2010年06月30日

連景2

 梅雨だから仕方がないのだろうけど、蒸し暑い日が続く。腕など汗でべっとりだし、ズボンも腿に張り付いて不快感120%だ。気圧の関係なのかよく分からないが、持病のある腰が重い。湿度があるものだから電卓のキーが引っかかる。目は伝票の数字を追っているものだから、電卓のキーは見ていない。指がそれを覚えているから、それでも計算が出来る。それがキーが湿度のためひっかかり、止まってしまう。うまく計算が出来ないことが度々起こる。これが非常に不愉快だ。毎度のこととはいえ、私は電卓を打つときに梅雨を実感する。


 前日一冊の本を読み終えて、今朝は新しい文庫を持って出勤した。もちろん電車の中で読むためなのだが、これが読めない。いや、読んでいてこの人の書く文章の内容が生理的に自分には合わないと思いはじめたら、先に進めなくなった。時たまこういうことが起こる。面白そうと思って買った本なのに、実際読み始めてみると、これはダメだと感じることがあるのだ。小難しい文章など、ゆっくり読めば読めるし、自分でも何とか理解したいと思うから、しがみついてでも読もうとする。けれどその著者の感性が生理的に合わないともうダメである。不愉快になって行くのがわかる。それが今朝読み始めた本で起こった。
 これはまずい。何故なら今日一日家に帰るまで読む本がないからである。わずかな通勤時間でも間を持てあまして、どうしていいか困るし、自分が降りる駅までものすごく長く感じてしまう。

 困ったな。

 仕方がない我慢するしかないと諦める。


 娘夫婦が遊びに来た。娘に本を貸してくれと頼まれていたので、その本を渡す。村上春樹さんの『1Q84』である。それを見て旦那さんは「自分は本を読まないので・・・」と申し訳なさそうに言う。私は人が本を読もうが読まなくても、基本的にどうこう思わない。本を読まなくても、それでいいならそれでいいし、本を読むこと以外に他にすべきことがあり、それが楽しみならそれをすればいいと思っている。まして本を読めば人生が広がるといった読書のすすめには与しない。確かにそうかもしれないけれど、だからといって嫌々本を読んでも、ちっとも面白くないだろう。だったら読まない方が精神的にいい。そう思っている。本は読みたいなと思って読むものだと思うのだ。何か打算的に読むもんじゃない。まして娘の親が本が好きだから、好きでもないのに、義理で本を読まなければいけないなんて彼に思わせては、かわいそうだ。だから興味があったら読めばいいと言っておく。

 そう、本なんて、興味があれば読めばいい。それだけのものだと思う。

 先日有隣堂のレジのカンターに有隣堂スタッフがすすめる本を紹介した小冊子があったので、それを一冊もらう。家に帰りその小冊子を眺めていたら、ほとんど知らない作家の本が並んでいる。申し訳ないがここですすめられた本を私は読みたいという気になれなかった。でもだからといって、この小冊子をくだらないと断罪するつもりはない。たぶんここにある本を読んだスタッフというのは若い人が多いのではないかと思う。だから名前の知らない作家、つまり最近出てきた若い作家の本を“感動した”、“面白かった”と紹介しているんだろう。世代的に同世代の作家が書く本は受けいれやすいもんね。
 そう思うと「やっぱり俺は古いんだな」と思う。でもそれは仕方がない。そう思うから、オジサンはアマゾンで古本を買いあさる。探していた文庫がアマゾンのマーケットプレイスに1円とある。1円だから、どうでもいい本として扱われて、かえって古本屋さんで見つからないのかもしれない。でも私は読んでみたかった。だから送料340円をかかっても、それを注文する。送料が本代の340倍というのも疑問を感じないわけじゃないが、まぁ、この本を探しあっちこっち歩けば、送料以上交通費がかかることを考えれば、それほど深く考える必要もなかろう。出品する古本屋さんも、「けっ、1円の本を注文しやがって、ちっとも儲からないじゃないか!」なんて言いながら、せっせと棚を探し、手間ばかりかかるその本を梱包しているんだろうな、と思うと申し訳なくなってくる。でもその文庫を読みたかった。
 その文庫が昨日届いた。送り先は岩手県であった。この文庫はわざわざ岩手県から東京の私の元に届いた。もうそれだけですごいなと思い、しみじみその文庫を眺めてしまう。ネットはやっぱりすごい。東京にいる私が岩手県にある古本屋さんの在庫が画面で確認できるのだから。この文庫の最初の持ち主は岩手県の人だったんだろう。それが売り払われ、東京に来るのだ。それを思うだけでも340円は価値があると思わないか。馬鹿みたいに思われるかもしれないが、私にはそう思えた。


 「寝不足じゃないですか」

 、といつも出勤前に寄るドトールのなじみの店員に声をかけられる。
 もちろん寝不足である。いつも10時過ぎには蒲団に入る人だから、午前2時まで起きているのはきつかった。が、ワールドカップは見たかった。やっぱりここまでかとは思ったが、それでも充分楽しませてもらった。


2010_06_30_02.jpg


2010_06_30_03.jpg


 むしろこれでよかったんじゃないかと思った。日本にとってこうした残念な終わり方の方が、国内で騒いでいるサポーターには納得出来るような気がした。案の定、「よくやった!」という声が聞かれた。
 そうそう。先のデーマーク戦は午前3時半キックオフで、試合が終わったのが5時過ぎだった。私は後半戦からテレビを見た。3-1で日本が勝ったことを、素直に喜んだ。


2010_06_30_01.jpg


 試合後新聞を取りに外へ出たら、ちょうど日経の配達員のバイクが家の前に来るところであった。「途中で試合を見ていたので、遅れました。日本は勝ちましたか?」と詫びと試合結果を聞かれたので、「別にいいよ。それより少しでも試合を見られたんだったら、よかったね。3-1で日本が勝ったよ」と言えば、喜んで帰っていった。
 私はワールドカップにおける奇妙な連帯感は嫌いじゃない。むしろ微笑ましく思える。気持として、ボールの行方に一喜一憂し、勝利を素直に喜ぶ姿を見ると、これはこれでいいじゃんと思う。いろいろ批判があるだろうけど、むしろ堅苦しく、日本人の軽薄感を批判するような、冷めた姿勢より、人間らしい。だってこれは“祭り”なのである。祭りの存在感は、日常からの解放であるのだろうから、それを目くじら立てて、批判したり、嘆いてみたりして何になるんだろう。
 これは昔ヨーロッパにおける“祭り”歴史を見て見てきたことがあるので、この祭りがないと、社会の鬱積感から人は解放されず、い生きづらい。むしろこれがあるために、人は生きられてきたところたくさんあるのである。ブリューゲルの絵にもそれらが描かれていて、厳しい生活の中で楽しみを謳歌しているのを見ると、ほのぼのとしてくる。祭りが息抜きだったんだなと思う。ワールドカップだって同じで、ボールの行方に一喜一憂している姿を批判する“のりしろ”の狭さを恥ずかしく思うべきなんじゃないかと思う。眉間に皺を寄せるだけじゃ何も解決しない。それでなくても、文句、不満、批判、嘲り、諦めの言葉ばかり聞かされ続けているので、たまにはいいじゃないか。青臭い連帯感もたまにはいい。

trackbacks

trackbackURL:

comments

comment form

(日々是好日 にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form