2011年12月31日
石橋毅史著『「本屋」は死なない』
この本は厳しい出版業界で「意思ある本屋」であり続けようとする書店員・書店主を訪ね、本当の意味で“本を手渡す職業”として誇りを持ちたいと日々奮闘する彼らをルポしたものである。しかし一方で今現在出版業界が置かれている厳しさは彼らの存在をある意味否定する。その狭間で彼らは自分たちがやっている本屋の存在意義を必死に求める。あるいは今の出版業界の流れに逆らえず、挫折し、そこから足を洗うことを選択するが、完全に諦めきれないジレンマを書きつづる。
しかし読み終えてみて、著者はいったいどうしてこの本を書きたかったのだろう、と思った。今現在置かれている出版業界に疑問を感じ、自らその流れに反して、「本」を手渡す役割を担いたいと欲する人びとの根源な存在意義を探し求め、それらの人を訪ね、その考えを聞き、本に関わる人々姿をルポして、こういう書店員がいるんですよ。あるいは小さいけれど、個性的な書店があるのですよ、と言って、どこに意味があるのだろうか?
まずは「本」を手渡す役割を担いたいと欲する人びとの根源な存在意義を、わざわざ見出さねばならぬほどの出版界の現状とはどういうものなのだろうか?この本から知ったことを書いてみる。その上で私の個人的な意見を書きたい。
出版科学研究所の調査によれば、取次が一年間に流通させる新刊書籍のタイトル数は1982年に3万点を超え、1995年に6万点を超えた。いまは7万点から8万点に達している。その間、取次は本の保管・流通させるための倉庫を次つぎと増設し、新刊の洪水状態に対応してきた。しかし倉庫を拡張して取扱量を増やせば、その管理費用などあらゆるコストも増大する。
はじめから無駄とわかっているなら、売れないと思う本は受け取りを拒否すればよい。それが企業として当然の対応ではないかと思えるが、広範に本を取り扱うことを使命としてきた取次は、それを実行できなかった。一タイトルあたりの仕入れ冊数は減らしてきたが、内心では「売れない」と思っている本でも、取引のある出版社の新刊は原則としてすべて受け入れてきた。
日本の取次は、一私企業でありながら、企業としての損得だけで本を扱うのではなく、国内の出版文化を支える役割を担ってきたのである。商品であり文化財でもある「本」が抱える矛盾そのものだ。取次がこの矛盾を引き受けてきたことは、日本の出版が世界に例を見ないほど安定的に発展した原因のひとつである。
しかし何でもかんでも取次が受け入れていけば、ますます出版業界はおかしくなっていく。そこで取次はPOSシステムを書店に繋げることで各店の売れ行きや在庫数を把握する。こうすることで無駄を省き、効率化を進めていけるからだ。これを本気で進めていかないと、出版流通はほんとうに破綻してしまうという切迫感が取次にはある。
しかしこうして導入されたシステムは、志のある書店員の仕事をやりにくくする。自分の棚を演出し、徐々に売上が伸びてくると、今度はそのデータがPOSシステムによって吸い上げられていく。それが共有データとなり取次を通して他の取引店に流される。
その結果TUSUTAYAなどのナショナルチェーンなどによって、よその地域で大々的に展開されていく。そうやってあっという間に広がることで、土台のしっかりした強いジャンルに成長する前に消費尽くされていく。当然このことは演出を仕掛けた書店員にとってこのことは面白くない。モチベーションを失ってしまうことにもつながる。
またこうして吸い上げられたデータをもとにして出版社に本の企画を提案し、その商品については取次が責任を持ってはじめから大量仕入れを行い、書店に配本することも増えている。
つまり流通業者である取次が商品政策まで手を出し始めることで、全国に一律的な本の陳列、販売を加速しつつあるのである。このことによって本の世界は自由度を失い、つまらないものとなっていく。出版流通全体がもはや自分が思うような書店員として仕事をさせてくれない次元に向かっているのである。
本当に本を愛し、それを読者に手渡したいと思っている書店員が、他の人が目をつけていないものに可能性を見出す地力とセンスでそれを演出するのだが、それが全国的に広がり“書店発ベストセラー”となった途端、その本は多くの書店が“売らされる”本に変わる。「本」の多様性を証明する発掘が、次にはそれを否定する行為となっていくのである。
それを実感した書店員は現状に疑問を感じ、そこからはみ出していく。それがこの本で著者が関わった人々なのである。大書店を辞めて、次の自分の行き先を探せない人や、何とか自己資金で自分の考えるような書店を小さいながら開店する人である。
ここからは私の個人的な意見である。このように現状の書店に疑問を感じ、自らが求める姿である“書店”を開く人たちの話を聞いていると、どこか自己満足に過ぎないように感じてしまうのである。私はこうした書店というのは、必然的にマニアックになってしまうのではないか、と思う。もちろんそうした本屋さんを歓迎する人たちもいることはわかるけれど、あまりにも書店主の個性が前面に出すぎてしまう可能性があるような気がしてしまうのである。どこか自己主張が強すぎて、鬱陶しい。
著者は書店員の本に対する心を伝えることの少ないTUSUTAYAなどのナショナルチェーンや大型書店ばかりの現状はよくないと言うが、そのどこが良くないのだろうか?
確かにあまりにも多い出版物の中で、読みたい本が埋もれてしまっているかもしれないけれど、その中から自分の読みたい本を探し出す方が、選択肢がたくさんあり、自由度もあり、いいではないかと思う。むしろ店主の強烈な個性で選ばれた本ばかりのお店の方が怖い。そもそも本屋の良い、悪いという基準とは何なのだろうか?
著者の言うように、著者が書き、出版社がつくり、流通業者が輸送した本を、ただ置くだけ、並べるだけ本屋がどうして悪いのだろうか?私からすればたとえそうであっても、その在庫数の多さはなんと言っても魅力的だ。そこから選ぶことができるというだけでうれしくなってくる。むしろ「この本を読め!」など、お節介なPOPがある方が胡散臭い。まして小さな店で店主の思いが詰まった本ばかりだと息苦しくなってしまう。
ちょっと前に私は北海道の書店主が「この本を読め!」といったパンフレットみたいなものを作って、へぇ~と感心したことがあるのだけれど、しかしよくよく考えて見ると、どうしてこのように命令口調になるのだろうか、と思う。私からすれば規模の小さな本屋さんが、何とか既存の本で売上を伸ばそうとしているのではないかと思える。つまりこれらの書店は新刊書籍の入荷が思うようにならない現状と、そういうお節介が、人に「そうかこの本を読まなければならないのか」と思わせることで、その本を読んでいない自分を恥ずかしがらせ、慌てさせ、そのことで本を買わせるに過ぎないのではないか、と思ってしまうのである。
また出版不況は「若い人が本を読まなくなったから」だと言われている。一方で文科省がまとめた読書調査によると、小学生の図書館貸出冊数が大幅に増えたというデータもある。これはいわゆる「朝どく」の実施校の増加の時期と一致する。図書館の貸出冊数が増えているという調査結果から、今の若い人は本を読んでいるという結論を導き出している。
しかし著者はそう単純なものではないだろうと言う。ネットやゲームやテレビといった子供にとって面白く刺激の強いものがこれだけ溢れている時代に、何かしらの大人の働きかけがなければ、昔より子供が本を読むようなるむしろ不自然だ。少なくとも子どもたちに本を読むような働きかけを「出版業界」は大いに関わっているはずだ。ということは、「若者が本を読まなくなったせいで本が売れなくなったと嘆く人」と「子どもの本の貸出冊数の増加に寄与している人」は同一の可能性があると言う。
その通りだろう。売れ筋の本が入荷しない中小書店が生き残る手段として、お節介をする。間違いなく本が売れなくなっているにも関わらず、いや子どもは本を読んでいるという結果を誘導する。
私の住んでいる近所に「あなたの読む本はこれですよ」という情報を提供することで有名になった本屋さんがあるが、これだっておかしな話である。読者が何を読んでもかまわないのに、読みたいという気持ちにさせる本を提供できない現実を、お節介でカバーしているだけである。
そこには読者が自由に本を選ぶことをさせない、「うちにある本だけでいいんですよ」、といった考えが見え隠れする。あるいは本は読まれているという虚構を作り上げることで、かろうじて自分を保とうとする書店主の姿が見える。その自己保身の最大のより所が「再販制」である。著者も再販制の意義をそれらしく言う。
新刊書籍における再販制も、小売価格が事実上変動しないことによって「本」の内容部分を価格的価値から切り離し、金銭による交換をある種通過儀礼とする面をもっていたはずだ。新刊であろうと古書であろうと、職業や事業として「本」に関わる者は売上げと利益をとらなければいけない。だが、本来的には金額として価値をつけられないものにいろんな体裁や付属的な価値を与えて収益につなげるのが「本」商売なのだ。
しかしこれもよく考えてみると、おかしな話である。どうして本だけが本以外に付加価値があるのだ。何でもそうだと思うのだけれど、モノにはそれを作った人、使う人にモノ以上の付加価値が存在するのではないか?特に思い入れのあるモノにはすべてにいえることではないだろうか。本だけ特別じゃないだろう。この考えは出版業界でよく聞くことだけれど、本だけを特別扱いするのは如何なものか、と思う。これは再販制を維持したい人たちの詭弁である。本における付加価値の存在だけで再販制が必要だということにはならない。
ぶっちゃけた話、読みたい本が安い方が私は有難いし、ポイントが付く方がうれしい。少なくとも本における付加価値を付けるのはそれを読む人であることを忘れている。それを提供する側が付けるものじゃないと思う。
話がすぎた。私は「本」を誰かに手渡す役割を担いたいという気持ちは、ものすごく尊いと思う。そういう気持ちで新たに本屋さんを開くことは素晴らしいことだとも思う。けれどどうもそういう気持ちが強くなる傾向が、この人たちにはある。思い入れがあればあるほどそうならざるを得ないことはわからない訳じゃないが・・・。
少なくともこの本の著者が言うような、そういう人たちがやっている本屋さんがあるだけでも、本屋の未来は捨てたものじゃないというような発想にはついて行けない。どうも最近はそういう本屋さんの分が悪くなってきているものだから(確かに経営は厳しいだろう)、やたらそういう本屋さんのみを擁護する傾向がありはしないか。判官贔屓していないか。そこだけに本屋のあるべき姿が見いだせるような言い方はおかしくないか。
結局その本屋さんにどういう本があるかである。自分の趣味や興味のある本が置いてあれば、いい本屋さんだという人もいるだろうし、新刊が必ず手に入る書店がいいという人もいるだろう。話題になっている本がたくさん置いてあればいいという人もいるだろうし、私みたいにいろんな本がたくさんある本屋がいいという人もいるだろう。あるいは本は読みたいけれど、本屋が近くにないとか、行く時間がないとかいう人はネット書店を使うだろう。読者が置かれている状況で多様化した本屋の姿があっていいと思うのだ。自分の思い入れだけで、これがいい本屋さんだとか、志のある書店員だという著者の言い方が気に入らないのである。“顔の見えない書店”でも人によっては、あるいは私みたいなへそ曲がりには、有難い本屋なのである。この本の著者が酒の席で、“顔の見えない書店”が多くなっていることで出版社の営業部長に食ってかかっているとき、その人は「俺たちはそういう店(ナショナルチェーンや大型書店)のおかげで食えている」のも現実であり、そのお陰で本が多く出版され、また読者に幅広い選択肢を与えてくれているのである。
本を提供する側の思い入れと読む側の思い入れと一致するとは限らない。本の良し悪し、あるいは面白いか、そうではないかはまったく個人的なものであって、普遍的なものがある訳じゃない。だって読む人一人一人違うし、考え方、感じ方が違うからだ。まして読む人が置かれている状況によっても同じ本でも感じ方が違うのだから、命令的に本を提供するなんてとんでもない話だと思っている。はっきり言って度の過ぎた本の提供の仕方には僻僻してしまう。書店主の個性が強烈に反映した本屋があることだけで“本屋は死なない”など言うのは単に彼らを擁護しているだけである。
評価
★★
書誌
書名:「本屋」は死なない
著者:石橋 毅史
ISBN:9784103313519
出版社:新潮社 (2011/10 出版)
版型:269p / 20cm / B6判
販売価:1,785円(税込)
今年はこれで最後となります。今年はいろいろなことがありました。3月11日の東日本大震災や津波、原発事故と、我々の意識をいやが上にも変えざるを得ないことが起こりました。私も気持ちの上でとことん打ちのめされ、これからどうすればいいのだろうか、と悩みました。その結果手につかないことも多くあり、このブログも半年ほど休みました。それでも私は本を読むことが生き甲斐であり、その中から何かを考えることしかできない人なので、こうして拙い文章を綴ることにしました。私の文章を読んで、意見を同じくする人も多少おられるかもしれませんし、あるいは“こいつ何を言っているんだ”と思われた方もいらっしゃるかもしれません。でもこれが私の本の接し方であり、このスタンスでしか本に接することが出来ません。そして来年も同じように本を読んでいくこと、これだけは間違いありません。それでもお付き合いくださるのであれば、有難いです。一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
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- by kmoto
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