2010年06月30日

連景2

 梅雨だから仕方がないのだろうけど、蒸し暑い日が続く。腕など汗でべっとりだし、ズボンも腿に張り付いて不快感120%だ。気圧の関係なのかよく分からないが、持病のある腰が重い。湿度があるものだから電卓のキーが引っかかる。目は伝票の数字を追っているものだから、電卓のキーは見ていない。指がそれを覚えているから、それでも計算が出来る。それがキーが湿度のためひっかかり、止まってしまう。うまく計算が出来ないことが度々起こる。これが非常に不愉快だ。毎度のこととはいえ、私は電卓を打つときに梅雨を実感する。


 前日一冊の本を読み終えて、今朝は新しい文庫を持って出勤した。もちろん電車の中で読むためなのだが、これが読めない。いや、読んでいてこの人の書く文章の内容が生理的に自分には合わないと思いはじめたら、先に進めなくなった。時たまこういうことが起こる。面白そうと思って買った本なのに、実際読み始めてみると、これはダメだと感じることがあるのだ。小難しい文章など、ゆっくり読めば読めるし、自分でも何とか理解したいと思うから、しがみついてでも読もうとする。けれどその著者の感性が生理的に合わないともうダメである。不愉快になって行くのがわかる。それが今朝読み始めた本で起こった。
 これはまずい。何故なら今日一日家に帰るまで読む本がないからである。わずかな通勤時間でも間を持てあまして、どうしていいか困るし、自分が降りる駅までものすごく長く感じてしまう。

 困ったな。

 仕方がない我慢するしかないと諦める。


 娘夫婦が遊びに来た。娘に本を貸してくれと頼まれていたので、その本を渡す。村上春樹さんの『1Q84』である。それを見て旦那さんは「自分は本を読まないので・・・」と申し訳なさそうに言う。私は人が本を読もうが読まなくても、基本的にどうこう思わない。本を読まなくても、それでいいならそれでいいし、本を読むこと以外に他にすべきことがあり、それが楽しみならそれをすればいいと思っている。まして本を読めば人生が広がるといった読書のすすめには与しない。確かにそうかもしれないけれど、だからといって嫌々本を読んでも、ちっとも面白くないだろう。だったら読まない方が精神的にいい。そう思っている。本は読みたいなと思って読むものだと思うのだ。何か打算的に読むもんじゃない。まして娘の親が本が好きだから、好きでもないのに、義理で本を読まなければいけないなんて彼に思わせては、かわいそうだ。だから興味があったら読めばいいと言っておく。

 そう、本なんて、興味があれば読めばいい。それだけのものだと思う。

 先日有隣堂のレジのカンターに有隣堂スタッフがすすめる本を紹介した小冊子があったので、それを一冊もらう。家に帰りその小冊子を眺めていたら、ほとんど知らない作家の本が並んでいる。申し訳ないがここですすめられた本を私は読みたいという気になれなかった。でもだからといって、この小冊子をくだらないと断罪するつもりはない。たぶんここにある本を読んだスタッフというのは若い人が多いのではないかと思う。だから名前の知らない作家、つまり最近出てきた若い作家の本を“感動した”、“面白かった”と紹介しているんだろう。世代的に同世代の作家が書く本は受けいれやすいもんね。
 そう思うと「やっぱり俺は古いんだな」と思う。でもそれは仕方がない。そう思うから、オジサンはアマゾンで古本を買いあさる。探していた文庫がアマゾンのマーケットプレイスに1円とある。1円だから、どうでもいい本として扱われて、かえって古本屋さんで見つからないのかもしれない。でも私は読んでみたかった。だから送料340円をかかっても、それを注文する。送料が本代の340倍というのも疑問を感じないわけじゃないが、まぁ、この本を探しあっちこっち歩けば、送料以上交通費がかかることを考えれば、それほど深く考える必要もなかろう。出品する古本屋さんも、「けっ、1円の本を注文しやがって、ちっとも儲からないじゃないか!」なんて言いながら、せっせと棚を探し、手間ばかりかかるその本を梱包しているんだろうな、と思うと申し訳なくなってくる。でもその文庫を読みたかった。
 その文庫が昨日届いた。送り先は岩手県であった。この文庫はわざわざ岩手県から東京の私の元に届いた。もうそれだけですごいなと思い、しみじみその文庫を眺めてしまう。ネットはやっぱりすごい。東京にいる私が岩手県にある古本屋さんの在庫が画面で確認できるのだから。この文庫の最初の持ち主は岩手県の人だったんだろう。それが売り払われ、東京に来るのだ。それを思うだけでも340円は価値があると思わないか。馬鹿みたいに思われるかもしれないが、私にはそう思えた。


 「寝不足じゃないですか」

 、といつも出勤前に寄るドトールのなじみの店員に声をかけられる。
 もちろん寝不足である。いつも10時過ぎには蒲団に入る人だから、午前2時まで起きているのはきつかった。が、ワールドカップは見たかった。やっぱりここまでかとは思ったが、それでも充分楽しませてもらった。


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 むしろこれでよかったんじゃないかと思った。日本にとってこうした残念な終わり方の方が、国内で騒いでいるサポーターには納得出来るような気がした。案の定、「よくやった!」という声が聞かれた。
 そうそう。先のデーマーク戦は午前3時半キックオフで、試合が終わったのが5時過ぎだった。私は後半戦からテレビを見た。3-1で日本が勝ったことを、素直に喜んだ。


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 試合後新聞を取りに外へ出たら、ちょうど日経の配達員のバイクが家の前に来るところであった。「途中で試合を見ていたので、遅れました。日本は勝ちましたか?」と詫びと試合結果を聞かれたので、「別にいいよ。それより少しでも試合を見られたんだったら、よかったね。3-1で日本が勝ったよ」と言えば、喜んで帰っていった。
 私はワールドカップにおける奇妙な連帯感は嫌いじゃない。むしろ微笑ましく思える。気持として、ボールの行方に一喜一憂し、勝利を素直に喜ぶ姿を見ると、これはこれでいいじゃんと思う。いろいろ批判があるだろうけど、むしろ堅苦しく、日本人の軽薄感を批判するような、冷めた姿勢より、人間らしい。だってこれは“祭り”なのである。祭りの存在感は、日常からの解放であるのだろうから、それを目くじら立てて、批判したり、嘆いてみたりして何になるんだろう。
 これは昔ヨーロッパにおける“祭り”歴史を見て見てきたことがあるので、この祭りがないと、社会の鬱積感から人は解放されず、い生きづらい。むしろこれがあるために、人は生きられてきたところたくさんあるのである。ブリューゲルの絵にもそれらが描かれていて、厳しい生活の中で楽しみを謳歌しているのを見ると、ほのぼのとしてくる。祭りが息抜きだったんだなと思う。ワールドカップだって同じで、ボールの行方に一喜一憂している姿を批判する“のりしろ”の狭さを恥ずかしく思うべきなんじゃないかと思う。眉間に皺を寄せるだけじゃ何も解決しない。それでなくても、文句、不満、批判、嘲り、諦めの言葉ばかり聞かされ続けているので、たまにはいいじゃないか。青臭い連帯感もたまにはいい。

2010年06月18日

時代遅れ

 昨年の秋歯医者に行って、半年たったので健診を受けた。健診は問題はあったにせよ、それの対処するには秋がいいだろうということになって、一日で終わった。
 通っている歯医者は新橋にある。新橋には私が初めてアルバイトした本屋がある。だいぶ前にちょっと顔を出したことあって、当時一緒に働いていたいた人がまだ勤めていたので、今日もお会いできるかなと思い、ちょっと帰りに寄ってみる。
 新橋も私がこの店に通っていた頃とはだいぶ様変わりして、道がよく分からなくなってしまった。通りが変わったのではなく、通りに面しているお店がほとんど変わってしまっているので、記憶にある目印がなくなってしまっているのだ。多分ここだったよなと思いつつ先に進む。やっと昔の面影がある通りに出て、お店に入る。私がいた頃とは店名も場所も変わっているが、社長は変わっていない。そしてなじみの顔がレジにある。やっ、歳をとったなぁと思わせる。

 「こんにちは。お久しぶりです」

 「あっ、誰かと思った」

 「お元気そうで」

 「うん、でもお互い歳をとったね」

 「確かに」

 といった感じで会話が始まる。彼から見ると私もかなり歳をとったように見えたのだろうけど、彼もいかにも小さな本屋のレジいるオジサンになっていて、妙にこのお店にあっている。ここにしかいないといった感じだった。
 お店は一階が新刊書籍や雑誌などで、二階が文庫や実用書が置いてある。お店の雰囲気は昔の社長と変わらず、いかにも神経質な人が経営しているたたずまいであった。私にはそれが懐かしい。
 考えてみると、町の小さな本屋さんに入るのは久しぶりだ。大書店か、この店よりもう少し大きめのチェーン店にはよく行くが、個人経営本屋さんはここしばらく入っていない。というかそういうお店が身のまわりからなくなってしまい、入りたくても入れない。
 ここでも厳しい状況とこれから先の不安感を聞かされる。まったくこれからこうした本屋さんはどうなってしまうんだろうと思ってしまう。少なくともここは私の原点であるから、その思いは大事にしていきたいと思っているのだが、夕方サラリーマンが帰宅時間で歩道には多くの人が歩いていても、お店にはお客が入っていない。確かにこれは厳しいなと思ってしまう。
 何か本を買いたいなと思い、2階に上がって文庫を物色する。これといって欲しい本があったわけじゃないのだが、何か買いたいと思って何とか2冊ほど手に持って彼に渡す。懐かしいデザインのカバーをかけてくれる。紙質、色は私がいた頃と変わったし、店名も社長の名前に変わったけれど、基本的にデザインは変わっていない。ふとこれが欲しくて文庫本を買ったような気がしてしまった。
 社長とはお会いできなかったけれど、

 「社長や皆様によろしく伝えて下さい。それではお元気で」

 「また寄ってください」

 と言われお店を出る。ここは私にとって青春の一コマにある場所であり、あの時私のまわりにいた人たちの顔をいくつも浮かんでくる。私はここに2年いたのであった。

 6月15日の「日経スペシャル ガイアの夜明け」で“電子ブック”の衝撃 活字市場はどう変わるのか?”という番組をやっていた。iPadの登場で、日本の出版界を大きく変える予感をさせる取り組みが出版社、書店でもう始まっているというものだ。
 テレビを見ていてiPadは今まで本というメディアでは表現できなかったことを可能にさせ、ビジュアルに楽しく見させてくれることを教えてくれる。それはたくさんの可能性をここで試せるんだなと思わせるし、編集者もそれに心躍らして、様々な企画を出していく様子が映し出される。それを見ただけでも、まだiPadが出始めたばっかりなのに、これはホンとすごいことになりそうだなと思ってしまう。
 逆にこれに中小書店はどう対応していけばいいんだろう。中小書店がまとまって一つの会社として仕入をし、販売方法を考えるNET21というのを特集する。やっぱり個で太刀打ち出来ない以上、まとまるしかない。それも若い力を駆使してだ。この取り組みは面白い。
 たとえばiPadを店頭用のディスプレイとして使い、お客にiPadを自由に操作させ、下に平台に置いてある本の内容を表示させる。そしてそれが面白ければ現物を手に取らせる。中小書店にとってiPadは宿敵なのだろうけど、それを利用してしまうという発想は面白い。ディスプレイとしてはかなり高い投資だろうけど、iPadの高機能を逆手にとってしまうのもなかなかものだ。こういうのもありだなと思った。
 それにしてもiPadの可能性はホンと未知数だし、たくさんの面白いことを見せてくれそうだなと思い、これがもっともっと普及して身近になればいいと思う一方、多分私はiPad世代にはなれないんだなと思う。少なくと自分が抱えている本を眺めると、私はこれから離れられないだろうし、ここを拠り所としてこれから先も本を読み続けることになるだろうなと思った。
 私が老眼鏡をずらしながら見にくい文字を必死になって読む姿の横で、iPadを指先でページをめくるようにして読んでいる若いやつがいるのを想像しちゃう。河島英五の“時代遅れ”が出て来るではないか。

 「目立たぬように はしゃがぬように/似合わぬ事は無理をせず/他人の心を見つめ続ける/時代遅れの男になりたい」

 時代遅れの男に進んでなりたいとは思わないが、嫌が上にも時代遅れにならざるを得ないのだから、寂しいものだ。だったら無理をするなとこの歌は教えてくれているのだろうか?

2010年06月09日

連景

 帰りに電車が来たので、慌ててエスカレータを駆け下りて飛び乗った。セーフ。飛び乗ったから入り口近くで本を読もうとしても身動きできない。仕方がないので、窓越しを眺めるが、地下鉄なので外を見るといっても何もない。
 いくつか駅を過ぎ、私のいる側の扉が開く。どうしてかよく分からないが扉がなかなか閉まらない。ホームを眺めていると、杖をとんとんしながら障害物を探しながら、それをよけるようにまた後戻りする女性がいる。それはまるで障害物に当たると方向を変え進み、また障害物に当たると、方向を変えて進むおもちゃの車のように見えた。明らかに彼女は自分の行くべき道を探しあぐねていた。そして電車を降りた人たちは何もなかったかのように彼女を追い越していく。誰も彼女に声をかけようとも、助けようともしなかった。私は電車を降りて、彼女の側に行き、「改札に行かれるのですか?」と声をかける。彼女は「反対方向の電車に乗ってしまい、乗り換えたいのです」、と言う。
 この駅は他の路線の乗り換え駅にもなっているので、反対のホームに行くのは大変である。目が見える私でも大変だと思った。だから私は「わかりました。いま駅員さんを呼んできますから、待っていてください」と言い、ホームにいた駅員さんに「目の不自由な女性が電車を間違えて、反対方向に来てしまったらしい。助けてやってください」と言うと、駅員さんはにっこり笑って、「わかりました」と、彼女に近寄って、彼女を導いていった。
 結果私はまったく用もない駅に降りてしまい、次の電車を待つこととなった。自分が乗る駅で慌てて電車に乗った意味がなかったなと苦笑いをする。まあ世の中はそんなもんだ。ただあの駅員さんの笑顔が素適だったと思った。
 よく目の不自由な人が杖で探りながら、目的の道へスムースに進む人を見かける。その度にすごいなと思う。またそうなるまでには大変な苦労をしてきたんだろうなとも思う。しかし彼女は自分が間違った方向の電車に乗ってしまったと気がつき、降りて乗り換えようとしても、まったく知らない駅で、かなり不安だったろうなとも思った。それが彼女の動きに出ていた。だから私は電車を降りてしまい、彼女に声をかけたのだ。ただそれだけである。
 彼女が行ったりきたりしているのを、後ろから追い越していく人が多くいた。その人たちを非難してもいいのだろうけど、そんなことをしても何もならない。私だってどこかで同じようなことをしているかもしれない。結局私も含め、みんな自分のことで精一杯だから、他人様がどういう状態であっても、気持がそちらに向かないのだから仕方がない。
 ただ私はその時彼女に声をかけた。それだけだ。彼女はやさしい駅員さんに導かれて、もとに戻って、自宅にでも帰って行ったのだろう。もしかしたら彼女は外出されることに慣れていないのかもしれない。だって間違った方向の電車に乗ってしまったくらいだから。でも思うのだ。これに懲りず、積極的に外に出て行ってくれればいいなと、オジサンは青臭く思うのである。何かおかしいな私は・・・。


 最近偶然なのだが集英社文庫を続けて読んでいる。その集英社文庫のデザインが気にっている。集英社文庫も著者別に背表紙を色分けするデザインに変えた。そういえば中公文庫も読売新聞に買収されてからカバーのデザインを変えたけれど、これはどうも垢抜けない。原色がきつく感じ、昔の中公文庫の方がシックでよかったなと思う。
 カバーの表紙のデザインはさすが雑誌の集英社といえるほど、垢抜けていて、いい感じだ。私は読み終えた数冊の集英社文庫を机に並べて、それを楽しんでいる。文庫のラインナップも感性が生かされて、みずみずしさがある。私の知らない作家さんの本に出会えるのはうれしい。どこかで集英社文庫の目録をもらってきて、眺めて見たくなった。


 今読んでいる本が途中で終わってしまうので、鞄にもう一冊文庫本を入れて家を出た。その本を読み終えて、新しい文庫本を取り出すのだが、慌てて鞄に詰め込んだものだから、カバーをつけるのを忘れた。会社に着いて、自分がいた廃業した本屋で使っていたブックカバーが残っていたのでそれをつけた。昔取った杵柄じゃないが、手際よくはさみを入れてカバーをつける。うん、きれいにつけられたじゃないか、と思った。
 今は市販の革製のブックカバーを使っているので、本屋さんで買ったときつけてもらうカバーは外してしまうのだが、時たま紙のカバーが恋しくなる。だからその外したカバーを取ってあるのだが、それを改めてつけるときがある。多少以前の本の折り込みがあるけれど、それをつけてみると、やっぱり本屋さんのブックカバーはいいもんだ。だからそれが恋しくなるのだろう。
 しかし他店のブックカバーをうまくつけられないのだ。いつものように切れ込みを入れて折り込んで、テープを貼って止めるのだけれど、どこかたるみが出来てしまう。きれいじゃないのだ。何度やってもそうなってしまう。もう、お客さんが持ってくる本に毎度カバーをかけていたときからだいぶ時間がたってしまっているから、腕が鈍ってしまったのだろうと思っていた。
 ところが自分がいた本屋で使っていたブックカバーをつけたとき、きれいにつけられたのだ。偶然といってしまえばそれまでだけれど、一発できれいに本にカバーが出来たことにちょっと驚いてしまった。やっぱり長いことそのカバーを使って、お客さんの本にカバーをかけてきたから、私の手にはそのカバーが馴染んでいたんじゃないかと思ったのである。無意識に切れ込みを入れるところ、折り込むところをそのカバーだと覚えているのではないかと思った。面白いものである。


 テレビでくだらないダジャレのCMが流している大塚商会の「たのめーる」に消耗品を注文した。私の場合担当者に直接メールで注文する。そうしたら30分ほどしたら、その担当者が事務所に来る。メールを見たからと言って。聞いたところによると、会社にメールをすると、会社から持たされている携帯に転送されるらしい。ふ~ん、そうなんだ。もちろん会社からの連絡もそこに来る。要するに営業はその携帯でがんじがらめに縛られているということらしい。担当が言うにはこの携帯にはGPS機能も密かに搭載され、更に監視されているんじゃないかと会社で噂になっているという。やるじゃん!
 ところでこの担当者、若いのによくやってくれていて、私はかなり信頼しているのだけれど、もしかしたら来月異動になるかもしれないという。私はよく仲良くなった担当者が後任を連れてきて、異動になりましたという挨拶を何度も受けてきた。しかしその後任のほとんどが、私のいる事務所に来ない。前任者は電話や近くに来ましたからといってよく顔を出していたのに、担当が変わった途端、一切音定無しの状態となる。もちろん前任者はきちんと引き継ぎはしているのだろうけど、どういうわけか後任の足はこちらに向かないようだ。たとえこちらが用があって電話などして話をしても、素っ気ない。
 でもその気持ちはわからないわけじゃない。前任者の開拓したお客には前任者のしがらみがある。後任者にしてみれば、それが鬱陶しいに違いない。ときには前任者が無理して取ってきたお客であるから、その無理を聞かなければならない。それって結構納得できないところがある。どちらかと言えば自分が新たに開拓してきたお客の方を大切にしたいという気持の方が強いに決まっている。だから疎遠となるのだ。私だって、仕事を前任者から引き継いだとき、やっぱり前任者のような仕事をしてこなかった。むしろ馬鹿にしていたから余計である。
 まあ、もし異動になったらちゃんと引き継ぎをやってくれればいいし、後任が私を相手にしなければ、「アスクル」にまた変えればいいんだからと言ったら、「私も担当が変わちゃえば、後任がどうしようと関係ないですよ」と言う。まあそんなもんだ、と大笑いした。あんまり長居しているとそのGPS携帯で上司が見張っているぞと言ったら、慌てて帰って行った。


 朝傘を持って会社に行くのが嫌いだ。だから出来るだけ持ってでない。ただ最初から雨が降っていれば当然差して行くし、帰り間違いなく雨が降るというなら、持っていかないとならない。折りたたみもあるけれど、折りたたみは小さいので、どうしても腕などぬれてしまう。だから長い傘を持っていくのでけれど、それを持って歩くのが鬱陶しい。
 今日も出かけに傘を持っていくかどうか悩んだ。午後からは曇りなのだけれど、朝は途中で降られる可能性があるとかみさんは言う。あくまでも可能性だ。
 以前ならテレビとネットで天気予報を確認していたが、地デジになってからデータ情報を駆使して、あっちこっちのチャンネルで情報を得ているのがわかる。その結果持っていった方がいいということになった。やれやれ・・・。駅に行くまでの間、傘を持っている人が少ない。やっぱりそうだよな。今降っていなくて、午後から傘が必要なければ持っていかないよなあ・・・。
 ところがやっぱり雨が降り出した。この時ばかりは持ってきてよかったと思うし、傘を持っていない人が走って行く姿を見て、ちょっと優越感にしたるのだが、それでも結構傘を差している人が多い。案外用心している人が多いんだなと思ったし、私みたいに無理矢理傘を持たされた人が多かったのかもしれない。

2010年06月07日

神保町、お茶の水散歩

 読んでつまらなかった本が邪魔になったので、20冊ほど処分した。処分といっても、ブックオフに売り飛ばしただけである。それらの本を紙袋に詰め、自転車に乗せ、近所のブックオフのカンターにど~んと置く。査定に10分ほどかかると言われ、その間店内の棚を見て回る。今回は欲しい本がなかった。もらった番号札の番号がアナウンスされ、つかつかとそこへ行く。査定金額は670円とのこと。何を基準にしてその金額がはじき出されたのか知らないが、もともと処分したいのだから、670円でも一向に構わない。だからその査定表にサインしてお金をもらう。
 1冊だけ背表紙が焼けているので金額がつかないと言われた。私にはどう見てもそれが焼けているとは思えなかった。その色はカバーのデザインであって、もともとそういう色だ。そう思ったけれど、ここで文句を言っても大人げないので、それならそれで適当に処分してくれと頼む。
 査定した女の子がそう思ったのだから、仕方がないのだ。もともと彼女は本に関する知識など持ち合わせてなんかいないだろう。要はその本がどれだけ新しいか、コンディションがいいか悪いか、それがすべてなんだから、仕方がない。その本の内容とか古本としての付加価値など一切関係ない。素人が査定できるマニュアルに沿って判断したのだから、それを目くじら立てても、話にならない。だって判断基準が違うんだから。しかもこっちは最初から高く買い取ってくれとは思ってもいない。だから670円構わないし、本が焼けていると言うならそうなんでしょう。

 この日朝からイライラしていて、精神的に不安定なことは自分でも感じていた。こんなとき家人を含めて人と会うと爆発しかねないことがわかっているので、一人神保町に出かける。探している文庫本があったからだ。近所の本屋にはどこもなかった。もともと文庫の棚が少ないから、各出版社の売れ行きABCランクで棚構成をしているのだろう。ということは、探している文庫本は売れ行きの悪い本らしい。でも神田の三省堂など行けばあるはずだと思ったし、しばらく古本屋を歩いていないなと思ったので、ちょっと古本屋ものぞいてみようと思ったのである。
 探している文庫本は三省堂にあったにはあった。ただ本の天、地、小口にグラインダーをかけた跡があった。まあそれだけならよくある話なのでどうでもいいことなのだけれど、そのグラインダーのかけ方が雑で、きれいに焼けた部分が取れておらず、まだらに残っていたのである。もし本屋さんがここしかなければそれを買い求めただろうけど、ここは神田の本屋街である。まだ大書店がいくつくある。別にここで買わなくても他にもあるはずだと思い、東京堂へ行ってみる。もちろんあった。しかもきれいで何ら問題がない。同じ定価ならここで買った方が気持ちがいい。ということで探していた文庫は東京堂で買えたので、とりあえず目的は達成。後は古本屋さんでも歩こうと思ったのはいいが、老舗の古本屋さんは日曜日で休みが多い。開けているのは最近進出が激しい雑誌などをメインにしたビジュアル系の古本屋さんである。いかにもサブカルチャーを扱っているといった古本屋さんばかりである。これは興味のある人にはたまらないのだろうけど、私は門外漢なので、外に出ている均一本を見るだけであった。
 唯一入ったのが三省堂の横にあるビルの5階にある神保町古書モールとその下の三省堂が胴元をしている古本屋さんだけであった。ここは面白い。神保町古書モールはそれこそ雑然と古本を並べ、床にも所狭しと本や雑誌が積み上げられていて、探し物をするのにものすごい時間がかかる上、狭くなった通路を他のお客と譲り合って動かないと身動きが取れない。でも、ここには何か有りそうという予感がする。ここにある本はさっきのブックオフだとすべて焼けているから、廃棄本として扱われてしまう本ばかりだ。バッチイ本ばかり。でもそれが面白い。懐かしい本もたくさんある。これはじっくり見た方がいいと思い、丁寧に棚を見ていく。床に積み上げてある本は今日はいいや。
 ここでは大光社という出版社から出ている『文学の実験室』の開高健集と紀田順一郎さんの『わたしの神保町』の2冊を買う。開高さんの本は他の本で読んだことがあるが、大光社という名も知らない、多分今はなくなっているんじゃないかと思われる出版社からの本だったので、開高さんのコレクターとしては買っておかなければならないかなと思い買った。もちろん持っていなかったからだ。値段は千円。
 紀田さんの本は、以前読んだことがあるのだが、もう一度読みたいと思い、買おうかどうか迷っていたのだが、定価が1,890円は高いなと躊躇していた。それが千円で状態も新品同様だったので買った。
 その2冊を持って、二千円をだし、レジにいるおばちゃんに渡す。そうしたら“神保町古書モール御買物券金二百円”というのをくれた。有効期限はないから次回使ってください、と言われた。笑っちゃうのはその金券、使い回ししたことが明らかなほど、くたびれていることだ。いいね、こういうの。いかにもバタ臭い古本屋さんらしくて、と思った。古本だってリサイクルだ。金券だってリサイクルしてもおかしくない。有り難く頂いて、次回使わせてもらおうと思い財布に入れる。
 そしてその下の三省堂古書館へ行ってみる。ここは上の神保町古書モールとは打って変わって、古本がきれいに棚に収まっている。もちろん床に本など置いていない。館内はクラシックがかかっている。レジも若いねえちゃんがいる。階が変わるだけでこうも違うのかと思っちゃうけれど、残念ながらここでは欲しい本がなかった。

 考えてみれば昼飯をまだ食べていなかった。日差しのきつい中歩いたので、喉も渇いた。靖国通りを渡り、ちょっと奥まった所にあるベローチェに入る。ここは以前大学の友人たち会ったときに入ったことがあって、通りからちょっと奥に入っているので、静かである。しかも広い。アイスコーヒーとサンドイッチを持って二階に上がり、買った本を広げながら、遅い昼食を取る。読みかけの文庫本がもうすぐ終わるので、それを読んでからここを出た。
 そうだ。文庫川村へ行ってみよう。吉村昭さんの探している文庫があるかもしれない。と御茶ノ水駅方面へ歩いて行ったが、ここも休み。仕方がない、帰ろうと思い、明治の前を歩いて行く。しかし明治もきれいになっちゃたな。あの迷路みたいで薄暗い通路が懐かしい。あれがよかったのになあ。校舎を継ぎ足したものだから、中の階段を下りたり上がったりして移動したことを思い出す。思い出したついでに、昔よく行った喫茶店はあるかなとマロニエ通りに入ってみるが、やっぱりなかった。まぁ当然か!もう30年前のことだもんね。

 いやあ~、今日はよく歩いたな。足がパンパンだ。顔も日焼けしている。歩数計を調べてみると14,000歩以上。距離にするとどれくらい歩いたのだろうか?でも面白かった。充実した日曜日であった。イライラもおさまっていた。

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