2009年07月22日
ハルキフリーク
村上春樹さんの本を読むのをやめていたのでしばらく熱が冷めていたのだが、また読み始めると、はまるだろうなとは思っていた。そして事実そうなりつつある。しかしどうしてかそうなる。何でだろう?
『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』と続けて読んでいたら、ふと思ったことがある。今までほとんど村上さんの書かれる本は読んできたのだけれど、その詳しい内容を覚えていないのだ。だから自分の本棚を眺めていて、この本の内容はどんなものだったっけ?とか、あっ、こんなエッセイがあったんだと、思わずその本を取り出して見たりする。もちろん内容を覚えているものもある。しかしそのほとんどが部分的なのである。
どうして村上さんの小説の内容が記憶に残らないのだろうか。その答えを『少年カフカ』を読んでいてわかったような気がする。
この本は『海辺のカフカ』を読んだ読者が村上さんにメールでその感想を書き、それに対して村上さんが答えるというやつである。読んでいてこのスタイルは昔のラジオでやっていた深夜放送と同じスタイルだなと思った。当時は手紙やはがきだったものが、それがメールに変わっただけである。基本当時DJと呼ばれていたパーソナリティーがそれらを読み、自分の考えを言ったり、あるいは他の意見を求めたりして成り立っていた放送である。それと変わらない。
この読者のメール本を読んでいてわかったことなのだけれど、ほとんどの読者が『少年カフカ』を読んで、どうその感想を書いていいのか悩んでいることだ。読んだ感想をうまくまとめられずにいる読者が多いのだ。
要するに村上さんの小説で描かれる世界は、我々が目にする世界じゃない。あるいは自分たちが見てきたことや、経験してきたことで構築する基本的なリアルな世界じゃない。私小説に慣れ親しんだ人やそうした世界しか肯定できない人たちにとってはなかなか村上ワールドを自分の言葉で語るのは難しい。その世界がほとんど観念的世界だけに、物語にはぐいぐい引きつけられるのだけれど、読了後自分の感想を書こうとするとどう書いていいのかわからなくなるところがあるのだ。
そしてそれは本を読んだ直後だとその傾向が強い。しばらく時間をおいて考えないとうまく自分の意見をまとめられないか、あるいは何度も読み返さないとわからない部分があるように思える。メタファーとして森や井戸、壁、図書館での世界で起こる物語は、魅惑的であるのだけれど、その分観念的で、抽象的だ。だからいろいろなとらえ方ができそうである。逆に言えばだからこそ頭の中でうまくまとめることができないのだ。
私が村上さんの小説を読むときに感じることはそういうことなのだろう。ただ私の場合、後で考えるということは基本的にしないため、結局そのままわからないままになって、忘れてしまう。だから今まで読んできた村上さんの小説について記憶があいまいなのだ。ナカタさんの頭の中のように“からっぽ”になってしまうわけだ。
けれど、村上さんの本を読んでいるときはそれは夢中になっており、本を読むこと以外邪魔なので何もしたくなく、ただただその本を読んでいたくなる。“ハルキフリーク”の状態になっている。まぁ、読んでいるときに夢中になって楽しんでいればそれでいいじゃないかと思うことにしている。多分それが村上さんの小説を読む魅力じゃないかとも思っている。
一方で、作品のほとんどで記憶が薄れているため、もう一度読み返してもいいかなと思っている。
今回1,200通以上のメールを読むのはできなかった。300通ほどは休みの間読んだのだけれど、これはダメだ!と思った。読んでいてだんだん疲れてくるのが自分でもわかる。ということで、久しぶりに本を途中で投げ出した。違う村上さんの本を読もう。軽いジャブという感じで、村上さんの紀行文を手にしてみる。
- by kmoto
- at 20:36
comments