2009年08月16日

お盆

 お盆休みも基本的に今日でおしまいであろう。私は例によってこの世間様が休んでいるときも、いつものように仕事に出る。もちろん休めるなら休みたいところだけど、ちょうど月半ばには毎月どうしてもやらなければならない仕事があるものだから、仕事に出る。それだけである。
 考えてみれば、今まで人様が休みとしている時期に、結構仕事に出ている。このお盆の時期もそうだし、年の暮れもそうだ。昔は本屋で働いていたときは日曜日も仕事の出ていたことがあった。もちろん代休はもらえるし、休んでいた時もあったけれど、最近は無理して休みを取ることも面倒になってしまっていて、いつの間にか忘れて、そのままいつものように仕事をしている。別にワーキングフリークになっているわけじゃないけど、性格的に、その日の仕事はその日にするのが私の流儀で、前倒しで無理してやるのが嫌だからそうしているだけである。
 また世間が休みであっても、会社は継続的に動いているものだから、誰かがその間、動かしていないと、その後がうまく続かないのではないかと思う。それを買って出ているだけのことだ。
 昔はみんなが休んでいる時に何で自分だけ仕事をせにゃならんのだと思ったこともあったけれど、最近はこうした時期だからこそ楽しんでいるところがある。
 たとえば、朝の通勤時でも、電車はかなり空いていて、すぐ座れちゃったりする。あるいは普段この時間帯には見かけない行楽で家族がわいわいやっている姿を見かけるのも、ちょっとした変化で面白い。そんな中でもビシッとネクタイを締めたサラリーマンが疲れた顔をしているのを見ると、勝手に“お互い頑張ろうね”と思うのだ。
 みんなが休みなもんだから、仕事を中断する電話も鳴らない。飛び込みのセールスも来ない。いいことである。こういう時は集中してやらなければならない計算などするのが一番いい。細かい作業もいい。それに休みにわざわざ出てきているんだから、自由に自分のペースで仕事をするからねといった自己主張も心の中であるものだから、やりたいようにやる。(もっとも普段も好き勝手に仕事をしているんだけどね)
 ただ困るのは昼飯である。事務所があるこの界隈の会社はほとんどシャッターが閉まって休んでいるものだから、いつも買い出しに行くお弁当屋がそれにならって休んでいる。Hotto Mottoに足をのばし、行ってみると、作り置きの弁当しか置いていなくて、それがなくなればおしまいといった感じである。毎朝テイクアウトするドトールも休んでいるので、ヴェローチェで買う(ここのコーヒーはドトールより安いのだが、あまり旨いとはとは思わないのだが、コーヒーがないのも困るので、ここで買った)
 仕方がないので秋葉原の駅前に行って、立ち食いそばを昼飯にし、事務所で昼のテレビを見て、適当に仕事を始める。そうこうしているうちに三時になり、銀行の当座照合をする。六時を過ぎれば、お茶の水店の日計表がFAXで送られてくる。それらをすべて集計し、業務を終える。
 駅に出るまでの道にはほとんど人がいない。駅前もやはり人数が少ないような気がする。

 お盆の休みには娘と義理の妹が帰ってきているので、女二人増えるとかなり家はにぎやかだ。娘が結婚したのは三月だからもう五ヶ月経っていることになる。面白いもので、娘はどこか自分の実家に気を使っているのである。今まで自分がいた部屋に入るにしても、申し訳なさそうな感じで入っていくし、風呂もあれだけ長湯で、ジャージャーお湯を流しっぱなしだったのが、さっと上がってくる。ゆっくりくつろげばいいと親の側は思っているのだけれど、どこか他人様の家でも泊めてもらうよそよそしさが漂う。もちろん勝手知った我が家である。何がどこにあるかわかっているから、自分が欲しいものは好きに出して使って入るのだけれど、それでも今までとは違う。
 一緒に昼飯を食べに行くときも、我々の分も自分で会計をしようとする。いいよと言えばすみませんねと言う。夕食の買い出しをすれば、金額を見て、うちは貧乏なのにエンゲル係数が高と一言言うし、変わったと言えば確かに変わったけれど、その分逆に寂しい感じがするのである。
 やつにしてみれば、もう自分の家はここではなく、いま旦那と住んでいる家であって、いくらここが自分の実家であっても、もうここを出て行った家だからという意識がどこかにあるのかもしれない。そんなことを思うと、楽しく新婚生活をやってはいるようだけど、いままで親任せに自由にやっていたときとは違うわけだから、それなりの苦労もしているんだなとも思う。仕方がないこととは言え、やはり親としてかわいそうだなと思うし、だからこそ実家に帰ってきたときぐらいのんびり、今までのように過ごせばいいのにと思うのだけれど、なかなかそうはいかないようだ。

 そんな娘も、義理の妹も昨日帰っていった。またもとの生活に戻る。しかし昨日までいた人がいなくなり、笑い声が聞こえなくなると、寂しい感じがする。それが案外堪えるもんだから、風呂上がり夕涼みがてらちょっと出て、コンビニでビールを一缶買ってきて、かみさんと二人で分けて、夕食時飲む。今まで当たり前のようにいた人間が離れていき、残ったのが我々なんだなと、その寂しさを感じながら、私のお盆は過ぎた。
 
 今まで心配ばかりさせやがって、と腹ただしく思っていたときも何度かあったけど、そういう心配を身近でできるということは、幸せなことなんだと思った。これが離れて暮らしていると、身近に感じられない分、ただ不安だけが残るのだ。当の本人は当たり前とのことして行動していても、親からすれば、おや?と感じただけで、それだけで心配や不安になることを身をもって知らされる。
 今まだ息子が家にいるが、これも独立して歩き出せば、これからどうなっちゃうのだろうかと思ったお盆でもあった。

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