に落ちる形を取りつつ、世間の同情が野々口に集まるようにしたかったのであった。そうした悪意が日高殺害を推し進めたのであった。要するに野々口にとって、日高の殺害より、日高を貶めるという動機が先にあったのであったのであった。
 結局日高の作品は野々口が書いたものではなく、野々口が自分がゴーストライターのように見せかけただけであり、日高の前妻初美も事故ではなく、自殺であったのだ。
 野々口の手記には加賀が近づいてくる足音がいつも聞こえてきたと書かれている。加賀はいつもこの手法で、じわりじわり真実に近づき、犯人に恐怖に貶める。これがこのシリーズの魅力であるが、今回は十分発揮されているように思えた。幾重にも仕掛けられた罠と心理トリックの駆け引きは読み応えがあった。


評価
★★★


書誌
書名:悪意
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062730174
出版社:講談社 (2001/01 出版)講談社文庫
版型:365p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2010年12月30日

東野圭吾著『どちらかが彼女を殺した』

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 まず事件のあらましを書いてみる。東京でOL生活をする和泉園子から愛知県に住む兄康正に電話がある。康正は園子の様子が変なので詳しく聞いてみると、園子は信じていた相手に裏切られた。信じられるのは結局兄だけだという。傷心した園子は実家に帰ると言った。康正は園子の帰りを待っていたが、帰って来ない。電話を入れてみても電話に出ない。不安を感じた康正は園子の部屋まで慌てて行くが、そこには感電自殺をしたと思われる園子の死体があった。
 康正は愛知県の交通課の警官で、自らの仕事が自己の痕跡や状況から事故を推理する人間であったため、園子の部屋を見回して、園子は自殺ではなく、殺されたのだと確信する。ただ康正はそのまま警察に園子が死んでいること連絡しない。園子を殺した犯人を自ら捜し出し復讐しようとする。そのため地元の警察に連絡する前に、園子の部屋にあった証拠を隠してしまう。一通り証拠を確保した上で加賀恭一郎のいる警察に連絡する。
 ここから康正と加賀の犯人捜しが始まる。ただ加賀は康正が隠し持っている証拠となるものが何であるのか、事件の謎と一緒に解かなければならないハンデがあった。
 今までこのシリーズを読んできて、加賀恭一郎はいつも脇に置かれた感じで描かれる。むしろ犯人や事件関係者のその後の行動を描くことで、逆にしっぽをつかむ設定が多い。今回も康正の行動を監視しながら、自らが残ったものから事件の真相に迫っていく。

 園子が自らの身体に貼り付けた、電源コードはキッチンで包丁を使って皮膜を削っていた。その際にその皮膜は、包丁に右側についていたことを確認し犯人は右利きであることを知る。また飲んだ睡眠薬袋の破り方が右利きの人間が破るやり方であった。園子は左利きである。加賀はこの時点で園子は自殺でないことを確信する。
 では犯人は誰か。容疑者は二人あがってくる。一人は園子の親友であった弓場佳世子で、もう一人は佃潤一であった。園子は潤一を自らの恋人として親友の佳世子に紹介したが、潤一は園子から佳世子に鞍替えしてしまう。園子が信じていた相手に裏切られた、というのはこのことであった。
 康正はいろいろ調べているうちにこの二人のいずれかが犯人であることを確信するが、特定はできない。加賀も同様であった。事件は最初潤一が園子に睡眠薬を飲ませ、自殺に見せかけて殺そうとしたが、そこに昔アダルトビデオに出演していたことを知った園子に脅された(裏切られたことの腹いせに)佳世子が来て鉢合わせになる。二人は一端園子を殺さず部屋をである。そのあと二人のうち一人がまた園子の部屋に入り、自殺を装って殺すのである。
 この本は最後まで犯人を特定していないで終わっている。要するに読んでいる人間が考えろ、ということらしい。証拠となる物件、状況はとことん明らかにしているから、後は読者が考えればいいということになっている。なかなか面白い。得意のネットで調べてみると、犯人は佳世子だ、いや潤一だと意見が分かれているが、私は潤一だと思う。
 問題は佳世子の利き手が右か左かである。この文庫には袋とじがあって、犯人捜しの手がかりを教えてくれるが、そこでも、また本文でも佳世子の利き手が曖昧だ。佳世子が右利きだと犯人の可能性があるが、それはわからない。ちなみに佳世子が園子の葬儀の時署名した時は右手で書いていたと書かれてはいる。ただこの場合園子と同じように普段の生活では矯正された右利きであったが、ふとしたことから本来の左利きに戻ることもあり得る。
 この小説は最初ノベルズ版で発表されたもので、そこには佳世子が左手で睡眠薬の袋を破った書いてあるそうだ。しかし文庫版ではその一文は削除されていて、佳世子の利き手がわかりにくくしているので、余計に犯人の特定が難しくなっているという。確かにそうだ。もしこの文章が残されていたら、簡単に犯人が潤一だと特定できてしまう。
 でも佳世子の利き手がわからなくても、園子の身体に貼り付けた電源コードを固定した絆創膏が、佳世子の身長では届かないところに置いてあった救急箱にあったこと。
 さらに康正が園子の復讐のために佳世子と潤一を呼び、動けないようにしてから、園子と同じように電源コードを身体に貼り付けるた。最後になって加賀に説得された康正はヤケになってスイッチに指をかけた。そのとき「犯人は絶叫し、犯人でないほうも悲鳴をあげた」と書いてある。これを読んだとき私は絶叫するのは男の方で、悲鳴は普通女が上げるものだと思ったので、この時点で犯人は潤一だろうと思ったのである。

 犯人を明らかにせず読む側に考えさせるものは、さっきも言ったように面白い。それこそ本当に犯人捜しをするかのように、読み終えても、もう一度必要な箇所を読み直し、あれこれ考えさせてくれる。こういう解答なきミステリーも“楽しみ”としていい。


評価
★★★


書誌
書名:どちらかが彼女を殺した
著者:東野 圭吾
ISBN:9784062645751
出版社:講談社 (1999/05/15 出版)講談社文庫
版型:355p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年12月28日

本多孝好著『at Home』

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 この本は、「at Home」、「日曜日のヤドカリ」、「リバイバル」、「共犯者」の4編を集めた短編集である。しかしそれぞれには共通していることがある。それは壊れた家族がそれぞれ再生を目指すことである。時にはまったく別々の家族の一人が集まり、新たな家族を作る。あるいは主人公が離婚し、新しい妻を求め、家族再構築する。そこで妻の前の夫と問題が起こったり、または別れた夫婦が、あることがきっかけに再生を予感させるものもある。あるいは父親が急に失踪したが、その父親と息子が会って、妹の家庭で起こる幼児虐待から甥っ子を救うことなど、ちょっと変わった家族愛を描いている。

 実は最初の「at Home」のシチュエーションに戸惑ってしまった。最初に息子の僕と母親の会話がものすごく不自然であったのだ。だから“なんだ、この話は?”と違和感を感じながら読み続けると、家族がそれぞれまったくの他人であり、父親役が出来る男が父親をやり、母親の年齢の女が母親をやる。そして息子である僕と、妹と弟がそれぞれ集まって、疑似家族を作っていたのだ。
 僕の本当の両親は自分たちの仕事のことで頭がいっぱいで、仕事に没頭し、息子のことに一切関心を持たなかった。僕の話を聞いてくれと言った時、その時時間がないからと後にしてくれと言う。その約束の時間にも両親は帰ってこなかった。そんな両親を僕は殺そうと思い、包丁を振り上げる。殺すつもりでいたが、「殺さないでくれ」という悲鳴が行為を止めた。彼らは「殺さないでくれ」と悲鳴を上げる。それはお前は親である私を殺すなというのでもないし、まして息子が殺人者になることを止めている訳でもなかった。それは「小さな頃から必死に努力し、苦労してここまで実現してきた俺という自己を抹殺するな。お前にそんな権利はないだろう?」とそう言っていた。それが僕にはわかり、醒めた。僕は包丁を置き、家を出た。そのとき偶然泥棒に入った父さんと出会い、一緒に逃げた。
 妹の明日香は実の母親がずっと前に家を出て行ってしまい、父親も不在がちであった。妹がいたため明日香はその妹の親の役を務めたが、もともと心臓に疾患があったため、ある朝目が覚めると妹は死んでいた。
 母さんと出会ったのは、早朝のホームで、自らも夫の暴力に疲れ果て家を出ていたときであった。そのとき母さんは自分と同じ目でホームから線路を見ている少女に気がついた。少女は自分以上に疲れ果てているように見え、母さんは死んでる場合じゃないと思う。同じ死ぬならせめてこの少女を生かしてから死んでやろうと思う。
 弟の隆史は空き巣に入った父さんがその家の柱に縛り付けられていた一人の小学生を連れてきたのであった。
 こうして4人が疑似家族新しく作り始めた。本当の血のつながった家族ではないから、変な会話が出来る。母さんは男をだまし、金を巻き上げるのが仕事であったが、その付きっていた男と金を巻き上げて別れる時期を模索していたとき、

 「ま、いいの。二週間でけりつけるから」

 「できるの?」と明日香が聞いた。

 「どうせ、そろそろ一発やらせてあげなきゃってとこだったし、まあ、いいタイミングだわ」

 「そういうこと、中学生の娘の前で言う?」と明日香が声を上げ、「あら、中学三年なら、色々とご存じでしょうに」と母さんは笑った。

 そう言った母さんの「テク」はすごいのだろう。少なくと今日まで同じ手でやってこられたことを思えば・・。しかしあんまり想像したくないが、と僕は思うのであった。
 その母さんが男に逆にゆすられた。監禁され、身代金一千万を要求される。母さんは明日香を身元のばれない私立の高校にやるためのお金を稼いでいたのであった。
 僕は印刷屋で偽造パスポートを作る仕事をしていたが、そこに一緒に働いていたゲンジさんがいつか精巧な偽札を作りたいと思っていたことを思い出し、身代金を偽造してもらい、父さんと一緒に男に会う。そこに隆史が母さんが殴られて監禁されていることを知り、以前父さんが盗み出したピストルで男の足を撃ってしまう。母さんを殴ったことに対して怒ったためであった。このままだとこの偽装家族は崩壊してしまう。父さんは一人で罪をかぶるため、男を殺し、刑務所に入る。
 出所後、僕は父さんを迎えに行き、新しい家族を紹介する。僕は奥さんを迎えていた。明日香であった。そして母さんは明日香の母さんとなり、隆史は明日香の弟で、父さんは今度僕の父さんとなって、ゼロから始めるのであった。

 それぞれがそれぞれの家族で問題を抱え込み、逃げ出して、まったく別の家族を作った。そしてその疑似家族に本当の家族以上につながりが出来たとき、みんなで家族を守ろうとする。もしかしたら血のつながりがない分、あるいは本当の家族に裏切られた彼らだからこそ、より強い精神的つながり出来たのではないか、と思ってしまう。嘘でも古傷から身を寄せ合い、したたかに家族と共に生きているのだけれど、あっけらかんとしている分、むしろさわやかであった。

 「at Home」のことを詳しく書いたのは、この4編短編の中で一番気に入ったからだ。その次に良かったのは「リバイバル」であった。
 男は息子の翔太の塾代などの工面のため、サラ金で百五十万を超える金を借りた。しかし翔太は大学受験に失敗し、自殺してしまった。そして妻の昭子と別れた。
 残ったのは借金だけで、男は居酒屋で働き毎月五万八千円の返済を続けてきた。男はもう五十三であった。文句も泣き言も言わず、体がきつくても毎月期限に返し続けてきた。男は「返すために働く。働いて返す。それがくり返される日常。私はその日常に慣れていた。借金というくびきが私を働かせていた。私を生かしていた。その生活が地獄というなら、私の体は地獄に適応していた」と思うのであった。むしろその地獄を追い出されると生きていけるかとさえ思うのであった。
 そんな返済日にサラ金の矢島が来て、私をよくやっていると言い、優良顧客だとも言う。が、ここいらで手じまいにしようと提案する。条件は妊娠したブラジルの女と結婚し、子供を籍に入れる。ただし一年一緒に暮らして、その後別れていい。その際の条件は一切ない。そして残っている借金を棒引きにするという話であった。
 借金がなくなるということは男にとって生きいるためとはいえ、地獄からの解放であった。そして男は矢島の提案を受け入れ女と結婚する。
 一方男が働いている居酒屋に昭子が客として来るようになった。

 今日も昭子は、ビールを飲み、軽い食事をして、小一時間ほどで席を立った。レジに立ち、私は財布を持つ昭子の細い指を見るともなしに見ていた。かつてあった指輪を探したわけではない。私はいつも無意識に、自分の知らない指輪をそこに探してしまう。それがないことにホッとする自分がいて、それがないことに落胆する自分もいた。幸せになって欲しいと思う。そこには嘘はない。けれど、幸せになった昭子を素直に祝福することはないだろう。それもわかっていた。

 これを読むと、女の指はいろいろ語るんだな、と思う。

 半ば偽装結婚した男はだんだん女に情が移っていく。生まれてくる子供を翔太の時と重ね合わすようになる。それは男がかつてした家族の生活を思い出せるが、矢島は女を強引に連れ出してしまう。そのとき争いになり、男は鼻の骨が折れるほど殴られる。女がいなくなり、昭子がまた店に来ているのを知ったとき、男は昭子に翔太の写真が欲しいと頼む。昭子は翔太の写真もって男のアパートを訪ねる。「翔太の写真が飾られた部屋。そこに私と昭子がいる。静かに流れる時間の中で、幸せでないことだけをわけ合っているわけでない私たちがいる」ことを実感出来るようになる。息子はいないが男に再出発を予感させる話であった。


評価
★★★


書誌
書名:at Home
著者:本多 孝好
ISBN:9784048741361
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2010/10/31 出版)
版型:276p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年12月26日

東野圭吾著『眠りの森』

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 続けて加賀恭一郎のシリーズを読みたくなったので、手にする。
 今回は高柳バレエ団の事務所に強盗が入り、それに出くわした斎藤波瑠子がもみ合い、近くにあった花瓶で強盗を殴りつけた。そしておきまりの打つどころが悪くて殺してしまった。いわゆる正当防衛である。警察は波瑠子の正当防衛に疑いの余地がないのか?警察はしばらくの間波瑠子を拘留して調べる。
 波瑠子の幼なじみで同じバレエ団に所属する浅岡未緒は波瑠子のことを心配続ける。そんな心配な未緒に加賀は惹かれ始める。捜査に関わる以上に未緒に関わっていく。
 そもそもなぜバレエ団の事務所に強盗が入るのか?そしてそれは本当に強盗なのか?強盗の身元が不明だあったが、失踪届を出した恋人から身元が明らかになる。風間利之という人物であった。風間は二年ほど前からニューヨークに絵の勉強のため渡り、一年ほどそこに滞在し、そこが気に入ったためか、帰国後またニューヨークに渡るつもりであった。強盗に入り殺されたのは渡航二日前だった。
 加賀達は、そんな風間が強盗に入るのか。また聞き込みでも風間が強盗に入る人間ではないし、金にも困った様子がない。段々波瑠子の正当防衛に疑問が浮かび上がってくる。
 そんな中、高柳バレエ団の演出家梶田康成がリハーサル中、客席ど真ん中で指導中に毒殺される。梶田を調べているうちに風間がニューヨークのいた頃、彼もニューヨークにいたことがわかってくる。強盗の風間と演出家の梶田に接点が見つかる。ニューヨークに何かあるはずであった。警察がこの接点を調べ始めたのと同じようにバレエ団にもそれに気がついた男性バレエ団員がいた。それを調べていた柳生謙介は自分の入れておいたコーヒーを飲んだ時倒れた。水筒に梶田が殺された時と同じ毒が入っていたのだ。
 そして演出家の梶田が毒殺された方法がわかり、その仕掛けを作るために買った注射針の代わりにした軟式テニスのボールに空気を入れるための針を買ったことがわかる。調べているうちにやはり同じバレエ団の森井靖子の名前が上がる。しかし靖子は風邪をひいたと言ってバレエの練習を休んでいた。
 加賀たちは急いで靖子のアパートに駆けつけるが、靖子は自殺をしていた。そして梶田を殺した凶器が冷蔵庫から見つかる。梶田を殺したのは靖子であった。
 
 ニューヨークに事件に関係があるなにかが存在する。それはニューヨークで高柳バレエ団のプリマドンナである高柳亜希子が同じニューヨーク在駐の画学生青木一弘と恋に落ちたことから始まる。亜希子が帰国間際になると青木ともめ、ナイフで襲ってきた青木を亜希子は逆に刺してしまった。それを知った梶田康成は、バレエ団のプリマドンナである亜希子に傷がつくことを恐れ、刺したのは亜希子と一緒にいた森井靖子だと嘘の証言をする。
 以後青木一弘はニューヨークで荒んだ生活をし続けた。そこに青木からニューヨークで知り合いになった風間利之に連絡があり、自分にはもう未来に希望がないから死ぬつもりだと言われる。それを聞いた風間はもう一度青木に会ってやってくれと亜希子に頼むために、バレエ団に忍び込んだのであった。その時一緒にいたのは波瑠子ではなく、未緒であった。未緒にはバレエ団のプリマドンナを守らなければならないという殺意があった。
 しかし未緒の身代わりとなったのは波瑠子であった。ここにも過去の事件が尾を引くこととなる。波瑠子は以前未緒と一緒に乗っていた車で事故を起こし、自分も怪我をしたが、未緒には後遺症が残り、耳が聞こえなく鳴りつつあった。未緒にとって亜希子と一緒に踊る舞台は今回が最後になるかもしれないという思いもあって、亜希子に言い寄る風間を花瓶で殴ったのも大きな理由であった。
 そこに波瑠子は来て、未緒に借りがあるものだから自分が身代わりとなったのであった。
 一方梶田を毒殺した森井靖子は梶田の言うことをすべて受けいれてきた。演出家の梶田に気に入られるようなダンサーになることしか考えていなかった。全幅の信頼を梶田に置いていた。その梶田にニューヨークで青木を刺したのは自分だと言われ、もうその時点で梶田に裏切られていたことを知ったので、梶田を殺害したのであった。

 これが今回の連続殺人事件および一人のダンサーの自殺の全容であった。今回は話のつながりが複雑であるため、わりとじっくり読んでいかないと途中で話がつながらなくなる。この謎解きは過去の事件の多さで誤魔化している感がぬぐえなかった。けれどそれなりに面白かった。加賀恭一郎はこの事件を捜査をしているうちにどんどん浅岡未緒に惹かれていき、風間の殺害を認めた未緒に、耳が聞こえなくなる未緒を「俺が守ってみせる」と告白してこの話は終わる。この後二人の関係はどうなるのであろうか?次の話以後、展開はあるのだろうか?ちょっと気にかかる。
 ということでシリーズ第三弾も手に入れたので、近々読むことになるであろう。


評価
★★★


書誌
書名:眠りの森
著者:東野 圭吾
ISBN:9784061851306
出版社:講談社 (1992/04/15 出版)講談社文庫
版型:328p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年12月25日

池谷伊佐夫著『神保町の蟲』

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 私は池谷さんのイラスト付きの本が好きだ。かなり丁寧に描かれたイラストは、この人の性格を表しているものと思われるが、そこには本が本当に好きなんだな、と感じさせるものがある。
 内容を楽しむことより、イラストを含め本全体を眺める感じで手に取っている。ちょうど中途半端に余った時間をうっちゃるときに、読むとはなしに眺めて時間を過ごすにはいい本だ。

 ここに書かれていることでいくつか思い当たることがあったので、それを書いてみる。昔古本を集め出したころ、「日本古書通信」という新聞みたいなものに、古本屋さんの在庫リストがあって、その中で欲しい本がある人ははがきを出して下さいといったものがあった。そして希望者が多い場合抽選で、当たった人に本を売りますというのだ。私も当時欲しい本がいくつかあったので、何枚かはがきを出したことがある。記憶では1回だけ抽選に当たり、その時欲しい本をゲットしたが、後はとことん外れた。
 だいたい他のなんでもそうだけれど、抽選なるものは公正に行われているのかなと感じている。そこには何か公正とは無関係の利害みたいなものがあるように思えるのである。だってそうでしょ。無作為の場合、どこのどいつに当たるかわからない訳で、当然リスクも伴うはずだ。だったら確実にお金が入る人に本を渡した方がいいに決まっている。
 池谷さんもこのあたりに疑問を感じておられるようで、抽選はきちんとされているか?と古本業者に聞いている。で業者曰く、「たくさん注文してくれる人と少ない人では当然前者が有利だし、業者間なら優先的にゆずる店もあれば、逆もあるんですよ。はじめての人や遠方で来られない人よりは、取りにきてくれる人のほうが断然有利でしょうね」だと。さらに「あのね、抽選というのは抽出して選ぶときことで、くじ引きという意味とは違うんですよ」だと言い切る。ですよね。世の中そんなもんだ。妙に当時のことを思い出して納得してしまった。
 また古書蒐集にかぎらず、趣味の継続には、金、時間、情熱、そしてなにより伴侶の理解が欠かせないものである。だから妻の目を誤魔化し、あれこれ言われないようにしないとならない。そこで古本屋さんは「秘密にして欲しい方は、申し込み葉書の指定欄に○を記入」して、注文してくれというコレクター心理に細かい配慮をしたものがあるという。
 それを読んだ時、昔本屋で働いていた頃のことを思い出す。お客さんが注文した本が入荷したので、電話でその旨を連絡するのだが、その時絶対に書名を言っちゃいけないと、当時の先輩に言われたことがある。お客さんにとってその本が他の人に知られてはまずい本である場合もあるからだ。その本が、ちょっと首をかしげてしまうような本の場合もあるだろうし、会社の同僚や上司には隠したいものの場合もある。奥さんに知られてはまずい本だってあるだろう。人にはいろいろな事情、様々な趣味があるので、あまりおおっぴらにできないところが誰しもある。そういう事情を考えろというのが先輩のアドバイスであった。本屋から「山田さんから注文頂いた『どうしたらあなたはあの時オトコになれるか?』(そんな書名があるのか知らないし、だいたいそんな本、本屋で注文するか!という突っ込みがありそうだが、たとえばの話だ)という本が入荷しましたので、恐れ入りますがお伝え下さい」なんて部下の女性が聞いたら、山田さんの立場がないはずだ。

 その先輩であるが、この人もともとデザイナーであった。それがどうして本屋で働くことになったのか細かい事情は知らないが、それでも完全に吹っ切れたわけでなく、デザイン関係の雑誌、女性誌、婦人誌など必要のあるものは買っていた。奥さんもデザイナーと聞いている。二人してそうした広告のいっぱい載った雑誌を集めていたらしい。だいたい写真広告の雑誌は重いものである。特にこだわりのある写真が載っている雑誌は紙質も厚く、一冊が結構な重量になる。たとえば家庭画報なんていう雑誌などそうだ。先輩夫婦は家庭画報のバックナンバーを押し入れに並べて置いたらしい。ある日押し入れからものすごい音がして飛び起きたという。そう、雑誌の重みで押し入れの床が抜けてしまったのだ。あれにはまいったといっていたが、そんなことを思い出したのは神保町にあった古書会館の建て直しの記述を読んだからである。
 前の建物はまだ36年しかたっていないが、見た目より老朽化していたらしい。古書会館というからには相当な本が集まる。当然たくさんの本が建物に相当の負荷をかける。だから以前の建物は築36年でも人間で言えば「疲労骨折」寸前であったらしい。池谷さんは「本は金の次に重い」もので、鉄筋の建物の寿命まで縮めてしまう、と書いている。確かに本は一冊ではどうってことないが、大量になるととてつもなく重い。本屋の店員の職業病であるぎっくり腰が蔓延しているのもこのためである。

 最後に池谷さんが古本蒐集やコレクターにおかしな目を向ける人々に批判めいたことを書いている。書き出して見る。

 世の中には、本というのは中身を知ることにその本質がある、と考えて疑わないご仁がまだまだ多い。「本はよめさえすりゃいいんだ。初版がどうの装丁がどうの函付きがどうのというのは本末転倒もはなはだしい」とのたまう。こういう方に限って、着られればいいスーツがイタリア製だったり、腹におさまればよい食事のために高級レストランに出かけたり、雨つゆしのげればすむ家庭に豪邸をもとめたがったりするものである。人の趣味に口をだすのは分別のある大人のすることではない。
 古書蒐集というのは、ある意味屈折した志向ともいえなくもない。蒐集分野によっては古書マニアにわかれる。文庫で読める本の初版本や特装本にしばしば客注がかさなることからもわかる。公園のベンチに置いてあればゴミ、古書店のショーケースにおさまっていればン百万円もする古書だってあるのだ。
 本を愛でることとは、本を物ととして慈しみ、限りない愛情を注ぐことと私は確信している。ただし、なんでも美しい造本ならいいかといえばそうではなく、やはり中身とのバランスが必要であることはいうまでもない。

 これは本や古本を愛する人にとっての言い分であって、こんなのわからない人にとっていくら説明しても基本的に理解できないことだ。何故なら関心外のことだからだ。しかし批判めいたことを言われれば、こう言い返したくなるのはわかるが、結局人の好みは様々だし、そしてその人にとって一番なのだから、批判されれば、じゃあおまえはどうなんだよ、と言われるのがオチである。またそういう自分だって本以外のことに関心のある人に、何で?と言っている時があるだろう。他人の趣味や関心事には口を出さないほうがいい。そういうことだ。


評価
★★★


書誌
書名:神保町の蟲―新東京古書店グラフィティ
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784487799350
出版社:東京書籍 (2004/11/09 出版)
版型:183p / 21cm / A5判
販売価:1,785円(税込)

2010年12月17日

紀田順一郎著『第三閲覧室』

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 この本はもしかしたら読んだかもしれない。読んだのはたぶん文庫だったと思うが、内容がまったく思い出せず、たまたまブックオフで見かけたので、再度読んでみた。でも意外におもしろかった。
 私の場合、新刊書店で買えない本や、値段の高い本などは古本屋やブックオフで買うことにしているのだが、いわゆるビブリオマニアというのは、一種の病気に近い。本が稀覯本あることに価値を置いている。この本はそうしたマニア化した人間の物語である。

 誠和学園大学という新設の大学の図書館で、学長が学校の経費を私物化して、貴重な古本を集め、図書館に納めている。図書館の充実が大学の格を上げるという口実を使って古本を集めていたのである。学長はその大学の創設者であったから、半ば独裁化しており、今まで自由に大学のお金を使って古本を集めていた。
 そんな貴重な本に虫が付かないようにするために、本を薬を使って燻蒸する。部屋を閉め切って行われる。燻蒸が終わって、業者が部屋を開けたとき、一人の女性が死んでいた。燻蒸の薬にやられたようであった。
 しかし燻蒸が行われる図書室に何故その女性がいたのか?そこに一冊の幻の本の存在があった。女はその幻の詩集を盗むために、図書館に忍び込んだ。
 問題はその詩集である。戦前あまり評価されてない詩人が、戦後にわかに話題となった。しかし詩人のその本は出版される予定であったが、出版社が倒産して出版されないことになり、しかもその詩人も戦地で死んでしまった。だからその詩集は世の中に存在しないものと思われていた。ところがその詩集がこの図書館にあったのだ。果たしてそれは本物なのか?それとも偽物なのか?その真贋がこの本のメインテーマになる。
 この図書館に元新聞記者であった島村は、大学の講師として勤務することとなった。彼は円本の論文を書くために、円本を求めたが、今ではそれを全巻揃いで求めるのは難しい。ちなみに「円本とは、1926年(大正15年)末改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』を口火に、各社から続々と出版された、一冊一円の全集類の俗称、総称。庶民の読書欲にこたえ、日本の出版能力を整え、また、執筆者たちをうるおした」ものである。今でも古本屋の均一本のワゴンの中にそのときの端本を見ることがある。
 その円本が表紙などない状態のものが多かったが、揃いで大学の図書館にあった。島村はそれを一括で借りていた。一方島村は大学の講師になったため、自らの蔵書を移動しなければならなくなり、その手伝いを結城明季子に依頼した。ところがその借りた円本が借りたものと違うことに気がつく。誰かが取り替えたのである。結城明季子がすり替えたのか?図書室で死んでいたのは結城明季子であった。明季子は死ぬ直前にダイニングメッセージらしきものをメモに書いていた。それは「見返してやる・・・」というように読めたという。
 さてその詩集である。この本が本当に幻の本であるのかどうか?犯人捜しは、この本の真贋を見極めることから始まる。ではその詩集は戦前に限定的に出版されたのか。出版社は倒産してないのだが、もしかしたら印刷、製本されていたのか?だったらこの図書館にある詩集は当時の紙とインクや活字を使われているはずであった。調べてみると紙質は戦前のものであり、インクや活字あるいは製本するに当たって使われる綴じ糸も当時のものように思われた。明季子は死ぬ間際に「見返してやる・・・」というように読めるメモを残している。そして島村が借りた円本の揃いは表紙などないものがほとんどであった。
 ところで本には“見返し”と言う部分がある。それは一般的には表表紙・裏表紙の内側に貼り付けて、本の中身と表紙をつなぎ合わせている役目をしているが、ちょっと高めのハードカバーの本には表紙をめくると何も印刷されていないものもあった。そして円本も同様であった。そう、島村の借りた円本の見返しを使ってまずはその詩集の紙を用意した。綴じ糸も同様である。では活字はどうしたか?この大学は印刷機械も町の印刷屋を吸収して持っていた。その吸収された印刷屋の印刷機械はそのその詩集を出版しようした印刷屋から買い取ったものであった。当然活字もそのときのものを持っていた。インクはカビなどを培養して古めかしく見せかけることが出来る。これでこの詩集は偽物であることが判明していく。そしてそれを知った結城明季子は自らの保身のために学長らを脅かそうとして、それを盗み出そうとしたのであった。では何故明季子は殺されなければならなかったのか。ここに大学内の権力闘争が絡んでくるのであった。

 私は古本に関するミステリーは大好きなのだが、だいたいが病的な収集癖が高じて殺人事件となるパターンである。しかしそのどこか病的なのか?それ故にどうして殺人事件となっていくのか?
 そういった本ばかりめられている場所は、異様な雰囲気醸し出す。本が古ければ古いほど、貴重であればあるほど、そこの部屋は異様になっていくようである。そして独占欲が高じて殺人事件となっていくのである。私はそんな本ばかりあるかび臭い部屋の雰囲気と一緒になって、ちょっとゾクゾクしてしまうのである。


評価
★★★


書誌
書名:第三閲覧室
著者:紀田 順一郎
ISBN:9784103063063
出版社:新潮社 (1999/07/20 出版)
版型:324p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年12月14日

東野圭吾著『卒業』

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 国立T大の女子学寮「白鷺荘」で、茶道部四年生の牧村祥子が自室で死んでいるのが発見される。発見者は祥子と同じ茶道部の相原沙都子と祥子の隣室に金井波香であった。沙都子は体調が悪いと言って途中で帰った祥子を気遣って白鷺荘にやってきて、祥子の部屋から光が漏れているのを不審に思い、管理人に祥子の部屋を開けてもらった。
 祥子は左手首を切り、腕を洗面器に突っ込んで出血多量で死んでいた。一見自殺に見えるが、祥子には自殺する理由が沙都子らに見あたらなかった。他殺の可能性もありそうだ。
 捜査は進展しないうちに、恩師の南沢雅子の誕生日を祝うお茶会が行われ、突然出席者の金井波香が倒れて死んだ。毒物死であった。
 沙都子の仲間が二人相次いで死んだ。加賀恭一郎はこの一連の事件の関連性を疑い始める。恭一郎と沙都子の仲間のうちに犯人がいる。二人は自ら仲間を疑わなければならない中、事件の真相に迫っていく。

 私は以前『新参者』を読んで楽しませてもらった。そして主人公加賀恭一郎は、シリーズものになっていることを知り読んでみたいと思いこの本を手に取った。加賀恭一郎が登場する第一作がこの作品である。
 なかなかおもしろかった。祥子は自殺なのか、それとも他殺なのか。他殺なら祥子の部屋は密室である。犯人がいるなら、簡単に祥子の部屋に入り込むことが出来ない。
 祥子には恭一郎と沙都子の仲間の一人である男を恋人に持っていた。しかし祥子はその男に内緒で違う男と遊び、病気をうつされてしまった、と勘違いする。そのことを恋人に打ち明けたが、冷たくされたことによる自殺であった。ちょうど祥子が死にかけているところに男が祥子の部屋に忍び込んできた。男には野心があり、祥子が病気だけでなく、他の男の子でも宿していたらたまらないと思い、まだ息のあった祥子をそのままにしてそこから立ち去った。
 さらにお茶会で波香が毒殺死した場合においても、波香だけを狙うには様々な障害がある。お茶会に参加していた沙都子たちにも毒が盛られているお茶を飲まされる可能性があったからだ。それを波香だけを狙う方法はどういう方法なのか?このお茶会にはお茶を飲むルールがあった。それは「雪月花之式」というもので、これはちょっと説明が難しい。というか本にも図式が書かれていて、これがないと読む側も理解できない。結局このお茶会で波香を殺害するには共犯者必要で、それも恭一郎と沙都子の仲間の一人であった。
 ことの発端は波香が剣道の試合の優勝決定戦破れたことから始まる。波香の対戦相手は波香実力からすれば当然勝てたはずであった。しかし対戦前に薬が入ったスポーツドリンクを飲まされたことで、敗れてしまった。波香は薬を入れた人間を追求し、今度は犯人がテニスの試合があるので、同じように薬を入れて、復讐しようとしていたのを、逆手にとられて殺されてしまったのだ。
 波香に薬入りのスポーツドリンクを飲ませた仲間も、自らの保身のために対戦相手から強要され拒むことが出来なかったのであった。
 この物語は就職先も決まり、大学の卒業を待つ仲間たちが、自らが未来における保身のために、犯行を行った。そういう意味では恭一郎と沙都子には大学の卒業がめでたくもなかった。

 私は学園ものはどこか甘ったるいところがあって好きじゃないが、これは案外おもしろかった。
 『新参者』で加賀恭一郎のキャラクターが好きになったので、刑事でない恭一郎はおもしろかったし、この後恭一郎は大学を卒業して刑事になるのだろうか。
 それも気になるので、次も読んでみたいという気持ちになっている。幸い何冊か出版されているいるようなので、楽しみである。ちなみに加賀恭一郎シリーズは以下の通り。

『卒業』(講談社文庫)
『眠りの森 』(講談社文庫)
『どちらかが彼女を殺した』 (講談社文庫)
『悪意』 (講談社文庫)
『私が彼を殺した』(講談社文庫)
『嘘をもうひとつだけ』(講談社文庫)
『赤い指』 (講談社文庫)
『新参者』(講談社)

評価
★★★


書誌
書名:卒業 ― 雪月花殺人ゲ-ム
著者:東野 圭吾
ISBN:9784061844407
出版社:講談社 (1989/05 出版)講談社文庫
版型:371p / 15cmX11cm / 文庫判
販売価:619円(税込)

2010年12月11日

森まゆみ著『深夜快読』

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 ここのところ腰が痛いのと、寝不足も加わって、今ひとつ体調がよくない。しかも12月になって寒くなってきたものだから、休みの散歩、平日通勤前に歩くことを控えている。だからいつも休みに散歩がてらに行く近所のブックオフにもしばらく行っていなかった。
 天気もよく、多少暖かかったので久しぶりに歩いてそこへ行ってみた。以前来た時からちょっと時間が空いたので、品揃えが変わっているかもしれないという期待もあった。そこで見つけたのが森さんの本である。2冊棚に並んでいた。1冊は文庫本で読んでいたので、この1冊を買い求めた。
 表紙を開いて見るとサイン本であった。今回は前の持ち主の名前はなく、森さんの名前が丁寧に書かれている。これはいい。本自体も読んでいないものだから、ちょっとうれしくなる。
 先週いつもつきあうかみさんの買い物に行った時、ブックオフで不要な本を売り飛ばした。ほとんどがファイルマガジンで、あとは東海林さだおさんの昔から持っている本であった。雑誌はほとんど値がつかないと思っていたし、東海林さんの本にしても、同様だろうとは思っていた。けれど査定はそれ以上悪く、千円にも満たなかった。
 要するにファイルマガジンはゴミと化したわけで、査定対象にはならなかった。東海林さんの本もあまりにも古い本だから、ゴミと同じようだ。それでももう少し高く売れるとは思っていたが、まぁ仕方がない。向こうも商売である。ゴミみたいな雑誌を持ち込まれればある意味迷惑な話だろうし、古い東海林さんの本がそれほど需要があるとも思えないので、妥当なところだろう。でも今週そこのブックオフに行ってみると、辛うじて売れそうな東海林さんの本が並んでいた。それと以前に秋葉原のブックオフで買わされてしまった、吉村昭さんのサイン本(前の持ち主の名前入り)も850円で売っていた。秋葉原では105円で買ったのだけれど、おそらくサインに気がついていないのだろう。
 ということで、ちょっとブックオフにたたかれたことで、恨みもあったものだから、この森さんのサイン本はその見返りみたいなもんかな、と思いつつ読んだ。

 この本は森さんが読んできた本の書評集である。この手の本は著者がどういう分野の本を読まれるのか、そしてその作家さんの感想に興味がある。我々凡人とは違う本を読むように思えるし、またその感想も深いものがあると思いたい。
 確かにここに紹介されている本は明治の女性について書かれたもの、あるいは森さんが活動している地域、谷根千に関わる本が主に読まれ、紹介されている。その中で読んでみたいなという本が1、2冊あったが、一度その内容を見てみてから考えようと思っている。
 その中で「女性の読書は、なにも当時(樋口一葉の生活を綴っている)に限ったことではないが、やむを得ず深夜になる。私も子どもが生まれたころ、三時間おきの授乳の合間に本を読んでいた」とか、「ようやく家事が片づき、子どもたちが寝しずまる。さあこれからが私の時間、とワクワクしながら本を読んできた」と書かれている。だから『深夜快読』なのである。
 これを読んで女性、特に主婦の読書の時間というのは、家事の合間にしか都合がつかないんだな、と思った。主婦たちは家族の生活が第一に考えてくれるから、自分の時間は、そうした合間にしか見出すのが難しいのだなと思った次第。頭が下がる。
 
 さて、この本の中で紹介されている本のなかに、『ガリ版文化史を歩く』という本がある。その出だしが「小学生のころ、学級通信係でガリ版新聞を作っていた。家にヤスリ板と鉄筆と、ニスで黄色く塗った手動の刷り機を置き、休みの日にせっせと仕事をし、広げて乾かす」と始める。そんな経験を持った人には懐かしい一冊というにである。
 忘れていたな、ガリ版という言葉。確かに私も森さんと同世代なので、小学校時代、学級新聞の係であった。あの紙なんて言ったけ?、それの下にこれもなんと言ったか忘れたが、森さんはヤスリ板と言っているけど、とにかくそれをしいて、鉄筆でカリカリと文字を書く。出来上がったら、その紙を印刷室の謄写版にセットし、ローラーインクをまんべんなくひいて、わら半紙に一枚一枚印刷していく。何枚かやっているうちに、原稿の鉄筆で書いたところから破れてしまったりして、手をインクで真っ黒にして、印刷していた。あのインクの匂いは懐かしいな。確かにヨーチンみたいな修正液もあったはずだ。確かにガリ版印刷はそれなりの枚数が印刷できたけれど、いつまでもできるものじゃなかった。その点コピーとは違うし、パソコンの印刷とも違う。
 森さんは「一人一人と向き合って話すのがコミュニケーションの基本。しかし謄写版は一人が十人に、五十人に思いを伝える道具である。そこでアッという世界が広がる。しかし、それが五千人、一万人とならないところが、また謄写版の健全さである」と書いている。そうガリ版印刷には限界があって、それが適度な数字だった。小学校のプリントはみんなガリ版刷りのものだった。先生の字の上手い下手がもろわかってしまい、面白いものだった。わら半紙というのもいいな。

 最後に幸田露伴の『五重塔』をいつか読んでみたいと思っていた。この本のモデルとなった五重塔のモデルは谷中にあった五重塔である。これは、彰義隊の上野戦争にも、関東大震災にも、戦火にも耐えて残っていたが、放火心中によって焼失してしまった。私はどうもこうした貴重な建物が焼けてしまうところに、妙な興味を持つ傾向がある。しかもそれが人為的に燃えてしまったことに興味を持つ。何かやばい感じがしないでもないが、興味があるのだから仕方がない。この本ではその五重塔が燃やされた時の新聞記事が引用されている。気になるので書き残しておく。

 私の手元には新聞記事が集まっている。心中したのは目白の洋裁店ノーブルの店員長部達五郎さん(四十八)と若い針子の山口和枝さん(二十一)で、不倫の果てに女性が妊娠したのを苦にして塔に火を放ったのである。男性が持っていた裁縫用の指ぬきから、身元が判明した。

 今回はそれほど本の内容に入れなかった。というか、いくら書評とはいえ、人がどんな本を読んで、どんな感想を持っているのか知る本であるから、ただ「そうなんだ」といった感じで読んでいたから、こんな感じなった。


評価
★★★


書誌
書名:深夜快読
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480816047
出版社:筑摩書房 (1998/05/25 出版)
版型:269p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年11月23日

半藤一利著『歴史探偵 昭和史をゆく』

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 私はこのブログを更新する場合、書誌を紀伊國屋書店BookWebから参考にさせてもらっている.そのためほとんど毎日このサイトを見ている。で、いつものように閲覧していたら、この本のことが眼に入る。よくわからないが、この本は紀伊國屋書店限定で復刊されているらしい。アマゾンで検索して見ると古本しか手に入らない。ということはこの本はここで購入するか、古本で買うか、どちらかになる。
 私は基本的にネットで本を買う場合、アマゾンで買うことにしている。理由は簡単である。送料が無料だからである。
 しかしこうして毎日このサイトを閲覧させてもらっているだけで、会員にもなっていなければ、本を一度も買ったことがないのも心苦しい。こうして欲しい本があるなら、別にどこで買ってもいいので、急遽会員になった。ただこの本だけだと、送料が取られる。
 実はこれが嫌なのである。送料を無料にするために、無理して1,500円以上買い物をしなければならない。欲しい本があって、それが1,500円以上になれば何ら問題はないが、そうでないときは、あれこれ考えて探すこととなる。こういう時候補として出てくる本は、一度は読んでみたいとは思うけれど、まだ買うほどじゃないなという本である。無理して買う本じゃない、ということだ。それを買わざるを得ないのは少々しゃくなのである。その点アマゾンはそんなことは無用なので、気兼ねなしに買えるからいい。
 今回はもう一冊吉村昭さんの新刊があったので、紀伊國屋書店BookWebで本を買った。

 さてこの本は半藤さん自ら歴史探偵と称して暗い昭和の戦争史の裏側を探っている。これがなかなか興味深く、いろいろ教えてもらった感じである。特に太平洋戦争の始まりと、その終わり方が興味に引いた。まずは開始の方から。
 昭和16年12月7日、日本はアメリカに宣戦布告なしに奇襲攻撃を開始した。いわゆる真珠湾攻撃である。しかしこれは宣戦布告をしなかった訳ではない。当時の東郷外相は野村大使宛対米覚書を発電した。その内容は「7日貴地時刻午後1時を期し米側に 貴大使より直接御手交ありたし」と指令したものであった。ところがワシントン大使館でタイプに手間取り野村大使がハル長官に渡したのは午後2時20分になってしまった(本当は真珠湾攻撃開始30分前の予定だった)。この結果、真珠湾攻撃は無通告攻撃となってしまったのである。
 山本五十六は開戦通告にはかなりこだわっていた。山本五十六は政務参謀藤井茂中佐を呼び、「藤井君、たびたび言うようだが、外務省はアメリカに対する開戦の通告はぬかりなくやってくれているだろうな。戦うかぎりは正々堂々戦わねばならぬからな」と尋ねているくらいなのだ。ただ政府・統帥部は、無通告開戦のほうに意志が傾いていたことも事実である。
 国際法上において、開戦通告の問題は20世紀の初めになって、世界各国の間で取り決められた法規がある。すなわち1907年の調印されたハーグ第三条約において、「開戦ニ関スル条約」第一条として、「締結国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくして、その相互間に戦争を開始すべからざることを承認す」である。日本も条約を批准していたので、当然この法規に拘束される。
 ただ日本は無通告開戦に対して理論武装を用意していた。すなわち国際法にいう自衛権・自己保存権には、たとえ条約無視の事実があっても、自衛権は一切の条約規定に勝るべきものであるから、自衛権・自己保存権のために戦争をおっ始めた場合、無通告開戦でも、ハーグ条約に違反していないと主張するのである。
 日本が主張する自衛権・自己保存権とは、ABCD包囲陣が日本の切迫せる形勢を示すものであって、それは日本から見れば、国家存続の重大利害の関わり、切迫した危険を有することは明白だというのである。そのための戦争であれば、ハーグ第三条約の規定を無視しても問題ないと考えていたのであった。
 ただこれは戦後、連合国側から追求された時の言い訳ともとれる。しかし日本はアメリカに対して決して無通告開戦をしたわけじゃない。政府の不手際から結果としてそうなってしまったということのようだ。

 次に終戦時に起こった問題を書く。昭和20年8月14日午後11時(日本時間)に日本政府はポツダム宣言の受託の通告を発した。これで日本は戦争を止めることで、すぐ戦争が終わるものと考えていたところがある。しかし通告は日本の降伏の意思表示に過ぎなかったのだ。国際法上の正式の「降伏」を完成するには、降伏条件の正式調印をまたなければんらないことを、日本の指導層はきちんとわきまえていなかった。この時点ではまだ戦争が続いていたことになる。
 だから満州に侵入したソ連軍参謀アントノフ中将は、8月16日の布告のなかで、堂々と言明している。天皇が14日に行った通告は「単に日本降伏に関する一般的なステートメント」にすぎず、日本軍の降伏が正式に実行されていない以上は、「極東におけるソ連軍の攻撃態勢はいぜん継続しなければならない」と。
 マッカーサーも8月16日には命令第一号として、「連合国の降伏条件を受諾せるにより、連合軍最高司令官は、ここに日本軍による戦闘の即時停止を命ず」と日本政府と大本営に発した。それでもソ連軍は侵攻をやめなかった。
 なぜか、理由は簡単である。8月15日以後に日本政府と軍部とがしばしば使った「降伏」という言葉は、すべて降伏文書調印(9月2日)以後を示していた。マッカーサーが連合軍最高司令官として最高指揮権を持つのはそれ以後となる。それまではアメリカとソ連の間ではマッカーサーが最高司令長官に任命されるという了解にとどまる。だからアメリカもソ連の侵攻を止められなかったのである。アメリカも日本の政軍指導層も国際法に対する無知さを露呈したことを示すこととなった。
 このあたりの不手際は、開戦時にも同様なことを起こしているし、終戦においても、適切な処置がとれない当時に政治上層部に大いに問題があった。少なくと国際法をきちんと守り、それに熟知していれば、宣戦布告にしてもあんな不手際は許されないことぐらいわかるだろうし、終戦においても、単に日本が戦いをやめたから、即、降伏調印と同じ効力を持つものではないことぐらい知り得たのではないか。それが今の北方領土の問題を引き起こしているのである。外交の難しさも、熟知する人間が当時の政治上層部に数多くいれば、もう少し歴史は変わっていたかもしれない。
 もっと言えば、日本の国力を熟知していれば、そもそもこんな無謀な戦争など出来やしない。それ以前に行ってきた戦争だって、首の皮一枚で何とか勝利したものである。それをすばらしい勝利と国民に知らしめたことが問題である。本当は危なかったんだよ、と多くの国民知らせるべきものであった。知らされなかったとはいえ、それを知らせなくてもいいと日本政府が判断したことは、国民がまだ政治に本当の意味で参加していないことを示すことになる。
 政府の言うことを言われるまま受け入れ、政府が戦争に勝った、と言えば国民は大喜びだったのである。戦争をするときだって、国民一致団結して望まなければ勝利は望めない、と言われればそれに渋々従うしかなかった。その程度の政治意識のレベルであった。ある意味指導者側はやりやすいといえばやりやすい。
 しかしだからといって、個人レベルで損得は勘定できる。苦しい思いをした分、その見返りが当然あるものと思うのだ。それが思ったほどなければ、不満となって爆発する。そのため国民にいつも美味しいにんじんを目の前にぶら下げていないと、国民の理解を得られないことになって、最後は戦争に行かざるを得ない。これが昭和の姿だったのではないか。なまじ日露戦争や日中戦争に勝ったという馬鹿なプロパガンダが国民の損得勘定に火をつけてしまったのではないか、と思う。見返りを求めた国民と、その見返りをあげるためにいい顔をしたい軍の指導部が戦争を起こしたといっていい。
 その中で山本五十六は、日本国民が熱狂し熱情にかられ動揺しやすい国民であり、日本人の集団主義にたいする恐れを抱きつづけた。集団は欲求不満が起こると、かならず大なり小なり攻撃的な行動をともなうことになるからである。
 また越後長岡藩の末裔であった山本は、敗亡の民がなめなければならぬ辛酸が、身にしみてわかっていた。それだけに負けるのが必死の戦争の回避に、最後まで努力したことが、著者のひいき目で記されているが、軍にも状況がきちんと把握できる人物もいたことは記憶しておくべきであろう。
 最後にこの本で知り得たことを書いておく。もしかしたら以前読んだ本で似たような記述をしたような記憶があるが、知っておいていいものだから重複しても書き残しておく。それは靖国神社とは何か、である。
 靖国神社の原型は、幕末の尊皇攘夷のために横死した志士たちの招魂場にある。文久2年(1862年)に早くも民間有志によって慰霊祭が営まれ、慶応年間から明治にかけて各地で招魂祭が行われ、それがつぎつぎに招魂社となっていった。そして明治2年(1869年)、明治天皇の「深き叡慮に似て」各地の招魂社をまとめて、東京招魂社が創建されることとなる。はじめは鳥羽伏見の戦い以来の戦死者三千五百八十八人が祀られた。それから毎年のように合祀者がふえ、これが靖国神社となったのは明治12年6月、社格を別格官弊社に列せられた。合祀者の最初の人は久留米藩家老、稲次稲葉正訓となっているらしい。
 問題となるA級戦犯7名は昭和20年11月12日に判決を受け、41日後の12月23日午前零時から同35分までの間に、巣鴨拘置所内の絞首台で処刑された。GHQは死体はは火葬に付すが「灰は取り捨てる」と発表。棺には氏名や標識もなく、No.1から7までの記号が大きく書かれていた。午前11時、粉末にされた遺骨は七つの黒塗りの箱に収められ、ジープに積まれると風のように火葬場から持ち去られ、その後これらがどう始末されたか、確たる発表も手記もない。
 火葬場長飛田美善以下五名の日本人はMPが立ち去った後、集骨台の上に残された灰をかき集め、一つにまとめた。もちろん誰の骨かはわからない。それが愛知県幡豆郡三ヶ根山頂に建てられた「殉国七士墓」の下に祀られている。


評価
★★★


書誌
書名:歴史探偵 昭和史をゆく
著者:半藤 一利
ISBN:9784569568294
出版社:PHP研究所 (1995/12/15 出版)PHP文庫
版型:366p / 15cm / A6判
販売価:649円(税込)

2010年11月18日

吉村昭著『味を訪ねて』

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 やっぱり好きな作家さんの随筆を読むのはいいが、今回は美味しそうというのとうらやましいという気持ちが複雑に絡み合って、微妙な気分でこの本を読んだ。

 今回も様々な機会に発表された随筆を集めたものである。しかもその初出紙誌/単行本一覧を見てみると、ちょっと古いものばかりである。個人的には短い随筆は好きではある。今回は食に関しての随筆を集められている。ただこの本は食通、グルメの本とは多少違う意識で吉村さんは書かれているようである。一応吉村さんはよくある食通を気取っていないことをことわって、食に関して自らの持論を次のように言われる。

 食通と言われている人は、美味な物を食べるためには金に糸目をつけぬという。私も、そのような人を数人知っている。食べる顔つきは真剣そのもので、ひと味ひと味たしかめているような食べ方をする。
 食物に対する知識はきわめて豊富で、自分で包丁も巧みに使う。味覚が常人とは異なって研ぎすまされているのだろう。

(略)
 
 そのような人とくらべると、私は、食通になることはあり得ないことに気づく。食物についての知識は無にひとしく包丁も使えない。第一、うまい食物を口にできた時、私は、ただ嬉しくて笑うだけなのだ。
 ただし、それがいかにうまい物でも値段が高ければ喜んでいられない。私の場合、食物には金に糸目をつけるのである。
 私にとって、うまいとは、安いわりに・・・・という条件が必要になる。

 もちろんここに紹介される食べ物は確かに産地に行けるだけの条件が必要になる。作家という職業のため取材旅行ができるから、こうしたご当地のうまいものを食べられる。だからこんな随筆が書ける。それだけでも十分「役得」だ。吉村さんは次のように書く。

 仕事の関係で、月に少なくとも二回は旅に出る。そんなことをくり返しているうちに、全国の都道府県すべてに足をふみ入れることとなった。
 好きな町は多いが、私の場合は、第一に人情がこまやかなこと、食べ物がおいしいこと、町独自の歴史のあることなどの条件をそなえている町である。

 これは誰だってそう思うだろう。旅をする醍醐味はそこにあるんじゃないのかと思う。

 吉村さんもここで「食物の随筆は、そんなうまいものがあるなら、食べてみよう、と思うところに面白みがあるので、自己陶酔だけの随筆は、かえってはた迷惑で、いら立つだけである」と書いている。あるいは「ほとんど行く機会もないような地の食物について書かれたものは、どうしようもない。ああそうですか、という以外にない」とも書いておられるが、私たちは吉村さんが書かれたここの文章にも同じことを感じている。いや感じてしまう。やっかみがあって、「あなたもそうですよ」と言いたくなってしまう。
 それくらいここに書かれた文章は美味しそうだった。

 私は咀嚼しながら嬉しくなって笑い出した。なんといううまさだ、と思った。

 これを読んだらそう思っても仕方がないでしょうと言いたくなる。いくら吉村さんが「味の旅という言葉がある。たしかに旅をすると、その地特有の食物に出遭う。しかし遠い地へ旅する必要はなく、東京にも近くの地で、他の地では味わえぬものがある」と書いてあっても、慰めとしか感じられない。
 せめて救われるのは、食通、グルメと称して、やたら高い物ばかり食べているやつより、吉村さんが「安いわりにうまい」ということを持論を持っておられるところだけであろう。それだって、産地に行けば、新鮮で安いに決まっているじゃんと突っ込みたくもなるが・・・。
 結局食に関する本はひがみを持ちつつ読むしかないところがどうしても出てきてしまうのかな、と思った。ということで、食べてみたいけれど食べられないジレンマを感じつつ、この本を読み終えた。

 最後に日本酒を飲む人が減っているという話。

 日本酒の需要が減っていると言われているが、なにも飲む者の趣向が変わったわけではない。遠い昔から得も言われぬ味わいをもつ酒として愛されてきた日本酒が、ほろびるはずがないではないか。
 それが減少傾向にあるというのは、ひとえに酒づくりをしている人の怠慢にある。戦後、私たちは、長い間、なんの工夫もこらさぬ日本酒を、押しつけられるようにがまんして飲んできた。年をへても、酒づくりをしている人は、売れることに甘えて、少しも自製の酒を検討することなく酒を市場に出してきた。
 葡萄酒、ウイスキー、焼酎など、戦後とは全く別種の飲み物と思えるほどうまくなったのに、日本酒だけはあぐらをかいたように味の進歩がない。飲む側にしてみれば忍耐の限界をすぎ、愛想をつかしたのである。

 これを読んで、同じことを開高健さんも言っておられたのを思い出した。開高さんも日本酒の衰退を同じように清酒業者の怠慢と嘆いておられた。もっとそれはだいぶ以前の話だ。最近は以前より日本酒の愛飲者も増えているのではないか、と思われる。


評価
★★★


書誌
書名:味を訪ねて
著者:吉村 昭
ISBN:9784309020099
出版社:河出書房新社 (2010/10/30 出版)
版型:176p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月10日

岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

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 今話題の本を読んでみた。長いタイトルなので、最近は『もしドラ』と言われているらしい。とにかく興味本位で読んだだけである。とにかく読んでみようと思い、いつものように本にきちんとカバーをつけ直した。電車の中で初めて、ページを開いたら、この絵が出てきて慌てた。いいおっさんが萌え系の本を読んでいるなんて思われちゃまずい。これはやめて欲しいな。


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 しかし後でじっくり見てみると、萌え系の女子高生がドラッカーの『マネジメント』を広げて読んでいる姿は、ミスマッチで面白い。

 さて、本である。結局この本は高校野球のマネージャーが野球部員と一緒に甲子園を目指すというありきたりの物語である。ただその辺にごろごろしているこの手の話と違うのは、やる気のない選手をやる気にさせるために、ドラッカーの『マネジメント』を教科書にして、主人公の川島みなみがそこに書いてあることを拠り所にしているところにある。これがこの本をベストセラーにした最大の理由であろう。
 通常ドラッカーの『マネジメント』なんて読まない。もちろん私も読んだことがない。けれど経営書としてドラッカーの『マネジメント』は名著だとは知っている。だから興味はある。どんなことが書かれているのだろうかといった感じで。でも実際その本を手に取れば、普通の人ならとてもじゃないが手に負えないことを知っている。そうして避けてきたこの本が女子高生のマネージャーを通して解説されるわけだから、そりゃあ、そこそこのビジネスマンはこの本を手に取るわなあ。しかもそこに書かれていることを実践したら、ダメ野球部が甲子園に行けちゃうストーリーだから、余計に興味がわくわけだ。悪い言い方をすれば、これはドラッカーの『マネジメント』の番宣的の役目をしているわけだ。

 話は、川島みなみ(なんで高校野球に出て来る女の子は“みなみ”なんだろう。そして“みなみ”のほうがしっくりくるのが不思議だ)父親の影響で子供の頃野球少女だった。運動神経もよかったから、地域の少年野球チームに所属し、中心選手として活躍していた。自分でもプロ野球の選手になりたいとさえ思っていた。けれどやはり女性というハンデが、その夢を砕く。そうしてあれほど好きだった野球が嫌いになってしまった。
 落ち込んでいたみなみを支えてくれたのが友人の夕紀であった。みなみは自分を助けてくれた夕紀を大切な友人と思うようになる。その夕紀は都立程久保高校野球部のマネージャーをやっていたが、病気のため入院することになり、その留守をみなみがマネージャーとなって守ろうとする。そして野球部のマネージャーをやる以上、甲子園へ行こうという目標を掲げる。
 その前にマネージャーって何だろうと思う。広辞苑でマネージャーを調べてみて、みなみはマネージャーというのは「管理や経営をする人-つまりマネージメントする人」と理解する。それでマネージャーやマネージメントについて書かれている本を見つけようとし、本屋で世界で一番読まれている本として、ドラッカーの『マネジメント』を紹介されるのである。
 この本は野球とは無関係の、企業とは何かを書いた本であり、組織運営のノウハウすなわちマネジメントの重要性を説いた本であった。みなみは最初自分が求めていた本の内容と余りにもかけ離れていることにうんざりするが、この本が世界で一番読まれている本なのだから、何か得るところがきっとあるだろうと読み進める。
 まずはそこでマネージャーの資質に書かれているところにショックを受ける。そこには人を管理する能力には根本的な資質として、“真摯さ”が必要と書かれている。真摯=まじめで、ひたむきなさまである。
 みなみは本を読む進め、そこに書いてある“組織”の定義づけを考えるようになる。さらに企業の目的は“顧客”であると書かれているのを読む。顧客を満足させることこそ、企業の目的であるというのだ。所謂「CS(顧客満足度)」の追求が企業が存在する最大の理由だというのだ。
 では野球部が企業なら、野球部にとって“顧客を満足させること”とは何だろう、と考える。思案の末、それは“感動”だと思うようになる。野球部にとって顧客は野球部員を含むすべての関係者であり、その関係者に感動を与えることがその目的だと考えたのである。
 さらにみなみは本を読み進め、企業の基本的機能はマーケティングとイノベーションだと知る。マーケティングは顧客が何を買いたいかこれを問えと言っている。みなみも顧客の一人であり、そのみなみが求めているものは、甲子園へ行く感動であった。そう、みなみはもうマーケティングをしていたのである。
 そこでみなみは入院している夕紀の力を借りて、野球部員の意識調査を依頼する。野球部員に夕紀の見舞いをさせて、夕紀が野球部員の意識調査をして、今現在の野球部の問題点を探るのである。
 そうしてみなみはドラッカーの『マネジメント』から「働く人たちに成果をあげさせ」、それが「働きがい」に変わって行くことを学ぶ。「働きがい」は仕事そのものに責任を持たせるところから生まれることを知る。
 みなみはマネジメントの組織化を進めるにあたり、監督が重要人物になること悟る。監督が持っている専門知識を部員たちに広めることがマネジメント基本だと考える。ただ専門家は専門用語使いがちで、専門用語を使わないとコミュニケーションが出来ないものだとドラッカーは言っており、みなみは専門家である監督のアウトプットの知識を、マネージャーがインプット出来るようにして、その専門知識を部員に広げるようしようと考える。それをもう一人のマネージャーである文乃にやらせる。文乃に監督の知識を咀嚼させ、それを部員たちに伝える役を与えたのである。
 こうしてみなみは野球部において様々な改革を進め、野球部員の意識を高め、甲子園に行くにはどのような練習をすればいいのか、仲間と考え、仲間との関係の再構築をやっていく。すなわちこれがドラッカー言うイノベーションである。
 甲子園の予選大会が始まった。監督が試合の方針を決め、その方向で、練習の効果をフルに使って、試合に勝ちすすで行く。あとは小難しい理論の展開ではなく、お決まりの感動のクライマックスへ進んでいく。決勝戦サヨナラ逆転で、都立程久保高校野球部は甲子園のキップを手に入れるのである。展開は想像がついたが、気がつくと夢中で読んでいたから、少々情けなくもあった。その直前には夕紀が病気で死んでしまう悲しみの場面も入れて、なかなかの構成である。
 この本はやっぱり企画の勝利だろうと思う。どう考えても女子高生のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んで、それを使って野球部を改革していくなんて、考えつかない。そして涙のクライマックスをきちんと入れておけば、これは飛びつく。そう思った。でもその分新鮮で面白かった。読んでいてみなみたちが“AKB48”にいる女の子の姿と重なったのだが、著者が秋元康さんを師事していて、しかも彼女たちのプロデュースに関わったことがあることをあとがきで知った。なるほどね。まぁいいか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
著者:岩崎 夏海
ISBN:9784478012031
出版社:ダイヤモンド社 (2009/12/03 出版)
版型:272p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年11月08日

水上勉著『金閣炎上』

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 「私は昨夜午前何時頃か判りませんが深夜に書類と布団や蚊帳などを以て行つて金閣の北側の板戸を外し屋内にはいり私が持つて行つた書籍や蚊帳等を西側の外を開けて中に入れマッチで点火して金閣を焼いたのであります。金閣が燃へるのを見ましたが放火した原因については無意味にやりました。其後私も死ぬつもりで前に買ふてあつたカルモチン百錠を大文字山の山中で飲んだのでありますが今は苦しいですから寝かせ呉れ何もかも申します。私が放火した犯人に相違ありません。私の主観では悪い事をしたとは思ひません」

 これは昭和25年(1950年)7月2日の未明金閣寺に放火し、金閣寺、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失させた、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林養賢の第一回供述調書である。
 第三回供述調書では、
一、私が金閣を焼いた事は、私の行ひを見ると見にくい(醜い)ので美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持ちは表現しにくいのであります。

一、私の現在の心境は金閣を焼いたことに対する責は負ふ覚悟で居ります。現在でも悪いことをしたといふ考へは余り起きません。

一、私達お互いの生活は苦しいけれども、金閣寺に毎日何百人かの人がぞろぞろ遊びに来る事に付けても或程度の嫉妬を感じて居りました。

一、私は寺の中で狂人扱いされている様な主観的考を持つたこともありました。私はつまらぬ人間だといふ事は感じ乍らも亦英雄だといふ人よりは偉い自分だといふことも時々考へが起こるのであります。
(以下略)

 たぶんこの第三回供述調書にある、養賢の金閣寺の美に対する嫉妬の供述は、三島由紀夫の『金閣寺』の重要なモチーフになっているのではないかと思われる。もっとも私が三島由紀夫の『金閣寺』を読んだのは高校の初めの頃だったので、内容の詳しいことは忘れているので、確かなことは言えない。もう一度読み返すつもりではいる。
 著者の水上勉さんは養賢と縁も深かく、在所も近かったので、何故彼が金閣寺に放火したのか、そのことをつきつめ、考えて、20年越しでこの作品となったという。

 養賢は1929年(昭和4年)舞鶴近くの日本海側に突き出た岬にある漁村・成生(現・舞鶴市)で生まれた。父親、道源は26歳で臨済宗東福寺派の正徳寺の住職となった。寺は村の人だけが檀信徒で、経済的には恵まれていなかった。そして道源は結核のためほとんどが寝込んでいた。母親の志満子は他所から嫁いできた。志満子は夫が病弱のため、道源を看病しながら、一人畑を耕していた。 道源は死の直前、金閣寺の村上慈海師に手紙を書き、養賢を金閣寺に入れてくれと頼み、養賢が中学二年の秋死亡した。
 養賢は中学途中で金閣に入り、志満子一人、正徳寺に残った。
 その養賢が何故金閣寺を放火したのか、それがこの本の最大のテーマである。ざっとその理由を書き出してみると、そこいらに見出せそうだと水上さんは言っている。

1.養賢は吃音であった。

2.母親志満子の養賢に対する過剰な期待。

3.当時の金閣寺が有していた複雑な事情

 1に関しては、どもりの人は人とのつきあい方がうまく出来ないところはあるというのは、ある程度肯ける。そのため自分の吃音を気にする余り、内にこもる性格を生むことを考えられる。
 2に関しては、夫である道源が死亡したら、妻である志満子は寺を出なければならない。それが禅宗の寺の嫁の掟であった。しかし正徳寺のある村は寒村で、新しい住職がなかなか見つからないので、そのまま志満子は残った。檀家である村民は志満子の食い扶持を負担しなければならなかったので、その不満があった。
 養賢が金閣寺を放火した後志満子にも取り調べがあったが、そこでは次のように書かれている。

 母の性格は、我儘、癇がつよく、派手好き、勝気、所謂頭痛持ちで、親族も持て余し、林も母は父の性質と反対であったと述べている。また母は村から高慢、多弁、片意地だとして好まれず、後年金閣放火事件の際も『あれの子なら放火くらいしかねないだろう』との悪評があった程である。かかる状態で母にとって経済上の苦労、村の冷遇、僻地の不便な生活、夫の病臥などは耐えがたいものがあり、田舎の生活を嫌い、町で商売でもして気楽にくらしたい、としばしば云った。そして林の将来に望みをかけ、極めて厳格かつ大切に育てると共に、我儘をさせる点があった。母は元来丈夫ではなかったが、父の病勢とは逆に次第に頑健となり肥えてきた。父母の間柄は勿論正確なことは不詳だが、性格の甚だしい相違、父の病臥、生活上の問題などよりして、必ずしも常に充分調和していたとは云えなかった。

 母は村民としばしば悶着をおこし、かつ真偽不明だが素行上に不評があった。さらに母は村民に「養賢が将来金閣寺の住職になる、私はあの子が一人前になるまで会わない」と云っていた。

 「素行上に不評」とは志満子が得体の知れない男を寺に連れ込んでいたという噂である。真偽は確かめられなかったが、女一人生きていくためには、そういうこともあったかもしれない。
 先に書いたように、禅宗の寺の嫁は和尚が死んだら、収入のない寺では、性具として生きたに等しい妻は、次期住職に、着の身着のまま放逐される。林養賢の父が死亡後、正徳寺に残った母志満子が、針のむしろに似た部落の半数の白い眼をうけ、退寺を要求されつづける事情は確かにかなりつらかったであろう。
 養賢が無断で金閣寺から帰って来た時、志満子と口論となるところがある。その時志満子は、「うらが、お父さんの死んでからの寺に、どんな思いでくらしとるか、お前にかてわかっとるやろ。うらは、この世に、お前しか身内がおらん。お前が、中学を出て、僧堂へいってりっぱに修行すまして、金閣さんの住職になってくれる夢があるからこそ、こんないやなとこに辛抱できるねんや。うらがどんな目にあうとるか、お前にはわからん。半左衛門さんや、一瀬さんの、冷たい目ェを見とると死にとうなることがある」と言っていた。
 志満子にとって養賢が金閣寺の住職になることが、唯一の生きるすべだったのである。その分養賢に過剰な期待がかかることとなった。
 このことは志満子の養賢に対しての過度の期待が、養賢の放火で裏切られたとき、投身自殺をしてしまうところに見出せる。
 犯行後養賢に会うため、志満子は当時仮寓していた京都府大江山麓の尾藤部落から、実弟の勝之助に伴われ、西陣署へ面会に行くが、養賢に面会を拒否され、7月3日、失望のあげく帰村する途次、山陰線保津峡駅をすぎた汽車が断崖にさしかかったころ、車輛の連結点から、川に投身したことで死体は岩石にあたって、頭と顔をくだいた即死だった。子の罪を身をもってつぐないたい、と彼女はもらしていたという。
 当時志満子の置かれていた境遇が養賢が将来金閣寺の住職になるということだけが、生きている目的でしかなかったというのも悲しいし、逆にそれが養賢に無言の重圧としてのしかかっていたことも察せられる。
 3に関しては、水上さんは次のように書いている。

 金閣寺という禅寺が、禅僧の信奉する「百丈清規」通り清貧に甘んじ、一所不住で一切所有欲を断ち、自己見性をきわめようとする徒弟道場でありながら、「清規生活」とは逆の、戦後焼け残った宝物を見物に供する観光寺院(金閣寺はそもそもが足利将軍の建てた別荘だった。禅寺ではなかったが)として出発し、拝金主義的環境をつくっているのである。しかもその事業を差配する福司、執事らは在俗人であり、住職はこれらに寺内管理をもまかせて、彼らは、堂々と修行場である庫裡に出入りし、いちいち徒弟の日常生活に口だししていた事実。さらに、その金閣が、戦争、敗戦、占領下の混乱期に、生まれ変わろうとする国の事情とはうらはらに伝統的な権力をもちつづける相国寺一派の財源を受けもったと同時に、住職慈海師が、戦時は中国派遣慰問僧、戦後は本山宗務総長、禅門学院長などの要職を兼務、その間に、南京亡命政府の主席陳公博一行を東山商店一行などと、寺内小僧らをもあざむくよび名で寺内にかくまい、象徴ともいえる金閣舎利殿の鏡湖池に棲む鯉を食膳に供した事実、先住伊藤敬宗師のこれも世間にかくれて妻帯生活、さらに紀伊の別荘経営、これに抵抗して、妻は持たず、ひたすら伽藍経営に懸命になった慈海師の、ふたつの立場をとらえ、従業員らが、先住派、現住職派に分かれてゆく、複雑な人間関係に、自然と組み込まれてゆかざるを得なかった小僧らの日常を考えると、金閣寺での生活が、愉快であったり、楽しかったとはいえまい。

 慈海師にしても、収入の多い金閣を支配しながらも、徒弟教育には禅僧として下地をつくる建前を述べ、実生活はこれと矛盾する拝金主義ともいえる吝嗇家で、食糧、酒、タバコの不自由な時にさえ、自分だけは晩酌を欠かさず、徒弟に給仕させた。それでいてついでにその場で説教するのだから、当然師匠の生き方に絶望しても当然である。
 放火で金閣寺が焼失した後、住職の村上慈海師は新聞記者の面接を拒否していた。ただ7月3日の午後に当時産経新聞京都支局員だった福田定一とだけ隠寮で会見した。福田は後の司馬遼太郎である。
 慈海師が記者会見を拒否していたにもかかわらず、司馬さんに会ったのは、司馬さんが当時社会部記者でなく、宗教担当で以前に慈海師に会っていたことがあって、慈海師がそのことを覚えていてくれ、特別な処置に出てくれたのだろうと司馬さんは言っている。おそらく新聞記者の中で一番先に慈海師に会ったのは自分だったと思うとも言っている。
 司馬さんが小僧に案内され寺に入ったとき、庫裡の板間の壁に掛けてあった黒板に「また焼いたるぞ」と何とも言えぬ字で走り書きしてあったという。それを見た時異常な気分になり、金閣寺には、もう一つ暗いところが口をあけていたような気がしたという。
 司馬さんが感じた金閣寺のもう一つの暗いところとはこれであろう。養賢に、僧侶となる情熱が失せる原因をつきつめてゆけば、やはり金閣寺内での僧侶生活のありようが、望みをうすめていたといえるかもしれない。実際慈海師は弟子に恵まれず、出て行く弟子が多かったことも、弟子が愛想つかしたからであった。水上さんは養賢に金閣放火を決意させたものはこれだったのではないか、と思われている。
 養賢は極度の精神障害と結核が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院したが1956年(昭和31年)3月7日に病死した。水上さんは養賢と母親の志満子の墓を探したが、なかなか見つからなかったことを書いている。父が眠る正徳寺にもないし、勿論金閣寺は除籍されているので、ここにもない。墓は養賢が中学に通った道源の実家の舞鶴市安岡の共同墓地にあった。

評価
★★★


書誌
書名:金閣炎上
著者:水上 勉
ISBN:9784103211136
出版社:新潮社 (1979/07 出版)
版型:313p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年10月22日

山口瞳著『江分利満氏の酒・酒・女』

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 新刊で文庫オリジナルと書いてある。といっても、たぶん“寄せ集め”のエッセイ集であろう。実際解説に「自分としては、この一冊で山口瞳の全体像はかなり浮き彫りにできた、そう自負してほくそえんでいる」と書かれているから、解説者が数ある山口さんのエッセイからセレクトしたものだろう。

 でも悪くない。

 読んでいて、ちょっと笑ってしまうし、そうだよなあ、と思わせるエッセイを集めているので、楽しかった。文庫のカバーにある絵は山口さん自身が描かれた絵のようで、夜の都会のビル群の雰囲気が出ていていい感じだ。こんな夜にどこかでお酒を飲んでいる姿が眼に浮かんでくる。(ここにあげた本の画像は帯が邪魔だったな)
 とにかく山口瞳という人は中学一年の時からお酒を飲んでいる人だし、サントリーという会社の広告に携わって来た人だけに、描かれるお酒に関する風景は、経験が長い分、クスッと笑わせてくれる。苦い経験も当然されているから、人のお酒の飲み方にも、忠告を兼ねた言い分は、「確かにそうだんだよな」と思わせる。
 私はほとんどお酒を飲まないので、このあたりの情景は、想像するしかないのだが、でもお酒を飲まなくても、人の世は何事も思うようにならないものだから、ある程度は想像することはできる。ましてお酒は男同士、あるいは会社の関係(同僚、上司など)、男と女の関係、をよりその姿をあからさまにさらけ出すか、部分的に表にしてしまうところがあるから、その分リアルで面白い。逆に言えばその分恐ろしくもある。普通お酒は苦い経験を多くさせてくれるのではないだろうか?
 酒飲みの実態も面白い。たとえば酒飲みは慢性下痢患者であって、朝起きて何度もトイレ行く。胃腸もかなりダメージを受けているだろうから、酒場の女性にもてるためには、その女性の胃腸の心配をしてあげるとモテるとも書いてある。本当のそうかどうかは知らないが、ただ会話ははずむだろうなとは思える。
 二日酔いにも当然悩まされ、その解消方法もいろいろあるようだ。けど二日酔いの解消法が多くあるということは、「宿酔の治療法について、古今東西、いろいろのことが書かれているが、こんなに書かれているということが、すなわち、治療法はないという証拠である。
 芸術とは何か、小説とは何かというのが文芸評論家における永遠のテーマであり、永遠のテーマになっているのは、要するに、わからないことであって、宿酔も治療法とよく似ている」らしい。でもこの記述は笑ってしまった。
 結局お酒は失敗がつきものである。だからそこに人生譚が生まれる余地がある。苦々しい経験が、人生訓を生む。けれどたちが悪いのは、だからといってそれが直らないということであろう。散々な目にあっても、同じことを繰り返す。“にもかかわらず・・・”である。
 お酒の話には女性がつきものである。女友達、会社にいる女性、酒場の女性、そして女房と。そこで男は女とは、女房とはと定義つけたくなるようだ。しかしだいたいが男の勝手な言い分だ。別にフェミニストを気どっているいるわけじゃないが、そう思う。

 たとえば、

「女の人のよさはやさしさじゃないでしょうか。美人じゃなくてもいいんですから、やはり気持ちのやさしい人がいいですね。それから肌の手入れがいい人がいますね、そういう女性は尊敬しますね。それから、女の人は着る物に対するセンスが必要だと思います。それのない人は女じゃないと思うんです。たとえば、みんなで海水浴なんかへ行っても、はでに飛び回る人と、じみだけど、ごはんのとき気をきかせておにぎりなんかつくってくれる女性がいるでしょう。そういう人は必ずうまい結婚をしますよ。気持ちのやさしさに男は打たれますからね。
 女の人というのは、きれいじゃなければいけない。きれいというのは、必ずしも心も体もいきいきしていること」

 こんな文章を読んで、なんて男って勝手な何でしょう!、と怒っちゃいけない。これが大方の男の心情なのだから諦めてもらうしかない。それに追随するかどうかは、もちろん別な話だけれども・・・。

 まだある。山口さんぐらいの年齢になると若いチャピチャピの女性を対象とはほとんどしない。興味がないということじゃない。ただ面倒だからであろう。しかし同年齢の女性や女房族に対してあれこれ言う。いや言わざるを得ないというところかもしれない。

「中年の女、中年の妻、中年の母親というのが私には怖ろしくて仕方がない。
 どういうところが怖いかというと、ガンバッテイル感ジがこわいのである。夫のため、子供のため、彼女はガンバッテイルのである。息を抜くことがない。正義の味方である。大義名分があるのである」からである。

「なぜ女房は強いのか。
 女房にとって、夫は、親であり、子供であり、賢者であり、手に負えぬウスラバカであり、金を運んでくれる人であり、小遣いを持ちだす人であり、甘えたり拗ねたりできる人であり、そのほか、ほとんどあらゆるものになりうる人である。
 女房は、こうしてヨリドコロがあるから強いのだと思う」 

 このように、反論の余地がなく、逃げどころがなくなると、男はお酒に、他の女に目が向く。そして傷口を広げるのである。山口さんの言い分に妙に納得するのは、結局それがまぎれもない真実であり、逃れようない事実だと思いつつ、自らの傷口を広げてきた経験が、ここに披露されているからではないだろうか?


評価
★★★


書誌
書名:江分利満氏の酒・酒・女
著者:山口 瞳
ISBN:9784198932299
出版社:徳間書店 (2010/09/15 出版)徳間文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2010年10月19日

吉村昭著『蛍』

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 またしても吉村昭さんの短篇を読む。今回は“生き物”は関係ない。「休暇」、「眼」、「霧の坂」、「蛍」、「時間」、「光る雨」、「橋」、「老人と柵」、「小さな欠伸」の9篇である。
 「休暇」は映画にもなった。死刑執行係が自らの新婚旅行のための休日を得るため、進んで死刑執行係を名乗り出て、特別休暇をもらう話。「眼」はアイバンクのために死後まもない人間の眼球を取りだす医師の話だ。「霧の坂」は主人公が結核で療養していた温泉旅館で、宿の支払をしてくれる弟を待つ間、その旅館に勤めていた女と子供が自殺する話で、「蛍」は蛍狩りに来ていた兄弟が、長男がふざけて乗っていた船を大きく揺らし、次男を川に落とし死なせてしまい、葬式で親たちは長男の扱いに大きな変化を見せる話だ。「時間」は主人公が末期がんの兄の死をただ待っている間の葛藤を描き、「光る雨」は主人公が療養生活していた家に家事見習いとして来た娘が、同じ結核になり、一緒に寝込んでしまい、彼女の扱いに当惑する話だ。「橋」は空襲で火災が発生したため、一時的に解放された囚人が橋のたもとで、火災の炎を逃れ、川で溺死してしまった死体の回収場面に遭遇する話である。「老人と柵」はある日突然自分の土地に無断に柵を設けられ、いつの間にかその老人は柵があることに安心感求めていたという話。「小さな欠伸」は空襲で焼け出され、その前に死んだ夫の母親の遺骨と共に逃れた女がなすすべもなく姑の妹先へ疎開する。やっとの思いで姑の妹のところに着いた時に、予想だしなかった情事の虚脱感と疲れで小さな欠伸が出てしまい、その後涙が止まらなくなる話だ。
 いずれの話もモチーフとして使われた情景は、これまで読んできた吉村さんのエッセイで読んだことがある話ばかりだ。だからこの話は若い頃吉村さんが結核で療養生活していた頃の体験を使っているんだなとか、取材で得た話から取っているんだな、とわかった。 この短篇集の全体には、死刑執行人、結核患者、囚人、旅館の主人にひどい仕打ちを受けても、それを受け入れるしかない子持ちの女、空襲で焼け出された女など、異様な境遇でなすすべのない者が主人公となっていることが共通している。加えて「死」が全体を支配している。
 私は「時間」に描かれた病院に来ている人間が死を待つ時間しかないことを経験したことがあるので、あの時のことがリアルに思い出されて、この短篇が一番印象に残った。
 私には主人公が兄の死を待っている間、自分が結核で手術を受けた時に感じた時間の観念が印象的であった。その観念は「私にも死の瞬間が時間の流れの中で確実に訪れてくることを知ることにもつながった。生は、死ぬまでの間に、許された時間に過ぎず、それは必ず断たれるものだという当然すぎるほど平凡な観念が私の内部に根を下していた」という記述である。
 死というものは、曖昧の中にいつも隠れていて、身近にそれを感じさせるものがなければ、自覚できないものであろう。そしてそこから得たものはあまりのも単純明快なこのような事実だ。単純なだけその分どうしようない。
 「橋」では、火災を逃れて、川に飛び込み溺死した多くの死体を見た囚人は両親以外の死体を見たことがないくせに、これほど多くの遺体を見ても何の感慨も抱かない自分は異常なのかもしれないと思い、それが死体でなく魚の群れであった方が、かえって感情が強く動いたかもしれないと告白している。そうなのだ。死は生と隣り合わせにあるにもかかわらず、その存在になかなか気づかせない。あるいは生を受けた時点で、避けることの出来ない事実だけに生理的に目をつぶるようになっているのかもしれない。
 囚人の主人公は、

 「つまり年齢というものなのだ、とかれは胸の中でつぶやいた」

 「年を重ねた者にとっては、物珍しいものであっても、驚きは淡く、ありふれたもののように感じる。たとえ初めて眼にする情景でも、過去に一度か二度見たことがあるようなに錯覚するものだ」

 きっとそういうことなのだろう。錯覚が死を遠のけ、生きているということだけが頭の中の中心を占めるように生き物はなっているのだろう。生きいるためにはどうすればいいか、絶えず考えるのはそういうことだ。よほどのことがないかぎり、死ぬためにはどうすればいいのかとは考えはしまい。結果としてそういうことになるのだろうが・・・。この短篇を読んでみて、そんなことを思った。この短編集はひょんなことから生の中から「死」を垣間見させる。あるいは「死」というものから生きていることの無情さを見つめさせる。なかなか秀作であった。


評価
★★★


書誌
書名:蛍
著者:吉村 昭
ISBN:9784122015784
出版社:中央公論社 (1989/01/20 出版)中公文庫
版型:284p / 15cm / A6判
販売価:660円(税込)

2010年10月13日

吉村昭著『海馬』

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 続いて吉村さんの古い文庫本を読む。今回も“生き物小説”である。「闇にひらめく」(鰻)、「研がれた角」(闘牛)、「蛍の舞い」(蛍)、「鴨」(鴨)、「銃を置く」(羆)、「凍った眼」(錦鯉)、「海馬」(トド)の短篇7編である。書名の横のかっこはその短篇が扱っている生き物である。
 やっぱりこうして生き物を扱うのを生業として人たちは、私たち一般人からすると、どこか異質なところを感じてしまう。一つにはこうした生き物を扱うに当たり、それに特化した知識と経験が必要であること。そして黙々とそれらに接していく姿勢を求められること。だからこそ人間が世間離れしたしたところがあること、などどこか一線を画すところを感じる。
 相手が“自然”なので、普段我々がある程度結果を予想して行動できるのとは違い、その“自然”に任せざるを得ないところがある。でもどうなんだろう?たとえば我々が思ったような結果が出ないことでイラつき、右往左往することが、果たして生き物として生き物らしいのだろうか、と思う。しかし自然を、生き物を相手にすれば、どうにもならないことはどうにもならないのがごく自然であり、それに任して対応していかないとならないものではないだろうか。人は何でも分かったように取り仕切っているけれど、本来思うようにならないものであると自覚すべきじゃないかと思ったりする。むしろそうした生き物や自然を相手にしている人たちは、そういう部分では諦めに似た鷹揚さがあるように思えてならない。
 さらに人間の傲慢さは自分の生死を左右しかねないこともよく知っており、結果を先取りして奪い合うことなどしない。なるようにしかならない、ということだ。

 今回も前回の作品集同様、登場人物が訳あって、生き物を扱う職業を生業としているが、それが自分に向いている職業であると自覚していく。時にそれは自分はこんな人間だから、こうして生き物と向き合うことで、社会からの隔離を自ら課している感じがする。黙々と仕事をするのは、自分の過去に禍根と後悔があるからであり、半ば諦めに似た気持ちで仕事に没頭していく。だから余計なことは一切言わない。仕事以外で人と接する時は寡黙である。むしろ人と接することを避けていく感じだ。
 ただ前回の作品集と今回の作品集の違いは主人公たちの“再生”があるところだ。仕事は仕事だけれど、人として人らしく生きていこうとする可能性がここでは描かれている。ここではそうした男たちが主人公なのだが、そこにやはり訳ありの女性が現れて、一緒にやっていこうかという気持になっていく展開である。
 男も性格柄、あるいは暗い過去から、鰻を捕り、闘牛を飼い、蛍を養殖し、鴨撃ちをし、羆を撃ち、トドを撃つ。そこに身内を亡くした首に痣があるため婚期を逃した女性。夫となるべき男の浮気現場に遭遇してしまい、縁談を破談にした女性。母親を亡くし、悲しみうちひしがれているときに自分の父親が伯母と性交している場面を目撃してしまい、憤りと悲しみを覚え自殺を図ろうした女性。東京に夢と希望を抱き、無惨に夢破れ、故郷に帰ってきて、家に入れてもらえない女性。そういう女性たちが男たちの近くに来て、男たちがそれらの女性と再生したいと思うようになるパターンである。
 話として陳腐さを感じないわけでもないが、自然や生き物を相手にしている男たちだけに、男たちも素朴である。あるいは男たちの暗い過去が、現れた女たちに躊躇しながらひかれていく姿が、淡々と描かれていて、ガツガツしていない分、素朴でいいな、と思えた。
 女性たちも自らの立場をわきまえているから、ひたすら待っている感じがいい。話はすべて再生を予感させるところで終わるので、逆に読む側にやり直してもらいたいな、という気持ちにさせる。
 やっぱり人の再生物語はいい。今度こそうまくいって欲しいという気持ちにさせてくれる分、読む方はやさしい気分にさせてくれる。陳腐と分かっていてもついつい気持ちが話にのめり込んでしまった。私は単純にできているので、こういう話に弱いところがある。
 
 まずいな・・・。


評価
★★★


書誌
書名:海馬
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117300
出版社:新潮社 (1992/06/25 出版)新潮文庫
版型:259p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2010年10月06日

阿刀田高著『日本語えとせとら』

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 阿刀田さんの本を読むのは、久しぶりかな?
 この本は日本語に関するエトセトラ、言葉や漢字などの蘊蓄が披露されている。後半は阿刀田さんが新聞の書評委員となっていた時に書かれた書評が載っている。書評に関しては個人的に紹介された本を読みたいな、というものはなく、軽く読み流した。
 しかし日本語、ことば、漢字に関する蘊蓄はさすが作家さんといった感じで面白かった。

 たとえば・・・

 “もったいない”の“もったい”ってどういう意味か考えたことがなかった。その意味は貴いもの、大切なもの、役立つものの意らしい。役立つものを捨ててしまうから“もったいない”なのだそうだ。

 ダメな医者を藪医者というが、これは家業が流行らないから家の手入れが出来ず周囲が藪になっているからではなく、“やぶ”は野巫(やぶ)であり、巫は神に仕えて、神をおろすことを言う。昔は医療も祈祷など取り入れて、治療らしきことをしていたところから来ているらしい。

 漢字では・・・

“隹”という漢字がある。これは“とり”と読む。主に尻尾の短い鳥のことをいうらしい。尻尾の小さい鳥だから“雀”で、そうした鳥が木に群がっているから、それを称して“集”だそうだ。

 もし太陽と月が一緒に出ていたら、きっと明るいだろうから、“明”るいという漢字が出来た。

 女という字は“くノ一”と書く。これは象形文字で、女が坐っている姿をあらわしているが、もとはといえば“くノ一”の“ノ”の部分、これは上部が少し曲がっていて、“フ”に近いものだった。そこで“くフ一”と書き、そこに乳房を表す点を二つつけると、母になる。

 まだまだあったが書き出すのが面倒なのでやめる。次に話として面白いなというのは・・・

 志賀直哉の短篇で『赤西蠣太』の主人公は、言葉訛りは仙台訛りととは違っていたから、秋田のへんだろうと人は思っていたが実は雲州松江の生まれだった、という記述から、話を展開していく。これを読んですぐ次の展開は松本清張の『砂の器』になるだろうな、と思っていたら、まさしくそうなった。思った通り話が展開していくと、ちょっとうれしくなる。
 ちなみに『砂の器』で殺された人は“東北弁を話す人”と思われていたが、出雲地方にも東北弁とそっくりな発音で話すことがあることが話の重要なキイとなるのだ。
 そこで阿刀田さんは松本清張が志賀直哉のこの作品のことを知っていただろうか、と思われているのが、実際どうなんだろうと思わせるのが興味深い。

 時代小説で岡っ引きが登場する。銭形平次も岡っ引きだ。犯人を捕まえるのは同心の仕事で、本引きとも呼ばれ、それは奉行所に属する武士であった。そしてそれを手伝うのが、本引きに対する岡っ引きだそうだ。阿刀田さんは非正規雇用の警備員みたいなものと言っている。
 そこから発展して岡場所という娼婦街のことになる。これは公式に認められた吉原に対して、品川、新宿、板橋などの非公式の私娼街のことらしい。“岡”はそういう意味があるということか。
 さらにさらに話は奥深くなり?、岡漏らしという話になる。恐れ多くも聖書から話。詳しくことを知りたかったので、Wikipediaで調べてみると以下の通り。

 創世記38章にオナンという名の男が登場する。彼は兄エルが早死にしたため、その代わりに子孫を残すべく兄嫁タマルと結婚させられた(逆縁結婚)。しかしオナンは兄のために子を残すことを嫌い、性交時は精液を膣の中に放出せず、寸前で陰茎を抜き精液を地に漏らして避妊をしようとした(創世記38章9節)。しかしこの行為は主の意志に反するものとされ、オナンは主によって命を絶たれた(同10節)。オナンがおこなったのは膣外射精であるが、語義が転じて生殖を目的としない射精行為としてオナニーという言葉が使われるようになった。

 なるほど。

 詩吟で「鞭声粛々 夜河を渡る」というのがある。よく唸っているいるでしょう。あれのこと。これ頼山陽作品で、川中島の合戦で一番激しかったと言われる4回目の激戦「八幡原の戦い」の時の模様を言っているらしい。上杉謙信の軍勢が、夜、千曲川を渡り、馬を打つ鞭の音が粛々と響いていた、という事情である。
 で問題なのはこの“粛々”である。言葉の意味は、①つつしむさま、②静かにひっそりとしたさま、③ひきしまったさま、④おごそかなさま、と多義的意味があるらしい。
 この“粛々”という言葉を政治家がよく使う。先の尖閣諸島で中国の漁船が侵入してきて、船長が逮捕された。中国は例によってもう抗議の上、日本に対していやらしい対抗措置を取ったが、日本の政治家は「粛々と国内法にのとって対処した」と言っていた。これだけでなく、何かあると政治家は「粛々と対処」ということをよく言う。
 阿刀田さんはこれをやたら使われると“また粛々ですか”と耳障りになると書いている。せっかくの立派な言葉が、こう連発されると、“粛々”というのは、静かに、目立たぬように、という意味だから、なんにもしないのと、よく似ていると思うと書いている。逆に「へっ、また言っている。怪しいな」と疑いたくなると・・・。まさしく私もそう思う。船長を解放したのも、そういうことなんだろう。だって“粛々”と言っていたから。

 最近やたら専門用語が日常化して、誰でも深い意味を知らずに、おおよその感覚で使うことが多い。そのため阿刀田さんは「本来の意味が曖昧になってしまう」と危惧している。そこで阿刀田流の“ちゃかし”が炸裂。
 羽田のハブ空港化で使われる“ハブ”という言葉。意味は意味であるけど、安易に英語や略語使わないで欲しいという。これが羽田だからいいけど、“沖縄にハブ空港を”なんて言われたら、ハブがウジャウジャ出てくるのかと心配になる、というのは笑ってしまった。
 とにかくわかりにくい言葉を使って実態をぼかしてしまうことが最近多いことは事実だ。やたら英語を文章に取り込んでみたり、パソコン用語なのに、それを転用して、何となく意味深げに言う言い回しは確かにある。阿刀田さんは「どんな場合でも、言葉は広くわかることが肝要」というのは大切だと思う。
 昔から使われている言い回しには、たとえ月並みでも、その風景が脳裏に浮かべば、すばらしいものだというのは、まったく賛成である。


評価
★★★


書誌
書名:日本語えとせとら―ことばっておもしろい
著者:阿刀田 高
ISBN:9784788710603
出版社:時事通信出版局 時事通信社〔発売〕 (2010/06/10 出版)
版型:251p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年10月01日

山口瞳著『世相講談』 上 下

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 確かあったはずだと自分の本棚を探した。やっぱりあった。もうかなり本が焼けている。この文庫は昭和47年が初版で、私が持っているこの文庫は昭和54年の9刷である。それでも今から31年前になる。表紙やページが赤茶けた感じになっても当たり前だ。このブログに画像アップするためこの文庫をスキャンしたのだが、カバーがわずかだが寸足らずになっている。最初からそうだったのか。それとも31年という年月のためカバーが縮んでしまったのか。とにかく年代物の文庫を読み始めた。書誌を作るため紀伊国屋書店のサイトで検索するが、当然見あたらない。ただ最近論創社から復刻版みたいな形で上下本として出ている。後で沢木耕太郎さんの言葉を書き出すが、それによると、どうやらこの『世相講談』は全部で3巻出ていたようだ。余計なことだが、私は最初の単行本を持っている。どこの古本屋さんだか忘れたが、かなり痛んでいる本を買っている。裏表紙に100円と鉛筆で書いてあるところみると、どうやら店の均一本コーナーで見つけたのだろう。イラストも最近テレビ放映されているアンクルトリスの柳原良平さんだ。


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 で、この『世相講談』だが、先に読んだ山口瞳さんの対談集の中で、沢木耕太郎さんが次のように言っているのが印象深かったので、それで手に取ってみたわけだ。

 あれは全部で四年強で、単行本で三冊ですよね。あそこでとても印象的なのは、一つ一つの扱っている素材もそうなんですけれども、いろいろ文章のスタイルの実験というか、工夫というか、一個一個違えて一生懸命やってらしたような気がするんですよね。

 僕は、ルポルタージュを書き始めた時に、ある編集者の人から読むのを勧められた本が二冊あって、まだ二十三くらいの時だったと思うんですけど、一つは、坂口安吾の将棋のことを書いた「散る日本」と、もう一つは山口さんの「世相講談」の一巻だったんです。
 まだ何をどういうふうに書いたらいいのか分からなかった時だったら、その二つは密かなる教科書になったんです。

 「世相講談」は、こんなことでも、物をちゃんと見ようと思えば、大事な話になるというのが意外だったんですよ。

 どうやらこの『世相講談』は沢木さんにとって、ノンフィクション作家としてスタートするに当たり、バイブルの一冊だったようだ。そして実際読んでみると沢木さんの言うことは納得できる。

 この『世相講談』は昭和40年から44年まで連載されたものである。戦後20年たった頃の日本の姿といっていいかもしれない。高度成長期に入った頃か。ただここに登場する人物たちはその波に乗り損ねた人々を扱っている。
 そのためここに登場する人たちは、マルクス主義経済学風に言えば、社会を構成する“下部構造”に属する人たちである。だからいくら社会が高度成長期に入ったからといって、彼ら、彼女たちは一歩間違えれば、戦後に逆戻りしかねない危うさを持ち合わせている。ぎりぎりのところで踏ん張っている感じの人たちである。
 あるいは落剥してしまった人々である。この文庫本の解説者はここに登場する人物は「おおむね落剥の人生である」と言っている。落ちるか落ちないか、あるいは落ちてしまい、はげてしまった人たちの話にはその底にありのままの社会が見えてくるというものだ。 登場人物たちは、タクシー運転手、風呂屋、医者、芸妓、屑屋、ヌードダンサー、鳶、キャバレーホステス、バスガイド、競馬騎手、ファッションモデル、看護婦、活版屋、質屋、宝石セールスマン、舞妓、等々。その彼らの話を広告会社の社員で、副業で作家をやっていて、糖尿病を患っている主人公が聞く。まさしく山口瞳さんその人である。
 “講談”は巷談である。巷談とは、まちのうわさばなし。世間話である。社会のぎりぎりところで生きている彼らには、当時の日本の社会がそれほど豊かにはなっていないことを伝える。平凡であるが、所詮現代社会を生きる庶民の姿をそれぞれが短編小説風に仕上げているのである。
 その話の一つ一つには、どこか悲しみがつきまとっている。まぁ人生なんていつの時代もそんなもんなのかもしれない。一つ一つの話にはお酒がよく合う感じだ。酒の席で語られるのがふさわしい。

 「発車往来」でバスガイドが語られるが、バスガイドと運転手との関係が危うくなるのを会社が一番嫌っているというのは、笑ってしまった。バス旅行で運転手とバスガイドは二人になる機会が多く。時には一夜を一緒に過ごす場合だってある。こうなると二人の関係が問題となってくる。バス会社としてはこれはまずい。だから会社側は社員同士諜報員に仕立て、いつも見張らせているというのだ。
 ここでバスガイドが一番嫌う客はまず一番が高校生、二番目が学校の先生。三番目が警察・消防といった団体。最後が銀行員など接待ズレした奴だと書いてあるのも笑ってしまう。
 高校生はよく分かる。作者が言うように悪いのが多いからね。学校の先生は、酒はたらふく飲むわ、卑猥なヤジは飛ばすわ、旅館では女中の尻を追いかけるわで、いつも大変なんだそうだ。わかるような気がする。先生にしても、警察や消防にしても、銀行員は現実社会で鬱積したものがあるだろうから、こういう職種の人たちがはめを外したたら、一気に爆発するんだろうな。きっと。

 「親指の唄」ではパチンコ屋で知りあった客との会話が面白い。

 「だいたいが(パチンコ屋にいる客は)社交性のない男なんですよ。パチンコ屋で会う顔っていうのはわかっているんですがね。誰も話しかけたりしないんです。あたしなんぞは、パチンコやっていて、うしろを通る男に尻がふれても厭な気がしますからね」

 「あたしは、無口なんですよ。社交下手なんですよ。口をきくのが厭なんだ。あたしにはわかるんです。そういう連中がパチンコ屋に集まってくる。あんたがさっき言ったパチンコの魅力とか醍醐味ってのはそれなんですね、それだけですよ。ねえ、わかるでしょう。話しながら、あるいはワイワイ言いながらパチンコやるやつはいませんよ。みんな、だまっている」

 作者はここから日本人の社交下手がパチンコ屋が日本の至るところにある理由からではないかというのである。これはどうなんだろう。わかるようで、わからない。
 昔新大久保にあったお店を手伝っていた頃、お店を開ける準備をしていた時、向かいにあるパチンコ屋に開店前から列を成して並んでいる多くの人たちのことが目に浮かぶ。確かに彼らはだれ一人しゃべっていなかった。寒い時期だったから、ジャンバーの襟を立てて寒さをしのいでいた。この姿はまさに社交下手の集まりだったのかもしれない。

 今にしてみれば、この『世相講談』の職業名など古臭いところがあるけれど、当時は確かにそう言っていた。そして時代が45年たっても、日本人の生態はその当時となんら変わらない気がしてしまう。
 最後にちょっと面白い記述を見つけた。当時の吉永小百合のプロポーションである。
 
 「吉永小百合嬢は如何にと見てあれば、身長一米五十七糎、体重四十三瓩、バスト八十一糎、ウエスト五十六糎、ヒップ八十五糎ということになっております」

 ふ~ん。以外と・・・、なんですな。しかし当時の女優さんは自分の体重も公表していたんですね。


評価
★★★


書誌
書名:世相講談 上
著者:山口 瞳
ISBN:
出版社:角川書店(1972/08/30 出版) 角川文庫
版型:388p / 16cm / 文庫判
販売価:入手不可


書誌
書名:世相講談 下
著者:山口 瞳
ISBN:
出版社:角川書店(1972/08/30 出版) 角川文庫
版型:410p / 16cm / 文庫判
販売価:入手不可

ちなみに私が持っている単行本の書誌は以下の通り。

書誌
書名:世相講談
著者:山口 瞳
ISBN:
出版社:文藝春秋(1966/11/15 出版)
版型:251p / 19cm / B6判
販売価:380円(当時の値段)