2010年09月06日
市川真人著『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』
村上春樹さんは今ではノーベル文学賞候補として、毎年話題になる小説家で、国内では谷崎純一賞や読売文学賞、海外ではフランツ・カフカ賞やエルサレム賞を受賞し、日本だけでなく世界でも評価の高い小説家である。その村上さんが日本において、芥川賞を取っていない。これほど世界的評価が高く、人気のある村上さんがなぜ芥川賞を受賞出来なかったのか、それを知りたくてこの本を手にした。しかしこの本は適当に最初の部分でその理由を抽象的に答えてしまい、あとは著者による日本文学論なんだと知らされる。書名は『芥川賞はなぜ村上春樹に~』となっているのは、私みたいな人間にこの本を買わせるためのものであって、むしろ内容は副題の擬態するニッポンの小説の方に重点が置かれている。それを言いたいが故に、あえて気をそそるような書名を付けて、だまして読ませるといったものであった。
読んでいてこれは大学での講義みたいなものじゃないかと思えてくる。変な与太ばかりとばし、やたら読む側に笑いを提供し、媚を売るやり方はまさにそれである。講義としては笑いがあって、“面白い”講義をする人のようであるが、得てしてこういう人の講義は後に何も残らないものである。ちなみに著者の経歴を見てみると、「早稲田大学文化構想学部ほか兼任講師」と訳のわからない学部の訳のわからない立場の人で、この手の評論家ぽい人は世の中にたくさんいる。まして誰でも専門家のように意見を言うのが流行っているご時世である。その関係の本も腐るほどあるくらいだから、せめて腐る前に読んでもらうために、このような書名を付けたといっていいような気がする。
私はこういう文学的詮索は何でも言えるところがあると思っている。こういう文学論の好きな人にとっては、一つの試論として面白いのだろうが、小説なんてどう読んだっていいじゃないかと思っている。批評家や専門家が言うような読み方もあるだろうけれど、一方で読んだ人が感じたままであっていい、と私はいつも思っている。恐ろしいのはそうした批評家や専門家言う通り自分は感じなかったとことが“おかしいのかな”と思わせることである。評論にはこうしたお節介なところがあって、むしろ強引に学問にしてしまうことから、純粋に小説を楽しめなくさせてしまうのだ。確か開高健さんだったと思うが、音楽は音を楽しむと書くのに、なぜ文学を文楽としなかったのかと言っているが、私は諸手を挙げてこの意見に賛成の人なのだ。
ということでこの本は、著者の近現代の日本文学論なのだが、それでは詐欺みたいになっちゃうから、村上さんが芥川賞を受賞しなかった理由を申し訳ない程度書いてある。
「芥川賞が村上春樹に与えられなかったのは、一義的には、村上春樹の携えるアメリカとの距離感が彼ら(選考委員)に受け入れがたかったからである」
何が言いたいかわかりますか?要するに村上さんがあまりにも作品にアメリカなるものを取り込みすぎ、アメリカに近すぎ、むしろそれと同じになってしまっているというのである。これは純日本的選考委員には受け入れがたいものなのだ。日本には私小説の世界がある。その上で、一歩引いた感じでアメリカを客観的に見るならともかく、一緒になっちゃまずいでしょう。単なる物まねでしょうとしか写らなかった。だから芥川賞を受賞出来なかったというのだ。
これはなるほど、と思える。なのでこの点を強く押し進めていって欲しかったのだが、これはあくまでもおまけなので、これ以上は追求しない。むしろここから、かろうじて村上さんとの関係を維持しながら、著者独自の日本文学論を展開していくのである。
しかしよく考えてみると、この私小説という日本文学界の潮流は、日本で単独で生まれたものじゃない。元を正せば明治以降に輸入された当時の欧米の文学界の潮流から端を発している。当時の小説家は輸入された西欧文学は個人の内面をどう表現しているかを、解釈し生まれたものである。だから村上さんの小説が私小説の日本らしくないという理由で芥川賞に該当する作品でないと断定するのはおかしな話である。
むしろ当時の欧米の文学界の潮流をとことんゆがんで解釈し、登場人物の心の内面をいかに忠実に表現するかに心を奪われた結果、物語の面白味をどこかにやってしまったのである。そうして出来上がったものは、個人の告白論か懺悔と大差がないのである。
一方村上春樹さんは著者がいう“作家の根っこの部分”を描くことを、物語の中で表現してきている。それを当時見抜けなかった文壇の目は節穴としか言いようがない。表現の技巧性などに重点を置き、物語の面白さを訳のわからないものと断罪するしか能がなかったのである。それはむしろもともと欧米の小説が持っていた物語性で、村上さんはそうした物語性の中で“作家の根っこの部分”を表現してきた。だから村上さんの小説が欧米でも評価されるのである。単にそれだけである。それを仰々しくペリーの来航から始め、それ以降日本が欧米に対して持ってきた劣等感から、インフラ、新聞、教育まで話を展開する必要などどこにもない。史実としてそれはその通りなのだろうけど、要は当時の芥川賞選考委員に見る目がなかっただけのことなのである。もちろん漱石の『坊っちゃん』のヒロインは誰なのかとか、太宰治の『走れメロス』どうして走ったのかなど、どこにそれが必要なのかよく分からない。単にこれを言いたいから、強引に著者が作品から見つけ出したことを結びつけたとしか思えないのだ。
私は勝手に思っているのだけれど、村上さんはそうした日本の文壇を揶揄しているのだ。『1Q84』で主人公の天吾くんに編集者の小松が「でかいことをやろう」とふかえりが書いた小説を書き直し、芥川賞を狙おうよと誘うけれど、それは村上さんにとって芥川賞はその程度の金稼ぎの手段としか映っていないことの証明だと思う。だいたいこの物語はここから始めること自体意味深だ。
芥川賞はその受賞は一大イベントとなっている。確かに受賞作は素晴らしいものなのだろうけど、だからといってそれをすぐ読みたいと思うかといえば、そうは思わない。せいぜいニュースネタだけにとどまるだけだ。むしろ受賞作が本となって売れるという計算高い部分がどうしても見え隠れしてしまう。
昔本屋で働いていた頃、お客で芥川賞や直木賞の受賞作品が本になった初版本を買い集めている人がいた。これなど明らかに受賞作を読もうというより、芥川賞や直木賞受賞作の初版本という価値だけで、その本が後で古本屋に高く売れるからだ。それこそその受賞作家が大化けし、流行作家にでもなれば、更にその付加価値は上がる。その程度なのだ。
もちろん新人作家にとっては芥川賞は今でも作家への登竜門なのだろう。太宰治のように、選考委員に泣きついて手紙を書き、芥川賞をもらえば生きて行けそうというのもいたが、そこはぶっちゃけた話、作家として食っていけるかどうかだけのスタートラインについたことではないか。
芥川賞は石原慎太郎の受賞から「世間で話題になった(読んだことはないが、障子を破るやつが話題になったと聞く)石原というヤツがとった賞」で話題となり、村上龍の受賞作(これは読んだ)が更に話題を生み、マスコミの中で大きなニュースとなると思われたのだ。ただ読む側にとってはその作品にせよ、これからの作品でも、面白いかどうか、その一点に限る。
ということで、この本は何を書きたいのかはっきりしない。いや、書きたいことは著者の日本文学論だったのだろうけど、ウケを狙って、芥川賞を受賞しなかった村上さんを引っ張り出したが故に、逆にそれに縛られることとなり、焦点がぼやけ、訳のわからないものになってしまったのではないか、と思った。
評価
★
書誌
書名:芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか―擬態するニッポンの小説
著者:市川 真人
ISBN:9784344981744
出版社:幻冬舎 (2010/07/25 出版)幻冬舎新書
版型:310p / 18cm
販売価:924円(税込)
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- by kmoto
- at 17:03
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