2010年12月25日

思うままに その31

 さすが12月である。スケジュール表を見ると、毎日やることがいっぱいである。今年は例年になくやることが多くて、いささかバテ気味である。1日に何通もメールを書き、あるいは受け取り、次の行動に移る毎日である。
 以前自分のメールアドレスをさらしてしまった関係で、何十通の迷惑メールが届くようになって久しい。さすがに鬱陶しくなってきた。メーラーが判断して迷惑メールを避けてくれるものの、完全ではない。何通か残ってしまう。それを削除するのだが、適当にやっていると必要なメールまで削除してしまうことがたびたびあって、相手に迷惑をかけてしまう。それでなくても朝はここのところ頭がボーッとしているから余計である。ちょうどパソコンを変えたので、この際今まで使っていたメルアドも変えようと考え、新しいものを作って運用している。
 これが精神衛生上よろしい。正直なところこんなにも楽なのか、とさえ思っている。そして必要なメールはこんなにあったのかとさえ思った。ただこれは12月だからそうなのだろうと思いたい。メーラーがすっきりしているのも気分がいい。探すメールもすぐ見つかるし・・・。
 それにしてもメールのやりとりがここのところ多い。12月は相手も忙しいから、電話だと捕まらないことが多い。別に早急に対処することでもないので、暇な時に読んでくれればそれで良いわけだから、相手も助かるんじゃないかと思う。もちろん私の場合もそうである。
 電話だとどうしても余計なことを言ってしまい、やたら長電話をしてしまうが、メールだと事前に用件を簡潔にまとめるから、読む方も楽である。それにその分頭を使うのでボケ防止にはいい。さらに電話だと言った、言わないという問題が起きるが、メールだと文章に残る分責任の所在がはっきりする点もいい。人の声のやりとりを人間関係の構築に重要だという輩がいるけれど、話を長くすればいいという問題じゃない。限られた時間内でやらなければならないことが多いし、仕事をしている途中で電話が鳴って、それを中断しなければならないほど頭に来ることはない。結局最初からやり直す羽目になることが多い。
 だから私はメールですむものは極力メールにしている。下手をすれば電話の件数よりメールの数が多いかもしれない。

 その新しいパソコンのである。今度のは富士通のビジネスモデルを使っている。これが起動が静かなのだ。今まではDELLの奴を使っていたし、家ではgatewayのパソコンを使用している。これらアメリカ仕様のパソコンはデリカシーがないから、電源を入れればガァーとファンが回る音が、さも“これからパソコンを起動するからな”といった威圧感がある。うるさい奴だとは思っていたが、長いこと使い続けていると当たり前になってしまい、今度のパソコンのように音もしないようだと、「あれっ、ちゃんと電源のボタンを押したかな?」と確認してしまう。中のパーツは日本製などほとんどないだろうし、組み立てられたのも日本じゃないだろうけど、少なくとも日本の電機メーカーの名前を背負っているだけあって、控えめである。配慮が違うね。日本人はこうでなくちゃいかんよ。
 今回のパソコンを使うに当たって、一つのコンセプトを徹底しようと考えている。それはこのパソコンで私の仕事すべてがこれでまかなえるというものである。何を言っているのかというと、たとえば取引先に用件があって、仕方なしに電話をする場合、名刺ホルダーから担当者の名刺を探して、電話をかける。これが面倒と言えば面倒なのだ。私は基本的にズボラなので、名刺をもらってすぐホルダーに入れる人ではない。ある程度まとまったら整理する方なのだ。中には飛び込みでやってきて、いきなり挨拶もほどほどに名刺入れから名刺を出しておいていく奴もいる。普通そいつが帰った後すぐゴミ箱に捨ててしまうのだけれど、何かの都合でそのまま未整理の名刺の上に置いてしまうこともある。担当者が代わったといって後任を連れてきて、名刺を置いていくこともある。けれどいつまでも整理しないものだから、“こいつ誰だったけ?”と思うことも度々だ。要するに必要なときに必要なものが見つからないことがままあるのだ。だからこの際、全部パソコンに入れて管理しようと思ったわけだ。もちろんそれだけじゃなく、仕事に関することはすべてこのパソコンでまかなえるようにしたいのだ。それを今せっせとやっている。
 まぁ考えて見ると、パソコンにデータを入力するのと、きちんとファイリングした方と、どっちが楽かと言えば、何とも言い難い部分はあるが、要は気持ちの問題なので、決めた以上やってやろうと考えている。多少意地もあるしね。(ある意味こうして自分の仕事を増やしているのかもしれないな、と思うこともあるが・・・)

 さて今年も残すところあと1週間である。今日は土曜日の休みで、明日が日曜日。午前中散歩も兼ねて、近所のブックオフへ出かける。目的はある。一冊の文庫本を買い求めるためだ。この手の有名作家のシリーズものは間違いなくあるに違いないし、その通りあったのだが、それ以外面白そうな単行本を見つける。両方ともミステリーである。
 帰ってから昨日持ち帰ってきた仕事のマニュアルを読む。まったく民主党のアホ政策の一つ子ども手当のお陰で、ソフトをバージョンアップして、その後細かい確認をしなければならず、ほとほと早く民主党は早く辞めてくれないかな、と思ってしまう。こいつ等自分たちは改革気分でいい気分になっているのかもしれないが、世の中のシステムを変えるということは、どれだけ手間がかかり、余計な仕事を抱え込むことになるかがわかっていないから、たちが悪い。そしてそれに被害を被っていることには一切頭にない。とにかく口が先の政策だから、言ってしまった以上収拾がつかなくなって、初めて慌てるのだ。言う前に少しは考えろよ、と言いたくなる。
 お陰で私も休みにこうしてつまらぬマニュアルを読むはめになるのだ。もういらないねこんな政党は・・・。さっさとお引き取り願いたいものだ。
 さっきまでそのマニュアルを読んでいて、いささか疲れたので、買ってきたミステリーでも読もうと思う。テレビはクリスマス、年末バージョンになっていて、特番ばかり。面白いならいいが、おもしろがっているのは視聴者ではなく出演者という番組ばかりだから、見る気も起こらない。

 たぶんここでの今年の書き込みはこれで最後になると思う。まあ好き勝手に言いたいこと、思うことをいつものように書き込んできた。もちろん自分勝手な話ばかりだから、どれだけの人が読んでいてくれているのかわからない。たぶん数あるブログに完全に埋もれているんだろうから、いつ終わろうとどうでもいいことかもしれない。でも、もし今まで多少なりともつきあってくれた方がいたら、やっぱりお礼は言っておかなきゃならない。その数少ない人たちに、

一年間ありがとうございました。よい年をお迎え下さい。

2010年12月13日

電子書籍を大げさに語るやつ

 森まゆみさんの本の中に、

「世の中、バカが多くて疲れません?」

 とつぶやくところがある。

 電子書籍に興味がある。このことは度々触れてきた。そしておそらく長い年月をかけて、その方向に進むのだろうと予感させるものがあるとも書いてきた。
 先日テレビでその電子書籍の特集をやっていた。ここには著者とその作品をコンテンツとして商売にする人間、そしてそれらの人たちにやられないように既存の大手出版社が対抗するする姿があった。そして電子端末を発売するメーカーも紹介されていた。

 何かが違う。

 この番組の司会であり、電子書籍のコンテンツとして自分の作品を電子書籍化する会社を立ち上げた村上龍がその可能性を大きく語る。その中で、電子書籍化すれば、余計なコストがかからないから、印税が現状の定価の10%から40%にあがる、と言っていた。そうか、こいつは本当はこのことに期待をかけているんだな、と思った。それを電子書籍には未来があると、砂糖をまぶすように言っている訳だ。
 しかしここに現実的な問題がある。たとえば今週の書籍のベストセラーに文芸書がいったいいくつランキングしていると思うのだ。ベストテンには一冊もランキングしていない。つまりこれほど文芸書が不毛な状態にあるわけだから、今の印税では作家はやっていけない。だから40%は現状の文芸書不毛の時代には魅力的なのである。もっとうがった見方をすれば、印税40%なら今のままどうでもいい作品を書いていても、なんとかやっていける、ということである。要するに作家がサラリーマン化しちゃっているから、作品のことは二の次で、儲けの話が先なのである。
 ただしこれは本として売る場合の話である。電子書籍の場合話が違う。はっきり言ってやろう。電子書籍を読むには端末が必要である。それがいくらするんだ?月々のランニングコストはどれだけかかるんだ?それに見合う本があるのか?
 たとえばソフトバンクはコンテンツを10万冊用意している?、用意するといっているが、たかが10万冊程度しか用意できないのである。一見10万といえばすごい数字に聞こえるけれど、いいですか、今日本では、書籍だけで1日約200冊の新刊が毎日出版されているんですよ。言っておきますけどこれ書籍だけの話である。ここに雑誌、コミックが加わればどういう数字になるか。
 そして過去に出版された本の数の膨大さを考えると、10万冊のコンテンツがいかに貧相であるか、わかると思う。いいですか、いかに今の日本の出版界が閉塞状態で、様々な問題があっても、そうした数の出版物を扱っているのである。そのことに考えを及んで欲しいものである。
 さらに昨日の日経新聞の社説に載っていたが、「電子書籍サービスは出版社よりも資本力のある家電メーカーや通信会社主導で進んでいる。そのため端末と情報サービスが一体化しており、端末ごとに購入できる作品も異なる。書店なら自由に本を選べるが、電子書籍は読みたい本の種類に応じて端末を選ばなければならない」とある。そうなのだ。読みたい本があっても端末が異なるために読めない状況が今はある。とにかく、端末の話題が先行していて、買ってみたのはいいけれど、本がないか、端末を作っている家電メーカーひも付きの本しか読めないのである。
 その点書店のすごさはそのお客の一人一人の好みに対応していることである。その書店のすごさをこの番組では一切触れていない。高い投資をして端末を買ったはいいけれど、実際は読む本がないということになりそうである。多分そうであろう。私はこの10万冊用意されたコンテンツの中身はほとんどは雑誌とコミックだろうと推察しているので、そうした人には電子書籍の端末は便利であろうが、ただそれだけであろう。それに本をよく読む人はある程度年齢のいった人たちであろう。村上龍程度の作家の本を読む若者は、日本の読者層からすれば、たかが知れているように思える。むしろ電子端末を使う人は、村上龍を読むより、雑誌やコミックを読む層に違いない。いや、もう少し経済的に余裕のある人かもしれない。となればなおさら村上龍の作品など読みはしない。
 電子書籍元年などほざいているが、40%の印税に眼がくらんで、気がついたら電子書籍より本の方が売れていたということになるんじゃないだろうか?だから森さんのつぶやきをそのまま使いたくなるのである。(そうなることを実は望んでいる)
 その証拠にコンテンツがないため“自炊”している人間が数多くいる。端末で本が読めるようするために、自分の読みたい本などをスキャンしてくれる会社に送って、端末で読めるようにしてくれるビジネスが大流行だという。
 その会社がどのように本をスキャンするかも番組でやっていた。希望する人が自分の本を箱で送り、その会社はその本を、まず本のカバーをカッターで切り込んで、破るように引き裂く。次にカバーのなくなった本を裁断機にかけて裁断し、ページをバラバラにして、やっと自動の読み取り機で読み取るのである。そこには本の残骸がゴミとして大きな袋に入れられていた。
 これを見て、ここまで本は消耗品になってしまっているんだな、と思った。一冊の本の形になるまで、様々な人たちの手を経て、そうした形になったものを、端末で読みたいがために、バラバラにしてしまうのである。要するに資源ゴミの一歩手前の形にして、スキャンしたら、本当の資源ゴミにしてしまうのである。
 昔と逆である。フランスでは昔、自分が読んで感動した本を、お金をだしてオリジナルな装丁してしてもらい、一冊の本にした。本は確かに内容が大切である。しかし本という実物、その重みには、本の装丁、つくりがいかに大切なものか、わかちゃいない。本はかさばる。重い。場所を取る。確かにそうだ。でもだからこそ、本がいいのである。テキストだけで、何が楽しいのだろう。その重み、手触りを無視していいものかと思う。長い年月の風雪に耐えた本のすばらしさを思い知るべきである。

 たぶん私が生きている間は世の中の本がほとんど電子書籍になるということはないだろう。よかったと思う。私は生きている間本を読み続けたいと思っているが、それは本という実体のあり、形があり、重みを感じられる物を手にしていたい、と思う。本を読むことの楽しみである情景を想像し、流れる音楽をイメージすることを奪い、すべて画面で何もかも表現してくれるのが本当の読書なのだろうか、と思うところもある。
 私は本を手にしている人の姿は美しいと思っている。これはi-padではこの雰囲気がでるか?いかにも時間と効率に追われ、眼に血走った人が手にする感じだ。本はできればゆったりと読みたいものである。ページをめくる紙の音しか響かないようなひとときが望ましい。そんなことを思う。
 私は電子書籍に夢や希望、可能性を熱く語ることを非難はしていない。語りたい奴は語ればいいとしか思っていない。でも押し売りはやめてほしい。それがいつかがデファクトスタンダードになる可能性があることは否定しないが、本を読むことぐらい多様性があっていいと考えている。いろいろなスタイルがあっていい。この番組はそんな押し売りがひしひし感じられ、これからの読書は電子書籍ですよ、といった類の発想は無性に腹が立った。私にはどこか、先走っているのはあんたじゃないの?と思ってしまった。
 日経新聞の社説では「メーカー各社が端末と情報サービスを一緒に提供するのは、音楽配信分野での米アップルの成功にならおうとしているためだ。しかし電子化が始まったばかりの出版分野で、色々な本を読むのに複数の端末を持たねばならないのは不便で、電子書籍自体の魅力が失われかねない」と書いてあり、「電子書籍が普及するためには、書店のように手軽にネットから買えるようにしなければならない。それには1台の端末でどんな本も読める仕組みづくりが必要である」とある。まさしくその通りであり、さすが日経新聞と思わせるのは、「書店のように手軽に・・・」と書いているところである。そこには今の日本の出版界で書店の重要さをきちんと認識している。村上龍にはそれが一切なかった。

2010年12月10日

小切手

 小切手を切るたびに、昔何かの映画かテレビドラマの中で、偉そうなじじいが金額の入っていない小切手を、相手に渡し、「好きな金額を書き入れろ」といったシーンを思い出す。
 とにかく小切手を切ることが少なくなった。この仕事に就いた頃は、まだ取引先がたくさんあって、集金に来る人間に小切手を切って渡していた。小切手は切っても、すぐ落ちない。2日ほど余裕がある。これが当時大事であった。とにかく資金繰りに苦労していた頃だったので、この2日間でお金が集まり、それを決済に回し、何とかしのいでいた。こういう時は日銭商売はありがたい。
 集金に来る人間にとってみれば、振込や引落にしてくれた方が楽である。小切手はたかが一枚の紙切れであるが、それを受け取り、会社の経理まで持って行く間は現金を持ち歩いているのと同じなのだから、その分神経を使わなければならない。これがやっかいである。一度その小切手をどこかに紛失したと言って、大騒ぎした担当者がいたこともある。
 しかしだからといって、それを振込や引落に出来ない事情がこっちにあるものだから、かわいそうだとはわかっていても無理を言って小切手の支払いをしていた。
 しかし事業を縮小して、本来の商売だけに整理すると、取引先が減り、多少資金的にも余裕ができはじめたので、今ではほとんどが振込か自動引落である。振込は手数料や手間がかかるため、問屋などはほとんどが自動引落にしている。そのため小切手を使わなくなった。今では源泉税を支払うときと、一つだけ取引先で小切手で支払うだけとなった。後はスポットで発生する場合のみだ。それも来年からは減るので、月1回になるだろう。
 というぐらい小切手を使わなくなった。昨日その小切手を1枚切って、やっと1冊が終わる。1年かかっていた。小切手帳も昔は600円だったと記憶しているが、今では1冊2,000円であるから、馬鹿にならない。使わなければ使わない方がいい。
 小切手を切らなくなったということは、チェックライターも使わないことになる。このチェックライターは私がここに来てからしばらくしてから買ったものだ。それまでは数字をぐりぐり回して合わせ、数字一字一字押しながらやるタイプのものであった。これが壊れちゃったので新しくものを買ったのだ。もちろん金額を入れれば一気に金額を書いてくれる。
 そのチェックライターの印字が薄くなってきた。これを買ってから一度もインクの補充をしたことがなかったのだ。まして小切手を切る機会が少なくなれば、その必要性もなかったのである。でもさすがにこれじゃ薄すぎるな、と思ったものだから、インクを補充しようと思い、それを求めようとしたが、そもそもこのチェックライター自体廃盤となっているので、インクもアスクルや大塚商会のカタログに載っていない。何とか大塚商会の担当者に手配してもらった。もしこのまま何もしないでいたら、インクも手に入らなかったかもしれない。
 小切手を1冊使い切ったので、新しい小切手帳にすぐ使えるように、会社のゴム印と「銀行渡り」というゴム印押しておく。そのつもりでいたら、その「銀行渡り」のゴム印が見あたらない。ないことはないのだが、どこにしまい込んだか忘れている。あっちこっち探して見つけたものの、ゴムがもう堅くなってしまって、使い物にならない。このゴム印は私以上にこの会社にいたものだろう。だいぶ昔から使われてきたものだ。仕方がない。ヨドバシの事務用品売り場で買うかとのこのこ出かけるが、置いてない。アスクルや大塚商会のカタログに載っていない。
 最近はアスクルや大塚商会の宅配のおかげで近所の文房具店もなくなってきているから、こういう時困る。幸い昔からここにあるはんこ屋さんがあったので、やっとそこで新しいものを求めた。

 小切手1枚で、こうも自分の周りが変わってしまったんだな、と思った。昔はとにかく小切手を使い支払いをしてきた。問屋やメーカーへの支払い、給料も現金で配っていたので、その現金を求めるため、総額を小切手に記載し、裏判を押して現金化してきた。それがパソコンのおかげで、事務所にいながら画面上で支払いが出来るようになった。
 でもこうなってきたのはつい最近のことだ。そんな昔の話じゃない。しかし一度こうも便利さ、手間のなさを享受してしまうと、これが当たり前にになってしまうから、元に戻れない。あるいは戻ろうとすると不便を感じてしまう。それでいてちゃっかりしているところはいつまでも持っている。
 支払いを振込にする場合、出来るだけそうしないで、自動引落にする。そうすれば手数料を銀行に持って行かれなくてすむ。あるいはどうしても振込にしてくれと言われれば、手数料はそっち持ちだぞ、と確認する。またはコンビニ支払いにすれば、手数料がかからない。コンビニはすぐ近くにあるから現金は持ち歩く不安もない。まぁこのあたりは意地もあるので、そうしているところもあるのだが・・・。ここまで徹底してくると、そうすることが喜びに変わっちゃう部分もある。相手にすれば“せこい奴”と思われているんだろうけどね。

2010年12月05日

思うままに その30

 今年は夏が暑かったからか、それとも株を分けてやったからか、昔から我が家にあるシンビジュームにつぼみが3つも持っている。だいたいいつも放って置いてあるので、つぼみを一つでもつければいい方なのだが、3つも持つなんて、買ってから初めてのことだ。今年は春先に手をかけてやったのもあるので、ちょっとうれしい。


 「サンデル教授のハーバード白熱教室」を見ている。

 これが面白い。夢中になってみていたら、眼がしょぼしょぼする始末。ちょうど本も読んで楽しんでいるところだったので、並行して考えることができた。この本の感想は後日、整理して書こうと思っているので、内容の件は、今回触れない。政治哲学とはこうも面白いものだったのか、と思わせてくれる本だ。
 哲学が普段の日常をとにかく小難しい論法で、あれこれこねくり回して、ああでもない、こうでもない、と定義づけるもので、その分生きることのを面倒にさせているような気が私の中にあった。だから知っていることは哲学者の名前程度だ。要するに試験の空白に名前を入れられる程度の知識しかない、ということである。
 でもサンデル教授の本は、確かに難しいけれど、それを我慢して読んでいると、つながりがはっきりしてきて、そうなると一人一人の哲学者が言っていることがおぼろげながら見えてくる。
 ただカントは難しい。なかなか頭の中に入ってこなかった。だから「サンデル教授のハーバード白熱教室」を見れば、少しはカントの考え方が理解できるかな、と期待していた。
 ところが画面を見ていて、「あれ?」と眼を見張る。何か講義を聞く側に見覚えのあるものがある。


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スパイダーマン??

 まさかこれほど有名な教授の講義にスパイダーマンがいるとは思わなかったので、気になって仕方がなくなる。気になって見ているうちにそれがスパイダーマンだと確信し、きっと置物だろうと思っていた。ところが頭が動く。その時やっとスパイダーマンのかぶり物を着て、講義を聴いているやつがいることがわかった。
 その後そのことが気になって、気になって仕方がなく、カントの難しい理論が少しでも理解できると思っていたものが、そのお陰でできなくなってしまった。結局もう一度この回から見直さないとならないようだ。やれやれ・・・。
 しかしアメリカという国は、こういうことでもこんなことにはこだわらないんだな。日本の大学でこんなかぶり物を着て講義を聴いていたら、きっと追い出されるだろう。許されちゃうだけでもすごい、と妙なことで感心してしまった。
 それにしても講義を聴く学生の多いこと。そんな中、カントが大学の講師となって、歩合制、つまりカントの授業を聴く学生の数でその報酬が決まったと、サンデル教授が紹介し、ハーバードもこの方法を導入していい、と言って学生に笑いを誘う。自らも笑いながら言っているのがいい。
 サンデル教授が学生たちに意見を聞く時、指の差し方がかっこいい。舞台の前に立って、片手はポケットに入れて、「きみ!」と言う。そして学生が自分の意見を言い終わると、サンデル教授が必ず聞く。「君の名前は?」と・・・。それが一つの舞台となっているのだ。


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 サンデル教授の本を読んでいて、考えることは結構楽しいものだな、と思うようになっている。私はここのところ自分が所有している本を何とか読み切ろうと、必死になっているところもあって、とにかく“消化”することばかり考えていたかもしれない。来年あたりはじっくり本を読むこともしてみてもいいかな、と思い始めている。少し読書方法、読む本を考えてもいいかもしれない。