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    <title>どんなことがあっても、本が好き</title>
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    <subtitle>本に関するささやかな個人的意見</subtitle>
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    <title>マイ・シュ－ヴァル　ペ－ル・ヴァ－ル－著『ロゼアンナ』</title>
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    <published>2010-03-12T21:43:51Z</published>
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_13_02.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_13_02.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_13_02-thumb.jpg" width="150" height="207" /></a>


　私が持っている「マルティン・ベックシリーズ」は二代目である。というのも最初このシリーズを読んで、その面白さを堪能した後、もう読み返すことはないだろうと思い、古本屋さんに売ってしまったのだ。ところがいつかふと思い出し、また読んでみたいなと思い始めた。こうなると是が非でも読みたくなり、またこのシリーズを買い求めたのだ。だから今手元にある文庫本５冊、単行本５冊は二代目になるのだ。そして同じ本なのだが、初版本と表紙違いの本を２冊古本屋さんで見かけたのでそれを買い求めている。
　今回このシリーズを読み直すと、これで三度目となる。今回は新たに買い求めた初版本と表紙違いの本を２冊と、それ以外に持っている二代目の本を読むこととする。

　さてこの「マルティン・ベックシリーズ」はマイ・シュ－ヴァルと妻のペ－ル・ヴァ－ル－の共作で、スウェーデンの名作警察小説である。よくエド・マクベインの「８７ 分署シリーズ」と比較される。もしマイ・シュ－ヴァルが死亡していなければ、もっとシリーズは続いたものと思われる。
　結局夫のペール・ヴァールーが１９７５年、まだ４８歳の若さでこの世を去ったため、シリーズは１０作となった。私はあくまでも個人的に思うのだが、結局１０作にこのシリーズがとどまったことが、かえってこのシリーズをいいものとしたんじゃないかと思っている。「８７ 分署シリーズ」のようにだらだら続いちゃうと、どこか間延びした感じになってしまうのではないかと思うのだ。作品は以下の通り。

　『ロゼアンナ』（１９６５）
　『蒸発した男』（１９６６）
　『バルコニーの男』（１９６７）
　『笑う警官』（１９６８）
　『消えた消防車』（１９６９）
　『サボイ・ホテルの殺人』（１９７０）
　『唾棄すべき男』（１９７１）
　『密室』（１９７２）
　『警官殺し』（１９７４）
　『テロリスト』（１９７５）

　日本ではどういうわけか、第一作の『ロゼアンナ』から出版されず、『バルコニーの男』から出版され、『笑う警官』が第二作として出版されてる。
　そして普通親本として単行本があっていいのだが、これもどういうわけか『ロゼアンナ』から『消えた消防車』は文庫本しか見つからない。もしかしたらこのシリーズはここまでは文庫本オリジナルなのかもしれない。主人公はマルティン・ベック警視である。
　このシリーズが面白いのは、登場人物のキャラクターが警察という職場でも、ごく普通の冗談や会話をするところにある。だからかもしれないが、シリーズ全体で登場人物が楽しいし、警察というきな臭い職場であっても、普通に笑えるのである。そういうことだから人物たちを愛せるのである。私はマルティン・ベックの同僚のレンナルト・コルベリと、ここでは出てこないが、グンヴァルト・ラーソンが大好きである。
　さて『ロゼアンナ』の内容である。遊覧船が行き交うところで、浚渫船が女性の死体を引き上げた。司法解剖の結果、性的暴行を受けた後に絞殺されたことは判明したが被害者の身元は不明のまま捜査は行き詰まり、本庁の応援を仰いだ。ストックホルムからマルティン・ベックとその部下たちが集まり、捜査を続けるが、これといって手がかりがないまま、またしても捜査は行き詰まる。
　そん中アメリカから失踪者の照会があり、殺された女性がロゼアンナ・マッグロウであることが判明する。ロゼアンナの名前は遊覧船の名簿にもあり、どうやら、殺された後遊覧船から投げ落とされたと分かってくるが、それではいったい誰がロゼアンナを殺害したのか皆目判明しない。
　マルティン・ベックは遊覧船にロゼアンナが乗っていたことで、その他の乗客が観光目的で写真やビデオを撮っていたはずだと考える。その船に乗っていて、写真やビデオを取っていた乗客からそれらを取り寄せ、ロゼアンナに近づく人間を捜していく。そうしているうちに一人の不審者が浮かび上がったが、しかし事情聴取をしても、しらを通され、決め手に欠けた。
　そこでマルティン・ベックはその疑わしい人物に婦警を使っておとり捜査をし、罠をかけるのである。男はその罠にはまり、事件は解決する。
　あらすじをこう書いてしまうと、“なんだ”と思ってしまうが、捜査が行き詰まり、次の捜査方法を悩んで考えつき、さらにその先も同様にマルティン・ベックがどう捜査を進めていけばいいのか、苦しみながら考えるあたりは臨場感が感じれるのである。しかも特別変わった手法を取っているわけではなく、オーソドックスな捜査方法だ。だから犯人逮捕までの間がリアルに感じられた。


評価
★★★★


書誌
書名：ロゼアンナ
著者：マイ・シュ－ヴァル　ペ－ル・ヴァ－ル－
ISBN：
出版社：角川書店 （1993/11 出版）角川文庫
版型：375p / 15cm / 文庫判
販売価：入手不可]]>
        
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    <title>阿刀田高著『やさしいダンテ「神曲」』</title>
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    <published>2010-03-11T03:50:03Z</published>
    <updated>2010-03-11T03:57:20Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_11_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_11_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_11_01-thumb.jpg" width="150" height="214" /></a>


　また阿刀田さんの古典解説エッセイを読む。今回はダンテの『神曲』である。これも一般常識として名前は知っているけれど、その内容はどんなものなのか、知らずに今まで来ている。かといって、私がこれを読めるかというと、多分、いや絶対に読み切れないだろう。ということで今まで私が知っている『神曲』以上に、もう少し箔をつけるために読んでみたわけだ。

　さてその『神曲』は“地獄篇”“煉獄篇”“天国篇”の三部構成となっている。そこへダンテが順番に迷い込むところからこの話は始まる。冒頭で、「人生のなかばに達し、ふと気がつくと、私は、まともな道を外れて、暗い森の中に迷い込んでいた」となっているのだ。ダンテが森に迷い込んだ日時もはっきりしている。１３００年４月８日の夕刻に地獄に入った。その後煉獄、天国をめぐって翌９日の夕刻にこの世に戻っている。
　どうしてダンテが地獄から煉獄へ、そして天国へと向かうことになったのかは後ではっきりする。とりあえず、ダンテは地獄に入った。しかし一人ではない。案内役がいる。ウェルギリウスである。ウェルギリウスという名前はどこかで聞いた。そうあの「アイエネアス」を書いた人である。どうして案内役がウェルギリウスなのかよく分からないが、知っている名前が出て来るとなんかうれしい。そうか、ウェルギリウスはこの『神曲』でも登場するのか、といった感じである。
　地獄では生前の行いによって、様々な苦しみを与えられているダンテ以前の歴史上の有名人や貴族、聖職者、教皇などが登場する。まぁ生きているときに、悪行や暴利を貪っていた人物たちである。彼らはなんでダンテがここにいるのか不思議がるが、ウェルギリウスは「この男は死者ではない。罰を受けに来たわけでもない。見聞を深めるため、地獄の谷をめぐっている。私はその案内役」だと言って、彼らの疑問を解く。
　ここで苦しんでいる人物たちは阿刀田さんによると「往時のイタリア人の知識と教養で死者を断罪し、死者の中にはユダやマホメットのようなビックネームもあるが、多くは（ダンテの知る）イタリア史に限られたネームであり、さらにある部分はダンテが心血を注いだグェルフィ党の立場から見ている、という特徴が明らかだ」という。とにかく歴史上の多くの人物たちがここで苦しみを与えられている。読んでいて、「あんたもそうなの？」と思っちゃう。
　そしてダンテは煉獄へと向かう。煉獄とは死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である。
　煉獄山の山頂でダンテはウェルギリウスと別れる。なぜならウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため天国の案内者にはなれないからだ。そしてこの後ダンテが昔一目惚れした、ベアトリーチェと出会う。ベアトリーチェとダンテは家柄が違うため一緒になれなかった。ベアトリーチェは他の男と結婚したが、２４歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しんだという。ベアトリーチェはここでダンテと次のような会話をする。

　「なぜあなたはここへ登って来たのですか」

　「この人は」

　「神の偉大な恩寵を受け、たくさんの可能性に恵まれていました。でも、よい土壌は逆にわるい種をもはびこらせます。一層わるくなることもあるのです。私は、いっとき、この人に目を向け、この人を導きました。ところが私が去ると、この人は私を忘れ、正道を失い、邪道へと迷い込んだのです。呼び戻すために私は神の霊感を願いましたが、無駄でした。もはやこの人には、地獄を見せ、煉獄を示し、神の真実をまのあたりにさせるほかにないと考えたのです。ウェルギリウスに涙ながら願ったのです。この人が前非を悔いることもなく忘却の川を味わうならば、神の恵みは破られたことになるでしょう」

　「向こう岸にいるあなた。さあ、答えなさい。懺悔しなさい。あなたの胸に宿るつらい記憶はまだ水に流されたわけではありませんよ」

　「はい」

　「あなたが進むべき善の道を私が指し示したのに、私が死んでしまうと、道なかばであなたはよそごとに走ってしまいましたね。あなたの道を遮るどんな濠があったのですか」

　「はい。その通りです。あなたの顔が隠れてしまうと、私はさまざまな快楽に誘われ、道を踏み外してしまいました」

　「耳が痛いなら・・・・もし一人前の男なら、顔をあげて、こちらを見なさい。もっと、もっと、厳しく後悔しなさい」


　結局こういうことなのね、といった感じであった。ダンテ自ら道を踏み外しそうになっているのを、昔一目惚れしたベアトリーチェに諭され、懺悔するということなのである。それを長々と道をたどって、もし懺悔でもしなければ、このように地獄で苦しむことになると言っているわけであろう。
　解説本を読んで分かったふりをするのもおかしな話だが、まあこういう話だということで、それだけでも知っただけ、ちょっと知識が増えた。


評価
★★


書誌
書名：やさしいダンテ「神曲」
著者：阿刀田　高
ISBN：9784048839860
出版社：角川書店　角川グループパブリッシング〔発売〕 （2008/01/31 出版）
版型：295p / 19cm / B6判
販売価：1,680円(税込) ]]>
        
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    <title>若桑みどり著『イメージを読む』</title>
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    <published>2010-03-05T21:52:24Z</published>
    <updated>2010-03-05T21:55:43Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_06_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_06_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_06_01-thumb.jpg" width="150" height="209" /></a>


　ちょっと図像学（イコノグラフィー）の一端を知りたくなった。図像学とは我々が知っている有名画家の作品には何らかの意味が込められていて、それを読み解こうとするものである。それがどんなものなのか、この本は教えてくれる。読んでいて、なるほどこれら絵画にはそうした思想的背景があって、それが絵に反映していたのかと知った。
　私が絵画展など行って、その会場に入れば、まず最初にその画家たちの生まれた場所、時代背景の説明が必ずあるが、だいたいそこは、飛ばしてしまう。何故なら、もうそこで人混みが出来ていて、先に進めないからだ。さっさとお目当ての絵を見始める。そして絵を見て、きれいだとか、すばらしいとかいった直感で感じたことしか思わない。それで通り過ぎてしまう。
　しかしよく考えてみれば、そうした時代背景は画家の作品から出てくる思想を読み解く上で重要だ。本当はおろそかにしてはいけないものだ。画家がその絵を描くに当たり、画家が生きた時代にどうしても縛られてしまうことが必ずあり、そことが絵に反映することとなるからだ。そのことを著者は次のように言っている。

　「たとえばある画家を考えてみてください。その画家は特定の社会に生まれて、その社会のなかで生活し、そこにいる人やそこにある作品から学び、そこにいる人たちに絵を売って生きているわけですから、自分の生きている社会や時代から無関係ではいられません。その先生や、見た作品から教えられた技術や、その当時のテクノロジーから生じたテクニックやメディア、ものの考え方や共通のイメージで絵を描くわけです。
　そういうわけで、すべての画家は、個人的な様式と同時にその時代、十二世紀なのか二十世紀なのか、そういう時代の特徴を否応なくもち、また、西洋人なのか日本人なのかという、ある民族や文化の長い底深い伝統からくる特徴をもっています。それらを全部ふくめて様式といっているわけです。したがって、様式とは、個人的なものであると同時に社会的なものであり、また歴史的なものなのです」

　だから「美術史は、文化人類学や考古学や歴史学や宗教学や神話学や文献学や、その他のもろもろの学問と結びついています。こういうふうにもろもろの学問と関連しながら、個々の学問の領域をこえて幅広く研究することが必要な学問のことを学際学といっていますが、美術史は学際学的な学問だ」と言っているのは、なるほどそうだなと思う。
　そして描かれた絵には、描かれる理由が必ずある。絵画も彫刻も創作である以上、それを創り上げなければならない理由が芸術家たちにはあったはずだ。

　「また絵というものが、芸術家の芸術についての理論の実践の場であり、思想の表現の場であり、いずれにせよ闘争的なものでもあった」

　それを読み解こうとするのが、図像学（イコノグラフィー）なのである。この本で著者が言う美術史なのである。「美術というものは言語ではなく、非言語的な「表現」（なんらかの目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちによって表現すること）の行為であり、またその結果としての作品」なのだと言う。それをどう読み取るか、そのサンプルとして出されたのが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」デューラーの「メランコリアⅠ」、ジョルジョーネの「テンペスタ（嵐）」である。

　以上を踏まえて、時代による“図像の変化”で考えてみる。たとえば「最後の審判」を例に取る。
　信仰が安定していた時期（九世紀から十五世紀までの東方ビザンティン帝国の芸術や十二世紀頃までの西ヨーロッパの芸術）は、この「最後の審判」の構図は、真ん中に裁判官であるキリストがいて、左右にとりなし（弁護役、仲介役）をする聖母と聖ヨハネがいて、祝福された魂と罰せられた魂がいるという公式で、それらは神の最終的な意志の実現を厳かに知らせていて、それほど恐ろしいドラマチックな表現じゃなかった。それを何百年にわたって表現していた。ところが何かの関係で図像の公式が変わる。十三～十四世紀になると様子が違ってきて、善人が祝福されて行く天国の安らかさに比べて、罪人が罰せられて落ちる地獄がどぎつく描かれるようになる。地獄では非常に残忍な拷問や虐殺のような情景が描かれる。
　さらに初期資本主義が盛んになってくる時期になると、キリスト教が禁じている様々な現世利益の追求や富や地位を築く信者が増えてくると、さらに地獄は生き生きとした残忍なものになっていく。
　そしてミケランジェロの「最後の審判」となると、それまで善人と罪人との構図がはっきりしていた頃から比べると、その隔たりが不明確になって行く。ミケランジェロの「最後の審判」のイエスの姿を見ると、はそれまであった安定や平和や秩序はすでになくなり、はかりしれれぬ激変と破局が読み取れるという。ちょうどこの絵が描かれた頃はカトリックとプロテスタントが争っていた時期であり、カトリックの教えが揺らぎ始めた頃だからだ。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_06_02.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_06_02.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_06_02-thumb.jpg" width="300" height="336" /></a>


　このように一つの絵の題材であっても時代によって図像の変化があり、その変化となった社会的背景や思想の変化を読み取らなければならないことを教えてくれるというのだ。


　さて個人的に言って、やはりデューラーの記述が一番興味がある。デューラーはこの本であげられているミケランジェロやダ・ヴィンチとほぼ同世代の人であったが、決定的に違うことがある。デューラーはドイツ人であることである。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した地域はアルプス以南で、ギリシア・ローマ世界であり、古代文明に接ぎ木されたキリスト教世界である。ローマカトリックの神学者たちによって築き上げられた壮大な形而上学的世界であった。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍したルネサンスはカトリックと結びついたものであった。
　ところがドイツはルターによる宗教改革が起こった地域である。ルターはカトリック教会を否定した。ということはドイツではイタリアで起こったルネサンス閉め出したことになる。そしてデューラーはルターの共鳴者でもあった。
　当然ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品とは違うものがデューラーの作品の背景にあることになる。彼らとは違ったイデオロギーを持っていた。（もしかしたらダ・ヴィンチとは似ているところはあるのかもしれないが）そこで著者はデューラーの「メランコリア」をあげてその異質の背景を探ることとなる。これが興味深かった。

　この「メランコリア」が示す内面の不思議さはかなり面白い。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_06_03.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_06_03.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_06_03-thumb.jpg" width="300" height="387" /></a>


　版画が否定的なものの考え方を示していたり、そうかといって肯定的見られるところもあって、その絵を見る見方によって大きく変わってしまうようである。
　まず否定的な面を見てみる。メランコリーとは憂鬱質のことをいう。ところでアリストテレス以来の万物は火、空気、水、土という四つの元素から成り立っている考えがあった。そして人間の個性を作っている気質もこの四つの元素の支配によるものと考えられた。すなわち軽くて陽気な多血質は空気、激しく怒りっぽい胆汁質は火、怠惰で不活発な粘液質は水、暗くて冷酷な憂鬱質は土が支配していると考えられていた。
　もともとこの四気質論（四性論）は医学の一種で、中でも憂鬱質はそれだけでも立派な病気と見なされていた。また中世では憂鬱質は七つの大罪中の一つである吝嗇の罪と結びついて考えられていた。それはどうしてか？
　この「メランコリア」の人物のポーズはロダンの「考える人」と同じポーズである。このポーズは物思いに耽る分、元気なポーズとは言えない。すなわちこのポーズは外側の現象にダイナミックに対応しようとするアクティブな姿勢ではなく、むしろ外側からの刺激を一切遮断して、自分の内部の心の動きに省察を凝らそうとしている。じっとしていることは究極の吝嗇な人間の姿である。そして吝嗇の極みが高利貸しである。中世キリスト教では、高利貸しは、怠惰で、人の金をくすねる犯罪者扱いであった。だから憂鬱質は吝嗇の罪と結びついて考えられていたのである。実際この版画には人物のスカートのところに高利貸しの象徴である鍵束と財布が描かれている。
　しかし一方でこの版画には大工道具が描かれている。半ば放り投げ出された感じである。無用に見える。手に持っているコンパスさえ、何も描いていない。そのことがこの人物が物思いに耽るというか、考え込む姿勢を、こうした道具を使う仕事よりも、優位にあることを示しているともいえるのである。さらにこの人物に翼をつけたことで、その人物が思考する姿勢を、人間の思考を潜在的能力として表現していることにもなるのだという。
　驚いたことにこの「メランコリア」の人物は男ではなく女であるということだ。

　デューラーといえば「人体比例理論」（人体の比例が大宇宙と小宇宙を結びつけているという理論）が有名だが、そういう考え方が出来るのは、ダ・ヴィンチ理論を吸収したものとはいえ、宇宙を作っている元素と人間を作っている元素が同じものであり、人間の運命は宇宙が関連しているという哲学がかなり影響したんじゃないかと思えてくる。
　芸術というのは見た目だけでなく、その奥にあるものを考えることが出来れば、さらに興味深いことを我々に提供してくれているんだと改めて感じた。一人の芸術家の作品を鑑賞するには、その奥底に流れるものを分からないと、真の意味で作品を鑑賞したことにならないのだろう。これから何度芸術作品を見る機会があるか分からないが、このことちゃんと踏まえておければと思った。


評価
★★★


書誌
書名：イメージを読む
著者：若桑　みどり
ISBN：9784480089076
出版社：筑摩書房 （2005/04/10 出版）ちくま学芸文庫
版型：254p / 15cm / A6判
販売価：924円(税込)]]>
        
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    <title>ダン・ブラウン著『ロスト・シンボル』</title>
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    <published>2010-03-04T01:06:02Z</published>
    <updated>2010-03-04T01:08:04Z</updated>
    
    <summary> 　やっとラングドンシリーズの三作目が日本で発売された。期待して読んだ。が・・・...</summary>
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_04_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_01-thumb.jpg" width="150" height="217" /></a>


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　やっとラングドンシリーズの三作目が日本で発売された。期待して読んだ。が・・・・、あまり面白くなかった。というか少々この手の話に食傷気味なのかもしれない。それと今回は前作二作と比べて、いくらダン・ブラウンがワシントンというところがローマなどと比べても引けを取らない魅力的な場所と言っても、読む側が最初からそれほど魅力的なところと思っていないから、「そうかな？」と感じてしまう。

　話はラングドンが恩師で親友であるフリーメイソン最高幹部のピーター・ソロモンから急遽講演を頼まれ、ワシントンにある連邦議会議事堂に駆けつける。しかしそこにあったのはピーターの切断された右手首であった。指先にはジョージ・ワシントンを神格化した天井画があった。ピーターを人質に取った全身刺青の男のマラークは、古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵―"古の神秘"―へ至る門を解き放て、とラングドンに命じる。
　ここからラングトンはピーターの妹キャサリンとともに、以前にピーターから預けられたフリーメイソンのピラミッドの一部から前作同様さまざまな暗号を解きながら、ＣＩＡにあらぬ疑いをかけられて追われながら、"古の神秘"の正体を明かすべくワシントン一帯を駆けまわる。

　その預けられたピラミッドを入れた箱に１５１４の後にＡとＤをデザインした記号があった。これである。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_03.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_04_03.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_03-thumb.jpg" width="300" height="231" /></a>


　それを見たとき私はすぐ分かった。これはアルブレヒト・デューラーが自分の作品に書いたものであった。これを見たとき正直言ってドキッとした。なんでここでデューラーが出てくるんだ？と思った。これはデューラーの「メランコリア」を示していた。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_04.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_04_04.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_04-thumb.jpg" width="300" height="398" /></a>


　この版画は実は３０年前に池袋にあった西武美術館で実物を見ている。思わずその時買ったカタログを本棚から取り出した。そして「メランコリア」を眺める。確かに版画の右上に魔方陣がある。気がつかなかったなぁ。そしてここに書かれている数字を縦でも横でも斜めでも足してみると３４になる。しかもこの版画が作られた１５１４年の数字が一番下の２番目と３番目に入っている。本当にそうなのか思わずこのカタログを繁々と見てしまった。
　実を言うと私はデューラーに興味を持っている人なので、デューラーが使われただけでちょっとポイントが上がりそうになったけれど、結局大した役目を負っていなかったので、“残念！”

ここからはネタバレ注意！

　さて"古の神秘"とは何か？全身刺青の男のマラークとは誰か？そしてマラークは何故古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵を求めるのか？まずマラークはピーターのどら息子のザカリーだろうとすぐ予想がつく。ソロモン家は代々長男にその財産を譲る。財産はお金かそれとも知恵か、どちらかを選択させる。ザカリーはお金を選択したが、紆余曲折の上、フリーメイソンの知恵も求めるようになる。
　フリーメイソンが代々伝えてきた知恵が"古の神秘"であった。ピーターがラングトンに預けたピラミッドにはその"古の神秘"が隠されている場所が印された地図でもあった。
　例によって比喩が多くて、何が何だかよく分からない部分があるのだけれど、多分こう言っているんじゃないかと思うことを書いてみる。
　"古の神秘"とは「失われたことば」であった。だいたいどんな文化にも、独自の“ことば”があり、それを印したものが書物であった。その書物はキリスト教徒にとってみれば聖書であった。そう、聖書に"古の神秘"が印されていたのである。
　救出されたピーターは最後にラングトンに言う。

　「聖書は、歴史を通じて古の神秘を受け継いできた書物のひとつだ。その文面はわれわれに秘密を懸命に教えようとしている。分からないか？聖書の“暗き語”とは、秘密の智恵のすべてを密かに伝えようとする古代の人々のささやき声なのだよ」

　そこに書かれている本当の意味は、人間の果てしなき潜在能力を象徴として神を讃えたことであった。言ってみれば古代の人々は「人間≒神」と考えていたといっていい。人間は神の“被造物”ではなく、神と同じ“造物主”であるのだ。だから人間は神と同じくらいの能力を有することとなる。そして人間はその精神によって物質を変容しうるエネルギーを生み出せるというのである。
　ところがいつの頃からか、そうした人間の潜在能力を認めていた古の考えはいつの頃からか失われた。だから私たちは人間は神が作った“被造物”だということになってしまった。そのことは古の象徴は時とともに失われてしまったことを意味する。
　聖書は本来の人間の姿、能力を正しく導いていたのである。だから聖書はフリーメイソンの至宝であったのだ。聖書には人間の潜在能力を"古の神秘"として書かれていたのであった。

　多分こんなことを言っていたんだろうなと思うが、基本的に図像学（イコノグラフィー）というのはよく分からない。そうそうこの本を予約しておいたらこんなピンバッジがついていた。ついでにあげておく。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_05.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_03_04_05.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_03_04_05-thumb.jpg" width="300" height="443" /></a>


評価
★★★


書誌
書名：ロスト・シンボル〈上〉
著者：ダン・ブラウン　越前　敏弥【訳】
ISBN：9784047916272
出版社：角川書店　角川グループパブリッシング（2010/03/03 出版）
版型：351p / 19cm / B6判
販売価：1,890円(税込)

書誌
書名：ロスト・シンボル〈下〉
著者：ダン・ブラウン　越前　敏弥【訳】
ISBN：9784047916289
出版社：角川書店　角川グループパブリッシング（2010/03/03 出版）
版型：356p / 19cm / B6判
販売価：1,890円(税込)]]>
        
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    <title>山口治子著『瞳さんと』</title>
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    <published>2010-02-24T08:04:25Z</published>
    <updated>2010-02-24T08:26:57Z</updated>
    
    <summary> 　この本は山口瞳さんの奥様治子さんから、山口瞳さんとのなれそめから、夫婦生活、...</summary>
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_24_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_24_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_24_01-thumb.jpg" width="150" height="212" /></a>


　この本は山口瞳さんの奥様治子さんから、山口瞳さんとのなれそめから、夫婦生活、そして別れまでを聞き書いたものである。一応便宜上山口治子著と書いてあるが、あくまでも便宜上そうしたまでである。

　私にとって、山口瞳という人は『男性自身』がすべてであった。この３０年以上も続いたエッセイが好きで、週刊新潮はよく読んでいたのである。どこかで書いたかもしれないが、『男性自身』は昭和３８年（１９６３年）１２月２日号から始まり、平成７年（１９９５年）８月３１日号まで１、６１４回、一度も休みなく続いたエッセイである。
　山口さんは平成７年８月３０日に亡くなられた。この日は水曜日であった。そして週刊新潮は毎週木曜日が発売なので、もし山口さんが８月３１日以降亡くなられたら、連載を休載していたことになる。だから『男性自身』は連載開始から一回も休まず書かれたことになる。
　この本を読むと、もともとこの『男性自身』の原稿は１回３万円で、月４回で１２万円になるので、それで生活の保証ができた。だからそれでそれまで勤めていたサントリーを退社することができ、作家として独り立ちできるようになったらしい。連載開始から新潮社にこの原稿を書くことで生活の保証のお墨付きをもらったからできたことなのだろう。
　しかしだからといって、いい加減な気持でこの連載を続けてきたわけではない。

　「一週間をなんとなくすごす人もいるけれど、一週間のうち全力投球できる場を持っていることを幸せとしなければなりません。僕にとって『男性自身』は大河小説なんです」

　と『男性自身』を書きつづける意味を山口さんは言っている。つまりそれだけ力を入れていた。だから「『男性自身』を書かなければ、山口瞳はもっといろいろな短篇を書けたはずだ。あの中には、短篇の原石のようなものがたくさんつまっている」と言われたのである。

　私は自分の好きな作家が亡くなり、奥さんなどがその作家について、夫婦しか知らない姿を書かれたものを読むのが好きで、今までも結構読んできた。だいたい男というものは、世間体がいいから、本当はどうなんだろうと思う。もうちょっと、生々しい姿があるはずだと思うのだ。だから今回もそんな気持からこの本を手に取った。二人出会いから、生活のあり方、当然作家として独り立ちできるまでの間の苦しい生活、夫婦間や家族との葛藤など、人間味ある姿を知りたいのだ。
　山口瞳さんの母親の生家は遊郭であった。このことはどうやら母親は長いこと隠していたようであるが、そこに流れる血は山口瞳さんにも流れており、そこが原点であった。
　また山口さんの父親も山師みたいなところがあって、景気のいいときはお大尽様みたいな生活をする一方、金に無頓着な部分もあって、その没落も早い。浮き沈みの激しい人生を送っている。そういう両親を持ったためか山口さんの生き方には、一般人とは違う価値観があるように思える。山口さんには“遊び”に徹し、破滅の臭いを放しつつ、一歩手前で止まるようなしたたかさやルールを求めるところがあるが、それらはこんなところから生まれたのかもしれない。こういう生い立ちがあったからこそ、礼儀作法や生き方の指南など、山口さんが書かれるもに妙に説得力を感じるのかもしれない。それまでの苦労が生々しいから、その中で生き抜かれてこられたから、そうした立場に立った人には、いい励ましとなるのだろう。

　全体に奥様は山口さんに対して、いつまでも少女のような思いを持たれていて、山口さんとの昔を語るときでも、好きで好きでたまらず、それで嫉妬したことなど書かれていると、なんか素直でいいなあと思った。
　山口さんが昔京都市立病院に入院したとき、奥様に宛てた手紙の中に次のように書いている。

　「ぼくは幸福な夫だ。それから、きみは世界でいちばん素適な夫を持った妻なんだよ。信じてください」

　こんなことなどそうそう書けるもんじゃない。山口さんだから書けたのだと思う。でもなかなか素適な文句だと思う。だから奥様も山口さんが亡くなられても、「瞳さんのことが好きで好きでいっしょにすごしてきただけの私でしたが、私の一生は幸せいっぱいだったと思います」と書けるのだろう。


評価
★★


書誌
書名：瞳さんと
著者：山口　治子　中島　茂信【聞き書き】
ISBN：9784093876124
出版社：小学館 （2007/06/09 出版）
版型：271p / 19cm / B6判
販売価：1,680円 (税込)]]>
        
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    <title>久坂部羊著『まず石を投げよ』</title>
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    <published>2010-02-20T23:12:24Z</published>
    <updated>2010-02-20T23:19:16Z</updated>
    
    <summary> 　これで久坂さんの出ている小説を全部読んだことになる。（『無痛』は以前に読んで...</summary>
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_21_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_21_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_21_01-thumb.jpg" width="150" height="212" /></a>



　これで久坂さんの出ている小説を全部読んだことになる。（『無痛』は以前に読んでいる）ところが今回はどう読んでいいのか考えてしまった。
　話は、駆け出しの医療ライター菊川綾乃が世田谷医療センターの外科医三木達志が自ら医療ミスを告白し、患者の遺族に謝罪し賠償金まで支払ったことを知って、これは究極の誠意を感じ三木の取材に乗り出すところから始まる。三木への取材は困難を極めるが、何とか綾乃は三木と接触でき、話を聞くことが出来た。
　私は三木が言う言葉が正直、今まで考えたことがなかったので、ある意味衝撃的だった。

　「どうして医療ミスが起こるのか。うっかりミスであったり、医師の疲れが原因だったり、いろいろあるでしょう。でも、ほんとうはもっと深い理由があるのです。それは患者に対する医師の嫌悪です。医療ミスは、医師が患者を嫌っているときに、より高率に起こります。もちろんわざとじゃない。嫌いな患者に向き合うとき、医師は無意識に反感を抱き、集中力を低下させてしまう。深層心理がそうさせるのです。だから致命的なミスが起きるんです」

　「表面上は、医師も患者もうまくやろうとしています。しかし、深層心理はもっと複雑だ。医師はいくら治そうとしても治らない患者を無意識に憎み、患者も病気を治してくれない医師を憎んでいます。患者は、医師にとって手を煩わせるやっかいな存在であり、医師は、患者にとって頭を下げねばならない不愉快な存在です。そして最後には必ず、両者がともに忌避する“死”に至る。医師と患者は“死”という絶対の壁をはさんで、永遠に敵対する宿命にあるのです」

　我々は無意識のうちに医師は患者に対して好き嫌いで治療の差があるとは思っていない。言われれば医師にも患者に対して好き嫌いの感情があっても不思議じゃないと分かるが、だからといってそれで医療の差が出てくるとは思っていない。そんなことは許されることじゃないと思っている。
　しかしよく考えてみれば、三木の言うことは至極当然なのである。医師だって人間である。患者の態度に対して好感を持ったり、あるいは不快な気分になってもおかしくない。まして最近の患者は自分は病気なんだ。困っているいるんだ。苦しんでいるんだ。だからここに来たんだ。という意識がかなり強い。そうした横柄な態度で医師に接すれば、医師は好感情を持てるわけがない。そして一度そうした不快な気分にさせられた医師は、表面上は患者の立場に立っているけれど、腹の中では“この野郎！”と思っても当然である。医師だって人間である。そんな意識で患者と接すれば、医療ミスだって当然起こる。その確率が大きくなる。
　このことはホンと気がつかなかった。言われて初めて“確かにそうだよなぁ”と思った。たぶん先に言った前提で患者は医師に接しているし、しかも自分のことで頭がいっぱいだから、医師の気持ちなんて考える余裕すらない。
　患者が医師に対して“尊敬の念”を失った現在、三木の言うとおり、医師と患者は敵対してしまうのだと思う。そして簡単に医師の医療ミスを疑う姿勢もここから発生する。もちろんどう考えてもおかしい医師は最近いる。それはまた別問題だ。普通に治療していての不可抗力、何とかしてあげたいという気持ちで治療していて、ミスが起こった場合、それを揚げ足を取るようにしていていいのだろうか、とも思う。もちろん全神経、全能力を使って治療してもらわないと困るけど、でも医療に１００％なんてあり得ないだろうと思う。まして手術となれば、どこかに危険はつきものだから、そうしたリスクを折り込み済みで、患者は医師に接するべきじゃないのだろうか。
　だけどそれが出来ない。だからすぐ裁判となる。医師を追求する。そうなったとき、医師はリスクの高い診療科を敬遠したって不思議じゃない。この本の中で次のようなインタビューがある。

　「最近、医療訴訟が増えすぎたせいで、若い医師が産科や脳外科など、訴訟のリスクの高い科を敬遠する傾向がありますね」

　「その通り。患者さんも少しは考えてもらわないと、自分で自分の首を絞めることになりますよ」

　実際そうなっている。今医師不足が騒がれているけれど、誰がすぐ訴えられる可能性の高い産科や小児科などに好んでなるのかと思う。

　もう一つ。今度は医療ミスを追求するマスコミの姿勢だ。この本はこの点が圧巻である。
　マスコミはいつも我々が弱者の意見を代弁している。あるいは世論の代弁者みたいに、横柄な態度を取る。誰がマスコミをそうした代弁者になってもらおうと思ったのか、と思うときが度々ある。勝手に自分が世論の代弁者だと勘違いしているのである。だから何でもやる。追求という“水戸黄門の印籠”を持って、何でもやってしまう。
　ここでマスコミは医療ミスの隠蔽体質を医師に実験する場面がある。しかも事後承諾で医師を試している。その結果医師には医療ミスを隠蔽する体質があったと断定するのだが、そのやり方が汚い。それくらいしないとインパクトがないからだ。ホントにこんなことがこの世界ではまかり通っているのだろうか、と思うけれど、たぶん大なり小なりここに描かれたマスコミの姿勢はあるのだろうと思う。何故なら最近のマスコミの奢りを見ていると、そう思わざるを得ない。
　そして無理矢理その実験に参加させられた医師が自殺した。自殺の原因は、嘘の医療ミスを突きつけられたことのよるものかどうか分からないが、とにかくその医師は自殺した。するとマスコミは医師の自殺と自分たちの取材と無関係と決めつけ、自分たちに都合のいい事実ばかり言い連ねてくる。医師の死を悼むのではなく、医療ミスを追求してくる人からの攻撃をどうかわすか、そのことで会議が始まるのである。これは患者が亡くなった事実から目を背け、患者の死と治療に因果関係がないことを説明しようと、やっきになる医師と同じなのである。
　まさに黒い笑いである。正義の味方を任じるマスコミだって、自分たちの都合の悪いことが起これば、医療ミスを隠蔽する医師と同じことをやっているのである。どこでも保身はあるのだ。
　それでもその実験のドキュメント作成したプロデューサーは聖書のエピソードを使って言うのである。

　「ファリサイ人がイエスに、娼婦マリアを石打ちの刑にすることを求めたとき、イエスは彼らにこう言います。『あなたがたのうち、罪のない者から、まずこの女に石を投げよ』。するとファリサイ人は一人去り、二人去りして、結局だれもいなくなった。この話は公平か。罪のない者以外は、他人の罪を非難する資格がないというのは、単なる、いえ、悪質な、口封じではないか。お互い罪深いのだからといって、黙っておこうという事なかれ主義。私が医療ミスを犯した医師と同じ心理になったからといって、医療界の隠蔽体質が許されるものじゃない」と。

　まったくマスコミの姿勢には反吐がでる。この本は医療だけでなく、それを追求するマスコミの姿勢をバッサリと切ってくれていて、マスコミは世論の味方でも、正義の味方でもないんだということを教えてくれる。勝手にそう思って自己満足している部分があるんだよと言ってくれて、ある意味気持ちよかった。
　結局我々には何かが欠けてしまい、こうしたおかしな世界にしてしまったのだと思った。


評価
★★★


書誌
書名：まず石を投げよ
著者：久坂部　羊
ISBN：9784022505101
出版社：朝日新聞出版 （2008/11/30 出版）
版型：411p / 19cm / B6判
販売価：1,890円 (税込)]]>
        
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    <title>久坂部羊著『破裂』</title>
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    <published>2010-02-19T03:39:17Z</published>
    <updated>2010-02-19T03:41:25Z</updated>
    
    <summary> 　思惑、野望、恨みを晴らしたいと思う人が何人かがいる。それがからみ合いこの話は...</summary>
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            <category term="最近読んだ本" />
            <category term="評価★★★★の本" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.k-moto.net/book32/">
        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_19_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_19_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_19_01-thumb.jpg" width="150" height="214" /></a>


　思惑、野望、恨みを晴らしたいと思う人が何人かがいる。それがからみ合いこの話は展開する。
　松野公造はそれまで勤めていた新聞社を退職し、ノンフィクション作家をめざしていた。社会部の記者時代、吐血し、進行性胃がんと診断された。再度別の病院で検査を受けたときは、今度は胃潰瘍と診断され、最初の医者の診断は何だったんだと怒りを覚えるし、それをその医者に言えば、「結果よかったのだからいいじゃないか」という無神経さに腹をたてる。さらに妻が妊娠し、子供がお腹の中で育たないと言われ、別の医者に行けば妊娠は可能と言われ、娘が生まれた。松野夫婦が受けた心の傷は筆舌に尽くしがたく、医者に対する不信感が医療の問題に目を向けることとなる。
　松野の医療ノンフィクションにネタを提供したのが大学病院の麻酔科の医師江崎俊であった。江崎は医師の公にされないミスを聞き回り、それを「痛恨の症例」として松野に提供していた。
　そん中、中山枝利子の父親が医療ミスで死亡したということを知る。枝利子の父親は心臓の僧帽弁置換手術を受けたが、五日後出血性心タナポナーデ（心臓を包む袋の中で出血し、その圧迫で心臓が止まること）で死亡した。その後枝利子のもとに父親は医療ミスで死亡したという内部告発文書を受け取り、父親の手術に医療ミスがあったのではないかと疑い始める。
　江崎は枝利子と会い、枝利子の父親の手術を調べ始め、父親が死亡したのは手術の際、置き忘れた縫合針が刺さって出血死した疑いがあることを知る。
　枝利子の父親を手術したのが心臓外科の助教授香村鷹一郎であった。香村は次の教授選候補であった。その選挙で香村は日々苛立っていた。手術のときもそうであった。
　香村のライフワークは“ペプタイド療法”というものであった。これは心不全に陥った心筋細胞を甦らせるものであったが、重大な副作用があった。それは心筋の再生はそれにつながる血管の内膜も増殖させ、血管が狭くなって、心臓が破裂してしまうのであった。　一方で厚生労働省大臣官房主任企画官佐久間和尚という人物がいる。彼は“厚労省のマキャベリ”と呼ばれるほど、強引な政策をそれまで推し進めてきた。そして佐久間は日本の超高齢社会へ抜本的解決策を画策する。それがプロジェクト《天寿》であった。
　プロジェクト《天寿》は人口ピラミッドも正常化、少子少老化社会の実現、政府による「寝つかない死、苦痛のない死」の保障、平均寿命の引き下げと、健康寿命との僅差化をめざすものであった。佐久間ははっきりと言う。

　「日本は超高齢化社会はなぜ発生したかおわかりですか。医療が無軌道に進歩したからですよ。医者には病気を治して命をのばすという単純な発想しかなかった。その結果、高齢者が増えすぎて、介護危機、年金破綻、老人の医療費問題、世代間のいがみ合いなどを生み出したのです。医療は進歩さえすればいいというあさはかな発想、唾棄すべき長寿礼賛の結果です。このまま老人が増えれば、日本は国を維持できなくなります。なのに医者どもは今も漫然と寿命をのばしつづけている」

　「医者は世間知らずで幼稚ですから。日本の超高齢社会だって、医者が創り出したも同然でしょう。平均寿命が世界一だなんて浮かれていますが、おかげで国がつぶれそうですよ」

　「一部ではこれを若肉老食と呼び、老人が若者を食い物にしている状況を揶揄している」

　「少子化はいいのです。問題は高齢化です。少子少老化にすれば、規模は縮小します」

　このプロジェクトには不完全な香村の“ペプタイド療法”が必要であった。不完全な“ペプタイド療法”が老人の抹殺に役立つのであった。なぜなら年寄りの心臓を一時的に元気し、若返らせ、ある日突然心臓が破裂する。何の痛みもなく、ぽっくり死なせることができるからである。そのため佐久間は香村を呼び寄せる。幸い中山枝利子が香村を訴え、裁判を起こしたのをいいことに、大学の教授職より新しくできるネオ医療センターの副所長として招く。佐久間が職権を乱用して、莫大な予算を餌にして香村を副所長にそえる。　ネオ医療センターの研究テーマは、老人に望ましい死を保障することで、確実で、苦痛で、苦痛がなく速やかで安全な、誰でも求める死を提供することあった。佐久間は医療に老人の死の落とし前をつけろと次のように言う。

　「若い世代は長生きを望みますが、それは老化の苦しさを知らないからです。現実の高齢者は大半が老いの苦しみに苛まれています。こんなにつらいのならいっそ早く楽になりたい。なのに死ねない。そんな人に生きろというのは残酷です。むかしはだれでも自然に死ねた。今は死ぬのがむずかしい時代です。医療のおかげで、苦しい長寿を生きなければならない。その落とし前をつけることも、医療の責務ではありませんか」

　この本は香村の裁判で、香村が犯した医療ミスの実体が大学という“白い巨塔”でどう隠されていくか描く一方、日本の超高齢社会の極端な解決策の恐ろしさを描いていく。医療ミステリーという立場を取りながらも、日本が今突きつけられている現実を、特に医療の進歩の極端な礼賛の落とし穴をうまく描いている。先の『廃用身』もそうだったけれど、ここまで考えないと、日本は滅びる可能性が大きいというのは、恐ろしい。佐久間の言うことを果たして簡単に押しのけることができることなのだろうか、と思う。
　ゼウスの時代から人間は増えすぎて、ゼウス自身焦っているわけだから、こういう結果になることに必然性があったのかもしれない。マルサスの人口論を持ち出すまでもなく、生物としての「人間」のあり方をどう考えればいいのだろうか。この本で「医療は反自然」と言っている部分があるが、現実を見るとまさにその通りだ。医療の進歩を手放しで喜んでいいものかどうか、考えてしまう。だから佐久間が画策するプロジェクトを単に小説の中の話として片づけられるものじゃない。


評価
★★★★


書誌
書名：破裂
著者：久坂部　羊
ISBN：9784344006980
出版社：幻冬舎 （2004/11/25 出版）
版型：450p / 19cm / B6判
販売価：入手不可 文庫本有り]]>
        
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    <title>久坂部羊著『廃用身』</title>
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    <published>2010-02-16T21:08:47Z</published>
    <updated>2010-02-16T21:10:22Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_17_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_17_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_17_01-thumb.jpg" width="150" height="213" /></a>


　この本も読もう読もうと思って、今日まで来てしまった。帯などに書いてある本の内容を読むと、ちょっとためらっちゃう部分があって、気が重くなっていたのである。しかし読んでいるうちに引き込まれてしまい、一気に読んでしまった。
　主人公の漆原糾は老人デイケアを中心とした神戸の「異人坂クリニック」の雇われ院長であった。このクリニックのデイケアに通う老人たちと接していて、廃用身である手足に苦しめられているお年寄り、そのお年寄りの介護に苦しんでいる親族、介護士を見ると、介護の未来に大きな不安を感じていく。廃用身とは脳梗塞などの麻痺で回復の見込みのない手足のことである。
　ある時脳梗塞で下半身と左上肢が完全に麻痺してしまった人がいた。この人は体重が九十キロもあり、親族も介護士もこの男の人を介護するのが大変であった。身体が重い分床ずれも起こし、それがひどくなっていく。もし廃用身の両脚と左腕がなければ、体重が五十キロくらい減らせるし、介護の負担も半分近く減る。「廃用身の切断」を選択肢が漆原の頭の中にむくむくと起き上がってくるのであった。それまでもこんな廃用身がなければいいのにと思っていたから、ますますその思いが強くなり、切断してはいけない合理的な理由がどこにあるんだろうかと考えていく。
　この男の人は親族の虐待にあって、足が壊疽を起こし、必然的に切断したほうがいいという話になって、両脚を切断した。そしてこの人が変わったのである。何か憑きものが落ちたみたいに、明るくなったのである。漆原は廃用身の切断が麻痺を起こした人に生きる希望をもたらすこと、介護する側にもその負担を軽減することを確信する。
　更に廃用身を切断することで、血流が変わったためか、脳に多くの血が流れるためか、それまでしゃべることもままならない人が言葉をしゃべるようになったりする効果を発見するのである。
　漆原は廃用身の切断にに介護の未来を見出すようになって行く。廃用身の切断はお年寄りのＱＯＬ（生活の質）を高めるものであると考えていく。そのため廃用身の切断を彼は「Ａケア」と呼ぶようになる。「Ａケア」のＡは切断の英語「Amputation」の頭文字を取ったものである。
　廃用身はお年寄りを苦しめており、それからの解放は生活を一変させるほどの歓びだった。それまでは病気を悔い、麻痺した手足を嘆き、報われないリハビリに苛立っていたお年寄りたちが「Ａケア」のあと、別人のように明るくなっていくのを確信していく。その「Ａケア」の状況改善点を挙げると以下の通りになる。
・物理的に身軽になること
・気持が前向きになること
・介護者に気兼ねしなくてよくなること
・廃用身に対する嘆きが吹っ切れること
・廃用身の痛みや疼き、しびれ感、だるさなどが消えること

　しかしいくら廃用身とはいえ、人間の身体を不要だからといって、切断していいものかどうか。漆原は超高齢化社会の到来で、介護を維持していくには、何かを犠牲にしなければならないと考え、次のような詭弁を言う。

　「構造改革ばやりの昨今、企業は不要になった部門を切り捨て、効率アップを余儀なくされています。情やしがらみで成績の悪い部署や職員を温存していたのでは、全体の体力が落ちて倒産してしまいます。
　『Ａケア』を身体のリストラと考えることはできなでしょうか。
　長年、働いてくれた手足を切断するのは、忠実な社員を解雇するのに等しい痛みを伴うでしょう。しかし、そうしなければ会社が倒産してしまうように、お年寄りも介護者も共倒れになってしまいます」

　「異人坂クリニック」は廃用身を切断した人が多くなり、当然それは社会の目にさらされ、非難、バッシングが始まる。それは人間の尊厳を大上段に構えているが、そのほとんどがその異様さを面白がるものばかりであった。いくら介護の破綻が目に見えていても、その解決策の一つとして廃用身の切断は受け入れられない人々の興味の対象となっていく。

　この本はそうしたバッシングに対する、「Ａケア」の意味、すなわち「Ａケア」が介護負担を軽減し、ひいては高齢者へのサービス向上につながり、危機的な老人介護の未来に貢献するものだという、漆原の考えを世に問おうとする原稿があって、それを本にしようとした編集者の矢倉俊太郎の「編集部註」の二部構成となっている。
　その「編集部註」で、なぜ漆原が廃用身の切断の考えに至ったのか、その彼の資質を生い立ちから追うことになった。そして「Ａケア」の発案の根底には、漆原糾は合理主義者で不要なものは、徹底的排除しなければおさまらない頑なさがあったこと。さらに漆原の歪んだ嗜虐性があったことも矢倉は知るのである。漆原は患者の考えを一番に尊重して「Ａケア」を勧めたが、どうもそこに追い込んでいく姿勢が明らかになって行く。患者に明るい未来を言い、人生の再出発を言うことで、患者に「Ａケア」を選択させる姿が浮かび上がってくる。
　漆原もそうした自分の姿を段々認めていくこととなり、最後は「頭は　わたしの　廃用身」という書き置きをして自殺するのである。
　更に「Ａケア」が必ずしも明るい介護の未来ばかりをいうものではないこともわかってくる。すなわちたとえ廃用身であっても、手足がないことの不完全さに悩まされる人たちが少なからずいたことがわかってくる。

　廃用身の切断は超高齢化社会に介護という問題を考える上で究極の選択なのかもしれないが、だからといって「身体のリストラ」として受け入れていいものかどうか、考えてしまう。むしろそこまで考えないと介護の未来はないということに、危機感を感じてしまう。どちらかと言えばストーリーの怖さより、介護の未来を考えるとそっちの方が怖くなってくる。


評価
★★★★


書誌
書名：廃用身
著者：久坂部　羊
ISBN：9784344003408
出版社：幻冬舎 （2003/05/25 出版）
版型：323p / 19cm / B6判
販売価：入手不可 文庫本有り]]>
        
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    <title>阿刀田高著『新トロイア物語』</title>
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    <published>2010-02-14T11:22:31Z</published>
    <updated>2010-02-14T12:08:48Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_14_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_14_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_14_01-thumb.jpg" width="150" height="216" /></a>


　この本は以前文庫本で読んだ。たまたま単行本を手に入れたので、また読み返している。きっかけは先日テレビで放映されていたブラッド・ピット主演の「トロイ」を見たからである。しかしどうしてこうも違うのだろうか？前に読んだ阿刀田さんの本は怖ろしいほど面白くなく、陳腐だったけど、今回は面白くて、一気に読んでしまった。
　この本を読んでいると、映画の場面、たとえばブラビが扮するアキレウスとトロイの第一王子ヘクトルとの一騎打ちなど、本でその場面が描かれると、すぐあぁ、ここだなと思い出す。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_14_02.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_14_02.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_14_02-thumb.jpg" width="300" height="225" /></a>


　一方で改めて読み返していると、阿刀田さんがその著作で教えてくれたギリシア神話のことを思い出す。今までは単独で話の内容を理解していたが、今回はうまく話がつながって、先に読んだ以上にその分面白かったかもしれない。
　たとえばトロイの第二王子であるパリスである。この本を読んでいて、あれ？パリスって聞いたことがあるぞと思い、とりあえずそのまま読んでいたら、羊飼いをやっていた頃、ゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテがその中で誰が一番美しいか争っていたとき、このパリスが判定したと書いてあって、あぁ、このことかと思い出す。俗に言う「パリスの審判」である。
　大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎて、人口を減らすには戦争が一番と考えた。折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、そこに争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。さらにそこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。これを争ったのが先に書いたヘラとアテネとアフロディテである。そこに巻き込まれたのがパリスであった。
　そのパリスである。この男トロイに帰った後、父である王プリモアスの命を受けスパルタへアイネイアスと共に赴く。そこにはスパルタの王メネラオスの王妃ヘレネがいた。このヘレネは絶世の美女であり、パリスは一目でその虜となる。アイネイアスもそうであった。一方ヘレネは夫メネラオスに嫌気がさしていたところに、美男で勇者の誉れ高いパリスが現れたものだから、パリスに心奪われる。そしてパリスはヘレネを奪ってスパルタを後にする。
　当然メネラオスは怒る。厄介なのはメネラオスはミケーネの王アガメムノンの弟であった。アガメムノンのはギリシアの盟主を自ら任じていたし、トロイの繁栄を羨んでいたので、これはヘレネを奪い返すための戦争をすべし、ということで戦いが始まった。これがトロイ戦争である。
　ところでそのヘレネであるが、ゼウスの病気とも言える女好きから始まった。スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれたのである。

　さらにヘクトルと戦ったアキレウスの出生も覚えていたので、それも書いておく。アキレウスは先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせたのである。だからアキレウスは強い。みんながアガメムノンの横暴さに怖じけついて、渋々従うのに、アキレウスはオデッセイウスに誘われとりあえず戦争に参加したけれど、最初は物見遊山であった。しかしパトロクロスがヘクトルに殺されたことを知って、戦いに出る。そしてヘクトルとの一騎打ちが最初にいた場面である。

　こういう背景を知っていると、俄然この話は面白くなる。ただでさえ、話のテンポがあって楽しいのに、登場人物の出生を知っていれば、楽しみが倍増する。
　この本の主人公はアイネイアスであるが、その父アンキセウスで、アイエネイアスはアンキセウスとアプロディーテーの間の息子である。そして彼もトロイでは勇者の誉れ高い若者であり、トロイ戦争ではギリシア軍と戦ったが、最後は落城するトロイを父と共に後にする。アンキセウスは昔の戦いで足を悪くしており、トロイを脱出するとき、アイエネイアスはアンキセウスを負ぶってトロイを後にする。この場面を描いた絵を見てシュリーマンはトロイの発掘を目指したのである。
　さてそのアイエネイアスであるが、トロイを出た後、トロイ再興を目指して地中海をまずは東に行き、次に西に向かう。そして何度も遭難しながらイタリアに到着する。そう、アイエネイアスはローマ建国の祖の祖なのである。イタリアのラティウムの王女ラウィニアと結婚し、子のユルースを得るが、そのユルースの末裔がオオカミに育まれた双子の兄弟ロムルスとレムスであり、そして兄弟が争って勝ったロムルスがローマ建国の祖となるのである。
　ところでアイエネイアスがイタリアを目指し、地中海を航海しているとき、嵐に遭い、北アフリカのカルタゴの漂着する。このときカルタゴはまだ女王ディドの時代であった。
　ディドは父の弟のシュカイオスと結ばれて、巫女として神に仕えていた。その父の死後、遺言で彼女と兄のピュグマリオンが共同で国を治める様にといわれていたが、ピュグマリオンは王位の独占と叔父の財産目当てに遺言に違えてシュカイオスを暗殺し、ディドの命をも狙った。
　そこで彼女は全てを捨てて心ある家臣たちとともにフェニキアの都市国家テュロスから航海に出た。そして北アフリカのチュニジアの地に辿り着いく。そこがカルタゴである。だからディドはギリシア・ローマ神話の中で、カルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王となっている。
　そしてアイエネイアスはカルタゴに漂着し、ディドに手厚くもてなされるし、恋も生まれた。しかしアイエネイアスにはトロイ復興という目的があるので、ここを後にする。
　私が面白いと思ったのは、ディドがカルタゴ建国した女王であり、アイエネイアスはローマ建国の祖である。この二人が一時は恋仲となったのに、後の歴史はこの二つの国が地中海の覇権を巡って争うのである。

　さて最後にトロイの木馬である。我々が知っているトロイの木馬はギリシア軍が作り、それをトロイの人々が城の中に入れてしまい、夜、そこに忍び込んだギリシア軍が出て来てくる。攻めあぐんできた城の門を中から開け、そこからギリシア軍がなだれ込むことによって、トロイが炎上し、崩壊するという話である。映画「トロイ」もそういう話になっている
　しかしこの本では、なかなかトロイを攻めきれないギリシアが、大きな木馬を神への捧げ物として作り、城の外で燃やすのである。つまり木馬は城の中には入らないのである。そしてその後大きな地震が来て、城壁を崩す。そこからギリシア軍がなだれ込んで、トロイを滅ぼす話になっている。
　阿刀田さんは考古学的、歴史的考証に注意を払ったとあとがきに書いてある。つまりシュリーマン等によって発掘されたトロイの遺跡は少なくとも九層からなっているらしく、その第七層がトロイ戦争があった頃の層だと推定されている。そしてトロイがもっとも栄えたのがその一つ前の第六層の都市時代だったらしい。その頃大きな地震があって堅牢を誇っていた城塞が崩れ落ちた。そこに第七層の都市が慌てて作られ、そのやわな城壁がギリシア軍に破られたというのが実情らしい。それを阿刀田さんは踏襲しているのである。でもやっぱり木馬はトロイの人が引き込んでしまい、そこに隠れていたギリシア軍が出てくる方がいいなぁ。
　とにかく再読してこんなに堪能しただけでも、読み返した甲斐があった。


評価
★★★★★


書誌
書名：新トロイア物語
著者：阿刀田　高
ISBN：9784062072205
出版社：講談社 （1994/11/30 出版）
版型：565p / 19cm / B6判
販売価：入手不可]]>
        
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    <title>阿刀田高著『Ｖの悲劇』</title>
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    <published>2010-02-09T07:16:27Z</published>
    <updated>2010-02-09T07:20:56Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_09_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_09_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_09_01-thumb.jpg" width="150" height="213" /></a>


　古い阿刀田さんの推理小説を読む。この本は講談社創業八十周年記念推理特別書下ろしで、当時日本で活躍する推理作家を集めて、シリーズにしている。帯によると、阿刀田さんが本格推理に挑戦されたようだが、はっきり言って面白くなかった。
　というか、この本を読んでいて今まで阿刀田さんの作品にムラがある理由がわかった。私は阿刀田さんのエッセイや歴史小説の大ファンなのだが、現代物や恋愛小説を読むと、どうしてこうも面白くないのだろうかと思っていた。どこか無理みたいなものを感じてしまっていた。それがこの本を読んでやっとわかった。
　この本の主人公は庄野安津子という３０代の主婦で、不倫相手に会いに行った先のコテージの箪笥の中から愛人の男の死体を発見してしてしまうところから始まる。不倫相手は安津子の友人の夫であった。
　当然不倫相手の死体から、証拠を残さずその場を去らなければならないし、警察の捜査が自身に及ばないように、あれこれアリバイを作り上げる。一方で、何で相手の男が殺されたのか、その理由を知りたくなる。安津子がそのコテージついたとき、覚えのある香水の香りがかすかにする。男は安津子が来る前に他の女と会っていたことを確信するが、そこから安津子の両親の過去、特に父親の過去が段々事件に関係していることがわかってくる。
　まぁ、ストーリーとしては平凡単純なのだが、それよりも主人公が女性なのに、関係者と会って事件を考えるとき、あるいはあれこれ推理するとき使われる言葉が、妙に馴染まないのだ。無理に女言葉を使っているという感じが拭えなかった。ただ感じたり、考えたりするときに、女性でもここまで女言葉を使うだろうか、と思ったのである。いくら主人公が女性だからといっても、もっと断定的な言い方をしてもちっともおかしくないような気がしたし、その方が自分の言葉としてしっくりくるような気がしたのである。
　これは明らかに男性作家が女性の描いたという、無理がそうさせているような気がした。そして私が阿刀田さん作品で、違和感を覚える作品は、そのほとんどが女性が主人公になっている場合じゃないか、と思ったのである。
　それを発見したとき、この人は女性を描くことはうまくないのだな、と思ったのである。女性らしい機微を自然に表現できない人ではないかと思った。その不自然さが妙にひっかかってしまうのだ。そのため読後どこかざらざらした感じが残ってしまう。トリックもアイデアが先走っていて、人間関係も陳腐で、話の展開も強引であったため、これはきっと失敗作だと感じた。
　

評価
★★


書誌
書名：Ｖの悲劇
著者：阿刀田　高
ISBN：9784061939837
出版社：講談社 （1989/06/28 出版）
版型：294p / 19cm / B6判
販売価：入手不可]]>
        
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    <title>本多孝好著『ＡＬＯＮＥ　ＴＯＧＥＴＨＥＲ』</title>
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    <published>2010-02-05T07:53:20Z</published>
    <updated>2010-02-05T08:01:31Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_04_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_04_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_04_01-thumb.jpg" width="150" height="210" /></a>


　これで本多さんの著作は全部読んだことになる。この本は不思議な本であったが、面白かった。

　人は義務や責任や、世間体、あるいは世間の常識などに縛られて、本当はしたくない、関わりたくないのに、やらなければならない、あるいは関係を持たざるを得ないところがある。それらから解放されればどんなに楽であっても、それを許さない型どおりの義務や常識、責任などに縛られやむなくそうしている。そうしなければ家族が、社会が成り立たないからである。もしそれをすれば自分に対する言い訳を求める。
　本意は関わりたくない、やりたくなくても、それを放棄することが出来ない。放棄するにはそれなりの訳や理由が必要となる。あるいは形だけの義務を果たす姿を演じなければならない。それが人間そのものをある意味歪ませる。それを取り除いてやれば、本来ある姿になれるのにである。たとえそれが非常識で、非人間的であっても、それがその人が本来望んでいる姿なのだ。
　主人公である柳瀬の父親は次のように言う。

　「誰もが何かを胸の中に抱え込んでいる。みんながみんな、自分の思いのすべてを口にし始めれば社会が回らなくなる。外にぶちまけることのできない思いは、内側に溜まって澱になる。人はいつだってその澱を吐き捨てる穴を探している」

　柳瀬は父親から譲り受けた特殊な“能力”があった。

　「人はそれぞれ波長を持つ。その波長は谷を作り、山を作り、ときに揺れ、ときに震え、その人の怒りを作る。喜びを作る。悲しみを、楽しさを作る。僕はその波長を感じることができる。その波長に自分の波長を合わせることができる。そして波長が重なれば、その人にとって、僕は他者でなくなる。鏡に向かって独り言を言うようなものだ。隠す必要も、偽る必要もなくなる。けれど、それは能力と呼べる代物ではなかった。むしろ反射作用に近い。相手の波長を感じた途端、僕の意思とは無関係に僕の波長はシンクロを始めてしまう。その力を完全にコントロールするのは難しかった」

　つまり柳瀬は相手の本音を聞き出し、しがらみから解放してやれる能力があった。それは相手の波長に自分の波長をシンクロさせ、本音を引き出すことなのである。言葉を引き出された相手は、嘘で固められていた自分の本音、本来求めていた姿を語り始める。それを語った相手は、自由になり、ほとんど破滅への道を歩むこととなる。

　この本の怖さはそうした本音の解放が、いかに恐ろしい姿を見せるのかという点にある。そしてそうした本音の部分を隠すのが義務や責任や、世間体、常識などで、それらが社会をうまく機能させているかを知る。けれどそれは本来の姿ではないから、当然歪んでくる。そういうことなのだ。

　私は柳瀬の持つ特殊な“能力”と物語の展開がどうなっていくんだろうと思いながら、結構楽しんでこの本を読ませてもらった。けれどやっぱり、解放を望んでいる人間の心が、様々なしがらみに縛られ、それらが解放できずにいること。それが社会を成り立たせていること。解放された心のままに行動すれば、非社会的という烙印を押されてしまうこと。だからせめて少しでも本音の解放しようとすれば、絶対に言い訳が必要になること。それでなければ世間が、社会が許さないからだ。

　三年前に医大を辞めた柳瀬はそこの教授が立花サクラという１４歳の守って欲しいと言われ、それを引き受けた。そして立花サクラが最後に逃げ込んだのは閉鎖した教会であった。そこに元司祭がいた。柳瀬はその元司祭とシンクロし、聞き出した言葉がものすごく気になった。それは司祭のもとにある男が来て言った言葉である。最後にそれを書き出す。

　「祭りを司って祭司。宗教とは本来お祭りです。だから、あなたのお考えは本末転倒です。祭りはその昔宗教的なものであった、のではなく、宗教はその昔お祭り的なものであった、のです。我を忘れるほどの高揚感。そこにもたらされる一瞬の陶酔。それこそが宗教なのではないか？」

　「ですから、宗教とは説くものではありません。授けるものです。授けた相手が要らぬと言うのなら、それ以上の無理強いは意味をなしません。わかりますか？ですから、宗教などとうの昔になくなっているのですよ。情によって授けられない教えは、理を持って説かれる。ときに権力という後ろ盾を得てね。それがあなたの言う、宗教、です。陶酔に訴えるのではなく、強迫観念に訴えるのです」

　“これってすごい！”

　今我々が信じている宗教がたどってきた歴史の本質を突いているように思えたのである。


評価
★★★


書誌
書名：ＡＬＯＮＥ　ＴＯＧＥＴＨＥＲ
著者：本多　孝好
ISBN：9784575508444
出版社：双葉社 （2002/10/20 出版）双葉文庫
版型：302p / 15cm / A6判
販売価：579円(税込)]]>
        
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    <title>本多孝好著『ＭＩＳＳＩＮＧ』</title>
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    <published>2010-02-03T06:11:23Z</published>
    <updated>2010-02-03T06:14:12Z</updated>
    
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　また本多さんの本を読む。この文庫と次に読もうと予定している文庫を読めば、一応本多さんの本は全部読んだことになる。いつの間にか息子に感化されて、こういうことになってしまった。
　さて、この文庫は短編５編、「眠りの海」、「祈灯」、「蟬の証」、「瑠璃」、「彼の棲む場所」である。そしてこの本は２０００年「このミステリーがすごい！」の第１０位になっており、「眠りの海」は第１６回小説推理新人賞受賞作である。詳しいことは知らないが、どうやらこの本は本多さんの最初の本みたいだ。
　個人的には「眠りの海」、「祈灯」がよかった。本多さんの作品でいつも感心するのは、会話の面白味である。ある意味村上春樹さんより、シニカルだと思ってしまう。だから登場人物の会話には思わず吹き出してしまうことが多かった。
　ただそうした皮肉的で冷笑的な考えをする人物たちが若すぎないかと思うのだ。いくら何でも中学生や高校生が言うような言葉じゃない。そんな年齢でこんなにひねた会話ができるかな、とそれだけが気にかかった。
　あるいは今の若い奴らはこういう会話ができるのかなと思ったりするが、やっぱり無理があるような気がする。かといって登場人物の年齢を上げてしまえば、話の質が変わってしまいそうだから、この点は難しいところだ。
　でも、その点に目をつぶれば、斜に構えつつも、言っていることは至極まともで、言葉が心にしみるところがいくつかあった。

　「目茶苦茶なんだと、思うな」

　「情緒とか、感受性とか、考え方とか、その人がその人である理由みたいなものが、全部目茶苦茶になってるんだと思う。誰も悪くない。忘れなきゃいけない。そう思いながら必死で社会生活して、何とか普通でいようと歯を食いしばって。それが家に戻ってきて、一番安心できる場所で、一番安心できる人の顔見た途端に崩れちゃうんじゃないかな」（「祈灯」）

　「他の人よりずっと重い時間を過ごしちゃったんだ。十九年が、四十年にも五十年にも感じられるくらい」（「祈灯」）

　「どちらか一方がもう少し短気か器用であればよかった」（「蟬の証」）


　「正直と不器用との区別できない人だった」（「蟬の証」）


評価
★★★
　

書誌
書名：ＭＩＳＳＩＮＧ
著者：本多　孝好
ISBN：9784575508031
出版社：双葉社 （2001/11/20 出版）双葉文庫
版型：341p / 15cm / A6判
販売価：630円(税込)]]>
        
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    <title>有本紀明著『スペイン・聖と俗』</title>
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    <published>2010-02-02T06:58:36Z</published>
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_02_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_02_02_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_02_02_01-thumb.jpg" width="150" height="211" /></a>


　個人的なことを書けば、私は大学時代ヨーロッパ中世史に興味を持っていた。その関係で、７７８年シャルルマーニュのスペイン遠征から始まるレコンキスタ（Reconquista）というキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動に興味を持っていたし、さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼なども一時興味があっていくつか調べたことがあった。
　さらに大航海時代を走った国、その後の南米などへの植民地政策を進め、スペイン・ハプスブルク帝国による「太陽の沈まない国」とまで言われたこの国の面白さは今でも興味がある。もっと言えば、ゴヤやベラスケスといった宮廷画家のしたたかさなど私が知っているだけでも、今でも興味が尽きないところがある。かなり昔読んだ五木寛之さん『戒厳令の夜』などあれも三人のパブロフなど、あれも面白い作品だっただけに、連想して思い出す。
　この本は司馬遼太郎さんの『街道を行く』の中で紹介されていた本で、その中でなかなか興味深い本だと司馬さんが書かれていて、それで買った。
　読んでみて面白いなと思ったことはスペイン人が持つ民族性がその歴史から生まれたことがうまく書かれていて、なるほどと思った次第だ。イベリア半島にあるこの国は古来様々な民族がこの地を通ってきて、中には定着し、追い出されいった。ユダヤ人、ギリシア人、カルタゴ人、ローマ人、ゲルマン人、イスラム教徒等である。中でも、キリスト教徒とイスラム教徒の闘争は、最後にキリスト教徒の勝利で終わったことにより、この国がカトリックの守護国を任じ、伝統的主義の立場を取るようになって行く。ガチガチのカトリックであるこの国ならではの凄まじい異端審問の嵐が吹き荒れたのもそうした歴史的背景があったからだ。

　「スペインが成立の時点からさまざまの要素の混合であることは前に見た通りである。特にユダヤ人、モーロ人とキリスト教徒の葛藤はスペインの歴史に、またスペイン人自身の肉体的・心理的特質に消すことのできない刻印を押している。キリストとマホメットの宗教戦争でスペインが条件づけられたように、ここから正統と異端という根本的二率背反が生まれた」

　言ってみれば血の純潔をカトリックという立場で主張するとこういう歴史になっていったと言っていい。血の清浄を求めるがために、社会が歪んでいった。スペインが「太陽の沈まない国」から没落して、その他のヨーロッパ諸国が近代化の道に進んでいるのに、遅れを取った理由もここにある。
　そしてスペイン人がスペイン人であることのアイデンティテーを求める余り、その民族性にも固定化が生まれていく。この本の「スペイン人罪」という章は、スペイン人が持っている気質を語っていて面白いのだが、そこにはスペイン人の自己中心的で、傲慢であり、特殊な超越主義で、私は私であることを徹底的に主張しつづける姿が例を挙げて書かれている。そのため外国文化に対する無関心でさえある。一方でというか、だからというべきかその妬みと嫉妬の激しさも指摘している。

　「妬み、不服従、それに不和はスペイン人の烙印である。だからその産物である分離指向という癌、救世主的狂気、てんかん性政治的反動、またその社会的構造の停滞ということも容易に理解できよう」というカミロ・ホセ・セラという人の言葉をここで著者は挙げている。
　ベラスケスが描く王一族の肖像画を見ていると、本来ならその華麗さを前面に感じていいはずのもが、どこかそこに描かれる人物たちのグロテスクさを先に感じてしまうのも、あるいはゴヤのように最高地位の宮廷画家であって、一方であのような風刺画や版画を描くのが、何となく理解できそうな感じがしてくる。ピカソやダリの自己主張の強さ、あるいはあくの強さもスペインでしか生まれなかったのではないかとさえ思えてくる。あるいは日本史で登場するイエズス会にしても、あの融通に気かなさはこのあたりに求められそうな気もしてしまう。
　ただこの本が書かれたのが今から約３０年ほど前だから、今はだいぶ変わってはいるのだろうけど、でもテロの話は度々耳にするから、どこかはこの当時と変わっていない部分があるのかもしれない。余裕があるならもう少しスペインについて知りたいところである。


評価
★★


書誌
書名：スペイン・聖と俗
著者：有本　紀明
ISBN：9784140014301
出版社：日本放送出版協会 （1983/01 出版）ＮＨＫブックス
版型：248, / 19cm / B6判
販売価：入手不可]]>
        
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    <title>池澤夏樹著『異国の客』</title>
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    <published>2010-01-28T04:52:51Z</published>
    <updated>2010-01-28T05:37:51Z</updated>
    
    <summary> 　もう一冊買った池澤さん本を読む。池澤さんの文章が自分には合わないなと思いつつ...</summary>
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_01_28_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_01_28_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_01_28_01-thumb.jpg" width="150" height="212" /></a>


　もう一冊買った池澤さん本を読む。池澤さんの文章が自分には合わないなと思いつつ、前回読んだ。しかし読み切ったら、今度は慣れたものだから、文章の内容がスムースに入ってくるようになった。
　今回池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住して、この地から見える世界情勢に言及する部分は政治的意見が強く現れている。日本から離れて自らの国の政治やマスコミの姿勢を批判する。あるいはアメリカのブッシュ政権の姿勢、特に９．１１以降の軍事的姿勢に強く反応している。それはそれで正論なのだろうけど、私は池澤さんがこんなに強く政治的意見を強く主張する人とは思っていなかったので、少々驚いてこの本を読んだ。そしてそうした政治的意見より、もっと違う部分を期待していただけに少々興醒めな感じが否めなかった。
　私が期待していたのは、池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住されて、どうヨーロッパを自らに中で消化していったかを知りたかったのだ。フォンテーヌブローの地域性やヨーロッパの歴史、更にヨーロッパの人々の心性にどう感じたかを、その方に興味があったのだ。
　もちろんそこで暮らしているわけだから、ヨーロッパの人々の心性に触れないわけにもいかないし、ヨーロッパで直に感じることも当然ある。そっちの方が私には興味があるのでそれを書き出してみる。
　たとえば食材について。様々な地方特産の食材があるのだが、「ワインやチーズについて言えば、製造そのものに時間がかかる。本来の品質を維持するのが作る立場の人たちの面目であって、客の方も新製品というだけで飛びつきはしない。全体として現在を構成する要素の中で過去が占める部分の比率が高くなる。過去という重い荷を負っているから急カーブは曲がれない。その必要はないと人々は思っているらしい」
　頑なにその製品を作り続け、製品の品質にこだわる姿勢がそこにあり、消費者もそれを求める。新しもの好きで、安ければ、農薬が入っていても買ってしまう日本人には頭が痛い。
　街の景観維持にしても、「なりゆきとか、はびこり放題とか、そういう緩い部分、放任された部分がない。そして住民の総意に個々人の好みが反映される余地は少ない。
　つまり、全体と個人の発言権において、全体がずっと強いということだ。ある意味では言葉の本来の意味において『社会』主義である。社会そのものが主役。フランス革命で『自由、平等、友愛』を謳った国おいて、実は『自由』は勝手放題を意味するわけでなかった。むしろ自由と規制がせめぎあう前線がはっきりと見える。規制によって自由が際だつと言っていい」と池澤さんは言う。まぁこれも日本ではよく言われていることで、歴史的価値がある建物であっても、生活しづらいとなれば、簡単に壊してしまうお国柄とは違う。街の景観など一切お構いなく、勝手に自分好みの家を建ててしまう国には、結局理解できないことなのだと思う。たとえそれが頭の中にあって、一様の理解をしていても、個人を主張して憚らない。それが自由だと勘違いしているのである。

　さてこれ以外に私が興味深かった記述は三点ある。一つはローマ法王ヨハネ・パウロ二世の死に接し、ヨーロッパの人々が悲しみにくれる姿を見て池澤さんが感じたことである。池澤さんは次のように言う。

　「法王はおそらく、遠い神と心弱い信徒をつなぐ仲介者の一人なのだろう。神は絶対であるから、いかなる意味でも具体的でないから、日々個人の心からは遠くなる。『創世記』に言うように神は『言葉』である。つまり言葉で定義されるものであって、実体ではない。旧約の神は厳格な妬みの神であった。素朴な人々が父と慕おうにも手がかりが少ない。だからキリスト教では、まずキリストが神と人を仲立ちし、それでも届かないところは聖母マリアが取りなし、それでも残る隙間を多くの聖者たちが埋める。そして、法王をはじめ司教も司祭たちも、この神との遠い距離を仲立ちするものとしてある。
　人は生きた人を愛することはできるけれど、抽象を愛するのはむずかしい。神に顔を与えるために、尊厳を損なうことなく相貌を与えるために、村の教会の神父に始まって天に到る長い連鎖がある。そして法王はこの連鎖の人間界側の最終的な束ね、いわば砂時計のようなくびれのような存在、ではないのか？不信心者の憶測ではそう見える」

　この記述はうまいなと思った。キリスト教の本質が理解しがたい我々みたいな者は、キリスト教がどうしてこれほどの信者を獲得することができたのか、いや信者の心を捉えたのかその構造をうまく言い表していると思ったのである。

　もう一点が、須賀敦子さんのシャルトルへ巡礼の旅についての記述である。須賀さんが長いこと歩いてやっと大聖堂の針の先のような尖塔が見えたときの感動を語っている部分がある。私はミラノの大聖堂の記述に以前触れたことがあるが、とにかく長いこと歩いてきて地平線から教会の塔の先が見えたときの感動は、言い表せないほどの感動を呼ぶらしい。私はその感動を多分中世の旅人も味わったことだろうとも書いた。池澤さんも車であったけれど、その感動を味わったことが書かれたいた。

　「フランス国土は全体としてとても平らだ。ごくわずかな起伏を越えて広大な畑の真ん中をまっすぐ伸びる道を車で走っていると、次の集落の印として最初に目に入るのが、たいていの場合、教会の塔である。水平という原理が優越する空間でもっとも垂直的なものが教会なのだ。ぼくがシャルトルに行った時も、東側から近づいてまず地平線に見えたのが二つの塔だった。車を運転していたから拍手はしなかったけれど、（須賀さんたちはそれが見えたときいっせいに拍手が起こったと書いている）しかしそうしたいくらいの感動はあったと思う」

　と書いている。こういう描写を読んでいると、私も同じような場面にいたいなと思う。
　最後の一点が、ラ・トゥールである。まさかここでラ・トゥールが出てくるとは思わなかった。(これだから本を読むのは楽しい）池澤さんがロレーヌ地方を旅していて、市内の美術館に入った。「一枚の絵が目に入った。近世から近代の絵を並べた一角で、それだけが際だっていた。他の絵が照明によってようやく見えているのに、その一枚だけは自分で光を放っているかのようだ。二人の人物が描かれているだけの単純な構図に、見る者を引き込んで放さない力がある。ぼくはしばらくの間、そこを動けなかった」と書いている。
　池澤さんが見た絵は「妻に嘲笑されるヨブ」であった。私はラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」に魅せられた。ちょうど上野でそれが展示されていたので、すぐ見に行ったのである。ここでは子供であるイエスが持つローソクの火がその絵を際だたせ、そこから外に向かって、見る者に光を放つような衝撃があった。そしてこの「妻に嘲笑されるヨブ」も確かローソクが効果的な魅力を醸し出していたはずだと思った。実はラ・トゥールに興味を持ったとき、彼の他の絵もネットで調べていた。改めてその絵を見てみると、ここでもローソクの炎がこの絵を際だたせているのを知る。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_01_28_02.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_01_28_02.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_01_28_02-thumb.jpg" width="300" height="454" /></a>


　池澤さんはその魅力を次のように言う。

　「まずは精緻なリアリズム。蝋燭一本の光で描くという技法が見る者の視線をひたすら細部に向け、そこからこの二人の実在感がひしひしと伝わる」

　「ラ・トゥールではこの二人の人生の一瞬を切り取っている。まるで写真のようだ。絵の中に会話がある。言っている言葉が聞き取れるかのようだ。宗教画一般が真理を求めるために超時間になろうとするのに対して、この絵は永遠を放棄した上で、代わりに一瞬をきっちり捕らえようとしている」

　思わずラ・トゥールの魅力にとらわれた人がここにもいたといった感じで、うれしかった。


評価
★★


書誌
書名：異国の客
著者：池澤　夏樹
ISBN：9784087464689
出版社：集英社 （2009/08/25 出版）集英社文庫
版型：243p / 15cm / A6判
販売価：550円(税込)]]>
        
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    <title>池澤夏樹著『明るい旅情』</title>
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    <published>2010-01-25T07:55:46Z</published>
    <updated>2010-01-25T07:57:13Z</updated>
    
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        <![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_01_25_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2010_01_25_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2010_01_25_01-thumb.jpg" width="150" height="212" /></a>



　風邪が治ったかなと思っていたら、ここのところの寒暖の差が激しい気候に身体がついて行けず、またぶり返してしまった。何故か年明け早々体調があまり良くなく、そのためか読んでいる本が最後まで読み切れずに、投げ出してしまうパターンがここのところ多く、この本もそんな感じになっていた。どこか自分の感覚と合わない。これもダメだなと思っていた。
　この休みはとりあえず休養が必要ということで、ひたすら横になっていた。録画しておいたテレビを見たりしていたのだが、私は長時間テレビを見ることが出来ない人なので、しばらくしたらテレビを切ってしまう。しかし次に何することもないので、読むのを諦めていたこの本を再び読み始める。「まぁいいや。読めるところまで読んでみよう」と思ったのである。
　読んでいるうちに、池澤さんの硬質な文章が頭になじんできて、何とか読める。いやむしろこうしてごろごろしているときに、海外の話は、ちょっとそこへ行った気分になれるので、かえっていいかもしれないと思い始めたのである。
　私が池澤さんのこの紀行文をうまく受け入れられない理由は、この硬質な文章にある。くだらない笑いを誘う比喩など一切ない、ありのままの感想をストレートに書かれるものだから、読む方はいつも緊張を強いられ、長いこと読んでいられないのである。まして今の私にはきつい。それが今の私には向かない理由であった。しかしさっきも言ったように、半ば諦め、半ば我慢していると、その几帳面なほど真面目な文章に“もっともだよな”と思えてくるから不思議であった。

　「どうも人間はものごとの運びをすべて自分たちの意思の表れ、理知的な選択の結果と見る傾向がある。ことがすべて決着した後で、なぜその道を選んだのかと問われたとしよう。問う人の顔には、整然たる回答が返ってきて当然という期待の表情が浮かんでいる。しかし、実際の話、たいていのことはなりゆきというか、多くの力が時をおいて作用し、それら複数の効果の最終的な成果として実現するのではないだろうか。理知の力を信じるのはいいけれども、世の中を動かしているのは人知の制御を超えた無数の力の共同作業である。結婚などという最も人間的な、誤謬に満ちた愛すべき行為を例にして思い浮かべてみれば理解しやすいかもしれない。百人の候補について数百の項目を計測、数値化し、それを統計学を用いて厳密に比較検討した上で相手を選ぶ者はいない。なりゆきというのは美しい言葉だ」

　「誰にとっても現在は楽園ではない。現在には苦い要素がいろいろ混じっている。それでも子供時代のような質のよい過去から苦い要素を時間の作用で洗い流すことはできるし、精神が元気であれば最初から苦い要素を入れない未来を描くこともできる」
　
　「うわついたところが一つもない。完成されている。しかし、若い身でこの国にいたとしたら自分などたまらないだろうとも考える。東京の軽薄もやりきれないが、ロンドンの重厚も決して居心地のいいものではない。英語の言い回しに『バターを口に入れても溶けないような顔をして・・・・』というのがあるが、道行くみながそういう顔をしている。漱石がノイローゼになった理由がよくわかる」

　「ここ何十年かの間にこの国（日本）では社会の重心をずっと若い層にシフトしてしまった。街に出れば若い人々ばかりがあふれているし、商品もすべて若い購買層に向けて開発され、それを買いにゆくと対応に出る店員はみな二十代。社会そのものがかわいいニコニコ顔をしている。それは結構なのだが、実際のサービスは大雑把でいい加減、誰もが無責任、しかもみんなそれが普通だと思っている。若いというのは困ったものだ」

　ロンドンの街のことを書き記したのは、漱石の記述があったからだが、他の３つの文章は私ももっともだと思ったので書いた。いささか几帳面さ鼻につかなくもないが、でも几帳面であるが故に、逆に説得力があると感じた。

　本当ならもう少しまともな感想を書くべきなのだろうが、私はこの著者の生真面目さから、正論を言っている部分が好きになったので、あえてそれだけを書き残した。早く風邪を治さなきゃ・・・。


評価
★★


書誌
書名：明るい旅情
著者：池澤　夏樹
ISBN：9784101318189
出版社：新潮社 （2001/06/01 出版）新潮文庫
版型：246p / 15cm / A6判
販売価：入手不可]]>
        
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