2007年06月20日
ちょっとしたこだわり
またブックカバーの話だ。何度もここで書いているからご存じかもしれないが、私はブックカバーに困っている。で、ある時はブックカバーにしようと思って、紙を束で買ってきてそれを使おうと思い、本にカバーを掛けてみたが、どうもしっくりこない。ごわごわした感じだ。要するに紙質が厚すぎたのだ。結局この紙も使わずにそのままにしてある。
単行本は一時合皮のできあいのカバーを使っていたが、これも所詮合皮である。すべすべしてしまい、しかも冬場の寒いときは硬くなってしまうので、やめてしまい、ランクの上の皮のカバーに変えた。今のところこれで満足していて、単行本は基本的にこのカバーを使っている。
しかし本のサイズはまちまちなので、このカバーが使えないときもある。そんなときは、本屋で買ったとき、掛けてもらうカバーを代用している。
つまり最近は本屋さんで本を買うときは必ずカバーをしてもらい、家に帰ってからそれを取り外し、とっておくのである。できれば本屋でしょうもないカバーを掛けるなら、折り込まないでそのまま欲しいところなのだが、そんなことは言えないから、とりあえずかばーを掛けてもらう。もし紙だけ欲しいと言ったら、くれるだろうか?
ということで、本屋さんで掛けてくれたカバーを何枚もとってあり、必要なときにはそれらを取り出して、自分でカバーをつける。やっぱり紙のカバーはいい。ただ買ったときの本のサイズに折り目がついているので、いらないところに折り目がついてしまう問題点はあるが・・・。今回もブックオフで買ったリリー・フランキーさんの本に有隣堂のカバーを掛けて読んでいる。
ちょっと前に、JR福知山線の脱線事故の被害者の手記を読んだ。内容に関しては違うブログに書いた通りで、それに関してはここに書くつもりはない。ただそれらの手記を読んでいて、書かれている文章にどこか違和感を感じたのでそのことを書きたい。
そこに掲載された文章に無理に漢字に変換された文章が目立ったからだ。たぶんパソコンのワープロで書いたためそうなったものと思われる。
普段手書きで文章を書くとき絶対に漢字で書かないのに、ワープロで文章を書くと必要もないのに漢字に変換され、どこか不自然な感じがしてしまう。要するにワープロのお節介のためだ。
これって読んでいる側からすると非常にめざわりなのだ。文章って読めればいいというもんじゃないと思う。特に最近そう思う。おそらく書いている人たちは、そんなことは気にしていないのかもしれない。 もともと文章を書くことを構えているから、最初から堅苦しさがあるのだけれど、それに加えてお節介なワープロの漢字が変換が、余計に文章を堅苦しくする。
実は私もそうだった。しかし不必要に漢字変換された文章は、どこか自分の文章でないような気がする。借り物みたいで、どこか窮屈だ。
そう思うようになったのは、読みやすい文章って、漢字が少ない。むしろ漢字で書いていいのではないかと思えるものさえ、ひらがなで書かれているということがわかったからである。
私はこのブログで本のことを書くようになって、作家の文章をよく引用する。私は基本的には、文章を書く場合、先にノートに気になる文章を書き出し、それからどうでもいいことをああでもない、こうでもないと書きつづる。そして書き出して感じたことが、そういうことであった。その方が文章がやわらかく感じられる。
それ以来無理に漢字に変換しないように、逆に気をつけるようになった。日本語の良さは、漢字とひらがなのバランスなのではないかとさえ思っている。これからはこのことに気をつけて文章を書こうと思っている。
- by kmoto
- at 20:26
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