2011年10月31日

本を処分する

 この月末の土日に本棚の整理をやった。整理というより、本の処分である。いつかやらなければならないと、ここのところ感じていて、延ばし続けていたのだが、どうにも本が本棚に収まり切らなくなってしまった。棚に収まらない本は、棚に積み上げたままになっている。
 東日本大震災にときにも、棚に収まっていない、積み上げた本が落ちてきた。幸いその時はそれほど冊数がなかったので、大事に至らなかったが、今度同じ規模の地震があったら、大変なことになる。
 それと私の年齢も問題となってくる。私の本棚は玄関から二階に上がる壁面に吹き抜けで作られている。そのため高いところにある棚は、階段と途中にある梁に板をかけて、そこを渡りながら本の取り出しや、棚に収めたりする。今はまだ足腰がしっかりしているから、そんな高さなどなんともないが、そのうちそこに上ることもできなくなる。つまり遅かれ早かれ高い位置にある棚の本には手が付けられなくなる。今でもどうでもいい本がそこにあるのだが、まずはここにある本を処分してしまい、空いたところに、読み終えて、もう絶対に読み返すことのない本に置き換えた方がいい。
 次に文庫本である。とにかく冊数が多い。昔に買った本が数知れずある。読んだ本も多数あるが、未だ読み切れない本もかなりある。さらに後で全集を買ったために、同じ作品が重複しているものもある。ということで、基本文庫本はほとんど処分することにした。全集も不要なものを3点ほどまとめて処分することにした。
 その結果かなりの冊数の本が処分の対象となった。どのくらいあるだろうか。千冊近くあるかもしれない。ほとんどが文庫本なので、売っても大した金額にはなるまい。もちろん高額で買い取ってくれれば、それに越したことがないが、期待はしていない。ただブックオフには売れない。なぜならブックオフでは値段が付かない古い本が多すぎるからだ。だからせめて古本として付加価値を多少でも認めてくれそうな神田の古本屋さんに電話をして、引き取りに来てもらうように手配する。引き取りは今週の土曜日となった。

 さすが処分する本がこれだけでると、棚の方はすっきりする。
 ところで処分する本がこれだけあると、どこか感慨深いものが出てくるはずである。そう思っていた。私は二度ほど大々的に本を処分したことがあって、古本屋さんが引き取っていった後の自分の本棚を見て、呆然となったものだ。その時もやむにやまれず処分したのだが、できればそのまま置いておきたかった。本には一冊、一冊、思い出がつきまとっている。ときにはあの本は売らなければよかったと後悔したこともあった。
 以来もう本は絶対に売らないと決めていたのだが、やはり売ることになってしまった。けれど今回は昔のような感慨にふけることはなかった。むしろさっぱりした気分になったのを驚いている。これでよかったんだ、と思った。
 何かの本に、古本は抱えるではなく、流通に回るようにすべきだと書いてあったことを思い出す。私が今回売ろうとしている本が再度古書業界で環流するかどうか分からないけれど、中には誰かが探し求めている本もあるかもしれない。自分の本棚に眠ったままでいるよりも、だったらその人のために回した方がいい。本の命がまた蘇る可能性があるからだ。
 それとこれだけ自分の本棚がすっきりすると、気持ちが楽になるのを感じる。気がつかなかったけれど、ここに積み上げられていた本は、私の精神に妙な圧迫感を与えていたことを知ったのである。数の多さがそうしているのか、それとも本の内容が自分の能力以上のものなので、私の気持ちを重くしているのか、よく分からないが、とにかくすっきりとした棚からは、そうした圧迫感がない。それだけでも棚を眺めても、安らぐ感じがする。残った本は本当に自分の好きな作家の本と、読みたいと思っている本だけになった。
 昔は広く浅く様々なジャンルの本を読みたいと思っていた。それはある意味自分にそれを課していたところもある。もちろん専門的な本は読めないけれど、もう少しくだけて頑張って読めば読めないことはない本なら、ちょっと頑張って読んじゃおうかな、という本読みをしてきたところがある。しかしこれは結局ところ、どこか背伸びをしている。本を読むことを楽しんでいない。まして読んでいてもまったく理解できないとなると、何のために本を読んでいるのか分からなくなってくる。私はどこかで“知的”に見られたかったのかもしれない。そうして本ばかり増えていったのだろう。
 もう年齢的にこれから先どれだけ本が読めるか分からないけれど、それだってそう多いものじゃないと思う。だったら自分の好きな作家の本、本当に読んでみたいと思う本を読む方がいい。今更気取ったところで、どうなるわけでもあるまい。そんなことを思っていたから、処分される本に未練はないし、残った本をゆっくりと読んでいけるという安らぎを覚えるのだろう。これからはますます偏った本の読み方をしていくことになるだろうけど、それは自分にあった本なのだから、それでいいのではないか、と思っている。

2010年12月10日

小切手

 小切手を切るたびに、昔何かの映画かテレビドラマの中で、偉そうなじじいが金額の入っていない小切手を、相手に渡し、「好きな金額を書き入れろ」といったシーンを思い出す。
 とにかく小切手を切ることが少なくなった。この仕事に就いた頃は、まだ取引先がたくさんあって、集金に来る人間に小切手を切って渡していた。小切手は切っても、すぐ落ちない。2日ほど余裕がある。これが当時大事であった。とにかく資金繰りに苦労していた頃だったので、この2日間でお金が集まり、それを決済に回し、何とかしのいでいた。こういう時は日銭商売はありがたい。
 集金に来る人間にとってみれば、振込や引落にしてくれた方が楽である。小切手はたかが一枚の紙切れであるが、それを受け取り、会社の経理まで持って行く間は現金を持ち歩いているのと同じなのだから、その分神経を使わなければならない。これがやっかいである。一度その小切手をどこかに紛失したと言って、大騒ぎした担当者がいたこともある。
 しかしだからといって、それを振込や引落に出来ない事情がこっちにあるものだから、かわいそうだとはわかっていても無理を言って小切手の支払いをしていた。
 しかし事業を縮小して、本来の商売だけに整理すると、取引先が減り、多少資金的にも余裕ができはじめたので、今ではほとんどが振込か自動引落である。振込は手数料や手間がかかるため、問屋などはほとんどが自動引落にしている。そのため小切手を使わなくなった。今では源泉税を支払うときと、一つだけ取引先で小切手で支払うだけとなった。後はスポットで発生する場合のみだ。それも来年からは減るので、月1回になるだろう。
 というぐらい小切手を使わなくなった。昨日その小切手を1枚切って、やっと1冊が終わる。1年かかっていた。小切手帳も昔は600円だったと記憶しているが、今では1冊2,000円であるから、馬鹿にならない。使わなければ使わない方がいい。
 小切手を切らなくなったということは、チェックライターも使わないことになる。このチェックライターは私がここに来てからしばらくしてから買ったものだ。それまでは数字をぐりぐり回して合わせ、数字一字一字押しながらやるタイプのものであった。これが壊れちゃったので新しくものを買ったのだ。もちろん金額を入れれば一気に金額を書いてくれる。
 そのチェックライターの印字が薄くなってきた。これを買ってから一度もインクの補充をしたことがなかったのだ。まして小切手を切る機会が少なくなれば、その必要性もなかったのである。でもさすがにこれじゃ薄すぎるな、と思ったものだから、インクを補充しようと思い、それを求めようとしたが、そもそもこのチェックライター自体廃盤となっているので、インクもアスクルや大塚商会のカタログに載っていない。何とか大塚商会の担当者に手配してもらった。もしこのまま何もしないでいたら、インクも手に入らなかったかもしれない。
 小切手を1冊使い切ったので、新しい小切手帳にすぐ使えるように、会社のゴム印と「銀行渡り」というゴム印押しておく。そのつもりでいたら、その「銀行渡り」のゴム印が見あたらない。ないことはないのだが、どこにしまい込んだか忘れている。あっちこっち探して見つけたものの、ゴムがもう堅くなってしまって、使い物にならない。このゴム印は私以上にこの会社にいたものだろう。だいぶ昔から使われてきたものだ。仕方がない。ヨドバシの事務用品売り場で買うかとのこのこ出かけるが、置いてない。アスクルや大塚商会のカタログに載っていない。
 最近はアスクルや大塚商会の宅配のおかげで近所の文房具店もなくなってきているから、こういう時困る。幸い昔からここにあるはんこ屋さんがあったので、やっとそこで新しいものを求めた。

 小切手1枚で、こうも自分の周りが変わってしまったんだな、と思った。昔はとにかく小切手を使い支払いをしてきた。問屋やメーカーへの支払い、給料も現金で配っていたので、その現金を求めるため、総額を小切手に記載し、裏判を押して現金化してきた。それがパソコンのおかげで、事務所にいながら画面上で支払いが出来るようになった。
 でもこうなってきたのはつい最近のことだ。そんな昔の話じゃない。しかし一度こうも便利さ、手間のなさを享受してしまうと、これが当たり前にになってしまうから、元に戻れない。あるいは戻ろうとすると不便を感じてしまう。それでいてちゃっかりしているところはいつまでも持っている。
 支払いを振込にする場合、出来るだけそうしないで、自動引落にする。そうすれば手数料を銀行に持って行かれなくてすむ。あるいはどうしても振込にしてくれと言われれば、手数料はそっち持ちだぞ、と確認する。またはコンビニ支払いにすれば、手数料がかからない。コンビニはすぐ近くにあるから現金は持ち歩く不安もない。まぁこのあたりは意地もあるので、そうしているところもあるのだが・・・。ここまで徹底してくると、そうすることが喜びに変わっちゃう部分もある。相手にすれば“せこい奴”と思われているんだろうけどね。

2010年09月15日

クレーム

 大学を卒業して群馬に引きこもったままの友人に電話をした。その時の会話で自分の体温の熱がなかなか引かないことを言っていて、痛く同感した。それは暑いだけでなく、冷房の利きすぎた場所に長くいて、身体が冷え切ってしまうと、いつまでも寒い状態が続くことも言う。要するに自律神経がおかしくなっているんだろう、と思われるが、この時期これが堪える。とにかくこの猛暑である。長いこと暑いところにいれば、やたら身体が暑くなり、その熱が引かない。そして暑いから冷房の利いたところに行けば、今度は冷えすぎてしまい、そこを出てもいつまでも寒いのだ。外はものすごい猛暑なのに、身体の方は冷たい感じがいつまでも残る。
 そこへ胃腸の弱いのがたたり、今度はお腹が痛くなって、トイレに駆け込むはめとなる。
 先日昼飯を食べにファミレスへ行ったのだが、ここの冷房の利き方異常なのだ。最初は暑い外から入ったものだから、一瞬、「おっ涼しい!」と声を上げるほどなのだが、席についてしばらくすると寒くなってくる。まわりを見渡すと、女性など何かを羽織っている。すごいのは運ばれてきた料理がすぐ冷たくなってしまうのだ。これじゃここに長いこといられない。といっても自分一人じゃないので、かみさんが食べ終わるのを待って、慌てて外に出る。しばらくすると案の定お腹が痛くなり、何度もトイレに行く始末。
 せっかく胃腸の調子が良くなりつつあったのに、また逆戻りだ。ものすごく憂鬱になる。不愉快になる。
 こうなると黙っていられない。(嫌な性格だな、と我ながら思うが)そのファミレスのホームページを探し、クレームのメールを入れてしまった。
 その返信があり、申し訳ないということが書いてあった。そのファミレスの本部からも指導するという。こうなるとやり過ぎたかなとも思う。
 インターネットが普及して、利用者のクレームが言いやすくなったところがあると思う。特に私は腹が立つと文句を言いたくて仕方がないところがあるので、その便利さを利用して簡単に文句を言ってしまうところがあるかもしれない。何もこのファミレスだけじゃない。結構いろいろなところでクレームのメールを出している。これじゃまるでテレビでよく見る、すぐ文句を言うおばちゃんとかわらない。ただこれだってメールという簡単な手段で相手に伝えられるということがあるからで、文句を言おうとしてわざわざ手紙などを書く気にはなれない。多分どんなに腹が立っても、手間などを考えたら、面倒になり、諦めてしまうだろう。
 これでも一応文句を言う場合でも、それ相応にわきまえてはいるつもりでいる。どう考えたって文句の言えた筋じゃないだろうという場合は、当然諦める。
 たとえば以前ブックオフで吉村昭さんの単行本を105円で買った。状態としてはかなりいい物であった。正直なところこれを手にした時、これはラッキーとさえ思った。それでもこれが105円というのはおかしくないかと疑ってかかり、ページに線など引いてあるからじゃないかと思い、ページをパラパラめくってみた。問題はなかった。だから私はそのままその本を持って会計する。
 家に帰って、その戦利品を取り出してみると、なんと見返しに著者のサインがあった。それだけでなくそこにはこの本を最初に買ったであろう人の名前も吉村さんの名前と一緒に書かれていた。要するに吉村さんのサイン会がどこかであり、この本を買った人は吉村さんに自分の名前を書いてもらった上にサインをもらったのだろう。これで105円の理由がやっとわかった。もちろん腹が立ったが、105円で文句を言えた筋じゃない。これで文句を言えば、だから105円だったですよと言われるに違いないし、105円で文句を言うなよと言われのがオチである。だから素直に諦める。もちろん読みたかった本なのでちゃんと読んで、後はブックオフに売り飛ばす予定の本の中にこの本を入れる。出来れば私の蔵書として置いておきたかったのだが、これじゃ置いてはおけない。
 ということで、それなりに自分の立場をわきまえた上で、文句を言っているつもりでいるのだ。そしてクレームに対して対処してくれれば、お礼のメールはいつも出している。今回も対処してくれたと言うから、ご配慮ありがとうございますといった返事を出した。そのくらいは礼儀である。

2010年06月18日

時代遅れ

 昨年の秋歯医者に行って、半年たったので健診を受けた。健診は問題はあったにせよ、それの対処するには秋がいいだろうということになって、一日で終わった。
 通っている歯医者は新橋にある。新橋には私が初めてアルバイトした本屋がある。だいぶ前にちょっと顔を出したことあって、当時一緒に働いていたいた人がまだ勤めていたので、今日もお会いできるかなと思い、ちょっと帰りに寄ってみる。
 新橋も私がこの店に通っていた頃とはだいぶ様変わりして、道がよく分からなくなってしまった。通りが変わったのではなく、通りに面しているお店がほとんど変わってしまっているので、記憶にある目印がなくなってしまっているのだ。多分ここだったよなと思いつつ先に進む。やっと昔の面影がある通りに出て、お店に入る。私がいた頃とは店名も場所も変わっているが、社長は変わっていない。そしてなじみの顔がレジにある。やっ、歳をとったなぁと思わせる。

 「こんにちは。お久しぶりです」

 「あっ、誰かと思った」

 「お元気そうで」

 「うん、でもお互い歳をとったね」

 「確かに」

 といった感じで会話が始まる。彼から見ると私もかなり歳をとったように見えたのだろうけど、彼もいかにも小さな本屋のレジいるオジサンになっていて、妙にこのお店にあっている。ここにしかいないといった感じだった。
 お店は一階が新刊書籍や雑誌などで、二階が文庫や実用書が置いてある。お店の雰囲気は昔の社長と変わらず、いかにも神経質な人が経営しているたたずまいであった。私にはそれが懐かしい。
 考えてみると、町の小さな本屋さんに入るのは久しぶりだ。大書店か、この店よりもう少し大きめのチェーン店にはよく行くが、個人経営本屋さんはここしばらく入っていない。というかそういうお店が身のまわりからなくなってしまい、入りたくても入れない。
 ここでも厳しい状況とこれから先の不安感を聞かされる。まったくこれからこうした本屋さんはどうなってしまうんだろうと思ってしまう。少なくともここは私の原点であるから、その思いは大事にしていきたいと思っているのだが、夕方サラリーマンが帰宅時間で歩道には多くの人が歩いていても、お店にはお客が入っていない。確かにこれは厳しいなと思ってしまう。
 何か本を買いたいなと思い、2階に上がって文庫を物色する。これといって欲しい本があったわけじゃないのだが、何か買いたいと思って何とか2冊ほど手に持って彼に渡す。懐かしいデザインのカバーをかけてくれる。紙質、色は私がいた頃と変わったし、店名も社長の名前に変わったけれど、基本的にデザインは変わっていない。ふとこれが欲しくて文庫本を買ったような気がしてしまった。
 社長とはお会いできなかったけれど、

 「社長や皆様によろしく伝えて下さい。それではお元気で」

 「また寄ってください」

 と言われお店を出る。ここは私にとって青春の一コマにある場所であり、あの時私のまわりにいた人たちの顔をいくつも浮かんでくる。私はここに2年いたのであった。

 6月15日の「日経スペシャル ガイアの夜明け」で“電子ブック”の衝撃 活字市場はどう変わるのか?”という番組をやっていた。iPadの登場で、日本の出版界を大きく変える予感をさせる取り組みが出版社、書店でもう始まっているというものだ。
 テレビを見ていてiPadは今まで本というメディアでは表現できなかったことを可能にさせ、ビジュアルに楽しく見させてくれることを教えてくれる。それはたくさんの可能性をここで試せるんだなと思わせるし、編集者もそれに心躍らして、様々な企画を出していく様子が映し出される。それを見ただけでも、まだiPadが出始めたばっかりなのに、これはホンとすごいことになりそうだなと思ってしまう。
 逆にこれに中小書店はどう対応していけばいいんだろう。中小書店がまとまって一つの会社として仕入をし、販売方法を考えるNET21というのを特集する。やっぱり個で太刀打ち出来ない以上、まとまるしかない。それも若い力を駆使してだ。この取り組みは面白い。
 たとえばiPadを店頭用のディスプレイとして使い、お客にiPadを自由に操作させ、下に平台に置いてある本の内容を表示させる。そしてそれが面白ければ現物を手に取らせる。中小書店にとってiPadは宿敵なのだろうけど、それを利用してしまうという発想は面白い。ディスプレイとしてはかなり高い投資だろうけど、iPadの高機能を逆手にとってしまうのもなかなかものだ。こういうのもありだなと思った。
 それにしてもiPadの可能性はホンと未知数だし、たくさんの面白いことを見せてくれそうだなと思い、これがもっともっと普及して身近になればいいと思う一方、多分私はiPad世代にはなれないんだなと思う。少なくと自分が抱えている本を眺めると、私はこれから離れられないだろうし、ここを拠り所としてこれから先も本を読み続けることになるだろうなと思った。
 私が老眼鏡をずらしながら見にくい文字を必死になって読む姿の横で、iPadを指先でページをめくるようにして読んでいる若いやつがいるのを想像しちゃう。河島英五の“時代遅れ”が出て来るではないか。

 「目立たぬように はしゃがぬように/似合わぬ事は無理をせず/他人の心を見つめ続ける/時代遅れの男になりたい」

 時代遅れの男に進んでなりたいとは思わないが、嫌が上にも時代遅れにならざるを得ないのだから、寂しいものだ。だったら無理をするなとこの歌は教えてくれているのだろうか?

2010年06月09日

連景

 帰りに電車が来たので、慌ててエスカレータを駆け下りて飛び乗った。セーフ。飛び乗ったから入り口近くで本を読もうとしても身動きできない。仕方がないので、窓越しを眺めるが、地下鉄なので外を見るといっても何もない。
 いくつか駅を過ぎ、私のいる側の扉が開く。どうしてかよく分からないが扉がなかなか閉まらない。ホームを眺めていると、杖をとんとんしながら障害物を探しながら、それをよけるようにまた後戻りする女性がいる。それはまるで障害物に当たると方向を変え進み、また障害物に当たると、方向を変えて進むおもちゃの車のように見えた。明らかに彼女は自分の行くべき道を探しあぐねていた。そして電車を降りた人たちは何もなかったかのように彼女を追い越していく。誰も彼女に声をかけようとも、助けようともしなかった。私は電車を降りて、彼女の側に行き、「改札に行かれるのですか?」と声をかける。彼女は「反対方向の電車に乗ってしまい、乗り換えたいのです」、と言う。
 この駅は他の路線の乗り換え駅にもなっているので、反対のホームに行くのは大変である。目が見える私でも大変だと思った。だから私は「わかりました。いま駅員さんを呼んできますから、待っていてください」と言い、ホームにいた駅員さんに「目の不自由な女性が電車を間違えて、反対方向に来てしまったらしい。助けてやってください」と言うと、駅員さんはにっこり笑って、「わかりました」と、彼女に近寄って、彼女を導いていった。
 結果私はまったく用もない駅に降りてしまい、次の電車を待つこととなった。自分が乗る駅で慌てて電車に乗った意味がなかったなと苦笑いをする。まあ世の中はそんなもんだ。ただあの駅員さんの笑顔が素適だったと思った。
 よく目の不自由な人が杖で探りながら、目的の道へスムースに進む人を見かける。その度にすごいなと思う。またそうなるまでには大変な苦労をしてきたんだろうなとも思う。しかし彼女は自分が間違った方向の電車に乗ってしまったと気がつき、降りて乗り換えようとしても、まったく知らない駅で、かなり不安だったろうなとも思った。それが彼女の動きに出ていた。だから私は電車を降りてしまい、彼女に声をかけたのだ。ただそれだけである。
 彼女が行ったりきたりしているのを、後ろから追い越していく人が多くいた。その人たちを非難してもいいのだろうけど、そんなことをしても何もならない。私だってどこかで同じようなことをしているかもしれない。結局私も含め、みんな自分のことで精一杯だから、他人様がどういう状態であっても、気持がそちらに向かないのだから仕方がない。
 ただ私はその時彼女に声をかけた。それだけだ。彼女はやさしい駅員さんに導かれて、もとに戻って、自宅にでも帰って行ったのだろう。もしかしたら彼女は外出されることに慣れていないのかもしれない。だって間違った方向の電車に乗ってしまったくらいだから。でも思うのだ。これに懲りず、積極的に外に出て行ってくれればいいなと、オジサンは青臭く思うのである。何かおかしいな私は・・・。


 最近偶然なのだが集英社文庫を続けて読んでいる。その集英社文庫のデザインが気にっている。集英社文庫も著者別に背表紙を色分けするデザインに変えた。そういえば中公文庫も読売新聞に買収されてからカバーのデザインを変えたけれど、これはどうも垢抜けない。原色がきつく感じ、昔の中公文庫の方がシックでよかったなと思う。
 カバーの表紙のデザインはさすが雑誌の集英社といえるほど、垢抜けていて、いい感じだ。私は読み終えた数冊の集英社文庫を机に並べて、それを楽しんでいる。文庫のラインナップも感性が生かされて、みずみずしさがある。私の知らない作家さんの本に出会えるのはうれしい。どこかで集英社文庫の目録をもらってきて、眺めて見たくなった。


 今読んでいる本が途中で終わってしまうので、鞄にもう一冊文庫本を入れて家を出た。その本を読み終えて、新しい文庫本を取り出すのだが、慌てて鞄に詰め込んだものだから、カバーをつけるのを忘れた。会社に着いて、自分がいた廃業した本屋で使っていたブックカバーが残っていたのでそれをつけた。昔取った杵柄じゃないが、手際よくはさみを入れてカバーをつける。うん、きれいにつけられたじゃないか、と思った。
 今は市販の革製のブックカバーを使っているので、本屋さんで買ったときつけてもらうカバーは外してしまうのだが、時たま紙のカバーが恋しくなる。だからその外したカバーを取ってあるのだが、それを改めてつけるときがある。多少以前の本の折り込みがあるけれど、それをつけてみると、やっぱり本屋さんのブックカバーはいいもんだ。だからそれが恋しくなるのだろう。
 しかし他店のブックカバーをうまくつけられないのだ。いつものように切れ込みを入れて折り込んで、テープを貼って止めるのだけれど、どこかたるみが出来てしまう。きれいじゃないのだ。何度やってもそうなってしまう。もう、お客さんが持ってくる本に毎度カバーをかけていたときからだいぶ時間がたってしまっているから、腕が鈍ってしまったのだろうと思っていた。
 ところが自分がいた本屋で使っていたブックカバーをつけたとき、きれいにつけられたのだ。偶然といってしまえばそれまでだけれど、一発できれいに本にカバーが出来たことにちょっと驚いてしまった。やっぱり長いことそのカバーを使って、お客さんの本にカバーをかけてきたから、私の手にはそのカバーが馴染んでいたんじゃないかと思ったのである。無意識に切れ込みを入れるところ、折り込むところをそのカバーだと覚えているのではないかと思った。面白いものである。


 テレビでくだらないダジャレのCMが流している大塚商会の「たのめーる」に消耗品を注文した。私の場合担当者に直接メールで注文する。そうしたら30分ほどしたら、その担当者が事務所に来る。メールを見たからと言って。聞いたところによると、会社にメールをすると、会社から持たされている携帯に転送されるらしい。ふ~ん、そうなんだ。もちろん会社からの連絡もそこに来る。要するに営業はその携帯でがんじがらめに縛られているということらしい。担当が言うにはこの携帯にはGPS機能も密かに搭載され、更に監視されているんじゃないかと会社で噂になっているという。やるじゃん!
 ところでこの担当者、若いのによくやってくれていて、私はかなり信頼しているのだけれど、もしかしたら来月異動になるかもしれないという。私はよく仲良くなった担当者が後任を連れてきて、異動になりましたという挨拶を何度も受けてきた。しかしその後任のほとんどが、私のいる事務所に来ない。前任者は電話や近くに来ましたからといってよく顔を出していたのに、担当が変わった途端、一切音定無しの状態となる。もちろん前任者はきちんと引き継ぎはしているのだろうけど、どういうわけか後任の足はこちらに向かないようだ。たとえこちらが用があって電話などして話をしても、素っ気ない。
 でもその気持ちはわからないわけじゃない。前任者の開拓したお客には前任者のしがらみがある。後任者にしてみれば、それが鬱陶しいに違いない。ときには前任者が無理して取ってきたお客であるから、その無理を聞かなければならない。それって結構納得できないところがある。どちらかと言えば自分が新たに開拓してきたお客の方を大切にしたいという気持の方が強いに決まっている。だから疎遠となるのだ。私だって、仕事を前任者から引き継いだとき、やっぱり前任者のような仕事をしてこなかった。むしろ馬鹿にしていたから余計である。
 まあ、もし異動になったらちゃんと引き継ぎをやってくれればいいし、後任が私を相手にしなければ、「アスクル」にまた変えればいいんだからと言ったら、「私も担当が変わちゃえば、後任がどうしようと関係ないですよ」と言う。まあそんなもんだ、と大笑いした。あんまり長居しているとそのGPS携帯で上司が見張っているぞと言ったら、慌てて帰って行った。


 朝傘を持って会社に行くのが嫌いだ。だから出来るだけ持ってでない。ただ最初から雨が降っていれば当然差して行くし、帰り間違いなく雨が降るというなら、持っていかないとならない。折りたたみもあるけれど、折りたたみは小さいので、どうしても腕などぬれてしまう。だから長い傘を持っていくのでけれど、それを持って歩くのが鬱陶しい。
 今日も出かけに傘を持っていくかどうか悩んだ。午後からは曇りなのだけれど、朝は途中で降られる可能性があるとかみさんは言う。あくまでも可能性だ。
 以前ならテレビとネットで天気予報を確認していたが、地デジになってからデータ情報を駆使して、あっちこっちのチャンネルで情報を得ているのがわかる。その結果持っていった方がいいということになった。やれやれ・・・。駅に行くまでの間、傘を持っている人が少ない。やっぱりそうだよな。今降っていなくて、午後から傘が必要なければ持っていかないよなあ・・・。
 ところがやっぱり雨が降り出した。この時ばかりは持ってきてよかったと思うし、傘を持っていない人が走って行く姿を見て、ちょっと優越感にしたるのだが、それでも結構傘を差している人が多い。案外用心している人が多いんだなと思ったし、私みたいに無理矢理傘を持たされた人が多かったのかもしれない。

2010年05月16日

東京スカイツリー

 別にここでスカイツリーの建設記録をアップしているわけでもないが、どうしてか気にかかる。だから時々写真などアップしたりしているのだが、たまたま土日の散歩で近所を歩いていると、遠景からその姿が望める。たとえばここは一之江インター入り口なのだが、ここからスカイツリーが見えるので驚いた。やっぱり東京タワーの高さを超えると、ここからでも見えるのだ。
 だったらもう少し先の、環七と京葉道路の交差点当たりだと、もっとはっきりと見えるのではないかと思い、先を歩いてみると、やっぱり見える。しかも多少大きめにだ。


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 たぶん周りに邪魔なものがなく、ちょっと高い所だったら、今ではこの当たりでもその遠景が望めるのだろう。

 先日用があって押上に行った。ここはスカイツリーの建設現場である。駅を出ると、バ~ンとその姿が見える。見えるというもんじゃない。とにかく高い。見上げなければ、一番先の工事しているところが見えないのである。首が痛くなるほどの高さだ。しかもちょうどこのとき逆光でスカイツリーと太陽の光が重なり、目も痛くたってくる。


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 しかしこれらなら、私の住んでいるところからも見えるのも当然だと納得する。駅前には多くの人が、その全貌を携帯やデジカメで撮ろうとしている。
 でもどうしてまだ建設途中のスカイツリーをみんなはカメラに納めようとしているのだろうか。その過程を記録するのだろうかと思う。たぶんこれはちょっと前にやったオールウェイズの映画の影響だろう。あの映画では建設中の東京タワーが、CGで合成されていた。あれがカメラ好きの日本人にはたまらないのだ。東京タワーがこんな風に作られていったんだよ、というようにスカイツリーもこんな風に高くなっていったんだよ、と何十年も先にお宝映像みたいに披露したいのだろう。気持ちとしてよく分かる。ネットでもその映像を個人でアップしている人が多くいる。それに記録写真というのは、ストレートに歴史を物語る。
 人間は昔から高い建物が出来上がると、その大きさ、高さに驚き、見上げてきた。時にはそれがその町の人の誇りともなり、時には旅から戻ってきたとき、自分の町の高い塔や教会の先端当たりが見えてくれば、帰って来たんだと安心してきた。高い建物は人に高さ故に偉大さと誇りと安心をあたえて来たのだ。かしこまってその人の心理を分析するつもりはないが、何故か高い建物は人をワクワクさせる。たとえバベルの塔のように、高い建物を建てようとする人間の奢りを神が怒ってしまっても、そうしたいのだ。いつの時代でも高い建物を建てたいという気持ちは人間の本能なのかもしれないな、と思ったりする。
 私も機会があれば、ミーハー的にスカイツリーの模様をここにアップしてみたいな、とそれほど意味もなく思う。

2010年04月17日

期待

 先月と今月で期待の本が二冊出た。ダン・ブラウンと村上春樹さんの新刊だ。ダン・ブラウンの方は先月の月初めに出て、すぐ買って読んだ。しかしこれははっきり言って面白くなかった。期待が大きかっただけに、このショックは大きく、変に期待を持って読むと、その期待が大きい分、つまらないといっそう面白くなくなる。だから本は期待して待たない方がいいのかな、と思う。

 昨日村上春樹さんの『1Q84』のBOOK3が出版された。ちょっと前に三省堂の本店へ行ったとき、発売日までのカウントダウンを示す日数が書かれた横断幕がかかげられていたので、書店側もかなり期待していたに違いない。
 4月8日の読売新聞に

 「1Q84『3巻』 10万部増刷決定
 新潮社は7日、4月16日発売の村上春樹さんの小説『1Q84』BOOK3について、予定していた初版50万部に加え、10万部の増刷を決定したと発表した。発売前から、予想以上に書店や読者からの反響が大きいためという。昨年刊行されベストセラーとなったBOOK1(132万部)、BOOK2(112万部)と合わせた累計部数は、これで304万部に達した」

 とあるから、期待しないわけにはいかないだろう。当日朝、ニュースで深夜営業している本屋で午前0時に売り出し、行列を作って買っていく姿が放映された。丸善の丸の内本店でも午前7時から売り始め、次々と買っていく姿が映し出される。
 それを見て、やばぁ、これはもしかしたら今日買えないかもしれない、なんて思ちゃったのだ。馬鹿みたいに焦り始める。書泉は10時半からだし、それより早く買えるとなるとヨドバシにある有隣堂か、とあれこれ考える。こんなことなら三和図書の高橋君に注文しておけばよかったかなと後悔し始める始末。
 とにかく今日買って、すぐ読みたい。そのために本を読むスケジュールを調整して空けておいたのだ。なんとしても手に入れねばならぬ。朝銀行に行ったついでに、有隣堂へ寄ると、たくさんあるじゃないか。よくよく考えてみれば、たかが本である。しかも記事にあったように増刷しているのだ。そんなにすぐなくなるはずがない。いいようにニュースに踊らされちゃった自分を深く反省する。
 で、とにかく一冊持ってレジへ行く。さすが朝だとカウンターにいる店員は少ない。お呼びがかかったので、その彼女に本を渡し、有隣堂方式の本のカバーにカバーを掛けてもらう。胸元を何気なく見ると研修中と書いた名札がぶら下がっている。そうか、この子は研修中なのか、と思ったのだが、それにしても胸元を大きく開け過ぎでしょう。いくら統一された服装でも、これはどうなのかな?と思うが、野暮なことは言わず、これも有隣堂オリジナルのサービスとして考えることにし、ちょっと目の保養をさせて頂いた。
 後で気がついたのだけれど、買った『1Q84』を取り出すと、売上スリップが抜いておらず、そのまま挟んであった。やっぱり彼女研修中なんだなと改めて思った。ちゃんと抜かなきゃいけませんよ。

 『1Q84』が平積みにされた台に、有隣堂オリジナルのフリーペーパーが置いてあった。もっとも大したものではなく、よくあるでしょう、予算のない書店が店員を総動員して作る小冊子、そのくせやたら細かく書き込んであるやつ、あれが置いてあったので、一冊頂いてくる。とにかく村上春樹という人が書く本はいろいろな読み方出来るもんだから、分かったような分からないようなことがあれこれ書かれている。中に「人物相関図」もあって、これはBOOK1と2を読んで時間がたってしまっているので、忘れていることも多く、これを見れば、そうか、そうだったと思い出せて重宝した。
 最後のページに大きく“4/16刊行予定!必ずご予約ください!!発売と同時に売り切れることが予想されます”と書かれていて、下にご丁寧に注文書か印刷されている。
 というか、いっぱいあるじゃん。それにこの小冊子肝心の『1Q84』がなくなっちゃったら、あんまり意味をなさないような気がする。

 事務所に帰って、いつものようにメールをチェックしていると、ブックオフからメールが来ている。だいたいこの手のメールは基本的に無視するのだが、ちょっと目に付いたので、開けてみると、

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 とある。あのさ~、BOOK3は今日発売でしょ。いきなり買い取りかよ。約二千円で本屋で買って、すぐ読んでブックオフに売れば千円で買い取ってくれるわけだから、半分は回収出来ることになる。それが得なのか損なのか分からないけど、おそらくブックオフでは高額買い取りなんだろうな。そうまでして買い取らねばならないほど、ブックオフで村上さんの新刊を多少でも安く買いたい奴がいるということなのだろう。気持ちは分からんわけでもないが、それにしても発売日当日に“高価買取宣言!”はないでしょう。ブックオフで買いたいなら、もう少し待ってよと言いたくなる。すぐ読みたいなら、新刊書店で買いなさい。
 それに千円でブックオフが買い取るとなると、売値は当然それ以上になるわけだから、そんなに安くなるとは思えないんだけど・・・。
 そういえば近所のブックオフにはダン・ブラウンの新刊も多くあったな。発売されてそんなに時間がたっていないのに、これだ。もっと今回の新刊は面白くなかったから頭に来て売り払ってしまった人が多かったのかもしれない。新刊が出て、ブックオフに回る時間がどれだけかかるかによって、その新刊が面白かったかどうかの目安になるかもしれないな、なんて思った。

 さて、この連休、村上さんの新刊を堪能しようと思う。

2010年03月14日

本と花粉症

 本を読んでいる時はその本に夢中になっているから、それでいいのだが、その本が終盤に近づくにつれ、次に読む本のことを考える。いつもそうだ。次は何を読もうかと。
 読む本はたくさんある。けれどその時読みたい本は限られている。自分の精神状態や身体的疲労感などで、読みたい本が変わってくる。時には天気なんかでも、この本は今は読みたくないなと思うことさえある。じゃあ今の状態で読める本は何だろうかとあれこれ探すが、これが結構厄介なのだ。スパッと決まらない。こんなにたくさんの本があるのに今読める本がなかなか見つからないのはどうしてなんだろうといつも思う。
 そんな時、“あなたの読みたい本を探します”というロボットみたいなものがあって、適当に自分の状態を入力したら、答えをポンと出してくれ、有無も言わせず、“この本を読みなさい”と言ってくれるものがないかと馬鹿なことを考える。
 だからシリーズものを読むときはしばらくはそういう悩みから解放されるから助かる。一冊読んだら、次の巻に進むに決まっているからである。今回も古い警察小説を引っ張り出し読み始めた。少なくとこのシリーズは10巻あるので、次はこれ、その次はこれ、といったことで読み続けられる。
 しかし本が完全に古本と化している。もう30年近くなるからだ。文庫のページは本は白かったのだろうが、わらばん紙みたいに全体に赤茶けている。文庫の天の方はシミが出て来ていて、なんか年よりの顔のようである。考えてみれば30年近くずっと本を所有していることが珍しいのかもしれない。でもこうしてページを開くことになると、妙に愛おしくなるもので、かえって新刊本より愛着をもって扱ってしまう。ページを開くと、プーンと古本のカビ臭いにおいが漂う。
 とにかくこのシリーズを読んで楽しんでいるのだが、こういう時に限って、本屋さんで面白い本を見つけてしまうのだ。読む本があるんだから、本屋さんに行かなければいいのに、行ってしまうからいけないのだ。結局面白そうな新刊の文庫を2冊買ってしまった。
 さらに昨日近所のブックオフで単行本500円均一というセールをやっていた。実を言うと私はこのセールを待っていた。売値で買うのには少々ためらいがある本で、内容も面白そうに思えるけど、実際どうなんだろうと一抹の不安がある本が棚にあり、もしいつもやるセールの時までこの本がこの棚にあったら買おうと思っている本があった。その時まで売れちゃったら仕方がない諦めようと思っていたのである。ところがその本は昨日もあった。だから買った。2冊である。これで今気にかかる本、出来ればすぐ読みたい本が4冊となってしまった。しかし今読んでいるシリーズ本はあと8冊残っているので、これを読めるのはもうしばらく先になってしまうなと、困っている。そしていざ読める時期になったとき、気分が変わってしまいこの本を手にしないことになってしまう可能性も出てくるかもしれない。なにせ気分屋なので私は・・・。出来れば読みたいという気分がこの後でも残っていること願っているのだが。
 しかし何の本を読もうかと悩むことは、私は本を読む一つの楽しみだと思ってもいる。うちの近所にあなたが読みたい本を教えますといって、はやっている本屋さんがあるらしいが、大きなお世話だと私は思っている。自分が読みたいと思う本ぐらい自分で探せと言いたくなる。だいたい人がどういう本が読みたいのかをどこまで分かるというのだろうかと思う。そしてこうしたアドバイスが出来ると考えている店主はいったいどれだけ本を読んでいるというのだ。世の中把握できないほど本が氾濫しているのである。人の一生で出会える本なんてたかが知れている。その店主だって氾濫している本の一部しか接していないはずだ。だからその店主がどこまで対応してくれるのか興味がある。一度行って私にどんな本を勧めるか試したいと思ったこともある。
 とにかく何の本を読むか、それを探すことが本を読むことの楽しみの一つであるなら、そうした楽しみを奪われたんじゃたまらない。本を読むことは時間と手間がかかることなのだから、本を探すこともそれなりに時間と手間がかかっても仕方があるまい。だいたい勧められた本を、ハイそうですかといって読む奴の気が知れない。それに勧められた本が面白くなかったら、どう責任を取ってくれるのだろうか。そっちの方が気になる。

 花粉症のことは今年書いただろうか。毎年恒例のことだから、今年も書いておく。今年は例年より花粉が少ないと言っていたので安心していたのだが、2月の後半からひどい状況に陥っている。特に今年は冷たい雨が降って、翌日カラリと晴れ、気温も上がり、おまけに風も強く吹く日が何度か続いたものだから、この時一気に来た。
 新型インフルエンザの騒ぎで多く買い込んだマスクが今重宝している。もともとこんな単純なマスクでインフルエンザが防げるのかなと思っていたが、花粉症にはある程度効力を発揮するようだ。これをしていれば、少なくとも鼻は楽である。問題は目だ。これがかゆい。かゆくて仕方がない。花粉症用のゴーグルみたいなメガネをすれば防げるのかもしれないが、ちょっとなぁと思っている。仕方がないのでせっせと目薬を差してかゆみを緩和させようとしているのだが、一度かゆいとなったら、いくら目薬を差してもかゆさがおさまらない。
 今私の周りには、パソコンと読みかけのシリーズ本と、気になって買ってしまった本4冊と、目薬と点鼻液と、ティッシュの箱とゴミ箱、そしておせんべいとお茶と手に届く範囲に置かれている。

2010年02月02日

怒れない?

 また腰を痛めた。今回は何で腰が痛むのかその原因に身に覚えがないため、少々不思議なのだが、まぁ、持病が気まぐれに顔を出したのかもしれない。
 昨夜から雪となり、今朝はその雪はやんでいるが、ただ路面は凍結しているだろうと思い、腰も痛めていることだし、早めに家を出た。そうしたら思ったより早く着いてしまい、事務所に入るには早すぎてしまった。駅から出て近くにあるVELOCEに入り、この文章を書いている。
 電車は混んでいたが、私が立っている前に坐っている人が降りたので、これはラッキー!と思い、腰も痛めていることであるし、坐ることにした。そして続いて本を読み始めた。
 左隣りに坐っている女性が眠っている。お疲れなのかもしれないが、腰を痛めている私に寄りかかられるとかなりきつい。特に左側に痛みがあるので、そこに寄りかかられるとかなりきつい。まさかこんな展開になるとは予想だにしなかったので、本を読むどころじゃなくなってしまった。次の駅が近くなると電車は減速するため、余計に私に寄りかかってくる。私は私で強く寄りかかれる度に、顔をしかめる。
 電車の中は外と比べ暖かいし、疲れていれば眠たくなるのもわからないわけじゃないが、できれば今回は勘弁して欲しい。私は何度も姿勢を正すように、身体を動かし、「頼むから寄りかからないでくれよ」という意思表示をするが、何遍やってもダメであった。
 最近はこうしたことに文句を言えなくなった。昔なら間違いなく、はっきり声を出して文句を言ったに違いないのに、それができなくなった。というか、「迷惑だ!」と文句を言うべきかどうか迷っているいるうちに降りる駅に着いてしまった。
 弱くなったなと自分でも思う。それも歳をとる度にその傾向が強くなっていくのが自分でもわかるだけにしゃくであった。
 若い頃は、よく喧嘩をしていたし、嫌なものは嫌だとはっきり意思表示していた。本屋で働いていた頃も、不埒な客と喧嘩を何度もした。会社の中でも客とトラブルを起こす常習犯であったし、それは何も店の外だけに限らなかった。店の中でさえ、出来の悪い上司や店長としょっちゅうやり合っていた。いや、そうじゃなくて“本屋として俺の方が能力的に上だ”といううぬぼれから、上司を上司と思わない態度で接していた。だからバイトのやつに、どうして私があんなに高飛車な態度を取るのか不思議がられた。みんなが文句も言えず言いなりに仕事をしているのに、私だけが自由にやりたいようにやっているとも言われたこともある。
 客とトラブルになれば、客は会社の責任者にクレームを入れることが多く、その度に社長に呼び出され、怒鳴られた。あの頃は社長も若かったから、結構迫力があったけど、私は馬耳東風であった。
 そんな自分がたかが電車の中で寄りかかれる女性に文句の一つも言えないのである。変われば変わるものである。結局昔ならもう一回スイッチが入ってしまうと、後先構わず、感情が赴くまま行動していたのが、今はここで問題を起こせば後が厄介になると計算してしまうのだ。だから我慢してしまう。それを丸くなったというのかもしれないが、私はそうした後のことを計算してしまう自分が嫌な部分がある。特に最近は。確かに体力的に落ちているところもあるから、気力もそれに伴って衰えてしまうのかもしれないが、いつもどこかで計算してしまう。差引マイナスになるのがはっきりとわかっているなら、進んでマイナスにする必要はないと考えてしまう。 そういう計算高い人間が嫌いなくせに、自らがそうした人間に成り下がってしまっているのを感じたときの、砂をなめたような感覚が嫌なのである。それがストレスとなる。ただでさえ加齢による機能低下で胃や腸が弱っているところに、こんなストレスが日常あっちこっちかかってくるものだから、悲鳴を上げても当然のような気がする。なかなか悟りの境地に入れないため、そういうことになってしまっている。
 それでもまだ私はかなり自由にやらせてもらっている方だろうとは思う。プライベートでも仕事でも。もしそうじゃなければ、雪だからといって早く会社出てこない。さて、そろそろ時間だ。頑張って仕事をしましょうか・・・。

2009年12月20日

古本とGODIVA

 昨日を大学時代の友人と忘年会をする。お茶の水でやるということだったので、多少早めに出かけていって、神田の古本屋街を歩く。これといって欲しいとか、探している本があるわけじゃないが、ブラブラと歩けば、なんか見つかるかもしれない程度である。
 三省堂本店の横の狭いビルの4階に「三省堂古書館」というのが出来ていた。詳しいことはわからなかったが、なんか全国の古本屋さんが商品を出していて、それを三省堂が取り仕切っているみたいだ。面白そうなので入ってみた。なかなか面白い品揃えで珍しい本もあったが、相対的に値段が高いような気がした。たぶん三省堂が中間マージンを乗せている分、古本の値段が高くなっているんじゃないかとうがった見方をしながら、本を見ていた。
 その上に神保町古書モールというのがある。ここも初めて入るのだが、ものすごい古本の量だ。それも雑然と並べられていて、ここから本を探すのは大変なことだと思いつつ、時間があるので順番に棚を見ていった。
 それにしてもたくさんの本がある。いろいろな作家の本があり、世の中には今までたくさんの本が出版され、消えていったんだなと思わされる。中にはすばらしい作品もあるのだろうけど、いつの間にか時間の風化に耐えられなくなり、消えていったといった感じだ。
 でも思うのだ。こうしたたくさんの文化として本があるけれど、人が一生の間にその作品たちにどれだけふれることが出来るのだろうか。その数の限られていることを思うと、出来れば少しで多くの作品に出会いたいものだと思う。
 私はこうして古本屋さんを歩くことが好きなのは、埋もれてしまった作品を読むことは出来ないけれど、せめて形だけでも見ることが出来る楽しみがあるからなのだ。結構面白いのだ。へぇ~、こんな作品があったのかと実物を手に取るだけでも楽しい。そして値段を見てすぐ棚に戻しちゃうんだけど。
 このあたりはネットの古本屋さんでは味わえないものである。確かにネットの古本本屋さんは便利であることは間違いなけれど、感覚として、手触りとして、買わなければ味わえない弱みがある。古本屋さんはそれがある。だから好きなのだ。

 私ががむしゃらに本を読み始めたのは高校時代からだったけれど、もうその時から読みたいなと思う本が手に入らないでいた。最初はもう流通していないんだから、仕方がないと諦めていた。大学時代から古本屋さんに足を向けるようになってからは、それまで読みたいと思って諦めていた本がザクザク手に入ったものだから、面白くて仕方がなかった。そして何度足を運んでも見つからない本はあるもので、偶然それを見つけたときは、躍り上がるほど嬉しかった。
 最初は探している本がたくさんあったから、当然古本屋さんでも多く見つかったのだけれど、そのうち数が絞られて来ると、見つかる可能性はぐんと低くなっていく。そうこうしているうちに諦めちゃったのだ。
 今はたまたま今回のように近所に行く予定があって、時間的余裕があれば、そこへ行くが、わざわざそのためだけに古本屋さんを歩こうなんてなかなか思えなくなってきている。歩いて本が見つかればいいけれど、見つからない可能性の方が圧倒的に高いのだから余計である。
 たぶんこれからも私は古本屋さんを歩くことは歩くだろうけど、その数は減っていくに違いない。手間と時間をかけることは何でも大切だけれど、一方でもっと便利な方法、つまりネットがあるじゃんと思えば、どうしたってそっちに気が向いてしまう。仕方がないのだ。
 昨日の収穫は遠藤周作さんの昔の紀行文一冊である。この本昔読んでいるが、今私の本棚にはない。きっと昔本を処分するとき売り飛ばしちゃったんだろう。でも、遠藤さんの本を思い出すとき、必ずこの本が私の頭の中に浮かぶ本だ。奥付を見ると初版で昭和47年に発行されている。もう37年前である。そのわりにはきれいな状態である。当時値段は680円だったが、古本では800円。まぁいいところであろう。私は経験がないが、たぶん昔の恋人に会った感じがこんな感じかなと思った。今日はこの一冊だけで神田の古本屋街を歩いた甲斐があった。

 さて、大学の友人たちとの忘年会である。いつものメンバーなのだが、やはり気が合う分、話していて楽しい。時間が経つのも忘れるほど話に夢中になる。場所を変えて、10時半頃に分かれる。
 家に帰ったのが、11時過ぎ。友人の一人からもらったGODIVAの小さな小さな箱入りのチョコレートをかみさんに渡す。

 「また○○さん?」

 「そう」

 「なんかいつももらいっぱなしで悪いんじゃないの?今度はこっちも何かしなければいけないんじゃないの?」

 「いいの。やつはやりたくて仕方がないからやっているだけで、こっちが欲しいって言っているんじゃないんだから。それにいい歳こいてプレゼントのやりっこなんて馬鹿馬鹿しいし、面倒だ。本当はやめて欲しいくらいだ。まぁ、今回は食べられるだけでもましじゃん。つまらん石けんよりよっぽどいい。出来ればGODIVAオリジナルのクマのぬいぐるみついたやつがいいと言ってやったくらいだ。それにGODIVAのチョコレートは高いだけで、俺はドンキーで安売りしている大袋入のキットカットの方がどっちかといえば好きだね。」

 と、友人の好意をそんな感じであしらう。幸いやつは最新機器?といえばFaxしか持っていない人間なので、パソコンも携帯も持っていない。従ってこれを読むことはあるまい。

2009年11月29日

地デジ化

 しかし世の中にこんなにもテレビのチャンネルがあるとは、ホンと驚きである。
 昨日我が家も完全地デジ化が完了した。テレビのCMでは地デジ化が簡単にできるように言っているけれど、そうことは簡単じゃなかった。それは電気屋さんも言っていた。まして我が家みたいに築20年以上になると、アンテナ配線そのものが地デジに向いていないらしく、その配線自体替えないいけなくなる。アンテナとテレビだけで済むようなCMはやめて欲しいものである。費用だって莫大なものになってしまった。
 我が家がこんな状態になるのだから、他にも同様な家がたくさんあるんじゃないかと思う。それがうまく地デジ化出来ればいいけれど、そう簡単に諸般の事情でいかないところもたくさん出てくるに違いない。本当に2011年7月24日に完全地デジ化出来るんだろうか?たぶんその頃はきっとパニックになるのではないか。あるいはもう少し完全地デジ化を延ばすとかいうことになるような気がする。だってホンと大変だったもの。
 BSのアンテナも今まで障害物があって、映らなくなってしまったので、これも屋根に上げてもらった。ところが今までのBSアンテナはBSが始まった当時に取り付けていたものだから、もしかしたら映りが悪いかもしれないと言われる。確かにかなりさび付いている。結局近所のヤマダ電機で急遽買ってくる。これってそんなに高くないんですね。しかも大分軽くなっている。我が家にあったBSアンテナは重かった。これ屋根に上げたら結構負担になるんじゃないか。屋根が傷むんじゃないかと思っていたが、これだったら心配ない。
 工事は朝8時半から始まって、終わったのは午後4時前と結構かかった。それでもやはり映像はきれいだ。我が家ではそれまで3度くらい減価償却ができるまでブラウン管テレビを見続けたので、デジタル放送がこんなにもきれいに映るとは思わなかったので、「あまりの美しさで、目がつぶれそう」とか「もっと早く地デジ化しておけば良かった」とか、かなり興奮している。

 さて、そんな我が家に大小7台の液晶テレビが各部屋に置かれ、私も部屋にあるテレビをマニュアルを見ながら操作してみる。今回テレビ好きのかみさんのために、キッチンに小さなテレビを壁に掛けて取り付けた。今もこの文章をキッチンでノートパソコンを使って書いているのだけれど、それをつけて書いている。テレビが液晶になり、薄くなったのでこれも可能になった。なかなか快適である。他の大型テレビも感動だけれど、これもいい。ちょっと病院の待合室みたいだ。
 さて完全地デジ化が出来たのだけれど、今度はその手続きが残っているB-CASカードの手続きをしなければいけないようだ。それとエコポイントの申請もしないといけない。領収書など添付書類のコピーがに必要なようで、これも面倒だ。まったく地デジ化は手間もかかる。
 でもこれから、年末年始面白いテレビが放映されるだろうから、楽しみである。そうそう、今日は司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」もやるし、こりゃ、本など読んでいられないな。困ったものである。
 それに今回テレビと一緒にブルーレイレコーダーも買った。ところがその録画方法がわからない。今日は午後から出かけるので、「うわさの東京マガジン」が見られない。だからそれを今日は練習のために録画をやってみようかと思っている。
 そうそう録画で思い出したことがある。かみさんが昨日、毎朝見ているNHKの朝ドラが工事があるので見られないと一所懸命マニュアルを見ながら録画していた。ところがテレビが付いて、NHKの各BSが見られるようになると、今朝放映されたものが、夕方見られる。しかも夜には一週間分まとめて見られるのだ。だから録画してもそれを見る必要がないと笑っていた。こんなに何度も放映するということは、それだけこの朝の連ドラは人気があるということなのだろう。

2009年10月07日

漱石ともろもろ

 雰囲気として「明治」という時代を今味わっている。といっても、それは小説の世界の話なのだが・・・。漱石をまた読み始めたのだ。ちょっと前からまた漱石を読んでもいいかなと思い始めたのだ。
 私は毎年読んだ本をメモがわりにテキストファイルにしるしてて、それには行数がカウントされる。その行数を見れば、今年読んだ冊数が分かることになる。それを見ると90冊今日まで読んだことになっている。これは近頃の私にすれば結構ハイスピードで本を読んでいることになる。大体年間100冊ぐらい本が読めればいいかなと思っているので、今の時点で90冊ということは、今年は間違いなく100冊以上本を読むことになる。100冊というのはあくまでも目安であって、それだけ読めればいいなというところなのだが、別にそれにこだわっているわけでもない。要するにそれだけ読めば一冊ぐらいはいい本にぶち当たるんじゃないかというくらい気持なのだ。
 ということで、今年は目標冊数に届くだろうから、これからはじっくりと本を読んでもいいかと思い、漱石を取り出した。実は私は岩波書店の漱石全集を持っている。最初これを取りだしたのだが、持ち運びをするには大きいし、重い。確かに字は大きくて読みやすいのだが、これじゃ持ち歩いて、電車の中で読めない。で、不揃いの新書版の全集も持っているので、それを読もうかと思い、本棚の上にあるものを取り出してきた。確かに持ち運びは楽であるが、今度は字が細かすぎるのである。これじゃ読むのにかなり疲れそうだ。
 とにかく最近は本を読む前に気にかかることが字の大きさなのである。古い本を引っ張り出して読むのはいいのだけれど、読んでいるうちに目が疲れてくるのである。字の細かすぎるのだ。それでなくても歳をとって落ち着いたらゆっくりと読みたいと思いため込んできた本がたくさんある。視力が落ちることまで考えていなかった。
 仕方がないので、新潮文庫で漱石の作品を買うことにした。今それを読んでいる。まずは前期三部作と呼ばれる『三四郎』『それから』『門』から始めている。今は『それから』を読んでいるのだけれど、読んでいて明治の知的階級の雰囲気を感じている。この雰囲気が明治という時代の一部を代表しているのだろうけど、なかなかいいものだ。なんていうのかな。明治以前にあったライフスタイルと明治から本格的に輸入されたヨーロッパ的ライフスタイルが混ざって、しかも人の意識もそれ以前は閉鎖的であったものが解放されつつあり、今までは秘するところがオープンになり、少しずつではあるけど人の気持ちのあり方が語られる。けれどやっぱりそれまであった時間の方が長いから、あからさまにオープンに出来ず、恥ずかしいという気持が混在している。言ってみれば日本人の奥ゆかさみたいなものが、なかなかヨーロッパ的になれないところが感じられる。特に暇な知的階級はそういう気持のギャップに悩んでいるような感じだ。
 それが何となく感じられ、いいなぁと思って読んでいる。が、電車の中でそんな余韻に浸っていると、横でカチャカチャ、カチャカチャと音がする。大きな音ではないけれど気になる。何かと思って横を見ると、馬鹿なサラリーマンが朝からPSPでゲームをやっているのだ。夢中になって指を動かしている。若い奴かと思えばそれほどでもない。気になるものだからにらみつけてやったら、その時は指の動きを緩めるのだが、すぐ夢中になってしまうようで、またカチャカチャ、カチャカチャと始める。まったくどうしようもない。朝からどうして電車の中でゲームを必死になってやらなければならないのか、よく分からん。
 私もゲームは嫌いじゃないから、やりたい気持は分からんわけでもないが、朝からそんなに目くじら立ててやるもんか?こういう奴に限って、アイロンのかかっていないワイシャツに、趣味が悪く、ラーメンのスープでもついたのか、シミのある汚いネクタイをだらりと締めている。ズボンも皺だらけで、またそこにあるベルトが野球のユニフォームでするようなベルトで、どう見てもおかしい。さらにくたびれた大きなショルダーバッグがゲームに夢中になっているものだから、それが邪魔になっていることさえ気がつかないのだ。まったく困ったもんだ。
 そうかといえば、先日やはり電車の中で、いいなぁと思った光景を目にした。たまたま座れれ、向かいに二人の若い女性が話しながら座っていた。そのうち一人が降りて、残された女性が小さな紙の手提げから本を取りだして読み始めた。結構厚めの本だったが、そこにかかっていたカバーが、書店名や柄など一切ないから、なんかの包装紙なのだろう。ちょっと本より大きめのカバーだったから、はみ出て、いかにも自分でつけたような感じだった。それを開いて読み始めたのである。最近はそうした場合、すぐ携帯を取り出して見るのが多いが、この人は本をすぐ取りだして読み始めたのである。ただそれだけなのだが、私にはちょっと絵になるように思えたのであった。しかもものすごく自然に見えたから余計である。本を読む若い女性の姿っていいと思いません?それでなくても私は人が何の本を読んでいるのか気になるたちなので、「もしも~し、何の本読んでるんですか?」と聞きたくなる。。

 さて、馬鹿なことを言っている場合じゃない。大きな台風が来ている。明日東京に近づくという。やれやれ、明日歯医者なんだけどなぁ。台風が来ているからキャンセルしますっていいのかなぁ。まいったな~。

2009年09月13日

嫌な予感の土曜日

 土曜で休みなのだけれど、私は曜日に関係なく、いつものように朝早く起きる。起きてパソコンに電源を入れ、牛乳たっぷりのコーヒーを作り、ブログにアップする文章を書き始める。だいたい“こんな感じで書きたいな”と考えていたので、あとは気の向くまま書き始める。ところがどうも書いているうちに最初のイメージとどんどんかけ離れていく。おかしい!
 細かいところを修正していけばいくほど、おかしくなっていく。たまにこういうことが起こる。その時は何をやってもうまくいかない。完全にボツにするか、諦めてアップするかどちらかなのだけれど、2時間かけて書いたものだから不承ながら、アップした。
 今日はたぶん何をやってもうまくいかない一日になりそうな予感がしてきた。腰もまた痛み出している。今回はやけに痛みが長く続く。仕方がないので今日整形外科へ行くしかないかなと思い、それまで少々横になる。
 先生も痛みが長いことに不思議がっていたが、どこかきっと無理をしているはずだという。そういわれても思い当たることはないのだが、気がつかないところでどこか無理をしているのか。毎日同じことの繰り返しなのだけれど、昔と同じペースでは今の私にはどこか無理があるのだろうか。よくわからない。ここでも年齢の問題が頭の中でむくむくと持ち上がってくるけれど、いや違う。それだけじゃないと否定したい気持ちでいっぱいだ。
 この前地下鉄東西線でバカな保安員が衝突事故を起こしたお陰で、東西線の利用者が都営新宿線に流れ込んできた。当然電車は混み合うのだが、いつものように駅前になると電車が減速して、車内が大きく揺れる。その時混み合っているものだから乗客も大きく揺れる。つり革につかまって私の身体はのけぞるようになる。まただ。腰に痛みが走る。やれやれこれで二度目だ。たぶんそれだ。きっとそれだ。それが腰に痛みが長く続く理由だ。せっかくよくなりつつあったのに。バカ野郎!
 また注射を打ってもらい、10分間腰のけん引やる。湿布薬が処方せんで出たので、かみさんが下にある薬局へ行こうとする。私はあそこは嫌だと拒否する。まだ何枚か湿布薬はあったろう。だから休み明けに大野さんのところでもらう、と言う。
 どうして嫌なのか。そこの薬剤師、私が一番最初に、腰が一番痛くて、歩くのもやっとの時、仕方なしにそこで痛み止めと湿布薬をもらおうと行ったのだ。そして名前を呼ぶ。林○○さんって。下の名前は私の名前なのだが、名字が違う。結局私を呼んでいたのだが、読み間違えならよくあることなので、私はその時は察して自分が呼ばれていることがわかる。が、どうして林なんだ!私も自分が呼ばれているんじゃないと思っていたから、立ち上がらなかったし、他に林という名字の患者もいなかったようで、誰も投薬カウンター行かない。その薬剤師は何度も林さん、林さん、林○○さん!と連呼する。そしてやっと自分の間違いに気がつき、私の名前を呼び直す。私がカウンターへ行くと、へらへら笑いながら、疲れているのかな?間違えました、と謝るが、ちっとも悪いと思っていない感じだった。それが非常に不愉快であった。こっちは立ち上がるのもやっとなのに・・・。誰だって仕事は大変で、疲れもする。そんなことを言い訳にするなと文句を言う元気があれば言いたいなのだが、その日は我慢して、薬をもらい、会計を済ます。以来ここでは絶対に処方せんは持っていかないと心に誓ったのである。

 さて、その後かみさんと食事をし、買い物をして帰ってくる。途中いつものようにブックオフにも寄ってみる。いつものようにザッと棚を眺め、気になる棚も見てみる。どんな棚かといえば、分類が難しい本がたくさん集まっている棚である。そこに本や出版関係の本があるのである。もちろんあればの話なのだが。一冊の本が目にとまる。古本屋さんの奥さんが書いた本だ。
 今ちょうど海外の古本のエッセイを読んでいるのだが、いまいち面白くない。これから面白くなるのかもしれないが、この休みに読み続けるには今の気分ではきつい。こっちの方が読みやすそうだし、面白そうな感じがしたので、買い求める。家に帰ると、さっそくこの本を持って、横になりながら読み始めた。うん、これがいい。この休みはこれで行こう!
 腹がきつい。コルセットつけたまま横になっていた。このコルセットしていると確かに楽なんだけれど、ただでさえお腹が張るので、今の私にはきついところがある。痛し痒しである。以後横になりながらこの本を読み、ニュースの時間になれればテレビをつけ、残りの一日をうっちゃた。

2009年09月05日

まずいよなあ

 先日の地震で本に埋もれて死んじゃった人がいたが、実は私もこのままじゃまずいなという状態に、今、自分の本棚がなっている。


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 まさか本に埋もれて死ぬことはないだろうけど、階段に本が落ちてきて、降りることができなくなる可能性がある。特にここのところ買ってきた本や読んだ本をきちんと棚に収めないで、空いているスペースに横に置いたまま積み上げているので、ちょっと大きな地震があれば間違いなく落ちてくるだろう。
 うちの本棚は大容量なのだが収納、取り出しが面倒なのだ。だからそのままになってしまう。まずいとは思っているのだが、ついつい面倒で後でまとめてやろうと思いつつ、今日まで来てしまった。しかもここのところ腰を痛めて動くのもままならない日もあったので余計である。しかも蔵書目録の作成をやろうと思い、バーコードリーダーまで買ってやり始めたのだけれど、これも中途半端な状態になっている。というのもせっかく整理してデータをパソコンに入力しても、新たな本を次から次へと買うものだから、棚の位置が変わってしまう。必然的に蔵書目録が意味をなさなくなってしまう。「まずいよなぁ、これは・・・」、と思いつつそのままになっているのだ。基本的に私はこうした整理整頓が苦手なのだ。そして自分の本のデータ整理をする時間があるなら、1ページでも本を読んだ方がいいと最近は思っている。
 もちろん最初は蔵書目録を作ることはいいアイデアだと思ったのだ。ここにきちんとデータがあれば、よくやる同じ本を買うバカな思いをしなくて済む。そしてまだ読んでいない本の内容もネットからバーコードを読み込んだ時点で自動的に入るので、それを参考にすることもできる。そんなメリットばかり考えて始めたものの、こういうのって、データ入力の手間は一切考えていない。そのことを忘れている。しかもできるだけ入力の手間を省くためにバーコードリーダーまで買ったものの、結局細かい修正をしなければならない。個人でデータベースを持つというのは、あまりあり得ないし、仕事じゃあるまいし、そんなに凝る必要もないんだなあと思っている。
 どうも私はアイデアばかり先行するところがあって、その過程を飛ばしてしまうところがある。あんまり余計なことは考えない方がいいようだ。
 同様にいいわけをしようと思う。私のブログで「どんなことがあっても、本が好き」で番外篇を作ったのだけれど、これの更新が滞っている。これもアイデアばかり先行して始めたのはいいのだけれど、基本的に無理があった。ここに取り上げたいことは今でもいくつかあるのだけれど、これをやるととんでもない時間を必要とする。やらなきゃと思いつつも、準備するのが面倒になり、止めてしまっている。今正直なところわざわざもう一つブログを立ててやる必要性などなかったかなと思っている。
 で、近いうちにこのブログは閉鎖しようかと考えている。そこにアップしてあるものは、いずれ本編に組み入れる予定でいます。(別にこのブログは気にされている方がいらっしゃるとも思えないし・・・)

 いい加減いい歳を取っているんだから、もう少し熟慮というものがあってもいいものの、なかなかそうなれない部分が私にはある。それは何においてもそうだ。これではますます先が思いやられる。もうちょっと落ち着きというものが必要だなと感じ、深く反省する今日この頃である。
 土日が休みだから、腰の方もかなりよくなってきているし、本棚の整理をしようかと考えている。

2009年08月16日

お盆

 お盆休みも基本的に今日でおしまいであろう。私は例によってこの世間様が休んでいるときも、いつものように仕事に出る。もちろん休めるなら休みたいところだけど、ちょうど月半ばには毎月どうしてもやらなければならない仕事があるものだから、仕事に出る。それだけである。
 考えてみれば、今まで人様が休みとしている時期に、結構仕事に出ている。このお盆の時期もそうだし、年の暮れもそうだ。昔は本屋で働いていたときは日曜日も仕事の出ていたことがあった。もちろん代休はもらえるし、休んでいた時もあったけれど、最近は無理して休みを取ることも面倒になってしまっていて、いつの間にか忘れて、そのままいつものように仕事をしている。別にワーキングフリークになっているわけじゃないけど、性格的に、その日の仕事はその日にするのが私の流儀で、前倒しで無理してやるのが嫌だからそうしているだけである。
 また世間が休みであっても、会社は継続的に動いているものだから、誰かがその間、動かしていないと、その後がうまく続かないのではないかと思う。それを買って出ているだけのことだ。
 昔はみんなが休んでいる時に何で自分だけ仕事をせにゃならんのだと思ったこともあったけれど、最近はこうした時期だからこそ楽しんでいるところがある。
 たとえば、朝の通勤時でも、電車はかなり空いていて、すぐ座れちゃったりする。あるいは普段この時間帯には見かけない行楽で家族がわいわいやっている姿を見かけるのも、ちょっとした変化で面白い。そんな中でもビシッとネクタイを締めたサラリーマンが疲れた顔をしているのを見ると、勝手に“お互い頑張ろうね”と思うのだ。
 みんなが休みなもんだから、仕事を中断する電話も鳴らない。飛び込みのセールスも来ない。いいことである。こういう時は集中してやらなければならない計算などするのが一番いい。細かい作業もいい。それに休みにわざわざ出てきているんだから、自由に自分のペースで仕事をするからねといった自己主張も心の中であるものだから、やりたいようにやる。(もっとも普段も好き勝手に仕事をしているんだけどね)
 ただ困るのは昼飯である。事務所があるこの界隈の会社はほとんどシャッターが閉まって休んでいるものだから、いつも買い出しに行くお弁当屋がそれにならって休んでいる。Hotto Mottoに足をのばし、行ってみると、作り置きの弁当しか置いていなくて、それがなくなればおしまいといった感じである。毎朝テイクアウトするドトールも休んでいるので、ヴェローチェで買う(ここのコーヒーはドトールより安いのだが、あまり旨いとはとは思わないのだが、コーヒーがないのも困るので、ここで買った)
 仕方がないので秋葉原の駅前に行って、立ち食いそばを昼飯にし、事務所で昼のテレビを見て、適当に仕事を始める。そうこうしているうちに三時になり、銀行の当座照合をする。六時を過ぎれば、お茶の水店の日計表がFAXで送られてくる。それらをすべて集計し、業務を終える。
 駅に出るまでの道にはほとんど人がいない。駅前もやはり人数が少ないような気がする。

 お盆の休みには娘と義理の妹が帰ってきているので、女二人増えるとかなり家はにぎやかだ。娘が結婚したのは三月だからもう五ヶ月経っていることになる。面白いもので、娘はどこか自分の実家に気を使っているのである。今まで自分がいた部屋に入るにしても、申し訳なさそうな感じで入っていくし、風呂もあれだけ長湯で、ジャージャーお湯を流しっぱなしだったのが、さっと上がってくる。ゆっくりくつろげばいいと親の側は思っているのだけれど、どこか他人様の家でも泊めてもらうよそよそしさが漂う。もちろん勝手知った我が家である。何がどこにあるかわかっているから、自分が欲しいものは好きに出して使って入るのだけれど、それでも今までとは違う。
 一緒に昼飯を食べに行くときも、我々の分も自分で会計をしようとする。いいよと言えばすみませんねと言う。夕食の買い出しをすれば、金額を見て、うちは貧乏なのにエンゲル係数が高と一言言うし、変わったと言えば確かに変わったけれど、その分逆に寂しい感じがするのである。
 やつにしてみれば、もう自分の家はここではなく、いま旦那と住んでいる家であって、いくらここが自分の実家であっても、もうここを出て行った家だからという意識がどこかにあるのかもしれない。そんなことを思うと、楽しく新婚生活をやってはいるようだけど、いままで親任せに自由にやっていたときとは違うわけだから、それなりの苦労もしているんだなとも思う。仕方がないこととは言え、やはり親としてかわいそうだなと思うし、だからこそ実家に帰ってきたときぐらいのんびり、今までのように過ごせばいいのにと思うのだけれど、なかなかそうはいかないようだ。

 そんな娘も、義理の妹も昨日帰っていった。またもとの生活に戻る。しかし昨日までいた人がいなくなり、笑い声が聞こえなくなると、寂しい感じがする。それが案外堪えるもんだから、風呂上がり夕涼みがてらちょっと出て、コンビニでビールを一缶買ってきて、かみさんと二人で分けて、夕食時飲む。今まで当たり前のようにいた人間が離れていき、残ったのが我々なんだなと、その寂しさを感じながら、私のお盆は過ぎた。
 
 今まで心配ばかりさせやがって、と腹ただしく思っていたときも何度かあったけど、そういう心配を身近でできるということは、幸せなことなんだと思った。これが離れて暮らしていると、身近に感じられない分、ただ不安だけが残るのだ。当の本人は当たり前とのことして行動していても、親からすれば、おや?と感じただけで、それだけで心配や不安になることを身をもって知らされる。
 今まだ息子が家にいるが、これも独立して歩き出せば、これからどうなっちゃうのだろうかと思ったお盆でもあった。

2009年08月07日

大丈夫ですよ

 今日一日頑張れば、明日から休みになる。今週ほど休みが待ち遠しいのはなかった。もちろん腰が痛いためである。ゆっくり横になって休みたいと思っているのだ。今週三日間は腰にコルセットをして何とかしのいできた。火曜日に我慢できずに整形外科に行って、注射を腰に打ってもらい、鎮静剤をもらってからは、いくらか楽になってきている。でも、やっぱり安静が一番いいはずだ。だから休みが待ち遠しい。それにここのところ蒸し暑さで身体のほうもまいっているのが自分でもわかる。疲れもかなりあるのだ。

 昨日いつものように月一回病院へ行って薬をもらいに行く。それと大腸の内視鏡検査をお願いしようと思っていたので、先生にそれを言うと、「そんなに神経質になることもないでしょう。去年やっていて、確かにポリープはあるけれど、心配する必要はないと思いますよ。だから今回やらなくても大丈夫ですよ」と言われる。正直そんな言葉が返ってくるとは思わなかったので、私はきょとんとしてしまった。
 もちろんいくらここでやってくれる内視鏡検査が楽だといっても、やらず済むならやりたくない。だから先生の言葉は有り難いのだが、それでいいんだろうかと不安もある。
 とにかく今まで体質的に胃や腸にポリープできやすいから、きちんと毎年検査をした方がいいと言われ続けているのである。そのことを先生に言うと、私の場合、確かにそうかもしれないけど、大腸にある今あるポリープはほんの小さなものだし、検査でも問題なかった。そのポリープが大きくなるには数年かかるはずだから、大きくなったとき切ればいいし、胃の方にもポリープはあるにしても、ピロリ菌がいないのだから問題ないというのである。だから一年くらい検査を飛ばしても大丈夫だと言うのである。それにこうして毎月来て、胃や腸の状態を聞いているんだから、問題があればその時対応すればいいと言ってくれる。
 ここの先生は内視鏡専門医なので、胃や腸の症例をそれこそそこらの先生よりも見てきておられるから、おそらくその言葉を信用していいのだろう。
 いやむしろ大いに信用したくなった。先生側からすれば、検査をした方が経営的にいいに決まっているはずだ。まして患者の側から検査をお願いしているのだ。普通、じゃあやりますかとなっても不思議じゃない。それを去年と今年に検査を受けているし、その結果から見ても、いらない検査をする必要がないと言われるのだから、これは大いに信用していいと思ったのだ。

 ということで、なんだかうれしくなり、多少気分が良くなる。そういえば朝、社長に会ったとき、第一声が「腰のほうはどうだ?」と心配してくれる。私に症状を聞き、整形外科の診察結果を言うと、「結局歳もあるんだよ」と言う。確かにそうかもしれない。ところが次に社長が言った言葉が意外だった。

 「もう、無理して毎日出社する必要はないよ。体調が悪いときは休めばいい。ただ木曜日は来てもらわなきゃならんけど・・・・」

 この人ときに“おや?”と思うことを言う。結構うるさいし、自分勝手なところはあるのだけど、優しい言葉は忘れない人なのだ。そういう一面があるから、この人と付き合ってきたのだ。そんな一面にダマされて長いこと付き合ってきたのだ。気持ちがほろりとする一方で、やばいやばいと思いつつ、三時のコーヒーを入れ、社長と飲む。
 
 今日はレセプトを提出して、お茶の水店の小口現金の精算をし、昨日できなかった事務所の掃除をしてと、一日のスケジュール考える。頑張ろう!

2009年07月30日

一之江

 先週の土曜日に「アド街ック天国」で一之江が取り上げられた。


出没! アド街ック天国 一之江Best30

 地元である。一之江がこのテレビで取り上げられるという情報はかなり前から知っていた。というより、テレビで取り上げられたお店側が「アド街ック天国」でやりますよという張り紙が貼ってあって、それを見たうちのかみさんは「一之江がテレビでやるだってよ!どこが出るんだろうね?」と放映前から興奮しているのである。そして当日になると、朝からボルテージが上がっていて、その日は朝から放映が終わるまで興奮状態であった。
 嫁いだ娘も興奮しており、たまたま駅前の美容院へ行ったときに仕入れた情報がかみさんに伝わる。

 「どこが出るんだろうね」(かみさん)
 「ケロッピーのパクリである“財成”のカエルも出るらしいよ」「一之江ファッションで出る女の子60人が、後3人集まらなくて、テレビの人が必死に集めていたってさ」(美容院で情報を仕入れてきた娘。こいつテレビを見たくて隅田川の花火見物を早めに切り上げて家に帰ってきたらしい)

 正直な話、全国放送でなんで一之江が取り上げられるのか、この点は非常に疑問なのだけれど、まぁ、いつも私はこの番組を見ているので、いつものようにテレビの前に座り見ていた。もちろんかみさんは横にいる。そしてビデオ録画もしてある。ビデオテープは永久保存版だそうだ。
 そして番組が始まる。近所の中華屋のおばさんが名前入りで出てくると、もうかみさんの興奮は最高潮に達する。なんせこのおばさん娘の中学の同級生のお母さんだという。すぐ携帯を取り出し、娘に「大ちゃんのお母さんだよね?」とメールを送る。すぐ娘から返信があり「そうだ」という。そしてCMになると今度は娘から電話が携帯に入り、母、娘、興奮して話している。しかしおもしろいもので、CMが終わると、「じゃあね」と話が終わり、番組に没頭できちゃうのだ。大阪に嫁いだ妹からもかみさんへメールが入ってくる。今日はこの番組のことで、この界隈携帯の電波が飛び交っているんだろうなと思った。
 翌日、いつものようにかみさんと昼飯を食べに、「餃子の王将」へ入ると、カウンターに座っている親子らしい二人連れが昨日の番組のことを話題にしている。ケバイ格好の娘の方が「何で一之江がやるんだろうね?」と言っている。確かに!その点は私もそう思う。たぶんこの親子に限らずしばらくの間、この番組のことでこの界隈は盛り上がってるんだろうなと思った。私の住んでいるところはこの程度の番組で盛り上がってしまうところなのだ。

2009年07月22日

ハルキフリーク

 村上春樹さんの本を読むのをやめていたのでしばらく熱が冷めていたのだが、また読み始めると、はまるだろうなとは思っていた。そして事実そうなりつつある。しかしどうしてかそうなる。何でだろう?
 『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』と続けて読んでいたら、ふと思ったことがある。今までほとんど村上さんの書かれる本は読んできたのだけれど、その詳しい内容を覚えていないのだ。だから自分の本棚を眺めていて、この本の内容はどんなものだったっけ?とか、あっ、こんなエッセイがあったんだと、思わずその本を取り出して見たりする。もちろん内容を覚えているものもある。しかしそのほとんどが部分的なのである。
 どうして村上さんの小説の内容が記憶に残らないのだろうか。その答えを『少年カフカ』を読んでいてわかったような気がする。


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 この本は『海辺のカフカ』を読んだ読者が村上さんにメールでその感想を書き、それに対して村上さんが答えるというやつである。読んでいてこのスタイルは昔のラジオでやっていた深夜放送と同じスタイルだなと思った。当時は手紙やはがきだったものが、それがメールに変わっただけである。基本当時DJと呼ばれていたパーソナリティーがそれらを読み、自分の考えを言ったり、あるいは他の意見を求めたりして成り立っていた放送である。それと変わらない。
 この読者のメール本を読んでいてわかったことなのだけれど、ほとんどの読者が『少年カフカ』を読んで、どうその感想を書いていいのか悩んでいることだ。読んだ感想をうまくまとめられずにいる読者が多いのだ。
 要するに村上さんの小説で描かれる世界は、我々が目にする世界じゃない。あるいは自分たちが見てきたことや、経験してきたことで構築する基本的なリアルな世界じゃない。私小説に慣れ親しんだ人やそうした世界しか肯定できない人たちにとってはなかなか村上ワールドを自分の言葉で語るのは難しい。その世界がほとんど観念的世界だけに、物語にはぐいぐい引きつけられるのだけれど、読了後自分の感想を書こうとするとどう書いていいのかわからなくなるところがあるのだ。
 そしてそれは本を読んだ直後だとその傾向が強い。しばらく時間をおいて考えないとうまく自分の意見をまとめられないか、あるいは何度も読み返さないとわからない部分があるように思える。メタファーとして森や井戸、壁、図書館での世界で起こる物語は、魅惑的であるのだけれど、その分観念的で、抽象的だ。だからいろいろなとらえ方ができそうである。逆に言えばだからこそ頭の中でうまくまとめることができないのだ。
 私が村上さんの小説を読むときに感じることはそういうことなのだろう。ただ私の場合、後で考えるということは基本的にしないため、結局そのままわからないままになって、忘れてしまう。だから今まで読んできた村上さんの小説について記憶があいまいなのだ。ナカタさんの頭の中のように“からっぽ”になってしまうわけだ。
 けれど、村上さんの本を読んでいるときはそれは夢中になっており、本を読むこと以外邪魔なので何もしたくなく、ただただその本を読んでいたくなる。“ハルキフリーク”の状態になっている。まぁ、読んでいるときに夢中になって楽しんでいればそれでいいじゃないかと思うことにしている。多分それが村上さんの小説を読む魅力じゃないかとも思っている。
 一方で、作品のほとんどで記憶が薄れているため、もう一度読み返してもいいかなと思っている。
 今回1,200通以上のメールを読むのはできなかった。300通ほどは休みの間読んだのだけれど、これはダメだ!と思った。読んでいてだんだん疲れてくるのが自分でもわかる。ということで、久しぶりに本を途中で投げ出した。違う村上さんの本を読もう。軽いジャブという感じで、村上さんの紀行文を手にしてみる。

2009年04月29日

昭和の日

 今日4月29日は“天皇誕生日”から“みどりの日”、そして“昭和の日”とまぁよく名前の変わる祝日だ。確かに昭和天皇が亡くなられてからは天皇誕生日が今の天皇の生まれた日に移るのもしょうがないにしても、“みどりの日”はどうなっちゃったんだと思った。そしていつから今日が“昭和の日”に名前を変えたんだろうか?まったく知らなかった。ネットで調べてみたら次のように出ていた。

 「20055年の祝日法改正により、2007年以降は「みどりの日」を5月4日に移動し、4月29日を「昭和の日」とすることとなった」

 そうか!もう2年前からそうなっていたんだ、と我ながら無関心ぶりにあきれてしまう。しかしもう一つ疑問がある。今回のゴールデンウィークの最終日5月6日が振替休日で休みだというのだ。振替休日が発生するのは、日曜日と重なった場合のみ、次の月曜日だけかと思っていたら、これも2005年の祝日法改正で、5月4日が“みどりの日”となったため、3日から5日まで祝日が続くこととなり、その間に日曜日があれば、その直後の「国民の祝日でない日」を休日とすることと改められ、振替先が月曜日固定ではなくなった。だから今年の5月6日が振替休日となるらしい。
 ふ~んそうなんだとわかったようでわからない気分なのだが、まぁ、休みが増えるのは結構なことだから、お国の決めたことに従うこととする。もっとも月初にこれだけ休みが続いてしまうと、仕事の方が押せ押せになるのが心配でもある。

 そんな休みの今日は、いい天気で、暑くもなく寒くもなく、過ごしやすい一日であった。私は朝早く、読みかけの阿刀田さんの本を読み終え、その感想をブログに書き込む。そういえば阿刀田さんは春の叙勲で旭日中綬章の受賞された。おめでとうございます。最近日本ペンクラブの会長として、Googleともめていらっしゃるようだけれども、これからもいい作品を書いてくれることを期待しています。

 軽く昼寝をした後、一時間ほど散歩に出る。もう花粉症の心配もないので、マスクもいらないので快適である。(でも豚インフルエンザとかでマスク業界はうるおっているらしいが・・・)
 久しぶりに休み一日を使って、一冊の本を読み終えた。そのためか今日はなんか充実しているような気分になる。この連休はちょっと本を一気に読んでやろうかと企んでいる。
 私の連休の予定はそんなもんでしかないのだが、その前に明日、明後日は仕事だ。特に明日は月末で仕事が多いのに社長と一緒とは不運である。この一週間の文句をまとめて言われながら、仕事をしなければならないと思うと一気に憂鬱になる。そして5月2日は胃カメラの検査である。毎年やっているとはいえ、これだけはどうも苦手で、思いっきりむせてしまう。そのことを事前に先生に伝えてはある。先生は大丈夫ですよ。今までよりは楽ですからと言ってくれているが・・・・。とにかく私が思う存分連休を堪能できるのはそれ以降となる。


2009年03月30日

この一週間の欠落感、寂寞感に悩まされる

 この三月はほとんど本が読めなかった。理由は娘の結婚にある。結婚式が近づいてきた三月に入り、娘が引っ越しの準備を始め、家中ばたばたし始める。当然知らん顔はできないから、あれこれ手伝うことになる。そして結婚式の前日を迎え、式当日になり、式が終わり、妙に興奮していた自分に唖然とし、その後娘がいないことの欠落感、あるいは寂寞感に悩まされる。まだ家には長男がいるけれど、いずれ彼も独立していくだろう。そんなことを思うと、結局二人で始めた家庭がまた二人に戻るんだなと自覚されるはめになる。それが堪えるのは、我々が歳をとったこと。そして家族の人数が増え、みんなで生活し続けたことが、一人いなくなることで寂しさが増したことによる。まぁそれは仕方がないのだが、私は精神的に落ち込んでいるのは事実であった。こういう精神的ダメージは私の場合、すぐ胃腸にくる。お陰で肉体的にも調子が悪かった。
 そんなブルーな気分が私を悩ませていたので、本を読む気がなかなか起こらなかった。ただぼーっとしていただけであった。それは自分でも予想だにしていなかった分、気持の落ち込みは長く続いた。
 昨日、結婚した娘が家に来る。箪笥を買ってやる約束をしていたので、それを一緒に見にいくためである。一週間前のようにとんとんと階段を駆け上がってきて、「ただい~!」と声がする。そして今までのような屈託のない顔つきで、いろいろしゃべり始める。何も変わっていないようである。
 確かにまだ結婚して一週間しかたっていないのだから当たり前であるけれど、私は妙に安心し始める。落ち込んでいるのは親だけであって、娘は娘で自分の生活を自分なりに始めているのだろう。娘の明るさが以前と変わりがないのはまだ一週間しかたっていないからかもしれないと思うと、これから先ののことを思えばやはり心配ではあるけれど、きっと娘ならなんとかやっていくだろうと思うことにする。いややっていくに違いない。親はそう思うしかないのである。親というのは親をやっていないとその苦労や心配などわからないものだと改めて思い知らされる。
 でも、わずかではあるけれど、娘と話していると、おっ、主婦やってんじゃんと感じた。娘から“生活感”が現れてきている。これでいいんだろう、きっと。
 帰り間際、私は娘に「お母さんには、暇があったらメールをしてやってくれ」と、ホントは自分が欲しいくせに頼み込む。娘も「わかった」と言ってくれ、買い物後駅で別れる。
 
 私も完全に子離れをしないといけないなと思った。娘夫婦を信用していくしかない。そしていつまでもぼーっとしていられないし、イライラしてもいられない。私も歩き出すしかないのである。立ち上がりは昔みたいなスピードではできないけれど、ゆっくりと自分たちの生活を取り戻すしかない。頑張ろう!

2009年03月20日

娘の結婚式を前にして

 明日娘の結婚式である。そして今日は娘は引っ越しをする。まぁ、このごろというか、娘が社会人になってからは、自由に行動してきて、家に帰って来たり、友人と遊び歩いたりしているので、家にいないことが多かった。だから娘がいなくなることで、急に寂しくなることはないかもしれないなと思っていた。要するに親が子離れする準備を子供の方からやってくれたと思っていた。
 でも今までは、どんなに遊び歩いてても必ず家に帰って来ていたし、毎日の仕事は家から行っていたのがなくなるわけだから、今までとはきっと違うんだろうなと感じる。それは明日以降、私やかみさんがどう感じるかである。
 ここのところ引っ越しの準備をしている娘を横目で見ながら、ああ、こいつやっぱり家から出て行くんだと感じていたし、これから先うまくやっていけるのかなと不安になることもある。
 でも自分たちのことを考えれば、新しい生活が始まれば始まったで何とかなったのだから、娘もそれなりにうまくやっていくのだろうと思うことにしている。案外新婚生活をエンジョイして、親の心配などどこ吹く風みたいもんなのかもしれない。
 最近思うことがある。自分たちが結婚して、ひたすら自分たちのことしか考えてこなかったなと。自分たちの親のことなど考えたこともなかった。
 今順繰りに私たちが親として娘を送り出すにあたり、初めて親の心境というのを味あわされている。やっぱりなんだかんだと言っても、不安だし、心配だし、そして寂しい。たぶん私たちの親もきっと同じ気持ちだったんだろうなと最近思うのだ。しかもいつか子供たちは巣立っていくのは当然だから、親は自分たちの心境をあからさまに口に出して言えない。仕方がないのである。親の心配や寂しさより、子供が巣立っていくことを歓迎しなければならないのだから、ある意味つらいものだ。
 かみさんはいつまでも娘を子供扱いして見ていて、娘たちの行動に不安や心配を口に出して私に言っている。私は娘たちが完全に独立した家庭を自分たちに意志で築いて行くのだから、ある意味我々と同等の立場だ。いつまでも親面していてはいい迷惑だろうとわかりきったように言っている。けれど私はわかりきったような態度をとっていても、かみさんのように口に出して言えないつらさを味あわされているのである。親って損な役回りだなと思うようになってきている。でもそれって子供を持ったときからついて回ることなんだろう。
 娘の結婚式が近づくにつれ、かみさんと町を歩いているとき、小さな女の子を見ると、いつも娘がそんな頃のことを思い出し、話題となる。確かに親は損な役回りかもしれないけれど、でも子供たちがいたから楽しかったことも多くあったに違いない。だから人様の子供を見て、自分たちの子供が同じ頃のこと思い出せるのかもしれない。いいときも、楽しいことも、心配したことも、今となってはいい思い出の一コマだ。そしてきっと娘の結婚も何年かそればきっといい思い出の一コマになるのだろうと思うことにしている。

2009年03月16日

気になるコマーシャル

 最近のCMで妙に反応してしまうものがある。サントリーのビール・発泡酒「金麦」のコマーシャルである。












 というか、そのコマーシャルにかかる曲に反応してしまうのである。たぶん私と同じ年代の人はきっと私と同じ反応をするんじゃないかと思うのだ。あの曲がやばいのである。あの曲は深夜放送の「オールナイト・ニッポン」のテーマソングである。つまりビールに関心があるんじゃなくて、この曲がかかると昔深夜に起きてラジオを聞いていた頃を思い出すのである。
 その上、「金麦と待ってる~!」と叫んでいる泥臭い女の人も一昔前にいた女性のイメージでなかなかよろしい。しかしネットで調べてびっくりした。彼女、檀れいといい、宝塚歌劇団出身の女優だという。これは泥臭いとは失礼な話だ。でも、かかっている曲の懐かしさと、あの頃の“元気さ”が彼女のうまく表現していて、私としては「いい感じ」だ。
 誰がこのコマーシャルを企画したのか知らないけれど、この曲の選択はとにかくわれわれの世代にはインパクトがある。飲めない私でも金麦を買って飲もうかなと思っちゃう。
 ちなみにこの曲名は「ビタースウィート・サンバ(Bittersweet Samba)」というらしい。このことはネットで調べて知った。ジャズ・トランペット奏者で、アメリカのレコード会社A&Mレコードの創始者の一人でもある“ハーブ・アルパート(Herb Alpert)”1965年に発表したものがオリジナルだそうだ。これもyoutubeで見ることができる。懐かしいな~!


2009年03月01日

花粉症で悩んでいる時に思うこと

 一昨日久しぶり遅くまで飲んだ。例の大学時代の友人たちと。私は勝手に“東京暇人倶楽部”と名付けている。というのも本当はもっとたくさんの大学時代の友人と会って話したいのだが、如何せんすぐ連絡を取って会える友人が東京には少ないこともあって、そんなところから、会える友人はいつも決まってしまう。
 でも友人はやっぱりいいなぁと思う。そう感じるから、ついつい羽目を外してしまう。言いたいことを言うわ、わがままを言うわと、とにかく節操がなくなる。飲んでわいわい騒いでいるときは、そんなことは少しも感じないのだけれど、友人と別れた後、後悔の念に苛まれる。その上翌日になると、この時期花粉症の人間はお酒を飲めば症状を悪化する。まったく飲んだ後は反省したり、花粉症に悩んだり、気分が滅入るのは困ったものである。もともとお酒に強いわけでもないし、酒の席が苦手な方なので、うまいお酒の飲み方ができないところに問題があるのだろう。ホント、申し訳ないなと思ってしまう。だからお酒は飲みたくないとまで思ってしまう。
 そんなわけでせめて謝罪の気持ちもあって、昨日デジカメで撮ったものをまとめてサーバーにアップする。しかしビデオクリップがうまく表示できない。何度か修正してみたのだが、どうも花粉症で頭がボーッとしているので、解決策が見いだせない。調子が悪いときは何やってもうまくいかないものだ。仕方がないのでそのファイルのある場所を書いて、そこをクリックしてもらうことにする。

 午後いつものように買い物に付き合う。ついでにいつものようにブックオフによる。今日はタイムサービスで本全部半額である。これはラッキーと思うが、さて欲しい本があるかなと棚を見て回るが、こういう時に限って欲しい本がないものだ。欲しい本がない以上、いくら安いとはいえ余計な本を買っても仕方がないので帰ろうと思ったとき、“宗教”のコーナーで阿刀田さんの『私の聖書ものがたり』を見つける。この本漫画は手塚治虫さんのものを使っていて、いいなぁと以前思っていた。ただよくわからないが、子供向けなのかすべてのページにルビがふってあるので、どうなんだろうと買うのを躊躇っていた。でも売値の半額だと350円だ。これは買いだろうと決めて買うことにする。
 しかし今日はタイムセールか、お客さんが多い。こうしてみると、本を読みたいという人が多いんだなと思う。ここに来ている人は、新刊書店で買うには値段が高いので中古でもいいから、しかも更に値段が安ければ本を買いたいと思う人たちだろう。今日ここにいるお客さんの何人かはかごを持って、読みたい本を見つくろっている。そこには何冊も本が入っている。
 こういうのを見ると、本の定価というものも考えてしまう。本というものは他の嗜好品から比べれば値段が安いと言われている。また本を読むという行為から考えても、その時間を過ごす割合から考えて、値段は安いと考えていいと言われている。けれど実際問題やっぱり一冊単価は高い。その理由はいろいろあるだろうけど、いつまでも制度疲労している再販制度にしがみついて、市場経済から部外者づらしてていいんだろうかと思う。根本的に本の流通制度を見直さないと、ホントえらいことになる。定価維持は、市場に閉塞感を見出すし、コスト削減などの努力も怠っているんじゃないかと思ったりする。

 夜いつものように「アド街」を見て、そのままテレビをつけっぱなししていたら、「美の巨人たち」をやっている。今日紹介されている画家の作品はジョルジュ・ド・ラ・トゥール作「大工の聖ヨセフ」であった。


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 その絵を見たとたん、愕然とする。なんだ、この絵は!と思った。私はこの画家のことは一切知らない。しかしこの絵には釘付けになってしまった。ここに描かれる“闇”と“ローソクの光”のコントラストに驚いてしまった。老いた大工がヨセフなら、その横でローソクに手をかざす子供はイエスだろう。この二人を描くに当たって驚くべき写実感。イエスのすべてを包み込むようなヨセフの目つき。ローソクをかざすイエスの手。その炎の明かりはイエスの顔にきれいに当たる。そのためイエスの父親を慕う表情がかすかに照らされる。その明るい光はイエスの指先さえ透けさせる。
 ヨセフは角材に穴をあけているのだろうか?解説によると、その角材はイエスが背負う十字架を予感させると言う。そのためヨセフの目は目の前の穢れなき子に負わされた過酷な運命を予感した不安気なまなざしにも見える。
 更にテレビを見ているとこの絵はいま上野の国立西洋美術館に来ているという。これは是非実物を見てみたいと思った。時間を見つけて行ってみたい。

2009年02月21日

ついていない!

 アマゾンで古本を買った。マーケットプレイスでおそらく個人で出品しているものであろう。それが一昨日届いた。例によって、ワクワクしながら梱包を解き、中身の本を取り出す。あれ?本文に赤いペンでラインが引かれている。おいおい、話が違うじゃないか。アマゾンではそんなことは一言も書いていなかったはずだ。そんなコメントがあれば買う訳がない。まいったなぁ。どうしたらよかろう。そのまま泣き寝入りしなければならないのかなとも思った。
 古本屋さんの店頭で本を見ればチェックもできるし、本に書き込みなどがあるかないかはすぐわかる。しかしネットの場合そうはいかない。必然的に出品者を信用するしかないのだから、これでは納得はできないなと思い、出品者にクレームのメールを出すことにした。
 ただ私の方も、最初にアマゾンでこの本を見たときに、もしかしたらコメントに“赤線が引かれている”と書かれていたかもしれないと思い始めた。つまり私があったかもしれないコメント読み損ねた可能性だって充分ある。その点は自信がない。だから強くは言えない。で、一応私がコメントを読み忘れたかもしれないのでということをきちんと書き添えて、もしそうなら仕方がないことを言う。その上で確認してもらいたい旨を書いた。
 そうしたら返事が届く。出品者の見落としだそうだ。それでその後の対応なのだが、値引き処理をしてくれるという。本当なら、受取人支払で送り返して、全額返金してもらってもいいのだろうけど、そうしたらこの出品者は大損だろう。それにこの本を読みたいと思って古本屋さんやブックオフで探したのだが、手に入らなかったので、アマゾンのマーケットプレイスを利用した。だから出品者の提案を了解した。仕方がないだろう。
 ネットで古本を買う場合、こういう時は困る。代金の返金手続きも面倒だし、送り返すにも送料がかかる。今回の場合悪気はなかったようなので仕方がないけれど、やっぱり出品者はきちんと中身を確認してもらいたいし、古本で売り飛ばした最初の持ち主は、本に書き込みや線を引くのは結構だけれど、それなら売るのはやめて欲しいと思う。
 でも、気持ちがおさまったのでメールを出してよかった。

 昼食をとるためにかみさんと出かける。葛西のびっくりドンキーで食事をした後、隣にあるブックオフに寄ってみる。今日は単行本500円均一、文庫本250円均一のセールをやっていた。
 いつものように単行本の棚を眺めていたら、アマゾンのマーケットプレイスで買った文庫本が、単行本としてあった。思わず、あっ!と叫んでしまう。なんだよ、ここには単行本があるじゃないないかと思った。私は文庫本も好きだけれど、できれば単行本の方がいいという、“単行本愛好者”なので、正直悔しかった。それに最近は目が悪くなってきているので、古い文庫本の文字が小さくて読むのに苦労するから余計に単行本のがいいのだ。
 いったんその本を手にしたのだが、でももう文庫本で買ってしまったのだからと思い、本を棚に渋々戻した。ここのところホントついていないな。

2009年01月25日

今年の初詣

 ここのところ新年の初詣は正月休みの混雑を避けて、ある程度日にちをおいていくことにしている。昨日かみさんと二人で浅草寺に行った。それでも結構な人出で、浅草寺まで行く仲見世通りはなかなか先に進まなかった。
 毎年仲見世通りからちょっと入った日本そば屋さんで食事をするのだが、今年は先に娘の彼氏と会って、一緒に食事をしてしまったので、今回はここはなし。
 境内に入り、賽銭を投げ、お詣りをして、お払いをして、お守りを買って帰る。帰りにいつも買っている木村屋本店で人形焼きを買い、また仲見世通りを戻り、これもいつも入っている喫茶店へ行く。


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 そのまま松屋の前に出て、夕食のお弁当を買って帰った。もちろん地下鉄でである。子供の頃は、家の近くの通りから上野広小路行き都バスが出ていて、結構長いこと乗って浅草寺の裏側で下りた。そのまますぐ境内に入れたのだけれど、この路線がなくなってしまい、去年までは都営新宿線で馬喰横山の駅まで行って、浅草線に乗り換えていた。今年は同じ新宿線だけれども、馬喰横山まで行かずに住吉で下り、半蔵門線に乗り換え、押上まで行って、そこから浅草線に乗り換える。料金は乗り換えが多い分多少高くなるが、時間が短縮できるので、これからはこれで行こうと思う。

 初詣に行って今年も無病息災をお願いするけれども、今ひとつ気持ちがこもらない。もともと無神論者なので、こんなことをしても仕方がないじゃないかと思っているので余計である。我が家の行事の一つとして、浅草まで行ったという感じだ。
 でも浅草や上野、あるいはその周辺の下町風情というのは興味がある。地下鉄の浅草駅の汚さは個人的には好きだなぁ。通路が狭くて、しかも階段が多く、上がったり、下がったりして、今盛んに叫ばれているバリアフリーなんて関係ないもんねという感じの風情はある意味、貴重だ。駅の柱にある喫茶店の広告には今時“ルノワール”でも言わない“純喫茶”なんていう文字もあっていいもんだ。 
 先に入った喫茶店もさすが“純喫茶”とはうたっていないけれど、一昔前の喫茶店という感じでとても気に入っている。古めかしいのもいい。昨年までは禁煙席なんてやっていなかったのだが、今年は1階を禁煙席にし、2階を喫煙席と分けていた。これもご時世かと思った。
 今年は“ちい散歩”じゃないけれど、吉村昭さんのエッセイなど読んだ関係で、このあたりを散歩がてら歩いてみたいなと思っている。

 そんなの関係ないといえば、新聞にゴヤの「巨人」が実は弟子のアセンシオ・フリアの作品作である可能性が高いという記事があった。


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 近くそれを所蔵するプラド美術館が発表するらしい。でも美術館では人気が高いからそのまま展示するという。ゴヤであろうがなかろうが、最も人気のある作品なので、そんなの関係ないというところか?でも、どうなんだろう。「巨人」がゴヤの作品だったから人気があったのだろう。そうじゃないとわかったら人気がた落ちってことにならないのだろうか?私の持っているゴヤの画集はもちろん「巨人」が掲載されている。今後美術全集など刊行されれば、この作品は削除されるのだろう。私はどういうわけか、この「巨人」と「我が子を食らうサトゥルヌス」がごっちゃになってしまうので、これで間違える心配はなくなるかもしれない。

2009年01月13日

成人式

 今年の新成人は昭和から平成に変わった年に生まれた。息子もそうである。息子の成人式は娘の時のように式典に参加するまでの準備がない分、親の方もバタバタしないので、ある意味楽である。出かける前にスーツを着た息子の写真を撮る。私と同じように息子も写真に撮られるのが嫌いなので、最初嫌がっていたが、記念だからと、強引にカメラの前に立たせる。
 出来上がった息子の写真を見てみると、やはり立派になったなと思う。決して親馬鹿でなく、小さいときからずっと見てきているから、そう思うのである。
 ふと自分の成人式の頃と息子を比べてみると、明らかに息子たちの方が生き方自体しっかりしていると思う。息子の考え方や、生き方の方が極めて現実的だ。私の頃はつまらぬ夢みたいなものや理想など思いをはせるばかりで、ちっとも現実を直視していなかったと思うのだ。もちろん時代がそういうことを許してくれた時代だったからかもしれないし、今は逆にそんなことばかり考えている人間の方が馬鹿じゃないと言われかねない時代だから、必然的そうならざるを得ないのかもしれない。
 
 華やかな成人式のニュースを見ていると、自分のときことといつも比べてしまう。私は高校を卒業してから、その年に入った大学を秋に辞めてしまった。その後のことなどほとんどなにも考えていなくて、翌年もう一度大学受験をするために予備校に通い始め、二十歳の成人式のときは、試験が間近に迫っていた頃であった。
 一度ドロップアウトした人間はなかなか立ち上がれないもので、迫る大学入試にほとんど希望の持てない状況であった。試験の追い込みの時期なのに、授業にも出ずに予備校の近くの喫茶店のテレビから流れる成人式のニュースを眺めていた。その後ラグビーの早明戦を見ていた。寒い小雪の降る日だった。
 私は毎年その年の成人式のニュースを見るたびに自分のあの頃のことを思い出してしまうので、正直いい気持ちになれないでいる。一方が華やかであるだけに余計に自分が惨めになってしまうのだ。

 江戸川区の新成人を祝う祝典から帰ってきた息子が、もらったものとしてはがきのセットを放り出す。中身を見てみると、イラストの入ったはがき数枚と、切手が入っていた。思わずなんだこれ?と言ってしまった。なんではがきなんだと思った。もちろんわからないこともない部分は確かにある。
 これだけ携帯の普及率が上がった今だからこそ、手書きで書いてみませんかというところなんだろう。私はこうした考え方が嫌いである。直筆で書いたものが心がこもっていて、携帯やパソコンのメールが心がこもっていないとどうして言い切れるのだろうか?その文章が心がこもっているかどうかは、内容にあるのだと思うのだ。確かに手書きであれば自分で書くという作業が加わるから、その分手間や時間、労力がかかっているかもしれないけれど、だからといってそうして書かれたものであっても、しょうもないものはしょうもないではないかと思うのだ。こういう安易な発想はやめてもらいたいものだ。
 それにしてもえらく安上がりなプレゼントだなと正直思った。私の時はコンパクトな清水書院の国語辞典だった。これは一回も引くことなく今も本棚の奥にある。だっていつも使っている辞書があるのだから、そっちの方がいいに決まっている。ただ息子の時よりは経費がかかっているだろう。
 今地方が財政難と言われているけれど、そんな現状をここに見るようである。しかし高い住民税を払わされている住民としてはちょっとひどくないかと思わないでもない。

2008年12月26日

現実はきびしい!

 今年も残りあとわずかとなった。今日は御用納めだから、ほとんどの企業は今日で仕事を終えるのかもしれない。もちろん私には関係ない。銀行が30日までやっている以上、私はそれに付き合わないとならないからだ。
 
 この23日から25日までの間、街の感じを眺めていると、今年は世相を反映してか、どうも例年の華やかさが欠けているいるように感じるがする。まぁそれでも街にやはりこの時期ならではの雰囲気がある。
 今年はイブ、クリスマスは平日なので、天皇誕生日にクリスマスをやっちゃうところも多いのか、店頭にはケーキを売ろうと店員がサンタかトナカイの格好をして街ゆく人たちに大声をかけている。
 私もかみさんと錦糸町に繰り出す。錦糸町に出ると、いつもアルカキッドの上にあるとんかつ和幸に入って、一口ひれかつ定食を食べている。ここのところ多少胃の調子が良くなっているので、ご飯のおかわりをしてしまった。
 その後丸井にあるスタバに行く。目的はベアリスタの新作?を買うためである。実はうちに一匹いる。北京オリンピックバージョンのやつで、今年の春たまたま入った店にそれがあって、かみさんが一目見て気に入ってしまい、買うはめになった。で、今度は一匹じゃかわいそうだということで、新作が出たからそれを買おうということになったのだ。今度はジンジャーブレッドボーイというやつ。まったく暇な夫婦だと我ながら思うし、何のためにスタバに行くのか、意味不明のところがあるが、まぁ仕方がない。とにかく一匹買ってくる。


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 その後西武に入ってクリスマスケーキを買い、帰る。
 当然とんかつで腹一杯になっているところにそのケーキが入るわけで、これはやばいなと思って体重計に乗ってみると、案の定一キロ体重が増えている。さっきも言ったように、ここのところ胃の調子がいいものだから、バカスカ食っていた結果だ。
 そんな状態で、自転車に乗ってお茶の水店に行けば、坂がかなりきつい。息切れがしてしまう。身体が重いのだ。とにかく一気に坂が登れない。
 元々運動不足である。たまたま胃の調子が悪かったから、食が細いところで、食べ過ぎを防いでいた。それが食べられるようになれば、当然太る。それがここのところの状態だ。
 実を言うとここのところ胃腸の調子がいいのだ。だから食欲が出てきている。今月初めにまた薬を変えてもらったのだが、どうやらそれが効果が出ているようである。
 もちろん完全というわけじゃないが、それでも一時から比べれば雲泥の差である。やっと症状を緩和してくれる薬を処方してくれる先生に巡り会ったという気持が強い。正月もこのままこれらの薬を飲んでいれば安心だなと思っていたら、どう考えても薬が足らない。勘違いをしていた。月初めに28日分の処方せんを書いてもらったわけだから、当然である。やばいと思い、慌てて病院へ行く。
 先生にどうですか?と聞かれ、かなり楽になっていますと伝える。というわけで、前回同様の薬を出してもらう。しかし先生には釘を刺される。正月無理をしないようにと、この病気は波があるから、調子がいいと思っていても、悪くなるときもあるからと。私はただ「はい」と言うだけであった。もちろん正月だからといって暴飲暴食などするつもりもないし、このまま良くなるとは思ってもいない。

 今朝メールをチェックしていたら大学の友人から先日の忘年会の写真を送ったからというメールがあった。それをダウンロードして、眺めてみるとみんな歳をとったなぁと思った。自分を含め、明らかにオジンやオバンになっている。顔は老け、身体は不要に太り、髪の毛はなくなるか、白くなっている。それを補うために汚いひげなどはやすものだから、余計に醜い。私同様薬を飲んでいるやつもいる。体調不良で今回参加できなかったやつもいる。寄る年波には勝てないなという感じだ。現実はとにかくきびしいもんだ。

2008年12月17日

私にはできないこと、できること

 毎年年間100冊は本を読みたいなと年始めに思い、それを目標にしている。といってもその目標目指して遮二無二本を読もうなんて気はない。まぁそれだけ読めればいいじゃんという程度のものである。もちろん社会人になってからは、年間100冊など読めやしない。まして精神的起伏が激しい人なので、気持がハイの時はすらすら読めても、落ち込んじゃった時は本の表紙すら見たくないというときが、年に何回か訪れる。そんなときはほとんど本を読むことが無理なのである。今年は現在95冊で、もしかしたら目標達成できる可能性はあるけれど、後半月しか残っていないから、やっぱり無理かもしれない。
 本を多く読むことが目的じゃないことはよくわかっている。要はいかに内容の濃い読書をしたか、あるいは本をどれだけ楽しんだかであろう。そういう意味では毎年楽しんではいるから、年間100冊などどうでもいいのかもしれない。あるいは年間100冊読めれば、その分それだけ多く本を楽しんだことになるんじゃないかと思うのである。

 私のブログに「本ブログ」というリンクが貼ってある。リンクした理由は、私の読書感想文がどれだけ人気があるか知りたかったからだ。最初は結構いけてると思っていたのだけれど、ランキングを見ると大体定位置が決まっている。これだけ本を読んでいるのだから、もう少し上位にあってもいいじゃんと思っていたが、いつもおなじ位地だ。なんでだろうと思っていたときもあったが、最近は“だろうな”という気持になっている。要するに今ウケしない本ばかり読んでいるからである。
 たとえば、上位に位置する人のブログを拝見させてもらうと、やっぱり今ウケている話題の作家さんの本のことが書かれているのである。別に悪口を言うつもりはさらさらないのだが、私からすれば“軽い”本、流行の本を書かれている人のブログの方が上位にランキングするようだ。そうわかったとき、私のブログの位置はここだろうし、むしろ上位にありすぎるかもしれないと思った。
 ネットで本のことを書くなら、やっぱり話題性があることが一番いい。それこそネットの存在感ここにありといったものが、最近流行のものは何かにある以上、当然そうなるであろう。
 ちやほやされ、流行の最先端を行っている本がすべて悪いとは思わないが、どこかただ単に時代の波に流されている、あるいはそれに乗っているだけのことであって、軽さはあるけど重みのない、時が経てばすぐ風化してしまうように思えてならない。さらに言わせてもらえば、ただ流行に乗り遅れまいとするだけで、そこには自分がどうしてこの本を読みたかったのか、その意味が感じられない。それは偏見かもしれないけれど、少なくとも私にはできないなと思うのだ。
 それに歳のせいか、そういう流行のもについていきたいという気持になれない。それより読めなかった本を今なら読めるかもしれないという気持で、昔買った本を手にすることが多い。あるいはちょっと前の作家さんの本を読む方が、年齢的に同感できる部分が多いので、読んでいて“そうそう”とうなずけちゃうところがいい。
 だから、最近本屋さんへ行っても自分の好きだった作家さんの本がほとんど棚に並んでいないからおもしろくないのである。それよりもブックオフの棚の方がおもしろいのだ。
 ブックオフにもちょっと前の本たちが並んでいる。それはそれで多少読んでみようかという気持のなった本があれば買うけれど、それよりも古い本が無造作に並んでいる方が好きだし、その中から読みたい作家さん本があれば、お宝発見じゃないけれど、何か得した気持になれるから好きである。
 そういう本を見つけると、うれしくなる。おもしろいもので、私がお宝と思った本は、大体が全部読まれた形跡がない。なぜそれがわかるかといえば、たとえばしおりが途中ではさまっていたり、出版社の案内が買ったときのままはさまれていたりするので、ああ、この本は途中で投げ出されちゃったんだなと思うのだ。そう思うと、じゃあ俺がきちんと読んでやるという気分になる。
 そんな本ばかり読んでいるから、今ウケするわけがないのだ。でもそれでいいと思っている。going my wayである。もともと勝手気儘に始めたブログである。人様の目を気にしながらやっていたら、こうも続くまい。自分が読みたい本を読む。これだけなのだ。

2008年12月10日

腹の立つこと

 12月になって、大学の友人から秋葉原で忘年会をやろうというメールが来る。秋葉原となれば私のいる事務所があるところだから、必然的に私が場所を手配することになる。
 胃の調子がおかしくなって、飲みに行くことがなくなったから、どこに行けばいいかわからない。でも最近の秋葉は再開発で大きなビルができ、そこに多くの飲み屋が入っているから、ぐるなびで探せばなんとかなるだろうと思い、検索し、適当なところに電話をかけてみると、いっぱいだと何件か断られた。仕方がないので駅前はやめにして、通りの奥にある店にする。
 で、それを友人に連絡するのだが、必然的にメールでやる。これだと一回書いた文章をコピーして、直すべきところを直して送信すれば簡単に済む。ところが一人、携帯もパソコンも持っていない奴がいる。こいつのためにわざわざ電話を取って、話さなければならないのである。
 電話をすれば、やたら明るい声で、おお!とのたまう。おお!じゃないって。お前だけがメールアドレスを持っていないから、こうして電話しなきゃならない手間を考えろ!と怒鳴りつける。まさかお前のところはダイアル式の黒電話などつかっているんじゃないだろうな?
 やつはこのことに関してなんだかんだと言うのだが、偉そうに最近アイフォンは気にかかるという。アイフォンでも何でもいいからとにかくメールアドレスを持てと強く言う。お前のために面倒でしょうがないのだ。

 昨日、神田の三省堂本店で本を買った。買うつもりもなかった本だったのだが、入り口近くのワゴンに大量に積まれていて、気になって見ているうちに読んでみようかと思い買ってしまった。(失敗だった)
 そういえば、この店では話題の新刊をブロックみたいに交互に積み上げ、オブジェみたいにしているのを何度か見かけた。確かめはしなかったけれど、見本じゃなく、本物の新刊だろうと思った。それを見たとき無性に腹が立った。そのオブジェは結構な高さであった。ということは冊数もかなりの数になるはずだ。こんなことをするために、この店に大量に新刊を入荷させ、街の本屋さんには一冊もいかないなんておかしくないか?街の本屋のおやじさんはこの一冊の新刊を手に入れるため苦労しているのに、ここではその新刊がオブジェのためのブロック化しているのである。
 誰のアイデアか知らないけれど、こんな馬鹿なことに出版社の営業もからんでいるなら、おまえら馬鹿じゃないかと怒鳴りつけたくなる。
 たとえそれがこの店の配本でまかなっているとしても、このオブジェ化された本がいきなりなくなるほど売れるわけがないだろう。なぜならせっかく苦労して積み上げたものを、そう早く壊さなければならないほどの売れ行きなら、そもそもこんなものなど作らないだろう。だったらここに積み上げられた本を街の本屋さんに回した方が出版界のためにもいい。
 何を大袈裟なことを言っているんだと言われそうだけれど、こうした大書店に偏った新刊配本をして、中小書店には一冊も配本がないということは、そのお店にとって大きな機会損失なのである。これが毎日発売される新刊全てに及んでいるのだから、街の本屋さんの売上に大きな影響を及ぼす。そうしたことが進めば、閉店ということになるわけだ。

 街の本屋さんは今まで面として出版業界を支えてきた。ところがその本屋さんがなくなってしまうと、駅前などにある大書店が点として出版界を支えなきゃならなくなる。要は、休みになどにサンダルをつっかけて本など見てみようかということが出来なくなったということなのである。街の本屋さんはそういうお客さんの面倒を見ていたのだ。これが出来なくなったことが、出版不況の一因にもなっていることを忘れてはならないだろう。わざわざ駅前まで行って本を買うなら、アマゾンで買えば楽だ。リアル書店がダメになるのも当然である。
 このように三省堂のような大書店が新刊を独占することは、自分で自分の首を絞めていると自覚すべきことなのだ。
 だからこそ街の本屋さんももっともっと怒っていい。まぁ日々の業務に忙しいから、わざわざこの店に来てこの状態を目にすることなどないだろうから、仕方がないかもしれないが・・・。それにしてもひどい。


 社長が書類整理をしていたら、大量のSFカードとオレンジカードが出てきた。その時はもうこのカードは使えないだろうと思っていたが、例の性格から「なんとかしてもらえ!」ご命令。仕方なしにまずは地下鉄秋葉原駅の駅長室へ行ってみる。

「すいませ~ん。あの、このカードが大量に残ってしまっているんですが、なんとかならないでしょうか?」
「このカードは改札では今は使えないですけれど、券売機は使えますよ。あるいは払い戻しが出来ますが・・・」

 おお、そのお言葉を待っていた。

「それじゃ、払い戻ししてもらえますか?」

 ということで、50枚以上のSFカードを払い戻してもらった。これならJRも払い戻してくれるだろうと、その足でJRの秋葉原駅で聞いてみる。すると、

「このカードは今は改札では使えないけれど、券売機は使えますよ」
「あの~、これ払い戻しはできません?」
「できません!」

 と素っ気ないお言葉を返してくれる。自分のカードなら「地下鉄は払い戻してくれたんですけど、ダメですか?」と案外食い下がったかもしれないが、なんせ人のカードである。「ああ、そうですか」とそのまま引き下がる。

 それを社長に言い、払い戻してもらったお金とオレンジカードを返す。どういう風の吹き回しか知らないが、換金できなかったオレンジカード3枚くれた。くれたといっても、お茶の水店に行くときに使うのだけれど。
 今日そのカードを使って、キップを買う。改札にキップを通すと、先にある画面に「きっぷ」と出て来る。わかってるわい!キップじゃいけないのか!SuicaやPASMOを使うのが当たり前の時代である。いまごろキップを買うなんておかしいんじゃないのといった感じがしてしまう。
 考えてみると、ほんとキップを買わなくなったと思った。


 今日はボーナス支給日である。当社はボーナスだけは現金支給なのである。小切手に裏判を押して、現金化する。しかし10日である。銀行は混んでいる。それがわかっていたので、朝イチで銀行に行く。待たされることは覚悟していたので、持っている文庫本を読み始める。しばらくすると、行員が頼みもしないのに私の近くに来て、「もう少し待ってくれ」と言う。覚悟していたのでこの時は「はい」と素直にうなずく。
 ところがまたしばらくして行員が私のところに来て、パンフレットを持ってくる。それには前日に両替票を持ってくれば、早く受け取れるし、振込もご利用下さいと書かれていた。そんなことわかっているわい!こっちだって混んでいる銀行など来たくない。しかもこの後現金を数えて、袋詰めもしなければならないのだ。パソコンで振り込んじゃった方が楽だし、そうしたいのだが、如何せんデータが昨日の夕方までこちらに来ないのだから仕方がないのだ。もともと現金化するだけで腹立たしいのに、わざわざパンフレット持ってきて、火に油を注ぐような言い方をするなと言いたくなってしまった。こっちにもそれなりの理由があんるんじゃい!なんでもかんでも、省力化するなと言いたくなってしまった。

2008年11月23日

“店長”と呼ばれていたいた時代

 何年か前に岩本町駅の階段で「店長!店長!」と呼ぶ声がした。誰のことを呼んでいるのだろうと思ったが、誰も振り向く奴がいない。私はそのまま階段を下りていったのだが、相変わらず呼ぶ声がする。まさか自分が呼ばれているなんて思わなかったのだ。
 呼んだ主はS君だった。私が大手町の小さな店の店長をやっていた頃、一緒に仕事をしていたアルバイトである。その時彼と何を話したのか忘れたけれど、しばらく立ち話をして別れた。
 私が“店長”と呼ばれるようになったのは、彼がそう言い始めたからである。もちろん私は偉そうに“店長”と呼ばれるのに抵抗はあったのだが、やめてくれと言っても彼はいつも私をそう呼んだ。若いのに物腰の低い、やさしい人であった。
 あのときまさか自分が“店長”と呼ばれるなんて思わなかったので、そうか俺は店長と呼ばれていたこともあったんだなと改めて思ったことを覚えているし、そう呼ばれていた時代がもう十年数年以上前であったことも懐かしかった。

 今は東京国税局が入っている大手町の第3合同庁舎の店に移ったのは、半ば飛ばされたものだった。今までいた店の店長と大げんかをしてしまい、ことごとく店長のやり方を批判した。自分が思うように仕事を続けた。だから店長は社長に泣きついて、私を大手町の店に移したのであった。そして大手町店いた人のいい店長を私の代わりに入れたのだ。そのことがわかっていたから、私は最初ここに来て、半ば自棄で仕事をしていたし、自分の実力からすれば、こんな店ぐらいすぐ建て直してやるとうぬぼれていた。
 しかしいくらやっても、売上は伸びなかった。私は悩んだ。結局今までみたいに殿様商売をしていたんじゃダメだ。問屋がこんな小さな店を大切にするわけがないから、新刊や売れ行き良好書など寄こしはしない。それなら自分で動いて仕入をしないとダメだと思い始め、たまたま近くには日販の店売や神田村があったから、それこそ毎日、雨の日も、風の日も、雪の日も自転車で仕入に出た。
 以来売上が伸び、わずか10坪の店で月商500万以上の売上も出せた。何年そこにいただろうか?五年?六年?そんなもんだったろうか?
 当時バブル時代だった。当社も新大久保に大きな店を出すことになった。当然実力、能力からいって、私がそこに行くだろうと自分でも思っていた。しかし私のいた店は本社から離れていた。いってみれば僻地いたし、また当時の書籍部の部長とそれほどつながりがなかった。そのため私は新大久保には行けなかった。(結果として行かなくてよかった。その自分が新大久保の店をたたむべきだと急先鋒になり、動いたのだから、世の中不思議といえば不思議なものだ)
 ところがその新大久保の店が予想以上に売上が伸びない。そのため部長自ら新大久保に乗り込むことになり、それまで部長がいた店に責任者がいなくなる。そこで私を呼び出し、ここで店長として仕事をして欲しいといいだしたのだ。私からすれば“ふざけるな!”という気分である。今更なんだという気持であった。
 しかし雇われの身である。会社の方針には従わざるを得ない。だた私は店長になることは拒否した。そこで会社は私を“店長代理”にすると言い出す。まあいい。私は私のやり方で戻った店で売上を伸ばせばいいと思い、自由に仕事をした。今にして思えば、新店長はやりづらかっただろう。もちろん誰にも私が店長代理と呼ばせなかったし、名刺にも役職など書かなかった。以来現在までその気分がつづいている。
 幸いこの店の私の担当部門は飛躍的に売上が伸びた。それは大手町で覚えた仕事の仕方のお陰である。だから私にとってこの店は書店人として一人前にしてくれた店だと思っている。

 その店の写真が出てきた。涙が出そうであった。この店は私がいた時代、改装をしている。この写真は改装前の写真である。


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 古ぼけた店だけど、内容はいい本屋だった。品揃えも捨てたもんじゃなかったはずだ。ただ今じゃこんな店などやっていけないかもしれない。
 第3合同庁舎の地下にある売店で本屋をやっていた。中には酒屋さんや写真屋さん、薬屋さん、電気屋さん、パン屋さんなど11の店が入っていた。いろいろな業種の人たちを話せたし、売店全体で何度も旅行に行った。あのときはほんとどんちゃん騒ぎをした。役人とも何度も喧嘩した。役人はすぐ社長に文句を言い、社長は私を呼び出した。何回か役人と喧嘩していると、「そろそろ社長から呼び出しの電話があるぞ」と売店仲間に言い、その通りとなった。もちろん呼び出しを食らってもひるまない。態度が悪いのは役人方だと言い放ったと思う。
 そんな私とよく付き合ってくれたのが酒屋さんの亡くなられた中村さんや従業員角ちゃんだった。やはり亡くなられた会長の田林さんもやさしくしてくれた。その酒屋さんで買った“大手町”という名が入った焼酎が取引先の問屋さん人気があり、何本も買ったし、自分でも飲んだ。その酒瓶が家にある。もちろん中身はないが・・・。


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 とにかく私が“店長”と呼ばれていたいた時代は、大変だったけど一番面白かったと、写真を眺めながらそう思った。

2008年11月15日

京都に到着!

 ついに今日京都に着いた。といっても、例の万歩計での話である。これを使い始めて184日目で達成である。“祝、京都到着!”と祝いたい気分なのである。


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 しかし日本橋から京都までどのくらいの距離があるのだろうか?気になったので例のごとくネットで調べてみると約500キロだそうである。それを184日かけて歩いたのだから、一日あたり、2.7キロとなる。これが多いのか少ないのかよくわからないけれど、たぶん少ないのだろう。ただ、184日せっせと歩いたわけじゃない。なんせこちらは現代人である。しかもこれでもビジネスマン、ホワイトカラーである。一日歩くといってもたかが知れている。それでも自分なりに、朝一駅先まで歩いたりして通勤しているが、如何せん天気の悪いときは、傘を持って歩くのはしんどい。あるいはあまりにも暑い日とかは歩かなかった。だからこんなに日数がかかってしまったのである。それにときには万歩計を持ち歩くことさえ忘れちゃったときも何日かあったから、実際はもう少し早く京都に到着していたのだけれど、まぁ、それはそれで、どうでもいいことだ。
 江戸時代の人はこの東海道をどれだけの日数で歩いたのだろうか。まあこの時代この街道を歩くということは旅をするということだろうから、一日歩きっぱなしだろうから、案外短い日数で踏破したのだろう。

 さて、今日は我が家は私一人で夕食である。娘は彼氏と遊んでいるらしく、息子は友人とたぶん“通し”で朝帰りだろう。だって今日は土曜日だからね。かみさんは高校時代の友人と気の早い忘年会に行っている。だから何の予定もない私一人で夕食を食べた。もちろん料理などする気などないので、京樽の茶巾寿司二個とサミットのパプリカサラダ、永谷園のあさげ、そしてバナナ一本がそのメニューである。
 でも結構満足している。たまには一人で食事をするのもいいもんだ。うるさいテレビの音もないし、かみさんの話に嫌々相づちを打たなくてもいいので、気分としては落ち着いている。
 メニューが貧相かもしれないけど、これで充分。もともとあまり油ものは食べられないので、この方が胃にもたれずすむ。先日、天ぷら懐石など馴れないものを食べたときなど、きっと人様は美味しいと思うのだろうけど、私はそれらを食べた後の胃の状態が気になってしまった。そして案の定その後しばらくしてトイレに駆け込む羽目になってしまった。だから今日の食事の方が私としては安心なのだ。それに個人的に京樽の茶巾寿司は好きだし・・・。
 さてもうすぐ九時だ。“アド街”でも見て、その後続きの本でも読もうと思う。

2008年11月07日

11月6日の午前中に

 神田の古本まつりに成果がなかったので、Amazonで本を注文したことは書いた。二日ほどして机の上に本が置いてあった。本が届いたのである。本を取り出すのが大変なほどきちんと本が傷まないように包装されている。仕事が丁寧であった。しかも古本とはいえ、状態もかなりいい。Amazonのマーケットプレイスで個人の蔵書を出品したものと思われる。古本まつりで棚にさらされ、傷んだ本とは違う。これだけでもうれしくなる。封筒の差出人には個人の名前が書かれている。何のゆかりもない人の名前だけど、思わず「ありがとう」といいたくなる。
住所見ると、福岡県とある。そうか、この本は福岡県から来たのかと思った。またどうしてこの本が売りに出されたのだろうか。私みたいに本棚が一杯になっちゃったから、処分したのかもしれない、なんて思ったりする。それにしても本の状態がいいから、結構大事にされていたんじゃないかとも思う。
 古本って、このように処分した人がどうして本を手放したのかとか、あるいはその所有者がその本をどう扱っていたか、その本の状態などで知ることができ、案外それを思うと楽しいものである。これは新刊では味わえないものだろう。まして今回のように所有者がわかり、しかもはるばる福岡県から届いたとなると、いろいろなことを思うのだ。


 昨日は木曜日で、本来臨時に医療事務員をやるのだが、薬剤師である社長の都合で、今週は休みとなった。なので、まずは毎日飲んでいる薬がなくなるため病院に行って処方せんをもらいに行こうと思って家を出る。もちろん例によって、一駅先まで歩いていく。天気がいいので、鞄の中にあるデジカメを取り出し、写真を撮る。
 まずは、近所の親水公園に植えられているドングリの写真。知ってました?ドングリってこうなるんですね。


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 親水公園から新大橋通りに出たところに、いつもガソリンを入れるスタンドが見える。リッター129円とだいぶ安くなりました。

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 岩本町から外堀通りに出て、総武線の陸橋がある。いつも見上げながら下を自転車で通る。


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 診察が終わってから、外堀通りをお茶の水方面に坂を上っていく途中でパチリ。本当は御茶ノ水橋から見える風景画好きなのだけれど、通りには人がいっぱい歩いているので、写真を撮れる状況じゃなかった。


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 そのまま駿河台下まで下り、靖国通りへ出て、三和図書へ向かう。ここも再開発でだいぶ変わった。昔のごちゃごちゃした町並みのが好きだったのでけれど、どでかくて近代的で、やたら明るいビルが建ち、中小書店のおやじたちが汚い格好して歩く所じゃなくなった感じだ。今回は三和図書の倉庫入り口と店売の写真をアップ。


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 事務所に戻る。留守電が三通。三通とも社長からだ。メールの写真を見たという伝言もある。電話じゃなくて、そのままメールで返信すればいいのに。(何故か今日返信メールが入っていた)それと言い忘れたのか用件を言い渡してくれる。まずは社長の用件をかたづけるはめになる。

2008年11月01日

第49回神田古本まつり

 神田神保町の古本まつりに出かける。今日は木枯らし一号が吹いたらしいが、やはり少々風が強かった。
 今回探したい本は何冊かあったのだが、結果は一冊も買わなかった。たぶんこうなるだろうなとは予想していた。そう簡単に欲しい本があって、しかも値段もそれなりの値段である本を見つかるわけがない。
 でも、たぶん以前も書いたと思うけど、ちょっと古い本を見ると、「ああ、この本あったな」と昔書店員をやっていた頃扱った本を何冊も見る。あるいは冬樹社の坂口安吾全集を見かけると、「そうそう、書店員時代の先輩が読んでいたな」と思い出す。本を見ればそれだけでなく、一緒に思い出ついて回る。たとえ自分の探している本が見つからなくても、それはそれで楽しかった。
 品切れ、絶版、稀少の文庫本が並んだ出店に、女子大生風の二人が左氏列伝の三冊を見て、「あった!」と小さく叫んだ。私は彼女たちの会話聞いていた。

 「やっぱり、探せばあるんだね」
 「で、いくらなんだ?」
 「3,000円!高くねえ?」
 「アマゾンで探せばきっと安いよ」

 といって、彼女たちは三冊まとめてくくられた文庫本を棚に戻すのであった。これには私は笑ってしまった。確かにそうだろうなと思ったのだ。
 実は私も探していた山口瞳さんの本を見つけたのだけれど、一冊2,000円であった。これはちょっと高い。以前アマゾンで検索したら600円程度あったはずだ。送料入れても1,000円でおつりがくる。こうなってくると、わざわざ足を運んで、歩き回って、目をさらにしてして見つけても、アマゾンより高いんじゃ、なんか悲しくなってくる。
 こうして成果がないと、しかも探している本がはっきり決まっているなら、ネットで探した方がいいかもしれない。きっとリアル古本屋さん?より値段が安いはずだ。今日は、もうこうした古本まつりに行く必要はないかもしれないななんて思って帰ってきた。
 家に帰って、さっそくネットで山口瞳さんの本を注文する。送料込みで940円だ。これでいい。

2008年10月04日

秋の夜長に・・・

 車内で座って本を読んでいる。本に夢中になってしまい、降りる駅を通り越さないように、下りる駅近くになったら電車が止まるたびに、ここはどこだと確認する。
 ふと前に立つ人の本が気になった。本というよりブックカバーである。それは本屋さんでつけてくれるカバーでなはない。市販のカバーをつけている。カバーに“Amazon.co.jp”と下の方にさりげなく記されていた。ふ~ん、アマゾンのブックカバーかと思い、どうして手に入れたんだろうと気になり始める。なかなかシンプルで、さりげないアマゾンのロゴがちょっとしたアクセントになっていて、いい感じのカバーである。
 さっそく家のパソコンでアマゾンにいってみて確認する。多分アマゾンのオリジナルカバーじゃないかと思い検索してみると、あった。これだ。私も欲しくなった。
 私は現在B6版の単行本用と文庫用の革製カバーを使っている。大半がこのサイズの本を読んでいるからだが、新書版も欲しいなとかねがね思っていたので、新書版のアマゾンのオリジナルカバーをショッピンクカートに入れる。650円だ。1,500円以上じゃないと送料がかかるので、欠本になっていた須賀敦子さん文庫版全集の3巻も注文して、1,500円以上にする。
 二日後本とカバーが届く。さっそくカバーを新書につけてみる。いい感じだ。防水仕様になっていて、これで大半の本にカバーで苦労しなくてすむ。
 ただ、これ以外のサイズの本は困る。たとえば大判のA6版の本やB6版でもソフトカバーで多少小さめの本は、仕方がないので、書店で買ったときにつけてもらったカバーを取っておいて、読むときにつけ直して使っている。
 ふと今読んでいる手に取る。A6版の本なので、有隣堂でもらったカバーをつけている。本はブックオフで買ったもの。そしてしおりは書泉さんでもらったものを使っている。ちょっと考えて笑ってしまった。これらすべて秋葉原にある。そして全部が違うのだ。こんなこともあるんだなとアマゾンのオリジナルカバーのついた本と、今読んでいる本を眺めている。

 私はここに載せる本の写真はすべて自分の本をスキャンして使っている。確かにネットで拾うことも出来るけれど、読んだ本そのものをここに載せたいと思っているので、わざわざスキャンして本の画像を作っている。だから帯があったり、なかったり、あるいはかなり古い本でも、帯には「今月の新刊」などと書いてあったりするのだけれど、それは自分が持っている本を読んだということで、この点にはちょっとこだわっている。
 ただスキャンする手間がかかる。その都度スキャンするのも大変だから、ある程度まとめてスキャンしてしまう。つまり今読んでいる本の後はこの本。その次がこの本と決めているということである。しかし予定は未定で、その通りいかないときもある。急に読みたい作家の新刊が出たりするとか、気持ちが変わったとかで、当初読む予定でスキャンした本が、そのまま残ってしまっているのである。ブログにアップしちゃえばそのまま削除するのだが、最近は本の画像が減らない。むしろ増える一方なのだ。
 まぁそれは仕方がないので諦めているが、スキャンするときは結構楽しい。今読んでいる本を読み終えたら、次はこの本だな。そしてそのあとはこれ。とスキャンを終えた本のページをパラパラめくっては楽しんでいる。いい季節である。読むぞ!この秋は、と読みかけの本を持っていく。

2008年07月09日

三周年に思うこと

 この12日でこのブログまるまる三年たったことになる。そして私の胃の調子はそれより半年ほど前からおかしくなっているので、約三年半調子悪いまま過ごしている。しかもここのところ胃の張りがひどく、もちろんげっぷも頻繁出るようになっていて、夜もなかなか寝付けないし、寝てもおなかの張りで苦しくなり、すぐ目が覚める始末。これはやばいなと思い始めた。
 食事も何を食べてもおいしくない。それよりこれ食べちゃったらおなかが張るだろうかなんてばかり気になって、それどころじゃないのだ。
 胃の調子が悪くなって、今の病院は二件目である。もう二年以上通っているのだが、薬ばかり大量に飲まされて、一向に良くなる兆しがない。精神的ストレスがかなり大きいだろうから、その点も注意されているのだが、それにしても少しは良くなってもいいのではないかと思っていた。胃カメラや大腸の内視鏡検査(他の病院を紹介され、そこで受けた)など総合的に胃腸の管理もしてくれているのは結構なのだが、管理だけじゃどうしようもない。
 家族は治らないところに通っていても意味がないから病院を変えろと言う。確かにその通りなのだが、だからといってそうころころ医者を変えていいものなのだろうかと思うのだ。たぶん今通っている先生のところで症状が回復する見込みがないのは自分でもわかっている。しかも胃カメラは下手だし、紹介された大腸の内視鏡検査を受けたところも、有名な先生らしいのだが、結構身体に負担がかかり、検査の後はへろへろになる。やっぱり先生を変えるしかないかなんて思っていたところに、おなかの張りがきつくなった。これはやばいなと思い始めたので、先週の木曜日に意を決して、会社の近くにある病院を訪ねる。ここはネットで探した病院である。(昔大野さんからも話があった)もともと大腸の検査はポリープができやすい体質だから、必ず一年に一回は検査を受けた方がいいと言われていたので、その検査が楽な先生を捜していたのだ。そしてここは胃腸科をやっているので、今の私には都合がいい。
 今まで受けた胃カメラや大腸の内視鏡検査の写真を見てもらい、実際おなかを触ってもらい、胃が張っているいるのを確認してもらう。次にレントゲンを撮る。先生曰く、小腸か大腸にかなりのガスがたまっていて、それがおなかの張りをもたらしている可能性がある。多分腸の機能が落ちているんじゃないのかな。だからその機能を少しでも回復すれば、張りは治まる可能性があると言うのだ。漢方を飲んだことがあるかと聞かれ、ないと答えると、いい薬があるからそれを試してみましょう“大建中湯”というのを処方箋に書いてもらった。木曜日なので大野さんがいないので、そのままお茶の水店に行って、薬を出してもらう。
 イメージとして漢方って苦いだろうな。粉薬(顆粒?)って苦手なんだよな。しかも二袋も食前に飲まなきゃならないのだからやだなと思って、さっそく夕食前に口に入れる。案外飲みやすいが、それでもかなりの水を飲んで流し込む。
 ところが、その夜からおなかが楽になっていくのが自分でもわかったのだ。夜中におなかが張って目が覚めることもなく、睡眠が取れたのだ。これは凄い!いったいこれはどういうことなのだ?
 もちろん完璧じゃない。げっぷも今までと同じように出るし、多少のおなかの張りもある。けれど、以前より楽であることは間違いない。さすが中国四千年の力というべきか、恐るべき漢方なんて馬鹿なことを思ってしまった。
 今日など、久しぶり朝天気がよかったし、体調もかなり回復してきたように思えたので、朝今までのように一駅先の駅まで歩く。今までは歩いていてもげっぷが出たり、おなかの張りが気になっていたのだが、今日はものすごく気分がいい。思わずもう一駅先まで歩こうかななんて思ってしまった。

 私は密かに思っていることがある。自分の胃腸が調子悪くなったのは、多分自分が今まで勤めていた本屋さんがなくなってしまったことによる精神的ストレスがそうさせているんじゃないかと。もちろんお店がなくなる前も、今の数字ばっかり追っている仕事をしていたのだけれど、それでも自分の仕事が終わればお店に行って、本屋の同僚と話したり、お店にある本に囲まれることができた。自分はもともと本屋さんに勤めたのだから、ここは言ってみれば自分のふるさとみたいなものであった。
 ところが会社の経営不振から、本屋の撤退を余儀なくされ、店も、同僚も失った。それが三年半前である。つまり私の胃腸がおかしくなったのと時期が符合する。同僚は辞めさせられ、自分一人が残った罪悪感みたいなものがいつまでもあったし、撤退後、残された私は経理的な残務整理を一人でやることになったので、余計にその負担が私の精神にダメージを与えた。それでなくとももともと胃腸が弱かったところにもろに来たのだ。今でもその罪悪感はあるし、自分のより所をなくしたことによる喪失感はある。
 だから馬鹿みたいに、取り憑かれたように本を読んでいる。そうすることで、自分が取り戻せるようなところがあるのだ。何を弱いことを言っているんだ言われそうだけど、実際そうなんだから仕方がない。このブログに三年間で、ざっと数えて290冊、本のことを書いているけれど、私にとって冊数なんか問題じゃなく、本を読むこと、その行為が自分が一番好きなことで、かろうじて自分が取り戻せるから、そうしているだけのことなのである。

2008年06月24日

「用無し」本

 昨日朝歯を磨いているときに、口のすすいだ水をはき出そうとして、前屈みになり、姿勢を元に戻したら、腰に痛みが走る。ああ、まただ。ここのところ天候が悪いためか、腰が重い感じがしていて、注意していたのだが、朝まだ活動スイッチが入っていなかったものだから、注意を怠ってしまった。やれやれ出勤前からこれかよと思いつつ、腰に湿布薬貼って出勤する。
 一昨日、久しぶりに本をぎっしり詰めた段ボール三箱を運んだのいけなかったかな。段ボール箱には、ブックオフに売り飛ばす本が入っていた。
 ここのところ、休みには恒例となっている本棚の整理をしている。で、棚にある新書がなんか他の棚の本と比べて、ほとんどいらないもんじゃないかと感じた。クズ本とは言いたくなかったので何と言っていいかなと考えあぐねていたら、たまたま読んでいた本に「用無し」本と書いてあったので、これいただき!と使うことにした。そうなのだ。この棚にある新書は、今の私にはもう用無しの本ばかりだった。
 新書というのは、どちらかといえば時代に則したテーマの本が多い。だから当時は読んだ。けれど時間がたって、「時代が変わると」、まったく存在価値がなくなってしまう。それがたまりにたまり、棚一段では収まりきれず前後収まっている。
 今の私にはここに占める新書の棚一段が貴重なので、わざわざ「用無し」本を置いておくほどの余裕はない。だから処分を決めたのだ。
 ついでに“椎名誠”の本も処分する。これも棚一段占めていた。椎名さんの本だけでなく、「本の雑誌」関係者の本、たとえば沢野さんや目黒さんの本もある。どちらかといえば、「本の雑誌」の黎明期の頃の本が多い。
 でも、もう読み返すこともあるまい。それよりもこうして棚一段占めていることに問題を感じていた。だからこの際棚からご退場を願うことにした。
 多分ブックオフでもほとんどが廃棄処分の本となるだろうと予測はできた。だから自分で資源ゴミとして出しちゃってもいいのだけれど、それじゃ何か気が引ける。だったら、ブックオフに持ち込み、ブックオフの方で店頭に出すか、あるいは処分するか決めてくれればと思ったのだ。その方が気分的にいい。高額で引き取ってほしいなんて考えていない。全部で100冊は超えていただろうか。引き取り価格は3,700円。明細を見ると新書47冊に値段がついていた。けれど持ち込んだのはその倍以上だったはずだから、半分以上は値段がつかず、廃棄されるのだろう。
 私は今まで三度古本屋さんに本を売っている。そしていつも売らなきゃよかったと後悔する。もう一度読みたくて改めて買った本もあるくらいなのだ。でも今回は明らかに「用無し」本化している本ばかりなので、そういう後悔はしなくて済みそうである。
 読んだ本がいつも面白い本ばかりとは限らない。むしろつまらなかった本の方が多いかもしれない。明らかに読んで失敗したという本もある。あるいはその時は時代にマッチしていたから、読んでためになったかもしれないけれど、時代が変わっちゃったら、意味をなさない本も結構ある。たまたま棚に余裕があったから、読んだ後そのまま詰め込んでいただけで、そのスペースがなくなれば、じゃまなだけである。今回はそういう本を処分しただけだからだ。
 先日大野さんに本を引き取ってもらったものあるので、これで棚が三段空いた。単行本で約100冊は収納できるスペースができた。この時期100冊収納できるスペースは貴重である。それだけでもうれしい。でもいい気になって本を買っていたらすぐ一杯になっちゃうな。これからはちょっと考えて本を買おう。そして読むのだ!

2008年05月17日

高校時代の友人

 帰りの電車の中で、高校時代の友人と偶然出会った。私は人付き合いが悪いので、学生時代の友人と会って話すことはほとんどない。強いて言えば、わざわざ出向いていって会うのは、大学時代の友人くらいである。何年か前に中学校の同窓会というか、有志が集まろうということになったのだが、これはちょっと行けなかった。というのも私のかみさんも同じ中学校なので、当然かみさんも出席することになる。そこに私が一緒に出向くわけにはいかない。何を言われるかわかったものじゃないからだ。友人たちは一緒に来ればいいのにというが、酒の肴にされるのはかなわない。ということで、この会は不参加となった。そしてたぶんこれから先も出席しないだろう。
 高校時代のクラス会はやっているのかいないのかよく知らないけれど、たぶん案内が来ないところをみると、うちのクラスは誰も音頭をとる奴がいないので、クラス会などやっていないのだろう。そのため高校時代の友人に会うことなどほとんどない。時たま電車の中でもしかしたらと思う顔を見かけることがあるが、面影はあるのだけれど自信がない。その上名前が出てこない。相手が私に気づいてくれれば、話にきっかけにはなるかもしれないが、もし違うなら失礼になるからそのままにしている。
 その友人はすぐ気づいてくれた。私もわかった。しかし名前が出てこない。誰だったけ?名前なんていったけ?と聞くわけにもいかないので、そのままにして、近況をちょっしと話し、同じ電車に乗っていることからまた会うこともあるでしょうと言って別れた。
 家に帰ってすぐ高校時代の卒業アルバムも開き、その友人の顔を探す。なかなか見つからない。三十数年前だから風貌もだいぶ変わちゃっている。再度目をこらして探してみるとあった。おお、あった!彼だ。名前を確認する。今度会ったときは失礼のないようにしなければ。
 それにしても三十年以上の風雪は、髪の毛が物語っていた。アルバムではびっしっとヘアースタイル決めて写っているのに、さっきはそうしたくても量が不足しているから、頭皮が見えてしまっていた。彼は座っており、私は彼の前に立っていたものだから、余計に気になってしまった。このシュチエーションできれば今後避けなければいけないな。歳をとるとそれなりに気を使わなければならないこともあるのだ。
 彼と話していて、クラス何組だったけ?と聞かれとっさに自分がいたクラス名が出てこなかったのには、ちょっと自分でも驚いた。え~と二組だったかなと口にしたとき、そうだ、うちの学校はABCとアルファベットでクラス分けをしていたことに気がつき、あわててD組だったと訂正する。二組は中学校の時だ。それでもそれさえも自信がなく、もしかしたらFだったかなと思い出すが確信が持てなかった。アルバムでD組であることは間違いなかったが、自分がいたクラスさえ忘れちゃうくらいだから、それくらい高校時代の友人とは話していないことのなる。しばらくアルバムを眺め、当時のことを思い出す。今後のために・・・。

2008年05月08日

その後

 木曜日なので、仕事が早く終われる。で、秋葉原にできたブックオフにでも寄ってみようと思い、その後を見に行った。何かめぼしいものでも補充されたかなと思ったのである。
 しかし何もなかった。というより私にはもうゴミしか残っていないように感じてしまったのである。確かにオープン時はしっかりとした在庫を確保したのだろう。私も何冊かゲットしたことは書いたとおりである。だけどこの後どのような補充がなされるのだろうかと正直、人ごとながら不安に思っていたのだ。
 もともとブックオフはお店のある地域から買い入れをし、在庫を維持していくシステムと聞いている。ところがこの秋葉原駅前店はそれはむずかしいだろうと思う。というのもだいたいこの地域に住んでいる住人が少ないからだ。店内放送で買い取ってもらおうと思い持ち込んだお客が呼び出されているけれど、わざわざここまで持ち込んで買い取ってもらわなくても、近所のブックオフで計算してもらった方が楽なはずだから、それほど買い取れるようには思えない。
 また秋葉原という地域性からオタクコミックばかり持ち込まれても、こちらとしてはこのてのジャンルには全く興味がないので、私が読みたい本がここから入荷するとは考えにくい。
 となると、他店から買い入れた本をここへもってくるしか、この店舗は維持できないのではないか。しかし他のお店だって、売れ筋はそうそう渡したくないだろうから、いくら本部機能がしっかりしていても、商品確保は厳しいのではないか。しかもこれだけの人が本を買っていく。需要と供給のバランスが完全に崩れている。となるとここにある本は時間が経てば経つほどゴミ本しかなくなっていく可能性がある。実際オープンから約一週間後、棚を見てみれば見栄えがしない。同じ本が何冊も棚に入っている。そうしないと棚がすかすかになるからだろう。店員の「いらっしゃいませ!こんにちは!」という唱和が煩わしく聞こえる。果たしてこれでやっていけるんだろうか?お客も馬鹿じゃないから、ここに本がないとわかれば、いずれ離れていく。この店をどう維持していくのか、今後が楽しみである。
 ということで何も収穫がなかったので、書泉さんに寄る。そこで見てしまったのである。開高さんの本を・・・。開高さんが亡くなられて、もう二十年が経つ。当然開高さんの新しい書き下ろしはあり得ないのだけれど、追悼文集など、関係者が結構出している。今回もそのたぐいだろうと思っていたら、単行本未収録の文章を集めたものであった(といっても、だいたい他のところで読んだことがある文章なんだけどね)。そうなると話は違ってくる。コレクターとしては買わないわけにはいかない。しかも本の帯には「文豪、最後の新刊!」と大々的に書いてある。厚い本だから結構するんだろうなと思い、値段を確かめると、定価3,360円とある。やれやれ仕方がない。ゆきちちゃんを財布から一枚取り出し、支払う。こういうことがあるから、新刊書店は鬼門なんだよなと思いつつ、でも足繁く何かないかなと通うところは、もう病気としかいいようがない。

2008年04月27日

戦利品7冊

 ブックオフの秋葉原駅前店に行ってみた。実はちょっと期待していたのである。何かあるんじゃないのかと。というのも、まず開店オープンということと、都内最大と広告を打っている以上、それなりに選りすぐりの商品をほかのブックオフより集めてきたんじゃないかと思ったのである。
 で、とぼとぼと出かけてみると、ブックオフの入っているビルの前には若い奴らがあの例の黄色い袋にいっぱい本を詰め込んで、戦利品を確認している。たぶんコミックか何かだろう。店から出てくる人もいっぱいに本を詰め込んだ袋を持って出てくる。
 この店は一階から六階までの店で、私が用があるのは三階の文庫本コーナーと四階の文芸書コーナーだと、とりあえず行き先を決める。そうしないとものすごい人なので身動きできない。ホントこんなにも本好きがいたのかと思えるほど、人がいっぱいである。みんなかごいっぱいに本を詰め込んでいる。こういう光景を見ると、本離れと最近騒がれているけれど、ほんとはみんな本を読みたいんじゃないのかと思ったりしちゃう。結局自分の読みたい本が書店にないこと、そして値段が高いことなどあって、読むことを諦めてしまっている感じではないかと思う。だから本が安いし、欲しい本があるんじゃないかと期待し、ここへ来て、かごいっぱいに本を詰め込んで帰って行くのだ。
 何というのかな、教育の現場では、あるいは出版業界では、子供達の本離れを何とか食い止めよう躍起になっている。出版業界でよく本離れを食い止めるために学校とタイアップして、その取り組みをやっているのが業界新聞に紹介されているけれど、どこか商魂が見え隠れして、嘘くさく、本当に子供達のためのことを考えているかどうか疑っちゃうところがある。
 学校では朝の読書会やなんかやって、子供達に本を読む習慣をつけてもらおうとする。だけど半ば強制された読書というのは面白くない。それに学校の図書館にある本は、一定の基準で選ばれた本ばかりなので、そこに読みたい本があればいいが、なかなか読みたい本って少ないのではないかと思ったりする。本当の意味で本を読む楽しさを教えたいのなら、まずは書店で自ら本を選ばせることから始めるべきじゃないのかと思う。何も本は図書館にあるだけじゃないのだから。
 そもそも本を読むことは半ば強制することでなく、楽しむことだ。強制して、感想文なんかかかせるから、本を読むことが嫌になっちゃうのだ。授業として無理に取り組むものだから、画一的にならざるを得なくなるのだし、つまらなくもなる。本はそれを読むことで、楽しめればいいだけのもので、楽しむとはたとえば自分以外の人生を知ること、あるいは知らない知識や経験を知ることで驚きを感じることだと思う。(ちょっとキザに言えば、人生の奥行きが広くなることだ)だから自分の興味のある分野の本を読めばいい。
 ここで戦利品を確認している奴、あるいは袋にいっぱい詰め込んで帰る人の顔はどこかうれしそうに見える。それでいいのだと思う。私はブックオフというお店は業界的には問題がある存在だとはわかっているが、一方で、本を読むことの楽しみを知っている人が集まる場所だといつも思っているし、私もその中の一人なのだ。
 さて、偉そうなことをいうのはここまでにしておこう。私も戦果を探さなければならない。初日ということもあるから仕方がないにしろ、それにしてもすごい人だ。
 まずは文庫。狭い通路に人が本を探している。棚ががら空きになってしまうので店員があわてて棚の補充をしている。足下には本がいっぱいになったかごがいくつもある。非常に通りにくい。おっ、シムノンの探していた文庫発見!(これは品切れだったのだ)そして阿刀田さんの『獅子王アレキサンドロス』の単行本を見つける。定価2,200円のやつが105円。多少日焼けしているが美本だ。これもゲット。そしてもう1冊阿刀田さんの小説を加え、計3冊を買う。
 帰りに近くのブックオフにもよる。なんと本日ゴールデンウィーク特価ということで、単行本500円以上が500円という。ラッキー!しかも阿刀田さん新刊もあるし、ちょっと前の小説もある。単行本2冊で1,000円。105円の単行本2冊で210円。計1,210円を払う。
 私の今日の戦利品は7冊。久しぶりにこんなに多くの本を買った。近くのドトールに入って、さっそく本を取り出し、ページをパラパラめくる。これがうれしいんですよね。私の至福の時といっても過言じゃない。

2008年03月03日

どうでもいいこと五題

 毎度この時期になると、花粉症のことを書くのだけれど、今年は昨年より花粉の量が多いと聞いていたが、一昨日までは症状が軽かっったというよりほとんど症状が出ていなかった。ところが昨日あたりから、やはり出てきたようだ。あわてて昨年残っていた目薬や鼻炎スプレーを取り出す始末。特に地下鉄のホームはかなりやばい。あの風がいけない。電車がホームに近づくと吹くあの風である。この風が眼や鼻が感じ始めるととたんに涙目になり、鼻がぐずぐずいいだす。当然ハンカチを取り出し、眼を拭いているのだが、このときの状況が見る人が見たら、異常に見えるかもしれないと思うのだ。
 なぜなら私は電車の中では必ず本を開いて読み始めるので、涙目で、鼻がぐずぐずいっていれば本を読んで泣いているように勘違いするんじゃないかと思うのだ。なんかものすごく感動して泣いているんじゃないのなんて思われたらどうしようとここのところいつも不安になるのだ。決してそうじゃないだけど・・・。

 広辞苑の第六版が先日発売された。高校時代、現代国語の先生が「辞書は出来る限り最新版を持っていた方がいい」とよく言っていたのを思い出す。私はそれほど辞書を引く人ではなかったのだけれど、形だけは言いつけを結構守っていて、可能な限り最新版の辞書を持っていた。特に広辞苑は改訂のたびにそれに付き合っていて、気がついたら本棚に広辞苑が三冊もある。一つは最新版の広辞苑、そしてその前のやつ。三冊目は義父が持っていたやつである。全くバカな話である。
 で、第五版以外は全部処分した。しかしその第五版もほとんど引かない。ただでさえ辞書を引かないのにその上文字が小さくて見えないので、見ることも鬱陶しくなってしまったのだ。
 しかも最近はこうしてパソコンで文章を書くものだから、パソコンの辞書を活用することが多くなった。だからATOKの辞書に広辞苑の第五版を入れた。
 しかし辞書を使うといってもたかがしれている。同音異義の言葉がいくつかあるときに、どれを使えばいいかそれを知るためである。たとえば先の花粉症が“治る”というやつだけど、“治る”にはもう一つ“直る”があるが、この場合どっちを使えばいいのかと迷う。こういうとき、変換するときに広辞苑の辞書が立ち上がり、この場合の“なおる”は、「病苦や異常事態などがしずまる。「腹痛が―・る」「インフレが―・る」「事態がまるく―・る」という文例から“治る”を選択する訳である。せいぜいこの程度である。でも私にとって結構貴重なものなのだ。結構漢字を知らない人なので、いい加減な使い方をしていると常日頃感じている。だからせめてこれぐらいはやっておきたいと思っている。それでなくとも誤字脱字が多いのだから余計である。
 それに辞書を引くときはこうして文章を書いているときが圧倒的に多いので、パソコンでひらがなを入力して変換すれば、言葉の意味もすぐわかるから結構便利なのだ。それに実際の辞書より文字も大きいし、見やすい。何より重くなくていい。日頃パソコンの前にいることが多いので、言葉の意味を調べるときは、エディターを立ち上げて、ひらがなを入力して、変換させ、その意味を調べることが多い。
 ということで、今回も本の広辞苑ではなくて、パソコンの辞書の第六版を入れた。この第六版は図版(あまりきれいじゃないが)も入っていて、使い勝手も良さそうである。当分これでやっていけそうである。

 阿刀田さんのエッセイを先に三冊ブックオフで買った。そしてそれを読んで、もうちょっと読みたいななんて思ったものだから、再びブックオフに行って、他のエッセイを見つくろってくる。
 そのうち新潮文庫が一冊あった。あったのはいいのだけれど、新潮文庫についているスピン(ひものしおり)が切れている。はは~んこれだなと思った。以前ネットで古本屋さんをやっている人の本を読んだとき、ブックオフで仕入をするとき注意しなければならないことの一つとして、このスピンが切れているやつがあると書かれていたのである。
 ブックオフは古本を美本として売り出すものだから、汚い、あるいは日に焼けた本をグラインダーで削っている。そのときスピンも一緒に削ってしまい、切れてしまう。それを買っちゃった訳である。ページをめくってみると、切れたスピンが確かに挟まっている。まぁ仕方がないのだけれど、ちょっと残念であった。というのも、新潮文庫のこのスピンは便利なので、あるとないとでは読み勝手が違ってくる。せっかくならブックオフの店員さんちょっと気をつけてグラインダーを使って欲しいなぁと思った次第だ。

 医療費控除をするために、昨日私を含めて家族が病院や薬局でもらった領収書を床一面に広げて、整理し、エクセルで計算する。ん、大丈夫!十万円を楽に越えていると確認し、国税局のホームページで申告書を作っていたら、還付される金額がやけに少ない。おかしいな?と、何か入力を間違えたかなと思ったのだが、ミスは見あたらない。どうして還付される金額がこうも少ないのだと不思議に思った。
 毎年税務署で申告書と手引きをもらってきて、それに記入して近くの税務署に持って行くのだが、今年はまだその書類を手元に持っていない。だから去年の手引きを使って、手書きで自分でやってみる。やっぱりおかしい。どこがおかしいのだろうと調べてみると、「課税される所得金額に対する税額」の割合が昨年までは10%だったのが、今年は5%と半分になっている。これだ!と原因は判明したのだけれど、なんで今年は半分なんだと怒りが沸々とわいてくる。
 しばらく釈然としないまま、ふと思い出す。そうか税源移譲で、国税が地方税に移ったからだ。確かに昨年納めた税金は一昨年より少ない。だから控除される税金も少なくなるのは当然かとわかるのだけれど、どこか納得できない。じゃあ残りの5%は地方税で控除してくれるのかと考えたが、今納めている住民税は前年の収入に対して課税されたものだから、一昨年のものである。だから昨年の収入とは関係ない。間違っているかもしれないが、多分そうなのだろう。
 やっぱり釈然としない。なんかだまされた感じがする。半日かけて領収書整理し、計算して、この金額じゃ割に合わないじゃないか。手間ばかりかかってこの金額かよとも思った。ばからしくなったのだけれど、申告しないと、住民税も高いまま六月以降払わされることになるのかと、気を取り直して、申告書をプリントアウトする。
 それにしても昨年はよくもこんなに歯医者に金をかけたなと怒りを違うところに向けざるを得なかった。

 帰りに書泉へ寄る。最近この店に知っている顔がいて、ちょっと入りづらくなっているので、敬遠していたのだが、今日はレジには立っていないようなので、店内をのぞく。ふと張り紙が目に入る。営業時間の延長とある。今月六日より、朝が三十分早くなって、十時半から営業し、夜は九時までとある。ヨドバシの有隣堂が九時半から十時までやっている。遅かれ早かれ、書泉も営業時間を延長するものだと思ってはいた。ただ、この営業時間延長が、じり貧になって仕方なしに、そうせざる得ない状況に書泉さんが陥っていたために、そうしたというのではなければいいのにと余計なことだがそう思った。
 もとをただせば、書泉さんの営業時間を縛ったのは、当社である。元々秋葉原で商売していた当社が、書泉さん進出するとなれば、死活問題であった。だから組合などに働きかけて、現在の営業時間にしてもらった背景がある。今にしてみれば、当社は、はなから隙間商売でやっていくしかないという選択をしてしまったから、つぶれちゃったのだと思う。もちろん対抗なんか出来やしないけれど、もう少しやり方があったんじゃないかなんて思うのだ。いつも出たとこ勝負でやってきたから、そんなつまらないことしか考えられなかったのだろう。逆を考えれば、書泉さんにはかなり迷惑をかけてしまったことになる。だからこそ営業時間延長はいいんじゃないのと思うし、有隣堂に客を取られっぱなしで、指をくわえてみている必要もないとエールを送っちゃう。昨日の敵は今日の友の心境である。もっともむこうは屁とも思っていないかもしれないけれど・・・。私としては今現在七時半に店が閉まってしまうと、立ち寄れない事情があるので、夜の営業時間延長は歓迎する。

2008年02月28日

また、またブックカバーについて

 昔、自分ところの店のブックカバーが嫌いでしょうがなかった。通勤途中の駅のホームで自分の店のカバーをつけた文庫本を読んでいる人を見かけると、思わず眼をそらしてしまう。せっかく仕事から解放され、家路に着こうとしているのに、何かまた引き戻された感じがしてしまうのであった。
 我が社のブックカバーがたとえば書泉さんのカバーと比べデザインも貧相で、あかぬけず、紙質も安ぽい。とにかくわら半紙と大して変わらないぐらいのものであったから、使い回しが出来ず、長いこと持ち歩いていると破れてしまう。その点、書泉さんのカバーは紙質も厚く、しっかりしているから、何度か使える。もちろん経費の関係でそんな安っぽい紙質のブックカバーを使っていたのである。
 でも、ちょっと前に、事務所に近くで資源ゴミとしてくくられた文庫本に自分のところで使っていたブックカバーが掛かっていたのを見て、ちょっともの悲しくなった。本が捨てられているというより、カバーが捨てられているといった思いがあった。多分自分がいたお店がなくなったのと、そこのカバーのかかっていた本が捨てられていたのが、クロスオーバーし、ここでも要がなくなったのだなという思いがあったのだろう。

 ところでアマゾンやブックオフで本を買うと当然ブックカバーがついていない。B6版の単行本は今革製のブックカバーを使っているので、何とかカバーに困らずに済んでいるが、それ以外サイズの本に関しては、書店で買ってきてつけてもらったカバーを取っておいてそれをつけ直して使っている。しかしこれが個人的にいうとあまりかっこよくない。というのも、最初につけてもらった本のサイズが折り目としてついているので、付け替えるとどうしてもその折り目が気にかかるのだ。細かい!なんていわれそうだけれど、気にかかるものはしょうがない。
 それに今になって気がついたのだけれど、紙質のいい厚手のブックカバーって、最初しっくりこない。やたら紙質が気にかかる。手に引っかかる感じがしてしまう。その点我が社で使っていたわら半紙質のカバーは本にも手にもすぐ馴染む。ブックカバーは安もんがいい。それに手垢なんかすぐついちゃうし?いい感じだ。
 我が社のブックカバーは文庫版のサイズは多少残っているので、それを使っている。でも最近なんだか読む本にカバーをかけるのが面倒になってきてしまった。革製のB6版カバーがつけるのも簡単で、手にも馴染むことを知ってしまったからだろうか?
 で、昨日有隣堂へ行って、文庫本のブックカバーを買ってきた。もちろん革製の奴である。しかしこれが高かった。2,940円である。確か単行本サイズの革製のカバーも同じ値段だったじゃないかなとふと思ったのだ。私は文庫本サイズのカバーは単行本と比べて当然小さくなるから値段もそれなりに安くなるのではないかと思うのだけれど、どうであろう。文句を言っても仕方がないけど・・・。しかしやっぱり値段相応の感触がある。でも、ブックオフで105円で買った文庫本を3,000円近いカバーをかけて読むのもどうかと思うけれど、まぁ105円はブックオフがつけた売値であって、本の価値はそれ以上だと思うことにして、自分なりに納得する。もちろん3,000円の価値があるかはちょっと考えちゃうが・・・。

2008年02月23日

カード

 バブル期の頃、当社にも銀行の担当者がいて、せっせと我が社を訪れ、お金を借りてくれと言ってきた。それに乗って低位金利(といっても今から考えれば、高金利だった)でお金を借りたのはいいのだけれど、バブルがはじけたとたん、例に漏れず、返済に窮することとなった。幸い、何とか返済も無事済まし、今は銀行と縁の薄い経営をしている。
 そのときの担当者があさひカードを作ってくれと私に言ってきた。どうやらこのカードにノルマがかかっているようであった。そのとき担当者が言うには、一年間会費が無料なので、その間に解約してくれれば、私に負担はかけないから、何とかお願いしますと頭を下げる。当時銀行との嫌が上でもつきあいがあったものだから、仕方がなしに彼のノルマ達成の一役かった。当時というかつい最近までHondaの車を持っていたので、Hondaカードを作った。これは車検や整備のとき貯まったポイントが使えるからいいということでそうなった。
 元々カードで買い物をしない人なので、あまりカードを持っていても意味がないのだが、ネットのプロバイダーの支払があるため、一年以内に解約するどころか今もカードを持っている。
 ところが最近車を買い換えて、Hondaからスバルの軽にした。だからこのカードが意味がなくなってしまった。ポイントが車検など使えないのだ。で、ポイントを現金に換えてもらおうと思ったのだが(結構貯まっていた)、車検から半年以内でなければ出来ないということであった。今度の車検は来年だったので、もうHondaの車はない。頭に来たので、解約してやろうと考えた。ただプロバイダーの支払があるので、カードがないと困る。 それでヨドバシの「ゴールドポイントカードIC eLIO」というカードを作った。何が魅力かといえば、このカードをヨドバシで使うと、10%ポイントに1%プラスされてポイントがつくという。しかもヨドバシ以外に使っても支払の1%がつくというから、我が家は結構ヨドバシで買い物をするので案外いいかもと思ったのだ。ポイントにこだわっている訳じゃないが、いつの間にかポイントが貯まっているのは結構うれしいもんだ。しかもいちばんの魅力は年会費無料というところだ。
 昨日そのカードが届いたので、早速プロバイダーの支払の変更をこのカードにした。残るはアマゾンとドメイン管理会社への支払変更だけだ。これはそのときやればいいから、プロバイダーの支払がこのカードに間違いなく移行したら、あさひカードは解約してやる。銀行口座は仕方がないからそのままにしておくが、これでりそなとの関係がまた一つなくなった。気分的にいい気分であった。

2008年01月10日

美本とほこり

 本を読んでいて、その中で本が紹介されていると、ついつい読んでみたいなと思う。今回もそうであった。ネットで検索してみると、欲しいと思っていた本、二冊とも品切れだとわかった。私はこうなるとどうしても読んでみたいという気持ちが強くなる方で、仕方がないネットの古本屋さんで探してみるかと、再度検索してみる。古本ではある。しかしできれば一カ所で二冊揃えば送料も安くなると思い、探してみるけれど、一つの古本屋さんで二冊は揃わない。それではアマゾンではどうだろうかと思い、行ってみると同じようであった。考えてみたら一つの古本屋さんで複数冊揃う方が奇跡に近い。面倒になってきたので、そのままアマゾンに登録している古本屋さんで注文する。
 で、昨日、今日と続けて届いた。知らなかったのだけれど、昨日は福岡市の古本屋さん、今日は札幌の古本屋さんから届いた。もう古本をネットで注文することが当たり前になってしまったけれど、こうして日本の南から、また北の古本屋さんから本が届くというのはやっぱりすごいことだなと実感しちゃう。欲しい本が決まっているなら、やっぱりネットの古本屋さんは重宝する。
 ところで今日札幌の古本屋さんから届いた本は価格が1円である。そして送料が340円である。つまり本代より送料の方が圧倒的に高いことになる。ただこの送料が高いかといえば、私は充分安いと思っている。だってもし自分がこの本を手に入れるために札幌の古本屋さん行くと思えば、交通費だけでも馬鹿にならないはずだから。現実的にはこの本を求めて札幌へ行くことはあり得ないけれど、たとえば神保町の古本屋街へ行くだけでも往復で340円以上になってしまう。
 送料が高く見えてしまうのは、古本の価格が1円だからである。正直私もパソコンの画面を見ていて1円とは驚いた。アマゾンの前にいつものように“スーパー源氏”と“日本の古本屋”で検索をかけてみるとだいたい千円ちょいの値段がついていた。1円って大丈夫なのかなと思ったのけれど、評価レベルが99%とあるから信用できるのだろう。とにかく読んでみたかったので、妙な不安はあったがそのままかごに入れ、買い入れた。
 正直なところ価格が1円なんだから、本の状態に文句は言えないと思っていた。たとえいくら状態がいいと書かれていても、信用していなかったというのが本音である。だって1円だよ。当然でしょう。私のところに発送するために梱包する手間賃さえ出ないんじゃないか?その上買い上げのお礼といつ頃届くかというメールもきちんとを私のところに送ってきてくれた。こっちの方が申し訳なくなってしまうくらいだ。
 そして今日届いた本は文藝春秋70周年記念出版の一環で出された本であった。梱包を解いて、本を取り出してみると、見覚えのある表紙が出てきた。思わずこれか!と思った。そして美本であった。とてもとても1円には見えなかった。本当は食事の後本を読んで寝るのだけれど、なんかものすごくうれしくなっちゃって、ついついこんな文章を書いてしまった。
 今まで馬鹿の一つ覚えみたいに、“スーパー源氏”と“日本の古本屋”を利用していたけれど、これからはアマゾンを利用してもいいんじゃないかなんて思い始めている。もしかしたら“スーパー源氏”と“日本の古本屋”に登録してある古本屋さんよりアマゾンの方の古本屋さんの方が値段は安いのではないか?

 “きれい”ということのついでじゃないのだけれど、ヨドバシの有隣堂のことを書きたい。といっても有隣堂がきれいだといっているんじゃないのだ。むしろ逆である。欲しい本があって有隣堂へ行った。棚検索をかけて目的の棚のところへ行くと、平台に確かに目的の本はあった。しかし二冊で平積みをしてあった。おそらく次には平積みを外されることだろう。
 ところで平台に積んである本を買うとき、皆さんは一番上にある本を取りますか?私はその下にある本を取ってしまう。というのは一番上の本は何人か手にとって眺めている。眺めるだけならいいのだけれど、中にはページを折ったり、汚してしまったり、乱暴に扱うので痛んでいる可能性が大きいからだ。だからその下にある本を抜き出す。
 しかし今回二冊しかなかった。しかも下にある本は平台にほこりがたまっていて、結構大きなほこりがその本についていた。台の色が黒なのでほこりがかなり目立つ。ここは平台の掃除はしていないんだとふと思った。これだけの人がこの本屋さんに来るのだからそりゃほこりもたまるであろうことはわかるが、掃除ぐらいしなさいよと言いたくなっちゃった。仕方がないので、今回は上の本を持ってレジに行きました。なんかほこりのついた本は買いたくないので。元書店員として細かいところ見ちゃうけれど、有隣堂ともあろうものがこれじゃまずいんじゃないなんて思った次第なので書いてしまった。ただ今回は以前のようにクレームをメールにして出すつもりはないけれど・・・。

2007年12月30日

今年最後に自己嫌悪に嘖まれる

 昨日で今年の仕事を終えた。最後にぞうきんでデスクを拭き、掃除機をかけ、ゴミを出して、ゴミ箱をからにし、町会からもらった「謹賀新年」の紙を事務所の入り口の扉に貼る。例のごとく、指さし確認で一つ一つ事務所、休憩室、調剤薬局(今日床掃除が入ったので)を確認し、出ようと思ったとき、休憩室のテレビの上にある小さい鉢植えのポトスが目に入る。一週間休みだから、水をあげておかないと枯れてしまうなと思い、たっぷり水をあげ、事務所を出る。
 昨日は大学の友人と飲む約束をしていた。約束の時間より30分ほど早く出たのは、有隣堂とヨドバシによるためである。有隣堂では正月に読む本を買う。実際の話読む本はたくさんあるし、今はあまり本が読めないので、わざわざ新しい本を買う必要はないのだけれど、例年そうしているので、今年も同じようにした。もちろん買う本は決まっているので、本を探すだけだ。
 ヨドバシにはノートパソコンのマウスを買うために来た。今ワイアレスのマウスを使っているのだが、どうも感度が悪くて、思うようにポインターが目的のところにいかない。何度も何度もマウスを動かさないとならない。そのうちだんだんイライラしてくる。思わず「バカなマウスだなぁ」と悪態をつく。やっぱり何でも有線だと見た目もはっきりとつながっているんだなと安心するからか、どこか信頼が置ける。
 で、Microsoft のNotobook Optical Mouse 3000を買った。ノートパソコン用のマウスは小さくて手にすっぽり収まる。やっぱりいい。動きもいい。小さいけれど性能はかなりよさそうだ。しかもこのマウス、拡大鏡がついていて、左側のボタンを押すと拡大鏡が起動し、虫眼鏡みたい四角い画面が出てきて、拡大鏡になる。これはいい。特に小さな文字など見づらいのでこれは助かる。最近のマウスも進化しているようである。
 さて大学の友人と待ち合わせの秋葉原の改札前で待つ。一昨日御用納めだし、今年は銀行も28日で営業も終わっているし、しかも土曜日の29日は仕事をしている人は少ないと思っていた。確かに朝の電車は空いていた。だから飲む店も飛び込みで入っても、大丈夫だろうと思っていた。しかし秋葉原の改札前はなんだか人が多い。まずいつもはいる店はいっぱいだった。仕方がないので次の店に行くと予約でいっぱいと断られ、さらに昭和通りのはす向かいにある店に行っても同様に断られる。これは通りに面した店はだめだと判断し、ちょっと通りの奥にある店に何とか潜り込めた。
 仕事はしていないけれど、ここに出てくる人はたくさんいることは頭に入れていなかった。私にとって秋葉原は仕事場所なのだけれど、今はここに仕事以外に来る人の数が多くなったということなのだろう。秋葉原は確実に変わってきている。

 今は体調の関係で、大学の友人とこうして会うとき以外、ほとんど酒を飲まなくなっているので、久々のお酒はおいしかった。また友人Hの話も面白かった。私はどうしても彼といると、何か一言いちゃもんをつけたくなり、茶化してしまう。幸い彼は人間ができているので、私の悪態を軽く受け流してくれる。ただ分かれて一人になると、やばい、ちょっと調子に乗りすぎたかななんて、思ってしまう。奴は私の悪いところ直接諫めるのではなく、まずは受け入れておいて、後で私に一人で反省させるのだ。昔からそうであった。
 しかしこれが結構応える。ボディブローとして効いてきて、しばらく自己嫌悪に陥る。今日一日なんか不愉快な気分であった。もちろんこれは彼が悪いのではなく、すべて私が悪い。だから余計にたちが悪い。
 人とうまくつきあいつつ、しかも後で自己嫌悪に陥ることなく、卑屈にもならずにいられる関係ができるのかどうか分からないけれど、基本的にうまく人とつきあえないものだから、極力人と関わることは避けてきたところが自分にはある。50を過ぎても未だにこうなのだか本当にどうしようもない。
 自分自身が情けなくなりながら、今年を終えることになってしまった。

2007年12月23日

ビートルズと勘違い

 youtubeでビートルズの映像をゲットする。ことの発端は、大野さんに「The Beatles 1」のCDを貸したことから始まる。大野さんがBeatlesに興味を持たれて、いろいろ話しているうちに、 youtubeの話になり、探してみると、あるんですね。映画「Let it be」のAPPLE OFFICEの屋上でゲリラライブをやるシーンが・・・。思わず昔見た映画を思い出す。


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一体この映画何回見ただろうか。何度見てもかっこいい。いきなりBeatlesが屋上で演奏し始めれば、やっぱり下にいた人は、いったい何だと思うだろうし、あのBeatlesが演奏していると知れば、やっぱり驚き、立ち止まるだろう。多くの人が立ち止まり、近所のビルからは身を乗り出し、聞き入るはずだ。
 youtubeから取り込んだ映像を見ていると、Beatlesが演奏し始めたことに驚き、大騒ぎになり、人がたくさん立ち止まり、警察が出動したんだっけ!そして警官がAPPLE OFFICEに入り、屋上でたぶんやめろと言っているんだろう。
 これはもう忘れていたのだけど、警官が文句を言い始めたらもう一度get backを演奏し始める。思わずさすが!と感動する。

 とにかくyoutubeの映像を取り込みたくて、久々にパソコンに釘付けになり、ネットでyoutubeからの映像の取り込み方を検索し、なんとかiTunesで見られるようになった。これでyoutubeから抹殺されても、いつでも見ることができる。
 で、ふと思いついた。昔聞いた曲もyoutubeにあるんじゃないかと。特に中学校から高校時代に深夜放送で聞いた曲など、もう一度聞いてみたくなった。それをかみさんに言ってみると、いくつかアーティストの名前を言ってくれる。かみさんとは中学校の同級生だったので、このあたりの記憶は共有している。言われるまま検索してみると、いくつかヒットする。それもゲットする。まだ思い出せないアーティストもありそうなので、また思い出したら探してみようかと思っている。

 ところでネットで「Let it be」のことを調べていたら、いろいろわかった。このアルバムはフィル・スペクターが編集・プロデュースしてリリースされた。もともとビートルズのメンバーは無関心で、結局フィル・スペクターにすべて任されることとなったらしい。(そのためこの「Let it be」の映画はDVDになっていないそうだ)
 さらに「The Long And Winding Road」のスペクターのアレンジにポールは憤慨しオリジナルに戻そうとしたという。そのため、ビートルズの元メンバー達はオリジナルのレコードを渡すようにフィル・スペクターに再三要求したがフィル・スペクターは聞き入れなかったという。オリジナルがこのままお蔵入りするかと思われたが、当のスペクターが殺人容疑で逮捕され、アップルスタジオで眠っていたテープが見つかったことが、2003年の「Let It Be NAKED」の発売に繋がったらしい。
 私はこの「Let It Be NAKED」も買っている。そしてこのアルバムと「The Beatles 1」がごっちゃになっていた。大野さんに貸した「The Beatles 1」はプロテクトがかかっていて、iTunesで聞けないはずだと、貸すとき言った。ところが難なくiTunesに取り込めたと翌日聞いて、えっ?と言ってしまった。実際試してみると、確かにiTunesに取り込める。そのときは単純にできるんだ。私が思いこみでiTunesに取り込めないと決め込んじゃっていたんだと反省した。
 しかしそうじゃなく私がiTunesで取り込めないと思っていたのは、「The Beatles 1」ではなくて「Let It Be NAKED」の方であったのだ。確かめるためにパソコンにこのCDを入れてみると、専用ソフトが立ち上がり、iTunesは立ち上がらない。
 いつの間にか「The Beatles 1」がそうだと勘違いしちゃったようである。やっぱりこれも歳のせいですかね。思いこみが激しいし、勘違いも多いし、まったく嫌になっちゃいますね。

2007年11月25日

思うままに その6

 ふつうの本屋さんで本を買うのが、私の基本スタンスなので、アマゾンなどのネットで本を買うことはほとんどない。このほとんどないというのは、まったく買わないという訳じゃないということなのだ。つまりネットの本屋さんの存在を否定しているのではないということ。これはこれで便利だと思う。利用する機会があれば利用したいと思っている。
 ただ、やっぱり実際の本屋さんで本を買えば、欲しい本以外に、これは!なんて思わず手に取ってしまう本を見つけることもできる。そしてこれが案外楽しみでもある。ネットの場合、いくらアマゾンがお薦めの本の情報を寄せてくれても、やっぱり実際、中を見てみないとなあと思うのだ。
 何でこんな書き出しをしたかというと、最近本の紹介や本の感想などをいろいろなサイトで探して見ているのだが、そのほとんどが本の画像をクリックするとアマゾンに行く。これが嫌なのだ。この画像をクリックしたら、この本をアマゾンで買ってねと言っているようで、思わず嫌な気分になる。アマゾンの商魂たくましさを感じるとともに、それにそのサイトがまんまと乗せられたように感じてしまうのだ。
 せっかくブログをやっているなら、画像もあった方がいいし、その画像が簡単に手に入り、うまくいけばこづかいも入るかもしれないのだから、これを利用しない手はないのかもしれない。
 結局この感覚は私個人の感覚で、悪意はない。本屋さんで長いこと働いてきたので、できれば本は本屋さんで買ってねというのが私の心情なので悪意はない。最近はこういうのもいいかもしれないと思うようにしている。
 しかし、アマゾンのサーチエンジンはいいなあと思っていた。「Amazon サーチ ウィジェット」である。本を読みたいと思うと必ず探さなければならないので、どうしてもサーチエンジンは必要になる。自分のブログにも本を探すためのサーチエンジンをリンクさせているが、これはどちらかといえば自分のために利用している。「Amazon サーチ ウィジェット」も結構使いやすい。だからこれを利用するために、アソシエイトプログラムに参加した。決してこづかい稼ぎじゃない。(ここは性格的にはっきりさせておきたい)
 ついでに自分のメインのブログでリンクも変更してみた。今までリンクしてあったサイトには、更新があまりされないものや、自分でもあまり行かないものがあったので、それをやめて、最近ちょこちょこ覗くサイトをここにリンクさせていただくことにした。ちょっといい感じになってきたかもしれない。ここのブログも直さないといけない。(11月15日)


 例によって月に一回薬をもらいに行くために、病院へ行く。今回胃カメラの検査をやった方がいいのかどうか聞かなきゃならない。正直憂鬱なのである。できればやりたくないのが本音なのだが、まぁ年に1回はやらなきゃならないと言われているので、覚悟を決めていた。
 で、先生に聞いてみる。先生が言うところによれば、痛みがなけりゃあわててやる必要のないだろうとおっしゃってくれた。来年年明けでもやろうということになった。それより正月ゆっくりと過ごした方がいいという。それを聞いただけでも、気分がだいぶ楽になった。
 その後、かみさんを待つ。時間がちょっとあったので、近所のブックオフへ行く。いつもあわてて棚を見ていたのだが、今日は多少時間があるので、じっくり眺めてみる。よく見てみると、読みたいと思う本が何冊かあった。買ってもよかったのだけれど、とにかく読む本が今かなりたまっているし、それよりもスランプで今本が読めない状態なのだ。
 私は年に何度かこうした本を読みたくないといういう気分になる。そして年に1回は本を見るのもいやじゃとかなりひどい状態になる。それも必ず年末近くなる頃に。それが今そういう状況に陥っている。
 私はめどとして、1年間で100冊ぐらい読めればいいなぁと思っていて、年の初めから中間地点までは結構いいペースで本を読んでいるのだが、後半になるとものすごくペースダウンしてしまう。それはこのスランプによるものだ。
 とにかくこういう気分になったときはどんなジャンルの本を手に取ってみても、だめだ。こういう気分に陥るときは、必ず前兆があって、来るぞ、来るぞと思っていると必ず来る。そしてこういうときに限って、やめてておけばいいのにややっこしい本を手にしちゃうのだ。そして完全にスランプに落ち込む。たかが200ページにも満たない本を長いこと読み終えられれないでいるのだ。
 それでいて、何かおもしろい本はないかなと探し回る。そして読みたいと思う本がごろごろ出てくる。しかし読めない。そのジレンマはどうしようもなく、気分をいらだたせる。
 こう落ち込んでいると、極端な話、自分の残りの人生であとどれだけ本が読めるだろうかなんて考えてしまうのだ。棚にしまい込んである本を読まなきゃならないのに、これ以上新たな本を仕入れたくない。だけど次から次へと新たに読みたい本が出てくるものだから、いっこうに棚の本に手がつけられないでいる。
 ただ焦ってみったって読めないときは読めないし、それに冊数をこなすことが目的じゃないのだから、気分が回復するまで待つしかあるまい。(11月17日)

 相変わらず本が読めずにいる。この3連休に1冊の本でも読めればいいのだけれど、どうもそういう気分になれない。今回はちょっとひどい。それにそれに伴ってか、胃の調子も今ひとつよくないのだ。自分のブログのメンテナンスもしなければならないのだが、それさえ面倒なのだ。
 午前中先日税務署の説明会でもらった年末調整と法定調書の手引きを詳しく読む。今年は自分でも社員の年調をやってみようと思っているので、これができたら、本格的に給与計算の実務に移るつもりだ。
 本日ブックオフで、500円以上の単行本は一律500円とセールをやっていた。かねてから目をつけておいた本も500円均一だ。それらの本はそう売れる本じゃないだろうから、たぶん売れ残っているだろうと思いつつ、その棚に行くとしっかり定位置に収まっている。すかさずその本を抜き出す。
 本日買った本
 荻原魚雷著『古本暮らし』2007年5月刊 定価1,700円 ブックオフ価格900円
 日垣隆著『そして殺人者は野に放たれる』2003年12月刊 定価1,400円 ブックオフ価格700円
 佐藤優著『獄中記』2006年12月刊 定価1,900円 ブックオフ価格1,000円

 以上3冊すべて500円。しめて、1,500円でゲット。しかもほとんど新品のようで、読まれた形跡がない。早くスラップを脱出しないと・・・(11月23日)

 以上更新ができないので、日記より抜粋する。


2007年11月01日

思うままに その5

 書店組合からエックスメディアが自己破産したという連絡がFAXで入る。エックスメディアという出版社がどういう出版社か名前だけを聞いてもわからないだろう。パソコンをやっている人ならわかるかもしれない。「超図解」というシリーズでマニュアル本を出していた出版社だ。最近はビジネスのマニュアル本まで出している。これを知ったとき、ここまで手を出して大丈夫かいななんて思っていたのだが、やっぱりつぶれちゃった。
 もうパソコンのマニュアル本だけじゃやっていけなくなったから、こちらの方面に手を広げたのだろうけれど、もともとビジネス本関係の出版社じゃなかったのだから、難しいと思っていたのだ。
 先日ラオックスコンピューター館が閉店したけれども、なんかパソコンの一時代が完全に終わったのかなと思う。パソコンが普及し始めた頃は、ラオックスコンピューター館は最新パソコンがずらりと並んで華々しかった。そしてそれを使いこなすためには付属のマニュアルが分厚いだけで、よく理解できなかったから、エックスメディアみたいな、よりわかりやすい解説書が求められた。多分エックスメディアもこのときは景気がよかったのだろう。
 しかしパソコンが一部の人間だけが使うものから、一気に一般的になったことで、最初はこうしたマニュアル本が求められても、だんだん、市場が狭くなってきたのだろう。OSやソフトがバージョンアップしても、基本的なところはそれほど変わらないのだから、一冊あれば十分だし、ネットの普及などから、わざわざマニュアル本を買う必要性もなくなってきたのではないかなんて思う。
 このFAXを受け取った書店があわてている光景が目に浮かぶ。エックスメディアの本をいつまでも店頭に抱えておくと、返品先がなくなってしまうから、急いで返品作業に入っていることだろう。

 銀行が嫌いだというのは、以前書いたような気がする。そのためできるだけ窓口に行かないようにしている。幸いATMやパソコンで入金や振込ができるので、よっぽどのことがない限り窓口には行かない。行っても月一回くらいのもんじゃないだろうか?
 先日銀行からメールボックスも来月で廃止するという連絡が郵送されてきた。メールボックスには入金確認表や銀行からの連絡などが入っているのだが、これもそれほど役に立っている訳じゃない。以前はパソコンで振り込んだ際、その明細や住民税の領収書なども入っていたのだが、今はもしそれが欲しいならネットからダウンロードしてくれということになっている。多分銀行の都合で、手間だからそうしたのだろう。
 というわけで、私もこのメールボックスは月に一回ほどしか開けない。だからこれが廃止になっても別にどうってこともない。銀行の方だって手数料の取れないサービスなど極力廃止したいのだろうから、そうなっても当たり前だろう。
 昔は毎日窓口に行っていたものだから、銀行の女の子と顔見知りになったけれど、今はどうなっているのかさえ知らない。それに昔いた行員はほとんどいなくなっているようで、用件さえ済めば、すぐ帰ってくる。
 「あなたの身近な銀行」というのはほんと一昔前のことで、こうしてATMやパソコンで何もかも済ませてしまうと、その存在感も、実態も薄れてしまう。わざわざ窓口まで足を運んで動く必要がないのだから当然である。もちろんそれはそれで鬱陶しくなくてうれしいのだけれど、一方でこれでいいのかななんて思ったりする。
 今の風潮として人が関わっているとコストがかかるものだから、合理化と称してそれらを機械にやらせる。そうすることでネットワークも広がっていくものだから、更にビジネスチャンスも広がっていく。利用者も便利だと思う。
 だけどそれって、そうした機能を使いこなせる人にとっては便利なものだろうけれど、そうでない人もたくさんいる。だから窓口でもやりますよというのだろうけれど、窓口でやれば法外な手数料を取る。手間賃として・・・。

 携帯電話がある。私はそれを持つ必要性がないから持っていないのだけれど、だからといって電話をかけない訳じゃない。外で電話をしようと思うと、今は公衆電話が少ない。せっせと探さないとならない。携帯電話を持っているのが当たり前の世の中になっちゃっているから、需要が少なくなってきている公衆電話をどんどんなくしていく、その経済論理はわかるけれど、それって持ってない人、あるいは使えないお年寄りなどを完全に切り捨てている。
 挙げ句の果てに、車内放送で携帯電話の使用は社内ではやめてくれと言っているにもかかわらず、平気で大声で話をしている馬鹿者がいる。電話がかかってくれば取らざるを得ないのだろうが、取ったら取ったで「今電車の中だから」と言って、電話を切るのかと思えばそうじゃなく、口に手を当てて平気で話している。携帯電話を持っていない人間とってみれば、これほどうざったいものはないし、それにやめてくれという車内放送もうるさすぎる。いっそ電車内では電話がつながらないようにできないのかと思うのだ。

 今の世の中、便利を享受しているので人と人の接点が少なくなっているような気がする。そうなれば人に対しての思いやりや常識が働かなくなっていくのも当たり前だ。自分中心に行動していく。
 経済論理先行、機能性、利便性、更に低コスト重視、自分中心主義は何を生むか?それをあからさまに映し出しているのが、今新聞やテレビのニュースを賑わしている「偽装問題」じゃなかろうかと思う。
 私は最近のこれらの報道はちょっとおかしいと感じている。確かに消費者を偽って、利益確保のため安い品質のものを使ったり、無駄を省くために消費期限を偽ったりするのは、問題だとは思うだが、これは偽装を行った企業だけが問題なのだろうかと思ったりする。
 確かにばれなきゃいいやという自己中心的な考えからそうしたのかもしれない。でもそれを求めたのは結局消費者なのではないか。消費者のニーズに応えなければ、商売が成り立たないなら、何とかしようと考えるのが普通だ。もしまっとうに製品のコストや品質を商品の値段に反映したらものすごく高くなってしまい、購入してもらえない。本来かかるコストに見合う分を支払ってもらえない。だから原材料を価格の安いものにすり替える。あるいは無駄を省くために、売れ残りのものを賞味期限を延ばして売る。品質管理を重点を置いていたらコストがかかるから、それをやらない。ビジネスチャンスを逃してしまうから、嘘偽りをいう。そういうことではないか。
 そしてこれこそ問題なのは、今やり玉に挙げられている企業だけじゃなくて、他の会社だって、職種、業種が違っても、似たような行為は日常的に行われているはずだと思うのだ。だってそうしないと売れないんだから、必然的にそうならざるを得ない。そういう社会なのだから、当然そうなって当たり前だし、他人のあらを探して、おまえのところもやってんじゃないの?ということは言えないはずだ。
 私がいやだなと思うのは、そういう偽装をする奴ではなく、自分たちのことを棚に上げて、自分たちがある意味求めたにもかかわらず、偽装をけしからんと声だかに言っている人物だ。偽装が発覚した企業をスケープゴートし、さらし者にするのは結構だけれど、そうさせた一端は我々にもあるのだということを忘れてものを言えるのだろうか。
 経済論理先行、機能性、利便性、低コスト重視、自分中心主義は、他人の姿が見えない状況を作り出すから、一企業が変わっても、社会全体のシステムが変わって、そこにいる人の意識が変わらない限り、また同じことがきっと起こる。そしてたぶんこれは変わらんのだろうなとも思う。いっそのこと、とことん行き着くところまで行ってしまって、何もかもめちゃくちゃになってしまい、一からやり直さないとならない状況下を作らないと、再生など無理なような気もしている。
 値段は高いけれど、それはまっとうなコストを計上しているからで、その分何もかも信用できる。あるいはちょっと不便かもしれないけれど、だれにもわかりやすく、地球環境にも優しいということが、評価される社会であって欲しいと思うのだ。

 こんなことを思うのは、年齢的に、精神的に社会や技術の進歩についていくのが、少しずつ億劫になりつつある証拠かもしれない。

2007年10月29日

裏で笑っている奴がいる?

 かみさんが使っているシャンプーが合わないらしい。詳しいことはわからないが、敏感肌用のシャンプーをネットで探したそうで、それを買うという。聞くところによるとネットでは評判らしく、なんでもランキング2位なんだそうだ。
 しかし私は首をかしげる。それってそんなに信用できるものなのかと。かみさんは私が何でも疑ってかかると非難するが、そうではない。なんかからくりが見えてしまうのだ。
 私にはこうしたランキングって、簡単に押し上げることは可能だろうと思う。誰かが「これいいよ」なんて言って、それが取り上げられれば、たとえばこのシャンプーのメーカーが匿名でどんどん「そうだよ」と言えばランキングって上がっちゃうものではないかと思うのだ。広報の社員総出で投票すれば簡単だし、そんなことしなくたって、今は自動でコンピューターがそうしたことをできちゃう時代だ。迷惑メールやブログのいたずらのしつこさなど見ていると余計にそう思う。
 そしてこのサイトを見た人は「そうかこれはいいのか!」と思い、買ってくれればこれほど楽な広告はない。私にはかみさんみたいにネットの評判を鵜呑みにして、その商品を買った人を、「よし、引っかかった」と笑っている奴の姿が浮かんでしまうのだ。

 亀田家の問題にしたってそうだ。問題のある親父を謝罪会見に出席させずに、長男を謝らさせて、ちょっとでも涙を浮かべさせれば、「もういいよ。わかったから、わかったから」と納得しちゃうワイドショー見ているお嬢さんたちを見ていると、この会見を演出した陰の人物が薄ら笑いしている姿が浮かんじゃう。考えてみれば、ボクシングしかやってこなかった奴に(それはそれでいいのだけれど)、あのような会見ができるものかと思うのだ。きっと会見のシナリオを書いた奴がいるはずだ。そしてその会見がうまく行き、同情をよべば、「よし、やった!」と陰でガッツポーズしている姿が浮かんじゃう。そして一番喜んでいるのが多分TBSだろう。亀田家を持ち上げたのはだれかと考えればそうなる。
 あるいは元横綱のかみさんがホストまがいの馬鹿な男と不倫したというのもある。あいつがあまりにも馬鹿だから、あっさり関係を認めたことで、売名行為だと非難される。挙げ句の果てグループの解散、芸能活動の自粛に追い込まれる。
 だけど、もし不倫関係が本当ならどうだろう。元横綱のかみさんは笑っているんじゃないかと思うのだ。あの男だけが自分の馬鹿さで、売名行為と非難され、自分には火の粉は降りかからない。「被害者だったんだね。かわいそうに」となる。これほど不倫の精算で楽なことはないのではないかなんて思ったりしてしまう。
 亀田家の問題や元横綱のかみさんの不倫に興味がある訳じゃない。そんなことどうでもいいと思っている。ただ最近なんだか陰で笑っている奴がいるんじゃないかという事柄多いような気がするのである。そしてそれがうまく行けばしめしめと言っている奴である。もちろんそうじゃないかもしれないけど、そんなことを感じてしまう。
 なんでもカラクリはあるはずである。物事ある程度距離を置いて眺められなくなっているような気がする。あまりにもストレートに反応しすぎる。そんなの無視するに限る。そう思うのだ。細かいことにいちいち目くじらたて、何とか納得できれば今度は同情する。でも結局陰で操っている奴にいいように利用されているだけのことかもしれない位の気持ちの余裕というか、一歩距離を置いて眺められるスタンスがあっていいような気がするのだけれど、どうであろうか?じゃないと我々は利用されるだけ利用されことになる。そして本質を見失ってしまう可能性があるんじゃないかなんて思うのだ。まぁここにあげた事例はそんなたいそうなことでもないんだけどね。

2007年10月21日

思うままに その4

 見本誌でもらった日本カメラMOOKの「モノクロ写真のD.P.E」のページをパラパラめくっていると懐かしくなってきてしまった。


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 昔私は自分でモノクロ写真を撮ってきて、フィルムから写真のプリントまで自分でやっていたのだ。
 中学校時代、どうしてか覚えていないのだけれど、写真部に入っていた。最初は家にあったヤシカの二眼レフで写真を撮っていた。このカメラ、写真を撮るのにピントから露出すべて何から何まで手動でやらないとならない代物であった。今から思えばよく中学生が使いこなせたなぁと思う。それを学校にあった現像室で現像して写真にしていた。その後自分でキャノンの一眼レフを買った。
 そして高校に入りそのまま写真部に入った。高校になるとさすが先輩、後輩の関係がシビアなので、新入部員は先輩がすぐ現像できるように、現像液など溶かして準備しておく。新入部員は先輩が現像を終えた後、現像ができる。先輩が使った現像液はさすがくたびれてしまっているのだが、仕方がない。
 ある時先輩が現像が終わったので、その後自分たちが現像できると思っていたら、その先輩は自分たちが使った現像液をわざと捨ててしまったのである。当然我々新入部員は現像できない。私はそれを抗議した。それからその性格の曲がった先輩と口論となり、喧嘩ととなった。私は入って間もない写真部を辞めた。そんなところにいられるかと思ったのだ。(すぐかーっとなるのはいまも変わらない)
 その後自宅の押し入れを改造して、自分の暗室を作ってもらい、そこでせっせと写真を撮って、現像していた。そのとき使っていた現像器具がこの雑誌に載っていたのである。今も当時と大して変わっていないようだ。
 まずはフィルムである。フジ・ネオパンSSやトライXなどの名称読むと、涙が出てきてしまうくらい懐かしい。それをダークバックを使って、フィルムのパトローネ(容器)を外して、手探りで現像タンクのリール巻き込んで密封する。


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 その後ミクロファインという現像液(この名前も懐かしい!)を入れ、酢酸を薄めた停止液、その後定着液を入れて、現像を終える。それを今度は、引き伸ばし機を使って写真にしていく。雑誌の写真を見ると、今も当時の形の引き伸ばし機がクラシックとして売られている。思わず、おお、これじゃ、この形の引き伸ばし機を使っていたんだと食い入るように見てしまった。


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 しかし高校の三年頃になると、写真より本に夢中になっていったので、だんだん写真から離れていった。最後に現像したのはクラスメイトの大学受験用の証明写真だった。私は三年の夏が終わった頃には大学が決まっていたので、暇だったのだ。一人の友人が自分の写真を撮ってくれということから始まり、何人か撮る羽目になった。私が写真を撮った友人はみんな大学受験に失敗した。それは私が呪われているからじゃなく、奴らが受験勉強もせずに、遊んでばかりいるくせに大学など受験するからだ。みんな浪人生活へ入っていった。
 その後は写真も撮ることも、現像することもなくなった。結婚して子供が生まれてからは成長写真を撮り続けたけれど、それも小学校までで、子供たちが中学に入ると、素直に写真など撮らせてくれなくなったので、またいつの間にかカメラから遠のいていった。
 写真もモノクロからカラーとなり(もちろんカラー写真の現像はできない)、そしてデジカメと変わっていっていった。新しい物好きなものだから、デジカメの出始めの頃買ったけれど、それほど使っていない。カメラや写真に熱くなったのは遠い昔のことで、興味はあるけれど、今は積極的にカメラを持って写真を撮りに行こうという気にはなれない。こうしてカメラ雑誌をさらりと見ているだけだ。時には懐かしくなったりしてね。

 一月に一回薬を処方箋を書いてもらうために病院へいく。いつもの問診があって、じゃぁということで処方箋を書いてもらう。その後かみさんの買い物につきあうため、待ち合わせるが、時間があるので、近所のブックオフへ行く。探している本はいくつかあるけれど、それがあれば買うし、なければそのまま出てくる。昨日は、宮部みゆきさん『楽園』上下巻を見つける。これは読みたいと思っていたのですぐ棚から取り出す。この本確か8月に出版されたばかりだと思うけれど、もうブックオフに並んでいることになる。『模倣犯』に出ていた前畑滋子が出てくるやつなので、今読んでいる本を読み終えたら、読んでみようと思う。
 そういえばブックオフのポイントカードが変わった。今度はTCARDなるものになった。ポイントがブックオフだけでなく、いろんな店でポイントカードとして使えるらしいのだが、その提携店を見てみると、あまり私が使う店はない。それよりも、ブックオフのポイントがつく割合が10分の1になっているのが問題だ。今までは1、000円で100円分のポイントがついたのに、今度のカードは、100円で1ポイント、1円分になってしまっている。ブックオフも赤字経営と聞くから、やむを得ないのかもしれないが、このポイントカード、メリットがなくなってしまっている。

2007年10月02日

FMえどがわ

 私は多少躁鬱の傾向がある。つまり気分の浮き沈みが激しい。そのため人つきあいがうまくできないところがあると思っている。幸い今は事務所で一人で仕事をしているので、この性格で対人関係で困ることはない。しかし時には自分で自分を制することがうまくできない時もある。そんなときはできるだけ一人でじっとしている。本を読んだり、最近はゲームをしたり、あるいはラジオを聞いたりする。ラジオは昔から好きで、自宅のパソコンをやっているときは、パソコンからラジオが聴けるようにしたことは先日書いた。
 ラジオを聴くといっても、ただ流しているだけだ。そうして本を読んだりしている。だから馬鹿騒ぎする番組はお断りだ。何となく音楽が流れているというのがいい。それはクラシックであっても洋曲でもいい。歌謡曲はだめだ。歌詞を聴いてしまうからだ。だからDJというか、今はパーソナリティーというのか、とにかく日本語をしゃべる声ができるだけ少ない方がいい。そのためFM放送を聴いている。
 今まではJ-WAVを聴いていたのだが、たまたま騒がしい番組をやっていたので、番組を変えたら、「FMえどがわ」が聴こえてきた。しかも音楽ばかりで、パーソナリティーのうざったい声がない。これはいいと思い。最近は「FMえどがわ」をずっと聴いている。これはいわゆるローカル局で、江戸川区、江東区・墨田区・葛飾区・千葉県市川市・浦安市の一部しか聞こえないらしい。公式ホームページを見てみると、江戸川区南小岩にスタジオがあるようだ。電波を発信しているところは自宅の近くなので、結構クリアーな音がラジオから聴こえてくる。
 公式ホームページの番組表を見て思わず笑っちゃった。ものすごくシンプルなのだ。しかも夜の9時から翌朝9時まで音楽だけ流す「調べ・・・こころの羽音」という番組?で、番組内容を見てみると、「 おしゃべりはなし。心地よいメロディだけをお送りする時間です。おやすみのお供にどうぞ」とある。 なんだこのおざなりな放送はと思っちゃうけれど、さすがローカル放送だと思った次第だ。たぶんパーソナリティーは小岩界隈に住んでいる声のいいおばちゃん連中などでやっているんじゃないかなんて思っていたら、パーソナリティーの顔写真を見てみるとそうでもなさそうだ。もっとも「パーソナリティー募集中!」なんてTOPにあるからどうなんだろう?一様あの「ウィキペディア」にも記載情報がある。たぶん関係者がせっせと書き込んだのだろう。
 私は自宅に帰って聴くので、この「調べ・・・こころの羽音」をいつも流していることになる。ちょっとおちょくった書き方をしたけれど、書いたとおり今は気に入っているのだ。これはこれでいいじゃんと思っている。江戸川区の住人としてしばらく聴いてみようと思っている。次いでに宣伝もしてあげよう!


FMえどがわの公式ホームページ

http://www.fm843.co.jp/index.html


ウィキペディアの「FMえどがわ」の情報

エフエム江戸川

2007年09月21日

思うままに その3

 古い文庫本を取り出す。奥付を見ると昭和55年12月31日とある。ページを開くと古本のにおいがする。もちろんページはかなりやけてしまっている。この本を買ったのは奥付から判断すると昭和55年ではないだろうから、翌56年だろう。もう26年か27年たっているのだから、本の状態が悪化しても当然だ。
 どうしてこの文庫本を取り出したかというと、村上春樹さんの訳本を最近手に入れたので、昔の本とどう違うのか読み比べてみようと思ったのだ。
 しかし、字が小さくて非常に読みづらい。ここのところ文庫本が読みにくい状態になっている。歳のせいだ。昔は本の文字がでかい本をページ稼ぎだと思い、バカにしていたが、この歳になってくると、文字の大きいのはありがたく思うようになってきた。本自体は面白そうなので、何とか読もうと思うが、すぐ目が疲れるので、ページがなかなか進まないでいる。


 社会保険事務所へ手続きへ行く。今までは神田社会保険事務所が水道橋にあったので、簡単に出向くことが出来たが、今回神田社会保険事務所がなくなって、麹町の社会保険事務所と一緒になってしまった。場所は市ヶ谷である。仕方なしにJRに乗って出かける。靖国通りの長い上り坂を歩いたところ奥にある。 二つの社会保険事務所が合併して一つになったものだから、手続きするのに番号札を持たされて、待たされる。神田の時はこんなことはなかった。ただでさえ千代田区は会社が多いのだから、手続きに来る人が多い。だから何も合併することはないんじゃないのと思った次第だ。それに汚く薄暗い。まったく社会保険事務所や社保庁は人の年金をかすめ取ることしか考えていないから、我々のことなど考えてくれないのだろう。そのあと千代田保健所に向かう。それにしても千代田区にある役所はどうして交通の便が悪いところに作るのだろうか?しかも駅から歩かされるし・・・。保健所も役所も都税事務所も税務署もだ。そして今度は社会保険事務所も同様だ。


 別にけちっている訳じゃないのだが、同じ値段のものなら、安いところで買った方がいい。今度事務所で給与計算をしようと思っているので、パソコン1台とソフトを買うことにした。パソコンはDELLのものだ。週に1回FAXでDELLのパソコンの情報が届く。19インチの液晶モニターがついて送料込みで約6万円。メモリーが1Gである。ひどく安い。しかもネットで注文すると5,000円引きとくる。当社にはどういう訳かDELLの担当者いて、このパソコンが欲しいと電話で伝える。
 で、電話だと5,000円は引かないのかと食い下がる。何とかせいとはっぱをかける。結局5,000円引かせてしまった。
 後はソフトである。ヨドバシだと84,000円のものが66,800円となる。ちょうどオカモトヤの青木さんが事務所に来た。用件はコピー用紙が安くなるというので、その値段表を持って来たのだ。今でも充分安いところで買っているのだが、それよりも多少安い。買ってもいいが、A5のコピー用紙はいくらになると聞いてみる。これも安くなれば、オカモトヤで買ってもいいと、値引き交渉をする。しかもいやらしいことに、普段コピー用紙を買っているところに同じA5のコピー用紙の見積もりを出させ、それを青木さん見せて交渉する。
 「ところで給与計算ソフトはそっちで買うといくらになる?」
 「ヨドバシだと66,800円だけど・・・」
 「ヨドバシより安ければ買うけど・・・」
 「それにヨドバシはポイントが10%の付くから、60,000円以下じゃないとダメだよ」と付け加える。彼はがんばりますと言って帰って行った。
 でがんばってくれ、A5のコピー用紙もソフトもこちらの希望金額を提示した見積もりをFAXとメールで送ってきた。オカモトヤで買うか。


 変なメールが届く。例によって迷惑メールかと思いつつ、削除してしまおう思ったのだが、何か気になる。よく読んでみると、ばぁさま(元同僚)からのメールだ。こいつメールに自分の名前をいつも書かない。用件だけ書いておしまい。しかもたちが悪いことに、返事を書かないと電話で催促のしてくる。こういうのって困るんだよね。
 で読んでみると、再再再再就職先(いくつ転職したのかわからない)が秋葉原になったという。しかも私のいる事務所の近くだ。やれやれ・・・。返事を書くのが面倒だし、書かなければ電話がかかってくるから、銀行に行ったついでにちょっと寄ってみる。いた。うれしそうに寄ってくる。どうも最近秋葉原の空気が悪くなったと思ったら、ばぁさまがいるからだと悪態をつく。しばし話し込み別れた。

 月に1回薬をもらうために病院に行く。薬がなくなったら行くわけだが、30日分まとめてもらうと、今度いつ行ったらいいのかわからなくなる。残りが少なくなってきたなと思いつつ、来週の土曜日行けばいいかなんて思っていたら、足らなくなってしまうことがわかった。明日行くことにする。結構薬の管理というのは面倒だ。今度の連休は病院と、墓参りと、給与計算ソフトのお勉強をしようと思う。

2007年09月06日

思うままに その2

 東海林さだおさんが書くエッセイが昔から好きだった。だから結構東海林さだおさんの本は持っている。新刊が出ればその都度購入してきた。(最近は以前他の本に載っていた文章を新たなテーマでまとめて新刊として出版される焼き直しが多くて困っているのだが・・・)
 特に食べ物に関して書かれたエッセイは最高に面白いと思う。今「週刊朝日」に連載中の「丸かじり」シリーズの新刊を昨日買った。気がついたらこのシリーズ27巻も出ている。最初は本として出版されるたびにきちんと読んでいたのだけれど、いつの間にか買ってそのままにして、他の本を読んでいる。これはやばいと思った。近いうちにもう一度最初から読み直そうとは思っている。


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 話はまったく違っちゃうけれど、東海林さんといえば、椎名誠さんを思い出すのだが(というのも椎名さんは確か東海林さだおさんの文体をまねたと昔何かの本か雑誌で読んだことがある)、椎名さんの本は最近の本は読んでいない。せいぜい『岳物語』までだ。それ以降何だか椎名さんの行動が,自分の子供の頃を振り返り、その野性さや、自由感を今の子供たちに押しつけている感じがして、どこか胡散臭い教師を感じてしまうのだ。
 また本に関してもどこか自分は本のスペシャリストだといっている感じがある。それらがどうも鼻についてしまい、椎名さんの本を手にしなくなった。
 私はあの情報出版センター出版局の頃の椎名誠が好きなのだ。(今の情報出版センター出版局って、昔のとは違うのだろうか?何か違うような気がするのだが、詳しいことはわからない)『国分寺書店オババ』や『哀愁の街に雪が降るのだ』の頃が一番面白かった。とにかくこの路線が好きだった。
 そういえば、昔書店員をやっていた頃、情報出版センター出版局の営業で田中という奴がいた。しょっちゅう店にやってきて、自分のところの出版物のフェアーやってくれといってきた。椎名さんの新刊が出れば、予約を取りに来てもいた。まだ流通していない椎名さんの新刊実物見本をもらったこともあった。彼がお店に来ると、途中で抜けて、お店の隣にあった喫茶店(何か懐かしい響きだ)で話した。もちろんコーヒー代は彼の会社持ち。そこでは仕事の話だけでなく、バカな話もした。
 この男、自分で出版社作りたいと言いだし、それには資金がいるので、マグロの遠洋漁業の船に乗って金を稼ぎに出た。それからしばらくは音沙汰がなかったが、どうやら陸に上がってからは出版社設立の夢は諦めて、証券会社に勤めだした。
 私の結婚式の日、式が終わり夜ホテルでくつろいでいた頃、部屋の電話が鳴り、外線が入っているという。出てみると、田中であった。私の結婚のお祝いを言いたくて電話したという。まぁそれはいいけれど、普通、新婚初夜に電話を入れるか!とあきれつつ話したことを思い出す。まぁそういう奴であった。
 とにかく東海林さだおさんの本から椎名さんの本へ、そして情報出版センター出版局の営業であった田中を思い出した。考えてみるとあの頃は楽しかったなぁ~。もちろん今彼とのつきあいは途絶えている。今、奴はどうしているのだろうか?

2007年08月29日

思うままに

 夜、クーラーをつけず、窓を開けて寝る。虫の鳴く音がする。それを聞きながら、そろそろ秋が近づいて来ていることを知る。
 とにかく今年は暑くて、窓を開けずにクーラーをかけっぱなしで寝ていたから、そんなことも気がつかないでいた。
 今年から日中35度以上の日を猛暑日なんてしてくれるものだから、ただでさえ暑いのに余計に毎日が暑く感じてならない。気象庁がわざわざ猛暑日なんて設定するということは、それだけ地球温暖化が進んで、日本も熱帯地域に組み込まれつつあるのだなぁと思う。

 遅い夏休みを土日とくっつけて4日間取る。といってもどこか行く予定もなく、また腰の痛みも多少残っているので、自宅で休養を兼ねつつのんびりと過ごす。
 ただ、毎年やっている大腸の内視鏡検査の申し込みをする。かかりつけの先生に紹介された病院へ行った。まずは検査日を決めるのと、感染症の有無を調べる血液検査をした。9月8日に検査日は決まった。 もう大腸の内視鏡検査は3回やっているが、それぞれ検査してもらった病院が違う。それは通っていた病院を変えてしまったことによる。今かかっている先生にも言われたのだけれど、本当は一カ所決まった病院でやった方がいいことはわかっている。ただいっこうに症状が変わらないという理由で病院をいくつか変えてしまったことでそうなってしまった。出来ればかかりつけの先生を決めて、きちんと管理してもらった方がいいので、今回からそうしようかなぁとは思っている。
 3回も検査をやっていると、やり方はわかっているが、面白いものでそれぞれ準備の仕方が違う。大腸の内視鏡検査は行けばすぐ出来るものではないので、下準備が必要なのだ。その下準備の仕方が病院によって多少違う。今回は前日から検査食を食べて、おなかの中を軽くして、その後1.8リットル下剤を飲んで、一気に出してしまう方法のようだ。

 会社の事務所は毎日ラジオが流れている。考えてみると私はそれほどテレビを見ないので、1日の中でテレビよりラジオの方がよく聞いていることになる。その関係か、こうして自宅でパソコンをやっているとなんかラジオが欲しいなぁと思うようになった。で、実際パソコンのそばに携帯ラジオを置いてあるのだが、不思議なもので、パソコンに電源を入れるのと同時にラジオの電源を入れる気にならないのだ。なんかわざわざそんなことをするのが面倒なのである。でも一方でラジオの音が欲しいと思うのだ。
 こういう横着者が考えるのは、パソコンにラジオが付いていればいいということことになる。そんなことが出来るかというと、それがあるんですね。パソコンUSBにつないで、パソコンの画面で局を選び、パソコンのスピーカーから音が出せる優れものが・・・。サンコーレアモノショップというちょっと怪しいサイトで「USB AM/FM RADIO」というのを見つけたのである。おおこれはいいじゃんと思う。一時は品切れ状態だったので購入することができず、再入荷を確認したので、注文してみた。値段は6,980円である。


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 で、実際接続して、専用ソフトもインストールして使ってみる。おお!、パソコンのスピーカーからラジオが聞こえる。(当たり前か!)これはちょっとやみつきになりそうだ。
 これが何よりも一番いいのは、アイコンをクリックするだけでラジオが聴けるし、パソコンを切れば当然ラジオも一緒に切れるので楽でいい。しかも音がデスクに置いてあるスピーカーから聞こえるので、すっきりと音が耳に入ってくる。
 別に自慢するわけじゃないのだけれど、このGatewayのパソコンはビスタにも対応するスペックになっていて、バージョンアップもできるのだが、面倒でやっていない。そのままXPで動かしている。おかげでさくさく動いてくれて快適な環境である。こんなラジオを付けても、際して問題はないようだ。

2007年08月08日

ジレンマ

 2年ぶりに大学の友人と暑気払いと称して会う。私はこの間胃の調子が芳しくないので、酒の席は遠慮してきたのだが、だいぶ調子も良くなりつつある気がしたので、友人と酒を飲みたいと思い、今回出席させてもらった。
 しかしビールジョッキ(小さいやつ)で2杯でいっぱいいっぱいであった。友人は私の身体に気を遣ってくれありがたかったのだが、やっぱりまだ本調子ではないようだ。
 久しぶりに夜11時までつきあったのだけれど、やっぱり堪える。元々朝型人間なので余計である。帰りの電車もそう長く乗っていないのでけれど、妙に長く感じてしまった。そして予期していたのだが、胃の感じが重い。明らかにもたれている。やれやれまいったなぁと思いつつ、汗をかきながら、家にたどり着く。
 友人と話していて気になったことを書く。このブログのことである。友人は私には文章を書く能力があるという(才能ではないよ)。そしてこうして自分の書いた文章を公開していることに、違和感を感じているという。私はあくまでも私的なものとしてここに文章を書いているのだけれど、友人に言わせると公開している以上、それは私的じゃないというのだ。
 確かにそうであろう。私がいくら個人的に好きで書いていると言っても、こうしてネットで公開している以上、私的なものではないという論理は、どうあがいても争える余地はない。友人に言わせると個人的なものをこうして公開して書いていることが理解できないようである。
 そしていくら私がそうじゃないんだ。そんな大義名分などないんだといっても、所詮言い訳にしかならない。要は個人的なものをこうして公開してどうなんるんだ。あくまでも私的なものなら、その範囲内に納めておくべきもんじゃないかというわけだ。
 もっともである。こうして自分の意見を公開することは、どんな形であれ、どこか世間に向かって自己主張をしたくてならない部分があるのかもしれない。が、それは否定しないけれど、やっぱりそういう気分は希薄である。
 確かに公開している。けれど、それはたまたまブログという媒体が公開する機能を持っていたからで、それだけのことなのである。それにブログというのがなんか面白そうと思ったことから始まっただけだから、それ以上の深い意味は私の中には存在しない。だからそれがつまらなくなったらきっとやめちゃうだろう。本のことについて書くことが好きだから、ただそれだけで書いているのだ。もちろん私が書いている以上、私の考えや感想は当然そこにはある。ありはするけれど、私はそれは外に向いているものではなく、私個人に向かっているもんだと思っている。
 ただこのブログを読まれる方は、当然私の存在をそこに感じられるだろうから、その時点で私の考えや感じ方は外に向いてしまう。でも意識して私がそうしている訳じゃない。書く方と、読む方の立場が違う以上、その部分はいくら言葉を尽くしても、ただ乖離するだけだろう。
 正直な話、このことはずっと悩んではいた。もともと表に出るのが嫌いなたちである。友人の言うことは私の中でのジレンマでもある。ただ今はこうしてああでもない、こうでもないとだらだら書くことが好きなのでやっているだけのことなのだ。何度も言うようにそれが飽きちゃったら(元々飽きっぽい性格なので)ある日突然止めちゃう可能性だって、私の中にはあるのである。

2007年08月07日

暑い

 暑いですね。ここのところ夏ばて気味で、何をするにしてもかったるくて仕方がない。もちろんそんなことばかり言っていられるほど世の中甘くないので、無理に身体を動かしているのだけれど、ふと気がつくと、ぼーっとしちゃっている。本も思うように進まない。これも読んでいるうちに、ただページだけをめくっている状況になってしまっていて、こんな時は内容が頭に入らない。
 地球温暖化は身近に感じられるようになってきていて、日本も熱帯地方に属すようになってきているんじゃないかと思えるほど、暑い。
 昨日例によって朝歩いていて駅に向かったら、東大島駅のホームの前方がかすんでいる。何だろうと思ったら、上から霧が吹いている。いわゆるミストだ。この駅は地下鉄といっても地上にある駅なので、駅に冷房が効かない。だからこうした打ち水的発想で、冷やそうとしているのだろう。でも素朴な疑問なのだけれど、これだけ霧を吹くには当然ポンプで水をここまで持ってきて、吹き付けるわけだから、それなりの電力を使うことにならないのだろうか?つまりエネルギーをそれだけ余計に使うのではないか、なんて思っちゃうのだがどうだろう?
 でもなんか不思議な感じでしばらく霧が出てくる部分を眺めていた。できればただ霧を吹くだけじゃ、能がない。ハーブの香りなどすれば、それこそアロマの効果も期待できるんじゃないかなんて思う。そうすれば乗客の気持ちもおおらかになり、構内暴力もなくなるんじゃないの?
 しかし、この暑さだと、やっぱり涼しくない。そう思ったのは来た電車に乗ったとき、電車の冷房の方が気持ちよかった。無駄だとは言わないけれど、所詮霧だもんね。限界があろう。だったら余計に、他の効果を求めるべきではないかなんて余計なことを思った次第だ。

2007年07月28日

突然の古本屋巡り

 クリフ・ジェーンウェイ・シリーズの最新刊を読んでいたら、なんか急に古本屋でも行ってみようかという気になった。考えてみたら古本屋巡りもしばらくやっていない。これといって目的の本はないけれど、何か面白そうな本でも見つかればいいかなぁと思ったのだ。そうだ、ついでに阿刀田高さんの『獅子王アレクサンドロス』も探してみよう。この本大野さんのブログからアマゾンのサイトへ行ってみると、古本しかないようだ。ということはもう新刊書店では手に入らないのだろう。でも神保町の古本屋街を歩けば見つかるかもしれない。
 まずは岩本町まで行き、VELOCEで一服する。持ってきたクリフ・ジェーンウェイ・シリーズの最新刊の続きを読みながら、汗が引くのを待つ。そのあとお茶の水へ行く。そのまま地下鉄で神保町まで直接行ってもよかったのだが、駿河台下の文庫の川村へ行ってみようと思ったので、その方向へ向かった。でも阿刀田さんの本は見つからなかった。
 というより、目的の本を探す気力がすぐ薄れていくのだ。膨大な文庫の量から、1冊の本を探すのはただでさえ大変なのだが、まずは店の本の多さにうんざりしてしまい、とてもじゃないが探す気になれなかったのだ。自分でもあれ?と思った。昔はこんなことはなかった。欲しい本、面白そうな本を探すのに結構必死に探したのだけれど、今日はそんな気になれなかったのである。しばらく棚を眺めたが、諦めて靖国通り沿いの古本屋街を歩く。
 でも、これは!という本がない。店の前のワゴンや店内をのぞくのだけれど、なかなか触手が動かない。実はこうなるだろうとは予想はしていた。ワゴンを一所懸命のぞいて、手には何冊もの古本を持っている人がいる。それを見て、そんなに読みたい本が手に入ったんだとうらやましく思った。
 確かに昔私が古本屋巡りを始めた頃は、ワゴンにも店の棚にも欲しい本がたくさんあった。結構わくわくしながら歩いたものでった。けれどそうして欲しい本が集まり始めると、今度は買う本が当然少なくなる。それが今の状況である。でももしかしたら掘り出し物があるかもしれないなんて淡い期待を持って今日来たのだけれど・・・。
 そもそもさっきの店のように、真剣に棚をそれこそなめ回すくらいの気合いがないので、店に入ってもさっさと引き上げてしまうのだ。古書センター内のお店など足の踏み場もないほど雑然としているのだが、それを見ただけで尻込みしてしまった。
 結局今日は、何の成果もなかった。買おうかどうか迷ったのはシムノンの文庫だけれど、それほど安くもなかったので買うのを止めてしまった。もちろん阿刀田さんの本も見つけられなかった。
 でも、信山社の講談社の文庫の棚にこの本があるのを見つけた。あれ?おかしいなぁ?この文庫もう新刊じゃ手に入らないのではなかったっけ?でも、ここにある。もしかしたら売れ残りか!なんて信山社にはまったく失礼なことを思いながら、あるならここで買おうとその文庫を棚から抜き出し、レジへ持っていく。手には読みかけの文庫を持っていたので、レジの女の子が気を利かせてくれ、買ったのは文庫本1冊だけど、ビニールの袋をくれた。例の漱石が書いた「岩波書店」の文字が入ったヤツである。
 失礼のついでに書くのだけれど、信山社は古ぼけちゃったなぁと思った。ホント久しぶりにこのお店に入ったのだけれど、昔はもっと店内はぴかぴかに明るかったはずだ。あの柴田さんの「ヨキミセサカエル」の栄光はどこへ行っちゃったんだろう?(こういうマニアックなことは書かない方がいいかもしれないが・・・)新刊書店なのに古本屋さんみたいな風格さえ感じてしまった。
 そのあと東京堂へ行って集英社文庫を1冊買って帰った。
 今日は暑かった。ニュースによると東京の今日の最高気温は32.3度だったという。古本探しに無気力だったのはこの暑さのせいかもしれない。それこそ「太陽のせいだ」なんてしゃれたこと言ってしまいそうだ。(今日はちょっとおかしいかもしれない)
 ところで阿刀田さんの本だけれど、あとで紀伊国屋のサイトで検索するとまだ新刊書店でも手にはいることがわかった。信山社にあって当たり前だったのである。失礼しました。それにたった1冊の文庫本を買っただけなのにビニール袋をくれたのだから、お礼を言わなければいけない。
 それに大野さんにも謝らないといけない。大野さんのサイトからアマゾンへ行って阿刀田さんのこの本を買おうかななって言ったのに、結局アマゾンでは買わなかった。アマゾンで買えば謝礼が大野さんのところに入ったかもしれないのに、ごめんなさい。

2007年07月17日

あだ花は実をつけるか?

 いつも行くブックオフにいつも太った女の子がいて、汗をかきながら仕事をしていた。例によって愛想が悪そうな感じで、おそらく店の他のスタッフに、口うるさく指示しながら、仕事をしていたんじゃないかと思う。たぶん彼女がいる間は彼女が店を仕切っていたんじゃないかと思っていた。
 その彼女を最近見かけなくなった。とたんにこの店の棚が荒れてきた。
 ブックオフの棚は、著者名のあいうえお順に並んでいる。それがかなりいい加減になっているのだ。たとえば久坂部羊さんの本が「ひ」のところに並んでいた。最初なんでこんなところに並んでいるんだろう。客が手に取った後適当に戻したのかなぁと思っていた。そしてしばらくしてから馬鹿なバイトが勝手に判断して、「久」だけを「ヒサ」と読んだから、ここに収まったのだと分かった。つまり「クサカベヨウ」と読めなかったのだ。
 そして「く」で始まる作家名の本のところを見ると、久坂部羊さんがあるのだが、まとまっておらず、他の作家の本が数冊あってそのあとまた久坂部羊さん本が1冊並んでいた。客はいったん手に取った本をきちんと元の場所に戻さないのはよくあることで、バラバラになってしまうことはある。だから店員は棚を見てきちんと直さなければならないのだが、それが行われていない。あるいは補充の時適当に突っ込んでしまったのかもしれない。要するにきちんと管理されていないのだ。しかし彼女がいたときはそんなことはなかった。

 こんなことを書いたのは16日の朝日新聞の記事を読んだからだ。そこには人余り時代は好調だった、不況型ビジネスが苦況に陥っていると書かれている。その不況型ビジネスとして、グッドウィル、ブックオフ、外食、コンビニがあげられている。
 それまで人余りであったので安価な労働力で成り立っていたそれらの産業が、景気が好転しつつあるので、アルバイトが不足しつつあるというのだ。そのためスタッフの確保が難しくなり、また人件費も上昇し、経営に陰りが見えつつあるというのだ。
 この店もその影響なのだろうか?とにかく棚の陳列がひどくなりつつあるのがよく分かる。そして集まってくる人材も質が悪い奴らばかりだから、こんな状況になっていったのだろう。安い人件費で店をやりくりしたいのはよく分かるが、それでも一人くらい質の高い人材が必要ではないかなんて思う。
 ブックオフは店舗運営をマニュアル化し、ベテランを不要にして、アルバイト中心の店舗網を拡大してきた。そのため91年の創業以来の右肩上がりで伸びてきたが、06年には前年同月比下回った。そのため売上高を1.1%水増しして架空計上し問題となった。(その関係か、最近ブックオフではセールをやらなくなった)
 本屋はやっぱり陳列が命だろう。それにはバイトに仕事をさせても、それをちゃんと管理できる人間を配置すべきだ。サッカーのオシム監督じゃないけれど、陳列も「うつくしく」ないといけない。
 だいたいグッドウィルにしても、ブックオフにしても、言ってみればそれまであった既存の産業や商売の「あだ花」的存在だと思う。
 でも考えてみると、今ある既存の産業や商売などは、最初は「あだ花」的存在だったのだろう。それが既得権を獲得して、確固たる地位や存在感を得たのには、やはりそれなりの世間の支持を得たからだろう。もし今のグッドウィルやブックオフのように経営効率や利益追求のみにひた走っていたら、今ここになかったのではないかと思う。
 グッドウィルのことはよく分からないけれど、ブックオフなら、どうやって仕入れた本を売っていくか、それが基本だろう。だとすれば、いかにお客さんに気持ちよく買ってもらえるかそれを考えないとならないのではないか。となればこんな馬鹿な棚陳列をしてちゃまずいでしょ。それを言いたかったのである。この点は新刊書店もブックオフでもそう変わりがあるとは思えない。やっぱり一人くらいプロを置かなきゃまずい。あるいはそうしたプロを育てるべきだ。

2007年07月04日

人生いろいろ

 新幹線のN700系という新車両がこの7月からデビューしたらしい。でこのN700系は新大阪まで2時間25分とそれまで2時間30分かかっていたところ5分短縮するらしい。うん?たった5分だけ?と思ったのは私だけだろうか?思わず、

だから何だって言うんだ!


 たとえ5分短縮したところで、新大阪で改札に迷ったり、乗り換えがスムースにいかなかったら、あっという間に5分なんかたってしまうじゃんと思うのだ。5分短縮できて恩恵を受けるのは、トリックの幅が広がる、鉄道ミステリーの西村京太郎さんあたりじゃないかなんて思う。
 まったくそんなことなどどうでもいいと思う人間である私には、その良さなどわからないけど、鉄道マニアには新型車両はたまらない魅力なのだろう。例によってカメラを持って撮影しているマニアの面々が新聞に載っている。

 鉄道マニアといって思い出すことがある。昔大手町のお店で働いていた頃、いいおっさんのお役人でキ印的鉄道マニアのお客がいた。この人当時出ていた「鉄道ファン」、「鉄道ジャーナル」、「鉄道ピクトリアル」というマニア雑誌を定期購読されていた。まぁ、マニアだから当然なのかもしれないが、この雑誌の新しい号が出ると、朝一で地下にあった売店の我が店に下りてくる。一体仕事はどうしているんだといいたくなるくらい、決まって下りてくる。
 また仕事柄出張も多いらしく、仕事のついでか、ついでに仕事をしているのか知らないが、とにかく出張となると、電車の写真を撮りまくってくる。その写真をお店で見せてくれるのだが、こっちはまったく興味がないから、撮ってきた新車両の写真などうれしそうに見せられても、なんて言っていいのかわからないので困ったものであった。
 そして手に取った新しい号の雑誌の状態を調べまくるのだ。少しでも雑誌の角が折れていたりしたら、大変で、ほかのものと取り替えさせられる。確かに手垢でよれよれになった雑誌など買いたくないけれど、元々お店に出す前に定期雑誌を先に取り置きしておくのだから、きれいな状態の雑誌である。だけど配送の過程で時には角が潰れてしまうこともある。まして小さな店で、マニアしか売れない雑誌だから部数もわずかしか来ない。数冊ある中から一番状態のいい雑誌を持って行くのだけれど、時にはその客の意向に沿う雑誌がないときもある。そんなときは今月はいいやなんて言われる。あるいはとりあえず買ってはくれるのだけれど(もちろんツケで)、あとで出版社まで直々訪れて、取り替えてもらうことさえする。 当時は前任者のお客をそのまま引く継いでいたので、腹はたったけれど、素直にその客の言うとおりしていた。今ならきっと「ふざけるな!」と言ってけんかしちゃうだろう。
 悪い趣味じゃないとは思うけれど、自分の趣味を嬉嬉として押しつけられるほどたまらないものはない。仕事だから話につきあっているけれど、そうじゃなければすぐお引き取り願う。
 そのとき以来、自分の趣味や好みなど他人様にうれしそうに言うもんじゃないと自戒している。でも、こうやってブログを公開しているじゃんと言われそうだけれど、少なくとも自慢話は慎んでいるつもりだし、本を読むことを惹け開かしているつもりはない。もちろん押しつけもしていないつもりだ。この本はいい本だから是非読むべきなんて絶対に言いたくない。たまたま本を読むことが好きで、読んだ感想を公開しているだけで、ただそれだけである。
 幸いブログは興味がなければ見なければいいし、それができるからいいと思う。それに自慢できるほどのことなんか書いちゃいなし・・・。
 でも、この新聞の記事に載っているマニアの顔はかなりうれしそうだ。前の首相が「人生いろいろ」とよく言っていたのを思い出した。確かにそうだ。

2007年06月03日

NINTENDO DS lite

 金曜日の午後銀行に両替の行き、ふとパソコンの消耗品がなくなっていることに気がつき、買っておこうと思いヨドバシによる。入り口にNINTENDO DS lite緊急入荷とあるのを見てしまった。最初はふ~んと思っていたのだが、やっぱり欲しいよなぁと思い直し、ついに買ってしまった。


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 で、ソフトは何にしようかと迷い、結局そのときはDS本体だけを買い、事務所に戻る。(もちろんパソコンのMOも買った)ソフトは帰りにでもまた寄って買おうと思った。会社で聞いてみると、必須アイテムはマリオでしょうと言われ、やっぱりマリオかとまずはニュースーパーマリオブラザーズを購入(といってもたまっていたポイントで買ったので、お金は払わなかった)


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 マリオはやりたいなぁとずっと思っていた。子供たちがまだ小さいとき、スーパーファミコンでよく一緒にやったものっだ。それ以来やっていない。あのときほんと夢中になった。最初は私の方がクリアーしていったのだけれど、そのうち子供たちには勝てなくなってしまい。いつの間にかやめてしまった。もう15年以上も前だ。
 さっそく、昨日やり始める。む、懐かしい。しかしどうも昔のような華麗な指さばきができない。くそー!いつの間にかDSを持つ指に力が入り、気がついたら両腕が引きつった痛みが残る。普段使わない筋肉が痛む。まじぃなぁ~と、かみさんに見つからないようにアンメルツ塗る。やっぱり無理なのかと思いつつ、昨日は1日を終える。土曜出勤で帰ってきた娘にどこまでいった?と聞かれ、最初のセーブ画面までと言ったら、どんくさいと言われてしまった。マリオおじさんとまで言われた。うっせい!
 これじゃ大野さんが昼休み対戦しようといってくれたけれど、とてもじゃないができやしない。そんなレベルじゃない。まぁ、暇なときこつこつとやります。まずはそれぞれの場面をクリアーすることが先で、コインを取ることや、敵キャラをつぶすことはできる限り後にしようと作戦を変えてやってみることにする。
 それにしてもマリオのソフトを買ったとき、結構レジに並んだ。そして並んでいるのは子供じゃなくいい大人ばかりだ。どうも最近のゲームは子供だけじゃなく大人も楽しめるようになっているんだなぁと改めて思う。DSのソフトもかなりの数があって、われわれおじんも充分楽しめるソフトがあるようだ。これからが楽しみだ。

2007年05月30日

アマゾンで本を注文する

 別にアマゾンを敵視している訳じゃないのだけれど、今までアマゾンで本を注文したことがなかった。ネットで本を注文することは度々あったのだけれど、たとえば「本屋タウン」などで画面から注文し、受け取りは有隣堂でするみたいな感じで、最後は本屋さんで本を受け取りたいと思っていた。それにそうすることで本屋に足が運べるという利点もある。もしかしたら面白い本が他にもあるかもしれないし・・・。
 それは長いこと本屋で働いてきたから、本は本屋で買うものだという意識が残っているからかもしれない。そのため私はコンビニでも雑誌はほとんど買わない。(立ち読みはするけれど)
 今回アマゾンで注文したのは、紀伊国屋のサイトで検索したら、この本は注文できないと出てきたのである。どうして注文できないのかよくわからないが、要するに本屋で「不扱い」の本だということなのだろう。その本は神戸の出版社なので、一般的な流通経路に乗らない本なのかもしれない。東京にいる私がこの本をいつものように「本屋タウン」経由有隣堂で注文すれば、結構時間がかかるかもしれないと思い、直接版元のサイト行って取り寄せようとする。そうすれば早く手元に本が届くと思ったのである。そのサイトへ行って見ると、注文は受けるが、送料が210円かかるという。う~む、210円か・・・とちょっと考えちゃったのだ。この本は1,500円以上する。そうだアマゾンなら送料は無料だと思い、アマゾンで注文してみようと思った。
 初めてなので、諸手続をして注文する。でもやっぱり時間がかかるようで発送予定は6月18日から30日になるという。まぁ仕方がない。
 でも、一昨日メールがアマゾンから来ており、本を発送したという。なぜ6月の発送予定が早まったのかわからないけれど、欲しい本が早く手元に届くのはうれしい。さすがアマゾンとちょっと見直しちゃった。
 私は何度も言うようにアマゾンを敵視している訳じゃない。どこで本を買ってもいいとさえ思っている。要は欲しい本が欲しいと思っている人に、できるだけ早く手元に届けばいいのだと思っている。リアル書店には実際に本を手にすることができる利点があるけれど、欲しい本がないという現実もある。だから本を注文するという行為をするわけだ。けれどその手続きが面倒な部分もある。しかも注文した本がいつ手元に届くのかはっきりしない。確かに書店にしてもそれをはっきりさせたいのだけれど、それができない現実がある以上、注文してから1週間から2週間と、経験則から言うしかできないこともわかっている。けれど注文した者にとってみれば、これほどいい加減な答えはないと思う。
 このあたりがネットの本屋さんははっきりしていて、いついつまでに発送しますときちんとメールで知らせてくれる。たぶんこれがネットの本屋さんの生命線なのだろう。
 しかし考えてみれば、こうしたことがリアル書店ができなかったということにもなる。そして未だにそれができないでいる現実が、本屋離れを進めていないだろうか?
 しかもネット注文すれば、後は待っていればいいのだ。わざわざ本屋さんに行く必要もない。支払いもカード決済だから、受け取るだけ。
 こうした便利な状況下で、お客にわざわざ足を運ばせるわけだから、リアル書店はもう少し謙虚なる必要がある。けれど相変わらず無愛想で、無知な書店員ばかりじゃどうしようもない。せめて棚にある本でもおや?と思わせるくらいあったら、まだ救われるけれど、それも望む方が難しい状況。仕方がないとはいえ、悲しくなってくる。中小書店がつぶれていくのも当然なのかもしれないなんて、またしても愚痴ってしまった。
 それにしてもこうも簡単に、しかも楽に本が手に入るのを知ってしまうと、アマゾンにやみつきになってしまうかもしれない。それを考えるとちょっとおそろしくなってくる。

2007年05月25日

どうなっているんだろう?

 最近の世の中の傾向として、どうしてこうなるのか理解できなくても、手順通りやれば、結果としてできてしまうことが多い。過程が分からなくても、結果が出てしまうということである。もちろんその中でどんなことをしているのか、説明されたって分かるもんじゃないけれど、考える道筋として、こういう過程を通しているから、結果こうなったと分かった方が、頭の中に入りやすいと思うのだが、そんな説明を簡単にできるものではないから、その部分は省いてしまい、できればいいじゃんということですましている。まぁ、確かにそれで何とかなっちゃうからそれでいいのかもしれない。

 PASMOのことである。PASMOが発売されて、新しもの好きの私はすぐ飛びついて、定期券をPASMOにしてルンルンの気分でいた。けれど当初から気になっていたことがある。これで定期券を継続する場合どうすりゃいいんだということである。PASMOにすれば、わざわざ定期券売り場で、名前や住所、どこからどこまでの区間の定期を買うのか、紙に書いて購入していたのが、駅の券売機で簡単に継続できると聞いていて、こりゃいいやと思っていた。
 しかしそのやり方が分からない。娘にどうすりゃいいんだと聞いても、パネルの指示通りやりゃあいいんだよと素っ気ない。やればできるのだろうけれど、やる前からできなかったらどうしようと思っちゃうのだ。
 まぁなんとかなるだろうと思い、昨日岩本町の駅の券売機でPASMOの更新をした。駅に着くと先客いて、PASMOの更新かチャージか分からないが、画面に食らいついて、操作をしている。が、どうもうまくいかないようで何度もやり直している。おお、ご同輩、あなたも私同様初めてですな。頑張ってくださいなんて思って、とにかく彼の後ろで彼が終わるのを待っていた。が、どうもうまくいかないらしい。何度も何度もやり直している。最初は待っている私は温かい目で見ていたのが、だんだんイライラしてきて、そのうちできないならさっさと帰ってほしいなぁと思うようになる。
 しばらくして彼は諦めたようで、そこを離れる。そして私の番である。え~と、まずはPASMOのところをタッチして、次に出てきた画面の定期券をタッチする。新規と継続の選択する画面が出たので、継続をタッチ、するとPASMOを入れろという指示が出るので、持っているPASMOを入れる。私のPASMOがスキミングされ画面に出る。期間を3ヶ月として、お金を入れろと出てくる。お金って、どうやって入れればいいんだと思い、画面を見ると、まとめてお札を入れていいとあるから、その通りすると、札入れのところから1枚ずつ持って行く。画面では機械に入った金額がカウントされ、やっとPASMOの継続ができた。おお!できたじゃないか!と感動しつつ、うんそれほど難しくなかったなと思う。なのにあの人なんで何度も失敗していたんだろう?
 券売機から出てきたPASMOを見て不思議に思った。前の表示のあとがどこにもない。更新された有効期間がきれいに表示されている。ということはこれは更新されたものだけれど、前のPASMOとは違うものなのか?データを前のPASMOから引き継ぎ、更新して新しいPASMOが発行されたのだろうか?ということはこの券売機の中に古い私のPASMOがあるのだろうか?
 それとも持っていたPASMOにきれいに上書きして作られたものなのだろうか?それにしてもうまくできるものだ。いったいどうなっているのだろうか?
 更新されたPASMOを眺めながら、券売機の中で何をしているのか知りたいと思ったが、一方でそんなことを知らなくても、PASMOが更新できればいいんじゃないのと思う自分もいる。

2007年05月14日

17回忌

 昨日母の17回忌を行った。17回忌となると、法要に参加するの身内だけになる。身内だけでもこうして一同集まるのも大変なのだから、人様にわざわざ遠路はるばる足を運んでもらうのも大変だし、迷惑な部分もあろう。だから身内だけで法要をいとなむのでいいと思う。派手なことが嫌いな母であったから、この方が気が休んでいいのではないかとも思ったりする。
 寺での法要も思ったより早く終わった。坊主が手を抜いたのがよくわかる。待合室で待っていた他の家族がいたので、きっとこの後法要が立て込んでいるのだろう。まぁ、それでもいい。
 早々食事をする場所に移動する。私の娘や息子はそれまで学生服で出席していたが、今回二人とも喪服を着ている。いっぱしの法要参加者になっている。それだけ母が死んでから年数がたっていることを思い知る。久しぶりに身内が一同顔を合わせたことで、会話も母のことよりも、自分たちの話が中心であった。17回忌ともなればそんなもんなのだろう。いつまでも母が死んだことをくよくよしていられるほど、世間は優しくない。正直な話、もう17回忌かといった感じだろう。
 それでもこうして母のために一同時間を作って、法要をし、食事をして、笑いあえることをよしとすべきなのだろう。偶然今日は母の日でもあった。本来なら母に対して感謝すべき日であるのに、逆にみんなのために顔を合わせる機会を、母が作ってくれたようでもあった。

2007年05月08日

ゴールデンウィーク本棚大整理 その3

 結局この連休で終わらなかった。途中でいやになっちゃった。それにしてもよくこんなに本が増えたものだ。読みたいと思った本をとにかく買ってきたから、こういうことになっちゃったわけだけど、半ば衝動買いみたいなところが、こんな状況を生んだといっていい。でも本屋で見かけたら、とりあえず買っておくという考え方は、それなりに苦い経験から生まれたものじゃないかと思ったりもする。
 私は本がたくさん読みたいから本屋勤めを始めた人である。高校時代、本を買うお金がそれほどなかったから、読みたいと思う本が買えなかった。大学に入り、バイトをするようになってから、それなりのお金を手にすることができるようになると、それまで欲しいと思っていた本をかったっぱしから買いあさった。
 けれど、本を買うお金はあっても、肝心の本が手に入らなかった。つまり古い本はかなりの数で品切れをおこしていた。それでもその本が諦められなかったから、今度は古本屋を歩き、探し回った。
 あのとき購入資金があれば、こんなに苦労しなくてすんだのにという思いがいつも当時はあった。もちろんそんなことを言ったってどうにもならないのだけれど、とにかく結構くやしい思いをしてきた。だから、見かけたら買っておく方が無難と考えてしまうのだ。つまり読むのはいつでもできる。まずはその本を手元に置いておくことが先だとずっと考えてきた。それが今の状況を生み出している。

 これでも二度大々的に本を整理している。大学卒業したあとと、結婚する前である。大学を卒業したあと、神田の古本屋に実家に来てもらい、本を持って行ってもらった。あのとき20万円ぐらいで引き取ってくれたはずだ。だってそのお金でステレオを買ったのだから・・・。
 もしあのとき本を売らなかったら、もっと数はあることになる。それこそ収拾がつかない状況に陥っているはずだ。
 今は、とにかく読むことにシフトしようと思っている。幸い本屋を辞めて、本を買うペースがガクンと落ちたので、読むことに重点が置けるのである。そうなのだ。本屋で働いていると、どうしても本を目にする機会が多くなるので、必然的に本が欲しくなるのだ。ある意味、こうして本が増え続けたのは、私が本屋で働いてきたことが最大の原因だろうと思う。

 本棚の整理はまた後でこつこつとやろうと思う。

2007年05月03日

ゴールデンウィーク本棚大整理 その2

 当たり前のことだけれど、本棚は本を収納する場所である。問題はどうのような感じで本を収納しているかである。たとえば読んだ本をかったっぱしから、本棚に突っ込んでしまうこともあるだろうし、私みたいに読みたいと思ったら、すぐ買ってしまい、とりあえず本棚に収める場合もあるだろう。(本当にあるかな?)その上で、ある程度ジャンル別や著者別など自分の好みでレイアウトして、本の収めるのではないだろうか?
 少なくと私はそうしてきた。それなりにこだわりがそこにはある。でも妙にこだわってしまうと、機能的でなくなる。結構不自由である。たとえば読みたい本が、手元になく、とんでもないところにあったりする。
 今回本棚の大整理をするのも、そんな不自由さを感じたからだ。とにかく読んだ本はこだわらず、上に上げてしまい、読みたい本を手元に置くことを重点に置いた。そうしたら、本棚の様相が変わった。まぁ当たり前といえば当たり前なのだけれど・・・。でも、これで読みたい本がすぐ手元にあるという安心感が生まれた。しばらくはこれでいこうと思う。
 ところで、こうして本の移動をしながら、棚にある本を見ていると、結構本を読んできたなぁと思う。棚にある本のほとんどが読んだ本で占められている。
 しかしそれらの本を眺めているうちに、最近どこか本を読むことに焦りを感じている。もっとはっきり言ってしまえば、ここのところいつも早く次の本を読まないとといった焦りみたいなものがある。何でだろう?昔は違ったと思う。結構楽しんでじっくりと本を読んでいたはずだ。
 とにかく最近は焦っている。もちろん本を義務で読んでいる訳じゃない。読みたいから読んでいる。でも明らかに昔とは違う感じで今はいるような気がしてしまう。もっと自由に、のびのびと本を読んでいいはずだ。
 棚に収まっている、かつて読んだ本を見ているうちにそんなことを思った。これからはもうちょっとのんびりと本を読めればいいなぁと思う。

2007年04月29日

ゴールデンウィーク本棚大整理 その1

 このゴールデンウィークに一大プロジェクトを敢行する。本棚の大整理である。名付けて「ゴールデンウィーク本棚大整理」(そのままじゃん!)である。方針は決まっていて以下の通りである。

方針1.読んだ本を高いところあげてしまうこと

方針2.高いところにある本で気になる本や読んでいない本を下げること

方針3.パソコンで管理している「蔵書目録」の整備

方針4.急遽本及び本棚の掃除

 以上4つの方針でこの休みに自分の本棚の整理を始めた。この方針について説明する。私は本棚に本を詰め込む場合、あまり考えないで詰め込んでしまう方なのだが、それでも一様見てくれなども考えて、ちょっと豪華な本や全集など、結構インテリア的要素で並べているところもある。まぁそれもこけおどしにはいいので、そうしておいてもいいのだけれど、読みたい本を取り出すことを考えたら実用的ではない。そこで、そうした要素も残しつつ、あくまでも読んでいない本を読むことに重点を置いて本を並び替えることにしたのである。
 また、私の本棚は高いところで5メートルほどあるので、ここに本を置いてしまうと、取り出すのが大変な作業となる。だから、読んでしまった本や絶対に読まない本など置いているはずであったが、よく見るとまだ読んでいない、しかも面白そうな本がいくつもある。これを最近読んでしまった本と入れ替えてしまうことにした。これが「方針1」と「方針2」である。
 「方針3」のパソコンの「蔵書目録」の整備だけれど、最近買ってきた本をここに入力しないで、そのまま本棚に別に除けて、置きっぱなしにしてしまっているのが現状であった。
 もともとパソコンで自分の本を管理するのは、確かに「かっこいい!」というのがあった。それは素直に認める。けれどそれ以上に、これだけ本がたまってしまうと、どこに置いたのか分からなくなってしまう。だから、棚番号をつけて、パソコンで管理すれば、一発でどこにあるか分かるので、結構重宝している。一方このことは購入した本をむやみやたらに本棚に突っ込むことができなくする。というのは本を置く棚を決めないと、パソコンに入力できないのだ。だから未入力分として、別に除けているのである。これが増えてしまっているので、だんだんパソコンで自分の本を管理している意味がなくなってしまっている。だからここで、きちんと本の場所を決めて、入力してしまおうと思ったのである。
 確かにこのパソコンで蔵書管理をするというのは、ミーハー的な部分もあるけれど、意外に役立つのだ。私はバカだから、出版社の陰謀に乗せられて、新刊だと思って買った本が焼き直しの本だったと買ってから知らされ、地団駄をよく踏む。このデータを活用するようになってから、それが少なくなった。だからどうしてもこのパソコンでの蔵書管理は必要なのである。
 「方針4」は棚の整理をしていて、これはやばいと思ったのでクイックルワイパー ハンディの「ふわふわキャッチャー」を急遽購入する。説明を見ると、本の「天」にたまったほこりも取れるように書いてあるのでこれを買った。ついでに「取り替え用3枚入り」も買っておく。なんかおもちゃの猫の手みたいだが、果たして大丈夫だろうかという心配が多少残るが、まぁやらないよりはいいだろう。最初は「猫パンチ」といって遊ぶ?

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 さて、1日目である。まずは文庫の整理。結構棚が奥深いので、2列にして並べている。その関係で、奥にある本が基本的に見えない。その奥にある本で読んでいない本、読みたい本などを前面に出し、読み終えた本を奥に引っ込んでもらう。
 その奥にトム・クランシーの分厚い文庫がかなり占めていたので、ええ~い、じゃまじゃ!と思い、もうこんな本は読み直すこともないだろうから、ブックオフに売ってしまおうと決意する。取り出すと結構なスペースができた。どうしてこの人の本はこんなに分厚いのだろうか?大した金額にはならないだろうけど、捨てるよりはましだ。あと数冊不要な本を売り飛ばす。ブックオフでの買い取り金額750円であった。まぁそんなもんだろう。
 例によって、買い取った本をすぐお店に出していいか。値段のつかない本はどうするか。本を入れてきた紙袋はどうするか。と聞いてくる。こっちは処分したいからここへ持ってきたので、それをすぐ店頭に出してもなんら問題はないし、値段のつかない本を持ち帰るよりは処分してくれた方がありがたい。まして本を入れてきた紙袋はヨドバシの紙袋だから、そんなものはいらない。けれど、こんな細かいことを確認させるということは、あとでごちゃごちゃ言うヤツがいるのだろう。まったくもう!

 家に帰って続きをやろうとしたら、急に雲行きが怪しくなり、雷を伴う雨が降り出す。本棚のところも暗くなってきたので、今日はここまでにする。

2007年04月20日

ふ~ん

 朝5時に息子が起きてきて、パソコンで大学のホームページを開いている。前日、受講する講義の予約をインターネット通じてやるから、起こしてくれと頼まれたのだ。何で朝5時に起きてやらなければならないのかと聞いたら、何でも人気のある講義らしく、予約が早くうまってしまうから、朝5時から予約が始まるから、それで予約するという。ふ~んそうなんだと思いつつ、時代の進歩に少々戸惑う。
 ここのところ息子はパソコンの前に長いこと座っている。受講する講義をすべてネットで予約し、決めているようで、そのため長時間パソコンに向かっている。我々の時代とは大違いだ。
 仕事が終わって、家に着いたら、息子にUSBメモリーってどんなやつで、このパソコンで使えるのかと聞かれる。もちろんこのパソコンで使うことができると言いながら、たまたま持っていたパソコン雑誌にUSBメモリーのことが載っていたので、これがそうだよと見せる。
 聞いてみると、大学の講義で作ったデータを保存するために必要なんだそうだ。なるほどね。とにかく時代がものすごい勢いで進んでいることを思い知らされる。

 今日は娘の帰りが遅い。今日は仕事が終わったらすぐ帰ってくると朝言っていたけど、かみさんに遅いねと聞いてみる。残業でもしているんでしょと素っ気ない。10時過ぎに帰ってくる。残業か?と聞くと、5,000円の違算が出て、それを調べていて、遅くなったという。何でも今日は古いお札や破れたお札をまとめていたらしい。このてのお札は機械を通して数えると間違うので、人の手で数えるらしい。ところが新人さんが機械でやってしまったので、それで違算が出てしまったらしい。ふ~ん、銀行も大変だ。
 親の知らないところで、子供たちは自分の道をそれぞれ進んでいて、それに順応している。その親は、ずり落ちた眼鏡を直して、ソファに座わり、本を読んでいる。

2007年04月13日

ついていない

 どうも昨日からツキに見放されている感じだ。今朝も通勤中、例の如く本を読んでいて、決して夢中になっていたわけではないのだけれど、まだ大丈夫だと思ってそのまま本を読み続けていたら、神保町の駅に着いていた。やってしもうた。岩本町から二駅も過ぎてしまった。慌てて戻る。

 昨日は木曜日。調剤のシステムが新しいものになって、初めて自分一人でサーバーを立ち上げて、入力画面まで持っていく。もちろん大したことをやる訳じゃないので、たいそうなことではないのかもしれないが、やっぱり不安だ。ここ何日間か、練習もしたのだけれど、とにかく不安なので、いつもより早めにサーバーに電源を入れる。何とか準備はできたようだ。やれやれ・・・。
 例によって木曜日は自分の仕事が思うようにできまいと思っていたので、書類整理をする。決算処理も終わったので、後は税理士さん結果待ち。で、前年度の請求書、領収書などをまとめて箱詰めする。ついでに書棚の整理もする。書棚にはもうないと思っていた書店の資料がまだ残っていた。まぁよくこんなに資料を作ったものだと思うけど、果たしてどれほど役に立ったのか疑問だ。実際の話、つぶれちゃったしね。とにかくスペースがないので、せっせと廃棄する。

 患者さんが来た。やべぇと思いつつ、入力をする。この人、2つの保険番号をもっているので、教えてもらったように、◆のついていない方を選ぶが、期限が切れているという画面が出てしまう。ここでパニックなる。しかも薬袋はまだかと急かされるから、そのまま進んでしまった。do処方なのだが、点眼の容量と回数が前回違うので、前回のをコピーしてそこを修正しようと思ったのだが、回数がうまく修正できない。仕方がないので、新規で薬名を入力する方法に切り替える。で、薬袋を待てない薬剤師(社長)が入力画面を見て、前回と同じ処方の薬だからdoでできるだろう!と言う。そんなことわかっておるわい!と思いつつ、何とか薬袋印刷までできたが、負担金がないのに請求額が出てしまった。仕方がないので後で修正してもらうことにした。

 問屋の担当者にメールを出す。支払金額の確認のため、電話だと仕事を中断しなければならないので、メールでやりとりしようということにしたのだが、クラヤの鎌形さんはさすがにきちんとメールを期日までくれる。他の問屋の若い奴はいまだにメールが来ないので、催促のメールを出す。「いつもお世話になっております」という文句から始めるが、腹の中では、ちゃんと約束通り、メールをよこせよという気分なのだ。

 後はひたすら書類整理。4時になって、社長が帰った後、たまっていたシュレッダーをかける。整理した書類や本を資源ゴミとしてまとめてもおく。そうこうしている6時になり、お茶の水店の日計表もFAXされてきたので、今日はここで仕事を終える。

 今朝新聞を見ていたら、沢木耕太郎さん文庫の新刊があったので、それを買おうと思い、書泉へ寄るが、ない。なんでないんだ!と思いつつ、戻ってヨドバシの有隣堂へ行く。だいたい、疲れているから、ヨドバシの7階にある有隣堂に行くよりは、帰り道にある書泉で買えば楽だと思っていたのに・・・。
 有隣堂にはたくさんあった。やっぱり、書店として有隣堂の方が書泉よりランクが上なんだなぁと思った。それを持ってレジのカウンターへ向かう。例によって、文庫のカバーはどの色にします?と聞かれる。ここの文庫カバーちっとも役に立たないのでどの色でもいいのだけれど、今日は気分で黄色にした。何となく分かるでしょう?
 そのまま岩本町の駅へ向かう。ホームに出ると、小川町で人身事故があって、ダイヤが大幅に乱れていますという放送が流れる。なんてこったい。小川町といえば隣の駅じゃないか。最後の最後まで今日はついていない。15分ほど待って電車が来た。もちろん満員。とてもじゃないが車内で本を読めない。ぎゅうぎゅう押されながら、ひたすら降りる駅まで我慢する。車内では電車が人身事故で電車が遅れたことのお詫びの放送が何度も流れる。わかった。わかったから、うるさいし、静かにしてくれ!(真上にスピーカーがあるところにいた)と思いつつ、車内で過ごす。

2007年03月22日

ちょっとうれしい!

 一昨日、定期券をPASMOにする。私はSuicaを持っているので、これはいらなくなる。で、PASMOを作るとき、これを止めてまとめることができるのか、窓口で聞いてみたら、それはできないという。やはり

 私はSuicaを持っているのでPASMOはまだいいやと思っていたのだが、19日の夜、娘が自慢げに定期券をPASMOにしたのを見せられ(こいつ親に似て新しもの好きなのだ)、ちょっとくやしくなり、自分もPASMOにしようと思い立った。
 翌朝、窓口で定期券をPASMOにする。ついでにチャージ5,000円分も加える。これで都内の交通機関はこれ一枚で、切符を買わずに簡単に改札を通れることになる。便利なものだ。
 ところで今持っているSuicaをどうするかである。これをPASMOと一緒に定期券入れに入れておくと、改札が、どっちを読んでいいのか分からないので開かないらしいので、解約かまとめようと思ったのだが、こちらの窓口では出来ないと言われる。JRと私鉄ではカードのやりとりはできないらしい。仕方がないのでSuicaはそのまま持っていることにしたが、Suicaを札入れに入れておく。
 PASMOは18日スタートしたばかりなので、まだ持っている人は少ないようで、相変わらず定期券をくぐらせて改札を通る人が多い中、私一人ピッと通るのは、なんだかうれしい。ちょっと優越感を感じちゃった。

 お茶の水店の用件を済まし、その帰りに三和図書に寄る。欲しい本があって、そのほとんどが三和図書で扱っている本なので、在庫があれば買おうと思っていたのだ。でも在庫があったのは須賀敦子さんの2冊だけだった。
 で、せっかくここまで来たのだから、書肆アクセスに寄って、北海道新聞社から出ている山下りんの評伝を買おうとふと思い、立ち寄る。
 ちょうど入り口近くの棚が北海道にある出版社の本が並んでいる棚だったので見てみる。ありました。やっぱり都内で地方の出版社の本を探すならここが一番だ。
 本を手にしてレジへ向かうと「カバーしますか?」と聞かれる。思わずはっとする。そうなのだ。私はここを卸しとしてしか利用したことがなく、一般の人として本を買ったことがなかったのだ。もちろんもう書店人でないので、そう言われて「はい、お願いします」とあわてて言う。(書店人じゃないのになんで三和図書で本を買うのじゃと言われそうだが、本代に苦しむ私を見て、助けてくれているのだ)
 つけてくれたカバーは書店組合で斡旋している、見覚えのある、安っぽく、薄っぺらいカバーであったが、しおりはよかった。ここの住所や地図、営業時間、書店の案内が手書きで書かれたものを印刷したものであった。今まで形ばかりのしおりを見てきたので、なんだかアットホーム的でいい。

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 結局欲しいと思っていた本が全部手に入らなかったので、仕事の帰りに書泉によって、残りの3冊を買う。これで今日は6冊本を買った。カバンの中には三和図書で買った本2冊と、書肆アクセスで買った本が1冊入っており、ずっしりと重い。それに読みかけの本1冊と書泉で買った本を手提げのビニール袋に持って、地下鉄に乗って帰る。こんなときはPASMOだと苦労せず改札を通れるので有り難い。さっそくPASMOの恩恵にあずかる。
 今月は後2冊(ハンニバルの新刊が出るのだ)購入予定。今月はたくさん本のを買っちゃうことになる。来月は控えないといけませんね。

2007年03月17日

 一昨日気象庁の桜開花予想がデータ入力ミスがあって、早く開花予想を出しちゃったので、謝っていた。最初たかが桜の開花予想が間違ったからって、謝る必要がどこにあるのだろうかと思っていたが、それが大いに関係することが分かった。花見客をあてにしている業者にとっては大変ことらしい。開花が例年より早いと聞いて、慌てて準備したのに、今頃になって何を言うかというとことらしい。日本人の桜好きがこういうことで問題になるのだろう。修正された東京の桜開花日は3月23日だというけど、昨日、この冬初雪が降った。気象庁よると、平年(1月2日)より73日遅く、1876年の観測開始以来、最も遅かった1960年(2月10日)の記録も、47年ぶりに更新したという。(初雪の前に春一番が吹いちゃって、順序が逆になっている。地球温暖化は本当に深刻な状態なのではないか、なんて思う)これじゃますます開花日が延びるんじゃないのかなんて思っちゃうのだけれど・・・。

 ところで、ここのところ花粉症がひどい。朝、いつも飲んでいる薬に、花粉症の薬2錠を加えて、計5錠、薬を飲むはめになっている。その上、点鼻、点眼の薬をさしている。まさかこんなに薬を飲むなんて思いもよらなかった。

 朝、こうして文章を書いたり、本を読んだりしているのだが、ここのところ寒いので、早く暖かくならないかなぁと思う。読みかけの本を読もうと思って、カバンから本を取り出そうとしたら、腰に痛みが走る。変な姿勢でカバンを取り上げたからである。思わず、うっ、痛ぁ~と座り込んでしまった。またやってしもうた。とりあえず、湿布を腰に貼ったが、立ち上がるのが大変な状況に陥る。ここのところの寒さも影響しているのだろう。なんか腰が重たい感じではあったが、ついつい油断してしまった。まったくもう本屋を辞めたのだから、こんな持病から解放されてもいいのに、いまだに腰だけは本屋を引きずっている。これは治りはしないだろうから、これから死ぬまで腰痛と付き合わないといけないと思うとうんざりしちゃう。
 潰瘍、花粉症、腰痛と満身創痍の状態だ。更にこれから決算処理が始まるので電卓のお世話にかなりならないとならないから、これに腱鞘炎が加わることになる。いい加減にして欲しいものである。

2007年03月11日

新大久保

 高田馬場から新宿に出るため山手線に乗った。次が新大久保と知ってちょっと降りてみようかと思った。
 ここに昔二六堂の新大久保店があったのだ。もうかなり前に撤退しているのだが、実はここで日曜日や祝日に手伝いに出ていたことがある。休日に人手が足らないので、手伝ってほしいといわれ、手を挙げたのだ。(しかし本屋で働いていた頃は、本当にいろいろなことをやったもんだ)
 そういえば2001年1月26日に韓国人の留学生イ・スヒョンさんとカメラマンの関根史郎さんがホームから落ちた男性を助けようとして、結局3人とも電車にはねられ亡くなったのも新大久保の駅だった。それが映画にもなったし、駅には2人のためのプレートがあった。
 あの事故をニュースで見たときは、ああ、あそこは狭い駅だし、夜はちょっと薄暗いから、酔っぱらいが落ちても不思議はないと思ったし、しかも高架橋の駅だから、ちょっと逃げ道がなかっただろうなぁと思ったものだ。
 私も新大久保店の閉店時間が午後9時だったので、帰りはいつも薄暗いホームで、吹きさらし風が舞う中、新宿行きの電車を待っていたのを思い出す。

 だいたいどうして地元秋葉原から離れたこの新大久保に新規のお店を出すことになったのか?もともとは東販の紹介で知った店らしい。うちのメインの問屋は日販なのに、なぜ、東販の紹介に乗ったのか不思議なのだが、東販の調査で駅前は人通りが多いし(当たり前だ)、いい立地だから、是非出店すべきというのに、社長の無計画性とバカな当時の幹部(私は当時