2010年09月06日

市川真人著『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』

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 村上春樹さんは今ではノーベル文学賞候補として、毎年話題になる小説家で、国内では谷崎純一賞や読売文学賞、海外ではフランツ・カフカ賞やエルサレム賞を受賞し、日本だけでなく世界でも評価の高い小説家である。その村上さんが日本において、芥川賞を取っていない。これほど世界的評価が高く、人気のある村上さんがなぜ芥川賞を受賞出来なかったのか、それを知りたくてこの本を手にした。しかしこの本は適当に最初の部分でその理由を抽象的に答えてしまい、あとは著者による日本文学論なんだと知らされる。書名は『芥川賞はなぜ村上春樹に~』となっているのは、私みたいな人間にこの本を買わせるためのものであって、むしろ内容は副題の擬態するニッポンの小説の方に重点が置かれている。それを言いたいが故に、あえて気をそそるような書名を付けて、だまして読ませるといったものであった。
 読んでいてこれは大学での講義みたいなものじゃないかと思えてくる。変な与太ばかりとばし、やたら読む側に笑いを提供し、媚を売るやり方はまさにそれである。講義としては笑いがあって、“面白い”講義をする人のようであるが、得てしてこういう人の講義は後に何も残らないものである。ちなみに著者の経歴を見てみると、「早稲田大学文化構想学部ほか兼任講師」と訳のわからない学部の訳のわからない立場の人で、この手の評論家ぽい人は世の中にたくさんいる。まして誰でも専門家のように意見を言うのが流行っているご時世である。その関係の本も腐るほどあるくらいだから、せめて腐る前に読んでもらうために、このような書名を付けたといっていいような気がする。
 私はこういう文学的詮索は何でも言えるところがあると思っている。こういう文学論の好きな人にとっては、一つの試論として面白いのだろうが、小説なんてどう読んだっていいじゃないかと思っている。批評家や専門家が言うような読み方もあるだろうけれど、一方で読んだ人が感じたままであっていい、と私はいつも思っている。恐ろしいのはそうした批評家や専門家言う通り自分は感じなかったとことが“おかしいのかな”と思わせることである。評論にはこうしたお節介なところがあって、むしろ強引に学問にしてしまうことから、純粋に小説を楽しめなくさせてしまうのだ。確か開高健さんだったと思うが、音楽は音を楽しむと書くのに、なぜ文学を文楽としなかったのかと言っているが、私は諸手を挙げてこの意見に賛成の人なのだ。
 ということでこの本は、著者の近現代の日本文学論なのだが、それでは詐欺みたいになっちゃうから、村上さんが芥川賞を受賞しなかった理由を申し訳ない程度書いてある。

 「芥川賞が村上春樹に与えられなかったのは、一義的には、村上春樹の携えるアメリカとの距離感が彼ら(選考委員)に受け入れがたかったからである」

 何が言いたいかわかりますか?要するに村上さんがあまりにも作品にアメリカなるものを取り込みすぎ、アメリカに近すぎ、むしろそれと同じになってしまっているというのである。これは純日本的選考委員には受け入れがたいものなのだ。日本には私小説の世界がある。その上で、一歩引いた感じでアメリカを客観的に見るならともかく、一緒になっちゃまずいでしょう。単なる物まねでしょうとしか写らなかった。だから芥川賞を受賞出来なかったというのだ。
 これはなるほど、と思える。なのでこの点を強く押し進めていって欲しかったのだが、これはあくまでもおまけなので、これ以上は追求しない。むしろここから、かろうじて村上さんとの関係を維持しながら、著者独自の日本文学論を展開していくのである。

 しかしよく考えてみると、この私小説という日本文学界の潮流は、日本で単独で生まれたものじゃない。元を正せば明治以降に輸入された当時の欧米の文学界の潮流から端を発している。当時の小説家は輸入された西欧文学は個人の内面をどう表現しているかを、解釈し生まれたものである。だから村上さんの小説が私小説の日本らしくないという理由で芥川賞に該当する作品でないと断定するのはおかしな話である。
 むしろ当時の欧米の文学界の潮流をとことんゆがんで解釈し、登場人物の心の内面をいかに忠実に表現するかに心を奪われた結果、物語の面白味をどこかにやってしまったのである。そうして出来上がったものは、個人の告白論か懺悔と大差がないのである。
 一方村上春樹さんは著者がいう“作家の根っこの部分”を描くことを、物語の中で表現してきている。それを当時見抜けなかった文壇の目は節穴としか言いようがない。表現の技巧性などに重点を置き、物語の面白さを訳のわからないものと断罪するしか能がなかったのである。それはむしろもともと欧米の小説が持っていた物語性で、村上さんはそうした物語性の中で“作家の根っこの部分”を表現してきた。だから村上さんの小説が欧米でも評価されるのである。単にそれだけである。それを仰々しくペリーの来航から始め、それ以降日本が欧米に対して持ってきた劣等感から、インフラ、新聞、教育まで話を展開する必要などどこにもない。史実としてそれはその通りなのだろうけど、要は当時の芥川賞選考委員に見る目がなかっただけのことなのである。もちろん漱石の『坊っちゃん』のヒロインは誰なのかとか、太宰治の『走れメロス』どうして走ったのかなど、どこにそれが必要なのかよく分からない。単にこれを言いたいから、強引に著者が作品から見つけ出したことを結びつけたとしか思えないのだ。

 私は勝手に思っているのだけれど、村上さんはそうした日本の文壇を揶揄しているのだ。『1Q84』で主人公の天吾くんに編集者の小松が「でかいことをやろう」とふかえりが書いた小説を書き直し、芥川賞を狙おうよと誘うけれど、それは村上さんにとって芥川賞はその程度の金稼ぎの手段としか映っていないことの証明だと思う。だいたいこの物語はここから始めること自体意味深だ。
 芥川賞はその受賞は一大イベントとなっている。確かに受賞作は素晴らしいものなのだろうけど、だからといってそれをすぐ読みたいと思うかといえば、そうは思わない。せいぜいニュースネタだけにとどまるだけだ。むしろ受賞作が本となって売れるという計算高い部分がどうしても見え隠れしてしまう。
 昔本屋で働いていた頃、お客で芥川賞や直木賞の受賞作品が本になった初版本を買い集めている人がいた。これなど明らかに受賞作を読もうというより、芥川賞や直木賞受賞作の初版本という価値だけで、その本が後で古本屋に高く売れるからだ。それこそその受賞作家が大化けし、流行作家にでもなれば、更にその付加価値は上がる。その程度なのだ。
 もちろん新人作家にとっては芥川賞は今でも作家への登竜門なのだろう。太宰治のように、選考委員に泣きついて手紙を書き、芥川賞をもらえば生きて行けそうというのもいたが、そこはぶっちゃけた話、作家として食っていけるかどうかだけのスタートラインについたことではないか。
 芥川賞は石原慎太郎の受賞から「世間で話題になった(読んだことはないが、障子を破るやつが話題になったと聞く)石原というヤツがとった賞」で話題となり、村上龍の受賞作(これは読んだ)が更に話題を生み、マスコミの中で大きなニュースとなると思われたのだ。ただ読む側にとってはその作品にせよ、これからの作品でも、面白いかどうか、その一点に限る。

 ということで、この本は何を書きたいのかはっきりしない。いや、書きたいことは著者の日本文学論だったのだろうけど、ウケを狙って、芥川賞を受賞しなかった村上さんを引っ張り出したが故に、逆にそれに縛られることとなり、焦点がぼやけ、訳のわからないものになってしまったのではないか、と思った。


評価


書誌
書名:芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか―擬態するニッポンの小説
著者:市川 真人
ISBN:9784344981744
出版社:幻冬舎 (2010/07/25 出版)幻冬舎新書
版型:310p / 18cm
販売価:924円(税込)

2009年05月01日

三木義一著『給与明細は謎だらけ』

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 仕事柄給与事務もやっているから、ここに書かれていることは基本的にわかっているつもりだ。だからというわけじゃないが、どうも納得できない部分もある。たとえば通勤費の扱いである。
 所得税の方は通勤費が10万円未満は非課税扱いなのだが、社会保険料計の算出に当たっては、これを給与に含めて算出する。つまり通勤費のぶんだけ社会保険料計が上がることになる。
 そもそも通勤費とは収入なのだろうかと思うのだ。社会保険料計は標準報酬月額から算出するのだが、その標準報酬月額のもととなる報酬は、賃金、給料、俸給、手当、賞与、その他どんな名称であっても、被保険者が労務の対償として受けるものすべてを含むとあるのだ。しかし通勤費は労務の対償なのかと思うのだ。だって仕事をするために移動する費用であって、決して労務の対償ではあるまい。少なくとも所得税の方で非課税としている方が合理的である。これも社会保険庁の陰謀なんじゃないかと思っている。

 しかし私はこうした事務仕事つくまでは、給与明細の仕組みなどどうなっているのか知らなかった。どのように手当が決められ、算出され、その上で社会保険料や所得税や住民税の額がどのように決められていてのかなんてわからなかった。結局気になるのは手取りの額である。最終的にいくら手元に残るかが、すべてであった。
 多分多くの方がそんなもんじゃないかと思う。それくらいややっこしくしてあるのだ。何故かと言えばわれわれサラリーマンに文句を言わせないためなのだ。税金や社会保険料の徴収に関心を持ってもらうとお役所としては困るのだ。徴収の仕組みをわざと複雑にして、煙に巻いているのだ。しかも納税の義務を本来個人にあるものを会社にさせる。税務署や社会保険事務所の仕事を会社の経理にさせること自体、職務怠慢だ。それに対して何も見返りがないのだ。あくまでも義務だとしてあぐらをかいているのである。
 そしてとにかく取ってしまえばいいわけで、そこには個人個人が税金や保険料を納めているという意識をなくさせれば、後はそのお金でやり放題というわけだ。
 だからこの著者はわれわれサラリーマンを“羊”と称するのである。これは読んでいて無性に腹が立った。専門家からすればわれわれサラリーマンはむしり取られるだけの“羊”に見えるのかもしれないが、どう考えても言い過ぎであろう。少なくと専門家であるなら、あるいはわれわれサラリーマンの立場に立つなら、こういう言い方はすべきじゃないだろう。これだけでこの人の品性が疑われる。減点★四つである。
 私はこうして給与事務をやるようになってから、あるいは自分で確定申告をするようになってから、税金や保険料を納めているという意識が生まれた。
 日本のサラリーマンはいつの間にか税金や保険料を納めているという意識を給与天引きというシステムで薄められてしまっている。だからそれがどのように使われているかなんて意識もほとんどない。もし個人で納税なりすれば、国民としての義務を果たしているという意識も生まれるだろうし、その使い道が気にかかるだろう。強いては日本の政治にも目を配るようになると思うのだ。そうなれば社会保険庁のいい加減さは絶対に許せないはずだ。
 逆にこうしたシステムをこのままにしておくと、本来義務を果たし者の対価として補償が受けられるという意識も希薄になり、いつの間にかお上がしてくれるんだから、もらえるものならもらわなきゃ損だという意識がだけが生まれてしまう。それが納税や保険料を納めた者の権利だということを忘れているのである。これらは意識の問題かもしれないが、結構こうしたことをきちんと自覚することは大切なんじゃないかと思うのだ。給与天引きという複雑で不明瞭な徴収はやめるべきだと思う。この著者がわれわれのことを平気で“羊”なんて言うのを許しちゃいけないと思うのだ。

 文句ばかりしょうがないので、読んでいて“なるほど”と“へ~え”と思ったことを書く。まずは“なるほど”とおもったことは、年末調整の話から。年末調整は年末の時点で判断する。従って婚姻届を出すなら年末に、離婚届を出すなら年が明けてからにしたほうがいいということ。つまり婚姻届を年末に出せば、その年はたとえば配偶者控除を受けることができるし、こぶつきであれば、扶養親族が増えることになる。逆にその年に離婚届を出せば、その年は配偶者控除や扶養親族控除が受けられなくなる。この論理から言えば子供も年末に生まれてくれた方が有り難いことになる。
 “へ~え”と思ったことは、最近派遣労働者が増えてきた理由というか促進した理由に「消費税」の存在が無視できないということ。通常派遣法が改正(改悪)されたことや、正規社員を少なくして派遣社員を使うことで人件費を抑制するために、派遣が増えた理由とよくされるが、それだけでなく消費税の問題も派遣が増えた理由だというのだ。
 どういうからくりかというと、消費税は事業者の売上に5%の税率で課税されるが、その際仕入をして負担した消費税は差し引くことができる。正社員の給与は仕入でないので、いくら社員に給与を支払っても消費税には何ら影響はない。しかし派遣会社に支払う派遣料は仕入となり、その分が会社の売上にかかる消費税から差し引くことができるというのだ。ということは、同じ人件費がかかるなら派遣社員を使用した方が会社としてはメリットがあるというものだ。しかもアホな社員よりもスキルの高い派遣社員の方が利益も効率も上がるしね。
 この手を利用して、派遣会社も自社の正社員の数を減らし、別の派遣会社を作り、そこから派遣してもらえば消費税負担が減る。しかもその新しい派遣会社は、設立して2年間は消費税納税義務がないので消費税がかからないのだ。そして2年たったら派遣社員を移動して、また別の会社を作る。そうすればまた2年間消費税がかからない。これを繰り返すというのだ。なるほどこれは脱法行為じゃない。頭のいいやつはうまいこと考えるもんだ。


評価


書誌
書名:給与明細は謎だらけ―サラリーマンのための所得税入門
著者:三木 義一
ISBN:9784334035044
出版社:光文社 (2009/04/20 出版)光文社新書
版型:248p / 18cm
販売価:798円(税込)

2008年12月26日

東野圭吾著『ガリレオの苦悩』

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 続いて「ガリレオ」シリーズの新作を読む。今回は短編だ。しかし前回もそうだったけれど、はっきり言って「ガリレオ」の短編はつまらなかった。どうして長編はおもしろいのに短編はつまらないのだろうか。
 それはたぶんトリックの材料に物理や科学の実験道具を使うからだろう。つまり最新のそうした器具を犯罪道具として使ってしまえば、極端な話、何でも完全犯罪が可能になってしまうのではないか。しかもそうした器具は我々素人にはよくわからないから、現実性が薄い。一般的じゃない。その分リアリティーがなくなってしまう。だから読んでいてつまらないのだ。犯罪は現実の社会で起こりうるものなのだから、我々が直に感じ取れるものを使ってトリックを駆使して話を展開してもらいたい部分がある。その方が読んでいてもおもしろい。
 だから「ガリレオ」の短編は読まない方がいいのではないかと思う。だって長編で充分堪能したのに、短編で興醒めしてしまえば、もったいないではないか。


評価


書誌
書名:ガリレオの苦悩
著者:東野 圭吾
ISBN:9784163276205
出版社:文藝春秋 (2008/10/25 出版)
版型:339p / 19cm / B6判
販売価:1,600 円(税込)

2008年12月10日

奥野宣之著『読書は1冊のノ-トにまとめなさい』

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 この本は三省堂の本店で購入した。レシートには「法律経済」と書いてある。へぇ~、この本はいわゆるビジネス書の範疇に入る本なんだと思った。まぁ、この手の分類分けは誰がやっているのか知らないが、いい加減なものだからあまり当てにできない。
 しかし予想通りというか、私にとってつまらない本であった。そもそもこうした効率的な本の読み方の勧めや速読の勧めなど、はなから馬鹿にしているのである。
 じゃあ何でこの本を読んだんだといわれそうだけど、読んだ本のことを一冊のノートに書き込むことはちょっと興味があったからだ。この本の帯には「なぜ、読んだのに覚えていないのか」とある。答えは簡単だ。その本がおもしろくないからだ。それなのにせっかく読んだ本なのだから、自分の血や肉にしないともったいない、効率が悪いというのである。そうかなあと思うのだけれど。
 とにかくそういうことだから、読んだ本について何でもいいから一冊のノートに分類せず書き込みなさいというのだ。著者の言う「インストール・リーディング」とは読んだ本を自分のものとして落とし込み、咀嚼して確実に自分のものすることを言うらしく、そのために本を探す、買う、活用するという流れを作り上げることを勧める。そのツールとなるのが一冊のノートということだ。
 
 結局本を何のために読むのかということが問題になってくるのではないかと思う。たとえばビジネスに生かすとか趣味のために、あるいは教養を高めるためとさまざまな理由が浮かびそうだけれど、少なくともこれらの理由全て私には関係のないことである。そもそもそういう理由のために本を読んでいないのだ。本を読むことが好きだから、あるいは本を楽しみたいから、読んでいるだけだ。だから本を読むための効率性など最初から頭にない。本を読むこと自体、効率が悪いとさえ思っている。だってそうでしょう。このインターネットをはじめ、いろいろな情報が簡単に、しかも短時間で手に入る時代である。そんな時代に、ページをめくって、時間をかけて本を読むなんて効率が悪いに決まっている。
 でも、だからこそいいんじゃないのと言いたいところがある。むしろそういう時代だからこそ、じっくりと腰を据えて本を読む価値があるように思えるのだ。
 読んだ本の内容を忘れたっていいじゃないの。人間歳をとれば物忘れもする。どうしても気になるなら、その本を取りだして読めばいい。それだけのことじゃん。本の内容を忘れたからといって、何か支障をきたすんですかと言いたくなる。
 何でも最近は効率、短時間でというのがビジネスだけじゃなくて、私生活でも求められている傾向がある。だからこんな本がもてはやされるのだろうし、情報に多大な価値を置いちゃっているものだから、読んだ本を自分にインストールしないともったいないなんていうのだろう。大体情報過多になっているところに、これでもかとさらに情報を詰め込んでどうなるというのだ。むしろそういうことから解放される本の読み方をしたらどうだと言いたくなる。本を読む動機は「何か面白そう」、それだけでいいと思う。
 笑っちゃうのは、著者の勧めるノートに書き込む情報が、何冊もなってしまったらどうするのだろうと思っていたら、それはパソコンで検索しやすいようにしなさいというのである。おいおい、結局パソコンかよと思ってしまった。
 この本で唯一役に立ったのは「探書リスト」というEXCELで作成された表で、これは便利だと思い、購入したい本をここに書き込んで、たたんで持ち歩くことにした。それだけの本であった。やっぱり読まなきゃよかったと後悔する本であった。


評価


書誌
書名:読書は1冊のノ-トにまとめなさい ― 100円ノ-トで確実に頭に落とすインスト-ル・リ-ディング
著者:奥野宣之
ISBN:9784901491846
出版社:ナナコ-ポレ-トコミュニケ-ション (2008/12 出版)
版型:211p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2008年07月12日

柳広司著『黄金の灰』

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 ネットでシュリーマンやトロイなど調べていたら、こんな本があることを偶然知り、面白そうと思い、さっそく読んでみた。
 読んでみて、全体で感じたことは、奇妙な推理小説だなということである。とにかく話にまとまりがなく、面白い展開になったと思ったら、明かされた推理はそのままにして、次に進んでしまい、じゃあこれはどうなるのだと思っていたら、それで話が終わってしまう。
 話はシュリーマンがトロイでプリアモスの財宝を発見したことから始まり、それが盗まれ、二人の人間が殺される。シュリーマンたちが盗まれた財宝を探しだし、二人の人間を殺した犯人を捜すことになる。その経過をシュリーマンの婦人ソフィアを通して語られる。まあ、史実の縛りがあるから結果の嘘は書けないだろうけど、結果としてシュリーマンがプリアモスの財宝を発見したことが揺るがなければ、その間一時的にその財宝が盗まれ、人が殺されても、事件が解決すれば、シュリーマンの手元に財宝が戻る訳だから、お話の世界は成り立つ。だからそれはそれでいい。
 問題は話の中に密室殺人あり、そのトリックを『モルグ街の殺人』からヒントを得たと言ってみたり、トルコの民族解放問題あり、キリスト教の神学問題あり、果てはフロイトの無意識の問題ありとなんでも知っていることを盛り込んじゃった感じで、話に脈絡がない。
 面白そうと思ったこともある。シュリーマンが地元のギムナジウムを退学して商人の徒弟になり、体調を崩し、首になり、南米に渡って仕事を探そうとしたとき、その船が難破した。シュリーマンはその自伝で「船は難破したが、死者はいなかった」と書いている。これに疑問をもったアメリカの旅行者トマス・ブラウンは、船が難破したのは12月11日の北海である。この時期、海水の温度は零度近くなるはずだから、そんなことはあり得ないという。そしてこの船にはシュリーマンとよく似ていた少年がもう一人乗っていた。ブラウンはここから今ここにいるシュリーマンは本物のシュリーマンじゃないのではないか。つまりこの難破事故で、本物のシュリーマンは死亡し、すり替わってもう一人の少年がシュリーマンとなったのではないかと。
 だからすり替わったシュリーマンは以後故郷に帰ろうとはしなかったし、初恋のミンナに結婚を申し込もうとした数日前にミンナが結婚していて、悲しみにくれたと言っているが、本当はミンナが結婚した事実を確かめてから、結婚を申し込もうとしたしたのではないか。そして幼い弟呼び戻したけれど、アメリカにいるルイスは呼び戻さなかった。それらすべてが、自分が本物のシュリーマンではないことがばれてしまうからそうしたんじゃないかというのである。
 この展開は「おお!」と思ったのだけれど、しかしこのルイスの推理は以後話に出てこない。だったら何でここでこんなことを持ち出したのか、作者の意図がよくわからない。しかもこれを使えば話は面白くなりそうなのに、何かもったいない感じがしてしまった。もっともこの推理を展開しちゃうと史実と食い違ってしまうから、それまでにしておいたのかもしれない。とにかく史実に縛られてしまい、せっかくいいアイデアがあるのに生かし切れずいるのは残念だ。
 それとここに出てくる人物のしぐさがどうもヨーロッパ人ぽくないのだ。たとえばシュリーマンがプリアモスの財宝を見つけ、それを遺跡現場から密かに持ち出したとき、ブラウンにどうしてそんなこそこそするのかと問われる場面。

「黄金が発掘された事実を、この土地の者や、ましてトルコの役人に知られたら、とても面倒なことになるのです。だから・・・」
「なるほど」ブラウンはぽんと額を打つとハインリッヒに向き直り、なお興奮さめやらぬ口調で尋ねた。「で、いつ見つかったのです?」

 ヨーロッパ人がポンと額を打つか?何か落語の長屋での会話で出てくるしぐさに似ていていないか。この後もう一度ブラウンは同じしぐさをする場面があるから、それは癖なのかもしれないが、何かおかしい。もうちょっとスマートやってほしいな。それにいろいろ持ち出して、話を複雑にしても、すぐ犯人の見当がついちゃったしね。これは失敗作だな。それにこの本の解説も何を言いたいのかよくわからなかった。


評価


書誌
書名:黄金の灰
著者:柳 広司
ISBN:9784488463021 (4488463029)
出版社:東京創元社 (2006-11-30出版) 創元推理文庫
版型:390p 15cm(A6)
販売価:780円(税込) (本体価:743円)

2007年09月21日

ウンベルト・エーコ著『フーコーの振り子』下

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 アルデンティ大佐という人物がベルボたちがいる出版社に自費出版の依頼にくる。その本の内容はテンプル騎士団の秘密に関するものであった。アルデンティ大佐はテンプル騎士団のある秘密を発見したのだ。

 テンプル騎士団の財産をめぐってフィリップ美王はテンプル騎士団の解体をめざし迫害を加える。迫害を逃れたテンプル騎士団の一部は地下にもぐる。隠れた場所がシャンパーニュ地方のプロヴァンであったとアルデンティ大佐は推理する。
 アルデンティ大佐は1894年の地方新聞からエドアール・インゴルフという人物がプロヴァンの中心にあるグランジュ・オ・ディムという館の地下で何かを発見したことを知る。このあたりはあのレンヌ・ル・シャトーの伝説と同じだ。
 インゴルフが発見したものが何であったのかアルデンティ大佐は調べ始める。インゴルフの娘がパリに住んでいたことを突き止め、訪ねていく。そこにはインゴルフの書斎が残されており、そこでアルデンティ大佐は一枚の紙切れを発見する。そこには難解な文章が暗号のように書かれており、アルデンティ大佐はそれを次のように解読する。

干し草の荷物から三十六(年後の)
聖ヨハネの(夜に)
白いマント(の騎士[テンプル騎士団]のために)
(ヴァン)ジャンヌ[復讐]のためにプロヴァンの(異端転向者が)
六か所で六が六回
一回につき二十(年)で百二十(年)
これが計画なり
最初の者たちは城に向かうべし
再び[百二十年後に]第二陣はパン(の)連中に合流すべし
再び避難場所へ
再び川向こうのノートル・ダムへ
再びポペリカンの宿へ
再び石へ
偉大な娼婦(の)祭りの前に六回が三回[六六六]

 アルデンティ大佐はこれがテンプル騎士団の復讐計画だと解したのであった。ここには六つの任務が書かれたフロチャートで遂行されるべきプログラム(復讐計画)が書かれていて、百二十年ごとに一つの使命を果たすようにそのフロチャートが六カ所に分けられていた。それを次の相手に伝えていくシステムであった。ところがある事情で(暦の改定で)それが次に伝わらなくなり、テンプル騎士団が有する強大なパワーを秘めた計画がわからなくなってしまった。
 この本は長々とその計画がどんなもであり、テンプル騎士団が有した強大なパワーとは何かを世界中の本や様々な宗教結社などから得た知識を駆使し、そこから関連情報をカゾボンやベルボたちがさぐっていく。そしてそれらの正体を突き詰めたとき(推理が完成したとき)、テンプル騎士団の亡霊たちがそれを知ろうとする。
 しかし、このメモの解釈の仕方ではテンプル騎士団の秘密なんてないものになってしまう。たとえばカゾボンの恋人であるリアはアルデンティ大佐のメモを次のように解読する。

サン・ジャン通りで
干し草用の荷車の一台分の単価は三十六ソルディ
六枚の封印のついた新しい布地は
白いマント通りへ
花飾用の十字軍の赤いバラは
六本ずつ束にしたものを六束、次の場所へ
単価二十ドゥニエなので合計百二十ドゥニエ
配達の順序は
最初の六束は城砦へ
次に同数をパン門地区へ
同、避難教会へ
同、川向こうのノートル・ダム教会へ
同、カタリ派の旧館へ
同、ピエール・ロンドへ
それから、六本の束を三束、祭りの前に娼婦の通りへ

 となる。
 アルデンティ大佐のメモは、果たして本当にテンプル騎士団のものであったかは疑わしい。あくまでもそれはアルデンティ大佐が解釈したものであって、それが正しいかどうかはまったく別物である。カゾボンたちがたまたまテンプル騎士団に入れ込んでいるところに、アルデンティ大佐がこの情報を持ってきたものだから、こういうことになってしまっただけのことで、解釈の仕方で、テンプル騎士団の秘密にもなり、あるいは「花屋さんの配達伝票みたいなもの」にもなるということなのだ。
 そして我々読者はアルデンティ大佐のメモに関する解釈をめぐって、ああでもない、こうでもないと著者のエーコに長々とつきあわされた形になる。それはほとんど理解不能な文章で、これでもかというくらいくどい。しかし最後にリアの解釈を読むと、結局「何だったんだ!」ということになってしまう。よく分からない本であった。この本を面白いという人がいるなら、どこが面白かったのか教えてもらいたいくらいだ。


評価
★(やっぱり評価不能)


書誌
書名:フーコーの振り子〈下〉
著者:ウンベルト・エーコ 藤村 昌昭【訳】
ISBN:9784163137902 (4163137904)
出版社:文芸春秋 (1993-03-05出版)
版型:569p 19cm(B6)
販売価:2,344円(税込) (本体価:2,233円)

入手不可(品切重版未定) 文春文庫ならあるようです。

2007年09月06日

ウンベルト・エーコ著『フーコーの振り子』上

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 この本は平成5年に買ってから何度も読もうと思って手に取ったのだが、数ページ読んでこりゃダメだと投げ出してしまった。
 今回とにかく読んでやろうと意を決して、半ば我慢しながらやっと上巻を読み終えた。しかし何だかさっぱりわからない。上巻で理解できたのは主人公であるカゾボンが自分の卒業論文のテーマとしたテンプル騎士団の歴史を語る部分と、カゾボンと知り合いとなったヤコポ・ベルボが勤めるガラモン社の裏の仕事である自費出版のもうけのからくりぐらい。
 ネットで調べてみると、面白いという人もいれば、私みたいに何が何だかわからないという人もいて両極端に別れる感じだ。テンプル騎士団のことは一時興味があって調べたことがあったから多少理解できたけれど、それ以外の西洋の秘密結社(『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる修道僧・シラスが属する敬虔なカトリック組織、オプス・デイもあった)やキリスト教だけでなく世界中の土俗宗教をこうも並べられちゃうと、何がどうなっているのかさっぱりわからない。しかもそれが歴史的事実や人物とからみ合っているのだが、どこかこじつけがましく感じてしまう。いずれにせよ私には理解不能であった。
 こういう裏のというか闇の部分のつながりは、よほど興味のある人じゃないとわからないのではないか。だいたいベルボが言っているが、「テンプル騎士団の話を持ちかけてくる連中はまず間違いなく狂っていることが多い」というのからしても、訳がわからなくなるのも当然のような気がする。下巻も苦労しそうだ。


評価
★(というか私には評価不能)


書誌
書名:フーコーの振り子〈上〉
著者:ウンベルト・エーコ 藤村 昌昭【訳】
ISBN:9784163137803 (4163137807)
出版社:文芸春秋 (1993-03-05出版)
版型:516p 19cm(B6)
販売価:2,344円(税込) (本体価:2,233円)

入手不可(品切重版未定) 文春文庫ならあるようです。

2007年08月22日

歌野晶著『葉桜の季節に君を想うということ』

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 読んでいて、「あれ、おかしいな」と思った。主人公である成瀬将虎の年齢が、話が進むうちに私が思っていた年齢と食い違ってくるのである。成瀬将虎の歳は若いと勘違いしていたのである。
 勘違いするのも当然のような気がする。というのも成瀬将虎が出会い系の女の子とのセックスをし、フィットネスクラブで身体を鍛え、パソコンスクールの講師をしているのである。しかも後輩にキヨシという奴がいて、受験勉強をしている。そのキヨシにアダルトビデオ貸してやったり、キヨシが同じフィットネスクラブに通う愛子に気があり、病気で休んでいるからというので、一緒に見舞いにつきあったりしている。まして成瀬将虎がハードボイルドを気取って生きているのを読んで、いくらなんでも成瀬将虎が会社を定年退職し、シルバー人材センターで仕事を紹介してもらっている年齢だとは思わなかったのである。キヨシにしたって、六十で会社を退職し、一念発起して定時制高校へ通い、大学受験を目指しているなんて思わなかった。もちろん愛子もおばあちゃんである。
 私がこの年齢に関するだましに気がついたのは、地下鉄で自殺を図ろうとした雨宮さくらが(当然この時も雨宮さくらが若い女性だと思っていた)、通販でインチキ健康食品にだまされ、莫大な借金を背負うことになり、結局その会社のいいなりになった七十歳の女と同一人物じゃないかと思ったところから始まる。しかし年齢が合わない。そして成瀬将虎もまさかおじいちゃんだと思っていなかったので、いくらなんでも七十歳のおばあちゃんに恋心を寄せるのはおかしい。これは一体どうなっているんだと読まされることとなる。
 結局ここに登場する人物はすべて高齢者であることがわかり、事件の種明かしをされる。それが作者の意図なのだろうが、やり方が卑怯である。最初に主人公の年齢を公にせず、読者に主人公が若いと思わせるように、フィットネスクラブに通わせたり、ハードボイルドを気取らせたりするのである。結局実際は登場人物すべてがおじいちゃん、おばあちゃんであることが、この話のトリックなのである。これにはさすが頭に来た。
 どうしてこれが2004年版「このミステリーがすごい」、「本格ミステリーベスト10」の1位なのだろうか?こんな本1位にしちゃまずいだろう。(そもそもこの帯の文句にだまされてこの本を買ってしまったのだ)


評価


書誌
書名:葉桜の季節に君を想うということ
著者:歌野 晶
ISBN:9784167733018 (4167733013)
出版社:文藝春秋 (2007-05-10出版) 文春文庫
版型:477p 15cm(A6)
販売価:660円(税込) (本体価:629円)

2007年07月26日

川上健一著『四月になれば彼女は』

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 焼きが回ったついでに、「青春小説の名手が放つ純愛グラフィティの傑作」(とこそばゆい文句がこの本の帯に書いてあった)を読む。川上さんの本はエッセイ『ビトウィン』がかなり気にいっていて、それ以外に小説2冊を読んでいる。確かにこの2作の青春小説はそれなりに面白かったけれど、正直もういいやという感じではあったが、ついつい新作ということで買ってしまった。
 で、どうだったかというと、失敗であった。予想通りであった。だいたいもう青春小説なんて読む年齢じゃないのだ。私は。
 題名の『四月になれば彼女は』はサイモン&ガーファンクルの曲名だそうだが、さてどんな曲であったか記憶にない。家にサイモン&ガーファンクルのCDがあるが、かといって引っ張り出して聞く気にもならなかった。
 高校を卒業して、次に大学進学なり、就職なりする4月までのわずかの間の不安定な時期のことを書いた小説であるが、だからどうだというわけでもない。主人公の沢木圭太が友人の駆け落ちごっこにつきあうことから物語は始まる。そのあと、高校時代のけんか相手とけんかをしたり、友人や先生と会ったり、小学校の時好きだった女の子と再会したり、三沢基地にいるアメリカ兵とバスケットをしたり、童貞を捨てたいために、街の娼婦を捜し回ったり、アメリカ兵とのけんかに巻き込まれたりする1日を過ごす。
 そこには高校を卒業したという開放感と、高校を卒業をしたのだから早く大人になりたいという気持ちが、そうさせることを作者は書きたかったにかもしれない。
 沢木圭太は最初地元で就職する予定であったが、結局それもダメになり、めまぐるしかった1日が終わった後、東京へ行こうと決意する。
 次に朝、東京の大学に行く小学校の時好きだった女の子、二瓶みどりと再度会う。みどりが懐かしい小学校へ行きたいというので圭太は一緒に行く。校舎を見上げみどりは、「やっぱり小学生のころは楽しかったね」という。おいおい高校生の卒業したばかりで、小学校の頃を振り返るなよ言いたくなってしまった。
 自分はこの頃何をしていただろうかとふと思った。私は3年の10月にはもう大学が決まっていた(すぐ辞めちゃったけど)のでそれ以降、もう高校を卒業した感じで過ごしていた。だから圭太みたいに、高校卒業した3月から4月のわずかな期間ではなく、かなり長い期間自由に過ごしていたはずだ。そのためか圭太みたいな濃密な開放感や悩みなどなかったような気がする。とにかくこの頃には大した記憶がない。


評価


書誌
書名:四月になれば彼女は
著者:川上 健一
ISBN:9784408534756 (4408534757)
出版社:実業之日本社 (2005-07-25出版)
版型:385p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年05月17日

志水辰夫著『生きいそぎ』

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 この本もお茶の水の丸善で、POPにつられて買ってしまった本である。(私にとってこの本屋は鬼門かもしれない)本の裏表紙に次のように書かれている。「定年を迎えたり、親しい友人が亡くなったり、親やきょうだいの法事に集まったりするとき、ふと胸をよぎるのは、幼かった頃のことや、最も輝いていた時期のことだ。人は皆、戻るべき故郷があるというけれど、戻ればそこは、変わり果て居場所さえもままならない。でもまた生きてゆかなければならない。老いに向かう人生の「秋」を叙情豊かに描く短編小説集」
 これを読んでちょっと読んでみようかなぁという気になった。歳のせいか、こういう「人生の『秋』」なんて書かれると、どうしても気になるのである。やばいなとは思っているのだけれど・・・。

 この本は「人形の家」、「こういう話」、「五十回忌」、「うつせみなれば」、「燐火」、「逃げ水」、「曼珠沙華」、「赤い記憶」の8編の短編で成っている。ただ、どれもどうってことはなかった。今回は完全に丸善の文庫担当者にだまされたことになる。
 題名自体なんか人生の哀愁を物語るけれど、だいたいこれら作品で何を言いたいのかよくわからなかった。どの短編も、子供時代に何らかの問題のある過去を持っていて、それが大人になり、仕事などで忙しくなって、一時忘却の彼方に追いやれる。しかし現役をリタイヤしてから、時間をもてあますためか、忘れていた拭い去りがたい過去がむくむくと頭をもたげ、かつて自分の子供時代の故郷に帰り、それを振り返るというパターンである。ただそれだけである。だからなんだというのだろうか?人は人生の秋を迎えるとこうなるとでも言いたかったのだろうか?
 その上、
「同時にふたつ以上にことをすると、片方のことを忘れてしまう。最近割合そういうことが多いのだ。脳が現実の多様性に対応しきれなくなっている。こういうかたちで老いを目の前に突きつけられるのは、あまり気持ちのいいものではなかった」

「仕方ないさ。人間の歴史なんて、しょせん有限なんだ。その人間ごとに、自分が立ち会ってきた歴史を大事にするほかない」

「若者にはいつだって住みにくい世のなかなのだ」

 といった人間歳をとるとなる状態や、冷め切った考え方が作品にちらちらと顔をだす。あ~、嫌だ、嫌だ。ちっとも叙情豊かじゃない。


評価


書誌
書名:生きいそぎ
著者:志水 辰夫
ISBN:9784087460124 (4087460126)
出版社:集英社 (2006-02-25出版) 集英社文庫
版型:319p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2006年11月28日

大崎梢著『配達あかずきん』

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 書店員が主人公になった本を4冊買って、最後の2冊となった。しかしこの本(東京創元社刊)は連作短編5点が収録されているのだが、はっきり言ってつまらなかった。
 駅ビルの6階にある成風堂書店の店員杏子と多絵のコンビが書店業務の中の日常にひそむささやかな盲点を解き明かすミステリーである。
 でもこの本、はたして業界の人間以外興味がわく本なのだろうかと思ってしまった。私みたいな本屋フリークなら読んでみたいと思うのだろうが(事実そうなのだが)、本屋という限定されたところが舞台になっていて、しかも書店業務が共有できる人間なら多少興味が持てるけど、一般の人はどうなのだろうか?しかもミステリーといっても、先ほど言ったように、本屋の業務にひそむ盲点がミステリーとなっているので、はっきり言ってインパクトがない。私みたいなすれっからしがこの本を読むとどうしても物足りなさがつきまとうのだ。
 それにこの本の最後に本屋で働いている人達の対談が載っているのだが、それを読んでいても、この本に描かれる本屋さんの日常が、「そうそう、そういうのってあるよね」というのが何回も出てくるのが鬱陶しかった。まるで自分たちだけの世界を自分たちだけで共有して、楽しんでいるような、不快感がわき上がる。


評価

2006年07月01日

東野圭吾著『探偵ガリレオ』

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 東野さんの『容疑者Xの献身』が面白かったので、その作品に登場する物理学者の湯川と刑事の草薙のコンビの第一作『探偵ガリレオ』(文春文庫)を読んでみた。

 はっきり言ってつまらなかった。

 5編の短編で連作になっているのだが、殺人事件がすべて非現実的なのである。つまり殺し方が、何か特殊な道具を使っておこなわれるからだ。あるいは自然現象がたまたま何らか作用して、特殊な状況を作り出したものなど、本来あり得ないことで殺人事件が起こる。この文庫の解説者は著者が「マニアックでいいから、科学を題材にしたミステリーを書きたいと思っていた」という著者の言葉を紹介しているが、あまりにも特殊過ぎるような気がしてならない。
 やっぱりこの手の推理小説では、できる限り現実的な方がリアル感があっていいし、その方がぞくぞくする。『容疑者Xの献身』ではそうした特殊な道具を使っていなく、うまいアリバイ工作だったので、それを期待したのだが・・・。
 実はもう1冊このシリーズを買ってしまっている。どうやらこれもこの本と同じ感じみたいなので、正直失敗したなぁと今思っている。仕方がないから、次に読む予定だけど、ちょっと気が重い。

評価