2009年03月30日

この一週間の欠落感、寂寞感に悩まされる

 この三月はほとんど本が読めなかった。理由は娘の結婚にある。結婚式が近づいてきた三月に入り、娘が引っ越しの準備を始め、家中ばたばたし始める。当然知らん顔はできないから、あれこれ手伝うことになる。そして結婚式の前日を迎え、式当日になり、式が終わり、妙に興奮していた自分に唖然とし、その後娘がいないことの欠落感、あるいは寂寞感に悩まされる。まだ家には長男がいるけれど、いずれ彼も独立していくだろう。そんなことを思うと、結局二人で始めた家庭がまた二人に戻るんだなと自覚されるはめになる。それが堪えるのは、我々が歳をとったこと。そして家族の人数が増え、みんなで生活し続けたことが、一人いなくなることで寂しさが増したことによる。まぁそれは仕方がないのだが、私は精神的に落ち込んでいるのは事実であった。こういう精神的ダメージは私の場合、すぐ胃腸にくる。お陰で肉体的にも調子が悪かった。
 そんなブルーな気分が私を悩ませていたので、本を読む気がなかなか起こらなかった。ただぼーっとしていただけであった。それは自分でも予想だにしていなかった分、気持の落ち込みは長く続いた。
 昨日、結婚した娘が家に来る。箪笥を買ってやる約束をしていたので、それを一緒に見にいくためである。一週間前のようにとんとんと階段を駆け上がってきて、「ただい~!」と声がする。そして今までのような屈託のない顔つきで、いろいろしゃべり始める。何も変わっていないようである。
 確かにまだ結婚して一週間しかたっていないのだから当たり前であるけれど、私は妙に安心し始める。落ち込んでいるのは親だけであって、娘は娘で自分の生活を自分なりに始めているのだろう。娘の明るさが以前と変わりがないのはまだ一週間しかたっていないからかもしれないと思うと、これから先ののことを思えばやはり心配ではあるけれど、きっと娘ならなんとかやっていくだろうと思うことにする。いややっていくに違いない。親はそう思うしかないのである。親というのは親をやっていないとその苦労や心配などわからないものだと改めて思い知らされる。
 でも、わずかではあるけれど、娘と話していると、おっ、主婦やってんじゃんと感じた。娘から“生活感”が現れてきている。これでいいんだろう、きっと。
 帰り間際、私は娘に「お母さんには、暇があったらメールをしてやってくれ」と、ホントは自分が欲しいくせに頼み込む。娘も「わかった」と言ってくれ、買い物後駅で別れる。
 
 私も完全に子離れをしないといけないなと思った。娘夫婦を信用していくしかない。そしていつまでもぼーっとしていられないし、イライラしてもいられない。私も歩き出すしかないのである。立ち上がりは昔みたいなスピードではできないけれど、ゆっくりと自分たちの生活を取り戻すしかない。頑張ろう!

2009年03月23日

浮き足立つ

 後で気がついた。私は浮かれていたのだと。
 土曜日に娘の結婚式があり、はるばる横浜まで出かけていったのだが、その時まではやはり憂鬱であった。そもそもいわゆる式典なるものが苦手で、単なる出席者だけでも気が重くなるのに、今度は娘の親として式に出なければならないのだから、憂鬱になって当然である。
 最初は娘夫婦は式など挙げないつもりでいた。しかし私の希望で式だけは挙げて欲しいと旦那さんになる彼に頼み込んでいるのだから、今更憂鬱だなんて言っていられるわけがない。しかし式場まで行く間、あるいはモーニングを着て、ピエロみたいな格好している自分の姿を鏡で見ると更に憂鬱になっていく。その上式の予行演習などされれば、ますます気持の方が落ち込んでいく。
 しかし親族だけの式を挙げてもらって、やっぱりよかったなと、式が終わってそう感じた。不思議なもので、自分の娘がきれいに見えたし、輝いているのを感じると、こみ上げてくるものがある。
 元々私は娘をとられたといった感じはなかったし、結婚そのものには反対していなかった。それよりも娘が幸せそうな顔をしているのを見るれば、よかったなと思っていたし、更に出来の悪い娘をやさしく見守ってくれる彼に感謝していたくらいだ。
 小さな式だったけれど、私にはどんな結婚式より感動的であった。
 式が終わった後、式場の近くのレストランで娘夫婦と、旦那さんとなった彼の親族と私たち家族は一緒に食事をしながら談笑する。この時私は柄にもなく浮き足立ってしまったのだろう。食事が終わりに近づき、デザートのコーヒーが出た頃、私は彼や彼のお父様や妹さんに挨拶をしたくなった。こんなことは今までの私にはあり得ないことであった。不器用に立ち上がり、今日こうして式を挙げてくれたことをお礼を言い、また娘を彼の家族の一員として迎えてくれたことにもお礼を言い、更にこれから先も娘を家族の一員として扱ってくれるようお願いしたのだ。
 
 翌日もまだ浮かれていたのだろう。息子が撮ってくれた式の写真をパソコンで整理していた。娘と息子の二人の写真を見て、更に感動してしまう。娘のうれしそうな顔と、普段無愛想な息子が笑って二人で写っているのである。パソコンの画面でその写真を見ていたら、急にここにあるすべてのjpgファイルを写真にしたくなった。すぐ近所の写真屋さんに行って、ここにあるファイルを全部2Lサイズの写真にしてくれと頼んでしまう。1時間後写真が出来上がって、会計をしたら、九千いくらとなって、呆然とする。俺はいったい何をしているんだと思ったのだ。
 案の定かみさんに怒られる。そうなのだ。普段なら写真にする場合、パソコンで選んでから、数枚写真に焼き増しするのだが、今回は何も考えず、ファイルすべてを写真にしてしまったのだ。しかも大きなサイズで。かみさんが怒るのも当たり前である。もちろん私も浮き足立っているのがわかったから、何もかみさんに反論できない。
 私は娘の結婚式もうれしかった。だからあり得ない挨拶を自らしてしまったし、息子が一所懸命姉の結婚式の写真を撮ってくれたこと、そして兄弟二人で笑っているツーショットを見て、更にうれしくなってしまったのだ。
 恐らく私の人生の中で、子供たちが生まれてきたことに次いでうれしかったのかもしれない。だから浮き足立ってしまった。今そんな自分が恥ずかしくて仕方がない。まさか私がこんなに浮き足立つなんて思いもしなかった。

2009年03月20日

娘の結婚式を前にして

 明日娘の結婚式である。そして今日は娘は引っ越しをする。まぁ、このごろというか、娘が社会人になってからは、自由に行動してきて、家に帰って来たり、友人と遊び歩いたりしているので、家にいないことが多かった。だから娘がいなくなることで、急に寂しくなることはないかもしれないなと思っていた。要するに親が子離れする準備を子供の方からやってくれたと思っていた。
 でも今までは、どんなに遊び歩いてても必ず家に帰って来ていたし、毎日の仕事は家から行っていたのがなくなるわけだから、今までとはきっと違うんだろうなと感じる。それは明日以降、私やかみさんがどう感じるかである。
 ここのところ引っ越しの準備をしている娘を横目で見ながら、ああ、こいつやっぱり家から出て行くんだと感じていたし、これから先うまくやっていけるのかなと不安になることもある。
 でも自分たちのことを考えれば、新しい生活が始まれば始まったで何とかなったのだから、娘もそれなりにうまくやっていくのだろうと思うことにしている。案外新婚生活をエンジョイして、親の心配などどこ吹く風みたいもんなのかもしれない。
 最近思うことがある。自分たちが結婚して、ひたすら自分たちのことしか考えてこなかったなと。自分たちの親のことなど考えたこともなかった。
 今順繰りに私たちが親として娘を送り出すにあたり、初めて親の心境というのを味あわされている。やっぱりなんだかんだと言っても、不安だし、心配だし、そして寂しい。たぶん私たちの親もきっと同じ気持ちだったんだろうなと最近思うのだ。しかもいつか子供たちは巣立っていくのは当然だから、親は自分たちの心境をあからさまに口に出して言えない。仕方がないのである。親の心配や寂しさより、子供が巣立っていくことを歓迎しなければならないのだから、ある意味つらいものだ。
 かみさんはいつまでも娘を子供扱いして見ていて、娘たちの行動に不安や心配を口に出して私に言っている。私は娘たちが完全に独立した家庭を自分たちに意志で築いて行くのだから、ある意味我々と同等の立場だ。いつまでも親面していてはいい迷惑だろうとわかりきったように言っている。けれど私はわかりきったような態度をとっていても、かみさんのように口に出して言えないつらさを味あわされているのである。親って損な役回りだなと思うようになってきている。でもそれって子供を持ったときからついて回ることなんだろう。
 娘の結婚式が近づくにつれ、かみさんと町を歩いているとき、小さな女の子を見ると、いつも娘がそんな頃のことを思い出し、話題となる。確かに親は損な役回りかもしれないけれど、でも子供たちがいたから楽しかったことも多くあったに違いない。だから人様の子供を見て、自分たちの子供が同じ頃のこと思い出せるのかもしれない。いいときも、楽しいことも、心配したことも、今となってはいい思い出の一コマだ。そしてきっと娘の結婚も何年かそればきっといい思い出の一コマになるのだろうと思うことにしている。

2009年03月16日

気になるコマーシャル

 最近のCMで妙に反応してしまうものがある。サントリーのビール・発泡酒「金麦」のコマーシャルである。












 というか、そのコマーシャルにかかる曲に反応してしまうのである。たぶん私と同じ年代の人はきっと私と同じ反応をするんじゃないかと思うのだ。あの曲がやばいのである。あの曲は深夜放送の「オールナイト・ニッポン」のテーマソングである。つまりビールに関心があるんじゃなくて、この曲がかかると昔深夜に起きてラジオを聞いていた頃を思い出すのである。
 その上、「金麦と待ってる~!」と叫んでいる泥臭い女の人も一昔前にいた女性のイメージでなかなかよろしい。しかしネットで調べてびっくりした。彼女、檀れいといい、宝塚歌劇団出身の女優だという。これは泥臭いとは失礼な話だ。でも、かかっている曲の懐かしさと、あの頃の“元気さ”が彼女のうまく表現していて、私としては「いい感じ」だ。
 誰がこのコマーシャルを企画したのか知らないけれど、この曲の選択はとにかくわれわれの世代にはインパクトがある。飲めない私でも金麦を買って飲もうかなと思っちゃう。
 ちなみにこの曲名は「ビタースウィート・サンバ(Bittersweet Samba)」というらしい。このことはネットで調べて知った。ジャズ・トランペット奏者で、アメリカのレコード会社A&Mレコードの創始者の一人でもある“ハーブ・アルパート(Herb Alpert)”1965年に発表したものがオリジナルだそうだ。これもyoutubeで見ることができる。懐かしいな~!


2009年03月01日

花粉症で悩んでいる時に思うこと

 一昨日久しぶり遅くまで飲んだ。例の大学時代の友人たちと。私は勝手に“東京暇人倶楽部”と名付けている。というのも本当はもっとたくさんの大学時代の友人と会って話したいのだが、如何せんすぐ連絡を取って会える友人が東京には少ないこともあって、そんなところから、会える友人はいつも決まってしまう。
 でも友人はやっぱりいいなぁと思う。そう感じるから、ついつい羽目を外してしまう。言いたいことを言うわ、わがままを言うわと、とにかく節操がなくなる。飲んでわいわい騒いでいるときは、そんなことは少しも感じないのだけれど、友人と別れた後、後悔の念に苛まれる。その上翌日になると、この時期花粉症の人間はお酒を飲めば症状を悪化する。まったく飲んだ後は反省したり、花粉症に悩んだり、気分が滅入るのは困ったものである。もともとお酒に強いわけでもないし、酒の席が苦手な方なので、うまいお酒の飲み方ができないところに問題があるのだろう。ホント、申し訳ないなと思ってしまう。だからお酒は飲みたくないとまで思ってしまう。
 そんなわけでせめて謝罪の気持ちもあって、昨日デジカメで撮ったものをまとめてサーバーにアップする。しかしビデオクリップがうまく表示できない。何度か修正してみたのだが、どうも花粉症で頭がボーッとしているので、解決策が見いだせない。調子が悪いときは何やってもうまくいかないものだ。仕方がないのでそのファイルのある場所を書いて、そこをクリックしてもらうことにする。

 午後いつものように買い物に付き合う。ついでにいつものようにブックオフによる。今日はタイムサービスで本全部半額である。これはラッキーと思うが、さて欲しい本があるかなと棚を見て回るが、こういう時に限って欲しい本がないものだ。欲しい本がない以上、いくら安いとはいえ余計な本を買っても仕方がないので帰ろうと思ったとき、“宗教”のコーナーで阿刀田さんの『私の聖書ものがたり』を見つける。この本漫画は手塚治虫さんのものを使っていて、いいなぁと以前思っていた。ただよくわからないが、子供向けなのかすべてのページにルビがふってあるので、どうなんだろうと買うのを躊躇っていた。でも売値の半額だと350円だ。これは買いだろうと決めて買うことにする。
 しかし今日はタイムセールか、お客さんが多い。こうしてみると、本を読みたいという人が多いんだなと思う。ここに来ている人は、新刊書店で買うには値段が高いので中古でもいいから、しかも更に値段が安ければ本を買いたいと思う人たちだろう。今日ここにいるお客さんの何人かはかごを持って、読みたい本を見つくろっている。そこには何冊も本が入っている。
 こういうのを見ると、本の定価というものも考えてしまう。本というものは他の嗜好品から比べれば値段が安いと言われている。また本を読むという行為から考えても、その時間を過ごす割合から考えて、値段は安いと考えていいと言われている。けれど実際問題やっぱり一冊単価は高い。その理由はいろいろあるだろうけど、いつまでも制度疲労している再販制度にしがみついて、市場経済から部外者づらしてていいんだろうかと思う。根本的に本の流通制度を見直さないと、ホントえらいことになる。定価維持は、市場に閉塞感を見出すし、コスト削減などの努力も怠っているんじゃないかと思ったりする。

 夜いつものように「アド街」を見て、そのままテレビをつけっぱなししていたら、「美の巨人たち」をやっている。今日紹介されている画家の作品はジョルジュ・ド・ラ・トゥール作「大工の聖ヨセフ」であった。


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 その絵を見たとたん、愕然とする。なんだ、この絵は!と思った。私はこの画家のことは一切知らない。しかしこの絵には釘付けになってしまった。ここに描かれる“闇”と“ローソクの光”のコントラストに驚いてしまった。老いた大工がヨセフなら、その横でローソクに手をかざす子供はイエスだろう。この二人を描くに当たって驚くべき写実感。イエスのすべてを包み込むようなヨセフの目つき。ローソクをかざすイエスの手。その炎の明かりはイエスの顔にきれいに当たる。そのためイエスの父親を慕う表情がかすかに照らされる。その明るい光はイエスの指先さえ透けさせる。
 ヨセフは角材に穴をあけているのだろうか?解説によると、その角材はイエスが背負う十字架を予感させると言う。そのためヨセフの目は目の前の穢れなき子に負わされた過酷な運命を予感した不安気なまなざしにも見える。
 更にテレビを見ているとこの絵はいま上野の国立西洋美術館に来ているという。これは是非実物を見てみたいと思った。時間を見つけて行ってみたい。