2010年07月31日

ブリューゲル版画の世界

 渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムへ「ブリューゲル版画の世界」を見にいく。


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 渋谷のBunkamuraなるところに行くのは初めてだ。正直な話、ブリューゲルじゃなければ、渋谷など行きたくない。うざったいやつばかり闊歩するところなど、歩きたくない気分なのだ。だから期待しつつも、どこか尻込みする部分があった。
 渋谷に着くと案の定である。どうしてこんな狭いところに人がこんなにも集まってくるんだろうと思う。とにかくそのBunkamuraなるところへ急ぐ。ハチ公口からスクランブル交差点を渡り、文化村通りを進む。結構奥まった所にあるんだな。
 東急本店から入ったのだが、Bunkamura ザ・ミュージアムがどこにあるのかわからない。だいたいこうした美術展は上の階にあるのが普通だから、案内板の上の階ばかり見てみるのだが、そのザ・ミュージアムが見あたらない。結局このザ・ミュージアムは東急の隣のBunkamuraの地下にあった。
 こうなると完全にお上りさんである。場違いなところに来てしまったという雰囲気がプンプンである。とりあえず持っていた傘をロック式の傘立てに立てて、入場料を払い中に入る。ロッカーがあるというので、使わせてもらう。これは便利だ。手ぶらで鑑賞できるというのは有り難い。会場もちょっと感じがいい。洗練されていると言うべきなのかな。
 夕方5時で、しかも外は雨なのですいている。ゆっくり鑑賞できる。
 私はヨーロッパ中世の素朴な版画が好きである。しかも民衆の生活風景を描いたものがいい。その延長でブリューゲルの民衆の生活ぶりを描いた絵や版画が好きなのだ。だいたい生活するということは、どこかずるがしこいところがあるもので、それが絵や版画の人物たちに表れていて、ストレートに生きていると感じさせる。農民がせっせと農作業しているかたわら、サボっていたり、酒を飲んだりしている姿の人物が描かれていて、そうそうこういうずるがしこいやつがいるよな、と思わせる。人様々だ。


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 ところで、ここにある版画は絵画でも同じモチーフであることに気がつく。どっちかといえばそっちの方が記憶に残っているので、やっぱり色がついている方がいいなと思った。もちろんモノトーンでも味わいはあるのだけれど、ちょっと迫力に欠けるような気がする。


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 でもやっぱりすいているところがよかった。ざわざわしていなくて、のんびりと絵を鑑賞できることは幸せな気分になれた。今まで何度も人が数珠つなぎになってしまい、押し出されが如く先に進まざるを得ない美術展を経験してきているので余計にそう感じた。例によってカタログを一冊とポストカードを3枚買う。ポストカードは後で100円ショップでスタンド立てを買って、そこに入れて本棚に飾る予定。カタログの方は家で気ままにページをめくるのがいいのだ。
 会場を出たところが、しゃれたテラスになっていて、軽食が食べられるようになっている。さすが渋谷である。結構かっこいい女性が物憂げに一人、サンドイッチなど食べながら、本を読んでいる。近くから見ればどうってことないのかもしれないが、遠目から見るとちょっと惹かれる。(失礼なはなしだけどね)不思議とどこでも見られるような、ひたすら携帯をいじっているやつはこの時いなかった。
 アートブック中心に置いてある小さな本屋さんがあって、なかなかしゃれた感じを醸し出している。文庫本なども表紙を見せて飾っているものだから、どこの本屋にもある文庫でも、違うように見えた。渋谷ならではないが、ここでもデザインを重視しているんだ。
 通りに出るとけばけばしい女性が、汚い格好をした男と歩いているので、この差はいったいどこから出てくるんだろうな、と思いつつ、人混みの駅前に向かう。

2010年07月28日

思うままに その25

 これまで何冊もアマゾンで古本を買ってきた。ネットの利便性をここで実感していた。何故なら探している一冊の古本が日本全国の古本屋さんから探せるからだ。とてもじゃないが歩いて探せるものじゃないだけに、これは有り難い。ネット上で注文すれば、後は待っていればいい。アマゾンの場合、その古本の売値と送料をカードで引き落としてくれるから、その本を実際手にするまで、本を買ったという意識が薄い。手元に届いて、古本を買ったんだな、と感じるのである。
 しかしネットで古本を買う場合の問題もある。まず実際本を手にしないわけだから、古本の状態をサイト上に書いてあることを信用するしかない。けれど時には手元の届いた古本のページを開いてみると書き込みや線引きがある。しかもサイト上にはそういうことが一切記載されていない。それこそ“良品”として掲載されていたのだ。
 しかしこれは仕方がないことだと思う。出品者は単に本に書き込みなどがあるのを見逃してしまったのだ。故意でその書き込みがあることを隠していたわけじゃないだろう。そんなことをすれば信用を失う。
 出品者はおそらくたくさんの古本を扱っているに違いない。そん中で出品している一点一点、完全に目が行き届くかどうか。それこそ見落としがあっても不思議じゃない。言ってみればこれは事故と同じである。そう思っている。
 だから後はフォローをどうするかにつきてくる。適切に処理してくれればいい。確かに予想もしなかった手間がかかったけれど、楽して古本を手にしようとしたのだから、そのくらいのことは手間と思っちゃいけないだろう。
 いつもなら古本を送ってくるのはその出品者からなのだが、今回出品者は別にいるのだが発送はアマゾンからだった。窓口がアマゾンになっていた。だから私はクレームのメールをアマゾンに出し、着払いで本を送り返すこととなり、今朝メールが来て、返品処理をしたことを確認した。
 しかしこれはアマゾンにとって小さいけど汚点の一つになるだろう。しかもアマゾンが招いた問題じゃない。出品者のミスだ。私がこうして買った本にクレームをつけ、突っ返したことで、この出品者はアマゾンに怒られなかっただろうか、と思った。多分何かしら言われているんだろうと思う。「困るじゃないか!うちの信用問題に関わるんだよ」とかね。まさか取引停止なんてことはないだろうと思うけど、どうなんだろう?かわいそうだけれど、お金を出して買うのは私である。たとえ古本でもちゃんと納得できなければ、仕方がないだろう。

 最近リメイクされた本が多く出版されていて、本屋に行くとよく見かける。時に「あれっ?」と思うことが多い。
 リメイクと勝手に言っているけれど、要するに“焼き直し”された本である。昔有名出版社から出版されていて、それが文庫化され、いつの間にか目録からも外れてしまった本を、他の出版社がまた出版した本である。それを本屋さんで見かけると、“この本、持っていたよな”と思う。
 たとえば今山口瞳さんの対談集を読んでいるが、この出版社から山口さんのルポである『世相講談』がリメイク本として出版されている。私はこのルポを角川文庫で上下本として持っている。またケン・フォレットの『大聖堂』も新潮文庫版を持っていて、いつか読もうと思いつつ、今日まで来てしまったが、それがソフトバンク文庫で出版されている。開高健さんの『耳の物語』も昔新潮社から単行本で出版され、それが新潮文庫で文庫化されたが、これも知らない出版社から一冊の本として出版されているのを見た。ちなみにこれらの文庫本は角川にしても新潮社にしても、今の目録には掲載されていない。おそらくこういうパターンは結構あるんだろうなと思う。
 まぁこうして焼き直しの本が出るのは結構だけれど、やめて欲しいなと思うのは、こうして焼き直して、書名を変えて出すことだ。だいたいこうして焼き直しされる本の著者はほとんど死んじゃっているから、新しい本が出るわけがないのだが、知らない書名の本を見ると、もしかしたら自分の知らない本か、まだ読んでいない本かと思ってしまうときがあるのだ。何度かだまされたことがあって、読んでいるうちに、“何か読んだことがあるような気がするなあ”と思い、本の最後のページを開くと、この本は○○○出版社から出版された○○○を改題して出版していますと書いてある。この時はがっくりとくる。こういう紛らわしいことはやめてもらいたいものだ。
 以後こうした本は気をつける。亡くなった作家の本だけでなく、人気のある作家なども新刊と称して、似たようなことをやるので、最近は本を買うときには、最後のページを開いて、焼き直しでないことを確認して買うことにしている。

 昨日書泉で、単行本2冊、文庫本2冊、新書1冊、しめて6千円以上を買ってしまった。6千円以上も一気に本を買うなって久しぶりだ。買ったこれらの本がすぐ読みたくて仕方がない。もちろん読みたいと思って買っているのだから当然なのだが、今読んでいる本が面白くないから余計にそう思う。こういう時が一番困る。いくら面白くないとはいえ、ある程度読んできたので、ここまで来たら我慢して読んでしまおうと思うのだ。でも一方でその時間がもったいないという気持もある。そのまま続けるべきか、やめるべきか、それで悩んでしまう。あれこれ考えた末、結局とにかく我慢して今読んでいる本を読み終えてから、次の本を読もうと決める。
 家に帰って買ってきた本を取りだし、ページをめくって目次を見たり、単行本のカバーを外し、本そのものを眺めたりするする時間が、至福の時間である。とりあえず買ってきた本を先に読もうと決める。本棚から引っ張り出した本は例によって後に回される。
 書泉でつけてもらったブックカバーを外して、後で使えるかもしれないと思って、いつものようにまとめて取っておく。それにしても書泉カバーがいっぱいだ。これだけ書泉で本を買っていることになる。いいお得意さんだ。
 今ちょうど書泉では1,000円以上本を買うと50円の割引が当たるスクラッチカードをくれる。当たりが50円というせこいところが本屋らしくていい。でもらったスクラッチカードを全部こすってみると、すべて50円とでる。えっ、全部当たり?、と思ったが、私はそんなにくじ運がいい訳じゃないので、多分これはすべてが50円と出るんじゃないかと思う。だったら最初から割引券としてそれを出せばいいじゃんと思われるかもしれない。ただ割引額が50円じゃせこいと思われるから、一応例年やっている行事なのでスクラッチにしたのだろう。(話は違うけれどドトールコーヒーでもサマーキャンペーンとしてスクラッチカードをくれる。これは三つこすって同じものが出ないとその景品がもらえない。これが当たらない。三つはちょっときついよな)
 で、何でこんなにせこい金額なのか。それは本は定価販売が義務づけられているからである。あの“再販制度”に引っかかるんですね。本は値引きして売っちゃいけないんですよ。じゃあポイントカードはどうなのよ、と言われるかもしれない。これが未だにもめていて、ポイントカードは再販契約違反だとする頭の硬い業界人と「1~2%の割引率ならいいんじゃないの」という容認派もいて、いまだ結論は出ていない。頭の硬い業界人はポイントカードを実施する書店には出版社や取次に圧力をかけて、それをやめさせようとしたのだが、公取委は「1%程度のポイントサービスを出版社がやめさせるのは消費者利益を害するおそれがある」という趣旨の見解を提示。さらに、書店団体がポイントサービスをやめさせるように出版社や取次会社に要請することや、出版社同士が話し合って書店に中止を求めるのは「独占禁止法違反のおそれがある」とくぎをさしている。当たり前だ!
 私は50円をせこいと書いているけれど、あくまでも金額的に言っているだけで、50円でも有り難い。だってこれが5枚で250円の割引になる。文庫本1冊買うときにこれを使えば、かなりの割引額になる。ちょっとうれしいじゃないか。そう、ポイントというのはその程度でいい。まして荒利の少ない書店業界である。そのぐらいで許しちゃう。ヨドバシみたいに10%というわけにはいかんでしょう。
 結局本は割引しちゃいけないと主張するのは、それが出来ない経営の厳しい小さな書店をかばっての話だろうと思う。だけどそういう小さな書店は割引は出来ないけれど、大書店には出来ない地域的サービスが出来るはずだ。大書店は割引という手段を使ってCS(顧客満足度)を上げ、地域密着型書店は、そこでしかできないサービスを手段としてそれを上げればいいだけのことで、それほど目くじら立てることじゃないと思うのだけれどなあ。
 そうそうブックオフは今までやっていたTポイントカードを9月末でやめるようだ。どうしてなんだろう?割引が経営的に厳しいのかなあ。それとももっとおいしい割引を提供してくれるのかなあ。いずれにせよ私もTポイントカードを持っている。特にブックオフで使うので、忘れないように残っているポイントをちゃんと使わないといけない。

 書泉でもらったスクラッチカード、250円分は8月25日にでるジョン・ダニングの新刊に使わせてもらおうかなと思っている。

2010年07月10日

オルセー美術館展2010「ポスト印象派」

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 私は地下鉄の乃木坂からそこに行ったのだが、六本木もすぐそばで、あの六本木ミッドタウンも近くにある。もちろんこんなキラキラした町は好きじゃないので、どうでもいいのだけれど、美術館自体大きく、斬新なデザインの建物であった。この辺は森美術館やサントリー美術館などもある。
 予想はしていたがかなりの混みようである。特に中年のおばさんがつるんで、ワイワイガヤガヤとうるさい。面白いものでこの人たち必ず入り口で配っている有料の音声ガイドを借りている。これを聞きながら絵を鑑賞しようということなのだ。それはそれでいいのだけれど、さっそく入り口の近くにあるドガの「階段を上がる踊り子」からそれを耳に当てながらいるものだから、そのガイドが終わるまで動かないのだ。当然先に進まない。いきなり入り口から混み合ってくる。絵を見ているのか、音声を聞いているのか、どっちが主なんだ、といいたくなるのだけれど、これやめて欲しいな。それにお友達でつるんでいるものだから、会話に話が弾むようで、本人たちは小さな声でしゃべっているのだろうけど(手を口に当ててしゃべっている)、丸聞こえなのだ。
 それが絵には関係なく、ワールドカップの勝敗を占い全部当てたというタコの“パウル”に感心しているのだ。しかも食べられちゃうのかどうか、やたら心配しているのだ。どうしてここで“パウル”くんの話になるのかよくわからないが、何もここで感心することじゃないし、今後を心配することじゃないと思うのだけれど・・・。

 さすがにうんざりとしたので勝手に先に進む。ドガの絵は個人的にはあまり好きじゃない。ルノワールほど甘ったるい感じはしないけれど、人物の顔の輪郭がはっきりしない、そのぼやけた感じが、どうなんだろうと思う。もちろんこれは好みの問題だから、あれこれ言うもんでもないのだろう。モネの「睡蓮の池、緑のハーモニー」と「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」は見たかったので、ちょっと立ち止まって見た。


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    クロード・モネ 「睡蓮の池、緑のハーモニー」


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クロード・モネ 「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」


 今回この展覧会に来たのはゴッホの絵を見たかったからである。やっぱりゴッホはいい。こってりと何度も絵の具を塗り、まるで厚化粧の女性をを思わせるほど、その存在感は何とも言えない。(あっ、言っておくけれど厚化粧の女性がいいとは言っていないよ。その暑苦しいほどの存在感を言っているのだ)それまでがぼかした感じの絵ばかりだったので、ゴッホの絵を見てやっと気分が落ち着く。


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フィンセント・ファン・ゴッホ 「アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ」


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      フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」


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フィンセント・ファン・ゴッホ「銅の花器のフリティラリア」


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     フィンセント・ファン・ゴッホ「星降る夜」

 ゴッホといえばゴーギャンが連想されるけれど、私はゴーギャンはどうも好きになれない。あの南国情緒たっぶりのべとっとした感じが好きじゃないのだ。だからアンリ・ルソーのデフォルメされた南国ムードたっぷりの絵も好きじゃない。
 ゴッホの絵の実物が割とゆっくり(音声ガイドのお陰で入り口が混み合っていたので、先がいくらか空いていたのだ)と見られたのでよかった。実はゴッホの絵を見終わって、もう一度戻って見られたのだから、これだけでも来た甲斐があった。
 例のよって展覧会の目録を一冊買った。ルソーの「蛇使い女」が表紙になっている。展覧会の目録はその大きさもあるのかもしれないが、わりと造本がしっかりしていて、好きである。特に最近出版される本はちゃちな造本が多くて面白みに欠けるだけに余計にそう思う。
 そうそう、本棚の本をあれこれいじっていたら思ったのだけれど、最近の本は箱入り本がめっきり少なくなったなと感じた。これも省エネと節約のためなのかな、思うのだが、あの箱からなかなか本が出てこないいらだちを感じられないのはちょっと淋しい。