2005年09月02日

抜け落ちる

 大野さんがゴルフ場で自分の帽子を忘れたことを書いているが、大野さんの場合、忘れた場所ははっきりしているが、それがどんな場面で帽子を置き忘れたか、その部分の記憶が抜けているというのだ。自分でもそんな時がある。

 先日大学の友人から壊れたパソコンが復活したから、私のブログのURLを再度教えてくれというメールがあった。パソコンが壊れてデータが吹っ飛んでしまったのだろう。
 そこで、私は返事を書き、それはよかったと書いたのだが、余計なことにデータのバックアップはちゃんとしておいた方がいいとも付け加えた。
 問題は、この余計なことを、以前パソコンが壊れたと聞いたときに書いたのではないかということなのだ。つまり同じことを2度彼女にメールしたのではないかという不安に苛まれている。
 確かに以前に同じことを書いた記憶がある。問題はそれを送信したかどうかで、その部分が完全に抜け落ちている。メールソフトの「送信済み」を見てみるが、履歴にはない。もしかして「送信済み」の履歴を整理しているときに、削除してしまったことはないだろうかといろいろ考えてしまう。もし同じことを書いていたら、ごめんなさい。

 ところで、私は文章を書くとき、下書きが必要な人で、今もこうして「秀丸」で書いている。頭で浮かんだ文章をそのままキーボードで文字にするのだが、このとき出来上がった文章を、再度見直しているうちに、嫌になっちゃってそのままボツにしてしまうこともあるし、大幅に書き直したりする。
 今回のメールにしても同じように書いたことは覚えている。ただ、それをそのまま生かして、メールしたかどうかは覚えていない。その部分が完全に記憶が抜けているわけだ。つまり一部は記憶にあり、他の一部が完全に記憶にないのは、何だか自分の脳にどこかなくなってしまっている部分があるんじゃないかなんて思ってしまい、ちょっと恐ろしい気がしてしまう。昔もそうだったのだろうか?そのあたりもはっきりしない。これはかなりやばいんじゃないかなんて不安になる。
 他人が私を見て私だと思うのと、私が自分自身を意識するのは全く別もんだろう。私自身は鏡でも使わない限り、自分自身を見ることが出来ない。では私はどうして自分を意識するかと言えば、頭の中にある様々な考えや感情が私を形成して、それが自分だと思うことで、自分の存在感を意識しているわけだ。まさしくデカルトが言ったように、Cogito ergo sum (我思う故に我あり)だ。それがちょっとやばくなってきているんじゃないかと思うと、私自身の存在感が自分で意識できなくなっちゃうじゃないかという不安に駆られているわけだ。
 確かに年齢的な問題だからどうしようもないし、元々忘れっぽいのだからちょっと抜けていたって仕方がない。
 ただちょうどさだまさしさんの『解夏』のなかの「サクラサク」で主人公の父親が痴呆症、いや今は認知症っていうんだっけ、とにかくそれになって所々記憶が抜け落ちていく姿を読んだ後だっただけに、ちょっと気になっている次第だ。こういうのはやっぱり嫌だなぁ。
 横山秀夫さんの『半落ち』で、主人公の奥さんが同じ病気になり、自分の子供の命日さえ忘れてしまい、自分が壊れていくことを悲しんで、殺してくれと頼む姿が思い出される。まぁちょっと考え過ぎかもしれないけど・・・。

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