2010年12月13日
電子書籍を大げさに語るやつ
森まゆみさんの本の中に、
「世の中、バカが多くて疲れません?」
とつぶやくところがある。
電子書籍に興味がある。このことは度々触れてきた。そしておそらく長い年月をかけて、その方向に進むのだろうと予感させるものがあるとも書いてきた。
先日テレビでその電子書籍の特集をやっていた。ここには著者とその作品をコンテンツとして商売にする人間、そしてそれらの人たちにやられないように既存の大手出版社が対抗するする姿があった。そして電子端末を発売するメーカーも紹介されていた。
何かが違う。
この番組の司会であり、電子書籍のコンテンツとして自分の作品を電子書籍化する会社を立ち上げた村上龍がその可能性を大きく語る。その中で、電子書籍化すれば、余計なコストがかからないから、印税が現状の定価の10%から40%にあがる、と言っていた。そうか、こいつは本当はこのことに期待をかけているんだな、と思った。それを電子書籍には未来があると、砂糖をまぶすように言っている訳だ。
しかしここに現実的な問題がある。たとえば今週の書籍のベストセラーに文芸書がいったいいくつランキングしていると思うのだ。ベストテンには一冊もランキングしていない。つまりこれほど文芸書が不毛な状態にあるわけだから、今の印税では作家はやっていけない。だから40%は現状の文芸書不毛の時代には魅力的なのである。もっとうがった見方をすれば、印税40%なら今のままどうでもいい作品を書いていても、なんとかやっていける、ということである。要するに作家がサラリーマン化しちゃっているから、作品のことは二の次で、儲けの話が先なのである。
ただしこれは本として売る場合の話である。電子書籍の場合話が違う。はっきり言ってやろう。電子書籍を読むには端末が必要である。それがいくらするんだ?月々のランニングコストはどれだけかかるんだ?それに見合う本があるのか?
たとえばソフトバンクはコンテンツを10万冊用意している?、用意するといっているが、たかが10万冊程度しか用意できないのである。一見10万といえばすごい数字に聞こえるけれど、いいですか、今日本では、書籍だけで1日約200冊の新刊が毎日出版されているんですよ。言っておきますけどこれ書籍だけの話である。ここに雑誌、コミックが加わればどういう数字になるか。
そして過去に出版された本の数の膨大さを考えると、10万冊のコンテンツがいかに貧相であるか、わかると思う。いいですか、いかに今の日本の出版界が閉塞状態で、様々な問題があっても、そうした数の出版物を扱っているのである。そのことに考えを及んで欲しいものである。
さらに昨日の日経新聞の社説に載っていたが、「電子書籍サービスは出版社よりも資本力のある家電メーカーや通信会社主導で進んでいる。そのため端末と情報サービスが一体化しており、端末ごとに購入できる作品も異なる。書店なら自由に本を選べるが、電子書籍は読みたい本の種類に応じて端末を選ばなければならない」とある。そうなのだ。読みたい本があっても端末が異なるために読めない状況が今はある。とにかく、端末の話題が先行していて、買ってみたのはいいけれど、本がないか、端末を作っている家電メーカーひも付きの本しか読めないのである。
その点書店のすごさはそのお客の一人一人の好みに対応していることである。その書店のすごさをこの番組では一切触れていない。高い投資をして端末を買ったはいいけれど、実際は読む本がないということになりそうである。多分そうであろう。私はこの10万冊用意されたコンテンツの中身はほとんどは雑誌とコミックだろうと推察しているので、そうした人には電子書籍の端末は便利であろうが、ただそれだけであろう。それに本をよく読む人はある程度年齢のいった人たちであろう。村上龍程度の作家の本を読む若者は、日本の読者層からすれば、たかが知れているように思える。むしろ電子端末を使う人は、村上龍を読むより、雑誌やコミックを読む層に違いない。いや、もう少し経済的に余裕のある人かもしれない。となればなおさら村上龍の作品など読みはしない。
電子書籍元年などほざいているが、40%の印税に眼がくらんで、気がついたら電子書籍より本の方が売れていたということになるんじゃないだろうか?だから森さんのつぶやきをそのまま使いたくなるのである。(そうなることを実は望んでいる)
その証拠にコンテンツがないため“自炊”している人間が数多くいる。端末で本が読めるようするために、自分の読みたい本などをスキャンしてくれる会社に送って、端末で読めるようにしてくれるビジネスが大流行だという。
その会社がどのように本をスキャンするかも番組でやっていた。希望する人が自分の本を箱で送り、その会社はその本を、まず本のカバーをカッターで切り込んで、破るように引き裂く。次にカバーのなくなった本を裁断機にかけて裁断し、ページをバラバラにして、やっと自動の読み取り機で読み取るのである。そこには本の残骸がゴミとして大きな袋に入れられていた。
これを見て、ここまで本は消耗品になってしまっているんだな、と思った。一冊の本の形になるまで、様々な人たちの手を経て、そうした形になったものを、端末で読みたいがために、バラバラにしてしまうのである。要するに資源ゴミの一歩手前の形にして、スキャンしたら、本当の資源ゴミにしてしまうのである。
昔と逆である。フランスでは昔、自分が読んで感動した本を、お金をだしてオリジナルな装丁してしてもらい、一冊の本にした。本は確かに内容が大切である。しかし本という実物、その重みには、本の装丁、つくりがいかに大切なものか、わかちゃいない。本はかさばる。重い。場所を取る。確かにそうだ。でもだからこそ、本がいいのである。テキストだけで、何が楽しいのだろう。その重み、手触りを無視していいものかと思う。長い年月の風雪に耐えた本のすばらしさを思い知るべきである。
たぶん私が生きている間は世の中の本がほとんど電子書籍になるということはないだろう。よかったと思う。私は生きている間本を読み続けたいと思っているが、それは本という実体のあり、形があり、重みを感じられる物を手にしていたい、と思う。本を読むことの楽しみである情景を想像し、流れる音楽をイメージすることを奪い、すべて画面で何もかも表現してくれるのが本当の読書なのだろうか、と思うところもある。
私は本を手にしている人の姿は美しいと思っている。これはi-padではこの雰囲気がでるか?いかにも時間と効率に追われ、眼に血走った人が手にする感じだ。本はできればゆったりと読みたいものである。ページをめくる紙の音しか響かないようなひとときが望ましい。そんなことを思う。
私は電子書籍に夢や希望、可能性を熱く語ることを非難はしていない。語りたい奴は語ればいいとしか思っていない。でも押し売りはやめてほしい。それがいつかがデファクトスタンダードになる可能性があることは否定しないが、本を読むことぐらい多様性があっていいと考えている。いろいろなスタイルがあっていい。この番組はそんな押し売りがひしひし感じられ、これからの読書は電子書籍ですよ、といった類の発想は無性に腹が立った。私にはどこか、先走っているのはあんたじゃないの?と思ってしまった。
日経新聞の社説では「メーカー各社が端末と情報サービスを一緒に提供するのは、音楽配信分野での米アップルの成功にならおうとしているためだ。しかし電子化が始まったばかりの出版分野で、色々な本を読むのに複数の端末を持たねばならないのは不便で、電子書籍自体の魅力が失われかねない」と書いてあり、「電子書籍が普及するためには、書店のように手軽にネットから買えるようにしなければならない。それには1台の端末でどんな本も読める仕組みづくりが必要である」とある。まさしくその通りであり、さすが日経新聞と思わせるのは、「書店のように手軽に・・・」と書いているところである。そこには今の日本の出版界で書店の重要さをきちんと認識している。村上龍にはそれが一切なかった。
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- by kmoto
- at 13:31
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