2008年11月03日

coolpix s60

 コンパクトなデジカメが欲しいと思っていた。今あるやつはCanonの初期のデジカメで、コンパクトといってもやはりでかい。ちょっと持ち歩くにが鞄の中で場所をとるし、手に持つにしても、いかに持って歩いているという感じで、手軽に持ち歩けないところがある。それに問題なのは、カメラにファインダーと液晶画面の二つがあって、初めて撮る人にいつも言われるのだ。「どっちを見てピントを合わせればいいんだ!」と。基本ファインダーを見て被写体にレンズを合わせればいいのだけれど、二つもあると迷うのはわからないわけでもない。考えてみれば二つもいらないよなと思う。
 で、あのキムタク仕様のNikonのcoolpix s60をアマゾンで買った。なぜなら一番安かったし、おまけにSDカード1Gがついているからだ。ネットで価格調査をして、安くて安心でということでアマゾンにしたのである。二日の早朝に注文したら、夕方には届いちゃうからすごい。


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 しかし最近のデジカメは高性能だ。このデジカメは操作をタッチパネルで行う。もちろん被写体もここで合わせる。いろいろな機能がついていて面白いが、相変わらず高機能に戸惑う。とにかく基本操作を覚えて、少々ワクワクしながらデジカメを持って散歩に出る。試し撮りである。
 休日の散歩道は、まず新中川の涼風橋に出て、土手沿いを歩き、京葉道路を越えて、ブックオフへ行き、店内を見てから自宅へ戻るコースである。今日はそこまでの新中川にかかる橋と目的地のブックオフ、そして我が家の買い換えたばかりの愛車を撮ってみた。


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 家に戻って、パソコンに取り込んでみると、何か全体的にピントがぼやけている感じだ。天気が悪いせいもあるかもしれないが、操作方法がおかしいのかもしれない。これはしっかりとマニュアルを読まねばならないな。
 なんだか知らないけど、ここのところインターネットバンキングのマニュアル、新しいコピー機のマニュアル、そしてこのデジカメのマニュアルとマニュアルばかり読んでいる感じだ。お陰で肝腎の本が読めない。

2008年09月25日

フェルメールと西郷さんを見る

 先日「フェルメール-光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を見に上野の東京都美術館へ行く。
 天気が悪いので、それほど人は来ていないだろうとのこのこと出かけたのだが、確かに待ち時間はなかったが、それでも結構な人が来館している。特に一階の入り口付近は混み合っていて、なかなか先に進めない。いつもこうした企画展を見に行くたびに思うのだけれど、この人混みはもう少しなんとかならないものかと思う。じっくり絵を鑑賞するなんてなかなか出来ない。企画展だから仕方がないとはいえ、やっぱり落ちついて絵を見てみたいと思うのだ。
 仕方がないので、一階にあるフェルメール以外のデルフトの画家たちの作品はパスして、二階に上がりフェルメールの作品だけを見ることにした。
 今現在全世界でフェルメールの作品は37点確認されており、そのうち一点(ボストンにあった「合奏」)は盗難にあい、現在も見つかっていない。さらに一点は個人蔵なので、一般にフェルメールの作品が見られるのは36点しかない。今回はその個人蔵の一点を含め8点展示されている。これだけの数のフェルメール作品が展示されたのは世界でもはじめてらしい。だから人が多く来るのも当たり前だ。
今回展示された作品は以下の通り。

①マルタとマリアの家のキリスト

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②ディアナとニンフたち

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③小路

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④ワイングラスを持つ娘

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⑤リュートを調弦する女

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⑥絵画芸術

⑦ヴァージナルの前に座る女

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⑧手紙を書く婦人と召使い

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 私が個人的に好きなフェルメールの作品「牛乳を注ぐ女」、「真珠の耳飾りの少女」、「窓辺で手紙を読む女」などは今回来ていないが、「小路」、「手紙を書く婦人と召使い」は見られるのでうれしい。人をかき分けフェルメールの作品の前に立って、なんとか8点じっくりと鑑賞した。
 「小路」は「アド街」で薬丸君が絶賛したけれど、確かにいい。油絵の具を何度も塗り重ねたため、家のレンガに重量感が出ているし、立体感が感じられる。確かフェルメールはこの「小路」ともう一点しか風景画を描いていないはずだ。
 「ワイングラスを持つ娘」の娘は少々薄気味悪い笑いをしてこっちを向いている。あんまり好きじゃないなこの絵は・・・。
 「ヴァージナルの前に座る女」は縦25㎝、横20㎝の小品だ。この作品は先に書いたとおり、個人が所有している絵で、フェルメールの作品だと最後に認定された絵である。一時は贋作だともいわれたらしいが、鑑定の結果、フェルメールの作品と認められ、ロンドンのオークションに出され、約33億円で落札された。
 「手紙を書く婦人と召使い」はよくわからないが特別展示らしく、私は今回の展示作品の中では、この絵と「小路」が好きだ。この「手紙を書く婦人と召使い」は今回の展示作品の中で一番フェルメールらしい作品ではなかろうか。

 というわけで、フェルメールの作品をなんとか見られたので満足する。帰りにポストカードとカタログを購入して、美術館を出る。家で買ってきたカタログを見て、フェルメール以外の画家の作品にもすばらしいものがあるようで、時間がなかったので仕方がなかったとはいえ、やっぱり見ておくべきであったと後悔する。
 帰りは公園口に向かわず、不忍口の方へ歩く。ここは春になると桜の花見でごった返す所であるが、今は桜餅のにおいが漂う。ここに来たのは、西郷さんの銅像を見るためだ。今読んでいる本が西郷隆盛のことを書いてある本なので、ちょっと敬意を表して、見ておこうと思ったのだ。

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 上野に西郷さんの銅像があるのはもちろんよく知っているが、こうしてじっくりと見たのは初めてである。雨上がりの後なので、薄暗い。それが逆に西郷さんを際立たせているような気がした。この人が維新でみんなから尊敬され、愛された人なのかと思うと、その姿に少々感動する。後でこのブログを書くに当たり、この西郷さんの銅像の写真を探したが、いくつかあるのだけれど、どうも今回見た感じと違う。この写真は雑誌からスキャンしたものだが、これが一番イメージ的に近かったからだ。デジカメを持って行けばよかったと思った。家にあるデジカメは古いタイプのデジカメで携帯に向いていないし、重いのでやめてしまったのだ。やっぱりコンパクトなデジカメを買おう。

2008年05月18日

新たなグッズ

 自分の生活中に新たなグッズが加わった。一つはプラス スーパークリーナー(スプレー式)である。


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 何かといえば、要ははがし液で、シールなどきれいにはがすために、さっとスプレーをかければ、汚れも残らず、きれいにはがれるというしろものである。なんだと言われそうだが、今これが私には必要なグッズなのだ。
 というのも、ブックオフで買ってきた本には値札のシールがべたっと貼られており、これを手できれいにはがすのが大変なのだ。比較的新しい本なら割ときれいにはがせるのだが、105円の本は、在庫として売れ残った本が多いのか、たぶん長いことその店に置かれたものが多い。最初は定価の半額の値段が印字されたシールが貼ってあって、それが売れずに、在庫処分みたいな形で、値札が貼り替えてある。貼り替えるというより、安い値段のシールを今まで貼ってあったシールに貼り重ねている。ひどいやつになると、三枚も値札のシールが貼られているものさえある。それが時間が経てば経つほどはがしにくくなる。
 そんなのそのままにしておけばいいじゃんとここでも言われそうだけど、私はこのシールが気になる。だからせっせとはがそうとするが、これがきれいにはがれず、必ず汚れが残る。汚れだけじゃない、のりも残り、棚に入れるとき、横の本の表紙にくっついてしまう。で、これはどげんかせんといかんと思っていた矢先に、シールはがしがあることを思い出す。
 昔、はがろんなるシールはがしを使ったことがあるが、あれはシールはがしといってもまだ製品が不完全のものだったから、しつこいやつはきれいにはがれなかった。しかしあれから長い年月が経っている。きっとシールはがしも進化しているに違いないと思い、改めて購入してみる。さっそく試しにさっとスプレーをかけてみる。おおぉ!きれいにとれるじゃん!やっぱりシールはがしも進化しておったんじゃと感動し、ブックオフで買った他の本で汚れが残っている本にスプレーをかけて汚れを落とした。これはいいものを手に入れたと思っている。
 
 もうひとつが万歩計である。私は別に健康オタクではないのだが、仕事が事務仕事でほとんど机に向かったまま仕事をしているし、休みになると、ごろごろしているので、食べるだけ食べれば当然体に身につく。まして胃の調子が良くないので、便秘もまずい。そしてずぼらな私でもできることとなると、歩くことだけである。やってみると結構楽しい。やる前は、何が楽しくて歩くんだと思っていたが、歩きながらいろいろなことを考えることができ、たとえばこうして文章を書いていて、行き詰まった時など、新しいフレーズが浮かんできたり、違う考え方が出てきたりする。要するに気分転換になるのだ。思索の散歩といえばかっこいいじゃん。
 しかしそれだけじゃつまらない。実際日々どれくらい歩いているのか知りたかった。それでかねてより万歩計が欲しいと思っていたのだ。しかしオジンがよくベルトに取り付けているやつは、私のポリシーに合わない。あんなのつけて歩きたくない。できれば万歩計つけて歩いてるなんて思われたくない。だから見えないようにポケットに忍ばせるタイプの万歩計がいい。そしてオプションとして、昔の「東海道」なんかバーチャルで歩け、今現在どこのあたりにいるのか、楽しめるやつがいいなぁと思っていたのだ。だって何歩歩いて、脂肪は何カロリー消費したなんて、いかにもメタボ対策みたいでいやじゃん。
 で手に入れたのが「五街道」というやつである。これは優れもので、東海道だけでなく中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道を日々歩くだけで歩けるのだ。


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 娘からもらったガチャポンで取った携帯ストラップを付け(私は携帯を持っていないので、よくストラップをもらうのだが、処分してしまう)細かい設定をする。まずは歩幅である。ところで歩幅ってどこからどこまでのことをいうのかわかります?こんなこと考えたこともなかったのでちょっと考えてしまった。私は最初左足のつま先から、右足のかかとの間かなと思っていたが、よく考えてみれば、先に進むのだから、これはおかしい。右足のつま先までだろうと理解する。説明書はさすが年寄りが使うものだから親切に説明してあって、その通りだとわかった。説明は親切なのだけれど、文字がちっちゃいな。これじゃ年寄りはすぐ読めんよ。ここに改善の余地がある。
 さて、すべてを設定し終え、どこを歩くか。当然東海道でしょう。そのように設定し、今日は病院へ行くので、それを持って出かける(このフレーズまさしくオジンだな~)。病院は最寄りの駅から一駅先にあるので、いつも歩いている。実際駅から駅までどれくらいあって、何歩歩いているんだろうと思う。今日はそれがわかるので楽しみでもあった。
 ところが歩いているうちに、無意識に1.2.3.10.11.50.51と数えているのだ。それに気づいて、万歩計を持っているのに何で歩数を数えなきゃならないのだと苦笑する。万歩計を持って歩いているという意識が頭の中に一杯になっちゃって、いつの間にか歩数を数えてしまったのだ。
 かみさんが言うには一日一万歩歩くのがいいらしいと聞く。何を根拠に一万歩がいいのか知らないが、まぁ目安としてわかりやすいから、まずはそれを目標としよう。で、夕方買い物も終わり、ほぼ一日が終わりそうになったとき、本日歩いた数が、9,728歩であった。おお!もう少しで一万歩じゃん。休みでこんだけ歩くとは大したもんだと自画自賛するが、性格柄、何とか一万歩の大台に乗せたくなる。
 早めに風呂に入って、テレビのニュースなど見ていたのだが、どうしても一万歩が気にかかる。馬鹿なものだから、よし何が何でも一万歩の大台に乗せようと、着替え直して、夕食前ちょっと歩き出した。そして本日の歩数は、10,586歩とする。歩いたキロ数は3.3キロ。第一の宿場町品川まであと4.6キロとなった。むふ~、これは京都までいくには大変だ。昔の人はよく歩いたんだなぁと感心する。
 我々夫婦は、何か目新しいことがあると、そればかり話題になるのだが、かみさんも一緒に歩いていると、何歩歩いた?と聞いてくる。もう少しで一万歩になると言えば、感心する。結構本日の夫婦の会話にも役に立った。かみさんは何かと移動するときは車を使うから、私はそんなに歩かないなと言うが、どこか万歩計に興味がありそうな素振りなので、かみさんにも買ってやろうと思った。
 一日だけど、こうして万歩計を持って歩いていると、楽しいもんだと感じた。

2007年10月05日

10万円がゴミに

 小学校時代何か調べ物をして、発表することがあった。(あるいは中学校時代だったかもしれない)そのときクラスメイトが自宅に百科事典を持っていて、そこから調べて発表していたことがあった。それがものすごくうらやましく思った。自分のうちに百科事典があるなんて、なんとすばらしいうちなんだと思ったのだ。こちらは学校の図書室でその百科事典を引いて調べていた。
 そうなのだ。あの平凡社の世界大百科事典は偉容があった。そのときから自分が本棚をもてるようになって、たくさんの本の中にいる場所ができたら、絶対に百科事典を買うぞと思い続けていた。
 そして大学時代アルバイトのお金をつぎ込んでそれを買った。(もちろん社員割引で)それでも当時10万円以上で買ったと思う。それを当時持っていたガラスの引き戸がついた木製の本棚にいかにも豪華本みたいにしまい込んで悦に入っていた。確かにその本棚はキラキラしていた。しかし結局どれだけ利用したかといえば、大して使っていない。だいたい百科事典を引っ張り出して調べ物をするなんて普通の生活をしているだけならほとんどない。そんなものだ。
 で、結婚して、子供が使うかもしれないなんて後生大事持ってきたけど、自分が使わなかったのに自分の子供使うかといえば、やっぱり使わない。そしてこのネット時代である。わざわざ重い百科事典を引っ張り出して調べ物をするより、パソコンからネットで簡単に調べられるようになってしまった。ますますこの百科事典の存在感がなくなっていく。
 そこへもってきて、自分の本が増えてきてしまい、収納場所がなくなりつつあった。そうなってくるとこの百科事典が本棚をど~んと占領しているのに耐えられなくなってきたのだ。
 で、物置小屋にしまい込んだ。(以前に書いたかもしれない)しかしそのときは捨てるのは惜しかった。学生時代アルバイトの金を大枚つぎ込んで買ったのである。何とか穏当な処分方法はないものかと考えていた。処分というよりはっきり言えば売れないかということである。しかし売れない。かのブックオフでもネットで調べてみると、売れない商品のリストに百科事典が入っているのだ。ネットオークションで売ってもいいのだけれど、調べてみると、売れないようだ。中には無料であげるなんていうのもある。だよな。今の時代本当に百科事典というのは無用の長物だ。売るに売れない。
 今回物置小屋の整理をする必要があって、今度こそこの百科事典を処分しないとならなくなった。もう資源ゴミとして出すしかないようだ。10万円で買ったものが資源ゴミである。納得いかないけれどやむを得ない。

 昔書店の外商をやっていた頃、百科事典を1セット売ったら報奨金をあげるなんて言われて、せっせと売り込んだことがあったが、それでも1年に1セット以上は売れていた。需要があったのだ。ボーナス時期になるとパンフレットを出版社から取り寄せて、自分の居る店のゴム印を押して、配達の本とともに配ったものであった。
 当時はこの百科事典が収まっている書棚はちょっとした知的裕福層でもなったように見えたものだったのだ。(結局私もその一人だ)だから売れたのだ。
 それがどうだ!今では邪魔者扱いだし、果ては資源ゴミである。こんなことなら買わなければよかったなんて思ったりしてしまう。10万円もあれば、今なら欲しいノートパソコンが買える。(もっともこのとき百科事典を買わないで、10万円をそのまま今まで持っていることはできないはずだが・・・)ただあまりにも悔しいので、ついつい愚痴っぽくなってしまうのだ。
 今度の月曜日に江戸川区が回収する資源ゴミに出す予定だ。せめて横取り業者に取られないよう気をつけて出そうかなんて、最後までこだわってしまう。もしかしたら江戸川区でどこか使ってくれるかもしれないなんて思ったりするのだが、どうであろうか?そうしてくれればちょっとは救われるのだけれなぁ。

2007年07月22日

解放

 大野さんに言われなければ、このブログが2年たったことを忘れるところであった。1年目はちゃんと覚えていたのだけれどね。まぁ、それだけ自分が書いているブログが日常化してしまっているので、特別カウントするものでもなくなっているのかもしれない。
 確か1年たったときも、よく同じスタイルで、同じテーマでやってこられたと、自分の飽きっぽい性格から、そう思ったものだが、それから更に1年たったことになる。結局それまで本を読むことが自分の日常で当たり前であったことと、読んだ本についても何らかの形で書き込む習慣があったため、このブログを続けることに何ら問題もなかった。
 始めてから2年たって、ここにどれだけの本のことを書いてきたか数える気もないけど、結局この2年ちょっとやけになって本を読んできたかもしれないなんて、最近思うようになってきている。
 今更言ってもしょうがないことなのだけれど、私はどこかで二六堂書店というものを引きずってきた。二六堂書店がなくなって、仲間がみんないなくなり、残ったのが偶然私だけで、その残された者が、忘れてほしくないこの本屋のことを思い、自分が読んだ本のことを書くことで、ここに二六堂の残党がいるんだよといいたかった。あのときと同じように本をこよなく愛すバカがまだいるんだよといいたかったのかもしれない。
 実際今は連絡が取れないけれど、別れてからしばらくして、ブログ読んでいますなんて言ってくれた当時の仲間や、昔一緒に仕事をした仲間と一時だけだけど、つながっていた時があった。
 でも、もういいかなぁと思うようになってきた。その思いはこの2年間持ち続けてきたわけだから、私の心の中で二六堂書店は閉店にしてもいいかと思い始めている。やりたいように、好きなように、本を読み、言いたい放題のことを書いていこうと思いつつある。今、しがらみや呪縛にとらわれることなく、やっていけたらいいなぁと思うのだ。

2007年06月28日

やっぱり本屋さんが好き

 アマゾンのサイトへ行くと、マイページが表示され、私が読みたそうな本をご丁寧に紹介してくれている。けれどどうもちょっと違うよなぁと思う。たまたま欲しい本が神戸の出版社から出していた例のJR福知山線の事故の被害者や遺族が書いた本が読みたかったので、初めてアマゾンから取り寄せたのだけれど、それ以来私が好きそうな本として紹介してくれるのが、この事故に関した他の本や、それ以外の事故関係のノンフィクションが画面に現れる。まるでそうした事故、事件の関係が好みみたいな感じだ。
 確かに嫌いじゃない部分はあるけれど、何でもいいというわけじゃない。たまたま読みたかった本がその事故の本であって、それをアマゾンから取り寄せただけだから、そうなっちゃうのだろう。しかもそれ1冊だけだから余計なのかもしれない。データとしてそれしかないのだから、そうならざるを得ないのだろう。もし私が本屋さんで買っている本をばしばしアマゾンで注文すれば、もっとデータ分析が緻密になり、より私の好みに近づくのかもしれない。
 でも基本的のは本屋さんへ行って、本を探したい。昨日ちょっと仕事で必要な本を探すために、書泉へ行き、2冊買ったのだが、もちろん自分が読みたいと思う本がないだろうかと他のフロアーの棚を見て帰った。
 そして今日、早めに仕事を終え、事務所を出たのだが、やはり書泉へ寄ってしまう。もちろん昨日の今日だから、大した変化なんか望めないとわかっていても、もしかしたら、今日発売の新刊に何かあるかもしれないとどこか期待してしまうのである。ザァーと棚を眺め、やっぱりないかと思いつつ、帰ろうと思ったとき、トロさんの新刊を発見する。
 そうなのである。これが本屋さんでの楽しみなのだ。予想外の本がふと目にとまり、おやと思わせてくれるところがリアル書店の存在感ではなかろうか?新しい発見をしたいのだ。元々衝動買いのところが激しい私なので余計である。
 たとえ欲しい本や目的の本が決まっても、やっぱり実物手にして、ページをめくりたい。その上で買うかどうか判断したいのだ。もしかしたら違う本で、もっといい本があるかもしれないなんて思うから、棚を探す。こうなってくると、私にはどうしても本屋さんの存在は欠かせない。
 アマゾンのシステムを馬鹿にする分けじゃないし、それはそれでいいんじゃないかと思うのだけれど、こういう感覚は本屋さんでしかやはり味わえないのではないかと思う。だから時間があれば、本屋さんに足を向けるのである。
 それにしてもトロさんの新刊に巻いてあるオビは何とかならないのだろうか?今回の新刊はトロさんの副業?である古本屋を巡る旅の本なのだけれど、オビには「裁判長!旅に出てもいいすか」とトロさんの似顔絵ともに書いてある。最近トロさんが裁判所ウォッチャーとして有名になっているものだから、このフレーズを使ったのだろうけれど、この本とまったく関係ない。こういう安易なキャッチコピーはやめてほしいものである。
 さて困ったぞ!今半藤さん続編を読み始めたばかりなのだ。どうしよう。トロさん本もすぐ読みたいしと悩んだ末、半藤さんの本は中断して、トロさんの本を読むことにした。みなさんこんなことで悩んだことありません?書泉で掛けてもらった手抜きのカバーをきちんと掛け直して、こちらを読むことにした。

2007年06月20日

ちょっとしたこだわり

 またブックカバーの話だ。何度もここで書いているからご存じかもしれないが、私はブックカバーに困っている。で、ある時はブックカバーにしようと思って、紙を束で買ってきてそれを使おうと思い、本にカバーを掛けてみたが、どうもしっくりこない。ごわごわした感じだ。要するに紙質が厚すぎたのだ。結局この紙も使わずにそのままにしてある。
 単行本は一時合皮のできあいのカバーを使っていたが、これも所詮合皮である。すべすべしてしまい、しかも冬場の寒いときは硬くなってしまうので、やめてしまい、ランクの上の皮のカバーに変えた。今のところこれで満足していて、単行本は基本的にこのカバーを使っている。
 しかし本のサイズはまちまちなので、このカバーが使えないときもある。そんなときは、本屋で買ったとき、掛けてもらうカバーを代用している。
 つまり最近は本屋さんで本を買うときは必ずカバーをしてもらい、家に帰ってからそれを取り外し、とっておくのである。できれば本屋でしょうもないカバーを掛けるなら、折り込まないでそのまま欲しいところなのだが、そんなことは言えないから、とりあえずかばーを掛けてもらう。もし紙だけ欲しいと言ったら、くれるだろうか?
 ということで、本屋さんで掛けてくれたカバーを何枚もとってあり、必要なときにはそれらを取り出して、自分でカバーをつける。やっぱり紙のカバーはいい。ただ買ったときの本のサイズに折り目がついているので、いらないところに折り目がついてしまう問題点はあるが・・・。今回もブックオフで買ったリリー・フランキーさんの本に有隣堂のカバーを掛けて読んでいる。

 ちょっと前に、JR福知山線の脱線事故の被害者の手記を読んだ。内容に関しては違うブログに書いた通りで、それに関してはここに書くつもりはない。ただそれらの手記を読んでいて、書かれている文章にどこか違和感を感じたのでそのことを書きたい。
 そこに掲載された文章に無理に漢字に変換された文章が目立ったからだ。たぶんパソコンのワープロで書いたためそうなったものと思われる。
 普段手書きで文章を書くとき絶対に漢字で書かないのに、ワープロで文章を書くと必要もないのに漢字に変換され、どこか不自然な感じがしてしまう。要するにワープロのお節介のためだ。
 これって読んでいる側からすると非常にめざわりなのだ。文章って読めればいいというもんじゃないと思う。特に最近そう思う。おそらく書いている人たちは、そんなことは気にしていないのかもしれない。 もともと文章を書くことを構えているから、最初から堅苦しさがあるのだけれど、それに加えてお節介なワープロの漢字が変換が、余計に文章を堅苦しくする。
 実は私もそうだった。しかし不必要に漢字変換された文章は、どこか自分の文章でないような気がする。借り物みたいで、どこか窮屈だ。
 そう思うようになったのは、読みやすい文章って、漢字が少ない。むしろ漢字で書いていいのではないかと思えるものさえ、ひらがなで書かれているということがわかったからである。
 私はこのブログで本のことを書くようになって、作家の文章をよく引用する。私は基本的には、文章を書く場合、先にノートに気になる文章を書き出し、それからどうでもいいことをああでもない、こうでもないと書きつづる。そして書き出して感じたことが、そういうことであった。その方が文章がやわらかく感じられる。
 それ以来無理に漢字に変換しないように、逆に気をつけるようになった。日本語の良さは、漢字とひらがなのバランスなのではないかとさえ思っている。これからはこのことに気をつけて文章を書こうと思っている。

2007年05月11日

ATOKと万年筆

 調剤から、不要になったパソコンをもらい受けた。ソフトを完全にインストールしていなかったので、こうした文章を書くとき、いつも使っているATOKではなく、MicrosoftのIMEで日本語入力をしばらくやっていたのだが、どうも使い勝手が悪い。いまやMicrosoftのIMEがデフォルトスタンダードになっている時代で、ATOKなど使っている方が、希少価値的存在かもしれないが、私はこの方がいい。頭に浮かんだ文章など、スムースにパソコンに表示できる。要は慣れの問題なのだろうけど、昔からATOKを使ってきたから、この方がストレスなく使えるのはありがたい。
 最近のATOKは広辞苑も辞書として搭載してくれるので、こうして文章を書くに当たり、言葉を選ぶ時も結構重宝する。
 たまたまパソコンに一太郎とATOKをインストールし終えたとき、ユーザーにおまけとして西暦和暦変換辞書がネットからダウンロードできることを知った。どんなものだろうと思いダウンロードしてセットアップしてみると、これは便利だ。実をいうと結構これで困っていたのである。
 私は自分の蔵書をパソコンで管理していることはたびたび書いてきたが、そこに本のデータを入力する。そのとき発行年月日を西暦で入力している。ところが本の奥付には和暦で書かれていることが多い。入力時それを西暦に直している。最近の本なら和暦を西暦に直すことは何ら問題はないのだが、古本だと結構面倒くさい。え~と、これは西暦だと何年だ?と考え込んでしまうのである。
 しかしこれがあるとそんなことに悩まなくてすみそうである。早速自宅のパソコンにも導入する。

 私はこうした文章を書くとき、最初に下書きをノートにする。パソコンの画面でいきなり書けないこともないのだが、考えながら書くときは、この方が書きやすいのだ。そのとき使うノートは無地のやつである。なぜなら使うペンがモンブランの太い万年筆で、ペン先も太く、どっぷりとインクの出るやつだからだ。そのため罫線が入っていると、はみ出てしまうのである。だから無地のノートを使っている。
 ノートはあくまでも下書きだから、殴り書きで書いて、気に入らなかった文章はその上から線を引いてしまうし、時には付け足したりして、見た目はかなり悪い。けれどこの方が簡単でいい。そんなことを繰り返しつつ最近は文章を書いている。
 この万年筆、書きやすいのだけれど、インクをかなり使うので、すぐインク切れになるのが難点といえば難点なのだが、でも書きながらそろそろインクを補充しないといけないなと思うことと、インク瓶からインクを補充する行為自体、ちょっとした一休みになっていいのだ。
 今こうして文章を書くに当たり、ATOKと万年筆が欠かせなくなっている。

2007年03月12日

ジュンク堂と丸善

 2月21日の全国書店新聞に「出版業界紙『文化通信』はアルメディア調べとして2006年1月から12月までの書店出店・閉店状況を発表した。これによると年間新規店は397店で前年より23店(6.1%)増。閉店は1104店で208店(23%)増。店舗数は差し引き707店と減少したが、売場面積は1万7802坪増加した」という記事を載せている。要するに大型店の出店が増えている状況を説明している。

 その大型店の一つであるジュンク堂新宿店は最近、増床して、確かワンフロア増えたんだと聞いている。

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 まずは7階でエレベーターを降りてみる。ドアが開いて目にしたのは、高い棚とその本の多さであった。こ、これは本屋か!まるで倉庫みたいだ!日販の店売みたいじゃないか!いや、店売より在庫がある!と思った。圧倒された。まずは、フロアを一巡してみる。ものすごい量だ。こんなに在庫を抱えられる資金力を思うと、頭がふらふらになる。社長の言葉は嘘ではなかった。そしてこの中から目的の本を探すのはものすごく大変だ。
 目的の本は人文のコーナーにあるだろう。そして海外文学の棚だと思いつつ、探し歩くが、海外文学でもフランス文学、ドイツ文学、アメリカ文学など分かれているし、それ以外に評論などのジャンルも加わってくるから、どこにあるか分からない。こうなるとコンピュータでの検索機がないと、簡単に探せない。お客があちこちにある検索機を使って本を探しているのが目にはいるが、当然のような気がした。
 で、私も検索機を使って探してみる。ヒットはした。けれどこれじゃどこにあるか分からない。たとえば有隣堂のように棚に番号がふってあれば、そこの棚をめざして行けばいいが、ここではただフロアの地図があって、文芸のコーナーが黒く塗りつぶされているからここにあるんだよと教えてくれても、その文芸の棚が半端じゃないほど多いから、まったく分からないのだ。

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 「ご利用有難うございます。お探しの本が見つからない場合は、お気軽に最寄りの係員にお尋ね下さい」と書かれているけれど、尋ねたくてもどこに係員がいるか分からない。だいたい検索機を使っても場所さえ探せないなんて情けない。 ただ、一番下に「在庫がある場合は『7階-文芸書:海外文学全集』です」と印字されている。ここでそうか!海外の文学全集が置いてある棚のところに行けばいいんだなと判断する。だいぶ絞れてきた。で、海外の文学全集の棚の前に立って、隅から隅へと探してみる。あった!ここまで多分10分ほどかかっている。これだけの本の中から目的の本1冊を探すのは大変だ。
 レジで会計を済まし、その後他のフロアにも行ってみるが、ざぁーと見ただけでへとへとになってしまった。

 ものは考えようかもしれないが、これだけの規模の本屋さんで、自分が欲しいと思っている本を探そうとすると、かえって精神的疲労を強いられるのではないか。だって必ずここにはあるはずだという思いから、ここに来ているわけだから、意地でも探してやろうという気持ちになるからだ。町中の本屋だったら、ざっと棚を見て、ないことを確認した上で、カウンターへ行って注文すればいいだけだから、ある意味簡単だ。あるいはネットで注文すれば、本屋さえ行かなくても済む。定価2,625円もするから送料も無料だ。待っているだけでいい。
 今回はジュンク堂を見てみたいという思いから、わざわざ足を運んだけれど、次に来たいかといえば、ちょっと勘弁して欲しいという気持ちになる。もちろん自分の近くにジュンク堂があれば、別かもしれないが、ぶらりと本屋に寄って、本を探すという雰囲気の店じゃないような気がする。もちろんこれは私の個人的な意見なのだが・・・。だって棚を見ているだけで疲れちゃったもの。大きすぎるのも厄介だ。
 それでもかなりのお客さんが来ている。驚いたのは、スーパーなどにあるカートが置かれていたことだ。それだけたくさんの本を求めていくお客さんがここにはみえるのだろう。

 帰りに日本橋によって新装オープンした丸善日本橋店にも寄ってみた。ここはジュンク堂みたいなこれでどうだ!という在庫は置いていない。だから入り口にあった店内案内用のパンフレットには、「厳選された品揃え、きめ細かいサービスで、丸善『第一』の品質を提供する店舗を目指します」とある。

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 だろうなぁ。在庫で有無も言わせないやり方と、限られたスペースで品揃えを厳選して置くやり方が対照的だ。個人的にいわせてもらえれば、置く本を選んでいる棚の方が魅力的だ。本を探す一方で、棚にひそむコンセプトを見抜くのも案外楽しいものではないだろうか?
 でもジュンク堂で疲れ切ってしまったので、丸善ではそんなことを感じる余裕が私にはなかった。新装開店のお祝の生花から薫る強い花の匂いが、花粉症の私には辛かった。
 お陰でせっかく丸善に行ったのだから、モンブランのインク瓶を買うつもりでいたのに忘れてしまった。やれやれ・・・。

2007年01月29日

初詣

 例年我が家は初詣は、浅草寺か子供がいるので、亀戸天神のどちらかへ行く。しかも正月休みを外して出かける。その方が混雑しないでいいし、人の多さにうんざりしないで済むからそうしている。場合よっては、両方行くときもあった。 今年は、息子が大学受験なので、正月休み明けに亀戸天神へ合格祈願へ夫婦二人で出かけた。なんだかよく分からないが、志望校を書く紙があって、それに大学名を書くと祈祷してくれるらしく、私たちも息子が志望する大学名を書いた。中には、親と一緒に子供たちも来ていて、親子でその紙に志望校を書いていた。 私の息子は、私以上に無神論者なので、お詣りなど馬鹿にしていて一緒に行こうなんて気になれないらしい。私としても、この時期になって神頼みをしなければならないほどやばい状態だと困るし、またもう大学生になろうとしている大の男が親と一緒に神頼みをする光景は勘弁して欲しいものだ。だから息子の行動はこれでいいと思っている。
 この日は時間もなかったので、ここだけで済まし、後日浅草寺へきちんと初詣をすることにした。
 で、昨日浅草寺へ行った。正月を外したといえ、やはり浅草は東京の観光スポットなので、仲見世通り結構な人出だった。賽銭を100円投げ入れ、まずは息子の受験がうまくいくように、次に家内安全、義母の病気のこと、娘の歯の治療、かみさんの足がよくなるよう、そして自分の病気のこともお祈りをする。100円でこんなに欲張るなと、何の神様か知らないが入っているような気がした。
 例によってお守りを買った。今年の私のお守りは黄色の袋に入っている。いつもと違う。黄色かよ?何で黄色なんだ?とかみさんに聞くと、病気がよくなるようにというのでこの色のお守りだそうだ。ふ~ん?
 お詣りをし、お守りも買ったので、次は食事をする。これも決まっている。「雷門 満留賀」というおそば屋さんで山菜そばを食べる。どうしてここで食事をするかというと、初めてここに入ったとき、食事を終え、席を立とうとしたとき、店員とかみさんがぶつかってしまった。その時店員が持っていたお冷やがこぼれ、かみさんのジャケットにかかってしまった。大したことがなかったのだけど、レジにいる女将さんが平謝りをして、クリーニング代だといって、おそばの代金を受け取らなかったのだ。いかにも下町の女将といった感じで、凛としており、この態度が私は気に入ってしまったのだ。それ以来ここで食事をすることにしたのだ。もちろん私たちのことなど覚えていないだろうけど、今年もあの女将さんがレジにいた。
 ネットでこの店のことを調べてみると、創業は明治28年というから、かなりの老舗なのだ。紹介文を見ると次のようにある。

「観音様のおひざ元で、そば一筋に100余年が過ぎました。当店では、厳選された国産そば粉を使用し、食感が良くなるよう、また、ゆでる時に香りが逃げないよう、細打ちにしております。そば、おつゆ共に化学調味料などの添加物は一切加えない自家製で、お客様に大変ご好評を頂いております。四季折々の下町情緒を楽しみながら、伝統の味をご賞味下さいませ」

 私はここのおそばはさっぱりして好きだ。昨日は山菜そばを食べたが、隣のオヤジが天せいろをうまそうに食べていた。今天ぷらを食べるとすぐむねやけを起こすので食べられないけど、来年は食べたいものだ。後は娘に頼まれた人形焼きを買って帰った。

2006年12月02日

ブックカバー その後

 ブックカバーに悩んでいることは度々書いた。持ち歩いて本を読んでいる関係で、どうしても本にカバーがかかっていないとまずいからだ。
 先日神保町の古本祭りで、カバーに出来る紙の束をかって、いいんじゃないのと書いたのだが、実はこれも問題があった。この束、コルク色とモスグリーン2色の紙の束なのだが、最初コルク色の紙でカバーをかけてみた。多少紙質が厚いが、問題なさそうだと思い、よしこれを使おうとも書いた。しかしモスグリーンの方の紙質が更に厚く、まるで画用紙みたいなので、本にカバーをしたらごわごわししてしまうのだ。とても使いもにならない。
 結局何だかんだといって、今まで使っていた合皮のブックカバーを使うはめになる。ところがこの合皮のブックカバーにも問題が発生した。
 ここのところ寒くなってきた。そのため、この合皮のブックカバーが全体に硬くなってしまい、表紙の部分がぼこぼこしてしまうのだ。しかも本の角が硬くなっていて、ふれると刺すような感じで、痛いのだ。やっぱり安物はダメだ。それに持つ手の脂で妙にてかてか光ってしまい、感じが悪い。やはりケチったのがまずかった。
 この手のカバーはやっぱり革製の方が塩梅がいいようだ。ネットで調べてみると、単行本の革製のブックカバーは1万円近くする。これじゃちょっと高い。昨日帰りに有隣堂へ行って、革製のブックカバーを見てみた。値段は3,990円とある。悪くはなさそうだ。意を決して、一つ買ってみた。やっぱり革製の方が手触りといい、風格といい、悪くない。最初から革製のブックカバーを買えばよかったとさえ思った次第だ。これからこれを使ってみようと思うのだが、もうこれでブックカバーに悩まされることがないよう祈りたいところである。

2006年11月10日

しおり

 そろそろ私は告白しなければならない。懺悔しないといけない。
 以前私は書泉では本をもう買わないと宣言したのを覚えているだろうか?(知らない、覚えていないというなら結構です)ところが最近結構書泉で本を買ってしまっているのである。どうしてか?簡単であるヨドバシの7階にある有隣堂まで行くのが億劫になっているのである。1階の店内に入れば、うざったいヨドバシの店員がついてくるし、うるさい。エレベーターはなかなか来ないし、乗ったら乗ったで、各駅停車で止まるし、とにかく有隣堂まで行くまでにうんざりしてしまうのである。
 で、帰り道である書泉へ必然的に向かってしまうのである。有隣堂にあると思われる本が書泉にないということはほとんどなく、書泉でも事足りてしまうのである。しかも今まで文庫のコーナーが8階にあったのを3階に下ろしてくれたので、割と買いやすくなったのもある。(正直8階までお客を上げるのは大変で、そのため集客力のあるコミック、文庫を8階に持って行ったのはよく分かるのだが、如何せんこのビル8階まで行くのにエスカレーター1基しかないし、奥にエレベーターもあるが、何だか乗りづらいのだ)
 そのため書泉で本を買ってしまっている。元岩本町店みんな、ごめんなさい!私は絶対に書泉では本を買わないと宣言したのに裏切ってしまいました。仕方がなかったのです。
 たまたま「書泉ブックタワーを利用しない」とみんなで誓い合っただけのことなのだが、実を言うと、本当は昔から私は書泉ブックマート、グランデを利用していた。(ブックマートはかなりオタク対象の本屋さんになってしまったけれど、昔はちゃんとした本屋さんだった)高校時代、手持ちが出来るとよく神保町の本屋街に出かけ本を買った。結構新刊を書泉で買っていた。どうしてか?

そう、あのしおりを集めていたのです。

ついに言ってしまった!

 そうなのだ私は書泉マニアだったのです。それを隠していた。隠しておいて「タワーを利用しない」と言ってしまったのです。でも言い訳をすれば、つい最近までそれを守ってはいたのです。しかし近所の本屋には欲しい本がないし、有隣堂までいくのも面倒だし、セブンアンドアイでは裏切られるし、と不幸な状態なのです。

 と謝ったので、次に進みたい。(許してくれるかどうか分からないけど・・・)
 ところで最近書泉でくれるしおり昔から比べるとちゃっちくなったような気がしたのである。昔の方がデザインも凝っていたような気がする。最もあまりにもデザインに凝ってしまうので、使いづらい部分もあったけど・・・・
 昔から集めていたので枚数もあったのだが、あげたり、なくしたりして、最近のしか残っていないけど、なんだかそう思うのである。予算が削られたのかなぁ。それともしょうもないデザイン家を雇ってしまったとか・・・。


 ちなみに最近もらったしおりはこれ

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 そして今持っている昔もらったデザインの凝ったしおり

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2006年11月01日

喫茶店

 神田の古本屋を歩いて、欲しい本が1冊でも見つかれば、必ず近くの喫茶店に入って、買ったばかりの本の包みをといて、本を眺めながらコーヒーを飲むのは至福の時だった。古本屋巡りをはじめて間もない頃は、結構欲しい本がゲット出来たので、神田に行けばこんな時間を過ごした。
 でも、だんだん探している本が絞られれば、それが稀覯本まではいかないけれど、あまり古本屋に流通していない本ばかり残ってしまい、最後の方は空振りが多くなってくる。もちろん今みたいにネットが普及していなかったから、足で探すしかない時代であった。でもそれが楽しかった。又、歩き回って疲れて、一服するために喫茶店に入るのが好きだった。
 私はコーヒーが好きである。でもコーヒーの種類にはこだわらない。というより基本的に鈍感なのでよく分からないのがホントのところである。モカがいちよう好きではあるが、これがモカですと言ってくれないと分からない。モカ特有の酸味が好きなのだが、違うコーヒーを出されてこれがモカですと言われれば、多分そのまま信じてしまうだろう。味覚音痴なのだ。

 いつの頃からコーヒーを飲み始めたのだろうか。思い出せば、多分高校時代だろう。よく授業を抜け出して、喫茶店で仲間と入り浸っていたから、その時からコーヒーを飲んでいたような気がする。(「いちご白書」の歌と同じだ)
 高校を卒業してせっかく大学に入ったのに、馬鹿みたいにすぐ辞めてしまい、その後しばらくして又大学に入ろうと思い、予備校に通ったけど、ほとんど近くの喫茶店に入り浸っていた。
 大学に入っても、事務局の前の掲示板の前に立って友人を見つけては、一緒に近くの喫茶店に入った。
 今は本当に喫茶店が少なくなった。そして自分も一服するためにコーヒーを飲む場所をスターバックスとかドトールとかヴェローチェしか入らなくなってしまっている。でもいつもなんか昔と違うなと思うのだ。確かにスタバにしてもドトールにしても、ヴェローチェだって雰囲気作りは凝っているけど、変に明るい。そして私はいつも長居できないほど、すぐいらだちを覚えてしまう。要するに今風になじめなくなっているのかもしれない。
 新橋の本屋でアルバイトをしたとき、近所にあった亜露馬という狭い喫茶店。マスターにいつも優しくしてもらった。仕事を辞めたとき、一度手紙を書いて、返事をもらった。
 予備校時代、授業にでないで、入り浸っていた喫茶店。名前は覚えていない。いつも日替わりランチを食べていた。自分の成人式の日も予備校に来ていて、この喫茶店のテレビで各地の成人式の模様を苦々しく見ていたのを思い出す。
 大学時代に暇さえあれば行っていた喫茶店。これも名前を忘れた。そして新小岩の西友の屋上にあった喫茶店。高校時代、かみさんと二人で入った。そのほとんどがなくなってしまっている。

 今日も仕事帰りにヴェローチェによって、本を読んでいたのだが、ふとこんなことを思ったので書いてみた。

2006年10月29日

神田古本祭り

 神田古本祭りに出かけた。別に目的の本があったわけじゃないが、何か掘り出し物でもあればと思いつつ、都合がつけば今まで出かけていたので、今回も行ってみた。


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 昨年は行けなかったけど、今年は何だか白っぽい本が多いような気がする。つまり出版されて大して時間がたっていない本が多い。これじゃブックオフと大して変わらんなと思ったくらいだ。わざわざ神田で大がかりに古本祭りをやるのだから、もう少し古本に威厳みたいなものが感じられる本を出品して欲しかった。何だか在庫整理整理のために、古本祭りをやっているみたいな感じがしてしまう。多分そうなのだろう。すずらん通りにはこの辺にある出版社がワゴンセールをやっていたが、その中にあるのは間違いなく売れ残った本たちばかりであった。それにやたら近所の食べ物屋さんが屋台を出しているので、いろんな国の食べ物の匂いが混ざって、気持ち悪くなってしまう。まぁお祭りなのだからそれでいいのかもしれないが・・・。
 
 私は20年近く本屋で働いてきたので、その間様々な本を手にしてきたし、見てきた。今ではこうして古本としてしか見られなくなってしまった本がたくさんある。だから古本の中に昔手にした本を見かけると、ついつい手に取ってしまう。手に取った本のページをぱらぱらめくっていると、その本にまつわる思い出がよみがえってくる。
 これは以前書いたと思うけど、私は二度大きく蔵書を処分している。二度とも神田の古本屋さんに売った。その時持っていた本が古本として並んでいると、「そうそう、この本持っていた!」なんて思いつつ、棚から本を取り出してしまう。私にとって神田の古本祭りはちょっとした本の同窓会みたいなところがある。

 今回は収穫は1冊もなかった。でも一ついい物を手に入れた「紙」である。


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 紙の竹尾がワゴンセールをやっていて、単行本のカバーにちょうどいいサイズの紙の束を300円で売っていたのである。私は単行本のカバーがなくて、仕方がないので市販のブックカバーを使っていることも度々書いた。でもこのカバー本にピッタリしていないので(多少サイズの違う本でも対応できるように少し大きめにできている)、読んだ後カバーを取って本を見ると、本自体のカバーがずれて天と地がカバーが大きい分、中へ折れ込んじゃうのである。気にしなければそれでもいいのだが、何だか妙に気になってしまうのだ。それに手触りとして紙のカバーの方が好きだ。
 で、ワゴンにいたねえちゃんにこのサイズで単行本のカバーができるか聞いてみたら、彼女自分の読んでいた本を取り出して、売っている紙にのせ、カバーができることを見せてくれた。私はそれを買って家に帰ったのであった。
 早速紙を取り出してみる。多少本のカバーとしては紙質は厚いかもしれない。けれど実際本にカバーをしてみたらサイズ的には問題ない。


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 それにやっぱり本のカバーは紙がいい。お店でやっていたようなカバーを着けてみると余計にそう思う。サイズに合わせてきちんと切れ込みを入れ、折り込んで、セロテープでとめてあるので、本も傷まないし、読んでいてもずれてこない。緑と茶色の2色であるが、これはカバーとして使える。何枚あるのか分からないが、当分これを使って本のカバーにしようと思う。

2006年10月28日

反省

 最近どうも思うように文章が書けずにいる。このブログでは日々の出来事や感じたことを書いているので、割とスムースに書けていたのだが、それでも下書きを書いていて、途中でいやになってしまうか、書き上げたとき気に入らなくてそのままボツにしてしまうことが多い。ここのところブログの更新が少ないのもそのためだ。
 特に読んだ本のことに書くことことがひどい。読んだ本の感想など書くことは書いている。しかし気に入らないで、何度も何度も書き直すはめになる。今回もそうだ。本自体は1週間前に読み終えているのに、そのことについて書き始めると、支離滅裂な状態になってしまうのだ。何とか形のあるものにしようとすればするほど訳の分からない状態になってしまうのだ。
 読んだ本がいけなかったのかもしれない。私の能力を超えている『ヨーロッパ世界の誕生』なんて専門書のことを書くから、余計に書けないのかもしれない。
 でもこのブログは自分が読んだ本の備忘録的なところもあるので、書かない訳にもいかない。何とか書こうとするから余計に支離滅裂になってしまう。つまり読んだ本をきちんと消化していないから、頭の中で整理できず、整理することに時間がとられてしまう。
 しかし一方で少しで、もう少しうまく書いてやろうという野心が私の心の中に芽生えているのかもしれないと思うことがある。自惚れもいいところである。そんな才能もないくせに、思うことだけは一人前なのだ。
 確かに野心は向上心ともつながることもあるだろうけど、ただ少なくと私の場合当てはまらない。無理なのだ。
 ただ、こうして本を読んでいると、うまい言い方だなぁと思うことが度々ある。自分もこんな風に書ければいいなぁと思うのだ。だからときにはそれなりに真似をしてみることもある。やってみると何となくうまい表現になっているように思える。結局これがいけないのではないかと思う。ちょっとばかり見栄えがよくなったといっても、所詮素人が書いている文章である。たかがしれているじゃないか。そのことを再度自覚すべきなのだ。このブログを始める前に、とにかく自分に正直であればそれでいいし、それを素直に書くことを目的としたはずだ。今このことをもう一度自覚すべきなのではないかと反省している。このまま行くときっと行き詰まる。もっと自由になるべきだ。
 今日は気分転換に、神田の古本祭りでも行ってみようかと思う。

2006年10月23日

思い出

 風邪をひいてなんとなく調子が今ひとつよくない状態が続いていたが、やっと回復に向かいつつあるような気がする。それにしても風邪一つとってもすぐ治らないのは、やっぱり歳のせいなのだろうか?それにとにかく無理が利かなくなっているのが嫌な気分だ。幸いよくなりつつあるので、例によってゴロゴロしながら本を読んでいる。


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 読んでいる本は、学生時代資料として使った本なのだが(詳しくは別のブログで書きます)、読むのに手こずるかもしれないなんて思っていたが、案外読みやすいので、思ったよりページが進んでいる。
 この本を読んでみようと思い、自分の本棚を見てみると、大学時代読もうと思っていた本がそのまま読まないであることに、半ば愕然とする。この本みたいに読むきっかけができれば読むこともできるだろうけど、はたして今後読むことができるだろうかとふと思う。
 確かに今でも読んでみたいとは思う。思うけど、それじゃすぐ読めるかと言えばそう簡単にはいかない。少なくとも歴史の専門書である。それなりの準備(下知識)がなければ読むのは難しい。それがもう忘れちゃっているので、おそらく今読み始めても歯が立たないだろう。
 かといって、売り飛ばしちゃえというのは、どこか惜しい。正直これらの本の存在に困っているのは事実である。
 しかし今回のようにもしかしたら読むきっかけがあるかもしれない。その時のために取っておこうと思っている。読めば思い出すこともあるだろうし、案外今回のように面白いかもしれない。

でも、その読むきっかけがいつ来る?

本当に来るか?

いや、きっと来るはずだ!

そう信じよう!

でも、他の本を置くスペースがなくなりつつあるんだよなぁ。じゃまじゃない?

確かに!

 でも、これらの本を結構苦労して手に入れたのだ。そう簡単には手放せない。結婚するときにかなりの本を処分した。神田にある古本屋さんに来てもらい、引き取ってもらった。手元にあった、売った本の代金を見て、どこかむなしい気分になったのを思い出した。正直売らなけりゃよかったさえ思った。後になって、神田の古本屋で自分が持っていた同じ書名の本を買い入れようとさえ思ったことがある。もう本は売るまいと決心したじゃないか!
 そうなのだ。読んでどうでもいい本はともかくとして、私はできる限り本は売りたくない。そして今本棚に残っている本は、あの時売りたくないと思って残してある本である。やっぱりこれらの本は売れない。
 堅苦しい書名を眺めていて、今後読むかもしれないし、あるいは読めないかもしれないけど、これらの本は私にとって思い出でもあるので、やっぱりここに残しておこうと思う。

2006年09月29日

本棚の整理をしよう!

 ここのところ、本を買ってきては、読むか、とりあえず本棚に置いちゃうか、あるいは本棚から取り出して読んだ本を元の場所に戻さないで、ポイと置きっぱなししてしまい、本棚が雑然としちゃっている。 私の本棚は全部で60段以上あるので、どこの棚にどの本が入っていて、読んだのか、それともまだなのか、棚にしまい込んじゃうと分からなくなってしまう。しかも文庫など1段の棚に2列並べちゃっているものだから、奥の本は全く見えない状態になっている。
 で、仕方がないので、パソコンで自分の蔵書を管理している。その管理画面が下の画像である。


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 何か間延びした感じがするのは、これを作ったときその当時のモニターに合わせて800×600で作った。そしてモニターをTFTに変え、1024×768に変えたため、それに合わせてサイズを変更したらこんなになっちゃった訳である。もう一度スタイルを変えて、きちんとしたものに作り変えればいいのだけど、今度Accessの使い方をすっかり忘れちゃっているので、最初からやり直さないといけないのだ。何度か挑戦してやったのだけど、如何せん気力がないのですぐ挫折する。
 でも、これちゃんとデータが入力されていると、便利で自分の本を探すとき、著者名、書名のどちらでも探せるようにしてあるのだ。ただ当然データがきちんと入力されていなければならないし、読んだら元の場所に戻しておかないと、意味をなさない。今この状態なのである。せっかく自分にあった蔵書目録があるのだから、やっぱりきちんと使えるようにしておきたい。ちょっとこの休み、本の整理とデータベースの入力をきちんとやっておこうかなぁと思う。

 確かにこのようなデータベースは便利ではある。たとえば『スケベの研究』という本を探しているとしよう(ただしこんな本があるのかどうか知らないし、実際問題持っていないのだけど)、このデータベースを使えばすぐ場所が「A-04」の棚にあることが分かるのだ。ね、すごいでしょう!
 私は特に忘れっぽいので、同じ本を2冊買うことが多かったのが、これのお陰で、そんな馬鹿なことをしないようにはなった。
 けど、逆にこのデータベースをしっかりしたものにするためには、『スケベの研究』という本が必ず「A-04」の棚になければならない。つまり本の整理は必ずこのデータベースに基づいてしなければならず、ポイと置きっぱなしにして、そのまま忘れちゃうなんて許されないのだ。でないと検索してもその場所に本がないことになっちゃう。これ結構きついんですよね。面倒くさいのだ。で、忘れてそのままにしてしまうことがある。せっかく検索しても本がないなんていうこと、実はよくあるのです、ハイ・・・。

2006年07月08日

頑固者

 本屋を辞めてから、新刊の情報が今まで以上に入ってこなくなった。当然といえば当然なのだが、今まで必要ないくらいの情報が入ってきていたのと比べれば雲泥の差がある。そしてこのことはやっぱり寂しい。どんな新刊が出るのか楽しみであっただけに余計である。
 というわけで、用もないのに書泉さん寄ることが多くなった。昨日も、そして一昨日も寄った。ここではほとんど本を買わないので、情報だけを得にいくようなものなのだ。ほぼ毎日寄っていれば、そんなに変わったことなどあるわけがないと分かっているが、ついつい寄ってしまう。
 一昨日、五木寛之さんの『新・風に吹かれて』という本を見つけた。思わず手に取ってしまう。私は五木さんのエッセイ、『風に吹かれて』、『ゴキブリの歌』、『地図のない旅』が大好きであったので、この『新・風に吹かれて』はどうしても気になって仕方がなかった。挿絵も村上豊さんで当時と同じだ。これは読みたい!
 で、昨日レセプト提出のため、お茶の水に行ったので、帰りに丸善に寄り購入する。ついでに北尾トロさんの文庫も買う。まったく、余ほどのことがないと書泉では本は買わない。実はもう一冊欲しい本を書泉さん見つけているのだが、それもいずれ丸善か有隣堂で買うことになるだろう。全く我ながら頑固である。
 本にカバーを付けてもらったのだが、文庫のカバーが変わったなぁと書店員のカバーを付ける手元を見て思った。帰って見てみると、カバーが変わったのではなく、携帯電話のauが携帯電話で本が買えるauBooksを立ち上げたらしく、それに丸善が協力しているので、そのための広告用カバーであった。 まぁ、それほどうざったくないのでこのまま使うことにする。それにしても五木さんの『新・風に吹かれて』は気になるので、『街道をゆく』の11巻がちょうど読み終えたので、12巻にいかず、こちらに寄り道することにする。