2010年12月13日

電子書籍を大げさに語るやつ

 森まゆみさんの本の中に、

「世の中、バカが多くて疲れません?」

 とつぶやくところがある。

 電子書籍に興味がある。このことは度々触れてきた。そしておそらく長い年月をかけて、その方向に進むのだろうと予感させるものがあるとも書いてきた。
 先日テレビでその電子書籍の特集をやっていた。ここには著者とその作品をコンテンツとして商売にする人間、そしてそれらの人たちにやられないように既存の大手出版社が対抗するする姿があった。そして電子端末を発売するメーカーも紹介されていた。

 何かが違う。

 この番組の司会であり、電子書籍のコンテンツとして自分の作品を電子書籍化する会社を立ち上げた村上龍がその可能性を大きく語る。その中で、電子書籍化すれば、余計なコストがかからないから、印税が現状の定価の10%から40%にあがる、と言っていた。そうか、こいつは本当はこのことに期待をかけているんだな、と思った。それを電子書籍には未来があると、砂糖をまぶすように言っている訳だ。
 しかしここに現実的な問題がある。たとえば今週の書籍のベストセラーに文芸書がいったいいくつランキングしていると思うのだ。ベストテンには一冊もランキングしていない。つまりこれほど文芸書が不毛な状態にあるわけだから、今の印税では作家はやっていけない。だから40%は現状の文芸書不毛の時代には魅力的なのである。もっとうがった見方をすれば、印税40%なら今のままどうでもいい作品を書いていても、なんとかやっていける、ということである。要するに作家がサラリーマン化しちゃっているから、作品のことは二の次で、儲けの話が先なのである。
 ただしこれは本として売る場合の話である。電子書籍の場合話が違う。はっきり言ってやろう。電子書籍を読むには端末が必要である。それがいくらするんだ?月々のランニングコストはどれだけかかるんだ?それに見合う本があるのか?
 たとえばソフトバンクはコンテンツを10万冊用意している?、用意するといっているが、たかが10万冊程度しか用意できないのである。一見10万といえばすごい数字に聞こえるけれど、いいですか、今日本では、書籍だけで1日約200冊の新刊が毎日出版されているんですよ。言っておきますけどこれ書籍だけの話である。ここに雑誌、コミックが加わればどういう数字になるか。
 そして過去に出版された本の数の膨大さを考えると、10万冊のコンテンツがいかに貧相であるか、わかると思う。いいですか、いかに今の日本の出版界が閉塞状態で、様々な問題があっても、そうした数の出版物を扱っているのである。そのことに考えを及んで欲しいものである。
 さらに昨日の日経新聞の社説に載っていたが、「電子書籍サービスは出版社よりも資本力のある家電メーカーや通信会社主導で進んでいる。そのため端末と情報サービスが一体化しており、端末ごとに購入できる作品も異なる。書店なら自由に本を選べるが、電子書籍は読みたい本の種類に応じて端末を選ばなければならない」とある。そうなのだ。読みたい本があっても端末が異なるために読めない状況が今はある。とにかく、端末の話題が先行していて、買ってみたのはいいけれど、本がないか、端末を作っている家電メーカーひも付きの本しか読めないのである。
 その点書店のすごさはそのお客の一人一人の好みに対応していることである。その書店のすごさをこの番組では一切触れていない。高い投資をして端末を買ったはいいけれど、実際は読む本がないということになりそうである。多分そうであろう。私はこの10万冊用意されたコンテンツの中身はほとんどは雑誌とコミックだろうと推察しているので、そうした人には電子書籍の端末は便利であろうが、ただそれだけであろう。それに本をよく読む人はある程度年齢のいった人たちであろう。村上龍程度の作家の本を読む若者は、日本の読者層からすれば、たかが知れているように思える。むしろ電子端末を使う人は、村上龍を読むより、雑誌やコミックを読む層に違いない。いや、もう少し経済的に余裕のある人かもしれない。となればなおさら村上龍の作品など読みはしない。
 電子書籍元年などほざいているが、40%の印税に眼がくらんで、気がついたら電子書籍より本の方が売れていたということになるんじゃないだろうか?だから森さんのつぶやきをそのまま使いたくなるのである。(そうなることを実は望んでいる)
 その証拠にコンテンツがないため“自炊”している人間が数多くいる。端末で本が読めるようするために、自分の読みたい本などをスキャンしてくれる会社に送って、端末で読めるようにしてくれるビジネスが大流行だという。
 その会社がどのように本をスキャンするかも番組でやっていた。希望する人が自分の本を箱で送り、その会社はその本を、まず本のカバーをカッターで切り込んで、破るように引き裂く。次にカバーのなくなった本を裁断機にかけて裁断し、ページをバラバラにして、やっと自動の読み取り機で読み取るのである。そこには本の残骸がゴミとして大きな袋に入れられていた。
 これを見て、ここまで本は消耗品になってしまっているんだな、と思った。一冊の本の形になるまで、様々な人たちの手を経て、そうした形になったものを、端末で読みたいがために、バラバラにしてしまうのである。要するに資源ゴミの一歩手前の形にして、スキャンしたら、本当の資源ゴミにしてしまうのである。
 昔と逆である。フランスでは昔、自分が読んで感動した本を、お金をだしてオリジナルな装丁してしてもらい、一冊の本にした。本は確かに内容が大切である。しかし本という実物、その重みには、本の装丁、つくりがいかに大切なものか、わかちゃいない。本はかさばる。重い。場所を取る。確かにそうだ。でもだからこそ、本がいいのである。テキストだけで、何が楽しいのだろう。その重み、手触りを無視していいものかと思う。長い年月の風雪に耐えた本のすばらしさを思い知るべきである。

 たぶん私が生きている間は世の中の本がほとんど電子書籍になるということはないだろう。よかったと思う。私は生きている間本を読み続けたいと思っているが、それは本という実体のあり、形があり、重みを感じられる物を手にしていたい、と思う。本を読むことの楽しみである情景を想像し、流れる音楽をイメージすることを奪い、すべて画面で何もかも表現してくれるのが本当の読書なのだろうか、と思うところもある。
 私は本を手にしている人の姿は美しいと思っている。これはi-padではこの雰囲気がでるか?いかにも時間と効率に追われ、眼に血走った人が手にする感じだ。本はできればゆったりと読みたいものである。ページをめくる紙の音しか響かないようなひとときが望ましい。そんなことを思う。
 私は電子書籍に夢や希望、可能性を熱く語ることを非難はしていない。語りたい奴は語ればいいとしか思っていない。でも押し売りはやめてほしい。それがいつかがデファクトスタンダードになる可能性があることは否定しないが、本を読むことぐらい多様性があっていいと考えている。いろいろなスタイルがあっていい。この番組はそんな押し売りがひしひし感じられ、これからの読書は電子書籍ですよ、といった類の発想は無性に腹が立った。私にはどこか、先走っているのはあんたじゃないの?と思ってしまった。
 日経新聞の社説では「メーカー各社が端末と情報サービスを一緒に提供するのは、音楽配信分野での米アップルの成功にならおうとしているためだ。しかし電子化が始まったばかりの出版分野で、色々な本を読むのに複数の端末を持たねばならないのは不便で、電子書籍自体の魅力が失われかねない」と書いてあり、「電子書籍が普及するためには、書店のように手軽にネットから買えるようにしなければならない。それには1台の端末でどんな本も読める仕組みづくりが必要である」とある。まさしくその通りであり、さすが日経新聞と思わせるのは、「書店のように手軽に・・・」と書いているところである。そこには今の日本の出版界で書店の重要さをきちんと認識している。村上龍にはそれが一切なかった。

2009年11月22日

パソコンの位置について

 この連休と今度の土曜日に我が家は地デジ対応のアンテナ工事と我が家にあるすべてのテレビを入れ替える予定である。それの伴い、居間にあるデスクトップパソコンとサーバーの位置を変える。位置を変えるといっても、そんな大移動をするわけじゃないないのだが、パソコンの裏にある配線を見るとぎょっとする。まったくなんでこうもコードばかり多いのだと思ってしまう。確かにいろいろな周辺機器、ネットの回線、サーバーなどが込み入っているので、仕方がないとはいえ、一つ一つコードをたどっていって、これななんだと確認しながら、配線をし直したりするもんだから、結局半日がかりになってしまった。
 基本はパソコン一台の配線なんだろうけど、少しずつ周辺機器を増設していき、その時はそれ一台の増設だったから、それほど配線に苦労はなかったはずだが、一台が二台と増えていき、そこにサーバーが加わったものだから、こうも込み入ってしまったわけだ。プリンターも二台ある。一台は通常使うレーザープリンターで、もう一台は年代物のインクジェットのカラープリンター。このプリンター一年に一回、年賀状の印刷の時しか使わないのだけれど、そのために生き残っている。USBのハブで分岐しているのだが、この接続位置を前と同じところに差し込まないと、パソコンの方が新しい周辺機器を認識したと、なんかやり出すので、元の位置の目印をつけておいて、USBコードを外したり、入れたりする。周辺機器にはそれぞれ電源コードもあるので、それもきちんと整理して、コードタップに入れ直す。
 何とかすっきり収まっていい塩梅になったと思って、私個人は自己満足していたのだが、家族からクレームが出る。これじゃテレビが見えないというのだ。今まではテレビとパソコンが並んで置かれていたので、パソコンをやりながら、テレビもチラ見出来たのが、今度はテレビがパソコンの後ろにあるので、まったく見えない。これが気に入らないらしい。私はすっきりしていいと思っているのだが、パソコンをやりながら、テレビも見る、“ながら”がいいらしく、そのようにして欲しいと言い出す。
 冗談じゃない。また元の位置に戻す手間を考えたら、とてもじゃないが、その意見は聞けない。だいたいパソコンを置くところがないから、たまたま居間に置いただけで、テレビも見たいからといって、そこにパソコンを置いたわけじゃないだろうに。それを主張するものの、今までの環境が居心地が良かったものだから、ひたすらそれを望むのだ。
 とにかく私以外、我が家はテレビ大好きの家族なのだ。どうしてこんな騒がしい番組を見たいのか、正直わからないことが多い。嘘くさい情報番組を見て、やたら感心したりするのもどうかと思う。とにかくテレビで流れる情報はすべて正しい。何故なら嘘やいい加減な情報だったら、こうして大々的に公にしないだろうし、そういう情報や意見は、みんなが認めているから、流しているのであって、それはいわば常識だということらしい。
 私はほとんどのことに懐疑的なので、そんな情報を素直に受けいれちゃっていいのかなと思う方なのだ。この点はかみさんとは絶対に意見が合わない。ネットの情報にしたってそうなのだが、そういう情報は情報を流す側の都合のいいところしか流さない。テレビだって、スポンサーを意識した上で、出来るだけショッキングでインパクトのある、半ば嘘くさい情報を流すものだと思っている。これがマスコミの怖さである。情報を受ける側に批判精神が育っていないところに、これでもかというぐらい情報を垂れ流し続けられれば、いつの間にかそれが世間の常識になってしまうところが怖いのだ。
 馬鹿なニュースキャスターが事件や事故に対して、自分のコメントとして、批判的なことを言うけれど、あれだってあんた何様のつもりでそんなことを言っているのだと思う。さも世間の意見を代表しているが如く、我がもの顔で、しかめっ面で言っているけれど、誰があんたに代表して批判意見を言ってくれと頼んだのだと思う。そして言う以上その意見にどこまで責任を持っているのか。情報を流す側は、あくまでも流すことに専念すればいいのであって、それをどう思うかは、見る側の問題だ。それをこう思って下さいねと先導するのはお節介もいいところであって、本来必要じゃない。こんなことを許しているから、国民が考えることをしなくなるのだ。だから華々しいパフォーマンスに騙されるのだ。
 政権を取ったからといって、目先だけのことしか考える能力しかない国会議員が、仕分け作業を公開してやっているけれど、あれだって見る側には、そうそう、そういう無駄はなくすべきよねというおばちゃん目線が支えているだけであって、いくら税収が減るとはいえ、すぐ結果のでないものにはお金出さないとなれば、長期的スパンで物事見なければならないものは、すべて切り捨てられることになる。
 だいたいあんたら政権が取れたのは、マニフェストに書かれていることが国民ウケしやすかったからだということなのだが、それをそのまま実行すれば自分たちの首を絞めることに間違いなくなるはずだ。(実際その兆候が見えているし)今後が見物だ。

 ということで、テレビに対しては批判的な立場である私は、たとえ家族がパソコンをやりながらテレビも見たいという意見は却下する。というか、元に戻すのが大変だからである。あの机の裏にある配線をまた苦労しながらたどっていって、外したり、入れ直したりするのは、もう勘弁してくれというのが本音なのである。いいじゃんこれで。
 いま朝の7時前にこれを書いている。この後また居間の片付けをする予定なのだが、果たして我が家は波風なくスムースに片付けが終わるでしょうか?もう一波乱ありそうな予感がする。
 そうそう、サーバーの位置も変えたのだけれど、もしかしたら昨日半日ここにアクセスしようとして出来なかった人もいらっしゃるかもしれない。(いないか?)理由はそういうことなのだが、もし殊勝なお方がこのブログを見たいと思って、見られず怒られてしまい、さらにそっぽを向かれちゃうと、情けないので、昨日アクセスされた方にはご迷惑をおかけしました。もしかしたら家族の意見に押し切られて、昨日直したパソコンの位置をまた元に戻すかもしれません。そうなると、今日もアクセスが出来ない可能があります。その時は、ああ、家族の意見に押し切られたなと笑ってお許し下さい。

2009年05月20日

新型インフルエンザに思うこと

 大阪にいる義理の妹からかみさんにメールがあり、マスクを買って送ってくれないかという。そうなのだ。大阪では今新型インフルエンザの影響でマスクが手に入らない状況なのだ。マスクを買い求めるために、薬局に人が並んでいる光景がニュースで流れていた。 そのメールがあったのが三日前である。まだ東京の薬局にはマスクがあった。そして私は大野さんから箱が変色して売れないマスクを花粉症だということで、一箱もらっていた。とりあえずそのもらったマスクを大阪に送ったのだが、今度はうちのかみさんが慌てて始め、自ら薬局でマスクを買い求めた。しかし昨日の時点でもうお店にはマスクが売り切れていたという。
 義理の妹からお礼のメールがあったことを昨日聞いたのだが、それには話の続きがあった。とにかくマスクが買えない状況なので、仕方なしにマスクなしで街中を歩いていると白い目で見られるというのだ。“あの人、マスクしていないわよ”ということらしい。つまりマスクを付けないで歩いていること自体、恐れを知らない奴と見られるか、あるいは新型インフルエンザのウィルスをまき散らしているかのように見られるらしい。
 一昨日だったけ?厚労省が新型インフルエンザは通常のインフルエンザと変わりがないからパニックにならないようにと言いだしたのは・・・。結局あれだけ大騒ぎしたのに、今頃通常のインフルエンザと同じだよ言うのも変な話だ。最初からそう言えばこんなことにならなかったのにと思うのだ。そもそも日本にウィルスが入ってきた時点で、今回新型インフルエンザは弱毒性だと言われていたじゃないか。
 こんなに大騒ぎになったのはやっぱり厚労省のせいだ。とんでもないウィルスが日本にも上陸したということで、空港などものすごい検疫体制を引き、物々しい防護服を着た検査官を走らせる姿を見れば、誰だってやばいと思うに違いない。感染の疑いがあれば、感染病棟に強引に連れ込み、猫も杓子も入れてしまえば、今度はベッドが足らなくなるのは素人だってわかる。で、対応できなくなれば自宅待機と言い出す始末。
 そしてマスコミのバカ加減も笑っちゃう。新型インフルエンザに感染の疑いがある患者さんが入院させられた病院前で現場からの中継で、記者はマスクをして話している。だがひとたびこの患者が新型インフルエンザに感染していないとわかると、マスクをとって中継し始める。いったいこれは何なんだと思う。厚労省が煽り、マスコミが火に油を注いだ結果、今回のバカ騒ぎとなったことがわからないのかな、なんて思う。
 どうしてこんなに大騒ぎするんだろうか?たぶん鳥インフルエンザのような強毒性のウィルスが日本に入ってきたとき対応するマニュアルが出来上がっていて、今回それを使って対応した結果だろうと思われる。まったく役所というところは、そこにあるマニュアルや書類ばかり重視して、現実を把握しないから、こんなとんちんかんなことになるのだ。大阪府の知事も「役所って、バカですね!」と言うのもそんなところだろう。
 たとえば、障害者向けに低額郵便を提供するシステムにしても、実体はそうでなくても、提出された書類に不備がない限り、それを認めてしまうのも同じである。現在郵便局は民営化されているけれど、元を正せば公務員である。
 あるいは私がDSで楽しんでいる漢検ソフトを提供している日本漢字検定協会にしたって、いったん公益法人になって、書類を提出し、それに不備がなければ、たとえ文科省の人間が検査が入っても、型どおりで、“ハイ、ハイ、問題ないですね”なんて言って、検査が終われば漢検の奴と飲みに行ったりしたんじゃないかと思われるのである。その時、“ハイ、ここに今日検査が入ったことの書類にはんこ押してね。ここにね。あっ、シャチハタはダメよ。”なんて言っちゃったもんだから、影でやりたい放題されちゃうのだ。汚染米の時も同じだろう。要は書類が重視され実体なんてどうでもいいんだ。出席簿にはんこを押すような感覚だ。

 事務をやっていると、ほんといろいろな書類を提出させられる。そのたびに同じ書類を何通も作り、印鑑を押す。いつもそうした書類を窓口で出すとき、まず印鑑の確認から始まり、指さし確認してから、不備がなければポンと受付印を押してくれる。その印鑑はシャチハタ印ではまずい。しかしかねがね不思議に思うのだけれど、どうしてシャチハタ印じゃまずいんだろうか。いろいろ調べてみると、どうもシャチハタは、ゴム印なので、押し方によって形が違ってしまうかららしい。だけど通常の印鑑だって押し方によっては形が変わるだろうし、ちゃんと登記した実印ならともかく、三文判ならいいというのもよくわからない。三文判をいつも同じものを使うとも限らないでしょう?
 別に私はシャチハタのまわし者じゃないけれど、会計伝表などでゴム印を使うよりはシャチハタの方が楽でいい。だから今はほとんど事務所で使うゴム印はシャチハタ印に変えてしまった。いちいちスタンプにポンポンとインクを付けるのが面倒なのだ。役所や税務署に提出する書類で三文判で済むものも“判ぞう”という優れものを使って、そこに三文判を差し込みシャチハタ印みたいに使っている。

 話は新型インフルエンザから役所の書類に変わっちゃったけれど、何でも実体にそぐわない書類やマニュアル、あるいは法律をいつまでも大事にするのはどんなものなのか。今回の新型インフルエンザ騒動でもうかがうことができそうである。

2009年05月05日

今年のゴールデンウィークは・・・・


 一昨日から胃に調子が今ひとつよろしくない。2日の日に胃カメラをやった。胃カメラは“やった”というのかと、ふと思ったが、私のとって、胃カメラと大腸の内視鏡検査は毎年一回やらなけければならないものなので、そんな言い方になる。
 昨年から、内視鏡検査は今通っている先生の下でやることにした。先生は内視鏡専門医なので、あれほど痛みで苦しんだ大腸の内視鏡検査が痛みも感じず、いとも簡単に終わったことに驚きを感じ、今までの検査はいったい何だったんだろうと思った次第である。さすが内視鏡専門医と言われるだけの先生だと失礼なことを思った。
 しかし胃カメラどうなんだろうと思っていた。というのも、私は胃カメラが大の苦手なのである。とにかくあの黒いチューブ?が差し込まれる瞬間から、むせはじめ、戻しそうになる。もちろん胃の中には何も入っていないから、胃酸みたいなものが食道を通って、のどへそして口へと逆流してくる。だから大腸の内視鏡検査と胃カメラのどちらかを選べと言われたら、たとえ痛くても大腸の内視鏡検査を選ぶ方なのだ。
 と言うわけで、先生に事前に胃カメラをやるとかなりむせますと言ってあったし、検査前にも胃カメラはむせる方ですか?と聞かれ、かなりむせますと言っておいた。そうしたら、先に点滴していた途中から小さな注射器みたいなものを何本か差し込んでいく。たぶん鎮静剤か麻酔だろう。とりあえずこれで行きましょうと言われてから、いつの間にか検査は終わっていた。

おおっ、すごい!!

 大腸の時も感動したけれど、今回の胃カメラはもっと感動した。むせずに、苦しまなくすんだことが奇跡のようだ。こういう検査方法があるのに、今まで検査を受けてきたところはいったい何をしているんだろうと思った。とにかく荒ぽっかた。最初にゼリーみたいなものを飲まされたり、あるいは検査の前にスプレーをシュシュとのどに吹きかけ、いきなり胃カメラのチューブを差し込まれ、思いっきりむせ込んだりした。私はますますこの先生を信頼しちゃったね。毎月薬をもらいに通院しているが、毎度私のおなかの調子を尋ね、私がうまいこと自分の症状を表現できないのを、うまいこと聞き出して、それにあった薬を出してくれたりしてくれているので、今度こそいい先生に出会ったかなと思っている。

 しかしやっぱり胃の方はあんなものを差し込まれたので怒っているのだろうか?とにかく今ひとつ調子が良くない。食後胃が張る。これは今回に限らず検査のたびにこのようになる。過敏性のものなのだろう。元々胃や大腸の調子が良くないのは、機能性障害、ストレス、過敏性にあると先生に言われていて、最近私みたいな患者が多いことも先生は言われていた。たぶん胃の方が驚いていて、なかなか現状復帰できないでいるのではないかと推察している。

 そんなわけで、家で横になったりして、テレビを見たり、本を読んだりしている。さっきまで読んでいた本を読み終え、この後感想を書こうかなと思っているし、その後引き続いて用意してある本を読むことにしている。ゴールデンウィークも残り後一日だ。

2008年07月03日

新潮文庫!?

 パソコンをやっていて、何か遅いなと思ったら、ウィルスソフトの更新が行われている。あるいは業務を終えて、シャットダウンして、さっさと帰ろうとすると、Windowsの更新をしろと出てくる。まぁ、裏でいろいろやってくれているのは結構だけど、何をどのようにしているのか、さっぱりわからない。更新は決してご迷惑はおかけしませんからということで、陰でこそこそやっているのだろうけれど、案外迷惑なものだ。
 更新といえば、私の頭の中にある出版目録は本屋時代で止まっている。つまり誰かの本がどこの出版社から出ているというのを、ある程度覚えているのだけれど、本屋をやめてから、その後どうなっているのかわからない状態になっている。例えばある作家の本が確かあの出版社から出ていたはずだと記憶の奥から引っ張り出すのだが、確かに出版されてはいたが、今は品切れ、あるいは絶版となっていることが多い。幸い、今はネットという便利なものがあるので、その後どうなっているか調べることは簡単にできるが、調べずに本屋で探すとひどい目にあうことになる。探しても、探しても見つからないのだ。やっぱり何でもそうだけれど、情報は最新版いいようである。

 シャンポリオンの伝記を読んだ。こうした古代史の一部を解明した人の話を読むのが好きだ。読み終えて、どうしてかわからないけれど、シュリーマンの自伝が読みたくなった。私がシュリーマンの自伝を読んだのは、高校生の時だから、もう30年以上も前のことだ。自分の本棚を探してみたが、当時の文庫本は残っていなかった。確か岩波文庫版で読んだはずだ。仕方がないので買うことにする。せっかく読むなら、今度は他の出版社で他の訳者の本を読もうと思い、自分の頭の中にある出版目録を探す。確か新潮文庫でも出ていたはずだ。そしてこの本はよく“新潮文庫100冊”の中に入っていたはずだから、今でももちろん出版されているだろうし、それだけポピュラーな本だから、ブックオフにも流れているだろうと推測する。確かにあった。105円の棚に虐げられて収まっているのを取り出して、他の本と一緒にレジに出す。
 その時よく見ればよかったのだけれど、読もうと思って取り出すと、“ややぁ、文字が小さいな”こりゃ読むのに苦労しそうだ。奥付を見てみると、平成6年となっているから、今から14年前の本である。それじゃ仕方がないと諦める。
 ところがこの文庫本、しおりのスピン(ひものやつ)がやたら短い。だからしおりの役目をなさない。昔、ネットで古本屋さんをやっている人の本を読んだことがある。そこにはブックオフで仕入をするときに、スピンが切れている本があることに注意すべしと書いてあった。どうしてかというと、ブックオフでは本をきれいにするために、本の天地をグラインダーで削る。そのときスピンも切ってしまうのだ。この本も多分下の方を削ったとき、切ってしまったのだろう。105円で買ったのだから、文句を言っても仕方がない。書泉さんでもらったしおりを引っ張り出し挟む。
 しかしそれだけではなかった。何とページがぽろぽろ外れてしまうのだ。通勤途中で読んでいて、本のページがはらりと落ちてしまった。これはあまりにもグラインダーで削りすぎたため、のり付け部分もそぎ取ってしまったのかなぁと呆れてしまう。きっと潔癖性の人がグラインダーをかけたのだろう。とにかく文字は小さい。スピンは役立たず。しかもページは外れる。これじゃ落ちついて読んでいられやしない。
 これって取り替えてくれるのかな?もしかしたら代替えの本がないかもしれない。けれど105円で買ったものを取り替えてくれというのも恥ずかしい部分がある。だったらちゃんとした本屋さんで買えよと言われそうだ。仕方がないので(何か仕方がないというフレーズが今回多いが・・・)地元の本屋さんで買おうと思ったら、在庫なしと言われる。なんてこったい!我が地元の知的レベルの低さをこの本屋で見てしまった。店を占めるのは漫画と雑誌、しかもエロ雑誌とくるから、どうしようもない。

 ところでこの新潮文庫のページが外れるという状態なのだが、これは一概にブックオフのせいだとは言い切れないのではないかと思い始めた。というのも先日買った新刊の文庫本を読んでいたら、ページがぱかっと本が割れるのだ。このとき二冊新潮文庫を買ったのだが、二冊ともそうであった。明らかにのり付けが甘い。自分が買った文庫本がそうだっただけのことかなと思ったのだが、たまたま会社の同僚が新潮文庫を読んでいたので、「最近の新潮文庫って、ページがぱかっと割れない?」と聞いてみる。そうすると「そうなんですよ。この本も、ほら」と見せてくれた。おいおいどうなっているんだ?まさか最近の原油高で接着剤をけちっているのか?私も同僚も別に文庫本を粗末に扱った訳じゃない。普通に読んでいて、そうなってしまったのだ。よく分厚い本だとぱかっと割れてしまうこともあるけれど、この本は普通の厚さの本だから、割れてしまうこと自体おかしい。新潮さんどうなっているんですか?

2008年06月01日

言いたい放題

 昨日は月末なので、普通預金から当座預金へお金の移動を窓口を通してやる。ついでに振込もあったので、やろうと思ったら、こちらは銀行でやると手数料がかかるという。コンビニだとまったく手数料がかからないのに、どういう訳なのだろうか?どうも銀行は手数料を取ることが当たり前の感じでいるのが好きになれない。
 私は手数料を取るのがけしからんといっているんじゃない。手数料がかかるものは仕方がないと思っている。いわば手間賃みたいなものだから、ある程度は仕方がないと思っているのだ。けれど、コンビニでは手数料がかからないのに、銀行では手数料がかかるというのが腹が立つ。
 コンビニはこのように手数料をサービスすることで、自分のところに客を寄せることをやっているのに、銀行は当たり前のように手数料を取る。取って当たり前という態度が気に入らない。やればできるのにやらないという感じがしてならないのだ。損して得取れという言葉があるじゃないかといいたくなってくる。すぐ銀行出て、ちょっと戻りコンビニで支払をする。

 銀行系のカードにしてもそうだ。これも以前書いたと思うが、当時ついていた当社の銀行の担当者のノルマを達成するために、カードを作った。一年間は年会費無料だけど、次年度以降会費が取られる。もちろん今は年会費永久無料というカードも銀行では作れるようだけど、私のもっていたカードは毎年年会費が当然のように取られていた。
 しかし今は先に書いたようにカードでも年会費永久無料というのも多くある。もっていたカードは自分の車のメーカーのカードでもあったから、車検の時などポイントが使えたのだけれど、その車も買い換えてしまった。だから貯まったポイントが使えない。そのため思い切って年会費無料のカードに換えた。しかも貯まったポイントはその店で使える。最近はネットのプロバイダー料金や回線使用料、あるいはアマゾンの支払、定期代など結構使っているので、ポイントが貯まる。
 ネットのプロバイダー料金支払が新しいカードに移っていることを確認して、カード会社に退会を申し出る。受け付けてもらった時点で、カードにはさみを入れる。何かうれしくてぞくぞくする。これでまた一つこの銀行とのしがらみがなくなって、すっきりする。
 ATMで入金する。どういう訳か私が行くとお金が詰まってしまうことが多い。今日もそうであった。もともと患者さんから頂いた一部負担金を入金するためにATMを使って入金しているのだが、患者さんだけでなくお客さんから頂いたお金は結構痛んでいたり、それをセロテープで補修したりしたやつがある。これがATMでは受け付けないではじかれる。
 信用金庫に勤める娘にこのことを言うと、窓口で入金すればいいと簡単にいう。が、その窓口が混んでいる。仕方がないので、自分の財布にあるお札と換える。痛んだお札は、毎日買っている弁当屋さんの支払に回す。そのお札を使うときは一様謝る。幸い弁当屋のおやじは心優しい人なので、いいですよといってくれるので助かる。
 さて、そうしてお金を整えて、ATMに入れたら、とたんに扱えなくなりました。インターホンで連絡を取ってくれという。仕方なしに電話すると、とりあえずATMが使えなくなったことを詫びるが、その後入金した人間が本人であるかどうか確認するために、身分証明書をもっているかと聞いてくる。まただ。以前も同じことを聞かれ、同じように腹を立てて言った。「あのさぁ、ATMを使うためには身分証明書をいつも持参しなけりゃならないの?」と。以前も名乗っているので、態度の横柄な客としてブラックリストに載っているかもしれない。きっと、またあいつだと言っているような気がした。

 以上銀行嫌いの私が言いたい放題の三題。

2008年02月05日

ノロウィルスと餃子

 三日ぶりに満員の通勤電車に乗る。が、いつもと違うのは、結構踏ん張って立っているのが心許ない。力が入らないのだ。まだ完全じゃないことがわかる。
 先週の水曜日に激しい吐き気、下痢、そして悪寒にみまわれしまった。それも急にである。おかしいな?という前兆を感じれば対処のしようもあったのだが、水曜の朝起きたときから、この状態であった。しかし今日と明日の木曜日は休むわけにはいかないので、ひいひい言いながらやっとの思いで事務所にたどり着くが、とてもじゃないが仕事にならない。これはかなりやばいなと感じていたが、事務所にある体温計で計ってみると38度ちょいある。もちろん下痢が止まらない。嘔吐も間隔をおいてやってくる。どうしちゃったのだろうと思いつつ、今日どうしてもやらなきゃならない仕事をやり始める。月末の銀行振込である。もう一台のパソコンに電源を入れ、銀行と接続して、振込を開始するが、どうも気分が薄れる。ちゃんとしないといけないと思い、何度も何度も入力したデータを確認して、振込を終える。
 どう考えても、今日は仕事にならんなと思ったし、明日は月末の上、木曜日ときているから、休むわけには絶対にいかない。早く帰って休む方がいいと思い、3時になったら帰ろう決める。なぜ3時かといえば、銀行が3時で閉まるので、当日までの当座が確定するからだ。
 家に帰って、すぐ蒲団に横になった。さすが吐くものがないからか、嘔吐は治まったが、下痢は止まらない。これはこれはかなりやばい状況になりつつあるなと、思い始める。近所の診療所へかみさんに送ってもらう。診察の結果、ノロウイルスだと言われた。が~ん!なんでノロウィルスに感染するじゃ!感染症の本など読んだからかなんて馬鹿なことを思いつつも、医者に今日は食事をしたかと聞かれ、食えるわけないだろう!頼んでおいた昼のお弁当の油のにおいを嗅いだだけで、もどしそうになったのに・・・。そう言ったら、それだけの元気があれば点滴をする必要はないだろうと言われ、ただ水分は充分取るようにと、下痢止め、整腸剤など出された。 その日は、ポカリスエットだけで過ごし、木曜日を迎える。相変わらず気分が悪い。もちろん食欲などまったくない。下痢は続く。水分しか摂取していない関係か、それしか出ない。まるで大腸の内視鏡検査をする前の下準備の時と同じだなと思いつつ、とにかく会社に出る。
 社長には昨日体調不良で早退すると伝えておいたので、会う早々、どうだ?と聞かれ、だめです。ノロウィルスだそうですと言えば、おいおいうつすなよ言われる。うつして良くなるならうつしてやりたいくらいだが、まぁそうもいかないので、私は出来る限り事務所の自分のデスクで仕事をする。さすが敵もこちらに寄りつかない。
 お昼、自分の幕の内弁当に入っている揚げ餃子を見てこれ大丈夫だろうなと馬鹿なことを言いつつぱくぱく弁当を平らげる社長を尻目に、私は買っておいたパンを口にするが、ちっとも口に進まない。さすが私の調子がひどいとわかったのか、4時になったらすぐ帰るようにと言われる。素直に従うことにした。なぜ4時かって?4時に薬局を閉めるからである。
 この日も家に帰って、すぐ蒲団に潜り込む。夜になって、少し楽になってきたが、力が全く入らない。これは明日は休んで、土日で治して、月曜からちゃんと仕事をした方がいいと判断する。
 土曜日になって、かなり楽になってきたが、相変わらず胃がむかむかする。もちろん食欲はないのだが、食べられないことはない。朝、昼と、一個のメロンパンを分けて食べ、夜はうどんを食べて過ごす。
 それより私のノロウィルスちゃんが長男にうつったらしく、朝激しい嘔吐、下痢、痙攣を起こしてしまった。歩けないというから車で診療所に連れて行こうとするが、よりよって、家の前の道を下水の補修工事をしており、車が出せない。私が元気なら、工事の関係者に詰め寄って、病人を運びたいから道を空けてくれと言えるのだが、それが出来ない。代わりにかみさんにいってもらい、何とか診療所へ行ったのだが、そこでもかなり吐いたらしい。点滴を打ってもらい、青ざめた顔で帰ってくる。申し訳ないことをしたなと思いつつ、大丈夫か?としか言えなかった。
 日曜、雪。買い物に行かないと食べるものがないから、一緒に行ってくれと言う。えっ!と言うが、仕方がない。悪いのは私なのだから。何もこんな時に雪なんか降らなくてもいいのにと思いつつ、車の雪を払いのけるために、外へ出て、車に乗り込む。何とか買い出しも済ませる。このときには完全じゃないが、何とか動けるし、いつものように観察も出来るようになってきていた。
 このスーパーは毎週日曜日は冷凍食品4割引で、いつも人が殺到しているいるのだが、さすが今日は一人もその売り場にいない。他の場所は私たちのように買い出しに来ている人がいるのに、みごとにここだけは人がいないのは不思議な光景であった。
 ばぁさん一人が店員に詰め寄っていた。ここにはどれくらい中国産があるのよとちょっと怒っている感じだった。店員も困ったような感じで、対応していたが、あんたならちょっとぐらいの農薬なら大丈夫だよと言いたくなってしまう。確かに農薬はまずいが、問題はこれほど中国産の農産物が日本に入ってきている現状を憂うべきなんじゃないかと思う。新聞に書いてあったけれど、中国では中国産の農産物をこれほどバッシングするなら、日本は中国産の農産物買わなきゃいいと言っているらしい。まったくその通り!日本の自給率の低さを憂うべきなのだ。国の政策が農業を軽視している結果こういうことになっちゃったのではないか。
 それに農薬が中国で混入したとマスコミは言っているけれど、果たしてそう言いきっていいのかなぁと不安になる。もしこの農薬が日本国内で故意に入れられていたら、いったいどうするつもりなのだろう?そっちの方が心配だ。だって、餃子の生産工場では問題の農薬は見つからないのでしょ。
 ということで、先週から今週にかけて、ノロウィルスにかなり苦しめられつつ、餃子の問題まで触れてしまった。

2006年09月22日

朝日新聞

 昨日、国旗掲揚や国歌斉唱を教育現場で強要するのは違憲であるとして、東京都教育委員会の通達や指導が、東京地裁で違法とされた。
 まったくこの地裁の裁判長はいったい何を考えているのか、頭がおかしいじゃないのと言いたくらい、馬鹿な裁判長だと思う。
 国旗掲揚や国歌斉唱は当たり前のことだろう。日本という国を思うことに、国旗や国歌は必ずや寄与するはずだ。自分たちが暮らしている国を思うこと、自分たちが日本人であることを、国旗を掲揚するとき、あるいは国歌を歌うとき、自覚させてくれるはずだ。
 だいたい日本人としてだけでなく、どこの国の人々だって、自分たちの国旗や国歌を第切にしているはずだ。それがその国の国民として当たり前のことである。ここには個人の自由など入り込む余地はない。前提として国としてのまとまりや文化があった上で、個人の自由が保障されるのではないか?
 これに関して朝日新聞の社説も呆れてしまった。そこには「日の丸や君が代はかつて軍国主義の精神的支柱として利用された。いまだにだれもが素直に受け入れられるものにはなっていない。教職員は式を妨害したりするのは許されないが、自らの思想や良心の自由に基づいて国旗掲揚や国歌斉唱を拒む自由を持っている。判決はこのように指摘した」と書かれている。
 朝日新聞は戦前、戦争を国民に鼓舞した新聞である。当時の軍司令部を支持したのだ。そんな新聞が、国旗掲揚や国歌斉唱がすぐ軍国主義につながると言うのだ。もしそうなら、なぜ国旗掲揚や国歌斉唱が軍国主義につながるのか、十分検証してからものを言ってほしいもんだ。国旗掲揚や国歌斉唱だけで、戦前、軍国主義に日本が走った訳じゃないことぐらい分かっていいものではないか!国旗掲揚や国歌斉唱を道具として、軍国主義に走らせたのはあんたらでもあったのだということを分かっているのだろうか?
 それに思想の自由は保障されるべきだけど、それは保障してくれる国があって成り立つことではないか。

 というわけで今回も朝日新聞の馬鹿さ加減には呆れてしまうのだけど、だったらそんな新聞など購読しなければいいじゃないかと言われそうである。確かにその通りだ。
 でも何で私が朝日新聞を取っているかといえば、単純に本の情報が、読書人に共有されていることが多いからである。どういう訳か知らないが、本屋で働いていたとき、朝日新聞に載っていた本ということで、お客さんによく聞かれたからである。会社の重役クラスになると日経新聞になるのだが、ごく普通のお客さんから新聞の切り抜きなど持って、本の在庫を聞かれるとき、何故か朝日新聞が多いのだ。だからその関係で朝日新聞を取っているだけのことである。もう本屋を辞めたのだから、いつまでも朝日新聞にこだわる必要がないのだけど、長年朝日新聞を読んでいるものだから、そのままになっているだけのことなのだ。

2006年08月17日

セブンアンドワイで本は注文しない方がいいよ

 くすみ書房さんの『中学生はこれを読め』という本ををセブンアンドワイで注文したことは以前書いた。ネットで注文したのが先月の25日。まぁ出版社が北海道新聞社だから時間がかかるのは仕方がないとは、ある程度覚悟はしていたが、あまりにも遅いので、ここのところ毎日専用の「お届け状況ページ」を開いて、いったいどうなっているんだと思っていた。525円の安い本だからあまり真剣なってないんじゃないかという疑問さえ浮かぶ。
 そうして今朝又日課みたいに「お届け状況ページ」を開いたら愕然とした。なんと「お届け状況」に「お取り消し」となっていて、書名に取り消しの線が引かれている。なんだこれ?


2006_08_17_01.jpg


 詳細を確認したら、「大変申し訳ございません。出版社・メーカーから取寄せていましたが、商品を確保することができませんでした。誠に勝手ながらご注文をお取り消しとさせていただきます」となっている。


2006_08_17_02.jpg


 いったいどういうことなんだ。そもそも「取り消し」ってどういうことなんだ!お客の側が取り消しするなら、よくある話だけど、受け手側が、注文主の意向を無視して取り消しとは、あまりにも横暴じゃないか!文句を言ってやろうと思ったのだが、待てよ、こういうことって私だけでなく他にもたぶんあることかもしれないと思った。そのためセブンアンドワイは自衛策を講じているはずだ。で、利用規約を見てみたら、ありました。第16条 商品等に関する免責の3に次のような記述がある。
「弊社が利用者から承ったご注文商品について、弊社または出版社等の在庫状況の変動等により品切れや入手不可能となった場合、弊社より当該ご注文を解除できるものとします。ただし、複数冊ご注文いただき、その一部の商品が手配不可能となった場合は、その商品のみご注文を解除するものとします。」
 だから私が文句を言ったら、これを盾にちゃんと利用規約に書いてありますよと言うんだろう。つまり自分のところの横暴な行為を正当化できるようにしてあるのだ。
 だったら、在庫確認を25日にしておいて、3週間後、品切れのため取り消しとは、あまりにも返事が遅すぎるのではないか。
 しかも昨日までは、7月25日の「出版社・メーカー在庫確認」から矢印がのびていて、集品、最寄りのセブンイレブンへとなっていて、「もうしばらくお待ち下さい」となっていた。(その画像をとっておけばよかった)
 しかしこのように今日になって7月25日に「品切れのため取り消し」の画面になっているのはどういうことなだろう。確かに品切れは出版社の事情にあるにしても、在庫のあるなしの確認はそんなに時間のかかるもんじゃないだろう。もしこのように7月25日に品切れが分かっていたら、私は他をあたることだって出来たのである。3週間も待たなくてもよかったかもしれない。
 少なくても今日になって7月25日の品切れ通知はおかしい。あまりにもいい加減すぎないか!天下のセブンイレブンが平気でこういうことをするんだなと思った。
 ネットでの商売には便利であることはもちろんだけど、実体のないものだから余計に信頼性というのは重要なことじゃないかと思う。こんなことをしていて信頼性などありゃしない。思わず東販にいた鈴木さんにあんたこんなことしていていいの?と聞きたくなっちゃう。あなたならこういう行為がとんでもないことぐらい分かるでしょう。ちょっと前の書店新聞で鈴木さんがネットでの本の管理を訴えていたシンポジウムの記事を読んだけど、あんたまずは自分の足下をきちんと見ないと、言っていることが絵に描いた餅になっちゃうよ。
 所詮本の取引を片手間でやっているからこんなことを平気でやれるのだろう。多分アマゾンじゃこんないい加減なことはしまい。
 で、仕方がないので、もう一度「本屋タウン」で検索してみたら、ヒットした。最初はこの『中学生はこれを読め』を検索したら、データがないと出た。多分地方の出版物だったため、データに載せるのに時間がかかったのだろう。もう一度ここで注文する。受け取りは有隣堂だ。果たして有隣堂はどうだろうか?


 あまりにも頭にきたので、「どんなこことがあっても、本が好き」と同じものを掲載しました。

セブンアンドワイで本は注文しない方がいいよの続きを読む

2006年08月08日

影響

 「150坪・書店員BLOG」( http://150turbo.seesaa.net/
)を読んでいて、失笑してしまった。極楽とんぼの山本圭一の淫行事件が欽ちゃん球団だけでなく、本屋さんにも多大な影響を与えていたのだ。
 リリー・フランキーさんの『東京タワー』がテレビで放映される予定であったのだが、そこに出演していた山本圭一のため、撮り直しになり、放映が延期されてしまった。
 テレビ放映となれば、間違いなく売上に貢献するはずだ。ましてこの『東京タワー』は今年の本屋大賞を受賞していただけに、本屋としては力を入れたいところだろう。平台まで用意して準備していたのに・・・という愚痴が失礼ながら失笑を買う。

 昨日昼休みの休憩時間に大野さんがHERO’Sの桜庭の試合に感動したのだけど、後でネットで調べていたら、このHERO’SはTBSが放映していたのだからあの亀田の試合みたく、疑惑を感じるという書き込み見て、そうかと思ったといっていたのを思い出した。
 ボクシングの亀田試合の影響がここにも出てきている。亀田興毅の父史郎さんと漫画家やくみつるさんのテレビ番組での大激論が面白かった。見たい人は以下のURLへ。

 http://www.youtube.com/watch?v=ly2-qjCWLZ0

 http://www.youtube.com/watch?v=FabvOOZn7Fg

 http://www.youtube.com/watch?v=6C_Z4I2YnqI


 これを見ていて不思議に思ったのだけど、なんでやくみつるさんはあんなに怒るのだろうか?確かに試合の判定もそうだし、それ以前に2時間近く見たくもない亀田伝説なんか放映するテレビ局にも怒りたくなるのも分かるし、事実私もこれはすべておかしいと思った。けれど、それはただ火に油を注いだだけであって、それ以前に亀田兄弟の言動に不快感を感じていた人が多かったということではないかと思う。たぶんやくみつるさんもそうだったのだろう。それを自分が代表してものを言っているという意識があったのだろう。大きなお世話だと思うが・・・。このあたりにやくみつるさんの傲慢さも感じてしまう。
 それにしても試合後亀田興毅はどうしてあんなにテレビに出てくるのだろう。まるで試合判定の疑惑を必死に打ち消そうとしているようにしか見えないのは私だけだろうか。テレビに出れば出るほど、余計にあの試合はおかしかったといっているもんじゃないか思うのだが。自分であの試合の判定疑惑を押し広げていることが分からないのだろうか?
 どういう背景があっても、彼は世界チャンピオンになったのだから、この汚名を次の試合で挽回すべきであって(もちろんそう思っているだろうと思うが)、それに専念すればいいだけじゃないか思う。

 今朝の新聞を見ていたら、パロマ工業が非正規社員のパートやアルバイト計約300人を対象に、段階的なリストラに踏み切る方針を明らかにしたという記事が出ていた。今回の事故でパロマ工業は無償交換や無償点検に伴うコストは200億円超を見込でいて、松下電器産業の石油温風機の欠陥問題をめぐる249億円に匹敵する規模だという。これは年間30億~40億円の国内の連結経常益は吹っ飛ぶ計算になるので、そうせざるを得ないということらしい。
 無能な経営者のお陰でパートやアルバイトがその影響を受けてしまうことになる。
 一つの事件、事故、あるいは疑惑がそこだけに留まらず、本来関係のない人達に迷惑が及ぶ事実を目の当たりにする次第だ。

2006年07月28日

情報発信

 昨日の朝日新聞の朝刊に何故ブログが広まったのかという記事があった。理由は「だれでも情報発信」の考えを実行に移す人が増えたことと、ブログの書き込みが簡単であることが最大の理由だという。
 情報通信白書によると、今年3月現在868万人の人が自分のブログを持っているらしい。世界では約5万のブログサイトが存在し、ブログ全体の情報量は半年で倍になっており、3年前と比べて60倍の数字だという。
 そのうち日本はブログのトップランナーで、今年1月に書き込まれた記述のうち32%が日本語で書かれており、これは英語の31%を超えている。日本の場合、携帯から投稿するケースが多いためらしい。
 この「情報発信」という言葉が気になる。誰でも自分が情報を発信したいということでブログを始めるというのを読んで、へぇ~そうなんだと思うのだ。
 私の場合そんな大それた考えで自分のブログを持っている訳じゃない。自分が好きな本について、自分なりの考えをまとめるために書き込んでいるだけだし、もともと読んだ本の感想を自分で日記などに書き込んでいたのを、そのままブログに移行しただけである。そこには読んだ本のことを忘れないために、そうしているだけのことで、ブログが持つ検索機能やデータベース化が便利だから、それを使っているだけなのだ。
 自分が読んだ本のことについて、他人にそれを伝えたいという気持ちは、正直ほとんどない。それはなんだか押しつけがましいと思うのだ。あくまでも自分が書きたいからそうしているまでである。ただネット上に公開している以上、読む人がいれば読んでくれればいいし、それに対して意見があるなら聞きたいとは思っているけれど、それ以上の考えはない。
 そもそもこの「情報発信」という言葉自体胡散臭いとさえ思っているくらいなのだ。もし自分がそう言う意志でブログをやっていたら、多分続かないだろうとさえ思っている。確かにそういう壮大な意志を持ってやっておられる方もいるだろうし、それは別に否定はしない。けれど自分は違うし、果たして多くのブロガーが、そんな大それた意志でブログをやっているのだろうかとさえ思うのだ。もっと楽な気持ちでやっているからこそいい部分があるのではないかとさえ思う。
 昔書店業界の関係者が、書店は情報発信基地であるべきだといったやつがいる。私はそれこそ何を言っているんだろうと思った。それはおごった考えだと思う。そういうことを言うやつの流す情報ほど、押し売り的情報が多い。だってここでいわれる情報の提供は明らかに「売上向上のため」という魂胆があるからだ。つまりいかにお客に本を買わせるかという根本的命題から生まれた発想なのだ。だから最近の書店の平台に林立する奇をてらったPOPの多いのだ。私から言わせれば、こんなPOPはじゃまなだけで、その奥にある本が見えないじゃないかと思ってしまう。
 その上最近はそうした書店に並ぶPOPをまとめた本があるくらいで、思わずバカじゃないかと言いたくなってしまう。
 損得勘定が見え隠れする情報なんていらない。本当に情報が欲しいなら、お金を払ってでも欲しい情報がいい。お金が取れるほど情報の方が価値がある。そういうもんではないかと思う。日本人は情報ってサービスだと思うところあるからこういう押しつけがましい情報が氾濫するのである。
 書店にある本や雑誌そのものが情報であるのだから、本屋はその情報を取り出しやしようにしてやることが本業だろう。読者は情報が欲しいから本や雑誌を買うのである。本屋が提供すべき情報はそういうことをきちんとふまえたものでなければならないはずだ。
 それを思うと大した情報を書店が提供しているとは思えない。林立するPOPを見てみると、本にかけられている帯の焼き直しや、やれテレビで話題のとかいったものが多いのを見てもそう思うのである。