2012年01月30日

1月30日

 今年もシンビジュームが咲いた。昨年株を二つに分けたので、鉢が二つになったのだが、二つとも花を付けている。親株にはまだ花が開いていないつぼみが二つあるので、これからが楽しみだ。
 そうそう花を支える支柱がなかったので、近所の花屋に買いにいったのだが、お店で使ったものだけどと言いつつ店員さんがただでわけてくれた。


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 また昨年9月私の誕生日にかみさんが買ってくれた、花が咲いているシャコバサボテンが、狂い咲きなのか、また花を付けていている。

 先週の土曜日に孫の初節句のため、ひな人形を浅草橋に買いに行く。孫の母親は私の娘である。その娘の初節句のときは、私の親父と母親が娘のためにひな人形を買ってくれた。このときは勝手に親父たちがひな人形を買って送りつけてきたので、今回のように一緒に選んだ訳じゃない。
 今回は娘が基本的に選びたいということで、一緒に行くことにし、お金だけ出すことになる。だから浅草橋に人形を買いに行くのは初めてとなる。
 浅草橋に着いて驚いたのが、駅前で何人か胡散臭いオヤジたちが、ひな人形の割引券を配っているのである。まるでキャバレーの客引きみたいだ。こんなオヤジたちがくれる割引券でひな人形を買って大丈夫なのかと思ってしまう。
 娘はもうネットでお気に入りのひな人形を決めており、そのひな人形が売っているお店に直接向かう。私が抱いているひな人形のイメージは何段飾りと大がかりなもので、当然そのような大げさなひな人形がお店に飾ってあるものと思っていたのだが、お店の入り口に飾ってあるのは親王飾りといったシンプルでコンパクトなものばかりであった。もちろん豪華なものもあるのだが、今は核家族化でそんな大きなものは売れないそうだ。むしろこうしたものの方が場所も取らないし、飾るのも楽なので、長いこと飾ってもらえるらしく、人形にとっていいことですと言っていた。
 コンパクトだからといって値段が安いという訳でもない。それなりに手が込んでいるらしく、大がかりなものとそうそう引けを取らない。
 もう候補を決めてあるから、即、決まるものと思っていたら、娘はかなり悩んでいる。お店に来て、実際ひな人形の顔を見てみると少しずつ違うらしく(まぁ当然だな)、パソコンの画面とは趣が違うらしい。
 なかなか決めかねている娘を見て、これは驚きであった。娘の性格柄ものを買う時は割と簡単に決めてしまう方なのだが、今回違うのだ。あれこれ見比べ、お店の中を行ったり来たりしている。かみさんもそれに付き合い、あれこれ意見を言っている。こういう時は女はしつこいものだ。
 娘が自分の子どものためにこんなに悩んでいる姿に驚きつつ、私は孫のベビーカーを任されているので、ぐずらないようにあっちこっち移動しながら、孫をあやしていた。
 ひな人形はたぶん一生に一回しか買わないものだろうし、しかも初節句を迎える赤ん坊が対象だから、お店にも赤ちゃん休憩室や授乳室を用意しているのも、言われてみればなるほどと思った。面白いものである。
 かなり悩んだ末、やっと決まったらしく、かみさんにカードを貸してくれと言われる。えっ、俺のカードかよと思いつつ、孫が可愛いバカオジイチャンはカードを渡すのであった。かみさんが勝手に暗証番号を打ち込んで会計をしている間、私は店員さんに駅前で割引券を配っているオヤジたちのことを聞いてみた。
 浅草橋の通りの奥にはかなりの数の人形屋さんがあって、通りの奥にお客が行かないものだから、あんな割引券を配って客を呼んでいるとのこと。中にはこの時期だけお店を開いている所もあるらしい。割引率は高いけれど、定価をその割引を織り込んで最初から設定しているらしく、結果安いものじゃないらしい。品質においても、疑いの部分があるらしく、出来れば引っかからない方がいいと言われた。人形の組合があるらしく、その組合でもそんなのに引っかからないようポスターを作っているという。
 だいたい可愛い孫のために買ってやる人形である。そこで値引率で引かれるようじゃいかんじゃないかと思うのだが・・・。配送は2月11日と決め、飾るのは大安の14日だそうだ。娘はかなり人形が気に入ったらしく、後でメールでもお礼が届く。

2012年01月18日

1月17日

 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い致します。

 といっても、1月ももう半分が過ぎてしまった。こう言うからには訳があって、正月だけでなく昨年末からバタバタ過ぎてしまったからである。
 今年は正月休みを長くもらったので、先週から動き出した。そして今日、年末に作った住民税の給与支払報告書を郵送し、神田税務署に法定調書合計表を提出してきた。
 事務所から神田税務署に行くには、自転車が便利である。というわけで新年第1発目、寒い中自転車で繰り出す。今年は秋葉原にある無印良品で30%引きの手袋を買った。
 私は昔から手袋が苦手で、はめるのが面倒でもあった。そしてよくなくすのである。いつも片方を落としてしまう。しかし今年は歳のせいか、寒さがこたえていたので、意を決して買おうと思ったのである。通勤時ここのところいつもはめているが、さすがに暖かい。手袋して思ったのは、私はいつも手をコートのポケットに入れて歩いていたことである。しかし手袋をするとその必要性がないが、その手のやり場所に戸惑ってしまう。手を出して歩くことがどこかぎくしゃくして不自然な感じがしてしまう。なんかロボットが歩いている感じだ。
 でもこの時期自転車に乗る時はいい。爽快に昭和通りから靖国通りに走る。税務署で書類を提出し、医療費控除をするための、確定申告書一式をもらってくる。まぁこれら書類はネットで申告書を作成するので必要ないと言えば必要ないのだが、性格柄どうしても手で計算して書き込んでみないと納得できないところがあるので、それをネットで作ったものと照らし合わせるため、一式をもらってくるのである。
 帰りに三和図書に寄る。大沢在昌さんの新刊が入荷していた。発売は19日だ。高橋君に一冊売ってくれないかと頼み、スリップを持って店売の大山君に会計してもらう。店売で珍しい顔を見かける。安達図書にいた川村さんだ。昔は川村さんに世話になった。新潮社や文藝春秋の新刊をわけてもらった。
 私の子供や弟の子供がまだ小さい頃、鎌ヶ谷にぶどう狩りに行ったことがあるが、ぶどう園の前でばったり川村さんに出会ってびっくりしたこともあった。聞いてみるとここに住んでいるという。「人が住んでいるところに家族でぶどう狩りなど来るなよなぁ」と言われたのも懐かしい。
 安達図書はとうの昔に廃業してなくなっているが、川村さんは杏雲堂病院の売店で本屋をやっていると聞いていたが、今でもそこにいるとのこと。挨拶をして別れる。別れ際に昔のように「頑張ってな!」と言われた。
 その後三省堂本店に寄る。1階の新刊をざっと眺め、2階に上がる。北杜夫さんの『楡家の人々』がまた気になった。北杜夫さんが昨年亡くなって、その追悼で著作が棚に並べられているのだが、まだそこにあったのである。
 『楡家の人々』は私が高校生の時読んだ。今は本も手元にないので、なぜか懐かしくなって、また読みたいなという気持ちになるのである。でも今日も買わずに、他の文庫本を2冊買う。
 帰りに靖国通りを走っていたら、スカイツリーが大きく、しかもくっきりと見えた。空気が澄んでいるからよく見えるのかもしれないが、今まで気づかなかった。
 秋葉原に着いて、手は暖かかったが、耳が冷たく痛い。今度は耳当てか、とも思ったが、まさかこの歳で耳当てをしながらチャリに乗るのもどうかと思い、慌てて事務所に入る。

2011年12月28日

年末新井薬師から中野へ行く

 新井薬師にお守りを急遽もらいに行く。いつも休みの土曜日に出社となってしまったので、金曜日に残ってしまった仕事を一気に片付け、午後から出かける。まずは新宿へ行けばいい。総武線から中央線と乗り換え、新宿へ。そこから西武新宿線の新井薬師前駅で降りた。
 改札は一つしかないけれど左右どちらに行けばいいのかわからず、駅員さんに聞いてみる。「薬師さんはこの先です」と降り口を教えてくれた。地元の人が自分のところにある神社などをこのように「○○さん」と呼ぶことは聞いたことがあるが、実際自分の耳でこのような言い方を聞いたのは初めてだ。親密感があって、なんか、いいものである。
 駅から参道まではちょっと歩くが、それほど道幅が広くない道の両側に昔ながらお店がいくつもあって、懐かしい感じである。昔よくあった木の棚の本屋さんも一軒あって、ちょっと入ってみたくなったが、先を急ぐのでそのまま通り過ぎた。
 新井薬師は山門の前に出てみるとこぢんまりした本堂が見える。お参りをして、横にある社務所でお守りをもらう。山門を出る前に、もう一度本堂に向かって「よろしくお願いします」という気持ちで頭を下げる。
 わざわざ新井薬師に行ったのは、そこは眼病治療に霊験あらたかと知ったからであるが、実はもう一つここは中野駅に近いということがわかったので、その後中野に行こうと思ったからである。
 何故中野駅に行きたかったのか、というと、昔中野のブロードウェーの地下にある果物屋さんでバイトをしたことがあったからだ。高校時代である。それ以来私は中野には行っていない。かれこれ40年近く行っていないことになる。
 たまたまテレビで中野のブロードウェーが映っていたのを見て、ちょっと懐かしくなり行ってみたいな、と思っていたのである。それが今回いい機会なので行ってみたわけだ。
 サンプラザの横でバスを降り、多分この先入ればブロードウェーに行けるアーケードに入れるはずだ。アーケードの狭い道に人がいっぱい歩いている。高校時代このアーケードを何度も歩いていたが、記憶にあるお店は一軒もない。40年ぶりに歩いているのだから当然と言えば当然だ。ただ何か古めかしい感じが漂う。
 ブロードウェーの前に出た。何か違う?こんなにけばけばしくなかった。それも全体が古めかしい中にけばけばしい感じなので、言ってみればばあさんが無理して派手な衣装を着ている感じだ。
 まぁいい。とにかく地下に行こう。もしかしたら昔あったお店が一軒くらい残っているかもしれない。しかし中を歩いて見て、お店をくまなく見て回って、記憶に残っているお店は一軒もなかった。私がバイトしていた果物屋もなかった。もしかしたらお店は残っていて、当時私に仕事を教えてくれた人がまだお店に立っているかもしれないと多少期待していたのだが、それも果たせなかった。そこで記憶にある顔を見かけて、「○○さん?」と声をかけたかった。私によくしてくれたお店の前にあった精肉屋さんもなくなっていたし、隣の八百屋さんもなかった。
 仕方がない。あまりにも年月がたちすぎている。地下も昔のような明るく、わりと通路も広く取ってあったのと違い、とにかくお店の数を目一杯詰め込んでしまっているので、通りが狭くなってしまっている。そこにもともと地下であるから天井が低いので、ちょっと息苦しくもなる。
 一回りして地上に出る。

そうだ!この上には明屋書店があったはずだ。

 ここでよく本を買ったものだ。行ってみよう。階段を上がるが、何か昔秋葉原にいた感じのオタクみたいな、汚らしい奴らがつるんでいる姿が目につく。階段を上がってみてその理由がわかった。ここにはフィギヤとかその系の漫画とかやたら置いてある。サブカルチャーばっかりだ。これが今日感じた私の違和感だ。
 Wikipediaによると、「1960年代後半より1970年代にかけて青島幸男、沢田研二、渡辺浩弐、平山喜堂など数多くの有名人が住居階に自宅を構えた、屋上には庭園、屋外プール、ゴルフ練習場、セントラル冷暖房、住民専用エレベーター、守衛の常駐施設などを備えたデラックス・マンションである。開業当時は中野駅周辺で最も高いマンションであったことから注目を集めた」とある。今でもここは駅から近いということで人気があるらしいが、階下のお店は当時の当時とはまったく変わってしまい、住む人も様変わりしていることだろう。
 いずれにせよ、40年という年月はあまりにも長いということか。この日本で変化するだけの十分な時間だということなのかもしれない。正直来なければよかった。そしてもう私は用がない限りここには来ないということだけはわかった。


 さて、今年も残りわずか。何とか一年を終えられるといった感じでいる。とにかくこの一年いろいろなことがあった。3月11日の東日本大震災から日本は嫌が上でも大きく変わらざるを得なくなってしまった。あの地震、津波、原発事故はおそらく来年以降長いこと引きずって行くことになることは間違いないだろう。
 人の意識も大きく変わるに違いない。もちろんあの震災は私の意識も大きく変え、一時は受け入れることに苦労した。何も出来ない日が続いた。
 プライベートにおいても、もうこれ以上ないといったことがいろいろあり、その対応に右往左往した。それも年末ぎりぎりまでだ。でもどんなことがあろうとも、時間は、世の中は過ぎていくわけで、その中で私も同様に動かされていく。たとえ個人的に立ち止まりたくても、待ってくれとは言えない。その中でこの一年過ぎていった感じだった。おそらく年が明けてもそれを引きずることになるだろう。ただ今年ほど右往左往することは避けたいものだと思っている。仕方がないことなので、要領よく、時には事務的に対処出来れば、と思う。何事においても平常心でありたいものだとつくづく思うのだ。出来れば物事ひとつひとつどんと構えていたいものだと思う。そして今年のような災難がないよう願ってしまう。

 今年も一年ありがとうございました。

2011年09月26日

さらに9月の思うままに4話

 あるリース会社の担当者から先日電話があり、転勤の挨拶に来たいというので昨日会った。彼は私との付き合いがもう15、6年近くなると言っていた。そうか、もうそんなになるのかと、思った次第。ということは私が職種を変えてから間もなく、彼と知り合ったことになる。
 後任の人と名刺を交換し、次のリース契約の話をする。たぶんこのまま次のリース契約を続けることになるだろうと思うが、この契約をした後、その次の契約は5年後となる。その時は私も60歳になっている。ということはこのときは私はこの会社にはいないかもしれないな、と彼らが帰った後思った。ということは、九州に転勤になった彼とももう会えないことなるかもしれない。このことにもっと早く気がつけば、彼と話せたのに、と思っても後の祭りだった。
 そんなことを考えていると、私がこの会社にいられる時間というのも、限られて行くんだなと思うようになる。もちろんそれより早まるかもしれないし、あるいは後のなるかもしれないけれど、少なくとも時間が無尽蔵にあるんじゃないなと感じつつある。

 この連休は「シルバーウィーク」というらしいが、これといって大したことはしなかった。本も読まなかった。気がついたら三連休が終わっていたという感じだ。
 自分専用に使っているノートパソコンのソフトをバージョンアップする。ウィルスバスターを2012にし、インターネットエクスプローラーをInternet Explorer 9にした。ついでにたまに使うGoogle chromeもバージョンアップしておく。
 そうそう今まで家で使っていた古いカラープリンターを買え替えた。会社で使っているプリンターの使い勝手がいいのと、写真印刷がきれいなことで、自宅のパソコンもこれに替えたいな、と思っていた。ただ今までのカラープリンターは壊れているいる訳じゃない。1年に1回、年賀状印刷には十分威力を発揮してくれていた。けれど年賀状ならいいけれど、写真印刷となると、その印刷画面に荒さはどうしようもなく、ここに来て写真印刷が増えているので、ここは決断して買い換えたわけだ。最初は会社と同じプリンターにするつもりだったが、もうこのプリンターは製造中止になっていて、その後継機がつい最近発売された。まぁ、その後継機でいい。それほど使用勝手は変わらないだろう。
 ということで、この休みプリンターを入れ替え、設定も行う。今回自分用のノートパソコンでも印刷できるよう、プリントサーバーを導入する。これがあれば、プリンターケーブルは必要ないので、ものすごく便利だ。設定はもちろん初めてなので、LAN関係は小難しいかなと懸念したが、わりと簡単に出来、安心する。
 ところでプリンターに附属しているソフトが鬱陶しい。プリンターを設定するとき、何も考えずそのままCDを入れ、命ずるままインストールしたところ、他の作業をやっているときに、ちょこちょこ画面に現れてくるのだ。おもわず、「うるさい!」と言ってしまう。こういうお知らせみたいなものを喜ぶ人っているのだろうか?メーカー側の親切の押し売りにはへきへきする。とにかくこれが顔を出さないよう設定したり、削除したりして、何とか落ち着いた。

 連休前に秋葉原のブックオフの105円のコーナーで、阿刀田高さんの『ホメロスを楽しむために』の単行本を見つける。私は阿刀田さんの古典解説本が好きで、楽しく読ませてもらっている。もちろんこの本も文庫本で読んでいて、ブログにあげている。
 ところで、私は読んで好きな本があれば出来れば単行本で揃えたいといつも考えている。当然この本も出来れば単行本で手元に置いておきたいと思っていた、その後単行本を手に入れたかどうか、わからなくなってしまっていた。確かに文庫本を持っていたと記憶していたが、単行本に関しては自分の記憶に自信ががない。
 さて、買おうか、どうか、迷った。こういう時が一番困る。一度確認して、後で買えればいいのだけれど、古本はその時買わないと間違いなく買いそびれる。決断はここでするしかない。このとき買ってしまおうと促したのは、この日は特売日で105円の本が一律95円なのだ。だから買ってダブってもダメージが少ない。
 105円でもそれほどげさな話じゃないのに、まして95円なら、それほど悩むことじゃないじゃないか、と言われそうだけど、同じ本をダブって買ってしまうことは、結構ショックなのである。たとえそれが95円であっても・・・。だから棚の前を行ったり来たりしたのだ。
 とりあえず買い求め、家に帰ってすぐ自分の本棚を確かめ、この本は単行本で持っていなかったことで、やっと安心する。安心して今度はしげしげとお宝を眺める。105円、いや95円でこれはかなりお買い得だ。だってほとんど読まれた形跡がなく、美本であったからだ。やっとうれしくなってきたのであった。

 21日、私は再び“帰宅困難者”となった。今回は台風である。台風15号が首都圏を帰宅時間に直撃した。雨風がものすごく。ニュースでは電車が次々と止まっていく模様が流れる。「これはやばいな!」と思ったが、まぁ地下鉄だからなんとなるだろうと、不安を抱えつつ駅に向かう。傘を差してもちっとも役に立たなかった。とにかく傘を吹き飛ばされないよう姿勢を低くして、両手で傘をもって歩いて行ったのだが、駅まで行くだけで、ズボンがボトボトとなった。
 駅についてホームに行ってみると、電車が止まっている。何とか動きそうな気配なので、強引に乗り込む。一駅毎に長い時間止まって、ついに運転中止となった。風が危険領域を越えて、それがおさまるまで動けないという放送が流れる。不安が的中した。
 いくら地下鉄とはいえ、荒川を越えるところは地上に出る。ここで風速30メートル以上吹いちゃっているので、その先に行けないのだ。とりあえず、次の連絡駅まで電車は動いたが、その先は一切動かなくなった。
 私はホームに出て、風がおさまって動くのを待つしかないと決めるのだが、それが2時間以上待っても、まったく動く気配がない。そこでいったん外に出て様子を見ようと思い、改札の方に向かったが、そこにはものすごい人が改札が開くのを待っている。他の路線から来る人が改札で足止めをくらっているのだ。なのでここを出てしまうと、戻ってくることは出来なくなる。ここにいるしかなくなってしまった。完全に身動きがとれなくなった。
 地震の時は歩けば何とか帰れた。少なくとも歩くことで自宅に近づいていることを実感できた。しかし今回は暴風雨の中歩くことは難しい。歩けてもかなりキツイ。こうなると地震の時より厄介だ。待つしかないのである。(家に帰ってニュースを見てみると、歩いて帰る人の姿を映していたので、このとき歩けないことはなかったようであるが)
 そしてさらに1時間経って、どうやら風が危険領域から抜けたようで、やっと電車が動くという構内放送がある。結局私は3時間近く、ずっと立ちっぱなしであった。駅についたら、ヘトヘトになった。
 あの地震の時は2時間半で自宅に着いた。今回はそれ以上に時間がかかったことになる。歩いた方が早いというのは皮肉なものである。ただ何度も言うように台風で外は暴風雨なので歩くことが出来ないと思った。
 しかし地下鉄は外の状況がまったくわからないし、外にも出られないことが構内の低さが生む閉塞感とともに精神的に堪えた。正直歩いた方が楽だった、と思った。駅から外に出たとき、何度も深呼吸をしてしまった。風はまだ強く吹いていたが、雨はやんでいた。道路には壊れたビニール傘が何本も落ちていた。
 まさか1年に2度も帰宅困難者になるとは思いもよらなかった。2度あることは3度あるというが、もうこりごりである。

2011年08月18日

お盆休みに仕事して思ったこと。

 たぶん毎年同じことを書いていると思うけれど、やっぱり書きたくなる。今年もみんながお盆休みを取っているのに私は仕事をしている。このことは今更どう言ったって、期間が決まった仕事がある以上仕方がない。
 ただこの時期仕事をしていると、例えば通勤が楽で、今日など最初から座って行ける。あるいは私の仕事の邪魔をする電話、飛び込みセールス、あるいは取引業者の訪問など一切ないので、集中して仕事が出来るという特典がある。
 もちろんそんなことは意識しなかった。気がつくと仕事がものすごくはかどっていることに気づく。仕事がかなり早い時間に片づいてしまって、“あれ、おかしいな?”と感じて初めてそれを実感した次第だ。
 そう考えると、私の仕事はこうした邪魔の中、合間をぬってやっていることになる。すべてがそうだとは言わないが、大なり小なりその傾向があるのかもしれない。

 そんな中唯一仕事の邪魔をしに来た奴がいた。リコーの新人である。もう新しい配属先に行っているはずなので、何でこっちに来るのかと思ったが、ついでがあったからと言う。

 「ついで?」

 「おたく、担当大井だろう。大井とここではついでとは言わんだろう」


 と突っ込んでしまう。少し話せば、研修がこっちであり、そのついでに寄ったということをぽろっともらす。だったらもったいぶって、「ついで」なんて言わないで、最初からこっちで研修があったので、と言えばいいのに、そうすれば余計な突っ込みをくらわずに済んだのに。相変わらず、うまく立ち回れない奴だ。
 私としてはいくらこっちに用があったとしても、あんたはこっちの担当じゃないんだろう。自分の担当地区に早く戻って、一軒でも顧客を開拓せよと言いたいくらいだったが、そんな説教をしても仕方がないので、適当に相手をして、早々にお帰りを願った。たぶん奴とすれば、なんか冷たいなと思ったに違いない。
 私は、多少不器用で、融通が利かないところはあるにせよ、彼のやる気と熱意は買っている。だけれども、私の担当でないなら基本的に用はない。ビジネスとはそういうものである。

 結局私の会社のリコーの担当者と会ったのだが、基本的に何をするにしても、対応が遅すぎる。メールを出してても、多分読む暇がないのだろう。いつまでも返事が来ない。見積もなかなか出てこないし、出てもネット上の画面にその値段がいつまでも反映されない。こっちはイライラしながら画面を何度も見るのだけれど、さすがに頭に来て、電話を入れる。午後6時過ぎだったと思う。電話からは本日の業務は終わったとテープで流れる。まるで銀行である。まぁ今は節電のため、会社の業務時間を変更せざるを得ないところが多いので一概に言えないけれど・・・。
 このままだとずるずる時間がたってしまい、プリンターのインクが切れる可能性もある。仕方がないので大塚商会の担当氏の携帯に電話を入れる。彼にリコーとの話をして、結局ダメだとわかり、もうそっちに注文することにしたことを伝えたら、価格をリコーより安く出来ると言ってくれる。言ってみるもんである。品物は翌日朝に届いた。


 いつもなら昼飯はみんなと一緒に休憩室で弁当を買ってきて食べるのだが、このお盆休みは私一人なので、外に食べに行く。長いことみんなと休憩室で一緒に昼飯を食べていたので、外に食べに行くのは新鮮である。と言っても、しがないサラリーマンである。食べるものは大したものではない。昨日は日本そば、今日はC&Cのカレーでも食べようかな、と思っている。昨日の帰りにここの前を通ったら、カレーがうまそうだったので、今日はカレーにしようと思ったわけだ。
 お店に入って、椅子に座り、食券を渡す。まずは店員が持ってきた冷たい水の入ったコップを手にする。しかし“夏はカレーだ”というのはよくわかる。実際そう感じました。
 しかし外食はお金がかかる。Hotto Mottoの弁当だと500円ワンコインでおつりが来るが、外で食べると千円札を出すことになる。いつも安い弁当をばかり食べていると、どうしても“高いな”と思ってしまう。それは本来当たり前の値段のはずなのに、Hotto Mottoの弁当のおかげで自分の金銭感覚がおかしくなってしまっている。
 何でも安いのに越したことはないという発想は、本来あるべき価値をおとしめることになる。原価をとことん下げて、かかるコストも下げることで実現した価格なのだろうが、そこにはどうしたって無理が生じるはずだ。
 マルクスは商品の価値をを規定しているのは人間労働であり、商品の価値の大きさは労働の量に比例(生産力に反比例)して決まる、という労働価値説を唱えたが、これだといくら原価(マルクスのいう使用価値のこと。具体的な商品体の属性に基づく価値。たとえば鉄とか小麦とか)を下げても、それを食べ物にするための労働力の価値などほとんどないんじゃか思ってしまう。その結果手抜きが行われ、ちょっと前に焼き肉屋が食中毒を出して、潰れてしまったのは記憶に新しい。あるいは農薬混じり野菜を食べさせられることになる。
 たかが久しぶりに外で昼飯を食べて、その値段に驚いて、こんなことを思うのも大げさなことかもしれないが、まあそういうことなんだろう。


 ところで話はがらりと変わってしまうけれど、今年は街頭でテッシュではなく、よくうちわを配っているのを見かける。そのうちわをパタパタ扇ぎながら信号が変わるのを待っている人達が多く見かける。
 言うまでもなく、今年は電気が不足している。そため節電が呼びかけられている。冷房温度を例年より高めに設定しているところが多い。外はもちろん、屋内でもそれほど涼しくない。だから今年は暑いことは間違いないけれど、それ以上に体感的に暑く感じる。だからうちわが重宝されるのはわからない訳でもない。けれど、炎天下いくら扇いでも、涼しくなるとは思えない。そのため余計に力を入れて扇いでいる人を見かけるが、端で見ているとこっちの方が暑くなってくる。まぁこれも今年の夏の一風景と思えばいいのかもしれない。私もここのところ通りすがりで、3枚うちわをもらってしまった。


 で、また仕事に戻る。電卓をポンポンたたいていて、何かおかしく感じる。画面の数字が消えるのである。試しにソーラーパネルの部分に手をかざすと画面の数字が消えた。そうか、何かの拍子に私の手がソーラーパネルの部分あたり、それで画面が消えたんだなとわかった。この電卓ソーラーと電池の二刀流なのだが、要するに電池が切れたのだ。というか、普段この電卓に電池が入っていることさえ忘れていた。
 この電卓は個人で購入したもので、事務用の大きめのものだ。電卓の下全面に滑り止めのラバーが付いている。それでも最初の一台は机から落としてダメにしてしまい、今のは二台目である。それでもこれも一回落としてしまい、表示画面の液晶がもれたのか、右下が黒くなってしまっている。
 私は仕事をする時は、とにかく書類を大々的に広げてするものだから、どうしても電卓は隅に追いやられる。で、電卓を引っ張り出そうとする時に落としてしまうのだ。
 それでもこの二台目は頑張っている。ボタン電池のが入っている所を開けて、中の電池を取り出してみる。この電卓を買ってから一回も電池を取り替えたことがないので、電池の液がもれていた。大丈夫かな、と思ったが、一応接地部分を掃除して新しい電池を入れてみると、大丈夫だった。これでどのくらい持つのだろう?
 この電卓、古くなったこともあるのかもしれないけれど、梅雨の時期に使うと、数字の部分が引っかかって、もとに戻らないことがある。しかし梅雨が終わると、何の問題もなく、押せる。たぶん湿気のためであろう、と思う。だから数字のボタン部分に引っかかりを感じると、梅雨だからな、と妙な季節感を感じられる優れものである?

 16日までは人の出が少なかったが、昨日から朝はいつもの人並みが駅から続いていた。もうお盆休みがほとんどの人が終わったんだなと思った。またいつもの通常のスタイルに戻るのだろう。天気予報によると、この暑さは今週が峠とか言っていたが、早く涼しくならないかな、と思いつつ事務所に向かった。

2011年08月04日

9月にブログ再開します

 2ちゃんで今度オープンした本屋さんについてあれこれ書かれているけれど、オープン初日に私も帰りに寄ってみた。レジにものすごい人が並んでいた。どうしてこんなに人が並んでいるんだろうと思ったのだが、2ちゃん書き込みによると、一緒に売っている文具がポスレジに読み取れないことと、店員が慣れていないことで、こういうことになったらしい。私も文房具のコーナーを見てみたかったのだが、レジに並ぶ人でそこに行けなかった。まぁオープン初日だから、いろいろ不手際もあるだろうから仕方がないけど、レジの横にいた太った男はただ横にいるだけなら、そのあたりちょっと人員整理をしたらどうなのよ、と思った。
 実は私は地元に本屋が出来ることは期待していた。そのため欲しいと思っていた本を書泉や丸善などで買わずに、ここで買おうと思っていた。だから帰りに寄ってみたのである。しかし欲しい本が1冊もないのである。それは古い本や専門書じゃない。新刊である。それが1冊もないのだ。おいおい、これはまずいでしょう・・・。まだ出版されてそれほど時間がたっている本じゃないよ。
 しかしこのことはある程度予測していた。急にお店をオープンするとなれば、在庫の確保がどれだけ出来るかが問題となってくる。だいたいが問屋任せの既刊本の売れ筋を用意することで、棚を埋め、後は雑誌となる。新刊、売れ筋は厳しい。だって他の本屋さんだって欲しい本だもの。まぁそれでもこれだけ人が並ぶということは、その程度の本で満足しちゃう住民が多いということなのだろう。なんか悲しい。(翌日以降は店内はガラガラである。もちろん私は店内に入らず外から眺めていただけだけど)
 この日の朝刊にチラシが入っていて、そこには「探しませんか?あなたの1冊」というキャッチコピーがあったけど、「あなたの1冊など、ここにはありませんでした」と突っ込んでみたくなる。オンライン検索も出来るそうだけれど、その必要ないでしょう、だってないんだもの・・・。
 ここで思ったことは、本屋さんも行きつけの本屋さんがあるんだな、ということ。自分が読む本の傾向の本が多くある本屋さんが、やっぱりいい。なにか面白そうな本がありそうな予感を感じさせる本屋さんがいい。そういう本屋さんが本当に少なくなったは残念である。だからせっせと自宅のパソコンで検索して、(オンライン検索など、今時わざわざうたうほどのもじゃないと思う)、その都度どこで買うか決める。
 例えば発売日に買う新刊は書泉で、何か面白そうな本がないかなあと行く本屋がお茶の水の丸善と三省堂本店。時間に余裕があるなら、東京堂によることもある。
 古本ならまずは最寄りのブックオフ。自宅の近所にある二軒のブックオフと秋葉原にあるブックオフである。で、そこになかったら、とりあえず携帯にメモを入れておいて、古本屋さんに行く時があったら、探してみる。それでも急にどうしても欲しくなる時がある。その時は、アマゾンのマーケットプレイスで探し出し、そこで買う。大体がこういうパターンである。
 仕事場の近くにはヨドバシの上にある有隣堂があるのだが、どうも7階まで上がるのが億劫で、あまり行かない。
 書泉は帰り道にあるのでの、どうしてもよってしまう。私が要のあるのは1階の文芸売り場と3階の文庫本売り場だけで、他の階はほとんど行かない。だから目的の本が発売されればここで買うし、なければ棚をざっと見回して帰る。
 最近1階は棚は薄くなってきたな、と感じて仕方がない。節電で店内を暗くしているのだろうけど、なんかそれ以上にうら寂しい感じがするのは私だけであろうか?棚の配置換えも最近行ったようで、私には在庫の少なさを隠すためにそうしているように思えてならなかった。私は新刊が発売日前日には棚に並んでいるので、ここで買うのだけれど、ちょっと時間がたった新刊は補充がうまくいっていないようで、在庫がないことが多い。ざっくり仕入れて、売り切っちゃうスタイルに変更しているようだ。
 1階の奥のレジはよく閉鎖されている。まあ私が行く時間が仕事帰りなので、そういうことになっちゃうのだろうけど、そのレジに人が入り込まないよう何かが立てかけてある。よく見ると風呂マットである。すごいでしょう!(あれ?これもしかしたらどこかで書いたかな?)店内にはちょこちょこ動き回る女性がいて、一方レジにはおじさんくさいポロシャツを着た男の店員がいて、どうも流行っている本屋には見えない。書泉ってこんなに泥くさかったっけ?と思ちゃう。

 さて4月から休んでいた本のブログをぼちぼち再開しようかな、と思っている。まだ自宅にあるサーバーが元気なうちに再開しておいた方がいいかなと思ったからである。
 私に自前のサーバーを立てて、こうしたブログを教えてくれた大野さんのサーバーがおかしくなったと聞いたのはつい最近だ。大野さんのサーバーは私よりも新しいはずで、そのサーバーがいっちゃったということは、大野さんのサーバーの方が私のサーバーよりアクセス数が圧倒的に多いからその負担が大きかったのではないかと思う。けれど遅かれ早かれ、私のサーバーもそうした事態になる可能性がある。その後は一切考えていない。その時はその時でおしまいという気持ちなのだ。なのでサーバーがご存命中に次を始めた方がいいかなと思っているわけだ。
 といって目新しいことをする訳じゃなく、淡々と今までやってきたことを続けるだけのことなんだけれど・・・。ちょっとイメージを変えてみたい気持ちもあるけれど、そうしたスキルもないので、このままやっていけるまでやっていこうと考えている。めどとして9月から再開しようと思っています。

2011年07月26日

またまた思うままに三話

 今年は節電ということもあり、しかも世の中、震災の影響で何かと騒がしいところもあり、例年の夏より暑さがこたえる。たぶんそういうことだから、体感温度がかなり暑く感じる。
 でも果たしてそれだけかな、とも思う。間違いなく暑くは感じるのだが、それに対応する自分の身体が昔より耐えられなくなってきているような気がしてならない。ちょっと前までなら、このぐらいの暑さなど、どうでもなかった。炎天下自転車を乗り回しても、確かに暑かったけれど、バンバン汗をかいていた。平気だった。
 しかし今年は違う。まず今日は暑くなるといわれれば、その時点で尻込みしてしまう。ちょっと外に出ても、すぐバテてしまう。時にはめまいさえする。これはやばいと思うことが、度々あった。やっぱり歳なんだなぁと思う。年より熱中症が騒がれているけれど、これホンと歳をとると暑さに弱くなるんだ、と思う。ちょっと前まで平気で出来たことが出来なくなることが多くなった。それが嫌になる。いわゆる身体がついて行かなくなるというやつだ。
 で、暑いから冷房を効かせ、その中にいると、今度とたんに寒くなる。冷房の設定温度は控えめにしているにもかかわらず、身体が冷えてしまっている。
 これはどういうことなんだろう。暑い時はいつまでも熱が身体に残り、冷房の部屋にちょっといるだけで、冷えてしまい、いつまでも寒い。要するに体温調節がうまくできなくなっている、ということなのだろう。そのためか余計に疲れる感じだ。困ったものである。


 お中元の季節である。我が家はもともとこういう贈答関係は、基本的にやらないのが主義であった。気を使うのが面倒だからである。でも、娘が結婚し、旦那のお父さんから、お中元、お歳暮が届くようになると、そうも言ってられない。で世間一般がやっているように、我が家もそうした贈答関係が始まった。しかし私たちの方は何を贈ればいいのか、いろいろ悩む。東京は何でもあるけど、結局地方の特産や銘品が集まっているだけで、その地方に行けば、買えるもので、東京ならではというものじゃない。あったとしても、見てくれのいい洋菓子みたいで、大したことがないのに見てくれで値がはるものばかり。だいたいその素材が東京以外の日本各地のいや世界中から、集めてきて作ったものばかりだ。このことはどこかで書いたような気がする。
 で、頂く方は、北海道の名産品で、これは何を頂いても美味しい。メロンなど結婚式や何かのパーティーに薄く切ったものを食べるしかなかったものが、大きく切って、ぱっくと頬張れば、ジュースがしたたり落ちる。その甘さといったら、今まで食べてきた高級メロンって何だったんだろうと思ちゃう。生ハムなどのせて誤魔化かさなくてもいい。そのままその味を堪能しちゃう。
 今年は孫が生まれてから、アスパラガスも送って頂いた。これも美味しかったなぁ。サラダに入れたり、ベーコンをまいて炒めても、最高であった。いわゆるスイーツにしたって、東京で売っているものと比べものにならないものばかり。北海道から何か届くと、ついついワクワクしてしまう。当然頂きものがあればお礼の電話を入れるのだが、そのたびにこっちが送った品物が貧相で申し訳なくなる。


 なでしこジャパンがワールドカップで優勝した。私も朝からBSで見ていたのだが、6時を過ぎて、いつもチャンネルに変えた。テレ朝である。テレ朝を朝見ているのは、日テレのズームインが終わってしまったからである。別にズームインのファンではないが、その後をついだ番組が朝からバラエティを始めちゃっているので、うるさくて仕方がないので、やめてしまったのである。
 それで朝は日テレからテレ朝に変えた。でこの日も出勤の準備もあるので、6時過ぎからテレ朝にチャンエルを変えた。サッカーのニュースもやるだろうと思っていたのでる。でもちっともやらない。後になってかろうじてニュースを流すが、画面は写真を写すだけ。

 おかしいな、と思った。

 サッカーと言えばテレ朝だと思っていたのにどうしてなんだろう。結局男子サッカーには力を入れるが女子サッカーは無視といった感じなのだろうか?しかし優勝しちゃったもんだから、軽く受け流すことも出来ず、かろうじて写真を画面で写し、後はアナウンサーが記事を読むことでお茶を濁したのかもしれない。男子サッカーの試合のたびに「絶対に負けられない戦いが、そこにはある」と絶叫するのに、女子だとこれだ。これってどうなのよ・・・?

 なでしこジャパンがワールドカップで優勝して、さらに墓穴を掘った人がいる。前行政刷新相である。この人やめておけばいいのに「なでしこJapan、優勝!!すごいです。」とツイッターに書き込んで、炎上したそうだ。
 この人スポーツ振興費などを仕分けた過去がある。それでなでしこジャパンの給料は0円~10万円の極貧生活になってしまったそうで、あんたがそんなことを言える立場か!、というわけである。さらに「えっ?1番駄目なんでしょ?どうして喜ぶの?白々しいわ!」ともあったという。

 だよね。

 この人最近人気がた落ちだ。あれほど鼻高々になっていたのに、この震災における津波で仕分けたスーパー堤防のが見直されたり、スーパーコンピュータが二番じゃなくて、世界一になってしまった。これで地震や津波のシミュレーションがより正確に出来ると言われちゃったら、面目丸つぶれだ。それで何を言い出すかと言えば「オンリーワン」とか何とか言って誤魔化していた。
 そして今度は安易なツイッターの書き込みをして非難を浴びる始末。つい最近まで白いスーツを着て、襟を立てながら颯爽と歩いていた姿はどこへ行っちゃったんだろう?大きなことを言えば脚光を浴びることは間違いないが、その反動も考えなくちゃいけないよね。それが出来ないし、もともと間違った政治手法をしていたんだから、仕方がないと言えば仕方がないかもしれない。所詮この程度の人物だったのである。

 それでやめておけばいいのに反論をしちゃうんだな、この人。

たぶんこれでさらにやけどをするはめになるだろう。何とか挽回したいと思うのはよくわかるが、こういうとき何を言っても裏目に出るのは世の常だ。やっちゃったことや言っちゃったものは、取り消しができないものだ。

 裏目にでると言えば、今日私も似たような立場に立ってしまった業者を相手にした。
 事の発端は、アスクルとかたのめーるとか、いまカタログやネットで文房具や消耗品を注文し、翌日配達してもらうシステムが普及している。そこに新規参入というか大きく手を広げようと、大手コピーメーカーが飛び込みでやってきた。たまたま私の会社でここのプリンターを使っているものだから、消耗品としてインクが必要となる。今は大塚商会で注文しているのだが、メーカが直なら、もう少し安くなるのではないかと、その“飛び込み氏”に見積を持ってこさせた。二度ほどやりとりして、彼は大分安くしてくれ、じゃあ、取引しようということになった。
 ところがその彼は研修期間の人間で、その研修が今日終わり、来週から違う地区に配属となると言ってきたのである。おいおい、おたくこの地区の担当って言っていなかったっけ?私はおたくの会社と取引したいと思った訳でなく、あんたが一生懸命頑張ってくれたから、付き合おうと思っていたのだ。それがこれか?と不愉快になり、それを言ってしまった。もちろん人の会社の人事に口を挟むことなど出来ないけれど、私はこの地区の担当だと言った彼を信頼しようとしていたのに裏切られた気分であった。もちろん性格柄黙っていられないので、はっきりとそれを言った。
 そのときは別の用件で来てもらったので、用件を済ましたが、やっぱり不愉快であった。でもどうでもいいや、と思っていたところに、やめておけばいいのに彼はもともとこの地区の担当者を連れてまたやってきた。これがダメだ。また思い出しちゃったのである。相手は何とか私の気分を変えたいと思ってやってきたのだろうけど、思い出した分、不快指数が倍増することとなった。要するに起死回生を狙ったのが裏目に出てしまったわけだ。
 適当に相手をし、「わざわざこの暑い中ご丁寧に」とお引き取りねがった。正直この会社とは付き合えないと思っている。せっかく登録した“飛び込み氏”のアドレスは削除しよう。
 私が難しい人間なのかもしれないが、私が感じたことはおかしなことだろうか?今はネットの普及で人の顔を見ない取引が当たり前のようになっているけれど、ちょっと困ったことがあったとき、頼もうと思うのは思い浮かんだ顔の人物ではないだろうか?そういう関係を多く持ちたいと思うので(もちろん煩わしいことも多いが・・・)、私はそうした関係も大切にしたいのだ。

2011年07月15日

また思うままに三話

 昨日アマゾンで注文した本と、同じアマゾンのマーケットプレイスで注文した古本が同時に届いた。手元には今読んでいる文庫本と一昨日書泉で買った本があり、ついついほくほくしてしまう。これが私の至福の時で、今読んでいる本を読み終えたら、次はこれを読もうか、それともこっちにしようか、と悩む。まぁどれから読んでもいいのだけれど、いずれも早く読みたいのは一緒で、結局マーケットプレイスで買った古本を次に読もうと考えている。
 手元にある本をあれこれ触りながら、あるいは上表紙を外して、本そのものを眺めたり、古本の状態を確かめたり、ページをめくり、目次を眺めてみたり、冷房の効いた部屋でソファに座り、ひとときを過ごす。
 アマゾンで買った本はずっと探していて、中身を見てから買おうと思っていた本なのだが、新刊書店では在庫されていない本である。何度かカートに入れては出しをくり返していたが、意を決して今回購入した。
 もう一冊は吉村昭さんの本を読んでいて、この人ならきっと何か本を書いているはずだと思い、もし書かれているなら、きっと面白い本だろうと感じていた。ネットで検索すると、確かに本を書かれている。しかし定価が高い。税抜きで2,200円である。ちょっと考えちゃう値段ですよね?
 で、中古を探してみると320円である。コメントでは“状態が良い”と書かれている。送料250円を足しても600円でおつりがくる。これだね、といって購入した。送ってくれる古本屋さんは福岡にある。
 もう何回かも書いているから、いい加減同じことを書くのは申し訳ないが、でも書いちゃう。送料250円出せば、全国の古本屋さんから本を手に入れることが出来るシステムは、ネットならではとはいえ、すごいよな、と思う。どう考えたって250円で福岡まで行けやしない。しかも冷房の効いた部屋でパソコンを操作しながら、ワンクリックでいいのだ。後は2~3日待っていればいいのだ。
 それにしても至福の時は結構だけれど、気がついたら今月本を買いすぎている。財布にあると思っていた虎の子が一枚しかない。まだ給料日まで2週間ほどあるし・・・。まぁボーナスで補填するしかないなと、現実を実感する。
 さて今読んでいる文庫本を早く読んで、次に行きましょうか・・・。


 昨日3年ぶりにメガネを作り直した。今のメガネを使っても、パソコンや本の文字がぼけてしまうことが出て来たからだ。視力が落ちてきているのだろう。一日中パソコンの画面を見ているし、本も毎日読んでいる以上、視力が落ちてきて当然である。
 3年前と違い、レンズも大分進化しているようで、見える文字がソフトにしかもくっきりと見えるようになっている。フレームもメガネのつるが耳に引っかかるタイプでなく、最近スポーツ選手がしているサングラスのようになっている。同じメーカーが眼鏡用のフレームを作ったとのことで、これだと耳に引っかかる感じがしない。そのため長時間かけていても耳が痛くならない。これはいい。ちょっと高かったけれど、これにした。もちろん当初の予定より予算オーバーとなった。
 よくチラシやテレビの宣伝でレンズ、フレーム込みでかなり安く出来るようなことを言っているが、あれって、本当にそうなのと思ってしまう。私の場合どうしてそんなに安くは出来ないのか?出来ればその範囲で収まってくれればうれしいが、なんかそれを言うとせこい感じがしてしまうので、結局何も言えないまま、言いなりで作ることとなった。まぁ安いものを買って、合わなかったり、壊れたりしちゃったら意味がない。ある程度長いことを使うものだし、私には公私共々必要なものだから、少々無理をした。


 そのめがね屋さんの前の貸店舗が空きのままになっていたが、本屋さんが出来るらしい。ここは一階が貸店舗で上はマンションとなっている。今は内装工事をやっているらしく、目隠しされている。外には申し訳ない程度に書店スタッフ募集の案内が貼られていた。それを目をこらして見て、初めてここが本屋になることを知った。
 この場所は駅前ということで一等地には違いないのだが、初めはドラッグストアで、次が親子カフェに変わり、いずれも長続きはせずに撤退している。家賃は高そうで、しかしその割には集客力のない場所といっていい。要するに採算の合う場所ないということだ。しかも今は節電のため駅前の広場の街灯が消されていて、かなり暗い。ここにお店を開いても、どうかなあと思ってしまう。
 そこに懲りずに本屋さんが入ってくるというのだから、馬鹿か、それとも情報収集力がよほどないのか、どこの本屋が入ってくるのかその貼り紙をよく見てみると、正育堂と書いてある。聞いたことがない。ネットで検索したら、東京西部や埼玉で書店や文具店をいくつか展開しているようだ。なるほどこれで情報収集力がないことに納得した。
 今の時代本屋さんはどんどん撤退しているご時世である。出版不況と言われてもう久しい。本が売れない時代である。リアル書店が厳しい時代である。
 その上ここは本が売れるところでない。正直言って本を買い求める人が多くいる場所じゃない。だからかなり市場的に厳しいだろうと予測される。
 ネットで検索していたら2ちゃんでスレッドが立っていて、これが面白い。また深く同意してしまった。


たぶん本屋は半年で潰れるよ○○○(駅の名前)に読書の文化はないよ
それに読む人は勤め先の大型で買うし参考書類は近隣の学校見れば
期待できないの分かる、むしろ万引きされる。
ポパイ(レンタルCD屋)の前が本+CD屋だったけどすぐ潰れちまった。


私は違うとかでなく営業していけるだけの本を買う人がいるかどうかだよ
いれば○○堂も撤退していない
また>>337見たいな品揃えにうるさい人はこんな郊外では論外な客
アマゾンで我慢するか池袋にでも住んだ方がいいよ


 ○○堂は駅の反対側にあるビルに入っていた書店であったが、ここも薄暗い店内で、いつ潰れても仕方がないな、といった感じのお店であった。本屋は最初駅の3階にあったのだが、そのうち1階に雑誌だけの店舗を出したら、余計に3階はうら寂れていった。私も滅多に行かなかったが、たまに行っても、探している本があったためしがなかった。
 出口にある階段には悪ガキがいつもつるんで座り込んでいて、通るのに邪魔で仕方がなく、何度か悪ガキに「邪魔だよ、どけよ」と言ったことがある。そしてつい最近撤退した。
 個人的には地元に今、本屋さんが一軒もないので、本屋さんが出来ることはうれしいが、何となくお店の状況が目に浮かんでくる。オープンは品揃えをばっちりして来るだろうが、それがだんだん薄くなってきて、うら寂しい感じが漂っていく。オープン時の華やかさを知ってしまったら、その感じは余計に強くなるだろう。
 前にあった親子カフェにベビーカーに乗っていた子どもが悪ガキ予備軍となって走り回り、本を散らかしていくことだろう。きっと万引きにも悩まされることだろう。
 頑張って欲しいところだが、前途が厳しい気がする。

2011年07月09日

思うままに三話

 孫のお宮参りに先日行ってきた。場所は水天宮である。自宅から行く場合半蔵門線を使って水天宮駅まで行くこととなる。ところがこの駅、水天宮口から地上に出る場合、エレベーターもエスカレーターもないのである。階段を上がるしかないのである。これには驚いてしまった。水天宮とは安産祈願やお宮参り、あるいは七五三など妊婦や乳幼児や小さな子どもを抱える人が行く場所である。そこの入り口である。そこにそうした配慮のないのである。私どももベビーカーで寝ている孫をかかえ、さて、どうしたもんか、悩んだ末、二人がかりでベビーカーを抱え階段を上っていった。この暑いさなかである。あきれかえってしまう。遠回りすれば地上に出るエレベーターがあるらしいが、駅にわざわざ水天宮口はこちらと書いてある案内表示通り出たら、これである。まったく空いた口がふさがらない。
 東京メトロのホームページにある「安心への取り組み」を読むと、“誰もが使いやすい地下鉄へ”とか“ご高齢のお客様やお身体の不自由なお客様をはじめ、すべてのお客様に安心・安全にご利用いただくことも大切なサービスだと考えています。地上の出入口とホーム、および通路のスムーズな行き来のためにエレベーターやエスカレーターをはじめ、スロープ、視覚障がい者誘導ブロック、構内点字式案内標を設置するなど、鉄道施設のバリアフリー化に取り組んでいます。”書いてあるが、ちっともそうじゃない。
 水天宮駅はエアーターミナルへ行く場合も使われる。そちらには地上に出るエレベーターが設置されている。要するにこの駅にとってどっちが大事なお客さんかと言えば、こっちの出入り口を使う人なんだろう。でもバリアフリーというのは弱者のためにあるもんじゃないの?それを利用頻度によって差別し、どちらかといえば妊婦や子どもが頻繁に使う出入り口をないがしろにしているのである。
 水天宮はちょっと高い位置にある。急な石段を上がっていったところにある。でもここは通りからすぐ神殿のあるところへ行けるエレベーターが設置されているので、ベビーカーでも楽に上がれる。社務所もお宮参りの着替えや授乳室があって、もちろん冷房もされている。お祓いをしてもらう神殿内も、冷房が効いている。
 外に置いても、この暑さである。氷が入っている桶が何カ所に置かれていて、そこには使い捨てのおしぼりが入っていて、自由に使っていいようになっている。当然といえば当然のことかもしれないが、それでもそれだけ配慮してくれるだけでうれしいものだ。警備員もやさしく、カメラのシャッターを押してくれないかと頼めば、気安く応じてくれた。
 とにかく暑いので孫に何かあちゃまずいということで、早めに切り上げ、水天宮を後にした。が、帰りも地下鉄に乗るため、ベビーカーを抱え階段を下りることとなった。こうなるとこの駅に腹が立ってくる。何とかならないのか!東京メトロよ!どこが“誰もが使いやすい”のだ。教えてくれよ、と毒づきたくなった。


 初めて会社のパソコンで算定基礎をやる。もちろん大塚商会の担当にレクチャーを受けてからやったのだが、そのとき彼女がちょっと営業をやっていく。ユーザーの要求だけをやるだけじゃなく、営業もやってこいというところなのだろう。まぁそれが会社の方針なんだから仕方がない。お世話になっているところもあるから、話だけは聞く。
 内容はパソコンデータをサーバーに保管するシステムがあるからそれを利用しませんか、というものである。要するにこの震災で会社の重要なデータが入っているパソコンが壊れたり、電力不足で急に停電などなった場合、パソコンだけでなくデーターもパアーになっちゃうから、バックアップ機能として大塚商会がサーバーを提供するというものである。
 なるほどこういう状況だから、このような商売も成り立つんだなと思った。商魂たくましいものだ。でも単に感心しているだけじゃなく、確かに大塚商会が不安を煽る言い分には一理ある。もちろん今も外付けのハードディスクをバックアップとして使ってはいるが、これも電源が失われたらダメになる可能性がある。
 だからといってこれ以上大塚商会の言いなりになるのもしゃくなので、こっちで自主的にデータバックアップを取ることにした。大きめのUSBメモリーで何とか間に合うので、これで十分だ。後は定期的にバックアップを取ることすればいい。そのままUSBメモリーは金庫にしまってある。
 大塚商会とは担当者と腐れ縁となってしまって、まずいなとは思っている。もちろん特別な利益供与があるわけではない。ただ性格的に一方に偏ってつきあうことがきらいなのだ。
 その担当者はもしかしたら異動があるかもしれないと言っていた。去年も言っていたのだが、今年はさらに可能性が出てきたらしい。そして話を聞いていると、今年は今いる営業所から仙台へ異動になる人間もあると言っていた。

 それを聞いた私は、

 「おお、行ってこい、行ってこい。がれきの片付けをして、少しは人様の役立つことをやってこい!」

 とチャカしてやった。
 7月になって結局彼は異動しなかった。また1年付き合いが続くこととなった。


 喫煙者にとってライターは必需品である。私は100円ライターを使っているのだが、そのライターがガス欠となり、新しいのをコンビニで昨日買った。レジのカウンターの前にあるライターを取って、110円を用意していた。頭の中で100円か105円だろうと考えていたのである。ところが120円ですと言われ、ちょっと戸惑ってしまった。ライターもこの震災で値上がりしたのかなと一瞬思った。慌ててもう10円を取り出した。
 手にしたライターは子どもの事故を防ぐために着火ボタンを重くしてあると書いてある。なるほどこのために値段が上がったんだなと理解する。120円が釈然としなかった部分があったので、これで納得した。でもちょっと火がつけにくいことはつけにくい。一方でこれで大丈夫なのかなという、一抹の不安も残るが、まぁこれ以上安全性を強調したら、それこそ簡単に火がつけられないことになり、喫煙者にとってはある意味不便だ。もしこれ以上の安全性を求めるなら、子どものそばにライターを置かなければいいだけのことだと思うのだけれど・・・。あるいはタバコを吸わなければいいのだ。でしょ?

2011年07月07日

村上春樹さんのカタルーニャ国際賞スピーチに寄せて思ったこと

 相変わらず福島の原発は先が見えない状態である。もう震災から3ヶ月以上過ぎても、放射能はまき散らされ続けている。こういう状態なので、日本だけでなく、世界で“原発ノー”と脱原発が言われている。でも原発がなくなれば、電気はどうするんだ、と思う。ニュースで脱原発を訴える団体などがデモをしているのを見て、この人たち原発を否定するのは結構だけれど、不足した電力に対してどう考えているんだろう、といつも考えてしまう。
 本当に原発を否定するなら、自分たちがそれまで使っていた電気の節約は当然しているんですよね。まさか、デモの後、冷房の効いた喫茶店でコーヒーなど飲んでいませんよね。あるいは自販機で冷えたペットボトルなど飲んでいませんよね。だってそれらみんな電気を使っているんだよ。ただでさえ電力不足なのだから、そこに原発を否定しているのだから、そんな電気は使えませんよね、と思うのだ。
 私は原発否定論者をけなしている訳じゃない。だけどそれを簡単に否定して、その代替えはどう調達して来るんだろう、と思うのだ。原発なしに今のライフスタイルが維持できる訳がなく、当然不便を伴う。極端な話生死の問題に関わってくることだってあるだろう。それくらい今のわれわれが使っているインフラは電気を使っているのだ。それがいきなり使えなくなっても仕方がないことを折り込み済みで反対運動をしているのかな、という疑問があるのである。私は彼らの主張は村上春樹さんが言う「非現実的な夢想家」の言い分じゃないかとどうしても感じてしまうのである。
 私は何度も言うように彼らを否定している訳じゃない。どちらかと言えば同じ考え方である。だけどいくらもう原発はこりごりだと言っても、今の私たちはそれを完全に否定できない状況下に置かれちゃっているのだ。村上さんはこのことを次のように言っている。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 それでも私は村上さんの言うことを支持したい。


 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 これだけの震災や津波によって「我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害」となってしまった以上、もう一度日本人が核に対する拒否感を自覚すべきだと思う。原子力はちっとも効率のいいエネルギーじゃないことをわれわれはこの震災で知ったはずだ。その被害金額を算出したら、絶対にそんなことは言えないはずだ。その補填を電気料金値上げや増税で負担されるのだ。電力会社が潰れ兼ねない状況なのだ。
 そして何よりも、未来のある子どもたちを危険にさらしているのだ。人々の心のよりどころであるふるさとを奪ったのだ。だから私はかなり遅いかもしれないが、これからでも核に対する「ノー」を叫び始めていいと考えている。たとえこれまでの生活が享受できなくなっても仕方がないと思う。耐えなければならないことがたくさん出てきても、もともと不安定なものに頼ってきたシステムはいつかこうしたことが起こるはずだ。それが早いか遅いかだけのことだ。それよりも安全なシステムを考え、その中で安心出来る生活をすべきだと考える。もう効率や生産性やお金に最重点に置くのではなく、きちんとした負担をすることで安全を担保し、心穏やかな生活が出来ればいいのではないか。何でも便利になればいいというものじゃない。不便でも手間がかかろうとも、だからこそそれに実感でき、手で感じることができる生活があるのではないか、と思う。

 3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲い、地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.6~1.8秒短くなるほどの規模の地震であった。
 私はあの日に帰宅難民になりかねた。まだ肌寒い夜を2時間半歩いて家に帰った。吐く息は白いのに、身体は熱を持って暑い不思議な感覚であった。そのとき私の中で何かが弾けた。
 今まで動いていることが当たり前の電車がすべて止まり、車も渋滞で先に進まない。頼りになるのは自分の足だけだ。当たり前に動いているものが、実は危ういものであり、いつもどんなときでもそれが動いているとは限らないと知らされる。
 一方黙々と歩くなか、いつの間にかそれが身体の中で目的としてはっきり実感できるのだ。時間がかかる分、疲れが足から伝わることで、オレは家に向かって歩いているんだ、と感じた。妙な充実感ともいえるものを感じた。
 わずか2時間半しか歩いていないが、それでも私は今まで自分が持っていた価値観が少しずつ崩れていく感じを味わった。何の疑問もなく、定時になれば仕事を終え、無意識に駅に向かい、来た電車に乗る。便利でスピーディーと整備されたインフラに乗って、家に帰る。当たり前のように。それがたった大きな地震一つあっただけで、身動きとれなくなる。当たり前に動いているものが、ちっとも当たり前じゃない。便利であった物が、ただの物体と化し、機能を果たさない。
 私たちの価値観や生活はこうした危ういものの上に成り立っていた。しっかり地に足をつけていたと思っていたものが、そうじゃないことを知らされる。
 これが始まりであった。震災地では、家も車も電気製品も、何もかもがれき化した。形をなさないものに破壊され、機能しないものと化す。原発は制御不能になり、電力が不足する。その結果、震災地から離れた東京でも、電気が突然止まり、すべてが動かなくなる。人類の進歩は大きく時を戻し、それがなかった頃に逆戻りする。人々は今まであったものがなくなってしまったことで、単に昔の何もなかった頃に戻っただけなのに、人はそこに簡単に戻れない。呆然とするだけである。
 結局科学の進歩や技術の進歩は人類の妄想であって、さもわかったようしても、何もわかっちゃいなかったし、多少危険であっても、制御出来れば問題ないというのは、ただの奢りであった。すべてが効率と拝金主義がそれを促進してきただけであって、多少のリスクには目をつぶっちゃいましょうよということで推し進めて来ただけあった。ちっとも多少じゃなかったのだ。ここまで完膚なきまで破壊されなきゃわからない、人類の進歩って何だったんだろう。震災直後東京都知事がこの震災の被害は奢りがそうさせたものだと、至極まともなことを言っていたけれど、私はその通りだと思っている。
 すべてが破壊され、なくなり、身動きがとれなくなった現代生活の虚構があらわにされた時、人の精神にも大きな不安感を残していく。きっと私もあのとき薄々それを感じつつあったのではないか、と思っている。
 あのとき私はただでさえ精神的に不安定になっていた頃で、この震災がさらに追い打ちをかけ、無力感に苛まれた。確かに私は半ば茫然自失の状態が続き、何も手につかない日々が続いた。自分にとって何を頼りし、足がかりにしていいのか、その根拠となるものがわからなくなってしまったのだ。不安で仕方がなかった。夜など薬を飲まないとなかなか寝付けなくなっていく。おそらくこのままの状態が続いたら、私の精神はおかしくなる一方であっただろう。もちろん本など読むことができなかった。
 でも一方で日々の生活がある。私が個人的にまいっていても世の中は動いている訳で、世捨て人でなければ誰だってそうした波にもまれてしまう。そのため私は無理しながら生きていくこととなった。もちろんめちゃめちゃ疲れる。でもこうした無理は少しずつ回復に兆しを与えていったのではないか。どこかで私は自分の精神を立て直そうとしていたのではないか。それは何だろう。


 村上さんは次のように言う。


 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。


 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 結局もとあった生活に戻れることが一番いいわけで、私にとってそれは本を読むことであった。本を手にすることであった。だから少しずつ本を読もうと思い始める。本を読むことで、それまでの日常を取り戻せるように思えたのである。もちろん長時間本を読むことは出来ないし、固い内容の本は読めなかったが、それでも時に本の内容に癒されるようになってきた。村上さんの言う「新しい言葉」と「生き生きとした新しい物語」の中に自分を置けるようになってきたのである。こんな自分でも投影出来る。言葉一つひとつに反応できる。やっぱり本はいいものだ。そう思い始める。

 心がわずかだが落ち着き始めた頃、私に孫が出来た。これがさらに大きな救いとなった。ただ寝て、泣いて、ミルクを飲んでいる彼女だけど、私は彼女の寝顔、泣き顔を見ているだけで落ち着いていくのがわかっていく。そしてこの子を抱いていると、腕の中でわずか5キロに満たない重みを実感でき、ここに命が生きているということを感じられた。孫が私の腕の中で安心しきって寝ている姿を見て、私は安心とはこういうものではないか、と思ったのである。

 私に必要なのは物ではなく、村上さんが言うような言葉や物語であり、何よりも生きている命であり、安心であった。孫がこんな私でも頼りにしてくれることがうれしかった。

 そうこうしているうちに、約三ヶ月間苛まれた不安感、不安定感が徐々に薄れていくのを感じられるようになってきた。何となくもとの生活に戻れそうな気持ちになってきている。これからは少しずつ書いていこうと思っている。まずはここで、どうでもいいような話を書いていければ、と思っている。

2011年02月14日

思うままに その33

 最近のマニュアルがPDFファイルのものが多く、必要なら自分で印刷してね、といった、半ばお座なりな、半ばエコ的なものになっている。昔ワードが出た頃のことをふと思い出す。ものすごい厚さのマニュアルが付いていて、その厚みと重みでうんざりしてしまったものであった。
 そういえばsoftbankの安い携帯を買ったとき、マニュアルも充電器も付いていなかった。そのことを店員に聞くと、値段を抑えてある分、マニュアルとか充電器は付いていません、ときっぱり言われた。まぁ私は通話とメールが出来ればそれ以上の機能を求めていなかったので、安い携帯で事足りる。今流行のスマートフォンなど欲しいとも思わなかったし、今でもそう思っている。だから携帯はそれでいいのだが、マニュアルと充電器は必要じゃないかと思ったので、さらに店員に聞いたらマニュアルはネットからPDFファイルをダウンロード出来るし、充電器は家にあるもので使えるとわかり、納得して帰った。

 ところでマニュアルのPDFファイルなのだが、必要なところを見ればいいのだろうけど、それを画面上で探すのは結構大変だ。結局すべてをプリントアウトすることになる。ところが会社のプリンターはモノクロのレーザープリンターで、それで印刷すると、カラーの部分がつぶれてしまうことが多い。しかも両面印刷が出来ないから、膨大な枚数になってしまう。これはまずいな。せっかく印刷しても見えないんじゃ意味がない。出来れば厚みもないのが精神的に望ましい。
 仕方がないので、オカモトヤの担当者に無理を言って、Canonの最新のプリンターを安く分けてもらう。それを使ってマニュアルをプリントアウトすると、あら不思議!どういう風になっているのかよくわからないが、きれいに両面印刷をがんばってやってくれる。しかも我が家にある化石的なカラープリンターと違い、コンパクトでスタイリッシュで、しかもプリントもきれいだし、スピードも速い。刷り上がったマニュアルを見て、これならいいと満足する。
 ところで今年は毎年業者からもらう卓上カレンダーが手に入らなかった。一つだけ大塚商会がくれた、あのだじゃれの犬だかなんだか知らないが、そいつが出いている卓上カレンダーだけであった。
 どうも世の中、不景気が続くと、こうしたものが経費削減の的になるようで、年々数が減っている。今年はこれだけだから使わざるを得ない。しかしこれ悪趣味なのでどうも使う気にはなれない。
 かといって事務所に一つもないのも不便で、諦めていたところ、プリンターの附属ソフトでカレンダー印刷が付いていて、デザインはネットで選べる。ちょっとのぞいてみたら、これはいいというのがあったので、早速新しいカラープリンターで印刷して、切り取って、昨年のカレンダーと入れ替えてみた。すっきりしていて見やすい。絶対にこの方がいい。なんかちょっと得した気分になった。(2月2日)


 先日事務所で長いこと使っていた自転車を買い換えたことを書いた。今は新しい自転車に買い換えた以上、それに乗るしかないので、乗っているが、どこかしっくりこない。もちろん新しい自転車は、変速ギア付きだから、乗り心地は悪くない。新車だからタイやにも空気がパンパンに入っているし(当たり前だ)、ブレーキだってよく利く。
 なのにどこか違和感を感じるのである。今までの自転車はタイヤの空気はすぐ抜けるし、ブレーキは利かない。サドルも動く。「この野郎!」毒づいて乗るのが日常化していた。問題があることが当たり前になっているのが、日常であったわけだ。それが何もかもなくなって、快適になっているのが、今ひとつ私の中でしっくりこない。

 もう何十年も使っている手提げ金庫がある。おそらく私がこの会社に入る前から使われていたものであろうと思う。この金庫は鍵付きなのだが、その鍵がどっかにいってしまっている。でも小口現金を入れておくには何ら問題がない。だから長いこと使い続けてきた。しかしこの金庫の手提げの金具がとれるようになってしまった。取り上げることが出来なくなり、抱えて取り出し、とれた金具をイライラしながらはめ込むのだが、たぶん止まるところが摩耗してしまっているのだろう。すぐとれてしまう。はめ込み口に詰め物をしているのだが、やはりダメだ。
 で、結局新しい金庫を買うことにする。最近の手提げ金庫は、小銭を入れる入れるところもちゃんとついていて機能的である。値段もそう高いものじゃない。でも、これも慣れるまで違和感を感じながら使うことになるんだろうな、と思う。
 問題があることが日常化しているのに慣れているものだから、それが当たり前のこととして受け入れている。だから問題があることを問題として認識していない。“しょうがない”と諦めている。それが新しいものと取って代わって、機能的にストレスも感じることもなく、使えることがかえって物足りないなりそうである。
 自転車もそうである。以前前輪を全部取り替えて、7千円以上取られたことがある。それを7千円も出すなら新しい自転車を買った方がいいだろう、社長に言われたことがある。確かにそうである。でも私は使えるものなら修理して使った方がいいとしか考えなかった。それは私に馴染んだものだから、手放したくないという気持ちもあるし、それがそこにあることが私の日常であるから、それを変えたくないという気持ちからかもしれない。たとえオンボロであっても・・・。
 私は新しいものを受け入れるより、今まで使ってきたものを使い続ける方が、精神的に楽なのである。壊れていても、何とか使えるなら、気持ちの上で楽なのだ。何でも新しいものに変えることの方が、今はストレスを感じてしまうのである。これもたぶん歳のせいであろう。だんだん私は保守的になっているのだ。きっと。(2月9日)


 最近帰り道にある中古カメラ店のショーウィンドウに置いてあるカメラが気にかかる。カメラはオリンパスペンである。


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 知ってますか?

 これを見かけたとき、思わず、あっと言ってしまい、ショーウィンドウに近づいてしまった。これ実家にあったのだ。
 家に最初にあったのはヤシカの安い方のカメラであった。これはピントも露出も手動で合わせるものだったはずだ。たぶんそれが面倒になって、簡単に写真が撮れるこのオリンパスペンを買ったのだろう。しばらくこれで家族写真を撮っていた。遠足や修学旅行などに持って行った記憶もある。
 その後私のカメラ歴はあれこれ変わっていって、今はデジタルカメラになっているけど、このカメラをガラス越しに見て、これにフィルムを入れて、撮ってみたいなという気持ちになった。フィルムを巻き上げる感覚、使い終えてパトローネに巻き上げる時の感覚、すべて手動。今になってみるとあれがよかったな。当時は結構面倒くさかったけれど、今はそういう感覚が体験できないもんんね。
 村上春樹さんのエッセイを今読んでいるのだけれど、村上さんが愛着のあるLPレコードの良さを語っている時、「まさかLPレコードが他にとって替わられるなんて思ってもみなかった」と書かれているが、カメラもフィルムも同じである。デジタルが当たり前になってしまうと、こういうアナログ的なものが妙に懐かしくなる。手に取ってその実感が感じられたことがよかった。存在感が手間のかかる分、ずっしりと感じられたものだ。
 何枚もピンぼけの写真があり、こんなもの現像しなくてもいいのに、律儀な写真屋さんは36枚フィルム全部を焼き付けてくれる。もちろんその方がお金になるだろうから、そうしているといえばそれまでだが。それにいつもフィルムの残り枚数を気にしつつ、写真を撮るなんて、今じゃ考えられないものな。

 村上春樹さんの本に紹介されていた高橋秀実さん『からくり民主主義』(新潮文庫)をブックオフで見つけ、ゲット。350円。次これ読もう。その後書泉で横田増生さんの『潜入ルポアマゾン・ドット・コム』(朝日文庫)を924円で購入。この本単行本では既に読んでいるが、文庫化にあたり大幅加筆と帯に書いてあって、それが気になっていた。どうやら単行本の時から、その後のことが書かれているようだ。買おうか、どうしようか、迷った末、思い切って買うことにする。(2月10日)

2011年01月28日

思うままに その32

 NHKの朝の連続ドラマを目にした。それまでのストーリーがどうなっているのかまったく知らないが(今回はハマっていない)、たまたま主人公の女の子が正月に実家の尾道に帰っている。ただこの女の子大阪でお好み焼きやをやっていて、どうしても店のことが気になって仕方がない。そこで大阪の祖母に店のことをあれこれ電話で聞いている。その電話を父親が聞いている。その子は明日帰るからと何度も言うのを聞いて、父親は怒り出す。娘は実家に帰って来ているのだから大阪には“帰る”ではなく、“行く”だろうと言うのである。
 これを見ていて私と同じだな、と思った。たまたま暮れから正月三が日が終わるまで、娘が帰ってきていて、4日に帰った。娘にとって帰るところ実家ではなく、旦那と住む部屋なのである。それはよくわかる。けれどここはおまえにとって実家だろう、という思いも私にあるから、「4日に帰る」と言われると、どこかしっくり来ない。まったくこのドラマの父親と同じ気分を味わった訳だ。
 正直なところ、久しぶりに家族四人が揃い、一緒に食事をしたりすると、娘が帰った後はやっぱり淋しかった。普段ちょっと遊びに来るのとは違い、約1週間も娘と顔をあわせていたから余計なのだろう。
 もちろんそんな私の感傷など、娘が幸せにやっているのだから、どうでもいいのは当然だ。でも私の気持ちにいつまでも一緒にいられればいいなあ、という気持ちが抑えきれない。だから“帰る”といわれるとやっぱり淋しくなるのは仕方がない。子供達が独立しても、親はいつまでも子供達のことを心配し続けなければならないのだから、親というのはいつまでも損な役回りだな、と思ってしまう。
 そんなことを感じながらこの15分のドラマを見ていたのであった。やれやれ新年早々感傷的になり我ながらうんざりしてしまう。(1月5日)


 幸田露伴の『五重塔』(岩波文庫)420円。書泉で購入。(1月12日)


 今年は本当に寒い。歳もあるのだろうが、やたら寒さがこたえる。暖房のきいた事務所や家の部屋にいても、寒くて仕方がない。新年早々、様々な手続きのため、あっちこっち関係各所へ出かけた。寒い中外へ出る機会が多かったので、風邪をひいた。風邪気味な時にとどめに薬剤師会の賀詞交歓会など出席して、余計にひどくなった。早々に山の上ホテルを出たが、身体がガタガタ震える。
 翌日も寒くて、体温を測ったら、8度5分もある。おかげで土日は寝込んだ。月曜になって熱は下がったので、仕事もたまっているので事務所に出る。しかしのどは痛いし、咳は出るし、そもそも身体全体がだるくて仕方がない。結局自宅の近くにある診療所へ行って薬を出してもらう。(1月18日)

 先週はそんな感じで過ごした。おかげで何もする気も起こらず、だらだら過ごす。もちろん本を読む気など起こらないし、文章も書く気にならなかった。
 そこへ持ってきて今度は持病の腰痛が出てきて、立ち上がったり、座ったりする時、苦痛でならない状態が今も続いている。まったく年明けからろくなことがない。
 それでも何とか本が読める状態になりつつあるので、読み始めるのだが、どうも読みづらい。めがねの度数が合わなくなっているいるみたいだ。老眼が進んでいるのだろう。やれやれめがねも作り直さないといけないようだ。


 綿貫智人著『リストラなう!』 (新潮社) 1,365円、北尾トロ著『裁判長! 死刑に決めてもいいすか』(朝日文庫) 609円、有隣堂で購入。(1月20日)


 吉村昭著『鯨の絵巻』(新潮文庫)をブックオフでやっと見つける。250円であった。(1月26日)


 事務所で長年乗っていた自転車のサドルが壊れた。それだけならサドルを替えればいいのだろうけど、もうあっちこっち痛んでいる。タイヤも丸坊主になっているし、汚いし、これは替え時であった。この自転車もう10年以上乗っているだろう。この自転車昔ドラッグストアをやっていた頃、大正製薬のリポDの拡販謝礼でもらったやつだ。タダでもらった自転車をここまで使い込んでいるのだ。一時は本の仕入などに使った。たぶんそのためにこの自転車が傷んだだろうと思われる。普通のチャリだから、本の重みにはきつかったに違いない。
 千代田区は自転車あると便利である。各役所に行くとき、JRや地下鉄など使うと、乗り換えが面倒なのだ。しかも最寄りの駅から結構歩いたりする。交通網はかなりあるのだけれど、役所や関係各所は、案外そこから離れたところにあることが多い。それを自転車だと靖国通りに出れば、わりとすぐ目的地に行ける。
 先日昨年移転した千代田保健所へ手続きがあって行ったのだが、この時は地下鉄を使い、九段まで行った。帰りに大きな通りは何通りだろうと見てみると、靖国通りだとわかる。そこでハタと気がつく。ここは神保町のちょっと先じゃないか。これなら自転車で来られる。ここまで自転車で来られるなら、東京法務局も千代田区役所も簡単だ。次回は自転車で来てみようと思う。
 神田税務署、都税事務所、東京都薬剤師会、そして支店のお茶の水店に行くにも自転車を使うことが多い。さらに昼のお弁当を買いに出る時も使う。
 となれば自転車は絶対必要だ。もう本など思いものを運ぶこともないから、華奢なスポーツタイプでも大丈夫だろう。そして昔は楽々お茶の水の坂を上れたのに、寄る年並みには勝てなくなり、最近は途中で止まって、自転車を押しながら坂を歩いて上ることも多くなった。だからどうせ買うなら変速ギアつきがいい。そうすればお茶の水の坂も簡単に楽に上れるはずだ。
 でも変速ギアつきの自転車って高いんだろうな、と思ってネットで調べてみると、なんと1万5千円程度であるじゃないか!へぇ~今はこんなに自転車が安くなっているのか。別に一流メーカーのもじゃなくてもいいし、ブランドものでなくてもいい。要は変速ギアがついていて乗れればいいのだ。
 さっそく最近出来た自転車屋さんへ行く。あるじゃないの安くて5段変速ギアつきの自転車が。これはいい。古い自転車も525円で引き取ってくれると言うし、文句がない。会計と防犯手続きをして、新しい自転車に乗って事務所へ戻る。
 ところでこの自転車屋さんのあるところは、昔私がいた本屋である。ここに入るのは閉店以来であるから、もう何年になるんだろう。うちが撤退して、しばらく借り手がいないまま長いことあいていたが、その後docomoのお店が入った。私は最近になって携帯を持った人なので、元々携帯には興味がない。だからここには寄りつかなかった。
 そしてdocomoもいつの間にか撤退し、その後今の自転車屋さんが入ったのである。ついつい懐かしくなって、中を歩き回った。2階にも上がってみた。このあたりに背の高い本棚があり、奥がバックヤードで、狭い中何人も入っていたんだな、と当時のことを思い出す。
 このビルのお店は元々オーナーである電機会社のショールームだと聞いたことがある。だから本屋としてここにお店を構えたのはいいのだけれど、とにかく使いづらいお店であった。1階から2階へ上がるのは今時はやらない周り階段で、案外鬱陶しい。そのため2階にはなかなかお客が上がってくれない。2階の担当者はいつもそのことで頭を痛めていた。私もその一人である。構造上おかしな作りになっているものだから、テナントが変わっても、変えられない部分が多くあるようだ。周り階段もそうだし、手すりも私がいた頃と同じだ。昔と変わらない部分があるというのは、懐かしいものだ。ここで自転車を買ったから、この店とつきあいが始まるだろう。そのたびにここに来ることが出来ると思うと、ちょっと嬉しくなった。


 村上春樹著『村上春樹 雑文集』(新潮社)1,470円 書泉で購入。確かこの本31日発売だったはずだが、たぶん三和図書から早く搬入されたのだろう。たぶんここで早めに買えると思ったので、帰りに寄ってみたら平台に案の定並んでいた。(1月27日)

2010年12月25日

思うままに その31

 さすが12月である。スケジュール表を見ると、毎日やることがいっぱいである。今年は例年になくやることが多くて、いささかバテ気味である。1日に何通もメールを書き、あるいは受け取り、次の行動に移る毎日である。
 以前自分のメールアドレスをさらしてしまった関係で、何十通の迷惑メールが届くようになって久しい。さすがに鬱陶しくなってきた。メーラーが判断して迷惑メールを避けてくれるものの、完全ではない。何通か残ってしまう。それを削除するのだが、適当にやっていると必要なメールまで削除してしまうことがたびたびあって、相手に迷惑をかけてしまう。それでなくても朝はここのところ頭がボーッとしているから余計である。ちょうどパソコンを変えたので、この際今まで使っていたメルアドも変えようと考え、新しいものを作って運用している。
 これが精神衛生上よろしい。正直なところこんなにも楽なのか、とさえ思っている。そして必要なメールはこんなにあったのかとさえ思った。ただこれは12月だからそうなのだろうと思いたい。メーラーがすっきりしているのも気分がいい。探すメールもすぐ見つかるし・・・。
 それにしてもメールのやりとりがここのところ多い。12月は相手も忙しいから、電話だと捕まらないことが多い。別に早急に対処することでもないので、暇な時に読んでくれればそれで良いわけだから、相手も助かるんじゃないかと思う。もちろん私の場合もそうである。
 電話だとどうしても余計なことを言ってしまい、やたら長電話をしてしまうが、メールだと事前に用件を簡潔にまとめるから、読む方も楽である。それにその分頭を使うのでボケ防止にはいい。さらに電話だと言った、言わないという問題が起きるが、メールだと文章に残る分責任の所在がはっきりする点もいい。人の声のやりとりを人間関係の構築に重要だという輩がいるけれど、話を長くすればいいという問題じゃない。限られた時間内でやらなければならないことが多いし、仕事をしている途中で電話が鳴って、それを中断しなければならないほど頭に来ることはない。結局最初からやり直す羽目になることが多い。
 だから私はメールですむものは極力メールにしている。下手をすれば電話の件数よりメールの数が多いかもしれない。

 その新しいパソコンのである。今度のは富士通のビジネスモデルを使っている。これが起動が静かなのだ。今まではDELLの奴を使っていたし、家ではgatewayのパソコンを使用している。これらアメリカ仕様のパソコンはデリカシーがないから、電源を入れればガァーとファンが回る音が、さも“これからパソコンを起動するからな”といった威圧感がある。うるさい奴だとは思っていたが、長いこと使い続けていると当たり前になってしまい、今度のパソコンのように音もしないようだと、「あれっ、ちゃんと電源のボタンを押したかな?」と確認してしまう。中のパーツは日本製などほとんどないだろうし、組み立てられたのも日本じゃないだろうけど、少なくとも日本の電機メーカーの名前を背負っているだけあって、控えめである。配慮が違うね。日本人はこうでなくちゃいかんよ。
 今回のパソコンを使うに当たって、一つのコンセプトを徹底しようと考えている。それはこのパソコンで私の仕事すべてがこれでまかなえるというものである。何を言っているのかというと、たとえば取引先に用件があって、仕方なしに電話をする場合、名刺ホルダーから担当者の名刺を探して、電話をかける。これが面倒と言えば面倒なのだ。私は基本的にズボラなので、名刺をもらってすぐホルダーに入れる人ではない。ある程度まとまったら整理する方なのだ。中には飛び込みでやってきて、いきなり挨拶もほどほどに名刺入れから名刺を出しておいていく奴もいる。普通そいつが帰った後すぐゴミ箱に捨ててしまうのだけれど、何かの都合でそのまま未整理の名刺の上に置いてしまうこともある。担当者が代わったといって後任を連れてきて、名刺を置いていくこともある。けれどいつまでも整理しないものだから、“こいつ誰だったけ?”と思うことも度々だ。要するに必要なときに必要なものが見つからないことがままあるのだ。だからこの際、全部パソコンに入れて管理しようと思ったわけだ。もちろんそれだけじゃなく、仕事に関することはすべてこのパソコンでまかなえるようにしたいのだ。それを今せっせとやっている。
 まぁ考えて見ると、パソコンにデータを入力するのと、きちんとファイリングした方と、どっちが楽かと言えば、何とも言い難い部分はあるが、要は気持ちの問題なので、決めた以上やってやろうと考えている。多少意地もあるしね。(ある意味こうして自分の仕事を増やしているのかもしれないな、と思うこともあるが・・・)

 さて今年も残すところあと1週間である。今日は土曜日の休みで、明日が日曜日。午前中散歩も兼ねて、近所のブックオフへ出かける。目的はある。一冊の文庫本を買い求めるためだ。この手の有名作家のシリーズものは間違いなくあるに違いないし、その通りあったのだが、それ以外面白そうな単行本を見つける。両方ともミステリーである。
 帰ってから昨日持ち帰ってきた仕事のマニュアルを読む。まったく民主党のアホ政策の一つ子ども手当のお陰で、ソフトをバージョンアップして、その後細かい確認をしなければならず、ほとほと早く民主党は早く辞めてくれないかな、と思ってしまう。こいつ等自分たちは改革気分でいい気分になっているのかもしれないが、世の中のシステムを変えるということは、どれだけ手間がかかり、余計な仕事を抱え込むことになるかがわかっていないから、たちが悪い。そしてそれに被害を被っていることには一切頭にない。とにかく口が先の政策だから、言ってしまった以上収拾がつかなくなって、初めて慌てるのだ。言う前に少しは考えろよ、と言いたくなる。
 お陰で私も休みにこうしてつまらぬマニュアルを読むはめになるのだ。もういらないねこんな政党は・・・。さっさとお引き取り願いたいものだ。
 さっきまでそのマニュアルを読んでいて、いささか疲れたので、買ってきたミステリーでも読もうと思う。テレビはクリスマス、年末バージョンになっていて、特番ばかり。面白いならいいが、おもしろがっているのは視聴者ではなく出演者という番組ばかりだから、見る気も起こらない。

 たぶんここでの今年の書き込みはこれで最後になると思う。まあ好き勝手に言いたいこと、思うことをいつものように書き込んできた。もちろん自分勝手な話ばかりだから、どれだけの人が読んでいてくれているのかわからない。たぶん数あるブログに完全に埋もれているんだろうから、いつ終わろうとどうでもいいことかもしれない。でも、もし今まで多少なりともつきあってくれた方がいたら、やっぱりお礼は言っておかなきゃならない。その数少ない人たちに、

一年間ありがとうございました。よい年をお迎え下さい。

2010年12月05日

思うままに その30

 今年は夏が暑かったからか、それとも株を分けてやったからか、昔から我が家にあるシンビジュームにつぼみが3つも持っている。だいたいいつも放って置いてあるので、つぼみを一つでもつければいい方なのだが、3つも持つなんて、買ってから初めてのことだ。今年は春先に手をかけてやったのもあるので、ちょっとうれしい。


 「サンデル教授のハーバード白熱教室」を見ている。

 これが面白い。夢中になってみていたら、眼がしょぼしょぼする始末。ちょうど本も読んで楽しんでいるところだったので、並行して考えることができた。この本の感想は後日、整理して書こうと思っているので、内容の件は、今回触れない。政治哲学とはこうも面白いものだったのか、と思わせてくれる本だ。
 哲学が普段の日常をとにかく小難しい論法で、あれこれこねくり回して、ああでもない、こうでもない、と定義づけるもので、その分生きることのを面倒にさせているような気が私の中にあった。だから知っていることは哲学者の名前程度だ。要するに試験の空白に名前を入れられる程度の知識しかない、ということである。
 でもサンデル教授の本は、確かに難しいけれど、それを我慢して読んでいると、つながりがはっきりしてきて、そうなると一人一人の哲学者が言っていることがおぼろげながら見えてくる。
 ただカントは難しい。なかなか頭の中に入ってこなかった。だから「サンデル教授のハーバード白熱教室」を見れば、少しはカントの考え方が理解できるかな、と期待していた。
 ところが画面を見ていて、「あれ?」と眼を見張る。何か講義を聞く側に見覚えのあるものがある。


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スパイダーマン??

 まさかこれほど有名な教授の講義にスパイダーマンがいるとは思わなかったので、気になって仕方がなくなる。気になって見ているうちにそれがスパイダーマンだと確信し、きっと置物だろうと思っていた。ところが頭が動く。その時やっとスパイダーマンのかぶり物を着て、講義を聴いているやつがいることがわかった。
 その後そのことが気になって、気になって仕方がなく、カントの難しい理論が少しでも理解できると思っていたものが、そのお陰でできなくなってしまった。結局もう一度この回から見直さないとならないようだ。やれやれ・・・。
 しかしアメリカという国は、こういうことでもこんなことにはこだわらないんだな。日本の大学でこんなかぶり物を着て講義を聴いていたら、きっと追い出されるだろう。許されちゃうだけでもすごい、と妙なことで感心してしまった。
 それにしても講義を聴く学生の多いこと。そんな中、カントが大学の講師となって、歩合制、つまりカントの授業を聴く学生の数でその報酬が決まったと、サンデル教授が紹介し、ハーバードもこの方法を導入していい、と言って学生に笑いを誘う。自らも笑いながら言っているのがいい。
 サンデル教授が学生たちに意見を聞く時、指の差し方がかっこいい。舞台の前に立って、片手はポケットに入れて、「きみ!」と言う。そして学生が自分の意見を言い終わると、サンデル教授が必ず聞く。「君の名前は?」と・・・。それが一つの舞台となっているのだ。


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 サンデル教授の本を読んでいて、考えることは結構楽しいものだな、と思うようになっている。私はここのところ自分が所有している本を何とか読み切ろうと、必死になっているところもあって、とにかく“消化”することばかり考えていたかもしれない。来年あたりはじっくり本を読むこともしてみてもいいかな、と思い始めている。少し読書方法、読む本を考えてもいいかもしれない。

2010年11月27日

思うままに その29

 会社のシステムを一部新しいものにした。運用は来年からの予定なのだが、今はそのための準備をしている。インストラクターについてもらい、教えを乞うている。その時マスターにデータを入れるため、練習用に自分のデータを使った。会社の入社年月日の昭和56年と入力したとき彼女がぼそっと言う。「私、まだ生まれていない」と。思わず、「うるせえ~」とにらみ返す。大きなお世話である。まったく最近の若いやつは、思ったことをはっきり言う。
 これでまだ済まない。今回練習用したことを、「次来るまで社員全員のデータを入力しておいて下さい。宿題です!」と申す。おいおい、この歳になって宿題を出されるとは思わなかった。
 結局この宿題に今週振り回された。結構神経を使ったので、この1週間疲れた。当然胃にもきて、堪えた。

 さて、別の話をする。

 休みにかみさんと買い物に出かけ、ちょっと休憩に近くのドトールに入った。私たちの横の席が空いていたので、そこに若いカップルが来る。男が飲み物を乗せたトレイをテーブルにおこうとしたら、滑らして飲み物の入ったコップを落としてしまい、割ってしまった。もちろん飲み物もコップもろとも床に飛び散った。まず一つのコップが落ち、慌てた男がトレイを動かしたとたん、もう一つのコップがまるでスローモーションのように倒れ、そのまま床に落ちた。
 男をよく見ると、女の少し大きめのバッグを持ち、もう一方の手でトレイを持っていたので、両手がふさがった状態であった。

 女は手ぶらであった!

 要するに男は女のバッグを持ってやり、もう一つ空いた手で飲み物が乗ったトレイを持っていたのである。だから最初のコップが落ちてしまったのは防げなかにしても、もう一個のコップは片手が空いていれば、少なくとも落ちるのは防げたはずだ。それが女の汚いバッグを持ってやっていたがために、ものの見事に二つの飲み物を落としたわけだ。

 
 男は一言女に向かって、「俺疲れているのかな?」言う。飲み物が大量にかかってしまった女のバッグを女に見せる。女は何も言わなかった。男は持ってやったバッグを汚してしまったことに呆然とし、固まっている。普通、こういう状況になれば、すぐ店員を呼んで、隣にいた他の客にかかってしまったその飲み物を拭き取ってもらったり、床に散らばったコップの破片など取るなどするはずだが、店員が来るまで男は何も言わなかったし、しなかった。よっぽど女のバッグを汚してしまったことにショックを受けたのだろう。
 男はナイトでも気取っていたんだろう。女のバッグを持ってやり、おそらく飲み物の代金も自ら支払、女を先に席に着かせ、そのまま片手でトレイを持って女のいる席に着こうとしたわけだ。せっかくのナイトも台無しである。いい格好をしようとしたのがあだとなったわけだ。疲れているとかどうか関係ないだろう。フェミニストも結構だけれど、無理にそれを演じて失敗するなら、時にはそうでなくてもいいじゃないかと思う。
 だいたい女も女である。男にバッグを持たせたまま、しかも飲み物まで持って来させれば、こうなっても不思議じゃない。それを当たり前と思う女の神経も理解できないし、そこまで甘やかせる理由がどこにあるのか、と言いたくなる。今にして思えばそれほどの女だったのか、と顔でも拝んでおけばよかったかもしれない。男のツラは見たが、別に大した男には見えなかった。しょぼくれた若者である。それについている位だから、程度は知れよう。

 男が固まっている間、飲み物が近くの席にいたおばちゃんのダウンにかかり、おばちゃんはそのダウンの袖を男に見せ、「かかっちゃったじゃないの!」言う。それでもしばらくの間男は何の反応もせず、やっと「大丈夫でしたか?」とおばちゃんに言う。「大丈夫じゃないわよ!」とダウンの袖の部分を男に突き出すように言う。男はさらに固まる。
 こぼれた飲み物は私のズボンにもかかったが、私はその若い男の顔とおばちゃんの顔を、嫌なもの見てしまったという感じになってしまい、自分が文句を言う以前にここから早く去りたい気分になって店を出た。
 私は男がどうしてこうまで女に気を使うのかが不思議であった。女の持つべきバッグを持ってやり、お疲れにもかかわらず、もう一方の空いた手で飲み物を持って行く、そこまでしないと女に逃げられるのかな、とさえ思った。女もそれが当たり前のような風があるのも理解できない。でも、私は男にはどこかそんなことをするところが大なり小なりあるんだろうな、と思ったのである。優しい男を演じて、少しでも女の気持ちを引きつけないとならない、男の性というか、アホらしさが、腹ただしくなってしまったのである。
 おばちゃんもどういうことであれ、男が困ってしまっているところに、平気で追い打ちをかける言葉が出てくるあたりが、不愉快であった。不手際をしてしまった男に同情する気持ちなど一片も感じられなかった。わざとやったならともかく、あくまでも不手際である。そこまで言える、自分本位さが不愉快であった。
 そしてそこのドトールの店員も、すぐ動かず、何か推移を伺うようなところがあり、やっと下っ端のバイト君が割れたコップをの破片の始末する位であった。どう考えても責任者が何か指示をした雰囲気はなかった。

 世の中、こんなもんなんだな、と感じた。私がおかしいのだろうか?無理に気取って女に気を使うこと、先に文句を言ってしまうこと、関わらないこと、そうした方がうまく世の中を渡れるのかもしれない。そんなことを感じたため、私はそこを去りたかった。彼ら、彼女らの行動規範は私の中にはあり得ない。そしてここのドトールにはもう入りたくないな、という気持ちになった。

2010年10月15日

思うままに その28

 10月に入った。やっと涼しくなり、秋の夜長である。読書の秋である。また本を読むぞ!とちょっと元気になりつつある。タラタラ読んでいた本も終わり、次に読む本を取り出す。先月書店で買った本である。読んでいて、あれ?紙がやけに白いな。まぶしいくらい。決して大袈裟ではなく、事実そう感じた。何故ならそれまで読んでいた文庫本が31年前に買ったもので、日焼けして赤茶けていた。それを2週間ばかり手にしていたから、買ったばっかりの本がやけに白く見えたのだ。
 今自分の本棚にある本はだいぶ古めかしい本が多いのだが、それも昔買って、後で読もうと言う魂胆だったから、そうなっている。とにかく買ってしまうことばかり考えていた。長いこと本屋で勤めていたから、本屋で本を手に入れる期間は結構短いことを知ったからだ。店頭に並んでいる期間などほんのわずかだ。そして店頭にないから注文すれば、“品切れ”といったゴム印を押された短冊(注文書)が帰って来た。その為今度は古本屋で探しまくり、とにかく見つければ買っておかないと今後二度と手に入らない、という強迫観念の襲われたので、予算の許すかぎり買い集めてきたのだ。だから白い本より赤茶けた本を読むことが多くなっていく。

 しかし最近感じることは、欲しい本があって、それを探している時は、古本屋さんに行くのが楽しかった。もちろん目的の本が必ずあるとは限らないし、むしろないことが多いのだが、それがなければ次を探せる。探すため次に古本屋さんへ行く目的が残る。しかしここのところそうした本が自分の中でないのである。従って古本屋さんを歩いてみようという気持ちがなかなかわかない。まして根っからの出不精である。インターネットという便利な機能があればわざわざ古本屋さんに行くまでもなく、画面上で日本全国から探せる時代である。ますます出かけていって本を探すというのが面倒になる。めざとい本を見つければまずはネットでという行動に出てしまう。
 先週新橋と早稲田で古本祭りが開催されていた。新橋の古本祭りは一度偶然出くわしたことがあり、いく張りかあるテント内の本を見て一巡したことがある。場所柄年配のサラリーマンも多くいる場所である。出ていた古本には戦記物が多かったような気がした。
 早稲田の古本祭りはいまだ行ったことがない。だから行ってみようか、と思ったが、行くべきかどうか悩んでいるうちにイヤになってしまい、やめてしまった。これだってこれといって探している本がないから、わざわざ行くべきもんじゃないよな、と思いはじめたら動けなくなってしまったのである。
 確かに別に探している本がなくても、古本祭りは楽しいことはよく知っている。時には思わぬものがあったりして、それはそれでかなり楽しい。けれど出不精の方が勝っているこの頃である。どうしても目的がないと動けなくなっている。やっぱり歳なんだろうか。それとも性格なのかもしれない。時間をかけて出かけるなら、その分本を読んでいた方がいいじゃん、と思うのだ。


 ちょっと中身を見てみたい文庫本があった。内容を見てみて買うかどうか決めたいと思ったのだ。こういう時はやっぱり本屋さんに行けば、その本を手にできるので、本屋さんは有り難いな。
 しかし変わった本なので、普通の本屋さんには在庫がない。仕方なしに三省堂の在庫検索をネットでして、在庫の確認の上仕事が終わって寄ってみた。
 結局わざわざ買うまでもないないな、と思い、それはやめて、他の文庫本一冊を買う。レジで会計をするのだが、店員に「CLUBSANSEIDOカードお持ちですか?」と聞かれ、お金を出してしまった財布をもう一度出して、ポイントカードを探し、出す。
 その後少々小腹が空いたので、近くのドトールに入り、コーヒーとデニッシュを一個買う。その時も会計で、「Tポイントカードお持ちでないですか?」と聞かれ、一端しまった財布からポイントカード取り出す。
 ポイントは好きなのだけれど、こうも立て続けにポイントカードの提出を求められると、結構面倒である。まして意識していない分うざったい部分がある。
 その上私にはわざわざポイントをつけて頂いて申し訳ないという気分がある。だからまめにカードを出しておいて、情けなくもなる。どこかせこさを感じてしまう。こういうサービスを既得権みたいに、何のためらいもなく出せないところが自分にはある。当たり前でしょ、という気持ちでお金と一緒に出せるとだいぶ気分的に楽なんだけどね。

 さて買った文庫を鞄から取り出す。カバーが変わっている。よく見ると東京電力の「Switch!」キャンペーンの広告カバーだ。東京電力と三省堂がコラボしている。というか、三省堂が本のカバーを広告媒体として提供して、カバー代を浮かしているというべきか。カーバー代だけでなく、おそらくキャッシュバックを受けているかもしれない。
 だからといってこれを非難しているわけじゃない。いい企画だと思っている。本のカバーを広告として使うことは面白い。ただ安っぽいのはまずいし、広告が結婚相談所みたいなところだと、ちょっと勘弁して欲しくなる。三省堂は“天下の三省堂”である。その点はちゃんと考慮しているようで、有名企業の広告で、しっかり厚みのあるカバーを使っている。デザインも面白いし、カバーの後ろの折り込みにはページをはさめるような機能も有している。ただ難点は、ちょっとカバーがつるつるしていて、長いこと手に持っているとべとつく感じがしてしまう。ということでこれは私には使いにくいので、さっさと剥がす。(だからといって私が脂ぎっているというわけじゃないぞ。単に長時間手に持てないということだ。わかるでしょ?)

 この文庫は以前他の出版社から出ていたことを知る。最近こういうのが多い。復刊といえば聞こえがいいが、要は最近の本を文庫化しても大して売れないから、だったら昔他社から出ていて、今は品切れや絶版などになった文庫を自分ところで新刊として出していることではないか、と勘ぐっている。あるいは著者側に印税を稼ぐ理由があるのかもしれない。
 開高健さんや山口瞳さんの最近出ている文庫を店頭で見ると、あれ、この文庫○○出版社から出ていたよな、と思う。もちろん最初に文庫化した出版社の文庫が私の手元にある。
 まぁ、読みたくても手に入らなかった本なら、どこの出版社でも新たに出版されれば、読めるんだから悪い事じゃない。ただ私はこのオリジナルをこだわりたい部分がある。ブログでも可能な限り、そうしている。
 かっこいいことを言えばこういうことなのだが、昔の本を持っているなら、同じ本をわざわざ新しく買う理由はない。だから必然的にそうなるだけのことだ。
 ここの出版社の文庫は最近文庫を出版するようになった。主に児童書を出している出版社である。でも文庫はラインナップは面白いものを出していると思うので、点数は少ないけれど気に入っている。
 そうそう、児童書といえば、理論社がつぶれちゃったね。昨日書店組合からその連絡がFAXで入っていた。もうちょっと調べてみると、少子化の影響などによる市場の縮小傾向から販売が落ち込んじゃったらしい。負債は22億円だそうだ。
 書店組合から入ってくるFAXには商品情報のほか、こうした出版社倒産情報がある。その度に今度はどこだと思っちゃう。まったく嫌な時代になった。

 保健所へ提出する書類があったので、九段下へ家から直接向かう。その方が地下鉄一本で行けるから便利なのである。
 少々早めに九段下に着いてしまい、コーヒーでも飲んで時間を潰そうと思い、地下から出て、靖国通りを見渡す。向かい側に窓を大きくとった喫茶店が目に入ったので、そこに入る。二階に上がり、窓際の席に座る。通り一面が見渡せて気持ちがいい。それにしてもこの店、やたら椅子が多い店だな、と思う。今は通勤時間だから店内に人が少ないが、場所柄、近くのビジネスマンたちが商談などに使われるためかもしれない。
 席から広い通りの向かい側を見てみると、マックやスタバ、立ち食いそば屋や、テイクアウトの寿司など売っている店が並んでいる。通勤前に慌てて朝食を食べているのだろうか?すぐそこに靖国神社があるし、通り自体広いので、ここから見える町並みはゆったりした感じがするのだが、そんなファストフード店が並んでいる一角は、ちょっと異質な感じがしないでもない。
 本屋があった。もうお店は開いていた。開店時間の表示があったので、それを見てみると、朝は8時から開けているようだ。
 最近は朝早くからお店を開けている本屋さんは少なくなったと思う。朝、新聞の本の広告や書評を読んで、読んでみようかなと思って、朝の通勤途中で本屋に入り、それを手にできるのはうれしいものである。ちょっと前まではそれができるお店がそれなりにあったのだが、最近は大書店の寡占化が進んだからか、それらの店舗はだいたい、10時か11時頃の開店が多い。だからそれができなくなった。
 本屋さんの朝は忙しい。届いたその日発売の雑誌や本の荷ほどきをして、店頭に並べなければならない。この時間開店しているお店は、そんな作業をしながら、接客しなければならない。自分がかつていたお店も朝9時前に開けて、荷ほどきしながら、本や雑誌を並べながら、接客をしていた。これは結構大変なのだ。だから開店時間をずらして、まずは新刊を並べてから、お店を開けたるのだろう。とにかく通勤途中で本屋などしばらく入ったことがなかったので、朝お店を開けているのが、うれしくなってしまう。
 店内に入ってみると、自分がいた店とは違い、整然としていて、陳列もきれいだ。まだできてそれほど日数がたっていないのだろうか?きれいで明るい。ザッと店内を歩いてみた。ここで本を買ってみたいな、という気分になる。棚をながめていて、面白そうな本を1冊見つけたので、それと以前から買おうと思っていた本を、書類を保健所に提出した後、ここで買おう、と思う。
 今日は忙しくなる。この後お茶の水の支店へ行き、提出した書類の控えを渡し、事務所に行く。今日は細かい事務処理がいくつかあるので、それをやって、夕方人と会う予定だ。
 でもなんか、朝から大好きな本屋さんに入れたことが、今日はいい感じで、無事に一日が終わりそうな気がする。今日が終われば明日から休み。買った本や雑誌、コミックを読んで過ごせる。

2010年09月30日

思うままに その27

 私は通勤に関しては充分と言うくらい時間的余裕をもって出勤している。これは昔からそうである。だから少々電車が遅れても定時に出勤している。しかし今日は車両故障が起こって、一向に動かない。最初はそのうち動くだろう、とたかをくくっていたが、時間がたって一駅動き、更にその駅で止まって、どのくらい待っただろうか、とにかくしばらくしてまた一駅先へ動き、また止まるの繰り返しであった。そのうち1時間以上たってしまった。
 さすがにイライラしてくる。振替輸送をやっているから、そちらを利用してくれと車内放送があるが、どうしたもんか悩む。乗り換えられる駅で、乗り換えるべきかどうか、悩んでいるうちに、電車が一駅先に動き出す。しかしまたそこで長いこと止まってしまう。目的の駅まであと二つとなった時、この先乗り換えが出来ないか、難しくなると判断し、重い腰を上げ、他の線を使って、会社に向かった。地下鉄が止まってしまうと結構圧迫感を感じる。とにかく外の風景がないだけに、駅に着くとホッとする。もうこれ以上我慢できなくなり、乗り換えたといっていい。
 車内放送は同じことばかり繰り返していて、肝心のあとどれくらいで動くのかは教えてくれない。だいたいでもいいのに、それを教えてくれれば、乗り換えるかどうか、判断が出来るではないか。たとえそれが大幅にくるったとしても、そんなこと正確な時間を求めていない。もちろんはっきりするならそれを教えてもらいたいけれど、おおよそでも言ってくれた方が有り難い。いくら何でもそのくらいは経験値としてわかるだろうと思う。何でそれを言わないのか不思議でしょうがない。
 とにかくなんとか事務所にたどり着いたわけだが、週の初っぱなからこれだとこの1週間思いやられる。少なくとも今日は完全にペースを乱されたわけで、うまく調子がつかめず一日が終わってしまった。今朝のテレビの星占いでは乙女座は最高の運勢だったんだけれどね。

 ここのところ本が読めずにいる。というか、読んではいるのだが、思うようにページが進まない。そうなるとなんかだらだら読んでいるようで、話の内容がうまい形で残らない。だから読後の感想がうまく書けない。特に今月はそうだった。暑い日が9月になっても続き、本を読んでいられないほど、身体がバテてしまった。
 やっと涼しくなって、これからまた本が読めるだろうと思っているが、どこかうまい具合にペースに乗れないところが今あって、少々困っている。読みたい本はたくさんあるのだが、どうしたもんか、悩んでいる始末。
 先日電車の中でiPadで本らしきものを読んでいる人を見かけた。やっぱりなんかかっこいい。でもiPadで今どれだけ本が読めるんだろう?そんなにコンテンツがあるとは思えない。それでも電子書籍端末は話題を呼んでいる。この前はシャープがガラパゴスなる電子書籍端末を発売するのか、したのかわからないが、とにかくその中に参戦したとニュースで見た。
 私は何度か書いているけれど、流れとして電子書籍端末は広がっていくことになるだろうとは思っているけれど、日本ではそう易々と電子書籍端末が普及していくとは思えない。だってこれが普及しちゃったら、日本の本屋さんはかなり潰れちゃうだろうし、本屋だけでなく出版社を除く本に関わるあらゆる業種がダメになって行く。だからそうした業界からの反対がかなり強固にあるだろうから、なかなか普及するとは思えないのだ。端末がいろいろあっても、読むものがなければ、パソコンがソフトがなければ“ただの箱”となると同じ状態になる。
 となると自分で読むものを作るればいいという話になるらしい。ユーザーの間で、本を裁断してスキャナーで内容を読み取り、自ら電子書籍化する動きが活発化しているというのだ。これを名付けて“自炊”というらしい。データを「自ら吸い込む」というイメージにちなんだ語呂合わせだという。まぁご苦労なことだ。その為スキャナーなども売れているらしいというから驚きだ。
 本をばらして、1ページごとにスキャナーに取り込む作業は大変だろう。ページが飛んじゃったりして神経を使わないならないのではないか。その為内容に注意しながら、スキャンしているうちに、その内容を読んじゃうじゃないの、と言いたくなる。
 どのようにソフトに取り込むのか知らないが、まさか画像のまま取り込むことはしないだろう。それだと一冊の本を取り込むだけでものすごい容量になる。多分テキストファイルに変換するんだろうな。でもスキャナーで文字を拾ってテキスト化しても、すべてを正しく認識してくれないはずだ。その修正が大変だ。昔私もやったことがあるので、これ結構イラつく。変換した文章の中でどこが誤変換しているのか捜し出すだけで、iPadで読む前に内容を読んじゃうことになるのではないか。もちろん今のソフトは私が使っていた当時のソフトより性能はよくなってはいるのだろうけど、やっぱりすべて完璧にテキスト化してくれるとは思えない。だけどiPadを買っちゃった以上頑張ってやるしかないし、やった以上iPadで読むしかないというジレンマに悩まされているんじゃないかと推察する。iPadを買えない身分としては、どこかで“ざまあみろ!”という黒い気持ちがふつふつとわいてくる。
 で、私はどうしているかというと、31年前に買った日焼けして茶色くなった文庫本を読んでいる。文字が細かくて読むのに苦労しているが、ページをめくるたびに、あの古本のかび臭い匂いがするのを楽しんでいる。さすがにいくらiPadでも古本のかび臭い匂いは出せないでしょう。アッハハハ・・・

2010年08月31日

思うままに その26

 8月はこれが最初の更新で最後の更新となる。要するに今月はこれだけしか更新できなきなかった。この猛暑で今年はヘトヘトになってしまい、更新どころではなかったのである。
 おかしいな、と思い始めたのは、お盆の頃からである。例年私は自分の仕事の都合上、この時期仕事が続けざまにあるものだから、休んでいられないので、一人事務所でしなければならない仕事をこなしていた。毎年のことなのでそれはそれで一向に気にはならないのだが、今年はいつものように仕事がはかどらない。気力が薄れる。時にはめまいもする。明らかに寝不足のところに、この暑さで体力がかなり消耗しているいるのがわかった。
 私はここのところ睡眠がきちんと取れないところがあって、いつも寝不足状態でいた。これだけ暑い日が続くとちゃんと睡眠は取らないと、対処がきびしい。これだと完全に夏バテでへたばってしまう。何とか睡眠だけでも確保しないとまずいと思い、先生にその窮状を訴える。先生は軽い睡眠導入剤というのか睡眠薬というのか、とにかくその手の薬をいつもの薬に加えてくれた。
 正直言うと、私は睡眠薬を飲まなければ眠れないというのはどうなんだろうと思っていた。人間寝不足や疲労がたまっていれば、いつかは寝られるはずだと思っていた。確かにそれはそうなんだろう。けれど、眠りにつくまで長い時間を要するのは、毎日だとかなりきついことを今回知った。しかも深い眠りじゃないので、何度も目が覚める。寝足りていないのに、朝早く目が覚める。いつまでも疲労がたまったそんな状態で毎日を過ごすと、身体の方が悲鳴をあげてくる。それでもいつかは眠れると思っていたのだが、実際そうなんだろうけど、それでもそれまでの時間がやたら長いとさすがに精神的にまいってくる。これが私より重度だともっと悲痛なことになるのではないか、と感じ始めた。薬は必要な人には必要なんだと実感したのである。自分で寝られないという日々が続いて、初めてそのことを知ったのである。
 その薬を飲んで布団に入れば、確かにいつの間にか寝ていて、朝まで目が覚めない。起きた後多少薬が残っているのか、頭がボーッとはするものの、身体の方は睡眠が取れていることがわかる。これだけでも有り難い。少なくともその日は何とか過ごせそうだ、と思えてくる。
 薬を飲んでいて効いているのか、どうかわからないものをいつまでも飲み続けているので、薬の効果を疑っちゃう部分があるのだが(だからといってそれを止めちゃうことが出来ないのが厄介だ)、今回は確かにそれを飲むとすぐ寝ているので、効果は私にとって今のところ絶大である。


 ここのところ本も読む気が起こらないので、休みになると、自分の子供の小さい頃のビデオ編集をやっている。私の場合、最初βのビデオを使っていた。そしてそれが廃れてなくなってしまったのでVHSのビデオデッキと変えた。今は更にハードディスク内蔵のブルーレイとなっている。
 結婚してまもない頃は肩に背負う馬鹿でかいβのビデオカメラを持っていた。長女の小さい頃はそれで撮っていた。それからメーカーの事情でVHSのカセットデッキに変えたと同時にビデオカメラはCカセットを使うタイプのものに変えた。
 βのビデオカメラで撮った映像は、編集してVHSにダビングしてあったが、Cカセットで撮った映像はそのままCカセットに入れたままで、何もしていない。しかもCカセットを最後まで使い切って次のCカセットに移るのが面倒だったものだから、子供の行事があるたびに新しいCカセットで録画していったものだから、何本もあるのだ。
 だいたいが20年ほど前のものである。VHSカセット映像を見てみると、画像に線が入り始めている。あるいは画像に乱れが出てきている。要するにテープの劣化が始まっているようだ。
 Cカセットはカセットアダプタを使ってVHSで見ることが出来るが、家にあるそのカセットアダプタを使って見ようとしたら動かない。壊れていた。おいおい、今頃こんなアダプタ売っているのかなと不安になったが、何とかあるのを知る。これだってもう生産終了に限りなく近いものだろうから、とにかく今のうちに買っておかないと、Cカセットの映像を見ることが出来なくなる可能性が大きい。アマゾンで至急買い入れる。
 これだってそのまま放り出したままの状態だから、映像の状態が気にかかる。とりあえず、Cカセットをそのアダプタに入れて見てみると、多少映像に乱れはあるものの、当時のまま残っていた。良かった。あとはとにかくその映像をブルーレイやDVDに移すのを早急にやらないと、自分の子供の小さい頃の映像がなくなってしまう。それをここのところ休みになるとやっているのである。
 まずはブルーレイディスクとカセットデッキをつなぎ、βのビデオカメラで撮った映像を入れてあるVHSカセットを取り込む。もちろんそのまま映像を流しながら取り込むので時間はかかるが、もう編集してあるのでこれは楽である。問題はCカセットの方である。何が何だかわからないのである。Cカセットにいつどこで撮ったものか書いておけば、順番に取り込めばいいのだが、それがない。面倒なものだから、それさえ記録していない。こうなると一つ一つ映像を映しながら取り込むしかない。取り込んで、題名をその当時の年月入れていく。それが全て終われば、後は順番にブルーレイやDVDに焼けばいい。しかしCカセットの本数が多すぎる。これはかなり時間がかかりそうだと覚悟を決め、こつこつやることにした。
 うまく映像のデジタル化が出来たかどうか、録画リストを見てみると、ハードディスクにいっぱい録画したものがある。んっ?なんだこれは?「冬のソナタ」がずらっと並んでいる。やれやれかみさんが韓流にはまっていたのか、と知る。どおりでブルーレイディスクの録画方法に詳しいわけだ。これだけ練習していたのだから当たり前である。まったくうざったくて仕方がない。
 しかし映像は懐かしい。自分の若さに驚いてしまう。痩せていた。今の自分の体型と較べると、20数年の年月をひしひしと感じてしまう。驚いたのは、こんなところへ行ったのかと、まったく記憶にない映像があることだ。
 娘や息子もけなげなもんだ。それが20年以上もたつと、親を親と思わない態度に出ちゃうんだから、年月というのは恐ろしい。まったくこの頃のけなげさはどこへ行ってしまうのだろうか?
 私がテレビに映像を映している時、息子がちらっと画面を見て行ってしまう。その目つきがまた憎らしい。何を見ているんだ、といった感じである。まぁ、気持ちとしてわからないわけじゃないが、そこまで鬱陶しい顔をしなくてもいいじゃないか、と思ってしまう。
 しかしとも思う。何かこうして自分の子供の小さな頃の映像を見ている姿って、その子供に見棄てられた孤独な老人の姿にどこか似ていないか。あの頃は・・・、なんて思っちゃまずい。あくまでもせっかく記念として撮った映像をそのままにするのが惜しいから、その変換をしているだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。俺の今やっていることは昔が懐かしいからやっているんじゃ絶対にない。そのことを強く強く思うのだ。

2010年07月28日

思うままに その25

 これまで何冊もアマゾンで古本を買ってきた。ネットの利便性をここで実感していた。何故なら探している一冊の古本が日本全国の古本屋さんから探せるからだ。とてもじゃないが歩いて探せるものじゃないだけに、これは有り難い。ネット上で注文すれば、後は待っていればいい。アマゾンの場合、その古本の売値と送料をカードで引き落としてくれるから、その本を実際手にするまで、本を買ったという意識が薄い。手元に届いて、古本を買ったんだな、と感じるのである。
 しかしネットで古本を買う場合の問題もある。まず実際本を手にしないわけだから、古本の状態をサイト上に書いてあることを信用するしかない。けれど時には手元の届いた古本のページを開いてみると書き込みや線引きがある。しかもサイト上にはそういうことが一切記載されていない。それこそ“良品”として掲載されていたのだ。
 しかしこれは仕方がないことだと思う。出品者は単に本に書き込みなどがあるのを見逃してしまったのだ。故意でその書き込みがあることを隠していたわけじゃないだろう。そんなことをすれば信用を失う。
 出品者はおそらくたくさんの古本を扱っているに違いない。そん中で出品している一点一点、完全に目が行き届くかどうか。それこそ見落としがあっても不思議じゃない。言ってみればこれは事故と同じである。そう思っている。
 だから後はフォローをどうするかにつきてくる。適切に処理してくれればいい。確かに予想もしなかった手間がかかったけれど、楽して古本を手にしようとしたのだから、そのくらいのことは手間と思っちゃいけないだろう。
 いつもなら古本を送ってくるのはその出品者からなのだが、今回出品者は別にいるのだが発送はアマゾンからだった。窓口がアマゾンになっていた。だから私はクレームのメールをアマゾンに出し、着払いで本を送り返すこととなり、今朝メールが来て、返品処理をしたことを確認した。
 しかしこれはアマゾンにとって小さいけど汚点の一つになるだろう。しかもアマゾンが招いた問題じゃない。出品者のミスだ。私がこうして買った本にクレームをつけ、突っ返したことで、この出品者はアマゾンに怒られなかっただろうか、と思った。多分何かしら言われているんだろうと思う。「困るじゃないか!うちの信用問題に関わるんだよ」とかね。まさか取引停止なんてことはないだろうと思うけど、どうなんだろう?かわいそうだけれど、お金を出して買うのは私である。たとえ古本でもちゃんと納得できなければ、仕方がないだろう。

 最近リメイクされた本が多く出版されていて、本屋に行くとよく見かける。時に「あれっ?」と思うことが多い。
 リメイクと勝手に言っているけれど、要するに“焼き直し”された本である。昔有名出版社から出版されていて、それが文庫化され、いつの間にか目録からも外れてしまった本を、他の出版社がまた出版した本である。それを本屋さんで見かけると、“この本、持っていたよな”と思う。
 たとえば今山口瞳さんの対談集を読んでいるが、この出版社から山口さんのルポである『世相講談』がリメイク本として出版されている。私はこのルポを角川文庫で上下本として持っている。またケン・フォレットの『大聖堂』も新潮文庫版を持っていて、いつか読もうと思いつつ、今日まで来てしまったが、それがソフトバンク文庫で出版されている。開高健さんの『耳の物語』も昔新潮社から単行本で出版され、それが新潮文庫で文庫化されたが、これも知らない出版社から一冊の本として出版されているのを見た。ちなみにこれらの文庫本は角川にしても新潮社にしても、今の目録には掲載されていない。おそらくこういうパターンは結構あるんだろうなと思う。
 まぁこうして焼き直しの本が出るのは結構だけれど、やめて欲しいなと思うのは、こうして焼き直して、書名を変えて出すことだ。だいたいこうして焼き直しされる本の著者はほとんど死んじゃっているから、新しい本が出るわけがないのだが、知らない書名の本を見ると、もしかしたら自分の知らない本か、まだ読んでいない本かと思ってしまうときがあるのだ。何度かだまされたことがあって、読んでいるうちに、“何か読んだことがあるような気がするなあ”と思い、本の最後のページを開くと、この本は○○○出版社から出版された○○○を改題して出版していますと書いてある。この時はがっくりとくる。こういう紛らわしいことはやめてもらいたいものだ。
 以後こうした本は気をつける。亡くなった作家の本だけでなく、人気のある作家なども新刊と称して、似たようなことをやるので、最近は本を買うときには、最後のページを開いて、焼き直しでないことを確認して買うことにしている。

 昨日書泉で、単行本2冊、文庫本2冊、新書1冊、しめて6千円以上を買ってしまった。6千円以上も一気に本を買うなって久しぶりだ。買ったこれらの本がすぐ読みたくて仕方がない。もちろん読みたいと思って買っているのだから当然なのだが、今読んでいる本が面白くないから余計にそう思う。こういう時が一番困る。いくら面白くないとはいえ、ある程度読んできたので、ここまで来たら我慢して読んでしまおうと思うのだ。でも一方でその時間がもったいないという気持もある。そのまま続けるべきか、やめるべきか、それで悩んでしまう。あれこれ考えた末、結局とにかく我慢して今読んでいる本を読み終えてから、次の本を読もうと決める。
 家に帰って買ってきた本を取りだし、ページをめくって目次を見たり、単行本のカバーを外し、本そのものを眺めたりするする時間が、至福の時間である。とりあえず買ってきた本を先に読もうと決める。本棚から引っ張り出した本は例によって後に回される。
 書泉でつけてもらったブックカバーを外して、後で使えるかもしれないと思って、いつものようにまとめて取っておく。それにしても書泉カバーがいっぱいだ。これだけ書泉で本を買っていることになる。いいお得意さんだ。
 今ちょうど書泉では1,000円以上本を買うと50円の割引が当たるスクラッチカードをくれる。当たりが50円というせこいところが本屋らしくていい。でもらったスクラッチカードを全部こすってみると、すべて50円とでる。えっ、全部当たり?、と思ったが、私はそんなにくじ運がいい訳じゃないので、多分これはすべてが50円と出るんじゃないかと思う。だったら最初から割引券としてそれを出せばいいじゃんと思われるかもしれない。ただ割引額が50円じゃせこいと思われるから、一応例年やっている行事なのでスクラッチにしたのだろう。(話は違うけれどドトールコーヒーでもサマーキャンペーンとしてスクラッチカードをくれる。これは三つこすって同じものが出ないとその景品がもらえない。これが当たらない。三つはちょっときついよな)
 で、何でこんなにせこい金額なのか。それは本は定価販売が義務づけられているからである。あの“再販制度”に引っかかるんですね。本は値引きして売っちゃいけないんですよ。じゃあポイントカードはどうなのよ、と言われるかもしれない。これが未だにもめていて、ポイントカードは再販契約違反だとする頭の硬い業界人と「1~2%の割引率ならいいんじゃないの」という容認派もいて、いまだ結論は出ていない。頭の硬い業界人はポイントカードを実施する書店には出版社や取次に圧力をかけて、それをやめさせようとしたのだが、公取委は「1%程度のポイントサービスを出版社がやめさせるのは消費者利益を害するおそれがある」という趣旨の見解を提示。さらに、書店団体がポイントサービスをやめさせるように出版社や取次会社に要請することや、出版社同士が話し合って書店に中止を求めるのは「独占禁止法違反のおそれがある」とくぎをさしている。当たり前だ!
 私は50円をせこいと書いているけれど、あくまでも金額的に言っているだけで、50円でも有り難い。だってこれが5枚で250円の割引になる。文庫本1冊買うときにこれを使えば、かなりの割引額になる。ちょっとうれしいじゃないか。そう、ポイントというのはその程度でいい。まして荒利の少ない書店業界である。そのぐらいで許しちゃう。ヨドバシみたいに10%というわけにはいかんでしょう。
 結局本は割引しちゃいけないと主張するのは、それが出来ない経営の厳しい小さな書店をかばっての話だろうと思う。だけどそういう小さな書店は割引は出来ないけれど、大書店には出来ない地域的サービスが出来るはずだ。大書店は割引という手段を使ってCS(顧客満足度)を上げ、地域密着型書店は、そこでしかできないサービスを手段としてそれを上げればいいだけのことで、それほど目くじら立てることじゃないと思うのだけれどなあ。
 そうそうブックオフは今までやっていたTポイントカードを9月末でやめるようだ。どうしてなんだろう?割引が経営的に厳しいのかなあ。それとももっとおいしい割引を提供してくれるのかなあ。いずれにせよ私もTポイントカードを持っている。特にブックオフで使うので、忘れないように残っているポイントをちゃんと使わないといけない。

 書泉でもらったスクラッチカード、250円分は8月25日にでるジョン・ダニングの新刊に使わせてもらおうかなと思っている。

2010年06月30日

連景2

 梅雨だから仕方がないのだろうけど、蒸し暑い日が続く。腕など汗でべっとりだし、ズボンも腿に張り付いて不快感120%だ。気圧の関係なのかよく分からないが、持病のある腰が重い。湿度があるものだから電卓のキーが引っかかる。目は伝票の数字を追っているものだから、電卓のキーは見ていない。指がそれを覚えているから、それでも計算が出来る。それがキーが湿度のためひっかかり、止まってしまう。うまく計算が出来ないことが度々起こる。これが非常に不愉快だ。毎度のこととはいえ、私は電卓を打つときに梅雨を実感する。


 前日一冊の本を読み終えて、今朝は新しい文庫を持って出勤した。もちろん電車の中で読むためなのだが、これが読めない。いや、読んでいてこの人の書く文章の内容が生理的に自分には合わないと思いはじめたら、先に進めなくなった。時たまこういうことが起こる。面白そうと思って買った本なのに、実際読み始めてみると、これはダメだと感じることがあるのだ。小難しい文章など、ゆっくり読めば読めるし、自分でも何とか理解したいと思うから、しがみついてでも読もうとする。けれどその著者の感性が生理的に合わないともうダメである。不愉快になって行くのがわかる。それが今朝読み始めた本で起こった。
 これはまずい。何故なら今日一日家に帰るまで読む本がないからである。わずかな通勤時間でも間を持てあまして、どうしていいか困るし、自分が降りる駅までものすごく長く感じてしまう。

 困ったな。

 仕方がない我慢するしかないと諦める。


 娘夫婦が遊びに来た。娘に本を貸してくれと頼まれていたので、その本を渡す。村上春樹さんの『1Q84』である。それを見て旦那さんは「自分は本を読まないので・・・」と申し訳なさそうに言う。私は人が本を読もうが読まなくても、基本的にどうこう思わない。本を読まなくても、それでいいならそれでいいし、本を読むこと以外に他にすべきことがあり、それが楽しみならそれをすればいいと思っている。まして本を読めば人生が広がるといった読書のすすめには与しない。確かにそうかもしれないけれど、だからといって嫌々本を読んでも、ちっとも面白くないだろう。だったら読まない方が精神的にいい。そう思っている。本は読みたいなと思って読むものだと思うのだ。何か打算的に読むもんじゃない。まして娘の親が本が好きだから、好きでもないのに、義理で本を読まなければいけないなんて彼に思わせては、かわいそうだ。だから興味があったら読めばいいと言っておく。

 そう、本なんて、興味があれば読めばいい。それだけのものだと思う。

 先日有隣堂のレジのカンターに有隣堂スタッフがすすめる本を紹介した小冊子があったので、それを一冊もらう。家に帰りその小冊子を眺めていたら、ほとんど知らない作家の本が並んでいる。申し訳ないがここですすめられた本を私は読みたいという気になれなかった。でもだからといって、この小冊子をくだらないと断罪するつもりはない。たぶんここにある本を読んだスタッフというのは若い人が多いのではないかと思う。だから名前の知らない作家、つまり最近出てきた若い作家の本を“感動した”、“面白かった”と紹介しているんだろう。世代的に同世代の作家が書く本は受けいれやすいもんね。
 そう思うと「やっぱり俺は古いんだな」と思う。でもそれは仕方がない。そう思うから、オジサンはアマゾンで古本を買いあさる。探していた文庫がアマゾンのマーケットプレイスに1円とある。1円だから、どうでもいい本として扱われて、かえって古本屋さんで見つからないのかもしれない。でも私は読んでみたかった。だから送料340円をかかっても、それを注文する。送料が本代の340倍というのも疑問を感じないわけじゃないが、まぁ、この本を探しあっちこっち歩けば、送料以上交通費がかかることを考えれば、それほど深く考える必要もなかろう。出品する古本屋さんも、「けっ、1円の本を注文しやがって、ちっとも儲からないじゃないか!」なんて言いながら、せっせと棚を探し、手間ばかりかかるその本を梱包しているんだろうな、と思うと申し訳なくなってくる。でもその文庫を読みたかった。
 その文庫が昨日届いた。送り先は岩手県であった。この文庫はわざわざ岩手県から東京の私の元に届いた。もうそれだけですごいなと思い、しみじみその文庫を眺めてしまう。ネットはやっぱりすごい。東京にいる私が岩手県にある古本屋さんの在庫が画面で確認できるのだから。この文庫の最初の持ち主は岩手県の人だったんだろう。それが売り払われ、東京に来るのだ。それを思うだけでも340円は価値があると思わないか。馬鹿みたいに思われるかもしれないが、私にはそう思えた。


 「寝不足じゃないですか」

 、といつも出勤前に寄るドトールのなじみの店員に声をかけられる。
 もちろん寝不足である。いつも10時過ぎには蒲団に入る人だから、午前2時まで起きているのはきつかった。が、ワールドカップは見たかった。やっぱりここまでかとは思ったが、それでも充分楽しませてもらった。


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 むしろこれでよかったんじゃないかと思った。日本にとってこうした残念な終わり方の方が、国内で騒いでいるサポーターには納得出来るような気がした。案の定、「よくやった!」という声が聞かれた。
 そうそう。先のデーマーク戦は午前3時半キックオフで、試合が終わったのが5時過ぎだった。私は後半戦からテレビを見た。3-1で日本が勝ったことを、素直に喜んだ。


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 試合後新聞を取りに外へ出たら、ちょうど日経の配達員のバイクが家の前に来るところであった。「途中で試合を見ていたので、遅れました。日本は勝ちましたか?」と詫びと試合結果を聞かれたので、「別にいいよ。それより少しでも試合を見られたんだったら、よかったね。3-1で日本が勝ったよ」と言えば、喜んで帰っていった。
 私はワールドカップにおける奇妙な連帯感は嫌いじゃない。むしろ微笑ましく思える。気持として、ボールの行方に一喜一憂し、勝利を素直に喜ぶ姿を見ると、これはこれでいいじゃんと思う。いろいろ批判があるだろうけど、むしろ堅苦しく、日本人の軽薄感を批判するような、冷めた姿勢より、人間らしい。だってこれは“祭り”なのである。祭りの存在感は、日常からの解放であるのだろうから、それを目くじら立てて、批判したり、嘆いてみたりして何になるんだろう。
 これは昔ヨーロッパにおける“祭り”歴史を見て見てきたことがあるので、この祭りがないと、社会の鬱積感から人は解放されず、い生きづらい。むしろこれがあるために、人は生きられてきたところたくさんあるのである。ブリューゲルの絵にもそれらが描かれていて、厳しい生活の中で楽しみを謳歌しているのを見ると、ほのぼのとしてくる。祭りが息抜きだったんだなと思う。ワールドカップだって同じで、ボールの行方に一喜一憂している姿を批判する“のりしろ”の狭さを恥ずかしく思うべきなんじゃないかと思う。眉間に皺を寄せるだけじゃ何も解決しない。それでなくても、文句、不満、批判、嘲り、諦めの言葉ばかり聞かされ続けているので、たまにはいいじゃないか。青臭い連帯感もたまにはいい。

2010年05月03日

思うままに その24

 私には一向に更新されないブログがある。もともとあったブログ独立させたものだが、やってみて意味があるのかなという疑問がいつの間にか生まれてしまい、以後まったく更新する気持ちがなくなってしまった。やっているうちになんだか自慢話みたいに思えてきて、そうなことを得意げに書いている自分が嫌なってしまった。
 確かに普通の人が持っていない本かもしれないけれど、でも“だからどうした”と言われたら、何も言えない。だいたいそんなことを自慢げに書いたところで、意味などありはしない。所詮その程度の話である。だったらわざわざブログを独立させるまでもあるまい。軽い話に納めればいいだけのことである。わざわざ仰々しくやる必要性など見出せない。
 ということで、このブログは閉鎖することにします。それでなくても二つのブログで一杯一杯なのに、もう一つ欲張って立ち上げてもできるわけがない。そんなに才能も気力もない自分を知るべきであったと深く反省している。
 ただいくつか書き込んでいるものがあるので、それはそれでもったいないので、違う形でリニューアルして使いたいと思っている。

 世間はゴールデンウィークである。今年のゴールデンウィークは暦の関係で、もしかしたら正月より長く休暇が取れているかもしれない。まして五月という気候のいい時期である。どこか出かけて行きたくなる気持ちも分からない訳でもない。
 しかし私はこの時期のんびりと過ごす。暑くもなく、寒くもなく(今年は寒さが長引いたが)、部屋の窓を大きく開けても、花粉など余計なものを持ってこない気持ちいい風が通り、それだけでうれしくなる。普段読めない大型の本をゆっくりと読んだり、録画しておいたNHKの朝の連続ドラマ“げげげの”を見たり、ちょっと面白そうだなと思って録画しておいた番組を見たりする。
 昨年の暮れテレビを買い換え、ハードディスクのブルーレイレコーダーを付け、その手軽さ、便利さ、あのカセットビデオの鬱陶しさから解放され、夫婦共々好き勝手に見たい番組を録画しては見ている。そのため確かにテレビを見る時間は増えた。でも、案外テレビっていいかも、と思うようになった。もちろん今でも学芸会なみのドタバタ番組や、絶対に普段使わない漢字を問題して雑学と称する番組など見たくもないが、旅番組とか、それほど頭を使わないサスペンスドラマはいい。旅番組といってもいわゆる旅行というものより、ぶらり散歩みたいなものがいい。そんなものをため置きしてあるから、適当に見ては消して過ごしている。
 何かのコマーシャルににあったような気がするが、“何もしない贅沢”というのはいいものである。もちろんまったく何もしないというわけではないし、こうして本を読んだり、テレビを見たりして、気がついたらもう夕方になっていて、一日が終わろうとしているのを感じるのがいい。いつも何もせずに一日が終わってしまうという脅迫感やもったいなさなど感じて生きているものだから、こういう時間の過ごし方ができることを有り難く感じられる。
 さて、この後は録画しておいた、前のNHKの朝の連続ドラマの総集編でも見よう。そして明日か明後日はさつきの消毒と、先日植え替えたシンビジュームの肥料をやろう。それとジャスコのはずれくじでもらった、朝顔の種でも蒔こうかしら。もしかしたら、母の日のプレゼントと今週の土曜日娘のところへ遊びに行くので、手土産でも買いに行くかもしれない。まぁそれもいいだろう。

2010年04月10日

 今年は暖かい日が続かず、何度か寒さがぶり返したりするものだから、桜が長持ちしているようだ。本来なら東京の桜は今週など終わりに近づいていただろう思われるのに、まだ1週間持ちこたえているという。
 というわけで、先週今週と続けて桜を見に行く。先週は新宿御苑へ行ってみた。このとき東京の桜は満開となっての初めての週末だったものだから、かなりの人出であった。場所柄若者が多いようだ。老いも若きも日本人は桜が好きなんだなと思ってしまう。たぶん私どもは老いの方に入るのだろうけど、やっぱり桜がきれいに咲き誇っているのを見ると、いいもんだと思う。
 ここは入園料を200円取る。それと酒類持ち込んじゃいけないとなっている。が、桜の下ではかなりの数の人がビール缶を持って乾杯をやっている。一応“ご遠慮願います”という程度のお願いだから、例によって公共意識の薄い日本人にはその程度のルールはあってないものになっちゃうのだろう。桜の下だ、堅いこと言うなということか。公園側も注意していないようだ。でも上野ほどの喧騒さはない。
 私どもが伊勢丹で買ったお弁当を広げているとき、ちょうど前が空き、そこのOLらしき3人がやってきた。シートを広げ、我々と同じようにデパートで買ってきたのだろう。そのお弁当広げ始める。面白いのは食べる前にその開けたお弁当の中身が見えるようにしてポーズを取り、シャメを撮り合うのだ。まぁ、ちょっと豪華なお弁当をここで食べましたよといった記念なのだろう。でも楽しそうで、微笑ましくもあった。
 この日はちょっと花曇りで寒かったが、やはり多くの桜が咲いているのは、きれいなものだ。


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 そして今週はちょっと予定変更があって、錦糸町に昼飯を食べに行ったついでに近くの錦糸公園に行ってみた。ここは今なんか公園整備をやっていて立ち入り禁止のところがいくつかある。桜はいくらもっているといっても、花びらは散り始め、一部は葉桜になっているようであった。でも遠目で見ると、まだ見られる。ここからは押上近いので、食事をしたアルカキットから錦糸公園に向かう通りの間からスカイツリー見渡せる。こんな感じである。


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 また公園からも桜と一緒に見ることが出来た。


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 明日の夜から花散らしの雨が降るようで、今年の桜は本当に終わりとなるようだ。

2010年03月25日

集合写真

 確か開高健さんのエッセイにあったと思う。酒飲みが翌日、前日の言行に恥じ入り、反省し、チクチクと心が痛むことがよくあると書かれていた。お酒が入ったことで大胆になり、馬鹿話、言いたいことを言ってしまい、後でえらく落ち込むことを言っている。
 まさしく先日それを経験した。お酒を飲む機会が多い人はそういう経験を多くされているだろうから、たとえ後で恥じ入っても、立ち上がりが早いような気がするが、私はお酒を飲まない方なので、この方面では免疫がない。だからもろ堪える。酒の席の話だからといって簡単に水に流してもらえれば有り難いのだが、もしそうじゃなかったらどうしようとあれこれ考えてしまうのだ。その席が楽しければ楽しいほど、その揺り返しが激しい。みんなと別れて一人トボトボと家路に着く間がやばい。“あ~あ、またやってしまった”と頭をうなだれつつ歩くときのつらさはたまらない。

 久しぶりに大学の本格的なクラス会(声をかければすぐ集まれる仲間とは年に2回から3回ほど定期的に会っているのでこんな言い方をしている)があり、その席に着いたのだが、卒業以来始めて会う顔ぶれを見て、ついつい浮かれてしまった。みんなに会う前には、うなだれて帰るのは嫌だから、自重しようとねじをきちんと締めているのだが、時間が経つ度にねじがゆるんでいった。何度か苦い経験をしているから、一応学習はしているのだけれど、それが出来るときと出来ないときがある。出来たときは、“よし!”と思い、家に帰ってもすぐ元の生活に戻れる。けれどそうじゃないときは、しばらくそれが尾を引く。もう自己嫌悪の塊となる。
 それでなくともここのところ自分でも地に足が着いていない感じがしていた。どこかふらついたところがあって、おかしいぞと自分で感じていただけに、いくらお酒の席とはいえ、浮かれていた姿を思い浮かべると立ち上がれないほど重い気分となる。揺り返しがきついのだ。

 みんなとお店を出たところで、集合写真を撮った。今デジカメプリントをしたものを眺めていると、私を含め30年という年月を全員に感じることが出来る。それにしても写真の写り方がなんか昔風だよなと思った。いかにも昔からの集合写真のスタイルをそのまま踏襲しているのだ。いいとか悪いとかそういう問題じゃなくて、必然的にこうなっちゃうといった感じだ。
 30年前人生の一時を共有した仲間がここにはあるが、一方でそれ以後それぞれ歩んできた風雪もそこはかとなく表れているような気がする。大学時代から30年という年月は単に年齢を上乗せしただけでない何かを感じさせる。笑い話に、どこか引きつった顔が見受けられる。口から出る言葉に重みと実感が感じられる。簡単に笑い飛ばせそうで、笑い飛ばせないものがどこかにある。30年という年月がそうさせたと言えそうである。
 古臭い写真の写り方の中に、単に昔風だけじゃなく、面倒な事情が感じ取れる。さらにこれから先そういう事情を加速させてそれぞれの身に降りかかるだろうと予感をさせる。
 あの時いくらでもあった時間が、今はやりくりしないと作れなくなっている。あるいは何とか都合がつけられる時間さえ、ままならないようになってきている。それでも昔の仲間という共通項でこうして集まることが出来る。その共通項がセピア色となっても、心の中に安らぎを与えてくれることも事実だ。
 集合写真をずっと眺めていてそんなことを思った。無性に昔の共通項で集まれる仲間が愛おしくなってくる。

2010年02月25日

思うままに その23

 今週はだいぶ暖かくなってきた。今日もいい天気なので、自転車でお茶の水まで出かける。しかしこの時期こう暖かくなってくると、大きな問題が出て来る。花粉症である。今年は例年によりかなり花粉が少ないので助かるなと思っていたけれど、今日は今朝から目が痒い。せっせと目薬を差しているが、自転車に乗って涙目になっているのは、少々情けなくもある。
 用を済ませて、そのまま駿河台の坂を下りて、三省堂本店へ行く。買いたい雑誌があったからだ。「Pen」である。今月号の特集は「キリスト教とは何か」である。宗教を説明すると、大それたことになるけれど、ここはoff雑誌である。あくまでも雑学に徹していて、なかなか面白そうだ。今日はこの雑誌をパラパラとめくって過ごそうかと思っている。
 これだけ買って帰ろうと思ったら、文庫と新書の古本が壁際の棚に並んでいる。「絶版品切 文庫・新書 古書フェア」とあった。思わず立ち止まってしまう。だめなんだな、“古本”とあると、どうしても反応してしまう。時間がそれほどないので、ザッと棚を眺めていたら、角川文庫でシムノンの作品があるじゃないか。高いんだろうなと思って手にすると、1冊350円とある。おお~、これは買いだな、と思い二冊持って、更に雑誌「Pen」と一緒に会計する。最近三省堂は面白い。古本とのコラボなんて素適だ。
 面白いディスプレイがあった。ダン・ブラウンの新刊『ロスト・シンボル』と村上春樹さんの『1Q84』のBOOK3の発売日までのカウントダウンを掲示しているのである。ダン・ブラウンの方は3月3日発売だし、村上さんの本は4月16日である。アマゾンでは「よく一緒に購入されている商品」として一緒になって予約を受け付けている。まぁ、出版業界は昨年は2兆円を割って、1989年から20年間にわたって「2兆円産業」と言われ、どこかでは出版業界は不況には強いという神話があったけど、それも昔話になったようだ。おそらく三省堂も売上が低迷しているに違いない。だからこうして間違いなく売れる本を煽って、盛り返そうということなのだろう。私は別にこうしたお祭り騒ぎには反対しないけれど、でも結局売れ筋の本はこうした大書店ばかりに恩恵があって、中小書店はそのおこぼれをどうもらうか、きゅうきゅうとしているのだろう。聞くところによるとダン・ブラウンの新刊は買い切りだそうで、なおさら中小書店は仕入に頭を悩ませていることだろう。
 本や雑誌が売れなくなったことは事実なんだろう。だからといって本を読まなくなったということなのか、その当たりはよく分からない。でもどうなんだろう?とにかく本や雑誌が面白くないというところに問題があるんじゃないのかと思う。本当に面白ければ、読んでみたいと思うだろう。おそらくだいぶ以前から、特に雑誌は面白くなくなっていたのだろう。それでも雑誌が発刊続けられたのは広告があったからだ。多分雑誌だけの売上は赤字だったのではないか。かろうじてペイしていたのは、企業からの広告掲載があったから、それでまかなっていたのではないか。それがこの不景気で、企業からの広告が減れば、雑誌の発売継続は難しくなるのは当然だ。広告に依存し続けていたから、昨年のように休刊誌が増えたのだ。もしまだ他の企業からの広告が見込めるときに、雑誌本体をどう面白くするか考えていれば、まだ何とかなったんじゃないかと思ったりする。
 本にしてもとにかく企画がない。これじゃ業界がおかしくなっても不思議じゃない。とにかく新しい本を買ってみようという気が起こらないのだから話にならない。新刊を買ってみても面白くないものだから、馬鹿らしいだけで、そういうことが読者はわかっているのだ。だからブックオフで買えばいいかとなるのだ。ブックオフにあれだけ人が入っているところを見れば、みんな本を読みたいのだ。だけど定価で買うほどのもんじゃないから、ブックオフで済まそうとする。それでなくても本を買う人のお財布の中身も寂しくなっているのだから、余計に本の定価と中身がちゃんとバランスが取れているかどうか、吟味するのは当然だ。
 どうして雑誌や本が面白くなくなったのか。それは企画する編集者が貧相だからだろう。みんなサラリーマン化してしまい、破天荒な発想や行動をする人が少なくなったからじゃないかと思う。
 だいたい本を読む場合、自分とは違う点があることが興味をわかせる。自分と同じならわざわざ本を読むこともないだろう。だけど編集者も作家も読む側の人と同じラインに立ってしまって、小市民的で中流意識を隠さないものだから、あまりにも平凡になってしまっている。だから出される企画などが陳腐に見えてしまう。要するに読めちゃう訳だ。同じじゃダメなのだ。
 それでいて異質を拒むところが今の日本にはありすぎる。本当は自分たちとは違う才能や能力をある人を支援すべきなのに、それを出た釘のようにたたいて抹殺する傾向がありすぎる。
 今バンクーバーオリンピックをやっているけれど、日本がメダルが取れないのは、支援がないからだ。民主党など、馬鹿の集まりの集団じゃないかと思えるほどだ。だから“仕分け人”がメダルを取れないから、予算を削ると平気で言ってしまうのだ。それでいてメダルが取れれば首相や文部大臣が平気でコメントが言える神経がよく分からない。あんた等どこまで彼らを支援したんだ。あるいはこれから支援しようとしているんだ。むしろ予算を削ると言ったのだろう。だったらいけしゃあしゃあとコメントを出せる立場じゃないだろう。
 トヨタのアメリカでのリコール問題だってそうだ。日本を代表する企業が窮地に立っているんだぞ。どうして日本政府はトヨタを助けないで傍観しているんだと思う。そもそもトヨタがバッシングにあっているのは、普天間基地の問題でアメリカを怒らせちゃったから、一種の経済制裁をしていると見ていいんじゃないかと思う。そのことを民主党の誰も言わないのが不思議なくらいだ。
 異質の能力や才能、あるいは飛び出ているもの(企業)を粗末にしてしまい、みんな平準化してしまった場合、なんかあったときみんな滅びる。その時生き残れるのは、そうした才能に特化した人や企業であり、それが次の世代を引っ張って行くのではないか。元気にしてくれる。面白くしてくれるのだ。何もそれは本の世界だけの話じゃない。それを大事にしないで、予算の無駄と決めつけ、あるいは傍観していられる方がおかしい。

2010年02月07日

思うままに その22

 エコポイント交換商品が届いた。
 申請したのが昨年の12月後半だったから、約1ヶ月ちょっとかかったことになる。もっとも今か今かと待ちわびていたものじゃないので、正直言うと忘れていた。交換商品はJCBギフトカードであるから余計である。これですぐ何を買うというものがないので、とりあえずは保管しておくこととなるみたいだ。

 我が家恒例の浅草寺への初詣をやっと昨日行くことができた。いつもなら1月後半に毎年行っていたのだが(正月は混んでいるため、わざわざそこを外して行っている)、今年は私が風邪をひき、それをこじらせてしまった。そしてやっと行けるかなと思ったら、今度は持病の腰痛が出て来て、ちょっと歩くのがきつくなってしまった。そのため腰痛がおさまるのを待っていたら、昨日になってしまったのである。しかし寒い。昨日の最高気温が東京で7.6度というが、北風が強く、体感温度はもっと低く感じる。
 都営浅草線の浅草駅で降り、松屋、つまり東武伊勢崎線の浅草駅方面へ歩く。吾妻橋の方を見ると、建設中の東京スカイツリーが見えてくる。


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 今回これを見たかった。オフィシャルホームページで調べてみると、2月1日現在289メートルだそうだから、昨日のはもう少し高くなっているのかな?完成時は最高634メートルになるそうだから、まだ半分までいっていない。それでもかなりの高さである。これが完成したらどんな光景がここで見られるのだろうか?
 映画の「ALWAYS 三丁目の夕日」で東京タワーの建設中の画面が出てくるが、平成版の「ALWAYS」でも作られれば、このスカイツリーの建設中の映像が出てくるのかなと思った。
 昼食がまだ済んでいなかったので、これも恒例の松屋の7階にあるとんかつ屋「すみだ」に入る。ここのとんかつは美味しいのだ。とんかつ揚がるまで待っていたら、館内放送が流れてくる。なんとこの松屋の4,5,6,7階が2月末で営業を終了するという。ということは、ここのとんかつ屋もなくなるということか、と思いながら食べ終わってレジにいた太めのおばちゃんに聞いてみると、そうだという。ということはここのとんかつはこれで最後となる。せっかく1年に1回だけど、毎年初詣に楽しみにしていたお店がなくなってしまう。
 先日有楽町の西武が今年の12月に閉店するというニュースがあったが、デパート不況はどうやらここのデパートにも及んでいるようだ。ここ松屋は閉店するわけじゃなく、売場の縮小ということになるようだが、私たちにすればここのとんかつ屋さんがなくなることは、閉店と同じ意味を持ち、ここに来る理由がなくなる。個人的に有楽町の西武が閉店することはどうっていうことはないが、1年に1回の楽しみで来ていた松屋が変わってしまうのは淋しい。

 残念だなと思いつつ、とりあえず松屋を出る。出たとたん北風が吹きつけ、寒い。思わずダウンジャケットの前を留める。そのまま仲見世通りに入り、本堂へ向かうが、なんと本堂に覆いがかかっている。


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 本堂の改修工事をやっているらしい。去年の2月から来年の11月までの予定だという。そうか。去年来たときは、工事直前だったわけで、来年ここに来るときは、もう工事も終わっていることになる。
 賽銭をあげ、家族、自分の健康、そして息子の就活が無事に終わることを祈り、本堂を出る。いつものようにお守りを買い、いつものように人形焼きを家と会社に持っていく分を買う。
 また松屋方面に戻り、松屋の横にあるスタバに入り、ちょっと一服し、また松屋に入る。かみさんはバレンタインのチョコレート買っていた。地下に降り、夕食のお総菜を買い、家に帰る。

 なんか新しいものが出来つつあり、古いものがなくなると聞き、あるいは改修されていく場面を今日一気に体感した感じの1日だった。

2010年01月27日

思うままに その21

 こうして読んだ本のことをブログで書くようになってから、しばしば思うことがある。それは昔読んだ本を読み直したいなということである。読んだ本で未だに記憶に残っている本が何冊もあって、あれは面白かったなというやつを読み直したいと思うのだ。
 昔は日記など書いていて(処分した)、そこに簡単に読んだ本のことを書いていたが、ほとんどは読みっぱなしで、頼りになるのは自分の記憶だけである。まぁそれはそれで一向に構わないのだけれど、ただその記憶の中で面白かった、感動したなど、ちょっとした付加価値みたいなものが残っていると、それをこのブログでちゃんと残しておきたいという気持になっているのだ。
 もちろん当時読んで、面白かったからとか、感動したから、といって読み返せば同じ感覚になれるわけじゃないことぐらいわかっている。むしろ昔持った感じを大事にするなら、読み返さない方がいい場合だってあると思う。でも、そうなったらそうなったで、要はどういう形であれ、一時は私の記憶の中に残った本たちであるのだから、それをきちんと形に残してみたいのだ。
 そんな風に考えたのにはわけがある。たとえば昔文庫本で読んだ本があったとしよう。それが面白かった。そして時間を経て、たまたま古本屋さんで、その文庫本のオリジナルである単行本を見つけた。私はこの時それを買おうかどうか、いつも迷う。なぜなら私は単行本指向の人なのである。文庫本ももちろん嫌いじゃない。だけど文庫本はどうしても規格が決まっていて、更に装丁も出版社ごとで大方決まってしまっている。その点が寂しく感じるのである。本はその装丁も含めて本だと思っているのだ。だから単行本にこだわるのである。それはまったく個人的な趣味だから、どうしようもない。もちろんどうでもいい文庫なら、そんなことは気にならない。 だから気に入った文庫本にはできれば単行本が欲しいと思うのだ。それを古本屋で見つけてしまったとき、どうしても欲しくなる。 そんなことがここ何日か続いたものだから、悩んだ末、買った。そうなるとその本が読みたくなる。そう、昔読んで記憶にある本が読みたくなったのは、そうした理由による。
 だけれど、まだ読んでいい本を優先的に読んで、一方で懐かしい本も読んでみたいと思うと、時間がない。読める時間は限られているわけだから、その点がいつも悩む。みんなはどうしているんだろうか?
 新しい本の出会いも貴重だ。けれど懐かしさで読み返すのもいい。毎年変わらず本は読んでいる。しかし別に読書計画など立てているわけではなく、行き当たりばったりで読んでいる。今年だって同じである。が、今、昔読んだ本を読み返してみてもいいかなと思い、むしろそうした本を重点的に読んでみようかとも考えている。
 基本的には、とにかく今まで読んでいない本を読むことが、新しい何かを得られるような気がしているので、次から次へと読んでいない本を手にしているわけだ。でも本の読み方はそればっかりじゃないだろう。自分がよかったと思う本を読み返してみてもいいはずだ。今年はちょっと私が懐かしいと思う本を積極的に読んでみようかと考えている。今何から読み直してみようかな、と思案している。

 久しぶりにExcelで表を作り始めた。ホンと久しぶりである。あまりにも久しぶりだから、細かいことを忘れている。その昔、Excelを使い始めた頃、せっせとマニュアルを読んで、会社の業務で使う表を一つ一つ作っていた。私は前任者が手書きで作っていた表をExcelに移していた。一つ一つ電卓をたたいて、計算するのは面倒だったし、同じ数字をいくつもの表に記入するのが面倒だった。だから一つの数字を入れればすべての表に反映できるようにしていった。リンクさせたのである。そうして作っていった表に不具合があれば、どこが間違っていたのか、あるいはもっと効率よく、さらにかっこよくするために、関数やスクリプトをマニュアルを見ながら作っていった。あの頃は毎日Excelとにらめっこであったし、仕事中だけでなく、家に帰っても、休みでも、その表のことを考え、Excelを開いて、あれこれやっていた。確かに夢中になるとこれはこれで楽しかったけれど、結構苦労した。あの当時はパソコンの性能も悪く、何度もフリーズしたりして、せっかく作り上げた表をダメにしたりして、今では考えられない苦労をしたもんだ。
 で、作り上げた表をちょこちょこ手直しして、現在に至っている。新しい表はほとんど必要なかったので、一度フォーマットを作り上げれば、それをコピーして使い回してきた。あとは大したものは作っていなかったので、それ以来となる。
 だから関数やスクリプトの表示の仕方などほとんど忘れてしまっている。でも昔と違うところは、ネットがあるお陰で、Excel上でこうしたい、ああしたいということがあると簡単に検索できるので有り難い。マニュアルが必要ないのである。これじゃマニュアルを作っていた出版社が潰れるのも当たり前だ。
 とにかくここのところ新しい表のことでかかりっきりとなっている。暇があればネットで検索し、もっといいやり方はないのか探している。とりあえず大枠は出来上がった。後は細かいところをつめればいい。できた表を使いながら、直していこうと思う。

 粗大ゴミに話をする。会社にいるととにかくゴミが出る。厄介なのは、備品の廃棄である。今時パソコンなどない会社などあり得ないと思うが、この廃棄が厄介だ。リサイクルの問題がからんでくるからだ。最初は事務所や休憩室の隅に置いてあった壊れたパソコンなど、どんどんたまってくる。まとめて廃棄しようとするからだ。
 それでどこの業者に廃棄を頼めばいいのかまずそこで悩む。ここの事務所の郵便受けにはやたらチラシが入っている。そのほとんどが不用品回収業者のチラシである。今手元にも5枚ほどある。どれもみんな同じ感じだ。こうなるとどこでも構わないのだけれど、こればっかしは相場がわからない。私から言わせれば言い値じゃないかと思うところがある。だいたい見積無料と言ったって、それが高いからと言って断るのも大変だ。次の業者を手配しなければならないし、その度に業務を中断して立ち会わなければならない手間を考えれば、一発勝負とならざるを得ない。
 ということで、適当に業者を決める。支店の方に大量の不要品があったため、まずそちらに向かわせ、その後事務所にある不要品を引き取らせるつもりでいた。支払は私の方でする。
 見積は結構な値段を言われた。相手の言いなりになるのは嫌なのだ。とにかく私には相場がわからない。言い値じゃないかという思いがあるものだから、提示された金額に納得できない。だったら、事務所の不要品分タダにしろと迫る。もちろん業者は困った声を出す。

 「まぁいいや。電話じゃらちがあかないから、とりあえず荷物を積んじゃって。金額交渉はこっちに来てから、直に交渉しよう」

 と言う。10分後事務所に来た。業者のあんちゃんは最初から私に敵わないからと言い、最初の金額で事務所の不要品を引き取ると言う。これじゃ逆につまらない。言い合いをしないと物足りない。でも仕事のわりには弱々しいあんちゃんだったので、これ以上いじめてもかわいそうかと思い、それで手をうつ。
 適当に業者を決めたのだけれど、ちゃんと名刺を出すし、領主書もきちんと収入印紙を貼り、割り印の代わりに二本線を引いている。これだけでこの業者は信用していいかなと感じた。多分値段も良心的だったのだろう。

 昨年ブルーレイハードディスクの録画を始めて、これを結構重宝している。とにかくテレビの番組表から見たいものを録画しておき、時間があるときに見ている。その際コマーシャルなど吹っ飛ばして見られるものだから、時短ができていい。だから見たいテレビがあればその時見ないで後で見るということに、最近はなってしまっている。BSもどのテレビでも見られるようになったので、結構見ている。もともと長時間テレビを見ることが出来ない人であるが、地デジにしてから、よくテレビを見るようになった。お陰で本を読む時間が減ってしまっている。ただでさえ貴重な時間なのに困ったものである。

2010年01月10日

思うままに その20

 やばいぞ、体重が2キロ増えてしまった。

 私は7日が仕事始めだったのだが、その前夜、例によってお腹がかなり張ってしまい、寝られなかった。遂にお腹の方が怒り出したのだ。
 昨年胃腸科の先生から、お正月はあまり食べ過ぎないようにと注意されていたのだが、今思えば結構食べてしまった。そこへ義理の妹が帰ってきたお土産やら、本当なら9日来るはずだった娘夫婦が、お土産の賞味期限がが近いからといって、急遽娘だけがお土産だけを持ってきた。だから家はお土産ばかりとなる。これはまずいでしょ。かといってかみさんばかりに食わせるわけにもいかない。当の本人も体重を気にしているからである。そのため「これ、あなた食べて」お菓子を振り分けられてしまい、嫌が上でも食べざるを得ない。しかも厄介なことにこれらのスイーツが美味しいから始末が悪い。「いかんでしょ」と言いつつ食べれば、太るのは当たり前である。しかも正月である。ただでさえごろごろしているところに、おせち料理など食べちゃうものだからどうしようもない。
 そしてよりによって、仕事始めの前夜、明日から仕事だから、早く休まないと思って、布団に入ればお腹が張って寝られなくなってしまったのだ。
 7日は寝不足でだるい感じで仕事を始め、夕方、薬がなくなるので胃腸科に行く。先生に「お正月はどうでしたか?」と聞かれ、渋々食べ過ぎてしまい、昨日は最悪でした」と言えば、だから注意したでしょうというような顔をされてしまった。深く深く反省する。

 昨年ぎっくり腰をまたやってしまってから、朝通勤時歩くことを止めている。寒くなってきたから、腰に悪いだろうという配慮からである。しかしこの歩くことを止めてしまうと、とたんに運動不足となる。自分でも少しずつ体重が増えてきたなと感じていたから、体重計に乗ることをしばらくためらっていて、久しぶりに乗ってみると、ややっ、や、やっぱり増えている!まずいぞこれは・・・。私の場合すぐお腹に肉がつく。
 お土産を持ってきた娘からも、「太ったでしょう」と言われる。「そう思うならこんなにお土産など持ってくるな!」と言い返す。胃腸もただでさえ冬場は動きが鈍くなるので、症状が出やすくなると先生からも言われていて、実際そうなっている。しかも身体の重い感じがする。たかが2キロといわれるかもしれないが、私には深刻な問題なのだ。
 ということで、8日からまた朝歩くことにした。しばらく歩いていなかったから、当座は軽い感じで歩こう。寒いから暖かくしてね、そしてちゃんとマスクをして。
 当然この連休もちゃんと歩こうと思っていた矢先に風邪をひいた。熱はないが、のどが痛く、咳が出る。やれやれこの休みは休養していなきゃいけないようだ。また巣ごもりだ。

 友人からNHKBSハイビジョンでで「ハゲタカ」を一挙放映すると教えてもらった。最初に放映されたとき3回くらいまでは見ていたのだが、見たくなくなった。面白いだろうということはわかっていた。けれど私はこの原作に苦い思い出があって、それが段々見たくないという気持ちにさせていき、見なくなった。


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 この原作はダイヤモンド社から2004年に発売された。この物語じゃないが、当社の書店部門は“死に体”の状態であった。最後に残ったお店の仕入れの手伝いをしていた私は、この本が売れると思って平積みをしておいたのだが、思った以上はその店では売れなかった。当然NHKで放映されるずっと前のことである。
 私がこの本が売れるだろうと思った当時の理由は、ダイヤモンド社という経済関係の出版社の老舗であること。そこの出版社が出している経済小説であること。さらに外資という問題を扱っていることなど考慮して、さらに私が今まで本屋で経験してきたところの勘で「売れる」と思ったのである。けれどその店では売れなかった。やっぱり長いこと現場を離れているから、その店の立地や環境に自分の仕入感がずれてしまっているんだなと思ったのである。どこか一般的な指標でその本が売れるかどうか見ていたのだろう。もちろんそれはそれで大切なことなのだろうけど、でもそれがイコールその店で“売れる”とはならない。
 私はいつの間にか現場を離れて、何でも一般的常識で物を見るようになってしまっていたのである。そのことが私と現場にいた人たちとの気持ちのズレとなってしまう原因だったんだなと感じたのである。現場が一番といつも思っていたのに、いつの間にか思考方法が現場から離れていたのである。これじゃ現場の人たちとうまくいくわけがない。
 当時は少しでもお手伝い出来ればなんて、という気持ちでちょっと現場に出ていたけれど、結局私が出て行ったことは、きっと当時いたスタッフには面白くなかっただろうなと後で思うようになった。余計なことをしてしまったとさえ思っていた。
 以来私は決して現場に口出すことをやめた。たとえ言いたくても言うのを控えている。まして私は自分とは畑違いの分野の会社に残っているのだから、ずぶの素人である。そんな人間が何を言えるというのだ、と思っている。

 とにかくそういう事情でこの「ハゲタカ」という原作には苦い思い出と重なるのであった。けれどあれからもう6年たつ。苦い思い出は私の中で過去のものとなって、苦いまま残ってはいるけれど、一方で純粋にこのテレビ番組を見てみたいと思えるようになったので、全6話録画しておき、この連休、どこにも行かず、巣ごもりのお伴としているのである。

 やっぱり面白い!

 原作とこのテレビ番組と違いがどう違うのか、原作を読んでいないからわからないけれど、面白い本だったに違いないとテレビを見て思った。私の勘は当たっていたところもあったのかもしれない。なのに当時あの店では売れなかった。だから勘は当たってもいなかった。それだけのこと。
 本当は続けて見たいところを1日2話とかみさんから制限された。調子が本調子じゃないんだからという理由で。だから明日最後の2話が楽しみだ。

2010年01月05日

今年も「本」欲で

新年あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願いいたします


 今年の正月休みは例年違い、しっかりと取った。12月30日まで仕事をしていたので、その分後半に休ませてもらった。そうしようと思ったのである。ガツガツ仕事をしても長続きしないし、いささかバテてしまうのが早いので、持続力の方を優先しようと今年は考えている。
 この正月はやっぱり食べ過ぎたかなと思う。もちろん私の場合食べる量などたかが知れているのでけれど、どうしても正月はだらだら食べてしまう。そのためなんかいつも胃もたれした感じがつきまとった。

 この休み一冊の雑誌を買った。「散歩の達人」という雑誌である。


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 私は定期的に雑誌を買わない人で、買うとすればその特集が面白そうだと買う。今回もそうであった。特集が“刺激いろいろ、「本」欲が止まらない 本屋さんが面白い!”であった。だいたい“本屋”とつくだけで触手が伸びてしまうのだ。
 まぁ、特集だけに個性的な本屋さんが載っているわけだけど、それを個性的と見るか、変わりものと見るかで、見解が分かれるのではないだろうか。確かに今まで見たいなステレオタイプの本屋さんだとやっていくのが難しい時代になってきているし、2兆円産業と長いこと言われ続けてきた出版業界が去年その2兆円を割るほどの大不況となっているのだから、なんか打開策を見出さなければ生き残れないことは事実であろう。
 だから、こうした個性的な本屋さんが出て来たこともわからない訳じゃない。けれど、どうなんだろう?置いてある本を限定し、棚に突っ込むのではなく、机やちょっとした台にさも置きましたという感じで陳列し、横にしゃれた小物など置いて、別な意味で本をアピールする。あるいはデザイナーに斬新な棚をデザインさせ、今までとは違う本棚を作り、そこにやはりこだわった本の置き方をする。そんな店内の写真を見てここで本を買う気には私はなれない。なんか本の内容で売るのではなく、装丁と直接目から感じたイメージで本を買わせようとしているような気がしてならなかった。ここで“しゃれたいい感じ”と思って買った本が、後で後悔しないかなと思っちゃう。

 ちょっと前まで私はこうしたデザインに凝った本屋さんもありかなと支持していた。ましてこうした不景気な時代である。本を別な角度から売っていくのも一つの方法だと考えていた。けれどこういう本屋さんは感性が優先される本屋さんで、正直言って、みんなが入れる本屋さんじゃない。その感性を共有できる人が入れる本屋さんじゃないかと思うのだ。それを支持してくれる人が多くいれば成り立っていくだろうけど、果たしてそうした人がこれらの本屋さんにどれだけいるのか、余計なことながら心配してしまう。
 本をしぼって、ある一定の方向の本だけを置き、この関係では私たちは負けませんよというならまだいい。けれど、雑貨屋みたいで、単に本の装丁がデザイン的だからという理由で、内容を問わない本屋って、そうそう長続きはしないような気がした。美術館に行っているんじゃない。本を探しに来ているのである。しかも面白い本はないかなと本屋へ行くのである。得てしてこういう店で買ってきた本は、自分の部屋で見るとどうってことない。当たり前である。だってその本はそこで演習された本であって、その時はかっこいい、すてき、と思っても、自分の本棚で同じ演出が出来るわけない。雰囲気で本を売るのも結構だけれど、やっぱり本は内容だろう。そう思う。
 だから私のはこうした本屋さんは店主の趣味でやっているとしか思えない。そして昔から言われているように、趣味に走った本屋はつぶれることが多いのだ。志は面白いけど、やはりある程度実効性を持たないと、きわものになってしまう。そんなことをこの雑誌に載っている本屋さんを見て思った。
 こういう時代だからこそ、一つの考え方として、本屋の原点に戻っていくべきなんじゃないかと思う。こんな雑誌に載る本屋ではなく、商店街に魚屋さんや八百屋さんがあるように、本屋もそこにあるというようなものもが大切なんじゃないかなと思う。お客の顔の見える本屋はいい。アスクルのカタログに載っているような制服を着た女性店員より、出版社からもらったエプロンをしている店員がいる本屋さんの方が個人的には好きである。ちょっとジャージ姿でサンダルを履いて行けいるような本屋さんが欲しいな。欲しい本がないとかベストセラーがないとか文句を言いつつ、ついつい寄ってしまうような本屋さんって欲しいなと思う。

 ということで、今年も私は本を読む巣ごもり生活を続けることになると思う。毎年言っているのだけれど、本を買うより読む方を今年も優先したい。このまま馬鹿みたいに、衝動的に本を買っていると、ますます読み切れなくなること間違いないからだ。例によって無秩序に読んでいくのだけれど、それが楽しいのだから今までと同じようにやっていくだろう。この雑誌の特集にある「本」欲(この言い回しは面白いなと思う)が私も止まらないのだから、この一年も気ままに本を読んでいきたいと思っている。

2009年12月30日

この一年を振り返って・・・

 事務所にある卓上カレンダーを捨て、来年のカレンダーを置く。古いカレンダーを燃えるゴミの袋に放り投げたとき、ボコッと音がしてその存在感を感じさせた。
 そう、この一年がここにあったのだ。一年という時間がここには簡潔に月日で表示されていて、その月日が時間が過ぎ去ったことを思い知らしめている感じだった。壁につるしてあるカレンダーは月が変われば破り捨ててしまうので、12月になればその一枚しか残っていない。一枚になったことの寂しさを感じるけれど、卓上カレンダーはその一年がまるまる残っているから、過ぎていった月日の重みを感じてしまう。
 壁につるしてあるカレンダーも変えた。今日で年内の仕事はおしまいだ。この一年もなんか張りがないまま終わってしまった感じだ。というか、ここ数年こんな感じで過ごしてきたような気がする。だからといって来年は、と思うけれど、果たしてどうなるかわからない。
 
 毎年年末になると、正月休みに読みたい本を探す。特に今年一年の総括がいろいろなところで行われるので、今年出版されたベストが発表される。それなどを参考にして、毎年本を買おうと思うのだが、ここ数年“これは!”という本に出会えないでいる。今年もそうであった。
 結局新刊で買ったのはそれまで気になっていた本一冊と、山口瞳さんの対談集であった。後はブックオフで既刊本や入手ができない古い本などであった。
 私は最近の作家の本が読めないでいる。いつも手にするのはだいたいが以前他の作品を読んでいる作家の本である。どうしてなんだろうかと思う。よく分からないけれど、私には素人に毛の生えた程度で、多少文才がある人が本を出しているのが多いように思えるのである。多分そんな人の作品を読んだら、その文章使いに苛立ってしまいそうな気がするのである。どこかアイデアだけで勝負しているところがあって、それはそれで認めるにしても、やはりお金を出して読む以上、読める作品であって欲しいと思うのである。そんなの読んでみなきゃわからないじゃないかと言われそうだけれど、結構長いこと本を読んできたから、本屋さんでそうした本を見るだけで、勘としてわかるのである。だからあれだけ本屋さんに新刊が並んでいるのに、手にとって見るのは以前読んだ作家の本が多くなってしまうのだ。

 一年間ここであれこれ書いてきたので、自分なりにこの一年を振り返れば、相変わらず胃腸の調子は今ひとつだった。それと古傷のぎっくり腰を痛めた。今年のはかなりきつく、しばらくの間歩くのでさえ大変であった。何本も注射を打ってもらい、痛み止め、貼り薬でなんとか収まりがついた。腰の牽引も何度かやった。ここのところ寒くなっているのと、疲れがたまっている関係か、また腰が重い感じである。ここで急に動かしたり、重いものを慌てて持ち上げたりしたら、多分ひどくなる可能性が高い。立ち上がりなど注意している。
 そうそう、久しぶりに歯医者にも2ヶ月ほど通った。事の発端は前歯の差し歯が取れたことから始まる。あれは焦ったなぁ~。とにかくこの差し歯を入れてくれた先生がどっか行っちゃったから、どこの歯医者さんへ行けばいいか迷った。幸い探していた先生が見つかり、メールをして事情を話したら、すぐ来いと言ってくれたから助かったけれど、もし先生が見つからなかった大変なことになっていただろう。来年は五月頃定期検診でまた先生のところへ行く予定。
 定期検診といえば、今年は胃カメラはやったが、大腸の内視鏡検査はやらなかった。先生がやらなくても大丈夫だろうといってくれたからで、今のところ2年に一回の間隔でやることになった。来年の秋はやらなければならない。
 
 今年は娘が結婚した。今旦那の実家に一緒に帰っている。今度の正月は娘がいないことになる。当たり前のこととはいえ、そう思うと淋しいもんだ。

 今年は結構本が読めた年であった。後半は多少息切れをしてしまったが、それでも読めた方である。とにかく前半は本が読みたくて読みたくて仕方がなかった。読んだ本はやっぱり昔の本が多かったと思う。でも腰を据えて一冊一冊読んだ。結構細かいところにも気を配って読んだと思う。本を読む姿勢はおそらくここ数年で一番真剣であったと思っている。
 本棚には読みたい本がまだまだある。本棚を眺めれば眺めるほど、あれも読みたい。これも読みたい、と思う。その分焦ってしまうところはあるけれど、一冊を読むにはそれなりの時間がかかる。焦ったところで仕方がない。気は急いてしまうけれど、ここはじっくりと読んでみたいと思っている。そんな中で来年はどんないい本に出会えるか楽しみでもある。私に何を考えさせてくれるか、それが楽しみだ。

 今年もあと一日。これと言って何が出来るわけではないので、私は世間の年末年始の騒がしさから距離を置いて、じっくりと本でも読もうかなと思っている。(毎年そうなのだが・・・)

 どなたがこのブログにお付き合い願ったのかわかりませんが、改めて、読んでいただきありがとうございました。来年もこんな感じで書き込んでいきます。よろしかったらまたお付き合いを願います。それでは、よい年をお迎え下さい。

2009年12月08日

歳をとると・・・

 まったく歳をとるとさまざまな問題が出て来る。まず忘れっぽくなる。わがままになる。我慢が出来ない。すぐ怒る。うるさいのとキラキラしているのがたまらなく嫌になる。気力が長続きしない。せこくなる。そしておっしこにすぐ行きたくなる、である。
 たとえばこの日曜日夫婦二人で久しぶりに銀座に出かける。お歳暮を贈るためである。
 これも書いたかどうか忘れちゃったのだけど(まずこれが歳をとったことで起こる問題の第一番目)、多分書いたと思うが、我が家ではこうした贈答を拒否している。もちろん双方了解のもとでやめましょうという話にしちゃっている。ところが今年娘が結婚したものだから、旦那さんの実家のお父さんから我が家にお中元、お歳暮の慣習がまた始まったわけだ。これを何とかやめたいと思っているのだが、今度は娘のことがあるのでなかなか言い出せないでいる。で、仕方がないので、デパートのたくさんある銀座に出かけたわけだ。
 ところがやたら人が多いのと、クリスマスが近いということもあって、飾りがキラキラしている。その上外国のブランドショップがやたら出来ていて、着飾った女性が多いこと。あるいは成金趣味みたいなバアさんたちが多い。もうこれだけで神経がまいってくる。 腹が減っていたから、食べるところを探したが、なかなかいい店が見るからないのもあって、ついに怒り出す始末。「もういい!さっさと買うものを買って帰ろう!」と怒鳴り出す始末。長時間こんな神経に悪い場所にいられなくなるである。こうなると我慢が出来ない。
 そこへ持ってきて、ただでさえ近いのに、寒いものだからおしっこに何度も行きたくなる。私たち夫婦はこういうことが多いので、どこかお店に行けば必ずトイレを探すはめになる。まるで自分たちが行ったところ記憶するためにトイレに行っている感じだ。それが頻繁なものだから私は“マーキング”と言っているのである。

 何とか目的を達成して家に帰り、今度はエコポイントの申請書を書き始める。ところがこれが面倒臭い。それは前に書いた通りである。やっと書き上げて、さて「何に替えてもらおうかな?」とネットで交換商品を見てみると、これといって欲しいなというものはない。そのため無難なJCBの商品券にしようということになる。マルエツの商品券もあるから、日用品などマルエツに行っているから、これもいいんじゃないのと提案したが(やけにリアルでせせこましいけど)、いらないとと却下される。そこで多少口論となるのだが(私はいい案だと思っていたので)、毎日の買い物でその度毎に商品券を出すのが嫌だというのだ。

 う~ん、わからないでもないが・・・。
 
 結局JCBの商品券にすべて替えるということになり、申請書にコードを書き込む。ところがエコポイントがそのままの金額としてJCBの商品券に替えられないことを知る。
 今回我が家ではエコポイントが70,000ポイントが出た。結局JCBの商品券を65,000円分とQUOカード500円分4枚か、JCBの商品券67,000円分とQUOカード500円分1枚(この場合後で合算という手続きが必要になる)のどちらかとなる。つまり70,000ポイントが67,500円分しか交換できないことになる。つまり2,500円分どこかでピンハネされているわけだ。それがわかった時点で、腹ただしくなってきた。
 考えてみればせせこましいのも事実だ。わかちゃいるんだけど、期待していただけにせせこましくもなるんだな、これが。民主党政権になって、来年度になるとエコポイントがなくなるとか、厳しきなるとかいっていたので、慌てて地デジ化しただけに余計である。

 腹を立てているいるうちに、段々手続きが面倒になってくる。一日の疲れもあって、気力が余計に長続きしない。え~い!もうやめ、と投げ出してしまった。

2009年10月31日

思うままに その19

 気がついたらもう10月も今日でおしまい。昨日年末調整の書類が届く。間違いなく年末に向かいつつあるんだなと思う。もちろんだから何だ!と言われても困るのだが、確かに年々月日が経つのが早くなっている感じがする。
 例によってひたすら本を読んでいて、本の方のブログは結構更新しているけれど、こちらの方はさっぱり出来ずにいる。ここを更新するには、私の日常に変わったことがあることが、一番インパクトがあって、それに対していろいろ書けるのだけれど、毎日同じことの繰り返しなもんだから、日常に変化もない。従って書くことがない。
 それでいてもう少し長い目で月日を見れば、過ぎていくのを早く感じてしまうのだから、毎日どう過ごしていけば充実した日々が過ごせるのかなとも思う。

 さて、本当は今日神田の古本まつりに行こうかなと思っていたのだが、なんだか昨日ものすごく疲れていて、しかもここのところ夜お腹が張ってしまうことが多く、うまい具合に睡眠が取れずにいる。つまり疲れているのだけれど、寝られない状態が続いていて、かなり睡眠不足でもあるのだ。だから古本まつりへ行く気が段々薄れてきて、もうやめようかなと思っている。
 実は一昨日歯医者の帰りのちょっとよってみたのだ。歯医者が内幸町の駅の近くにあるので、家に帰るには半蔵門線で神保町で乗り換える。つまり地下鉄で帰れば、神保町へ行けるのだ。そう思ったので、神保町で下りてみた。開催時間は7時までとネットで確認しているので、残り時間約一時間半あるから、ザッと眺められると思ったのだ。
 駅から地上に出るともうそこは古本屋の出店が出ていて、帰りのサラリーマンもちょっと立ち寄ってみるかといった感じなんだろう、スーツ姿を数人見かけられた。日も暮れているので、出店の薄暗い照明の中で本を探すのは結構きついものがあるが、(それでなくても視力が悪いのだから)出ているお店の本を眺めて歩いてみた。
 もともと期待は最初からしていなかった。こういうまつりに掘り出し物があるとはそもそも思わないのだ。だって、売れる本なら、こんなところに出さなくても自分の店に置いておけばいい。だからここに並べられている本は在庫処分的要素が強いように思われる。それでもなんかお宝がないかという気持ちがこのおまつりに来る理由なのだが、しかし行って本を見れば、期待を裏切られ、やっぱりそうだったかと思いつつ帰ってくることがここ数年多い。だから最初から期待しないことにするのが一番いい。
 歩いていて、ある古本屋さんの出店で立ち止まってしまった。山口瞳さんの「男性自身シリーズ」が単行本で20冊ほどあるのだ。本の売値を見るとどれも300円でる。今このシリーズはこの値段では絶対に買えない。一冊2,000円程度するはずだ。だからこれは明らかに“お買いどき”なのだ。

どうしよう?

 全部で6,000円かと、値段はそれでいいけど、この20冊ほどの本を持って帰るのがきつい。今仕事の帰りと同じなのだから、鞄と20冊の本を持って帰ることを考えた。またこの本をどこに収納すればいいのか、自分の本棚を思い浮かべた。さらにこのシリーズは文庫本で持っている。ただ文庫本は一冊に単行本2冊程度を選んで一冊の本としているので、中には単行本から洩れたやつだってあるに違いない。でもシリーズとして文庫本は手元になる。

 そんなことをお店の前で本を取ったり戻したりしながら、考えた。結局やめたのだ。もういいやと思ったのだ。文庫本で充分だ。

 しかし家に帰ってからも、やっぱり買っておけばよかったかなとも思ったのだ。だからといって仮に明日(金曜日)の仕事の帰りに行ってみたって、もうないだろう。古本の出会いは一期一会なのだ。その時買わなければ、もう手に入らないと考えていい。ましてものすごい数の人がこの古本まつりに来るのだから、今日のこのこ出かけていっても残っているわけがない。

もういいではないか。

 一昨日、文庫本があるのだから、諦めたわけだし、たぶんそれはいい決断だったはずだ。

でもね・・・。

 布団に入ってから、その20冊が並んだ本棚を想像しちゃったら、またすぐ寝られなくなってしまったのも事実なのだ。

やれやれ。

2009年07月16日

思うままに その16

 梅雨が明けたらとたんに暑くなった。まぁそれが当たり前なのだろうけど、汗がべたつくのはいささか不快だ。
 いつも朝歩いているのだが、朝からじりじりと太陽が照らしている中を歩くのは、通勤前で疲れてしまう。そのためここのところ歩くのを止めている。しかし、そうすると運動不足がたたってくる。
 で、昨日帰りの電車の中でふと思いつく。そうだ、帰りに一駅前で降りて歩けばいいじゃないかと。夕方なら日も降りていくらか涼しいんじゃないかと思ったのだ。さっそく、降りてみる。駅前にある熊沢書店にまずは寄ってみる。これといって欲しい本がある訳じゃないので半ばひやかしである。でも、ワゴンに各出版社の文庫目録が積んであった。そうだった。以前もここで文庫の目録をもらったことがある。
 本当はここにある全部の出版社の目録が欲しいのだが、それだと結構な重さになる。仕方がないので、三冊ほど頂き、カバンに入れる。これから家まで歩かなきゃならないので仕方がない。
 その後、近くのブックオフにも寄ってみる。ここは最近オープンした店なのだが、正直なところ品揃えが悪い。もちろんそれは私の好みによる判断なのだけれど。要するに私が読みたいと思うような本がないということだ。ざっと棚を眺めて、“やはりダメだな”と思ったところ、捜していた吉村昭さんの文庫本を見つける。
 こんなもんなんだな。期待もしていないところに、案外あったりする。私はその一冊をレジに持っていく。会計は入ったばかりのバイトと思われる女の子がやってくれた。横にはこの店の責任者らしいやつがレジの打ち方などを教えている。彼女にとって初めてのお客が私だったのだろうか。とにかくぎこちない。何とかレジを打ち終え、お釣りを私に渡す。ちょっとテンポが遅れて「お売りになれる本があればお売り下さい」と顔を赤らめて言う。そこには前にそう言いなさいと言われたのを慌てて思い出したような感じで、彼女はその言葉を口にした。私はそれがおかしかったので、ちょっと笑い、軽くうなずいて店を出る。でも何か気分がすがすがしい。
 その後三十分ほど歩きながら、明日もここで降りて歩こうと思った。熊沢書店で持ってこれなかった残りの文庫目録も気になるし。ブックオフはパスしよう。一日そこら間隔を置いても品揃えは変わらないだろうから。そんなことを考えながら家路に着く。
 夕方とはいえ、やはりそれだけ歩くと汗をかく。着替えをして、一服する。入院している義母の様子をかみさんから聞く。明日胃カメラをやるという。まぁ大腸の内視鏡より胃カメラの方が下準備が簡単だからそれほど問題はないだろう。わざわざ私が行くこともあるまい。それに今日は木曜日だから途中で抜け出すこともできないし。
 八時過ぎ、北海道の旭川から娘の旦那さんのお父さんから電話がある。お中元が届きましたというお礼の電話だ。その前に私どもの方にお中元を頂いており、そのお返しみたいなものなのだが、とりあえず「ご丁寧に有り難う御座います」と言う。
 実はこうした季節の贈答は我が家では相手と相談の上で止めている。だからお中元も、お歳暮も我が家には届かない。気を遣うのがいやなのだ。今回もそうしたいところなのだ。私個人の親族、あるいは関係者なら「やめよう!」と言い切れるのだけれど、娘の旦那さんの方の家族には言いにくい。何か好意に水を差すみたいな感じがする。正直困っているが、しばらくは仕方がないかなとかみさんと諦めている。
 簡単な話をして、東京は梅雨が明けたらとたんに暑くなって、うだっていることを言ったら笑われた。旭川は昨日は雨だったという。
 旭川に親戚ができると、今まで気にしなかったNHKニュースでやる天気予報で、旭川の天気が気にかかるようになった。面白いもんだ。

2009年06月12日

思うままに その15

 ネットでものを買ったり、あるいは支払をする場合、そのサイトにログインすると必ずパスワードやIDを求められる。まぁそれはセキュリティー上仕方がない。あるいは仕事でインターネットバンキングをする場合も同様である。
 問題はそのパスワードなどをどうやって作るかである。誕生日、電話番号などは使ってはまずいので、それなりに考えるのだが、それだって限界がある。だからといってランダムに数字や英字を組み合わせるのも、どこか不安が残る。忘れちゃったらどうしようと思うのだ。だって何の根拠もない数字や英字を組み合わせただけだから、記憶に残らない。
 特にインターネットバンキングが厄介だ。最初に銀行と書類で契約をするときに、まずそこでパスワードやIDを決まった字数で決める。これは考えていたものでなんとかまかなえる。ところがこれはあくまでも仮のものであって、実際アクセスして、まずは契約したときのパスワードを入力して、次にパスワードの変更をすぐ求められる。なんとかそれを決めるのだが、今度は数カ月おきにパスワードやIDの変更してくれと画面に出て来る。おいおいそんなにパスワードやIDを変更しなきゃセキュリティーが保てないのかと毒づいちゃう。
 さすがにここまで来ると自分でそれを決めるのも厄介になったので、パスワード自動生成ソフトを使って、それこそ自分の頭を使わず数字と英字を組み合わす。
 しかしここで問題になるのはそのパスワードとIDの保存の仕方である。ただでさえ頭の働きが衰えてきている。つまり覚えきれないわけだ。仕方がないので、そのパスワードとIDをテキストファイルでUSBメモリーに保存しておく。そしてインターネットバンキングをやる時はUSBメモリーを先に差し込んでおいてからやることになる。実際パソコンのハードディスクに保存しておいてもかまわないのだけれど、どこで盗まれるかわからない。あるいはパソコンがお亡くなりなった時のことなど考えると、USBメモリーに保存しておく方が安全だろうと考えたのだ。
 しかしそれでも不安になる。このUSBメモリーを紛失したらどうしようと。もちろん巷でニュースになるようなことはしない。そんなもの持ち歩く方がおかしいと思っている。
 しかしそれでも不安である。もしも・・・と考えると、これはプリントアウトしておいた方がいいと思うようになった。まして何度もパスワードとIDを変更していると、実際使えるパスワードとIDはどれなのかわからなくなる可能性だってある。だからそれらを変更したら必ずプリントアウトして、古いやつはすぐ破り捨てることにした。もちろんパスワードとIDを新しくプリントアウトした紙には日付を入れておくこともする。そしてその紙もUSBメモリーを金庫にしまっておけばいいだろう。
 まったくインターネットやパソコンは便利であるのか、どうかわからなくなってくる。

 村上春樹さんの新刊が驚異的な売上を示しているという。私も気になっていたのだが、読む本がたくさんあるので、後で読もうと思っていた。きっとその時はブックオフで安く手に入るだろうと考えていたのだ。
 朝日新聞によると「5月29日に全国発売されたばかりの村上春樹さんの最新長編小説『1Q84』が、1巻の完売が相次ぐなど、異例の売れ行きを見せている。出版元の新潮社によると4日現在で発行部数は1巻51万、2巻45万。予約殺到による「発売前増刷」も異例だったが、発売から約1週間で100万部に迫る勢いに、同社も『例のない事態』と驚いている。

 東京都中央区の八重洲ブックセンターでは1巻は発売後3日で売り切れ、再入荷分もその翌日に完売。4日現在、2巻がわずかに残るのみだ。両巻あわせて1千冊以上を売った。同店担当者は「去年の『ハリー・ポッター』をはるかに上回る勢い。久々の村上作品だが、ここまで売れるとは」。東京都新宿区の紀伊国屋書店本店でも1巻は完売。30日に700冊以上が売れ、営業時間で計算すると55秒に1冊が売れたことになる」とある。
 先日のNHKのニュースではもう100万部売れ、売上は13億円になるとやっていた。聞くところによると、発売当日に増刊されることが決定されたという。現在品切れだという。アマゾンでも予約待ちの状態だ。
 こうなると気になって仕方がない。すぐ読んでみたいという気持になっちゃった。発売当日“書泉ブッタワー”で村上さんの新刊を見たのだが、あのとき買っておけばよかったと多少後悔する。
 昨日月に1回行く、病院の帰りに、お茶の水の丸善に寄ってみる。正面の平台には見あたらなかったので、“やっぱり品切れか”と諦めかけたのだが、奥の文芸の新刊が置いてある棚を見てみると、“あった!”“さすが丸善!”すぐ手に取る。後、『週刊司馬遼太郎』の新刊も出ていたはずだからそれも一緒にレジへ向かう。
 とにかく2冊手に入れた。すぐ読みたくなった。幸い読んでいた阿刀田さんの本を読み終えていたので、予定を変更して、村上さんの新刊を読むことにした。楽しみである。

 私は本を読んでいいるときよりも、次に何を読もうかなと本を物色しているときの方がワクワクする。自分の本棚を見て、“これ読もうかな”と棚から本を取り出すときのワクワク感は何とも言えない。そして数冊取り出して、次はこれ。その次はこれ、と順番を決める。
 自分のブログでは本の写真をスキャナーでスキャンすることにしているのだが、読む本が決まるとまとめてスキャンする。しかしこれが予定通り行かないのは常である。読む本の予定を決めているのだけれど、どうしても順番が狂ってしまう。今回もそうである。急に村上さんの新刊が読みたくなっちゃったから、それが割り込む形になった。
 よくこういうことがある。そのためせっかくスキャンして画像データを作ったのに、順番が狂い、そのうち読む熱意も冷めちゃってそのままになってしまうものもある。データだけがパソコンにたまっている。
 買ってきた村上さんの新刊を急遽スキャンする。その時ちょっと思った。画像データをもう少し大きくしてみようかなと。別に大した理由がある訳じゃないのだが、その方がせっかく実物をスキャンしているのだから、いいんじゃないかと思ったのだ。次回から多少画像が大きくなります。(どうでもいいか・・・)

 もう一つどうでもいい話をしたい。先日必要があってmicroSDを買った。2Gで650円という。前回買ったときは2,000円近くしなかったかなぁと思った。あるいは思い違いかもしれない。でもそれなりの値段はしたはずで、決して650円では買えなかったはずだ。バルク品かなと思ったがそうでもなさそうだ。まぁいい。安いのにはこしたことがない。
 昼食はお弁当を買って、みんなと食べている。毎日同じ弁当屋で買っているものだから、さすがに飽きてくる。確かに弁当の種類はたくさんあるのだけれど、食べるものは好みもあって、必然決まってしまう。同じものをある程度ローテーションで回して食べていても、やっぱり飽きてくる。
 それで弁当屋を変えてみた。Hotto Mottoである。これが驚くほど安い。何と弁当3つで、1,000円お釣りが来る。もっとも驚いちゃったのはランチ弁当で、何と300円。のり弁より10円高いだけ。
 最初自分が食べる弁当を決めていなかったので、どうでもいいやと思いつつ、ランチ弁当という表示が目についたから買ったまでのことで、値段など気にしていなかった。レジの中国人のおねえちゃんが変なイントネーションで弁当名と値段を声に出しつつレジを打って、合計金額970円という。こっちは千円札と小銭が必要だと思っていたので、その用意していた。それが千円でお釣りが来ると、“えっ?”と声が出ちゃう。もらったレシートを見て初めてランチ弁当が300円だと知ったのである。
 低価格化というのは、こう不景気な時代だから喜ばしいことだけれど、これでいいんだろうかと思う。J-WAVEのジョン・川平じゃないんだけれど“これでいいんです!”と言われても、“ホントにいいの?”と思ってしまう。ものには相場の値段があってしかるべきで、その相場の値段がその業界を支えていると考えるから、こんなことして大丈夫かい?、と思うのだ。
 確かに安いことはうれしいけれど、素直に喜べないところがある。一方で本2冊と雑誌1冊で4,000円近くするのを考えると、世の中のお金のバランスはどうなっているんだろうと感じてしまう。

 そうそうもう一つ思い出した。今回買ってきた村上さんの新刊には、いつも本にはさまっている出版社の新刊案内や結婚相談のはがきなど一切はさまっていなかった。新刊を読むとき、これらの“はさみもの”は邪魔になるので、まずページをパラパラやってそれらを取り出し、捨ててしまう作業が入る。いつものように同じことをやっていたら、今回それらの“はさみもの”がなかったので驚いた。重版ものはそうした“はさみもの”はないのかもしれないが、むしろ売れすぎて慌てて重版したものだから、それら“はさみもの”が入らなかったのかもしれない。あったのは丸善で入れてくれたビニールの手提げ袋の中に、どこかの証券会社だろう、国債の購入はがきがあった。もちろんすぐゴミ箱行きだ。

2009年05月24日

ルーヴル美術館展と上野にて

 昨日は土曜日で通常休みなのだけれど、午後から人と会う約束をしていたので出社した。時間は二時の約束なので、それまでは上野のでやっている「ルーヴル美術館展」へ行ってみた。今回は17世紀ヨーロッパ絵画ということで、基本的に私は興味がなかったのだけれど、先日テレビでジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」を見てその絵に魅了されてしまい、どうしても実物を見たくなったのだ。
 土曜日ということでたぶん混んでいると思われたので、開館間際に上野に着いたのだが、もう20分待ちの状態であった。どうしてもルーブルというと日本人は憧れるのか、いささか不思議なのだけれど、とにかくばあさん連中が多い。しかも何人かつるんで、わいわいがやがややっていて、本当に絵を鑑賞に来ているのかと言いたくなる。
 しかも音声ガイドという絵の鑑賞に役立つ解説が聞けるものを持って、聴きながらだから余計に先に進まないのだ。そんなものをここで聴くなよ、と正直思う。音声ガイドがなければ絵を鑑賞できない方がおかしい気がする。何のためにここに来たのか疑問に思っちゃうね。
 例によってフェルメールの「レースを編む女」の前は人だかりで、なかなか先に進めない。


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 この絵、24×21センチの小品なので、遠くから見るとよく見えない。日本人のフェルメール好きは有名で仕方がないのだろうけど、私もフェルメールが好きなので仕方なしに列に並んで絵の前に行けるよう順番を待っていたのだが、ちっとも先に進まない。ある程度近くに行った時点で、絵を見て、列を離れる。
 そのためか斜向かいにレンブラントの「縁なし帽を被り、金の鎖を付けた自画像」は空いていて、絵の前までじっくり眺める。レンブラントも好きなのだが自画像はあまり興味はない。


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 ベラスケスの「王女マルガリータの肖像」もある。遠くからなんか見覚えのある肖像が見える。


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“あれ、デカルトじゃないか?”と絵の近くまで行ってみると、「ルネ・デカルトの肖像」とある。小うるさそうなおやじ顔である。

 とにかくラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」を見たいので、後はざっくりと眺めていく。あった。これだ!


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 この絵よく見ると、右にいるイエスがローソクを手にかざしている部分は通常あり得ない。かざしている手が透けるほどローソクの炎が強いということは、よほど火力が強いことになる。熱くてとてもじゃないがローソクに手をかざせるわけがない。そんな不自然さがあるのだけれど、よく考えなければそれを感じさせない。静寂さの中にも荘厳さを感じてしまう。イエスの顔がローソクで照らされる一方ヨセフの身体は薄暗い。かろうじてヨセフの顔のみがイエスの持つローソクの明かりで照らされるだけである。そのまなざしが無言の何かをイエスに語りかけている感じがする。そうなのだ。無言の親子が何かで通じている。そんな思いを感じるのである。それを力強い父のまなざしと、幼い子のいかにもあどけない目が語っている。力強い父、幼い子が、たった一本のローソクで暗闇と明かりのように対照的に描かれる。
 幸いそれほど人だかりはなかったので、しばらくここにいた。これは実物を見てよかった。

 外に出ると、さっき入場したときより多くの人が並んで入場を待っているのが見えた。よかった早めに来て。庭にロダンの「考える人」の鋳造作品が見えたので、デジカメを取り出し写す。すぐ近くにあった「カレーの市民」もついで写す。先には「地獄の門」も見えるが、暑かったので帰ることにした。


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 このまま西郷さんの銅像があるところまで歩く。以前来たときデジカメを持ってこなかったので、ネットで転がっている写真を使用したのだが、今度は持っているので撮っておこうと思ったのだ。
 しかしこの銅像を眺めていると、西郷の奥さんが「主人はあんなみすぼらしい格好はしていません」と言ったというのがよくわかる気がする。

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 なんでこちらの方に来たかというと、松竹デパートにある古本屋さんに来たかったからである。松竹デパートといっても、ほとんど崩れ落ちそうな汚いビル。建てられてからそのままという感じだ。昭和レトロ感漂う雑多なビルといった感じ。こんなところに古本屋さんがあるのかなと思いつつ、中に入ると確かにある。しかしその未整理さにあきれてしまう。ここには整理整頓という言葉は存在しないようだ。市場で買い入れた束になった古本を一気にぶちまけた感じで、平台には各社文庫、全集、エロ雑誌が一緒になっている。よく探せばお宝があるのかもしれないが、さすがに探す気にはなれなかった。というか、もうちょっと整理してよと言いたくなっちゃう。さっさと諦め、駅に向かう。
 トイレに行きたくなり、歩いていたらなんか新しい駅ビルの中に入った。ここだけは上野じゃない感じ。用を済ましちょっと歩いていると、明正堂さんがある。上野の本屋さんといえば明正堂さんなのだが、ここもビル同様小綺麗でしゃれた感じにしてある。ここで一冊本を買った。本に付けてくれたカバーを見て、そうそうこんなカバーだったと懐かしかったが、でも昔から本のサイズに合わせた、折り込みのないカバーだったかなぁ。これじゃカバーというよりは包装紙だ。
 さすが上野といことで、雑誌「谷根千」のバックナンバーが揃っている。しゃれたブックカバーがあって、文庫本サイズのものを買おうかなと思ったがやめた。
 店員はヨドバシの有隣堂のレジにいる奴と同じ格好をしている。最近本屋の店員は白いシャツと黒のズボン、そこに黒のエプロンを着けた奴がトレンドになっているのかなぁ~。確かに書泉さんのばあさんくさい制服にスニーカーという格好(男はじじくさいポロシャツにスニーカー)より、今風だけれどね。あれ東京堂の大橋社長に言わせると“書泉スタイル”というらしい。
 レジで並んでいると手を挙げてこちらへどうぞと誘導する。あれ、なんか頭きませんか?偉そうに誘導しやがってといつも思うのですけれど・・・・。時たま同時に二人手を挙げて“こちらへどうぞ”というときがある。そんなときどっちへ行けばいいんだと一瞬悩むこともある。
 時計を見るといい時間になっているので、事務所に向かった。

2009年05月15日

思うままに その14

 私が検査以外病院に行くのを木曜日にしている。というのも、木曜日は午後4時には手伝っている業務が終わるので、その後時間が取れるからだ。本当は休みの土曜日に行くべきなのだろうけど、自宅からお茶の水へ出かけるのが億劫なので、仕事で秋葉原にいる時の方が楽なのでそうさせてもらっている。もちろん勤務時間の途中で一時間ほど抜ける訳だから、その分朝いつもより早めに出社して帳尻を合わせている。
 昨日その病院へ行った。来週でもかまわないかなと思っていたのだが、飲んでいる薬の残りを数えてみると、どうやら次の木曜日まで持たないようなので、昨日行った訳だ。ついでに前回胃カメラの検査結果も出ていたので、詳しいことを聞く。
 私の胃と大腸はポリープのオンパレードじゃないが、いくつもある。以前江戸川区の区民検診を受けていたとき、いつもこのポリープのお陰で再検査を要するという通知が来る。まったく定期検診という奴はこれだから嫌になる。ちょっと異常があると、すぐ“再検査を要する”と言うのだ。これだけ読むだけでも、調子が急に悪くなる。
 一番最初に検診を受けたときは、ホントどきっとしたね。この再検査から胃カメラや大腸の内視鏡検査を受けるようになり、どうやら体質的にポリープのできやすい体質だとわかり、ドクターからも区の検診を受けるたびに要検査となるだろうから、それをやめて、独自に毎年胃カメラや大腸内視鏡検査を受けた方がいいと言われ、毎年やっている。
 今回の胃カメラも一年に一回やるものである。胃カメラでわかったポリープは「胃底腺ポリープ」だと言われた。このポリープは別に悪さをするポリープじゃないらしく、ピロリ菌のいない胃に発生するものらしい。このことからも私の胃にはピロちゃんがいないことも判明した。つまり以前除菌したのが成功したことを示しているわけだ。それにピロリ菌に対抗するLB21乳酸菌入りのヨーグルトも薬みたいに毎日食べているしね・・・?
 ただこのポリープができる人は私みたいに胃腸の調子が悪いと訴える人が多いらしい。このポリープのお陰で胃がんの原因のピロちゃんがいないことが証明され安心していいのだけれど、一方で胃腸の調子が悪いという痛し痒しですねと先生に言われた。まったくその通りである。結局なだめすかしながら付き合っていくしかないということらしい。まぁ仕方があるまい。
 処方せんをもらって、今日薬出してもらった。薬を受け取るたび、量の多さに呆れる。まったく粉ものだから一ヶ月分だとかさが張る。

 今読んでいる本の最新刊を“書泉ブッタワー”で買おうと思い仕事の帰りによる。ここのところここで本を買うことが少なくなったけれど、今までほとんど新刊は買っていたつきあいもあることだし、棚構成もよくわかっているから、本が買いやすい。しかし、ないのだ。おいおい新刊がここにないということはどういうことなんだ。今までそんなことがほとんどなく、ここに来ればだいたい手に入ったのに・・・。やっぱり仕入れを抑えているのかなぁ。ホント書泉は最近おかしいぞ!たぶん見る人が見れば、ここの品揃えが貧相になっていることがわかるんじゃないかなと思う。店員も覇気がないしね。せっかくここで買おうと思って来たのに、こんなことならここに来る前に、ヨドバシに行ったのだから、そのまま上の有隣堂で買っちゃえばよかったかなと思ったが、今更引き返すのもしゃくだしなぁ・・・、ということでそのまま岩本町の駅へ向かった。仕方がない。アマゾンで買うか。しっかりしてくれよな。書泉さん!
 私が買い求めたいと思っている本は小路幸也の本だ。たった一冊の本がその店にないということで、ダメだというレッテルが貼られてしまうのはかわいそうな気もしないでもない。書店側から言えば、そんなこと言われても・・・、となるだろう。いろいろな客層がここにはやってくるに違いない。そんな客のニーズをすべて満たすことなどできるわけもないことぐらいわかる。だから多くのお客が求めるであろう話題の本や、新刊を多くおくことで、最大公約数満たそうとする。むしろ私みたいな偏屈な客の方が困るはずだ。本がおけるスペースにも限りがあるから、一人のお客の不満より多くのお客の満足が得られるようにしておくのが鉄則であろう。これもわかる。だから何も言わず店を出る。今は家に帰っても本を買うことができる時代なのだ。
 アマゾンを利用する人には新刊書店に自分が求めている本がない場合、結構利用するんじゃないかと思うのだ。だっては面倒だし、バカな書店員と会話しなければならないし、手元に届くまでに時間はかかるので、その間いらついちゃうし、入荷すればしたで、またその店に行かなきゃならない。その点アマゾンは書店での注文のときに生じるいらつきは一切ない。心配もない。結構短い日数で本が自宅まで届く。
 アマゾンの客単価高いというのは書いたかもしれない。確かに1,500円以上買わないと送料がかかるというハードルがあるため、必然客単価が上がるのもあるだろう。けれど客単価が高い本当の理由は新刊書店が最大公約数の顧客満足度だけを求めた結果、そこからあぶれた偏屈なお客が単価の高い本を買い求めるケースが多いからじゃないかと思うのだ。そうなのだ偏屈なお客は結構読書家で単価の高い本を買うんだよ!
 書泉は大書店だと思っている。そんな大書店が街中の中小書店と同じことをやっていていいのかと思うのだ。大書店の大書店たる所以は、そこに多くの本があり、たくさんのお客さんに満足度を与える品揃えがあるから、大書店なんだと思うのだ。それがだんだんできなくなっているのかなと思うと少々寂しい。後はしおりやビニール袋目当てで行くお客を相手にするんでしょうかね?
 新刊がなかっただけに、かなりきついことを書いちゃった。もっともこんなことを書いてもどうなるというわけじゃないことぐらいはわかっている。愚痴である。さてアマゾンにアクセスしようかな・・・・。

 そうだ思い出したことがある。それを何の脈絡もなし書く。

 ガサガサガサ(鞄の中を探す音)

 まず今日もらった薬を出す。(やっぱ多いわ。鞄の中身ほとんどが薬だ)あった!全国書店新聞である。

 その全国書店新聞5月11号のコラム「本屋のうちそと」が面白かった。雄鳥社が先日倒産したことは書いたが、このコラムを書いている書店さんは「雄鳥社倒産につき今後は手に入りませんセール」をやるべきかどうか悩まれている。店内には40冊ほど返品不能在庫を抱えているらしい。しかもその前に倒産したエクスメディアの処分品もまだ半分も残っているという。このまま出版社次々と倒産していくと、店内が次々と「倒産バーゲンセール」になりそうだと書かれている。不謹慎だけれどやはり笑ってしまった。

 今回は前回の続きみたいになちゃった。

2009年05月09日

思うままに その13

 連休が終わり、一週間ぶりに秋葉にあるブックオフに仕事の帰りによる。ここには帰り道の途中ということもあって、一週間に一回は寄っている。私は最初ここのお店は場所柄仕入れより売りの方が多いだろうから、この店がうまくいくかどうかは仕入れがうまくできるかどうかにかかっていると書いたことがある。詳しいことがわからないけれど、たぶんここは他店から仕入れたものを本部が管理して、この店に回しているんじゃないかと思っている。そのため結構面白い本が出てくる。だからここの棚を見るのが私には楽しい。しかも他のお店がセールでやる500円以上の本が一律500円というのが、ここでは文芸本に関してはすべて500円となっているのがうれしい。
 また105円の棚も捨てがたい。他店から仕入れ本がここに回ってくるためか、結構お宝があるのだ。ここには古い本が時間が経っているということで105円になっているものが多い。しかしたとえば文庫では知っているけど、親本の単行本はどんなやつなんだろうかと見ることができるのだ。買いはしないけれど、時たま文庫で知った書名を棚で見つけると、手にとってしまう。
 今日は私が持っていない阿刀田さんの本と山口瞳さんの単行本を二冊見つけ、早速購入する。単行本二冊で210円である。寄ってみてよかった。

 そのまま書泉さんに寄る。最近感じるのだけれど、書泉が汚いし、暗い。笑っちゃうのが、秋葉原駅から岩本町へ行く途中、書泉の横側がどっと見えるのだが、そこに「書泉ブックタワー」と縦に大きな看板がある。その看板の「ク」が落ちちゃっているのだ。だから「書泉ブッタワー」となっている。なんか今にも倒れそうな感じである。これに気がついたのは先月半ばだったかな?それでももうすぐ一ヶ月近くたつのにそのままになっている。昔あった書泉のふんどしビラじゃなくて、旗もなくなっちゃって、ポールだけが出ている。外灯の電球や入り口近くにある看板の電球も切れていて、薄暗い。ビルそのものも汚れている。ビル掃除はそう簡単にできないだろうけど、電球ぐらい取り替えることぐらいできるんじゃないかなんて思うのだけれど・・・。でもまずはあの「ブッタワー」をなんとかせんとまずいんとちゃう?
 店の中の電球も切れているときが結構ある。もともと棚の近くある照明が暗かったのに、余計に暗い。そして奥にあるレジには店員がいないことが多く、いても中にあるノートパソコンで何かやっていて、接客する態度じゃない。店員がいないものだからレジにの中が丸見え。それが汚いこと汚いこと。
 そして一番気になるのが、在庫が薄くなってきたこと。今までは棚にぎっしりと新刊があったのに、面差しにして明らかに在庫を減らしているといった感じだ。これをやると確かに見栄えがいいときもあるが、ここでは暗さもあってかえって薄ら寒い感じがしてしまう。はっきり言っちゃうと、ここの棚よりブックオフの方が魅力的だ。「この店、大丈夫なのかな?」と思う。なんか自分たちが閉店というたどってきた道によく似ているのだ。
 東洋経済の「単店売上ランキング2008年度」によると、有隣堂ヨドバシAKIBA店が全国で26位。伸張率104.0%と秋葉原界隈の新刊書店では一人勝ちのようだ。ブックファースト一年もたたずにさっさと撤退しちゃったしね。

 今日ブックオフで買ってきた本の中にグリーティングカードが入っていた。もらいものお礼とお返しを送ったことが書かれている。たぶん受けとられた方が、読んでいたこの本にカードを挟みっぱなしにして忘れちゃったんだろう。そしてそのままブックオフに本ごと売っちゃったというところか・・・。
 古本には時たま前の持ち主が挟んだものがそのままになっている時がある。私も何度かそんなものを手にした。けれどこういうのってなんか人の私生活を覗いちゃったみたいで、少々困る。結局前の持ち主も忘れちゃっているのだから、そのまま始末しても問題はあるまい。

 どうでもいいことばかり書いてきたから、最後にもう一つ。書店組合から倒産した出版社の情報がFAXで流れてくる。先日雄鳥社の自己破産情報が流れてきてちょっと驚いちゃった。あの手芸の老舗も潰れちゃう世の中なんだなと思った次第だ。そして先日就職問題集を出している一橋出版も破産したというFAXが入った。
 どうしてこんな潰れた出版社の情報が書店に回るかというと、お店に置いてある委託の本が返品できなくなるからだ。そうなるとそれらの本は売れ残った場合不良在庫となるので、慌てて返品することなる。いつ売れるかわからないから、そんなリスクを負うよりはさっさと返品しちゃった方が安全だからだ。
 しかし委託商品には返品期限があって、その期限を過ぎたものは返品を受け付けてくれない。だからFAXで流れてくる情報には返品可能本のリストが載っている。
 ここで問題なのはこのリストに載っていない在庫本である。書店側は出版社の営業との口約束とそれまでいつでも返品を取ってくれた慣例で、“フリー入帳”の本だと思って在庫しておいたのに、それが期限切れ本として返品を取ってくれなくなったのである。これが問題となっているのである。行き先のない本が書店側の持ち出しとなってしまうのである。
 「全国書店新聞」の5月1日号にはこの業界用語の“フリー入帳”が取次には該当用語としてないと返答されたとあった。つまり業界の慣用としてそういう行為は一部にはあるが、正式な商業取引じゃないよということらしい。
 “へぇ~、そうなんだ”と思ったが、昔日販の仲良かった担当者がよく“これ、フリー入帳ですから”と言っていたのを思い出すんだけれどね・・・。
 出版社がしっかりしておれば、まぁいいや取ってやれよとなったかもしれないが、潰れた出版社にこれ以上の負債を背負うことなど出来やしないということなんだろう。書店業もますます難しい時代にはいったもんだと思っちゃうね。

 これで終わりにしようと思い、一時保存して、メールを確認したら、契約しているプロバイダーから「月額基本料金が毎月1,155円お得に!」という案内メールがあった。普段プロバイダーやパソコン関係のダイレクトメールなど吹っ飛ばしてしまうのだけれど、今回偶然目に付いた。“おおっ!いいじゃん”と思い、早速記載されているURLのところへ行って内容を確認する。要は二年間今のプロバイダー契約を続けてくれることを条件に割り引きサービスをしますということらしい。別に今のプロバイダーに不満もある訳じゃないし、変更も考えていないので、月々のランニングコストが安くなるのは有り難い。しかも契約すれば一万円の商品券もくれるとある。なんだか信じられないけれど、商品券はともかくとしてネットの経費が安くなるのらいいということで、そのまま契約する。料金は7月から安くなるらしい。
 この世界も顧客の奪い合いが激しい世界なんだろうか?とにかくどこでもお客の獲得のためには、そして獲得したお客を離さないためには、身を削ってでもサービスしなきゃならなくなっているのだろう。

2009年03月23日

浮き足立つ

 後で気がついた。私は浮かれていたのだと。
 土曜日に娘の結婚式があり、はるばる横浜まで出かけていったのだが、その時まではやはり憂鬱であった。そもそもいわゆる式典なるものが苦手で、単なる出席者だけでも気が重くなるのに、今度は娘の親として式に出なければならないのだから、憂鬱になって当然である。
 最初は娘夫婦は式など挙げないつもりでいた。しかし私の希望で式だけは挙げて欲しいと旦那さんになる彼に頼み込んでいるのだから、今更憂鬱だなんて言っていられるわけがない。しかし式場まで行く間、あるいはモーニングを着て、ピエロみたいな格好している自分の姿を鏡で見ると更に憂鬱になっていく。その上式の予行演習などされれば、ますます気持の方が落ち込んでいく。
 しかし親族だけの式を挙げてもらって、やっぱりよかったなと、式が終わってそう感じた。不思議なもので、自分の娘がきれいに見えたし、輝いているのを感じると、こみ上げてくるものがある。
 元々私は娘をとられたといった感じはなかったし、結婚そのものには反対していなかった。それよりも娘が幸せそうな顔をしているのを見るれば、よかったなと思っていたし、更に出来の悪い娘をやさしく見守ってくれる彼に感謝していたくらいだ。
 小さな式だったけれど、私にはどんな結婚式より感動的であった。
 式が終わった後、式場の近くのレストランで娘夫婦と、旦那さんとなった彼の親族と私たち家族は一緒に食事をしながら談笑する。この時私は柄にもなく浮き足立ってしまったのだろう。食事が終わりに近づき、デザートのコーヒーが出た頃、私は彼や彼のお父様や妹さんに挨拶をしたくなった。こんなことは今までの私にはあり得ないことであった。不器用に立ち上がり、今日こうして式を挙げてくれたことをお礼を言い、また娘を彼の家族の一員として迎えてくれたことにもお礼を言い、更にこれから先も娘を家族の一員として扱ってくれるようお願いしたのだ。
 
 翌日もまだ浮かれていたのだろう。息子が撮ってくれた式の写真をパソコンで整理していた。娘と息子の二人の写真を見て、更に感動してしまう。娘のうれしそうな顔と、普段無愛想な息子が笑って二人で写っているのである。パソコンの画面でその写真を見ていたら、急にここにあるすべてのjpgファイルを写真にしたくなった。すぐ近所の写真屋さんに行って、ここにあるファイルを全部2Lサイズの写真にしてくれと頼んでしまう。1時間後写真が出来上がって、会計をしたら、九千いくらとなって、呆然とする。俺はいったい何をしているんだと思ったのだ。
 案の定かみさんに怒られる。そうなのだ。普段なら写真にする場合、パソコンで選んでから、数枚写真に焼き増しするのだが、今回は何も考えず、ファイルすべてを写真にしてしまったのだ。しかも大きなサイズで。かみさんが怒るのも当たり前である。もちろん私も浮き足立っているのがわかったから、何もかみさんに反論できない。
 私は娘の結婚式もうれしかった。だからあり得ない挨拶を自らしてしまったし、息子が一所懸命姉の結婚式の写真を撮ってくれたこと、そして兄弟二人で笑っているツーショットを見て、更にうれしくなってしまったのだ。
 恐らく私の人生の中で、子供たちが生まれてきたことに次いでうれしかったのかもしれない。だから浮き足立ってしまった。今そんな自分が恥ずかしくて仕方がない。まさか私がこんなに浮き足立つなんて思いもしなかった。

2009年01月01日

謹賀新年

 まずは昨年末の様子を少し。
 12月30日までいつものように仕事をする。銀行が30日までやっているので、この仕事上どうしても付き合わねばならない。もっともこのことは仕方がないと諦めている。むしろみんなが休んでいるときに、仕事に出れば、普段とは違う通勤風景がそこにはあるし、街の人通りも、おそらく車も少ないに違いない。それはそれで眺めていると結構楽しい。最寄りの駅からは、すぐ座れる。いつものように本を取り出し、読み始めるが、ふとページから目を離して周りを眺めれば、皆さんお疲れの様子。なんでみんなが休んでいるのに俺は出勤しなければならないのだという雰囲気がありありと感じられる。
 会社について、パソコンに電源を入れ、ラジオのスイッチを入れれば、いつもの声が聞こえる。前の日に床掃除をしてもらったので、事務所全体が明るい感じがする。あらためて今年事務所の模様替えをしてよかったなと思った。とにかく全体がすっきりした。いらない書類もだいぶ処分したので、棚もすっきりしている。
 駅前のベローチェで買ってきたコーヒーをすすりながらまずはメールのチャック。ほとんどが迷惑メールだ。当たり前だ。だってみんな休みだから用件があるわけがない。一気に迷惑メールを削除して、仕事にかかる。銀行関係の手続きは前日にパソコンでやってしまったので、本日は請求書などの書類整理と現金の残高の確認をする。後、来月までの資金繰り表を作成して、これなら6日まで休んでもなんら問題ないなと安心する。すべて予定通りである。
 昼になり、事務所を出て、食事をするため秋葉原の中央通りまで出てみる。ここは結構人通りがある。若い連中が列をなして歩いている。こんな奴らの中から、異端分子が出てきて、あの事件がここで起こったのかなと思った。仲間意識や連帯意識があるように見えて、実は孤独感で一杯の人間が、ここにどれだけいるのだろうか?
 3時になり、当座の確認をして仕事を終える。いつものように社長に業務報告をFAXする。すぐに電話が入る。、「おつかれさん」と社長から言われ、細かい打ち合わせをして電話を切る。その後掃除を簡単にして、カレンダーを来年のものに取り替える。
 4時過ぎに鍵を確認して事務所を出る。途中岩本町のドトールによって、一人で「お疲れ様」という感じで、コーヒーを飲む。読みかけの本を取り出し、しばらく読み続ける。


 昨年は目標にしていた年間100冊読破の目標が社会人になって初めて達成できた。正確に言えば101冊読んでいた。まぁ、数多く読めばいいものじゃないことぐらいよくわかっているが、本を多く読めれば、それだけいい本に出会える可能性は広がるんじゃないかという意味で、いつも年始めに「年間100冊読破!」を目標にかかげるだけである。そしてそれが昨年達成できたということだけのこと。
 昨年の読書内容で一番大きな変化は、まず阿刀田高さんの作品に惹かれたこと。そして後半は吉村昭さんにも惹かれた。これが一番だ。
 私は読みたいと思った作家さん本をとにかくまず集めることから始めるので、阿刀田高さんや吉村昭さん本をせっせと集め始めた。幸い昨年4月に秋葉原に都内最大のブックオフができたので、せっせと通い本を集めた。お陰で結構本が集まった。もちろんその中の数冊は読んできたが、今年はこれらの本をじっくり腰を据えて読んでみたいなと思っている。
 また本棚の整理が途中で止まっているので、これも続けてやらなければならない。本棚の整理をしていると昔読んだ本などが気になりあらためて読んでみたくなるのだけれど、それもいいかもと思っている。
 本の整理といえば、昨年はちょこちょこ本をブックオフに売った。売ったというより処分したといった感じだ。今までなかなかつまらない本など処分できなかったのだけれど、こうして読んだ本のことをブログで書くことで、面白くなかった本が簡単に判断でき、売ろうかどうか迷う必要がなくなった。自分のブログで、つまらない!と書き込んだら、すぐブックオフ行きと簡単に気持ちの整理がつくのである。このため今年は全体として棚の本は増えなかったようである。これはブログをやっている予想しなかった効果であった。

 体調の方は昨年は一進一退を繰り返しているようではあったが、それでも少しは改善している感じがするので、このまま行けばいいなと思っている。歳をとってきているんだから、いつまでも若いときのようにはいかない。とにかく無理はしないようにしたい。無理はこたえる。そういえば、大学の友人の体調不良も気にかかる。今年会えればいいのだけれどと思う。
 1月には息子が成人式を迎え、2月には社長の叙勲のお祝いの会がある。3月には長女が結婚する。なんだかんだと激動の1年になりそうだけれど、変化がある中で自分を見失わないようにしたいと考えている。
 今年もこのブログにはどうでもいいことを書きつづっていくのだろうと思うけれど、お付き合い願えれば幸いです。よろしくおねがいいたします。

2008年09月13日

思うままに その12

 もう秋葉原で仕事を就くようになってから二十年以上なるのだけれど、最近の秋葉原の劇的変化は驚くばかりである。私が仕事の行き帰りに使うのは電気街とは反対の昭和通り沿いで、事務所はその奥にある。だからいつもは駅の前にある信号まで裏通りを歩いて駅前に出る。
 昨日久しぶりにすぐ昭和通りに出る道に出て歩いた。ここもヨドバシが出来てから、人通りが多くなって歩きにくい。相変わらず個室ビデオ屋さんが多く雑居ビルに入っている。いつの間にか“ピンク通り”と密かに言われ、この通りに「風とともに」というコーヒーを飲ませるケーキ屋さんがあったのだが、撤退してしまった。ここの店長とは顔見知りであるのだが、その人が通りに個室ビデオ屋が多くできて、女の子がケーキを買える雰囲気じゃなくなって、客足が大幅に減っちゃったからと言っていたのを思い出す。そうだよな。個室ビデオの看板を物色しているむさ苦しい男たちがたむろする通り、ケーキ屋さんは難しいだろう。
 昔、よく仲間と集まった焼き肉屋「大酋長」がビルのテナントに入っているけど、そういえば最近ここの社長さん見かけないなぁ。景気のいいときは、よくこのあたりを歩き回っていて、何度も声をかけられ、「最近どう?」と聞かれたけど。どうしちゃったんだろう?

 ところで昨日、この通りに看護士を見かけた。最初白衣を着ているから本当に看護士かなと思ったのだが、こんな時間に何人もたむろしているのもおかしい。しかも白衣がやたら身体にフィットしていて、しかもスカートの丈がかなり短い。顔を見てみると、ケバイ化粧、ああ、コスプレかとこの時点でわかる。
 メイドも数人いて、店の案内だろうビラを配っている。へぇ~、こっちの通りにもメイドがいるんだと思った。面白いもので、通りを歩く男性だけにうまくビラを渡す。女性が目の前を通るとさっと手を引っ込める。私も通りを歩いているので、当然彼女たちの前を通る。ビラを手渡されそうになったが、そんなのもらってもしょうがないので、無視するが、そのとき彼女の顔を見ちゃった。まさしく見ちゃったのである。

“□△○×・・・!?”

 思わずぶん殴りたくなる気分になる。ここのところ私は視力が落ちてきているから、遠くからではメイドがいるなとはわかるが、顔までははっきりしない。それで近くへ行って顔を見て驚いたわけである。こら!メイド服を着させりゃいいというわけじゃないだろうと言いたくなる。こんなやつがいるメイド喫茶かマッサージかなんか知らないが、行くやつの気が知れない。まったくどうかしているぜ。きっとメイドの質も落ちているんだろう(詳しいことは知らないが)。

 さて、いい意味でも、悪い意味でも、町が変化するというのがわかるのは結構楽しいものだ。まして私のように日常の行動範囲が狭い人間にとって、毎日の風景がいつも同じと感じるので、こうしたささいな変化に簡単に驚いてしまう。まして二十年まえこの通りがどんな通りで、どんな人たちがいたかを知っているものだから、ついつい昔と比べてしまうのだ。
 時代のサイクルがひどく短くなっているから、うかうかしていると変化に気がつかず、気がついたら大きく変わっていたというのが、ここのところの状態ではなかろうか。変わるきっかけはささいなことでも、変わり始めたらそのスピードはめちゃめちゃ速い。ただこの町の変化は、相手次第の受動的変化であって、どこかメインになるものが欠けている感じがする。無思想とでもいうのだろうか、ただここに新しい文化?が次々と出来上がってくる感じだ。
 町って、そこで住む人、商売する人たちがいて、全体を俯瞰しながら、人を呼び集め、活気をもたらすもんだと思っていたが、こういう無秩序でも成り立つものなんだと改めて思ったりする。というか、これだけ大きな町になってしまうと、そんなの関係ないのだろう。だってあらゆるところから人が集まってくるんだから、そんな悠長なことなどいってられないのが現実であろう。その中で商売するわけだから、それは激戦で、生きるか死ぬか、いつもそういう危機感でやっていかないとやっていけない。そして生き残ったもの同士が、新たな町を質を決めていく。そんな感じだろうか。確かに秋葉原変わった。

 旧岩本町としてやっていたブログが荒らされているのは知っていた。変な書き込みがされている。まったく困ったものである。こんなサイトをいじめてもしょうがないとは思うのだけれど、かといっていつまでもそのままにしておくわけにもいかない。
 で、もういつまでも岩本町時代を引きずっていても仕方がないし、当時せっせと書き込んだことにそれほど価値もないだろうと考え、一気に削除した。(気分がいい!)これで書き込みたくてもサイトがない以上、どうしようもあるまい。
 ただk-moto.netはこのままじゃ致し方ないので、全面改定することにした。直すといっても、昔みたいに凝ったことが出来ないので、ただ画像を貼り付け、リンクしただけのことなのだが・・・。
 というか、こうしてブログで簡単に画像を含めてアップできるので、ホームページを更新する細かい作業が必要なくなり、昔やったホームページの作り方を忘れちゃったのだ。だからこんなもんしか作れなくなった。でも、シンプルでいいでしょ?
 後は岩本町店の閉店間際の写真がいくつかあるので、それを思い出のアルバムとして残そうかと考えている。もしかしたら、昔の仲間が見てくれるかもしれないしね。でもなんか寂しい感じがしないでもないが、他に思いつかないので、これでいく。ここは入り口なんで・・・。

2008年09月04日

思うままに その11

 今日も仕事を早めに切り上げる。阿刀田さんの新刊が明日発売予定なのだが、もしかしたら一日早く店頭に出ているかもしれないと思い、書泉さんに寄ってみる。やはりあった。それを手に取り、さっさとレジへ向かう。棚など眺めていたら、他に欲しい本が出てきてしまうし、それに今は読みたい本がたくさんあるので、ちょっと新刊を買っていられないのだ。
 精算するとき、先月書泉さん専用のスクラッチくじを三枚もらっていたことを思い出す。いずれも末等の50円だが、三枚で150円引いてくれた。そしてまた一枚くじをもらう。
 後で削ってみたらやはり末等の50円だった。しかし書店でもらうくじってどうして当たらないのだろうかとふと思う。というか当たりくじはちゃんと入っているのかと疑いたくなるほど、当たらない。まぁ、当たりの数が少ないのが最大の原因だろう。だって粗利が少ない業界だけに、それほど身銭など切っていられないだろうし、それでなくても業界自体冷え込んでいるから余計であろう。
 さて、買った本を持って、岩本町のドトールにはいる。ここのところ毎日ここに来ている。小腹が減っているので、軽くパンを一個とコーヒーを注文して二階の窓際に座る。
 買った本を眺める前に、ブログに載せる原稿を推敲する。私はざっくりと文章書いてしまうので、後で修正するところが多く出てくる。今回も細かいところ直していたら、原稿が赤く染まった感じになってしまった。とりあえず直した。後はサーバーに送った生原稿(といってもテキストファイルだけど)を自宅のパソコンに落として、それをそのまま修正するだけだ。
 本当はノートパソコンを持っているのだから、それを使って、そこで推敲すればいいのだろうけど、どうもパソコンの画面で修正したりするのが苦手なのである。だからざっくりと書いた文章をプリントアウトして、そこで推敲することが多い。その方が楽なのである。

 文章を直しているだけで疲れちゃった。コーヒーすすり、パンをかじり、買ってきた本をパラパラめくる。何かすごく面白そう!予定を変えて、今読んでいるシリーズが終わったら、こっちを読もうかな。
 何か本を読む気力がなくなったので、社長からもらった今日発売の週刊新潮を鞄から取り出す。本屋を辞めて、本当に週刊誌を読まなくなった。本屋にいたときは、毎日その日発売の週刊誌を読んでいたが、それはただだから読んでいただけのことで、とてもじゃないが金を出して読みたいと思わない。面白そうな記事だなぁと車内刷りなど見て思うことがあるが、結局それを見るだけで事足りちゃうから、買う必要もない。
 相変わらずゴシップ記事満載で、野次馬的記事しか書かれていないが、まぁそんなもんだろう。福田首相退陣発表直後だから、まずはこれで持ちきりだ。
 年末のレコード大賞の受賞者がもう決まっているという記事もあった。知らなかったのだけれど、レコード大賞は12月31日じゃなくて、一日繰り上げて30日にやっているんだって?とにかく視聴率ががた落ちで、一日繰り上げることで、他社の年末やる番組にチャンネルを取られないようにしたらしい。記事よると大賞はEXILEだって。最優秀新人賞がジェロだそうだ。まぁ、これもどうでもいい。
 私的に一番面白いのは、「日本の恥」といわれてもWBC監督を目指す「星野仙一」の金と人脈だ。記事によると五輪惨敗のA級戦犯であるにもかかわらずWBC監督には星野さんが有力候補らしい。これってどういうこと?星野さんは政財界の大物とつながっているらしく、特に読売の渡辺会長に可愛がられているから、その線が強いらしい。またこのまま身をひいてしまったらオリンピックで惨敗した監督ということで、CMの主演料や講演料も下がっちゃうから、生活のためリベンジを望んでいるらしい。リベンジは結構だけれど、あれほど打てない選手やポロポロボールを落とす選手を選んだこと自体、監督失格だよね。采配なんていうのも感じられなかったし。コーチも仲良しを連れてきて陣立てしたけれど、やっぱり実戦でバリバリとやっている人にはかなわないじゃないかなぁ。オリンピック前の壮行試合で原監督率いる選抜チームにボロボロにやられたことがそれを物語っているじゃないの。
 それにこんな自分のことしか考えない、大言壮語しか言えない監督に選手がついて行くだろうか?特にイチロー選手なんか星野さんだったら出場しないんじゃないかなんて思ったりする。

 そうそう、りそな銀行から、法人用ネットバンキングのマニュアルが届いたんだったけ!。思いだし、それを取り出すが、パソコンの画面のイラストを見ただけで、「明日にしよう」とページを閉じる。
 昔だったら、パソコンで新しいことができたりすれば、結構ワクワクしたものだったけれど、今は「やれやれまたマニュアルとにらめっこか!」とうんざりしてしまう。たとえばこのブログMovable Type 3.2で動かしているけれど、今の最新バージョンが4.2である。先日Movable Typeを提供しているところから最新バージョンのお知らせメールが届いていたけれど、新機能が何が魅力なのか今ひとつピンとこない。それよりもそれに変えることの手間や、たぶん不具合が起こるであろうことを考えると、「いいや、これで」と思ちゃう。やっぱり歳なんですね。七日には五十二歳の誕生日を迎える。そして次の日、また大腸の内視鏡検査が待っている。一年に一回とはいえ、また二リットルの下剤が待っていると思うと、これも憂鬱だ。
 今週は怒鳴ったり、頼み込んだりして感情的に起伏の激しい一週間であった。明日無難に過ごせば、休みである。頑張ろうと思い、鞄から取り出した原稿や週刊誌、本などをしまい込む。重い。だって鞄には三冊の単行本が入っているんだから仕方がない。(考えてみると、仕事に持って行く鞄に三冊も本を入れている人間てそうそういないんじゃないかなんて思うけれど、どうだろう)

2008年08月13日

北京オリンピックと書泉

 正直北京オリンピックといって、浮かれる気分じゃなかったのだけれど(どうでもいいと思っていた)、やっぱり柔道は見てしまう。中学、高校と柔道をやっていたからだろう。だけど最近の柔道はレスリングみたいで、ちっとも見ていて面白くない。柔道は技をかけて、相手を投げ飛ばす方が、見ていてすかっとする。
 昨日たまたま帰りが遅かったので、家に帰って、酒を抜くために、テレビをつけた。柔道女子63キロ級で谷本歩実がオール一本勝ちでオリンピック二連覇を達成した場面をやっていた。
 谷本は相手の大内刈りをすかし、内またでぶん投げた。やっぱりこれじゃないとね!思わず力が入って、「よしっ!」と声を上げてしまう。一瞬で決まったから相手は茫然自失状態であった。投げた瞬間を見たくて、他のチャンネルに変えて、何度も投げる瞬間を見る。

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 そういえば彼女西葛西に住んでいたんじゃなかったけ?江戸川区の施設にでかでかと「谷本選手オリンピック出場おめでとう」と書かれた垂れ幕が下がっていたのを思い出す。同じ住民としてもうれしい。
 西葛西といえば、書泉の西葛西店が7月21日に閉店した。

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 以前からここはなくなるとは聞いていたが、やはりその噂は本当であった。ここの前をよくジャスコに買い物へ行くとき通る。何度か寄ったこともある。出来たとき、こんなところに店を作って大丈夫なのかなと思った。店の前はいつも自転車でいっぱいで、入り口がどこなのかわからない状態であった。どう考えても、これだけの自転車を乗る人がこの店に入っているとは思えない。多分違法駐輪だろう。駅前に自転車が置けないものだから、ここに停めておくのではないか。
 ネットでちょっと調べてみた。「書泉では、経営側の店舗拡大失敗のあおりを受け、40歳以上の5名の社員を除いて35名が『希望退職』の名のもと事実上の解雇を突きつけられようとしてている」らしい。会社は、これまでの経営責任には一切触れることなく、「予定人数が集まらなければ整理解雇する」と断言したという。
 昔ブックタワーが秋葉原に出来るというとき、社長他幹部数人と会ったことがある。その時社長さんは従業員が育ってきたので、神保町以外でも、出店して、ポストを作る必要性が出てきた。そのためとりあえず、秋葉原に出店を決めたと言っていたのを思い出す。その後ブックタワーで、何度か社長さんを見かけたことがあった。お店に似合わない、しょぼくれたじいさんがいるなと思って、よく見ると社長さんであった。
 確かこの社長さんも亡くなられたのではなかったか?いずれにせよ、この店舗拡大戦略が失敗したようである。書泉さんが秋葉原に出てきて、うちの二店舗あった店はつぶれた。うちの店が書泉さんの出店の影響だけでつぶれたとは思っていないが、少なからずその影響は確かにあったことは事実である。その書泉さんが今度危機に瀕している。変われば変わるものだ。今の時代、天下の書泉でさえもこんな状態なのだ。本屋経営はますます大変な時代に移っていく感じだ。

2008年06月05日

思うままに その10

 朝、天気がよければ、通勤途中歩いている。今までは進行方向の一つ先の駅まで歩いていた。しかし今は、一つ後戻りした方向へ歩くことが多くなった。というのも、後二つ戻れば始発駅になり、そこまで行けば、始発電車に乗れ、座れる。楽だからそうするところももちろんあるけれど、それよりも、座って本が読めるという利点の方が大きい。しかも約十分くらい地下鉄を長く乗ることになるので、それだけ読書時間が増える。もともと朝あわてて家を飛び出す方じゃないので、充分余裕を持っている。十分ぐらいどうってことはない。
 昨日は車内に病人が出たということで、電車が遅れたし、今日も先頭車両が故障したというので、途中で二十分ぐらい止まったままであった。面白いもので、このように電車の遅れがわかると、乗っている人は一斉に携帯電話を取り出し、通話ができないものだからメールを打ち出す。たぶん電車が遅れていることを伝えているのだろう。もちろん私には何ら影響はない。そんなこともあるだろうからという理由で、定時より早く事務所に着くようにしているし、もともと歩くためにそれ以上の時間を取っている。それよりも遅れたくれたお陰で、その分本が余計に読めるというのがうれしいくらいだ。
 始発電車に座ると、おもむろに本とメガネを取り出す。新しいメガネをかけるようになってから、裸眼で本が読めなくなってしまった。もともと私は遠近両用のメガネが必要なのだそうだが、それが苦手である。見る距離によって目の位置を変えたり、首を上げたり、下げたりするのが億劫なのだ。幸い、遠くの方は裸眼でもある程度見える。もちろん昔みたいによくは見えないけれど・・・。だから今回手元がよく見えるメガネにしてもらった。それを重宝しているものだから、もうメガネなしで本を読むことが大変になってしまい、手放すことができなくなってしまったのだ。本とメガネがワンセットになってしまった。
 ただこのように本だけじゃなくて、メガネも取り出さなきゃならないし、家でも同じである。その分余計な動作が必要になるが、それ以上にやっかいなのは、このメガネをかけていると遠くが見えない。いや、足下もぼやけてしまう。だから仕事や読書、あるいは手元で何らかの作業したあとは、必ずメガネを外さないとならないのは少々やっかいである。まぁこれも慣れだろうから、そのうち何の違和感なしに、必要なときはめがねをかけ、そうでないときは外すことが苦にならなくなるだろう。
 今朝も降りる駅の一つ前を過ぎたら、おもむろにメガネを外し、ケースに入れ、本を閉じた。ただ帰りがちょっと大変だ。まず座れることはないので、電車に乗って、立ったままメガネを取り出しかける。そして本を取り出す。降りる駅に着く前に、メガネを外し、ケースにしまい、本もしまう。この一連の作業を揺れる電車で立ったままするのに苦労している毎日である。

 開高さんの分厚い本を読み終える。最初その厚さにたじたじになったけれど、読んでみると、面白く、また懐かしく、ページが進んだ。
 私は読んでいる本が終わったら次にこれ読もうと、次を楽しみにする方なのだが、時たまその予定が狂うことがある。今回もこの後北尾トロさんの新刊の文庫を読んで、次に明日発売になるポプラ社の文庫を読もうと決めていた。ところが帰りに書泉さんに行ったら、フォーサイスの新刊を見ちゃったのである。あ~あ!勘弁してよ!予定が決まっているのにと思ってしまった。私はフォーサイスの作品にはすべて付き合ってきた。ファンなのである。だから当然これを買わねばならないし、すぐ読みたい。
 ということで、急遽予定を変更して、フォーサイスの新刊を読み始める。
「その若いタリバンのボディガードは、携帯電話を使えば自分が死ぬことになるとわかっていたら、むろん、そのようなことはしなかっただろう。でも、かれはそのことを知らなかったために、携帯電話を使い、死んでしまった」う~ん、出だしからワクワクする。
 
 ところで、書泉さんのカバーに支店名が一件なくなっているのが気になった。川口にあった書泉ブックドームは今年の1月に閉店したのだ。ネットで調べてみると売上低迷のため品揃えが悪くなり、フロアをどんどん縮小していって、最後は閉店に至ったとある。川口の人もお店の状況を見ていて、「そろそろやばくねぇ?」と感じていたらしい。聞くところによると、もう一店舗もやばいと聞く。
 私がひいきにしている(ついにひいきにしていると言っちゃった)書泉ブックタワーも営業時間を延長したし、競合店も有隣堂だけじゃなくて、ブックファーストもできちゃったし、都内最大のブックオフもできたし、大丈夫なのだろうか?一昨日文庫本を二冊買ったけれど、あのしおりが一つは新しいデザインのやつだったけれど、もう一枚が以前くれたやつで、見覚えがある。気のせいか紙の色が変色していた。どこかの料亭じゃないけれど、何か残ったやつを使ってないか、なんて感じたのだけれど。杞憂であればいいのだが・・・。関係者の方、頑張ってくださいね。

2008年04月24日

思うままに その9

 探している本があった。古本じゃないのだけれど、書泉さんや有隣堂、book1stでは見つからなかった。だけど錦糸町のくまざわ書店で偶然見つけたのだが、その時買うかどうか迷って結局やめてしまった。でも後で気にかかりどうしても読んでみたくなった。いつもそうなのだ。欲しいと思ってメモ帳に書名など書いておくのに、どういう訳か実物を手にすると悩んでしまう。
 で、仕方がないので、アマゾンで買おうと思いアクセスすると、もう新刊ではないようで、古本となっている。(この場合新古本というのか?)アマゾンにあれば他に欲しい本があるから1,500円以上にして送料をただにするのだけれど、アマゾン登録の古本屋さんに注文となると、送料がかかるから、ばかばかしいなぁとまた悩む。
 かといって、一冊の本のためにわざわざ錦糸町に出向くのおかしな話で、どうしようかなと迷ったところで、そうだ!天下の三省堂ならきっとあるんじゃないかと予想する。でも出向いていってなければこれも徒労に終わるしと、またここであれこれ悩む。とにかく仕事の帰り行ってみるかと、営業時間をネットで調べていたら、店頭在庫をインターネットで確認が出来ることがわかった。おお~、これはすごい! さっそく調べてみると、本店に在庫があることがわかる。しかも棚番号まで書いてあるから、ストレートにそこへ行けばいいことになる。ついでに先日買い損なったシムノンの本も調べてみると、文庫であることがわかり、これも在庫があることがわかった。 とぼとぼと雨の中神保町に出かける。え~と、17列のAだなとメモしていた棚番号に行ってみるが、ない。おかしいなと思い、目をさらにして探すが、やはりない。何だよ、役に立たないなと思いつつ、そうだ!この本はイタリアでの生活をつづったエッセイだから、旅行書のところにあるかもしれない。事実くまざわ書店ではそこにあった。で、旅行書はどこじゃと探してみると、ありました。平台にど~んと積んでありました。ネットはいい加減だけど、さすが天下の三省堂である。在庫は豊富である。もう一冊も見つけ、レジに向かう。
 レジではいつも「三省堂カードはお持ちですか?」と聞かれる。持っていないので、持っていないと言う。でもこの三省堂カードというのは気になっていた。帰りに三省堂カードの申し込み書と案内をもらう。要はポイントカードなのだけれど、他に面白い利用法もあるみたいだ。会費は無料なので、加入してみようかと思った。
 ところで、買った本に三省堂オリジナルのしおりがはさまっていた。会計の時、入れてくれたのであろう。三省堂はよく他の企業とタイアップしてその企業の広告の入ったカバーなど使っているので、それかなと思って何気なくそのしおりを見てみる。しかしこれは三省堂オリジナルのしおりみたいで、なかなか渋くていい感じだ。書泉さんのしおりも結構だけれど、ちょっと奇抜なところあるので、使えない時もある。しかし三省堂のこのしおりはいい。落ち着いた感じだ。
 だいたい企業の広告が入ったしおりだと、ページを開くたびにそれが目に入るのでうざったくて仕方がない。正直やめて欲しいなと思っている。(こだわり過ぎかもしれないけれど・・・)
 広告しおりといえば、買ったシムノンの文庫にも広告しおりが入っていたのだが、旧三和銀行の広告の入ったものであった。こういうのもおかしなものだ。本は物持ちがいいといえば、そういうことなのだろう。だから店頭に並んだ古い本でも、挟まれた広告はいつまでも残ることになる。

2008年04月23日

激変秋葉原

 秋葉原の筑波エックスプレスの駅入り口にAKIBA TOLIMというビルがまたできた。その四階にbook1stができたというので行ってみた。私はbook1stという名前の本屋にはいるのは初めてだ。しかし最初に感じたのは、なんか狭いお店だなとということであった。そこに迷路のような感じで背の高い棚を置かれている。ビルの入り口は健康的に明るいのに、中は今はやりの“癒し”に徹しているのか、またそうすることでちょっと格調高く見せるためか、わざと照明を落としている。たださえ通路も狭いところに、棚の威圧感もあり、本が見にくい。またこんなに死角を作っちゃうと、万引きやり放題じゃないか。隣には都内最大と宣伝しているブックオフもできるから大丈夫なのだろうか?
 またデザイン的に見栄えがいいものだから、本を面陳列し、表紙を見せる方法で棚に並べられている。これも最近のはやりのようで、書泉さんもここのところやり始めている。ただ書泉さんの方はあまりかっこよくない。本の表紙を見せる陳列方法は、全体がきれいに見えて、はじめてきれいに見えるものだが、元々本をつっこんでおく棚だから、面陳列をすると一部隠れてしまう。まして下の棚など屈まないと見えない。それに棚が貧相に見える。実際昔の棚の方がボリューム感があった。
 さて、book1stである。迷路のような店内を歩いてみたが、とてもじゃないが本を探す気になれなかった。まだオープンしたばっかりだからか、仕方がないのかもしれないが、この地域にどんな本を置いていいのかわからないから、まんべんなく置いてみたという感じがしてしまう。たとえばジュンク堂みたいなスペースを持って、何でも置いてあるぞ!というならともかく、このスペースじゃただ無個性になってしまう。もう少し的を絞って個性的な本屋にしないといけないんじゃないかなんて思った。せめてオープン前に市場調査をするべきだったのではないかなんて思った次第だ。
 ということで、さっさと店を出て、階下の無印良品の方へ行った。
 ビルを出てみると、秋葉原も若い女の子が多くなったなぁと思った。サーティーワンのアイスクリーム食べて、キャッキャ言っている姿など、一昔前には想像もできなかった。そういえばリュックを背負ったオタクちゃんの姿も見えないな。たぶんここじゃ彼らも居づらいのだろう。
 この駅前は以前やっちゃ場があった。そこから出る段ボールを集めるリヤカーを引いた汚いおやじたちがそこかしこにいた。おやじたちはリヤカーに目一杯段ボールを積み、前屈みになって重いリヤカーを引いていた。いつも通行人のじゃまをしていた。しかしこうも駅前が衛生的になってしまうと、居心地が悪いのか、最近はその姿もあまり見かけなくなった。
 歩道を我が物顔でリヤカーを引き、疲れればどこでも止める。中にはリヤカーを住み処にして寝ていた。お店をやっていた頃は、こうしたおやじが店の前にリヤカーを止めるものだから、営業妨害され、よく喧嘩をしたものだ。
 オタクにしても、リヤカーを引くおやじにしても、彼らが秋葉原にいたのは、秋葉原が今と違いどこか薄暗いところがあったからここにいられたのだろう。
 私は消毒されて、健康的で、むやみに明るい街というのはどんなものかと思っている。モダンなビルが建ち並ぶところを歩いていると、妙に疲れてくる。日本の伝統文化である“陰翳礼讚”はどこへ行っちゃったんだろうと思っちゃうのだ。そういう私の方が異常なのだろうか?

2008年04月09日

思うままに その8

 「思うままに」という題名はかなり気に入っている。というのも面倒くさがりの私には、もってこいである。だいたいこうして文章を書く場合、題名は本文を書いた後考えることが多い。最初から題名を決めていて書くことなどほとんどないといっていい。書いた文章に題名を考えるのが結構大変なのだ。

 さて、今朝電車の中刷りにマックの“メガマック”があった。最近このメガというのをつけるのが流行っているようで、マックに限らず、丼物や新聞の文字も“メガ文字”などといって宣伝している。
 私の友人でコレステロール値の異常で強制入院させられて奴がいる。こいつ強制入院させられてにもかかわらず、この“メガマック”を熱く語るのである。私など、こんなの胃が受け付けないから、聞いているだけで胃がもたれてきそうだ。とにかく一度は食べないといけないと言う。まったくバカとしか言いようがない。50になっても、若い奴と同じようにこんなものを食って喜んでいる神経がわからない。いっそうのこと狂牛病で死んでしまえ!と言いたくなるけれど、こいつが狂牛病を発症するまでには、コレステロールの異常で脳梗塞か何かで先に死んじゃうだろうから、そんなの関係ねぇと言えば関係ないのかもしれないが・・・。
 でも、“メガ文字”は最近いいなと思う。ちょっと前までは、たとえばでかい文字で印刷された本を見ると、なんだか損をした気持になったり、こんなでかい文字でないと一冊の本にならなかったんじゃないのかと疑ってみたりしたものだが、今は大きな文字の文庫本など有り難いと思う。
 特に古本などを読んでいると、まず文字の細かさにうんざりしてしまうのだ。そして案の定、その文字の細かさで読むのに苦労する。とにかく長いこと読めないのだ。間違いなく老眼が進んでいる。めがねをかけても、そもそもそのめがねの度があわなくなっているので、多少読みやすくなっても、基本的には変わらないのと同じである。やっぱりめがねを作り直さないといけないようだ。

 私たち家族はみんなめがねを掛けている。近所のめがね屋さんで作ってもらっている。最近は駅前にもいくつかめがね屋さんが出来ているので競争が激しいのか、頻繁にそのめがね屋さんからダイレクトメールがくる。だからいつものめがねやさんでめがねを作り直してもいいのだけれど、このめがね屋のおやじの印象が我が家族で芳しくないのだ。我が家では“ペッ、おやじ”と呼ばれている。
 このめがね屋のおやじはめちゃくちゃ腰が低くて、ホント馬鹿丁寧である。ダイレクトメールでもねじの調整だけでも結構ですから来店下さいともある。
 しかし見られてしまったのである。うちのかみさんに。どうやらこのおやじ我が家の近所に住んでいるみたいで、自転車で我が家の前の道を通る。そのとき、ペッ!と痰を吐いて通り過ぎたらしい。あのおやじがである。とてもそんなことをするとは思えないおやじがである。その瞬間、うちのかみさんはお店での態度に疑問を持ってしまったらしい。つまりお店での態度はきっとうそだ!本当の姿は、道に痰を吐き出す非常識なやつなんだと見抜かれてしまったのである。それ以来めがね屋のおやじは“ペッ、おやじ”と呼ばれるようになり、店での態度が嘘八百で、腹の中では何を思っているかわからんやつと烙印を押されてしまったのだ。
 当然ここでもう、めがねは作るのをやめようという話になってくる。さらにひどいことにここのめがねの作り方もおかしいという話にもなってしまったし、値段も高いということにもなってしまった。おやじにしてみれば身から出たさびかもしれないが、たった一つの行為が家族5人分の客を失ったことになる。
 ということで今回私のめがねを作り直すのも、当然この店ではない。駅前に出来た新しいめがね屋となった。ところがここのめがね屋は“ペッ、おやじ”のところよりも馬鹿丁寧の二乗的な接客をする。まずは冷たいお茶を出し、私の目の具合を計る前に、店長がまず顔写真付きの名刺をくれる。その名刺がいかにもパソコンで作ったとわかる代物なのだが、とにかくいろいろ計測するのに何と一時間ほどかかる丁寧さなのだ。待っているかみさんには、その間備え付けの雑誌を差し出しくれ、暇をつぶしてもらう計らいよう。
 そして会計となるのだが、ここで担当者が変わり、別のねえちゃんとなり、また名刺をくれる。店長と同じものだ。やっぱり名刺は印刷したものの方が箔があっていいと思うのだけれど、どうであろうか?どうもパソコンで作ったやつは、まず紙がインクジェットでしみた感じになってしまい、ぶよぶよな感覚がある。それに二枚もお店の人の名刺をもらってもしょうがない。
 そして最後は我々が店に出て、ほぼ姿が見えなくなるまで、入り口のところで頭を下げている。ちょっとやりすぎのような気もしないでもないが、こういう接客を喜ぶお客がいるのだろう。こうまでしないとこの業界は生き残れないのだろうか?
 ところで肝腎のめがねの方だが、これが時間をかけただけあって、非常に見やすい。どうも私は乱視で右左の視力が極端に違うらしく、これが疲れの原因にもなっているらしい。今度のめがねは手元をよく見えるようにしてもらった。これで本を読むのもかなり楽になりそうである。
 ただここでレンズを合わせることも出来るけれども、レンズをフレームにあったように軽く、薄く仕上げるには、工場で仕上げてもらった方がいいというので、そうしてもらった。来週できあがる。楽しみである。

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2008年04月05日

思うままに その7

 処方せんを書いてもらうために病院に行く。ここのところちょっと胃に痛みがあるときもあるので、今回痛み止めが出た。そして今月19日に胃カメラ検査をやることとなった。まぁ仕方があるまい、とほほ・・・。
 天気もいいので、また神田の古本屋でも出かけようかなとも思ったが、コーヒーを飲んでいたら、なんだか気が変わり、そのまま帰る。
 で、かみさんと葛西にあるジャスコに買い物に出かけた。途中桜並木になっている道を通るが、もう桜の花が散り始めていて、それが風で舞って桜吹雪となっている。桜並木が結構長いこと続いているものだから、幻想的な感じであった。
 まずは餃子の王将で昼飯を食べ、そのあと、斜向かいにあるドトールでコーヒーを飲んでいると、“本”を逆さに描いた看板があるリサイクルショップが目に入る。個人がやっているのか、どこかのチェーン店とは違いこぢんまりした店である。本よりゲームソフトがメインで、地元の子供相手の店みたい思える。でも逆になってはいるけれど、本と名のっている以上、多少は本もあるだろうと思い入ってみた。やはり予想した通り、ゲームソフトやコミックが中心のようだが、それでも奥には書籍や文庫棚があり、きれいに並んでいる。これは予想外だった。そして文庫棚を見ていたら、阿刀田さんの探していた『好奇心紀行』を見つける。今まであっちこっち探してもなかったので、ネットで買うしかないかなと思っていたのだけど、こんなところで見つけるなんて、思わなかった。早速棚から取り出しレジへ持っていく。予想もしていないところで、探していた本が見つかるのは、結構うれしいものである。
 家に帰り、くつろいでいたところ、埃っぽくなっているサーバーが気にかかる。きっと中も埃がたまっているんだろうなぁと思い、ちょっと掃除をしてやろうという気になった。
 私のサーバーはDELLのPower Edge420SCというやつで、ものすごく安く手に入れたものだ。こやつ安い割には働き者で、文句も言わず働いてくれている。会社の事務所においてあったときは、埃など気にかからなかったのだが、自宅においてあると、どうしても家庭内の埃がついてしまうようだ。久しぶりに電源を落とし、配線を外し、本体の中身を開けてみると、埃がたまっている。まずはエアーダスターで奥に入った埃を吹きだし、それを掃除機で取り除く。なんか風呂上がりのすっきりした感じに見えた。ちょっとは喜んでくれたかもしれない。きっともう少し長く働いてくれることだろうと期待しつつ、配線をし、電源を入れる。
 サーバーや周りをきれいにしたら、今度は隣にあるデスクトップの埃が気にかかった。今、私はほとんどこのデスクトップは使わない。いつもノートパソコンで作業しているので、デスクトップの方はほとんど気にしていなかった。この際だからついでに掃除をしてやろうと思ったのだけれど、こっちは配線が入り組んでいるし、周辺機器もいっぱいくっついているので、掃除を始めると、大がかりになる。時間的に厳しいと思ったので、明日に回す。
 ということで、明日やるべきことが、本を読む以外に一つできた。

2008年03月22日

春の古本屋巡り

 東京の桜が開花したそうだ。天気がものすごくいいので、ちょっと古本屋さんでも歩こうかなとふと思う。そうだ阿刀田さんの本を探してもいい。思い立つ日が吉日である。花粉症のマスクを持って出かけた。いや~本当にいい天気だ。歩いていて気分がいい。これで花粉がなけりゃもっと爽快な気分になれるのにと口の周りを被っているマスクを鬱陶しく思いながら歩いた。
 神保町の古本屋さんをまずはワゴンの中にある文庫本などを見て、それから店内に入って棚にある本を眺めてみる。巌南堂書店に入る。開高健さんの本がある。ここにある本はすべて、所有しているのだが、値段が気にかかる。たとえば文藝春秋社の『私の釣魚大全』はなんと6,000円とある。私はかなり前に初版本じゃないが同じ本をかなり安く手に入れたと思う。初版本じゃなかったからそうなのかなと思ったが、私は初版本コレクターじゃ別にないので、関係ないがそれでも6,000円は高いなぁ。ガラスケースには、開高さんのサイン本が数点並べられていた。開高さんのサインがあると万単位になる。開高さんのサイン本は持っていないのでちょっと欲しくなるけれど、自分の財布の中身と分相応じゃないなと思い諦める。
 それにしてもさすがこのガラスケースに並べられた本はきれいだ。真新しい本にはない風格がある。ちょっとした美術品みたいである。そういえば今読んでいる司馬遼太郎さんの本に「新刊本には新鮮な果実のような魅力はあるが、こくのある醗酵食品のような古本の魅力に、しばしばおよばない」と書かれていたが、まさにその通りだと思う。
 さて、ゆっくりと靖国通り沿いにある古本屋さんを歩いて、まずワゴンから箱入りの旺文社文庫を手にした。長谷川博隆さんの『シーザー』である。確か長谷川さんは先日読んだ『ハンニバル』を書いた著者だったはずだ。だからこの本は買いだなと思い、読んだ後“シーザー萌え”の大野さんに差し上げてもいいしななんて、勝手なことを思いながら100円を払った。
 旺文社文庫って、もちろん今はないけれど、このように箱入りの文庫本だった。私も一冊ぐらい箱入り旺文社文庫を持っていたと思うが、文庫が箱入りなんて面白い。それ以外に図書館用にごっついハードカバー装丁で文庫本も出していたように記憶している。
 こうして棚の本を見ているとなんだか昔の友人に会ったような気がする。
 私が本屋に勤めたのはもう三十年以上も前のことなのだが、当時勤めた本屋さんの棚にあった本が今古本屋さんに並んでいる。古本屋さんの棚を見ていると、“ああ~こういう本があったよなぁ”と懐かしくなるのである。また自分が以前持っていた本で古本屋さんに売ってしまった本など見つけると、“そうそうこの本読んだよなぁ”と思うのだ。
 当時勤めていた本屋さんの棚に同じように並んでいた本が、今では片や古本屋さんのお店の棚にパラフィン紙などつけて大切に扱われ、片や外の吹きさらしのワゴンの中に100円均一で売られ、まったく待遇が違うのは面白い。三十年という月日が本の価値を変えてしまったのだ。

 さて阿刀田さんの文庫本が案外見つからない。やっと探しているエッセイ集を一冊を見つけたくらいだ。値段は315円。まぁいいところだろう。面白いもんで、この後行った東京堂のふくろう店で「ふるほん文庫やさん」が出店している。ここでは絶版の文庫本を置いていたのだが、同じ本が680円となっていた。これを見たとき“得したな”と思った。ちょっと前にここで岡茂雄さんの『本屋風情』を見かけたのだけど、高かったのでやめた記憶があるが、どうも「ふるほん文庫やさん」は値段が高いような気がする。
 昼飯を食べていなかったので小諸そばを食べる。実を言うと私はここのかき揚げそばが好きなのだ。時計を見るとまだ二時前である。天気もいいし暖かいし、もう少し足を伸ばして早稲田の古本屋さん巡りをしようかなと思ったのだが、さっきから腰に軽い痛みを感じていた。ここのところ疲れがたまっている。あまり無理をするなという警告かなと思い、無理すると後で大変なことになるのはわかっているので、ここで切り上げた。早稲田の古本屋さん巡りは今度にしようと思う。

2008年02月08日

再び売上スリップにつて

 売上スリップについて、そのままにして万引きと間違えられたことはもう一つのブログに書いた。またこの売上スリップのことを書きたい。妙に売上スリップにこだわるじゃないかと言われそうだけど、別にこだわっている訳じゃない。ただ懐かしくもあり、おかしくもあるから書きたいだけなのだ。
 この売上スリップの構造は、片割れが補充注文書になっており、もう一方が報奨金になっている。(もちろんすべてそうだというわけじゃなく、報奨金がついていないものも数多くある)
 つまりお客さんがレジに本を持ってきたら、店員はまずこの売上スリップを抜く。書店のカウンターには必ずこの置き場所がある。で、ある程度一杯になると、それぞれ切り離し、まずは補充注文書から売れた本の補充をする。お店のストッカーに在庫してあるものがあれば、そこから引っ張り出し、なければ、それを問屋の注文に回す。
 時にはお客さんが持ってきた本に売上スリップが外れてしまってないものもある。その場合その後補充が出来なくなり、欠本のまま機会損失につながるから、必ずその本の書名などを書いておかないといけない。今はポスレジやVANもあるから、売れればそのまま問屋に注文にすぐ回せるから、それほど神経質にならなくてもいいのかもしれないけれど、私が小さな書店員の時はそうしていた。いや今でも中小の本屋のおやじさんはスリップの注文書を束にして問屋をかけずり回っていることだろうと思う。
 スリップの片割れが報奨金になっている。文庫だと多分一枚一円だったと思う。これを百枚数えて一組にして、出版社送る。そうすると郵便為替で報奨金が届く。今はやっているのかどうか知らないけれど、新潮社は、文庫の売上上位店を海外旅行に招いたりする。当社も景気のいいときなどは招待された。私はそれで香港へ行った。
 またたとえ報奨金がついていなくとも、その出版社の売上スリップをまとめて、出版社に送る。それは自分の所ではおたくの出版物をこれだけ売りましたよと出版社にアピールすることで、少しでも新刊の配本や注文をよくしてもらおうという主旨からそうする。中小書店のむなしい行為なのである。
 しかしこの売上スリップの管理が結構大変なのだ。ただでさえ中小書店のおやじさんは店に立ったり、注文書を問屋に探し回ったり、あるいは本を配達したり、時間がない。必然的に休みを利用して、せっせと売上スリップを振り分け、まとめている。まぁ、まとめるだけ能がない。スリップをまとめると、自分の所の売れ行き動向も把握できる。それを使って月刊ベストなど作ったりする。
 ということで、これをやり出すと結構な時間を要することになる。昔お店の責任者を負かされていた頃は、未整理の売上スリップを家に持ち帰り、部屋中広げてまとめていたことをふと思い出した。当時は何をするにしてもすべて手作業の時代だったんだなと改めて思ってしまう。でも、手作業で苦労していると、嫌が上でも本の知識が身につき、それが頭に焼き付いて、いっぱしの書店員になっていたと思う。今みたいに何を尋ねても、ちょっと待ってくださいねといいつつ、パソコンで検索するのとは訳が違う。これだとパソコンが操作できて本が好きな奴なら簡単に書店員になっちゃう。コンビニの店員となんら変わらない。そんなもんじゃないだろうと声を荒げて言いたいのだけれど、時代がそうしちゃっているのだからどうしようもない。たぶんどこの業界でも似たような現象は起こっているのではないか?スペシャリストは養成するには時間とお金がかかる。そして彼らが一人前になったらなったで、今度は彼らを雇い続けるにはコストがかかる。だったらスペシャリストはいらない。将棋の駒みたいな奴で結構ということになる。後はコンピュータとマニュアルがあれば何とかお店を維持できるシステムを構築すればいいだけなのだ。

 話がずれた。そんなことを書くつもりではなかった。売上スリップの件である。
 ところでアマゾンで本を注文すると、売上スリップがついたまま届く。アマゾンはこの売り上げスリップをそのまま読者に渡しちゃうのだから、報奨金の部分は放棄したことになるのだろう。でも考えてみると、一枚一円を数えて、まとめる手間を考えれば、報奨金よりコストの方がかかるのは必然的だ。だったらやらない方がましなのはわかるような気がする。なに、一枚一円、けっ!といったところだろう。
 注文だって間違いなくコンピュータ管理しているはずだから、入庫と在庫はリアルタイム把握出来ているはずだ。発注点を決めておけば勝手に注文してくれることだろう。
 アマゾンにとって文庫の売上げスリップはゴミでしかなく、抜き出すにも手間がかかるし、抜きだせばどこかに捨てなきゃならんのだから、それならそのまま読者に渡してしまえ!きっと読者はしおりとして使うんじゃないのというぐらいの扱いなのだろう。もちろん出版社にゴマをする必要もない。
 ただたとえば限定出版や高額商品につく報奨金の額はちょっと馬鹿に出来ないような気がするので、このあたりはどうなっているのか知りたいところだ。フランス書院のエロ文庫など一枚十円だけど、これまとまると案外馬鹿に出来ないような気もするが、考えてみればアマゾンでエロ文庫を注文する奴はそういないかなんて思い直す。

2008年01月27日

本の注文をして、新しいページを開くとき

 ここのところアマゾンで何回か本の注文をしている。昨日も二冊文庫本が届くはずであった。家に帰ってみると、確かにアマゾンから荷物が届いている。ところが、文庫本二冊の割には、大きな箱で届いた。思わず「やべぇ!文庫本じゃなくて単行本を注文しちゃったかな」なんて一時不安になる。しかしよく考えてみると、注文した本は文庫本でしかないはずで、単行本が届くはずがない。で、開封してみると、底の方に文庫本が二冊梱包されて入っている。とりあえずは一安心した。けれど、たかが文庫本二冊でこの梱包はないでしょうと思う。私の方は送料無料だから、どんな梱包でもかまわないけれど、何かもったいない気がしてしまう。
 以前にも書いたけれど、私はアマゾンでの注文に関しては、賛成派である。いいと思っている。ところがリアル書店の方々は苦々しく思っていらっしゃるようだ。本は本屋さんで買ってねというのが彼らの主張である。もちろんそうだと思うけれど、しかしその本屋さんに求めていた本がなかったから、アマゾンで注文したのだ。といって本屋さんの品揃えが悪いなんて思っちゃいない。これは仕方がないと思っている。だって私が今回求めた本自体が絶対に棚に常備されている本じゃないからだ。
 こう考えると、本屋さんが読者のニーズにいかに応えるかというのは、むずかしい問題のような気がしてしまう。どんなお客さんが来るかわからないし、そのお客さんがどんな本を求めているかもわからない。しかも本そのもののアイテム数があまりにも膨大である。その上店そのものスペースも限られている。となればお客さんが多分求めているだろう最大公約数を店に並べることになるのは仕方がない。その為それが裏切られれば、品揃えの悪い本屋だということになってしまうわけである。
 で、お店でなかった本を注文することになるのだが、これがまた面倒くさい。しかも馬鹿な書店員を相手にしなきゃならないので、鬱陶しい。何とか手続きを済まし、一週間から二週間待つことになる。はっきりした入荷期日がわからない。入荷したらしたで、また足を運ばなければならない。
 最初は私も元書店員として、本の注文は本屋さんでしていた。けれど、アマゾンの注文を覚えてしまうと、とてもじゃないがそんな面倒なことはやってられなくなってしまう。アマゾンはネットで注文すれば、入荷期日がある程度はっきりしている。しかもメールで出荷したことも教えてくれる。支払もカード支払なので、受け取るだけでいい。
 ただ自分が注文した本から、こんな本もありますよと教えてくれるのはちょっとまずい。ついつい誘惑に負けてしまいそうになり、ほぉ~こんな本もあるのかと触手をのばしたくなっちゃうのだ。そこはしっかりとした意識を持って拒否させていただく。
 ということで、ここのところアマゾンからのメールが多い。先日はアマゾンと契約している古本屋さんから古本を買ったので、その古本屋さんを評価してくれというメールが届く。そのときは二冊古本を買ったものだから、それぞれの古本屋さんはどうだったかを教えてくれと二通のメールがあった。基本的に届いた本に関しては満足していたので、最高評価をして返信した。

 アマゾンのこうした丁寧な対応をみていると、リアル書店のあり方がむずかしくなってくる。どんな読者にも対応できるほどの在庫を持ったジュンク堂みたいな本屋さんしか生き残れないんじゃないかなんてやっぱり思ってしまう。ただジュンク堂で欲しい本を探すのは結構大変なので、在庫を膨大に持てばいいというものでもない。探すだけで疲れちゃうのだ。
 こうなってくると、欲しい本があれば、これからはまとめてアマゾンで注文しちゃおうかなんて今考えている。そこで思うのだけれど、アマゾンの存在を苦々しく思っているリアル書店の方々、特に中小の書店のおやじさんに言いたいのだけれど、あなた方アマゾンで本の注文をしたことがありますか。けしからんと思うだけで、アマゾンで本の注文をしたことがないのではないか。一度アマゾンで本を注文してみれば、あなたの店の対応がいかにひどいものかおわかりになるんじゃないのですか!まずは敵を知るべきである。

 さて、その注文をした本を開く。本の最初の一ページ目って、ちょっと緊張する。この本が期待しているような本なのか、どうか。それによってページが進むか、進まないか、結構最初の書き出しににかかっているように思える。うん!なかなかいい感じじゃないか。このまま面白くなればいいのだけれど・・・。
 それより先ほど読み終えた本のことをブログに書く原稿がうまくまとまらない。どう書けばいいかなぁと悩んでいる。今回もパスしちゃうかななんて、そんなことが頭をよぎる。

2008年01月15日

新小岩

 先週からかなり寒い日が続く。通勤途中が寒いのでそれまで着ていたコートからオーバーコートに変え、手袋をするようになった。今までほとんど手袋なんてしたことがなかったのだけれど、なんか急に欲しくなった。手袋をはめるとどうしてもぱんぱんと両手をたたきたくなるのは何でだろうか?

 さて、昨日新小岩に行った。ほんと久しぶりである。今は都営新宿線の駅が近くにできたので、JRは私用ではほとんど使わなくなった。それ以前は東京メトロの東西線を使っていた。
 私が新小岩駅を利用していたのは、東西線や都営新宿線がまだこちらまで開通していなかった頃で、その当時はどこに出かけるにしても都バスで新小岩駅まで行き、そこから国電に乗るためであった。だから新小岩は身近なところでもあった。
 中学、高校と写真をやっていたので、現像液などの消耗品を駅前のカメラのタカノで買っていた。今はここはなくなっており、ゲームソフト屋さんになってしまっている。駅横には、西友があって、屋上には映画館もあった。よく怪獣映画をここで見たものだ。映画館の横には喫茶店もあって、高校時代かみさんとここに入ったこともある。確か冬の寒い頃だったと思うけれど、ふるえながらクリームソーダを二人して飲んだことを覚えている。その後駅から二人でとぼとぼと自宅まで歩き、帰った。今は西友も食品館だけになってしまい、建物はそのまま残っているけれど、ほとんどが飲み屋と食べ物屋となってしまっている。
 駅前は相変わらず狭いロータリーなので、車を止めるところがない。近くのコインパーキングに車を止めて、アーケード街を歩いた。ここはほとんど昔と変わっていないようだ。もちろん細かく見れば、店も変わっているのだろうけれど、最近よくある商店街のようにシャッターが閉まったところはない。結構人も歩いている。年寄りが多いが、中には若い奴も歩いている。
 第一書林もあった。昔よくここで学参を買った。当時ここが一番参考書が揃っていた。一階、二階とあり、店の形が逆L字の入り口より奥に伸びた店であった。ブックカバーがカッパの絵が描かれた茶色のものであった。今もそのカバーなのだろうか。本でも買ってカバーをつけてもらいたかったが、あいにく欲しい本がなかった。
 そして今は奥の部分がなくなって当時より狭くなってしまっている。近くにきれいな競合店ができているので、結構厳しいのだろうか。品揃えも貧相で、当時の面影はない。
 自分の会社が本屋をやっていて、まだ勢いがあった頃、問屋の日販に接待を受けたことがある。多分そのときだと思うのだが、我が社の担当の森下さんが、この新小岩のアーケード街に自分の行きつけの店があるといって連れて行かれたことがある。それがどの辺なのか今では見当もつかないけれど、たしかアーケード街の横の道を入ったところだったと記憶しているが、それ以上はわからない。どんな感じのお店だったのかもよく覚えていない。ただ自分の知っている人が新小岩に止まり木を持っていたことが妙に新鮮だった記憶があるだけである。あの店は今もあるのだろうか?
 その後森下さんは営業から店売の係に変わってしまい、店売の商品を並べていたけれど、なんか元気がないように感じた。そういえば日販のおつきあいのあった方々はどうしていらっしゃるのだろうか?当時それなりの年齢だったからもう退職されているのだろうか?それとも偉くなられて、残られているのだろうか?

 ということで、ここを歩きながらいろいろなことを思い出す。かみさんが買い物をしている間、寒い中ゆっくりとアーケード街を歩いた。昨日は成人式だったので晴れ着姿女性が寒い中歩いていた。古めかしいアーケード街にちょっとした華がある感じで、なかなかよかった。

2008年01月06日

余裕のある生活をめざして

 正月これといって何するわけでもなく過ごしてきたせいか、今日午前三時に目が覚める。まだ三時だから寝ようと思っているうちに、だんだん目がさえてくる。仕方がないので起き上がり、コーヒーを入れ、こうしてパソコンに向かっている。
 結局正月休みも一冊も本が読めなかった。でも、散歩がてらブックオフに行って、これといって目的もなく本棚を眺めていたり、あるいは自分の本棚を眺めているうちにちょっと頑張って読んでみようかなという気持ちになりつつある。
 先日書いたように、今年はのんびりと本を読もうと思っているので、学生時代読めなかった本などじっくり腰を据えて読んでみてもいいんじゃないかなんて思っている。
 考えてみると、いつも新しい年を迎えて思うことはこの「のんびりと過ごす」ということを思うような気がする。毎年そう思うということは、そのように過ごせていない証拠なのだろう。そして一年が終わって、へとへとに疲れている自分を見出す。でもいい加減、この歳になってくると、がむしゃらに生きるということはできなくなってくる。そもそも持続力がない。そして思うような結果が見いだせず、イライラしてしまうし、焦ってしまう。この繰り返しだったような気がする。楽しい時間を過ごすことがだんだんできなくなっちゃうような気がしてきて、これはやばいなと思うのだ。

 届いた年賀状を見ていると、一言近況など書かれていて、へえそうなんだ思えるものが何枚かある。わずかな記述なんだけれど、そう思わせてくれるだけでも、なんか有り難く感じてしまう。捨てたもんじゃないな。私みたいに半ば仕方がないから書いたのとは基本的に異なる。面倒だけれど仕方がないと思いつつ書いているのと、確かに面倒なのだけれど、それでもそれを書くにあたりちょっと椅子を座り直して書いているのとの違いだ。気持ちの持ち方に大きな差がある。
 結局自分に余裕がないから、面倒だと思うのだ。すべての面で自分の余裕のなさが表れてしまい恥ずかしくなってくる。
 だから今年こそは自分に余裕のある一年を過ごしたい。できる限りイライラせずおおらかな気持ちで一年を過ごせればと思うのだ。そんな中で自分がこれから先本当にやりたいことは何なのかその一端でも見いだせれば自分にいいんじゃないかと思うのだ。ブレーキをかけながら過ごしてみたいのだ。人は人。自分は自分だもんね。

2008年01月03日

新しい年を迎えて・・・

 ブログを始めるようになってから、下書き用のファイルを用意して、一年間それを使う。そして新しい年を迎えると、新しいファイルを作る。最初は一太郎を使っていたのだが、その下書きをそのままコピーして使うと、変に改行されたり、文字の間があいてしまったりするので、秀丸を使ってテキストファイルで残すことにした。以来、今年も一年間この秀丸を使って、「書きかけ-日々是好日(2008).txt」を用意して、この文章を書いている。まずは、


新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいいたします。


 新年早々、昨年のスランプを引きずっており、年末から新年にかけて、一冊も本が読めない状態である。これは昨年の11月あたりから続いており、自分でもどうしようもない状態に陥っている。
 で、どうしてそうなってしまったか自分なりに考えてみた。
 昨年、密かに一年間で100冊本を読んでやろうと企んでいた。もっとはっきり言うと、一昨年もそう思っていた。しかし一昨年はそれができなかったので、昨年リベンジじゃないけれど、頑張ってみようと、私にしては結構ハイスピードで本を読んできた。といっても本を読むペースは決まっているようなので、後は本を読む時間を一日のうちどれだけとれるかで、読める冊数が決まってくる。そのため仕事以外ではほとんど本を読むことに費やしてた。これがまずかった。いつの間にか本を読むことが義務になり、それがストレスとなってしまったのではないかと思うのだ。
 年間100冊なんて私には無理だと分かった。無理なことをしたって仕方がない。しかもこうしてブログに書くとなれば、それだけで結構時間を必要とする。焦っているうちに時間がなくなっていき、最後は本も読めない。そしてかろうじて読んだ本のことも書けなくなってしまった。
 そのため今年は無理なことをせずに、のんびりと本を読むことにした。そして読めるまで開店休業になってしまうけれど、それも仕方がないと思っている。
 好きで本を読んでいるのにそれがストレスになってしまうのでは、話にならない。とにかくのんびり、気ままに、余裕をもって今年はやっていきたいので、更新はかなりペースダウンすることになると思います。ですから思い出したときで結構ですから、ちょっと覗いてくれれば有り難いです。
 とにかく新しい年はスタートしました。私はスタートダッシュはできそうもありませんが、何とか最後まで同じペースで完走できればいいなぁと考えております。