2010年03月11日

阿刀田高著『やさしいダンテ「神曲」』

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 また阿刀田さんの古典解説エッセイを読む。今回はダンテの『神曲』である。これも一般常識として名前は知っているけれど、その内容はどんなものなのか、知らずに今まで来ている。かといって、私がこれを読めるかというと、多分、いや絶対に読み切れないだろう。ということで今まで私が知っている『神曲』以上に、もう少し箔をつけるために読んでみたわけだ。

 さてその『神曲』は“地獄篇”“煉獄篇”“天国篇”の三部構成となっている。そこへダンテが順番に迷い込むところからこの話は始まる。冒頭で、「人生のなかばに達し、ふと気がつくと、私は、まともな道を外れて、暗い森の中に迷い込んでいた」となっているのだ。ダンテが森に迷い込んだ日時もはっきりしている。1300年4月8日の夕刻に地獄に入った。その後煉獄、天国をめぐって翌9日の夕刻にこの世に戻っている。
 どうしてダンテが地獄から煉獄へ、そして天国へと向かうことになったのかは後ではっきりする。とりあえず、ダンテは地獄に入った。しかし一人ではない。案内役がいる。ウェルギリウスである。ウェルギリウスという名前はどこかで聞いた。そうあの「アイエネアス」を書いた人である。どうして案内役がウェルギリウスなのかよく分からないが、知っている名前が出て来るとなんかうれしい。そうか、ウェルギリウスはこの『神曲』でも登場するのか、といった感じである。
 地獄では生前の行いによって、様々な苦しみを与えられているダンテ以前の歴史上の有名人や貴族、聖職者、教皇などが登場する。まぁ生きているときに、悪行や暴利を貪っていた人物たちである。彼らはなんでダンテがここにいるのか不思議がるが、ウェルギリウスは「この男は死者ではない。罰を受けに来たわけでもない。見聞を深めるため、地獄の谷をめぐっている。私はその案内役」だと言って、彼らの疑問を解く。
 ここで苦しんでいる人物たちは阿刀田さんによると「往時のイタリア人の知識と教養で死者を断罪し、死者の中にはユダやマホメットのようなビックネームもあるが、多くは(ダンテの知る)イタリア史に限られたネームであり、さらにある部分はダンテが心血を注いだグェルフィ党の立場から見ている、という特徴が明らかだ」という。とにかく歴史上の多くの人物たちがここで苦しみを与えられている。読んでいて、「あんたもそうなの?」と思っちゃう。
 そしてダンテは煉獄へと向かう。煉獄とは死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である。
 煉獄山の山頂でダンテはウェルギリウスと別れる。なぜならウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため天国の案内者にはなれないからだ。そしてこの後ダンテが昔一目惚れした、ベアトリーチェと出会う。ベアトリーチェとダンテは家柄が違うため一緒になれなかった。ベアトリーチェは他の男と結婚したが、24歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しんだという。ベアトリーチェはここでダンテと次のような会話をする。

 「なぜあなたはここへ登って来たのですか」

 「この人は」

 「神の偉大な恩寵を受け、たくさんの可能性に恵まれていました。でも、よい土壌は逆にわるい種をもはびこらせます。一層わるくなることもあるのです。私は、いっとき、この人に目を向け、この人を導きました。ところが私が去ると、この人は私を忘れ、正道を失い、邪道へと迷い込んだのです。呼び戻すために私は神の霊感を願いましたが、無駄でした。もはやこの人には、地獄を見せ、煉獄を示し、神の真実をまのあたりにさせるほかにないと考えたのです。ウェルギリウスに涙ながら願ったのです。この人が前非を悔いることもなく忘却の川を味わうならば、神の恵みは破られたことになるでしょう」

 「向こう岸にいるあなた。さあ、答えなさい。懺悔しなさい。あなたの胸に宿るつらい記憶はまだ水に流されたわけではありませんよ」

 「はい」

 「あなたが進むべき善の道を私が指し示したのに、私が死んでしまうと、道なかばであなたはよそごとに走ってしまいましたね。あなたの道を遮るどんな濠があったのですか」

 「はい。その通りです。あなたの顔が隠れてしまうと、私はさまざまな快楽に誘われ、道を踏み外してしまいました」

 「耳が痛いなら・・・・もし一人前の男なら、顔をあげて、こちらを見なさい。もっと、もっと、厳しく後悔しなさい」


 結局こういうことなのね、といった感じであった。ダンテ自ら道を踏み外しそうになっているのを、昔一目惚れしたベアトリーチェに諭され、懺悔するということなのである。それを長々と道をたどって、もし懺悔でもしなければ、このように地獄で苦しむことになると言っているわけであろう。
 解説本を読んで分かったふりをするのもおかしな話だが、まあこういう話だということで、それだけでも知っただけ、ちょっと知識が増えた。


評価
★★


書誌
書名:やさしいダンテ「神曲」
著者:阿刀田 高
ISBN:9784048839860
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2008/01/31 出版)
版型:295p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年02月24日

山口治子著『瞳さんと』

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 この本は山口瞳さんの奥様治子さんから、山口瞳さんとのなれそめから、夫婦生活、そして別れまでを聞き書いたものである。一応便宜上山口治子著と書いてあるが、あくまでも便宜上そうしたまでである。

 私にとって、山口瞳という人は『男性自身』がすべてであった。この30年以上も続いたエッセイが好きで、週刊新潮はよく読んでいたのである。どこかで書いたかもしれないが、『男性自身』は昭和38年(1963年)12月2日号から始まり、平成7年(1995年)8月31日号まで1、614回、一度も休みなく続いたエッセイである。
 山口さんは平成7年8月30日に亡くなられた。この日は水曜日であった。そして週刊新潮は毎週木曜日が発売なので、もし山口さんが8月31日以降亡くなられたら、連載を休載していたことになる。だから『男性自身』は連載開始から一回も休まず書かれたことになる。
 この本を読むと、もともとこの『男性自身』の原稿は1回3万円で、月4回で12万円になるので、それで生活の保証ができた。だからそれでそれまで勤めていたサントリーを退社することができ、作家として独り立ちできるようになったらしい。連載開始から新潮社にこの原稿を書くことで生活の保証のお墨付きをもらったからできたことなのだろう。
 しかしだからといって、いい加減な気持でこの連載を続けてきたわけではない。

 「一週間をなんとなくすごす人もいるけれど、一週間のうち全力投球できる場を持っていることを幸せとしなければなりません。僕にとって『男性自身』は大河小説なんです」

 と『男性自身』を書きつづける意味を山口さんは言っている。つまりそれだけ力を入れていた。だから「『男性自身』を書かなければ、山口瞳はもっといろいろな短篇を書けたはずだ。あの中には、短篇の原石のようなものがたくさんつまっている」と言われたのである。

 私は自分の好きな作家が亡くなり、奥さんなどがその作家について、夫婦しか知らない姿を書かれたものを読むのが好きで、今までも結構読んできた。だいたい男というものは、世間体がいいから、本当はどうなんだろうと思う。もうちょっと、生々しい姿があるはずだと思うのだ。だから今回もそんな気持からこの本を手に取った。二人出会いから、生活のあり方、当然作家として独り立ちできるまでの間の苦しい生活、夫婦間や家族との葛藤など、人間味ある姿を知りたいのだ。
 山口瞳さんの母親の生家は遊郭であった。このことはどうやら母親は長いこと隠していたようであるが、そこに流れる血は山口瞳さんにも流れており、そこが原点であった。
 また山口さんの父親も山師みたいなところがあって、景気のいいときはお大尽様みたいな生活をする一方、金に無頓着な部分もあって、その没落も早い。浮き沈みの激しい人生を送っている。そういう両親を持ったためか山口さんの生き方には、一般人とは違う価値観があるように思える。山口さんには“遊び”に徹し、破滅の臭いを放しつつ、一歩手前で止まるようなしたたかさやルールを求めるところがあるが、それらはこんなところから生まれたのかもしれない。こういう生い立ちがあったからこそ、礼儀作法や生き方の指南など、山口さんが書かれるもに妙に説得力を感じるのかもしれない。それまでの苦労が生々しいから、その中で生き抜かれてこられたから、そうした立場に立った人には、いい励ましとなるのだろう。

 全体に奥様は山口さんに対して、いつまでも少女のような思いを持たれていて、山口さんとの昔を語るときでも、好きで好きでたまらず、それで嫉妬したことなど書かれていると、なんか素直でいいなあと思った。
 山口さんが昔京都市立病院に入院したとき、奥様に宛てた手紙の中に次のように書いている。

 「ぼくは幸福な夫だ。それから、きみは世界でいちばん素適な夫を持った妻なんだよ。信じてください」

 こんなことなどそうそう書けるもんじゃない。山口さんだから書けたのだと思う。でもなかなか素適な文句だと思う。だから奥様も山口さんが亡くなられても、「瞳さんのことが好きで好きでいっしょにすごしてきただけの私でしたが、私の一生は幸せいっぱいだったと思います」と書けるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:瞳さんと
著者:山口 治子 中島 茂信【聞き書き】
ISBN:9784093876124
出版社:小学館 (2007/06/09 出版)
版型:271p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2010年02月09日

阿刀田高著『Vの悲劇』

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 古い阿刀田さんの推理小説を読む。この本は講談社創業八十周年記念推理特別書下ろしで、当時日本で活躍する推理作家を集めて、シリーズにしている。帯によると、阿刀田さんが本格推理に挑戦されたようだが、はっきり言って面白くなかった。
 というか、この本を読んでいて今まで阿刀田さんの作品にムラがある理由がわかった。私は阿刀田さんのエッセイや歴史小説の大ファンなのだが、現代物や恋愛小説を読むと、どうしてこうも面白くないのだろうかと思っていた。どこか無理みたいなものを感じてしまっていた。それがこの本を読んでやっとわかった。
 この本の主人公は庄野安津子という30代の主婦で、不倫相手に会いに行った先のコテージの箪笥の中から愛人の男の死体を発見してしてしまうところから始まる。不倫相手は安津子の友人の夫であった。
 当然不倫相手の死体から、証拠を残さずその場を去らなければならないし、警察の捜査が自身に及ばないように、あれこれアリバイを作り上げる。一方で、何で相手の男が殺されたのか、その理由を知りたくなる。安津子がそのコテージついたとき、覚えのある香水の香りがかすかにする。男は安津子が来る前に他の女と会っていたことを確信するが、そこから安津子の両親の過去、特に父親の過去が段々事件に関係していることがわかってくる。
 まぁ、ストーリーとしては平凡単純なのだが、それよりも主人公が女性なのに、関係者と会って事件を考えるとき、あるいはあれこれ推理するとき使われる言葉が、妙に馴染まないのだ。無理に女言葉を使っているという感じが拭えなかった。ただ感じたり、考えたりするときに、女性でもここまで女言葉を使うだろうか、と思ったのである。いくら主人公が女性だからといっても、もっと断定的な言い方をしてもちっともおかしくないような気がしたし、その方が自分の言葉としてしっくりくるような気がしたのである。
 これは明らかに男性作家が女性の描いたという、無理がそうさせているような気がした。そして私が阿刀田さん作品で、違和感を覚える作品は、そのほとんどが女性が主人公になっている場合じゃないか、と思ったのである。
 それを発見したとき、この人は女性を描くことはうまくないのだな、と思ったのである。女性らしい機微を自然に表現できない人ではないかと思った。その不自然さが妙にひっかかってしまうのだ。そのため読後どこかざらざらした感じが残ってしまう。トリックもアイデアが先走っていて、人間関係も陳腐で、話の展開も強引であったため、これはきっと失敗作だと感じた。
 

評価
★★


書誌
書名:Vの悲劇
著者:阿刀田 高
ISBN:9784061939837
出版社:講談社 (1989/06/28 出版)
版型:294p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年02月02日

有本紀明著『スペイン・聖と俗』

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 個人的なことを書けば、私は大学時代ヨーロッパ中世史に興味を持っていた。その関係で、778年シャルルマーニュのスペイン遠征から始まるレコンキスタ(Reconquista)というキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動に興味を持っていたし、さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼なども一時興味があっていくつか調べたことがあった。
 さらに大航海時代を走った国、その後の南米などへの植民地政策を進め、スペイン・ハプスブルク帝国による「太陽の沈まない国」とまで言われたこの国の面白さは今でも興味がある。もっと言えば、ゴヤやベラスケスといった宮廷画家のしたたかさなど私が知っているだけでも、今でも興味が尽きないところがある。かなり昔読んだ五木寛之さん『戒厳令の夜』などあれも三人のパブロフなど、あれも面白い作品だっただけに、連想して思い出す。
 この本は司馬遼太郎さんの『街道を行く』の中で紹介されていた本で、その中でなかなか興味深い本だと司馬さんが書かれていて、それで買った。
 読んでみて面白いなと思ったことはスペイン人が持つ民族性がその歴史から生まれたことがうまく書かれていて、なるほどと思った次第だ。イベリア半島にあるこの国は古来様々な民族がこの地を通ってきて、中には定着し、追い出されいった。ユダヤ人、ギリシア人、カルタゴ人、ローマ人、ゲルマン人、イスラム教徒等である。中でも、キリスト教徒とイスラム教徒の闘争は、最後にキリスト教徒の勝利で終わったことにより、この国がカトリックの守護国を任じ、伝統的主義の立場を取るようになって行く。ガチガチのカトリックであるこの国ならではの凄まじい異端審問の嵐が吹き荒れたのもそうした歴史的背景があったからだ。

 「スペインが成立の時点からさまざまの要素の混合であることは前に見た通りである。特にユダヤ人、モーロ人とキリスト教徒の葛藤はスペインの歴史に、またスペイン人自身の肉体的・心理的特質に消すことのできない刻印を押している。キリストとマホメットの宗教戦争でスペインが条件づけられたように、ここから正統と異端という根本的二率背反が生まれた」

 言ってみれば血の純潔をカトリックという立場で主張するとこういう歴史になっていったと言っていい。血の清浄を求めるがために、社会が歪んでいった。スペインが「太陽の沈まない国」から没落して、その他のヨーロッパ諸国が近代化の道に進んでいるのに、遅れを取った理由もここにある。
 そしてスペイン人がスペイン人であることのアイデンティテーを求める余り、その民族性にも固定化が生まれていく。この本の「スペイン人罪」という章は、スペイン人が持っている気質を語っていて面白いのだが、そこにはスペイン人の自己中心的で、傲慢であり、特殊な超越主義で、私は私であることを徹底的に主張しつづける姿が例を挙げて書かれている。そのため外国文化に対する無関心でさえある。一方でというか、だからというべきかその妬みと嫉妬の激しさも指摘している。

 「妬み、不服従、それに不和はスペイン人の烙印である。だからその産物である分離指向という癌、救世主的狂気、てんかん性政治的反動、またその社会的構造の停滞ということも容易に理解できよう」というカミロ・ホセ・セラという人の言葉をここで著者は挙げている。
 ベラスケスが描く王一族の肖像画を見ていると、本来ならその華麗さを前面に感じていいはずのもが、どこかそこに描かれる人物たちのグロテスクさを先に感じてしまうのも、あるいはゴヤのように最高地位の宮廷画家であって、一方であのような風刺画や版画を描くのが、何となく理解できそうな感じがしてくる。ピカソやダリの自己主張の強さ、あるいはあくの強さもスペインでしか生まれなかったのではないかとさえ思えてくる。あるいは日本史で登場するイエズス会にしても、あの融通に気かなさはこのあたりに求められそうな気もしてしまう。
 ただこの本が書かれたのが今から約30年ほど前だから、今はだいぶ変わってはいるのだろうけど、でもテロの話は度々耳にするから、どこかはこの当時と変わっていない部分があるのかもしれない。余裕があるならもう少しスペインについて知りたいところである。


評価
★★


書誌
書名:スペイン・聖と俗
著者:有本 紀明
ISBN:9784140014301
出版社:日本放送出版協会 (1983/01 出版)NHKブックス
版型:248, / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年01月28日

池澤夏樹著『異国の客』

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 もう一冊買った池澤さん本を読む。池澤さんの文章が自分には合わないなと思いつつ、前回読んだ。しかし読み切ったら、今度は慣れたものだから、文章の内容がスムースに入ってくるようになった。
 今回池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住して、この地から見える世界情勢に言及する部分は政治的意見が強く現れている。日本から離れて自らの国の政治やマスコミの姿勢を批判する。あるいはアメリカのブッシュ政権の姿勢、特に9.11以降の軍事的姿勢に強く反応している。それはそれで正論なのだろうけど、私は池澤さんがこんなに強く政治的意見を強く主張する人とは思っていなかったので、少々驚いてこの本を読んだ。そしてそうした政治的意見より、もっと違う部分を期待していただけに少々興醒めな感じが否めなかった。
 私が期待していたのは、池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住されて、どうヨーロッパを自らに中で消化していったかを知りたかったのだ。フォンテーヌブローの地域性やヨーロッパの歴史、更にヨーロッパの人々の心性にどう感じたかを、その方に興味があったのだ。
 もちろんそこで暮らしているわけだから、ヨーロッパの人々の心性に触れないわけにもいかないし、ヨーロッパで直に感じることも当然ある。そっちの方が私には興味があるのでそれを書き出してみる。
 たとえば食材について。様々な地方特産の食材があるのだが、「ワインやチーズについて言えば、製造そのものに時間がかかる。本来の品質を維持するのが作る立場の人たちの面目であって、客の方も新製品というだけで飛びつきはしない。全体として現在を構成する要素の中で過去が占める部分の比率が高くなる。過去という重い荷を負っているから急カーブは曲がれない。その必要はないと人々は思っているらしい」
 頑なにその製品を作り続け、製品の品質にこだわる姿勢がそこにあり、消費者もそれを求める。新しもの好きで、安ければ、農薬が入っていても買ってしまう日本人には頭が痛い。
 街の景観維持にしても、「なりゆきとか、はびこり放題とか、そういう緩い部分、放任された部分がない。そして住民の総意に個々人の好みが反映される余地は少ない。
 つまり、全体と個人の発言権において、全体がずっと強いということだ。ある意味では言葉の本来の意味において『社会』主義である。社会そのものが主役。フランス革命で『自由、平等、友愛』を謳った国おいて、実は『自由』は勝手放題を意味するわけでなかった。むしろ自由と規制がせめぎあう前線がはっきりと見える。規制によって自由が際だつと言っていい」と池澤さんは言う。まぁこれも日本ではよく言われていることで、歴史的価値がある建物であっても、生活しづらいとなれば、簡単に壊してしまうお国柄とは違う。街の景観など一切お構いなく、勝手に自分好みの家を建ててしまう国には、結局理解できないことなのだと思う。たとえそれが頭の中にあって、一様の理解をしていても、個人を主張して憚らない。それが自由だと勘違いしているのである。

 さてこれ以外に私が興味深かった記述は三点ある。一つはローマ法王ヨハネ・パウロ二世の死に接し、ヨーロッパの人々が悲しみにくれる姿を見て池澤さんが感じたことである。池澤さんは次のように言う。

 「法王はおそらく、遠い神と心弱い信徒をつなぐ仲介者の一人なのだろう。神は絶対であるから、いかなる意味でも具体的でないから、日々個人の心からは遠くなる。『創世記』に言うように神は『言葉』である。つまり言葉で定義されるものであって、実体ではない。旧約の神は厳格な妬みの神であった。素朴な人々が父と慕おうにも手がかりが少ない。だからキリスト教では、まずキリストが神と人を仲立ちし、それでも届かないところは聖母マリアが取りなし、それでも残る隙間を多くの聖者たちが埋める。そして、法王をはじめ司教も司祭たちも、この神との遠い距離を仲立ちするものとしてある。
 人は生きた人を愛することはできるけれど、抽象を愛するのはむずかしい。神に顔を与えるために、尊厳を損なうことなく相貌を与えるために、村の教会の神父に始まって天に到る長い連鎖がある。そして法王はこの連鎖の人間界側の最終的な束ね、いわば砂時計のようなくびれのような存在、ではないのか?不信心者の憶測ではそう見える」

 この記述はうまいなと思った。キリスト教の本質が理解しがたい我々みたいな者は、キリスト教がどうしてこれほどの信者を獲得することができたのか、いや信者の心を捉えたのかその構造をうまく言い表していると思ったのである。

 もう一点が、須賀敦子さんのシャルトルへ巡礼の旅についての記述である。須賀さんが長いこと歩いてやっと大聖堂の針の先のような尖塔が見えたときの感動を語っている部分がある。私はミラノの大聖堂の記述に以前触れたことがあるが、とにかく長いこと歩いてきて地平線から教会の塔の先が見えたときの感動は、言い表せないほどの感動を呼ぶらしい。私はその感動を多分中世の旅人も味わったことだろうとも書いた。池澤さんも車であったけれど、その感動を味わったことが書かれたいた。

 「フランス国土は全体としてとても平らだ。ごくわずかな起伏を越えて広大な畑の真ん中をまっすぐ伸びる道を車で走っていると、次の集落の印として最初に目に入るのが、たいていの場合、教会の塔である。水平という原理が優越する空間でもっとも垂直的なものが教会なのだ。ぼくがシャルトルに行った時も、東側から近づいてまず地平線に見えたのが二つの塔だった。車を運転していたから拍手はしなかったけれど、(須賀さんたちはそれが見えたときいっせいに拍手が起こったと書いている)しかしそうしたいくらいの感動はあったと思う」

 と書いている。こういう描写を読んでいると、私も同じような場面にいたいなと思う。
 最後の一点が、ラ・トゥールである。まさかここでラ・トゥールが出てくるとは思わなかった。(これだから本を読むのは楽しい)池澤さんがロレーヌ地方を旅していて、市内の美術館に入った。「一枚の絵が目に入った。近世から近代の絵を並べた一角で、それだけが際だっていた。他の絵が照明によってようやく見えているのに、その一枚だけは自分で光を放っているかのようだ。二人の人物が描かれているだけの単純な構図に、見る者を引き込んで放さない力がある。ぼくはしばらくの間、そこを動けなかった」と書いている。
 池澤さんが見た絵は「妻に嘲笑されるヨブ」であった。私はラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」に魅せられた。ちょうど上野でそれが展示されていたので、すぐ見に行ったのである。ここでは子供であるイエスが持つローソクの火がその絵を際だたせ、そこから外に向かって、見る者に光を放つような衝撃があった。そしてこの「妻に嘲笑されるヨブ」も確かローソクが効果的な魅力を醸し出していたはずだと思った。実はラ・トゥールに興味を持ったとき、彼の他の絵もネットで調べていた。改めてその絵を見てみると、ここでもローソクの炎がこの絵を際だたせているのを知る。


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 池澤さんはその魅力を次のように言う。

 「まずは精緻なリアリズム。蝋燭一本の光で描くという技法が見る者の視線をひたすら細部に向け、そこからこの二人の実在感がひしひしと伝わる」

 「ラ・トゥールではこの二人の人生の一瞬を切り取っている。まるで写真のようだ。絵の中に会話がある。言っている言葉が聞き取れるかのようだ。宗教画一般が真理を求めるために超時間になろうとするのに対して、この絵は永遠を放棄した上で、代わりに一瞬をきっちり捕らえようとしている」

 思わずラ・トゥールの魅力にとらわれた人がここにもいたといった感じで、うれしかった。


評価
★★


書誌
書名:異国の客
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784087464689
出版社:集英社 (2009/08/25 出版)集英社文庫
版型:243p / 15cm / A6判
販売価:550円(税込)

2010年01月25日

池澤夏樹著『明るい旅情』

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 風邪が治ったかなと思っていたら、ここのところの寒暖の差が激しい気候に身体がついて行けず、またぶり返してしまった。何故か年明け早々体調があまり良くなく、そのためか読んでいる本が最後まで読み切れずに、投げ出してしまうパターンがここのところ多く、この本もそんな感じになっていた。どこか自分の感覚と合わない。これもダメだなと思っていた。
 この休みはとりあえず休養が必要ということで、ひたすら横になっていた。録画しておいたテレビを見たりしていたのだが、私は長時間テレビを見ることが出来ない人なので、しばらくしたらテレビを切ってしまう。しかし次に何することもないので、読むのを諦めていたこの本を再び読み始める。「まぁいいや。読めるところまで読んでみよう」と思ったのである。
 読んでいるうちに、池澤さんの硬質な文章が頭になじんできて、何とか読める。いやむしろこうしてごろごろしているときに、海外の話は、ちょっとそこへ行った気分になれるので、かえっていいかもしれないと思い始めたのである。
 私が池澤さんのこの紀行文をうまく受け入れられない理由は、この硬質な文章にある。くだらない笑いを誘う比喩など一切ない、ありのままの感想をストレートに書かれるものだから、読む方はいつも緊張を強いられ、長いこと読んでいられないのである。まして今の私にはきつい。それが今の私には向かない理由であった。しかしさっきも言ったように、半ば諦め、半ば我慢していると、その几帳面なほど真面目な文章に“もっともだよな”と思えてくるから不思議であった。

 「どうも人間はものごとの運びをすべて自分たちの意思の表れ、理知的な選択の結果と見る傾向がある。ことがすべて決着した後で、なぜその道を選んだのかと問われたとしよう。問う人の顔には、整然たる回答が返ってきて当然という期待の表情が浮かんでいる。しかし、実際の話、たいていのことはなりゆきというか、多くの力が時をおいて作用し、それら複数の効果の最終的な成果として実現するのではないだろうか。理知の力を信じるのはいいけれども、世の中を動かしているのは人知の制御を超えた無数の力の共同作業である。結婚などという最も人間的な、誤謬に満ちた愛すべき行為を例にして思い浮かべてみれば理解しやすいかもしれない。百人の候補について数百の項目を計測、数値化し、それを統計学を用いて厳密に比較検討した上で相手を選ぶ者はいない。なりゆきというのは美しい言葉だ」

 「誰にとっても現在は楽園ではない。現在には苦い要素がいろいろ混じっている。それでも子供時代のような質のよい過去から苦い要素を時間の作用で洗い流すことはできるし、精神が元気であれば最初から苦い要素を入れない未来を描くこともできる」
 
 「うわついたところが一つもない。完成されている。しかし、若い身でこの国にいたとしたら自分などたまらないだろうとも考える。東京の軽薄もやりきれないが、ロンドンの重厚も決して居心地のいいものではない。英語の言い回しに『バターを口に入れても溶けないような顔をして・・・・』というのがあるが、道行くみながそういう顔をしている。漱石がノイローゼになった理由がよくわかる」

 「ここ何十年かの間にこの国(日本)では社会の重心をずっと若い層にシフトしてしまった。街に出れば若い人々ばかりがあふれているし、商品もすべて若い購買層に向けて開発され、それを買いにゆくと対応に出る店員はみな二十代。社会そのものがかわいいニコニコ顔をしている。それは結構なのだが、実際のサービスは大雑把でいい加減、誰もが無責任、しかもみんなそれが普通だと思っている。若いというのは困ったものだ」

 ロンドンの街のことを書き記したのは、漱石の記述があったからだが、他の3つの文章は私ももっともだと思ったので書いた。いささか几帳面さ鼻につかなくもないが、でも几帳面であるが故に、逆に説得力があると感じた。

 本当ならもう少しまともな感想を書くべきなのだろうが、私はこの著者の生真面目さから、正論を言っている部分が好きになったので、あえてそれだけを書き残した。早く風邪を治さなきゃ・・・。


評価
★★


書誌
書名:明るい旅情
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784101318189
出版社:新潮社 (2001/06/01 出版)新潮文庫
版型:246p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年12月30日

トルーマン・カポーティ著『ティファニーで朝食を』

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 どうもよく分からない小説だった。だいたいアメリカ現代文学というのは取っつきにくくて、苦手なのだ。この本は村上春樹さんの新訳ということで買って、読んでみたが、イメージが自分の頭の中でうまく結びつかなかった。
 この本は『ティファニーで朝食を』、『花盛りの家』、『ダイヤモンドのギター』、『クリスマスの思い出』の四編で成り立っているが、やっぱり有名なのは映画にもなった『ティファニーで朝食を』であろう。
 ホリー・ゴライトリーという自由奔放な女性の生き様の一部がここに書かれているのだけれど、この女性がうまく頭の中でイメージできないのだ。はっきり言っちゃうと、「どういう女なんだ」という気持の方が強いのだ。

 「人は誰しも、誰かに対して優越感を抱かなくてはならないようにできている」

 といったしたたかさも身につけている一方で、

 「そして私も彼のことが好きよ。あなたの目には年寄りで、むさくるしく見えるかもしれない。でも彼の心にはとてもとても温かいものがあるの。鳥や子どもたちやそういう弱いものたちには、惜しみなく愛情を注げる人よ。そしてそういう思いやりを受けたら、相手が誰であれ、その恩義は忘れちゃいけない。私はお祈りするときに、いつもドクのことを思っているわ。ねえ、にやにや笑いはよしてちょうだい!」

 といった面もある。もっともこれは自分を相手に引きつけておくための、ホリー・ゴライトリーの処世術の一つとも言えなくないが・・・。
 とにかく好き勝手に、思うまま生きていく彼女に主人公の売り込み作家の僕は翻弄されるのだけれど、私から言わせれば、こんな女を好きになったのだから諦めるしかないだろう。
 映画ではホリー・ゴライトリーをオードリー・ヘプバーンが演じているが、どうもこの小説のイメージとヘプバーンとはまったく違うんじゃないかと思える。そんないい女に思えなかった。まぁ小悪魔的というのなら、これもありかなというところである。


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 個人的には『クリスマスの思い出』がかろうじて理解できたが、それでも面白かったというにはほど遠い。要するによく分からなかったということだけだ。


評価
★★

書誌
書名:ティファニーで朝食を
著者:トルーマン・カポーティ 村上 春樹【訳】
ISBN:9784105014070
出版社:新潮社 (2008/02/25 出版)
版型:223p / 19cm / B6判
販売価:1,260円(税込)

2009年12月08日

阿刀田高著『街のアラベスク』

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 私は阿刀田高さんの本を読むようになってそれほど月日は経っていない。一度おもしろいと思って、それ以来昔の本をせっせと集めて読んでいるのだが、やはり私は阿刀田さんの歴史ものや古典の解説書の方が、現代短編よりおもしろい、と今のところ思っている。もちろん現代物もはあまりまだ手をつけていないので、これから先どうなるかわからないが、どうもこの手の物語はどこかもの足りなさを感じてしまうのである。どうしてもこの話はこのアイデアがあったから書かれたんだなと思ってしまい、純粋に話を楽しめないでいる。今回もそうであった。残念だけど、どこかあざといところを感じてしまったのである。

 今回は東京の“街”がメインになっている短編連作集である。そしてこれらの話に共通するのは、主人公がかつて住んでいた、あるいはそこで昔の恋愛関係があった場所を、ふと今ぽっかりと時間が空いて、どううっちゃっていいのかわからない、半ば中途半端な時間が出来てしまったとき、思い出すところから、だいたい始まる。
 この感覚よく分かる。特に私も五十近くなってから、その傾向がよく出て来る。私の場合恋愛とか昔住んでいた場所ではなく、どちらかと言えば一時関係していた場所といっていいかもしれない。あそこは今どうなっているんだろう、とか、もう変わちゃって、あの建物はないだろうな、とかいった感じである。もちろんそれぞれの場所は私に何らかの関係があった場所ではある。

 「もしかしたら、だれしもがそんな場所を一つか二つ、持っているのではあるまいか。子どものころに、青春時代に、あるいはサラリーマンになりたてのころにサムシングのあった場所。今の生活と関わっているわけではないから、たまに思い出して、
-いつか行ってみるかな-
 でも実際にはほとんど足を運ぶことがない。人生のあちこちに飛び地みたいに点在して、孤立して、そのままになっている場所と時間。近かったり遠かったり。そこで費やした時間も短かったり、それなりに長い歳月であったりして・・・・」

 そう、こんな感じである。かつて何らかの関係があった街は、その関係が現在続いていないこと、つまりすべて過去形になっている分、時間がある程度美化しているところがある。たとえその街で苦しかったこと、悲しかったことが多くあっても、それが終わってしまっているなら、時が「そんなこともあったなあ」と他人事のように思えるようにさせてくれる。あるいは単に思い出だけでなく、妙に輝かせちゃったりしちゃう。

 「ううん。これでいいの。馬鹿な話、聞いてほしかったの。昔はいろいろあったなあ、って。馬鹿なことでも、若いころは、一つ一つ輝いていたわ。あんた、言ってたわね。トイレの百ワットだって」

 「なんだ、それ」

 「無駄に輝いているだけだって」

 そしてそれがある程度歳を行ってくると、そういうことを思い出すことが楽しくなってくる。

 「二年後には五十歳になる。五十歳を超えて、女にも恋のチャンスはあるだろうけれど、実感として詩子には薄い。これからのことより、これまでのことを考えるほうが楽しい」

 まあそれだけ若くなくなったという証明なんだろうけど、それはそれで老後の楽しみの一つと考えていいのではないかと思う。

 この短編集に出て来る街で、新宿十二社というところがある。ここには温泉がある。昔大手町の売店の本屋で働いていた頃、売店仲間でここで忘年会をやったことがある。
 今では温泉の掘削技術が発達しているから、東京の至るところに○○温泉と名をうっているけれど、当時は新宿のど真ん中で温泉なかあるのかと思ったもんだ。真っ黒いお湯が印象に残っている。今みたいスパなんてシャラ臭い名前じゃなくて、「新宿十二社天然温泉」というのもいい。いかにもヘルスセンターみたいなところであった。あの頃は若かったこともあって、飲めないお酒を飲んで、寝込んでしまったようで、気がついたら横で寝かされていた。今はどうなっているんだろうか。当時と変わっているのか、いないのか、ちょっと知りたいところである。


評価
★★


書誌
書名:街のアラベスク
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343257
出版社:新潮社 (2007/12/20 出版)
版型:331p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年11月27日

ジャック・ル・ゴフ著『子どもたちに語るヨーロッパ史』

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 この本は著者の『子どもたちに語るヨーロッパ史』と『子どもたちに語る中世』の二編を一冊にまとめた本である。いずれも書名からもわかる通り子供に読ませるためにわかりやすく、簡単に書かれたヨーロッパの通史、ヨーロッパ中世史といったものであり、読む側に多少知識があると、なんだそんなことしか書いていない本かというもの足りなさある。
 著者のル・ゴフはEUの支持者のようで、ヨーロッパが現在一つにまとまろうとしているのを支持し、そうあるべき背景がヨーロッパには元々あるのだから、そうなって然るべきことだという考えが中心にある。またこの人はフランスの中世史の大家であるそうで、中世という時代のそれまであった偏見をなくそうとする意思で『子どもたちに語る中世』を書かれている。

 まずは、『子どもたちに語るヨーロッパ史』から。大体この手の通史を書く場合、まずはヨーロッパの地形的特徴から入るのが王道のようで、この本もそのようになっている。著者が言うにはヨーロッパ大陸は世界の中で一番小さい大陸で、面積は1000万平方キロメートルで地球上の地表面7%を占める。ちなみにアジア大陸は30%、アメリカ大陸28%、アフリカ大陸20%である。それほど小さな大陸だから、人の行き来も他の大陸から比べれば簡単で、古代ローマの将軍は馬に乗ってローマを出発し、ガリア、ゲルマニア、イスパニア、ブリタニアへの遠征を生涯のうち何度も成し遂げたという例を出している。現在でも飛行機がなくても自動車と高速鉄道で簡単に移動出来る大きさなのである。
 さらに広すぎない面積、海が近いこと、比較的平坦なこと、ほどほどに厳しい気候、大部分の土地が良好な経済的適性をもつこと(砂漠はなく、原生林ははるか昔に消失した)などヨーロッパ大陸の特徴といえる点を合わせて考えると、ヨーロッパがほかの大陸とちがって、非常に早くからほとんどいたるところに人が住み、利用されていたことを教える。
 このことからヨーロッパは昔から人の行き来が比較的楽にできたし、河川も日本の川のような狭くて激しい流れの河川ではないことから、その往来を更に楽にする。
 そしてここにはギリシャ・ローマ時代の文化的遺産やキリスト教という宗教がヨーロッパの基盤となり、共通認識みたいなものを生んできた。それでいる民族は違う。共通と個別が同居する地域であることを特徴として言う。だから共通を元にして統一をしようとすると、個別が反発することとなる。ナポレオンやヒットラーが政治的暴力でヨーロッパ統一しようとしても出来なかったのは、そのためであった。逆にヨーロッパは国と国民の自発的意思によって統一出来る証明だというのである。
 現在のEUとしてヨーロッパの国々が一つになろうする一方で、地方の独自性も維持するという姿勢がここにもあることを暗に示している。一つの大陸としての歴史を見ることで、それぞれ個性や地域性はあるにしても、我々は共通の歴史的要素を共有しているから、それを大きな枠としてまとまり、その中で地域性を維持するのがEUの性格だというのであろう。そのためにヨーロッパは未来があるわけだ。
 著者は最後に「どうか忘れないでください。記憶なしではよきことは起こりえないことを。歴史は公正な記憶をさしだすためにあり、そうした記憶こそが過去を通してみなさんの現在と未来を照らし出すのだということを」と言っているが、EUという歴史的実験を可能にするのは歴史であると言っている。

 『子どもたちに語る中世』ではヨーロッパ中世は五世紀から十五世紀までの千年も続いた時代であり、その前後にあったギリシャ・ローマと近世の間にある単に中間の時代で、暴力に満ち、あいまいで無知な<悪しき>時代だったと考える人がいる。しかしそうじゃないと言う。まぁヨーロッパ中世史をやる人は必ずこのことを言うのだが、その長い時間の中で、古代を脱し、近世を生む母体を作った時代であったことは間違いない。著者も「中世はヨーロッパが出現し、形成された時代でした。文明の各時代にはそれぞれ役割があり、歴史の発展の総体のなかで、ある使命を担っているのだとしたら、中世の使命はヨーロッパを<生む>ことであったといえます」と言っている。ギリシャやローマみたいに華々しさはないし、ルネサンスみたいな豪華さはないけれど、いい意味でも悪い意味でもホンと人間的であった時代だったのだ。個人的にいえばその素朴さが好きなんだけれど・・・・。

 最初に書いた通りこの本は子供たちに聞かせるための歴史本だから、通史にしてもものすごくアバウトに書かれているし、中世史にしても質問に答える形で歴史を語っているので、ある程度歴史を勉強してきた人には物足りない。しかしいくら子供向けとはいえ、もう少し“驚き”が欲しかったなと感じた。これじゃ子供たちにとってあまりおもしろくないのではないかと思った。


評価
★★


書誌
書名:子どもたちに語るヨーロッパ史
著者:ジャック・ル・ゴフ 前田 耕作【監訳】 川崎 万里【訳】
ISBN:9784480092465
出版社:筑摩書房 (2009/09/10 出版)ちくま学芸文庫
版型:278p / 15cm / A6判
販売価:1,155円(税込)

2009年11月09日

本多孝好著『正義のミカタ』

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 どうもよく分からない話だった。どういう展開になるのかな、と思いつつページを進めるのだが、読み終わった後、いったい何だったのだろうと思ってしまった。展開が予想がつかない分、ページは進むのだが、どうしてこの物語が書かれなければならなかったのかよく分からなかった。

 話は、蓮見亮太は三流大学の飛鳥大学に入学した。高校時代亮太はいじめられっ子であった。それでも何とか自分を変えたくて、自分なりに努力して大学に入る。大学に入れば、亮太をいじめていた奴もいなくなるから、自分は変われると考えていたが、ところが高校時代亮太をいじめていた畠田も入学していた。そしてその畠田と再会してしまい、またいじめにあう。亮太は入学して間もないのに、もう大学を辞めようと考えながら、畠田の暴力に耐える。その時高校時代ボクシングで全国大会三連勝した桐生友一(トモイチ)に窮地を救われる。トモイチは亮太を自分も入部している“正義の味方研究部”に連れて行き、入部させる。
 正義の味方研究部とは、ふざけた名前の部ではあるが、飛鳥大学において正式なサークルであり、伝統のあるサークルでもあった。大学内で不正や困っている人がいれば、それを助けるというものだ。当然こうした問題を解決するに当たり、力がものを言う世界であるが、亮太にはそうした能力がない。だって「生粋の、筋金入りのいじめられっ子」なのだ。悪者と戦う能力などあるはずがないと思っていた。ところが亮太は長い間いじめられ続けたため、自分の身体に与えられる暴力から出来るだけダメージを少なくしようとする能力が身についていた。ボクシングで言う“デフェンス”である。無意識のうちにその能力が身についていた。それをトモイチに見出され、正義の味方研究部に入部することが出来たのだ。後は攻撃を身につければいいということで、トモイチにボクシングの攻撃の基本を教わる。
 そうこうしているうちに、亮太は、大学で友人も仲間も、憧れる女性も、正義の味方研究部で尊敬出来る先輩も出来、しかも畠田からのいじめからも解放され、大学に入ってよかったと思い、キャンパスライフが薔薇色に見えてくるのであった。
 ある時“スイート・キューカンバーズ”というサークルの内偵を亮太はトモイチともにやってくれと、正義の味方研究部の先輩から頼まれる。このサークルは大学内のイベントを企画するサークルで、亮太はさえない企画を担当する間先輩のもとで、その手伝いをすることとなった。
 内偵しているうちに、このサークルはネズミ講をやっているらしいということがわかってくるが、しかしその金額がちゃっちい。もっと奥深いものがあるのではないかと更に内偵を続けると、間先輩が大麻を大学内でさばいていることがわかる。間先輩は亮太を可愛がり、自分のやっていることを亮太に明らかにするが、それは亮太が裏切らないと思っていたからだ。しかし亮太は正義の味方研究部に密告する。そして正義の味方研究部は間先輩のいるアパートへ乗り込んでいく。
 結局、すべては焼け出され、証拠は何も残らず、間先輩も飛鳥大学の学生でも関係者でもない、誰だかわからず、事件は終わる。
 間先輩はいじめの対象である下層部から上層部に違うレールで、半ば違法性の高いところで這い上がろうとしなければならない。お金も、学力も何もない自分たちが、這い上がるためにはそうするしか方法がないんだと間先輩に言われ、亮太もそう思い始めたのだけれど、「何かが違う」と感じ始める。
 自分は大学に入り、正義の味方研究部に入部し、自分は変わろうと思い続けたが、どこかしっくりこなかった。このままじゃいけないと思い続けるが、どうしていいのかわからなかった。そうこう悩んでいるうちに、「何でこのままじゃ駄目なんだ?」と思い至る。 
 亮太は自らが悪事を制裁する側の人間じゃないと自分で思い始める。長いこといじめにあってきた自分だからこそ、困っている人の側に立つべきだと考える。自らのいじめから解放されるために、制裁する側に回るべき人間じゃないと思い始め、正義の味方研究部の退部を決意する。
 それに100%の正義ってあり得るのか?そこに間違えはまったく存在し得ないのか?そう先輩達に問う。もし100%の正義があり得ないなら、間違えられる側の人間はたまったもんじゃない。たとえ困っている人を助けられても、そのために誰かを取り返しのつかないくらい傷つけてしまう可能性があるなら、制裁する側には立てないとも言う。
 いつも自分が他人に利用され、踏み台にされても、それを肯定すると亮太は言い切る。そうして今までやってきたのだから。少なくともこうすることで他人を傷つけてはいなかったのだから。それを誇りに思うのだ。正義の味方である自分に酔っているよりはるかに自分らしいと思うのであった。

 う~ん、ここまで来て著者が何を言いたいのか漠然と見えてきたような気がするが、どうも回りくどい。下手をするとただの解釈の違いに陥る可能性がある。
 「今までこうであったから、それは肯定出来ない」、「こうであったから、これからもこうであり続けるのが自分らしさだ」ということで、自らの存在感を示しているのか?どうなんだろう?よく分からないな。それとも今まで単にいじめられっ子で、何も言わずやられっぱなしであったけれど、多少自己主張することができるようになった“亮太らしさ”をそのまま認めればいいのかな。
 というか個人的には亮太の考え方が受け入れがたい部分がある。確かに弱い側に徹底的に立つのは結構だけれど、これじゃ宗教になっちゃうのではないか。現実を見据えれば、多少の犠牲はやむを得ないだろうし、現実問題として考えれば、明らかに正義の味方研究部の先輩達の考えが真っ当な気がするのである。ここに超越という考えを持ち込むと話がただ面倒になるだけである。


評価
★★


書誌
書名:正義のミカタ―I’m a loser
著者:本多 孝好
ISBN:9784575235814
出版社:双葉社 (2007/05/25 出版)
版型:413p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年10月06日

夏目漱石著『三四郎』

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 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の第一巻のあとがきに次のような言葉がある。

 このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家達の物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほど楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

 ある意味この『三四郎』の主人公である小川三四郎にも同様な夢が見られる。ただしきわめて俗っぽい夢なのだが・・・。

 三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂明治十五年以前の香がする。凡てが平穏である代わりに凡てが寝坊気でいる。尤も帰るに世話はいらない。戻ろうとすれば、すぐ戻れる。ただいざとならない以上戻る気がしない。云わば立退場の様なものである。三四郎は脱ぎ捨てた過去を、この立退場の中に封じ込めた。
 第二世界のうちには、苔の生えた煉瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向こうの人の顔がよく分からない程に広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手擦れ、指の垢、で黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積った塵がある。この塵は二三十年かかって漸く積もった貴い塵である。静かな月日に打ち勝つ程の静かな塵である。
 第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしている。あるものは空を見て歩いている。あるものは俯向いて歩いている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を通天に呼吸して憚らない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅(この世。現世。娑婆(しやば)。 ▽煩悩(ぼんのう)に悩まされることを、火事になった家にたとえる)を逃れるから幸いである。
 第三の世界は燦として春の如く盪いている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つ三鞭(シャンパン)の盃がある。そうして凡ての上の冠として美しい女性がある。

 つまり第一の世界は熊本時代の三四郎であり、第二の世界は広田先生や野々宮がいる世界である。浮世離れしてひたすら学究肌の人たちが住む世界のことをいうのであろう。そして第三の世界は三四郎にとってもっとも心のから望んでいる世界で、そこに入り込むためにわざわざ熊本から出てきたのだ。だから自分がこの世界の主人公であるべき資格を有していると思っている。そしてそこに一緒にいる女性が美禰子でなければならない。
 この物語はそういう世界での話である。しかしいわゆる立身出世の話ではなく、むしろ第三の世界に入ることを望んではいるけれど、三四郎にはまだそうした資格がないことに悩むわけである。特に美禰子の気をなんとか引きたいと思っていても、「自分と野々宮を比較してみると大分段が違う。自分は田舎から出て大学へ這入ったばかりである。学問という学問もなければ、見識と云う見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である」と田舎から出てきたばかりの自分を卑下してしまう。だから美禰子から馬鹿にされている様でもあると思ってしまう。三四郎は美禰子との格の差を感じてしまうわけである。それは与次郎の言うことに何も言えない三四郎の姿からも読み取れる。与次郎は次のように言う。

 「馬鹿だなあ、あんな女を思って。思ったって仕方がないよ。第一、君と同年位じゃないか。同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ」

 「何故と云うに。二十前後の同じ年の男女を並べてみろ。女の方が万事上手だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね。尤も自分が世界で一番偉いと思っている女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らす外に方法がないんだから。よく金持ちの娘うあ何かにそんなのがあるじゃないか。望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃ不可ない。そう云う点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」

 美禰子にはそれほど気位があるわけじゃないだろうと思いたい。むしろまわりにいる男どもがそういう目で彼女を見てしまうところが彼女の不幸なのかもしれないと思う。ただたとえ美禰子が三四郎に気持を寄せているにせよ、女性特有の“からかい”の部分があるような気がする。それは彼女の性格なのかもしれないし、あるいは気になる男の気を引こうとしてのいたずら心からかもしれない。 いずれにしてもこの時代の男女関係は、惚れたはれただけで成り立つものじゃなかった。特に三四郎のような成り上がり的な考えを持つ人間にとってはそうなんだろう。まして田舎者というコンプレックスの塊のような三四郎にとっては美禰子に恋心を持ったのが早すぎたのだ。もう少し三四郎が出世して成功者でもなっていれば、こんな負い目など持たなくてすんだのかもしれない。ただ思うに三四郎みたいな考えの持ち主になると、そうなればなったで、今度はきっと人を見下すようになるのではないかと思ったりする。
 そんなことを予感させるものだから、この物語を単に人を愛するというだけでなく、俗物的な立場がものをいう世界の恋愛物語と受け取ってしまう。ここに描かれる世界は恋愛成就と出世が結びついている感じがしてしまい、それがどこかやりきれないのである。
 たまたまこの物語では三四郎が置かれている立場が、これからという立場であって、その時に美禰子に恋心を持ってしまったから、どうにも出来ないだけのことである。美禰子も三四郎に恋心を寄せるにしても、結局二人に間には何もないからといって、それが淡い恋心を描いた青春小説とは読めないのである。
 私はこの物語をこれで三度読んだことになるが、漱石の作品の中では嫌いな小説だ。私は物語に精神的な崇高さをどこか求めているのかもしれない。いい歳こいてまだまだ私は青臭い。いかんなと思った次第である。


評価
★★


書誌
書名:三四郎 (改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010045
出版社:新潮社 (1992/05 出版)新潮文庫
版型:298p / 16cm / 文庫判
販売価:340円(税込)

2009年10月01日

阿刀田高著『おとこ坂 おんな坂』

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 どうしても読んでいて気になってしまうのは、ひとつひとつの物語のモチーフや使われる言葉など、多分阿刀田さん思いついたアイデア帳から取られたんじゃないかなということである。
 阿刀田さんはよく自分の創作現場を“小説工房”といっているが、普段ちょっと思いついたアイデアや気になったフレーズなどをノートに記して、小説を書くときに、使えそうなものがあればそれを使って書くと言っておられる。それが私の中に記憶としてあったものだから、ここにある短編は「多分これがアイデア帳にあって、使われたんだな」と思えたのである。
 どうしてそんなことを感じるようになったかというと、たぶん今まで阿刀田さんの多くのエッセイや紀行文などを読んでいるからかもしれない。それぞれこれじゃないかなと感じられたものはあったが、一部例をあげれば次のようである。

 「独りぼっち」
 傾斜がきつい男坂、なだらかでトロトロ登れる女坂

 「鯉づくし」
 鯉づくしの最後は、恋

 「ルビコンという酒場」
 私、本当にルビコンを渡ったの(シーザーがポンペイスを倒すために国禁をおかし、軍と共にルビコン川を渡った故事にちなんでいる)
 
 やきもちというのは、まん中に大きな餅を一つ置き周囲に小さな餅を五、六ケ置いておく。火であぶると小さな餅が先に焼け、膨らんでやぶけて手を伸ばし、一つがまん中の餅にくっつき、負けじともう一つがまん中の餅にくっつく。それでやきもち言うのだとか

 「黄色い子びん」
 ビーチコーミング(beach-coming)とは海岸を櫛ですくように、熊手で漂流物を集めること

 これらのアイデアやフレーズを使ってこれらの短編は書かれたと私は思っている。しかし読む側の私がそちらの方が気になってしまっているから、本当の意味でそれぞれの物語が楽しめなかった。つまりこれらのアイデアやフレーズが創作側に最優先にあって、それが勝ってしまっている気がしたのである。あまりにもそれらが目立ってしまうものだから、それだけが際立ってしまっていて、話全体の統一感が損なわれている。それらはさりげない使い方をすればちょっとしたスパイスになって、話にしまりが出てくると思うのだが、そうではなく、たとえればスパイスの利きすぎた辛いカレーを食べている感じだ。
 そうしたアイデアやフレーズを嫌が上でも使わなければならないのと、物語の展開場所を日本各地を舞台にした短編小説でなければならないというのもあって、どこか全体に無理な感じが漂う。

 阿刀田さんの文章によく「つきづきしい」という言葉が出てくる。あまり聞き慣れない言葉なんでどんな意味か気になっていた。パソコンに組み込まれている広辞苑ではこれに該当する言葉が変換できない。で、三省堂の大辞林で調べてみると、漢字で「付き付きしい」と書く。意味は①ふさわしい、似つかわしい、好ましい②いかにももっともらしい、という意味だ。
 ここにある短編にも二度ほどこの言葉が出てきたと思うが、私には話の内容が「つきづきしくない」気がする。どうもそれぞれの舞台が仰々しい。それに大体が酒場で話が展開するやり方はちょっと安易すぎはしないかなと思う。なぜならお酒が入ればどうしても人間感傷的になりがちだから、そこで話を作れば、悲しい話にもなる。思い出話にもなる。ある意味阿刀田さんらしくない。

 強いていいフレーズだなと感じたものを書き出してみる。

 「人生はいろいろですよ。どんなに執念を燃やしても、できないことがある。願ったことの、すぐ隣くらいのことができたら満足すべきでしょう。事実、満足できます。そこで充分に自分を燃焼させられればいい」

 人生少し余して生きるのはよいのかもしれない。きっとそうだ。余して生きれば逆によいものを発揮できる。
 

評価
★★


書誌
書名:おとこ坂 おんな坂
著者:阿刀田 高
ISBN:9784620107035
出版社:毎日新聞社 (2006/07/15 出版)
版型:357p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2009年09月15日

ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン著『古書店めぐりは夫婦で』

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 この本は発売されたとき買ったものだが、そのままお蔵入りになってしまった。もちろん気になっていたのだが、外国ものの古本エッセイって、うまく頭の中でイメージできないものだから、ついつい億劫になり今日まで来てしまった。確かに読んでみると、日本の古本業界とは違う。本もいかつければ、売る方もなんか仰々しい感じだ。
 ゴールドストーン夫妻が古本に興味を持ったきっかけは、二人の誕生日にプレゼントが始まりだった。二人の誕生日は八日違いと、お互いの誕生日が近いものだから、プレゼントの交換を毎年やっているのだが、そのプレゼントにお互い不満があった。プレゼントの要する金額は毎年つり上がっていき割には、双方がそれほど満足しないことがあるからである。
 そこで、プレゼントに要する金額を20ドルに制限したのである。20ドルといえば、今の日本円で2,000円ちょい。当時はもう少し価値があっただろうけど、それでも安い。あとは創意工夫でプレゼントを考えなければならならない。そこでナンシーは夫にトルストイの『戦争と平和』を贈ろうと決めるが、今ある『戦争と平和』は、夫にはいまいちである。そこで図版たっぷりの古本を見つけ、それを贈る。以来この夫婦は古本の魅力にとりつかれ、近郊の古本屋を制覇し、子供をベビーシッターに預け、シカゴ、ボストン、ニューヨークと古本漁りを始めるのであった。いつの間にかこの夫婦は稀覯本収集に目ざめていく。
 古本屋さんの目星をつけるためにイエローページを使って、めぼしい古本屋さんに電話をかけて、約束をしてからお店に行く。わざわざ古本屋さんに行くのに、コンタクトを取ること自体、日本とは違う。それに、まぁそうした一癖もあるような古本屋さんだからか、とにかく古本に対して語ること語ること。店に行けば店員がついて回ってくるのだ。これじゃ本を選ぶ余裕もなくなるのではないかと思ってしまう。
 ここに出てくる古書店の在庫はどちらかと言えば“個人の持ち物”といった感じで、それが店の個性となっている。だから「どうやら古書店の在庫はは、ペットとおなじで、持ち主の人格を反映する傾向にある」と言わしめる。だから本について語らずを得ないのだ。それもうるさいくらいに。

閑話休題

 ところで日本の本屋さんや古本屋さんは基本的に無口である。無愛想である。今でもそうした傾向はある。だからこの本の古本屋さんのように、多くを語ることに驚きを感じてしまう。日本の場合無口なのは、本を読むことは知的作業だから、おしゃべりするもんじゃないというところかもしれない。
 本のセールトークをしないものだから、今度はPOPを書いて平台の本と一緒に飾る。これがやたら乱立していて、かんじんの本が見えない本屋もあるのもよく見かけるが、これは麻生総理(まだ元じゃないよね)じゃないが「いかがなものか」と思う。うざったくてしょうがない。
 まぁ最近の本屋の店員はマックの店員と同じくらいマニュアル通りにしか仕事ができないから、クオリティーが低下している。せいぜいレジに客を誘導するために手を挙げるしか能がないのだから仕方がない。まだPOPを書けるだけでもマシかもしれない。
 最近はコンシェルジュなんてシャラ臭い名前をつけて、本の紹介などする役目の店員もいるらしいが、どうしてそんなやつに紹介された本を読む気になるのだろうかと思う。きっと薦められた本を目の前に出されれば、たとえ躊躇してもありがたがって買ってしまうんだろうな。もし薦められた本が面白くなかったら、こいつら責任を取ってくれるのか、と思う。(そういう人はいないのだろうか。ネットでは結構ありがたがっているコメントを読むが、文句を言っている人のコメントが読みたいな)
 だいたい人が何を読みたいのか。何を要求しているのか。そのコンシェルジュというやつはそれがわかっちゃうのかと言いたくなる。本を求める人は、それぞれの理由があるだろうし、考えや感じ方もそれぞれ違うはずだ。それをちょっと話を聞いただけで、“この人にはこの本と”わかっちゃうものなのだろうか?そのコンシェルジュというやつが得意とする分野と違う本の内容のことを聞かれたら、どこまで答えるのだろうかと思うのだ。だからといって多くの分野を網羅するため、たくさんのコンシェルジュを置いているとも思えない。ましてこう不景気な時代だよ。人件費削減が当たり前の時代に、そういうことは考えにくい。ということは、せいぜい差し障りのないところしか言わないのではないかと思うのだ。だからこそそんなやつの意見がどこまで信頼できるかと思うのだ。あくまでも本を探す一つの手段と考えればいいのだろう。そうすればコンシェルジュという存在に腹を立てることもないはずだ。
 私に言わせれば、自分の読む本ぐらい自分で探せと言いたくなる。それでなくても今は昔と違い、本の情報などネットを使えばごろごろしているじゃないか。それも面倒で、自分で探すのも時間がかかるから、効率的に、薦めてくれる本読むのだろうが、大体本を読むこと自体“非効率”な行為なんだから、仕方がないじゃないかと思う。何度も失敗してみるもんだ。こんなことを書くと勝間和代みたいなやつは怒るんだろうな。でも本を読むスタンスが違うんだからしょうがない。

 さて、この夫婦、古本に関しての知識に飢えているものだから、熱心に店員の言葉に耳を傾ける。それがちょっとしたうんちくになっていて、この本を面白くしている。
 とにかくここに出てくる本はすごそうである。たとえ現代作家の初版本であっても、やはり英米文学の作家の初版本と聞くだけで、どこかたじたじになる感じがする。名前を聞いたことがある作家の初版本だよ。どんな装幀の本なんだろうと思うのだ。
 まして稀覯本となると、それこそ博物館におさめられて、防弾ガラスと何人かの警備員がいてもおかしくない本が、そうした古本屋さんにあり、手にできるのだからすごい。もちろんそうした本は値段も相当なものになる。
 ゴールドストーン夫婦が訪ねた古本屋さんにあまりにも値段が高いことに文句を言うと、「最高品質ということがすべてです。本の収集は完璧なものを探すこと、唯一無二のもに近づくことだから」と言い切るのだ。私など見てもなんの本かわからないだろうけど、話を聞いてその本を見るだけでも、目の保養になるよなぁと思ってしまう。
 また古本にもはやりすたりがあり、本来もっと評価されていい作家の本が、それほどの扱いされていないことを、ある古本屋さんは本にも旬があると言うのだ。そして「旬の本にはロマンスがある。古書業界はロマンスを売る商売だ。ときに業者はロマンスを演出するときもあるが、一般的にいうと、適当な本にはすでにロマンスが付随している」とも言う。
 確かに古本は時代を生き抜いてきたものだから、それだけでロマンがあるし、歴史がある。私が古本屋さんで探し歩き、手にした本でさえ、もうそれを手にしているだけで、ワクワクするのだから、ましてそれよりはるかに古い本であればなおさらだろう。

 最近はネットで簡単に日本全国の古本屋さんの在庫が確認でき、値段と相談で、そのまま購入することができるが、やっぱりこうして古本屋さんを歩き回り、目的の本以外のお宝があるかもしれない。そうした楽しみはネットでは味わえない。時には思いもしなかった発見があるのも、やっぱり古本屋さんを歩くことだろうと思う。だからこの夫婦の古本屋さん巡りは楽しいだろうなと思った。


評価
★★


書誌
書名:古書店めぐりは夫婦で
著者:ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン 浅倉 久志【訳】
ISBN:9784150502348
出版社:早川書房 (1999/09/15 出版)ハヤカワ文庫NF
版型:342p / 15cm / A6判
販売価:777円(税込)

2009年09月14日

田中栞著『古本屋の女房』

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 著者が大学時代本屋でアルバイトをしていたときの、一般文芸書担当の人が偶然著者の実家に近くで古本屋を開業した。店名は“黄麦堂”という。以来黄麦堂は著者のお気に入りとなり、結局再婚するに至り、はれて古本屋の女房となった。この本はそんな“黄麦堂”の日々を、著者の育児と仕入れをつづったものである。

 どうやら著者の仕入れのラインアップは見ていると、“黄麦堂”はごく普通の街中にある古本屋さんのようである。つまり格式高い専門書を扱う古本屋さんではないようだ。だから売れ筋のコミック、ボーイズラブ(女性向けの小説や漫画で10代の少年、特に美少年の同士の間での恋愛もの、いわゆるホモもの)ハーレクイーン、フランス書院文庫(エロ小説)、時代小説などが仕入れる本として必ず書かれる。と言うことはこの手の本を簡単に仕入れるにはブックオフがもってこいなのである。だから全国各地仕入れ先に必ずブックオフが登場する。そこでセドリを行うわけだ。
 セドリとは古本屋さんが他の古本屋さんで自分のところで売る本を買い入れることである。古本屋さんが古本屋さんで本を買うわけだから、いわゆる社員割引なみたいなあるかというか、そんなものは一切ない。売値で買ってくるのである。できるだけ安いやつを見つけてきて、それに自分のところの利益を乗っけて、売るのである。
 この本は著者が何かの用で全国各地を訪れるとき、ついでに自分の欲しい本と店用の仕入れを「趣味と実益」を兼ねた古本屋行脚である。それを面白くしているのは著者が二人の子供を連れて、古本屋巡りをすることである。それがこの本の特色かと思う。ベビーカーを押しながら、むずがる子供なだめ、仕入れをする光景など、そうそうないだろうから、それがかえって珍しいく、面白い。子供連れだとトイレの問題がある。ところかまわず、「おしっこ」、「うんち」となる。だいたい古本屋さんにはお客用のトイレなどないのが普通である。だからわざわざ断ってトイレをかりるはめになる。またブックオフに頻繁に行くものだから、子供の方が、「本を売るならブックオフ♪」という歌を覚えてしまい、鼻歌にしてしまうくらいなのだ。
 しかしこのセドリは古本屋には嫌がれるという。だっていくら売値で売れても、下手をすれば売れ筋商品をごそっと持って行かれる可能性も充分ある。それはブックオフでも同じ。だからあからさまに大量に本を買うと、同業者だなということがわかり、「ご遠慮願いませんか」と言われるという。で、仕方がないので大きくなった娘さんを使って、仕入れをさせるという。
 しかし知らなかったなぁ。ブックオフにもゴールド会員のカードがあるなんて・・・。この本によると、これはブックオフで5万円以上買わないともらえないものらしい。このカードを娘さんが持って、本を買うというのには笑ってしまった。

 この本がほのぼのと感じさせるのは著者のイラストである。子供たちが古本屋さんにいるときの姿がかわいらしく描かれている。なかなかうまいものである。
 しかしこの“黄麦堂”の商品のために、著者の全国古本屋での仕入れ模様を読んでいると、特にその仕入れ内容を見ると、この古本屋の危うさを感じる。大丈夫なんだろうかと思ってしまい、そして最後に“やっぱりな”となってしまう。だいたいその仕入れがブックオフを頼りにするところは、どうしても不安を感じる。
 昔、インターネットで古本屋さんを始めた人の本を読んだことがあるが、ネット販売だから店舗を持つ必要がない。必要なのは警察に古物商の届を出すぐらい。後はどうやって仕入をするかである。それをこの人は各地のブックオフで仕入をし、自分のところの商品としてアップするのである。確か簡単な損益計算書みたいなものが掲載してあって、それを見るとせいぜい“小遣い稼ぎ”程度の利益しかなかったはずだ。
 もちろんこの“黄麦堂”は古本屋として店舗を構えているれっきとした古本屋さんだから、小遣い稼ぎとはわけが違うだろうが、ブックオフでのセドリに頼るところは、やっぱりまずいんじゃないかなと思わせる。
 さらにそのセドリを奥さんにやらせるところは、どうなんだろうと思う。旦那の方は他の仕事があって、そうした仕入ができない事情があるのだろうが、なんか奥さんの方がたくましく生きていて、旦那の方はそれに頼っている感じがしてしまう。
 実際問題、売上が低迷して、生活費さえ家に入れられない状態に陥るし、店をたたむときの旦那の対応は、まさに世間ズレしていない、浮世離れしたところがある。いいように業者にお金をふんだくられる。最後は結局こうなるのかと思いつつ、この本は終わる。
  結局“黄麦堂”はインターネット専門の絶版文庫販売の古本屋さんになっている。これだって余計なことかもしれないけれど、このご旦那にやらせているといつまで続くのかなと思ってしまう。ここでも単に本好きと商売とは違うということを思い知らされる。

 本自体、装幀も凝っているし、イラストもいいと書いた。また著者が校正のテクニック持っているので、その道の多くの人にこの本の校正を手伝ってもらっているようで、かなり手間暇かかっているらしい。が、その割には内容のてんまつが貧弱だったのは寂しい限りだ。


評価
★★


書誌
書名:古本屋の女房
著者:田中 栞
ISBN:9784582832426
出版社:平凡社 (2004/11/04 出版)
版型:217p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年09月12日

吉村昭著『お医者さん・患者さん』

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 この随筆ちょっと期待したところがあったのだが、どうも期待はずれであった。私が期待したこととは、吉村さんが医者や患者を実際問題、どう考えているかということである。確かに吉村さんによる医者というもの、あるいは患者たるもの、こうあるべきだと書いてはあるのだが、どうも私には一般論としか読み取れなかった。

 ということで、ここは本から離れて、今の私が病気である患者(自分)が医師をどう考えているか書いてみる。その前にこの随筆に「医師は、医師である以前に人間でなければならないはずである。それも人間の生死をあずかる職業人だけに、高度な人格をもつ人間であることが要求される」と書かれていることから始めたい。
 この論理はおそらく大方の日本人が持っている意識じゃないかと思う。そしてそこから医師はそうであらねばならぬ、という思いに変わっていく。図式で書けば医師=人格者=名医ということだろう。そこから医師は人格者であるから、どんなときでも自分のことより患者のことを最優先に考えなければ医師じゃないということになっていく。しかしこの考え方は患者の優位性を自己主張させることになる。つまり自分は病人で弱者であるから、当然それなりに扱ってくれなきゃ困るという考えが生まれてくる。医師は人格者なんだから、そのように扱うのは当然というものである。ここにモンスターペイシェントが生まれる背景があるような気がする。そうしてモンスター化した患者は、医師は病気を治して当たり前という考えが頭から離れない。自分の病気がなかなか治らなければ、今度はその医師に藪医者というレッテルを貼り、吹聴するのだ。
 実は私もちょっと前までそうであった。しかしここ数年胃腸で通院し、最近はぎっくり腰、そして歯医者と病院通いが続くと少しずつ考えが変わってくる。特に胃腸に関してはその思いは複雑だ。私はこの病気で三回、病院を変えてきた。病院を変えた理由は簡単である。“治らない”からだ。やりたくもない検査をやって、複数の薬を毎日飲んでも一向に良くならなかったからだ。その結果、その医師はダメだということになり、その医師は力不足と思ってきたのである。違う先生のところへ行けば、もっと良くなると思うのである。そこには病院に行けば病気は必ず治るものだという考えがあるからである。
 でも最近はそうじゃなくて、病気は治るものもあれば、治らないものもあるんじゃないか、と思うようになっている。それは諦めみたいなところもあるけれど、どうしようもない状態だってあるのではないか。だからあとは、少しでも気分が良くなるような状態が維持できるようすればいいのではないか。

 医師は病気というものを必ずしてくれるものではないということを感じ始めたのである。あるいは薬は完全に病気を治してくれるものじゃないのではないかと思い始めたのである。断っておくがそれは医師の力とか薬の効能にいちゃもんをつけているんじゃない。ここは素人の考えだけど、多分病気から治ろうとするのは自分の身体であって、医師の力とか薬とかはあくまでもそうした自己回復力をサポートするものなのではないかと思うようになったのである。
 そして自分の身体の回復力が衰えていたら、治りは遅いか、あるいは治らないというか、以前のようにはなれないと思うようになってきた。そうなのだ。自分の身体の衰えや老化、生活環境、生活習慣などを差し置いて、病気が治らないというのはおかしいんじゃないかと思うようになったのだ。
 人間歳をとれば体力も落ちるし、身体のあちこちにがたが来るのは当たり前である。そのように酷使してきたんだから当然である。それで治らないと言ってしまうのはおかしな話だろう。人間の身体はパソコンのパーツをスコンと丸ごと変えて、元の状態にするのとはわけが違う。死ぬまで自分の身体と付き合うしかないのだ。衰えたら衰えたなりに付き合っていくしかないのである。調子が悪いなら、悪いなりに付き合って行くしかない。生活環境など変えられれば、多少違うかもしれないけれど、そうそう今生きている環境を変えることなどできない。無理をしても生きていかなければならないのだから仕方がない。
 となればあとはどうやって自分の身体と折り合いをつけていくか、それしかない。その上で以後どうしていくか、それを考えてくれる医師が信用できる医師なんじゃないかと思うようになってきている。

 今通っている胃腸の科の先生ははっきりとそのことを言ってくれた。だからあとは日々いかに少しでも楽に過ごすことができるか、それを薬でサポートしようということに、私の場合なっている。だから今後いくら病院を変えても、多分意味がないのだろうと思っている。
 歯医者にしてもそうであった。やっと自分が安心して任せられる歯医者さんが見つかって、ホッとしていたところ、その歯医者さんが廃業された。このあとどうすればいいのか途方に暮れ、今日まで来てしまった。当時先生から厳しく言われていた日々のケアを怠らなかったので、幸いにも以後歯痛に悩まされることはなかったが、差し歯のぐらつきはどうしようもない。ネットいろいろな歯医者さんを検索しているうちに、その先生がまた歯医者さんを開業したことを知り、メールで連絡を取れば、すぐ来なさいと言ってくれた。
 そして差し歯を直してもらい、また問題のあるところを治療してもらうことになったのだが、そんなことはちっとも苦じゃなかった。それよりまた自分の歯をこの先生に診てもらえるというだけで、安心であった。
 胃腸科の先生にしても、歯の先生にしても、その技量は個人的に絶大な信頼を置いているけれど、それよりこんな私のことでもきちんとサポートしてくれるという安心感が今の私にはある。それで気持ちが楽になる。それが人格者云々のなせるわざと言うのだというなら、それでもいいけれど、でもそんな大上段に構えた言い方はあまりしたくない。むしろ先生の方は淡々と治療されているだけじゃないかと思うし、それでいいのではないかと思うのだ。弱っている患者は投げかけられる言葉の一つ一つに過剰反応をしてしまう。対応如何でえらいことになる。そう考えると医師という
職業は大変だ。でも医師=人格者=名医という考えは間違いなく患者の奢りのような気がする。

 今日は変な文章になっちゃったな。何度書き直してもいい感じになれない。書かなきゃよかったかな?


評価
★★


書誌
書名:お医者さん・患者さん
著者:吉村 昭
ISBN:9784122012240
出版社:中央公論新社 (1985/06 出版)中公文庫
版型:221p / 16cm / 文庫判
販売価:619円(税込)

2009年08月29日

北尾トロ著『ぼくに死刑と言えるのか』

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 トロさんの新しい裁判傍聴記をお店で見かけたので、さっそく読んでみる。この本の最初にトロさんは次のように言う。

 初めて裁判を傍聴してから、かれこれ6年になる。その間、ぼくが好んで見てきたのは、新聞にも載らないような小さな事件の数々だった。有罪になってもせいぜい刑期が3年とか5年で、ときには執行猶予もつくレベルのものだ。

 そうだった。そんな小さな事件だったからこそ、その犯罪を犯した被告たちも人間的にその程度人間で、だからこそ茶々も入れられるし、呆れて笑えたのであった。そんな事件の裁判だからこそ、裁判そのものがコメディーにもなっていて、読む方はそれが面白かったのだ。
 ところが前振りでトロさんが今までの傍聴した事件をわざわざこのように言うのは、今回は違うと言いたいがためである。今回は自分が裁判員制度のよって裁判員に選ばれた場合、どう対応したらいいのか。そのための準備として、今度は殺人事件のような重大事件の裁判を傍聴してみようというのが、今回の企画である。
 まあ企画はいい。ところがトロさんの態度が今までのトロさんとはまったく違う面を見せる当たりは少々驚いた。

 「おいおい、どうしたんだ!」

 「今までのようにびっしと言ってやれ、こいつはやっていると!」

 「何ゆれてんだ!」

 確かに今回は今までのようなせこい事件じゃない。殺人事件である。場合によっては無期、死刑だってあり得る裁判である。また自分が裁判員になったと思ってシミュレーション的に裁判を傍聴している。だからトロさんは検察、弁護士、あるいは証人、被告の意見をじっくり聞いている。今までのような被告のいい加減な態度で「こいつは懲役5年だな」と勝手に刑期を決めるわけにはいかない。
 まして被告が事件を否認していて、見方を変えることによってどうにでも解釈できる事件は、そう簡単に有罪か無罪か、あるいは無期か死刑か言うのは難しいだろうなとは思う。有罪だと言うためには、確信が必要なのだ。確信なしに有罪と言うことに、かなり抵抗を感じてしまう。人間の心理として、迷いがあると言いにくくなるのだ、とトロさんは言っているが、まさにその通りだろう。
 しかも傾向としてトロさんは被告人に肩入れしがちなところがある。その上情にもろい。被告の父親が涙を見せて謝罪するのを聞けば、自然と涙腺がゆるんでしまうというくらいなのだ。
 いくら有罪判決を下す意味は重いからといって、裁判員制度では3名いる裁判官のうち最低1名が有罪としないかぎり、裁判員全員が有罪だとしても、その通りにならいというシステム(無罪は別で、裁判官、裁判員含めて、多数決で決まるらしい)があっても、ここで自分の意見を確信を持ってはっきりと言えるのはかなり難しい。だってそこで今後の人の一生が決まってしまうのだから余計であろう。だからトロさんも真剣にならざるを得ない。
 トロさんは裁判員制度による模擬裁判にも参加している。その時同じように参加していた人はびっくりするほど自分の意見にこだわり、曲げようとしなかったという。それはいい加減なことを口にしてただその場をやり過ごし、後で後悔したくないという意識が働いたんじゃないかとトロさんは言っている。

 そうだろうな。

 はっきり言って裁判員なんかに選ばれたくはない。だけどもし選ばれちゃって逃げようがないなら、いい加減なことは言いたくない。きちんと意見を聞いて判断したいと思うのは当然であろう。野次馬的に「こいつは死刑だ!」と簡単に言うわけにはいかない。
 裁判員制度では刑が重くなる。あるいは死刑判決が多くなるんじゃないかと言われている。それは今までの裁判が判例主義の基づいて、市民感情を反映していないからだと言うことなのだろうけど、でもトロさんの言うことを聞いていると、そう簡単に人を死刑にすることはできない気がしてくる。感情があるからこそ逆に、死刑を回避できないだろうか。または死刑という決定を自分の中で持ちたくないという意識が普通の人間なら働くはずである。だから巷で言われているような刑が重くなる、あるいは死刑判決が多くなると言えない気がする。もちろんそれは判決の結果であって、その統計をとって言えるわけであって、しかもそれはたまたま統計を取ったらそうなったということなんじゃないかと思う。基本的にいくら裁判であっても人を殺したくないはずだ。

 一方で被害者の家族や遺族はそうじゃないだろう。被告が何人殺したって、大切な家族が殺されれば、被告を死刑にして欲しいと思うのは当然である。殺された家族の悲しみから、自分たちの気持ちを少しでも癒そうとするには、被告を恨むのが一番手っ取り早い。そしてたぶん人はそうすることで人の死から癒されようとするのだろう。だから二人以上殺せば死刑というのでなく、一人でも大切な家族が殺されれば、その償いとして死刑を望むのだ。非常な言い方かもしれないけれど、被害者家族が被告に死刑を望むのは、結局自分の悲しみから少しでも開放されることを望んでいるからだ。それを望めば少しは気が晴れるからである。死から癒されるからである。
 でも殺されたという事実はそこにあるわけだから、それはどういう形であれ償ってもらわなければ、社会が成り立たない。私はこの本を読んでいて思ったのは、日本の裁判は被告の更正を最優先にしているんじゃないかと思うのである。その可能性が少しでもあれば無期もしく有期刑なのだ。刑務所で更正しろというのだ。そしてその望みがまったくない場合死刑となる。けれどそうじゃないだろうと思う。まずは罪を償うことが先だろう。そう思うのだ。更正させるのはその次である。絶対に罪を償わなければならないという意識を持たさなければならないと思うのだ。そうでなければ被害にあった家族や遺族はやりきれない。私は遺族や家族が被告に対して死刑を望むのは極めて自然な姿だと思っている。


評価
★★


書誌
書名:ぼくに死刑と言えるのか―もし裁判員に選ばれたら
著者:北尾 トロ
ISBN:9784904676011
出版社:鉄人社 (2009/07/30 出版)
版型:255p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年08月20日

吉村昭著『昭和歳時記』

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 この文庫は平成8年に出版されているようだが、13年経った現在ではもう手に入らない状態になっているのは驚きである。確かに電化製品の部品が約5年から10年ほどでなくなる時代だから、13年経ってこの文庫本が手に入らないのは仕方がないのかもしれない。
 さてこの本は以前読んだ吉村さんの『東京の下町』の姉妹編である。書名に『昭和歳時記』といっている以上、昭和にあった風物詩がここでは描かれるが、その殆どが今、姿を消しているといっていいかもしれない。
 いやそれ以前に1955年(昭和30年)から1973年(昭和48年)の高度成長期が、それまであったものを時代遅れのものとして捨てていき、それが忘れ去られていったのではないかと思う。
 吉村さんは「衣服その他身につけるものは、明治、大正から昭和にうけつがれてきたが、昭和三十年頃に一挙に消え去ったものが多い。それは蚊帳が家庭から姿を消したのと一致している、と、なんとなくそんな風に思っている」と言っているところからも、それに間違いはなさそうである。
 ただいつも思うのだけれど、私の生まれた昭和31年はまだその高度成長期が始まったばかりだったから、自分の子供の頃にはまだ戦前・戦後の風物詩が多少残っていたのではないか。それが私の記憶にあるような気がする。しかも私は東京の下町育ちなので、高度成長期の波がまだここに全部きていなかったのではないか。だからここに書かれる風物詩を共有できるところがあるのである。
 もちろん昭和2年5月1日の生まれの吉村さんのように戦前・戦後を体験してきたわけじゃないから、私の記憶にあるのは戦後残されたものの一部というところだろう。

 一時“昭和ブーム”みたいなところがあって、そのレトロ感が郷愁を誘うような風潮があった。まぁ、平成元年生まれ私の息子が今年の1月に成人式を迎えたのだから、昭和が終わって20年経っているわけで、郷愁を誘うものになっても不思議じゃないかもしれない。
 ただ吉村さん「人間はとかく過去を美化しがちだが、『古き良き』などと軽々しく言ってもらっては困るのである」とそういう風潮に釘を刺している。過去がすべて古き良きものであったはずがなく、不便で非衛生的で、汚い部分もあったはずで、現代の方が圧倒的に社会生活が快適になっていると言っているのである。こういう客観的な比較がきちんとできて、この本は書かれているので、手放しで“あのときは良かった”と言われないところが読んでいて心地よかった。
 昔を振り返るとき、今から比べればおもちゃみたいなものであっても、必ず郷愁というものがそれを美化してしまうところがある。確かに何でもかんでも機械にやらせる今の道具から比べれば、この当時のものは基本的にマニュアルだったからどうしても人間の手や力がどこかで及ぶ。それを人間的だと勘違いする言い方は基本的に私は気にくわない。どう考えたって、今の方が便利はずで、その方が便利なら、あるいは楽だと思うなら、はっきりとそういえば言えばいいと思うのだ。
 私はそういうことを言う輩が、一昔前に戻ったら、果たしていつまでそれに堪えることができるだろうかと思う。当時が“良かった”というのは、視点を現在に置いているから言えるのであって、本当に当時は良かったのかどうかはまた別問題だったろう。当時はそんな方法しかなかったから、そうしていただけであって、もっと改良の余地があればそうしていたに違いない。限界がそこまでだったから、そんな粗末な(今から見れば)もので済ませていただけのことである。それを今復活したところで快適になれるはずがないと思う。
 確かに何でも過ごしてきた時代を懐かしむことはある。それはそれでいい。けれどそれを美化だけする傾向はおかしいと私も思う。ノスタルジーは所詮ノスタルジーである。それだけである。


評価
★★


書誌
書名:昭和歳時記
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169312
出版社:文芸春秋 (1996/10/10 出版)文春文庫
版型:270p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年07月31日

ジャック・ジョーンズ著『ジョン・レノンを殺した男』〈上〉〈下〉

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 この本は映画『チャプター27』の原案本である。訳者のあとがきによると、映画の方はこの本の上巻前半部分を使い、ジョン・レノン殺害にいたる3日間のマーク・デイヴィッド・チャップマンの行動に焦点を絞ったものだという。

 1980年12月8日、ニューヨーク・マンハッタン、ダコタハウスの前で、ジョン・レノンが5発の銃弾を浴びて殺害された。


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 犯人は世界一のジョン・レノンファンを自称するマーク・デイヴィッド・チャップマンであった。犯行の瞬間、彼が手にしていたのは、一丁の拳銃と『ライ麦畑でつかまえて』だった。


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 この本を読みたいと思ったのは、何故マーク・デイヴィッド・チャップマンはジョン・レノンを殺害しなければならなかったのか。それが知りたかった。確かにチャップマンが自分の心の中の“闇”を語る部分は興味深かったが、しかし読んでいるうちにだんだん吐き気を催すほどの怒りが私の中に生まれてくるのであった。
 それは自分が好きであったビートルズのメンバーであったジョン・レノンを殺したというファン意識からではなく、チャップマンが単に“ちやほやして欲しい”だけであって、そこには自己中心的で、被害妄想の塊であり、逃避癖がある人間でしかないことの怒りであった。彼は自分のすることにいつでも“正統性”を求めるだけの人間でしかなく、自己の中にある矛盾から自家中毒を起こしているだけの人間でもあった。そしてターゲットにされたのがチャップマンが子供の頃に憧れたビートルズであり、ジョン・レノンだったのである。
 チャップマンはビートルズというものが単なるミュージシャンであることをやめて、何百万ドルという規模の金を動かす一大事業になりはじめ、愛と平和をめぐる無垢の歌を自分たち個人の富と権力を求める堕落した強大な事業のために利用したと思い込んでいた。 それを偽善と考えたのである。チャップマンはそうした偽善がさまざまな問題の根源であり、さらに深刻なことにそうした偽善こそが自らの苦痛の原因にもなっているとチャップマンは考えていたのであった。
 チャップマンの友人が「マークがジョン・レノンの『イマジン』をあれは共産主義者の歌だと言っていたのをぼくは覚えています」と証言しているし、「そして、ビートルズがキリストより人気があるというあのレノンの発言には、彼は本当に頭に来てましたね」とも言っている。
 実際チャップマンが「天国もない宗教もない世界を想像してみろ」というレノンのメッセージが神への冒涜だとして『イマジン』を罰する抗議運動に参加していたし、彼はときには週に何度も宗派の祈祷集会やデモ行進に参加して、自らレノンの歌『イマジン』の預言めいた歌詞をつけて「ジョン・レノンが死んだと想ってごらん」と替え歌にして歌っていた。
 まぁこういうギャップに対して腹を立てるほど純粋だったと言えば言えそうだけど、そういうのっていつでも、どこでもある。現実は理想とは違うのだ。そのくらい分かれよと言いたくなる。

 しかし私がこのチャップマンに吐き気を催すほど怒るのは、そういうことじゃない。自分のやったことの正統性を主張するところが腹ただしいのだ。例えば何故ジョン・レノンを殺害に至ったのか、その説明を次のように言う。

 チャップマンは「自分が二十五歳の大人の男だが、いまだに子供の感受性を持っている」と言う。もっと彼の言うことを詳しく書くと、次のようになる。

 マーク・デイヴィッド・チャップマンは当時25歳という大人とホールデン・コールフィールド(サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)と同じ16歳の子供の内面を持っていたと言う。そしてジョン・レノンを殺したのはレノンが自分のヒーローであったその子供であるというのである。

 子供は自分の新しいおもちゃで遊びます。ところが、ある日、その新しいおもちゃを片づけようとして箱を開けると、もう何年も昔に遊んだおもちゃが出てきました。かつては自分のヒーローでしたが、いまはその面影もありません。子供はそれを見せかけの大人、偽りの大人に見せました。彼は言いました。「見てくれ!ぼくのおもちゃだったのに何だ、このザマは!」そして彼は癇癪を破裂させるのです。
 そして大人はなすべきことを知ったのです。大人には銃の知識がありました。飛行機の乗り方も知っています。お金を手に入れる方法も知っています。そうやって大人と子供はある種共謀をしたのです。自分のアイドルに対する子供の苛立ちと憤り。それは変わり果てたおもちゃに対するものでした。

「ダメだ!ダメだ!ダメだ!ダメだ。ぼくはヤツを殺したいんだ。ヤツをブッ殺してやりたいんだ。ヤツはぼくのものだ!ぼくはヤツの命が欲しいんだ!」

 ぼくは彼の背中に狙いを定めました。引き金を五回引きました。するともう頭の中は堰を切ったような状態になってしまいました。
 さらに「ぼくは自分がとてつもなくつまらない人間だという気がしていました。ですから、出かけていってその惨たらしい行為をすることで世の中がぼくを何者かにしてくれるのだというのは、ぼくにとっては、ひじょうに魅力的なことだったのです」と言うのである。
 つまり彼はジョン・レノンを殺害することで、人に相手にされない人間から、ジョン・レノンを殺した人間としてまた生まれ変わったとしてひとかどの人間(somebody)になれたことに満足するのである。
 というのも彼は絶えず人から自分の存在を認めて欲しいという願望が強かった。人にとって自分は意味ある存在であることいつも求めた。そこに自己満足を見出していた。
 実際彼はハイスクールを卒業した1973年からコヴェナント・カレッジに入学する1976年までの間、チャップマンはYMCAの国際的な特使として中東を旅し、歴代のふたりのアメリカ大統領と握手を交わしている。彼はまたジョージアでの恵まれない子供たち相手の仕事やヴェトナム戦争による難民のための仕事を評価される栄誉に浴している。レバノンのベイルートでは自分のいるすぐ近くの街路で勃発した内乱のさなかから生き還ってきた。それがチャップマンの栄光の時代でもあった。
 そういう体験をなまじしているものだから、いったんそうしたところから落ちてしまうと、こういう人間は弱い。何せ他人を通してしか自己を見出せないのだから。彼はその後精神的に病み、自らを次のように言うのだ。

 「ぼくは自分のいろんな問題から逃げて、自分を孤立させるという大きな過ちを犯してしまいました。
 自分を世界から切り離してしまうと、自分独自の世界を作り出さなきゃならなくなります。ぼくがやったのは、それだったんです。ぼくは自分の世界を編み出したのです。自分自身の中に引きこもり、もはや生きていく理由すらなくなってしまいました。ぼくはどんどん外の世界を遮断して、閉じこもり、パラノイアになっていきました。ますます敏感になり、傷つきやすくなっていきました。人間嫌いになりはじめ、みんなを軽蔑するようになりました」

 その時彼がやったことはけちくさい脅迫電話や、自分の妻に暴力を振ることだけだった。他人には何もできない人間であった。所詮その程度の人間なのである。後はそういう気持がどんどん鬱積しさえすれば、大きな力となり、あと何かの力が後押ししてくれれば大事件となる。彼の場合はジョン・レノン殺害であった。

 さらに腹立たしいのは、ジョン・レノン殺害に自ら怯えるに当たり、今度は自分が愛読してきたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の普及を自分の裁判で主張することで、罪悪感に対処していくのである。この本はいい本だから是非皆さん読んでくださいねとひたすら言うことが自分の使命と思い、自分が感じる怖れや罪悪感とすり替えていくのである。自らを「ライ麦畑の補導員」と称するのである。
 ちなみに『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドは、今でいう“おちこぼれ”で、学校の寮を飛び出し実家に帰るまでニューヨークを3日間ぶらぶらする話なのだが、自らの夢を「自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい」と語り、それがこの作品の主題ともなっている。チャップマンはホールデン・コールフィールドが語る夢の人を「ライ麦畑の補導員」と言っているのだ。

 こうしてこの男は自分を美化し、問題をすり替えて行く生き方しかできなかった。そういう人間だったのである。またそういう人間に限って被害妄想が激しいときているからたちが悪い。そして彼らを精神病者に仕立てていく輩がいるのである。精神鑑定家ってやつだ。何でも加害者の生い立ちや育ってきた家庭環境などに原因を求めるのだ。そしていつの間にか責任をどこかに吹っ飛ばしてしまうのだ。
 この本の下巻はそういう話でいっぱいである。チャップマンの育った家庭環境や生い立ちからジョン・レノンの殺害に結びつく何かを捜そうとするのは結構だけれど、私から言わせれば「だから?」と言いたくなる。むしろジョン・レノンのファンから出されたチャップマンへの手紙に「娑婆に出てきたら殺すぞ」という意見の方が、私としては自然のように思えるのだ。

 チャップマンは20年から終身刑の判決を受けていて、現在も釈放されていない。2008年8月12日、5度目の仮釈放申請を却下されている。ニューヨーク州当局の声明文によると、仮釈放は「公共の安全と福祉に与える影響を懸念して」認められなかったと言っている。


評価
★★


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈上〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055134
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:332p / 15cm / A6判
販売価:749円(税込)


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈下〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055141
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:370p / 15cm / A6判
販売価:800円(税込)

2009年07月29日

村上春樹著『遠い太鼓』

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 この本は買ってからすぐ読んだはずである。しかしこれといって記憶に残っているものがなく、自分の本棚を見ていて、村上さんがギリシア、イタリアに滞在されていた頃のことが書かれていたんだと思い再度手に取った。
 村上さんは1986年から1989年の3年間に、ギリシア、イタリアで過ごす。この時村上さんは『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』の長編を書くためにここに来ている。つまり観光ではなく、あくまでも小説の執筆のためこの地に来ていたのである。だから私が期待する紀行文とは少々趣を異にする。もともと村上さんは自ら「だいたい僕は遺跡というものに興味がないのだ」と言っているので、そうした観光を期待していると裏切られる。
 例えばアテネ。村上さんはアテネを次のように書く。

 アテネといえば人口三百万を数えるギリシャ随一の都会(これは実にギリシャの総人口の三分の一近くに相当する)ではあるけれど、観光客が通常動きまわるエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない。たいていの歴史的遺物は歩いて行ける距離にあるし、ごく控えめに言っても三日あれば目ぼしいものは全部見て回ることができる。この街は大昔ポリスのまわりに、まるで磁石に鉄屑がくっつくように近郊住宅が付着して、そのまま無定見にぼわぼわと発展したような都市だから、観光客にとって興味ある場所ははっきりと中心部に限られているのである。だって近郊住宅地部分なんか見にいったってしかたがないから(たとえばあなたが東京に来た外人観光客だとして、ひばりヶ丘だとか多摩プラーザだとか西国分寺だとかわざわざ観光に行きますか?)普通の人はアクロポリスに登って、プラーカでレッツィーナを飲んでムサカを食べて、町をぶらぶら歩いて、土産物屋をのぞいて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカビスト山からアテネの夜景を見て、その後時間と興味のある人は国立考古学博物館を見物して、それでおしまいである。

 と素っ気ない。

 ただイタリアの“いい加減さ”が面白く書かれる。特にローマでの生活事情は日本とはかなり異なるため、読んでいてやはり呆れてしまう。村上さんの友人が「なにしろローマって二千年がかりで腐敗しつづけているような都市だからね、腐敗にも年季がはいっているんだ」というくらいだから、並大抵のことじゃないみたいだ。
 ローマの駐車事情もかなりひどいようだ。路上駐車は当たり前。少しでもスペースがあればなんとかしてそのスペース車を入れる。もちろんぶつけたってまったく気にしない。そもそもバンパーなんていうものはぶつけるためにあるもんだと考えている。二重駐車なんていうのも日常茶飯事みたいだ。
 つまり駐車場がローマにはないのだ。「どうして存在しないかというと、まずだいいちに街そのものが狭いからである。狭い上に、建築物の規制が厳しいから、現代的な駐車用のビルなんて建てることができない。街中の建物はほとんどが歴史的建築物みたいなもので、言うまでもないことだが、歴史的建築物にはもともとガレージなんてついていない。
 それから地下を掘り下げて駐車場を作ろうとしても、これがなかなか作れない。少し地面を掘るとすぐ何かの遺跡が出てくるからである」らしい。

 なるほど!

 また泥棒にも頻繁にあう。観光ガイドブックには「注意しなさい」と書かれているけれど、それは「世界の何処でも同様である」、「常識を働かせればいいのです」くらいのアドバイスではすまない町みたいだ。「ここではどれだけ注意しても、どれだけ常識を働かせても、それを越えた災難がちゃんとふりかかってくるのだ」という。「私は断固『冗談言っちゃいけない』と思う」と言い切る。タクシーだって料金をかなりぼるみたいだ。
 私はイタリアにはあこがれるけれど、今もこんな状況だと勘弁して欲しいなと思う。そういえば以前読んだ井上ひさしさんのイタリア紀行文にも、空港に着いたとたん旅行バッグを盗まれたことが書いてあったから、状況はそう変わっていないのかもしれない。
 泥棒やスリなどに注意しながら暮らす生活は疲れるし健全じゃないと言う村上さんの言葉はまさにその通りだと思うので、なんとかならないのかなと思う。もっともこれがすべてではあるまい。真っ当なイタリア人だっているはずだし、この本ではそういう人たちのこともちゃんと書かれている。
 そうした人たちを通して、村上さんがいたイタリア人とギリシア人との比較論が面白かった。

 僕の見聞したかぎりではギリシャ人というのは比較的混乱しやすいタイプの人種である。なんとかうまく物事をこなそうという意志はあるのだけれど、すこし事態が込みってくると収拾がつかなくなって混乱し、ある場合には怒り始める。またある場合には落ち込んでしまう。こういう点ではイタリア人と正反対である。イタリア人は始めから物事をうまく処理しようという意志が希薄なので、それがうまくいかなくても殆ど混乱しない。

 へぇ~そうなんだ!

 この本を再度読み直して感じたことはこの程度なので、結局昔読んでそのままにしてあると記憶に残らなくてもしかたがなかったかなと思った次第だ。


評価
★★


書誌
書名:遠い太鼓
著者:村上 春樹
ISBN:9784062033633
出版社:講談社 (1990/06/25 出版)
版型:497p / 21cm / A5判
販売価:1,890円(税込)

2009年06月29日

吉村昭著『死顔』

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 今まで吉村さんの随筆と歴史小説は読んできたのだが、今回短編小説を初めて読んでみる。今回の本は私小説風のものが四作と短編の歴史小説が一作収録されている。「死顔」と「二人」は似ていて、多少趣を変えて書かれたといった感じだ。
 そしていずれも「死」をテーマにしたものばかりだ。この本の帯にもあるように、吉村さんの自らの「死」を覚悟して書かれたもののように感じることができる。

 「死顔」と「二人」は似ていると書いたが、短編小説としては「二人」の方がいい作品になっているように思えた。「死顔」は同じ兄弟の死を扱っているものの、どちらかと言えば、吉村さんが自分の死の迎え方、あるいは死後の家族の対応を遺書みたいな感じで書いてあって、そのことで、この作品はは失敗じゃないかなと思えた。つまり小説にするものではなかったような気がするのである。
 例えば、「死顔」では幕末の佐藤泰然の死の間際のことを次のように書いている。

 幕末の蘭方医佐藤泰然は、自らの死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。

 だから自分も延命治療は望まないし、葬式も家族だけの密葬を望んだ。確かにそのあたりは吉村昭さんらしいなと感じるし、むしろ吉村昭さんならそうあって欲しいと思っていた。
 司馬遼太郎さんみたいなメジャーな歴史小説家ではなかったけれど、独力で地道に取材を重ね書かれる重厚な歴史小説家であっただけに、その意志の強靱さは、最後はそうさせるだろうと思わせた。
 奥様の津村節子さんの「後書きに代えて」には癌との壮絶な闘いが記されているけれど、最後は「夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけた来た娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を引き抜いてしまったのである。私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという」と書かれている。まさしく佐藤泰然が死の間際にとった態度を地でいったようである。
 今まで何冊か吉村さんの随筆を読んでいて感じたことであるけれど、吉村さんの生き様には自分のことで「人様にご迷惑をかけぬよう」というところが至るところで読み取ることができた。だから自分の死も生前から佐藤泰然の死に方をそのまま置き換えていたのだろう。
 それでなくても学生時代結核を患い、辛うじて生き延びてこられた吉村さんである。きっといつも自分の「死」について考えてこられたのではないかと思うのだ。
 ただそうした「死」に対する個人的考えを多く入れてしまったため「死顔」は小説としては駄作としてしまった感が否めない。個人的には先に言ったように同じ兄弟の死を扱った「二人」の方がいい小説に思えた。

 翌日の夜、ウイスキーの水割りを飲んでいると、兄から電話がかかってきた。
 兄も酒を飲んでいるらしく声がはずんでいる。
 「とうとう二人きりになったね」
 兄は、感慨深げに言った。
 「そうですね。お互い体を大事にしましょうよ」
 私は、明るい気分になって答えた。
 兄は、あらたまった口調で、
 「今さらこんなことを言うのも変だが、人は必ず死ぬものなんだね。兄や妹、弟が八人いたのに、一人一人確実に死んでいった。残ったのは、あんたと私だけだ」
 と言った。
 次兄の死で同じことを考えていた私は、かすかに笑った。
 「どうだね、生まれた町の小料理屋にでも行って、二人で飲まないかね」
 「いいですね。ただ、この寒さじゃどうにもならない。桜でも開花した頃ですね」
 「そうね。そうしよう」
 兄は、じゃ、またと言うと、電話を切った。
 桜が開花した頃か、と私は胸の中でつぶやき、ゆっくりした気分でグラスを手にした。

 いい感じだと思いませんか。私はこの終わりが好きであった。


評価
★★


書誌
書名:死顔
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242314
出版社:新潮社 (2006/11/20 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月23日

東海林さだお著『トンカツの丸かじり』

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 日曜日に東海林さん本を読もうと決めたのだが、先週は村上春樹さんの本に夢中になってしまい、とてもじゃないが途中でやめることができずに、そのまま読み続けてしまった。そして今週はテレビの映画とドラマに夢中になり、本を読むどころじゃなかった。ということで月曜日までこの本を持ち越してしまった。そしてそうこうしているうちに、このシリーズ30巻目が出ちゃって、こりゃあやばいなと思い始めている。しっかり予定通り読まないと、下手したら今年中で読み終わらないかもしれない。
 というわけで、慌てて読み始める。

 が、つまらない。

 というか、もう三冊目で食傷気味になってきてしまった。毎度毎度同じパターンで繰りかえされる食に関するエッセイは飽きるものだとわかり始めた。正直なところこんなはずじゃなかった。これはまずい。いつもの読書の箸置きみたいな感じで読むならいいのかもしれないが、ノルマとして読んでやろうと目論む本じゃないのではないかと思い始めた。これは“日曜日の読書”を考え直さないといけないかもしれない。
 というわけで、この本を読んでいて「もう、いいや」と思ったのが正直な感想だ。次はちょっと時間をおいてから読もうと思っている。


評価
★★


書誌
書名:トンカツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022560759
出版社:朝日新聞社 (1989/11/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月12日

阿刀田高著『日曜日の読書』

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 この本昔新潮文庫で出ていた。今は目録を見るとないようなので、品切れ重版未定の状態なんだろう。で、私は親本をたまたまブックオフで見つけた。富士通経営研修所という聞いたことのない出版社から出ている。どうしてこんな出版社から阿刀田さんの本が出ているんだろうと思いつつ、はしがきを読んでみると、どうやらこのエッセイは講演集であり、もともと富士通の研修で行われた講演を一冊の本にしたようだ。
 どういうことかと言えば、当時富士通では四十五歳以上の社員は通称“四十五歳研修”を必ず受けなければならないらしく、それは元会長の命令らしい。趣旨は富士通の社員はコンピューター関連では優秀であるが、教養に欠けるところがある。だからもう少し文学、絵画、演劇、音楽、宗教等教養を深める必要があるということでこの研修が必修となったらしい。そして文学を担当したのが阿刀田さんである。
 ここでは堅苦しい文学講義をされたわけではなく、あくまでも教養という範囲内の話がされている。要は本をどう読めばいいのかということで、テキストにされたのが以下の作品である。

芥川龍之介 『羅生門』、『藪の中』
柴田翔 『中国人の恋人』
遠藤周作 『深い河』
阿刀田高 『新約聖書を知っていますか』
松本清張 『ゼロの焦点』
吉本ばなな 『キッチン』
大江健三郎 『飼育』
安部公房 『砂の女』
井上靖 『楼蘭』

 このうち『羅生門』、『藪の中』、『深い河』、『ゼロの焦点』、『砂の女』、『楼蘭』は読んだことがある。中でも『深い河』の阿刀田さんの解説では、「この小説には、遠藤周作自身が感じたであろうこと、すなわち、遠藤周作のように幼い頃からキリスト教の中にあった人であってもなおヨーロッパ人が考えているキリスト教に入ってゆくのはむつかしい部分があるという現実が非常に巧みに書かれていると思いました」という部分は私もそう感じたのであった。大津という神父を目指す人間が苦悶しつつ、日本人にとってキリスト教とは何かを問い続けた姿を見ると、まさしく阿刀田さんが感じた通りだ。
 あと井上靖さんの『楼蘭』も“あっ、そうか!”と思った。そこには「普通の小説では、事実を先に置いて、このような事実がありました。これはこういう事情だったでしょう、というふうなスタイルが多いのですが、この小説は全く逆の作り方で、不確かな王妃様の死の事情を先に置いて、最後にヘディンの発見という事実を示して、前の王妃の物語に現実性を持たせています」とある。確かにそうだ。そしてもう一つ井上さん作品で『敦煌』も同じスタイルだったんじゃなかったかなと思った次第だ。

 ここで面白いと思ったことを書く。大江健三郎さんの作品は難解だと阿刀田さんは言う。読みにくいとも言う。でもサラリーマンの読書として、大江さんの作品を難解だと言って途中で投げ出したってかまわないと言ってくれる。要は自分に合わない本なら、止めちゃたって、一向にかまわない。だって学者や学生の研究のために読書をしている訳じゃないのだからと言うのだ。読書を楽しみなさいというところだろう。私もこの意見には大賛成だ。ただ難解だといって一向にページが進まないのは悔しい部分はあるけれど。
 もう一つ面白いと思ったことはワープロに対する阿刀田さんの意見である。この本は阿刀田さんの作品紹介が最初にあって、その後質疑応答がある。この質疑応答は講義の内容に限定せず、文学に対する、あるいは小説家に対する富士通の社員の疑問点を受け付けている。
 そこで阿刀田さんが小説を書くに当たり何を使って書かれているかという質問がある。阿刀田さんは鉛筆で書かれていると言うが、昨今ワープロで文章を書かれる作家も数多くいることにふれ、ワープロを使うことで問題点を指摘する。曰く、「たとえば、ある言葉を求めると、頻度の高い言葉がいくつか並んで画面に出てくる。その中から選択するようになっている。頻度の高い言葉というのは、過去の統計から見て割り出されたもの」である。でも創作というのは「創造的な言語の使い方」が必要であって、それが欠けてしまうのではないか。
 曰く、「文学の研究の分野から言ってワープロ時代になると、生の原稿を基にして、作家の思考プロセスを判読する方法がなくなってしまう」。つまり生原稿の書き直し、書き加えは、どういう経緯でそういう文章になったかを読み取れるというのだ。
 さらに、ワープロで作品を書いているからか、最近の新人さんの小説は長いという。また主人公の名前が以前なら手で書くため字画が少ない名前だったのだが、ここのところ手間のかかる、例えば“麗子”なんて使うと言う。これは笑った。さもありなんと思った。手書きだったら絶対に“麗子”という名前は使わないだろう。やはりこれはワープロがなせるワザだろう。
 最近読めない漢字の読み方の本が売れているらしいが、そこに書かれている漢字って普段使うものなのだろうか思う。特にテレビの雑学クイズ番組でやっている小難しい漢字をどう読むかなど、それが読めたからっていったいどうなるというのだろうかと思う。そんな漢字普段使わないでしょ。大方の人が読めないなら使わない方がいい。読めなきゃ意味が通じないはずだ。だったらひらがなで十分だ。ひらがな文章も結構美しいものである。文章は伝達手段であり、漢字はその文章を構成するひとつの記号である。もちろん漢字は表意文字だから、漢字そのものに深い意味が込められることも理解しているけれど、それが読めなきゃ意味がない。
 最近はブログなどの普及によって一億総文章家的なところがあるけれど、そこに書かれるいかにもワープロが変換してくれましたという漢字がずらりと並ぶ文章を見ると腹が立ってくる。難しい漢字を書けばそれが格調のある文章だと勘違いしている。そう思うことがよくある。


評価
★★


書誌
書名:日曜日の読書
著者:阿刀田 高
ISBN:9784938711436
出版社:富士通経営研修所 (1996/01/25 出版)
版型:286p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2009年06月08日

東海林さだお著『キャベツの丸かじり』

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 また休みになったので、東海林さだおさんのシリーズ本第二弾を読む。やっぱり昔懐かしいものが気にかかる。「追憶の『ワタナベのジュースの素』」である。ありましたよね。「ワタナベジュースの素」というやつ。文字通りジュースの素が粉末状態になって袋に入ったやつ。オレンジジュースなんか飲んだ記憶がある。しかし今にして思うと、あの粉末には本当にオレンジが入っていたんだろうか?サッカリンたっぷりで、なんか化学物質いっぱいで、、最後に粉っぽい感じが記憶に残っている。でも私が子供の頃は今でいう清涼飲料水といえばワタナベジュースの素が代表格だった。思わず“懐かしい~”と言ってしまう。
 ここにも書いてあったが「プラッシー」というのもありました。どういう訳か米屋がダースでケースで持ってきた。なんで米屋だったのだろうか?あれは果肉が浮いていたはずだ。
 米屋といえば、正月ののし餅も米屋が配達してくれて、暮れ押し迫った頃、まだ柔らかい餅を母親が立てて、すーっと切っていったのを思い出す。いったいいつの頃から餅は袋に一口サイズに切って入るようになったんだろうか?思うに、お米を米屋ではなく、スーパーで買うようになった頃から、お餅もそうした袋入りに切り替わったのかもしれない。
 配達されたばかりののし餅(確か木の箱に入っていなかったかな?)を新聞紙の上に置いて、すーっと切っていく感じが面白そうに見えて、自分のもやらして欲しいと騒いだような気がする。やってみるとまっすぐ切れず、斜めに包丁が入ってしまい、変形した餅がいくつもできた。餅を切りやすくするために、濡らしたふきんが横に置いてあり、一度切ると包丁の刃をそのふきんで拭いて、多少湿らせて、再度切り込みを入れていく。あれはあれでちょっとした風物詩だった気がする。
 「懐かしののり弁」では今ホカ弁で売っているようなのり弁ではなく、弁当のご飯の上に醤油につけたのりがのっていて、しかもその下にも同じようにある。つまりのりが二段になっているのである。あの一番上にのっかっているのりが、弁当箱を開いたときにふたにひっついてしまい、醤油がしみたご飯だけになってしまうこともよくあった。それを元に戻したりしてね・・・。ふたを開ければぷ~んと醤油のにおいが漂っていいもんであった。しかしいつも早弁で食べてしまったから、昼は昼で、外でパンを買いに行ったりした。
 その弁当箱を包んでいたのは私の場合新聞紙であった。角の方で醤油がしみ出てしまい、破れてしまう。みんなはちゃんと弁当箱を包むやつで弁当箱を包んであった。私は自分のが新聞紙で包んであるのが、何か貧乏くさくて嫌で仕方がなかった。(実際貧乏だった)母親に弁当を包むナプキンみたいなやつで包んでくれと何度か頼んだけれど、がんとして母親は新聞紙で弁当を包み通した。
 だけど今思えばあの弁当はおいしかったなぁ。今その味を再現しろといってもなかなか難しいんじゃないかなんて思う。
 先月の31日は母親の祥月命日だったのをすっかり忘れてしまい、かみさんに怒られたのだけれど、こうした東海林さんの文章を読んで、ふと母親の姿を思い出した。


評価
★★


書誌
書名:キャベツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022559548
出版社:朝日新聞社 (1989/01/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月03日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第3巻〉

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 須賀敦子さんの文庫本全集三巻目を手に取る。須賀さんの本を読むにはそれなりに覚悟が私には必要で、じっくり読むぞという意識を持って読まないと挫折してしまう感じがする。要するにそれだけ私には須賀さんの書かれる文章が難解なのである。イタリアを中心にしたヨーロッパの作家たちの作品をここでは紹介してくれるのだが、大体において私の知らない作家たちであり、作品である。だからそうした作品を須賀さん自身、“思考の旅”として、様々な考えなり、感想をここで綴られると同時に、実際にゆかりの地を旅され、その“思考の旅”に肉付けしていく手法をここではとられる。
 読む側の私は、ふ~ん、こんな作家がいるんだと思いつつ、なんとかここに書かれている文章を自分なりに理解していくうちに、読んでみたいなと思うのだ。ただ一方できっと最後まで読むことはできないんじゃないかとも思う。それほどここに書かれる作品は奥が深そうである。
 たとえばマグリット・ユルスナールという女性作家の『ハドリアヌス帝の回想』など読んでみたいと思うのだけれど、多分かなり手こずりそうとも思える。
 例のよって読んでいて気になった文章を引っ張り出す。すると偶然かどうかわからないが、“信仰”を書かれたものがひっかかった。

 ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』で「神々はもはや無く、キリストはいまだ出ず、人間がひとりで立っていたまたとない時間」、『黒の過程』では「正統な学問がめざした<神という解答がすべての究極に待ちうけている>道を拒否すること」

 「マーティン・ルターのプロテスタンティズムは、それまで共同体のようなものであった祈りを個のものにしようとした人たちの、劇的で苦悩にみちた選択だった。(略)共同体によって唱和されることがなくなったとき、祈りは、特定のリズムも韻も、その他の形式も必要としなくなるから、韻文を捨てて、散文が主流を占めるようになる。散文は論理を離れるわけにはいかないから、人々はそのことに疲れはてて、祈りの代用品とし、呪文を捜すことがあるのかもしれない」

 どうしてこれらの文章が気になったかというと、多分キリスト教がなかった時代は、例えば阿刀田さんのギリシア神話の概説書を読んでいると、きわめて人間的だなと感じるところにある。キリスト教の信仰はあれもダメ、これもダメ、と人間の生活規範を縛り続けたんじゃないかなと思うことがあったからだ。
 史実として中世においてがんじがらめにヨーロッパ人の生活全般に普及したとき、今度はそこからの解放が行われる。すなわちルネサンス、宗教改革である。
 ところが、いったん縛られてしまった生活規範は共同体の主要な構成要素となっていたから、そこからの解放は、「個であることの心細さ」を生む。また個の存在を主張したとき、ここにあるように、共同体で唱和されていた祈りである韻文から、散文が主流になり、“文学”が生まれる。散文は論理的であることが求められるから、“科学”も生まれていく。そんなことを思ったのだ。

 あと気になった文章を書き出してみる。


 「人も物も、<生身>であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別の生命への移行をなしとげてあたらしい<物体>に変身したもの、それが廃墟かもしれない」

 「でも、もう、ちょっと指をはさんだり、ページを繰ったりされることのなくなった本たちは、とっくに死んでいるのが、私には痛いほどわかった。本は、それを蒐めた人間のいのちの長さだけ、生きるのだから」

 「日常に背をむけてしかもその日常を背おいながら文学に入る瞬間の、あのうしろめたさやはにかみのようなもの」

 「日はしずかに暮れていった。庭の木立の最後の蝉が鳴きやむころ、だれかが明かりをともすと、家に夜が来た」


 「ここに、じっとしていれば、じっと待っていれば、いいんだ」

 「日本語の『笑い』には、どこやら人間性を放棄したところでの、ちょっとよっぱらいの笑いのような、知性の領域をわざとはずしたところがあるのかもしれない」

 須賀さんの書かれる文章を徹底的に理解するのは私には難しいので、こうして書かれた言葉の余韻を楽しんでいる。ここから何か自分の中で生まれるのを楽しみにして・・・・。


評価
★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第3巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420530
出版社:河出書房新社 (2007/11/20 出版)河出文庫
版型:639p / 15cm / A6判
販売価:1,155円(税込)

2009年05月21日

池波正太郎著『江戸切絵図散歩』

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 実は池波正太郎さんの本は初めて読む。歴史小説は好きなのだけれど、時代小説は受け付けない部分が私にはあって、よく人から池波正太郎さんは面白いよといわれるのだが、そのまま今日まで読まずに来てしまった。どうしても時代小説は年寄りが読むもんだというイメージが払拭できないところがある。オレはまだそこまで老けこんでないぞという意識がどこかにあるのかも知れない。しかし池波さんは名エッセイシストと聞いていたから、それでは読んでみようとこの本を手にした。
 池波さんは小説を書く場合、江戸時代の町の雰囲気をイメージするため、切絵図を頼りにして背景を作り上げているという。そんな切絵図を眺め、そこに描かれている地形と現在とを比較して、今現在どうなっているか、切絵図を頼りに町を歩き回る。池波さんによると「東京は台地が多く、つまり凹凸の多い地形で、いたるところに坂道がある。したがって、景観は変わっても、道筋はあまり変わっていなかった。もっとも現代は坂道も台地も恐るべき機械力で押し崩してしまうようになったが、それでも意外に地形は変わっていないのだ」という。つまり池波さんがこの本を書くまでは、まだ開発という暴力にさらされていない部分が多く残っていて、切絵図にある面影が偲ばれたのだ。おそらく今はだいぶ変わっちゃっているんだろうなと思う。
 それでも昔あった川や橋が消えてしまったりしているところ多く、昔の町名もどんどん消えてなくなっていることを池波さんは嘆いておられる。

 「橋や川ばかりではなく、むかしの町名も消えてしまった。戦後の町名改変の流行は、昭和十年代までは辛うじて残っていた町名を、ほとんど抹殺してしまったのだ。
 東京のみではなく、地方でも町名改変が流行して、私のように時代小説を書いている者は、まことに困った。何となれば、町名や村名は、いずれも、その土地の歴史をもっているからだ」

 今まで歴史に息づいた、あるいは由緒ある歴史から名付いた名前を平気で変えてしまうのは、確かに如何なものかと思う。今は市町村合併などといって町や市が経済的理由で一緒になってしまい、おかしな名前を平気で付けてしまうご時世だから余計である。そこにあった名前そのものが歴史であり、過去の生きてきた人々の遺産でもあるはずなのだから、それを単に経済的理由で壊せるものなのだろうか。今まで連綿と続いてきたのは、変化を折り込んできて生き残ってきたものだろうから、どうしてそれが現在できないのだろうか。なんでもスクラップアンドビルド的発想なら、ことは簡単だ。しかしその発想そのものが貧相なことを知るべきじゃないだろうかと思う。歴史の面影が残る町並み、歴史を感じさせる建物が残る町に、新しいものを作れないのだろうか?変化は昔もあったはずだ。それでもその町は残ってきたのだ。

 私は元々大した行動範囲を持っている方じゃないので、基本会社のある神田界隈にしか興味がわかなかった。この本の最初にある「上野下谷外神田辺切絵図」を眺めてみると、確かに道筋は現在とほぼ同じで、この道が昭和通りだなとか、こっちが清洲橋通りだなと追うことができる。大きな通りはよほどのことがないと変えられないのだろう。こうして現在と江戸時代の切絵図に描かれている地図が比較できると面白い。
 へぇ~と思ったことは、今須田町に「万惣」という昔からあるフルーツパーラーがある。池波さんのこの本によると、昔からこの界隈には果物屋が多かったらしい。だから青物問屋も多かったという。今秋葉原の再開発地区は元はやっちゃ場があったところであるが、青果市場がここにあったのもそのためだろうという。


評価
★★


書誌
書名:江戸切絵図散歩
著者:池波 正太郎
ISBN:9784101156682
出版社:新潮社 (1993/12/20 出版)新潮文庫
版型:204p / 15cm / A6判
販売価:619円(税込)

2009年05月11日

小玉武著『「係長」山口瞳の処世術』

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 この本は前著「『洋酒天国』とその時代」の第2弾である。著者の小玉さんがサントリーに入社したときの直属の上司が係長であった山口瞳さんだったという。
 私は「洋酒天国」という小雑誌に強い興味を持っているので、どうしてもこの本に触手が伸びてしまう。その上、開高さんと山口瞳さんのことをもっと知りたいという思いもあって、その二人の関係者が書かれた本はどうしても読みたくなるのだ。
 しかし今回も前作同様ものたりなさを感じて終わってしまった。思うに小玉さんはどうしても「洋酒天国」が発売されていた時代風俗、特に昭和30年代がどういう時代であったか、その時代を顧みると同時に、山口瞳さんの小説『人殺し』を語りたかったようだ。その小説の裏にある思想的背景をかなり詳しくつっこんでいる。私は山口さんが書かれた小説の解釈と鑑賞には今のところ興味がないので、どうしてもこの本は自分が求めていたものと違うなと感じた。
 私は山口さんが亡くなられるまで書かれた『男性自身』のファンで、そこに書かれる山口さんの姿勢が好きなのだ。まじめ一本槍で、不器用で、融通のきかない一人の男がどのように生きてきて、今の世の中に不平不満を愚痴るのが好きなのだ。あるいはそれでも自分の姿勢を崩さない頑固さが好きなのだ。そうした山口さんの知られざる部分がたくさんここにあればいいのにと思うのである。まぁそれでも山口瞳さんをうまく言い当てているんじゃないかと思われるところを書き出してみる。

 「山口瞳は不思議な作家である。権威や権力を嫌う<無頼>でありながら、生きていく上での『型』を大事にする。仕事のやり方も、人とのつきあいも、酒の飲み方も、そして礼儀作法も、生きるためには『型』こそまずもって大事だと思っていた。この『型』が定まらなくては、人生は、迷惑を繰りかえすだけで、と言うのである」

 「山口瞳にせよ、伊丹十三にせよ、身辺雑記風のことを書きながら、それを超えた普遍的な生活技術を明らかにするワザの持ち主だった。<リアルな眼>を持っていた、といった方が正確なのかもしれない」

「開高健が『女』の内面と感性と官能に関心を示したのに対して、山口瞳はどちらかというと、『女』の属性、生き方その能力と特性に鋭い観察眼を働かせた。開高健が描こうとする女はどちらかというと抽象化された『女』であり、山口瞳が凝視する女は、職場や街中で見られる具体的な属性を持つ『女』であった」

 最後に山口さん自ら自分自身を語ったことが、よかった。

 「こんど新しくサラリーマンになられる方々へ忠告とか教訓とか書けというご注文ですが、私は、実を申しますと、お恥ずかしい話ですが『教訓』をたれたりするのが、割と好きなタチなのです。
 『ねえ、キミ、ぼくなんか苦労したんだよ」』
 といって額にシワを寄せて、自分もいい気持ちになりたいタチなのです」

 これ、なんか本当に言ってもおかしくなかったので、読んでいて笑ってしまった。


評価
★★


書誌
書名:「係長」山口瞳の処世術
著者:小玉 武
ISBN:9784480818294
出版社:筑摩書房 (2009/03/30 出版)
版型:311p / 19cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2009年05月09日

半藤一利著『幕末史』

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 この本はペリー来航から西南戦争までの通史である。あとがきによるとこの本は市民講座みたいところで半藤さんが話されたものをまとめたようである。前作の『昭和史』はかなり面白かったので、今回も多少期待したのだけれど、内容に目新たらしさがなかった。
 案外こんなもんである。前作が面白かったりすると、ついつい今回も、と思うのだけれど、前作に力を注ぎすぎているからか、あるいはネタが尽きてしまっているのか、二作目が面白いというのはなかなか難しいようである。そのため普段私は本を読むときは、何か気になる文章があれば、そのページに付箋を貼っておくのだが、今回は一枚も貼ることなく終わってしまった。ある程度幕末から明治の知識のある人ならこのくらいは語れるじゃないかと思う。

 それと著者の勝海舟好きが高じてしまって、それほど必要もないだろうに、至る所で「勝海舟は・・・」と出てくる。確かに江戸城無血開城の最大の貢献者だから、このとき前後は海舟の記述はあってもいいけれど、それ以後はいらないような気がする。「勝っつあんは・・・」なんて言われちゃうと、いささか辟易してしまう。
 それとよくあるでしょう。歴史の先生が自分の専攻したところ、あるいは興味のあるところを長々と語りすぎ、結果最後は急ぎ足になってしまい、時間不足のため、簡単に触れるしかなくなちゃうやつ。今回も西南戦争までというけれど、そこなどは簡単にしか触れられていない。海舟もいいけれど、もう少しうまい時間配分をして、西南戦争も詳しく語って欲しかったなと思った。


評価
★★


書誌
書名:幕末史
著者:半藤 一利
ISBN:9784103132714
出版社:新潮社 (2008/12/20 出版)
版型:477p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年05月06日

津村節子著『ふたり旅』

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 津村さんは吉村昭さんの奥様である。この本は津村さんの自伝的エッセイで、津村さんの生い立ちを語るうちに、吉村昭さんとの出会いや、一緒に作家を目指して、同人雑誌に参加し文芸活動をしたこと。あるいは吉村さんの弟さんの口添えで結婚に至ったことも書かれているし、まだ無名時代二人の苦しい下積み生活も語られる。これらは女性の目で、時には主婦の目で「吉村昭」を語ることになる。たぶん吉村さんが生きておられたら書かれることはなかったかもしれない作家吉村昭の生活臭がここにはある。もっともそれが知りたくてこの本を手にしたのだから、それはそれでいい。
 ところで吉村夫妻は、奥様の津村節子さんの方が芥川賞を受賞し、吉村さんは四度芥川賞の候補となるがいずれもだめで、結局芥川賞はとられていない。そして吉村昭さんを世に出したのは「太宰治賞」受賞がきっかけである。この点が何で「太宰治賞」なんだったんだろうと思っていた。しかしそれにはちゃんと訳があったようだ。吉村さんにとってみれば、芥川賞は新人賞だから四回以上も候補になっていればもはや新人じゃないと考えられていたらしく、そこで筑摩書房の懸賞に自らの作品二作を応募し、いずれも「太宰治賞」の候補となり、うち一作『星への旅』が受賞した経緯らしい。
 しかし戦争、そして終戦の混乱時代、作家ととして夫婦として津村さんと吉村さんは二人して歩いてこられた。その道のりは作品を書くだけでは生きていけない厳しい生活環境の下で、それでも文学の道を進むことだけを、それだけを目指していた半ば狂気化した生活は、ある意味すさまじい。生きることと文学が濃厚に結びついた世界がここにはある。文学というのはこうした世界で生まれるものなのかとさえ思った。津村さんは次のように書かれる。

 「夫婦とも小説を書くことに死物狂いだったあの頃。現在の文学の世界から思えば特殊な時代だったのだろう。そしてよく二人ともその時代を生きのびて来られたと思わずにいられない」

 それでも奥様の津村節子さんの方が芥川賞受賞と先に全国区でデビューしてしまい、吉村さんは何度も候補に挙がるけれどその都度落選。奥様の津村さんは作家として夫の吉村昭を尊敬しつつ、それでもなかなか世に出られない吉村さんを気遣う優しさこの本のあっちこっちで窺えた。
 しかし思うのだけれど作家吉村昭の“こだわり”はこうした苦労の中で、時には自分を見失うこともあっただろうけど、こういう苦しい下積み生活があったからこそ、生まれたものじゃないかと感じた。吉村さんの作品をまだそれほど読んでいないけれど、私は随筆で見られる舞台裏の取材風景を読むと、その一途さがひしひしと感じる。だから読んでみたいと思うのだけれど、そうした姿勢は吉村さんがこういう時代に生きてこられたことによるんじゃないかと思う。

 ところでこの本には敗戦で日本の指導者、軍人、知識人がいかに豹変し、その無節操ぶりが描かれていて、いささか嫌になるところがある。このことは確か吉村昭さんも随筆で書かれていたし、他の作家さんも似たようなことを書かれていたことを思い出す。

 東久邇宮首相が記者会見で、
『私は軍官民、国民全体が反省し懺悔しなければならぬと思ふ、全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信じる』
 という談話が発表されたときことを私は覚えている。なぜわれわれ国民が懺悔しなければならないのだろう。私たちは月に一日だけ電休日以外、朝八時から残業して毎夜十時まで働き通し働き、牛馬の飼料のような芋がらや麬を食べ、大東亜共栄圏のため、東洋平和のための聖戦と信じて銃後を守って来たのだ。神風特攻隊や神潮特攻隊で、自ら爆弾となって死んでいった若者たちや、沖縄で重要な戦力となって死んでいった中学生や女学生も、懺悔せよというのであろうか。
 
 あるいは下宿していた少佐が軍服のままじゃ郷里に帰れないからと言うから伯父さんが一番いい背広を貸したが、そのままいつまでも返ってこないとか。佐官級の軍人たちは国民が物不足でいるのに、毎日士官学校から毛布や食料品運び出していた。
 敗色が濃くなってからも、新聞やラジオは赫赫たる戦果を報じ、有識人たちは、このいくさは東洋平和のための聖戦だと言っていたのに、臆面もなく侵略戦争だった、とまるでカメレオンのように保身のため色を変えた。
 米軍基地で働く男たちは米兵から煙草やウィスキーを買っては横流しをする。

 確かに彼らも生きるためには仕方がなかったと言ってしまえばそれまでだが、この豹変ぶり付き合わされた一般民衆はたまったもんじゃない。そして津村さんも生活のために米軍基地の米兵のためのお店で働いた以上、彼らを非難できようかというのである。生きるということがそれだけでその人の精神さえも平気で変貌させるものだと改めて思い知る。


評価
★★


書誌
書名:ふたり旅―生きてきた証しとして
著者:津村 節子
ISBN:9784000246422
出版社:岩波書店 (2008/07/25 出版)
版型:253p / 19cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2009年04月27日

阿刀田高著『ジョ-クなしでは生きられない』

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 艶笑小咄集である。開高健さんもこの手のものを書いている。たぶんそこでか、あるいは他のエッセイでか、バーなどでこういう小咄を用意しておくと女性にもてると書いてあったのを思い出す。まぁ、少々エッチで、ユーモアとエスプリが利いている話ができればそんなこともあるかもしれないが、私に言わせれば、わざわざそんな話を用意する方が下心ある感じがしてしまう。さらに言えば、こんな小咄で今の女性が喜ぶとは思えないので、昔の話である気もする。
 阿刀田さんはこの本を作るに当たり、この手の話を集めるのに苦労されたかもしれないけれど、逆に楽しんでいた気配もうかがえる。しかし読む方は、くすりと笑えるけれど、ただそれだけで、とりたて面白いというものでもない。読んでそれでおしまいといった感じだ。
 これで私の感想は終わっちゃうのだけれど、それじゃあまりにも寂しいので、いくつか面白いと思ったものを書き出してみる。まずはあっちの方面からいくつか・・・・。

 「ねえ。ママ。ボク、弟や妹がほしいな」「パパにお願いしてごらんなさい」「でも赤ちゃんはママが作るんだろ」「パパが手伝ってくれなきゃ作れないわ」「じゃあパパにお願いするよ。今度の誕生日までに作ってくださいって・・・・」「そんなに早くは無理よ。一年くらいはかかるのよ」「じゃあ、よそのおじさんにも手伝ってもらおうよ」

 初月給をもらってニコニコしている社員に上役がいった。「お母さんにおみやげを買って帰れよ」「はい。そうします。父が早く死んで女手ひとつで育ててくれたんですから」「それは大変だったろうなあ」「しかし、何を買ったらいいのか迷ってしまって・・・・」「お母さんの一番好きなものがあるだろう?」「はあ。しかし・・・・若い男はどこで売っているんでしょう?」

 “広い”女にはレモン汁を使えばよい、とドクトルに教えられたニュマ氏がレモンをしこたま買い込んで帰る途中、夜の女が近づいて来た。「よし、まずこの女で試してやれ」こう思ったニュマ氏は女のアパートへ行って、「レモンをしぼって入れると、とても長続きするんだぞ」一つしぼり、二つしぼり、三つしぼり・・・・いっこうに狭くなる様子がないので五つ、六つとしぼってそそぎこめば、女はイライラしてつぶやいた。「ねえ、あんた。あんたはここに生牡蠣を食べに来たの?」

 アメリカ人は、単細胞人間。自分が世界一だと信じているから、ライバルが現れると猛然とくやしがる。
アメリカのコンドーム会社にソ連政府から注文が来た。「ソ連民衆の産児制限および性病予防のためコンドーム一万ダース送られたし。ただしサイズは十インチ」コンドーム会社は早速荷物の発送に取りかかったが、外箱に次のスタンプを押すことを忘れなかった。「十インチ、ただしSサイズ」

 初夜があける頃、新郎が不満そうに言った。「キミ、まだ昔の恋人が忘れられないんだな」「あら、どうして?」「さっき、キミがトイレに立ったとき、ボクはチャンと見たんだぞ。キミはベッドの柱に恋人の名前を書いて、ため息ついていたじゃないか」「恋人の名前?」「そうだ。正一君っていうんだろう、その人は」「あら、いやだ。正一は名前じゃないわ。回数のことよ」初夜から六回戦となると花嫁が溜息をつくのも無理はない。

 動物たちは、おおむね後向位でセックスをおこなう。このスタイルでは、雌は四つ足をしっかり踏ん張って、止まっていてくれなくては挿入がむつかしい。前へ前へと逃げて行ったのでは、うしろからはとても結合ができない。このため動物たちには強姦はありえないのだという。強姦は正常位とともに始まった、と言えるかもしれない。

 アメリカに行くと、ピーター・メーターという大人のオモチャがあるそうだ。ピーターは男性シンボルの愛称で、一見したところピーター・メーターはただの物差しだが、長さに応じて楽しい解説ついている。
 一インチ ただの蛇口。女に生まれるべきだった。二インチ 九十五パーセントは想像力でいこう。三インチ いくらかましだがまだ不足。四インチ いちゃつくのが精いっぱい。 五インチ ご家庭用サイズ。六インチ 秘書嬢を喜ばすことができる。七インチ 古い家庭道徳を破壊するおおそれあり。八インチ 大きい女か、小さな牛に。九インチ 酒場の話題によし。十インチ 見世物にのみよし。

 これはある葬儀屋。偶然知りあった女と町のホテルに泊まって情熱的な一夜を過ごした。翌朝、別れぎわに女が未練がましく、「あなたって上手ねえ。それに大きくて、とてもいい形ね」と口をきわめて男の持ち物をほめたたえた。男は恐縮し、うやうやしく一礼してから、「すっかり萎れておりますが、もう一度遺骸とご対面になりますか」

 女子寮の一室。マギイのお腹にM字型のあざがついているのを見つけて、サリイが尋ねた。「それ、な-に?」「ああ、ボーイフレンドとキッスをしたのよ。彼のバックルの痕がついちゃったのね」「わかった。Mの字だから・・・・ミネソタ大学の男の子ね?」「ううん。ワシントン大学なの」
 ワシントン大学ならWの字になるはず。男は頭をどちらに向けてキッスをしていたのだろうか?

 まぁこんなもんである。別にこの手の話は嫌いじゃないけれど、私は次の小咄の方が笑った。

 ある日のこと、一人のロシア青年が「フルシチョフは馬鹿だ。フルシチョフは馬鹿だ」と、叫んで赤の広場を走り抜けた。その男はたちまち捕らえられ二十三年の禁固刑に処せられた。三年は党書記侮辱罪に対してであり、二十年は国家機密漏洩罪に対してであった。


評価
★★


書誌
書名:ジョ-クなしでは生きられない
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343028
出版社:新潮社 (1980/08 出版)
版型:217p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2009年04月15日

夏目房之介著『孫が読む漱石』

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 ちょっとつっこみたくなった。この本の著者夏目房之介さんは漱石の孫に当たる。プロローグに「吾輩は孫である」とあり、そこに「漱石の遺産や七光りなんかに頼らず自活することこそ、漱石という存在から自立することだ」と考えていたことを言っている。それは著者の父親が漱石の遺産を享受しながら好き勝手なことばかりやってきたのを見てきたから余計にそう感じるようになったのだろう。しかし漱石という名前は嫌が上でもその社会的存在の巨大さを思い知らされてきたという。言っていれば著者にはいつでも“漱石の孫”とう形容詞がつきまとってきたのだろう。だからこそ漱石の孫であっても自分は漱石とは何ら関係ない存在であると自己主張したい気持はよくわかる。
 が、そんなことを考える著者が『孫が読む漱石』という書名の本を書くのはどういうことなんだと言いたくなる。それはこの本を売るための営業戦略だろうけれど、言っていることとやっていることが違うじゃないかとつっこみたくなった。
 そしてもっと言わせてもらえば、漱石の孫が漱石の作品をどう読んできたかの方が興味がある。私もその一人である。どこの誰だか知らない人間が漱石のこと書いても読みたいとは思わない。
 いつでも“漱石の孫”というのがついて回るのは鬱陶しいだろうけれど、だからこそ知りたいという気持ちが読む側にはあるのだ。だからつっこんでみたけれど、別に目くじら立てて文句を言っている訳じゃない。

 で、読んでいて“面白いなぁ”とかあるいは“へぇ~そうなんだ”と思ったことを書き出したい。

「そうでなくても『猫』を書いたの37歳は、遅いデビューである。
 漱石が小説を書いたのは、49歳で死ぬまでのわずか10年ほどだった。まるで生き急ぐかのように小説を書き、胃潰瘍で何度も倒れ、ついに未完の『明暗』を遺してばたりと逝く。かっこいいといえばいえるけれど、見習いたくはない」

 そんな漱石の短命を、著者は現代人にも見る。漱石は自己意識と明治の近代化による国家から半ば強制化されたヨーロッパからの思想に狭間で悩み続け、作品を書き、そして自らの寿命を縮めた。それを考えると「現代は、ある意味で、みんなが小漱石(自意識を病む神経症)だったりする。小漱石の一人である孫は、この国の近代化の果て、戦後社会の課題を背負って、近代百年の生んだ正と負をつくづく考えたりするのであった」と著者は書く。
 何となく今の社会の閉塞感、あるいはヨーロッパが生んだ近代化の果ての社会が崩壊しつつあるんじゃないかと思う時、これでよかったのかな?と疑問が浮かぶが、それは漱石がいた明治に進んで取り込んできたシステムへの疑問と同様な気がしてしまう。

 「<吾輩は猫である。名前はまだない。>という冒頭は、有名である。何しろ、出だしのうまい作家なのだ」

 これは笑った。確かにそうである。たとえば『草枕』の冒頭にあるやつ。

 「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい」

 これは何度読んでもうまいなと思う。

 「この小説(『三四郎』)を青春小説であると同時に、寸止めの恋愛小説にもしている」

 うん。『三四郎』を「寸止めの恋愛小説」とはうまいこと言ったものだ。さらに漱石の前期三部作を「すなわち「何か」がおきそうでおきない『三四郎』、おきてしまう『それから』に続き、おきてしまった過去のおかげで何もおきてほしくない夫婦の何もおきそうもない小説。それが『門』なのだった」というが、確かにうまい書評の仕方だ。

 「いうまでもなく、これ(『こころ』)は『行人』と同じ終わり方である。ただ『行人』の手紙よりはるかに長い。岩波文庫で130ページ以上もある。こんな長い手紙を書く元気があるなら自殺なんかするなよ、とついつっこみたくなるほどだ。先生によると、死を決意してから10日間ほど、ほとんど手紙を書くために生きていたらしいから、よほど心残りなんじゃないかと思ってしまう。
 もっとも、この手紙部分は<書いているうちに当初の予定よりも長くなってきた上に、志賀直哉が次の連載を断ってきて、その代わりの作品が決まるまで引き延ばさなければならない事情が加わった。>(石原千秋著『漱石と三人の読者』 講談社現代新書 2004年 209ページ)からであるらしい」

 これは確かにそうだし、こう言いたくなる気持もよくわかる。そして先生の手紙が長くなった裏事情も“へぇ~そうなんだ”と知らされ面白かった。


評価
★★


書誌
書名:孫が読む漱石
著者:夏目 房之介
ISBN:9784101335131
出版社:新潮社 (2009/03/01 出版)新潮文庫
版型:299p / 15cm / A6判
販売価:539円(税込)

2009年04月13日

東野圭吾著『さまよう刃』

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ねたばれ注意


 長峰重樹の一人娘絵摩は友人と行った花火大会の帰り、菅野快児、伴崎敦也、中井誠らに拉致され、蹂躙され殺された。彼等はいずれも未成年であった。
 一人娘を無残にも殺された長峰の携帯に犯人が菅野快児、伴崎敦也の二人であり、伴崎敦也のアパートを知らせるメッセージが入る。長峰はそのアパートに行き、絵摩の浴衣、そして絵摩が菅野快児と伴崎敦也に蹂躙されるビデオテープを発見する。それを涙ながらで見ているとき伴崎敦也が帰ってくる。長峰は部屋にあった包丁で伴崎敦也を何度も刺し、殺してしまう。長峰は伴崎敦也を殺してしまう前に菅野快児の居所を聞き出し、菅野快児が長野県に潜んでいることを知り、復讐に走る。そこから長峰のマンハントが始まる。
 一方伴崎敦也の死体がアパートで発見されたことで、警察は包丁などから残された指紋が長峰のものであることが判明し、伴崎敦也の殺害は長峰であることがわかる。
 部屋には絵摩以外にもたくさんの女性が連れ込まれ、強姦されたビデオテープがあった。警察は絵摩の殺害犯人は伴崎敦也と菅野快児であることを知る。警察は伴崎敦也の殺害犯人長峰重樹と絵摩殺害犯人の菅野快児を探し始める。

 この本はマンハントをする長峰の苦悩、そして長峰が娘の復讐に走っていることを充分理解していても、その長峰を逮捕しなければならない警察の苦悩が描かれる。
 長峰はごく普通のサラリーマンであった。しかし娘の絵摩が無残な殺され方をされてから、菅野快児に復讐をするために彼を追い続けているうちに、自分の考え方を整理し始める。

「そもそもなぜあのような偶然が起きたのか。あんな連中が生み出され、放置されたきたのか。世の中はなぜそれを許すのか。
 許しているわけではない、ただ無関心なだけだ、と長峰は周りを見て思う。ここにいる何人が、罪もない女子高生が性的玩具として扱われた上に、遺体となって発見された事件のことを覚えているだろうか。その父親が復讐鬼となったことを気に留めているだろうか。関連ニュースが流れるたびに思い出すことはあるかもしれない。しかしそれだけだ。ニュースの話題が切り替われば、彼等の関心も切り替わる。
 自分もそうだった、と長峰は思う。自分たちの生活が保障されていれば、他人のことなどどうでもよかった。少年犯罪について真剣に考えたことがあるか、問題解決のために何かをなしたかと問われれば、何も答えられない。
 自分だってこの世の中を作った共犯者なのだ、と長峰は気づいた。そして共犯者たちには、等しくその報いを受ける可能性が存在する。今回選ばれたのが自分だった、と思うしかない。
 ただ、絵摩は共犯者ではない。彼女が生き続けたなら、もっといい世の中を作ろうと努力したかもしれない。
 だからこそ自分は彼女に償いをしなければならない、と長峰は思った。スガノカイジのような人間の屑を生み出したのが自分たちならば、その後始末も自分たちの仕事だ。後始末にはいろいろと方法がある。更生、という言葉を使う人間もいるだろう。しかし長峰には、どうしてもその考えを持つことができなかった。世の中というシステムが作り出した怪物を、人間の力で人間に戻すことなど不可能としか思えない」

 しかし私にはこれは詭弁に思える。どこか自分のすること美化している。それよりも人として、親として、娘を殺され、その犯人が未成年ということで、充分に罰せられなければ、その傷は絶対に癒えない。法律があるいは社会がそうしないなら、自らがそうするしかないというのが人間であり親であろう。ところがこの本はその憎しみが妙に美化されてしまっている。もっともっと長峰重樹の犯人に対する憎しみが前面に出ていいような気がした。
 警察にしても「要するにこの銃は-織部は自分が持っている拳銃を思い浮かべた。この銃は、菅野の命を守るためのものなのだ。長峰絵摩を死に至らしめた張本人が、その父親から復讐されるのを防ぐための銃なのだ」そして「自分たちが正義の刃と信じているものは、本当に正しい方向に向いているのだろうかと織部は疑問を持った。向いていたとしても、その刃は本物だろうか。本当に『悪』を断ち切る力を持っているのだろうか」と思う警察官の姿も描かれるけれど、そこまでしかない。
 確かに犯人を捕まえる警察にしても、このように疑問を持って当たり前だと思う。娘を無残に殺された親の気持ち、その犯人を捕まえる警察官の気持ちを考えると、やっぱり今の法律にどこか誤りがあることを思い知らされる。人として“おかしい?”と思うのであれば、それはやっぱりおかしいのではないかと思う。そして特に最近はこういうことが多すぎる。更生させる前に、罪を償うこれが先であろう。
 私としては、せめて小説ので世界では、そうした復讐劇は徹底的であって欲しかった。この本はこうした法律と人の気持ちの乖離を言わしめるだけであって、言ってみればそうしたことを社会に訴えるみたいなところがあって、妙にしゃらくさい。


評価
★★


書誌
書名:さまよう刃
著者:東野 圭吾
ISBN:9784043718061
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2008/05/25 出版)角川文庫
版型:499p / 15cm / A6判
販売価:740円(税込)

2009年04月10日

遠藤周作著『深い河』

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 あるインドツアーに参加する男女の物語である。そこに参加する者は、妻を癌でなくした夫。神父になろうとする男をからかい、男女の関係を結んだが、その男の存在が気にかかり、フランスへ、そしてインドへ彼を訪ねる女。童話作家。戦争中ビルマのジャングルで九死に一生を得て生き残った男などが参加していた。
 それぞれ訳ありでインドへ旅をするのだが、やはりここは神父になるための修行をしている大津と、学生時代、からかいでその大津と男と女の関係を結んだ美津子の話が一番気にかかった。
 美津子が女学生時代女王様気取りで、神父になろうとしていたうだつの上がらない大津をそそのかすのだが、いつまでもその大津が気にかかる。
 美津子は結婚し新婚旅行でフランスに行くのだが、その時大津が同じフランスにいることを知り、その大津を訪ねる。大津はここで神父になるために勉強していたのだ。しかし大津はここで語られる“神”について素直に受け入れられないでいた。
 美津子と会った大津は自分の心境を語る。神についても語る。その話にあまりにも神が出てくるものだから美津子は「ねえ、その神という言葉やめてくれない。いらいらするし実感がないの。わたしには実体がないんですもの。大学時代から外人神父たちの使うあの神という言葉に縁遠かったの」イライラ感あらわにする。それに対して大津は「神という言葉が気障で嫌なら玉ねぎとよんでいい」と言い、その玉ねぎについての違和感を語り始める。「三年間、ここに住んで、ぼくはここの国の考え方に疲れました。彼等が手でこね、彼等の心に合うように作った考え方が・・・・東洋人のぼくには重いのです。溶けこめないんです。それで・・・・毎日、困っています」と言うのであった。
 大津はヨーロッパ式のキリスト教だけが絶対だと思えずにいた。たまたま大津の母親がキリスト教徒だったから、生まれてからそのまま自分もキリスト教徒になったが、それが違う宗教であればその宗教の神を信じていたはずだと考えていた。神学校では大津がキリスト教徒になったことが神の恵みであり、神の愛だと思わないかと指導司祭に言われるが、大津は「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者に神はおられると思います」と言う。
 当然こうした考え方は異端視されるし、汎神論的だと批判される。しかし日本でキリスト教徒になった大津にとってみれば、ヨーロッパ式のキリスト教のみが絶対であるという考え方は受け入れがたかった。大津は悩み苦しみ、そしてここガンジス河のほとりで死を迎えるためにガンジスを訪れるアウトカーストと呼ばれる貧民たちをガンジスに運ぶ仕事をしながら、修行をしていた。そこに美津子が再び訪れたのである。
 大津はここで「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」と言うのであった。
 美津子も美津子で、生と死が隣り合わせになっているこの河で、ガンジス河が「ヒンズー教徒のためだけでなく、すべての人のための深い河という気がしました」と思うようになっていく。河辺では死体が焼かれ、その灰が河に流され、一方で信仰のためガンジス河の水を口に含み、合掌している風景を見ると、「その一人一人に人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背中に背負って生きている。ガンジスの河なかで彼等は浄化せねばならぬ何かを持っている」と思い、ガンジス河はそれらをすべて浄化してくれる河なのだと思うようになっていく。

 私は自分の信じている神のみがすべてだという妥協のない考えが、おそらく過去から現在までの宗教間の対立を生んできた最大の原因だろうと思っている。その対立が仲間の連帯感を生んできた。神の愛などで生まれた連帯感よりは、非妥協的な態度がその仲間意識を高めたものじゃないかと思えるのだ。
 美津子がここガンジスで感じた「人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能になる。どの国もどの宗教もながい間、そうやって持続してきた」と言わしめるのもそんなことを思えば納得できる。
 私はむしろ大津のように様々な宗教に神という顔を持ったものがあるというのが自然のような気がする。唯一絶対なんて言うから非寛容になるのであって、イエスも神なら、アラーも神であるし、仏陀も神だ。そして山や森が神ならそれも神なのだと思う。人には人の崇める神があっていいのであるなら、他の人も同様であって、それぞれの神を信仰すればいい。私は大津がヨーロッパでヨーロッパ式のキリスト教のみを信仰の対象に強要される苦しみは、歴史上自分たちがそれまで信仰してきた神とは別の神を強要されて信仰せざるを得なかった人びとの苦しみと同じように見えた。
 私は大津の言う言葉「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者に神はおられると思います」はいい言葉だと思った。


評価
★★


書誌
書名:深い河(ディープ・リバー)
著者:遠藤 周作
ISBN:9784062063425
出版社:講談社 (1993/06/08 出版)
版型:347p / 19cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2009年04月06日

吉村昭著『月夜の記憶』

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 読んでいて、“おや?”と思った。今まで読んできた吉村さんの随筆とはちょっとトーンが違うなと感じたのである。
 どちらかと言えば私は吉村さんの随筆にどっしりと構えた感じが好きで、世の中のこと、あるいは身の回りのことなどあるがままに受け入れつつ、大人の対応を見せていた文章が好きだった。
 この本に収録されている随筆は吉村さん初の随筆からよるものが多いことを知る。書かれた文章は昭和30年代から40年代のもので、吉村さんが昭和41年に太宰治賞を受賞して、世の中に出られた頃の随筆かと思われる。
 そして私が今まで読んできた吉村さんの随筆は晩年のものであったから、この本の随筆からずいぶん時間がたっていることになる。その時間が吉村さんの文章に変化を生んでいるのだろう。ここにある文章は読んでいて“若いな”と感じさせるほど、自己主張がはっきりとされていて、たとえば世の中の風潮に対しても結構怒りをあらわにしているのだ。
 
 話は横にそれてしまうかもしれないが、最近私はこうした自己主張の激しい文章にはついて行けなくなってきているところあるのかもしれない。あるいは生きることとか死ぬこととか、そんなことを大上段に取り上げられると“もういいよ”と言いたくなってしまうのだ。
 恐らく若い頃には、そうした“どのように生きるか”といった問題を身近に、そして真剣に考えたくなるのだろうと思う。多分私もそれなりに考えたはずだ。あるいは友人と議論もした。しかしそれはその頃罹る“はしか”みたいなもので、そういう時期を通り過ごさないと今があり得ないのではないだろうか。
 だからそうした“はしか”に罹った頃は、そんな文章を読んで感動したり、あるいは怒ったりしていた。結構好んで読んでいたような気がするのである。
 しかしこの歳になると、“もういいや”という気持になっており、むしろそんなことを熱く語る奴を見かけると、逆に勘弁してくれと言いたくなってしまう。むしろ世の中を諦観している人の文章の方がストレートに今の自分の中に入ってくるようになった。好みも歳共に変わっていくものなのである。だからいくら好きな吉村さんの随筆であっても、若い頃に書かれたこれらの文章には少々辟易したしまった。
 まぁ、随筆に時と共に人の変化が見られて、それはそれで面白かったが、ここに書かれた文章は私が若い頃に読んだら、もう少し感想は変わったかもしれないなと思った次第だ。気に入った作家さんだから、何でも読めばいいもんじゃないということを知らされる。

評価
★★


書誌
書名:月夜の記憶
著者:吉村 昭
ISBN:9784061847422
出版社:講談社 (1990/08/15 出版)講談社文庫
版型:322p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年04月02日

阿刀田高著『私の聖書ものがたり』

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 高校時代読んだ遠藤周作さんのエッセイに、いわゆる中東で生まれた宗教は、その自然環境の厳しさからか、教えに厳しさがあるというようなことが書かれていた。つまり仏教のような母的ではなく、父的な厳しさがそこにはあるようなことが書いてあった。
 今回阿刀田さんのこの本を読んでいて、旧約聖書に書かれている“神”の性格があまりにも厳しいものだと感じたので、そんなことを思い出した。たとえばモーセの十戒には次のように書かれている。

1.私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。
2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
3.あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間、働いてあなたの全ての業をせよ。
あなたもあなたの息子、娘、僕、婢、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人々もそうである。
あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを忘れてはならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである。
5.あなたの父と母とを敬え。これはあなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。
6.あなたは殺してはならない。
7.あなたは姦淫してはならない。
8.あなたは盗んではならない。
9.あなたは隣人について偽証してはならない。
10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない

 このうち1番と2番目を阿刀田さん流にくだけた感じで書くと次のようになる。

1.私はあなたなちの神、唯一にして、全能の神である。あなたちは、私以外のどんなものも神としてはならない。
2.偶像を作って神としてはならない。私は嫉妬深い神であるから、私を憎む者には子孫にまで罪を問い、私を愛し私の戒めを守る者には末代まで恵みを与えよう。

 この本は多分手塚治虫さんの『旧約聖書物語』の一部を使い、阿刀田さんが聖書の中の物語をわかりやすく書き直したものである。私はクリスチャンじゃないので、聖書を読んだことがない。一度読んでみたいとは思うけれど、たぶん挫折するだろうという思いがあるので、読まずにいる。なぜ挫折すると思うのかというと、私は信仰というものに懐疑的なところがあって、基本、人が信仰に入るのはその弱さのためじゃないかと思うところがある。もちろんそれはそれで何ら問題はないのだけれど、私には信仰に入るということが、どこか現実逃避をじゃないかと感じるから、そんな神の存在を書いたものついて行けなくなる気がするのである。
 訳のわからない、あるいは道理的でない現実をありのままに受け入れればいいものを、わざわざそれは神がなされたことみたいに解釈するのがよくわからないのである。わからないから信仰や宗教に関することで余計なことを言わない方が無難だ。だからこれ以上言うこともない。
 ただ、この聖書の世界での神はあまりにも厳しすぎる。“そんなのしょうがないじゃん”と思うことも、許してくれない。そういう妥協のなさについて行けない。神の立場に立てば、俺の言うことを聞け!そうすれば恵みを与えようというのはわからないわけじゃないけれど、人間の立場に立てば、“そんなこと言われても・・・”と言いたくなる現状があるように思えるのだ。私なら現実肯定派なので、はっきりと“それは無理!”と言ってしまうような気がする。
 絶対的な神の存在があることで、人というものの弱さや未熟さを言い表すのは結構だけれど、だから罰が当たったと言われちゃうと素直に受け入れられない。
 そもそも神という存在は、神をそのものを相対化して、人とは何かを考える時に便利である。人というものがあり、一方で神という存在があれば、比較しやすい。そこから人間の弱さ、未熟さ、あるいは無知など簡単に抽出できそうである。だって一方が絶対的なんだからね。だからものすごく不謹慎な言い方かもしれないけれど、神は人を考えるときのいいツールみたいなところがあるんじゃないかと思うのだ。そして理解不能のものをすべて神のなせる技と言ってしまえば、すべて解決できちゃいそうなのでいやなのである。
 まぁ、無神論者の戯れ言して考えてもらっていい。ただこうして物語として聖書を読めるなら、面白い。
 

評価
★★


書誌
書名:私の聖書ものがたり
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087813210
出版社:集英社 (2004/11/30 出版)
版型:317p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年03月30日

森まゆみ著『不思議の町 根津』

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 森さんの八根千続きで、今度は「根津」について書かれた本を読む。今回は前回よりかなり詳しくその歴史について突っ込んで書かれている。しかし私はこの地域と縁もゆかりもないし、ただこの地域に興味があるだけ人間だから、ここに書かれる歴史に深く感動できないところがある。つまり身近じゃないということが、実感として感じられないのである。その分が私にとって面白みが欠けてしまう。
 その歴史にはあまり興味がわかなかったが、ただこの地域も一昔前まではたとえば「この通りの中だけで生活できた」商店街があったことを知らされるのは、どこでも同じのようだ。

 今みたいにスーパーで食材、日用品などすべて揃ってしまうのと違い、ちょっと前までは、野菜や果物は八百屋、魚は魚屋、肉は肉屋、米は米屋、雑貨は雑貨屋みたいに、一つのものを扱っている店が一店舗して独立していた。しかしそれでいて通りでそれそれの店はつながっていた。だから通りが今で言えばスーパーの通路みたいだったわけだ。
 それぞれ専門店があって、それがうまくつながり、また買い物客ともつながりがあって、顔見知りであったところが、今とは違うのだろう。相手の顔を見えるというのは、下手に裏切る行為などできないことを意味するだろうし、長いつきあいが信頼関係を築くであろう。もちろん今のスーパーだっていい加減なことをやっていれば、手痛い目にあうことは同じであろうが、そこにはだれがそれをやっているか顔が見えない。ところがお店は明らかに店主やそこで働く人の顔が見える分、今以上にいい加減なことはできなかったのではないかと思ったりする。

 つい最近、久しぶりに昔子供の頃亡くなった母親と一緒に買い物に付いていった商店街を通った。昔あった多くのお店はなくなっているし、シャッターが下りているところがいくつもあり、ああ、ここも同じだなと感じたのだが、考えてみれば私がこの商店街に行かなくなったのと同様に多くの人がこの商店街に魅力を感じなくなったから、必然的にそうならざるを得なかったのだろう。
 しかしそれはこの商店街の人々の努力のなさを責めているのでなく、利用していた私たちがいつの間にかここにあった人とのつながりをわずらわしく感じ、またある意味融通の利かない不器用さにもわずらわしさを感じ始め、便利で、きれいで、値段が安いということだけで、大手スーパーに移っていったことが最大の原因だろうと思うのだ。
 だけどふと思うのだけれど、たとえば小学生の頃、塾の帰りに寄り道をして、肉屋さんで揚げたてのコロッケやメンチにたっぷりのソースをかけてもらったのをフウフウいいながら頬張ってたべたあの味は、絶対に今のスーパーにあるコロッケやメンチでは味わえないだろう。もちろんそこには“思い出”というスパイスもきいちゃっているから、多少大げさになってしまうのかもしれないが、でも間違いなくおいしさでは昔の肉屋さんコロッケのほうが美味しかったと思うのだ。
 だからなんなんだと言われてしまうかもしれないけれど、森さんがこの本のまえがきで「生活の細部を大事にした時代の一つ一つの物へのいとおしみ」を「近代合理主義とともに流し去ってしまったたらいのなかの水のうち、一すくいくらいは、やはりそれがなくては人間生きていけないようなのである」というのが、何となくうなずけちゃのである。それが今、私のとって一部は、子供の頃にあった商店街であり、近所の人づきあいであり、肉屋のコロッケやメンチカツのような気がするのである。そしてそんな郷愁みたいなものがこの八根千のどこかにあると噂やテレビで聞いたものだから、妙に心が動かされ、森さんの本を手に取ったのである。


評価
★★


書誌
書名:不思議の町 根津―ひっそりした都市空間
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480032676
出版社:筑摩書房 (1997/05/22 出版)ちくま文庫
版型:303p / 15cm / A6判
販売価:756円 (税込)

2009年03月17日

森まゆみ著『谷中スケッチブック』

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 昔、本屋で配達をしていた頃、本郷当たりまで行っていたことがある。とにかく坂道が辛くて、荷台に多くの雑誌や本を積んで、立ちこぎで自転車で坂を登っていった。しかし少しずつ荷台が軽くなってくると、その坂道につけられた名前が、どこかで読んだ小説にあった坂道だったりして、坂道の由来を書いたプレートを自転車を停めて読んだことがある。それがなんか懐かしい。
 ネットで手に入れた地図を眺めていると、谷中は本郷の北に位置するようで、ここにもたくさんの坂道がある。そしてたくさんのお寺がある。この本にもたくさんのお寺が紹介されている。どうしてこんなにお寺が多いのかよくわからないけれど、お寺が多くあるということは、それほど時代の流れに流されない部分がかなり残っているのではないだろうかと思ってしまう。
 お寺には有名人のお墓が多い。この本の面白いところは、そのお墓を語ることで、歴史が語られるところである。ただ単に谷中の紹介だけではないのである。谷中の墓地にある有名人のお墓の一覧がこの本にはあるが、それを見ていても、思わず「へぇ~」と思ってしまう。

 地域雑誌「谷根千」というのがある。谷根千とは、谷中、根岸、千駄木をいい、「谷根千」とはこの地域の情報誌である。その雑誌を創刊した一人が森さんである。なお、この雑誌は今年終刊している。
 私はこの土地と何の関係もないところで生まれ育っているのだけれど、最近どういう訳か、この谷中、根岸、千駄木という場所が気にかかる。思い過ごしかもしれないけれど、ここには私が過ごした子供の頃の風景がまだ残っている感じがするのだ。
 この頃自分が子供頃の風景が懐かしく感じることがある。東京という変化の激しい土地に暮らしていると、いつの間にか昔あった風景が忽然と消えていて、そしてそれが当たり前になってしまう。そして気がついたら、あの風景はどこへ行っちゃったんだろうと懐かしくなる年代となってしまったからだろうか?
 とにかく再開発だなんていって、新しい背の高いビルがどんどん建って、ショッピングモールみたいなところがもてはやされるけれど、どうも私はそんなところへ行ってみたいという気が起こらない。行ってみてもただきらきらしているだけで、ちっとも落ち着かない。むしろうるさく感じてしまう。こんなところに来て何が楽しんだろうと思ってしまう。
 そんな気分になっているとき、噂で谷中、根岸、千駄木にはまだそんな一昔前の風景が残っていると聞いた。だから森さんの本を手にした。ちょっと郷愁に浸りたかったのかもしれない。
 でもこうして自分が暮らしている土地の昔をたどれるというのは何かいいなぁと思うし、昔をたどれる歴史がそこにあることがうらやましくもある。歴史も伝統もない根なし草みたいな生活をしていると余計にそう思う。だからせめて自分の子供頃の原風景に懐かしさを求めてしまうのかもしれない。ちょっと前までは鬱陶しかった人とのふれあいが妙に懐かしく思うのだ。
 結局私は新しいものについていくことに疲れてきたのかもしれないなと思うことがある。いや新しいものについていけなくなりつつある自分を自覚してきているんじゃないかと思う。それは歳をとったことの証拠かもしれないけれど、それは仕方がない。

 いずれにせよ、そのうちかみさんと一緒にネットで手に入れた地図を頼りにここ谷根千をぶらりと歩いてみてもいいかなと思った。

評価
★★


書誌
書名:谷中スケッチブック―心やさしい都市空間
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480028556
出版社:筑摩書房 (1994/03/24 出版)ちくま文庫
版型:297,8p / 15cm / A6判
販売価:693円 (税込)

2009年03月13日

サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』

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 この本は実は以前からかなり気になっていて、読んでみたいと思っていた。しかし読んだ時期が悪く、花粉症で頭がぼーっとしているこの時期に読む本ではなかった。しかも元が悪文なのか、訳が悪いのかわからないが、とにかく読みにくい。だからたかが500ページの本を読むのに一週間以上もかかってしまった。その上読後の感想を書こうとして、気にかかった文章を引っ張り出し、書き出してみると結構な量となってしまった。これはどうまとめればいいのだろうと今度はそのことで悩み、一週間たってしまった。
 この本は冷戦後の世界に現実に起こっている数々の紛争を「文明の衝突」としてとらえ、それらの紛争を詳細に解説し、そこから見えてくるものを「共通項」として語る。その紛争の解説がいくら必要であるとはいえ、あまりにも細かく語られるため、読む方はそれだけで疲れてしまう。しかも数々の紛争から見えてくるものを、書き出してみると、結局同じことの繰り返しだと気がつく。だったらもう少し簡単なやり方があったんじゃないかなとも思える。
 で、この本に書かれていることをなんとか自分なりに消化してみると、まず今現在世界で起こっている紛争は何に由来するのか。そしてそれがどこで、どのような形で生じ、それが現在どんな形になっているのかという点で考えるとある程度まとめることができるようである。

 1500年以来、ヨーロッパは大航海時代、植民地時代、二度の世界大戦、非西欧世界を支配していたといっていい。そして戦後、冷戦時代を迎え、中核国であるアメリカとソビエトが同じ政治体制や思想などを共有する国々をある程度まとめ、世界を支配した。つまり世界は冷戦以前まで、ある一つの文明(西欧文明)やそれに対抗する東方正教会(ソビエト)文明で支配される単純な形であった。当時はそれらの二つの文明は力があったから、支配能力が機能していた。さらにそれらの文明の力がある程度バランスがとれていたため、今ほどの紛争が生まれていない。
 ただヨーロッパがどうして世界を支配できたのかは、「理念や価値観、あるいは宗教(他の文明から改宗する者はほとんどいなかった)がすぐれていたからではなく、むしろ組織的な暴力の行使にすぐれていたからなのだ」とこの著者は言う。
 一方で、後進国は自国を西欧化することで、西欧のような近代化、工業化の道で模索していく。そうすることで、自分の国を進歩発展させると考えたからだ。このことは、西欧にとって自分のところの文明は「普遍的な文明」であると勘違いさせることにもなる。その勘違いを著者は「西欧文明が貴重なのは、それが普遍的だからではなく、類がないからである」と言い、その類がない点を次のように説明する。

「西欧が他の文明と異なるのは、その発展ぶりではなく、価値観や制度のきわだった特徴である。なかでもいちじるしい特徴はキリスト教、多元性、個人主義、法の支配であって、これがあったからこそ西欧は近代化することができ、世界中に広がって他の社会の羨望の的となったのである。これらが一つになって、西欧独特の特徴となったのだ」

 しかしその西欧文明の力も衰えてくる。それを「西欧が明らかに他の文明と異なっている点は、1500年以降に存在していた他のすべての文明に圧倒的な影響をおよぼしてきたことである。この文明はまた、世界的に広がる近代化と工業化の先陣を切り、その結果、他のすべての文明が西欧に追いついて富を獲得し、近代化を達成しようとつとめてきた。19世紀末のヨーロッパ勢力がほぼ世界的に広がったことと、20世紀末のアメリカが世界的に優勢になったことがあいまって、西欧文明の多くが世界中に広まった。だが、ヨーロッパのグローバリズムはもはや存在しない。また、たとえ冷戦型のソヴィエトの軍事的脅威からアメリカが守る必要がなくなったことが唯一の原因にしても、アメリカの覇権主義は後退しつつある」と言うのだ。それを具体的な数字で示すと以下の通りになる。

 「西欧は21世紀に入ってもなお数十年間は、充分に世界最強の文明圏の地位を守りつづけるだろう。その後は、科学技術、研究、開発力、民需、軍需技術の革新といった分野においては、他よりはるかに有力な立場を維持する。しかし、国力の源泉となる他の要素については、西欧の支配力はますます非西欧圏の中心的国家、指導的国家の手に拡散していく。西欧によるこれらの諸要素の支配体制は、1920年に絶頂期を迎え、その後は不規則ながらも大幅な衰退傾向つづけている。その絶頂期から100年後にあたる2020年代、西欧の支配領域は世界の全陸地の24パーセント(ピーク時は49パーセントであった)に低下し、支配下にある人口は世界総人口の10パーセント(ピーク時は48パーセントであった)に減少するだろう。そして、社会的な参加意識をもった人びとについては15~20パーセントが欧米圏に属し、世界の経済生産高の30パーセント(ピーク時70パーセントに達していたと思われる)を西欧が占めることになる。西欧は工業生産高の25パーセント(ピーク時は84パーセント)を占めるのみとなり、兵力総数では世界全体の10パーセントにもおよばない(ピーク時には45パーセント)」と予想する。
 これを見ても「西欧支配の時代は終わる。同時に欧米の力が低下し、他のいくつかの地域に権力の重心が移ることにより、世界的な自主性の復活という傾向が進んでおり、非西欧文化の復興が始まっているのである」。

 さらに「非西欧社会が西欧的な諸制度を取り入れることにより、地域主義者や反西欧的な政治運動が権力に近づくことを可能にし、容易にしてしまうのである。民主化が西欧化を逆行させる結果となる。なぜなら民主化は彼らの政治的参加をみとめるからだ」。その上「近代化によって社会全体の経済力、軍事力、政治力が増すと、その社会の人びとはそれに勇気づけられて自分たちの文化に自信を取り戻し、文化を主張するようになる」のである。
 自分たちのアイデンティティを西欧文明ではなく、自分たちの社会にある文明に求めるようになったのである。つまり支配されてきた国々が経済的に力をつけたことで、自分たちの文明や文化に目ざめ、自己主張をするようになってきたのである。たとえばアジア諸国は経済力を増したことで、人権や民主化にたいする西欧の圧力にますます動じなくなってきたし、「イスラム教徒たちも大挙してみずからの宗教に向きなおり、アイデンティティ、存在意義、安定性、正統性、発展、力、そして希望の源泉として見つめようとしている」のである。
 こうなってくるとそれまでのような二つの文明で世界がくくられてきたようには行かなくなる。複数の文明が世界で自己主張し始める。しかも厄介なことにいわゆる国境が文明単位で定められていないので、ある一つの国では異なる文明にアイデンティティを見出す民族が一緒にいることになる。この境を著者は「文明の断層線(フォルト・ライン)」という。
 今世界で起こっている紛争はこうしたフォルト・ラインで起こっているのだ。本来は狭い地域で起こっている紛争が、他の地域で同じ文明にアイデンティティを求める人びとに訴えて協力を求める。そのことで紛争は地域間から世界へ拡大していくのである。
 一方複数の文明が共存する国の支配者側が一部で敗北すると連鎖的に拡大することになり、それこそ破滅につながってしまうから、なんとかして死守しようとする。これが紛争を拡大、長期化、あるいは非人道的な行為となっていくのである。

 さらに続ければ、西欧化した非西欧諸国の社会が急激に変化すると、それまであった自己のアイデンティティは崩壊し、自己を新たに定義しなおし、新しい自己像を構築しなければならなくなる。「自分は何者か」、「自分はどこに帰属するのか」という問いを求める人にとってその答を用意してくれるのが宗教である。ここに宗教が力を持ち始める要因がある。
 たとえば湾岸戦争でイスラム世界の人びとが強く感じたことは、サダムが侵略したのは悪いが、サウジアラビアに非イスラム教徒の軍隊が駐留し、その結果イスラムの聖地を「冒涜」した西欧はもっと悪いということなのだ。
 イスラム諸国の自信は、社会の活性化と人口増加から発したもので、なかでも拡大しつつある15歳から24歳の年齢層から、原理主義、テロ活動、反乱、そして移民などの活動に人材を提供している。経済成長はアジアを強化し、人口増はイスラム諸国の政府と非イスラム諸国に脅威を与えているのである。しかも文明に中核国(中心となる国)があれば、文明内に秩序をもたらすことも、他の文明と交渉して秩序を保つこともできるが、イスラム世界には中核国がないため、イスラム教徒として意識をもちながら団結せず、内外で対立が広がり、それがこの世界の特徴となっているのである。

 著者は「文明とは人類を分類する最終的な枠組みであり、文明の衝突とはグローバルな広がりもった種族間の紛争である。新しい時代を迎える世界で、二つの異なる文明に属する国家や集団は一時的に限定的かつ戦術的な協力関係や連合をつくって、第三の文明にたいする自分たちの利益を追求したり、共通の目的を達成しようとしたりするだろう。しかし、異なる文明に属する集団間の関係が緊密になることは滅多になく、通常は冷淡で、多くの場合、敵対的である」
 である以上、アメリカのように自分たちの価値観と制度は普遍的であり、アジア社会の外交政策や内政を思いどおりにできる力がまだあると信じることはやめ、中核国が他の文明内の衝突への干渉を慎むこと。そして中核国が交渉を通じて文明の断層線(フォルト・ライン)で起こる戦争を阻止すること。その上で文明の多様性を受け入れ、あらゆる文化に見出される人間の「普遍的な性質」、つまり共通性を追求していくことが必要だとする。そうしたできた国際秩序こそが、世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置だというのが、本書の結論なのだろう。

 まぁ結構苦労して読んだ本にしては、結論が少々陳腐すぎる気がしないでもない。


評価
★★


書誌
書名:文明の衝突
著者:サミュエル・ハンチントン 鈴木 主税【訳】
ISBN:9784087732924
出版社:集英社 (1998/06/30 出版)
版型:554P / 19cm / B6判
販売価:2,940円 (税込)

2009年02月25日

勝間和代著『読書進化論』

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 読んでいて何か違うんだよなと思った。何が違うかと言えば、読書の仕方である。この本は私みたいに本を楽しむ読書をしている人のための本ではない。本を読むことで、自分の人生や仕事、あるいは生活に何らか役立てようとする人のための読書の方法を指南している。
 本を読む行為はとにかく時間と手間がかかる。けれども、いやだからこそ読書は「ウェブよりも、濃度が高く、時間の費用対効果がいいものだ」と著者は言う。ただ目的意識なしに読んでいてはダメだ。「読んだ本の成果は仕事や生活で活用しなければいけない」と言い切る。そういう目的意識を持っているかいないかで、読書の時間効率が違ってくると言うのだ。
 そのような読書をしていれば、本から戦略的なことをひと通り、すべて学ぶことができると言い、そういう「読書は決して受け身的なものではなく、人生の目標と指針を与え、私たちの日々を進化させてくれるすばらしい方法なのです。ネット全盛期の今こそ、ぜひ、本の役割をもう一度見直し、私たちの大事な時間をもう少し多く、読書に投資してください。そうすることで、読者の方々にとって、よりよい人生が待っているのだと私は確信しています」結論づけている。
 なるほど、時間や手間、お金がかかる読書という行為に「費用対効果」を求めるのかと思った次第だ。これはスタンスの違いだからとやかく言うつもりはないけれど、できればこんな本の読み方はしたくはないなと私は思う。私の本の読み方はこの著者からすればなんて無駄な本の読み方をしているんだと言われそうである。
 けれど基本読む本が違うのだから仕方がない。一方は生活に、ビジネスに役立つ本を書く人であり、そんな本を読む人を対象としている。私は本の内容を楽しむことに読書という喜びを見出している。その点が違うのである。だから著者が「本は全部を隅々まで、読む必要はないのです。ウェブを頭から全部読む人がいないのと同じように、本の全体像から、好きなところだけ拾い読みしていけばいいのです。ただし、大事なことは、その内容が私たちの考え方や行動にどれだけしっかりといい影響を与えられるかということだと思います」というのは、絶対にできない。とにかく読むことに重点を置いているから余計である。

 そんな著者は本の売り方にも提言している。現在の本の売り方にはプロモーションやプレイス、そして著者のマーケティングが欠けているという。特に本の著者がそうした行為をしないのはおかしいと言う。自分の名前をとにかく売ること。これが何より大切だという。なぜなら本は「読まないと品質がわからない」という問題点があるから、読者に自分の書いた本を買ってもらうにはとにかく名前を覚えてもらしかない。覚えてもらえば、「あの著者の本ね」といった感じで、おおよその本の内容が想像できるだろうし、その著者を知っているということは、必然的に内容を保証しているものだという。だから「著者の名前を、見せてナンボ、名前を連呼してナンボなのです」と言う。
 これは言えている。以前読んだ本の著者である程度気に入って読んだ経験があれば、新しい作品も、たとえそれがひどいものであっても、少なくても読んでみようかなという気持ちが起こる。だからこの点については本の販売には開拓の余地があると言う。著者はこうしたことを専門としているのだから、今本が売れないのは、こんな点にも問題があると言うのだろう。まぁ、自ら積極的にマーケティングをしてくれるなら、それはそれでいいことじゃないかと思う。

 あとおもしろかったのはアマゾンジャパンの人の言葉だ。アマゾンでは雨の日に比較的売り上げが伸びる傾向があるといい、時間帯としてはリアル書店が閉店する八時頃から売れ行きがバーッと上がるらしい。曜日については土日より比較的平日のほうが利用されているというのは、何となくわかるような気がする。雨の日に本屋さんに行くのは厳しいものがあるし、休日は本屋さんより、他におもしろいところに行くだろう。時間についても、家に帰って一段落してからネットをやるのがやはり午後八時過ぎだろう。雨の日の平日、八時過ぎがアマゾンのかき入れ時ということだ。


評価
★★


書誌
書名:読書進化論―人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか
著者:勝間 和代
ISBN:9784098250011
出版社:小学館 (2008/10/06 出版)小学館101新書
版型:254p / 18cm
販売価:777 円(税込)

2009年02月24日

大崎梢著『サイン会はいかが?』

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 大崎さんの本はこれで三冊目となる。前作二冊を読んで、“こんなもんか”と思っていたので、もう新作が出ても読むまいと思っていたのだが、ついつい新作が目に入ってしまうと、買ってしまった。やっぱり本屋さんを舞台にしたミステリーというのにどうしても惹かれてしまうのだ。本屋さんに関する本にはどうしても読んでみたくなるのだ。言ってみればそれは宿痾みたいなものかもしれない。それに今度こそおもしろいかもしれないという期待もある。
 で、どうだったか?ダメでした。結果やめておけばよかったと思った。どうしてなのだろうかと考えた。あくまでも個人的な感想なのだが、全体的にインパクトが弱い。なんか仲間内で推理して、問題を解決したというイメージがいつもつきまとう。確かに探偵役の多恵ちゃんが言うように「本屋限定」のミステリー解明だから、限られた舞台の話であるけれど、それにしてもいつも仲間内でわいわいがやがややっている感じがしてしまうのだ。
 だからこの本の著者の読者はほとんどが書店業務に携わっているか、あるいは携わったことがある人ではないかと思ってしまう。なぜならそこにある舞台描写に「うんうんそうだよね」という共感できるし、さらにミステリーとなっていれば、その業界の人にとってはおもしろいのではないだろうか?でも結局それだけなのだ。部外者が読んだらきっとちっともおもしろくないと言われるのがオチではないだろうか。そんな気がする。もう少し重みが欲しい。
 結局本屋さんを舞台にしてしまうと、こんなものしか書けないのかなと思ってしまう。でも本にまつわるミステリーにはおもしろいものもたくさんある。本にはどこかしら個人的な思い入れがあるから、どろどろした部分がある。だからおもしろいミステリーが生まれる。その本を扱う本屋さんなのだから、もう少しまともなもミステリーがあってもいいような気がする。でもこの著者が成風堂書店という舞台や本屋さんの日常にこだわっていると、こんなものしかできないのではないかと思ったりする。


評価
★★


書誌
書名:サイン会はいかが?―成風堂書店事件メモ
著者:大崎 梢
ISBN:9784488017392
出版社:東京創元社 (2007/04/25 出版)ミステリ・フロンティア
版型:263p / 19cm / B6判
販売価:1,575円 (税込)

2009年02月23日

阿刀田高著『日本語を書く作法・読む作法』

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 昨年は阿刀田さんの作品に魅せられ、いくつか続けてその作品を読んできた。またさらに読んでみたいと思い、阿刀田さんの本を集め始めたら、いつの間にか単行本が棚一段占めるようになった。今年もそれら集めた作品を読んでみたいと思っている。
 で、その棚を眺めていて手に取ったのがこの本である。この本は書名からして、いわゆる日本語を書いたり、読んだするに当たり、阿刀田さん流に“こうすればいい”といったハウツー本かなと思っていた。実はそれを期待していた。阿刀田工房でどのように文章が綴られ、読まれているのか、そっちの方が興味があった。
 しかし読んでみるとただのエッセイ集であった。それも今まで新聞や雑誌に書かれたものが一冊の本になるボリュームになったから、それを集めて本にしたものであった。
 そのためか、これといって心に残るものはなかった。ただ阿刀田さんは文章を書くのはあまり好きじゃないというのは意外であった。昔からそうだったという。しかしだからこそ文章を短く書くという。それがよかったというのだ。
 どういうことかと言えば、人に読んでもらう文章はわかりやすくするために、センテンスが短い方がいいからだ。だらだらと思いに任せて書いていくと、やたら接続詞が多くなっていき、文章が長くなる。そうなるといったい何が言いたいのかわからなくなる。それはよくわかる。なぜなら私が書く文章がそうだからだ。自分でもよくわかっている。
 私はこうしてブログなどやっているからおわかりになるかもしれないが、文章を書くことが多分好きな部類に入るだろう。自分で思いのまま書いているものだから、誤字脱字は多いし、接続詞、形容詞がやたら多い。気持の方が先に立っているものだから、文章に書くとそうなってしまう。自分でもまずいなとは思っているが、まず書いてしまうことが先だと思っているから、どうしてもそうなってしまう。だから出来上がった文章を推敲する時は、まず接続詞を省くことから始めて文章を細切れにすることから始める。特に最近はそれを注意しているつもりなので、一時よりはマシになっているんじゃないかと思っているのだが・・・。
 阿刀田さんは自分が自分が怠惰なせいで文章が短くなっていると言っているが、それがわかりやすくテンポのある文章になっているのだろう。下手な横好きは結構だけれど、やはりその点は気をつけないといけないなと自戒する。
 阿刀田さんの言うようにあるいは書くことが嫌いな人の方がすばらしいく、わかりやすい文章が書けるのかなと思ったりすると、ちょっと悔しい気持もする。文章を書くことが好きでも、読みやすい文章が書けないものかなと考えてしまう。まぁ、できるだけ気をつけて書くしかないかとも思っている。


評価
★★


書誌
書名:日本語を書く作法・読む作法
著者:阿刀田 高
ISBN:9784788707733
出版社:時事通信出版局 時事通信社〔発売〕 (2008/01/05 出版)
版型:221p / 19cm / B6判
販売価:1,680 円(税込)

2009年02月06日

小川糸著『食堂かたつむり』

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 アルバイトを終えて部屋に帰ると生活用品一式がなくなっていた。同棲していたインド人の恋人もいなかった。一瞬部屋を間違えたのかとさえ思った。その瞬間、倫子は声が出せなくなってしまった。かろうじて残っていたのは祖母の形見でもあったぬか床だけであった。
 深夜バスを使い、故郷へ戻る。母親との関係がうまくいっていない実家へ帰った。故郷は「どれもが、懐かしくてくすぐったくなるような、けれど手のひらで今すぐ握りつぶししてしまいたくなるような景色だった」。母親は倫子が家に戻ることを渋々承諾してくれたが、働かなければならない。しかし倫子は料理を作ること以外できない。それしかない、と思う。何もかも失ったけれど、祖母から教わったレシピが自分の舌に残っているし、様々な飲食店で働いてきた経験が自分にはある。ここで「食堂かたつむり」をやろうと決める。
 但し、この食堂は一日一組だけ。メニューはなく、前日お客と面接やFAX、メールでやりとりをして、お客が何を食べたいのか。あるいは家族構成や将来の夢、予算などを細かく聞いて、当日のメニューを決めるというもの。そしてここは見渡せば、海、山、川、畑と食材の宝庫だ。だからなるべく土地のものを使って料理するのが基本方針。
 そうして一日一組のお客を迎えるうちに、倫子の作る料理で幸福感につつまれたお客は、「食堂かたつむりの料理を食べると恋や願い事が叶う」と感じるようになる。それが噂となっていう村や近くの町に暮らす人達に伝わっていった。

 まぁ、多くの自然が残る里山みたいなところには自然の食材がいっぱいあるだろうし、それを使った美味しい料理を食べれば、幸福感につつまれるであろう。お客を限定して、お客の希望に沿って料理を作るとなれば、お客の人生模様もそこにはあるだろう。それを感じる倫子自身、自分の家族関係、特に母親との関係にも、何らかの影響を与えるに違いないことは想像できる。特に母親が末期ガンとわかり、母親が死んだ後残した手紙を読んで、なんで母親と仲直りができなかったのだろうと後悔するのも、ありふれたパターンだ。
 倫子が「私は思うのだけれど、女系家族の気質というのは、必ず隔世遺伝するのではないだろうか?
 つまり、おかんは貞淑すぎる実の母親に反発してそれとは正反対な波瀾万丈な生き方選択し、その母に育てられた私は、そうなるまいと反発し、また、それとは正反対の地道な生き方を選択する。永遠のオセロゲームをしているようなもので、母親が白に塗り替えたところを、娘は必死に黒に塗り替え、それをまた、孫は白に塗り替えようと努力する」と考えるのも、それが普通じゃないかななんて思ってしまった。
 要するに、この本を私が若いときに読んでいれば(もちろん作品としてないのだが)、ある程度感動もしたのかもしれないけれど、50のオジサンがこんなことで感動してられないので、こんなもんでしょとか言いようがない。ただ所々になる言葉の響きには女性らしい優しさがあって、いいなとは思った。たとえばこんな感じ。

 「本当に大切なことは、自分の胸の中に、ぎゅっと、鍵をかけてきっちりしまっておこう。誰にも盗まれないように。空気に触れて、色褪せてしまわないように。風雨にさらされ、形が壊れてしまわないように」


評価
★★


書誌
書名:食堂かたつむり
著者:小川 糸
ISBN:9784591100639
出版社:ポプラ社 (2008/01/15 出版)
版型:234p / 19cm / B6判
販売価:1,365円 (税込)

2009年01月30日

阿刀田高著『アラビアンナイトを楽しむために』

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 世の中にはいわゆる古典、あるいは名著と呼ばれる本の書名、その著者などの名前は知っているけれど、実際読んだことがないというのが多いんじゃないかと思う。それを読んでみようと思えば、膨大な労力、根気、時間を要することになることがわかっているから、いくら古典、名著であっても、思わず伸ばした手を引っ込めてしまう。つまり読めないということだ。
 阿刀田さんはそうした古典、名著と呼ばれるそうした作品を阿刀田流にアレンジして“この本はこういう本ですよ”と内容を教えてくれる。この本を読めば、少なくとも書名や著者名だけでなく、少々内容も知ることができるわけである。いわば古典読本というところであろうか。阿刀田さんの本にはこういう本がいくつもあって、それを読めば現物を読まなくても、何となくそういう本かと知ることができるので、横着者にはもってこいである。
 この本もその一冊である。物語は、ササン朝ペルシャの時代で、シャーリャルという大王がいて、弟にサマルカンドの王、シャー・ザマンがいた。この兄弟がいないとき、それぞれの妃は黒人奴隷を連れ込んで、淫靡な遊びに耽っていたことを知る。このことからシャーリャル王は女性不信に陥り、「この大地の上に一人として貞淑な女などいやしない。女はこの世に生かしておく必要のない生き物なのだ」と宣言し、妻、妾をはじめ後宮女奴隷をことごとく殺してしまった。この後、シャーリャル王は夜ごと処女を求めて夜伽をさせた後、朝が来ると殺すようになった。このため町には処女がいなくなる。
 この時大臣の娘シャーラザットは自ら立候補してシャーリャル王の夜伽となる。シャーラザットは妹のドゥニャザットと共に王の寝床に赴き枕元で物語を語る。その話が余りにもおもしろいものだから、シャーリャル王はシャーラザットを殺すことが出来ず、とうとう物語は千と一夜続いた。そのうち王は自分のむごい仕打ちを後悔し、シャーラザットを王妃として迎え、この間三人の男の子を産んだ。
 笑っちゃたのは、千夜一夜で三人の子どもを産むことが可能かどうか、阿刀田さんは計算するのである。それによると、懐妊期間を十月十日とすれば、三人の子どもを産むのに九百三十日かかる。ということは1001-930=71日だから、子供を産んで次に妊娠するまでに平均三十日しかなかったことになる。もちろん不可能じゃないだろうけど、母体はぼろぼろじゃん、というのだ。「外国の遠い昔の空想譚ながら、母体保護の立場からおおいにご同情申し上げたい」と阿刀田さんはいう。シャーラザットの妹もシャーリャル王の弟の妃となってそれこそめでたしめでたしということになっている。
 阿刀田さんはその『千夜一夜物語』の中から気のおもむくまま十二話をこの本で紹介している。まぁ内容はそれほどおもしろいとは思えなかった。そもそも空想の世界が現実の世界と交錯していて、“こんなことあり得ない”と思っちゃうとおもしろくも何ともない。物語の結末から、訓話めいたことを導き出すことも可能かもしれないが、それを言いたいために無理な話を作っているとも言えなくもない。もともと教訓などを導き出す話が好きじゃないので余計である。まぁ、この本を読んで実際の『千夜一夜物語』を読んでみようという気にはならなかった。

 この阿刀田さんの本にもイスラムの一夫多妻制について触れられている。それが認められて来た理由が書かれていて、こちらの方がわかりやすかったので、それを書き残したい。

 「たとえば回教徒の世界では、四人まで妻を持つことが許されている。これはアラブ人の好色さを表わすように受け取られているが、そればかりではあるまい。激しい抗争を繰り返して来た砂漠の民族には親族よりほか信頼できるものがない。多くの子孫を得ることは繁栄の道であった。しかも二人の妻では仲たがいしやすく、三人でも二対一の形になって争う。四人の妻の場合にほどよいバランスがとれる、という智恵に由来するものだという」


評価
★★


書誌
書名:アラビアンナイトを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255088
出版社:新潮社 (1986/12/20 出版)新潮文庫
版型:297p / 15cm / A6判
販売価:499 円(税込)

2008年12月18日

松本健一著『司馬遼太郎が発見した日本』

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 この本は松本さんが「週刊『街道をゆく』」の巻頭に載せたそれぞれの街道の解説を一冊にまとめたものである。だから私は少なくても読んでいることになる。が、読んでいて、こんなにつまらなかったけ?と正直思った。「週刊『街道をゆく』」を読んでいた頃は、結構松本さんの解説がためになっていたし、実際司馬さんの『街道をゆく』を読んでいたときは、かなり参考にさせてもらった記憶がある。しかしこうして一冊にまとまってしまうと、大したことは言っていないなと感じてしまった。
 ただおもしろいと思ったことが一つある。三島由紀夫事件と『街道をゆく』の関係である。たぶんこれは松本さんの仮説なんだろうけど、仮説としてはおもしろいと思った。
 1970年11月25日に三島由紀夫は「盾の会」のメンバーと自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで割腹自殺した事件がいわゆる三島由紀夫事件である。
 一方司馬さんのこの「街道をゆく」の連載が始まったのは1971年1月1日号からで、当然この連載の原稿は前年の11月か12月の初めではないかと松本さんは推測されている。ということは、この三島由紀夫事件が「街道をゆく」の執筆に何らかの影響を与えているのではないかというのである。
 その根拠として松本さんは三島由紀夫が自決してからすぐ「異常な三島事件に接して」という三島由紀夫を痛烈に批判した文章を書いていることをあげている。
 三島由紀夫は昭和天皇が戦後「人間宣言」をして天皇が神でなくなってしまった日本を問題視した。三島にとって気概を持った美しい日本の象徴は天皇であるべきであって、だから自分は天皇が神であることを信じ、天皇陛下万歳と叫んで死んでいくんだとした。松本さんは三島由紀夫は天皇原理主義だったというのである。
 それを司馬さんは「私が考えている日本とは違う」ということを批判文章で言い表したというのである。司馬さんは思想に淫してはいけないし、あるいは思想のために死ぬことはあってはならない。たとえ仮にその思想が一時支持されても、所詮一種の「狂気」でしか支えられないものだというのである。
 司馬さんは三島由紀夫の思想を「美」に置き換えた方がわかりやすいとし、三島が求める「美」が戦後日本にはなくなってしまったから、自衛隊員にその絶対的な価値(天皇)の復権を促した。
 司馬さんが求める日本とは、三島が言う天皇が神である社会でもないし、高度成長期の「豊かな社会」でもない。松本さんは司馬さんは「日本人が長い歴史をかけて歩いてつくってきた『道』や『土(くに)』に、そうしたモノ(づくりの文化)に詩を、いや『美しい日本』を見出しているのである」という。
 つまりある意味この『街道をゆく』は三島が求める日本の美に対してのアンチテーゼであったのではないかというのである。そしてそれがこの『街道をゆく』の執筆の動機の一つであったのではないかというのである。

 あるいは三島由紀夫事件とこの『街道をゆく』の執筆時期が重なっていることを考えれば、そんなことも言えるかもしれない。けれどたとえそうであっても、この『街道をゆく』は高度成長期社会に作り上げてきたモノとは違い、本来日本あった、日本を日本たらしめている「不合理」的な「文化」を求め、それが高度成長という名の下に壊されつつあるから、こうした失いつつある原郷を求めて出た旅ではないかというのがしっくり来るような気がする。
 もちろん司馬さんが経験した戦争が、三島が求める天皇を神とした戦前の思想や政治体制を批判することをこのシリーズでも忘れてはいない。ということは結果として三島の思想を批判していることにもなるのだろう。何となくそう考えた方がいいような気がするのだがどうであろうか?


評価
★★


書誌
書名:司馬遼太郎が発見した日本―『街道をゆく』を読み解く
著者:松本 健一
ISBN:9784022502315
出版社:朝日新聞社 (2006/10/30 出版)
版型:232p / 19cm / B6判
販売価:1,365 円(税込)

2008年12月04日

東海林さだお著『超優良企業「さだお商事」』

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 しばらく読んでいなかったが、私は東海林さだおさんのエッセイが大好きである。東海林さんが描かれる漫画より好きだと言っていい。だから自分の本棚にもかなりの冊数が東海林さん本が収まっている。
 久しぶりその東海林さんの本を手にした。といっても、この本は藤原あつこという人が聞き手になって、東海林さんの話を聞く。東海林さんの仕事をたとえば『さだお商事』のオーナーということにして、創業三六周年(2002年で)を迎えられるほどのアイデアの豊富な企業としてその秘密を探ろうとしている。
 次々とヒットを生み出す「さだお商事」にはどんな秘密があって、「さだお商事」のコンセプトが昨今苦戦を強いられる一般企業に生かせないかということらしい。また東海林さんのそこでの生活、あるいは生き方が企業で働くサラリーマンたちに自己啓発を促すようなかんじで構成されている。さすが発行元が東洋経済新報社である。一章ごとに“「さだお商事」を会社分析”として東海林さんの話す内容を企業やサラリーマンたちに役立つようにまとめられている。ただこれは無理があって、しかも非常に馬鹿らしい。
 東海林さんが話す内容をどこか自分の会社に生かせないか、あるいは社員の自己啓発に役立たないかとしてしまうと、どうも茶番劇ぽくなってしまう感じがする。しかもこの藤原という聞き手、恐ろしくへたくそなのだ。そこいらのOLか、こいつは、と思えるほど、頭が悪く、下手な相づちが鬱陶しいのだ。さすがにこれにはまいった。
 ただ、東海林さんが漫画を描く上で、自分の気持ち、あるいは精神を若く保っていることの苦労を知った。今まで読んできたエッセイや漫画は、オジサンが無理して若作りして、逆にそれが滑稽になっている。それがおもしろかった。
 しかしそのジェネレーションギャップが生み出すユーモアは、実際作者が体験するなり、感じていなければ描けないものだと、改めて知った。だから無理しても、若い世代の感覚に敏感になろうとしている。いやそうしなければならないのだ。東海林さんは次のように言う。

 漫画家の場合は、漫画がおもしろくない、時代遅れだ、感覚がヘン・・・・などとならないとも限りません。ぼくはその場面を想像すると、たまらなく怖いのです。肩たたきされるサラリーマンの心境がよくわかります。

 だから東海林さんは次のように考えるのである。

 ぼくは、デビュー以来ずっと、「世の中にウケるものは何か」というテーマを追い続けてきました。漫画は時代に合ったおもしろさでなければ、誰にも受け入れられません。時代とともに、人々の感覚も、読む人も、異なってきます。新しい感覚を持った読者が次々と生まれてきます。そうした人たちがおもしろいと感じてくれなくては、連載漫画は続きません。
 自分が若いときは、読者もおなじ年齢だから、そのままの感覚で描いていればよかったのですが、自分が年をとってくると、読者は自分より若い世代になってきて、自分の年齢との格差が広がってきます。こうしたときに、自分の感覚のままでいると、ぼくの読者層である若い世代の感覚とズレが生じてきてしまうのです。
 ですから、若い人たちの感覚を取り入れることは、必須であり最重要条件です。

 ぼくにとって、「若くある」ということは仕事を続けていくうえで不可欠です。自分を若く保って、最新の社会感覚を取り入れていかないと、漫画が時代に遅れてしまいます。必死に時流に遅れまいと、それなりの努力をすることが必須なのです。

 今まで東海林さん自身の文章や東海林さんが描く漫画を大笑いしていただけだったが、そこには自身の苦労があることを知らされた。オジサンが時代に遅れまいと、合コンに参加したり、プリクラをしたり、大変だなと思うけれど、幸い東海林さんはそうしたことを体験することに苦を感じていなく、むしろ楽しんでおられるから、明るい話題として提供されるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:超優良企業「さだお商事」―ショージ君のイキイキ快適仕事術
著者:東海林 さだお【著】 藤原 あつこ【聞き手】
ISBN: 9784492041864
出版社:東洋経済新報社 (2002/12/05 出版)
版型:188p / 20cm
販売価:1,260円 (税込)

2008年11月28日

河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』

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 この著者は確か「世界一受けたい授業」という番組で、日本史の先生として出演されていた。私は最近の日本史はどのように教えているのだろうと興味もあって、たまにこの番組を見ていた。
 面白いと思ったのは、我々が習った日本史とは、最近さまざまな部分で解釈が変わったり、あるいは教科書に当時載っていた人物は実は違う人だったとかで、日本史の教科書自体もかなり変わっているらしいことを知る。
 この本の「はじめに」にも次のように書かれている。

 みなさんは、日本史の教科書から偉人たちの肖像画が消えつつあることをご存じでしょうか。
 たとえば一九八〇年の教科書(『日本史』三省堂)には、三十六点の肖像画が掲載されていましたが、現在の教科書(『日本史B』三省堂 二〇〇六年)はわずか二十点。およそ半分近くに減ってしまっているのです。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、松尾芭蕉、徳川吉宗など、これら有名な偉人も、みな教科書から姿を消してしまいました。
 
 教科書に掲載されている肖像画のなかには、「本当にこの絵は、本人を描いたものなのだろうか」というような、疑惑の肖像画が次々に見つかりはじめたのです。

 つまり、我々の世代が教科書やお札などに描かれた日本史上有名な人の肖像画が実は当の本人を描いたものではないということが、今盛んに言われているようなのだ。そのためまずこの本では有名な肖像画は実は違う人物であったということから始まり、次に我々が描きいだいている人物像は例えばテレビドラマなどに影響されて、虚像を作ってしまっているのだと言うのである。
 そして最後は肖像画の人物の実体像は実はこうだったと、いわば異説を紹介している。ただここまで来ると、多少著者の筆が走りすぎている感じがしないでもない。

 でも我々が知っている肖像画が実は違う人物か、あるいは本当の姿をあらわしていないというのは面白かった。例えば聖徳太子である。我々が知っている聖徳太子の像は多分お札から来るイメージが固定されている。この本で知ったことなのだが、聖徳太子の肖像は戦前・戦後七回も使われているという。その肖像は「唐本御影」という絵画から使われている。



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 しかしこの「唐本御影」というのは、八世紀半ばに描かれたもので、それは聖徳太子が死んで百年以上も経って描かれたものだそうだ。だから今みたいに写真やビデオが残っているわけもないので、それが本人と似ているなんて誰も証明できないわけだ。
 それどころかここ数年「聖徳太子は実在の人物じゃない」という学説さえあるという。推古朝には廐戸皇子という人物がいたが、彼が聖徳太子と呼ばれた事実がないとさえ言われているし、冠位十二階や憲法を制定し、遣隋使を派遣したなど政治に主導的立場であったかどうかさえ疑わしいらしい。
 そのため最近の教科書は聖徳太子という名前はなく、廐戸皇子の名が載っているという。私も以前にそれを聞いて、息子が日本史の教科書をまだ持っていると聞いて見せてもらったら、廐戸皇子(聖徳太子)となっていた。
  実は我々が知っている源頼朝の肖像画も違う人物だという。我々が知っている頼朝像は神護寺にある「伝源頼朝像」という肖像画である。



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 ところがこの肖像画実は頼朝ではなく、足利尊氏の弟直義を描いたものだといい、学会でもその説が受け入れられつつあるらしい。
 では足利尊直義の肖像画がどうして頼朝の肖像画とされたのか?それは『神護寺略記』という文書に神護寺には頼朝の肖像画があると書かれていて、江戸時代になって神護寺にある肖像画がそれだということが定着し、そのまま現在に至っていたからだそうだ。本来は言い伝えでしかなかったのに、それが実像だとして、我々の教科書に載っていたらしい。
 足利尊氏だとして『守屋家本騎馬武者像』がやはり教科書に載っていたが、これも違うらしく、これは高師直(こうのもろなお)らしい。



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 さらに西郷隆盛の肖像画も西郷の死後、弟の西郷従道と従弟の大山巌の顔を参考にして描かれたものだ。

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 ただこれは知っていた。もともと西郷はかなりの写真嫌いで一枚もないのである。

 こう見てくると、教科書に載っている歴史上の人物像はかなりあやふやなもので、あてにできるもんじゃないんだなと知らされる。またそれら歴史上の人物のイメージが、テレビのドラマや映画で脚色されたもので、たとえば一休さんは漫画のイメージが残っているし、沖田総司は病弱のイケメンといった役者のイメージがそのままインプットされてしっているところが確かにある。(実際はかなり違う)
 まぁ、肖像画ならまだ許せるところはあるけど、ドラマや映画の物語、あるいはセットなどがそのまま史実だと思いこんじゃっているところがあるから、考えてみると恐ろしい。
 さらに歴史認識というのは時代時代でさまざまな形に変化していき、習ったことが古くなりつつあるんだなという一端を見せてくれる本でもあった。ただ、惜しいのは、さっきも書いたが、後半著者は調子に乗りすぎてしまっていて、「おいおいそれはどうなのよ」という感じなってしまい、あまりにも異端説を書きすぎてしまっているのが残念であった。そのためこの本は単純に雑学本になってしまっているのである。
 著者は現役の高校教師というから、授業を飽きさせないために、こうした話をサービスとして生徒たちに提供していたのだろう。確かにこんな話をしてくれる先生の授業は面白いかもしれない。


評価
★★


書誌
書名:なぜ偉人たちは教科書から消えたのか―“肖像画”が語る通説破りの日本史
著者:河合 敦
ISBN:9784334975029
出版社:光文社 (2006/06/30 出版)
版型:274p / 21cm / A5判
販売価:1,365円 (税込)

2008年11月25日

松田哲夫著『「本」に恋して』

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 この本は著者の松田さんが“本”はいかに作られ(装幀され)るのか。そしてその本の“紙”はどのように漉かれて、本のページとなるのか。さらに本の文字を印刷するインクはどのように作られるのか。それぞれ受け持つ業者を訪ねる歩いたルポである。
 しかし今は、そのほとんどが機械化され、オートメーション化されて、中で何をしているのかわからないブラックボックス化しているようである。
 だから“束見本”を作るところと、その見本を入れる函を手作りで作るところがかろうじてわかるぐらいであった。それ以外は全て機械化された本作りの説明で、その機械が何をしているのかイラストや説明があっても、イラスト自体小さいので見づらいし、説明もよく理解できなかった。
 イラストはもう少し大きく鮮明にあればいいのにと思ったが、そうするとこの本の原価も上がり、それでなくても2,310円と、たかが200ページの本としては高いのに、もっと高くなってしまうのだろう。(多分装幀や紙質に凝ったしまったのではないかと思われる)
 この本を読んでわからないわけじゃないが、私としてはこの本の装幀にこだわるよりも、それよりもどのように本が作られるのかをわかりやすくしてくれた方がありがたかった。

 ところで私も最近の本は函入り本が少なくなったなぁと思う。新刊書店に行って、並んでいる本を見てもそう思う。松田さんも「ぼくが編集という稼業に従事するようになった約四十年前からすると、本そのものが大きく変わってきているからだ。当時は、文学全集など蔵書型の書物や上製の単行本が主流だった。だから、函入りとか布装の本がたくさん作られていた。
 ひるがえって、いまの出版状況を眺めてみると、本の世界では、文庫、新書といったペーパーバックが主流で、単行本も上製本よりも並製本が大勢を占めるようになっている。全体にロープライス化、ローコスト化が進み、それに伴って規格化も進行している。装幀に限って言えば、昔に比べて、資材も貧弱になり、表現できる範囲も狭くなっているのだ。『もはや、かつてのような装幀本を作るのは不可能だ』と嘆く古参のデザイナー、編集者も多い」という。
 さらに本を作る側の人たちも「中村さん(株式会社DNP製本・マーケティング部長)の話をうかがうと、上製本は年々減少傾向にあるという。市販する本でも、いまはすっかりペーパーバック(並製本)全盛の時代になり、全集や画集などの上製本のシリーズは壊滅状態に近い」というのだ。
 その現実を次のような数字として松田さんは紹介する。

「一九七〇年十月の『新刊ニュース』を見ると、全刊行点数が三十点、そのうち函なしはわずか四点。機械函十四点、貼り函十二点、うち帙入り(書冊の損傷を防ぐために包むおおい。多く厚紙に布を貼ってつくる 広辞苑 第五版)が一点。一方二〇〇三年五月の『新刊案内』によると、全刊行点数二十三点、そのうち函入りはわずか一点だ。どうしてこうなってしまったのか。原因ははっきりしている。全集の時代から文庫・新書(ペーパーバック)の時代になったのだ。一九七〇年十月の全集類は二十点、二〇〇三年五月のペーパーバックは十九点だ」

 どうしてそうなってしまったのかを、原因を次のように説明するが、多分その通りなのだろう。

①地方自治体の慢性赤字による「図書館予算の削減」

②「(図書館)利用率向上」が叫ばれ、住民のリクエストの多い、ベストセラーや文庫を中心に図書館が購入するようになった

③図書館のネットワークが進んだお陰で、全集類のような利用頻度の低いものは、都道府県の中央にある図書館のあればいいことになった

④かつて地域にいる文学書・教養書などの愛読者を把握していた地方の老舗書店の外商部が壊滅状態にあること

⑤かつては家で静かに読書をする人が多かったが、今は通勤途中などあいている時間に読書するという読書習慣の変化が、大きくて重い本を売れなくする

⑥長引く不況

 これらが安い本へと指向していくこととなった原因だ。しかしロープライス化といっても、果たして本当に本は安いのだろうか?文庫や新書の定価は安く感じるかもしれないけど、単に単行本と比べてみての話であって、文庫や新書そのものも中身からすれば高くはないか?
 ところで一つ不思議に思うことがある。通常人手がかかるところを機械化して、人件費を抑えていけば、当然製本のコストはそれ以前より下がっていいところではないかと思うのだ。ということは、本が昔より安くなってもいいはずなのに、逆に高くなってはいないか?確かにここのところの原油高などで原材料が値上がっている現状はわかる。けれどそれ以前はどうなのか?これだけ製本が機械化しておれば、本が出来るコストは以前より安くなっていてもおかしくないのではないか、と思うのだ。
 ここにおもしろ記述があった。松田さんが佐野眞一さん座談会の言葉を引用しているのである。そこには「新刊点数ばかりが増えて、本がなかなか売れない多産多死の出版状況で、なぜ多くの出版社はもちこたえているのか。その理由のひとつは、この十年間で本をつくるコストが三分の一ぐらいになっているからです」と。それを松田さんが製本関係者に言うと、その人も「製版コストでいえば、わたしが入ったころの単価に比べたら現状は三分の一くらいですよ」とある意味肯定しているのである。
 そうなのである。本来機械化により本の原価が下がっていいにもかかわらず、本の定価が下がらないのは、そのお金が出版不況をカバーするのに回ってしまっているからなのだ。思わずやっぱりそうだったのかと思った。
 結局読者は、つまらない本を作り、その半分が返品に回り、利益が出ない出版社の利益補填までやらされていることになるのかもしれない。まぁ、本が高い理由はこれだけじゃないだろうけど、このことはもしかしたらその一理由なのかもしれないなんて感じた。


評価
★★


書誌
書名:「本」に恋して
著者:松田 哲夫/内澤 旬子【イラストレーション】
ISBN:9784103009511
出版社:新潮社 (2006/02/25 出版)
版型:203p / 19cm / B6判
販売価:2,310 円(税込)

2008年10月27日

穂村弘著『本当はちがうんだ日記』

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 私はエスプレッソが好きだ。カップをそっと口につける。目を閉じて、ゆっくりと一口啜ってみる。苦い。舌が苦い。苦くて、とても飲めたものではない。痺れた舌を空中でひらひらさせながら、私はカップを置く。
 私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故なんだろう。果実の薫りとキャラメルの味わいの飲み物が、地獄の汁に感じられるのは何故か。それは、おそらく、私自身がまだエスプレッソに釣り合うほどの素敵レベルに達していないからだ。

 私の本棚の一角カバーをかけた本たちが並んでいる。全てがいわゆる自己啓発本である。素敵な自分になるためだ。

 コートや上着やズボンのポケットから小銭が出てくる。レジでお釣りを受け取るときに、その場で落ち着いて小銭入れに収納することが出来ず、ポケットのなかにばっと放り込んでしまうしまうからこうなるのだ。

 小学校六年生のとき、卒業文集を作ることになり、その記入用紙に「名前」「誕生日」「血液型」「好きな食べ物」「趣味」「将来の夢」の中に「あだ名」という項目がありショックを受ける。私にはあだ名がなかった。私は記入欄に素直に「特になし」と書けばいいものを「ホムラ」と書いてしまった。
 文集が出来上がって、隣の席の「かーくん」に何気なく「これ、おまえの、名前じゃん」と云われたとき、私の世界は張り裂けそうだった。「だって、ないんだ、ぼくには、あだ名、ないんだ」と絶叫したかった。だが私は「ふふふ」と笑っただけだった。何がふふふなんだ。

「なあ、トースケ、この三年間(高校の)にバスのなかで女の子から何通手紙貰った?」
「え、わかんない、二十個くらい?」
 それは「がーん」でありつつ「やっぱり」なのだ。
 勿論私は一通も貰ったことはなかった。ラブレターを「個」で数えるような奴が二十個貰えて、ちゃんと「通」で数えられる俺は0通。羨望と嫉妬と納得で、私は混乱していた。
 彼女たちにとって、私は、バスの車内の吊革や椅子と同じ存在なのである。いや、掴まったり座ったり出来ない分、それよりも価値がない。

 私は自分の方から女の子に手紙を出すことなど考えてもいなかった。
 それがどんなジャンルの事項であれ、例えば、六十七勝七十三敗からの一敗は何ということもない出来事だ。そこから三連敗してもなんとか耐えられるだろう。だが、0勝0敗からの一敗は恐ろしい。三連敗などしようものなら、自分はこのまま生涯一勝もできずに終わるのではないか、という恐怖に囚われてしまう。その予感が私を動けなくする。

 マネキンが着ている服をかっこいいなと思う。
 早速買って帰って自分で着てみると、余りにも印象がちがって驚く。マネキン着用時にあんなに素敵だったシャツが、鏡のなかでへたっと死んでいる。これは、と私は思う。やはり僕のせいなんだろうな。

 最初から書き出したらきりがない。気持としてはよくわかるし、誰だって見栄を張ったり、人をうらやましがったりするだろう。似たような経験や感じを持ったこともあるだろう。だけど不思議なもので、人生、そういう不幸?からいつの間にか解放されちゃう気がするし、まして年齢を重ねれば、だんだんそういうことを考えることさえ鬱陶しくなってくるのではないかと思うのだ。むしろ著者みたいに四十過ぎてもまだ自分は本来の素敵な姿になっていないと感じる方が、私にすればおかしいのではないかと思うのだ。若々しいといえばそう言えちゃうのかもしれないけれど、四十過ぎてもこれじゃ、どうなのだろうか?
 別に人生論をぶちかまそうなんてさらさらないが、読んでいて面白かったし、「うん、うん」とうなずけちゃところはあるけれど、それは昔の自分を振り返ってそう感じるだけであって、今はそんなことどうでもいいじゃんと思う方が普通なんじゃないかと思う。むしろ若い頃の不幸をさらりと語れる方がかっこいいような気がするのだけれど。
 この本は三浦しをんさんの本で知った。私は著者がどういう経歴の人なのか知らなかった。この本の見開きに著者の紹介があって、それを読んでいると、なるほど、著者は歌人でなんだ。だからいつまでも若い気分を持てあましているんだと思ったのである。世の中にはいろいろな人がいるもんだ。それでいいような気がする。私は穂村さんのこのエッセイを読んでそう思ったのだけれど、穂村さんはそれでは済まない人なのだ。そういうことだろう。


評価
★★


書誌
書名:本当はちがうんだ日記
著者:穂村 弘
ISBN:9784087463538
出版社:集英社 (2008/09/25 出版)集英社文庫
版型:213p / 15cm / A6判
販売価:479 円(税込)

2008年10月21日

阿刀田高著『花のデカメロン』

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 この本はボッカチオの『デカメロン』の入門書というか、解説書である。もちろんそこいらにあるその手の類の本ではない。例によって阿刀田流のスパイスをきかてある。
 『デカメロン』自体14世紀の作品だから素朴だけど、荒削りであり、時には話のつじつまがおかしい部分もあるらしく、それを20世紀(この本が出たときはまだ21世紀にはなっていない)の現代風に直せばこのようにした方がいいと、阿刀田流にアレンジしたものも添えられている。
 ご存じの通り、『デカメロン』は当時ヨーロッパで大流行したペストを逃れて、上流階級の七人女性と三人の男性が別荘で14日間過ごすかたわら、毎日みんなでお話をしましょうということで、その語られた話をまとめたものである。もちろんボッカチオの創作だが。こういう舞台装置を作って物語をはじめるのを“枠物語”というらしく、あの『千夜一夜物語』もタイプとしてこれに属する。
 で、当時の上流階級というのは腐敗しきっており、しかもペストでいつ自分たちが死ぬかもしれないという状況であったから、生きている間に享楽を満喫しようという風潮であった。
 だから毎度毎度不倫の話ばかりだ。どうしても人間は腐敗するとそっちの方面であれこれうごめくのである。上流階級の貴婦人を恋いこがれる輩がなんとかしてものにしたくて、あれこれ策を弄して近づくとか、あるいは貴婦人自体が若い男に恋いこがれ、なんとか近づきたいとする話ばかりである。おそらく原作だときっと読み切ることの出来ないだろう話を阿刀田さんは今風におもしろおかしく語ってくれる。だから読んでいてくすっと笑える。その点こういう解説書はいい。『デカメロン』には、こんな話があるんだよという雑学的知識が残る。
 ところでこの本の初出は女性雑誌「JJ」だとある。へぇ~、「JJ」を読むというか見る女性がこの阿刀田さんの作品を読むかなと正直思った。「JJ」の読者にはこの作品のユーモアやエスプリはちょっと高尚過ぎないかなんて思ったのだ。だって「JJ」の読者って、3月まで制服を着ていた女子高生が、4月になって短大に入り、制服から私服になり、着ていく服にあれこれ悩み、この雑誌で紹介されるファッションをそのまま着こなす女性をターゲットにした雑誌でしょ?どう考えても無理があるような人でも、“かわいい”ということでこの雑誌を地のままでいっちゃう女性たちである。そんな女性がこの阿刀田さんの作品を読むとは思えない。
 せめてスーツでシャツのボタン二つ外して颯爽と歩くOLさんたちが、この作品を読んでくすっと笑うのがいいと思うのだけれどなぁ。雑誌でいえば「MORE」を二つ折りにして脇に挟んで歩く世代の女性がいい。でも「主婦の友」じゃまずいよな。(もっともこの雑誌も休刊になっちゃったけど)やめよう!これ以上書くと私の品性が疑われちゃう。


評価
★★


書誌
書名:花のデカメロン
著者:阿刀田 高
ISBN:9784334712358
出版社:光文社 (1990/11/20 出版) 光文社文庫
版型:267p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2008年10月15日

阿刀田高著『続ものがたり風土記』

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 続いて続編を読む。この本は前回日本各地にある昔話、伝説、民話、物語などストーリーを訪ねる旅だと書いたが、それだけでなく、明治・大正・昭和の名作で、それら作家たちの生誕地や活躍の場所がそこにあれば、作品を含めてここで紹介している。この本自体文芸雑誌「小説すばる」が初出誌だからだろう。
 それが結構面白い。作品のあらすじや、小説の舞台となった背景など詳しく語られ、思わず読みたくなるのである。私は本を探す場合、こうした本の中で紹介された本を読むことが多く、今回も何作か気になる作品があった。で、それをリストアップすると、正編も含め以下の通り。

1.松本清張著『万葉翡翠』角川文庫

2.松本清張著『秀頼走路』(所有済み)

3.南条範夫著『灯台鬼』(ゲット)

4.長尾宇迦著『幽霊記-小説・佐々木喜善』文藝春秋

5.安部公房著『榎本武揚』中公文庫

6.吉村昭著『熊嵐』新潮文庫

 ただ、ここに記されて本はなかなか手に入らないようだ。新刊書店で探すとなると難しいかもしれない。手始めはブックオフで探してみようかと思っている。(南条範夫著『灯台鬼』は近所のブックオフでさっそく見つけた)

 阿刀田さんはこの本の最後に、「小説にはストーリーとモチーフがある。モチーフとは、作家が読者に伝えたいメッセージの核心にあたるもの、読者の側から言えば『この小説、何が言いたいの?』と問うときのその“何か”に相当するものだ。
 ストリーがボディーであるとすれば、モチーフは小説のマインドだ。体と心である。
 風土はこのどちらとも関わっている。風土を見て、思い立つストーリーがある。風土に接してモチーフを獲得するケースもある。ある風土を舞台にしなければ成立しえないストーリーもあるし、風土と密接に結びついたモチーフもある。それぞれの関係は、あるときは深く、あるときは淡く、すこぶる複雑だ。作者の立場と、読む人の立場とで見えてくるものが異なったりもする。
 私の<ものがたり風土記>(正続)は風土とストーリー、風土とモチーフ、それぞれの関わりを、現実の旅の中で捜してみよう、という試みであった」と書く。
 確かに小説を読む場合、その作品が書かれた背景を知れば、さらに作品は面白くなるだろうし、その舞台に行けるならもっと小説を面白く読めるかもしれないなとも思う。しかしそんな読書はかなりむずかしいだろう。だからこの本のような小説の舞台を教えてくれる本はある意味貴重かもしれないと思った。


評価
★★


書誌
書名:続 ものがたり風土記
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087745214
出版社:集英社 (2001/06/30 出版)
版型:337p / 19cm / B6判
販売価:1,890円 (税込)

2008年10月10日

阿刀田高著『ものがたり風土記』

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 また阿刀田さんの本に戻る。この本は紀行文である。阿刀田さんは次のようにこの旅の目的をいう。

「昔話、伝説、民話、物語、小ばなし、小説、言い方はいろいろあるにせよ、これらを支えている大切な要素にストーリーがある。稚拙なもの、巧みなもの、単純なもの、複雑なもの、レベルは多様だが、ずいぶんと古い時代から人間はストーリーを珍重して来た。事実から変形したもの、想像が生んだもの、だれかが語り始め、だれかが伝え、だれかが添削をして今日に残っているものが無数にある。名もない語り部が、愛すべき小説家(ストーリーテラー)が実在していあたはずだ」

 その物語、あるいは昔話、伝説、民話などを日本各地を探し歩き、それらのゆかりの地で物語の由来を探るのである。それは必ずしも事実だけが大切なわけではない。フィクションにはそれを創った理由、創った人の願望が潜んでいるから、それを探るのである。それがたとえ作り話であっても、百年たてば、りっぱな伝承的真実になっているものがたくさん日本にはあるから、それを訪ね歩く。
 従って名もなき語り部や有名な作家の作品、あるいは世界中に散らばる作品のも同様なものがあるとして紹介していく。それが結構面白く、紹介された作品を思わず読んでみたくなってくる。
 阿刀田さんは松本清張さんの作品に造詣が深く、いくつかここでも紹介しているのだが、今ちょうど夜な夜な清張さんの短編を読んでいるので、思わず、どれどれと作品集から該当の作品を探してしまう。
 さて、伝説といえば私は高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』が懐かしかった。ここでは死んでほしくないヒーローたちはいろいろな形で生き続ける例としてあげている。実際はどう考えてもあり得ないのだけれど、物語だと面白く語れる例として話している。
 高木さんのこの本はいつ読んだであろうか?多分高校時代だと思うが、結構面白く読んだ記憶があり、未だにばかばかしいけど面白かったという記憶がある。
 話は名探偵で検事である神津恭介が怪我か病気か忘れたけれど、とにかく現場に復帰できない状態で、病室で暇を持てあましている。その暇つぶしに、源義経が衣川で憤死しないで、海を渡って中国に逃れ、ジンギスカンになったという話を確かめてみようという話である。いわゆる義経伝説を神津の部下かなんかが探してきて、それを追っていくと、義経が中国に渡り、ジンギスカンになっていくのだ。

閑話休題
 ちなみにこの本確かカッパノベルスで読んだ記憶があるが、もちろん手元にはない。もう一度読んでみたいななんて思ったけれど、手に入らないだろうなと思ったら、何と、角川書店を追い出された角川春樹さんが作った出版社でハルキ文庫で読めるらしい。

 こういう話は松本清張さんにもあり、義経ではないけれど、豊臣秀頼が大阪城で死なずに生き延びたという話らしい。(さっそく読みたくなり短編集で調べてみる)

 考えてみたら、いわゆる物語はたとえ史実であっても、それが語られると同時に、語る者、あるいは話を作った者の主観が入ってくるし、わからない部分は推測し、勝手に都合良く話の整合性を整えるところがある。いや整合性を整えなくてもいい。はちゃめちゃでもいいのである。要は聞く者、読む者が面白ければそれでいいのだ。だから人類は洞窟の中で暮らしていた当時から、火をくべながら物語を語り、聞いてきたのであろうと想像する。もちろん言葉や文字なんてなかったから、手振りや、絵など描いて、それを伝えてきたのではないか。そのうち言葉が出来、文字が生まれるまで、人々は物語を代々語り伝えてきたのである。そして柳田国男みたいにそれらを採取して文字に表す。
 ただこうした物語は確かにその地に根付いたものであるである場合もあるが、得てして世界中に似たような物語があること教えてくれる。私はそれは人類共通の思考回路から生まれたものかもしれないなんて思ったりするのだが・・・。でもそういう類似性は面白い。改めて世の中にはいろいろな物語あるんだなあと思ったし、それを読んでみたいなという気持にさせられた。


評価
★★


書誌
書名:ものがたり風土記
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087744545
出版社:集英社 (2000/02/29 出版)
版型:342p / 19cm / B6判
販売価:1,890 円(税込)

2008年10月01日

YOMIURI PC編集部編『パソコンは日本語をどう変えたか』

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 私はWindows Vistaが搭載されたノートパソコンを使ってこのブログの文章を書いているが、最初Vistaの画面の文字を見たとき「あれっ、なんか違うな?」と感じた。普段フォントなどあまり気にしない方なのだが、そんな私でもそんなことを感じた。
 Vistaのシステムフォントを“メイリオ”ということをはじめて知った。私は知らなかったが、このフォントはVista発売前から結構話題になったらしい。“メイリオ”の語源は「明瞭」からきているらしいが、その語源の通り、確かにXPの文字よりスッキリしているかもしれない。そのねらいは①ディスプレイ上(特に液晶ディスプレイに)での可読性向上、②和文と欧文を違和感なく調和させるということにあるらしい。
 ところで漢字をコンピューター上で扱えるようにするためには、一定の数の漢字に番号を振ってソフトに組み込まなければならない。この組み込まれた文字の集合体を「文字セット」といい、多くはJISの文字コードを基準にしている。Vistaは「JIS X 0213:2004」(通称「JIS2004」)という文字コードを使っている。
 ところがVista以前のバージョン、例えばXPでは「90JIS」が組み込まれていて、ここで問題が生じるらしい。下の文字を見てほしい。「かつしかく」を漢字変換すると、上がXPの場合、下がVistaの場合である。違いがわかるであろうか?


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 XPは「ヒカツ」であり、Vistaは「人カツ」なのである。それをこの本で知ったとき、実際試してみて「へぇ~、そうなんだ!」としげしげとその文字を見てしまった。
 これは大したことじゃないと思われるかもしれないけど、搭載している文字コードの違いがあるということは結構問題なのである。だって双方名前なのだから当然こだわりがあるはずで、いい加減に済ませられる問題じゃない。
 さらにVistaの「JIS2004」の文字コードにはあまり日常生活では使われない第3、第4水準の漢字が収録されているが、XPの「90JIS」はそれが収録されていない。もしVistaで第3、第4水準の漢字を使って、例えばメールなどした場合、XPでは文字化けしてしまうのである。今のところ混乱がないのは、Vistaがまだそれほど普及していなし、そもそも第3、第4水準の漢字が日常生活であまり使われることのない漢字だからであるが、固有名詞にはこの第3、第4水準の漢字が使われる可能性が充分あるので、ネットの取引など支障をきたすおそれがあるという。

 アメリカ生まれのコンピューターはアルファベットしか扱えない。しかし日本でコンピューターを使うためにはどうしても漢字が使えないとその普及は進まない。当然である。しかしコンピューターで漢字が扱えるとなると、大変なシステムが必要になるし、ソフトも複雑になる。
 例えば英語の場合、基本的な文字数はアルファベット26文字と数字と記号だけで100字あれば事足りるし、しかもアルファベットは漢字に比べれば字形が単純だ。ところが日本語の場合、ひらがな、カタカナ、それにいくあるかわからない漢字を扱わないとならない。しかも字形が複雑ときている。さらに同音異義語が日本語にはたくさんある。それらの問題をどうやってクリアーして、パソコンに日本語変換を組み込んでいったかを、その歴史をこの本では書かれている。
 昔、日経新聞から出版された『パソコン革命の旗手たち』という本を楽しく読ませてもらった記憶があるが、まさにそれを日本語変換ということに限って再現した感じだ。
 ところでこの本の題名である「パソコンは日本語をどう変えていったか」が、私としては一番興味のあることがらである。この本ではこのことが最後の章にわずかしか書かれていないのは残念である。
 ここではパソコンで簡単に漢字変換できることが「きちんと漢字を使えない人が増えた」、「難しい漢字は読めるが、『手で』書けない」という状況を生み出したと指摘しているが、それは今までいわれてきたことだし、自分自身もそう感じているから、目新しいことではない。
 パソコンで簡単に漢字に変換してくれるものだから、個人のブログなど見ていると、時に、普段絶対に使わない漢字が使われていることに気がつく。あるいは個人の手記などまとめた本など読んでいると、多分パソコンで原稿を書いたのだろう。「ここでこんな難しい漢字を使うか?」と疑問に思うことがある。これらすべて、日本語変換ソフトの「お節介」から生じたことだろう。
 私はこのブログでよく本の中の文章を引用する。それをそのままパソコンに入力して、変換すると、本の文章では漢字が使われていないのに、ここでは漢字になってしまう。正確を期すため、本に書かれている通りにしたいので、漢字に変換されないようにするか、あるいは戻って直したりする。そのたびにイライラしする。無理に漢字に変換しなくてもいいのにとさえ思う。
 プロの文章家の文章を引用していると、気づくことがある。パソコンでは漢字になってしまうことばがひらがなで書かれることによって、やさしくなっているような気がする。やたら漢字が連なっていると、堅苦しいし、なんか文章にトゲがあるように感じてしまう。そして漢字を思い切って使う時はその漢字が端的に意味を言い表しているときに使われる。それが文章全体を引きしめる。
 それを感じたので、私も無理に漢字は使わないようにしようと思ったのである。もちろん大した文章など素人なので書けはしないのだが、それでもやさしい文章で、引きしまった文章は美しいし、見た目にもきれいだと思う。だから少しでもそうありたいと、パソコンまかせに文章を書かないようにしているつもりである。


評価
★★


書誌
書名:パソコンは日本語をどう変えたか―日本語処理の技術史
著者:YOMIURI PC編集部【編】
ISBN:9784062576109
出版社:講談社 (2008/08/20 出版)ブルーバックス
版型:253p / 18cm
販売価:945円 (税込)

2008年08月21日

司馬遼太郎著『殉死』

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 歴史というのは非情なもので、ある程度時間が経って、その後の変化などを加味して時代考証をしたとき、例えば指揮官が有能な人物であったか、あるいは無能であったか、はっきりとしてしまう部分がある。そういう意味では乃木希典という人物は指揮官としては無能な人物であったようである。ただ明治天皇が崩御した後、追って殉死したという一点のみで、乃木という人物を過大評価してしまったところがあるようである。
 司馬さんはこの本で乃木希典という人物がどういう人物であったかをこの本で語る。従ってこの本は小説とは違う。これは推測なのだが、長編『坂の上の雲』で集められた資料から、乃木希典のことが独立して、この人物評伝となったのではないだろうか?
 乃木希典はわずか六カ月しか洋式軍事教育を受けていない。ただこの時代他の者もこの程度の軍事教育しか受けていないから、乃木だけがひどいというわけではないらしい。しかし乃木の筋目がものをいった。つまり乃木は長州人であったことが大きく、しかも乃木は吉田松陰の師匠玉木文之進と濃い縁続で、乃木が十六歳の時玉木文之進の内弟子となったため、松陰の相弟子でもあった。この筋目は明治という時代のとって抜群の筋目であった。つまり乃木の出世は自分の出自が明治新政府でものをいったからなったものであった。決して能力や才能で出世した人物ではなかった。そのため司馬さんは「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかった」と断言する。ただ「詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」と皮肉混じりで付け加える。
 「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人物として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できる」タイプで、「自己美の完成のために絶えずそこに意識を集中してきた。かれは軍事技術者よりも自己美求道者であった」。「乃木はもともと死のなかに唯一華やぎを求める思想家であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる低の行者であった」から、「自分の軍事能力に(あるいは不運に)絶望するとき、つねに自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救いだし、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射的におこるようであった」。
 こんな軍人らしくない人物を指揮官にし、日露戦争の旅順攻撃を任せたのである。もともとこの戦争では旅順は陸軍の目標にはなっていなかったらしい。ただ海軍の要請で、旅順を攻撃目標にした。陸軍が旅順に停泊している軍艦をたたいてくれれば、海軍はやがてやってくるバルチック艦隊だけと戦えばいいからである。乃木は旅順に到着し、一日かせいぜい三日もあれば陥落できると大本営に連絡したが、完全要塞化している旅順は落とせなかった。何と陥落に百五十余日もかかり、六万人死者を出したのであった。しかも児玉源太郎力がなければ、攻略さえ難しかった。これを無能と言わなければ何と言えばいいのかと言いたくなる。
 そして自分の能力なさを自殺することで自らを救おうとし、銃弾がばんばん飛んでくる前線に何度も立とうとするのであった。そのたびに部下が止めにかかる始末であった。
 乃木希典とはその程度の人物だった。こんな人物を指揮官として頭に置き、戦ったのである。部下や兵士たちはたまったもんじゃない。
 ただそう思うのは現代の私たちである。乃木に従った部下や兵士たちは「封建の世が去ってまだ遠くなく、しかも封建の世に躾られた節度と、権威への服従心と、つねになにごとかを仰ぐ心をもち、つねに崇敬すべき対象をもち、もしその崇敬すべき心がわずかでも自分において薄らげば天地がくずれるのではないかという畏怖心をあわせもっていた」人々であった。だから乃木に従ったのである。そういう意味ではたとえ乃木が無能であっても関係なく、もともと「動機が美であれば結果はさほど重視しなくてもよい」という倫理観で人間関係が成立していたのである。
 そして乃木もそうした倫理観を明治天皇にもっていた。だから天皇が崩御すれば、殉死するしかなかったのだろう。乃木が天皇を崇敬すればするほど、天皇は心地よかったに違いない。明治天皇は乃木の無能さをたぶん知っていたのであろう。しかし乃木が持つ倫理観は天皇にとってみれば「ういやつ」という気持ちにさせたに違いない。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などは能力の提供者として明治天皇に仕えたが、乃木希典は誠実の提供者として仕えただけであったと司馬さんは言い切る。
 そして殉死は先にキーンさんが言ったように、乃木をして天皇や皇室への忠義者とさせた。これは昭和の軍閥には有り難い存在であった。能力もないのに自分が作り上げた「美」に酔いしれるだけでもたちが悪いのに、殉死までも忠義の体現者と崇められるのだから、余計にたちが悪い。


評価
★★


書誌
書名:殉死
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163006208 (4163006206)
出版社:文藝春秋 1981/08出版
版型:206p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年08月15日

ドナルド・キーン著『明治天皇』〈3〉

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 さすがに自分の興味が薄れてくると、読むのに時間がかかる。何か惰性で読んでいる感じがする。暑さもあって、なかなかページが進まない。
 さて、この巻を読んでいて悲しくなってくるのは鹿鳴館の存在である。
 明治政府は江戸幕府が結んだ安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を引き継いだが、これらの条約は列強に治外法権を認め、関税自主権が日本にはない、不平等条約だった。列強に治外法権を認め続けることは日本が独立国としての体面を持っていないことになるし、関税自主権を回復し関税収入を増やして国内産業を発展させる必要がどうしても起こってくる。
 日本は列強各国と交渉をするが、思うようにことは運ばない。ヨーロッパ人たちにとって、日本で捕まると拷問にあったり、虐待されるのではないかという不安がいつもあった。それはそうだろう。ちょっと前まで、江戸時代であって、刀を帯びている武士が闊歩していたのだから。それでなくても幕末・明治維新にかけて、政情不安定で暗殺などが横行していたのだから当然である。自分たちを守ってくれるのは日本ではなくて、自分たちの領事館だという意識がそこにはあった。だからこの治外法権の撤廃には応じられなかった。
 そのため明治政府は日本は野蛮な国じゃないということを示す必要性があった。そこで出てきたのが鹿鳴館である。鹿鳴館が持つ機能は、「日本人が過去の古臭い慣習を捨てて、今やヨーロッパ式の食事の行儀作法、舞踏会での礼儀作法を自由に駆使できるようになったことを外国人に証明してみせる舞台であった」。
 鹿鳴館で華やかな舞踏会が催されることは、日本はそれだけヨーロッパと同水準の文化を持っていることの証明となり、そのことでヨーロッパ人の不安を払拭し、ヨーロッパと日本人は対等に扱われるべきであるという意識が鹿鳴館の落成式を開いた外務卿井上馨にはあった。鹿鳴館は治外法権の撤廃を意識して作られたものであった。
 しかしこれは猿まねでしかなく、ヨーロッパ人は日本がヨーロッパの先進諸国と対等になったとは誰も思っていなかった。むしろ「この国民には趣味がないこと、国民的誇りが全く欠けている」と言われてしまうのである。つまり日本の西洋化、近代化はその程度のものであったのだ。その西洋化、近代化は基本的に根付いている訳じゃない。形ばかりのものをせっせと持ち込み、顔色をうかがい、それを持って西洋化、近代化したと認じているだけであった。
 それでも中にはしっかりした人物もいた。ロシア皇太子であったニコライ二世が襲撃された大津事件で、犯人の津田三蔵に極刑を言い渡さないと、日本のメンツがなくなるし、国際的に何が起こるかしれたものじゃないという不安があった。ところが、日本には刑法116条に「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとするものは死刑に処す」という規定があるが、それがニコライに適用できるどうかの問題があった。大審院長児島惟謙は刑法116条は外国の皇太子に適用する理由は何もないとそれを突っぱねる。元老、閣僚はそれは危険だと児島を説得するが、児島は司法権擁護のため次のように言う。
「諸外国は常に日本の法律の不完全さ裁判官の不適性ついて不平を鳴らしている。今を措いて、日本人の法に対する尊厳を示す時はない」と。状況によって法律を変えてしまうのでは、諸外国からの信頼など得られるはずがないというのである。結局津田は無期懲役を言い渡された。日本が信頼を得るのは、単にヨーロッパ文化の猿まねだけじゃまずいということをわかる人はわかっていたのだと思うとちょっと安心しちゃう。

 さて、この巻のメインテーマはやはり日清戦争となるだろう。この本を読んでいると、日清戦争のきっかけとなるのが朝鮮半島の情勢である。明治維新後、日本にとって、朝鮮半島の動向は国内の動向と絡んで問題視される。本来なら他国のことなのだから、気にする必要性もないし、干渉する必要性もないはずだ。ところが日本は明治維新を達成したことによって、アジアで西洋化、あるいは近代化を成し遂げたという思い上がりから、未だ鎖国をしている旧体制化の朝鮮にちょっかいを出す。またそこには国内の不安的要素を一気に朝鮮半島で解決しようという意図も見られ(第二巻にそのことは書いた)、さまざまな形で日本は朝鮮に干渉する。
 当然朝鮮の宗主国として任じている清と衝突せざるを得ない。その上台湾の帰属問題も絡まっている。これが日清戦争へとつながっていくことになる。先を急げば、この後、朝鮮はロシアと接近し始めるものだから、次は日露戦争と続いていく。
 私は当時の明治政府がなぜこれほどまでに朝鮮半島にこだわり、なんだかんだと口を挟むのかよくわからない。どう考えても思い上がりとしか言いようない態度である。日本は明治維新を成し遂げ、アジアで西洋化、近代化を唯一成し遂げたという意識から、隣国である朝鮮がいつまでも鎖国を続け、旧体制のままであることではまずいと主張するのは一体どういう意識なのだろうか?内村鑑三でさえ、『朝鮮戦争(日清戦争こと)の正当性』という英語の論文で「日本は東洋の『進歩』の擁護者である。その不倶戴天の敵である清国(救いがたく『進歩』を嫌う者)を除いて、日本の勝利を望まない者がどこにあろうか!」と結論づけている。
 あるいは朝鮮がロシアの侵略下に置かれるという脅威があるのだろうか?また清が隣国で覇権を及ぼしているという脅威から、朝鮮に干渉せざるを得ないということなのだろうか?
 どっちにしても、自分の国内の充実を図れば、たとえ西洋列強国が干渉し始めても、跳ね返せるくらいの考えはなかったのだろうか?どうも視点の置き場所が違うような気がしてならない。
 が、とにかく日本は戦争に勝った。勝って日本は世界の名だたる「帝国」となった。その統治者である明治天皇の株がど~んと上がる。明治二十七年(1894)十二月二十七日付けの「ザ・ニューヨーク・サン」の論説でヨーロッパ、アメリカの君主あるいは大統領と比べて「天皇に比すべき者殆どなし」、「天皇は真に古今独歩の君」であると言われ、歴史上の名君、例えばローマ皇帝のアウグストゥス、英国のアルフレッド、フランスのナポレオン一世、ドイツのヴェルヘルム一世の統治も明治天皇には「遙かに及ばざる所なるべし」とヨイショされるのである。
 さすがにこれは持ち上げすぎという感じがしてしまうが、それでも明治天皇の成長は著しい。読んでいると、即位したての頃は、小さな声で勅令を発していたり、外国の要人と話していたのが、それが積極的に要人と会い、政治にも積極的に自分の意見を言い、あるいは元老、閣僚に意見を聞くようになって、明治天皇は日本の威厳ある統治者となっている。
 それにしてもここまで明治という時代が進むと、幕末・維新時にあれだけの数の人物を排出したのに、伊藤博文しか人物が残っていないのが悲しい。天皇は政局が不安定になると、いつも伊藤を呼び出し、何度も内閣総理大臣に任命する。一体伊藤は何度総理大臣になって、やめていったのだろうか?また伊藤自身も自分がうまく立ち回れないと、天皇に勅令を出してもらって、助けてもらう位しか出来ない人物なのだから、この後日本が二流の人物たちに翻弄されるのも仕方がないことなのかもしれないなんて思ったりする。


評価
★★


書誌
書名:明治天皇〈3〉
著者:ドナルド・キーン/角地 幸男訳
ISBN:9784101313535 (4101313539)
出版社:新潮社 (2007-04-01出版) 新潮文庫
版型:504p 15cm(A6)
販売価:740円(税込) (本体価:705円)

2008年07月15日

阿刀田高著『陽気なイエスタデイ』

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 なんだか知らないけれど、阿刀田さんのエッセイを読んでいると、気持が和らぐというか、ささくれだった気分が、おさまるような気がしてくる。でもさすがにこれだけエッセイを読み続けていると、目立って新しいことはない。以前読んだエッセイにも書かれていたことがここにも何度も登場する。そろそろ阿刀田さんのエッセイは卒業していいのかもしれないが、まだ数冊残っているので、これを読んでから、小説に入ろうかと考えている。
 で、目新しいことはここにはないのだけれど、蔵書のことについて書かれていたことが気になったので、そのことを書く。
 私は今自分の持っている本の整理をやっている。というより、雑本の処分といった方がいいかもしれない。先日も読んだ古い文庫本を中心に、もう絶対に読まないだろうなという本をブックオフに売り飛ばした。というより処分してもらったといった方がいいかもしれない。
 話は急に変わっちゃうのだけれど、先日朝日新聞に「図書館が本の処分場になっている」という記事が一面に載っていた。どういうことかというと、公立図書館が財政難のため貸し出し希望が多いベストセラー本も多数は購入できないので、市民から寄贈を募っているという。ところがそこに持ち込まれるのが、どうしようもない本ばかりで、廃棄するしかないものばかりだという。どうしてこういうことになるかというと「本を寄贈する人は本が好き。捨てることに罪悪感があるから、読まない本を図書館に持ってくる」とみる。中には亡くなった旦那さんの蔵書200冊以上の寄贈の申し出たがあったが、「専門的な教育本などが多く、図書館向きでなかった」ということで、引き取ったのは50冊だけだったというのもある。
 確か持っている本には愛着がどういう形であれあるから、むやみやたらに捨てられない。だったら図書館に寄贈して、誰かに読んでもらえれば有り難いなと思うのだろう。だけど図書館側が求めているのはベストセラー本で、それ以外はいらないという姿勢だから寄贈する本がたとえ貴重な本でも、捨てるしかない。こういう図書館の姿勢もどうかと思うけれど、市民が望んでいるのだから仕方がない。“公立で無料の貸本屋さん”化している所以であろう。
 ということで、私はブックオフで処分してもらう。だから引き取り金額などどうでもいい。そもそも私が自分の持っている本の整理を始めたのは、本の収納場所がなくなってきたことが大きいのだが、それよりも、私が死んだらこの本の処分をどうするかという問題を突きつけられたからだ。突きつけたのはかみさんである。確かにそうだと思う。ここにある本は私という所有者がいるから価値があるわけで、その人間がいなければ、ほとんど意味をなさない。そういう本しか置いていないからだ。阿刀田さんは父親から「おれが死んだら、この本が役立つぞ」といわれたけれど、父親の死後これらの本は役には立たなかった。古本屋に売っても居酒屋でちょっと飲む程度しかなかった。それなら父親が本に支払った金額を生命保険に回してくれた方がまだマシだった言い切る。「蔵書というものは、それを入手して保持した人の性格や趣味と深く関わっている」から、たとえ家人でも無用の長物になりかねない。それなら棚に入り切らなくなった本がある以上、今棚に収まっている本の中で、無用の本は少しでも自ら処分したほうがいいと思ったのだ。さすがに全部捨てることはできないけれど、自分が死んで本が処分されることを想定した場合、どう考えても一銭のお金にもならない本は、今の内に処分した方がいいと思ったのだ。多分私の本はかみさんか息子が処分することになるのだろうけど、その時「けっ!こんなつまらん本ばかり残しやがって」なんてあまり言われたくない。そんなことを考えながら本の整理を今やっている。それでも残った本はそれほど価値を生む本とは限らないから、結局無駄かもしれないがとも思うが・・・。それはそれで仕方がない。実際そんな本ばかり読んでいるんだからね。諦めてもらうしかないだろう。
 昔、読書家や作家、あるいはその道の学者さんなどの本棚や書斎を紹介した本があったが、それを見たとき“いいな!”と思ったものだ。こんなに本意囲まれ、それこそリクライニングチェアなどに座って本を読める環境がうらやましかった。またそこに写っている本にも箱入りの豪華全集などがあって、いつか自分もそんな本棚や書斎を持ちたいものだと思っていた。
 でも最近は、阿刀田さんがここで言うように、「おれはこんなたくさんの本に囲まれ、これを資料にしているんだ」という文筆家が陥りがちな儀式的、自己暗示的な蒐書は極力避けたいから、せっせと本を処分しているという姿勢が本当は正しい姿じゃないかと思うようになってきている。文筆家でなくても本を読む人の本棚には自己主張や自己満足がはびこり、あまりかっこいいもんじゃないななんて思うようになってきている。
 


評価
★★


書誌
書名:陽気なイエスタデイ
著者:阿刀田 高
ISBN:9784167278229 (4167278227)
出版社:文芸春秋 (2004-03-10出版) 文春文庫
版型:252p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年07月08日

阿刀田高著『殺し文句の研究』

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 例によって、書名がこの本全体を意味しない。さまざまな雑感集である。
 阿刀田さんは自分の小説のアイデアや書き方を“工房”と称して、その手の内をよくエッセイで披露してくれる。今回「作家の企業秘密」で、阿刀田さんの文章作法が書かれている。
 そこには阿刀田さんは子供の頃から作文は苦手であったことが書かれており、その阿刀田さんがどうやって文章能力を磨いたのか?そこにはこれといって努力をしたわけではないことが書かれている。ただ、本を読むことはよく読んでいた。そこで自分の体験から「たとえほとんどペンをとることがなくてもよい文章を読み続けてさえいれば、書く能力はそれなりにつちかわれるのではあるまいか」という。
 こんな文章を書いてみたいなと思う作家を見つけ、その人の文章をよく読むこと。ときには作品の数ページを書き写してもよい。息使いや句読点の打ちかたまで、おもいのほか得ることが多いという。そして今でも自分の文章が荒れているなと思ったときは、自分の好きな作家の文章を読んで軌道修正をしているという。
 なるほどそうすれば私も少しはマシな文章が書けるのかななんて思った。しかしこうしてパソコンで文章を手軽に打っていると(パソコン自身お節介なほど親切なので)、いつまでたってもうまい文章は書けないかもしれないなんて思うところもある。やっぱり文章が少しでもうまくなりたいなら、手書きで書いてみるのがいいのかな、なんて思うのである。(一時やっていたんだけど、面倒になってやめちゃった)

 「殺し文句の研究」の中でも面白いものがあった。アメリカの海軍当局の兵士募集に「ニューヨーク市民になるより、アメリカ海軍に属するほうが安全です」という求人広告。この文句は「統計というものの恐ろしさを説明する材料としてよく引きあいに出されるものだ」そうだ。ニューヨーク市民の死亡率より海軍の死亡率が低いから安全だというのは論理は面白い。どう考えても海軍の死亡率のほうが高そうだし、その分危険であることは間違いないのだろうが、どうしてニューヨークより海軍の死亡率の方が低くなるか?それはニューヨーク市民の死亡率は幼児から老人まですべて含めて計算してあるところによる。もし正しく比較するなら、海軍が占めている屈強の若者たちの年齢で比較しなければ話にならないはずだ。
 これと似たような統計の話が最近ある。コンビニの深夜営業自粛の話である。二酸化炭素排出規制のため、コンビニの深夜営業自粛せよとうムードが高まっている。これに対して、日本フランチャイズチェーン協会は、深夜帯も冷蔵庫などは稼働せざるを得ず、CO2削減効果は照明・空調など4%程度と低いからあまり意味がないと反論する。(これ不思議なのだけれど、最初この数字が出たときは、CO2は0.0009%くらいしか削減されないと言っていたはずなのに、いつの間にか4%になっているのはどういうことなのだろうか?)
 いずれにせよ、この4%にどれだけの意味があるのか疑問なところがある。もしこの数字をもっともっと低くしたければ、例えば分母を世界中の二酸化炭素排出量をもってくれば、更に低くすることができる。つまり作為的にどうでもなる数字ではないだろうか。
 そもそもコンビニが深夜に訪れる奴は、意味もなく遅くまで煌々と電気をつけて起きていて、腹が減ったからコンビニで何か買おうかなんて思う奴だろう。それだけでもCO2を盛んに出していることになるし、まして車で出かければそれ以上の無駄なCO2を排出することになる。つまりコンビニが自身排出するCO2だけが問題なのではなく、深夜活動する人間がそこを訪れる際のCO2排出も当然考慮しなければなるまい。それを考えたら、4%以上の数字が出てくるに違いないと思う。
 更に防犯面でも女性の駆け込みなどが年間約1万3000件あり、社会のインフラにコンビニがなっているとさえ言う。これだって、深夜まで遊び回っているから、そういう危険な状況に追い込まれるわけで、コンビニを含め、深夜営業している業種すべてがそれを止めれば、遊びたくたって、遊ぶ場所がなければ家にいるしかないだろう。そして早く寝ればいい。
 コンビニだけがやり玉にあがっているのは“魔女狩り”だという主張は、確かにそうかもしれないけれど、むしろコンビニ業界が率先して、深夜営業自粛をすべきリーダーシップを取って欲しいと思うのだ。“魔女狩り”だとしか言えない方が情けない。
 もちろん24時間テレビなんていうのもやめるべきだ。だいたい付きっきりで24時間テレビを見ている視聴者がいるか、と思うのだ。「愛は地球を救う」なんていったって、地球環境をおかしくしちゃったら、愛もへったくれもないじゃないか!テレビでは地球温暖化、環境破壊など声高に言っているのに・・・。言っていることとやっていることが矛盾している。

 こんな、本とは直接関係ないことを書いたのは、この本読んでいるうちに何か読んだことがある本だなぁと感じたからである。よくよく調べてみると、本の末尾に、『夜の紙風船』と『雨降りお月さん』を合わせて、再編集したものだとわかった。腹が立ったから、最近おかしいなと思うことを書いちゃった。できればこういうのもやめて欲しいな。


評価
★★


書誌
書名:殺し文句の研究
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255286 (4101255288)
出版社:新潮社 (2005-01-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)

2008年06月20日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』下

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 どうも感激がわかない。出版された当時はきっとワクワク、ハラハラしながら読んだに違いなのに、今回読み直してみると、それほどでもない。

 1990年8月にイラクがクエートに武力侵攻し、国連の度重なる撤退勧告を無視したため、翌1月17日にアメリカを中心とする多国籍軍によるイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )が始まった。この本はいわゆる“湾岸戦争”を舞台にした話である。
 もともとイスラエルの情報機関モサドが抱えていた内部通報者で、イラクの幹部である“ジェリコ”から、湾岸戦争でイラクが何を考え、どんな兵器をもっているかという情報を今度はイギリス、アメリカの情報機関が彼から得ようとする。その情報の直接の受け渡しするのがマイク・マーティンである。マイクは最初クエートに入った経緯は先に書いた通りで、その後バクダッドに潜入する。ジェリコは多国籍軍に貴重な情報をもたらしてくれるが、その情報の中にフセインが核兵器を所有して、発射準備をしているという情報が入った。それがフセインのとっておきの兵器“神の拳”であった。
 詳しいことはわからないが、核兵器を自国で作る場合、濃縮ウランを作る必要性があり、それには時間がかかる。多国籍軍は計算からイランが核兵器を持てるわけがないと推定していたが、それが可能であるとわかると、空爆後、歩兵を投入すれば、甚大な被害が及ぶ。マーチンらは核弾頭を積んだロケット基地の正確な位置を知らせるため、一度バクダッドを脱出した後、再度イランに入る。

 この本は今読むと、明らかに失敗作であろう。というのもイランはその後大量破壊兵器である核兵器も生物兵器も所有していないことが明らかになったからだ。
 ここにフォーサイスの現代の紛争地域を舞台にした小説そのものが、ただ単に情報戦のすごさや兵器のすごさを描くだけになってしまっている不満がある。確かに当時としてはタイムリーで、新鮮味もあっただろうが、結局こうして時間が経って読み返してみると、古びたエンターテイメントとしてしか楽しめない。正直な話、読み返すに耐えないものになってしまっている。風化してしまっているように思えてならないのだ。
 最初からフォーサイスの作品はこんな危ない要素を含んだ作品ばかりだったのだろうか?違うと思う。少なくとも初期の三部作はそうではなかった。少なくとも歴史というものに濾過された事実を駆使して、描かれた作品は今でも読み応えがあると思うのだ。歴然たる事実の重みとでもいうものが、ものを言うものだから、読んでいても読み応えがある。
 今の時代を描くエンターテイメントを要求されると、こういう結果にならざるを得ないのかもしれない。トム・クランシーが兵器のすごさばかりを描くことで、一時話題になって、もてはやされたけれど、いつか結局それだけじゃないかということで、飽きられしまった。それとも一過性のものとして、命をかけるプロの仕事を楽しめばいいのだろうか?なんかフォーサイスもトム・クランシーと同じ道を歩みつつあるんじゃないのかなと心配してしまう。


評価
★★


書誌
書名:神の拳〈下〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912205 (4047912204)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:425p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2008年05月26日

メンタルケア協会編『人の話を「聴く」技術』

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 今度は精神対話士の話である。もちろん精神対話士という職業名を聞いたのは今回初めてである。「精神対話士という資格制度は、1993年慶應義塾大学医学部出身の医師たちが中心になって立ち上げられました。医療行為、精神療法を用いることなく、あくまでも対等な立場で、会話(対話)を通して人の心のケアを行うメンタルケアのスペシャリストです」とこの本のはじめに書かれている。まぁ、いろいろな職業があるもんである。
 とにかくワンクール八十分徹底して、それこそ「身を差しだして」クライアント(ここでもクライアントである)の話を聞き、受け止め、対話することことだけである。そうすることで、人を苦しみから救いだし、心を癒すことをする。
 この本はそうした精神対話士がクライアントとどうのように接し、対話をするかを語ることで、普段人との会話にもそれを応用し、人間関係がスムースに運ぶテクニックを披露している。
 確かに異論があっても、説教したくても、それをせずに徹底して話を聞いてくれれば、話す相手は気分が良くはなるだろう。その上で口が滑るじゃないが、多くを語らせることによって、ことの本質が見えてくることも、言われればわからない訳じゃない。だけどそれはかなり難しいと思うし、少なくと私にはできない。たとえば外は雨が降っていても、相手が「今日はいい天気ですね」と言ったら、聞く相手は「そうですね。優しい雨が降っていますね」と言うべきだという。これは私にはできない。どこがいい天気じゃ!雨が降っているじゃないかと絶対に言ってしまう。まして気を利かせて優しい雨が降っていますねなんて言えるわけがない。だから私は精神対話士にはなれない。
 しかしクライアントは自分の話をとことん聞いてくれると、安心し、信頼し、話していくうちに問題の本質に自分で気づき、心の平安を取り戻していく。
 何かに苦しんで悩んでいる人は、そういう人がいてくれるだけでかなり気分が違うのだろう。だけど日常会話でこれを実践された場合、これは話を聞き出すテクニックであり、そこには当然何らかの下心が潜んでいるのではないかと思ってしまいそうである。だからおいおい何考えてんだ?と言ってしまいそうである。何か目的かあるんだろうと疑ってかかってしまいそうだ。
 もともと私は人と話すのが苦手である。できれば相談なんてもってきて欲しくないさえ思っている。だって正直自分が生きるだけで精一杯なのだから、人の話を聞いてやる余裕など持ち合わせてなんかいない。だから、人と話す場合、親しい仲の人ならともかく、あまり関係の深くない人と話す場合、だいたい攻撃的である。どちらかといえば話のイニシアティブを取ろうとして、まずは自分の方から言いたいことが言えるチャンスがあれば、しゃべってしまう。だって言いまくった方が楽だもの。人の話を聞いていて、言いたいことや文句もあるのに、それが言えないなんて耐えられないな。とにかく何か一言言わないと気がすまないタイプなので余計である。ということは、会話上手というのではない。でも、少しは人の話を聞く余裕は必要だよなとは思う。特にこの本を読んでそう思った。できるかどうかわからないが、まずは聞きましょうという姿勢はこれから持つことにしたい。でもかなりストレスがたまりそう!
 しかし話をするにしても、聞くにしても、やはり教養は必要なことはこれまでの三冊の本を読んで思った。それは自分の専門分野だけでなく、広い視野で物事を考えられるものが、話の内容を更に濃くするような気がする。臨床心理士にしても、精神対話士にしても技術としての内容だけでなく、広く知識を身につけないとやっていけない職業のようで、なかなか大変な職業のようだ。

 以上三冊は私としては毛色の変わった本を読んでみた。実はこの三冊は息子が大学でレポート提出のために読むべき本であったようだ。息子はレポートを提出したのだろう。もう用なしの感じで放り出してあったこれらの本を見て何となく読んでみたくなったのだ。読んでみて専門的な本ではなく、入門書的要素の強い本なので、まずは手始めにという感じで指定された本なのだろう。まぁ息子が今どんなことを大学でやっているのか、その一端でも知れればなんて思って読んでみた。今度息子とこれらの本の話でもしてみたいと思っている。


評価
★★


書誌
書名:対話で心をケアするスペシャリスト“精神対話士”の人の話を「聴く」技術
著者:メンタルケア協会【編著】
ISBN:9784796654531 (4796654534)
出版社:宝島社 (2006-10-05出版)
版型:189p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年05月25日

信田さよ子著『カウンセリングで何ができるか』

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 今度はカウンセラーの話である。今回の場合、臨床心理士がどういう仕事はどういう仕事なのかを知った。私は元々この世界には幸か不幸かうといので、精神科医、臨床心理士、そして今読んでいる、精神対話士がどう違うのか詳しいことを知らない。
 この本を読んでいて、「おや?」と思ったことがある。それはカウンセラーを受けに来る人をクライアントと呼んでいることである。患者さんではないのである。これは私のとって驚きであった。というのも、カウンセラーを受けに来る人は、こころの病気に困っている人だから、患者さんではないかと思っていたのである。
 しかしよくこの本を読んでみると、いわゆるカウンセリングを行う臨床心理士は医者ではない。つまりこころの病気といっても、それに病名をつけて、診察したり、治療するのは精神科医であって、臨床心理士はそれが許されていない。だからカウンセリングを受けに来る人は、病気ではないことになる。著者はこのことを次のように言う。「私たちが関わる多くの問題は、わかりやすく表現を使えば家族のゴタゴタであり、友人関係のトラブルです。その人の内面(こころの問題)ではない」と。そしてそのゴタゴタや人間関係のトラブルを突き詰めていくと、「金銭問題」にほぼ突き当たるという。つまり生々しい現実ということなのだろう。ただ「実は内面のこころの問題は人との関係のゴタゴタほとんど相似形で、人間関係の混乱が自分の葛藤になっている。こころは独立しているのではなく、必ず現実の関係の投影であり、分かちがたくつながっている」ので、こころの問題とは完全に切り離せるものでもないとも言っている。だろうなぁと思う。私がカウンセリングを受ける人を患者さんと勘違いする原因はこのあたりありそうである。
 著者によるとカウンセリングとは簡単にいうと「相談」であるという。カウンセリングで大切なことは、その人の話を聞きながらその人の問題をリアルにイメージすることであって、そのためには納得できるまで聞く。感情レベルで寄り添うのではなく、論理を組み立てること。それに伴うイメージを描くこと。そのために必要なのがこちらからの質問することにつきるという。その上でイメージ・像・物語をつくる。これを「見立て」といい、医療では診断にあたる。そして相談にのっていく。
 現代日本社会は、家族機能がうまく機能していない社会である。そのためカウンセリングはその家族機能の補完のため、手軽で身近にあるサービス機関として機能すべきで、コンビニほどカウンセリング機関を利用できるようならなければならないという。そのためのサービス業だという。それを著者は「カウンセリング=コンビニ」論という。
 ではなぜ現在家族機能がうまく機能しなくなっているのだろうか?ここでもあの問題が浮かび上がってくる。1991年のバブル崩壊後、日本の家族が大きく変わったというのだ。バブル崩壊後、企業が終身雇用制を徐々に捨て、年功序列制度が崩れるはじめる。これらの制度は経済的に問題はあっただろうが、終身雇用制や年功序列制度の維持は、企業が家族を丸抱えにして、それを守っていた。多くの中流意識の人を生み、守ってきたと言っていいかもしれない。その人たちが社会のクッションともなっていた。
 ところが小泉政権以後、富めるものはより富めるようになり、貧しいものはより貧しくなっていき、規制緩和がさらに拍車をかける。その結果それまで日本にあった中間層がどんどん貧しくなっていく。そのことは社会のクッション役を果たしていた中間層を減らし、現実をあからさまにせざるを得なくなっていく。そこには家族問題の悪化も含まれ、今まで自分たちの中で処理できていたものが、精神的、経済的にできなくなってきてしまっているのである。
 人間関係も同様である。今から四~五〇年前に黙々と絵を描いたり、積み木ばかりで遊んでいる子供を見て「あの子は、将来エジソンみたいになるかねぇ」と言われたのが、今では発達障害や不適応というラベルを貼られてしまう。個性尊重と言われながら、実は個性的な人は非常に生きづらい時代にしてしまった。
 こういう世の中では人間関係を築くスキルが大きな意味を持ち始める。それさえうまくいけば何とか生きてけるからだ。だがそのスキルのハードルはどんどん上がっていくので、カウンセリングを受けたいというクライアントは増えていくばかりだろう。まったくもって嫌な社会にしてしまったものだと思う。

 ところで先の林直樹さんの本とこの信田さんの本を読み比べて思ったことがある。うまく言えないのだけれど、ただそう感じたということがある。林直樹さんの本では、こころの問題をすべて病としてしまうように感じたのである。もちろんそうしない現行の保険制度では生計が成り立たない以上仕方がない。だから本質はそこになくても病名をつけることで、何とか患者を納得させようとはしていないだろうか?患者さんが本当は何で困っているのか、何を望んでいるのか、それを知ろうとしていないんじゃないかななんて思うのである。きっと現行の保険制度がそうさせているのだろう。
 ところが信田さんのような臨床心理士は保険をつかって仕事をすることができない。だからカウンセリングがクライアントの満足のいく結果をもたらすこと、そのことがエビデンスとして示されることが、それが自分たちの収入を確保する道だとはっきり自覚されている。自分たちの仕事をサービス業だと自覚されている。だからこそクライアントが何に悩んでいるのか徹底的知ろうという姿勢が感じる。だってそうしなければ生計が成り立たないのだから当然である。何でもかんでも保険制度が満足のいくものではない一例かもしれない。


評価
★★


書誌
書名:カウンセリングで何ができるか
著者:信田 さよ子
ISBN:9784272360604 (4272360604)
出版社:大月書店 (2007-12-14出版)
版型:174p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2008年05月23日

林直樹著『リストカット』

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 どうも釈然としない。人間のこころという不定形で確かめようのないものを論理であるいは図形で示そうとすると、多分こういうことになるのだろうと感じた。
 たとえば、病気の根源がガンのようにはっきりしたものであれば、それを取り除けばいい。だけど、じゃあそのガンは何でできたのと質問すれば、遺伝的要素、外的要因、生活環境などさまざまなものが、それこそからみ合って、ガン細胞が生まれたと説明を受けるに違いない。よほどのことがなければ、「これだ!」という原因が突き止められないのではないか?つまり人間の身体やこころはそう簡単に病気の根源を突き止めていけるほど単純じゃないだろうと思うのだ。特にこころの問題はさまざまな要因がからみ合って問題を起こしているものだと思うので余計である。
 この本を読んでいてリストカットを含む自傷行為がなぜ生じるのか、わかりやすく図を用いて説明してくれるけれど、たとえば正常な精神(これだって何をもって正常と判断するのかよくわからないが・・・)では図の中ではそのバランスが保たれているから、正常であって、そのバランス崩れると、自傷行為が生じ、自殺へと進むのだとあまりにも短絡的に説明しているように思えてならなかった。
 もちろんその図を作成するに当たり、膨大な臨床例をもって、それを分析して作られたものであろうことは理解できるけれど、だからといってあなたは今この図ではこの位置にいますと言い切れるものなのだろうか?そんなに一般化できちゃうものなのだろうかと思うのだ。(逆を考えれば、それだけ複雑な生き物だから、人間はこころの病を発症するのだろう)
 この本が新書というスタイルをとっているので、誰にでもわかりやすい入門書的要素が要求されていることもわかる。また治療という行為は、何らかの病名を確定しなければ先に進めないし、診療報酬や調剤報酬が得られない保険制度だから仕方がないにしろ、人間ってそんな簡単な生き物じゃないだろうと思いたい。

 基本的に、私は自分の身体を傷つける行為というのはよくわからない。どうして自分の身体を傷つけようとするのだろう?たとえばこの本に説明されているようなリストカットは、自分が抱え込んでいる悩みや苦しみから解放されるためとか、リストカットをすることで、他の人に苦しんでいる自分をわかってもらいたいという気持から、そうした行為に走るというのも、よくわからない。まぁ自傷行為自体、よっぽど悩んで、苦しんでいるから、そういう行為に現れるのだろうとは思うのだが、それを自分の身体傷つけることとどう関係があるのかわからないのである。むしろストレートに自殺の方向に行ってくれる方が他人事とはいえ、わかりやすい。あるいは自殺への前段階に自傷行為があるといわれれば、納得できないこともない。ということは、自傷行為はまだ死ぬことはちょっと怖いという意識がその人にはあって、糸が完全に切れたとき自殺となるということなのだろうか。であれば、自傷行為は自殺へのシグナルを発している可能性がある。
 そういう意味で自傷行為をとらえるなら、何とかできないものだろうかとやっぱり思う。自傷行為がこころの病から発しているものなら、まずはその治療が先決となる。この本を読んでいると、こころの病を病んでいる人や自傷行為に走る人は「私」の存在をなくしてしまっている人のように思える。だけどそう簡単に「私」の存在はなくなるものではなかろう。勝手にそう思いこんでいるだけであって、その人にはその人を大切に思う人が必ずいるものだと思いたい。なぜなら人間はきっと一人では生きていけるものではないから、必ずどこかで人間関係がつながっているはずだ。そういう人たちの気持ちを無にして、自分だけが苦しいから、自分の身体を傷つける、あるいは自殺するなど、とんでもないと思う。偉そうなことは言いたくないけれど、あなたの身体やこころはあなただけのもんじゃないですよと言いたい気持がある。ここでも生きることは大変なことなんだなと思った。


評価
★★


書誌
書名:リストカット―自傷行為をのりこえる
著者:林 直樹
ISBN:9784062879125 (4062879123)
出版社:講談社 (2007-10-20出版) 講談社現代新書
版型:190p 18×11cm
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

2008年05月12日

矢口敦子著『償い』

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 話は医師日高英介は子供の病死と妻の自殺で絶望し、「私」が「男」という普通名詞扱いになるホームレスとなった。ホームレスとして暮らす土地で、火事を最初に見つけた。それが日高が経験する連続殺人事件の始まりとなった。日高はホームレスという身分のためその火事の第一発見者にもかかわらず、放火犯人として警察で取り調べを受ける羽目となる。しかしその後殺人事件が続き、日高は山岸という刑事の依頼を受けて、事件を調べ始める。
 連続殺人事件を調べているうちに、日高が十二年前医師の国家試験を合格し、長期休暇でデートをしていた頃、誘拐魔に殺されそうになった幼児、草薙真人と偶然知り合う。そして何度か草薙と話しているうちに、日高はこの十五歳になった少年が犯人ではないかと疑い始める。
 日高にとって医師としての仕事も子供も妻も失ったばかりだから、せめて十二年前に助けた幼児が助けたということで、唯一意味があったことなのに、それさえも意味がなくなりつつあり、自分が助けたばかりに草薙は連続殺人犯になってしまったのではないかと苦しみ始める。
 そして事件を調べていくうちに、日高は普通名詞の「男」から「日高英介」という固有名詞の男を取り戻しつつあることを自覚する。何もかも捨てて、なげやりになっていた自分を事件解決にあたって、とにかくまっとうに生きていこうとする。

 この本は書評や店頭のPOPなどでは“いい本”と好評なのだけれど、読んでみて、はたしてそんなにいい本だったかなと思った。話は連続殺人事件と登場人物の心の傷が両輪として話が進むのだが、作者の意図がその傷で感動を呼ぶような構成になっている気がしてならなかった。どこか白々しさが感じてしまい、ここが感動するところですよと言われている気がしてしまった。そしてこの本が“いい本”と感動する人は、作者の意図にはまった人じゃないかと穿った見方をしてしまう。
 もちろん読んでどんな感想を持ってもいいのだけれど、やっぱりミステリーなら、話の必然性をリアルにわかるようにぐいぐい読ませてくれる方がいい。そんな気がしたのである。あんまりミステリーに魂の救いを求めてほしくないなぁ、やっぱり。
 それにしても書店員はどうしてこういう魂の救い、あるいは心の荷物を下ろしてくれる本が好きなんだろうか?たまにはいいかもしれないが、毎度毎度だと、甘ったるいケーキを食べさせられている感じがしてしまう。


評価
★★


書誌
書名:償い
著者:矢口 敦子
ISBN:9784344403772 (4344403770)
出版社:幻冬舎 (2003-06-15出版) 幻冬舎文庫
版型:450p 15cm(A6)
販売価:680円(税込) (本体価:648円)

2008年04月26日

日本ペンクラブ編 阿刀田高選『恐怖特急』

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 いわゆるこうしたアンソロジーというのは、編纂する方が楽しんでいるんじゃないかと思ったりする。選出者テーマに沿ったものを選び出すのに、結構苦労するらしいことを阿刀田さんはエッセイで書かれていたが、選ぶ方としてはこれは入れたいけれど、本のページの制限もあるだろうから、捨てざるを得ないものや、これは絶対に入れたいという思いこみのある作品など、あれこれ悩みながら編纂しているのを楽しんでいるようにも思える。確か喜国雅彦さんも、もし自分が好きな探偵小説のアンソロジーを編めと言われたら、いろいろ悩むだろうと言っていたけれど、一方でそれを楽しんでいるところが感じられた。
 さて私の方はアンソロジーをほとんど読んだことがないので