相変わらず福島の原発は先が見えない状態である。もう震災から3ヶ月以上過ぎても、放射能はまき散らされ続けている。こういう状態なので、日本だけでなく、世界で“原発ノー”と脱原発が言われている。でも原発がなくなれば、電気はどうするんだ、と思う。ニュースで脱原発を訴える団体などがデモをしているのを見て、この人たち原発を否定するのは結構だけれど、不足した電力に対してどう考えているんだろう、といつも考えてしまう。
本当に原発を否定するなら、自分たちがそれまで使っていた電気の節約は当然しているんですよね。まさか、デモの後、冷房の効いた喫茶店でコーヒーなど飲んでいませんよね。あるいは自販機で冷えたペットボトルなど飲んでいませんよね。だってそれらみんな電気を使っているんだよ。ただでさえ電力不足なのだから、そこに原発を否定しているのだから、そんな電気は使えませんよね、と思うのだ。
私は原発否定論者をけなしている訳じゃない。だけどそれを簡単に否定して、その代替えはどう調達して来るんだろう、と思うのだ。原発なしに今のライフスタイルが維持できる訳がなく、当然不便を伴う。極端な話生死の問題に関わってくることだってあるだろう。それくらい今のわれわれが使っているインフラは電気を使っているのだ。それがいきなり使えなくなっても仕方がないことを折り込み済みで反対運動をしているのかな、という疑問があるのである。私は彼らの主張は村上春樹さんが言う「非現実的な夢想家」の言い分じゃないかとどうしても感じてしまうのである。
私は何度も言うように彼らを否定している訳じゃない。どちらかと言えば同じ考え方である。だけどいくらもう原発はこりごりだと言っても、今の私たちはそれを完全に否定できない状況下に置かれちゃっているのだ。村上さんはこのことを次のように言っている。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
それでも私は村上さんの言うことを支持したい。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
これだけの震災や津波によって「我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害」となってしまった以上、もう一度日本人が核に対する拒否感を自覚すべきだと思う。原子力はちっとも効率のいいエネルギーじゃないことをわれわれはこの震災で知ったはずだ。その被害金額を算出したら、絶対にそんなことは言えないはずだ。その補填を電気料金値上げや増税で負担されるのだ。電力会社が潰れ兼ねない状況なのだ。
そして何よりも、未来のある子どもたちを危険にさらしているのだ。人々の心のよりどころであるふるさとを奪ったのだ。だから私はかなり遅いかもしれないが、これからでも核に対する「ノー」を叫び始めていいと考えている。たとえこれまでの生活が享受できなくなっても仕方がないと思う。耐えなければならないことがたくさん出てきても、もともと不安定なものに頼ってきたシステムはいつかこうしたことが起こるはずだ。それが早いか遅いかだけのことだ。それよりも安全なシステムを考え、その中で安心出来る生活をすべきだと考える。もう効率や生産性やお金に最重点に置くのではなく、きちんとした負担をすることで安全を担保し、心穏やかな生活が出来ればいいのではないか。何でも便利になればいいというものじゃない。不便でも手間がかかろうとも、だからこそそれに実感でき、手で感じることができる生活があるのではないか、と思う。
3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲い、地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.6~1.8秒短くなるほどの規模の地震であった。
私はあの日に帰宅難民になりかねた。まだ肌寒い夜を2時間半歩いて家に帰った。吐く息は白いのに、身体は熱を持って暑い不思議な感覚であった。そのとき私の中で何かが弾けた。
今まで動いていることが当たり前の電車がすべて止まり、車も渋滞で先に進まない。頼りになるのは自分の足だけだ。当たり前に動いているものが、実は危ういものであり、いつもどんなときでもそれが動いているとは限らないと知らされる。
一方黙々と歩くなか、いつの間にかそれが身体の中で目的としてはっきり実感できるのだ。時間がかかる分、疲れが足から伝わることで、オレは家に向かって歩いているんだ、と感じた。妙な充実感ともいえるものを感じた。
わずか2時間半しか歩いていないが、それでも私は今まで自分が持っていた価値観が少しずつ崩れていく感じを味わった。何の疑問もなく、定時になれば仕事を終え、無意識に駅に向かい、来た電車に乗る。便利でスピーディーと整備されたインフラに乗って、家に帰る。当たり前のように。それがたった大きな地震一つあっただけで、身動きとれなくなる。当たり前に動いているものが、ちっとも当たり前じゃない。便利であった物が、ただの物体と化し、機能を果たさない。
私たちの価値観や生活はこうした危ういものの上に成り立っていた。しっかり地に足をつけていたと思っていたものが、そうじゃないことを知らされる。
これが始まりであった。震災地では、家も車も電気製品も、何もかもがれき化した。形をなさないものに破壊され、機能しないものと化す。原発は制御不能になり、電力が不足する。その結果、震災地から離れた東京でも、電気が突然止まり、すべてが動かなくなる。人類の進歩は大きく時を戻し、それがなかった頃に逆戻りする。人々は今まであったものがなくなってしまったことで、単に昔の何もなかった頃に戻っただけなのに、人はそこに簡単に戻れない。呆然とするだけである。
結局科学の進歩や技術の進歩は人類の妄想であって、さもわかったようしても、何もわかっちゃいなかったし、多少危険であっても、制御出来れば問題ないというのは、ただの奢りであった。すべてが効率と拝金主義がそれを促進してきただけであって、多少のリスクには目をつぶっちゃいましょうよということで推し進めて来ただけあった。ちっとも多少じゃなかったのだ。ここまで完膚なきまで破壊されなきゃわからない、人類の進歩って何だったんだろう。震災直後東京都知事がこの震災の被害は奢りがそうさせたものだと、至極まともなことを言っていたけれど、私はその通りだと思っている。
すべてが破壊され、なくなり、身動きがとれなくなった現代生活の虚構があらわにされた時、人の精神にも大きな不安感を残していく。きっと私もあのとき薄々それを感じつつあったのではないか、と思っている。
あのとき私はただでさえ精神的に不安定になっていた頃で、この震災がさらに追い打ちをかけ、無力感に苛まれた。確かに私は半ば茫然自失の状態が続き、何も手につかない日々が続いた。自分にとって何を頼りし、足がかりにしていいのか、その根拠となるものがわからなくなってしまったのだ。不安で仕方がなかった。夜など薬を飲まないとなかなか寝付けなくなっていく。おそらくこのままの状態が続いたら、私の精神はおかしくなる一方であっただろう。もちろん本など読むことができなかった。
でも一方で日々の生活がある。私が個人的にまいっていても世の中は動いている訳で、世捨て人でなければ誰だってそうした波にもまれてしまう。そのため私は無理しながら生きていくこととなった。もちろんめちゃめちゃ疲れる。でもこうした無理は少しずつ回復に兆しを与えていったのではないか。どこかで私は自分の精神を立て直そうとしていたのではないか。それは何だろう。
村上さんは次のように言う。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
結局もとあった生活に戻れることが一番いいわけで、私にとってそれは本を読むことであった。本を手にすることであった。だから少しずつ本を読もうと思い始める。本を読むことで、それまでの日常を取り戻せるように思えたのである。もちろん長時間本を読むことは出来ないし、固い内容の本は読めなかったが、それでも時に本の内容に癒されるようになってきた。村上さんの言う「新しい言葉」と「生き生きとした新しい物語」の中に自分を置けるようになってきたのである。こんな自分でも投影出来る。言葉一つひとつに反応できる。やっぱり本はいいものだ。そう思い始める。
心がわずかだが落ち着き始めた頃、私に孫が出来た。これがさらに大きな救いとなった。ただ寝て、泣いて、ミルクを飲んでいる彼女だけど、私は彼女の寝顔、泣き顔を見ているだけで落ち着いていくのがわかっていく。そしてこの子を抱いていると、腕の中でわずか5キロに満たない重みを実感でき、ここに命が生きているということを感じられた。孫が私の腕の中で安心しきって寝ている姿を見て、私は安心とはこういうものではないか、と思ったのである。
私に必要なのは物ではなく、村上さんが言うような言葉や物語であり、何よりも生きている命であり、安心であった。孫がこんな私でも頼りにしてくれることがうれしかった。
そうこうしているうちに、約三ヶ月間苛まれた不安感、不安定感が徐々に薄れていくのを感じられるようになってきた。何となくもとの生活に戻れそうな気持ちになってきている。これからは少しずつ書いていこうと思っている。まずはここで、どうでもいいような話を書いていければ、と思っている。