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      <title>どんなことがあっても、本が好き</title>
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      <description>本に関するささやかな個人的意見</description>
      <language>ja</language>
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         <title>萩原延壽著『岩倉使節団』―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈９〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_05_15_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_05_15_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_05_15_01-thumb.jpg" width="150" height="205" /></a>


　岩倉使節団とは、明治４年１１月１２日（１８７１年１２月２３日）から明治６年（１８７３年）９月１３日まで岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢１０７名で構成された岩倉使節団はアメリカからヨーロッパ各国へ西欧列強の政治や文化を視察するために派遣された使節団である。この使節団には当時の政府幹部が派遣されているので、留守を預かるのは、太政大臣三条実美を筆頭に西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平、大木喬任らに任せられた。ただ岩倉等が国内にいないので、留守を預かる政府は改革など行わないことを約束させられている。
　またパークスは賜暇でイギリスに帰っていた。従ってこの巻は、日本において大した動きがない。サトウはこの間に富士を眺める甲州路の旅、日光への旅、西国巡遊と、日本各地へ旅に出かけている。サトウにとってうるさいパークスが日本にいないため、ひとときの安らぎであったのかもしれない。日記は旅の記録は詳しく書かれているらしいが、その他のこと、例えば政治的なことなども大した動きがないためかなり省かれているという。時期的には「征韓論」が湧き上がる前のつかの間の期間と言っていいかもしれない。
　さて岩倉使節団である。この使節団はアメリカやヨーロッパの視察と、これらの国と結んでいた条約改正の打診も目的に含まれていた。
　条約とは、江戸幕府が結んだ安政五カ国条約のことを言う。これら外国と結んだ条約は諸外国に領事裁判権を認めている。また日本に関税自主権がない、などといった不平等条約だった。それを明治新政府は独立国たる体面を保つために、なんとか改正したいと考えていた。そこで岩倉使節団は条約改正の予備交渉でも出来ればといった目的を持っていたのであった。
　岩倉等は最初にアメリカに渡ったが、そこで大歓迎を受け、条約改正の話にも乗ってくれるような雰囲気があったので、自分たちが条約改正を出来るのではないかと思うようになる。しかし条約改正はヨーロッパ列強にとっては、未だ政情不安定の日本において、自分たちの身を守るため、また憲法も整備されていない国において、領事裁判権など日本側によこせと言われても、ほいほい受け入れられるものではなかった。また貿易においてもヨーロッパ列強にとっていい条件を失うことになるので、そうそう話に乗ってくれるものではないことを思い知らされる。 
　アメリカは条約改正の話に乗る代わりに、他の条件を日本側に要求する可能性が当然あった。しかしもしアメリカの条約改正の話に乗って、日本側がその見返りに他の良い条件をアメリカに与えた場合、アメリカ以外のヨーロッパ列強は、日本と条約改正をしなくても、日本側がさらに譲歩したいい条件を享受できる「最恵国条項」が、今まで締結した条約にあることを知らされるのである。つまり下手にアメリカと条約改正の話が出来ないのである。それを知っていたパークスの代理公使アダムスは、留守政府に強く警告するのである。馬鹿なことをやめておけといった感じで。
　このあたりのやりとりは一歩も二歩も、はるかにヨーロッパ列強の方がしたたかである。日本はアメリカが条約改正に乗ってくれるかもしれないとなると、わざわざ伊藤博文や大久保利通は、使節団に全件委任を取りに一時帰国させる。それを聞いたアダムスは「しかし、そういうことも、日本人にとって必要な経験であって、やがて伊藤（博文）のような山師的な政治家が役目を終えたとき、それにかわって、真の政治家が登場してくれるのを期待したいのである」とけちょんけちょんである。

　これを読んで思い出したことがある。司馬遼太郎さんが幕末・維新の志士には熱い思いを語るが、彼らの後に続いた伊藤博文や山県有朋などは、極めて冷淡である。彼らは確かにその時代にいるにはいたが、あくまでも革命の志士の陰にいるだけの人物であり、裏で工作をする程度の人物と見ていた。それこそアダムスが言うような「山師的政治家」と見ていたきらいがある。だから司馬さんは幕末の志士は小説にするが、その後の人物は小説にしていない。

　さてその代理公使アダムスにとって条約改正は、イギリスが他のヨーロッパ列強とともに幕末期に獲得した既得権益への挑戦を開始したものである、と映っていた。だからアダムスはアメリカにおける岩倉使節団の大歓迎ぶりを苦々しく思っていた。


　「この国におけるアメリカ熱は、行きつくところまでゆくほかないが、この病気はいつの日か根絶されねばならないと思う。しかし、それまでに、多くの人命の損失、つまり、患者であるこの国は多額の出費を余儀なくされるであろう」

　「じっさい、日本人の思い上がりぶりは異常なほどであるが、それを助長するアメリカ人がいるのは情けないことである。アメリカ人は自分たちの利益のためにやっているのだが、ともかく日本人を誉めそやし、かれらを偉大な国民と呼び、その虚栄心を煽りたてている。目下これを止めるすべはなく、前にも書いたように、日本人は経験を重ねることによって、自らのあやまちを悟る以外に方法がないであろう」

　「かつて日本人は、何事につけフランスを頼りにし、つぎにイギリスを頼りにし、現在はアメリカを頼りにしている。このつぎはまた何処か別の国、ということになるのであろう。しかし、イギリス人が成し遂げた堅実な事業は、最後に勝利を収めるにちがいない」

　結局岩倉使節団は、何も出来ずにアメリカからヨーロッパに移動することになった。いつの時代も日本は日和見主義というか、ちやほやしてくれる方になびく傾向がありすぎる。そしてすぐいい気になり、しっぺ返しをくらう。


評価
★★


書誌
書名：岩倉使節団―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈９〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615510
出版社：朝日新聞社 （2008/02/28 出版）朝日文庫
版型：389p / 15cm / A6判
販売価：840円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/05/post_584.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Tue, 15 May 2012 09:34:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『帰国』―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈８〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_05_08_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_05_08_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_05_08_01-thumb.jpg" width="150" height="207" /></a>


　当時のイギリスでは海外での勤続年数が通算すると五年になると、国に帰れる「賜暇」という一年間の休暇が与えられた。サトウはこの「賜暇」を利用し１８６９年日本を離れた。この間サトウの替わりをしたのがウィリアム・ジョージ・アストン であった。アストンは公使館の多忙さをイギリスにいるサトウにこぼしていた。それに対するサトウの返事に次のような文章がある。


　「公使館の人手不足は、ひどいものにちがいありません。つくづく日本がいやになったというあなたの気持ちに、まったく同感です。じつはわたしも日本をはなれる一年前から、自分の仕事にたいする興味をすっかり無くしていました。これからも日本人は進歩をつづけてゆくでしょうが、われわれ外国人は、ただ退場してゆくよりほかはないと思います」


　この言葉はなかなか興味深い。サトウは日本語が堪能ということで、特に倒幕派の情報収集に勤めていた。そのため倒幕派の人物との関係も濃密になっていったし、時には公使であるパークスを差し置いて「日本におけるイギリスの政策の中心人物」であり、アドバイザー的役割をしていると自ら自負していたところがあった。自分は倒幕勢力の味方であると、西方雄藩に肩入れをしていたが、西郷がサトウに振り当てた役割は、単に「つかわれもの」であったと、後で思い知らされる。前巻の江戸開城では、西郷と勝の会談さえ情報としてつかんでいなかったのである。この手紙の文章を著者は次のように考察する。


　これは外国人（西洋人）が「新しい日本」からはじき出されてゆくことへの予感、皮肉とも自嘲とも取れる観察ではなかったろうか。

　日本人は「進歩」をつづけ、外国人は「退場」を余儀なくされる－このサトウの予感を敗北感と呼ぶのは大げさであろうが、いずれ自分たちは「新しい日本」によって置き去りにされてゆくという痛覚の如きものを、サトウは感じていたのではないだろうか。


　私は正直サトウの態度が気にくわないところがある。この小説はサトウの日記をもとに幕末から明治の時代を展望しているものであるが、私はサトウの行動にはあまり積極的に触れていないところがある。私はむしろパークスやウィリスの行動に興味があるし、日本側の人物たちの行動に興味があるので、そっちの方を書くことになってしまう。
　それはやはりサトウの奢った態度が鼻持ちならないからだと思う。サトウは単に通訳であるはずなのに、それ以上に越権行為のように顔を突っ込みすぎだと感じてしまうからである。時には公使であるパークス以上にいろいろ言いすぎるきらいがある。サトウがパークスとうまくいかなかったのも、このあたりのサトウ行動にあるに違いないと思っている。
　で、次もサトウでなく、ウィリスのことに触れる。サトウが賜暇で日本を留守にしているあいだに、別の意味で人生の節目を迎えたのは、ウィリアム・ウィリスであったからだ。ウィリスは東京の副領事を最後に、イギリス外務省員の地位を放棄し、それ以後鹿児島において、病院と医学校の指導にあたっていたのである。
　ウィリスの鹿児島行きは、薩摩藩の招聘によるものであるが、その前史として、ウィリスが明治新政府の要請にこたえ、一年の賜暇を取り、東京で病院と医学校の指導にあたっていたことによる。
　ウィリスは鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争のさまざまな段階で、負傷者の治療にあたっていたため、新政府の要人の間で名声が高かった。
　ウィリスが東京で病院と医学校の指導にあたっていたのは、東久世通禧（外国官副知事）からをウィリスを東京で医学校と病院の指導にあたらせるために、一年間ウィリスを貸与して欲しいと依頼されたためである。もちろん新政府はウィリスに適当な給与を支払う用意がある、というものであった。
　このときウィリスは、長く続いた医官兼会計官という地位から、東京の副領事に昇進していた。ウィリスは医官といっても、常時仕事があるわけでなく、本業は会計官であった。ウィリスが得た副領事という地位は、パークスに次ぐもので、次は領事という可能性が、大きく開けたことになる。ウィリスはそれを喜んでいた。
　しかし戊辰戦争に捲き込まれることによって、いったんは放棄したかにみえた医業への情熱が再び蘇ってきたのであろう。そこに日本側の要請がウィリスのところ来たわけだ。
　パークスは新政府の要請を受け入れ、ウィリスも医業への情熱が再燃したため、日本側に一年間雇われる。しかしパークスは公使館を辞めることはよした方がいいとも忠告している。


　「しかし、日本人というのは、これに使える段になると、じつに気まぐれな主人である。そこで日本側の誠意と関心の持続とを十分にたしかめる前に、ウィリスがイギリス公務員の地位を放棄してしまうのは危険が多すぎる。ウィリス自身は、十二ヶ月後には、かならず日本側は現在以上に自分の価値を認識するようになると、自信をもっているらしいが、そうならなかった場合、もしくは日本側がこの病院と医学校の問題に嫌気がさしたような場合、ウィリスは日本人に雇われるのはやめたほうがよいと思う」


　と引き留めている。結果としてパークスの忠告は当たってしまった。
　１８６９年ウィリスは「大病院」の指導を開始したが、まもなく明治新政府が東京に創設する医学校兼病院の範をドイツに求める決定を下したため、「英医ウィリス」はお払い箱になり、同情した薩摩がそのウィリスを拾ってくれた、というのがウィリスの鹿児島行きとして定説になっている。その経緯を見てみると以下の通りになる。
　明治新政府はウィリスに「大病院」の指導を依頼するかたわら、二人の蘭方医、岩佐純（越前）と相良知安（肥前）を医学校取調御用掛に任命し、医学教育の改革を担当させた。二人の蘭方医が任命されたのはオランダ医学が徳川以来の伝統による。
　とこでオランダ医学はドイツ医学の系統であったから、医学教育制度の改革を担当することになった蘭方医の岩佐や相良の眼が、オランダ医学を越えて、いわば本家のともいうべきドイツ医学に向けられるのは、自然な成り行きであった。それに助言を与えたのが、当時東京の開成学校（のちの大学南校）の教頭していたオランダ生まれのアメリカ人宣教師フルベッキで、このフルベッキは相良らの質問に答えて、西洋諸国で医学が最も進んでいるのはドイツであると述べ、これがドイツ医学を範とするという新政府の決定に、大きな影響力をもったという話も伝わっている。
　また「大病院」でウィリスの指導ぶりを見た岩佐や相良は、ウィリスの外科手術には敬意を表しつつも、講義の内容には満足していなかったとも伝わっている。これはウィリス自身、自分が臨床は得意なのだが、講義は苦手であることを認めていたふしがあったし、ウィリスが得意とする臨床は、特に外科の分野であった。だから戊辰戦争への従軍はウィリスに格好の働き場所を提供したのだろうし、そのことでウィリスの名声は高まったのである。
　さらにウィリスは来日して７年たち、しかも本国から遠く離れた土地の公使館付医官という地位は、そもそも中途半端な性質のもので、ウィリスの医学知識はほこりをかぶっていたもの同然であった。要するにウィリスはその間イギリス医学の進歩や改善から、縁が切れていたのであった。それをもとの医学の道に引き返そうとしたウィリスの立場も容易なものではなかったはずだ。学ぶ側にとっても、医学教師として当然ウィリスがやや物足りない存在に見えたことだろう。
　こういう状況下で、多くの蘭方医出身者に囲まれ、彼らが自らの系統からドイツ医学を目指そうとした時、それを押し返すだけの技術がウィリスにはなかった。
　この結果、ウィリスは自分の手で「イギリス流の制度の基礎」を築くことが不可能と悟ったのだろう。「大病院」の指導を始めてから６ヶ月後自発的に退任する。歴史上知られているのは、「大病院」を解雇されたのではなく、自らここを辞めたということであると著者は言っている。このときウィリスは自尊心を深く傷つけられたのか、あるいは医業への情熱にやみがたいものがあったのか、公使館へは復帰せず、密かに鹿児島行きを決意したという。
　ここで薩摩が失意のウィリスを拾ってくれ、鹿児島招聘を実現させたのが西郷隆盛と大久保利通であったというのが定説になっているが、実はそうではない、というのが著者の意見である。西郷が戊辰戦争でウィリスから受けた恩義に報いたいから、「大病院」を辞任したウィリスを引き取ったわけじゃない。西郷の意志は、戊辰戦争の経験から、早急に西洋医学を鹿児島に導入する必要性があるというものであったのではないか。だから薩摩は鹿児島に西洋医学を範とした病院と医学校を創設する計画を早くから持っていた。最初はウィリスに「大病院」を引き渡し、イギリス公使館に戻ったシドルに目をつけていたが、ウィリスが「大病院」を辞任する意向であることがわかり、それならウィリスを招聘しようとなったと著者は推測している。
　そして鹿児島においてウィリスは古い習慣と孤独な戦いを続けたが、仕事に没頭することで孤独を癒していく。

　この後明治新政府は廃藩置県と改革を進めていくが、ここにおいて新政府の急激な改革をイギリスは恐れ始める。このことはちょっと意外であった。というのもイギリスを中心に列強は鎖国から開国をせまり、西欧化を求め、徳川政権から明治新政府へ次から次へと要求を出し続けた。そして明治新政府はそれらを受け入れ急激な改革を進めてきた。ところがここに来てそのスピードに危惧を感じているのである。
　当時イギリス公使館にいたオーストリアのヒューブナーが天皇と会見するときに、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、板垣退助の出迎えを皇居で受けた。このときのヒューブナーの人物評が手厳しい。「われわれの目の前にいるのは、立場によって、日本の再興者とも、破壊者とも呼びうる男たち」と評し、その上で次のように釘を刺す。

　
　「この席におられる優れた方々は、英知をもって、改革という困難な事業に取り組まれるものと信じる。自国民の慣習や考え方を十分に考慮に入れ、ヨーロッパで善しとされることのすべてが、日本にもあてはまるとはかぎらないことを理解し、急激な改革を避け、最大限の慎重さで改革をすすめることを期待している」


　さらにヒューブナーの著作である『世界周遊記』には次のようにも書いている。


　「日本の大臣たちは、徹底的な改革運動に乗り出した。この運動はかれらの敵、すなわち古い日本の思想に向けられている。後者は驚愕し、声を失い、脅迫を受けたままの状態にあるが、一般に想像されるほど生命力を枯渇させているわけではない。わたしはこのことで大臣たちを非難するつもりはないが、私が容認できないのは、既得権への敬意がかれらにまったく欠けていること、その手段の恣意性、万事手当たり次第に攻撃する軽率さ、そして、破壊活動に御門の名前を利用することである。御門の権威は二千年の歴史を有するというが、それはかれらの向こう見ずな、未経験な手にかかって、失墜するおそれが十分にある」


　これは倒幕派がそのまま明治新政府となったことが、意識の上で未だに続いていることを見抜いている言葉である。幕府を倒す時は、攻撃的で破壊的でもかまわなかったが、今度は統治する側の立場になったときまでそのままでいるから、こうした急激な改革に走ってしまう。何でもかんでもヨーロッパ的なものを取り入れれば間違いないという発想は、それは日本ですべて機能するものとは限らない。むしろそれまであった習慣や権威などに敬意が払われないことを、問題視している意見である。
　こうした発想しかない新政府が出来上がってみると、思っていた理想の政府でなかったと、西郷隆盛が逃げ出していくのも、このあたりに問題があるのではないかと、先走って思ってしまう。


評価
★★★


書誌
書名：帰国―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈８〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615503
出版社：朝日新聞社 （2008/01/30 出版）朝日文庫
版型：397p / 15cm / A6判
販売価：861円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/05/post_583.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Tue, 08 May 2012 09:40:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『江戸開城』―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈７〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_05_01_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_05_01_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_05_01_01-thumb.jpg" width="150" height="206" /></a>


　この巻は面白かった。特に倒幕軍の江戸総攻撃が、慶応４年（１８６８年）３月１３日、１４日に江戸の薩摩藩藩邸で西郷隆盛と勝海舟との会談で、回避された。これは維新の話の中でかなり有名な史実なのだが、この会談の裏側にあるあるある圧力がここで問題となってくる。この圧力のおかげで、西郷は江戸攻撃の中止を決定し、江戸城の無血開城となったというのである。この圧力とは、いわゆる「パークスの圧力」と呼ばれるものである。パークスとはもちろん英国公使のハリー・パークスのことである。
　パークスが圧力をかけたことにより、西郷は江戸総攻撃を中止せざるを得なくなってしまった、というものである。このことは私も知っているので、たぶん司馬遼太郎さんの小説からかもしれない。記憶が曖昧なので、もしかしたら違っているかもしれない。

　事の発端は、東征軍先鋒参謀木梨精一郎（長州藩士）と渡辺清（大村藩士）が、この戦争での傷病者の手当や、病院の手配などをパークスに依頼したところから始まる。しかしパークスはその依頼の前に、あのナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑された例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激怒した。また慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したというものである。
　このパークスの怒りを聞いた西郷は衝撃を受け、江戸城攻撃中止せざるを得なくなったというものである。
　これの対し著者は次のよう言う。


　結論を先に云ってしまえば、筆者の答えは否定的である。パークスの発言は西郷に「圧力」として作用したのではなく、むしろ西郷がパークスの発言を意識的に取り上げ、それを或る種の「圧力」として利用したのではないか、と。


　具体的に次のように推察している。

１．まだこの時期に勝とパークスないしサトウの接触はなかったから、「圧力」は西郷関してしかおこりえない。

２．問題のパークスの発言が、いくつかの理由から、３月１４日（陽暦４月６日）の第二回の会談の前にではなく、その直後に西郷のもとにとどいた可能性がありうる。これはまだひとつの仮設にすぎないが、この場合には「圧力」は成立しえない。

３．パークスの発言が第二回の会談の前にもとにとどいていたとしても、その内容を西郷がほぼ予測できたし、西郷自身の立場もパークスのそれと類似したものになっていたために、「圧力」という表現を使用できるかどうか疑問である。パークスの発言を耳にしたとき、西郷が感じたのは「圧力」ではなくて、やはりそうであったかという「感慨」であり、あるいは「安堵感」であろう。西郷が自らの判断で考えていたことと、パークスの希望とがたまたま一致したからといって、ただちにそれを後者の「圧力」の結果だと呼ぶわけには到底ゆかないであろう。


　ところで、けっきょく、「パークスの圧力」とは何であったのだろうか。
　史料が双方の側に乏しいため、想像にたよらざるをえない部分が多かったが、「パークスの圧力」と呼びうるものは、西郷がこれを自派内部の強硬論者対策に利用したという意味では存在したが、それ以外の意味では存在しなかったのではないか。つまり、西郷自身は、パークスの意向の如何にかかわらず、自らの判断で慶喜の助命と江戸攻撃の中止を決意し、それが結果的にパークスの意向とも合致した、ということなのではないか、筆者は考えているのである。
　確かにパークスに「干渉」の意欲があったことは、まずまちがいあるまい。しかし、それがいわば西郷に「先取り」されて、パークスの出番はついに来なかった。
　他方イギリス側から接触を求められて以後、勝が新政権にたいする「パークスの圧力」にある種の期待を寄せたことはたしかであろうが、その場合にも、勝が西郷個人への信頼を語っていたことは注目してよい。もちろん、西郷が京都からどういう最終案を持ちかえってくるか、勝にも確実なことは言えなかったであろうが、決め手になるのが「パークスの圧力」ではなく、西郷の力量であると勝は信じていたふしがあり、事実その通りの結果になった。
　このとき西郷と勝の演じた「高等政治」は、多くの関係者を素通りし、その頭越しにおこなわれたが、パークスもそういう、いわば「つれない仕打ち」をうけた関係者のひとりに数えてよいであろう。西郷についてはすでにふれたが、外国勢力の「利用」と、それへの「依存」との区別に関して、勝も西郷に劣らず、したたかな認識の所有者であった。


　またサトウも、パークスとおなじように、西郷と勝の「高等政治」の、いわば「つれない仕打ち」を味わったひとりであったが、特に西郷との場合とちがい、それまでサトウが勝としたしい個人的な関係をつくり上げていなかったことが、このときのサトウの情報活動に大きな制約を課したようである。倒幕勢力とのあいだの情報の通路の開拓はきわめて熱心なサトウも、旧幕府側との接触は閣老、参政、外国奉行関係者にかぎられ、軍艦奉行時代の勝にはおよんでいなかった。サトウと勝との親密な交際がはじまるのは、じつにこの時期以降のことである。


　こういう考え方を読んでいると、西郷という人物は本当にすごい人物だったんだな、と思わざるを得ない。あのうるさいパークスさえ、手玉にとって利用するのだから。
　西郷は慶喜の恭順が真実であること。幕府側の交渉相手が旧知の勝と大久保であることが、本格的な交渉に堪えうる人物であったことなどで、知って喜び、安堵していた。著者は言う。「この人間的な組み合わせがなければ、和戦と江戸開城をめぐる「高等政治」の展開もありえなかったであろう」と。
　さらに西郷はパークスの関心が慶喜の助命に集中している点を利用して、パークスの発言を「圧力」として利用した。それによって血気に走る東征軍を静めたのである。そしてそれ以外の重要な箇条において、最終案は決して勝の対案にそれほど譲歩をしめしていない。そういう箇条にパークスの発言が及んでいないことを、西郷は知っていたからだ。

　サトウにおいても、あれほど倒幕派と人的関係を築き、情報交換をしていたにもかかわらず、旧幕府側に関しては、その人的関係をほとんど築いていなかったのが、片手落ちとなった。サトウは西郷と勝とのあいだですすめられていた工作に気がついていなかったのである。著者はこの件に関して次のように書いている。


　前年（１８６７年）の夏、サトウがはじめて知り合ったころの勝は、まだ軍艦奉行にすぎなかったが、サトウが江戸を約３ヶ月留守にしているあいだに、勝は陸軍総裁に抜擢されたばかりでなく、会計総裁大久保忠寛（一翁）とともに、瓦解寸前にある徳川勢力を支える、事実上の最高指導者の役割をつとめていた。
　三月九日（陽暦四月一日）、情報探索のために江戸に来たサトウが、当然真っ先に訊ねるべきは勝であったが、サトウはそれをしなかったのは、勝のはたしていた役割をサトウがまだ知らなかったからであろう。
　他方、それから約一週間のサトウの江戸滞在中、勝の側からサトウにはたらきかけ、サトウを通じて、新政権にたいするパークスの影響力を利用しようとした形跡も見られない。


　この巻は、ウィリアム・ウィリスが遂に日本で医者として活動する第一歩を踏み出した。その詳しい背景は次の巻で書かれているようであるが、ウィリスはパークスの指令で戊辰戦争の戦闘が激しい地域に向かう。それが「越後路」という章でウィリスの行動と見聞した内容などが書かれている。これが興味深い。
　ウィリスが北越から会津の地を踏むのは、次の理由による。
　新政府軍は越後の負傷者を治療のため、ウィリスを借用したいとパークスに依頼した。パークスもこれに応じた形で実現したものであった。このときウィリスは新政府軍の負傷者だけでなく、捕虜になった者も治療するという条件でこれを引き受ける。これはウィリスが新政府軍の捕虜の扱いが残虐であることを嘆いていたことから始まったものだった。例えば上野戦争で彰義隊の扱いに関しても次のように書いている。


　「最後に、敵方の手におちた負傷兵の取り扱いについて、わたしの知るかぎりのことを多少述べておきたい。現在のところ、不必要に残酷な生命の犠牲が、双方の陣営の行動を特徴づけているのではないかという不安がある。もちろん、それぞれの側が、相手の行動に原因があると言い張っているのであるが、たとえば最近江戸であった戦闘のさい、捕虜になった負傷した浪人（彰義隊）は、すべて首を刎ねられたという」


　ウィリスの越後・会津の旅は約３ヶ月に及んだが、最初の頃は負傷者の中に、いまだにひとりの捕虜の姿も見かけなかった。それがウィリスの不満となっていた。


　「わたしのきいたところでは、捕虜になった会津側の兵の生命を助けることは不可能だという。御門と新政府の権威を承認するようにいくら説得しても無駄であり、御門側に捕らえられると、かれらはあらんかぎりの悪口雑言をならべたてて、すみやかに処刑されようとするからだそうである。いずれにしても、現在までのところ、わたしはまだひとりの捕虜も治療していない。そして、わたしはこのような事態に失望している旨を何度も表明してきた」

　「第四に、わたしはまだ一度も捕虜を見ていないので、かれらの本当の運命がどうなのかを是非知りたいし、できることなら、敵をすべて容赦なく処刑してしまうらしい日本人の残酷な戦争のやり方を改めさせたいと思う。目下主戦場からあまり遠くはなれているので、たしかな感想を述べるわけにはゆかないが、新潟に到着したら、まだ負傷者の中にひとりの捕虜もいないことにわたしは失望していることを、指揮官たちにつたえたいと思う。わたしがおそれているように、もしすべての捕虜が処刑されるのだとしたら、これはまったく無益な人命の損失である」 


　結局会津の若松に来て、やっと捕虜の治療ができた有様であった。ところで会津が落城する頃、ウィリスは、若松の近郊で農民一揆に出会った。農民が一揆を起こす背景を次のように書いている。


　「残念ながら、会津の藩政が横暴であり、腐敗したものであったことをどこでも聞かされた。十年ないし二十年後に返済するという約束で、会津の藩庁が民衆から強制的に取り立てた借上金のはなしがたくさん残っている。会津藩の貧しさは極端なものであったらしい。家々は日本のどこで見かけたものよりも貧弱であり、農民たちはひどい身なりしていて、体形も小柄で虚弱である。この国で生産される米はすべて年貢として収められたという。この戦争で破壊される前の若松とその近郊には三万戸の家があり、そのうち二万戸が武士の家であったが、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために徴収されたのだそうである」

　「過去六年間、会津は御門の護衛（京都守護職）をつとめ、そのため大部隊を京都に駐屯させなければならなかったが、これは人的にも財政的にも会津の力に余ることであったというのが、一般的な意見である。わたしが会津領内で見聞したところによれば、つぎのような感想をいだかざるをえない。すなわち、武士階級の数が正当な比率よりもはるかに多すぎたこと、かれらが圧制的で腐敗していたこと、そして、わたしの目撃した農民暴動は、これまで隷属していた階級が会津の藩政にしめした嫌悪感が、引き金になっていることである」


　会津といえば、倒幕派の恨みを一切合切引き受けてしまった悲惨な歴史がよく語られる。新政府軍の徹底した会津討伐は、その恨みの表れである。慶喜は許しても、会津は許せない、というのが新政府軍の姿勢であった。白虎隊などに聞かされる悲惨な最期はよく時代劇になっている。ウィリスが若松に滞在していたのは約二週間であるが、この短い間でこのような光景を目撃できるほど、会津の姿がひどいものであった。“王城の護衛者”が、実はこうした農民たちを搾り取って成り立っていたことを知って、少々驚いてしまった。歴史において知らない影の部分を知ると、今まで知っていた歴史をそのまま肯定できないものがあるんだな、と思わせるエピソードであった。


評価
★★★


書誌
書名：江戸開城―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈７〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615497
出版社：朝日新聞社 （2008/01/30 出版）朝日文庫
版型：382p / 15cm / A6判
販売価：840円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/05/post_582.html</link>
         <guid>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/05/post_582.html</guid>
         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Tue, 01 May 2012 12:47:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『大政奉還』遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈６〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_23_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_04_23_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_23_01-thumb.jpg" width="150" height="208" /></a>


　慶喜は幕府体制の行き詰まりを自覚し、土佐藩からの建白に基づく形で、慶応３年１０月１４日（１８６７年１１月９日）に大政奉還を上奏（翌１５日に勅許）し、２６０年以上に渡って江戸幕府（徳川将軍家）が保持していた政権を朝廷に返上する旨を表明した。これはこの巻で最初に簡単に書かれている。
　この大政奉還は、まだ政権担当能力のない天皇の後見役みたいな形で慶喜自身の政治的影響力を残そうとしての決断であった。事実朝命による有力諸侯会議が開かれようとしていたので、慶喜は第一人者として幕府とは違う形で君臨しようとしていたのである。それは徳川家はまだ日本における最大の雄藩であったからだ。ここまでは慶喜側に軍配があがる。事実パークスは慶喜の大政奉還を英断と見ていた。パークスが予想した慶喜のあたらしい役割は、天皇の「顧問たちのうち第一人者」それであった。そのため大政奉還という慶喜の英断によって、内戦はおそらく回避されるとパークスは期待していたのである。
　逆に倒幕派にとってはこのままでは徳川幕府を完全に倒すことは難しくなってしまう。そこで倒幕派は朝命で諸藩へ上京を命じるが、政局の激変を様子見している藩が多く、応じる藩は少なかった。そこで薩摩のみが軍を率いて上京した。ここで公家の岩倉具視、薩摩の大久保一蔵、西郷吉之助らが中心となって、かねてから計画されていたクーデターの手はずが進められ、長州藩父子の赦免など決定し、官位復活と入京許可しクーデターは実行に移された。
　すなわち、西郷の指揮する薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の五藩が皇居を包囲し、王政復古の大号令が発せられ、新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政・関白・将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表されたのである。間を置かず新設の三職を小御所へ召集し、小御所会議が開かれた。そしてここで慶喜に官位の辞退と領地の奉納（辞官納地）を命じることが決定されたのである。
　慶喜と倒幕派との争いは「天皇の争奪戦」であったのに、慶喜が大政奉還後、京から大阪に移ってしまったことが失敗であった。事実サトウはこのことが理解できないと思っていた。サトウは大政奉還後、討幕運動が始まったことで、「終わりの始まりが開始された」と日記に書く。
　慶喜は大阪に戻り、外国公使と謁見する。そこで慶喜は、自分の領地は長州や薩摩やその他の大名の領地と同じ、官職に関係なく自分の領地なのだから、この勧告には従わない、と伝え、自分はあらかじめ仕組まれたことにはめられたと語っている。しかしそこには慶喜が将軍職に就いた時のような、凛々しさや自信は見あたらない。「なんという変わりようか。いまは、やせおとろえ、声は哀調をおびている」パークスは伝えている。


　かつて慶喜の聡明さに打たれ、外国交際への熱意に共鳴し、大政奉還を英断と讃えたパークスであったが、ここにいたって、慶喜はパークスにとって「落ちた偶像」と化したのかもしれない。


　そしてご存じの通り慶応４年（１８６８年）に鳥羽・伏見の戦いの戦いが起こる。倒幕派は慶喜が辞官納地の挑発に乗ってこないことにいら立っていた。そこで西郷は江戸市街で挑発的な破壊工作を行い、慶喜側に「討薩」の気分を起こさせる。そしてそれが成功した。慶喜は出兵した。
　戦力的に倒幕派は劣勢であったが、１月６日（１８６８年１月３０日）に慶喜は側近ともに大阪城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、勝負は倒幕派にあがった。
　７日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。この後東征軍の進軍が始まることとなる。
　もうこの時点でパークスは京都の新政権が「外交上の責任を担当する」と申し出た場合の準備を進めていた。（ただし、フランスのロッシュは相変わらず慶喜に肩入れしていた）
　そんな中、薩摩の五代才助（友厚）と寺島陶蔵（宗則）がパークスに会いに来て、近いうちに諸外国の代表を京都に招くことが出来ることになるだろうと語る。そしてこの鳥羽伏見の戦いで負傷した兵を治療してくれる外科医を貸してくれないかと申し入れる。ここでウィリスがやっと医者として登場してくることとなる。それまでウィリスが外交官としてパークスのもとで働いていることが主で、いったいいつになったら、医者として働きを見せるのだろうと思っていたので、これからが私の知っているウィリスとして活躍していくのだろう。

　パークスら列強公使たちは朝廷に招かれ、天皇と謁見することとなる。ところがこうして諸外国と友好を求める新政権であっても、京ではやはり、攘夷思想がまだはびこっていた。天皇との謁見のため京に入ったイギリスパークスらは、何者かに襲われる。神聖な京に外国人を入れるとは何事かという気分がまだ残っていたのである。
　しかし新政権は彼らの処分は早かった。こうした事件は政権にとって、諸外国にイメージを悪くさせるが、旧幕府とは違い、素早い処分が、幕府とは違うというイメージを与えることとなっていく。神戸事件にしても堺事件にしてもその衝撃は諸外国にいまだこの国は攘夷思想が残っているのかという恐怖を与えたが、その処置の速さが、逆に新政府の統治能力の可能性を示すこととなるのが面白い。
　とにかくこの時代何をやるにしても幕府には人物がいない。一方倒幕派はどうしてか、こうも人物が次から次へと出てきて、それぞれの働きをし、決定していく。そのため時代は変わらざるを得なかったのだな、と思わせる。もう将軍だけの支配の時代ではなくなったことを知らされる。
　ただこうした倒幕派の様々な人物たちは、乱世のときはそれぞれの働きをするが、その後の歴史を知っているだけに、それが成って政権を取った後、逆にその個性が、考えを一つにまとまることを難しくする。明治維新が成っても、その後政権内でごたごたするのはそういうことなのだろう。


評価
★★★


書誌
書名：大政奉還―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈６〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615480
出版社：朝日新聞社 （2007/12/30 出版）朝日文庫
版型：355p / 15cm / A6判
販売価：798円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_581.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Mon, 23 Apr 2012 10:42:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『外国交際』遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈５〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_17_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_04_17_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_17_01-thumb.jpg" width="150" height="203" /></a>


　この巻は慶喜登場から大政奉還までの間に起こったことが書かれている。大きく別けて二つの事柄がメインになる。１８６７年に行われたパリ万国博覧会と、サトウが日本各地を旅することで、幕末の政局を左右する人物と次々に会うことで、大政奉還という大きな政局の転換期の序章を語っていく。

　まずは１８６７年のパリ万国博覧会である。この会場に日本代表として幕府が展示会場を開くが、一方薩摩藩も単独で展示会場を開設していた。このことは幕府による展示会場開設が、日本を代表しているものでないことを意味してしまった。もちろん幕府もフランスに強く抗議したが、これはフランスにおける個人的利害関係が絡んでいて、それをいいように薩摩が利用したといってよく、政治的に薩摩が幕府よりも上手であったあったことを示す。実際にフランスにおけるメディアは次のように伝えた。

　「かかる展示は、大君が日本の皇帝ではなく、薩摩の太守や他の国守大名とおなじように、独立の諸侯のひとりにすぎず、大君は自分の領地（関東）においてのみ至高の権力を有し、その意味で他の大名たちと同格であり、けっしてかれらにまさるものではないことのまぎれもない証拠である」

　パリ博の薩摩の参加は、日本にいたフランス人の幕府に対する嫌がらせに過ぎない点があるにしても、海外においてこんなことを書かれちゃ、幕府の面目丸つぶれであろう。このことは権力低下を招いている幕府に肩入れするロッシュの立場も危ういものとなり、政府からもイギリスのように政局から立場を置いて接するよう注意が促され、ロッシュ自身も幕府の肩入れを「個人外交」さえ言われる羽目となる。

　さて、慶喜は兵庫開港をパークスやロッシュらに約束した。しかし一端兵庫が幕府によって開港されてしまうと、討幕派にとっては都合が悪い。というのも兵庫は天皇や公家がいる京都に近い。そこを開港し、外国人が京都付近をうろちょろすることになると、神聖な京都が犯される感じになる。それを盾にして討幕派は幕府による兵庫開港を拒否することで、幕府を揺さぶろうとしていたのだ。だから「ひとたび兵庫が開港されてしまえば、大名たちとって革命の機会が失われてしまう」ことになってしまう。それはサトウも同じ考え方であったが、サトウの上司であるパークスは慶喜との謁見で兵庫開港を約束した慶喜ファンになってしまっているのを苦々しく思っていた。だから討幕派の西郷らに何とかしないといけないとアドバイスをするが、西郷はイギリスによる兵庫開港を利用して、それによって幕府が貿易を独占していると揺さぶりをかけられる、と考えていた。サトウのジレンマとは別に、列強の主張を西郷は利用していたのであった。
　この巻でサトウはパークスの名代として東海道や北陸道、あるいは長崎などに視察の旅をしているが、そのたびごとに幕府の有力諸侯や討幕派の幹部と会い、話し合いをしていく。しかし、たとえばサトウが西郷に倒幕の応援をイギリスがするから、援助を申し出てくれと提案しても、申し出は有難いが日本のことは日本で処理するからというやわに断られる。イギリスべったりになることも拒んでいるのである。むしろ暗に兵庫開港が幕府とフランスとの独占を招くことを匂わせ、イギリスに文句を言わせ、そのことでフランスと幕府の蜜月を揺さぶる。要するに西郷がサトウをいいように利用していて、役者が西郷の方が一枚も二枚も上であることを感じさせる。
　実際問題サトウは討幕派の人物に会うたびに武力闘争を訴えていくが、彼らはそれを聞くようで、軽く受け流していく。実は密かに大政奉還の話しが土佐を中心に進んでいるにもかかわらず、情報収集しているサトウには一言もそれを言わず、サトウに単に討幕派による幕府の転覆が近いことしか感じさせないのである。このあたりはさすがと言える。
　正直なところサトウのこれらの旅の記録を読むと、サトウの傲慢さがかなりきつく出ている。自分の警備が付かないとか、諸侯が自分に会わないことに不満を漏らしたり、討幕派を叱りつけたり、美女がいないとか、いればいたでそれを喜ぶ。飯がまずいとも言っている。とにかく言いたい放題である。これを読んでいると、サトウは鼻高々になっていることがよくわかる。これは自分のバックにイギリスという国があり、役に立ちますよ。それに自分はどの列強の人物より日本に関する情報通だから、私の意見を聞きなさいといった感じが随所に出てくるところからわかる。
　だからそういうサトウをうまく利用する西郷たちの姿勢は心地よい。武力討伐しか幕府を倒すしかないというサトウの姿勢で、それを上司にもはばからず言いのけるサトウに対して、大政奉還が密かに進んでいるなど一言も漏らさないあたりは、読んでいてざまあみろという感じなる。


　幕末の政局を左右する人物とつぎつぎと会い、したしくことばをかわしているが、当時の倒幕運動はいわば共鳴者のサトウを置き去りにして、その理解の彼方に走り去っていた感がある。


　と著者は書いている。さらに


　「（二週間後の大政奉還は）その意味で、この旅は、サトウが倒幕運動からの疎外感を痛切に自覚された最初の機会であったのではないか。革命とは本来そういうものであろうが、もはや外国人サトウの出番はなくなっていたかに見える」と書いてこの巻は終わる。

評価
★★


書誌
書名：外国交際―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈５〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615473
出版社：朝日新聞社 （2007/12/30 出版）朝日文庫
版型：379p / 15cm / A6判
販売価：840円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_580.html</link>
         <guid>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_580.html</guid>
         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Tue, 17 Apr 2012 09:35:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『慶喜登場』遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈４〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_11_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_04_11_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_11_01-thumb.jpg" width="150" height="208" /></a>

　この巻で大きな出来事が二つ起こる。この二つの事件で時代は大きな転換期を迎えることとなる。一つは将軍家茂の死であり、もう一つが１５代将軍慶喜の誕生である。
　徳川家茂は慶応２年７月２０日（１８６６年８月２９日）、将軍家茂は大阪城中で病死した。享年二十歳であった。次の将軍職を継ぐのは一橋慶喜であるが、慶喜はなかなか将軍職を継がなかった。ただパークスは慶喜が将軍職を継ぐことに大きな期待を寄せていた。それは新しい将軍は第二次長州戦争という内紛を解決して、国内の平和を保つだろうし、さらにこれまでとは違う政治体制が生みだされるかもしれないというものであった。
　幕府は有力大名らに天皇を含めた大名会議を催し、慶喜の次期将軍、兵庫開港や江戸や大坂の開市を含めた問題を討論しようとする。もちろんパークスもこの大名会議に期待した。が、これがなかなかうまくいかない。というのもそれぞれの思わくが絡み合っており、そもそも幕府そのものの勢力が弱まっている以上、幕府が呼びかける会議に有力大名が応じるわけがない。
　結局招集を受けた二十四藩のうち「会議」に参加するために藩主若しくは世子が上洛したのは七藩にすぎず、薩摩など政局の動向に大きな影響力をもつ藩は一つも含まれていなかった。
　このような中、パークスは近畿以西についての政治情報の収集をはかるためにサトウを派遣する。サトウは長崎に行く途中、その帰りに兵庫、下関、鹿児島、宇和島と立ち寄る。そこで有力諸侯や討幕派の面々と情報交換をするのである。
　ところでサトウは『英国策論』によって、幕府に批判的あるいは敵対的な勢力のあいだで「同志イギリス」という過剰な期待をかけられていた。そんな中、サトウはこれを機会に様々な人物を接触し、通訳官としての立場を逸脱して、「情報将校」としてのサトウから幕末の政治運動にとって渦中の人物となっていくのである。

　さて慶喜は慶応２年１２月５日（１８６７年１月１０日）に将軍職を大名会議の何ら拘束を受けることなく将軍宣下まで漕ぎつげた。そして慶喜はパークスやロッシュなどの外国公使と謁見をする。慶喜はこれら外国公使と謁見することが、自らの権威を国際的にも国内的にも高めることとなるから、積極的に彼らと会おうとする。ただパークスは慶喜と単に会うだけで話を済まそうとはしない。慶喜がパークスらに会うことは先に見た自らの権威を高めることになるのだから、だったらそれにする「対価」を要求する資格がある、と考えたのである。
　その「対価」とは兵庫開港問題に最終的な決着をつけることであった。要するに慶喜に兵庫を開港することを宣言させることであった。外国公使と謁見の話は進められたが、ここにもう一つの事件が起こる。孝明天皇の死である。孝明天皇は慶応二年（１８６６年）１２月２５日、在位２１年にして崩御。（満３５歳没）。死因は天然痘であるとされた。（岩倉具視に毒殺されたという話は有名だ）孝明天皇の死で慶喜のパークスらの謁見は無期限に延期されるかに見えた。
　ただパークスは孝明天皇の死が「将軍（慶喜）の権力をつよめることになるであろう」と予測していた。なぜなら次の天皇（明治天皇）はまだ満１４歳の少年であり、慶喜が後見役として天皇の側に付いていれば、その権力や権威をさらに高めることが出来るとみていたのだ。
　しかし孝明天皇の死は慶喜にとって大きな打撃であった。孝明天皇は公武合体派の精神的支柱であり、個人的に慶喜に信頼の厚かったからだ。西郷隆盛は幕府が朝廷を味方に引き入れている以上、倒幕側は手出しの出来ない状況に陥っているとサトウに言っていたのだ。
　しかし孝明天皇の死は、それを打開する出来事であった。事実この天皇から約一年後の慶喜による大政奉還、王政復古、戊辰戦争と続く維新劇と続いていくことになる。

　ところで延期された外国公使と謁見である。パークスらはただ傍観していたわけではない。パークスは特に兵庫開港を目指し、将軍が謁見すると言っていないのに大阪に行こうとするし、フランス公使ロッシュは抜け駆けして、慶喜に謁見している。
　その時ロッシュはパークスと公使間の主権争いを国の威信をかけて争っていたので、慶喜に政治的アドバイスをして、公使間の主権争いに一歩前に出ようとしていた。
　ロッシュは天皇と将軍という二元性、権威と権力の分化に困惑し、憤懣やるかたなしという思いを吐露する。「帝の許しを得なければ一事も成らずと申す様にては嘆かわしく存じ候」とロッシュは苛立たしげに言い放つのであった。
　ただロッシュがこのように天皇の存在「わずらわしい」ものと考えたのは、ロッシュのいるフランスの政治体制、すなわちナポレオン三世治下のフランスの統治の在り方影を落としているのである。ナポレオン三世は権威と権力とを一身に具現する「強力な指導者」であったので、将軍慶喜にそれを求めた。だからロッシュは討幕派の存在理由には目もくれず、ひたすら幕府擁護にのめり込んでいくのであった。
　それに対してパークスのいるイギリスはいわゆる女王は「君臨すれども統治せず」であり権威の源泉としての女王と、権力の体現者としての議会（内閣）という二元性が機能しており、その意味では、天皇と将軍という日本的な二元性に直面しても、パークスの場合、さして驚きはなかった。だからパークスは幕府と討幕派との双方に対して絶えず接触の通路を確保しておき、双方に対する慎重な目配りを怠らなかったのである。
　パークスはロッシュの抜け駆けを心配していたが、何とか将軍慶喜と外国公使と謁見はなった。謁見の前に幕府から兵庫の開港をすると公使たちは聞かされていて、謁見はいいムードで行われた。パークスは謁見後慶喜の人物像を次のように言うようになった。


「わたしは将軍がどのような地位を占めることになろうと、可能なかぎりかれを支援したい」

「将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物である」


　しかしパークスの慶喜賞賛はサトウにとって強い「危機感」を呼び起こすこととなる。慶喜は兵庫開港外国公使に確約したが、兵庫の開港の勅許はまだ下りていない。倒幕側は全力をふるって、幕府の兵庫開港を阻止しなければならない。幕府の手で兵庫開港が実施されれば、もはや万事休すである。これをサトウは西郷に伝えた。そこでこの巻は終わる。


評価
★★★


書誌
書名：慶喜登場―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈４〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615466
出版社：朝日新聞社 （2007/11/30 出版）朝日文庫
版型：417p / 15cm / A6判
販売価：882円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_579.html</link>
         <guid>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_579.html</guid>
         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Wed, 11 Apr 2012 09:45:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『英国策論』―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈３〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_06_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_04_06_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_06_01-thumb.jpg" width="150" height="205" /></a>


　この巻で、あのパークスが登場する。幕末物を読んでいると、必ず顔が出てくるイギリス公使である。前任者オールコックが長州藩への懲罰攻撃をしたことによって、本国に召還され、後任者として日本に来た。私は今までいくつかの幕末物を読んできてパークスという人物知っているつもりでいたが、よく考えて見れば彼の生い立ちは一切知らない。ここで初めてパークスの生い立ちを知ったので、それを書いておく。
　パークスは１８２８年２月２４日、バーミンガムの北方にあるウォルサルという町の近郊で、ヴィクトリア時代のイギリスに繁栄をもたらした典型的な中産階級の家で生まれた。父親は製鉄所の経営者であり、祖父はイギリス国教会の牧師であった。また、まもなく、父親代わりとなって、パークスを養育してくれる伯父は退役海軍士官であった。
　パークスは４歳のとき、母親を病気で失い、続いて５歳のとき、父親を交通事故で失った。孤児となったパークスと二人の姉を引き取り養育してくれたのが先ほど言った伯父である。しかしその伯父もパークスがバーミンガムで初等教育を受けていた頃病死してしまう。
　二人の姉は中国のマカオに住み、ミッション系の病院を経営する父方の縁者で、著名な中国語学者であり、探検家でもあったガツラフ師夫人で、パークスらの父の従妹にあたる。１３歳とき姉からマカオに来るようにという知らせを受け、身寄りのないパークスはイギリスには何ら未練もなかったので、１８４１年１０月にマカオに到着した。このときから１８８５年３月、駐清公使として北京に滞在中５７歳で病死するまでパークスはその全生涯を中国と日本で過ごすこととなる。
　マカオに着いたパークスは中国語の勉強を始め、７ヶ月後の１８４２年、１４歳のとき早くも公的仕事に就く。アヘン戦争のさなかであった。南京遠征にも加わり、南京条約調印にも立ち会った。この南京遠征はパークスにとって強烈な印象を残したに違いなく、軍事力の行使、ないしその威嚇を背景にしておこなわれる交渉という、いわばこの時期の極東外交の原型をつぶさに学んだ。
　１８４３年８月、香港で行われた中国語の審査に合格し、９月広東のイギリス領事館員として採用される。パークス１５歳の時であった。ちなみにこの１８４３年はサトウの生まれた年である。
　１８４４年厦門の領事館付の通訳に任命される。パークスがオールコックに出会ったのもこの厦門時代であった。この二人の関係はこの後５年続き、後年パークスが日本におけるオールコックの後任者となる機縁はこの頃築かれたかもしれない。
　１８５４年５月パークスは厦門の領事に就任した。まだ２６歳の若さであった。この年オールコックの友人を介してファニー・プラマーと結婚。
　１８５６年６月広東の領事に就任し、まもなくアロー戦争に巻き込まれる。英仏連合軍は広東を攻撃し、占領する。この占領行政の事実上の責任者はパークスであった。
　１８６０年９月、英仏連合軍の北京侵攻にあたり全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務めたが、交渉中に清軍に拉致され１０月まで北京で投獄された。同年アロー戦争は終結する。
　１８６１年パークスは三度目の賜暇でイギリスに帰るが、このときはアロー戦争の英雄として迎えられ、同年５月ヴィクトリア女王からサーの称号を与えられた。３４歳であった。
　１８６４年３月上海領事となったが、しかしアロー戦争での激動と興奮を覚えたパークスにとって単調な領事事務は退屈であった。新しい「冒険」の地を求める心と、それと頑健とは言い難い夫人や病弱な息子のためにも、しのぎやすい気候の任地を求めた。極東の領事部門で育ち、その頂点ともいうべき上海領事の地位まで上り詰めたパークスにとって、残された可能性は日本以外なかった。
　一方下関遠征を実行したかどで、オールコックに召還命令を出したラッセル外相にとって、後任を選ぶとすればパークスしかいなかった。
　そして１８６５年第二代駐日イギリス公使ハリー・Ｓ・パークスを乗せた軍艦レパード号は横浜に到着したのである。たぶんこれ以降この話はサトウの話と共にパークスの行動で進んでいくことになる。


　さて幕府は相変わらず、朝廷と外国列強の板挟みになって、身動きができない状態が続いている。賠償金の支払いの問題。諸外国はそれを免除することを条件にして、ひとつひとつ自国に有利な状況を作り出そうとする。一方朝廷を盾にとって幕府に揺さぶりをかける雄藩は、幕府による貿易の利益独占を切り崩し、幕府そのもの力を弱体化させようとしていく。幕府はそうした二つの勢力に対して、のらりくらりとした姿勢をしながら、一方で自らの権力強化を誇示するため、長州征伐を進めていこうとする。そんな中サトウの「英国策論」が世に出た。
　私はこの「英国策論」というのは今までこんなものがあったとは知らなかった。で、これは何かと言えば、最初サトウが当時横浜で発行されていた週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』に、最初無署名で掲載したものであった。ところが「英国策論」は、サトウの知らぬ間に写本が行われ本となり、「イギリス公使館の意見を代表するもの」として流布され、一人歩きしていった。簡単に言っちゃうと「英国策論」は幕府の否定論であった。
　イギリスが幕府と貿易に関する条約を締結したが、なんだかんだ言って思うように港を開港しないことにいら立っていた。イギリスは幕府が日本を代表するものと考えて、幕府と条約を締結した。だから幕府と結んだ貿易条約は日本国と結んだものだと考えていた。ところが実際は日本には幕府以外に朝廷というもう一つの代表があることを知らされ、その許可（勅許）が下りないと、先に進まないことに苛立ちを覚えていた頃に、この「英国策論」が出たわけである。サトウは現場でその状況をつぶさに見ていたので、どうしてもそのことを書かずにいられなかった。結局煮え切らない幕府の姿勢を見て、このように書かざるを得なかったのだ。
　ではその論説に核心部分はどうなっているのだろうか？まず徳川幕府を次のように見ている。


　「われわれは、つぎのことを心に銘記しておかなければならない。すなわち、将軍は、日本の政府を指導していると公言しているけれども、実際には、諸侯連合（a Confederation of Princes）の首席（the head）にすぎず、われわれの最初の条約が結ばれたときにも、そうであるにすぎなかったということ、そして、将軍が一国の支配者という肩書きを僭称するのは、この国の約半分ほどしか、かれの管轄に属していないのだから、じつに僭越至極な行為であったということである」


　要するに将軍はたんに、「諸侯連合の首席にすぎない」のだ。だからこの条約は諸侯の一人である将軍が勝手に結んだ条約であり、もともと有力諸侯に相談もなく結ばれたものであるから、その条約に大名たちは拘束されないという姿勢を取っても当然だというのである。反対されるのも仕方がないのだ。まして貿易は将軍の独占であり、それは許し難い。これが将軍以外の有力大名の姿勢であると分析する。
　そこでサトウは「われわれは、厳粛且つ真剣に根本的な変革を提唱する。われわれがのぞんでいるのは、ただひとりの有力者との条約ではなく、この国のすべてのひとにたいして拘束力をもち、且つ利益をもたらす条約である。われわれは、将軍を日本の唯一の支配者なりとする陳腐な虚偽をすてて、他の同等な権力者の存在を考慮に入れなければならない。いいかえれば、われわれは、現行の条約を、日本の連合諸大名（the Confederate Daimios of Japan）との条約によって補足するか、あるいは、前者を後者と取り替えるしかならないのである」と言い切るのである。
　そしてその見通しはどう考えていたのだろうか。サトウは政治的な革命ではなく、たんに現実の事態を認めるだけのことだろう、と言っている。要するにもう実際、将軍の権力は失墜しているのだから、それを認識し、その後を考えればいいというのだ。「われわれが提案している」方法とは、いうまでもなく、現行の条約を廃棄し、「天皇および連合諸大名との条約」をもって、これにかえることである。
「われわれは、遠からぬ日に、現行の条約が廃棄され、いっそう包括的で満足のゆく条約、すなわち、天皇および連合諸大名（the Mikado and the Conferate Daimios）－　かれらが、日本の真の支配者（the real rulers of Japan）である－　との公正な協約がそれにかわることを切望して、このことを解決させる力をもっているひとびとの手に、この問題をゆだねるものである」


　この論説を通して、一貫してみられるのは、将軍は「日本の真の支配者」ではなく、強大な大名のひとりにすぎず、そういう将軍と現行の条約が結ばれているところに、条約関係の安定をさまたげ、貿易の発展を阻んでいるいっさいの問題の根源がある、というのがサトウの認識である。
　それでは新条約の当事者たるべき「日本の真の支配者」はだれかといえば、「天皇および連合諸大名」である。なぜなら天皇は日本における最高の権威者ではあるが、条約の遵守を強制する力は持っていない。その力を持っているのが将軍を含む連合諸大名で、この二つの権威と力が合体して「日本の真の支配者」となれる。その「日本の真の支配者」と条約を結び直す必要性を説くのである。ではそうしたことを実行させるために、きっかけを作るのは誰かと言えば、サトウはパークスに期待するのである。

　ではその期待されたパークスはどういう姿勢でいたのであろうか？パークスは現行の条約は「将軍とだけ結ばれているものではなく、日本と結ばれているものである」という立場を崩していない。だから早急に条約改訂のため、天皇、将軍、大名の三者間で協議が行われる必要性を認めていない。パークスは、中央政府として幕府に依然として期待をつないでいたし、数々の提案を受け入れるための幕府を評価していた。この点サトウの幕府を見限り、条約の主体を事実上、政権を天皇にいただく雄藩連合に移すべきと異にしている。
　パークスは日本の政治の変革に関しては、あくまでも中立を保ちつつ、それはそれでなるようになるわけだから、それには関与しない姿勢をとり続ける。そのためどちらに転んでも損のないように、幕府にもつくし、反幕府側にも注意を注ぐ。なかなかくせ者である。その点フランスのロッシュは「条約の調印者である将軍を条約の保護者とみなし、日本における外国の利益は将軍の力によってのみ保護される」、根本的に違う。
　パークスは第二次長州征伐が始まる中、薩摩も訪問するし、長州の重要人物とも合うし、薩長連合にも深い興味を示すのだ。第二次長州征伐は幕府側の不利な状態になりつつある中、この巻は終わる。


評価
★★★


書誌
書名：英国策論―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈３〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615459
出版社：朝日新聞社 （2007/11/30 出版） 朝日文庫
版型：388p / 15cm / A6判
販売価：840円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_578.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Fri, 06 Apr 2012 10:03:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『薩英戦争』―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈２〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_02_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_04_02_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_04_02_01-thumb.jpg" width="150" height="205" /></a>


　さて今回の巻は、薩英戦争、四ケ国連合艦隊の下関遠征、いわゆる下関事件を扱っている。薩英戦争とは、生麦事件でイギリスは幕府から賠償金１０万ポンドを受け取ったが、その後薩摩にも犯人の逮捕と処罰、および遺族への賠償金２万５０００ポンドを要求するために鹿児島に軍艦を派遣する。ここで砲火を交えることになった。当然火力の差は歴然であった。しかしいったんは砲火をまじえた薩摩とイギリスであったが、この事件の解決後両者の関係は急速に親密さをましていったのであった。
　また四ケ国連合艦隊の下関遠征とは、長州藩が攘夷を実行し、下関海峡を封鎖し、通過する船に攻撃をしたことから始まる。これに対してイギリスの駐日公使オールコックは、長州藩による攘夷継続が、逆に幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。そして幕府は元治元年（１８６４年）２月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていた。そのためオールコックは日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意したものであった。これも連合国側の圧倒的火力に差で勝利する。
　そしてここでも賠償金問題が生じる。本来これは長州藩とイギリスの事案ではあるが、幕府は「単に諸藩の中の最大、あるいは最強の『藩』ではなく、『政府』である以上、幕府としては、長州藩のおかした『過失』にたいしても、責任をとらざるをえない地位に置かれていた」。そのため賠償金は幕府が支払うことになってしまう。ここまで話を読んでいると、薩摩や長州がやりたい放題やって、その尻ぬぐいは幕府がやらされる、いつも情けなさが目立ってしまう。結局諸外国との条約や開港など、天皇とつるんでいる攘夷運動家と板挟みになって、幕府はいつも当座凌ぎの策を取るしかないところを、つけ込まれて、こういうことになってしまっていた。
　そこでオールコックは譲歩案として幕府に四ヶ国が長州藩に要求する償金の全額の処理を引き受け、その全額を支払うか、あるいは下関（ないしはその近傍にあるいっそう便宜な港）の開港するか、どちらかを選択せよと提案する。イギリスとしては幕府が支払う賠償金よりも下関を開港し、貿易による利益を優先したかった。しかし下関開港は、政府である幕府より藩が利益を奪うことになり、それによって藩が強くなり、幕府に牙をむくことを避けたかった。結局幕府は賠償金を全額長州に代わって支払、下関の開港を拒むことになるのである。
　賠償金は幕府の台所事情を考慮して分割して支払われることとなったが、第一回の支払が済んでもまだ、イギリスは賠償金を放棄してもいい。その代わり下関開港を要求してきた。ところがフランスは支払われものは全額すべて受けとるべきだと、イギリスとフランスの意見が分かれていく。意見の対立が英仏両国に生じた背景には、当時対日貿易において、イギリスが占めていた圧倒的優位があった。この本には横浜港における各国の貿易占有率が示されている。

元治元年（１８６４年）

イギリス　９２．５３
アメリカ　　１．３８
オランダ　　４．９１
フランス　　１．０１
プロシア　　０．０３
ロシア　　　０．１４

慶応元年（１８６５年）

イギリス　８５．９３
アメリカ　　１．５３
オランダ　　４．２４
フランス　　８．１８
プロシア　　０．０９
ロシア　　　０．０５

　圧倒的にイギリスの独占がここに見られる。こうなるとイギリスの本音は幕府より、政治より、貿易の利益が何よりも優先されて当然である。実際薩英戦争においても、下関事件においても、この後イギリスは薩摩と長州関係に親密さを増していく。特に長州藩とは、四ケ国連合艦隊の下関遠征に危機を感じ、攘夷などとんでもないと考えていたロンドンに留学中の伊藤俊輔（博文）と井上聞多（馨）は、急遽帰国し、イギリスと交渉に入り、関係を事件後も強固にしていくのであった。
　ここに著者はイギリスとフランスの日本に対する考え方の相違を指摘する。イギリスもフランスも幕府の立場を強化することによって、条約の勅許を獲得しようとした点で同じであったが、イギリスにあってフランスにないものがあるというのである。それは幕府以外の諸藩、とりわけ西南雄藩への視点である。イギリスは薩英戦争と四ヶ国連合艦隊の下関遠征以後、外国貿易や海外事情にたいする関心を急速につよめていた西南雄藩の動向にも及ぶ複眼構造になっていたというのである。だから状況が変化すれば（実際そうなったのだが）いつでも幕府から西南雄藩にシフトできたのである。ところがフランスは幕府一辺倒であった。
　イギリスがそれを可能にしたのがサトウとであった。

　サトウにしてみれば、このようにして、倒幕勢力の側につぎつぎに知己をつくっていったことが、その後の情報収集活動の上で、どれほど役立つこととなったか、その結果幕末の最後の日々において、イギリス公使館が政治情勢の把握という点で、どれほど他の公使館より優位に立つことになったか。
　ともかくサトウはことばの障壁をやすやすと乗り越え、日本人と対等に付き合い、日本の文化と社会の中にふかくわけ入ることのできる、最初の西欧の外交官の誕生であった。

　しかしそのサトウもいつまでも日本にいることに悩んだ時期もあった。自分の地位もなかなか上がらないこともあって、父親がイギリスに帰って法律を勉強すれば援助するという提案に揺れた。
　けれど、

　「いまや、歩むべき道を決めたのだから、あくまでもそれをつらぬき、すぐれた日本学者の地位を得るようにつとめなければならない。というのは、日本語を十分に知ることが、わたしの目的であり、わたしの努力のすべては、その目標に向けられているのだから」

「もはや、ヨーロッパの本を、わたしがひもとくことは、めったにない。そして、しだいに、わたしが身につけているヨーロッパの古典についての知識は、色あせたものとなってゆく。それだけに、報われるものが大きいことを、わたしはねがっている」


　二十歳のサトウは、ヨーロッパ文化に絶ちがたい思いをいだきつつ、自分のふるさとであるヨーロッパ文化に背をむけることも辞さない覚悟で日本にとどまり、「すぐれた日本学者」になる道を選んだのであった。サトウは晩年ヨーロッパ各地の図書館、美術館、音楽会にしきりに足を運んだのは、日本にいて「失われた時間」を取り戻すためだといわれる。

　ところでサトウが伊藤俊輔（博文）に送った手紙に自分のことを「薩道懇之助」と署名している。サトウは「薩道懇之助」とか「薩道愛之助」とか自らを漢字で書いているという。どうして「薩道」なのか、その考察が面白かった。著者は広辞苑の新村出博士の説を取り上げている。サトウが自らを「薩道」と称したのは、サトウの頭の中にはいつも薩摩のことがあったからではないかというのである。サトウが来日したのは生麦事件が起こる数日前であったと、１巻に書いたが、来日早々のこの事件はサトウにとって強烈な印象であったろう。その後薩英戦争となり、「薩摩」の二字が絶えず目の前にちらついたに違いない。サトウが学び始めた日本語で薩摩の二字は比較的早く覚えたことだろう、と推測する。だから自らの名前の音の類似も伴って「薩道」という書名を思いついたのではなかろうかと言うのである。なるほど・・・。

　最後にウィリアム・ウィリスについて書く。ウィリスはサトウの友人であり同僚であった。吉村昭さんの『白い航跡』に彼のことが出てくる。そこではウィリスの医療技術の高さに驚いている場面があるし、人格的にも優れた人物のように書かれていたと思う。しかしここではもっと人間くさく描かれていて、たぶんこれが実像なのかな、と思った次第である。
　もともとウィリスが来日したのは、年俸五百ポンドという収入につよくひかれたためである。それはイギリスにいたのでは容易に手にすることのできない金額であり、それにより貧困からの脱出が大きな動機であった。
　日本に来てからも、マリア・フィスクのあいだにもうけたエドワード・ハーバートの将来、モーニンにのこっている両親や兄や姉妹の生活のことが、ウィリスのこころをはなれることはなかった。
　エドワード・ハーバートについてはいうまでもないが、モーニンのひとびとの不幸も、自分のそれであると、ウィリスは感じていたけはいである。しかも、ウィリスがよく知っていたのは、不幸のすべてではないにしても、かなりの部分は、結局「金の問題」に帰着すると考えていた。


　「わたしは、自分の公務を妨げないかぎり、金儲けの機会は、けっして見のがさないつもりです」（長兄ジョージの夫人ファニーへの手紙、１８６４年３月１日付）


　「蓄財にたいするウィリスのつよい執着のなかには、貧困の家に育ったものに特有なかなしみがつきまとっている」とここでは書かれている。ウィリスの蓄財にたいするウィリスつよい執着の背後事情が来日の理由であり、横浜で友人と薬局経営に乗り出すのもこのためであった。
　何となく、そうじゃなかろうかと思っていた。宣教師ならともかく、彼らがわざわざ日本という僻地に来る理由など、それしかあるまい。私は自分の性格がひねくれているからかもしれないが、そうそう人間人格者であり得ないと思っている。そういう風に人格者に見える人でも、どこかどろどろしたものがあるんじゃないかと思う人なので、かえって安心してしまった。これでいいような気がする。


評価
★★★


書誌
書名：薩英戦争―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈２〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615442
出版社：朝日新聞社 （2007/10/30 出版）朝日文庫
版型：436p / 15cm / A6判
販売価：945円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/04/post_577.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Mon, 02 Apr 2012 09:47:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>萩原延壽著『旅立ち』―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈１〉</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_26_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_26_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_26_01-thumb.jpg" width="150" height="209" /></a>


　この本はかなり以前から気になっており、シリーズとして、結構な値段をしていたので単行本で買おうかどうか迷っていた。そのうち文庫本になったので、手元に置いておいた。で、これからこのシリーズを読んでいこうと思っている。

　今回はアーネスト・サトウが来日から始まるが、その前にサトウに家系や来日までの生い立ちが書かれている。私は昔、サトウが日系かと思っていたことがある。もちろん違う。サトウには晩年『イギリスにおけるサトウ家年代記』という著作があるそうだが、それによると、リューベックとロストックというバルト海にのぞんだ二つの港町のほぼ中間あたりにヴィスマールというやはり港町付近にSatow（“種をまく人の村”という意味だそうだ）という地名が姓になっており、そもそもSatowという名前は、ドイツ北東部に移住してきたスラヴ系のヴェンド人に由来するものであったらしい。どうもサトウの先祖はこのあたりにあるという。記録がはっきりするのはサトウの祖父の代で、サトウ家はヴィスマールの町で主としてロンドンと取引する貿易商を営んでいたらしい。その後サトウ家はラトヴィアのリガに移り、サトウの父の代にロンドンに移ってきている。
　このあたりが一族に比較的海軍軍人、貿易商、外交官を輩出している理由であろうと著者は書いている。ヴィスマール、リガと絶えず海の風に馴染んできた先祖の歴史と無関係じゃないというのだ。
　それではサトウはどうして日本に来たのであろうか？その動機が著者によって推察されている。当時のイギリスは特権階級と大衆と社会を二分しており、大陸から移動してきた父を持ち、非国教徒の家に育ったサトウは「不安定な社会的地位」にあった。若いサトウは社会に屈折した感情を鬱積させ、階級的、宗教的差別の支配するイギリスから脱出したいというのが来日の動機であったのではないかという。
　１８６１年６月、イギリス外務省は中国と日本に勤務する通訳生の採用を決め、サトウはそれに合格し、日本を目指す。それ以前にサトウはローレンス・オリファントという人の著作によって日本に対する好奇心がかき立てられていた。
　しかしサトウはすぐ日本に来たわけでなく、日本に入る前に、漢字を勉強しなければいけないという、本国の指示でしばらく中国に滞在する。そして１８６２年９月８日（文久２年８月１５日）サトウは横浜に到着した。このときサトウは１９歳であった。来日早々生麦事件が起こった。
　以来イギリスはそれ以前に起こった東禅寺事件と一緒に幕府に賠償金や謝罪を求めた。当時幕府は攘夷を主張する朝廷と列強各国と板挟みになっていた。賠償金でさえ簡単に支払えない状態であった。そのため決裁や支払期日をだらだら延ばし続ける。当然イギリス側はだんだん我慢が出来なくなり、強硬手段に訴えようとする。第一巻はこのあたりで終わる。

　ところで歴史ではイギリスは後に生麦事件を起こした薩摩と手を組み、フランスは徳川幕府側につく。このあたりは自国の国民が切り捨てられたのだから、イギリスは薩摩藩に対して制裁行動をとるのはわかる。それが薩英戦争となっていくのだが、その後そうした敵対した立場の薩摩藩とイギリスがどうして手を組むようになったのか、そのきっかけは何だったのか、それを深く考えたことがなかった。私の頭の中にあるのはこの戦争で薩摩藩はイギリスの兵力の差を見せつけられ、攘夷を捨てて、逆に手を組むことを考えるようになった。長州にしても同様だ、と思っていた。
　ただ昨日の敵は今日の友となっていくのは、下地があったようである。そのことがこの本に書かれている。幕府は開国をさらに進めるようイギリスをはじめ列強各国から迫られていたし、生麦事件の賠償金の早急な支払いを求められていた。ただ朝廷は執拗な攘夷を求めていたので、下手に賠償金を支払えば、列強の言いなりになっていると批判されかねない。そして朝廷は外国人追放令を出した。これを何とかしないと列強各国に幕府の立場がなくなってしまう。
　そこで幕府は酒井忠毗（飛騨守）がイギリス代理公使ジョン・ニールに小笠原長行（図書頭）を上洛させ天皇と議論し、これの撤回を求める計画を打ち明ける。その際兵を率いて行く。天皇をそそのかしている“大君の敵”である悪の根源を取り除くと言うのである。
　同席していたフランス領事ド・ベルクールは“大君の敵”とは誰なのかと酒井に聞く。酒井は言葉を濁しながら、“大君の敵”とは薩摩だと言う。酒井は薩摩が生麦事件で幕府を困らせ、直接の交渉を、幕府を乗り越えてやろうとしている。薩摩は幕府が条約を締結したがそれを実行する意志を持っていないという説明する機会が出来る。だから薩摩を攻撃するな、自分（薩摩候）が大君の地位に就くのを援助してくれ、そうすれば日本を開放しようというのが薩摩の真意である、と言うのである。それを聞いたニールは薩摩に関心が移って行くのである。このことが、イギリスが薩摩に近づく第一歩だったと著者は言っている。

　もともと幕府と有力大名の対立は、幕府による外国貿易の独占が不満の種であった。当時諸大名は外国貿易に強い関心を示していたが、それが幕府によって不当に妨害されていたため、逆に「排外的態度」を示すことで、幕府を揺さぶっていたのである、と外国商人たちは見抜いていたのであった。
　この意見は今まで知らなかった。私は単に長い鎖国の中で生まれた外人嫌いが攘夷思想となっていたものと思っていたのである。もちろんその点もあろうが、もしかしたら攘夷の底流には、こうした幕府への不満があったのかもしれないと思った次第だ。あるいは長い鎖国の弊害がここに来て吹き出した感じなのかもしれない。この点はなかなか興味深い。
　しかしイギリスが薩摩に近づくには薩英戦争を経ないとならないことは歴史が物語っているが、その後どう展開していくのか、次巻が楽しみだ。


評価
★★★


書誌
書名：旅立ち―遠い崖　アーネスト・サトウ日記抄〈１〉
著者：萩原　延壽
ISBN：9784022615435
出版社：朝日新聞社 （2007/10/30 出版）朝日文庫
版型：360p / 15cm / A6判
販売価：798円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_576.html</link>
         <guid>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_576.html</guid>
         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Mon, 26 Mar 2012 09:54:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>文藝春秋（平成２３年）９月臨時増刊「吉村昭が伝えたかったこと」</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_19_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_19_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_19_01-thumb.jpg" width="150" height="217" /></a>


　吉村昭さんは自らの死以後、３年間は自分のことを書くな、と妻である津村節子さんに言い残していったという。で、吉村さんの死後５年たって、津村さんは『紅梅』という吉村さんの死直前の様子を小説として作品にした。
　そして書店には東日本大震災後しばらくして特設コーナーとして吉村さんの作品である、『三陸海岸大津波』と『関東大震災』が並べられている。この雑誌のように「吉村昭が伝えたかったこと」が伝えていたのに、ということなんだろうか。あるいは過去にこうした震災、津波があったことを、記録として残されたものがあって、それが生かされていなかったと、今さらながら言いたいのかもしれない。
　いずれにせよ、この雑誌はこの二作品も取り上げられていて、雑誌の前半は様々人がこれらの作品を通して、何を学ぶべきかを問うている。私はこうした教訓的なものを求めて、吉村さんの作品を読み取るのはどうなのか、と思う。で、単純にここに掲載されている文章を読むことと、それについて考えたことを書きたいと思う。

　まずは吉村さんの講演である「作家生活の原点、三陸で語った史実へのこだわり」から。ここで興味を引いたのは、江戸時代の文化程度が外国と比べてかなり遅れていたと、吉村さんは自分が歴史小説を書くまでそう思っていた。だから浦賀にペリーが来航した時、みんな大慌てしたのだ、と思っていた。これに関しては私もそう教えられた。
　しかし、幕府はオランダ船に来港のたびに世界情勢の報告書を一緒に乗せてくるよう義務づけていた。その報告書、『オランダ風説書』に「来年、ペリーを大将に四隻の軍艦を日本に派遣することが、アメリカの国会で決まりました。来年行きますから、よろしくご用心ください」と書かれているという。要するに幕府はペリーが日本にやってくることを事前に知っていたのである。日本はむしろ外国の情勢に疎かったわけでなく、結構詳しい情勢を情報として持っていたらしい。

　【名著熟読】で『関東大震災』をテキストとして石井光太さんが書いている文章も興味が引かれた。
　今回の東日本大震災で、日本人の規律ある行動を海外メディアは絶賛した。略奪や暴力などなく、「日本人は素晴らしい！」と海外メディアが絶賛していると私もニュース見た。そして日本のメディアも、被災地では秩序が守られていたことを当たり前のように扱ってきた。
　でも本当にそうだろうか、と私は疑っていた。そんなことはあるまいと思っていたのである。むしろ外国メディアでそう言われちゃったものだから、日本のメディアは「いや、そんなことはないよ」と言えなくなってしまったのではないかと思うのである。日本人もそれに縛られてしまい、自画自賛することになってしまったのではないか。
　実際住民が避難して無人化した町や村に盗みに入る集団がいたという。ＡＴＭを壊してお金を盗むやつ、被災した家に忍び込んで、金目のもの盗むやつが多くいたと聞く。おそらく私たちの知らないところで、もっとひどいことが行われているに違いない。阪神淡路大震災の時も、影でそういう悲惨な事実があったことは、昔読んだ本に書かれていた。それが現実だろう。
　この文章の著者は関東大震災の時も、やはり海外メディアは、「日本人の規律ある行動」を報道したという。それに対して吉村さんの『関東大震災』に関東大震災のあと、庶民の一部が暴徒化し、あるいは犯罪集団と化したことが書かれていることを指摘する。今も昔も変わらないのだということを言っている。


　こうしたことが横行していたのを知れば、震災後に庶民の間でくり広げられていた光景が決して、「日本人の良識ある行動」だけであったり、「生きるためにはやむを得ない」として済まされたりする次元ではなかったことがわかるだろう。どれだけ贔屓目に見ても、外国人の日本に対する賞賛は度を超していた。本当はもっともっと醜い犯罪が行われていたのである。


　と書く。今回の震災でも窃盗や強盗まがいを著者自身目撃している。それに対してメディアは次のような対応を取る。


　だが、ほとんどの場合、メディアはこうした現実を取り上げなかった。「日本はいい国」「がんばろう日本」の掛け声のなかで、そうした現実がまったくなかったかのように片付けられてしまったのだ。事実、私の知り合いのテレビ関係者がこの略奪の問題を取り上げようとしたとき「視聴者から反感がくるから」という理由で上層部から却下された経緯があった。

　震災後の混乱のなかでそういう特集を組んだとしても、視聴者が喜ぶとは限らないし、激しい反発さえ予想されるというところが実情だろう。

　でももし吉村昭さんが生きていたらこの現状を目にして何を思うだろうか、と著者は言う。


　大震災の混乱は人間から良心を奪い去り、強・窃盗犯へと変えてしまうことがある。その人が悪いのではなく、そこにこそ震災の恐ろしさがあるということなのだ。本来はそれを考えていかなければならないのに、あらゆるメディアが口をそろえて「日本はいい国」でまとめてしまおうとする。そんなことでは何の教訓にもならず、将来さらに同じ大震災が起きたとき、三度同様の過ちを犯すことになるのではないか。吉村ならそう考えるに違いないと思うのである。


　と書く。他に地震学者の武村雅之という人がやはりこの『関東大震災』を読んで、次のように書いているが、まさにその通りであると思う。

　
　私はある確信を得た。この本で吉村昭氏が主張したかったのは「震災の恐ろしさ」＝「理性を失った人間の恐ろしさ」であることを。

　さて、先に『オランダ風説書』のことを書いた。実際の歴史は我々が知っているものとは多少違うものであることを、吉村さんは教えてくれるが、そうした事実を吉村さんは自らの足で探し出し、小説に使っている。それが吉村さんの歴史小説の魅力なのだが、その使い方を作家の逢阪剛さんは次のように書いていて、深くうなずいてしまった。


　吉村さんの文体はほとんど感情を交えず、淡々と事実だけを述べていく手法をとり、仰々しい描写を好まなかった。いわば（文体としてのハードボイルド）の手法である。事実をもって語らしめる、それが吉村文学の真骨頂といってよい。だれでも知る、歴史上の著名人の心理をくどくど書き込んだり、あるいは泣いたりわめいたりさせる組み立ては、小説としてはドラマチックかもしれないが、概して嘘っぽくなる。そういう作りものめいた展開を、吉村さんは極力排除しようとしたのである。


　ところでこの雑誌には、既存の本の随筆が一部掲載されている。すべて読んでいたものだが、忘れていたこともある。そこには吉村さんが住まれている吉祥寺の立ち食いうどんの話が書かれている。この店のうどんが美味くてよく店に入っているという。それを聞いた妻の津村節子さんはみっともないからやめてくれと言う。

　それに対して吉村さんは、


　「なにを言うんだ。おれは何の何様でもない。立ち食いのうどんを食べて、なにがおかしい」

　「身分のことじゃありません。年齢のことを言っているのです。うどんの立ち食いをしていると、みじめに見える年齢なんです」


　と言い返されたという。そして吉村さんの同年齢の友人が立ち食いそば屋に入って行くところを目撃し、その後ろ姿がみじめなものに見えた。そして自分も立ち食いに入る時は同じ姿なのだと自覚するのである。気恥ずかしくなったという。


　その後、私は、吉祥寺の立ち食いうどんの店をうらやましそうに眺めるだけで、入ることはしない。年齢というものは、妙な拘束を強いるものらしい。


　と書く。私も立ち食いそばに入ることがあるが、このときの私の後ろ姿はやはりみすぼらしいのだろうか。となると店に入る時は、ちょっとまわりを見て入らないといけないな。逆にそうでもなく、しっくりした姿に映ったら、それはそれで問題なのだが・・・。

　最後にこの「吉村昭が伝えたかったこと」と、文庫の『三陸海岸大津波』と『関東大震災』と一緒に並んでいたパンフレットがあったので、一部頂いてきた。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_19_02.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_19_02.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_19_02-thumb.jpg" width="150" height="215" /></a>


　ページを一枚めくると「幾多の歴史の真実を掘り起こし、警世の書を多く残したもっとも今日的な作家、吉村昭。果たして彼が３．１１以後生きる我々に遺したメッセージとは何だったのでしょうか－」と書かれ、吉村さんの作品をスペシャル・ブックガイドとして紹介している。そのメッセージはどうなのかな、と思うけれど、小冊子ながらよく出来ている。
　これを見ると吉村昭さんの作品はそれなり読んできたつもりであるが、まだまだ読みたい本がたくさんあることを知る。


評価
★★★


書誌
書名：文藝春秋９月臨時増刊「吉村昭が伝えたかったこと」[雑誌]
著者：
ASIN：B005EGZW1C
出版社：文藝春秋; 不定版 (2011/8/5) 
版型：307p /20.8 x 14.4 x 1.6 cm 
販売価：980円(税込)

内容紹介:
掘り起こした歴史の真実
現代を生きる我々に遺したメッセージ
未公開講演ほか、貴重な肉声がよみがえる！
【初公開講演】作家生活の原点、三陸で語った史実へのこだわり
【吉村昭の予言と箴言】災害と日本人
【阪神大震災に寄せて】歴史はくり返す
【ロングインタビュー】吉村昭と歴史小説
【異色対談】vs.沢木耕太郎「ボクシングに酔い、時代に出会った」
【徹底検証】「関東大震災」「三陸海岸大津波」高山文彦／石井光太／武村雅之
【評論】近代日本の自画像　長部日出雄
【初公開　幻のシナリオ】「破獄」
「長い間に、字まで似てきた」津村節子ロングインタビュー]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_575.html</link>
         <guid>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_575.html</guid>
         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Mon, 19 Mar 2012 17:01:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>朝日新聞特別報道部著『プロメテウスの罠』</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_14_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_14_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_14_01-thumb.jpg" width="150" height="217" /></a>


　「ここって（線量が）高かったんですね」

　「そうなんです、高いんです。でも政府から止められていて言えなかったんです」


　この本は現在も朝日新聞に連載が続いている特集を本にしたものである。東日本大震災による津波で福島第一原発の事故が起こり、それに対して住民、政府がどう対応したか、を書いている。
　先に読んだたくきよしみつさんの『裸のフクシマ』を読んでひしひし感じたのは、住民に正確な情報が伝わらないことの恐怖であった。原発から放出された放射能物質が身の近くに間違いなく忍び寄っているにもかかわらず、それがまったく目に見えない分、どこでどうなっているのか住民達は知りたいはずなのに、それが伝わらない。政府も正確な情報を得られなかった。その中で政府は混乱を恐れ、「直ちに人体に影響はありません」と言うにとどまる。
　政府は混乱していた。混乱することはある程度は仕方がない。けれどそれをどこかで建て直し、正確な情報を元に判断し、人々に情報をすばやく、適確に伝えることをしてこなかった。
　たとえばＳＰＥＥＤＩという文科省で運用されているシステムがある。ＳＰＥＥＤＩとは放射能の影響を予測するシステムのことで、放出された放射能物質がどう拡がるか、風向きや風速、地形を計算し、それが飛ぶ範囲を予測する。今ではこういうシステムがあることは、報道などで我々も知ることになったが、事故当時、官邸中枢部その存在さえ知らなかったという。ＳＰＥＥＤＩ情報を官邸中枢に伝えるべき官僚が、それをしていなかったのだ。ところが、このＳＰＥＥＤＩデータは米軍にはいち早く伝わっているのである。　経産省の原子力安全・保安院は緊急時対応センター（ＥＲＣ）を立ち上げ、ＳＰＥＥＤＩを使って汚染区域を見極めようとしていた時、官邸は同心円状に避難区域を設定し、菅直人は３月１１日午後９時２３分、原発から３キロ圏内の住民には避難、１０キロ圏内の住民には屋内待機と指示を発する。放射性物質は風に流されるので同心円状には拡がらないのが常識なのに、である。
　官邸中枢が避難区域を決めてしまった以上、ＥＲＣは自分たちの役割はないと、と判断し自らの避難区域案づくりをやめてしまう。挙げ句の果て保安院はＳＰＥＥＤＩが文科省管轄だからと、震災後様々な検証が行われる中、そんな馬鹿なことを未だに言う始末なのだ。


　これにより、もっとも影響を受けたのは浪江町山間部から飯館村長泥周辺にかけての高線量地域にいた人たちだ。最も放射線値が高いとき、長泥地区は懸命に炊き出しをしていた。自分たちのではない。南相馬市からの避難民を助けるためだ。


　このときＳＰＥＥＤＩ予測に基づいて住民を避難させておけば、余分な被曝をせずにすんだはずだ。下手に「屋内待機」など政府が出したことで、逃げられなくなったとたくきよしみつさんも言っていた。
　とにかく当たり前のようにあった通信手段が使えなくなくなることの恐ろしさは、人々に恐怖を与え、正確な判断材料を得ることが出来なくさせるものなんだ、と思い知る。その上出された情報は、「混乱を起こす」という理由で制限されたものである。このことで無意味に被曝した人々がいて、助かった命も助け出せなかったのである。
　不確実な情報は事故後も人々を縛る。


　「町を出る人はこっそり出ていきます、誰にも言わずに」
　福島市飯野村の松崎三枝子（６２）はそう言った。
　松崎は親戚が７月、被曝を避けて山形に避難したときも、周囲に言わず、こっそり避難していった。小学校では子どもたちが、お別れ会もないまま、ある日突然いなくなる。
　「私たちは避難します」とおおっぴらに言えない。そんな空気が周りにあると言う。
　「裏切った、逃げ出したみたいに言われるからです。非国民、みたいな目で見られると感じます」
　同じ福島市内に住む斎藤道子（４７）は原発の事故後、県外の知人から避難するよう勧められた。しかし、中３と高２の息子は「絶対に避難しない」と言った。友だち関係があってのことらしかった。
　最近は放射能のことを話題にしないようにしている。「放射能が心配だ」と言おうものなら、「県が市が大丈夫だと言っているのにあんたは何だと言われる雰囲気だ」と言う。
　斎藤は子どもの部活もあり、今すぐ避難は考えていない。しかし、本当に危ないなら避難したい。その気持ちにブレーキがかかる。　「県や市は大丈夫だと言うし・・・・。結局、動けなくなってしまうのです」


　あと何十年後に、今内部被爆した人々にどんな影響がでるのか、誰もわからないけれど、でも間違いなく内部被爆は人体に何らかの影響を残す可能性が高い。その時、いい加減な情報を出した国はどう責任を取るのだろうか？その時あのときの最高責任者である菅直人は生きていない可能性があるし・・・。

　ところで原発がばらまいた放射能の責任は誰にあるのか？こんなこと言うまでもなく東電だと言い切れるはずなのだが、東電は面白いことを言っているのでそれを書きたい。
　福島第一原発から４５キロ離れた二本松市にあるゴルフ場が東電に汚染の除去を求めて仮処分を東京地裁に申し立てた。事故後コースからは毎時２～３マイクロシーベルトの高い放射線量が検出されて、営業の妨げになっているから、東電が除染すべきだと言うのである。まぁ当然な訴えだと思うが、これに対して東電は答弁書で次のように言う。


　原発から飛び散った放射能性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染の責任をもたない。
　答弁書では東電は放射性物質を「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」としている。
　無主物とは、ただよう霧や、海で泳ぐ魚のように、誰のものでもない、という意味だ。つまり、東電としては、飛び散った放射性物質を所有しているとは考えていない。したがって検出された放射性物質は責任者がいない、と主張する。
　さらに答弁書は続ける。
　「所有権を観念し得るとしても、すでにその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者（東電）が放射性物質を所有しているわけではない」


　ちなみに「附合」の意味は次の通り。

　ふ‐ごう【付合・附合】　‥ガフ
〔法〕所有者を異にする2個以上の物が結合して、毀損するかまたは過分の費用を費やさなければ分離できない状態にあること。一般に、動産が不動産に付合した場合は不動産の所有者が、動産と動産とが付合した場合は主たる動産の所有者が、所有権を取得する。
 
→ふごう‐けいやく【付合契約】

広辞苑 第六版　(C)2008  株式会社岩波書店


　事故を起こし、危険物質である放射能をまき散らした上に、それが人の土地にくっついちゃったら、もう法律上は不動産の所有者が所有権を有するわけだから、東電がそれを取り除く理由がない、という主張なのだ。
　開いた口がふさがらないというのはこういうことだ。法律というのは面白もので、解釈によってこういう言い訳が出来ちゃうところある。詭弁が詭弁でなくなってしまうのだ。当然こんな主張をするのには弁護士が入れ知恵したと思われるが、こんな悪知恵を働かせて裁判をやっても、最終的には東電に何ら為にならないのではないか。かえって悪印象を与えるだけだ。
　これに対して裁判所は、放射性物質が無主物がどうかに立ち入らず、今国が除染の方法を模索している最中だし、その補償方法も対策を検討中だから、それを待て、東電に除染を求めたゴルフ場のこの訴えを退けた。きっとこれから先こういう訴えが各地で起こってくるのだろうけど、東電や国は言葉を弄して逃げ廻るのではないかと危惧してしまう。


　阿刀田さんのギリシア神話を解説した本にプロメテウスのことを次のように解説している。


　プロメテウスが神々の国から火を盗んで人間に与えたのを怒ったゼウスは、人間たちを懲らしめるために贈ったのがパンドラという女性だった。パンドラはゼウスから邪悪な贈り物を持参の箱の中に隠し持っていた。ゼウスからこの箱を絶対に開けてはならぬと言われていたが、気になり開けてしまう。すると怪しい煙が立ち上り、病気、戦争、悪意、嫉妬など、ありとあらゆるこの世の悪が飛び出した。人類の不幸はこのときから始まったとギリシア神話はしているのである。パンドラはあわてて箱のふたを閉めたが、時既に遅く、諸悪の根源はすべて飛び散ってしまったが、かろうじて箱の底に残ったものがあった。それが“希望”であった。人間がもろもろの悪にさいなまれながらも、希望だけを一縷の救いと持ち続けられるのも、このせいなのだ。


　原子力は「プロメテウの第二の火」と言われる。パンドラの箱の最後には希望が残っていたと言うが、本当に希望は残っているのだろうか、と思う。


評価
★★


書誌
書名：プロメテウスの罠―明かされなかった福島原発事故の真実
著者：朝日新聞特別報道部
ISBN：9784054052345
出版社：学研パブリッシング　学研マーケティング〔発売〕 （2012/02/28 出版）
版型：269p / 19cm / B6判
販売価：1,299円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_574.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Wed, 14 Mar 2012 19:32:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>たくきよしみつ著『裸のフクシマ』</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_09_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_01-thumb.jpg" width="150" height="217" /></a>


　もうすぐ東日本大震災から１年となる。書店の店頭でもこの大震災の関連本が多数並んでいる。テレビでもこの１１日にかけて特集番組が組まれているようだ。
　私もこの一年この大震災に関する本をいくつか読んできた。地震、津波、原発事故と気にかかる本は手にしてきた。それはこの大震災が未曾有の自然災害と人間の奢りがさらに被害を拡大したのではないかと思ったからだ。その実体を少しでも知りたいと思ったのである。自然災害における人間というものは無力に近い。愚かしいところも震災時も震災後もある。でも一方で人間としての尊厳を感じることも出来た。おそらくこれから先もまだまだこの大震災に関して様々な検証が行われ、多くの本が出版されていくことだろう。私も大震災に関しての本をできる限り読んでいきたいと思う。

　著者は終の棲家として購入した家が中越地震で崩壊し、仕方なしに２００４年末福島県双葉郡川内村に移転した。そしてあの大震災に遭遇する。この本は２０１１年３月１１日の大震災、その後の原発事故に遭遇した状況を生々しく伝えている。


　２０１１年３月１１日地震と同時に、携帯電話（au）が不通。ＮＴＴの光電話は通じていたので連絡は取れた。川内村はもともと水道はない。すべて井戸を使っている。だから電気が来ている限り断水はない。米と野菜は十分にある。長期的に孤立しても飢えることはない。広い土地には人はパラパラとしかいないので集団パニックも暴動も起きようがない。だからどこよりここにいるのが安全だった。家はもともとこの辺は硬い岩盤層なので、無傷だった。
　問題は原発だった。つけっぱなしのテレビから「福島第一原子力発電所では非常電源が動かず・・・・」と流れる。

　まさか！

　原発が電源喪失している？嘘だろ、おい。電気使えなかったら冷やせなくなるじゃないの。空炊きになって爆発しちゃうんじゃないの？

　頼むよ、冗談だろ。

　「最悪の事態」を想像しようとしなかった。あまりにも恐ろしくて、考えることを拒否していたのだ。
　不安が深まる中、午後ネットが不通になった。


　著者は通信不能になる恐怖をひしひしと感じている。地震に関して著者の住んでいた川内村は屋根瓦の一部が落ちた家屋などがあったが、ほとんど被害がなかった。停電も起こらなかった。浜側の阿鼻叫喚を見ていない（知らなかった）人たちは「東京の人は何十キロも歩いて家に帰らなければならなくて、大変だなあ」と同情してテレビを見ていたくらいだという。停電がなかったものだから、１Ｆで全電源喪失という状況がにわかに信じられなかった。電気が普通に来ていて「絶対安全」な耐震設計の原発が壊れたり、まして停電しているなんてことがあるわけがない、と思っていた。ちなみに福島第一原子力発電所のことを、地元住民や関係者は「１Ｆ]と呼ぶ。

　１５日１１時００分、総理官邸から「２０～３０キロ圏内の住民は屋内待機」という指示が出る。この「屋内待機」という中途半端な指示が最悪であった。文字通り解釈すれば、建物の中に入って動くな、ということになる。これが出たために、逃げようとしていたのに避難所から出られなくなった。住民たちに混乱・困惑を招く。
　とにかく逃げないとならない。車で逃げるのだが、問題はスタッドレスのタイヤを履いたままのなので、それをどうするか。このまま長期間ここに戻れないとなると、このままスタッドレスのタイヤを履いたままではまずい。しかし途中雪道なので、これを外してスリップしたら、とも考える。それにタイヤ交換は這いつくばったり息を切らしたりしながらすれば、泥のついたタイやから放射能物質を吸い込むことにもなる。何度か考えた末、大丈夫だと言い聞かせてタイヤ交換をしたという。


　今回のような放射能汚染が起きた場合、とにかく放射能物質を吸い込まないようにして、いち早く遠くへ逃げることだ。後から「逃げなくてよかったね」とわかればそれでいい。その逆は取り返しがつかない。

　考えたくないことだが、我々周辺住民のほとんどが、程度の差こそあれ、内部被爆はしている。ヨウ素はすでに消えてしまっているだろうが、セシウムやストロンチウムが身体の中に入っているかもしれないと思うのは結構なストレスだ。

　我々は、人類史上初めてと言っていい規模の被爆実験動物になってしまった。


　この事故の最大のポイントは、絶対に停電させてはいけない原発施設で、完全に停電を起こしてしまったことによる。その原因は以下の通り。


　ここには外部電源が一系統しかなく、非常用ディーゼル発電機は、津波どころかゲリラ豪雨でも水没しそうな地下にまとめてあって、別の場所にバックアップさえなかった。
　震源地に近い女川原発では１Ｆより高い津波が襲いかかったが、高台にあったために水没は免れた。１Ｆはもともと女川と同じ高台にあったが、わざわざ削って低くした。それは原発は岩盤の上に建設しなければならないという基準を満たすために、地下の岩盤まで基礎パイルを打ち込む際の深さを短くして建設費をケチったという説もある。
　要するに、やるべきことをことごとくやらず、大切なところで金をケチりまくった結果の惨事で、どれか一つでもまともに対応していれば、今回の惨事は防げた。


　現時点でほぼはっきりしているのは、大規模汚染の「主犯」は２号機であり、１号機や３号機の派手な爆発だけであれば、放射能汚染の度合いははるかに低く済んだ。１、３、４号機が見るも無惨な姿を晒しているので、汚染の原因がそっちにあると思ってしまうが、両隣の残骸をよそにしれっと建っている２号機こそが、汚染の主犯だった。
　１５日６時２号機の格納容器が破損。炉心の高濃度放射能物質が一気に環境中に放出される。問題はこのときの風だ。２号機の格納容器が破損した１５日６時頃は北東の風２メートル弱の風が、正午から突然南東の風に変わり、これによって２号機から出た放射能物質が一気に北西方向に流されていった。（下の図は先日朝日新聞に掲載されていたものである）


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_02.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_09_02.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_02-thumb.jpg" width="300" height="283" /></a>


　１Ｆからの放射能物質大量放出は大きく分けると４回あり、３月２１日の放射能物質漏れが首都圏にいくつかある「ホットスポット」を作ったと言われている。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_03.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_09_03.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_03-thumb.jpg" width="320" height="493" /></a>


　原発事故後海外から日本に訪れる人が激減した。特に観光地においてそのダメージは大きかった。そのため日本人は過剰反応と思った人も多いはずだ。しかしそれは決して過剰反応ではない。特にヨーロッパにおいてはチェルノブイリの事故を体験して、その時の現実をしっかり学んだから、そうした反応を示したのだ。むしろ日本人の方がチェルノブイリのとき現実をしっかり学ばなかった。その鈍感さ危機意識の低さの方が批判されていいのかもしれない、と著者は分析している。


　日本はいま、従来の基準（ＩＣＲＰやウクライナの基準）をあてはめたら、福島県丸ごとプラスαくらいの規模で国土を喪失している。
　これはもう、議論している段階でなく、現実として直視するしかない。
　国土の狭い日本で放射能汚染を発生させてしまったことがいかに取り返しのつかないことか、もっと深刻に受け止めなければならない。


　とにかく政府から出される情報が曖昧だし、遅い。あるいは今となってわかりつつあることは、正しい情報を把握しているにもかかわらず、それをすばやく公開してこなかったことに問題がある。原発がああいうことになって、住民たちは逃げなければならないことわかっていながらも、「屋内待機」という中途半端な指示がそれを押しとどめてしまった。


　ＤＯＥ（アメリカエネルギー省）と文科省合同の汚染地図を見ると、２０キロ圏内や３０キロ圏内でも汚染の少ない地域とひどい地域がはっきりしているし、それ以外の地域でも汚染の激しい地域があることがわかる。つまり原発から近いほど放射能の汚染が激しいとは一概に言い切れない。逆に国や県が周辺自治体に何の指示も出さないものだから、独自に判断・行動が取れなかった自治体の住民が軒並み被爆した。政府がきちんとした汚染情報を出さなかったことで、物流が途絶え、多くの地域に物資が届かなかった。自衛隊でさえ放射能を怖がって２０キロ圏内に入らず、海岸沿いで生き残ったであろう津波被災者が皆殺しされた。


<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_04.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_09_04.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_09_04-thumb.jpg" width="320" height="452" /></a>


　１ミリシーベルトだの２０ミリシーベルトだの机上の議論を闘わせているよりも、まずは汚染された地域の全世帯に線量計を配布し、自分の生活環境がどの程度放射線に晒されているのかを知らせることだ。水や土壌の汚染状況を細かく測定して公表することだ。同心円や自治体境界線で線引きして命令を下していたのではあまりにも現実に合っていない。


　文科省は３月１５日からモニタリングはやっていたが、このデータはしばらくの間隠されていた。なぜか？おそらく２０キロ圏内を一律に警戒地域指定にして立ち入らせたくない県や国の意向汲んで、データを出したくなかったのだ、と著者は言う。


　しかし時間が経過して、福島県が理解しがたい動きを始める。３月３０日県知事は国に対して「２０キロ圏内を、強制力のない避難指示から、法的に罰することができて立ち入り禁止にする『警戒区域』に指定してくれ」と要請した。なぜ県が自分自身の身体を一部縛ってくれ、切り捨ててくれと言い出したのか。一説には「火事場泥棒」被害がひどく、手がつけられなくなっていたからという。

　初期の頃は、これだけの災害に遭いながら被災地ではパニックは起こらず、被災者たちは落ち着いて行動している。日本人は素晴らしい、といった論調の報道がずいぶんなされた。確かに被災者たちは我慢強く、自棄を起こす人は極めて少なかった。
　しかしプロの窃盗団などによる組織犯罪はやり放題で、検挙はほとんどされていない。犯罪者たちは今頃笑いが止まらないことだろう。


　さて、ここからは原発事故後の東電の補償仮払金と義援金を巡る悲喜劇を書き出す。その前に言っておかなければならないのは、我々が単に被災住民の態度に呆れることが出来るのか、という問題である。確かにあまりにも“ひどい”と言うのは簡単だが、私たちはその姿を被災地から離れているところで見ているわけで、直接被害にあって、自分たちの住むところ失ったわけじゃない。だからこれからあげることを非難できるかどうか？自分が実際同じ被害に遭えば、１円でも多く補償金や義援金をもらいたいと思うだろう。時にはヤケになることだってあるだろう。こうなったら東電や国や県に面倒見てもらったっておかしくないという論理が出来上がってしまうかもしれない。しかし少なくとも著者は福島に住んでおり、そこから非難してきたのだから、著者が呆れたり、非難したりする権利はあろう。しかしこれでいいのだろうか、と思うので著者の見た現実を書き出す。


　当初、東電の補償仮払金は３０キロ圏内の住民に支払われると決まったために、同じ地区でありながら、３０キロ圏に入った家には東電の仮払金を受け取る「権利」が生じ、残りの家にはない、という状況ができあがった。そこで、３０キロ圏外の人たちから、「被災状況において何も変わっていない近所同士が、かたや１００万円もらえて、かたやもらえないとは何事か」というクレームが出た。そうした混乱をこれ以上深めないためにも、この地区全部を東電仮払金支払い対象となる緊急時非難準備区域にする必要が出た、というわけだ。

　最初に決まった仮払金の内容は、１世帯（２人以上の世帯）当たり１００万円、単身世帯には７５万円というものであった。しかしたとえば親・子・孫の３世代１０人が１世帯を形成していても、子のない夫婦でも１００万円とはどういうことか、という苦情が出た。しかも対象範囲が世帯ということなので、１０人家族でも、８人の子どもが別世帯を形成していた場合、８人別々に７５万円が支払われる。この家族がもらえる仮払金は合計７００万円となる。これが８人一緒に住んでいたら１００万円である。
　また同じ家に住んでいても入籍しておらず、別々の住民登録をしていたカップルは「単身世帯×２」と計算されて、１５０万円もらえる。入籍していたら１００万円だ。
　さらに単身世帯として７５万円もらった人の中には、たまたま単身赴任で社宅や安い公共住宅に住んでいた人も多い。この人たちは特に福島出身でなく、また福島県に特に思い入れがあるわけではなく、事故後本社に呼び戻されたして、思いがけず７５万円を宝くじに当たったように感じたと告白している。


　避難所から出て行こうとしない人たちの姿も次のように描かれる。


「避難所にいれば三食昼寝つきで何もしなくていい。毎日がお祭りみたいなもんだった」


　仮設住宅が出来ても、そこに移ることを拒否して、集団避難所から出ようとしない人たちも少なくなかった。仮説に移れば自分たちで食事を作り、光熱費を払わなければならない。金のかかるのは嫌だ、という理由からだ。避難所周辺のパチンコ店は連日避難者で盛況だったという。
　また集団避難所から溢れた人たちは、磐梯熱海や猪苗代湖畔などの温泉旅館やその他各地のレジャー施設に入った。この人たちは三食昼寝つきに加えて温泉まで入り放題。「毎日が慰安旅行」状態が続き、これまたなかなかそこから出て行こうとしない人が増えた。　公共のコテージ施設も避難所になったが、コテージだから別荘風住宅で、３０キロ圏内の家族は無料で入居でき、食事もバイキング方式で用意される。緊急時非難準備区域の自宅に戻って普通に生活していた家族は、そこを申し込んで実際は別荘代わり利用し、「気分転換になるし、食事がタダだからたまに『別荘』に泊まりに行くのよ」と言う。あるいは郡山市内のアパートを「みなし仮設住宅」として申し込み仕事場兼移動時の宿代わり利用したりする。
　集団避難所では食料や日用品が無料で支給され、その配給に何度も並びもらったものを段ボールに詰めて宅急便で実家に送って、「店が開けるほど物がいっぱいある」など言っている人もいたという。
　このような「非難太り」と呼べる怪奇現象が起こっていた。さらに８月になって東電から「非難等にかかる追加仮払いのお支払い基準」なるものが示されると、実際に「戻らなければもっとお金がもらえる」こととなった。
　仮設住宅においても、応募総数に対して住宅が足らないところもあれば、入居する人がいなくてガラガラのところもある。ここに「みなし仮設住宅」制度というものがある。これは仮設住宅が足らないということで、民間賃貸住宅をそのまま仮設住宅として使うということでこの制度が作られた。これは県が借り上げて割り振る従来の方式ではなく利用者が住むところを見つけてきて申請すれば、「みなし仮設住宅」となり、そこに補助金が出る。それでなくとも仮設住宅に住めば食費や光熱費が自己負担となるので、仮設住宅に住むことを拒否している現状があるところへ、自己申請で自分の住みやすいところを仮設住宅として認めてくれるなら、当然人々はこっちの方に流れるに決まっている。だから仮設住宅が余ってしまったのだ。最初からこうすれば良かったのだ。
　仮設住宅に関連して「家電６点セット問題」というのがある。仮設住宅やみなし仮設住宅に入居した世帯には日本赤十字から、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、炊飯器、電子レンジ、電気ポットの６点が無償支給される。これは貸与でなく供与なので返還する必要はない。そしてここでも対象が“世帯”であることが問題だ。６人家族が２人ずつ別れて仮設住宅を申し込み、家電６点セットを３組もらって、２組を売り払って現金化する。家電６点セットは海外からの義援金が原資になっているらしく、まさか外国に人々が福島の地震、津波の被害に寄付したお金が家電製品になり、被災者でない人の部屋にヤフオク経由に渡っているとは夢にも思わないだろう。


　著者はここに「原発ぶら下がり体質」がここでも出てきているという。これは以前読んだ佐野眞一さんの本にも書いてあった。福島に原発を誘致することで、莫大な補助金を手に入れ、それを元に県政をやってきた。そこの住人たちもある意味それを享受してきた。その体質が事故後も変わらずあることを言っている。


　福島県は、２０キロ圏内の一律警戒区域指定に加えて、３０キロ圏内＋「計画避難区域」のすべての作付けをやめろという指示も出した。「風評被害」防止を訴えていたはずの県が、自ら率先して、汚染地域も汚染の薄い地域も一律「作付けをするな」と言っているのだ。それは今後補償交渉を有利に進めるために、少しでも広く「汚染地域」確定しておきたいのだ。「２０キロ圏内、３０キロ圏内はこれから先何十年も戻れないのだから、復興なんて考えなくていい。どうしたら賠償してもらえるか、補償金をしっかり取れるか考えるべきだ」と公然と言う人出てきた。県の上層部でも補償金問題は最重要として、「足並み揃えて一斉作付け禁止に協力して欲しい」と言っているらしい。農家もこれに従わなければ補償金がもらえなくなる恐れがあるから、素直に従う。福島県でも線量低い土地もあるにも関わらずである。


　メディアは、復興への努力を美談として演出し伝えようとするが、実際には必死で復興の努力をしている人がいる一方で、地域のリーダー格の人物にも「復興は無理なんだから、補償金交渉に専念したほうがいい」と考え、行動している人たちが少なくない。
　避難民のためにボランティアで働いていた人が、避難住民から次のような言葉を聞き、ショックを受けたと言うが、まさかと思う程、言葉を失う。

　「自分たちの生活は、一生、国と東電が面倒みてくれる」

　「原発敷地内の草取りは時給２，０００円だった。今さら時給８００円でなんて働けるか」

　どうすれば国から少しでも多くの金をもらえるかという発想で動く－残念ながら、これは原発を誘致したときからずっと変わっていない福島県の体質なのだ。もともと福島県浜通りへの原発誘致は、浜通りの自治体より県が率先して主導してきた歴史があるのだ。もちろん浜通りでも、原発誘致に身体を張って抵抗した人々もいたが、しかし県や町が誘致に必死になっていたからどうにもならなかった。


　そして著者は次のように言うのだ。


　悲しいことだが、土、水、空気の安全を奪われて裸にされた福島を、金で完全に「補償」することはできない。金でできるのは、人々の苦痛をいくらか軽減することだけだ。
　いま、福島では、鶏１羽に対して何百円とか、田圃１反に対して何万円とか、数値化ができそうなものを巡って泥沼の攻防が始まっている。しかし、こうした補償闘争に納得のいく決着などつくはずもない。


　書名に“裸のフクシマ”と付けたのは、福島に原発を誘致し、手厚い、ノーチェックの補助金政策、優遇政策がなされるとともに、それだけを目当てに成り立つ産業構造ができあがってしまったこと。補助金は産業が補助金なしで成り立つように育成するためのであるはずが、その補助金がないと成り立たない産業構造を造ってしまったこと。そして今回の事故で徹底的に汚されてしまったことを、“裸”と言っているのである。補償金や義援金の奪い合いや、避難所での生活を強いられる人々の態度は今までの福島の体質がそうさせているところがあるのではないか、と著者は憂慮している。
　それに対して、そうかもしれない、と思えるけれども、失った生活を元に戻すことがほぼ不可能に近い状態になれば、行きつくところお金に換算するしかない、と思う。ただ行政は失敗に期したことは間違いないだろう。そのことを取り返しのつかない代償を払って知らされたのかもしれない。それを感じさせる事故当時川内村の小学６年生だった女の子が書いた抗議文をあげて終わりにしたい。


原発は私のすべてをうばった。私の大切な大切な故郷も仲間も学校も今までやってきたこともすべて・・・・。
原発さえなければ、こんなに悩むことも苦しむこともなかった。
原発さえなければ。なんで原発なんでつくたんだよ。
川内のみんなとこれからつくりあげていくはずだった歴史もすべて。
あなたは私の何を保しょうしてくれますか？
私の時間を私の仲間を私の心をすべてうばった。
あなたは私のすべてを保しょうしてくれますか？
こんな思いをいだいているのは私だけではないでしょう。
あの美しい川内村をあのあたたかい川内村を
かえしてください。
私のふるさとをかえしてください。
楽しい思い出がつまった川内村を返してください。
原発のせいで、多くの命が消えました。
どれだけ私達にとって川内村が大切だったか。
お金なんかじゃ、けっして保しょうなんかできないんです。
あなたを私は絶対にゆるさない。
すべてをうばったあなたを。
原発なんて絶対に。


評価
★★★★


書誌
書名：裸のフクシマ―原発３０ｋｍ圏内で暮らす
著者：たくき　よしみつ
ISBN：9784062173193
出版社：講談社 （2011/10/15 出版）
版型：350p / 19cm / B6判
販売価：1,680円]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_573.html</link>
         <guid>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_573.html</guid>
         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Fri, 09 Mar 2012 18:52:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>石井光太著『遺体 ― 震災、津波の果てに』</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_06_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_06_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_06_01-thumb.jpg" width="150" height="211" /></a>


　この本は東日本大震災における釜石市の地震や津波に遭われた人々の遺体について書かれた本である。特に津波で亡くなられた方々の遺体がどのような状態であったかを語ることで、津波の恐ろしさを我々に教えてくれる。
　とにかく私たちは、映像でその津波の恐ろしさを見ているのだが、どうしても上から目線のものである。高台に非難されて、そこから映し出された映像だから仕方がないのだが、実際は津波を目のあたりした人が感じた恐怖はもっともっと恐ろしいものであったろう。この本にも体験談がいくつか紹介されている。


　海水に下水やガソリンや生ゴミがまじり合った悪臭がたちこめ、鼻をねじ曲げる。これが津波の臭いなのか。


　一瞬何が起きているのかわからなかった。だが、突然通りに鉄砲水のような濁流が押し寄せてきたと思うと、家屋が次々と傾いて流されはじめた。商店は沈み、木造の民家は粉々に崩れていく。あちらこちらでガスや水道の管が破裂し、なかのものがブシューという音がする。非常ベルがいたるところで鳴る。


　そして何よりも津波の恐ろしさを教えてくれるのが、津波で命を奪われた人々の遺体の姿である。


　しゃがんで顔をのぞき込んでみると、多くの遺体の口や鼻に黒い泥がつまっていた。目蓋の隙間に砂がこびりついていることもある。流されたときに大量の泥水を飲んだのだろう。外傷があまり見られないことを考えれば、死因は津波に巻き込まれたことによる溺死だろうと思われた。

　お年寄りの遺体だったが、傷が一つもなくきれいで、眠っているようだ。
　だが、開口器をつかって口をこじ開けてみると、津波の恐ろしさを目のあたりした。歯の裏に黒い砂がぎっしりと詰まっていたのだ。大量の砂ごと泥水を飲み込んで窒息したにちがいない。喉の奥まで入り込んでいる。犠牲者の多くは泥水を飲んだことによる溺死なのだろう。


　震災発生から一週間ぐらいは傷のないきれいな遺体が多かったが、日が過ぎるごとに仮置場に置かれる遺体はむごたらしい姿のものに変わっていった。瓦礫の下で見つかる者が多かったために、頭がつぶれていたり、胴体に瓦礫が刺さっていたりしたのだ。体の一部に裂傷があり、そこから腐って色の変わった内臓が出ている者もあった。


　特に津波の引き潮で海に引きずり込まれた遺体はひどかった。


　海上での捜索は一週間、二週間と過ぎていったが、生存者は一人も発見されず、海から引き上げたのは変色した遺体ばかりだった。当初、その多くが潮の流れが交じり合う潮目に瓦礫とともに浮かんでおり、男女ともに衣服が脱げて乳房や性器があらわになっていた。激しい津波のもまれているうちに下着や靴下まで剥がされてしまうのだろう。雪の降るなか、漂流物にまみれて全裸で揺られる姿は痛ましかった。
　何日か経つと、遺体は一体また一体と暗黒の海底に引きずり込まれるように沈んでいく。肺にたまっていた空気がなくなるためだ。遺体の一部は数週間して体内にガスが溜まって風船のように膨らみ、再び浮いてくるものもあったが、多くは魚に食い荒らされて沈殿したまま見つからない。三陸沖にはウニやヒトデといった腐肉を喰らう海洋生物がたくさん生息しており、それらがあっという間に目の球や皮膚をつついて穴を開けてガスを抜いてしまうのだ。


　海で見つかった遺体は一様に傷んでおり、思わず顔をそむけてしまいたくなるものも少なくない。腐敗しているだけならまだよく、体内にガスが充満してパンパンに膨らんでいたり、魚に喰われて顔が半分だけ白骨化していたりすることがある。人間の姿はここまで変わり果てるものなのかと思うと、自分と彼らをわけたものが何だったのか改めて考えてしまう。
　海で見つかる遺体としては、女性が多く、男性の場合は肥満体形の者が大半だった。これは脂肪率が大きくかかわっている。脂肪は水に浮くが、筋肉は沈む。そのため、男性より女性、痩せ形より肥満体形の人が海で見つかる率が高い。ただ、損傷の激しい遺体の場合は顔を見ただけでは男女の区別がつかず、遺体の特徴確認をする際は性器まで見て確かめなければならなかった。


　海で発見された遺体はすぐ納体袋に入れてあったが、そのため袋のなかには遺体から漏れた体液、血液、海水といったものが溜まっており、動かす度にチャプチャプと音を立てる。これがこぼれるとひどい悪臭にさらされる。だから遺体の搬送には注意する必要がある。まして瓦礫が散乱している中トラックで遺体仮置場まで運ぶわけだから、しっかりと押さえておかなければならなかったという。　人々は「人間の身体なんて、こんなになってしまうのか・・・」と思ったという。
　震災後はどの店へ行っても刺身の盛り合わせにウニが出されることはなくなっていた。この近辺では、昔からウニは溺死体にへばりついて腐肉を喰らうといわれていたからである。


　遺体捜索も大変だった。特に３月１１日以降、しばらくは余震が続いた。そして余震の後は、決まって津波警報が発令された。警報を聞く度に作業を中断して、近くの高台に逃げなければならない。ただ津波警報といっても、実際は一度に数センチの波が来たことがあっただけなのだが、チェーンソーなど重い鉄の機械を抱えたまま不安定な瓦礫の上を這いつくばって走らなければならなかった。
　被災地にいた住人たちも最初は逃げていたが、一日に何度もあるために途中から津波警報を信じなくなり、サイレンが鳴っても黙々と瓦礫をどかして肉親を探すことに没頭していた。しかし自衛隊は立場上警報を無視するわけにもいかず、一々目の前の遺体を放って全速力で避難しなければならない。そのくり返しが、隊員の身や心を疲労させていったという。
　また遺体の仮置場でも大変な作業が待ち受けていた。


　被害にあった地区では遺体が野ざらしにされているのだろう。そのため、瓦礫の下敷きになったり、車中に閉じ込められたりしたときの体勢で死後硬直したまま運ばれてきているのだ。警察はそれらの身元確認を行うために真っ直ぐにしなければならない。数人がかりで遺体の曲がった腕や足を引っ張るのだが、うまくいかないことも多く、つい業を煮やして体重をかけ過ぎて関節を外してしまうこともある。


　また遺体の死因や身元確認が大変であった。従来の方法のように一体にゆっくり時間をかけて検死していく余裕はない。遺体の数がものすごいからだ。

　そこで小泉は最初に溺死かどうか方法を取った。手で遺体の鼻をつよくつまんだり、胸部を押したりするのである。遺体が津波による溺死であれば、肺や気管に海水が大量にたまっているため、かかった圧力によって白い気泡状の水がチッチッチッと音を立ててあふれ出してくる。これが確認できたものについては死因を「津波による災害死」として処理することにした。


　あまりに膨れ上がった遺体の数は、関係者から遺体に払うべき敬意というものを少しずつ奪い去っていった。最初は誰もが遺体が床に横たえられているだけで慄いていたのに、数が増加するにつれ見慣れた風景となってしまい、モノとしてしか感じられなくたったのだ。それはこうした極限状態の中にいれば、精神もおかしくなってくるだろうし、その数の多さが感覚を麻痺させてしまうこともあり得るだろう。それでもモノと化した遺体が、仮置場で働く人々や家族によって人の尊厳を回復していく姿は感動的であった。
　自然の暴力によって命を奪われ、苦しみながら亡くなっていった人の遺体が、仮置場で横たえられ、一時はものすごい数の一つと化しても、家族を捜し求める人々によって、見出され、その瞬間、大声を上げて泣き叫ばれることによって、遺体は人に戻っていくように思えた。
　あの日母親は赤ん坊を抱いたまま津波に呑み込まれてしまった。彼女は一命をとりとめたものの、赤ん坊は流されて、後で遺体となって発見された。その母親が死んだ赤ん坊の前にしゃがみ込んで「ごめんね、ごめんね」と何度も謝っている姿を見て、民生委員の千葉淳は夫婦の隣にしゃがみ込んで手を合わせ、やさしい声で遺体に向かってこう言う。


　「相太君、ママとパパが来てくれてよかったな。ずっと待っていたんだもんな」

　「ママは相太君のことを必死に守ろうとしたんだよ。自分を犠牲にしてでも助けたいと思っていたんだけど、どうしてもダメだった・・・・相太君はいい子だからわかるよな」

　「相太君は、こんなやさしいママに恵まれてよかったな。短い期間だってけれど会えて嬉しかったろ。また生まれ変わって会いに来るんだぞ」


　千葉は「亡くなった方は家族が近くにいると温かさを取りもどすんだよ」と言っている。こういう人がこういう場所にいることで、家族は救われたに違いない。
　またいつまでも身元が判明しない、置かれたままになっている遺体を千葉が遺体に声を掛けることによって、遺体が人であることを、忘れないようさせてくれる。


　「実君、昨晩はずっとここにいて寒かったろう。ごめんな。今日こそ、お父さんやお母さんが探しにやってきてくれるといいな。そしたら、実君はどんなお話をするつもりだ？今から考えておきなよ」

　「幸子ママは、大槌町に住んでいたんだね。一晩、この寒いところよく頑張ってくれたね。ママのお陰で、お腹のなかにいた赤ちゃんは寒くなかったんじゃないかな。この子はとっても感謝しているはずだよ。天国へ逝ったら、今度こそ無事にお腹の赤ちゃんを産んであげるんだよ。暖かいところで、伸び伸びと育ててあげなよ。そしていつか僕がそっちにいったときに大きくなった赤ちゃんを見せておくれ」


　これだけの数の遺体が並ぶ仮置場で関係者は遺体のことを付けられた番号で言うしかなくなっていくが、千葉は分かっている範囲で名前を呼んだという。私は千葉の遺体に向かう姿勢に心打たれた。


評価
★★★



書誌
書名：遺体 ― 震災、津波の果てに
著者：石井　光太
ISBN：9784103054535
出版社：新潮社 （2011/10 出版）
版型：265p / 20cm / B6判
販売価：1,575円(税込) ]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_571.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Tue, 06 Mar 2012 09:48:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>毎日小学生新聞編　森達也著『「僕のお父さんは東電の社員です」』</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_02_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_03_02_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_03_02_01-thumb.jpg" width="150" height="216" /></a>


　まず２０１１年３月２７日に毎日小学生新聞の「ニュースの窓」に北村龍行という元毎日新聞の記者で経済ジャーナリストであり、論説委員の文章が掲載された。そこには、


　東京電力は、たった１社で関東地方を中心にした地域に電気を供給している。地域独占で、競争がない。
　鉄道会社のようにお客さんの命を預かっているわけでもないし、お客さんから直接、文句を言われることもない。経営は安定している。そのためか、危険が生まれた時に、どうすればいいのかという訓練を受けていない。
　そんな会社に、危険もある原子力発電や生活に欠かせない電気の供給をまかせていたことが、本当はとても危険なことだったのかもしれない。

　と結んでいる。
これに対してゆうだい君が「ぼくのお父さんは東電の社員です」という反論の手紙を寄せた。


　突然ですが、僕のお父さんは東電の社員です。
　３月２７日の日曜日の毎日小学生新聞の１面に、「東電は人々のことを考えているか」という見出しがありました。（元毎日新聞の論説委員の北村龍行さんの「ＮＥＷＳの窓」です。読んでみて、無責任だ、と思いました。
　みなさんの中には、「言っている通りじゃないか。どこが無責任だ」と思う人はいると思います。
　たしかに、ほとんどは真実です。ですが、最後の方に「危険もある原子力発電や生活に欠かせない電気の供給をまかせていたことが、本当はとても危険なことだったかもしれない」と書いてありました。そこが、無責任なのです。
　原子力発電所を造ったのは誰でしょう。もちろん、東京電力です。では原子力発電所を造るきっかけをつくったのは誰でしょう。それは、日本人、いや、世界中の人々です。その中には、僕も北村龍行さんも入っています。
　なぜ、そう言えるかというと、こう考えたからです。
　発電所を増やさなければならないのは、日本人が、夜遅くまでスーパーを開けたり、ゲームをしたり、無駄に電気を使ったからです。
　さらに、発電所の中でも、原子力発電所を造らなければならなかったのは、地球温暖化を防ぐためです。火力では二酸化炭素がでます。水力では、ダムを造らなければならず、村が沈んだりします。その点、原子力なら燃料も安定して手に入るし、二酸化炭素がでません。そこで原子力発電所を造ったわけですが、その地球温暖化を進めたのは世界中の人々です。
　そう考えていくと、原子力発電所を造ったのは、東電も含め、みんなであると言え、また、あの記事が無責任であるとも言えます。さらに、あの記事だけでなく、みんなも無責任であるのです。
　僕は、東電を過保護しすぎるかもしれません。なので、こういう事態こそ、みんなで話し合ってきめるべきなのです。そうすれば、なにかいい案が生まれ手くるはずです。
　もう一度書きます。ぼくは、みんなで話し合うことが大切だ、と言いたいのです。そしてみんなでこの津波を乗りこえていきましょう。（小学六年生）


　これを読んで毎日小学生新聞論説委員より小学校六年生の方が、論理的な文章書いているので驚いてしまった。確かにこの手紙は本当に小学六年生が書いたのかな、と疑いたくはなる。つくるを「作る」と書かないで「造る」と書いたりするのかな、とも思った。けれど言っていることは後々様々な意見を小学生から高校生、そして親などに言わせることにもなるので、それはひとまず置いておく。　で、ゆうだい君の手紙に対する意見を読んでみると、小学四年生あたりは、この原発事故の責任が誰にあるのかに終始する。東電が悪い。いや政府が悪い。福島県が悪いと侃々諤々である。どうしても何処かに責任の所在を持って行きたいらしい。ただこの年齢でも、福島県が東電や政府からお金をもらって原発を誘致したことはわかっているあたりは、少々感心した。つまり福島県に原発がある理由がわかっているのだ。
　そして少し年齢が上がると、責任論にとらわれず、どうすればいいのかという話に向かっていく。誰が悪いということにとらわれより、これから先どうしていけばいいのか考えようという姿勢が出てくる。できれば小学四年でもそうあって欲しかったが、一人が責任論のとらわれると、この年齢では、そこから離れられなくなるような感じだ。何とかこれから先どうすればいいかということになると、節電するとか、ひまわりを植えて除洗する程度だ。まぁ仕方がない。

　この本の後半には、森達也さんの「僕たちのあやまちを知ったあなたたちへのお願い」という文章がある。そこに次のような文章がある。


　今になって思えば、「絶対に安全である」だなんておかしい。ありえないよと言うべきだった。安全神話と多くの人は言うけれど、神話とは神の話だ。現実かどうかの証明は誰にもできない。


　神話とはファンタジーなのだ。でも原発が安全という神話を多くの人が信じたから、ファンタジーがリアルになってしまった。でも日本にある１０社の電力会社のうち、一番大きな事業地域である東京電力管内には自分たちの運営する原発を一基も置いていない。理由は東京電力管内には日本の経済や政治の中枢があるので、ここには置けないということなのだろう、と森さんは言っている。これはつまり「原発は絶対に安全である」と言われても、できれば自分の家の近くには建てて欲しくないという不安がそうさせている。実のところ不安だったのだ。電力会社や有識者やマスコミ、あるいは政治家が安全だと言っても、どこか信じられなかったのだ。だから東京電力は福島県に原発を作った。
　福島にも受け入れざるを得ない事情があった。原発を受け入れれば、多額の交付金や税金が落ちてくる。さらに原発が建てば、そこで働く雇用も生まれる。そう、おまけが豪華すぎたのだ。だから一度原発を受け入れてしまうと今度は手放せなくなってしまったのだ。このことは小学四年生も知っている。
　どこか不安は感じるけど安全だというから受け入れた。そこには豪華なおまけが付いてくるし。そうして気がつけば世界有数の地震国でありながら、さらに原爆と水爆の被ばくの被害を唯一世界で知っている国でもあるにもかかわらず、世界第三位の５４基の原発保有国となってしまったのである。
　
　本当はちょっとおかしいんじゃないのと言うべきであったのだ。ライフスタイルの質が向上することには諸手を挙げて賛成するが、その質を落とすことができない我々世代が過剰に電気を消費してきた。だから言えなかった。その責任は大きい。子どもたちだって利便性や娯楽に興じているじゃないかと言うのは大きな間違いである。それを提供したのは大人である我々なのだから。


　森さんは最後にこう書く。


　最後にもう一度書くよ。本当にごめんなさい。今のこの事態は、言うべきことを言わなかった僕たち大人世代の責任だ。
　だからお願い。二度とこんな過ちは起こさないでほしい。今回の事態を教訓にして（実はまだまったく終息していなけれど）、地球のため、未来に生きる人たちのため、人類以外の命のため、最も良い方法を考えて、そして実践してほしい。
　もしかしたら、「自分たちにできなかったことを押しつけるなよ」と思われるかな。ならば言おう。
　だからこそできる。だってあなたたちは、僕たちの過ちを知っているのだから。


　ゆうだい君のお父さんが東電の社員で、いま東電がバッシングのさなかだから、ゆうだい君が心苦しく感じているかのような、題名は如何なものかと思う。もしかしたら自分の父親が東電の社員だったことでいじめのようなこともあったかもしれないけれど、少なくともゆうだい君はこの手紙ではそんなことは一言も触れていない。東電も悪いかもしれないけれど、東電が供給する電気を湯水のように使ってきた国民にもその責任があるはずだという論理は、その通りだ。だから原発事故の責任は東電だけでなく、日本国民が全員責任を取らなければならい。知らなかった。意識しなかった、といって済まされる話じゃない。
　もし東電が原発事故に伴う損害賠償の支払いなどで、潰れてしまったら、誰が原発事故を終息させることになるか。そのまま放っておくことは出来ない。誰かがそれに関わり、その費用を負担することになる。それを考えたら、やはり国民全員でそれを負担するしかない。
　東電は電気供給事業で会社として当然の利益を上げ、資産を持ち、社員の高待遇を保障してきた。それを今になってけしからんというのは、そういうことに対するやっかみでしかない。（もちろん東電は原発の管理者なのだからその責任は当然ある）
　日本人の悪いところは、こうした事故が起こるとだれかを人身御供右にしてしまうところだ。今になって安全を軽視したと言ってみても始まらない。たとえそうであっても、もし絶対の安全を担保するために電気料金を上げれば文句を言うのは国民であろう。低価格の電力を求めたのは国民なのだ。そしてその原発を容認したのは国である。原発を誘致し、おまけを享受したのは福島県民である。だからこの原発事故の責任は日本人全員で負うしかないのである。そう思う。
　そして森さんが子供たちに謝っているように、この事故は子供たちの未来にまで影を落としてしまったことは事実である。ならば大人たちはこれから先、子供たちの未来に少しでも負担をかけないようするしかない。それをどう実践していくのか、これから先日本人全員で考えて行くしかない。


評価
★★★


書誌
書名：「僕のお父さんは東電の社員です」―小中学生たちの白熱議論！３・１１と働くことの意味
著者：毎日小学生新聞【編】　森　達也【著】
ISBN：9784768456712
出版社：現代書館 （2011/11/30 出版） 
版型：221p / 19cm / B6判
販売価：1,470円(税込)]]></description>
         <link>http://www.k-moto.net/book32/archives/2012/03/post_572.html</link>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Fri, 02 Mar 2012 10:49:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>津村節子著『紅梅』</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_02_27_01.jpg"rel="lightbox"><img alt="2012_02_27_01.jpg" src="http://www.k-moto.net/book32/archives/2012_02_27_01-thumb.jpg" width="150" height="213" /></a>


　この本は吉村昭さんの最期の日々を妻である津村節子さんが、自らを主人育子として小説にしたものである。最初私はこうした夫の最期をどうして自分を他者に擬人化してしまうのだろう、と思っていた。純粋な私小説スタイルでよかったのではないか、と思っていた。
　ただ読み進めるうちに、これはこれで良かったのかもしれない、と思うようになった。自分を育子とすることで、育子を上から俯瞰できる。そのことで夫の死を冷静に眺めようとしたのではないか、と思うようになった。死だけではない。そこに至までの時間と夫婦として一緒に暮らしてきた長い時間を大切に振り返ってみようとしたのではないか、と思うようになった。だからこれはこのスタイルで良かったのである。

　２００５年の１月に育子の夫は舌の痛みを口にするようになった。夫は医学歴史小説を書いていることもあって、病気には詳しい。これは舌癌じゃないと疑い始める。大学病院で診察してもらい、やはり舌癌であった。最初は放射線治療が行われるが、舌に針を刺したりして、これはかなり苦痛が伴うものであった。
　ＰＥＴ検査が行われ、膵臓癌が見つかる。どうやらこれが原発であるという。最初は初期のものと思われていたが、癌は膵臓全体に広がっており、膵臓と十二指腸と胃の半分も切り取られた。その後舌の手術も行われ、手術は十二時間もかかった。
　膵臓を取ったため、インシュリンが出なくなり、それのコントロールが日々必要になっていく。夫はとにかく自分の病気を他人に知らせることを嫌った。自分のことで他人に気を遣わせたくなかったからだ。育子は夫が人に気を遣うのも、夫が東京の下町で生まれたことから生まれたものだろうと思うのである。


　「東京の下町は隣近所が接していて、終始気を遣って暮らしているんだよ。他人さまに迷惑をかけないように、と親から言われ続けてきたんだ」
　と夫は言っている。約束の時間を守るのも、原稿を早く書き上げるのも、そんな気遣いだろう。

　こうした夫の気遣いは他にも書かれている。


　夫の出生地の荒川区から、夫の文学館を建てたい、という話があり、手術を前に区長ほか三名の職員が来宅した。育子は有難い話だと思ったが、夫は区民の税金を使うことになる、と言って固辞した。話し合いは長引き、結局区が何かの文化施設を造ることになった時に、併設して部屋を設ける場合には、自分が収集した資料を寄託するという話でおさまった。


　夫はそれを知っているので、お前にはお前の生活があるのだから、とか、毎日来なくてもいいよ、と言う。物を書く女は最低の女房だと言われている。そんな女を女房にして気を遣っている夫の不幸を思わずにいられない。


　しかし夫の癌は進行した。体調に異常があると、病院に連れていくが、


　抗癌剤の影響か、血糖値が異常に高くなり、エレベーターを降りる時に、夫は這うように手をついた。


　土曜日だったので息子の車でお茶の水医科大学病院まで行き、車を降りると夫はその場に座り込んでしまった。


　これを読んだ時、あの吉村さんが、と思った。


　こうした状況でも夫の気遣いは続いた。自分が入院しているので、お手伝いさんへの給料の手配など書かれたものを育子に渡していたし、自分が死んだ時に葬式をどうすればいいか、細かく書いた物が金庫に残されていた。
　それには自分の死は家族以外親戚を含む第三者に知らせないこと。葬儀は密葬、家族葬とすること。一刻も早く遺体を荼毘にすること。そして死後三日を過ぎたら。日本文藝家協会、日本藝術院に連絡し、「弔花、弔問の辞退」の標識を出すこと。そして自ら原稿用紙に毛筆で「何卒弔花弔問ノ儀ハ故人ノ遺志ノヨリ固ク御辞退シマス」と書いたものも用意してあった。さらに無宗教なので法事は一切なしとも書かれていた。
　そして育子に書いた「遺書」の最後には、「お願い」という一文もあった。


　いかなる延命処置もなさらないで下さい。あくまでも自然死を望みます。

　夫の作品に、
「幕末の蘭方医佐藤泰然は、自ら死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者をひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。その死を理想と思いはするが、医学の門外漢である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である。泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変わりはない。


　と書いている。「お願い」にあった一文はこの佐藤泰然死に方を理想とするものであったあったかもしれない。そして夫の死が近づいてきた。最期は壮絶である。延命治療を望まない夫の最期の姿がここに描かれる。


　夕食後、育子はベッドの傍に蒲団を敷き始めた。
　その時、夫はいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。育子は仰天し、
　「何するの」
　と叫んだ。寝返りして管にあたってはずれたのかもしれない。
　すぐ娘と看護ステーションに電話をし、娘は顔色を変えて走り込んで来た。
　「お父さんたら！気をつけてよね」
　娘は管のつなぎ目を何とか繋いだ。
　すると夫は、胸に埋め込んであるカテーテルポートを、ひきむしってしまった。育子には聞き取れなかったが、
　「もう、死ぬ」
　と言った、と娘は育子に告げた。
　「あなたったら、あなたったら」
　何をどうしてよいのかわからず、腰がぬけたようになって叫んでいた。
　看護師が、駆けつけて来た。看護師も慌てていた。
　「何をなさるのです」
　と言いながら、ガーゼと絆創膏をあててあったカテーテルポートを、もとの位置にもどそうとした。
　夫は、看護師の手を振り払った。
　看護師は夫を落着かせようとして、名前を呼びながら応急処置をしようとする。しかし夫は、長く病んでいる人とは思えぬ力で、激しく抵抗した。とても、手のつけようもない抵抗だった。
　育子は夫の強い意志を感じた。延命治療を望んでいなかった夫の、ふりしぼった力の激しさに圧倒された。
　必死になっている看護師に、育子は、
　「もういいです」
　と涙声で言った。娘も泣きながら、
　「お母さん、もういいよね」
　と言った。
　看護師が手を引くと。夫は静かになった。


　ちょと前に開高健さんの最期の姿が書かれたものを読んだばかりである。今回もそうであるが、自分の好きな作家だからこそ、その作家が死をどう迎えたのか知りたかった。だからこの本を読んだのである。
　それは単に愛する人の死とどう対面したか、だけのことなのかもしれないが、でもそれだけに壮絶であり、長い年月の関係が一気に凝縮するように思える。
　そして読む側は、死に様がそれまでの作家の生き方と何ら矛盾していないことを知るか、あるいは受け入れがたい自分の死と対面せざる得ない姿が、作家であろうが普通の人と変わらないことを知るのである。いずれにせよ、死というものを迎えた人の姿に私はただうなだれるだけである。尊厳を感じてしまう。


評価
★★★★


書誌
書名：紅梅
著者：津村　節子
ISBN：9784163806808
出版社：文藝春秋 （2011/07 出版）
版型：171p / 20cm / B6判
販売価：1,200円(税]]></description>
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         <category>最近読んだ本</category>
         <pubDate>Mon, 27 Feb 2012 09:57:43 +0900</pubDate>
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